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解決済みの質問

「手本」の対義語

小さな頃に習字をされた方なら馴染みの言葉だと思いますが、「手本」というものは、この現代にまだ通用するだけの役割を持っているのでしょうか。そして、手本の対義語とはいったい何でしょうか。

投稿日時 - 2009-07-30 16:43:57

QNo.5168258

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

 No.25です。

 さてもさても橋爪大三郎の理論とは あいまいなまま 長いことおつき合いしてきたことか! というのが まづ口をついて出ますね。勝負あったというところでしょうか。

 ☆☆ (No.25) 悪口はいわないで!! 
 ☆ これは撤回します。自分自身が言えなくなりますから。

 ★ 悟性
 ☆ と聞くといつも戸惑うのですが それでいてきちんと把握しようとして来なかった。
 ▲ (ヰキぺ:理性) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 スコラ哲学以来の西洋哲学の伝統では「推論・論証的能力としての理性」と「対象を把握する(understanding)能力としての悟性」とを区別するのが普通である(明晰性、妥当性は前者に、直観は後者に属する)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ カントのカテゴリですとか ヘーゲルではどうだとかまだあるようですが これだとしまして
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「かたち」が訴えるのは、存外、僕らの理性に対してではなく、悟性に対してなのではないでしょうか。

 そして文学は、感性を従えたその悟性に対して訴えるものではないのだろうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いやあ ri_rong さんからこういう命題を耳にするとは!! せいぜいが 内包するものとして表現しておられることはあっても 直説法ですからね。それに
 ★ 「かたち」は空虚で、実の無いものです。けれども、人間には悟性の力でその「かたち」を認識することができる。
 ☆ とここまで言われたなら 直観派のわたしはもう出番がなくなりますよ。
 この《かたち》に一元論を当てはめる必要はないというところでしょうか。
 ○ 言語一元論のもとに 社会動態を言語の現象として捉え 言語じしんによって分析しようとしている。自己自身の中で循環しているではないか。
 ☆ たぶん この一元が 経験事物であるからややこしくなるということかも知れません。そうなると結局 世界精神が自己展開するとか もの自体は 触れ得ないものとして神だなに揚げておくとかといった構成の中に入るかたちへ 広げざるを得なくなる。
 ひゃあーあっ 《絶対》を掲げるわたしが この罠もしくは穴に陥るとは!!
 ○ 《かたち》は 可塑性を持ってつねに動態である何かとして 一人ひとりが 携えているもので およそ《かたち》たらんとするならば みづからの妥当性を主張しあってもよく しかもその妥当性は むろん相対的であるゆえ ひとつの《かたち》の共同化には いくらかのものの共存ということが考えられる。 
 ○ この《かたち》は 生活態度のようなものである。と言えば 思想だと言えるし 広く共同主観である。たぶん 分野ごとに具体的に検討し合われるであろうし いくつか共存することも考えられる。

 ▲▲ (No.25)(橋爪) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・社会が完璧な表現の空間となり 各人が 記号的生の自立をとげたとき こうした法秩序は かろうじて無化されるだろう とわれわれは考えてみたい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはですね。虚構作品なり理論なりの言論によって 権力が崩壊するというそういう文章はあるか?――曲解しているかも知れません――というようなことを かの吉本隆明が言っていたので ずっと引っかかっていました。吉本は その作品が 仏つくって魂入れずだと思います。

 あぁ おかげで卵の殻が割れて オムレツをつくれます。
 このあと どうしますか?

投稿日時 - 2009-08-11 18:15:23

お礼

>このあと どうしますか?

 そうですねぇ。とりあえずいったん、ここは締めます。

 長らくの問い求めにお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
 前々から考えてはいたのですが、そしてここでの問いを踏まえて、いよいよ「本格小説」について考えてみたいと思います。

投稿日時 - 2009-08-11 19:26:58

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回答(26)

ANo.25

 もう少しお邪魔してみようかと。・・・

 ★ (No.23) ・様子〔嶺頭〕雲影微 江流〔十里〕入残眩
 ☆ これは 《様子》という言葉が 余分なように感じます。山の嶺に《雲影微》だと言えば それは《様子》であるではないかと。(漢詩は一般知識以上には知りません)。

 ☆★ 鈴木理恵子
 ☆ は――と言いますか 音楽を聞くのは 昔はFMをよく聞いていましたが いまはNHKBSのクラシック倶楽部くらいです(これは毎日やっていますね)―― 音楽で特別に感動した最初でいまのところ最後のものです。美人は 仲道郁代あたりでしょうが ピアノ演奏で動かされたことは残念ながらありません。
 ストラディワ゛リの音はやはり違うなと思ったことはありました。でも鈴木理恵子の音のほうが上だと思いました。理論も理屈もなしです。強いていえば 音が一つひとつその時間域いっぱいに響いてしかも次の音と無理なくつながっている。悪口はいわないで!! と言いますか 専門的なご意見には傾聴いたします。
 ★ カントリー
 ☆ はお好きなのですか? どうも――その曲というより アメリカつながりが―― ri_rong さんとは似合わない感じですね。

 ★ 《〈かたち〉から入る》
 ☆ のはけっきょく 幼児がことばを覚えるのも そういう経過をたどるということで ふつうのことであるかも分かりません。

 今回は 
 ▲ 橋爪大三郎:《言語一元論》――たとえば『言語派社会学の原理』2000
 ☆ にかんして ご意見をうかがおうという魂胆です。というのも 橋爪にかんしては 多くを読んでいるものの なかなか賛成・反対いづれとしても評論しがたいというのが わたしの実感であったからです。よろしかったら料理してください。
 ▲ (橋爪) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 実定的な法秩序(ないし 権力状況)をこえる構図を提示できるかどうかは いまのところ ひとつの思想(ないし 言語表現)の課題である。社会が完璧な表現の空間となり 各人が 記号的生の自立をとげたとき こうした法秩序は かろうじて無化されるだろう とわれわれは考えてみたい。《記号空間論》(=《〈言語〉派社会学》)という作業は そうした予想に 充分な根拠を与えることを 目標としている。
 (橋爪大三郎:《〈言語〉派法理論 要綱》p.92=結語の部分――私的に頒布している)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 雄大なと言いますか 無謀にと言いますか でも理論的な基礎がなきにしもあらずのようにも感じられます。
 ▲ (橋爪:『言語派社会学の原理』) ~~~~~~~~~~~~~~
 【153】(* =著書の中の番号づけ) 性 言語 権力が 分離可能な三つの基本作用素( operator )であると考えるならば それ以外の観察可能な現象は それらの複合において成立している と考えられることになる。このようにとらえなおされたものを 社会形象( social figure )とよぶことにする。
      *
 たとえば 文字は 本来の言語としての作用とともに 音声言語と対応する可視的で感性的な図像であることから 性の作用を含んでいるし 言説を排他的に記録し秘匿し運用する可能性をひらくところから 権力の作用を担いうるであろう。またたとえば さまざまな加工品は 言語(によって表現される観念)と照応して作製されたので 言語としての作用を 感性的な享受の対象となりうるかぎりで性の作用を 担いうるであろう。などなど。(* この文は表現がまづく感じられますが 原文のままです)。
 さらにたとえば 文字で表記されたテキストは 文字そのものを社会形象と考えるならば そのさらに上位のレヱ゛ルに形成される社会形象であることになる。
   *
 このように 複雑な社会現象を 一連の社会形象からなる全体として解析し また逆に 複雑な事象を 社会の基本的な作用やより単純な社会形象からなる複合として合成する といったやり方で 社会を記述する可能性が開かれていく。
 【154】ここで・・・操作的な定義を導入してみたい。
 まづ 言語について。これは・・・身体から身体に 形式の作用が及んでいる場合 として簡単に抽象できる。
 そして 性について。これも・・・身体から身体に 直接の(非形式的な)作用が及んでいる場合 として抽象できる。
 言語の作用は 身体間を推移的( transitive )に波及していく。言い換えれば 言語の実態である形式は 身体を通過しても変形せず 不変にとどまる。それに対して 性の作用は 身体から身体への直接の関係であるので その身体を通りぬけてそのつぎの身体に作用を及ぼすことはできない。
    *
 これに対して 権力の操作的な定義は ややわかりにくい つぎのようなかたちになる。すなわち 身体から身体へと拘束的な作用が及んでおり その作用がもうひとつ前の身体に及んでいた拘束的な作用と同一である場合 この作用は権力である と。もう少し簡便に言えば 権力は つぎのように定義できる。

 〔定義〕権力: 権力とは 身体間で同一性をたもつ 間身体的な拘束作用である。

  (pp.268-270)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そう言えば 岩井克人の
 ○ 言語 法 貨幣
 ☆ の理論もありました。すべて言語のはたらきが与っているようにも考えられます。
 ○ 性にかんしては 言語をすり抜けると思われますが もしそのような自然言語だと捉えるなら やはり言語の問題である。
 ☆ と考える余地があります。言いかえれば むろん 
 ○ コミュニケーション
 ☆ の問題ですね。(それにしても このコミュニケーションという語をうまく翻訳できませんか?)

投稿日時 - 2009-08-11 10:55:38

補足

 ご回答ありがとうございます。

>橋爪大三郎:《言語一元論》――たとえば『言語派社会学の原理』2000にかんして ご意見をうかがおうという魂胆 お説自体はわからないでもないんです。でもきっと、むしろ僕のように門外漢のほうが、その説の危うさには敏感なのだろうと思います。というのも、

 ☆ 《言語一元論》

 と呼んでいる時点で、それが循環論法になっていることに論者は気付いていないと思うんですね。そのとき曲者になるのが「社会」というものです。たとえば自然科学の対象である物質や運動とまさに同じような実在性を社会に与えて定義するとき、法や貨幣、そして言語は、社会という存在によってまことしやかに関係付けられる一方、それはすでに「社会」というもの自体の定義づけのなかに、すでに織り込まれているものなのだという反省が忘れ去られている。
 早い話、この人の考えているものが「社会」なのであり、だからこそ、その「社会」には普遍性がないということです。これは以前、岩井克人さんの論文を読んだときにも思ったことです。

 社会科学は、自然科学と決定的に違うところがあるような気がします。それは観察の結果を計量することの難しさとともに、考察はともすると、突き詰めれば突き詰めるほど、前提に戻ってゆく――そういうジレンマがあるような気がします。言語というものは、確かにそれ自体の変遷や異言語との連関、意味や文法を詳らかにすることで言語学としての対象とはなり得る。けれども、その使用(実践)をひとたび論じようとしたとき、言語は単なる約束事のひとつでしかなかったことに改めて気付かされる。
 その約束は単なるかたちだけのものであり、価値や義務が介在するまえに、暗愚にそれを信じているだけのそういう「かたち」でしかない、のではないだろうか。言語のほかには法も貨幣も、何か別なものとの代替可能性があるのではなく、実は暗愚な信じ込みによって仮想されているだけのものなのではないか。
 

投稿日時 - 2009-08-11 14:42:39

お礼

 だとすれば、それらはまさにそれが「かたち」であることを裏付けている。「かたち」は空虚で、実の無いものです。けれども、人間には悟性の力でその「かたち」を認識することができる。「かたち」が訴えるのは、存外、僕らの理性に対してではなく、悟性に対してなのではないでしょうか。

 そして文学は、感性を従えたその悟性に対して訴えるものではないのだろうか。

投稿日時 - 2009-08-11 14:44:05

ANo.24

こんばんは、ri_rongさん。

●―――― そうか。

おい、妙に納得すんじゃねえよ。

あいや、しばらく、しばら~~~く~~~ (写楽風)

くぅ~~~~と、腹の虫が鳴ったところで

飯の時間!

いただきまーす!

抽象絵画デフォルメ

『ベルヴィル・ランデブー』
http://info.movies.yahoo.co.jp/detail/tydt/id320220/

【劇画講座】
http://www.saito-pro.co.jp/kouza/k04.htm

デフォルメと色彩の調和

【アニバーサリーリミテッド】
http://plusd.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0812/24/news012.html

投稿日時 - 2009-08-10 21:56:30

お礼

==========(劇画におけるデフォルメとは……)===

☆ それは、ひと口にいって、“より実際に近いものを、より少ない線によって表現すること”であり、そしてそれは似顔絵やマンガのものにはない“劇画の世界独特の技法である”というのが結論です。

 デフォルメと言われると、「より実際に近いものを、より少ない線によって表現すること」のほかに、誇張が含まれるでしょうね。似顔絵や漫画では誇張のほうがむしろ、デフォルメの意味に近しい。誇張を加算的とすれば、ここで述べられるデフォルメは減算的です。いずれも手本そのものではなく、演算を加わえる。こういうことでしょうか。

 ご回答、ありがとうございます。
 ところで、手本というものがありながらもなぜ、演算が必要になるのでしょうか。むしろ、加算にせよ減算にせよ、もしも正しい演算というものがあるならば、それは手本の持つ「何か」を際立たせるためになされる。その何かが損なわれてしまうようでは、正しいとは呼べないでしょう。その何かについて、カントはそれを純粋悟性概念と呼びました。それは量であるとか質であるなど、「もの」をその「もの」足らしめている要因のことです。

 さて、果たして人間は理性によって、その「もの」らしさを考量しているのだろうか――というのが、カントの立てた問いでした。その問いから、彼は「純粋理性批判」を著します。そのなかで、先に書いたような演算は、理性に先立って内在的に与えられていると彼は言います。経験は経験以上を知り得ることができず、原理は原理に含まれる以上のことを知り得ないものです。
 けれども人間にはこれらに先立つ認識力がある。経験を基礎としない超越論的な認識形式がある――ということです。このような認識は、感性のちからを借りた悟性のもたらす構想力によってなされる。
 この質問は、まさにそこを問うているわけです。どうでしょうか。

投稿日時 - 2009-08-11 10:01:09

ANo.23

 No.21&22のお礼欄――お応えをありがとうございます――に反応いたします。

 ・ 趣味のお話としては ワ゛イオリンは鈴木理恵子の演奏が好きです。
 ・ 動詞の否定形のもんだいで こう問えばいいと思いました。
 ○ なぜ《ある》は動詞で その対義語の《ない》は形容詞なのか?
 (《あらづ・あらぬ・あらへん》のほかに 《あらなふ》もしくは《なふ》があるはずではないか?)

 さて 全編 引用です。
 ▲ 橋本萬太郎・岡田英弘・川本邦衛・新田春夫・松本昭共著:世界の中の日本文字 1980
 ▲ (同書:漢字のテキストが読めるのは) ~~~~~~~~
 岡田: ・・なぜ漢字で書いたものが意味がわかるか・・・。わかるはずがないというのが 私の意見なんです。・・・
 漢文でずっと漢字が並んでいると どこで切るかということが先にわかっていなければ 意味が分からない。しかし意味が分かっていなければ どこで切るか分からない。・・・
 ある特定のテキストで繰り返しそのシークエンス(順列)を叩き込まれているからに過ぎない。
 橋本: ああ 《素読》でならう語感ですね。三つか四つのころからね。面白いなあ。西洋でもそこに着目した人がいる。ただし 西洋人らしくそのシークエンスを定式化しようとしたわけですがね。ロシア最大の詩人アレクサンドル・プーシュキンの長詩《イェフゲーニー・オネーギン》について それを考えたマルコフ。一九一三年のことです。残念ながら東洋では千年以上も素読を叩き込まれていながら その《マルコフのくさり》を解明しようとする人が出なかった。中国でこういった叩き込みは 非常に早くからはじめたようですね。早くって 小さいときからのことですが。
 ▲ (同:音読と訓読) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 川本: いまの『三字経』は 中国人はどうやって学んだんですか。
 岡田: 暗記するだけでしょう。
 川本: それはベトナム人も同様だったのではないかと思います。

    天 thien・・・tro'i
    地 dia ・・・ da't
    人 nhan・・・ ngu'ori

 のようにローマ字だけを上から続けて読むと すこぶる調子がよい。
 岡田: 韓国では 漢字にそれぞれハングルで 意味に対応する韓国語の単語と 韓国語の字音をつけて この二つを一まとめに読んで覚えます。

    天 hanar ・・・ tyon
    地 sda ・・・・ di
 
 こうして《天》なら ハナル・チョン 《地》ならタ・ヂと ひとつづきに暗記する。
 ▲ (同:フランス語やロシア語に《漢字》を) ~~~~~~~~~~
 橋本: ところで われわれは今 文字体系の問題を根本的に論じているわけですから 空想的なことでも荒唐無稽なことでも もっとどうでしょう?
    わたくしはフランス語なんかは 語幹のところを漢字にしたらどうかと思うんですが ・・・。・・・フランスの中学生のしぼり方というのは ものすごかったらしいですね。十二歳かなんかで受ける試験で 一生が決まってしまった。そこのところである試験にパスしなかったら 絶対に大学コースへ行けない。・・・しかもその決め方が 極端にいえば どれだけの綴り字を知っているかということにかかっているわけでしょう? かつては ラテン語がどれだけできたかによって決められたんでしょうけれど。・・・
 橋本: わたくしの申し上げているのは こういうことです。たとえばロシア語で 《山》のことを gora といいますね。ところがロシア語ではこれは《山》だけではなくて これだけでもう主格で単数で女性形であるということが決まっています。

  gor-a 山が    gor-y 山の   gor-e 山に
  gor-u 山を     gor-oj 山で

 のような構成を持っています。ですから gor- のところは漢字だっていいわけです。
 ▲ (同:それが実は漢字カナまじり文) ~~~~~~~~~~~~~
 新田: 日本語の場合は それを漢字とカナにする。
 橋本: 実はそこへ持っていこうと思っているのですよ。・・・
 川本: 乎古止(をこと)点というのは 漢字の周りにいろいろなものをくっつけるわけでしょう? それはまさにこれですよね。
 岡田: 日本は それがすべてできていたということですね。
 ▲ (同:ふりがな(ルビ)を見直す) ~~~~~~~~~~~~~~
 新田: 漢字の場合は 意味をあらわす形が 形として一つですね。ところが ドイツ語の漢字に当たる語幹・語根的なところですが・・・。たとえば

  binden (結ぶ)の過去は band (結んだ) 過去分詞は gebunden (結ばれた)
 それから名詞になると Band (帯) Baende (複数) Bund (同盟) Buendnis (盟約)

 に変わってきますね。つまり b・・・nd が漢字に当たる。
 橋本: それに対するお答えは 用意できていますよ。これは漢字ぢゃなくて ぼくはツクリに当たるんぢゃないかと思います。たとえばツクリ(《同》)があって 名詞の場合ホラアナといったら《洞》と書く。それから動詞や形容詞の場合にオナジというのは このまま《同》でいい。もっと派生して木の場合には《桐》 竹カンムリは《筒》。・・・
   だからまさしくこの bind ~ band ~ baend ~ bund ~ buend を貫く語根を同一記号(ツクリ)で表わすことを 漢字では一歩先にやっちゃっているわけですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-08-10 11:28:43

補足

(補足とお礼欄を入れ間違って、文章が続かなくなっています。上下を入れ替えてください)


 ・様子〔嶺頭〕雲影微 江流〔十里〕入残眩
 ・山川草木轉荒涼   十里風腥新戰場

 素人の意見として、〔 〕でくくった句の位置が問題だと思うんですね。こういうのって、どうなんでしょう。率直に書くと、児玉源太郎さんのやつって、詩には思えないんですよ。詩の型を伴っていない。こういう感じがするのは、仏文や羅文でも同じなんです。例えば論文なんかですと、もう書き出しの数行を読むだけで中味の想像が付いてくる。そういう感じって、気のせいなんだろうか。理解できない外国語を習ったせいで、頭が変になっただけかもしれないですけどね。

投稿日時 - 2009-08-10 16:04:46

お礼

 ほう。何はともあれ、これにはびっくりしました。意外。よく、ご存知ですね。

>ワ゛イオリンは鈴木理恵子の演奏が好きです。

 ご回答ありがとうございます。それとも、人気あるのかな。ご本人はとても美人で可愛らしい。民俗音楽をよくやる点で、分野横断というか近寄りやすい気がしますが、ひとたび協奏曲をやらせると可愛らしくない音を出しますよね。たぶん、見た目より背筋とか腕力とかが、あるんだろうと思います。とっておきとでも言いますか、そういうときの彼女は音が違います。ちょっとびっくりするような音を出しますけど、ふだんはなかなかそういうのを見せない。

 僕のはああいうんじゃないですが、今やってるのはカントリーです。演奏を聞くのは好きですが、やるのはもっといい。
 ご存知かどうかドグ・ワトソンを数曲と、民謡をひとつ、洒落でジョン・デンバーの《カントリーロード》。ヴァイオリン二名、チェロ一名、カスタネット一名(おまけ)、音楽家はひとりもなし。僕以外は全員七十代という途方もない混成です。これを客の前でやろうというのだから、恐れ入る。盆休みを利用して箱根に泊まりに来るお客さんに聞かせるのだそうです。

 さて、

>漢文でずっと漢字が並んでいると どこで切るかということが先にわかっていなければ 意味が分からない。

 これですよ。これ。かねがね、不思議に思っていたわけです。
 やっぱり、手本を見ながら型をおぼえるわけですね。どこでもいっしょってことですか。たとえば児玉源太郎の「様子嶺頭雲影微 江流十里入残眩――」なんて聞かされると、確かに言ってることはわかるんだけど、指令電文みたいで、やっぱりヘタですよね。それに比べて乃木さんのは「山川草木轉荒涼 十里風腥新戰場――」です。

 比べてみましょう。

投稿日時 - 2009-08-10 16:04:34

ANo.22

 《 A-ハ B-ガ C-ナリ /C-スル。》の日本語構文について補います。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
この構文について 

   第一中心主題 + 関係第二主題 + 論述。

 といった主題提示層を表わし しかも同時に別の層において
 
   S (主格)- O (対格)- V(述格)

 などの線形論理層をも担い その意味関係を表わす。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 と述べていますが そしてこの構文は 日本語のほかに朝鮮語にも見られると言いましたが ほかの言語にも存在する可能性があると説く論考を探し出しました。ご紹介します。

 ▲ 泉井久之助:言語の構造1967/1971

 ☆ そこでは 上の構文は
 ▲ 二重主語の構文
 ☆ と呼ばれています。

 ▲ (泉井〔いずい〕久之助:二重主語の構文と日本語)~~~~~~~
 ラテン語は非常に早くから文体的に 特に論理的によく整理せられた言語である。殊に普通われわれが目にするラテン語は 共和制末期から帝政初期に書かれたいわゆる古典的ラテン語であるために いかにも整理せられた言語だという感じをつよく抱かせる。そこでは主語に関して 一つの単文には必ず主語は一つの原則が強く貫かれて そこに二つの主語があらわれるという二重主語的な現象は殆んど見出されることがない。
 実はしかし それは高度に整理せられた文章語ばかりを われわれは見ているからであって キケローの弁論さえ 今われわれが読むものは すべて弁じ終わったあとで 時には相当期間ののち 改めて手を加え文章的に整えた上で刊行したものばかりである。実際に大ぜいの人たちを前にして雄弁を揮ったときには 必ずしもこのように文章規範として 後世のみか今日まで尊重せられるような 美事に整って しかも力つづよいものではなかったかも分からない。・・・

 古典期の規範的なラテン語の文章では・・・第一主語を属格に据えることによって非規範的な二重主語になるのを避けるのが一般の場合である。例えば最も整ったラテン語において

   Hominum spes successu rerum augeri solet.

 といえば 《人間〔というもの〕は 成功によって希望が大きくなるものである》の意味であって 直訳的に《人間の希望は・・・大きくなるものである》と訳すれば 《文として》正確に訳したことにならない。もしこの直訳のとおりにラテン文でいうならば はじめの二重主語の順序を変えて 《希望 spes 》を前に据え 

   Spes hominum ・・・・

 としなければ正しい文にはならない。しかしこのとき 《人々の hominum 》は 《特定の人々 前述の人々の》の意味になって全体は 《かの人々の希望は・・・》の意味になってしまうであろう。
 上の規範的に整った文において《人々の》が《希望》の前に立ち 更に何より文頭に立っていることには特別の意味がある。そこには提示的な 第一主語的な意味合いが統辞法的にこめられている。

 しかし少し考えてみれば ラテン語の二重主語的な言い方は 何もこのように表現世界の いわば逼塞した一隅にのみ行なわれていたのではない。その表現世界の大道をゆくキケローにきわめて多い表現の様式 即ちまづ 《・・・を》と提示して つづいて例えば 《〔これを〕知らないほど迂闊なものがあろうか》と結ぶあの言い方の順序 これなども句の順序や据え方から見て格の関係はとにかく 表現全体の行き方に伺える精神から見れば やはり一種の二重主語的な表現であろう。
 その一つの例は キケロー 国家論 二の六のはじめにも見出される。そこでは

   Urbis autem ipsius nativa praesidia,
    《都(ローマ)自体の持つ自然の要害を》

 とまづはじめに置いて前提とし 次に文章を一応区切りながら《そんなに迂闊なものとして誰があろうか》と文を運び 最後にこの《誰》を受ける関係代名詞を据えて 《その人がそれに気づかないほど》と結ぶのである。
 つまり《ローマ自体が本来持つ自然の要害さハ それにはっきり気づかないほど迂闊なものとして誰があろうか》というのに ローマの要害さを大きく前提においてその属性の優秀さを述べるのである。これも表現の精神から見て一種の二重表現であろう。それはこの句の順序に現われている。整った古典期の文語にも 二重主語的表現はやや姿をかえて現われていたのである。
 日本語においても今日 二重主語的表現が口語的な文章語にまで力があるのは はじめの民衆的な言語法が大いに力を得た結果であって 古典的な文語では その現われは非常に少なかった。しかしこの表現様式が様式として 日本語において非常に古くからつづいたものであることは 

 万葉集の八 《・・・冬木の梅は 花咲きにけり》
 或いは
 巻三の 《不尽(ふじ)の高ねは 雨雲もいゆきはばかり・・・》

 などの多くの例によって知ることができる。ここに《ガ》が現われないのは主語助詞としての《ガ》の発現が文語において 遅かったからである。
 して見れば二重主語的表現は 一般に自然に人の心にごく自然的な表現の様式の一つであり 自然的な精神形態の発現でもあるといえるかも分からない。ラテン語では 周知のように名詞・代名詞の格の形は一つ一つはっきり現われて 主格は主格としてのみの形を持つだけに 上の特異な二つのラテン例文のそれぞれにおける二つの主語は それぞれ明瞭に二つの主格であって 二重主語的表現は はっきり二重主格的表現となっている点が特にわれわれに興味がある。
 (第2部 補論 1.二重主語の構文と日本語 2.その他の言語と二重主語 pp.144-146 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ほかにもいくらかの言語で この《二重主語の構文》が見られると説いています。
 ラテン文例について わたしは合点が行っているわけではありません。文例の全体を掲げていませんし つまりよく分かりません。というのが 実情です。

投稿日時 - 2009-08-10 01:03:02

お礼

 専門的なことは知らないのですが、この泉井さんという方がお書きのことを僕はわかる気がします。キケロなど正統派のラテン文(古典時代のもの)は講読会で勉強した程度で、いくらかの言い回しのほかはさっぱり知りませんが、文章を構成する「型」のようなものがあって、それはネオラテンにも受け継がれています。
 読みのなかで、僕らはこれをまず、覚えるんですね。ご回答ありがとうございます。

 このキケロ風の語り口モデルは、たとえば頁数でいうと三頁くらい続く長い文章の末尾にひょっこり結論が現れたりするネオラテンの怪しい文章において、どこからどこまでが主格なのか、またその主格の説明が誰の引用なのかなどを読み解く際には、非常に重宝します。作者が古典と同じような構造で綴ってくれているからです。その型に慣れてしまうと、泉井さんの書かれていることが特別なことだとは思わなくなってしまいますが、改めて言われると、なるほどなと思いました。

 慣用句っていうんですか、実際はもう少し長いテクストを引用するようなかたち――演説なのか、論ぱくなのか、献呈なのか、詩文なのか――などなどの型があって、うまく言葉では説明できませんが、その型に沿って綴られます。やっぱり、外国語なんでしょうね。地の言葉とは違って、ラテン語は手本としての言葉だと思います。挿入句や引用、変幻自在の文章構成、それでも「型」は生きている。漢詩のような感じ、といえば伝わるでしょうか。

投稿日時 - 2009-08-10 09:17:41

ANo.21

 日本語論がないので すでにご披露した文章ですが 添えさせていただきたいと思います。
 ことばの生成をめぐって 少しは掠めるような論考です。

   *

 奈良(ちなみに na-ra=地‐ら⇒奈良。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが 

  HA.....

 と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。溜息をついただけかも知れない。でも その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。

  HA.....SI。

 というふうに続けて 舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。

  HASI . / はし。

 こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。

 ――愛(は)し。

 つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相のそれ/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で

   ’u = う。 
   'u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。

 と作って これを添えれば

   うる‐はし。(心愛し・麗しい)

  とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。

 ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。
 そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを 合成すれば 《やま‐と》のかたちに つくった。
 文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり

   やまと(山‐処)‐は うるはし。

 人間は その思いを 表わさずにはいられない(!!??)。その内容を充実させようとする。

   やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。

 と表出する。《ほ》は 突出したものの相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに《ま / ろ / ば 》をも添えて

  やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。

 と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。

投稿日時 - 2009-08-07 22:52:03

お礼

 ご回答ありがとうございます。
 演奏会が近く、週末は箱根にこもって練習をやってます。返事が遅れてすいません。

 ところで、ブラジュロンヌさん。漢詩ってどうなんでしょうね。あれって、よく知らないのですが、和文にするときレ記号とか付けて読む順序を付けたりするじゃないですか。順々に前から読んでゆけば良いという訳ではない。
 ああいうのって、どうやって生まれたんでしょうね。

投稿日時 - 2009-08-10 09:16:57

ANo.20

こんばんは、ri_rongさん。

…点、あるいは一本の線ですか?

うーん、一線を画す―――――― 距離を置く。

距離を置いて考えてみましたら

ジャイロスコープに行きあたりました。<はじめに戻る

手本(サンプル)の対義語は――――→ 実物

【空中マウス 】
http://bb.watch.impress.co.jp/cda/items/5129.html

投稿日時 - 2009-08-07 19:41:43

お礼

 ご回答ありがとうございます。ところで、こんどは実物ですか。

 実物と手本は異なる。そればかりか、正反対ではないか?――という感じでしょうか。それがlittlekissさんだと? だとしたら、実物の人物像があまりに良すぎやしませんか。聖人君主とは言いませんが、聖母様? 人間には良い面もあれば悪い面もある。どちらか一方しかない、なんて人はいないでしょう。おおむね、半々といった感じです。

 だから、littlekissさんの場合も手本と実物はあまり変わらないはずです。いくら実物が良い人だからって、そこそこ、といった感じです。いくら手本と実物が対義語だとしても、いや、だとしたら。あれっ、littleさんってほんとうはすごく良い人……ってこと? そうか。

投稿日時 - 2009-08-10 09:30:15

ANo.19

 差異の談義では降参します。No.16です。

 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ 手本の対義語は 差異である。
 ☆ かも知れません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ に対して あなたの論議の結語の部分だけを引けば
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 同じ価値を共有するしくみ、そういうものが働かなければ、差異はむしろ手本ではないかとさえ思えました。
 どうでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから それでもわたしの側にぶつぶつと自動表出があるとすれば それは
 ○ 言語の普遍性がもし大前提になるのならば その前提のもとに 《共通の語彙や構文を内容とする手本》と《そこから はみ出すかのような差異》とが互いに対立的にして総合的には言語の全体を発展させようとするかのごとく 作用し合っている。
 ☆ です。降参というのは 特に深く考えて言ったものではなかったからです。最後の落ちとして気軽に吐いてしまいました。スマン。

 ○ 音韻で / r / ないし / l /  ∽ / s / という交替可能性
 ☆ について 悩んでいます。
 ○ やはり>やっぱり>やっぱし あるいは
 ○ あまり> あんまし
 ☆ ちなみに 日本語のラ行の子音は 舌先は軽く上歯茎の裏のあたりに触れて発音するので アール( r )ではなくエル( l )に近いと言われています。
 これを思い出したのは 例のタガログという語です。
 ○ 台湾に高砂という地名があって / たかさご / と〔も〕読みます。これは / タガログ /と交替しうる音韻ではないかという〔以前からの〕うたがいです。/ takasago / ∽ / tagalog / ?
 ☆ 余興でした。

投稿日時 - 2009-08-07 09:42:22

お礼

 さて、この質問もずいぶん長くなってきましたし、そろそろ締めようかと思っています。
 ご回答ありがとうございました。

 言い残しは無いだろうと思います。

投稿日時 - 2009-08-07 16:16:35

ANo.18

訂正:追加

さらに一八七三年にイギリス人ウイリアム・トムソンによって、現在の磁気コンパスの原型が完成されたのです。

≪    ≫の文が抜けてました。

さらに一八七三年にイギリス人ウイリアム・トムソンによって、≪理論的に誤差の修正を行うことのできる磁気コンパスが作られました。≫これによって、現在の磁気コンパスの原型が完成されたのです。≪これによって、≫



清書

『二. コンパスの発達』
「ヨーロッパの三大発明」の一つとされている磁気コンパスの西洋における発明は、一三三○年にアマルフィの船乗り、フラビオ・ジオヤによるとされており、ヨーロッパでは、「ジェノバの針」という呼び名で呼ばれていました。しかし現在では、これを「発明」というのはあやまりで、「改良」されたと訂正されなければならないといわれています。というのは、一一八○年頃書かれたイギリス人アレクサンダー・ネッカムの本にも、また、一三世紀初頭にプロパンス語で書かれた本にも、海上で方向を知るのに磁石が使われたことがしるされているからです。これらの磁石と、これを航海に利用する方法は、東洋からアラビア人の手をへて西洋に伝えられたものとみられていますが、一二三二年にアラビア人によって書かれた「石の知識に関する商人の法典」という本の記事は、当時の状況を知る上で興味ぶかいものがあります。「針をとってワラのくきにさし、十文字の形をこしらえる。これを容器に入れた水の上に浮かべる。それから磁石をとって水の表面に近づけ、手をまわす。そうすると、針は南北をさし止まる」もちろんこの時の針は、「磁石でなでて、南北の方向をさす性質を与えていた」ものと思われます。ジオヤの作った磁気コンパスは、十四世紀のなか頃、イタリア人カルダーノによって、たがいに垂直な軸を持つ二つの環すなわち遊動環を取り付けることによって、海の上で揺れる船にも適するようにされました。一七五○年頃に、ゴヴイン・ナイト博士によって、鋼鉄棒の磁化による人工磁石が作られ、さらに一八七三年にイギリス人ウイリアム・トムソンによって、理論的に誤差の修正を行うことのできる磁気コンパスが作られました。これによって、現在の磁気コンパスの原型が完成されたのです。現在では磁気に関係なく、高速に回転するコマを利用して、これに地球自転の力を感応させ、コマの軸を南北に保つジャイロ・コンパスができています。しかし、これが故障したときの補助としても、磁気コンパスはまだまだその生命を失ってはいません。

投稿日時 - 2009-08-06 22:38:56

お礼

 七不思議とか四大文明とかっていう言い回しは、確かに手本みたいなニュアンスを受けますね。けれどそれは、錯視だと――そういうご回答だと受け止めました。ありがとうございます。

 しかしですねぇ、となると手本と錯視は同義語になっちゃう。

 ○ そうではなく、錯視される手本と、そうでない手本とがある。
 強引に、こう理解してみました。手本を見て清書する。清書したものがつぎの手本となる。連鎖、それとも循環、ともかくそういうニュアンスのもの、ということでしょうか。

 ☆ むしろ、コマのように慣性で回り続ける手本というのを提案してみたいと思います。
 ずばり書けば、バランスです。
 手本の本質は、このバランスにあるのではないか。見た目とか、雰囲気とか、そういう感覚面でのバランスです。それがいびつだと、どこか違うんじゃないかと思う。だとすれば、手本の対義語は、バランスの反対を考えれば良いわけです。バランスは、天秤のごとく、二物を比べて初めて生まれる。とすれば、比べる相手が無ければ、バランスは物象化されない。そういうのは? と考えるに、点、あるいは一本の線です。しかも直線のようなものであれば、バランスは関係しない。
 どうでしょうか。

投稿日時 - 2009-08-07 09:50:42

ANo.17

こんばんは、ri_rongさん。

ワトスンとホームズですか?

『麻雀放浪記』は必読? 青天井

ほじゃ、ここもあわせてみておきましょうか?

YuTube-無頼 阿佐田哲也の虚と実(1)/5


【パントマイム効果を用いた三次元錯視物体の動的構造変化に関する研究】
http://cortex.csse.muroran-it.ac.jp/papers/kentaro_shibu05.pdf


●「そうだねワトソン君、今の状況から推理すると、僕らのテントが盗まれたのだよ」

《手本》の対義語《手癖がわるい?》 ←人聞きのわるい。

それもいうならお手並み鮮やかでしょうが

テーブルマジック???

サッと、引き抜く(^_-)-☆ ちゃららららら~♪

引いてきたカードは…

【火星探査車スピリット、救出策を探る】
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=2009070807

【星の不思議】
http://www1.odn.ne.jp/kentaurus/new_page_11.htm

【切手】
http://www.rakuten.co.jp/timbre/458737/667785/

【地球なんでもQ&A】
http://www.geosociety.jp/faq/content0002.html

【各守護星同士の相性】
http://island.geocities.jp/issui_ryuya/6index.html


ここで、お話ひとつ。

『二. コンパスの発達』
「ヨーロッパの三大発明」の一つとされている磁気コンパスの西洋における発明は、一三三○年にアマルフィの船乗り、フラビオ・ジオヤによるとされており、ヨーロッパでは、「ジェノバの針」という呼び名で呼ばれていました。しかし現在では、これを「発明」というのはあやまりで、「改良」されたと訂正されなければならないといわれています。というのは、一一八○年頃書かれたイギリス人アレクサンダー・ネッカムの本にも、また、一三世紀初頭にプロパンス語で書かれた本にも、海上で方向を知るのに磁石が使われたことがしるされているからです。これらの磁石と、これを航海に利用する方法は、東洋からアラビア人の手をへて西洋に伝えられたものとみられていますが、一二三二年にアラビア人によって書かれた「石の知識に関する商人の法典」という本の記事は、当時の状況を知る上で興味ぶかいものがあります。「針をとってワラのくきにさし、十文字の形をこしらえる。これを容器に入れた水の上に浮かべる。それから磁石をとって水の表面に近づけ、手をまわす。そうすると、針は南北をさし止まる」もちろんこの時の針は、「磁石でなでて、南北の方向をさす性質を与えていた」ものと思われます。ジオヤの作った磁気コンパスは、十四世紀のなか頃、イタリア人カルダーノによって、たがいに垂直な軸を持つ二つの環すなわち遊動環を取り付けることによって、海の上で揺れる船にも適するようにされました。一七五○年頃に、ゴヴイン・ナイト博士によって、鋼鉄棒の磁化による人工磁石が作られ、さらに一八七三年にイギリス人ウイリアム・トムソンによって、現在の磁気コンパスの原型が完成されたのです。現在では磁気に関係なく、高速に回転するコマを利用して、これに地球自転の力を感応させ、コマの軸を南北に保つジャイロ・コンパスができています。しかし、これが故障したときの補助としても、磁気コンパスはまだまだその生命を失ってはいません。

投稿日時 - 2009-08-06 22:04:06

お礼

 ワトスン君の場合は、錯視でしたね。ご回答ありがとうございました。

>《手本》の対義語《手癖がわるい?》 ←人聞きのわるい。

 むにゃむにゃ。アムロ・レイ曰く「ぶったな! 親父にもぶたれたことないのに!」

 ぶった――仏陀……あれっ。ぶつ、ぶる? 振りをする! ←これこれ。

>それもいうならお手並み鮮やかでしょうが

 「盗まれた」振りをしたってこと……とか? 錯視⇔策士

 おそらくこれが、パントマイム効果を用いた三次元錯視物体の動的構造変化ということでしょう。
 何、 ちゃんと見えた?

投稿日時 - 2009-08-07 09:50:10

ANo.16

 ○ 言語の普遍性とは如何にありや?

 §2 言語の系統(言語家族)はどれだけの史実か?
 12.中間の結論
 ○ 言語家族(言語の系統)は 家族性の度合いが濃いか薄いかの問題である。
 ○ ぎゃくに言えば 同じ言語家族のあいだでも 互いの差異は大きいとも言える。
 ○ 経済的なアウタルキーの問題ではありませんが 言語やその家族を単位体として分けて捉える《ブロック化》は無用にしましょう。――これが 感情的な結論であり 希望です。

 13.ぎゃくに橋本萬太郎は 生活の基礎に根づく言葉については 印欧語族は 足並みをそろえていると例示します。
 ▲ (橋本:現代博言学 p.303) ~~~~~~~~~~~
 ・・・・・・・・・・・・・《食べる》・・・・《立つ》
 古典ギリシャ語:  'edo ・・・・・・‘istamai
 ラテン語   :   edere ・・・・・・stare
 サンスクリット:   ad-・・・・・・・ stha-
 アベスタ語  :   xvar-・・・・・・ sta-
 ゴート語   :   itan ・・・・・・ standan
 古代教会スラブ語: jasti・・・・・・ stojati
 祖語形    :  * ed- ・・・・・・ * sta-
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ところがここで 中国においては 同じ語族であってもその内側の事情はちがうと言います。生活基礎の語彙が 各方言のあいだで異なっており そのような基礎からやや遠ざかると思われる《そら》や《考える》の言葉は むしろ共通の語を用いているのだと。
 ▲ (橋本 p.303f.) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・・・・・《食べる》  /《立つ》  //  《そら》  /《考える》
 北方語  :□ts‘z 1 / 站 tsan 3 //天 t‘ien 1 / 想 syiang 3
 呉語   :喫 k‘ia 4a / 立 lie´4b //天 t‘ie 1a / 想 siang 3
 ビン東語:■tsia´ 4a /□ k‘ie‘ 4a // 天 t‘i 1a / 想 siu~ 3
 ビン西語 :□ ie 4b / □ k‘ie 3a // 天 hieng 1a / 想 siong 3
 粤語   :食 sik 4b / 企 k‘ei 2b // 天 t‘in 1a / 想 soeng 3a

 * ローマ字つづりは 精確ではありません。
 * ビンは 門かまえに虫。
 * 北方語=北京;呉語=蘇州;ビン東語=アモイ; ビン西語=建陽; 粤(エツ)語=広東
 * ■:歯偏に 作のつくりのほうを つくりに添える。
 * □ のしるしは 文字がないもの。北京語《チー(食べる)》は 《吃》を当てている。
 * 数字は 声調を示す。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 14. 前項の事例は何を示すか。No.15で フィリピンには百以上の方言があるとおそわりました。そのように もともとは 村ごとに言葉は違っていたのではないか。そういう仮説です。同じ系統であってもと言いますか 親戚どうしであっても違っている可能性のことです。生活の基礎的な語彙から違っていた可能性です。
 15. 交流の有無・濃度あるいは 実際に移動し移住するかどうかによって それらの違いが いくつかの結果を類型的にもたらしたのではないかと。印欧語族は 交流も移動・移住もはげしくおこなった結果の言語情況であるかも知れない。でも昔からの差異が残ってもいる。
 16. コーカサスの山々に点々と住み着く人々は 村ごとに言語がちがうと言います。交通も少ないでしょうから 分からないでもないですが もともとは どこでも そのように差異を持っていたのではないか。
 17. ここで唐突にですが
 ○ 手本の対義語は 差異である。
 ☆ かも知れません。

 * 現代タガログ語やフィリピンの諸方言についての事情がうかがえてたいへんありがたかったです。

投稿日時 - 2009-08-06 21:33:28

お礼

 ご回答ありがとうございます。

 ○ 手本の対義語は 差異である。
 ☆ かも知れません。

 集束する先、その対象としてのものが「手本」であり、それゆえ対義語は集束する前の過程、それは「差異」だということでしょうか。差異と手本――うーん、そういうのもあるでしょうね。
 うーん、という表現を足すのは、どうもしっくり来ないところがあるからです。

 というのも、差異はむしろ歓迎されるものですよね。
 個々の価値観の異なり、たとえ親戚どうしであっても、そのような異なりはあるはずだし、あったほうが良い。なのに、なぜ手本が必要なのか。「交流の有無・濃度あるいは 実際に移動し移住するかどうか」とその理由をお書きですが、仮にそうであったとしても、差異という価値を捨てるほどではない気がします。
 そこで思ったのですが、ここでいう「ちがい」というのは、むしろ格差ではないか。
 規矩ではなく、価値を等しくしたうえで、その同じ価値観で量れるものに、多少があった。もしも同じ価値観というものが共有されなければ――それがほんとうに差異であれば――手本なんて必要がない、こう思われたんじゃないでしょうか。同じ価値を共有するしくみ、そういうものが働かなければ、差異はむしろ手本ではないかとさえ思えました。
 どうでしょう?

投稿日時 - 2009-08-07 09:02:58

ANo.15

 横から口を挟んですみません。

 当方はマニラに長年住み、タガログ語放送のラジオを常に聴き、タガログ語のタプロイド紙をいつも読んで、一般大衆とタガログ語で日常的に会話をしながら生活している者です。

 タガログ語は意外に語彙は豊富です。しかし、外来語(スペイン語、アラビア語、中国語、英語、日本語)が非常に多く入り込んでいるため、また、精力的な言語学者による辞書作りが継続して行われてこなかったということもあり、急速にその語彙は失われつつあります。

 また、テレビが発達し、タガログ語がフィリピン語の基とされたこの数十年で、タガログ語と非常に差異のある地方語(100言語ある)においてはタガログ語の侵入も非常に大きいです。

 ミンダナオ地方においては、所謂ビサヤ語(セブアーノ語、ワライ語、イロイロ語等)は、マレーシアやインドネシアと同様、交易用に文法が非常に簡略された形で頻繁に使われることにより、活用が極端に減らされるようになってきています。またタガログ語にビサヤ語を混ぜる形での会話が現場で多くなりつつありこれもタガログ語の侵入といえるでしょう。

 ところでタガログ語の活用はなくなりつつあるのかについてですが、タガログ語に外来語が加わることについては数百年の歴史の中で外来語を外来語とせずにひとつの単語として活用の方が確実に優先されています。むしろ外来語を語幹として採用し動詞にしたり、名詞にしたり、非常に豊かな活用をすることによって文学的な表現を可能にしています。

 You tubeではフィリピンの昔の動画を見ることができるようになり、昔のタガログ語を聴くことも可能になってきましたが、今と会話が全く変わらないことに驚きます。(進歩してこなかったとも言えますが)活用については日常の中で常に繰り返して使われることにより、変化してこなかったのかなと推測します。

 この傾向は北ルソンの地方言語においても十分いえると思います。特にイロカーノ語においては非常に多くの著述、歌等が文字ベースでも残されており言葉の独自性を強く保持しています。

 確かにマニラの都市部では就職のために英語を尊び、タガログ語を意図して話さない上流階級の家族が多くいることは否定できません。そして変化の速度が非常に速い現代において流行にすぐ飛びつくフィリピン人の特性からフィリピンの言語がこれからどう変化するか想像もつきません。

 色々書きましたが、こういう意見もあるのだという位に読み流していただけたらと思います。

投稿日時 - 2009-08-06 13:22:00

お礼

 ご回答ありがとうございます。

>むしろ外来語を語幹として採用し動詞にしたり、名詞にしたり、非常に豊かな活用をすることによって文学的な表現を可能にしています。

 これは、ひとつ勉強になりました。
 タガログ語がここで教えてもらったような活用形を持っていれば、確かにその外来語に由来する文法に支配されずに、外来語を取り込むことができる。日本語に比べると、とても不思議な言語です。でも、それが国語としての普遍性を持続させているのでしょう。
 これは想像ですが、あるいは地理的条件がそうさせたのかもしれません。
 孤立した島々が多くあれば、ふつうはその島独自に言葉は変化すると思える。けれども、舟という交通手段を持っていたために、共通語という意識のほうが重要になる。信じられないような多様な語幹に、マーカーを付して意味を伝えるという手法は、理に叶ったものだったということでしょうか。

 恐らく、言語に詳しい他の回答者もまた、関連する回答をお寄せになるでしょう。面白い情報が、得られるかもしれません。良いお話でした。

投稿日時 - 2009-08-06 13:48:55

ANo.14

 Dr. bragelonne の言語談義です。詐称については ワトスン君のほうに問い合わせてください。

 ○ 言語の普遍性とは如何にありや?

 §1 まえおき
 1. 特定の一つの言語を取り上げる前に――もしくはそれと並行して―― 一つには 言語の起源を扱う生成の問題を掲げなければならないでしょうし もう一つには その生成の結果としての諸言語の構造を類型的に捉えておくことが必要だと考えます。
 2. 言語類型論としてかなり普遍性をもった分析内容を 一つの仮説においてわたしは得ていますが それには ひとつの前提が問題になります。
 3. ひとつの言語が諸言語のあいだでどのようにみづからを生成させ展開して来たか これです。言語どうしの影響関係を 普遍性理解の前提として解明する必要があるようです。

 §2 言語の系統はどれだけの史実か?
 4. 系統もしくは言語家族は 互いに他をよそものと思っているようだが 果たして事実としてただしいか?
 5. 東北地方語と九州地方語はともに日本語であり 沖縄語は――たとえば基本として三母音構成ゆえ 上の二つの地方語と同じ次元の日本語とは言えないけれど―― やはり基本として日本語家族である。形容詞の形成の仕方がちがうけれど 元は同じ起源から分かれたと確認できる。

 6. この日本語家族は たとえばインド・ヨーロッパ言語家族と よそもの同士として互いに隔たっているのか? あるいは 朝鮮語とは 似通ったところがあるとか 中国語とは――漢語の語彙としてはたいへん共通のものがあるけれど―― 根本的に違う言語だとか言われることは どこまで史実であるか?

 7. 仮説としての結論は おそらく基本的に言語は互いに影響し合ってそれぞれを形成したであろう。これです。

 8. 言いかえると ヨーロッパの諸言語は――バスク語を除いて――すべて同じ家族であるという見方は そのまま正しいか? これに対して仮説としては 差異を持ったいくつかの言語の寄せ集めの状態から 互いに混ざり合ったのであろう。これです。
 9. 言いかえれば 言語どうしの混合の度合いに従って 家族度が違ってきている。ただ――史実としては―― これだけのことではないか。と考えます。
 10. また接触がなかったのなら 混合も起こらなかったというに過ぎないという見方です。バスク語は 接触があっても 混合をいさぎよしとはしなかった。家族度がうすい。
 〔11. フランスのバスク人(ガスコン)は ブラジュロンヌの叔父さんのようなダルタニャンらもそうだったようですが たしか国王までを出しているようですから 混合したとも言えそうですが 言語としては 影響のうすい恰好を保ち 自由な二重生活をえらんだのでしょうか〕。
 

 論証はまだですが まづ提出してみます。
 ○ 言語家族(言語の系統)は 家族性の度合いが濃いか薄いかの問題である。
 ○ ぎゃくに言えば 同じ言語家族のあいだでも 互いの差異は大きいとも言える。

 * ▲ 橋本萬太郎:現代博言学 1981
 ☆ によると 印欧語族のあいだで 次の差異は何を意味するかと問います。
 ▲ (橋本 p.304) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・《そら》・・・・・・《かんがえる》
 古典ギリシャ語:   ouranos ・・・・・・'ennnoeo
 ラテン語   :    caelum ・・・・・・・ cogitare
 サンスクリット:    div- ・・・・・・・・・ cint-
 アベスタ語  :    asman- ・・・・・・ man-
 ゴート語   :     himins ・・・・・・・ hugjan
 古代教会スラブ語:   nebo・・・・・・・・ mysliti
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 * 経済的なアウタルキーの問題ではありませんが 言語やその家族を単位体として分けて捉える《ブロック化》は無用にしましょうという見方ですね。

投稿日時 - 2009-08-06 11:34:43

お礼

 ご回答、ありがとうございます。

=================================
 * ▲ 橋本萬太郎:現代博言学 1981
 ☆ によると 印欧語族のあいだで 次の差異は何を意味するかと問います。
 ▲ (橋本 p.304) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・《そら》・・・・・・《かんがえる》
 古典ギリシャ語:   ouranos ・・・・・・'ennoeo
 ラテン語   :    caelum ・・・・・・・ cogitare
 サンスクリット:    div- ・・・・・・・・・ cint-
 アベスタ語  :    asman- ・・・・・・ man-
 ゴート語   :     himins ・・・・・・・ hugjan
 古代教会スラブ語:   nebo・・・・・・・・ mysliti
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
==================================

 難しいなあ。三つの母音が入っているとか、読みとかを考えると、古典ギリシャ語とラテン語は関係が濃そうですね。地理的にも近いし、円満な家庭が築けそうです。
 でも、他のは親戚って感じですね。
 サンスクリットとアベスタも、家庭を築けるでしょう。ゴートとスラブ語も、見合い結婚とすればまあいいかというような感じです。どうやら、ふたつずつの組みがあって、三つの家族が寄り集まって、俺たちって血縁か? と言っているようなふうですね。老婆心ながら申し上げると、《古典ギリシャ語とラテン語》家族は《サンスクリットとアベスタ》家族とは、関係がうまく行かないでしょう。
 《ゴートとスラブ語》家族とは、かなり譲歩し合えばなんとかなる感じ。
 でも、予断は許さないところがあって、

 というのもスラブ語以外は、《そらと考える》のあいだに関係がありそうですが、スラブ語だけは天に対する関心が薄い気がするからです。ひとつ間違うと、不倫騒動になる。

 こんな感じですが、早く答えを教えてください。

投稿日時 - 2009-08-06 13:20:15

ANo.13

こんばんは、ri_rongさん。

●案外、「親父にもぶたれたことないのに!」

“ 親父 ”… あー、懐かしい響き。。。

うん、殴られたことはないですね。

おっきな手で、頭をペシっと押さえられたことはありました

「しっかりせいよ」と。

父が亡くなって早10年。あのおっきな手を懐かしく思う。

瞼の裏にぼんやり浮かぶその姿…“ 親父 ”

お盆が近いせいでしょうか

それとも、疲れているせいでしょうか

あのおっきな手を恋しく思います。





それはそれとして (-_-;)uuu… 

何んて?! 

「…littlekissさんは、見た目には白くてごっつい体をしていますが、…」


“ ごっつい体 ”って…見たんかぁー!!!

確かに、この前受けた健康診断の結果は一昨年に比べ数kgアップ↑↑

ごっつい体というよりも健康優良児と呼んどくれ~♪ぷんぷん( ̄^ ̄)

数kgアップ↑↑したからってわけじゃないけど…

黒を身に纏うことおおい。視覚効果???

メイン・ブラック

人間型ロボットの頭部に座っている小さな宇宙人

だ・れ・が、小さな宇宙人やて? (-_-;)uuu… 

まあ、そこは敢えて否定はせいへんわ

あっ!?やっぱ、気がかわった-☆

飛ばせ鉄拳! ======○)))))ロケットパンチー★

いまだ 出すんだ ブレストファイヤー

マジンゴー! マジンゴー! マジンガーZ

同じいうなら、小さな日本人やて。(^_-)-☆
http://robot.watch.impress.co.jp/docs/news/20090629_298366.html

【老婆と少女】
http://www.brl.ntt.co.jp/IllusionForum/v/ladyAndOldWoman/ja/index.html

Q.手本
 ↓↑
A.錯視

投稿日時 - 2009-08-05 22:52:31

補足

 ご回答ありがとうございます。

 (毛利氏 談)========================

 いずれはロボットだけではなく、人間の科学者が行くべきだという。人間が行かないと、人間が発する哲学は出てこないからだという。そのためにまず有人用の2分の1スケールの宇宙船を開発・製造し、それにやはり2分の1スケールの人型ロボットも作って本当に高いレベルでシミュレーションを行なうべきだと述べた。
 ではなぜ人型なのか。それは将来実際に人を送り込むためのシミュレーションであると同時に、日本らしい「文化」なのだと毛利氏は語った。日本では、「鉄腕アトム」以来、人型ロボットには親近感や愛着がある。「『文化』は多くの人の支援を受けられる。大きな予算を使う宇宙開発は、大勢の支援を受けないといけない。国民がわくわくするようなものでなければならない」と述べた。

 ===============================

 なるほど。かたちは重要ってことですね。しかも、人型。でも、なんで1/2スケールなんだろう。ブツブツ。ところで、

投稿日時 - 2009-08-06 09:50:16

お礼

>確かに、この前受けた健康診断の結果

 まさか、そうだったんですか!

>黒を身に纏うことおおい。視覚効果???

 黒を纏う――漆黒の夜空を彩る星々。ロマンチックですねぇ。ふと、ある記事を思い出して探したら偶然、ウェブに関連記事が出ていましたのでリンクします(斜体のところです)。

 ・http://understandingscience.ucc.ie/humour/A_Good_Laugh.pdf

 ワトスン博士とキャンプに出かけたシャーロック・ホームズは、星空の下でテントを張って眠りについた。ところが真夜中に、ホームズはワトソンを起こして言った。

「ワトスン君、ちょっと上を見上げて君の推理を聞かせてくれたまえ」

 些かうんざりしていたが、ワトスンはホームズの輝かしい推論の数々を何としても記録しなければならないと決めていたので、しぶしぶ答えた。

「無数の星が見えるよ。無数の星のうちにもしも、惑星を持つ星がほんの少しでもあれば、地球のような惑星が存在する公算はきわめて大きいといえる。地球のような惑星が少しでもあれば、生命が存在する可能性があるだろうね。また宗教的な見地からこのような夜空を見ると、創造者として神の偉大さをひしひしと感じるけれど、君はどう思うホームズ?」

 それを聞いたホームズは言った。
「そうだねワトソン君、今の状況から推理すると、僕らのテントが盗まれたのだよ」

投稿日時 - 2009-08-06 09:52:24

ANo.12

 bragelonne のおもしろ豆知識です。

 マレー語がマレー半島から東の台湾からスマトラの範囲内でハワイやイースターまでの太平洋の諸島に広まったと――おっと もう一つマダガスカルを忘れちゃいけません 小舟で渡って行ったのでしょうね――言われるオーストロネシア語族。
 その言語の特徴で動詞にかんするきわめて関心を惹くものは フィリピンのタガログ語に見出されます。接辞(接頭辞・接中辞・接尾辞)がきわめて論理的に発達しています。
 まづは次の表をごらんください。
 ▲ 〔動詞 kain =《食べる》(語幹)の活用〕 ~~~~~~~~~
 (1) 動作主=主語を取り立てる場合:接中辞 -um- を用いる。
 (A) 不定相: k-um-ain (食べる)
 (B) 完了相: k-um-ain (食べた)
 (C) 想念相: ka-kain (食べよう=未来相)
 (D) 未完了相: k-um-a-kain (食べている=存続相・現在相)
   * 綴字においてハイフンは通常つけません。

 (2) 目的=賓格語を取り立てる場合:接〔中〕辞 -in- を用いる。
 (A) 不定相: kain-in (食べる)
 (B) 完了相: k-in-ain (食べた)
 (C) 想念相: ka-kain-in (食べよう)
 (D) 未完了相: k-in-a-kain-in (食べている)

 (3) 場所=処格を取り立て場合:接尾辞 -an を賓格用接辞とともに用いる。
 (A) 不定相: kain-an (意味は同じ《食べる》です。cf.のちの文例)
 (B) 完了相: k-in-ain-an
 (C) 想念相: ka-kain-an
 (D) 未完了相: k-in-a-kain-an
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これだけ規則的であれば フィリピン人は よほど論理思考に秀でているのではないかとも思えるのですが どうなんでしょうねぇ。

 ほかにもこの論理学は 展開していきます。
 ▲ 〔動詞 の活用・つづき〕 ~~~~~~~~~~~~~~~
 (4) 受益者=与格を取り立てる場合:接頭辞 i- を賓格辞 -in- とともに用いる。
 (5) 手段・道具=具格を取り立てる場合:接頭辞 ipang- を賓格接辞 -in- とともに用いる。

 * 同じくこの(1)~(5)の区分法は あとに触れる ▲〔文例〕 で見比べてください。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ あるいはさらに 動詞の動作じたいの意味内容を形式区分して これをやはり接辞によって表わす。
 ▲ 〔動詞 の活用・その三〕 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 (あ) 一般動作の形式:接辞 -um-, ほかに mag-, ma-, i-, etc.
 (い) 反復形式: mang-, pang-・・・-in(接頭辞かつ接尾辞)
 (う) 可能形式: maka-, ma-
 (え) 婉曲形式: maki-, paki-
 (お) 使役形式: magpa-, pa-・・・-in, pa-・・・-an, ipa-
 (か) 命令形式:各形式の不定相の形態を用いる。(う)はない。

 ▲ 〔文例〕~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (1) 動詞: bili =買う 
 (1‐B) 主語取り立て形( -um- )にて用いる例
 ○ B-um-ili  ako   ng  saging  sa  tindahan   para sa guro'.
  =  Bought   I    bananas    at the store   for the teacher. 
 = わたしはバナナを・・・買った。

(2‐B) 目的語取り立て形( -in- )に用いる。
 ○ B-in-ili  ko   ang  saging   sa  tindahan   para sa guro'.
  = Bought    I     bananas    at the store    for the teacher.
 = バナナはわたしが・・・買った。

 * 主語の《わたし》は (1‐B)の《 ako 》から簡略形の《 ko 》に変わっている。
 * また目的語に対する冠詞が《 ng 》から 取り立てられることによって 《 ang 》に変わっている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あたかも人造言語のごとく規則ただしく活用しています。 
 ここまでの規則正しさを日本語に求めるわけではないのですが。

 ▲ Teresita V. Ramos : Tagalog dictionary 1971-1985

投稿日時 - 2009-08-05 15:53:24

お礼

 規則的な活用という点では確かにそうなんですが、なんていいますか、なんともシンプルな言語だなと思いました。ご回答ありがとうございます。

 この言語はおそらく、ひどく語彙が少ないでしょう? たぶん。名詞に何かをくっつけるというつくりは、日本語やラテン語に近いけど、ラテン語の場合を例に取るなら、語彙が増えてくるとやがて活用規則は破綻すると思いますね。
 ラテン語の場合は、たくさん入ってきたギリシャ語をラテン化するなかで、外来語として処理できた言葉とそうでない言葉があった。きっと、後者が多過ぎたんでしょう。少し遅れて、レコンキスタの時代にアラビア語がたくさん入ってきた。けれどもアラビア語の場合は、国語にもうその受け皿がなく、ほとんどが外来語のままラテン化されていると思います。

 多かれ少なかれ日常語には可塑性があって、新しい単語の持つ概念に割り当てて、混血造語を準備するだけの語彙がある。けれどそれにも限度はあって、二重三重に新しい単語が入ってくると、受け入れられなくて外来語のかたちで土着する。タガログ語の活用を見ると、なんだかその言語が辿ってきた痛ましさのようなものを感じてしまいます。

 日本語はどうでしょうね。外来語の増え方を考えると、可塑性はもう無くなってしまったんじゃないでしょうか。伸びきったゴムのように。

投稿日時 - 2009-08-05 18:20:36

ANo.11

こんばんは、ri_rongさん。


【Neat Image-日本語版ユ-ザーガイド-】
http://www.neatimage.net/files/NIUGv4.2JP.pdf

【超簡単NeatImage(V5.1)の使い方】
http://www.eonet.ne.jp/~nighthead/fz10/neatimage.htm

ニート(neat)

「夜半の月影」 を連鎖させる場合…

そうそう、瞼を閉じてものおもうのよ

瞼の裏にぼんやり浮かぶその姿…あこがれ

月の裏側はみえない…なぞ

みえないといえば…プレデター

プレデターといえば…ジョン・コナー

ジョン・コナー…夢と現実

出逢った頃は こんな日が 来るとは思わずにいた

Making good things better

いいえ すんだこと 時を重ねただけ

疲れ果たあなた 私の幻を愛したの


日本語学 5月号より 一部抜粋

近世語の世界  島田勇雄

 P10~P11(三)書写本の文献学的方法
書写本では右の版本の方法論をそれぞれ拡大細分化させた諸事項のほか多くの独自の方法を必要とする。最も留意を要するのは私が伝授物と命名する対象とその方法である。(「伝授物の語彙-その前提作業のために」〔『国語と国文学』五五ノ五〕)。伝授物は技術の指導を行い、一定段階に達した者に指導内容の文書(伝書)を授与するものである。通例末尾の奥付に、伝授の旨、伝系(伝授の系譜)、最初の伝授の年月日、当確伝授日等を添える。伝系や最初の伝授年月には作為等の見られるのが常である。たとえば要門流兵法では上杉謙信以来の伝系があり、謙信の伝授を伝える形式を取る類である。最も問題なのはその伝書の内容で、かつて門弟として伝授を承けた者が技術等の創見を加え、その新技術等を含めて指導する場合、その伝書は新内容の伝書となる。そのようにして新伝書は増補・改訂・改編等を経由するのに末尾の伝系は伝授年月日を存し、新伝書が当初からの形態であるかの如き体裁になる。更にかりにもし同じ流派の伝書を十余冊採集したとしても、伝授者次第にその十余冊の内容は悉く相違し、校本の作成など到底思いもよらぬことになる。それに、その伝系や伝授日を信じると、思いもよらぬ恥かしい目にあう、という仕組みになっている。ところが、小笠原流諸派のうち庶流派の中で水島ト也の門弟伊藤幸氏の家系の伝書に限って一定していることを発見した。幸氏自筆の伝書の入手によって、それは伊藤家で定めたテキストがあり、それを書写せしめ、幸氏や子孫がそれを確認して奥付を添える形式を採るためと知った。その種の伝書は稀である。奥書に著者の自筆本の書写の旨の存する場合でも注意を要する。時に、その種の記述を持ちながら複数の異本の存することが見られるからである。おそらくその第一筆者は自筆本をそのままに書写したのであろうが、以後の筆者はそれに増訂等を加えながら奥書の自筆本云々はそのまま書写するためにその種の現象の生じることになるわけである。概して、公家が政治経済上の権力を失い文化担当階層でなくなる中世頃からの公家の伝書では、その種の現象は少なくなる。言わば発育を停止したためで、積極的な活動停止、伝統的な家業の尊重の意識が強まるためということができる。近世の公家は在来文化の指導者として諸芸等で尊重されるが、実技に遠い部門では概して右の傾向が強くなる。ただし新興階層としての武家や町人が新発想によって学芸・技芸等の指導体系を拡充すると、それに示唆されて公家の家学の指導体系を新展開させることも稀に生じる。香道の御家流や放鷹の飛鳥井流等に見られる現象である。それと対比的な現象が武家・庶民層を指導階層とする伝書に見られる。これは活火山的な階層なので、それらは絶えず新創意による実技等の展開が見られ、それが伝書の内容に投影してくる。従ってそれらの伝書を調査するときにはその変遷の烈しさに絶えず気配りをさせられることになる。また、技術等の変化が言語に投影し、それが更に思考法・文化等に反映し、しかも共同体の違いによって遅速その他の差異が見られることが多い、それが近世語研究の最大の魅力ということができるかも知れない。近世での最も著しい現象は社会的細分化に伴立して、学芸・遊芸・請職等に流派が確立し、それによる閉鎖的社会が、多出し、それの言語的投影の顕著に見られたことである。たとえば近世の料理店では全ての技術者を特定の流派の関係者のみに限定したため、同一流派の料理店では上はさしみの作り方から下は野菜の洗い方に至るまで一定していたと言われるほどであり、それらの社会では全ての技術用語は流派ごとに特定されていた。そのような現象は日本独特の現象と言ってよい。即ち近世のある種の語彙では流派との相関の確認が最も重要となる。

投稿日時 - 2009-08-04 23:32:33

補足

 「幻」というご投稿からわかったのは、どうやらlttlekissさんもその胸のなかに――むろん、その胸が大きいのか小さいのかは《なぞ》ですが――小さな「自分」が、ちゃんといるようだということです。その自分を、ホムンクルス――ガンダムを動かすアムロ・レイのようなもの――と呼ぶことにすると、僕が話し掛けているのはlttlekissさんではなく、どうやら、そのホムンクルスに対してなんだと思いました。littlekissさんは、見た目には白くてごっつい体をしていますが、ホムンクルスのほうはどうでしょう? 案外、「親父にもぶたれたことないのに!」なあんて、言ったりしてるんじゃないでしょうか。

投稿日時 - 2009-08-05 17:06:29

お礼

>近世での最も著しい現象は社会的細分化に伴立して、学芸・遊芸・請職等に流派が確立し、それによる閉鎖的社会が、多出し、それの言語的投影の顕著に見られたことである。

 それはつまり、オタクということでしょう。あるいは、「たとえば近世の料理店では全ての技術者を特定の流派の関係者のみに限定したため、同一流派の料理店では上はさしみの作り方から下は野菜の洗い方に至るまで一定していたと言われるほどであり、それらの社会では全ての技術用語は流派ごとに特定されていた」そのような現象は、

 おそらく、性格が偏狭なだけだと思うんですね。そうか、僕は疲れていたんだ。疲れ果てて、おまけに偏狭な性格というべきか。でも、これってセットのようなものだと思うんですよ。歯みがきと歯ぶらしみたいに。あとには、磨り減った歯が残される。食事の終わったテーブル、終わってしまった花火大会、アシモフの描く未来の地球。Making good things better――いいえ、すんだこと。

 こういうのって、たまらなく缶ビールが飲みたくなる。そして、缶を握りしめて泣くんです。ただ、ひとつだけ言っておきたいことがある。

 ジョン・コナーは英雄だ。

投稿日時 - 2009-08-05 09:27:35

ANo.10

 bragelonne の幕間劇です。

 昭和59年出版という旧い本ですが そこからヂャワ゛語における《敬語》事情を引用して紹介します。
 ▲ 石井和子:ジャワ語の基礎 

 1. 普通体:ンゴコ( Ngoko )語としてのヂャワ゛語
 2. 丁寧体:ンゴコ語と共通の語彙のほかに クロモ( Krama )丁寧語を用いる。
 3. 尊敬・謙譲語:一部の語彙として クロモ・インギル( Krama Inggil )語群がある。
 4. ンゴコ体とクロモ体の中間=マディヨ語:数としてごく一部。
 
 5. 文例  Ngoko 体・・・・・・・・・・・Krama 体
 (1) Gedhang iki tak-pangan.・・・Pisang punika kula tedha.
   バナナ-この ぼく-食べる。・・バナナ-この 私-食べます。
 (2) Radhione tak-dandani.・・・・Radhionipun kula dandosi.
   ラヂオはぼくが修理する。・・ラヂオは私が修理します。
 (3) Gedhange ko-pangan.・・Pisangipun panjenengan dhahar.
    バナナは君が食べる。・・バナナはあなたが召し上がられます。
 (4)Radhione ko-dandani.・・Radhionipun panjenengan dandosi.
   ラヂオは君が修理する。・・ラヂオはあなたが修理します。

 6.語例  Ngoko 体・・・・Krama 体・・・・・Krama Inggil 体
_________________________________________________________________
 ・ ある: ana・・・・・・・・wonten・・・・・ ―
 ・出かける:budhal・・・・・bidhal・・・・・ tindak
 ・起きる: tangi ・・・・・・ tangi・・・・・ ・・ wungu
 ・ 買う: tuku ・・・・・・・tumbas ・・・・・ mundhut
________________________________________________________________
  
 ☆ 言語習慣として複雑であればあるほど 人びとの心は広がると言えるのかも知れないですが 必要以上に複雑である場合もあるとすれば どうなるでしょうか。
 《貴様》だとか《御前》という尊敬語が 俗語に変わり果てたように言語事情は 動態的な過程にあることも重要ではないでしょうか。
 
 現代ヂャワ゛語事情に明るくないままにてごめんなさい。
 ラテン語は 言語としての可塑性を謳歌したのでしょうか?

投稿日時 - 2009-08-04 11:49:24

お礼

>言語習慣として複雑であればあるほど 人びとの心は広がると言えるのかも知れないですが
 
 なるほど。脈絡なく変わるというのも、何がなんだかわからなくなりますね。むしろ、英語のwouldのように便利なものがあれば間違いが少ない。ただ、この例をみると、先に挙げていただいた3.の事例がいかに邪悪なことかというのが、わかったような気がしました。

 《貴様》とか《御前》――これが、貴様君とか御前様とかのようになると大変です。あるとき、その辺に転がっていた、ただの男が、御前になった(これだけでも、重大なことだと思いますが)。それが今では、様付けで呼ばれる(なんたることか)。
 様やら君を適当にくっつけてゆくと、動態的なところはうまく表現できている気がするんですが、なんだか違うなという気がします。例えば、ある天使が堕落して悪魔になる。その悪魔はめっぽう悪い奴で、めちゃんこ悪魔と呼ばれるようになった。ところが今では、めちゃんこ悪魔君と呼ばれる――という感じでしょうか。

 つまり、ものの善悪が逆転している。
 ラテン語ならeroの活用になると思いますが、本来、活用に任せるべきことだと思うんですよ。あるところに、ないがあった――という表現は、無用な混乱を招くだけです。

 ところで、百人一首がどうして《なぞ》なんだろうと考えていますが、わかりません。それに、なんだか怪しい気がする。むかし、なんとかの暗号とかって本がありましたよね、確か。

投稿日時 - 2009-08-04 13:57:09

ANo.9

こんにちは、ri_rongさん。


●…「清書」っていったい何?


何って?

“ 清書 と 書いて 何と 解く???って?

“ 清書 ”と 書いて “ 百人一首 ”と 解く――――― そのこころは?

ANS.“ なぞ ”

(-"-)しかるに…

「織田正吉氏の発見による連鎖」
  (『絢爛たる暗号』より)
http://homepage2.nifty.com/100-1/teika/HYAKUNIN/TORI/refer.htm

【織田 正吉】
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-url?%5Fencoding=UTF8&search-type=ss&index=books-jp&field-author=%E7%B9%94%E7%94%B0%20%E6%AD%A3%E5%90%89

家の近くの古本屋さんから本屋さんと、三軒まわってみたけれど…

「入手不可のため注文できません。」って、

なんで置いてないんだろう?ブツブツ

投稿日時 - 2009-08-03 14:14:49

お礼

 おおっ、完璧に解読されていますね。ご回答ありがとうございました。そして、サポート管理の方々、お手数をおかけしました。こうして無事、回答を読ませていただけるのは、昨夜遅くまでがんばっていただいた、ひとえにあなたのおかげだと僕は思っています。お礼を申し上げます。

 さて、いくつか教えていただいたことがあるのですが、

 ☆ 百首の歌は言葉によって連鎖する

 という概要の文章に深く説かれました。同語同句の使い方には正連鎖、逆連鎖、主題連鎖という三法則があるそうです。とすれば、対義語もそれぞれに応じたものが用意されそうですね。
 ところで、本が売ってない? とすれば、「絢爛たる暗号」というこの情報から、百人一首はどんなアルゴリズムで暗号化されているか、推定するしかないですね。主題連鎖というのは、公開鍵方式に近いのではないでしょうか。ひと組の鍵で、公開鍵を得る事のできる多数の人に暗号を伝えることができる。言わば、非対称の連鎖方式です。
 対して、正連鎖と逆連鎖は、共通鍵方式といった感じでしょうか。裏と表、いずれにせよ一対一の連鎖方式です。とすれば、ここではブロック化とストリーム化だろうと思いました。前者は、同一語句をひとつのブロックと考えて連鎖させる。後者は、あらかじめブロックする単位を決めてその取り決めた長さごとに連鎖させるという方法です。例えば、

 ○ めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月影

 という、紫式部の歌の「夜半の月影」 を連鎖させる場合、全部をひとつのブロックにする方法と、「夜半」「の」「月影」というふうに分けてブロック化する方法とがある。つまり、「夜半の星空」かもしれないし「暁の月影」かもしれないということです。ふむふむ。はて、どうやら、ご回答自体が公開鍵になっているのか、と思うに至りました。
 
 ★ 清書
 ☆ というのは、ひょっとして僕が「習字」って書いたから?

 ○すまん。自分の質問をいま読み返して気付いた。

投稿日時 - 2009-08-04 17:45:01

ANo.8

 No.6のお礼欄に反応します。

 ラテン語との格闘を終えてここに来たみたら わたしがやり玉に挙がっていて《教育》のもんだいにまでされてしまいましたが わたしの感覚では こう思いました。
 ○ 手本と清書 これらは 或る種の仕方で《客観》とそしてその客観に対して向きあいつつ堂々と胸を張る《主観》とである。
 ☆ のではないでしょうか?
 アマテラス人格語とスサノヲ人間語と。

投稿日時 - 2009-08-03 13:47:47

お礼

 無意味だと申し上げているわけではないのです。
 ★ アマテラス人格語とスサノヲ人間語
 ☆ かどうかが、判然といたしません。このような書き置きがありました。

 ===========================
“ 清書 と 書いて 何と 解く???って?
“ 清書 ”と 書いて “ 百人一首 ”と 解く――――― そのこころは?
ANS.“ なぞ ...
 ===========================

 ★ ラテン語との格闘を終えてここに来たみたら 
 ☆ どうやら解読は、サポートの方が成されている様子。《主観》も《客観》もひっくるめてです。見守るしかないのですが、こう思いました。

 ○ すべては《なぞ》であると。

投稿日時 - 2009-08-03 18:54:28

ANo.7

こんばんは、ri_rongさん。


Q.手本の対義語とはいったい何でしょうか。

A.清書



清書からもじって…清・少・納・言と、くりゃ…色見本

【日本の伝統色100色一覧】
http://www.wanogakkou.com/life/00100/00100_003_01.html

投稿日時 - 2009-08-02 20:57:33

お礼

 ご回答ありがとうございます。
 
 相変わらず解読が難しいご回答で
 (おそらくCIAでも無理なのではないかと思うのですが)、要するに「洒落」ってことでしょうか。

 手本の対義語とはいったい何でしょうか――清書。

 この答えを理解する、いや感じ取る、いや空耳程度に聞いたとしても、
 しばらく胸の動悸がおさまりませんでした。それで? 

 清少納言ですか。思わず、気絶しそうになりました。
 で、けっきょく「色見本」だと?

 手本と見本――これが、妥当な書き方です。No.1さんをみてください。あれが平穏な回答というものです。
 安全、信頼、親切、これが日本の政治のあり方です。

 ところがどうですか、「清書」っていったい何?

投稿日時 - 2009-08-03 09:53:53

ANo.6

 No.3&4&5です。

 おおむね了解しておりますので 余滴のような投稿です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ところで何ですねぇ、c)はちょっと手厳しい。とうぜん、成っていないという姿勢を持つべきです。しかも、d)に至っては問題のすり替えです。例えば、《ムジュン》という表記を《矛循》とか《矛順》と書く場合と、《無純》というふうに決められた場合の衝撃の度合いを僕は問題にしているのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ( d )のほうは 国内向けか国際向けかで見解が分かれると考えます。イロシマでもよいし むしろそのほうが或る種の仕方で《かたち》を表わすでしょうし ヒロシマと言うべきだというのも《かたち》を持つと見なければならないと思われるからです。
 ( c )は 大問題です。
 こういう事例を挙げます。
 ○ 《行く》なる動詞について その否定形は 三様あります。
 1. 行かづ < 行か‐に(否定法)‐す
 1a. 行かん < 行か‐ぬ(連体形が文の終わりに来て 終止形化)
 2. 行かへん < * 行き‐は‐せぬ
  〔/ s / > / h / :
   おまえさま>おまえさん>おまえはん>おまはん〕
 3. 行かない < 行か‐なふ
  ・ な : 否定法の《ぬ・に》の活用形
  ・ な‐ふ : 《な》の動詞化
    cf. 取る > 〔未然形活用=〕取ら‐
          > 〔その動詞化=〕取ら‐ふ > 捕らふ
    cf. 咲く > 咲か‐ > 咲か‐ふ=栄える

 ☆ つまり(3)が問題です。東国のことばだったようですが 動詞つまりこの場合助動詞の《なふ》が 形容詞の《無い》と混同して 後者だと思いこんだ結果 動詞の否定形は 形容詞によって担われている。という状態です。
 ★ しだらない∽だらしない
 ☆ どころの話ではないですよ。
 条件法活用(已然形・仮定形)は
   行か‐なへ〔ば〕
 であったはずが
   行か‐なけれ〔ば〕
 という形容詞の活用に従っています。

 投稿は来るでしょうか。と挑発したりして。

投稿日時 - 2009-08-01 10:39:40

お礼

 回答はきましたが、No.7の回答を見てくださいよ。あんまりだと思いませんか?
 これというのも、ブラジュロンヌさんの教育が悪い。

 どうして、あんなふうになってしまったのか。

投稿日時 - 2009-08-03 09:59:48

ANo.5

 ううううううううううーーーーん。No.3&4です。

 まづは 質問の趣旨説明がまったく足りません。そして文学カテゴリでいいのでしょうか? 
 このふたつの物言いをきちんとつづっておいた上でですが 同じくまづは 日本語の慣行が 散逸構造の理論よろしく慣行じたいの中で渦を巻いて来ている。これは けっして自己組織化だけに任せておける性格の問題ではない。なんとかせい。――こういう主題でしょうか?

 1. 武道なり茶道なりのごとく まづは《かたち》から入れ。
 2. 日本語の慣習にも あるべきかたちがあるはずだ。
 3. 理屈による説明は あとからついて来るし つければよい。

 4. 言語慣習の中で文法規則は 現代に到っては もうあまり変化しないと思われるゆえ それとしての《しかるべきかたち》があるはずだ。
 5. 音韻変化やそれに伴なう語形変化などが見られるが その変化じたいに或る種の法則も見出され 一定のかたちがある。
 6. もし慣行が乱気流をおこしているとすれば あるべきかたちを確定し共有するという道も 採られてよいはずだ。
 7. 日本語使用にかんする問題をめぐって 万機公論に決すべしだ。《日本語のあるべき自由なかたちとは委員会》。

 それにしても 概念・用語・視点などが 行き交っているように思います。
 a)   《かたち》は変わり得る柔軟なものを思い描けばいいでしょうが 《手本》は もともと習字の模範としてのかたちでしょう? 書聖が何人かいるでしょうから 形もいくつかあるでしょうが それぞれは言わば確定していますね。《手本》は 動きという要素を含むと言えるか。
 b)  《かたち》を疎かにして 《理屈なり論理なりで規範をつくる》ときにも 一定の論理は有効です。《かたち》のほうにも あと付けとして一定の論理が当てられます。おそらく 後者は 《境地》もしくは《人間論理》であり 前者は《知識の水準》もしくは《線形論理》が問題になっている。

 c)  ここから三項目は みみっちい議論です。《「だらしがない」には 〈かたち〉がない》と言うのなら 《けしからん←怪しからぬ=つまり怪しからず》の使い方も駄目だし 《留守←留守居=つまり家を空ける人の代わりに家に居る人》も成っていないとなる。
 d)  《 ordinateur 》には品位があって 《 computer 》が品位に欠けると言っても 《 compteur や comptoir 》という語も使っている。この使い分けは 偶有的なものだと思われる。それに階級構成による秩序が 人間にとって品位あるかたちかとなれば 一概にそうは言えないのではないか。
 e)  ▲ 小学校での英語教育はもっての外だ。
 ☆ たぶん 小さいときから 母語のほかにも言語があるのを知ること自体は 《品位あるかたち》を成すと思われる。そういう意味で英語教育にも開かれていてもよいのではないか?

 f)  外来語・借用語を 日本語のかたちに合ったように翻訳しておくべきだ。――賛成。
 g)  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 さて、日本語は論理表現が可能か。ちょっと待て、僕らは論理表現を望んでいるのか? という問題を取り残しているじゃないかというのが、ここでの主題といえば主題になります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 境地としての非線形の人間論理であれば 論理表現を迎えに行ってもよいはず。しかも 日本語は それには――世界の中で韓国語とともに一番――ふさわしいと考えられる。

 h)  ★  ○ 川底をさらう仕事が必要だと思うんですけど。
 ☆ ですから川底には 《教師仕立ての〈かたち〉ではなく むしろ人びとの生活に根ざしたことば》が押しやられて眠っているかも知れないのでその中から 品位あるものを見直して使うようにするとよいのではないか。

 i)  この《日本語の自由なうつくしい発展のために委員会》の活動とともに 同時並行して必要な活動は いまの日本では やはり思想のあいまいさを放っておかないことではないか。哲学の物指しを一度当てておいた上で 両義性や多義性を楽しむという情況を望みたい。

 j)  余話ですが ジャワ語は 上層と下層との言語が おもに語彙の問題として きわめて違いを持っているようです。こんなに違うのかと 互いに方言であると受けとめざるを得ないような。

 * 哲学カテゴリだったはずなのに。遅いかぁ。

投稿日時 - 2009-07-31 18:28:30

お礼

 ご回答、ありがとうございます。

☆ まづは 質問の趣旨説明がまったく足りません。
★ じつは狙って書いたのです。

☆ そして文学カテゴリでいいのでしょうか?
★ 心優しい文学カテゴリーは、何でもアリなんですよ。ここは静かで良いところです。哲学カテのように、あるときいきなり、イナゴの大群がやってくるという事もない。実にさわやかです。

 主題はまさにそうであり、だからこそ文学カテゴリーに残すべきだと思った次第です。おかげさまで、問い求めの良いランドマークになった気がします。どうも僕たちはこのカテゴリーの新参者ですから、先生方のご意見をしばらく待つといたしましょうか。
 ところで何ですねぇ、c)はちょっと手厳しい。とうぜん、成っていないという姿勢を持つべきです。しかも、d)に至っては問題のすり替えです。例えば、《ムジュン》という表記を《矛循》とか《矛順》と書く場合と、《無純》というふうに決められた場合の衝撃の度合いを僕は問題にしているのです。

 いずれ補足を付すとは思いますが、こんな感想を持ちました。

投稿日時 - 2009-07-31 20:01:44

ANo.4

 No.3です。

 ○ 水村美苗=岩井克人
 ☆ を――あぁ―― =橋爪大三郎と勘違いしてしまいました。
 岩井氏は 資本主義から市民主義へ だそうです。

投稿日時 - 2009-07-31 14:41:43

お礼

 言語一元論とはいっても(あながち間違いではないと思いますよ)、些か楽観的に捉えられない気がするんですよね。確かに水村美苗さんの結論は、

 ――日本が必要としているのは、世界に向かって、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。必ずしも日本の利益を代表する必要はなく、場合によっては日本の批判さえすべきだが、一人の日本人として、英語で意味のある発言ができる人材である。

 こうなっているけれど、それは英語が普遍言語になった場合といういわばSFの話であって、むしろ漱石やら鴎外やら一部の特権的な明治の先人の――翻訳機械というその装置としての――役割が日本語を守る上では大事だというのを、ここでは取り上げたいと思います。

投稿日時 - 2009-07-31 16:04:47

ANo.3

 こんにちは。

 いやはや――No.2お礼欄での趣旨説明を読みましたが―― 洞窟のほんの入り口を示して簡単にうさぎでも誘い出せると見せかけて とんでもない龍なんかでもかこっているのですね。

 それでしたら
 ○ 答え:手本の対義語は 手本です。
 ☆ というような禅問答になるかと思います。

 水村美苗は読んでいません。新聞文化欄での随筆を読んだかも。橋爪大三郎は ほとんど全部を読むようにしていました。最近のものは全部とは行きません。まぁ 配偶者だから同じ思想だとは言えません。《言語一元論》は 或る程度おもしろいです。
 村上陽一郎は いくらか読んでいますが 畑がちがうのであまり批判の対象としては捉えていません。そこにおけるこれこれの主題を煮詰めていこうといったことはなかったわけです。
 藤原正彦『国家の品格』を図書館から借りて半分ほど読んだはずです。〔ちなみに 筈(弓の両端の弦をかけるところ)は はづではなく はずでした〕。たしか論旨が紋切型になってきたと感じたから止めたかと思います。

 ★ 手本
 ☆ といえば 《道徳規範は愚の骨頂》を連想させますし じっさいつながりもあるのではないですか? 昔に なんと言いましたか 
 ○ 期待される人間像
 ☆ といった手本が 政府からでしたか出されたのではないですか? わたしの周りは はなはだ醒めていました。その内容についてももう覚えていないほどです。
 あるいは 学級ごとに一人か二人(男女ひと組) 模範生徒がおもに教師たちの側から指定され持ち上げられていたと記憶します。記憶しますとあいまいにしか言えないのは ほとんどそんな《物指し》については どこ吹く風だったからです。
 誰がどう言ったから醒めていたというでもなく そういうひな型を 生徒たちのあいだに 雛人形よろしく飾っておくという仕組みには 耳も貸さなかったですね。
 ぎゃくに言えば そういう教師側の意向に沿って おとなしい――しかもそういう場合には 学習の習熟度が高い者でないとまづいわけですが――優秀な生徒が 時には出てきたようにも記憶していますが 具体的にどうだったかは もう忘れ川の底に沈んでいます。

 こういう思い出話とともに 現代の情況をも合わせて考えるに 
 ○ 手本は みづからの中に 手本となるには似つかわしくない要素を持つ。
 ☆ のではないかと思いました。 
 ○ 総理大臣は 手本であると同時に その対義語でもある。
 ☆ というふうな意味合いです。

 《大臣》という用語は今では 《委員》とか《係》とか言えばいいではないかと言ったら それでは値打ちが下がると言われてしまったことがありました( petite bisou さんの回答)ので かろうじてまだ 《手本》という言葉も生きながらえているかに思われます。

 あれっ 文学カテゴリでしたか。どうしましょう。
 龍の鳴き声が聞こえたら また何か考えましょう。

投稿日時 - 2009-07-31 14:36:18

補足

 期待に応えていただいて、ご回答どうもありがとうございます。

 そんな難儀な裏などありません。――すっかり、しだらがなくなって。こう書くと、それは「だらしがない」の間違いだろうと、断じて譲らない国語の先生に宛てつけたところはあります。すっかり、「だらしがなくなった」日本語を、あるべきかたちに戻すのが急務でしょうと、お三方は仰っているんですね。だから、小学校での英語教育はもっての外だと――こういうことだそうです。

 ここにいうあるべき「かたち」というのは、こういうことです。
 ご存知だとは思いますが、例えばフランスではある階級を境にして「computer」なる言葉は、決して言わないし綴ったりしない。彼らの辞書には「ordinateur」という言葉しかないからです。すなわち、外来語を迂闊に国語化しない風習が守られている。もちろん、一般人は日常的にコンピュータと口にする。
けれども、仏語としてのあるべき「かたち」は、「ordinateur」なんですね。
 彼らの日常には、今でもこのような「かたち」と、そうではない「かたち」が同居しています。言語は二重化しているんですね。まるで古い時代の、ラテン語と俗語のように。この二重化は、言語だけの世界でいうと煩わしさや葛藤、ときには矛盾を伴います。けれども、その矛盾はもうひとつ大きな体系、つまり社会の階級制度を決定付けるために存在しています。
 階級を前提にしたとき、言語の二重化は初めて無矛盾になる。下の階級の言語は、いかに多様化しようとも、上の属性によって仕分けられる。だとすれば、「手本」となる上の言語が対義するのは、下の言語ではなく「論理」ではないかと思うんですね。

 理屈ではなく、「かたち」が押し通されてゆく世界です。手本には、理屈など要らない。理屈は手本の下について来るのです。そのような世界に対して、まず理屈があり、その理屈のもとに規範が作られる世界がある。けれども、その規範は理屈が作っている以上、矛盾を許容できない。たとえ言語という小さな体系のなかであっても、いや小さな世界だからこそ矛盾があってはならないという規範が生きているわけです。近頃の日本語は、かたちではなく、理屈に支配されているのではないか――というのが、三人の著作を読んだ僕の感想でして、したがって、手本の対義語は論理だと言いたい訳ですね。

 さて、日本語は論理表現が可能か。ちょっと待て、僕らは論理表現を望んでいるのか? という問題を取り残しているじゃないかというのが、ここでの主題といえば主題になります。

投稿日時 - 2009-07-31 16:00:58

お礼

(続)
 お三方のなかでは藤原さんの文章がいちばんつまらん(あの人、数学者ですから)と思ったので、途中で放り出してしまう気持ちはわかりますが、《道徳規範は愚の骨頂》のように「手本」もまた、愚の骨頂とおっしゃるでしょうか。ポイっと放り出す? 
 それとも、手本は規矩だといって突っ張る? 

 ☆ そういう教師側の意向に沿って おとなしい――しかもそういう場合には 学習の習熟度が高い者でないとまづいわけですが――優秀な生徒が 時には出てきたようにも記憶していますが 具体的にどうだったかは もう忘れ川の底に沈んでいます。

 ○ 川底をさらう仕事が必要だと思うんですけど。

投稿日時 - 2009-07-31 16:03:04

ANo.2

蛇足ですが、反面教師は「悪い見本/手本」なので、
同義語より やはり対義語に近い感じがするかと……。

投稿日時 - 2009-07-30 22:38:12

お礼

 再度のご回答ありがとうございます。

 そうですね。まず、そもそもどうしてこんな質問を思い付いたのか、という点から書くべきではないかと思いました。文学カテゴリーですし。その線でお話したほうが早そうです。
 直接的なきっかけは、2004年に村上陽一郎さんが『あらためて教養とは』という著作をお出しになったことです。ついで、2006年には藤原正彦さんの『国家の品格』という著作が売れた。
 そして2008年には、水村美苗さんが『日本語が亡びるとき』という本を書いた。

 どれか一冊でもお読みになったことはあるでしょうか。
 僕は、どれもが同じ事を言っているような気がするんですね。村上さんの本は、大江健三郎さん(要するにひと世代前の日本を作った人たち)への批判から始まる。藤原さんになると、どうも僕らの年代を相手にしているらしい語り口になった。ところが、水村さんの本を読んだとき、あれっ、どうやらもっと若い世代へ行過ぎちゃった――という感じを受けました。
 そしてどの作品も、論題は「日本語」についてです。彼らの頭の中には、何か古い時代の日本語があるようです。語りのなかにその像のようなものがあって、僕はそれを手本と呼びました。
 そこで、冒頭の質問をしてみたというわけです。

投稿日時 - 2009-07-31 09:35:05

ANo.1

「手本」でググると106,000,000 件ヒットしますので
多少、レトロの香りはしますが、
まだ、死語の世界に送るほどの言葉ではなさそうです。
すこし前には「見本ではあっても手本ではない」などというフレーズが
よく聞かれましたね。
対義語としてぴったりくる言葉は思い浮かびませんが
「反面教師」あたりはいかがでしょう?

参考までね

投稿日時 - 2009-07-30 22:00:43

お礼

 むう。106,000,000件ですか、あれっ僕がやったら9,090,000件でした。ちなみに、infomationと打って検索すると8,440,000件、近そうですね。でも、ちゃんとinformationと打って検索すると、2,590,000,000件と出ます。むう。エラーの数が多過ぎますよ。

 「見本ではあっても手本ではない」とは、案外、的を射ているのかも。反面教師と言われると、なんだか同義語みたいに思えてきました。でも、参考になるご回答でした。ありがとうございます。

投稿日時 - 2009-07-30 22:18:29