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解決済みの質問

全ては意識の中の存在 2

 こんばんは。

 私は素人なので、易しく教えて頂けたら助かります。


 前回「全ての存在は自我と別個に存在するものではなく、自我の意識の中の存在でしかない可能性もあると言うのは本当ですか?」と言う質問をさせて頂きました。
 

 今回も前回と同様の質問ですが、もう少し的を絞った質問とさせて頂きます。


 ★今回の質問★
 ご回答を頂いている皆様方、頂いたご回答、当サイト、インターネット、パソコン・・・友人、親戚、兄弟、親、自分の肉体(感覚器官含む)・・・等の存在も含め、全ての事物は私の意識の中の存在である可能性の有無について教えて下さい。

 宜しくお願いします。

投稿日時 - 2005-02-22 17:57:23

QNo.1232179

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

可能性はあるのか?という問いに簡潔に答えると、「あります」。
なぜなら、可能性はない、という証明は不可能だからです。
もちろん、「全ての事物は私の意識の中の存在である」ことの証明も不可能ですから、実際どうなのかを確かめる術はありません。決して解けない問いです。

では、なぜ証明が不可能なのか。
それは、「私の自我と別個に存在するもの」を私が認識するのは不可能だからです。

認識というのは、ある種の観念を抱くことです。
その観念は、私の自我と別個に存在する「物自体の世界」に由来するのかもしれないし、あるいは私の意識が勝手に作り上げたものかもしれません。

どちらにせよ、私が認識できるのは、観念だけです。「物自体」は認識できません。

なので、「物自体」が本当に存在するのかどうかは誰にもわからないのです。
このへんは、いわゆるイギリス経験論(バークレー、ヒュームなど)の考え方ですね。

ちなみに、このイギリス経験論と対立する思想としては、大陸合理論(スピノザ、ライプニッツなど)というのもあります。こちらは反対に、観念やら意識やらいうのは全てまやかしであって、本当に存在するのは「物自体」だけだ、という思想です。

更に言うと、この2つの対立する思想を止揚させ、合体させたのが、あの有名なカントになります。

投稿日時 - 2005-02-22 18:41:30

お礼

 ご回答ありがとうございました。

 断定も否定もできないのですね。

 教えて頂いた辺りを、もう少し勉強してみます。

投稿日時 - 2005-02-23 14:43:33

このQ&Aは役に立ちましたか?

6人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

回答(20)

ANo.20

 「全ての事物は私の意識の中の存在である可能性の有無」の結論としましては、「私の意識」が存在しなけれ
ば「全ての事物は存在しない」が真理だと洞察します。
 なぜならば「私の意識」の存在する以前(過去)には
「私の意識」に対して、「全ての事物は存在していなかっ
た」わけですから。 また、未来に「私の意識」が存在しなくなったら、「私の意識」に対して「全ての事物は存在
しているかどうか不明(意識が存在しなくなっており、認
知不能」だからです。

投稿日時 - 2005-02-28 03:43:43

お礼

 ご回答ありがとうございます。

 参考にさせて頂きます。

投稿日時 - 2005-03-01 03:09:23

ANo.19

追伸です。

http://personal.okweb.jp/kotaeru.php3?q=20857

を御覧になるならANo.10に続けてANo.11をお忘れなく。彼ってケッサク!

投稿日時 - 2005-02-27 06:22:02

お礼

 ありがとうございます

 了解致しました。

投稿日時 - 2005-02-27 15:12:28

ANo.18

やっぱり御質問者様には、下記の過去スレを読んでいただけたらなあと思います。

http://personal.okweb.jp/kotaeru.php3?q=20857

http://personal.okweb.jp/kotaeru.php3?q=153804

特にQ20857『違う精子だったら・・・』のなかのANo.10のかたの回答読んだら何で気が狂いそうになるかという理由も分かって一挙両得!

もっと現実に即した分かりやすい事例はないかいなと思ってたら、こういうのもありました。

私何年か前に手術で全身麻酔をかけられたことがあるんですが、その間の意識というのは確かになかったです。痛みも感じないし時間の感覚もないし、眠ってるときの感じとも違う。全くの空白状態、暗黒世界、「無」の世界でした。

でも、その間、私の身体を切り裂いてコチョコチョやって縫ったり留めたりしてた人たちがいるんですよね。

その間、私の意識は、どこへ行ったの??

そして、ややあって意識を取り戻したと同時に猛烈な痛みが襲ってきたわけです。

意識はどこから帰って来たの??

で考えるんですが「麻酔」って脳のどこら辺に作用して意識をふっ飛ばすのかなあって。麻酔科医に聞いてみたら分かるのかな?

麻酔が意識を奪うために働きかける領域というのに注目してみたら科学的な面からのアプローチの手がかりになるのかも知れません。

私は確かに手術中のことは意識にないです。だから、傷跡がなければ手術なんてしてないよ、と気持のうえでは言える。では、この傷跡は私の錯覚なの?でも、この傷が存在しているのは何人もの人が知っている。

実は手術前の私なんて存在してなくって麻酔が切れると同時に激しい痛みと共に「意識」が注入されて、でっち上げの過去の記憶と、でっち上げの親たちと、でっち上げの医師たちが私の脳にインプットされ・・・ていても、それらを追い出すことすらできない。プログラミングを受け入れることしかできない。自己意識の檻のなかから出る事ができない。

・・・というようなことを私が言い出したら私の周囲の人間たちは「気が狂った」と騒ぎ出すでしょうね。私はだまされているんでしょうか?何の必要があって?

私の意識は手術の直後にプログラミングされ注入されたものだと主張させていただけるとして皆さんに、それを信じていただけるのでしょうか??

参考URL:http://personal.okweb.jp/kotaeru.php3?q=20857

投稿日時 - 2005-02-27 06:14:30

お礼

 ありがとうございます。

 URLも拝見させて頂きます。

 麻酔って眠るのとはまた違う感じなのですか。勉強になります。

投稿日時 - 2005-02-27 15:11:49

ANo.17

質問者さんに質問されたのでまたまた回答させていただきます^^
私は哲学を授業で受けたことはありません^^;
単なる趣味のようなものです。私の小学校からの夢がドラえもんを造る!というものだったのですが成長するに連れ
ロボットと人間の境はどこにあるのか?ロボットは人間になれないのか?ということに興味を持って哲学に惹かれていっただけなのです。私のことはこのくらいで・・・

>やはりそうですよね・・・
>自我が認識する対象が、自我の外に自我とは別に存在
>していることを証明する方法は皆無なのですかね?

今の私にはその方法は皆無のように思えます。しかし質問者さんの気持ちはとてもよく分かります。私もその証明する方法を考え続けましたが、やはり行き着く先は皆無なのです。でも知りたいですよね^^;理屈でいくと皆無なのですがやっぱり考えてしまいますね。しかもこれを考えるのがまた楽しかったりするのでなかなか諦められません(笑)

投稿日時 - 2005-02-27 04:43:58

お礼

 ご回答ありがとうございます。

 ドラえもん良いですよね。友情を熱く描いた「のび太の宇宙開拓史」は最高ですw
 


>今の私にはその方法は皆無のように思えます。

 やはり皆無ですかー 


>しかし質問者さんの気持ちはとてもよく分かります。私もその証明する方法を考え続けましたが、やはり行き着く先は皆無なのです。でも知りたいですよね^^;理屈でいくと皆無なのですがやっぱり考えてしまいますね。しかもこれを考えるのがまた楽しかったりするのでなかなか諦められません(笑)

 ありがとうございますー そうなんですよ。気になるんですよ。もう少し考えてみようと思いますー


 追伸 「ドラえもん」って一発で変換できるのですねーw

投稿日時 - 2005-02-27 14:56:36

ANo.16

#14です。
引用ばかりで済ますのもどうかと思い、自分なりに解釈をまとめていたのですが、#2さんと同く「サーバーが見つかりません」の表示と共に、2度も回答が消滅してしまいました、ヨロヨロ。再度同じ内容を打ち込むことに飽きてしまったので、気楽に思いつくままに回答します。

>ご回答を頂いている皆様方(中略)全ての事物は
>私の意識の中の存在である可能性
原始的なのは「胡蝶」ですよね。全てが夢だった、っていうオチです。今風に言えば#11さんが挙げている「マトリックス」ですね。この場合、少なくとも夢を見ている主体は何らかの状態で存在すると思われます。しかし、その主体に最後に辿り着けるか?は分からない訳です。要するに永遠に夢の中に閉じ込められている場合は自我と別個に存在するものが確認できないわけですよね。

>>自我が消滅したら世界も消滅するようなもの
>>同様に世界が消滅したら自我も成り立たないのです。
>それらに合理的な根拠はあるのでしょうか?
根拠ではありませんが、先にあげたラカンの考え方は私にはかなり合理的であると思われます。結論としては#1さんの意見と同じなのですが、ラカンは「自意識」と「自我と別個に存在するもの」の間に「言葉」を置いたのが現代的で、その3つの世界の依存関係で解いているのが説得力を感じます。

前回の質問への回答の中にもありましたが、#4さんの仰っている量子力学の考え方も面白いですよね。有名なのは「シュレディンガーの猫」の例えでしょうか?
http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/kasetsu/subject/sub13.htm
この場合「自我と別個に存在するもの」はあるが、その存在は観察者(自意識)によって規定されてしまう、と考えるようです。これをSF的に解釈したグレッグ・イーガンの長編3冊が面白いので、宜しければお読み下さい。
http://sazanami13.client.jp/rec/rd3055.html
まあ、原始的なSFの話をすれば、3次元に存在する私たちは4次元、5次元、あるいは「超ひも理論」の10次元でさえ考えることは出来ますが、でもそれは単なる机上の理論でしかないかも知れない、つまり「意識の中だけの存在」である可能性は(少なくとも今の自意識の状態では)ありうると思いませんか。

投稿日時 - 2005-02-27 01:19:35

お礼

 ご回答ありがとうございます。


>引用ばかりで済ますのもどうかと思い、自分なりに解釈をまとめていたのですが、#2さんと同く「サーバーが見つかりません」の表示と共に、2度も回答が消滅してしまいました、ヨロヨロ。

 お手数をお掛けしてしまい、申し訳ございませんでした~ (;▽;)


>根拠ではありませんが、先にあげたラカンの考え方は私にはかなり合理的であると思われます。結論としては#1さんの意見と同じなのですが、ラカンは「自意識」と「自我と別個に存在するもの」の間に「言葉」を置いたのが現代的で、その3つの世界の依存関係で解いているのが説得力を感じます。

 早速ラカンを勉強してみようと考えております。合理的ですかー 楽しみです。


 教えて頂いたサイトや書籍等も拝見させて頂きます。



>「意識の中だけの存在」である可能性は(少なくとも今の自意識の状態では)ありうると思いませんか。

 はい、私にはそう思えます。

投稿日時 - 2005-02-27 14:29:22

ANo.15

はーやれやれ・・・
せやから、合理的な根拠の立てようがないから、古今東西の哲学者が、あーでもないこーでもないと言い続けておるんじゃあーりませんか。哲学科の人に聞いたっておんなじことですわいな。
仏教とかヒンドゥー教とか・・・って言うのは、もし断定を御望みならっちゅう話ですがな。
はあはあ・・・ううう
気ぃ狂いそ。

投稿日時 - 2005-02-26 20:49:00

お礼

 ありがとうございます。

投稿日時 - 2005-02-26 21:11:35

ANo.14

どうも御質問者様は名の通った哲学者が出てくるとピクッと反応なさる傾向があるようですが、どんな有名な哲学者だって、この命題に関しては我々ど素人同様、無知の仲間なのです。

断定して欲しいと御望みでしたら、回りくどい哲学書なんか読むより仏教とかヒンドゥー教の御勉強したほうが早いかも知れませんよ。「ヴァガバット・ギーター」とかね。近代の哲学者が、あーでもない、こーでもないと言ってるより何千年も前に人間には自我の視野を越えて世界を見渡す能力なんかないって言い切ってるようですよ。

手っ取り早くモノにたとえて表現しましょうか。
自我意識と外界は合わせ鏡のようなものです。お互いに写し合っているのです。両方が存在して両立している不即不離な関係なのです。自我が消滅したら世界も消滅するようなもの、同様に世界が消滅したら自我も成り立たないのです。そーゆーこと。

投稿日時 - 2005-02-26 19:45:59

お礼

 ありがとうございます。



>どうも御質問者様は名の通った哲学者が出てくるとピクッと反応なさる傾向があるようですが、

 どうしてそのように思われたのかは存じませんが、ご指摘ありがとうございます。



>仏教とかヒンドゥー教の御勉強したほうが早いかも知れませんよ。「ヴァガバット・ギーター」とかね。近代の哲学者が、あーでもない、こーでもないと言ってるより何千年も前に人間には自我の視野を越えて世界を見渡す能力なんかないって言い切ってるようですよ。
>手っ取り早くモノにたとえて表現しましょうか。
>自我意識と外界は合わせ鏡のようなものです。お互いに写し合っているのです。両方が存在して両立している不即不離な関係なのです。自我が消滅したら世界も消滅するようなもの、同様に世界が消滅したら自我も成り立たないのです。そーゆーこと。

 それらに合理的な根拠はあるのでしょうか?

投稿日時 - 2005-02-26 20:33:19

ANo.13

前回の質問が見つけられなかったため、既出の回答と内容がダブってしまったらゴメンなさい。

このような疑問に対して、私はラカンの「三界」という考え方が一番腑に落ちるように感じています。

ラカンは難解とされているので、私がどの程度理解出来ていて、どの程度的確に説明出来るか?正直自信がありません。

ですので、斉藤環の文章を引用します。
「ラカンはたとえば、こんなふうに考えた。こころは、言葉だけで出来ている。そして、言葉にはもともと意味などなく、ひとまとまりの音にすぎない。言葉は記号みたいに、直接に何かを示すことはしない。つまり、言葉はものの身代わりじゃない。」
「僕たちはふだん、意味とイメージの世界を生きている。これをラカンは「想像界」と呼ぶ。ところが、意味を生み出すはずの「言葉」は、じつは言葉だけで独自の世界を作っている。こちらは「象徴界」と呼ばれる。」
「言葉だけの世界、つまり「象徴界」のメカニズムを、僕たちはじかに知ることができない。だからそれは、「無意識」と呼ばれたりもする。」
「ラカンは人間のこころを作り出しているシステムを3種類に分類したんだね。それが「現実界」「象徴界」「想像界」だ。」
「ものすごく単純化して説明しよう。今ヒット中のディズニー映画『モンスターズ・インク』は、フルCGのアニメーションだけど、このCG画面を例にとって考えてみる。このとき画面上に映し出された女の子やモンスターたちの画像イメージが「想像界」にあたる。ところで、そのイメージを作り出すには、何万行ものプログラムが背後にあるわけだ。もちろん、プログラム言語をどんなにじっと眺めても、イメージのかけらも浮かんでこない。それはどこまでも、無意味な文字の羅列にしかみえないだろう。この文字列が「象徴界」にあたる。さらに、プログラムが走るには、パソコンのハードウェアが動かなくちゃならない。そしてもちろん、このハードウェアの作動については、僕たちは何もじかに理解することができないし、そこに手を加えることも不可能だ。いわば認識のラチ外にある世界なわけだ。これがラカンのいうところの「現実界」に相当するということになる。」

どうですか?琴線に触れるモノがありましたか?
ありましたら、上記はココから引用しています。
よかったらご覧下さい。
http://www.shobunsha.co.jp/h-old/rakan/01.html
http://www.shobunsha.co.jp/h-old/rakan/02.html
http://www.shobunsha.co.jp/h-old/rakan/03.html
と続き、現在
http://www.shobunsha.co.jp/h-old/rakan/18.html
まであります。

投稿日時 - 2005-02-26 19:03:56

お礼

 ご回答ありがとうございます。

 教えて頂いたURLにも、早速行ってみます。

 前回の質問はhttp://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1229181です。お手数をお掛けしてしまい、申し訳ありませんでした。

投稿日時 - 2005-02-26 19:30:46

ANo.12

ANo.#12のIHATOVです。
「認識されようがされまいが、物自体は「ある」でしょうし…」に対して、ha-ha-hakkusyonさんから「それは証明できるのでしょうか?」というご質問がありましたので、再度お邪魔します。
 結論からいえば、それは証明できないと思います。「物自体」とはカントの提出した概念で、認識主体(人間)が感覚を通して認識した物や現象の原因となる何かで、それ自体としては認識できない不可知物であり、思惟可能な仮定として要請されたものです。不可知なものを仮定した概念ですから、これがあるとは証明はできないでしょう。
 しかし、「物自体」はともかく(それを認めるかどうかが一つの議論の対象ですから)、「物」とは、外界に存在する意識を持たないものであり、意識の対象として意識によって捉えられるものという意味ですから、それが「ある」ことの証明は必要なのでしょうか? そもそも、外界に「ある」ものが「物」なのですから、それが「ある」ということは、証明云々以前の同義反復になるのではないかとも思えます。素朴に言えば、雨が降っている時に、見たりぬれたりして雨を感覚で受け止める以外に、「雨が降っている」ことの証明が必要かどうかということです。感覚的には誰でも経験することですが、「雨が降っている」ことを「証明」しようとすると、これは容易ならぬ難問ではないでしょうか。「感覚」は「証明」の根拠にならないからです。
 私には良く分からないのですが、哲学では、「もの」が「ある」か「ない」かが問題になったりするのでしょうか? 「存在」が「認識」や「現象」との関係で問題になるのはわかるとしても、「存在」それ自体を証明しようとするのは、(「本体論的証明」は神の存在証明に向かおうとするものですが)果たして実りのあるものなのかどうか、ちょっと疑問に思われます。どうでしょうか。

投稿日時 - 2005-02-26 17:09:02

お礼

 度々のご回答、ありがとうございました。

 

投稿日時 - 2005-02-26 19:26:13

ANo.11

 素人ですが、ちょっと面白そうなので参加させてください。
 ANo.#1seinzeitさんが、この問題は主観と客観の二元論をどう克服するかというカントの例の問題だと言っておられますが、確かに問題の根幹はここにあると思います。
 seinzeitさんがおっしゃるとおり、人間は「全ての事物」を「主観」を通してしか認識できませんから、「私の自我と別個に存在するもの」を私が認識するのは不可能」だと思います。果たして客観的な存在が意識を生み、規定するのか、それとも人間の主観的な認識が客観的な存在を意味づけるのか…。いったいどっちが正しいのか、といわれれば、どっちも正しいとしか言えないわけです。
 人間の「認識」以前の世界は単なる混沌でしかなく、それはいかなる意味も持ちません。例えば森の木々は人が「森」「木」と認識することで初めて「森」「木」になるのであって、主観によって名づけられる前は何者でもないものにすぎません。しかし、認識されようがされまいが、物自体は「ある」でしょうし、それが人間の「認識」以前に存在することも否定できないでしょう。いったいどっちが先かと考えても、二者択一で考える限り、答えは出せないと思います。
 だから、「答えは出ない」というだけでおしまいにすることもできますし、それはそれで個人の自由なのですが、ある意味ではこの難問をヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクスというという天才達が引き受け、自分の答を出しながら、一歩一歩考えを進めてきたのが近代の哲学史だともいえると思います。また、マルクス以後の哲学者もなおこの問題と無縁ではありません。
 哲学といっても非常に広い領域をもちますが、上に挙げた人々の示した考えの内容を簡単に言えば、主観と客観を対立する二つのものと見るのでなく、一つの全体に含まれた二つの契機とみるということでしょう。人は「主観」を通じてしか「客観的現実」は認識するが、その「主観」は「客観的現実」によって作られるというのですから、この二つは相互媒介の関係です。その相互往復作用を重視すれば、主観と客観はある全体の二つの契機と捉えられます。この「全体」を歴史的社会的な「総体性」と考えることで、主観客観の二元論を克服するということでしょう。この考えの元では、人間は歴史の主体でもあり客体でもあるという両義的存在として捉えられるわけですね。
 私は素人ですから、あまり厳密な議論になると怪しいかもしれませんが、ha-ha-hakkusyon さんも素人だということですので、ちょっと勇気をだして立ち寄らせていただきました。

投稿日時 - 2005-02-26 09:01:11

お礼

 ご回答ありがとうございます。



>しかし、認識されようがされまいが、物自体は「ある」でしょうし

 それは証明できるのでしょうか?



>私は素人ですから、あまり厳密な議論になると怪しいかもしれませんが、ha-ha-hakkusyon さんも素人だということですので、ちょっと勇気をだして立ち寄らせていただきました。
 
 ここまで詳しいのであれば素人ではありません(笑)

投稿日時 - 2005-02-26 13:36:41

ANo.10

ご回答を頂いている皆様方、頂いたご回答、当サイト、インターネット、パソコン・・・友人、親戚、兄弟、親、自分の肉体(感覚器官含む)・・・等の存在も含め、全ての事物は私の意識の中の存在である可能性の有無について教えて下さい。

ってことだとマトリックスって映画が分かりやすいんじゃないでしょうか?ご覧になりましたか?

可能性の有無だけで考えれば可能性はありますよね。
でもこの問題はすべての根源的な問題であるがために
絶対に解けない問題でもありますよね。
結局この世のすべての存在が自我の外に存在していようがしてなかろうが、その存在を認識するのが自我であるかぎり自我の中の存在でも外の存在でも全く同じようにしか認識できませんから^^;

それを考えぬいた結果が「我思う故に我あり」なんでしょうが、結局その我も自我としての存在なのか?
それともプログラミングされた擬似的自我なのか?
プログラミングされた擬似的自我を我々は「自我」として
受け入れることが出来るのか?その辺がポイントではないでしょうか^^

投稿日時 - 2005-02-26 04:12:02

お礼

 ご回答ありがとうございます。

 マトリックスは随分前に見たきりなので、内容があやふやです(汗)


 
>可能性の有無だけで考えれば可能性はありますよね。でもこの問題はすべての根源的な問題であるがために絶対に解けない問題でもありますよね。
>結局この世のすべての存在が自我の外に存在していようがしてなかろうが、その存在を認識するのが自我であるかぎり自我の中の存在でも外の存在でも全く同じようにしか認識できませんから^^;

 やはりそうですよね・・・
 自我が認識する対象が、自我の外に自我とは別に存在していることを証明する方法は皆無なのですかね?



>それを考えぬいた結果が「我思う故に我あり」なんでしょうが、結局その我も自我としての存在なのか? それともプログラミングされた擬似的自我なのか? プログラミングされた擬似的自我を我々は「自我」として受け入れることが出来るのか?その辺がポイントではないでしょうか^^

 勉強させて頂きました。


 cafatabacoさんは大学で哲学を学ばれたのでしょうか? もし宜しければ教えて下さい。

 宜しくお願い致します。

投稿日時 - 2005-02-26 13:18:52

ANo.9

じゃあ こういうのではどうでしょう。

色というものがありますよね。
例えばポストは赤。
本当にポストは赤なの? 
目の前にあるポストは本当に実在しているの?

手で触れば感触があります。
ふむふむ ということは幻ではない。

でも本当に赤なの?

ぶっぶーー
物には色がありません(と本で読みました)
ポストは赤という認識は私だけではありません。
だから私だけ特殊なわけじゃあない。

色盲の人や目が見えない人以外、赤だと言います。
なんで色が実際は無いのに赤だと認識しちゃうの~?

我々は暗闇では色を認識できません。
光が当たってポストというものが赤の波長のみ跳ね返す性質のものでできていれば、その物質に吸収されず跳ね返った赤の波長だけ我々の視覚に飛び込んできて、視覚がどっかをプルプルっと刺激して、脳まで伝達していって、脳の中のどこかが赤と認識するパネルを押せば、我々は赤だと認識します。

つまり跳ね返った色だけ我々は識別できるのです。
跳ね返った色がポストを表しているのか?
No ですよね。

波長はすごくあって、人間はそのほんの一部の波長しか認識しないのだそうです。
他の動物は人間とは違う波長をキャッチするものもいるらしいです。

彼らの見える世界と我々の見える世界は必ずしも一致しないのだそうです。

ではどっちが真実を見ているのか?
どっちも真実は見てはいないが、少なくとも人間は物があるのに認識しなくてぶつかったりはしないので、この程度の波長をキャッチできる能力があれば、日常生活には困らない。

動物の中には、色によっては認識しないものもあるようです。
そいつの目の前にその認識しない色で塗ったパネルを置くと、認識しないので「無い」となってぶつかってしまうのだそうです。

>全ての事物は私の意識の中の存在である可能性の有無について教えて下さい。

脳のパネルがピコーンとなればとりあえず認識しているってことですが、その認識→意識となれば、ふむふむ 全ての物事は「私」の意識の産物である可能性は高いというか、そういうことだと思います。


人間が認識できないものを、存在しているとするには概念が必要になります。

ブラックホール。
あるんじゃないかなーって言われていますが、今のところどんな機械を使ってもその存在を証明できません。
しかし理論上では成り立ちます。
アインシュタインは理論で太陽の近くにブラックホールがあるとしました。
「そんなこたあない」って思った科学者はアインシュタインの言っていることは間違いであると証明するため、皆既日食の時、太陽が月かなんかに隠れて見えっこない地点か何かを観測しようとしました。
裏に隠れてしまうので、見えっこなかったはずでした。
でも、実際は観測できちゃいました。
直進するはずの光がどうしてさえぎられているのに見えるのか?
ブラックホールが光すらも引っ張り込むとすれば、うにゅーって曲がるので、地球から見えないはずのところが見えてしまう って理論によって、反証するはずが、証明してしまったらしいです。

つまり、人間の知覚では認識できないものも、理論をもってすれば、存在するとできるらしいです。

さらに蛇足で、我々はブラックホールの上にいるらしいです。
地球がブラックホールらしいんです。
えええーー 吸い込まれてしまうぅぅ。
そんなに大きくないので、ひとまず地上にいる限り大丈夫みたいです。
でも、だんだんそれが中心に向かって徐々にちじまっていけば人間はだんだん圧縮されていくかも。

ブラックホールの上にいるとすれば、頭の部分と足の部分の時間の経過には差が出ることになるらしいです。
ええええーーー。
大丈夫 その差はごくごく微々たるものなので、足の部分が早すぎて頭が追いついていかないなんてことは無いそうです。
そもそも人間の知覚では差は認識できないし。

今回は物質と時間についてちょちっと書きました。
親戚・親兄弟の存在が我々の意識の産物なのかというと、うーーん 一応 こういうのを親というとか定義されているので、その定義に合っていれば、親にするってことでOKなんじゃないでしょうか。
基準が時には親として、時には親としないとすれば、もう大混乱です。
何を基準にして親といえばいいのかわからなくなります。
定義に合っていればそう認識して、それが共通了解であれば、トラブルになりにくい。
子どもの取り合いして半分に切ってそれぞれに分けるなんてこともないし。

投稿日時 - 2005-02-26 02:35:23

お礼

 度々ありがとうございます。


 地球ってブラックホールだったんですね。初めて知りました。

投稿日時 - 2005-02-26 12:34:25

ANo.8

善人なおもて往生をとぐ.いわんや悪人をや

良き社会人となる為の道.

善人は自我が認識しにくいかもしれない.
自我を無意識を含む,外界の一部分として捉え,自我の意識と外界とが連続していることを既に意識の俎上に持つ.
天道地道に則った,育ちと環境によるいつの間にか覚り系

悪人は自我を発達させ,目の前に人参をぶら下げた競争馬状態で,いつの間にか周りが支え合いで成り立っていることを忘れてしまい,自分の努力と力だけで生きていると勘違いしてしまっている.
その後,覚りによって全存在は支え愛によって成り立っていることが解ることもある.
この場合自我の性質を理解しやすいが,自我にどっぷりつかっているため,成功し,権力を獲得している場合は覚りに至りにくいという性質がある.もしくは気が付かないまま死んでいく.
我欲から目覚め系

夢破れた者,傷ついた者は,自らの弱さを知る.
運命と思って,苦しくとも今は必死で生きよ.
時が満ちるとき,自性によって自らが展開される.
それまでに得た知識を元に.
そのとき記憶に残る自分の人生において起こったそれぞれの出来事や苦しみが,線となってつながり始め,自分の中で意味を持ち始める.
崖の下に落とされたライオン系.


我がままのまま,我欲のままでは身を滅ぼす.

国家レベルであれば国家が.

人類レベルであれば人類もしくは生物全体.


目下のところ,世界的に善<悪のカオス状態だ.

  

投稿日時 - 2005-02-24 12:00:34

お礼

 ありがとうございます。

 お世話になっております。

 
 参考にさせて頂きます。

投稿日時 - 2005-02-24 16:03:45

ANo.7

御礼いただき有難うございました。お邪魔虫です。(sirayukihimeからojyamamusiにネーム変えよっかな)
どうですえ、だいぶ考えがまとまってきましたか?
自分が死んだら世界も消滅するなんて保証はないのだと御理解いただけましたか?
こういうご都合主義な考えのかたたち皆に読んでいただきたい過去スレを見つけました。
きっと御質問者様の思考に有意義な作用をもたらしてくれるものと推薦させていただきたくシツコク再投稿させていただきました。

哲学カテQ№153804『我思う、故に我有り(デカルト)への根本的疑問』
このなかの特にA№5 №6
そして各回答者に対する質問者の捕捉。見事なもんです。
及び生物カテだったと思いますが
Q№20857『違う精子だったら自分は生まれなかった?』
このなかのA№10stomachmanさんの御答えもスバラシイ。
(こういう人の子ども産みたかったなあ)

但し、いずれも相当難解です。けど読むに値する。
貴方様も素人とのことですので素人同士のよしみで、ちょっとしたコツをお伝えしましょう。
それはね・・・一字一句目を皿にして読まんことです。(校正校閲のコツでもある。仕事できんやつほど一字一句確認しておる)←独り言です。スミマセン
ホントに難しい論理を理解しようとしたら殆んど瞑想状態でないと受け付けない。

つまりは「自我意識というものは外界の刺激によって成り立つのであるからして自我意識を成り立たしめている外界も存在しているはずだ」と受取りました。個人の意識によって変幻するというのが存在の有無を決定すると決め付けるより先に変幻するものがアルということ。変幻は性質であるということ。

でもやっぱり、可能性ならありますよ、という結論には変わりありません。

こんなとこで、どやさ!?

投稿日時 - 2005-02-24 09:59:55

お礼

 色々と教えて頂きまして、ありがとうございます。

 可能性は否定できないのですね。

 私の頭では中々理解できないので、もう少し考えてみます。

投稿日時 - 2005-02-24 16:02:10

ANo.6

>全ての事物は私の意識の中の存在である可能性の有無について教えて下さい。


どういう意味で聞いているのでしょうか?

例えば横断歩道を歩いていて車がやってきても自分が思えばこの車は存在しないことにでき、したがってはねられる可能性を0にできるので悠然と横断歩道を歩けるってことでしょうか?
私なら危険を感じた(存在を認識した)らとっさに走るか止まるします。

逃げ場が無かったら「できることなら夢でありますように」と車の存在を否定する思考をするかもしれませんが、私が願ったら車は突如消えるなんて思ってはいません。



催眠術ならある程度存在を左右できるようです。
例えば術をかけて意識をコントロールすれば、存在の認識を操作できるようですよ。



我々は事実がどうであれ、脳物質のふるまいの結果をみせられているにすぎないと思うのですが。


>自我の意識の中の存在でしかない可能性もある
>インターネット、パソコン・・・友人、親戚、兄弟、親、自分の肉体

んーーー分類すると、パソコン→物質。
インターネット、友人、親戚、兄弟、親、自分→概念。

物質については上で私の考えを書いたので次概念。

障害によって自分の親を親そっくりなニセモノだとしか認識できなくなることもあります。
視覚から入った情報からまぎれもなく親と判断するそうです。
しかし障害によって親しみやすさを感じる部分がうまく機能しなければ、やがて総合判断としてそっくりなニセモノとなるらしいです。

声だけ聞かせると親だと認識しドアを開けるそうです。
でもドアをあけて話をして話のつじつまが合い、親しか知りえない情報を相手が話したとしても、親しみやすさがもてず(その器官が壊れているから)「誰あんた」ってなるらしいです。

つまり親と認識するかどうかは目や耳などより、親しみやすさという感覚によるものと思われます。
これが自我なのかと考えると、うーーん自我かなぁ?
うーん ムズイ。

結局は脳物質のふるまいによって見せられているにしかすぎないと思います。
人間はそれを超えては認識できないんじゃないかって思います。
というか、それ以外のもので認識するとしたら、もうそれは私じゃなくなると思います。

投稿日時 - 2005-02-23 21:34:11

お礼

 度々お世話になりまして、ありがとうございます。

 勉強になります。

投稿日時 - 2005-02-24 15:55:34

ANo.5

自我は量子的なんだ.

投稿日時 - 2005-02-23 05:44:06

お礼

 ご回答ありがとうございます。

投稿日時 - 2005-02-23 15:33:08

ANo.4

自我の意識の中に全存在を見ようとするのは

ウロボスの輪に象徴される.



孫悟空がキン斗雲にのって

地の果てから地の果てまで

飛んだと思ったら

お釈迦様の掌の上だった.

なんてことになったりなんかして.


   

投稿日時 - 2005-02-23 00:20:16

お礼

 度々のご回答ありがとうございます。

 ウロボスの輪とは何でしょうか?

投稿日時 - 2005-02-23 15:32:09

ANo.3

あなたのご質問は非常に専門的な哲学上のものだと思われます。私は学問的には全く門外漢であります。しかし、
「全ての事物は私の意識の中の存在である」
これは、全く真理だと思っています。

 たとえば、あなたの夢の中に友達が現れたとします。その友達は、明らかに現実の友達ではありません。それは、あなたの意識の現われです。夢の中に登場してきたものすべてが、あなたの意識の現われですね。夢を見ているときに、他人、としてとらえていた人も、実は、よく考えてみれば、自分の意識の中の存在です。
 それと同じことが、この肉を持って生きている世界でもいえるのです。あなたは、大きな意味でまだ「夢を見ている」のではないでしょうか。あなたが他人として認識している存在も、あなたの意識の中の存在なのかもしれない、ということです。私達は、肉体を持って共通の3次元の世界で生きていると思っているけれども、本当は、1人1人が、それぞれの意識の世界に生きているのです。1人1人が違う世界に生きているのです。そして、すべての出来事は、本当のあなたが、あなた自身に送っているメッセージなのです。

 しかし、欲を持って意識のことに下手に深入りすると危険です。気が狂う人もいます。

投稿日時 - 2005-02-22 23:37:39

お礼

 ご回答ありがとうございます。



>しかし、欲を持って意識のことに下手に深入りすると危険です。気が狂う人もいます。

 もしよろしければ意識に深入りすると気が狂う理由を教えて頂けないでしょうか。また、事例等を確認できるサイトをご存知であれば教えて下さい。
 宜しくお願い致します。

投稿日時 - 2005-02-23 15:27:15

ANo.2

最初の御質問のほうに三回投稿し直そうとして三回とも「サーバーが見つかりません」の表示と共に消滅してしまいました。ヨロヨロ
その間に締め切られてしまい。
新たに質問し直されたのですね。こちらのほうに投稿し直そうとして、また消されました・・・ゼイゼイ
気力を振り絞って「こうなったら意地だ~」と思ってフと見ると先客の№1様に簡潔にして言いたいこと全部言っていただいてしまいました・・・。ゲホゲホホ
もう投稿し直す意味ない・・・。
え?おたくどなたって?
カサコソ・・・(←お邪魔虫が這い回る音)

要するに我々に絶対的全体を見通すすべも確認することもできないっちゅうことですよ。自分が、こう感じるから、それが全てで、感じられなくなったら、ないのとお・な・じ、つまり限定的方便的リクツなわけで、それで納得できる人はいいけど私は「個人限定の」真実なんて、あまり興味ないですと言いたかっただけで『不愉快な質問』なんて思ってないですよもお御質問者様ったらヤダー私のレスなんて飛ばし読みでしょイイけどさあスネちゃうもんねチョめちょメ。

もちろん『全ての存在は自我と別個に存在するものではなく自我の意識のなかの存在でしかない』のだ分かったかっ!と言われれば不愉快です。「ほんならショーコ見せてみろよお」ってスネちゃいます。どっちみちスネる・・・。

ただ、個々の自意識というものがヒトにおいては発達し過ぎている或いは個々を超えたレベルでの意識が退化している・・・のかも知れません。いつから、何が原因かは分かりませんけれども。

投稿日時 - 2005-02-22 21:05:44

お礼

 度々のご回答ありがとうございます。

 あはは sirayukihimeさんっておもしろい方ですね(笑) モニターを見ながらニヤニヤしてしまいました・・・ 救急車を呼ばれたらどうされるおつもりですか? ちゃんとお見舞いには来て下さいね(謎)

投稿日時 - 2005-02-23 15:09:27

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