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締切り済みの質問

どうして人を殺しちゃいけないんでしょうか?

人間は自分の必要不必要に動物を殺します。
だけど人間は殺してはいけない、と学校では教わります。
けど人間だって生き物ですから自然淘汰、という形での『殺し合い』は容認されるのではないでしょうか?
何故人を殺してはいけないのでしょう?

投稿日時 - 2007-02-15 09:13:39

QNo.2753976

暇なときに回答ください

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回答(43)

ANo.43

法律に引っ掛かるからです。(当たり前!)

 ただ、殺す価値がある人物は、そうは居ないものです。

殺意を抱いてしまうような行いをするお方は、放って置けば、自ら命を絶つ運命にあるかと思います。
(それほど、人生・世の中は甘くは無い。)

 確実に殺される状況以外では、必要の無い行為でしょう。

投稿日時 - 2011-11-16 19:19:18

ANo.42

 自然淘汰というかたちであなた自身が殺されてもかまわないということでしょうか。たとえば、あなたの考え方はおかしいから、殺しますとか、あるいは、屈強な人間が現れて、あなたが弱そうだから殺してしまえといわれて、そうですかと素直に殺されますか。

投稿日時 - 2009-05-18 21:40:57

ANo.41

Tindalosという方が、最も回答に近いと思います。
他、自然淘汰の解釈、文献引用や観念的説明はほぼ無意味に近い、むしろ危険とさえ感じます。
私からも、明確に回答させてください。

■結論1
【人を殺してはいけない】なんてことはありません。

■前提
殺人が自由な社会では、自分自身も常に死と隣り合わせの、恐怖と疑心暗鬼の生活となります。法律は、このような無秩序な社会から抜け出すためにあります。
法律を決めるにしても、独裁者が自身の安泰のために、身勝手に決めるのでは意味がありません。このため、なるべく公平に全体が納得しやすいようにと、議会制度、民主主義等工夫されてます。
また一部の支配者/権力者の暴走を止めるには、権力は互いに監視し合い自律しなければなりません。

つまり【人を殺してはいけない】のではなく、【なるべく殺し合わないほうが社会が存続しやすい】というだけのことです。

■結論2
質問内容は、おそらく以下に置き換えられます。
【何故彼らは、人を殺してはいけないと教えるのか?】
これは、つまり上記のような無秩序な社会を嫌悪し、安心と存続を優先するからです。

以上の2つの結論で、質問は回答出来たと思います。

投稿日時 - 2009-05-18 16:38:44

ANo.40

人を殺す理由が無いからです。

投稿日時 - 2009-04-26 21:42:28

ANo.39

僕なりの回答を試みようと思います。

皆、自分は楽しくいたいし、生きていたいと考えているでしょ?

皆、やな気持ちにされたり、傷付けられたり殺されそうになったらどう思うかな?

皆怖くなって、その人に対して、いやな気持ちになったり、やり返そうとするでしょ?

そうしたら、やった人は皆にいやな気持ちを持たれて、やり返されたりして、楽しく生きていけるかな?

じゃあどうしたら楽しく生きていけるのかな?

楽しくしてくれたり、生きる手助けをしてくれる人に対して、皆どんな風に思うかな?

ありがとう、僕も何かしようか?って思うよね?

じゃあ楽しく生きていきたいなら皆に優しくしていかなきゃねw

こんな感じです。

人の権利を奪うと自分の権利を失う。
だからやってはいけない、君が不幸になるから。

参考になれば幸いです。

~生きとし生けるものが幸せでありますように~

投稿日時 - 2007-11-15 12:42:42

ANo.38

頭で考えるのではなく感じなさい。

投稿日時 - 2007-03-18 21:24:32

ANo.37

寂しい.....

ね.

投稿日時 - 2007-03-15 21:01:43

ANo.36

『容認』とは何かを理解する理性は『殺し合い』は容認しません。
自分が愛する恋人、配偶者、子供、親、兄弟が死亡した原因が殺意ある殺人であったことを理解する理性にこれを容認することはできないのです。愛犬が殺意を持って殺された場合も容認しませんね。

投稿日時 - 2007-02-28 02:35:46

ANo.35

まず、あなた自身が動物を殺した事があるか、が問題です。
もし無いなら、あなたは死を知りません。まず殺してください。
自分の手で殺した事があり、それでも良心の呵責を感じなかったかどうか。
感じたなら、あなたはその動物を一匹の個性ある対象として、世界に一匹の相手として見たということです。
もし感じなかったという場合は、なぜ殺したかが問題です。
自分が生きるために食べるために殺したというなら、その時あなたの命と動物の命は等価であり、能力のあるあなたが生き残ったという事です。
その時あなたと動物の関係は人と獣ではなく、生物と生物です。
どちらが上も正しいもありません。
何の理由もなく殺し、呵責も無いとすれば、その時あなたと動物は生物でもなく、たんぱく質の塊と塊です。
たとえ生きて無くても、塊には変わりありません。

あなたが動物をどう認識したかは質問からは分かりません。
でも並べると分かりますが、相手が人だろうと動物だろうと、相手を具体的対象としてみるか、抽象的概念としてみるかで殺せるかどうかが決まります。
自分との関係が近く、具体的な相手ほど殺せません。
これをエゴという人もいますが、関係とはそういうものだと思います。
全ての者が(人も獣も自然も)具体的に認識出来る相手のことだけ考えて、それ以外の抽象的な相手を取って食い、踏み潰しています。
ただ知らないだけで。
たまたま目に入った具体的とも抽象的とも言えない相手をどちらに含めるか、というのはあなた次第だと思います。
あなたが相手を殺さないでも生きていけるなら、そうする方がいいと思います。新しい仲間が1人増えます。
殺す必要があるなら、そうするべきでしょう。
あなたが自分と自分の世界をどれだけ広く認識できるかは、自分の命と能力を賭けて相手と向き合えるかどうかだと思います。
まず抽象的な動物とか人とかいう言い方を止めて、具体的な誰かと向き合ってみたらどうでしょうか。
その上で相手を殺せるかどうか、自分の心が教えてくれると思います。

投稿日時 - 2007-02-25 22:25:18

ANo.34

なぜ人を殺してはいけないのか。
この問いは以前からくりかえしなされてきたものです。このタイトルで本も出ていますし、多くの識者がそれぞれに答えてもいます。にもかかわらず、人がこう問い返すことをやめないのはどうしてか。

それは現実に、人間は人間を殺し続けてきたし、いま、この瞬間にもおそらくは殺しているし、これからも殺し続けるからでしょう。
国が、組織が、個人が、人間を殺す、というのは、むしろ当たり前のこととして行われてきたし、これからも行われていくだろう。
それでもなお、この〈わたし〉が他者を殺さないのは、殺すこともできるのに殺さないのはどうしてなのか。むしろ、不思議なのはそのことであって、その答えを知りたいからにほかならないからなのではないか。
この不思議さを問うことは、ひとりひとりにとって重要であるし、折に触れ、立ち戻ってくる必要があるのではないかと思います。

その答えとして、多く見受けられるのが、「自分が殺されるのが厭なら、他人も殺してはならない」という、一種の等価交換の論理です(※以下は特定の回答に対する批判ではありません)。

けれども、この等価交換の論理を成り立たせるためには、「自分」=「他者」という前提が成り立たっていなくてはなりません。
ところが、この〈わたし〉にあっては、「自分」と「他者」は同等の価値を持つものではあり得ないのです。

世界は本質的に、「主観的」にしかわたしたちの前に立ち現れません。たとえば「わたしは頭が痛い」と感じる。これはあくまでも〈わたし〉にとってのみ現れている状態です。
他人が「頭が痛い」と言っているのを聞けば、わたしたちは自分の経験からその痛みを類推することはできますが、その類推が正しいかどうか、たとえば痛みの強度や質がほんとうに類推しているのと同じなのかどうか、だれにも判定することはできない。

あるいは「空が青い」と思う。けれどもあくまで〈わたし〉の目に映る「空の青さ」であって、その同じ状態がほかの人にとってはまた別の世界として現れているのかもしれない。
それをほかの人も同じように「空が青いね」と言っているのかもしれないのです。
〈わたし〉が感じている青、〈わたし〉が意味している空、それがほかの人と同じものかどうか判定できる人はどこにもいない。

自分を尺度に相手の気持ちを類推して、齟齬を生じた経験はだれにもあるでしょう。
けれども、その齟齬はむしろ当然のことなのです。
自分が自分である限り、人は自分以外の人の経験を共有することは不可能です。

それでも、わたしたちは現実にだれかと会い、行動をともにしたり、コミュニケーションをとったりします。そうして、その経験をもとに、わたしたちは相手を理解したように思います。
それでもこの相手は、あくまでも「〈わたし〉が理解したあなた」であって、〈あなた〉はまったく別個の存在です。
他者は〈わたし〉には決して到達することのできない存在です。

けれども、一方で「〈わたし〉が理解したあなた」は、〈わたし〉にとって、どうにでもできる存在です。
〈わたし〉が、目の前のあなたに腹を立て、「消えてしまえ」と願い、目をつぶってしまえば、実際にあなたの姿を目前から消してしまうことは可能です。
さらに、関係を絶つことも、もっと言えば、殺してしまうことも、可能です。それに対して〈わたし〉というありようを自分が消してしまうことは、生き続けるかぎり不可能です。

つまり、「〈わたし〉が理解したあなた」は〈わたし〉と同等ではありえないし、また、〈わたし〉を経験するようなやりかたで他者を経験することもできない。「自分」=「他者」という等価は、そもそも成立していないのです。

ですから、「自分が殺されるのが厭なら、他人も殺してはならない」という等価交換の論理は契約としてなら成立しますが、それ以上にわたしたちを説得するものではないのです。

では、どう考えたらいいのか。
この「殺せるのに殺さないのはなぜか」ということを鋭く問いつめたのがレヴィナスです。
『存在と無限』のなかにも、「存在論は根源的か」(『レヴィナスコレクション』所収)のなかにも出てきます。
ここでその箇所を引いて要領よくまとめるようなことはわたしにはとてもできませんので、代わりに岩田靖夫『よく生きる』(ちくま新書)から引用してみましょう。

----p.136 からの引用----
 レヴィナスの哲学では、実体的な意味で「私」というような者はどこにもないのです。他者との関わりなしには、私は私であると言えるような、私というものはどこにもないのです。私というものは、いつでも他者との関わりにおいて、その関わりの中でかけがえのないものとなるときに、私になる。そして、その「かけがえのないもの」と「かけがえのないもの」の関わりが愛という言葉で表現されていることなんですね。

 だから「隣人を愛せ」という命令は、他者とのかけがえのない関わりの中に入れ、という命令です。そういう命令をわれわれは神から受けているのです。どこで受けているのだ。他者の顔において。顔の中でその命令が発せられている、と言うのです。レヴィナスは。

 他者の顔に直面するときに、その顔から「殺すな」という命令をわれわれは受けとるのです。「殺すな」ということには、なんの理論的な根拠もありません。そこには命令があるだけです。
------

投稿日時 - 2007-02-23 12:14:45

ANo.33

子供に似たような質問をされたことがあります。
まず、不必要に動物を殺す行為は良くない事だと思います。(この事は、又、難しいのでうまく、答えられないですごめんなさい!)
では、必要に動物を殺すことですが、考え方をちょっと変えて、生きるために命をいただいて、自分の体の骨や血となり共に食べた動物、植物も自分が生きてる限り一緒に命となって共に生き続けているから、いろんな、命に、生かされているから、体を大切にしてね!と話しました。では、人間はどうでしょう?
殺して命を受け告げられないし、法律もあるからね。
誰か、殺したい人がいるのかな?

投稿日時 - 2007-02-23 01:34:48

ANo.32

確かに難しい問題ですね。人間個人レベルでみると、「自分」という存在を後世まで生かすために、他人を殺す行為はありでしょう。ただ、人間社会を一つの生命の種として考えると、生物学的な目的はおそらく人間という種をいき続けさせることになるでしょう。そのなかで、「殺しあう」ことというのは、自分たちの首を絞めているにすぎません。個々の人間の生存と、種としての生存それらを双方に満たす必要があるといえるでしょう。これは、人間以外でも群れ、種族、などで生きる生命すべてが同時に持つものです。

個どうしが殺しあうことは種として生きるのとは矛盾することだ、といいましたが、それではどこに線を引くか、ということになるでしょう。おそらく、人間、すなわち、高度な知能をもった生命は「殺しあうことは損だ」というような結論に至ったのでしょう。ここで、出来る限りの殺し合いをなくすことが、より個にとっても安全であり、人種を将来まで生存させることでもある、となったのでしょう。質問者さんは「自然淘汰という形での殺し合いは容認されるべきだ」といっていますが、それが、「出来る限り人がひとを殺すことを禁ずる。ただし、人を殺した者(重罪人)は、ルールに従う個々にとって危険な存在だから、彼らは死んでもらう。」というのが今の社会ではないでしょうか?

ちなみに、国と国の間の生存でみれば、戦争が今でもあります。ただ、世の中は平等(差別しないという意味で)、平和主義へ向かっていますが、これは、言い換えると「弱肉強食をやめて、皆が皆の存在を尊重しよう。」という方向に我々人間社会は向かっているということではないでしょうか?つまり、個々が弱肉強食や自然淘汰による危険を、皆が一定のルールによって、お互いに保障することで、他人を蹴落としてまで回避しなくて良いように取りまとめつつ、結局は人間という種を後世に残していく為の種としての目的も果たすことに成功した(?)ということではないでしょうか?つまり、高度な知能を持ったことにより同種間の「殺し合い」が、無意味なもの、してはいけないこと、として定着していったのでしょうか。

人間が他の動物を殺す理由は、ほとんど人間の利益によるものでしょう。殺しすぎると、特定の動物がいなくなって結局は人間が困る。かわいいから、大切にしたいから、というのも、結局は人間の善意という心的安定を満たす行為であるのであって、「殺す」か「殺さない」かを好き勝手決めているのは今のところ人間の都合です。ただ、他の動物がどうなろうと、「人間」を後世に生かすことがとりあえずは出来ればいいのかもしれません。
最も、人間も他の動物も、植物も「生物」という枠組みで一つの仲間意識芽生えれば、殺さなくなるかもしれませんがね。今のところ、人間が生きる為に動物を殺すことは必要なので、そのような考えはあまり定着していないのでしょう。

長ったらしいですが、ふと考えたことですので、あくまで一つの考え方として。

投稿日時 - 2007-02-21 01:43:03

ANo.31

哲学的・論理的に突き詰めると「人が人を殺しても良い」事になります。
言葉の意味だけを追求する、より哲学的になると「人が人を殺しても良い」事になります。

言葉に表現が伴わないと「人が人を殺しても良い」事になります。

>何故人を殺してはいけないのでしょう?
という質問に対する回答は哲学だけでは不十分で芸術の面からの回答も必要です。

投稿日時 - 2007-02-20 18:40:16

ANo.30

悩んでおられるかもしれませんが。
はっきり言いますとこの手の問題は論理で答えるタイプのものではありませんよ。
たとえどれだけ理屈を突き詰めていっても、社会倫理との軋轢が必ず生じます。
人を殺してはいけないのかというのは社会倫理に対する問であり、その答えは殺し合いが横行したら困る程度で十二分です。

ある時、ふっと分かると思いますよ。
そうですね、国家の品格にも同じような事が書いてあります。あの本を持ち上げるわけではないですが、一回読んでみると何か分かるかもしれません。

投稿日時 - 2007-02-20 16:58:23

ANo.29

人を殺すということは、自分を殺すことです。従って、人を殺してはいけません。

投稿日時 - 2007-02-19 22:54:33

ANo.28

多少、心理学的な私見混じりの回答になります。
「人を殺してはいけない」というのは社会的不文律であるより以前に、殺す人本人のためにならないから、ではないかと私は思います。

人を殺すにはたとえ理不尽であっても必ず何らかの理由があるはずです。
そして、その時点では殺すという方法をとるのが最善の方法、あるいは他にとる道は無い、と考えて(思いつめて)しまうわけでしょう。
人が生きるということは、朝起きてベッドから降りる時に右足から降りるか左足から降りるか、ということを始めとして、
また、無意識的なものも含め、全て『選択の連続』であるという見方ができると思います。
この中で、「人を殺す」という選択は、どんな理由があっても本人自身を不幸にする、という真理が含まれているのではないでしょうか。

他人を殺すということは、「自分と別の何かを殺す」ということではありません。
「自分と同じ人間を殺す」ということです。
私たちはひとりひとりみな違う、ということも事実ですが、しかし、実は誰しもアイデンティティ無くしては生きられない、ということもまた事実でしょう。
アイデンティティとは、自分が自分であることの確信(あるいは確認)、主体性を持つものとしての自己、といったような意味で、
明らかに他者の存在を前提にした(あるいは他者の存在に依存した)概念です。
私にアイデンティティがある(意識しているいないは別にして)のと同様に、相手にもそれはあるわけです。
何かの理由があって(理由がないという理由も含めて)私が相手を殺した場合、相手のアイデンティティも共に消滅させた(殺した)ことになります。
つまり、相手のアイデンティティが前提にしていた私という存在イメージも消滅することになります。
消滅したのは、確かに表向きは単なるイメージに過ぎないわけですが、人の心理は、これを他者に認識されていた(あるいは認識可能だった)自己の喪失、と捉えるのではないかという気がします。
世界中の自分以外の人間全てを殺した時のことを想定すると、この感覚は想像しやすいのではないでしょうか。
端的に言うと、他人を殺すということは自分を殺すことだ、という命題が成立するように思われます。

「想像」ということに関連してもう少し述べてみれば、人間には想像力があります。
理由さえあれば(場合によっては無くても)自分が他人を殺せるのだから、他人も自分を殺せるはずだ、という無意識的連想(想像)を働かせることはそう難しいことではないでしょう。
人間に対する根源的な怖れと不信感が無意識領域に強く刻印され、その後の人生を本人の気付かぬうちに揺さぶることになり、
理由のわからない焦燥と不安で精神に安らぐ暇を与えないことになるであろうことは容易に推測できます。
つまり、正確に言うと、
「人を殺してはいけない」ではなく、
「人を殺さないほうがよい」ということでしょう。
以上が「>何故人を殺してはいけないのでしょう?」という疑問に対する本質的な回答です。

しかし、人を殺してしまった後でこのことに気付く人間もいるので、社会的な相互契約としての「人を殺してはいけない」という制約は当然必要になります。
社会的契約としてこのような制約が必要だということは、取りも直さず人類の未熟さを示すものに他ならない、ということもまた事実だということになるでしょう。
いずれにしても「人を殺す」ということは、基本的に自らの人間としての可能性を全て放棄することになります。
「殺してはいけない」と他人から制約されなければ、その可能性の放棄を思いとどまることができない、あるいは制約があっても自らの可能性を放棄してしまう、
という根本的な人間性の否定に直結している、ということに気付く必要があります。
国家的規模の殺人、すなわち戦争、死刑は、そういった人間性の否定の方向へ国民を引きずるだけの、あるいは一時的な本能的満足感の替わりに永遠の負の記憶を植えつけるだけの値打ちしかないものであることを再確認する必要があるでしょう。
 

投稿日時 - 2007-02-19 21:43:33

ANo.27

動物同属同士は力比べはしますが、相手を殺すまで力比べをしませんよね?。
人間は恨み、妬みなどで簡単に人を殺す人が居ます。
そう、眉毛がピックと動いた事を気にいらないと言って殺す人が居るかも知れませんからね。

人間だけですよね?、動物はそんな事はしませんよね?。
だから人を殺してはいけないと言うのでしょうね。

まぁ、感情を持ち遇わせたがゆえに同属を殺すと言う事は自然淘汰の罠の一部かも知れませんね。
そう、欲と感情を持たなければ力比べで済んだかも知れませんね。

投稿日時 - 2007-02-18 22:42:54

ANo.26

理由はいくつかあると思いますが、
今の時代ではまず「国という団体に属す以上、お互いの共存のために殺人は認めない」という事になります。
日本に生まれ、日本で生かれているという事は「日本で殺されず生活できる権利を得る」と同時に「誰かを殺したり誰かの物を取ってはならない義務を背負う」いう事です。
その権利や義務を放棄した人間には、どんな思想も通用しません。
人は「殺されたくないから」自分も殺しません。
身内を殺され怒り狂う人というのは「殺されない権利」を放棄してでも憎い人間を殺そうとするので、このような人には「殺しは正当化」されます。

人間は地球と言う団体で生かされているにすぎないので、その人ひとりだけでも日本の経済へ貢献し、周囲の人へ影響を及ぼします。
自分の体は自由に使うことが出来ますが、けして自分の所有物ではないと思います。自由な体を借りて何十年か地球で生かされる事を許されたのです。
そのような身の人間が他人を殺して良いわけはないですし、自殺もしてはならないと思います。

団体で共存しているから・自分が殺されたくないから
この二つでしょうね。

投稿日時 - 2007-02-17 18:05:54

ANo.25

 自然淘汰を簡単に言えば参考URL(ウィキペディア)のようになります。
 しかし人間が殺しあう事は、それによって明確な優性遺伝子が伝達される訳でもなく、自らの命を延ばす訳でもなく、主の生存が許容量を超えている訳でもあり居ません。
つまり、人が人を殺す行為は自然淘汰ではないのです。
 また、人は自由を有しますが、自由は「他の自由を奪わない範囲」での自由です。従って人を殺す(その人の自由を奪う)事は自由ではありません。
 人は生きていくに必要な、他の動植物の生命を奪っています。これは人が生命である以上、逃れられない宿命です。しかしその行為には、自らの遺伝子を残そうとする、その為に自らの命を延ばすという、全ての生物に共通した目的があります。
 しかし、不必要(上記条件に合わない)に他の生命を奪ったり、傷つけたりする権限は人にもありません。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E9%81%B8%E6%8A%9E%E8%AA%AC

投稿日時 - 2007-02-16 22:57:03

ANo.24

czc

人が人を殺すということの動機を突き詰めていくと、多くの場合は、直接的、間接的に自分の生殖活動(恋愛、家族等)、生命維持(職場、財産等)を妨害するであろう他の生命体を排除しなければ自分の生存(遺伝子)が継続しないということに行き着くと思います。
他人を排除したいと思う場合については、感受性の個人差もありますが、自分を否定する発言、自分の敷地内への無断侵入、あるいは、すれ違ったときにぶつかっただけでも殺意を抱く人もいるわけです。
ところが、人間や他の動物の多くは、集団社会をつくって生活していくことも、生殖活動、生命維持の有効な一つの手段として取り入れたわけです。その集団のなかで生きていくには協調性が重要になるわけですが、その時に安易な短絡的な動機により、同じ生活共同体に住んでいるある人を殺めてしまった場合、殺めた当人、その家族、親類までもがその集団のなかでは生活しにくくなります。当然殺められた方の家族、縁者からも恨みを買うわけで、お互いの家系の将来、子孫継承に危機が迫ることになります。
人間は、遺伝子継承というような本能的な部分を、法律、社会ルールという理性と照らし合わせ、折り合いを付けながら生きているのではないでしょうか。

遺伝子継承については下記のところで少し書いています。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2711161.html

投稿日時 - 2007-02-16 21:47:33

私は哲学の素人ですので、哲学的な考え方ができませんが、感覚として、
どのような理由であれ、AさんがBさんを殺していいなら、AさんもCさんに殺されてもいい。殺す側と殺される側の区別は一切ない社会ができます。
しかし、ある理由なら殺しあってもよい、という選択もあるでしょう。

殺し合いが、人の本能か、人為が生み出した社会ルールか、明確に区別するのは難しいように感じます。おそらくは、人類は誕生してから、人類種を維持するために選択した結果が同種(人同士)の殺し合いを禁止行為と認識したのだろうと思います。

ところで、基本的には、動物も同種同士は殺し合わない、という報道を耳にしたことがあります。動物が殺すのは他種だと。人からみれば、動物同士の殺し合いに見えますが、動物からすれば、他種を殺すので、人同士のような同種の殺し合いではないと思います。
ですから、人同士は他種ではなく同種ですので、上述のように、動物の殺し合いが種を区別しているなら、人同士は殺し合わないということになります。
しかし。人は生物的な種の区別のほかに、宗教観・他の価値観で、動物が種を区別することと同義の種を認識しているのかもしれません。ですから、例えば、宗教観が違うAさんとBさんは殺し合いを容認する他種だと。宗教観が違えば、他種だと。

なお、ご質問には、殺し合うことの是非を問うおられますが、殺し合いの目的が設定されていませんので、返答者の受け取り方でその認識が違ってくると思います。

もともと、時として(肉食動物の場合は定期的に)、動物が他種を殺す目的は、自己の生命を維持するために、食欲に基づいて、生きるための肉を得る(食料獲得)または、自分の領域を守る、というだと思います。

人の場合、動物が主に食料獲得のために他種を殺すというような理由で、同種の人を殺す目的には際限がないと感じます。極端に言えば、殺し合う感情は無限だと。
しかし、通常の生活の中でほんの些細なことでも、自分がイヤだ・不快だと感じることは、きっと他の人もイヤ・不快と感じるでしょう。その結果、不快を与えられた人は不快を与えた人を不快に思うでしょう。極端な場合、殺すという極端な行為に及ぶことがあるのだと思います。

本来的に、人は大きな集団を維持しないと自分達の生命が維持できない種だと感じます。ですので、殺し合いという極端な場合も含め、不快という感情を「他に与える、また他から与えられる」ことを容認する社会は、人同士が協力し合える関係を絶った社会になると。
生きるために集団を形成する必要がある人種には、不快を容認するルールは不必要で、排除しなければならない行為だと。

人が殺し合うことの是非は、人が種を維持するために必要な社会を形成するルール次第だと感じます。人は不快を不快で返す。やられたやり返す。しかも、倍返し、という言葉まであります。稀弱な人の理性にタガをはめるその裏側には際限のない人の欲求が見え隠れしているように感じます。

投稿日時 - 2007-02-16 09:34:46

ANo.22

人間という生き物は、群れを作って群れ同士で抗争を行う生き物です。その過程でホモ・エレクトスやホモ・ネアンデルターレスと争い、滅亡させてきました。またホモ・サピエンス同士でも集団同士で殺し合いをしてきました。ですから、現在生き残っている人類は集団として行動した時に強い力を持つ種族だけが残っています。そのための必要条件として集団のルールというものが出来ました。質問者さまは「人間は殺してはいけない」とかかれていますが、歴史的には集団のルールに違反した人間は容赦なく殺されてきたと思います。ただ、理由無く人を殺すような仲間がいたら、集団は団結できず、弱くなりますから、「理由無く人を殺す」ことはルールで禁止するのが妥当で、このルールに違反する人間はそれこそ容赦なく殺されたでしょう。それが集団の力を強くするのに必要だからです。ですから、いま生き残っている種族はそういうルールを持っています。逆にそういうルールを持たなかった種族は、団結できず集団として強くなれなかったでしょうから、人間同士の抗争で滅んでしまったでしょう。

人間の持っている善悪、道徳の概念は、そういう概念を持つ種族は、持たなかった種族より強く、持たなかった種族は結果として滅亡してしまった、と考えることにより説明可能です。

投稿日時 - 2007-02-16 06:56:25

ANo.21

こんなことを言うのはなんだけれども、世の中にしてはいけないとかしていいということなど、本当にあるのだろうか。
いや、mika1818さんが「人を殺しちゃいけない」という風に教わっていて、それが正しいという前提で物を語っているのではないだろうか、ということですよ。

人を殺してはいけないのは、人を殺してはいけないと思い込んでいる人がそう思い込んでいるにすぎないのです。
環境によっては殺人も正当化されることがあるわけです。

よって、「何故人を殺してはいけないのでしょう?」という問いには「そう思っている人がそうだと言っているから」としか答えようがありません。

学校という機関は、人が社会に都合のいいものになるようにするための教育の場ですから、社会にとって人殺しは都合が悪いんだとは思いますが。

投稿日時 - 2007-02-16 03:07:08

ANo.20

>人間は自分の必要不必要に動物を殺します。
不必要に(使いもしないで)動物を殺しているとは思いません。

>人間だって生き物ですから自然淘汰、という形での「殺し合い」は容認されるのではないでしょうか?
おっしゃる意味がいまいちよく分からないのですが、
自然淘汰という形での「人間同士の殺し合い」なんて存在しないと思います。
社会的に容認されるためには、最低限建前としても
「そのことで社会は良くなる」という根拠が必要だと思うのですが、
そういうものはお持ちでしょうか?
もしも社会的なルールを否定するなら、
人間として容認できるかという話になると思います。
例えばライオンは、自分の本能のままに生きていると思いますが、
人間が本能のまま生きた場合、人を殺すと思いますか?
僕自身は人間は、そのようなライオンのような習性は、
人間は持ってはいないと思っています。
また、僕自身は「人間同士の殺し合いは容認されるべきか」については、
「人間は何を望んでいるのか?」という内容で判断します。
もし、この内容に対して、「人間同士の殺し合い」がそれを
妨げるのであれば、「それは容認できない」ということになります。
つまり、僕が言いたいことは、「自分が何を望んでいるのか」ということを、
屈折した考えではなく、正直なところを解っている人は、
「そんなことは容認できるわけがない。」と思うだろうということです。

投稿日時 - 2007-02-16 00:12:33

ANo.19

人間が動物を殺すのは、やはり生きていくためというのが1番大きな目的ではないかと思います。
他の生物の命をもらって生きていくため。
だから「いただきます」と感謝の気持ちを言葉にしてあらわします。
それは仕方がない事ではないのでしょうか。

しかし、人間同士の殺し合いとなると話は別です。
人間を殺して得るものはありません。
人間が生きていく最大の目的は「経験を積み重ねること」です。
さまざまな経験を積み重ね、さまざまな人と出逢い、学びます。
そこには愛や感謝の喜びが生まれます。
人間は、さまざまな事を現世で学びゆく存在なのです。
人を殺しても、学ぶことはありません。しなければならないのは反省だけです。

それと、苦労を積み重ねれば人の痛みが理解できる人間になります。
例えば血を流している人がいて、痛そうだなと思い、気分が悪くなった。これは自分が血を流したという経験をしたことがあり、それを思い出したり相手の痛みを想像したりしてしまうからです。

何となく自分の思う事を書き散らしましたが、質問者さんの納得のいく答えになるかは全然自信がありません・・。

投稿日時 - 2007-02-15 21:44:47

そうですよね。動物殺しておいて、人間殺すな、変な理屈ですよね、
質問者さんが見返りを感じず、自分は痛くないから殺してもいいじゃ
ないかと思っていて、質問を書いているなら、即刻自分自身を
殴って見ると分かるでしょう。(実際にやらないでね、)
そうではなく殺すことは良くないことだと知っているがその理論的意味
が分からないという質問の答えを言うと、基本的人間が豊かに生きていく分には、
動物殺してかまわないよ、人に死の恐怖や死の苦痛を与えて幸福を台無
しにしたら許さんよ!
という倫理があるわけです。
しかし不殺生という概念も昔はあったわけで、動物も苦痛を感じる生命体
よって殺すな!
これは利に叶っているでしょう?☆

基本は殺しはよくないのです。自分では人を殺してはいけないのなら、
苦痛を感じる生命体も殺さず生きていけ!といいたいです。
しかし、この世の中動物を殺して食べることを容認しています。
けしからん話です。(と言いつつ自分も肉を食べることがあるけどね)
最近の連中も「務所に入りたくねーから殺すのだけはやめとこー」
という概念しかないのは、はっきし言ってムカつきます!
転んだり怪我したり、生命体としての危機感が無い!だから見返りが帰ってこない!
だから「殺しちゃいけない理由が分からない」と思ってんだろうな~
ふざけるな!理性で考えろ!と言いたくなってきます。
質問者がそう言う考えでは、なければいいですが・・・・

藤子F不二雄の「SF短編小説ミノタウロスの皿」というのが有るのですが、
それを読まれると人を殺しちゃいけないという理由の意味がそこはかとなく、
理解できると思います。

投稿日時 - 2007-02-15 20:38:16

ANo.17

人間を殺してはいけないのは、大切な存在だからです。この世に生を受けたものすべて何らかの意味をもっていて、生まれて時を過ごした瞬間にえたいの知れない何かに関係して、そこには必ず、明るい大切なものが築きあげられていくように思うのです。愛というものかも知れません。だから、生き物どうし殺し合う時は、自分がいきる上で最小限で必要なものだけです。最小限というのは、自分の意志で思いつく最高を追求することです。そうすれば、命の尊さを認識する方向性が開けるのではと思うのです。路に生えている草も風呂場のこけも台所の虫も空気中の微生物も。小さいけれど、すべて命があり、他の強い生物の犠牲になって、一生懸命生きています。そこには上下はないと思います。人間はその頂点に立っています。最高に恵まれた生き物であり憎みあったりすることより、他の生き物に対して深く考え、ボランティア精神を持つべきだと思います。生き物はなぜ生きるのかと言うことにたちかえって、人間と他の生物のことを最優先して考える事が必要なのかもしれません。人間の力はそういうところに注がれなければいけないと思います。動物をいきるために食べるなら、その動物に敬意を持つこと。食べ物を残さないこと。多くの生物を支配して食べるなら、しっかり生きて人間が他の生き物にどうしたら愛を注げるか考えるべきだと思います。当然、ひとが殺し合ってしまえば他の人間のために生きた生物の命が無駄になります。人間は殺し合わずしっかりいきるべき存在だと思います。

投稿日時 - 2007-02-15 19:15:21

ANo.16

なるほど・・・

失礼ながら哲学として非常にいい質問ですね。

>何故人を殺してはいけないのでしょう?

答えは簡単です。人を殺すことは・・・

「悪いことだから」

です。
悪いことはしてはいけないということはわかるはずです。これがわからないと、“いけない”の意味がわからないということであり、質問が成り立ちません。

質問はあくまでも“何故人を殺してはいけないのでしょう?”であり、“何故人を殺すことは悪いのでしょう?”ではありません。

さて、何故人を殺すことは悪いのでしょう?
わからない人は“いい・わるい”がわかってない人です。

投稿日時 - 2007-02-15 17:17:32

ANo.15

私も宗教の決まり、つまり神様の命令で人を殺してはいけないと思います。死刑があったって、死刑になる覚悟があれば人を殺してもいいことになってしまいます。

投稿日時 - 2007-02-15 17:15:13

ANo.14

そうですか? 人を殺してもいいんじゃないですか?

>人間は自分の必要不必要に動物を殺します。

人間以外にも不必要に動物を殺す種がありますよ。
イルカは海獣の赤ん坊をおもちゃのようにして咬み殺します。大西洋岸では、そんな死体が頻繁に流れつくそうです。すべて食べられた形跡がないことから研究者が地道に調べていってわかったとのことです。
また、ドキュメンタリー映画『ディープ・ブルー』では、イルカ同士がアザラシの子供(おそらく殺した後)をバレーのボールのように高く放り投げて遊びあう姿が映像におさめられています。
犬や猫も食べる目的にではなく、もてあそぶような感じで小動物を殺したりします。
つまり、不必要に他の動物を殺すのは高等生物である証しだということです。

>人間は殺してはいけない、と学校では教わります。
ほんとうにそう教わりました? 何の授業ですか? 私は教わった記憶がありません。教わりたいと思うくらいです。
何がいいたいのかというと、そう決め付けないでくださいということです。「教わった」ではなく「教わります」と書かれれば、普遍的なことのように感じます。でも、実際はそんな人ばかりではないでしょう。いえ、むしろ、日常生活のいろんな場面で自然に覚えたという人のほうが多いのではないでしょうか。普通の子供はおそわらなくともわかります。ま、わからない子もいるので教育制度があるわけですが。

>けど人間だって生き物ですから自然淘汰、という形での『殺し合い』は容認されるのではないでしょうか?

生き物といったって、大部分の生き物は、同種の個体間で殺しあったりはしませんよ。これもほとんどが犬猫以上の高等生物でみられるものです。しかも群れている動物に多く、子殺しやボス争いのように見えても、もとをたどれば実はみな女の取り合いです。
こういったオスの競争は有性生殖生物の宿命で、それが高等哺乳類になると殺し合いにまで発展するというだけのことです。(ただし、群れをつくらない動物で子殺し(食べてしまう)をするウサギのメスがいたりと例外もありあす。また、子殺し・人殺しをするヒト科の女は、地球生物全体をみわたしても例外中の例外です。
  
ですから、人間同士が殺しあったりしてはいけないなんてことはありませんね。殺したっていいのです。なんの問題もありません。
  
しかし、それは動物学上のことです。質問者さまの疑問は、この動物学上の習性とヒトの群れのなかでの決め事とをごちゃ混ぜにして考えていることからおこる幼稚な誤謬です。群れのなかで「仲間は殺しちゃいけない」というような決め事なんて、三人で旅行に行ったときに、費用はワリカンにしようね、とか、私の財布からお金をくすねないでね、などと約束しておくようなものですよ。

要するに、人類12万年の歴史の中で、群れ、つまり「仲間内」での殺しを認めるよりも、認めないことのほうがなにかと都合が良い、と選択し、また支持してきた結果だといえます。質問者さまは、そんなことを歴史の中から考がえてみよう、と思ったことはありませんか。

しかし、別の見かたもあります。
それは、人類の脳が共感する脳へと発達していることが原因だという見かたです。人は殺されるがわに共感できるため、殺すのはよそうということです。共感力のある人は殺すどころか暴力をふるうこともあまりありません。
共感脳は犬猫ではあまり発達しておらず、ゴリラやチンパンジー以上に発達した脳だけ見られるものです。感じることのできる現在最高度に進歩しているワザです。共感とは、人がケガをしていれば「あぁ痛そう」と感じたり、マッチが売れないで寒さにふるえる路上の少女がいれば「まぁかわいそう」などと感じる力です。
しかし、人間の脳もまだまだ発達途上にあるとみえて、機能不全ですし、そもそも共感脳にはかなりの個人差があります。共感脳より反発脳のほうの勢力がまさっている人は「人はなぜ人を殺してはいけないのでしょうか」と疑問に感じたりします。しょせん人の痛みが他人事でしかないので、ときおり犬猫レベルの脳に落ちてしまうのです。

人を殺してはいけないのに、死刑があるのは、死刑になって殺される人より、被害者として殺された人のほうに、より激しく共感するからです。TVのワイドショーなどに触発されるせいで憎悪のほうがまさるのです。こういった人は、飲酒運転事故の加害者が死刑にならないことにも疑問を抱くかもしれません。法(群での決め事)というものが、憎悪の理論で組まれていないことに気づいていないのです。このような近代法は、ヨーロッパ文化から借りてきただけのものなのでしかたがありません。

近代法というものについて、歴史的、科学的にちょっと勉強してみればよくわかると思います。

投稿日時 - 2007-02-15 15:43:43

ANo.13

 自分が人や自分以外の生き物を殺せば、人や人以外の生き物に対して、自分以外の生き物は殺していいんだという影響を与え、自分が殺されてしまう可能性が高まるからじゃないんでしょうか?
 
 たとえば、介護の問題でも、自分が今お年寄りを介護しないのがいいということで、お年寄りの介護をしないなら、将来、自分が介護される年齢になったとき、おそらく、そのときの若い世代に「お年寄りはさっさと死んじゃった方がいい」という影響を与えてしまうんじゃないんでしょうか?お年寄りの介護をすることにメリットを感じない人を作りださせてしまうことになると思います。
 しかし、私はお年寄りの介護が経済的にも肉体的にも精神的にももう限界というときは殺してしまってもしょうがないと思います。これはおそらく介護する自分の苦痛がお年寄りの介護をしなかったときの不安を上回ったとき、最適であると思えるのではないかと思っています。
 このとき、お年寄りまたは病人に対して精神的に限界である以上たとえ抵抗しようとも安楽死を強制させ、将来の自分に対して死ぬときの苦痛の可能性をできるだけ減らすことに尽力すべきだと思います。今はないけども、昔はお年寄りを捨てることが国策だった国もあるようです。
 ただし、人を絶対に殺さないようにしていても、将来介護をしてもらえない、虐待されて殺されるという可能性があるので、適当に生き物を殺さなければいいのではないかと思います。
 まっとうに殺さないようにしていると永遠に苦しみ続けるかもしれません。生き物を一切殺さなかったから、幸せになれるかどうかなんて未知数だと思います。
 
 

投稿日時 - 2007-02-15 15:10:59

ANo.12

そうですね、東南アジアとかだと昔は人を食っていたらしいので、厳密にいえば確かに人を殺してはいけないともいえないとは思います、

ではなぜ人を殺してはいけなくなったかというと、一つには理念の高度化のような面があるのではないでしょうか、たとえば高次元の理念や理想が高まってくると、低次元の考え方を否定し始めるということがあると思います、たとえば暴力はいけないとか、原始世界においては暴力はそれほどは否定的ではなかったとは思いますが、それが高次元になってくるとそういうものは否定されてくるわけです、

つまり人を殺して良いのか悪いのかのかということは、それを考える人間の視点の高低によるということ、高い視点に見るのならば暴力は否定的に見るし、原始的に見るのならば暴力は肯定的に見る、つまり人を殺してはいけないという根本的な考えではなく、人を殺しても良いかどうかと根本的にその人物がどう考えるかというのが、人を殺しても良いかどうかという判断基準になるのだと思います、

つまり人を殺して良いのかという基準があるのではなく、人を殺しても良いのかと考える人間自体に基準があるというのが、答えになるのではないでしょうか。

投稿日時 - 2007-02-15 14:16:10

ANo.11

私は こう思います。

人が集まると集団ができます。
自分が属する集団を維持するには 安全 が必要になります。
ということで、人が多くなると共通のルールが必要になります。

隣の家は豪華だから欲しいから、隣の主人を殺して家を奪う。
これがまかり通ってしまうと、今度は自分も殺されてしまう危険がある。
ルールが無く抑制がきかない集団は、殺しあいます。

力が強い人の子供ばかりできますが、ルールが無いので殺した人が子供に殺され、結局増えません。

外部の圧力に対抗し、自分を守るには、自分が属する集団が巨大化したほうが、やられずらい。

では、集団が巨大化するのは、やっぱり数が減る殺しはやめよう というルールが必要になります。

自分を守るために、他者を殺さないわけです。


ところが戦争などでは殺します。
何故なら自分が属さない集団で、なおかつ自分の集団を脅かし、自分の命をも奪う危険があるから、殺すのだと思えます。


イエスは平和主義だといわれますが、この平和主義が適用になるのは、イエスの属する集団 つまり ユダヤ人同士では殺し合いはするな といっていたと思えます。

え? 悪をなすものにはむかうな 異邦人を愛せよと言ったではないか?
はむかうな は適切な翻訳ではない。
悪をなすものに心を煩わされ、翻弄されるな というのが本来の意味。
異邦人とはユダ国以外のユダヤ人のことだと思えます。
従ってローマ兵にボコボコにされて全滅させられようと感謝しろ とは言っていない。
イエスは弟子たちに剣を取れ と言っています。

つまり自分の属する集団の生命を維持することは、自分が安全である確立が増すので、同胞同士では殺し合いはしないようにというのが「人を殺してはいけない」なのだと思えます。

旧約聖書に十戒というものがあります。
そこには人を殺してはいけない と書いてあります。
正確には古代ヘブル語には 禁止+命令 はないので、「私の愛する民(イスラエル+ユダヤ人ら)が同胞を殺すなどするはずがない」みたいなニュアンス。
神によりエジプト人らが惨殺されていますが、このように神の民ではない者 つまり 異邦人に対しては、この十戒は適用されていないことが聖書を読めばわかります。
あくまで聖書はその集団におけるルールで、部外者には適用にならない。


日本の法律では死刑があります。
同胞を殺す人を野放しにすると、規律が乱れ統率がきかなくなり、外圧によって日本の安全が脅かされても、誰も統率して日本を守れなくなるので、殺人をした人は同じ日本人であろうと、野放しにするわけにはいかない。
しかも、野放しにしたら、もっと人を殺す危険分子だと判断された場合は、一生 塀の中に閉じ込めておいたほうが、日本という国家が安全なわけです。
そして、みんなの税金でその人の衣食住をまかなくわけですが、みんなの税金を投入して生かすに値すらしない と判断された場合は死刑にするわけです。

日本の国民の中から選び抜いた人たちが、考えて考えて考えたあげくに、生きる価値が無い(日本の総意)とされた場合死刑となる。


「人を殺してはいけないというのに、死刑があるじゃないか 矛盾している」と思えるのは、分解すると 上記のようなことじゃないかと思えます。

(私は死刑には反対ですが、確固たる死刑反対論をまだ持っていないです。)


「人間だって動物じゃないか。人間は動物を殺すので、じゃあ 動物である人間を殺していいではないか」となるかというと、動物は人間に殺され食されたくなかったら、人間をやっつければいいわけです。
人間より強く賢く 食されないように人間を支配すればいいわけです。
猿の惑星のように。

今は人間が動物を支配するほど力を持っているので、動物はなすすべもなく 捕らえられ 見世物にされ 食されることになっている。
集団になって人間界に殴り込みをして、人間を支配すればいいんです。
残念ながら知恵比べでは 動物より力を持たない人間の方が勝っているので、逆転は今のところありません。

マンモスの方が人間より大きかったのに、人間の方が勝って食していた。
知恵をつかってマンモスやクジラをしとめていたからです。
力じゃない 知恵で勝っているからです。

そのほかの動物よりちょっと知恵が勝っている人間が作った集団ルールが法律です。
あなたも 私も そのみんなが決めた法律の支配下にあります。
支配下にある以上、このルールは守らなければ、総意に反逆することになるので、罰せられます。
他人を殺さないという法律を守ることは、自分の安全の確立が増すわけです。
だから 人は法律を遵守するんです。
おかしな法律があれば、意見書を提出して裁判を起こして変えていく。
人を殺してはいけないというルールがある限り、自分の安全が守られている以上、やはり 人間を殺してはいけないとしか思えません。

投稿日時 - 2007-02-15 14:07:55

ANo.10

動物や植物から見れば人間は神のような存在ですね。神同士が殺し合いはしてはいけないということですね。
でも本当の理由は、人間は本来霊であって、一定期間地上に目的をもって生まれてきているからなんですよ。誰しも修行課題があるので、個人個人の課題を他人が強制的に絶ってはいけないと決められているからなんです。それで殺人は悪なんですねね。
誰しも死ねばわかることですけど、死ぬわけにもいかないので立派な宗教家がわすれないように教えているのです。それだけのことですからわからない人は殺人はいけないことだと信じておけばいいんだと思いますよ。

投稿日時 - 2007-02-15 12:45:31

ANo.9

 私の意見では、キリストやブッダがそう説いたからだと思います。ですから、日本では常識として人を殺してはいけない。となっています。
 でも、人身御供やカニバリズムはその地の宗教が大きく関係しているのではないでしょうか?

投稿日時 - 2007-02-15 10:59:37

ANo.8

コミュニティの秩序を守るため、ひいてはコミュニティそのものを守るためではないでしょうか。
ですから、コミュニティの安全や秩序を脅かす場合は、殺人は許容されるのだと思います。
死刑や戦争で人を殺すことが許されるのはそう言うことではないでしょうか。

投稿日時 - 2007-02-15 09:52:56

ANo.7

いろいろな答え方があると思います。

利他主義が究極の利己主義という考え方があります。
つまり、他の人のために動くことは結果として自分のためになる、という考え方です。人間は、お互いに殺しあうことが無益であると、長い長い時間の中で知り、そして互いに殺しあってはいけない、と決めたのではないでしょうか? 文化によっては、儀式として食人(カニバリズム)するところもあったので、人殺し=悪という考えはどこでの成り立つわけではないようですね。

また人間は人だけを殺しちゃだめ、なのではなくて、本来ならば動物も必要最低限のみ殺すのが当然なのにと考えることもできます。しかし、必要以上に殺すのは、そこに需要があるからではないでしょうか? 高級肉や、毛皮のコートやレザー製品など、それらはたしかに機能性の面でも優れていますが、我慢できないものではないでしょう。しかし、人はそのようなものをほしがりますし、欲しがる人がいる限り金に変えることができる。結局、人は欲のために、必要以上の動物を狩っているのでしょうね。人を殺すとその遺族に憎まれますし、殺人する際に自分にも相当のストレスがかかります。そのため、そのような不快なことを欲する人がいないから、人殺しが流行らないだけかもしれません。仮にもし人を殺さなくては救いが得られないような人間ばかりの世の中であったら、スキを見ては殺しあうような社会だったかもしれませんね。

また私は理解しきっていないので、mika1818さんに説明することができませんが、一度、倫理について哲学している本をお読みになると、このことに対して考えが深まるかと思います。

投稿日時 - 2007-02-15 09:39:43

>何故人を殺してはいけないのでしょう?

毎日、世界中で合法的な殺人は行われていますよ。
人を殺してはいけない、ということが世界共通認識として存在したことはないはずです。

>人間は殺してはいけない、と学校では教わります

その命題に対してのフォローは何も無しでしたか? だとしたら随分安易な教え方の学校ですね。

>人間だって生き物ですから自然淘汰、という形での『殺し合い』は容認されるのではないでしょうか?

人間も生き物だけど、動物とは違うのでいっしょくたに考えるのは間違いです。

投稿日時 - 2007-02-15 09:35:34

ANo.5

倫理的・哲学的なことはよくわかりませんが、
知能ある生物の「知恵」のように思います。

殺し合いが容認される社会になったら、
外を歩いていてちょっと肩がぶつかっただけでケンカが始まり、
仰るような「自然淘汰」に従って、より腕力の強い方が弱い方を殺す…でなんの咎めもない。
こんな社会に今この瞬間なりましたと言われたら、よほどの人でない限りひきこもって身を守るのではないでしょうか。
それでは経済始め社会生活が回らないのでは。
実際そういう古代の歴史を踏まえて今日の制度が確立されていると思いますね。

投稿日時 - 2007-02-15 09:28:58

ANo.4

道義的な面はおいておいて

法律で決まっているからです。
逆に法律で決まっていない場合には罪にはなりません。
それゆえに昔から法を犯す人間よりも悪法を作る人間がもっとも恐ろしいと言われてきました。

また種の保存という生物の根本をなす本能から見ても同種族同士でやたらに殺しあうことはおかしいことだと思います。
(淘汰はあるでしょうが他の動物もむやみに殺しあってはいません。
むしろ傷つかない方法で争うことが多いです。)

投稿日時 - 2007-02-15 09:28:51

ANo.3

極簡単に説明します。

人間は群れるからです。
群れるからにはそこに規律やルールが出来ます。
当然それは人間にとって都合のいいものになります。
だから人間は殺してはいけないというルールを作り、殺したら罰を与えるようにして抑止力として安全に暮らせるようにするのです。

基本的にはそんな理由です。
殺してはいけないというルールを作り、俺はお前を殺さない、だからお前も俺を殺すなと約束しているということですね。

投稿日時 - 2007-02-15 09:25:39

お礼

自衛のための都合の良いルールが「人を殺しちゃいけない」って綺麗事になったってことですね・・・納得しました・・・
そうなると「なんで人を殺しちゃいけないのに死刑があるの?」ってことも納得できますね・・・
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2007-02-15 09:28:36

ANo.2

難しいですね、僕はその分野の教養はないので気持ち的な簡単な精神論ですが。

あなたは殺されても文句いいませんか?
喜んで殺されていきますか?
大事な人たちが殺されても悔しい、悲しい気分になりませんか?

死にたくないですよね。多分、その命を守るためのものではないですか?
難しい話もそのうちでてくると思いますが。

投稿日時 - 2007-02-15 09:18:30

ANo.1

どうしてあなたは行きていられるのでしょうか?

語弊がありますが、世の中、あなたを殺したいと思っている者がいるかもしれないし、いたかも知れないし、これから出現するかもしれません。
でも、少なくとも今はいきている。

これがあなたの質問への答えです。

投稿日時 - 2007-02-15 09:18:14

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