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解決済みの質問

脳科学にとって幽霊とは

以前、このカテで脳科学が人間の意識について、現時点では説明することができていないというお話を伺いました。
そこで質問なのですが、脳科学(或いは脳科学者)から見て幽霊というものはどのように考えている、或いは考えられるでしょうか。
幽霊なんて科学的じゃない、それとこれとは違う。そもそも科学で扱うものではない、などの意見は想像できるのですが、人間の意識(精神と呼んでもいいのでしょうか?)を説明できない事実からすると、科学として幽霊を否定するには少し分が悪いように思うのですがいかがでしょうか。

投稿日時 - 2007-03-16 00:08:43

QNo.2837033

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

こんにちは。
ANo.7です。
長い回答を全部読んで頂き、ありがとう御座います。

>エンドルフィンという脳内物質についてなのですが、これは嬉しい時などに発生するようですが、嬉しいとエンドルフィンが発生するのでしょうか。それともエンドルフィンが発生すると嬉しくなるのでしょうか。

これは、エンドルフィンが分泌されるから嬉しくなる、でしょうね。

この場合、我々の脳内に分泌されていますのは「β―エンドルフィン」というものだそうです。そして、色々と調べてみましたが、どうやらこの「β―エンドルフィン」といいますのは、どちらかと言いますならばストレスに対処したり神経系の反応を補助したりするためのものであり、特に嬉しいから分泌されるというものではないようです。では、どうしてこれが嬉しいときに分泌される、あたかも「幸福物質」であるかのように捕らえられているかと言いますと、それは、この「β―エンドルフィン」といいますのは我々の脳内で「幸福感・満足感」を司る「中脳・腹側皮蓋野A10DA(ドーパミン)報酬回路」の働きを活性化させる作用があるからです。

「β―エンドルフィン」といいますのは、特に嬉しいという情動に伴って分泌されるものではなく、そして厳密には、我々の脳内に幸福感を生み出すための「幸福物質」でもありません。
我々の脳内における「幸福感・満足感」のメイン回路といいますのは、
「中脳・腹側皮蓋野A10DA(ドーパミン)含有核―前頭前野」
という投射経路がそれに当たります。これを俗に「報酬回路」といいますが、入力された報酬刺激に対応し、ここで実際の「快感・幸福感」を発生させるために分泌されている物質は「β―エンドルフィン」ではなく、その名の通りそれは「DA(ドーパミン)」であります。では、β―エンドルフィンにはこの「A10DA報酬回路」の働きを補助・活性化させるという作用があります。
快楽刺激や満腹感など、身体内外からの何らかの知覚入力が「報酬刺激」と判定されますと、「腹側皮蓋野A10神経核」からは「前頭前野広域」に対しましてDA(ドーパミン)の一斉投射が行われ、これにより、我々の脳内には幸福感や期待感が発生します。ですが、このままでは快感が幸福を産み、幸福が快感をもたらすことによって脳は一気に天国まで上り詰めてしまいます。これでは困りますので、そこには「ギャバ神経」と呼ばれる「GABA含有神経」による抑制回路があり、DAの過剰分泌を抑えて快感のバランスを保っています。そして、「β―エンドルフィン」という伝達物質(ホルモン)は、この抑制回路である「ギャバ神経」の方に働き掛け、その抑制機能を鈍らせます。
神経系におけるこのような作用を「脱抑制作用」といいますが、つまり「β―エンドルフィン」といいますのは「幸福回路」に対する「ギャバ神経の抑制機能」を抑制することによって快感・幸福感を増幅・持続させる機能を果たしているわけです。このため、何らかの理由で脳内にβ―エンドルフィンが分泌されますと、「A10報酬回路」における前頭前野へのDA投射が活発になり、必然的に幸福感が発生しやすくなります。そして、β―エンドルフィンの生理的な多量分泌によって無条件に発生してしまう幸福感が「ランナーズ・ハイ」ですね。従いまして、それは嬉しいから分泌されているのでなく、分泌されるから嬉しくなるというのが正しい解釈ではないかと思います。

エンドルフィン類は内在性の「オピオイド」としての作用を持っており、発見当初から「脳内麻薬」などといった異名が付けられています。
「オピオイド」といいますのは神経細胞上に分布する任意の受容体と親和性を持っており、これが脳内広域に分泌され、結合することによってその神経系全体の働きが変わります。例えば、上記のように抑制機能を抑制して「脱抑制」を掛けたり、その機能そのものを抑制したりしますので、言い方を変えれば、その神経の働きを一時的に麻痺させてしまうというのと変わりはありません。ですから、本来ならば痛覚を伝達する神経系の働きが抑制されてしまうならば、それはモルヒネなどと同じ「鎮痛効果」を発生させることになります。これが、エンドルフィンが脳内麻薬などと呼ばれる所以ではないでしょうか。
このように、β―エンドルフィンといいますのは神経系の全体的な覚醒作用や鎮痛作用など、我々が事に当たり、与えられた事態に対処するために必要に応じて分泌されるものです。このため、それは必ずしも「報酬刺激」に対応するものではなく、ストレスや危険回避などの「嫌悪刺激」に対してもきちんと分泌されなければなりません。ならば、それは別に嬉しいから分泌しているわけではないというのは、この点から見ても明らかです。
さて、我々哺乳動物の脳内では、このβ―エンドルフィンは「A10報酬回路」に対する「脱抑制機能」として作用します。このため、それが脳内に分泌されますと、結果的には幸福感・満足感が得られやすくなります。ですが、「A10報酬回路」の中で実際に使われている伝達物質は飽くまでDA(ドーパミン)であり、β―エンドルフィンは別に幸福物質でも何でもありません。そして、それは我々動物が生命活動を実現するために分泌される必要物質であり、これによって報酬回路系で発生する幸福感や満足感といいますのは、基本的には読書や音楽鑑賞などの知的感動を楽しむためにあるものではなく、本質的には問題解決や積極的な結果を得るための適切な「行動選択の動機」として働くものであると考えます。

>気持ちが先か脳内物質が先か、ということなんですがどうでしょうか。
>意識が神経伝達の過程で発生する現象とすれば脳内物質が先のようにも思いますが。

そうですね、我々の「心の動き」といいますのは、知覚入力に対する中枢系の反応によって発生します。ですから、何の入力もなければ、基本的には気持ちは動かないわけですよね。
神経伝達物質には、実際の情報を信号としてやり取りするためのものと、その信号のやり取りを強めたり弱めたりするために神経系の覚醒状態を変化させるものがあります。そして、この直接の情報伝達ではなく、神経系広域の働きに作用して中枢の機能をコントロールするものを「修飾系伝達物質」といい、有名なところでは、
「NA(ノルアドレナリン)」
「DA(ドーパミン)」
「5-HT(セロトニン)」
などがそれに当たります。
「グルタミン酸」や「GABA」といった伝達物質は投射先に神経インパルスを発生させることによって専ら「0,1」の信号を伝達するものです。これに対しまして、「修飾系伝達物質」といいますのは神経系の広域に投射され、無数の神経細胞の働きを一気に変化させます。例えば、NA(ノルアドレナリン)の「活性投射」を受けるならば、その神経細胞は一定の期間情報信号を活発に流せるようになるのですが、5-HT(セロトニン)の「抑制投射」を受けるならば情報を受け取っても反応が弱いために次の細胞に信号を送ることができません。これが神経系の広域で起こるために、修飾系伝達物質の分泌は脳内の覚醒状態を一様に変化させることになります。となりますと、このような伝達物質の投射によって脳内の覚醒状態が変化するのであるならば、当然、我々の「気分」や「考え」はこれによって変わるということですよね。

さて、我々の「心の動き」といいますのは知覚入力に対して発生するものです。何らかの知覚入力がありますと、中枢系はそれに判断を下し、結果を出力します。基本的には、各々の伝達物質を含有する神経核は、この中枢命令に従ってそれを投射します。つまり、我々の脳内では、知覚入力によって得られた環境の変化に中枢系が判断を下すことによって必要な神経伝達物質が放出され、与えられた状況に応じた適切な覚醒状態の変化が発生するということですね。
ですから、最も基本的な流れとしますならば、
「知覚入力―中枢処理―伝達物質の放出―覚醒状態の変化―情緒の変動」
ということになると思います。
大脳辺縁系の系統における情動反応で言いますならば、NA(ノルアドレナリン)は「快情動」「不快情動」のどちらに対しても分泌され、注意力・認知機能・記憶機能を一様に亢進させます。ですから、我々の脳内における「意識の発生」といいますのは、圧倒的にこの「NA投射」が関わっているということになります。
「DA(ドーパミン)報酬回路」といいますのは、「快情動」には反応しますが「不快情動」には一切反応しません。ですから、不愉快な思いをして満足感を得られるというひとは何処にもいないわけですね。「β―エンドルフィン」はどちらかと言いますならば内分泌ホルモンのような性質がありますが、これも「快・不快」には属さずに分泌され、「DA報酬回路」の幸福感を増幅させたりするだけではなく、あまつさえ、NAの分泌によって亢進されるはずの痛覚神経を鎮痛作用によって麻痺させてしまうとなどいった、たいへん不可解にして割りと都合の良い機能も持っています。一口に神経伝達物質と言いましても、その機能はあまりにも複雑ですよね。

>メンタルヘルスのカテをうろうろしていたら、うつ病の話題が多くあがっていました。抗うつ剤と呼ばれるものはこの脳内物質を操作するものなのでしょうか。

これまで申し上げました通り、ほとんどの伝達物質は知覚入力によって得られた環境の変化に対して選択的に分泌されるものです。ですが、このうち「5-HT(セロトニン)」といいますのはちょっと毛色が変わっておりまして、これは一切の知覚に影響を受けることなく、身体内リズムによって恒常的に分泌される修飾系物質であります。しかも、これはほとんどの神経系に対して抑制に働くため、この5―HT(セロトニン)は脳内の「安静覚醒状態」を維持するための重要な働きを担っていると考えられています。ですから、我々の脳は与えられた環境の変化を乗り切るためにNA(ノルアドレナリン)やDA(ドーパミン)を分泌させ、一時的に覚醒状態を亢進させる必要があるのですが、これは本質的には「ストレス対処反応」であるため、脳や身体にとっては決して楽な状態ではありません。このため、何れはこの5-THの恒常分泌によって我々の脳は自然と通常の安静覚醒に戻ってゆくことになっています。上手くできていますよね。ところが果たして、これがちゃんと元に戻ってくれないというのが、何を隠そう「うつ病」です。

「うつ病」の要因といいますのは、大脳辺縁系における「心的外傷」と、5―HT(セロトニン)の分泌不足といった「機能的弊害」が挙げられると思います。
「心的外傷」といいますのは「うつ病」そのものであり、ストレスとなる環境に曝されたり、過去の体験によって大脳辺縁系の不快情動が慢性化してしまうというものです。ですから、こちらはまず原因を排除するというのが最も重要な手続きということになります。これに対しまして、脳内の安静覚醒状態を維持するための5-HTの分泌が遺伝的・体質的に不足してしまっているために必要以上のストレス反応が発生してしまうという場合には、「抗うつ剤」の投与による治療に効果があると読んだことがあります。
私の知る限り、この「抗うつ剤」といいますのは、5-HTの受容体と親和性を持ち、神経細胞上の受容体をわざと塞いでしまうというものです。抗うつ剤が受容体を塞いでしまいますと、神経細胞は5-HTを受容することができなくなります。このため、5-HTを少しでも受容するために細胞は自分自身の受容体の数を増やそうとします。そこで頃合を見計り、5-THの邪魔をする抗うつ剤の投与を止めますと、そのときには細胞側の受容体の数が以前よりも増えていますので、5-THの分泌が少なくても安静覚醒状態に戻りやすくなり、うつの症状が緩和されるというものです。
私は医学・薬学には全く知識がありませんので、知っているのはこれだけです。このような抗うつ剤による受容体数の変化は神経細胞の「可塑的変化」によるものであり、概ね二週間ほどで効果が現れるそうです。5-HTの分泌が少ないために、逆に受容体の働きを一時的に阻害して数を増やしてやろうなんてのは、やり方が非常に面白いですよね。

投稿日時 - 2007-04-21 21:28:33

お礼

いつもながら丁寧なご回答ありがとうございます。
精神や自我についてひとつの節目ができましたので質問を閉めさせていただきます。
またよろしくお願いします。

投稿日時 - 2007-10-13 09:37:57

ANo.8

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回答(8)

ANo.7

こんにちは。
ANo.6です。
ずいぶんと熱心に調べておられるようですね。

>下記の文のように脳を原子かそれ以下のレベルでまるっきり同じようにコピーしたとしたら意識も同じものが発生すると思いますか。

このようにして発生したふたつの意識は、これは決して同じものではないと考えるべきだと思います。
このような仮定は過去に様々な科学の分野でしばしば取り上げられてきましたが、これを肯定する論議が成されたことは恐らく一度もなく、仮に脳、もしくは記憶情報を含む全てのシステムが別の場所にコピー・移植されたとしましても、双方の結果としてそこに発生するふたつの思考や意識が同じものであるということは、現在の科学では、原理的にあり得ないと考えられています。但し、このようなことは少々先の未来技術でも実現はできませんから、どちらかと言いますならば「科学哲学的な見解」ということになると思います。

同様の結果が現れることと、それが同一であることは違います。
一卵性の双子を見る限り、全く同じ遺伝的体質に基づく神経系が同じような思考を行い、同じような行動を選択するというのは明らかな事実です。これは、全く同じ構造を持つシステムに、ほぼ同様の環境からの記憶情報が獲得されているからです。ですが、ここで問題にされなければならないのは双子の生後環境が異なっていたらどうなるかということではなく、それが全く同じ条件であったとしましても、そこに発生する思考や意識はそれぞれのシステムに「固有の処理結果」であり、それは飽くまでふたつの別々の現象であるということです。
従いまして、まるで鏡のような行動を平然と行う双子の兄弟であったとしましても、まず、この二つの個別のシステムの間に「内省」という情報交換が行われ、この二人が同一の思考や意識を共有しているということはありません。そして、コンピュータとは違い、我々の脳の場合はその素子に当たる神経細胞が大脳皮質だけでも一億数千万あり、それが全く同じ配列で必ず同じ反応を発生させるということは現実的にあり得ません。
では、ご質問は「分子・原子レベルでそれを忠実に再現したらどうなるか」ということでありますが、このようなミクロの領域での物質の振る舞いは量子力学に示される「ハイゼンベルクの不確定性原理」に従い、更に脳のような「複雑系」の場合は複雑系科学における「カオス理論」によって、その結果がプロセスを含めて100%完全に再現されるということは、理論的にあり得ないと否定されます。

詳しい説明は省きますが、量子力学においては「不確定性原理」の明証に基づき、ミクロの現象は観測という行為が行われない限りどのような結果が発生するかは確率でしか示すことはできず、未来は未確定であるとされています。そして、無数の因子によって構成される複雑系の自己組織化現象といいますのは、本質的には「初期誤差の指数関数的な増大」によって再生・維持されています。
この二つの立場は違いますが、
それぞれに、
「初期状態を基に未来の結果を算出することはできない」
「現在の結果を基に初期状態を逆算することはできない」
と主張しています。つまり、仮に構造も条件も全く同じであったとしましても、この世に同じ現象というものはふたつと発生しないということです。ですから、双子の脳に限らず、我々の脳が全く同じことを考え、全く同じ結論を出したとしましても、それは厳密にはプロセスの異なる別々の現象ということになります。

では、細胞・分子・原子といったミクロのレベルであれ、そのプロセスが必ず異なるということであるならば、どうして気象現象や生態系といった自然現象は繰り返され、我々の脳は常に同じ判断を下すことができるのでしょうか。それは、このようなものがみな無数の因子が集められることによって構成される「複雑系」であり、その結果とは全てマクロの領域に現れるものであるからです。そして、そこには必ず「誤差の指数関数的増大」というものが発生しています。
繰り返され、再現性のある運動や現象の作業曲線は「アトラクター」と呼ばれる「フラクタル構造」を描きます。繰り返される現象ですから、それは「周回軌道」であり、もちろん概ね同じところは通るのですが、同じ軌道を通るということは絶対にありません。これは、ミクロの領域ではそこに必ずや何らかの誤差が発生するからです。
では、その誤差の発生が一回だけであったならばどうなるでしょうか。ずれた軌道はそのまま永遠に進み続け、二度とそこに戻って来ることはありませんね。同じところに戻って来て周回軌道を執るのは、次から次へと無数の誤差が発生し、それが指数関数的に積み重なってゆくからです。その結果、アトラクターは二度と同じ軌道を通らない周回軌道となります。そして、それは「フラクタル構造(自己相似性)」を持ち、その系は自己組織化現象として繰り返し再生・再現されているということになります。
コンピュータ素子に誤動作が発生したらどうなるでしょうか。コンピュータは必ず違った結果を出力するはずです。ですが、我々の脳は複雑系でありますので、逆に無数の誤差が発生することによって初めて同じ作業を再現させることができるわけです。ですが、コンピュータのように必ず同じ結果を出力するということは絶対にできません。

このように、脳といいますのは同一人物の全く同じ構造・条件でありましても、全く同じ結果を出すことはありません。質問者さんの仰る、脳は情報処理システムなのだから、全く同じ構造であるならば同じ結果が得られるはずだというのは、ニュートン力学における「確定論」であるならば通用する話です。ですが、現在の科学ではこれは適用されません。
運動の法則を解明したニュートン力学では、三次元座標や時間・運動量などの初期値が決定されるならば、その結果を計算によって導き出すことができます。つまり、未来の結果を予測することができるわけです。ですが、17世紀に始まり、二百数十年に渡って科学の世界を支配してきたこのニュートン力学における「確定論」は、20世紀になって「未来は未確定である」とする「不確定性原理」の提唱によって完全に否定されてしまいました。

脳をコピーしたらどうなるかといった議論は、科学の世界でも過去にしばしば行われていると申し上げました。恐らくこのようなものは、医者や生理学者ではなく、どちらかといいますならばフォン・ノイマンやアラン・チューリングといった工学系の学者を中心に行われた「生命論」の論議ではなかったかと記憶しています。何故ならば、それはコンピュータや人工知能の研究に平行していたからですね。そして、このような物理学者たちが量子力学といった既存認識に基づいて考察を行うならば、脳のコピーというのは成された瞬間から、その意識・人格は別物である、ほぼ例外なくこのような結論に帰結することになると思います。
誰のどの文献に書いてあったといったことをご紹介できれば良いのですが、複数のものがあることは間違いないのですが、すみません、ちょっと何も思い出せません。検索キーワードは「人工知能」「人工生命」といったものになると思いますが、執りあえず「意識・人格のコピーはできない」というのは数ある科学哲学の中でも比較的広く受け入れられている認識であることは間違いありません。はっきりと憶えているものでは、このようなことを題材に書かれたグレッグ・イーガン著「順列都市」というSF小説があります。この物語はズバリ、人間の脳をコンピュータのハード・ウェアに移植したらどうなるかということを中心に描かれています。現在の質問者さんの興味に即した、たいへん面白い読み物ではないかと思います。
また、同じイーガンの作品で、「宇宙消失」というのは人間の精神を基盤に、先に触れました「ハイゼンベルグの不確定性原理」を前面にクローズ・アップしたたいへん興味深いものです。もし手にしたことがなければ「順列都市」の方は一読をお勧めします。SF小説しか紹介できなくてすみません。でも、このひとの本、結構みんな面白いですよ。

>意識は少なくとも脳の中にあることは間違いない、と断言できるのでしょうか。

はい、これは間違いないと思います。
但し、それは実体として存在するものではなく、神経系の情報処理の過程で発生する「現象」であると考えてはいかがでしょうか。要は「副産物」ですね。従いまして、特定されなければならないのは「意識という物」ではなく、我々の脳内で「意識という現象」を司っている生理学的構造ということになります。そして、それは大脳皮質内で認知機能を司る連合野であります。では、どうしてそう言い切れるのでしょうか。
何でもそうですが、物事といいますのは「性質や構造」を基に、その「理由や意義」を導き出すのが手順となります。そして、その上で客観的な事実との比較・検証を行うわけですよね。ですから、ここではまず「意識の性質と構造」、そして「意識の生物学的意義」に就いて纏めておきたいと思います。

以前の回答が頭の中でごっちゃになっていますので、同じことを繰り返すかも知れませんがご容赦下さい。
まず、意識が神経伝達の過程で発生する現象であるとしますならは、それは知覚入力に基づく結果を選択・出力するための中枢系の情報処理ということになります。これが「意識の構造」ですね。
では、我々の脳内には結果を出力するための中枢系が、
「生命中枢:本能行動:無意識行動」
「大脳辺縁系:情動反応:無意識行動」
「大脳皮質:認知・思考:意識行動」
と三系統あります。
この内、無意識行動を司る二系統には意識現象は発生しません。その理由は二つあり、まずこの情報処理が大脳皮質を経由していないということと、無意識行動といいますのは意識が発生する前に結果が出力されてしまうということです。ですから、無意識行動には以下のような特徴があります。
「大脳皮質を経由していない」
「意識に留める必要がない」
「意識に留める時間がない」
「情報が川下にしか流れず、短期保持も逆戻りもしない」
これに対しまして大脳皮質の意識行動といいますのは、
「大脳皮質が主体となって行われる」
「意識に留める必要がある」
「意識に留める時間が必要である」
「情報や結果が短期保持され、フィード・バックされる」
ということになり、これが無意識行動とは異なる「意識の性質」ということになります。

大脳皮質を経由しなければ発生しないということは、取りも直さずそれは大脳皮質の機能ということになります。
「情報が短期保持される」ということは、それが「短期記憶」として一時保持されるということです。これが一定の時間保持されないのであれば、我々は自覚する暇がありませんので、それは無意識行動ということになってしまいます。ですから、意識といいますのは必ずその時間内に発生しているはずです。
入力情報を一時保持しなければならないのは、それを複数の別の情報と比較・分類するためであり、この作業を「認知」といいます。そして、入力された知覚情報や呼び出された記憶情報を短期記憶として一時保持し、認知作業を行っているのは「連合野」であります。従いまして、意識という現象は大脳皮質内で認知作業を司る連合野の機能によって発生しているということになります。

このように、連合野の認知といいますのは複数の情報を扱う作業です。何故そのような必要があるのかと言いますならば、それはより高度な状況判断を行うことによってなるべく価値の高い行動を選択するためです。
本能行動や情動行動のように無意識な行動を選択するだけでしたら情報の一時保持は不必要ですから、その分だけ迅速な対応が可能になります。ですがこの場合、判断は早いのですが、我々が生後環境から獲得した様々な記憶情報はほとんど役に立っていないことになります。従いまして、本能行動や情動行動に対する、意識行動の生物学的意義とは「学習結果を基に与えられた状況の変化に対応した、より価値の高い結果を選択する」ということであり、そして「意識」とは、これ実現するための大脳皮質「連合野」での認知作業に付随して発生する「随伴現象」、即ち「副産物」ということになるわけですね。

>となると脳を持たない生物は意識がないとなるのでしょうか。

そうですね、脳、あるいは神経系の伝達を行わない植物にはその機能そのものがありませんので、意識はないということになります。そして、動物の本能行動は申し上げるまでもなく神経系の「無条件反射」であり、更に高等動物でも「情動行動」は無意識行動です。そして、爬虫類以下の下等動物における学習行動は「条件反射」であり、これは情動行動と同じ性質の無意識行動に分類されます。ですから、意識現象の伴う学習行動、即ち「計画行動」を選択することが可能なのは、その脳内に新皮質を発達させた我々哺乳類と鳥類だけということになると思います。
但し、下等動物や植物に「意識」はありませんが「意志」はあります。自分に与えられた生命を全うし、生きてゆこうとする「意志」といいますのは、この世の全ての生物に洩れなく存在しますので、この辺りはくれぐれもお間違いのないようにお願いしますね。

>意識って何?という疑問も沸いてきてとめどなくなるのですが。

哲学のカテにも足をお運びになったんですね。本当に熱心ですね。
元々たいへん難しい問題なんですから、ゆっくりと、じっくりと、ひとつひとつ納得のゆくようにお調べになったらいかがでしょうか。
「意識」以外でしたらねえ、私も脳に関しては結構確実な情報を持っているつもりではいるんですが、「意識」となりますとね、きちんとした答えを探すのは中々たいへんだと思います。

投稿日時 - 2007-04-04 18:35:06

お礼

いつも丁寧なご回答ありがとうございます。
知れば知るほど不思議な世界ですね。
また質問させて頂いてもよろしいでしょうか。エンドルフィンという脳内物質についてなのですが、これは嬉しい時などに発生するようですが、嬉しいとエンドルフィンが発生するのでしょうか。それともエンドルフィンが発生すると嬉しくなるのでしょうか。
気持ちが先か脳内物質が先か、ということなんですがどうでしょうか。意識が神経伝達の過程で発生する現象とすれば脳内物質が先のようにも思いますが。

メンタルヘルスのカテをうろうろしていたら、うつ病の話題が多くあがっていました。抗うつ剤と呼ばれるものはこの脳内物質を操作するものなのでしょうか。
いつも質問ばかりですいません、よろしくお願いします。

投稿日時 - 2007-04-20 00:17:52

ANo.6

こんにちは。
ANo.5です。回答をお読み頂き、ありがとう御座います。

>例えば単純な円や四角などの図形を記憶するためにはいくつの脳細胞が必要で、こういう神経回路を形成するなどです。

我々の視覚における図形や色彩の「知覚処理」を司る生理学的構造といいますのは以前からかなり詳細に調べられています。ですがその先の、この知覚情報が「認知処理」され、記憶として保持される過程ではどのような情報処理が成されているのかというのはほとんど分かっていと思います。
まず、視覚処理における生理学的構造は全人類に共通の生得的なものであり、解剖学的に特定が可能でした。ですが、その先の体験記憶の形成といいますのは個人々々みんなバラバラで、何時どんな情報が処理され、どんな順序で何処に保管されるのかは全く分かりません。記憶とは生後学習による後天的な接続の強化によって特定の反応特性を獲得した神経回路であることは科学的に予測されています。とはいえ、それが物理的にどのような接続で如何なる情報と対応するのかといったことは、それを解剖学的に特定するのは技術的にほぼ不可能だと思います。ではまず、これがひとつの前提となります。

>逆に言うと認知という方法を用いないで脳細胞を直接操作する事で記憶を作り出すことは理論的に可能なのでしょうか。

可能だと思います。
連合野の機能には「認知」「記憶形成」「記憶再生」というものがあります。このうち、「記憶形成機能」に障害が発生するものを「学習障害・前向性健忘」、「記憶再生機能」によるものを「逆向性健忘」と言います。そして、記憶形成も記憶再生も正常なのに、それが何だか分からないというのが「認知症」ですね。
これらは全て「器質性傷害」と言われるものですが、このように組織損傷と機能障害の因果関係が極めてはっきりとしているということは、我々の脳内では「認知」「記憶形成」「記憶再生」というのは明らかに機能分離しているということになります。そして、記憶といいますのは生後学習による後天的な接続の強化によって特定の反応特性を獲得した神経回路であり、それは「記憶形成機能」によって「長期増強」されるものです。ならば、この記憶形成の過程で行なわれる情報処理と情報の内容が生理学的に特定され、これを電気刺激や薬物投与などによって制御することができるのであるならば、認知を伴わない記憶形成は原理的に、あるいはSF的には可能ということになります。ですが、現実には先に述べました、そんなことは不可能であるというひとつの前提があります。
また、我々の記憶といいますのは、「何時、何処で、誰が、何をしたか」といった、ひとつの対象がカテゴリー分類されるだけではなく、同時学習された複数の概念と連想記憶の関係を形成しています。そして、このような関係は認知・思考の過程で作られるものです。では、認知を伴わずに埋め込まれ、これを持っていない、本人も知らない記憶情報とは、いったいどのようにして検索され、再生されるのでしょうか。

>・思考と意識とは別物なのでしょうか。意識のない思考、思考のない意識は想定できるのでしょうか。

「意識のない思考」というのはOKソラシド(何のこっや?)
「思考のない意識」といいますのは、ちょっと……。
医療の分野では、「意識のあるなし」といいますのは本人が知覚認知の可能な状態であるかないかを指します。ですが、ここで扱われる「意識」というのは認知が行われることによって初めて発生する「現象」であるべきだと考えます。ならば、「認知」と「意識」というのは本質的な関係にあり、「認知の伴わない意識」というのはあり得ないということになります。そして、「思考」といいますのは「複数の認知結果を統合する作業」であります。従いまして、思考を行うためには何らかの認知処理が成されているわけですから、意識はその過程で必ずや発生しているということになると思います。

私は以前、数学の計算というのは意識を伴わない思考であるという記事を読んだことがあります。ですが、考えてみればこれもあいまいな定義でありまして、そのときはなるほどと思ったのですが、数学の計算でも、意識に上る部分と上らない部分がありますよね。では、その「意識に上らない部分」とはいったい何でしょうか。
思考の目的が結果選択であるならば、意識に上らない結果選択とは「直感」であります。では更に、「直感」ってなんですか???
「直感」とは、論理的な思考を伴わない結果選択であります。
別な回答で使った例えですが、我々は「3×4×10=120=十ダース」といった計算などで、しばしば「サンシが十ダース」といった離れ業をやってしまいますよね。誰でもできることですから大した離れ業でもないのですが、少なくともコンピュータにはできません。
このようなことができるのは、我々がそれを何度も繰り返して体験し、学習をしているからです。その結果、本来、論理的な思考によって導き出されるものであるにも拘わらす、我々は途中のプロセスをスキップして適切な結果を難なく選択することができてしまうわけです。確かに、数学の計算といいますのはそのような部分がありますし、我々が小学校で習った「九九」なんていいますのは、正に反復学習によって実現する意識に上らない結果選択であると思います。そして、数学の計算のような無機質な作業に限らず、我々は日常、あれこれといった途中の判断は手抜きをして、学習経験によって瞬間的な結果選択を行うということが幾らでもできますよね。
元々無意識行動である「本能行動」や「情動行動」を除くならば、「直感」とは論理的な思考を伴わない大脳皮質の結果選択であり、それは学習によって我々に獲得された「えいっ、やっ!」の行動様式です。「意識を伴わない思考」といいますのは、このような形で想定できると考えます。

では、これまでの二つのご質問で、もうひとつチェックしておかなければならないのは、無意識にのうちに形成されてしまう記憶というのはあるのかということです。
まず、大脳皮質以外で学習機能を有する「大脳辺縁系」「小脳」「大脳基底核」に形成される「情動記憶」及び「運動記憶」といいますのは、端から無意識記憶です。そして、世の中には「サブミリタル効果」ですとか「催眠療法」といったものもありますが、大脳皮質における学習記憶というものが認知結果に基づいて形成されるという原則に従うならば、無意識の記憶形成というのは基本的にはないということになります。では、もしそれが再生されたとしますならば、ともすれば意識に上らなかった記憶であることも考えられますが、どちらかといいますならば、意識したことを本人が忘れてしまっている可能性の方が高いです。そして、もうひとつ厄介なことに、一度意識に上ったからといいましても、何が記憶に残り、何が記憶に残らないかは自分の意志ではコントロールすることはできません。これができれば、試験に落第するひとはいないはずです。

>・キリストを見て神だと判断するには知識が必要ですが、ただのおじさんと思う限りは知識は必要ないように思います。つまり、幽霊を見るのに知識(記憶)は必ずしも必要じゃないのではないかと思います。

そうですよね。奇跡を起こせなければイエスはただのおじさんです(但し、彼の活動期間は二十代後半から三十代ちょいくらいじゃなかったですか)。
イエスは神ではなく、「神の子」ですよね。実際に「神・エホバ」の姿を見たことがあるのは全人類でモーセただひとりであります。モーセはそのとき、エホバから「我が姿を具象化することは決して許されない」と言われます。これは十戒に記された「神と人類との契約」でありますから、この世にエホバの姿を描いた絵や彫像というものは一切存在しません。あるのはマリアの絵やイエスの像だけです。従いまして、ユダヤ、イスラム、キリスト教を通して神様がどんな姿をしているのかを知っているひとはこの世界にひとりもいません。にも拘わらず、今日まで神の存在が維持されているのは、それは聖書の示す「戒め」があるからです。
イエスはその後「預言者」として登場します。そして、神の子として様々な奇跡を起こすわけですね。人々はその予言に対して恐れおののき、信者となりました。つまり、通常の現象であるならば既存の知識で認識が可能なのですが、そうでないものに対しては、我々の脳内には「不安」や「恐怖」といった情動が発生します。この不安や恐怖が幽霊や神様を作り出します。従いまして、奇跡を起こせなければ人々の心の中に神の存在を示すことはできないわけです。ですから、イエスが何らかの奇跡を起こしたというのは事実なのだと思います。ですが、どんな手を使ったのかは分かりません。
エホバはモーセに「自分は神だ」と名のったらしいですね。ですが、普通ならばそんな話を鵜呑みにするひとはいません。では、モーセの脳内でそれを信じるに値する恐怖や不安が発生したのは、彼もまた生地を追われ、エジプトの迫害を受ける当時のユダヤ人の悲痛な叫びをその心の中に背負っていたからではないでしょうか。
それを神と認識したのはモーセの知識ではありません。与えられた恐怖と不安、そして、絶望の淵に示された唯一の「希望」であります。正にエホバは、それを望むものの前に姿を現したんです。起こり得ないことが起こるならば、ならば、もしかしたら自分たちユダヤ人にも開かれた未来が訪れるかも知れないではないか。モーセはユダヤの運命をエホバに託しました。その結果、ユダヤ人は歴史上のあらゆる迫害に耐え忍び、現在でも自分たちの社会を築いています。
(最初に「エホバ」書いてしまいましたので統一しましたが、「ヤハウェ」と読む方が近いらしいですね)

>もちろんその時はそれを幽霊と判断できないでしょうが、後日それだと分かるとゆうような事があるのではないでしょうか。

上記のように、幽霊といいますのは不安や恐怖によって生み出されるものです。これらは大脳皮質の論理的な情報処理ではなく、知覚入力に対する大脳辺縁系の情動反応として無意識に発生するものです。
「不安」といいますのは状況判断が下せないとき、「恐怖」といいますのは状況に対処できないときに発生します。「想像」といいますは知識という既存情報の組み合わせや比較によって実現するものですが、幽霊というのはその認識が及ばないために生み出されるという性質があります。脳はこの情報の不足を補うために、存在しないものが存在したという間違った結論を出してしまいます。
あるひとが通常とは異なる体験に恐怖や不安を抱いたとします。また別のひとも同様の体験をし、この二人が情報交換を行ないますと、あそこに昔おばあちゃんの言っていた幽霊が出るぞ、ということになります。そして、やがて状況が明確になり、既存認識による対処が可能になりますと、「幽霊の正体見たり枯れススキ」ということになるわけですね。

幽霊が実在するかどうかの問題は別としましても、この場合は、恐怖や不安という情動の発生によって脳が間違った結果を選択してしまったというのは事実です。では、どうしてこのようなことが起こるのかと言いますと、それは、我々の脳内にはなるべく早く通常の安静覚醒状態に戻ろうとする機構が働くからです。
知覚入力に対して大脳辺縁系に情動反応が発生しますと、「青斑核A6」からは「NA(ノルアドレナリン)の広域投射」が行われ、脳の覚醒状態が亢進されます。これを「ストレス対処反応」といい、脳や身体にとっては決して楽な状態ではありません。このため、脳はなるべく早く「5-HT(セロトニン)の恒常的分泌」による通常の安静覚醒状態に戻ろうとします。
不安や恐怖といいますのは状況判断や行動選択に対して情報の不足している状態です。全ての情報が与えられていないのにどうして結果を出力することができるのかというのはまだ分かっていませんが、このような生理的機構が働くのはシステムが暴走してしまうのを防ぐためです。ですから、脳は自分が楽になるために適当でも手っ取り早く結論を出そうとします。我々に思い込みや勘違いが発生するのはこのときですね。「夕暮れの枯れススキを見た」という判断が下されない場合は、脳は何か別の結論でそれを穴埋めします。

>ヘレンケラーさんの事例を見ると知識と意識は密接に関係しているように思うのですが。

そう言えば、そんな偉大なひとがいましたよね。ヘレン・ケラーがどのようにして人格を形成していったのはたいへん興味のある議論ですが、空想で物を言ってはいけませんので、私も一度、彼女の生涯に就いては調べてみたいと思います。
我々が知識を獲得するということは、知覚入力として得られる環境情報を概念として意識に上げられるようにするということです。指導したひとの献身的な努力も然ることながら、彼女の不屈の精神には想像を絶するものがありますよね。そして、我々が想像をし得ないのは、例え健常人といえども外省による意識の共有はできないからです。にも拘わらず、彼女は他人と心を通い合わせるということをちゃんと学んでしまいました。信じられないくらい凄いことですよね。

投稿日時 - 2007-03-21 23:31:56

お礼

ご無沙汰しております。
しょうもないことを聞いてすみませんが、下記の文のように脳を原子かそれ以下のレベルでまるっきり同じようにコピーしたとしたら意識も同じものが発生すると思いますか。

#####
>原子の1万倍の大きさで原子とまったく同じ働きをする機構を作りそれを今の私の構造とまったく同じに組み合わせたら今の私とまったく同じ動きをし、今の私とまったく同じ主張するのではないでしょうか?
#####

上記の質問とダブルのですが、意識は少なくとも脳の中にあることは間違いない、と断言できるのでしょうか。となると脳を持たない生物は意識がないとなるのでしょうか。意識って何?という疑問も沸いてきてとめどなくなるのですが。

ご回答よろしくお願いします。

投稿日時 - 2007-04-03 22:41:52

ANo.5

こんにちは。
ANo.4です。中途半端な発言をどうかお許し下さい。
私は以前、質問者さんに回答を差し上げていたのですね、うっかりしていました。そして、あわてて前回のご質問と読み比べてみますれば、質問者さんが何か一貫した問題を提示なさっていることにようやく気付きました。
実は、今回の回答はほんのアドバイスのつもりでおりましたのですが、別のご質問とはいえ、一度は関係する問題に自分の意見を挟みました以上、ならば、これに関しましてももう少しきちんとした考えを提示しなければ、私は回答者として無責任ということになってしまいます。気付かなかったとはいえ、たいへん失礼を致しました。
ですが、実は現時点では、私は質問者さんが何をお知りになりたいのかということが今ひとつ掴み切れません。それに就いてもう少し教えて頂ければ、また何かのアドバイスもできるかも知れません。
「意識」というのは別格です。他の概念でありますならば、脳科学でも、従来の哲学・心理学でも引用の可能な知見はありますが、こと意識となりますと、私ごときが自信・確信の持てるものではありません。それゆえ、質問者さんのこの一連のご質問が何か深く有用なものであるように予感されてなりませんし、質問者さんご自信もそう主張しておられます。ならば、ここはひとつ、何らかの形でそれが具体的に提示されるならば、たいへん興味深い叩き台になるのではないかと期待を致します。
では、その前に今回は、質問者さんがご指摘をなさいます両者の共通点から、「意識と幽霊の構造」に就いて少し整理をしておきたいと思います。

項目が若干重複してしまいますが、
「意識」と「幽霊」には、
「外省という行為そのものができない」
「外省による客観的な評価ができない」
という共通点があります。
我々の神経系の情報伝達は、
「知覚入力―中枢処理―結果出力」
というプロセスで行なわれます。
実体がなく、知覚入力が得られないのであるならば、当事者と同様の体験をすることはできませんので、他者は外省という行為そのものを行なうことができません。では我々は、実体のないもの、知覚入力のないものをどうやって見ることができるのでしょうか。果たして「意識」も「幽霊」も、次のプロセスであります中枢系の情報処理によって内的に発生しているわけですね。そしてここでは、仮に当事者の体験を詳細に説明されたとしましても、他者の脳内には当事者と同じ結果を発生させることができません。また、同じかどうかを確かめることもできません。それは共に、「当事者の主観的評価」、「他者の主観的評価」としてしか存在し得ないわけです。従いまして、「意識」及び「意識に上った幽霊の姿」に対して外省という客観的な評価を行うことは原則的に不可能ということになります。

>確かに五感をつかさどっているのは脳ではありますが、それに対して何らかの接触、刺激、アクション、が与えうる存在の可能性はないでしょうか。

仰る通りですね。
知覚入力の伴わない認知といいますのは、それは即ち「記憶情報の想起に伴う思考・想像」と言及して構わないと思います。もちろん、このような中枢系の反応は何らかの知覚入力が引き鉄となって発生するというのが最も通常です。ですが、知覚といいますのは感覚野から感覚連合野への入力であるのに対しまして、知覚記憶の想起とは記憶連合野から感覚連合野への入力であります。ですから、脳の構造上、認知には必ずしも知覚入力が必要であるということにはならないはずです(記憶連合野とは正式用語ではありません)。
事実、我々は眠っているとき、少なくとも視覚器官は完全に閉ざされていますが、夢を見て、それを記憶することができますよね。但し、これも五感が完全に閉鎖されてしまっているわけではありませんから、空腹という知覚が発生したためにご馳走を食べる夢を見てしまったり、あるいは何かの音が耳に入ったため、それが切っ掛けで視覚記憶が再生されるなど、眠っているときの夢といえども、それが知覚入力とは全て無関係ということではありません。そして、質問者さんの仰います「接触、刺激、アクション」といいますのは、我々の心の動きの切っ掛けではありますが、これが知覚入力以外のものであるという可能性は、現時点では考えられません。敢えて挙げておきますならば、「無意識な記憶想起の偶発」というのはあるかも知れません。また、「幻覚の発生メカニズム」というのもチェックしておく必要がありますが、こちらはちょっと私の知識が及びませんので、すいません、パスさせて下さい。

このように、知覚入力がなくとも、我々は記憶情報の想起によってそれを意識に上げ、見ることができます。では、見ることができるのは記憶にあるからです。ならば、幽霊や神様がこの世に存在しないと仮定しますならば、我々は見たこともないものをどうやって記憶したのでしょうか。ですから、見たこともないもの作り出すのが「想像」ですね。そして「想像」とは、既存情報の組み合わせや比較によって可能になるわけですが、ここには脳というシステムの特別な性質が明らかに反映しています。

コンピュータや他のシステムと異なる我々の脳の際立った特徴とは、
まず、
「全ての情報が入力されなくとも結果を出力することができる」
ということです。
このようなことはコンピュータにはできませんし、脳が何故そんな芸当をできるのかということもまだ解明されていません。
これに付随して我々の脳は、
「全く同じ結果を出力することができない」
「間違った結果を出力する」
「情報そのものが劣化・欠落する」
という性質を持っています。
さて、人間の脳が幽霊や神様を生み出すことができたのは、単に既存情報を組み合わせただけではなく、与えられていない情報があっても結果を導くことができたからです。そして、もし幽霊や神様がこの世に存在しないというのが事実であるならば、脳は事実とは異なる間違った結果を選択したことになります。結論を急ぎますと、ここで最も重要なことは、脳といいますのは完璧な結果を出すことはできませんので、どのような幽霊や神様が生み出されるのかは全く分からないということです。
もしこの「想像という情報処理」が生得的に定められたプログラムに従うものであるならば、その結果は全人類に共通であるはずです。ですが、それは先天的な反応基準に従って発生しているのではなく、明らかに生後体験によって獲得された学習記憶に基づいて実行されています。従いまして、幽霊や神様の構造を決定する遺伝的・生理学的実体というものは、我々の脳内には存在しません。

通常、我々が幽霊や神様を見ることができるのは、誰かがそれを作り、こんなもの、あんなものと言うのを学習しているからです。では、一番最初にこんなものと言ったのは誰なんでしょうか。神様の出現であるならば、モーセとエホバの遭遇が人類史上最も有名な記録ですよね。これを基に、聖書にはこんなものと記されることになりました。ですが、モーセが持ち帰ったのは聖書ではなく十戒です。では、聖書はどうやって唯一の神様を完成させたのでしょうか。
幽霊や神様の姿かたちは遺伝的に決定された生得的な反応様式によって作られたものではないと申し上げました。ですが、このような反応がなければ我々の脳内に心の動きというものが発生することはありません。少なくとも、切り離して考えるのは難しいですね。
例えば、「苦痛」や「恐怖」といったものに対する反応規準は、人類とは言わず、ほとんどの動物に共通であり、これは遺伝的・生得的な反応です。ですから、恐らく何時の時代、何処の国に行っても、このような規準に従い、幽霊は怖いもの、忌まわしいもの、神様とは恐れ敬うものといった、一貫した方向付けが成されているのだと思います。そして、聖書や仏教といいますのは、我々人間の生得的な欲望や恐怖といったものを論理的に纏め上げていったものですよね。
とはいえ、ゴーストと四谷怪談、アラーの神と仏様では細かいところが全然違いますよね。明らかにこれは、その国や時代によって作ったひと、伝えたひとが違うからです。因みに、ゾロアスター教の光明神は、日本では鎌倉の大仏様かなんかにおなりあそばしているそうです。

幽霊や神様がこの世に実在せず、そのための生理学的メカニズムが定められていなくとも、我々の脳はそれを生み出すことのできる性質を持っています。
これが「幽霊の構造」です。
それは生得的な反応規準に従って決定される人類に共通の結果ではなく、生後学習によって獲得された判断規準に基づいて個人の主観として生み出されるものです。ですから、我々の脳内には幽霊のスペックと対応する遺伝的・生理学的実体というものはありません。そして、どのような結果が生み出されるかは生後環境や個人体験によって様々に異なり、それを客観的に比較する手段は原則的にありません。
反応の結果は必ず主観として発生するものですが、これが即ち「意識」です。ですから、幽霊や神様に限らず、富士山、東京タワー、新幹線、存在が明らかに認められているものでありましても、それが知覚入力以降、中枢処理のプロセスで意識に上ったものである限り、外省の手段はありません。ならば、意識とは幽霊や東京タワーといった特定の反応結果ではなく、意識に上る全てのものの総括であり、それはどうしても何かの機構と思われてなりません。ところが、我々の脳内でそのような構造はワーキング・メモリーとして働く連合野が挙げられますが、今度はそこでの結果を意識として別に受け入れる場所というのが何処にも見当たりません。まして意識といいますのは、東京タワーであれ恋人の姿であれ、何か意識に上る対象がなければ発生することはないわけです。そして……、
ということで、今回、この回答で意識の構造を纏めるというのはここで不可能となりました。取り敢えず、幽霊の構造だけでカンベンして下さい(力が及びませんでした)。

質問者さんのお知りになりたいことを具体的に提示したらどうかなどと申し上げておりますが、この回答は決して補足要求ではありませんので、その辺りはお気楽にどうぞ。ご返答の頂ける頂けないに関わらす、今回ANo.4の不始末をお詫びした上で、今後も論議に参加させて頂けますならば、混乱を避けるために、なるべく内容の一貫した発言を心掛けるように致します。

あ、そうだ!

>脳に対する物理的探求の限界が見えているのであれば別のアプローチが必要なのではないでしょうか。

そう言えば、前のご質問で私は確か脳科学ではお手上げ状態と書きましたよね。ですが、脳の探求が限界に達しているということはありませんよね。極めて困難ではありますが、脳の研究はこれからです。別の、あらゆるアプローチが必要だと思います。
なるほど、幽霊ですか。

投稿日時 - 2007-03-17 17:40:46

お礼

いつもながら詳細なご回答ありがとうございます。
私の素朴な疑問に付き合っていただいて感謝しております。

少し事実関係を整理したいのでいくつか質問させてください。

・記憶のメカニズムは解明されたのでしょうか。例えば単純な円や四角などの図形を記憶するためにはいくつの脳細胞が必要で、こういう神経回路を形成するなどです。逆に言うと認知という方法を用いないで脳細胞を直接操作する事で記憶を作り出すことは理論的に可能なのでしょうか。

・思考と意識とは別物なのでしょうか。意識のない思考、思考のない意識は想定できるのでしょうか。

・キリストを見て神だと判断するには知識が必要ですが、ただのおじさんと思う限りは知識は必要ないように思います。つまり、幽霊を見るのに知識(記憶)は必ずしも必要じゃないのではないかと思います。もちろんその時はそれを幽霊と判断できないでしょうが、後日それだと分かるとゆうような事があるのではないでしょうか。

今回のruehasさんの回答を拝見して、記憶(知識)と意識がどう関係しているのか非常に興味が出てきました。ヘレンケラーさんの事例を見ると知識と意識は密接に関係しているように思うのですが。

今回の質問の意図としては”意識”に対してこちら(脳科学)から近づくことができないのであれば、向こう岸(霊界?)からこちらに近づけないか、という感じです。あまり深い意味はないのでお恥ずかしい限りです。

投稿日時 - 2007-03-21 00:31:46

ANo.4

こんにちは。
脳科学で幽霊を扱うということは、その時点で幽霊というのはこの世に存在しないということですよ。

幽霊というものが実在するのでありますならば、それは脳科学で扱う分野ではありません。では、それが脳科学や心理学で扱われるということは、取りも直さず幽霊というのは脳内の想像の産物であり、幽霊はこの世に存在しないということになります。
脳科学で「意識」というものを説明できないのは、生理学的・解剖学的な実体を特定することができないというのも然ることながら、それが「外省」という客観的な評価を受け付けない性質のものであるからです。では、幽霊も意識と同様に、その生理学的実体を特定することができないということになりますが、ですが、それ以前にこれが「内省」である限り、既に間違いなく神経系の反応結果による主観的な想像の産物でしかないわけですから、この時点で幽霊はこの世に実在しないということになります。

投稿日時 - 2007-03-16 17:35:50

お礼

ご回答ありがとうございます。
ご無沙汰しております。その節はお世話になりました。というかまだお世話になっている最中でした。

>生理学的・解剖学的な実体を特定することができない
このことから脳というハードウェアとは別の実体を意識は持っているのではないかと考えたわけです。もちろん脳なくして意識を想定するのはあまりに神秘的過ぎますが、脳を宿主としているように思えてなりません。

>幽霊はこの世に実在しない
確かに物理的には存在する可能性は低いと思いますが、意識もまた脳という物理領域に存在しないとすれば”存在”の否定はできないのではないでしょうか。

>「内省」である限り、既に間違いなく神経系の反応結果による主観的な想像の産物でしかない
確かに五感をつかさどっているのは脳ではありますが、それに対して何らかの接触、刺激、アクション、が与えうる存在の可能性はないでしょうか。

このような問いに脳科学が答えることはできない、或いは答える意味がない、というのは分かりますが、脳に対する物理的探求の限界が見えているのであれば別のアプローチが必要なのではないでしょうか。意識は副産物だと切り捨てるのであれば脳科学の名が廃るとおもいますがいかがでしょうか。その取っ掛かりとして幽霊は面白いと思うのですが。

投稿日時 - 2007-03-17 00:35:50

ANo.3

 確かに「否定」はできません。ただし、「否定できない=肯定する」ではありません。否定できないのと同様、肯定することもまたできないのです。

 現段階では「そういうことを主張する人々がいるが、一般性・再現性に欠けているため存在するということはできない」というあたりが妥当な答えになるでしょう。

投稿日時 - 2007-03-16 02:53:13

お礼

科学的じゃないと言う論理も科学的ではないのでしょうね。
分からない物は分からないと言える度量がほしいと思います。
ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2007-03-16 12:31:12

ANo.2

一つの仮説ではありますが。
京極夏彦著「姑獲鳥の夏」の一読をお勧めします。人間がなぜ怪異を見るかについて、非常に詳細に語られています。学術として読んでも、非常に興味深いですよ。小説としても、もちろん特級品です。

投稿日時 - 2007-03-16 02:00:22

お礼

面白そうな本の紹介ありがとうございます。
早速読ませていただきます。

投稿日時 - 2007-03-16 12:26:56

ANo.1

脳科学というよりは、哲学や論理学で議論すべき項目だと思いますよ。

“霊魂とは、どのようなものか”
“神は存在するか”

このような議論は、哲学や論理学の手法に則って、進めていけば、決して「非科学的なもの」ではありません。結構、昔から議論されてきたことですよ。少なくとも、幽霊など、それ自身は、科学として否定はしていません。
もちろん、幽霊などを、おかしな理論(カルト宗教に多い)と結びつける人たちを、否定するための道具としては、科学は活躍します。

具体的には、以下のリンク先をご覧ください。神や霊魂を積極的に肯定する、まじめな科学者もたくさん存在することがよくわかると思います。

“神の存在証明”
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%A8%BC%E6%98%8E

“霊魂”
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E9%AD%82

“存在”
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8

投稿日時 - 2007-03-16 01:23:49

お礼

確かにこの手の議論は哲学や倫理で行う類いなのですが、脳科学という切り口から見るとどのように見えるのか、と思い質問させていただきました。ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2007-03-16 12:24:20

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