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解決済みの質問

宗教と信仰

こんにちは。
宗教は、何かに頼らないと生きていけない人がするものでしょうか?
自分を信じる強い人は、宗教はいらないと思いますか?
私としては、信仰というよりも慣習として重んじているという感じで、
その文化を受けいれたいと思います。
もちろん、社会に災いをもたらすようなのはイヤですが。
ご意見を伺いたく思います。

投稿日時 - 2002-06-17 20:12:27

QNo.294122

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

 宗教ってなんだろう、と考える時に思い出すひとつの小説があります。フランチスク・ムンテヤーヌ「一切れのパン」。昭和五十年前後に中学校の国語教科書に収録されていたので、授業で読まれた方もおられるでしょう(私自身もそうでした)。この小説のあらすじは以下のようなものです。

 舞台は第二次大戦中のハンガリー。ルーマニアがソ連と手を結んだ為にルーマニア人である主人公はドイツ軍に逮捕される。彼はドイツ軍から人間性を剥奪されるような屈辱的な扱いを受け、他の逮捕者たちとともに監獄へ向かう列車に乗り込んだ。そこから脱走する際、主人公は車内で知り合ったユダヤ人のラビ(僧侶)から、布に包んだ一切れのパンを与えられる。ラビはいう、「パンをすぐに食べようとしてはいけない、いつどこで食物にありつけるか分からないのだから、耐えられるぎりぎりまで布に包んだまま持っているべきだ」と。主人公の孤独な逃走が始まった。飢えと乾き。あちこちにあるドイツ兵の影。死を目前にすることの絶望。彼はポケットに収めたパンを心の支えに、ついに窮地を脱して自宅にたどり着いた。ほっとした主人公は深い感慨をもって布包みを開く。そこにはパンではなく、一切れの木片が入っていた。

 この物語は、人の心の仕組みとそれがもたらす力をうまく言い当てています。中身が木片であった事にあまり目を奪われてはいけません。仮にこの中身が本当にパンであったとしても、それが主人公の支えとなったであろうことに変わりはないのですから。大切なのは、中身がパンであると信じること自体が彼に生きる力をもたらしたという、その一点です。

 いろいろな苦しみが渦巻く人生の中で、「現実」かどうかとは無関係に、人の心に映る像が人に力を与える。とても不思議なことです。宗教の持つ力っていうのは、そんな普遍的な人の心の仕組みの上に成立するものだと私は考えています。だから、強い人でも信仰を持ってる人はいるし、弱い人でも宗教を軽蔑している人はいるのです。

投稿日時 - 2002-06-18 00:54:01

お礼

ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2002-06-23 02:13:38

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回答(7)

ANo.7

私はクリスチャンです。

>頼らないと生きていけない

これは違うと私は思います。
私は普段は普通の生活をしているし、ずっと頼っているわけではありません。
ただ、悩んでいるとき、困っているときにはやはり頼りにします。

>信仰というよりも慣習として

それは、日本で言う仏教のような感じのやつですね。
命日だけ、般若心境読んだりするとか・・・
それは良くないと思いますよ。
キリスト教であれ、仏教であれ、形だけやるというのは、非常に良くないです。
それって信じてる意味ないでしょ。ただ周りに流されてるだけ・・・

信じるのなら、形だけはやめて欲しいと思います。

参考になるかわかりませんが、私がキリスト教について質問した時のURLを載せておきます↓

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=245756

投稿日時 - 2002-06-20 23:50:58

お礼

ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2002-06-23 02:12:08

ANo.6

迷いがあるとき、何かにすがりつきたい。
絶対的なものに依存したい。
そうしたところに宗教が
成立する余地があるのでしょう。
私もごく自然な宗教心というのは
大事だと思います。
特に死をいたみ、とむらうという部分では
宗教は
私にとっても重要です。
でも、ふだんの生活をしていくうえでは、
私には
宗教は不要です。
悩みも迷いもたくさんありますが、
自分の頭で考えて結論を出したい
と思います。
「信仰」ではなく、「信念」にもとづいて
生きていきたいと思います。
「強い」か「弱い」かは難しいですね。
それに弱くたっていいじゃないかとも思います。
そのほうが人間らしいとも思えます。
弱いだけではいけませんが、
たとえ一時的に弱くなったとしても
そこから立ち直ることができれば、
それでいいのだと思います。
教祖に対して批判的なことが
言えないというのは
まずいと思います。
宗教や信仰を否定するつもりは
ありませんが、
やはり冷静な判断が大切です。
ということで、
Amaterasuさんとほぼ同意見です。

投稿日時 - 2002-06-18 17:52:15

お礼

ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2002-06-23 02:12:40

ANo.5

「自分を信じる強い人」ってのは、つまり
「自分こそは不老不死の妙薬を見つけ出せると思っている人」ってことですかね。
そんな人には、確かに宗教なんて必要ないかもしれませんね。

一般的には、人間は有限の存在であるわけで、そんなことは気にせずに生きている
人も、もちろん大勢いますけれど、そうした自分の有限性を正面から見つめて
生きようとする人が、必ずしも弱い人とは言えないと思います。

マリア・テレサの伝記等を読んで思うのは、この世の中に、これほど自由でこれほど
強い人間が存在しうるのかということです。私はカトリック信者ではありませんが、
彼女の生き方には尊敬を覚えずにいられません。

「宗教」と一口に言ってしまいますけれど、次のような要素があって、それぞれ
関連し合ってはいますけれど、必ずしもイコールではないことは頭に入れておいた
方がよいと思います。
・教祖の教え
・教団の教義ないし教理
・教団の組織
・一般信者の一般的な信仰
・個々の信者の信仰

投稿日時 - 2002-06-18 14:21:36

お礼

ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2002-06-23 02:13:10

ANo.3

ある意味、「何かに頼らないと生きていけない人」のためにもあるでしょう。
基本的には、「探求心」と「未知への不安」を抱く人々に安らぎを与える、
仮想的な心の足場というのが宗教の役割でしょう。

ですから、完全に「探求心」がない人や、
死後などの「未知」に不安を持たない人には無用の長物です。

遠い将来、人類が探求を極め、未知が無くなったら、
宗教などいらなくなるかも知れませんが・・
まぁ、そういう事にはならないでしょう。

投稿日時 - 2002-06-17 22:15:46

お礼

ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2002-06-23 02:14:02

ANo.2

宗教は、いわゆる宗派宗教でも、個人的に信じるにせよ、必要のないひとには、全く必要がありません。
たとえば、長い恋愛の末、結婚を考えていた矢先に、突然、病気などでなくしてしまったとき、「どうして、何の罪もない彼女が死んでしまったのか」について回答を求めようとするかもしれません。
キリスト教だと、神の与えた試練だとされるかもしれません。もし、そのことで魂が癒されるのなら、その人にとって宗教が必要なのだと思われませんか。
特に問題もないのに、「創価学会」などの人から勧誘されたからと入る人は、逆に問題があるかもしれません。しかも、それでも、近所の人がガンにかかったと聞くと、学会の人が信仰すれば治るとか言って勧誘に来るのです。自分を信じる強い人は、そういうときこそ、きっぱりと断れるはずです。

投稿日時 - 2002-06-17 22:06:49

お礼

ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2002-06-23 02:14:20

ANo.1

 世の中では、とかく「宗教」といえば、いわゆる精神修養か、、怪しげな祈祷や占いの類い、或は冠婚葬祭における儀礼的なもの、という程度に考えられているようです。
したがって、宗教は私達の実生活にあまり直接的な関係が無い、と思っている人達が大半なのではないでしょうか。しかしながら、これは、宗教ということに無知なるが故の、大きな誤りでありまして、じつは、知ると知らずとに拘わり無く、宗教は、あらゆる人々の人生に、決定的ともいうべき重大な影響を及ぼしているのです。自分のもつ知識で理解できないからといって、それを頭から否定したり、人生に重大な関わりをもつ問題を、興味がないからといって無視したり、すでに自分の得ていることが全てであるかのごとく錯覚し、最初から耳を傾けようとしない等々のことは、人間として偏狭な姿であり、えてして大きな失敗をする元であります。

宗教は本尊との感応の理

世の中には、たくさんの宗教・宗派がありますが、その各宗各派には、それぞれの教えや指針などを、信仰の対象として具体的な形に表わした「本尊」があります。本尊というのは、根本として尊敬すべきもの、の意味で、人生の根本として信仰・礼拝する対象のことです。そして、何をもって本尊とするか、その違いによって、それぞれの宗派が異なってくるのであります。しかして、各宗教の信者は、それぞれ自宗で立てる本尊を信仰しているわけですが、ここに、ひとつ重大な問題があるのです。それは、本尊を信仰することによって、自己と本尊との間に「感応」という現象が生ずる、ということです。私達の生命には、本来、外界の事象を受け入れ、染め込んでいく働きが具わっており、その働きは、信頼し尊敬することによって、強く発動する、ということがわかるのであります。その証拠に、心から嫌い賤しんでいる相手の影響は、ほとんど受けません。翻って、信仰とは、読んで字のごとく、信じ仰ぐ、すなわち、本尊を人生の根本として信じきり、手を合わせて拝むまでに尊敬しきる、いわば信頼・尊敬の極まった姿が信仰である、といえます。されば、その信仰の対象となった本尊の影響をストレートに受けてしまう、それも、友人を信頼し尊敬して影響を受けるなどという程度ではなく、その本尊と自己とが一体化してしまうまでの強烈な影響を
受けるのであります。

本尊を選択することが肝心

信仰においても、信ずる対象は何でもよい、というわけにはまいりません。もし、信仰の対象たる本尊が低級・邪悪なものであったならば、それを信仰する者の人格、人生も、自ずと低級な、苦しみや行き詰まりに満ちた不幸なものとなってしまうからです。本尊の高低・正邪・浅深は、そのまま、信ずる者の人格・人生を決定的に左右するほどの影響をもたらしますから、まず、何よりも、最高・最勝の正しい本尊を選択するということが、もっとも肝心なのであります。

投稿日時 - 2002-06-17 20:48:26

お礼

ご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2002-06-23 02:14:45

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