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解決済みの質問

水による洗礼は必要不可欠なことですか

特殊な議論になるかも知れませんが おしえてください。わたしは この水の洗礼を受けていない自称のキリスト者です。

ヨハネ福音は《血によらず 肉の意志によらず 人間の意志によらず 神によって生まれる》(1:13)と説きます。水の洗礼は 人間の意志によっているのではないでしょうか。(儀式としては 別の問題です。)

むろん 同じヨハネにイエスの言葉として《水と霊とによらなければ》(3:5)という明らかな文句があり イエスも洗礼を受けたし パウロも受けました。旧約からの継続として そういうかたちを採ったと考えられませんか。割礼も 必要なくなったのだと思います。

解釈だけではいけないとすれば エレミヤ書31:31以下に 《そのとき 人びとは隣人どうし ・・・〈主を知れ〉と言って教えることはない》とあります。うんぬんですが。

投稿日時 - 2007-05-19 19:00:49

QNo.3013375

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

誰々がこう言った.

ではなくて
自分の言葉で言うことが大切なんだな.

投稿日時 - 2007-05-25 20:00:42

お礼

agrippaさん この言葉には しびれました。また まだ さらに続いていて なお一層しびれさせるという魂胆ですね。

投稿日時 - 2007-05-25 21:13:21

ANo.29

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回答(46)

ANo.46

ガラス玉演戯をしてはいけない。その場を知らないのだから。あなたは弱者であるというのに、ほかの汚れやすい場所を汚す者になろうとするのか。質問はもう終わったのではないのか。

違うゲームへ入り違う言葉を使いぬかるみの上を歩く人は健全ではない。
ルールの高い者のほうが失うものが大きい。
キリスト教徒の処遇はかならずキリスト教徒がしてくれる。

投稿日時 - 2007-05-27 00:17:03

補足

amaguappaさんに甘えて この場をお借りして みなさんにご挨拶申し上げます。

信仰は 個人の問題であるという見解に わたしは立つことに決めました。

洗礼が 集団として 集団の行事(秘跡など)として 行なわれることと 個人の信仰とは つながりがないという考えです。

また 個人と個人との社会的なつながりは 個人一人ひとりの信仰がその基礎となりますが 直接には信仰がかかわることはない。

このように考えます。みなさん ありがとうございました。

投稿日時 - 2007-05-27 08:15:24

お礼

忝く侯と存じます。

投稿日時 - 2007-05-27 01:09:15

ANo.45

精神が卑しいんだ.

誰かさんの.

普通
これだけ言えば
反省することがあると思うのだが
それが伺えないということが
面白いキリスト教徒だ,

投稿日時 - 2007-05-26 22:24:57

ANo.44

本当の

アホカ.

投稿日時 - 2007-05-26 20:31:35

ANo.43

今までに
何の接点もないけれど

心に何かこだわっているものがあると
それは知らず知らずのうちにでてくる.
ある意味
恐ろしいことであると思う.

平和とは自らの心の中の
拘りを,囚われを取り払う作業ではナインか.

投稿日時 - 2007-05-26 20:25:48

お礼

シャローム!!

投稿日時 - 2007-05-27 01:02:01

ANo.42

場がぬけていました.

澄みません
馬鹿なもので.

投稿日時 - 2007-05-26 20:03:01

ANo.41

品がない.................................
とでも言え伝わるだろうか.

優しさも時と場合で
良し悪しだね.

投稿日時 - 2007-05-26 19:56:45

お礼

じゃあ 神を信ずでもなく
神を信ぜずでもなく
無神を信ずでもなく
ただ 人間の精神と理性(同じ?)と感性と・・で考えたり想像したりしているだけとなるのかなぁ。

哲学と神学は違うし 神学と信仰とも違うからねぇ。

投稿日時 - 2007-05-26 20:28:31

ANo.40

育ちが悪いんだよね.............

投稿日時 - 2007-05-26 19:44:39

お礼

うぅーーんっ!

投稿日時 - 2007-05-27 01:03:00

ANo.39

精神が濁るとはどういうことか.

点が欲しいという
欲望さ.

何時までたっても
餓鬼の根性が抜けない.

投稿日時 - 2007-05-26 19:26:39

補足

a bientot !!


根性は抜くものか?

投稿日時 - 2007-05-26 19:44:47

お礼

夕食に行きます。
ごめんなさい。
à bientot !!

投稿日時 - 2007-05-26 19:44:11

ANo.38

精神が濁っていれば
伝わることもないと思うが
それでも希望はある.

投稿日時 - 2007-05-26 19:11:41

補足

どんな悪事であれ それが起こることを許すことによってさえ 神が善をなしたまうことを疑うべきではない。
というのは 神が正しい審判によって許したまうのでなければ そのことは起こらないからであり また正しいことはすべて確実に善であるからである。
したがって悪であるものは それらが悪である限りにおいては 善でないが 神が善いものだけでなく 悪いもの〔にも存在すること〕を許したまうということは善である。
なぜなら 悪いものも存在するということが善でないならば 悪いものが存在することを 善い全能者はお許しにならなかったであろうから。神にとっては 欲することをなすことが容易であるように 欲しないことを許したまわないことも容易であることに疑いの余地はない。
もしわたしたちがこのことを信じなければ 《我らは全能の父なる神を信ず》と告白しているわたしたちの信仰告白の冒頭の言葉が危うくなる。・・・
(《信仰・希望・愛》第六部 神の経綸 第一章 神の審判とその正しさ 三 神は悪が起こることを許したまう場合でも 正しい 《著作集・4》)

きびしいいいいいいいっ。と あらためて読んで思いました。最初に読んだときは ごくらくとんぼだったことになります。

投稿日時 - 2007-05-26 19:37:06

ANo.37

なんたって
数学(かず学)は
ユダヤ教において
初めて神と交渉した手段だから
手段は
使い方によって善にも悪にもなる
使う人の心次第だから.

キリスト教のあり方はどうなの?

その精神の気高さ
王たる意識
権威を持って
世界の
戦争をやめさせるということはできないの?

投稿日時 - 2007-05-26 19:03:10

お礼

ブノワ・セーズさんが いくらか前に 物議をかもし出すまでに イスラームについて 思うところを述べました。勇気ある行動だったかと思います。せっかくの権威ですもんね。

かず学は 点で いや てんで わからず・・・。幾何学は好きだったですよ。

朝まで生テレビの録画を途中まで見たから 最後までみようっと。(改憲)

投稿日時 - 2007-05-26 19:14:44

ANo.36

デカルトが好んだ
ユークリッド幾何の始まりです.

点とは部分を持たない....


数学も宗教っぽいな.
点の瞑想...........

投稿日時 - 2007-05-26 18:41:24

お礼

宗教の批判はすでに終えられていると言ったのは だれでしたっけ。いつのことでしたっけ。

投稿日時 - 2007-05-26 19:06:19

ANo.35


天は欲しいですか?

哲学の分野においては
他人とは言わずに
他者と言う言葉を使います.
素人さんはこれだから.

とさ.

投稿日時 - 2007-05-26 18:32:37

お礼

求婚の申し出に対する明確な答えが欲しいです。

《いいえ》でしたが 両親が付け加えて言うには 《いつでも自由に遊びに来てください。構いませんから》とのこと。

ん十年 軽く 靄のごとく たなびいていました。

昨年 どういうぐあいにか 断ち切れました。

そのひとは 修道院に入っています。

投稿日時 - 2007-05-26 19:04:31

ANo.34

>むしろあたかも神と格闘して何かを決めるかのような営みだとさえ思います。

言葉を選んだつもりだったのですが、逆に私の使った「対峙」と言う言葉が避けたつもりの「格闘」になってしまったようで申し訳ありません。神、仏、超越者、絶対者と言われる存在と戦って勝つ見込みは無いでしょう。むしろ「向き合う」と言った方が良かったかもしれません。これだけ聖書の言葉を引用されて議論されるのは、相当勉強され、深く理解されているのであって、ご自分のものとされているのだなと思います。

その上で、ヨブやアブラハムを持ち出されたのでしょう。彼らが“義”とされたのは、私の乏しい知識では、彼らの信仰ゆえであったと思います。ですから隠れキリシタンも“義”とせられてキリスト者の中にいると信じていますし、隠れ日蓮宗徒も同じだと思います。これはキリスト教のコミュニティーの問題なのでしょうか?個人と神との関係においての問題と思います。

神との対話と言うとグノーシス的になると言われそうですが、私はグノーシスについてはあまりよく知りません。でも貴方がデミウルゴスを信じておられるとは考えられませんが・・・私は一応科学者の端くれに位置しているものですが、論理的に考えても、考えても説明の出来ないものがこの世に如何に多いかと実感させられております。(だからと言ってスピリチュアリズムや心霊現象に走る事もありません。)洗礼がキリスト教の三秘蹟の一つと言う事は存じております。しかし、これが絶対的に正しいと言う確信は持てません。神と対話の中で貴方が“啓示”を受けられるかもしれないし、“導き”と思われる事が起こるかもしれません。或いは最後になって初めて神の判断で間違いを指摘されてしまうかもしれません。“光”を見られたからと言ってそれがグノーシスの証になるとも考えませんが如何でしょうか?

信仰とは基本的に個人的なものと思っておりました。bragelone様がコミュニティに拘られるのは何故なのでしょう?それだけ強い信仰をお持ちになっていらっしゃるのに・・・

門外漢が勝手な事を申し上げて申し訳ありません。

投稿日時 - 2007-05-26 07:28:13

補足

科学者とはそういうものだと思っていました。おっしゃるとおりに 開けというのでしょうか あるいは 要するに なぞ が残ると思っていました。

ふつうの意味で みちびきはありましたが 啓示はありません。光を見たという表現も いまだ持ちえていません。

さて 振っていただいたので 決め台詞にまいりたいと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
わたし自身 兄弟たち つまり血縁じょうの同胞のためならば キリストから離され 神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。・・・
(パウロ:ローマの人びとへの手紙 9:3)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
でも 《神のくには 言葉ではなく 力にあ》(コリント前書4:20)りますので また 1000827313さんに正当にも触れていただいたように・ただし《最後になって初めて》ではなく やがてそのうち 《神の判断で間違いを指摘されてしまうかもしれません》ので 大いに自由に・まちがっても構わないわけですから まちがいを指摘いただけるなら さいわいです。

グノーシスにかんしては トマスの福音書を読んだとき出てきた記憶が そして 大昔 ヘッセだったかの小説に出てきた記憶が ありますが よくわかりません。(必要ならば 導かれると思っています)。

パウロのローマ書の文句を出すのは 神がかりがかっていますでしょうか?

*ANo.11でのお応えで 《復活については〈真理が すべてにおいて真理である〉ことを念頭においている》と口走っていますが 正確にはこうでした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
神がすべてにおいて すべてとなられる・・・。
(コリント前書15:28)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2007-05-26 08:22:56

ANo.33

あはは。お腹を抱えて笑いました。agrippaさんにはとんだ災難だ。消されるのには慣れていらっしゃるはずですが、他人の胸中を真顔で尋ねられたことはないでしょうからね。これは削除されるかな。。。

コミュニティについては、少しばかり理解の違いがあるように思われます。
けっして町内会や婦人会やPTAのような「あの」空気をさして言ったわけではありません。
古い神様たちと、民のことを考えたことはありますでしょうか。
古代メソポタミアの神々、バビロニアの神々は。
たいへん面白いものです。
知的エリートたちが、唯一神の信仰を邪悪と判断した理由は何でしょうか。
古い神様たちに数千年間従ってきた人間の王国にとって、唯一神の信仰とは、どんな脅威だったのでしょうか。
ご存知のように、神殿を壊し、神官を捕らえ、半世紀ものあいだ形を奪ったら、ところがどっこい、神殿も神官もいらない透明なコミュニティが出来上がりましたね。
それでもまだ排他的とまではいかない段階でしたが、
透明なコミュニティは、形がないぶん、細心の注意を払って守られねばなりません。対外的に閉鎖的になります。
まず異教にたいして、です。そしてつぎに、ユダヤ教に対して、です。そしてさらに、キリスト教異端に対して、です。つねに区別、区別、区別ですね。
そのあとどうなったかは関心がありません。東京都新宿牛込教会が、東京都新宿柏木教会に対して、というようなことがあるのかないのか、たぶんないと思っていますが、私は存じません。

だから少なくとも教会レベルの話ではないのですが、
区別の外にはじかれてしまったら、コミュニティには入れない。これは、とうに決まっていたこと、最初も最初の一番大事な関門ではないかと申しあげたわけです。都市バビロンの市民になるか、透明な神の国の子になるか、
ほかに何か選択肢があるでしょうか。都市バビロンの神は、都市の神で軍神で全能、あらゆる整合論理の神です。

しかし、私のような部外者にとって、古代の神々たちは、唯一の神の遍在するお姿、と考えてみてもちっともかまわないので、しちめんどくさい区別ほど煩わしいものはないのですが、
ところがどっこい、信仰の具体的行動というものこそ、どれほど大事なものか。そこに宗教の差があるともいえるわけです。ユダヤ教とキリスト教は。信仰の行動は、歴然と違いますから。。。
するとやはり、コミュニティには、それにふさわしい行動がともなう、としか言いようがないでしょう。それがアイデンティティというものでしょう。キリスト教のアイデンティティというものを考えねば、そして認められなければ、キリスト教を選び、信仰する者としてなにか欠けていることになるでしょう。

ただし真理には、アイデンティティというものはいらない。真理はおのれを峻別する必要はないですね。
もう私もこれでひきあげましょう。

投稿日時 - 2007-05-26 00:49:23

お礼

真理はきみたちを自由にすると明確に言っているというのにですかねぇ。

一般の日本人は 対外的には別でしょうけれど 国内では 総じて アイデンティティから自由のようですね。持っていないというよりは 一向にかまわないようだと思います。

その中で クリスチャンは 妙なアイデンティティを持つことになったということでしょうか。

ただ 日本人の問題ではない。日本人の問題は むしろ別問題であるかも知れない!?

・・・・・・・
こういう問題に帰着するでしょうか。
つまり イエスは 人類史において 何であるのか。
唯一神信徒たちのコミュニティを 一層強固なコミュニティにしたのか。それとも その枷を取っ払ったのか。

・・・・・・・
コミュニティ+アイデンティティとくれば イスラームを思い浮かべます。クリスチア二スムにかんして 残念ながら 実感が湧かないみたいです。

潮時でしょうかねぇ。 

投稿日時 - 2007-05-26 02:18:44

ANo.32

あなたの言葉も

投稿日時 - 2007-05-25 21:34:30

お礼

あなたの回答の一つ( ANo.23)が事務局のほうにより削除されましたが 妥当だったかも知れません。わたしの応答も そのANo.23のではなく 最初のANo.21に対するものが 適宜性を欠いているかも知れません。

わたしの書く文には 読点( 、 )がありませんが 句点( 。 )は打ちます。まるは打ったほうが よいとおもうのですが・・・。

投稿日時 - 2007-05-25 22:04:32

ANo.31

しゃべればしゃべるほど.
それがキリスト教の本質かもしれない.

キリストの
ではなくて.

投稿日時 - 2007-05-25 20:57:06

お礼

ところで――と もはや 馴れ馴れしく話しますが―― amaguappaさんとは この教えて!gooで 対話なさっていますよね。そのamaguappaさんのおっしゃっているところが わたくしは まだ飲み込めていない始末なのですが そこのところ 何とかなりませんでしょうか。もし 規則に違反しないのであれば さらに回答欄にヒントでも書きこんでいただくと さいわいなのでございますが。 

投稿日時 - 2007-05-25 21:21:18

ANo.30

さらに言うなら
テキストを踏まえたうえで
と付け加えて

自らの骨肉となっていない引用文を持ち出されたって
白々しさが伝わるんだよ.

投稿日時 - 2007-05-25 20:46:01

お礼

まことに おっしゃるとおり!!!!!だと思います。

投稿日時 - 2007-05-25 21:14:40

ANo.28

 No12・17です。

 洗礼の問題はやはり突き詰めていくと教会の問題(共同体、コミュニティの問題)に行き着くようです。amaguappa様の書かれた文章は、なるほどこういう捉え方があるのかととても興味深く読ませて頂きました。指摘されている通り、キリスト教の信仰は個人のものというよりも共同体の信仰ですね。誤解を恐れずに言えば、個人の思いは思想であってキリスト教信仰ではありません。質問者様もアウグスティヌスはもとより教義学やキリスト教史などを研究して、さらに研鑽を深めてください。


 ご質問くださったヨブの件ですが、ヨブ記は物語なのでおそらくヨブは実在しない人物です。しかしヨブが割礼を受けていなかったと考えるのはかなり筋違いです。

『無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた』(1:1)

とユダヤ教文学で書かれているのですから、当然律法を遵守していたと想定されています。ですから割礼は当然受けていたものと前提されます。まずはテキストに忠実に。

『わたしは知っている
 わたしを贖う方は生きておられ
 ついには塵の上に立たれるであろう』(19:25)

 メサイアでも歌われる有名な箇所ですが、第二イザヤなどと同様にユダヤ教の中でも強くキリスト教を暗示する内容です。「見えない教会」を救いと読み替えるならば、ヨブは最初から「見えない教会」の中に置かれていたと考えていいかと思います。

 質問者様がヨブを題材に取り上げられた背景には、信仰を実存主義的な理解において考えている面があるのではないかと思います。もちろん実存主義的な信仰理解が間違いというわけではありませんが、それだけで信仰全てを言い尽くす事が出来ないということですね。


 この質問を通して、わたし自信が教会論の本を何冊か再度読み直すこととなり、改めて理解を深めさせて頂きました。感謝をもって(おそらく)最後のコメントとさせて頂きます。

投稿日時 - 2007-05-25 18:16:38

お礼

投げやりではありません。でも たとえば

《そうすると 教会コミュニティの会員一人ひとりに好かれるようになりなさい》 こういった回答ということなのでしょうか。

と尋ねたくなります。

ヨブの事例は 割礼という点にも触れましたが そもそもアブラハムと同じく 洗礼が問題なんですが・・・。これも 思想なのだから 重要なのは 教会員とどれだけお友だちになれるかだということになるでしょうか。

ちょっと茶化しました。

《 On est un christ. (一人ひとりが キリスト( a christ )である)》と思っていますので Aleph_Tamaさんのコミュニティには遠すぎますが 《要は 教会員何人とお友だちになれるかですよ》ではなく 必ずしもそうではなく 《じゃあ しょうがない。うちの教会に来なさい。いつでもいいよ》 こういったお答えを期待するところもあるわけなんですが。

《研鑽を積まなければだめだよ》とおっしゃっているのかも知れませんが。・・・あっ また 茶化しましたね。

これは 最後のとおっしゃっているので 引き止め工作なのでしょうか。自分でも わけがわからなくなってきました。半分だけですけれど。

でも この質問を出して まだ一週間ですものね。気長に行きたいとも思います。

これだけ みなさんが 資料にあたって確認・検討の作業までしてくださって 答えてもらっていますので その点では 祝福が与えられたかなと みなさんと一緒に 喜びたいと思うのですが いかがでしょうか。

投稿日時 - 2007-05-25 21:04:17

ANo.27

bragelone様
今頃になって何か言うのは気が引けますが、年をとると何でも遅くなってしまって申し訳ありません。まだ閉じていらっしゃらないようなので一言言わせて頂きます。
基本的にbragelone様の水による洗礼は不要とのお考えに賛同します。
もし洗礼が無ければキリスト者ではないとすると、隠れキリシタンは全員がキリスト者とは認められなくなります。また、隠れ日蓮宗徒も認められなくなります。
これらに方々は「殉教の道」を選ばずに、後の世に伝えるために「生の道」を選ばれたのかなと思います。これを自分の自由意志で選択したのか、“神の計らい”、“仏の導き”と採るかは判りかねます。
全くの個人的意見ですが、彼らは立派なキリスト者であり、日蓮宗徒の方々と信じています。そこには深い悲しみや絶望が有ったに違いありませんが、それでも信仰を捨てる事が無かったと言うのは尊敬に値すると思います。
声高に神の名を呼んだり、仏の慈悲を仰いだりする現代の風潮よりも、ずっと深いものを覚えます。bragelone様が信じている神と対峙して選ばれたと言うか、導かれたというか、その結論に口を挟むことには躊躇いを感じます。これはbragelone様と神との関係において決められることであり、世俗のしがらみに惑わされる事は無いと思います。
心の中の深いところでの共感を覚えましたので一言申し上げさせていただきました。

投稿日時 - 2007-05-24 21:34:13

補足

暖かいことばをかけていただき 光栄に思うとともに 感謝を申し上げます。まことにありがたい限りに存じます。

ふつうの見方として 生活信条として言っても 庶民の力強く生きる姿のことが 思い浮かんだりもしました。

きまじめな口調がつづきますが 今夜 一つ前( ANo.28)のamaguappaさんの文章とともに この1000827313さんのアドバイスをいただき 読むと それまでの時と違って なかなか複雑な心境になりました。

というのも わたしは 信仰の特殊な話であると初めに断わっておいたというので あとは 自分の信条かつ心情をもろに出して 述べていたんだと知りました。

また 世間の通常の付き合い方において 答弁をしていくのが常識なのだといったことです。

どうしたものかと思案しますが かと言って 世間とのつきあいも――考えてみれば―― このようにおこなっていますので 自己流にまいることにしてみます。その過程で軌道修正も考えることにします。

そうしますと いただいたアドバイスの中で 一つの点にかかわって かなり重要な方針が やはり 自分の中には根付くようにして はたらいていると知ります。

直球になりますが たとえば パウロは 《わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。》(1コリント 9:19 )と言います。じつは このような生き方は わたくしの生来のものだとさえ思っています。

どういうことかと言いますと 《神との関係において決めること》が そのまま《世俗のしがらみに惑わされさえしつつ 世俗とまじわる事》に直結しているのです。amaguappaさんの表現では 《人と意見をすりあわせる》ことになります。ナロードニキではありませんが。

おそらくそれは むしろあたかも神と格闘して何かを決めるかのような営みだとさえ思います。

おそらくこの生き方で わたくしは凝り固まっているようです。1000827313さんに失礼な言い方になるかも分かりませんが この今の事柄を amaguappaさんへの応えを考えあぐねながら 思いとして得ています。変な言い方をすれば 1000827313さんに amaguappaさんへのお応えを用意していただきたいとさえ思うほどです。おかしいですよね。

ですが この思案は じっくりと煮つめていきたいと考えます。
ますます変なお礼のことばになってしまいましたが 偽らぬ心境です。不一にて。

PS お互い 筆の力に 少しでも張りが出るといいですね。

投稿日時 - 2007-05-24 23:58:00

ANo.26

9,15です。丁寧なお返事をいただき恐縮に存じます。
3度書き込むことになろうとは思いませんでした。何かのご縁ということでしょう。
まず誰も傷つけないことが第一であるべきなのですが、宗教というのは傷つく人をかならず生む。このことで、私はこういう質問を避けたいわけでしたが、ちょっと関わった以上、しかたがありません。

アウグスティヌスは間違いなく偉大な思想家で、アウグスティヌスを知るがゆえに教会を追い返されたり、白眼視されたりするあなたの境遇は、残念というか、無念のほかありません。きっとあなたはグノーシスに通じるところがおありなのでしょう。

キリスト教のコミュニティをたいせつに、と申しあげたのは、おわかりのとおりです。コミュニティがキリスト教の本質であるからです。

ほかのキリスト教徒が見ているこの場所で言っても少しも楽しくないことを言いますので、できれば避けたいくらいですが、
一神教は紀元前3000年紀に東方からエジプトへ伝わり、多神教によってまつりごとが行われている社会の陰で、一神教の研究=神学がはじまりました。
一神教が邪悪な物とみなされた時代は長いですが、とほうもなく偉大な思想の宗教であることは確かです。
ご承知のとおり、モーセが紀元前14世紀ごろ、あとキリスト生誕(紀元前4世紀くらい)まで同じくらいの年月がかかります。

もともとの多神教、それから古代エジプトから古代ギリシャまで政治の舞台から逃れて隠隠とつながる神学、そして旧約の世界が、新約の世紀に同時に雪崩れ込みますから、イスラムやスラヴから入ってくるものの大きさはキリスト教からみれば脅威です。神学は、キリスト教の研究を兼ねることでなかばそれを隠れ蓑に、なかばそれを本業として、続くことになります。唯一神の解釈の問題ですから、秘教を吸収したことは、キリスト教の財産となります。
古代の宗教は、多産であることをよろこびとする自然の摂理にかなったものが多いのですが、多産性のもつセックスの神聖さは、キリスト教からは慎重にとりのぞかれました。月の女神も、豚やウサギも、悪魔のそばに追いやられることになります。割礼も、子供がたくさん作れる性器を礼賛するものでしたが、キリスト教にとっては意味がありません。

言語の境界地域は、異端審問が多く開かれます。この地域で翻訳が行われるために、書物からはほんとうに削ぎ落とされていくものが多いのです。
旧約を継いでいながら、旧約のもっていた自然と人間の交わりののびのびした深さもまた、大きく削がれていきます。

キリスト教は、はじめからコミュニティです。みずから異教と厳しく区別し、神々と王が親戚づきあいでもしていたかのようなまつりごとを、コミュニティであることによって変換させた宗教です。
多産崇拝や自然の畏怖を排したことは、特異性をめだたせる目印となっています。ほかにそのような宗教は皆無なのです。
コミュニティであることは、国家の政治に利用できるということにもなりました。
これを腐敗と感じるかどうか、私にはなんとも言えません。

苦しんでおられるとおり、コミュニティに、入るか、入らぬか、である以上、それはどういう意味なのか、何の契約をもって入ったことになるのか、というのは肝心なところと思います。
コミュニティの、他者とのすりあわせの部分を、ふたたび、神と自我の対峙に読み直したものが、キリスト教の中に宗派を生んでいると思います。
最初に述べたキリスト者共同体もそうでしょう。
グノーシスの集会が日本にあるかどうか存じませんが、神と自我の対峙を見つめるだけならば、グノーシスの思想はお心にかなうところがあるのではありませんか。すすめるわけではありませんが。
ただ、どこでもコミュニティであることにかわりはない。師を持ち、仲間があるということの幸福は、地上の幸福にすぎません。
お気落としのなきよう。。。

投稿日時 - 2007-05-24 16:59:29

補足

《コミュニティがキリスト教の本質である。》《どこでもコミュニティであることにかわりはない。》

この一つの事項をめぐって 思うところを述べて お礼に代えさせていただきます。

(1)信徒の共同体ないし宗教組織と そして信仰とは 直接には関係がないと思われます。

(2)もし教義あるいは組織上のつながりのほかに 地縁や血縁もそのコミュニティの絆を深くしているとするならば むしろこの要素に関しては 自然のつながり・自然的な要素を残しているとも考えられます。いいか良くないかは にわかには判定しかねますが。

(3)もし利害関係によらずに紐帯(旧いことばですね)を強くしているということであるならば それが 何によって成り立っているかで 判定が決まります。建て前を別として もし信仰が  二の次ということになっているとすれば・・・。

(4)仮りにの話としては キリスト教コミュニティは 《聖書ないしキリスト・イエス》との関わりにおいては 基本的に言って 意味がないという可能性もあることになります。

(5)このコミュニティが 政治にかかわる あるいは 利用されるという〔隠れた?〕実態があるということでしょうか。

(6)わたしなら 《コミュニティの、他者とのすりあわせの部分を、ふたたび、神と自我の対峙に読み直》すことはしないと思います。そうではなくて ローマ教会を初めとして このコミュニティは すべからく ご破産でねがいましてはで新しい出発を模索していかなければいけないと言い続けると思います。


このコミュニティにかんして 実感はありません。また おっしゃっていることを曲げて解釈しているかも分かりません。

ありがとうございました。

なお ボールがみなさんの側に行っているかとも思いますので もう少し時間をおいてこの質問は締めることにします。
前もって みなさん ありがとうございました。

ANo.24への補足欄で エルサレムの厩というのは ベツレヘムのでした。

投稿日時 - 2007-05-25 16:00:17

お礼

ただいま 拝読しました。(夕食・散歩・テレビでした)。

ただちにお応えできそうにないので ひとこと 感謝とともにご挨拶をし あとは時間をいただいて 考えてまいりたいと思います。

《お気落としのなきよう》とおっしゃった意味がよくわからないありさまなのです。・・・

投稿日時 - 2007-05-24 21:27:57

ANo.25

No.14です。

私はキリスト教じゃないですが、西洋文学に触れるとどうしてもキリスト教の思想が基盤になっているので、本を読むほどにキリスト教についてちょっとは詳しくなってしまうんですね。

で、キリスト教の神の救いは<神から一方的に与えられるもの>だとキリスト教は言っていると理解しています。

違います?

洗礼を受けたとか、人間からしていいと思うことをやったから天国につれていってくださいと人間が交渉したら、「わかった 君の命令に従う」と神が人間の欲望に左右させるものではなく、人間がどうこうなど関係なく、一方的に救いは与えられるものである、とこのようにキリスト教は言っている、と私は認識しています。

ある人からすればひどいことをやった人でも、神が天国に連れていくと選んだら、天国に行くってわけですよ。
(ただし、イエスの天の国ってのは、現代人が言う雲の上とか異次元とかじゃなく、地上にあったあの集団の幹部のことを言っていたと思いますが、、、のちのちそれを知らない人たちが、雲の上にあるみたいなことをイエスが言っていたと誤解したと思います。)


>たとえばこの《水の洗礼は必須か》といった論点を特定するかたちで たとえばこの教えて!gooにてみなさんの意見を訊いてみられては いかがですか。

私の理解では、あなたが既にその質問をここでやっているという認識なのですが・・・・・・。
つまり あなたは今回水の洗礼の重要性について聞いていなどいないってことですか?
すいません、、、、てっきり聞いているのだと誤解してしまいました。

では、あなたの質問の本当のところはなんですか?
他の方とのやりとりをしているのを見ても、やはり 水の洗礼の重要性について、どうなのか知りたがっているとしか思えませんが、肝心のあなたは書きながら、そのことに関心は無い???
妙な現象ですね。
もぐもぐと盛んに食べている人が「私は食べることに関心など無い」と言っているようで、一体この人にとって食べるとは何のことなを指すのだろうかと疑問符が頭の上につきます。

1)について、
ヨハネ福音書の作者は神の子、人の子の区別がついていないユダヤ教をよく知らない、恐らくディアスポラしてヘレニズム文化に染まったユダヤ人。
もしくは、一般人も祭祀職をしていいんじゃないかという運動の推進者。



2)《イエスが弟子たちの足を洗った》のことで わたしが述べたのは わたし自身の解釈です。

なるほど、キリスト教の解釈ではなくあなたの解釈だったわけですね。



3)
>《イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って そこに一緒に滞在し 洗礼を授けておられた・・・洗礼を授けていたのは イエスご自身ではなく 弟子たちである・・・》(ヨハネ3:22~4:2)とあり

あ、、それ見落としていました。
で、ヨハネの福音書以外の福音書にその記述あります?
もともとはそういう話ではなかったのに、後の人が加筆したって可能性は???
洗礼を教義にして独占業務とするために。
疑り深くてすいません。


>(6)《こころの清い人は さいわいなり。神を見るから》にちなんで論じてある内容は 何かありそうだとは感じますが よく読み取れません。そういった部分もあるということも お伝えしておきます。

ええ、ありますよ。
翻訳ミスによりキリスト教の教義に間違いが沢山有るって事を暗に示したんです。
新約聖書に翻訳ミスがたくさんあり、その翻訳ミスの結果のものがキリスト教の教義においてもある。
イエスの言葉も歪められて伝えられることになってしまった。
その歪められたイエスの言葉をもって、人に洗礼をし説こうとするのだから、キリスト教はすごいなぁ・・・と思うんです。


そういえばヨハネでは「来るべき方は火でバプテスマする」と記述されていませんでしたっけ?

「私の任務は地に火をつけることである。それをわたしはやっている。地が燃え上がっている。わたしはすでに裁きの種をまき始めた。いつの日にか最後の審判があるだろう。しかし、わたしは裁きの日が来ることを望んでいない。その時は、わたしの再臨の時だが、人々はもうわたしを主として受け入れる機会は無い。わたしがどうしてそれを望もうか。私は地をバプティスマするよう、つまり地を裁くよう命じられている・・・・・」

作者は一体どこからこのような霊感を授かったのでしょうね。
この場合、バブティスマはイエスが受けるのではなく、イエスがやるってことですよね。
地上に火をつけている。
イメージとしては、クムランという天の国から地上にやってきて、滑らかなく者たち つまり 律法 律法といいながら、ちっとも実践していない祭祀たちを裁いているってわけで、神殿で大暴れしたりして、激しく批判したりした。
天使というか天使同士の激しい争いをイメージします。
でも、イエスを送り出した者たちは負けた。

光の子らと闇の子らの戦争として、イエスを送り出した集団は自分達を光の子だと思っていた。
光の子らは闇の子でもあるわけです。
2千年前の最終戦争。 いえ 宗教改革。すごいですねぇ・・・・。

ああ、ごめんなさい、火の洗礼の話になってしまいました。
失礼しました。

結局ですね、、、福音書って2千年ほどまえ何百ってあったんですよ。
それをたった4つにして本にして新約聖書ってものを作った人。
エイレナイオスたちなんですが、エイレナイオスはヨハネの福音書のみが真実を一番伝えているって思ったんですね。
これを基準に新約聖書を作ってほかを異端の書ってして焚書にしたんです。
つまり、新約聖書はエイレナイオスらが選んだ書物により成り立っている。
彼はイエスに会ったことはない。
その時代を生きてなどいない。
そのエイレナイオスがどうしてヨハネの福音書のみが信じられるとしたのかというと、彼の師匠はヨハネの弟子だったということを信じたから。だったと思います。

これまた質問の趣旨とは違ったでしょうけど まあ 参考までに。

結局 イエスって人が実在していて、本当はどんなことを言ったのか解明しないうちは、洗礼がうんたらって言っても仕方ないと思うんですね。
3人の人が関わって現在に伝わる新約聖書を作ったわけですが、新約聖書ができるに至る歴史を調べると、正義だったから勝ったんじゃなく、勝ったほうが正義となったってことで、、、、、
すさまじいオス同士の権力争いが見えてくるわけです。

もう猿山のボス争いと同じレベル。
こういうときこそ、消防車のホースで、闘争している猿同士に水をかけるといいと思うんですね。
途端に争いやめますから。
水の洗礼 効果テキメンです。

で、マリアの福音書では最も愛した弟子マリアをペトロは憎悪し嫉妬の炎をたぎらせた。と書かれている。
当然 都合が悪いので、この書物は異端として聖書には入っていませんね。

同じくトマスの福音書も異端として排除されましたが、水に関する重要なことが書かれています。
イエスの汲んだ水を飲むと、、、ってね。
問題はイエスの汲んだ水がどれなのか なんですよ。

投稿日時 - 2007-05-24 08:59:37

お礼

《結局 イエスって人が実在していて、本当はどんなことを言ったのか解明しないうちは、洗礼がうんたらって言っても仕方ないと思うんですね。》

明確な立ち場を明らかにされました。ということは 一つまえのお応え欄に書いたのですが 《科学的に人間の能力のおよぶ限り 経験合理的に見て妥当な内容を把握したあと 決断する》という立ち場のことです。逆に言いかえると わたしの今の立ち場は 先に歩くという形です。すでに歩き始めているといった情況ですが。

この全資料の調査と研究 これについて述べて回答していただける限りで それらについて(むろん能力の限りでになりますが)お応えしてまいりたいと存じます。まづこのことをお伝えします。

これも一つ前に書いていますが 救いに関して認識されていることは そのとおりだと思います。人殺しをも 勝手に救い 自分の計画のために用いるという神の意志ですね。まあ 人間のほうも ずるをしたり あるいは その召命に最大限こたえていくという場合もあるでしょうが。

《たとえばこの《水の洗礼は必須か》といった論点を特定するかたちで たとえばこの教えて!gooにてみなさんの意見を訊いてみられては いかがですか。》と述べているのは 例として挙げています。同じ質問だったら たしかにおかしいです。

《神の子》という表現 特に差し支えないようでしたら 使ってまいります。そういえば《地の子》だとかいった表現あるいは社会問題がありましたね。いまは 措くとさせてもらいます。

福音書の加筆・勝手な編集その他聖書の成立事情等々の問題は 先に歩くか後で歩くかの問題として留意する〔のみとなりますが〕ということにさせていただきます。

火と霊とによる洗礼は 水の洗礼の問題にかかわっていると思っています。論点を いまのところ拡げるには 議論が煮詰まっていないように考えます。火も血も水も 霊と一致して 洗礼にかかわるといった内容で理解しているものですが。

留意・保留とした論点ではあるのですが触れますと トマスの福音書は 読んだ限りでは 信仰にとって――信仰にとってです――喫緊に重要なことはないように思えました。やはり異端だというのではなく 読まなくても 信仰は成立すると思っているという意味です。でも 重要な事項があるということでしょうか。

回答をありがとうございます。

投稿日時 - 2007-05-24 11:49:35

ANo.24

 肝心なことを言い忘れたので、つづけて投稿します。

 ヨハネの1・13の人の意志によらずというのは、聖書的には論争となりました。今もそうかもしれません。

 それはエペソ1・4の問題とからみます。「みまえにきよく傷のない者になるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び・・・」

 ここによると、救いは私たちによるではなく、実は神が創造の前から超越的な先見によって選んでいたというのです。ということは、私たちがどうこうすることが分かり、最終的に神が私たちが救われるように導くのだということになります。
 しかし、そうなると、疑問はでてきます。ということは選ばれていない人がどうあがいても、救われることはないということなのかということです。こういったことで反論が多く神学的にあったようです。救いとは私たち自身の意志によって、決定によってやるものなんじゃないか、自由意志の問題も指摘されます。こちらの立場が今のあなたの指摘です。

 ガイオン夫人だったかこう言いました。私にはこれが最も決定的な解釈だと考えています。

 救いのために1つの門を通るとします。そこを通るのは、私たちの意志です。しかし、その門を通った人がふと振り返ると、その門のところに「あなたは選ばれていた」という文字がある。

 実に説得的な言い方です。

 おまけですが、だいぶあなた様はアウグスティヌスがお好きなようで、それは否定しませんが、一応以後、現代まで有力な神学者たちがいますから、できる限り1つ1つ読んでいったほうがいいと思います(アウグスティヌスは古いといえば古く、聖書解釈としてはあまり役にはたちませんよね)。たとえば洗礼の問題を中心に読んでみればいいでしょう。信仰による義認を説いたルター。それに反対するカルヴァン。それ以後も19世紀、20世紀にはかなり多くの議論があります。

 すでにお分かりでしょうが、私は当然、ここでは信仰と救いについては、ルター派です。そのほかはいろいろもちろん違いますが・・・ルターも結論的には大間違いをおかしたと思っていますが、ここでは無関係なので省略します。 

投稿日時 - 2007-05-24 02:09:24

補足

《キリスト者の自由》 これは 信仰(恩恵)と自由意志との間のかかわりという論点にしぼって より一層(必ずしも神学の論議だけではなく)具体的に 簡潔に説き明かしています。なかなかやるなといったところです。

ただ そのように受け取ったわたしは すでに いちばんの基軸は《三位一体論》ですが ほかには《霊と文字》《シンプリキアヌスへ》で――自慢しますが―― ルターの文章を読み解くことが出来ました。

アウグスティヌスは 聖書解釈で旧いようだと 時々 学びましたが 信仰の点では ほかに 説き明かしている人はまだ出会っていません。(表現形式は 古代人でもあり アジア人ではなくヨーロッパ人でもあり 当時の事情もあってか 戦闘的で神がかりのごとくであり どうしようもないところがありますが)。

触れませんが カルヴァンは 閉鎖的だと考えます。自己完結的というのでしょうか。

ただし お見通しのように 神学は まるで 体系だてて学んだことはなく かろうじてついてゆけるかなというところです。

恩恵(神の意志)と自由意志の問題は 信仰という点では 簡単だと思っています。

おそらく《救い》という観点から表現するとすれば わたしは存じ上げなかったのですが ガイオンさんのような現われになるのではないかと推し測られます。

《行け――わかった。行きます》《ついて来なさい――はい。ついてまいります》・・・それぞれ前者は 神の意志で 後者は人間の自由意志です。聖霊のはたらきがなければ ついて行くことなど到底できませんが 人間は わがままで ずる賢いですから うまく逆らうすべを心得ています その意志の自由な選択で いまの聖霊のはたらきを受け留め受け取らなければ 話はやはり始まりません。そうして 受け容れるなら 信じたことであり 行動にも移します。(精神の胃袋で消化する作業は あとまわしだということにもなっています。むろん 保留して考え尽くしたあと決断してもいいわけです)。

一部の選良がいるということ 選良が一部いるにすぎないということ これは 時の満ちる過程での段階ごとの状態であり問題です。

初めにキリストの名を知らせる段階では 闘いもあったはづです。

すべての人が 選ばれています。すでに選ばれています。時の充満がどのようになされていくかは 分かりません。二日(二千年)で キリストの名は すでに全世界に知られました。しかも このキリストのキの字も言わないで済む段階まで進んでいくと思います。

ガラテア書に触れられていたので 開いてみると 《割礼の有無で宣教を区分けする》といった箇所がありました。半分冗談ですが これからは《水の洗礼の有無で キリスト者の自由な生活が それぞれ 繰り広げられる》というのかも知れません

それにしましても このように自己の信仰内容を表明するわたしの導き手となったアウグスティヌスは 《水も欠かせない》と言っているわけです。

ただ この矛盾をかかえつつ むしろ わたしの信仰のあり方は 安定していますとお伝えできるほどなのですが。また はっきりしたほうがよいとも思うわけですが・・・。

とりとめのないような調子にもなっていますが ご海容のほどを願っておきます。重要な点を網羅し得てはいないように感じていますが とりあえずこのように球をお返しします。

投稿日時 - 2007-05-24 11:10:11

ANo.23

 あまり聖書的な回答が以下には多く見られないので、私自身の理解から聖書的に述べさせていただきます。まずキリストの洗礼については関連しますが、あなた自身の洗礼とは別問題なので、ここでは問題にしません。

 まず典型的な聖書の言葉でいえばマルコ16・16。
「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」

 これは救いの条件を語っており、その条件とは「信仰」と「バプテスマ」です。しかし、注意深く後半を見てください。罪に定められるというのは、不信仰の者だけになっています。つまり、救いの絶対的条件は信仰であるということです。しかし、信仰があるならば、バプテスマをしなくても罪に定められることはありません。ということは信仰がまったくこれっぽっちもないのに、バプテスマをするということは救いにならない可能性もあるということです(聖書に出てくる偽信者というのはまさにそういう人たちのことです)。裏付けるものとしてはヘブル11章参照。 

 ではイエスも使徒たちもバプテスマを受けたのだから、バプテスマをしたほうが良いのでは?ということになるかもしれません。結論からいえば、洗礼を受けたほうが良いです。

 神学的にいえば、信仰とは内面的なものであり、バプテスマとは公の場での宣言です。ちなみに公というのは宇宙です。つまり、カニの殻と身と考えてくれれば良いかもしれません。肝心なのは、カニの身です。しかし、カニがカニとして生きるためには殻もあったほうがいい。信仰とバプテスマの関係はそのようなものです。つまり、洗礼とは内面的な信仰を、確証づけるものといえるでしょう。それは、神に対して、敵に対して、天使に対して、人に対して、宇宙にあなたの救いを宣言する行為であるのです。
 しかし、バプテスマそのものの意義もあります。それは葬りです。わたしたちの古い生活様式を捨て、新しい生活様式へとうつることの宣言です。その意味で、わたしたちの邪悪を終結させ、新しい出発を持つという意義があります。第1ペテロ320-21をご覧ください。ここにはノアの水を通ることにおける救いと、水が予表であることが語られています。ノアたちは信仰によって救われました。それゆえ神の言葉を信じて箱船をつくりました。しかし、その他のものたちは不信仰であり、邪悪で欲望のままに遊んでばかりでした。したがって彼らは滅びました。
ここはしかし、バプテスマが実際に私たちの汚れを除くものではないということもいわれています。これは洗礼という行為が一方では儀礼的なものでしかないということです。しかし、それが無意味だというのではありません。

 つまり結局、信仰と洗礼は私たちの両足です。私たちが信仰をもつとき、片足が神の領域へと入ります。しかし、もう一方の片足は世の中にあります。信仰も洗礼ももった時、両足が入ります。

 洗礼は新約のものであって、割礼とはまったく意味が違います。旧約の割礼はイエスキリストがきて新約へと入るまでのかわりのようなものです。ところがイエスキリストの贖罪が私たちの罪と汚れを精算したので、割礼は意味をなさなくなったのです。したがって、パウロは後に割礼か割礼かはたいしたことではないと考えました(おもにガラテヤ書に記述)。

 しかし、洗礼はまったく別のものです。パウロはそれを強調はしませんでしたが否定していません。以後の聖書学者も多くはやるほうがいいという結論に到っています。

 むしろ論争になったのは、洗礼のやり方、水の種類などです。このあたりは教理的な論争なので、はっきり行ってほとんど関わらないほうがいいと思います。頭がおかしくなるだけですから・・・

 方法が問題ではなく、結局信仰を持って、バプテスマがあれば外側の確証があるということです。ですから、あまり考える必要もなく、洗礼されたら良いと思います。

投稿日時 - 2007-05-24 01:48:04

補足

なるほど そうか かたちも作ってもらっておこうか / でも 厄介かなぁ どうだろう 寒い冬でなくてよかったのかなぁ / でも 何なんだ 洗礼を受けたいのですがと言って訪ねたのに 追い返されて・・・何だったんだろう・・・と思いめぐらせました。

まづは 回答をありがとうございます。

けっこう 影響を受けやすい人間です。そして つづく回答(#25)を読んで 少し我れに還りました。

《信仰で片足が さらに洗礼でもう片足が 神の領域に入る》は いま一つ たとえとして しっくり来ていません。というよりも このように表現する観点は初めてで よく考えがまとまらないのですが 基本として 次のように捉えています。

《この地上にあっては 神の国は 地上の国と 入り組んでいる・もつれ合っている・停戦地帯( no man's land ―R.Markus )はなく絡み合っている》と。出典はいわずと知れたですが 曲解しているかも知れません。――そして わたしたちは 木(十字架)の船に乗って〔つまりは 信仰によって〕渡りゆくと。

そのとき 《外側の確証》が必要か 欲しいかですが・・・。

欲しい・欲しくないにかかわらず 信仰に欠かせないものかなのですが・・・。

逆に 邪道で考えてみましょう。一般の人びとは 洗礼について――つまり 洗礼を一番の問題として キリスト信仰もしくはキリスト教について――どう受け取り どう思っているのか。

一番の問題は この《殻》によって 人びとが 自分たちと分け隔てられていると感じてはいないか。感じていたなら どうか。そんな人気取りの問題などは おもねることになるだけか。

けれども イエスの出現によって 全世界が贖罪され和解したのですよね。潜在的に全人類がというのでしょうか。

ここで 《殻》をかぶると かえって 選良であることをひけらかすことになりませんか。いや 《殻》ではなく 贖罪と和解の具体的な確証として絶対に必要な秘跡なのだというなら 別ですけれど。

ですから その絶対か 絶対でないがいいものだから受けましょうというのか その分かれ目は むしろ 一般の人びとの視点が 重要になると思われます。

神の愛が ほんとうなら そんな物体的なおこないは――してもよいでしょうけれど―― 必要ないという原則を押し出してくれれば なるほどとわかる。つまりは だれをも分け隔てすることのない絶対の愛なのだと 人びとは受けとめるでしょう。

わたくしは そもそも そのような神だとして これは すでに 信じていると分かったところから出て来ていますので――恐れや焦りを持った時期もあったわけですが―― たとえば あのもはや観念した強盗であるとか エルサレムの厩に呼んでもらった無学の羊飼いであるとかに 自分の位置をおいているかと思います。

一たん区切りまして あと考え直したりする事柄を 次の欄に述べさせていただこうと思います。

投稿日時 - 2007-05-24 09:58:48

ANo.22

追伸まで
イエス様の御心がなへんにあるかがわかればいいだけかな。
イエス様の現在の垂訓を質問者に贈りましょう。
その五:「神を信じる者は幸いである、あなたがたは永遠にわたしと手をつないでいる。」これがイエス様のお答えです。洗礼を要としても不要としても「神を信じる者は幸いである」の一点が問われるだけです。
信仰は儀式でも洗礼でもないのですねその「神をイエスを信じる心」がすべてなんです。その心と生き様で判断されるとゆうことです。後は質問者さんの判断で十分でしょう。
以下がイエス様の現在の垂訓です:
一、心清き者は幸いである、あなたがたは神をみるであろう。
二、心貧しき者は幸いである、あなたがたはなぐさみを得るであろう。
三、心正しき者は幸いである、あなたがたは悟りという名の幸福を得るであろう。
四、心優しき者は幸いである、あなたがたは永遠に神のそば近くにいるであろう。
五、神を信じる者は幸いである、あなたがたは永遠にわたしと手をつないでいる。
六、人の幸福を願う者は幸いである、あなたがたは義とせざれるであろう。
七、この世に命を持ちて神を見るは幸いである、永遠の栄光はあなたの頭上を飾る王冠となろう。

投稿日時 - 2007-05-23 21:37:41

お礼

山上の垂訓も交じっているようですが ご自身で考えられたのですか。

《手をつないでいる》というのは 詩のように感じます。

あと わたしの夢は 将来 キリストのキの字も言わずに そのみこころが実現するように進んでいく世の中です。

追伸をありがとうございます。

投稿日時 - 2007-05-23 21:52:09

ANo.21

哀れな

今更改宗するわけにもいかんし...
迷いの境地だな.
灯台の明かりとおぼしきものは何を照らしてるのかも
疑わしいと解り始めた今となっては.
女々しい...

投稿日時 - 2007-05-23 21:12:33

お礼

読んでくださって ありがとうございます。

これからどうなるか わかりませんが この質問と回答がつづくようでしたら その行方を楽しみにしてゆかれるのも 一興かと存じます。

なにかありましたら そしてよろしかったら お知らせください。回答でしたら お応えしてまいります。

これ以外にどう応えていいか わかりません。ぶっきらぼうで 申し訳ないですが。

投稿日時 - 2007-05-23 21:37:34

ANo.20

今まで3回書かせていただきました
そこで気になることを一つ 神はなんのためにイエスをこの地上に送ったのか?そこが抜けているように思います
>水の洗礼の不要説を唱えることになりました。

あり人にとって洗礼というのは意味がありとっても重要なもの
その人もイエスを信じていると言うことです。
そのイエスを信じている人は誰の名によって受けたのか?
誰を信じているのか?と言うこと
信仰と言うのは自分の口で告白すると言う意識ともう一つ聖霊によって
告白する。すなわち元を正せば神が私たちを愛し 神が聖なるものと
認めたのであってその認めた方が洗礼を受けなさいと言うことで
洗礼を受けている。それを批判するとイエス自体を批判していることに
もなります。御言葉は愛し合いなさいと言う命令を出しました
どうでしょう。もし洗礼を受ける事によって救いをがあると言う人に向かって言うならそれは集めようとしているのではなく散らしているという事になりませんか?
このようなことは議論すべき問題ではないと思います。
なぜなら水の洗礼の不要説を唱えることになりました。

イエスはバブテスマのヨハネにどのような事を言ったのか?を考えてみれば
理解できますよ。
しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。

すべてに時がありますからね。決して兄弟を躓かせないように
そしてあなたが聖霊によって「洗礼を受けなさい」と言われた時
出来なくなりますからね。心を柔軟に 平和 愛を求めてください

必要な人には必要ですからね。カトリックのかたがロザリオを必要としているように・・・
心で口でイエスを救い主と言ってる限り水の洗礼を受けたことになりますからね。

投稿日時 - 2007-05-23 19:02:58

補足

洗礼を受けていないのにキリスト者を名乗る者に対する目が どんなであるか・・・。

今度は そのちいさな受難者のわたしが 洗礼を受けた人に対して 躓きの石となるというのでしょうか?

それほど わたくしの今回の文章は 力強いものなのでしょうか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ヨハネはまた こうも証しした。
――わたしは 聖霊が鳩のように天から降って この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし 水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が 《聖霊が降って ある人にとどまるのを見たら その人こそ 聖霊によって洗礼を授ける人である》とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから この方こそ 《神の子》であると証ししたのである。
(ヨハネ1:32-34)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ではかれ(=洗礼者ヨハネ)は何を主において知らなかったのか。それはこうである。
主は洗礼の権能をご自身のものとして保ち だれかある下僕に渡したり移したりしようとはされなかった。そして善い下僕が洗礼を授ける役をする場合でも 悪い下僕がそれをする場合でも 洗礼を受ける人は 洗礼の権能をご自身の中にとっておかれる方によってだけ洗礼を受けるということを知らなければならない。
(中略)
《わたしこそ あなたから洗礼を受けるべきなのに あなたがわたしのところへ来られた》・・・その方は言った。《今はとめないでほしい。すべて正しいことが満たされるためである。》
これは わたし(=キリスト・イエス。以下この段落で同じく)は苦難を受けるために来たのであり 洗礼を受けるために来ているのではないと意味だろうか。《すべて正しいことが満たされるためである》と。わたしの未来の民の中に高慢な人々がいることをわたしは知っている。わたしは恩恵のより高い状態に入るだろう人々を知っている。かれらは禁欲や施与や学識のゆえに 洗礼を受けようとする無学な人々を見て自分たちのほうがすぐれていると思い その劣った人々が受けた洗礼を自分たちも受けるのはいやだと言うのである。しかしわたしはかれらをいやし 主の洗礼に行くのを拒まないようにさせなければならない。わたしは下僕の洗礼を受けるために来たからである。
(アウグスティヌス:ヨハネ福音講解説教 第5説教・8)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
部分的な引用ですし アウグスティヌスが何が何でも権威があるとは限られないししますが こう採ります。つまり 授洗者の善い悪いが関係ないということは その権能がキリストにあることを意味するだけではなく それは  《聖霊による洗礼を授ける》ということだと わたくしは解するものです。水を排除するわけではなく 水に重きを置かないということであり それは むしろ当然だと考えます。

ということは こうです。洗礼を受けた人も 実際には《霊による洗礼》を受けたかどうか分からないのが ふつうであり 分かったという場合でも 他の人と ああ なるほど それは互いに同じ聖霊による洗礼でしたねと理解しあえるほどには 分からないのがやはりふつうです。

ということは こうです。だれか《わたしは 聖霊による洗礼を受けました》という人が現われれば まづは ああ そうでしたか では キリスト者ですねと受けて――建て前としてでも―― 認めなければ うそです。そのあと たとえば水の洗礼は どうだったのですか?と問いかけても おかしくないでしょう。

ですが 水の洗礼を早く受けて わたしと同じキリスト者となってくださいと言うのでは 《聖霊による洗礼を授ける権能とその同一・唯一なること》を疑っていることになりませんか。水あるいは授洗の執行者のほうが その権能を持つ存在より偉いと言っていることになりませんか。

水の洗礼を受けていないキリスト者が いるということから出発するのが肝心だと思います。

長くなりました。このへんで区切ります。いかがでしょうか。

投稿日時 - 2007-05-23 21:24:03

ANo.19

No12です。
このサイトの趣旨においては二重に解答する事は望ましくはないとは思いましたが、丁寧な補足もいただきましたので、簡単に述べたいと思います。

わたしの所属する教会などでは洗礼を希望する方に対して、洗礼の準備として『ハイデルベルグ信仰問答』の勉強会をします。

ハイデルベルグ信仰問答の一覧-
http://suita.hp.infoseek.co.jp/h1.htm
(日本基督教団吹田教会ホームページ内)

ハイデルベルグ信仰問答中の『教会』に関する解説-
http://yukinoshita.or.jp/tsuushin/k0507.htm
同じく『洗礼』に関する解説-
http://yukinoshita.or.jp/tsuushin/k0601.htm
(日本基督教団鎌倉雪ノ下教会ホームページ内)

これを読むとプロテスタント教会の考え方が簡単にわかると思います(本当は教会にも行った事もないのにキリスト教関連の質問にご自分の矮小な頭のサイズに縮小した内容で解答する方々にこそ読んで頂きたい)。『ハイデルベルグ信仰問答』については多くの研究書や解説書がありますので、そちらも参照になさってください。

補足で気になった点を一つ。
教会を市町村議会のように考えておられるのかもしれません。現実に『見える教会』としてはかなり似ています(ではなく民主主義議会が教会制度を真似たのです)。ただ根本的に違うのは民主主義においては国民主権ですが、教会における主権はキリストにあります。

さらに一点。
このサイトは議論の場としては不向きです。mixi内にある『クリスチャンへの疑問質問!』コミュなどをお勧めします。

投稿日時 - 2007-05-23 13:12:31

補足

PCの前におりましたので 早くに読ませていただきました。ありがとうございます。

《教会および洗礼》の解説を読んだところです。
まづ初めの印象は これは ヨーロッパ人・特にはドイツ人ふう(フランス人ではないという意味で)の文章だと感じたことです。だからどうということはないのですが 日本文としては いまひとつ鯱張っているという印象です。これでは 喉が通りません。一般日本人のためには これが 正直な印象です。(あるいは そういった誇りをもった人びとの集いであられるのかもわかりませんが)。

あとひとこと。キリスト者にとってのエクレシアとしてのムラ議会と民主主義は 国民主権というよりは 市民主権と言いたいのですが これは 言葉の言い替えにすぎないとすれば 少なくとも 国家を超えて ムラどうしの・市民どうしの連帯――そこに 秘跡の系譜を見る――を基礎としていきたいと思っています。

走り書きのようになってしまいましたが つつしみまして。

とは言っても その趣旨は まったくそのとおりであって わたくしもアウグスティヌスによって 信仰にかんする文章表現の上では育てられて来ていますので わかるつもりです。

思えば おっしゃるとおり 議論の場のごとくなってきましたので このまま続けてよいかどうか分からなくなっていますが ひととおりお応えつづけます。

たとえば次の文章のごとく きらりと光る絆とその誇りのようなものがつらぬいていると窺えます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
目に見える教会には多くの欠けがあり、つまずきがあります。いや私たち自身がつまずきになっているのではないかと恐れを覚えることもしばしばです。しかし、教会は、キリストの償い(贖い?)のゆえに罪赦された者たちの群れであり、そこに聖徒の交わりとしての姿が現れてきます。主にしっかりと結び合わされることによって、ひと枝ひと枝が生かされ、キリストの赦しによって互いに赦し合い、キリストの慰めによって互いに慰め合う群れとして生きることができるのです。教会に与えられているこの祝福と命、この喜びと望み・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《群れ》というよりも ふつうの交通・交わりとして 主の家(チャーチ)のごとくに感じられます。

しかも ひるがえって この趣旨が 総じて(世界史という視点で)言って 取り返しのつかない傷を負ってしまっているのではないかというふうに わたしは 徐々に 見るようになってきたというのが この質問をつうじての対話で得た感触です。

その視点は 感覚の部分が多いので措いておきますが たとえば もしAleph_Tamaさんにお答えいただけるものでしたら 次のように質問してみたいと思います。

あらたに ヨブを例にとりたいのですが かれは キリスト者だとわたしは思っています。洗礼も そして恐らく割礼も 受けていないのではないでしょうか。しかも 《見えない教会》につらなっていると確信しますが いかがお考えでしょうか。そのお答えで《教会 および 洗礼》にかんする事柄がよく明らかになるように思うのですが。

あとひとこと。キリスト者にとっての民主主義は 国民主権というよりは 市民主権と言いたいところですが それは 言葉の言い替えにすぎぬとすれば エクレシアとしてのムラ議会どうしの・そして市民どうしの 国を超えての 連帯 ここに 秘跡の系譜を求めていきたいと思います。非宗教的な見えないエクレシアのまじわりとして。

走り書きのようになってしまいましたが つつしんで申し述べました。

投稿日時 - 2007-05-23 15:03:26

お礼

すみません 次の箇所が どういうわけか 補足欄で 途中に二重になって入ってしまっています。ごめんなさいませ。

《あとひとこと。キリスト者にとってのエクレシアとしてのムラ議会と民主主義は 国民主権というよりは 市民主権と言いたいのですが これは 言葉の言い替えにすぎないとすれば 少なくとも 国家を超えて ムラどうしの・市民どうしの連帯――そこに 秘跡の系譜を見る――を基礎としていきたいと思っています。

走り書きのようになってしまいましたが つつしみまして。》

なお mixiについては いまのところ よくわかりません。
なお お礼欄か 補足欄かは 文章の長さで〔のみ〕使い分けしています。
不一。

投稿日時 - 2007-05-23 15:29:44

ANo.18

[水による洗礼は必要不可欠なことですか]

 凡人は何かの儀式をもって気持ちを新たにすることを好むとゆうだけです。儀式そのものに意味はありません。従って必要ない人には必要ないとゆうことですね。イエス様であれば我を信じ我のように「愛の行為をなせ」それがわが弟子といってるだけですね。教会に通うことが信者の条件じゃないですよ、儀式にとらわれるとパリサイ人サドカイ人といわれかねないですね。イエス様はそのようなお方ですから。

投稿日時 - 2007-05-23 09:25:45

補足

回答をありがとうございます。
おそらく おっしゃっている主旨が 筋だとわたしも思います。

問題は 洗礼が これをイエスも受けたし 授けたし そうして受け継がれてきたということだと思われます。

わたしは ここで 俗に言う《見切り発車》で 水の洗礼の不要説を唱えることになりました。

わたくしの導き手であるアウグスティヌスに参照してみましょう。

ヨハネ4:1-2に《洗礼を授けていたのは イエス自身ではなく 弟子たちである》とある箇所について まづ《直接 手をくだすのはイエスではなかった》だけだとおさえて 次のように説きます(これは 教会での講読においてのものです)。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
だがこう言う人がいるかも知れない。《キリストは霊において洗礼を授けておられるのだ。肉においてではないのだ》と。
それはまるで 人が肉の洗礼・目に見える洗礼の秘跡において水に浸されるとき 誰かキリストとは別のひとの賜物によってそうされるかのようである。だがあなたは 霊の洗礼のみならず 水の洗礼を授けるのもまたキリストであることを知ろうと思わなければならないのだ。
使徒(パウロ(?))の言葉を聞くがよい。かれは語る。《キリストが教会を愛し 教会のためにご自分をお与えになった・・・のは ことばを伴なう水の洗いによって教会を清め しみや しわや その類いのものは何一つない栄光の教会をご自分の前に立たせるためでした》(エペソ:25-27)。
キリストは教会を清められる。どのようにしてだろうか。ことばを伴なった水の洗いによってである。キリストの洗礼とは何だろうか。ことばを伴なった水の洗いがそれである。水が欠けても ことばが欠けても それは洗礼ではない。
(アウグスティヌス:ヨハネ福音書講解説教 《著作集・23》pp.261-262 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
例によって戦闘的な調子を帯びていますが おそらくは 《心おきなく劣った奉仕者(授洗者)のもとに赴くがよい》(同箇所)というのが 趣旨だと思われます。

それは いいですし ですから キリストの権能において洗礼が 秘跡として行なわれるということまでは いいわけです。

わたしが ここで 犬の遠吠えを上げ始めたのは 個々の授洗者の優劣の問題ではなしに 教会じたいが しみを付け しわが寄ってしまったようだという問題です。人間がそうしてしまったのだと思います。プロテスタントも 挑戦に乗るかのように 殺し合いに応じてしまった。(その点に対する憂慮は 前々から持っていましたが この質疑応答の過程で このように考えを固めました)。

いま 一つの帰着として考えられるところは こうです。割礼をめぐってエルサレムの使徒会議が催された(使徒行伝15:1-41)ように わたしたちも 話し合いを持つということです。

要は 割礼のない異邦人を神はそして原始教会が受け容れたように 洗礼のないわたしを 洗礼のないまま 受け容れるかということにあります。

《かれらの心を信仰によって清め わたしたちとかれらとの間になんの差別をもなさいませんでした。それなのに なぜ今あなたたちは 先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を 異邦人の信者の首に懸けて 神を試みようとするのですか。・・・》(Acts15:9-10)。

洗礼が軛かっ!!??と返されかねませんが 教会は すべてご破算でねがいましてはという再出発を切らなければならないように思いますが いかがでしょうか。ガリレイさんごめんなさいだけでは済まないように思います。

mmkyさんへのお礼の欄を このように使わせてもらいました。あしからず。そしてありがとう。(そして きりぎりすが二十歳――さらに ごめんなさい!!)mmkyさん ありがとう。

投稿日時 - 2007-05-23 11:11:37

ANo.17

  おはようございます。

 私も、総括の意味で最終コメントさせて頂きたいと思います。幾つか、皆さんのご意見の中で、理解できない点も有ります。キリスト教は、それほど交錯しながら現代まで続いていると私は理解したいと思います。

 さて、以下に述べさせて頂きます。
(1) 洗礼の是非は、自称キリスト者とも通じていると思います。故に、是非はご自身の信仰の結果として生じると思われます。(frisk_blue_loveと同じですね)
(2) イエスの洗礼ですが、人間となられたイエスだからこそ、洗礼を受けられたと考えられます。洗礼は、一人では受ける事が出来ないと言う現実もあります。(実施者=証言者、その点自称では第三者に理解されにくい)
(3)エレミヤ書31:31に関して、聖書注解を二冊ほど見ました。一般的な専門家の考えとして参考に。やはり、新約聖書の予言と解釈できます。《そのとき 人びとは隣人どうし ・・・〈主を知れ〉と言って教えることはない》に関しては、救いの完成でしょう。確かに時間的な問題が有るように感じます。それで、洗礼をどの様に解釈するかも理解の分かれる点かと思われます。

 何方か、ご指摘されておられましたが、聖書は突き詰めるとギリシャ語、ヘブル語とそれをどう理解するかによっても、様々意見の分かれる所です。又、その時点での歴史的な資料の有無によっても当然違うと言えます。

 以上を総括して、質問者様の信仰に神様が関わって下さる事を信じてお祈りいたします。孤立した学びは時として病的な領域にまで発展する事もあるようです。くれぐれも、ご自愛下さい。私達の信じる神様の導きに委ねて、アーメンですね。

投稿日時 - 2007-05-23 07:55:59

お礼

おはようございます。
さわやかなコメントをありがとうございます。

一点 いちばん重要だと思われたことがあります。《最終コメント》と書かれているのに 申し訳ないのですが 次の意味がよくわかりません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《そのとき 人びとは隣人どうし ・・・〈主を知れ〉と言って教えることはない》に関しては、救いの完成でしょう。確かに時間的な問題が有るように感じます。それで、洗礼をどの様に解釈するかも理解の分かれる点かと思われます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
もしわたしの立ち場に都合よく解釈すれば こうなりますが それで よろしいでしょうか。すなわち 《今後いづれ また 少しづつ 時の満ちるとともに 〈救いの完成〉が実現されてくる。それにつれて 水の洗礼は 必要ないようになる》と。

エチオピアの女王カンダケの高官のように(使徒行伝8:26-40) どこからか ピリポとかいう人が来てくれて 《ここに水があるから 浸けましょう》と言ってくれていればよかったのですが そうは成らなかったというのであれば 考え物ですかね?

神言修道会( Societas Verbi Divini )というドイツ系のカトリック教会で 《洗礼は受けても受けなくてもいいですよ》と言われました。神父よりも わたしのほうがアウグスティヌスについて よく知っていたので 嫌われました。

そのとき ほんとうに 受洗について迷っていたので 《一匹よりも 九十九匹のほうを大事にするのですね!?》という捨て台詞をおいて 帰って来ました。(タンタンッ)――これは 愛から出た言葉ではなく 単に 意識を排泄しただけかも分かりませんが。――みこころのままに という言葉を隠れ蓑にしつつ。

投稿日時 - 2007-05-23 09:29:04

No8でありNo10です。三度ここに書きます。

洗礼の必要性については、どうやらご自分の中に既にお答えがあるご様子ですので、私は使徒行伝5:34~39のガマリエルと同じ立場を採りましょう。
即ち「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない」です。
あなたが本当に聖霊の力に満たされているなら、きっとこのままお進みになるでしょう。そうでなければ、いつか洗礼を受ける必要性に目覚めるでしょう。だから、私は洗礼についてこれ以上意見は述べますまい。
けど(No8と関連しますが)私は愛し合っているのに結婚してない男女を見れば、大きなお世話だと分かっていても結婚を勧めます。洗礼も然り、信じている人には洗礼をお勧めします。

さてエレミヤ31:31について成就したかどうか、ですが・・・正直私には分かりません。ですが、キリストの十字架上の死と復活によって全人類の全ての罪が許された、事は信じております。即ち、神との和解は成った(これが福音です)と。(ここはあなたと同じ考えです)
だから、イエスは「福音(Good News)を告げ知らせよ」とお命じになりました。人は福音を知らなければ、横井庄一さんが戦争の終結を知らずに密林で孤独な戦いを続けていたように、罪の奴隷のままです。(実際には戦争は終わっていても、知らなければ終わっていないのと同じ事ですから)
しかし、この命令があるのは「まだ福音を知らない人がいる」からではありませんか?だとすれば、エレミヤ31:31~34にある「彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである」は、これからの事ではないでしょうか?
全ての罪は赦された、しかし、その事を知らない人がいる。だから、マタイによる福音書28:19~20「・・・あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい・・・」と、イエスは弟子たちにお命じになったのです。
罪が赦された事と、それを知る事は別の事だと思います。戦争が終わった事と、終戦を知る事は別なように・・・。

さて、長々と書きまして申し訳ありません。三度祈ります。
願わくば、主があなたに最善の道を示して下さいますように、
願わくば、私の回答が躓きの石とはなりませんように。
父と子と聖霊の御名によって、Amen
※私はこの質問にはこれ以上回答しないでおきますね。

投稿日時 - 2007-05-22 19:43:58

お礼

後味のわるい議論を あえて することを選びます。

けっきょく わたしたちの間のちがいは 時間の問題だということ――すなわち 《もうそろそろ 普及した》か《まだまだ 普及させねばならない》かの違いだということ――だと 一たん 思ったのですが そして めでたしめでたしとなろうかと思ったのですが ちがうようにも感じました。

だって 《主を知れと言って教えることはない》という事態に対して 《和解は成った。ただし まだ 知らない人がいる。知らせに行こう》という事態を優先させるということじゃないですか。

《宣教という愚かな手段》で知らせた時代が イエスのあとなのですから この《ニュース》の普及は 必要であったのでしょうが こういうことだと思います。つまり このエレミヤ書の文句を イエスのあと ただちに 全人類の和解が成ったという内容のもとに解釈し読んだのは キリスト紀元二千年ごろに わたくしに起こったということです。この起こった事件は ニュースの普及が世界的に行なわれたあとだったというただそれだけのことのように解します。

事態は時間的に前後していますが どちらも キリスト者たちの歴史として起こっていると解します。

わたくしに起きた事件が いま 伝えられたとき そのことを知ったキリスト者にあっては やはり すべてが無条件で成就したという事態として受け留めるということだと思うのですが。

ここまでになります・・・。
(《洗礼の必要・不要》については いまの質疑応答の過程で 《ローマ教会の汚点が とてつもなく大きく イエスの系譜を断ち切ってしまった》というかたちで 考えがまとまってきたものです。腐敗に至る前までは イエスの始めた儀式だったのだという認識です)。
(回答は ご自由ですので。前言をひるがえすのも ことの性質じょう 問題ないと思います)。

投稿日時 - 2007-05-22 20:57:27

ANo.15

9です。
勉強は、聖書だけでは無理です。旧約も、たくさんの箇所を割愛してまとめなおされたものです。新訳はいうに及ばずです。
しかし、信仰は現行の聖書だけでも充分でありましょう。
私の言うこと、おわかりいただけますね。

異教につながるような、少しでも都合の悪い内容の痕跡を消すために、
聖書は割愛され、変更を重ねられ、全体のつながりが大幅に削られてしまい、
ひとつの言葉の背景にあるエピソードや伏線が消されてしまっています。
けっして、何かを類推して読み取るべき難解な書物だったわけではありません。

抑えがたい知識欲があるなら、信仰とは別の柱をもうひとつ立てて、研究をしなければなりません。
ただの信徒が法王と同じ研究を積む必要などないですから、身の丈にあった研究をです。

水による、神と人の約束は、キリストの生まれるよりも3000年以上前からのものです。
ここには、異教の痕跡があるのですが、キリスト教は一番古い異教をひきついでいるという点にも、
キリスト教の「高み」があるわけです。
都合に合わないものは排したが、都合によいものは取り込んでオリジナリティを加えたのですから、
根拠をキリスト教のなかに探ろうとするのは甚だ無理があります。
水による洗礼は、キリスト教よりも大事なこと、であると考えてもさしつかえないのです。
そして、キリスト教を信仰するということであれば、キリスト教のコミュニティをたいせつになさるべきであって、
師と仰ぐ指導者のもとで、その意見にしたがって学んでいけばよろしいでしょう。
洗礼の必要は必ずしもないと言ってくだされば、その方のそばで学べばよろしいでしょう。
ただ、研究の道では、水による洗礼は何に始まりをもつか、ということはないがしろにはできませんし、
聖書のなかにその意味を探そうとするのは無意味です。
信仰と研究は必ずしも矛盾しないと思いますから、たくさん、本をお読みになって、コミュニティをよく選び、
生活を律する場と、思想の冒険の場を、バランスよく操縦していってください。

投稿日時 - 2007-05-22 17:51:23

補足

《十字架じょうのイエスの脇にいて かれから おまえは今日わたしといっしょに楽園にいるのだと言われた強盗のようであればよいと思います。》とANo.13へのお応えにしるしました。

その昔には 旧い言葉ですが《呉下の阿蒙》と名のっていた頃がありました。勉強など 宿題を除いて いっさいしない腕白だったわけです。

しゃれた言い草を用いるなら 《神は知恵のある者に恥をかかせるため この世の無学な者を選び・・・》(1Cor.1:27)というのは 我れのことなりと 増長したわけでした。

しかももはや昨年 還暦を過ぎたというわけです。

どうお応えしてよいものやら・・・。

箇条書きに やはり なりますが。

信仰は きちんとしたかたちでは アブラハムから始まるものとばかり思っていました。シュメール語も アッカド語も ウラルトゥも ロシア語小冊子の入門書でのみ 勉強しましたが きちんとした先史・原始時代というのは 学んでいないですね けっきょく。

amaguappaさんの研究成果は 本にされていないのですか。あれば それを読んで学んだほうが はやいようです。

ただ 水による洗礼が そのようなかたちで大事だとするならば 反面で あたかも我が国のみそぎのごとくであるようですから これまた どう考えればよいか 依然として さらに 謎が増したようでもありますね。羊水ではないですが 産湯だって 洗礼のごとくですし。

結論としては 贈り物としていただいたと受け留めている命題:《生活を律する場と、思想の冒険の場を、バランスよく操縦していってください》に帰着するようですが その前におっしゃったことで 二点 いわば ひっかかりがあります。

《師と仰ぐ指導者》を求め続けていた事実があり そのとおりだと思う反面で 《キリスト教のコミュニティをたいせつに》ということがらにつきましては 微妙な感覚が残っています。

だれかれかまわず受け容れる性向なので 当然だという反面で じっさいのキリスト教徒の人びとは けっきょくわたしのような性格に対しては 煙たがったり よく(?)言えば 敬遠したりするのが 一般です。どうしようもないほどだと告白せざるを得ません。もちろん つねに 希望を持っていますが。

お応えできたかわかりませんが やはりおこころにそぐわないような内容になるのですが わたしは 学究派ではありません。《民主自由会議》という政治組織かつ文化団体をつくろうとし 挫折したのですが そのような側面のほうが 合っているかも分かりません。(挫折したので 合っていないかも分かりません)。

今回は このように尻切れとんぼで 筆を擱きます。(いい表現もアイデアも もう 浮かんで来ません)。

投稿日時 - 2007-05-22 20:07:23

ANo.14

No.7です。

ユダヤ教においては、この神はイスラエルの民を選んだことになっていますよね。
バビロン捕囚の頃、ユダヤ教が確立した。
神が選んだ民を守り導いてきたという信仰ですよね。
イエスもユダヤ教でしたよね。

イスラエルの民が北と南に分裂したのはご存知ですよね。
ユダ王国にベニアミン族が南に住んでいて、10支族は北に住んでいた だったと思います。
サマリア人は北に属しており、イエスはよき隣人としてたとえ話に登場させましたよね。
汝の敵を愛せよとは、南の人がサマリア人をバカにして敵視していたので、同じイスラエルの同胞ではないか 隣人ではないか と説いたと私は理解しています。



聖書を読むと、神の子らと人の子らと二つ書いてありますよね。
神の子らとは誰のことですか?
人の子らとは誰のことですか?


>わたし自身は すでに 神の子らの中に入るように導かれました。

神の子らが誰を指すのか知った上で言っているのでしょうか?



>ただ そのような自称だけではいけないという考えが 圧倒的に強くありますので

そうですね。
神の子らの意味を知った上で、適切な場面で使った方がいいと思います。


>イエスは おっしゃるとおり 《弟子たちの――チンコではなく――足を洗いました》。それは 相手に尋ねつつ 相手のこころを推し測りつつ 相手の言おうとするところをていねいに聞き取ろうという意味が含まれています。

私の記憶ではその部分はそのような描写じゃなかったと思うのですが。

聖書作家はどうして足をイエスに洗わせたのでしょうか。
弟子達が他の部分もと言ったとき、イエスはどう言ったでしょうか。
何故足なのか。
何故 赤い絨毯なのか。
何故高貴な人は赤い絨毯が敷かれたところしか歩けなかったのか。
何故天と地の間なのか。

チンコを洗うの比喩ではないとしたら、残りはこれしか私には思いつきません。
何故吊るされて地面に足をつけることができない儀式を女の子たちは受けさせられていたのか。
どういう意味があって、地面に足がついてはならなかったのか。
地面に足が着くとはどういう意味だったのか。



>迷惑なロゴスは無用に願います。

ロゴスってヘブル語ではなくコイネーで、それもギリシャ哲学用語ですよね。
ギリシャ哲学はユダヤ哲学とは違う。


ヘブル語にはロゴスなどという言葉は無い。
ではロゴスと翻訳された言葉はヘブル語ではなんでしょう。



迷惑なロゴスですか。
実はこのロゴス、、、、真言でもあるわけです。
どっから出たかというと、創造主、MA。
Mはメム 水、Aはアレフ 誕生。
MAMA と2回と唱えると。。。どうなるんでしょうね。
適切な場面で唱えなければ、言葉の力は発動しない。
これが真言。

ウイルスに幻を見つづけさせられ、エネルギーを吸い取られていたって映画ありましたよね。
MATRIX。
ネオは目覚めさせられ、現実を知らされ、トリニティーにつれられzionに帰還した。
MAtrix。
ひょっとしてあなたがここちよいと見ている夢はMAtricksじゃないのでしょうか。偽母親。
口当たりの言い言葉を求めるものたちが見る夢。
そして夢を見せてエネルギーを搾取しているのがウイルス。
(閑話。このサイトで知ったのですが、Matrixの冒頭で緑の雨が降るシーンありますが、なんで日本とは関係ない映画なのに、カタカナが流れるのか。ヘブル語の筆記体的なものだったか忘れましたが、日本語のカタカタでもあるわけです。)


>《それがどうして、洗礼をしないと天国にいけないと教会では教えているのか?――縛るためですよね。》とお考えなら 《水の洗礼は必要不可欠ではない》という結論です。そのことをおしえてください。

イエスは信者に洗礼をして、これで天国にいけるなど言っていないから。

そう決めたのはイエスではなく後の神学者が会議でそういういことにしようって決めただけ。って前私書きませんでしたっけ?


>ただ この《人々を服従させるために、天国にいくためには洗礼は不可欠だと後の人たちが決めたこと。》というのは 根拠が弱いと思われます。そのように解釈しただけのものです。イエスが自身 洗礼を受けていますから。

で、あなたはイエスが洗礼を受けた理由は罪を清めるためだったとお考えなのですか?
イエスを創造主とキリスト教はしているんですよ。
その神がどうして人間に穢れを清めてもらうわかければならないのでしょうか?
聖書作家は何を言いたかったのか。

その当時はイエスは神だと思われておらず、本人も思っておらず、後世の人がイエスを神だと会議で決めから。
何会議でしたっけ?


>水を用いての洗礼は キリストの神の権能によって 人の手でおこなわれる》のだと捉えられます。

その<人>は時には人に冤罪をかぶせ拷問し殺すわけですよね。
そのような人々ですら洗礼を与える権利をもっていた。
殺人もいとわない人が、信者に清めてやると言うわけですから大したものです。
その人も洗礼を受けておきながら、冤罪を着せ殺人を推奨した。
大した洗礼の効果です。
この人たちはみな天国にいったとしたら、私は死んでも絶対にこの人たちがいる天国など行きたくないです。
洗礼を受けていない同胞のいる地獄で暮らしたいです。


>《霊》を 人間の理性でわかるように解釈するのは 自由ですが キリスト信仰とは 似ても似つかない哲学ですと申し上げておきます。

キリスト教はユダヤ教から分裂しましたよね。
では、ユダヤ教はどこからきたのでしょう?
ユダヤ教の創世記に霊が出てきますよね。
さて、この話の元ネタは一体どこの宗教だったでしょう。

コピーしていくうちに、だんだん元の画像が不鮮明になり、やがてもとの姿をとどめなくなる。
そして後の人は元の意味を知ることもなく、どうしてそういう話になったのかも何度見ても理解できなくなる。
コピーのしすぎ。



人間の理性でわかるように解釈するのは自由とおしゃるが、それがキリスト教です。
私にではなくキリスト教に言うべきです。
霊はMAより発せられる。
それは理性でなど理解できない分野です。
それをキリスト教は言葉で理解しようとした。


>むろん《神》と言っても それも代理表現です。

ヘブル語はものの本質を直接表す珍しい言語だそうです。
その特徴を持つヘブル語のクラスに入ったギリシャ語は、嘘つきですらなく、あきらかに愚者なのだそうです。
嘘つきですらない、、、ってすごいですねぇ・・・・。
そこまで言われている新約聖書・・・・・。
嘘つきはまだ知っていて嘘を言うので救いようがありますが、愚者は悟る能力が無いので知らないわけです。


>こころの清い人は さいわいなり。神を見るから》

そういえば、マタイにこんな言葉がありますね。
「義のために迫害された人たちは幸いだ。何故なら天国は彼らのものである」
これ間違いですよね。


マタイ5・3
「こころの貧しい人たちは幸いである、天の国は彼らのものである」
この本来の意味は?
知っていなければ、「心の清い人は」といわれたら、この文章で返したでしょうけど、私知っているので、、、苦笑。




>わたしは kigurumi さんに 説教をし 宣教をしているみたいですね。くれぐれも あしからず。

説教って教えを説くってことですよね?
すいません。 教えを説いているとあなたが自覚している部分あるのでしょうか?
まず、知っている情報を流すだけでは説教になりませんよね?
従って私は説教などしていないという自覚がある。

説教をする人は、確立していないと駄目だと思うんですね。
彷徨っているうちは説教はできない。

宣教は知らないのにやってしまうと、たちまち聖書のくだりの解説にまごついてしまいますよね。
矛盾を指摘されてスラスラ答えられるレベルにならないと、宣教してはいけないと思うんですよ。
じゃなきゃ 答えられない 大したことはない宗教だ ってこの自称宣教者にせいで、キリスト教がバカにされることになってしまうわけですから。
悟った気になり有頂天になればそれは気持ちがいいでしょう。
でも、それって自慰とどう違うんでしょうか?
人の説教をした気分になって気持ちが良い 快楽だ は神の愛をゆがめたアウグスティヌスの自慰と変わらないレベルだと思うんですね。


神の愛の概念をゆがめたアウグスティヌス。
彼もまたとんでもないペテン師ということになってしまいます。
ユダヤ教には、三位一体などない。
唯一神が3つに分かれるってのは、異教の概念なんです。
ローマやギリシャ神話にもはその概念があったと思います。
ユダヤ教には無い。
ユダヤ教も一時期それに染まったが、このせいで退廃したとして、異教のこの概念を排除したんです。


ユダヤ教には無いし、神への冒涜になります。
イエスはバリバリのユダヤ教徒ですよね。


そして、ほとんどの神との契約の証である律法を否定し、神を冒涜しまくったのがキリスト教ですよね。



韓国人と日本人って外見上区別つきませんよね。
実際 DNAレベルもすごく似ている。
でもDNAを調べなくても見分けることができる。
習慣や風習の違いにより、区別できるわけです。
イスラエル人ならイスラエル独特の律法により民族が形成されて人の形をとっているわけですよね。


イスラエル人はイスラエルの何倍ものユダヤ人が本国以外の土地に住んでいたわけですよね。
彼らはもうヘブライ語も喋れないし、習慣もおろそかにして、神の民としての形を保っていなかった。
それでこれはいかんと、ヘブライ語が喋れない風習を知らない異国に散らばったイスラエル人に神の元に帰還してもらいたくって、ヘブル語をコイネーとかコプト語とかに翻訳しなおして、帰還運動をしたわけですよね。

それなのに律法・風習の否定。
ギリシャ哲学かぶれ。 とうとう神の民の形に戻る事を退け、新しい神殿をたてて別物に完全になってしまった。
これがキリスト教ですよね。


新しい宗教においてその独自性を出すために、原罪だとか洗礼だとか骨組みをしていった。
激しい権力争いをして、自分達の方が偉いとするため、3世紀に「天国の鍵はペトロが授かった」と加筆してしまった。
そして自分達がイエスが鍵を誰でもなくペトロに渡し、そのペトロによって神の家は立つとした。
その延長戦上にあなたはいて、それで洗礼の重要性について考えているわけですよね?


もう別物。
あなたは神の子らに属してなどいない。
歴史も記憶も神の子イスラエルの血も保有していない。
自称神の子らと言う人の子らに属する人です。


天の国が降りてくる、天でなることは地でもなる。天が乱れると地も乱れるわけです。
イエスが生きたとされた時代は、今とは比べ物にならないほど分裂していた。
神の子らががんばってくれないと人の子らも乱れるしかなかったわけです。
統合か隠蔽か。統合のために異端として排除した。
排除するために新約聖書はでき、一部の人が決めた以外のイエス理解をする人は、徹底的に新約聖書という武器によって弾圧されたわけです。

洗礼も武器になりました。
教会が排除したい人々には洗礼を与えなかった。
洗礼を受けないと天国にいけないとして、洗礼を与えず苦しめた。
ただし、教会の脅迫・権威への服従に屈しない人たちもいたわけです。
その人たちを捕まえて拷問し、屈しなければ殺した。
あなたも生まれた時代が違ったら、拷問のすえ 屈して洗礼を受けていたか、拒否したことで殺されていかですね。
よかったですね。

投稿日時 - 2007-05-22 12:26:42

補足

たとえばこの《水の洗礼は必須か》といった論点を特定するかたちで たとえばこの教えて!gooにてみなさんの意見を訊いてみられては いかがですか。残念ながら kigurumiさんの回答には 質問の主旨と直接かかわらない議論が多いです。

キリスト教は 非道な宗教ならざるや / 洗礼はただ信徒を教会組織の内にとどめておくための手段にしかすぎぬと思われるが ちがっているだろうか うんぬんと 論点ごとに 諮ってみられては どうですか。そういう議論 そういう内容として受け取られる議論になっていると思うのですが いかがでしょう。

わたしの質問にかかわる所について お応えします。
(1)《神の子ら》という表現が舌足らずだったのでしょうか。

《このかたは 自分の民のところに来たが その民はこのかたを受け容れなかった。しかし このかたは 自分を受け容れた人 その名を信じる人びとには神の子となる資格を与えた。》(ヨハネ1:11-12)にもとづいて わたしは使いました。

(2)《イエスが弟子たちの足を洗った》のことで わたしが述べたのは わたし自身の解釈です。もし間違いでしたら たとえば別の質問事項として 立てていただくか それとも この質問の欄でいいですから あらためて その論点について きちんとわたしの解釈に対する批判をまとめてくださいますか。そのように願います。できる限り お応えしてまいります。
申し訳ないですが 《何故 赤い絨毯なのか。》からあとは 内容がよく読み取れないのです。

(3)《イエスは信者に洗礼をして、これで天国にいけるなど言っていないから。》との由。

《イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って そこに一緒に滞在し 洗礼を授けておられた・・・洗礼を授けていたのは イエスご自身ではなく 弟子たちである・・・》(ヨハネ3:22~4:2)とあり 弟子たちを執行者として 神キリストの権能において 洗礼を授けたと解されます。マルコは《信じて洗礼を受ける者は救われる》(16:16)という文句をイエスの言葉として掲げています。一応これにもとづくことになるかと思います。
あとは 聖書学者の研究に俟ちたいとわたしは考えます。

(4)《説教をし 宣教をしているみたいですね》とわたしが言ったことについては あくまで《みたいですね》という主旨です。してもいないし するつもりもないですが あたかもしているように見られるかも知れませんねというこころです。

あとは もし 申し訳ないですが 見落としがあるようでしたら お知らせいただければさいわいに存じます。

(5)ちなみに ローマ教会の腐敗ぶりについては ほかのお礼・補足欄でわたしも触れております。

(6)《こころの清い人は さいわいなり。神を見るから》にちなんで論じてある内容は 何かありそうだとは感じますが よく読み取れません。そういった部分もあるということも お伝えしておきます。

投稿日時 - 2007-05-22 14:29:32

ANo.13

私はクリスチャンではなくキリスト教に関する知識も殆んどありませんことを予めお断りしておきます。そもそも信心深くもございません。(^^;
キリスト教というのは「契約」ということを重視する、というふうに聞きかじったことがございます。また「実践」を重んずるということも。
もちろん信仰するという内なるそれが即ち「実践」ということでもあるのでしょうが、こう考えてはいかがでしょうか。
たとえば、このサイトでは回答を寄せてくれた相手に対して、お礼を述べるというのが基本的なマナーとされていますね。まして、その回答が質問者にとって有意義なものであれば、なおの事、心込めて、お礼を述べようと普通はしますでしょう。しかし、それは決して強制されてはおりません。強制では意味がない、やはり心からのものが望ましい。
これと似たようなことではないのでしょうか。
経緯はどうあれ、そして「神」或いは「主」呼び名はどうあれ偉大なる存在、大いなるおかたが自分に呼びかけてくだすった。
それに対して、どうして無言でいることができようか。その有り難さに思わず返事をせずにはいられない。
その返事に代えて「洗礼」を受けるというのが「主」への証の行為とはならないのでしょうか。つまり「主」へのマナーとしての返礼を「実践」するということ。それを「主」が、お喜びなさるというのであれば、せずにいられましょうか。
もちろん形式に過ぎないものであれば無意味でしょう、そもそも神は人が強制されて御自分に従うことを望まなかったと聞いております。「主」に対する心からの返答としての行いであれば、これは真心の発露、「主」にとって最も喜ばしい御馳走ではないのでしょうか。
しかし、このサイトの「お礼」ではありませんが、強制はなさらない、いや強制されての返事など「主」は、お喜びなさらないだろうと思えますが、いかがでしょうか?
いずれにせよ「主」は洗礼を受けられないことで貴方を責めたりはなさらないと思えますが、御返事を声に出すという「実践」がないことを、お寂しく感じられるのかもしれませんね。
でも迷いのなかで気乗りしないままに洗礼を受けられるというのも「主」の御心にかなうことだとも思えないのですが。。。
できるだけ各方面からのお話も仕入れ、いろんな角度で御考えになって、心ゆくまで御思案なさってから御決めになっても宜しいのでは?少なくとも人に言われてアタフタと洗礼を受けられるくらいなら、納得がいくのを、お待ちになっても、「主」は御許しくださるんじゃないでしょうか。貴方が洗礼をお受けになることを御決心なされたその瞬間こそ「主」から許可が下された、ということなのかもしれません。
但し、もしかしたら自分は「主」の呼びかけに対して声を出さずに頷くのみにとどまっているような姿であるのかもしれない、ということを御考えの片隅に置かれておいては?

さぞや、とんだ的外れを申し上げたことでしょうが御質問者様、並びにクリスチャンのかたがたには、どうぞ御寛恕のほどを。
飽くまで、ひとつの考えかたとして御笑納くださいませ。
御心平安でいらっしゃいますように。

投稿日時 - 2007-05-22 03:58:55

お礼

寛容 寛容なる助言 まさにこの言葉どおりの回答をありがたく受け取りました。

一つ前のANo12へのお応えにも述べたのですが 洗礼をと思ったことは 二回あったわけです。

アウグスティヌスの《三位一体論》を読んでいて――それと格闘していて――途中で あっ おれはこの神なら信じているということになりました。少し時間をおいたあと 教会を訪ねなければならないとも考えました。これは 漠然とした考えです。

近くの教会の門の前で ひととおり考えをまとめ直していると こう思いました。もし洗礼が必要なら そのことを知らせてくれる誰かに必ず会うだろう・必要の理由も知ることになるだろうと。

その後 放っておいたあと 近所の《キリストの教会》派の牧師さんから 勧めを受けて あらためて考えたところ 特に理由はないようだと結論づけました。カトリックのほうでは はっきりと 受洗してもしなくても どちらでもよいとのことでした。

今回は 三回目に考えたのですが はっきりさせたいという意図でした。そのかたわらで わたしの思想としての考えは やはり起き上がって来てしまいました。そのほうが 勝っています。

十字架じょうのイエスの脇にいて かれから おまえは今日わたしといっしょに楽園にいるのだと言われた強盗のようであればよいと思います。

投稿日時 - 2007-05-22 07:20:47

ANo.12

 プロテスタントのクリスチャンです。

 洗礼について、いろいろな意見が出されていますが、あまり指摘されていないと感じた点を一つ。

 洗礼はサクラメント(カトリックでは秘跡、プロテスタントでは聖礼典と訳します)の一つであり、キリスト教においてはカトリックでもプロテスタントのほとんどの教派にあっても「教会のわざ」とされています。もし聖書を読んでキリスト教に共感したからといって、自分で洗礼に真似た儀式を行ったとしても、教会のわざとして行われていない洗礼(自己洗礼)は全く無効です。質問者様は「水の洗礼を受けていない自称のキリスト者」と書かれていますので、教会における洗礼を受けていないのではないかと推測しました。

 この議論においては、洗礼の意義を考えるだけではなく、教会とは何かという神学的な問題をも孕んでいます。つまり洗礼を救いの証とだけ捉えるのでは不十分であり、教会について、特に単なる人間の集団・組織という意味での教会ではなく、使徒信条にある「聖なる公同の教会」、信仰共同体という意味での教会、(カトリック的には)使徒性を継承する教会、そうした教会の意味において洗礼や聖餐というサクラメントを考える必要があると思います。これについて一番手っ取り早い解決方法は、教会に通ってみて牧師や神父に聞いてみることですね。(推測ですが)教会で礼拝も守った事のない方がクリスチャンですと主張しても、あまり信憑性はないと思われます。
(推測した内容が事実と違ったらごめんなさい)

投稿日時 - 2007-05-22 00:50:58

補足

回答をありがとうございます。

サクラメントの問題を指摘いただきました。わたしも 気になっていました。ANo10へのお応えで 少し触れることができました。

結論としましては 組織や集まりのない透明の《教会》を想定します。(このように 自分の主張をもろに述べるかたちになって来てしまったのですが ご容赦あれかし)。

洗礼は不要である――つまりすでに 去って行ったイエスが 聖霊をあらたに贈った時点で その霊による洗礼が すべての人に与えられた――つまり サクラメントも不要になっていた――もしくは こう言ってよければ すべての人に このサクラメントを神は施した という想定が伴なっています。

とは言うものの 《教会とは何かという神学的な問題》については わかりませんので さらに教えを乞いたいと存じます。

とは言うのですが 一度 洗礼が必要ではないかという恐れと焦りを持って 教会を訪ねたことがあります。近所の教会で上智大学系のカトリックと 復興運動(キリストの教会)のプロテスタントとです。

後者は 熱心に受洗を勧めました。ただ 洗礼は すでに恩恵を受けたあとその感謝の意を表わすためであると言います。そういうかたちで 必須のものなのだと。

前者では 週一回手ほどきを受けて二ヶ月目に入ったころ止めることになりました。何で来たのだ?と言います。アウグスティヌスをそれだけ知っていて 何で来たのだという意味です。洗礼は 受けても受けなくてもよいのだよとのことでした。

言いかえると わたしが 洗礼を受けていない・受けないというのは この信仰への導き手であるアウグスティヌスに逆らっていることになります。ですから 《水も霊もどちらも大事だよ》と言うわけですから 一度 門をたたいたわけでした。その後 最近 このことをさらに明らかにする必要があると思って 質問したのでした。

サクラメントの一つとして そもそも洗礼を儀式・制度として イエスが始めたのだと思います。その心と意志と愛とは 変わっていないけれど 人間が(特にローマ教会が) 台無しにしてしまった。局面は変わったと考えます。現代は わづか二日(二千年)経ったところです。

エクレシアは 宗教に関係のない共同自治のあり方にかかわっているのだと考えます。市町村議会です。国を超えて 世界のこのムラの連帯が もしあえて言うとすれば サクラメントの実現になるでしょう。そして 《〈主を知れ〉と言って教える》ことはないわけです。

放談ひらにご容赦のほどを。

投稿日時 - 2007-05-22 06:53:07

ANo.11

ここで議論すること自体間違っていると思います
神と信仰者の間の契約ですからね。信じて受けるならそれが信仰でしょう。しかし信じず受けても意味がないと言うこと
洗礼を受ける受けないという結果的な見かたではなく
信仰者として歩んでいるのか?常にここをスポットに当てていく
そうしないと洗礼をうけさえすればいいという感じにも思えますね。

僕はもともと仏教徒でなんか知らないが心が満たされず自殺しようと思っていたときがあった。たまたま公園に行き クリスチャンの家族と出会い そこでまだイエスとは何か?を知らず 聖書を読んで
生きることあるんだ!人生やるんだことがあるんだ!不思議な経験
をした人間です。

私は神とつながっているならそこに聖霊がいてくださり、そこに
もうバブテスマを授かっているという事を言いたい
つまり洗礼というのは通過点であるだけで 人生の中で色々な試練を乗り越えていく事が本当の意味でのクリスチャンだと思います

聖書の捕らえ方は様々
ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。
主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。
どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」
祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした

この場面では洗礼は施していないと思われます

後もう一つコリント第一
わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、バプテスマを授けたことがないと言い切っています
もし本当に大切ならすべての人に洗礼を施していると思いますが・・・

他人と自分との関係じゃなく、自分と神様との関係
洗礼を受けたなら受けたでいいし、受けないなら受けないで別にいいと思います。すべてに時がありますからね

福音を知ることが目的 死んだ後天国にいけるという証印をおしてくださだっていると言うことが大切で 洗礼は重要じゃないと思いますよ
受けた受けないと言うより信じた。というのが本来の信仰じゃないかな

すべてを主に委ねること、これも大切でしょうね

(信じているという事で書いています。信じていないならこの文章は意味がありませんのでご承知ください)

投稿日時 - 2007-05-21 21:39:01

補足

《私は神とつながっているならそこに聖霊がいてくださり、そこに もうバブテスマを授かっているという事を言いたい》というのが そもそも わたくしのこの質問にあたっての趣旨でもあったものです。よくぞ言ってくださいました。

《つまり洗礼というのは通過点であるだけで 人生の中で色々な試練を乗り越えていく事が本当の意味でのクリスチャンだと思います》と同じく受け取っています。

あるいはもっと過激かも知れません。つまり《洗礼というのは通過点であるだけで》すらなく すでに 聖霊による洗礼は イエスの出現のあと すべての人に成就しているとさえ思っています。この点は 上の#9および#10でのわたしの文章を よろしかったら 読んでいただければさいわいです。

なお ひとこと多い天邪鬼のごとく述べるとしますと 《死んだ後天国にいけるという証印》については 何ら考えていません。わたしは 死んだあとのことなど いっさい考えていません。

復活についてでしたら 《真理がすべてにおいて真理となる》ことを念頭においています。死後は論外としています。過激でしょうか。

投稿日時 - 2007-05-21 23:32:43

No8です。お礼拝見しました。まずお絞りになられた一点につき私の考えを書きます。
洗礼は二度受けても永遠の命を二つ得る訳ではありません。ですから、既に罪が赦されており、聖霊をいただいている人が洗礼を受けても実質何も変わらないでしょう。(もし、あなたがそれだ、と言うのであればあなたの内に既に答えがあるのですから、私の意見は無駄ですが)

以下は洗礼は不要か、についての考えです
No7氏への補足で、イエスもヨハネから洗礼を受けた事をご存知だとお書きですね。神の子であるキリストすら洗礼をお受けになったのに、どうしてあなたには洗礼の必要が無いのでしょうか?

前回も書きましたが、洗礼は恵みです。神のためにあるのではなく、人のために用意されているのです。
「信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16:16)とのイエスの約束があるのですから、私はその約束を信じます。が「信じた者は洗礼を受けなくても良い」との言葉は私には見つけられませんでした。
ヨブは「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と言って全てを受け入れました。
あなたの前には神の救いと恵みの約束があるのに、自分の解釈で一つは受け、一つは受けない、とえり好みしていますが・・・恵みですら選ぶのであれば、災いの時にはどうなさるのでしょうか。

私からの答えは、「あなたが信じているならば、洗礼を受ける事が神の御心に適うことだ」です。
マタイ7:21「「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」
この一節は、多くのキリスト者にとって重い警句だとは思いませんか?
もう一度、祈ります。
願わくば、主があなたに最善の道を示して下さいますように。
願わくば、私の回答が躓きの石とはなりませんように。
父と子と聖霊の御名によって、Amen

投稿日時 - 2007-05-21 21:11:40

補足

#9amaguappaさんへのお応えにかかりきりで 遅くなりました。

そこでも述べることになったのですが つまりエレミヤ書31:31以降の新しい契約のことに関してですが この情況は イエスの出現によって 成就したとわたしは捉えています。その点は frisk_blue_loveさんは いかがお考えなのでしょう?

《わたしの律法をかれらの胸の中に授け かれらの心にそれを記す》とあります。すでに 洗礼も救いも恵みも 石の板にではなく 心に記されてあるのではないでしょうか。

《既に罪が赦されており、聖霊をいただいている人が洗礼を受けても実質何も変わらないでしょう。》という事態は すべての人に成就しているというのが わたしの信仰の立ち場なのです。

いまも ちょっぴりは 勇み足ではないかとの恐れが感じられますが この勇み足の感覚が大きかったので この質問をしてみようと考えたのだと思います。いま述べた立ち場じたいは 前からありました。

たとえば 別のかたちで表現するなら 《人は 一人ひとりが キリスト( a christ )である》と言えると思います。これからは 言っていくべきだと思っています。
**
マルコ16:16は これまで 心に留めていなかったことに気づきました。《信じて しかも 洗礼を受けない者》についても 明示して欲しかったと言うのは 茶化すことになります。

ただ そのあとの《信じない者は滅びの宣告を受ける》という文句は わたしには 抵抗があります。組織の伸張のために 威勢のいい言葉を並べているように感じます。
***
洗礼者ヨハネが 旧約の文句にもとづくかたちで イエスへの橋渡しをしました。かれは 洗礼を施すということをしていました。この継承の筋において 洗礼は ひとつの制度として 用いられたのだと考えます。

イエスの弟子からの授洗の系譜が肝要であるというとき おそらく ローマ教会の腐敗は その継承の正統性をも滅ぼすまでの事態に至ったのではないかと考えます。魔女や十字軍は 人の意志を無視して殺すという行為を正当化しており そこでは イエスからの系譜が途絶えたと思われます。

洗礼の儀式が 秘蹟ではなくなったように思われます。

謹んで申し述べました。この述懐が frisk_blue_loveさんにとって 躓きの石に むしろ なったほうが よいと言うべきでしょうか・・・よくわかりませんが ヨブをも思っておられるので 心配はしておりません。

投稿日時 - 2007-05-21 23:13:00

ANo.9

ヘルマン・ベックやルドルフ・シュタイナーが設立にかかわった「ディ・クリステンゲマインシャフト」のもつ独特の概念が、「キリスト者」でしょうね。

キリスト者、とご自分を呼んでいらっしゃるので、このあたりを思い浮かべるわけですが。

この思想は、キリスト教の解釈を現代神秘思想によって強化したもので、非常に自由な、学究的な傾向がありますが、
それでも、聖別されることは重要なファクターであるとおもわれます。
祝福されたか否か、というのは根源的な資格審査のように見受けられます。
聖水によって聖別されることをはしょるというのは、私の知る限りでは考えられません。

神学には、人間の自由意志についての問いが含まれます。
自由意志はほとんど無いものでありながら、問うことの中に、わずかにあります。じつにせつないものです。

これこれは神の意志で、これこれは人の意志、という区分けは、出来ないはずですが、どのようにその区別にいたったか、もう一度ご自分の中で原因を突き止めてみてはいかがでしょうか。

人の解釈、人の口伝、人の説教と、人を介してあなたが導かれているのは確かですが、
人のすることの中にしか、神の意志は形にならないことも確かでしょう。

問題は、いつも自分の意志と、神の意志という二極であって、
人一般の意志と自分とのすりあわせではないですね。
人がやることの過ちや、人の行いへの疑問は、蚊帳の外にあるものです。
あなたがキリスト者であろうとするなら、
そこに神の意志がないと思うときは、それは人のせいではなく、あなたの自由な意志がそう決定している、ということです。

念のため付け加えますと、私は特定の宗教は持っていません。思想史は専門ですが、聖書の解釈は専門ではありません。
キリスト教の立場からのアドヴァイスはできませんが、神学的には私は上記のように考えます。

投稿日時 - 2007-05-21 16:38:56

補足

神学を神学として学んだことなく ただアウグスティヌスの《三位一体論》を中沢宣夫訳にて読んだのみといったところのわたしが amaguappaさんのこの回答に対して お礼を述べることすら 躊躇されますが 質問とその主題ははっきりしていますので その主旨のもとに お応えしてまいります。

§1 キリスト者というのは キリスト・イエスが指し示した神を信じる者という意味で用いています。クリスチャンのことですが それだと 幅広い通常の意味あいがあって わたし自身のあり方と違うように感じるので あまり使いません。ただそれだけです。ほかに理由はありません。

§2 《聖別されることは重要なファクターである》という命題ですが この問題からして 出発点のあり方がちがっていると申し上げざるを得ません。

エレミヤ書31:31以降では 《わたし(=主)はかれら(=人びと)の悪を赦し ふたたびかれらの罪に心を留めることはない》とあります。もしこの文句にもとづくなら もはや――イエスの出現以降は――《聖別》はそもそも要らないというのが わたしの立ち場なのです。

ですから《祝福されたか否か というの〔も〕根源的な資格審査》ではなくなっています。ですから《聖水によって聖別されることを端折る》ことは 当然のこととして帰結します。

§3 自由意志の問題については 通りすがりに議論して済んだということには出来ないと考えます。

箇条書きのごとくに 問題点や課題を記します。

§3-1 自由意志の存在をどのように捉えることができるか。

《そのとき人びとは〈主を知れ〉と言って教えることはない》(エレミヤ)ということが そのように《人のすることの中に 神の意志が形になる》ことだと もし捉えるとした場合 その場合には 仮りに人が《主を知れ》と言って教えたとすれば その行為は おそらく神の意志に反していて 人間の自由意志をはたらかせたものである と認識するというものです。けれども 神の意志に従う場合も 自由意志のはたらきはあると わたしは考えています。

§3-2 《自分の意志と 神の意志という二極》とおっしゃるようには わたしは捉えていません。

《わたしは自分の意志ではなく わたしを遣わした方の意志をおこなおうとする》(ヨハネ5:30)と言うのは キリスト(神の貌)としてのイエス(人間)です。

わたしたち人間は このキリスト・イエスに倣って生きるのみです。しかも 人間としての自分の意志の自由な選択があるところから出発しているはづです。この《倣う》というとき 神の意志(聖霊)がはたらきたまうならば わたしたちも なにがしか イエスに似る者となるでしょう。

《極》は 神の一極です。それと同じ意味での極にはなれないと知っていて その神の極に甘え続けているのが わたしです。人生は それだけです。ちゃちな自由意志が そこにあるようです。

§3-3 他者との関係においては どうか。

《人一般の意志と自分とのすりあわせ》が むしろ 起こります。

前記の《ちゃちな自由意志》が それでも 批判を受けるとき――つまりたとえば 水の洗礼を受けていないから おまえはキリスト者ではないというふうな批判です そのときには―― 他者との関係が 具体的に特定されて・しかもこのとき既に 一般的な問題ともなって=さらにつまりは あたかも神の意志とかかわるかのようにして 起きて来ます。

この事態を分析してみましょう。他者は 言葉の上だけとしても 明らかに《神の意志》のありかを問題としています。わたしはこのとき むしろ わがままから 神なる一極に固着し得ないで ちゃちな自由意志を振り回そうとする状態にあったわけです。そういう場合があります。

上に挙げた具体的な例に即しては こうです。《水の洗礼など いまは何も考えていない・分からない だからその点で 他者がどう批判しようとかまわない》と思い勝ちになったとき 批判がくれば 《すりあわせ》に入ろうとします。良いか良くないかを別にしてです。

要は 他者が言う言葉のなかに 神の意志――それは わたしにとっての唯一の極です――にかかわる〔と思われる〕ことがらがある場合に 反応するということのようです。

《人の行ないへの疑問》は 明らかに《蚊帳の外》にではなく 内にあると捉えるようです。《人がやることの過ち》に対しては はっきりしません。決まっていません。外か内かがです。

いかがでしょうか。謹んで述べました。一区切り打ちます。

投稿日時 - 2007-05-21 22:28:27

私は小児洗礼を受けた身です。以下はキリスト教徒向けの内容になります。

愛があれば結婚なんてしなくたって幸せになれる・・・確かに結婚という形式にこだわらなくても、愛を全うする事はできるでしょう。
しかし、結婚という社会的に認められた形式を採択しなかった場合、様々な不利益を甘受せねばなりません。
産まれた子は婚外子(非嫡出)となりますし、世間的にも同棲と見られ、親戚からも受け入れられません・・・

洗礼を受けなくても信仰を全うする事はできるでしょう。しかし、信仰に生きる上での不利益を我慢せねばなりません。その内で最たるものは聖餐式に参加する資格が得られない事です。
キリストを信じていると公言するならば、キリストが「あなた」のために設けて下さった儀式をどうして蔑ろにできましょうか?

では、洗礼とは何でしょうか?
一言で言えば恵みです、神が救いの約束を与えて下さる、という恵みです。
イエスを主と信じるのであれば、この恵みはもらう、この恵みはいらない、と選り好みする事は正しいことだとは思えません。それとも、人の考えは神より優れているのでしょうか?違いますよね^^

神は一つであるならば、洗礼も一つです。
だから、人から来る洗礼などは無く「イエス=キリストの名による洗礼」であれば全て神から来るのですよ。
あなたは、幸いにして信仰を持った、キリストを聖書を通じて知る事ができた、しかし・・・不安だからここで質問した。違いますか?

他の方へのお礼を拝見すれば、あなたが真っ当な人である事は分かります。だから、「不安に思い、迷うくらいなら洗礼を受けましょう」と言いたいのです。そうすれば、キリストが代わりにあなたの重荷を背負って下さるのですからね。

P.S.エキセントリックな回答者がいますが、その人に対して「私も」常々苦々しく思っていました。デタラメばっかり書きやがって・・・ってね。しかし「主よ、彼をお許しください。彼は何を書いているのか分かっていないのですから」と祈ることにしております。

来週の日曜日はペンテコステです。あなたが、主にあって兄弟姉妹となり、新しい信仰生活を始めるのに相応しい日だと思いますが如何?

繰り返します、洗礼を受けずとも救われる人は救われるでしょう。
しかし、信じて洗礼を受けるものは救われます、と聖書にありますよ。
そこには他の条件は何も書いてありません、献金を何円以上した者とか殉教した者とか、生涯愛に満ちた技しかしなかった者とか、ではないのです。ただ、「信じて」「洗礼を受ける」事が書かれているだけです。
だから、信じているならば、洗礼を受ける事は神の意思に適う事だと思います。

願わくば、主があなたに最善の道を示して下さいますように、
願わくば、私の回答が躓きの石とはなりませんように。
父と子と聖霊の御名によって、Amen

投稿日時 - 2007-05-21 12:59:29

お礼

誰かが言っていたと思いますが 《もぐり》で《無免許運転》をしているわたしですが それでも キリスト者であると認めていただけるのでしたら キリスト者どうしとして frisk_blue_loveさんとお話しすることができるかも分かりません。

と言っても たしかにおっしゃるとおり 一番のことは キリストとその神の声に耳を傾けることになるわけですから 論理的な議論にしても この質問の場をとおしての少しでもの感覚的な接触にしても 問題は 腑に落ちるような感受性のあり方なり その後の決断のありかだと思われます。

ほんとうは 人間としての経験的な歴史も それとして絡んでいると思われ そのことをお伝えしようと一たんは思いましたが そうとう長くなりそうなので 今回は そうではなく けっきょく 議論を中心とした対話のかたちで お応えをお返しします。

一点にしぼりました。
まづ引用です。《ペテロは言った。〈・・・イエス・キリストの名によって洗礼を受け 罪を赦していただきなさい。そうすれば 賜物として聖霊を受けます。・・・》(使徒行伝2:38-39)

このとき もし《すでに 〈罪が赦されている〉また〈恩恵も与えられている〉》としたら どうなるのでしょう?いかがでしょう?

投稿日時 - 2007-05-21 14:14:09

ANo.7

No.1です。


>どちらとも分からないとおっしゃっているのでしょうか。

文章から焦りが感じられますが、質問の目的は、「水による洗礼を受けなければ天国にいけないのでしょうか?」ということでよろしいんでしょうか?

「どっちか早く知りたい。早く 早く 早く」と決定してもらいたがっているようにお見受けします。

何故、人間に聞かず神に聞かないのか、キリスト教徒ではない私には、その理由がわからない。
神は信じられないのでしょうか?
では、何故信じられないのに信者でいるのでしょうか?


神を信じているのなら、神に聞けばいいわけですよね。
それとも、信じているのにもかかわらず、全く聞えないのでしょうか?
それで洗礼を受けないから聞えないとお考えなのでしょうか?


でしたら消去法として、洗礼を受ければ神の声が聞えるかどうか実際に受けてみればいいだけのことではないのでしょうか。


洗礼後も聞えなければ、洗礼をやったとしても天国になどいけないと身をもって立証できるわけです。

逆に洗礼を受けたことで神の声が聞えるようになったのであれば、もう質問を取り下げてもいいでしょう。
後は神があなたを天国に導くために話しかけてくるわけなので。




>《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない》とイエスが言ったとヨハネは記しています。その他 同じような文句があります。

一番の問題は、「その言葉はヘブル語に戻すと、どういう意味か」ですね。
「はっきり言っておく」は英語ならand、ヘブル語ならアメンじゃないかと思います。
(i'll tell you じゃない。)
たとえ話をしたあと、出てくる接続語ですよね。
慣習で、たとえ話をしたあと、アメンと言って、その前と同じ内容を言う。


で、水とはなにか、聖霊とは本来ヘブライ語では何を意味していたのか、なのですが、、、、

聖書作家は、何を言いたかったのでしょう。


私が知っていることの一つに、水は女性、霊は男性を意味していた
とある。
で、イメージするのが性交です。
「だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない」
確かに、、、人は性交なしには誕生しませんので。

ではイエスはセックスについての教えを説いていたのか?
これは洗礼が不可欠だと言っていたのではなく、セックスが不可欠で、セックスによって快楽を得る つまり天国に行くってことで、これが練成になるってことで、これが後に立川流真言宗などにも現れているわけで、カバラでもあるわけですよね。


水に沈めれば、天国に行けるなどイエスは言ってはいない。


それがどうして、洗礼をしないと天国にいけないと教会では教えているのか?
縛るためですよね。
人々を服従させるために、天国にいくためには洗礼は不可欠だと後の人たちが決めたこと。
人々を統率するための手段として用いた。


イエスは弟子たちの足を洗いましたよね。
「足を洗う」は、日本語にもありますよね。
「ヤクザから足を洗う」など悪いことをやめる決意をしたとき、そういいます。
ではヤクザから足を洗った人は天国にみんな行けるのか?
日本にはキリスト教のような天国って概念が無い。

足だけじゃなく、他の部分も とせがみましたが、、、、
足はセックス(ペニス)の比喩でも用いられた。

難解ですねぇ・・・・
イエスが弟子のチンコを洗ったってなってしまいます。

が、古代では聖王はチンコに油を塗って聖婚に望んだので、その前段階としてチンコを清める儀式をしたというのはありえそうです。

こうして神との結婚の儀式においてチンコに油を塗って、神の地上の体現者である巫女と交わるという風習というか儀式というか秘儀があった。
(ダ・ビンチ・コードでも祖父が儀式に参加していえるところを、ヒロインが覗きみてしまって、それ以降 祖父と絶縁したとして描かれていますよね。現代の概念では祖父たちの儀式の意味を理解できない。)



このように背景を知ると、一筋縄じゃいかないので、明確に「洗礼を受けると、天国に行ける。いけない。」といえないわけです。
だってそもそのも古代の概念が今とは違っているのだから。


現代の概念を持って古代の仕来たり・風習・儀式・秘儀の正当性を理解しようとしても、無理があると思うんです。


で、最後に、イエスが言ったとされる天の国とは一体なんなのか。
私の推理では空に上にあるのではない。
地上にあった。
死海のほとりの砂漠の中にあった。
クムラン宗団の拠点。 これが天の国のこと。

そこには天使の添え名を持つ人もいたし、アブラハムの添え名を持つ人もいた。

彼らは滑らかなる者、口当たりの良い言葉を追い求めるもの、口先は立派で壇上に担がれてのぼり偉そうに説教はするが実践しないもの、つまり足の萎えた祭祀を批判していた。
滑らかなる者とはクムラン宗団の隠語で、パリサイ派のこと。

(神殿では政治的支配をめぐって、サドカイ派とパリサイ派が権力争いをしていたわけですね。)

そして二人のメシアを立た。
一人はアロンの血筋を引くヨハネだと思われます。
彼が外に出た。
砂漠でクムランの思想を語りだしたわけです。
彼の説教により、クムラン つまり天国に入ろうとする人たちが入信したと思えます。
規定がありました。
多数者 つまり12人の幹部がいた。
この幹部は全員レビ人。 
ママドトのツァドクの血を引く(つまり霊を受け継ぐ)直系の子孫たち。

つまり霊とはツァドクの血統ってことじゃないかと。


では、水は?
マリアの身元が不明なんです。
従姉妹のエリザベスがアロン家の血筋なので、マリアもアロン家の血筋か?
私の分析ではアロン家しか水の血筋とされないと思えます。母ヨハネにも天使の添え名を持つガブリエルだったか忘れましたが、現れていますので、この血統はツァドクで、マリアがアロン家だとすると、ツァドク家の者とアロン家の者との間に生まれた子が、天国 つまりクムランで育てられ、地上に降りてきて、人々に天使や神の言葉を授けるって考えだったんじゃないかと。

クムランの祭祀たちは、エルサレムの神殿に巣くう政治的な見解によってなめらかなる者ではなく、とことん神学を究めようとしていた集団なので。


どうでしょう?
私の分析による天の国、水、霊。

このほうが現実的だと思えません?

哲学は非現実的なことを空想していたら、そりゃ 哲学じゃなくなり夢想文学になっちゃいます。
あくまで実際に起こった背景を参考にしながら紐解かないと。


尚、新約聖書は4世紀より前の写本は見つかっていない。
それまでに何度も書き換えられたと思えるんですね。
もともと無かった話を追加してさもあったかのようにしているフシがある。
もともとあった話か、教会が加筆したか考えるには、外典やその他の歴史的資料を参考にしてみるといいらしいです。


ピラトなど新約聖書のような人物じゃなかったので、イエスの裁判のくだりは、後の人がもともとあったものに追加したと思えます。



「だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない」がもし 洗礼を教会の独占業務だとしたいためにたくみに挿入した架空のものだとしたら、、、。
その行為によりどれだけ多くの信者が彷徨うことになったか。
迷惑な霊(ロゴス)です。

投稿日時 - 2007-05-21 08:57:09

補足

《何故、人間に聞かず神に聞かないのか》という意味のことを そうではないと主張する人びとに向けて 質問しています。

人間のあいだで《水による洗礼を通らなければ キリスト者ではない》と決められているようなので 尋ねてみたいと思っています。

ですから 《質問の目的は、「水による洗礼を受けなければ天国にいけないのでしょうか?」ということでよろしいんでしょうか?》というのとは 微妙にちがいます。わたし自身は すでに 神の子らの中に入るように導かれました。ただ そのような自称だけではいけないという考えが 圧倒的に強くありますので 訊いています。そして ひょっとすると わたしの信仰の受け取りがまちがっているかも分かりません。

イエスは おっしゃるとおり 《弟子たちの――チンコではなく――足を洗いました》。それは 相手に尋ねつつ 相手のこころを推し測りつつ 相手の言おうとするところをていねいに聞き取ろうという意味が含まれています。

迷惑なロゴスは無用に願います。

《それがどうして、洗礼をしないと天国にいけないと教会では教えているのか?――縛るためですよね。》とお考えなら 《水の洗礼は必要不可欠ではない》という結論です。そのことをおしえてください。

ただ この《人々を服従させるために、天国にいくためには洗礼は不可欠だと後の人たちが決めたこと。》というのは 根拠が弱いと思われます。そのように解釈しただけのものです。イエスが自身 洗礼を受けていますから。

ANo4へのお礼の欄にも述べましたが 《水を用いての洗礼は キリストの神の権能によって 人の手でおこなわれる》のだと捉えられます。すなわち《聖霊による洗礼》です。むろんそれは 神秘であり 要するに 経験合理性では わけの分からないことがらです。いづれにしても その霊による洗いが 核となって含まれます。――それでは 水による洗礼をつねに伴なわなければ いけないものか これが いまの問いの中味です。いかがでしょうか。

《水は女性、霊は男性を意味していた》《霊とはツァドクの血統ってことじゃないか》というように 《霊》を 人間の理性でわかるように解釈するのは 自由ですが キリスト信仰とは 似ても似つかない哲学ですと申し上げておきます。

人間にはわけの分からないゆえにそのように《霊》という言葉を用いるというだけのものなのです。そのようにして いわば《神》を代理して表わします。 

むろん《神》と言っても それも代理表現です。《神》という文字が神でもなければ 《 kami 》という発音が神でもない。ですから 《無神》と言っても それが 代理表現であると認め合われれば それでよいわけです。アッラーと言っても ブッダと言っても 空なり無なりと言っても すべては代理表現に過ぎません。

ただ このような《神 あるいは 絶対者》の代理表現にすぎないものを わざわざこの経験領域におけるものごとに当てはめるというのは 哲学として自由ですが それは わたしたちのキリスト信仰もしくは信仰一般とも 似ても似つかないしろものです。いかがでしょうか。

もっとも たしかに あたかも指の先か何かでそうっと触れられたといったような出来事として 我れは神を見たりという体験を持つという人もいるかも知れません。すべては 主観としての出来事です。霊とはそういう意味です。しかも 《こころの清い人は さいわいなり。神を見るから》(マタイ5:8)と聞いているので この単なる主観的な体験が 無下に 棄て去られるとは思われないといったところです。

わたしは kigurumi さんに 説教をし 宣教をしているみたいですね。くれぐれも あしからず。

投稿日時 - 2007-05-21 10:18:51

ANo.6

洗礼を受ける。受けない。と言う問題より誰から受けるのか?

聖書は次のように書いています
火と聖霊によるバプテスマを授ける。

私は洗礼を受けたとか受けないというのを問題にしていません
イエスを知って自分がどのように歩んだのか?ここが大切で
洗礼を受けたのか?どうかは大切でないと思います。

僕自身は教会で洗礼を受けたのですが、受ける前にイエスに出会った
救いを知った。と言うこと。人生教会に行くだけが目的ではありません
それぞれ召しがありますから

受ける受けないというのはその人とイエスの出会い、それぞれに計画と目的がありそれを行うおが信仰だと思ってます。極端な言い方すれば
水がない場所ではクリスチャンになれないのか?と言う問題にもなりますし、イエスは主であり救い主だと自分の口で告白するなら洗礼を受けているということにもなるはず。前にも書きました洗礼を受けたのかどうかではなく「新しくなった」自覚したのかどうかが問題で教会の洗礼
は関係がないと個人的に思ってます

まあそれぞれの歩みがあり、神様に知られているなら聖霊を持っている
つまり洗礼を受けたと解釈しても差し支えないと思います。
結果を見るのか?スタートを見るのか?かは問題ではないと思います
まあそれぞれの信仰で大切であるとおもうなら大切にしてください
というしかないでしょう
大切なのはイエスをあいするように自分を愛しなさい
「自分を愛するように」とこの戒めが大切なのであり 個人敵には関係ないと思います。(たとえば仏教だけの町で聖書を拾い救い主はイエスであると理解し一人だけで信仰を守った時このひとはクリスチャンでないといいきれるのか?いいえ イエスを信じるものは救われているんですから洗礼は関係ないと思います

まあクリスチャンもそれぞれいますのでこのへんで・・・
神様の愛は広いし大きいですよ

投稿日時 - 2007-05-21 06:33:39

お礼

《神様の愛は広いし大きいですよ》とおっしゃっていただいたので もう気にするほどのこともないのですが 根拠の点では――理屈の上では――気がかりが残ります。

そして それは この議論の問題というよりも じつは 1katyanさんが ちょっと投げやりな調子を見せておられるところがです。

聖霊がひとつ 頭が同じ一人 なら 《まあクリスチャンもそれぞれいますのでこのへんで》 はないでしょう?

せっかく《それぞれ召しがありますから》とおっしゃっているのに それはないでしょう?

《それぞれに計画と目的がありそれを行うのが信仰だと思ってます。極端な言い方すれば》とのことですが これは 極端な言い方ではなく まったく普通の認識だと考えます。そのとおりだと思います。もちろん おおきな《計画と目的》は やはり一つ と言いますか 決まっているということでしょうけれど。

《人生教会に行くだけが目的ではありません》 これもそのとおりだと受け取ります。でも教会で洗礼を受けられたとのこと よかったですね。わたしは 三十歳のころやっと信仰へと――誰にもよってでもなく――連れ去られたのですから 人生がちがっているでしょうね。

《大切なのはイエスをあいするように自分を愛しなさい》 これは 不正確です。きちんと述べてください。――年寄りの繰り言と思って ゆるされたし。

《〔洗礼を〕受ける前にイエスに出会った / 救いを知った。と言うこと》とのこと すごいですねぇ。《行けと言われたから 行った(アブラハム) / ついて来なさいと言われたから ついて行った(ペテロら) / 信じたから語った / ・・・》 シンプルがいいですねぇ。

《火と聖霊によるバプテスマ》については あえて 触れないことにします。大きな主題ですし。

Thank you for your answer ! と言いたくなるような回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2007-05-21 11:15:01

ANo.5

 ANo.2です。

 アブラハムとキリストですが、アブラハムの時代には、キリストは実存していませんから、水でも聖霊でも洗礼を受けてないと言えます。当時は、キリスト教以前の時代です。神と人間、その間に祭司と呼ばれる特別な役割の人がいます。モーセなどもそうでしょう。

 旧約は詳しくは無いのですが、基本的には、キリスト教と言う考えは含んでないと言えます。良く待望の書と言いますから、待っている時代といえます。イエス・キリストの教えにポイントがあります。ですから、新約聖書の教えが『新しい契約』と言えます。エレミヤ31:31以降で言ってることは、その新しい契約(新約聖書の内容)と言えます。

 新約の時代には、イエスの誕生(処女降誕)、イエスの教えや奇跡、十字架の死と復活、聖霊降臨(弟子たちに現れるなど)一連の出来事を信じる事が、キリスト教的信仰の基礎と考えられます。水で洗礼を受ける事も、そうした一連の出来事と言えます。

 参考までに、私は12月の初冬に河川で洗礼を受けました。なぜでしょう?屋内のプールのような条件で受ける方もいますが、特に気にした事はありませんでした。先日、ある牧師に滴礼という事で意見の違いを感じた事がありました。宗派による違いは有るでしょうが、聖霊(神様の見えざる導き、力の存在)を肯定する事は、キリスト者として大切な条件と思います。

 アブラハムは、信仰の父として一般に理解されています。それは、イサクという息子を頂いた物語や、その子を神様に捧げる決心をして認められた出来事があるからです。ご存知かもしれませんが。その時代でも、天使がアブラハムに望んで語ります。天使を霊的な使いと理解する事もできます。私も、勉強中の身なので違っている事もあるかも知れません。日本的には、自称キリスト者は通じるかも知れませんが、本当の意味でのキリスト者は恐らく、もっと意味が深いと思います。神様に従うとは、信じて生きて行く事と言えます。そうした生き方を選んだ人をキリスト者と、私は理解しています。

 奥が深いので、これを機会に皆さんの意見を聞いてみてください。在主。

投稿日時 - 2007-05-21 01:23:39

お礼

箇条書きにします。

(1)《奥が深いので、これを機会に皆さんの意見を聞いてみてください。在主。》とおっしゃっていただき ありがとうございます。この感謝とともにながら 次のようにも さらにうかがいたく思います。

(2)《水で洗礼を受ける事も、そうした一連の(つまり イエスの生と死と高挙・復活そして聖霊降臨などの受け容れの)出来事と言えます》というとき その《水の洗礼が 信仰にとって どういう位置づけにあるのか》 これが 問題の焦点です。《一連の出来事にとって 絶対必要な入り口である》というのが 一般の常識であるようですから。

(3)《エレミヤ31:31以降で言ってることは、その新しい契約(新約聖書の内容)と言えます》とおっしゃるなら その内容として《〈主を知れ〉と言って教えることはない》ということは どういうことなのか 明らかにしていただけるとよいと思います。

(4)《〈アブラハムは神を信じた。それで かれは正しい人とみなされた〉(創世記15:6)とあります》(ローマ4:3)とパウロが述べています。つまり重ねて《しかし この〈かれ(アブラハム)が〔信仰によって〕正しい人とみなされた〉という言葉は アブラハムのためだけではなく わたしたちのためにも記されているのです》(同4:23)とのこと。

――これでも キリスト信仰と関係ないのでしょうか。また 関係があっても かれは水の洗礼を受けていないので キリスト者ではなく 救われていないというべきなのでしょうか。

(5)《神様に従うとは、信じて生きて行く事と言えます。そうした生き方を選んだ人をキリスト者と、私は理解しています。》とわたくしも受け取って 自称しています。

*対立点を浮き上がらせましたが あしからずご了承ください。

投稿日時 - 2007-05-21 04:24:27

ANo.4

必要かどうかはその人の信仰です。
自称というけどみんな同じでしょう
ただあなたは本当に救われ新しくなりましたか?

地上にありながら罪ある肉から開放されるというのだ。これこそが洗礼の真髄である。
だから儀式的なものより本人が自覚しているのか?と言うこと
後少しだけぬれるのではなく体すべてが水(御言葉)に浸され救いを経験されたかがどうか重要だと思いますが

信じているのではなく神様から呼ばれたものなのか?どうかが問題でしょう。
要するに本当に信じているのか?これがクリスチャンにとって重要なことでしょう。絶えずいつも信じているか・・・
書いている自分でも怖い事を書いていますね
         祈り感謝して・・・・

投稿日時 - 2007-05-21 00:11:57

お礼

回答をありがとうございます。

《必要かどうかはその人の信仰です》にもとづけば 絶対必要な条件ではないという帰結になります。

《ただあなたは本当に救われ新しくなりましたか?》という別の条件がつくとすれば この条件は 不可欠のものなのか・そして また元に戻って それは 水の洗礼によってのみ満たされるということなのかというふうに 議論は回りめぐって尽きません。

《だから〔重要なのは〕儀式的なものより本人が自覚しているのか?と言うこと》というとき この《自覚》は やはり 水の洗礼によってこそ与えられるものなのかという問いに帰着します。 

《体すべてが水(御言葉)に浸され救いを経験されたかがどうか》とおっしゃるのは つまり《水》について《(御言葉)》というふうに括弧書きされているのは こうおっしゃっているのでしょうか。すなわち 《水が 不可欠の条件ではなく やはり聖霊による洗礼がすべての始まりなり》と。それなら わたくしの現在思っていることと一致するのですが。

《信じているのではなく神様から呼ばれたものなのか?どうかが問題でしょう》。――そのとおりだと思います。厳密には 《神様から呼ばれた》から《信じている》ということなのだとは思いますが。つまり《呼ばれた》ということは――水の洗礼のときに その内実が伴なわれることもあるでしょうが 一般的に言えば――《霊による洗礼》のことだと受け取っています。

この質問をして回答を受け止めていくに従い 新しい知見を じつは 得ました。それは 《水による洗礼は キリストの権能によって しかるべき人がその手を用いて おこなわれるものだ》ということです。つまり 《キリストの権能によって》が そのとき同時に 核として 伴なわれているということは 取りも直さず 《霊による洗礼》のことなのであると。

ですから このあと問題は 《キリストの権能による=聖霊による洗礼》が 《人の手による水を用いての洗礼》と共にでなければ 与えられないのか こうなるというように考えました。いかがでしょうか。

投稿日時 - 2007-05-21 04:51:48

ANo.3

これは一カトリック教徒の解釈であり、カトリックの方針そのものではないという前提でお読み下さい。

貴方がキリスト教徒として生きるのであれば、洗礼は必要不可欠なものです。それは意志の表明だからです。
必要か必要でないかは私達が決める事ではありません。
自己解釈で勝手に解釈したら秩序は無用の長物となってしまいます。
解釈には合理性と客観性が無ければなりません。

ただし、最期の時の神の判断はこれとは異なります。
勿論、意思表明した者とそうでない者の差はあるでしょうが、
洗礼を受けた後、規律を破っていれば、教徒以外の者と同じか、それ以上の重い審判が下るでしょう。
逆に教徒でなくても教徒以上に神の意志に従って規律を護って生きていれば教徒と同じように救われるでしょう。

ただし、洗礼は神の庇護の下に入るだけでなく、原罪の罪の許しを乞うための儀式でもあります。
従って、洗礼を受けなければ、例え聖人的人生を送ったとしても、原罪に対しての赦しを得なければ門をくぐる事はできません。

投稿日時 - 2007-05-20 11:04:03

お礼

回答をありがとうございます。前のお二人にも お礼を申し上げます。

《教徒でなくても教徒以上に神の意志に従って規律を護って生きていれば教徒と同じように救われるでしょう》とおっしゃるからには キリスト者であることの条件は 《水による洗礼》が絶対条件ではないと受け取れるのですが・・・?

それでしたら アブラハムも まちがいなく水の洗礼にかんする留保条件なしに キリスト者として 生きたと捉えられます。

なお 《キリスト教徒》というのは 《キリスト教――つまり 教えとその文明化した社会慣習です――》のもとに組織的に生きる人を言うのだと思います。それは 聖霊による洗礼を受けてキリスト者となった者とは――重なる側面もあるでしょうが 基本的に言って――別のものだと考えるのですが いかがでしょう?。

論争を想定していなかったのですが――こちらの側で弁護すべき事柄だけは弁護しようと思っていましたが―― 次のことは 論点になるように考えます。

《洗礼は・・・原罪の罪の許しを乞うための儀式でもあります》とのこと。わたしの信仰の中では ちがっています。乞うか乞わないかを問わず イエスの出現それだけによって すべてはゆるされ 人類すべてにわたって和解が成立したのではないでしょうか。エレミヤ31:31以降は そのことを預言していたのでは?

なお細かいことを言えば 《意志の表明》は なにも授洗によらなくても ひとこと公言すれば だれにでも どこででも出来るでしょう。いかがでしょうか?

この際 よくわかっていただくために もっと述べます。《水の洗礼が絶対条件である》というのは これも そうではないというのと同じように ひとつの解釈にもとづいているように思いますが いかがでしょう?(アブラハムの事例にかんして いっさい解釈しないという一種の解釈にもとづいて 絶対条件であると主張しているのでは?)

《秩序》とおっしゃいますが ユダヤ教とそれにもとづくユダヤ社会のそれまでの《秩序》に対して はたしていったい どう考えどう行動したというべきでしょうか?(だれがの部分を抜きにして述べましたが)。

理屈っぽくなってまいりましたが この教えを乞う巡礼の行方に祝福のありますように。

投稿日時 - 2007-05-20 13:01:09

ANo.2

 >特殊な議論になるかも知れませんが おしえてください。わたしは この水の洗礼を受けていない自称のキリスト者です。

 自称である限り、キリスト者とは言えないと考えてください。洗礼を受けたイエスに、聖霊が鳩のように下ったと言う記述が有ります。神様の目に見えない力が望んだと解釈すべきでしょう。

 ゆえに、>水による洗礼は必要不可欠なことですか ⇒ 貴方は、聖霊の働きをどの様に解釈しますか?
 聖霊様の導きを伴なって、イエス・キリストを信じ、復活の希望に預かって、生まれ変わるとされています。信じる事と告白も必要とする場合は、どうしますか?
 キリスト者と言ってるのは、行動も伴なう信仰を言ってると思います。キリスト者とは、生き方を伴なう行為なのです。人生を通して生涯を貫く選択を意味するとしたら、貴方のキリスト者とはどの様な意味をお持ちですか?

 キリスト者は、結果として洗礼を伴なうものと思います。それは、悔い改めと、復活信仰を意味します。水だけが問題とは思われないのですが?

参考URL:http://homepage2.nifty.com/allstchurch/senrei.htm

投稿日時 - 2007-05-20 00:08:30

お礼

《口でイエスは主であると公に言い表わし 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら あなたは救われるからです。実に 人は心で信じて義とされ 口で公に言い表わして救われるのです》(ローマ10:9-10) たとえばこのパウロの文章を参照して 自称しています。

聖霊を議論の中で扱うのは むつかしいものがあります。

《水だけが問題とは思われないのですが?》――ですから《聖霊による洗礼》にて《自称しています》と申し上げているのですが この質問はこうです。

《なぜ 〈水による洗礼によってのみ〉キリスト者となるというのでしょうか》 つまり 《〈水による洗礼によってキリスト者となったあと初めて〉 聖霊による恩恵を受けることができるというのは なぜか》です。

一つの話のきっかけとして たとえば こういう議論があります。 《アブラハムは 水による洗礼を受けていませんが かれは どうなるのでしょうか》

一般のみなさんから見れば 特殊な質問だと思いますが よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2007-05-20 08:19:20

ANo.1

背景を見ると、砂漠に潔癖主義のクムラン宗団がいたんですね。
彼らは清めを重要視しており、神の裁きが近いうちにやってくると信じていた。
彼らは独身主義者で、性欲を穢れとしていた。
えっちな事を考えただけでも、一定期間沐浴をして聖所に近づいてはならないという規定があったんですね。
ということで、水による浄化を促進していた集団。

考えてみれば身体を清潔にしていれば、病気にもなりにくいし、病原菌が身体についたとしても、水で洗い流せば、発病しない可能性が高くなり、現実として沐浴は浄化作用があった。

(クムラン集団は油を塗る行為をしなかった。何故なら油を体につけると、ばい菌が取れにくくなるので。従って誰かが自分達に油を塗る行為をすると、それは「なんてことを」ってことになるんですね。「そんなことしても清めにはならない。そんな無駄なことをどうせやるのなら、売ればいいのに」ってね。「まあまあ この人は私達の仕来たりは違う規定に沿って、私を清めようとしているのだから。 私は後に羊の捧げ者となるので、彼女はそのための準備をここの慣習に従ってやってくれているのだから。 とね。 ちなみに女神の花婿となる選ばれた王は生贄の儀式の時に油を塗られていたそうです。)


と、話がそれてしまった。
で、クムランはエッセネ派の中の一集団という見方もあるんですね。
そしてイエスに洗礼を施したヨハネ。
彼もエッセネ派 もしくは クムラン宗団の幹部だったという見方もある。


砂漠のクムラン宗団にこもっていたヨハネが外に出て、人々に洗礼を施した としたら。
聖書の記述通りですよね。


彼は誰でも洗礼をしたのか。
イエスも洗礼を受けていますよね。
ということは、イエスは穢れていたからなのか。


どう思います?


もし、ヨハネの洗礼が穢れを清めるのが目的ではなかったとしたら?


「私の心にかなう」と天から声がしたとあるので、イエスは穢れてなどいないし、穢れを清めるために行われたわけじゃあないわけですよね。
少なくとも著者は穢れを清めることを洗礼と考えていなかったので、イエスも洗礼を受けたと書いたわけです。


「私の心にかなう」 つまり「既に清いと自覚させるため」に洗礼を象徴としてやっていた可能性が高い。

聖書学者のジョン・ドミニク・クロッサンは「ヨハネの洗礼とは罪を取り除く儀式ではなく、外的・肉体的に清めることによって彼の信者たちが既に内的・肉体的・霊的に浄化されていることを象徴するためである」とヨセフスの観点から考えてこう結論づけたんですね。

ある歴史家は「人々がヨハネの弟子になったのは、内的にも外的にも浄化されるための良い方法を学ぶためであった。ヨハネの基準に従って自らの正しさに自信がもてるようになれば。彼らは浸礼にやってくる。全ての人々が彼の弟子になってから浸礼を受けたわけではない。だがひとたび浸礼を受けると、彼らはそれ以前から既にヨハネの教えを受け入れていたことになり、以前から彼の弟子であったことになるのだ」と言っているそうです。


ということでヨハネの洗礼の意味は清いことの象徴としてであって、罪を清めるためということじゃなかったようです。


それがどうして幼児洗礼などになっていったのか。
どうして人は原罪を持って生まれてくるから洗礼をほどこして清めなければならないとなったのか。
どうしてイエスが「原罪を消した 喜べ。良い知らせを世の隅々まで伝えよ」としているのに、実際はイエスは原罪など消していないとして洗礼をさせるのか。

福音など無いと否定しながら、福音を伝えよと矛盾したことを言うのか。


おっしゃるとおり、人間の手によってです。
トマスの福音書にも似たようなことがありますが、もともとはシンボル的なものだった。
ところが、後の神学者たちに歪められてしまった。
アウグスティヌスが原罪に対して固執しすぎましたよね。
ティトゥリアヌスは乳児は生まれたときは悪しき者であるという見解を示した。
キリスト教の世界では女性は悪魔ですから、その悪魔から生まれた乳児は悪魔の子なんですね。
それで清めない限り悪魔のままだとした。


西暦418年、キリスト教の宗教会議は、人間の子は悪魔に取り付かれているので、もし洗礼を受けなければ自動的に地獄意落ちるという決議をした。


というわけで、ここからが元のシンボルとは別の解釈として洗礼が使われるようになったわけです。
今の洗礼の解釈は人間が集まって会議をして決めたことなので、人の手によるものです。
人の手によるものなので、どのような効果が期待できるのでしょう。
というか、本来の意味を含んでいない。

洗礼者ヨハネも人間ですが、人を縛るため、罰するために洗礼を開発したのではなく、清いと自覚を促すための象徴として。
目的じゃなく結果としての象徴。


とまあ、私の得ている情報からすると、以上のような見解になります。


結局ですね、神より現実的な支配者を人は選ぶんですよ。
神より怖いのは・・・・・生きた人間ですよね。

普通の人は、生霊の方が怖いですから。
(実態を持っているので簡単に殺せますし鞭打ちとか脅迫とか現実として実際にやりますから。ペトロは全財産を寄付しなかった夫婦を殺しましたよね。神のせいにしたようですが、現代で考えると、この宗教団体が金目的に夫婦を殺して見せしめにしたと警察は考えこそすれ、この宗教団体の神が本当にいて、金を全額寄付しなったから殺人を行ったという判決にはなりませんよね?)


ただですね。
古代の人たちは、この実態を持つ悪魔には屈したふりをしていましたが、表面上はキリスト教の改宗しても、内面までは塗り替えられない人もいたようです。


水、 ヘブライ語でメムだったと思います。
マリア、マーヤ、ミリアム、水の概念があります。
ヨナ物語。
3日間 大魚の中に入って復活したという物語です。
この大魚は子宮の比喩だと思うんですね。
tomb 墓で womb 子宮です。
羊水で育ちますよね。
水の洗礼は、生まれ変わるという意味もあることになる。
つまり reborn。
で、なんで3日なのか。
一応調べたんですね。
月でした。

女神の象徴が月。
生命を誕生させる地母神の象徴が月。
だから生まれる 復活する というときは3日3晩 って物語になるのだとか。
で、「ああ 私の心にかなう子」、 女性の声だったのでしょうか・・・・。
それとも女神の地上の体現者とされた女性神官の実際の儀式の時の言葉だったのでしょうか。

この部分の謎はまだ解明はできていません。

投稿日時 - 2007-05-19 21:39:10

お礼

どちらとも分からないとおっしゃっているのでしょうか。

《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない》とイエスが言ったとヨハネは記しています。その他 同じような文句があります。

わたしは このうち水による洗礼は 必要ではないと受け取っています。でも そうではないということになっていると思われもします。そこで ほんとうにそうなのか もしそうなのなら なぜかを教えて欲しいという趣旨の質問です。

追伸:必要不可欠という説もあれば そうではないという説もあるというご趣旨でしょうか。

投稿日時 - 2007-05-19 22:40:26

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