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解決済みの質問

《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。

まづ信教・良心の自由にもとづく個人の信仰は別問題です。(わたし自身 信じている側ですらあります)。

要するに《現人神なり》と言っています。これは 哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。経験合理性には明らかに反しています。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。

なお 非合理ゆえに我れ信ずは 個人の信仰のことですから 別問題です。

けっきょく なぜ ゆるされているのですか。

投稿日時 - 2007-05-30 18:41:17

QNo.3043372

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

  『現人神』は、理解できました。

 では、一般に言われている『神』を貴方は、どう考えておられるか?(信じている側ですらあります)。と書かれてあります。・・・ が?

 歴史的な事柄は、置いて現在から未来を考えて見たいと思います。例えば、地球温暖化と神、『現人神』には何の関わりも見出せませんが、現に問題は発生しています。又、地球の外側(天文分野)では≪暗黒星雲≫などの情報が、NHKの教育でも放送しています。何と、宇宙の65%位が≪暗黒星雲≫とかが占めていると言うのです。(不明の方が多い) ○○億光年とかの世界ですが、実在してるのでしょう。それらを、『神』の摂理とするでしょうか?私は、そう思いますが、その場合、『神』とは何を意味するか?
 ※ 私には、社会現象・科学・天文学とばらばらにする思考と、絶対的な摂理を意識する人があると思います。人間が支配するか、別の次元に求めるか。

 例え、同じ宗教・宗派・教会などでも個々人で理解は違います。けれども、尊重できる範疇なので目くじら立ててもしょうがない程度なのでしょう。

 史実がどうこう言われるのは、歴史的裏づけが必要な時です。でも、事実は余り気にしない物語・絵本など子供向けの本もあります。著者は大人で対象が子供と言う違いはあります。そして内容的には、多少のぼかしや脚色はあってもポイントを得た(絞った)本が最近は多く見かけます。いじめをテーマにした物が有りましたが、大人が見ても面白いと感じます。

 日本が戦争で負けて、天皇に対する見方が変化したのは、約60年前です。でも、日本の『神』が抹消した訳では無く、信教の自由の基に、生きられる訳で、仏教・キリスト教もです。但し、戦中は他国の宗教と言う事で弾圧した訳です。『建国記念日』や『靖国問題』など、史実は不明ですが、神話や祭り事のように思える事も含まれて現在があるように思います。ギリシャ神話でも言えそうです。

 『神』に対する概念には、超自然・絶対者を求める人間的な本質があるように思います。ですから、その辺で考えると尊重(天皇が象徴である如く)する事で、人間社会が秩序を保っているように感じます。敗戦後そういう意味で天皇制が残されたと言われましたが、私の記憶では?

 > けっきょく なぜ ゆるされているのですか。
 私にも、分かりません。ギリシャ哲学も盛んな時代ですよね。当時の指導者が都合よく解釈したと簡単に言えません。火のない所に煙が発たないように、何かがあっての事と考えますが、ゆえに信仰の対象では?

 >たとえば子どもたちに どう教えればよいか問題になりませんか。
 問題ですね。でも、その問題の回答は子供に返すしか無いのでは?子供のレベルに合った説明をして、実は先生も分からない、研究中(ネットで調べている)。それが、きっかけでその子が学者になるかもしれないので、湾曲した説明は、逆に責任があるように思います。

投稿日時 - 2007-06-02 10:41:11

お礼

なぜゆるされているか?
――わからない。
子どもにどう教えればよいか?
――先生もわからない。〔わかるような人が出て来て欲しい。〕

なるほどと思いました。そのとおりだと思いました。問題は残ったままなのですが。

神をどう考えているか?との問いもありましたので わたしの信仰にかかわらせて 上の事態を解釈するなら こうなります。

潮の満ちていくように 神をめぐる人間(人類)の時も 少しづつ 満ちていくのだと思います。その一つひとつの段階と日々の過程とをたどっていくのだろうと考えます。

でも ただ今でも 教科書は 何らかの説明をしているんですよねぇ。神が肉となったというのです。文学的表現であれば まだしも・・・。まあ 信教の自由は いいものですが。

ありがとうございました。

投稿日時 - 2007-06-02 15:22:51

ANo.12

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回答(22)

ANo.22

 私は、この4月から本格的な勉強を始めました。その意味では初心者かも知れません。

 但し、きっかけ無くして学ぶわけも無く、社会の矛盾や歪を感じたからと受け取って頂いて結構です。

 ここで問題なのは、キリスト教と受け取って良いと思いますので、そのつもりでコメントいたします。日本と違い原始キリスト教の時代は、ユダヤ教としての基盤、ローマのヘレニズム、更にエジプトの思想などが絡まった中から出来上がった宗教と言えるでしょう。ですから、非常に複雑で難解です。ただし、解かると楽しい側面もあるように思うのです。

 kigurumiさんのような考え方も、当然理解できなければ片寄った見方になります。その事も、解かるようになりました。でも、それ自体はキリスト教では無いですよね。それと、信仰信仰と言われても、信仰をベースとした歴史(史実)は存在する訳です。これも、含める必要が有るから複雑になってくる。私は、今はその片方からの視点でコメントしています。

 カトリックに関しては全くの素人に近いので、歴史的な解釈になると思います。それは、カトリックは解釈に違いがあって、宣教と目に見える形でストレートに伝えて無いからでしょう。ただ、カトリック無しでキリスト教は成立しなかった事も事実です。

 今ある、多くの事(イラク戦争やイスラエル内戦など)はそれらが相互に関係したゆえに生じている社会現象と思っています。それで、キリスト教が悪いか?原因か?と言う結論は早急すぎると思うのです。当然、日本にも影響があると言えます。

 そういう社会の状況から、《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。は、許されていると言って良いのでは無いでしょうか?、排除されていれば言葉として死語になる訳ですが、少なくとも今現在は生きている訳です。善い悪いは別として。
 喩えはの是非は別として、原子力発電が使われています。これは事実です。核の廃棄物の処理が確定されていません。この事は、人類は未だ核についても問題解決が出来ていない事ですよね。放射能が人類に無害になるには、1万円は隔離する必要が有るとされています。けれども、人類は様々な問題の中、他の選択肢では動いていません。核兵器にしたって同様の動きを感じます。

 私は、どちらかと言えば工業系の人間です。医療系でも何でも良いのですが、人が関わる行為は人が決めていると言う事です。kigurumiさんは、キリスト教の歴史を手厳しく指摘されていましたが、悪意に取れば又は、汚点のみ指摘すればその主張になるでしょう。工学や医療だけでは人間は生きて行けないと思います。その事を説いているのがキリスト教の精神だと思います。プラトンやソクラテスは哲学の分野で、数学や物理に関わる人に影響を与えた。プラスの影響を与えたからこそ現在までその名が残っていると解釈出来ます。
 逆に、ピットラーがしてはならない事の思想(間違えた判断)から生じた過ちとされています。ドイツは戦後その事を直ちに改めたとされています。その点日本はくすぶっていると思います。

 そして、それらの原因の多くはそれらの人達の地位や名誉又は生活に関わる利害関係も有ると思うのです。原子力はそうした意味で安易に考えてはいけないと思います。急務なのは環境問題かもしれません。中世ヨーロッパまではキリスト教一色だったと思いますが、それだけではいけないのです。私は、キリスト教の果たしてきた思想の影響は大きいと思います。そして、これからも形を変えながら、人類の存在する限り支えて行くと思います。それは、人間の永遠と言う思考が存在する限りあっても不思議ではないように思います。

 以上です。

投稿日時 - 2007-06-09 23:43:24

お礼

mr-birnさん 成果を挙げておられていいですね。
総合的な視点から 述べていただきました。

ただ――端折った言い方になりますが―― わたくしも けっこう執念深いのでしょうか 問題の核心の点では まだ 納得いっていません。

宗教としてのキリスト教会あるいは聖書が 一般に受け容れられているのですが ただいまの一点つまり神の受肉にかんしてどう捉えるかをきびしく扱おうと思えば やはり わからないところが残っています。

わからない / 明らかにしてくれる人よ出よ というのが 中間の結論だったのですが そしてそれはそれで なっとくしているのですが この点の尋究は またそれとして つづけて行きたいとも思います。

時事にもわたると 一方で最近新聞記事を全部は読まなくなってしまったゆえの情報不足からと 他方で そうは言っても調べて考えて述べようとすればそれはそれで長くなるだろうと思われることから 今回はこういうご挨拶で失礼したいと思うのですが。

この質問のもとで 続けようとすれば 質問の核心につながった何か具体的な主題を一つ二つ特定して そこに集中していくのがよいかも知れません。もう少し――kigurumiさんのためにも―― 開けておこうと思います。

投稿日時 - 2007-06-10 07:24:38

ANo.21

一週間位前にコメントしました。その後も目を通しました。決着も気になってた所でした。

 >《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。
 でしたね、赦されるんでしょう。キリスト教が存在している事自体がそれを証明していると言ってよいと思います。それと、Iテサロニケ 4:13~18(主は来られる)では、信じ無いまま(知らないまま)死んだ者にも希望を示しています。

 幾つか、気になった点
(1)天皇や八百万の神を信じる事も、個人的な次元ですから、尊重されるべき事ですが、行政の一環として関わる事には、疑問を感じます。きちんと公の決議を取るべきでしょう。最も、憲法も絡むのでしょうが。 
(2)ロゴスは本来、人々の話す言葉と解釈されてるようですが、その言葉が意味する概念・説明なども含むとされています。会話の内容から、意図する意味が判断出来ないのは、私だけでしょうか?
(3)先日の新聞に、ヘロデの墓が見付かったと言うニュースが出ていました。今後の調査で判明する事もあろうかと思います。ヘロディアンは初めて知りました。気に留めておきたいと思います。
(4)ヨハネの福音書の著者に関して、私の資料では、使徒ヨハネと長老ヨハネの説となっていました。べブル語とギリシャ語を理解できるかで意見が分かれているようです。確定するものではありませんが。キリスト教の分野では有力説ではないのでしょうか。よって、ヘレニズム文化圏の著者を否定する説と言ってよいのでは?ただ、かなり偏ってると感じますが?
(5)イラク戦争のコメントが有りましたが、100%クリスチャンで決まるわけでは無いのです。日本でも軍の主導権が強かった時代があった訳で、世論の動向に注意してゆくべきと思います。

 ※ :kigurumiは、質問者brageloneさんに、具体的な資料の提示をして、判断は委ねては如何でしょう。基本的には、反キリストとしてでしょうか?

以上です。

投稿日時 - 2007-06-09 16:46:57

お礼

冷静な判断を寄せていただいたと思います。

二人だけの絡みとなると いくら冷静でも 判断の妥当性をみちびくのがむつかしくなるようです。

(1)これは 信教の自由と 政教一致の排除 ですね。たしかに憲法の行方も 気にかかるところがありますね。

(2)ロゴス――おそらく おっしゃっているように 幅広い意味があって しかも 神にあてて用いられているのだとわたしも思います。

告白すると わたしには 四年前まで 仕事の関係ですが 勉強について十年間の空白があります。そうでなくても 研究者に頼っていたのですから (4)の問題にしても 聖書学者らの研究成果に俟たざるを得ません。

(3)いまは もう 結果を待つというような逃げ腰の姿勢になっております。ざんねんながら。でも 史実については それほど専念して明らかにすべきだとも――まちがっているのかなぁ――感じていないのです。

(4)実在説じたいから 争われているとすれば どうもそういった史実から入っていこうとは思っていない・・・ということは やはり専門の方に任せて 自分は優雅になどという根性の悪いところでしょうか。(今現在は 控えています)。

(5)あぁ そういう議論があるのですか。具体的に争点とするつもりが この問答の過程では そういえば なかったですねぇ。まあ 事情をそのようにお伝えします。

※ kigurumiさんの見解は けっきょく 論点が多岐にわたっていて 一大論文を必要とするでしょうね。

それと かれは あくまで史実の正否を求めており わたしは 信仰にとっては・またこの質問にとっても 直接には その問題は 中心の主題であるとは思っていないものですから 微妙になります。

はじめの(0):Iテサロニケの《主が来られる》の箇所は 言ってみれば神秘の文章です。その意味で留保させてくださいませ。 

* それでも ほんとうは なぜゆるされるのか わたしは不思議です。おそらく文学的な表現だとして 受け入れられているのかもと思ったりします。

mr-birnさん ありがとうございました。とにかく 二人だけの旅路になっていましたものね。

投稿日時 - 2007-06-09 18:14:11

ANo.20

つまり前も言いましたが、今回の質問は「俺は伊東美咲が世界一美しいと思う これは真理としていいのでしょうか」 と同じ部類に属するとしか思えません。

好き 嫌い、個人に帰するもの。


ここは哲学のカテですよね。

「好き」「嫌い」「いいと思うもの」「よくないと思うもの」を、「私は好きだと思うから好き」という返答ではなく、「私」「伊東美咲」「美しい」「好き」というあいまいなものを、実体化させるのが哲学ですよね?



>信仰とは 信じるものではなく 信じさせるものです。

誰に? 
あなたの場合 自分にですよね?

つまり、あなたは信仰はない。
信仰を欲し、誰かにあなたに「イエスなる人は神なるキリストである」ことを信じさせてもらいたかった。


こういうわけですか。。。。
だから、これだけ根拠を挙げたにも関わらず、「フランケンシュタインでもかわまない。 自分を100%信じさせてくれ。理論はいらない。感情的に高揚をもって、信仰を真理と私に思わせてくれ」というわけですか。



非常に難しい。
何故なら、それは個人に帰するから。
趣味の範疇だから。

あなたに信じさせることができない宗教には、信仰など存在しない。少なくともあなた個人にとってはそう。


アメリカ国民に侵略戦争を支持させてたのもこの宗派。
聖霊主義とかバプティスト系が大活躍して、アメリカ国民から理性を奪い取った。
感情で「イラクは悪だ」と操作したことで、アメリカ国民は人間性を放棄し、感情のままに動くただの獣になってしまい、暴走し虐殺・破壊をした。

アメリカは陪審員制度があり、日本では考えられないようなことが裁判で勝つ。
弁護士は俳優か? 劇作家か? と思えるように、陪審員の心を操る。
理論のようで、実は陪審員の感情を激しくゆさぶり、感情で決定をくださせる。
だから、日本では考えられないような主張であっても裁判で勝つ。




あなたにとって信仰って、現実はいらないわけですよね。
精神世界というか感情のみの世界を望む。
そうなったとき、人は人を殺す。

あなたの行く先はこの世界。
あなたが望む世界はそれ。


国連でも止めることができなかった。

一人一人が理性を保つ努力をしないと、人は人の形を維持できない。
人の形に戻れない。
あなたは人の形に戻るつもりはない。

そこは天国ですか?
あなたはその世界で至福を味わっていますか?

つぎはぎの世界でもかまわないという思いなら、その世界はあなたにとっては至福でしょう。


イエスではなく、何故イエス・キリストと呼ぶのか、書こうかと思いましたが、あなたは理性を放棄していますので、書いてもそれはただの黒い意味の無いものとしかうつらない。
だから書いて説明するのはやめました。


ただし、私は今までのことが決して無駄だったとは思いません。
何故なら、時間と空間の中に労苦があったことを知っているから。
そしてその労苦に私は満足をしているから。

投稿日時 - 2007-06-08 21:09:36

お礼

今回の質問は 《〈超経験が経験存在となる〉 これは 社会常識としてゆるされるか》です。

何にも分かっていないんですね。

《信仰とは 信じるものではなく 信じさせるものです》とわたしが言ったのを 《あなたは まだ わたしを説得していません。信じさせていません。もっと言葉を費やして早く信じさせてください》と言っていると取ったのですね。まあ 罪のないものですが。

もしそう受け取ってもらったとして 考えてみましょうか。
ということは もう 《信仰のない》わたしを説得することを あなたは諦めたのですね?
理性を放棄し人の形でなくなったわたしを もはや 放っておくという意味に解すればよいでしょうか?
ただし これまでの努力は むなしくはならない。実を結ぶべきかたちでの実績としてのこっているということですね。これは わたくしも そう思います。

わかりました。以上のもとに ただし《書いて説明するのはやめました》ということなのですね。わかりました。

投稿日時 - 2007-06-09 01:01:26

ANo.19

>(13)最後の《文字が人を殺しているのではない。 / 人が律法を使って罪を定めて殺している。》という主旨は あなたのように反措定を情況証拠を挙げて示しつつ攻める手法では なかなか 話し合いがうまく行かないのではないですか。悪くないとしても おそらく 百年はかかるでしょう。と勝手に思うのですが いかがですか。


100年どころか2千年たっても、キリスト教会ですら、イエスの実在を知らない。
が、信仰で存在したとする。

イエスの関する書物は1000だったか2000だったかを超えていたそうです。

その中から4つだけを真実を伝える書物として、聖書を作ったのがエイレナイオスら。

エイレナイオスはその中でヨハネの福音書がもっとも真実を伝えていると思ったわけです。

ヨハネの福音書。
  ↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E6%9B%B8

4つの福音書の話は各地で語られていたとされる。
ヨハネの福音書の場合はヘレニズム文化圏の強い地域。
といっても、ローマ帝国の範囲は広大で、そこらいったいがどんどんヘレニズム化していったわけですが。

一番ヘレニズム文化の影響を受けているのがヨハネの福音書。

『ヨハネ福音書ではロゴスとはイエスのことである。創造とロゴスを対比してみることで、パウロも語っているようなアダムとイエスの対比が明確になってくる。パウロは『コリントの信徒への手紙一』15:45において、第一のアダムが「生きるもの」となったように、第二のアダムであるキリストが「霊をあたえるもの」になったという。ヨハネのロゴス論、イエス論は先行するパウロ書簡の記述を念頭に置きながら、創世記に変わるものとして自らの福音書の冒頭部分を位置づけているともいえよう。』

ロゴスってなんでしょう。
どんどんロゴスの概念が変化していって、この当時は「言葉」という意味が強くなった。
「光あれと神は言葉を言ったので世界ができた。神の言葉は魔法の言葉で、言葉は無から有を生み出す。」

まあ 概念としては「りんご」というだけで、目の前にりんごがなくても脳の中でりんごが浮かび上がるので、そういう意味では無から有を生み出せるとはなりますが。


『ヨハネが初期のヘレニスト(ギリシア語を話すキリスト教徒たち)の間で保持されていた「奇跡を行うもの」、「魔術師」としてのイエスの姿をヘレニズム世界の人々に受け入れやすいように書き換えたということがあげられる。』

シモン・マグスも魔術師としてやはり奇跡を起こした人として伝えられており、ヘレニズム圏の一種の文化なんですね。 奇跡話好き・魔法使い好きというのは。


『ヨハネ福音書は共観福音書との重複箇所が少なく、イエスの言葉をより多く盛り込んでいる。』

どうしてなんでしょうね。
何故重複箇所が少ないのでしょうか。

『ヨハネは共観福音書よりも鮮明に神の子たるイエスの姿をうかびあがらせることで、三位一体論の基礎を築いている。』

というわけでユダヤ教からすると神を冒涜する三位一体の基礎部分が書かれている。

ヘレニズム圏に受け入れてもらうためには、三相一体の女神の概念を拝借して、布教していったわけですね。

イリアスなど壮大なロマンストーリーを生み出したギリシャ文化(ヘレニズム文化)
オイデプスの悲劇など上演され、人々の芸術に対する高い意識を持つ文化。
だからヨハネの福音書がその文化の元に書かれたので、ヨハネの福音書の作者はその文化圏の人。

と推測されます。


『ヨハネ福音書はまた、キリストをあがない主として書く、あるいは神の霊である聖霊を助け手(ギリシア語:パラクレートス)として書く、キリスト教の特徴として愛を前面に押し出すなどの諸点によってキリスト教に大きな影響を与えることになる。』

オイデプスでは運命に逆らおうとして、奮闘するわけですが、結局は運命に逆らえなかったと運命を受け入れたことで、オイデプスは平安な気持ちになれた。
これを神の愛とした。

ロマンですね。

『「神は世を愛された。その愛ゆえに神は一人子を世につかわされた。一人子を信じるものは誰でも滅びることはなく、永遠の命を持つ。」』

キリスト教になるきっかけが、これだという人多いんです。

「神はあなたを愛しています。 神ですよ 神 その神があなたを愛しているっていうのだから、もう手放してその愛を受け入れ、合体しましょう。ささ 」って牧師が少女に詰め寄る・・・・

ぞわぁぁぁぁぁ

駄目です、こう言われたら大笑いしてしまうたちなので。
人って個性がありますよね。
田で食う虫も好き好き。

「どうして神の愛を受け入れられないのか? 地獄に行きたいのか」=「どうしてつきあってくれないのだ。俺がこんなに愛しているのをどうして理解しないのだ 俺と永遠を生きるのだ それが定めた」と言われてもねぇ・・・


「あなとだけは絶対に嫌」

これ新世紀エヴァンゲリオンのアスカがシンジに対して言った言葉。


自由ってなんでしょう?
信仰する自由、信仰しない自由。
信仰しない自由を認めなかったキリスト教。

日本には今でも差別があります。
その発祥は、日本の中世らしいんですね。
誰が差別されたのか。
和の中に入らなかった人。

つまり無主、これが自由。


日本は仏教が入ってきて広まりましたが、この宗教は主を受け入れるように強要しなかった。

キリスト教が日本に入ってきたとき、神仏を破壊しまくりました。
そして自分達の主を受け入れと強要した。
「永遠の命を与えてやるのだぞ 受け入れなければ地獄行きだ」と脅迫した。

神の愛を武器にして、日本民族を守っている土着の神かみを殺そうとしたわけです。

無主ではだめだと。

結局どんなに暴力をふるっても、定着しませんでした。

どうしてだと思います?

何故ヨハネの福音書はヘレニズム文化にうけたのに、日本人には受けなかったのだと思います?


天皇。

ヨーロッパはトップがころころ変わり 移ろいやすいです。
日本は君が世などに現れるように普遍の何かを既にもっている。

うつろいやすい者が、普遍とうものをいくら言っても、それは普遍をひっさげていない。

日本は何故八百万の神々が住んでいるのでしょう。

正義の神様ばかりじゃない、人間にとっては不利となり神様もちゃっかり住んでいる。
受け入れている。

何故でしょうね。
キリスト教からすれば、撲滅対象なのに。

清濁あわせのんでいる。

人間からみて清い人であれ ってやり方じゃないんです。
清濁あわせて、両方とも存在している。
これが人間たるもの。

強いですよね。
だからキリスト教は日本を侵略しきれなかった。

投稿日時 - 2007-06-07 11:35:07

補足

(6)アウグスティヌスの愛についての批判は よく読み取れません。要は 《霊》と呼ぶのも 代理表現だというのと同じように 《愛・義・救い・天の国・善》というのも すべて仮りの表現です。表わそうとしているのは 神です。(神も 代理表現ですが)。(この代理表現の理論も すでにわたしは お伝えしています)。

(7)イエスは ユダヤ民族の信仰ないし宗教を新しくした〔のみ〕だというご主張でしょうか。むろん それも 一つの見解です。いまは 受肉の問題です。あしからず。

(8)《軍の勢い・・・人間の暴走を / 止められなかった原因は自分にあるとして、殺されてもかわまわいが、国民には責任は無い と一人で罪を背負って崩御しようとしたわけです》(ANo.6)というとき この人には 自身に責任の認識があったのではないでしょうかと言っているだけです。

(9)《排他的思想が日本に入ってきたのはキリスト教が日本に入ってきてからじゃないんですか?》――たとえば 日蓮を排他的思想と呼ぼうと思えば呼べると思われ 厳密にはわかりませんが そういう側面が大きいのでしょうね。

ただし《すべてを自分の中に囲い込むという戦略(習合)を発揮する》こと 《それは排他ではなく 和とは考えられませんか?》――これは 次の条件で 認められます。(あ)初めから終わりまで 話し合いを基本とすること (い)その結果 キリストの神は 日本の神々の内の一柱だと分かった場合。ただ 経験合理性では分からない領域のことを キリストの神と言っているわけで これを認めるか否かで 話し合いは合意に達することはないかも知れません。よって ルツは いないかという思いが出て来ます。

乱暴に言えば 三位一体なるキリストの神が八百万の神々を包むことはあっても その逆は無理です。論理的には 無理です。

(10)先の同じ番号(10)の箇所は 立ち場があなたと同じという意味です。

(11)愛は 人間の抱き行為にあらわす愛は すべて幻想です。根拠がありません。一人の人の主観真実を 他の人と共同化することは 起こり得ますが その共同主観を抱いた人びとは 少数ですので 幻想だと言われても 反証することは難しいと思います。だから 愛することが すべてむなしいという結論ではないのですが。

(12)信仰とは何ぞやについては お礼欄で少し述べました。
***
今回(ANo.19)は 残念ながら 新しい話し合いの要素は少ないです。
(13)聖書の選定・ヨハネ福音書のことその他その他――これまでのお応えを繰り返すこととなります。
・《フランケンシュタインでもいい》
・《霊・風・息・義・愛・救い・・・》が代理表現であると同じように 《ロゴス》もそうです。
・奇蹟・魔術その他が事実として本物であるかないか その当否によって 信仰を得るわけではありません。
・《ユダヤ教からすると神を冒涜する三位一体》――かまいますか。

(14)《「どうして神の愛を受け入れられないのか? 地獄に行きたいのか」=「どうしてつきあってくれないのだ。俺がこんなに愛しているのをどうして理解しないのだ・・・》――これは 経験行為としての真実だが 幻想の人間の愛のことです。《神の愛》ということばを使っていてもです。非経験の神・その恵み・信仰とは直接には関係ありません。

(15)《人間からみて清い人であれ ってやり方じゃないんです。》――そのとおりです。同感です。けれども 次の《清濁あわせて、両方とも存在している。/ これが人間たるもの。/ 強いですよね。》――これは ふつうの人間のあり方のことです。強い場合もあれば弱い場合もある。どちらであっても だからどうだという問題ではありません。今の受肉の問題にとっては。

*情報は歓迎ですが あまりそちらに傾くと 規則から問題になりませんか。

投稿日時 - 2007-06-07 16:44:05

ANo.18

>(1)神の定義の問題は 触れました。

他の質問で、日本の神の概念について語っている人がいますね。


>(2)大嘗祭では 穀物の神 稲の精霊と交わるとも聞いています。

で、女神の概念は三相一体。
自然界のサイクルのようなもので、処女 育成者 破壊者の三相一体。
山と森は同一視されており、神社も「もり」と呼ぶ。
そこには超越的な力が宿っているとされ、それをなんとなく思ってか、人は山に登る。
頂点から下界に下りてくる力を受け取ることが、神の意思を反映する人生だとも思われていた。
山の神が2月に山から下りてきて、平地に生殖力を与え、11月に山に戻っていくという信仰は、日本各地に偏在している。

ちなみに日本だけじゃない。 そういう概念は他の地域にも古代よりあった。
何故ディアナの像が乳だらけなのか。 育成する者という一面がディアナだから。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%8A

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%9F%E3%82%B9

処女相のときと 育成者の時と 破壊者の時の名前が違いますが、同一。

人間にとっては破壊の相を出されるのは許しがたいことだが、生命の循環が無いと、人間は生きていけないんですね。


>(3) 霊は生かすのですから 信仰によって歩む・その先には律法を守る生活が成就するであろうと パウロも当然言っています。

実は文字は殺す の文字が何かは知っていたんですが、霊は何を意味するのか知りません。
霊といえば、ヘブル語でルーアハですよね。
ルーアハとはアダムに神が入れたのがルーアハ。
天地創造の時に、LCLの周りにあったのがルーアハ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E9%9C%8A

『聖書の中には火の柱、燃える藪、霊的な息吹といって神秘的な秘蹟の記述があり、そのうちの霊的な息吹、「風はいずこより来たりて、いずこへ行くかを知らず。されど、風の吹くところいのちが生まれる」というふうにそっけなく訳されたりしているが、この「風」が元のヘブライ語では、ルーアハである。また、『創世記』の中、天地創造においてエロヒム(エールの複数形)が天と地を分けた際、地の水面をおおっていたのもルーアハ、ヤーヴェ・エロヒムがアダムの体に鼻からいれたのもルーアハである。

霊的な息吹、気、空気、精神、霊、そして「聖霊」とも訳され定訳はない。』

確かに空気ないと人間生きていけません。
空気あってこそ 生きており、だからこそ 宗教もできるわけで。
無いと宗教もできません。

地球は最初火の玉だったものが、だんだん冷却していき、そのうち大気ができて、それで遮断され水分が宇宙に逃げなくなって海ができて、生命体が誕生して、、、

これはキリスト教徒に言うと「神は成長したアダムとイヴを最初から作ったんです」って言われました。
「そうですね、6000年ほど前に宇宙は神が創ったんでしたよね その宗教では。 日本の国土から1万年以上前の骨が出てきましたが、異次元からワープしてきたんですよね。日本がこの神が創った宇宙より古いなんてありえませんもんね この宗教では」と言ったら、「測定法が間違えている。 6千年前にこの世は誕生したって聖書ではなっており、私たちの宗教は、それを真実だとして信仰しているんです」って言われました。

この時、信仰というものがどういうものなのか 少しわかったような気になりました。

好き 嫌いと同じ部類。
理由は無く自分が好きだから の世界。
どうしてすきなのか いくら説明しようとしても駄目ですよね。
でも自分は好きだとよくわかっている。
が、人にスキをを認識してもらえない。
が、とにかく自分が好きという絶対的な信念は自分では確認できるからこれを絶対的な真理とする。
何故なら他の人はともかく、自分がそうだから。

これ 機械でできるかも。
脳波をトランスさせれば。
実際、神を認識させるサービスがアメリカだったと思いますがあったはずです。
肉体的にはダメージを与えないで、無神論者に神の存在を認識させることが可能。

オウム信者がヘッドギアつけていましたが、あんな感じらしいです。
磁気で脳に穴を開けないで刺激する、神モジュールを。
ただ、てんかんの人も同じ体験をする人もいるらしい。
てんかん患者全部じゃなくて、特定の部分が放電した人の場合なんですが、100回分のエクスタシーが1度にきたような快楽になりのだとか。

ということで、脳のどこを刺激すれば、別世界が開くか、だんだんわかってきているんですね。
病気により引き起こらない人は、そういうサービスを受ければ可能。
もしくはLSDを使用するか。

中東とかそこいら当たりの古代宗教。とても情熱的ですが、どうしてなのかと考えたことがあります。
ポピー リリー どちらも麻薬・・・・。


ペトロの伝道の内容を読むと、集団でやったな・・・って思えます。
まあ エッセネ派の分派だとすれば、薬草の専門家集団でもあったわけで。。。。

古代の頭蓋骨に外科手術の後があった。
痛くてたまらないはずなのに。。。麻薬使えばいいんですよね。

鞭打たれそうなときは「ちょっとまった」って飲んじゃえば痛くない?
そういえば、イエスは苦いぶどう酒飲んだって記述ありましたよね。
古代では磔刑の時、麻薬を服用させていたのでしょうか。
切れたので、再度服用???

で、ふっと思ったんですが、イエスが実際の人物だとして、何故ここで奇跡を起こさなかったのでしょうね。
贖罪を完了させるため?
ユダヤ教の大贖罪の儀式は全然違う。
筆者はユダヤ教の大贖罪の儀式を知らなかったようですね。
儀式を行う前にいろいろやることがあり、儀式が始まるとメシアが神聖文字を読み上げて神を呼び出すそうです。
この時が一番緊張するときだそうです。
何故なら神の前に立つことになり、場合によっては殺されるかもしれないから。

ただ、ダビデの子孫という設定ですから、そういう儀式を知ることはないって話になり、処刑を贖罪とすることにしたって筆者は考えたのかもしれませんが。

>奇蹟と復活は売り物ではありません。人間が決めるものではないからです。

そう。 でも布教の際に ここを売り文句にしていますよね。
神だったから いくつもの奇跡を起こせた。
神だったから死後復活できた って。
だからイエスは神だって。

これまた疑問なのですが、何故イエス作家はピラトに「真理とはなんだ」と聞かれた時、イエスにぐぐっと黙らせたのでしょうか。
筆者がラテン語を知っていれば「それはあなたの前にある」って文字を入れ替えて答えられたでしょうにね。
神の御前。「あなたは今まさに真理の前に立っている」ってね。
作者 おしい・・・。 

ああ すいません、信仰心が無いので、つい作品の文学的な完成面を考えてしまいます。
神が聖書を書いていれば、完璧だったんでしょうけどね。
もし 全能の神がいたらね。


>(4)《わたしたちは 自分が本物の信仰者に見えるようにということではなく たとえ偽の信仰者と見えようとも あなたたちが善をおこなってくれるようにと願っているのです》(2Cor.13:7)

http://daily.kirisuto.info/c2-40.html

パウロは義人ヤコブを神殿の階段から突き落として殺そうとした。
義人ヤコブは信者から熱狂的に迎えられた人だった。
そのヤコブをサウロは神殿の階段から突き落とし殺そうとした。
ヤコブは命は取り留めたが両足骨折。

キリスト教が焚書処分にしたトマスの福音書には「汝らどこにあれども義人やヤコブの元にむかうべし。彼がために天と地は造られたりと」とある。

恐らくヤコブは儀礼名だと思います。
昇格すればイスラエルとなったかもしれない。
ちなみにヤコブ、レンズ豆とひきかえに長子権を得たわけですが、長子権を取られた長男の末裔がヘロデ大王。だったと思います。
そりゃあ ヘロデアン祭祀たちは大変ですね。
アグリッパがサドカイ派(ヘロデアン)大祭司にアンナスを任命したとき悲劇は起こった。
アンナスはヤコブを神聖冒涜の罪で裁くため、サンヘドリン(ヘロデアン)を召集。
ミシュナのサンヘドリンの規定により、ヤコブの前に祭祀たち(ヘロデオン)が集まり、みんなで彼を突き飛ばし、神殿の城壁からおとし、彼に石を投げ、棍棒で撲殺。
80人のファリサイ派が彼のためにローマに嘆願し、彼とともに死ぬと志願した。
にもかかわらず、ヤコブは殺された。

サウロら一味がやったことです。
でもサウロはケロっとして、そのような言葉で自分を救えた。
まさに信仰の力ですね。
「規定はヤコブを殺す、殺した方は信仰によって生きつづける 悪いな 俺の勝ちさ」って感じでしょうか。


史実は信仰になんら関係が無い? 史実を考えてはいけない? 物語 (幻)を楽しめ?

そうですか・・・・。


(5)
ユダヤ教においては神が自分達を選んだとしていますよね。
この神は妬む神でもある。
異教の神を拝むととんでもないことになる、と聖書は述べている。
この民が不幸にみまわれるのは神の気まぐれではなく、理由があったから、としている。
愛されないことをやったから、愛がもらえなくて当然 というわけです。

アウグスティヌスの場合は、彼はプラトン哲学をベースにしているので、ユダヤ教の言う神の愛を「神の義」だと思った。

「義のために迫害されたものは幸いである。天の国は彼らのもんである」

義じゃなく救いだって前言いましたよね。 迫害じゃなくて 追い求めるって前言いましたよね。
彼らが死んだ後行くんんじゃなくて、彼らによって天の国は構成される って言いましたよね。


神の正義じゃなくて、神の愛=救い。

アウグスティヌスは神は善をもってこの世を創造したとしましたが、彼の言う善とは正義のことですよね。
この神の愛は一方的で、それは人間が思う善をやったから救うというものじゃない。
自分が選んだ民を、一方的に救ってきた。
それは正義のためじゃあない。
この民を愛しているから。
じゃあ この民をこの神が愛するので、それが正義かというと、だから 正義と愛は違う。って言いたいんですね。

でも、イエスになったとき、この民族のみじゃなく 神が選ばなかった民族にも愛がそそがれることになったかというと、聖書作家はそんなこと書いてない。

イエスが異邦人と言った意味は、例えばサマリア。
同じく神が選んだ民ですが、異邦人とユダ側から呼ばれていた。
この神が決めた枠を無理やり壊して拡大したのは、、、、誰? 
サウロ?
ヘロデオンのサウロ? 
ローマ市民権を持つ特権階級にいたサウロ?
乗っ取り屋のサウロ?

ギリシャの正義の概念がイスラエル人の神の愛の概念を殺した。


>(6)《責任を取って死ねば、全てにかたがつくって考え、無責任すぎると思いません?》うんぬんと言うからには 《責任》があったわけです。

すいません。<責任を取って死ねば全てにかたがつくって考え、無責任と思いません?>っていうのは、現在の政治家などに向けた言葉です。
重荷に耐えられず楽になりたい。一人に人間にすぎないから。という意味では自殺は理解できますが。
それは重荷に耐えられなくてのこと。


http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/kaiken/sub_kaiken.html

『 9月10日、昭和天皇を戦犯として裁くことが、アメリカの政策であるとの決議案が、アメリカ議会に提出された。この決議案の背景には、アメリカ本国と連合国とに沸き起こった、天皇の戦争責任を追求する世論があった。』

アメリカ本国と連合国で天皇に戦争責任があるとしたかったわけですよね。

『天皇は、自分の臣下だったものが、戦争犯罪人として裁かれることを心配していた。木戸内大臣に天皇はこう漏らした。「自分が一人引き受けて、退位でもして収めるわけには、いかないだろうか。」』


>(7)しかも この排他性は すべてを自分の中に囲い込むという戦略(習合)を発揮するようです。民主主義は 話し合いからです。

で、それは排他ではなく 和とは考えられませんか?
排他的思想が日本に入ってきたのはキリスト教が日本に入ってきてからじゃないんですか?
その前も和に入らない自由民を迫害した歴史はありますが。
これは国の制度によってですが、一般の人たちの排他思想は、キリスト教が日本に入ってきたとき芽生え、和ではどうにもならないので、排他には排他でとなったのではないのですか?


>(8)過激ではなく 同じことを何度も言わなければならないところが 問題です。神の定義から始まってです。(過激すぎますか?)

同じことを言ってもうしわけありませんが、神の定義は決められるんですか? 各国、民族共通の一つの概念ですか? どこかの集団である一定の神の概念が成立したとして、その概念は普遍ですか?  誰が決められるんですか?
私が遊女について述べたのは中世の遊女のことであって、現代の娼婦のことじゃないです。
遊女の概念がその当時は違っていたんです。
彼女ら?は帝と婚姻も結んでいたし、その住居に住んでもいた。



>(9)決定的な説得性を持たせるには 一つから始めて 徹底的に説明するのがよいと考えます。

え? エジプトのアテン教から始めるんですか?
とても1ページには書ききれません・・・・。
自分で調べてみてください。
モーセがどこ出身なのか。


>(10)というところも 同主旨です。

同主旨?
全部書いて欲しいってことですか? それとも面白い内容だという意味ですか?
捕らえ方次第で所詮どうにでもなるって意味ですか?
フランケンシュタインでもそれが核を表していればいいっていうようなこと言いましたよね。え、
核 どれが核か誰が決められるんですか? 宗派宗派で「イエスは神だ」「いや 人間で救世主だった」「人間の努力次第で神はその努力に報いてくれる」「いや神は人間の努力など関係なく 一方的に救いたいとき救う」って、、、これらの核は要するに、、、なんでしょう?????
神様ばんざい?
で、誰か神がどんなものか定義できるんですか?


>(11)とすれば ふつうに社会生活を営んだのは ルツですかね。
このルツが 現代日本では キリスト者の側にも 非キリスト者の側にも いないようなのですかねぇ。これが 質問の核心です。

ロトとロトの娘の間にできた子供の末裔がルツ。
イエスの系図のうち一つにもイエスの祖先として登場。
ルツの孫のエッサイからダビデが出るんですね。
ナオミから離れなかったルツ。
謎めいた言葉を発していますね。
こりゃ 一般人じゃないですね。

質問の核心としては「選ばれた民」じゃなく「招命された者」でもなく、この宗教の核心を知らない者でも、イエスは神であったということが真理だと核心できるか ですか?

一番簡単な方法は、アメリカにそういうサービスがあるので、オーダーしてそう思うようにしてもらう。
それなしにですか?

うーーーん、神の概念を定着させないと、、、、
この宗教の原型がエジプトの消えたあの宗教だとすると、これ以外は認められなかったので、他の選択肢は信者には無いです。

ただし、その頃はラーが神の受肉したものという概念がありまして。。。

結局、前 本の一部を書きましたが、スティーブの他者に対する愛をしめすとき、それは孤独を恐れないことが必須条件であり、スティーブの牧師であった父もそうだし。
小説ですが、作者の愛というものの捕らえ方だと思います。

ですので、あなたの中では<イエスは神であった>なら、他人がなんと言おうと恐れず、そう心の中で持っていればいいと思います。
外に出しちゃうと、私のようなものに捕まって、ふりまわされちゃって 迷走しちゃうことになるので。苦笑

公言しなくても信仰はもてます。
たとえ異教に暴力で改宗させられても、心の中まで誰も覗けない。
それを知っているのは唯一神 すなわち自分自身のみです。

投稿日時 - 2007-06-07 04:04:12

補足

(0)ほかのところでも書いたのですが

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

おほきみは 神にしませば 天雲の いかづちの上に 廬(いほ)らせるかも

皇者 神ニ四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨

(柿本人麻呂 万葉集 巻三・235番)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

という歌には 思想もしくは信仰が現われていると考えます。わたしの解釈では こうです。:《世の中の通念は 大君が神であると言っている。なるほど それゆえ 雲の上・雷の丘の上にお住まいである。そうかもね。》と。

作者の人麻呂には神について 絶対の観念があったからではないですか。《通念は 絶対の神と 相対の神々の世界とを混同している》と述べていませんか。人麻呂にとっては 神が《目に見えない。しかも心の目にも見えない》ことは当然のことでした。

そしてこの信仰としての神は これが神だというようには示すことが出来ません。無理です。無理な領域のことを 神と呼ぶわけです。――目に見えるものごと これらは 神ではない。そして精神とその美・徳・ちから これも 神ではない。というわけですが この消極的な定義は 普遍的な妥当性を持っています。信教の自由を侵すわけでもなし 片寄った内容でもありません。

ここまでわたしが明確に述べているのですから (a)この定義を批判するか (b)納得するなら これを判断の基準として 話を進め直していくべきです。いま すでに次の新しい回答を得ていますが そこでも これまでと同じ調子が伺えます。

そういう問題があると思われませんか。史実の比定・文献資料の検証 これも 大事な作業ですが わたしの言うことにも耳を傾けてください。(つまり その内容に対して 批判をしてください。それが先決問題です)。

******

さて 個別に応答します。

(1)三相一体 これについては 明確な説明はありません。あるのは 神とはかかわらない(もしくは あいまいに ご自分も認めておられるように文学的な表現をほどこして かかわらせている)ものです。話は進みません。

言いかえると 目に見えない神の領域が 唯一 イエスにかんしては 目に見える人間存在として現われたというとんでもないドグマがあって これはゆるされるのかと いま 問題としているところです。この受肉という一点に 考察を集中してください。

(2)むろん 目に見えないゆえ 《風・息》の語が 一つの代理表現として用いられたというものです。ルーアハそれ自体が 神なのではありません。ご承知だと思いますが。

ルーアハが《LCLの周りにあった》というLCLとは何ですか。/ ウィキペディアのルーアハのヘブル語表記は まちがっています。

(3)《磔刑の時・・・。 / で、ふっと思ったんですが、イエスが実際の人物だとして、何故ここで奇跡を起こさなかったのでしょうね。 / 贖罪を完了させるため?》この言説をめぐって わたしの感慨を述べます。

存在するものについて すべてを疑いすべてを否定する精神(知性)は 悪魔と呼ばれます。

悪魔は かなしいかな(悪魔にとって かなしいかな) 死の淵には来ることはできなかった。もしくは すでに自分自身が死の淵にあって この位置・立ち場を同じくする者を とことん嫌い疑い否定するのが かれの信条のすべてです。

けれども イエスが 同行したのでした。かれに同行したのでした。磔刑の時 奇蹟を起こしたなら それは 神であることになる。人間が 最後まで同行した。同行し切った。同行し尽くした。という事態が起こったのだという解釈です。別様にも解釈できるかも知れません。

(4)《私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。》(IIコリント 13:1-13)

こう付け加えます。《真理に逆らってでも 真理のためなら=真理がゆるしたまうなら 何でも出来るし 起こります》。――けれども これは 《神》の定義から 必然的に生じる帰結であるに過ぎません。そして その行なったことについて具体的に どのように《真理》とかかわっているかは おのおの主観の真実の問題です。(ヤコブを殺そうとしたことは 悪です)。

(5)《史実は信仰になんら関係が無い? 史実を考えてはいけない? 物語 (幻)を楽しめ?》――上に述べたように 史実と信仰とのつながりは 基本的には 主観真実の内におさめられます。史実として悪をおこなった人が勧める信仰を持つことは あり得ませんか。ありえないとするその純粋な心は貴いものですが 純粋な精神が神ではないとわたしは知っているので 信仰は成り立つという立ち場です。ずるいです。

*(6)からのこのつづきは 次の補足欄に継がせてください。

投稿日時 - 2007-06-07 16:19:31

お礼

そろそろこの主題でご回答をいただく舞台の幕はおろされようとしているように感じています。

ルツの信仰とそれとの違和感や衝突のないやはりかのじょの社会生活のことが わかっていただいたように思われます。(わたしの質問は それでも なぜ そんなことが出来るのか・ゆるされるのか ですが)。《うーーーん、神の概念を定着させないと、、、、》とうなっていただいたので。――そのあと さらに条件がついてはいるのですが。(もしルツが一般人ではないとなれば やはりご教示願わなくてはならないですかねぇ。わかりませんが)。

《公言しなくても信仰はもてます。》――これは まちがいです。あいまいです。信仰とは 信じるものではなく 信じさせるものです。(だから なぜゆるされるのか にもなるのですが)。人間の互いの関係性について きびしく捉えるべきだと考えます。愛です。むろん 試行錯誤の過程です。うんぬん。

《心の中まで誰も覗けない。/ それを知っているのは唯一神 すなわち自分自身のみです。》――これは 経験思想としての信念ですが 信仰ではありません。神がかかわっていないと言うべきだからです。その意味で 神の定義は 神が何でないかについては 普遍的な内容として可能です。つまり 上の文章は 自分が自分の中で《唯一神》と言っているに過ぎないのです。関係性・社会性がまだ始まっていないのです。(独立主観として それはそれとして 大切です。)

これだけまづはお伝えして 詳細なお応えは もう要らないとおっしゃるでしょうが 務めとして補足欄で あらためて果たしてまいりたいと思います。

パウロも信頼できないですかねぇ。

投稿日時 - 2007-06-07 11:11:55

ANo.17

すいません。

一個重大なミスしていました。

ユダヤ教においてはローマ帝国によって神殿を崩壊された時、祭祀はいなくなりました。

神殿が無い今の状態において、シナゴークで宗教的指導はラビが行っているそうです。


で、イエスはラビって呼ばれていましたよね。
そうなると、ダビデの子孫じゃあない。

ダビデの子孫へ天より遣わされたレビってことですよね。

天の人たちは、肩書きというか添え名を持っていた。

ガブリエルの肩書きを持っていた人もそう。

投稿日時 - 2007-06-06 09:54:35

お礼

この部分は お応えせずとも いいと思いますが。

投稿日時 - 2007-06-06 14:44:28

ANo.16

何度も失礼します。

前回かなり過激だったかな? と思いましたが、奥歯にものが挟まったままな状態で話をするのが苦手なので、ご勘弁を。
でも 正直に書いている、それが間違いであれば、私にそのままその間違いが降りかかるだけです。

逆に言えば、私が出した情報に間違いがあると指摘されたら、さらに調べて、納得がいけば、私の認識を変えます。
そのときは、思い切って書いてよかった と思うでしょう。




>社会常識として 扱うには いったい どう捉えればよいか この一点です。

キリスト教の最大の売りは、奇跡と復活ですよね。
これなくしてキリスト教は成り立ちません。
で、奇跡に関しては、一つは古代ヘブライ語を誤って理解した。
一つは その当時、マグスというか魔術師が何人もいて、例えば水をぶどう酒に変える装置を使って人々を驚かしていた。
水上歩行は、確かインドあたりの修行僧の比喩か湾曲表現の流用。

それかヘブル語というかアラム語では一つの語彙に3つの意味があり、読者にゆだねられる。
点一つでも全く違う意味になる。
例えば 水の上、 水の際(水辺のそば)を歩いた と二通りにできる。
復活、これも一つの情報は、教会が一文を追加したため、墓の中(穴)に閉じ込められていた人を、イエスが蘇らせたかのような印象を与えることになった。

それともう一つは、クムラン宗団の規定。
規定に違反したら数日間から、長い間3年くらい、下手すると破門され追放され一生接触できない処分が下されていた。

クムランが破門する際、死に装束を着せ、死者として扱い洞窟に入れた。
そして数日後、追放した。
追放されたものとは一緒の財政をやらない、交わりを絶つ、という規定が存在していた。

で、死者の復活は、破門され死者として扱われ追放された人が、復権すること。
シモン・マグスがそうだったという説もあります。(ラザロの復活はシモン・マグスのこと という説です。)


つまり 当時の背景を知らず現代で考えると、疑問にも思わないこともある。
だから背景を知ることは重要。

例えばマリアがイエスの足元に座って話を聞いたとあります。
ユダヤ人は厳格ですので、親子や兄弟でなければ、顔も男に見せなかった。
当時の慣習からすると、男の足もとに座れたものは妻しか考えられない。
何故 教会はこのことに気付かないのでしょうか。

ラザロの一見にしても、マリアだったか忘れましたが、一人で外に出ている。
当時の風習として女が一人で外に出ることはありえない。
その話のところで、どうして教会はおかしいと気付かないで聖典に入れてしまったのでしょうか。


日本の遊女は女の集団でどこでにでも行っていました。
特権を与えられていたから。

ユダヤ人の神殿娼婦も神殿の処女つまり巫女 神官で、誰にも支配されないものであったなら、そういうことになりますね。

マグダラのマリア、マグダラ 高い場所という意味がある。
エルサレム神殿には3つの高い棟が立っていた。

イエスの母マリアの伝承にも彼女は神殿に捧げられたとありますよね。
3つの時だったかで神殿に住居を移していることになっている。

これが処女マリアと言われた意味じゃないのでしょうか。

マリアが初潮を迎えたとき、外に出ることになり、決められた婿を退け、ヨセフを自ら選んだ。となっています。

これも当時の太母神信仰者の空想の産物かもしれませんが。


ヨブでは、神は利益が無いと人間は神を崇拝しにのか ということで人間を試しましたよね。

キリスト教徒は「あなはが天国にいけるかどうか(私が天国にいけるかどうか)がかかっているのです。早く信じなさい!」と言う。
「あなたのためです」といいながら確信を持ちたがっている。
メサイアシンドロームに陥ってどれだけ勧誘して引きずり込んでも、もっともっと もっと もっと と欲望は尽きない。

哀れです。 ここまで貧相な生き方になってしまったなんて。
自分が信仰を確実だとしたら、それでいいはずなのに、他人にも同意してもらわないと確信がもてない。
信仰が無いからですよね。


ルツ、、、確かレビレート婚の話だったと思います。
何故レビレート婚というのだろうと考えたことがあります。
レビ人の婚姻のことかな?って思います。

レビ人 ご存知ですよね。 12支族じゃありません。
彼らのみ祭祀ができた。
つまり現代のユダヤ教の祭祀は全員レビ人の末裔。
すごいですね。
でも、遺伝子を調べた人も、アフリカの辺境の地にあるシナゴークでも、祭祀はレビ人の系統だと遺伝子的に証明されたらしいです。
かたくなに神のいいつけを守っているわけですね。
(尚、その中の大祭司が現代の苗字でいくとコーヘンとかコハイム。その苗字の人にあったら、大祭司系アロンの末裔か とわかります。笑)


で、ルツ記
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%84%E8%A8%98
『異邦人であるルツがダビデ王にいたる家系の中で重要な役割を果たすことを語ることで、救いの歴史において「自らの民」ユダヤ人にとらわれない神の意図の壮大さを語っている。』

うーーん そういう意味じゃないと思います。

『(兄が子供を残さず、死んだ場合に弟が兄の妻をめとることで家系を存続させるこの仕組みを、レヴィレート婚という)』

この意味。

兄が死んで弟が兄の嫁をもらい、子供が出来た場合、相続は弟ではなっく飛び越して子供に行く。
これを拒否したのがオナンだったと思います。

相続権が母系にあった時代、財産を持っていた女性は夫婦関係(富)を他の男に授けることができた。

甲斐性夫を捨て一文無しにすることもできた。
父権社会になると、経済的理由によって妻が節操をつくすように要求するようになった。
他の男と結婚したら、財産ごともっていかれるので、それを恐れて

ヘブライ人の族長たちは、夫を亡くした女がその夫の一族以外と再婚しようとすると、その女も「貫通した」と考えた。

石打の刑に親族によってされそうになったのをイエスが助けたってのを今思い出しました。。。。

まあ そういうわけで、財産持ちで嫁いだ嫁は、夫の死後一族以外に嫁がせると、輿入れの時持っていた財産を持っていくので、一族の富が減るので、それでレビレート婚というものができたらしいです。

ナオミ何者なんでしょうね。レビ族???


ラハブ。 
私の認識では神殿娼婦(神殿つきの処女)
マリアみたいなもの。
神殿の外に住んでいた?
いや 特別室にいたと思います。

一応調べてみました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%8F%E3%83%96
『、旧約聖書のヨブ記やイザヤ書などに登場する海の怪物。 その名は「混沌」を意味し、レヴィアタンと同一視される。』
ああやっぱり、レビですね。
従って神殿娼婦。
つまり女神の地上の体現者とされ、王にその力を授ける者。

タマル。
『それは売春婦を装い義理の父であるユダと関係をもって子をもうけるというものであった。』

血筋を絶やさない苦労を昔の人はしたんですね・・・・。


で、ある伝承があるんです。
まあ 参考程度に聞いてください。
2千年ほど前 今でいうなら修道院みたいな学校があったんですね。
ここを卒業した男は大祭司、律法学者、あるいはイスラエルの指導者となった。
生徒は全員、神のいいつけ通りの祭祀階級のレヴィ族。
そこで教鞭をとっていた24人の大祭司(ママドト)はユダヤ教の指導者層の生まれだった

神殿の至聖所に入ることが許され(神によって許されたのは彼らだけでしたよね)、また儀式の際には神殿の上から階級順に立つ事も許されたのは彼らだけだったった。
彼らはその階級に沿って儀礼的な名を与えられていた。
メルキゼデク、ミカエル、ガブリエル、、、、、。

この学校の存在はほとんど知られておらず、大祭司は女子生徒を管理し教育するのみならず、彼女達を妊娠させる責務を帯びていた。
妊娠が確認されると、少女たちはイスラエルの指導者層の家系に嫁がされた。

この聖婚によって生まれた子供達は、7歳になると神殿の学校に戻され、教育を受ける。
かくして大祭司の血統は不純物が混じることなく、完璧な純度が保たれた。

その女子校の生徒にミリアムという少女がいた。
アンナの娘。
大祭司ガブリエルが彼女を受胎させ、その妊娠が確認されると、彼女の結婚が手配された。

マリアは夫として選ばれた最初の男を拒絶し、最終的にはダヴィデの家系の末裔であるテュロスのヨセフという青年を受け入れた。
彼の祖先であるテュロスのヒラムはメイソナリーの伝承においてヒラム・アビブとして知られることになる人物。
この裕福な青年は、キリスト教の伝統では聖ヨセフとして知られている。
ミリアムと祭祀ガブリエルの聖婚によって生まれた子供こそイエスであり、彼は幼少時代の数年間エジプトで過ごした後、エルサレムに戻って神殿学校に入る。


よかったですね。 イエス実在説でてきました。

ナオミ・恵理子 違ったエリコ タマル ミリアム 全員レヴィ人。


で、ところで、どう探してもこの伝承の中に、イエスの奇跡とか復活とか出てこないんです。


あなたは死んだ後天国にいけないとなっても、信仰します?
利益が無ければ信仰しない?

純潔を守るというのも、伝統で一種の信仰。
神の住まう至聖所に入る権限を得ていた一族じゃなくてもいい?

前回話したヘロデアン。
どんどんヘロデが血縁関係によって自分の血が混ざった人間に神殿の人たちを変えていったわけです。

そして一派はエルサレム神殿を逃れ、クムランに隠遁生活をすることになった。
確かツァドク系の大祭司が率いて移住したと思います。

そして自分達を光の子 ヘロデオンとなった祭司たちを闇の子として、戦いを挑んだ。
かどうかはわかりません。


ローマ軍により神殿が崩壊される寸前に神殿の図書館にあった写本を運んでクムランに守ってもらったという説がある。
だから、ほとんどの旧約聖書をクムランはもっていたという説。

そのほかに財宝も運び出され、それが銅の巻物に隠し場所がかかれているという説。

なんか信仰とは関係なく、もうこうなったら血筋と神の富死守ってかんじです。


>このような信仰と社会生活との接点を問いました。
>それがどうあればよいか どうあると考えるべきか・・・。

それはレヴィ人が考えればいいことだと個人的には思います。
政治的指導者はダヴィデ系と期待されていますが、他の12支族でもかまわないわけですよね。
でも宗教に関してはイスラエル人に決定権は無い。
レビ人にしかなく、しかも大祭司系の人が予言を授かるしかない。

というのが私の見解です。
ラビは恐らくレビ人だと思います。

天でなることは地でもなる。

だからラビ人が整然として12支族を導くしかない。
それには神殿を建てるべきなのですが、神殿を建ててしまわれると一番困るのはキリスト教ですよね。

それでゴチャゴチャいろいろやっている。
永遠に紛争は終わらないような気がしますが、どっちの神もじゃんけんで決めればいいのにねって思います。

レビ人は昔は仲良くクジビキで神殿で何を担当するかを決めていましたよね。
のどかだったようですね。

文字は人を殺す。 この文字とはトーラのことをさすが、祭司たちはトーラに書かれていた法律というか規定を「じゃあ この場合は?」っていろいろ細分化していったらしいです。

日本の法律にも「ただし」ってのがつくと思います。
で、ただし をどうするか。

「女が処女かどうかどうやってわかるのだ。貰った嫁が処女じゃなかったら殺せばいい」

「濡れ衣を着せられた娘の父親が血のついた布を持って処女ですと訴えた場合、彼女は処女だったことになる」

なんて、バカバカしい・・・・。

こんなことまで書いてあるんですね。

じゃあ 父親がいない娘はどうなるのか。
また 考えたんでしょうね。

バカバカしい・・・・・。

律法が人を殺す。
でも 罪と定められた人を罪じゃないとする規定もある。

頑固に律法を遵守しようとするJだっけ? Eだっけ?
どっちが神殿の権力を持ったかで、12支族は罪が変わってしまう。


10戒ってありますが、恐らくエジプトの死者の書から借用したと思います。
で、古代ヘブライ語には禁止+命令 というものが存在しない。

だから10戒は禁止が書かれているのではない。

ニュアンス的には「私の愛する民が同胞を殺すなんてことがあるでしょうか。 私の民ならそんなことしないはずですよね」って感じ。


文字が人を殺しているのではない。
人が律法を使って罪を定めて殺している。

投稿日時 - 2007-06-05 19:39:55

補足

(1)神の定義の問題は 触れました。

(2)大嘗祭では 穀物の神 稲の精霊と交わるとも聞いています。これについて 《女神というか超越した存在の者》とのことですが 《超越した存在》があいまいです。また この場合は精霊との交わりによって 《パワーを得たので、人間でありながら、それ以上の存在になるって概念だと思います》とのことですが 《受肉》ではないでしょう。《それ以上の存在》が はっきりしません。天皇家は 日本国憲法に従う存在です。なおこのようにお応えするのは ご回答が 決定的ではない・その意味で説得的ではないということをお伝えするだけのものです。質問の主旨から そういうことになります。

(3)たとえばトーラとしての文字は殺すと言っても トーラを否定するわけではありません。霊は生かすのですから 信仰によって歩む・その先には律法を守る生活が成就するであろうと パウロも当然言っています。
それは 《つなぐとほどくという概念が違うと思えるんです。 / どちらも律法により許可され、あるいは律法により禁止されることを意味しているのに、いつのまにか人が許すことだと誤解されていると思えます。/ 人間によって許されるのではなく、律法により許可されたり、罪が無いとされたりするはずだったのに、いつのまにか人間は神であるとその座に居座ってしまった。》(ANo.14)と同じ主旨です。
奇蹟と復活は売り物ではありません。人間が決めるものではないからです。

(4)パウロらに対する批判等については 《わたしたちは 自分が本物の信仰者に見えるようにということではなく たとえ偽の信仰者と見えようとも あなたたちが善をおこなってくれるようにと願っているのです》(2Cor.13:7)で済ませたいと思います。《フランケンシュタイン》でもいいという意味です。

(5)ちがう概念の愛があれば 示してください。アウグスティヌスはどうゆがめたかを示すべきです。

(6)自決か最後まで耐えるかの二つの選択のほかに 譲位があると示しました。《責任を取って死ねば、全てにかたがつくって考え、無責任すぎると思いません?》うんぬんと言うからには 《責任》があったわけです。戦勝国に対してでなくとも あったわけです。ならば 《ゆるし》も伴なうでしょう。

(7)《何故日本にYHWHが祭られているのでしょうね。》――たとえでの話ですが 八紘一宇の思想によるのでしょう。多神教という一神教であり その悪い面である排他的なところがあって しかも この排他性は すべてを自分の中に囲い込むという戦略(習合)を発揮するようです。民主主義は 話し合いからです。

(8)過激ではなく 同じことを何度も言わなければならないところが 問題です。神の定義から始まってです。(過激すぎますか?)

(9)女のマリアがイエスの足元に坐ったという話 / 斎宮の集団版でしょうか 神殿処女の話 / 母系社会とレヴィラート婚の話 には現実性があります。決定的な説得性を持たせるには 一つから始めて 徹底的に説明するのがよいと考えます。
マリア(ミリアム)が祭司階級から出て神殿学校に入ったうんぬんも よく出来た話だと茶化されるおそれはありますが 入り口として受け取ったとお伝えしておきましょう。

(10)《ヨブでは、神は利益が無いと人間は神を崇拝しないのか ということで人間を試しましたよね。》うんぬんとつづく箇所は (3)の律法の話と同じく 立ち場が同じです。十戒について《ニュアンス的には「私の愛する民が同胞を殺すなんてことがあるでしょうか。 私の民ならそんなことしないはずですよね」って感じ。》というところも 同主旨です。

(11)タマルは レヴィラート婚制のもとで生きた / ラハブは神殿娼婦ということで 誰からの支配も受けなかった とすれば ふつうに社会生活を営んだのは ルツですかね。
このルツが 現代日本では キリスト者の側にも 非キリスト者の側にも いないようなのですかねぇ。これが 質問の核心です。

(12)《あなたは死んだ後天国にいけないとなっても、信仰します?
利益が無ければ信仰しない?》――これは(10)および(3)の系譜の問題です。これならすでに信じていると分かったところから出発しています。利益はあるにこしたことはない。天国までは考えていない。もともと考えていない。《神の住まう至聖所に入る権限を得ていた一族じゃなくてもいい?》――これはもう今では問題になっていないでしょう。

投稿日時 - 2007-06-06 12:55:23

お礼

(13)最後の《文字が人を殺しているのではない。 / 人が律法を使って罪を定めて殺している。》という主旨は あなたのように反措定を情況証拠を挙げて示しつつ攻める手法では なかなか 話し合いがうまく行かないのではないですか。悪くないとしても おそらく 百年はかかるでしょう。と勝手に思うのですが いかがですか。

投稿日時 - 2007-06-06 14:42:30

ANo.15

>現人神という言葉を使うのはよくなかったですね。
>神々の一人であるホノニニギつまり天孫の降臨のごとく 
>この地上にその神が 人間として住むという視像があります。
>kigurumiさんにしたところで もし《女神》を キリストの神と同じ
>概念で使っておられるのでしたら 非常にあいまいだと思われます。

何故神の定義が日本語の辞書に存在しないのか(あるいは稀なのか)
実はこのせいだと思うんです。

えっとですね。
日本に古代アニミズム的信仰があった、いえ 現在も残っているのはご存知ですよね。
富士山を神山(神の住まう場所)と言いますよね。
それで麓に神社というか祠というか そういったものが出来て、収穫をお供えしましたよね。
神は春になると山から下りてきて、地上に豊穣をもたらし、山に戻っていく。
それで豊穣を感謝して、その一部をお供えとして捧げる。
太陽崇拝で、一見天孫系のように思えますが、その中に女神の概念が混入している。


もう一つ出雲系がありますよね。
こちらは蛇(龍)系。
水の神様的な要素を持っているので、日本は畑より水田が栄えた。

日本の古来は南から文化が起こったようなのですが、東の勢力が南を滅ぼして、その神をも乗っ取って、、、神を習合してしまったんじゃないか、、、、と思えるんですね。

だから、くっきり分けられず、曖昧にならざるをえない。



>《神》の定義から出発すると合意に達したばかりなのですが

ええ、 でもところがこれ、誰か決められた人が日本人の中にいたでしょうか?


皇太子が天皇になるときに行う儀式。
謎に包まれ全容が公開されていないのですが、一説には身を清め、白装束で女神との婚礼の部屋で一夜を供にし、女神の力を得てテンオウになる、ってのがあるんです。

女神とは誰か。 天皇家の祖先とする天照大神。
(直系かそれとも渡来人がその物語を利用して自分達の祖先だと主張しているのかは又別の問題ですが。)


まあ ともかく 女神というか超越した存在の者と一夜を供にすることで、パワーを得たので、人間でありながら、それ以上の存在になるって概念だと思います。

ところで、皇室の人たちは日本国民じゃありませんよね?
日本の戸籍簿に乗っていないし、苗字ないですし。
ここからしても、一般人としては扱われていないし、日本の法律が及ばない存在。
日本に住まいはありますが 日本の制度・法律が及ばない世界なんです。


謎な存在ですね。


>誤解・誤訳(善意のまちがい)と嘘(真実を曲げている・不真実)と
>さらに虚偽(故意・悪意の不真実)とも区別されるべきかと思います。

はい、過失の領域ですね。


>原典を誤解したとしても原典とは別個に―― 一編の真実を表わしているという場合があります。(マリアが処女として訳された例もそうではないですか)。

はい、ただ、この処女を「性交なしに子供を産んだ無原罪の女であり、このような女になれ そうでない女は罪だ」と教会が夫に妻に対するドメスティックバイオレンスを推奨したという歴史からすると、これは誤解による過失では済まされない。 と考えます。
あきらかに悪意が根源にあり、それで暴行を推奨したのだから。


>信仰は 経験領域のものごとを信じるものではないわけです。それつまり真贋の問題は 思想であり信念・信条といったところです。

で、結局 本質問は「信仰によって」という答えはしないようにとなっているが、現実はそういうことにしか逃げ道は無いわけですよね。
質問者であるあなた自身が最初から信仰以外には無いことを内在していたので、そういう結果になる。

1)に関してはイエスの例え話で、金持ちがラザロを派遣して家族に真実を知らせるようお願いしたら、神は「彼らには既にモーゼと律法が送られている」といったと筆者はしましたよね。
金持ちの男は既にあったにもかかわらず、無いと思っていた。
聖霊がロゴスだとすれば、モーセやトーラが形となり現れて人間が認識できるものになっている。
なのに、聖霊の存在を認識できなかった金持ちの男。

という風にも解釈できますね。


2)パウロは キリスト・イエスに従っています。《文字は殺し 霊は生かす》と明確に述べてくれたのは パウロですが。

このパウロの言葉はこう解釈されます。 文字とはトーラのこと。
トーラは人を殺し、愛は人を生かす。従ってトーラを否定せよ。と。

ペトロに関しては実在の人物じゃなかったと思いますが、パウロはどうなのでしょうね。

ミイラ取りがミイラになった。
背景をみますと、2千年ほど前、20世紀がハルマゲドンフィーバーになりったように、パレスチナにおいてもハルマゲドンフィーバーに沸いたようです。


パウロは何者か?
ローマ権を持つユダヤ人となっています。
ところで、ヘロデ大王はユダヤ人じゃありませんよね。
どうしてヘロデ大王が王になったのかは、確か祖父が窮地に陥っていたローマに兵を派遣して助けたからだったと思います。
それでローマ支配下の中にあって、独立国家となり、他の近隣諸国とは違い、いろいろな面でイスラエルは優遇されていた。
パレスチナ各地から献金を集めるユダヤ教を公認していたんです。

で、ユダヤ人ではないヘロデ王は神殿を建設したことで、ユダヤ人に喜ばれ、王として認められてはいた。
彼はたくみに政略結婚により祭祀やサンヘドリンの中に自分の血を混ぜていって、国家の宗教にも影響を与えられるまでになった。
だからサンヘドリンはローマよりだし、神殿の祭祀もローマ寄りになっていたわけですよね。
こういうヘロデの親戚関係はヘロデアンとされた。

ご存知の通り、パウロは生前のイエスに会ったことも問答を通して理解を深めたことも無い。
原始キリスト教を迫害していてパウロが3年間の空白の後、突然イエスの信徒側についた。
いったい3年間 何をしていたのでしょうね。

ともかくイエスの信徒側についたのに、こんな言葉を残している。
「我は自主の者ならずや。使徒にあらずや。我らの主イエスを見しにあらずや。 我他の人には使徒ならずとも、汝らには使徒なり」(コリント9-1-2)

誰に向かって怒りを顕にしたのでしょうか。
東方教会側にだと思います。
なんせ、パウロは律法を否定する演説を行って、それをイエスの教えだと宣伝してまわったものだから、東方側は彼の処遇に困り果ててしまった。
パウロ書簡を順に読むと、そこには自己哀憐とやるせない自己弁護が目につくそうです。

2世紀初頭のものとされるエビオン派文書「ペトロスの宣教」によれば、パウロは「律法への背徳者」「邪悪と虚偽の雄弁家」「イエスの教えをゆがめる者」なのだそうです。
同じ文書には、パウロがダマスカスへの途中で見たという奇跡的な改宗をもたらした幻視を「悪魔によって吹き込まれた夢、幻」と書いてあるそうです。

要するに初期状態においてパウロ派とヤコブ派に分かれており、恐らくヤコブ派はユダヤ人で、パウロ派はディアスポラしたユダヤ人だと思えます。

「キリストは自由をえさせん為に我らを解き放ちたまへり」(アラテア)

つまり律法からイエスはユダヤ人を開放したという主張がパウロの理解。

ところが、それでも駄目なので、ヤコブを神殿から突き落として亡き者にしようとした。
この襲撃でパウロは逮捕された。
というかパウロの命を守るために彼を逮捕させた。
監禁中も暗殺計画の警告を受けたので、ローマの千人隊長に訴えた。
そこで隊長は彼の安全確保のため輸送をすることにし、彼のために兵士200人、騎兵70名、槍兵200名とものすごい警護の元に輸送した。
ものすごいものものしさですが、どうしてか。

パウロもヘロデアンだから。

「アレストブロスの家の者へ安否を問へ。我が同族のヘロデオンに安否を問え」(ローマの使徒への手紙16-10-11)

アリストブロスはアグリッパ1世の兄弟カルキスのヘロデの息子であり、その息子はヘロデ、すなわちヘロデオン、または小ヘロデと呼ばれている。
こういうわけで、神殿衛兵としてエルサレムで何故イエスの信徒をパウロが迫害していたかがわかる。
ローマにしてみればローマの金庫を確保していたのに、他の勢力がエルサレム神殿に攻撃をかけてくるのは脅威だったわけです。
「パウロ 行け 迫害しろ」というわけですね。

ローマにしてみれば金庫を確保してくれるヘロデオンはありがたいわけです。
この律法否定のパウロがディアスポラしたユダヤ人たちに受けて、がっぽがっぽ。
それで今では世界有数の営利団体になったわけです。

世界各地にいる信者から集まった金の保管を考え作ったのが、イタリアにあったアブ、、、なんとか銀行。
神の金庫がその銀行。
でも、「神ですらその額を知らない」と噂されているというほどたまりにたまっていたらしい。
それをアフリカの難民たちの救済に使わず、パウロ2世はポーランドの民主化に使ったわけですね。
何故ならポーランドは彼の母国で、民主化されれば、さらにがっぽがっぽ、投資した額の何倍もの巨額の金がポーランドから舞い込む。
笑いとまりません。 もう神ですね。
愛は神の一方的な行為なので、神の代理人である人がアフリカの貧困に目を向けなくてもそれは勝手なわけです。


>4)エヴァンゲリオンは虚構です。

そうです。人間の想像の産物です。
そして、キリスト教も人間の創造の産物で、キリスト教は何一つ独自のものはなく、異教の寄せ集め、すなわちフランケンシュタインです。


学者たちは、福音書から異教の要素を除去して、史実に裏付けられたイエスを発見しようと努めたが、この努力はタマネギの芯を見つけようとする試みと同じで無駄であることが判明した。
蜃気楼と同じで、イエスの姿は遠くからみえるが、しかし、ちかづくにつれその実体が失われていく。
「イエスが言った」とされる言葉や比喩は、実は、他からの借り物であり、@イエスが行った」とされていた奇跡は、昔から言い古されてきたことだった。
主の祈りにしても、タルムードからの言葉を集めたものであり、その多くは更に以前のエジプトにおけるオシリスへの祈祷文に由来していた。
キリスト教の真髄が含まれているといわれることもある山上の垂訓にしても、独自の材料は一つもなく、「詩篇」「コヘレトの言葉」「イザヤ書」「エノクの奥義」「ジェモネー・エスレー」などから借用した断片で構成されていた。
しかもこの「垂訓」は、4福音書の中でもっとも古い福音書の著者とされた筆名マルコには知られていなかった。
福音書は、そこに記載されている出来事ひょり何世紀か後に創作されたということがわかっているが、この発見はカトリック百科事典が次のように認めているにもかかわらず、一般的にはまだ周知されていない。


カトリック百科事典:「新約聖書が、当初から完全無欠なせ以前とした聖典として存在していたという考えは・・・・歴史上根拠が無い。」


5)
で、結局 あなたは質問への回答として拒否しているにもかかわらず、信仰によってのみ可能だと決定しているわけですよね。
じゃあ 最初から決定しているのに、どうして質問するんですか?
しかも それ以外にはないと100%思っているのに。
他無いと思っているなら質問しないはずですけど。。。。
99%確信しているが、質問して残り1%を得たかったってわけですか?
私与えていませんね。マイナス99くらいにしたかもしれません。。。。苦笑。


>(6)愛とは いまの流れでいけば 合理的妥当性を わづかの隙にでも見つけて 共有するべきその主観真実を互いに共同化すること その〔さらなる検証を含めた〕努力を死ぬまでつづけることです。

私の愛の概念と違いますね。
ちなみに神の愛の概念を歪めたとされるのはアウグスティヌスだそうです。
この時点で歪んだらしいですが、神の愛ってアウグスティヌス以前の人たちはどう思っていたんでしょうね。


>(7)じゃあなぜ 自分に責任があると言ったのですか。昭和天皇は。

国民を愛していたからだと思います。
愛していなければ、さっさと自決していたと思いますが、神は自決しない。
イエスと違ってとどまった。
責任を取って死ねば、全てにかたがつくって考え、無責任すぎると思いません?
いろいろ死の言い訳しても、結局逃げたんじゃない って思いません?
重荷に耐えられず、責任を放り出した。


8)日本の遊女の原型を調べてみてください。


9)人間における神の似像としての三行為能力の一体性は 記憶が司法 知解が立法 意志(愛)が行政の三権にも 喩えられます。

なるほど、神々は「我々の姿に似せて人間を作ろう」って言いましたよね。
3人いたんでしょうか。

何故門松は3柱なのか。
何故古事記において原初の神は3神なのか。
何故富士山を神山と呼ぶのか。
何故国会議事堂は3つの棟で各3階で生命の木のようなのか。

空想はつきないですね。
何故イエスは主神の右に立っていたとされたのでしょう。
では、左は誰?


10)
何故 古代から3にまつわる話がいくつもあるんでしょうね。
謎なのですが、活花の先生をやっていた人にどうして3にするんですか? と聞いたんですね。

「この世を表す最小限の数が3だから」

センセ 素敵! だてに年食ってないですね。

日本の鳥居 古代では3柱だったらしいです。
サントリーの創始者 たいそう気に入ってこの鳥居をたてたらしいです。
鳥井さんだからじゃなくて 三鳥居 だからなのだそうです。

鳥居は神の使いが止まる宿り木。

珍説としては、この鳥居がYHWHを表しているとか。

何故日本にYHWHが祭られているのでしょうね。
前方後円墳。 横にとってがあって、まるでマナの壷。
神輿は古代ユダヤ人が移動式の神殿として使っていたものとそっくり。
残るはモーセの杖ですね。
一説には伊勢神宮にあるとかないとか。

空想力を生かすと、こんなことまで人間は関連づけてしまえるんです。

投稿日時 - 2007-06-05 15:31:14

補足

(1)《神が肉となった。超経験が経験となった。》――これは 個人の信仰としては 自由に持たれてよい。と同時に その内容が 社会一般にも 表現される。このとき 社会一般は どのように扱うか。
――わからない。その言説の内容が 理性で理解することは可能だと思われない。しかも 子どもには そのままを伝えるしかない。
そんなことが 社会一般の場でゆるされるのか。
――わらかない。問題だとも思われる。歴史の歩みとともに見守る。資料文献の精査・検証をおこなってゆく。信仰の社会的な現われが出てくるかも知れない。総合的に現代をも容れて 歴史学による検証をおこないつつ 取り扱っていく。

これが 中間結論でした。その後 なお回答を求めていたのは おそらく――という言い方は 無責任ですが―― 信仰の中味の検討・検証をあたう限りおこなってみるということでした。

(2)神とは何かです。受肉する神とは何かでした。

でも前者は それほど 難しい問いでもないはづです。神は何でないかは はっきりしています。《経験世界を超えているその領域》です。人間の知解能力では捉え切れないものであって 《考えても分からない。分かるか分からないかが分からない》その領域・ちから・はたらきなどです。この《神》に対しては――考えるを超えているからには――《信じる》で対応するほかない。(a)神を信じる。(b)神を信じない=つまり信じないと信じる。無い神 これを信じる。

(3)ところが この神が受肉し人間となったと言う。このいくらか具体化した問題にかんして おそらく今 キリスト・イエスの場合と そのほかの場合とに分けて考えていくべきではないかというのが 主題になっている。

のではないでしょうか。つまり こうです。kigurumiさんは わたくしの出すイエスの場合の事例について それらはすべて ほかの神の事例と同じではないかという見解に立っています。さらには むしろ受肉する神という主題じたいが 空想であって――人間の都合に合わせた計略であって―― すべて結局は 経験科学によって明らかになるはづだと。ただしいわゆる神話のごとく 超経験のことがらを うまく(=文学的だとして受け取られるようにして) 経験領域に配合して表現する言説や物語なら 大丈夫だとも言っている。《現人神》は存在しうると主張する。

(4)この現人神の概念で わたしたちの立ち場が 互いに違っていることが はっきりわかるようだ。超経験が経験現実となるという現人神は 理解不可能だというのが わたしの立ち場です。信仰においては 持たれてもよいはづだが そして社会一般の言説としては これも表現の自由のもとに 表明されてもよいはづだが 分からないと言う人にとっては 接点がない。接点がないままである。しかも たとえば教科書にも 受肉の言説じたいとしては 採用されている。この接点の行方はどうなるか。

(5)このとき 現人神・明つ神の歴史を持つ日本人としては この《伝統》のもとに・伝統の中へ キリスト・イエスなる神人をも 習合すればよいのだというのが 煮つめたかたちで言った kigurumiさんの考えではないかと推測されます。その総じて言えば膨大な情況証拠を出して 論陣を張っておられる。

・・・・・・
ここまで整理して あらためて考えつづけていきたいと思います。次の回答も書かれていますので 場とわたしの頭の切りかえとを改めたいと思います。
接点の持てないまま 話がすすんでいるようです。

(6)一点だけ例示します。
《超経験》の神は たとえ人間の経験領域のことばを用いて《父なる神》と表現したとしても それは 男であるというのではなく 子に対する関係として親であるということを表わすだけのものです。神に性は存在しない。もしくは そのようにこの経験世界での事柄が 神にどうあてはまるかは わからない。(天使といった概念があるところから見れば 神には性は存在しないと推し測られます)。 

ですから 《女神》というものは どういう概念かが問題です。受肉した結果 イエスが女性であったとすれば あてはまるかも知れませんが いまの場合 女神は 超経験の神ではありえないでしょう。マリアはあなたの情況説明にもありましたが 神ではありません。

それこそ もののあはれと言うのでしょうか 自然の美しさやきびしさ 謎や不思議なこと また人間精神の美・高さ 超人的なちからとはたらき これらを神と言っている場合には イエスとしての受肉とは違うわけですから 話はかみ合いません。いま そういう情況に陥っています。いかがでしょうか。

投稿日時 - 2007-06-06 01:27:43

お礼

詳しくは 補足欄にて述べます。

信仰について触れてはならないというような印象(理解)を与えていたとするなら わたしの気づかなかったところです。

信仰においては これこれだったり あれそれだったりするだろうけれど それらは 一たん袋に容れておいて 社会常識として 扱うには いったい どう捉えればよいか この一点です。

自分は必要なところで触れておいて 人には 触れさせないかたちで 話を進めてきてしまったようだとは なんたる失敗。

ルツは ユダヤ人でもないのに 義母ナオミについて行って イエスの父ヨセフの血筋に名を残しました。

エリコの城壁の町の遊女ラハブは 町の人びとを裏切って 斥候として入って来たユダヤ人を自分の家にかくまいました。

タマルは 夫の亡きあと 義父ユダによって子孫を持ち やはり信徒の中につらなります。  

ルツ ラハブ タマル 女性のみ取り上げたのですが かのじょらの生活・人生は 神の受肉に――むろん つながっていますが――こだわることなくと言うかのように 社会生活にあっては 生きたかに思われるものがあります。

このような信仰と社会生活との接点を問いました。
それがどうあればよいか どうあると考えるべきか・・・。

詳細は のちに。と言っても もはや 信頼関係が傷ついたかに恐れられますが。 

投稿日時 - 2007-06-05 17:18:31

ANo.14

NO.13です。

>《〈主の霊がわたしに油を塗った。・・・捕らわれ人に解放を・・・圧迫された人を自由にし 主の恵みの年を告げ知らせるためである〉(イザヤ61:1-2)・・・そこでイエスは 〈この聖書の言葉は 今日 耳を傾けているあなたたちに実現した〉と話し始めた。》(ルカ4:18-19)という物語は お嫌いですか。この歴史的おとぎ話では らちが開きませんか。


イエスは律法という拘束具を着せられた人々の拘束具を取り払った つまり人々を律法から開放した?
それをやったのは、イエスではなくパウロ。
というのが私の理解です。


正確には覚えていませんが、こんなことをイエスは言ったとしていたと思います。

「私が律法を壊しに来たと勘違いするな。むしろ護らせるために来た。この世の終わりまで律法に書かれたヘブル語の一字一句も律法から消えることは無い」 みたいな。

律法を否定したのはイエスではなくパウロ。
一字一句どころかほとんどをつまらないものだと否定したのはイエスではなくパウロ。
この世の終わりどころか、2千年ほどまえ、この系統の世界には律法はない。

そして原始キリスト教から破門されたパウロが打ち立てたのが、現代の主流派の系統であるこのキリスト教。
正統派と自称するキリスト教の一派の教祖はパウロ。

というのが私の認識です。


まず つなぐとほどくという概念が違うと思えるんです。
どちらも律法により許可され、あるいは律法により禁止されることを意味しているのに、いつのまにか人が許すことだと誤解されていると思えます。

人間によって許されるのではなく、律法により許可されたり、罪が無いとされたりするはずだったのに、いつのまにか人間は神であるとその座に居座ってしまった。

神の言葉? そんなもんくそっくらえだ として神になろうとした結果、侵略・破壊への道を驀進してしまったわけですよね。

死の木を這い上がっていった。
死の木を上るものは世の中が逆に見える。

自分達は生命の木を上っているつもりでも、実際は死の木の頂上を目指しているので、死の木の道を辿るものの行動をすることになるが、その道が正しい道だとしか思えなくなる。

というのがカバラの思想だったと思います。


日本に榊ってありますよね。
木へんに神ですが、実は略字で、、、出ませんね 字が。。。
ともかく、左のへんも神を意味する文字なのだそうです。

神社に榊が吊るされていますよね。
その方向はどっち向いて吊るされています?

生命の木の絵 みたことあります?
どっちに生命の木は生えているように見えます?

上? だとしたら、あなたが生命の木だと思っているのは死の木です。

生命の木は新世紀エヴァンゲリオンのオープニングにも出てきますので、機会があれば、、、、というかYOU TUBEで観れます。


神につながれていなさい=律法に添って行動しなさい という意味だと思います。
律法は禁止ばかりが書かれているわけじゃあない。と私は認識しています。



新世紀エヴァンゲリオンのオープニングテーマは残酷な天使のテーゼで、その中で

「もしもふたり逢えたことに意味があるなら  
 私はそう 自由を知るためのバイブル

 残酷な天使のテーゼ  悲しみがそしてはじまる
 抱きしめた命のかたち その夢に目覚めたとき
 誰よりも光を放つ   少年よ 神話になれ」

ってあります。

<自由を知るためのバイブル> 意味深ですね。



>虚構でもかまわない 誤訳でさえかまわない 要は そのひとまとめとなった文章判断が 妥当であって 人間の真実を伝えているかどうかが大事なのであると。

という言葉を見て思い出した本。

「スティーブ。嘘を言った私の気持ち、あなたのような理性の勝った人にはわかってもらえそうもありませんが、一応説明させていただきます。
嘘の言葉のほうが真実を語るよりも、本当の気持ちを告げる場合があります。

あなたはシニズムよ。何かにつけて裏を見ないではいられない疑い深さ。自衛本能の表れで、身を護るためには結構なことでしょうけど、人間愛に欠けすぎます。
ほんとうに愛し愛されるのを妨げます。
信頼関係がなかったら、愛情は生まれません。

あなたは執念にとり憑かれています。何もかも疑ってかかって、正しいことまで無意味なものに変えてしまう偏執観念にです。
第二の復活を、私の父の一生の仕事を、人類のための新しい希望の火を、そして結局、わたくしたちの愛情とあなた自身の生きがいを、みんな葬り去らずにはすませない非人間的な考え方。

アトス山まで出向いて、ペトロポウロス神父を連れてきて、そして神父に真正な古文書だと確認させても、あなたはまだ満足できません。たぶん、永遠に満足なさらないでしょう。
誰が何を証明したところで、次から次と疑わしいものを探し回らずにはいられないのがあなたなのよ。
でも、わたしはもう一度嘘をついてでも、かならずストップさせてみせますわ。あなたの自己崩壊を防ぐためですもの。千回だって嘘をつきますわ。

わたしはあなたを愛しています。あなたに愛していただくためなら、どんなことでもします。わたしと、私が正しいと信じていることを、信頼していただくためでしたら。
そのような信頼感があってはじめて、愛情とはどんなものかがおわかりになるはずよ。いいえ、私への愛だけではなく、あなた自身を愛することも。」


『ヨハネの福音書に「汝ら 徴と奇跡とを見ずば、信じず」とあります。それがいま、新しく発見されたヤコブの福音書に「われ、この目によりて、徴と奇跡とを見たり。かくしてわれ、信じ得たり」との記述を発見しました。いまやわれわれキリスト者は信じてよいのだ! 信じることができるのだ! と口々に叫ぶことができます。 主は蘇られました! 真に、蘇られたのです。 アーメン』

「過去というものは消えてしまうわけではない。 それはかならず、現在の一部となって残る。 いや、過去の持つ意義がますます重要性を増してくるのだ。 たとえば、私の場合、お前のママと一緒に、若いときから神に仕えてきた。それがいま、新しい聖書のおかげで実を結んだ。これからは、あの新しい発見物によって生きていける。すばらしい啓示だった。おまえのような信仰を忘れた者でも、それを聞いたら、信じぬわけにはいかないはずだ。神の子がわしらとともに生きておられるのを知っただけで、新しい力が沸きあがってくる。人生の意義を知ることができる。
わしの信仰は一度もゆらいだことは無いが、ここ数年、わしは疑惑に悩まされておった。現代の若者たちは、いや親達もだが、 実証科学と称する偽りの偶像にとり憑かれたまばりに、教会と聖書から離れてしまったじゃのじゃないかという疑惑だ。彼らはどうやら、目に見えて手に触れられるものだけに人生の目的を見出し、神秘と奇跡の真の意義を忘れておるようだ。
信仰によってキリストを見ることができぬ者が、神と神の子の救いに応じられぬもの当然のことだ。
信じられる相手のメッセージを受け入れられぬという理由で、彼らはわが主に背をむけた。スティーブ、お前もその一人なんだぞ」

わたしの自己試練も終わったよ。
実証科学にとらわれた連中を証拠で満足させることができたのだから。 トム・ケリーにしたところで、説教壇から迷える若者たちに、自信をもって手を差し伸べることができるのだ。 (不良の)ジュディと(スティーブに離婚を迫る)クレアの様子を見たかね。顔つきまで生き生きしてきたじゃないか。 私のためにも祝福してほしいぞ。 私は大病を患ったが、死を少しも恐れなかった
 それというのも、天上の神の国の存在を心から信じておったからだ。むしろ、神と神の子の手でそこに招かれ、永遠の魂として生きるときがくることを待ち望んでおった。それが今、信仰の力が貧困と暴力と不正を克服し、平安と人類愛の神の国がこの地上に支配する可能性を見出せた。」


『ランドル(スティーブはついに、古典的な(イエスも答えられなかった)ピラトの質問への答えを見出した。
聖書にピラトは言えり、真理とは何ぞやとある。
彼はこれまで答えはないと考えていた。が、今はその考えが誤りであったことを知った。 答えはあるのだ。
愛するためには、信じなければならぬ。自分自身を、そして他人の全部を、信じて愛する。愛を心に抱いてはじめて、生きるものすべてが、生きることに目的と意義を知るのだ。
一人で生きているのではない。孤独を恐れぬ平安な気持ち。 この心境こそ、父が長い間、おれに望んだものだった』


これ30年ほど前に発売され、リニューアルされた「イエスの古文書」という小説のほんの数ページに書かれているものです。

イエスの実在していたという証拠が見つかった。
イエスの奇跡と復活なしには、キリスト教はなりたたない。
そのイエスが実在しており、一度死んで、死から復活したという証拠が見つかった。


スティーブは真実を知っている。
その発見された証拠が偽装さえたニセモノあるという真実を知っている。
偽装した本人によって、偽装の証拠まで提示され、製作者が発見された福音書の中に秘められたニセモノの証拠を手に入れた。

どうして製作者はそんなことをやったのかは、本の中に書かれています。

人々は偽の福音書を本物だと思って、イエスを神で実在した人間の姿に身を宿した神であると確信を持った。
それによって、不良の人々が平穏な気持ちになった。
偽の福音書を真実だと思ったことで。
発見されたものが、イエスの弟ヤコブが書いたものであるというお墨付きを信じたから。


ニセモノにですら人々は本物だと信じることができ、平安な気持ちになれる。
だったら、スティーブは真実を人々に知らせるべきではないとあなたは思いますか?


最初の人は自分が信じることを相手に信じさせるためには、嘘もいとわない、愛するために嘘をつく という。
それが愛だという。
嘘も方便ってわけです。


あなたが人を愛していないなら、信じていないなら、真実を知らせるべきじゃないと思うはずです。

<虚構でもかまわない>とするのなら、人を愛していないし、信じてもいないことになります。


愛とはなんでしょう。


新世紀エヴァンゲリオンのTV版オープニングテーマは「残酷な天使のテーゼ」です。


>ただし 連合軍司令官からのゆるしは 必要だったのではないですか。

何故?
マッカーサーは天皇の謝罪を求めて会見に臨んだとは思いません。
「一体どんな人だろう どうせ自分と同じ人間だ どれ日本人が言う神とやらの人間をみてやれ」くらいの気持ちだったのではないでしょうか。


>《処女という言葉は<誰にも支配されないもの>》が原義というのは 漢語がですか パルテノンがですか それともヘブル語がですか。

神話・伝承辞典より。
『聖なる処女はイシュタル、アシュラまたはアフロディテに仕える娼婦・巫女の添え名だった』とあります。

『聖なる処女の務めは太母の恩恵を分け与えること、病を癒すこと、予言すること、聖なる踊りを踊ること、死者のために悌泣すること、神の花嫁になることであった。
こういう神殿つきの女たちから生まれた子供を、セム族は、bathur、ギリシャ人はparthenioiと呼んだが、ともに処女から生まれたという意味があった。』

つまり古代では巫女は女神の体現者であるとされ、彼女らが女神の力を支配者に分け与えるとされており、マリアの伝承の一つに、マリアがヨセフを自ら選んだというものがあります。


神は第一の源ですから、交渉なしに誕生したので処女。
彼女らは支配者に知恵(力)を与えた。
アシェラ。アシェルという言葉は力という意味を持ち、巫女たちは支配者に女神の法を与えた。
彼女らは人間に支配されない者であった。
マリアもその巫女の概念を持っていたので、処女とされた。

というのが処女とは誰にも支配されない者という意味を持つ由来。

簡単に言うとこんな感じです。


>潮の満ちていくように 神をめぐる人間(人類)の時も 少しづつ 満ちていくのだと思います。

女神は月とも考えられていた。
月は変化する。
そして女神は3日後に復活すると考えられた。
何故なら月がそうだから。 だそうです。
(この部分はどうして3日後に月が復活するというのかわかりません。全く月が地球から見えなくなる期間が3日あるとは思いませんが、地域によっては3日間 月が見えないのでしょうか。)



>または いっそ おっしゃっているように 物語と言ってはどうですか。

はい。で、子供に読み聞かせてどうしてそういう物語になったの?と聞かれたら、知っていたら「昔はこうこうだったから人々は こうだと思っていたんだろうね」と答えるとか。


>《レイがリリスと合体して、シンジを神と融合させ、再生させるってストーリーです》の《神と融合させ》については 何とも実感が湧かないというのが 第一印象です。

まあ 結局 科学的に永遠者に人類をしようってしたって物語です。

http://homepage3.nifty.com/mana/hokan.htm#HOKA

映画では、途中からアニメと実写が入り乱れ出し、実写だらけになるんですね。
ファンはあのような話は望まなかったので、大ブーング。
映画が公開されると、「庵野死ね」とネットで書かれたそうです。
「夢から目覚めて現実を歩まねばならない。」という監督庵野氏のメッセージを、ずっと夢を見ていたい人たちがATフィールドで跳ね返したって感じでしょうか。

シンジ(神の児)もアスカに「僕に指示してよ」と詰め寄った。
アスカに「うざい。一人で考えなさい」と迫られ、突き飛ばされて、それでもアスカにコマンド入力を願うシンジ。
アスカが与えてくれないとわかると、アスカの首を絞めた。
「みんな死んじゃえ。 自分も死んじゃえ」

悲しい人間の生き様ですが、聖書を作るときも、自分と違う考えの人たちを殉滅するために、聖書を作ったわけで・・・・。
そして法を作って人々を閉じ込めた。
永遠の至福となるはずだった。 
地上の楽園において、永遠者となる 夢 を見れるはずだった。



ああ、私もとりとめのない話になってしまった。 すいません。

投稿日時 - 2007-06-04 07:34:49

補足

現人神という言葉を使うのはよくなかったですね。神々の一人であるホノニニギつまり天孫の降臨のごとく この地上にその神が 人間として住むという視像があります。

kigurumiさんにしたところで もし《女神》を キリストの神と同じ概念で使っておられるのでしたら 非常にあいまいだと思われます。《神》の定義から出発すると合意に達したばかりなのですが。(経験科学や思想の問題として 出て来てもかまわないのですが)。

もう一点は 真理(神=超経験)と真実(人における知解としての主観真実)と事実(経験的な事実・現象)との区別が 重要だと考えます。さらには 誤解・誤訳(善意のまちがい)と嘘(真実を曲げている・不真実)とさらに虚偽(故意・悪意の不真実)とも区別されるべきかと思います。善意のまちがいは その嘘やニセモノの部分はつねに正されていきますが それとして――つまり 原典を誤解したとしても原典とは別個に―― 一編の真実を表わしているという場合があります。(マリアが処女として訳された例もそうではないですか)。

(嘘はいけないし 事実に反してはいけないのですが 事実の認識には 解釈や見解の相違によって 統一的な命題として確定しないという場合があります。もっと言えば 事実とは 人間の言葉で そっくりそのまま間違いなく 表現しうるものかという根底的な問いがあります)。

正真正銘の事実だと確定した場合でも そのホンモノであることをわれわれは信じるということではありません。信仰は 経験領域のものごとを信じるものではないわけです。それつまり真贋の問題は 思想であり信念・信条といったところです。

これらの概念をめぐる認識の違いで 神の受肉について 決定的な違いが生じるものと思われます。ふたりの往復書簡のごとくなってきましたが 質問の中核をめぐって推移しています。

(1)《精霊》は 神木というように 事実としての木をめぐって そこに宿る・はたらくと捉えたその超自然の力のことです。神なる《聖霊》も 仮りに木に宿ったとした場合 その場合でも この聖霊のほうは 一人の人の主観真実の中におさまるものです。アニミスムとしての精霊は 人びとの知性を超えているという社会通念(あるいは幻想の共同)として持たれている場合を言うと思われ 集団的です。(文字の書き間違いにすぎないとは思えないものがあります)。

(2)《律法》も――それは むさぼるなかれといったふうに 人間の言葉で表わされていて 認識しやすくはなっていますが―― 神の次元の問題です。人間がみづからの努力で守ることができるとは そもそも思われていません。そこから出発しないと 話がかみ合いません。《つなぐとほどく》で論じておられるところでは 趣旨が同じだと思いますが。(この補足欄は 字数制限がありますので 簡略になります)。パウロは キリスト・イエスに従っています。《文字は殺し 霊は生かす》と明確に述べてくれたのは パウロですが。

(3)生命の木と死の木も 経験思想として主張しているか それとも 神にかかわって その霊のことを代理表現で述べているかで 扱いがまったくと言ってよいほど別になると思います。あいまいです。エヴァンゲリオンも 思想・文学として何かありそうだと思いますが 上の点があいまいですので 割愛せざるを得ません。

(4)再言ですが 《虚構》は ニセモノであるとは限りません。エヴァンゲリオンは虚構です。聖霊を 経験思想としての精霊で翻訳(誤訳)しても それとしてまとまった思想を表わせれば 話が別に成立するという寸法です。

(5)再言ですが ホンモノだから信じる ニセモノだから信じないという態度は 信仰とは直接にかかわらないと見たほうがよいと思います。信仰とは わけの分からないものを信じる(もしくは 信じない=つまり信じないと信じる)ものですから。《真理とは何ぞや》に対して 《答があるか ないか わからない》が正解です。《わかるか わからないかが 分からない》。真実 すなわち 一般に事実にかんする認識としての主観真実(とその共同化)は 経験合理性で ある程度 その妥当性いかんが 分かります。分かるとされています。

(6)愛とは いまの流れでいけば 合理的妥当性を わづかの隙にでも見つけて 共有するべきその主観真実を互いに共同化すること その〔さらなる検証を含めた〕努力を死ぬまでつづけることです。

(7)じゃあなぜ 自分に責任があると言ったのですか。昭和天皇は。

(8)処女は 民俗学民族学などから出た経験思想のようですね。面白いですが ここでは 割愛です。《誰にも支配されない》と言うばあい 神もしくは無神に対して どういう関係にあるかを明らかにしていないと 明確な思想にならないように思います。

投稿日時 - 2007-06-04 13:53:55

お礼

(9)神をめぐる歴史物語 もしくは アブラハムからの神の物語の歴史 これは 人類最高の――少なくとも――思想をかかえているように思います。人間における神の似像としての三行為能力の一体性は 記憶が司法 知解が立法 意志(愛)が行政の三権にも 喩えられます。(これは わたしのオリジナルです)。

(10)おなぐさみとしてですが ヒトコトヌシが父なる神 オホタタネコがイエスとして子なる神 オホモノヌシが聖霊なる神で あたかも三位一体が現われているかのようです。

事実――人間(主観真実)――真理(神)

モノ・・・・・者・・・・・・・・・オホモノヌシ

コト・・・・・ミコト・・・・・・・ヒトコトヌシ

人間に ネコ(根子)とヒコ(日子)とがあります。身体と精神とにも喩えられますが 個体としては オホタタネコとミマキイリヒコとなどです。やがて 国つ神と天つ神とに分かれていくでしょう。うんぬん。人間は 精神と身体とですが 神は 精神ではありません。超えています。一般にあいまいです。

少年よ オホタタネコに学び オホモノヌシ=ヒトコトヌシの光を仰ぎなさい。見えないはづだから。・・・

投稿日時 - 2007-06-04 13:58:13

ANo.13

No.12です。

2)の ゆるされて そのあと あなたは 《自害する》か《生きて耐え抜く》かの

許すとかはキリスト教の教えにありますが、本来の意味は<ほどく>だと思います。
誤訳の結果、許すになってしまったと聞いております。
イエスにつながれる(と結ばれる)は禁止というか、律法で禁止されているということ。
許すは誤訳でほどくで、認められるということ。

むすびとほどき です。
そして昭和天皇は誰かに許されなければならない位置に属してなどいない。
許す 許さない とは人間の個人個人の同等の人間に対してのみ行なわれる行為。
したがって、昭和天皇が現人神としたとき、その人間の影響を受けない世界に属している。

非人ってありますが、本来は天の遣いとされた人たちのこと。
彼らは誰からも支配されないので、どこにでも行けた。
帝すら物言いできないほどの権力を持っていた。
彼らの中には人間の浄化を担当するものもいたし、帝に力を与えるとされた女性たちもいた。

後に人間の手によって、つまり中国から来た制度によって日本の法律みたいなものというか体制が変わり、彼らは人間を超えた存在として(天と地の間に座するもの)=非人の立場から、人間以下=非人と<人間>によってされた。
が、彼らは人間以上の存在なので、いくら人間が定めたとしても実体がそうなるというわけじゃない。
落とされた後も、彼らは日本を浄化し続けた。
その力を持っていたから浄化した。

実際はその威力がどんなものかですが、日本の仕来りというか、風習というか、実際が彼らに浄化させていたという事実があります。
つまり彼らを侮辱しながらもその力を信じていたからやらせた。


3)  けっきょく 気長に一つひとつ こなしていくことが肝心なのでしょうかねぇ。

ですが、史実は無視して考察するわけですよね?
ハリーポッターは実在の人物で、彼は魔法使いだったとするには、史実を除いてどうやって彼が実在の魔法使いであるとできるのでしょうか?
信仰を省いて考えるわけですよね?
どうやって?
信仰ではそう信じていれば、彼は実在の魔法使いということになりますが。。。。。


>その原型があってもなくても 問題にしなくてもよい事情説明だと捉えられます。

つまり<キリスト教の信仰において、三位一体を人間のアウグスティヌスが作り出したので、これはこれで新しい概念としてキリスト教ではそうだから、そうでいいのだってことですか?
<キリスト教の信仰においてそうだから> になってしまっていますが・・・・。
イエスが言ったとか神が言ったとかじゃなくて、<人間が作った信仰の規定>の中でそうなっているわけですよね。
イエスが神だとしても人間の支配下に置かれていますね。
これでは人間次第でどうにでもされてしまう存在。
これが神とするなら、人間は神を超えていますね。


>やはり 子どもにも そのままはっきりと明らかにしたほうがよいのかも知れません。判断は子どもに任せるのも一法かと。

そうですね。
親や社会が刷り込むものじゃないと私も思います。
自分の目で見て、耳で聞いて、考えて子供が判断するしろものだと思います。

ちなみに処女という言葉は<誰にも支配されないもの>というのが本来の意味だそうです。


>《「キリスト教の教えではそうなっている」と条件つきで》とおっしゃっても やはり伝えることになるわけですし・・・。

では、<キリスト教ではそういう掟が存在する>ではどうでしょうか。
その掟にそむく あるいは認めないと、どういうことになったかも、情報として教えてさしあげ、さらに神とは、、、と子供に考えていただく援助をする程度でよろしいかと。
あくまで知っている情報をこちらが出して、それが事実か、後に作られたキリスト教叩きで何の根拠もなかったのかは、子供が見つけ出すでしょう。


>なお 褒めたことではないのですが アニメにかんしては まるっきり分かりません。ご容赦のほどを。(千と千尋の神隠しをテレビで見たことがあります)。

本質問とは関係が、、、あるか、、ないか。
ゲンドウはイエスの教えがあったのにもかかわらず、殺し合いをしていることを嘆き、イエスの力でもどうにもならないと気づき、人類保管計画をするわけです。
<新世紀エヴァンゲリオン>という名前はそういう意味を含みます。
新しい福音というわけです。
神の子となるシンジは生命の十字架にはりつけになり人類補完計画が達成するはずで、ゲンドウは神となるはずだった。
ってはなしですが、レイがリリスと合体して、シンジを神と融合させ、再生させるってストーリーです。
ATフィールドって概念が出てきて、すごくおもしろいし、考えさせられますよ。
9月にまた映画が放映されます。
夢と現実。
<人は夢を見ていたほうが気持ちがいいが、でも辛いが現実と向き合わなければならない。とても険しい道だが、それしか道はない。>ってのが監督の映画を作った趣旨だと理解しています。


>カントールの無限集合の理論で 神の受肉が説明できると言っています。

日本に非人がいましたよね。
これはもののけ姫に登場しますので、これも参考にするといいかもしれません。

投稿日時 - 2007-06-03 04:40:12

補足

<新世紀エヴァンゲリオン>は そういう内容なんですかぁ。日本の神話を題材にしてアニメ作品が作られているように ちらっと 漏れ聞いたことはありましたが 聖書物語も題材にされているのですね。うぅーん。日本人の方が制作されているのですよね?結局 こなし(消化)が上手なんですね。情報をすみません。

もののけ姫も あの歌の一節として 名前は知っているのですが・・・。非人の問題は 大きいですね。同和地区と同じ中学でしたから かなり分かっているつもりではいるのですが・・・。

《〈主の霊がわたしに油を塗った。・・・捕らわれ人に解放を・・・圧迫された人を自由にし 主の恵みの年を告げ知らせるためである〉(イザヤ61:1-2)・・・そこでイエスは 〈この聖書の言葉は 今日 耳を傾けているあなたたちに実現した〉と話し始めた。》(ルカ4:18-19)という物語は お嫌いですか。この歴史的おとぎ話では らちが開きませんか。

それにしても そのイエスの扱いになるのですが 同じく夢物語として また信仰として 三位一体と神の受肉は それとして出来上がっていると思われます。また そういう意味で 背景としての事情説明に挙げられた《三相一体》とは もはや独立しているはづですと申し上げたつもりだったのですが。

子どもに対して――まちがいは この年頃としての段階では きちんと指摘してやらねばならないと思いますが―― 全面的に信頼を置くというのは 賛成です。いじめの問題でさえ かれらの共同自治にまかせるのも 一法かと。

話があちこち飛びますが 地道に一つひとつの課題をこなしていくのがよいと述べましたのは こういう感触があるからです。つまり 聖書のテクスト・クリティークというのがあって 徹底的な分析を敢行し 原資料は原資料として押さえ そこに何がどう付け加わったのか あるいはこれはパウロの文章かそうでないか などなど 経験科学の眼で為しうる限り 明らかにしていく作業のようですが これをひととおり勉強したとき思ったことは こういうことでした。

虚構でもかまわない 誤訳でさえかまわない 要は そのひとまとめとなった文章判断が 妥当であって 人間の真実を伝えているかどうかが大事なのであると。そしてまた そのことの試行錯誤の過程が 人間に出来ることかも知れないと。

そういう意味で申し上げたものですし またこれまで 誤訳の問題に触れておられましたが あまりそこには わたしは足を踏み入れることはしませんでした。つまり 何か原典の誤解によってでも 新しい知見や視点や真実の深化が得られれば よしとするといった一つの姿勢です。(諦めようという意味ではありませんが たとえば史実の比定ほどむつかしいものはないように思います。解釈合戦になるし そのような形ででも 人間の真実を求めるところに価値を見出すうんぬんです)。

三位一体とその中の神の受肉については それとして まとまっていますので これに対処するには 同種の物語を別様にこしらえるのが一番だと思います。そして その三位一体説じたいに対しては 神の受肉にかんして 人間の理性では分かりきらないのだと言う以外にないように感じて来ています。 

《むすびとほどき》は知らなかったのですが ゆるすに関しては 緩くするのだとは 知っていましたし むしろ意識して使っています。戒しめや裁く問題では必ずしもないのだと。

ただし 連合軍司令官からのゆるしは 必要だったのではないですか。

非人にかんしては 《本来は天の遣いとされた人たちのこと》という一種の聖別を必要とせず そんなことは言う必要のない世の中を目指します。

《処女という言葉は<誰にも支配されないもの>》が原義というのは 漢語がですか パルテノンがですか それともヘブル語がですか。

《では、<キリスト教ではそういう掟が存在する>ではどうでしょうか。》――おきては 置き手だと聞いているので 戒律や道徳から自由なようにも思われ その点よいのですが または いっそ おっしゃっているように 物語と言ってはどうですか。

新世紀エヴァンゲリオンで 《殺し合いをしていることを嘆き、イエスの力でもどうにもならないと気づき、》というくだりは 新鮮な感覚です。《レイがリリスと合体して、シンジを神と融合させ、再生させるってストーリーです》の《神と融合させ》については 何とも実感が湧かないというのが 第一印象です。

とりとめのなさを意識して書いてしまいました。

ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2007-06-03 06:31:26

ANo.11

No.10です。

私も二人の人の書いたものを混同していました。
失礼しました。


>歴史的人物だとされるイエスについて 尋ねています。
>文献と史実の検証のほかにありましたら お聞かせください。

「実在のモデルがいたからこそ、12使徒たち、少なくもペトロやパウロは実在し、イエスの物語を語ったではないか。だから実在したはずだ。」

でしたら、さぁ・・・ です。


ヨセフスが強調して語ったところによると、頻繁に起こったローマ支配に対する反乱を扇動したのは、ユダヤ教の黙示録的伝統に属する指導者や預言者だったそうです。

彼らは義なる者と悪なる勢力の間に行われる最終戦争と、それに対する神の介入を語る幻視的思想家の流れを汲む者達。

これはユダヤ教におけるメシア的教義の重要な側面だったそうです。


こう聞いて浮かぶのが、クムラン宗団です。
彼らの終末の概念がそうだったから。
実際に20世紀になってから彼らの書物が見つかりました。
そこにそう書かれている。
ご存知だと思いますが、死海文書と呼ばれるものです。


クムラン宗団を率いていたのはツァドクの末裔。
ただし、一人のメシアではなく、二人のメシアを待望していました。
祭祀のメシアと王のメシア。

これに該当する人を無理やり私が当てはめるとすれば、アロンの血筋を引くとされる洗礼者ヨハネと、ダビデの血筋を引くとされるイエスです。(天の子と地の子)


彼らはイスラエルの選民が神との契約を遵守するようになるまで、最終的な贖いと悪に対する善の勝利は実現しないとし、メシアは選民を浄め、王のメシアは悪に対する戦争において彼らを勝利に導くとしていた。

後に成功しなかことで、文書が付け加えられたらしいです。

そう聞いて思い出すのが、人々はイエスにメシアであることを早く示せと詰め寄った一件。

クムランの宗団の一派が分裂して、キリスト教になっていったんじゃないかと。


クムラン宗団の考え方はキリスト教の考え方に非常に似ているが、三位一体などユダヤ教からすれば神を冒涜するような考えはしていない。

また、ヨハネもイエスという名前も出てこない。

義の教師と悪の祭祀は登場しますが、悪の祭祀が義の教師を殺したとなっている。

ちなみに義の教師は紀元前200年だったかそこらに実在したことになっているので、新約聖書のイエスではない。が、後世の人の創作する上でのモデルになったかもしれない。

別の人の見方では、義の教師、悪の祭祀はイエスが生きたとされた時代の人物で、義の教師は洗礼者ヨハネ、悪の祭祀はイエスだ、という解釈もある。



>たとえば子どもたちに どう教えればよいか 

信仰という言葉を使わずに、ですよね。
逆だと簡単なんですけどね。


まず、神の概念を子供に教えなければなりませんが、あなたはどう教えます?
神の概念は一定でしょうか?
以前神という語彙をネットの辞書で調べたことがあります。
無い、ヒットしない。
いくつか辞書を変えてやっと1個ヒットした。

では定義が定まっていないにも関わらず、人は神という言葉を軽々しく使って語っているがどうしてなんでしょうね。
子供に語る上で、まず神の概念を定着させる必要がありますね。
「人間では推し量れないよくわからないもの」←説明になっていないので子供は「パパも知らないんだ。知らないものを信じろって変なの」ってなってしまう。


>信仰を明らかにして人に伝えるという表現行為までは自由だが 
>相手の自由も尊重し しかも共同自治の領域では 信仰から自由に
>ならなければいけないというふうに。

日本においては信仰は自由です。
日本で宗教をしている人の数は人口の2倍。
おおらかな日本ならではの現象かもしれません。

日本において神道は暮らしに根ずいています。
正月は初詣にいき、クリスマスはメリークリスマスと祝う日本人。
門松などは三位一体を表しているといわれていますし、カバラの生命の木を表しているともいわれています。


日本の辞書にどうして神の概念が書かれていないのか。
異教の神を食ってしまって取り込んでしまったからと思えます。

この食うをうまく表現しているのが、新世紀エヴァンゲリオンのサードインパクトだと思えます。

日向「デストルドが形而下されていきます。」
冬月「これ以上はパイロットの自我がもたんか」
青葉「ソレノイドグラフ反転。自我境界が弱体化していきます。」
日向「ATフィールドもパターンレッドへ」
青葉「リリスよりのアンチATフィールド、さらに拡大、物質化されます。」
日向「アンチATフィールド、臨界点を突破」
青葉「だめです。このままでは、個体生命の形が維持できません」


パクっ。 習合してしまった。

他で、三位一体について話をされていますが、三位一体の原型は三相一体で、これは女神の概念なんですね。
母系社会のときの概念で、それが父権社会に移行していくうち、「父と母と子」さらに母がはじかれ「父と子と聖霊」に変換していったわけです。


キリスト教もユダヤ教とローマ神話が習合している。
土地土地の伝承が違うのも、土着の神を取り込んでいったからだと思います。
思想においてはギリシャ哲学を取り込んでいる。


で、人間が神でもあったということを、どう子供に説明できるのか。

難しいですね。。。。
昭和天皇で書いたような感じでなら説明できますが。。。。



子供を一時的に納得させるのは簡単です。
クリスマスの夜にサンタがプレゼントを運んでくれるということを、子供に教えておいて、自分でプレゼントを枕元においておけば、目覚めた子供は「サンタさん ありがとう。パパの言ったことは本当だった。」となり、イエス様も サンタ様も パパ様も尊敬対象になれます。

だが、子供じゃなくなると、そのトリックは通用しなくなり、「パパの嘘つき トリックで神の実在を信じさせようなんて最低の人間だ。」となってしまうか。

なりませんよね。
寛容さを持って乗り越える。


キリスト教は不寛容によって成り立っていますよね。
というわけで、イエスを神だと教え込むには、不寛容さで教える。
例えば侵略先の土着を神を悪魔に摩り替えてきましたが、このように人々が信仰しているものを悪魔だと教え込むことによって、逆に自分が信仰しているものは逆の神だと信じ込ませることが可能。
歴史的にみてもそうですよね。


ただし、これも一時的なもの。
そのトリックを子供がいつか気づく時がくる。
その時、子供が親に対する信頼が揺らぐことになる。
そうなったときどうなるのか。

「パパ イエスが言った目が見えない人という意味は、盲目の人って意味じゃないんじゃない? ヘブライ語の慣用句でケチな人って意味でしょ。イエスは共同財産を説いたわけで目が見えるようになったという意味は気前がいい人になったって意味でしょ。」

「パパ メシアって意味は救世主って意味じゃなくて、聖別された人って意味で、ダビデもソロモンも祭祀たちも油を注がれ聖別されたメシアだったわけだけど、人間だったわけでしょ? じゃあ イエスも人間じゃない。」

「パパ 偉い人が油を塗られた理由は女神との結婚を表していて、女神と結婚することで、女神の力を手に入れられると信じられていたからでしょ。 だからルシファは女神の力を手に入れようと挑んで、地上に落とされたって話なんでしょ。 それがユダヤ教になったとき、それを象徴するのが頭に変わり、メシアは頭に油を塗られるようになったんでしょ。」


このような問いに答えられるようにならなければなりません。

ということで、イエスは神だったとうかつに言わないほうが無難かも。
教えないのに子供がそう思ったら、「パパ 事実はどうなの」って迫られることはない。
言った人に問いただしに行くわけなので。


結論、 イエスは神だったと子供に言わない。
「キリスト教の教えではそうなっている」と条件つきであることを言っておくにとどめる。

投稿日時 - 2007-06-02 10:14:46

補足

重ねて答えてくださって ありがとうございます。わたしのこの質問は 素朴ながら 的を射るような問いであるように 我れながら 確認しています。

(1)或る実在の人物もしくは世界観としての想像じょうの人物が イエスのモデルになっているという背景を指摘されています。いまは 留意ということにさせていただきます。(史実の比定は むつかしいです)。

(2)《〔戦争を〕止められなかった原因は自分にあるとして、殺されてもかまわないが、国民には責任は無い と一人で罪を背負って崩御しようとしたわけです》の結果 ゆるされて そのあと あなたは 《自害する》か《生きて耐え抜く》かの二つに一つの選択を想定しておられますが しばらくして 退位・譲位すればよいとも考えられます。自分の意志だけで出来ないとしても その意志が伝わるまでは 言い続けるということも考えられます。そうでなければ 責任を負ったと言えなくなるように思います。

ですが なぜこのような議論をしたかと言いますと 時間的存在(つまり人間)の経験的行為は あくまで相対性のもとにあると言いたいためです。誰が誰のどの行為をどう言おうと 反面ではこうこうであると言えるということです。ですから 現人神の判定は 不可能であり 社会常識としては 判定してはいけないのだと考えます。徳育というふうに 神とのかかわりを多少薄めても 同じではないかと。

ですから――ちなみにですが―― キリスト・イエスをめぐって 善し悪しを述べられても わたしとしては ほとんど 触れて来ていないと思います。さらにちなみに 実在説の当否についても それとしては 議論を拡げないという方針でいます。

(3)《神》の定義から始めなければならないとおっしゃるのは まことに同感です。めづらしく意見の一致を見ましたね。それはいいのですが そして次の方(ANo.12)へのお応えを先に書きそこでも確認しあう形になったのですが けっきょく 気長に一つひとつ こなしていくことが肝心なのでしょうかねぇ。

(4)三位一体に対して 《原型は三相一体で、これは女神の概念なんですね。母系社会のときの概念で、》うんぬんと続けられていく文章は 説得的ではありません。その事情が問題なのではなく 三位一体説はすでに明確に出されているので その原型があってもなくても 問題にしなくてもよい事情説明だと捉えられます。

いまふと思ったのですが やはり 子どもにも そのままはっきりと明らかにしたほうがよいのかも知れません。判断は子どもに任せるのも一法かと。すでに書いたことですが 文学的な表現であるというのならば 何の問題もないのですが・・・。《「キリスト教の教えではそうなっている」と条件つきで》とおっしゃっても やはり伝えることになるわけですし・・・。

なお 褒めたことではないのですが アニメにかんしては まるっきり分かりません。ご容赦のほどを。(千と千尋の神隠しをテレビで見たことがあります)。

なお 今回の質問の過程で 落合仁司著《〈神〉の証明》(1998現代新書#1392。品切れとのこと)に出会いました。カントールの無限集合の理論で 神の受肉が説明できると言っています。(まだ読書途中です)。数学がわからないので 質問してみようかとも。

投稿日時 - 2007-06-02 16:14:38

ANo.10

No.6です。

>イエスと同時代のユダヤ人であるフラウィウス・ヨセフスに《ユダヤ戦記》があり これは いわゆる客観的な歴史書として 評価されています。

はい、古代のユダヤの歴史を知る貴重な資料ですね。
私はユダヤ戦記は読んだことがありませんが、ある小説では、ヨセフスは会ったことも見たことも無いと書いてありました。
彼が旅行中、「3人が磔刑に処されている風景が遠めに見えた。とはかかれているが、それがイエスらだとは言っていない。」と。

ピラートスはローマに反逆する疑いのあるものは、ただちに通報するよう命令していた。
ピラートスは、裁判なしに即処刑する男として名をとどろかせていた。
聖書にはピラートスは正しい人であったが、と書かれているが、サンヘドリンの要求に屈し、鞭打ちそれで開放させようとしたが、人々はイエスに死を望んだ。
ピラートスは正しい人であったので、恩赦制度を利用して、イエス・バラバとこのイエスのどっちに死を望むのかと問うたところ、人々はイエスの死を望んだ。


まるでギリシャ悲劇の一幕のようですが、、、、
即処刑する男として名をとどろかせていたピラートスが、殺人犯を拘留していた?
殺人犯とイエスのどっちを救うかと人々に意見を求めた?

おかしいですね。 そのような人物などではないはずなのに。

なにより、ヨセフスがイエスに会ったことがある? イエスの実在を記録に残している? 今までの小説にはそんなこと出てこなかったぞ。
初耳だ。

というわけで、調べてみました。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%82%BB%E3%83%95%E3%82%B9

【『ユダヤ古代誌』18巻63には「フラウィウス証言」と呼ばれるイエス・キリストに関する記述があることで有名であったが、現代では後代の加筆・挿入と考えられている。】

というわけで、西洋ではどの小説家も加筆だという認識だったので、小説にもヨセフスは実在を記録していると書いていなかったので、私もユダヤ戦記に書いてあると知らなかったわけです。



>もっとも 実在の人物でなくとも 歴史上の人物であるとした上で その人が神であるというとき その言説に対して 人は・あるいは社会は どう判断しておくべきかを尋ねています。 

それは現代の人がですか?
それとも当時の人がどう判断していたか ですか?

当時の人の考えから言いますと、ローマ皇帝は神の子という概念がありました。
ユピテルってご存知ですよね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%94%E3%83%86%E3%83%AB

ローマはエルサレムの神殿にこのユピテル像を置こうとした。
ローマ皇帝は神の子とされ、ユピテルの子とされていたんです。 

そのうち、ゾロアスターだったかマニ教だったかと習合することになって、太陽の子という概念に皇帝はなっていった。
だから衰えることのない太陽の帝国ローマ帝国となっていった。

ローマ帝国の概念にそういうのがあったんです。



で、<現代の人は社会はどう判断しておくか>ですが、、、

例えば、コンスタンティヌスのイエスの啓示により勝った つまりコンスタンティヌスはイエスによって選ばれた、というものは、後世の加筆。
と判断するのが妥当じゃないかと。
コンスタンティヌスは確かに実在の人物ですが、どうしてそのような話が作られたのかを考えると、、

XPの文字、これ、マニ教だったかゾロアスター教だったか他の宗教だったか覚えていませんが、とにかくそのシンボル。
キリスト教のシンボルじゃなく、コンスタンティヌスはそれによって、兵士を奮い立たせ、数では圧倒的に不利な戦に勝ったわけです。

という風に、一つ一つを検証していくのが、現代人が判断する上で最低限必要なことなのではないかと。
じゃなきゃ 盲信するしか、「そんなわきゃない 理由はないが自分はそう思わないからそうじゃないとする。」と言うしかないです。


どうしてそう思うのかを出してもらい、その反証を別のものが出す。
こうやって哲学は成り立っているわけです。
既に決定されたことを、本当にそうなのか吟味し、修正していくのが、現代の哲学ですから。

それには神話も吟味の対象になりうる。
全くなんの根拠もなく神話はできるわけない。
何かあったはずです。

例えば、ペトロに鍵を渡したという記述。
これも理由があった。
勢力争いで、自分達の集団こそがイエスの教えを受け継いでいると、他のキリスト教の集団を退けるために聖書に加筆された。など。

このように吟味していくと、明らかにされてきて、もやに包まれた姿なきものが、実は姿をもっていたとわかってきますよね。
幻を取り除いていけば、実体なきものとしたものの実体が見えてくる。

これが現代人の判断に必要なものじゃないのでしょうか。

どう判断するかは、徹底的に幻を取り除く作業が必要。
取り除ききったと思っても、実はまだ実体を見ていなかったりするわけで、こうやって書けば「否」って反論がきて、それを本当にそうなのかさらに吟味して、精度を高めていくわけです。

ただ、ここ議論しちゃいけないので、うまーく議論じゃないようにして、進行していかないといけないという。


ということで、あなたの質問に、私が知っている情報を返答として返すということを今回やってみました。

まどろっこしいが、そのやり方しか思いつかない。

投稿日時 - 2007-06-01 08:17:32

補足

訂正としての補足です。

《ユダヤ古代誌》と《ユダヤ戦記》とを 間違えています。勘違いでした。

質問は あらためてこうです。

ピラトのもとに 磔の刑で死んだというイエスなる人が そのいわばイエス教徒たちを散らそうとしていたサウロという人に 死後に現われ なぜ迫害するのかと問いかけた。のち このパウロと改名した人が イエスはキリストであり子なる神であると説かれるまでの内容をもった文章を遺した。

このようにして 歴史的人物だとされるイエスについて 尋ねています。文献と史実の検証のほかにありましたら お聞かせください。

人間宣言を ローマ教会なりに迫るというのも どうなのでしょうか。信仰の領域だと言われれば おしまいです。社会との接点は どこにあるのでしょう。

投稿日時 - 2007-06-01 10:00:09

お礼

http://www.members.aol.com/fljosephus/testimonium.htm
最初に出て来たウェブ記事ですが これによると クリスチア二スムの用語や表現(《メシア》など)は 後世の加筆であろう と同時に もともとヨセフスの原書にも イエスのことが 歴史として 触れられていたのではないかという そのような見解が紹介されています。

『ユダヤ古代誌』18巻63のほうは 知りませんでした。上の議論は 《ユダヤ戦記》のほうについて なされています。わたしは その中のイエスの部分を読んだだけでした。見解を異にするのですが 資料の判定については信頼していた田川健三に拠って イエスの実在性を前提にしていました。

けっきょく ここでの問題は 実在性を超えて しかし歴史的人物だと想定して その人間が 現人神だと述べられたとき その言説をどう扱うかです。

歴史的人物ではないということを証明していくという対処の仕方を提案されていると理解しました。
気長に しかし 慎重に堅実にというところですね。

趣旨と異なりますが ピラトうんぬんのところは わたしの考えでは 脚色があるという説明で済ませます。

一つ前の欄に書いたのですが たとえば子どもたちに どう教えればよいか 問題になりませんか。とりあえず思い浮かぶのは 現人神にかんして そのとおりに教え と同時に 信仰の領域と社会行為のそれとで 分けて扱うというようなことですが。信仰を明らかにして人に伝えるという表現行為までは自由だが 相手の自由も尊重し しかも共同自治の領域では 信仰から自由にならなければいけないというふうに。

投稿日時 - 2007-06-01 09:17:27

ANo.9

7番です。

やはり解釈を誤解されているようです。

>神である言葉がキリストと呼ばれており 肉はイエスという名の人間です。

上記のように解釈したのが、単性派の考え方です。
当然質問者のように解釈する人は、後々単性派を形成しました。
しかし、そうは解釈しなかった人もいるわけです。
肉体を持ったのは、神のごく一部であり、一部の言葉と肉体が合わさって1つになったものがキリストであるとした人々が、多数派を形成しキリスト教において、三位一体派を形成してゆきます。
つまり、三位一体派においては、キリストは神の一部と人間の肉体が混じった存在であると考えるわけです。
つまり、神そのものではないと。

>この日本風に言ったところの《現人神》の思想を 直接には批判せず たとえば 政教一致を完全に排除するといった形と領域で 対処するということなのか そこのところを伺っています。哲学は 積極的には何も言えないのか 教えて欲しいところです。

現在のキリスト教世界において、単性派は異端とされてはおらず、キリスト教の一教派として認められています。
そのため、キリストは神であるとしても、全く問題無いわけです。
また、キリスト教において、異端とされるモルモン教、統一原理、エホバの証人、クリスチャンサイエンスなども、社会的には、信仰の自由が保障されているため、信ずる事は自由です。
しかし、それは哲学や宗教の問題ではなく、社会学や政治の面での話しです。

政治的なものを、どのようにして哲学的に説明できるのでしょうか?

投稿日時 - 2007-06-01 02:04:29

補足

父なる神は 子なる神を生みたまうた。また父なる神は 人間を生みたまうことが出来る。父は この権能を 子なる神を生むとき 子なる神が 量的・質的な差なくして 持ちたまうように 授けた。父が子を生んだというのであるから 経験的な概念で言っても 父は子を愛したまうた。子を愛したまうたと同じように 人間を愛したまうた。そして父は子に 人間を愛する権能をも 十全に 欠けることなく 授けたまうた。

父が子を生みたまうことと 愛したまうこととには 量的・質的な差異がないと考えられる。言いかえると 生みたまい得る存在ということは 愛したまう存在であることに等しく 父である権能は愛である能力と同じであり この愛は 子である権能にも等しい。

父が子を生みたまうたとき 何らの時間的なへだたりなくして そこに――つまり言いかえると 父から及び子から つまりさらにあるいは 父と子との交わりから――愛が 父や子と同じ存在・同じ力として 発出したまう。

子の父は 父の子を および 両者のまじわりである愛を 人間の世界に 派遣されたと考えられる。子は 人間となって派遣された。つまり みづからを空しくされ 肉となって現われたまうた。それは かれの神性を欠如させてではなく そのまま 父なる神の独り子なる神として現われたまうたと察せられる。言いかえると 第三の愛なる神を発出したまう神として この地上にやって来たまうた。

第二の子なる神が 人間となってやって来る前にも 父と子は 愛つまり言いかえるとこの第三の聖霊なる神を 同じくこの地上に派遣したまうたと考えられる。子なる神がやって来て 人間の言葉でこれらの神のみ心を 告知したのであると。つまり 聖霊は 人間に派遣され 人間の肉に宿りたまうのであると。子なる神は人間となられたが 聖霊なる神は そうはならなかった。聖霊も子も 互いに等しい神であられるが 聖霊が 固有の意味で神の愛として 人間に与えられ人間の内に宿りたまうのであると。

この父と子と聖霊の三位格(ペルソナ)の一体性は 光にたとえられる。光の 光源(父)と発耀(子)とその明るさ・暖かさ(聖霊)の一体性にたとえられると。三位一体とは 各個が各個に等しく 各個が全体に 全体が各個に等しい存在であると。つまり 真実の光なる神は 一つなる本質(存在)でいましたまうが 三つのペルソナを持ちたまう。父とか子とかその交わりである聖霊とか これらの表現は 関係として言われるのである。言いかえると 子の父も 父の子も そして聖霊も それぞれ本質として 聖であり霊であり愛であるということ。

人間は この三位一体なる神に似せて造られた存在であると考えられた。

神は 光であり そのうちに関係として三つのペルソナを持ちたまう一つなる真実の神であると 人間は記憶する。この記憶は 記憶が記憶に帰るとき つまりあるいは 人間がその記憶に尋ねるとき そのようにその内容を知解する。つまり 記憶がこの知解を生む。そして なぜなら 記憶し知解するとき そこに これら言わば父のような記憶と言わば子のような知解とを結び合わせる第三の行為能力である意志を持っており この意志は 人間が神の愛を分有させられてのように 記憶と知解の行為の初めに はたらいたと 記憶され知解される。この人間の 記憶と知解と意志の一体性は 神の三位一体の似像(にすがた)なのであると考えられた。

人間の 記憶は いわば精神の秩序であり 知解(知識)の宝庫である。記憶の宝庫から精神が知解するとき 意志が発出されていると考えられ この意志は人間の持つことが出来る愛である。自己の記憶と知解と意志なる三一性は 他者のこれらの三一性に 同じものであると考えられる。このとき 自己の意志 自己の愛は 他者の愛――他者への自己の愛 および 他者じしんの自己の愛――と同じであると考えられる。

人間は 三位一体の似像なる存在として 人格(ペルソナ)として 一つの本質(存在) 一つの生命である。

――この中で 子なる神が 人間イエスとなる つまりまたは イエスなる人間は〔メシアないしキリストとも呼ばれるようになった〕神であるというのは 哲学や社会常識にとっては 考えうるところから かけ離れています。いわゆる論証・実証し得ないドグマです。これの扱いは どうなるのか 知りたいと思っています。たとえば教科書などは どう扱っているかと思います。(自分で調べなくて いま 発言してしまいましたが)。

投稿日時 - 2007-06-01 06:48:50

ANo.8

仏教では国を治める現人神を転輪聖王といいますがこのようなお方が存在すれば国を治めるのは政教一致が一番いいのでしょう。しかし、そのようなお方はまれにしか姿をあらわしません、そこで孔子は秩序を維持するために序列の大切さを解きました。現代では教育も行き届いているので民主的な合議制あるいは多数決という手法をつかって秩序を守り国を治めています。これは最高の方法ではないがベターな方法であるということですね。しかし、理論的には現人神、転輪聖王、は存在しうると考えられますので政教一致を否定する必要はないように思います。
釈尊は転輪聖王としての《現人神》ではなく仏陀としての《現人神》を選ばれ、ナザレのイエスも救世主として神の権限と権能をもって現れたおかたですから《現人神》といえますね。
神道で《現人神》といわれたお方は天御中主の神でしょうか。神道の司祭の長すべてを《現人神》と称することは政治的な意味で理解はできますが実際はどうかですね。内村鑑三先生はイエス様以外はがんとして認めなかったわけですが。
つまり、本当に神あるいは神近くの霊が宿った人間を《現人神》と称することには常識的に抵抗はないように思えるといいたいだけです。 
論点をはずしているかもしれませんが。

投稿日時 - 2007-05-31 18:43:29

お礼

こんにちは。回答をありがとうございます。

現人神を誤解しています。個人の信仰にとってのそれではなく 社会常識としてのそれが問題であって その場合には 取り違えが起こっています。

現人神がいるとなれば それに仕える人びとが その権威を着て ほかの人びとに対して 何をするか分からないという問題があります。

また 或る人にとっての現人神は 他の人にとっての現人神であるとは限りません。

ですから 社会が全体として 一人の人間をそれに当てると どうなるかです。もし秩序が保たれたとすれば それは 諦めと死んだ振りによってだと思われますが いかがでしょう。

おっしゃっているのは 理想として頭と心の中にある物語のようなものではないでしょうか。

神の霊が宿るというのは ふつうに人間がその霊をいわば分有するということを言っているのではなく 神そのものが全体として人間であるという事態ですよ。つまり 神というのは その存在を 否定もできませんが 肯定も出来ず まったく分からないものなのですから 言うだけなら 誰でも自称できるし 誰かを神としてまつりあげることも簡単にできてしまいます。といったことなのですが。

議論するというのも 合っていないようですが ほかの方の見解も聞いてみたいと思います。

投稿日時 - 2007-05-31 21:49:25

ANo.7

3番です。

質問者の方は、キリスト教における三位一体を理解されていないようですので、その事を学ぶ事をお勧めします。
この三位一体説は、現在のキリスト教の根本的原則論で、これを理解していませんと、キリスト教が全く理解できません。
(キリスト教において、三位一体を否定する教派の人もおりますが、全キリスト教徒の5%程度でしかありません。)

キリスト教においては、「神 = キリスト」ではありません。
神とキリストとは、別であるという事を理解してください。
トリエントの公会議において、「神には崇拝を、三位一体(キリスト)には礼拝を、聖人には崇敬を、聖母マリアには超崇敬を行う」と規定しています。
つまり、キリストは、神の子ではあるが、神そのものではありません。
神と聖母マリアのハーフとして認識されているのです。
よって、質問者のお礼で引用されている部分に関しましても、なんら矛盾も問題点も見当たりません。
(どこにもキリストが神だとは書いてない)

>ちなみに 三位一体説で《決着のついた》とおっしゃるのは どんな内容でしょうか。

451年のカルケドンの公会議で決着がついています。

>人が神であるというのは 科学を超えており しかも 社会にとっての問題でもあるでしょう。ひととおり常識を形作っておくのがよいのでは?

現在の科学では、神の存在も否定もされていません。
何を根拠に、「科学を超えており」といえるのでしょうか?
宗教の世界に、科学を持ち込む事は、誤りであると思っております。

>死ねば神となるという通念が 影響しているでしょうか。

キリスト教において、上記のような概念は存在しません。

>死んだあと 弟子たちが イエスについて神であると言っても 

弟子たちが、イエスが神だと述べた事はありません。
(単性派を除く)

>父と子と聖霊とのうち 子なる神が 肉(要するに 人間)となって この世に来たということではないでしょうか

これも勘違いです。
父なる神と子なるキリストは別人です。
ですから、神へは崇拝、キリストには礼拝を行うのです。

キリスト教に関して、もう少し学習してください。
でないと、またおかしな質問や発言を繰り返す事になります。

>そうではなくこれを 哲学は・もしくは市民の常識は どう扱うかについて 伺っています。

現人神に関しては、政教一致の神聖政治の社会体制において、表れる事があります。
代表的なのが、日本の国家神道であり、インカ帝国です。
これは、皇帝・王権の確立のために言われた考え方で、似た考え方に「王権神授説」があります。
これらの考え方は、民主主義社会においては、否定されています。

投稿日時 - 2007-05-31 12:12:53

補足

ヨハネによる福音の第一章をよく読んでください。

《言葉は神であった》その《言葉が肉となって 世に来た》のです。この肉つまり人が キリスト・イエスです。神である言葉がキリストと呼ばれており 肉はイエスという名の人間です。

ウィキペディアでは 

《カルケドン公会議において・・・両性説といわれる説を採用した。それはキリストの人性は神性に吸収されてしまったのではなく、その二つの本性を、混合することも分かれることもなく、唯一の位格の中に有するという思想である》

と解説しています。

或るプロテスタントのウェブサイトでは同じくカルケドン信条について

「われらの主イエス・キリストは、唯一同じなる御子であって、神性においても完全であり、また人性においても完全である。まことの神にして、同時に理性を有する霊魂と肉体から成るまことの人間である。神性においては父と同質であり、人性においてはわれらと同質にして、罪を除くすべてにおいてわれらと等しい」。

と解説しています。むろん いづれも 三位一体の内容として 子なる神(《言葉》)のことを明らかにしたものです。

この日本風に言ったところの《現人神》の思想を 直接には批判せず たとえば 政教一致を完全に排除するといった形と領域で 対処するということなのか そこのところを伺っています。哲学は 積極的には何も言えないのか 教えて欲しいところです。

信教・良心の自由のほかにも 表現の自由があって この〔ニュアンスがよくないかもしれませんが〕現人神の思想を 表明することも 自由だと思います。それと同じように この表明された言説について 自由に批評・批判するのも 自由だと考えられます。基本的な哲学としての見解を 明らかにすることも大事だと思いました。

投稿日時 - 2007-05-31 13:55:18

ANo.6

日本の天皇も現人神でしたよね。

この前まで、日本国民にそう信じられていました。
マッカーサーは昭和天皇に会ったわけですが、昭和天皇と会見する前までは、信じていなかったらしく、リサックスしたスタイルで写真を撮ったようです。

しかし、アメリカに戻った後言ったか書いた本の中では、「私は神に会った」だったそうです。

リラックスした撮影の後、昭和天皇とどのような会話をしたのでしょうね。

昭和天皇が人間宣言された後のマッカーサーの言葉ですから、なおさら意味深です。


人間宣言されるまで、国民は天皇は神だと信じていたわけです。
神だと信じるまではないまでも、雲の上の存在で、人々からすると、とても遠い存在で、まるで太陽や月や星のような存在だったと思います。


昭和天皇は、「自分は殺されてもいいから、国民には手を出さないでくれ」と言ったそうです。

「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・・。」

戦争が起こった原因は軍の暴走だそうですが、天皇はその暴走を止めることができなかったそうです。
天皇たるものでも軍の勢いを止めることができなかった。
人間の暴走をどうにもできなかった。

止められなかった原因は自分にあるとして、殺されてもかわまわいが、国民には責任は無い と一人で罪を背負って崩御しようとしたわけです。


何百年かあとに、昭和天皇は神の子だった、となるのでしょうか。

私の中では昭和天皇は神だったと思います。


戦争責任をアジア諸国から凶弾され、たまごを投げつけられ、やじられながらも訪問する。

自殺せずに全てを引き受けるために行き続けた方です。

今まで責任者が責任をとって自害するというのが潔い氏で美しいとされてきた日本において、自害せず、全てを引き受けようと生き続けた。

あの当時の価値観からすると、普通の人は耐えられないほどのものだったと思いますが、昭和天皇は耐え抜きました。


あっさり死ぬより、生きて国民と一緒に耐える。
すばらしい考えです。


イエスも現人神とされています。
私は実在の人物なのか架空のギリシャ哲学、ローマ神話と混同された架空の物語なのか、はたまた、ゼロテ党のリーダーの一人で実際の人物を下地にして脚色されたのか、調べきっていません。

もっと詳しい学者がいるので、私ごときが調べられる程度は、もうとっくに学者で調べが済んでいると思います。

ソロモンもそうですが、イエスに関しても、ローマの歴史資料にはその名が記されていない。
ピラートスは記録があるのに、これほど有名になった人物の記録がローマにもどこの歴史の資料にも無い。
ソロモンもあれほどの栄華を誇ったにもかかわらず、その周辺地域の歴史の資料にそれらしき人物として記録が残っていない。


不思議なことです。

日本の昭和天皇は、実在の人物です。
昭和天皇は現人神だという信仰があって、実在の人物だったのか と外国の人に言われたら、「はい 実在したこの世に現れた神でした」と私は答えるでしょう。



イエスは答えられません。

それは2千年の開きがあるから、だけではない。
実在を示すちゃんとした証拠が無いからです。

福音書は4つですが、それぞれ内容に違いがあります。
3つは似ていますが、他のを参考に他の地域で書き直されたもので、その地域地域によって概念が違っていたので、それがそれぞれの福音書に反映してしまっていると思えます。

ヨハネの福音書。
これはヘレニズムの文化の濃い地域で書かれた可能性が高い。
何故なら、その概念があるからです。
ユダヤ教に無い概念が混入しているからです。


一つ私が知っているのは、イエスは70歳以上生きたという記録が、教会の歴史の資料に残っていた ということです。
現在その資料があるのか、あるとしたらどこにあるのか知りません。

また、使徒ヨハネの弟子も70歳を超えた生きたイエスにどこそこで会ったと証言していたらしいです。

ですが、聖書が編纂される前に膨大な2千を超えるイエスに関する書物があったにもかかわらず、熟年期・老年期のイエスの活躍を示す資料がどこにもない。

といっても、教会が焚書扱いにした書物が多数あり、トマスの福音書やマリアの福音書、ユダの福音書など、教会が焚書したはずの書物が出てきており、存在しているが発見されないだけかもしれませんが。
それとも、教会が都合が悪いから、磔刑後も活躍したイエスの資料を全部消滅させたのかもしれませんが。


イエスの教えとはなんだったのか。
実は誰も知らない。

人々は何をもって聖書の言葉がイエスが語った言葉だと信じているのか。
聖書を編纂する時、どの順序で並べるか決めたらしいです。
全く別なエピソードの一文を、別な章に混入させてしまうケースも人間ですからあったでしょう。
するとその章が全く別な意味に変わってしまう。

山上の教訓にも、三人称から突然二人称に変わっている部分があるそうで、恐らく山上の教訓ではない箇所を、そこに入れてしまったため、そういう話になってしまったのだと言われています。


イエスは一体どんな人物だったのか。
昭和天皇のような存在なら、現人神だったと言えるでしょう。
しかし、実際のイエス像がわからない以上、実在した現人神だったとは断定できない。
何故ならどういう人だったのか、誰も知らないからです。
実際はどういう人だったのかわからないのであれば、判断のしようがない。
実際が無いからです。

では実際が無いのに、神だった と言うのは問題か?
法律上は違法ではないです。
ただし、実際は違うのにそうだといって金品を騙し取った場合は、詐欺として告発されます。

ここが難しいところで、被害者が存在しないと、裁くことはできない。

自分は神だという人を信じて何千万と寄付をした人が、後に疑いを持ち、裁判を起こして寄付の返済を迫るというのは、日本でよくあるケースです。

実在する人物を相手に裁判を起こすわけですから、宗教の自由を認めている日本においても、それが巧みに寄付を誘導された結果であると認められたら、返還するように命令を下せます。
所詮、その自分は神だという人も、日本の法律の下に生かされているのだから。

「我は神なり 日本の法律は及ばない」と言ったところで、財産差押えなどの処分が下され、抵抗しても駄目です。
「どろぼー 勝手にもっていくな」と言うと、「どろぼーはどっちだ」となりますし。


というわけで、今回法律に関して、イエスが神であることが、法律に抵触するかというと、しません。

ですが、寄付しないと天国に行けないと言ったり、セックスをしないと罪が消えないと言ったりなどして、逃げがたいように、判断力を失わせるような誘導をして、目的を達成した場合は、日本の法律に触れますので、そういうことは言ってはならない と法律で制限を課します。


一番問題なのは、信者が疑う権利を奪うことだと思います。
疑いをもったら地獄に落ちるかのような印象がある。
疑うことに問題は無い。
疑わず盲信しようとしてできないが、疑えないで苦しむことに苦悩がある。
疑惑を徹底的に排除しないと、納得に至れない問題なら、徹底的に疑い疑惑を消去できるものは消去して、疑惑をなるだけ少なくし、確信を持つに至るようにするべきだと思います。


哲学は疑うことからスタートしますし、ねむりこくっている怠け者にこそ、針でつついて眠りから覚まして現実に帰っていただくわけです。


現在の哲学は、既存に決定されたことが、本当にそうなのかと吟味し、修正することで成り立っている。

キリスト教はギリシャ哲学で成り立っていますが、その哲学が一番の強敵なんですね。


しかしギリシャ語は抽象概念に満ちているので、どれだけでも問うことが可能だそうです。
従って終わりは無い。

というわけで、エンドレスになりそうな気が・・・・。

投稿日時 - 2007-05-31 06:17:22

お礼

回答をありがとうございます。
イエスと同時代のユダヤ人であるフラウィウス・ヨセフスに《ユダヤ戦記》があり これは いわゆる客観的な歴史書として 評価されています。イエスは 実在の人物だとされています。

もっとも 実在の人物でなくとも 歴史上の人物であるとした上で その人が神であるというとき その言説に対して 人は・あるいは社会は どう判断しておくべきかを尋ねています。 

昭和天皇が 現人神であるというのは 個人の信仰ですから それは問題にしません。そうではなくこれを 哲学は・もしくは市民の常識は どう扱うかについて 伺っています。

歴史上の人物だということが あくまでも死後であるという条件のもとに捉えられると もう問題にならないというようなことでしょうか。みなさんの回答を読むと そういう要素もあるように伺えます。

投稿日時 - 2007-05-31 06:58:36

ANo.5

私も、質問の意味が良く分かりませんが、全体を理解しての意見として。

 >《イエスなる人は神なるキリストである》はゆるされるのですか。
 解釈:『人間イエスは神なるキリストと同じ』は正しいのか? との質問と思いました。この考え方は、ご存知だと思いますがキリスト教の教義です。一般的に理解することは難しいと思います。例えば、福音書と呼ばれる箇所(マタイ、マルコ、ルカなど)では、イエス・キリストの受胎(妊娠)を乙女(処女)マリアが聖霊により身ごもったとされています。普通の人間は、一般に性交なしで妊娠しません。ですから、イエスは人間と同じように女性から誕生したけれども、神の子と呼ばれます。最近、両性(男女?)と呼ばれるような分類をする事もあるようですが。
 イエス・キリストは 神であり人間でもあるといった理解です。

 先日、自称キリストと言う方が居られました。自称は、他者の意向はあまり関係ないという理解になります。2000年という歴史は、個人の人生から見るとかなり大きいと思いますよ。仏教で、お釈迦様が悟りになられた。それを弟子達に伝授する。布教する。そこに、多くの人が共通に理解できる思想や哲学が必要であったと思います。また、理解をするには、弟子、修行などのステップが必要だったと思います。算数、数学、微積分、応用などのステップや更なる専門の学びがあるように、算数からいきなり微積分は無理かと思いますが?

 結論:許すとか許さぬと違い。月の表を見て話すか、裏を見て話しているか、両方旨く説明せずに話しているか。その方の視点とか、考え方で違うと思います。それでも、不思議と、子供も大人も納得できるベースがあると思います。だから、完全な否定は出来ない。それも、経験主義になり得るのでは?

 

投稿日時 - 2007-05-30 23:19:52

補足

死ねば神となるという通念が 影響しているでしょうか。

死んだあと 弟子たちが イエスについて神であると言っても 抵抗感はなくなっているということでしょうか。

処女懐胎については それほど問題にせずともよいでしょう。すでに あるいは ただちに 明確になったということでなくとも 科学の視点で捉えていけばよいでしょうから。

人が神であるというのは 科学を超えており しかも 社会にとっての問題でもあるでしょう。ひととおり常識を形作っておくのがよいのでは?

投稿日時 - 2007-05-31 05:50:43

お礼

回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2007-05-30 23:36:50

ANo.4

4世紀に決着のついた三位一体説で問題あるのでしょうか?
カソリック、プロテスタント、東方教会のいずれにおいても、言葉の表しかたの違いは別として、同じ考えで統一されています。
キリスト教の教義であるともいえます。
(エホバやモルモン教などの新興宗教は別としてますね。)

父と子と精霊は、実態としては同一です。
創り救い導くの3つの役割(位格)の実態は1つであるとするのが、三位一体です。

哲学や信者の市民の常識ではなく、科学的見地から考えた場合には矛盾点があるかもしれませんが、宗教の教義を科学的に分析しても結果は出ないのであまり意味がありませんね(^^;

投稿日時 - 2007-05-30 20:21:41

お礼

回答をありがとうございます。
ANo.2のかたと同じように 《放っておく》になるでしょうか。

ちなみに 三位一体説で《決着のついた》とおっしゃるのは どんな内容でしょうか。

父と子と聖霊とのうち 子なる神が 肉(要するに 人間)となって この世に来たということではないでしょうか。(ヨハネ冒頭=つまり ANo.1へのわたしの応答を参照してくださいますか)。

投稿日時 - 2007-05-30 20:53:40

ANo.3

質問の意味が理解できません。
>要するに《》と言っています。

こんな事は、どこで言われているのでしょうか?
キリストが、何者であるかは、古来キリスト教世界で議論になってきました。
基本的には、「キリストは人間であり神ではない」というネストリウス派、「キリストは神の一部であり人間ではない」とする単性派、「キリストは、神と人間の中間的存在であり聖霊の役割をもった存在である」とするカルケドン派(三位一体派)があります。
しかし、歴史的に「現人神なり」と言っている教派は聞いたことがありません。
三位一体を説く教派(キリスト教のほとんどの教派)においても、キリストは神とは別であるとの認識でいます。
よって質問の、
>哲学あるいは市民の常識からは どう扱うのでしょう。経験合理性には明らかに反しています。あいまいにし 放っておくのでしょうか。一定の見解を明らかにしないでしょうか。

は、世間一般では、全く問題にならない事になります。

投稿日時 - 2007-05-30 19:52:43

お礼

回答をありがとうございます。
《現人神》という表現を出したのは 適切ではなかったでしょうか。

ANo.1のお礼欄にも書きましたが たとえば同じく《ヨハネによる福音》では 例の《サマリアの女との会話》でイエスは こう述べたとあります。

《かのじょは言った。
――わたしは キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。そのかたが来られるとき わたしたちにいっさいのことを知らせてくださいます。
するとイエスは
――あなたと話をしているこのわたしが そのメシアだ。
と言った。》(ヨハネ4:25-26)

メシアは もともとは 人間を称して言ったのだと思いますが ここでは キリストとして 神のことではないでしょうか。

投稿日時 - 2007-05-30 20:45:35

ANo.2

とりあえず、ほうっておきます。
・直接会ったことがないので真実がわからない。
・誰も直接会えないので見解を明らかにしないでも大きな問題に直面しない。
・人に押しつけない限り大きな問題にならない。
もっとも、哲学の種類によっては見解を明らかにしていると思います。

投稿日時 - 2007-05-30 19:09:24

お礼

回答をありがとうございます。

いわゆる宣教の時代は 終わったと思われます。むしろ そのゆえでしょうか。秀吉なり徳川幕府は それとして対処したわけですが。今となっては 大勢に影響はないということでしょうか。

見解を明らかにしている哲学があるわけですね。

投稿日時 - 2007-05-30 20:36:59

ANo.1

tbx

原典もそう書かれてるのかな?
なんか意訳まざってそう

投稿日時 - 2007-05-30 18:49:13

お礼

回答をありがとうございます。
たとえば《ヨハネによる福音》冒頭第一章では こうあります。

《初めに言葉があった。・・・言葉は神であった。・・・そして言葉は肉体となり わたしたちに内に宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって めぐみとまこととに満ちていた。・・・めぐみとまこととは イエス・キリストをとおしてきたのである。・・・》

いかがでしょう。

投稿日時 - 2007-05-30 20:31:50

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