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解決済みの質問

なぜ神はイエスをこの世に送ったのか

キリスト教に関する質問です。

神は全ての人々の罪を背負わせるために、一人息子のイエスを地上に送った、それほど人類を愛していた、とのことですが、その意図がわかりません。

なぜ人々が罪深いからといって誰かが犠牲にならなければいけないのでしょうか?

人類を創ったのは神です。親が子供たちの過ちの責任を、長男もしくは一番かわいいと思っている子供に負わせているかのように思えます。(キリスト教によると、人類は神の子ですよね?イエスの兄弟ですか?)
俺たちが悪いことをしたのに、何もしてない兄さんが警察に名乗り出てくれたよ。罪悪感感じるけど俺たちは罰を受けなかったし兄さんに感謝感謝、って感じですか?しかもそれを親(=神)がやらせたんですよね?
そもそも誰かを身代わりにしたら許される、その身代わりになってくれた人を敬う、という発想がよくわかりません。

なんでこんなに理解しがたいことが、世界中の人が信じている宗教の根本なんだろう?とものすごく疑問に思っています。

投稿日時 - 2007-06-18 00:04:48

QNo.3093850

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

>人類を創ったのは神です。親が子供たちの過ちの責任を、長男もしくは一番かわいいと思っている子供に負わせているかのように思えます

これはあなたの言うとおりでしょう。これが神の愛かな?

>そもそも誰かを身代わりにしたら許される、その身代わりになってくれた人を敬う、という発想がよくわかりません

身代わりなんだけど したら許されるという物ではない。
発想ではなく信仰によって考えるという事でしょうね。

これを信仰によって信じる事が出来るなら救われると聖書に書いていますね

投稿日時 - 2007-06-18 23:57:01

お礼

そうですか。ちょっとがっかりですが納得はできます。
もっとも愛するもの(イエス)にこそ難しい要求を、なんですかね。
外から考えていると矛盾ばかりが目に付いてしまいます。やはり信仰が先ですか。
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2007-06-19 21:20:37

ANo.9

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回答(25)

質問者さんは、既にご覧でないかもしれませんが以下回答です。
>なんでこんなに理解しがたいことが、世界中の人が信じている宗教の根本なんだろう?
契約を重んじる文化圏の人であれば理解しやすい理論だからです。
彼らの考えは以下のような流れです。
1)神がイスラエル人に対して『律法(掟、十戒など)を守れば救われる。守らない場合滅ぶ』と契約を結んだ。
2)しかし、その契約は人間側が履行しなかった。(=このままでは人は滅んでしまう)
3)でも、神は人間を救いたいと思った。
4)しかし、1)の契約が履行されないまま契約を廃棄する(無かった事にする)事は秩序を無にする行為である。
5)そこで全人類の身代わりとして神の子であるキリストが十字架で刑死を遂げ、1)の契約を全うした。
6)全うされた1)の契約の替わりに、「5)の内容を信じる者は救われる」という新しい契約が結ばれた。
1)が古い契約(=旧約)、6)が新しい契約(=新約)です。6)の契約に従おうとする者がキリスト教徒です。

3)と4)は少し補足説明が必要かと思われます、何故なら我々日本人は契約に鷹揚(悪く言えば無頓着)だからです。
日本では徳政令や棄捐令のように、時の為政者が金銭貸借契約を一方的に破棄する政策が幾度も行われています。
(現代でも日本は「公約」を守る気もない政治家と、守らせようとしない国民から構成されています)
他の多くの文化圏では契約は絶対で、一度交わされた契約は守るべき物として全てに優先します。
日本人は「神様がルール決めたんでしょ?だったらそのルールを神様が変えたって良いじゃん」と考えますが、契約重視の社会では「神様が自ら定めたルールだからこそ、たとえ神様でも勝手に変えたり破ったりしてはいけない」と考えます。
(勝手に契約を無かった事にするのは契約社会その物を根本から揺るがす行為ですから、決して許されない行為なのです)
以上の理由から(日本人である質問者さんが疑問に思うのも無理は無いのですが)世界の色々な地域や国で受け入れられる理論なのです。

さて失礼かとは存じますが、明らかな誤りを他の方が信じるといけませんので・・・以下はオマケです
No21>当時のギリシャ語には英語に相当するhis(男性+所有格)という語が無かった。
No21>神の子、人の子、○○の子表す言葉など無かった。
「当時」が何世紀を指すか分かりませんが少なくとも、ホメロスの時代(紀元前8世紀)にすら男性+所有格(ギリシャ語では属格)はありました。
有名な「イーリアス」の冒頭には「怒りを歌え、女神よ。ペーレウスの子アキレウスの怒りは・・・」と書いてあります。

No21>それで古いギリシャ語の新約聖書には イエスを○○(男性詞)の子 など書かれてはいないそうです。
例えば、ギリシャ語で書かれている70人訳新約聖書の冒頭、「マタイによる福音書」の第一ページの一行目は
「アブラハムの(息)子、ダビデの(息)子であるイエス・キリストの系図」と書いてあります。
ギリシャ語は名詞に性があるので「~の子△△(人名)」とあれば、△△が男性名詞なら自動的に「~の息子」だと、ギリシャ語をわずかでも知っている人なら読み取れるのです。

議論にならないように事実のみ記します。

投稿日時 - 2007-07-04 19:13:01

お礼

後半に回答をくださった皆様、どうもありがとうございました。
全て興味深く拝見させていただきましたが、こちらに代表してお礼を書かせていただきます。
いろいろな意見を伺うことができて本当に参考になりました。
まず最初にキリスト教を信じない限り、私の疑問は納得できる形では解決しないのかな?と思いました。

投稿日時 - 2007-08-19 20:09:59

ANo.24

No.21です。 何度もすいません。


前回と重複する箇所もあると思いますが。

>イエスによる罪の許しなどないとのお考えでしょうか。

新約聖書は多くの言い伝えをある特定の人が編纂して作りました。
どれを正当とみるか、ニセモノとして退けるかは、その作った人たちの判断にゆだねられた。

というより作って他を異端として迫害して、暴力で勝ったのでこれが聖典となっただけ。
正しかったから彼らが選んだ書物が聖書になったのではなく、力技でやった。

その暴力で無理やり正当化して聖書を、今日の人たちは真実だと信じているわけです。



イエスがもしいたとして、「どれがイエスの言葉であるかを知るには、その当時のユダヤ教の風習や思想、キリスト教の正統派を自称するものたちがニセモノと退けたもの、異端としたもの、ユダヤ教のタルムードやラビ文学など、それにユダヤ書(旧約聖書)にあるかないか、で判断したほうがいい。」と誰か言っていました。


新約聖書の編纂において、いくつもの書を、一つの書にまとめたわけですが、章一つを作るにしても、どれがどの文の前にっくりか、後に来るか、編纂者は悩んだと思います。

章内だけならいいですが、別のところに本来あったと思えるものまで、混入させてしまっている。


山上の説教。
これにおいてもある箇所が文の途中で二人称から3人称(逆だったかもしれません)に変わっていることから、その部分に来る文章では本来別の場所に書かれたものだといわれています。

別の場所に書かれた文章が、編纂中に別の場所に混入したため、文全体の言いたいことが変わってしまった。

入信のきっかけは山上の説教を知ったからという人が多い。

「本来は別の意味だっただろうけど、今の聖書の方が感動的で心を打つから 改造されイエスが言った本来の意味を伝えていなくてもかまわない」と言うまえに、どうして元の意味を知りたいと思わないのか と私はちょっと不思議に思います。

信者でもない私ですら、本来のヘブライ語での意味は?と調べたのですから。
ましてや信者ともなれば、当然興味を持つだろうと思うのですが。


で、イエスの裁判においてピラトは、イエスに罪は無いとした、とあったと思いますが、史実のピラトは疑わしいものは裁判無しに処刑する人物で、イエスの時だけ裁判をして知りもしない相手に温情をかけるなど考えられない。

そして夜裁判が行われたとなっているが、当時は夜裁判は開いてはいけなかった。

鞭打ちその後槍で刺すというくだりは異教の生贄の儀式のやり方。

ユダヤ教ではそんな贖罪の儀式などないし、大贖罪として神に捧げられる動物は特別な動物で(羊ではない)、しかも傷一つ無いものでなければならなかった。


イエスの磔刑の場面は、ユダヤ教を知らないものが、創作した部分である疑いがかなり強い。


当時のギリシャ語には英語に相当するhis(男性+所有格)という語が無かった。
神の子、人の子、○○の子表す言葉など無かった。
ヘブライ語においてはベンが息子を指し、ベン・エッサイとなれば、エッサイの息子、またはエッサイの子孫という具合にそれを示す語はあった。

それで古いギリシャ語の新約聖書には イエスを○○(男性詞)の子 など書かれてはいないそうです。


古代はイエスは神だとは思われていなかった。
後世の人が会議でそうした方が有利だとして決めた。
そしてそれ以降 一切イエスが神だったかどうかを議論してはならないと決定した。



どれが真実でどれが虚構なのか今更わからないですが、さきほども述べたように古代のユダヤの慣習、文学、思想を手がかりにすれば、作家の言いたかったことが見えてくるように思います。


申命記だったと思いますが、罪を犯した当事者のみが裁かれ罰を受けるのであって、それ以外のものが身代わりになってはならない と厳しく書かれています。

母親を尊敬しこそすれ、「自分になんの関係があろうか 女よ」 などそういう軽薄な態度をしてはならない と申命記だったと思いますが書かれています。
従ってイエスが母親に向かって「私とあなたがどんな関係があるっていうのか 婦人よ」とユダヤ教知っていたら作者は書くはずがない。

これも誤訳か 後世の加筆だと思います。


マリアが結婚式の席で「酒が無くなった」とイエスに言った。
これは新郎か新郎の母親が酒の手配をするという慣習があったことから、イエスの結婚式だったことになってしまう。


キリスト教会はそれを知ったら愕然として、説教内容を変えなければならないことになってしまう。

女性蔑視が強いキリスト教ですから、女性を蔑ませるために後世の人が工作した可能性が高い。
特に聖書を編纂するにあたって、女を悪魔と思っていた人が編纂にあったったことから、こっそりこのエピソードを作って挿入したのは編纂者の可能性もある。

イエスの実像は虚飾され、イエスが言ってないことまで、言ったように工作されているようですが、ではこれはイエスが言ったことか?

「私は受けねばならないバプティスマがある」

イエスが進んで人間の身代わりになり贖罪により罪を消そうとしたと思われているようですが、誤訳のようです。

イエスが受けるのではなく、イエスが火のバブティスマにより裁く というのが本来のヘブライ語に添った意味。

火は罪を浄化するという概念がありますから、そこから火くぐり、樋渡の風習がオリエントにあって、日本にもそれが伝わってきた。

つまりイエスは殺しにやてきた というのではなく、ユダヤ教の厳しい律法を火として、その火に触れ(理解することで)ることで神の元から離れた放蕩息子たちに帰還になるチャンスを与えているという描写だと思うんですね。

にもかかわらず、律法を否定したたステファノは死刑
つまり永久追放処分。破門です。

これはクムラン宗団のやりかた。 破門者を殺してはないない。
信仰心がなくなったので、死人とみなされたわけです。
そして死人も復活のチャンスはあったのかもしれない。

イエスの描写がそれです。
だから、イエスの死と再生がクライマックスではなく、本来はもっと前に書かれていたものだったのではないかと。
放蕩息子として。

確か申命記に放蕩息子に関する扱いもかかれていたような。


パリサイ派は厳格な律法主義者だったのか といえば、死海文書からママドトたちは彼らを、口だけは厳しい律法主義だが、実践はできていなかったことから、滑らかなる者 という隠語を使って表現していたようです。

だから「滑らかなるもの(柔軟なもの、律法をあまり重要視していないもの)は幸いだ」といわれ喜んではいけない。
冷笑されているのだから。


イエスは何故両替商の台をひっくりかえしたのか。
生贄を捧げにやってきた人は、そこで神殿硬貨に変えて、生贄の動物を買っていたわけです。
ところが、実際は動物は生贄に捧げられず、両替商(恐らくサドカイ派)が動物を次の巡礼者に再度売っていた。


聖書からここいらあたりのイエスは厳格な律法主義者だったことが伺えるので、生贄に捧げないで金を懐に納めるという神を愚弄する行為に激怒した という解釈が正しいように思います。


サンヘドリンもサドカイ派もヘロデ系で、大祭司は純粋なレビ人ではない者がついていた時代。
ヘロデは自分の言うことを聞かない祭祀を殺していた。
言うことを聞く犬には自分の親族と結婚させ、血縁関係を築き、政治だけではなく宗教も手の内に入れていた。

律法を軽視したものが神殿を占拠しており、信仰は拠点である神殿から腐敗していた時代です。


神殿の収入である神殿税を取る台をひっくりかえして殴り込みをかけてきた男に対し、ヘロデ系は危険を感じないはずがありません。

ただちにローマへの反逆として(ローマに神殿税でたまった金を渡していたのにそれをひっくりかえして否定したのがイエス。)ピラトに処刑させたかもしれない。


イエスという男がいたかどうかわかりませんが、行動からするとゼロテ党員の一人が物語の実際のモデルだった可能性があると私は思えました。


ユダにしても裏切り者だとされていますが、ヘブライ語には少なくとも一つの単語に複数の意味があり、裏切り者の他に、、、なんだったか忘れましたが、逆のいいニュアンスの意味もあるのだとか。


ユダが金貨を返したという意味も、賄賂を返したという話ではなく、神のものは神に返す 持ち主のものは持ち主に返す というニュアンスの記述なのだとか。


もう一つ、、、 <盲目の人を癒した。>
直訳すればそうですが、ヘブライ語では<目がいい>というのは視力が優れているという意味じゃあない。
<気前がいい>という意味。
<目が悪い>はケチという意味。
<盲目>という表現なら「ドケチ」でしょうか。


共同財産の概念を作り上げ規定としたのが、エッセネ派の一つの分派と思えるクムラン宗団。
入会者は財産を共同金庫(底なしの穴=二度と持ち主には戻ってこない)に納めていた。
ただし、個人でも財産を所有してよかった。
目が悪いと言われる人は、ちょっとしか提供しなかったということですね。

しかし入会して理解を深めると財産に関する執着がなくなり、目が治った と。
在家信者ではなくなり財産をほとんど寄付して、クムランに住み着いたのであないかと思えます。


ピラトはローマ史に名を残しているから実在の人物。
ヘロデも実在の人物ですが、ヘロデは人口調査をやっていない。
やったのはそのずっと前の時代の人で、しかも別の国がユダヤを統治していた時代の統治者が命令したこと。


ヨセフたちがヘロデ王の幼児殺しを逃れるため とあるが、さんざんヘロデの悪口を書いたヨセフスの記録にも一切その件は出てこないことから、これも後世の創作の可能性ばかりか、イエス実在までも揺るがす虚偽になってしまった。


キリスト教の古代の資料で、イエスの後継者に任命されたとされる義人ヤコブ。
聖書ではなくヨセフスの記述から確かに熱狂的な歓迎を受けたヤコブは、その時代いたようです。
でも、イエスに関することは聖書関係しかない。


想像するに、やはりいくつもの違う時代のエピソードや他人のできごとが書かれた資料が残っていて、それが後にQ資料(想定)となり、それを元にさらに創作が加えられ福音書の元になるものができあがり、その文書をさらに、人の思想や希望の見地から並べ替えられ、あっちとこっちの文書をつぎはぎしてできたのが、今日に伝わる聖書になったのであないかと。


いくつもの別々の話が、たった一人のエピソードとして統合されてしまった。
と私は思うんですね。


聖書には罪はその人本人のみで完了するものであると書かれており、他のものが肩代わりをして罪を担ってはならないと書かれている。

もちろん神を偶像化し、その人間が作った産物を神として拝んでもならないと書かれている。


キリスト教徒に言わせると、イエスが十字架に磔になったデザインの十字架や、身代わりに処刑されたことを示す十字架は、神の偶像化ではないと主張します。

が、どう見ても偶像化して拝んでいるにしか見えない。


そしてイエスは人間ではなく神であり、神が人間を愛していたから身代わりになった というとんでもない話までできあがってしまった。


旧約の話を知っていれば、聖書とは逆のことを作家が書くはずがない。

神は間違えたものを作ってしまったと、人類を滅ぼそうと洪水を起こしたとある。

ただ、ノア一族は、災いを免れる結果となった。
該当しないから、神といえども該当しないものは滅ぼせない。
という内容。
該当しないものも滅んだら、万物の法則のない混沌とした無秩序の世界になってしまう。

過ぎ越しの祭りの起源。
これも該当しないものは滅んでいない。

神は該当しないものは慈悲などかけずとっとと滅ぼすという概念をユダヤ人はもっていたわけです。

だけど、イエスの時代だけ神は温情をかけたのか?
イエスの時だけピラトは温情をかけたのか?

ノー。 
神は無秩序ではなく、普遍であり、コロコロその時の気分で決断を変えるなんてことはしないものでなければ。


罪が無いものが滅んで、罪のあるものを助けることもある なんてことを普遍の概念を持つ神がするとなったら、そりゃあ もう なんでもありで混沌とした世界です。

人間は間違うが、神まで(万物の法則)誤ってしまっては無秩序。
カオスの世界です。


ということに気づけないと、「神は今までさんざん人間を滅ぼしたが
この時だけ突如寛容になり、自分を捧げ、人間の変わりに罪を背負った」なんて思考になってしまうのかもしれません。


「どうせ神様だから、殺してまた生き返るから殺していい」とか、「人に冤罪を着せ殺しても、いい人だったら天国にいくんだから、殺してもいいの 自分は地獄に落ちてもかわまわにしさ」とか、「ユダヤ人が神を殺したから神を殺したユダヤ人を絶滅しろ」という考えを誘発する結果にすらなってしまう。

命の尊さを軽くみてしまうからこうなる。

キリスト教の歴史は命を軽んじた結果引き起こした惨事づくしですよね。

口では「命は貴重です」といいながら、実際は逆。


何故、聖書に他人の罪を肩代わりして身代わりに裁かれてはならないと書かれたのか。
どうして規定になったのか。
未然に惨事を防ごうとした神のはからいを預言者を通して神が人間に与えた とせず、神の言葉を軽んじて信じず、改造してしまった結果 どうなったか。


律法の一字一句 ヘブライ語の律法は、この世の終わりまで変わることはなく滅ぶことはない。

逆に他の言語に書き換え、しかも旧約を否定し、律法を否定し、、内容を書き換え、神を自分達で作ってしまい それを信仰の対象としてしまったら。

歴史の通りです。

ユダヤ教のセクトが招いた悲劇が根源ですが、信仰をなくしてしまったため、隣人を殺すことになる新しい宗教を作ってしまったわけですよね。


というわけで、旧約の存在の重要性、律法の重要性をユダヤ人がどうしてあそこまで言っているのか理解できるように思います。

異教徒のみならず隣人まで殺してしまうから。

10戒はユダヤ人に対して神が告げたことになっています。
つまり隣人とは同じユダヤ人のこと。

「異教徒の町にいかず むしろ失われた神の民である羊の元にいけ」

私の推測ではこの失われた民 隣人とは他の10支族のことだと思うんですね。
どうしてそのように作家がイエスに言わせたか、わかったような気がします。


「サマリアの町に入ってはなならい」は後世の加筆の疑いがありますし、ローマ帝国が占拠していたので、サマリアは異教徒の町になってしまっているから異教徒と交わってはならない という意味かもしれません。

異教徒に交わると、異教の生贄の儀式が混入し、バビロニアの再生するために殺されるタンムズの概念が混入されてしまう。

異教の神の誕生日である12月25日がイエスの誕生日だと制定され、異教の日曜が安息日に変わってしまい、異教の言語に置き換えられ、本来の意味を伝えない物語を、真実だと思ってしまう危険が出て、隣人を殺す結果にもなってしまった。

だから異教徒に交わってはならない は予防線だったわけで、踏み越えてはならない重大な根拠がちゃんとあることになります。

投稿日時 - 2007-07-02 01:34:09

ANo.23

peetさんのご質問、とても興味深く読ませていただき、考えさせられました。

zeroforeさんがおっしゃるように「視座をかえる」というお話は、全くその通りであろうと思いました。

peetさんによれば「神はなぜ?」という問いです。
これは「神を理解しようとすること」であろうと思います。
もし人間が神を理解できた、もしくは理解できていたのなら、人間がこんなに神について悩む必要はなかったでしょう。

神と人間。
聖書によれば、神と人間は深い関わりの中にあったにもかかわらず、その関係を崩してきてしまったといいます。
ですから、人間は神の意図、神の思い、神の神であることさえ分からなくなってしまっている、ということのようです。

ですから「神はなぜ?」という問いは、人間が答えることはできないと言えると思います。

聖書はイエスを神の子として表しています。
日本の有名なクリスチャンの一人である内村鑑三という人は聖書について「聖書はイエス・キリストのことが書いてある。だからイエス・キリストを信ぜずして読んでも分からない」といいました。

なるほど、と思いました。

多くの場合、それはキリスト教徒と称している人の多く、ということですが、彼らは聖書から人間としての生き方を学ぼうとします。
「隣人を愛せ」と言われればその通りに、「平和を作り出すものは幸い」といわれば、どうすれば平和を作ることができるのか、一生懸命考えるのです。

これがいわゆる一般的なキリスト教信者でありましょう。

しかしキリスト信者となるとちょっと違います。
キリスト信者は「神はその独り子をお与えになったほどにこの世を愛された。それはみ子を信じるものが一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」という言葉をもって、イエス・キリストは神の子救い主であると受け入れ、自分の救いの根拠であると受け入れて、キリストを神として拝むのです。

それはなぜかと言いますと、やはり人間の「罪」ということです。

最近もやたらに事件や事故が報道され、この社会では相当地位のある人と思われるような人でも犯罪に手を染める世の中です。
どなたかもおっしゃるように、キリスト教国と言われるところでも犯罪は蔓延しています。

人は、何かに律されていたとしても、違った環境、律されていない環境の中ではいつでも同じ状況になるということの現れです。

戦争がそうですよね。
今考えれば空恐ろしいことも、そこでは普通になってしまう。

最近の事件などを見聞きしても、とても絵空事とは思えない。
それは「自分にも同じ種がまかれている」という現実を自分の中に見るからではないでしょうか。

そして良い人・悪い人にかかわらず、まさにすべての人が共通に持っている「死」という出来事。
ここから逃れられる人は誰もいないという現実があるわけです。

キリスト教の中で最も信じられない出来事の一つは、イエスの復活です。
クリスチャンであると自称する人たちの中にでさえ、このキリストの復活は「真実ではあっても事実ではない」という人がいます。

しかし、結局のところキリストの復活を信じられなければ、キリスト教的な「なぜ神はイエスをこの世に送ったのか」という問いは分からずじまいでしょう。
なぜならば、聖書はイエスの復活を中心にして書かれているからです。

いつ誰がどこでどのように書いたのかさえ分からないと言われる「4つの福音書」は、イエスの復活に関することです。

イエスの復活と言う出来事から始まったキリスト信仰なのです。

信じるというのは、簡単な話しで、そうであったかそうでないか分からないが、そうであると「信じる」ということだけです。
この信じることを通さなければ「神はなぜ?」という問いを解決することはできない・・・と思います。

ではなぜクリスチャンたちはこのイエスを信じるのかといえば、
救いを求めるからです。
自分の現実の、罪という問題にたいして、また必ず迎えなければならない「死」という問題に対して、そこからの救いを求めるからです。

よく反キリスト教的な人たちからは「死んだものが復活するなんていういい加減なことを言う宗教をどうやって信じたらいいんだ!?」ととわれることがあります。

もしわたしが知っている「人間」が救われうるのは、そんな異常な事態でも起きない限り、救われはしない、と思うのです。

かくいうわたし自身、自分の中に潜む罪の種がいつ芽生えてしまうか、また、死ということを迎える瞬間に救いを確信して死ぬことができるか、ととわれても「大丈夫です、救われていますので」といえる自信はありません。
だからこそ、ただただ「キリストゆえに救われる」ということを信じる以外にないのです。

それから、他の人がお答えになっているかもしれませんが、
「神の独り子」という表現は、「神の息子」ではありません。
「神から出た」ということで「子」という表現を使いますが、伝統的な理解ではか「神からの神」であるということです。

また、人間は神による創造物(被造物)です。神の子ではありません。

神が神自ら人間の現実におりてこられ、人として生きられ、神を否む人間の現実で抹殺され、そして復活し、人間と神との和解の道をお開きになった。
この真の人にして真の神であるお方を信じると言うことを通して、神は人をご自分の子としてお迎えになり、完全にお救いになる。
それがキリストを信じるということです。

長くなりましてすみません。

投稿日時 - 2007-06-29 17:29:36

ANo.22

>なんでこんなに理解しがたいことが、世界中の人が信じている宗教の
>根本なんだろう?とものすごく疑問に思っています。

あまり回答にはなりませんが..
ここ最近?の理性重視の方向性からは理解しかねる言い方かも知れませんが、
最終的には考えても分からないとは思います。少なくとも理詰め
で最後まで理解できるようなものではないかなーと思います。
例えば99匹の羊を野に置いて、迷える1匹の羊を探す。現代的に言えば
無駄です。しかし99対1で考えるのではなく、その1に目を向けるのが
キリスト教の神です。1とは他の誰でもなくあなたです。

世界的に"クリスチャン"の割合は多いかとは思いますが、その大多数は
あるいは習慣でそう言っているだけかもしれません。しかし、例えば現代
日本でも、大人になって洗礼を受ける人もいます。
見方によれば、"宗教というのは逃避だ"ともいえるとも思います。しかし
"逃避"のみで2000年以上続くのかなと疑問には思います。

「十字架にかかり、人類の罪を贖ったキリスト」ということは意味不明
かもしれません。しかし感じる人は、あるいは感じるときにはそこに
"何か"を感じるのだと思います。そこから何かが始まります。
私の書き方が意味不明ですね..

ともかくちょっと視座を変えることで、いろいろ見えてくるものはある
と思いますよ。

投稿日時 - 2007-06-29 03:38:50

ANo.21

神はキリストを送ったのでは有りません。誤解しないでください。
彼が目覚めて開祖となったのか祭り上げられてなったのかは不明ですが、その彼の思想・信条・行動が民衆の心をつかむ+お上の統治上の利益と合致したので布教できたのであって、けして神が送ったものではありません。後にこのバランスが崩れ彼ははりつけになりますが、そこは何年もキリスト教が商売として続くとそれで飯を食っている奴らが出てくる。彼らは死活問題になる。そこで出てきたのが、神は全ての人々の罪を背負わせるために・・・と言う有難い教えです。
これで人たるキリストは神の子となり、永遠に罪を背負った英雄となったのです。
これで彼らのビジネスとしてのキリスト教は残った。
これも異論は有るでしょうが一つの考え方です。これもキリスト教に対する一面的では有りますが解釈できないことは無いと思います。
1000人がいたら1000通りの信仰があるはずなのです。
宗教の根本は「井の中の蛙大海を知らず」の後に続く言葉だと思っています。それは「されど空の高さと水の深さを知る。」です。
空を見、水の水位の変化・温度で四季を感じ与えられた環境で精一杯生きて行けが神の教えだと信じています。
人は弱いものでそれに悩みを持つ、悩みを解決しようかと持ち掛け、その前に金をだしな、集めた金で御殿を建てる、御殿が建つほどご利益があると宣伝をする・・・この繰り返しで儲けて行く。
宗教の根本は自分の内にあります。これは全ての宗教に通じることだと思います。

投稿日時 - 2007-06-23 15:39:18

ANo.20

神はキリストを送ったのでは有りません。誤解しないでください。
彼が目覚めて開祖となったのか祭り上げられてなったのかは不明ですが、その彼の思想・信条・行動が民衆の心をつかむ+お上の統治上の利益と合致したので布教できたのであって、けして神が送ったものではありません。後にこのバランスが崩れ彼ははりつけになりますが、そこは何年もキリスト教が商売として続くとそれで飯を食っている奴らが出てくる。彼らは死活問題になる。そこで出てきたのが、神は全ての人々の罪を背負わせるために・・・と言う有難い教えです。
これで人たるキリストは神の子となり、永遠に罪を背負った英雄となったのです。
これで彼らのビジネスとしてのキリスト教は残った。
これも異論は有るでしょうが一つの考え方です。これもキリスト教に対する一面的では有りますが解釈できないことは無いと思います。
1000人がいたら1000通りの信仰があるはずなのです。
宗教の根本は「井の中の蛙大海を知らず」の後に続く言葉だと思っています。それは「されど空の高さと水の深さを知る。」です。
空を見、水の水位の変化・温度で四季を感じ与えられた環境で精一杯生きて行けが神の教えだと信じています。
人は弱いものでそれに悩みを持つ、悩みを解決しようかと持ち掛け、その前に金をだしな、集めた金で御殿を建てる、御殿が建つほどご利益があると宣伝をする・・・この繰り返しで儲けて行く。
宗教の根本は自分の内にあります。これは全ての宗教に通じることだと思います。

投稿日時 - 2007-06-23 15:38:32

ANo.19

このままいけば
世界を滅ぼすためということになるねぇ。

投稿日時 - 2007-06-23 08:47:00

ANo.18

小学生が大学の講義を受けてもつまらないでしょうね
そんな感じ その人の信じていく経験の積み重ねが大きな信仰となります。
子供がコンピューターゲームをするに何も考えずにやっていますけど
その裏で機械が動いてますよね。信仰もそれと同じ

昔は礼拝にいくのかパチンコ屋にいくのか?
パチンコを選んだクリスチャンです

知識を持っている方はこのサイトでも多いけど
確信を持ってこうです!と言える人はいない
信仰と知識とはまた別のもの
信仰というのは信じている人が1000人だとすれば1000通りの信仰があります。人にも指紋をみれば違うように信仰もみんな違いますね
だからノックする。触る。木に登るとか 自分から動く事によって信じることが出来るのだと思います

ちなみに教会に足を運んだのは数年前ですね

投稿日時 - 2007-06-23 01:01:30

ANo.17

歴史家の視点で読み解いた記事を以前読んだことがあります。
かなり前ですので詳細については忘れてしまいました。
詳しい方がいらっしゃいましたら補足していただけると助かります。

当時、虐待を受けていたユダヤ民族。
政権から自分たちの土地を手に入れるためにカリスマが必要になり
イエス・キリストが担ぎ上げられた。
新興勢力(宗教)が政権に対し武力蜂起をした場合、政権側は見せしめとして重い刑に処さなければならない。
だから十字架を背負わせ見せしめにした。
処刑方法に人道的というものはないと思いますが、一宗教家を処刑するのであればもっと普通の刑があったはず。
思想を広めたということだけなら国外退去という処置もあったかもしれない。
と、いうのがその記事の内容だったと思います。

歴史家の視点で見ると代理贖罪というのは後付けの理論なのかもしれません。
いろいろな意見があるのもしょうがないなとその時思いました。
あくまでも参考意見として。

投稿日時 - 2007-06-20 15:30:24

お礼

当時の状況がそうさせたのであって、聖書に記載されていることは後付けであるという解釈ですね。
回答ありがとうございます。

投稿日時 - 2007-06-23 00:31:06

ANo.16

No.3です。



>どちらかというと、「現代の日本のキリスト教徒がどう解釈しているのか」に興味があります。

信者ではないので、「こう教わりました。」と回答できませんが、、、、
(ぜんぜん第一納得いかないし共感できないので信者でもないわけですが)


現代でも、消防士や警察官が人々を救う為に犠牲となり死亡するという話はありますし、人を救ったために電車にはねられたという悲劇も報道されています。

その行為がすばらしい人間愛に満ちているという評価がされております。

普通はできない行為です。自分の命を他人のために捨てるなど。


ただ、自己犠牲を払ったわけではないと思います。
自分が死ぬとは思っていなかったと思えるのです。


ではイエスはどうだったか。

聖書の中では、ファリサイ派だったかサドカイ派だったか忘れましたが、エルサレムは危険だからとイエスに情報を流し、イエスはその助言を受けエルサレムから一旦退いたと書いてあったと思います。

また、儀式が行われると知り、「どうかこの杯を取り除いてください」と油汗を流し神に必死でお願いした とあります。

その後、何かがあって覚悟を決め、儀式に臨んだ。
イエスという人物が本当にいたのかはわかりませんが、本当に贖罪の犠牲者 身代わりの王に立てられた人がいたとしたら、殉職した消防士や警察官のように、<まさか自分が本当に死ぬとは思っていなかった>と思います。

つまりイサクのように奇跡が起こり最後の最後には救われると信じていた。

そして呼んだ。

「パパ」

「主よ 私をどうして見捨てたのですか」

(作者がイザヤ書と詩篇からの引用された架空で現実はそういう事は言っていなかったかもしれませんが。)


という箇所があるように、恐らく父親に最後はイサクにように救われるから大丈夫だと促されて儀式に臨み、父親も神がイサクを救ったように息子を救ってくれると信じていたと思います。
あくまで神を試したのではなく神の救いを信じたから。


(父親ヨセフは恐らく、天の国と言われる階級に昇格していたと思えます。だから実際はイエスが子供の頃死んでなどいない。イエスともずっと先輩後輩の間柄でつきあいはあったと思います。)



ユダヤ教でも大祭司により大贖罪が年に一度行われていたようです。
神の御前に立つというこの儀式は、恐ろしいものでもあったと思えます。
何故なら神の前に立つということは、大祭司は神によって殺される可能性もあるので。

だそうです。

民の代表者で大祭司のみが神の前に立つという役割を担っていたので、とても大祭司の責務は重かったわけです。

というように、大祭司は民の代表者として、神に殺されるかもしれない大贖罪の儀式をやっていた。
何もイエスだけが自己犠牲を払ったわけじゃないんですね。

ちなみに、大祭司は油を注がれた者でもあった。

ただし、大祭司はユダヤ人ではない。
神が任命したとされ、イスラエルの民を宗教的に導いていたので、大祭司がイスラエルの民にかわって大贖罪をしてきたわけです。

エッサイの枝からダビデが出た。 
という意味は、地上の王(政治的指導者)の系統はエッサイという意味。
イエスの系図ではイエスのエッサイの子孫になっている。
つまりイエスは地上の王系ではあるが、大祭司系じゃあない。
大祭司系は洗礼者ヨハネ。
神が贖罪をするものとして指名したのはエッサイ系ではない。
アロン系です。
洗礼者ヨハネはアロン系。
将来的にはヨハネは大祭司になるはずだったでしょう。
が、エドム系に殺された。

ちなみにエドムはヤコブ(のちのイスラエル)のお兄さん。
このヤコブの子孫がイスラエル人。
エドム系はイスラエル人じゃあない。

で、エドム系の子ヘロデが大祭司に将来なったであろうはずのヨハネを殺した。

そこから歪みが起こり、どんどん神の民の範囲が広がり、いまや日本人も神の民に入るとなってしまった。

そして神の選んだ民でもない日本の信者は「あなたの罪を肩代わりしイエスは殺されたんですよ。 あなたにはもう罪は無いんです。 自分では消せない罪をイエス様が命を投げ出し消してくださったのです。感謝しなさい」と言う。


確かに、「あなたの罪を肩代わりしイエスは殺されたんですよ あなたにはもう罪は無いんです。 自分では消せない罪をイエス様が命を投げ出し消してくださったのです。」と言われたら、「すごいことしたな 人間じゃできない。」とは思いますが、、、、


でも冷静に考えてみれば、もし本当に罪が消えていたら、少なくとも信じた者の罪が消えていたら、いや せめて信じイエスの行為を貴重だと大事に思っていたら、これほどまでキリスト教が人を迫害したり、虐殺したり、強奪したりやりたい放題の悪行を重ね続けるはずがない。
これほど人を殺した宗教は人類史上他にはない。
従って、言葉と行動が逆なので、「イエスが人類の罪を肩代わりしてくれた。」と言われても、「それ逆じゃない? それ以降もっとひどいことになった。これが現実ですよね。」としかいいようがない。

その言葉のみでしたら、すごいことです。
が、現実は言葉と逆。

口先だけ身は逆でもいいとするなら、私だってどれだけでも作ることが可能です。
ただ、ペテン師ではないし、人を感動させる物語を書けてなんぼの小説家でもないのでやらない。
感動を与える説教をして信者の財布の紐が緩んだところで集金したりしない。

なんとは橋の下で を書いた人。
プラトニックラブで人々の感動を与えた小説家がいた。
美しく感動的な恋愛小説。
が、現実は何人も愛人がおり、裁判に訴えられていた。

人はできるんですよね、逆が。
人は装うということができる。

本当に神がいたらそれもすべてお見通しってわけですね。
口先だけの信者がまず地獄行きになってしまうという。

聖書を読むと、イエスは癒しの人じゃない。 赦しの人じゃない。
裁く人。
信者の方は、勘違いして、どんなことをしても懺悔すれば赦されると思っているようですが、ノー。
物語のイエスは裁きをする人として登場している。


生命の木は右が慈悲、左が峻厳。
イエスは主柱からして右の柱とされますが、神の前に立つと逆になる。
つまり イエスは峻厳の柱。
地上の火を放つ、つまり裁きにきたと言っていた。
既に火が投じられて裁きが完了していたらどんなによかったか と嘆いていた。

そして警告をした後去っていった。
今度来たときは容赦しないぞ と。

さて、イエスなる人はその後裁きに戻ってきたのでしょうか。
一人裁かれた人いましたね。
最初の殉教者とされた人。(名前失念)
彼は裁判の時 上を見上げると イエスが神の右に立っているのが見えたと言っていた。
ええ、前に立つと逆ですから その通り。
イエスは検事ですから被疑者に有罪判決を下していますね。
律法を愚弄したとして死刑判決を出した。

と聖書ではなっていますが、あくまでも架空の物語であればいいんですけどね。

投稿日時 - 2007-06-20 01:53:00

お礼

イエスは生贄のうちの一人で特別なわけではなく、イエスによる罪の許しなどないとのお考えでしょうか。
私もカソリックやクリスチャン人口の多い国で、日本より断然犯罪が多いのは何でなんだろう?と常々思っています。
何をやっても最終的にはイエス様を信じていれば救われるという考えをもっているからかなとも思います。
でもなんで今でもイエスの犠牲が人々の罪を肩代わりしてくれると信じているのか、、、?
生贄が行われていた時代ならまだ理解できますが。

聖書を少し読んでみて初めて、それまでのキリスト教のイメージがくつがえされて、イエスって怖いなと思ってしまいました。
自分がイエスに会ったら裁かれそうだな、と。でも逆に都合のいい正義ばかりが書いてあっても胡散臭いなと思うだろうし。
いろいろと思うところはあるのですが、質問の趣旨と大幅に離れてしまうのでこの辺にしておきます。
参考になりました。ありがとうございます。

投稿日時 - 2007-06-23 00:16:29

ANo.15

>イエスによって全ての罪が許される.

うんそのまま信じてくださいね

まあわからないところを拾い出したら疑問ばかり次々と出てくるのがこの宗教です。それこそまったく理解できなくなりますよ

まず信じる事が出来る部分だけに目を止めてください
いいなあと思うところに目をとめてね
乙女よ安心しなさい あなたの信仰が救ったのです
と聖書は書いています

心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができますと勧めていますね

すべてを理解してから信じようといのは今パソコンのしくみをすべて知ってから使いましょうというのと同じです。
理解しなくても使えますよね。宗教はむつかしく考えない。これが秘訣
です

信じた当初は日曜日の礼拝にいくべきか?パチンコやにいくべきなのか?自分の問いかけでしたね。

このような小さな罪を開放できますよ。

投稿日時 - 2007-06-20 00:43:54

お礼

回答ありがとうございます。
やはり、いいなぁと思うところに注目→入信→全て(なのでしょうか?)を信じる、の順でしょうか。
信者の方の率直な意見、大変説得力があります。

投稿日時 - 2007-06-23 00:14:32

ANo.14

《イエスによって全ての罪が許されるというのはbrageloneさんも納得しづらいのでしょうか。》――いえ そんなことはないです。

わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエスの出現によってだと わたし自身 思っています。

そして 《代理表現である・代理表現でしかない》というのは 《文字は殺し 霊は生かす》に基づくとお考えください。(この文句は むしろ律法の問題をあつかってはいますが)。

さらにそして ここまで・つまり表現の問題だとお伝えしたところまでは 問題ないと思っていますが そこからあとは 信仰の大問題だと思います。

言いかえると ドグマそのものだと思います。すなわちお尋ねの《なぜ神はイエスをこの世に送ったのか》ですが この問いにわたしは 実は直接にはお応えしてまいりませんでした。簡単には述べることが出来ないという理由と合わせて ドグマの枠を突き抜けるのは 難しいという理由です。

(ちなみに わたしの見解は 自分が解釈したアウグスティヌスに全部拠っていますので そのことをもお伝えしておきます)。

で どうお伝えすればよいか けっきょく今は 次のように思っているということだけをお知らせしたいと思います。尋究して行ってください。

闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。(人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが)。

いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのだと思われます。

人間としてというのは たとえば 弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 死んだということ。などです。

人間としてでなければ――つまり 神として 十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。

しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は人間の精神なのではないと知らせる必要があった。

などなどです。乗り越えていってください。

投稿日時 - 2007-06-20 00:09:30

お礼

神が人間となって地上に現れた理由については、おそらくおっしゃっている意味はわかったと思います。
あとは信仰の問題ですか。
度々の回答ありがとうございます。

投稿日時 - 2007-06-23 00:12:13

ANo.13

No.9です。
人の考え、教会の三位一体、評論家の考えをまとめてみても何の意味もありません。
聖書が述べていることを調べることに意味があります。
ヘブライ 4章12節

投稿日時 - 2007-06-19 09:11:59

お礼

No.9で挙げてくださった箇所とともに読んでみたのですが、正直なところよくわかりませんでした。
また時間を空けて読んでみようかと思います。
回答ありがとうございました。
 

投稿日時 - 2007-06-19 23:02:31

ANo.12

ANo.4です。

たとえば 誰かが死ななければ 腰を上げないという事例があります。かなしいことに事実です。

イエスの死に出会って 《誰かが犠牲にならなければいけなかった》と思うほど 人びとは 自分たちが《罪深い》と思ったということです。そのような物語にして 納得しようとしました。しかも この犠牲者つまり人間イエスは 神の独り子なる神だったという表現になって現われました。われわれの長子だというわけです。

神が人間になったというのは 論証不可能なドグマです。文学的な表現であるにとどまらず 歴史事実だというわけですから わたしも《ものすごく疑問に思っています》。しかも 個人としては 信じています。

なぜ 論証不可能なことを信じるか ひとつ こういうことがあります。これ以上 犠牲を出さないことが 論理的には人類全般にわたって 実現したと思われることです。

表現の問題ですから どういう内容で言い表わすかは 一人ひとり個人の主観の問題です。

《俺たちが悪いことをしたのに、何もしてない兄さんが警察に名乗り出てくれたよ。・・・》というのが 納得しづらいといえば そうだとも わたしも思います。(警察というところは ちょっと ちがうとも思いますが)。

問題は こう表現したから 神はこうだではないということです。あれそれのように表わしたから 神はあれそれだとは なりません。すべては 神を人間の言葉でも表わして納得したいがための代理表現だということです。代理表現は それこそ 人の数だけ いや 一人の人が複数持ちうるゆえ それ以上あると考えられます。

もともと 自分たちの心の内実から出発しているものです。表現しなくてもいいし してもいいというのが 前提です。

このように考えます。

投稿日時 - 2007-06-19 06:11:06

お礼

「これ以上 犠牲を出さないことが 論理的には人類全般にわたって 実現したと思われる」
なるほど。

聖書も代理表現のひとつだとお考えなのでしょうか?ほかの全ての代理表現は、代理表現(聖書)を元にした代理表現でしょうか。
イエスによって全ての罪が許されるというのはbrageloneさんも納得しづらいのでしょうか。
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2007-06-19 22:49:30

ANo.11

解釈の一つですが、参考になればと思います。

まず、「神」は人間をつくりました。
その最初の人間が「アダムとエヴァ(イヴ)」です。
作られたときの二人は、自由意志を持っていませんでした。
しかし、エヴァが蛇に化けた「サタン」に騙され、食べてはならないとされていた「知恵の実(リンゴ)」を食べてしまいました。
そのエヴァに進められアダムも食べてしまいます。
これによって、人間は自由意志を手に入れますが、神はそれに対して怒り、二人を楽園から追放してしまいました。(これが「原罪」です)

その後、時代は下りローマ支配期のユダヤ(現在のイスラエルやパレスチナ地方)での事です。
この時期、ユダヤ人(神に選ばれた民族)は利己的になっていました。
それに対して、神は「イエス」を使わし、彼の人生に「原罪」を負わせ十字架にかけました。
その時、「イエス」を通して※「旧約(旧い契約=旧約聖書)」を廃し「新約(新しい契約=新約聖書)」を交わしました。
それに拠ると、人は死後「神の国」に上げられるそうです。
つまり、「イエス・キリスト」とは人類を救うという「神の意志」の象徴です。
そして、「神」を信じ「イエス」を信じることは、その「神の国」へといたる道なのです。

※ただし、旧約聖書は人類の歴史として、また神がイエスを使わす預言書として重要な意味を持っています。

投稿日時 - 2007-06-19 02:41:46

お礼

「神の国」へと至る道はイエスを通してのみ開かれる→イエスを信じ崇める。
邪道な気もしますがこれは一応納得できます。
人類の代わりに原罪を負ったイエスを崇め、許しを請うことも、「神の国」への道だということでしょうか。
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2007-06-19 21:55:37

ANo.10

質問の最後の一文になら答えてもいいが。。。
アレクサンドリア図書館を焼いたときに、人類の叡智を1000年遅らせてしまったからだ。
そして新プラトン主義の進歩的な思想と科学をもった知識人たちを
惨殺して、悟性の歩みを曲げたからだ。
しかも目的の遂行の手段として。

歴史の濁りが話すのと、濁った精神が話すのは、
どっちがましな言葉を吐くんだろう。。。
で、あなたはなんのためにこんな恐い質問をしているのか?
歴史の鈍さを聞き取るためか、鈍い精神を聞き取るためか。。。
まさかキリスト教を「知る」ためじゃないよね?
「知る」ようなものは何にもないよ。信じて実践するだけ。
ああ、これも最後の一文に対する答えになってます。

投稿日時 - 2007-06-19 00:20:50

お礼

回答ありがとうございます。
「信じて実践するだけ」ですか。確かに。
何かしらその人なりの解釈があるのかと思って知り合いのクリスチャンに同じようなことを聞いたら
「わからない」と言われたのですが、それが一番まっとうな答えなのかもしれませんね。

投稿日時 - 2007-06-19 21:22:55

ANo.8

創世記3章15節
ヨハネ18章37節
を頭に入れて、この部分の前後と聖書全体を良く読むようお勧めします。

投稿日時 - 2007-06-18 20:30:53

お礼

回答ありがとうございます。
時間があるときに該当箇所を読んでみます。

投稿日時 - 2007-06-19 21:18:00

ANo.7

それはマタイが明確に記しています。
ヨハネによってそれを知ろうとしてはいけません。
ヨハネはグノーシスの影響を受け過ぎているので。

投稿日時 - 2007-06-18 20:26:38

お礼

回答ありがとうございます。
時間があるときにマタイをよく読んでみます。

投稿日時 - 2007-06-19 21:15:50

ANo.6

「人身御供」てのは、ついこの間まで(あるいは今も?)
世界中のあちこちで行われていた常識だったらしいよ?
昔は今よりも、個人より集団(家族、部族、民族)の方が、
いろいろと重みをもつ場面がおおかったのかもね

お供え物の饅頭(まんじゅう)の語源を検索すると、
面白い話があたるよ

まあ、まゆをつばで湿しながら、検索してみて

投稿日時 - 2007-06-18 18:45:24

お礼

質問の回答とは少し違いますが、饅頭の語源は面白い、、というか怖かったです。
話のネタになります。どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2007-06-19 21:12:18

私はあなたの疑問の意味が分かりません。

1.神は全ての人々の罪を背負わせるために、一人息子のイエスを地上に送った、それほど人類を愛していた、とのことですが、その意図がわかりません。

2.なぜ人々が罪深いからといって誰かが犠牲にならなければいけないのでしょうか?

は質問の意図が違います。

1については、イエス・キリストの存在により、当時混迷を極めていた人類に示唆するためとか、色々考えられます。

2は言葉の意味あわせ、語呂合わせとも考えられます。

少し整理してから質問したほうが良いでしょう。

投稿日時 - 2007-06-18 16:16:08

お礼

神はイエスが犠牲になることを知っていて(むしろそのために)イエスを地上に送ったと解釈していたからです。
家族愛を説く宗教なのに最愛の息子を犠牲にするなんてひどい..と思ったので。

言葉が足りなくてすみませんでした。
全体的にもっとわかりやすくまとめてから質問するべきでした。
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2007-06-19 21:10:01

ANo.4

[なんでこんなに理解しがたいことが、世界中の人が信じている宗教の根本なんだろう?とものすごく疑問に思っています。]

根本は神がイエスを地に使わせ「愛の大切さを説いた」事です。その「愛の崇高さ」ゆえにキリストへの信仰があるのですね。

そのキリストさえ十字架にかけたのですから言い訳が必要だったんですね。言い訳「神は全ての人々の罪を背負わせるために、一人息子のイエスを地上に送った」は言い訳でしかないですが「愛を発見するための入り口」としての方便なら許される程度のうそだったのでしょうね。ユダヤ教には生贄という間違った教えもありましたしね、そのうそが大きくなりすぎ、うそがまことになったのかもしれませんね。2000年もたつと教会自体がパリサイ人やサドカイ人になってしまったのかもしれません。でもイエスの「愛の教え」がそのきらめきを落とすことはないのですね。仏教でも同じことが起こってますが釈尊の偉大さが変わらないのと同じことですね。

投稿日時 - 2007-06-18 07:53:20

お礼

始めから十字架に掛かることがわかっていてイエスをつかわせたわけではないという解釈ですね?
人々の罪を被って処されたイエスを崇めることによって、罪が許されるというのも、
イエスのように他人の罪を許しなさいという愛を教えるためでしょうか。
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2007-06-19 21:08:15

ANo.3

すべては 表現の問題であると考えてください。

たとえば 神という言葉を知る前にも わたしたちは その存在(もしくは 非存在)を あたかも 心の内で知っていたというかのように振る舞っていたはづなのです。

たとえば この世がすべて自分の思うようにいくとは限らないと知るとき その限界を超えたところは 神(もしくは ほかの人びとには 無神)の領域です。

あるいは わたしたちは それほど愚かではありません。抱いた思いが まちがったものであるなら それが通用したり実現したりするほうが おかしいと分かります。

また同じそのとき そんな考えは通用するほうがおかしいと大方の人が分かっているのに いや 分からないという一部の人たちがいることがあります。というよりも はっきり答えないで 最後まで話し合いをはぐらかして 分からないを通し 自分のおかしな思いを通す場合が この世ではあります。このような説得の限界 これについて見ても 有限で相対の世界を生きるわたしたち人間と それを超えた領域とがあると ふつうにわたしたちは捉えます。

長くなるので もはや端折りますが そこで このもともと生来持っていたわたしたちの神の領域を信じ切った・信じ切って生きた人も 現われます。たとえば ナザレのイエスです。

〔無神あるいは空だが 大きく言ってそのような神の領域はあるという人たちは 別なのですが〕 そんなことを信じるなどというのは ちゃんちゃらおかしいという人びとも 中には います。この何十年かの人生を面白おかしく生きるだけだと言います。あるいは どんな手段を用いようが 自分の思いを通そうという人がいて 勝てばいい・勝てばそれが神の領域からの祝福だと強弁する場合が見られます。

要するに 疑いの知性です。とことん疑います。教養を身につけ 社会的な地位も得て 風を切って生きているが 人を・あるいは人の言う神を 信頼することはないし信じることがない知性です。

この疑いの知性から イエスは 疑われました。おまえだって おれと同じようにこの世で楽しく生きていきたいのだろう? むしろそのために 神を信じているのだろう? その他その他ですが このときイエスは この知性たちに とことん付き合って行ったのでした。

いきさつは ともあれ 死の淵まで付き合い切りました。かれら知性たちは 死の地点までは行かなかった。来なかった。

この――むろん 別様の解釈もあり さまざまな要素も添えなければならないでしょうが――イエスの人生が 神に関係があると受け取られて 神の物語として表現されました。(むろん ユダヤ民族の旧約の世界からのつながりにも基づいているわけですが)。

わたしたちの心の中の 神の領域・その力・そのはたらきと イエスの生きたすがたとが あたかも・あるいは どういうわけか つながって さまざまな人たちから 表現を得たことになります。

中では おっしゃるように 一番上の兄が われわれのだらしなさの積み重ねを すべて背負って一気に根本的に払ってくれたという物語となったわけです。三位一体という観想が得られたりもしています。

途中ですが このあたりで。

投稿日時 - 2007-06-18 07:26:15

お礼

新鮮な切り口で大変参考になりました。当たり前ですが当時はキリスト教がなかったのですよね。
このように当時を生きた人々の様子を想像してみると、どうしてイエスが崇められ、
キリスト教という宗教にまでなって多くの人々に支持されたのかがわかるような気がします。
聖書からの知識のみでは、本当にそんな話で多くの人々がクリスチャンになっていくのだろうか?と思ってしまいます。
目から鱗な回答でした。どうもありがとうございます。

投稿日時 - 2007-06-19 20:59:59

ANo.2

>神は全ての人々の罪を背負わせるために、一人息子のイエスを地上に送った、それほど人類を愛していた、とのことですが、その意図がわかりません。

まず イエスは神の息子ではなく神。 神が人間に受肉して人間界に現れた。 とキリスト教ではしています。

神の子だと思われたと聖書ではありますが、結局 会議 で 多数決 で、神だということに決定し、これ以上、イエスは神か人間だったのかを 決して話しては い け な い と多数決会議で 人間 が決定しました。

ということを踏まえて考えていきましょう。
決定したのはあくまで人間です。
神が決定したのではなく、人間が決定したことです。


で、三位一体。これはユダヤ教にはありません。
ユダヤ教は一神教・唯一神のみですので、三位はありません。
ソロモンの時代に多神教をソロモンも信仰していましたが、そういうことをやったから、バビロンに捕囚されることになったのだと、それ以降は決して異教の神を拝まなくなりました。



ではキリスト教の三位一体はどこからきたのか。

三相一体。
これは異教の概念です。
処女ー婦人ー老婆  または 創造主ー養育主ー破壊主 または 過去ー現在ー未来。
この概念は地母神の概念、つまり 男神じゃなくて女神の概念です。

これを拝借して、なんとか辻褄を合わせようとしたと思えます。
神が聖霊により人間に受肉した、 父 であり 子であり 聖霊である神、 とした。


イエスを処刑したとされるピラト。
聖書では裁判のときに、イエス・バラバとイエスとどっちを処刑するべきかと人々に問い、イエスは罪が無いので釈放しようとピラトは苦心したとありますが、史実のピラトは、ローマにたてつく疑いのあるものは、裁判無しの即処刑する男として名をとどろかせており、多くの人間を磔刑に処していました。
裁判無しに。

結局 その暴政のせいでユダヤ人からローマ皇帝に訴えられ、彼は失脚してしまいました。
従って、鞭うち刑で終わりにしようとしたなどイエスの時だけピラトがとりはかろうとしたなど考えられません。
キリスト教がローマに対するリップサービスで架空の話を入れたと思われます。


では作者の脳裏にどうしてそのような筋書きが浮かんだのか?
異教の概念を知っていたから。

シュメール・バビロン・カナンなど近東地域の宗教の場合、王の頭に香油を注ぐ秘儀は、女神の代理人を勤める王族出身の女子相続人か女祭祀によって執り行われていた。
この儀式はギリシャ語でヒエロ・ガモス つまり 聖婚と呼ばれていた。
頭に塗油する儀式には性的な意味が秘められていた。
婚姻を完成させる行為として、結合に備えて女性に「聖油を塗布される」男根をこの頭部が象徴していたからである。
選ばれた花婿は、女神の代行を務める王族の女祭祀によって聖別される。
これがメシア 油を注がれた者。

王の頭に聖油を注ぎ、その前に豪華な食事を並べる役、つまり、その杯を祝福で満たし、敵の前で王の擁護者となる役は、近東固有の古い秘儀の中では太女神の地上の体現者である女祭祀が務めた。

メソポタミア地域の一部の宗教は、土地の豊饒を持続させるために、地元の神殿に仕える女祭祀の選ばれた配偶者を儀式的にいけにえとして捧げていた。
いけにえになった王の葬式は、作物の順調な生育と人民の反映を保障すると考えられていた。

インド・アーリア族の侵入(紀元前3500年頃)とともに、人間がその怒りをなだめなければならないとされた男性の最高神の概念が近東地域に入ってきた。
そして数世紀の時を経て、無限の力を持つ男性神を信奉する宗教が、寛大な女神の崇拝に徐々にとって代わっていった。

パレスチナでは、姿の見えない男性神が家長的存在として登場すると、古来より太女神に仕える王族だけに許されていた役割、つまり負うの香油を注ぐ役割を男性の預言者が果たすようになった。

近東地域の文明に女神の代わりとして男性の最高神が登場すると、王族の女祭祀がかつて太女神の名代を務めたように、神の代理として男性の王の役割が確立した。

シュメールの詩は、バビロンの主神マルドゥクを「私の幸福の花婿」と呼んでいる。
ヘブライ人の詩人や預言者も同様に神と民の親密な関係というイメージを取り入れた、(エギゼル書、ホセア書、イザヤ書、エレミア書)
ギリシャ語で書かれた新約聖書の4福音書はイエスについて触れる時、この「花婿」のモチーフを頻繁に使っている。


一部の研究者は、古代近東地域で数千年にわたってつたえられてきたシュメール神話のドゥムジとイナンナの豊穣祭儀の一環として、雅歌が書かれたと考えている。

最近解読された銘板の楔形文字で記された恋愛詩は、ドゥムジを「羊飼い」あるいは「忠実な息子」と表現している。
また、ドゥムジの最愛の人は、「妹」「花嫁」と呼ばれており、神が「その母の胎内で形づくった」王は、「選ばれた息子」であると考えられていた。

王は儀式的な死と埋葬を含めた役割のために香油を注がれていたのである。
王の務めは、大地母神のイナンナと結ばれることであった。
結婚が成立した後、ドゥムジは作物や家畜の再生を保証するために、儀式的に責め苦を受け、殺され、葬られる。
王には老いや老衰は許されず、その勢力や生命力を失うことも認められない。

 一部の祭儀では、責め苦を受けた王は埋葬され、しばらく時間をおいた後、(通常は3日後)に「復活」する。
儀式文集に収められた詩歌には、男神ドゥムジの死に治する女神イナンナの嘆きや、失踪したドゥムジをイナンナが探す様子、ドゥムジの帰還への喜びの表現が盛り込まれている。

この多神教信仰で最もよく知られている「花婿」伝説のこの部分が、ヨハネ福音書の中にも取り入れられている。



というわけで異教の、王が民のためにいけにえとなることによって、豊穣がおとづれるという概念をキリスト教は拝借したわけです。

ギリシャ・ローマの聖婚の概念や異教のいけにえの王の概念をモチーフに筆者は物語を書いたと思えます。


ですから、「神は全ての人々の罪を背負わせるために、一人息子のイエスを地上に送った、それほど人類を愛していた」は、その異教の概念の存在を知れば、どうしてイエスは人々の罪を背負って殺されることになった という物語になったかの理解が容易になるわけです。


古代には生贄の儀式があった。
勢力を失った王が贖罪のために、生贄となっていた。
人々は自分達の幸福のために、王を殺していた。
自分達の幸福のために 王を殺さなければならなかった。


今では考えられないような儀式ですが、農耕が発達しておらず、不作になれば多くの人が死んでいたわけです。
いつ自分が餓死するかわかからない状態。
そうなると、日本でも雨乞いの踊りを真剣にやったように、近東では生贄の儀式を生きるか死ぬかがかかっているからと、真剣にやらざるをえなかったと思えます。


王になったものは、豊作の時はいいが、飢饉の年は殺される運命にあった。
王(集団の責任者)は大変な役割を担わされていたわけですね。

投稿日時 - 2007-06-18 02:22:14

お礼

回答ありがとうございます。
当時の生贄等の儀式の背景が大変よくわかりました。

kigurumiさんを始め回答を下さった皆様にですが、質問がわかりにくくてすみませんでした。
どちらかというと、「現代の日本のキリスト教徒がどう解釈しているのか」に興味があります。

投稿日時 - 2007-06-19 20:57:28

ANo.1

基本的なことですが・・・神を作ったのは人間です。

ある意味逃避的行動のなせる業です。

苦痛や困難に100%立ち向かうより誰か(神・・・)を介したほうが精神的にもある意味安定を保てます。

世の中にそれを欲しがる人々が多いだけです。

投稿日時 - 2007-06-18 01:30:36

お礼

私もそのような考え方でした。
回答どうもありがとうございます。

投稿日時 - 2007-06-19 20:50:37

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