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締切り済みの質問

本能寺の変、明智光秀の真相

大河ドラマで本能寺の変をやっていましたね。昔TVで見たのですが、本能寺の変は、実は徳川家康と羽柴秀吉の共謀による暗殺であったと。そして実行犯の明智光秀は徳川家に入り、優遇されたと。
(その証拠に、光秀の首を秀吉は確認もしなかった、2代3代将軍の名前には光秀の字がつけられている、日光には明智平という地名まである、、、)

この説というのは、日本史学的にどういう位置づけ(立場)なのですか?やはり異端説??それとも実は史実に近いと思われているのでしょうか・・・

※こういう話題好きなので、その他にもあったら教えて下さい。。(長篠の3段程度の火縄銃隊では、実は騎馬隊が来る前に充填できなかったとか・・・)

投稿日時 - 2002-07-08 21:10:36

QNo.309524

すぐに回答ほしいです

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回答(65)

ANo.65

(以前、似たような質問が有った時にも上げたのと同じ内容ですが)

『戦国自衛隊』著 半村良  原作オリジナル または 田辺節雄さんの漫画版  
(映画版はリメイク含めてダメダメっ子ですな)
(この部分のみなら 漫画版の方がかっこいい からオススメ)

中身はと言うと ”菊を家紋とする所よりの下命故に”   
(初め「SFマガジン」の1971年9・10月号に掲載された同作は、= ウィキより抜粋)

この年代に コレを発言すると言うのがどれ程の事であったか=それこそ SFマガジン とかだから
こそ可能で有ったとも言える。
”イイ家”に生まれついている程、又 当時の人間のメンタリティとして =逆らえんわな~   
~と。 納得。
(ウラを取って無いですが”光秀の女房は 公家の出 で有る”と言う話も 何処かで聞いた記憶が有ります)
イヤ、まぁ 面白げな御意見が飛び交ってますようで 私も一言。 と思いましたが 
⇒ 57番 ”信長の子孫、光秀の子孫、出て来いやあ!!!” そして59番さん_他_Etc
 これはこれで面白いんだが 他の方々のも、本来の”教えて?”からは外れ始めているのでは?と < 凄ぇ重たいページに成って来てるし。
と、言うわけで2chにスレ建て直して見ませんか? 質問者 【noname#2111】さん?
(2ch本体よりも ”きぼんぬ””VIP””速”などの方が見やすくて、私は もっぱら そちらですが)

投稿日時 - 2010-09-25 19:02:33

ANo.64

本能寺の変の黒幕は、濃姫だという説もあるのです。
明智光秀と組んで殺そうとしたという説があるそうなのです。

投稿日時 - 2010-04-18 13:58:44

ANo.63

そういえば、光秀はどういった心境で謀反を行ったのか?
光秀はとても頭が良く、信長にいろいろと主張をやっていた
と思われます。
しかし、光秀は信長の価値観を理解していませんでした。
光秀の主張は現実性と理があったと思われるが、
現実性と理なんてものは、価値観とパラダイムが変われば
いくらだって変化するものです。
そういった事も理解せずに主張する光秀に対してとった
信長の行為は君主として当たり前とも言えるでしょう。

信長のあまりにも革新的な価値観は光秀には理解できない。
そして、光秀にはその価値観があまりにも危険に思えた事でしょう。

光秀が信長から受けた、圧力やストレスで感情的になって謀反を
したとは思えない。光秀は感情より理性が強いと言われているし
咄嗟の感情で信長暗殺なんて事はまずありえないでしょう。
光秀は信長を暗殺する機会を伺い可能な限りの具体的計画も
されていた方が自然です。そして暗殺する確率を高めるには共謀者が
必要です。家康や秀吉が共謀者であっても不自然さは何ら無いと
言えるのです。

投稿日時 - 2010-03-05 10:11:41

ANo.62

歴史というものは、
時の権力者の都合が良いように歪められて
しまうのが当たり前です。

今となっては、教科書にまでのる歴史も
異端とされる歴史の説もどれが真実なのか
解らないものです。

TVで見た信長公記では羽柴秀吉が本能寺の隠し逃げ道をふさいで
あった為に、信長は最終的に切腹したとか
徳川家康や羽柴秀吉の謀略は十分にありえますね

信長は日本を変える為に、ある時期から鬼とかして
改革を進めたのです。比叡山焼き打ちや本願寺勢力下の組織の打倒
本来の仏の道からはずれた歪んだ宗教権力を見た信長の
将来の日本を懸念した気持ちは私には理解できる。

本当に信長の信念や考え方を理解したものはごく一部の側近のみで
信長が暴走する原因の一つだったはずです。

徳川家康や羽柴秀吉にはその辺があまり理解できてなかったのでは
ないかと私は思います。当然、信長の行為は非常に気の狂った所行に
見えた事でしょう。その暴走を食い止めるために暗殺するのは仕方ないし
自然の流れだったはずです。家康や秀吉と信長の関係性から言っても
非情さから暗殺したのではなく、共感と理解のなさや価値観のすれ違いから
ではないだろうか。泣く泣く暗殺したに違いない。

信長の価値観は当時の日本としてはあまりにも進みすぎていた。
信長を理解する家臣が多ければ、暴走する事もなく
イギリスに匹敵する文明を築いてもおかしくなかったのです。
日本の閉ざされた精神の部分が多い為それは必然的な歴史の
流れでもあります。

投稿日時 - 2010-03-05 09:56:50

ANo.61

 信長公が目指した日本

 足りないものは他国から補う。海洋貿易立国の構想。信長公は、形骸的な地位や名誉よりも、質実を取って国益を優先する方です。早すぎた天才と申し上げても過言ではありません。室町将軍権力からの自立をはなから考えていながら、あえて1568年足利義昭を立てて京都に入り、そしてこともあろう事か、普通は考えられない、義昭公を将軍職に伸し上げたのです。義昭公あるいは朝廷は、信長公に対して副将軍でも何にでもしてあげるから、という一見成り上がりを目指す武将なら断らないだろう褒れを、あざあざと断ってしまっているのです。好きな国をあげようという彼らの賛辞も飲まずに、その代わりとして、和泉堺と近江大津・草津の三箇所への代官所設置を交通・流通・軍事の要所と捉えて要請したと見えます。上洛の後に信長公は日本各所の関所の撤廃を命令。これは今で言うところの、さながら高速道路の料金所の撤廃です。関所が意味するところの規模からは関税局撤廃とでも取ることができます。 
 最初から何てあっけらかんと凄まじい改革をやってのけるのでしょうか。とても豪気な人です。関所は当時、幕府・朝廷・貴族・大寺社などにより設置されていました。

 つまりこれだけ多くの関所を通過すると、税金だけでもたいがいな値段になるので、これは物流を阻むものだとして断固として許しませんでした。もし現代でこんなことをやる官僚がいたなら、国民は総出で大喜びするでしょう。

 天子様とばかりに奉られるかもわかりません。多くの人々が、信長公を歓迎しました。
 しかし、もうこの時点で、特権商人や不動産屋とも取れる大寺院らは金銭的な大打撃を蒙ったのです。
 それまでの時代は、橋や道路を壊して敵を防ごうとする保守的な方法であったのに、いきなり信長公は、軍事物資の輸送能力とともに軍の機動力を向上させるという大仕事に出たのです。従来のやりかたに反し、道路整備に重きをおきました。信長公は有事に備え、大きな道路を作りました。また、環境エコロジーにもいち早く目覚めた偉人であり、ストレートな道の両端には松と柳が植えられており、夏は木陰にもなり、台風をしのいだりもするわけです。また、空気の良い時代に更に良くなることは言うまでもありません。琵琶湖にも見事な橋をかけ、今で言う道の駅のような休憩所を設けました。
 驚いたことに、今までの話を単に聞いた人であれば、著者であれば、機能重視で安く橋を作ったのだろうと勘違いするのですが、信長公を見くびってはなりますまい。
 凄まじいことは史実、わざわざ遠い若狭湾から材木をとりよせてゴージャスな欄干をつけた本格的な瀬田橋を1575年に完成させたのです。
 日本海に向け、あるいは京都に向け、主要と成る道路も建設しています。
 ここでおさらいをします。

 信長公は、(1)税関を撤廃した(2)環境対応道路を作った(3)ゴージャスな欄干つきの橋を建てた(4)街道を巡らせた。
 著者はこれが全て中世既存であった権力という権力をぶっ潰すための準備であったと敏感に察しました。
 
 (1) によって税関で収益を上げていた僧侶や商人が敵になります。
 しかし、彼らは財源だと考えるとどうでしょうか。戦争は理由が無ければ成立しないものです。ただ彼らが信長公に矛先を向けるその理由に、利権の二文字があるために、戦争は必ず勃発し、憲政的に優位に立つ信長公は暴徒と化した彼ら僧侶や商人を合法的に成敗し彼らの生命と財産を奪い取るという、まるで昴と風日のシンボルをなびかせた国が、第二次大戦開戦のころ日の丸の国にやっと仕掛けたような荒業を、もうすでに500年前の戦国の大将がはじめていたのです。
 だから恐ろしきかな、信長公は頭脳の達人なのです。
 小学校の先生が歴史は学ばねばなりませんと口うるさく生徒さんに言われますが、本当に学ばないといけないことは、年号や年代よりも、史実の内容なのです。
 (2) 環境対応道路を作った。
 確かに環境という理由になることでしょう。
しかし、一つ考えてみて欲しいことは、例えばこの本をご覧になられ、かつ日本人である貴方がその場合、戦中戦後まもなくという時期を生きた経験の有る人であれば、松は燃料にもなり、油も取れることは解るはずです。つまり、それを何に使うのかということまで考えないと信長公のトリックは見破ることが出来ません。
 (3) ゴージャスな欄干つきの橋。
 民衆の憩いのために作ったのだと信じたいのですが、この橋自体が琵琶湖内の大量輸送に何らかの役割も果たすのでしょう。
 (4) 街道を作った
 なぜV字直角に比叡山をマークするような作りにしなければならなかったか。
逃げ道を完全に断つためなのでしょうか。中世の大権力であった寺院を解体することは、僧兵などを持つそれらの団体が、機能としては、朝廷の言わば外堀であるという事実を鑑みたほうが最もであるように察します。
 信長公もまた、軍人としての存在である前に人間であり、人間であるという大前提の前に、魂において、大きな男性を秘めたお方であったのだと存じ上げます。
 時は戦国。今現代以上に貧困は火急をなし、町は混乱し、信長公の御父君はいつも戦争へ出られておられたので会うことも出来なかったでありましょう。父君の愛情も充分に受けられなかった幼少を鑑みては、強烈な母性とも思える父権の存在に憧れ、「いつかこの地上の地獄をこの俺が救って見せるのだ」と心にお誓いになられてあられたのだろうとお察しいたします。

 偉大なる信長公。信長公は急ぎすぎになられました。なぜ明智光秀氏が、亀岡の帰り磐で引き返し、信長公をお射ちになられたか。もし信長公が徹底して協議によって和睦せしめる心があられたならば、この国、いや、この世界の歴史は嘆く事無く変わっていたのかもしれないです。しかし、あまりにも既存の時代を憎み、未来を夢見て信長公は独りで日本の重荷を背負いすぎました。それほどまでに、怒り心頭されておられました。本物の男、信長公は日本人に覇業の大王のとして代々語り継がれることでありましょう。

投稿日時 - 2009-09-25 15:09:44

ANo.60

◆分かりました◆

No60殿、ご意見承りました。

『信長は悪くない。』その共通認識に心うたれましたので
だだはこねません。真摯に連絡ありがとうございました。
今後とも宜しくお願い致します。仲良くいきましょう。
良かったら僕の知人が書きました織田信長公についての所見
もご覧になられてください。

参考URL:http://bbt888s.hp.infoseek.co.jp/rekisitolifejob.htm

投稿日時 - 2009-09-25 15:04:47

ANo.59

???
◆これは返答では無く、言い訳でも無く「疑問」になります 訂正にもなるかとも思います(ならないかな?)◆

この「疑問・訂正」の前の回答のNo59の方(名指し するようなのも失礼かと思い、番号にて)に聞きたいのですが、まず:「あなたの回答を否定していませんが?」~もちろん、いろんな意見・回答が有っていいと賛成ですが?

それと 難癖 を私が付けているでしょうか?(子孫・・・についての部分は難癖でないのですが?ただ参考までに、という趣旨で付けただけですが、参考までに、という事で訂正します) 織田 信長 公を間違っても「悪人」とは書いていませんが?(そのように受け取れる部分が有れば、誤解です)

それから 特定 という表現ですが、◆質問者の人が:「こういう話題好きなので」と書いていますね? だから 貴方が面白く書いているのと同様に 歴史雑誌を引用・参照で、ミステリー風に(明智 なので 明智 小五郎:江戸川 乱歩 ということですが?)少し、謎解き のように(貴方は血縁の人らしいので、もしかすると「真相」に詳しい ので私の意見回答は 妄想 と馬鹿らしく思えて仕方無い と思いますが)自分なりの一応、意見回答を(全然、面白く無いかも?ですが)書いたわけです 私は真相を一般人で、名家と何も つながり無いので知りませんが、◆歴史ミステリー風に◆ 少し私の推論で(一応、自分の意見回答なのですが?貴方から見ると 稚拙に見えるかもしれません):「こういう推論だと、特定できるのじゃないかね?:微笑」ということで、特定 と表現したわけです

それと、これは(も?)私の推論ですが、貴方は 徳川・豊臣・島津と名家の縁戚の家系らしいので、豊臣 氏の部分で 私が「木下」と書いたのが、貴方の家系に(そういう意図は皆無ですが)侮辱的に感じて、私の意見・回答に不満・名誉侵害ということで一言、書かずにはいられなかった のかもしれず、その点は失礼を ご容赦下さい

いずれにしても、私は貴方の意見・回答に◆何の否定・異論もして無い◆ですし、貴方が書いているように「人は人」ということで、私の意見・回答は「人は人 いろんな意見が~」に該当しませんか? 「自分は、こう考え こう思う」という通りに意見・回答を書いただけですが? 失礼したかもしれない点は、お詫びしていますが?

◆再度、これは返答でなく、疑問ですが? 余談ですが、私の文章に悪意が感じられますか? 疑問です どの点が不満なのか疑問の為、疑問を書きました 自信は無いが参考意見 とも表示していますが?◆
 各子孫の方にも失礼は無いと思いますが?それと疑問の項目無の為、
返答・回答・補足説明(質問者への)でないのでアドバイスに仕方なく、チェックを入れました

投稿日時 - 2009-09-25 14:29:37

ANo.58

mokshaさん、あなたのおっしゃってることは妄想であって、特定はできないと思いますよ?

それから僕は、子孫がいるのを知っていてでてこいやあと、面白く言ってるだけなので、何もmokshaさんに難癖つけられる覚えはないですけどね?

いろんな意見があっていいんじゃないでしょうか?

回答の評価者はあなたではなくて質問者さんですから。?

自分はこう考え、こう思う、でいいんじゃないでしょうかね~??

返答は不要です。

一応うちは、徳川家、豊臣家、島津家、の関係する家なんで、あなたの意見どうこうはどうでもよかったのですが、書いておきますよ。

子孫は居ますから。

現に今の天皇陛下の祖母は島津の方であるし、当代の当主さんともうちは関わっています。

だから何ってことですが、人は人、もっと自分のご意見をもってくださいね?どうでもいいことですが?

投稿日時 - 2009-09-25 08:26:37

ANo.57

え~、、、真説:日本の歴史 という(違ったかな?)雑誌によると ですが、
1.明智(土岐氏)光秀の居城:坂本城から京の本能寺まで、最近の検証によると、雨の為に道が「ぬかるんで」いて、明智 光秀が本能寺攻めの為、上洛したとして、到着した時点では既に本能寺は炎上していた
 とのことが判明
2.明智 光秀と織田 信長、この二人は共に合理主義者で、気が合っていたらしく、また明智 光秀は元々は斉藤 道三の家来で冷遇されていたので、織田 信長の家来になり、外様なのに 柴田 勝家らと共に
=織田家五人衆=として実は優遇されていた とか・・・
3.古今東西、殺害事件の基本ですが:「或る人が死んで、一番 得をした人間、それが真犯人」という1つのセオリーが有りますが、そうすると、織田 信長が死んで、一番 得をしたのは? です
4.織田 信長という人は当時の「急進改革者」だったようで、旧来の既得権益者から見れば、目障りな存在だったと言えるでしょう
5.徳川 家康は、この事件後、何故か慌てて三河に逃げているようです ということは・・・?
6.木下 藤吉郎(後の秀吉)の毛利攻めからの京への戻りが異常に早過ぎる点が指摘されていますが?

また、前の回答者の人が「織田 信長・明智 光秀の子孫、出て来い!」とか書いていますが、スケートのオリンピック選手:織田 信成選手は、子孫で、また明智 光秀の子孫はマリア・マルゲリータ・ルイス・明智 というスペイン系イタリア人と日系ブラジル(ポルトガル)人の混血で 織田 信成 選手と対面していますが?

さて以上から、真犯人は? ですね 徳川 家康 この人は逃げ帰っている点から、また、信長 公とは盟友だったはずで、この時点で犯人から外れませんか? 明智平の件は事実らしい・天海 僧正、この人が「明智 光秀」らしいという説が近年、有力視されているようですが?

以上から、真犯人は特定できると思いますが? ま、参考に!

投稿日時 - 2009-09-25 02:03:24

ANo.56

これは意見のみです。

信長公を歴史上の悪人にしているのは明治以降の天皇(朝廷)を中心とした白痴教育であって、

実際、信長公という方は、関税を撤廃したり、税を減らしたり、既得権を追放したり、民主化を進めた偉人中の偉人、

日本という国はそもそもが素晴らしいのに関わらず、信がないために、揺さぶられやすい。

各々武将は現代人以上にさらに彼らの以前の歴史について知っていたわけですし、それも当たり前の話ですが。

勝った側だけの正当性や、民衆を粗末に考える今までの思想の中においての作られた歴史になんの価値も見出せず。

今生きている人のみこれが真実であり、各地の子孫が各々の先祖を大事にして、親睦し、それぞれの流儀を以って、子孫に先祖の威徳、その教えを伝えていくことが大事かと思いました。

やっぱり、決着は素手でレスリングでいいでしょう。

信長の子孫、光秀の子孫、出て来いやあ!!!

投稿日時 - 2009-09-24 17:43:11

ANo.55

あると思います。

歴史ってそうそう血なまぐさくドラマ化されていて。
その風潮は現代映画の歴史物なんてまさにそうでしょう。

生き残ったと思いますね。
家康公ならば、「よくやった!」と褒章も取らせるでしょうね。

信長公に関しても脚色されすぎて何が本当だか分かりませんが、明智光秀ははっきり言って信長公に家族を滅茶にされたわけですから、亀山の西興寺に向かう途中に「光秀の返り巖」があるのですが、大坂へ行くのにわざわざそこで京へ引き返して本能寺へと向かう心内とは、それはもう憤怒の修羅状態であったことでしょう。

「ううう”おのれ信長め!!ここであったら百年目!!」

という感じかもしれません。

そんな軽装で駐軍してたなら、もう、ほぼ信長公にとっては天下統一したも当然の心境だったのでしょうか。
まさに時は下克上。

だけども、そんなことすら、今は昔。分からないです。なので、いでよ光秀と信長の子孫!!とジャッジをきりたいところです。

投稿日時 - 2009-09-24 17:21:40

ANo.54

まず本能寺にあの時点で信長が投宿しているのを知っているのは、光秀と信長しかいなかった。
これで他の容疑者はほぼ消え去ります。
秀吉も、毛利とギリギリの交渉をしていたわけで、あのタイミングで信長を消し去るのはリスクが高すぎます。
大返しは秀吉の準備の良さゆえです。なぜなら何度も信長軍団は突然の危機に襲われているからです。そうしたとき真っ先に駆けつけるために秀吉も準備していたのでしょう。また、この準備は万が一中国で毛利に敗れて退却するときにも役立ちます。

一方京の都に軍勢が夜に近づけば、相当の物音が響きます。しかし信長方は怪しまなかった。むしろ堅牢な寺院である本能寺にやすやすと侵入できている。
以上の点から、光秀は閲兵のために信長の元に立ち寄る手はずになっていたか、別の理由で信長が光秀を呼びつけたものと思えます。

蛇足ながら、織田軍が弱兵という回答があったので……
尾張の弱兵とは、司馬遼太郎がよくする言葉ですが、私は疑問に思います。実際は信長に率いられた織田の軍勢は無敵を誇るのです。唯一長島一向一揆には何度か苦杯を舐めさせられています。ボロ負けしています。
やはり鉄砲と輪中という特殊な地形がものをいうのでしょう。

しかし、特に信長親衛隊は強かったのです。
村上砦を少数で力攻めで落とし、数にも勝る柴田勝家の軍を破り、今川義元の軍勢を桶狭間で破っています。
その後も本願寺の強襲に光秀らが包囲されたのを救出し、大軍を敗退させています。
武田よりも騎馬軍団らしい活躍を見せる織田の黒母衣衆こそ最強騎馬軍団といえるでしょう。

投稿日時 - 2009-09-20 13:21:08

ANo.53

>細川家や筒井家に何度も手紙を出していますが、
>その中に秀吉が本能寺の変に関与していることは書かれていません。

細川 藤孝(幽斎)は光秀を裏切って秀吉についたのだから、
秀吉に不利な書状などは残すはずはないし、
筒井順慶は、やはり秀吉に寝返った後、本能寺の変の僅か2年後に
不審な死を遂げています。(胃の病と言われているが、毒殺とも)
これまた何か匂いますよね…
案外、秀吉にそそのかされて信長を殺ったのは、
筒井順慶の手の者だったりしてね。

秀吉の中国大返し自体が、大嘘のようですよ。
おそらく本能寺の変の起こった頃には、
既に京都に向かっていたと思われます。
当時、秀吉が正義の味方に祭り上げられたのは、
それだけ織田信長が嫌われていたということだと
思うんですよね。で、信長べったりの光秀が、
下手人に仕立て上げられたんだ。

家康は、おそらく秀吉にそそのかされて、堺まで
呼び出されていたのでは?
すぐに軍を動かせないようにね。

投稿日時 - 2009-06-26 01:58:20

ANo.52

本能寺の変の黒幕が秀吉だったとは考え難いです。よく根拠として秀吉が中国大返しの準備をしていた形跡があることが指摘されますが、土地勘のない他所へ攻めて行く軍隊がいざという時のための撤退の準備をしておくのは当たり前。派手好きな秀吉ならその撤退さえもアッと世間を驚かす速さでやるつもりだったと考えておかしくないでしょう。それが明智征討に役立ったのはまったくの偶然ではないでしょうか。
明智光秀の立場になって考えても秀吉黒幕説は容易に否定できます。光秀は迫り来る秀吉軍に対して味方を集めるために細川家や筒井家に何度も手紙を出していますが、その中に秀吉が本能寺の変に関与していることは書かれていません。もし本当に秀吉が黒幕だとしたら、光秀はそれらの手紙に「秀吉は忠義面してるけど、本当は信長殺しの黒幕はあいつなんですよ」と書くはずではないでしょうか。

徳川家康黒幕説も有り得ません。本能寺の変の急報を受けて命懸けの伊賀越えの苦労をする羽目になっているわけですし、武田が滅亡したとはいえまだまだ北条もいるし、織田政権を継承した者が徳川家と敵対するかもしれない(実際に小牧長久手の戦が起きていますね)。まだ小国であった当時の徳川家が織田信長という庇護者を失うのはリスクが大きすぎます。

結局、秀吉や家康が本能寺の変の黒幕という説は、後にこの二人が天下を獲った歴史を知っているからこそ思いつける推理小説的発想の産物だと思います。

投稿日時 - 2009-06-25 23:07:50

ANo.51

何故、織田信長の軍隊が弱兵だったかというと・・・

その頃の一般的な軍隊は、領地の農民を集めたもので、
いわば土地に縛られていたわけです。
農繁期は田畑に時間を取られ、戦どころではありません。
戦争は農閑期に限られていたのが、当時の常識でした。
つまり兵は一旦村に戻れば、村の共同体の一員ですから、
戦いにおいて逃げたり戦わなかったりすれば、
戻った後村八分にされたり、家族に迷惑がかかる。
だから戦場においては、勇敢に戦わざるを得なかったのです。

ところが織田信長は、この常識を覆した。
織田軍団というのは、金で集めた傭兵集団だったのです。
ですから、織田の領地の農民でもなんでもない。
金で集まっただけですから、平気で逃げる。命を惜しむ。
弱兵と言われる所以です。
しかし農業ともカンケイないから、田植えの時期であろうと
稲刈りの時期であろうと、戦いを吹っかけてくる。
相当ウザい、しかもしつこい。
それで近隣の領主が音を上げるというのが、
織田の戦い方だったらしいです。

投稿日時 - 2009-06-25 10:04:34

ANo.50

長篠の合戦での有名な馬防柵裏からの三段撃ち

検証が進んだ現在では作り話だという事になってます。
似たような作戦行動はしたのかもしれませんが、一般的に言われてた様な効果はなかったようです。

当時、信長軍団は弱兵で有名だったらしいのです。
そのイメージを払拭する為と信長個人の天才ぶり・凄さを世に知らしめる為に、当時最強と云われた武田騎馬隊を簡単に破った!と宣伝する為に誇張したらしいです。


本能寺の変
実は徳川家が天下を取った過程に関わる重要な資料は、残念ながら江戸時代徳川家によってかなり情報操作が行われてきた可能性が非常に高いのです。
本能寺の変自体は秀吉が天下を取れた要因で、直接的に徳川家が天下を取った要因ではありませんが、徳川家にはかなり重要な政変でもあるからです。
ちなみに、徳川家が明治政府に渡した正史も、情報操作・誇張表現をして記載してある事を当時の徳川家が認めてます。

投稿日時 - 2009-06-24 20:26:14

ANo.49

天海が明智光秀と同一人物なのは、事実だと思うけど・・・
本能寺の変は、明智光秀の単独で、豊臣秀吉は、知っていた・・
徳川家康は、明智光秀を助けたんじゃないかな???

投稿日時 - 2009-06-24 18:41:57

ANo.48

火縄銃については、前の人が打ち終わったら、後ろの人が前の出て打って後ろが前に後ろが前に・・・を繰り返したんではないでしょうか?

投稿日時 - 2009-06-23 16:27:44

ANo.47

小生も教えてgooトゥデイから誘導されてきました。

小生は光秀の心理から考えてみて、「自棄」になっていた。と推測しております。
所謂、精神衰弱=ノイローゼを起していた。と言う訳です。
本能寺前の上司=信長からの重度のイジメを受けていた訳ですから、仕事一筋「働きマン」の光秀は相当悩んでいたと思います。
一生懸命に働いてきたのに、この仕打ちは酷い!!
「自分のやって来た事は一体なんだったのか?」
その為に御袋さんまで死んじゃったのに… (p_q*)シクシク
こんな状態であったのは容易に推測出来ます。

精神的にギリギリの状態でとても「天下」を狙う策略を考える&手を打つ事なんて出来る訳がありません。
つまり、本能寺の変は光秀の信長に対する『仕返し』の領域が大半で、その後の事なんて深く考えていなかった&考える余裕すらなかった。
と言う事だと思います。
本能寺前後の光秀の中途半端な言動が、それまでの『家中随一の切れ者』らしくありません。
いくら有能の士であっても精神的に余裕の無い状態では単なる「キレた」者でしょうから…

逆に家康と秀吉が共謀もしくは単独で信長と光秀を「ハメタ」とするならば、普通に考えて「リスクは最小限に抑える手はず」を整えるハズです。
光秀をそそのかして信長抹殺を図る以上、「操り人形の光秀」の狙いはあくまで信長の首が第一。第二に天下。
となる訳ですから第二の狙い「天下」を獲る為の行動はライバルの抹殺。
となると、家康が大阪に居た。と言う事実は操り人形=光秀に逆に殺られてしまう可能性が高すぎです。
策士、策に溺れる。の諺にもなりません。
家康自身が光秀を使い、信長を亡き者にして天下を狙うとしたら、大阪に居る意味は一体なんでしょう?自身をエサにするには脱出の手はずが余りにお粗末です。
秀吉にしても、毛利との戦は自軍有利の情勢であっても、停戦調停の交渉が行き詰まりをみせていた頃です。
毛利方に己の策=信長抹殺が知れたら全滅の可能性だってありました。
調停が成り立たず、日数を要するだけで他の軍団長に後れを取って終う事も考えればリスクが大きすぎです。
毛利方も最初から抱き込んでいた。と仮定すると、史実の実績から毛利方の損害が大きすぎ、利益が薄く、勘定が合わな過ぎです。
第一に、自軍が光秀軍を確実に破れる。と言う確定的な手を打っていなければ成り立たない謀略です。
即ち事前に他の者(畿内の武将達)達に光秀軍につかない様に手を打っていなければなりません。
そんな事をすれば全員が全員秀吉につくハズもないので、信長抹殺の謀略は何処かで漏れているハズ。

と言う事で、家康と秀吉の信長抹殺の謀略は少々無理がある。と思うので・・・
少なくとも「信長殺しの光秀を」手の内で飼って置く必要性はないし、光秀自身も自らがライバル(すくなくとも同格)の配下になる事を良しとしたかどうか… (ー_ー;ウーン
小生は少なくとも裏で手を引いていたのは家康と秀吉ではない。と考えています。

信長の専横を良く思っていない朝廷が仕組んだ。とするならば、功一等である信長抹殺を実行した光秀に対しての優遇措置があまりにも『ショボ過ぎ』で、光秀すら使い捨てと考えていたとしても、その次のモノも同様に考えるハズ。
朝廷にとって利益をもたらす者が「秀吉」である。と朝廷が考えていたとはにわかに信じ難いです。

キリスト教を主とする外国勢力&キリシタン勢力が光秀をそそのかした。とする説もキリシタン勢力が本能寺後光秀に合力していない以上少々無理があります。

よって小生の結論は
「光秀の行き当たりばったりの行動の結果。」
と考えております。

投稿日時 - 2009-06-23 03:40:43

ANo.46

 多くの回答文をみていてこの問題に対する真剣度がわかります。平成21年3月9日にプレジデント社から「本能寺の変 四百二十七年目の真実」が出版されました。本能寺の変の時代に書かれた古記録といわれる信頼度の高い史料のみをベースに、本能寺の変を解析しきっています。後年書かれた軍記物や小説の誤りも分析し説明しています。
“歴史研究書”といっても小説のような読みやすさで編集されていますので是非書店か図書館で手にとってご覧ください。
 本の宣伝のような回答になってしまいましたが、noname#2111様のように疑問を解決できなかった多くの方々から驚きのメールやコメントを頂いています。私はこの著者の活動を応援するブログ「明智憲三郎的世界(光秀子孫の思い)by法丸」を運営している法丸と申します。

参考URL:http://praha.at.webry.info/

投稿日時 - 2009-06-21 13:16:30

教えてgooトゥデイから誘導されてきました。
7年前の質問、しかも質問した方は退会済みということなんですが、
まだ回答して自説を披露していいということなんでしょうね。

7年前からならその後新たな発見もあります。
例えば本能寺が実は堅牢な要塞だったということも最近明らかになったはず。
さて井沢元彦さんの説ですが天智天皇は実は暗殺されたという説があります。
この根拠のひとつとして京都の南のほう、山城地方に天皇塚という塚があり
天智天皇の墓だったという伝承があるという話を取材されています。
人のうわさというのは1300年経っても消えることがないという一例だと
思います。
もし本能寺の変が豊臣秀吉の謀略だったとか、明智軍は救援に向かったのだと
すると必ずそれをうかがわせる噂が残ったはずです。当時の世の中では
軍勢は見れば何軍か分かるようになっていたはずですし、また当時の京都は
既に都会で人口もかなり多かった。しかし一般的にそのような流言の
類は記録されていないし、光秀三日天下と言われるように光秀に対して
好意的ではない。ということは当時の庶民の間でこれは光秀の暴走による
事件だったと理解されているということです。なので表面的に見える
秀吉、家康が関与した事象は存在しなかったと思います。

朝廷の陰謀だったとするのが物語的には面白いと思いますが、私はやはり
偶発説、たまたまその瞬間、信長の回りに軍勢がなく、明智軍だけが
京都に出撃できる位置にいたという偶然が光秀に魔ををささせたのだと
思います。

赤穂藩主の浅野匠守が刃傷に及んだのは鬱積したものはあったが、事件
そのものはその日の天候と松の廊下の光線の具合が誘発した偶発的な
事件だというメンタルヘルス面の要素を加味した説があります。

歴史には偶然が起こしたものというのはいくつもあると思っています。

投稿日時 - 2009-06-20 14:07:21

ANo.44

歴史好きです

取りあえず徳川家康の関与は無いと思います

信長が本能寺で遣られた時点で
家康は大阪に滞在していました

家康が命からがら尾張に帰って光秀討伐しようとした時すでに

 秀吉の中国大帰えしで光秀は終わってます

この時点で秀吉の天下です

投稿日時 - 2009-06-17 23:30:26

ANo.43

No,43yoosieさん

>光秀はあっさり安土城にあっさり入城できたっけ?

光秀は、6月5日~8日、安土城に入城していますよ。
6月2日、本能寺の変その日のうちに安土に入ったという説もあります。

>その前に安土城は焼かれていると思うけど
>なぜ反乱軍を鎮圧した正規軍が入城するのに
>焼く必要があるんだろうね。

安土城が燃えたのは、山崎の戦の後、6月15日~16日にかけてです。
安土城には光秀の光秀の女婿、明智秀満が守っていましたが、
山崎の戦の結果を知り、城を放棄し坂本城に移ります。
その残党狩りのどさくさで、織田信孝が城下に火を放ったのが
延焼したという説がありますが、何か違う意味があったような気がします。

投稿日時 - 2009-06-11 17:54:29

ANo.42

>>No.42さんへ
秀吉の手の内の者って誰?
それに、信長が少人数で入京するとも限らなかった訳で
それこそ報伝達手段も発達してなかったんなら
単騎で入京したのが分かってからじゃ遅いんじゃ?
そこがはっきりしないとすべて妄想になってしまうよ
あと、光秀はあっさり安土城にあっさり入城できたっけ?
その前に安土城は焼かれていると思うけど
なぜ反乱軍を鎮圧した正規軍が入城するのに
焼く必要があるんだろうね。

投稿日時 - 2009-06-11 15:17:32

ANo.41

はじめまして!楽しく拝見しました。
何の根拠もなく、自説を披露しちゃいます(笑)
私は秀吉の陰謀説なんです。
実は本能寺で信長を暗殺したのは、秀吉の手の者だった。
何故なら、信長を手勢のみで本能寺におびき寄せたのは、
他ならぬ秀吉。備中高松城を攻めていた秀吉は、自軍のみで
攻略可能にもかかわらず、援軍を要請した。
それに呼応した信長が、わずかな手勢のみで出陣したのは、
光秀の軍を伴うからである。
このとき既に、秀吉は毛利と休戦のお膳立てをしていた。
だからこそ、あの中国大返しが実現できたのです。

信長と同じく毛利攻めのために出陣していた光秀軍は、
本能寺の信長が攻められているのを知り、救出に向かいます。
そのときの言葉が「敵は本能寺にあり」なのです。
光秀の1万3000もの兵が、何の抵抗も受けずに京に入れたのは、
光秀軍が救援隊であったからであり、また本能寺の変の後、
光秀が安土城に無血入城できたのも、信長の死を報告に行ったまで。
また細川幽斎に宛てた手紙の中で50~100日もすれば畿内も落ち着く
ので、自分は引退する、などと書いたのも、自分が信長暗殺の
当事者ではないから、なのです。

その当時は、まだ情報伝達手段も発達しておらず、
謀反の張本人秀吉は、救援に向かった光秀の軍を、
後から反乱軍にでっち上げたのではないでしょうか。
それだけに、真実が伝播する前に光秀を殺害し、
間違った情報を正当化する必要があったのです。
そして、信長は、朝廷、臣下の各武将、その他
圧倒的多数のものに恐れられ、いずれ排除されるべき
と考えられていたために、多少の疑惑はあったとしても、
概ね歓迎された、というようなことなのではないでしょうか。

投稿日時 - 2009-06-11 13:55:11

ANo.39

(1)信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う
(2)「本能寺の変」本当の謎
(3)真説 本能寺
黒幕説を否定し、単独犯説の元になった本だ
しかしこれらや既存の仮説には致命的欠陥がある。『世界史の常識の欠如』つまり『朝廷』を一勢力として捉えている点だ。そこであえて新説を述べる

それは『摂関家黒幕説』だ
実際に『朝廷』と書かれた部分を、
I天皇と親王 (信長と同盟関係)
II主流派摂関家 (最初から反信長派)
III非主流派摂関家 (近衛前久など。対主流派対策として信長に接近、のちに裏で主流派と手を組む)
IV他の公家 (日和見)
この4勢力に分割して読み替えるといい。すんなり読めることに驚くと思う

しかも黒幕説反証のすべてが逆転する
(反証1)謀反計画を隠し続けることは不可能
 (逆転解)第一次謀反事件は未遂。それが佐久間親子追放だ。しかし全貌解明は出来なかった。『~変』は元々この謀反計画の一部だった
(反証2)~変の直前で家臣全員の説得は不可能
 (逆転解)首謀者は家臣全員だった。光秀は妻子を人質にされた。信長の遺体消失も説明がつく
(反証3)吉田兼見の日記で「謀反」とあるのは、朝廷と対立関係になかった証拠
 (逆転解)天皇と同盟関係にあった信長を殺したのだから、「謀反」である
まだほかにもあるが、それらすべての反証が無効化し、「単独犯説」などの既存の仮説にあった矛盾が完全消滅する

最後に三言
「無罪の人(天皇と親王)の無罪の証拠を挙げ、犯罪者を含む勢力全体(朝廷)を無罪とすれば、いかなる凶悪犯罪者(摂関家)でも無罪の証拠をでっち上げることが出来る」
「信長が死んだとき、摂関家は大宴会を開き、天皇は絶望して倒れ、親王は光秀らと対立したことは歴史的事実」
 自説を長々と解説してすみません。

投稿日時 - 2008-11-17 21:44:53

ANo.38

公家黒幕説が多いみたいですが、当時天皇の権威なんて歯牙にもかけられていませんでした
天皇が葬式も出せずに遺体が腐ったまま置かれていたのは有名な話です
天皇家でさえそうなのでえすから、当時の公家のくらしなどは悲惨でした
(後の秀吉も天皇の権威を演出するのに四苦八苦しています)
そんな状況の中、いち早く天皇の権威を復活させようとしたのが信長です
事実、信長が京都に入ってからは天皇の暮らしぶりは、かなり良くなっています
そのような、信長を公家が打つでしょうか?
天皇家を信長がないがしろにした、と言われていますが
信長以前、足利の頃にはすでに天皇家はないがしろにされていたのですから
信長がないがしろにしたと言って、憤る必要は無いはず
そてどころか、復活させた大恩人です
以上のことからも公家陰謀説は妄想です
徳川家康と羽柴秀吉の共謀による暗殺説、これは過去ログにもあるよう
話にもなりません
足利将軍黒幕説もありますが、当時、将軍は毛利家の庇護を受けていました
足利が黒幕であれば、当然毛利は光秀の謀反は事前に知っていたはずです
となると、秀吉を追撃こそすれ和睦するなど考えられないことです。
実際の所は、よく言われているように本能寺の変は光秀のノイローゼによる結果と見るのが1番自然だと思います

投稿日時 - 2007-10-24 04:58:18

ANo.37

長宗我部黒幕説も聞いたことがあります。

光秀は信長暗殺後は織田の家臣とは敵対することになりますから、織田と敵対する他大名とは友好関係を築く必要があります。光秀と信頼の深かった他大名と言えば、長宗我部元親です。もともと、長宗我部と織田は友好関係にあり、長宗我部との織田側の窓口役が光秀でした。元親の息子の信親の「信」の字は他ならぬ信長の「信」から取ったものです。そのくらい織田と長宗我部は友好関係にありました。ですが、織田と三好が親密になるにつれて、三好家と敵対する長宗我部の存在が織田には疎ましく、1582年ついに長宗我部討伐の軍勢が四国へ向かいます。そして、同年6月、光秀謀反の本能寺の変へ突入していきます。その後、長宗我部は伊予へ進行し、1585年、四国統一を成し遂げたが、同年、既に近畿北陸を平定していた秀吉と対立、ジリ貧、降伏へと向かいます。
光秀は、謀反前には、既に西側諸国(毛利や長宗我部)と結んでいた可能性が大いに高いと言えます。

投稿日時 - 2006-07-27 04:17:06

ANo.36

NO.35の人が言ってる事って本当なの?
本当だとしたらすげーことだけど。
個人的には過去の事なんて結局分からないと思う。

投稿日時 - 2006-07-25 22:14:29

ANo.35

 こればかりは「本人に聞いてみる」のが一番だと思います。

 個人的には知らないもので・・・

投稿日時 - 2006-07-17 14:22:48

ANo.34

本能寺の変は実は徳川家康と羽柴秀吉の共謀による暗殺であった、それともやはり光秀の謀反であったのか、、実は答えはそのどちらでもないでしょう。
本当に最近分かった事ですが徳川家康と豊臣秀吉は
『過去に存在しなかった人』です。
今尚、教科書には昔と同じように書かれたままですが、今更論説を曲げる事は日本史の崩壊に繋がるという事が懸念されたからです。

投稿日時 - 2006-05-09 22:55:55

ANo.33

八切 止夫 の「信長殺し、光秀ではない」という本は読んでおくといいと思う。
最近では、佐藤雅美の「信長」も読んでおくといいかも。

いまだと秀吉が大がえしをやったから、光秀ってバカだなってことになってるけど、計算の結果、あの行動に出たんだと思う。毛利に早い段階で信長を討ったことを伝えてれば、勝たなくても独立は可能だったと思う。それを察知、封殺した秀吉がやっぱりすごいわけだけど。
松永久秀、荒木村重のことなんか考えても、成算があるからやるわけだし。
今みたいにこんなに情報が早く伝わる世の中じゃないし、その中で計算するわけだからねぇ。

だから、私はやっぱり光秀がやったんだと思うよ。長男信忠を二条城で討ってるわけだしさ。

昔、読んだ小説では信長が天海上人になったってのがあったなぁ。


あと、論議になっちゃうから示唆だけしておくと、
信長は征夷大将軍を打診されている→源氏じゃないと将軍になれないというのは確定的な話ではないです。実際に貴族や皇族の将軍もいたけど、源氏というか武士ですらない。
徳川家は源氏→前の方が話されてるように、徳川家が源氏になったのは実はあとづけとされてます。。正統な新田の子孫、岩松家の家筋を乗っ取ろうとした話がある。(「猫男爵」という本を読むと面白いです。)


こういうお話が好きなら、本当に八切 止夫はおすすめです。

投稿日時 - 2006-04-05 10:14:20

ANo.32

私の住んでいる県に、明智平は確かにあります。
本能寺の変も家康が唆したという説もあり非常に興味深いところです。光秀=天海僧正という説も考えるだけで楽しいですね。
ただ、実際はどうなのでしょう?
明智平=明智光秀っていうのも具体性に欠けるものがありますし、日光東照宮の資料館にも明智家に関わるものは一切ありません。
もしかしたら、東照宮などに秘密の鍵があるかもしれないですね!
週末にでも行こうかな(^^

投稿日時 - 2006-02-06 23:13:37

ANo.31

今年の大河ドラマには、安徳天皇は入水してなくて僧門に入っていた、とにおわせるエピソードもありましたね。

「光秀が生きていた」説は「世界ふしぎ発見」で数年前にやってましたね。あの番組は元ネタが最近の本であることが多いようなので、探せばあるんじゃないでしょうか。

それから、聖徳太子は実在しなかった、というのも聞いたことがありますね。

私が中学生の頃「ムー」という雑誌に、「本能寺の変」は信長が鬼に襲われ光秀が助けに向かった事件だった、というような記事がありました。

投稿日時 - 2005-12-16 00:05:48

ANo.30

>No.25
>天皇制を破壊、廃止しようとするモノは
>不思議な力が働いて抹殺されてしまう。
>というのが私の個人的な持論です。

「大河ドラマ・義経」でも
後白河法皇の「2枚舌・3枚舌」
「権謀術策」恐るべしですね!

投稿日時 - 2005-08-11 14:57:38

ANo.29

明智光秀は、源氏であったので征夷大将軍になれる資格はありましたね。小田信長は平氏ですからその資格が無かったので、朝廷には冷たかったですね。それゆえ自分が神だと言い出したのですから刺客はでますね。一方、松(平)家康は、名の通り平氏ですから徳川の源氏姓を手に入れても負い目はあったでしょうね。つまり、朝廷としては源氏の明智を征夷大将軍にしたかったのでしょう。それゆえ、えせ源氏の徳川は明智をないがしろにはできなかったのではないでしょうか。当然、家康は妻子を殺された恨みも小田信長へあったと思われますから、信長を討った明智をよきものと思っていたのではないでしょうか。それは、孫の家光の乳母が明智の家来の娘であったことからも伺えますね。戦国時代は、物言わぬ朝廷と源氏、平氏の権力闘争であったことは確かですね。

投稿日時 - 2005-08-10 12:39:38

ANo.28

明智光秀自身、異端者なので難しいですね。
第一、将軍家と織田家とに二重に仕えていた光秀を信用する人がいたのかどいうか怪しいですね。
細川親子はきちんと足利義昭と縁を切ってから、織田信長に仕えていますが、光秀だけ二君に仕えていたのです。
戦国時代唯一です。それに明智光秀がいくら教養にありふれても室町の教養の旧体制のもので、一国はまとめる器はあったにせよ、新時代を築ける才能は無かったと思います。

明智光秀の欠点はやはり家臣が不甲斐なかった点もありますね。優秀な参謀、副官に恵まれなかった。自分が旧体制の側で、家臣も旧体制の思考しか無かった。
ある意味、家臣に説得されたのもうなづけるかもしれません。なにせ、反逆したのに光秀側の離反者は出ていないのですし。

補足を言えば、織田家臣団の中で最もスピード出世したのは明智光秀です。軍団長の中で新株です。異例中の異例ですね。となるとやはり武将としての能力は一流だったんですね。

後、たしか長篠の火縄銃は織田信長の指令には総数が3000丁以上を集めるように各部隊に打電しています。3000丁の鉄砲は指令書から推測しているそうです。
しかし、各部隊の保有数を遥かに超えており、部隊の金庫を空にしても集まらず、銃の高騰もあって満足に揃えれなかったそうです。さらに、新品、中古をかき集め、しかもメンテもしていない状態で集めたので、実際に使えた鉄砲はよくわからないそうです。
鉄砲隊の育成に時間がかかるのに、急遽編成した新鉄砲隊が活躍できたとは思えません。

長篠は結局消耗戦になり数字の上では「引き分け」だそうですね。大勝利ならこのあと追撃して信濃、遠州は落ちてます。そうならなかったのは織田の被害も馬鹿にならなかったのです。これは織田方のメディア戦略とも言われてますね。誇大に宣伝して四方の敵をけん制する。

投稿日時 - 2005-07-11 00:29:08

ANo.27

まず質問者さんの「日本史学的に」ということについて述べさせてください。日本史学的な意見となりますと歴史学の定義による「光秀事案」を論じることになります。となりますと、あくまで「光秀は実は生きていた」などということは日本史学という枠組みでは学となり得ません。歴史学の基礎として、事実を積み重ねた上での結果として出来事を認識します。ので、確定的な(証拠が自明とされる)要件ではない「光秀生存説」ということは、歴史学の視点でいうことは不可能です。(歴史学にifはないといわれるのはこの所以です)
ただし、歴史学という枠組みを外して考えることは面白いので悪いことではないですし、作家も諸説提案していますから想定してみる余地はあろうかと思います。
で、「光秀生存説」ですが、個人的には光秀が本能寺の変以後、天海という僧侶として徳川政権のフィクサーをしていたということは無理だろうと思います。なぜかということですが、家康にとってリスクを負ってまで生かす理由がないということ。つまり、先にお答えになられている方がいますが、家康にとって天下取りの最大の障害は2点。豊臣家と松平ではなく自明な源氏の末裔だということを朝廷に知らせしむことだっあっと考えています。前者は武力によって、後者は徳川になることで解決しました。
筑波や日光に光秀由来の場所・モノ、高野山に光秀の墓を建立などをもって「光秀生存説」はなりたっていますが、天海が明智家を個人的に慕っていたなどいくらでも理由は考えられますし、当時の世相を見るに大名クラスとなると地縁血縁関係者などは天文学的数値と考えて問題ないかと思いますし、北条氏や斉藤氏を考えてもかなり出所が曖昧な時代です。
血の正統性が確固たるモノとして確立するのは実は江戸時代中期ですし、夢はないですが私は「光秀は史実通り京都市山科区において農民に惨殺された」のこれまでの説をとりたいと思います。

投稿日時 - 2005-07-01 10:21:21

ANo.26

黒幕がいたという説は知りませんが、光秀は朝廷をないがしろにする信長に対して不満を持っていたとか、信長に母親を殺された怨みがあるとか言われています。
信長が浅井長政を討って、その頭蓋骨で杯を作った際に、光秀が激しく動揺したという言い伝えもあるそうで、正直ついていけなかったんでしょうね。

投稿日時 - 2005-07-01 10:13:46

ANo.25

踊らされたかどうかは別にしても 光秀はインテリであり朝廷ににも忠誠心があった可能性は大でしょう。

ところで本能寺の変の当時は秀吉は毛利攻めの最中、家康は堺に旅行中と下手をしたら命を落としかねない状況にあり、暗殺計画を知っていたとは思えません。
京・安土・岐阜に近いところに居てある程度の手勢を持っている人物の方が黒幕にふさわしいと思います

家康が源氏の頭領ということになったのは征夷大将軍職を得るために必要だったからで、(歴代の将軍は全て源氏)本当に源氏の血を引いているかというとかなり怪しいと思います。井沢元彦 著「逆説の日本史」でも触れられてます

投稿日時 - 2005-06-27 11:46:01

ANo.24

私は以前より、

24番
回答者:donna13さんの

>私は光秀が朝廷に踊らされたのでは

と同じ立場をとっています。

古来より朝廷や天皇の立場を危うくする、
もっとズバリ申しますと
天皇制を破壊、廃止しようとするモノは
不思議な力が働いて抹殺されてしまう。
というのが私の個人的な持論です。

信長は天皇制を廃止して、
自分が新しい王となり
完全に新しい秩序を創出するつもりだったと
私は考えています。

ですから、黒幕が朝廷であったかどうかまでははっきり判りませんが、
天皇制を存続させようとする、
巨大な力によって、信長は抹殺されたと考えています。

投稿日時 - 2005-06-19 22:18:34

ANo.23

ちょっと本題とは逸れますが...
>本能寺は「寺」であって、籠城できるような「城」ではない。
現在の本能寺は町中の小さなお寺ですが、当時の本能寺は別の場所に有り、敷地はとても広いものでした
数年前まで「本能小学校」がありましたが、現在はマンション建設中です
本能小学校時代、更地時代、マンション建築現場それぞれを見に行きましたが、かなりの広さです
また、万が一の時の備えとして造りは堅固だったそうです
当時は僧兵を擁しているお寺もあった程ですから、いかに信長と言えども、囲まれただけで簡単に落ちてしまう場所に宿泊するような無謀なことはしなかったと思います

本能寺の変は色々と説がありますが、私は光秀が朝廷に踊らされたのでは?と密かに思っています
しかし光秀の思い付き程度であんなに事が順調に進むのかという疑問も大きくありまして、やはり秀吉が後ろで何らかの手を引いていたのでは...と個人的に思っています

投稿日時 - 2005-05-26 14:20:21

ANo.22

>2代3代将軍の名前には光秀の字がつけられている
秀忠の「秀」は秀吉からもらったと見るべきでは?

最近、影武者徳川家康にはまってます。
じつは家康は関ヶ原で死に、以後は影武者がすりかわっていた、というもの。

投稿日時 - 2005-05-10 07:16:42

ANo.21

東照宮の「明智家の家紋」って「桔梗紋」のことでしょうか。明智は源氏ですね。徳川も源氏ですね。源氏の家紋は「桔梗紋」ですね。

【問】
なぜ東照宮に桔梗紋があるか

【答】
徳川が源氏だから

こっちの方が自然ではないですか? 明智との関係を隠したいのであれば、わざわざ証拠を残すようなことはしないでしょうね。

投稿日時 - 2005-04-27 13:10:52

ANo.20

こんな説を聞いた事があります。
信長は岐阜城を築いた後で、城内にご神体と称して
石を置き、これを神である自分として崇めるようにした。
詰まり、自分は神であると宣言した訳です。これに伴い
これまで庇護していた耶蘇教を禁止しようとしました。
これに危機感を抱いたのは当時キリスト教の布教に来ていた宣教師達で、ルイス・フロイス達はキリスト教としては絶対神ゼウス以外は認められない。自分を神という信長は除かれるべき存在と成った訳で、そこで光秀をそそのかして信長を打たせたとか。
ルイス・フロイス等当時の宣教師達はフリー・メーソンのメンバーで、フリー・メーソンの陰謀説は面白い。

投稿日時 - 2005-04-01 13:07:10

ANo.19

なにかで見たことがあるのですが、実は三代将軍の家光は秀忠の子でなく、光秀の子と言う説をみました。家光の実験を影で握っていたのが乳母おふく(後の春日局)ですが、おふくは光秀に仕えていた家臣(斉藤利三)の娘でありました。実際、乳母を募集して選ばれたらしいですが、家康が同盟国の信長を討った逆心の家臣の娘を乳母に選ぶのもおかしい話です。やはりそういう意味で家康と光秀が本能寺の変の裏ではつながっていたかもしれません。日光の明智平も天海が命名し、その時に天海が作った歌の「かごめ、かごめ籠の鳥」がって歌にはテレビでみましたが、徳川家の埋蔵金のありかが隠された歌と言ってました。鶴と亀がすべるとは家康と秀吉をさしているのでしょうか?本能寺の変は秀吉は信長に光秀謀反の疑いありと何度もしきりに使者を使い言っていたそうです。秀吉はある程度謀反がおきた事を想定しながら毛利と対陣していたのかと思います。中国大返しは神業に近いですね。あくまでも自論で適当な答えにしかすぎませんが、秀吉も、あえて信長の出陣を要請した裏には陰謀があったと僕も思います。そしてその陰謀の真の画策者は黒田如水と思っています。笑

投稿日時 - 2004-03-09 19:26:59

ANo.18

No.18 ivallo です。一つ、名前を間違えました。謙信の影武者は「垂水荒川伊豆守」でした。

投稿日時 - 2002-11-12 16:18:36

ANo.17

 まず、明智光秀が徳川家に入り優遇されたという説は、家康の懐刀、天海僧正が実は明智光秀だったとするものです。実は、筆跡鑑定から天海僧正と明智光秀は同一人物ではないとされています。しかし、この二人の筆跡は非常に近いものがあり、こういった傾向は父子によく見られるものです。年齢的に見ても天海僧正は光秀の息子と見るのが一番しっくり来ます。
 日光の話題ですが、日光東照宮に行った時に屋根の先の部分をよく見て下さい。そこには徳川家ではなく明智家の家紋が入っています。間違いなく、明智家は徳川家に重宝されていたはずです。おそらく天海僧正が明智家の者でしょう。二代三代将軍の名前は気がつきませんでした、お見事です。
 さて、本能寺の変の後、一番権力を得たのは秀吉です。そこで成り立つもう一つの説は、秀吉の部隊が信長を暗殺したというものです。光秀の部隊は単に火事を聞きつけて本能寺に駆けつけただけで、信長を討ったのではない。しかし、光秀はその後すぐに秀吉に破れており、実際には誰が信長を討ったのかどうかは闇に葬ることができた。勝てば官軍の論理で、秀吉は光秀の罪をでっち上げることができる条件にあり、従って、本能寺の変は秀吉によるものだとする説が成り立つ。
 しかも、本能寺の変の直後、秀吉は迅速に京都に駆けつけており、しかも、毛利家との講和も、本来は、信長の到着後に結ぶべきなのに大至急結んでいる。

 さて、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちについて話します。一般には、川中島の合戦で、謙信が単騎、信玄に切り掛かり、三度七太刀まじえたとされています。しかし、この時の謙信は影武者であり、実際には垂水伊豆守であったと上杉家・武田家・そして、垂水家の母体である河村家に記されています。この後、垂水伊豆守は信玄の脇にいた槍の名手(名前がすぐに出ません、ごめん)によって、討ち取られ、最期を迎えたようです。
 実際、当主たる上杉謙信が単騎敵陣に切り掛かることは危険きわまりなく、そのようなことを謙信がするはずもありません。

投稿日時 - 2002-11-11 17:49:37

ANo.16

>本能寺の変は、実は徳川家康と羽柴秀吉の共謀による暗殺であったと。
 まずあり得ないでしょうね。家康と秀吉の共謀だとすると、後に徳川家と豊臣家は対立するのですから、その時に真相の暴露合戦になるはずです。特に信長殺害及び光秀討伐に徳川家康は何も寄与していませんから、「本能寺の変は、全て豊臣側の陰謀だった!」と主張しても、徳川家は何も傷つかないはずです。あれほど謀略の限りをつくして豊臣家を滅ぼした家康が、その程度のことをしないはずがありません。公に主張しなくても、噂を流すだけでも効果は大のはずです。
 それをしないのは、当時としてもあまりにも荒唐無稽で誰も信じないことだったから、ということです。

>そして実行犯の明智光秀は徳川家に入り、優遇されたと。
 天海僧正のことでしょうが、天海と光秀が同一人物なら、当時から光秀を見知っている人は大勢いるのですから、江戸城内で気がつかないはずがありません。徳川の家臣ならともかく、他家の大名に気付かれたらどうなるでしょうか。徳川の天下は、まだまだけっして盤石だったわけではありません。「光秀が江戸城内にいる!? どういうことだ? 織田信長様が殺されたのは、実は徳川の謀略?」という噂が流れたら、真相である以上止めようがなくなってしまいます。

>その証拠に、光秀の首を秀吉は確認もしなかった、2代3代将軍の名前
>には光秀の字がつけられている、
 家康が光秀に好意を抱いていたことは事実でしょうね。家光の乳母・春日の局も光秀の重臣の娘ですし。2代秀忠,3代家光の名前も、光秀にちなんでいたことは多分本当でしょう。

>この説というのは、日本史学的にどういう位置づけ(立場)なのですか?
>やはり異端説??それとも実は史実に近いと思われているのでしょうか・・・
 単なる奇説・妄説として完全に無視されています。そもそも史学では、文献的裏付けがない説は学説としてすら認められません。単なる妄想扱いです。
 それ自体(文献至上主義)は、私は良くない姿勢だと思っています。しかし、これだけ巨大で、多くの人に影響を与え、真相がわかる人にはあからさまにわかる謀略が行われていながら、同時代人の文献的裏付けが何にもない、というのはおかしなことです。
 滅ぼされた織田家や豊臣側や、徳川家を快く思わない公家や僧侶、外様大名家、あるいはルイス・フロイスなどの宣教師の手紙や日記に、どこか記録されていそうなものです。
 それがない、ということは、事実もない、と判断するしかないことなのです。

投稿日時 - 2002-07-27 23:52:55

ANo.15

私の大胆仮説。
じつは本能寺で信長は討たれていない。

横暴なことで知られている信長は、たえず、身内を疑っていた。
そこで、わざと信長の周りを明智軍だけにして、謀反を起こすかどうか確かめさせた。本能寺に宿泊して討たれたのはニセモノ。
本物は、先に隠れておき、明智が謀反を起こし、それに同調するやつを確認した上で抹殺するつもりだった。光秀は、京都にながかったし、足利幕府とも仲が良かったことがあるから、追随するやつも考えられる。
たぶん、入れ智恵をしたのは秀吉。
信長の誤算は、隠れている間に秀吉に暗殺されたこと。

本能寺に信長の死体が残っていないのも、秀吉が「中国大返し」で光秀を討つことができたのも、いちおう説明できます。誰か、TVドラマ作ってくれないかな。

なお、義経については、そもそも「義経」自体がニセモノ、という説があります。
奥州藤原氏が、ポスト平氏戦略で能力ある者を送り込んだ。頼朝も、幼子の時別れた弟が区別できない。ただ、ニセモノであることは判ったけど、清盛を討つのに必要な間は全面的に信頼したふりをして戦わせた。用がすんだら、ポイ。

まあ、これも、たとえ義経がニセモノであっても、歴史的には、平氏のあと源氏が実権を握って、封建制度を確立、ということですが。
なお、鎌倉幕府も、源氏は三代で消え、北条氏が実権を握りますが、これも陰謀臭いな。

投稿日時 - 2002-07-12 12:44:09

ANo.14

今川義元のように、戦場でうたれた場合は、即座に判明しますが、
明智光秀は、小栗栖の片田舎で、討ったのも光秀を狙ったわけでない野盗のたぐいです。所持品を奪って逃げたあと、光秀の情報を知って、もしやとおもって、報告する、というのがありがちな話です。
バラバラ殺人事件でもそうですが、人間の首を切り落とすのは難しい技で、素人はのこぎりを使います。日本刀でスパッと首を落とすのは技術がいり、それもナマクラでない日本刀か、あるいは青龍刀みたいな重みでたたきつける刀を持っていなくちゃならない。
したがって、褒美目当てに都に報告して、はねられた首が実際に都に届くまで結構時間がかかります。
いまなら直通電車で20分ぐらいですが、
旧暦の6月16日では夏の一番暑い時期。冷蔵庫もない時代に、顔が判別できるような首を晒すことは不可能だと思います。

なお、歴史というのは、当人が実際に死んでいようといまいと関係ありません。歴史の舞台から消えたら、死んだのと同じですから、義経がジンギスカンかどうか、というのは歴史的に問題でない。
たとえ光秀がニセモノであっても、織田信長が全国制覇しつつあるときに倒れ、明智が3日天下の後、秀吉が実権を握った、というのは、歴史的にまちがいありません。

投稿日時 - 2002-07-12 12:27:32

ANo.13

>> 京の都まで届けられて検分の際に「ホンモノ」であったかどうか、
>> という保障はありませんね。

>ということであれば、今川義元も武田信玄も上杉謙信も豊臣秀吉も死んだという保証はありませんね。こうなってくると歴史は成立しなくなってしまいます。いったい何を信じれば良いのでしょうか。現代人の書いた小説でしょうか

極論でしょうね。
公家に、死体の首実験だけで光秀だと判るはずがありません。
彼らは素人です。
毎日見ていた家族なら可能性はありますが他人が、それも
何度か遠くから見た、というだけの顔が死んだ後で判別できるものでしょうか。

今川義元の首実験はバリバリのプロが死後まもなく実施しています。
実験としても精度がかなり異なるように思えますが。。

投稿日時 - 2002-07-11 19:58:23

ANo.12

nozomi500さん
> 「光秀の首」ですが、書いた公家さんは真実を書いたつもりでも、
> 小栗栖の田舎はずれで「名もなき者」に討たれた「光秀の首」が、
> 京の都まで届けられて検分の際に「ホンモノ」であったかどうか、
> という保障はありませんね。

ということであれば、今川義元も武田信玄も上杉謙信も豊臣秀吉も死んだという保証はありませんね。こうなってくると歴史は成立しなくなってしまいます。いったい何を信じれば良いのでしょうか。現代人の書いた小説でしょうか。

光秀の首は曝されていて、多くの人がこれを見ています。死人の顔は生きている時分と相当違うのでしょうけれど、可能性だけでいってしまえば何でもありです。

投稿日時 - 2002-07-11 00:22:57

ANo.11

>うーん、、結局のところどうお考えなのか、、いまひとつ伝わらないのですが・・・・

作文能力がなくて申し訳ない。
ちょうど、井沢元彦が信長のところを書いている時なので変に意識してしまいました。

要はですね、
信長の政策には無駄がないのですよ。
無茶やっているように見えても実は大変な効果を発揮している。
待っていれば相手が自然に躓いてくれた他の大名とは違うわけです。
事実、実力で京に上がってきた。

足利義満の例があったように、このままではヤバイとなるのが人情です。
天皇家はなんとか信長を止めたかったでしょう。

権威が通用するタイプとそうでないタイプはあります。
もちろん信長に権威など通用しません。
その通用するタイプの一人が光秀だったのでしょう。
いろんな戦国武将へ督促が届く中で具体的な行動を起こしたのが
光秀であり、信長を除去する目的を達成したのだとしたら、、、

家康も秀吉も毛利もそのことを知ってはいた、としたら。

起こるべき次のステップへのイメージはそれぞれの頭にあったでしょう。
それをまた具体的に実現したのが秀吉だった。
家康は行動が遅くて出遅れてしまった。
しかし、起こるべき未来に関して知ってはいた。

そのために共犯者の心境に近かった、としたら。

あとは秀吉と家康はなあなあ、ですよね。
事実、なあなあです。

関ヶ原での活躍も天皇家が背後について全面バックアップが
あったとすれば全て出来レースですよね。

その蔭に、死んだはずの光秀が生きて暗躍していたら。

公家は全面的に協力するでしょう。
死んだことにもするでしょうね。

秀吉も何もなかったのなら、家康に250万石を許さない。
何か、遠慮があったのでしょう。
次はお前がやればよい、くらい言ってたのではないですか。
そこに秀頼が産まれてしまった。

誰かのシナリオを強く感じます。

そして、全て私の空想の産物です。
いや、楽しいですな。。。

投稿日時 - 2002-07-10 22:26:22

ANo.10

「光秀の首」ですが、書いた公家さんは真実を書いたつもりでも、小栗栖の田舎はずれで「名もなき者」に討たれた「光秀の首」が、京の都まで届けられて検分の際に「ホンモノ」であったかどうか、という保障はありませんね。

投稿日時 - 2002-07-10 21:19:50

ANo.9

No.5の者です。

> 公家の日記ってどれくらい信憑性があるのでしょうかね?

公家や僧などの日記というのは「古記録」と称せられ、「文書(もんじょ:公私の手紙や制札など)」と共に最も信憑性の高い史料とされています。信憑性の高いとされている『信長公記』ですら史料のくくりでいえば「軍記」という分類になり、『信長公記』も多くの誤記が指摘されています。「軍記」より「古記録」・「文書」の方が一般的に(というか圧倒的に)信憑性が高いです。
要はある事柄が起きたときに、これと同じ時期に書かれたか、時代が下ってから書かれたか、ということが信憑性に直結してきます。これに加え、傍証があるか(複数の史料に記述されているか)ということも非常に重要になってきます。

> こういう記録というものは、後世に事実を曲げて伝えるために
> 嘘を書くのも当たり前と聞きますが・・・

確かに著者が意図して事実を曲げた事例はありますが、これを証明できる事例は非常に希ですし、基本的に日記は公の目に曝されることが希ですので、事実を曲げる必要性が非常に薄いです。『兼見卿記』はこの希な事例ですが、これは「別本」というものも存在しているため、また著者の身に危険が迫ったために事実を曲げています。ただし、引用した天正十年六月十六日条には「別本」が存在しませんので、信用に足りると考えます。

> 曲げて伝えられた嘘を聞いたひとが、史料に記録したという可
> 能性はないのでしょうか・・・

可能性はあります。たまたま嘘が広がったか、意図されたプロパガンダか…。
ただし、天正十年六月に光秀が死んだかどうかということについては、引用しませんでしたが『言経卿記』『多門院日記』『蓮成院記録』をはじめ、多くの古記録・文書に記載されていますので、疑いようのない史実と考えて差し支えありません。

投稿日時 - 2002-07-10 02:03:27

ANo.8

まず、「本能寺の変」ってのも不思議な話ですよね。
中国地方で毛利軍と戦うために出撃した明智軍はれっきとした軍隊です。対して、本能寺に駐留する信長一派は「手勢」です。
本能寺は「寺」であって、籠城できるような「城」ではない。
「軍勢」が「手勢」と戦えば、あっという間に決着し、明智軍は信長が炎に包まれるまでに信長の首を取れるはず。(あの天下分け目の関が原の合戦でも、小早川が寝返ってから2時間ほどで決着している)
炎の中で切腹して遺体も不明、なんてことがあるはずがない。
(信長が謀反に気づいてすぐ放火したならともかく、弓の弦が切れるまで応戦したというんだから。)

家康と秀吉については立場が違い、秀吉が天下をとろうと思えば、年齢差のない信長はどうしても邪魔ですが、家康にとっては、歳の離れた信長はあえて排除する必要がない(実際、秀吉が死ぬまで待とうホトトギスだった)。

長篠の合戦の「3000丁の鉄砲」については、毛利や上杉その他に対する「はったり」じゃないかと思います。実際に織田軍の持っていた鉄砲は全軍で1000丁ほどだったとか。全部を使えたわけでもないだろうし、本当に3000丁で撃ちまくったら、あっというまにかたがついてもよさそうだけど、実際のたたかいは、関が原よりさらに長くて、夜明けから午後までかかっているということです。勝頼も逃げているし。
その後の戦いでも「3000丁の鉄砲」が登場していませんからね。「勝った方の情報」で、「織田軍はすごいぞ」とPRすればすむ。なんといっても、武田軍が負けたのは事実だから。
(「3000丁の鉄砲」のうち、1割の300丁を明智軍がつかえば、弓矢で応戦する信長を射殺することは簡単でしょう。下手な鉄砲も数うちゃあたる。騎馬隊より狙いをつけるのは簡単だ。)

投稿日時 - 2002-07-09 23:48:05

ANo.7

長篠合戦について、少し・・・

合戦場となった設楽ヶ原というところは、湿地帯みたくなっていたという話
を聞いたことがあります。ですから、騎馬で突撃することは困難だったとい
うことらしいです。加えて、設楽ヶ原には、馬防柵だけではなく、簡単な砦
が築かれていたという説もあるそうです。

光秀の謀反については、様々な説が巷で話題になってますね。

 1、野望説
 2、恨み説
 3、ストレス、病気説
 4、将来への不安説
 5、旧体制維持説(朝廷暗躍説)
 6、秀吉との共謀説

まあ、朝廷との関連は無かったと思いますが、自発的に旧体制を守ろうと
したのではないでしょうか。そういえば、光秀が生き延びて、家康の智嚢、
天海僧正になったという説もありましたね

投稿日時 - 2002-07-09 19:05:44

ANo.6

私もこういう話、好きです。で、いくつか耳にした話を。

長篠の戦いで、あの銃は敵に当たらなくてもよかったという話。なぜなら、銃の音で馬が驚いて暴れだし、役に立たなかったから。(あたらなくてもよかった)

南北朝の南朝方の末裔と自称する人がたくさん現れた事件。
熊沢「天皇」が有名ですね。

田沼意次善人説(再評価)。
当時の賄賂は、指導料みたいなもので悪くなかった、他の人も同じくらいもらっていた。あるいはもらってなかった説。大事なのが、彼が重商主義をとったこと。結局幕府は商業が発達していた長州や薩摩に滅ぼされましたよね。だから先見の明があったと評価する人も。

天草の乱がカトリックの国(から派遣された伝道師)から支援されてた説。
日本人なら知ってるザビエルさんは信仰篤い人らしいですが、南米の例を見ても、布教と侵略は紙一重なところがありますね。

孝明天皇暗殺説
明治天皇の一代前ですね。幕府に好意的(これは本当ですね)だったので。

投稿日時 - 2002-07-09 02:22:09

お礼

いろいろありますね~

私が聞いた話は、
・秀吉が信長の草履を暖めて気に入られたというのは嘘(体温で暖めても、足の裏ではその温もりは気づかない)
・毛利元就の三本の矢の遺言も、後のひとが作った作り話
・タイタニックは保険金目当てでわざと沈められた

まだあったんですけど出てこない・・

投稿日時 - 2002-07-10 00:37:55

ANo.5

光秀・秀吉・家康の共謀説は、史学会では話題にすらあがっていません。

公家の日記などの同時代史料によると、光秀の首と遺体は本能寺跡に曝されています。

<例1>「天正十年夏記」(勧修寺晴豐の日記)天正十年六月十五日条

「(前略)明智くひ勧修寺在所にて百性取候て出申候。本能寺ニむくろト一所首おかれ候。見物衆数しらぬ也。首共を信長はてられ候跡ニならへ候。三千程有之由候。」

<例2>「兼見卿記」天正十年六月十六日条

「(前略)向州頸・筒体(ママ)、於本應寺曝之云々、」

他にも類似の記述が残されています。光秀は間違いなく天正十年に死んでいます。

投稿日時 - 2002-07-09 00:49:37

お礼

ありがとうございます。
公家の日記ってどれくらい信憑性があるのでしょうかね?
こういう記録というものは、後世に事実を曲げて伝えるために嘘を書くのも当たり前と聞きますが・・・

曲げて伝えられた嘘を聞いたひとが、史料に記録したという可能性はないのでしょうか・・・

投稿日時 - 2002-07-10 00:33:55

ANo.4

織田信長を暗殺するようプロデュースできたのは誰でしょう。
家康、秀吉、光秀はライバル同士です。
ちくられたら終り、信長は絶頂、という時にそのような話題を課長クラスだけで
進められる訳がありません。
だれか社外にフィクサーが居たと考えるのが自然です。

もっとも気になるのは関ヶ原です。

なぜ、ああも豊臣恩顧の忠臣たちが豊家を裏切ったのか。
だれかシナリオを書いた人物がいるのではないか、
信長の戦略を忠実に実行している豊家の安泰を望まない
お方の使者として活躍した人物が、、、

その人物が実績として誰も追随できないような経歴の
持ち主だったとしたら。

石田光成がいかほど憎まれていようと、暗殺でもすれば
済むこと。
豊家を裏切る理由としての石田光成はあまりに小さい。

投稿日時 - 2002-07-08 21:51:23

お礼

ありがとうございます。

うーん、、結局のところどうお考えなのか、、いまひとつ伝わらないのですが・・・・
読解能力がなくてすみません。

投稿日時 - 2002-07-10 00:30:36

ANo.3

e33

オレが書いたらNo.2になってた。
No.1のヒトはどんなことを書いたんだろう…
あっ!!オレが書いたこと書いてる(爆)

じゃあリクエストに答えてもう1個(←リクエスト?)

源義経は身長が160センチ未満の小男。
ジンギスハンは2m近い大男だったそうです。

が、ジンギスハンが死んで棺に入れる時
彼の遺体はかなり小さくなっていて、みんな(仲間)驚いたそうです
でも、稀代の英雄にはこのような奇跡も起こるって強引に?納得したそうです

例えばナポレオン。
彼はちょっと太ってるイメージ(馬に乗ってる絵とか)がありますが
本当は痩せていたそうです。
ただ威厳を保つため、服の中に袋をたくさん入れて
太っているように見せていたそうです(マジ話)。

例えばアレクサンダー大王(多分)。
彼もなんかやっていました。忘れたけど
確かカツラ…だったかな。忘れたけど。

ジンギスカンもそういうのやっていたのではないか
つまり本当は小男だったのではないか。

とか。

投稿日時 - 2002-07-08 21:45:21

お礼

ありがとうございます。
ナポレオンは聞いたことありますねえ
義経伝説はすごいですよね。日本のあちこちに「義経公園」という公園があるんですって。
私の実家(北海道)にもありましたもん。

投稿日時 - 2002-07-10 00:29:17

ANo.2

e33

今回とは全然違う話ですが似たような話として源義経について。

確か藤原氏?のところで殺されちゃって
そのクビが鎌倉に送られて確認された件について

(距離的には)一週間くらいで鎌倉にいる源頼朝のところに
(義経の)クビを持っていくことが出来たのに
実際は40日以上かけて持っていったそうです

季節は夏だったためそのクビが鎌倉に着く頃には、ほとんど腐っちゃってて
義経本人かどうかは確認出来ないほどであったとか。

じゃあなんでわざとゆっくり行ったのかっていうと
以前は義経と親しかったけど後になって頼朝側についた人が
”できるだけゆっくり持って来い”って命令したそうです
(理由は忘れたけど…なんかもっともらしい理由をつけて)

つまりその人は源義経の影武者が本当は殺されたのを
知ってて、確認できないように首を腐らせて持ってこさせたのではないか。

とか。
ほかにもいろいろあったけど
長くなったのでこのへんで。

投稿日時 - 2002-07-08 21:32:13

ANo.1

はじめまして。
私もこういう話題は大好きです。
後に徳川家康のブレーンになったとか、復興した比叡山の寄進者に名前があるとか色々ありますよね。
しかし、歴史的にみると「源義経=チンギス・ハン説」と
同じ物で残念ながら根拠らしい根拠はありません。
この話題も楽しむ分にはいいけれども、、、という感じですね。

投稿日時 - 2002-07-08 21:27:23

お礼

ありがとうございます。

根拠はないわけですね・・残念です。面白いと思うのですが・・

投稿日時 - 2002-07-10 00:26:11

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