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解決済みの質問

時代劇に登場する大嘘を教えて下さい

時代劇が好きでよく見るのですが、中には素人が考えても 「こんな時代に、それはないだろう」 と感じるシーンも多いです。

まず 「暴れん坊将軍」 のタイトルシーンに江戸城の天守閣が背景として映りますが、吉宗の時代には天守閣は大火で焼失していたはずなので、これは嘘だと思います。

それとか既婚女性のお歯黒ですね。 本当は真っ黒だったはずです。

遠山の金さんなんて、町奉行が桜吹雪の刺青をして遊び人として町に入っていたなんて、実際にはとても思えませんね。 ま、これはフィクションですから大嘘と言うのはかわいそうかも知れませんが ・・

あと、このカテでも西部劇で主人公が馬に乗って荒原を旅するシーンがありますが、実際には馬1頭で旅する事なんてあり得ず、予備の馬を必ず連れて行ったはずと聞きました。

時代や洋の東西を問わないで結構ですので、時代劇の登場する大嘘について教えて頂けないでしょうか?

投稿日時 - 2007-11-08 12:02:42

QNo.3499833

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

また失礼します。m(__)m。鉄漿(おはぐろ:お歯黒)一考。

元々、お歯黒は虫歯対策でした。
今は歯医者でエアートームという「うぃ~ん」って音がする忌み嫌われてる機械の出現で虫歯で死ぬ人はいませんが、あの機械が出現するまで、虫歯は命に関わる病気でした。
虫歯を放置すると歯の根元で化膿し、そこから虫歯菌が血液に進入、全身の血液が化膿してしまう敗血症という恐ろしい病気で死亡します。
今でも敗血症は起こってしまえば即命に関わる恐ろしい病気です。

虫歯になったら、麻酔やエアトームのなかった頃はまだ歯がペンチなどで掴める状態の時に力づくで引き抜く以外に治療法が無かったのです。

このために、虫歯を予防する方法として、お歯黒が開発されました。
女性は妊娠により赤ちゃんにカルシウムを取られて虫歯になりやすいので既婚女性に真っ先に普及したわけです。
また優雅な生活をしていた公家なども、甘いものを一杯食べられるので虫歯になりやすく、お歯黒が普及し、それぞれ既婚女性の、あるいは公家のステータスシンボルみたくなりました。

これが映画で見られなくなったのは、戦後、テレビで時代劇が放映され始めた初期です。
歯磨きが普及し、お歯黒を知らない世代が増えた影響でしょうか「歯が黒いと気持ち悪い」という抗議が殺到したのだそうです。
それで「明らかに間違えなのだけど」お歯黒を入れるのを止めたそうです。

投稿日時 - 2007-11-10 17:26:39

お礼

有難うございました。
とても、とても勉強になりました。
お歯黒って単なる風習のように考えていたのですが、実はそんな医学的な裏付けがあったんですねえ。
虫歯で死ぬ人もいた ・・ 歯くらいでと、つい思ってしまいますが、当時はそんなに怖かった時代なんですね。
考えると西洋にお歯黒なんて無かったでしょうから、彼らは虫歯対策にどんな事をしていたんでしょうね。 もしかして日本が世界で最新の虫歯対策をしていたと言えるかも知れませんね。

投稿日時 - 2007-11-12 11:30:27

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回答(43)

ANo.43

度々すみません。

>でも実際には十両盗めば首が飛ぶと表現されていますから、厳罰主義が徹底して、とても治安の良い時代だったんでしょうね。

江戸時代が現代に比べてずっと犯罪が少なかった理由についてですが…

確かに厳罰主義や罪の連座制ということもあったでしょうね。あと江戸期の人々の義理人情とモラルが、現代人より遥かに高かったこと…これは大きいと思います。
江戸期は庶民でも寺子屋等で普通に教育を受け、識字率は当時の西洋以上。何を学んでいたかといえば儒教イデオロギーに基づいたお道徳。「誰も見ていなくてもお天道様が見ている」し、「人として恥ずべきこと」をすれば世間様から「笑われる」から悪事はできぬ。さらに信心深い人なら「バチがあたる」「後生に障る」と武士階級なら「ご先祖様に顔向けできぬ」が加わるなど、様々な道徳的・美学的・宗教的制約が人々を律していた。
ことに恥の文化といわれるように当時の人は「笑われる」のを何より恐れていたようで、司馬遼太郎氏によると、例えば金を借りる際『もし返せぬ時はお笑い下さい』と証文に一筆記せばりっぱな「質」として通ったといいます。またある町人の幼童が大人になったら侍になりたいと無邪気な夢を語ると、遊び仲間の子供たちにドッと笑われた。子供といえども笑われるというのは致命的なことで、その少年は恥をそそぐため必死に学問をして武士に取り立てられた…という実在の人物も紹介しています。

大航海時代の船乗りたちの間では「日本人と出会ったら決して笑うな。日本人は笑われると怒ってカタンナという剣を振りまわして襲いかかってくるそうだ」と噂されていた(爆笑)といいますから戦国期の人も笑われるのキライだったみたいですね。

当時驚くほど少ない警察力で大都会の治安が守られていたのは、この恥の意識に負うところ大じゃないですかね。神仏への畏れも武士道倫理も失い、恥の意識もだいぶ希薄となった現代日本の社会的荒廃と対照的です。いま私たちが金融会社に行き「返せなきゃ笑っていいから貸せ」なんて言えば、その場で笑われるか通報されますからね。

あとこれはよく言われることなのでご存知かもしれませんが、切捨て御免という武士の特権は有名無実でしたよね。武士が百姓町人を斬れば理由の如何を問わず、まず武士が罰せられる。本人の切腹だけで済めばよいが悪くすりゃ家の断絶でしょう。それを知っているゴロツキ町人などはわざと武士を愚弄し「斬れるもんなら斬ってみやがれい」とイキがっていたとか(←いつの世にもこういうカスはいる) 実際問題、人斬り包丁を二本差した連中がやたらと無礼打ちなんかしてたら社会の秩序は崩壊しますから、武士は黙って耐えるしかない。
それに切腹も扇腹といって実際に腹を斬らぬ儀式になり、武士が軟弱化した世にあっては、武士にとっても流血は異様なことで、有名な首切り浅右衛門でさえ罪人を斬った晩は酒浸りになったそうですから相当な精神的ダメージを受けてたんでしょうね。(ちなみに江戸期に行われた武士同士の果し合いは何時間もかかったのが普通で、チョコチョコ手傷をつけあって先に疲労と出血多量で死んだ方が負け、みたいな内容が多かったというリアルげな話も何かで読んだんですが、実際どうだったんですかね?本当だとしたら中山安兵衛の高田馬場の決闘はすごいですね。十八人斬りはウソでしょうが、仮に二~三人だったとしてもすごいですよ)

このように幕府の御政道は大抵建前と本音があり、「建前いいけど実際ダメ」とか「原則ダメだけど目をつむってあげる」なことすごく多かったみたいで、例えば関所だって手形なきゃ絶対通れなかったイメージありますが、実際には手形を持たぬ通行人でも役人が見て無害と判断すれば、「ならぬならぬ!関所を何と心得ておるか!」とわざとらしく怒りながら、通行人が行きたい方向へ背中を「押し返し」て通してくれたそうですよ。こういう日本的体質って現代にもありますよね。憲法で禁止されてるけど、現実にはそりゃあんまりだから軍隊と呼ばなきゃ戦力保持してもいいじゃん…とか。ならさっさと憲法変えりゃ済むのにこういうところは国民も幕府的(笑)。ソープやパチンコの換金だって法的きわどいけど、まあええじゃろ的なお上のお目こぼし要素じゃありません?

投稿日時 - 2007-11-12 18:10:39

補足

皆様のお陰で、大変歴史の勉強をさせて頂きました。
改めて御礼申し上げます。
どのご回答も素晴らしい内容でしたので、特定の方にポイントを差し上げるというのは、他の方に失礼になるような気がして大変恐縮なのですが、江戸時代には炊飯を1回しかしなかったという5番目の aruchan2615 様と、お歯黒の本当の意味を教えて頂いた35番目の mvevesonly 様のご回答は大変勉強になりましたので、ポイントを差し上げたいと思います。
どうかご理解、お願いします。

投稿日時 - 2007-11-14 15:34:41

お礼

いや~、面白いお話、有難うございました。
まず今のイメージでは、江戸の町は厳罰主義でいたからこそ、少ない同心で治安が保たれていたというのが多いと思います。
でも実際には市民の道徳心というか、今のように人心が荒廃していない時代だったようですね。 他人に笑われるというのは、命に代えてでも耐えられない屈辱だったんですねえ。 今なら開き直って、笑うやつには笑わせておけ、金が全てだ、こんな風潮がありますよね。

それと武士の切捨て御免も、市民から見ればそんなに怖くなかったんですか ・・ 何となく真剣を持った人の近くには寄らないようにしようと思うのではないかなと感じていたのですが、考えればそんなに武士を怖がってばかりいたら、道を歩く事も出来ないですよね。

とても面白いお話、感謝します。

投稿日時 - 2007-11-13 15:24:42

ANo.42

また失礼します。月代一考。
この話題で随分盛り上がってますが、私は「蒸れるから」という意見にはどうも賛同しかねます。

おそらく筋兜→頭成兜に変わった時に髪の毛の量を減らす為に剃ったと考えるのが自然です。

元々、兜を装着する時は、頭に揉み烏帽子という縦に長い帽子のような物を被り、中に髪を収めてその上から兜を被ります。
筋兜では中に十分な空間があるので髪の毛+揉み烏帽子がクッション代わりににもなり、丁度良い位置で安定します。
この兜では真っ向から刀を受けた時、兜自体は強度が多少劣っても髪+揉み烏帽子の衝撃吸収があるので、総合的にはかなり安全になります。

時代が過ぎて頭成兜になると、頭にかなりぴったりするので髪の毛の量が多いとまともに被れなくなります。
その為に髪の毛の量を減らす為に月代を剃り始めたと聞いた事があります。
更に揉み烏帽子も邪魔になるので省略されました。
当然、こちらは刀が直撃するとモロに衝撃が頭に伝わるので、兜自体の防御力はあってもかなり危険な兜じゃないかと思いますが、鉄砲が主役になった時代は曲面で受ける方が跳ね返せて安全だったのでそういう事もあるかもしれません。

投稿日時 - 2007-11-11 13:45:52

お礼

有難うございました。
月代と兜の関係は難しいですねえ。
でも、いずれにしても月代はファッション性よりも兜という防具から出発したと考えるのが正解なようですね。

投稿日時 - 2007-11-12 13:21:06

ANo.41

ANO.36です。URLを再掲します。
 白虎隊のうち、生き残った人以外の人の分を見てください。
 月代を剃ってる人はほとんどいません。しかも洋服を着ている人が多いです。
 伝わっている話とは大分違います。写真は正直です。なんだってそのまま撮っちゃいます。
 一方、絵や文章は書き手の想像や恰好付けが入って、事実と違ったものになります(江戸時代はみんなチョンマゲで月代を剃り、和服を着ていたと決め付けてしまう)。
 兜をかぶらない人は実用上月代を剃る必要がありません。
 兜をかぶる人でも毎日かぶるわけではありません。また、月代を剃っても兜をかぶれば蒸れるでしょう。剃ったから蒸れが軽減されるといってもどうかな?
 月代は最初は実用上かも知れませんが、その後は、実用というよりもおしゃれ風俗として流行った面の方が大きいと思います。
 まあ、幕末には勤皇方も佐幕方もその他の陣営も、殿様といわれるエライ人以外は剃っていない人が多いようですね。
 勤皇方も写真では、諸太夫マゲ(本当は立派なもんです)というよりも、単に月代を剃らずに総髪にしただけのように見えます。佐幕方の剣士では講武所風の月代の細いのもあります。
 月代を剃るのは大変です。人に頼めば金がかかるし。カミソリの手入れだってもう大変。下級武士以下はチャンと剃っていない人が多かったと思いますね。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu.shtml

投稿日時 - 2007-11-11 10:56:56

お礼

有難うございました。
写真を拝見しましたが、月代を剃っている人って本当に少なかったんですね。
考えれば大変ですよね。 剃るのは剃っても、数日もすれば伸びてきて、逆に汚いというか、だらしなく見えるし。
一層の事、伸ばした方がごまかしがききますよね。
でも、頭のてっぺんを剃るのが格好イイという時代があったんですねえ。 今そんな事をすると 「そばに寄らないようにしよう」 とか思われますよね。

投稿日時 - 2007-11-12 13:17:33

ANo.40

・刀が貧弱
刀は「武士の魂」ですので、江戸期にはさまざまなデザインを凝らしたこしらえ(鞘などの外装)ができました。個性を競って赤や金などのこしらえも登場しましたが、時代劇を見るとどれも同じようなデザインで「支給された工業製品」みたいですね。戦国期は実戦重視のこしらえですが、それでも黒一色のような無個性なものは少なかったです。
本当は刀身の長さも様々なのですが・・・これもダメですね。

・町屋の煙がない
ガスなどありませんので、当然ご飯やお風呂は薪で炊きます。ですが夕刻のシーンでも町に一筋の煙すら上がらないのは不自然です。特に秋刀魚の季節には、町のあちこちから濛々と煙が上がっていたそうですよ。
また為政者側は、城などから町を見下ろして煙の多さで民が豊かに暮らしているかどうか大体の判断もしていたと聞きます。

・町娘
江戸期の女性は割と乳房を出しても平気(性的な意味がなかった)。
昭和後期でも電車やバスの中でお乳をあげるお母さんなどがおられました。
夏の江戸でも行水や夕涼みで若い娘でも乳露出はあったようで、浮世絵にも度々題材になってますね。これは是非時代劇で忠実にしてもらいたい(笑)

・衣服
赤や黄色や緑などのカラフルな着物は裕福な人が着れるものです。
庶民は渋(茶色)や藍色がポピュラーです。しかも絹はもちろん綿布もとても高価で、庶民が簡単に買えるものではありませんでした。
ですから町では古着屋が繁盛しましたし、ツギハギを当てて大事に着用しました。この場合色はあまり頓着せず、トンチンカンな色の布を当ててツギハギしたケースもあるようです。時代劇ではみんな新品みたいな服を着ているのは不自然です。

・八百屋、果物屋
一度時代劇でおや?と思ったことがあるので。
だいたいビニールハウスも冷蔵庫もありませんので、「旬」となったら、その作物しか流通しません。ミカンの季節ならミカンだけ売ることになります。野菜も同様に、その時期に取れる物しか店に置けません。

・遠山の金さん
実際はイレズミをできるだけ隠していたようですよ。恥ずかしかったそうです。

あと以前NHKの沖縄を扱った時代劇で疑問を感じたのですが、戦前まで琉球の女性は手足にイレズミがありました。ドラマではみんなキレイな白い手足なので「なんだこりゃ、ダメじゃん」と思い見るのをやめました。あと全部琉球語にして、字幕を入れるとかしてほしかった。

まあ外面の小さな部分なら「演出」ということで百歩譲れますが、平和主義の武将は確かにいただけませんね。あの当時は「世の中には殺していい人種もいるんだぜ」という感じですから。他国の人間も自分達と平等・・・のような認識は馬鹿としかいいようがありません。

ドラマを見た小学生~高校生が真に受ける恐れもあるので、ドラマのオープニングで「これはフィクションで本当の武将は全く違います」みたいな断り書きをしてほしいです。

投稿日時 - 2007-11-11 09:57:47

お礼

有難うございました。
詳しく解説して頂いて感謝します。 大変面白かったです。
特に刀ですね。 当時は鞘などに色々なデザインを施していたんですねえ。 これは初めて知りました。 何となく黒一色というか、地味な感じしか無かったようなイメージがありました。
それと刀身の長さもバラバラだったんですね。 
色々と勉強になりました。

投稿日時 - 2007-11-12 13:11:55

ANo.39

他の方の回答とかぶっているかもしれませんが・・・

武士関係
1.乗っている馬が違う
 競馬に出てくるような、サラブレットみたいな大型の馬は、
 明治時代以降に輸入されたもので、日本古来の馬は、今で言うと
 ポニー程度の小型の馬だった。
 当時の小柄の日本人が乗っても、両足が付く程度の高さの馬
 だった。

2.刀が丈夫すぎ
 戦国時代の実践用のかなり丈夫な刀でも、3,4人切ると
 刃がこぼれてしまい切れなくなる。
 江戸時代になって、刀が装飾品的になってからは、刀はさらに
 もろくなったので、1つの刀で、10人、20人めったぎりなど
 不可能。

3.言葉
 昭和、平成といった短い時間もに、言葉は大きく変わっている。
 聞き取れない方言も多いのに、日本じゅうを旅する水戸黄門
 さまのご一行が、会話に全く困らないのはやっぱり変。
 見てる側も、聞き取れない会話がないのも本当は変。

投稿日時 - 2007-11-11 05:28:26

お礼

有難うございました。
なるほど、言葉ですね。
今の日本では標準語さえ話せたら、どこに行っても会話に困る事は無いですが、江戸時代までの日本は方言がとても豊富というか、多いというか、余所者には何を話しているか全くチンプンカンプンだったかも知れませんね。
という事は、忍者というか間者のように情報収集を専門にする職業は、現地出身者以外には難しかったでしょうね。

投稿日時 - 2007-11-12 13:06:42

ANo.38

戦国時代の月代は、時代によって変わったようですね。特に「風林火山」の頃は剃らないのが普通でした。時代が下って、織田信長、羽柴秀吉たちが台頭してきた頃は「剃るのが普通」だったようです。

この理由は戦術・戦略の変化によって、防具、特に兜が大きく変わったからと見るのが主流だそうです。風林火山時代の兜は「筋兜」といって、細く切った鉄板を横に鋲で止め、天辺ですぼめて留める作り方をしていました。この形式ですと全体が丸く成形され、頭の両脇が大きく開きます。また、製造法から天辺が塞げられず「天辺の穴」が開きます。

秀吉時代の兜は「頭成兜」といって、四角く切った鉄板を頭の形に添うように曲げて重ねて繋いでいます。この形式は量産しやすく、防御力も高いのですが、いかんせん「密着するので蒸れやすい」のです。

つまり、それまで月代を剃るのはそれほど多くなかった(何しろきれいに剃るのは大変です!)武士たちも、秀吉時代には「剃らずにいられなくなる」のです。

そう考えれば「風林火山の月代はあれで正解」でしょう(ホントの事は見てきた訳ではないので断言出来ませんが、おおむね「見栄えだけの嘘八百ではない」と言えますよ)。

投稿日時 - 2007-11-10 22:03:26

お礼

有難うございました。
武士の月代は鉄兜に原因があったようですね。
たしかに今のヘルメットと違って、夏なんか暑かったでしょうね。 直射日光で鉄板が焼けて中は蒸し風呂状態 ・・ とても戦争どころではなかったでしょうね。

投稿日時 - 2007-11-12 13:01:46

ANo.37

#33です。月代について…

#36の方が紹介されているURL興味深く拝見しました。こんなサイトがあったんですね。

月代の剃り方は各時代によっていろいろ流行があったそうですよ。幕末でいうと特に志士の間では月代をわずかしか剃らなかったり、まったく剃らずにマゲを結う(木戸孝允の写真みたいに)のがとても流行していたと聞いた記憶があります。たしか諸太夫マゲ(違ってたらすみません)とかいったような… 

時代風俗の専門化でも何でもないので確信はありませんけど、戦国時代の合戦図屏風や肖像画を見ると武士たちは皆かなり剃りあげてますよね。頻繁に兜をかぶっていた頃の武士は特に剃っていた方が楽だったでしょうから、室町末期は剃るのがスタンダードだったんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょうね。毎日こまめに剃っていたかどうかはわかりませんが、おそらく評定などで主君の前に出るときや、合戦に出るときは(首を敵に取られるかもしれないので)見苦しくないようキレイに剃っていたのではと推測しますが…

余談ながら昔コロンブスの映画を見たとき、コロンブスが初めて中南米の島に着くと月代モードでザンバラ髪(もろ落武者ヘアー)の原住民が弓矢を持ってわらわら出てくるシーンがあって、すごく怖かったです。初めて日本に来たポルトガル人や朝鮮の役で対峙した明軍将兵も恐怖を感じたのかなとか想像したらたら可笑しかったです。

投稿日時 - 2007-11-10 18:49:57

お礼

有難うございました。
月代の有無は時代の流行だったんですねえ。
幕末の志士たちの写真が残っていますが、勝海舟のように幕府の高官でも月代は剃っていなかったです。
でも考えてみると、一度月代を剃ってしまうと、少し伸びただけでもだらしないような印象を受けそうなので、しょっちゅう剃らなければいけなかったかも知れませんね。 面倒くさいので伸ばす事にした人もいたでしょうね。

投稿日時 - 2007-11-12 12:57:50

ANo.36

 NO.7,24、31です。
 時代劇では、浪人以外は大抵月代を剃っています。
 しかし、実際はどうだったんでしょうか。顔のひげを剃るのと違って、月代を剃るのは大変です。自分じゃチョッと無理でしょう。下のURLには幕末の写真が出ています。
 一人ひとりクリックしていくと大変ですので、お終いのほうの団体写真を見てください。テレビや映画と違って剃っていない人の割合が多いと思います。旗本など偉くて恰好をつけなきゃならない人は剃るんでしょうが、その他の人は剃っていない人が多かったんじゃないでしょうか。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu.shtml

投稿日時 - 2007-11-10 17:45:33

お礼

有難うございました。
写真を拝見しましたが、本当ですねえ。
中にはきれいに月代を剃っている人もいますが、当時はもしかすると剃っていない割合の方が多かったかも知れませんね。
月代を剃る剃らないは、本人の選択だったんでしょうか。
剃らない武士は金回りの悪い人とか、周囲から見られる事があったのでしょうか。 ちょっと気になりますね。
でも考えれば勝海舟も写真を見ると月代を剃っていなかったわけですから、幕府における立場とか経済状態とか、関係なかったかも知れませんね。

投稿日時 - 2007-11-12 11:40:04

ANo.34

お歯黒は既婚女子だけでなく男子もしていた習慣で「おあぬ物語」で敵の首を首実検の為髪を整えたりお歯黒を着けるのは恐ろしいことではなかったという記述があるように高位の人の証拠となったようで公家などの習慣であったようです。
今川義元もお歯黒をつけていたと言います。

それに既婚女性は眉を剃り、書き眉であった筈です。

映画では簡単に斬り倒されますがこれも嘘。 実際は連続しての殺傷には刀を途中で替えないと無理で最近は気がついて抜き身を畳につきたて取り替える演出も見られるようになりました。

馬上で太刀を振るうのは普通はありません。 槍が用いられるようになった戦国時代では槍です。 それも武将級が戦うのは普通ではありません。 これも演出。

西部劇の決闘シーンで互いに向き合って1発で仕留めるといのも演出で拳銃で距離があれば命中それも急所に命中することは僥倖でしかありません。  拳銃では銃を固定し狙いを定めないと命中は困難なものです。

フエンシングでの場面で一突きで相手を倒す事は至難です。 
重いサーベルならともかく細身の剣では心臓を正確に突く必要があります。 大抵の決闘でも相手に手傷を与えれば終わりで生き残れるルールでした。  大体チャンバラは洋の東西を問わずショーですから。

投稿日時 - 2007-11-10 14:00:25

お礼

有難うございました。
お歯黒は既婚女性に限った事ではなかったんですか。
今の美意識で判断するのは間違っているとは思いますが、少なくとも当時日本を訪れた西洋人たちは驚いたでしょうね。
男性が笑うと口の中は真っ黒 ・・ 思わず尻込みしそうです。

西部劇によく1対1の決闘シーンが登場しますが、これも嘘に近いんですねえ。 考えると10m以上も離れた相手に、腰のホルダーに差した拳銃をコンマ何秒の早業で抜き、間髪入れずに相手の急所に一発で命中させる ・・ 本当にやれば、どんな名人にも無理でしょうね。
でもそうすると、実際の1対1の決闘ってどんな風だったんでしょうね。 また興味がフツフツと湧いてきました。

投稿日時 - 2007-11-12 11:25:03

ANo.33

#23です、再度お邪魔します。

NHK大河に対しての素朴な疑問なんですけど、戦国時代を扱った作品で、武将たちがみんな月代を剃らぬ総髪ヘアーで登場することがしばしばですけど、あれも変ですよね。今の「風林火山」でもそうで、出家して剃髪した信玄や勘助など以外は全員総髪で出てます。元服しても月代を剃らないなんて森蘭丸みたいな特殊ケースをのぞけば普通に「ありえねー」でしょう。私が思うに、その方がカッコよく見えるじゃん的な理由で、現代の視聴者の美的感覚に迎合した結果なんじゃなかろうかと推測してるんですが…

あと「それを言っちゃおしめえよ」で時代劇が成立しなくなるので、言うのもヤボなんですが…悪代官と殺人事件多すぎ(笑)
少数の例外はあったかもしれませんが、代官選定には厳しい人物審査を行い、厳選された良材を送っていたので、私腹を肥やすような不埒なお代官は極めて少ない…どころか、立派な人がとても多かったそうです。
まあ江戸期の武士というのは幼少時から儒教モラルを叩き込まれ、滅私奉公を至高の正義と信じていた人たちですから江戸期には汚職が極めて少なかったというのも頷ける話です。もっとも私たちの水戸黄門タイムは歴史のお勉強のためじゃなくて、現代の悪徳企業や腐敗官僚への憤懣を投影し、勧善懲悪でカタルシスを得るお時間ですからどうでもいいんですけど。
あと、江戸時代は恐ろしく平和な世の中で、幕末はともかく殺人事件なんて十年に1件あるかないかだったと聞いたことがあります。話半分としても少ないですよね。文字どおり毎日殺人事件ニュースを目にする現代がいかに狂ってるか痛感します。

あとくノ一のコスチューム。何と素晴らしい大嘘でしょう! 私はくノ一フェチなので(恥)、由美かおるさんが考案したという、あのお約束くノ一スタイルは嬉しいのです(笑)

最後に#1の方の時代劇の反戦平和は勘弁してというご意見、大大大…賛成です!おそらくNHK大河を指していると推察しますが、現代の価値観を基準に歴史を判定・改ざんするのは現代人の驕りもいいところでしょう。個人的には私が唯一許せぬ種類の大嘘ですね。
例を挙げればキリがないけど、元寇を扱った「北条時宗」では、時宗が幕府の評定で「(戦争回避のために)自分の首を斬ってフビライに送れ」などと命ずるシーンがありました。噴飯もいいところで、見ていて恥ずかしくなりました。脚本家にしてみりゃ主人公はこんなに反戦平和主義者で立派な人だったんだよーん、みんな感動して~んって言いたかったんだろうけど、ドン引きしますよ。
去年の「功名が辻」も原作ファンなので楽しみにしてたけど途中でムカついて観るの止めました。あれも原作者への冒涜以外の何物でもないと思いましたね。
そのうち織田信長が「織田家は恒久の平和を念願し、諸大名相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸大名の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。よって武力による威嚇又は武力の行使は、紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄いたすゆえ、しかと心得よ!」とか言い出しかねないですよ。
そんなに反戦平和を訴えたきゃ現代モノで好きなだけ訴えりゃいいんで、歴史をいじくるなと怒鳴りつけてやりたいですね。

投稿日時 - 2007-11-10 13:40:21

お礼

有難うございました。
とても興味深く拝読しました。
まず代官ですが、どうも悪役の代名詞みたいになっていますが、本当はとてもモラルが高い人が多かったわけですね。
それと殺人事件が極めて少ない時代 ・・ 江戸時代って武士が刀を腰に差して歩いているし、一般人でも懐刀などの武器を身に着けていたでしょうから、何となく殺伐としたイメージがあったのですが、凶悪事件ってそんなに少なかったですか。 驚きました。
鬼平犯科長や大岡越前をテーマにした時代劇の影響で、押し込み強盗なんかで平気で人を殺める犯罪者が多かったようなイメージを持っていました。
でも実際には十両盗めば首が飛ぶと表現されていますから、厳罰主義が徹底して、とても治安の良い時代だったんでしょうね。
武士の反戦主義 ・・ こんな事を本当に唱えていたら、あっという間に隣国に領土を奪取されてしまいますよね。

投稿日時 - 2007-11-12 11:17:34

ANo.32

#21です。#27さんに刺激されて、私も一言。

今でも日本の祭りは一日(月立ち)七日八日十五日二十三日など、妙に日にちにこだわっている理由が月の形にあることを最近知りました。昔は太陰暦だったのでこれが当たり前だったのですね。

古代の日本では正月が月立ちではなくて冬至後の最初の十五夜だったことのなごりが、いまでも東北地方の小正月を1月15日に祝うことに残っているとか。

太陽暦は外国との関係で便利かも知れませんが、父母たちが造り上げて来た自然を見る心を失わせてしまうと言う、悲しい側面もあるのですね。

質問者さんの趣旨からずれてしまいますが、質問の良さに免じてご容赦下さい。

投稿日時 - 2007-11-10 10:46:46

お礼

有難うございました。
暦と月の形が連動しているというのは、考えてみれば随分風流ですよね。
その意味では、太陰暦の方が自然と調和した暦なんだなと感じました。

投稿日時 - 2007-11-12 11:06:33

ANo.31

「大衆時代劇のウソ・本当、を考えてもほとんど意味はありません。」ですとお?
 この質問や多くの回答に意味が無い?
 こんな回答はこのサイトの規則で禁止されています。↓

【回答ではない】
・[批判目的]質問に対する回答を示さず、質問者や他の回答に対する指摘・批判を目的としているもの

 某さんがおっしゃるようなことは、質問者さんも他の回答者さんも百も承知です。その上での質問であり多数の回答だと思いますよ。みなさん楽しんでやってます。
 質問が気に入らなければ回答しなさんな。

投稿日時 - 2007-11-10 08:00:26

お礼

有難うございます。
歴史の事実は事実、創作は創作とキチンを理解した上で時代劇を楽しみたいなあと思って質問させて頂きました。
もし、まだ「時代劇にはこんな嘘が混じっているよ」と思われる事があれば、教えて頂けるでしょうか。
とても勉強になります。

投稿日時 - 2007-11-10 09:13:08

ANo.30

 質問への直接の回答にはなりませんが、昔は、歴史と文学の間に明確な区別はなく、歴史上の人物や出来事からヒントを得た創作文学(大衆)がすべてといっても過言ではありません。
古事記、日本書紀、源氏物語 も然りです。
 大衆娯楽の時代劇では、その現代人の感覚に受け容れられやすくするため、現代流にアレンジされていたりもします。水戸黄門も、遠山の金さんもシエクスピアや近代の事件を取り入れているものがあります。
 したがって、大衆時代劇のウソ・本当、を考えてもほとんど意味はありません。作者の意図に従い、単なる娯楽番組とし、割り切って楽しめばよいと思います。

投稿日時 - 2007-11-10 02:25:20

お礼

ご指摘、有難うございます。
古文書の世界はたしかに創作と事実の区別がつかなくて、後世の学者たちを悩ませているようですね。
でも、だからこそ、歴史の真実を理解した上で時代劇を楽しみたいと思って質問をさせて頂いたわけです。
皆様のお答えのお陰で、随分と映画のシーンなどで歴史を誤解しているんだなあと感じたしだいです。

投稿日時 - 2007-11-10 09:10:28

ANo.29

またまたすいません。m(__)m
お礼についてです。
>何も騎士を相手にしなくても、歩兵が槍で馬のお尻なんかをブスッとやったら、騎士が一発で引っくり返るような気がしていた

その通りで、戦国時代の戦では、既に騎馬軍団による突破に対する防衛陣として「長柄の足軽」という部隊がありました。

通常よりはるかに長い槍を立てるか地面に伏せて一列に並べ、敵の騎馬隊が突撃してくると、指揮官の合図で穂先を相手に向けてあげ、石突を地面に突き刺して足で踏んで固めます。
そこに騎馬隊が突撃してきたら・・・みんな串刺しになります。

なので、騎馬軍団による突破は戦国時代には非常に特殊な作戦で、相手が長柄の足軽を用意してないとか、横からの不意打ちとか、特殊な機動に限られました。
正面切って行くと串刺しになるので、当然その前で馬から下りて槍を払いながら徒歩で突撃します。
もしくは騎馬隊に先行して長柄の足軽部隊を進めて相手の槍を叩き落してから騎馬隊が進みます。

では騎馬上での戦いは無かったのか、というと、源平の頃にはありました。
最初に敵味方の両方から腕に覚えのある騎馬武者が一人づつ進み出て名乗りをあげて渡り合います。
どっちかが倒れる度に次の武者が・・・という具合で数回やってるうちに騎馬隊が突撃して乱戦になる、という状態でした。
しかし、足軽が発達し、長柄の足軽などという特殊分業部隊が出るに及んで、騎馬突撃は非常に危険な行為となり、先に述べた特殊戦法に様変わりします。

普通の徒歩の兵隊が動いてる馬を突くのは非常に難しいですけど、一旦止まってしまうと巨大な馬は簡単に突けますので、おっしゃるような話になります。
従ってよほど突破力に優れた騎馬隊じゃなければ、最後まで騎馬で戦うのは無理で、やる時には通常は、一気に相手の陣地を駆け抜けて、相手の軍団を分断するというような使い方でした。
従って、騎馬同士が徒歩の兵隊の中で斬り結ぶ、などというシーンは存在し得ないわけです。
あるとすれば負け戦になって逃げる時くらいでしょうか。

投稿日時 - 2007-11-09 21:28:46

お礼

騎馬戦の本当の姿を解説して頂いて、有難うございました。
映画のシーンなんかとは、全然違いますよね。
よく乗馬したまま、刀を片手で振り回すシーンがありますが、刀って結構重かったように聞いていますし、そもそも停止しているのですが、馬のお尻をプスッとやるのが一番効果的なように感じていました。
でも騎馬の集団が土埃を上げながら全速力で敵陣に突撃して行くシーンって、たしかに映像的に迫力あるので、嘘と分かっていても、いつの間にか今のようになってしまっているんだろうなと思いました。

投稿日時 - 2007-11-10 09:05:56

ANo.28

また失礼します。
本当は日本の歴史の方が好きなのですが、ちょっと毛色を変えて、西部開拓史の映画各種について。

必ずインディアンが悪者になって、それを白人ガンマンがカッコよく射殺してます。

しかし、初めてのアメリカ大陸移住者は、スペイン(だったと思う)の船の遭難者でした。
現地のアメリカインディアンの社会は、全くの外部からの侵入者であるにも関わらず、遭難者なので、救助し、手厚くもてなし、生活に必要な食料や住居を与えたり・・・至れり尽せりの大歓迎をしました。

ところがこの遭難者は銃で命の恩人たちを撃ち殺したり追い払ったりして土地を奪ってしまいます。
この成功談がヨーロッパに聞こえて次々に白人移民が大挙してくる事になります。

どうです?これを知ると西部開拓史を見る目が変わると思いますよ。
「フロンティアスピリット=虐待者魂」だと、私の高校の歴史の先生がのたまってました。

投稿日時 - 2007-11-09 20:40:19

お礼

何度もお答え頂き、本当に有難うございます。
お蔭様で本当の歴史の姿が見えてきたような気がします。
アメリカインディアンも本来はそんなに攻撃的でも排他的でも無かったんですね。
白人=正義のイメージなんて、どうでしょうか、多分、ジョン・ウェイン辺りから出来たんでしょうかね。少数民族を悪者扱いにしても、誰もクレームしなかった時代でしょうからね。

投稿日時 - 2007-11-10 08:59:30

月。
昔は太陰暦を使っていたから、3日の出来事なら三日月が見えなくてはおかしい・・・しかし、舞台効果を狙ってか満月の中で本能寺の変とか(本能寺の変は六月二日なので、細い月でなくてはいけない)の映像があったりします。

大名行列。
「下に~ぃ下に~ぃ」は原則として御三家のみ。他の大名家は「よけろ~」という掛け声だったそうです。でも時代劇では、全ての大名行列が「下に~ぃ」ですね。

投稿日時 - 2007-11-09 19:25:55

お礼

有難うございました。
大名行列なんですが、これは初耳です。
他の大名家は「よけろ~」という掛け声だったんですね。
でも今の映画で本当にこの掛け声をやったら、観客たちはずっこけるでしょうね。 映画のイメージって強いですからね。

投稿日時 - 2007-11-10 08:53:54

ANo.26

どの時代劇と特定するわけではありませんが、「はい」という言葉。
英語の「Yes」にあたる言葉ですが、これは明治時代に広東語から輸入された言葉で、江戸時代にはありませんでした。(輸入したのは福沢諭吉です)
「然り」とか「左様」と言っていたんでしょうね。

投稿日時 - 2007-11-09 17:20:17

お礼

有難うございました。
えーっ、「はい」という言葉は無かったんですか。
これは驚きました。
でも「然り」とか「左様」って、何となく武士が使う言葉のようなイメージがある(映画のせいでしょうね)のですが、これは町民とか農民なんかも使っていたんでしょうか?

投稿日時 - 2007-11-10 08:47:44

ANo.25

表札はなかったと聞いたことがあります。

先に「南町奉行所」表札への指摘がありましたが、さらに、一般の武家の屋敷や、大名の上下屋敷などにも表札は出ていなかったそうです。

なので、テレビに出てくる「尾張藩上屋敷」などという表札は、
・一般には「藩」という呼称は使っていなかった。
・そもそも表札を掲げる習慣がなかった。
の2点で「変」ですね。


また、諱と呼び名の指摘もありましたが、手元にある江戸中期から後期の書類を見ると、幕府の上司に提出する正式な書類などでも「呼び名(字)」の方を署名(花押と呼び名)しているところから、諱は滅多に使わなかったものと思われます。

投稿日時 - 2007-11-09 14:13:20

お礼

有難うございました。
表札を掲げるという事は実際には無かったんですか ・・ ムムッ、よく映画なんかで誰かを尾行していくと、○○藩上屋敷と表札のある大きな門をくぐっていくシーンとかありますが、これも実際には × なんですね。 歴史の勉強になりました。

投稿日時 - 2007-11-09 15:33:04

ANo.24

NO.7です。
>最後のお話なんですが、男性も女性も家の中では下着姿だったんですか ・・ 何だかエロイ感じもしますね。 でも当時の人は当たり前の事として何にも感じなかったんでしょうね。
・・・そうです。昭和前半までの田舎では、男性がランニングシャツとステテコであれば、外出着としては立派なものでした。私はこの姿で自転車に乗ってタバコを買いに行きました。
 江戸時代は混浴だったらしいですし(昭和も前半のころまでは温泉の混浴は多かったです)、庶民は家の中では裸同然で暮らしていたと思います。女性は下半身は腰巻、上半身はオチチブラブラでしょう。
 大体着るものは物凄く高かったと思います。昭和に入っても、中国製が輸入されるまではそこそこの値段がしました。江戸時代は手動の機織り機でカタン、カタンですから、なかなかハカがいきません。そんなことも裸くらしに影響しているでしょう。

>蚊に食われるお話、不思議ですね。 蚊に分かったのでしょかね。・・・私の実体験で本当です。しかし科学的な証明はできておりません。蚊に刺されつづけると抗体のようなものが体にできて、それを蚊蚊が察知する(?)。

 「藩」という呼称について、NO.18さん、NO.21さんのどっちも合ってると思います。ずるいかな(笑)。
 ウィキペディアによれば、「藩と云う呼称は、江戸時代には公的な制度名ではなかったためこれを用いる者は一部に限られ、元禄年間以降に散見される程度だった(新井白石の『藩翰譜』、『徳川実紀』に散見)。明治時代に公称となり、一般に広く使用されるようになった。」とあります。
 また、「江戸時代には「藩」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称されたことは無く、「何某家中」のような呼称が行われていた。」ということだそうです。
 ウィキペディアでは以上の通りですが、たしか司馬遼太郎のエッセイで、「中村半次郎(後の桐野利明)は教養がなかったので、他藩の志士に向かって『尊藩』と言うべきところを、『弊藩々々』としきりに言ったので、相手は面食らった。」という意味のことを書いていました。
 司馬は、こんなところはウソを書かないと思いますので、幕末には新しい物好きの勤皇の志士達の間で、流行りかけていたのかも知れません。

投稿日時 - 2007-11-09 13:45:40

お礼

有難うございました。
「藩」という呼び方にはそのような経緯があるんですね。 初めて知りました。 今では当然のように 「我が藩では ・・」 というシーンがありますが、実際には特殊な場合にしか使われてなかったんですね。

投稿日時 - 2007-11-09 15:30:21

ANo.23

大河ドラマ等で、家臣たちが面と向かって「信長様」などと呼びかけていること。

現代の感覚で言えば社員が社長に向かって「てめえ」「きさま」「おい!」などと呼びかけるに等しいんじゃないでしょうか。
織田信長でいえば尾張時代なら「上総介様」とか「殿」(守護職ならお屋形様)、右大臣となった晩年なら「右府様」というように官職名などで呼ばねばならないはずです。信長殿、などと名を呼ぶ資格があるのはせいぜい親くらいで、その親でさえも憚られるほどのことだったそうです。
ましてや家来が「信長様」などと呼ぶなど想像を絶する非礼で、その場で斬り捨てられればまだラッキー、ヘタすりゃ鋸引きか火あぶりだったんじゃないでしょうか。
主君が家臣に対するときも同様で(相手の身分がよほど低ければともかく)、たとえ家来でも名を呼ぶのはあまりに失礼という感覚だったみたいですね。あの信長でさえ秀吉の身分が上がればもはや猿とは呼ばず、ちゃんと「筑前」と敬意を払ってますから。

この日本古来よりある『相手の名を呼ぶのは失礼』という、考えてみれば奇妙な風習は現代でもしっかり残ってますよね。
社長や上司に向かって役職名で呼ばず鈴木さん、田中さん、などと言えばまず相手は不愉快になるし、下の名で呼んだら激怒でしょう。
逆に上司が部下を呼ぶときも役職名や名字で呼ぶのが普通で、もし下の名で呼んだらいくら上司でもちょっとヒドイよね、って感覚はありますから。

この風習、『相手の名を呼ぶと相手が死ぬ』的なタブーがあったポリネシア等の南方から太古の日本に流れ着いたもの…という話を何かで読んだことがありますけど、本当なのかな…?

投稿日時 - 2007-11-09 13:43:35

お礼

有難うございました。
へー、相手の呼び方が全然違っていたんですねえ。
たしかに時代劇では、○○様とか名前で呼ぶシーンがあるように思います。 偉くなった秀吉に対しても、猿といったり ・・ あり得ない話なんですね。
おっしゃるように、この習慣は今でも残っていますね。 勉強になりました。

投稿日時 - 2007-11-09 15:26:00

ANo.22

拍手は昔からあるよ

投稿日時 - 2007-11-09 03:26:04

お礼

有難うございました。
拍手も江戸時代からあったんですか。
どんな時に拍手したんでしょうね? 今と同じシチュエーションでやっていたんでしょうか?

投稿日時 - 2007-11-09 15:22:22

ANo.21

情報に乱れがあるようなので、一筆差し上げます。

#18さんによると、維新まで藩とは呼んでいなかったとおっしゃいますが、新井白石が「藩翰譜」という素晴らしい本を書いております。元禄13年、甲府藩主の徳川綱豊の命を受けて編纂したという諸大名337家の由来と事績を集録し、系図をつけたものです。

投稿日時 - 2007-11-09 02:49:15

お礼

有難うございました。
やはり、藩という呼び方はあったんですね。

投稿日時 - 2007-11-09 15:21:11

ANo.20

そうですね、遠山左衛門尉影元ですが、若い内は市井の人で家督を継ぐまでは「一町人」として放蕩していたという事です。まあ、ドラマのような「遊び人」だったわけですね。その関係で「彫り物(入れ墨はこの時代刑罰でしたので、彫り物と言います)」もしていたようです。ただし、ドラマのような桜吹雪ではなく、惚れた女の首だったとか。

もちろんこれは「若い内だけ」の話で、家督を継いで正式に「遠山影元」と名乗るようになってから放蕩していたなんて事はありませんし、いちいち町屋に出て町人と交流する暇はなかったでしょう。それでも若い内の放蕩暮らしから、町屋の生活という物を知っていたので町人の事をよく知った裁きを下したそうですよ。
それがまあ俗に言う「遠山裁き」な訳です。ドラマは誇張もありますが「全くフィクションという訳でもない」ので注意が必要ですね。

投稿日時 - 2007-11-09 01:52:29

お礼

有難うございました。
桜吹雪ではなくても、金さんの背中に彫り物があるというのは本当のようですね。
町屋の事情に詳しいから、今のようなイメージというかストーリーが出来上がったのかも知れませんね。

投稿日時 - 2007-11-09 15:20:11

ANo.19

また来ました。m(__)m
水戸黄門様より一題。
実はあの印籠の紋所が間違ってます。
あれは尾張徳川家の紋で、水戸徳川の紋は、葵の葉っぱの縁がぎざぎざになって、下の葉と重ね合わせたようになってます。
光圀は中納言で、尾張徳川は大納言ですから、格上の家紋を用いたことになり、江戸時代では大犯罪になったはずです。(笑)

いくつか騎馬軍団のお話が出てますが、騎馬軍団は全速力で疾走したりしません。
そんな事すれば各馬ごとに速力が違うので、軍団がバラバラになっちゃいます。
7~8割の速度でみんなで揃って機動したから騎馬軍団が成立したのです。目的地に着いたら馬を下りて戦ったことが多かったようです。
なので時代劇の騎馬軍団は競馬と間違えています。

チャンバラ各種。
刀の使い方が殆ど間違ってます。剣道の見すぎでしょうか。
近頃は時代劇もジュラルミンの刀なので、ウソみたない振り方ばっかりです。
本物刀をあんな振り方したら自分を切っちゃったり(真剣を使う古流で結構多い事故です)、地面まで刺さったり・・・チャンバラ自体が成立しません。

投稿日時 - 2007-11-08 19:51:00

お礼

有難うございました。
騎馬軍団ですが、実際には馬から下りて戦ったんですか ・・ 映画なんかでは、馬に乗ったままで上から刀や槍で戦っているシーンが多いですよね。
この場面なんですが、いつも不思議に思っていたのですが、何も騎士を相手にしなくても、歩兵が槍で馬のお尻なんかをブスッとやったら、騎士が一発で引っくり返るような気がしていたのですが、実際には馬に乗ったままの戦闘は無かったんでしょうね。

投稿日時 - 2007-11-09 15:17:38

ANo.18

藩という言葉。
廃藩置県のときに初めてできた言葉だと聞いておりますので、維新までは「藩」と呼んでなかったはずです。

投稿日時 - 2007-11-08 18:55:28

お礼

有難うございました。
へー、藩という言葉な無かったんですか。 何と読んでいたんでしょね。

投稿日時 - 2007-11-09 15:13:04

ANo.17

昔時代劇が好きでテレビでよく見ていました。

[子連れ狼]などで拝一刀がバッタバッタと敵を何人何十人も切り捨てるのをみて何の違和感もありませんでした。

しかしあるとき[斬りぬける]という近藤正臣主演の時代劇が始まり、刀は血や脂がつくので3人以上は切れないということをテレビで言っていました。

投稿日時 - 2007-11-08 18:44:47

お礼

有難うございました。
実際に人を切ると刀の表面に血糊がベットリと付くので、同じ刀で何人も切るというのは無理だったんでしょうね、実際には。

投稿日時 - 2007-11-09 15:12:01

ANo.16

また思い出しました。
平次親分や伝七親分など、各種岡引の親分が房のついた十手を使ってますね。
房付きの十手を使えるのは奉行レベル以上です。
同心も房なしです。
現場で立ち回りの多い岡引や同心にとって、あんな装飾は邪魔者以外の何者でもありません。
手で持つ部分は紐よりも滑り止めのために荒縄や籐などを巻いた人もいたようです。

投稿日時 - 2007-11-08 18:17:40

お礼

有難うございました。
たしかに房が付いたような十手は実戦では扱い難いですよね。

投稿日時 - 2007-11-09 15:10:11

ANo.15

もともと時代劇はおもしろさ重視なので、突っ込みどころは満載ですよね。
史実のとおりやっても、つまらないドラマになってしまいますから・・・。

遠山の金さんに関しては
>町奉行が桜吹雪の刺青をして遊び人として町に・・・
どころか、お白州で、いちいち目撃者の証言を聞いたりしません。
町奉行は、現在の警察と知事と裁判官・・・とにかくメッチャ忙しいので、ほとんど部下が行った取調べと判決に、承認のような形で最終決断を下すくらいで、精一杯だったと思いますよ。

忠臣蔵で出てないところと言えば・・・
当日は雪が降ってなかった。
お揃いの服装ではなかった。
合図は、山鹿流・陣太鼓ではなく、笛とドラ。
あと、この討ち入りは幕府も知っていて、情報がだだ漏れしていたため、討ち入りの時点で、すでに一般の見物人が300名ほどいたらしいです。
新井白石も(見物人として)見たという事なので、たぶんそっちが本当なのじゃないでしょうか?

それから、四谷怪談。
これは、お芝居がもとなので、フィクションで当然なんですが、お岩さんが実在の人物で、神社に祀られていたり、ドラマの撮影の時にお祓いに行ったりするので、事実をもとにしたお話だと勘違いしてしまいますが、実際の事件はまったく違うお話だそうです。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/07/post_cd62.html

最後に、最近はあまり見なくなりましたが、国定忠治。
群馬のかたには悪いですが、恩人を殺し、悪の限りをつくしたわりには逃げまくって、最終的にカッコ悪い捕まり方をしました。
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2006/12/post_cbea.html

私も時代劇が大好き(こうして突っ込めるところも好き)なので、長々と書いてしまって、すみませんでした~

投稿日時 - 2007-11-08 17:42:10

お礼

有難うございました。
忠臣蔵の討ち入りの夜は大雪にお揃いの衣装という固定観念があったのですが、実際には違うんですねえ。 それに見物人が300人も? 現実は全く違う世界のようですね。
それに国定忠治なんてヒーロー扱いされていますが、ドッコイ、悪行の限りを尽くしていたんですね。
いやあ、面白いお話、有難うございました。

投稿日時 - 2007-11-09 15:08:44

ANo.14

時代考証にはまったくの素人ですがおかしいと思うのは、

*拍手
カッコ良い主役が悪党共を追っ払ってそれを見ていた町人達が拍手するシーンがキムタク主演の時代劇でありましたが日本での拍手は明治初めの横浜の芝居に外人たちがしたのが初めてでした

*パンツ
一心太助が白いパンツを履いてますが男がパンツを履き始めたのは明治の中程からです、半たこと呼ばれる短い股引はありましたが
明治の初めに来日した外国人でもさるまたやパンツは着用していませんでした

投稿日時 - 2007-11-08 17:33:13

お礼

有難うございました。
へー、拍手ですか ・・ もしかすると、当時では拍手なんて神社でするものだったかも知れませんね。

投稿日時 - 2007-11-09 15:00:37

ANo.13

馬ですかね。現在テレビ、映画に出てくる騎馬武者、騎馬隊が乗っているのはアラブ馬(明治期に入ってきたもの)で当時は日本産馬で馬高、馬体はかなり小さくアラブ馬より2回りくらい小さかったようです。当然走るスピードも遅く、今見るような壮大な武田騎馬隊なんかも迫力がなかったと思います。

投稿日時 - 2007-11-08 16:48:24

お礼

有難うございました。
馬ですね。 これは聞いた事があるような気がします。 昔の日本には今のような大型の馬なんて存在していなかったようですね。 でも現実の馬をそのまま映画のシーンにすると、格好悪いですよね。 やっぱり大型の馬で颯爽と走るのがいいようです。

投稿日時 - 2007-11-09 14:58:59

ANo.12

忠臣蔵で、もう一つ思い出しました。
一党に荷担する商人がいましたね。
天野屋利兵衛。
実在の人ですが、役どころが全然違います。
浪士一党には何も関わってません。
後に仮名手本忠臣蔵が発表されたとき、そのパトロンとなり、宣伝に一役買って大もうけした人です。
その為に仮名手本忠臣蔵にこの人が登場する筋書きが書き込まれました。

投稿日時 - 2007-11-08 16:11:07

お礼

有難うございました。
実際に討ち入りしていない人が混じっているようですね。

投稿日時 - 2007-11-09 14:56:03

ANo.11

#9です。
あと一つ思い出しました。
「花火」です。

江戸時代を含めた明治以前の花火は今ほど華やかな色ではなく単筒による単発の打ち上げのみ。
色も暗い炭火色(和火と言います)の濃淡のみです。

遠山の金さんや暴れん坊が観ていた緑や白銀・オレンジ色の花火は全て嘘です。

投稿日時 - 2007-11-08 15:41:41

お礼

有難うございました。
へー、江戸時代の花火って地味だったんですねえ。
映画なんかでは、今と同じように華やかな花火が上がっていますが、実際とは違うんですね。 これは初耳です。

投稿日時 - 2007-11-09 14:54:40

ANo.10

こんにちは。
宮本武蔵に出てくるお通と又八。
吉川英二の創作ですが完全に定着しちゃいましたね。(笑)

あと各種剣豪が非常に綺麗な陣羽織を着てたりします。
藩お抱えの武者はそういう事もありましたが、そうでない場合はただの貧乏浪人で、非常にみすぼらしいなりをしてました。
武蔵はさらにお風呂は無防備になる時間が出来るので嫌って入らなかったそうなので、更に悲惨だったようです。
お抱えになってからは少しはマシだったろうとは思いますけど。

最初の武田騎馬軍団は「騎馬の軍団」自体は実在ですが、使用法が全く違います。

鉄砲の3段打ちは、そんな事をやっていたら、恐らく織田・徳川軍は敗北していました。
最初の一撃の合図だけを送ったようです。
有効射程距離が短いので早く打ってしまうと騎馬が目の前まで来てしまうからです。
実際3段に作った柵の3段目まで引き抜かれた場所が一箇所だけあります。
その時は、そこを守っていた羽柴秀吉、明智光秀の率いる鉄砲隊が柵の外に飛び出して後ろから撃ち事なきを得ました。
もしそのまま柵の中から打ってれば、柵が無くなった部分は騎馬が押し寄せて総崩れになったでしょう。
敵味方が入り乱れてしまうと鉄砲は撃てませんから。
実際は最初の一撃の合図以後、多数の鉄砲が自分の装填速度で連射していたようです。

遠山金四郎は実在で、刺青の程は知りませんが、一時期、家を病弱な兄に継がせる為に出奔(家出)してた事があり、町民の生活を非常によく知っていました。
その為、奉行になってからも町民の生活を重視した政策を行い、評判は高かったようです。
水野忠邦がむちゃくちゃな緊縮政策を発表したときも「これでは町人の心が離反し反乱になりかねない」と忠告して芝居小屋を残すなど、本当に町民に喝さいを浴びる政策を行いました。
でも盗賊集団の取り締まりに刺青をひけらかしてチャンバラに及んだはずはないです。
密偵はいたけど、奉行本人がそんな事はできないです。
お白州は、今で言えば最高裁の大法廷みたいな物で奉行が直接裁くのはかなり特殊な事例で、通常は与力が裁きます。

銭形平次などの岡引。
全部が全部そうだとは言い切れませんけど、かなりヤクザまがいのが殆どだったようです。
もちろんお金を投げて犯人を倒すのはウソ。
#ただ、中国に実際に貨幣を投げて相手を攻撃する武術があり、日本でも独自にそういうのを使う人はいました。

岡引・同心では捕り縄の使い方が全然違います。
犯人を縛ったり、遠巻きに投げつけてぐるぐる巻きにしたり、などよりは、接近戦で手首に巻いた輪を相手に引っ掛けて縄を足で踏みつけると刀を持った相手でも身動きが出来なくなったといいます。(取り縄術(捕縛術)は実在し、現在も伝承されています)

鬼平犯科帖
長谷川平蔵(旧:笑)は、犯人逮捕よりも犯罪者更正に人生をかけた人です。
彼の手による「人足寄せ場」は、当時世界最先端の犯罪者更正施設で、当時のパリなどでさえ、犯罪者は地下牢に押し込めてそのうち首をちょん切るしか行われてませんでした。
世界に比較できる物すらなかったのです。

投稿日時 - 2007-11-08 15:15:19

お礼

有難うございました。
結構、時代劇にも嘘が多いですね。
最後の鬼平に関してですが、映画のイメージとは随分違いますね。 映画などでは、鬼より怖いというか、泣く子も黙るというか、とにかく悪い奴らには徹底した強面ぶりを発揮したような印象があります。 でも実際には結構、悪人にも人情味を示していたんですね。

投稿日時 - 2007-11-09 14:52:45

ANo.9

光圀主従が会津方面への漫遊の途中に映った磐梯山。
今の形になったのは1888年の水蒸気爆発によるもの。

光圀主従が通った時代には今の形とは相当違って小磐梯山が映っていなければなりません・・・。

あとなんと言っても電線がぁ~~~

投稿日時 - 2007-11-08 15:07:19

お礼

有難うございました。
時代劇に電線が映っていたんですか ・・ 監督もドジですね。

投稿日時 - 2007-11-08 22:46:50

ANo.8

>時代劇の登場する大嘘について教えて頂けないでしょうか?

毎年冬の風物詩である「忠臣蔵」でしようね。
TV・映画では「吉良の御首を持って泉岳寺に行く途中、江戸庶民が拍手喝采を行った」というのもウソです。
いくら元禄太平の世でも、庶民がそんな事をすればたちまち捕縛されます。
古文書を見ても、庶民は冷めた目で見ていたようです。
御三家の記録にもほとんど出てきません。
当時の多くの記録は、「赤穂浪士は忠義の侍でなく、再仕官が出来なかった侍の暴徒」になっています。
尾張名古屋藩の記録でも「江戸城中で刃傷があった」「吉良が暴漢に襲われた」と記載しています。
赤穂浪士を義士としたのは、明治以降の講談師です。
♪講談師 見てきた様に ウソを云い♪
おそまつ。

投稿日時 - 2007-11-08 14:59:28

お礼

有難うございました。
え~、忠臣蔵って、もしかすると今で言うテロリスト集団だったかも知れないんですねえ。 これは驚きです。
たしか、後の仮名手本忠臣蔵とかで、かなりデフォロムされて美談になったと聞いた事がありますが、実際は全然違っていたんですね。
ホント、驚きました。

投稿日時 - 2007-11-08 22:45:25

ANo.7

 大嘘とまではいきませんですが、細かいところを二、三・・・。

(1)若い娘の爪がやや長いのがヘンです。以前、このカテで「江戸時代も今のOLなみに伸ばしていたのか」と質問しました。図書館で浮世絵を逐一見て調べてくれた人が居まして、「みんな短かった」という回答でした。

(2)ローソクや灯心の火にしては、夜間のシーンが明る過ぎますね。それにローソクを点した部屋で、人が動いたりすると、大きな影も動きます。また、電気ではないですから、炎の揺らめきがあるはずなんですが、感じられません。

(3)建物の外装、内装ともに、古めかしく見せるために黒っぽい塗装を施しているのがヘンです。現在残っている江戸時代の建物はたしかにそんな感じですが、当時は古いのも新しいのも混在していたはずです。

 ANO.5さんのふんどしと腰巻の話、昭和20年代までの田舎ではそうでした(ただし真夏)。年寄りの男は褌一丁、年寄りの女は腰巻一枚、若い男は木綿地のパンツ(サルマタ?)、若い女はシュミーズ一枚。
 そんな裸でしたが、どういうわけか土地の人は蚊に食われませんでした。ただし都会から来た人はみんな食われました。

投稿日時 - 2007-11-08 14:39:07

お礼

詳しいお話、有難うございました。
最後のお話なんですが、男性も女性も家の中では下着姿だったんですか ・・ 何だかエロイ感じもしますね。 でも当時の人は当たり前の事として何にも感じなかったんでしょうね。
蚊に食われるお話、不思議ですね。 蚊に分かったのでしょかね。

投稿日時 - 2007-11-08 22:41:50

ANo.6

私は子供の頃テレビで西部劇の映画をよく観ていました。

ずっーとガンマンが正義でインディアンが悪者だと信じていましたが、ある日[ソルジャーブルー]という映画で、ガンマンが女、子供にかぎらずインディアンを虐殺しているのを観て、びっくりしたのを覚えてます。

投稿日時 - 2007-11-08 14:19:52

お礼

有難うございました。
うーん、こういうお話を伺うと、アメリカ人の正義って何なの? と言いたくなりますね。

投稿日時 - 2007-11-08 22:38:08

江戸は夜になると町人の区域は大木戸や木戸を閉められてしまい、
特別な許可が無ければ自由には移動できませんでした(移動する人数に合わせて拍子木を打って次の木戸番に教えていた)、
なので夜中に抜け出して別の町には行くのは難しかった、

江戸御府内では鉄砲の規制は厳しく、
発砲すれば死罪になる可能性が高いので、
たとえ鉄砲(短筒)で相手を倒しても自分の身が危なくなる、

長屋の町人が家に帰って来た後も着物を着ている、
寒い時期を除きほぼ半裸(男は褌一丁か半纏、女は腰巻のみなど)で過ごしていたとか。

投稿日時 - 2007-11-08 13:21:19

お礼

有難うございました。
へー、江戸時代は夜の町を散歩するとか、勝手にウロウロするとか、出来なかったんですねえ。 初めてしりました。
勉強になります!

投稿日時 - 2007-11-08 22:36:21

ANo.4

水戸の黄門様・・・。テレビドラマでは旅にでて悪態を成敗して
おりますが、実は黄門様は旅行などはした事はなかった(正確にいうと、
将軍家に何かあったら水戸藩が対応しないといけないので水戸周辺を
離れられなかった)です。

また、黄門様は今で言うヤンキー上がりみたいな人で
成敗どころか、ご自身が色々悪態をされていたらしいです。

こんな具合でよかったでしょうか?

投稿日時 - 2007-11-08 13:08:45

お礼

有難うございました。
水戸のご老公は実際には全国行脚なんてしなかったというのは、以前クイズ番組で聞いた事があります。 たしか駿府まで行った事はあったとか。
ただ、結構暴れん坊だったんですねえ。 初耳です。 テレビでは凄い人格者のように扱われていますが ・・

投稿日時 - 2007-11-08 13:18:15

ANo.3

面白い話題ですね。

一番違和感があるのは歩き方でしょうか。江戸時代以前は「ナンバ」という歩き方で手と足とは同時に動かすはずですが、時代劇では交互に動かしていますね。

あと気になるのは「南町奉行所」と看板があることですか。実際は無かったはず。

すごく細かいことですが大阪では一日分の飯は昼に炊き、江戸では朝に一日分の飯を炊きました。一日一回しか飯は炊かないので大阪では夜と次の日の朝が冷や飯、江戸では昼と夜とが冷や飯でした。
あるときに江戸の設定で夜にほかほかのご飯を作っているシーンがありましたが一般的ではないなあと思ってみてました。当時夜に飯を炊くなんてことはほとんど考えられないことです。

投稿日時 - 2007-11-08 12:45:08

お礼

有難うございました。
ご飯は1日に1回しか炊かなかったんですか。 これは初耳です。
時代劇で夕飯の支度で、女性が竹筒でフーフーしているシーンがありましたが、江戸でも上方でもこんな事は無かったんですねえ。
考えれば、今と違って、ご飯を炊くというのは大変な重労働だったはずなので、1日分のご飯をまとめて1回で炊き上げるというのは納得です。 合理的ですよね。 ただ、ジャーなんて無いから冬は冷たかったでしょうね。

投稿日時 - 2007-11-08 13:12:11

ANo.2

基本的なことなんだけど、夜の明るさ。
行灯一つではかろうじて何かあるかを見分ける程度の明かりにしかなりません。
月明かりの方がよっぽど明るいくらいです。
実際に、同程度の明るさを確保しようとしたら部屋中が行灯だらけになったなんて実験をどこかで見たような気がします。

投稿日時 - 2007-11-08 12:42:06

お礼

有難うございました。
あっ、本当ですね。
町や部屋の中が今と同じくらいの明るさになっているように思います。
昔の町は外灯なんて無い時代ですから、それこそ提灯無しでは真っ暗で歩けなかったでしょうね。
それに部屋の中もうす暗い行灯ひとつ。
トイレに行くにも怖かったでしょうね。

投稿日時 - 2007-11-08 13:06:40

ANo.1

武田の騎馬軍団
織田の鉄砲三段撃ち
秀吉の墨俣一夜城

最近だと戦国武将がやたらと平和主義、
反戦なのは勘弁して欲しい

投稿日時 - 2007-11-08 12:24:29

お礼

早速のお答え、有難うございました。
騎馬軍団や鉄砲三段撃ち、それに墨俣一夜城 ・・ エッ、これらは全て嘘だったんですか?
鉄砲の三段撃ちに関しては、たしか学校の授業でも取上げられたような気がするのですが ・・

投稿日時 - 2007-11-08 13:02:58

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