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解決済みの質問

木戸孝允と大久保利通は

どうして不仲になったのでしょうか?
共に遣欧使節団に加わり欧米を回っているうちに「口も利かぬほど」
険悪な仲になったと言われていますが、具体的にどのようなことが原因で、どういう経緯でその様なことになったのでしょうか?
教えてください。

投稿日時 - 2008-02-02 00:54:48

QNo.3735872

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

この2人は西郷隆盛の両腕というべき立場だったが、西郷大久保VS木戸伊藤博文に分かれて争ったみたいな形になった。互いにけん制しあっただけで露骨に争ったわけでもない。
木戸は桂小五郎と呼ばれた幕末期の京都での反政府活動が有名です。京都で蜂起しようとした長州軍は敗走し「長州征伐」まで行われたが京都に潜伏し活動続けた。かくまった芸妓がのちの奥さんです。

よく言われるのは大久保は士族の特権排除志向で明治維新の成果は人事に反映させるべきという立場らしいことです。
全国から人材登用したという言い方がある(別の面からでは権力ふるい独裁者になったと批判がある) 明治11年暗殺される。
彼が生きているうちは薩長閥がはびこることはなかったが死後綱紀緩み官僚は私益の確保に向かい現在に連なる。官僚連中は口先では絶対にそういわないが(^^)
講談社学術文庫「大久保利通」

木戸は近代国家の制度の確立に熱上げた。断髪や議会制度、憲法など(当時の制約はあるが)アジアの他の国と比べれば進んだ仕組みです。木戸は明治10年西南戦争のさなか病死するが伊藤などが跡を継ぎ薩長同盟政治復活させた(いまも続く!)
岩倉訪欧団の帰国後征韓論で揺れる。渡欧中重要な方針変更しない約束は反故にされ西郷板垣大隈と大久保木戸伊藤は対立する。大久保が表、木戸や伊藤が支え薩長政治復活する。西郷が下野しおそらく木戸の意を受けた伊藤の暗躍で西郷大久保は離間する。
木戸の政治はともかく士族に特権与えて活用しようという後のトウ小平みたいなやり方です。利益得た人には天国だったでしょう。(敗戦でやっと華族士族廃止) 長生きする実務派が最終的には大きな影響持つのはスターリンやトウ小平でも経験します。
板垣も含め反政府側は結局は分散し全滅する。しかしそれは権力を監視する政党として緊張感持たせる一定の意義はあった(政党の腐敗言うなら官僚と軍も腐敗です)

投稿日時 - 2008-02-02 02:31:27

お礼

ご回答いただきありがとうございました

投稿日時 - 2008-02-02 09:03:08

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回答(2)

ANo.2

まずアメリカでの条約改正の失敗。後は伊藤の動向でしょう。
アメリカでの条約改正の失敗は使節団に大きな影響を齎しました。後の征韓論政変もこれが原因のひとつです。
また木戸はアメリカでの条約改正の失敗を伊藤や森有礼などの若手官僚に騙されたと思っていたようです。また伊藤が過度に派手な生活をするのを苦々しく思っていたらしく、イギリスで伊藤を後輩の前で怒鳴りつけてしまいます。これに伊藤は委任状を取りに帰る際に親しくなった大久保に接近。伊藤と木戸との仲が離れていきます。
このふたつが原因と考えます。

>>alpha123さん
>この2人は西郷隆盛の両腕というべき立場
違います。大久保と西郷が薩摩閥の両腕です。また木戸は長州閥を支える立場ですから、西郷の政敵です。西郷は明治4年に政府に戻るまで鹿児島に引き篭もっていましたから、その西郷の両腕にはなりえません。大久保と木戸は明治政府の要ともいえる存在でお互いに長州閥と薩摩閥を代表していたのです(特に征韓論政変以降)
また薩長閥政治であったのは、二人が生きていた頃も同じです。二人は政府を支える薩長の間が離れることを何よりも恐れていました。だから二人とも、政治的主張は正反対でも手を握り合っていた訳です。人材の登用という観点なら二人とも基本的に藩閥には拘りませんでした。
大久保は岩倉使節団で欧米を見て回るまでは保守派であり、版籍奉還の際に藩主の特権を維持すると意見、徴兵令にも反対するような人物でしたが(これには久光の意向や薩摩の動向もあったでしょうが)、人材登用にも保守的で幕臣の登用などを嫌がりました(渋沢の回想より) しかし、欧米を見て一転して改革派へ移り、人材登用にも柔軟になりました。またフランスの内務省を見て、日本にもこのような官僚組織を作りたいと思い、内務省を建設。一手に権力を掌握し、その後の大久保政権時代を築いていきます。逆に木戸は岩倉使節団までへ改革派の親玉で版籍奉還や徴兵令にも賛成、推進するような人物でしたが、ポーランドなどの国を見て、漸進主義へと移行しました。急激な改革よりも内からの改革を目指したようで、憲法や教育に興味を示しました。帰国後、憲法に関する建白書を提出します。また士族を切り捨てることで起こる弊害を何より不安に思ったらしく、急激な秩禄処分に反対。薩摩藩の特権階級状態にも反発しています。

投稿日時 - 2008-02-02 08:49:19

お礼

ご回答いただきありがとうございました

>>木戸はアメリカでの条約改正の失敗を伊藤や森有礼などの若手官僚  に騙されたと思っていたようです
条約改正の失敗はいくつか理由があったようですが、決定的な失敗は
正式な全権であることを証明するための、天皇の詔書を持っていかなかったことだと聞いたことがあるのですがどうでしょうか?

あと「齎しました」これはなんと読むのでしょうか?
浅学ですみません、教えてください(; ´Д`)

投稿日時 - 2008-02-02 10:16:47

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