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解決済みの質問

教義内では共存的な世界観の多神教が、対外的には排他的になるのはなぜですか。

教義内では共存的な世界観を思わせる多神教(たとえば神道)が、対外的(他の宗教など)には排他的になるのはなぜですか。そもそも、教義内でも共存的な世界観などないのでしょうか。

多神教がもつ包容力は、対外的にも寛容な、排他的ではない態度に通じると思いたいのですが、幻想でしょうか。

投稿日時 - 2008-02-10 15:05:03

QNo.3762272

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

共存共栄を謳いながら、排他的になるのは多神教・一神教を問わずあることではないでしょうか?

例えば、「愛の宗教」などと呼称される「キリスト教」です。
新約聖書の中のイエス・キリストの言葉には「共存共栄」を説くモノが沢山あります。
例えば、
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」マタイ5:44
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」ルカ20:25
「(ペトロが兄弟が犯した罪を何回まで許すかを聞いて、、、)「あなたに言っておく。七回どころか七の七〇倍までも赦しなさい」マタイ18:22
「わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」ヨハネ15:12

などなど、、、。
一神教も十分に寛容でなければならないはずなのに、(政治的には)なかなか実践されてない気がしますね。
政治では都合の良い教えだけを利用するってのが、正しい(?)宗教利用なんですかね?

まぁ、「一神教=不寛容」「多神教=寛容」というイメージは、タダのレッテル貼りでしかありませんね。
日本人の無宗教性こそが本当の「(宗教的)寛容」なのかもと思うときもしばしば。まぁ、これも短絡的なイメージですけどね。

投稿日時 - 2008-02-10 18:24:08

お礼

全く、そのとおりだと思いました。

個人でも、宗教組織でも、政治活動に利用される「弱さ」があると思いますし、政治を利用する「強さ」もあり、どちらに傾くかは、その時々の状況次第なのでしょうから、どちらもありだと思いました。

永世中立的な幻想としては、開放的で、対話的な姿勢かなと思います。

いろいろと参考になりました。ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-02-10 20:04:51

ANo.8

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回答(29)

ANo.29

君が
それに気が付けば
真実の愛に気が付いてくれれば
本当の意味での愛と和で地球は満ちる

投稿日時 - 2008-02-11 16:44:48

お礼

締めのお言葉をいただきましたので、これで完結とします。

ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-02-11 16:47:58

ANo.28

楽園を守るため
そして何よりも
真実の愛に目覚めてくれることを願うがため

厳しいようだが君達のため
といって旧約聖書のアダムとイブは追放されたのだろうが
生命の木全体が枯れそうになってきている現代では
それでは済まない。

自分たちが生き残ろうとしてやっているはずのことが
人類全体の滅亡の危機にまでになってきている。
もう一度自らの宗教の根に帰り
生命の木と
知恵の木の意味をよく考えてみてくれ給え。

投稿日時 - 2008-02-11 16:20:05

お礼

駅前の選挙演説のように、何か危機感をもった、必死な訴えは、伝わっていますから、安心してください。

ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-02-11 16:43:37

ANo.27

日本は最初 キリスト教を受け入れていたんですね。

しかし、後にキリスト教の神だけを崇拝し、他の神は否定しなければならないとして、神社仏閣を破壊するように命令したんです。

それで三大将軍の誰だったか忘れましたが、「日本の心である神社仏閣を破壊するとは何事か、日本の心を否定し殺そうとする宗教は邪悪である」としてキリスト教の布教を禁じたいんです。

一応 日本から出ていくように命令したのですが、実際は宣教師たちは留まり、活動を続けていた。

で、中国を落とすために、まず日本を手に入れようとしているとわかり、温和な宗教じゃなく、これは布教という建前の侵略だったと見抜いたわけです。

地方の支配者の妻を信者にしていき、武器弾薬を供給し、将軍にすえれば、いずれそのものはキリスト教徒なので、日本の政治支配のトップはキリスト教になり、日本を基地にして、中国を攻め落とそうってしたわけです。

宗教にかぶりものをした、侵略だったので、宗教じゃない 侵略者として追放処分にしたってわけです。

そして祖先を大事にするという思想が日本にありましたが、キリスト教は祖先を大事にせず、神のみを大事にせよ 家族を捨てよ 財産を全て教会に捧げろ とやっていたので、これも日本の古来よりの価値観からすると異常なので、宗教を隠れみのにした軍隊だとして、危険視し追放処分して、日本を守ったってわけです。

そして、日本の中にユダヤ教的なものが既に入っており習合している。
つまり そっちは受け入れられているので、それ以外の凶悪カルトは受け入れなかったわけです。
というか  凶悪なので習合できない。

包容力を持っているが、さすがに危険なウイルスは防衛機能が働き、日本を破壊するとして、やっつけてしまったってわけですね。

その凶悪なウイルスじゃない方が後に日本に入ってきて、細々と布教しているわけですが、こっちは日本を破壊しないので、住まわせているわけです。
防衛機能が危険だと判断しなかったので、内部に入り込んで一緒に住んでいるってわけです。
でも突然変異し凶暴化したら、排除するとは思います。

投稿日時 - 2008-02-11 15:20:20

お礼

政治的な攻防と伴に、何か、人体の「免疫システム」を連想させるような投稿を、興味深く読ませていただきました。

時代性、地域性、そして、都合の良さ悪さのようなことを考えされられました。

ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-02-11 16:18:22

ANo.26

私もネットなどを見て同じような疑問を持ちました。
一神教(排他的)多神教(寛容)というイメージが先行してますよね。
キリスト教でもイスラム教でも教義では共同体超えた共存というものを目指していると思います。
ただ十字軍の蛮行、キリスト教の布教、植民地支配などの印象があまりに強くて、そうしたステロタイプの印象持つ人が結構多いんじゃないか、と。
そもそも宗教に問題があるのか。あるいは人に問題があるのであって宗教というものが暴力装置になってしまうのか、で考えると、後者だとは思いますけど。宗教が悪い、ということになると、国家神道→神道なんかも悪いってことになりますよね。

人はなぜ暴力的になるのか?については「暴力のオントロギー」今村仁司 がもしかして参考になるかもしれません。

投稿日時 - 2008-02-11 13:31:55

補足

すごく回答が増えていたので、動揺しています。

投稿日時 - 2008-02-11 16:45:19

お礼

全く同感です。

結局、教義がどれほど偉大でなっても、個々人の「知」の限界が、「行為」を制約していて、特に、教団化した時には、制御不能の無責任な「排他性」が現れるのではないかと思うようになりました。

貴重なごご回答、ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-02-11 16:09:38

ANo.25

 No.15です。

★ 「共存」と「排他」についての質問から、反れて来ているのですが。
☆ イリ歴史知性から出た超歴史知性《ヨセ》が 共存の世界観を破るかのように専制の要素を持ち込みました。そうではなく もともとの共存の世界観をもたらすと考えるイリ歴史主体について その信仰および社会観を 明らかにしようとするものです。反れていないはづです。

★ No.13のお礼欄:分かりません。
☆ しかたありません。

投稿日時 - 2008-02-11 12:33:54

ANo.24

絶対にくるなんて祈ってるのか?
絶対に

投稿日時 - 2008-02-11 11:05:06

ANo.23

神に似せてはいるが
似ているだけのアダムよ

投稿日時 - 2008-02-11 10:50:02

ANo.22

物欲しそうに何時までも人が訪れるのを待ってないで
いい加減質問を閉じたらどうだ。

投稿日時 - 2008-02-11 10:35:24

ANo.21

その木が自らの命を支えていることにも気付かずに

投稿日時 - 2008-02-11 09:44:59

ANo.20

餓鬼の欲は生命の木の根まで喰らいつく

投稿日時 - 2008-02-11 09:39:48

ANo.19

木に実った果実を
食べるがままにするように

投稿日時 - 2008-02-11 09:25:05

ANo.18

大地に根を下ろした
何者にも頼ることのない
自立した愛に

投稿日時 - 2008-02-11 09:20:06

ANo.17

ユダヤ教を根に持つ
子供の愛
慈悲によって
真実の愛に目覚めよ

投稿日時 - 2008-02-11 09:10:20

ANo.16

ブログにあった絵の趣味
全体を見れば何者かがよく解る。
知識は詰め込めても偽者
生命の木としての根は腐っている。

投稿日時 - 2008-02-11 08:54:37

ANo.15

 勝手ながら 概念の整理をさせていただきます。

 ・崇神ミマキイリヒコイニヱのミコトと市民オホタタネコらがかたちづくった《歴史知性たちの社会》。

 ・オホタタネコ:意富多多泥古(古事記の漢字記述)
         大田田根子(日本書紀の記述)

 ・意富多多泥古:相対性の世界にあって有限だが光にも譬えられる
   精神とその意志(《意》)の豊かさ(《富》)のもとに しかも
   個人がそれぞれ多様性(《多多》)を発揮して生きる。ただし 
   この意志の有限性にも注意が肝心。あくまで神である生命の木 
  (オホモノヌシ)のもとに生きる単なる知恵の木であるに過ぎな 
   い。ややもすると意志や考えが固定してしまい古くなって   
  (《古》) 悪くすると泥(《泥》)の中に陥ってしまう。

 ・大田田根子:たしかに 大地の子(《根子》)である。しかも 
   野生の稲をではなく これを栽培する知恵を開いた。種を植える
   ことから始め 苗を育て やがて成るその実を収穫する(《田 
   田》)。これら一連の時間過程が 自分たちの時間的な存在であ
   ることを分からせてくれた。われらは かなしいかな 可死的な
   存在である。この自覚が われらを強くした(《大》)。―― 
  《たた》は 《たたら(鞴)》のことかも知れない。鉄づくりであ
   る。

 ・崇神ミマキイリヒコも むろん このネコ市民から出たのである。人間は 《ネコ‐ヒコ》連関なる存在である。《身体‐精神》あるいは 《わたくし‐おほやけ》・《市民‐公民》の連関である。

 ・《ネコ‐ヒコ》連関なる存在の位置するところ

 事実(歴史)――真実(人間)――真理(神)
  ↓        ↓           ↓
 モノ・・・・・・・・・者・・・・・・・・・・・・・オホモノヌシ
 (木・・・・・・・・・知恵の木・・・・・・・・生命の木)
 コト・・・・・・・・・ミコト・・・・・・・・・・・ヒトコトヌシ
 ・・《ミマキ(御真木) / イリヒコ》と呼びうる《ネコ‐ヒコ》連関・・・・・・・・
 
 ・ヒトコトヌシ(一言主)のかみ:雄略ワカタケが葛城山で出会ったという。かれに対して 一言主の神は こう名乗ったとある。

  《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言 言離
  (ことさか)の神 葛城の一言主の大神ぞ》

 《言離(ことさか)》は 言い放つの意という。《とおざかる(遠・離る)》の《さく(離く)》(他動詞形)だそうです。

 ありがとうございました。      

投稿日時 - 2008-02-11 08:27:19

補足

「共存」と「排他」についての質問から、反れて来ているのですが。

投稿日時 - 2008-02-11 08:51:56

ANo.14

100%神道の徒
確かにそう言えるかも知れない。
自然に背くユダヤ神道の徒
自然に根を下ろし自然と共に生きることから乖離した
そういうことさえ分からなくなって来てしまっている
今の日本は旧約聖書に出てくるソドムとゴモラ

日本神道は農の神
象牙の箸を持つことを求ず
生命の木
知恵の木の
調和を知る天子の系統

和の起源
田んぼに戻れ

投稿日時 - 2008-02-11 06:36:09

ANo.13

 No.12です。
★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ヨリ(原始心性)、イリ(歴史知性)、ヨセル(超歴史知性)・・・その用語が意味する幅とか厚みとか奥行きとか隣接する領域との区別のようなものがよく分かりません。
 ・・・
>寛容は はっきり言えば 奴隷の自由です。奴隷の思想のもとに 人びとは 昔から かなり勤勉なのです。

ここのニュアンスも分かりません。ニーチェに登場する「奴隷」でしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この《よく分からないところ / 奴隷の自由》は ANo.9へのお礼欄での 次のご感想とほぼ同じものです。つまり
★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
神話の中では、段々と政治的で排他的な面が強調されてしまいます。・・・やはり、対外的な寛容は、幻想のようです。読んでいて、そう思いました
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
という受け取りの内容と対応します。

★ 無関心層に対する接し方としては、共存でしょうか。
☆ それとも どう接して欲しいのでしょうか。

投稿日時 - 2008-02-11 06:04:58

補足

分かりません。

投稿日時 - 2008-02-11 08:31:59

ANo.12

 No.11です。

 こんどは あなたが へそを曲げましたね。

★ ある意味、この国では実現できているように思いました。
☆ 人びとの魂を腑抜けにするほど 人びとを《ヨセル》超歴史知性が そのままなのですから それは ありません。

★ 少し皮肉的な言い方をすると、 / 無宗教の蔓延した日本の状況は、理想的な寛容性社会の証拠のようにも思えます。
☆  どちらなのですか。皮肉ったほうが ほんとうですか。逆ですか。
 寛容は はっきり言えば 奴隷の自由です。奴隷の思想のもとに 人びとは 昔から かなり勤勉なのです。
 わたしたちが スーパーアマテラスたちに好きなようにさせたのが いけなかったのですが もうまやかしよ さようならと行きましょう。

投稿日時 - 2008-02-10 22:26:26

補足

ヨリ(原始心性)、イリ(歴史知性)、ヨセル(超歴史知性)という神話解説をいただきましたが、正直言いまして、私にはその用語が意味する幅とか厚みとか奥行きとか隣接する領域との区別のようなものがよく分かりません。
旧約聖書でバベルの塔完成後に神の逆鱗に触れて、言語が通じなくなった話を思い出しました。

無関心層に対する接し方としては、共存でしょうか。

>寛容は はっきり言えば 奴隷の自由です。奴隷の思想のもとに 人びとは 昔から かなり勤勉なのです。

ここのニュアンスも分かりません。ニーチェに登場する「奴隷」でしょうか。

投稿日時 - 2008-02-11 04:41:30

ANo.11

 No.10です。
★ 村単位の全体主義のように、思えますが。
 信仰を持たない自由がないようにも、思います。
☆ 現段階での信教・良心の自由 表現の自由は いまでは 大前提です。
 《教義内では共存的な世界観の多神教》を 主役にして述べてきたので その結果 これが ムラ全体に満遍なく行きわたっているというふうに受け取れたのだと思います。
 《イリ歴史知性》は 自然本性として どの信仰にとっても 普遍的な人間存在の前提です。わづかに 《イリ》という表現が シントウのものです。
 市民一般と市長とが 個人にとっての信仰の自由のもとに そして互いにその信仰の差異を認め合って 人を《ヨセル》というスーパー歴史知性のあり方を克服しつつ 〔かつ 《ヨリ》知性の目覚めを望みつつ〕 民主的に自由に 話し合いをつうじて 社会をいとなんでゆく。こういう考え方です。 
 国家からの牽制をまぬかれるために 国際的にムラどうしが 協力しあうという寸法です。

投稿日時 - 2008-02-10 21:44:15

お礼

少し皮肉的な言い方をすると、
無宗教の蔓延した日本の状況は、理想的な寛容性社会の証拠のようにも思えます。

ある意味、この国では実現できているように思いました。

ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-02-10 22:01:38

ANo.10

 No.9です。
★ 「原形かつ第一次形態」への復帰と言っても、復帰してから出直してくださいという感じで、一歩も二歩も遅れてしまいます。やはり、対外的な寛容は、幻想のようです。読んでいて、そう思いました。
☆ いえいえ そんなことはありませんよ。
  現段階で 世界中のムラというムラ(市町村)が 互いに連絡しあい 連携して インタナシオナルなインタムライスムを築けばいいのです。 
 国家は 放っておいて ムラ( mura )どうしで たとえば議会の交流 互いの議員の相互選挙 人びと・ものその他その他文化・経済的な交流を 縦横無尽に広げてゆく。そういう方向が考えられますよ。

投稿日時 - 2008-02-10 20:43:01

補足

村単位の全体主義のように、思えますが。
信仰を持たない自由がないようにも、思います。

投稿日時 - 2008-02-10 21:30:51

ANo.9

 日本人の信仰は オホタタネコを市民の代表とし 市民からの推挙を受けて立った崇神ミマキイリヒコイニヱを市長としたミワ(三輪)市政に始まると思います。(紀元300年ごろ 奈良・三輪山付近)。これによれば 排他的な要素を免れるのではないかと考えています。

§1 シントウの原形またその確立

 三輪山に祀ったオホモノヌシなる神が 聖霊となって イクタマヨリヒメに生ませたのが オホタタネコだと言います。ある時 疫病が出て困り 市長は このオホタタネコを探し求めたそうです。祟りという認識でしたから 祀れば 平らかになるだろうというものでした。(この同じ系譜のスサノヲやオホクニヌシの記述には 薬草を求め医療に熱心であったともあります)。

 けれども 《ネコ》は 根子で大地の子 《ヒコ・ヒメ》は 日子(彦)・日女(姫)で太陽の子です。これは 一人の人の身体と精神とに当てはめられるでしょうし あるいは 市民政府として 市民一般と市長および公務員とに やはり当てはめて捉えてもよいと思います。つまり 社会形態としても 確立したかたちを採り始めたと考えられます。
 つまり この《ネコ‐ヒコ》連関は そのような内容をもって 《イリ(入り)》なる歴史知性の誕生を見たと捉えます。崇神(いわゆる天皇としては 第十代)ミマキイリヒコイニヱの《イリ》であり《ヒコ》であり 歴史知性というのは 人の自然本性にそのまま《入り》したというその自己還帰のことです。

 その以前では イクタマヨリヒメというように《ヨリ(憑依)》の知性だったわけです。アニミスムないしシャーマニスム(卑弥呼を想え。つまり崇神ミマキイリヒコの少し前の三世紀である)であり 何ごとにも寄り憑くというべき歴史知性以前の知性です。原始心性とも言います。これも シントウの原始的なかたちだろうと思われます。その《何ごと》は 《かみ》と呼ばれたのですから。

 人は 《イリ歴史知性》の自覚のもとに ものごとに対して 《ヨリ原始心性》としての寄り憑くことが少なくなった。このように 歴史的な(時間的な・相対的な)自然本性に自己が到来するなら 人間の生活 そしてさらには 人類の社会と歴史は すでにふつうに 営まれていくと言えます。(潜在能力が ただちに現われようとして待機している状態にまで来たと言えるでしょう)。

§2 《イリ》歴史知性からさらに《ヨセ》なる超歴史知性の出現

 イリなる歴史知性に基づきつつも まだ 昔のヨリ(憑依)なる原始的知性の状態にある人びとは 残っていました。これを導こうとして 自らの力のもとに かれらを《ヨセル》(寄せる)ということを行なう人間が出ました。
 すでにその原形が 卑弥呼(ヒメのミコトの ヒとミとコで 中国の史書に載ったか)のシャーマニスムでした。アニミスムの親分というような性格です。しかも こんどは すでに 歴史知性に芽生えたあとの《ヨセル》です。スーパー歴史知性です。
 神功皇后オキナガタラシヒメのときに この《ヨセ》の記事はあるのですが その後も かのじょの系譜に見られるという意味で この《ヨセ》なる超歴史知性を 広くアマテラス族と呼びます。《タラシ》でもいいはづです。アマテラスのほうが 一般性があります。正確には 崇神ミマキイリヒコも アマテラス族ですから やはりスーパーアマテラスと呼ぶといいでしょう。

§3 《教義内では共存的な世界観を思わせる多神教(たとえば神道)が、対外的(他の宗教など)には排他的になるのはなぜですか》

 アマテラス(天照らす)というのは その言葉どおりに もともとは ヒコ(日子)と同じであろうと考えます。人間の精神であり 社会的な役割としての公民です。崇神イリヒコなるアマテラスの系譜には のちにタラシ系統(スーパーアマテラス)から出た雄略ワカタケによって 謀略に遭い殺されたイチノベノオシハのミコがいます。その双子のオホケ・ヲケは 命からがら逃げて あとで 名乗り出るといった歴史があります。あとで 市長(顕宗・仁賢帝)となったとき 父の仇の雄略ワカタケの陵から ほんの少し土をけずって 復讐に代えたという逸話があります。
 つまりふつうのイリヒコ系アマテラスと ヨセ=タラシ系のスーパーアマテラスとのちがいを 簡単に見ようとしたわけです。

 したがってというほどに 後者《ヨセなる超歴史知性》は けっきょく そのヒコ=アマテラスなる指導者の地位を 専門化させ 社会から単独分立し 市民政府ではなく その上に社会的な第二階を築き そこを 自分たちの住み処としてしまいました。市民たちは 国譲りとして 好きなようにさせたのでした。

 ですから ここから オホタタネコの神なるオホモノヌシは けっきょく 第二階に住むスーパーアマテラス族のための神となり また もともと やはり 市民たちの宮であった伊勢神宮も かれらのための制度となりました。(この伊勢神宮については むしろ崇神ミマキイリヒコの時代の制度発足として記事があったりしますが どうでしょう)。

 このいわゆる二階建ての国家の問題は 天武オホシアマ天皇の改革によって 一定の収拾を見ました。市民が主役であるという考えをできるだけ採り入れようとしました(八色の姓)。国家という二階建ての形態は その後も残りました。

 結論として 《教義内では共存的な世界観》というとき 国家の上から 市民らを《ヨセル》という考えがある限り それは 矛盾していると思います。原形かつ第一次形態――つまり崇神ミマキイリヒコと市民オホタタネコの三輪市政――では おおむね 実現したと考えたいと思っております。
 もっとも たとえば 崇神イリヒコは 日本の各地に《四道将軍》を派遣して 王化の徳を及ぼそうとしたと記事にはあります。つまり 服属させたわけです。えこひいきして言えば これほど素晴らしい《イリなる歴史知性》を自覚した人びとが ほかの隣人に 伝えてやりたいと思っても それほど奇異なことではないように思います。《宣教という愚かな手段》(パウロ)のことです。
 
 かくて 社会は スサノヲ市民圏( Susanowoschaft )とそしてアマテラス公民圏( Amaterasutum )との二階建てが いくらかの期間――世界史においても――つづいております。

 《わたしは無宗教です》という日本人は もう崇神ミマキイリヒコの社会を忘れているのだと思います。この社会は 神話としては スサノヲのイヅモでの須賀の宮のことだと考えます。これは のち子孫のオホクニヌシの代になって アマテラス国から 服属の要求を受け かれは非戦論であったので 国譲りをしています。
 わたしたちは 何が何でも自分たちが 一番だというスーパー歴史知性に対して 好きなようにさせたのだと考えます。長すぎました。そばが延びてしまいました。そういう情況にあると考えます。

投稿日時 - 2008-02-10 19:25:34

お礼

「国譲り」の話は有名ですよね。神話の中では、段々と政治的で排他的な面が強調されてしまいます。「原形かつ第一次形態」への復帰と言っても、復帰してから出直してくださいという感じで、一歩も二歩も遅れてしまいます。やはり、対外的な寛容は、幻想のようです。読んでいて、そう思いました。

大変、詳細に書き込みいただき、ありがとうございました。
参考にさせていただきます。

投稿日時 - 2008-02-10 20:23:41

ANo.7

 無宗教、という言葉をいいかげんに使う人が日本にはけっこういますが、日本人はほぼ100%神道の徒です。

 例えば、身内が死んだらさっさと焼きますか? たいがい葬式をしたいと思うでしょう。所詮死者は葬式をされようとされまいと何も気にしないのに。が、気にしているような気になるのが、宗教心です。

 まあ、それはそれとして。

 既にあってそれなりにうまくいっている体系に外乱が入ってきたら、混乱するでしょう。別に宗教に限りません。ニュートン力学に基づき地球の公転を利用して光速の変化を測定しようとしたら、一定だったから当時の物理学者はみな困りました。アインシュタインが解決しましたが。
 物理法則と違って、適当にシナリオが作れればOKな世界観などというものであれば、うまく共存することも可能ですよ。実際、日本で後発の仏教も、神仏習合という共存形態を作り上げましたし。

 なお、教義上の問題と、教団活動としての政治は、きちんと分けて考えましょう。歴史の中では、教団が存続したり拡大するためには、武力含めた実力が必要でした。言い換えると、実力が衰えたら教団が滅亡しその宗教自体が滅びるのです。従って、たとえ教義が武力を禁じていても、教団の存続のためには武器を取るのがたいがいの人の組織というものです。現代でも、政治活動をしている宗教として、創価学会が典型的ですしね。

> 多神教がもつ包容力は、対外的にも寛容な、排他的ではない
> 態度に通じると思いたいのですが、幻想でしょうか。

 通じさせることはできますよ。
 実際、塩野七海によれば、古代ローマがそうでしたし。
 現代においては、日本神道の他の宗教に対するいいかげんさがそうですし。
 が、上述のように、その話と教団の政治活動は、別の話です。

投稿日時 - 2008-02-10 18:17:29

お礼

排他性は、教団、組織体の持つ「性(さが)」であることが、浮き彫りになったと思います。

ありがとうございます。

投稿日時 - 2008-02-10 19:52:21

ANo.6

そしてそれが貴方の思っていることの
遠いようで最も近い道になります。

できれば田んぼなどが最も適しているかとおもいます。
手作業による田んぼの稲作りをやると
様々な日本の芸術にもつながっていることが分かります。

投稿日時 - 2008-02-10 17:41:48

お礼

農業には、今のところ興味がありませんが、参考にさせていただきます。ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-02-10 19:47:09

ANo.5

>しかし、生きている人間の「魂の救済」を現世の中でしっかり果たすという役割を何かにもってもらいたいとも思っています。

宗教に人間の本質的な魂の救済などできないと思っております。
人間も自然の一部分であるということを忘れてしまっている。
今の日本に心身症が増えているのもそのせいで
自然に帰し
自然と触れ合う仕事に就く。
これが最良の医者であり薬ありカウンセラー。
日本人の根を離れるから心が苦しむ。
心を病む人の魂の救済は
それ以上でもなければそれ以下でもない
と思っております。

投稿日時 - 2008-02-10 17:07:05

お礼

精神疾患だけを念頭においた「魂の救済」ではなく、悩みながら成長する者の支援者のような想定なので、ラジオのパーソナリティーでもいいのです。宗教に限りません。

そのように、理解していただけたら幸いです。

投稿日時 - 2008-02-10 19:45:22

ANo.4

多神教と一神教は、対立する概念ではなく、その宗教の置かれた環境によるものにしかすぎません。
多神教から一神教へ、一神教から多神教へと移り変わった宗教もありますし、多神教の外観をした一神教も、一神教にみえる多神教もあります。
さらにその中間の二神教、三神教なども過去には存在しました。
一神教と多神教との区別は、全く無意味なものでしかありません。

投稿日時 - 2008-02-10 16:32:10

お礼

まったく、無意味な区別であるかもしれません。
しかし、それは、無意識の構造においてであり、顕識の、表層上の、外観上の印象として、一応あると思っています。

その程度に理解していただけたらと思います。

ご意見、参考にさせていただきます。ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-02-10 19:40:08

ANo.3

今の日本人が無宗教な人が多いという事実。
そして別に日本人が対外的に排他的ではないですよね。
無宗教であっても宗教性がないということでもないですし。
貴方が排他的ということなのでしょうか

哲学のカテにおいて自らの立場として宗教に関して意見は述べても
宗教の教義に対しての議論は避けるのではないですか?
何故か
それについて議論しあっても何もいいことはないからです。
普段の生活では宗教の話などしないですよね
そういうことを気にしないで人はやっていけるようだと思いませんか

天皇を頂点とした神道を復活させたいということなのかな?
そりゃ貴方それこそ排他的、軍国主義の再来になってしまう可能性がある。
そういうことを恐れるのですよ。人は
分かってないねぇ

投稿日時 - 2008-02-10 16:26:41

お礼

まず、神道の信徒?、氏子?というのではありません。また、排他主義者でも軍国主義者でもありません。

「共存」と「排他」について、多神教という土俵で考察している最中です。質問文からその主旨が伝わらなかったとすると、当方の表現力不足ですが、回答者さまの書いたような印象を与えていないつもりでした。

貴重なご意見、ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-02-10 19:33:34

ANo.2

一番は人間の問題だと思います。

で、やっぱり多神教が寛容だなんていう説が、
嘘や間違いであるというのはいかがでしょう。

多神教が寛容。だから自分たちも寛容。
なんて論調は、一神教が何かとニュースなどで
話題になってから取り上げられるようになった気がします。

多神教には戦争や疫病の神までいます。

それに、神道と仏教は昔から、なにかと争っているというのに。

特に神道が語られる時は、日本というものがでてきます。
日本が否定されると、駄目ではないでしょうか。

投稿日時 - 2008-02-10 15:40:46

お礼

神々は、偉大だけれども、信者は「身の丈の神」、「自分の知の限界以内」しか認識できないという個々の「人間の問題」なのでしょうね。

ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-02-10 16:04:19

ANo.1

子供たちに
日本人としての自己のアイデンティティーが確立する前に
特定の宗教に染まってほしくはないとは思います。
一度染まってしまえばそこから抜け出すのは容易なことではない。
宗教にはそういう恐ろしさがあります。
無宗教であるというのはだからいいことだと思いますね。
ちなみに僕も無宗教です。

投稿日時 - 2008-02-10 15:26:12

お礼

何ものにも入信しない自由というのも、尊重されるべきと思います。

しかし、生きている人間の「魂の救済」を現世の中でしっかり果たすという役割を何かにもってもらいたいとも思っています。

そのようなニーズに応える、カウンセリン機能のような装置って、かなり怪しい人々の手中にあるようにも思います。他方、献身的なボランティアの姿も見ますが、それは宗教活動ではないように多々見かけます。人格形成期にいろいろと見聞を広める必要があると思います。

ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-02-10 15:58:33

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