こんにちはゲストさん。会員登録(無料)して質問・回答してみよう!

解決済みの質問

原罪について

こんにちは.当方,哲学・宗教についてはまったくの素人です.
どうかお教え下さい.

アダムとエバが犯したとされる原罪についてですが,これを取り除ける(祝福できる)のはメシアのみとされています.

イエス以降,現代に至るまで,メシアを称する宗教者があちらこちらで現れているようです.
各人が本物のメシアかどうかについての議論はともかく,果たして信仰心なき者は,メシアからの祝福を受けることはできないのでしょうか.

そもそも原罪がない状態とは,宗教学的にいかなる状態を指すのでしょうか.理想的には神が創造した人間本来の状態を指すのでしょうが,正直想像できません.
迷いの無い,実に晴々しい状態なのでしょうか.

サタン的思考で大変申し訳無いのですが,
原罪が無い状態というのは,実際のところ,メシアを称する宗教者による洗脳が完成された状態(宗教学的祝福=心理学的洗脳の完成)を指すのではないでしょうか.
たとえば,Wikiによると,統一教会のトップである文氏はメシアを名乗っている様ですが,巷では祝福どころか詐欺者扱いです.

単に本物のメシアが未だ再臨していないだけのことなのでしょうか.

また,メシアによって原罪を取り払われたとする男女の間に生まれた子は,理論上,先天的に原罪が無い状態にありますが,後天的に原罪が復活することもあるのでしょうか.

当方,原罪があるが故に分からなくなっている状態にあると思われます.
原罪の無い方,あるいは何かご存じの方,この迷える子羊(?)にどうか教えを説いて下さい.

万一,ご気分を悪くされた方がいらっしゃったならば,お許し下さい.悪気や批判の念は一切ございません.

投稿日時 - 2008-03-03 03:42:55

QNo.3828240

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

No.9です。

たびたびすいません。

>日本人が無宗教なのは,アジアの離れ小島としての日本,という地理的な要因もあるのかもしれません.

地理的なものなのか?

宗教も一種の学問ですよね。
日本では仏教徒同士が戦っていたそうです。
宗教なのですが、武装した僧がいて、見かけはお坊さんだが、その宗教の兵士だったそうです。
キリスト教だとイエズス会が見かけは宣教師だが、実際は諜報・工作・戦闘部隊でしたよね。

で、仏教が伝来して、仏門に入って長年研究をしていく というものだったのに、大乗仏教により、「そんな修行はいらない なむあみだぶつとさえ唱えりゃ誰でも極楽に行ける」って言って、どっと信者数を獲得したものだから、苦労を推奨する派からすれば、邪教だとなり、ドンパチやったらしいです。

殺し合いをやっていたのを、信長以降の時代の武将は、武力で弾圧していった。
宗教で殺し合いをするものは、日本にはいらん! ってわけですね。

で、殺し合いをしなければ、どの宗教も日本で布教活動をしてよい として、信長はキリスト教が日本で宣教活動をするのを認めた。

ところが、とんでもない宗教だとわかり、秀吉あたりから、キリスト教を日本から追い出そうとするようになり、武力でペシペシ弾圧していったわけです。

ただ協力なウイルスだったため、鎖国するしか日本の健康を守る方法はなく、で、鎖国をした。

これで外から日本に宗教は入ってこれなくなったわけです。

で、修行をしなくても、なみあみだぶつとさえ唱えていりゃあ なので、熱心に宗教をしなくなった。
熱心にしなくてもいい ってのが日本人に受けたわけで。


>おそらく日本人は何かを深く強制させられるのが嫌なのだと思います.

誰だって、強制されるのはいやだと思います。
ところが自由であることも、辛いわけです。
誰だったか、「人は自由という牢獄に閉じ込められている」と言いました。

キリスト教では、人は悪魔の支配する地球という牢獄に囚われていて、それを救世主を派遣して救おうとしている としている。


自由というのは、何をやっても自由という意味じゃない。
例えば、「盗みをしても自由だ。」じゃない。
盗みは悪いことだと知っており、やりたいという欲望を抑えて、盗みという悪をやらないというのが、本来自由を持っている者のありかた。

ところが、どうして盗みをやってはいけないのか 殺してはいけないのか を知っていながら、その根拠を明確に提示できない。
それで、宗教により禁止されている とルールを作ったわけです。
早い話が「神様が禁止したからやっては駄目」としたんです。
そのルールがユダヤ教では律法。


ところが、人は過失を犯してしまえる能力を持っている。
で、どんなに正しい者だとされた人すら、その能力を持っているので、神しか全く清い人はいない と考えたのだと思うんですね。


先日、ライラの冒険 黄金の羅針盤 という映画を観てきました。
この世界では、誰もがダイモンをもっており、それは動物の形として、いつも人に寄り添っている。

教権は、子供は純粋だが、ダストによりやがて穢れてしまうとして、子供のうちに、ダイモン(恐らく自由意志のことだと思う)を切り離してしまおうとするわけです。
これによって原罪が人から消えて、この世は幸福になる と考えた。


第一部しか観ていないので、この作者の哲学 何を言いたいのかの全容はつかめていませんが、、、、黄金の羅針盤は真理を示す道具であり、その羅針盤で真理が見れるのはライラのみ としている。

教権は黄金の羅針盤を破壊したのですが、最後の1つは残っており、それがライラの手に渡ったわけです。

教権にしてみれば、サタンにすごい力が渡ってしまったようなもの。

教権が目指す天国の実現を、ライラにより阻止されてしまう危険が出てきたわけです。


こういう話が出ると、キリスト教徒は過敏に反応するみたいで、この映画をキリスト教の神への冒涜だとして、攻撃しているみたいです。笑

この映画は自由意志を人間が取り戻す という物語だと思うんですね。
キリスト教などちっぽけで窮屈な世界の実現をしたがる者たちなど、相手にしていない。

もっと大きな世界がライラの冒険の物語。


>日本の文化の背景にはしっかり宗教があるんですよ,という意識を高める機会があってもいいかもしれませんね.

和の思想ですよね。
日本の首相がコロコロ変わるのも和の思想が日本にあるから。
談合も日本に和の思想があるから。
日本に沢山の神様がいるという思想も、和の思想があるから。
日本が奥歯にはさまったような言い方をして、何を言いたいのか はっきりと国連で言わないのも和の思想があるから。笑

これが日本人が一体何を考えているのか どんな宗教なのか よくわからない理由じゃないかと。

で、つまり和の上に日本人は生きているので、自分が和の精神を持っていると、灯台元暗しでわからないんじゃないかと。

一神教だと自由意志を否定する宗教にしかなりえないのですが、多神教だと、それが可能になるんですね。


どっちが生き方が楽か?
プログラム通りにロボットとして生きていくのが楽か。
それとも、どっちにすすんだらいいか 誰も示してくれず、心の真理の羅針盤を頼りに、孤独の航海をした方がいいのか。

人次第ですが、人によっては、自由意志を捨てロボットになる道を選ぶのかもしれないですね。
つまり一神教の信者になる。

ところが約束されたと思った不安の消滅が、信者になった後も消えない。
それで、不安にかられ、ネットで聖書の文句を書き並べたり、自分が信仰している教祖の言葉を書き並べたりして、自分に言い聞かせることになる。

一神教の信者が陥った地獄が見える。

自由意志を捨てて魂を売った つまり ダイモンを捨てたものの末路。


もちろん、天国も地獄も人間が脳で作り出したイマジネーションの世界。

脳の中では存在しているんですね。
で、私の脳の中では彼らが地獄の炎で焼かれ苦しんでいるのが見える。
彼らの脳の中では、自由意志を持つ私が穢れまみれになっているのが見える。笑

イマジネーションのぶつかりあいなんですね。笑

ジョン・レノンが「想像してごらん 天国なんてないって」って唱えました。

想像すれば消えるんですね。

「想像してごらん 原罪なんてないって」ともいえるんですね。

ある意味 ジョン・レノンは救世主だったかも。

投稿日時 - 2008-03-07 04:30:43

お礼

お世話いただいております.

「どちらの生き方が楽か?」

見方によっては,人間という生き物は心情をもつが故に不安であり,その不安のやりどころをどこに求めるのか,に尽きるのではないかと思います.
ものごとに絶対はありませんが,同じ宗教という名の下のいわば「縛り」に身を置くことにより,宗教の範囲内で「絶対」に限りなく近づくことができるのではないかと思います.万人が望む「絶対」とは,極言すると「信用」でしょう.
否応なく人生は波乱万丈ですが,さざ波の中をただ静かに進みたい,そう強く願う人が入信しやすいのかもしれません.

投稿日時 - 2008-03-09 23:59:31

ANo.12

このQ&Aは役に立ちましたか?

7人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

回答(18)

ANo.18

 No.15です。原罪とその贖いとについて こういうことを観想した人がいるというその表現例をご紹介します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ところが 悪魔は肉体の死とは無縁である。したがって 極度の高ぶりに陥るのである。
 ・・・不遜な人々は キリストよりも悪魔を選んだ・・・。それは 悪魔は本性の相違によって自らは落ち込まない あの死の中へ彼らを投げ込むが キリストは豊かなあわれみによって彼らのために御自らそこへ降りられたからである。
 それにも拘らず 不遜な人々は自分たちが〔悪魔の手下である〕悪鬼たちよりも善いと信じて疑わず 彼らをあらゆる悪口で攻撃し非難して止まない。(4・13)

 悪魔は神の権力によらず その義によって克服されねばならなかった。(13・13)
 それでは 悪魔を克服したあの義とは何であろうか。イエス・キリストの義でなくて何であろうか。また悪魔はどのようにして征服されたのか。それは 悪魔はイエスの中に死に価するいかなるものも見出さなかったのに彼を殺してしまったということによってである。悪魔が拘留していた負債者たちは 何らの負債がないのに悪魔が殺したお方を信じるなら 解放されるということはたしかに正しい。これが キリストの血において私たちが義とされる(ローマ5:9)と語られるこの意味である。かくて 私たちの罪の赦しのために罪無きイエスの血潮が流されたのである。(13・14)

 したがって 悪魔によって殺されたお方が復活されたとき 実はその悪魔は征服されたのだということを見るのは困難ではない。悪魔が勝ったと自ら思ったとき つまりキリストが殺されたとき 実に悪魔は征服されたのだと見ることはより重要であり より深い理解でもある。・・・悪魔は罪の報酬(むくい)として死の条件のなかに閉じ込めていた人々を当然にも保持していたゆえに いかなる罪の報酬なきままに不当にも死の罰を受けられたお方をとおして正当にも放免しなければならない。(13・15)

 なぜなら 神の怒りは人間の怒りのように精神のゆらぎではなく 聖書が他の箇所で 《力の主よあなたは静やかに審きたまう》(知恵の書12:18)と言うお方の怒りであるから・・・神の和解も正当に理解されるとき このような怒りの終局に他ならないであろう。私たちの罪が義の敵であるほどでないなら 私たちは神の敵ではなかったのである。(13・16)
 (アウグスティヌス:三位一体論 中沢宣夫訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしたちは なお ここから出発しつつ さらに このドグマを乗り越えていくという方向もあるように感じています。

 《悪魔は肉体の死とは無縁である》ので わたしたちの死の淵にまでは よう来ないのです。死が分からないのです。頭が惑い 何も考えられなくなるのでしょう。そのとき 拘束を解きわたしたちを放免するのではないでしょうか。このとき 死というのは たとえば面子の放棄としての社会的な死というのも 含むのだと思われますが いかがでしょうか。

投稿日時 - 2008-03-17 06:48:12

ANo.17

a,no13の者です、別の視点から、もう一度お答えします。原罪という事は、矛盾が有って、悩みが在るという事です。それは、有限から無限を眺める事。又他の言い方をすれば。無限から有限を見渡して、救いの手をさし伸ばして、その手をさえぎられる、という事です。

人間には、二つの心が在って、その二つとも自分です。悩みが深い場合、その二人の考えが矛盾していると言う事です。有限の自分が悩むのは、自分の中に、無限(永遠性)が有ると言う事です。その事は、自分で自覚しないと、分かりません。

若い時に余りに、苦しみました。それで、ホームページを持っています。もし良かったら一度訪ねてください。
人生問題の解決ホームページ
http://www.jinseimondainokaiketsu.com/

投稿日時 - 2008-03-16 06:44:09

ANo.16

教派によって考え方は違いますが・・・。

神を神として認めない、普通、これを原罪と言い、悪の根、腐敗性、内住の罪などと呼びます。キリストの贖罪によって、犯した罪過は赦されますが、原罪は残ります。

で、聖められなくてはなりません。信仰と内住の御霊の働きによって成長し、栄光から栄光に進み、完全にキリストに似ることにまで進みます。この成長は、この世を去るまで、または栄化の瞬間まで継続されていきます。

本物のメシアはまだ再臨してません。

参考URL:http://www.missionjapan.org/cgi-bin/bible.cgi?mark/13

投稿日時 - 2008-03-11 21:10:28

ANo.15

 No.3です。原罪についての説明は 人の何らかの解釈になると思われます。きちんとした説明をと願うのですが 敢えてと言いますか 自分の能力が及ばないゆえなのですが 引用にて参考資料をご紹介いたします。
 これは ヨハネ福音の次の箇所についての解釈として 原罪とその克服を述べているものです。

  そして モーセが荒野で蛇を上げたように 人の子(イエス)も上げ
  られねばならない。それは信じる者が一人も滅びないで 永遠の命を得
  るためである。(ヨハネ3:14,16)

 モーセがさおの上にへびを上げて掲げた(民数記21:4-9)ように そしてその意味が死と生とにかかわっていたように あたかもイエスも十字架に上げられたというその二つの事象の類似性に注目した一つの見解です。  
 まづ 民数記21:4-9のほうを掲げます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 民はホル山から進み 紅海の道をとおってエドムの地を回ろうとしたが 民はその道に堪えがたくなった。民は神とモーセとにむかい つぶやいて言った。
  ――あなたがたはなぜわたしたちをエジプトから導き上って 荒野
   で死なせようとするのですか。ここには食物もなく 水もありま
   せん。わたしたちはこの粗悪な食物はいやになりました。
 そこで主は 火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので イスラエルの民のうち 多くのものが死んだ。民はモーセのもとに行って言った。
  ――わたしたちは主にむかい またあなたにむかい つぶやいて罪
   を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように
   主に祈ってください。
 モーセは民のために祈った。そこで主はモーセに言われた。
  ――火のへびを造って それをさおの上に掛けなさい。すべてのか
   まれた者が仰いで それを見るならば生きるであろう。
 モーセは青銅で一つのへびを造り それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〔以下 すべて引用です〕。

 兄弟たち あなたがたは知っていよう。死がこの世に入ったのは悪魔の妬みによったのである。聖書は語る。

   神が死を造られたわけではなく 命あるものの滅びを喜ばれたわけで
  もない。存在させるためにこそ神は万物をお造りになった。
  (知恵の書1:13-14) 

 そして同じ書でこう語られる。

   悪魔の妬みによって死がこの世に入った。(同上2:24)

と。人間は悪魔によって差し出された死の飲物(* もしくは知恵の木の実)へと力づくで赴かされることはない。悪魔は強制力ではなく 説得の狡猾さをもつものだからである。悪魔は あなたの同意なしには 何をもたらしもしなかった。おお人よ。あなたの同意が死へとあなたを追いやったのだ。
 われらは 一人の死すべき人から死すべき者として生まれた。不死なる者から死すべき者になった。アダムによって 人はすべて死すべき者となったのだ。だがイエスは 神の子であり 神の御言であり このかたによってすべてのものは造られ ただ一人御父に等しいかたであったのに 死すべき者になられた。

   言は肉となって わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ福音1:14)

からである。
 だから イエスは死を引き受け 死を十字架に架け 死すべき者を死そのものから解放してくださる。そこで主は 父祖たちのもとで予表として行なわれたことを思い起こさせてこう語られる。

   そして モーセが荒野で蛇を上げたように 人の子(イエス)も上げ
  られねばならない。それは信じる者が一人も滅びないで 永遠の命を得
  るためである。(ヨハネ3:14,16)

と。ここには この箇所をかつて読んだ者なら知っている偉大な奥義がある。そこでわたしは この箇所を読んでいない者にも この箇所をかつて読んだり聞いたりしたが忘れてしまった者にも 次のことを聞いてもらおうと思うのだ。――かつてイスラエルの民は 荒野にあって蛇の噛み傷によって倒れ 多数の死者をもたらす殺戮が起こっていた(以下 民数記21:4-9)。
 彼らを捕らえ鞭打って教育しようとする神の一撃が加えられたからである。そこには 将来の出来事の偉大なる奥義が示されている。そして主ご自身が この箇所で証言され 何人も 真理ご自身がご自身について語られるこのこと以外の解釈をできないような仕方で証言されている。すなわち主はモーセに対して 青銅の蛇を作り それを砂漠で木に架けて高く掲げるように命じられた。そして 蛇に噛まれたなら木に掲げられた蛇を見上げるようイスラエルの民に命じよ と仰せになった。このことは事実となり 人々は噛まれ 見上げ そしていやされたのである。(以上 民数記)。
 ・人々を噛む蛇とは何だろうか。それは 肉の死から来る罪である。
 ・上げられた蛇とは何だろうか。それは 主の十字架の死である。
 ・死は蛇から来るので 蛇の形によって主(イエス・キリスト)の死がかたどられた。
 ・蛇の噛み傷は死に至り 主の死は命に至る。
 ・蛇が見つめられるとき 蛇の力は消え失せるのだ。
これはどういうことだろう。
 ・死が見つめられるとき 死の力が失せる。
 ・だが誰の死だろうか。それは命なる方(イエス)の死である。
こんな言い方が可能なら 命なるかたの死である。否むしろ この言い方は可能であるにしても 驚くべき言い方であろう。だが 主が行なおうとされたことをどうして語ってはならないことがあろう。
 ・主がわたしに代わって行なおうと定められたことを語るのに どうして躊躇する必要があろう。
 ・キリストは命そのものである。そのキリストが十字架に架けられたのだ。
 ・キリストは命そのものである。そのキリストが死んだのだ。
しかし
 ・そのキリストの死によって 死は死んだ。
 ・死んだ命が死を葬り 命の充満が死を飲み尽くした。
 ・死はキリストの肉の中に呑み込まれてしまったのだ。
 かくして われらもまた 復活して語るであろう。今や勝利を得た者として歌うであろう。

   死よ お前の力はどこにあるか。
   死よ お前の棘はどこにあるのか。
   (コリント人への第一の手紙15:54)

 だが今や 兄弟たち 罪のいやしを受けるために わたしたちはひたすら十字架のキリストを見つめることにしよう。・・・
 (アウグスティヌス:ヨハネによる福音書講解説教 第十二説教 泉治典・水落健治訳)

投稿日時 - 2008-03-10 16:12:35

ANo.14

No.12です。

>「どちらの生き方が楽か?」

>見方によっては,人間という生き物は心情をもつが故に不安であり,
>その不安のやりどころをどこに求めるのか,に尽きるのではないかと思います.


そうだと思います。
で、イスラエル人は、律法というものを作り、それに添って価値観を決定してきた。

考える必要がなく、「法律でそうなっているから」とし、律法を絶対として、それによってジャッジしていったわけです。

ところが、<姦淫したら石打の刑ですが、姦淫したと偽証された場合は、どうなるのか。>
<石打の刑で、一投目が当たらなかったら、冤罪なで無罪とするべきか>と律法学者は考えたらしいんですね。

つまり、絶対を決めたのに、それでも不足。
そして不安は消えない。


例えばイエスによって原罪が消えたとしながら、不安な残るので、また穢れがつくとし、結局は自分達ではどうにもならないので、神に頼るしかない と自分の頭で考えることを放棄してしまったわけです。

で、キリスト教は図書館を閉鎖して、考えるための道具である学問を人々から奪った。
ひたすら、神への信仰だけしていれば、不安は生まれないはずだ とした。
<私を信じなさい>ってわけですね。

信じてついていった結果、ひどい有様になり、ニセモノの救世軍だと考え、しかしイエスは本物の救世主に相違ないと信じたくて、イエスのことを讃える宗教はするが、ニセモノにはついていけないとして、新しい派閥を作った。
そこから、また分裂し、分裂し、分裂し、と拡散していくわけです。


それと逆パターンが、新世紀エヴァンゲリオン。

シンジは、他人の命令に従うことで、不安から自分を守ってきた。
結局、それでも不安は消えず、「みんな死んでしまえ。自分も死んでしまえ」と願い、生命のスープに還元されるんですね。
そうなると、自分 他人、 差 というものが存在しない世界になる。

これで他がなくなるわけです。
つまり、ニセモノとか悪も正義もなにもかも無いわけです。
他者がいれば差ができて どっちが正しいか と比べるが、他者がいなければ、比べるということが無くなる世界。

http://homepage3.nifty.com/mana/message1.htm#TOP
『人類補完計画とは、ゼーレにとっても、ゲンドウにとっても、心の平安であるという点で一致しています。
キール  「それは、魂の平安でもある」
ゲンドウ 「ヒトは、一人では生きていけないからだ」
     「全ての心が一つとなり、永遠の安らぎを得る」』


しかしユイの考えは
『生きていこうとさえ思えば、どこだって天国になるわ。だって、生きているんですもの」』

『ユイは、たとえ不幸なことがあろうとも生きることを選ぶのです。魂の不安定さは、全くおそれていません。』

男と女の思考の差みたいなものですね。
しかも普通の男 普通の女 ではなく、究極の というか 端っこ(それ以上先が無い)の考え方。


どちらも神といえると思います。

で、人間はその中間にいますので、ゆらぐわけです。
そのゆらぎにより不安は起こる。


http://homepage3.nifty.com/mana/message4.htm#TOP
『リツコ 「ホメオスタシスとトランジスタシスね。」
ミサト  「何それ」
リツコ  「今を維持しようとする力と変えようとする力、その矛盾するふたつの性質を一緒に共有しているのが生き物なのよ」』


『「あなたは世界の、自分を取り巻く世界の閉塞を願った」
「嫌いなものを排除し、より孤独な世界を願った、あなた自身の心」
「それが導き出した小さな、小さな安らぎの世界」』

アトス山に篭った修道士みたいなもの。
あるいは、修道院、出家した人。


『シンジ「エヴァにのることで、僕はぼくでいられる。」
アスカ「エヴァにのることで、私はわたしでいられる。」

そのような思いこみにこだわって、世界を固定した状態で捉えている限り、それは、現実とは全く関係のない、変化を失った、観念的な静止イメージなのです。それは、過去の記憶や、他人によって作られたイメージです。』

<○○教を信仰することで、私は私でいられる> 
本当にそうか?
それは真実と全く関係の無い、他人によって作られたイメージではないのか?


その人たちが陥るのが
『「つかれたわ。」
 「きれいな自分を維持するのに。」
 「きれいなふりを続けている自分に。」
 「もう、疲れたわ。」
 「認められているのは、認められようと演じている自分で、本当の自分ではないのよ。」
 「本当の自分はいつも泣いているくせに。」』
 
その閉塞感に自らをおいやった人に
『自分自身と世界のイメージを固定化して、決め付けられた静止した世界で生きるのか。
それとも、世界が変化の連続であるように、自分も変わっていくのか。』という問いが投げかけられる。

そして
http://homepage3.nifty.com/mana/message5.htm#TOP


だから、固定観念を打ち壊すことを、壊されることを 畏れない。

で、このアニメの主人公はシンジは神の児(シンジ)は、我々のことなんですね。

このオープニングテーマは<残酷な天使のテーゼ>といいます。
『ほとばしる熱いパトスで
 思い出を裏切るなら
 この宇宙を抱いて輝く
 少年よ 神話になれ』

テーゼは、定め、掟 みたいなものでしょうか。
パトスは情熱。
殻がテーゼだとすると、それに閉じ込められたのもがパトス。
マグマみたいなもので、やがて殻をつきやぶる。
ビッグバンみたいなもんですね。

突き破ることを裏切る と表現し、守られていた殻から出たために、今まで無ルールとなり、不安になるのだが、それを畏れずやがて、形が作られる。
でも、また 殻の内部にマグマが存在しており、いずれ、殻をやぶって外に出る。

何度でも生まれ変わることが人間は可能だってわけですね。

で、生まれ変わったシンジに対して「おめでとう」ってなるわけです。

これが新しい福音(新しい思想)。
だから新世紀エヴァンゲリオン(エヴァンゲリオンとは福音、つまり良い知らせ)というタイトルなわけです。

だから殻に閉じこもってこれを最終とするキリスト教徒は、この物語を怒る・・・・いや ドイツで受けている・・笑。
自分達を解放してくれる福音だととらえたのか?

投稿日時 - 2008-03-10 07:08:30

ANo.13

アダムとイバが犯した原罪とは「意識して自分を反省した」と言う意味です。その証拠が「天国に一番近い者は、幼子」と言う言葉に集約されています。幼子は脳が未発達です。反省しようにもするだけの、能力が無いからです。

宗教における、罪とか、原罪、とか業という事は、自分を返り見たと言う事です。そうする事によって、元は一つのものを、二つにして見る、と言う事です。その二つにしたものに「人間が悩ませられる」人間苦の始まり、と言う訳です。

二つにしてみた世界は、矛盾とか、対立を生みます。その「矛盾、対立」が「人間苦」なのです。その二つにしてしまった世界で不安と恐怖に慄くのが「サタン、地獄」なのです。仏教では「妄想」と言います。何も無いのに自分で地獄を作っている事です。

原罪というものは、自分で自分を罪に落としていることです。それは「成人した、言い方を替えれば、左脳と右脳の機能分化が完成される事によります。大体14歳頃です。悩み始める年頃です。

宗教と言うものの根本は「不安の解決」です、或いは「悩みの解決」といってもよいかと思います。その不安ないし、悩みと言うものは、どこから来るかと言うと、全て自分の心からくるものです。環境から、と言う見方もありますが、他の人は感じていない場合が、殆どです。

という事は自分で自分を、悩ませて、苦しめています。脳が未分化の時には、悩みが無くて、脳の機能の分化が完成した事によって、悩みが形成されます。その訳は、禅問答を引き合いに出せば、分かりやすいと思います。

禅問答は、普通では解けません。ここに脳の機能の秘密が在ります。普通誰でも自分=「自我」と考えています。それしかないと思っています。それは、未だ自分を知らないと言えます。自我とは「左脳」に有る「意識」です。

1,980年代にテンカン治療の一環として、左右の脳をつないでいる、脳梁の切断手術が行われていました。その左右の分離脳の研究によって、導き出された結論があります。

左脳には、一つの人格が有る。意識が有る。その機能は、言葉を持っていて、物事を、論理的に、分析する事が専門と言う事です。

右脳にも一つの、人格が有る、言葉を持っていない、空間、感情、芸術、感性、無意識としての意識、従って意識されない、分別出来ない事を専門と言う事です。

その研究の成果を踏まえて、改めて、不安の正体を言えば。自我が右脳の教えてくれる事に、対して、腑に落ちなくて、意識してしまう事。と言えます。

又、悩みに対しても、二つの考えの矛盾と言う事は自我の意識と右脳の意識の矛盾と言う事が言えます。

人間の最大の悩みとは、死にたくないのに、自分が死に逝く事が決っている。と言う事です。悩みの無い人が居ます。しかし大いに悩む人が居ます。それは左脳の意識である「自我」が「死」を現実のものとして「意識」してしまうことによります。他の言い方をすれば、右脳の意識が、そんな事は無い、命は永遠のものであって、肉体の死は、それ程大事な事ではない、と教えている事によります。

先ほどの「禅問答」に話を戻します。禅の奥義を体得したか、どうか、と言う時に「生死の問題を解決したかどうか?」と言う言い方をします。それは、「見性」したかどうか?ということです。自我が仏性を見たかどうか?と言う事です。それは、左脳の意識が右脳の意識に出会ったかどうか。と言う意味です。右脳に仏性がいます。右脳の人格とは「神といっても、仏といっても、良いのです。」禅問答は、右脳でなければ、解く事が出来ない問題なのです。

そこで原罪が無いとは「平常心是道」と言う事です。「心が停滞しない」と言う事です。何ものにも囚われない自由な心です。「精神疾患」とは「心が停滞」している事です。「意識」してしまって、心が自由ではなくなって、妄想の中で地獄を見ている事と云ってよいかと思います。

投稿日時 - 2008-03-10 00:26:25

お礼

非常に説得力のある明快なご解説を賜り,大変感服致しております.ご回答者様は学者様でしょうか.書き物をしていらっしゃる方としか思えない文面です.
そもそも物質である脳がなぜ物質でない感情や意識を発現することができるのか,いささか疑問ですが,あらゆる悩みや不安や葛藤は,人間活動のすべての根源たる脳が相反する矛盾した実在となっていることに由来するのですね.
確かに左脳と右脳は相反する機能をもっているのですが,しかし互いに相補的な関係にあるため,平素はバランスがとれている状態にある訳です.このバランスが崩れこそが悩みや不安を発現する根源である,ということが読み取れます.

投稿日時 - 2008-03-11 01:33:47

ANo.11

NO5です。
訂正と補足をしておきますね。

カトリック教会のカテキズムによると、原罪は

「人間は悪の誘惑を受け、神の信頼を裏切り、自らの自由を不正に行使して、神の命令に従わなかった。人間は神の命令に従わないことで、自らの良さを貶める結果となった。…人類の一体性により、全ての人はアダムの罪を引き継ぐことになったが、それと同じようにすべての人間はイエスの義をも受けつぐことができた。どちらにせよ、原罪も神秘であり、人間はそれを完全に理解することはできない。」

となります。

原罪の罪そのものは、イエス・キリストによって贖われたとされています。
それが、「イエスの義をも受けつぐ」と言うことです。
先の回答で「原罪が無い人は居ない」と言いましたが、「原罪の影響から逃れる事が出来る人は居ない」の間違いでした。
「原罪の影響」というのは、「死ぬ(肉体を失う)こと」「悪への傾きを持つこと(仏教的に言えば煩悩)」などなど、ですね。
しかし、「原罪」の影響から人は常に「罪を犯す」可能性がありますし、「死すべき存在」なんです。

>どうも他人の風当たりが強いように思われる今の社会,ふだんは心の奥底で眠る悪しき何かがこらえ切れずに覚醒し,色濃く外に表れているのでは,と感じるのは私だけでしょうか.そうではない気も致します.今回,このような感情が「原罪」という言葉となって表れたのだと思います.

これは、ある意味、「原罪」の事を言い当てていると思います。
「原罪」の影響によって、人は「悪」を犯す可能性があるという事なので。

一方、「洗礼」は、イエスと神を受け入れる事です。
それと同時に、「洗礼以前の罪」も赦されることになります。
で、「洗礼」後に犯した罪に関しては、「祈り」「告解」や「煉獄」において清められます。

もう一つ、「免罪」というのもありますね。
中世なんかでは、巡礼で聖地を訪れたら、その場所によって規程された「免罪」がえられたようです。
※例:ピラトの官邸跡(免罪日数:7年4ヶ月)
   聖母教会(完全免罪)
   ユダがイエスを引き渡した畑(免罪日数:7年4ヶ月)
   聖墳墓教会(完全免罪)
    などなど。。。

>学術的観点からの解釈が気になります.何か統一的な理論や学理をご存じであればお教え下さい.

う~ん、一口に「キリスト教」と言っても、イエスが死んで復活して以来、様々な派が様々に解釈しているので、統一的な見解というのは難しい気がします。
上記の解釈は主にカトリック系なんですが、「原罪」についても、その重要性や意味合いは宗派に拠って様々です。
ただ、「エキュメニズム(教会一致促進運動)」というのがあり、様々に分かれた教会・教義を、もう一度統一しようという試みはありますね。
で、一番の結晶は「共同訳聖書」でしょうか。
一応、カトリックを始めとした正統派の宗派はこの聖書が標準になります。

因みに、統一教会は正統諸派からは「異端」とされていますね。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/850622.htm

参考URL:http://www.tomoshibi.or.jp/tushin/yori/yori7.html

投稿日時 - 2008-03-05 22:00:19

お礼

再度ご解説いただき,ありがとうございます.
特にエキュメニズムは興味深いですね.
いわゆる妥協案にあたる気がしますが,聖書のいわば「ストーリー」が後から付与されたり,今までの解釈は少し違っていて,実はね.というような改訂がなされるのでしょうか.
原罪の解釈はまちまちなんですね.
宗教間で学会を開き,定義見直し等の調整を行うと良いのでは.

投稿日時 - 2008-03-07 01:42:28

ANo.10

原罪を自然に背くことと捉えれば
今の世界は罪の真っ只中といえるのではないでしょうか

投稿日時 - 2008-03-05 19:46:40

お礼

おっしゃる通りだと思います.
やはり原罪に対する解釈の問題なのでしょうか.
実感できないところがいかにも宗教のような感じが致します.
案外,宗教と詐欺は紙一重なのかもしれません.
どちらも「信じる心」をモチーフとしている訳ですし…
何事も「信じる」前に物事の本質を見極める目を養う必要がありますね…じゃあどこでどうやって?…
と思って入信した宗教が実は,みたいなことが世の中で起こっているのでしょうか.

投稿日時 - 2008-03-07 01:18:43

ANo.9

No.6です。

哲学って、ソクラテスに代表されるように、疑うことからスタートするわけです。

だから、原罪とか地獄とか現代に定義されているものは、本当にもともとそういう内容か?とまず疑って調べてみる。

例えば日本に閻魔様。 
最初から人が死んだ後、閻魔様が審判をするという概念だったのか?
違うんですね。

口伝で人から人へ ある民族から別の民族へと伝わる過程で、その概念が変化して、別物になっていく。


他の人への返事として書かれている「ふだんは心の奥底で眠る悪しき何かがこらえ切れずに覚醒し,色濃く外に表れているのでは」の言葉で、
「ああ この人は霊を信じている典型的な日本人だ」と思いました。

日本人は宗教にうとい。
多くの日本人は外国の人に「どの宗教を信仰していますか」と聞かれ、「どの宗教も信仰していません」と答える。

にもかかわず、受験になると神社に行く。
正月には神社にお参りにいく。

実は日本人の風習・文化の中に日本の宗教は深く根ずいている。

例えば、ユダヤ人の大贖罪。
前回書いたように民族全体の穢れを清めるものです。
それによって民族が清められ、リセットされるわけです。

日本だと大晦日。
年末に掃除しますよね。
そして綺麗にしてリセットして清められた状態で、新年を迎え清めた状態で、神社に初お参りをする。

これ 宗教をやっているってことになるんです。

神社の境内に水が湧き出ていて、そこで手を洗いますよね。
穢れを流す行為です。
穢れたままじゃ、至聖所に近づいてはならないので、その手前で穢れを落とすってわけです。

どうして、穢れを落とさないと近づけないのか。
どうしてだと思います?
聖なるものが、人間が持ち込んだ穢れで、穢れてしまっては、人間を守ってくれる力が弱まるから と考えたからじゃないかと。

つまり霊を信じているってことですよね。

つまりそういう仕来たりの行為を行い、身を清めることによって聖なるが穢れないようにと<信仰>しているってわけです。


で、政治家が悪いことをして、職を追われた後、数年後、また当選をしたとします。
すると政治家は「私は国民によって禊を受けた」と言う。
当選したってことは、国民はもう この政治家が穢れがないと認めたってことです。
政治家の再生を国民は認めたってことです。
これが禊。


人は生きていくうち、無意識に穢れていく としており、そうならないように風習で穢れないようにしながら、完璧には回避することはできず、生きていくとまた穢れがついてしまう。
そうやってたまりたまっていくが、大晦日のあたりで、一斉にたまりにたまった穢れを洗い流し清め、リセットをするから、新年になるわけです。

日本は生の文化があり、キリスト教は死の文化。

日本は仕来たりを行うことで、リセットされ清められ、一度穢れたものも清められ生き続けることができる という思想。

キリスト教の場合 強迫神経症みたいなもので、いっくら手を洗っても洗っても洗っても洗っても、まだまだ洗い足りないと、水道水で手を洗いつづけ、皮膚から油が抜け、やがて出血し、痛い痛い痛い 助けてくれーーーーーーー!と病院で治療を受けている人のようなもの。

自傷行為を永遠に繰り返しているわけです。
これはこの宗教がそういう教義だから。


病気ですから病気は穢れたものの中にいるので、この穢れを清めるしかないわけですが、この病気を取り払ってくれるのは、医者じゃなく神様しかできない として、強迫神経症を神に治してもらおう 神に早く 早く 早く 早くーーーーーーと訴えているのが祈りなわけです。


文化の違いなんですね。
文化の違いによって、生き続けるか 死ぬしかないか とに別れる。

で、クムラン宗団は、油を塗るということはしなかった。
油を塗ると穢れがくっついて洗っても清められないから。

だから、沐浴を信者に勧めたんです。
例えば、洗礼者ヨハネ。
彼は穢れを清めさせるために沐浴をすすめたのか?

違うんです。
彼はもう自分は清められたものであるという自覚をしている人に、自分達の集団に入会することを許可していた。

つまり、穢れを清めるために洗礼者ヨハネはやってきたのではなく、既に清められていると自覚させるために、彼は荒野からやってきた。

だから、救世主はイエスではなくヨハネの方だって思想ができたんです。

で、そのヨハネをメシア つまり聖別されたものとしていた集団を、キリスト教は迫害した と。

どうでもいいですが、カインとアベルですねぇ・・・・。

まあ 日本の文化で育った私達は、その内部紛争をなにやってるんだか と笑うしかないのですが、やっぱり文化の違いで、死の文化になると、殺し合いをするしかないんでしょうね。


日本は信長以降 宗教戦争は無いそうです。
信長、秀吉あたりで、武器持って戦っていた宗教集団を徹底的に弾圧したらしいです。
それ以降 宗教団体が宗教戦争とかテロを日本国内で起こすことは無くなったのだそうです。

「和を持って尊しとこれを宗とせよ」という教えが宗教。

和の文化で育ってしまうと、この同じ宗教なのに、いがみ合うってのがよくわからないんですね。
それぞれが、自分こそこの世を救う救世主だといいながら、金の亡者になっている。
どうして信者は金の亡者を拝むのか?
冷静さを欠いてしまっているからだと思います。
どして冷静さを欠いてしまったのか。
穢れを清めていないから。
ちゃんと 穢れを清めて正月に神社に「私はもう清いです」って言いに行けれたら、穢れは消えているので、平穏になるんじゃないかなって思います。

ってことで、そういう気持ちを持って、禊をしてはどうでしょうか?
生きていくうち そりゃあ 穢れますわなぁ。
だけど 日本の文化は生の文化なので、清められるってしているんです。
それを信じるか、信じないか。
信じるとか信じないとかは別にして、生きている人間にとって 良い思想だなぁって思います。

投稿日時 - 2008-03-05 10:29:00

お礼

3度に亘るご説教,痛み入ります.
日本人が無宗教なのは,アジアの離れ小島としての日本,という地理的な要因もあるのかもしれません.
どこの宗教圏にも属していない,あるいはごっちゃになっている,といった感があります.
ただし,日本人といえども人間である以上,不安はつきものですから,都合にかまけてお参りしていたのですね.
おそらく日本人は何かを深く強制させられるのが嫌なのだと思います.クリスマスパーティーはするけれど,教会には通いたくない,初詣はするけれど別に頭は丸めたいと思わないし…,というふうに.かくいう私もそうなのですが.
仮に寺や神社や教会が,「うちの信徒にならないと初詣できませんよ.」,「入信いただかないとサンタは来ませんよ.」と主張し出したら面白いかなと思います.
そんなことを言い出す宗教はもはや邪教ですが,日本の文化の背景にはしっかり宗教があるんですよ,という意識を高める機会があってもいいかもしれませんね.

投稿日時 - 2008-03-07 01:07:10

ANo.8

こんにちは
原罪とはキリスト教の思想です。
当然のことにこの世の中には仏教やイスラム教をはじめたくさんの宗教がありますので、この地球上のすべての人が原罪を持って生まれてくると考えるのは出発点から間違っているといえます。

原罪を取り除けるのは誰か?
キリスト教徒は入信の時の洗礼によってその罪を洗い流されます。
で、結論から言いますと、ご質問者がキリスト教徒であれば、受洗で原罪からは免れていますし、キリスト教徒でなければ、他の宗教の教義を気にする必要はないということです。
生まれてからすぐ受ける洗礼は本人に選択の余地がないことから、原罪の消滅にはならないとする宗派もあるようですが、一応キリスト教の考え方からすれば、受洗によって原罪を洗われた男女から生まれた赤子であっても人間は生まれたときには原罪を背負って生まれてくるという考えから幼時洗礼によって原罪を洗い流すという考え方が一般的です。
無原罪といわれているのは聖母マリアただ一人だけです。
原罪を洗い流した後の人間の罪は死後、煉獄でその罪を償うという教義もあります。
その煉獄でも贖いきれない罪を犯したものが地獄に落ちるのだと考えられています。
このように、キリスト教の神は自分の掟を押し付ける代わりに救いの道も用意しているのですね。
また、メシアあるいはメサイアはお金儲けをしません。
イエスは後の世に、自分の名を騙る偽キリストが現れることを予言して
います。
文鮮明をはじめとする新興宗教の教祖が自らをメシアと称しても本家本元のキリスト教会が認めたわけではなく、キリストが一番嫌ったお金儲けをして私腹を肥やしている以上、邪教集団でしかありません。
ですから、ご質問者がなぜ、ご自身を原罪を持つ人間と考えられたのか、それを自分の中で整理してからでないと回答も収束して行かないと思いますが。

投稿日時 - 2008-03-04 11:14:00

お礼

ご回答いただき,ありがとうございます.
そもそも洗礼とは原罪を取り払う儀式にあたるのですね.
当方,特定の宗教には入信致して居りません.
そう致しますと,原罪を意識するまでもなく,一種のテクニカルターム(専門用語)としてとらえる立場にしかなさそうです.
しかし,どうも他人の風当たりが強いように思われる今の社会,ふだんは心の奥底で眠る悪しき何かがこらえ切れずに覚醒し,色濃く外に表れているのでは,と感じるのは私だけでしょうか.そうではない気も致します.今回,このような感情が「原罪」という言葉となって表れたのだと思います.

投稿日時 - 2008-03-05 07:46:00

ANo.7

追伸まで [話は変わりますが,現代の宗教学者(律法学者?)はみな信仰心がおありなのでしょうか.宗教と宗教学ではアプローチの仕方が異なるように思います.]
「信仰心」というのは字の通り「信じて仰ぎ見る心」という意味です。「解釈する。」という意味ではありません。ここに律法学者が陥りやすい落とし穴があるのですね。宗教の本来の使命はあの世とこの世を貫く幸福の探求ですね。あの世のことは証明することも見ることもできないから人は信じるしかないのですね。私はモーゼを信じる。私は釈尊を信じる。私はイエスを信じる。私は孔子を信じる。から宗教や倫理は生まれてきたわけです。信じた上で主の心、思いを汲み取るのが宗教的解釈ですね。解釈を肉の眼で学問的にいかに行なおうとも、なんの意味も無いものです。その意味で現代の宗教学は信仰心なき宗教学といえますね。一方、信仰心あれどといえども肉の眼では信仰の対象が本当は誰なのかがわからないので多くの間違いもあるわけですね。キリスト教系の悪魔、仏教系の悪魔が主であることも多々あるわけですね。ということでいつの時代でも本物はいるのですがその本物を見出すことは駱駝が針の穴を通るほど難しいですね。つまり本物を見出す心を養うしかないでしょう。「明るい心をもてば天使が微笑み、暗い心をもてば悪魔が微笑む」ですからね。原罪・罪意識も暗い心ですよね。悪魔の草刈場といえますね。・・・

投稿日時 - 2008-03-04 10:32:28

お礼

おっしゃる通りです.
当然と言えば当然ですが,信仰心あっての宗教です.目に見えないものを汲んでゆくのだと思いますが,信仰のない人間からすれば,宗教における教え,いえもう少し譲って,信じることの大切さというものは,あまりに抽象的すぎてきっと分からないのでしょう.
世俗と一線を画することに対する覚悟や勇気がなければ,信仰に入りにくい世の中です.

投稿日時 - 2008-03-05 07:20:21

ANo.6

No.2です。

>メシアが原罪を取り除くことができる,というのは,原理研(統一教会)のセミナーを受けた経緯のある友人から聞いた内容です.

あーー、、、
聞いた話だと、韓国は世界一大きなキリスト教の建物を持っているらしいですね。
かなりの国民がキリスト教徒だそうですので、今 韓国にとってキリスト教はビッグビジネスなんですね。
どれだけ自分の派閥に取り込むかのためには、いろいろ おいしーエサを軒下にぶらさげないと。

キリスト教が聖書を作ったいきさつも、このビッグビジネスのチャンスを独占できるかで、懸命になり、考え付いたのが新約聖書を作るというアイデア。
成功したので、ビッグビジネスになったわけです。


えっとですね。
聖書に書いてあったと思いますが、庶民は神殿に行って身代わりの動物を捧げて贖罪を自分でやっていたんです。
何故なら罪は当事者が清めなければならないって神が言ったことになっているから。

で、個人の贖罪は個人でやるのですが、民族全体 すなわちイスラエルの民という集合体を清めるには、メシアが一年に一回やっていたわけです。

ちゃんと儀式がありまして、多数者 すなわち12人の祭司がランク順に上から神殿に階段に立つんです。
そして至聖所にメシア えっと すなわち大祭司ですね この場合、大祭司が入って、用意されたある動物を捧げるんです。
羊じゃないです。
で、厳かに神の真の名を唱えるわけです。

神の真の名は、選ばれた人 すなわち 卓越した鍛えられた人にのみ7年に1回 伝えていったらしいです。
まあ とにかくメシアになった人は神の本当の名前を知っているってわけです。

で、神を呼び出す儀式をするわけです。
この時、神の前に立つわけですが、そりゃあ 恐ろしいものがあると思います。
何故なら 神が 民族の代表者として贖罪をする祭司を殺すかもしれないから。
(ほんとにいるかどうかは別として、日本の神道だって儀式やるでしょ? 日本人は神社におまいりするでしょ?)

というのが一年に1回やっていた大贖罪なわけですね。

ただ、これ 非公開の儀式なので、当然庶民は知っておらず、多数者以外の祭司達も知らなかったみたいですね。
だから、キリスト教にはこの情報が伝わっておらず、大贖罪の記述について大きな誤りを犯している。
なにより 人間を身代わりにして民族全体が清められるなんて、それユダヤ教の伝統じゃないし、メシアによる神の贖罪のやり方じゃない。

そういうこともあって、イエスはメシアじゃあない 儀式も知らないし、神の真の名も知りもしないので、メシアじゃあない ってなったんじゃないかと。

アッバって神の名前じゃないし エルも神の名前じゃあない。
ヤハウエイもアドナイもエホバも違う。
それに大贖罪をする場所 そこじゃない。笑

>原罪のない人間とは,死ぬことのない人間を指すのですね.初めて聞きました.かような人間が今後現れるのでしょうか.

いえ、誰も言っていません。
聖書を読むと神に背いたから限りある命になったって書いてある。
だから、私は文字の通りにとったわけです。
他 あります? 他の意味にとれます?


>技術の適用にあたっては,倫理上の問題が数多く提起されそうです.

ソロモンの知恵って物語があったと思います。
ある王様が限りある命を嘆いたら、側近がこういったそうです。

「王様 もし 永遠の命があったら、あなたは王様じゃなくなります。過去に偉大な人がいたが死んでくれたから、あなたは王様になることができたわけで、もし 過去の偉大な人たちが死ななければ、あなたは乞食だったかもしれないですよ。」

王様はもう限りある命を嘆くことはありませんでした とさ。


>サタンによる最後の抵抗,神vsサタンのハルマゲドン,第3次大戦,といったところでしょうか

それはですね。
アッカド・アッシリアの神話をパクったからそうなったんです。
神々が二つに分かれ大戦争をしたって神話があるんです。
ユダヤ教ができるより ずーーっと前。
ユダヤ教の創世記 その神話からパクってますね。
何故 今まで指摘されなかったか?
近年になってその話が書かれた粘土版が見つかって、解読されたから。

ちなみに悪者と今思っているサタンの軍団。
実は創造主だったりします。笑
その創造主の軍隊と、クーデターの軍隊が激突したんです。
みなさん 神様です。
で、勝った方が負けた方を悪者呼ばわりしただけ。

反乱軍なわけですが、悪政だったから反乱を起こしたのではなく、傲慢になって自分が最高の地位につくべきだ として、まず初源の神を殺したんです。 
次に自分達を作り出した神に「お前の最高地位をくれーーー」って言って、夫を殺して今度は地位まで欲しがるとは なんという! ってそれまで夫が子供達があまりにも身勝手で許せないから殺すというのを止めていたが、もう許せない かかってらっしゃい! ってなって 神々はまっぷたつに分かれ、大戦争をしたってのが、その物語なんです。

従って未来に起こることじゃなく、何千年も前に作られた神話なんですね。
過去形です。

しかもですね。勝った方の神を崇拝してますが、あきらかに人間の価値観からすれば悪者ですよね。
乗っ取りをした犯人をどうして人間は神として尊敬しているの? って私不思議なんですね。


>とにかく今回のQ&Aで神側からの被害届が出されないことを祈ります.

いやいや 人間の想像の産物が現実の物質界に少しでも影響を与えることは実際はできず、神の仕業ってしながら、実は人間がやっているにしかすぎない。
オズって偉大な魔法使いとされていましたが、実は彼人間で詐欺師だったんですね。
手品で幻影を見せて、偉大な魔法使いが存在するように騙していただけ。

いないものはなんら現実世界に影響を与えません。
いや 幽霊におびえて心身症になってしまう人もいる?
ええ 自分があまたの中に作り出した魔物が実在すると信じるから、そうなっちゃうわけです。
いない と自覚することで、回復します。

が、生霊は怖いですよね。 物質動かせますから。笑

投稿日時 - 2008-03-04 02:15:22

お礼

分かりやすくご説明いただき,ありがとうございます.
とにかくkigurumiさんのあまりの知識の多さに脱帽です.
私も教養程度にこれくらいは語れるようになってみたいものです.
またお教え下さい.

投稿日時 - 2008-03-05 06:38:25

ANo.5

主な宗派では、原罪の無い人は居ませんよ。
元々、「原罪」というのは、「人間が最初に犯した罪」という意味であり、その結果として「楽園」を追放され「神との繋がりを失い」「死すべき存在になった」とされています。
そして、その「原罪」はアダムとエヴァの子孫である我々人類全てに受け継がれているとされています。(だから、「不死身」な人間なんて居ない)

ただ、この「死ぬ」という概念なんですが、所謂「黄泉の国」に行くという考え方ではなくて、「肉体を失う」という概念なんです。
つまり、「神の国(天国)」や「地獄」は「あの世」の事ではなくて、肉体を失った人たちが行く世界のこと。
そこで生きていた時の「罪」に応じて、天国・煉獄・地獄に振り分けられます。
そして、「最後の審判」の時に天国に居る者全員と煉獄に居る者で罪を贖った者達が、「肉体」を持って「復活」し「神の国」に入るとされています。
地獄に居る者は、永遠に復活できず、その罪に応じた責め苦を受け続けることになります。

つまり、キリスト者の究極の目標は、「最後の審判」の時に復活して「神の国」に至ることなのです。
ということで、「原罪の無い人」というのは居ません。(少なくとも「最後の審判」の日までは)

因みに、「洗礼」の儀式ですが、こちらは「イエス・キリストを受け入れる」という儀式です。
そして、それを通じて、「神と繋がる」という意味があります。
「私はぶどうの木である。あなたたちはその枝である。私につながるものは豊かに実をむすぶが、私から離れてはあなたがたが何もできない。」(『ヨハネによる福音書15:5』)の比喩が最も分かり易いかもしれません。

※ただ、「原罪」については定義がアヤフヤなため宗派によっては解釈が異なります。

投稿日時 - 2008-03-03 21:53:55

お礼

客観的な観点からご解説をいただき,ありがとうございます.
重要なのは死後における最後の審判なんですね.復活する機会はこのときのたった一点しかない,
この考え方は,宗教における根本概念に相当すると思われますが,宗派が違っても解釈が違うだけで,「究極の目標」はみな同じ,ということでしょうか.
学術的観点からの解釈が気になります.何か統一的な理論や学理をご存じであればお教え下さい.

投稿日時 - 2008-03-03 23:41:05

ANo.4

[そもそも原罪がない状態とは,宗教学的にいかなる状態を指すのでしょうか.]
私には原罪と言うものはありません。原罪はなくとも日々の迷いはあります。この迷いを日々修正しているだけですね。原罪は本来誰にもないものですが長い転生の中でいろいろなことがありそれがたまっているのでしょうね。心の傾向性というものですね。原罪とか罪意識が強い傾向性は簡単には直りませんが、メシアに会えば直ると信じているのであればそれもありでしょう。私は、全能の主の弟子でありイエスの弟子でもありますから、主の代わりにあなたに「もう罪はない。」といいましょう。「もう罪はない。」のですからこれから心の悪を押しとどめ人々に愛を与えて生きてください。明るい心で生きていれば必ずあなたの心の目でメシアにも会えるでしょう。それだけですね。

投稿日時 - 2008-03-03 19:27:32

お礼

大変有難いコメントをいただき,感謝致します.
罪意識にとらわれず,与えられた環境で誠意を尽くして生きていけば,おのずと道が開けてくるように思います.
話は変わりますが,現代の宗教学者(律法学者?)はみな信仰心がおありなのでしょうか.宗教と宗教学ではアプローチの仕方が異なるように思います.
信仰心なき学者は宗教学界隈において学者として認められない,なんてことがあったりして….

投稿日時 - 2008-03-03 23:17:43

ANo.3

 宗教は忘れてください。わたしたちと同じ人間が説いたり教えたりしているだけです。

 個人の信仰という領域あるいは立ち場というものは あります。
 人がどう言おうと 良心の自由の範囲いっぱいに その思想の自由を享受して 歩みます。そこに いつしか なにものかを信じるという真実もしくは現実が与えられるものと考えます。

 そのとき もし原罪があったとすれば それは 覆われ 見えなくなります。棘が抜かれたと思ってください。
 そのときには たとえば人と一緒に食事をするとき 目の前の皿から 相手のほうへ これはどうですかと言って 差し出すようになるのではないかと思います。相手もそうするのではないでしょうか。中国人はそういう習慣を持っているようですが たとえばそういうことが考えられます。

 メシアは これも忘れてください。目に見えるかたちを思うことを忘れてください。

投稿日時 - 2008-03-03 15:11:28

お礼

教えを説いていただき,ありがとうございます.

宗教は本来の人間が失った何かを取り戻すための手段であり,宗教なき状態こそがむしろ本来の状態のように思われます.
すなわち,各宗教は宗教そのものをなくすために戦っている,と考えられます.

「宗教を忘れよ」というのは,「個人レベルで改心なさい」,ということを意味するのでしょうか.

大変含蓄深いお言葉を賜りました.心より感謝申し上げます.

投稿日時 - 2008-03-03 23:02:04

ANo.2

>アダムとエバが犯したとされる原罪についてですが,これを取り除ける(祝福できる)のはメシアのみとされています.

初耳です。
誰が原罪を取り除けるのは、油を塗られた者だ って言ったのでしょうか?

一般的に原罪とは、人間の最初の罪とされており、それはこの神を崇拝しなかった事とされています。

そして神は罪を犯した当事者のみが贖罪をするべきであり、当事者以外 例えば家族の誰か とか子孫が当事者にかわって贖罪ができるなんて言ってません。

この神が言ったことを否定した人って誰ですか?
恐らくその人はこの神を軽蔑していて、ふっと鼻で笑っており、俺こそこの宇宙を創造した神じゃ、 あいつの事は崇拝せず、俺を崇拝しろ って思って そう言ったんじゃないかと。


>イエス以降,現代に至るまで,メシアを称する宗教者があちらこちらで現れているようです.

メシアって油を塗られた者って意味ですよね。
インドの宗教では、聖婚の時、神の花婿として選ばれた人は、ペニスに油を塗って、女神の地上の体現者と初セックスをしていたんです。
儀式として。

それがユダヤ教に入った時、ペニスじゃなく頭に油を塗るという風に変わったのです。

従って、油を塗られた者は、女神の地上の体現者とセックスをするために選ばれた男 という意味です。
女性じゃなくあくまで男性のみがペニスを持っているので、男性の中から神の花婿は選ばれておりました。
そして、大祭司もそうだし、後に拡大されてダビデもソロモンなどの王達も、神の地上の体現者とセックスをするため油を塗られていたようです。


>そもそも原罪がない状態とは,宗教学的にいかなる状態を指すのでしょうか.

一般的には、神を崇拝しなかったことで、永遠の命が人間からなくなって他の動物と同じように、限りある命になったとされております。
従って原罪が無い状態とは、死なない人のこと。


>理想的には神が創造した人間本来の状態を指すのでしょうが,

神が自分を崇拝しなかった人間に復讐するため人間をのろって、それで人間は限りある命になったとされますので、それでいけば自分を生んでくれた母親を崇拝するってのが、人間本来の生き方ってことでしょうか。
たとえどうしようもない相手であっても、創造主には違いないので、崇拝しないと殺すぞ って言われて、自分が子供を殺そうが虐待しようが呪おうが 勝手でしょって、それ身勝手でわがままなだけのような気が・・・
神の御心は人間では計り知れないですねぇ。
人間にとってはわがままなご主人様ですが、殺すといわれても はいどうぞ ご勝手に なんですけどね。


>迷いの無い,実に晴々しい状態なのでしょうか.

ノアなんて無垢で天使のような人ってされていますよね。
ノアはすっぽんぼんで酒をあびてぐーーぐーーー寝ていた。
これが無垢とされた理由。
動物的で自分の快楽に従順な人間だったようで、息子たちはそういう父親の姿を見て「恥ずかしいことを」と笑ったのですが、それを見られたノアは、息子達を呪ったんですね。
ノアは魔法使いだったのか、その呪い通りに息子二人はなったってお話。
ノアをはじめ神系統は、無垢で自分の欲望に従順で身勝手だけど、かつ 呪いを現実にできる力を持っているんですね。
一般的には悪魔とか魔女とかそういう能力がある人は言われていますが、悪魔も魔女も実在してはいない。
人間の創造の産物でしかない。
身勝手な神様も人間の創造の産物・・・・・・。


>単に本物のメシアが未だ再臨していないだけのことなのでしょうか.

ユダヤ教のメシアとギリシャ語のキリストって概念が違うんです。
で、メシアって言っていて、実はキリストのことを言って「我こそはキリストなり」ってみなさん言っているわけです。

上の方にユダヤ教のメシアの概念について書きましたので、今度はキリストについてですが、救世主を意味します。
ヘブライ語のメシアをギリシャ語に翻訳するとき、それに該当する語彙がギリシャ語になかったので、救世主を意味するキリストって言葉を翻訳として使ったんです。

で、それ以降 ギリシャ語のキリストをもって、キリスト観を確立していった と。


>また,メシアによって原罪を取り払われたとする男女の間に生まれた子は,理論上,先天的に原罪が無い状態にありますが,後天的に原罪が復活することもあるのでしょうか.

そもそもユダヤ教は神のいいつけにより、罪はその犯した人本人が償わなければならないとされています。
だからユダヤ教では原罪についてこだわりません。

ところが、キリスト教は神の言葉である律法を否定し、神を崇拝しなくなったので、罪を犯した家系の子孫はずっと原罪を持っている としているんです。
そして永遠に原罪があったが、イエスがその原罪を身代わりにになって贖罪をしたので、全人類から原罪が2000年ほど前に消えたとキリスト教は主張しているんです。

しかし、原罪は消えても、また人間は罪は神を崇拝しないという罪をおかし穢れるので、最終的には再度イエスが降臨して、裁判をして罪を犯した人々を罰する としています。


おや?って思いました。
そうです。 おや? ですよね。

ユダヤ教の言い分はこうです。
沢山ある人間の中から、神の心によりそおうとした民族のみを選んで、彼らの反映を約束した。
これが神の祝福です。

選びは「私の民がどうして殺しをしようか。私の民であるなら殺しはしない」 などです。
10戒律に書かれている内容にマッチした民族が多くの人々の中から選ばれ、祝福をされた。
だからイスラエル人は神の民とされているんです。

キリスト教はその神の言いつけを聞く必要は無い と律法を否定したんです。

おかしいですよね。
「神を崇拝しています と口では言いながら、心の中じゃ そんなのくそっくらえで神のいいつけに耳を貸す必要などない。私の言葉を信じなさい。 神に一切耳を貸さなければ神が祝福します。」って言われても、「あんた何言ってるの? 自分の言っていることわかってる?」ですよね。

「早い話があんたが神か 古い神を倒してその座を乗っ取ったマルドゥックってわけですか」って思いました。

ちなみに創世記の元ネタでは、創造主である太祖の母ティアマットにエアだったと思いますが、「その最高の地位をくれ」って言ったんですね。
エアは太祖のアプスーも殺して、最高の地位も欲しがった。
それで夫を殺してしかも最高地位まで欲しがったエアにさすがのティアマットも切れて、神々がまっぷたつに別れて戦争をしたんです。
撃退するためにあらゆるものを創造できるティアマットは神獣を召還し、エアたちを撃退。
エアたちはその力のすごさにおびえたのですが、エアの息子のマルドゥックはひるまず、言葉でもってティアマットを倒して、大地を作った とされています。
そしてティアマット派の最高司令官の骨と血を使って、自分達のかしずく奴隷として人間を作ったとされています。

古代の人は予言できたのでしょうか。
キリスト教がそうするって予言していたのでしょうか。
見事的中していますね。


ということからすれば、原罪というのは神に反逆することってことで、ユダヤ教から分離したキリスト教は最初ユダヤ人でしたから、神への反逆 神殺し そして最高地位を取ろうとした行為が、原罪の復活ってわけですね。


>当方,原罪があるが故に分からなくなっている状態にあると思われます.

一応 キリスト教では原罪は2000年ほど前にイエスが消してくれたから喜べ ってうかれています。

でもその行為自体 原罪の復活を意味しているわけで・・・・・。

キリスト教でいけば、あなたには原罪は無い。
でもキリスト教徒じゃない私から理論的にみれば、もしあなたがキリスト教徒なら原罪が復活しており、信仰すればするほど罪が重くなっているってことになります。


>悪気や批判の念は一切ございません

うーーん 私も悪いや批判や意地悪のつもりはないのですが、理論的に考えると こうなっちゃうんですね。

私は神というものは信じませんが、万物の法則は疑う余地もなく存在すると思っています。
人によってはカルマとか言いますが、要するに普通人を殺せば、その子に憎まれ殺される確立が高くなるわけです。
しかし二人だけでこの世はなりたっておらず、他の要素が絡み、復讐されないケースもでてくるわけです。
ただ、人はそのほかの要素を全て把握できないので、殺されなかったら奇跡だとかいうことにしているが、他の要素が働いたのにそれを認識できなかっただけ。

身を粉にして殺された側に「父親を殺されたからといって相手を殺してしまっては、お前も相手と同じようにお前も穢れてしまう。 復讐の連鎖をお前で止めなければならない。」と説得する人がいて、復讐が行われなかったということを知らなければ、「相手を殺して乗っ取た者は神から祝福されたから勝ったんだ 殺しも時には方便」ってなるだけ。

投稿日時 - 2008-03-03 12:32:36

お礼

長文にてご回答いただき,心より感謝致します.

メシアが原罪を取り除くことができる,というのは,原理研(統一教会)のセミナーを受けた経緯のある友人から聞いた内容です.
メシアの解釈は宗派によってまちまちなんですね.統一された見方は無いのでしょうか.宗派の都合の良いように聖書が咀嚼されている気がします.

原罪のない人間とは,死ぬことのない人間を指すのですね.初めて聞きました.かような人間が今後現れるのでしょうか.
あるいは,科学によって不老不死がもたらされる時代が訪れるかもしれません.不老不死を実現した科学者がいわば救世主ということになりそうです.
技術の適用にあたっては,倫理上の問題が数多く提起されそうです.サタンによる最後の抵抗,神vsサタンのハルマゲドン,第3次大戦,といったところでしょうか.
話が飛躍しておりますが.

とにかく今回のQ&Aで神側からの被害届が出されないことを祈ります.
ありがとうございました.

投稿日時 - 2008-03-03 22:44:50

ANo.1

キリストによって罪は取り除かれてなんかないですよ。

キリストの死によって、アダムの犯した罪が取り除かれたのではなく、
罪が取り除かれる権利を得ただけです。

これは神とサタンの論争において神の側につき、神が勝利した場合です。

もしかしたら、サタンが勝つかもしれませんし。

現時点ではサタン有利な世の中です。すくなくても客観的に見るとそう見えます。だからメシアと証する人がたくさんでてきます。
しかもたち悪いことにこのメシアは金が儲かります。名誉が得られます。そりゃ必死になりますよね。自分が神に是認された間違いの起こさない人間だと考えている人はすべてうそつきです。そんな奴ら絶対いないです。だから自分は特別だ。というしかないんじゃないのでしょうか?

それから協会に通うだけじゃ絶対救われないですよ。そんなもんで救われるくらい簡単なことが真実ならば、世の中等の昔に幸せになっているはずですから。人類が長い歴史をかけて到達できない真実はそんなに簡単には手に入りません。ましてや自分たちがただしいとか言い切る狂人たちには。
 

投稿日時 - 2008-03-03 08:14:19

お礼

ご回答いただき,ありがとうございます.

神とサタンの論争,とはかなり抽象的な表現ですが,具体的にはどういったことを指すのでしょうか.神側は信仰心のある人間に多そうですが,宗派は問わないのでしょうか.

メシアは言うなれば,宗教団体の社長(銀行でいう「頭取」)みたいなイメージでしかもはやなさそうです.

宗教は直接人心に訴えるものであり,現代人に足りない何かを持っているのだと思います.

宗教側がそれを知っているなら,宗教という枠組みを越え,カウンセラーやサイコセラピーの如きサービス業にその力を注ぐ方が,無宗教な日本人としてはとっつきやすいと思います.

投稿日時 - 2008-03-03 22:16:04

あなたにオススメの質問