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解決済みの質問

(キリスト教)自由主義神学の自由度は?

(1)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E7%A5%9E%E5%AD%A6・・自由主義神学
(2)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E6%B4%BB・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 復活
(3)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%BF%E5%BE%92%E4%BF%A1%E6%9D%A1・・・・・使徒信条
(1)(2)(3)を読みました。
実情を知らない私が(1)の「自由主義神学に立つ教派」を読むと、今日の日本の教派のほとんどが「自由主義神学の特徴」を許容しているように読め、その結果、意外な印象をもちます。
下記の質問は相互に絡んでいて不可分ですが、回答は項目別でも一括しても応え易い形で結構です。

質問1
(1)の「自由主義神学の特徴」、「自由主義神学に立つ教派」の記述は事実に即していますか。率直にお訊ねします。これは科学の立場から正面きって論争を仕掛けられたときの対外的な説明に過ぎないのではないですか。教派の内部でも、これほど柔軟な考えが実際に許容されているのですか。信徒のうち何割がこうした考えでいると推定されますか。

質問2
(2)によると、自由主義神学に立つ「復活」の解釈は、
「復活は歴史的事実ではなく信者の心のなかにキリストがとどまりその印象が強化されたことを意味しており、したがって復活の記述はこの信仰の表現として創造せられたためと考える。」
だそうです。復活は「キリスト教の最も中心的な信仰内容」だそうですが、信徒が実際に「歴史的事実ではない」と公言できるのですか。

質問3
自由主義神学であっても「使徒信条」を唱えるのでしょうが、その際(2)によれば各自ばらばらの意味合いを以って言葉にしていることになりませんか。それでよいのですか。

質問4
枝葉を削りに削るとします。全てのキリスト教徒の共通項として何が残りますか。自由主義神学を認めると何も残らないのではありませんか。

よろしくお願いします。

投稿日時 - 2008-04-12 00:37:00

QNo.3941603

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

大変興味深いご質問です。と同時に、これはキリスト教に関心のある人なら誰しも聞かずにはおれない質問かもしれません。

>実情を知らない私が(1)の「自由主義神学に立つ教派」を読むと、
今日の日本の教派のほとんどが「自由主義神学の特徴」を許容している
ように読め、その結果、意外な印象を持ちます。

質問者様が挙げられたwikiのこの項目の始め「自由主義神学の特徴」では、「用語『自由主義神学』は~中略~幅広くカバーする」と書かれています。「幅広くカバーする」以上、「自由主義神学」の中には様々な立場が含まれることになり、自動的に多くの教派がそれを許容することになります。だから私は「意外な印象」は持ちませんでした。
キリスト教は歴史の長い宗教です。ということは、
時代に合わせて生き延びる術を知っているということです。
勿論、
保守的な教派は自由主義神学からの影響を最小限に食い止めようとするでしょうが、それをただ否定するばかりでは、
現代人の心に届かないでしょう。
キリスト教は死んだ宗教ではなく、生きた宗教です。
伝統を大切にする一方、常に変化し続けることで
2000年の長きを生き続け、全世界に広がることも出来た訳です。

質問1への回答
wikiの記述は事実に即していると思います。
但し、神学者の立場と牧師・神父の立場と一般の信徒の立場はそれぞれ違います。
神学者の間では「一部の急進的な派」以外の穏健な考え方は共有されているのではないかと思いますが、
信徒の中には自由主義神学に基づく聖書解釈に戸惑いを覚える人が多いのも事実です。
特に子供達に日曜学校などで教える場合、「天地創造やノアの箱舟は科学的事実に反している」などとは絶対に言いません。
しかし無理やり事実であると教え込むこともありません。
たいていは寓意的解釈で教訓を引き出して無難に済ませることが多いようです。
牧師や神父が大人の信徒に教える場合は、両者の関係にもよりますが、自由主義神学による解釈を混ぜることも多いようです。
混ぜてどんな色になるか、その濃淡は教派による違いが大きいと思われます。
完全に自由主義色に染まる場合もあれば、小さなシミくらいになる場合もあるでしょう。真っ白は難しいですが。
「信徒の何割が」という質問には答えにくいですが、直感的には1割位でしょうか。
熱心であればあるほど、様々な本を通して自由主義神学に触れる機会が多くなりますが、多くの場合、「知識として知っている」という段階に留まるのではないでしょうか。
自覚的に聖書の神話的要素を「事実ではない」と考えるには、それなりの神学教育を受ける必要があるからです。
自由主義神学を受け入れるのは、(個人的見解ですが)信仰から離れた結果でなく、聖書について考察を深めた結果なのです。

質問2への回答
wikiの(1)の記述に従って言えば、復活が歴史的事実であることを
否定するのは「一部の急進的な派」だけです。勿論、「いずれは全部
この考えに流れる」と考えれば多くの教派でこうした考えが広まって
いるかのように思えますが、それは間違いです。復活はどの教派でも
最も中心的な信仰内容です。
それをどのように捉えるかは自由ですが「歴史的事実ではない」と公言すれば、周りの信徒や牧師・神父から「困った人だ」と思われるでしょう。
幸い、私の周りではそのような人を見たことはありません。
復活を否定することはキリスト教の信仰を否定することですから、破門されたりするかも知れません。
しかし聖書を読めば分かる通り、キリスト教史の初めから、そのような考えは存在していました。
何も自由主義神学の登場を待たなくても、常に教会は復活を否定する思想と戦い続けてきたのです。

質問3への回答
おっしゃる通り、極端な考えを持った人がいる場合、各自ばらばらの
意味合いで唱えていることになります。それでよい訳がありません。
特に、牧師や神父自身が復活や三位一体を否定している場合、教会が
分裂してしまいます。確かな信仰を持った人でも揺り動かされます。

質問4への回答
うろ覚えなのですが、ある本に次のようなことが書かれていました。

「サルはラッキョウ(又はニンニク)を与えられると皮を剥き始め、
ついにそれをばらばらにしてしまう。信仰の枝葉を削ってもよいと
考える人もそれと同じで、最後には幹まで切り倒してしまうのだ。」

この譬えが正しいかどうかはともかく、自由主義神学の極端な立場を
認めてしまうと、結局何も残らなくなります。これは神学の問題では
なくて、神学の名を借りて異端の教えを吹き込もうとする悪魔の誘惑
にどのように抵抗するか、という問題なのです。断っておきますが、
私は決して自由主義神学を否定する者ではありません。進化論を否定
するために世界の歴史(すなわち神の救いの歴史)を矮小化すること
や、「聖書の言葉は一字一句誤りがない」などという誤った聖書無謬
説には断固反対します。無知蒙昧・頑迷な保守主義は、キリスト教を
信じる人にも信じない人にも有害です。
しかしそれ以上に恐ろしいのは、受け入れやすい考えのために福音が疎かにされることなのです。

投稿日時 - 2008-04-14 13:42:51

補足

補足ではなくお礼ですが少し長いそうで、こちらに記します。
読後感を率直に羅列して、お礼と致します。
序論から
0-1会派によって「自由度」に伸縮があるのでしょうから当然といえばそれまでですが、案外開明的なものだというのが率直な感想です。
0-2こういう言い方の適不適は疑問ですが、拒否的でもなく、攻撃的でもなく、はぐらかしもなく、詰まりは何かを隠したり、疑問を封じたり、話を逸らそうとしたり、そういう雰囲気が一切なく心理的に余裕のある方が誠実に応じて下さったものと読みました。
0-3こういう疑問は、中学生か高校生位の年代に解決しておくのが本当かもしれないと思います。
0-4 信徒と非信徒は所詮分かり合えないと日頃考えてきました。分かり合えるか合えないかは信徒と非信徒の関係でなく質の良し悪しによるらしいと修正します。どちらか一方の質がよくないと議論が成立しないのは宗教の問題に限りません。

質問1へのご回答から
1-1
>>神学者の間では「一部の急進的な派」以外の穏健な考え方は共有されているのではないかと思いますが
これで見ると、聖職者は自由主義神学を認めているのに
>>信徒の中には自由主義神学に基づく聖書解釈に戸惑いを覚える人が多いのも事実です。
>>「信徒の何割が」という質問には答えにくいですが、直感的には1割位でしょうか。
こういう結果なのは意外でした。

1-2
>>自由主義神学を受け入れるのは、(個人的見解ですが)信仰から離れた結果でなく、聖書について考察を深めた結果なのです。
こういう問題を解決した後に信仰が可能になるのだと思っていましたが、そうとも限らないようで意外でした。境地といいますか、それぞれのレベルに応じた葛藤が次々と生じることはあるのでしょうが。

質問2へのご回答から
>>復活を否定することはキリスト教の信仰を否定することですから、破門されたりするかも知れません。
安心しました。「キリスト教の最も中心的な信仰内容」といいつつ、一方で「歴史的事実ではなく」を認めるとは、どうにも理解できませんでした。

質問3、質問4に関して
質問2で復活の否定はあり得ないことが分かりました。自動的に各自の「使徒信条」のばらつきは、あっても微小なものでしょうし、枝葉を削ぎ落としても信徒の共通項がしっかり残ることも判ります。

今日のキリスト教界の実情の大枠が分かりました。有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。


ご回答を寄せて下さった皆様へ
私は、これにて締め切りたいです。しかし、ANo.3の「この回答への補足」の欄に記した事情によって、nacamさんのご返事を待たずには締め切れません。暫くお待ち下さいませ。

投稿日時 - 2008-04-15 22:27:05

お礼

締め切るに当たって
回答を寄せて下さった皆様へ
ポイントの20ptはANo.8が無いものと仮定した上での話です。ANo.8は-20ptですから通算だと0otです。
ANo.8には完全無欠で非の打ち所がない文言が含まれていて、劣等児の悪たれ派は、こういう「ははあっ」としか言っておくしかない文言が大の苦手なのです。
何はともあれ、皆さん、有り難うございました。

投稿日時 - 2008-04-20 16:23:26

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回答(11)

ANo.11

 No.2&5&10です。
 自由主義神学は 信仰の立ち場一般つまり広義の信仰に含まれますが 信仰そのものに対しては 自由度は ありません。持ち得ません。経験思想および経験科学ですから。
 
 経験領域にかんしては 自由度を問うまでもなく 全面的に自由です。

 きびしいかも分かりませんが このような内容を伝えようとした回答でした。

 なお 《参考意見》と自称したのは ふつうの投稿という意味を持たせようとしたのでしたが それなら そう書くべきでした。また 訳者を正確に特定しえていなかったことは 残念ながら まちがいでした。
 

投稿日時 - 2008-04-18 21:28:44

お礼

この回答によってANo.10のお礼の欄の締め切り予告が白紙に戻りました。新たな締め切り予告を記します。
20日(日)12時までに何方様からも新たな寄稿がないときは当方の都合次第で締め切ります。どなた様も原稿を無駄にされませんように。
ただし、brageloneさんからの書き込みの有無は、この締め切り日時に何ら影響を与えないものとします。

投稿日時 - 2008-04-19 06:54:24

ANo.10

 No.2&5です。ちょっと でしゃばってみました。sono-higurashiさんの探究にとって おそらく今後とも 挑戦するようなわたしからの参考意見です。信仰の基礎理論です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   §1 考えても 分かるか・分からないかが 分からないこと

世の中には およそ 二つの事柄がある。考えて分かること(Y)と考えても分からないこと(X)と。

   Y=考えれば分かること。

     (いまは分からなくとも いづれ経験合理性に基づく科学行
     為によって分かるようになると考えられること)。  

      (科学が真実と判定したあと 真実ではなかったと判明する
     場合にも その誤謬について 〔有限ながら〕合理的に説明
     しうることがら。)
 
   X=考えても分からないこと。

    (いやむしろ分かるか・分からないかが 分からないこと)。

    (人間の知性を超えていて もはや経験合理性によっては そ
    のことの有無・可否・是非などを 判定しがたいことがら)。
 
    (もしくはつまり むしろこのように想定してしまっておくこ
    とがら。 )

ひょっとすると 世の中は Yの経験領域のことがらだけであるかも知れない。Xは 経験を超えた領域のことであって それが有るとも無いとも 決められないことがらである。

経験領域(Y)を規定するならば 《経験領域(Y)でない領域》は 規定済みとなる。もはや超経験領域(X)は その定義の中に――あるいは その外に――織り込まれているとも言える。だが それとして重ねて触れたほうが 説明のしやすい場合が多い。それゆえ 用語に加えたい。つまり あらためて

   超経験の領域= X

      超自然・非経験・絶対・無限・永遠・
      〔そしてこのような意味での〕神・
      〔人によっては次のごとく言う〕無・無神・空

人間の精神は X ではない。人間じたいも 経験存在 Y であり その精神も有限であり Y に属す。《精神は 永遠なり》というのは 想定上 《 Y は X である》と言っており――冗談でない限り―― 間違いである。(→§3)

さらには 《無意識》はどうか。これも 経験領域 Y に属すのであって 非経験 X ではない。神でもなければ 絶対法則でもないだろう。

   §2 《考える》と《信じる》

考えるのは そして考えたことを表現するのは そしてまた表現をとおして意思疎通をおこなうのは さらにそして大きくこの意思疎通の歴史を記録し伝えあっていくのは 人間である。特にこの人間を 経験領域 Y の中より取り出して その位置を捉えよう。

   人間存在 = Z 

とすれば 経験領域 Y に対して人間 Z が取る態度としての関係が いまの議論では 《考える(Y-Z)》である。だとすれば 取りも直さず 非経験の領域 X に対するわれわれ Z の関係は 《考える》ではない。ありえない。考えてもよいが それが意味をなすかどうかは 分からない。

《考えても 分かるか・分からないかが 分からないもの(= X)》に対するわたし Zi の関係は 一般にも 《信じる( X-Zi )》と称される。

これは 《考える( Y-Z )ではない》という意味で 《信じない・もしくは無を信じる( nonX-Zi )》と名づけても 同じことである。そもそも X が 経験世界で言う有であるか無であるか 分からないゆえ X=nonX であり どう表現しようと 《わたし Zi 》の勝手なのである。(信教・良心の自由という公理)。

したがって わたし Zi は 信じる(つまり 信じないの場合も同じ)の対象(したがって すでに非対象)を 《空(欠如) 》 X-Za と言おうが 《阿弥陀仏(無量寿・無量光)》 X-Zb と言おうが 自由であろうし 《神》 X-Zcとも 《ヤーウェー》 X-Zd とも 《アッラー》 X-Ze 等々とも 言い得る。

逆に 気をつけるべきは 信仰において 信じる対象は わたし Zi がわたしの精神によって思考し想像して抱く神の像ではないということである。すなわち《神》といったことば・概念・想像は 《考える Y-Zi 》の問題である。人間Zが信じるのは 道徳規律でもなければ 倫理の信念でもなく 神という言葉じたいでもない。神という文字でもなければ 聖典なる書物じたいでもなく むろん k-a-m-iという発音でもない。X( X-Z )は Y( Y-Z )ではない。後者( Y-Z )には特に 精神とその産物を含むゆえ この想像物としての神( Y-Z )と 想定上の神( X-Z )とは峻別しなければならない。

  §3 超自然 X が 経験世界 Y ないし人間 Z の
   歴史( ΣY-Zn )に介在しうるか。

これに対する答えは むしろ簡単である。

絶対者 X を想定したときから すでにわたし Zi は その X による介入を受けて来ている。もしくは 介入などありえないという形(=無神論 nonXーZi )において 関係が想定されている。介入という表現が 適当でないとすれば わたしとその世界( ΣY-Zi )は 思議すべからざる絶対者 X (= non‐X )に対して 開かれている。閉じられていないということが 重要である。考えても分からないことなのだから 締めたり閉じたりするわけには行かない。

しかも ややこしいことには わたし Zi たる人それぞれによって その介入のあり方( X-Y-Zi )は 決して一様でないことである。同一人のわたしにしても その人生のなかで さまざまに変化するかも知れない.。(宗旨替えなどと言われることが起こる)。

議論を端折るかたちになるが 問題は いまの介在のあり方について その基本の形態を 一人ひとりが 明確に判断し 仮りに変化を受けたとしても 変化を経ながらも その《信仰》形態を自分のもとで つねに 確認しえていることではないだろうか。

信じる( X-Y-Zi )か 信じない( nonX-Y-Zi )か これが いま確認すべき基本の形態である。しかも この〔無信仰を含めての〕信仰の基本形態は 変更しうるけれど その時々の現在において 明確に 保持していることが 重要ではないだろうか。

いま一歩進めるならば  このおのおのの《信じる》の基本形態について 自身が最小限度 言葉で説明しうるということが 望ましい。その点を一度 明らかにしておくならば そののちの話し合いにおいて 余計な誤解や不必要な対立を 防ぐことができるからである。互いにみづから交通整理しつつ 社会におけるコミュニケーションを円滑に進めることが望ましい。

信仰の基本形態からあとさらに具体的に展開されるという歴史(人生)の過程 つまり言いかえると たとえば神 Xi が人間の歴史( ΣY-Z )に このように・かのように介入したなどという過程 この問題は そもそも話し合い(《考える》)では 埒が開かないものである。

もっとも これを逆に言えば やはりたとえば そんな介入などには 一切 目もくれないのだという意見の提示(無神論)をも含めて わたし Zi の神( X )体験ないし X 史観については 自由に話し合えばよい と言える。そして そのとき コミュニケーションが成り立つかどうかは はじめの信仰の基本形態(大前提)に合致しているかどうか によって判断されるものと思われる。

もし問題があるとすれば その大前提について あらためて 想定の仕方や規定の内容を 議論しなおせばよい。

以上の定義だけの理論は 次が その心である。

   吾人はすべからく互いの差異を 自由に批評し合い コミュニケーシ
  ョンを進めながら つねにその差異を認め合わざるべからず。 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2008-04-18 11:04:26

お礼

私は何も探求していません。車中や寝床で読んだ本から生じた疑問を質問しているだけです。
>>おそらく今後とも 挑戦するようなわたしからの参考意見
読んでいる本が代わってしまったので、もう挑戦できないかも知れません。「参考意見」と勝手に決めないで下さいませ。この場合、参考になるかならないかは私が決めてよいように思えます。

最後の2行を除いて、解読不能でした。
こういう完全無欠で非の打ち所がない文言こそ、その実、真に受ければとんでもないことになりそうです。
有り難うございました。
この回答日時から48時間以内に何方からも新たな寄稿がないときは当方の都合次第で締め切ります。何方様も原稿を無駄にされませんように。

投稿日時 - 2008-04-18 20:46:12

ANo.9

No.6です。

締め切りという意志を示しておられるので、書くことをとどめようかな って思ったのですが、理解する上での参考になればと、情報を提供します。


何を理解するか?

えっとですね。
私は4)の説明として、前回<ヨブ記>を取りあげました。

それに対して「言っていることがよくわからない」と返信されましたよね。
確かに、あれだけのことじゃ、信仰についてよくわからないと思います。

前回私が取上げたクムラン宗団は、自分達のことを<貧しい者>と言っていたんですね。

キリスト教もローマ帝国で布教しているとき、自分達を<貧しい者>と言っていた。

聖書にも書いてあります。
「貧しいものは幸いなり」と。

キリスト教よりずっと前からクムラン宗団は存在していました。
その彼らが自分達を「貧しい者」と言っていたが、どういう意味で使っていたのか?

入会するものは、その宗団の共同金庫に納められていた。
入会した地点では、まだ穢れているとされ、少なくとも2年は、その財産を宗団は使わない。
清められたと認定されたとき、そのものが納めた財産が、共同体のために使われていた。
通常2年くらいの期間を要したらしいです。

彼らは今で言うハルマゲドンを信じていた。
天使たちが最終戦争を起こし、善の天使が最終的に勝利すると信じていた。

キリスト教でも、ハルマゲドンの概念があり、サタンと神が戦って、最後に神が勝利し、天の国が到来するとうたっていますよね。

元ネタはクムラン宗団の教えだったわけです。

クムラン宗団の<貧しいもの>とは一体どういう状態か。

ヨブ記のヨブのような状態。


プラトンだったと思いますが、こう考えたんです。
「人はへの欲望は持っているが、罰せられたくないので、やらないだけ。 じゃあ 善人顔した人だって、悪への欲望を持っており、従って罪に問われない人は善人かというと、罰せられるのを畏れているだけで、悪を全くやらないからといって、善人とは限らない。」

「人の中には、良い人だと誉められるため、善をやる人もいる。 その人は善でもないが、報酬目当てに善をすれば、我々はその人が善人だったからなのか、報酬狙いで行ったのかわからない。」

「じゃあ 善人の存在はどう証明できるのか。」

「善い人だとされるものから善(名誉 地位 財産 など あらゆる善をやった報酬)を全て奪い、罪が無いのに罪人だとし、鞭打ち十字架にはりつけにして槍で刺しても、その人が善を貫いたら、その人は100%善人だったということになる」

ってプラトンは考えたわけです。
そのギリシャ哲学が、ヘブライ文化に流入。
そしてヨブ記が作られた。


ヨブは人から善人として評判で、財産もたくさんもっており、子供も何人もいて、人から信仰深いと評判で、信仰が深いために、神からそのよき信仰ゆえに、幸せな日々を送っているとされた。

ヨブは評判がいいので、人から信用され、その代償として、富んでいるのか?
ヨブはその見返りがいいことを知っているので、その見返り目的で信仰をしているのか?

じゃあ ヨブから一切の善を奪ってやって、信仰しても見返りを得られない状態にしても、ヨブは信仰を貫くだろうか?
それとも見返りを得られない状態になれば、善き人をやめるだろうか?

ヨブ記。
サタンは「ヨブは報酬目当てで善人をしているかもしれない。じゃあ 本当に善人とは言えない。 試してみないか」と神に持ちかけられ、神はサタンにヨブに災難を与える許可を出した。

子供全員が死に、家畜も死に、自らも皮膚病でのた打ち回るほど苦しみを与えられた。

妻からは「神に呪われたのだから、生きていてもしょうがないから自殺したほうがいい」と進められた。
友人からも、いろいろ言われ、悪があったから、その報いを受けたのだと言われた。

ヨブは友人に対して、「自分のどこに悪があったのか、私は馬鹿だから全くわからない。友人ならこの馬鹿な私にそのことを教えてくれ」と訴えた。

妻も友人も彼を助けることはできなかった。

ヨブはヤコブと同じように、神にケンカふっかけた。
「私はあなたに背いたことは一度もありません。なのにどうしてこんなひどい仕打ちをするのですか」


イエス物語の中のイエスも、罪が無いのにヨブと同じように罪があるとされ、拷問を受けましたよね?

イエスは苦悩したが、最後は「あなたの御心のままに」と神の行いを受け入れたと書かれていますよね?

ヨブもそう。
最後は、神の不義を受け入れた。
つまり、さんざんな目にあって、神の御前にとうとう立つことになり、神の御前にたったために、彼は神の全てを受け入れることになったわけです。
受け入れた時、もう神に抗議することはやめ黙った。

このヨブの神の御前に立つ状態が、<貧しい人>なわけです。
つまりヨブのような信仰100%の状態で、妻も友人も子供もなにもかもあらゆる善とされるものを一切取り払われ、神しかもう残っていない状態にまでなっている人が、貧しい人。
福音書によっては<心が貧しい人>と書かれています。


ヨブは神の御前にたったとき、とうとうヨブに対して応答をしたとなっています。
筆者自身が深く考え、得たことが、神が言ったこととされたと思えます。
つまりヨブの筆者は預言者みたいなものです。

ヨブに対する神の応答。
「この世を私が作ったとき、お前はどこにいた。知っているのなら言ってみろ。全てを理解しているというのなら、答えてみろ。お前は全てのことを理解しているものだと言えるのか。全てを掌握しているものだと言うのか。」

みたいな感じですね。
ほら、創世記の天地創造が説明の中に使われていますよね?


インド方面のヴェーダだったか忘れましたが、、、、、古代の宗教の教えとして、「神から幸運をもらったら、その神から不幸も受け入れるべきである」というのがあるんです。
神からもらうものは、幸いを貰うものは、不幸ももらわなければならない 片方だけしか要らないじゃ 不完全 という教えがあった。
何故なら、その人がこの世を作ったのだから、つまり究極のものから発せられるあらゆるものは、全部受け入れるべき って教え。


物理的なものじゃなく、天地創造は、思想として使われている。
表現の比喩として使われている。
神から発せられるあらゆるものを受け入れる時の思想として、天地創造が表現として使われている。

従って、信者の方に「6千年前にこの世ができたって、そんな馬鹿なことはない」と私のようなものが言ったとき、「いいえ 測定が間違えているのです」と答えてしまうのは不適切。

信仰をもって私に応えなければ、信仰心が無いという証明になってしまう。

もっと言うなら、信仰があれば、私が言ったことにたいして、沈黙をすることで信仰がある証明の一端を私に示せる。

何故なら、「聖書は史実じゃない」という私の批判は、その受ける側が悪だとか善だとかに関係なく、降り注ぐわけです。
ヨブが善人であっても、災いを受けたように、信仰心が高いものにも、私の批判は振り注ぐわけです。

それに対して、要らない、と私とケンカしてしまったら、それは神を拒絶したことと同じことになってしまう。
信仰をしていて誉められるのは受け入れるが、信仰しているからと不利益を得ることは拒絶する じゃ 得をするために、宗教を使用している偽者といわざるを得ない。

例えば、エホバの証人は、他のキリスト教団体から異端として迫害されていますよね。
迫害されるから、迫害されにくい宗派、力をもって力で他の宗派を制して物言わせない宗派に姦淫(宗派変え)をするってのは、結局、信仰心が無いのと一緒。

ヨブ作家だってイエス作家だって、迫害されても止めない理由として、神への信仰心を持ち出しましたよね?

キリスト教はユダヤ人が作ったわけですが、結局カインとアベルで、キリスト教に改宗しないと、生きず辛い社会になり、それでユダヤ教の人たちの中には、神への信仰心を捨て、現実社会で生き易いようにと、キリスト教に改宗したわけです。
で、キリスト教に改宗しないと、差別され迫害された。

ユダヤ人は職業をする自由を奪われ、金貸しの仕事などしかできなくなった。
(キリスト教徒は金貸しをしてはいけなかった)
結果、職業選択の自由を奪われたユダヤ人が、裕福になり、それに対してキリスト教徒が妬み、ホロコーストに繋がったわけです。

「ユダヤ人が神を殺した」とされました。
ユダヤ人はイエスを殺してはいない。
にもかかわらず、神殺しの汚名を何千年も着せられ続けた。

罪が無い人に罪がるとし、鞭打ち、処刑するホロコースト。
それでも信仰心を捨てなかったものが、善人だとプラトンは何千年も前に説いた。

創世記でアベルはカインに殺されましたよね。
神はアベルの捧げ物を受け入れた つまり 自分は選ばれなかったことに腹をたて、その神の選択を受け入れなかったため、アベルを殺すことになった。
神に選ばれることは喜んで受け入れるが、逆は許せない。
信仰が無いので、彼は罪を犯すことになった。

そういうことを表現しているのが、創世記なんですね。
創世記の内容は、言葉通りに捉えるんじゃなく信仰を比喩的に表現していると捉えると、哲学的だなぁ~って文学作品として高く評価できます。

投稿日時 - 2008-04-18 10:23:31

お礼

今度は分かりすぎるほど、分かった積もりです。ただし、つ、も、り。
>>確かに、あれだけのことじゃ、信仰についてよくわからないと思います。
これによって、はたと回路がつながりました(多分)。ANo.6を読み返して、質問4には共通項として
「自己満足(?)が残り、自己満足(?)の正体は信仰である。信仰の正体はヨブになることだ。」。ここまでがANo.6に於ける質問(4)に対する回答であろうと今、気づきました。

そして、ヨブになるとは
「心貧しき者になること、そのためには創世記を理解すること」、これが今回のANo.9の追加の解説と読みました。

クムラン教団、プラトン、ヨブ記、ヴェーダ、創世記等々を総動員して「貧しい人」とは何かを述べ、信仰とは何かを解説してくれたものと理解しました。

当否は分かりませんが、こんな読後感でいます。
有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

投稿日時 - 2008-04-18 20:39:20

ANo.8

No.7で回答した者です。
丁寧な感想を書いて下さりありがとうございます。
読ませて頂きましたが、気になった点を幾つか記しておきます。

>信徒と非信徒は所詮分かり合えないと日頃考えてきました。

そのお考えは確かに一理あるなあと思います。
同じ日本人でも違う言葉を話しているのではないかと感じるほど、
分かり合えないことがあります。同じ言葉でも全く反対の意味で
使っていたりします。分かり合えるかどうかを質の良し悪しとは
言いたくないですが、分かり合うための努力を重ねるかどうかに
かかっているのではないかと思います。しかし、その努力を放棄
してしまう人を責めることは出来ません。なぜなら、努力すれば
するほど、より深く傷つくことが多いからです。報われないこと
を知りつつ、それでもコミュニケーションをとろうとしている人
を、私は尊敬します。決して絶望はしません。

自由主義神学を許容する信徒は全体の1割くらいではないか、と
回答したことについて、意外な結果とおっしゃっていますが、ご
自身の想像では何割くらいでしたか?
1割という数字を高いと感じるか低いと感じるかは人それぞれだ
と思いますが、考えてみてください。日本人のクリスチャンの数
は100万人、全人口の1%にも満たないのです!100人に1人しか
いないと考えるとかなり珍しい存在ですが、日本の社会に与える
影響力は小さくない、と私は思います。その中の1割ですから、
侮れません。なにしろその人たちは、現代的な聖書解釈から目を
背けずに、問題を自覚しているのですから。

>こういう問題を解決した後に信仰が可能になるのだと思っていましたが、そうとも限らないようで意外でした。

実は私も以前はそう考えていました。
しかし、
(1)大抵の人は神学や聖書についてよく知らないままで信仰に入ります。
(新約と旧約の区別もつかない、三位一体?何のことやら。という
 感じの人でも、洗礼を受けられますよね)葛藤が生じるのはむしろ、 信仰を持ってからなのかも知れません。
(2)信じる前に自分の力で問題が解決できるなら、別に信じなくてもいい のでは?信仰が可能になるのは、問題の解決を全部ゆだねてしまって
 からだと思います。
(3)自由主義神学を受け入れるか否か、という難問でなくても、キリスト
 教や教会、聖書について疑問を持つことはありますよね。「これって
 本当?」そう思った時が、信仰の始まりです。何も信じていないなら
 牧師先生の説教も聖書の言葉もひっかからないでしょう。自分なりに
 答えを見つけて納得する人もいますが、私は違います。クリスチャン
 でいる限り、葛藤は死ぬまで続くでしょう。でもそれもこれも含めて
 主に自分を預ける選択をしたんです。決断というより降伏ですかね。

長くなりましたが、以上お返事のお礼まで。

追記 nacamさんからの返事は待たないほうがいいと思いますよ。

投稿日時 - 2008-04-17 11:28:40

お礼

1>信徒と非信徒は所詮分かり合えないと日頃考えてきました。
基本的には今も変わりません。「質の良し悪しによるらしい」は訂正します。「質の相違によるらしい」と置き換えさせて下さいませ。siyahqalamさんとなら分かり合えるかも知れません。
2 >>決して絶望はしません。
ここ以前の記述に同意、不同意がありますが、このシステムのお世話になるについては「事務的に、事務的に」と心掛けていますので、反応はしません。きちんと読んではいます。

3>>想像では何割くらいでしたか?
割合は見当が付きませんでした。私の知識は質問文の(1)が全てで、このページの印象からすると1割は意外でした。
4教会の内側に居られる方の発言、ANo.8(1)、(2)を額面通りに受け取る訳にはいきません。日々研鑽の意味で葛藤はありそうです。
5(3)は「事務的に」と心掛けている人間の口出しすることではありません。「決断というより降伏ですかね。」、お人柄の片鱗が滲み出たものでしょうか。
6最終行のご忠告は確かに拝見しました。これに影響を受けずに私の判断で処理します。

有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

投稿日時 - 2008-04-17 23:22:45

ANo.6

うーん何割が聖書を史実だと捉えているか ですか?
私はネットでですが、史実だと捉えている信者と何人も会いました。

「この世(宇宙)は6千年ほど前に神が創った。」と信じている人 何人もいました。
そのうちの一人と会話して、「日本列島から1万年以上前の人骨が出てきていますが、これはどう説明するのでしょう? 恐竜は聖書には無いようですが、神は恐竜は作らなかったってことでしょうか? だとしたら、誰がいつ恐竜を作ったのでしょう? 神も恐竜の存在を知らなかったのでしょうか?」と半分 からかって聞いたところ、「測定方法に誤りがあるんです。 1万年前という測定は誤りです。恐竜はレビアタンのことです。」と答えられました。


唖然・・・・。
少なくとも 一人は聖書が史実だと100%信じているってことですね。

さて、天地創造の元ネタ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%93%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A2%E7%A5%9E%E8%A9%B1

創世記が6千年前に神によって作られたというより、アッカド神話が存在しており、バビロニア捕囚されたとき、その神話に触れ、後に、ユダヤ教を作るとき、参考にしたってわけですね。

だから、創世記が書かれたのはバビロニア捕囚以降という説が一般的なんです。

ただし、アメリカのプロテスタント系の学校は進化論とか旧約聖書を教えていませんので、意外なことにアメリカ人は宗教の話のなかで、ジェネシス聞いても、一体それがなんのことなのか知らないって人が多い。
だって旧約聖書を知らないので、知らないものは聞かれても答えられない。

意外でしょ? 
どれくらい史実と信じているか 以前に、「それってなに? どんな内容?」 あげくに「初めて聞いた」なんです。


日本人に「ノアの洪水とかアダムとエバの話 知らないの?」って言われて、「それって聖書だったのか! でも内容よくしらない」って、、、、、 すごいでしょーー。

こういう信者にどう思うのかってアンケート取るには、聖書を読み聞かせしないとマズいけないわけです。
信者に信者ではいものが、創世記の内容を教えないとアンケート取れない。


まあ キリスト教は新約聖書を重要視していますので、その考えにいたった経緯を知る必要はなく、いわば、小説の最後だけを読んで、それでその本を熟知したってしているんです、

いわば、人生いろいろありますが、その人が最後にどう死ぬかで、その人の歩んできた人生が手に取るようにわかるって考えるのと一緒。
経過は無視。
結果だけ見て判断する。



2の復活はですねぇ・・・
もし、イエスのモデルになった人がいたとして、その人は破門されたと思えるんですね。
ナショナル・ジオグラフィックで、聖書に関する番組を見たことがあるんですが、古代 何人もの人が、復活をさせたとされていたそうなんです。
その何人もの人たちの中で、イエスだけが何故今日まで語り継がれるに至ったのか が検証されてました。

で、古代では復活とは何を意味していたのか が問題です。
破門が死、破門を解かれたら復活 として扱っていたんじゃないかと。

というのが、キリスト教のよく似た性格を持っていたクムラン宗団では、死は破門のことも意味していたから。
大きな罪を犯した信者には、死に装束を着せて、通常3日間洞窟に閉じ込めて、死者として扱ったあと、集団から追放していたそうです。

ラザロだったと思いますが、彼も大きな違犯を犯して、死に装束を着せられ穴に留め置かれていたんじゃないかと。
それをイエスが罪を解いた、彼は信者に返り咲いた と。
で、この事件があって、イエスがどの派閥に肩もつか、意志を表明したことになり、今度はイエスが捉えられ、ペトロがイエスを取るか、幹部を取るか 迫られる事態になり、イエスはペトロに朝が来るまでに、お前は私ではなく、彼らを支持することになるだろう と言い、ペトロはイエスではなく、幹部の方を支持した。
これが「イエスを知らない」と3度否定したといわれるもの。



ところが、伝承されていくうち、死んだ人が復活するという捉え方になっていったと思えるんですね。
ありえないことですが、宗教ってありえないことをありえるってできるいわばファンタジーの世界ですし、信者が多ければそれが史実って捉えるようになるんじゃないかと。

例えばネットでも、「一日30分やっただけで、毎月1千万の稼ぎがあります。 私も最初はそんなうまい話は無いと思っていましたが、やってみて それが嘘ではないことがわかりました」とか宣伝やっており「詳しい資料の請求はこちらに」って宣伝しているのありますよね?

「私からすれば、そんなうまい話を他の人にしゃべちゃうと 自分の取り分無くなるじゃないの。やり方を5万で売るって 結局 毎月1千万かせいでいる人がなんで5万で売るわけよ。儲かって笑いが止まらないとしながら、実は金に困っているじゃないのさ。クスクス」なわけです。

でも、騙される人が多いわけです。
しかも、その商法は「あなたの努力次第」といって、成功を保証していない。
キリスト教も「あなたの努力次第」といって復活を保証していない。

ビジネスですねぇ・・・・・
そんな子供騙しのうまい話に、簡単にとびつくやからがいるから、儲かるわけですよ。

3)使途信条は、入会儀式の時と礼拝の時しか唱えないんじゃないでしょうか。
唱えることは簡単ですよ。 
嘘発見器にかけてみると、実際そう思っているのかどうか、わかるんじゃないかと。
そういう計測器により入会を許可するかどうか、礼拝を許可するかどうかになったら、誰も入会も礼拝もできなくなるじゃないですか。
だから やらないだけ。

4)自己満足? 
うーん、、、思想と信仰は似ていて、たとえ創世記を史実だと認めなくても、ヨブ記を理解すればそれでいいんじゃないかと。
ヨブは、友人に「私のどこに罪があったか教えてくれ、バカな私にはわからない。友人なら私のどこに罪があったから、こんなひどい目に会わされるのか悟らせてくれ」とすがりつきましたよね?

友人はあれこれ言って因果律を説こうとするが、決定打をちっちも出せない。
友人にそれでも「お前に罪があったから なるべくしてなったんじゃ」って言われて、見放されたヨブは、とうとう貧しいものとなり、神の前に立つしかなくなったわけです。

ヤコブと同じように、神と大喧嘩した。
ヤコブは神というか神の死者と大喧嘩しましたが、ヨブもタイマン張りました。

ヨブを納得させたのは、天地創造の箇所。
ヨブ記がわかれば、天地創造の箇所も理解できるってわけです。
彼の信仰がヨブ自身を救った って内容。

作家 見事だ。

投稿日時 - 2008-04-13 15:27:23

お礼

・聖書が100%真実だと考えている人間は確実なところで1人。ということは圧倒的多数が自由主義神学らしいのですね。もっとも自由度の幅こそが重要な訳でしょうが。

・天地創造や洪水伝説の元ネタはシュメールからユーフラテスに沿って上流に至り、ウガリット経由でカナンに到着したのだと思っていました。ご回答からするとバビロニアからの捕囚による直輸入なのかと思い直しました。

・「復活」にも、そういう概念を生みやすい元ネタ様の慣習があったらしいのですね。クムラン宗団などの知識の下地がないもので分かったとは申せません。

・使途信条をどういう認識で唱えているか、嘘発見器にかけないのは「誰も入会も礼拝もできなくなるから」かも知れないし「発見器が誰にも反応しないから」かも知れません。

・4)に関する記述は、難しかったです。読後感が結びにくいです。

有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

投稿日時 - 2008-04-14 23:36:21

ANo.5

 No.2です。お応えを受けて 最小限必要だと思うことをつづります。
★ ・・・星の数を数えたという共通項は存在するのに・・・
☆ 《共通項》は そうではなく 星や天体や宇宙を超えたところの問題です。何もないのに 虚構を添えたというところです。
★ 復活のイメージが、ばらついている事を許すのか許さないのかということです。
☆ 虚構は 表象しえないもの・つまり 非対象です。ですが もしそれでも ことばを用いて 代理して表現することはあるわけですから 《イメージ》を持つことがあるとしますと そのときには 《ばらついていても かまいません》。おのおの主観真実の問題です。

 信仰ですから おしえを信じるのではないわけです。教理や理念は 思考の対象であって 信じるものではないはづです。教義を第一に掲げるのなら それは この世の道徳・倫理の問題におさまります。そして この経験現実の世界を対象にするのなら 神学と言おうと もともと 《理性による思考 つまりは 自由主義》の範囲におさまる営為です。

 お応えは 無理なさらないようにとお願い申し上げておきたいと存じます。

投稿日時 - 2008-04-13 09:00:41

お礼

やや、これはまた大胆不敵な方が現れたものです。
>>何もないのに 虚構を添えたというところです。
>>《ばらついていても かまいません》。おのおの主観真実の問題です。
>>信仰ですから おしえを信じるのではないわけです。教理や理念は 思考の対象であって 信じるものではないはづです。
こんなことを放言してしまってよいのですか。他人事ながら心配です。質問1から質問4まで訊ねただけでも「神学論争をやめよ」といって、噛み付かれるご時世ですぞ。袋叩きに遇っても私は知りません。
もっとも、私が読めるのは「日本語」だけで、brageloneさんの用いる「brageloneさん語」はよく理解できませんから、この短い誤解のしようがない「brageloneさん語」の翻訳ですら誤っていて、袋叩きに遭うのは私の方かも知れません。
有り難うございました。

投稿日時 - 2008-04-14 23:33:53

ANo.4

キリスト教徒ではないので、ご期待にそえるような回答が出来るか自信はありません。しかし、非常に知的好奇心を刺激される質問であること、西欧哲学史(特に弁証法と自然法)を学んだ人間として何らかの糸口程度は持っていること、および、トルコやバルカンやコーカサスへの旅行を通じて、東方正教会の教会ばかりではなく、単性論の立場をとるアルメニア教会の総本山であるエチミアジンの教会にも行ったことがあることなどの背景を生かし、何がしかの返答を試みて見たいと思います。ちなみに、アルメニアは世界で最初にキリスト教を国教とした国です。

質問1:

ご存知かもしれませんが、Wikipediaの仕組み上、ノートのタブをクリックすると、本文の内容が中立的なものであるといえるか、議論が行われているケースがあります。この項目のノートを開くと、本文中にある「自由主義神学への批判的見解」の項目が、権威のある学者からの引用を用いたほうが良いだろうという議論の結果として、書き込まれたものであることが分かります。よって、この項目については、信頼性が高いと思います。

また、自由主義神学の立場をとる人物として、シュライエルマッハーが真っ先に挙げられています。これはノートの冒頭にもあるように、この人を語らずして自由主義神学を語っても良いのか、という問いに対しては、やはりシュライエルマッハーへの言及が何らかの形であったほうが望ましいと私も同意するところです。彼は自由主義神学とはいっても、ドイツ観念論の系譜に入る哲学者であり、その主張はヘーゲルよりもシェリングに近いといえます。当時の社会状況から、自由主義と言ってもどこまでの発言なら許されるのか、ということを考察すると、少なくとも彼の世代においては次のようにいえます。

* もともと中世では神学と哲学は同じものであった。少し前の世代のカントの場合、独身を貫き、ラテン語で論文を書いた
* シュライエルマッハーの世代においては、哲学者が結婚することも普通となりつつあり、論文もドイツ語で書かれるようになった。フィヒテの妻は、フィヒテ以上に活動的な自由主義運動家として知られていた。また、ヘーゲルは庶民の身でありながら貴族の娘と結婚するにあたり、相手の父親が渋った
* 当時はまだ、無神論者、汎神論者と見なされることは、非常に危険で、大学の職から追放される可能性があった
* ヘーゲルは、本音では神の存在など信じていなかった可能性が高いと思われる。彼は「哲学とキリスト教は、内容的には同じもので、本質的に人間の自由に立脚するものであるが、表現の形式では概念を用いる哲学のほうが、より学問的ですぐれている」という態度をとる
* ヘーゲルはカトリックとプロテスタントでは、プロテスタントのほうが優れているという立場をとる。プロテスタントの国においては、プロテスタントの自由性によって、すでに実質的な革命は達成ずみであり、暴力革命は不要と主張している。しかし、晩年期のイギリス選挙法改革に関する論文の中では、プロテスタントの国である英国に暴力革命の危険性が迫りつつあると警告しており、議論に矛盾がある。さらに、英国の国教会をドイツのプロテスタントと同じレベルの思想的革命性を持ったものであるとする議論に、そもそも無理がある(イギリスの宗教革命は、単に王が離婚したいという理由で、口うるさいローマの影響力を排除するために国王主導で行ったもの。ルターやカルヴァンのような本格的な思想改革ではない)

要は、神の存在やマリアの処女懐胎など信じていないにもかかわらず、それを口にだすことは危険で避けていた人物が多かったようです。ただし、プロテスタントの本質が自由にあるとし、哲学のほうがプロテスタントより優れているとするヘーゲルのような人物もいれば、シュライエルマッハーのように宗教的直観のほうが水準が高いとする人物もいたわけです。これが、だいたい200年前のドイツの状況です。

> 「自由主義神学の特徴」、「自由主義神学に立つ教派」の記述は事実に即していますか。

「自由主義神学の特徴」は正しいと思います。「自由主義神学に立つ教派」については、分かりません。

> これは科学の立場から正面きって論争を仕掛けられたときの対外的な説明に過ぎないのではないですか

どの時代にも、科学的事実を認めない人はいます。アメリカでは今でも、学校で進化論を教えるべきではないとしている、創造説の支持者が多数います。他方、200年前のドイツのように、科学は科学として認め、当時の時代的制約を受けつつも、自由主義神学に近い立場の教養人たちもいたわけです。つまり、科学への反論として自然主義神学を語る人もいるし、自分自身で確信をもって自然主義神学を語る人もいると言えるでしょう。

> 教派の内部でも、これほど柔軟な考えが実際に許容されているのですか。信徒のうち何割がこうした考えでいると推定されますか。

一般的には、アルメニアのように単性論の教義を持ち異端とされている教会でも、三位一体は否定していません。過去に既に消滅してしまったものを除くと、三位一体を否定する流派となると、新興宗教系しかありません。三位一体を否定している流派で、著名なものとなると、モルモン教(公称1300万人近く)、統一教会(2万人前後?)、摂理(まだ活動しているのだろうか・・・)、エホバの証人(伝道者だけで700万。子供をあわせ家族ぐるみで入会するという特性を考慮に入れ、1夫婦につき1.5人の子供と換算すると、1000万人程度か)、クリスチャン・サイエンス(10万から40万)、生長の家(公称1810242人)などが有名です。生長の家の180万人というのは、知名度の低い団体としては大きすぎ、到底信頼できない数字なので無視すると、世界中にはおよそ、2000万から3000万の、キリスト教系新興宗教にして、三位一体説を支持しない人たちがいるということになります。この数字は、世界中のキリスト教人口から考えると、あまり多い部類とは言えないことになります。

なお、本項目のWikipediaの下のほうに、自由主義神学への反論としてキリスト教原理主義が生まれたと記載されていますが、これは信者数が1000万とも2000万とも言われています。ハル・リンゼイという人物が、この運動の筆頭です。彼は本来のキリスト教にはない空中携挙(rapture)という概念を導入し、終末の日には敬虔なキリスト教徒だけが神によって天に召し上げられ、異教徒たちが滅亡するのを眺めることになるという、極めて身勝手な思想を持っています。この項目が正しい指摘である以上、Wikipedia記事の信頼性も高いように見えます。

質問2

純粋に事実だけを申し上げますと、キリスト時代の処刑方法は、十字架にかけて手足にくいを打ち込み、失血死を待つというスタイルです。ヤリで突くのは処刑ではなく、死亡確認が目的です。多くのキリスト教徒は、この事情を誤解しており、復活したキリストが傷口を弟子に示しているシーンを描いた絵画を見て、傷口があることと復活したことに関連性があるかのように考えているのでしょう。復活はキリスト教のなかでも重要な概念であることは間違いありませんが、実際にそれを公然と口に出す人は多くはないでしょう。しかも、口に出す人も出さない人も、事実関係を誤解していると思います。

ちなみにこの誤解が生み出した不思議な現象として、「キリストを突いたヤリ」という怪しげなアイテムが世界には存在するのです。著名なのは2つあります。1つめはアルメニア教会総本部エチミアジン教会の宝物倉にあるものです。見てきましたが、あまりヤリらしく見えませんでした。専門家によると、確かに当時のローマの様式ではあるが、ヤリではなく、軍旗のポールなのだそうです。もうひとつはウィーンにあるもので、美術様式上、1200年ごろの作品と推定されているという愉快な代物です。ただし、機械を使って内部をスキャンしたところ、意外と複雑な構造をしており、一部だけでも中にキリストを突いたヤリの破片などを詰め込むというデザインではないのかという、考えすぎの傾向のある学者もいます。また、ヒトラーは、このヤリを手にしたものが世界を支配するというオカルトにはまり、ウィーンからドイツにこれを奪い去ってしまうのですが、これは米軍が発見し、オーストリアに返還されています。

また、このヤリは、ロンギニスのやりとも呼ばれ、新世紀エヴァンゲリオンにも出てくる、怪しさ200%のものです。

質問3

使途信条は、該当URLではカトリック・プロテスタントで主に採用されていると書いてありますが、実際には東方正教会でも採用されていますので、Wikipediaの記事自体が誤解を招きかねず、すきをつかれそうな文章です。キリスト教徒が祈りをささげる時の信仰告白であるCredoには複数のバージョンがあり、教会によっては祈りのセリフに違いがあることもあります。アルメニアの場合は、ニカイア・コンスタンティノポリス信条と呼ばれるタイプの信仰告白を用います。シリア正教会、エチオピア正教会、レバノンのマロン派など、全部調べようとするときりがありません。

自由主義神学については、私は特に詳しいわけではありませんが、どのようなバージョンの信仰告白を使うか、バラバラになっている可能性があると思います。ひょっとしたら、過去に消滅したはずの流派のものを使っていたり、自分自身のオリジナルを作っている人たちもいるでしょう。誰がどのような信仰告白のスタイルをとろうが、それはそれなりに、その地域の特性というものから出てきたとしても変ではありません。ただし、自由主義神学が200年前のドイツから始まったという文脈を考えると、古典的なタイプの自由主義神学は、そのまま使徒信条を使うと思います。

キリスト教地域を取り巻く政治状況が、長い歴史の中では戦争や領土の取り合いなどを繰り返し、場合によっては他宗教からの影響を受けている以上、信仰告白のバージョンが多数存在するのは不自然なことではありません。そして、当然、古典的なタイプを除いては、自然主義神学の信仰告白のセリフは、教会ごとによって独自性の高いものになっていても変ではありません。

それでいいのかと言われれば、ほとんどのケースは、それで良いと思います。信仰告白自体は、ほとんどのケースでは信者の敬虔さを示しているだけの、直接の危険性はないものですから。ただし、新興宗教系には新約聖書よりもえらいという自分たち自身の本を作ってしまった例もあるため、そのような団体が独自の信仰告白を持っているとしたら、社会的にも危険であるケースも想定しなくてはならず、公安の仕事が増えることでしょう。また、そもそも信仰告白を行わないとなってくると、これは完全にキリスト教の中でも異端性の強いものといえます。キリスト教系の新興宗教には、マルチ商法とほとんど同じのりの洗脳セミナーと人生の世俗的成功ばかりを追い求めるものや、ハルマゲドン(神と悪魔の最終戦争)を強調して信者の危機意識をあおるものや、子供も含めて家族単位で入会するため物事の判断のできない子供に悪い影響を与えるものがあります。当然、このようなケースでは、その団体がどんな信仰告白を行っているかにかかわらず、団体の存在そのものが危険であるということになります。

質問4

ユダヤ教から派生した宗教であり、ユダヤ教の持っていた食のタブーや割礼の習慣を早い段階で廃止。ユダヤ教的な「神は複数いて、それぞれの民族にそれぞれの神がついているが、ユダヤ人についているヤーヴェこそが最強の神だ」という理論から完全に逸脱していることがキリスト教の中枢部分だと思います。

ユダヤ教の不完全な一神教からの逸脱という点では、神の存在を明確に否定する極度の自然主義神学にしても、ユダヤ教より純粋性の高い一神教になった正統派キリスト教にしても共通項目と言えるかと思います。

投稿日時 - 2008-04-12 23:03:08

お礼

1 質問文を忠実に追って頂いて恐縮しています。書きっ放し、読みっ放し、問い合わせには頬被り、返事がなければ無い事から何かを感じ取る。これらに馴れ過ぎていました。久し振りに言葉の何たるかを思い出させられました。
2 Wikipediaの機能の豊富さに気付きました。今まで、活用の仕方が不十分でした。
3 直接のご回答に入る前の200年前のドイツの哲学界の状況が、とても参考になりました。どうやら自由主義神学はドイツで芽生えたようで(毎度お馴染みの直感でいうのですが)然も有りなんと納得しています。

4
>>要は、神の存在やマリアの処女懐胎など信じていないにもかかわらず、それを口にだすことは危険で避けていた人物が多かったようです。
これから、はたと気が付いたことがあります。200年前のドイツにばかりではなく、この種の人は今日にも依然として存在しているかも知れないことを。信徒であろうとなかろうと、それを口に出せば喧嘩を売られる程度のことはあるのかもしれないことを。質問文を作る時点では、またこのご回答を読む直前までは聊かも私の念頭にない事でした。科学の子には気が付かないことなのか、知恵が遅れていて気が付かないだけなのか、発見といってよいほどの気付き方です。

5
>>三位一体を否定する流派となると、新興宗教系しかありません。
輪郭がとても、くっきりしました。
6質問2への
>>復活はキリスト教のなかでも重要な概念であることは間違いありませんが、実際にそれを公然と口に出す人は多くはないでしょう。しかも、口に出す人も出さない人も、事実関係を誤解していると思います。<<
これも輪郭が、くっきりしました。

7質問3に関して
>>信仰告白自体は、ほとんどのケースでは信者の敬虔さを示している
分かりました。
8質問4は、表の形に表れている共通項を知りたいところですが、これには飛び切り、理と知に優った信徒の、多分模範的ではない信徒の内側からのレポートがありや無しやに係わる気がします。

毎度、丁寧で長大なご回答を頂き恐縮しています。有り難うございました。またの機会にもよろしくお願いします。

投稿日時 - 2008-04-13 16:09:59

ANo.3

1番です。

質問者の方は、完全に勘違いしています。
>言外に研究者を愚弄する気持ちがありませんか。

愚弄するつもりは全くありません。
宗教を研究する者が、神学の領域に踏み込む事は、逆の意味で信者を愚弄する事になります。
質問者の方は、宗教学と神学の違いを理解しておられないのだと思います。
神学は、経典をどのように解釈すべきかの学問であり、宗教学は、その宗教がどのような宗教なのかを学ぶ学問です。
神学において信徒以外が、その経典の解釈を巡って論争しましても、何も結論が出ず、かえって対立を深めるだけであるため、神学論争は、特定の意図を持った人意外行わないのが常識です。
逆にいいますと、信徒以外の人が神学論争を行おうとするのは、相手の宗教に対して偏見を持っている、愚弄している人に限られます。

>質問してはいけないというのですか。これは大きくは言論封殺で、小さくはOshieteへの営業妨害になりませんか。

質問者の方が、この質問をしたのは、何らかの意図があったものと推測されます。
捕捉のような反論が出て、言論封殺だと騒ぎ立てる事がその証拠です。
特定の意図を持って、質問という名を借りての自己主張にしかみえず、それを指摘されたために反論しているのでしょう。
単なる質問であれば、
>これほど柔軟な考えが実際に許容されているのですか。
>何割がこうした考えでいると推定されますか。
>「歴史的事実ではない」と公言できるのですか。
>それでよいのですか。
>自由主義神学を認めると何も残らないのではありませんか。

といった言葉遣いはしないはずです。
これは、質問という名を借りた自己主張としかみえません。

>この考えは信徒への、とてつもない偏見に満ちていませんか。

現在の宗教界において、一部の原理主義者以外が神学論争を挑む事はありえません。
神学論争が、ただ対立を煽るだけにすぎないからです。
各宗教間での問題を起こさないために、他教派・他宗派の教義には、口を出さないのが常識となっています。
ローマ教皇が、イスラムのコーランの記載に関して神学論争を挑んでも、反発を煽るだけにしかすぎない事を教皇庁は理解していますから、進学論争を挑むことはありえないのです。

>現に少しずつ教理を修正して時代に対応しようとしているのではないですか。

イスラム教原理主義、キリスト教原理主義は、ごく最近生まれてきたものです。
特にイスラム原理主義は、キリスト教原理主義によって生まれてきたと言っても過言ではありません。
それは、キリスト教原理主義者が、必要以上に教義を振りかざした結果なのです。
ブッシュ大統領が、イラク攻撃に対して「十字軍」の名を使ってかえってイスラム世界の反発を招いたように。
このように、神学論争からは、対立以外生まれてこないのです。
神学論争は、結果的に悪い方向、本来の宗教が目指す方向とは逆の方向への対応しかしないのです。

>学問の与り知らない事です。

学問とは関係ありませんが、実生活には重要な事です。

>日本人は全て嘘つきだとおっしゃるのですか。

ここに質問者の方の本音が出ています。
質問者の方は、わざと相手が不快になる事を主張しているために、同様の質問(主張)をされた場合に不快になるのです。

投稿日時 - 2008-04-12 14:57:39

補足

何だか分かりませんが大抵のことには譲歩できます。
「神学論争」を止めよ、という言い分ですね。簡単です。ご回答が読み取れず、お礼の書きようがなくて困っている人間に論争はしたくても、できません。
双方の議論が噛み合わなくなったときの最善の方法は、双方が合意できるところまで戻る事です。戻りましょう。

nacamさんの最初のご不満は早々登場し、ANo.1の3行目の
>>別の宗教、別の教派の人どうしの神学論争は、ただ対立を煽るだけにすぎません。
ここですね。よろしいですか。しっかり確認を、お願いします。
ということは、ここ以前に「神学論争」があると述べていることに他なりません。ここまで、よろしいですか。しっかり確認を、お願いします。
ということは、質問文の中に「神学論争」があると述べていることに他なりません。ここまで、よろしいですか。しっかり確認を、お願いします。

さて、質問文の何処に「神学論争」があると、おっしゃるのですか。どうぞ、指摘して下さい。私の見るところ疑問文しか並んでいません。「神学論争」を挑んでいる部分があれば削除します。
私はnacamさんの言い分を100%飲んでいます。
ご指摘を、お待ちしています。

投稿日時 - 2008-04-13 16:01:44

ANo.2

★ 質問4:枝葉を削りに削るとします。全てのキリスト教徒の共通項として何が残りますか。自由主義神学を認めると何も残らないのではありませんか。
☆ への答えを中心として述べます。

  律法はモーセによって与えられ、恵みと真理はイエス・キリストによっ
 て実現した。 (ヨハネ福音1:16-17)

 《律法》つまり倫理規範は それを実行することの出来る人間はおらず この世を超えていますが 《むさぼるなかれ》というように 人間のことばで書かれています。《殺すなかれ / 盗むなかれ》というように この世の人間の経験現実を扱おうとしています。
 《恵みと真理》は この世を超えた問題です。 そして それは お尋ねのように 《復活》に焦点があたります。パウロが言うには

  ・・・死者はどんなふうに復活するのか・・・。・・・
  あなたが蒔く種は 死ななければ生きたものにならないではありません
 か。(* 地中に蒔かれたあと その種は かたちを変えるということのよ
 うです)。・・・
  最初に・・・自然の身体があり 次いで霊の身体があるのです。
  (コリント前書15:35-47)

とのことですが とうぜん 《理性主義》に立てば おとぎ話です。というよりも 神を想定すること自体が もともと 経験存在としての人間にとって 虚構です。
 そして おそらく――結論としてですが―― 虚構であることが 人間の一人ひとり主観における真実を表わすということ その全体が いまここに生きている経験現実だと言おうとしています。
 この現在が――つまりは 非在なものの現在が―― 《復活》の過程だというわけです。これが 大きく心を開いたかっこうで 《理性的にして 歴史的な事態》だということ そのことが 共通項として残ります。
 ですから 《自由主義神学》が 《うそ》の部分を認めないというのであれば それは 信じる必要はないということであり 従って信仰ではないと認識されます。また キリスト・イエスの《恵み》にあずかるつもりはないということでしょうから キリスト者ではないと考えられます。《真理》がどちらにあるかは われわれ人間には 分かりません。

 こまかいところとしては
★ 「復活は歴史的事実ではなく信者の心のなかにキリストがとどまりその印象が強化されたことを意味しており・・・
☆ 《復活は歴史的事実ではなく》は そのとおりです。虚構ですから。そのあとの《信者の心のなかにキリストがとどまり》という表現は 微妙にちがうと言うべきだと思います。
 虚構としてその真実として《とどまる》と言えばいいのですが あたかも精神としてその観念としてキリストがわたしたちの頭や心にとどまるというのでしたら まちがいです。
 この世を超えた問題だと言っているのですから そして精神はこの世の経験現実なので この信仰は 精神論ではありませんし ましてや 観念論ではありえません。(精神は 神ではありません)。
 強いて 経験現実に即して言うとすれば 復活は 将来すべきこととして臨むのが正しいと言われます。(突然変異がないとは限りません)。
 とにもかくにも 信仰は 非対象にして非思考のしかも現実の体験とその過程です。ただし 教理などなく 集団としての宗教でもなく そうではなく 個人個人の主観真実におさまるものです。
 教理や宗教にかんする社会学的な見識を述べよということでしたら わたしは その任ではありません。長々と述べましたが あしからずご海容ください。

投稿日時 - 2008-04-12 11:40:26

お礼

折角ご回答を下さったのですから分かるところ、分からないところを仕分けして問い合わせるべきは問い合わせるのが礼儀です。とはいえ質問文にある3つのページを読んだだけの人間に理解させるのは不可能ということはあるでしょう。よってご返事を求める意味で記すのではありません。ない読解力を総動員して分かろうとしたという事実を、信憑性を添えてお伝えする意味で記すだけです。返事を求めたのでは気の毒でなりません。

読後感をいえば分かりませんでした。しかし、分かりましたというお礼よりは余程よいでしょう。どう書こうと分かっていないことは誰にも判ることです。
>>《理性主義》に立てば おとぎ話です。というよりも 神を想定すること自体が もともと 経験存在としての人間にとって 虚構です。・・・・共通項として残ります。<<
百人が夜空を見上げて星の数をノートに書きます。この時、星の数を数えたという共通項は存在するのに、さてノートに書かれた星の数は百通りあって共通項の中身は空(からっぽ)ということがあってよいのか、誰のノートにも同じ星の数が書き込まれていなければいけないのではないか、つまりはこういうことです。
復活のイメージが、ばらついている事を許すのか許さないのかということです。多分、正にそのことを記したではないか、ということだと察しますが頼りない事で済みません。

この調子で随所に分からないことが有ります。代表例としてエッセンスらしき箇所を取り上げました。
有り難うございました。

投稿日時 - 2008-04-13 00:10:45

ANo.1

質問内容は、神学の問題であり、その教派に属する信徒以外には、全く無益なものでしかありません。
神学は、個人個人が解釈すべきものであり、他人が、それも異教徒がとうのこうの言うべきものではありません。
別の宗教、別の教派の人どうしの神学論争は、ただ対立を煽るだけにすぎません。

特にこの問題は、アメリカにおいては微妙な問題をふくんでおり、それが大統領選にまで影響しています。
自由主義神学に基づく考え方が強いのは、ヨーロッパ系のキリスト教で、特にルーテル派、長老派系に属する教派となります。
それに対立する考え方をするのは、アメリカ系のキリスト教が多くなります。
特にメソジスト系、バプテスト系がおおくなり、彼らは自称「福音派」と称しています。
ブッシュ大統領もこの福音派に属する教派の信者である事からも、アメリカにおいての福音派の力の大きさを知る事ができます。

質問内容の事は、同じような事を自分達に当てはめてみてください。
日本人は、古事記や日本書紀の内容を「歴史的事実ではない」と公言できるのですか。またお経を読んだり唱えただけで本当に極楽が有りそこに行けると信じているのですか。
といったような事を、聞かれた場合と全く同じ事です。
「神や仏を信じないならば、なぜ神社やお寺にお参りするのか?」といった質問が次に続きます。

これら神学は、宗教や教派が違うと、全く理解できなくなるものであるため、別の宗教、教派での神学論争は、全くかみあわず無益ですから、神学に類する事について、一定以上の責任者は発言を避けます。

投稿日時 - 2008-04-12 05:49:26

補足

ご回答、有り難うございました。
お礼は以上で完了です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下はお礼ではありません。とても大事なことですから、不肖私奴の親切心で記します。私に些かの親切心も期待しない場合は読まないで下さいませ。何がしかの親切心を望む場合だけご覧下さいませ。

1>>その教派に属する信徒以外には、全く無益なもの
匿名をよいことに、こんなことを言ってしまってよいのですか。言外に研究者を愚弄する気持ちがありませんか。
ここは哲学カテです。哲学は丸ごと信じることではありません。私を初め、哲学と称して哲学ゴッコの質疑も多いようですが、だからといってOshieteのスタッフがゴッコのために設けたカテゴリーでもなさそうです。何かしらの信徒以外は思想史などを、詰まりは人間とは何かを考えてはいけないのですか。

2 私はお訊ねしているだけで何も主張していません。質問してはいけないというのですか。これは大きくは言論封殺で、小さくはOshieteへの営業妨害になりませんか。
>>別の宗教、別の教派の人どうしの神学論争は、ただ対立を煽るだけにすぎません。
この考えは信徒への、とてつもない偏見に満ちていませんか。現に少しずつ教理を修正して時代に対応しようとしているのではないですか。それとも哲学は臭いものに蓋をするべく世間知を学ぶものであって、学問とは最も遠い存在だというのですか。

3 哲学カテに集う者は何故アメリカの顔色を伺う必要があるのですか。アメリカの大統領選へ配慮しないといけないのですか。
>>この問題は、アメリカにおいては微妙な問題をふくんでおり、それが大統領選にまで影響しています。
そんなことは学問の与り知らない事です。似非学徒は配慮するのかもしれませんが、私には判りません。

4 >>日本人は、古事記や日本書紀の内容を「歴史的事実ではない」と公言できるのですか。
「歴史的事実ではない」との結論をもっている者は公言するでしょう。しないのですか。日本人は全て嘘つきだとおっしゃるのですか。
「お経を読んだり唱えただけで極楽へ行けるか否か」への答を日本人は拒否しますか。そんなことはないでしょう。僧侶や信心に篤い方なら誰でも待ってましたとばかりに、説教して下さるのではないですか。

5 >>一定以上の責任者は発言を避けます。
これだけには、「そうですか」と頷けます。個人の裁量圏のことに口は出せません。

このご回答は総じて不可解なことばかりです。

投稿日時 - 2008-04-12 12:03:33

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