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解決済みの質問

輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか

 輪廻とは 輪廻転生として 生まれ変わることであり 業とは 因果応報であり これら両者を合わせて 人生を捉えるとするならば そのときには 次のような疑問は起きないのでしょうか。
 いまこの世において もしわたしが 悪なる被害を受けたとするとき そのことも その結果としての被害内容に対応した原因があったということでしょうか。すなわち わたしが いづれかの過去において 悪なる行為をおこなったその報いであるという解釈になるのでしょうか。
 つまり 疑問は こうです。いま取り上げている応報(被害)というのは 現世に生まれてから 加害者と何の関係もなかったという場合であり その場合にも わたしの過去のおこないが悪かったから その縁起によるということですか という問いです。

《輪廻》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
《業》:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%AD

 なお 解脱によって 輪廻の種子を断つことが出来た場合には もう人間などとして生まれ変わるということはないということでしょうか。つまり 言いかえると いま生まれて来ている人は みな 過去において解脱を実現しえなかった者ということなのでしょうか。

 単純な疑問が浮かびました。よろしくどうぞ おしえてください。

投稿日時 - 2008-04-21 21:15:20

QNo.3965802

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

そのような考え方は一部の宗教指導者にはとても都合が良く誰にも証明できない事をまるで衆知の事実のように言えば相手は簡単にへこみます。
今の不遇は前世行いが悪かったからだと納得してしまいますね。
これはインドのバラモン教の考えなのでしょうが大衆を骨抜きにして自らの地位を不動のものにするのにとても便利でしたね。

でもこのような思想がまかり通るなら場合によってはこの世は闇ですよ。全く身に覚えの無い前世の犯罪とやらを現世で責任を取らされる、これがどんなに理不尽な事かちょっと考えれば分かります。文明が3000年も後退してしまいます。

仮にbrageloneさんが「貴方は前世で人殺しをしたので現世では懲役二十年に処す」これが輪廻の法則だと言われたら納得できますか?
甘んじてその判決を受けますか。
冗談じゃあないですよね。
近代国家は殺人犯に対しても心神耗弱状態云々で罪に問えない場合が有ります。人殺しをした事が誰疑う事無く証明出来てもです。

なのに前世での犯罪で裁かれるなんて納得出来るはず無いでしょう。私はそのような理由もあって貴方の前世は・・・などと言う馬鹿げた話は大嫌いです。あまりにも卑怯だと思うからなのですよ。

>いま取り上げている応報(被害)というのは 現世に生まれてから 加害者と何の関係もなかったという場合であり その場合にも わたしの過去のおこないが悪かったから その縁起によるということですか という問いです。

冗談じゃあないです、そんな理不尽なこと絶対に認められません!!!

投稿日時 - 2008-04-22 00:02:50

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですよね。いままで こんな単純なことが 疑問に浮かばなかったんですけれど どうなっているのでしょう。たぶん 日本では一般に この因果応報説は 仏教のおしえだと思って 受け容れられているように思えるのですが これで いいのでしょうか。

 善因善果(または 楽果)そして 悪事を犯したことを因として悪い性質を帯びて生まれてくるというような悪因悪果(苦果)なら それでよいというように わたしたちは わかったようになっていたと思うのですが 悪人の行為の被害者になるという悪果は どんな場合でも その被害者じしんの過去の悪因によるということであれば 問題であるはづですよね。
★ 文明が3000年も後退してしまいます。

☆ この哲学カテゴリだけででも はっきりさせたいと思うのですが。
 さらにこの問いの行方を見守ります。

投稿日時 - 2008-04-22 00:19:46

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回答(82)

ANo.82

こんにちは、brageloneさん。

●いじわるばあさんの親戚より。< いじわるばあさんの親戚って…(-_-)zzz…

ある意味 …それって… オニ? < おぉぉ))))) こわ |(><)|

第三幕もオニつながりの地獄めぐりへご招待~♪

おいらのあそびばだよ(*^^*)>゛゛゛あそびましょう~♪

【国営昭和記念公園】
http://www.showakinenpark.go.jp/child/index.htm
【有馬富士公園&人と自然の博物館】
http://www.ryuusenkaku.jp/navi/200707.html
http://hitohaku.jp/top/kaseki_news.html
http://www.hyogo-park.or.jp/arimafuji/
『ありまふじとカミナリの子』
http://www.aidy.jp/aidynews/13.arimafuji%20park/index.htm

【おまけ】
http://www.kcc.zaq.ne.jp/dfcln804/newpage73.htm


むむ、どこぞから 

      “おめってー のには 分別て もんは ねーのか?!”

                            声が…

ありますよ、もちあわせてはおります。

【分別】
もろもろの事理を思量し、識別する心の働き
discretion,prudence

いまの関心ごとといえば…
中高一環教育の方向へ向かう波にいささかの憂いをおぼえます。
それはなぜか?
ええ、入学,卒業といえばひとつの節目。子どもの成長段階にしたがって人と人が出会いと別れを体験する場。セレモニー。見知った集団の中から一歩出て、また一歩とその歩みを進め独り立ちの訓練を学ぶ場。中高一環、なにやら受験も無く同一の環境が用意される。ともすれば、そこで築かれた常識がすべてと思いかねない共同幻想が生まれる。人は死なないと。いっておこう、人は生まれてきたならば必ず死ぬ。誰の元にも等しく死は訪れる。死なない人はいない。人の死に直面したとき、もって行き場の無い悲しみに暮れることの無いように。我ひとりになったとき、ひとりでその歩みすすめられるように。入学,卒業のセレモニーによって歓びと悲しみを疑似体験をする。中高一環、いいこともまたあろうが、いつもどこでもその環境が用意されているわけではない。そこから一歩足を踏み出れば、未知の世界が無数に存在する。

投稿日時 - 2008-05-14 17:15:07

お礼

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうですね。
 【QNo.78352 肯定(皇帝?)の国 】に 【矢井田 瞳 /My Sweet Darlin' 】をうたう乙女たちは――そこに わが国のブッディストたちも入るのかな=その理論は 歌詞と同じようですからね―― もってこいのようですね。
 
 ★ まだ死んだわけじゃーねーぜ。
 ☆ コグンフントウですね。とうとう 卑弥呼になるのかな。最後は ウーマン・パワーなんですね 《皇帝の国》は。
 わたしは 北の森の泉に憩っていますが。
 もう役者は みな引きあげてしまったようだけれど まだまだ 地獄の第三幕は つづくのですね。
 《不思議の森の泉》は よかったですよ。その昔は 聡明な麗人だったのですね。
  
 ブッディスムなる観念の帝国より 幸か不幸か 帰還した自由人より。

 * 拉致被害者の人たちは ひょっとすると 自分では 自業自得ですと言うかも知れない。・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ ♪ My Sweet Darlin'
 ☆ の歌詞は サッカリンの砂糖漬けだよん。もしこの内容で 共感を得る人がいるとするなら まるで おとぎの国にいるみたいぢゃわい。

 ☆ やがて 死ぬ人は 稀になるでしょう。大いなるなぞとして。

投稿日時 - 2008-05-14 17:29:45

ANo.81

●でも 生死即涅槃・煩悩即菩提・娑婆即浄土だそうですから 
《コトダマ》思想にのっとって この幻想の地獄は どこまでも続くのでしょうね。!


のっけから“ 地獄 ”って、、、 

        < ちょっと ちょっと ヾ(-_- )コワイってば、、、

      《 読者の皆さん、言葉に惑わされてはオモウツボ!←ココ注意!!》

よく見てみてください。地獄の前に“ 幻想 ”の文字。
前回もそうでしたが、一見オドロオドロしそうにみえるものって
これって案外見る側のこころがつくりだしていたりもします。
コワイのはコワイですから、楽しいことを思い浮かべて
シーパラダイスよろしく、“地獄めぐり”とくりゃ、温泉でしょう~♪
http://www.beppu-jigoku.com/images/jigoku.pdf
http://www.beppu-jigoku.com/
http://asianet.cocolog-nifty.com/nippon/

(*^^*)/ハイ!修学旅行へGOー☆

つづきますよ、“線路は続くよどこまでも~♪”

あっ!?ちがった

千里、千里、『千里の道も一歩から』と

…テクテクテク …テクテクテク テク


     “色は匂えど散りぬるを、我が世誰ぞ常ならむ
     
      有無の奥山今日越えて、浅き夢みじ酔ひもせず ”

        ↑
と、言ったからとて、まだ死んだわけじゃーねーぜ。
        ↓
【QNo.3346636 日本人は 死んでいるのでしょうか ANo.26】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3346636.html


『月明かり花あかり雪あかり』 青木玉←このお話の文中に

三文字の言葉は、一字一字には何のつながりもないが、
三字寄り合うと、質の異なる美しさが互いに補い合って、
それ以上の美しさは考えられない風情が浮かび上がる。

と、ある。

で、ANo.80に『ガラスのジェネレーション』の歌詞をアップしたよね、最後らへんに“つまらない大人にはなりたくない”と言葉があるんだけれども、“つまらない”から“ら”を一字抜くと“つまない”となり“つまない大人にはなりたくない”という男性側の心情がひとつ浮かび上がってくる。それからそれから、ひとり身の男ってところで“やもめ”が浮かび上がる。“やもめ”とくれば“かもめ”かな?懐かしいところから引っ張り出してみる。

【絵本「かもめ」寺山修司】
http://blog.goo.ne.jp/masamasa_1961/e/445f70320d1b29e231b9813712f34fe1
【「寺山修司評論集 アメリカ地獄めぐり」】
http://www.d9.dion.ne.jp/~sachiee/
http://sgenji.jp/search/index.html


           「唐衣」在原業平

             からころも 
      
             きつつなれにし 
      
             つましあれば 
      
             はるばるきぬる 
      
             たびをしぞおもふ


【QNo.78352 肯定の国 】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa78352.html

【矢井田 瞳 /My Sweet Darlin' 】
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND12669/index.html

【質量】
物体を特徴付ける量であって
同じ物体である限りはかわらない

九十九であってもカウントは1
一であってもカウントは1
1:1
男と女
万有引力

【「夫婦」名言集・格言集 】
http://www.oyobi.com/maxim01/06_01p3.html

投稿日時 - 2008-05-14 02:58:03

お礼

 そうですね。
 【QNo.78352 肯定(皇帝?)の国 】に 【矢井田 瞳 /My Sweet Darlin' 】をうたう乙女たちは――そこに わが国のブッディストたちも入るのかな=その理論は 歌詞と同じようですからね―― もってこいのようですね。
 
 ★ まだ死んだわけじゃーねーぜ。
 ☆ コグンフントウですね。とうとう 卑弥呼になるのかな。最後は ウーマン・パワーなんですね 《皇帝の国》は。
 わたしは 北の森の泉に憩っていますが。
 もう役者は ほとんどみな引きあげてしまったようだけれど まだまだ 地獄の第三幕は つづくでしょうか。
 《不思議の森の泉》は よかったですよ。その昔は 聡明なお方だったのですね。
                 いじわるばあさんの親戚より。

 * 拉致被害者の人たちは ひょっとすると 自分では 自業自得ですと言うかも知れない。・・・

投稿日時 - 2008-05-14 07:43:17

ANo.80

こんばんは、brageloneさん。

★ 『鎮座まします』
 ☆ だとすると 早い遅いの違いだけだという理論になるように思われるけれど。・・・


座して死を待つ…   ちょっと ちょっと ヾ(-_- ) コワイってば、

あっ!? ちょいにてるね

ああ、まって、まって、“座して死を待つ”じゃないよ、はやまらないで

ちょいにてるね、っていってもそれは↑コッチじゃなくて↓こっち

【「空」の理論 】 http://www.joy.hi-ho.ne.jp/hiroshi-w/on-4.pdf


これはこれとして、ほやけど、これからしてみてもバケルてる。
理論でバケルといえば、理論化学、『アボガドロの法則』はずせんでしょう?
【-基礎物理定数の改訂に貢献、原子質量標準の実現に道を拓く-】
http://www.aist.go.jp/aist_j/press_release/pr2004/pr20040120/pr20040120.html





『ガラスのジェネレーション』
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND1394/index.html

投稿日時 - 2008-05-12 00:55:30

補足

 【「空」の理論 】の書き手は 思惟のあり方ということについて 東西両様の形態をよく踏まえて 表題の主題をめぐって よく解説しています。そして けっきょくのところ 次の結語をさらに明確な表現で述べるとよかったでしょう。
 ▼~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・一切が空であるという境地を《無上正等覚》という。・・・時空を超えたところにいる それら無数の仏たちが存在するかどうかが問われることはもはやないらしい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《〈ブッダ葬送〉が 妥当な結論であるだろう》とつけ加えるとよかったでしょう。
 No.42へのご返事で ナーガールジュナ(龍樹)について中村元が評価するところをわたしは 書き込みました。この箇所が 重要だと思われるのに つまり
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは
  存在しない。《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたも
  のなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。
    (『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)

という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。
    (中村元『龍樹』2002 pp.225)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この点が 大事だと思われるのに いくつか抜粋している原文の中に入っていない。
 また 立川武蔵が この空観に 慈悲の実践が その後 加えられてくるのだと言っています。そのように 《色即是空 かつ 空即是色》の両面をたずさえた(つまり 往相還相の往復切符をもった)菩薩道であることは もともと 分かっています。このわたしでさえ 知っています。
 ですが 結局 ここ( goo )のブッディストたちは この慈悲行を放棄してしまいましたね。いまの時点で そう言えるのではないでしょうか。
 もしくは 九十九匹に対しては 仏智を分かち合おうとするけれども あとの一匹に対しては 排除することによって おのれの幻想共同体を死守しようとしていることになります。
 要するに ブッダはクタバッタということになります。もともと 何もなかったわけです。空と言っているじゃないですか。
 でも 生死即涅槃・煩悩即菩提・娑婆即浄土だそうですから 《コトダマ》思想にのっとって この幻想の地獄は どこまでも続くのでしょうね。

投稿日時 - 2008-05-12 08:41:43

お礼

《取り憑かれたるたましい L'irremediable》  ----Ch. Baudelaire

 観念の死か? いや生活のあり方そのものか? 
 いやいや 人間まるごとだって? 落ちてゆくとは!! 
 この晴れた空の下 何を嫌ってのことか? 落ちてゆくとは!! 
 えっ? ここは三途の川だって? まさか? 
 へどろが鉛のように絡みつくからと言って まさか!! 
 ああ あの五月晴れの宙よ! いと高き山よ!

 だが 天使だったのだ。
 ちょこっとおっちょこちょいだとは言え 愛が 
 愛が ちょこっと臍を曲げただけさ。それを この
 悪夢か? 何と遥か先にまで広がっている夢路であるか! 
 かくなる上は 苦しみ甲斐があるというものだ。

 縁起がよいとは到底言えないからと言って 
 われが たたかわないとでも? 
 それにしても この渦巻きは 何だ? 
 遥か先まで 歌をうたっているではないか。その調子はづれは 
 何だ? ああ 
 眩暈。まわれ まわれ おまえよ まわれ。

 これは われの所為ではない。われは ただ
 魔法にかけられたに過ぎぬ。この逃避行こそ 
 試みに値するのだ。青い空の下には 
 ヤモリにイモリ イグアナにオオトカゲ 
 この這い回る輩らを われは嫌っただけだ。
 われこそが光を手にする。
 
 ここは 暗闇。ランプくらいは持って来るべきだった。
 あそこには 地が穴を開けている。
 底無しの底から這い上がってくる匂い。落っこちたら 
 おしまいか。せいぜい手すりを作っておいてくれ。

 何かおるぞ。ぬるぬる坊主たち。
 燐光とは あやつらの目か。その光が 
 なお暗闇を深めておるわい。目と目とのみ にらみ合っている。

 われは ちがう。
 極北の星を われは 追い求めたに過ぎぬ。われは 船だ。
 宙を航く船だ。星のきらめきに惑わされたからと言って どうして 
 それが 罠だったのか。この落とし穴。あの星星のあわいを
 抜けて来たというその何処が まちがっていたのか。

 この定めを想えというのか。あの道こそが ここへと通じていたと
 いうのか。おれは 知っていたというのか。
 神こそが この海の導き手だったというのか。

(No.68お礼欄へつづく)

投稿日時 - 2008-05-20 16:28:30

ANo.79

こんばんは、brageloneさん。

解けた!

『鎮座まします』がキー

【座禅草 (ざぜんそう)】
http://photohito.com/photo/18929
http://www.hana300.com/zazens.html

でもって、

【中国語の落とし穴--054】
http://www.geocities.jp/iwa_kaz/trap054kyuukyuusha.htm

テレコテレコで、

【集英社| デジタル読み物サイト】
http://renzaburo.jp/
「終わりは始まりII」 中村航・フジモトマサル 〔回文〕

**********************************************************************


応答をひっくりかえしたら答応
中国語で答応を発音すれば…ダーイン
ダーインってなんだ…人が死ぬ、死体の傍にメッセージ
だとすれば…それは…ダイイング・メッセージ?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8

…思い出せ

●世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。

そうだ、どれ一つ意味を持たないものはないんだ。

ならば、死体は何を語っていたのだろう…

ふむ、否定の否定は肯定(きらい きらい も すき の うち)
http://www.dokkyomed.ac.jp/dep-m/german/ess21a.html


「憧れのハワイ航路」
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/akogarenohawaikouro.html

不条理な死によって散っていった命、惨く惨たらしくおぞましいイメージを焼き付けることよりも憧れの地としてのイメージに置き換えることを人は選んだんじゃないんだろうか?それはなぜ?惨く惨たらしくおぞましいイメージのままでは鳥も通わぬ荒地となる。慕い愛した者達が眠るその地。自らの死後誰一人として気にかけ訪れる者もなくなれば、そこで散っていった命は無きに等しい。己の他者を憎む感情を優先さすことよりもその思いを抑え、不条理な死によって散っていった命が存在していたことを薄れ行く人の記憶のどこかに残したいとする人の思いが憧れの地としたのではないだろうか。

投稿日時 - 2008-05-11 21:41:22

お礼

 晩上好 小接吻小姐。我非常感謝□。□的答応有好意思。
  * □= ni

 たとえば こうやって みなさんに考えてもらって みなさんの心に居ついてしまうほどである。 

 ★ 『鎮座まします』
 ☆ だとすると 早い遅いの違いだけだという理論になるように思われるけれど。・・・

投稿日時 - 2008-05-11 22:36:29

ANo.78

取りあえず座ってください。

brageloneさんの疑問は解けますから。→輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか。不条理な死を何故迎えたのか。

無分別、是非の無い世界を観て来て下さい(これは体験です、頭の中でで、ああだ、こうだで解るのではありません)brageloneさんの疑問は解けます。言葉で説明できるものでは有りません(不立文字です)

本当に極めようと思うならば参禅をして下さい。ここでまだ言葉遊びをしたいなら別ですが。

参禅したなら必ず解けます。

以上おわりです。

投稿日時 - 2008-05-11 00:25:16

お礼

 ★ 以上おわりです。
 ☆ 了解しました。

投稿日時 - 2008-05-11 07:54:28

ANo.77

右手の拍手の音をお聞きください。
>聞きました

聞えますか・・・右手の拍手の音、理屈の世界に居ては聞えないと思いますよ。   どう聞えたのでしょうか・・・?


不条理な死を迎えた人は、人間智(理屈)或は常識的(分別)な考えれば不幸ですよ、これは絶対不幸です。本当にお気の毒だと思います。不条理な事件を防ぐ為に警察官をもっと増やす、若い女性は夜遅く歩かないとか、人間智を使わなければ成りません。残念ながら人間智は100%では有りません。そこに矛盾が有り苦しみが有るのですが。その解消は仏智しか有るません



不条理は仏智から見れば不幸ですか?宗教の本質から見て不幸ですか?  宗教の本質は、不幸を逃れる事ですか・・・?不幸幸福・生死は一元だと自覚させる事だと、私などは思いますが(最初に葬式を済ませる事だと思いますが)



同じ事を言う様ですが、輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですかは、人間の分別智での中だけです。

brageloneさんに言っても、暖簾に腕押しですか・・・。



brageloneさんは凄く物事を知ってらっしゃいますが、日頃から感心しています、ですが、過ぎたるは及ばざるが如くのようにも感んじます

投稿日時 - 2008-05-10 04:07:50

補足

 ri-zyuさん 
 ★ 右手の拍手の音、理屈の世界に居ては聞えないと思いますよ。どう聞えたのでしょうか・・・? 
 ☆ これこそが 理屈ではないでしょうか。

 あなたが問うておられるこの主題は わたしの筆の力の及ばないことがらですので 引用文にて補います。例によって パウロです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
 それは、こう書いてあるからです。

   わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
   賢い者の賢さを意味のないものにする。(イザヤ書29:14)

 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。

 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
  (コリント前書1:17-29)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ 不条理な死を迎えた人は、人間智(理屈)或は常識的(分別)な考えれば不幸ですよ、これは絶対不幸です。本当にお気の毒だと思います。
 ☆ 《本当にお気の毒だと思います》が なぜ《絶対不幸》なのですか。《分からない》のではなく なぜ《絶対不幸》なのでしょう?
 《人間智(理屈)或は常識的(分別)》ではなくして捉えれば どうなるでしょう?そういうご回答も 歓迎します。自業自得説は 筋は別でしょうが そういう回答の試みですね。

投稿日時 - 2008-05-10 09:09:01

ANo.76

こんばんは、brageloneさん。

補足をいただいて、ども m( _ _ )m

(*^^*)>゛゛゛ってことで、七瀬再びと、もう一丁(^o^)/いきまーすぅー!

おっと、その前に。突っ込みを入れねば

いつのまに講師から教授に昇格してんのよ???きいてねーぇー!!!

それならそれでいいんだけど、ただ気になったのは…

講師のつぎは教授?順番からいってなんかすっ飛ばしてるような…

そんなのあり?

超越してる… 

…無言… 

くらくら |(◎◎)| めまいしそう 

読み込むのにちょい時間かかりますが…



補足に
●サリン事件の被害者あるいは あの拉致被害者 またその身内の方々 これらの人びとと 
あい対するときに わたしたちは どういう考えと思いで臨むのが 望ましいでしょう?

と、言葉おいてあったから…

【超越論的分析論】に目を通してきた。
http://www.nagaitosiya.com/b/transzendentale_analytik.html
http://www.asahi-net.or.jp/~bb3k-isb/resumefree1.htm

それと、時計の針をちょいともどして

・07/10/24 23:42bragelone講師
【QNo.3417579 三身常住は 三位一体とどう違うでしょう】 ANo.13
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3417579.html

・02/11/12 21:25littlekiss
【QNo.396894 日本文化がヨーロッパに受け入れられた理由について】ANo.6
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa396894.html

投稿日時 - 2008-05-10 01:26:12

お礼

 ★ 【超越論的分析論】

 ☆ これは いわば第四の思想類型に属すものとして 提起したということでしょうか。

 1.実体を想定する有神論
 2.実体を無とする無神論
 3.無神論だが 唯心論のもとに 実体に似たもの(無作・無為)を
  想定している。この無作は けっきょく概念としてなら 実体のこ
  とであるが これを 心の中におさめるという想定のもとに 無神
  論でありつづけるか。 
 4.無神論だが つまりしたがって 経験世界をあつかうことがすべ
  てなのだが この経験領域を統一的に知覚する究極の作業を 人間
  の能力に想定する。(3)のように 《心・心象》の問題ではなく
  経験事物のあり方の問題である。あたかもこの事物の相互に錯綜し
  て依存しあう関係構造を 統覚する作業が その経験世界とともに
   人間に はたらくという想定か。

 (1)と(2)の単純な有神論および無神論なら 《身におぼえのないことの報いとしてのように受けた被害》について その原因なりその実相なりについて《分からない》と言うと思われる。
 (3)と(4)の特殊な無神論なら 同じく分からないながら 分かりうるという姿勢を見せることになると思われる。
 さらに そのあとのことは 果たして どうなるのだろうか。
 (きわめて 推測にもとづく理解であることを お断わりします)。

投稿日時 - 2008-05-10 03:01:01

ANo.75

>その場合 こういう質問を問うてはいけないのですか。

わかりません。

さて、終わります。

投稿日時 - 2008-05-10 01:24:36

補足

 仮りの想定で もとから疑いを挟んでいた事柄に似たことを 相手に言わせれば それで 自分の推測した疑いが 証明されたと取ったわけだ。
 さらに仮りにそうだったとしても 《分からない》という答えが わたしのもとで 初めから分かっていたということが証明されたまでである。けれども 《分からない》という答えが分かっていたということは もしその分かったという理解が 絶対のことでない限り 質問をなおも なおも 促すものでこそあれ 問いを押しとどめるものではないであろう。
 このことが証明されたまでである。
 初めから みづからの推測に相手の表現を誘導したまでである。それを 論証したと勘違いしてしまったに過ぎない。

投稿日時 - 2008-05-10 02:37:00

お礼

 なぜ
 ★ わかりません。
 ☆ なのですか。

投稿日時 - 2008-05-10 01:26:11

ANo.74

なぜなら
昔、似たような質問を受けた人の回答が

無記だから。

投稿日時 - 2008-05-10 01:06:23

補足

 ありえない仮想としてでも 問答に応じましょう。

 ・初めから 答えが 《分からない》だと分かっていた場合

 その場合 こういう質問を問うてはいけないのですか。
 だったら その時の人の対処の仕方は 以前に同じ質問があって これこれの結論が出ているよ と伝えるのが ふつうでしょう。
 なんで こんな問答をつづけなければならないのか。

投稿日時 - 2008-05-10 01:19:57

お礼

 ☆ 輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか
という問いに対して
 ★ 無記
 ☆ という意味が分かりません。少なくとも
 ・《分からない》
 という答えとは 異なります。一方は 《考えない・取り上げない》であり 他方は 《取り上げて 考え続けている〔けれども 分からない〕》である。

 輪廻に対して 無記とすることとも 別な問題であるでしょう。輪廻について無記とした場合でも 自業自得なのかの問いに対して 考えることはありえます。

投稿日時 - 2008-05-10 01:13:15

ANo.73

>《分からない》という答えが 大方の意見であろうと 
>わたしが見なしたときには

はじめから答えは、決まっていたわけですね。

投稿日時 - 2008-05-10 00:52:51

お礼

 なぜ そう決めつけるのですか。

 それに 《分からない》という答えは 次善のものです。やむを得ずという意味あいがあるに決まっているじゃないですか。
 何を 意図して問い続けるのですか。

 それこそ 目的は何ですか。

投稿日時 - 2008-05-10 00:58:12

ANo.72

たとえば、この質問に回答している
多くの人は仏教徒の人が多いでしょう。
それで、brageloneさんの見解に
反対、もしくは穏やかな意見ばかりです。

(私なんかのは捻くれていて例外ですが。無視すればいい。)

それでも問いは終わらない。
brageloneさんは問いを続ける。
何らかの意図があるでしょう。

目的はなんですか?

投稿日時 - 2008-05-10 00:15:01

お礼

 これに対する答えは 単純明快です。

 振り返って No.43のあたりで 一たんこの質問を締めようと思っています。そう書いています。
 しばらく――と言っても 二日と空いていないと思いますが―― 放っておいたら 再度 ご投稿をもらったという経緯です。その時からは あまり間隔を空けずに ご回答をつづけて受けているという経緯です。それだけのことです。

 ★ たとえば、この質問に回答している / 多くの人は仏教徒の人が多いでしょう。 / それで、brageloneさんの見解に / 反対、もしくは穏やかな意見ばかりです。/ (私なんかのは捻くれていて例外ですが。無視すればいい。) /
 ☆ この文章内容と 次の判断 すなわち
 ★ それでも問いは終わらない。brageloneさんは問いを続ける。 / 何らかの意図があるでしょう。
 ☆ とが どのように つながるのか 分かりかねます。
 《反対 / 穏やか / 捻くれ》の見解があることと わたしがこの質問を締めないことと どういうふうに つながっているのでしょう。つまり 前者の回答があれば わたしは 必然的に 締めるという結論になるとおっしゃっているのですが まるで解せません。

 ★ 目的はなんですか?
 ☆ 答えを書きこんでくだされば 明らかにしましょう。なぜなら そのふさわしい回答なら 目的の在りかを示していることでしょう。

 というよりも 《分からない》という答えが 大方の意見であろうと わたしが見なしたときには――少数意見が なお 続いて投稿されて来ていないかぎり―― 締めようと思っていますけれど。・・・つまり この一連の問いは いったい どうしたのですか。

投稿日時 - 2008-05-10 00:38:19

ANo.71

私には、
brageloneさんにとって

輪廻と業で苦しむ人が
必要に思えます。

わざわざ不幸な人を作り出して
どうやって救うつもりなんですか。

投稿日時 - 2008-05-09 23:41:49

お礼

 ★ わたしにとって / 輪廻と業で苦しむ人が / 必要
 ☆ であり そのため 
 ★ わざわざ不幸な人を作り出して
 ☆ いるとすれば このように投稿してくださる方々は わたしの催眠術か何かによって 魅入られたように 書きこんで来ているということでしょうか。

 たとえ そうでなくとも すでに多くの人びとが投稿して来ているのだから その人びとを
 ★ どうやって救うつもりなんですか。
 ☆ という意味でしょうか。

 では まかしてください と答えましょう。でも そういうように問いかけられてはいないのですから 当面は 言葉だけの応答になりますね。

投稿日時 - 2008-05-09 23:58:16

ANo.70

では、これなら。
答えは問いの中にすでにあるものですから。

>まとめて言えば すべてが ひとりの人間として です。
これは人間を問題としていますね。

>輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか
さて。これを判断するのは人間ですね。

そんな人間がいるのでしょうか。
そしてこれをいると判断したのはbrageloneさんであった。

あなたの考えが変われば、終わります。

投稿日時 - 2008-05-09 22:55:38

お礼

 この場合は yukiyama20さんの答え方が 特殊なのであって それなら 《答えられない / 分からない》という回答になりますと書きこんでくださればよいのです。

 判断者の考えが変われば 問いが終わるというのは
 ★ 答えは問いの中にすでにあるものですから。
 ☆ という大前提を置いたあなたの判断によるものです。この大前提の中味を説明しなければならないでしょう。

投稿日時 - 2008-05-09 23:30:50

ANo.69

こんばんは。
まだやっていましたか。

これは、どうでしょうか。
前に、回答者から教えてもらいました。

筏の譬えです。

「教えをすら捨て去るべき時がある。
なおさら、誤った教えは捨て去らねばならない」

だそうです。
宗教というのも人間によって
善にも悪にもできます。
そうやって、宗教を攻撃の道具にするよりは
捨てたほうがいいと思います。

参考URL:http://www1.odn.ne.jp/ceu55990/IKADANOTATOE.html

投稿日時 - 2008-05-09 22:14:05

お礼

 こんばんは。ご投稿をありがとうございます。

 今回のご回答は 少しづつ 微妙にずれていると思います。

(1) 筏の譬えを あてはめようと思えば 臨機応変 時と所と情況に応じて おしえを使い分けよ ということになりませんか。
 善因善果・悪因悪果をあてはめていい場合には そうせよ。そうでない場合には あてはめるなと。
 そうして 因果応報説は 捨て切ったことになるわけではないはづです。

(2) 仏教がどう言っているかにかかわらず たとえば《拉致されたという被害に遭った》ことを どう捉えどう考えるか これを問うています。不条理・分からないが いま 得ている回答です。(自業自得説もあります)。

(3) ★ 宗教を攻撃の道具にするよりは / 捨てたほうがいいと思います。
 ☆ すでに(2)で 宗教一般を相手にしない場合に入っていますが もしまだかかわりがあるとするなら それは 宗教を持ち出して来ているのではなく 微妙ですが そうではなく 社会の情況として 《生まれ変わり》の思想や 因果応報の考え方が あるとするなら そのような思潮・風潮との関連においても この問いを(2)のように問うているというものです。

 まとめて言えば すべてが ひとりの人間として です。

投稿日時 - 2008-05-09 22:48:12

ANo.68

こんばんは、brageloneさん。

●世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。

という言葉を眺めつつ、ならば海に溺れるってなんだろう?と

溺れるってことは、夢中になる(楽しい)って意味を含むとすると…

前に海があるから、シーパラダイス

で、そのまえに理屈とあるから 無理からこじつけてみると

八景島シーパラダイス
http://www.date-navi.com/theme/seapara.html
http://www.seaparadise.co.jp/

3つのアトラクションって、↓ここのなかにある無作三身のなかに実体があるってことなのかな?

******************************************************************************
http://www.geocities.co.jp/Berkeley/4549/ishida.htm

私達が仏界を現ずるときは、……仏の振る舞いとなり、白然に大宇宙のリズムに合致し(応身)(私註 大宇宙には六道のリズムしか無い。だからこそ輪廻するではないか。四聖《二乗・菩薩・仏》のリズムは反省者・反省自覚者が発振源であって、宇宙の方ではない)、……、よくいう「全体人間」というのも、この無作三身のなかに、その実体がある(私註 無作三身のなかには如何なる実体も全く無い)といえましょう。――以下・略――(私註 以上全てが〈他心の法〉〈他覚の法〉であって、「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麁法なり、……、一生成仏叶いがたし」(一生成仏抄)この他・御書全編・一切経全部・竜樹・天台等の一切の著述に違す)
******************************************************************************

【哲学的断章】
http://www2.gunmanet.ne.jp/oshima/philosophy.htm
http://www2.gunmanet.ne.jp/oshima/
【ロック】
http://www.lcv.ne.jp/~kohnoshg/site1/
http://www.lcv.ne.jp/~kohnoshg/site11/locke2.htm

【山口大学医学部法医学教室】
http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~legal/w-new01.htm
【行政手続法】
http://www.soumu.go.jp/gyoukan/kanri/tetsuzukihou/tetsuzukihou.html
http://www.houko.com/00/FS_KA.HTM
http://law.e-gov.go.jp/haishi.html
【紛争処理マニュアル:電気通信事業紛争処理マニュアル】
http://www.soumu.go.jp/hunso/guidance/manual.html

投稿日時 - 2008-05-09 20:28:26

補足

 また えらいところから 議論をひっぱって来ましたね。
 まづは ご回答をありがとうございます。
 そして
 ★ ならば海に溺れるってなんだろう?と / 溺れるってことは、夢中になる(楽しい)って意味を含むとすると…
 ☆ というところは おもしろいですね。
 つまり 《理屈》で《溺れる》ことはないはづです。むしろ《泳げない / 泳いでいない》ことに気づくものでしょう。

 そして 再び えらいところから 議論をひっぱって来ましたね。

 ひととおり読みました。bragelone教授による講解を始めましょう。(こういう出で立ちのときには 自信がないのであります)。

 ▼ (私註 無作三身のなかには如何なる実体も全く無い)
 ▼ 「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麁法なり
 ☆ おそらく この二つの命題が この著者にとっての仏教の基礎理論を成すものです。
 《〈実体〉は無い》 この命題にて いわゆる無神論であることを表明しています。
 《自己の心の外に法があることはない》 この命題にて しかしながら 無神論であると言明しつつも 主観主義に立つことを明かしています。主観主義とは 唯識の思想に近いと思いますが 心とその表象つまり 心象 この世界が 世界のすべてだというものだと思います。

 つまり 無神論でありながら 唯心論であるのか。それは何故か。そんなことが起こるのか。
 それは 出て来ているように 《無作(むさ)》という概念を立ていることとつながっているはづです。これは《無為》とも言って 自然現象にしろ人間の織りなす社会現象にしろ 因も果もなく したがって 因果関係を持たないもの(こと)を言うようです。
 だったら この《無為=無作》は 《実体》ではないのか。実体とは そういうものではないのか。そうではないと言うために 唯心論があるのだと推測します。この世界にあるもの・起こることは 心象風景のみだというのであれば そして その一切に実体など無いというのであれば たとえ《無作》を想定したとしても その心象世界にすべて 心象としておさまるわけですから(そう言い張ることが 理屈の上で とおるようですから) そういう理論が出て来ているのだと思います。

 ふつうは 一方で 縁起=空観=無我説としての《実体は無し》という単純な無神論なのですが そして 他方で 仏性=法身のブッダを立てる=つまり実体を想定するやはり単純な有神論なのですが この場合は どこかこの両理論をすり抜けて 《唯心論としての無神論》として現われています。そういう意味での《天上天下唯我独尊》という思想なのではないでしょうか。おのれの説く教え以外は 仏教以外としては邪教であり 仏教としては劣等な教義だというのでしょう。

 ★ ここのなかにある無作三身のなかに実体があるってことなのかな?
 ☆ 三身とは 応身などのブッダのことです。この問いに対するbragelone教授のこたえは これで すでに述べたと思います。えへん。 
 * サリン事件の被害者あるいは あの拉致被害者 またその身内の方々 これらの人びとと あい対するときに わたしたちは どういう考えと思いで臨むのが 望ましいでしょう?

投稿日時 - 2008-05-09 21:55:23

お礼

 〔No.80お礼欄よりのつづき
=《取り憑かれたるたましい L'irremediable》----Ch. Baudelaire〕

 〔この定めを想えというのか。あの道こそが ここへと通じていたと
 いうのか。おれは 知っていたというのか。
 神こそが この海の導き手だったというのか〕。

 われが見るのは このわれのすがた。蒼白きわが面持ち。
 この井戸を覗くわれ。透き通った真実の黒き陥没。
 鉛をあおって揺れる星のおれ。

 これでも まだ 輝いている。人よ この光に寄れ。
 地獄が 何だ? これこそが 地獄の恵みよ。わがともし火よ。
 栄光なり。わが慰みなり。われは ただ この病める心を 
 誇るのみ。


 〔* 自由訳すぎますが〕。

投稿日時 - 2008-05-20 16:32:33

ANo.67

聖者は争わず、言い争いは止めましょう。


brageloneさんがこうだと描いている。その描いた物と他の方の、回答が同じなら納得するでしょうが・・・   同じなりませんよ、brageloneさんが描いたものでしょ。

我と我の争いですよ。我を超えないと・・・。。と思いますが

投稿日時 - 2008-05-09 19:00:02

お礼

 ri-zyuさん 誤解があります。
 ★ brageloneさんがこうだと描いている・・・回答
 ☆ これが見つからないから 質問しています。
 いまの時点で いくつかの理論もしくは理屈は それとして 理解しましたが 決定的な解答は 見つかっていません。そして この《分からない》という消極的な答えも 重要であるとも思っています。

 一度は この質問を締めようとも思ったのですが そのようななぞを残していたからでしょうか ふと振り返ったときには ふたたびご投稿をいただいていました。ありがたいことです。

 ★ 我と我の争いですよ。我を超えないと・・・。。と思いますが
 ★ 聖者は争わず、言い争いは止めましょう。
 ☆ これは 意味が分かりません。問いと答えの問題として見てください。

投稿日時 - 2008-05-09 19:46:59

ANo.66

リクツにすらなっていない。
他者の時間を食らい尽くさずにおかない飢餓。
餓鬼の言う「人間以前」とは、笑止千万!
自分の無明に付き合ってもらいたいがためには人を侮辱することも厭わない。それを「技術」の一種とカン違いしている誰かさんと同じレベル。
リクツも哲学も信仰も、あなたには永久に無縁でしょう。

投稿日時 - 2008-05-09 18:26:04

お礼

 ★ 誰かさんと同じレベル
 ☆ この箇所を取り除くと 自己診断になるはづです。

投稿日時 - 2008-05-09 19:49:35

ANo.65

右手の拍手の音をお聞きください。

投稿日時 - 2008-05-09 15:12:35

お礼

 聞きました。

投稿日時 - 2008-05-09 20:02:03

ANo.64

まだ理屈の海に溺れてますか

なむあみだぶつ 合掌。

投稿日時 - 2008-05-09 13:06:23

お礼

  《だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。》に注目しました。


  世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。
  だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとってわたしは外国人であり、わたしにとってその話し手も外国人であることになります。
  ・・・
  だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。
  わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。
  では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。
  さもなければ、・・・あなたが何を言っているのか、・・・分からないからです。
  ・・・
  わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。
  しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。
  (コリント前書14:10-19)

 というようなわけで マリアナ海溝を進んでおります。
 ご投稿をありがとうございました。

投稿日時 - 2008-05-09 14:19:20

ANo.63

こんばんは、brageloneさん。

ANo.60のなかで誤りがあります。

tosatisfy
  ↑
toとsatisfyの間があいてませんでした。

誤)It is impossible tosatisfy all demands.
正)It is impossible to satisfy all demands.
***************************************************************************
因果ということで 多少でも安心を得るという場合
自分のことか それとも ほかの被害者かで 話がちがって来ませんか。
littlekissさんなら 被害者に どういうことばをかけてあげますか。
わたしの場合 残念ながら その言葉がみつからないのです。
《分からない》ということばしか 見つからないのです。
次の文章は そういう意味ですか。

 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  It is impossible to satisfy all demands.

そうであるならば、そのなかで、できることと、できないことをみつけ そこから何ができるかを考える。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
**************************************************************************


わたくしごとになりますが、去年の7月ごろに人と話を
交わしていたときに書いたものを少し抜粋してのせます。

2007年07月11日(Wed)littlekiss

私、生まれ育ったところで親と一緒に暮らしています。ウチの斜め向かいには姉夫婦の家があり毎度お小言を有り難く頂戴する日々…。私の場合は、実家は近くにあるんじゃなくて実家に住んでいますから距離を基にすると〇〇さんよりももっと近々。なのに…すごく意識してます。意識するにはするで、それにはそれなりの理由があります。母が去年の夏前あたりから体調を崩し入院、年の瀬押し迫った頃に手術、術後すぐに医師から余命三ヶ月と告げられ…いまに至る(抗がん剤投与で延命治療中)。原発性ガン、手の施しようがないのが事実。ただ、抗ガン剤が効いたのか余命宣告を受けた『三ヶ月』は過ぎ、半年を越え『七ヶ月目』を迎えようとしている。うん、幽霊と暮らしてる。意識していないとスーッと知らぬ間にいなくなっちゃいそうで…。居なくならないでと子どもみたいに泣きじゃくりたくもなるけど、誰よりも泣きたいのは母なんだと思うと泣けない。その母が泣き顔ひとつ見せずに口やかましく小言をこぼしては私の世話をやいてくる、おかし愉しい日々の暮らし。


その後でもらったお返事の中で(一部抜粋)

…仮に何かを書けたとしても…
littlekissさんには気休めにもならない
ことでしかないだろうし…

と、言葉が綴られてありました。

(この話を交わす前に)話をやり取りしてる相手の方の親御様が
数ヶ月ほど前に他界されていたのですが、お亡くなりになられた
ということは、見知ってはいたのですが私自身その話に触れることに
ためらいがあり長くそのことには触れずにその日まできました。

が、いただいたお返事に
「…仮に何かを書けたとしても…
littlekissさんには気休めにもならない
ことでしかないだろうし…」

とのことばが添えられていたのを目にして、
今なら言えるとおもいお返事を書きました。


こんばんは、〇〇さん。

「…仮に何かを書けたとしても…
(   )さんには気休めにもならない
ことでしかないだろうし…」

先のお返事で頂いた言葉と同じような思いを私も抱いていました。3月、4月あたりに書かれた日記を都度読んでいましたから。こういう場合、きまりのご挨拶とばかりにお悔やみのことばを書き添えるものなのでしょうが、そのことに触れることがかえって失礼なことのように思えて…何も言えませんでした。何も言えないまま4月、5月、6月、7月と…夏間近。梅雨があければもう夏。

ご多忙になりましょうが、どうぞお身体を御自愛下さいませ。
**********************************************************************************

先にも書きましたが、

「きまりのご挨拶とばかりにお悔やみのことばを
書き添えるものなのでしょうが、そのことに触れることが
かえって失礼なことのように思えて…何も言えませんでした。」

言葉がみつからない…そんなときってあります。

投稿日時 - 2008-05-08 23:46:30

お礼

 ふむ。そういうことだと思うのですが。・・・

 ご回答をありがとうございます。

 けっきょく その中間のところに 答えを求めているのだと思います。つまり 一方では 実際に そう言ってよければ現場での処し方があるでしょうし 他方では 哲学の理論があるでしょうし。
 つまりその中間という意味は 実際の場で どう振る舞うかは 別として そうでは必ずしもなく その前に ともかく 被害を受けた事態について どのようにそれを受け止めるのか これを考えておくというところだと思います。
 その考えがあれば 実際の場で どう言うか あるいは 何も言えないか いづれであっても そのじっくり考えた思いを持っていれば それにもとづいて 相手の方たちと接していけると思われます。別に ノウハウを知りたいのではありませんが 人間の思惟のとどく範囲で 共感にしても同感にしても その心を生きたものとしたい。こう思います。

 お家のご事情は その事情にかんしては 手の施しようがないところまで重なって わたしが少し先輩になりますが なにも触れないでおきましょう。

投稿日時 - 2008-05-09 00:48:30

ANo.62

眠気をこらえながら2回目を投稿しましたものの、いったん床に就いてしまってから「ん?まてよ」と起き直して確認しましたら。。。
ぁあ、やはりヘンでした。
以下の箇所です。

「セル・オートマトン、ライフゲーム」
>これは 《誕生・維持・死亡》という《3つの単純なルールだけで作動している》からではないですか。
>つまり 《身に覚えのない事柄 あるいは 部分的にしか知りえていない因果関係にかかわる事柄》 これらが 現実に起こり得るというのは 《ルールがあるのに それに反すると受け取らざるを得ないかたちで 起こる》という事例です。この創発の例は 《ルールがあり ルールどおりに 現象している》場合ではないですか。

>>「ルール」とは何のことを指しておられるのでしょうか。

「3つの単純なルール」つまり、ご紹介したウィキのページの下側にある枠のなかの「誕生・維持・死亡」のことを指すのでしたね。ついページ最上部の本文のほうに目が向いておりました。

そうですね私は、こうしたメカニズムの話が、ちょっとしたヒントにならないか、くらいの、ごく軽い気持だけでしたので、このように訊ねられますと、説明のコトバが、すぐ出てきませんでしたが、この「セル・オートマトン」、「非常に単純化されたモデルであるが、生命現象、結晶の成長、乱流といった複雑な自然現象を模した、驚くほどに豊かな結果を与えてくれる。」ということだそうです。要するに
>《ルールがあるのに それに反すると受け取らざるを得ないかたちで 起こる》という事例
即ち
>《身に覚えのない事柄 あるいは 部分的にしか知りえていない因果関係にかかわる事柄》 これらが 現実に起こり得るというのは
すでに 
>《ルールがあり ルールどおりに 現象している》
からに他なりません。
「部分の性質の単純な総和」「局所的な複数の相互作用」「個別の要素の振る舞い」こういったもののうえに「創発」が現出する、というのですね。まあ、「創発」という現象をイコールで「理不尽な被害」と呼ぶべき現象に結び付けてしまっていいものか自信はございませんが(笑)

念のため他の部分も見直してみましたら
>>イエス様が十字架にかかられた話題
については
>神が 自分勝手に 十字架上に登って 死に就いたのです。そうでなければ 神と言えません。
 ほかに 《身代わりの〈いけにえ〉としてではない》とも論じています。

というように、ごくごく簡単に述べておいででした。尤も省き過ぎで、これでは私には、やはりよく分かりませんが。。。まあ、なにしろ「神」だということで分かるような気もしますけれど。あとはNo.61のとおりになります。

>被害者やその遺族
>ほかの被害者
をなぐさめる場合というのは、そもそも想定しておりませんでしたから飽くまで自分に向けてのものでしかありません。
他者に対してコトバでは間に合わない場合もあります。そういうときは私はボディランゲージ。

また睡魔が目覚めました(笑)限界です。
もう一度、ちょっと寝なおします。
                

投稿日時 - 2008-05-08 06:12:09

ANo.61

御返事、拝見致しました。
私のネームに御心当たりがおありのごようすに少し驚いております。
さてさて、やはり…という印象の構えを早くもとっていらっしゃるように見受け、内心ちょっと後悔しております(笑)
先の投稿でも御理解願いましたように、御質問者様のお気が済むまで、お相手させていただくことは私にはできかねますことを、と言いますよりも、このサイトでの私の過去の経験上、特定のかたとの度重なる遣り取りは深く自分に戒めております。
議論や雑談のための場ではなくQ&Aのサイトですから、本来それくらいが妥当でしょう。

そこで、世間一般に流布しておりますところのイエス様が十字架にかかられた話題など持ち出しまして、ウッカリしていたことを悔やみました。
質問者様御自身の御考えを、この場で簡単にまとめていただくわけにもまいらなかったようで、リンク先を御紹介くださいましたが、全てに目を通しているゆとりはございません。とりあえず『Q:イエスの救いの本質は』から覗いて見ましたが、皆様各自に御考えや解釈がおありのようで、なるほど確かに、なかには全く正反対の御意見も並んでおりますね、とにかく御質問者様の御回答だけは拝読致しましたものの、どうも最初からご同好の士どうし、わきまえておられるかたどうしでなければ無理があると感じられるような御文章で、スンナリとは入って来ないこともあり、いずれにしても「さようでございますか」以上のことは申し上げられません。
次の『Q:日本人は 人間ではないでしょうか』ですが、これは御質問の本文だけ。ですので岩井氏仰るところの
「世界宗教性」
「日本人が世界的な意味でコミュニケーションを拒否」
「人間は偽善者であるほかはないと言われたんですが その場合の人間とは 世界と言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ人間という意味なんですね。そういう意図をもたない人間は ある意味で人間以前の存在」
いずれも具体性に欠け、この部分だけでは私には、よく分かりません。コミュニケーションの重要性は、仮にも社会的人間にとって死活問題に等しきものだとは思います。実際の各場面でのコミュニケーションにおけるレベルとか格差もあって、それ自体コミュニケーションのあり様の一端ですし、そのレベルや格差ごとにも、やはり基本的な誠実さは要請されるはずと思います。
また、高度情報化社会、インターネットの時代に入り、コミュニケーションのあり方が、質、量共に、これまでのあり方では通用しない激しい変化のなかで模索は続いていくことでしょう、過渡期ではあると思いますが、これまでと変わらない変えられない、これなしで成り立たない基本のものは残っていくだろうと思います。
たくさん御回答が集まって、すでに締め切られている質問ですから、これはこのくらいにしておきます。

「セル・オートマトン、ライフゲーム」
>これは 《誕生・維持・死亡》という《3つの単純なルールだけで作動している》からではないですか。
>つまり 《身に覚えのない事柄 あるいは 部分的にしか知りえていない因果関係にかかわる事柄》 これらが 現実に起こり得るというのは 《ルールがあるのに それに反すると受け取らざるを得ないかたちで 起こる》という事例です。この創発の例は 《ルールがあり ルールどおりに 現象している》場合ではないですか。

「ルール」とは何のことを指しておられるのでしょうか。
「創発(そうはつ、emergence)とは、
部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。」
とあります。或いは
「創発とは、
多くの要因や多様な主体が絡まり、つながりながら、相互に影響しあっているうちに、ある時にエネルギーの向き方が一定方向にそろって、当初は思いもよらなかった結果がポンと現出することである。」(大日本印刷)
という説明もあります。

>★ 《「理不尽」を他者に及ぼす側になる》よりは 《被る側》になるほうが まだ ましである(要約)
 ☆ これは 新しい見解であるでしょう。

私は、別段「新しい見解」とは思いません。私自身のオリジナルな見解でもない。
私は先の投稿で
「自業自得」などと、他者に向かって口に出すためのコトバではなく
と申し上げました。

>わたしは このような言葉で 被害者やその遺族をなぐさめる勇気はありません。

貴方の勇気に関しては貴方サイドのことですが
私は、このようなコトバで「被害者やその遺族をなぐさめる」とは申しておりません。

>ましである(要約)

「どちらがマシか?と自問してみますと…複雑ですね。及ぼす側にまわるほうが、もっと情けない気もします。」
です。他人の意見を「要約」するときは慎重に願います。

一応、仏教の作法に則って法事ごとを行う程度の一市民が「自業自得」ということについての飽くまでも参考意見として述べたサンプルの一つくらいに、お受け取りください。
断言などできるテーマでもございませんので。
                    

投稿日時 - 2008-05-08 01:40:29

補足

 ★ 議論や雑談のための場ではなくQ&Aのサイトですから、本来それくらいが妥当でしょう。
 ☆ 何度も同じ人とやり取りするのは 《議論や雑談のため》であるとの含みのうたがいが 拭い切れないでしょう。舌足らずだとご指摘申し上げます。
 すべては 答えを模索してのものです。《特定のかたとの度重なる遣り取り》を経ながら わたしたちはなお探究の途上にあることをも了解しつつ一区切りを打つというかたちで そのご回答内容を詳しく明らかに知ることができ その成果を共有しえたというところでもあります。哲学の性質じょう 問いはなお尽きませんが そういう場が ここでありますので そこのところを どうぞ 見きわめてくださるよう願っておきます。もし万が一 雑談のたぐいが疑われる文章がありましたら その理由をも添えてご指摘ください。お応えしてまいります。
 わたしたちは ひまを持て余して この質疑応答をしているわけではありません。ほかのみなさんの名誉のためにも この点を重ねてお伝えしておきます。わたしの趣味の問題としては 中途半端が いちばんきらいです。あきらかにすべきことは 明らかにすべきなのです。明らかにならなくとも そのこと自体を コミュニケーションにおいては 共有すべきなのです。これを 途中で放棄することは 人間ではないと認識しています。つまり すでに そういうふうに見なしておりますので それでも よろしければ どうぞご回答をお寄せください。

 ★ 私自身は、私の罪を身代りに背負われてイエス様が十字架にかかられたと言われましても、余計なお世話である、という気持ちだけですし、実際キリスト教徒以外の者には関係ございませんのでは?
 ☆ あなたには わたしがどんな信仰を抱こうと かかわりがありません。ということを伝えただけです。
 ★ 何ゆえ、こうまで異教徒の思想に拘っておられるのか、何のために、頻りと比較作業を繰り返されるのか
 ☆ 人間だからです。あなたのように人間ではないという状態にはいないからです。コミュニケーションとは そういうものです。いやしくも哲学の話をしていて こんなむなしいことを言わなければならないとは。
 
 あとは ANo.59の内容から新しく進んではいないと判断しました。

投稿日時 - 2008-05-08 09:08:31

ANo.60

ご回答ありがとうございます!(*^^*)/

いやね、『因果応報』の『応』と『報』の字にひっかかりをおぼえましてね。

『答える』と『応える』と『報いる』 を 並べて にらめっこ

answer ,reply , respond …
meet ,reward …demand, claim …
**********************************************************************************

A2: 〔ここには あなたの答えが 来なければいけません。
 《 ●全員は悪人だったから 当然の報いを受けた
   まず、これを肯定的に考えた場合、・・・》ではなくて あなた自身が 《肯定する》のか 《否定する》のか 
その答えを述べてくださるとよいのです。そういう仕組みで成り立っています。〕

**********************************************************************************

ほんとうにそうなのかな?

answwer だったら 上記の文にあるように YES or NO(もしくはAorB) になることもあるんだろうけど…
『この回答へのお礼』の欄がある。お礼欄って、してもらったことに対して何がしかを返す欄。
ってことは…してもらったことに報いるってことがあらかじめ要請されてあるのか?
rewardが浮上、ポイントが後に用意されていることからして、返答のない場合などに
claimがやたらめったと声あがる。meetではなしにdemandとなるのはそのせいか?
ほでも、お礼欄は単にお礼しか書いてはいけないのだろうか?
一度のやりとりで解決する場合ならいざしらず、寄せられた回答の中で何かを問われた場合
当初の質問者は同質問において次に回答者となるreply。さらにそのやりとりが続くとそれはrespond。

**********************************************************************************

 ★ 因果応報の言葉通りに「親の因果が子に祟り(報い)」とか、けったいな暗示めいた言葉による拘束。
しかし、それも畏怖として措かれた言葉であったのではないでしょうか?
本能の暴走をとめ理性を呼び起こす言葉として。
 ☆ この言葉は 被害を受けたけれども 一命は取り止めた人には通用するかも知れませんが 
では すでに亡くなった場合 その場合にも 用いようとしますか。
できないと思います。では どういうふうに考えるかです。

**********************************************************************************



●この言葉は 被害を受けたけれども 一命は取り止めた人には通用するかも知れませんが 
では すでに亡くなった場合 その場合にも 用いようとしますか。
できないと思います。では どういうふうに考えるかです。

報いるをポイントをつけると同義としたら…
質問自体が消えたらポイントのつけようがない
登録者が脱退したあとならば、ポイントをつけてもそのポイントは宙に浮く



It is impossible tosatisfy all demands.

そうであるならば、そのなかで、できることと、できないことをみつけ そこから何ができかを考える。

投稿日時 - 2008-05-07 22:53:42

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 因果ということで 多少でも安心を得るという場合
 自分のことか それとも ほかの被害者かで 話がちがって来ませんか。
 littlekissさんなら 被害者に どういうことばをかけてあげますか。

 わたしの場合 残念ながら その言葉がみつからないのです。《分からない》ということばしか 見つからないのです。
 次の文章は そういう意味ですか。

 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  It is impossible tosatisfy all demands.

そうであるならば、そのなかで、できることと、できないことをみつけ そこから何ができるかを考える。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2008-05-08 00:09:38

ANo.59

『われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか』
A:ええ、トイレットペーパーと思っている人もいるかもしれません
と投稿するのは、さすがにやめておきました(笑)冒頭から失礼、冗談は、さて置きまして
最初にお願い申し上げます。私は、こちらの質疑応答に御質問者様の完全な御満足が行くまで、お付き合いさし上げる余裕が各方面においてございません。かねてより、まことに精力旺盛な御反応ぶりに、些か気後れしておりましたこともあって、これまで御質問に参加することを躊躇っておりました。また、クリスチャンでいらっしゃるとの由、何ゆえ、こうまで異教徒の思想に拘っておられるのか、何のために、頻りと比較作業を繰り返されるのか不思議に思っておりました。
私自身は、私の罪を身代りに背負われてイエス様が十字架にかかられたと言われましても、余計なお世話である、という気持ちだけですし、実際キリスト教徒以外の者には関係ございませんのでは?
「異教徒でいらっしゃるのだから貴方に『自業自得』が及ぶ御心配など無用のはずではありませんか」で終わるところですが、そういうことではない、と仰るのでしたら今回の、この投稿に関しては、飽くまで御参考のための軽い一助に過ぎないものと思し召しのうえ御目通しいただけますよう御寛恕願い上げます。

俗に「正直者がバカを見る」というコトバがございますね。
善悪の報い、というものは正直者、「善人」なればこそ顕現するようにできているものかもしれません。なにしろ真底の「悪人」というものがあるならば、それこそ善悪の基準などというものには無縁でしょうから。

私自身は一応の仏教徒とは言え宗教全般に疎く、特別な関心もございませんが、「罪をなくすというより、苦しみをなくすことを主眼に置く」という仏教について本来は、生きている個々の人間にこそ優しい教えであるように感じております。「煩悩」というものに対する対処の仕方などには科学或いは心理学に共通した側面が感じ取れますし、そうしたことを考え合わせてみますと、いわく「自業自得」なるコトバが、煩悩に追い回される人間に更に追打ちをかけるためのものとは思えないのです。
確かに思い当たる原因が自分にないにもかかわらず理不尽を被ったところへ「自業自得」などと、まことしやかに口出しをされれば、それは、コトバの暴力、いやがうえにも憤りを募らせますが、ですから、これは、やはり、どなたかも御指摘されておられますように、他者に向かって口に出すためのコトバではなく、自虐のためのコトバでもなく、被害をもたらした者への激しい怒り等のために肝腎の我が身の心身や立場を損ねないための、「呪い」などではなく、むしろ被害者側を「守る」ためのコトバと捉えることも可能かと受け止めております。本人が、そのように捉えることで落ち着くならばですが。

原因あってこそ結果。これはヒトが最も安心を感じ、求めてやまない論理です。御質問者様はじめ一般に男性諸氏には特に顕著な、この傾向があるように見受けております。
原因など全く無くして理不尽を被る。これは実は原因があってのことよりも辛いことではありますまいか。哲学は勿論のこと諸科学の発展の動機の一つが、ここにあるであろうと察しております。
私は近頃、およそ権威的なものに対する幻滅感が少々募っておりますので、書物や専門家といったものに当たったわけでなく飽くまで自分一個の勝手な見方をしているに過ぎませんけれど。

ただ、一般的には、「今生」で起きたことは「今生」のうちにて、おおよそのところヒトにも察しがつく程度のことが殆どのようにも思います。全く本来、自分に与り知らぬことで甚大な被害を被ったというようなことは、さすがに、めったにないことです。だからこそ大概の人が、「自業自得」と聞いて自分には全く無縁のこと、と捨ておけない気分にもなるのでしょう。

所詮、我らが凡夫、「深遠な究極の法則」のことともなりますと、少なくとも現時点では明らかに確かめる術を持ちません。
思えば不思議なことだらけです。
たとえば引力の法則ですとか、ごくありふれた因果関係にしたって、結局のところ、そういうふうにできている、としか申せません。
「理不尽」「不条理」「善」「悪」これらは飽くまでヒトの価値判断によるコトバですし。。。「自業自得」というコトバに何らか価値判断の意味を持たせているのも、本当は無用なことなのかもしれません。
とは言え実際、自分が「理不尽」を他者に及ぼす側になるのと被る側になるのと、どちらがマシか?と自問してみますと…複雑ですね。及ぼす側にまわるほうが、もっと情けない気もします。

知っているために、かえって手も足も出せない理由になり得ますし、知らないから、あらゆる学問や技術を追究してやまなかった。
人間は、知らないことで或いは「憶えて」いないことで、かえって救われていることもあるんじゃなかろうかと思います。
あ、「知らぬが仏」というコトバもありましたね(笑)

下記URLはWikipedia『創発』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E7%99%BA
                         

投稿日時 - 2008-05-07 11:41:33

補足

 noname002さん ご回答をありがとうございます。まさかnoname002さんが わたしの質問に回答なさるとは思いも寄りませんでした。せっかくですから しっかりとお応えしてまいります。

 かんたんな場合には くどい説明を省いても分かると思います。
 ☆ 神が 自分勝手に 十字架上に登って 死に就いたのです。そうでなければ 神と言えません。
 →《Q:イエスの救いの本質は= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3912520.html 》その ANo.10に書いたものです。
 ほかに 《身代わりの〈いけにえ〉としてではない》とも論じています。No.3&6&10&12&14がわたしの回答ですが ほかの方の回答内容もからんでいるので 長いですが 参照されるとよいでしょう。

 ☆ 岩井克人は 《日本人の世界宗教性のなさ》を指摘し 《日本人〔は〕世界的な意味でコミュニケーションを拒否している》と言います。そういう場合は 《人間以前である》と表現しています。
 →《Q:日本人は 人間ではないでしょうか= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3893969.html 》その質問趣旨の中。

 ★ 創発 の問題
 《セル・オートマトン、ライフゲーム――非常に少ない要素数・層数ですら創発が起きる例》にかんして 
 ▼ 大切なことは、要素(ここでは黒点)がわずか数十個存在するだけでも創発が起きている、ということである。
 ☆ と言っていますが これは 《誕生・維持・死亡》という《3つの単純なルールだけで作動している》からではないですか。
 つまり 《身に覚えのない事柄 あるいは 部分的にしか知りえていない因果関係にかかわる事柄》 これらが 現実に起こり得るというのは 《ルールがあるのに それに反すると受け取らざるを得ないかたちで 起こる》という事例です。この創発の例は 《ルールがあり ルールどおりに 現象している》場合ではないですか。

 * あとは 補足要請に応じていただける余裕が出来たとおっしゃった時に くわしくご返事をさしあげることにしましょう。
 ですが だいたいは これまで寄せていただいたご回答とそれをめぐるやり取りで 触れているとも思います。
 ★ 《「理不尽」を他者に及ぼす側になる》よりは 《被る側》になるほうが まだ ましである(要約)
 ☆ これは 新しい見解であるでしょう。ただ わたしは このような言葉で 被害者やその遺族をなぐさめる勇気はありません。

投稿日時 - 2008-05-07 13:42:38

ANo.58

こんばんは、brageloneさん。

●ここには 問いと答えが書き込まれていくのです。

( ^-^)/質問!↑先の文に「ここには 問いと答えが書き込まれていくのです。」とありますが

文中の『答え』は『応え』では? そじゃないとしっくりこないよ。

〇×の正解、不正解だったら、問う以前に答えがあるみたいじゃん。

ならば、答えをもってるのは誰?

そうではなしに、わからないから問い応えてそうしていくなかで

何かをみつけていくんじゃないのかな。

文中の『答え』は『応え』では? 

投稿日時 - 2008-05-07 01:05:02

お礼

 ご投稿ありがとうございます。

 ★ 答えをもってるのは誰?
 ☆ 答えを投稿するのが 回答者です。その回答の内容について 質問者はさらに理解できるようにと 問い返しをもって応答することがあります。

投稿日時 - 2008-05-07 07:11:44

ANo.57

> でも 責任追及は もういいでしょう。(なかったかも知れませんから)。では 仏教者だろうがなかろうが どうするかです。輪廻論者に対しては その輪廻思想を できるだけ 明るい展望の開けた歴史観へと 宗教改革していただくよう お願いしたいですよね。

いつか、別項目で、新たに考えたいと思います。

仏教(ないしキリスト教だろうがなんだろうがどんなテクストだろうが)があろうがなかろうが関係ないんじゃないかなぁと今の私は思っていますので、「宗教改革」あろうがなかろうが、関係ないと今の私は思っています。(宗教改革はものごとを悪化させることはあっても、改善はされないと思っています。)

まだ、考えが練れていませんが、

単線的な原因-結果の系列(シリーズ)でものごとを考えるという、宗教には無関係ですが、宗教ではなくて、そのような一般世間の慣習、考え方というのは、日本では明治維新以降のものではなかろうかと思っています。

そして、単線的な原因-結果の系列(シリーズ)でものごとを考えるという世界観は、多分、終戦かバブル崩壊かで、だんだんになくなりつつある世界観ではなかろうかとも思っています。

私は、子どものときから、「なんにでも理由がある」という物言いは大嫌いでした(^0^;)。そんなことないだろうと。いや、人生の5%くらいのことには、ほぼ単一に近い理由は考えられると思うのです(^o^;)。近代西欧自然科学分野で、取り敢えず仮設定であれば、まあ、これこれを理由とみなすというのは、その範囲では、仮設定ですから、良いと思うんですね。ですが、「なんにでも」というように全部にといういわれ方には、まあ、若かったから、他人の言うことに対する自分のキャパが小さかっただけなんですが、大変、違和感を感じました。

逆に、人間は何の意味も価値も与えられずに産み捨てられて、全ては待ったく偶然に起こり、そして、人は完全に無意味に死んでいくと言われても、それはまた別の意味で極端で、そのような極論に完全に心の底から納得することは、人間、誰にとっても難しいことではあるわけで、それはそれで、極端、極論で、×とは思いますが。

投稿日時 - 2008-05-06 22:02:23

お礼

 そうおっしゃるんでしたら ふたたび応答が始まりますよ。

 (1) 《宗教改革》ということばは よくなかったようですね。
 むしろ こちらに都合のよいように 改革して欲しいと問いかけていくということでした。

 (2) (あ)相互依存の錯綜的な関係構造――つまり 縁起――が 基礎だというのは まづ 普遍的に認められるのではないでしょうか。
 (い)そこで《相互依存》するのは何かといえば 行為であり広義の表現だと思います。
 (う) だとすると その行為の主体が その表現において 言語を用いたばあい 《わたしはうんぬん》というように自己に言及して述べるかたちを採ります。ということは その限りで 主体の問題が (あ)の関係構造に さらに付け加わるように考えられます。その程度や内容について 議論が出るのでしょう。
 (え) そこで 直線的な時間観なり あと 何かありましたかねぇ 円環的なそれ。あるいは 線分を 一生の帯域としてのごとく 取り出す場合。などなどが 上の《関係構造と行為主体》なる社会のあり方に それぞれ 整合性をもって どのように 組み入れられるか。また 現世以外は 無記というのもあるでしょうし(これが 線分史観でしょうか。うろ覚えのまま 書いています)。

 (3)★ ・・・全ては待ったく偶然に起こり、そして、人は完全に無意味に死んでいくと言われても、・・・
 ☆ 別の極論をしましょうか。
 つまり すでに出ている《風の理論》です。
 《風は気ままに吹く》 この風のもとで じつは 最終的には 人間の自由意志が かえって 立てられるというウルトラ理論です。時間観=史観としては 《最後の敵として 死が滅ぼされる》ことになります。このまぼろしを見ようとしているというわけです。

 うんぬん。うんぬん。話は尽きませんね。

投稿日時 - 2008-05-06 22:52:17

ANo.56

> otherwindさん きわめて分かりやすく はっきりとしたご回答をいただきました。ありがとうございます。

こちらこそ、有り難うございました。

投稿日時 - 2008-05-06 21:31:48

お礼

 お世話になりました。
 また お世話さまになることを狙っておりますが。願ってというべきですね。・・・


 * 次のご回答が投稿されているのを知っていて 書きました。

投稿日時 - 2008-05-06 22:33:21

ANo.55

> 輪廻思想が 現代日本人の気力の無さにどうかかわっているか。それは サリンばら撒き事件の被害は 自業自得と見なされるとしたら そうなりませんかです。

仏教があってもなくても、無気力な人はいると思います(^0^;)。

仏教は何の関係もないと思います。

一人一人の受け止め方だと思いますね。

( 1) 先ず、いまここで自分が善をなすことが将来自分も幸せになることであるという未来志向に解釈するか、いまここで自分ができることは過去に既に100%制約されているから、何をやっても無駄であると思うか、それは、どういうテクストがあろうがなかろうが、自分がどう思うかだと思いますね。これは、ものごとに理由があると思いたい、ものごとが全く不条理に偶然で起きているとは思いたくない(思考不可能)、ものごとに意味を見出したいという心の動きであり仏教があってもなくてもつねにあると思います。輪廻という単語がなくてもあると思います。

( 2) ある事象が認識された場合、過去にX1があったから、X2があったから、X3があったから……と、理由なるものは事後的にでっちあげとして、虚偽意識として無限に考えられます。多重決定/過剰決定されている、つまり、決定されていません。これも、仏教があってもなくてもつねにあると思います。輪廻という単語がなくてもあると思います。

( 3) すべて自分の認識の問題ですので、===実際には===、自分が善行の結果であると思うことは他人に横取りされませんし、自分が失敗だと思うことも他人にかぶってもらえません。他人がひどい目にあっているときに自業自得だよと思いたいのは、自分はそういう目に合わないと思いたいという人間の心の防御メカニズムに過ぎません。で、この心の動きですが、仏教があってもなくてもつねにあると思います。輪廻という単語がなくてもあると思います。

投稿日時 - 2008-05-06 11:45:56

補足

  otherwindさん きわめて分かりやすく はっきりとしたご回答をいただきました。ありがとうございます。中だるみが――ご回答として 質問に直結するかどうかに関しましては――あったかに 失礼ながら 思います。

 百尺竿頭に一歩を進める〔これでよかったですか。ロウ(漢字は入力しえず)を得て蜀を望む〕を願ってつづります。

 Q:輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか

 A:~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ ( 2)  ある事象が認識された場合、過去にX1があったから、X2があったから、X3があったから……と、理由なるものは事後的にでっちあげとして、虚偽意識として無限に考えられます。多重決定/過剰決定されている、つまり、決定されていません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 無限判断 このことを わたしも 別の質問《Q:日本人は 互いに相手を神と思っているか》で得た回答を読んで 思いました。軌を一にしましたね。(《登録》は このotherwindさんのご回答が先です)。
 つまり そちらのほうでは 《言葉を口に出すと その言葉の内容が 実際に現実になる》という意味での(つまり わたしから言わせると インチキの)《言霊》思想(したがって 《言霊もどき》)では やはりあたかも輪廻思想のごとく 原因と結果とのつながりを どこまでも問い求めていくようなのです。
 怨霊思想ともつながっているようで 菅原道真の霊が癒やされていないから われらに禍いが起きると考えると 禍いが止むまで その霊をとむらうために神社にまつり供え物をささげるという・そういうかたちの因果応報が 歴史的な現実であったと言います。
 或る時点で被害に遭った。そうすると この事態の原因を――ちなみに これは けっきょく 広く《占い》の問題ですね―― どこまでも追っていく。対応する内容の原因が見つからなければ 当然のように 前世にまで向かうということのようです。そんな過去は もう身に覚えがないのですから 結局 限りなく追求は続きます。(占いなら おっしゃるように 適当に その原因をでっちあげて説き明かそうとすることでしょう)。
 つまり 無限判断 つまりその悪無限の問題です。ふつうの《無限》なら 早い話が 《神( Acts of God )》を持ち出して 《なぞ》であると説きます。輪廻転生を前提にすると 業は 限りなく永遠に 原因を探し求めるでしょうし 同じく無限に結果は来世にも続くと言うことになります。《因果応報に例外はない / なぞはない》というところに 悪無限が起きます。
 少し 疑問を発するなら このとき
 ★ これも、仏教があってもなくてもつねにあると思います。輪廻という単語がなくてもあると思います。
 ☆ というotherwindさんのご判断は どうでしょう。三世両重の因果とかいう説も 仏教にはありましたよ。《天網恢恢疎にして漏らさず》と言えば 無差別犯罪に遭った場合 その場合も 《天罰》だ・自業自得だと見なされないとも限りません。仏罰という言葉とともに この因果応報の考えは 深く人びとの心に滲透したのではないでしょうか。

 でも 責任追及は もういいでしょう。(なかったかも知れませんから)。
 では 仏教者だろうがなかろうが どうするかです。
 輪廻論者に対しては その輪廻思想を できるだけ 明るい展望の開けた歴史観へと 宗教改革していただくよう お願いしたいですよね。
 そして これは 擬制の言霊(言霊もどき)の思想 あるいは 風水・占い・いまは スピリチュアルと言うのでしょうか のたぐいにもかかわっています。いえ そのものと言ってもいいはづです。(そもそも 占いというのは 職業の自由で守られるべき職業なのでしょうか)。
 もし仏教をお白洲に引き出すとするなら やはり オウム教理のポア思想ではないでしょうか。それに関する公式の見解を出しておくべきではないでしょうか。

 * ANo.50に《 因果応報の言葉 ・・・も畏怖として置かれた言葉であったのではないでしょうか?》と聞けば 少し飛躍しますが 《輪廻》が 悪無限ではあっても 《無限》を扱うというところで この《輪廻と業との因果応報》の《ゲンリ》は 或る種の仕方で 人びとにとっては 少なからず《神》だとして受けとめられているのではないかという そんな気遣いは無用なのでしょうか。人びとを軽んじているでしょうか。

投稿日時 - 2008-05-06 14:20:49

ANo.54

補足がよく理解できず、他の方の回答、補足、お礼もやっぱり読んでいないのでピントはずれでトンチンカンな回答になると思いますが簡単に述べます。

たしかに仏典を読んでいると、「現世で悪業を為すのは前世の業による」といったようなことを釈迦が説く箇所が多数出てきます。
この矛盾を簡単に説明するとやはり方便ということになるでしょう。
しかし、釈迦は輪廻転生を積極的に認めていないというよりも否定的でした。輪廻転生説を成り立たせるためには善因楽果・悪因苦果である必要があります。先にも述べたとおりインド哲学で因果とは本来、原因・結果を意味するだけのものであったのですから、釈迦が何を考えていたかは推測できます。
釈迦以前、善因・悪因の考えがインドで定着したのはバラモン教中期頃のことにすぎません。

この善因・悪因を、人を導くための戒めとして用いるのも方便としてはありでしょう。
しかし、先にも述べたとおり善悪はそれぞれの価値観に過ぎず、普く絶対的基準ではありません。



大陸の仏教者と話をしていると所謂自業自得の考えは、特に日本における考え方であると理解することができます。
所謂自業自得を悪人を導くための戒めとして用いるのも方便として尚更ありでしょう。
しかし、犯罪の被害者を所謂自業自得と非難するのは見当違いです。否、因果応報には違いないのですが。

文法を無視して釈迦の視点で自業自得を解釈してみると、
「自分の行い(業)は影響する(得)。」
って、ところでしょうか。
しかし、この自業自得は間違ってはいないものの、
「実体のあるものは存在しない。」
と同様で無意味です。

この自業とは、あくまでも自分の行いでしかなく、犯罪の被害を受ける直接の原因(被害者の責任)を意味するものではありません。
たとえば、サリン事件の被害者の自業とは、いつもと変わりなく地下鉄に乗っていたということであり、その業に善悪は存在しませんし、被害者に責任もありませんが、因縁によってサリンの被害を受けました(結果)。この業も、因縁・因果による必然です。被害者は前世で火中に身を投じたウサギだったかもしれません。

もちろん、ここで述べている因果とは、因と果の関係を分析して具体的に導き出せる経緯ではありません。また、因果関係を証明する必要もありません。その結果は必然であったと認識する要因であることを意味します。
因果応報を善因楽果・悪因苦果と解釈するのは執着です。否、因果応報には違いないのですが。


さて、前置きが長くなりましたが本題に入ります。
 自業自得が全てでは無いので、納得の行かない不幸な結果は自業のみに因るわけではありません。
 因果応報説一般について仏教では善因楽果・悪因苦果とすることを肯定していませんし、積極的に否定する必要性が見当たりません(先に二度述べました)。一般論と仏教は違います(わかってないお坊さんも多いですが)。
 因果関係論は普く絶対的真理論であり(もちろん、真理ではないということ)、“倫理的”な普遍法則ではありません。
 普遍法則として 因果応報を決まりきったかたちで 共有する必要はありません。この法則は“一切智”や、……略……。
 不幸な出来事の被害者になった人の場合 それまでに衆生済度の誓願を あなたは 自らが 起こしたからこそ その結果として また方便として 受けたのですよ。さあ 勇んで 菩薩行に進んでまいりましょうとは言いません。なぜなら、本当の菩薩行が如何に難しいかをそのような方便で説くことはあっても、そもそも仏教はそのような残酷で意地悪な教えではありません。もっとも七仏通誡偈に感化されて「自分は善人である。」と勘違いしてしまう者も多いぐらいですが。

それと、間違えてはならないのは現世で人間ごときに生まれてしまったのではなく、前世の尊い功徳によって現世も人間に生まれることができたのです(輪廻を前提とした場合)。



恒例(?)の余談です。
仏教は現実肯定です。因果律により、なにもかも、成るべくして、成るように成っており、全ては実相です。

慈悲も煩悩であり、煩悩即菩提が成り立ちます。

当然ながら、自分の身の上に起こる事象は、全てが自業に因るわけではありません。因縁により他人の業や自然現象も影響します(これを自業とする派もありますが)。
しかし、自分の業は自分に帰ってくることが自業自得です。

仏子、道を行じおわりて、来世には仏と作ることを得んと・・・



この続きは銀座あたりで一杯やりながらしませんか?
具体的にお話ししたいことがあります。
因縁・因果、因果応報を証明してみせましょう。

トンチンカンな回答ですがココではこの程度でやめておきます。

因果応報を仏教で修めるのではなく哲学で納得しようとすると思想と思想がぶつかるか平行線のままでしか無いので適当にしておかないと延々と終わりませんよ(中村先生ともずいぶんヤリあいましたよ)。



ゴキゲンヨウ! (^^)v

投稿日時 - 2008-05-06 01:10:09

補足

 susiddhiさん 再度のお教えをいただきありがとうございます。
 今回 《議論の範囲内のこと》と《議論を超えるこ》とがあるということ この当たり前のことがよく分かったと思いました。所以 我非常感謝□(nin)。

 この地から銀座は遠く 以前は お相伴でかなり行けたのですが いまは ちょっとむつかしいようです。とりあえず このこともお伝えいたします。

 自然現象にかんする自然科学による因果関係の解明は それとしての(経験科学としての)妥当性を持った真実を示す。
 社会現象は 人の思いとその表明とさらに実行とが(=以上 つまり 業が) 入り組み錯綜し この時空間に関係構造(構造的な関係)を成している。
 このとき もしそれでも 社会行為にかんする因果関係を解明しようとするなら
 (1) 個体の業は 身におぼえのあるもの(因)であるなら その結果が かなりの対応関係において 解明しうると言えるかも知れない。
 (2) 身に覚えのないものについて そして 個体からいくらか広げて一定の単位の人の集まりについて 考えてみるなら 特定の業にかんして 因果関係を 説明しうるかも知れない。けれども もう複数の人間にかんすることである限り また 個体の意志を離れたことである限り それは 方便として言うのである。たとえとして 因果応報と言ってみるに過ぎない。
 (3) 一人の個人をとってみて 身に覚えもなく まったく知らない人から 楽ではなく苦と言わざるを得ない結果つまり被害を受けたという場合 それは――とうぜんのように―― 社会的な業の錯綜する関係構造において もしするとするなら 解明せねばならない。実際には むつかしい。つまり 無理であろう。

 こういうまとめになりました。
 そして (3)の事項にかんしては けっきょく 次のような見方と同じ趣旨であると解釈してよろしいのでしょうか。よろしかったら 然り もしくは 否(このときには 簡単にその理由を)で 再再度になりますが お答えいただければと存じます。
 《風の理論》と名づけたものですが つまり結局のところは 《分からない(あるいは なぞである)》という結論なのですが
 ( a )《生まれつき目が見えないのは・・・本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(ヨハネ福音9:2-3)〔ANo.18〕

 ( b )《わたし(神)はヤコブ(双子の弟)を愛し エサウ(兄)を憎んだ。》〔その出生の前つまり 善も悪も行なっていない時からという。〕(マラキ書1:2-3)

 ( c )《わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、
   慈しもうと思う者を慈しむ。》(出エジプト記33:19)
  *〔 ( b / c )ともローマ書9:10-16に引用あり)

 ( d ) 《 風は思いのままに吹く。》(ヨハネ福音3:5-8)
  *〔以上 ( b / c / d )は No.30お礼欄〕

 これで ひと区切りを打てるでしょうか。まだでしょうか。 
 つまり susiddhiさんも
 ★ 被害者は前世で火中に身を投じたウサギだったかもしれません。
 ☆ というようなことをおっしゃるから ややこしい。うぅーん。

投稿日時 - 2008-05-06 09:23:25

お礼

 《風》の理論の補足――日本語編――です。大野晋(古語辞典)から 抜き出します。

▼ わざはひ【祥・災・禍】
 《ワザは隠された神意の意。ハヒはサキハヒ(幸)・ニギハヒ(賑)のハヒに同じ》
 (1)いましめる神意のきざし。(用例略)
 (2)悪い気配。妖気。 (3)災難。
 (4)何とも仕方のない やりきれないめぐりあわせ。
▼わざうた【童謡】
 《ワザは隠された意味の意》
 政治上のことなどを風刺する歌。落首。児童に歌わせたので《童謡》と書く。
▼わざをき【俳優】
 《ワザ(業)ヲキ(招)が原義》
 (1)神意をうかがい寄せるために 神前で種種の芸をすること。また その人。(用例に アメノウズメのミコトが天の岩窟戸の前での踊り)
▼ことわざ【事わざ】
 《コトは人間の行為。ワザは 隠れた意味のこもっている行為》
 (1)行為。しわざ。(2)仕事
▼ことわざ【諺】 
 《コトは言葉。ワザは隠れた意味のこもっている行為。コト(言)のワザの意》
 世人の習慣や経験によって獲得された認識を 言葉に寓して人に教えるもの。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《わざはひ》とは 《秘められた神意の現われ》というのが語源であると考えられよう。つまり何かの天変地異などが起こったとき 当時の人はそれを 神の意思の顕現と受け取ったのである。たとえば 『日本書紀』欽明天皇条に

   妖祥(つちのわざはひ)は 人間の行動を戒めるしるしであり 
  災異(あめのわざはひ)は人に正しい悟りをさとらせるきざしであ
  る。それは 万事をしろしめす天や 先祖の霊が人間に与える警告
  である。

という趣旨の文がある。これこそ わざわいを神のしらせ 神の警告と解した 当時の人の気持ちをそのまま表わす文章といえる。このように見てくると わざわいが今日でも 単なる不幸な出来事というよりは その後ろに 人力の及ばない 何か不気味な怪しい力のはたらいている凶事という感じがすることの由来が分かる。
 (大野晋:『日本語の水脈』3〈生きる〉の項)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 このような指摘が見つかりました。
 つまり 依然として 《自業自得か?》に対して いまの答えは《分からない》ですが たぶん こういう歴史的な基礎が いまも 土壌になっているのでしょう。

投稿日時 - 2008-05-06 20:10:38

ANo.53

こんばんは、brageloneさん。

≡≡≡ヘ(o^-^)ノほーい、かえってきたべー

ANo.50にめをやれば…お礼という名の怪文?が置き手紙のようについていた。

なんじゃこりゃ??? しばしにらめっこ。

はは~ん、OK OK 了解しやした。

そでもね、《 われわれは 撞球の球かいな。》←ココを目にした瞬間ノドをチョップしつつ
“ワ・レ・ワ・レ・ハ…”って声に出して読んじゃった。 ちょっと ちょっと ヾ(-_-;)
http://www.hqrd.hitachi.co.jp/em/movie/doubleslite-n.wmv
はぁー。。。と、ため息ひとつ。
「宇宙人とコンタクトかよー!!」とパソコン画面に向かい突っ込みひとつ。
けっこうおちゃめですね。イイ線ついてます。BGMにB'z『さまよえる蒼い弾丸』
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND10260/index.htmlいいですね~♪(*^^*)v
http://www6.ocn.ne.jp/~kishi123/page060.html

おっと、あぶなく忘れるとこだった。メモっとこ。

【キハジによる定義】
まずは小学校でも習う、速さ=距離÷時間です。この式の"距離"は、
同じくこの式の"時間"の間に進んだ距離であることは当たり前です。
しかし複雑な問題になるとつい忘れるので注意。あと、これで表されるのは
あくまで速さであるので、速度を表すには、進んだ方向を考えて付け加えな
ければいけません。

【公式1:速度の定義】
http://www.netlaputa.ne.jp/~m-yuki/physics/formula01.html
【第四節 用語と公式】
http://www.netlaputa.ne.jp/~m-yuki/physics/physics4.html
【第4節 ドップラー効果】
http://www.keirinkan.com/kori/kori_physics/kori_physics_1_kaitei/contents/ph-1/4-bu/4-2-4.htm
【波動の人間学】
http://www.alphacom.co.jp/science_files/Science57/science57_2.html


●全員は悪人だったから 当然の報いを受けた
まず、これを肯定的に考えた場合、被害者集団Aが悪人となるのはどんな場合が想定できるだろうか?満たさなければならない条件、全員が悪人であること。全員に共通していることは何だ?うん、人であるってことかな。人が生き暮らしていくってことは、否が応でも生産と消費を繰り返す。それなしには生きてはいけぬ。人自身が、この世の害悪ちゅうたら害悪なんかもしれん。それは、被害者集団Aのみにかかわらず、人、人間のの存在自体が
自然を破壊する破壊者に値するのかもしれない。だとすれば、誰、何からみて被害者集団Aは悪人となるのだろうか?存在の問えない相手、自然ではないだろうか。人間(被害者集団Aも含む)は、自然を破壊した。自然は人間(被害者集団Aも含む)によって破壊された。自然という名の姿なき被害者がここにひとつ浮かび上がってはきやしないか。

で、

●一切同情は無用〔である〕。
●助ける必要はない〔・・・〕。

仮に自然に声があったとしたら、自然の側からそのような声もまたあがりもしよう

が、

自然に対して人はある意味ちっぽけです。自然からみれば塵にも満たない存在の人間。『一寸の虫にも五分の魂』の虫を人と。ちっぽけな存在ではありますが、時にハゲ山にコツコツと木の苗をひと株づつ植え山に緑を蘇えさせたりと自然に寄与する者、これもまた人なのです。コレに同じく、人(被害者集団Aを含む)から見れば、自然もある意味、姿なき破壊者ともなりましょう。しかし、自然の恩恵というのでしょうか、季節ごとに様を変え多彩な風景を愛でる楽しみを与えてくれます。 どちらも功の面と罪の面を持ち合わせているのではないでしょうか。だとすれば、●一切同情は無用〔である〕。●助ける必要はない〔・・・〕。←どういう場合にこのそれぞれが適用可能となるのでしょう。

投稿日時 - 2008-05-05 21:28:45

お礼

 littlekissさん ようく聞いてください。
 ここには 問いと答えが書き込まれていくのです。

 Q1:輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか

 A1:人は,何か事が起きると直前の出来事と結び付けてしまいがちなものです、が、めっちゃめっちゃ遠いところからモタラサレタ事象であったり、ただそこに居合わせた、単なる飛ばっちりを被っただけなのかもしれません。

 Q2:その《飛ばっちりを被った》ことは 自業自得ですか。=《全員は悪人だったから 当然の報いを受けた》ということになるのですか?
 A2: 〔ここには あなたの答えが 来なければいけません。
 《 ●全員は悪人だったから 当然の報いを受けた
   まず、これを肯定的に考えた場合、・・・》ではなくて あなた自身が 《肯定する》のか 《否定する》のか その答えを述べてくださるとよいのです。そういう仕組みで成り立っています。〕

 ★ 因果応報の言葉通りに「親の因果が子に祟り(報い)」とか、けったいな暗示めいた言葉による拘束。しかし、それも畏怖として措かれた言葉であったのではないでしょうか?本能の暴走をとめ理性を呼び起こす言葉として。
 ☆ この言葉は 被害を受けたけれども 一命は取り止めた人には通用するかも知れませんが では すでに亡くなった場合 その場合にも 用いようとしますか。できないと思います。では どういうふうに考えるかです。

投稿日時 - 2008-05-05 22:24:01

ANo.52

ちょっと話題がずれるので、分割します…

> ましてや、解脱というのものが不可能ではないのかと思えば、なおさらです。
> しかしながら、どうでしょうか、容認と捉えるのも、解脱が不可能と考えるのも、100%われわれ受け手の側の選択なんじゃないでしょうか(^o^;)。

たとえば、私が、まあ2歳くらいから、思っていることは、多分、人間が全員思っていることだと思うんですが(いや、語彙の問題はありますよね。二歳で今と同じ語彙を持っていたとは言ってません。しかしながら問題の所在としてはずっと通底するものはあると思っているだけです)、人間というものを、人間の言語を喋るものであると定義した場合にですね、抽象的思考をしますよね、ですから、人間は”必然的に”形而上学的になるのであって、人間は、必然的に全員、観念論者になってしまうのではないのかねぇ……と思うわけですよ。

すると、真如というのはですね、どうなのかなぁと(^o^)。

人間止めますかと言われているような気がするんですなぁ…(^o^)。

輪廻からの解脱ということを、ものごとにはなんでも理由があるんだよという勝手に理由を作るという考え方そのものを止めなさいと取るとですね、それは無理なんじゃないのかねぇと(^0^;)。いや、ものごとそのものに理由は確かにないだろうなぁとは誰でも疑念を抱くと思いますよ。勝手に主観的に理由付けをしてるよねとは誰でも思う。そんなことは気付きとかさとりとかではなく、誰でも2歳で思いますって。だけど、原因と結果の連鎖として、勝手に、見ることで、世界が意味のあるものとして現象している場合、それを止めろと言われても、それなら世界が消失してしまうじゃんという(^0^)。少なくとも意味は消失するんじゃないかなぁと。

仏教を非難する気持ちは私にはゼロであるという点はもしかするとちょっと違うのかもしれないですが、問題の所在は通じるものがあるんじゃないかなぁと思っているわけです。

(言い換えると、仏教が悪いなら、フロイトもマルクスもフッサールも悪いというか同じじゃんと。フッサールだけは違うとか、私には思えないんですよ。)

いや、仏教の場合、ヨガとか禅とかあるわけで、それをやったことなしに言ってはいかんよ、と言われれば、まあ、その通りなんですけどね。

ただ、やったことなしに言うことにはなりますが、たとえば、自分がちょうどぽっかり浮かぶだけの浮力がある溶液、自分の体温に調整された溶液が入っている、カプセルに入って、蓋を閉めて、光や音も遮って、要するに知覚器官へのインプットを極力減らせば、映画2001年宇宙の旅のような映像、宇宙や銀河は、誰でも見れるんじゃないかなぁと思うわけです。いや推定に過ぎません。経験ないです。ないんですが、もしもそうであれば、そういう、何と言っていよいのか、自分の神経インパルスみたいなものを見たとして、だから何なのかという(^0^;)

それよりもお釈迦様がアーナンダさんにでしたか、お友達(善知識)と対話するということが、仏教のすべてである、という一言に仏教は尽きるような気がしますね。

唯一無二の真理、絶対の正解があるんじゃなくて。

投稿日時 - 2008-05-05 09:34:00

補足

 otherwindさん いままで 仏教という立ち場でいらっしゃると思っていたのですが ちがうのですか。それはそれでいいのですが。
 たとえ《観念論》になっても 論点ははっきりしていますから しっかりと答えてくださいな。

 《Q:輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか》

 つまり 今回のご回答によれば No.50のお礼欄に書いた内容をそっくり繰り返さなければなりませんよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 No.7のkigurumiさんの文章を借りて 編集しますと
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    「サリンの被害者、
   スマトラ島沖地震の被害者、
   阪神大震災の被害者、
   原爆の被害者、
   戦争の被害者〔は〕 

    全員は悪人だったから 当然の報いを受けた

   ので、一切同情は無用〔である〕。
   助ける必要はない〔・・・〕。

    〔そうではなく それらの人びとには〕
    《悔い改めよ》
   と鞭打つことで、鞭打つものは感謝されるべきなの〔である〕」
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
という内容を容認していることに通じますが そうなのですか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 今朝の新聞記事にこうありました。
*************************
 心理学に《学習性無力感》という言葉がある。気性の荒い魚カマスとえさの小魚の間を透明の板で仕切る。カマスは体当たりを繰り返すが 無駄だと分かると板を外しても小魚を狙わない。《何をしても仕方ない》。忙しさに追われ 息切れムードが広がる職場の姿に似てはいないか。
 実験には続きがある。別のカマスを水槽に入れるのだ。猛然と小魚に襲いかかる様子に 無気力だったカマスが目を覚ます。外から飛び込む刺激は活力を取り戻す即効薬になる。(日経)
***************************
 ちいさな風穴を開けてまいります。

投稿日時 - 2008-05-05 11:19:28

ANo.51

おはようございます。

> このような物言いは わたしは――自慢ではないですが ということは 自慢したいということになるかも知れませんが―― 小学生の頃から 感覚的にしろ 言論としてにしろ 持っていましたし 周囲には 折り折りに 言って来ました。

このような物言いは 地球上の人類の全てが 小学生の頃から 感覚的にしろ 言論としてにしろ 持っていましたし 周囲には 折り折りに 言って来ている と思いますので 自慢にはそもそもならないので 大丈夫ですよ(^o^;)。

要するに、真面目というか真摯に生きている、悩んで生きている、というだけなので、それは人間全員が同じでしょう(^o^;)。

決して悪いことでもなければ自慢にもならない、なんでもないと思います。心配することは何もないと思います。

さて、現代の日本のあれやこれやの仏教宗派のお坊さんが、仏教における輪廻の意味ではなく、全く異なった意味で輪廻ということばを用いて、人を苦しめているという状況がないのであれば、現代の日本の仏教には、非難されるべきことがそもそもないことになるわけなので、輪廻という、言われていないことを話題にしても仕方がないように私は思いますが、輪廻という言葉を離れて、仏教というものは一般に、いまある実際の状況というものを容認しがちなんではないかという疑念ということであれば、そういう疑念は有り得ると思います。

仏教の場合、超越的な宇宙創造神が、宇宙の外部にあって、普遍的な善悪を判断してくれるということがないですよね、仏教の正にそこのところが、仏教一般が、いまある実際の状況というものを容認しがちなんではないかという非難が有り得る点だと思います。

その一つの例として、いまここの問題ではないが、昔のインドでは輪廻という世界観が謬見としてあって、それは仏教から見て謬見ではあって、ありうべき理想の世界観ではなかったものの、しかしながら、当時の仏教は、当時のインドの一般大衆の物の見方としては語っているわけですよね。まず、現状はこうだよね、とは言ってはいますよね。それは謬見であり、あるべき理想とは言ってはいなくても、現状としては先ずは押さえてはいますね。

現代の日本では、そもそも一般大衆の世界観が輪廻ではないですから、輪廻と言う必要がないから輪廻と言っていないだけで、もしも、現代の日本で輪廻が一般大衆の世界観であったとするならば、やはり、現代の日本の仏教も、現状、謬見であって、乗り越えられるべきものとしてではあっても、現状として、善悪というのは、自己中心的な、自己保存衝動における、主観的な好き嫌いでしかないよね、で、その好き嫌いの判断、快不快の判断、自己中心、自己保存、自己愛というのは、世間一般の常識としては、あることになっているよね、と、言っていると思いますね(^o^)。

そういう現状をふまえて……、でもよくよく考えてみると、好きと嫌いと分けているのは、それは言語的思考によるもので、言語があるからで、言語は虚構であって、本当に、一刹那しかない、無限小の時間しか持続しない知覚に対して、私はほにゃららはすきくないんだよね、と言っているのは、それは、本当に本当では有り得ないし、更によくよく考えてみると、人間は、あたかも自分というものがあって、そして自己中心的にあれるという仮説を立てているんだけれども、それって、本当?自分が何をしたいか、自分にとって何が快であり、何が不快であるか、端から自分は知っているという大前提があるわけなんだけれども、本当に知ってますか?知らないよね、有り得ないです。つまり、人間は、原理的に徹底的に他者中心的なんだよ…みたいなことをやはり言っているのではないか、それは言っていると思いますね。(まあ、実際、そうなわけではないですから、推定にはなりますが、当たっていると思います)。

それを容認と捉えるということは有り得ると思います。

ましてや、解脱というのものが不可能ではないのかと思えば、なおさらです。

しかしながら、どうでしょうか、容認と捉えるのも、解脱が不可能と考えるのも、100%われわれ受け手の側の選択なんじゃないでしょうか(^o^;)。

投稿日時 - 2008-05-05 09:16:17

補足

 おはようございます。(きょうは 寝坊しました)。

 ご回答を受け 議論〔ではなく 答えを求めての応答なのですが あたかも議論〕が本格的に再開したかのようですが 微妙に焦点が食い違っているようにも思えます。
 otherwindさんは 視点を宇宙に拡げすぎです。わたしも物の言い方が抽象的になっていますが 論点(疑問点)は けっこう明確ですよ。
 わたしが小さい頃から行なって来た世間に対する物言いの内容が 伝わらなかったこと そして 仏教に対する不満のやはり内容 これらを説明するのに いいと思われますので 次のようなわたしの文章をまづ掲げます。《ちいさな風穴を開ける》と述べたこととの関連です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人には 他人の注目を浴びてこそその力を発揮するという性格の人がいます。
 その昔 そういう性格の人とそうでない人との間に 出会い・協力・対立・確執などいろんな交通が繰り広げられました。前者の性格の人は 結局のところ 実力もあり 謙虚にもなり 社会に有用な人なのですが 自分が 親分でなければ どうしようもなく 生きていけないといった一面も持っています。
 やがて 一般の人びとは そういう実力者の種族をアマテラスと呼び 自分たちスサノヲとは かれらを区別するようになり 確かに かれらアマテラス族を 敬いつつ遠ざけようともするようになりました(国譲り)。
 敬遠の結果は かれらを 二階へ・また雲の上へ挙げ たてまつることでした。社会が 一般市民の生活の場としてのスサノヲ圏と そして指導層のアマテラス圏といった二階建てになったわけです。
 (ただし おどろくなかれ アマテラスだろうが スサノヲだろうが 人は みな 万世一系として世代を継いで来ています。男系の一家系としてただちに明確な記録のかたちを取ってはいないかも知れませんが。しかも アマテラスとスサノヲとは 実の姉と弟です)。
 けれども悪いことに われらスサノヲは自分たちの自分たちによる共同自治を 放棄してしまいました。アマテラス族が やらせてくれ・全部まかせてくれと駄々をこねたからですが これ以後というものが いけません。
 その後 歴史は移り スサノヲ主権という民主主義を社会が標榜するようになってからも みづからの自治能力も誇りもなにやかやも 失ってしまったままでいるからです。というよりも アマテラス政府と組んで 共犯者となってさえいるのかも分かりません。

 * 一部の現実を全体であるかの如く誇張して表現しましたが 一つのしかし頑強な傾向として こういうことが 問題となっているのではないでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 こういう性質の《物言い》は ほかの人とは違うと思っています。
 この問題に 《輪廻転生》の思想がかかわっているだろうという疑問です。(ここまでは まだ触れていませんでしたが)。
 それに対して 仏教は どうかかわるのかを尋ねています。前提として採り入れているか 消極的にしか否定しておらずけっきょく容認する結果になっているか ではないかというのが 問いです。
 もしこの疑問をゆえ無しとするのであれば 納得のいくただしい《輪廻と業》の思想をおしえてくださいと言っています。

 輪廻思想が 現代日本人の気力の無さにどうかかわっているか。それは サリンばら撒き事件の被害は 自業自得と見なされるとしたら そうなりませんかです。現に そういう考え方も 回答として得ています。むろん思想・表現の自由が大前提ですので 互いにその差異を認め合って ただし その内容にかんして わたしの思う良い方向へ向かうよう希望を申し出たという恰好になっています。

投稿日時 - 2008-05-05 10:35:12

ANo.50

こんばんは、brageloneさん。


●疑問は こうです。いま取り上げている応報(被害)というのは 現世に生まれてから 加害者と何の関係もなかったという場合であり その場合にも わたしの過去のおこないが悪かったから その縁起によるということですか という問いです。



ひところプールバーにいりびたっていたことあります。
ビリヤードに夢中、キューを握り、台の上に身のりだし、腕伸ばし、
狙いを定め、腕を突き出そうとした その瞬間 
“ピキッ!”イテテテテッ… 足つっちゃいました(*^^*)>゛゛゛

ビリヤード(9ボール)の話と何の関係があんねん?!  < まあまあ そういわずに

1番の球を狙いブレイクショットをすると、当たればテ―ブルの上の球が散らばります。ここです、狙いは1番なのに他の球まで動いちゃうんです。過去の行いが悪いとか悪くないとかではなしに、一定の条件がそろえば動くべくして動くのです。また、プレイを進めていく中で、的球が他の球の陰に隠れ正面からは狙い難い場合、入射角と反射角を考え、手球をクッションに当てると何時の間にか手球は的球へ向かい転がります。人は,何か事が起きると直前の出来事と結び付けてしまいがちなものです、が、めっちゃめっちゃ遠いところからモタラサレタ事象であったり、ただそこに居合わせた、単なる飛ばっちりを被っただけなのかもしれません。めっちゃめっちゃ遠いところからモタラサレタ事象であったのならばなおさら確かめようがない。人はわけのわからなさにいいようのない不安を抱きもちます。更年期障害然り、ストレス障害然り、自律神経失調症然り、なんかかんか名がつくことでいいようのない不安からひとまず落ち着きを見せます。それ同様に、因果が巡りめぐってきたのだと思うことでいいようのない不安に因果と名をつけ、心の安定を時に人は、はかっているのかもしれません。それとは別に、時代を超え時を超え恨み辛みが本人のあずかり知らぬところで脈々と受け継がれていることもないこともないでしょう。因果応報の言葉通りに「親の因果が子に祟り(報い)」とか、けったいな暗示めいた言葉による拘束。しかし、それも畏怖として措かれた言葉であったのではないでしょうか?本能の暴走をとめ理性を呼び起こす言葉として。それがいつしか言葉が人を呪い続けるようにつかわれる、因果応報と。



【鬼語と俳諧】 
http://homepage3.nifty.com/mamenoki-kukai/no4/kigo.html

【QNo.170678 電気系の方に質問 】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa170678.html

【司馬光 /資治通鑑(しじつがん)】
http://www.library.metro.tokyo.jp/17/020/1750a.html
http://www.library.metro.tokyo.jp/17/020/17500.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91
【資治通鑑巻第一百九十五】
http://www24.atwiki.jp/tsugan/pages/42.html

投稿日時 - 2008-05-05 02:22:22

お礼

 littlekissさん。
 われわれは 撞球の球かいな。

 No.7のkigurumiさんの文章を借りて 編集しますと
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「サリンの被害者、
 スマトラ島沖地震の被害者、
 阪神大震災の被害者、
 原爆の被害者、
 戦争の被害者〔は〕 

  全員は悪人だったから 当然の報いを受けた

 ので、一切同情は無用〔である〕。
 助ける必要はない〔・・・〕。

 〔そうではなく それらの人びとには〕
 《悔い改めよ》と鞭打つことで、鞭打つものは感謝されるべきなの〔である〕」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
という内容を言っていることに通じますよ。そうなのですか。

投稿日時 - 2008-05-05 09:52:04

ANo.49

> あのー。このNo.48でおっしゃっていることは すべて ごもっともなんですけれど

私のコメントが頓珍漢で、噛み合っていないのですね。すみませんでした。

投稿日時 - 2008-05-04 20:19:19

お礼

 このような物言いは わたしは――自慢ではないですが ということは 自慢したいということになるかも知れませんが―― 小学生の頃から 感覚的にしろ 言論としてにしろ 持っていましたし 周囲には 折り折りに 言って来ました。
 だいたい 返ってくる答えは 一方で 《世の中は ばかにならなきゃ やっていけないよ。それが 賢いのだよ》か 他方では 《〈衣食足りて礼節を知る〉というじゃないか。いまは 経済だよ。成長しなきゃ何にも出来ない。成長すれば何でも出来るんだ》かでした。
 雀百まで踊り忘れずのようです。
 ちいさな風穴を開けたいと思います。

投稿日時 - 2008-05-04 21:37:38

ANo.48

> 仏教は 輪廻が前提になっています。無記でもないわけです。堂々と 克服の対象として みづからの思想の中に取り入れられているのを見ます。
> ですから 仏教のこのような対応の仕方にも 不満がありますし そもそも 輪廻が おそらく日本人の大半の人びとに かなり深く影響していると思われる実態には 嘆き節がついて来ます。


現代の日本において、あれやこれやの実際に存在している日本仏教各宗派のお寺のお坊さんが(仏教一般という宗派、人間、はいませんから、それでは戦いようがありませんから、具体的に、どこの誰と名指しできないと意味がありません)、実際に仏教でいうところの輪廻ではない、間違った輪廻思想を用いて人をおどかしたり苦しめたりしている具体的な事例が多数あって、それによって結果的に、多くの人々が苦しんでいるとは私にはとても思えませんので、現代の日本のお寺とか今の日本の仏教を批判しようと思っても、そもそも相手が一度もそのような悪事を働いていないのに、悪者にしたてて、戦いを挑んでも、相手がないように思えます。

あるいは、もしも現代の日本で(あれやこれやの宗派のお坊さんとは何の関わりもないでしょうが)一般庶民で、つまり制度化された宗教とかお寺とかでは全くなくて、民間の世界観、というと大袈裟か、物言いですね、語彙、言い方として、自業自得ですとか、仏教とか関係なくて、人を傷つけるように使う人がいたとして、それに対して仏教を非難してみても何にもならないと思います。

もっと言うと、日本人の悪い癖とか、日本人一般を非難しても仕方ないです。

(愚痴とか嘆息とかは分かります。私も多いです。但し、愚痴とか嘆息というのは建設的な気持ちではそもそもないですよね。)

投稿日時 - 2008-05-04 18:29:49

補足

 あのー。このNo.48でおっしゃっていることは すべて ごもっともなんですけれど これまで わたしが疑問としてきた物言いについては 触れておられないんですが?

 きちんと 宮元啓一の見解として例示し 《この仏教では》というかたちで問うていますよ。あるいは 質問趣旨の中で挙げたwikiでは
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼仏教における輪廻
 仏教においても、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻を苦と捉え、輪廻から解脱することを目的とした。ただし輪廻の主体たる常住不変の我は因縁説と矛盾しており成立しない(無我)とする点で、他のインド伝統宗教と対立してきた。仏教者や仏教研究者のなかには、「釈迦は輪廻説を前提としておらず、インドに古代から信じられて半ば社会の常識化した輪廻を直接的に否定することをせず、方便として是認したに過ぎない」と主張する者も少なくない。
▼六道輪廻
 仏教では、地獄道 餓鬼道 畜生道 修羅道 人間道 天界道 を六道といい、これを輪廻するといわれる。なお、後代の大乗仏教では、六道輪廻を超越した上に、縁覚・声聞・菩薩・如来があるとして、六道とあわせて十界を立てた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
というふうに輪廻を採り入れています。もしくは 非常にあいまいにしか 否定していません。特定の宗派ではないですが 一般にそういう説明がなされることを けっきょく各宗派が 消極的には 容認していることになりませんか。
 『岩波 仏教辞典』では 軽く触れています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼輪廻りんね[s: saMSara]
 サンスクリット原語は《流れること》《転位》を意味し 生ある者が生死を繰り返すことを指すので 《生死》とも訳され また《輪廻転生》ともいわれる。
 インドでは広くおこなわれた考えであるが 仏教では 解脱しない限り 生ある者は迷いの世界である三界六道(もしくは五道)を輪廻しなければならないと考えられていた。
 《無始生死より諸仏の利益に漏れて 鳥の林を離れず 車の庭に回るがごとくにして 六道に輪廻することは仏法の宝を儲けざりし故なり》(七巻本宝物集2)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 宗派の問題ではなく 学者の問題でもあります。これでは あいまいです。採り入れているのか しりぞけているのか。

 この現状を憂えてはいけませんか。

投稿日時 - 2008-05-04 20:00:44

ANo.47

> それにしても 輪廻というやつ 分からないですねぇ。どないやねん!?と言ってしまいたくなります。

> 輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか

輪廻とか業とか自業自得とか、どんな言葉でもそうですが、言っている人、人それぞれによって意味は違います。

文脈によって言葉の意味は異なります。

つまり、「なんでも自業自得」という意味で使う人がいることは有り得ます。いたとして、一般論であれば、私は、他人が非難するようなことではないと思います。

自分が具体的個別的にこれこれの時に言われて悲しくなりました…と投稿するのは意味がありますが、一般論で投稿するのは、ナンセンス。自分があるときそういう意味で言われて、とわがこと、自分の経験を言われるのであればともかく、誰もそんなことを言っているのを聞いたこともないのであれば、実際には存在しない悪者を作り上げて、実際にはない悪と戦う正義を標榜されても他人にはコメントのしようがないからです。

聞いたことがあるなら、その文脈をわがこととして、自分の体験として言ってもらわないと、文脈が分からないのでコメントのしようがありません。

最初、気がつかなかったのですが、どうも、途中から仏教においてになっているようですので、仏教において、であれば、

> 輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか

に対する回答は至極簡単で、「いいえ、まったく違います。」となり、分からなければいくらでも仏教入門書が安価に出ていて古本屋で買えますから、勉強されるとよろしいかと思います、が回答になると思います。

投稿日時 - 2008-05-04 13:33:43

お礼

 otherwindさん 心にかけてくださって たいへん恐縮です。ご回答をありがとうございます。

 (1)ひとつ 誤解がありました。誤解を生むような表現が わたしの趣旨説明にあったようです。

 ☆ もしわたしが 悪なる被害を受けたとするとき・・・

というように 自分自身の体験について 相談を持ち掛けているように響いてしまったようです。
 もっとも そのような体験は いくらもありますから まちがいではないのですが その傷は癒えています。癒えるように進むことを心得ておるつもりです。ですから 質問としては 一般論なのです。

 (2) ですけれども この一般論として 個別具体的な思想(と言いますか 生活態度ですね)を問うたものです。ですから すでに論理的には 片や そのとおり=すべて自業自得であるという説があり 片や 身に覚えのある範囲を超えて=つまり輪廻転生として 三世に拡大した自業自得を認めることはむつかしいという説がありました。

 (3) この論理的な解に まだ満足できなかった(満足したくなかった)のは まさに 今回指摘していただいた仏教の問題です。ウパニシャッド・ヒンドゥーイスムのほうは ご回答が現われないという限りでは 半ばあきらめました。(保留です)。
 仏教が 輪廻否定説もしくは 基本的にブラフマニスムとは立ち場がちがうという説だということは分かるのですが それで納得いくわけには行かないように思っています。
 たとえばNo.42にも書きましたように 宮元啓一の見解ということでしょうが

   解脱の相:根本的な生存欲の滅--→欲望の滅--→業の滅
             --→輪廻の滅(解脱)

という解説であるのならば 明らかに この仏教は 輪廻が前提になっています。無記でもないわけです。堂々と 克服の対象として みづからの思想の中に取り入れられているのを見ます。

 ですから 仏教のこのような対応の仕方にも 不満がありますし そもそも 輪廻が おそらく日本人の大半の人びとに かなり深く影響していると思われる実態には 嘆き節がついて来ます。
 という現状なのでした。

投稿日時 - 2008-05-04 14:35:19

ANo.46

>明るい世界に向かう姿勢を打ち出すことはできないものだろうか。 

こいつは最高ですね。
あの滾々と湧き出でる喜びと、至上のエクスタシー。

制御不能な興奮と完全な安らぎ、圧倒的な光の暗闇、
氷の様に冷たい燃えたぎる炎、摩擦係数ゼロの乾ききったヌルヌル。
海を泳ぐ魚にして空を飛ぶ鳥。永遠の楽園と一瞬の刃。

これを垣間みれば忘れられはしない。
でもどうしても引き戻される。そして、また、そこに落ちる。この引力が業というわけだ。

誕生とSEXと死が主役であって、殺し殺され、犯し犯されてもまた子宮へ辿り着く。

言うまでもなく既に愛に溢れ、慈悲深く何より神聖で残酷ですね。

投稿日時 - 2008-05-03 12:18:52

お礼

 これはまいりました。
 一幕の芝居を見終わったかと思うと 今度は 詩の朗読が待っていました。(鳥肌ものですね)。

 というほか 何をお応えしていいものやら という始末・・・。
 急いで締めることもないと思って 放っておいたら また 一陣の風が吹いて 舞っています。
 
 《SEXや子宮 殺し犯し》という・そうとすれば どぎつい言葉が 効果的ですね。
 もう一連長くあると そこに 特別の意味内容が込められていなくても 余韻として 味わえるかも知れないとも えらそうに思いました。

 明るい世界へのどんでん返し 賛同を得てうれしく思います。
 
 それにしても 輪廻というやつ 分からないですねぇ。どないやねん!?と言ってしまいたくなります。

 ご投稿をありがとうございます。謝謝。

投稿日時 - 2008-05-03 14:50:02

ANo.45

> otherwindさん おつき合いいただきまして ありがとうございました。

こちらこそ、ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-05-03 08:07:21

お礼

 わざわざ すみませんでした。まだ 締めていなくて。

投稿日時 - 2008-05-03 08:35:01

ANo.44

こんばんは、brageloneさん。


ANo.43にある回答文を読んでて、ふとおもったんですが、、、

重要古語:おどろく→目が覚める。

http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/kogopeji.htm

現代語と意味が異なる古語ってありましたよね?


すみません、余計な書き込みをしまして

投稿日時 - 2008-05-02 23:53:56

お礼

 No.43のお礼欄のごとくです。
 ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-05-03 01:46:08

ANo.43

> 初期仏教(原始仏教)では「縁起」を論理的時間の前後、原因と結果として解釈していた。ナーガールジュナは、「縁起」という言葉の意味をまるっきり違う内容で置き換えて、相互依存性と解釈した。

上記、私が間違いました。原始仏教では、因果という言葉を現代では因果と考えないようなことにまで非常に広く使っており、原始仏教では現代であれば相互依存性とでも言うべきことを因果と言っていた…の方が正確でした。ごめんなさい。

投稿日時 - 2008-05-02 18:59:00

お礼

 No.41および42へのお応えとして書いたわたしの文章が 現時点での答えをわたしなりにまとめたものであるように思います。
 探究はさらにつづきますが 質問は 一たん 締めて 出直すのもよいと考えています。

 otherwindさん おつき合いいただきまして ありがとうございました。
 回答を寄せてくださったみなさん たいへん ありがとうございます。
 

投稿日時 - 2008-05-03 01:44:36

ANo.42

> 因果関係については 中村元は こう言います。
> 《因果》の観念は仏教にとって本質的なものである。
> 梶山雄一が ナーガールジュナの《空なる縁起》《不生不滅の縁起》を取り上げて

初期仏教(原始仏教)では「縁起」を論理的時間の前後、原因と結果として解釈していた。

ナーガールジュナは、「縁起」という言葉の意味をまるっきり違う内容で置き換えて、相互依存性と解釈した。

ということになりますね。

投稿日時 - 2008-05-02 13:10:10

補足

 わたくしの質問・《Q:〈我れ〉はある?ない? どちらですか(仏教)=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html 》のANo.35でおそわったものですが

 《宮元啓一:苦楽中道----ゴータマ・ブッダは何を発見したか》=  http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/kuraku.html

 ここでは 輪廻からの解脱は 《根本的な生存欲(渇愛・癡・無明》からの解脱であるというかたちで ブッダが覚りを得たと説いています。(けっきょくのところは otherwindさんのおっしゃる《言語化・文法化》でもあるでしょう。無明としての かつ 明知としての でしょうか)。

 ブッダ以前・以外の思想: 
   解脱以前の相:輪廻←--行為(業)←--欲望
   解脱の相: 欲望の滅--→業の滅--→輪廻の滅(解脱)

 ブッダの覚り:
   解脱以前の相:輪廻←--善悪の業←--欲望(貪、瞋)
            ←----根本的な生存欲(渇愛、癡、無明)

   解脱の相:根本的な生存欲の滅--→欲望の滅--→業の滅
             --→輪廻の滅(解脱)

 《五、結語》では 次のようにまとめています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ゴータマ・ブッダ〔の覚った・・・〕その真理の核心とは、
 ・輪廻(=苦)の究極的な原因は根本的な生存欲であり、
 ・それを滅ぼすものは智慧であり、 
 ・そのためには徹底的に輪廻的生存にまつわるすべての事実を観察、
  考察しなければならない、
というものである。これは、ゴータマ・ブッダ以前、誰も気がつかなかった真理であり、これこそゴータマ・ブッダがはじめて発見したものであり、ここにこそ、ゴータマ・ブッダの独創性がある。仏教は、この独創性を根拠にして開かれたものなのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この説に関する限り――貶めるために言うのではないですが―― あくまで《輪廻》を大前提としています。解脱できなければ 転生してしまいます。依然として あたかも業の理論です。

☆ あと ナーガールジュナのさわりを引用しておきたいと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは
  存在しない。《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたも
  のなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。
    (『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)

という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。
 チャンドラキールティの註解によると

  《自我意識が無いこと》《わがもの》という観念を離れたこととい
  う独立な原理または実体を考えるならば 実は事物の真相(諸法実
  相)を見ないこととなる。(『プラサンナパダー』)

という意味であるという。・・・
    (中村元『龍樹』2002 pp.225-226)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ わたしの見るところでは これは 《自由意志》の問題にも入ると考えます。《空観》以前の見方を 空観へと回転させるときのはたらきであり あるいは ものごとが空観(順観)へと回転するときの・そうとすれば《智慧》の問題です。だとすれば
 ・輪廻は無記とする をつらぬくべきです。 
 ・業については 《無明》を《根本的生存欲》だと捉えるなら そしてこれを空観する智慧をいうなら やはり〔業も〕 自由意志による選択判断と実践の行為の問題になります。

 課題とすべく 要点をまとめます。
 ・だとすれば 因果関係は 微視的に 個体の意思表示と実行を ひとつの因として――つまり 身に覚えのある過去を なおも現在としつつ―― その結果を捉えるのが ひとつ。もうひとつの巨視的にとは 社会的な相互の関係の中におかれた個々の意志の行方として捉える。
 ・ こうだとすれば 無明に発する業論による因果応報説は きわめて背後にしりぞくと思われる。表に出て来ないと表現するのは 過去の思想に それなりに敬意を表したものである。

投稿日時 - 2008-05-02 15:40:47

ANo.41

> ブッディスムの因縁説

仏教は輪廻とか因縁とかを”教え”てはいないですよね(^0^;)。

仏教以前に輪廻思想(認識世界のすべてを因果関係として意味づける)がインドの庶民にあって、それを謬見として打破したのが仏教の相依性(brageloneさんのことばでは関係主義)という方があたっている気がします。

仏教の説明では「長い」と「短い」を使っていますね。「長い」という概念は「短い」という概念に依ってのみ、「短い」という概念は「長い」という概念に依ってのみ、成立しているのであって、ことばは、認識世界の外部に、認識主観を離れた、認識の対象を持っているとは記述できない。

あるいは仏教の説明では、「母」と「子」を使っていると思いました。仏教以前のインドの庶民の謬見である輪廻思想、因果関係でも、「母は子の原因である」という言説はそんなにおかしくないが、母が子に対して「あたなが生まれてきてくれたおかげで私は母になれました」という言説はごく普通で何もおかしくないが、これを因果関係で説明しようとすると「子は母の原因である」となり、それをおかしくないと言い張るとするとかなり変。仏教の相依性であれば、「子は母に依って母であり、母は子に依って母である」となり、何もおかしくない。

確かに、仏教でも、当時のインドの庶民の世界観であるところの輪廻について触れてはいますが、因果関係がその主張ではないと思います。

それよりも、仏教では、解脱というのが、不可思議(思考不可能という意味での外部)、限界概念であるはずなのに、日本の真言宗では、内在即超越、超越即内在になってしまっているとすると、不可思議の領域、あるかないか分からない(記述できない)が、あるんじゃないかという疑念、認識の主体から何かが隠されているんじゃないかという疑念、が疑念そのままにあったはずなのに、即身成仏、内在即超越、超越即内在と言ってしまうと、この不可思議の領域、認識不可能という意味、関係性のという意味だけでの”外部”が消滅してしまっていないか…、ということの方が疑問ですよね(^0^;)。全てが認識可能、全てが私になってしまって、世界=私になり、私の独り言になってないかという。

十字架にかかる以前のイエスを考えてみます。まあどう考えても、その時点で、周囲にいた人が、イエスを神であると認識することは不可能ですよね(^o^;)。何を言っているかわからんと。地球の外部から宇宙人が来ちゃったみたいな。ファンはいたと思うんです。なんか良いこと言ってるんじゃないかという。但し、単なる良いこと言っている人として認識しながらも、”認識できない剰余”があるんじゃないかという”疑念”もあったでしょう。

で、その後、なにしろ復活しますんで、後から、事後的に、神と分かった。

イエスが十字架にかかるまで、神と信じていないとすると、brageloneさんは無神論と呼ぶのでしょうか?あるいは、正にこの時には、認識できない剰余があるんじゃないか、何かが私から隠されているのではないかという疑念があり、その疑念を、不可知の神と呼ぶなら、このときが有神論とbrageloneさんは呼ぶのでしょうか?

復活したあとに、神とまつられたときが有神論でしょうか?しかし、そのときには神と認識されており、不可知であるものを神と呼ぶならば、神は消滅してしまっています。ですから無神論でしょうか?

どちらをどう呼ぶかが分かりませんが、これは、有神論vs.無神論という用語をツールとして使うことがナンセンスなだけで、アプローチの問題。

そういうアプローチの問題をおいておくと、内容的には、やっぱり、”関係の”という意味でだけの外部、不可思議の外部が、消滅してしまってないか?という疑問は確かにありますね。

それはよく分かります。

投稿日時 - 2008-05-02 07:20:14

補足

 ● 前提条件(つまり 定義の問題)として
☆ この相対の世界の《外部》つまり《絶対》を この相対性に固有のことば――つまり《長短》あるいは《有無》など――で表わすことは 主観の自由とされています。よって――さらに擬人法による表現を交えて―― 有神論か無神論か どちらかとして現われます。そんなの関係ないと言う人も 一般に無神論に立ち あるいは素朴にでも 有神論であったという場合もあるはづです。
 ● イエスの問題は 次の文句を掲げれば十分でしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 主は言われる。《見よ 私の傍らに一つの場所がある。私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つであろう。私はあなたを岩の頂上に置こう。私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。私の顔はあなたに現われないであろう。》(出エジプト記33:20-23)
(アウグスティヌス『三位一体論』2・16より)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ● 輪廻および因果関係ないし因果応報について
☆ 『仏教思想3 因果』(仏教思想研究会・代表中村元編著1978)を図書館から借りて来て読むと 
▼ 輪廻 については まだはっきりとは掴めませんでした。
 《Q:〈我れ〉はある?ない? どちらですか》=​QNo.3454478で問うたときには 輪廻を認めていると認識しました。
▼ 因果関係については 中村元は こう言います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・《因果》の観念は仏教にとって本質的なものである。
・仏教における因果関係は
  1.人間の心理現象――倫理的宗教的価値づけをともなった――に
    ついてなされるか。
  2.あるいは 因果応報という道徳的な因果関係
が主であった。(p.52)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
▼ 梶山雄一が ナーガールジュナの《空なる縁起》《不生不滅の縁起》を取り上げて こう説明するところは otherwindさんのご所説に相応するでしょう。
********************************************
  《行為に依存して作者はあり その作者に依存して行為は起こ
  る。われわれはこれよりほかの成立理由を見ない》
   (『中論』8・12)
・・・ひとが作者といわれるのはある行為をしているからであり あるものが行為とよばれるのは作者によってなされているからである。この依存関係をはなれて作者と行為とが自立的にあるわけではない。・・・自立的な諸実体を措定してそれらの間の関係を論じようとしても・・・関係一般はかならず不合理におちいる。
(梶山雄一p.171)
*********************************************
★ 相依性
☆ は 相互依存の関係性ですから 関係主義と言ってもよいはづです。つまり 想定として 無神論に立つとする場合 《主義》ということばをつけ加えてもよいはづです。
 これは 相対性としての経験世界を認識しようとするのですから そうは言っても このとき有神論も 関係性を とうぜん 捉えています。主義とは言わないとすると それは 相互依存性=関係性のその結節点をも見ているからです。網の目の結節点です。
 つまり 人間主体の問題です。つまり 自由意志の問題です。むろん相対性のもとにある自由です。《自由》とは とうぜん 《外部》の問題です。つまり 無神にしろ神にしろ それと人間との こんども 関係の問題です。《無神》と規定したあと もうその《外部》を省みないというのでは 立ち行かない。さりとて これを《実体》とするなら それは 単なる思い込み・錯覚・まぼろしです。わたしたちの心には 外部への伸びがあり 言いかえると 外部への《開け》が 自由として柔軟性として そなわっていると言うべきもののようです。
 これは あくまで非対象のことであり したがって 非思考にとどまるものであり 信仰とよばれますが 集団としての教義を持つことなどありえず それとしての《宗教》などは 《信仰》と似ても似つかず へのかっぱだとなります。教義・教祖・教団など 認識思考の対象を持つからです。つまり それらを 《絶対》とみなすからです。つまり これこそ 《超越即内在》です。つまり《外部即内在》だと説いていることになります。宗教よおごるなかれ。

投稿日時 - 2008-05-02 10:40:08

お礼

 * 《即身成仏》は ありえますよ。あたかも《手で覆われていたその手を取り除けられた》とき――つまり 十字架上の死のあと(何故なら そのときまでに ペテロを初め誰もがイエスを裏切っていた) いづれかの時点で―― あたかも《外部》が わが主観の内部に 盗人のように 侵入して来たときです。そのときから おとぎ話は 始まりました(旧約からとしては 再開しました)。
 つまり このとき 表現の問題で争わないとすれば 《超越即内在》ですよ。そもそも前提が 想定ですから 虚構・概念装置ですから つまり うそ ですから どこまで行っても《外部》は消滅しません。そうでなければ 《絶対》ではありません。

 * こういう議論は いやしくも思想であるならば みづからが進んで説明していなければいけないことです。わたしの仮説の問題でも何でもないことです。とうぜんの物言いであるでしょう。

 * 《生まれ変わる》という思想は うじゃうじゃと そこら中に たむろしています。これを明らかにすることだけによっても 日本は より少なく悪い状態に向かうと思います。自分の蒔いた種のことくらいは 後始末をしなければ 人間とは言えないと思います。(むろん わたくしとしても ローマの自己解体を主張しています。主張してまいります)。 
 
 痛い仕打ちを受けつつ ご挨拶も抜きにて。

投稿日時 - 2008-05-02 10:49:39

ANo.40

処理能力としては低レベルな自己意識そのものが生死を超えて存在すると言える根拠はどこにもありませんね。
そもそも、過去生の記憶を現世と同様に覚えているなら、考古学、歴史学がこれほど苦労することはありません。

過去生を覚えてもいない人が、虎の威を借りて転生輪廻をまことしやかに断定する横暴さと根拠欠如の落差には肌寒さを感じます。
あるいは私自身に過去生の記憶の断片さえないことが異常であるかのいずれかですね。

常識からすれば、個別の自己意識を形成するのはDNAと外部環境であって、その自己意識に接触する機会のない
過去の自己意識からの連続であるとするすり替えは、お伽噺ですね。

しかし、意識は、そもそも単体なのか、集合なのか、個別なのか、連続体なのか明確ではなく
これをを分類し線引きすることが正しいとは言いきれないでしょう。
狭い範囲の私とかあなたとか言う境界線を作っているのは、
その私という自己意識であって、広い範囲では私とあなたのどちらが意識なのかどちらも意識なのか
を考える必要さえありません。

空間を占有することがない意識は、時空間の基本となる物理法則から自由です。
一見、時間軸に対しては物理法則に拘束されるように感じますが、そうではないでしょう。
なぜならば、今が常に現在であると感じている(感じようとしている)のは意識自身であり、
その今を形成している宇宙側ではないからです。さらに、意識している今は残念ながら
宇宙の今ではなく、また、感覚、思考、感情で意識されるそれぞれの時間軸さえずれているのですから。

意識が過去、現在、未来を自由に空想できるということではなく、そもそも過去、現在、未来さえも
包含しているものが意識(時間は意識が存在する絶対要件の一つ)でしょうね。如何なる意識からみても
外部の事象であるところの時間を積極的に取り入れようとしているのが意識の特性ではないでしょうか。
別の言い方をすると意識の絶対要件である時間を使って、いわゆる時間を作っているのが意識だと言うことですね。
過去や未来があたかも存在しているように認識しているのは、狭い範囲の自己意識以外のなにものでもないでしょう。

因果応報とか業とかいう考え方は、狭い範囲の自己意識に対しては壮大なトリックですし、
広い範囲に対しては、その自由度の高さにを考慮すれば作用と反作用の法則の如く当たり前にすぎるということにもできますね。
広い範囲の意識が原因と結果を一緒に作り出し、狭い範囲の自己意識が作り出した過去、現在、未来のドラマの中に配置されるわけですね。
因果応報なのか自作自演なのか、はたまた、それ全体が因果応報の上位の因果律に支配されているという
トラウマが故に個別の意識に分裂してなせる技か・・・。

解脱していないのは個々の私であって、それが消失すれば解脱があるわけですね。
そして、また生まれてくるなんてことはないでしょう。
この私ってやつは、私がいる限りどう転んでも解脱することなどあるわけないじゃありませんか。

投稿日時 - 2008-04-29 21:20:44

お礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。
 劇場で 一幕の演劇を見せてもらったような感覚ですね。
 否定派と思っていたら それをくつがえすというのでなくても なかな複雑な捉え方をしていらっしゃるようです。大団円では
★ 因果応報とか業とかいう考え方は、狭い範囲の自己意識に対しては壮大なトリックですし
★ 因果応報なのか自作自演なのか、はたまた、それ全体が因果応報の上位の因果律に支配されているという / トラウマが故に個別の意識に分裂してなせる技か・・・。
☆ 等々と あたかも主人公が台詞を披露していると感じさせる一面をも合わせ持って 議論が進みます。そして 少し意外に感じたのですが
★ 解脱
☆ ということばをも吐露していると言うべきか それを やはり しっかり遠ざけていると言うべきなのか この質問の主題の持つ複雑さと魅力のようなものを そのこと自体としては 自分のものとしたと宣言するような・・・。

 もちろん ふつうの感覚として 身におぼえのある業(行為)については その因果関係はわかるが それを超えては 想像するのも 無理だというお答えにも触れてもらっております。

 少しこの課題についての先輩風を吹かしますが そのように参加(コミットメント)していくと 何がしか むつかしいという答えを まづ どこからか与えられると思います。bananasandさんも いま一度 考えを ゆっくり煮詰めていかれると おもしろい結果を得て 発表していただけるかも分からないと 推測してしまいました。おゆるしあれ。

 因果応報についての肯定派の方々には 次のような希望を お願いしています。確認です。
 ・業の悪循環のような情況を そろそろ 理論だけとしてでも どんでん返しして 明るい世界に向かう姿勢を打ち出すことはできないものだろうか。 
 ・業は 一人ひとりの主観のなかの考えであるということにおいて 周囲からそれは因果応報だよとは あまり言わないこととする。
 (以上は おもに No.32での対話でした)。

 ・ブッディスムでは
  善因(衆生済度の誓願)→一種の悪果(悪い情況に身を置く)
という見方を 一つの事例として する場合がある。これに似た例を アウグスティヌスが論じていた。
  善因(神への聴従⇒あわれみのわざを引き受ける)
   →悪果(病気に陥る)
 (=No.35補足欄)

投稿日時 - 2008-04-29 22:16:26

ANo.39

> 法然の例を出しておられますが こういう偉い人が 何度でも いつでも自由に この娑婆世界に戻って来てほしいですね。

本当ですね!!

なんでも親鸞は死ぬときに、またすぐもどってきまーすみたいなことを言って死んだとかいう話を前に聞いた記憶があります。ほんとのことかどうかはよくわからないですし、記憶違いかも知れないんですが、私は、すごく良いエピソードだと思います。すごく好きなんです。じゃまたねという。一泊二日くらいでまた返ってくるよ、みたいな死に方。

投稿日時 - 2008-04-29 19:57:51

お礼

 あぁ なるほど。
 そういう世界観でしたら 言うこと無しだと思います。

 文字通りにそうであるかどうかを 少し別としなければならないかも分かりませんが なかなか よく分かる(こころに通る)お話しだと思います。
 これだけの反応になりますが。
 ありがとうございます。

投稿日時 - 2008-04-29 20:02:17

ANo.38

仏教者はいう

苦しみを無くすと。

逆にいえば、彼らはそこまでして無くさなければならない
苦しみをもっているのである。

だからもし、仏教者が
慈悲の心をもって他者の苦しみを無くそうとすると

全くもって逆説として相手を苦しみのどん底に突き落とす
ことになる。

しかしそれでも救いを求める以上しなくてはならない。

そこから逃げて、誤魔化してはいけないのだ。
だから私は安易に心の苦しみを無くすという
仏教を批判するのである。

投稿日時 - 2008-04-28 15:36:09

お礼

 この問題については 或る見とおしがあります。
 論理的な筋道に限られると言わなければならないかも分かりませんが 《慈悲の業》――そう言えば 《自未得度先度他》と言いますから――をおこなうとき 相手に《苦しみ》を与えないためには もともと誰にも 《仏性》があるという大前提を持ってこなければならないのだと思うのです。
 そして 今度は そうすると その虚構では 無我説に矛盾するのではないかと考えます。
 《仏性》は 有神論です。《無我》は 無神論です。その無神の領域について 無記とし 経験思想(人為の理論および修行)のみを語るというものだと推し測られます。
 こんなそんなにて。

投稿日時 - 2008-04-28 16:07:25

ANo.37

前言撤回。

つまり傍から見れば、全く馬鹿馬鹿しいけれども

仏教者ならば、この質問。

その通り。
と答えなくてはならない。

輪廻は苦しい。業は恐ろしい。
だから解脱を目指すのだと。

投稿日時 - 2008-04-28 15:10:56

お礼

 そうですよね。

 まぁ だから 方便として誓願するという自業があって 悪い情況に身を置くという結果(自得)があると 後から 理由づけたというような疑いも生じます。これについては 相手の有利に解釈すべきでしょうから あまり突っこみませんが。
 けっきょく 要は 死んでしまうという結果になったときだと思います。そのときの解釈だと思います。そういう誓願はないでしょうから。(あっても よほど 特殊だと思われます)。

 そして たしかに 《その通り》をつらぬく立ち場が ありえます。前世や来世のことは 誰にも 分からないのですから。
 だから いづれにしても その因果応報説の立ち場にしても 同じく要は この世を この世で 楽しいものにしていく方向があるかないか これに帰着するとも考えました。
 このあたりまで お伝えします。

投稿日時 - 2008-04-28 15:50:20

ANo.36

#3 #18です。
因果応報など笑止千万、完全なロボット化、奴隷化の思想ですね。

>現世に生まれてから 加害者と何の関係もなかったという場合であり その場合にも わたしの過去のおこないが悪かったから その縁起によるということですか という問いです。
>――生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか
・・・
そもそもそのような疑問が本心から出るとすれば洗脳されている証拠だと思いますよ。生まれる前の事に当人が関与など出来る筈ありませんし前世など有り得ないし。まして両親に原因を求めるのも限界が有ります。更に神の業などと言う意味不明な理屈を出されても到底納得できる物ではありません。

昨夜飲み過ぎ今朝二日酔い、悪事を働き今刑務所、天に唾する、泥棒に入って階段を踏み外し大怪我・・・これを因果応報と呼ぶのは納得できます、全て本人の意思で行った行為が原因ですから。

不幸に見舞われた時人間は原因をはっきりさせたい、何かのせいにさせれば心が落ち着くのは分からぬでも有りませんが程度問題です。
悪用されればその被害は計り知れません。

投稿日時 - 2008-04-28 14:59:31

お礼

 imuzak5320さん ご投稿をありがとうございます。

 何を分かりきったことをとお思いかも知れませんね。
 けっこうわたしは 執念深いたちで 人についてその存在はこれを愛しますが その欠陥については 憎みます。その状態を分析し原因を認識しようとします。
 しかも――わたしは まむしでしょうか―― 衰えゆく思想に対しては さらに 引導を渡そうとします。思想についてはです。じつは ブッダ葬送というテーマを持っています。
 ということは とうぜんの如く 相手をきちんと知って ていねいに批判して行かなければなりません。自分よりも 大事にして扱う必要があると思います。多少の疑わしさでは 相手に有利に解釈するのが 筋ですし こちらの有利は 確実のものだけに限る必要があります。
★ そもそもそのような疑問が本心から出るとすれば洗脳されている証拠だと思いますよ。
☆ これに対する弁明でした。
 
☆ 《神のわざ》という表現は 人間には分からないというのと同義です。その《神のわざ》というのも じつは 虚構であるわけです。ブッディスムも 虚構であるはづですが さらにこの虚構の中味が はっきり分かるという立ち場を採っています。(分からないけれども 因果関係としては 決まっているという世界観です)。

 この世界観が 虚構として持たれているという自覚つまりそのような前提にあるなら じつは 信教および良心の自由にもとづき まったく自由なわけです。その前提の上では 互いに 自由な対話を重ねていく必要があり その対話の道しかないと見るべきように思います。人間の思想は すべて互いに相対的なものだとなるようです。
 #3のときから 支援をうけているように感じます。

* たしかに 身におぼえのある因果関係 これに範囲を限るか それとも 見当もつかないあの世や前の世にも 拡げていくか この点にも 分かれ道があるようです。虚構ですので。・・・

投稿日時 - 2008-04-28 15:29:42

ANo.35

これで最後にします。
何度も失礼しました。

もう宗教は信じることを忘れ
ただ、教訓としてのみ

御伽噺として存在しているだけになってしまった。

全てはたとえ話になってしまった。
もうだれも信じてなどいない。

信仰の前には、苦しみを受けるという人もいない。

人間は宗教を捨ててしまった。

投稿日時 - 2008-04-28 14:48:01

補足

 この欄をお借りします。No.13( susiddhiさん)の補足欄に ブッディスムにおける 善因(衆生済度の誓願)→一種の悪果(悪い情況に身を置く)という例を挙げましたが これに似た例を アウグスティヌスに見つけました。掲げます。
 善因(神への聴従⇒あわれみのわざを引き受ける)→悪果(病気に陥る)
    *   *   *
 それでは その理性的な魂がすでに不可変的で永遠の真理を分有しているような賢い人を心で考えてみよう。その人はその行為をあげて この真理に諮り 真理において為すべきであると認識しないことは決して為さず そのため真理に服従し真理に聴従しつつ正しく為すようになる。このような賢い人が もし心の耳でひそかに聞く神的な正義の最高の理法に諮って その命令に基づき或るあわれみの業を引き受け 身体を労働によって疲れさせ 病気に罹り 医者に相談したところ 或る医者からは病因は身体の乾燥であると言われ 或る医者からは過剰の液であると言われるなら それらの判断の一つは真実の病因を語り 他方は誤っている。しかし両者ともにただ直接的な つまり身体的な病気の原因に触れているものにすぎない。しかし身体の乾燥の原因が さらに問い求められ あの自発的な労働のことが考えられるなら そのとき より高次の病気の原因に到達したのである。

 その原因は魂に起因し 魂が管理している身体に影響を与える。ところがそれもなお第一の究極的な原因ではないであろう。第一の原因は疑いない より高いところ すなわち 不可変的な知恵そのものにあったのである。賢い人の魂はその知恵に愛をもって仕え 言詮を絶して命令するその知恵に聴従しつつ あの自発的な労働を身に引き受けたのである。かくて神の意味そのものが あの病気の第一原因である と極めて真実に認められるのである。
  (『三位一体論』中沢宣夫訳 3・3〔8〕)

投稿日時 - 2008-04-29 18:51:12

ANo.34

何かを信じられる人はいるのでしょうか
全ては過ぎ去ってしまったのではないでしょうか。

輪廻の苦しみと業に悩む人は
もう過ぎ去ってしまったのではないでしょうか。

つまり。もう宗教は終わったと思います。

投稿日時 - 2008-04-28 14:37:47

お礼

 yukiyama20さん 今回(つまり ANo.33とこのご投稿です)は なかなか お心づもりについて 忖度しかねています。

 No.30のお礼欄に 《風の理論》を覚え書きしました。《分からない》という中間の結論ですが。

 《輪廻の苦しみと業に悩む人は / もう過ぎ去ってしまったのではないでしょうか。 / つまり。もう宗教は終わったと思います。》
 これについては 見とおしのような感じにおいて 分かります。ぶっちゃけた話としては 世界観としての《虚構》が 虚構であっても 真実があるかどうか ここに 《終わる》かどうかが かかっていると考えます。《教義》を持つ場合というのは 世間において組織として 有力になったとしても ひとりの人間にとって 真実もしくは信実を持ちがたいと思います。その意味で 見とおしが立ちます。

 《何かを信じられる人はいるのでしょうか。 / 全ては過ぎ去ってしまったのではないでしょうか。》
 これについては むつかしい。ほんとうに むつかしい。

 わたしに ひとつ分かることは(つまり これは こうだと思っているのですが そのことは) 無神論である場合にしろ じつは・じつに 有神論であるにしろ 信じるのは――何か分からない向こう側からのはたらきかけによることも 然る事ながら―― こちら側の受け容れという動き これも けっきょく 賭けだと思いますよ。

 もちろんさらにご投稿くださってもいいですし あるいは 懸案を寝かしておくのも いいように思います。すでに充電いっぱいでしたら 大いに 突っこんでください。知らない・分からないことは そのように言いますから。

投稿日時 - 2008-04-28 15:01:58

ANo.33

「学びすぎれば体が疲れる。」

brageloneさん、私は宗教を終わらせます。

誰が創造しようが
因果だろうが

知ったことか。

終わり。

投稿日時 - 2008-04-28 11:36:16

お礼

 うん。そうですね。宗教と信仰との区別をも超えて決意されているようですから もう決めたことだというところでしょうか。
 いづれにしましても 気長に行きましょう。そうですよね。

投稿日時 - 2008-04-28 13:00:45

ANo.32

( 1)
> 未来へ向けていまの意思が実現するよう努めるという発想これを言おうとしたという部分もあったのでしょうね。
民衆、大衆レベル、一般の行動としての輪廻の考え方は、いまここで善行を積む、という思想だと思います、ということが言いたかったのです(^o^;)。もちろん、廻向も含みますが、民衆、大衆レベル、一般の行動としての廻向というのは、自分が今ここで善行を積んで、たとえばご先祖様に回すというものだと思います。私が舌足らずでしたm(_ _)m。

( 2) 業とは、いまここでの生命活動を言うと思われます。

( 3) 因果応報というのは、あくまでも自分一人の反省なので、他人がひどい目にあったときに、周囲から因果応報だよというのは、間違いという考え方も有り得ます。

( 4) 縁起に参加している要素、項目は、数え切れないわけで、重層決定、過剰決定されていると考えられます。ある現象が、主体、観察者にとって生じているように見えるときに、この理由はなんだろう、何故なんだろうという、観察者による解釈、主体からの意味づけですね。重層決定というのは、結果(と思える事象)から事後的に主体的な解釈として理由1、理由2、理由3と無数に、後から、後付で、解釈として、自分がこれこれしたのがいけなかった…と罪の意識を持つことなので、結局、重層決定とは、決定されていないということになります(^0^;)。たとえば自分の親が死んでしまったというときに、おそらく殆どの人は、軽い鬱になったりするのではないでしょうか。つまり罪の意識を感じるのではないでしょうか。これを思うに、現実的には自分ではどうしようもなかったことに対して、人は罪の意識を持つわけです。あのときああすれば良かった、自分が悪かったみたいなことを程度問題はあれ、誰もが感じるのではないでしょうか。それは、通常の自我の構造(ないし通常の言語の構造、文法、主語-述語構造)が自分が世界を支配しているというナルシシズムとして出来ているという本質的な構造上の問題があるからと思われます。自我=虚偽意識=反省的意識=罪の意識。知覚が一刹那(無限小の時間)しか生起しないのに対して、意識、意味というのはいつでも、致命的に手遅れなわけで、事後的な理由付け、意味づけになりますね。有為の全てが後付けで縁起と言えるということは、理由1、理由2、理由3……と無数の理由によって主体的意味づけ、想像的投射によって過剰決定されていることになりますので、即ち、決定されていないに等しいです(^0^;)。あとから理由は無数に考えられ、自分の記憶は再構成され、私は昔からこういう人間だったと自分の性格の解釈が立ち、あたかも過去・現在・未来に一貫したアイデンティティがあるかような幻想が作られるからです。

( 5) ある太陽系で死んで、別の太陽系に生まれ……を、天文学的な時間、繰り返すという場合、三千大千世界(数え切れない無数の太陽系)に有情(生き物)がいて、業(生命活動)を行っており、太陽系1の有情の業によって太陽系2が生まれておりますから、だんだんにみんなの多数決で良い世界が生まれていっているとも考えられます(^0^;)。インドに仏教以前からある輪廻とはちょっと違いますが、浄土思想であれば、法蔵という思想家(?)あるいは求道者(?)でしょうか、まあ、偉い人ではありますが、宇宙創造神ではなく一個の人間が大昔に、よし、他の人間が作ったどの太陽系よりも素晴らしい太陽系を作るぞと誓って(口にして、約束して)、ま、それで阿弥陀仏というちょー偉い人になるわけですが、それで作った西方浄土太陽系に生まれ変わると、もう二度と生まれ変わらないというポジションをゲットできます。そこで死ぬと、もう他の太陽系には生まれ変わらず、永遠の安息に入れるわけですね。宇宙の外部に消滅でしょうか。そこから先は思考不能です(^0^)。宇宙の外部に出ていってしまうと、思考可能な範囲を出ますので話終わってしまいますから、ポイントはそっちではなくて、自分だけ涅槃に入るのではなくて、利他ですね、他の人を救うという誓いを立てている人たちは、また、他の太陽系に生まれ変わります。浄土宗の法然は法然として生まれたのはサハー太陽系(娑婆世界)に生まれた回数で言うと3度目です。娑婆世界に来た一度目はインドでお釈迦様の聴衆、二度目は中国の偉いお坊さん、三度目は法然ですね。今どうされているのかは知りませんが(^0^;)。

投稿日時 - 2008-04-27 11:28:18

補足

 otherwindさん ご回答をありがとうございます。より深い説明を たしかに いただきました。
 ここのなかでは 二つ前のANo.30のご回答内容と 枠組みのようなもの(と言ってしまっては いけないのでしょうが)を同じくされているかも知れません。たとえば
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 輪廻は深遠な思想であって、即物的にとらえては仕方ありません。
 絶対に止まない風であり、霊的なものの姿でもあります。
 この流れる風である間は、霊は命を得ると考えましょうか。
 涅槃では、風は止みます。一切消滅の地平ですから、命というありかたも消滅するでしょう。
 風によって起こされる「力」がないのです。・・・(ANo.30)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 筋道として どうであるか これは わかりませんと一言添えておくべきものとも存じます。(ちなみに お名前の《otherwindさん》との共通性もあるかも知れませんね。ないかも知れません)。

 わたしなりに整理しますと。業は いま生きていることである。自我・自我意識・そしてそれは 反省的意識であり 虚偽を伴ない そこではいくつかの意識内容のあいだに互いにくいちがいを生じており その意味での罪をも知るようになる。おそらく人は これをのり越えようとして さらにいくつかの虚構を 事のあとから 考え編み出し そうして理由づけし 弁明を用意し けっきょくは ちょっと良さそうな解釈を筋道づけつつ 自己の同一性を保ちながら 生きる。
 でも その中でも 優秀な自己弁明も出てくるということなのだと思います。そのような錯綜する因果関係を 空観のもとに あたかも自己(ないし自我)ではない自己が 見とおせるようになる。まさしく縁起である。縁起としての いっさいのものの縁起としてのわれ(ナルシシスムでない我れ)を実現した人もいるのだと。
 法然の例を出しておられますが こういう偉い人が 何度でも いつでも自由に この娑婆世界に――rurubonnppさんの見解におそわっているのですが――戻って来てほしいですね。いま この娑婆(サハーというのですね)を辞典で引いてみたら 次のような文例が挙げられていました。

   今この娑婆世界は これ悪業の所感 衆苦の本源なり。
   (『往生要集』大文第6――『岩波仏教辞典』)

 このような情況を そろそろ――つまり二千五百年も経っているのですから―― どんでん返しして 明るい世界にすることはできないものでしょうか。

★ (3) 因果応報というのは、あくまでも自分一人の反省なので、他人がひどい目にあったときに、周囲から因果応報だよというのは、間違いという考え方も有り得ます。
☆ たぶん 考え方《も》ではなく そういう考え方にしてほしいように感じます。でも――ちなみに この点も ANo.30のご回答と軌を一にしていて その趣旨の有効性を物語ると 個人的に 感じますが―― もしそれでしたら もう一度繰り返して もしそうでしたら もう 因果応報という見方は 残るでしょうが あまり公けの場では 姿を現わさないのが その有効性を裏打ちするようにも受け取られて来ます。

 少し放談気味ですが このように受け止めました。

投稿日時 - 2008-04-27 13:04:59

ANo.31

なんどもすみません。

でも、思いました。

宗教は、終わらせることができるのではないでしょうか。

否定や肯定ではなく。
始まりがある以上、終わりがある。

宗教は起源を語る。そして、終わりを語る。

メシアを待ち望む人びとは、メシアがくれば終わりです。
解脱を望む人々は解脱すれば終わりです。

それで、一つの物語が終わるのです…。

感謝します。ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-04-27 00:52:16

お礼

 なるほど。なにか 見とおしが 遥かかなたへと 伸びた感じですね。
 今後のご活躍が たのしみですね。
 ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-04-27 01:11:33

ANo.30

14です。
こうして回答が増えてきまして斜め読みしながら危惧するのは
物語というものを、非常に物質的にとらえる傾向が見えることです。
現実と同じ出来事におとしめては、ただのノウハウものです。
物語は、自分の想像の及ぶところを思いきり飛び越えなければ醍醐味がありません。
醍醐、仏教でいう味わいのうちの最高の味ですね。

(1)(2)(3)の、補足要求質問にお答えいただきましてありがとうございました。
どのお答えも原因ではなく、いきさつや経過といったものでしょう。
関わりの始まりや、いのちの始まりや、病の始まりには、
幾千幾億のいきさつが重ねられ、過去にもさかのぼり、また同時にも重なり、
それらのいきさつのどれもが、どこかからもたらされた果であり、
どこかに因を持つ出来事なのでしょう。

わたしたちの世界には、顕わなものと、密なものがあります。
密なものは蔭に隠れ潜む性ですから、いつでも何事でも、何のお蔭かわたしたちにはわからぬものです。

いまbrageloneさんの血と肉と霊がここにあるのも、
宇宙史のいきさつのどれひとつが欠けても成り立ちません。
これを肌で感じる言い方に置き換えれば、あなたがいかにざわざわした雑多な存在であるか、となります。
輪廻は深遠な思想であって、即物的にとらえては仕方ありません。
絶対に止まない風であり、霊的なものの姿でもあります。
この流れる風である間は、霊は命を得ると考えましょうか。
涅槃では、風は止みます。一切消滅の地平ですから、命というありかたも消滅するでしょう。
風によって起こされる「力」がないのです。
はるか昔から風が続いて、いまのbrageloneさんがあると考えましょうか。
業は行いすべてですから、風が吹く中に無数にあります。
また、風は関わりそのものの流れであり、力を起こしますから、命あるところには因と果の関わりがあります。
因と果が無関係となるありかたも、どこかの無風の世界にはあるでしょう。

被害が何かの結果と考えることは、原始宗教的な人間らしい発想(思いつき)ではありますが、
それは思想ではありませんね。
ただ、一つのいきさつであるような被害というものが、わたしたちの世界にはあふれています。
それはまったく、経過点であって、凶暴な業風(ごうふう)があちらからこちらへ、そして、関わらざるを得なくなるのですね。

このような風にもみくちゃにされながら、なお、自分の行いを見つめて生きよと、
それは心得であって、苦しみの中に生きることの心得でしょうね。
自業自得とは、俯瞰して批評のごとき口調で発するものではなく、理屈でもなく、
自分のことだけに集中した内省の思想がもたらす言葉です。
きょろきょろとまわりを見るから、出来事が薄っぺらな応酬や応報に見えたり、加害被害が因果に見えたりと、
風がただ不条理に吹くのまで、「自分にとって特別な意味」があったり、「あの人にとって特別な意味」があったりするのではと、
意識過剰になるのですよ。

投稿日時 - 2008-04-27 00:44:58

補足

 amaguappaさん お久し振りです。ご挨拶がまだでした。ていねいなご回答をありがとうございます。

 そうでしたか。amaguappaさんが そういう観点を抱いておられるとは 少し意外でした。むしろ信仰そのもののようでもありますし。

 この質問にかんしましては
★ わたしたちの世界には、顕わなものと、密なものがあります。
☆ とおっしゃっている見方に尽きます。そしてどちらかと言えばというよりも はっきりと 今回は 認識の問題として扱おうとはしています。認識しうる範囲が 問題です。《密なもの》も 言葉で認識できるかたちに表現しようとしています。
 もちろん 方向感の無くなったような情況に陥ったという小体験も途中でしていますし そのことを取ってみても 
★ 物語は、自分の想像の及ぶところを思いきり飛び越えなければ醍醐味がありません。
☆ という問題も つねに 伴なっているようです。
★ 密なものは蔭に隠れ潜む性ですから、いつでも何事でも、何のお蔭かわたしたちにはわからぬものです。
☆ そのとおりであると同時に ここでは どうにかして 表象して行こうとしているというわけになります。

 そうですねぇ。どうでしょう。たしかに 表象しようとするということは 《顕わなもの》と《密なもの》とのかかわりが問題になるとも言いかえることになるでしょう。そして こう見方を改めた後においても
★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
きょろきょろとまわりを見るから、出来事が薄っぺらな応酬や応報に見えたり、加害被害が因果に見えたりと、
風がただ不条理に吹くのまで、「自分にとって特別な意味」があったり、「あの人にとって特別な意味」があったりするのではと、
意識過剰になるのですよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ というこの文章が まさに結論であるということになるのかも知れません。そういうご回答を寄せていただいたわけです。
 
 どうでしょう。あえて こうお応え致したいと思うのですが 弁解がましいかも知れません。
 つまり人びとは 単純です。《自業自得》と聞けば ピンと響きます。一般には 悪い事の因果関係を言うのでしょうが 善因という場合にも 容易に拡げて解釈すると思います。これに 《輪廻》あるいは要するに 単純に《生まれ変わる》という言葉を合わせれば 一つひとつの事件について 具象的に 
★ 、「自分にとって特別な意味」があったり、「あの人にとって特別な意味」があったりする
☆ と言っていいでしょう。ここでは この現象・この事態・この情況について 問おうとしています。
 いやいや まさに示してくださった結論としては
★ 自業自得とは、俯瞰して批評のごとき口調で発するものではなく、理屈でもなく、 / 自分のことだけに集中した内省の思想がもたらす言葉です。
☆ というのが はずし難く揺るぎ無い解であるということであるかも知れません。
 そうしますと 次なる一歩は 次の一点に集中するのではないでしょうか。この
★ 自分のことだけに集中した内省の思想がもたらす言葉
☆ を人にも公表するかどうか この一点です。
 たぶん おそらく このように屁理屈をこねまわす《敢えて》を敢行してしまったのは――おかしな表現を用いましたが―― よく考えると amaguappaさんも すでに
★ 風がただ不条理に吹くのまで
☆ というように 初めに 《解》を表象したかたちで いまの議論を形成しておられると感じるからではないでしょうか。《不条理》というのは むしろ表象し得ないことを指し示しているのですが その言葉が 《密なるもの》の問い求めにあたって 既に初めに前提されているようには 感じられてくるからかも知れないと思いました。
 いまは 質問とその答えそのものではなく 質問の立て方 あるいは その中の重要語の用い方について むしろ 議論が始まったかたちですが まづは 以上のような弁明が ご議論を率直に感受したところだと思います。ここまでを申し述べて ご返事としたいと存じます。いかがでしょうか。

投稿日時 - 2008-04-27 02:00:42

お礼

 《風の理論》です。覚え書きです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
イエスはお答えになった。
 ――はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなけれ
  ば、神の国に入ることはできない。
  肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
  「あなたがたは新たに生まれねばならない」とあなたに言ったこと
  に、驚いてはならない。
   風は思いのままに吹く。
  あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを
  知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。
     (ヨハネ福音3:5-8)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 この《風》は とうぜんの如く 因果関係が 人には知られないことを言っていると思います。人生一般における因果応報については パウロが レベカに双子が生まれるときの話をしています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・リベカが・・・イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。
 その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、「兄は弟に仕えるであろう」(創世記25:23)とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行ないにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。

   わたし(神)はヤコブ(弟)を愛し エサウ(兄)を憎んだ。
   (マラキ書1:2-3)

と書いてあるとおりです。では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 神はモーセに、

   わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、
   慈しもうと思う者を慈しむ。(出エジプト記33:19)
  
と言っておられます。 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。
   (ローマ書9:10-16)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ということで きわめて分かりにくく扱いづらい主題です。これだけになりますが。

投稿日時 - 2008-04-28 14:26:06

ANo.29

あと、個人的な
仏教や「輪廻と解脱」の宗教における最大の疑問は

解脱したら
仏になったら

することないですよね。

大乗でも上座部でもその他宗教は何でもいいですが
仏になった、解脱したというけど

成った後の事は全然、触れようとしませんよね。

ゴータマさんは死んだけど…。

投稿日時 - 2008-04-26 23:55:13

お礼

 ご回答をありがとうございます。

★ 解脱したら / 仏になったら / することないですよね。
☆ この問いに対しても No.27お礼欄で書いたことが 思い浮かびます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・死をもって 完全に おしまいとする。
か やはり
・永遠の現在が すでに生前のいづれかの時点で 始まり あたかもその《法輪》が回っているという妄想
かです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 あるいは さらに夢物語として 《新しい天と新しい地》といった想定が じつは この現在過程にあるのだと思います。
 直前のANo.28の方のご回答では それとしての世界観として 解脱した人たちも 自由に この地球に 何度でも 自由に やってくると書いておられます。たぶん その想定を いま現在に持っていても よいのだと思いますが どうでしょう。

投稿日時 - 2008-04-27 00:42:48

ANo.28

rurubonppです。忘れていたところがあったようですね。もちろん、この世に生まれて来るための善因もあります。この世は修行の場でもありますから、実に多くの神霊がこの世に生まれて来て修行したがっています。現世において極悪人と言われる人でも1年中悪を行っているわけではありません。それがどんな些細な善であっても、来世で自分を救う可能性があるのです。現世において一度でも仏縁を得たら、来世のいずれかにおいて開花して解脱の道を歩むことができるようになると言われています。
また、ほとんどの人は釈尊のように立派ではありませんから、一生一生ちょっとずつ修行を続けることで、だんだん聖者の階段を上がって行きます。まあゲームに例えるとどんなことでも経験値になるわけです。修行法は経験値が2倍とかになるようなアイテムだと思ってください。
私の回答は今まで、悪業ということに偏って書いてしまいましたが、この世には聖者もいれば、悪魔もいます。あらゆる世界の住人が集まってきて様々なことをしているわけです。悟りを開いて、もうこの世に来なくてもいいのに物好きなのか、来ている人もいます。肉体を持って来ている場合もあるし、霊的な体で来ている人もいます。一度解脱していまうと完全に自由なので、この世に来たい人は来るわけです。中にはすべての衆生を救い尽くすまで生まれて来るという誓願を立てて来ている菩薩のような方もいます。こういう人は因果応報ではなく、本人の自由意思で来ているわけです。
途中で三日坊主で諦めてしまうような修行や善行でも、やっただけの果報はありますからやるようにすると良いでしょう。
あなたのこういう質問も来世の善因になるわけです。こんな疑問を持つということ自体過去世で何かの修行をしていたのでしょう。結局、過去世で解決できなかったから同じ疑問を持って解決しようとしているわけです。この行動こそが悟りや解脱に向って歩いている姿なのです。因果の法則に支配されないようになることが自由に地球に生まれてくる因と言えるのではないでしょうか。因果に支配されている場合は生まれるのではなく、生まれさせられているわけです。

投稿日時 - 2008-04-26 23:51:14

お礼

 これは おもしろい!!と思いました。
 ご回答をたいへんありがとうございます。

★ 悟りを開いて、もうこの世に来なくてもいいのに物好きなのか、来ている人もいます。・・・中にはすべての衆生を救い尽くすまで生まれて来るという誓願を立てて来ている菩薩のような方もいます。こういう人は因果応報ではなく、本人の自由意思で来ているわけです。
☆ これでしたら もう何も言うこと無しです。解脱が この世から去るだけのことだったら つまらないと思っていました。でしたら 何年か先には あるいは何世紀か先には この地球上で わたしたちの好きなように生き 好きなように社会を作っていくことも夢ではないようです。
★ 因果に支配されている場合は生まれるのではなく、生まれさせられているわけです。
☆ なるほど。案外 この言説は 大きいと思います。もし 仏教用語を用いるなら このように認識したときに その時点で 即身成仏であるといいのですが。
 
 rurubonppさん rurubonppさんの世界として よく分かりました。たいへんありがとうございました。ただしまた この質疑応答を見ていていただいて 何かありましたら 自由にご投稿ください。では ひとまづ。

投稿日時 - 2008-04-27 00:33:42

ANo.27

そういえば、
輪廻を否定すると、極楽もなくなりますね。

どうなんでしょう。
自業自得だけど来世はあるよ。
と、
輪廻はなし。現実でどうにかしよう。死んだら終わり。

もはや好みで、二つ選ぶことになるんですかね。

投稿日時 - 2008-04-26 23:40:42

お礼

 そうですねぇ。これについては わたしに 考えがあります。

 輪廻否定説に立ちますので
★ 自業自得だけど来世はあるよ。
☆ は 採らず
★ 輪廻はなし。現実でどうにかしよう。死んだら終わり。
☆ なんですが 
★ 死んだら終わり。
☆ について この死にかんして 二通りの見方があると思います。

 けっきょく死だけを取り出す必要もなく 生と死とをひっくるめて 人生として まづ捉えるのですが この人生について
・死をもって 完全に おしまいとする。
か やはり
・永遠の現在が すでに生前のいづれかの時点で 始まり あたかもその《法輪》が回っているという妄想
かです。
★ もはや好みで、二つ選ぶことになるんですかね。
☆ そうだと思いますよ。

 ご回答をありがとうございました。もう一件いただいています。

投稿日時 - 2008-04-27 00:21:29

ANo.26

おそらく、輪廻という考え方は、過去よりも、未来を考えるものなのだと思います。つまり、今ここで、みんながお互いに他人に親切にしたら良いよね、という考えなのではないでしょうか。

もちろん、ご質問のように、納得できない嫌なことが起きてしまったときに、なぜだーーーーとずーっと考え続けても、理由がどうしても分からない、悩み続けるというのもストレスですから、考えても仕方がないと(実際、起きてしまったことの理由を考え続けることは考えても仕方がないと考えられます)思考停止するという知恵でもあるかとは思います。

投稿日時 - 2008-04-26 22:58:12

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。未来へ向けて いまの意思が実現するよう努めるという発想 これを言おうとしたという部分もあったのでしょうね。たしかに輪廻とひとくちに言っても 多面性があり 活用の仕方も いくつか出てくるのでしょうか。ただ 例外無しとしなければ 論理的には破綻を免れないとも思えるのですが それを言っては 元も子もなくなると言うべきでしょうか。
 しかし わたしたちは 何も疑わなかった頃は この輪廻は 生まれ変わるという思想として まったくふつうに滲透していました。というのが 一般ですかね。

★ 納得できない嫌なことが起きてしまったときに、なぜだーーーーとずーっと考え続けても 理由がどうしても分からない
☆ このとき いいこともありますよ。ひとつは 分からないと分かること。これで けっこう すっきりします。もうひとつには おっしゃるように
★  思考停止するという知恵でもあるかとは思います。
☆ とわたしも 考えます。エポケーというのがあります。判断中止 あるいは 現象学的還元とも言います。ブッディスムで言えば 空観でしょうか。
 これは 特別に何かつけ加わったというのでもなく 同じ事態を あたかも別の角度から あるいは 自分がエポケーのあとの新しい境地に立ってその視点から 見て捉えるというのでしょうか。

 それにしても もしそうだとすると 輪廻は しりぞいて行くようでもあると思われるのですが。どうなんですかねぇ。
 前向きということを おしえてくださったと思います。

投稿日時 - 2008-04-27 00:11:09

ANo.25

rurubonppです。さらに質問されてしまうのは仕方ないことです、お互い悟りを開いていないのですから当然でしょう。
さて、加害者と被害者の関係にしてしまうところに問題があるのではないでしょうか、動物的と解釈した方が良いでしょう。加害者になる人というのは、前世の業もあるでしょうが進化まだまだで動物の性格が抜けていない人も多いと思います。人間の脳を見ても大脳辺縁系など動物と同じ脳があるわけです。進化が未熟で動物的な人は人間で言う罪を犯してしまうものです。人間も今でこそ人間ですが、最初は土くれからだんだんに進化して来てやっと人間になっているわけです。そして、まだ大脳辺縁系などの脳が退化せずに残っているということは、人間の進化もまだまだ浅いと思われます。
こういう進化して来た人間以外に神だった者が堕落してこの世に生まれて来ている人もいます。こんな人は極少数です。例外的存在でしょう。
マトリックスの例を出したのは、ごく単純に主人公が夢の世界から醒めて、現実世界に戻るでしょう。そして、またマトリックスの世界に入る。すると今度はこの世界が仮想の世界という自覚があるものだから、いろいろな超人的な活躍をする。このような様を悟りを得たようだと表現したかったわけです。ネオでなくてもモーフィアスでもトリニティでもいいわけです。仮想現実から目が覚めて自由になったことが大切なのです。
悟りを得ない間は、理不尽と思えるような法則に縛られて苦しむばかりですから、そこから逃れて自由になることが大切なのです。例え楽しいことがあってもいずれはなくなる時が来ます。悟りとか解脱という言葉を宗教用語で理解しようとするのも大切でしょうが、もっと自由な思考で考えて見てはどうでしょうか。

投稿日時 - 2008-04-26 21:03:38

お礼

 ご回答をありがとうございます。もう一度だけ お尋ねしてみたい気持ちです。

 マトリックスは 残念ながら よく分かりません。ちなみに ネオは 救世主なんですね。結末は wikiでは 書かないということでしょうか。残念ですが よく飲み込めずです。

★ 加害者になる人というのは、前世の業もあるでしょうが進化まだまだで動物の性格が抜けていない人も多いと思います。
☆ そうしますと 業という因果応報とは別の要因があることになります。自然の本性ゆえに 悪業を犯すという。これだと ますます 暗い世界という想像になってしまうのですが そういうことでしょうか。
 つまり 前世の業のほかに 生まれつきの性分で 悪業を為すとすれば それらが悪因となる事例は余計に増えるでしょうから ますます次の世に 悪果をもたらすように思えます。
 あるいは こういうふうに 悪因が増えようが そういう事情なのだと認識できることが 夢から醒めることという意味でしょうか。そうして 浄化を少しづつ重ねていくのだと。

 もう一点。少し触れたかと思いますが 浄化を重ねていって 解脱を得るとき 以前のブッダらのように もうこの地球には生まれて来ないというのではなく そうではなく 逆に この地球に 生まれて来るための善因としての解脱を得ることは出来ないのでしょうか。もしそれならば わかるような気がするのですが。

投稿日時 - 2008-04-26 21:45:14

ANo.24

rurubonppです。もちろん修行しなくても、自然に浄化して解脱していくことは可能です。豊かな自然に触れたり、実りある人生を送ることで何生も何十生も生まれ変わりながら解脱していきます。わかり易くいうと、普通の自然浄化が歩いて行くという方法に対し、修行というのは飛行機や新幹線に乗るようなものです。何生も生まれ変わって行くうちにもうこの苦しみは耐えれないと感じたときに修行を志せば良いでしょう。
それともう一つ、この我々の世界は下等なものが進化して行く過程のものと、高等な者が堕落してしたことによって出来た世界なのです。進化の途上の者や罪人が多いのは仕方のないことです。
これは、人間がオンラインゲームなどの仮想の世界を形成しているのによく似ています。霊的に高度な者によって創造されたのが、この現世なわけです。その世界にゲームのように参加しているのが、我々ということなのです。何がしかの理由で参加しているわけです。我々人間が作る仮想世界はまだまだ未熟ですが、神のような存在が創る仮想世界は非常に高度で抜け目がないということです。
人間の科学がさらに発達すれば、映画のマトリックスのようなことも実現するでしょう。あの映画のネオのような状態が解脱したということなのです。そして世界の外にまた別の世界があるということです。
もう一つ例をあげると、夢を見るでしょう。夢に出てくる人物や自然はどんなに複数登場しても、夢を見ている本人そのものなのです。別々の人がいるように感じても本体は夢を見ている本人しかいないわけです。したがって、この宇宙はいろいろな人や自然があったとしても、この宇宙という夢を見ている本人一人しかいないわけです。これを神の宇宙夢というのですが、解脱とはそういう宇宙夢から醒めるということで、夢を見ている神本人に帰るということではないかと考えます。天使も悪魔も人間も神の夢ということではないでしょうか。
最後に、私は何かの学説を述べているわけではありません。今まで修行して来たことの経験から述べているわけです。単なる私見で間違っていることもあるでしょう。それだけはお断りしておきます。

投稿日時 - 2008-04-26 17:00:09

お礼

 さらにご説明をいただきました。ありがとうございます。

 言ってみれば 今回は 穏和な感じがするのですが どうなんでしょう。つまり やはり この世に生まれて来ているわれわれは みな 犯罪経歴を持つ者ということに変わりはないと言うべきなのか。それとも 大部分の人たちは それほど酷い前科ではなく おのおの徐々に進む自然の浄化と解脱の道を 特別の加害もおこなわず被害にも遭わず 生まれては死に 死んでは生まれてくるという情況なのでしょうか。・・・つまり
★ その〔業にかかわる〕超能力が自分の意志とは無関係に、自分が過去世に積んでしまった業の報いの遂行のためだけに働いてしまっているということ。(前回のANo.22)
☆ このような状態の人は 一部分なのでしょうか。

★ 進化の途上
☆ ということであれば 世界も徐々に向上していくとは思われますね。宿命論のように感じて 出口無しの暗い世界ではないかと思いましたが。それは 一部の加害・被害を繰り返している人びとの世界でしょうか。

 《仮想現実》ということで 単純に次のような例を考えたのですが まちがっているでしょうか。
☆ 《楽しい我が家》と言うとき わが家が楽しいと言っても いいわけですが 厳密には 家が楽しいのではなく そこに住む人びとがです。
 《妬む神・怒る神》と言うとき 神が あるいは ねたみ怒るのかも分かりませんが げんみつには 神のもとにいる人びとが嫉妬深く怒りん坊なのだと考えられます。
 というふうに 世界を見直すならば 仮想現実Aから その解釈のし直しをとおして仮想現実Bが現われます。これでも
★ 宇宙夢から醒めるということ
☆ になるでしょうか。たぶん 醒めたとしても また 新たな夢に入り込むというのかも知れません。

★ 人間の科学がさらに発達すれば、映画のマトリックスのようなことも実現するでしょう。あの映画のネオのような状態が解脱したということなのです。そして世界の外にまた別の世界があるということです。
☆ wikiで調べただけですが ネオは 主人公の裏の顔で ハッカーという悪いことをしているのではないのですか。それでも 解脱につうじているのでしょうか。

 またまた質問を浴びせてしまいました。あしからずどうぞよろしくお願い致します。

投稿日時 - 2008-04-26 19:45:59

ANo.23

No.17です。

<因果応報>

<因>は<原因>  <果>は結果。 が応じる、報いる って意味ですよね。

結果には必ず原因がある。

古代の人は星を観察して、この世の法(ルール)を解き明かそうとした。
例えば、太陽を観察して、いつ頃種を撒けばいいかを知り、それによって、収穫を得ていた。

物質的な因果応報を人間の能力で知ろうとしたわけです。


でも、人間は物質だけの世界に生きていない。

例えばマックでコーヒーを飲もうとしてこぼしてやけどをした。
コーヒーという物質に腹をたてず、因を人に求めた。

輪廻思想は、物質に因を求めず、人に因を求めています。
人の行いを正すということに使えば、それはそれで輪廻思想は社会にうまく機能します。


が、もっと深いところを見てみましょう。

カースト制度って調べると、どうやらあの地域に先住民として住んでいた人たちが、他からやってきた民族に支配され、一番低いカーストに置かれたらしいんです。
そして、その一番低いカーストの人が、カースト制度を支持している。

つまり、支配される側が支配されることを望んでいるから、そういう社会人しかならない。

外から見ると、人種差別ですよね。
しかも人種差別される側が望んでいる。

因は差別を望む心、だから果は差別を望む社会にしかならない。
そして差別されることで苦しむしかならない。
自分で望み望んだ結果を得ているわけです。
自業自得。

差別を撤廃する社会を望めば、差別の無い社会になる。
自業自得。



日本憲法前文知ってますよね?
輪廻転生 差別支持者の人が聞いたら卒倒する内容です。
こんな国が現世の今自分達が生きている世界と同じ世界にあるなんて・・・ととても驚くと思います。
プラトン並の驚きでしょうね。


ちっさい一個人の幸福追求思想が輪廻思想なら、日本人は日本にとどまらず世界全体を極楽にいざなおうとしているわけです。

イエス作家も言いましたよね。
「神の義を追いめるものは幸いなり。天の国は彼らによって構成されている」

日本語だと、「神の義により迫害されるものは幸いなり。彼らは天国に行くであろう」みたいに訳されていますが、天の国に死後行くって説いたわけじゃなく、現在のこと。
天に国が下りてくる、つまり天の国が現実化し生きた人はそこで暮らせるようになる という意味。

そのために、未来私たちは生きていないが、未来人のために、がんばりましょー というのがイエス作家の主張でもあり、日本国憲法の前文の博愛でもあるわけです。

輪廻思想は自己愛。



>仏教による次の《偽善》の定義は知りませんでしたし 辞典などでは確認できませんでした。

これは他のサイトの哲学カテで、仏教の信者さんから聞いたんです。
善悪について論じている時、「じゃあ もし善意でやった結果、誰かが不幸になったら、私は悪人になるの?」と聞いたら、そう答えてくれました。
仏教には偽善という概念がある と。

そして、仏教では施しをした人がされた側に「ありがとう」というのだと。


>★ 偽善は善か悪か? 法律では過失となります。うんぬん。
☆ もしここから発展があれば さらに披露してください。いまひとつ掴みかねています。

その後の会話は上に記述したように、仏教の施しの概念の説明を受けました。


>という解釈も おもしろいかも知れません。ただ ブッディストからは批判を受けると思います。(無住処涅槃でしたか)。

うーん 私の理解が間違えているのかもしれませんが、、、、
仏陀は中庸(中道)を説きませんでしたっけ?
ほどほどがよろしい と。

キリスト教は奇跡を売りにしていますけど、仏陀は人間が知覚できるものだけを使って、説いたと聞いています。

といっても、仏教も開祖の仏陀は何も書物に残しておらず、派閥によって仏陀がどう説いたかが分かれるらしいです。



>《無から有が生じた》という場合 やはり表現の問題であって その《無》は この経験世界の有無を超えているわけです。仮りに無と言っているだけのようです。

それを魂の記憶と誰だったか言っていたような。
人には魂(ダイモン)があり、どっかに魂があって、肉体に宿る。
そして、ソクラテスがやったことに驚いた場合、それはダイモンがかつていた世界(イデア)と同じだということを思い出すから驚く と言った人が哲学者にいた。

人間の宿っていなくても、他の世界にダイモンは存在していた。
でも肉体だけだと動かず、ダイモンが宿って初めて人となる?
新世紀エヴァンゲリオンみたいなものですね。

じゃあ 魂(ダイモン)はあるんじゃないか?
うーーーん、、、難しい。
人が正義を求める心はどこから発生するかの説明として、哲学者は使ったようなんですね。

DNAに組み込まれた何かかもしれないですね。
じゃなきゃ 殺し合いして人間とっくに滅びているはずですから。


で、脳は殺す という本を読んだことがあります。
1つの説でしかないですが、3つの条件がそろわないと、人は人を殺さない としています。(20年間 連続殺人犯を調査した人の書いた本)

で、その中で子供の頃 恐ろしい目に合わないと、他2つの条件がそろっても、殺人は起こさないとしている。

子供の頃虐待を受けたため3つ目の条件がそろった時、殺人を犯すのなら、児童虐待を防げば、未来に起こる殺人は防げるわけです。

殺人の加害者が実は社会の被害者だった。
だから、猟奇殺人をしたからといって死刑にするだけでは猟奇殺人は無くならない。
が、ヒステリー起こした人には「被害者遺族の気持ちを逆なでする」と罵倒される・・・・。

これは現世の問題であって前世の問題じゃない。
殺された人は、前世で悪いことをしていたから、殺されて当然 じゃあない。
前の時代に、犯罪を犯したからと処刑してすませてきたから、猟奇殺人が起こった。
調査して、何が原因か調べることを怠ったため、来世 つまり 現代の人が関係ない人に殺されるわけです。

これが社会のカルマ。


>つまり 個人の信仰と組織・集団としての宗教との区別も 必要です。

カトリックはたった1つでどの教会に行っても内容は同じだそうですが、プロテスタントだと、教会 いや 信者一人一人によって内容は違いますよね。
で、それ全てを貫くものは、自己愛なのか博愛なのかによる。

博愛 博愛といいながら、結局自己愛を貫徹をしようとしていると思える信者さん 多いですよね。

もし 自己愛なら、宗教ってちんけなもんですよね。

自己愛の溺れる輪廻転生を信じる集団は、天国になれない。


私 不思議好きなお子さんでしたから、輪廻転生に関する本もそれなりに読みました。

輪廻転生をしているとされニュースになった人たち。
その研究をしようとした人が、本に書かれているインドの町に行って、直に本人と会おうとしたんです。
すると○○郡に行ったところ、○○村が無い。
でも、超有名な人だから、聞けば教えてもらえると人に聞いても、誰も知らない。

で、作者に聞いたところ、実はその作者は本人に会っておらず、又聞きとか噂をあたかも自分が直接会って聞いたように書いたということが判明。


もう1つ。
退行催眠をやったところ、退行しすぎて前世まで遡ってしまったという人。
何百年か前にイギリスで話されていた言葉を話すという。
種明かしをすると、その人は子供の頃にイギリスから移民してきた人と近所つきあいがあり、そのイギリスの人が話す言葉は、今でもイギリスの地方で使われており、何百年か前に消えた方言じゃあない。
退行催眠で思い出したことは事実だと認定されない。
裁判で使われない。

退行催眠が事実だして共通認識されてしまったら、大変なことになります。
「私がこの人を殺した理由は前世で私がこの人に殺されたからです。この人は当然の報いを受けたんです。だから私は無罪です。」がまかり通ってしまう。



>《自然科学的な因果律》と《社会的な人間関係としての因果応報》とを区別すべきだと言ったとき 因果律のほうの《破れ》にかんして 


イエス作家がイエスが死んだ時、神殿の幕が避けたと表現しましたよね。

そろそろ <迷信> の垂れ幕を破ってもいいんじゃないかと。

金枝篇を書いたフレイザー卿は、私たちが習慣にしているものは迷信が原因と解き明かしました。

迷信の世界を現実と一致させようとすると、オウムになっちゃうんですね。

投稿日時 - 2008-04-26 12:12:20

補足

 ご回答をありがとうございます。

 質問は単純なのですが しかも その回答も 二種あって じつは単純だと来ているようです。《すべては自業自得か》という単純な問いに対して 
 1.《そのとおり説》=《輪廻および業》派:輪廻転生において 例
  外なく完全に自業自得であるという説。
 2.《否定説》=《輪廻に対して無記をつらぬく現世および社会経
  験》派:輪廻転生を認めない(少なくとも 無記とする)・ゆえに
  現世における人生についてのみ 経験科学的に検証できる因果関係
  の歴史のみを 認識と議論の対象とする。

 おそらく 仏教は これらの中間のどこかに いくつか派に分かれて 自己の思想を位置づけているのかも分かりません。その点では このように《輪廻と業》というように 単体としての主題を取り出して議論や批判をしても埒が開かないとしたyukiyama20さんの見解は ただしいのかも知れません。また 一般に 過去世がどうの未来世がどうだというのは 遊びとしてでなければ――つまり 知ることが出来ないことなのだから―― その話について行けないというのが ふつうの反応だろうと思われます。
 こういうかたちで むしろ もはや回答は――その幅を持ちつつ――明確になって来ました。しかも わたしの感覚ですが 何かしっくりしません。何かひとつか二つ 足りないというのでしょうか あるいは 少し論点がずれていて 的が絞れないでいるというのでしょうか 物足らない思いが漂っています。

 ひとつ 思い浮かんだことがあります。それは 《偽善》の定義でも触れてもらったように 仏教が 《善悪》について 必ずしも 一般的な捉え方をしているのではないと思えて来たことです。だから amaguappaさんからでしたか 用語の定義をしっかりしておけとの指摘を受けてもいるのですが wikiなどで調べると 善の反対は 悪ではなく 煩悩あるいは無明だと言います。
 そして もうひとつ――これは術語としては知ってはいたのですが―― 善因の結果は 楽果であり 悪因の結果は 苦果だと言い そのような結果は 善悪の問題ではないのだと言います。なかなか 面倒なことになったかも知れません。ただいまは 方向感が分からなくなっています。と白状して みなさんのご投稿をさらにお待ちしたいと思います。

★ そろそろ <迷信> の垂れ幕を破ってもいいんじゃないかと。
☆ わたくしも思います。その一環として やってきたつもりです。
★☆ 因果律のほうの《破れ》にかんして 
☆ は 自然科学の方にお任せすることになります。
★ 退行催眠
☆ よく分かりません。いんちきもあるということでしょうか。
★ 全てを貫くものは、自己愛なのか博愛なのか
☆ 博愛も自己愛も 人間の為す相対的な経験行為です。それほど変わらないかも分かりません。自己愛が強くて 相手の人が 博愛を意識して 自己愛から解脱していけるかも知れません。(極端な例ですが)。
☆ 組織となると いかに立派な信仰の主(ぬし)であろうと その運営上の規則を自由に柔軟に使いこなすことの困難やら 経験行為としての共同自治のため為さざるを得ない妥協やらが 伴なわれます。果ては その管理行為における権限を行使できることから来る支配欲をどのように自らが操縦していけるかの問題が起きます。
 その組織が しかも 宗教そのものだとしますと たとえば《この世に倣うな》という警句もあるのに どうしても板ばさみになると考えます。宗教にかんしては 研究教育施設だけにするとよいと思います。(結社の自由に反するのですが)。
★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >《無から有が生じた》という場合・・・の《無》・・・ 
それを魂の記憶と誰だったか言っていたような。
人には魂(ダイモン)があり、どっかに魂があって、肉体に宿る。
そして、ソクラテスがやったことに驚いた場合、それはダイモンがかつていた世界(イデア)と同じだということを思い出すから驚く と言った人が哲学者にいた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2008-04-26 17:25:29

お礼

☆ 用語の整理です。

  肉=身体と精神 / 感性と理性 / じつは心(知覚=魂 と 知性)

  霊=知られ得ない絶対のこと

 * ただし《たましい》と言って 《霊》のことを指す場合もある。

 《魂(ダイモン)》は 知覚や感性のことでしょうが 《霊》をも含んで言っているかも知れません。《イデア=形相》は 《理性や知性つまり精神の産物》(つまり経験事物)だと思われますが 《霊》のことをも指し示そうとしているかも分かりません。

★☆ 日本国憲法の精神は たしかに民主主義だと思います。
★☆ フレイザーは 読み始めて挫折した歴史があります。

 とりとめなくなってしまいましたが。

投稿日時 - 2008-04-26 17:31:35

ANo.22

その通りです。この世で起きることのすべては、必然であって偶然はありません。例えば、通り魔事件や交通事故のような一見、被害者と加害者の間に何の関係のないようなことでも、前世では密接な関係があり、ほとんどの場合被害者と加害者が逆だったケースが多いです。こういうことを書くと悲惨な事件の被害者の方が本当に可愛そうなので、普通は書いたり話したりしないものです。
普通の人は、自分など超能力などないと思い込んでいますが、すべての人が等しく超能力を持っています。恐ろしいことは、その超能力が自分の意志とは無関係に、自分が過去世に積んでしまった業の報いの遂行のためだけに働いてしまっているということです。例えば、ある人が東京にいて、殺される運命にあるとしましょう。すると、過去世で縁のあった人物が例え地球の裏側にいたとしても、カルマが満ちる頃には、その人の目の前に現れて殺されるということになります。多くの場合、自分が過去世で殺した人です。
このようにお互いがカルマ遂行のために超能力が働いて、そして引き合い、悲惨な運命になって現れます。悪いことだけでなく、結婚などの喜び事も同じです。同じ人と結婚したり、兄弟姉妹、親子などの関係のあった人が多いです。
こういうことを制御するには、かってに超能力が働いてしまわないようにしないといけません。多くの場合は眉間にあるアジナ・チャクラの制御から始めないといけません。このチャクラを制御することで勝手に働いている超能力をコントロールしてしまうわけです。
また、因果の法則は前世と現世の関係だけでなく、先祖と子孫の関係でも生じます。遺伝子が輪廻していると言えばよろしいでしょうか。この場合はチャクラの制御よりも先祖の供養が大切になります。まあ、どんな先祖の元に生まれるかは、その人の前世によるのですが。
過去世で解脱した人は、もちろん輪廻転生しません。釈尊の生まれ変わりと自称する人がいますが、解脱した釈尊が生まれるようなことはありません。キリストもマホメットも仏教ではありませんが、最高の悟りを得ているので生まれてきません。
もちろん、現世で人間などに生まれて来ているということは、過去世に解脱していないからです。修行すらしていない人も多いでしょう。

投稿日時 - 2008-04-26 04:19:01

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 率直に申せば 出たぁーっ!と思いました。例外なく 業としての因果応報によって輪廻転生をつづけるという説。論理的に筋がとおっていて 気持ちいいのですが。

 ですが そうだと こういう帰結になりませんか。つまり この世には 前科者ばかり生まれて来ている。ブッダを例として その中から 一抜けたと言って 解脱していく者もいる。そういう人は もう生まれて来ないのだから この世には その昔の加害者ばかりがいるのだと。
 その昔に被害者だったという人は さらにその昔の加害者だったわけですから この世は 過去においての悪人だらけであると。

 逆に ブッダを先頭(?)にして この悪人状態から抜け出していく人もいるということは その解脱の可能性が――《チャクラの制御による超能力のコントロール》によって―― 誰にもあるということのようですね。

 そこで質問です。この世から抜け出していく必要のないかたちで つまりあくまでこの世において生きるというかたちで 解脱の可能性(《仏性》というのでしょうか)を持って 少しづつ これを働かせて 過去の悪業を制御しつつ生きる。皆が そうする。そのことによって曲がりなりにも おれはこう生きたい・わたしはああ生きたいという夢を互いに追う充実した世界 これを実現することは 可能でしょうか。あるいは 過去の悪業によって悪人ばかりの世の中なのだから そういう世界は 叶わないということでしょうか。

投稿日時 - 2008-04-26 06:40:47

ANo.21

ON6です。  お疲れ様です、凄いですね。

輪廻が有るか無いか判りませんが、輪廻が仮に有ったとしてbrageloneさんは過去世の記憶が有るのですか??

有って初めて輪廻がと言えるのではないでしょうか、屁理屈を捏ねれば何とでも言えますよ。 テレビの・・・はその物ではないでしょうか。 

私は有る意味、宗教は科学だと思ってます事実を事実としてみる事それ以上の物を求めると妄想になり危険だと思います。

>自業自得というのは 自分にも分からない原因としての自業があるのですか。

自業自得と言うと悪く使えれますが、お前の行いが悪いから自業自得お前の責任と。悪い結果を受けるのは誰の責任でもないですよ。逆に良い結果を受けても喜ぶにおよばずですよ。

こんなもの誰にも解りませんよ。

良い行いが良い結果これ嘘です。悪い行い悪い結果これ嘘ですよ。


brageloneさんはキリスト教に詳しいですよね、聖書の中に書かれていましたが、こう言うニュワンスの事を「生まれながら目の悪い人がイエスに聞いています、私の目の悪いのは私の責任ですか?親の責任ですか?イエスは誰の責任でもない神の現われ有る」と。



禅の方で。  昔、中国の一部の地域を治めていた武帝がインドから凄いお坊さんが来るので呼びました、それが菩提達磨ですが。

武帝は仏教を保護してました。

武帝、達磨問う 私は沢山の寺を作り仏教を保護しているが「何の功徳が有りますか? 」 達磨、曰く「無功徳」

功徳を求めて行動するは、煩悩の因を作っているだけだ。

武帝問う仏法の真髄は  達磨答えて曰く不識(知らない)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%94%E7%A3%A8


何故サリン事件に引っ掛かったのか、解らない(知らない)


私は、解らない事が(知らない)=神だと思ってます。  生死の問題は解らない(いつ何処でどう死ぬか)心の問題も解らない。



ちなみに達磨は毒殺されています(理屈抜き)。

brageloneさん参禅でもしてはどうですか?求道が強いようなので。



それが駄目なら「鈴木大拙」の本をお勧めします、近年の優れた仏教(禅)学者です。経典も言いですが、昔の人の書いた物も良いですが、昔と違い色々な情報が有りそれを見聞きした現代大物の方が私は優れていると思います。  真宗も判りやすいです。

釈迦が達磨が上で鈴木大拙が下と言う事はないと思います。

釈迦達磨を神格化していたら別ですが。

鈴木大拙は分別(理屈)の世界は、井の中の蛙だっというニュワンスの事をいってます。

分別は(理屈)は投網とも、投網はすべてが掴める訳ではないです。

分別の下に無分別が、無分別は全ての囚われから離れた情態(禅定)・・・。。無分別でも音は聞えるそうです。是非がなく聞える。

分別は是非が有り聞える・・。。

無分別、善悪ない世界  不安安心ない世界・・。。これかと分別を使えば善悪の世界  不安安心の世界。

学がないので文章に、まとまりがなく、すいません。

投稿日時 - 2008-04-26 03:44:30

お礼

 ri-zyuさん ていねいなご回答を寄せていただきありがとうございます。
 ANo.18からこのri-zyuさんのANo.21までご三方のお考えを一緒に読ませていただき ひととおり ANo.18へのお礼欄に わたしの反応を述べさせていただきました。

 どうなんでしょうかねぇ。まづみなさんのお蔭により 思案が深まったように 感じています。ということは 分かったと思う反面で その思案中の状態が 長引くようにも感じています。わるいことではないのですが 分かりたいという思いが 見えない壁に突き当たっているのでしょうか。それは 現実ということなのでしょうか。あるいは ブッディスムの理論の問題なのでしょうか。
 ブラフマニスム=ヒンドゥーイスムのほうの教理も然ることながら ブッディスムの理論というとき それは まだ知らないしっかりした教理があるのかも知れず あるいは逆に あるにはあるが どこまで探究してもその探究は あいまいな状態を残しているというのかも知れず そういった壁なのかとも思いますし。・・・

 聖書のイエスのお話しを出していただいて ありがとうございます。わたしの感覚では 《目の見えない状態に生まれたのは 神のわざの現われるためである》というこの話は 述べておられるように《分別を超えた世界》として受け取ることと思います。
 と同時に 因果応報という大きな理屈で 悪果でさえ 善因の結果であり 仏道修行のひとつの道だと言われて 包まれたように感じていたとするなら どこか それは くやしい思いに通じているように思います。もっと端的に JR福知山線列車脱線事故が三周年を迎えたそうですが その犠牲者は運がわるかったとして 分かった気になるのも くやしい。あきらめるのですが 受け容れざるを得ないのですが 運のせいにするしかないのであれば 因果応報説などは一切吹き飛ばしてしまいたいと思います。何のかんばせがあって 縁起などという大理論を説いているのか。こう思います。

 鈴木大拙はなじみが薄いまま来ておりますが 達磨の《知らない》という答えのその先には もう何も出て来ないものであろうか 出て来ないことが正解なのであろうか 等々 もう少し思案を延ばしてみたいと思うのですが いかがでしょう。

投稿日時 - 2008-04-26 06:02:05

ANo.20

全ての人が解脱した。
今や全ての人が解脱した。
もはや、誰が輪廻するのやら。

こうして、宗教は肯定的に否定されました。

投稿日時 - 2008-04-26 00:54:10

お礼

★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
全ての人が解脱した。
今や全ての人が解脱した。
もはや、誰が輪廻するのやら。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ このお話は いいですね。
★ 宗教を否定するには同じ宗教をもって。 / 毒を制すには毒をもって。
☆ わたしも ささやかに 《我れはブッダなり》と宣言するという仮構を思い描いたのでしたが。個人の信仰から離れたと見られる宗教に対しては 《わたしは 〔小型の〕キリストである》と宣言するかたちを言っておくといいかと思います。
★ ・・・毒をもって。
☆ の部分は まだ抵抗があるようにも思いますが。
★ 今や全ての人が解脱した。
☆ は いいと思います。しかるべき大きな虚構だと思います。

 この質疑応答の過程で 中間点を通ったと思ってから ほとんどわかってしまったように感じるとともに そのことが どれだけ有効にはたらくか これが 五里霧中のごとくであるようにも感じられます。・・・!!!???(ということは まだ分かっていないのかも知れないと思えて来ます)。

投稿日時 - 2008-04-26 05:14:56

ANo.19

宗教を否定するには同じ宗教をもって。
毒を制すには毒をもって。

解脱の思想がある時点で
いくら輪廻だろうと業だろうと関係ありませんよ。

前にも言ったような気がしますが
言ったもの勝ちです。
解脱したってね。

投稿日時 - 2008-04-26 00:28:25

補足

 ANo.16でkigurumiさんより 旧約聖書の『コヘレトの言葉(伝道の書)』のことを示唆されています。いま 4月28日現在の時点(ANo.32まで)で 中間のまとめを行なおうとして このコヘレトの言うところを 参考にまでかかげておこうと思います。yukiyama20さんも このコヘレトに反対ではないと思いますので この欄をお借りすることにしました。
 例の《空の空なるかな みな空なり》という文句などを含む知恵の書ですが これは 基本的に言って わたしの見るところでは あたかも通過儀礼のごとく 人生の知恵の形成にとって 折り返し地点であるように思います。
 えらそうに言ってはいけないと思いますが もし経験思想として捉えるなら 通過してさらにその先の道に臨む。もしくは 同じ道にあるのだが そこで 方向の問題として 向きを変えてのごとく新たな歩みに臨む。こう捉えております。
 ともあれ 因果応報についても 触れていますので 参考にかかげたいと思います。
   *  *  *

1:2 空の空 いっさいは空である。
1:9 日の下に新しいもの無し。
1:14 わたしは日の下で人が行なうすべてのわざを見たが みな空
  であって風を捕らえるようである。
3:20 皆ちりから出て 皆ちりに変える。

4:1-3 わたしはまた 日の下に行なわれるすべてのしえたげを見
  た。見よ しえたげられる者の涙を。彼らを慰める者はない。しえ
  たげる者の手には権力がある。しかし彼らを慰める者はいない。
   それでわたしはなお生きている生存者よりも すでに死んだ死者
  を さいわいな者と思った。しかし この両者よりもさいわいなの
  は まだ生まれない者で 日の下に行なわれる悪しきわざを見ない
  者である。


   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  *  ニーチェが 神は死んだと やっと言っても ニヒリスムは
  通過点であることに変わりはないと思います。おどろくほうが 
   どうかしていると言わなければならないと。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

7:14 順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来ど
 ういう事があるかを 知らせないために 彼とこれ(順境と逆境)と
 を等しく造られたのである。

7:15 この空しい人生の日々に わたしはすべてを見極めた。善人
  がその善のゆえに滅びることもあり 悪人がその悪のゆえに長らえ
  ることもある。
   善人すぎるな、賢すぎるな どうして滅びてよかろう。
   悪事をすごすな、愚かすぎるな どうして時も来ないのに死んで
  よかろう。

8:6 何事にもふさわしい時があるものだ。人間には災難のふりかか
  ることが多いが、何事が起こるかを知ることはできない。どのよう
  に起こるかも、誰が教えてくれようか。
   人は霊を支配できない。霊を押しとどめることはできない。死の
  日を支配することもできない。戦争を免れる者もない。悪は悪を行
  う者を逃れさせはしない。
   わたしはこのようなことを見極め、太陽の下に起こるすべてのこ
  とを、熱心に考えた。今は、人間が人間を支配して苦しみをもたら
  すような時だ。

8:14 この地上には空しいことが起こる。善人でありながら 悪人
  の業の報いを受ける者があり 悪人でありながら 善人の業の報い
  を受ける者がある。これまた空しいと、わたしは言う。
   それゆえ、わたしは快楽をたたえる。太陽の下、人間にとって 
  飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。それは、太陽の下、神が彼
  に与える人生の日々の労苦に添えられたものなのだ。

12:13 すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守
  れ。」これこそ、人間のすべて。
   神は、善をも悪をも 一切の業を、隠れたこともすべて 裁きの
  座に引き出されるであろう。

 * 《「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべ
て。》は 今では 旧いと思います。《戒め》のほうです。

投稿日時 - 2008-04-28 10:55:47

お礼

 ありがとうございます。

 《悟り》ということばを出せば われわれ日本人は わかったように話が続きます。対話であると見てよいのかどうか しっかりとした足取りで しかるべき道をたどって来ているのか この問いを措くとしても この話題は 出版物などとしても 永遠に絶えないほどにも見受けられます。

 次のお答えのほうに継ぎます。

投稿日時 - 2008-04-26 05:02:27

ANo.18

#3です、簡潔に。
>輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか

輪廻と業の考え方ならそう言えるでしょうね、そう言いたいからその思想を作ったのと違いますか。

しかし実際は一部の人が主張しているだけ、何の根拠もありゃしません。宇宙人に遭遇したと言うほうがまだ信憑性が高いです。

投稿日時 - 2008-04-26 00:12:03

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 うぅぅん。むつかしいですね。
 次のANo.19&20の方のご回答では 仮説として或る程度 受け容れられた。なら 虚構には虚構をもって対処すべしと言っておられます。
 imuzak5320さんのおっしゃるように ただの泡沫――けっこう長く続きましたが――であるなら もうそれに対する方策を考える段階にあるかも知れないですね。
 
 ANo.21の方は 聖書の記事に注目しておられます。《生まれつき目が見えない》という事態を悪果だとしたとき これに答えるイエスの話です。

    ――生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからです
     か。本人ですか。それとも、両親ですか。
  イエスはお答えになった。
    ――本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもな
     い。神の業がこの人に現れるためである。
   (ヨハネ福音9:2-3) 
 
 これに参照すると ブッディスムの因果応報説による一つの解釈は 一面で通じるとも もう一面で 別の次元であるとも 思われてきます。つまり

  善因(誓願)→悪果(方便として悪趣苦界に身を置く)

 これは すなわち 衆生済度のためであるという事例です。救済という点で 相い通じ合うと思われる反面で 人がその救済を行なうか それとも神がそうするかで 次元がちがうように考えられます。
 
 もう一例としては サリン事件にせよ光市殺害事件にせよあるいはJR福知山線脱線事故にせよ その悪果が すでに死という状態に陥るという場合には 菩薩行のための方便だという解釈は むなしいように思われます。

 そんなこんなで ほとんど分かったような しかも まだ 問い求めは続くのかなとも感じています。中途半端なお応えになりましたが。

投稿日時 - 2008-04-26 04:55:23

ANo.17

No.16です。

>(A) そもそも因果応報とは何か。

善いことをすれば善い報い(幸)を受け、悪いことをすれば悪い報(災い)を受ける という考え。


偽善って言葉ありますよね。
善を装うということと一般に使われていますが、仏教の偽善はちょっと意味が違う。

善が化けて悪になったとき、それを偽善というのだそうです。

善意で寄付したものが、ヤクザの資金源となりそれで人が死ぬなど予想もせず、善意で寄付するわけです。
でも、結果 そうなってしまったら、善でもなく悪でもなく偽善になる。

偽善は善か悪か? 法律では過失となります。


>自業自得として捉えた場合 その中味はどうなのか。

偽善となった場合、行為をやったものが非難を浴びたりします。

悪い面ばかり考えていますが、善いことをやった場合、当然善い報いを受けるに違いない と人々は信じているわけです。
自業自得は人を罰する時 言い放つ言葉としてよく使われますが、自分に向けられた場合、善いことをしたら善い結果を得られると信じて自業自得を使う。

自分がやったことの結果を自分が受けるのは、自分が損をして他人に善いことをすれば、いずれめぐりめぐって自分に戻ってくるという考えで、<情けは人のためならず>って別の言い方でも表現されています。
カルマ思想なわけです。


>輪廻転生を前提にしている。言いかえると 同じ一人の人間(存在? 魂?)が 生まれ変わりを繰り返す過程で 自業自得をも繰り返す場合である。解脱すれば 善き自得の結果となる。

どうなんでしょうね。
解脱した人って想像するに、何事にも無関心な人のことじゃないかと。
仏陀だったと思いますが、解脱寸前で、自分だけ解脱してしまって、他の人は残していいのか となって、解脱やめて救済に向かったらしいです。

煩悩ゆえに戻ってしまったわけですが、いい人だって私は思います。



> 《因果応報の理論》が しかるべき発言を持つでしょう。

日本には因果応報の思想はあまり定着しなかったですよね。
日本に強力にある思想 それは和の思想。
これは因果応報を超える共存の思想。


ギリシャ悲劇だったと思いますが、恋人を取った人が言い訳したことを、恋人を取られた人が受け入れて許した。
言い分に共感を覚えて、憎めなくなったわけです。
因果応報の破れ、共存の思想。

イエス作家も「許しなさい。あなたが許されるために。」って言いましたよね。
共存の思想。


>この共業(共同の業?)なる因果応報が 或る種の仕方で 《 common sense =共通感覚・共同主観あるいは常識》のことであり 

喜怒哀楽に関しては、ある程度共通感覚があります。
が、概念に関しては、話していくと差があると経験上思いました。

例えば「情けは人のためならず」の一言ですら、「非情な人」とか言われます。
「なぜここで非情と言われるのだろう???」って思ったのですが、相手が本来とは違う意味としてその言葉の概念を持っているとわかると、「あのですね この言葉の意味はですね・・・。従って私はほっとけ と言ったわけじゃないんですよ」と説明して、誤解を解くことはできます。

喜怒哀楽はある程度共通感覚と申しましたが、それでもズレることはあります。
お互いの射程の範囲が違うから。

例えば誰かが殺されたとします。
「そんなやつ死刑にしろ」というなか、「ちょっとまって」と私が言うと、「遺族の苦しみを理解しない非情な人」とかバッシングされることもある。
殺人の原因は「その人が悪い人だったから」だけでは発生しない と私は考えるんですね。
だから、殺人を犯したから死刑 だけでは、いつまでたっても犯罪は無くならない。
そういうことを話そうとするのですが、目の前にある事にのみ注目してしまっている人と、もっと離れて物事を見ようとする私では、視野が違うので、会話にならない。


人は感情以外 理性も持っている。
理性を放棄したら他の動物と変わらない。
フィロソフィって智を愛するって意味だったと思います。
哲学とも訳されますが。
私が訳すとなると、理性を愛する となるでしょうか。



>(8) ソクラテス=プラトンの思想にもとづくイエス観は 経験思想であることを 指摘しておきます。つ

ええ、ただ 経験だけじゃ 爆発は起こらない。
ソクラテスじゃなくてプラトンの爆発が原因なわけですが、プラトンがソクラテスのやったことに、とても驚かなかったら、爆発は起こらなかったわけです。

するとイエス作家もプラトンの思想の影響を受けることもなく、そうなるとイエス物語を書くことは無く、キリスト教は誕生することはなかった。
西洋世界は今とは違う世界になっていたはずですね。


>9) これは (6)の《絶対は知ることができない》という自覚から その《絶対》を 《無》と想定した一種の信仰としても 捉えることができます。

無からは何も生まれず 有は無からは生まれない。

キリスト教もプラトン思想が無ければ生まれなかったでしょうし、プラトンもソクラテスより前の哲学者の影響が無ければ、ソクラテスのやったことにびっくりしなかったと思います。
つまり爆発は起こらなかった。
起こったということは、何かがあったから起こったわけですよね。
条件がそろった時、爆発が起こる。

ユダヤ教でも「私はあるである」って神が答えたとありますよね。
無からじゃなく、最初から有であるってことでしょうか。
それは人間が認識するずっと前から存在しており、人間が認識しなくても存在している。

だからといってこの世を作った神とかは信じていませんが、万物の法則は無から生まれておらず、最初から有だったと思っています。

じゃないと万物の法則が無から生まれるわけないですよね。
無だと材料も無い状態ですので、何も生まれない。

神なら無いところから有を誕生させられる?
無理です。
無が神を作れるわけない。
人間がいて神ができた。
神を作った人間を作ったのは何者か? 
万物の法則が初めからあり、条件がそろったから人間が必然で誕生したわけですよね。

<無を想定した>というのを言い換えると、善悪を超越した って言うんでしょうか。
善悪は人間が決めていることで、絶対じゃあない。

八百万の神々は、人間に災いをももたらる神も含まれますよね。
自然界に人間に害を及ぼすウイルスもいる。
でも使いようによってはその害を及ぼすウイルスを、人間のために有効に使うこともできる。

ヒルって人の生き血を吸いますが、使い方によっては切断した指をつなうこともできるじゃないですか。

核エネルギーは使い方によっては沢山の人を殺せますが、使い方によっては人間の生活が楽になる。

何をもって善とするのか 悪とするのかは、ケースバイケース。

善でもあり悪でもある その実態は?
万物の法則。 八百万の概念も使い方次第。
尚 八百万の神々は、梵我一如だとアートマン。
でも八百万の神々で沢山いるようで、ただ1つのみ。
だから、八百万の神々はブラウマンの側面のそれぞれ。



>(11) これら 《無神論》と《有神論》とは 互いに 《信仰》であり 信教と良心の自由という公理のもとに 全く自由であり全く対等である。その差異を 互いに認容していかなければならない。死を超えて そうしなければならない。

ええ、ただ共存にはルールがあります。
社会不穏を起こさない、社会の平穏を乱さないというルールを破ると、信仰の自由は取り上げられても文句は言えないと思います。

信仰は人を幸福にするツールであり、不幸にするツールとなってしまった場合、宗教弾圧は起こると思います。

オウムは確か破防法の適用は無かったと思います。
従って信者から信仰を取り上げなかったと思います。
しかし、国家は信仰の自由をオウムに認めたが、世間は黙っていなかったですよね。
それだけのことをやったため、信用を喪失したわけです。
信用を裏切ったものが、信仰の自由を保証しろというのは虫が良すぎる。



>ですから 反面で 被害者や遺族のかなしみをいやすことをも わたしたちは 心を尽くし知恵を出し合って思いつづけていくことも 大事だと思いますが。私刑として復讐を果たすようなことからは わたしたちは 法治社会として 自由になったのでしょうね。むつかしい問題であるようですね。(という言い方は どっちつかずのこうもり発言ですが)。

そうですね。
非常に難しいです。

母子殺人の事件を聞いたときは、なんと残忍なことをと驚きました。
裁判でも謝罪の一言もなく 反省の色も全く無いということで、さらに怒りがこみ上げ、同時に遺族の必死に怒りを抑えている表情に同情しました。

本当なら刺し殺したいでしょうが、あくまで法により合法的に死をもららすことで復讐をしたかったでしょう。

犯人の不正に対して法によらない殺人をするという不正を犯しては、遺族も不正を擁護することになってしまう。
怒りと悲しみがどこにも行く場がなく、遺族にのしかかるわけです。

ただ、私たち第三者は直接被害者ではないので、もっと冷静に何故この事件が起こったのだろうかと考えることができます。

それがわかれば、次の同様の犯罪を未然に防げ、悲しみの連鎖は断ち切られる。
1つの悲しみの連鎖の輪廻が終わるわけです。

殺したから殺す では消えない。

参考URL:いんあ

投稿日時 - 2008-04-25 00:11:32

補足

 ご回答をありがとうございます。
 断片的な箇条書きになります。
(1) 次の言説では 善と悪の定義がやはり必要になりませんか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そもそも因果応報とは何か。
★ 善いことをすれば善い報い(幸)を受け、悪いことをすれば悪い報(災い)を受ける という考え。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(2) 仏教による次の《偽善》の定義は知りませんでしたし 辞典などでは確認できませんでした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ ・・・仏教の偽善は・・・ / 善が化けて悪になったとき、それを偽善というのだそうです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ 偽善は善か悪か? 法律では過失となります。うんぬん。
☆ もしここから発展があれば さらに披露してください。いまひとつ掴みかねています。

(3) 善→善 / 悪→悪 / 善(衆生済度の誓願)→悪(方便として悪なる情況に身を置く)という自業自得は どうなんですかねぇ。けっきょくとどのつまりは 一つひとつの意志行為それぞれに明確な結果が出るという因果応報は 背景へしりぞくというふうに感じています。それは
★ <情けは人のためならず>が 《カルマ思想》とは別に 《自由意志を重んじるなら独立心の問題として 情けは人に良い結果を与えない》と解釈されること(要約)
☆ というように 二面性ないし多様性が ものごとには 生じてくるので 主観の内におさめられている形(つまり カルマ思想は 公けには うしろに身を引いている形)になるように思えています。(問題提起です)。

(4) ブッダは解脱したあと 説教を躊躇したが 転法輪に向かうだったと思いますが
★ 仏陀だったと思いますが、解脱寸前で、自分だけ解脱してしまって、他の人は残していいのか となって、解脱やめて救済に向かったらしいです。 / 煩悩ゆえに戻ってしまったわけですが、いい人だって私は思います。
☆ という解釈も おもしろいかも知れません。ただ ブッディストからは批判を受けると思います。(無住処涅槃でしたか)。

(5)★ 《神なら無いところから有を誕生させられる?》の問題。
 時空間にある限り 有の世界です。有と無あるいはそれぞれを部分的に持つ状態の世界です。その前の世界は?という問題ですが 《無から有が生じた》という場合 やはり表現の問題であって その《無》は この経験世界の有無を超えているわけです。仮りに無と言っているだけのようです。

(6) それゆえ もしこれを絶対観の問題だとすれば そして神という言葉を用いて想定するなら やはり 有神論と無神論とが 互いに同等の立ち場として みちびかれるものと考えます。つまり わざわざ 絶対観として 信仰を想定しようとすればです。想定しようとした人びとが この地球上にはいるようなので わたしたちも かれらの表現の自由を わたしたちのそれと同様に 認めつつ 基礎理論としては 総合するかたちを取ることが肝心だと思います。

(7) 基礎理論としてというのは 前提条件としてです。そのあとの実践の上で 問題ありとすれば その問題が 基礎理論そのものの欠陥であるのか それとも そうではなく 応用の仕方がまちがっているのか これを見究めていくことになると考えます。つまり 個人の信仰と組織・集団としての宗教との区別も 必要です。

(8) ただし 次のような極端は事例もあるようですね。つまり触れておられるように 信仰と宗教との区別はいいとして それと同時に いくら個人の内面の信仰であるとは言っても その良心の自由そのものを踏みにじる例の《ポア》の思想は 自己矛盾していると 明確にコモンセンスとして行かねばならないと考えます。

(9) (5)と関連しますが わたしが 《自然科学的な因果律》と《社会的な人間関係としての因果応報》とを区別すべきだと言ったとき 因果律のほうの《破れ》にかんして ひょっとすると わたしは分かっていないのでは?と思い直しました。エピクロスだかの《原子の運動にかんする方向の偏り(パレンクリシス / クリナメン)》説がかすかに浮かびました。
 サイトを探したのですが なかなか見つかりません。見つかったのは 次です。
・《デモクリトスxエピクロス 宇宙=機械の始まり:http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card59265.html
 上の《無から有が生じる》の問題にもかかわっています。ただ 残念ながら 現代の自然科学において どう扱われているのか わたしには検討がつきません。ビッグバン説に似ているとは思います。

投稿日時 - 2008-04-25 09:21:17

お礼

(10) ★ 《殺したから殺す では消えない》の問題は 引き続き 課題としてまいります。(今は お手上げです)。
 光市の事件にしても サリン事件にしても 少年なり麻何とかなりなる人間の歴史を
★ もっと冷静に何故この事件が起こったのだろうかと考え・・・ / それがわかれば、次の同様の犯罪を未然に防げ、悲しみの連鎖は断ち切られる。 / 1つの悲しみの連鎖の輪廻が終わるわけです。
☆ というふうに持っていきたいのは山々ですが。
 オー○真○○論にかんする質問でも出しましょうか。活発に議論はありましたが。因果応報論の観点から その範囲で みなさんにも この質問にて ご投稿いただいてもいいと思いますし。
 広い範囲に伸び でかい課題を背負ったようになりました。

投稿日時 - 2008-04-25 09:32:44

ANo.16

No.7です。

前世、来世の存在を信じていない私ですので、前世、来世は存在するべきであるという人に、どうして存在すべきだと主張するのか、聞いた方が手っ取り早いように思います。


>《因果律の破れは存在するんです》と言ってしまえば この業の理論は それ自体 意味がなくなるのではないでしょうか。

日常、生活してきて至るところに破れは存在すると気づきますよね。
<コヘレトの言葉>の内容をbrageloneさんはご存知ですよね。
コヘレトの言葉の作者も、プラトンも因果律の破れに気づいていた。


>けれども 《破れ》はない つまり例外はないというために どこまでも果てしなく生まれ変わるという輪廻思想を打ち出しているのではないでしょうか。その長い過程においては 自業自得として納得できる出来事があったであろうという説ではないでしょうか。

つまり、現世で冤罪を受けても、来世は報われるから、抗議するなってことでしょうか?
でも、それって支配者の立場の保持のため つまり 勝者の都合のいい方便でしかない って思いません?

誰がそれにより得をするか?
「来世で報われるから我慢しろ」というのを使うのは、我慢を強いる側に都合がいいからですよね。


カースト制度ってインドにありますよね?
スードラというのが一番低い地位で、スードラの家系に生まれたものは、スードラの階級になる。
ブラフミンの家に生まれた子供は一生涯ブラフミン。

前世で善い行いをしたら、もっといいランクの家庭に生まれる としている。

逆にスードラの家庭に生まれたら、前世の行いの結果であり、スードラに生まれても、上のランクの人に奉仕することで、来世はもっと上のランクに生まれる可能性がある としている。

最高ランクはバラモンで、ブラーフマナ。祭司職。


で、カースト制度の撤廃を反対しているのは、上の階級の人々かとおもいきや、最下層の人々だそうです。
どうしてかというと、因果応報、輪廻を信じているから。
今 自分の主人に精一杯つくせば、来世は絶対いい身分になる、つまり自得があると信じているから。

つまり、支配者にとっても、従業員にとっても、どちらにとってもお徳 とされるので、カースト制度は無くならない。
信仰が原因ですので、信仰を捨てれば、カーストは無くなる。

例えばキリスト教のカトリックもカースト制度というかヒエラルキーが存在していますよね。
ですが、信者でなくなれば、ランクも消える。
社長というランクだって、会社が潰れれば社長じゃなくなるのと一緒。
限定の集団の中のランクでしかないわけです。
懸命に会社に尽くして社長に認められ、主任、課長、、、、最後は社長になる。
一見因果応報の存在を認められるでしょうけど、限定のランクでしかない。
得意先からすれば、その社長はスードラのランクだったりするわけです。


>冤罪を甘んじて受けるなら 善を貫けて 希望が見出せるという思想は その都度 次元が変わって受け留められるやはり因果応報の理論であるように思えるのですが いかがでしょう。

ギリシャ人は、自分達がすばらしい民族であり、異邦人をバルバロイと呼んでいた。
異邦人が喋る言葉がそのような動物のなき声に聞えるからだそうで、自分達の優秀性を自負していたわけです。

ギリシャ人は世界で初めて民主主義を考え出した民族だと思えます。
ソクラテスの時代は、知識人が支配者の地位にいた。
で、その知識人は民衆から崇められていた。
その人たちで治世が行われていたわけです。

ところが、ソクラテスがその知識人と対話をしてみると、ちっとも知らない人たちだと判明。
ソクラテスがAだと心に思って、「教えてください」と知識人に聞くと、知識人は「それはBである おっほん!」と答えた。
「ということは これもBですか? じゃあ これは? 教えていだただけると幸いです」と下手に出て質問していくと、知識人はAだと言う。
つまり知識人は最初Bだと答えたものが、熟考した結果Aであると ようやくわかったわけです。

ソクラテスは最初からAだと思っており、博識者は熟考しまくってやっと答えがAだとわかった。

この程度の人が、支配者で法の番人。

で、博識者とされる人々に<自分は無知である>と自覚させたため、ソクラテスは自覚を拒否した人々によって処刑されたわけです。

で、ソクラテスは賄賂で簡単に脱獄できた。
にもかかわらず、ソクラテスは賄賂を渡して脱獄するといことは、不正に不正で報いてしまうことになり、そうなると、善の存在を信じるも自分ではなくなってしまう として、脱獄の提案を拒否し、善を死ぬまで擁護したわけです。

ソクラテスのその思想にプラトンは驚いたため、善の希求をプラトンは起こすことになった。

つまり、ソクラテスの善を擁護した思想がプラトンに多大なる影響を与えたので、国家の在り方についてプラトンが注意を向けることになり、国は独裁政治により支配されるのではなく、民衆の意見が取り入れられ、民衆の考えで国の行動を決定するべきだ となっていったんじゃないかと。

これが前世と来世。

つまり人間の過去と現在と未来。

ソクラテスはプラトンに影響を与え、それによって彼らの時代にはなしとげられなかったが、バトンが次の世代に渡され、また次の世代に渡され、今では民主主義を多くの国が採用している。

ソクラテス、プラトンが前世なら、私たちは彼らの現世。
そして我々は、さらに次の世代にバトンを渡す。
次の世代が我々の来世。

これが因果応報。
と、考えております。


法律に違反したものは即処刑していけば、いずれこの世は平和になるか?
法律を犯したものとその子孫を根絶やしにしていけば、この世は平和になるか?

私たちは絶対を知ることができない。

例えば、隣家の家に押し入って老人を殺害した少年がいた。
悪いことをしたからと処刑しただけでは解決しない。
どうしてその少年が隣家のケンカもなにもしたことのない老人を殺したのか、原因を突き止めなければ、また同じ犯罪が起こる。

その少年は健常者とされていますが、専門家が鑑定したところ、障害があった。
「死とはなんだろう」とすごく興味を持ち、それを知ろうと実行してしまった。
興味を持ったことに強くのめり込んでしまう性質があり、それが科学に向けられれば科学者、エジソンになる。
(エジソンもライバルを殺そうと殺人兵器の研究をしたそうです。成功しなかったので、彼は発明家として有名になったわけですが、成功していたら、ヒトラー マッドサイエンティストになっていた。)

思想にのめりこめば哲学者になる。あるいは革命家になる。
倫理のブレーキがきかないとテロリストになる。


ある特定のものに興味を持つこと自体は悪いことじゃない。
問題なのは、倫理を理解する能力が著しく劣っている状態のものが、ある特定のものに興味の針を大きく振り、自制が効かず暴走すること。


じゃあ、児童の頃に全員を調査して、その傾向にあるものを殺してしまえば、少なくとも隣家の人を興味本位に殺す人はいなくなるか。

倫理の問題でそれはできない。
そして また 同じ障害を持つ者が人を殺していく。
一時期また「○○障害者が殺人を犯した」と報道され、それは○○障害を持つ人が全員人を殺すように思われるからやめろ と抗議が起こり、報道は事件が起こり、犯人にその障害があるとわかっても、その情報を流せなくなった。
それでも時折、裁判が起こり、無期懲役など判決が下り、弁護士は人々に「この人は○○障害があるから、罪を理解できないんです。悪いことだということを知る能力が無かったゆえに レイプしようとして抵抗されたので殺したんです」と主張しています。

別の人だと、<無知の涙>を書いた人。
5人だったか殺しています。
「自分は死刑になって当然だ でも 自分は無知だったとわかって欲しい」と訴えた。
彼が何を必死に訴えたのか?

国民に何を、裁判官に何を必死に訴えたのか?
裁判官とて絶対を知ることができない無知なもの、国民も絶対を知ることができない無知なものであるということを自覚して欲しい そして少しでもこのような犯罪が起こらないように、対策をして欲しい と訴えたのだと思います。


確かに殺人は悪いことです。
でも、どうしてそんなことが起こったのかを無視して、殺人を犯したから処刑 だけでは 全然不足。

何故殺人を犯したのかを、単に「悪い人だったから」じゃ 全然不足だし、同様の犯罪は食い止められない。
その犯罪を誘発しているのは、社会であり、それに気づかない人々が諸悪の根源である と認めなければ、同様の犯罪は無限に起こる。
知らない故に阻止できず、短絡的に人を殺したから死刑とするしかない、我々無知者に対する涙なんです。
無知の涙を書いた人も、自分が無知だったと知って涙を流し、そして世間の人々が無知だということに涙を流した。

イエス作家はこう書きましたよね。
「彼らは何をやっているのか知らないんです」と。

ソクラテスも自分を処刑する支配者の前で「神よ 彼らを許したまえ 彼らは何をやっているのか知らないんです」と言ったかもしれないですね。


ということで、私たちは来世にバトンを渡すために、「少年が悪い人だったから母子殺害を起こした」だけで済まそうとしては駄目なんです。
それじゃあ 来世にバトンは渡せない。


これが私がイメージする因果応報です。
<悪いことをしたから殺す> は 単なる人の復讐心や憎悪をもてあそぶ行為にしかすぎない。

投稿日時 - 2008-04-24 10:55:04

補足

 殺害者と被害者そして間接的な被害者としての遺族 この人たちを取り巻く情況 ひいては 社会総体と歴史の全体 これらについて事実認識と納得のいく判断 これが問い求められていることに変わりはありません。
 いまここでは 思想哲学の問題として 大きな主題としては 《因果応報》とは どういう生活現実を予定し予表した思想であるかです。これについて 妥当だと思われるような内容(コモンセンス)を確立することによって 上のさらに大きな課題に迫ろうという作業です。
 この業をめぐって 問題点がいくつかあり やや錯綜しています。わたしの整理するところでは こうです。
 (A) そもそも因果応報とは何か。
 (B)  自業自得として捉えた場合 その中味はどうなのか。
   (B-1) 善因善果および悪因悪果は なんとなく広く受け容れ
     られている。
   (B-2) 全く関係のない第三者が 悪果をこうむった場合 そ
     れも 自業自得なのか。
   (B-3) ブッディスムでは 然りと答える。
     その心や如何に?――自業というのは 衆生済度のために 
     悪趣苦界に身を置くという自らの誓願のことだ。自業自得な
     のであると。
     * この質問で いまこの段階にまで来ています。
 (C) 類としての(人類としての綜合的な)因果応報の理論
     * これを kigurumiさんは 説いておられる。

    この思想は 人間の生命と存在が尊重されるかどうか またそ
    の尊重の仕方・あり方が 歴史とともに 人類の知恵の向上・
    深化を得て 綜合的に見てよい方向へ歩むと説くものである。
     どこまでも平和裡に 互いの差異を互いに認め合って 話し
    合いを通じて 問題を解決していく。その理念として民主主義
    があり これは 普及して来ている。うんぬん。

 (C)について (B)との異同を明らかにします。(B)は 一般的に言って 輪廻転生を前提にしている。言いかえると 同じ一人の人間(存在? 魂?)が 生まれ変わりを繰り返す過程で 自業自得をも繰り返す場合である。解脱すれば 善き自得の結果となる。
 しかるに(C)は このような個体の因果応報は 認めない。つまり 人の一生のあいだでの行為とその結果として 因果関係を捉えるのは ふつうであって 別だが 前世や来世も 積極的に認めるものではない。
 しかしながら 一定の社会の総体あるいは人類全体としては いわゆる学習効果をとおしての如く よい方向へ高次の段階へと わたしたちは 一歩一歩 歩んでいくという因果応報を見てよいのではないかという立ち場である。

 この交通整理が確認されるとすれば 細かく 論点・疑問点を挙げます。
(1) 《因果応報》の貫徹の立ち場・つまり(B) これはこれとして 認めた上で 議論を進めなければいけません。
(2) 《因果応報》の例外としての《破れ》は 自然科学的な因果関係にかんする法則(仮説)としての因果律の破れとは区別しなければ 話があいまいになります。一般に《モノに即した因果律》と《それを下敷きにした人間どうしの行為が織りなす社会的な因果関係をめぐる因果応報説》との別です。次の用語などです。
★ コヘレトの言葉の作者も、プラトンも因果律の破れに気づいていた。
(3) したがって 《因果応報》の理論の《破れ》については まづは (C)の議論そのものとして 大方の共通の認識を得る必要があります。
(4) その上で (B)との対話を為し (A)の綜合的な思想へと発展させることが望まれます。
(5) その過程で――つまり 途中でもいいわけですが―― 冒頭の《犯罪》とのかかわりでも 《因果応報の理論》が しかるべき発言を持つでしょう。
(6) 《絶対は知ることは出来ない / 自分は無知だと知る》とき わたしは その有限の知識と知恵とで しかしながら 自由に発言をおこないます。その意味で社会の一員としての株主総会 あるいは 全国にわたる井戸端会議が もっと起こってこそ 自業自得という思想や 犯罪の解明あるいは犯罪者の扱いについて コモンセンスを形成していけるかも知れません。
(7) ちなみに wikiの《業》の説明では 《共業(ぐうごう)》という説を述べています。これはわたしも以前にここでおそわったことですが この共業(共同の業?)なる因果応報が 或る種の仕方で 《 common sense =共通感覚・共同主観あるいは常識》のことであり さらに想像を伸ばせば けっきょくは おっしゃるような(C)の類的な因果応報説につながっていくように考えられます。
(8) ソクラテス=プラトンの思想にもとづくイエス観は 経験思想であることを 指摘しておきます。つまり (C)です。

投稿日時 - 2008-04-24 13:03:38

お礼

(9) これは (6)の《絶対は知ることができない》という自覚から その《絶対》を 《無》と想定した一種の信仰としても 捉えることができます。

(10) イエスは キリストと呼ばれる《絶対神》だと想定する信仰の立ち場も ありえます。

(11) これら 《無神論》と《有神論》とは 互いに 《信仰》であり 信教と良心の自由という公理のもとに 全く自由であり全く対等である。その差異を 互いに認容していかなければならない。死を超えて そうしなければならない。

(12) これが わたしの考えるコモンセンスとしての民主主義です。(余計なこととしては 因果応報は 背景にしりぞいていて よい)。

 ご回答をありがとうございました。

* ★ <悪いことをしたから殺す> は 単なる人の復讐心や憎悪をもてあそぶ行為にしかすぎない。
☆ ですから 反面で 被害者や遺族のかなしみをいやすことをも わたしたちは 心を尽くし知恵を出し合って思いつづけていくことも 大事だと思いますが。私刑として復讐を果たすようなことからは わたしたちは 法治社会として 自由になったのでしょうね。むつかしい問題であるようですね。(という言い方は どっちつかずのこうもり発言ですが)。

投稿日時 - 2008-04-24 13:25:16

ANo.15

こんにちは。少し疲れから回復しましたので回答してみます。

人を支配する思想は、同時に革命の思想を生みだします。

ウパニシャッドのウパニシャッドたる理由を言いましょう。

既成の概念を壊す秘密です。

実は、生まれながらの身分なんてなく
ただ全ては我々の行為次第である。

バラモンもクシャトリヤもヴァイシャもシュードラも
みな全ては行為の結果である。

全ての神々は名称の差異に過ぎず
万物の根源はブラフマンであり、

私の中のアートマンはブラフマンと同一である。

今この秘密を知ったのなら、解脱せよ。

ざっとこんな感じですね。

なぜ、クシャトリヤの思想家であるゴータマが
ウパニシャッドより後に現れたかってことを考えてみてください。

もっとも、自由を生み出したカルマ思想も
人を支配することになるのですがね。

投稿日時 - 2008-04-23 16:24:40

お礼

 こんにちは yukiyama20さん。ご回答をありがとうございます。
 いまわたしは 《Q:われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか》が 関連質問であることによって削除され 傷つき落ち込み それはいいのですが・大したことないのですが せっかく書き込んでくれたみなさんに申し訳なく それで 心が沈み勝ちです。何かあったら その所為だと思ってください。(こういうことを言える人に出会ったので さっそくでしたが・・・)。

 なるほど そうでしたか。極端に簡略化して言えば ブラフマナたちは 輪廻と業とを 前世からの因縁として説き 現世の秩序や身分を正当化した。ブッダは いま現在の行ないによって 結果を出せるとでも言ったのでしょうか。
 あぁ ただし 解脱をも説いているので その達成をもってすれば すべて皆 平等だという殺し文句になりますね。
★ 既成の概念を壊す秘密です。
☆ ウパニシャッドも このことをおこなったのですか。だとすると どうなりますかねぇ・・・。

★ 私の中のアートマンはブラフマンと同一である。
☆ この説については 別の質問を掲げました。ブッディスムも けっきょく同じようにしたのではないかと。ブラフマンとしての法身およびアートマンとしての仏性です。(分かりませんが)。

★ もっとも、自由を生み出したカルマ思想も / 人を支配することになるのですがね。
☆ この主題は 次のご投稿ですかね。つまり 既にもらったほかのご回答でも問題になっています。
 わたしの焦点は 次の説明に対する批判にあります。自ら誓願しての(つまり それとしての自業の)結果として 自得が しばしば悪果(苦果)であるとき それは 衆生済度のためにその悪趣苦界にこそ陥ったのだという説明です。

 まだ把握していない重要な理論があるかも知れない あるいは 把握の仕方じたいが異なっているかも知れない こういったおそれのもとに 現在はあります。

 回復 おめでとう!!

投稿日時 - 2008-04-23 18:40:46

ANo.14

多くの方が共有する疑問であるかもしれないと思い、ひさしぶりにbrageloneさんの質問に興味を持ちました。
というのも、回答者のなかに、良き生活者と労働者である以外の学問も思想も欲さぬ家電屋さんまで混じっていますから、
よほど口にしやすい図式に甘んじた仏教の姿というものが世間にあるのだろうと思うわけです。

ご質問のような疑問は、生じるはずのない疑問でしょう、と言うに尽きますが、まず伺わねばならないことがあります。
たやすく「因果」と述べておられることは、何のことでしょう。わかりかねます。
因果関係、因果律、どれもなんとたやすく述べられていることか。
たったひとつの事象にあっても、機序(順次に作用する仕組み)を明るみにすることはあれ、
原因を明るみにすることができたでしょうか。
以下の日常的な出来事の因をたとえばどのように考えますか。brageloneさんの因果についてのお考えが、具体的に伺えるのではと思います。
(1) テーブルの端に置いたコップに袖が触れ、床に落ちてミルクがこぼれた。
(2) 5月になって庭のバラが咲いた。
(3) ヘビースモーカーのA氏が肺ガンになった。

投稿日時 - 2008-04-23 13:45:36

補足

 ご回答をありがとうございます。

 じつは 直前のANo.13によって 局面ががらりと変わりました。その箇所にあたっていただけばと思うのですが 反面で 《自業自得》を鍵語として 質問の枠組みのようなものは そのまま有効のようです。
 この点 簡単に触れておきます。現在の《自得》が 善ではない結果であっても その過去の《自業》は むしろその悪の結果を 衆生済度のための自らの条件としたいという目的において つまり従って方便とするために 誓願して得ることになったという理論のことです。

 さて お尋ねの件ですが 上の文章に見るごとく 総じて言えば 因果も善悪も きわめて広く 無規定のまま 使っております。また それでよいという姿勢でもあります。つまり 問題に突き当たったなら そのとき 対処するという構えです。
 あらためて この前提事項として 説明します。No.11へのお応えとして書いた内容が わたしのここでの因果や善悪の使い方を説明するはづです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 例の光市母子殺害事件の判決が出ました。この例で言えば 《被害者という視点では見えない》ところの業つまり因果応報つまり早い話が 自業自得 これを インド人は古来考えてきているようだ。日本人も 少なからず影響を受け そのまま受け容れているとも見られる。それでいいのでしょうか?という問いです。
 たとえば こうです。殺害された母子もとうぜんそうなのですが こういう見方をすると どうでしょう。つまり 残された夫であり父親であるMさんを例にとった場合です。被害を受けたと言えますよね? だとすれば そのように受けた善ではない結果は 輪廻と業の説に従えば Mさんが 自業自得として受けたことだとなるのでしょうかという問いです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 さて具体的なお尋ねの件として
★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 以下の日常的な出来事の因をたとえばどのように考えますか。
(1) テーブルの端に置いたコップに袖が触れ、床に落ちてミルクがこぼれた。
(2) 5月になって庭のバラが咲いた。
(3) ヘビースモーカーのA氏が肺ガンになった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ あえて ブッディスムの因縁説にならって答えましょう。
 直接の原因は 
(1) 《コップに袖が触れ》たこと
(2) 植物たる生物としてのバラにかんする自然現象
(3) ニコチンが肺を悪くしたという原因が考えられている。

 間接的な背景としての原因は いろいろあると考えられます。たとえばとして一つ挙げて置きます。
(1) 何か考え事をしていて 注意が散漫になっていた。
(2) 気候の変化
(3) 止めるつもりであったなら 意志が弱かった。

 たぶん すでに初めに触れましたように あまり関係ないと思いますが。

投稿日時 - 2008-04-23 15:05:02

ANo.13

他の方の回答、補足、御礼を読んでいないのでピンとはずれでトンチンカンな回答になるかもしれませんが少し述べます。

ご質問のような疑問は、輪廻転生と因果応報を論ずるときに必ず出てきます。

釈迦以前のインド哲学では因果とは単に原因・結果を意味するだけであり、所謂善因善果・悪因悪果の思想はありませんでした。
バラモン階級は所謂善因善果・悪因悪果と輪廻を関連付けることによって自分たちの身分や立場を正当化しようとしました。
縁起が根本思想である仏教(釈迦)は輪廻を積極的に認めてはいません。また、この縁起も所謂善因善果・悪因悪果によるともしていません。善悪とは本来“空”であり、絶対善や絶対悪は存在しませんので。釈迦は、善い果報を得ることを目的とした善因は偽善であるとも考えていたようです。

善因善果の本来の意味は、
「善因を積んだからといって安楽が得られるというものではないが、たとえ苦痛を感じてもそれは善因による善果であるから甘んじて受けよ。」
という意味であり、悪因悪果も同様です。ちなみに、この思想は儒教にも存在します。
つまり、過去の行いが悪くなかったとしても、その縁起によって被害を受けることがあるということであり、縁起の法則には所謂善因善果・悪因悪果は関係ありません。

また、六道輪廻から解脱した者はもう人間などとして生まれ変わることはありません。言いかえると、いま生まれてきている人は、みな過去において解脱を実現し得なかった者です。

余談ですが、悪行を為すのも因果であり、悪行を為す原因がある以上、結果として悪行を為すことは避けられない必然ですあり、自業も因果律の束縛を受けます。悪行によって所謂善果を得ることももちろんあります。



って、とこです!
それではゴキゲンヨウ!!! (^^)v

投稿日時 - 2008-04-23 12:21:33

補足

 ご回答をありがとうございます。
★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 善因善果の本来の意味は、
「善因を積んだからといって安楽が得られるというものではないが、たとえ苦痛を感じてもそれは善因による善果であるから甘んじて受けよ。」
という意味であり、悪因悪果も同様です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 概説書を――今ごろですが――ひもときますと 次のように説明していました。ひとことで要約すれば 《苦果ないし悪果も 自らが望んで得た方便である》ということでしょうか。それでよいとすれば
★ たとえ苦痛を感じてもそれは善因による善果であるから甘んじて受けよ。
☆ と同じ趣旨だと取ってよいのかも知れません。次の文章です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 声聞の教えによれば・・・あくまでも業報輪廻の因果を問題とし 輪廻の苦を離れて涅槃の楽を得ることを目的とするものであり しかもそれは自己一身を問題としている。
 これに対して大乗菩薩の修行は 菩提心を起こした最初から自未得度先度他〔自らいまだ度(わた)らざる先に他を度(わた)す〕という誓願を含むのであるから 小乗のように生死輪廻の苦を厭(いと)い 不死涅槃の楽を欣(ねが)うということはまったくなく 苦楽や業報(ごっぽう)輪廻は念頭になく 苦を避けるどころか 苦しんでいる人びとを救済すべく 自ら求めて悪趣苦界におもむき 苦難を買って出るのである。
 そこでは苦楽も輪廻も問題ではなく 衆生済度という菩薩の願行(誓願の行為)があるのみである。それは自主自律的なものであって 業報苦楽によって左右される他律的なものとは区別されなければならない。
(水野弘元:『仏教要語の基礎知識』1977pp.26f)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 こう確認して 以下 少し愚痴気味の疑問を挙げます。
(1)基本的に言って 説明が ひじょうにあいまいです。
★ 縁起が根本思想である仏教(釈迦)は輪廻を積極的に認めてはいません。
▼(wiki)〔ブラフマニスムの優勢な情況において 業論やら宿命論やらの因果論が説かれているところへ〕 釈迦は自ら「比丘たちよ。あらゆる過去乃至未来乃至現在の応供等正覚者は業論者、業果論者、精進論者であった」といわれたといわれるように、正しい因果論の主張者であった。
☆ わかりにくいです。
(2)そして 曖昧というのは 両義性というごとく 反面の意味をも含むかに見られます。wikiでは 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 いま・・・仏教の業説の意図するところを考える時、そこには仏教の基本的な考えかたが示されている。すなわち人間の生活が厳然たる因果応報という姿に営まれること、したがって人間の行為は現在刹那に終結してしまうものでなく、常に因縁果と相続してゆくものであり、すべてが全く自己責任の中に果たされねばならないことである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ と続けます。
▼ すべてが全く自己責任の中に果たされねばならないことである。
☆ この箇所は 《自らの誓願として 悪趣苦界におもむくという意味での自業とその結果としての じつは方便としての自得である》というふうに 初めの確認事項と同じ趣旨に解釈することができるのですが その反面で
▼ すなわち人間の生活が厳然たる因果応報という姿に営まれること
☆ とあるのですから 納得の行かない不幸な結果であっても すべてが 自業自得であると取るべきかなと戸惑います。そして 
(3) 全体として やはりあいまいであり むしろ 因果応報説一般については 積極的に否定したほうがよいのではないでしょうか。
 その証拠にと言ってしまいたくなるような《余談》を susiddhiさんも述べておられます。
★ 余談ですが、悪行を為すのも因果であり、悪行を為す原因がある以上、結果として悪行を為すことは避けられない必然であり、自業も因果律の束縛を受けます。悪行によって所謂善果を得ることももちろんあります。
☆ 特に
★ 悪行によって所謂善果を得ることももちろんあります。
☆ とあれば けっきょく こういうことにはなりませんか。
 つまり モノの自然現象および人工による加工などの現象にかんしては 経験科学としての因果律があるとされるけれども その自然現象的な因果関係を基礎として その上で人間どうしの行為がいとなまれるとき そのような社会現象にかんして――つまり個人個人の人生についてのことを むしろ言っているのですが―― 取り立てて倫理的な普遍法則として 因果関係論を説く必要もないということ。(つづく)

投稿日時 - 2008-04-23 14:27:15

お礼

 (つづき)
 従ってこのとき同時に 個人個人は その主観において これら因果関係の認識や解釈を持つであろうけれど そこに やはり同じく取り立てて普遍法則として 因果応報を決まりきったかたちで 共有する必要はないということ。

 このように帰結しませんか。その点 ブッディスムは あいまいではありませんか。不幸な出来事の被害者になった人の場合 それまでに衆生済度の誓願を あなたは 自らが 起こしたからこそ その結果として また方便として 受けたのですよ。さあ 勇んで 菩薩行に進んでまいりましょうと言われても どうなのでしょう? それで いいのでしょうかねぇ。分かりませんが。(つまり 信教・良心の自由に立てば 何とも言えませんが)。
 
 わたしの知識のほうが あいまいであったことに かんがみるならば 勇み足の部分が多いのかも知れません。とにもかくにも 《因果応報説》について もう少しは はっきりした認識を持ちたいと存じますので よろしかったら なお お教えいただければ幸いです。

投稿日時 - 2008-04-23 14:33:24

ANo.12

私の短い回答でこれだけ長くお礼を書いていればそりゃ疲れますよ。
私の勘違いでした。
わたしはbrageloneさんと同じものを見ていると錯覚していたのです。
いままでのQAで話がかみ合わない理由がわかった気がします。
わたしのミスです。

お疲れ様でした。

投稿日時 - 2008-04-22 22:31:40

お礼

★ お疲れ様でした。
☆ このひとことが 余計ですよ。ますます疲れました。
 そうなると 
★ 勘違いでした。
☆ という発言の信憑性が 疑われて来ます。人情というものです。



 業だとは思わないゆえ こうやって とことん業の理論をうちのめしているのですが。そういう作業です。
 ただし ウパ二シャッドやらブラフマニスムについては 疎いですから おしえを乞うています。

 これだけ わたしをふりまわしたあなたは このようなブッダ葬送など愛の務めが待っているかも知れないですよ。これは わたしの側の余計ですが。

投稿日時 - 2008-04-22 23:01:59

ANo.11

人の中に善と悪が等しくある。
故に人を善人と悪人とに分けることはできない
他人の悪をみて自分中の悪を知る。
関係とは自分自身を知る鏡である。
被害者という視点ではこの全体像は見えない。
故に前世という概念を用いて自分自身の中の悪に目を向けさせる。
輪廻とは人の性を示す比喩である。

これが輪廻転生という物語が示唆している意味だと思いますがどうですか。

私が言葉遊びだというのは、
なぜ、輪廻転生ありきで考えるのかです。
ブッティズムだからですか。
輪廻転生とイソップ童話に何の違いがあるのですか。

仏陀葬送はどうしたんですか。

投稿日時 - 2008-04-22 21:02:19

補足

 shift-2007さん ご説明ありがとうございます。

 ですが――せっかく丁寧に説明いただいておきながらですが―― 議論を 質問とは別の方向へ持って行っていませんか?
 ブッダ葬送の点では 同じ方向であり この質問じたいが 大きくは含んでいるはづですが あとは 逸れてしまっています。
 こうです。つまり もし
★ 被害者という視点ではこの全体像は見えない。/ 故に前世という概念を用いて自分自身の中の悪に目を向けさせる。
☆ という指摘があるとするのなら こうです。つまり
★ 輪廻転生ありき
☆ でも何でもなく たとえば今日 例の光市母子殺害事件の判決が出ました。この例で言えば 《被害者という視点では見えない》ところの業つまり因果応報つまり早い話が 自業自得 これを インド人は古来考えてきているようだ。日本人も 少なからず影響を受け そのまま受け容れているとも見られる。それでいいのでしょうか?という問いです。
 たとえば こうです。殺害された母子もとうぜんそうなのですが こういう見方をすると どうでしょう。つまり 残された夫であり父親であるMさんを例にとった場合です。被害を受けたと言えますよね? だとすれば そのように受けた善ではない結果は 輪廻と業の説に従えば Mさんが 自業自得として受けたことだとなるのでしょうかという問いです。
 このように
★ 善人・悪人 あるいは 人の中に善もあれば悪もある
☆ といった主題とは 別です。
 
 もし それでも 回答になっていると言い張るのでしたら おそらく わたしのこの質問は 意味をなさないという主張でしょうから 上に述べた趣旨に対して どうお考えなのか それを明らかにして 再度お伝えくださいますか。すなわち 
★ 被害者という視点では 全体像が見えない
☆ は いいのですが
★ 前世という概念を用いて自分自身の中の悪に目を向けさせる。
☆ ということが 上に述べた質問趣旨との関連で どのように捉えればよいのかです。もし 自業自得という同じ結論になるとしたら えらい失態ですよ。ここまでひっぱって来たのですから。なんで
★ イソップ童話
☆ との異同を問うような問題になるのですか。

* なお 《輪廻転生という物語》などと言っても それは 一般的な主題ではないじゃないですか。知らなければおかしいと言わんばかりでしたよ。疲れました。このあと ふつうにまともな文章を書き込んでいなければ あなたとの対話は 誰かほかの人に代わってもらおうと思います。わたしの務めではないと考えます。

投稿日時 - 2008-04-22 22:11:15

ANo.10

 bragelone様はご自身の守備範囲があまりにきっかりきまっているので、その中でのご理解に、再編集と再構成になっているかと存じます。
 ですので、いまのように全体を問題の対象にしていきますととてもご説明しにくいと感じました。
 輪廻転生を 主義として 前提しようがしまいが、宇宙の法則の一面でありますと申し上げている次第です。
 知的認識や探求はあまり私の言うことには中心の問題の中にはいっていきてはおりません。
 人間知もいいのです。
 いっさいは私はもうしあげておりますので、繰り返しになります。申し訳けありませんがどうか、拙文をそのままお読みいただけませんでしょうか

投稿日時 - 2008-04-22 15:35:25

お礼

 ありがとうございます。

★ ・・・そのままお読みいただけませんでしょうか
☆ 説明いただいた世界観そのものとして受け取ることにします。ただし その内容に合意したわけではありません。

★ ご自身の守備範囲があまりにきっかりきまっているので、その中でのご理解に、再編集と再構成になっているかと存じます。
☆ たぶん krya1998さんの世界観が それにかんして《守備範囲》と言っていいのかどうか分かりませんが 《きっかり決まっている》ということでいらっしゃるのだと思います。
 わたしの場合は 分かる範囲から――つまり 守備範囲の中からむしろ外に出ようとして――《再編集と再構成》しつつ 模索するというのが 思想形成の仕方です。信仰や主義主張として 持論は持っていますが いわゆる教理やそれとしての世界観があるものではありません。それは 表現の仕方が どこまでも自由であるから 固定しないと思っております。
 《きっかり決まっている》のが 固定だと申し上げるつもりで言ったのではありませんが たぶん むやみやたらに わたしのように 外へ出かけようとすることは なさらないのだと思いました。すでに成っている その世界観をそれとして 尋究されている こう受け取りました。修行という柱もおありなのかも知れません。

 ただいまの中間結論として 《輪廻転生および業(因果応報)》を そのままでは わたしに関しましては 飲むことは致しかねています。というところでしょうか。
 よろしかったら 質疑応答の行方を見守っていてください。

 

投稿日時 - 2008-04-22 16:53:55

ANo.9

No.8すみません。コメントにちょいと長い一言。
 ご専門の領域でしたね。(単に勉強中だというだけです。)
 たぶん このようにお声をかけていただいて 思ったことは ドンキホーテのごとく いえいえ ガラっぱちの目明かしのごとく あのブッダ葬送に向かって 突進しているようだなぁでした。(この文章は理解することがまだ出来ておりません。)
 わたしなりに整理してみます。(以下の箇条書きにの文章については、申しわけありませんが、一部は理解できるのですが、どうもご表現が違うばかりではなく、私の意図した内容とは少し違うようです。)
(1)~(7)
 
 ひむかしの野にかぎろひの立つ見えて・・・(この古文がつながりの中で把握できないでおります。)

* 輪廻としての前世や来世という継続 これも想定もしくは比喩ということになるでしょうか。つまり 歩み寄りとして・共通の事項としまして。(歩み寄りとか、共通の事項というお言葉は理解できませんが、輪廻転生という結果現象は厳然たる事実と自分は承知しております。カルマという因果律はこれまた、厳然たる宇宙原理の一つ側面であると承知しております。比喩や理解ではなく、理解しようが、受け入れようが関係なく。)

* 顔見知りとしてのお付き合い(添う文化) これを大事に!!というところも 大いに関係していると言うべきでしょうね。(添う文化の問題はここではあまり関係ないと存じております)
* 吹けば飛ぶような突端的端末も ここにありと しかも 言わないで生きている。・・・これによって 因果応報の鎖から解き放たれるとさえ夢が拡がりました。(吹けば飛ぶような突端端末ではありません。それは大小も越えている、概念も越えている方の一つのありようと心得ております。私達はそのことを知り、自分をそれだけにかぎることのないように、謳歌し、精進するのだと存じております。)

* 感謝のことばは 胸にしまって取っておきます。(至らないことばかりでもうしわけありません。)

 ちがうことをしている者同士って、なかなか文章って難しいですね。
 申しわけありませんでした。

投稿日時 - 2008-04-22 12:44:18

補足

 うぅぅん。そうなんですか。一つひとつ確かめてまいります。
 全体としては この世界を閉じて捉えるのではなく 開かれたものとして受けとめるということ その姿勢をご指摘していただいたと思い
☆ ひむかしの野にかぎろひの立つ見えて・・・
という希望を見ました。
☆ ドンキホーテ
につきましては 疑問質問を持って暴走するくせが また出たのかなと思ったものです。
☆ 歩み寄り
は わたしが 厳密に言えば 輪廻転生を 主義として 前提していないので しかしながら一般的には 想定としては そのように考える立ち場を共有できると思いました。
★ カルマという因果律はこれまた、厳然たる宇宙原理の一つ側面であると承知しております。比喩や理解ではなく、理解しようが、受け入れようが関係なく。
☆ 自然科学の分野での因果律は 現在分からなくても いづれ認識することが出来ると思われるのですが 人間のおこないとしての社会的な因果応報にかんしては これを人間が《理解することが出来る》とお考えなのでしょうか。つまり 《宇宙原理》を想定することは まったく ふつうに行なわれると思うのですが これの中味を知ることは人間には出来ないのではないでしょうか。因果応報は 知ることができるのでしょうか。
 知ることが出来なくても 
★ 突端的端末
☆ なるわたしも その原理のもとで 自由に生きていくことができる。ですから 安易に 善因善果・悪因悪果を 特に他人に対して 決めつけて言ったりは しないものだというふうに解釈しました。そして そのためにも
☆ 知り合いとしての信頼関係とそこにおける添う文化が 
土壌としてのように かかわってくると捉えました。

☆ 感謝の言葉
は一度言ってしまうと もう表へ現わしたことになり 外化され その意味で疎外されていきます。とって置こうと思いました。

★ ・・・カルマの法則 /  輪廻転生 / 因果応報なる原理・・・ 
★ これは創造の開始や神仏のことと同じように、物的・理論的根拠を出して説明することは無理、いや限界、いや困難なのではないでしょうか?
☆ ですから 《因果応報を人間は明らかにして知ることは出来ない。出来なくても その原理に向かって自己を開いている(受け留めている)ことが 大事だ》と採りました。
★ このカルマの法則の適用というより、この原理でいろんなことを理解し説明することも、人間としては一定の慎みと覚悟のなかでの受け取りとなるのでしょうか。
☆ とのごとくです。ただ 次の箇所つまり
★ ここにいる人間というものの分と際。これはやむをえないものではないですか。 / 突端的端末の人間、個人を存在させているものは、つまりそのものとしての自分は別でしょうが。 / 突端的端末としても、秘すれば花、という世阿弥の所作が望ましいと存じますが。
☆ ここにつきましては 読み解くのが むつかしいとも思いました。《秘すれば花》を頼りに読んだかたちでした。
 
★ 私達が読んでいる、バガヴァッド・ギータにも『仮に友人としてあまりに根堀、葉堀に粗雑、粗野に荒々しく尋ねることより、友人と相伴い、友人になることで、自然にわかり、明らかにされ、なぁんだということにもなるものだ。』とかいうことばがちょいとあったようにも記憶しております。
☆ この文章からも 《知り合いとしての人間関係が大事だ》と採りました。
☆ (1)から(7)までの内容について 
どれだけでも突っ込んでいただければ 為しうる範囲になると思いますが お応えしてまいります。

 表現というのも むつかしいですね たしかに。・・・これに懲りることなく ご投稿いただきますようお願い致しておきたいと存じます。

投稿日時 - 2008-04-22 13:26:15

ANo.8

 bragelone様 このことではないですが、勉強していることに関連しているのが、仰せの輪廻転生ですので、怖いもの知らずのままちょいと知ったかぶりで勉強のちっちゃな知識を晒して、またbragelone様のイジメに泣かされてみます。

 1. どんなことも原因があって現象してきているというのがカルマの法則というものであるようです。創造界という現象の世界を創り、維持し、溶解消滅させる原理(当為)の一つとなっているとのことらしいです。
 2. 輪廻転生もその一つの現象とのことです。
 3. 因果応報もそして、その一つの現象であり、原理であるとのことです。
 
 (1.)の何事も原因というものはあるものである、ということはbragelone様も否定はする必要がないのではないでしょうか。
 (2.)と(3.)については、これで現在や今生のことなどを説明されては、どうも納得できない、むしろ不当ではないか。というお話であると存じます。特に前世に原因がどうの、こうのというのはともすれば不当な利用もされるであろうし、弊害が多いのではないか。というお話なんですね、多分。本当にそう、bragelone様が考えておられるかどうかは別にして、お話の外様(外容、外的様子・体裁は)。
 このことをきちんと説明してみてください、というのことなのですね。多分。
  
 これは創造の開始や神仏のことと同じように、物的・理論的根拠を出して説明することは無理、いや限界、いや困難なのではないでしょうか?
 このカルマの法則の適用というより、この原理でいろんなことを理解し説明することも、人間としては一定の慎みと覚悟のなかでの受け取りとなるのでしょうか。
 ここにいる人間というものの分と際。これはやむをえないものではないですか。
 突端的端末の人間、個人を存在させているものは、つまりそのものとしての自分は別でしょうが。
 突端的端末としても、秘すれば花、という世阿弥の所作が望ましいと存じますが。
 
 私達が読んでいる、バガヴァッド・ギータにも『仮に友人としてあまりに根堀、葉堀に粗雑、粗野に荒々しく尋ねることより、友人と相伴い、友人になることで、自然にわかり、明らかにされ、なぁんだということにもなるものだ。』とかいうことばがちょいとあったようにも記憶しております。

 bragelone様には既に、アウグスチヌスですか、大なる方を通して出会われておられるので、私などは言わずもがな、ではありますが。

 こういう言い方をすると、多分bragelone様はまたいろいろ仰せでしょうが、一度にカチャンとした、自分が決めた一定の枠とか概念とか理屈とかで包みとって、入れ込もうとするのは無理のようですよ。
 おかしいなと思いながら、いる内に理解ではなく、是とするのはなく、なぁんだそうかとなることの一つではないでしょうか。
 みんなで寄って集かって、大きな天空のほんの一つまみにもならない事項を取り上げ、あげつらっていても、bragelone様にはおかしい、おかしいとしかいえないのではないかと存じます。
 主たる方の、natureは精妙、微妙ですし、創造の現場にもいってないし、前世やその前の前世にも、その前の前世にもいっていないし。ずうっと後の来世にもいっていない人としての存在をしみじみ知って、対する原理のひとつであると存じます。
 カルマの法則のほかに創造の原理は同じ一体のものですが、いくつかの原理があるのではないでしょうか。
 すみませんね、一定の教えでの独り言になってしい、またbragelone様の渇きを癒せませんでした。

投稿日時 - 2008-04-22 10:19:58

お礼

 krya1998さん ご専門の領域でしたね。ご回答をありがとうございます。

 たぶん このようにお声をかけていただいて 思ったことは ドンキホーテのごとく いえいえ ガラっぱちの目明かしのごとく あのブッダ葬送に向かって 突進しているようだなぁでした。

 わたしなりに整理してみます。
(1) 世界の始まりから この時空間には ものごとの因果関係がはたらいているようだ。
(2) 《ものごと》にかんしては 自然科学や社会科学という経験科学の眼と手とで その因果関係を明らかに捉えようと人は 努めている。
(3) 自然科学の因果律は それとして 解明されてきたし これからも解明してゆくだろう。
(4) 自然科学的な因果関係を基礎として 人間はさらに 人間関係つまり社会的な因果関係をも 思想として(そして 昔から 信じるという振る舞いのもとにも) 捉えようとして来ている。
(5) 社会関係にかんする因果律は それがあるとすれば 因果応報として説かれている。つまりは 善悪といった価値観を伴なった因果関係が現実の歴史であるとも 主張する場合が出て来ている。
(6) 仮りにこの因果応報説に従うとするとき 従うとしても――つまり もうここで今問い求めている結論になりますが―― その因果関係が 何もかも明確に分かるものではない。人間どうしの関係行為とその社会的に錯綜する行為関係が 自然科学のように 実験の繰り返しや理論の模索を通じて検証していくというような形で 把握されるというものではない。
(7) 少なくとも共通の解としておしえていただいたことは 安易に 善因善果や悪因悪果を持ち出すのは その因果応報のことを じつは何も 分かっていないその自分を白状するようなものだ。となりますでしょうか。
 
 ひむかしの野にかぎろひの立つ見えて・・・

* 輪廻としての前世や来世という継続 これも想定もしくは比喩ということになるでしょうか。(つまり 歩み寄りとして・共通の事項としまして)。
* 顔見知りとしてのお付き合い(添う文化) これを大事に!!というところも 大いに関係していると言うべきでしょうね。
* 吹けば飛ぶような突端的端末も ここにありと しかも 言わないで生きている。・・・これによって 因果応報の鎖から解き放たれるとさえ夢が拡がりました。
* 感謝のことばは 胸にしまって取っておきます。

投稿日時 - 2008-04-22 11:22:47

ANo.7

お邪魔します。

こういうことですよね?
「サリンの被害者、スマトラ島沖地震の被害者、阪神大震災の被害者、原爆の被害者、戦争の被害者全員は悪人だったから 当然の報いを受けたので、一切同情は無用なのか。助ける必要はないのか。悔い改めよと鞭打つことで、鞭打つものは感謝されるべきなのか」


でですね、、、
因果律の破れは存在するんです。

例えば悪人が善人の行いの報いを受け、善人が悪人の行いの報いを受ける。
こういうことが実際にあるのが現実です。

これを仮に因果律の破れといいましょう。

で、プラトンは、師ソクラテスのやったことにびっくりしたんです。
ソクラテスは善の存在を信じ、貫いた。

プラトンからすれば、ソクラテスは罪を犯していないにもかかわらず、罪だとされ処刑されました。
プラトンはソクラテスに不正に対して不正で報いろと言ったが、そうしてしまうと、自分は正義を擁護するものじゃないことになるとして、ソクラテスはプラトンの提案を退けた。
ソクラテスの死後、プラトンは考えた。

罪の無いものが罪があるとして、処刑されていいものか。
悪人の行いが善人に報いて、果たしてそんな世界に生きる価値などあるのか。
馬鹿馬鹿しいじゃないか。

で、うんとこさと考えて、国家だったと思いますが、こんなこと書いていたと思います。
罪が無いものが罪があるとして、鞭打たれ、十字架刑に処され、槍で疲れても、最後まで善人の業をなした人こそ、善人だったってことになる。

それを人間はできる。
それが、不毛で悪人の業が善人を襲う世の中に光をもたらす。

みたいなことを考えたんだと思います。
プラトンはソクラテスが死刑を受け入れたことに、とても驚いたと思います。


その思想が、イエス物語の作家に影響を与え、イエス物語が作られた。
ペトロは、イエスが罪が無いのに罪があるとされ、鞭打ちされ、十字架に処され、槍で突かれるということをイエスが受け入れたことに、プラトンがびっくりしたように、やはりペトロもとても驚いた。

そして、希望をそこに見出した。

因果応報の破れで、悪人が栄え、善人が滅ぶこともある世界に光が射したわけです。


輪廻思想というのは、ある意味、どうにもならないことを受け入れる ということにおいては機能すると思います。

ハンムラビ法典だったと思いますが、目には目を、歯には歯をってありますよね。

オリエントの世界では、主人と奴隷は、今のような感覚ではなく、どっちかというと、社長と社員みたいな関係。

年季が開けると、それ相応の対価を払って奴隷だった人を自由の身にしていた。
雇用期間中に、もし主人が腹をたてて、奴隷の目を突いてしまったら、期間が開けていなくても、奴隷に対価を払って自由にしなければならなかった。
歯を折った場合も同じ。

現世で償いをするわけです。

ですが、暴行こそ受けないにせよ、侮辱されたり、罵られたりした場合、それに対する法律は無い。
で、年季が開けるまで、奴隷の身分の人は我慢した方が利口。
年季が開ければ、それなりのものを持たされ自由の身になるので、途中でかんしゃく起こして、主人に逆らってとんでもないことにならないようにするため、我慢していれば、来世はもっといい人生になる という方便だったんじゃないかと。


輪廻転生するとされる有名な人、ダライラマですが、彼は前世でどんなひどいことをしたのでしょうか?
中国が「この人がダライラマの生まれ変わり」とし、チベットは「この人が生まれ変わりだ」とした。
少なくとも5人 ダライラマだとされる人はいるのだそうです。

それぞれの敵対する勢力が、子供を教育して、「この人が生まれ変わりだ」と主張する。

誰が本当に生まれ変わったのか誰もわからない。
でも、ダライラマが生まれ変わっているとしても、現世にまた生まれ変わってしまっては、、、、、

現世にまた生まれてしまっては、解脱したことにならない。
ましてや、権力闘争に巻き込まれてしまっては、前世でどんなひどいことをしたのだろう となってしまう。

> みな 過去において解脱を実現しえなかった者ということなのでしょうか。

生まれ変わりを信じれば ですが、私は信じていないので、たとえ災難にあったとしても、「それは当然の報いです。 前世の悪行ゆえに災難にあったのです、来世はもっとマシな人生になるために、私の言う事に原をたてず、ありがとうと感謝しましょう」と言われたら、蹴飛ばすかも。

そして「私に蹴飛ばされたのは、あなたの前世の報いってことですね。怒らず、私に感謝してください。もう一回蹴飛ばしますが、絶対に怒ってはだめですよ では 蹴飛ばします ボカスカ」

すっきりしますねぇ。

そんなことやったら、来世にひびく?

私そんなのちっとも信じてません。
信じている人は私に蹴飛ばされても、ありがとー というしかないわけです。

投稿日時 - 2008-04-22 01:18:25

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 たぶん――多分 ですが―― 《因果律の破れは存在するんです》と言ってしまえば この業の理論は それ自体 意味がなくなるのではないでしょうか。しっかりした見解をもってそう思うのでもないのですが。
 けれども 《破れ》はない つまり例外はないというために どこまでも果てしなく生まれ変わるという輪廻思想を打ち出しているのではないでしょうか。その長い過程においては 自業自得として納得できる出来事があったであろうという説ではないでしょうか。
 とりあえずは このように ブラフマニスムもしくはブッディスムの説として 論じていただくとよいと思います。つまりは 日本におけるそれに関連した思潮を考える緒口になると思うのです。

 《そもそも因果応報の破れは いかに?》という議論は 残念ながら 予定していませんでした。一言 考えを述べます。冤罪を甘んじて受けるなら 善を貫けて 希望が見出せるという思想は その都度 次元が変わって受け留められるやはり因果応報の理論であるように思えるのですが いかがでしょう。

 後半のご所説は 業と輪廻の理論は ばかばかしいという主張でしたら わたしも そう思っております。前世や来世を無記としたブッダであるのに 輪廻に根ざした業を説くとは・・・というのが わたしの本音です。
 なにぶん ウパニシャッドなり何なりについて明るくないものですから さらにご回答を待ちたいと思います。

投稿日時 - 2008-04-22 01:58:28

ANo.6

いつもお世話になってます。

生死の問題、心の問題、理屈で解決が付きますか?

brageloneさんの質問も心の疑問、心の問題、葛藤ですよね、理屈ですよね、輪廻転生どうの自業自得どう。
の。

不安を安心に変えようとしていますが、不安安心、人間に備わった事実ですよ(一元)  

自分にとっての不安は取れない=理屈で解決できない。


生死の問題、心の問題、理屈抜きで解決(解消)とは行きませんか。

投稿日時 - 2008-04-22 01:07:58

お礼

 ri-zyuさん ご回答をありがとうございます。

 おっしゃるところを聞いて 持った解釈はこうでした。
 そのへんは 理屈をこねないものなんだよという態度が 暗黙の前提となっている。
 つまり 理屈はそうだが そのように理屈で導き出した結論というのは 問題の解決にはならないものだ。

 うぅーん。
 こういう質問の仕方にすれば どうですか。
 つまり 自業自得というのは 自分にも分からない原因としての自業があるのですか。
 なおそれでも分からない場合 そういうときにも 分からないなりに 自業自得だと受け取るというのが この思想ですかと。

 理屈なのでしょうが あらためて思っても きわめて単純な疑問だと思うのですけれど 質問にならないというようなことでしょうか。
 つまり 仮りに サリン事件に引っ掛かったとするなら 諦めるでしょうが そのとき 自業自得という思想で諦めるのかどうかなのですが。

投稿日時 - 2008-04-22 01:26:08

ANo.5

申し訳ないですが、言葉遊びとしか思えないです。

輪廻転生という物語が示唆している意味について考察するべきだと思います。

投稿日時 - 2008-04-22 00:57:24

補足

 あらためて補いつつ うかがいます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 どこらへんが
★ 言葉遊び
☆ であるのか ヒントをくださいますか。また
★ 輪廻転生という物語が示唆している意味について
☆ 何か示唆するところを おしえていただけるなら幸いです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 理屈をどう処理するのか これを問うていますが 《言葉遊び》だとは 思いません。納得が行きません。
★ 輪廻転生という物語
☆ があって これをわたしが 多少なりとも心得ていて それにもかかわらず それに意を用いず理解しようとしないのではなくて そうではなく そのような物語なり仏説なりのことを 残念ながら わたしは知らないのです。おしえて欲しーい。
 何のご返事もなければ ただのふざけたご回答だったと解釈します。

投稿日時 - 2008-04-22 14:58:01

お礼

 ありがとうございます。

 でしたら どこらへんが
★ 言葉遊び
☆ であるのか ヒントをくださいますか。また
★ 輪廻転生という物語が示唆している意味について
☆ 何か示唆するところを おしえていただけるなら幸いです。

 輪廻を措いておいても いっさいのおこないは 能動のことでも受け身のものでも 自業自得なのですかという問いです。《業》とは 確実に 因果応報という説だということのようです。
 ひとつの思想としても 一度 あきらかにしておくとよいでしょうし もしわが国では 仏教の名のもとにそういう考えがあるとするなら それは 受け身である場合としての一部分は 見ぬ振りをして あとの能動的なおこないにかかわる善因善果と悪因悪果のほうのみで捉えているのではないでしょうか。おかしな話に映ります。

投稿日時 - 2008-04-22 01:10:47

ANo.4

>早く解脱しなさいということを言っているのだと
そうだと思います。

>何らかの原因となる自業を犯したという解釈でしょうか
>この古代インド人の考え方にかんする限り まちがっているのだとなるでしょうか?
人を善人と悪人に分別できるのですか?
被害者は善人で加害者は悪人ですか?
brageloneさんは善人ですか、それとも悪人ですか。

宗教的な考えを裁判所にもっていってあっているとか間違っているとか・・・・・
私にはこの質問の真意が読み取れませんねぇ

投稿日時 - 2008-04-22 00:28:08

お礼

 ありがとうございます。

★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
人を善人と悪人に分別できるのですか?
被害者は善人で加害者は悪人ですか?
brageloneさんは善人ですか、それとも悪人ですか。

宗教的な考えを裁判所にもっていってあっているとか間違っているとか・・・・・
私にはこの質問の真意が読み取れませんねぇ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ これについては かんたんですよ。
 サリンばら撒き事件に遭う あるいは 天災としてでも その年でいえば 神戸大震災に遭うといった被害です。
 善ではない悪としか思えない結果をこうむった場合を 言っています。それは 自業自得だという説なのだろうか。こういう疑問です。

 また 古代インド人が そのまま 現代の裁判に出るとすれば まったく違った反応が現われるでしょうねという意味です。

投稿日時 - 2008-04-22 00:41:01

ANo.2

因果応報じゃなく、輪廻転生が比喩(たとえ話)だと考えられないですか。

投稿日時 - 2008-04-21 23:48:40

お礼

 ありがとうございます。

 輪廻転生が 比喩(たとえ話)だということは 実際には こういうことでしょうか。
 人は生まれ変わることは ない(もしくは そんなことは 分からない)けれども 現実に人が無明の状態にあることを 何度も生まれ変わるというふうに表現しているということでしょうか。
 早く解脱しなさいということを言っているのだと。

 そうすると 現世のみで 業(因果応報)を考えると 生まれてこのかた 関係なかった人から被害を受けたというのは その原因は 遠く人から人へ回りまわって 何らかの原因となる自業を犯したという解釈でしょうか。

 つまり要するに いっさいの行ないは 自業自得だというのが 一般的な解釈になるでしょうか。そういう思想なのでしょうか。
 つまり 法律による刑罰というのは 加害者だけが処罰されて 被害者は処罰されないとすれば それは この古代インド人の考え方にかんする限り まちがっているのだとなるでしょうか?

投稿日時 - 2008-04-22 00:03:15

ANo.1

『比喩』では納得できないんですか?

投稿日時 - 2008-04-21 23:32:57

お礼

 ご回答をありがとうございます。

★ 『比喩』では納得できないんですか?
☆ 因果応報が比喩だとは考えられないですし 比喩とは どういうことでしょう?
 何らかの自分には分からない原因があったということですか?
 よく意味がつかめないのですが 噛み砕いておしえてくださいますか。
 また
★ 補足要求
☆ となっているとも いま 気づいたのですが これは いったい どういう意味でしょう?

投稿日時 - 2008-04-21 23:43:26

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