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解決済みの質問

人が 人のあやまちを赦すことができますか

 赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。
 赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。
 あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。

 このところ このような主題が 出ており 考えてきたのですが 上の結論に至りました。さらに検証し検討していきますが みなさんからも おしえていただきたいと思いました。
 哲学の質問は こういう議論のような性格を帯び そのような経過をたどることは 避けられないことだと思います。つまり 自己の意見も ある場合には 提出するものと考えます。そういう出で立ちですが よろしくご回答をお寄せください。

投稿日時 - 2008-06-13 13:40:53

QNo.4097397

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

そろそろ、ハエ取りツボから脱出する道を示す機が熟しました。

>赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。
 赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。
 あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。

能力・権利・資格を問う必要はないのです。
「赦す」「赦さない」という表出は、「社会的制裁を免除する、免除しない」という主旨で、そもそも個々人の能力・権利・資格を問う必要はなかったのです。個人的な発言のように見ていたことによる勘違いです。西洋の個人主義的な発想を感じます。遺族が「赦さない」というのは、独り言ではありません。「社会的に制裁を下してほしい」という対社会向けの表出発言です。

能力とか資格とかを手がかりに、袋小路(ハエ取りツボ)に入っていたのです。現代日本において、制裁や更正は、社会的に決めるのです。個々人の能力・権利・資格で決めません。ここは、質問者様と共通認識でしょう。だとすると、能力・権利・資格は関係ないと発言し、「赦す」も「赦さない」も、有効な言語使用方法だと認めるべきです。

投稿日時 - 2008-06-14 15:54:16

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 質疑応答として表わされた文章だけを読むと 存外しっかりした歩みをたどってきたと思いますが たしかに 全体観としての安定性がなかったことも実際です。
 今回のご指摘は いったい どうなりましょうか。

 まづ分かっていることは 
 ★ 能力・権利・資格を問う必要はないのです。
 ☆ になります。そして このあと
 ★ 「赦す」「赦さない」という表出は、「社会的制裁を免除する、免除しない」という主旨で〔ある〕。
 ☆ という思想は 筋として 共感したのですが 少し次のように修正を加えて 賛同しました。
 
  (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。
  (2) 《赦す・赦さない》は それを 自由において 口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まる。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。
  (3) この(1)(2)は 加害行為に関して その処理を 社会的な制裁と更生処置にすべて ゆだねる前に 定まっている。
  (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから ないと見なされている。
  (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関して あてはめると 分かりやすい。
  (4-b) ということは 結論から言って 社会は すでに 初めから その成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁・その更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。

 では  
 ★  「赦す」「赦さない」という表出は、〔それぞれその順序で〕「社会的制裁を免除する、免除しない」〔に対応する〕。
 ☆ と捉えると どうして いけないと考えるのか。
 これは まづ 直接の対応がないという意味であって 間接的に といいますか そもそも 社会を構成する人間としては 基礎における形での間接的には つながっているとも言わなければならないと思います。
 けれども 直接につながった形で対応するとなると 被害者が そもそも あたかもその制裁の権利を持って そのあと わづかに それを社会の制度にゆだねるという解釈になってしまうと思われるからです。
 そうだと どうして いけないと考えるのか。そうだと 別様の道をとおって 結局 私刑という選択もありうるということになりはしないでしょうか。つまり このほうの選択があるとなれば やはり 復讐の連鎖が 起きて それが あとを断たないことになってしまう。・・・

 ううーん。少し時間がかかってしまいました。まとまりが悪いかも知れませんが ここで 一たん お応えとしたいと思います。いかがでしょうか。

投稿日時 - 2008-06-14 18:22:07

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回答(51)

ANo.51

同じことの繰り返しですねー。

>★ 本題から〔どのように なぜ〕反れ〔るのか〕
☆ これを 明らかにしてくださると そしてもしそのことに納得がいけば もうすべてが確定ということになると思うのですが どうでしょう?

Q「赦す」能力・権利・資格が人にありますか?
A「赦す」「赦さない」という表出発言が個々人の能力・権利・資格の問題ではなく、社会制度(生活様式)の中で理解し、これらの言葉の使用を正当だと追認しましょう。

これで、終わりです。この回答に過剰な修飾をしたくないだけです。変化の話は、この質疑応答の関連質問なのでしょうが、当初の質問が完結しているので、蛇足に思えます。過剰です。論点がぼやけます。ゆえに、「その2」とか「続」とかで、別立てする方がよいという個人的な感想です。以上。

投稿日時 - 2008-06-22 21:23:49

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 そうですか。でも このご回答は やはり 次の二つの要素に分かれるとは思っています。 

  A. 基礎理論 もしくは 長期的な展望としての第二段階
 ★ 「赦す」「赦さない」という表出発言が個々人の能力・権利・資格の問題ではなく その「赦す」「赦さない」に対する個人観的理解を脱して〔いるということ〕
 B. 〔不遜な言い方ですが〕過渡期としての便宜的な情況対応 もしくは 短中期的な将来としての第一段階
 ★ 社会制度(生活様式)の中で理解し、これらの〔――「赦す」「赦さない」という――〕言葉の〔――自由な――〕使用を正当だと追認しましょう〔ということ〕

 つまり たぶん 《 B 》のほうは もっと具体的な事例として 繊細な部分に配慮したかたちで 表現し分けなければいけないように思いますが 《 A 》の理論は もうそれ自体で 普遍的な原則であるように考えています。したがって 《 B 》は 応用形態として 《 A 》に従属するとさえ思いました。

 でも これ以上は しつこ過ぎるでしょう。たいへんありがとうございました。ここで一たん締めることに致します。
 みなさんともども たいへん有意義なご回答を寄せていただき 感謝しております。それでは また 関連質問がありましたら よろしくお願いしたいと存じます。それでは。

 * お礼のポイントは みなさんすべてにと思っても うまく行きませんね。困ってしまうのですが そういうときは 恣意的な判断がよいのでしょうか。恨みっこなしで よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2008-06-22 21:51:55

ANo.50

>《加害行為に対処する仕方は 当事者やその近しい関係者の発言内容に・・・かかわらず 決められる》という想定です。《加害という行為であることの指摘と その行為をしないという生活への復帰》として決めてもよいのではないかでした。
つまり《可能性 / 潜在能力としての本性》などを吟味してみようという《その後》の――第二部以降の――模索と探究でした。と思うのですが いかがでしょう?

各関係者の発言内容にかかわらず決められるという視点に、特に「決める」という点に私としては拒絶反応が出てしまいます。個々の能力や権利も資格も問わずに、当然に、「赦す」「赦さない」という表出発言ができる上で、各関係者の発言内容は、社会の中で常に吟味され、支持と不支持の反応の積み重ねがあり、相応しい発言としてさらに変化していくだけで、画一思想の方向付けで「決まっていく」とは考えていません。

私は日常性を超克した純粋理念があってその光に導かれていくという発想をしていません。日常性を最大限尊重し、千差万別の発想も尊重し、徐々に生まれた変化の集積として、振り返った時に、後付けで方向性を語れるに過ぎないという発想です。予想外・偶然の支配する世界観です。理性万能の必然的世界観ではありません。

変化の可能性は、現時点で語れるものではなく、変化は反省的に語れるので、今は沈黙すべきと思います。私たちが語れるのは、今までの経緯と問題点であって、将来の可能性の芽を育てるだけです。しかし、それは本題から反れますので、別の質問とすべきかと推察します。

投稿日時 - 2008-06-22 19:52:21

補足

 qsxdrfvgyhさん そうなんですか。つまり おっしゃるところから察すると わたしがかろうじて垣間見たヰトゲンシュタインの《言語ゲーム》の要領ではないのですね?

 つまり もしその要領だとすれば 前回のわたしの解釈は qsxdrfvgyhさんとの微妙な違いとして 次のように やっとわかったように思ったという内容だったのですが。すなわち

 ★★ 本問題の核心は、「赦す」「赦さない」に対する個人観的理解を脱して、社会制度(生活様式)の中で理解し、これらの言葉の使用を追認するだけの話です。
 ☆ この一文を 二つの性格あるいは段階に分ければ よいのだと思いました。

 A. 基礎理論 もしくは 長期的な展望としての第二段階
 ★ 「赦す」「赦さない」に対する個人観的理解を脱して〔いるということ〕
 B. 〔不遜な言い方ですが〕過渡期としての便宜的な情況対応 もしくは 短中期的な将来としての第一段階
 ★ 社会制度(生活様式)の中で理解し、これらの〔――「赦す」「赦さない」という――〕言葉の〔――自由な――〕使用を追認する〔ということ〕
 
 ☆ すなわち したがって今度は 問題は (A)の基礎理論が
 ★ 日常性を超克した純粋理念があってその光に導かれていくという発想
 ☆ であるかどうかにかかっているということになりそうです。つまり
 ☆☆ 決める・決められる
 ☆ という表現がいけなかったかと思います。ただ たぶん収斂していくと すでに今 わたしは 見通すものですが もちろん
 ★ 個々の能力や権利も資格も問わずに、当然に、「赦す」「赦さない」という表出発言ができる上で、各関係者の発言内容は、社会の中で常に吟味され、支持と不支持の反応の積み重ねがあり、相応しい発言としてさらに変化していくだけで、画一思想の方向付けで「決まっていく」とは考えていません。
 ☆ という内容は まったく同じ考えです。違いは 自負にあります。qsxdrfvgyh さんとて (A)の原則をうたっておられるからには 自負も確信もお有りではないかと思うのです。民主主義です。

 ★ 私たちが語れるのは、今までの経緯と問題点であって、将来の可能性の芽を育てるだけです。しかし、それは本題から反れますので、別の質問とすべきかと推察します。
 ☆ たぶん わたしが――気は短くなく 長いのですが 早いものですから―― 強引すぎて それに対して他方 qsxdrfvgyhさんが――気が早くなく遅いというわけではないでしょうけれど―― 慎重のうえに慎重を期すという態度でいられるのではないでしょうか。
 
 * どうでしょう? もしよろしかったら――かなり長引いていますが 長引きついでに―― 
 ★ しかし、それは本題から反れますので、別の質問とすべきかと推察します。
 ☆ というときの
 ★ 本題から〔どのように なぜ〕反れ〔るのか〕
 ☆ これを 明らかにしてくださると そしてもしそのことに納得がいけば もうすべてが確定ということになると思うのですが どうでしょう?

 * ヰトゲンシュタインも 《無根拠》ということを言っていると読んだのですが もしそうだとすれば けっきょく 基礎理論の(A)は 同じくその《無根拠》ということを言っていると思うのですけれど。・・・つまり 《原則は つねに 民主主義の自然史過程に従う》という歴史観です。つまりただし 働きかけは それとして おこなうということにもなります。それは 《話し合い》であり それだけですが。

投稿日時 - 2008-06-22 20:52:39

ANo.49

No.21で、見晴らしのよい頂上に達し、「赦す」「赦さない」という表出発言が個々人の能力・権利・資格の問題ではないという結論であったのに、また7合目くらいに戻って脇道に反れて森の中で道が消えたような印象の議論を続けていたのですね。

問題解決の頂上に達する道は複数あるとは思いますが、ほかの道ではあまり成功していないようですね。「赦す」「赦さない」という表出発言を「現代日本の社会的な役割」において理解するだけでいいと思うのですが。「無私」も「禁欲力」も「善や神」も「煩悩即菩提」も「絶対他力」も必要ありません。

本問題の核心は、「赦す」「赦さない」に対する個人観的理解を脱して、社会制度(生活様式)の中で理解し、これらの言葉の使用を追認するだけの話です。空理空論を弄して、現実の日常言語の使用感覚に反した問題提起を放っておいてはいけないという危機感から私は前回、回答しました。

ですから、遺族が「赦さない」というのは当然正当な発言であるし、キリスト者が「赦します」という発言も正当です。それぞれの生活様式から出た発言はそれぞれ尊重されます。どちらが正しく、どちらが間違いだと言えません。

そして、これらの発言は独り言ではなく、対社会向けのメッセージですから、その発言は社会制度の中で毎回毎回検討され、支持されれば残って社会の基盤となり、不支持となれば修正を余儀なくされます。遺族が「赦さない」という発言が今後正当でない時代や地域があるかもしれませんが、それは現時点では可能として言えるだけです。

言語ゲーム/劇をあえて持ち出す必要もありません。蛇足でした。「発言の社会的な役割」という視点だけ、分かっていただきたかったということです。そろそろ、質疑応答は終わりにしていいのではないでしょうか。そのように思います。

投稿日時 - 2008-06-22 16:07:48

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。さらに明解な解説をいただいた恰好です。

 なるほど なるほどと読み継いでいって 一点だけ 引っかかったところがあります。これを率直に述べてみます。
 まづ あらためて 復唱することから入ります。
 ★ 本問題の核心は、「赦す」「赦さない」に対する個人観的理解を脱して、社会制度(生活様式)の中で理解し、これらの言葉の使用を追認するだけの話です。
 ★ 遺族が「赦さない」というのは当然正当な発言であるし、キリスト者が「赦します」という発言も正当です。それぞれの生活様式から出た発言はそれぞれ尊重されます。
 ★ これらの発言は独り言ではなく、対社会向けのメッセージですから、その発言は社会制度の中で毎回毎回検討され、支持されれば残って社会の基盤となり、不支持となれば修正を余儀なくされます。
 ☆ このとき 一点 ただ一点のみ つまりは 《変化》ということ この点に その後なお こだわっていたのだと思います。

 ★ 遺族が「赦さない」という発言が今後正当でない時代や地域があるかもしれませんが、それは現時点では可能として言えるだけです。
 ☆ ここで言おうとしていることは げんみつに言えば(念のためですが) 《加害行為に対処する仕方は 当事者やその近しい関係者の発言内容に もはや いわば かかわらず 決められる》という想定です。《加害という行為であることの指摘と その行為をしないという生活への復帰》として決めてもよいのではないかでした。
 つまり《可能性 / 潜在能力としての本性》などを吟味してみようという《その後》の――第二部以降の――模索と探究でした。と思うのですが いかがでしょう?

 つまりは もし qsxdrfvgyh さんのご見解(の基礎理論)を逆手に取って述べるならば 《〈語りえぬもの〉を指し示す》ためには 不易の理論(即実践)の追究も 現在この今 必要になるのではないかというものですが どうでしょう? 森が見えておらず 木ばかりを見ていますでしょうか。

 わたしの推測では 《「発言の社会的な役割」という視点》が 《劇》――《言語ゲーム》としての いい意味での《劇場社会》――のことではないかと 思い浮かべたのですが。そして たぶん 《不易》のことは どこまで行っても 《なぞ》ですが そのような指し示すべき何ものかの想定のもとに なお今後の変化の可能性を問うてみておくのも 問い求めるに値するのではないでしょうか。
 
 と言いましても ここで 一たん 質問は終えたほうがよいように思っております。しばらく 放っておきましたが 締めるのは いつでもできると思ってのことでした。一日二日をおきます。 

投稿日時 - 2008-06-22 17:12:29

ANo.48

primeapeです。
今日私の勤めるおもちゃ屋さんで万引がありました。
被害金額60円のお菓子で、小学3年生です。
警察に通報して保護を要請しました。
罰がどうこうではなく専門家に任せるのが心の傷を癒す上で安全だからです。
ちなみに所管の警察はこのような場合は学校には連絡しないのを基本的方針としています。
子供は警察に連絡すると聞いてしきりに私に「ごめんなさい」を連発しながらないていましたが、落ち着いた呼吸のタイミングを見計らって「ソレその通り。おまわりさんにもごめんなさいって言えばいいんだよ」っと言ったらとたんに落ち着きました。(半べそは続きますが)
警察官は冷静で子供の動揺を誘わない対処をしました。
すぐに子供を連行したのでその後の対処は知りませんが、安心して任せられるので関心もありません。
何時間かして今度はお母さんが子供をつれて挨拶にきました。
大人同士として、ソレを聞いている子供がこれ以上傷つかない会話に誘導しました。先方が居るのでそれが精一杯です。
親子の帰り際に、私の行いの基本方針に基づき「許す許さないの話ならね、おまわりさんもお店の人もはじめっから許しているんだよ。そうだったでしょ」(納得したのでしょう)母親はもう一度ごめんなさいって言いなさいと子供に言いました。子供はここで始めて言いにくそうに「ごめんなさい」と言いました。許されていることが理解して口にする「ごめんなさい」は謝罪ではないんです。ふてくされでもしなければこのあいさつは屈辱です。子供の内面は詳しくうかがい知ることはありませんが、内在する悪意は論理(この場合は成り行き)の前には恭順するんです。
ちなみに悪と糾弾される行いをした人物がなかなか謝るきっかけが無いのは、「既に許されている」「神の声を聞ける」との信仰心も絡んでいる筈です。

60円のお菓子の万引。
ここに罪の大小で計ると話がややこしくなります。
許す理由が必要になります。
そうすると万引は本当なら反省しない点ではよっぽど死刑の対象に見えるんですよ。

投稿日時 - 2008-06-20 03:26:08

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 ふむふむとお話を聞いておりましたが 解決 というよりは 和解 というよりは 同じ仲間だという気持ちが芽生えたようで よかったですね。
 (たぶんわたしなら 一般に子どもとの対面や あるいは犯罪の場面にぶつかることが ほとんどないので どうするかと考えたのですが たぶん 事務的に対処するだろうと思ってしまいました。顔見知りなら また別ですが。つまり たっぷり どこまでも 時間をかけるでしょうけれど)。

 ★ ちなみに悪と糾弾される行いをした人物がなかなか謝るきっかけが無いのは、「既に許されている」「神の声を聞ける」との信仰心も絡んでいる筈です。
 ☆ この箇所が よく分かりません。《絡んでいる筈です》が 一度は 最低限度のお詫びの言葉を表明しなければいけないとは思うのですが?

 * このQ&Aは 《現代思想の最前線にある》と大見栄を切ってしまったので みなさんに引かれてしまったかも知れません。今後どうしましょう。思案しています。 

投稿日時 - 2008-06-20 10:22:14

ANo.47

故宮崎勤は、これで赦し赦されたのか・・・

この結末はまぎれもなく我々自身である。

法務相も、担当弁護士も、精神科医も、そして故宮崎自身も出演者に違いないし、
マスコミも裏方で活躍しているが結末を演出したのは我々である。

大げさに言えば、疲れ切って血に飢えた国民の劇場型ホラーといったところ。

残念なことにこんな結末でないと我々は関心がない。

故宮崎勤は、これで赦し赦されたのか・・・答えは否だろう。

有効な対策が打てなかった我々はまた彼に敗北する。
我々が彼に勝利して初めて彼が赦される日が訪れるのである。

投稿日時 - 2008-06-19 02:14:07

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 nabayoshさんの《無私》(わたしの解釈では =自然法≒仏性)の境地 あるいは arayata333さんの他者との共通感覚を備え問題にも対処していく強靭なやはり境地 これらなどを考えると 理論即実践という立ち場も さらになお強化して進むべきだと考えるようになりました。
 つまり bananasandさんもおっしゃる《禁欲力の涵養》です。《加害にいきつくような欲求をいくら思ってもよい。しかし これをしない》というむしろ自然本性に備わったというべきような禁欲力のことです。
 むろん 加害行為の予防そして加害者の社会復帰等々のための社会的な仕組みを作っていくことも とうぜん 帰結されるであろうし 実現させていかなければならない。・・・

 というのは 今朝の新聞で その広告の見出しだけを見たのですが

 ・小泉元総理 変節! 《国交正常化なくして拉致解決なし》
  《拉致交渉の崩壊》全深層
  ・・・増元・家族会事務局長が困惑 《斎木さん(アジア大洋州局
   長)がいつもと違う》
   (週刊文春 最新号 広告の見出し)

とありました。もしこうだとしたら この《変節》ということに注意が向かったのです。
 どういうことかと言いますと 仮りに方針を変えるとするなら 《方針転換である。理由は これこれの事情である》と説明すること(もっと言えば 関係者や国民にその提案を あらかじめ おこなって 共に諮るということ) ここが 抜けているのではないか。あるいは このように 週刊誌や新聞に いわゆるアドバルーンを挙げて 簡単に世論の操縦を図ろうとするやり方。
 ということは 国民は 変節ぶりに腹を立てたり やがて時が経てばおさめたりして もしそれだけであるのなら 何も考えない。そのような情況に生きていて 《お言葉を返したら 和を乱す》とだけ思い込まされている。この閉塞感を だれも おかしいとも思わないし いやだと言わない。・・・
 ここで 宮崎勤につながります。宮崎とは別の人間ですが 同じ新聞の広告欄に並んでいた見出しには こうありました。

 ・ネットで《神》と崇められる 《アキバ通り魔》
  ・・・《加藤ありがとう。勇気を与えてくれて感謝してる》
  ・・・《加藤は俺たちの十字架を背負って死刑台に上がる!》  
   ――今 通り魔《礼賛》の書き込みは増える一方――
  (週刊新潮 広告見出し)

 つまり つながるかどうか 断定できませんが ひとつには 結局やはり《禁欲力》と鍛えること・その境地を 互いに 切り開くこと これが 求められているのではないかと ご回答を読みつつ 思った次第です。
 
 * 簡単にいえば 《ものごとについて考える》という単純なおこないの実行だと思うのですが。互いに その考えを練りあっていかねばならないでしょうね。(このQ&Aの宣伝のようになってしまいました)。

投稿日時 - 2008-06-19 06:53:46

ANo.46

>《無私》には あまり いい印象をわたしは持っていないんです。

なじみの私を捨てなければならぬ、と思うからでしょう。
そして捨てなければならぬ、と思っているのもまぎれもない私だったりします。
努力、努めると繰り返していますが、努力したり努めたりしている間はやっぱり私というのはそこにあるのではないでしょうかね。

>どうでしょうか。おそらく 焦点は こうだろうと思われます。つまり 被害を受けたとき その加害行為について 加害者を責める・咎める・そして犯さないようにしたまえと言うことが 《赦す・赦さない》を考える筋から出たものでしかないのか。腹は立てているのですが 微妙ですね。

無私の観点に寄り添えば、何が被害で何が加害かもわからなくなるでしょう。そんなことを言ううちは私というものがあるわけですから。
私というものがあるとすぐ被害だの加害だのと考えがちですが、人間万事塞翁が馬、被害だと思ったものがよいものをもたらすこともありうるということを考える時に、すぐさまそれを被害加害と断じるのはいかがなものかとなるわけです。
一見失敗だと思ったものが怪我の功名を発揮することだってあります。
そうすると、被害・加害という考えもとっぱらうしかなくなるでしょう。

私がなければ被害も加害もないとなってしまうと、罪もなければ赦すも赦さないもない。赦すも赦さないもない、というときに、ひょこっと頭を出している「赦し」があることに気づくことになります。
つまり、赦すも赦さないもないということは言い替えればどうでもいいということであり、それ自体が赦しの性格を帯びていることになるのです。

実践形式と言われても、実践というもの自体が「私」のもとにあるものなわけでして。
強いて言うなら、赦そうが赦すまいがそんな大差はないということを自覚するというくらいでしょうかね。
(自覚というのも私がなきゃ存在しないわけで、そのへんのところが隔靴掻痒なわけですが)
実践を伴おうが伴うまいが、といったことになると思います。

投稿日時 - 2008-06-18 10:06:03

補足

 nabayoshさん ご回答をありがとうございます。

 ふむふむと読んでいきますと 二点に 注目・留意します。
 1.いくら理論と言っても《無私》には 飛躍のし過ぎはないか。
 2.けれども《無私》は おおむね(最も広く解して) 《自然法》のことであったり 《仏性》のことであったりするようだ。
 3.《赦す・赦さない》という始点に立っていると見える要素があるが それは 最終的に《いわば自然史的に 自分の努力や意識としては覚えもないほどに 〈赦し〉を 自身に得ているし 自身が人に対してもおこなっていると気づく》というのですから もう問題ないでしょう。

 (1)(2)合わせて 次のように考えます。

 まづ 《自然本性 / 自然法》としては 次の二つの理論に限りなく近づきます。そのあたかも彼岸から ここに戻ってくるという問題が発生しているようなのだと思いますが そう考えるのは まちがいですか?
 ● yy8yy8azさんの掲げる《煩悩即菩提》の理論(No.46など)
 ● keepfaithさんの掲げる《赦し》の基礎理論〔――たとえば 《おっしゃるように「人が人(自他共に)の罪、あるいは過ちを、赦すことは、不可能」です。わたしたちは皆不完全で、能力も権限もないですから》と捉えての超越者の理論――〕(No.18)
 つまり 《無私》の理論です。
 
 そのとき《飛躍しすぎ》がありはしないかというのは こうです。加害を受けたとき――つまりは 被害か加害か分からなくても 身体にしろ精神(名誉など)にしろ その存続を傷つけるような性質の力を被ったと〔感じた〕とき―― その場で 《人間万事塞翁が馬》という達観によって 何もなかったと受け取ることは わたしたちの欲する現実だとなるでしょうか?
 そこまで 《無私》が 貫徹されることは 果たして 人間の現実なのでしょうか。

 ★★ 更生という考え方自体が既に「悪あり、善たるべし」という「赦さない」から始まっている。
 ☆ というとき まづ 《悪あり 善たるべし》というのは なるほど わたしにこだわった当為論ですね。微妙なのですが 《善あり。つねにこの善に還るべし》とすれば その性格は変わります。つまり 《〔生まれてきたというその存在じたいとしての〕善あり。〔その損傷としての悪から発する行為に対しては つねに 初めの〕善に還るべし》ということですが これは たとえ当為論であっても 相対的な経験行為としての生活の営みおよび態度の問題として まったくふつうの事態であるのではないでしょうか? つまり 《無私――むしろ その動態としての現在かつ過程――》の理論です。
 しかも そのように言うときには 特別な意識として 《赦す・赦さない》の問題は かかわっていないと思うのです。いや 無意識では かかわっているのではないかと言っても おそらく そのように対処していくなら 互いに すでにもう 永遠に 無意識のうちに収められてあることになるでしょう。

 《初めの善に還るべし》というのは 《善に還らないと承知しないぞ》と言っているわけですが そもそも同じく このことは 《はじめ(原理)》の理論としては 《〈無私〉のことを ちょこっと あたまの片隅にでも 想起したまえ》と その心を伝えているだけだと言えるはづですが いかがでしょう?
 だとすれば nabayoshさんの理論〔即実践〕との違いは その加害=被害の現場で 抵抗感にもとづいて 反応をするかしないか / 反応を示してもよいと考えるか これを 達観して 控えるか の差だけとなるでしょう。このようではないでしょうか?

投稿日時 - 2008-06-18 11:22:24

お礼

 みなさんへ。

 《フェアユース(公正利用)》という概念および法律のことを知りました。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 米国では 《1976年著作権法では、「批評、解説、ニュース報道、教授(教室での利用のための複数のコピー作成行為を含む)、研究、調査等を目的とする」場合のフェアユースを認めている。》→《wiki:フェアユース(公正利用)=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B9 》
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 今朝の新聞に出ていたものです。
 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・著作権制限、年度内に結論 政府知財計画・
 政府の知的財産戦略本部(本部長・福田康夫首相)が18日に決定する「知的財産推進計画2008」の概要が明らかになった。教育や研究など公正な理由があれば無許可で著作物を利用できるよう著作権を制限する「フェアユース(公正利用)規定」の導入検討など、著作権法の見直しについて2008年度中に結論を出す方針を明記した。→http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20080618AT3S1702617062008.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そこで 提案なのですが あたかもこの精神にのっとって この質疑応答でも 他の回答者の投稿内容について 自由に議論してもよいというものです。もしだめでも 質問者が 触れている事柄であれば そのように間接的に取り上げてもよいという趣旨のことです。
 それによって 探究が促されるのなら 問題はないと思うのです。

 * なお この質問は 人間と社会に関するほとんどすべての主題を扱っているようで 長引くかも知れません。しかも 寄せられているご回答群を見れば 現代思想の最前線にわたしたちはあると思われます。
 どこかで一たん締めきるかも分かりませんが どうぞ奮って つづいて ご投稿ください。

投稿日時 - 2008-06-18 13:15:37

ANo.45

三回目の投稿、yy8yy8azです。回答ANo.31に対する返答の問いが、メフィストーフェレスの台詞のようでしたので、成り代わって、あのように表現しなおしてみたのです。でも早合点でした。ごめんなさい、訂正します。
「煩悩はいとしい」以下の四行は、神の視点で言っているのですね。そうですと、これは‘煩悩即菩提’を言い表していると思えます。(煩悩イコール菩提と言っているのではありません。念のため)
蓮の花は沼の中で咲くということが、例え話としてよく知られています。あるお坊さんは渋柿も太陽にあてて干すと甘柿になる、という話で煩悩は菩提となりうることを説明しています。

投稿日時 - 2008-06-17 23:55:36

補足

 この欄をお借りして 覚書です。
 宮崎勤の死刑執行をめぐって 断片的ですが それでも 参考資料のきっかけになるかと思いました。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・無差別殺人への抑止効果?・

 ・・・宮崎死刑囚の場合、今月8日に東京・秋葉原で起きた無差別殺傷事件のような犯罪の抑止効果を狙った『見せしめ』との見方が出ている。
(日刊スポーツ6月18日http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20080618-373365.html

   *   *   *

 〔とくダネ!〕
 高木美保は、「人間を殺すことで解放感を持つ人がいるんだろうなと、信じたくはないけど、思わざるを得ない。宮崎も反省しないまま死んでいった。こういう人間はもう、死刑にするしかないのか。あるいは死刑の抑止力がないのか。もしかして終身刑にして科学で分析でもしたら、再発防止になるのかと考えたりする」

 デーブ・スペクターはにべもない。「だめな人間がひがみのかたまりになって、それしか正当化できない。分析してやる必要あるかどうか。遺族にしてみれば、3食付きの宮崎の19年は長すぎる」

 小倉智昭は、「そういうことを放送するだけで、第2、第3の事件を生むんじゃないかともいわれる」

といったが、宮崎のまいたタネはいまも増殖している。社会がそれを育てているのは確かだ。
http://www.j-cast.com/tv/2008/06/18021979.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2008-06-18 13:32:45

お礼

 yy8yy8azさん ご回答をありがとうございます。
 ここでは 疑問はとことん追究してまいりますので 自由に ご回答をお寄せください。

 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 釈尊は、自分の体験した覚りの世界は、衆生には到底分かっては貰えないだろうと、一旦は思ったのですが、人々もなんら私と変わるものではないのだから、仏性を育ててほしいと思ったのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いま この内容をめぐって 実践応用編という課題に入っています。
 自然法という概念があります。この思想では まさしく《仏性》があると見ます。そんなものは 人によりけりだという反対説もあります。
 また ご存じのように 聖道門と浄土門がありえます。甘柿に成るのは 飽くまで人間の能力とそれにもとづく努力によるという場合と 人間の能力だけでは成れないという大前提があって 人間の持つ能力の限りで努力はするという場合(つまり 実際には 信仰の立ち場)とです。
 一つ二つあるいは三つ前のご回答のあたりから こういう問題に入っています。
 そしてまた 《煩悩即菩提》という理論を 自己も人びとも実践するとして そのとき 被害を受けてしまったなら その加害者をどう 取り扱うか これが主題です。
 同じ実践を 加害者も おこないたまえと とうぜん 言っていく。その効力を現実のものとするための社会的な仕組み これを どう構築するかという課題にも 入っています。
 どうぞ ふるって ご参加ください。

投稿日時 - 2008-06-18 01:24:27

ANo.44

撤回と言うか、ちと補足しといた方がいいかな、と思い。

ナメられるナメられないは、更生を求めるなどの赦さないを根底にした人からは問題になりますが、根っからの赦しに基づく立場からは、いくらナメられようと問題にはなりません。

小人は権利だの資格だの更生だのという。大人は・・・

投稿日時 - 2008-06-17 23:46:29

お礼

 直前のご回答から つづいてです。

 ここでは 特にお応えしなくても よいようですね。

 前回の問題ですが ううーん まだまだ もやもやとしていますね。明らかな様相を見せてきてはいません。どうですか。

 自然法 その肯定派と反対派 そして 自力の道か他力の道か それぞれ ふたつに 自由に 分かれるのでしょうか。
 とりあえず 考えを休めます。

投稿日時 - 2008-06-18 01:03:25

ANo.43

まだ続いている、というより、どんどん新たな展開になっていくありさまを眺めると、そろそろまたちょっかいというかおせっかいなことを言ってみたくもなるものです。
また一言ですよ。

>《更生せい!せんと承知せんぞ!》

こんなポーズを取ったら相手にナメられますよ。
「けっ、怖くねえよ」って感じです。
「別にお前に承知されようがされまいが構わねえよ」とかね。

更生への期待というのが含まれるうちは「赦し」なんかじゃないですよ。
更生という考え方自体が既に「悪あり、善たるべし」という「赦さない」から始まっているものではないですかね。
つまり、「赦し」ってのは更生するかしないかなんてどうでもいい、ということからはじめないと不純なんですよ。

私刑やら私赦の話をヒントとして出しましたが、「私」という立場から外れないと「赦し」なんてものに到達するかは怪しいもんですよ。
そうするとやっぱり「赦し」は「無私」から生じると考えるわけなんですがね。
ほら、「権利」とか「資格」ってのも私的なものじゃないですか。

投稿日時 - 2008-06-17 22:59:51

補足

 nabayoshさん ご回答をありがとうございます。

 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 更生への期待というのが含まれるうちは「赦し」なんかじゃないですよ。
 更生という考え方自体が既に「悪あり、善たるべし」という「赦さない」から始まっているものではないですかね。
 つまり、「赦し」ってのは更生するかしないかなんてどうでもいい、ということからはじめないと不純なんですよ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これを聞いて そうとうやばいと思ったら 少しは 次につづくご回答において 和らげられた恰好です。
 でもこの引用箇所は 動かないですよね。

 たぶん 一言でいえば この《更生せい。せんとうんぬん》の標語の表わすところは 感覚的な反応のことだと思います。押されたなら そこに 無理なく 抵抗感が現われます。そういうたぐいの心理現象をも加味して 出てきた表現ですね。
 では――つまり もしそうだとしても 元に戻って―― 《「赦し」ってのは更生するかしないかなんてどうでもいい、ということからはじめ》た理論に立てば どういう反応になるのか。
 どうでしょうか。おそらく 焦点は こうだろうと思われます。つまり 被害を受けたとき その加害行為について 加害者を責める・咎める・そして犯さないようにしたまえと言うことが 《赦す・赦さない》を考える筋から出たものでしかないのか。腹は立てているのですが 微妙ですね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私刑やら私赦の話をヒントとして出しましたが、「私」という立場から外れないと「赦し」なんてものに到達するかは怪しいもんですよ。
 そうするとやっぱり「赦し」は「無私」から生じると考えるわけなんですがね。
 ほら、「権利」とか「資格」ってのも私的なものじゃないですか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まづ《権利とか資格》は 《社会的に決めあった公的なものを 私的にふりかざす》という意味で 《私的なもの》ですね。
 そして 《無私》には あまり いい印象をわたしは持っていないんです。表現の問題にすぎないとも思われるので 印象と言いましたが どうでしょう。あなたの得意な論理を用いるなら 《無私》であろうと努めることは 《公的な態度や姿》を描いてのことでしょうが その努力と意志において 《無私を拒む私》という場合と同じく 総じて 私的なものだと見られるかも知れません。
 努力してやっと成れる/ また 努力してのみ 成れるというのなら 私的であっても その道を踏まなければならないでしょうが。
 これは 《自然法》の問題ですね。自然本性に すでに 《無私》につながる境地があるかどうか。そして いづれにしても 自力によるか他力にゆだねるか この問題にもなるのではないでしょうか。

 かくなる上は 
 ★ 「私」という立場から外れないと「赦し」なんてものに到達するかは怪しいもんですよ。
 ☆ というときの実践形式を 明らかにしてもらわなければならないと思われます。つまり 理論が その理論のままでは 実践の形態を思い描かせにくいというなら そのときは ちょっと待てよということになります。則天去私は 努力過程のことですからね。

 次のご回答にて あらためて まとめます。

投稿日時 - 2008-06-18 00:57:35

ANo.42

ANo30のarayata333です。

私には遠慮なさらずに、とのお言葉に甘えて この際そちらを悪者にしたてて、重箱の隅をつつきます(笑)。

代3部にも入ったとのこと、 しかし2部も3部も1部がしっかりすれば、おのずと決まってくる点も大きいとの見解を自ら崩されているわけではないので、 一部にあたるだろう蒸し返しとなるかもしれませんが、 かならずしも全体の論議の進行も妨げるものではないだろうと そのへんもあまり心配せずに書いてみます。

私の一番の関心は第3部です。 実践編です。

だから、トラウマにならないように忘れる事の必要性というのは、その失敗をむしろできるだけ早く深く分析して次にはどうしたらいいかを考えたら過去のことは忘れるという手法のことです。 ほんとは3部に関わる方法論の肝心な部分を言ってます。

更生方法に重要な一部ですね。

ここに、ものすごく関心があります。 長所とか価値感とかに気がつかせてあげる(友としてです。)ことがその前提としてあります。

これ文学的倫理的な愛とか、相手への想像力とかからではないです。

言葉による文学も、声をだす演劇さへも自然な相手への偽善のない愛とか真心からの愛とか あるいは愛という言葉がすでに汚れてるなら「ふつうのそういう優しさ」を理論的(第一部)には掴んでいません。

近代演劇のそのへんの本質は、仮定(もし)の想像力による演劇の世界の探索にあると言われています。  もし私が(私自身が)その状況をその場にて生きていたらという「もし(仮定)」の想像力によって、 演技の世界を追及してゆく世界です。

しかしこの方法では 善と悪の因果の心の部分は理論的にはいくら追求してもいつまでたっても大きな壁があるようなものです。

表現の世界で言えば 歌や絵や、音楽の世界、そして目や声の世界の何かの客観的な評価法が確立されないと、理論としてそれを掴むのはたしかに困難です。

つまり“その実現は困難なところでもある”というのが私にも結論としてないわけではないのです。  ただし、私の場合は、そういう心の世界、心から人が人のあやまちを赦すことができる心の世界はありえるという理論も あるという希望も持ってます。

bragelon様は、ほんとうに文学的倫理的世界に限界の壁を感じていますか?

神という概念を、この論議に必要としないのはなぜですか?

神の概念を持ち出すとこの問題は複雑になると思っているかもしれませんが その定義が過去においては複雑だったかもしてなくても、本気で考えたら複雑なんかじゃなくて心や頭を整理するのに役立つということには気がついていないからなのじゃないですか?

すこし、このへん書きますね。

神というとたしかに神話とかの想像力の中の神様が連想されてそのことまで話し出すと話はほんとうに複雑になってしまいますけど、  

bragelon様なら 次ぎの事解りますでしょうか?

神様が存在するならば 神様だけが悪魔なんだということをです。

他に悪魔も悪人も 悪は存在しないということをです。

わたしの場合 それは考えたわけじゃないです。(もし、私の言ってる意味がわからない場合にはとうとう気が狂ったと思われかねないことを書いてますが(笑)、遠慮無くといわれましたので(笑))

考えたのじゃなく ある時本気で酒の勢いで泣き叫んでました。 血をはいてのた打ち回って神様をののしってました。 「おまえこそ悪魔だ。 いや唯一、おまえこそだ。 うわあああああ。」こんな感じです。
絶叫です。 シャウトです(笑)。 シャウトそのものでした。

気がついたら気持ちよくなってましたけどね(しんだわけじゃないです。)

でも絶望をくぐってみれば、 あるのは希望への道だけでしたね。

神様って この世にいないのと同じです。 これ解って、このことほんとに解って、解った上で、 私の場合は実際にも存在して 実は悪魔でもない神とは何なのかを考えています。

また 感謝はすべきとも感じてます。  今ではひざまずきひれふすような心でです。      

あのシャウトがあった後、 長い間私は 神とは恐怖の対象でした。 忘れること生きてる限りできるだけ忘れることそういう存在となっていまいした。   でも おそらくようやくそこから自律できたのでしょう。

ようやく、怖くはなくなりました。 こんなに長くかかったのは、私の脳がバカだったからでしょう。  でも、bragelon様はどうなのですか?

神のことを語らないということは、わたしにとって音楽や絵や歌の本質を語らないということになります。 目や声については語らないということを意味します。 

たしかに 神という言葉を使わなくてもそれらのことやその本当の評価基準を語らうことはできます。

でも、それを使うと文学的表現の限界や演劇や人間の想像力や倫理道徳の限界もよりはっきりわかりやすくなることを考えれば、 なにも神という言葉を使わない手は無いと思います。 ここでは真実だけを書きましたから解らない人には全く解らないだろう表現となっているかと思いますが、
ほんとに解りやすいさまざまなその言葉の使い方はあると思います。(真実をけして曲げたりはしないそれがです。)   ほんとはそのへん自由であるわけですが(笑)、 bragelon様を悪者にして 信頼を前提に、つつかせていただきました(笑)。

言いたいことは 四川省の子供達にも音楽を という標語です。

生涯 恐怖の夢でうなされるかもしれない、その子供達にもトロイメライがどんなに美しい音楽か聞いて欲しいということです。 まだその耳が新鮮な間に聞いて欲しいということです。 そしてまだその目が新鮮なうちに すぐそばに咲いてる合歓(ねむ)の花を忘れないように心にきざめるようにしてあげたいという闘いの同志を求めるだけだということですね。(悪魔なる同志をここに求めて←かなり文学的かな。)

以上です。

投稿日時 - 2008-06-17 22:17:17

補足

 arayata333さん こんばんは。じっくり読ませますねぇ。ご回答をありがとうございます。

 (1)わたしの人生におけるわたしと神との関係・その生きた歴史
 (2)トラウマを忘れるというのは トラウマから逃げるのではなく そうではなく それとの格闘のあとのいわば自然史としてだ。 
 (3)《野の花を見よ》 そのいわば ことだまとしての交感( correspondance )を聞け。

 これらを総合して 《理論 即 実践》を主張なさったと受け留めました。
 これにお応えするには 大論文を書かなければなりません。通りすがりの応答では 持ちません。(この質問じたいが そういう性質を はじめから持っていたようで みなさんともども 決して 通りすがりでここまでやってきたのではありません)。
 (2)と(3)は あえて 割愛しましょう。感覚的にも分かる部分があるでしょうし どんな議論にも基礎となっているでしょうし これからも そのどの議論にかかわってでも 触れることができるでしょうから。
 あえて(1)に挑んでみます。これも むろん どの議論にもかかわっていますが それとしてまとめて述べておかないと 議論はいつも断片的になってしまうと思われるからです。

 ★ 神様が存在するならば 神様だけが悪魔なんだ / 他に悪魔も悪人も 悪は存在しない
 ★ 神様って この世にいないのと同じです。
 ☆ 曽野綾子が――かのじょの思想をわたしは必ずしも支持していないのですが・そして次の発言については 中立の態度でいますが―― 《クリスチャンは そして 神に召されたクリスチャンだけが 極悪人になれる》というような趣旨の発言をしています。
 arayata333さんの命題ともども どちらも 微妙ですが その種の文章(判断)については わたしは 次のような解釈の中に位置づけています。
 この世は 閉じているのではない / 《開け》がある / その窓をとおして いろんな表現が 神にかんしても 与えられる。人は そのことばの世界 あるいは 心の世界を 持ちうるのだ。 
 そこでは しかも 言葉を超えて 感性として体験として すべてが真実であり この世にあるのは その主観真実に過ぎない世界だけであると思える。その現在が 永遠の現在として 推移する。・・・

 そうとう長い議論になると思っていたのですが 案外 ここで 一たん休みました。これはこれで ひとまとまりであると考えるようになりました。とりあえず すでにここで ボールをお返しするのも いいかと考えました。どうでしょう?
 要するに 《風は 気ままに吹く / わたし(神)は〔双子の弟の〕ヤコブを愛し 〔兄の〕エサウを憎んだ / わたし(神)は自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ》という現実です。窓をとおして流れてくる声あるいは風の音ですが それでも これらの文句も やはり 《なぞ》を含むと思われます。《なぞ》でありつづけるとも思います。・・・
 で そこでの問題です。その時点で問題つまり前向きの課題が 現われます。わたしには現われたのでした。
 飽くまで 《なぞ》は あります。このなぞを敷き詰めた大地に立って その上で 経験領域のことばだけで 社会のことがらは 語っていこうという趣旨です。窓は つねに 開いています。《神》という言葉を できるだけ使わないだけです。語る内容は けっきょく同じです。

 このようなお応えになりました。受け取っていただくなら幸いです。
 次のご回答では 《更生》という言葉からして 抹香くさいというご批判をもらっています。うんぬん。

投稿日時 - 2008-06-18 00:18:38

ANo.41

>心が冷たいままでもよいから 

このあたりが温度差なのか、はたまた共感部分の様ですね。
自然法の存在の真偽は兎も角も、アウシュビッツのガス室担当官は、妻子ある良き夫であり父親であるという事実は、
ある体制での善行もある体制で極悪である証明であって、それは現在においても、
911に祝杯をあげる多くの人がいて、それに対して大量破壊兵器の存在をでっち上げて
事実上大量虐殺する体制があるという現実に直面していた訳ですね。
ガス室に毒ガス流すのも正義、ツインタワーに航空機で突っ込むも正義、それを口実?に他国で
人殺しするも正義。どの正義にも少なくとも理由はあった。

しかし、理由がどうあれ、これが本性なんですね。ふつうの人だって、凄惨な事件や悲惨なニュースに爽快感を覚え、
疑似バイオレンスに興奮し、人を陥れてざまぁみろと思うし、麻薬や盗みや横領のスリルにドキドキする。
そう、チャンスがあればやってしまう。条件がそろえばやってしまう。歴史が物語ってますよね。
どんな立派な人でも状況により堕落するってわけです。
世話好きでボランティア活動に熱心なおばさんが障害者施設に火を放つ。

それが前提なんだと思うんですね。聖人を理想に持ってきても本人にはそのギャップを埋めようが
ないのが現実。だからこそ、本人の努力に頼らない、仕組み作りが重要なんですね。

たとえ前提条件がそろっても、おきてほしくない事象は発生させない仕掛けですね。

犯罪はほとんどがヒューマンエラーですから非常に難しい分野ですけど、予めロックしておくとかフェイルセーフにして
おくことですね。

考え方として、最近ではたばこ自販機での大人証明カードが良い例です。

アルコールセンサーが安くなっているので車に搭載したらいい。全車とは言わないまでも、酔っぱらいで捕まったら搭載車以外
運転不可を免許条件にする。
振り込め詐欺など実に簡単に見える。(不正口座に振り込ませるのだから、口座名義人本人以外の受け取りを
解除条件として振り込むというシステムを作ってしまえば良い。銀行の責任が重くなりますけどね。)

そして、究極的に「禁欲」(脳内ロック、脳内フェイルセーフ)ですね。
盗みたいと思ってかまわないが盗まない。
殺したいと思ってかまわないが殺さない。

盗みたいと思ってはいけないとか、殺したいと思ってはいけない・・これは原理的に無理な話。

そして禁欲のストレスを如何に取り除くかと「禁欲」自体は同義なので、ここに技が必要になるわけです。

脳科学と心理学の十分な発達を待つまでもなく本格的に社会システムに積極的に取り込んだ方が良い思うんですね。

MRIを応用した嘘発見器は、100%(もちろん錯誤は見抜けません)だし、
犯罪を実行してしまう精神を病として捉えれば、治療し完治させる有効なプログラムが出来るわけですね。
動機側ではなくて抑制側を積極的に治療する。つまり、いわば禁欲力の強化あるいはガス抜き方法の伝授ですね。


裁判員制度なんかよりもっとやることがあるだろう。というのが率直な意見です。

というわけで、雑駁な話になりましたが、私の中で赦す、赦せないの情動は、再発防止の流れを推し進める原動力という位置づけですね。

投稿日時 - 2008-06-17 11:45:52

補足

 親愛なる poet-philosopher さん いや ちがった(いや 違わない) bananasand さん――それにしても  かえって似合っているとも思えますが 《ありきたりな》お名前にされたものですねぇ(失礼!) georgesand あたりが いいかも知れませんね(・・・ほっとけ ですよね)―― ご回答をありがとうございます。

 ちょうど前回でしたか そのさらに前でしたかに melonsand さん いえ すみません bananasandさん(もう 以下では 間違いません)が ご投稿されたあたりから 第二部に入りました。しかも この今回のご投稿を機に さらに新たな第三部に入ると思いました。

 第一部 思いっきり飛躍してみようの理論編
 第二部 足を地につけて歩こうの実証編
 第三部 実現の仕組みをも合わせて考えつつ進もうの実践応用編

 ・ちなみに 標語は 《赦さん。赦せん。死刑じゃ!》から
           《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ
 (なお この標語についても さらにいいものを募集したいと思いま
  す。みなさん 奮ってご応募ください。賞品は 名誉です)。

 むろん第一部にまで つねに さかのぼって 吟味はするわけですが つまりは やはり理論は基礎であるわけですが この第三部という新しい視点をも取り入れて――ここまで 大々的になるとも思いませんでしたが―― みなさんも 知恵をしぼって ご投稿してください。(もう わたし個人の問題だけではないような気がしてきました)。

 語弊があるかとは思いますが 前半の《BGM》は じーんと来ます。心の地平を拡げ はるか遠くまで続く空を見させ そのまだ暗い空の向こうに 少しは 薄いオレンジ色の帯が見えたきたかに感じます。

 さて 被害の予防や加害者の更生のための実現の仕組み これを備えることに重点を移すとして ここで わたしは きわめて臆病になります。このような施策を考えることからは禁欲したいというふうに述べましたが その思索能力があるのに控えるのではなく 単純に苦手であるからです。ですが それでも 
 ★ 私の中で赦す、赦せないの情動は、再発防止の流れを推し進める原動力という位置づけですね。
 ☆ を共有しますから――つまり 標語と同じ道・同じ行き先だと思いますから―― しっかりと勉強して みなさんについてまいります。
 
 1.予めロックしておくとかフェイルセーフ
 2.たばこ自販機での大人証明カード
 3.アルコールセンサー
 4.不正口座利用撃退システム
 5.MRIを応用した嘘発見器

 考え方として
 a. 「禁欲」(脳内ロック、脳内フェイルセーフ)ですね。
    盗みたいと思ってかまわないが盗まない。
    殺したいと思ってかまわないが殺さない。
 b. 禁欲のストレスを如何に取り除くかと「禁欲」自体は同義なの
  で、ここに技が必要になるわけです。
 c. 犯罪を実行してしまう精神を病として捉えれば、治療し完治させ
  る有効なプログラムが出来るわけですね。
 d. 動機側ではなくて抑制側を積極的に治療する。つまり、いわば禁
  欲力の強化あるいはガス抜き方法の伝授ですね。

 ちなみに こういう考え方もあるということで 試考してみます。
 ブッディスムでは 聖道門と浄土門との二つがあって――と言っても ただ たとえに持ち出すだけですが―― 前者を いわゆる無神論にして自力の思想形態だとしますと 《禁欲力の涵養》は この聖道門にあたると思います。
 しかるに それこそ 赦す権限も能力もないと捉え みづからの努力だけでは とても無理だという場合の易行が 浄土門だと思いますが この場合は けっきょく 身も心も すべて 何ものかにゆだねるということだと考えます。単純に 絶対他力です。
 乱暴に言ってしまえば 《禁欲から自由になる》ことでしょうし もっと早い話として言えば 要するに 内面の世界にあっては《禁欲しない》という立ち場です。(社会の約束事を守るというふつうの努力は むろん するわけですが)。
 という二つの道のことも 思いました。
 まとまりのない文章ですが あしからず。
 新しい出発ですね。

投稿日時 - 2008-06-17 14:04:07

ANo.40

こんばんは、brageloneさん。


●《〈余計なお世話〉ではなかった》という主張ですよね?


はい、お世話やかもしれんけど、余計ではないと言う意味です。

それはなぜか?

「こんな回答をする者をあなたは赦せますか?」と事例を自らの身を呈して示しみせているのでしょう。

タイトル「人が 人のあやまちを赦すことができますか」にぶっつけ本番で答えている。

と、見れば読めなくはないじゃないですか。

回答で、憎まれ役をかってでることもないのに、自らの身を呈してる。

戦争の事例は、そこから、戦争を連想したんです。

戦争の総括「「人が 人のあやまちを赦すことができますか」これ重い問いだと思います。

投稿日時 - 2008-06-17 01:05:30

お礼

 littlekissさん こんばんは。

 微妙に方向・角度・道筋がちがっていると思います。

 戦争のほうは 裁判と《赦し》の問題とは 別だと考えます。赦す・赦さないにかかわりなく 一応 法律にもとづいて 裁くのだと考えます。そこに 個人個人が それぞれの気持ちや心づもりを添えてもよいはづです。そのとき 人によっては 《赦す・赦さない》という思惟の結果をも 含めている場合もあるのだと思います。

 そもそも 挑発に乗って 戦争を始めたことが もし そういうのであれば 《相手のやり方を赦さない。赦せない》と思ったからということになります。お互いさまです。

 この質問のほうは 回答と応答との問題です。それだけです。少し 馴染みになれば その投稿の文章に プラスアルファがついて来ますが ここでの問題は 問いと答えとそれへの返答が 基軸です。そして この基軸のみです。
 わたしは 怒っていますが それは 問題になりません。質問を出しているということについてくるおまけです。

 もし それでも たとえば仮りに こういう場合を考えてみれば どうかという反論があるかもしれません。それはつまり 不当な回答を出してくるという加害行為があって わたしが被害を受けたという場合の仮定です。
 その筋に沿ってなら わたしは その加害者の更生を願うということになります。
 問題は 去っていった人を 以前と同じ態度で受け容れるかどうかです。
 (1) 様子を見る。
 (2) ふつうの挨拶をし 口のきき方もふつうであると受け留めれば 機会を開放する。
 (3) ただし ちっとも変っていなかったなら どうぞ去って行ってくださいと言う。
 (4) なぜなら 同じ愚を繰り返すことになり 二度目は 被害者の所為だからです。わたしが 悪者になるからです。
 このように処理するだけです。けれども 今回 そこまでにも到っていませんでした。一歩 自分のほうへ踏み込んでくれと言っているだけであって けっきょく 肝心のことは何も言っていないという情況です。自分が 一歩 踏み入るということは しなかった。したくなかった。しようとしても できなかった。といったところなのでしょう。
 
 けれども これだけ ぶっちゃけて しゃべっているのなら なんらかの反応もあることでしょう。
 わたしは 怒っていますが。 

投稿日時 - 2008-06-17 02:26:43

ANo.39

ANo.36さん、余計お世話とかなんとか言ってるけど、余計なお世話かな?

うん、“判じ物”の言葉に反応したよ。

【ラダ・ビノード・パール】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB
【ベルト・レーリンク】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF
(一部抜粋)
1958年にニューヨークから帰国する途中、西ニューギニアの独立を認めるべきとした論文を発表した事が、植民地の全面的な維持を主張していた当時の外務大臣を激怒させ、国連のオランダ代表リストから名前を削除される事となった。
【パプア州】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%97%E3%82%A2%E5%B7%9E
【ガダルカナル島の戦い】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%80%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%AB%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
【ソロモン諸島―ガダルカナル島】
http://www.pic.or.jp/tourism/solomon/2.htm


この島に石油、天然ガス、銅、金など豊かな天然資源がねむっていることすら当時の日本はおそらく知らなかったんじゃないのかな、知らずにその地に降り立ち腰を据えたことがある意味地雷を踏んだんじゃないかな?この地に豊かな天然資源がねむっていることをすでに知っている国からしたら居座られては困るわけだ。その後に極東軍事裁判がおこなわ戦犯25人に有罪判決が出され、東条英機ら7人が死刑、16人が終身禁固刑/A級戦犯への絞首刑執行。http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1948.html#politics

投稿日時 - 2008-06-16 23:12:24

お礼

 《補足要求》と言っても 次の言葉と あとは 戦争のこと。いったい どういう趣旨なのか これも 判じ物のようですね。

 ★ ANo.36さん、余計お世話とかなんとか言ってるけど、余計なお世話かな? // うん、“判じ物”の言葉に反応したよ。

 ☆ うーん。《〈余計なお世話〉ではなかった》という主張ですよね?
 その中身は どうなのでしょう? どこが どのようであって どうして そう主張しうるのか。こういう形で おしえて欲しいところです。

投稿日時 - 2008-06-17 00:01:26

ANo.38

primeapeです。
私の愛すべきメチャンコ悪魔君の発した鬼神らしい格言に「悪意とは感情に分類されない」との言葉がありました。
感情で無ければ衝動に還元しようが無く、したがって想像上のみに封印できます。そしてそれが出来たことで正しいと確かめております。

>赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。
 あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。

この言葉にはそんな感情不在=悪を予感させる印象があり、頭でっかち扱いなどの舌足らずな言葉でも、とにもかくにも改めてもらいたい意見が集まるのでしょう。感情的な理由で反論したくなる現象の由来です。

私自身はこの見解に一旦は負けを宣言しましたが、犯罪者をどうにか許そうとする行いや衝動は改めるつもりはありません。敗北宣言を理性による足場固めの肥やしにしようともくろんでいます。

投稿日時 - 2008-06-16 23:03:02

お礼

 やはり《罪》の側から出発なさるのですね。を直前の欄から継ぎます。

 こっそり秘密をおおしえしましょうか。
 人それぞれのくせがあると思います。
 わたしは そのエートスに そのまま 反応しているだけなのです。突っぱねる場合もあって それが いちばん 関係性(ことだま関係)をしっかりと つなぎ止めるということもあるようです。
 (つまり 経験則と勘によって 行動しているのですが もちろん 勘違いで あやまつ場合もあります)。

 ・《罪 / 赦す》といった言葉を葬り去ろうというのですから 聖書の文章にも逆らおうかということになります。こちらは です。

投稿日時 - 2008-06-16 23:30:52

ANo.37

primeapeです。
「罪」自体は予想通りつかみ所が無いのですが、A33の補足は判り易かったです。
罪は罰を受けるのを恐れなくなって欲しいとの思索を今日一日していました。
「罪」をどうしても判りたくて罰を受ける心境を知ったなら、なんとなくですがイエス様の心境に思いをはせました。
さすがにこれは判りきることは無いでしょうが。

brageloneさんの言う善の損傷が悪。ここにあらかじめ「善」を設定しないのが私の流儀です。そこに見えるものは、私の言葉では「魂の欠損」であり、仏教的な「業」の正体です。この魂の欠損の観察結果の成り行きでは、悪ではなく罪の発祥する原点でした。間違いなく同じ事象を表現しながらも、ちょっとした表現の違いでこうも感じるものが違います。

投稿日時 - 2008-06-16 22:37:32

お礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 次のご回答を合わせて読んだ結果ですが むつかしくなって来ましたね。
 今回の《むつかしい》の意味は なにやら いわば観念の放射線が 人から発していて この問題が 延々と つづくかのように見えるところです。

 《善の損傷が悪》のその《善》には 《魂》でもいいかと思います。要するに 存在の全体を言うかたちです。その意味で 《魂》を用いれば 同じだと考えます。
 あるいは 《意志・そしてその自由選択》に代表させてもよいと思われます。これを 自分の心の傾きで 曲げてしまったなら 損傷を受けます。いわゆる《うそ》です。

 やはり《罪》の側から 出発なさるのですね。次のご回答に継ぎます。

 

投稿日時 - 2008-06-16 23:22:10

ANo.36

煩悩は いとしい‥‥以下の‘議論’について。
私が悪魔なら、また悪魔の使者であるならば、当然のことであります。
煩悩はかわいくて仕方がない。煩悩こそが尊いものである。無明こそが人の命をはぐくむ。そこから暗黒の光が現れる。
煩悩を持っていないものは処刑されて当然である。煩悩の多さによって人の価値決まるのだ。煩悩を持っていない者?そんなものは人間のくずだ。哀れむべき価値もない。

投稿日時 - 2008-06-16 20:59:47

お礼

 yy8yy8azさん こんばんは。

 まづ 重大な表現の違いを指摘します。

 ★ そこ(=無明)から暗黒の光が現れる。
 ☆ 無明より 命の光が 現われる。
 ★ 煩悩を持っていないものは処刑されて当然である。
 ☆ 煩悩を持っていないものは 罪人だ。
 ★ 煩悩を持っていない者?そんなものは人間のくずだ。哀れむべき価値もない。
 ☆ 煩悩を持っていない者は あわれむべき人たちだ。

 さて これらの議論の中身についてです。
 ★ 私が悪魔なら、また悪魔の使者であるならば、当然のことであります。
 ☆ (1)悪魔を表現に用いるときは わたしにもありますが ここで 悪魔を持ち出すということは どういう意味なのだろうか?と考えるのですが。
 (2) いくつかの解釈があるでしょうし いくつかの対応がありうるでしょうが こうお応えします。つまり 悪魔なら みづからを 光の天使に見せるはづです。つまり 煩悩を捨て 無明から明知へと移りなさいと説くでしょう。わたしに従って 覚りの境地にたどり着きなさいと。

 ☆ 無明も明知も 相対的なものだと言いたいのです。人それぞれ どんぐりの背比べだと言いたいのです。

投稿日時 - 2008-06-16 21:45:38

ANo.35

primeapeです。
A33についてですが(思索の末)反対語として「祝福」を思い浮かべることが出来たのですが、どうもおかしいんですよ。
誰が祝福するかと言うと神様が思い浮かびますよね、その反対語に「罪」、ところが罪には神の言葉は(承認)存在しないかに思える。
こんないびつな反対語では救いの手を差し伸べることは困難な気がします。

投稿日時 - 2008-06-16 01:47:03

お礼

 No.33に ひととおり書き込みました。
 
 すぐには 吟味がむつかしいです。
 いかがでしょうか。
 (やはり 極論ですし 初めて考えてみたものですので この質問の初めのときと同じ状態です)。
 
 * 《祝福》は 一応 人びとがおこなうという形にしています。

投稿日時 - 2008-06-16 07:51:13

ANo.34

こんばんは、

>故意による舌足らずで わたしや みなさんを 試しているということになりますよ

それは無いのです、恐らくそう感じるのはbrageloneさんだけで
ほかの方はありきたりな意見を言っていると思うはずです。
私はすごく簡単な言葉で普通のことを言っています。
ただ、brageloneさんはこの言葉、表現方法がとても苦手なのです。

> 《赦す》という言葉によって 自分の対処の仕方を
ここが普通の(普通を連呼してすいませんが)人と違うところです。
普通は気持ちが先で言葉は後です。
つまり、自分の対処があってそれを赦すと表現するのです。

>よって 理論です
ゆえに普通は理論はいらないのです。

>《心理》とは 外から来て
これは他人の、という意味でしょうか。
私はbrageloneさん自身の心理をいったのです。

brageloneさんにとって心理とは匂い、香りのようなものですね。
花の香り、カレーの匂い、女性の髪の匂い・・・・
物体があれば匂いなど要らぬといっているように感じます。

私は心理をわざわざ切り捨てる必要などさらさらないと思います。
それがそこにあるならそれを含めて理解しなければ片手落ちになると思います。
言葉には感情や思惑が乗っています。それを乗せずに人は言葉を使うことは出来ないと思います。
人の使う言葉はプログラム言語とは違います。
言葉を追いかけすぎるから逆に定義や基準が必要になるのではないでしょうか。

>秘義・奥義の用意がおありなのですね?
私はもう質問に対する回答は書いていますので出すものはありません。

投稿日時 - 2008-06-16 01:33:30

補足

 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>故意による舌足らずで わたしや みなさんを 試しているということになりますよ

それは無いのです、恐らくそう感じるのはbrageloneさんだけで
ほかの方はありきたりな意見を言っていると思うはずです。
私はすごく簡単な言葉で普通のことを言っています。
ただ、brageloneさんはこの言葉、表現方法がとても苦手なのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ここで問題は 《すごく簡単な言葉で言ってい》ることが 《普通のこと》であるかどうかです。《ありきたりな》かどうかは分かりません。問題は それが《意見》であるかどうかです。あれば どんな《意見》なのかです。
 ★ 私はもう質問に対する回答は書いていますので出すものはありません。
 ☆ という判じ物であれば 対話が長引くだけです。

 ★ 心理
 ☆ の話は もう十分でしょう。また 直前のNo.33の返答にも書いています。
 同じく問題は わたしの言葉についての見方あるいは広くコミュニケーション観を誤解しておられることです。
 ★ 私は心理をわざわざ切り捨てる必要などさらさらないと思います。 / それがそこにあるならそれを含めて理解しなければ 〔だめ〕になると思います。
 ☆ まづは 《ことだま》といった古くさい主題まで取り上げていることを理解してください。→《Q:4065008 言霊の思想についてうかがいます。=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4065008.html
 そこでは ことだまには 第一次(初源)と第二次(応用・悪用)とがあると想定します。
 第一次は 現象としての《事》に 霊的な力が宿るという見方に発しているとします。《雷⇒神鳴り / 稲妻 / 稲光 / 稲つるび》といった例。ということは 《ことだま=事霊》が そのまま《ことだま=言霊》として認識された。
 そこから 《事の端⇒言の葉⇒言葉》がさらに生まれます。この《ありきたりな》言葉から 逆にさかのぼって 霊的な力に行きつこうとするとき 別様のことだまが作られていきます。
 すなわち第二次は 第一次の《事霊=言霊》なる現象を 普段使っている言葉によって 再現させたいという欲求から起こるのではないか。すなわち 《のろい・まじない》のたぐいです。雨乞いの祈りも 丑の刻参りのしわざも 初源のことだまを逆推した応用であって 人間の願いもしくは欲望からくるただの《言葉霊》であると捉えたものです。
 この第二次の《言葉霊》には およそ 《心理》の現象が入ります。
 
 わたしは 心理をなくせとは言っていません。もともと 必要のないものだと言うのみです。理論=テオーリア=観想=ことだま(事霊=言霊)観にとって 切り捨ててもよいという見方です。
 ★ 普通は気持ちが先で言葉は後です。
 ☆ そのとおり。ですから 気持ちあるいは 感覚としての
 ★ 花の香り、カレーの匂い、女性の髪の匂い・・・・
 ☆ これらは 事霊=言霊のほうに近く 言葉霊に対応するところの心理の問題ではありません。つまり 《要らぬ》と言う部類には入っておらず 切り捨ててよいものとは 別様のものです。

 * この一つの質問だけに対するあなたの回答を見れば みなさんは なぜ わたしが 挨拶をせずお礼も述べないでいるかといぶかしがられることと思います。
 このような判じ物あるいは はぐらかしの対応が 続いているのです。たぶん その魂胆は 相手が 独り相撲を取るように仕向ける ここにあるでしょう。
 すべての人を納得させることは出来ません。相手が 去るなら もう追いませんという意味です。わたしに構ってくれと言ってのように 追いかけさせようとしているだけです。以前から この応対の繰り返しが続いています。
 ですから 質問に対するご回答であれば 回答本体についてだけは取り上げ これに応答するという心でいます。と言っても この質問での二度目の回答のときには 受け容れたのですが この三度目では やはり 変わっていなかった。

投稿日時 - 2008-06-16 08:38:51

ANo.33

primeapeです。
閑話休題。
「罪」にあえて反対語を設けるとなるとどのような言葉になりますか。
信仰に免疫のある方の意見を聞きたくてご質問です。
私自身は二元論には飽き飽きしていますが。

投稿日時 - 2008-06-16 00:22:49

補足

 ご回答をありがとうございます。

 二分法・二項対立・双対などと言えば 二元論とは 明らかに違います。
 存在(また生命)が善だという想定に立てば その損傷が その損傷の部分で 善の欠如として悪だという認識になります。悪という現象は現実に起きていますので 善と悪とは 対立する二項ということになります。

 勘違い・思い違い・善意(つまり 知らなかったということ)によっても 悪なる現象は起きます。そしてあるいは 善意ではなく考え違いをして存在のあり方を――つまりは 生活態度を―― ゆえもなく変えてみるといったこと / そしてこれが 今までのコミュニケーションにおいて 周りの人びとに対して接してきた態度とは異なっていた というとき このようなときには 何らかの悪が起きています。悪意があったという言い方もします。

 おそらく 人の行為としては ふつうの善として生命尊重および存在の維持にもとづくもののほかには 上のような悪・悪意・悪いおこないがあるのみと言えるのかも知れません。
 つまりは 罪は もともと ないという意味です。
 悪いおこないにしても 少し乱暴な見方をすれば たとえば いぢわるをして 相手の迷いをほんの少し揺さぶるという場合もあります。いいか悪いか にわかに断じられない行為だと思うのですが その相手は この野郎と思っても そのあと ふとしたことで 自分を取り戻すかも知れません。もし あのいぢわるが 気づかせてくれたと気づいたなら いぢわるした人に対しても ああ やさしい人なんだなぁと思うかも知れません。
  そうして その反対もありえます。善意のおこないが まぁ 最低な人だわと受け取られてしまうこともあるでしょう。

 ここまでを整理しますと 社会的行為として起こるのは 善なる行為と そして善が部分的に欠けた悪なる行為の二種です。(もしくは 善の一種で その完成度合いが まちまちだという形です)。
 あとは 人びとそれぞれに この善悪の行為に対する感覚的な受容の仕方がついてくるということ ここにまで還元しうるかも知れません。
善悪の行為は 精神=身体の動きだとわたしは思っております。あとの感覚的な受け留めは 心理なのだという規定です。
 
 ですから もし
 ★ 《罪》の反対語は?
 ☆ と訊かれるなら それは まづ 心理の領域で名づけたものであり 同じくそこで 反対語を探すことになります。《天晴れ・誉れ・名誉》かもしれません。それに対して 人びとは《祝福》を与えるということになるでしょうか。

 試行です。

投稿日時 - 2008-06-16 07:43:58

ANo.32

>( a )( b )( c )( d )

 およそ、そういうことでしょう。

前回の通りなんですが、加害者が深く反省し、罰を受け、その事件については被害者が心情的にも赦し、神さえ赦しを与えたとしても、出所後に再犯したのでは意味がありません。何のための反省だったか、何のための罰だったか、何のための赦しだったのかということですね。罰を介在して加害者と被害者が心情として救われるというのは儀式であり、精神衛生上のケジメにすぎません。それはそれで終わりです。

加害者が赦しを請う前提は「二度としませんから」が当たり前だし、
先日の通り魔など加害者に精神上の問題がなければ極刑となり、同一人物による同様の犯行は二度と起こらない点でこれほど確実なことは無いという面はあるわけです。(死刑容認発言ではありません。)

よく被害者が口にする「こんなことは二度とおきてほしくない」が全てであって、赦すも赦さないもそのために使う手段の一つだと思います。

投稿日時 - 2008-06-15 20:08:55

お礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 分かりました。細かいところでのすり合わせですね。
 bananasandさんは
 ★ よく被害者が口にする「こんなことは二度とおきてほしくない」が全てであって、赦すも赦さないもそのために使う手段の一つだと思います。
 ☆ と結んでおられるので そうではないと(つまり 細かいところでのすり合わせではないと)おっしゃるかも知れませんが どうも そういうように感じられます。

 ★ 加害者が深く反省し、罰を受け、その事件については被害者が心情的にも赦し、神さえ赦しを与えたとしても、出所後に再犯したのでは意味がありません。何のための反省だったか、何のための罰だったか、何のための赦しだったのかということですね。
 ☆ あえて 長く引用させてもらいました。たぶん ほかのお礼欄にも書きましたように bananasandさんのご回答あたりから この質問も 《第二部 実証編――足を地につけて歩もう――》に入っていて 具体的に細かいところを検証していかなければならないのかも分かりません。

 一点 こういう視点も提出したいと思います。
 再犯・再々犯の問題にかんしてです。むつかしいですが 出所したなら 全面的に社会復帰を応援する。心が冷たいままでもよいから 復帰を妨げない。助ける。
 再犯したら ふたたび拘束するわけですが いやと言うほど 話し合いを 迫る。どこまでも話し合いをつづける。一生でもよいから その務めをおこなう者が 話し合いを進めていく。絶対 止めない。
 再出所したら 今度は 《再犯しても それを見越したうえで共存する》と申し出た人びとが 多く住んでいる町に 住まわせるなど。

 こういう施策(ただし 思いつきです)については 禁欲しますとすでに言いましたが そのような施策の志向するところ(視点)から 実現性・現実性を検討していきたいと考えるのですが。

投稿日時 - 2008-06-15 22:26:43

ANo.31

はじめまして。brageloreさんの疑問は、理性と感情の狭間の感覚を、いみじくも現しているように思います。哲学は理性が活躍する分野。感情は無視されるきらいがあります。
理性が働きだすその前提に、あるいはその根底に、感情があるはずです。許せる、許している。また許せない、許すわけにはいかない、といった感情がまず先にあって、その理由を、理性が考え出すのではないでしょうか。理性はこれまで培ってきた知識や体験などを踏まえて判断し結論を導き出そうとするので、さまざまな意見が出てくるのです。
すべての人に、自分にとって不都合な人を許すという能力は、持っていると思います。それは人の好ましいほうの心(優しさとか)です。
どうしても許せない、という気持ちは好ましくないほうの心(仏教的には煩悩)なのです。
好ましい心が、好ましくない心より勝っていれば、人を許せるし、逆ならば許せないのです。
そして、理性が許せない理由を詮索します。この場合、自分の行為を肯定しようという姿勢のあることに気づきませんか。
ちなみに好ましい行為に対しては、あまり言い訳という心は発生しないように思います。
もし自分にとって不都合な相手を、許せるような心を持とうとするならば、良心(思いやりの心とか)を育てなければなりません。
心は使うほどに育ちます。悪いほうの心も。

投稿日時 - 2008-06-15 19:00:06

お礼

 yy8yy8azさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 極論によって 話を進めるというかたちを採るならばです。そうするならば たとえば こういう議論は いかがでしょう。

 煩悩は いとしい。
 煩悩は とうとい。
 無明こそが 人間のいのちである。
 そこから ひかりが現われる。

という説を説いたら どうなりますか? 
 
 煩悩を持っていない者は 罪人である。
 煩悩の多さで 人の貴さが さらに増す。
 煩悩を持たない者に対しては わたしたちは 憐れんであげなければいけない。

 こういう議論です。いかがでしょう。

投稿日時 - 2008-06-15 22:03:21

ANo.30

私は 肉体労働を主として生きてきた人間ですし、アカデミックな哲学の知識は無いに等しいと思ってますが、生死の堺とかの体験がけっこう豊富だったりして、 物事は深く考え、また答えは必要な模索と思えば、たぶん簡単には想像もつかないぐらい苦しんでも見つけようとしてきました。

ですので、頭の悪いところとかもけっこうあるようで、 そのへんでみなさんとの論議がかみ合わないところもあるかと思いますが、私の結論の世界も書いてみます。

まず、brangelon様に質問なのですが、 一番最初のそちらの質問で、

>あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。

というところが、 いきなり何を言ってるのか解らなくなります。


ですが、もしかしたらbragelonさんという方は、頭が良すぎるのかもしれません(笑)(私の知ってる若い人に天才肌の人がいます。彼は正月の箱根駅伝のもう少しで選ばれそうなほど陸上に打ち込んだ人ですが、同時にほとんど勉強しなくても全科目学年トップの人だった人なのですが、 彼は自分は人に者を教えるのが苦手だと言います。 なぜこんな簡単なことが解らないのかが解らないのだそうです(笑)。  しかしスノーボードだけは教えるのがうまいそうです。なぜならば唯一苦手だったので 苦手な人の気持ちが理解できるからだ(笑)との事、  ふとその青年のことを思い出してしまいました。)



>もしこういう言葉を用いるとすれば~   

の>「言葉」<
というのが それ以前のどこの文のどの言葉にかかってるものなのかがよく解らなかったのですが、

>人が 人の過ちを赦すことができますか

というタイトルの部分、

最初からbragelon様は、罪など存在しないという前提が なんとなくであも頭の中で理解できていたのではないですか?

あるいは すべての因果を解っている存在である神様にとっては、赦すも何も罪自体なんて存在しない。 という理解がです。

贖罪の十字架という概念は そういえばキリスト自体がどこかで語った言葉じゃないですよね。 (間違ってたらそのへん教えてください。)

あとから教会が人間の想像力でかってに想像した教義ですよね。

でないとしたら それはおかしいです。 すべての善悪の因果が解って存在にとって罪と罰なんていう考えが何かあるということは考えられません。  ですから赦すということ自体 その必要が無いのです。 7度の70倍赦しなさいとかキリストが言ったのは私達にわかりやすいたとえ話の1つです。   赦すも何もすべてを解ってるのですからそういう理性の存在なのですから 贖罪自体がありえないということです。

それに対して 私達人間の脳の相対的な姿やその想像力の限界性を考えたりすれば 人が 人のあやまちを赦すことが出来ない時があるのも当然ですが、 本質的には罪という存在を認めること自体がおかしく、“ 赦すということ自体が、そのことの理解の無さを意味してるのだし、また上の立場に立った不遜な考えに過ぎない”→>赦す権利も資格もないのでは< という前提のようなものの理解が最初からあっての質問なのではないか    というふうに考えてみたということです。

でも もしそうならば そんなことをさらさらと書いてしまったり 意味を簡単に理解しあえて論議しあえる頭の人達ってすごいなと思います。

結論は 皆さんの論議についてゆけなかったところも多々あるにもかかわらず私の結論と、ここでの論議の結論は同じような感じではないかと感じるのですが、  わたしのこのタイトルへの回答は 結論を書くとこうなります。

あってはならないようなことをしてしまう因果の過程にいる いわゆる罪人と社会的に規定される存在が この人間の道の過程、あるいは歴史の過程に存在しています。 全て相対的ですから、処罰もやむをえない時もあるかと思います。  でも、出来る限りは 同じにいつしか存在していた「自他を見つめる能力」を宿した存在どおしとして、その根源を深く尊敬できるならば、またその因果の想像力への俳優のような謙虚さがあるのならば、それ自体が善の方向性のひとつであり、 私達は、そこに悪のレッテルの貼るのではなくて、むしろそういう人にこそ、すぎたことをトラウマにしないで、できるだけ忘れて前にすすんでいけと、友としてはげますことが出来れば やっぱり一番いいということです。

非難して非難して非難してその人をおいこんで、たちなおることが出来なくしてしまう社会体制はなにも法制度のみのことではなくて、むしろ法制度のほうがそのへんゆとりと常識にあふれてるとわたしにも思えます。

悪人正機説でしたか そのへんはよく解りませんが、 そこまでにいたった苦しみの体験者でもあり、またそういう人達の心も理解できるという意味でも そういう人達が必ずしも生産的能力を持っていないわけでもなくその素質だったら人数から考えてもメチャクチャありえる(クリアーな目からみたらです)のですから、 そういう人達を花開かせることができないというのは社会的にみても惜しいことです。  あくまでその辺は相対的に こまかく考えてゆく課題ではありつづけるところでしょうが、…。  

全体的には 私の場合の、頭のなかでは、赦すも何も罪自体は トラウマになるからできるだけ忘れること、 そして善の未来に、どんな人も それなら権利と義務をもってること、 これが結論のようなものとなってます。

その謙虚な理性の上に この問題には厳しさも必要という考えです。

悲しみや 被害を受けた苦しみのなかでのうらみの感情とかの問題は そちらの質問からは別の問題であるような気がしますが。

そのことでしたら、 まずは、当事者の計り知れない心情を 想像するのみです。  戦争のさなかのぎりぎりの恐怖の中の神経と 似ている時が双方ともにあります。

平和の神経を持ち合わせている人が その間にすこしでも 少しでも善の方向の進むことを祈るのみです。

先に 理性が深ければ 戦争があっても別な神経と思索で なんらかの行動が生まれたりもするでしょう。そういう時も凡人の我々にもありえるとは思います。 ただし、私のとある体験にてはそれはむずかしいことだとしか言えませんね。

そんな感じに私の方からの回答はなってしまいますが、 やはりピントとかが何かずれていますでしょうか?



 

投稿日時 - 2008-06-15 18:25:20

補足

 arayata333さん ご回答を寄せていただきありがとうございます。

 おおむね おっしゃっているところは わたしたちのこれまでの思考の趨勢に即してあると理解しました。
 その推論の過程について 細かく見てみて 照らし合わせつつ いま現在の結論を吟味してまいります。

 その前に こうして さらに新しいご回答を受け取って 思うことは これまでと ここからとが 次のように局面を新たにしたと捉えられるようです。
 第一部 理論編――思いっきり飛躍しよう――
 第二部 実証編――足を地につけて歩もう――

 さて 個別にお応えをつづってまいります。
 (1)★☆ >あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。
 ☆ 《こういう言葉》というのは 《権利や資格》のことです。それらは要らないという考えでいますから。この質疑応答にしても 《権利や資格》で 応答しているわけではないからです。
 (2)★ 罪など存在しないという前提(?)
 ☆ これについては きちんとした議論が必要だと感じます。
 迷惑や加害行為 これは 現象として起きており 実際のことです。おおざっぱに言ってそれらを《罪》と呼んできたことも 事実です。ただし あるのは 被害を受けたというその現象であって しかも これにわたしたちは抵抗し さらに それらが起こらないようにと願うし そのことを実現させたいとも努力する ということだと考えたわけです。そして このことが 《赦す・赦さない》の問題にもつながっているというわけです。
 寛容の気持ちで 聞いて欲しいのですが 《前提》ではないのです。むしろ《本題》にしているというわけです。もしそうだとすれば あとの施策としての更生制度の確立は 必然的に実現していくことでしょう。
 (3)十字架が いけにえとして贖罪となるというのが 想像の産物だというのは わたしも賛成です。そして しかもと言うべきでしょうか それにもかかわらずと言うべきでしょうか
 ★ すべての因果を解っている存在である神様にとっては、赦すも何も罪自体なんて存在しない。 という理解
 ☆ については――この質疑応答の過程で わたしも ちらっと その言葉を出してしまいましたが―― もうそれを 前面に出して議論するのは 控えようという考えでいます。《神》という言葉を 出さずに言論をつくるよう努めたいと思っています。
 (4)★・・・「自他を見つめる能力」を宿した存在どおしとして、その根源を深く尊敬できるならば、またその因果の想像力への俳優のような謙虚さがあるのならば・・・
 ☆ この文学的・倫理的な表明 あるいはまた 学としての思惟とその判断形式 これを わたしは あえて旧いものと見たいと思います。その意味は
 (5)★・・・できるだけ忘れて前にすすんでいけ・・・ / トラウマになるからできるだけ忘れること
 ☆ という見方に反をとなえることです。間違っているという意味で 反を唱えるのではなく 旧いのではないかと思ってですが 要は 被害者も加害者も とことん その事件や背景の事態・事情を 見つめ 見つめ続け 見つめ直して 乗り越えていくという道もあるのではないか こう思ったからです。
 (4)の文学的・倫理的な想像力による相手の心の受け留めや読み解きは その倫理学的な人間論に立つよりは(むろん 悪いのではなくと繰り返しますが) 実際に起こったこと自体の認識と分析をとおして 人を互いに知るという営み これのほうを いまは 頭に思い描いています。いかがでしょう?
 もっとも それというのも わたしが考えるに 人間論や倫理学は その核心に到れば到るほど しんどいですし なかなか 互いの共通感覚としては 成り立って来難いように 思われるのです。高尚であることに間違いはないですが。
 それよりは どろどろになってもよいとさえ覚悟を決めて 正面から トラウマと格闘し分析を入れていくという手法のほうです。向き不向きがあるかも知れません。
 (6) この際 arayata333さんに悪者になっていただき わたしも 重箱の隅をつっつくいぢわる者になります。
 ★ そういう人達(* 加害者)が必ずしも生産的能力を持っていないわけでもなくその素質だったら人数から考えてもメチャクチャありえる(クリアーな目からみたらです)のですから、 そういう人達を花開かせることができないというのは社会的にみても惜しいことです。
 ☆ ではなく――そうではなくです―― 《ただの存在じたい》 これが 貴いとならなければ うそです。人間存在 これだけで 貴い。ただそこにいるだけで 何ものにも替え難い。この大前提がなければ 《赦す》を死語とすることは できないと存じます。いかがでしょう?

投稿日時 - 2008-06-15 21:43:16

お礼

 (だからこそ もし信頼関係がゆるせば 何事でも 自由に 批判し合えるようになるとも 夢見ます)。

 ★ その謙虚な理性の上に この問題には厳しさも必要という考えです。
 ☆ ということなわけですけれど。けっきょくは そういうことなわけですけれど。

 さらに 体験の具体例として そうとう厳しい情況とそこでの身の処し方について触れておられますが これは 割愛しましょう。

 以上 例によって わたしの言いたい放題になりました。
 心配はしていませんが わたしに対してなら 遠慮なさらずに どうぞ 何でも 言ってきてくださいませ。
 つつしんで申し述べました。

投稿日時 - 2008-06-15 21:47:30

ANo.29

許すことと、許さないことはあります。
また、加害者が、被害者の前で、誤ったことありますか?

裁判を見ても、加害者は被害を少なくなることしか考えません。
本当に、誤ってることはありません。
心から、謝ってることは見ても、ある程度??は分かります。
でも、大方、被害がすくなるなることしか考えません。

だから、その姿を見て、許せなくなるのです。

また、大方、加害者は、根底は変わりません。
変わる人は、変わりますが、変わらない人もいます。

炎天の人も、以前、同じ方法でつかまってます。

本当に、加害者が誤るなら、本当に、誤るべきです。
また、加害者は、保身しか考えませんと、思うようになりました。

投稿日時 - 2008-06-15 17:05:08

お礼

 rongo-dogさん ご回答をありがとうございます。

 現実の実態からの またその分析からの ご発言だと受け留めました。

 こういうことを考えました。思い浮かべました。

 その昔 やまとの国では 市長(もしくは国王)の身辺でも 勢力争い 権力闘争が繰り広げられていました。
 次代の首長候補の市辺忍歯(イチノへノオシハ)のミコは 対抗勢力の雄略ワカタケによって 暗殺されました。その野原にともにいたオシハの双子の息子兄弟は 命からがら逃げて 権力を握った雄略ワカタケから隠れて 身を長らえることにしました。
 ところが オシハの筋の飯豊青(イヒトヨノアヲ=女性)は これら兄弟を 播磨の地で探し出したと言います。迎え入れられ ともに 続いて 首長の務めに就いたのですが そのとき 父の敵(かたき)を取らなければいけないという話が出ました。
 雄略ワカタケは もう死んでいました。弟のほう(顕宗ヲケ)でしたかが 強硬派で 位を譲っていた兄(仁賢オホケ)に命じて ワカタケの陵墓を壊せと指示しました。仁賢オホケは 行って その端っこを少し 破壊して 戻ると その旨を 伝えました。弟も これを了承しました。

という話です。
 この質問でのやり取りは 哲学だと思っていますが わたしの空想です。妄想です。夢です。でも そのように 実現したいと思っています。こういうお応えになりますが いかがでしょうか。

投稿日時 - 2008-06-15 20:23:48

ANo.28

被害者が赦したければ赦せばいい。
でも、被害者が赦せば加害者が赦されたことになるとは限らない。

加害者側に赦される権利と赦される資格があるのであって、
被害者には赦す義務があるだけ。介在するのが罰。

赦さなければならないような事柄があるなら、二度とその事柄が
起こってはいけないということ。
心情的に被害者が赦すとか、加害者が反省する態度をみせるなんて儀式にすぎない。

重要なのはその事柄が二度と起こらない仕組みが完成しているかどうかに尽きる。

投稿日時 - 2008-06-15 13:01:53

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 なるほど 結果として これまで追究してきた内容と同じことであるようですね。つまり
 ★ 重要なのはその事柄が二度と起こらない仕組みが完成しているかどうかに尽きる。
 ☆ ということであって これまででは 《加害者の更生・社会復帰》ということでした。その社会的な《仕組みが備わっていなければならない》 でした。
 その筋道としては 微妙にちがっているとも言えるのでしょうか。違っていても 同じ結論に到るというべきでしょうか。

 ★ 加害者側に赦される権利と赦される資格があるのであって、 / 被害者には赦す義務があるだけ。介在するのが罰。
 ☆ (1)まづ 加害者が その不法行為をつぐなうために 拘束され 制裁を受ける制度として 《介在するのが罰》です。
 (2) 《加害者側に赦される権利と赦される資格があるのであって》というところは 《人間として 誰かを〈永遠に加害行為を加え続ける人〉と規定することは ありえない》という内容で受け取ります。
 そのとき 実際には 何年か かかって やっと 社会復帰に到るという場合もあるでしょうし 一生かかっても その状態に みづからを回復させるに到らなかったという場合もあるでしょう。しかし 《更生》は 社会全体としての悲願であると想定する。
 (3) 《被害者には赦す義務があるだけ。》――たぶん そういうことだろうと思います。そして それと同時に いちおう この質問では 《そもそも 人が 人のあやまちを赦すという能力があるのか》という設定での探究でした。 
 細かいですが これにも触れておくとするなら こうなるでしょうか。
 ( a ) 人には ふつうの人として生きることが 備わっている。《これは ふつうではないぞ》というような加害行為をしないで 生きる道がそなわっている。
 ( b ) この道は ふつうではない加害行為を犯したあとでも 変わらない。変わったと見えたら 変化の部分を 元に戻す作業が 社会全体に備わっていると見なしていく。個人も これに沿って 社会的なおこない(特には 加害者の更生のための相互扶助)に参加して 生きる。
 ( c ) この基本原則のもとに共生する。そのもとにであれば 《わたしは赦します》とか《わたしは赦さない》とかと 自由に表現しても かまわない。
 ( d ) 標語としては 《赦さん。赦せん。死刑じゃ!》から 《更生せい。せんと承知せんぞ》へです。

 さらに bananasandさん そしてみなさんからも 補遺など ありましたなら お寄せください。
 更生のための施策ですとか そこまでの事柄からは ここでは 禁欲したいと思いますが。

投稿日時 - 2008-06-15 14:14:54

ANo.27

primeapeです。
>あたかも 互いに支え合ってのように 何らかの意思疎通を しているのではないでしょうか。
 (ひょっとすると 勘違いであるかも分かりません)。

このあたりが部外者ゆえです。

>広い意味で心が《白紙》の人は 《観念の運河を航くやり取りや支え合い》には 関与していないとは思いますが。

ここまで大げさではありません。

(まだ)秘密にしておく必要があるようなんですよ。
私たちが少しだけ聞きかじれてのは、少なくても新興宗教の教祖様に収まる心配だけは無い。と言った程度の信用だけです。

投稿日時 - 2008-06-15 00:31:41

お礼

 分かりました。と同時に いまひとつ 事情がうまく飲み込めずに 模索をしています。
 
 今の現状についても 分かりました。進行中か何かなのですね。

投稿日時 - 2008-06-15 08:47:36

ANo.26

primeapeです。
brageloneさんの今回のご質問に至る思索の過程はしごくごもっともで、神様を持ち出すどころかESPを持ち出した私の意見の負けです。
現在の私は唯識を経ていますので無意識同士が個体の垣根を越えて生命全体で支えあっていることを信奉しています。
ESPの内訳は犯罪者の心の容態を気遣う無意識同士の支えあいの様子を部外者たる主観に教えてあげた行為です。

投稿日時 - 2008-06-14 23:49:32

お礼

 そうですね。あくまで これが 理論であると わたしは 思っているのです。直前のお礼欄にも書いたように 生活態度のことですが やはり 理論なのです。
 あとは わたしの場合 いつものように むしろ無防備のような全くの受け身の姿勢です。

 ただし
 ★ 現在の私は唯識を経ていますので無意識同士が個体の垣根を越えて生命全体で支えあっていることを信奉しています。
 ☆ この事態というのは ある程度 分かったかと思います。関係性としての網の目だという理解です。あるいは 人びとのあいだに いわば観念の運河が 掘られていて もちろん 意識などの水を流し 通し あたかも 互いに支え合ってのように 何らかの意思疎通を しているのではないでしょうか。
 (ひょっとすると 勘違いであるかも分かりません)。

 ★ ESPの内訳は犯罪者の心の容態を気遣う無意識同士の支えあいの様子を部外者たる主観に教えてあげた行為です。
 ☆ これは まだ理解が行き届きません。《部外者》がいるとは 知らなかったです。もっとも 広い意味で心が《白紙》の人は 《観念の運河を航くやり取りや支え合い》には 関与していないとは思いますが。

 まだまだ 流儀(?)の違いを飲み込めません。

投稿日時 - 2008-06-15 00:09:13

ANo.25

こんばんわ、

>まづは この設問の考えが どのように得られたか それを明らかにせよ さすれば 答えてやるぞという意味でしょうか

私は答えではなく答えの出し方を書いたつもりです。
つまり、この質問は人に聞くまでも無い、自分の人生を振り返れば分かることじゃないですか、という意味です。

>この意味が分かりません。

私にはbrageloneさんが事実を見ずに、理論や定義ばかりを追いかけているように思えます。
特に人の心理的な部分をあえて切り捨てているように思えます。

投稿日時 - 2008-06-14 23:29:17

お礼

 shift-2007さん こんばんは。
 
 故意による舌足らずで わたしや みなさんを 試しているということになりますよ。

 判じ物ですな!?

 ★ この質問は人に聞くまでも無い、自分の人生を振り返れば分かることじゃないですか、という意味です
 ☆ (1) 《赦す》という言葉によって 自分の対処の仕方を 形容することが むつかしいという経験現実があります。まして そう規定しようとは 思えなかったという体験です。

 (2) よって 理論です。現実経験の分析から ほんのちょっと高い次元を望むときの 志向性をもった生活態度のことです。それは まさに この質問であり 質疑応答での思惟の跡(成果)です。

 ★ 特に人の心理的な部分をあえて切り捨てているように思えます。
 ☆ これは おそらく 当たっているでしょう。なぜなら 《心理》とは 外から来て 影響を与えようとする意図や欲望や 時に 悪意 です。むしろ まぼろしであり やがては 消えていく現象だと考えます。
 ですから もともと 初めから 《切り捨てて》います。
 と言っても 相手の心が分かるというのは むしろ このまぼろしとしての心理現象をきっかけとすることによってである場合が 多いようです。その意味は 実際に表現された言葉や文章のほうより そのような・言語表現の周りについて来て 飛びまわっているような断片から分かることが多いというわけです。
 分かれば 消えていきますし 切り捨てて いいのです。

 という内実を わたしから 引き出したということは よほど 秘義・奥義の用意がおありなのですね? ご披露ねがうことにしましょう。どうぞ みなさんに向けても 説明してくださるよう お願いいたします。

投稿日時 - 2008-06-14 23:56:49

ANo.24

primeapeです。
犯罪被害者および凶行にまゆを潜める世論の声には「許さない」「憎い」のほかにこんなものもあります。
「とても人間の行いとは思えない」「信じられない」などです。
心理学カテや哲学カテに時折ある質問に「このような悪いニュースばかり聞くと人間不信になってしまいそう。」てのもあります。

コレは自らが悪意の種子をはらんでいる場合その悪意の種子が犯罪者に共振する現象(共感とは言いたくない)です。
犯罪を我が事と受け止め客観性をなくしてしまうのです。
悪意と言う凶悪な想像上の魔物が実在するかのような錯覚の元、犯罪者にも当然人間性(最低でも良心と言えば納得できますか)が備わっていることないがしろにしてしまうのです。
犯罪者の悪意を通り越してその人間性に正しく共感できれば(現状ではコレはESPに近いし、罪の代償がある)許す方向のみを模索できます。
brageloneさんのご意見は「悪」を自らはらみうるかどうかについて私と認識の違いがあるため意見も分かれているのだと思います。
「悪意」「欲望」「罪」この三つが存在不確定のため思索中です。
現状の作業仮説ですが、
「悪意」。想像上のみに存在し悪人とは本来いない。
ただし主観が悪意に汚染されると本人が悪を信じてしまいます。
犯罪者の人間性のみに共感する能力とは「心の断片」の陽性の活用です。唯識的手法によります。

「欲望」。本来の運命とは逸れている望み。(歪み)
欲には人格および自由意志が無い。
野望はこの眷属。
野心は陽性で承認可能。

「罪」。コレが私にとっては今最もうるさくて、そして痛いです。
実は今日になって解明する糸口を見つけました。
これから少しずつ判っていくと思います。

投稿日時 - 2008-06-14 23:06:44

お礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 思索の結果を 待ちたいと思います。

 《悪意の種子が共振》――これに 共感します。

 《悪》は 存在しない。という理論上の言い方を わたしも します。《善の欠如》として起こっている現象であって その悪じたいは 存在していないという見方です。初めには 善のみがあって この善が 意志の偏りや違約などによって 損傷を受ける。そこから 善が 少しづつ 欠如していく。その部分が 悪であるという規定です。

 欲望も 意志のあり方・用い方によって 悪用されうるというふうに。

 《罪》は もう 死語にしようと 企んでいます。

 さらに 探究してまいりましょう。

投稿日時 - 2008-06-14 23:37:58

ANo.23

>《ゲームの理論》が苦手です。

ゲームの理論ではありません。

>《言語ゲーム / 劇》というのが いったい何を言っているのか。

そういう捉え方もあるのだなくらいで理解してください。千差万別の言語観の一種です。多様性の中の一つです。私は気に入っていますが、ここで語ることは、質問から反れますので、自粛します。興味があるようでしたら、後期ウィトゲンシュタイの関係書物や解説書にあたられるといいと思います。

投稿日時 - 2008-06-14 21:06:45

お礼

 ああ そうなんですか。特別の意味を有するものでなければ 気にすることもないようですね。《ゲーム》という言葉です。

 でしたら 一件落着 でしょうか?

 たしかに ヰトゲンシュタインも 苦手のうちの一人です。残念ながら 読み進めませんでした。これは 暗号で書いてあるのではないかと思いました。まぁ 毛嫌いせずに ぼちぼち まいりましょうか。

 もうしばらく置いておいて まとめをしてから閉じます。

 重ねて お礼申し上げます。みなさんともども ありがとうございました。謝謝。

 * 足かけ二日で 落着。スピード記録ではないですか。

投稿日時 - 2008-06-14 22:21:44

ANo.22

>(1)《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。

違います。対社会向けの発言なのです。赦す・赦さないという言葉の表面的な個人性に囚われず、その社会的な役割に着目するのです。「社会的制裁を免除してあげてほしい、免除しないでほしい」と表出していると解釈します。

>(4)個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから ないと見なされている

そのとおりです。だから、被害者又は遺族は、表出する必要があるのです。独り言ではなく、社会的なメッセージとしてです。私刑は関係ありません。個人観からまだ抜けていないのですね。社会性の中で理解してください。それが、《赦す・赦さない》という言語ゲーム/劇の背景と脈絡と思っています。

投稿日時 - 2008-06-14 19:37:52

補足

 qsxdrfvgyhさん こんにちは。6月20日記です。
 《言語ゲーム》についての或る解説を読み それだけに基づくものですが 考えてみました。
 
 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 すべてが言語ゲームであるなら たとえば《神》をめぐって 《神秘》をめぐって言語ゲームが可能であることだろう。
 《新しい生とともに ひとは新たな言語ゲームを学ぶ》。・・・
 (熊野純彦:西洋哲学史 近代から現代へ 2006 p.254)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そのとおりですね。それゆえに 《神》の語を用いずに述べることを目指したのですから。ヰトゲンシュタインも
 ● 哲学は語りうるものを明晰に描写することにより 語りえないものを指示しようとするだろう。(『論理哲学論考』4・115 熊野著よりの孫引き)
 ☆ という如くにです。

 ● 語りえないものが存在することはたしかである。それは示される。それは神秘なのだ。(同上6・44)
 ☆ これについては 《語りえないものは 存在するか否か 分からない。人間には 分かるか分からないかが 分からない》と わたしの場合 言って来ました。《神秘》は 《なぞ》と言いました。《無根拠》という言い方も 言っているようですね。

 arayata333 さんの言説は まさに この理論を言っていることでしょう。
 神秘からいちばん遠いと見える nabayosh さんにしても 《無私》を持ち出して来ました。あたかもこの《語りえないもの》のことを 自分は 言っているのだということを知られてはいけないと言うかのように かれは きわめて厳密に あらゆる論理的な可能性を 議論の前提領域において 言い尽くそうとしています。
 結論が いったい どこへ行きつくのか 見えないというほど これこれのように固定的に考えてはいけない / あれそれの如く決めつけては 思考が そこで 止まってしまう / つまり この《語り得る》経験世界のことがらが ただの思い込みになってしまうと延々と 但し書きを述べ続けているかに思われる。しかも それは 何を隠そう 《〈語りえぬもの〉を指し示そうとして 論陣を張っている》と映ります。
 随想で すみません。《劇》は まだ 分かりません。

投稿日時 - 2008-06-20 14:20:30

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 えぇっと (4)ですね (4)が守られていれば いいのではないですか。
 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>(4)個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから ないと見なされている

そのとおりです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そのあと
 ★ だから、被害者又は遺族は、表出する必要があるのです。独り言ではなく、社会的なメッセージとしてです。私刑は関係ありません。個人観からまだ抜けていないのですね。社会性の中で理解してください。それが、《赦す・赦さない》という言語ゲーム/劇の背景と脈絡と思っています。
 ☆ ということなのですが。なにやら むつかしいですね。ですが もし(4)が大前提になっているのなら 
 ★ 《赦す・赦さない》という言語ゲーム/劇の背景と脈絡・・・
 ☆ というような《言語ゲーム / 劇》といった規定は 何を語るのかと 考えているのですが? 正直に言うと わたしは 《ゲームの理論》が苦手です。《言語ゲーム / 劇》というのが いったい何を言っているのか。
 この点 補足要求しても いいですか? 分かりません。
 
 相当に 絞り込まれて来ていると思うのですが。

投稿日時 - 2008-06-14 20:07:11

ANo.20

 ★「なんてことするんだ。赦されないぞ。誰か助けて。病院で治療してもらいたい。」て思うでしょう。
 ☆ ここで 《赦されないぞ》は どうでもよいということです。言ってもいいし 思ってもいいし 言わなくても思わなくてもいい。それだけのことだと思うんですけど。

そのとおりです。どの場合も各人の信条を尊重すべきです。よって、赦すことがそもそも不可能と限定してはいけないのです。
 
>また わたしの別の質問で 《〈左の頬をも向ける〉とき 抵抗は排除しますか》があります。わたしの考えは 相手に その不法行為のことをきちんと分からせる / そのために 左の頬をも差し出すということです。《刺された》なら そこまでの力はないでしょうが まづは治療のほかには その殺人鬼の人間への復帰を願うことです。社会的な取り決めによる制裁 これも 規則に従って 加えられるのですよ。その違法行為の問題と 個人としての赦す・赦さないの問題とは 別だという認識です。そして後者は 問題として 消えてゆくのではないかという憶測です。

この考えに賛同する人々にとってだけ、有効です。残念ながら、「赦せない」人には強制できません。「赦す権利も資格もない」なんて葬儀会場で言われたら、遺族が睨みますよ。心無い言葉の人だと思って。

>☆☆ ・・・その加害行為をとがめたくなるし 実際 咎めてもいいと思われるとき しかも 〈赦す あるいは 赦さない〉という行ないは 社会的には 意味を持たない性格のものだということにならないか。☆ という見通しです。咎めるのです。違法行為ですし 迷惑ですから。《左の頬を差し出す》そのことによって 咎める形もあるのだと思われます。

虚構世界の言葉に感じます。単なる一被害者の仲間入りです。

>★ 遺族が、「赦せない。」というのも現実的で、肯定すべき使用方法だと思います。
 ☆ と同時に この咎め=非難は さらに広範な和解としての《加害者の更生・復活》の促しへと 方向づけていくという寸法です。《更生しなきゃ 承知しないぞ》ぐらい 言ってもいいのではないですか。

言ってもいいです。また、「赦せない」もまだ有効です。人間は均一思想集団ではありません。地域性、時代性のような背景、脈絡の下、さらに千差万別で、多様で、みんな違っていることが前提です。その中で何度も何度も確認して、硬化してきた基盤があります。質問者様の考えも硬化して万人の前提になれば、このように力説する必要すらありません。力説していることが、現時点では無理筋の証明です。寛容って、現実には困難ですね。均一思想はファシズムに通じます。こっちの方が怖いです。

投稿日時 - 2008-06-14 11:04:46

お礼

 qsxdrfvgyhさん もう 今や わたしたちは 同じ地点に立っているように思われます。もう そう言っていいのではないでしょうか。

 引っかかりは 二点くらいでしょうか。
 《思想の強制は いかん》と《過渡期の捉え方如何》です。

 たとえば《死刑の是非》論が いま現在 継続中です。過渡期だと思うのです。
 けれども すべては 民主主義の適切な話し合いの過程をとおって 決められていきます。これで もう お応えになったと思うのですが どうでしょう?
 ★ 質問者様の考えも硬化して万人の前提になれば、このように力説する必要すらありません。力説していることが、現時点では無理筋の証明です。寛容って、現実には困難ですね。均一思想はファシズムに通じます。こっちの方が怖いです。
 ☆ このとおりです。おっしゃるとおりです。文句はありません。

 * 《自己が 自己のあやまちを赦す》というとき おそらく 一般には その事の大小 軽重によって 《赦し得るから 赦した》というところでしょうが その大小・軽重は どこで線引きするのかになります。
 もし重・大のほうは 社会的な取り決め(法律)によって 処理するというのであれば これも やはり 個人の内面においては――感情や気持ちは別として(なぜなら 現代社会では それらだけに基づいて 行動しようとは 人は基本的には 考えなくなっている)―― 赦す・赦さないの理論は もう構築しなくても よいようになっている。のではないでしょうか?

 * 今回 みなさんによって 鍛え上げられたとも言えますし むしろ この質疑応答の場じたいが このような問題をめぐって 探究を開始していたのではないか こう思えてきます。もう少し 時間をおきます。 

 * qsxdrfvgyhさん こうしてやり取りしてきて ソクラテスではありませんが 対話は 大切ですね。また 大きな収穫をもたらしてくれるではありませんか。

投稿日時 - 2008-06-14 11:33:08

ANo.19

許すとかするとか許さないというのは本来頭の中の話ですから、個人の問題です。しかし複数の個人が集まっている場で許すとか許さないという話をすると結局力関係で決められることになります。つまり個人のことなのか、複数の個人が作っている社会の問題なのかで答えは全く異なるように思えるのですが・・・

投稿日時 - 2008-06-14 09:10:49

お礼

 kaitara1さん ご回答をありがとうございます。

 ★ つまり個人のことなのか、複数の個人が作っている社会の問題なのかで答えは全く異なるように思えるのですが・・・
 ☆ おっしゃるとおりで ここは 《個人にとって 外側における領域》の問題です。個人の内面が どのようにコミュニケーションの場で表現されるかの《社会の問題》です。
 ちょうど まったくちょうど 直前のご回答へのお礼・補足として書いた文章が ぴったり kaitara1さんのご回答に対しても お応えになると思いますので 掲げます。

 ☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 では それを 外に表現するとは どういうことか。
 次のような内容となって現われるのではないか。

 たとえ極悪人でも 生きること・生き改めること・更生することを 願うこと これではないかと。
 ・また わたしたちが その加害者の更生することを見守っていくこと
 ・その更生が叶わないなどということを むしろ ゆるさない(許可しない)ということ
 ・その加害者の――状態にもよるでしょうが――社会復帰を見守ること
 ・否 社会復帰を完全に為し得るように 心冷たくでもよいから 加害者本人を 受け容れること
 ・ついでに言うなら 一般に人は互いに 互いの差異を認め合うということ
 ・そこから 異者の受容ということ・・・
 ・・・これらのことを 人びと一般が 心がけること。 
 ・そして行政は その実現に向けて 制度からも援助するということ・・・
 このようなことを 考えるに到りました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 いかがでしょうか。つまり そのとき 《罪》という言葉も同じくそうなのですが 《赦す》という言葉も 要らなくなっていると考えるのです。どうでしょう?

投稿日時 - 2008-06-14 09:21:02

ANo.18

こんにちは。

まず、「人の過ち・罪を赦す」ことと「人を赦す」ことを分けて考える必要があると思います。

おっしゃるように「人が人(自他共に)の罪、あるいは過ちを、赦すことは、不可能」です。わたしたちは皆不完全で、能力も権限もないですから。(ですから、完全となられ、何の罪も犯されなかった、そして創世の前から、父なる神様にその任務を託された、(実はわたしたちも前世でその場にいて賛同したのですが)イエス・キリストがわたしたちに代わって全人類の罪を購ってくださり、わたしたちは「悔い改め」を条件に[この罪というのは、法律には触れないような道徳的・心の罪も含まれます]を赦されるわけですから。)「悔い改め」には、罪を償うことや、その罪を捨てること、もうしないこと、も含まれます。

わたしたちにできるのは、そして求められているのは、「人(自他共に)を赦すこと」です。人を赦さないと自分も赦していただけないともありますし。七を七十倍するまで、つまり何度でも、人を赦すようにと聖書にもあます。「罪を憎んで人を憎まず」と言う言葉もありますよね。
残酷な犯罪に巻き込まれたような場合のように、非常に難しく、時間のかかることも多いでしょうが。人を憎んでいると、心に平安がないし、幸せになれませんよね。

ご理解のお役に立てば幸いです。

投稿日時 - 2008-06-14 03:26:56

補足

 keepfaithさん ご回答をありがとうございます。

 keepfaithさんのご所説と同じことを 世俗の事柄あるいは日常生活の問題あるいは人と人とのコミュニケーションの場では どう表現することになるか このような問いになっています。
 ということで どんどん進みますが まづは 但し書きをしなければいけないでしょうね。
 いくら世俗の事柄だと言ったって そこでこそ つねに 内面主観は やはり生きているのであって そのときにこそ なぞの秘跡は 輝くのだということ。ですよね? そして しかも――しかも です――この内面の思いは 人に対して社会に向かって 表現されます。表現されてこそ 輝きが輝きとなります。

 《罪を憎む》とは どういうことか。《人を憎まず。人を 四九〇回赦す。人を愛する》とは 何のことなのか。ここから出発したあとの問題になります。そして そのあとは いささか乱暴に扱っているかとも思います。大胆です。

 こういうふうに考えたのです。《人(他者)》ではなく 自己について考えてみました。《自己が 自己を赦す》とは 何か。結局のところ わけもなく 赦すことになるのではないか。《悔い改めとは 自分の中で おこなうことである》と同じように《赦す》も そうだ。では それを 外に表現するとは どういうことか。
 次のような内容となって現われるのではないか。

 たとえ極悪人でも 生きること・生き改めること・更生することを 願うこと これではないかと。
 ・また わたしたちが その加害者の更生することを見守っていくこと
 ・その更生が叶わないなどということを むしろ ゆるさない(許可しない)ということ
 ・その加害者の――状態にもよるでしょうが――社会復帰を見守ること
 ・否 社会復帰を完全に為し得るように 心冷たくでもよいから 加害者本人を 受け容れること
 ・ついでに言うなら 一般に人は互いに 互いの差異を認め合うということ
 ・そこから 異者の受容ということ・・・
 ・・・これらのことを 人びと一般が 心がけること。 
 ・そして行政は その実現に向けて 制度からも援助するということ・・・
 このようなことを 考えるに到りました。
 
 理論として言えば こうです。
 《われわれは 欠陥を憎み人を愛するのであって 欠陥ゆえに人を憎むべきではなく 人ゆえに欠陥を愛すべきでもない》。
 おっしゃるように《罪を憎んで人を憎まず》です。ただ《罪》あるいは《憎む》が《赦す・赦さず》にかかわるとしたなら それ などの語を 用いたくないのです。それら自体は 内面にとどめるべき思惟です。
 そこで 主観と主観との関係において どう表現するか。現実の加害行為とその思想 これの欠陥は どこまでも・どこまでも 徹底的に憎み 言論において批判すること。と同時に その人・その人間存在それ自体は すべからく受け容れざるべからずという結論です。社会的な承認・認容・受け容れの確かな基礎がなくては 何にもならないのではないか。・・・いかがでしょうか。

 ★ 人を憎んでいると、心に平安がないし、幸せになれませんよね。
 ☆ あえて言いたい。これでは なまぬるいと思います。あるいは 内向きであり 内向きに過ぎると考えます。
 というのが この質問の趣旨と志向性です。いかがでしょうか。
 (初対面なのに 同志のごとく 気軽に気安くしゃべっています。あしからず ご了承くだされば幸いです)。

投稿日時 - 2008-06-14 09:10:23

ANo.17

>人が 人のあやまちを赦すことができますか

それは、事の大きさによると思います。

我が娘が非道な殺され方をした、犯罪者を100が100人赦さないと思います、人間はまだその域に達してないと思います、赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないと思います。

ただ宗教的な経験をした人は少し違うでしょうが。

ですからその問題は神に任せる問題だと思います。

投稿日時 - 2008-06-14 01:05:37

お礼

 ri-zyuさん ri-zyuさんは 人の話を何にも聞いていないのですね。
 
 これだけ 回答者とのやり取りをしてきているのですから 質問の趣旨をゆがめるというのは よほどのことでなければ できません。

 たしかに
 ★ つまり その能力を持ち合わせていないと思います。 / ただ宗教的な経験をした人は少し違うでしょうが。
 ☆ とおしえてくださるのなら 質問に対して 《いや そうではない。赦す能力は 人間にあって 開発することができるのだよ》と言おうとしていることが分かります。
 分かりますが では これまで 延べ十六回やり取りしてきた質疑応答の努力は いったい何だったんでしょう?

 それでも せっかくのご回答ですから ri-zyuさんの論理に沿って こういうふうに問い返してみましょう。
 ☆(1) 或る娘が非道な殺され方で殺された この《犯罪者を100が100人赦さないと思います》というとき 《ただ宗教的な経験をした人は少し違うでしょうが。》のその人は 《百人》の中に まだ現在では 入っていないということでしょうか?

 ☆(2)《ですからその問題は神に任せる問題だと思います。》というとき そうすると 何のよいことがあるのですか?

投稿日時 - 2008-06-14 01:41:52

ANo.16

もっとはっきり設定しましょう。質問者様が刺されたのです。見知らぬ殺人鬼です。その時、「赦しますなんて死語だし、赦さないも死後だし、そもそも自分を赦すのと同様に、殺人鬼も赦すべきだし、でも、赦すって死語っだたなあ。いや、まだ、死語とは言い難い。有効だ。いや、しかし、赦すとか赦さないの次元に人はいないのだ。範疇が違い、なじまない考えだ。加害者の更正を応援しよう。ああもう、だめだ。さようなら。」というような非現実的な想定です。そんな台本はありえません。

普通の人は、「なんてことするんだ。赦されないぞ。誰か助けて。病院で治療してもらいたい。」て思うでしょう。遺族が、「赦せない。」というのも現実的で、肯定すべき使用方法だと思います。

投稿日時 - 2008-06-14 00:26:45

お礼

 qsxdrfvgyhさん たしかに 検証すべきですし おっしゃるような問題としての審査をとおらなきゃいけないだろうしすると思うのですが まづは 基本的な理論になります。
 
 設定にもとづけば。
 ★ 、「なんてことするんだ。赦されないぞ。誰か助けて。病院で治療してもらいたい。」て思うでしょう。
 ☆ ここで 《赦されないぞ》は どうでもよいということです。言ってもいいし 思ってもいいし 言わなくても思わなくてもいい。それだけのことだと思うんですけど。
 
 また わたしの別の質問で 《〈左の頬をも向ける〉とき 抵抗は排除しますか》があります。わたしの考えは 相手に その不法行為のことをきちんと分からせる / そのために 左の頬をも差し出すということです。
 《刺された》なら そこまでの力はないでしょうが まづは治療のほかには その殺人鬼の人間への復帰を願うことです。社会的な取り決めによる制裁 これも 規則に従って 加えられるのですよ。その違法行為の問題と 個人としての赦す・赦さないの問題とは 別だという認識です。そして後者は 問題として 消えてゆくのではないかという憶測です。
 ☆☆ ・・・その加害行為をとがめたくなるし 実際 咎めてもいいと思われるとき しかも 〈赦す あるいは 赦さない〉という行ないは 社会的には 意味を持たない性格のものだということにならないか。
 ☆ という見通しです。咎めるのです。違法行為ですし 迷惑ですから。《左の頬を差し出す》そのことによって 咎める形もあるのだと思われます。
 ★ 遺族が、「赦せない。」というのも現実的で、肯定すべき使用方法だと思います。
 ☆ と同時に この咎め=非難は さらに広範な和解としての《加害者の更生・復活》の促しへと 方向づけていくという寸法です。《更生しなきゃ 承知しないぞ》ぐらい 言ってもいいのではないですか。

投稿日時 - 2008-06-14 00:56:34

ANo.15

こんばんは、

相変わらず頭の中でばかり考えるのですね。

>赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。

brageloneさんの今までの人生を振り返ってそうだったんですか。

自分自身に問うてみた結果がそれなのですか。

投稿日時 - 2008-06-13 23:32:27

お礼

 そうですね。
 ご回答の中身を測りかねています。
 
 ★ 相変わらず頭の中でばかり考えるのですね。
 ☆ この意味が分かりません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。

brageloneさんの今までの人生を振り返ってそうだったんですか。

自分自身に問うてみた結果がそれなのですか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まづは この設問の考えが どのように得られたか それを明らかにせよ さすれば 答えてやるぞという意味でしょうか。
 

投稿日時 - 2008-06-14 01:00:57

ANo.14

もう一言(おそらく八言くらい)。

「赦す赦さないには権利や資格など要らない」
>そうですが これは いわゆる私刑 リンチですね そのような振る舞いに及ぶときの考え方ではないですか。

うーん。それは一面しか見えていない。
私刑の対概念があると思うんですよ。仮に「私赦」という造語を作っておきましょうか。
「私赦」という振る舞いに及ぶときの考え方としてもいいんじゃないでしょうか。

まあ持ち出しやすいところから例を出すなら、イエスですよ。
「あなたの罪はゆるされた」なんて自分勝手に言っちゃう。
これに対して律法学者は「あなたは神でもないのに(つまり、資格もないのに)人をゆるすのか」とやるわけです。
この構図ですわな。
イエスの場合は自分は神から遣わされたのだということで資格を主張し、じゃあしるしを見せてみろと資格証明を人々が求めるという流れになっていますが、まあそんなことは今はどうでもよろしい。

「私刑」が問題視されると同様に「私赦」も問題視されるものなのか。
「おいおいダメだろ勝手に赦しちゃよお」ってなことを考える人がいるからなんでしょうが、そういう人って「他人が勝手に赦すことを赦さない人」なんですわ。
いやこの権利や資格というやつのうさんくささ。
権利とか資格って空虚な概念ではないかね?

投稿日時 - 2008-06-13 21:36:55

お礼

 nabayoshさん ご回答をありがとうございます。
 なかなか おもしろいです。非常におもしろいです。

 ★ 私刑 および 私赦
 ☆ けっきょく こうじゃないですか? つまり 表現の問題に帰着するのだと。
 私刑は 現実に物理的に ひどい結果をもたらしますが その表現は 無効です。いくら 有力であっても 理論的には効力無しです。
 私赦は どうか。個人の内面において――良心・信教の自由と呼ばれる自由があてはまる心の内面において―― 有効であると信じられる表現行為です。
 ★ 「あなたの罪はゆるされた」なんて自分勝手に言っちゃう。
 ☆ しかも この内面のことを 人に向かって 表現するのも自由だということになっています。
 かくなる上は もはや 赦す・赦さないという概念は 内面と内面との呼応関係としてか あるいは結局同じことで 大きく虚構を前提にした上で 表現にも出して 互いに対話をし合うという場合にのみ 有効となるのではないですか。
 一人の個人の内面で 《私赦》するのが 無効だということでなくとも そのとき 有効性は 隠れている。つねに隠れている。そして それでいいし そういうあり方が 本来の表現だとも考えられます。
 と言っても われわれ人間は この本来の隠れた赦す・赦さないの表現行為において 実際には 葛藤を繰り広げているというのが 関の山であるかも知れません。
 とすると イエスの場合のように その私赦の外的表現によって 相手が 即座に その表現内容が実現するのなら いいけれど そうでない場合には 社会的な有効性という次元(もしくは形態)で たとえば やはり加害者の更生と社会復帰 これを 目指していくというのが 赦す・赦さない問題の彼岸であり悲願であったものだと思われます。此岸に引っ張ってくれば 寄ってくるでしょうか。
 ★ いやこの権利や資格というやつのうさんくささ。 / 権利とか資格って空虚な概念ではないかね?
 ☆ この罪とか道徳とか 戒律とか 七つの大罪だとか そして 《権利だの資格だの》あるいは《権威》だのと言っているあいだは 遠いかも知れません。 

投稿日時 - 2008-06-13 22:54:47

ANo.13

赦すということは、今のままでいいですよということでそこからどう
変わっていくかも自由ですということだと思います。

赦さないというのは、赦すためには条件が必要だということ。
自分の気に入ったようにならなければ赦さない。
赦すことができないというのは、気に入らないことがあればそれを支配
して自分の思い通りに出来るというと思い込んでいるからだと思います。
支配欲が強ければ強いほど赦せなくなり、厄介なものを抱えるように
なるでしょう。

投稿日時 - 2008-06-13 21:26:34

お礼

 hamakkotarouさん ご回答をありがとうございます。

 ここまで来たところで 《自分は 自分の至らなさをゆるす》という事例が かなり 効くと思うようになっています。
 ★ 赦すということは、今のままでいいですよということでそこからどう / 変わっていくかも自由ですということだと思います。
 ☆ この内容は 上の事例に当てはまっていると思います。
 ★ 赦さないというのは、赦すためには条件が必要だということ。 / 自分の気に入ったようにならなければ赦さない。
 ☆ これは そうなのですが――つまり《赦さない》ということを表明することができますし その決意をつらぬくことも 自由に できますから そうなのですが―― 自分も 大小の差はあるでしょうが あやまちを犯すというとき もし自分が自分のあやまちを赦していたとすれば ここに提出する《条件》は あって無きがごとしになります。
 相手も そのことを見透かすかのように のらりくらりと応対して この条件をずらそうとするかも知れませんし やがて条件のことさえ忘れるのを待っているかも知れません。

 そのとき むしろ この条件は 加害者である相手が 更生すること そして事情がゆるせば さらに社会復帰を果たすこと これのほうが 最も良い内容であるのではないでしょうか。

 つまり 赦す・赦さないの問題は そういう条件へと道をゆづることになるように思うのです。後者(条件のほう)が 社会的な有効性を発揮することになるでしょうし 前者(赦す・赦さない)は 個人の主観内面において――たしかに その心が重要なのですが―― 和解の方向へと持っていくときの心の整理になるかと考えられます。
 心が重要だという意味は けっきょく 社会的な有効性としての 加害者の復活 これが いちばんの薬になるのではないでしょうか。 

投稿日時 - 2008-06-13 22:29:48

ANo.12

No.6です。話が全然かみ合わない印象です。

>なぜ《赦す能力も権利も資格もない》と考えるか
 あやまちを赦すというのは あやまたない者がおこなうのではないでしょうか。(たぶん これが 一番の根拠です)。

普通の人間(全人類かも)には、赦しは不可能で、超越者のみ可と解釈できますね。(1)

>あやまち合う者どうしとしては 仮りに 何らかのあやまちが起きたとき 起こした者もその被害を受けた者も 同時に同等に赦し合うというのであれば 《人にも赦す力がある》と考えられます。
 つまり あやまちを起こした者が ごめんなさいと詫びたとき それと同時に 同等の内容(心づもり)で 被害者も同じく 《分かりました こちらこそ ごめんなさい》と詫びたという場合です。

殺し殺される想定では、ないようですね。殺し合いでない場合には、赦し合うことは可能と言っていますが、被害者死亡ですから、ずれてます。遺族は被害者本人ではありません。(2)

>このような場合が つねに おこなわれるとは限りません。だとすれば むしろ もともと 人には 人のあやまちを赦すという能力がないと考えたほうが 分かりやすいのではないでしょうか?

ここで急に、場合分けせずに、全般的に赦しは不可能に戻っています。不当に拡大(飛躍)しています。(3)

>お尋ねの件は こうです。すなわち 赦すという言葉を口に出しても 一向に構わないのですが 《思考の上で・哲学の理論として そもそも 人は 人を赦すというおこないに直面する必要はない》という考え方を 提出しています。方向が 微妙に違うと分かっていただけると思うのですが。

赦すと言ってもいいけれども、赦すという行いに直面する必要がないという部分が意味不明です。微妙な違いが分かりません。結局、先ほど(3)のように不当に飛躍したように、「全般的に赦しは不可能」と言いたいのですか。言うことも、直面することも不必要ならば、脈絡は一貫しますが。(4)
 
>★ 殺人鬼の通り魔
 ☆ この事例じたいについては いまのところ 《話し合い》を わたしとしては 用意しています。しかも 大きくは 加害者とも《話し合い / 和解》の方向へ行くというものです。
 法治社会としての社会的制裁については 《別の親族》の発言どおりに 《それ相応に実行される》ことを予定しますし そのように執り行われるものと考えます。

(2)でも書きましたが、被害者は死亡しています。和解なんかありません。遺族は被害者本人ではありません。

>まとめとして。
 赦すとか 赦せないとか 口に出して言っても なんら問題ありません。 問題は その赦すあるいは赦さないという行為が 言うならば まったく個人の内面主観の中でのみ 持たれるに過ぎないということが 現実になるのではないか これです。

「赦す能力も権利も資格もない」のに、赦すとか赦せないとかと言ってもいいけれども、その赦すあるいは赦さないという行為が現実になるのが問題だというのが、(4)と同様に意味不明です。

No.6の例示に隠された意図は、「赦す能力も権利も資格もない」のであれば、(1)のように全人類が赦すと言えないはずだと結論付けられ、さらに、(1)のように超越者のみ可ならば、「赦さないという能力も権利も資格も同様に全人類にない」と類推されるということです。

そして、赦すとか赦せないとかと言うべきでないとなれば、普通の日常言語感覚で、被害者遺族が「赦せない」と発言するのを当然と受け止める一般感覚を否定することになることを浮き上がらせたかったのです。つまり、「赦す能力も権利も資格もない」というのは、一般的な感覚とずれた発言だということを言いたいのです。

投稿日時 - 2008-06-13 20:52:47

補足

 qsxdrfvgyhさん 表現し得ていないきらいがあります。それこそ おゆるしあれ。ご回答をありがとうございます。

 この設問は きょう思い浮かんだ考えを載せたもので まだ 湯気が立っています。饅頭は まだ固まっていません。饅頭のかたちを現わしたところで お尋ねしています。

 加害が殺人にまで達しているという場合もさることながら まったく
 ★ 一般的な感覚とずれた発言だということ
 ☆ です。もちろん この飛躍から出発しているのです。
 
 少しづつ分かってきているのですが たとえば
 ★ 普通の人間(全人類かも)には、赦しは不可能で、超越者のみ可と解釈できますね。(1)
 ☆ に関しては こう説明することを得ました。つまり 
 《 人は 自分については けっきょく 赦します。存在を そもそも 大前提とするのならば 自分が自分を赦すというのは あまり意味を為さないかも知れない。すべて そこに落ち着くとすればです。
 《 だとすれば 他者も まったく同じであろうと思われる。その人の内面において 同じことであるだろうし また こちらから その人に相い対するときにも その加害行為をとがめたくなるし 実際 咎めてもいいと思われるとき しかも 〈赦す あるいは 赦さない〉という行ないは 社会的には 意味を持たない性格のものだということにならないか。自分が自分を赦すという場合と けっきょく 同じような事例だからだ》。

 ★ 赦すと言ってもいいけれども、赦すという行いに直面する必要がないという部分が意味不明です。
 ★ 「全般的に赦しは不可能」と言いたいのですか。
 ☆ それは 違います。言おうとしていることは 赦しには 人は なじまない。範疇がちがうという意味です。

 ★ 「赦す能力も権利も資格もない」のに、赦すとか赦せないとかと言ってもいいけれども、その赦すあるいは赦さないという行為が現実になるのが問題だというのが、(4)と同様に意味不明です。
 ☆ 感情・感覚あるいは発言 それらは すべて 自然であり 自由です。《赦す》は やがて 死語になるという意味です。自然史に任せます。

 さて 存在が抹殺されるという場合です。
 ★ 殺し殺される想定では、ないようですね。殺し合いでない場合には、赦し合うことは可能と言っていますが、被害者死亡ですから、ずれてます。遺族は被害者本人ではありません。(2)
 ☆ 結論からいけば 被害者の生死に関係なく 被害者も生きる 加害者も生かす というのが 原則です。
 惜しくも死亡に至った場合 それでも その被害を社会的に見て最小限にとどめる その生命および社会的生命を最大限に生かす このためには 加害者も生きるということを 大前提にしなければ 社会とその歴史にとって 意味を成さないのではないだろうか。加害者の生命の尊重が 必要不可欠だと考えるようになりました。
 加害者の更生 そして 事情がゆるせば 社会復帰 しかも 被害者もその遺族も一般の人びとも この更生および社会復帰を 心が冷たくでもいいから 応援する・妨害しないということ。
 そうでない場合には 人の生命を 究極的に 区別し 人間が 善と悪 優と劣に捌く(かつ裁く)ことになってしまう。さばいてよいのなら 被害者は 裁かれて当然の劣等な人によって 生命を奪われたのだから それは ありうることで 納得せねばならないということになってしまわないだろうか。・・・

 これをさらに 一般化して 《人は互いの差異を 互いに認め合っていくということ》。《異者の受容》 これが 第一の課題であると結論づけるようになりました。

 ご批判をたまわりとう存じます。

投稿日時 - 2008-06-13 22:07:15

ANo.11

昔の人が言ったではないか。

「七回の七十倍 『絶望』しなさい」

投稿日時 - 2008-06-13 20:26:13

お礼

 taco8chさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 「七回の七十倍 『絶望』しなさい」
 ☆ そのあと 《赦す》能力など 人には ないと自覚するという意味ですか?
 えぇっと それは たぶん 違うと思います。質問者が 自分の意見を言えばですけれど。

 つまり すべて 終わりから始めるからです。少しづつ 彼岸に近づくという経験論法によっては 理性は 満足しないですし 実際 信仰にあっては 違うはづです。もし 赦す能力があるとするなら 一切を初めから赦していると思います。そこから 出発すると考えます。(と考えるようになっています)。

 ですから 中途半端に《赦す》を持ってきても だめなのであって いっそのこと 概念として《赦す》は もともと 人には与えられていないという命題を得るようになったのです。
 いかがでしょうか?

投稿日時 - 2008-06-13 21:16:06

ANo.10

こんばんは、brageloneさん。

『人が 人のあやまちを赦すことができますか』

タイトル眺めてみてるんだけれど、「人」っあるけれども

「どんな人」とかは特段限定してはいませんよね?

漠然と「人」と書いてあるだけですよね?

「赦す権利も資格も ない」+「人」…つらつらつら考えてみる…

赦すってのを許すに置き換えてみると

「許可する」+「人」、指導的立場の人で権利も資格もない。

パート?

正社員と同等、若しくはそれ以上の働きをしていても権限がない

ないにもかかわらず、自身で判断を下さざるを得ない場面に遭遇する

統括責任者の不在

【QNo.3647182 水子思想と無明と覚り】 ANo.6
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3647182.html
『誰も知らない』
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/Taro10-503.pdf


【わかち書き】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E3%81%8B%E3%81%A1%E6%9B%B8%E3%81%8D

投稿日時 - 2008-06-13 19:16:23

お礼

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ここまでのお礼欄で補足していますので そこを読んでいただければよいと思うのですが。
 たしかに わかりにくいようです。わたしも いったい どこへ向かっているのか どこへ行こうとしているのか 分からなくなってきました。
 ともあれ この質問を抱いた時点での問題意識を どこまでも追究してまいります。

 ★ 『誰も知らない』
 ☆ 子どもが 親から捨てられる。でも育っていく。
 ううん。いま なんとも この質問に沿って 応対できませんが 赦すという行為 わたしたちは 手放すことになるのではないか こう思ってのことです。

 分かち書きについてまで ご配慮いただきました。ありがとうございます。読点のない文章は 読みづらいでしょうか?

投稿日時 - 2008-06-13 19:45:08

ANo.9

俺の解釈不足ならスイマセン。つまり、不完全な人が不完全な人を裁く(赦すとは意味が違いますが、大袈裟に表現すると)事は己も罪人の為、無理があるのではないか?と解釈しました。哲学的な回答ではないのですが俺個人としては答えは出ないと思いますが無理矢理答えを出すとするなら、質問者様の結論だと変な話、神様?でなければ人の罪を問う事が出来ません。今の世の中、不完全な人が作ったルールの中での罪なので不完全な人が人の罪を問う事も可能ではないでしょうか?そうしなければ世の中成り立ってませんしね。

投稿日時 - 2008-06-13 18:37:08

お礼

 ten777さん ご回答をありがとうございます。

 そういうことだと考えます。《あやまたない者のみが 赦す あるいは 赦さない という行ないを為すことができる》というのは おっしゃるように 《裁く》という場合と 同じようだと まづ思います。
 けっきょく 赦すにしろ 裁くにしろ 三段階があると思います。
 人と人(倫理) 人と社会(国法) そして 人と絶対者(真理)です。
 ちがいは 《裁く》場合は 国法としては はっきりとした取り決めがあって そのとおりに行なわれることではないでしょうか。そこでは あまり《赦す》は 法律としては かかわらないようです。

 では 赦すは 個人どうしの間で 大いに関係してくるかと言いますと その気持ちとしては そうですし 思想としても哲学としても 一見 そのとおりに思えます。ただ 気持ちは なんとも 言えないのですが 哲学としては そのかかわりというのは むしろ きちんと思考しておくなら もう かかわりがないという結論に到達するという意味で そうなのではないか こう考えました。

 たとえば 自分は けっきょく 自分を赦します。誰もが そうです。だとすれば 人に対しては どうか。自分と同じ存在であるのではないか。つまり 人が人を赦すという考えそのものが あまり 社会的な効果のある概念としては 成り立っていないのではないか。こう思うようになったのです。いかがでしょう?

投稿日時 - 2008-06-13 19:34:23

ANo.8

一言居士が一言二言三言だけ吐いて去ります。

「赦す権利も資格もない」なら、「赦さない権利も資格もない」のですよ。
赦すことができないのと同じくらい、赦さないでいることというのもできないのではなくて?

まあ、逆に赦す赦さないには権利や資格など要らないって話もありますが・・・

投稿日時 - 2008-06-13 18:00:26

お礼

 nabayoshさん ご回答をありがとうございます。

 いや そうですよ。おっしゃるとおりですよ。人は 人つまり けっきょく自己も含まれますよね その人やそのあやまちについて 赦すという概念が 不要になるという意味です。あたかも《罪》という言葉が不要になるのと同じようにです。

 ★ まあ、逆に赦す赦さないには権利や資格など要らないって話もありますが・・・
 ☆ そうですが これは いわゆる私刑 リンチですね そのような振る舞いに及ぶときの考え方ではないですか。

 自分を赦すというのが あまり意味がないのと同じように または 自分は けっきょくつねに自分を赦しているように 人に対しても 振る舞うようになる。つまりは 赦す・赦さないという概念をもって その概念を転がしつつ 相い対するというのは もう旧い考え方になるのではないか こう飛躍してきています。
 交通規則は 取り決め合っておいて それに沿って 事後処理はおこなわれるわけですが。

投稿日時 - 2008-06-13 19:21:59

ANo.7

>赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。

人には他人の罪を赦す能力(判断力というべきかな)があります
ただし状況次第で赦せる時と赦せない時がある
尚且つ、その判断がいつも正しいとは言えない

これが一番簡単で判り易い考えだと思います


>赦す権利も資格も ないのではない

これも状況次第
「赦す権利や資格」とは、人が生まれた瞬間に発生するのではなく、何らかのトラブルがおきた際に発生する物だからです
つまりトラブルの部外者は、そんな権利や資格は持ってないけど、当事者(被害者)は持っている
まあこれも状況によっては引っくり返るかもしれません
もし、元々そのような権利や資格がないのであれば、「赦す」という言葉自体意味を成さないので存在しなかったはずです



個人的にはご質問者様がなんでそのような考えに至ったのだろうと気になりますが・・・



あと哲学を考えるのであれば、基本はケースバイケース
「答えはこれだ」と一つに絞ろうとせず、状況によって判断せざるを得ないと思って柔軟になって下さい
理論と現実は異なります
いや、流石にこの辺りはご理解されてますよね
失礼しました



PS.ご質問の内容とは全く関係有りませんが、読み手の事をもう少々考えて文章の書き方を選んで貰えると幸いです
「句点」の代わりに「空白(スペース)」を使っているのでしょうか?
また少しでもオリジナリティを出したいだけ?

投稿日時 - 2008-06-13 17:34:14

お礼

 ap10さん ご回答をありがとうございます。

 まづ読点(、)の除去については 《オリジナリティを出したい》気持ちがありますね。もともとは 手書きで原稿用紙に書いていたとき 一枡あけるだけのかたちにしたところからです。先駆者がいるので オリジナルではないですが。読みにくいですか。たぶん 読みづらいというよりは めづらしいので 気が散るかも知れないとは思うのですが。
 でも ap10さんは 句点(。)を省いておられますよ。

 ★ 人には他人の罪を赦す能力(判断力というべきかな)があります。 / ただし状況次第で赦せる時と赦せない時がある / 尚且つ、その判断がいつも正しいとは言えない。 / これが一番簡単で判り易い考えだと思います。
 ☆ これまでのご回答へのお礼欄にも 何度か書いていますように 《赦す》というおこないに 人は 直面することは必要がない こういう命題を提出したというのが 今回の質問です。
 内面主観において どれだけ そういう行為をおこなってもいいわけですが そして 口に出しても なんら構わないわけですが そもそも 《赦す》という行為は 《あやまちを犯さない者》だけが為すものではないか これが 根拠です。

 むろん トラブルや違法行為について 社会的な取り決めにもとづいて処理されるのですが 個人として 人やそのあやまちを――つまりは 自己のあやまちについても 同じことになるわけなので――赦すという行ないを ほんとうには(つまり 社会的な効果を伴なったかたちでは) 為すことはできないし 為す必要はない。こうなりました。この飛躍について それはこうだ / いや これこれだというふうに おしえて欲しいという質問です。
 むろん 現行の思想や制度と違っていることは 承知の上でなわけです。いかがでしょう?

投稿日時 - 2008-06-13 19:12:11

ANo.6

具体例がないと考えにくいのですが、
たとえば、殺人鬼がいて、見知らぬ通行人を刺し殺しました。
被害者の親族の一人は、「とても赦せることではない」と発言し、
別の親族は、「悲しいことではあり、行為は赦せないが、
狂人同様の人は、赦すしかない。ただし、行為に対する罰は
社会的制裁としてそれ相応に実行してもらいたい。」と
発言したとします。この場合、罪と人を分けて考えています。
罪は赦せないが、人は赦すと言っているようです。

>赦す能力も権利も資格もない
のならば、「別の親族」の発言で、人を赦せるとは決して言ってはいけないとなりませんか。「罪を憎んで人を憎まず」なんて不可能で、戯言だと。誰一人、人を赦す発言はできないものだと。よくも赦すなんて言えたもんだという方向でその「別の親族」を非難することでよろしいでしょうか。逆質問になってしまいますが、補足をお願いします。

投稿日時 - 2008-06-13 16:39:09

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 わたしも こんがらがって来ました。まづNo.2へのお礼欄から 次の説明を掲げます。(少し修正しました)。
 ☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それでは なぜ《赦す能力も権利も資格もない》と考えるか これを述べて補足とします。

 あやまちを赦すというのは あやまたない者がおこなうのではないでしょうか。(たぶん これが 一番の根拠です)。

 あやまち合う者どうしとしては 仮りに 何らかのあやまちが起きたとき 起こした者もその被害を受けた者も 同時に同等に赦し合うというのであれば 《人にも赦す力がある》と考えられます。
 つまり あやまちを起こした者が ごめんなさいと詫びたとき それと同時に 同等の内容(心づもり)で 被害者も同じく 《分かりました こちらこそ ごめんなさい》と詫びたという場合です。

 このような場合が つねに おこなわれるとは限りません。だとすれば むしろ もともと 人には 人のあやまちを赦すという能力がないと考えたほうが 分かりやすいのではないでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 お尋ねの件は こうです。すなわち 赦すという言葉を口に出しても 一向に構わないのですが 《思考の上で・哲学の理論として そもそも 人は 人を赦すというおこないに直面する必要はない》という考え方を 提出しています。方向が 微妙に違うと分かっていただけると思うのですが。
 
 ★ 殺人鬼の通り魔
 ☆ この事例じたいについては いまのところ 《話し合い》を わたしとしては 用意しています。しかも 大きくは 加害者とも《話し合い / 和解》の方向へ行くというものです。
 法治社会としての社会的制裁については 《別の親族》の発言どおりに 《それ相応に実行される》ことを予定しますし そのように執り行われるものと考えます。

 まとめとして。
 赦すとか 赦せないとか 口に出して言っても なんら問題ありません。
 問題は その赦すあるいは赦さないという行為が 言うならば まったく個人の内面主観の中でのみ 持たれるに過ぎないということが 現実になるのではないか これです。

 ですから 社会的に効果を伴なって行われることは たとえば その不法行為についての理論的な批判であるとか あるいは 逆に その加害者の 更生・のちのちの社会復帰を 応援する(妨げない)であるとかになると思うのです。

投稿日時 - 2008-06-13 18:53:10

ANo.5

例えば、2本鉛筆を持ってたとします。
一本は、人にあげれます。

例えば、親類の肩身の鉛筆があり、いじめで、とられたとします。

質問者さんは、どう思いますか?

一生、うらみます。

投稿日時 - 2008-06-13 16:24:35

お礼

 rongo-dogさん ご回答をありがとうございます。

 えっとですね。《赦せる》か赦せないかの問題とも 微妙に違うのです。たとえば その場合は わたしは《赦す》のは 非常に むつかしいです。という答えです。

 《〈赦す〉のは 非常にむつかしい》と言っておきながら では なんで こんな質問をするのか。そうではなく わたしたちが 人を《赦す》という課題を頂く必要は ないのではないか こういう問いなのです。
 上に掲げた質疑応答でのわたしの書き込みにも 《おこないの欠陥を憎み批判し 人を受け容れつづける》と表現したのですが 《赦す》主題には 正面からは 向かって行っていないのです。
 それも そこから さらに進んで 《赦す》という能力も権限も 人にはないのではないか / だから 《赦す》という行為をするかしないかは かかづらわなくてもよいのではないか こう思うようになったというところなのです。

 ★ 例えば、2本鉛筆を持ってたとします。 / 一本は、人にあげれます。 / 例えば、親類の肩身の鉛筆があり、いじめで、とられたとします。 / 質問者さんは、どう思いますか? / 一生、うらみます。 
 ☆ この事態そのものについてでしたら こう思います。二つの場合に分かれます。
 人じたいが 傷つけられた場合 この場合には 先ほどから述べていますように 赦すことは わたしにとって 非常にむつかしいです。その気持ちの上での整理がつかないと思います。
 そして 鉛筆などの物でしたら たとえ高価な宝石であれ何であれ 比較的簡単にあきらめがつきます。と思います。

 果たして 人には 赦す能力と権限があると言えるでしょうか。いかがでしょう?

投稿日時 - 2008-06-13 18:22:42

ANo.4

平常時では極度の疲労や面倒臭いという境地に達すると簡単に許してしまうんじゃないでしょうか。

或いは何かの使命感や満足に至れることがあった場合ですね。
諦念とか判断の停止といいます。

投稿日時 - 2008-06-13 16:19:27

お礼

 miko-desiさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。何も七面倒なこととして 命題を出そうとしているわけではないので おっしゃっているような日常生活の中の振る舞いは ごくふつうに見られると まづ思います。
 そして 思惟の経歴としては 七面倒な過程をとおってでも しっかりした推論をしておきたいと思うのですが どうなんですかねぇ。

 ★ 或いは何かの使命感や満足に至れることがあった場合ですね。
 ☆ という場合には 目指すべき境地として 《赦す / 赦し得る》地点を出してこられるのかと思ったのですが さにあらず。
 ★ 諦念とか判断の停止といいます。
 ☆ という結論なので 肩すかしなのですが まづ
 ★ 判断の停止
 ☆ が エポケーとしての判断中止であるなら むしろ さらに判断を究めるための処置だと思うのですが そうでもなく けっきょく
 ★ 諦念
 ☆ に入るということでしょうか。だとしますと これは けっきょく
 ★ 平常時では極度の疲労や面倒臭いという境地に達すると簡単に許してしまうんじゃないでしょうか。
 ☆ と同じ結果ですね。途中で 思惟のあとがあったかなかったか 多いか少ないか の違いでしょうから。
 
 そうですね。この質問としては 諦めるという場合には 《赦す》か《赦さない》かを決めるという思考形式の上にあると見ているのです。そうではなく 人にそういう《赦す》権限のようなものが 果たしてあるのか これを問うています。
 ないのではないかと問うています。互いに あやまつ存在どうしであるから そのあやまちを 赦すかどうかは ほんとうには問題にならず たとえばあたかもエチケットのごとく 《分かりました》と言って もうその過ちを咎めないこととする。そうなるのではないか と問うています。

 《忘れる》ことと同じように見えますが 一区切りを打つかのごとく あるいは いわゆるけじめをつけるかの如く 過ちのあとに 挨拶があるわけです。その挨拶を受け そして こちらも 挨拶を返して それで あとは とがめも問題も無しというふうに もっていくのが よいのではないか こんなところまで 飛躍しました。
 ですので これについて みなさんから おしえて欲しいという趣旨になります。いかがでしょうか。

投稿日時 - 2008-06-13 18:05:33

>人には人のあやまちを赦すという能力がないと考えたほうが
>分かりやすいのではないでしょうか?

その方が判りやすけりゃ、そのように考えたらいいです。

投稿日時 - 2008-06-13 15:13:00

お礼

 Husky2007さん ご回答をありがとうございます。

 ★ その方が判りやすけりゃ、そのように考えたらいいです。
 ☆ なぜ分かりやすいか / ほんとうに分かりやすくなったのか を問うているのが この質問です。
 
 もし わたしにとって分かりやすいということが 人にとって そうではないとなれば それは 一般に 哲学の質問ではないでしょうし 哲学でもないでしょう。
 《人にとって そうではない》とも言わない / 明らかにしないというのは 哲学の態度ではないと思います。
 そこのあたりを 検討してまいりたいと思います。

投稿日時 - 2008-06-13 15:30:50

哲学とはギリシャ語でフィロソフィア、学問一般のこと。
が、独自に(1)世界観、(2)認識論が主たるテーマに。

ところで、人のあやまちを赦すかどうかは、単なる個々人の判断の問題。
赦せる場合もあるでしょうし、そうでない場合も。
赦せる人もいるでしょうし、そうでない人も。

(1)世界観、(2)認識論を持ち出すテーマじゃないでしょうね。

投稿日時 - 2008-06-13 14:05:41

お礼

 Husky2007さん ご回答をありがとうございます。

 アドバイスについては すべてが 《世界観 / 認識論》だと思いますが いかがでしょう?

 それでは なぜ《赦す能力も権利も資格もない》と考えるか これを述べて補足とします。

 あやまちを赦すというのは あやまたない者がおこなうのではないでしょうか。
 あやまち合う者どうしとしては 仮りに 何らかのあやまちが起きたとき 起こした者もその被害を受けた者も 同時に同等に赦し合うというのであれば 《人にも赦す力がある》と考えられます。
 つまり あやまちを起こした者が ごめんなさいと詫びたとき それと同時に 同等の内容(心づもり)で 被害者も同じく こちらこそ ごめんなさいと詫びたという場合です。

 このような場合が つねに おこなわれるとは限りません。だとすれば むしろ もともと 人には 人のあやまちを赦すという能力がないと考えたほうが 分かりやすいのではないでしょうか?
 すなわち 
 ★ 単なる個々人の判断の問題。
 ☆ を超えているというのが 哲学の解答になるのではないでしょうか? 分かりませんが 検討に値すると思われるのですが いかがでしょう?
 仮りに 哲学の解が出たとして 出たからと言って その解に人が 強制的にしばられるということがないのは 言うまでもありません。

投稿日時 - 2008-06-13 14:44:59

ANo.1

事と人によりけりです。

哲学などと学問にするほどの事もありません。

投稿日時 - 2008-06-13 13:43:56

お礼

 umemomiさん ご回答をありがとうございます。

 ☆ 人が 人のあやまちを赦すことができますか。
 ★ 事と人によりけりです。
 ☆ というご回答ですよね? ということは 《赦す》ことが できる場合とできない場合が 《事によって また 人に応じて》起こるという意味になりますか?
 もしよろしければ その《臨機応変》のあり方 その赦し得るかどうかの判断基準 これについて さらに明らかにしていただけると ありがたいです。
 これが 明らかにならない / それを 明らかにする必要はない / 明らかにすることが 人には できない などなどの事情でしたら そのように詳しく おしえてください。つまり
 ★ 哲学などと学問にするほどの事もありません。
 ☆ の根拠というほどの意味を 問いたいと思いますが いかがでしょう?

投稿日時 - 2008-06-13 14:03:48

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