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解決済みの質問

ひとの個性とは 何でしょう。

 人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?
 くせや趣味の違いから 思想の違い 意見の相違などなど 実際に見られることですが では そもそも その個性の違いとは なんでしょうか?
  逆に 趣味を同じくし 志まで同じくしていたら 個性の違いは ないのでしょうか?

 いま その答えについて 方向性もその兆しも ない状態に陥りました。どちらとも分かりません。
 こう考えるきっかけになったことと言えば こうです。
 われわれ日本人は よく 右へならえで行動するとの悪評を得ます。では そうではない個性の発揮とは いったい何なのかと考えました。もし J.‐J.ルウソのように 一般意志が想定されるとして それに人びとが従うのならば 個性はあっても 見解は おおよそ同じになるとも考えられます。
 では 個性とは 何なのでしょう?

 * ご回答について 分からないところは 自由に 突っこませていただきます。

投稿日時 - 2008-06-22 14:12:38

QNo.4120187

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

#40です。

> ☆☆ 人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?
> ☆ これは ないという基礎に立つとき 人の想像力も創造性も発揮されると思えます。そうでない場合 天才秀才の努力があっても その成果は残るでしょうが 何かつまらないと感じます。

これは、「抽象レベルをどこに設定するか」の問題に還元できます。

例えば、抽象レベルを犬、サル、うさぎのレベルに設定すれば、犬、サル、ウサギの間には差異がありますが、サルの中の差異は消滅します。また、抽象レベルを哺乳類のレベルに設定すれば、犬、サル、うさぎの間の差異も消滅します。このように、抽象とは、同一性に注目して、差異を捨象する操作です。

従って、人間の創造性の例で考えれば、音楽における創造性、絵画における創造性、ビジネスにおける創造性のように個別の創造性に抽象レベルを設定すれば、これらの創造性には差異があることが前提になりますが、創造性一般のレベルに注目すれば、音楽、絵画、ビジネスなどの個別創造性の差異は捨象されます。

すなわち、創造性一般の抽象レベルで問題を捕らえる場合は、人は、皆、自分に与えられた課題・問題に対し、それぞれなりに創造性を発揮して解決に取り組むという意味で、人々に差異はないと言うことは可能です。

しかし、だからと言って、「今日、上司に言われた一言に腹が立ち、どうやって仕返しするか」ということに創造力を発揮することと、「アフリカの貧困問題をどうやって解決するか」ということに創造力を発揮することとの差異が消滅するわけではありません。


>《社会的な有用性を創造したという個性と そうでない場合の無個性と これら二つも 互いに 同じく装飾品であるのではないか》 この疑いです。

これも、上の議論と同じで、それぞれの装飾品の差異を捨象して、装飾品一般という抽象レベルで考えれば、「個々の装飾品は千差万別だが、装飾品を身につけているというレベルでは、だれでも同じだ」ということは可能です。


この議論の結論を出すには、「抽象レベルをどこに設定するのか」を決める以外にないと思います。そして、「抽象レベルをどこに設定するのか」を決めるのは、「問題意識」です。どのレベルの問題に価値を、あるいは重要性を感じ取っているかです。すなわち、個別装飾品レベルの差異に価値を見出しているのか、それとも、人皆何らかの装飾品を身に着けているという共通性レベルに価値を見出しているのかということです。

まさに、このことが、「無限に多様な世界の中から、今・ここでの課題(今の場合、抽象レベル)が何か」を見出す個性の姿ではないかと思います。

投稿日時 - 2008-06-30 11:40:36

お礼

 kobareroさん ご回答をありがとうございます。
 ようやくたどり着きましたね。小心者であることがばれるようですが ひやひやものだったのです。お聞きしてよかったです。重ねて感謝申し上げます。

 1000827313 さんのご所論の行方が気になりますが これで 個性は飾り物説の可能性について 力強い賛同をいただきながら 個性論について明らかにしていただきました。何も言うことはありません。

 と言っておきながら 一応は見直しました。そうですね。
 属性か飾り物かの議論がありました。後者ならば 取り外しができます。そうは言っても 属性でも それがなければ存在が成り立たないものではないでしょうから それほどの問題でもないということになるでしょうか。
 
 そうですね。もう一点 微妙な問題点を見つけました。
 わたしの志向性としては 飾り物も属性もすべての個性を取り除いた存在そのもの これが 無個性として あるからこそ 人間はおもしろいというところにあるのでした。この点は 徐々にはっきりとして来たところです。
 この点は 別の質問として提出してみたいと思います。

 ということで この質問は締めることにしたいと思います。
 みなさんともどもに 繰り返し感謝申し上げたいと存じます。ありがとう!

投稿日時 - 2008-06-30 12:50:58

ANo.41

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回答(41)

ANo.40

#39です。

>《志を同じくした者どうし》のあいだでも そのような個性が 互いの差異となっている現象はあると 一応 考えます。

「ミュージシャンを目指す」AとBがいて、Aが目立ちたがりやで、髪の毛を真っ赤に染めたら、それは「個性的か?」という疑問に対し、YESともNOとも言える。外見上の差異があるという意味でYESであり、そんな差異は「大した差異ではない」という意味でNOです。

では、「大した差異」とは何なのか? 比較的広く納得できる「大した差異」は「独創性」ではないでしょうか?

そう考えると、個性とは、「単に他者と異なった表現を生み出す性質ではなく、独創的な差異を生み出す性質である」と定義することもできると思います。すなわち、創造力こそ、個性の本質ではないかという考え方です。この考え方では、「創造力の乏しい人は、個性もない」ということになります。

いずれにしても、個性を議論するときに、何を以って「個性」と認めるのかの線引きをはっきりしておかないと、混乱するだけだと思います。そこで、この線引きを以下のようにしたらどうでしょうか?

個性とは、「社会に有用な方向に創造力を発揮できる性質」。


>つまり 内面と外面とは かなり強くつながっているように わたしには 思われます。そのような事柄について 納得したいと存じます。


問題を「社会に有用な方向に創造力を発揮できる性質を持つ内面とは如何なる内面か」に置き換えて考えることができると思います。

それは、無限の世界の中から、「今ここ」での問題を切り出す能力と、その問題を解決するために、隠喩を駆使する能力を備えているような内面ということではないでしょうか?

投稿日時 - 2008-06-29 15:13:34

補足

 kobareroさん ご回答をありがとうございます。
 そうですね。まづ なるほどと思いました。しかも あとのほうで あたかも くつがえすかのような議論をしてしまいました。
 まづ 性格の分類の例をもう一度掲げますが 
 ▲~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《性格 character 》についての 岡田斗司夫の分類
 ○ 王様タイプ:人に注目され認められることを喜びとし、無視されることを嫌う。目立ちたがり。
 ○ 軍人タイプ:勝ち負けに拘る。勝つことを喜びとする負けず嫌い。
 ○ 学者タイプ:ものごとのしくみや法則を理解・発見することに喜びを感じる。
 ○ 職人タイプ:自分の思い通りに物事をやりとげることを重視する。人から見てどうかより、自分の理想に近づくことを喜びとする。
(No.29補足欄)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たとえば このうち どのタイプであっても たしかに
 ★ 「社会に有用な方向に創造力を発揮できる性質」。
 ☆ であれば それが 共通して 《個性》であると言えるかも知れません。
 どのタイプであっても 個性を持つ場合と持てない場合とがあると想定できます。負けず嫌いだからこそ 社会に貢献したという場合もあれば ただ自己の利益のために努力しているだけだという場合もありますから。
 それでしたら 無理なく 内面と外面とが連動しているという見方だと思います。つまり さらに その内面とは
 ★ 無限の世界の中から、「今ここ」での問題を切り出す能力と、その問題を解決するために、隠喩を駆使する能力を備えているような内面ということではないでしょうか?
 ☆ という結論にまで触れていただきました。ありがとうございます。
 
 さて ここからが ひねくれものの特権になります。
 まづは さらに確認として もはや《王様タイプ》や《軍人タイプ》にかかわる通念としての個性は 単なる装飾品であると言っていいと思います。その上で 何を考えるかと申しますと さらにその前に いま一つの確認として
 ★ 無限の世界の中から、「今ここ」での問題を切り出す能力
 ☆ という言い方に従えば 《精神》の議論について 方向が少し見えてきたようにも思います。単純には 《今ここ》が継続していると捉えればいいのではないかと思いました。
 
 さて 最後(?)のご質問になると思うのですが 
 いえいえ すみません さらに前置きです。
 ★ 個性とは、「社会に有用な方向に創造力を発揮できる性質」。
 ☆ とするとき たとえ仮りに
 ★ 「創造力の乏しい人は、個性もない」ということになります。
 ☆ と見たとしても わたしの考えでは 人は 独立主観であると同時に 関係性としても存在すると思いますので 個性のある人もない人も それぞれ互いに およそ社会性として 絶対的に関係しているとは考えます。実際に面識があれば それだけで 互いに影響を与え合っていると考えるものです。その自己表現たるもの これは 時によっては 無個性の人からの影響がなければ 創造力を発揮し得なかったというものだと考えます。

 最後(?)のご質問です。そしてこれは この質問を設定したときからの問いかけです。
 《社会的な有用性を創造したという個性と そうでない場合の無個性と これら二つも 互いに 同じく装飾品であるのではないか》 この疑いです。
 片や 《大した差異》ではない《真赤に染めた髪》という《その人の考える個性》も どこで どのように 創造力を喚起するか 分からないでしょうし 片や そうですね 何でしょう 病原菌の発見によって疾病の撲滅に貢献した創造力の発揮 という大きな個性 これも 茶髪というささやかな個性と それほど変わらないと 言わなければならない《存在の核》の問題がないでしょうか。
 《永遠の現在》という生つまり存在の形式を問うならば すべての思想やおこない つまり要するに 生活ということ ここにあっては 何事も すべて対等であるという基本的な見方に立っているように思えるのです。
 つまり
 ☆☆ 人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?
 ☆ これは ないという基礎に立つとき 人の想像力も創造性も発揮されると思えます。そうでない場合 天才秀才の努力があっても その成果は残るでしょうが 何かつまらないと感じます。
 
 なにか 青臭い議論になってしまいました。そのこと自体は もともと そうだったのですが せっかくのご持論を展開していただいたその目の前に こういう感想を持ち出して来てしまいました。しかも 論証無しのままです。

投稿日時 - 2008-06-29 16:57:08

お礼

 どうしたものでしょう。いかに われは ひねくれているか!! でも それは 初めから思っていたことであるので 論証し得ていないことが 問題ですね。

 ううーん。どうしたものでしょう。

 《精神》論において 差異と同一性とは ありますか? 人間という同一性のほうが その二つの基礎に来ますか? もし同一性が大前提であるなら 考え得るすべての個性=差異は 飾り物であるという結論にも 一理あると思われますが。

投稿日時 - 2008-06-29 17:02:08

ANo.39

#37です。

>どうしましょう。この質問の読者のみなさんのためにも kobarero さんの《精神》論をお尋ねしてもよろしいでしょうか。

その前に、ひとつ確認させていただきたいのですが、「精神」を持ち出さずに、「個性」を議論すると、前回も書かせていただきましたように、「この世界に全く同じものは存在しない」わけですから、工場で作られた同じ製品ですら、「個性がある」ということが出来てしまいます。ましてや、工場製品よりはるかに複雑なサルにも個性があるということができてしまいます。もちろん、日常的には、「サルにも個性がある」という言い方は、正しいと思います。しかし、個性をそのような「単なる表現上の差異」と捕らえるのなら、brageloneさんが当初の質問で挙げれておられた「逆に 趣味を同じくし 志まで同じくしていたら 個性の違いは ないのでしょうか?」の疑問の意味がよくわからなくなってしまいます。本当に全く同じなら(現実には、そんなことはないと思いますが)、個性はないし、多少なりとも違いがあれば個性があるというだけの話になってしまいます。「個性=差異」について、どのようにお考えなのでしょうか?

投稿日時 - 2008-06-29 05:30:08

お礼

 kobareroさん お早うございます。(遅ようになってしまいすみません)。ご回答をありがとうございます。

 ★ 「個性=差異」について、どのようにお考えなのでしょうか?
 ☆ 《個性》の定義は その内容が広がるようだと この質問で分かったわけですが 当初の通念だけの考えは こうです。途中で拾った定義で 《目立ちがりや/ 負けず嫌い》などは 例に上がると思います。誰もが 多少なりとも自己顕示欲があるでしょうし 負けたくはないでしょうが 人一倍それぞれ そうである人がいると思いますので 通念として そう考えていいと思います。
 《志を同じくした者どうし》のあいだでも そのような個性が 互いの差異となっている現象はあると 一応 考えます。

 そうして 個性を人間存在の核というべき領域で捉えるという場合――それを たしかに いま一つの定義として わたしも理解したのですが―― 知りたいと思うところは いわばその内面と外面との関係がどうであるかだと思います。
 はじめに こう定義されました。
 ★★ 同じ環境(世界)をそれぞれ異なった風に感じ取る意識の働きのことだと思います。(ANo.6)
 ☆ このとき わたしが Aさんは目立ちたがりやで Bさんは負けず嫌いだと認識したとき そのわたしの意識は 外面とつながっています。外面の問題を 内面で受け留めています。
 さらには AさんもBさんも それぞれ 内面における働きがあって それを それぞれ みづからの自由意志が用いるかたちで 自己表現している。とすれば その結果 差異となって現われていると考えられます。 
 つまり 内面と外面とは かなり強くつながっているように わたしには 思われます。そのような事柄について 納得したいと存じます。よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2008-06-29 10:31:57

ANo.38

もう一度回答、補足、お礼欄など拝見していましたが、どうも私の理解が悪かったようです。
個々で取り上げている「個性」とは、その人の表に出してきた反応を見て“あの人は個性的な人だ。”と言う判断基準だったのですね。それが「日本人は右にならえ・・・」云々に繋がってゆくのでした。最初の「個性とは?」だけに眼を奪われた結果でした。
すると戦時中に大政翼賛会に反対したくても出来ずに、特高に連行されたくないので、協力していた人は個性は無い。大賛成をして協力的な立派な天皇陛下の赤子と褒められ、戦後手のひらを返して民主主義が正しい、こんな立派なものは無いと言って旗を振る人が個性的だということになりますか。
これが、私の避けたかったところだったので、その人の反応の違いではなく、受け止め方の違いのみに「個性」と言う言葉を当てはめようとしました。大変失礼致しました。

投稿日時 - 2008-06-28 21:29:57

補足

 1000827313さん またまた 意志疎通に支障をきたしたでしょうか。
 まづは ご回答をありがとうございます。

 もう kobarero さんのご回答とも合わせて 締めることができると思っていたのですが 何か わたしの言葉が お気持ちを害してしまったのでしょうか。
 もうこれで 帰港すると思っていたと言いますのは 次の文章に対して 1000827313さんから コメントをいただき 次の課題へ進むのがよいと思っていたという意味です。
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(煩悩ないし無明 この状態が 明るい世界へ転換するという覚りと智慧が説かれるわけですが もしこれに対してなら こういう説明になります。つまり 人間の能力の極致としてであっても その能力としての覚りや智慧によって 人は 光の領域へと回転するのではないという見方だからです。だから 片や アーラヤ識ないし無意識野を説くことになり 片や 無根拠を持ってくることになるのだろうと思います)。
No.32お礼欄
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この箇所に対して 1000827313さんのお立ち場からコメントがあって それを並記するかたちで ひとまづ終えるというかたちです。

 今回述べておられる内容は わたしが 1000827313さんの無意識野の説をなかなか把握し得なかったことと あたかも同じように 1000827313さんも わたしの意図を読んでいただけていないとは思います。
 わたしが問い求めようとしたことは
 ★ すると戦時中に大政翼賛会に反対したくても出来ずに、特高に連行されたくないので、協力していた人は個性は無い。大賛成をして協力的な立派な天皇陛下の赤子と褒められ、戦後手のひらを返して民主主義が正しい、こんな立派なものは無いと言って旗を振る人が個性的だということになりますか。
 ☆ と仮りにしますと このような《個性》は あって無きがごとしではないでしょうかという問いかけです。装飾品説とは そういう意味です。
 ★ その人の反応の違いではなく、受け止め方の違いのみに「個性」と言う言葉を当てはめようとしました。
 ☆ とおっしゃるご所論は――わたしに予想できなかったことですが―― 広く個性論として 理解させていただきましたし その位置づけをも わたしなりに捉えて それでいいのかどうかをお尋ねしたところでした。
 そして 経験科学としての無意識野説と どうしても信仰を――直接に扱うものではないですが―― 容れて説明しなければならないと考えたときの無根拠説 これについては おそらく 並立するであろうというところまでを確認して 次の課題に移ろうと思っていたわけです。
 こういう事情であります。意外なご返答をいただき ただただ驚いています。この事情にもとづいて ご判断くださるなら もうわたしは 何も申さないことと致します。つつしんで申し上げました。

投稿日時 - 2008-06-28 22:13:46

お礼

 1000827313さん わたしのほうから補遺です。
  けっきょく 1000827313さんの《無意識野》説の特徴は 内面と外面との連動が 人には分からないというところにあると考えます。
 ★★ 情報・・・の受け取り方(=個性)は個人の持っている無意識野が突き動かしている(ANo.19)
 ★★ ☆《人それぞれの個性によって培われたものが 個性である》――★ 私の考えではその通りです。(ANo.15)
 ☆ というごとく 無意識野のはたらきは それが 個性の核であり根源だと考えられるが そのはたらきが 外面にどのように現われるかは 人には認識できないというところです。
 簡単に言えば 行為に際して意識の中にあった意図は 個性が《意図(?)》する内容とは 別であるかも知れない。
 ★★ 個性は個人に所属し、表に表れた反応からは理解できないその個人の持つ特徴そのもの〔なり〕。(ANo.19)
 ☆ ここは 重要であり 希少価値のある見解であると考えます。
 秋葉原の通り魔の個性は 本人の意識したとおりの内容であったかも知れないし そうではなく 別の内容であったにもかかわらず そうしたということかも知れません。
 つまりは 自己表現としての発信のほうによりは 情報の受信の〔仕方の〕ほうに 個性が個性として作られた重要部分がある。胎児のときからの情報の受容ですので そうしますと 社会にあって 情報は回りまわって 母親や家族からの影響だけに限られず けっきょく社会の中で錯綜している全情報であると 考えられます。
 このことを――そう推測した結果―― 《空中戦》ですとか《中性子線の撃ち合い》ですとかと形容しました。良い影響もあるわけです。《中性》という語は たとえとしては 悪くないと思います。また 何でその秋葉で被害に遭ったかを説明するものだと考えられます。
 願わくは その個性の形成や その後の過程として 突き動かされるというときの衝動 これを どのようにして わたしたちが制御するか。これについて――アーラヤ識を掲げておられるからには―― 基本的な考え方をお聞きしたいと思ったというわけでした。
 こんな事情にあると 重ねて お伝えいたしました。

投稿日時 - 2008-06-30 10:40:18

ANo.37

#36です。

> ☆ というときの《先天的に持っている物理言語》が では 人それぞれに どう違うのか / 同じものとして持っているなら どのように違ってくるのか というふうに ちらっと思いました。母親の胎内から始まって その環境の違いによるのでしょうか。

物理言語は、物理量(正確には、幾何学的構造と量)を「質」に翻訳する言語です。ここで「質」というのは、五感および内部感覚として個々人が感じる内容です。物理言語においては、物理量がシニフィアン、「質」がシニフィエと考えるとわかりやすいのではないかと思います。

物理言語の特徴は、同じシニフィアン(物理量)に対し、対応するシニフィエ(質)が個人によって異なるということです。すなわち、物理言語は個人言語だということです。たとえば、同じ650ナノメータの光でも、Aさんが感じる緑色と、Bさんが感じる緑色は異なる内容を持っているということです。だからと言って、実世界で混乱しないのは、もともと、通常の言語は、差異に対応しているのであって、緑色の内容の全体的な規準に対応しているわけではないからです。

このように、物理的環境は同じでも、そこから感じ取る内容、すなわち、その総合としての内面世界は、個々人で異なるということ。そのことが、「個性という存在形式」が「内容としての差異」をも生み出すのだと思います。ただし、「個性という存在形式」にとって、「内容としての差異」は結果論であって、必要条件ではないと思います(下記参照)。

>《〈個性がある〉のは なぜか 分からない》という意味です。《おのおの主観において 自由に 捉えなさい》という意味だと思います。

「個性がある」=「差異がある」と考えるかどうかがポイントだと思います。もし、「差異」に注目するとすれば、「世の中に厳密な意味で全く同じものはない」わけですから、工場で生産された同一製品ですら、個性があることになります。これでは、個性のあるなしは程度問題になってしまいます。ですから、個性を問題にする場合は、「差異」ではなく、「存在形式の唯一無二性」を問題にする必要があると思います。そのためには、「精神」とは何かということからスタートするしかないと思います。

まず、「精神」は「物質」ではないということです。「物質」ではないから「時空間」に存在しているものではないということです。「精神」には「今ここ」しかありません。ただし、ここで言う「今」は過去・未来の間にある「今」ではなく、「今」しかない「今」です。また、「ここ」は、「あっち」と「そっち」の中間の「ここ」でなく、「ここ」しかない「ここ」です。そのような「今・ここ」を占めている私なる「精神」は、人間の数だけあるということです。これが、「精神」の在り様であり、その唯一無二性が「個性」だと思います。

投稿日時 - 2008-06-28 21:03:55

補足

 kobareroさん とても むつかしいです。
 もう終点だと思っていましたが――あっ まづは ご回答をありがとうございます―― わたしの理解が届いていなかったようです。

 正直に申して わからないという状態です。何が分からないかと言いますと そのように《存在》の核だけを残すというかたちにまで還元してしまうと たとえば《人間の尊厳》ですとか《人権の擁護》ということを主張するときの内容説明になっていると受け取られるからです。
 すなわち 表に出ないという場合の個性論 これは わかります。あるいは 1000827313 さんのように 記憶を持ってくる場合には 母体から始まっての環境からの情報の受容があり その過程が継続していくというからには 何らかのかたちで その無意識野が人を突き動かしているという理論になると思われます。(この理解も あやふやになりかけていますが)。それなら そういう広義の個性です。
 でも kobarero さんの今回のご主張は 
 ★ 「内容としての差異」は結果論であって、必要条件ではないと思います。
 ★ 「差異」ではなく、「存在形式の唯一無二性」を問題にする必要があると思います。
 ☆ そうして この《存在》については 《精神》として考えるとよいという意味で その精神について
 ★ 「精神」には「今ここ」しかありません。ただし、ここで言う「今」は過去・未来の間にある「今」ではなく、「今」しかない「今」です。また、「ここ」は、「あっち」と「そっち」の中間の「ここ」でなく、「ここ」しかない「ここ」です。
 ☆ と説かれて来ます。つまり いわゆる《かけがえのない存在たる人間》ということになるのではないでしょうか。
 つまり 差異は 結果として出てくるが この差異の出現可能性を含めて《存在形式》が 人間の核である。そしてこの人間論が そのまま 差異として現われる広く言うところの個性についても 説明している。ということだと思うのです。
 
 わたしなどは 《永遠の現在》ということを言います。《わたしが わたしであるそのわたしは そのまま 永遠に過程する》といった内容です。つまり それは 動態です。ということは けっきょく
 ★ 「精神」には「今ここ」しかありません。
 ☆ ここが 分からないのかも知れません。煮詰めて来まして こういう問題になるでしょうか。

 どうしましょう。この質問の読者のみなさんのためにも kobarero さんの《精神》論をお尋ねしてもよろしいでしょうか。
 なぜ動態でないのか これが わたしにとって 疑問です。

投稿日時 - 2008-06-28 22:42:15

ANo.36

#34です。

>《これが普遍的だとみづからが 自由に判断した結果を 自由に 表現していく》 これが 一般意志だと考えます。この一般意志としての生活態度が 自己表現の中核となるならば 《個性は背景にしりぞく》という意味合いで言っていたものです。

おっしゃっているのは、一般意志ではなく、しいて言えば、特殊意志に近いのではないでしょうか? 一般意志とは、簡単に言うと「法」のことですから、個人が自由に判断できるものではないと思います。「一般意志=法」と個人の意志、あるいは、個性との間には、常に矛盾と葛藤が生じます。


>《目立ちたがり》という或る種の個性は 自分の意志で作り上げたものです。ちょっとやそっとでは直らないでしょうが そのこと自体を認識することができるし そのぶん 自分の努力でつつしむことも出来ます。後者の軌道修正は 言ってみれば 一般意志のはたらきです。

「一般意志」という言葉の意味の解釈が全く違うんですね。うーん。弱った....。
私は「一般意志=法」と解釈していますので、上記の文は、なかなか理解できません。「一般意志=理性」と解釈されているのでしょうか?


>《わたしは 双子が生まれぬ前・母親の胎内にいるときから その弟であるヤコブを愛し 兄であるエサウを憎んだ》というような・われわれ人間にとっては ゆえもない不条理が起こりうるという見方です。
 いかがでしょうか。

「個性」は「存在形式」そのものと言うのは、個別の「個性A」「個性B」が宿命的運命的に決まっているというようなこととは全然関係ないです。「個性A」であろうが「個性B」であろうが、そもそも「個性がある」ということ自体が、人間という存在の「存在形式」の特徴だという意味です。すなわち、馬は馬種全体が1つの種ですが。人間の場合は一人ひとりが別の「種」だということです。何故このようなことが起こるかというと、人間には、「内面世界」があるからだと思います。何故内面世界が成り立つかというと、物理世界の「量」を五感という「質」に変換する言語(物理言語)を先天的に持っているからです。と考えます。


> ★ 「外面に現れた差異」を「個性」と考える考え方は、基本的には、「人間=機械」説
 ☆ のほうが 世の中 平和なんでしょうか?

明示的な表現ではないので、意味を解釈しかねています。

「人間=機械」説は、「内面世界」を認めない考え方です。あるいは、「内面世界」を説明できない考え方と言った方が良いかも知れません。「内面世界」がないわけですから、これ以上の「平和」はないでしょうね。


> →その人たちは 覚りを得ているでしょうか?という不遜な物言いにもなってしまいました。どう締めればよいでしょう? とほほ。

悟りとはあまり関係ないですね。悟らなくても、もっと、ロジカルに説明可能な世界の話ですから。

投稿日時 - 2008-06-27 21:11:29

補足

 kobareroさん ご回答をありがとうございます。
 議論は ようやく落ち着いて来ましたでしょうか。互いにそれほどの ぶれがなくなって来ました。

 今回 ほとんど全部 もう 同感するくらいです。強いて言えば わづかに
 ★ 何故内面世界が成り立つかというと、物理世界の「量」を五感という「質」に変換する言語(物理言語)を先天的に持っているからです。と考えます。
 ☆ というときの《先天的に持っている物理言語》が では 人それぞれに どう違うのか / 同じものとして持っているなら どのように違ってくるのか というふうに ちらっと思いました。母親の胎内から始まって その環境の違いによるのでしょうか。
 
 あいまいな形のまま しゃべっている箇所など しかるべく扱ってもらいましたので 何も言うことはありません。

 そうして 《一般意志》 これについての用法が 混乱しているとのご指摘 ごもっともです。w-hiterose さんからも ご指摘をいただいています。
 二つの たぶん 別々の意味合いで 知らずに 使ってしまっていました。ルウソ本人が言うような意味 これは 端的には 《市民の宗教》という事態にまで発展するようです。単なる集合としての全体意志を超えて そしてそのとき ただし もはや 観念の世界においてのごとく 社会総体にとっての《ともかく 普遍意志》といった形です。
 わたしが積極的に一般意志を持ち出すときには やはり端的に――kobarero さんも 《法》とおっしゃったように―― 《自然法》として その最小限の規範性を内容として 用いてしまっています。勝手な解釈によってです。
 この点 みなさんにも 深くお詫び申し上げます。ごめんなさい。

 そう言えば――もう一度 見直してみて――
 ★ 「個性」は「存在形式」そのものと言うのは、個別の「個性A」「個性B」が宿命的運命的に決まっているというようなこととは全然関係ないです。「個性A」であろうが「個性B」であろうが、そもそも「個性がある」ということ自体が、人間という存在の「存在形式」の特徴だという意味です。
 ☆ このとき (1) 《風は気ままに吹く》というのは 《宿命的運命的に決まっている》ということではないと思います。《〈個性がある〉のは なぜか 分からない》という意味です。《おのおの主観において 自由に 捉えなさい》という意味だと思います。
 (2) つまりは 上の見方においては 分からないが 個性Aや個性Bがあるというふうには 見ています。(この個性の内容は 表面に現われて来ているような性格などを含むかどうかも 議論になるでしょう)。つまりは
 (3)★ そもそも「個性がある」ということ自体が、人間という存在の「存在形式」の特徴だという意味です。
 ☆ というとき 《〈個性A〉として Aさんが捉えたものと 〈個性B〉としてBさんが捉えたものとは 同じか違うか これは 分からないでしょうし 分かる必要もないとおっしゃるのかも知れません。知れませんが 同じAさんが 〔あるいは 同じBさんが〕 これら二つを認識・識別したというのなら とうぜん その主観においては 〈ある〉》ということになるでしょうね。と思いましたが いかがでしょうか。

 もうすでに九回裏あたりに入っていると思います。もうひとこと お願いしてもよろしいでしょうか。

投稿日時 - 2008-06-27 21:55:59

ANo.35

ちょっと引用。社会契約論より。

「互いに結合した多くの人間が、みずからただ一体をなすものとみなしている限り、彼らはただ1つの意志を持っており、この唯一の意志は共同の自己保存と全体の福祉に関わるものである。」

ここで彼は、全人類を念頭に置いて、一般意志を想定しているでしょうか?彼の所属する社会のみが念頭に置かれています。普遍的でも何でもありません。彼にとって、他人種、異教徒が結合し一体となった唯一の意志は一般意志とは見なされないでしょう。彼の描く社会を理想としない人々は、一般意志(彼の社会の人々の共存とその人達への福祉)を阻害する要素、特殊意志とされてしまうのです。

「全体意志と一般意志にはしばしば多くの差異がある。一般意志は共同利益にしか注意しないが、全体意志は私的利益に注意するもので、特殊意志の総和にすぎない。」

我々極東の黄色い人が人権を叫んだら、社会悪と見なされてしまいそうです。

「しかし、社会の絆が緩み、国家が弱まりはじめると、そして特殊利益が感じられはじめ、多くの小集団が大集団(政府)に影響力を持ち始めると、共同利益は損なわれ、それに反対する者があらわれる。採決に際してももはや全員の一致が支配することなく、一般意志はもはや全体意志ではない。意見の対立と議論が起こり、最良の意見といえども、論争をへないでは通らなくなる」

 彼の所属するコミュニティーの中でにのみ一般意志を想定したとしてさえ、特殊意志が声高に異を唱えれば、一般意志は共同利益を保てなくなるようです。

 今の民主主義(上辺だけでも、マイノリティを尊重しようとしています。)からは想像できませんねぇ。

質問文に“ルウソのように想定しうる”とありましたので、もちろん↑これらを思い浮かべましたよ。

“ルソーがしたように、私も(私の)一般意志を想定すれば”ということだったのですね。 
 >ただし 民主主義という歴史の趨勢は あるように思います。《普通の生活態度》というのは そういう意味です。外から上から規定されるような存在ではないと わたしもですが つねに 言い続けそれを実現させていくというくせ(エートス)のことです。これが 一般意志です。
 私が(私の)一般意志を想定するとしたら↑もその意志の中に入ります。(ただし、といわれてしまったので(T0T)素直に同意するといえないw)

 質問者様のおっしゃる一般意志はルソーにならうと、特殊意志の総和である全体意志。でしょうか?

投稿日時 - 2008-06-26 17:08:25

補足

 w-hiteroseさん ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ 一般意志は そもそもは 普遍的な意志として 提出されています。
 ☆ と書いたのは 迂闊でしたね。せいぜいが それぞれの国家において その範囲内の一般意志を想定し そのことを通じて 国際的にも一般意志を実現させるといったかたちになるのかと思います。
 わたしの《一般意志》観については No.3補足欄をも参照していただくと幸いです。
 また ルウソの一般意志を持ち出したのは 質問趣旨にあるように 個人と社会とのあいだで どちらを優先させるかの問題で 日本とそして西欧との対比のためでした。西欧のほうの代表選手としてルウソを出してきた恰好です。
 とは言うものの 全体として 用語をおおざっぱな中身のまま例示したことは 不注意でした。そのようにあらためて受け取っていただくようお願いしたいと思います。

 もし社会契約論じたいとしてのご議論でしたら 引用箇所について 第何編 第何章というように示していただくと あらためて考えてまいりたいと思います。
 第一の引用は 現実的にというのでしょうか 一つの国家という単位体を 前提として 言っているようです。
 第二の引用は 上の前提があるとは思いますが それほど 奇異なことでもないのではないでしょうか。
 ▲ 一般意志は共同利益にしか注意しないが
 ☆ 表現がこなれていないようですが 国内において 普遍的であろうということだと思うのですが。
 第三の引用は よく読みとれません。文脈を知りたいです。
 ▲ 一般意志はもはや全体意志ではない
 ☆ この箇所が 分かりません。一般意志は もともと 全体意志ではない と思いますが?

 ★ 私が(私の)一般意志を想定するとしたら↑もその意志の中に入ります。(ただし、といわれてしまったので(T0T)素直に同意するといえないw)
 ☆ これは つまり《ただし》と入れたのは
 ★★ なにか(誰か)の意志が存在するであろうことは全否定できませんが。
 ☆ に わたしが 反応したものです。きちんと説明すべきでしたが これは 一般的な意味での《信仰》のことを想定したかたちになると思います。その《一般的な意味》というのが あいまいになる / これがあいまいだと せっかくの信仰のすがたも きちんと伝わらないという反応を持ったところから 《ただし》と出てしまっています。
 《ただし》は 取り払いますが w-hiteroseさんも 上の一文について いったい どういう《意志》であるかを明らかにすべきだと思います。もし漠然と言ったにすぎないということでしたら わたしが 上の一文を引用しないかたちにして 受け取ってくださるとよいと思います。

 いやぁ むつかしいですね。

投稿日時 - 2008-06-26 21:33:50

お礼

 補足です。
 第三の引用部分について そのあとの文章をさらに引用します。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「しかし、社会の絆が緩み、国家が弱まりはじめると、そして特殊利益が感じられはじめ、多くの小集団が大集団(政府)に影響力を持ち始めると、共同利益は損なわれ、それに反対する者があらわれる。採決に際してももはや全員の一致が支配することなく、一般意志はもはや全体意志ではない(*)。意見の対立と議論が起こり、最良の意見といえども、論争をへないでは通らなくなる」
   * 《一般意志はもはや全体意志ではない》:《・・・もはや社
   会全体において優勢な意志ではなくなる》という意味だと理解し
   ます。
 ・・・・・・・・・・
 それだからといって 一般意志が破壊あるいは腐敗したということになるであろうか? いな それはつねに存在し 不変で 純粋である。しかし 一般意志は それに打ちかつ他の意志に従属せしめられているのだ。各人は 自己の利害を 共同の利害から引きはなしながらも それをまったく分離してしまうことは 不可能だということは知っている。・・・
 (J.-J. ルウソ:社会契約論 第四編 第一章 桑原武夫・前川貞次郎訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり あたかも わが国の《右へならえ》の事象を言い当てているかに捉えられます。特に 問題はないと思います。

 わたしは むしろ 『エミルまたは教育について』から 次のように その思想を整理したことがあります。その筋で――つまり自己流の解釈ということですが―― 受け取っていただければありがたいです。
 《 sympathie 》=共通感覚・同感・共同主観を中心とした捉え方で 同じくこれを 自然法・自然法主体として解釈したものです。

 ☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自然の歩み(自然の教育)=原理 =永久法
 自然人         =原点 =《自然法》
 《同感人》         =出発点 =自然法主体
 同感実践の交通理論  =原則  =共同自治の基本法(憲法)
 社会人        =交通規則 =実定法(法律)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2008-06-27 13:01:36

ANo.34

#29です。

>《一般意志(要するに ふつうの生活態度)》が 基礎として 共通して備わっているという見方です。だとすれば 個性は 背景へ退くのではないかという物言いです。つまりは 装飾品(アクセサリ)説です。

「一般意思が支配する事で、個性が背景に退く」と言う物言いが可能なら、「暴君の支配下で個性が背景に退く」という物言いも可能と思われます。

このような意味での「個性」であれば、それは、単に「外面に現れた差異」のことだと思います。

私が考える「個性」とは、「外面に現れた差異」のことではなく、個人の意思や方便では如何ともしがたい「存在形式」そのものとしての「個性」です。

「外面に現れた差異」を「個性」と考える考え方は、基本的には、「人間=機械」説だと思います。すなわち、「精神」というものの存在をその「機能」にのみ注目して考える考え方です。しかし、もし、「精神」を「機能」として考えるのであれば、人間各人が、「内面世界」を持つことに、特別な意味はないということになります。それも一つの考え方ですが、少なくとも、私の考えとは違います。

投稿日時 - 2008-06-26 12:57:43

補足

 kobareroさん 人生は紆余曲折ですね。ご回答をありがとうございます。
 wikiのように はじめの定義としてだけですが
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・個性(こせい)とは、個人を個人たらしめる特徴である。
 ・人格(じんかく)は、個人の心理面での特性。人柄。または人間の人としての主体。
 ・性格(せいかく)は、その者の性質を表す。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というふうに規定していられれば なんてことはないんでしょうけれど。と言っても 思わぬ発見が よろこびでもあるわけですし。・・・

 まづ 簡単な確認です。

 ★ 「一般意思が支配する事で、個性が背景に退く」と言う物言いが可能なら、「暴君の支配下で個性が背景に退く」という物言いも可能と思われます。
 ☆ これは ちょっと言い過ぎだと思いますので 訂正をお願いしたいと思います。
 つまり ルウソ本人のことは知りませんが わたしの考えでは 《これが普遍的だとみづからが 自由に判断した結果を 自由に 表現していく》 これが 一般意志だと考えます。この一般意志としての生活態度が 自己表現の中核となるならば 《個性は背景にしりぞく》という意味合いで言っていたものです。

 (弱点は 主観の数だけの一般意志があることになるではないかという反論です。そして ここでこそ あなたと同じように メタ・レベルを出して来ます。主観の数だけある一般意志を 調整しつつ もっとも妥当な内容を実現していくのが 一般意志であると)。

 ★ 私が考える「個性」とは、「外面に現れた差異」のことではなく、個人の意思や方便では如何ともしがたい「存在形式」そのものとしての「個性」です。
 ☆ 《目立ちたがり》という或る種の個性は 自分の意志で作り上げたものです。ちょっとやそっとでは直らないでしょうが そのこと自体を認識することができるし そのぶん 自分の努力でつつしむことも出来ます。後者の軌道修正は 言ってみれば 一般意志のはたらきです。
 これらは 判断の形式の 特に傾きとしての 自己表現にかんする形式です。

 これに対して 《存在形式》となると 1000827313 さんの無意識野の理論に近づきます。もしくは 単純に(=飛躍してでも) 信仰の形式のことになります。《個人の意思や方便では如何ともしがたい》ことがらの奥に 一切規定し得ぬなにものかを想定し それとの関係を 或る種の心の態度として 持つところの状態(動態)です。

 もしそのような意味で《存在形式》を取り上げるとすると そこから人が突き動かされて取る表の振る舞いやその情況としては 究極的には 《風は気ままに吹く》という見方が趨勢となると思います。
 《わたしは 双子が生まれぬ前・母親の胎内にいるときから その弟であるヤコブを愛し 兄であるエサウを憎んだ》というような・われわれ人間にとっては ゆえもない不条理が起こりうるという見方です。
 いかがでしょうか。

 いったい覚りを得たという人は どう考えるのでしょう?
 ★ 「外面に現れた差異」を「個性」と考える考え方は、基本的には、「人間=機械」説
 ☆ のほうが 世の中 平和なんでしょうか?

 * もったいぶった言い方になってしまいました。もちろん 覚りに関係している人びとは 闇から光への転換を説いておられると思います。
 →その人たちは 覚りを得ているでしょうか?という不遜な物言いにもなってしまいました。どう締めればよいでしょう? とほほ。

投稿日時 - 2008-06-26 14:25:20

ANo.33

一つの言葉だけでもこれだけ認識に差があるなんて、びっくりです^^普段誰かと会話しているなんて(言葉が通じるなんて)奇跡ですね♪

 性格分類ですか^^。・・・タイプ。動物占いみたいですね。自己分析チックな心理テストでも、性格をタイプ別に分けたりしますね。これに学歴や能力を加味すると今流行りの?キャリア診断でしょうか。(多くの)女の子の大好きな部類です。
 個々人の分析を行い、いくつかのモデルをつくり、人を振り分けていくのが心理テストの類でしょうか。
 統計(信頼性は微妙ですが)的なデーターをある条件のもとに複数(コミュニティになじみのある数)に分類したのが、占いの類?

 多くの人が、たわいもなく分類されたがるのは、これらになんの拘束力もないとわかっているからではないでしょうか?

 今の私達がもし、25才の年に一斉に性格で分類を行い、その結果で、暮らすコミュニティも、住宅環境も、学校や職場も振り分ける。となったらどうでしょう?

 性格なんて他人に決めつけられるものじゃない!そんな1分類に俺の性格は当てはまらん!おしとやかにしている方が得だと思ってたけど、物静かだから一生工場暮らしだなんて!本当はそんな性格じゃない!暴動だ~!革命だ~!wなんて。

 私達が自分の性格を推し量れるのは、知識と経験の中で内省を繰り返した結果です。性格が形作られる過程では、環境に左右されることも大きいでしょうが、自身に理想があれば自ら変えていけるものですよね。誰かに決めつけられたらたまったものじゃありません。自分自身でさえようやっと「推し量れる」程度にしか明らかにならないのに。

自分の性格が認識できるから、個性も持てると思われているのでしょうか?
アクセサリー説は性格でなら理解できます。

 ただ・・・。自分の持っているもの(性格?)を見つめる作業をしていると、意識して変えることのできない属性を、私は持っているのではないかという思いに駆られることがあります。ゲームのように自分で決められる属性ではありません。それは私の先祖の起源であるかもしれないし、私の子孫の行き着く先であるかもしれません。
 そんな思いに駆られることがあるからといって、一般意志(私はこれを普通の態度とも、普遍的な意志とも理解しません)が想定されうるといっているのではありません。私たちは「こうである」ようには存在しないし、「こうあるべき」と決められた存在ではないでしょう?
 なにか(誰か)の意志が存在するであろうことは全否定できませんが。

投稿日時 - 2008-06-26 03:04:43

お礼

 w-hiteroseさん ご回答をありがとうございます。
 話がおもしろくなって来ましたね。たのしくさえなってまいりました。哲学とは こういうものでしょうか。

 今回は 一たん休憩室にでも引き上げて 自由に気楽に対話をするように 述べておられますね。中身は 引き下げたものではないですが。

 《占い》のたぐいについては つねに その横に 反対意見を掲載するという行き方を望みたいです。あらゆる可能性の中から それこそ無限の起こりうる場合を想像してその中から 或る程度 妥当なところを 当てずっぽで 言い放っております。当たるも八卦当たらぬも八卦 どうぞご容赦のほどをと占い氏は 素直に言ったらどうなんだ。・・・お聞きぐるしいところを お見せしました。

 最後の段落 これは おだやかではありませんね。穏やかに述べておられるのですが そうして 必ずしも決めつけて議論するわけでもないですから 自由な楽しい対話の中におさまっていますが その問い求め自体は きびしい内容でもありますね。
 ★ それ(意識して変えることのできない属性)は 私の先祖の起源であるかもしれないし、私の子孫の行き着く先であるかもしれません。
 ☆ これだと 少し片寄ってみるならば 先ほどの占いのたぐいよりも 深刻であるかも知れませんし。・・・
 ★ 一般意志(私はこれを普通の態度とも、普遍的な意志とも理解しません)
 ☆ 一般意志は そもそもは 普遍的な意志として 提出されています。普通の生活態度と解釈したのは わたしです。
 ★ 私たちは「こうである」ようには存在しないし、「こうあるべき」と決められた存在ではないでしょう? / なにか(誰か)の意志が存在するであろうことは全否定できませんが。
 ☆ ただし 民主主義という歴史の趨勢は あるように思います。《普通の生活態度》というのは そういう意味です。外から上から規定されるような存在ではないと わたしもですが つねに 言い続けそれを実現させていくというくせ(エートス)のことです。これが 一般意志です。

 ★ 一つの言葉だけでもこれだけ認識に差があるなんて、びっくりです^^普段誰かと会話しているなんて(言葉が通じるなんて)奇跡ですね♪
 ☆ こう言っていただいて 質問者として よろこばしく思います♪♪

投稿日時 - 2008-06-26 11:56:16

ANo.32

brageloneさん
コメント有難うございました。お言葉に甘えて、またたてつく事になりそうですが意地悪からではなく、私の考えのオカシナ所を指摘していただければありがたいと思います。
その前に、
「無限・神・アウグスティヌスと来たら 信仰のことかと思ってしまいました。」
との事に関して、アウグスティヌスを読んでいらっしゃるのでご理解いただけるかと思いました。さらにbrageloneさんなら唯識をご存知だろうと思い、フロイドより遥か昔に阿頼耶識と言う言葉で、無意識野に言及しているのを想起して頂ければと思いました。同様に、観音経では虚数の解が示されているし、無限集合論も然りです。
さて、皆様方の回答を拝見していて最初の私の考えた事に近いと思いました。それは、行動、反応、表現、など他人から見えるものです。個性は他者との差異だとすると、それもあり得るかとも考えられます。私はその考えを捨てました。それは、純粋にその人個人にあるものを認めようとすると、実社会の中での行動、反応、表現、などで修飾された全てを剥ぎ取り、裸にしたものを考えようとしました。すると、無意識野だけが浮かび上がってきます。即ち情報の受け取り方のみになってしまいました。付和雷同も、へそ曲がりも、趣味グループも、同志も全ては社会的人間関係の中で存在するものであり、これを個性としてよいのか疑問を抱きました。全く素直に「ひとの個性とは」に向き合ったつもりです。
これをユダヤ人が見たら「それ見たことか。本当の言葉は無いのに判ったつもりになっている愚か者奴!」と言いそうです。彼らにしてみれば、折角神から受取った本当の言葉は気の短い指導者が粉々に毀してしまったのだから、物の本質を表す真実の言葉は無いとのこと。しかし、アリストテレス以後論理学が科学となり、名前を付ければその本質を表すという事になってしまいました。例えば原子、原子核、陽子、電子、中間子、Π中間子、ある一定時間にある一定の場所にある一定の確率でいるクオークと次から次へと名前が付けることにより、人間は相手に勝ったと信じているのでしょう。でもまだ見つかるかもしれません。一体何時になったら原子の本質は理解されるのでしょう。
今の私は西洋に追いつけ、追い越せの世界の論理学の世界からはみ出て、ユダヤ人のように言葉と格闘している気分です。
brageloneさんが岡田斗司夫の分類を個性の中に入れられていますが、これは性格と言うより反応様式とでも言い換えることが出来るかもしれませんね。これでよいなら胆汁質等の言葉の方が曖昧模糊として良いかななどと考えてしまいますが・・他の回答者の方の中にも、社会との関わり合いの中での個性の定義をするのは如何なものかと言うか、そぐわないと感じていらっしゃるようですね。極端な言い方をすれば、タクシーに乗ってお金を儲けるのは個性とは言わないと言う事でしょうか。
最後の所で
「それこそ《記憶》に 一般意志や自然法が 理念として条理として規範として 備わっているという想定の問題です。」
と仰られましたが記憶なんてものは魚類、昆虫類でも持っている古い脳の働きですから、自然法は備わっているのでしょうが、上位の理念とか条理が存在しないといけないとは思いませんが・・・
またお言葉を返してしまいました。お怒りになりませんよう。

投稿日時 - 2008-06-25 22:38:57

補足

 1000827313さん たいへんな理論を掲げていらっしゃったのですね。これは 個性論ではないですよ。超えています。
 まづは ご回答をありがとうございます。わたしは 以下の解釈によって このように説かれている無意識論は たしかに《人と人とのちがい》を根底的に明らかにしようとする理論であり それは 少し具体的には こうだと捉えました。つまり 二人の兄弟のうち なぜ弟は 人びとの受けがよくて 兄のほうは悪いのか / あるいは 友達どうしで あいつは何故運良く助かったのに 一緒にいたおれだけが被害に遭ったのか このような問いに対する答えを用意するものだと考えます。つまりこれが個性論だと言ってしまえば そうなのでしょうし ふつうは 別の解釈であるとも思います。
 つまりは ちなみに わたしのおこなった質問の 《Q:3965802 輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3965802.html 》 に対するご回答であると考えます。

 ★★ もし一千億人の人間がいれば一千億の個性があるのであって、それを形作る無意識野が一千億ある。(ANo.24)
 ☆ しかも とは言っても その一千億の互いの違いは 人には分からないという含みになると思うのです。言葉や振る舞いによる表現の形式として捉えられるような《個性》を問題にしているのではないからです。
 ★★ しかし、私が言いたかったのは「眼・耳・鼻・舌・身・意」に、ある情報が来た時「眼・耳・鼻・舌・身・意」がどのようにそれを受け取るのかと言うことです。その受け取り方が個性と言われるものではないのか。その受け取り方は個人の持っている無意識野が突き動かしているのだと言いたかったのです。(ANo.19)
 ☆ おそらく この無意識野は おおかたは 物心がつく前に 胎児のときからの経験において 形作られているのだと推測します。
 (もし それが 無明であって これを明知の順観へと転換するという場合でも その煩悩が 煩悩じたいが 明るい容貌を見せてくるようになって 菩提と見え呼ばれるようになる。その意味で すでに 幼児において この世に二つとない自分自身の無意識野は すでに形成されているのではないかと)。
 ★★ 同じものは無い!では駄目ですか? 個性は個人に所属し、表に表れた反応からは理解できないその個人の持つ特徴そのものだと思いますが・・・(ANo.19)

 ☆☆  視点を変えて こういう見方をしてみましょう。もし 1000827313 さんの個性説を採るとしますと その《個性》は 自己の個性の問題をらくらく超えて 人びとそれぞれの個性とその集合 これらの総体をも 含む。こうなると思います。・・・これでも いいですかね? いいかも知れませんね。どうでしょう。(No.19)
 ☆ ですから 《人びとそれぞれの個性が互いに互いを含む》のではなく いわば互いに 知らず知らずのうちに 空中戦をおこなっている。あるいは 菩薩行としても煩悩丸出しの行としても あたかも中性子線のやり取りをおこなっている。その結果が 《わたしは 双子の弟のヤコブを愛し 兄のエサウを憎んだ》と神をして言わしめた形の表現を 人間は持った。風は気ままに吹く / 故もなく 不条理が起こりうるということ / ・・・。
 ですからして
 ☆☆ 《無限と有限との融合》にかかわっているように思うのです。・・・もはや裏側へ奥へと信仰の階段を上がっていくという方向であると思うのです。(No.19)
 ☆ 《信仰の階段を上がっていく》必要はないのですが そういう《方向》を 言わず語らずのうちに 示しているのではないでしょうか。つまり あらためて
 ★★ 個性は個人に所属し、表に表れた反応からは理解できないその個人の持つ特徴そのもの〔なり〕。
 ☆ のうち さらに
 ★★ 表に表れた反応からは理解できない
 ☆ つまり――だから 無意識野なのですが―― このことは みづからの自由意志とそのはたらきについての意識をも超えているというからには 期せずして 無限(絶対者)の領域へとつながっていると わたしは 捉えました。
 つまり もちろん 1000827313さんは 無意識もアーラヤ識もがそうであるように 無神論と言いますか 経験科学として経験思想として 探究し説いておられる。と同時に それが 無神という絶対者をめぐる理論になっている。こういうことではないでしょうか。
 無神論も有神論も おおきくは絶対をめぐる信仰の問題であるというのが わたしの持論です。
 それは どうでもよく いづれにしても これが 《記憶》であるというとてつもない理論のようです。

投稿日時 - 2008-06-26 01:58:39

お礼

 つまり 《意志》のほうから考える方式ではなく その自由意志をも超えたところに立てる理論であるようです。

 ささやかに それでもわたしは 意志も知解も 記憶とは 一体であると考えます。時間のへだたりを介して 一体であると捉えますので その一体性のもとでは 或る種の規範・条理そして自然法の息吹きを宿しているとは 思っております。
 (三つの行為能力が一体であると なぜ 規範性にかかわるかは 論証していませんが 自然本性として 公理だという扱いです。つまり 無根拠という推論です。これは 決して対抗するわけではなく 無意識にしろ意識にしろそれらの経験世界を超えるという意味であり そういう無意味ということのみを表わすことばです)。
 (煩悩ないし無明 この状態が 明るい世界へ転換するという覚りと智慧が説かれるわけですが もしこれに対してなら こういう説明になります。つまり 人間の能力の極致としてであっても その能力としての覚りや智慧によって 人は 光の領域へと回転するのではないという見方だからです。だから 片や アーラヤ識ないし無意識野を説くことになり 片や 無根拠を持ってくることになるのだろうと思います)。

 ここからの行方は 少し時間をおいて みなさんとともに さらに考えてまいります。もちろん その間 ご批判や まちがいのご指摘を歓迎します。新たなご回答をも。

 * 登るのは 《ひと山》どころではなかったようです。

投稿日時 - 2008-06-26 02:17:58

ANo.31

NO.30です。
とっても遅いですが><NO.1~のお礼欄を拝読して参りました(本と遅すぎです)
NO.1~4 では「そもそも個性は存在するのか?」「個性は ない のではないか?」と問うておられましたね。
NO.8では「個性が自己主張しうるか。」
私は個性それ自体が存在することはない。と思っているので
存在すると仮定された場合の「個性」という言葉の使い方に違う違う~と過剰に反応してしまったのかもしれません。


質問者様の文章の多分な言い換え術?にはまってしまい、まずは、おっしゃることを理解しなければ!と頑張っていたわけですが、わかるところだけを拾い読みすることもできました^^。回答をしてこんなにご意見をいただけたり、意味の説明を促されたりしたことがなかったものですから・・・。と言い訳させて下さい。

私の定義を新たに(新たな、ではありませんが><)NO.30に述べましたので、新たに参加?新たな気持ちで参加?させて頂けますか?

ここを半分伝言板のように使ってしまいました。不適切でしたら、ご面倒で申し訳ありませんが削除して下さい。

投稿日時 - 2008-06-25 11:22:19

お礼

 w-hiteroseさん No.30にて お応えしましたので ここでは 特にコメントは必要ないと思います。

 読んでいただけばお分かりになると思いますが 議論は噛み合っていますでしょ?
 用語や文章が分かりづらかったかも分かりませんが ここまで 辿りつきました。よかったと思います。

 もう ひと登りです。

 * 注文の多い質問者でしたね。

投稿日時 - 2008-06-25 12:33:24

ANo.30

まず、NO.26のお礼欄から

 >文章がわかりづらかったことについては 《個人 / 個人であること / 他の個人と この社会において 共存しているということ》という意味で 《個》と言い表わして 《〈個〉性》と言うのであれば 分かりますという意味です。
 つまり 《人間であること》を意味するのではないかと思いました。

私の定義する個性では意味しません。

 >つまり 《自己と他者とを区別すること》

自己と他者は別のものですからわざわざ区別する必要はないと思います。

次にNO.28の補足欄ですが、他の方へのお礼や補足に目を通していませんでした。
質問者様にとっては二度手間になってしまいましたね。申し訳ありません。

そして、今回の補足欄を拝見して、今までずっと感じていた違和感・なんか話が根本的にかみ合っていないような?感、がはっきりとしました。

やはり、質問者様には「個性とはこういうもの」という前提があるようです。
そう思い至ったのは、これらの箇所の「個性」という言葉の使われ方が気になったからです。
 
 >個性個性と言うけれども どうも その実態は それほどの内容を伴なって  いないのではないか
 >もし個性のちがいは

質問者様は個性とはそれ自体が存在しうるもの。個性は持つことができるもの。
個性それ自体が分析対象となれるもの。

という前提をお持ちです。

個性とはなんぞや?と考える時、そもそも個性それ自体は存在するのか?個性というのは人が持つことができるものなのだろうか?(たとえば「私の個性」といえるか?)という問いがあってもいいはずです。
 しかし、質問者様はすでに個性とは持つことができるものという前提のもとお話をされているので、いつまでたっても理解し合えないのではないでしょうか?

そして私の定義する個性をもう一度説明するとこうなります。

【個性それ自体は存在せず、相対関係の中でのみ現れることができる。それを相対関係の外側から客観的に観れば、個性とはただAとBとの差異でしかない。】

個性とは対象とする相手の中に発見するもので、それ自体は存在できません。
 ですから、、、「私の個性」とも「個性の違い」とも言うことができませんし、個性という実態はどれほどの内容を伴っているか?という問いをたてても意味がないのです。

A男とB子の個性を比べることなどできないのです。
(A男の個性も、B子の個性も存在しないから)
A男とB子の違いをひたすら挙げていくことはできます。でもそれは、A男の個性を挙げたことにも、B子の個性を挙げたことにもなりません。

ですから私は、右へならえの日本人の例でいうと、社会優先が日本人の個性とも個人優先がアメリカ人の個性ともいいません。
 
 ただそういう評価があるのなら、それは「個人より社会(所属コミュニティ)を優先するという個性」が「社会より個人を優先する他者」から発見されただけであり、この関係から脱けて第3者の目で見れば個性でなく違いでしかないのです。

投稿日時 - 2008-06-25 09:48:16

お礼

 w-hiteroseさん ようやくおかげさまで――特には 直前のNo.29で―― 解明へ向けて 目鼻立ちが現われてきたように思います。
 ご回答をありがとうございます。次のANo.31をも合わせて ここにご返事をしたためます。

 おそらく やはりNo.29の質疑応答をご覧になっていただくとよろしいかと思います。
 個性はあるか。ないが 関係性(その差異)としてのみ ある。というご見解についても 問題とその整理がついて来つつあるかと思います。
 差異をともなった関係性 これは 人間存在じたいにそなわったもの(つまり個性)か。あるいは ただ 装飾品のごとく あとから 外において 取りつけたようなものだと言えるのか。
 いま この課題に入っています。

 また そこで 《性格》の分類の仕方として 《王様タイプ / 軍人タイプ / 学者タイプ / 職人タイプ》という分類説がみつかったので 掲げています。つまり これは 関係性としての差異ですが それとして いちおう あると認めなければなりません。そのことも 確認したいと思いますが この意味と形での個性存在説は w-hiteroseさんから見れば まぼろしですか。
 わたしとしましては このように いちおう存在すると思われる個性について それでも それは 装飾品のごとくであって 取り外しさえできるのではないかと見たがっています。そうすると w-hiteroseさんの説に近づくかも分かりません。

 里程標は 立ち上げましたが まだ 行き着く先は さだかではありません。そんなこんなの情況です。

投稿日時 - 2008-06-25 12:28:58

ANo.29

#6です。

>ここから 問題は 二点あると思います。
>《思考・言動》が異なるならば 個性であるか。
  
  思考・言語 = f(個性、状況) と考えれば良いと思います。

>集団に同調することは 個性の有無と関係ないか。

 「個性」という言葉には、3通りの解釈があると思います。

  (1)国語的な「個性」の意味。
  (2)先人が考えた「個性」という概念。
  (3)自分が考えた「個性」という概念。

  哲学が「概念の創造」であるとすると、ここでの議論としては、(1)は除外すべきと考えます。私は、勉強不足で、(2)についての知識がないので、(3)で回答させていただきました。

  (1)の立場では、個性は、内面、外面をこだわらず、他者との差異ということになると思います。その結果、何らかの強制力によって、外面的に差異が生じないような場合、「個性はない」と評価されるのだと思います。しかし、(3)の立場からは、「個性」は外部的なものではなく、人間存在の構造的なものと考えます。従って、集団と同調するしないは、個性には関係ないと考えます。

>これについて どう捉えるかですが ううーん そうだとも言えるし でも そうだから 個性なのだという場合 何が核になっているか なのですが。・・・

 「個性」というのは、「個性的であろうとか、逆に、他者に同調しようとか」の意識や、状況によって左右されるものではなく、「人間存在」そのものの属性であり、構造的なものですから、それ自身が「核」だと考えます。

>いっそのこと やはり自由意志になるでしょうか? 分かりませんが さらに明らかにしていただけると うれしいのですが。

 「自由意志」は「機能」ですから、「個性」の発揮手段です。「自由意志」がなければ、「個性」の発揮そのものができないということでsす。

>つまり 感受性やその意識ですと 一人のひとでも 歳を取るとともに変わっていくでしょうし あるいは 一定の時点でも 場と情況に応じて違ったかたちに現われないとも限らない・・・のではないでしょうか?

 「個性」とは、「感受性や意識」ではなく、「感受性や意識が他者と異なるような存在形式」のことです。「感受性やその意識ですと 一人のひとでも 歳を取るとともに変わっていく」については、メタ・レベルで考える必要があります。すなわち、「感受性やその意識ですと 一人のひとでも 歳を取るとともに変わっていく」”その変わり様”が人それぞれ異なるように人間というものは、「構造的にできている」ということです。

投稿日時 - 2008-06-25 05:54:12

補足

 kobareroさん 解明していただき ありがとうございます。

 まづ前置きですが この際 《wiki:個性=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E6%80%A7》などを当たってみました。その他には 《個人・個人主義・人格・性格》です。なかなか 波長が合わず 議論の発展に向けて わたしは 取り上げにくかったのですが なかで 次の性格分類は おもしろいかと思いました。
 ▲~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《性格 character 》についての 岡田斗司夫の分類
 ○ 王様タイプ:人に注目され認められることを喜びとし、無視されることを嫌う。目立ちたがり。
 ○ 軍人タイプ:勝ち負けに拘る。勝つことを喜びとする負けず嫌い。
 ○ 学者タイプ:ものごとのしくみや法則を理解・発見することに喜びを感じる。
 ○ 職人タイプ:自分の思い通りに物事をやりとげることを重視する。人から見てどうかより、自分の理想に近づくことを喜びとする。(《wiki:性格=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E6%A0%BC》)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これなどは 《個性》の問題にかかわっていると思いました。
 と言っても わたしの場合 人びとに普遍的なと想定される《一般意志》を持ち出して来ていますので このような《個性》も おおきくは そこに包まれるのではないかという見方を捨てきれないでいます。言いかえると このように分類された性格ないし個性それぞれに 《一般意志(要するに ふつうの生活態度)》が 基礎として 共通して備わっているという見方です。だとすれば 個性は 背景へ退くのではないかという物言いです。つまりは 装飾品(アクセサリ)説です。

 今回明らかにしてくださった内容を わたしなりに整理してまいります。
 (1) 《人間存在》は 記憶や知解という行為能力のほかに 意志がある。
 (2) これら三つの行為能力から成る《構造的なあり方》を 意志つまり自由意志を中心にして 捉えることも可能である。
 (3) たとえてみれば 記憶≒司法 知解≒立法を措いておいて 意志≒行政(つまり 意志による自治・共同自治)を取り立てて 分析する。
 (4) 《物理言語》にかかわる感受性そしてやがて思考を 人は 表現するようになる。
 (5) この表現というのは――記憶と知解を経ながら―― 意志において その判断の能力を行使しつつ おこなわれる。
 (6) つまり 記憶と照らし合わせつつ 人は 知解し その思考の複数の成果を得る。これらを選択肢として その中から 自己の意思を特定して表示するべく 選択し決定する。これが 表現行為である。
 (7) このとき 判断の形式が 多少なりとも 人によって異なる。
 (8) 感受性の段階から――あるいは 胎児のときからという見方も出ています―― まさに《人間存在》の《属性》として この自由意志の発揮の仕方に 個人差がある。
 (9) 行為能力などの自然本性そのものではなく 属性であるゆえに この意志の表現形式は 同じ一個の人間においても 変化しうる。
 (10) この可変性をも容れて 自己表現の形式における個人差 これが 個性である。

 暫定的にこうだと仮定して しかも 上のように《一般意志》の問題があると思っています。それは 《ひとの個性とは 何でしょう。》という設問の次に
 ☆☆ 《人と人との違いは いったいどこにあるのでしょう?》
 ☆ と表現してしまっているところに見えています。つまり 個性=装飾品の説です。つまり 《属性》説であれば 存在本体につながっているかも知れません。装飾品だと つけたり 外したりします。

 そうしますと 個性についての《可変性》とは それが どうなっているかに焦点があてられるかも知れません。
 ★ メタ・レベルで考える必要があります。すなわち、「感受性やその意識ですと 一人のひとでも 歳を取るとともに変わっていく」”その変わり様”が人それぞれ異なる〔。〕
 ☆ ビフォー / アフターが互いにつながっているか。
 たとえば 《名前》は その自分史の内容に変化を伴ないつつ 変わりません(変える場合もあるようですが)。《王様タイプ / 軍人 / 学者 / 職人》といった個性分類のそれぞれにおいて その中で 変化するのか。
 いやいや タイプを異にして変化をしたとしても その変化を伴ないながらも 一人の人にとっては おおきく自己同一性としての《個性》でありつづけるのか。
 わたくしは いま現在 装飾品理論のほうに傾いています。いかがでしょう?

投稿日時 - 2008-06-25 11:55:35

ANo.28

お言葉に甘えて、どんどん聞いてしまいます^^。

 >★ 〈ただの差異でしかないものを大げさに個性といってはいないか?〉
  ☆ これですね。《すり寄せ過ぎ》でもないですよ。
 
 > ★ 「個性」をみんなで定義しましょう。というトピックだと思っていた     のですが、違うようですね。
   ☆ 途中から 変わって来ましたね。予測がつかなかったのですから 仕     方ないと思うのですけれど。

     たぶん もう個性という言葉は 要らないのではないかというところ     まで 突き抜けつつありますので ・・・。

これを読んだ後でしたので
 >1) いえいえ この質問は 《個性とは何ぞや》ですよ。

にまたまた???です。やはり、それぞれに「個性を定義する」ことをすればいいのでしょうか?


>(3)文章がわかりづらかったことについては 《個人 / 個人であること / 他の個人と この社会において 共存しているということ》という意味で 《個》と言い表わして 《〈個〉性》と言うのであれば 分かりますという意味です。
私が説明を求められているのですが、食い違いにならないために確認します。

  >この社会において 共存しているということ
この箇所は重要ですか?私は自己さえ認識できる意識があれば光と闇でもいいのですが。

もうひとつ、質問者様の中でもうすでに「個性とはこういうものです。」
というのが、譲れないものとしてある気がします。そんなことはありませんか?

投稿日時 - 2008-06-25 00:12:56

補足

 w-hiteroseさん ご回答・補足説明をありがとうございます。

 ★ やはり、それぞれに「個性を定義する」ことをすればいいのでしょうか?
 ☆ ええ そのとおりです。
 ☆☆ たぶん もう個性という言葉は 要らないのではないかというところまで 突き抜けつつありますので ・・・。
 ☆ というところまで考えが行き着きましたが 基本は 《個性とはなんぞや》です。ですから 《再びの軌道修正も 歓迎です》と書いたと思います(No.21)。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>この社会において 共存しているということ
この箇所は重要ですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 重要です。と言いますか 自己という認識は おそらく 他者の存在を認識するのと同時に 持ったと思います。(考え方としてだけでもです)。その自他の認識が 社会というものの核になると思いますし それは ほとんど同じ意味で 共存ということになると思います。(現実にはどうかという問題もあるでしょうが これは まづ 理念的に捉えてのことではありますが)。
 ★ 私は自己さえ認識できる意識があれば光と闇でもいいのですが。
 ☆ これは たぶん 他者がいて 社会の中にいるから そういうふうに捉えたり考えたりすることもできるのではないかと思うんですけれど。だって そういう意識を 誰かと話し合ったりしなければ つまらなくありませんか。

 ★ 質問者様の中でもうすでに「個性とはこういうものです。」 / というのが、譲れないものとしてある気がします。そんなことはありませんか?
 ☆ あるとしたら それは 《個性個性と言うけれども どうも その実態は それほどの内容を伴なっていないのではないか》という憶測です。これなら あります。
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もし個性のちがいは 取るに足りないアクセサリのようなものだとなれば そのときには 逆に人は 互いに自由にいぢわるをしたり 嘲笑ってみたり おもしろおかしく遊ぶようにして 仕事をし 人生を過ごしても 則を超えないということになると予想されますが 果たしてこのことは 現実可能でしょうか。(No.18へのお応え)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ のように書いていますよ。現実可能になって欲しいと思っています。ちょっと飛躍ですが うそじゃないですよ。

投稿日時 - 2008-06-25 00:47:21

ANo.27

primeapeです。
A25についてです。
鬼神のごとく振舞う存在はあらかじめ悪魔を名乗っており私にとってはインナーチャイルド的な我が子です。
感情をともなうことを証明したのは、とりあえずは、生きていること、悪意ではないこと、存在していることの、証です。

投稿日時 - 2008-06-24 23:06:10

お礼

 primeapeさん ご説明をありがとうございます。

 そうしますと どうなんでしょう。つまり
 ★ インナーチャイルド的な我が子
 ☆ と言うのであれば 他の人は とりあえず いないのですか? 間接的には どうですか?
 わたしの感覚では 一般的には 他者の存在があって そこに 何らかの絡みが起こっているように思うのですが?
 もし自分の中に あたかも飼っているような鬼神でしたら もうさよならしたほうが いいんじゃないかと思うのですけれど。ただ これだけでは やはり 詳しいことは なんとも分からないと言わざるを得ませんが。

 憶測では 誰かの 単純に言えば 悩みを primeapeさんが ご自分の中で あたかも代わりに担っているということではないのですか?

投稿日時 - 2008-06-24 23:27:33

ANo.26

No.21 のお礼欄をよく読んでみました。
前回、「 A 」の部分の説明をお願いしていました。「回りくどかったようです。~最初の★前」までが、その説明だったのですね。さらに長くなっていたのと、「A」の説明が を尊重するという大前提・・・。というのに続くように説明して下さるであろうと期待してしまっていたようで、気づきませんでした。
ご気分を悪くされたかもしれません。申し訳ありませんでしたm(__)m

 >互いの共存を目指す
これが「一般意志・普遍的な人間と社会との意志」でしょうか。

質問者様にとって大事だったのは、「個性とはなんぞや?」ではなく、

「互いの共存を目指すのに、自分とは違うからという理由で争っていることは愚かしいことだ。」

でしょうか? OKですか?
そして、皆さんそう思いませんか?ということであれば、

私は「本当ですよねぇ。争っている人は全然共存なんて目指してませんよね。自分だけが勝者として生き残ることしか、考えていませんからね。もし弱者として残る人がいなければ、勝者同士で争いだすのでしょうね~また新たな差異を見つけて。」こう同意します。

ここまで書いたところで、次の補足欄を拝見しました。

わたしが質問者様の文章をわかりづらいと感じているように、質問者様側でも同じことが起こっているようですね。

NO.17は 私が定義する「個性」であって、同意を得られないことはもちろん仕方がありませんが、意味がわからない、となると賛成も反対もできないので、大変です。言葉というのは難しいですね。私の主張をするのに(個性について)簡潔でわかりやすい言葉を選んだつもりでしたが、、今読み返せば、説明しているのに当の「個性」とい言葉を入れている時点でおかしいかしら?とも、思いました。「他者から区別されること」を挿入しながら読むとしても・・・わかりにくいですね。気づかせて頂きまして、ありがとうございます。でも、お付き合い下さるようなので、理解して頂けるよう頑張ります!

投稿日時 - 2008-06-24 22:46:46

お礼

 w-hiteroseさん ご回答をありがとうございます。

 (1) いえいえ この質問は 《個性とは何ぞや》ですよ。
 《差異の認容》は 関連していると思います。

 (2)★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私は「本当ですよねぇ。争っている人は全然共存なんて目指してませんよね。自分だけが勝者として生き残ることしか、考えていませんからね。もし弱者として残る人がいなければ、勝者同士で争いだすのでしょうね~また新たな差異を見つけて。」こう同意します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうなんですが この議論に入ると やはり質問の趣旨からは それてしまいそうですから 控えます。

 (3)文章がわかりづらかったことについては 《個人 / 個人であること / 他の個人と この社会において 共存しているということ》という意味で 《個》と言い表わして 《〈個〉性》と言うのであれば 分かりますという意味です。
 つまり 《人間であること》を意味するのではないかと思いました。
 つまり 《自己と他者とを区別すること》については 互いの《個人性 / 個人として人間であること》を確認することであって その意味で《〈個〉性》と言えば 分かるのですが。

 そして わたしの文章については ここはどうだ? そこはどうだ?と問うてくだされば どこまでも 説明してまいりたいと思います。
 
 * それでも みなさん よくご回答を寄せてくださっていますよね。ありがとうございます。なかなか ありふれた主題であるだけに 問題がどこにあるのかを掴みづらいようでもあります。

投稿日時 - 2008-06-24 23:19:02

ANo.25

primeapeです。
ご質問とは関係ないのですが今日とてもイイコトがあったのでコメントさせていただきます。

何度も繰り返した自己紹介ですが、
私は何も考えないであたまを真っ白にする特技があります。
ただしコレは仏教的な無の境地や悟りとは違っていまして幸福な体験を伴いません。ただし考えるのではなく四六時中瞑想しながら自らについて悟ろうとする意思を持続させることが出来ます。
その一方でソクラテスのように鬼神を操ることも出来ます。
この鬼神とは和解した悪魔です。
ちなみに私が悪魔を魅了したのは理性や知性ではなく行いの正直さです。
哲学カテには自らが正気かどうかを確認するためにお邪魔しています。

今日この悪魔が感情を伴う声をあげました。
悪魔を自らに内包するとするならば健康な無意識野に呼応することに成功した。
あくまでも地獄在住とするならば鬼束ちひろ的表現で、(彼女は心象を歌う歌姫です)悪魔の声に楽園がこたえた。

悪魔が暗闇を潜り抜けて自分らしさを取り戻しかけたことを意味します。

人間が人間らしく生きることが出来る証明まで、ここまでくれば後は楽勝でしょう。

投稿日時 - 2008-06-24 22:37:12

お礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ううーん。むつかしいですね。

 ★ 鬼神=《和解した悪魔》
 ★ 悪魔が感情を伴う声をあげました。
 ★ 悪魔が暗闇を潜り抜けて自分らしさを取り戻しかけたことを意味します。
 ☆ ううーん。わたしの定義を試みに掲げておきます。
 ・悪魔:死の制作者。すべてを否定する精神。
 ・悪鬼:悪魔の手下。
 ・鬼神=デーモン:悪鬼に傾いた人が出す欲求・欲望の心理現象。
 ・悪魔は すでに 人びとをその束縛から解放した。その残像が残って あたかも まだ はたらいていると思われる。
 ・人によっては あたかも悪魔のもとにある悪鬼のごとき存在として 《感情を伴なう声をあげる》ことはありうると思われる。
 ・《無意識野》については なかなか 分からないです。
 ★ 人間が人間らしく生きること
 ☆ へ向かう人びとは 現実にいるはづだ。

 とは推し測ったのですが なかなか むつかしいです。さらに説明することは もう出来ないですか。

投稿日時 - 2008-06-24 22:56:42

ANo.24

brageloneさん

またまたお言葉を返すようで心苦しいのですが・・・
「すなわち この《無意識野》は 《神》の領域だったのです。少なくとも その《無限》の力を分有するかのように 働いているという想定なのですね。」
いいえ、私は記憶の問題を神の領域若しくは信仰と関連付けて考えた事はありません。あくまでもフロイドの言う意識野・前意識野・無意識野を記憶の問題として持ち出しました。記憶機構は記憶に関したメカニズムであり、それ以上でも、それ以下でもないと思っています。

「《目に見えず心の目にも直接には見えない絶対者のはたらき》だと打ち出したほうが すっきりとするのではないでしょうか。」
種子は煩悩の根源ですので、絶対者・超越者・神・仏から与えられるものではないと思いますが間違っていますでしょうか?

宗教の話になるのは“無意識野自体も無限に存在しうるものと考えます”と言う事から「無限が有限を包み込み 信仰は経験思想を基礎づけると言えると思いますが・・」とのお考えからなのでしょうか?理解が悪くて申し訳ありませんが、無意識野の成り立ちから考えると取敢えず地球上の人間の数だけ存在しうると考えても不思議ではないと思います。もし一千億人の人間がいれば一千億の個性があるのであって、それを形作る無意識野が一千億ある。地球が後何億年存在しうるのか分かりませんが。だから無限に存在しうると申し上げたつもりです。有限とするのは地球が滅びて人間が存在しなくなる時までと言うことであるなら、有限であると言っても良いかもしれません。無限のものを有限の世界に滑り込ませる意図は全くありませんでした。言葉の使い方が稚拙であったと反省いたします。このことが問題を複雑にしてしまってbrageloneさんを混乱させてしまったと・・申し訳ありませんでした。

投稿日時 - 2008-06-24 21:25:57

補足

 1000827313さん こんにちは。(6月25日 記です)。

 これに懲りず どしどし ご見解をさらに明らかにして ご投稿をお寄せください。

 無限・神・アウグスティヌスと来たら 信仰のことかと思ってしまいました。どうも それだけのことのようです。

 批判は大歓迎ですよ。いぢわる――つまり 中身のあるそれ――すら 歓迎ですよ。(自分が いぢわる屋でもあります)。

投稿日時 - 2008-06-25 13:50:15

お礼

 1000827313さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ふーむ。有限の世界においてだが その世界がつづく限りで 無限にひろがり 無限に存在しつづけるという見方。
 そして 無意識野は 意識の世界とこそつながっているとしても 絶対という意味での無限の領域につながるかどうかは 無記であるということ。
 この無意識野は 人の数だけある。その働きが 想定される限りで それは 個性を形成する。

 そうですね。こういうことになりませんか?
 つまり ほかのみなさんは 感受性だとかその経験の蓄積の末 自分からも発信するようになるであるとか そういう表面にも現われてくる個体の歴史 これをもって 個性といえば言えるのではないかという見方でしたが これと比べて どうなんでしょうか。
 この表にも現われた自分史という見方に じつは その奥で 一人ひとりに 無意識野があって そこでこそ いま社会的に表現されていることがらは 根源的に突き動かされているのだという見方を つけ添えたとすれば どうなるでしょう?
 成り立ちますね。そうなりませんか?どうでしょう?

 そして いまひとつの関心は もしそのときにおいても 一般意志という普遍的な思想類型もしくは判断形式に 人は そのおのおのの個性を超えて 自由に 同感し そちらへあたかも収斂すると見るとすれば その個性は いったい どうなるのか これです。
 自然法という思想形式の核が 人びとに共通に備わっていて 個性のもとに自由に その核に基づこうとする運動が 民主主義の向う方向であると見たという場合 その個性は いったい どういう位置づけになるのか これです。
 余分なことを付け加えたかも知れません。
 とりあえず このようなお応えになるかと思います。
 
 * つまり それこそ《記憶》に 一般意志や自然法が 理念として条理として規範として 備わっているという想定の問題です。でも これは けっきょく 《無明‐明知》の問題にもなるはづですが?

投稿日時 - 2008-06-24 21:53:19

ANo.23

後半にやってまいりました^^。その前に・・・。前半に関するお礼欄拝見しました。一生懸命、質問者様の意図をくみ取ろうと努めています。「回りくどかったようです。」で片づけられてしまい悲しいです(T0T)。ですが、たくさんの回答者をお相手していらっしゃいますので大変ですものね・・・。ということで納得することにします。

後半行きま~す。

 >そして さらに水を差すようですが 

全く水を差されていませんよ^^。なぜなら
「箸を右手に持つか左手にか あるいは 箸の代わりにフォークか もしくは鮨を手で食べるか あるいは右側通行か左側かなどの違いに過ぎないとさえ言えるかも知れないと考えたのです。」補足欄前半の最後の部分ですが、すでに同意が得られているように、これは〈個性はただの差異である〉ことを例を出してさらに説明されているだけですから。
ただ、今まで質問者様はこの例のような差異を個性の部類に入れてこられなかった。のだということがわかりました。

 >このように《個性が必ずしも認められないような事例や場合》においても・・・。

私は上記のような事例や場合を個性に含んでおりますので(何故だかはもういいですよね)これ以下は解決済みですね。

 のはずなのですが、
 
 >おっしゃるように 《自意識 / 自他の区別 》が個性であり その《認容》が人として・社会にとって 肝要であるというとき・・・。
違います。質問者様の↑言葉を使うなら
〈《自意識 / 自他の区別 》が、別の《自意識 / 自他の区別 》を《認容》した時、個性が生まれるのです。自意識が他の自意識から認容された場合でも同じです。認容された結果が個性を生むのであり、個性があるから認容するのではありません。 ですから以下の文はつながりません。

 >人として・社会にとって 肝要であるというとき それは 《人を大事にしよう》ということではないでしょうか。という物言いなのです。つまり 個性を取り上げ 個性を問題にしているようでいて そういう問題ではなく 《人間 しかも 一人ひとりの存在》 これを大事にしようという趣旨なのではないか。となりませんか。
 
個性はもともとあるから、認め合うのではないのです。
認め合うことが肝要なのではありません。ですから

 > 個性を取り上げ 個性を問題にしているようでいて そういう問題ではなく《人間 しかも 一人ひとりの存在》 これを大事にしようという趣旨なのではないか。

これには「NO」です。私はそのような意味でお話ししていません。

質問者様は「差異があるから、争いがある。差異があっても認め合って仲良くしよう。」とおっしゃりたいのでしょうか?それとも「個性的じゃないと言われる君もいじけちゃダメだよ。」のほうですか?
でもこれらは質問ではないですから、まだまだ理解が足りないようです。
前回、貼り忘れの質問です。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4111343.html

前者でしたらご参考になるかもしれません。

投稿日時 - 2008-06-24 18:27:07

補足

 w-hiteroseさん ご回答をありがとうございます。
 一つひとつ取り上げていきます。

 (1) ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 その理由の言い方が 回りくどかったようです。
 個人を優先するにしても 社会を個人より優先するにしても どちらも その一定の社会じしんの中において そして 外の社会との関係において それら両面において けっきょく互いの共存を目指していると思われるなら そうである限りで たとえ手法や手段がちがっても 同じことではないだろうか。優劣のちがいではない。これでした。(No.21)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これでも だめですか?
 
 (2)《自他の区別》を持つということは 《自己》も《他者(実際は 他者のうちに 自己と同じような性格や能力を捉えたそのもの)》も どちらも認容しているということですよ。そうではなく たとえ
 ★ 認容された結果が個性を生むのであり
 ☆ というときにも この《個性》は 互いに人であるということを そのほぼ内容の全部としているものではないでしょうか。言いかえると 互いに同じ人だが そして 同じく自意識を持っているが 区分されたかたちで 動き生活しているという相互の認容のことではないですか?
 これは 《個性》のことではないはづです。定義を変えないかぎりはです。あるいは 《個人性》と言えば そうかなとも思いますが。

 (3)★ 「差異があるから、争いがある。差異があっても認め合って仲良くしよう。」とおっしゃりたいのでしょうか?
 ☆ 《争いは しばしば 差異があることを契機や理由として 起こる。差異があることは そのまま その差異の認容ということと同義である》と言いたいのです。

 (4)そもそも
 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 個性とは他者から区別されると言うことです。

私は私。という自意識が、自分ではないと逆に認識できる者が、他者です。私にある自意識が、すべての他者にもあるという前提です。私が他者であるとする全てが個性を持っています。
この世に一つの自意識しか存在しなければ、個性は存在しません。
2つ自意識があれば私(一方)は一つの個性を認めることができます。そして、私でないもう一つの自意識が私の個性を認めることがわかるので、結局2つの個性を認めることになります。(ANo.17)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここが なかなか分からないと申し上げるべきでした。
 たとえば 《他者》と言ったときには すでに《自己》が自己のもとに自覚されているでしょうし その関係も理解されているでしょう。ああ 同じ人間であるようだという了解が 芽生えていることでしょう。
 このことは 個人であること・個人として人間であること といった内容を表わしていると考えます。
 そして その意味で《個人性》という言葉を使うとして その同じ意味で《個性》と言うのなら たしかに 上の文章は分かるのですが そうでなければ なかなかむつかしい議論になっていると考えますが いかがでしょう。

 * お礼欄は 字数制限によって書き切れませんので このように補足欄を利用しています。念のため。

投稿日時 - 2008-06-24 20:58:51

ANo.22

ANo.20からです。brageloneさん。すみません、少し説明をその箇所ごとに致します。
 ▼ 個性は おのおののアクセサリである。ということについて、・・
 私は仰せのアクセサリという表現ではイメージできませんで、こせいというのは実体はあまりない、もので一つに収斂し、その中に埋没し、溶けてなくなってしまうのだと存じています
 ▼ その個性を超えて 人間性に信頼を寄せて 共存の道を問い求め かつ 実現させていこう。ということについて、・・・
 上のようなことで、ないものを超える必要は根本的にはないし、それでも超えるというのは、作為となると存じます。
 ▲《人間性に信頼を寄せる》という主題についてということについて、・・・
 《人間性》という内容と基盤を、人間の現状とそこでの弱さ認め、包含している間は、人間たるものを、人間が信頼するということはリップサーヴィスか、掛け声だけになると存じます。
 以上四点は、投稿拙文の表現の問題もありますが、私のいっていることなのですが。

 ☆ これについてわたしの要望です。二点です。
 (1)★ 《聞いておられるかたもおり、無視している方もおり、聞こえない方もおります》は 人間のことでしょうか。それとも 《唯一の意識》のうちの多面的なあり方でしょうかという質問です。
  ○⇒人間のことなのです。唯一存在の方は、自分の意識内に意識として作り出している、自由を与えているその存在現象の私たちに語りかけているのですが、そういう語りかけを聞ける人、・・・といろいろおられるものです。ということを表現したのです。すみませんね。
 (2)★ 《最後は全部自分の中に取り込み、溶かし込んでしまう》という未来時のことは その未来時を現在において捉えるとすれば いま どういう事態となりますか。摂り込むことはできませんか。~~~
  ○⇒唯一存在のなされていることですから、そしてそれは時間も億単位でのサイクルのはなしです。
  そういう意味ですので、創造者の事情しだいでしかありえません。そして、その話をしたのは、個性というものの有名無実性をイメージしていただくためでした。もちろん個体の尊厳は当然としても、そして、ひととしているというのは個性というものを、衣装と扮装でしてきているにすぎない。それは十全のものを、いっときですが、少しずつモデファイしたり、ディファレンシエイトしたりしているに過ぎない。ということで、本質的ではまったくない。と存じます。私たちが自分の、そして他人の個性と無視することはできないが、それは本質のものではない。ということなのですが。

 以上により、回答の20で補足を書かれた事項は、お応えしたと存じます。無礼をお詫びしますが、どうか何とか読解くだされたく存じます。

投稿日時 - 2008-06-24 18:06:48

お礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 逆に分からなくなりましたが もうお頼みすることも叶わないでしょう。
 ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-06-24 20:23:16

ANo.21

補足拝見しました。質問タイトル通り、「個性」をみんなで定義しましょう。というトピックだと思っていたのですが、違うようですね。

まずは補足欄を拝見した感想からw。
私は哲学を勉強している者でも、何かの勉強をしている者でもありません、アカデミック素人(今つくった言葉w)ですが、哲学者を含む研究者達が必死になって言葉を定義していった気持ちがよくわかりました。日本語を母国語とする者同士でも、言語認識が違うと会話が通じない(T0T)。

まずは、言葉が通じ合えない箇所の穴埋め作業が必要そうです。補足欄を軸に進めていきます。理解に近づけることを願って。

 >★ そう(=優劣の問題)ではない個性の発揮・・・。いくらでもあると思いますよ。
私のこの「そう」は優劣の問題を指し示していません。すでに私は質問文を読みこなせていなかったようです。私は質問文のこの「そう」に質問文のまま、「われわれ日本人は・・・悪評を得ます。」を挿入して読みました。ですから、そう「ではない」個性の発揮とはいったい何なのか、という質問文の箇所を〈悪評ではなく、できれば好評を得られる仕方で個性を発揮するには?〉という意味だと思ったのです。そんなわけで、それに対する一つの回答として「最初から日本人というカテゴリーが良評?好評?・・・」を提示したのです。

 >☆ これは 質問趣旨に《右へならえで行動する・・・の・・・ではない個性の発揮とは いったい何なのかと考えました》と書いたとおり まづ 同じ意味合いになると考えます。
???同じ意味合い?ちょっと待って下さい。質問者様が、「・・・悪評を得ます。」と書かれているので、“右ならえの日本人”という評価は日本人にカテゴライズされない他者が差異を認めただけで、善も悪も優も劣も、もともとは関係ない〈ただの差異〉でしかありません。と異を唱えたのです。

  >一般意志 つまりは 普遍的な人間と社会との意志(つまりは ふつうの生活態度や人と人との交通態度)
とあります。重要そうだというのは伝わってきます。
一般意志・普遍的な人間との意志・普遍的な社会との意志・ふつうの生活態度・人と人との交通態度。をイコールで結んでいらっしゃいますが、理解できません。ご説明頂けますか?ご説明頂けたものを「 A 」としてひとまず置いておきます。ではこの A がはいってる文全体にもどります。

 >個人か社会かどちらを《優先する》にしても「 A 」 を尊重するという大前提があれば そう変わりはないという見方のことです。
最初の「A」までの文は、私の言い方で言えば、(日本人であろうがアメリカ人であろうが→国籍・文化に違いはあれど→違いがあったとしても→)「差異を認めたとしても」でOKですか? Okだったと仮定して進みます。
差異を認めたとしても「A」を尊重するという大前提があれば、そう変わりはないという見方のことです。
この「見方のことです」というのは、もしかして前の段落の「☆ これは」にかかっているのですか?
☆はこういう見方のことです。でOKですね。
☆は私が質問者様の「・・・悪評を得ます。」に対する反論文でしたね。ということは、私の文章を説明して下さっていた!?そして、その同じ事を、「と書いた通り」として質問文に書いてあります。ということでしょうか^^。

ふ~~理解に近づいてきましたでしょうか? 進みますw。

 >ということは もしそうであるならば じつは これは 《個性》ではないのかも知れません。箸を右手に持つか左手にか あるいは 箸の代わりにフォークか もしくは鮨を手で食べるか あるいは右側通行か左側かなどの違いに過ぎないとさえ言えるかも知れないと考えたのです。
「ということは・・・」で私に対する同意、そして
「じつは これは 《個性》ではないのかも知れません。」
これですね。質問者様がなさりたかった質問は。

〈ただの差異でしかないものを大げさに個性といってはいないか?〉

ちょっと私の考えにすり寄せすぎ?無理がありますかねw。
反論お待ちしております^^

疲れてきたので、後半はまた後ほど。
もし私の理解が合っていれば、心理学カテゴリーの質問に私が回答したものがご参考になるかもしれません。貼っておきます。全然違ったらごめんなさい。

投稿日時 - 2008-06-24 16:36:49

お礼

 w-hiteroseさん ご回答をありがとうございます。

 全体として おっしゃっていることをお応えの趣旨としたつもりです。
 《個性》のちがいと言うけれども 優劣の問題ではないとおっしゃっているのでしょうし わたしも そのようだと同意しているところです。
 その理由の言い方が 回りくどかったようです。個人を優先するにしても 社会を個人より優先するにしても どちらも その一定の社会じしんの中において そして 外の社会との関係において それら両面において けっきょく互いの共存を目指していると思われるなら そうである限りで たとえ手法や手段がちがっても 同じことではないだろうか。優劣のちがいではない。これでした。
 しかも さらに もしそうだとすれば その手法や手段の違いは 一般に 個性の違いだと思われているかも知れないけれど 個性というほどの内容すら ないかも知れない。こう言おうとしています。
 ★ 〈ただの差異でしかないものを大げさに個性といってはいないか?〉
 ☆ これですね。《すり寄せ過ぎ》でもないですよ。というのは
 ★★ 自意識や 自他の区別
 ☆ があっても 個性と呼べない場合があるのではないかとまで言おうとしていますから。

 ★ 「個性」をみんなで定義しましょう。というトピックだと思っていたのですが、違うようですね。
 ☆ 途中から 変わって来ましたね。予測がつかなかったのですから 仕方ないと思うのですけれど。

 たぶん もう個性という言葉は 要らないのではないかというところまで 突き抜けつつありますので その点だけは 違ってきていますし 理解しづらいとお感じになるのだと思います。もちろん 再びの軌道修正の発議も 歓迎です。

 
 

投稿日時 - 2008-06-24 17:08:47

ANo.20

 法学部に長く在籍していたので、当初自然法についての勉強も致しましたが、一つの主張としての理論であると今は眺めておりますよ。
 欧米のルネッサンス以降や中世、古代の思想はあまりいいものはないですね。イエスの思想もずいぶん、変改されていると存じます。

 【個人はこの世に生まれ落ちてから 親も違えば環境も違う~~~】
 ○⇒個人という存在も、またそれぞれが違うという現象と見え方も何ら否定してはいません 
 
 【さらにさてですが もし個性のちがいは 取るに足りないアクセサリのようなものだとなれば】○⇒アクセサリーというよりないということなのです。違いとして、みている、現れている、というだけなのです。
 【そのときには 逆に人は 互いに自由にいぢわるをしたり 嘲笑ってみたり おもしろおかしく遊ぶようにして 仕事をし 人生を過ごしても 則を超えないということになると予想されますが 果たしてこのことは 現実可能でしょうか。】
 ○⇒そうしてきた結果がこの創造界であり、私たちみんなの下降であり、苦悩と悲惨なのではないでしょうかね。
  唯一の意識はそうやって夢紡ぎをされておられる所、レベル、存在もあり、ずっと上方で、聖性と至福を紡いでいるところも在ります。
  まことに広範多岐、上から下までお付き合いされておられます。
  私たちはではどこにいるようにするべきか。
  それも、常に唯一の意識は強制にならないように、お声をかけておられます。聞いておられるかたもおり、蒸している方もおり、聞こえない方もおります。そして(サイクル━数億年ごとの)最後は全部自分の中に取り込み、溶かし込んでしまう。その繰り返しを、理由もなく行っている。理由もなくとはわれわれには窺知しえなく、といういみでして。 

投稿日時 - 2008-06-24 15:29:19

補足

 krya1998さん 一つの結論に近づいたようです。ご回答をありがとうございます。

 ▼ 個性は おのおののアクセサリである。
 ▼ その個性を超えて 人間性に信頼を寄せて 共存の道を問い求め かつ 実現させていこう。

 この《人間性に信頼を寄せる》という主題について 
 ● ( A ) いわゆる神学において 尋究し その言葉で表現するようになるか
それとも
 ● ( B ) 経験合理性によって妥当だと納得する言葉で表現するようになるか
 二つの道があると思います。わたしの場合 一般には 後者に重心をおいています。という新たな広場に出たと考えます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 唯一の意識(* 絶対者)はそうやって夢紡ぎをされておられる所、レベル、存在もあり、(* それには わたしたち人間が 部分的に参加するかのごとく 与かっており 生きており) ずっと上方で、聖性と至福を紡いでいるところも在ります。
 まことに広範多岐、上から下までお付き合いされておられます。
 私たちはではどこにいるようにするべきか。
 それも、常に唯一の意識は強制にならないように、お声をかけておられます。聞いておられるかたもおり、無視している方もおり、聞こえない方もおります。そして(サイクル━数億年ごとの)最後は全部自分の中に取り込み、溶かし込んでしまう。その繰り返しを、理由もなく行っている。理由もなくとはわれわれには窺知しえなく、といういみでして。 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについてわたしの要望です。二点です。
 (1)★ 《聞いておられるかたもおり、無視している方もおり、聞こえない方もおります》は 人間のことでしょうか。それとも 《唯一の意識》のうちの多面的なあり方でしょうかという質問です。
 (2)★ 《最後は全部自分の中に取り込み、溶かし込んでしまう》という未来時のことは その未来時を現在において捉えるとすれば いま どういう事態となりますか。摂り込むことはできませんか。
 というかたちで 上の( A / B )二つの道の交流が可能ではないかと考えます。ただ おそらく この課題は いまの質問の趣旨を超えるかとも思いますので もしよろしければ その出発点における基本的な姿勢として おおしえいただけると よいと思います。
 ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-06-24 16:06:28

ANo.19

brageloneさん
・つまりは そのような有限の範囲内において 人はそれぞれ己れの個性をかたちづくっていく。
 ・つまりは 個性に特徴はないんだ。特徴というのは――むろん くせから思想まで 違いはあるのだが―― それでも 目は目であり 口は口である。顔なら顔も顔であり 手足なら手足も手足である。という大きな見方の中で 現われているものなのか。

とのお考えに対して、言葉足らずで申し訳ありませんでしたとお詫びいたします。
阿頼耶識を援用した理由を伝えそこなったかなと思いました。
確かに、表に出てきた反応からその人はどのように受け取ったのかなと憶測はします。しかし、私が言いたかったのは「眼・耳・鼻・舌・身・意」に、ある情報が来た時「眼・耳・鼻・舌・身・意」がどのようにそれを受け取るのかと言うことです。その受け取り方が個性と言われるものではないのか。その受け取り方は個人の持っている無意識野が突き動かしているのだと言いたかったのです。
従って有限なのか無限なのかと問われると無限の方に賭けたくなります。個性とはその人、個人に全知全能の神から与えられた賜物であるとアウグスティヌスなら言うのではないでしょうか?この場合も無限に存在しうるし、無意識野自体も無限に存在しうるものと考えます。同じものは無い!では駄目ですか?個性は個人に所属し、表に表れた反応からは理解できないその個人の持つ特徴そのものだと思いますが・・・
お言葉を返して申し訳ありませんと言いながら自説を曲げないのが私の個性かと言うとそうではありません。違う考えが成り立つかどうかを検証していただいていると思っています。等と言う所は可愛くないですね~ゴメンナサイ。

投稿日時 - 2008-06-24 14:17:58

補足

 1000827313さん なるほど 最初 わたしの文章の座り心地がわるかった理由が分かりました。きちんとしたご説明をありがとうございます。

 そうですね。
 無意識もアーラヤ識も 特別に探究した経験がないそのまま ご返答することになります。
 のですが 要は 《無限》を扱うか《有限》の領域にとどまるかだと判断したのですが? 別のことばでは 《信仰》を交えて述べるか それを禁欲するかだと思うのです。

 無限が有限を包み込み 信仰は経験思想を基礎づけると言えると思いますが 議論は 《神》の扱い方で 二つに一つだと思うのですが いかがでしょうか。
 たとえば この質疑応答で 《神》が出てきたとき わたしは――暗黙のうちにでも断ったかたちで 信仰のことを述べる場合があるにはあるのですが そうでない場合には―― つねに そういう信仰の立ち場を いくつかある内の一つとして扱っているつもりです。
 その前提に立てば 今回の 1000827313 さんの言説は あいまいだと まづ 感じます。いえ あいまいというよりは 無限の領域と有限の世界とを 明らかに融合させたかたちになると考えます。

 最初のご回答には こうあります。つまり たしかに 初めから そういうふうな見解を示しておられたのかなと いまごろですが 気づきました。
 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・成長に伴って経験され、蓄積された記憶はどんどん「無意識野」の中に落ち込み、二度と想起されることは無い。しかし、この膨大になった「無意識野」が、一つの情報が入ってきた時に、それを解釈し、理解し、記憶し、反応するために働いているはずです。(ANo.12)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《二度と想起されることは無い》が 味噌ですね。《精神分析》がこの《無意識野》を分析していると思われているかも知れないが 実際には そうではなく それは
 ★★ それは妄想と思っています。思い出したのならそれは前意識野の話になるからです。( ANo.15)
 ☆ とも そう言えば おっしゃっていましたね。
 すなわち この《無意識野》は 《神》の領域だったのです。少なくとも その《無限》の力を分有するかのように 働いているという想定なのですね。
 これを ブッディスムの《アーラヤ識》として捉えてよいかは にわかには 判別しかねています。たぶん 《種子》などと言わずに――つまりそういう経験的なもの〔のようなもの〕を持って来ずに―― 直截に 《目に見えず心の目にも直接には見えない絶対者のはたらき》だと打ち出したほうが すっきりとするのではないでしょうか。
 それで この
 ★ 無意識野自体も無限に存在しうるものと考えます。
 ☆ という命題についてです。これは もうすでに 信仰の領域に両足を踏み入れていると思うのです。つまり 先ほど《精神分析》に対する批判点としての
 ★★ 〔何らかの表象を得たというのであれば つまり〕思い出したのならそれは前意識野の話になるからです。( ANo.15)
 ☆ というのと ちょうど方向を正反対にしながら 同じように 《無限と有限との融合》にかかわっているように思うのです。片や 経験世界へとその表へと出てくる方向であり 片や もはや裏側へ奥へと信仰の階段を上がっていくという方向であると思うのです。
 
 こういう話になりませんか。つまり 《信仰であるのなら 無意識野があろうとなかろうと わたしは何ものかをなぞにおいて 信じている》ということにです。そして その信仰を直接に論じるのでないならば 無限の領域を有限の世界に 持ち出してくることは 極力避ける必要があります。前者が 後者の世界に つながっているのだという発言も 不用意にするべきではないと考えます。しても いいのですが それは 信仰つまりおのおのの主観真実におさまるものだという前提が どこまでも 有効でなければならないと思うのです。

 ですから 1000827313 さんの説かれるところは 信仰という主観が 個性であるということになるかと思います。
 無意識野をもし説明の中に出さないとすれば そのときには みなさんと同じように 感受性やその経験の蓄積や自己の見識の形成やという自分史の問題になるのだと思います。

 視点を変えて こういう見方をしてみましょう。もし 1000827313 さんの個性説を採るとしますと その《個性》は 自己の個性の問題をらくらく超えて 人びとそれぞれの個性とその集合 これらの総体をも 含む。こうなると思います。・・・これでも いいですかね? いいかも知れませんね。どうでしょう。

投稿日時 - 2008-06-24 15:28:25

ANo.18

 ANo.16から   bragelone さん
 直前の 1000828313 さんのご回答と、bragelone さんのお応えを拝読いたしましたが、難しい思索にはついてはいけません。でも私の回答に対するお応えに関して、私の認識の範囲で、余計なことを付言したく存じます。

 なお、今までの、そしてこれからの拙文が踏んでいる私の足などについて拙くも申述させていただきます。
若い方もよくザインとゾルレンとかを対比してお考えになられ、私も対象たる存在や事実とそれを規範する当為とを、対比してきましたし、その対比される関係はあるのだろうとは、今も否定はしておりません。
 でも事実とか、対象客体とかいうものの存在性は、力であり、その凝縮であり、意志と観念、つまりは根拠基盤から価値理念に差し向けられた当為を本体としていると理解してきております。
 そういう意味の当為規範が存在であり、そしてそれが生命なのだ。生命とは須らく、規範であり、当為以外のなにものでもない、という認識をしております。これは論理や演繹の結果ではなく、そうだったのかという認識です。
 客体対象というものも決して、固定の、あるいは単にある存在などではない。価値実現への当為プロセスの一姿以外ではない。ということです。
 当為は存在であり、存在は当為である。とういうことで、それは森羅万象が根源なる一なる当為を父としそして母として、階層的に、数珠のように繋がって存在し、帰阪している当為であるという構造的見方をしております。
 当為ですから規範であり、当然ある意味では倫理かもしれません。論理の条理かもしれません。そして社会的国家的規範の道徳や法律かもしれないし、生理や生物、自然界の法則かもしれません。
そういう意味で当為ということばをつかっております。
 基本のことですが、宇宙や創造界はあるものでも、できてきたものでもなく、意志と当為で、目的を究極者に差し向けて、創られた、創造したもの以外ではない。自然にあるものとは、そんなものはない。身の回りのいかなるものといえ、もたらされたもの、必然でしかない。という思考を正しいと存じております。一なる意識からの贈り物でないものはない。ということなのですが。

 そしてお書き込みに以下の拙文を添えさせていただきます。
 ★ ○一なる神が多となるために衣装を着て、扮装を凝らして、来ている結果を、その表れ、現れを見て、~~~ 中身はおなじではないでしょうか。
 ☆ この《中身はおなじではないでしょうか》の個性を 個性たらしめる要素は ~~~倫理観にあるのではないかと。○このことについて⇒唯一の方という意識の個的表れ、現れであり、生命であり、当為である、ということなのです。当然に同じなのでしょう。それをヴァラエティでみせているのが、この一なる方の創造の観念に内在している、魔術、誘い込みの原理、仕方なのではないですか。みな同じだと存じます。取り留めなく繰り返しながら、人を惑わしてみな違うようにしていて、実は同じものなのですね。この魔術と、続き方、見方、その位置が森羅万象のヴァラエティをみせている曲者です。
★ 舞台で衣装を着て演技しているのは、神自身ではなく、神の思いという力と当為でしかありませんが。○⇒神というか創造者は内在し、超越しており、知覚対象や、経験している主体はその創造者自体ではなく、作り出したものだという意味です。夢、空想です。
 ☆ きちんと この一文を読むのは ~~~ 個性個性だと言っても どうも 歯ごたえがないのではないかということになるように思います。○⇒個性は実体的にはない。単なる見方、経験の仕方、関係や位置でしかない。みな一つの要素、材料でしかない。と存じております。これは論理演繹や、科学探求ではなく、そうでしかないという認識です。
 ★ 「存在・個人・判断力・生活・生きた歴史等々があるだけだと思えてきますから。」それとそのように現れている、その位置の個たる生命性だと存じます。
 ☆ とおっしゃるときの《個たる生命性》は~~~個性の問題に直接にはかかわらないのではないでしょうか。○⇒同じ生命性が個として意識され、なんとか区分分別しながら世界を構成し、認識しようとしている涙ぐましい、神なる意識のやらせでしょうね。ひどい方ですね。
★(実際に《生命》が問題になるのは どうしても具体的な《個》にかんしてであると言わねばならないからには これは 人間存在や生命の尊厳という意味合いのほうで 捉えられることだと思うのです。)○⇒全ては神であれば、当然そのように対していけるように自分を鍛錬しておりますが。

投稿日時 - 2008-06-24 12:12:32

お礼

 krya1998さん ご説明をありがとうございます。

 承りました。分かりました。
 ただ もしそうであるならば これは 《人間性》の問題であると考えます。一つひとつおっしゃることに承知いたしましたが すべて 人間であるとは何かに対する答えだと思います。
 
 別様の見方では 西欧において《自然法》という概念があります。人間存在に備わる自然本性 そこにやはり備わると想定される条理・人倫・規範のことです。したがって ちなみに この自然法は 神の法・永久法のもとに従属しているという世界観です。
 個人はこの世に生まれ落ちてから 親も違えば環境も違う 顔も違えば現われ出る能力も違う。これを 個性と言うか否か。言っても言わなくても その違いについて もし《自然法の人》であるならば 互いに 話し合いをつうじて 同感し合える社会性を持ち 共存していけるという思想だと思います。
 
 さて そうではあっても もしこの《人間性》が おもな問題であるとするならば その限りで言って 《個性》は取るに足らない互いの差異だということになります。むしろ そういうご見解を示していただいたことになります。

 さらにさてですが もし個性のちがいは 取るに足りないアクセサリのようなものだとなれば そのときには 逆に人は 互いに自由にいぢわるをしたり 嘲笑ってみたり おもしろおかしく遊ぶようにして 仕事をし 人生を過ごしても 則を超えないということになると予想されますが 果たしてこのことは 現実可能でしょうか。

投稿日時 - 2008-06-24 13:19:10

ANo.17

個性とは他者から区別されると言うことです。

私は私。という自意識が、自分ではないと逆に認識できる者が、他者です。私にある自意識が、すべての他者にもあるという前提です。私が他者であるとする全てが個性を持っています。
この世に一つの自意識しか存在しなければ、個性は存在しません。
2つ自意識があれば私(一方)は一つの個性を認めることができます。そして、私でないもう一つの自意識が私の個性を認めることがわかるので、結局2つの個性を認めることになります。

右へならえの日本人。「個人より社会(所属コミュニティ)を優先するという個性」は「社会より個人を優先する他者」から認められたものです。優劣はありません。
そうではない個性の発揮・・・。いくらでもあると思いますよ。優劣とは結びつきませんが。
最初から日本人というカテゴリーが良評?好評?を得るという目的でw他カテゴリーを認めて発言してしまえば良いのではないのでしょうか?
優劣というのは、ことさら差異を強調して大きな声をあげた方につくられていくものですから。

投稿日時 - 2008-06-24 09:44:16

補足

 w-hiteroseさん ご回答をありがとうございます。

 少しこれまでとは違ったご意見を承りました。ただ
 ★ そう(=優劣の問題)ではない個性の発揮・・・。いくらでもあると思いますよ。
 ☆ の事例をお聞きすれば どうなるか分かりませんが まだわたしは頑固をとおすことになりました。次のような事情です。

 先に 細かいところですが その確認から入ります。
 ★ 右へならえの日本人。「個人より社会(所属コミュニティ)を優先するという個性」は「社会より個人を優先する他者」から認められたものです。優劣はありません。
 ☆ これは 質問趣旨に《右へならえで行動する・・・の・・・ではない個性の発揮とは いったい何なのかと考えました》と書いたとおり まづ 同じ意味合いになると考えます。《個性》という規定は そのあとに考えます。
 個人か社会かどちらを《優先する》にしても 一般意志 つまりは 普遍的な人間と社会との意志(つまりは ふつうの生活態度や人と人との交通態度)を尊重するという大前提があれば そう変わりはないという見方のことです。
 ということは もしそうであるならば じつは これは 《個性》ではないのかも知れません。箸を右手に持つか左手にか あるいは 箸の代わりにフォークか もしくは鮨を手で食べるか あるいは右側通行か左側かなどの違いに過ぎないとさえ言えるかも知れないと考えたのです。

 そして さらに水を差すようですが このように《個性が必ずしも認められないような事例や場合》においても おっしゃるような
 ★ 自意識や自他の区別
 ☆ は存在すると思うのです。同じ左側通行で走っていても 人と車の区別 前後の車との違い あいつはスピード狂だ またあの車は安全運転だ等々の区別は ふつうのことなのですが そしてこれらを個性と言っているようですが どうもその中身は 薄いのではないか こう思ったのです。
 逆に言えば こうなります。
 おっしゃるように 《自意識 / 自他の区別 》が個性であり その《認容》が 人として・社会にとって 肝要であるというとき それは 《人を大事にしよう》ということではないでしょうか。という物言いなのです。つまり 個性を取り上げ 個性を問題にしているようでいて そういう問題ではなく 《人間 しかも 一人ひとりの存在》 これを大事にしようという趣旨なのではないか。となりませんか。
 あれぇっ。言葉づかいの問題になったんでしょうか。  

投稿日時 - 2008-06-24 11:03:31

ANo.16

 【 ただ ここで まだ 釈然としないんですよね。《みづからの個性を発揮したものが 個性だ》と言っているようにも 受け取れるのです。】
  ○発揮しないで、する必要もなく、そういう位置の個としての生命性なのではないかと存じます。

 【 存在とその個人 これは どう考えても 大前提であり 動きません。むしろ それだけなのでしょうか。それなら それで いいですし そして わづかに それなら どうも《個性》ということばは ふさわしくないと思えて来ます。存在・個人・判断力・生活・生きた歴史等々があるだけだと思えてきますから。】
  ○一なる神が多となるために衣装を着て、扮装を凝らして、来ている結果を、その表れ、現れを見て、その違いや特徴をいろいろにいっているのだと存じます。中身はおなじではないでしょうか。舞台で衣装をきて演技しているのは、神自身ではなく、神のの思いという力と当為でしかありませんが。「存在・個人・判断力・生活・生きた歴史等々があるだけだと思えてきますから。」それとそのように現れている、その位置の個たる生命性だと存じます。

投稿日時 - 2008-06-24 06:41:02

お礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。
 お願いですが 直前の 1000828313 さんへのわたしのお応えを先にお読みいただけるでしょうか。そこと密接につながったご返事になります。

 今朝いただいたNo.15&16のご回答を読んで 新たな進展が わたしの中にありました。
 それは 個性には 多少の当為論が入っていて 個性と呼べる個性になってくるのではないかという見方です。
 ★ ○一なる神が多となるために衣装を着て、扮装を凝らして、来ている結果を、その表れ、現れを見て、その違いや特徴をいろいろにいっているのだと存じます。中身はおなじではないでしょうか。
 ☆ この《中身はおなじではないでしょうか》の個性を 個性たらしめる要素は 多少とも ことの善悪にかかわるような倫理観にあるのではないかと。
 ★ 舞台で衣装をきて演技しているのは、神自身ではなく、神の思いという力と当為でしかありませんが。
 ☆ きちんと この一文を読むのは むつかしいと感じますが そして 従って ほんとうは 感覚で受け取っていいかどうかも分かりませんが でも そうするとしますと この《当為》が かかわってくるのだという見方です。多少でも かかわっていないと 個性個性だと言っても どうも 歯ごたえがないのではないかということになるように思います。

 ★ 「存在・個人・判断力・生活・生きた歴史等々があるだけだと思えてきますから。」それとそのように現れている、その位置の個たる生命性だと存じます。
 ☆ とおっしゃるときの《個たる生命性》は 必ずしも 個性の問題に直接にはかかわらないのではないでしょうか。実際に《生命》が問題になるのは どうしても具体的な《個》にかんしてであると言わねばならないからには これは 人間存在や生命の尊厳という意味合いのほうで 捉えられることだと思うのです。

 いま例として思い浮かべるのは これは 控えるつもりでいた集団としての特殊性としての個性ですが。たとえば 人質を犯人の手から解放しようというとき 人質の生命を第一に考えて 犯人の要求を飲み その仲間の囚人を解放するまでの処置(つまり 超法規的措置)を取るという傾向は 個性ではないかと思います。
 でも この当為論・倫理観のからみも まだまだ 個人としての個性を出すまでの中身を持つかどうか さらに考えてまいります。

投稿日時 - 2008-06-24 10:16:38

ANo.15

bragelone さん

又難しいコメントを返されて困り度は最高です。
《人それぞれの個性によって培われたものが 個性である》
私の考えではその通りです。無意識野そのものがその個人のものであり、何人たりとも侵す事の出来ない領域だからです。精神科ではこの領域に土足で踏み込んで精神分析をしているのだと言うかもしれませんが、それは妄想と思っています。思い出したのならそれは前意識野の話になるからです。とフロイドを信じておきます。
この無意識野の領域に踏み込む事の出来る存在は「神」、「仏」、「絶対者」、「超越者」などという事になりますでしょうか。一人の人間がその個人的存在として尊ばれなければならないのはこの「無意識野の領域」を持っているからと思いますが如何でしょうか。役に立つ人間か否かは関係ありません。
ですから、集団への帰属意識が強くなろうと、なるまいとどちらでも良いと思います。反社会的行動を罰するのは別の次元の話と思いますが・・
お答えになったでしょうか?

投稿日時 - 2008-06-24 05:32:05

お礼

 1000827313さん ご説明ありがとうございます。

 なるほど 堂々めぐり(自同律)も それとして 成り立つという見本を見せてもらったかも知れません。

 ここで きょう 新しい日の明けるとともに わたしの中に進展があったかも知れません。あったようです。1000827313さん そして 次のご回答の krya1998 さんのご解明を承けて 個性の現われ方には どうも 当為すなわち倫理がかかわっているのではないかと思うようになりました。

 でも
 ★ 反社会的行動を罰するのは別の次元の話と思いますが・・
 ☆ とおっしゃるように 不法・違法の行為の問題にまでは いかない段階の倫理だと思います。
 ★ 役に立つ人間か否かは関係ありません。
 ☆ と言える段階にとどまったところでの倫理観です。自己顕示欲がふつうか少ないか強いか ちょっとしたことで 自分が悪かったばあい それでも 自分が悪いとは どうしても言わないとか その程度の段階において 倫理がかかわっているとき おそらく 個性が出てくる。ということではないかと思いました。

 そうでないと こうなります。すなわち
 ・人は 白紙のままで 生まれてくる。
 ・胎内にいて 母親の状態から何から すべての環界からの情報を受け取る。
 ・そこから始まって 自分も発信するようになり 自然環境なり社会環境なりすべての自己にとっての外部との応答が 展開される。
 ・なるほど 人によって 感受性が違い そこから形成されてくる見識や見解も違ってくる。けれども それら意見や思想の違いにかかわらず おおむね人間の思考や想像の可能性は 限界があると言えるだろうし そこに未知・未開の分野があるにしても 大枠の能力の範囲は 悲しいかな 決まってくる。つまりは
 ・つまりは そのような有限の範囲内において 人はそれぞれ己れの個性をかたちづくっていく。
 ・つまりは 個性に特徴はないんだ。特徴というのは――むろん くせから思想まで 違いはあるのだが―― それでも 目は目であり 口は口である。顔なら顔も顔であり 手足なら手足も手足である。という大きな見方の中で 現われているものなのか。
 ・なあんだ。つまんねぇーの。

となりませんか。多少の倫理がからんで来ないとです。
 次の krya1998 さんへのお応えに継ぐかたちにもなります。

投稿日時 - 2008-06-24 09:48:03

ANo.14

primeapeです。
brageloneさんの立ち上げる最近のご質問は精神的な最弱者の救済と道案内が主題にお見受けします。
以下は精神世界の住人たる鬼神の声をとりとめも無く書いたものです。
判断材料としてください。

主観とは「主観的存在」として仮に定義するものです。その人の本質を表しているとは限りません。特に悪党を自認する人なんてそうです。

無意識世界に住人達は自らの本質に、主観の回答又は行動に還元する出力(心の鏡の反映)など通して間接的に触れているのみです。それゆえに自己の同一性に対する亀裂たる迷いが生じます。

「個性」に関しては鬼神たるメチャンコ悪魔君が一時何度か触れました。個性たる言葉を投げかけても精神世界には反響がありません。したがっていわゆる「外見」又は上っ面などの現実的な回答のみが正解の可能性があります。個性から心の本質に迫れないとするならば、そこで言う本質とは無意識の住人と同じくどこまでも広がっていく境界の無い存在かもしれません。少なくても脳を制御している無意識には心の本質についての認識(又は思考)でそれが限界かもしれません。インドの古典に語る「それは存在しない」がやや乱暴で誤解を生み易いのですが一面で真実かもしれません。

投稿日時 - 2008-06-23 22:12:57

お礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 わたしの解釈では 意識上も意識下も引っくるめて また 自己の中に芽生えるにしろ 外(つまり他者の意識)からやってくるにしろ 鬼神は 大きく心理の現象であり わたしは デーモンと呼んでいます。
 これは おそらく 主観そのものではないでしょうね。いわゆる心ではないでしょう。そして たしかに 自己の同一性を錯乱させているかも知れません。
 類推によって 単に わたしの経験に当てはめただけだと思います。

 * 主題として なにやら 大がかりなことをおっしゃってますね。たぶん わたしは いつも 問題意識を絞って 一点突破だけを思っていると思います。ひろがりが あるでしょうか。出るでしょうか。

投稿日時 - 2008-06-23 23:24:45

ANo.13

自然なもの、無機質なもの或いは機械的なものというのは失敗がありません。法則秩序に従って不平不満もありません。

人間は知っていることでも、わざとでもないのに失敗をする。
ミスや勘違いばかりの経験をするので可能性を探ったり目標を立てます。
実態そのものというよりその目標の根拠が「個性」です。

何に成功しつづけるかより何を間違いやすいかに個性があります。

投稿日時 - 2008-06-23 19:14:03

お礼

 えっ!? なんですって!?
 ――その前に miko-desiさん ご回答をありがとうございます。――
 ★ 何に成功しつづけるかより何を間違いやすいかに個性があります。
 ☆ いまいちど えっ!? 個性とは 発揮するものではないのですか?

 自己の心あるいは夢あるいは思いあるいは野望あるいは ひょっとして 下心も でしょうか これらを表現したり実現に移そうとしたりして どこかで しくじったり へまをやらかしたりするときの傾向のようなものが 個性なんですか?
 ★ ミスや勘違いばかりの経験をするので可能性を探ったり目標を立てます。 / 実態そのものというよりその目標の根拠が「個性」です。
 ☆ 間違いやすいその傾きをも 考慮に容れて さらに新しい《可能性を探ったり 目標を立てたりする》ときの《根拠》が 人それぞれの持つ《個性》だということでしょうか。
 あっ そうですね。つまりは 大きく広くは 自分史であるし その判断の傾向や形式にかかわっているということでしょうか。

 一時は どうなることかと思いましたが こういう解釈でよろしいでしょうか。だいたい みなさんと同じようなご見解とお見受けしました。ということは いぢわるくて すみませんなのですが 《行動の軌跡などについて 個性が発揮されたところを分析すると その基礎に 個性がある》というふうに 響いてしまうんですけれど。・・
 あぁ われは まよえるこひつじなり。

 * 《個性》を定義するのに 特別の根拠はないし 要らないということなんでしょうか。

投稿日時 - 2008-06-23 21:26:33

ANo.12

brageloneさんの質問はいつも奥が深く、何か口を挟むと、違う見方を要求されそうで「う~ん」と唸って拝見しているだけです。今回は清水の舞台から飛び降りて見ます。

個性の定義はその人らしさのあり方と取ります。ここで突っ込まないで下さい。先に進みませんので・・・

恐らく「記憶」だと考えています。胎児の時代に母体の鼓動を聞き覚えているようです。(神経の中で聴覚系の発達が一番早いとの事。)この時、母親の精神状態により当然のこととして心臓の鼓動は変化しています。大雑把に言って、母親の妊娠中の生活状況や夫婦の問題、外的・内的ストレスの状態が第一子と第二子の時と全く同じとは考えられません。同じお腹から生まれてきても、兄弟は他人の始まりと言われる所以と認識しています。この記憶も長持ちせずに、フロイドの言う「無意識野」に落ち込んでしまう(唯識で言うところの阿頼耶識と言い換えてもよいです。 )。一歳のとき、二歳のとき、小学生の時などの成長に伴って経験され、蓄積された記憶はどんどん「無意識野」の中に落ち込み、二度と想起されることは無い。しかし、この膨大になった「無意識野」が、一つの情報が入ってきた時に、それを解釈し、理解し、記憶し、反応するために働いているはずです。この「無意識野」は人それぞれの持ち物であり、決して共通のものは無いはずです。我々はそれを“個性”と言っているとするならば如何でしょうか?
勿論、その時代、時代による社会的制約はあるものの(これを理性と言うかどうかは知りませんが・・・)、基本的にある個人が経験したものを、全く同じように追経験することは不可能です。当然のこととしてそれまでに蓄積された「無意識野」は異なるからです。「そうではない!」と思いながら、「まあ、それにしておくか。長いものには巻かれろというから。」と言うのは個性ではなく社会的制約の範疇の問題かと思いますが。
フロイドの説を援用しましたが、唯識の阿頼耶識での種子(しゅうじ)が起こり末那識、六感からの煩悩の発生も同じように説明できると思いますが。

投稿日時 - 2008-06-23 19:00:36

補足

 1000827313さん ご回答をありがとうございます。
 いつも読んでいてくださったとか。重ねて感謝申し上げます。けっこう ざっくばらんな性格だと思いますので もし何かありましたら ご参加ください。

 まづ ANo.1へのお応えとして わたしは こう書きました。
 ☆☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・ふと 思い浮かんだのですが rongo-dogさんのようにみづからの歴史に触れて お話をされるとき――そしてそれは 決して 恨みつらみで愚痴を言うためではなく 過去を顧みて 未来に対処するためにおっしゃっていると言わねばならないようなのですが このとき―― そのように人それぞれのみづからの人生の歴史 これが 個性なのかなぁというものです。
 となると――もしそうなると―― ただし 個性は 人と人との違いの問題を はじめに=基本的には 問うていないと言ってもよいのでしょうか。そう言うべきなのでしょうか。
 つまり こうです。そもそも生まれつきには 個性はないし 人間存在じたいにも 個性はない。ただ その後の生きる過程で 人それぞれに情況の違いや いくらかは互いに違った生き方をすることがある。もしそうして来ているとするなら その部分が 個性だとなります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この趣旨に 深層心理・精神分析あるいは 唯識の理論 これらを 下支えにしてのごとく 加味して 個体の歴史のことを あらためて打ち出して来られたと受け取りました。
 胎児のときからの自分史ですね。
 また これまでは 意識上のことが主だったのですが 無意識の領域を出して来られた こういう内実です。 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 成長に伴って経験され、蓄積された記憶はどんどん「無意識野」の中に落ち込み、二度と想起されることは無い。しかし、この膨大になった「無意識野」が、一つの情報が入ってきた時に、それを解釈し、理解し、記憶し、反応するために働いているはずです。この「無意識野」は人それぞれの持ち物であり、決して共通のものは無いはずです。我々はそれを“個性”と言っているとするならば如何でしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ぜいたくな不満 あるいは まるで因縁をふっかけるような要望を述べるとしますと けっきょく No.11の krya1998 さんへのお返しでも書きましたように 《人それぞれの個性によって培われたものが 個性である》と言っているように響くのです。
 はじめは 母親の胎内にいて かのじょの心臓の鼓動を聞くこと つまりは そういう受け身から始まって その感受性を鍛えるとともに 自分からも反応するようになり さらには 自己の見解を形成して 人は 互いに 社会的な交通をおこないつつ 共生する。
 いぢわるく捉えれば 人は 生きるから生きる。個性は作られるべくして作られ さらにこれを発揮するようになる。その結果・その成果が 個性なのだと。
 いやぁ わたしは 天の邪鬼なんでしょうか!!!???
 
 ★ 「そうではない!」と思いながら、「まあ、それにしておくか。長いものには巻かれろというから。」と言うのは個性ではなく社会的制約の範疇の問題かと思いますが。
 ☆ 右へならえの問題ですね。このとき 大きくは日本という集団のもとに生まれ落ち 特定の集団にも入り そこで だんだんと馴染んできて 大概は 集団への帰属意識が強くなると思うのですが 一匹狼ではなくても 集団とともに行動していて なおかつ 個性があるという事例は あるのでしょうか? ないでしょうか? こんな問いも持ちました。
 
 * 要領を得ないお返しで すみません。これまでの質疑応答の中で けっこう 話は噛み合っていたとも思うのですが。わたしも あらためて読み返し 何か浮かんだら この 1000827313 さんへのお礼欄にでも 書きこませていただきます。

投稿日時 - 2008-06-23 21:06:57

ANo.11

 なんとbrageloneさんでしたか。こんにちは。

 【ただ それだけでは また新しい人が その分担する仕事を埋めれば もう 旧い人は 個性がなくなるというように思えて来ます。個性が過ぎ去ってしまったということもあると言っているように 思えてきます。】
 ○実際、その通りでしてね。いろんな職場でもそういうことが起こっていますね。でもそれへの対応策としての個性性ではいやですよね。自分本人としても。それは特技や機能価値としての存在性ですものね。
 
 存在性というならば、おかれている位置、全ての状況、視点。そこでの生命性のことではないでしょうか。
 そういうものを一定のことを果たすための機能性の観点から、古くなったとか、遅いとか、量が少ないとか、大小で価値的な判断をするのは、片時、一時の人間のご都合を中心にしたやり方でしょう。
 ですから、そういう社会では知的障害や身体障害のある方や老人などは価値性がなくなる。戦時の軍隊みたいなものでしょうね。
 
 それでは人間の在り方としては、brageloneさんが思っておられるように、はなはださびしい、変則、一方的ですよね。
 文化や人間の歴史はそれをどうかかわり、十全な仕方に近づくかの事でしたかね。
 私は(人を含め)そのものの、位置と存在性、生命性という個という在り方が個性だと存じます。
 みんな同じですが、個になりおかれたところと状況でその存在がでてくるのでしょうね。
 基底はみな同じ意識で、それが個として現れている状況だと存知m巣が。
 私自身、そういう扱いをいただいて、この年まで、こうやってみなさんの中で生きてきています。
 能力も、価値性もありませんし、なんの役にもたちませんでして。
 いえ間違いばかり、迷惑ばかりでこの年齢になりました。

投稿日時 - 2008-06-23 17:32:32

お礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。
 そうですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そのものの、位置と存在性、生命性という個という在り方が個性だと存じます。
 みんな同じですが、個になりおかれたところと状況でその存在がでてくるのでしょうね。
 基底はみな同じ意識で、それが個として現れている状況だと存知ますが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ぜいたくな言い方ですが だいたいみなさん 無難なところで ご回答を寄せていただいています。
 ▼ 存在 / 感受性 / 周囲の情況との応答 つまり 自由意志とそれによる判断 / 自分史 / かつ はじめの動機のほうよりは 結果として現われたもので 他者からの評価に耐えるもの / 名前 / ・・・
 ☆ 中で ANo.4の primeape さんの《名前》というのは いまから思うと 面白いかも知れません。つまり 生きていくにつれ その歴史とともに その個体の歩みの跡がつまっていると思われますから。
 
 ただ ここで まだ 釈然としないんですよね。
 《みづからの個性を発揮したものが 個性だ》と言っているようにも 受け取れるのです。
 存在とその個人 これは どう考えても 大前提であり 動きません。むしろ それだけなのでしょうか。それなら それで いいですし そして わづかに それなら どうも《個性》ということばは ふさわしくないと思えて来ます。存在・個人・判断力・生活・生きた歴史等々があるだけだと思えてきますから。こんなところです。

投稿日時 - 2008-06-23 20:32:13

ANo.10

個性とは別々の肉体を保有しているということではないでしょうか。完全に同じといえそうな考えや行動というものが仮にあったとしても肉体が別であればどこか違うはずです。

投稿日時 - 2008-06-23 16:33:42

お礼

 kaitara1さん ご回答をありがとうございます。

 そうですか。身体が違えば 個性があるということですか。
 そうですか。
 身体が違えば 存在が 分かれているということですかね。

投稿日時 - 2008-06-23 17:02:30

ANo.9

  ご参考に
 ​http://kikitai.teacup.com/qa4119032.html

投稿日時 - 2008-06-23 14:46:53

お礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。 

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 できない人、あれはできるがこれはできない人、
 何でも有能だが、そして根本もりかいできるが、それだけの人。
 あまり能力も、管理もできないが、じっくりすこしずつやっていける人。
 いろんな人がいるけれど、みんなでやっていける能力と方式、システム、哲学を持ち、指導者が得られることではないですか。
 人は、この世界は、千差万別、そしてみな同じ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 能力の発揮される分野について 得意・不得意があるというその差 これは たしかに 前提になっていますね。
 人類の社会は ほどなく 分業=ゆえに協業の仕組みを作り この制度のもとに共同生活が 営まれて来ました。
 現代では さらに 世界的な分業=協業の仕組みが 発達して来ました。われわれの自分たちの毎日食べる食材ですら 他人の手によって加工したものとなっています。
 この差異の網の目の組織の中で それぞれの位置にあって特化している仕事にかかわって 人は 個性を持つということででしょうか。役割分担するそのあり方が 個性を作るということでしょうか。
 そのような側面もあると 思います。

 ただ それだけでは また新しい人が その分担する仕事を埋めれば もう 旧い人は 個性がなくなるというように思えて来ます。個性が過ぎ去ってしまったということもあると言っているように 思えてきます。
 どうなんでしょう。

投稿日時 - 2008-06-23 16:19:23

ANo.8

門外漢のタワゴトですが、「個性」には2種類あるように思われます。

1)他との比較によって認識される差異(を裏付けているものとして想定しうる対象)
2)他と比較せずとも目に付くそのもの自身の特徴(を裏付けているものとして想定しうる対象)

(1)では、たとえば赤い花と青い花を比較し、共通する部分を差し引いた余りである赤や青の色が個性になります。または、頭の中にある一般的な花のイメージと比較して、「少し花びらが長い」といった違和感をおぼえる部分も個性になるでしょう。

(2)では、比較対象なしに、新しく違和感をおぼえた部分が個性といえるでしょう。意外なため頭の中でうまく位置づけできないものです。この場合の違和感は、人間が進化の過程で獲得した感受性(たとえば火に対する恐怖や病気に対する警戒心)に基づいていると思われます。

また、(1)の個性は比較によっていつでも再認識できますが、(2)は比較対象がないだけに時間が経って慣れてしまえば個性でなくなるかもしれません。

さて、「個性の発揮」ですが、上のように考えていくと、個性それ自体は単なる違いや動きとしてあるに過ぎず、どちらかというと個性を受け止める主体の側にその成否がかかっているように思われます。
比較対象の取捨選択能力、頭の中の知識・概念の広がり、腹の減り具合、不安、好奇心、そういった主体の状態が「個性の発揮」そのものだといっていいのではないでしょうか。

投稿日時 - 2008-06-23 14:14:54

お礼

 unicppさん ご回答をありがとうございます。

 ▼ 差異
 ★ 違和感をおぼえる部分
 ★ 感受性
 ☆ というご意見が まづ先に来ますね。

 あと
 ▼ 他者による評価
 ★ どちらかというと個性を受け止める主体の側にその成否がかかっているように思われます。
 ☆ あるいは
 ★ 時間が経って慣れてしまえば個性でなくなるかもしれません。
 ☆ というように 変化するものは 必ずしも 取り上げられない傾向にあり 他者から見ても 結果として 一定しているものごとのほうに 注目がいくようです。

 * このささやかな個性が おおきく社会の力関係の中で どのように 行動の軌跡を描いていくか あるいは 単純に・通念としてでも 《人格》という概念像のもとに いったい どのような差異や特徴をもって 自己を主張しうるか 関心があるところです。

投稿日時 - 2008-06-23 15:59:20

ANo.7

質問者さまは、精神という目に見えない部分でのみ「個性」をお考えで
なおかつ、未来や消え去った過去の部分を中心にお考えのようですか
体系・性別・年齢など人の身体や持てる財や属性や家族、住む場所、
国籍、気候風土、人種、など「目に見える部分」と「今、この瞬間の
世界の現実」は、それぞれの「主観=個人の意識」の視点において
凄まじく個性的なのだと思います。
個性とは、還元した差異ではなく累積した体験の総和によって生み出される
とお考えになったほうがいいのではないでしょうか。

投稿日時 - 2008-06-23 09:37:26

お礼

 umaiwinenomitaiさん ご回答をありがとうございます。

 それは そうなのですが。・・・
 つまり たとえば《自分史》という鍵語が これまでに 出ました。これは もちろん その自分が選択して生きて来た歴史のすべてのことです。ですから すでに そういうことで 質疑応答して来ていますので それは そうなのですがというのが まづ お応えになります。
 ただ おそらく umaiwinenomitaiさんが このような疑問を呈する気持ちになられたのは わたしが その自分史を主題にするときにも 自由意志なら自由意志というように その核となる要素へと還元しようとするからだと思われます。
 ★ 個性とは、還元した差異ではなく累積した体験の総和によって生み出される / とお考えになったほうがいいのではないでしょうか。
 ☆ そういう印象を与えてしまったとすれば それは 間違いです。お詫びします。

 そのうえで 問題は 確認事項をも含めて こうなると思います。
 (1) 《目に見える部分 / 心の目に見える部分》は 特には 区別しない。あるいはつまり 《身体の運動・ものごと・概念・精神史》すべてをひっくるめて 個性については 考えます。
 ☆☆ くせや趣味の違いから 思想の違い 意見の相違などなど 
 ☆ と言っているとおりです。

 (2) すべて現在の時空間において考えます。と言っても これは 現在において捉える過去および未来 あるいは言いかえれば 過去となっている現在および未来として捉えたところの現在をも とうぜん 含めます。
 ★ 「今、この瞬間の世界の現実」
 ☆ に すべての時空間が 収斂して来ているという想定です。

 (3) 類(全体)・種(中位集団)・個(個別)を区別するとすれば いま 個性として問題にしているのは 個としての個人です。
 ★ 体形・性別・年齢など人の身体や持てる財や属性や家族、住む場所、国籍、気候風土、人種、など
 ☆ のうち 《体形・身体・持てる財》が 個性にかかわる主題だと限定しています。ほかは 個性の集まりの結果か もしくは 集団としての個性(特殊性)かだと考えます。

 という前提で お願いしたいと思います。この前提じたいについての疑問でしたら さらに説明していただくとよいです。

投稿日時 - 2008-06-23 11:26:18

ANo.6

人類においては、物理言語が個別化されていることが、個性の根本原因だと思います。物理言語というのは、物理量(シニフィアン)と心が受ける印象(シニフィエ)で構成される言語です。例えば、550ナノメータの波長の光をどんな色として心が感じ取るかということです。

動物の場合は、この関係が、「種」ごとにほぼ決まっていると思われますが、人間の場合は、個人毎に差異が大きい。すなわち、人間の場合は、「人類=1種」ではなく、「個人=1種」の関係になっていて、物理言語も人間の数だけあるということだと思います。

わかりやすく言うと、「人は、同じ客観的環境におかれても、そこから感じ取る感覚や印象は、一人ひとり異なる」ということです。これが、個性発生の根本原因だと思います。そもそも、物理言語が個人別で異なっているのでなければ、「意識」というものが存在している意味が全くありませんし、自由意思というものも存在し得ないことになります。

>逆に 趣味を同じくし 志まで同じくしていたら 個性の違いは ないのでしょうか?

物理言語は、個人の意思で決まるものではなく、天の配剤で決まるものですから、たとえ、趣味が同じで、志が同じでも、個性は全く異なります。すなわち、同じ客観的状況に置かれても、そこから感じ取る印象は、個々人で異なり、印象が異なるが故に、その後の思考・言動も当然異なります。

>われわれ日本人は よく 右へならえで行動するとの悪評を得ます。

日本人と言うより、「日本語を使用し、日本社会に育った人」と規定したほうがより、実体に近いと思います。人種としては、日本人であっても、生まれたときから英語を使ってアメリカ社会で育てば、集団指向にはならないと思います。また、集団指向ということと、個性の有無は全く関係がないと思います。集団指向というのは、ある社会で生きていくための方便に過ぎないと思います。

>では 個性とは 何なのでしょう?

同じ環境(世界)をそれぞれ異なった風に感じ取る意識の働きのことだと思います。

投稿日時 - 2008-06-23 06:36:27

補足

 kobareroさん ご回答をありがとうございます。

 のっけから 中間報告をまづ述べさせていただきます。自由意志をないがしろにすることは出来ないと思いなおしたこと これを確認しておきたいと思います。
☆~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人工衛星は 地球の引力と飛んだときの遠心力とが釣り合って 回っています。世の中を泳ぐというとき あたかもそれと同じように 社会的な力関係の錯綜するあいだを 釣り合いをとって 動きまわると言っていい場合が あるかと思われます。けれども そのときにも 人間の場合には そのように社会的な力学のいとなみとなっていて つねに 個人が 認識と判断をしつつ 生活しています。
 仮りに 皆が皆 泳ぎ回って生きるにしても そして そうなると 種類や様式に違いはあるとは言え その力学類型は 総じて 波風を立たせず 摩擦を最小限に抑えるという基本内容を持って 同一のものとなるでしょうが そうなるにしても――こうなるにしても―― 一人ひとりは 誰の意志でもなく 自分の意志によって判断しつつ行動します。 
 個性と言うかどうか分かりませんが まづこの個人ごとの意志による自由な判断が介在するということ これは 個人というものを主張しうるよすがだと考えます。
 判断の基本形式が同じでも その一つひとつの判断があるということは 無視し得ません。つまり なければ 生活も社会も成り立ちません。人工衛星が わづかにでも軌道修正するように 意志のはたらきがあるということを確認します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これまでの皆さんのお答えを咀嚼しつつ kobareroさんのお答えに接して まづ 上のように思いました。この場をお借りしました。

 さて kobareroさんのご回答です。
 ★ 人類においては、物理言語が個別化されていることが、個性の根本原因だと思います。
 ★ 物理言語〔は〕人間の数だけあ〔って〕・・・「人は、同じ客観的環境におかれても、そこから感じ取る感覚や印象は、一人ひとり異なる」ということです。
 ★ 同じ環境(世界)をそれぞれ異なった風に感じ取る意識の働きのことだと思います。
 ★ 物理言語は、個人の意思で決まるものではなく、天の配剤で決まるものです。
 ☆ ここから 問題は 二点あると思います。
 (1) 《思考・言動》が異なるならば 個性であるか。
 ★ 同じ客観的状況に置かれても、そこから感じ取る印象は、個々人で異なり、印象が異なるが故に、その後の思考・言動も当然異なります。
 (2) 集団に同調することは 個性の有無と関係ないか。
 ★ 集団指向ということと、個性の有無は全く関係がないと思います。集団指向というのは、ある社会で生きていくための方便に過ぎないと思います。

 ☆ ANo.2のgraf_さんは 主観ごとに 個性のはたらきはあるのだけれど 結果として現われる事柄および他者の評価が 重要であり しばしば 動機のようにして働く個性も かき消されるとおっしゃっているのだと思います。
 そうして ANo.3のharepanda さんによれば 大幅に乱暴に解釈すれば 自己の本音と社会の力関係とのあいだのずれが あたかも個性となって現われてくるということかも知れません。
 ANo.4のprimeape さんのお答えは 自分史→自由意志に気づかせてくれました。 

 さて これらを総合して どういうふうにまとめれば よいでしょう。
 ひとつ思ったことは どうも 個性は ないと言うわけにはいかない / しかし その内容をつかむには なかなか むつかしい / その表現を変えて捉えたほうが 分かりやすいのではないか / たとえば 個人性・自由意志・独立主観(時間を共に生きるという関係性があるゆえにこそ 互いに独立した主観のもとにある)うんぬんです。
 さて ここに
 ★☆ 個人ごとに個別化されているという物理言語・その感受性ともいうべき機能とその意識
 ☆ これについて どう捉えるかですが ううーん そうだとも言えるし でも そうだから 個性なのだという場合 何が核になっているか なのですが。・・・
 いっそのこと やはり自由意志になるでしょうか? 分かりませんが さらに明らかにしていただけると うれしいのですが。
 つまり 感受性やその意識ですと 一人のひとでも 歳を取るとともに変わっていくでしょうし あるいは 一定の時点でも 場と情況に応じて違ったかたちに現われないとも限らない・・・のではないでしょうか?

投稿日時 - 2008-06-23 10:55:59

primeapeです。
そういえば地元の市の文化祭で無名ですが確かな芸術的感性をお持ちの方の遺作を見たことがあります。
文化祭で故人の作品を展示していたんです。
コラージュ写真でした。(写真をパーツに使った抽象画とお考えください)
2点ありまして、ひとつは慈愛と安らぎの浄土世界を連想しました。
生きているうちに死の準備が整ったことを連想しました。
もう1つは「のぞき」と言うタイトルで「仮面」ペルソナの実態を表現したものです。
この世に脱ぎ捨てる墓標のようでした。

投稿日時 - 2008-06-22 23:10:02

お礼

 つづいてです。

 そうですね。ペルソナ=仮面に すでに触れましたが そういうふうに 芸術あるいは広く虚構という世界を併せ持つというこの経験現実というのであれば むしろ逆に 移ろい行く自分史という内容のペルソナが その永続性を持つのではないという性格において 《個性》をかたち作っているということかも知れません。

 すべてこの世は 鏡であり 鏡に映った像であり この像が それでも なにがしかの謎を持っているものだとすれば そのなぞにおいて 永続性につながることになるかも知れません。その想定のもとに 個性がある。というさらに想定。

 ううーん。《わたしは / わたしが》と言って 文章を 意志表示として 判断行為として 押し出すとき そこには なにものかに裏打ちされた個性が それぞれ にじみ出てくるということなのかも知れません。ううーん。・・・

投稿日時 - 2008-06-23 00:00:59

primeapeです。
個性とは名前に集約されます。
仮にprimeapeが私の本名だったとしましょうか。
私は38歳ですが、生まれてから現在までのprimeapeとして生きた自分史が個性です。
魂としてどこから来てどこに帰るのか、それは問いません。
この世を去るときには脱ぎ去る仮面です。

無関係ですがprimeapeってのはポケモンのオコリザルの英語名です。

投稿日時 - 2008-06-22 22:39:38

お礼

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。また 始めました。

 ★ 個性とは 名前である。
 ★ 自分史である。
 ☆ 後者は No.1へのお応えでも触れていました。
 名前というのは 識別のしるしとしてだけではなく 個性だという見方なのですね?
 昔むかし 《わたし》というのが 人それぞれに――同じことばであっても―― 固有名詞ではないかと考えたことがありました。そして その名前が それぞれ代名詞であるという見方です。ふつうの文法の言い方とは ちょうど逆の見方です。
 これは別として いづれにしても 《固有》というのであれば 《個性》とよぶものにふさわしい内容を持っているかも知れません。

 ただ どうでしょう? この名前としての個性も そして 自分史としてのその内容も 識別のためのしるしという性質内容であればよいというまでに還元されてしまいませんか?
 人格というものが 人みな 共有するようであるならば そのあたかも同一の人格というもののもとに すべての自分史も個性も 収斂していくようにさえ思えて来ます。
 つまり ペルソナという仮面であれば よけい そう思えてきます。

 でも 特定の関係にあれば 自分史というように さらにその自分史どうしのつながりにおいては きわめて特別の性格を 互いに 持つかにも思われます。それが 個性であるかと――すでに触れたと思いますが―― 考えられもしたのですが これとて 知り合いの圏外に出れば 個性がなくなるかのようでもあり そうすると 知り合いの圏内であっても ただ 移ろい行くような性質のものであるということにも思えます。
 少々 論理に走りすぎていますか。

投稿日時 - 2008-06-22 23:51:08

ANo.3

brageloneさま

またお会いしましたね、harepandaです。

さて、この問題に関する議論については、一般意志は全体意志とは違うというルソーの見解を理解しておく必要があると、私は考えています。ヘーゲルの「法の哲学 自然法と国家学」には、学生の書き取った講義録から、ガンスがまとめた補遺が、以下の通りついております。

この概念を探し出すという点で、ルソーには、単に形式上思想であるにすぎない原理(たとえば社交性衝動とか神的権威とかいったもの)ではなく、形式上のみならず内容上も思想であり、しかも、思惟そのものであるような原理、すなわち意志を、国家の原理として立てたという功績がある。だが彼は、意志をただ、(のちにフィヒテがそうしたように、)個別意志という特定の形式においてとらえただけであり、普遍意志を、意志の即かつ対自的に理性的なものとしてではなく、ただ意識された意志としての、この個別意志から出てくる共同的なものとしてとらえたにすぎない。」(§258A)

これを読んだ批評家の中から、多数、ヘーゲルは普遍意志(一般意志)と全体意志の区別が出来ていないという、批判が飛びかっています。

しかしです。ヘーゲルは小論理学で、以下のように述べているのです。

「上に述べた単に共通なものと真に普遍的なものとの区別は、ルソーの有名な『社会契約論』で見事に述べられている。そこでは、国家の法律は普遍意志から生じなければならないが、だからといって、万人の意志である必要はないといわれている。もし、ルソーがこの区別を念頭においていたら、彼は国家論でより深い業績を残しただろう。普遍意志とはすなわち意志の概念であり、もろもろの法律は、この概念に基づいている意志の特殊規定である。」(§161Z1)

ここに、問題解決のヒントがあります。一般意志は、単なる人々の集合的意識である全体意志よりも高次元のものであるということが、見事にルソーとヘーゲルによって表明されているのです。

個性とはなにか?といわれれば、ヘーゲルの枠組みであれば、以下のような回答が可能でしょう。

「一般意志に合致しなくとも、全体意志に合致すれば、それは良き個性であり、状況的必然のなかから生まれてくるものである。一般意志にも全体意志にも合致しない個性は、偶然の産物に過ぎず、一般意志の中で、何らの役割をも果たすことが出来ない」。

なお、社交性衝動は、プーフェンドルフという法理論家のキー概念です。後期ヘーゲルは、プーフェンドルフの社交性衝動から、カント・ルソーの意志への移行が、自然法思想の歴史の中で重要な転換であることを指摘しており、社交性衝動概念が一般意志概念の先駆者と理解されています。

投稿日時 - 2008-06-22 16:58:35

補足

 harepandaさん ご回答をありがとうございます。お世話さまです。

 さて いきなり本論に入りますが
 ★ 〔人々の集合的意識である全体意志に通じるところの〕社交性衝動概念が 一般意志概念の先駆者と理解されています。
 ☆ ということでしたら 《全体意志》は それ《よりも高次元のものである》《一般意志》に 含まれると見てもよいような印象ですが さにあらずでしょうか。

 もちろん 概念が違うわけですが 《個性》の定義として
 ★ 一般意志に合致しなくとも、全体意志に合致すれば、それは良き個性であり、状況的必然のなかから生まれてくるものである。
 ☆ ということであれば 平面的な数量的な部分ではないにしても 全体意志は そのさらに全体を成す一般意志の部分要素であると理解する場合が出てくると思うのですが それでもよいでしょうか。

 あるいは
 ★ 一般意志に合致しなくとも、全体意志に合致すれば、
 ☆ という部分は 通俗的に 《ただ時流に乗る》ことだとも理解してしまうのですが 全体意志が 一般意志を部分的に表現しているのならば よいということになるでしょうか。全体主義の思潮は すべて 全体意志を表わし 一般意志に通じるという解釈になり きわめて あぶない理論(定義)のようにも感じられます。

 それにしても 一般意志は 
 ★ 単に形式上思想であるにすぎない原理(たとえば社交性衝動とか神的権威とかいったもの)ではなく、形式上のみならず内容上も思想であり、しかも、思惟そのものであるような原理、すなわち意志
 ☆ ということでしたら 単純に《高次元の》と言って 終われりとは し得ず むしろやはり 日常生活の次元の《自然法》思想に置き換えて捉えたほうが 現実的だと思われてきますし これは いま措くとしますと どうしても 一般意志が それ自身を普遍だと規定すればするほど 全体意志との違いが 分からなくなります。実際問題としてです。
 と言いますか おそらく つねに 全体意志は 一般意志とは違っていて 簡単には 一般意志に到達し得ないという但し書きが 必要でしょうし すでに そのことは 暗黙のうちにでも 合意されているようにも思われて来ます。
 だとすれば――だとしますと―― この一般意志が やはり《なぞ》であるとしますと そうであっても まさに《普遍性》として人びとに共有されているとするのならば その基礎理論の想定の上で 人びとは 生きる。ならば 基本的には 《個性は ない》という帰結になります。(あるのは 一般意志からの ずれ としての個性であるとなるでしょうし この《ずれ》は けっきょく 実際問題として分かるわけではないと すでに言っているようにも思われます)。
 よろしかったら ご批判ください。

投稿日時 - 2008-06-22 17:57:12

ANo.2

個性についての悩みは古今東西尽きないものだと感じます。

個性とは、個々の特質の違いとするのが一般的です。
個々の違いについては、色々な意見や段階の違いがあるとは覆いますが、私は「反応」違いこそが「個性」であると思います。
例えばあるニュースについて怒ったり、喜んだり、無関心であったりといった「反応」があります。それから、私から見て、どのような顔立ち、仕草、体型であるかという「反応」もあります。この違いをもって個性です。
ですから、質問者様の「右へならえ」といった反応は違いではないですから個性ではないという判断になります。同じではなく違うことが個性だからです。

しかし、ここに重大な問題があります。先ほどの「右へならえ」の場合にあって、「嫌々従う」「率先して従う」「親族などのしがらみから従う」「無理やり従わされた」・・・・などなど、実際には千差万別の反応があってしかるべきです。個性は確かに存在できます。
ところが、結果「右へならえ」と言った瞬間に経過の個性は消滅します。無かったことになります。同じであれば個性はありません。

ということで、「個性」というのはそれを発揮する人の「違い」だけでなく、その「個性」を確認する他者の存在も必要になることが分かります。ですから、もともと我々人間たちは違う固体でありますから、「個性」の存在は疑いようはないのですが、「個性」を捉える側の事情によって「個性」が存在しなくなってしまうということです。

では、「個性」には「個性」としての違いを発揮する人と、違いを認識する他者をもって存在するものなのでしょうか。
例えば、他者が一方的に「個性」を認識してしまった場合はどうでしょう。他者の中には存在します。他者も人間ですから存在した以上「個性」が成立します。ここで、他者が「個性」を疑って「個性」ないと思い直した場合、「個性」がなくなります。
するとどうでしょう。「個性」に「真実の違い」は必要なくなります。それも当然。違いを認識するのは他者だけですから、他者の中で認識するだけで足りるのです。

個性とは、「人間の幻想」ではないでしょうか。

投稿日時 - 2008-06-22 14:54:14

お礼

 graf_さん ご回答をありがとうございます。

 (1) 第一命題
 ★ 個性とは、個々の特質の違いとするのが一般的です。
 ★ 「反応」の違いこそが「個性」であると思います。・・・同じではなく違うことが個性だからです。
 ★ 「右へならえ」の場合にあって、「嫌々従う」「率先して従う」「親族などのしがらみから従う」「無理やり従わされた」・・・・などなど、実際には千差万別の反応があってしかるべきです。個性は確かに存在できます。

 (2)第二命題 
 ★ ところが、結果「右へならえ」と言った瞬間に経過の個性は消滅します。無かったことになります。
 ★ 「個性」を捉える側の事情によって「個性」が存在しなくなってしまうということです。

 (3)したがって
 ★ 個性とは、「人間の幻想」ではないでしょうか。
 ★ 個性についての悩みは古今東西尽きないものだと感じます。


 ☆ (1)ものごとに対する人それぞれの反応に 互いの差異があって その限りで 《個性がある》と見られる部分もある。(2)しかるに それを決定するのは むしろ他者からの評価だ。(3)ゆえに 《個性がある》というのは 最終的には 反応の結果のほうを取り上げてみて その評価に従うことになる。

 通り魔を称賛することは 反応の違いだからと言っても 事の内実から考えて 個性だと言い難いということであれば そうであるなら 最終的に ほぼ同じ見解(負の評価)に落ち着くであろうというとき そこには 個性の違いは出て来ていない。ということになるでしょうか。
 No.1へのお礼・補足欄をも参照してくだされば 幸いです。

投稿日時 - 2008-06-22 16:40:04

ANo.1

良い方向性の個性ってことですか?

でも、過去における、トラウマにより、人が信じられないときがあります。
良い個性を持っていても、特定の人たちから、また同じことをされないかって思います。

また、人は、表裏あります。

裏の部分を見てしまいました。

投稿日時 - 2008-06-22 14:32:48

補足

 rongo-dogさん ご回答をありがといございます。

 引き続いて 大きな思いを背負っておられるように感じられて どうお応えしてよいやら 戸惑いますが まづ 質問じたいは こういう考えについてのことです。
 すなわち あややが仮りにわたしの親戚であったなら その関係性において ほかの見ず知らずの人とは違っており それだけでも 個性があると捉えます。知り合いであるだけでも その二人は 互いに現実につながりがあるという点で 互いにとって 個性があると見るのだと思います。
 風貌が違っているからと言って あるいは なにやら七面倒な宗教に凝っているからと言って 信頼関係にない人びとについては その個性など あまり気にしません。そして 逆に じつは じつに 身内であって よく知っている間柄だと言っても ほんとうに個性が そこにあるかと考えると それは いったい何なのかと考え出します。
 後者の場合は 一緒に過ごした時間の思い出があって 自分にとって 特別の人だという意味で 個性があると言っているように思われて来ました。
 では はたして 個性とは どんな実態を言うのでしょう? これが 質問の趣旨です。

 さて rongo-dogさんの むしろ 逆に 提起されている問いについては どう考えれば いいでしょう。
 それに対して 《〈裏の部分〉が 個性だ》というのは 悪い冗談です。その裏の部分が おれの人生だと言えるかと言えば 言えても おもしろくも ないことでしょうし わたしの人生の奥義が じつはそこにこそ 詰まっているのよと言われても 勝手にしてくれたまえと言わねばなりません。つまり 後者は 表に出せば よいのです。出せば みなが 取り上げて考えてみます。個性であるかどうかについてです。
 
 こう捉えて来て ふと 思い浮かんだのですが rongo-dogさんのようにみづからの歴史に触れて お話をされるとき――そしてそれは 決して 恨みつらみで愚痴を言うためではなく 過去を顧みて 未来に対処するためにおっしゃっていると言わねばならないようなのですが このとき―― そのように人それぞれのみづからの人生の歴史 これが 個性なのかなぁというものです。
 となると――もしそうなると―― ただし 個性は 人と人との違いの問題を はじめに=基本的には 問うていないと言ってもよいのでしょうか。そう言うべきなのでしょうか。
 つまり こうです。そもそも生まれつきには 個性はないし 人間存在じたいにも 個性はない。ただ その後の生きる過程で 人それぞれに情況の違いや いくらかは互いに違った生き方をすることがある。もしそうして来ているとするなら その部分が 個性だとなります。

 ただ これだけでは 何か なんとも 釈然としては来ません。個性を発揮する / よい個性を思う存分に表現すると仮りに言うばあい その個性とは 何でしょうか。人柄や人間関係のあり方(社交性)や自己の見識のことでしょうか。
 いづれにしても ほかの人も その人柄や見識について よいところは すべて 評価し 倣おうと努力します。つまり その努力過程を取り上げれば やはり みな 同じ人柄であり見識になるとも考えられて来ます。《人格》といえば たいていは 皆が 同一の内容を想定しているとさえいうことになりませんか。
 いったい 個性とは 何なんでしょう。そもそもあるのでしょうか。

投稿日時 - 2008-06-22 16:13:12

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