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解決済みの質問

宗教の名の下に起こる、犯罪、争いについて。

教えて!gooのカテゴリー‘哲学’の回答常連の皆さんへ。
‘挑戦状’です。
我々の心には他を思いやるやさしい心、‘良心’があります。また人を貶(けな)したり殺(あや)めたりする好ましくない心(仏教では煩悩と言いますが)があります。
宗教というものは心の世界のことなので、心が作り出す犯罪や争いは宗教の名の下に起きる事がしばしばです。
‘戦争’という争いも宗教が大きく影響しているケースのあることは、皆さん認めるところでしょう。
そこで質問です。
宗教の名の下に起きる戦争、犯罪はその‘宗教’というものの基本に、土台に、根本に、人の好ましい心‘良心’がおかれていないからだと思うのですが。
皆さんはどういう意見をお持ちでしょうか。聞かせていただきたく思います。
きぐるみさんの意見、あるいは感想も聞いてみたく思います。

投稿日時 - 2008-07-20 02:00:15

QNo.4189881

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

No.7です。

>「ことば」というものは人それぞれの受け止め方をされてしまうんですね。
>それが原因で議論がかみ合わないという状況が生じてしまうのでしょう。


ジミー・カーターって人。

『議論の的が何であれ、クリスチャンは適当な聖書の言葉を強調し、その言葉の普遍性を主張することによって自分たちの意見を補強することをしないわけではない。しかしそれは、聖書を利用して個人的な好みを合理化しているにすぎない。「神と私は正しい。私たちに同意しない人はだれであれ間違っている。」私がいつも憂慮するのはこうした「正しい信者」である。』

これは何もクリスチャンだけではなく、一般人にも言えること。
良心の働きが無いと、争いになり 戦争になる。


『残された道は、プラグマティックな目標に焦点を絞ることだ。その目標とは、戦争を回避し、苦痛を軽減し、残酷で圧制的な体制のドアを開き、前向きの変革をもたらすことである。多くの場合それは、権力を掌握している者が

    <どれほど嫌な相手であろうと、私たちが対話を厭わない時>

にのみ可能となる。
対話を厭わない気持ちのみが、私たちに妥協の余地を見出させる』


というのを聞いてどう思うでしょうか。


私、何度かクリスチャンと聖書の解釈について意見の不一致があり、「おかしくないですか」と突っ込みを入れると、クリスチャン それに対して返事をしてくれず、「あなたに神の祝福を」と書き逃げされるんです。


「そんなの求めてない、私がさっきから求めているのは説明」なわけですが。。。
なんで、説明の要望に関して答えてくれず祈られるのか????
私の要望がうまく相手に伝わらなかったようで、私が神の祝福を求めていると思われてしまったのか? ・・・。
そんなわけないですね。 逃げ口上。



私は相手に逃げられると毎回思っちゃうんです。
「出てきておきながら、答えられないと逃げるとは・・・でも相手にしてみれば、それ以上つっこまれても知らないものは答えられないのだろう。知らないと言う勇気 持って欲しいなぁ」と。


要するに『「だって聖書に書いてあるから」 「私がそう言うようになった原因は、聖書に書かれているからです。意味など知りません。聖書に書かれていなければ、私はそういう事は言いませんでした。 責任は聖書であり 私ではない。だから私に聞かないで』ってわけでしょ?


危険だ。
こういう人だと、自分の所属するグループの中で、パワーを持った人がその人に命令すると、その命令を「だって聖書にそう書いてあるから」と同様に扱いその命令を良心のふるいにかけることなく実行できてしまう。


『君は根拠の無い噂を流してはならない。悪人に加担して、不法を引き起こす証人となってはならない。君は多数者に追従して、悪を行ってはならない。法廷の争いにおいて多数者に追従して証言し、判決を曲げてはならない』

で、それをやった場合 どうなるか。
ホロコースト。
だから やっては駄目だと古代の賢者は言っていたわけですね。
やってしまった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%B3

『裁判を通じてアイヒマンはナチスのユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べたものの、自身の行為については「命令に従った」だけだと主張した。』

良心なしに

「上の命令を実行したまで。」
「上が私に命令しなかったらやらなかった。」
「だから私が悪いんじゃない」

って主張なわけです・

上が悪いんじゃなく 良心の不在 が原因でしょ?
一党独裁だったから、選択の余地は無かったのかもしれませんが。



>まずは言葉をどう受け止めて使っているか。そのところを分かり合ってこそ議論が成立するように思えます。

んーー
あくまで私が思うことなのですが、、、
言葉じゃなくて、良心を働かせ行動するかどうか じゃないかと。
どれほど嫌な相手とも、対話しようと働きかける行為が、ルーアハの出現じゃないか と。

敵対する相手をボコボコにして追い出して、もう懲りて来ないだろう と思ってたら、また やってきて「あの~」と接触を試みてきた場合、ただの馬鹿と呆れるか それとも。。。。
 
「こりゃ 一度 席をもうけて話しだけでも聞いてやろう」って少し歩み寄るじゃないですか。

そうなると、内から外に吹いて入ることを妨害していた風が止む。
凪になり、入れる。
凪いだ状態でテーブルに着けば、暴風の時はできなかった和解に達することができるかも。

それは、言葉もいらない。
信頼 というか 少なくても「どうやら相手は自分に危害を加えたり、自分に不利になるようなことを押し付けようとしてやって来ているのではなさそうだ」となり、相手に対する見方が今までとは変わってくる。

態度を軟化させても大丈夫だとなる。
磁場に両者がひっぱられ、同じテーブルで食事をするようになる。

そしてやっと「このままだと、アメリカによる爆撃を受け、これだけ損害が出ると見込まれます。」とデータを提示され、「でも この条件を受け入れれば、これだけ損しますが、これだけお得も得られます」と説明される。

「これを言いたくて何度もドア叩いていたのか」となり「で お前はどうするべきだと思う? その条件を飲むと国民は納得せず私を支持しなくなる」と言われたら、「その懸念も計算済みで、綿密なプランを練ってきました」と商談に入るわけです。


で、敵対する勢力の人だけど、ジミーカータが出てくると、腹を割った話し合いをした相手なので、敵国の代表は門前払いにするが、この人のアドバイスだけは一応耳を貸すようになる。


お互いの中に良心が磁場(西洋の宗教の場合 神 が適切かな?)にひっぱられて、敵対していた者同士が、いつかは和解に至れるようになるのではないか というのがジミーカーターの信仰の証なわけです。

投稿日時 - 2008-07-22 20:19:43

お礼

私が質問に使った「良心」という単語について、いろんな意味を含ませることができるのだなぁと思いました。ただ単純に‘やさしさとか’という補足をつければ皆さん共通の認識の下での議論が成り立つのかと思っていたのです。
例えば子どもの心に、さっき虫を殺しちゃったけどかわいそうだったなぁ。もう殺すようなことはしないよ。と云う様な心情を「良心」という言葉で表現していたつもりだったのです。
でも大人になりきってしまった皆さんは、社会人として道徳的価値観に基づいた「良心」を想定しての回答でした。理性で納得できる「良心」が必要だったように思います。
きぐるみさんは、私が言わんとするところを、理解してくださったようで、まことに心強いメッセージでした。豊富な知識をもとに、そして私とは違った観点から、「良心の不在」を指摘した論は知識人にはよきメッセージとして受け入れられるのではないでしょうか。
言い回しが独特なのでちょっと分かりづらいかなぁ。
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-07-26 16:49:04

ANo.12

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回答(13)

ANo.13

はじめまして。失礼します。
普通、戦争を仕掛けるのは、権力者ですね。
真の宗教者は権力に興味を示さないか少なくとも憧れません。
昔から、洋の東西を問わず権力側に都合の悪い宗教は迫害をうけてきました。
従って、戦争を引き起こす権力者には質問者の言われる「宗教と言うものの基本に云々の良心」は無いものと思います。
自転車に乗ることを覚えた人が走行中に自ら倒れることがが大変難しい。
それが人間ですから、権力者は旨く利用しているのだと考えます。
その意味で、えせ宗教者の政治への参画は危険で、政教分離はとても大切な事と言えます。

投稿日時 - 2008-07-23 14:03:56

お礼

人間の生きる、という勢いは、地球の自転ぐらいに重いものではないでしょうか。
勢いを止めるどころか方向を変えることすら至難のわざと思えます。
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-07-26 16:55:37

ANo.11

ANo.5です。

>「良心」を感情と受け止めて使っています。感情は‘抑える’ことは
できても‘変える’ことはむづかしいように思えます。

「良心」は良い方に働く心。感情は単純に素直なのです。良心でするな
ら意味すらないかも。悪いことするには意味が必須う条件ですが。

自分の利益や快楽を得ることに成功しようが失敗しようが、結果的に良
くなればいいとする。偶然の産物という経験によらないで出来ることも
ありますが、大局的や長期的な見かたが出来ていてこそと思います。

感情は突発的であり、意志によって変えることの困難さと同じく、意志
によって変われないでいようとすることも困難です。

かなり深入りした修行をしてからでないと、「生体反応レベルの感情」
がする優しさはケチな根性を出さないとは限らない。

>(やさしさとか思いやりとか)は概念ではなく感情であると思えるの
ですが。

「理性」を一言で言うと「空」です。
どれだけ「自分を空しくさせること」が出来、空を包む泡の要素(世
界)が一瞬でないようにという想い(は感情かもしれません)それはつ
まり、未来を美しくするから、既に空しい自分が未来に生きてるかどう
かはどうでもいいのです。

ですから、感情を捨ててることにもなります。理性にとって好敵手は自
己。他者から触発・誘発されもしないものです。

本来日本人は儀式的なもの以上の宗教に洗脳されていなかった。
公明盛大な正義はなく、隠された誇りがあった。
隠すことによって仁、勇、克、美、そして恥と名誉を内に鑑賞した。
昔の日本人は本当に凄いですよ。別に回し者ではありませんが、
「武士道」に影響を受け解説しました。

「日本の武士道」
「人種の平等と世界平和,公正な世界を目指した日本」 
で、検索してみてください。

投稿日時 - 2008-07-22 19:09:13

お礼

もう一度よく考えて見ます。回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-07-26 16:03:39

ANo.10

 みな途中の宗教だからなのです。
 宗教というものの到達にはいたっていないから。

 宗教が利用されているから。

 宗教が利用しているから。

 何もなっていないのに、宗教の名を冠にしているだけ。
 たとえば古い話、十字軍然り。

投稿日時 - 2008-07-22 15:50:49

補足

宗教はまだ発展途上にある。これが進んで完全な宗教に到達すれば、争いや犯罪は起きるはずがない、という考えであると受け止めてよいでしょうか。

投稿日時 - 2008-07-26 15:54:30

ANo.9

 マリア・フワポヨです。またまた出てきました。

さてご指摘の文体についてですが、ご指摘の通りです。
文を校定しますと、
>“良心は”自分の意思だけで備わるものではなく、人の心に“良心”を宿すのも至難の業なのです。

ではなく、
「“良心は”自分の意思だけで備わるものではありません。また、人の心に“良心”を宿すのも至難の業なのです。」

ってとこです。

私が言いたかったことは、「“良心”は無理やり押し付けても身に付かない。」「無理やり押し付けるやり方は傲慢であり、正しく信仰しているものは謙虚に導く。」そのためには信仰が役に立つということです。

>自分の良心を“勇気を持って”信じるという信念が必要になるでしょう。

この信念は何に裏づけされた“良心”でしょうか。往々にして自分勝手な思い込みによる“勝手な良心”ではないでしょうか。それとも宗教に裏づけされた“良心”でしょうか。その宗教は正しい“良心”に元ずいているとは何が根拠でしょうか。その根拠が正しいとは何が根拠で・・・ってことになりますね。正しい智恵にもと基づかない「“自分の勝手な良心”を勇気を持って信じる」ことを“迷信”といいます。
このような“良心”と、それに反する“良心”が宗教戦争を勃発すのです。

“良心”は価値基準としては絶対的なですが、“絶対的良心”なんか無いことに気づかなければなりません。先にも述べたとおり、“良心”という大儀の元に毒ガスを撒く宗教があったのです。

素直な心を持ち続けるためには、素直に生きられる環境が必要ですので、心を使うことによって鍛えるようなことはしない方がいいです。心は、よほど上手に鍛えないと必ずひねくれます。好ましくない方の心は仰るとおりです。

投稿日時 - 2008-07-22 01:42:21

補足

フワポヨさんの危惧するところは私も感じ始めています。
「良心」という言葉について受け止め方に違いのあることが、この質問へのいろんな回答を見て、感じました。社会的、人道的な面から捉えようとする人がいれば、フワポヨさんのように、信仰的視点に立って考えようとする人もいます。また別の観点というものもあるのかも知れません。
もう30年以上前になりますが、NONBOOKで出版された「法句教」(松原泰道)著から引用します。

諸々の悪(あしき)をなさず もろもろの善(よき)を行なう おのれのこころを清(きよ)くす これ諸仏の教えなり
 
松原泰道氏の訳で出版されたこの本は当時ベストセラーになりました。そしてこの‘句’を氏は、平たくいえば、「わるいことをするな よいことをせよ 自分の心を清めよ これが諸仏の教えだ」と説明し続いて鈴木大拙博士は、「善悪を超越して、その心のすみずみまできれいになって、塵一つ残らぬようにする‥‥これが仏教だ‥‥と外人に説いている。と紹介しています。
でも善悪を超越して‥‥塵一つ残らぬようにする‥‥ってこれはもう悟りの世界ではないでしょうか。
だから私は「悪いことをするな、善い事を行なえ」と云ったのは心は使うほどに育つものだから、と受け止めようと思ったのです。
好ましいほうの心が育っていけば誤った選択も減ってくるのではないでしょうか。
宗教を否定してはいません。好ましい方向へ持っていって欲しいのです。
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-07-26 10:16:52

人それぞれの正義があります。
信じるものに(違いでなく)誤りがあるからです。
神の責任ではなく人類の至らなさゆえです。

良心に関しては「体感」または「実践」しなければ考えても無駄です。

投稿日時 - 2008-07-22 00:15:50

補足

私もそんな感想を抱いています。
フワポヨさんが‘七仏通戒偈’を持ち出してきましたが、私も‘八正道’を以って説明したいところです。
でも実践や体感あるいは実感がこの‘八正道’を持ち出すほどのレベルではないのです。信仰生活を送っているわけでもありませんし。
無責任者の、思い付きによる提案です。とはいってもまじめに考えてはいますが。「心の世界」とか「良心」に関心があるのです。
回答ありがとうございました。
補足ではなく回答のお礼でした。

投稿日時 - 2008-07-26 10:05:11

ANo.7

えっとですね。
教えてシリーズはいくつもあり、内容は同じなのですが、広告とかは違うんですね。
で、私がこの質問を読んでいるサイトは、教えてgooじゃないんです。


まっ それはいいとして。

>我々の心には他を思いやるやさしい心、‘良心’があります。
>また人を貶(けな)したり殺(あや)めたりする好ましくない心(仏教では煩悩と言いますが)があります。


お? いい線いってると思います。

仏教には詳しくないので、ユダヤ教で考えてみましょう。
(こっちもそれほど詳しくないですが)


キリスト教は律法を否定しましたが、ユダヤ教は律法を厳守するという掟があります。
特に10戒は重要です。

で、10の戒律があるわけですが、これ全部を貫くものは、<信頼>だと思えます。
神への信頼と同胞への信頼。
これなくして、ユダヤ教は存在しえないと思えます。

例えば、「君がヘブライ人である奴隷を買うならば、彼は7年間奴隷として働かねばならないが、7年目には無償で自由のみとなることができる。」

ヤコブは7年働いてますねぇ。
ということは、昔の奴隷って今の概念と違うんですねぇ。
ハンムラビ法典だと、3年なんですけどね。


さらに「人が自分の男奴隷 あるいは 女奴隷の目を打って、目を潰したら、その目の償いとして、その者を自由にして去らせなければならない。  
もし自分の男奴隷 あるいは 女奴隷の歯を折った場合、その償いとして、その者を自由に去らせなければならない」

などもあり、ハンムラビ法典は、地位によって処遇が違いますが、ヘブライ人だと奴隷も自由人も同等に扱う。


この律法(神からさずかった法律)は神とヘブライ人同士に関することですが、これ以外に異邦人に対する<良心>も掟にある。
     ↓    ↓
「君は寄留の他国人を虐待したり、圧迫したりしてはならない。 君達はエジプトの国で寄留の他国人であったからである。寡婦や孤児は総て苦しめてはならない。もし、君が彼を苦しめ、彼が私に向かって叫ぶ場合は、私は必ずその叫びを聞く。 そして、私の怒りは燃え上がり、君達を剣で殺す」

まだまだ利害関係にあるものに対する良心の掟は続きますが割愛。

これらを守ることも、神への信頼の証なわけですね。


「聞けイスラエルよ。 我らの神、アテンは唯一の神である。君は心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、君の神アテンを愛しなさい」

ちなみにアテン教は差別という概念が無い。
全てが同等というのがアテン教。


おいおい ユダヤ教の話しがどうしてアテン教になったのかって思うでしょうけど、この説明も割愛(笑)



でーー、
ホロコースト。
人類史上最悪の惨事ですが、これがどうして起こったのか?
私の理解では、集団社会の弱体化だと思えます。
断種政策ってのができて、優秀じゃない人種は穢れており、生かしておくと、地上が穢れるから殺せ ってことになって、ユダヤ人はもとより、精神障害者や生産性が無い人や、低俗とされる人種が殺されていった。
切捨てゴメンなわけです。

ユダヤ人の場合、どうして殺されることになったかというと、妬みだと思えます。
キリスト教は金貸しは穢れた職業だとして、信者にさせなかった。
キリスト教徒じゃないユダヤ人は、各地に散らばっている商用ネットワークをもっていたので、商業においても順調だし、キリスト教の禁止する職業の制限は無かったので、金貸しなどしていた。

で、ユダヤ人の間では友人が一枚しかない服を質に入れて、夕刻までに返せなくても、利子を取らず服を返しなさい って掟がある。

利害関係を超越した同胞への愛なわけです。
ですが、返すつもりが最初から無いのに、「返しますから金貸して」となった場合、貸す必要は無い。

知恵なくして貸す行為は、やってはならない。
これもユダヤ教の掟にあったと思います。
新約の方でも、無分別に貸せ とは書いていない。

だって、そういうことをやっていたら、「返すから貸して」ってのが、嘘だってのが常識になり、誰も貸さなくなるし、お互いが信頼できない社会になってしまうわけです。


返すつもりはあったが、うまく工面ができなかった場合、詐欺と裁判所に訴えられないために、神への祈りの時であっても、それは後にして、まず害を受けた相手に事情を説明しに言って許してもらえ という掟がある。

神への礼拝を差し置いて、友人を選ぶのか? と思うかもしれまえんが、同等。
友人に許してもらうとする行為=神への信頼の証 だから。


ところが、キリスト教が力をつけるためにやったこと。
ユダヤ人をスケープゴートにしちゃった。
キリスト教もユダヤ人が作ったわけですが、同胞を売り飛ばした。

最初は温情があったのですが、だんだんそれすらやらなくなり、法律を作って迫害しだした。 キリスト教がユダヤ教をね。

まるでカフカの小説のようです。
変身では、妹だけは変身した兄を擁護していたが、最後にはとうとう偽善だったことを証明するかのように、「死ねばいいのよ」と一番残酷な決断を下し、家族にそれが正しいと示した。


で、ユダヤ人はその後、神殺しの汚名を着せられ、迫害されつづけ、職業の選択の自由がなく、金貸しなど商売関係をするしかなかったわけですが、逆にキリスト教徒より裕福になるものもでてきた。
おもしろくないのはキリスト教徒。
神殺しのくせに 生きる価値なし と判断。

カインとアベルみたいなもので、アベル殺しなわけです。
ドラマ LOSTってあるでしょ? 
あれも数字からいって最初の殺人、カインとアベル関連だと思えます。


モーセが海の際に追い詰められたように、ユダヤ人たちは各地で追い詰められ捉えられていった。
その時 奇跡が起こって海が裂けた。

なんと日本人が追い詰められた彼らに海らせ海外に逃がした。
何故 自分の身の危険も顧みず、こんなことができたのか?

彼は正教会の信者でもあるわけで、カトリックやプロテスタントとは違う系列ですね。
でも、宗教上救ったのではなく、同胞として救ったのではないか と私は思えます。
この同胞愛が信頼であり、神への信頼につながると思えます。


で、ジミーカーターが言うには、聖書の言葉を自分が正しいことを言っているとするため使用するのは、正しい信者、だそうです。
遠まわしな表現ですね。

口で言うこと=鹿、行うこと=馬。
このような生き物は、、 ですね。

で、ジミーカーターは心で善いと思うことを口先だけにとどめず実践することこそ、残された道である という。
実践できないことは口にすな ってわけです。

心がともなってもいないことを、やりましょう と人にすすめるな、自分ができもしないことをやれますと嘘こくな ってわけですね。

好ましくない心というか態度は 偽証などの類じゃないか と。
これも10戒に出てくる。
やはり信頼で成り立っている社会に対する裏切り行為。

ここに、人を殺してはいけない理由があるわけです。

というわけで、10戒が言わんとしていることがおのずとわかってくる。
これが神の愛 つまり 善なわけですね。

実際そういう生物がいるかどうかじゃなく、人類が目指すべき最終ポイントは、失墜した信頼を回復することでしか到達しえない。
そういうことを古代の人は考えたのではないか と。

考えてみれば、戦争のほとんどは、信頼の裏切りからじゃないか と。
信頼関係が崩壊すると武装した信者が人殺しができるわけです。
神をつまり人を裏切ってしまえるわけですね。

投稿日時 - 2008-07-21 00:40:55

補足

今回も回答ありがとうございます。おいおい、おちょくるなよ。なんて云われてしまいそうですが、きぐるみさんのエスプリ、そしてユーモアが好きです。議論などどうでもよくなってしまいます。
それにしても、「ことば」というものは人それぞれの受け止め方をされてしまうんですね。それが原因で議論がかみ合わないという状況が生じてしまうのでしょう。
戦いは同じリングにあがってこそ、成り立つものです。まずは言葉をどう受け止めて使っているか。そのところを分かり合ってこそ議論が成立するように思えます。
そのことに気づかず議論しあっているケースが多々あるのではないでしょうか。

投稿日時 - 2008-07-21 21:15:22

ANo.6

 マリア・フワポヨがまた出てきまして。

具体的に“良心”をあげてみましょう。

「おもいやり」「やさしさ」「哀れみ」「喜び」「感謝」「反省」「尊敬」「慈悲」……
たとえば「おもいやりのこころをもちましょう。」と言っても、なかなかできませんね。いえ、「おもいやりのこころをもちましょう。」と言っただけで「おおいやりのこころ」が宿るのなら、あえて言わずとも備わったやさしい人たちばかりのはずです。
つまり“良心は”自分の意思だけで備わるものではなく、人の心に“良心”を宿すのも至難の業なのです。

自分のこれら“こころ”を自由自在に操れれば、まさしく“悟りの心も”容易に備わるということです。それができないから宗教を以って補おうとしているのですよ。それが宗教の必要性です。何もせずとも自ずと“良心”が備わり、宗教戦争も起きないような状態なら、宗教は無用です。

仏教で一番有名な経文に「七仏通誡偈」があります。「七仏通誡偈」の一番初めに“悪いことしちゃいけません”って、あります。一般的には“当たり前な教えだけれどなかなかできないことである。だから悪いことしないように努力しましょう”と、解釈するのですが、この経文の本来の意味は“悪いことをしないと生きられない。生きている以上、必ず悪事を為す。それを自覚せよ。”ということを説いているのです。

つまり、‘宗教’というものの基本に、土台に、根本に、人の好ましい心‘良心’がおかれていて間違っていなくても、教えが正しく布かれていなければ、宗教の名の下に戦争、犯罪が起きるのは必然なんです。

投稿日時 - 2008-07-21 00:31:32

補足

ちょっと揚げ足取りになってしまいますが、怒らないでください。とりあえず一つだけ。
>つまり“良心は”自分の意志だけで備わるものでなく、人の心に“良心”を宿すのも至難の業なのです。
備わるものでなく、と、人の心に、の間に何か説明が入らないと意味が伝わらないように思えます。文がつながらないのです。
でもフワポヨさんの心は少し感じられました。人の心にある好ましいほうの心「良心」は信仰によって育てなければ、と思っているのですね。
フワポヨさんの純真な心に接したので、私の質問の真意を、正確を期すために言葉を変えて、表現してみます。
人の好ましいほうの心「良心」を拠りどころにすれば、教えが正しくなないと思えたとき、その良心に従うことで拒絶できるのではないかと思っているのです。そのためには教祖や教団を信じるのではなく、自分の良心を“勇気を持って”信じるという信念が必要になるでしょう。
このような心持があって今回の質問をあるいは提案を思いついたのです。ちなみに、心は使うほどに育つものと、受け止めています。好ましいほうの心も、好ましくないほうの心も。
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-07-21 20:59:55

ANo.5

>我々の心には他を思いやるやさしい心、‘良心’があります。
また人を貶(けな)したり殺(あや)めたりする
好ましくない心(仏教では煩悩と言いますが)があります。

良心というものも、神とか愛というような人間が勝手な権利を正当化さ
せるために作った概念ではないでしょうか。

ここでいう良心を'理性'と解釈するなら、『理性は反射を抑える』作用
があります。それなので正義の名を用いて報われようとすることは理性
がさせている作用でないと思います。多くは損失を補おうとする感情で
しょうね。

善意がさせる理性は報われなくていいもの、反応を気にしてはいない。
あるがままに利用できるものを惜しみなく育むのですから善です。

その逆が、見返りを目的として利用するもの。
戦争や犯罪は「自分さえ良ければ」という目的も見て取れる。
好ましい良心というものは、既に共存してるものの中にあり、
ギブアンドテイクを目的にしたものには存在しない。と仮説をします。

宗教に詳しくはないし、良心の違う見解もあると思います。

投稿日時 - 2008-07-20 22:21:14

補足

回答ありがとうございます。言葉というものは人によって受け止め方が違うのだなぁとつくづく思います。この「良心」という言葉も、ここにいただいた回答を見るだけでも、受け止め方の違いを感じてしまいます。
ここでは「良心」を感情と受け止めて使っています。感情は‘抑える’ことはできても‘変える’ことはむづかしいように思えます。また理性は判断力であるとしたほうが、物事を理解しやすいのではないでしょうか。
之を前提に考えるならば、善的行為も悪意的行為も理性がかかわって結果を招くように思えます。もちろん理性が働く前に感情の赴くまま行動するということも多々あります。こっちの方が多いかなぁ。
また、「良心」(やさしさとか思いやりとか)は概念ではなく感情であると思えるのですが。
miko-desiさんの回答に接していて新たな提案が浮かんできてしまいました。

投稿日時 - 2008-07-21 18:54:20

ANo.4

こんにちは。マリア・フワポヨです。

教えて!gooのカテゴリー‘哲学’の回答常連ではありませんがよろしいでしょうか。

宗教の中には、教祖自身が、
「自分の宗旨に反する者は悪であり、宗教戦争を以って叩くことが“良心”である。」
と説くものがあります。毒ガスを撒いた宗教も“良心”という大儀がありました。

しかし、一般的に宗教の名の下に起きる戦争、犯罪はその‘宗教’というものの基本に、土台に、根本に、人の好ましい心‘良心’がおかれていても、教義の通りに行動できなかったか、教義を間違えて解釈したことが原因であると思います。

“良心”を自在に操ることができ、そして争わないことも容易いのならば、それこそ宗教は無用ではないでしょうか。
宗教の必要性はそこにあると思います。

投稿日時 - 2008-07-20 18:29:02

補足

回答ありがとうございます。良心を自在に操ることが出来ないから、争わないということは容易でないことだから、宗教は必要である。との考えであると受け止めてよいでしょうか。
また、‘良心を自在に操る’とはどういうことなのかよくわかりませんでしたので、宜しければもう一度回答いただけると嬉しいです。

投稿日時 - 2008-07-20 21:32:53

ANo.3

>>教えて!gooのカテゴリー‘哲学’の回答常連の皆さんへ。‘挑戦状’です。
 なかなか、過激な出だしで触発される人もたくさんいるかと思います。私もそんな一人です。少しばかり意見をまとめてみたく思います。

>>宗教というものは心の世界のことなので、心が作り出す犯罪や争いは宗教の名の下に起きる事がしばしばです。‘戦争’という争いも宗教が大きく影響しているケースのあることは、皆さん認めるところでしょう。
 まずは「宗教戦争」ということについてですが、たしかに宗教戦争と呼ばれる戦争は数多くあるということは、認めざる終えない事実でしょう。しかし、その宗教戦争と分類されるものの発端をよくよく見てみますと、原因は宗教とは関係のないところにあるような気もします。
 十字軍遠征にしても、先のイラク戦争も然りです。有名な宗教戦争をあげるならば、「シュマルカルデン戦争」1531年に反カトリックを掲げた諸侯の同盟が起こした戦争ですが、その理由ドイツ農民戦争で兵を出してくれなった皇帝への不満から同盟は結成され、反カトリックを掲げた宗教戦争となったということのようです。
 イラク戦争にしてもそうです。イスラム教では、神という絶対者を人間活動の監督者として位置づけており、ただ人間の利害が衝突する競争原理ではなくて、責任分担を通じて調和ある共同作業が行われる社会を求めるとの原点があります。このような原理にもとついてイスラム圏では「イスラム銀行(一切利子を取らない銀行)」が成功している事実は興味深いですね。しかし、そこにアメリカは資本主義を基礎の置いた競争原理を持ち込もうとしましたが、それによって中東の人々は反米感情を持つようになり、そのような人たちはイスラム教徒が多く、起こったイラク戦争はイスラム教徒対非イスラム教徒という形になっってしまったといえます。
 北アイルランド紛争は土地を巡る争いだったものです。こうみていきますと、パレスチナ紛争も全く同じ形態で戦闘が行われています。
 日本国内でも、一向一揆なんかが有名ですが、これも宗教戦争の一部と見られがちです。確かにこういった一向一揆などを中心とした宗教を中心核とした一揆は、同時代に起きた土一揆よりはるかに強力であり、土一揆は16世紀(1500年以降)衰えていきますが、宗教を中心とした一揆はもうしばらく続きます(土一揆が吸収されていったという見方もできます)。これらの一揆の流行の原因は社会階層の変動が多いですね。一向一揆の前の南北朝の騒乱なんかは地頭ですとか代官層層の社会的な進出によるものであるといえますが、一向一揆の時代の一揆の主流は名主や給人層の進出と言えます。室町幕府の政治力の失墜、守護層の内争、貴族や寺社の没落などを動機とした下民層の暴動と見るのが妥当であるといわれます。
 つまり、宗教戦争と呼ばれるものの原因を見てみれば宗教的な対立よりも、政治的な対立のほうが大きな原因になっていたりするものです。宗教戦争と呼ばれるもの影には、政治戦争・経済戦争・土地をめぐる争いがあります。本当の理由は宗教とはまったく違う対立であるのに、政治家が戦う理由として宗教という大義名分をもってきたがるだけともいえます。どこかの大統領は「聖戦(ジハード)」という言葉でそれを大成功させたのは記憶に新しいことです。はたして、そういったことを「宗教戦争」と呼ぶべきかは疑問が残りますね。どこから、「宗教戦争」になるかの線引きは難しい所ですね。


>>宗教の名の下に起きる戦争、犯罪はその‘宗教’というものの基本に、土台に、根本に、人の好ましい心‘良心’がおかれていないからだと思うのですが。
 こういったものは宗教的な活動持つ弊害ということができると思います。宗教の特徴として「外部」との接続というものが挙げられると思います。「外部」とは、神や大乗仏教的な仏、浄土や天国、聖性や超越といった日常の目に見える世界を超えた何かです。現代社会においては宗教の果たす役割は少ないほうが良いとされているようです。とりわけ前近代において宗教が果たしていた役割は、現代においては牧師や神父と二人きりで自分のしてきたことを話したりすることは、カウンセリングという形で医療に取って代われてたり、教育、道徳等で代用可能になっています。それでは、宗教の持つ特性の一つとして「外部」というものをもっていて、それに接続するシステムを持っていることがあげられるでしょう。
 このような外部ということに関して、宗教学者岸本英男氏も「宗教とは、人間生活の究極的意味を明らかにし、人間問題の究極的解決に関わると人々によって信じられている営みを中心とした文化現象であり、その営みの関連において神観念や神聖感を伴う場合が多い」と述べていますし、ドイツの宗教学者ルドルフ・オットー氏も「ヌミノーゼ(聖なるものと直面したときに生じる独特の感覚)」というようなことを述べておられます。また、北野武氏(ビートたけしさんとしたほうがいいですかね??気取ってみました)なんかも雑誌で読んだのですが、「宗教は人間を保存するための装置じゃないか」とおっしゃっていましたが、私の勝手な解釈でると思いますが、人間は万物の霊長と自分で言っていい気になっているのを、外部という自分より上のものを想定るることでその傲慢を押されることで人間以外のものと共存をはかることで、自然と共存しながら人間自身が保存するシステムということかなぁ漠然と考えています。このように、多くの研究者達も、「外部」ということに関しては言葉は違えど、近い感覚はお持ちのようです。
 しかし、この「外部」というのが曲者で、「無自覚」に使えば自分どころか社会秩序を壊す暴力装置のもなりかねないともいえますね。「自覚的に付き合う」というのがポイントになります。無自覚ですと、、情報がそのまま自分の意思になってしまいます。このようなことはマスコミの弊害としてもいえると思います。マスコミに踊らされるとはまさにこの状態であり、マスコミの流した意見情報が自分の意思になってしまう。このように、無自覚に付き合えば、宗教でなくマスコミでさえ、人間の操作が可能になります。「私は操作されていない」と疑わない人がたまにいますが、この疑いを持たせないというが一番の操作であるかもしれません。
 「宗教」というのは確かに生きていく上で起こる問題の解決策を何通りも何千年もかけて編み出してきた人間の知恵の蓄積であるかもしれません。けれども、強い薬を無自覚に飲めばその副作用に悩まされるように、宗教もまた無自覚に付き合えば無自覚のうちに副作用が現われる。例えば、アメリカの心理学者ゴードン・オールポートは「熱心に教会に通っている人のほうが、黒人に対する偏見が強い」という調査結果を提出しています。このような無自覚に宗教と付き合う弊害というものがあることも事実ですね。宗教は日常生活以外の「外部」という物差しをもつことで、人の生きていくうちで持つ問題を解決していくシステムであると同時に、「外部」という物差しを使って日常生活を破壊してしまうものにもなりかねないということも知っていなければなりません。
 ですから、「宗教」自体に良心がないということではないなどの要因があるのではなく、それに付き合う人たちのいわば「人災」というべきものではないでしょうか。オウムの事件なども、宗教が起こしたというよりも、宗教の構造を利用した犯罪といえるでしょう。
 
 また、宗教戦争のようなものはグローバル化が生み出したという見方もあるようです。ローランド・ロバートソン氏はグローバル化を「世界の縮小と、一つの全体としての世界意識の増大」と定義しています。宗教というものもそのような過程をたどってきたといえます。世界宗教の広がりも一つのグローバル化といえます。その果たした役割も大きく、ある程度の文化的な共通認識を生み、離れた共同体を結びつけることができたということもいえます。
 しかし今日のグローバル化という世界共通のの認識のものが広がると同時に、反グローバル化というグローバル化を認めながらも、それぞれの個性のようなものを強く打ち出していく、そのために「原理主義」をより強くしていく結果になってしまったということも言われます。そしてそれが、テロを生み出す構造となり、それを抑えるという口実の戦争となっていったわけです。このような要因にはただたんに思想的なグローバル化というよりも、経済的・政治的なグローバル化の問題が大きく関わってきます。
 

 ながなが説明してまいりましたが、まとめ切れていませんね。申し訳ないです。ただ、宗教戦争や宗教をもとに起こすのは宗教ではなく人間であるということがいえると思います。宗教そのものが起こすというものはないのではないかと、ただ要因の中に含まれているかもしれませんが経済や政治の問題の比率のほうが多いように感じます。
 急ごしらえのため誤字脱字乱文どうぞお許しください。参考にしていただければ幸いです。
 合掌 南無阿弥陀佛

投稿日時 - 2008-07-20 12:33:47

補足

回答ありがとうございます。読み捨てなどいたしません。即、感想が云えるような知識と頭脳を持ち合わせていないので時間をください。

投稿日時 - 2008-07-20 13:15:19

お礼

回答への返事もけっこう大変です。疲れちゃいました。いまハレパンダさんへ回答のお礼を書き込んだところです。
ここへも同じような内容のお礼文になりそうなので、失礼かと思いますが、そちらを見ていただくとありがたいです。
挑戦状などというほどのものでないとは、あとで思いました。
ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-07-26 09:33:01

ANo.2

まず、人間には他をおもいやる心「良心」があるというのは、定説ではありません。人間の他者に対する感情を表現するにあたり、アダム・スミスのようにシンパシーの概念を使う人もいれば、ルソーのように一般意志の概念を使う人もいます。プーフェンドルフは社交性衝動という概念を使いました。昨今の薄っぺらな議論の中に、承認という概念を使う人もいます。ようは、「人間がいかにして、人と人の関係、人と社会の関係を作り上げていくのか」というテーマを、人間本性から導出しようとする議論は、人間の本性とは何であるかという前提が違うと、全く違う結論が出てきてしまうという問題があるのです。このことは、とっくの昔にルソーが指摘してしまったことであり、挑戦も何も、わたしに挑戦するならジャン・ジャック・ルソーに挑戦するくらいの覚悟を持ってくださいまし。

人間には悪い心もあるというのも定説ではありません。例えば、一神教であるはずのユダヤ教、キリスト教の枠組みの中では、「全知全能の創造主がいるのなら、なぜ必要もない悪などというものまで作ったのですか?」という質問に、正面突破で回答することは不可能です。さらに、「旧約聖書のダニエル書、新約聖書の黙示録のように、神と悪魔の最終戦争という思想が、なぜ一神教に混ざっているのですか?」という質問にも回答できません。理由はおそらく、ユダヤ教に二元論のゾロアスター教の影響が混じりこんでいるからだと思います。黙示録の本質は、「現在、キリスト教徒はローマの迫害に苦しんでいるが、ローマはかつてのバビロンと同じように、滅びるであろう。その日まで、キリスト教徒は団結して生き抜かなくてはならない」という暗号の手紙だとされています。しかし、キリスト教がローマの国教となり、本来はすでに不要になった後も、聖書の中に、この意味不明な文章が残ってしまいました。だから、黙示録を語りだすと、オカルトになってしまう人が多いのです。

また、何をもって悪となすのかというのも議論の余地があるところです。人間は哺乳類の範疇におさまる生き物ですが、特異な性質をいくつか持っています。ホモ・サピエンス・サピエンスのメスは、他の哺乳類のメスが明確な発情期を持つのに対して、一年中、オスを受け入れることが出来ます。哺乳類の中には、メスが子育てをしていると発情しないので、オスのほうが子殺しをして、無理やりメスを発情させるという行動をとるものすらいるのです。ホモ・サピエンス・サピエンスも、ひょっとしたら、このようなタイプの哺乳類に進化していた可能性が高いわけです。その場合、子殺しは当然のように発生する出来事となり、人間社会においても、オスによるメスの子殺しは悪とは見なされなくなるでしょう。

宗教の名の下に起きる戦争とは、単なる迷信による戦争に過ぎず、本来は野蛮時代に属するものです。現代では、純粋に宗教が原因で起こる戦争など、あまりありません。例えば、イスラムの内部で主流派のスンニ派と少数派のシーア派があるのは、歴史的・文化的には勝っているはずのイラン人が、成り上がりのアラブ人に支配されているという屈辱感から、少数派のシーア派となったことによるものであり、本質は宗教闘争ではなく民族闘争です。イスラエルが周辺イスラム各国と、もめごとを起こしてばかりいるのは、第一次大戦の時にイギリスが、諸国を見方につけようと「イギリス側につけば、戦後、こんなほうびをやる」というカラ手形を連発し、しかもその口約束が、そこらじゅうで矛盾していたからです。アルバニアにいたっては、かつてオスマントルコに支配されていた時、家庭に残る女性はキリスト教徒、社会生活のある男性は、なんちゃってイスラム教徒という戦略でオスマントルコ時代を巧みに生き抜いた国であり、宗教間の戦争など無意味であることを何百年も前から実証していた良い例だと言えます。

クラウゼビッツが述べたとおり、戦争とは外交の延長に過ぎないものであり、外交以外の手段をもっておこなわれる外交が戦争なのです。クラウゼビッツ以降の近代戦は、国家間の戦争であるかぎり、この法則に当てはまります(内戦やテロとの戦いを除く)。ここでは、宗教心とか良心とかは通用しません。政治的利害関係や民族間闘争こそが、戦争の本質なのです。

投稿日時 - 2008-07-20 10:57:55

補足

回答ありがとうございます。私の質問の文章からどの程度のレベルで説明すれば分かるだろう、と思ってくれなかったのでしょうか。
私にはレベルが高すぎて、この回答と自分が発した質問とをどこでどう結びつけたらよいのかわかりません。
良心があるというのは定説でない。悪い心があるというのも定説でない。之をどう受け止めたらよいのか考えているところです。
もう少しレベルを下げて説明して下さるとありがたいです。
また、善と悪が一本の線で分けられるなどとは思っておりませんので、補足しておきます。よろしくお願いします。

投稿日時 - 2008-07-20 12:39:13

お礼

良心も悪い心も定説ではない。ということについての文面をよく読んでみました。ここでは「善」も「悪」も社会性といった要素を加えていくと「定説」といえるようなものはない。と受け止めてみたのですが。
何を以って悪となすのか、議論の余地がある。ということについては、社会人として立場が違えば、善も悪も変化してくるのだなぁ、と思いました。
「宗教の名の下に起きる戦争」以下の説明に接しても、やはり‘社会’に向けた厳しい目を感じます。‘宗教’という‘力’は利用されもするのですね。
それから私の質問で使った「良心」という言葉は、さまざまに受け止めることができるのだと、感じました。多くは視点の違いが原因だと思いますが。
ちなみに私が思い描いて使った「良心」あるいは「悪い心」は、子どもにも備わっている心、まだ社会人になる前の、親の保護の下にある子どもの「心」のことであることに気づきました。
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-07-26 09:02:12

ANo.1

まず、良心ってなんですか?
その定義をしてもらわないとちゃんとした回答はでき
ないでしょう。
宗教が真の信仰であった時代は過去のものです。公明党
を見ればわかるようにその背後にあるのは政治的経済的
な手段、圧力団体です。
宗教の異端を排除するために中世西欧では女性への拷問
とそれに続く処刑がが繰り返し行われました。それを
詳述した本を読むとわかりますが、やっている連中は
おぞましい性犯罪者たちです。女性への陰湿な興味が女性
器をいじめる道具で実現されます。
十字軍にしても同じ。やっていることは盗賊行為です。

投稿日時 - 2008-07-20 10:31:00

補足

早速の回答ありがとうございます。哲学される人は‘良心’という言葉に、あいまいさを感じるようで、ほかでも良心とは何かといった、疑問を出されたことがありました。私の受け止め方は、やさしさとか、他を思いやる心といった、ごく一般に受け止められているであろう心持のことです。理性というよりも感情に属する心理といえばよいでしょうか。
そんな意味で‘良心’という言葉を使いました。

投稿日時 - 2008-07-20 12:08:46

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