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解決済みの質問

日本と中国の戦争について。

教えていただきたいことが2つあります。
学校の授業で出たのですが、どうしてもわかりません。
自分の努力が足りないのでしょうが・・・(汗;

1、日清戦争が近代日本の転換点といわれるのは何故か?

2、満州事変から敗戦までの15年間戦争はどういった性格、内容だったか?

少しでも分かる人がいましたらおねがいします。

投稿日時 - 2008-07-30 01:41:48

QNo.4214248

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質問者が選んだベストアンサー

No.2について・・・長いですが読んでください。

 根本原因は、日本の政治システムに軍の暴走を止める機能が欠如していたことでしょう。

 日本の国益と言う視点から、軍事・外交を統合した『戦略』が必要ですが、各部門の中堅幹部が各部署での最善を求めて「観念的な行動」(=アジアの開放や大東亜共栄圏など)をとって戦争を拡大してしまい、当時の日本の国力で実現可能な範囲を逸脱した軍事行動を取り、国民を不幸のどん底に落としてしまいました。

・具体的に・・・細かく長くなりますが・・・
 満州事変と支那事変(日華事変・日中戦争)は、ある点で性格を全く異にしています。

<日本の政権構造と満州事変・日華事変・太平洋戦争(=対米戦争)の詳細経緯>

 戦前の政治体制では、軍(皇軍=天皇の軍隊。陸軍=参謀本部、海軍=軍令部)と内閣(=行政府)は同格の存在として、天皇の下に並立しています。(統帥権の独立)
 明治・大正時代までは、枢密院が天皇の補佐として実質的に日本の政治・軍事を統括した国政の主導機関として機能していましたから、並立する軍・内閣を統合するシステムが存在・機能していました。

 ところが、昭和になると枢密院の権威の低下と(枢密院は事実上、その構成員の個人的力によって動いていました。明治時代の枢密院のメンバーは、明治維新の立役者であり、倒幕軍の指揮官を経て新政府の高官となった人が多く、軍・政両方に幅広い人脈を持ち、両者を統括する力を持っていました。)、天皇自身のリベラルな考え方(美濃部達吉の天皇機関説とほぼ同じ考えを持っており、御前会議では、ほとんど異議を唱えませんでした。例外は2・26事件と終戦の決断の二つといわれています。)の結果、軍と行政を統合した国際的視野を持った政治判断が失われてていきます。

 この、政治=外交と軍事を統合する視野を欠いたまま、満州事変・支那事変(日華事変・日中戦争)が起こっていきます。
 ですから、中国本土への介入が日本と言う国家にプラスかと言う国家としての戦略的判断なしに、支那事変が起こり継続されたと考えています。

・満州事変
 「石原莞爾」という特異な才能の元で、演出されました。

 上に述べたような政治状況の中で、政府・参謀本部ともに「満州では、張学良と極力事を構えない。」方針でした。(満州の軍閥、張学良の兵力は、満州に駐留している日本軍の10倍あるといわれていたからです。)
 ところが、満州派遣日本軍(=関東軍)の参謀であった石原莞爾・板垣征四郎が、この方針を無視して軍事行動を起こし、張学良軍を電撃作戦で圧倒、軍事作戦としては大成功をおさめ、満州を占領してしまったのです。
 この大戦果に、参謀本部・日本政府ともに関東軍の軍事行動を追認し、満州国建国に至ったのです。(ここまでは、石原莞爾の戦略通りの展開となりました。)

 その結果、石原は陸軍同期の中で最も早く大佐となり、陸軍内部で「軍参謀は中央の方針に反しても、作戦で戦果を挙げれば、出世する。」という認識が生まれることとなりました。

 石原莞爾は、満州を取って「日本・朝鮮・台湾・満州を日本の経済圏として開発することに専念すれば、アメリカに対抗できる。」との見方を持っており、そのための戦略として、満州を勢力下に置いた後は、他国との軍事衝突は外交力を総動員して回避し、軍事費を抑え経済開発に専念するというものでした。

 日本は、当時一等国と呼ばれたイギリス・アメリカ・フランスに比べて支配地域が遥かに小さいため、イギリスなどのように植民地を未開発のまま薄く搾取する政策を取るのでは、これらの国に対抗できませんでした。
 そのため、支配民族のレベル向上による独立運動激化のリスクを知りつつも、占領地を徹底的に開発して国力向上を目指しました。

 国際連盟では、リットン調査団の報告にもかかわらず、常任理事国である日本の行動を容認する意見も強く(第一次大戦後の国際的な厭戦気分が影響しています。当初、ドイツもこの傾向を利用して、英・仏と戦うことなく国土の拡大を行ないました。)、石原莞爾の思惑通り事態は進むかと思えました。
 ところが、国際連盟で討議している最中に、日本軍が満州から中国に侵攻を開始(熱河作戦)し、面子をつぶされた国際連盟の諸国の態度が一変します。

・支那事変(日華事変・日中戦争)
 石原莞爾は、1937年の日中戦争開始時には参謀本部作戦部長となり、内蒙古での戦線拡大(熱河作戦以後)に作戦本部長として、中央の統制に服するよう現地にまで出かけていって現地軍指揮官の説得に勤めましたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される結果となりました。
 戦線が泥沼化することを予見して、石原は不拡大方針を唱え戦線の拡大を抑えようとしましたが、当時関東軍司令長官東條英機ら陸軍中枢と対立し、1937年9月には参謀本部から関東軍に左遷され、支那事変は継続していきます。

 日中戦争を開始した中国派遣軍参謀を評して、石原は「鵜の真似をする烏」と言ったらしのですが、過去の自分の行動が影響を与え、石原の戦略は崩壊することとなって行きます。

・満州事変の性格と支那事変の性格
 高校の日本史の資料・年表程度のものに目を通せば、その実態が分かります。

 満州事変(1931年)当時の日本陸軍の総兵力は45万程度で、「電撃戦での勝利」であったため、兵力・日本経済には大きな影響を与えていません。

 支那事変が、1937年7月に起こり、在留邦人保護と言う名目で継続され、1941年12月には、真珠湾攻撃を行い、アメリカとの戦いに入っていくのですが、それらの時点での主な統計数字を見れば実態が見えてきます。

 真珠湾攻撃をする直前の、日本本土・満州・中国大陸にある兵力は約190万(支那事変後に急激に増え、満州事変前の4倍になっています。参考:現在の日本=人口12000万の陸上自衛隊約16万、中国=人口13億の人民解放軍陸上兵力170万{誤差は大きいかもしれません}程度。)は、とんでもない数字なのです。
 対米、南方作戦のために、その後も更に兵員の数だけは増えていき、終戦時には、更に増え650万だったそうです。女性・子供・老人を除外した成年男子に対する軍人の割合を考えれば、国家経済が維持できるはずもありません。

 これだけの兵士を、生産を行わない「軍人」として動員したため、日本の戦前の各種工業生産力は1937年をピークに減少・横ばいを始めます。
 さらに、1938年には国家総動員法・1940年には食料の配給制が国内で始まります。

 アメリカとの戦いを始める以前に、中国との泥沼の戦争で、国力の大きな消耗が起き、顕著に国民生活を圧迫しているのです。

 政治が「軍」をコントロールしていれば、工業生産力を低下させてまで長期に戦いを続けることは考えられません。国益に明らかに反していて、無意味な消耗ですから。

 そして、中国側の焦土戦術(決戦をしないでどんどん内陸部に主力を交代させる戦略)によって、 中国側は「負けなければ勝ち」なのに対し、日本側は「勝たなければ負け」という、抗戦側の理論と侵攻側の理論のギャップで、戦闘を中止して撤退すれば『負け』という状況となっていました。
 
 『負け』ないためには、戦い続けるほかに方法はなく、アメリカから石油禁輸をされた日本(当時の日本産業の動力源は石炭。輸入石油の半分は軍が艦船・飛行機・車両の燃料として消費していました。)は、結局、中国からの撤退か、西太平洋の制海権を手に入れて、オランダ(既にドイツによって占領され、独立国家として機能していませんでした)の支配する領インドシナの石油を手に入れるかの選択となったのです。

付記:第二次世界大戦時の日本軍の人権問題について
 戦場では弱者に被害が続出します。特に補給能力が低かった日本軍の場合、アメリカ軍と日本軍が対峙した太平洋の島々では、弱者である日本兵に餓死・病死が続出しました。日本軍・中国軍と中国民間人が混在した中国戦線では、弱者である中国民間人に被害が続出しました。

投稿日時 - 2008-07-31 18:17:38

お礼

お礼のほうが大変遅れました、申し訳ありません。

いただいた回答、とても参考になりました。

ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-09-19 15:31:51

ANo.3

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回答(3)

ANo.2

>日清戦争が近代日本の転換点といわれるのは何故か?

1868年、日本は封建体制から近代国家に生まれ変わる事を目指しました。中心となった政策が、富国強兵です。
当時、世界の列強諸国(帝国主義)は「資源と市場を求めて、植民地獲得」に余念がなかった訳ですね。
遅ればせながら、日本も(近代政治体制下では)アジアで最初の帝国主義国となった訳です。
日清戦争自体は、中国本土の支配権を得る目的でなく「朝鮮の支配権獲得」が目的でした。
(もし負ければ、日本自体が西欧列強の植民地になった可能性があります)
朝鮮は、有史以来1895年まで歴代中国の植民地だったのです。
ですから、朝鮮国と対戦しないで宗主国である清国と戦火を交えたのですね。
戦後、下関条約第一条で「清国は、朝鮮の独立を承認する」事になり、日本の朝鮮半島における支配権が強化、朝鮮半島の近代化の為、社会資本整備に莫大な資金・技術を投入します。
イギリス・フランスなど列強も支持していました。
(当時のイギリス・フランスなどの新聞をお読み下さい)
某反日国家の国定教科書には、一切記載がありませんが・・・。
UCLAの韓国留学生が「国定教科書の内容と異なる」と教授に異議を唱えたところ、教授は「フィクションの歴史は要らない」と答えた話は有名です。

>満州事変から敗戦までの15年間戦争はどういった性格、内容だったか?

これはもう、軍部の暴走としか言い様が無いでしようね。
資源獲得・アジア解放・民族協和を目的とした侵攻となっていますが、正当化する事は出来ないでしよう。
ただ、アジアでは日本・タイ以外は全て植民地になっていた事実も考慮する必要があります。
欧米列強に武力侵略され植民地になっていた事実は何ら問題がないが、同じアジアの日本に武力侵略され植民地された事に我慢出来ないようです。

まぁ、こういう質問に関する回答は、10人10色です。
立場、思想によって色々な考え方があります。
質問者さまも、色々な情報を得るようにして下さい。

投稿日時 - 2008-07-30 10:52:15

ANo.1

2の戦争の性格、内容は見方によって大きく異なるります。
ある人が語れば、それはとんでもない間違いだと言うし、ある人に言わせれば、それまでヨーロッパの支配下にあったアジアを開放した戦争であったということになります。
私は後者の立場に立ちますが、それではご質問者さんに余計な回答となりますので、ここでは割愛させていただきます。

1の日清戦争のみにお答えいたします。
日清戦争は、明治政府樹立以降、日本は国力の増強に努め、それを持ってその当時ヨーロッパ列強が推し進めていた植民地化を逃れることに費やされていた日本が、初めて外国に進出するきっかけとなった事件で、その意味で近代日本史の分岐点と言えるでしょう。

詳しくは掲載のサイトをご覧下さい。

ただ言えるのは、当時の清国に進出する足がかりになった事件ですが、
日本は欧米列強にバカにされるほど、当時の朝鮮に資金を投入。
こじき同然の朝鮮を、今で言えばアフガンが先進国の仲間入りが出来るほどに近代化したのです。

植民地は搾取するもの ( 実際清は朝鮮から搾取の限りを尽くし、その為、当時の朝鮮は1000年遅れていたと言われる ) という欧米列強は、この日本のへんてこな統治に首をかしげていたのですよ。

参考URL:http://military-web.hp.infoseek.co.jp/shiryou/nissin.htm

投稿日時 - 2008-07-30 03:02:45

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