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解決済みの質問

自己のクオリア

自分自身を対象にするクオリアってありますけど、
このループした単純な系が狭い意味で自己の本質でしょうか。

投稿日時 - 2008-08-09 11:05:37

QNo.4238782

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

 No.22を承けます。

 かつて 《文体》という視点ないし主題として 考えたことがあります。以下のようです。

 わたしの存在は わたしがわたしであるという自同律(アイデンティティ)の展開過程である。
 自己到来するわたしの自乗・三乗・・・とその連乗積をかたちづくっていく過程である。わたしが一であるなら この冪は つねに一である。

 わたしとは何か。わたしと名のる存在である。ここから わたしが自己到来をつねに新たに展開していく過程は 表現行為の過程である。一般に内面における自己還帰の確認は 広く自己表現として表わされる。外化される。直接・間接あるいは顕在・潜在を含め広く ことばをとおしての表現行為として展開される。

 内面における自己同一性〔たるわたし〕そのものは 必ずしも定かになるわけではないが ことばの表現をとおして・もしくはことばを介した認識をとおして 了解し合われる。表情・振る舞いといったものも 解釈され これを ことばの表現として認識し了解していく。

 かくて わたしの生きる過程は 文体として展開される。これらの限りで 文体行為の過程が わたしである。(Le style, c'est l'homme meme.)

 文体の原則(命題):

 1. 文体は 生活である。文体にはわたしが生きていることが先行している。
 2. 文体は 生きることであるなら 過程行為であり 行為過程である。
 3. 生活は 自然界や社会やの世界すべてを含む。《わたしの自乗》理論は 表現過程として あたかもこの世界のすべてであろうと欲する。ただしそれは 文体行為としては 一人の人間の一主観であるにすぎないというのも然ることながら その(=世界過程の)事後的な認識であるにとどまることが ふつうである。
 4. 過程行為である文体は 《わたし》相互のあいだの了解を求める過程として展開する。各自のわたしに修められた主観としての世界観は 共通の基礎を問い求め 互いの共同化に進む。主観の共同化は 経験合理性にもとづく科学行為によってその基準が用意される。
 5. 科学によってもたらされた新しいいわゆる客観認識を持ったとき わたしは ふたたび自己に到来し これを自乗・三乗して生きていく。 
 6.文体行為そして科学行為は いづれも わたしが生きることに後行している。科学によるあらゆる客観知を得ない場合にも 文体は 自己の判断によって表現行為に出発する。文体がいわば確立しておらず 自己の判断がまだ定まっていない状態にあっても そこに生きる人間は あたかも世界の絶対的な現実である。また 絶対的な現実であるゆえ 一人ひとりのわたしに 自らの文体行為が促されるであろうし 望まれる。
 7. かくして わたしは 科学を補助行為として持ちこれを利用しつつ 文体過程として生きる。
 

 ここからわたしたちの持つ課題は

 a. 文体とその補助行為たる科学との関係は如何に。
 b. 文体の確立を目指すとするなら 科学のほかに(=その活用以上に) どのような補助行為があると考えるべきか。もしくは 補助行為以上の事柄があるのかも知れない。
 c. わたしの自己還帰がもし間違っていた場合 これをどのように質し正すか。《わたし》相互の間では・さらには広く社会一般においては これをどのように行なうか。 

 これら( a ・b ・c )をまとめて 信仰を基礎に持った哲学思想の展開が 望まれる。

 * 生命尊重は 人間優位にならざるを得ないように思います。
 * 《非線形》については 考えていませんでした。たぶん 線形の動態として捉えていたのだと思います。残念。というより 非線形をおしえてください。

投稿日時 - 2008-10-18 23:14:25

補足

brageloneさん 本当にありがとうございます。

brageloneさんとのやり取りの中で、解ってきました。
文体とは、文章、いわゆる言語表現という理解でいいのですよね。

非線形とは、簡単に言うと連続していないといういことです。
一番身近な例は、相転移 個体→液体→気体でしょう。 
わたしが主に扱っていたのは非線形光学材料です。
尿素なんかがそうなのですが、ある波長の光を特定の物質に当てると違う波長の光になってしまうというようなものです。
解りやすくは、赤を入れると青になると言うことです。
連続性が無いのです。現象があるポイントで、飛躍する場合のことです。特異点もそうです。
さなぎから蝶になるような感じですね。

科学論文も特許も科学思想の言語表現であって客観を表したものです。無論、時空間宇宙での実証があるから、主観を離脱します。
しかし、時空間宇宙での実際の実験観察を如何に客観性を持ってを行っても、それを行っているのが人間ですから、
認識、理解している段階で既に遊離しているのです。人間認識にとって、時空間宇宙は非線形の存在だと言うことです。

言語表現している限り、文体表現しているのがわたしということですね。それ以外には成りようもありません。
これが、わたしが言語表現を直線的とか、一次元的とか言っていたものの正体でした。

わたしが幻想であるというクオリアを幻想ではない自己を使って表現しようとしていました。
わたしは愚かにも豚キムチを食べながら命の重さを語っていたのです。

わたしが幻想なのではなくて、言語表現が不能としてもあえて、クオリアも含めて全てが幻想と言うべきだったのです。
全体が遊離しているのです。既に非線形だったのです。それに気づきませんでした。

とすると わたしの 輪郭 もその範囲内で明確になりました。
この極端に狭い帯域幅が遊離している側でのわたしの正体であるということです。わたしが一であるなら この冪は つねに一である。

そして、クオリアの帯域幅がわたしの比ではないから直接移動させることができない。
その延長で言うなら、<わたし>というクオリアは、狭い帯域幅のわたしには入ることができない
ことが解りました。わたしの全体が解ったわけではありませんが・・・

投稿日時 - 2008-10-19 15:00:59

お礼

a. 文体とその補助行為たる科学との関係は如何に。

 科学は文体側であって、時空間宇宙と人間認識との間が非線形なので、ここを掘り下げる必要がありますね。

 b. 文体の確立を目指すとするなら 科学のほかに(=その活用以上に) どのような補助行為があると考えるべきか。もしくは 補助行為以上の事柄があるのかも知れない。
 c. わたしの自己還帰がもし間違っていた場合 これをどのように質し正すか。《わたし》相互の間では・さらには広く社会一般においては これをどのように行なうか。 
 > これら( a ・b ・c )をまとめて 信仰を基礎に持った哲学思想の展開が 望まれる。
 信仰には、共通したクオリアが不可欠ですね。

 このクオリアの量と質の向上が、哲学思想の展開へつながるのではないでしょうか。

 哲学思想のその文体は、非常に狭い情報量しかありませんね。
 その土台は世界全体のクオリアであって、さらにそれを支えているのが時空間宇宙です。
 文体、クオリア、時空間宇宙の間はたとえ同じ作業していたとしても非線形ですね。

投稿日時 - 2008-10-19 17:19:59

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回答(26)

ANo.26

こんばんは、bananasandさん。

●あれ、ちょっと、まだ臭うのかなぁ。


( ^O^).。oO。.。oO)))))∥( ><)たいへん

勘弁してよ、何食ったの? 

もしかして…ニンニク? 

えっ、本のレシピみて作った?

どんな本?

“絵本” 『ニンニクの絵本』
http://www.ehonnavi.net/ehon01.asp?K=%83j%83%93%83j%83N

“強烈な臭いは薬効のもと”って?

ふーん、そなの?“臭い”が手がかりね?

怪盗が狙うものの定番といえば…

“宝石”

どこに宝石があんのよ?

―――――― ありました。

『霧の夜に』  南部修太郎著
http://www.aozora.gr.jp/cards/000048/files/508_21402.html
『氣質と文章』 南部修太郎著
http://www.aozora.gr.jp/cards/000048/files/4859_14005.html


●蝉の声は、鮎の口元で鳴くんだよね。泡があるからね。。


【漱石枕流】
http://www.ajinomoto.co.jp/recipe/calendar/fish/fish_05.html
“閑かさや岩にしみいる蝉の声”“ものいえば唇さむし秋の風”
http://www.senjumonogatari.com/bashoutosenju.htm


ほでも解せないんだよなー、泡。
この泡は、げっぷなんじゃないかなー?
げっぷ…炭酸ガスとくりゃ、ここみとこっか
【炭酸ガスとドライアイスの歴史】
http://www.showa-tansan.co.jp/html/dryice/rekisi.htm

霧ーガスー街ーニュルンベルク

【ニュルンベルク裁判】
http://www.henkyou.vis.ne.jp/nurn-saiban.html
『ニュルンベルクのマイスタージンガー』
http://www.nntt.jac.go.jp/frecord/opera/2005~2006/meistersinger/meistersinger.html


まくひきですか?
そうですね、寒い季節になってきましたから
お水使うと手荒れちゃいます。
手のケアもこまめにしておきたいものです。
アトリックスをちょとつけて
手に薄く薄くのばしましょっと(膜で保護)。
http://www.kao.co.jp/nivea/atrix/



うんじゃ、ぼちぼち芸術の方へジャンプ!

おっと、その前に お届け物ひとつふたつ

【マトリックス】
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20080215/293894/
【ジャンプ】
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20060420/235829/?ST=ep_office

投稿日時 - 2008-10-20 21:58:41

お礼

トルエン臭に決まってんじゃん。
ほら、まだ、ウワ~ン、ワンいってんじゃんよ。



ちょっとの疲れたよね。

耳に残っているからさ、あの、鮎の塩焼き。バッタもね。

ほらぁ、ボールはパトカーの中だってよ。



たばこ、ちょうだいよ。ねぇ。

投稿日時 - 2008-10-20 22:35:16

ANo.25

 No.25です。

 了解しました。
 わたしも 変化(ないし相転移)について 触れ得ていなかったときにも 視野には入れていて 《わたし》の動態に含めていたと思うのですが この《わたし》の非線形なる動態について bananasandさんは 必ずしもわたしは触れておられると捉え得なかったのですが 視野におさめ 理論を得ているという情況だったのですね。
 ということで 了解しました。

投稿日時 - 2008-10-20 21:28:28

お礼

大変有意義なご回答(やり取りかな)が得られました。
文体については本当に目から鱗でした。感謝申し上げます。

投稿日時 - 2008-10-20 22:33:01

ANo.24

 No.24です。

 幕引きの前に 互いのあいだの異・同として分かったところがありますので それをここに問うて 今後に臨みたいと思います。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この話のややこしさは、単に非線形の現象を客観的立場から観察しているのではなくて(氷と水)、一方の側からのみ自らの他方を観察しようとする試みになっているからです。水であるのに、自ら氷に成ることを説明しなければならないのです。あなたは、水なのに何をいっているのかと軽く突っ込まれます。

 文体が時空間宇宙から遊離していることを文体で表現しなければならないのです。それは、無理なのです。パラドクスです。
 この非線形方程式を、文体側からのみ解くことはできないのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 前半の例示のお話から入りますが 
 人間は 水にはならないという与件を出しても それは 単なる早とちりだとすれば つまり いや これは たとえだという場合には 次のように考えます。
 ★ 〔人間が たとえとして言って〕水であるのに、自ら氷に成ることを説明しなければならない
 ☆ のではなく そうではなく 《〈水〉であるわたしが 自ら〈氷〉になるという予感を話す》のです。そういう文体行為です。科学を超えています。《予感》も クオリアだという強引な主張です。

 ★ 文体が時空間宇宙から遊離していることを文体で表現しなければならないのです。それは、無理なのです。パラドクスです。
 ☆ ところが 文体の主体つまりわたしは 文体行為という表現の以前に 時空間宇宙と同じ非線形なる動態です。
 ★ この非線形方程式を、文体側からのみ解くことはできないのです。
 ☆ そのとおりなのですが 文体行為に先行する生というものが 時空間宇宙とともに 動いてしまっているのだと考えます。

 それゆえに
 ★ 《それを科学行為として 文章に表わし説明する場合》 これは単純に非線形現象を説明することですね。
 ☆ ということで 科学行為と文体行為とを区別しようとわたしは していましたが その心は 別のところにあったと 分かりました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自分が非線形である。クオリア所有者、文体表現者、文体受信者としての自分とANo.23 1. 文体は 生活である ところの文体は、
非線形であることが、発信地ですから大変です。
 我々は、水なんだから氷のことなんて関係ないじゃん。と簡単に言われていまいます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このとき 最後の一文については 述べ得たと思います。前半の部分は これも まさに その上に述べたところと 同じことをおっしゃっているのではありませんか? 
 ★ 自分が非線形である。
 ☆ つまり 《クオリア所有者、文体表現者、文体受信者》であることにも先行する《生活者》が 非線形の動態であるということ。それとして
 ★★ 〔存在としての・自然本性としての〕自己の本質
 ☆ は 想定し得るように思います。

 そして そうであっても
 ★  仮に、クオリアの直接移動が可能だとすると文体行為は不要となりませんか。
 ☆ とはならないように感じています。以心伝心が起こってもかまわないのですが 基本的に 言葉を用いての 食い違いのある文体行為をとおして 人は 社会生活をいとなんで行くというように感じています。
 みづからは そのクオリアにかんして 現象じたいとのあいだに 齟齬(遊離)があり クオリアを用いての表現にかんして 他者とのあいだに 差異を持ち そのように 言葉による表現において食い違いを伴ないつつも 文体行為が コミュニケーションの基軸でありつづけるように感じています。
 たぶん その意思疎通のおこないにこそ 自然本性としての自由が 生きがいを見いだすのではないでしょうか。そうでなければ 神が人間社会に介入するか それとも 独裁者が出て ともかくまあるくおさまるという社会生活になるかだと考えられます。いづれでも 人は 奴隷に甘んじることになります。

 はてさて 勘違い・勇み足を冒したでしょうか。

投稿日時 - 2008-10-20 17:36:12

補足

ご回答ありがとうございます。

>★ 文体が時空間宇宙から遊離していることを文体で表現しなければならないのです。それは、無理なのです。パラドクスです。
>☆ ところが 文体の主体つまりわたしは 文体行為という表現の以前に 時空間宇宙と同じ非線形なる動態です。

 その通りですね。<同じ>とは時空間宇宙と同じであって、文体とは<異なる>非線形なる動態です。

 自己(人間)は、多層構造で成っていて、それぞれの層の間は非線形です。
 同一の自己であるにも関わらず連続していません。

 解りやすく記憶、感覚、直感系を除いて直系の自己を縦に並べると、(以下造語ですのでご注意下さい)

 最下層に物理層(時空間宇宙と同期)肉体や脳の変化です。
 その上に、表象層 クオリアが現れている部分です。
 そして、文体層 言語する部分ですね。

 そして、わたしというのは、これら層を縦に貫いているのです。

 どの層も わたし ですがそれぞれは非線形です。各層は とびとび です。

 物理層は、クオリアや文体の土台であるにもかかわらず、これらを許容できる幅がありません。
 いわゆる過去を保持できないからです。物理層にクオリアは入れないのです。
 文体層にも、クオリアが入れるだけの幅がありません。帯域が狭すぎるからです。

 この非線形方程式は、言語表現側で、解くことができません = 文語表現で、否定もできません。
 
 感覚が、時空間宇宙を観察するとき、
 観察対象と同時であるところのわたし側の時空間宇宙=最下層の物理層を使っていますから、
 クオリアが発生するときにはその時の観察対象はどこにもありません。
 その時の観察対象は、人間の独特の世界へと消化されていることになります。

 文体は、さらにその上層にあり、文体を書くにも読むにも最下層の物理層を使っていますから、
 文体から物理層を理解するには二つのハードル(非線形)を超えなければならないんですね。

 コミュニケーションの基軸はとりあえずおいておきます。

投稿日時 - 2008-10-20 21:08:00

お礼

わたしとしては、この質問の
>自分自身を対象にするクオリアってありますけど、
>このループした単純な系が狭い意味で自己の本質でしょうか。
は、否定されましたので、brageloneさんの上記多層構造へのご批判をうけて、論点がなければ、
閉じたいと思っています。

わたしがわたしのクオリアを持っていようがいまいが
多層構造のわたしは、わたしであり、
わたしとクオリアのループは自己の本質ではありませんでした。

投稿日時 - 2008-10-20 21:11:07

ANo.23

 ANo.23からです。

 いただいたコメントについて 個々の文としては 分かるのですが 全体としては――何となく伝わって来ているのですが―― よしこれだとか なあんだ こうだったのかとか 言える段階ではありません。
 質問を重ねていくことで 理解が行き届き しかもそれだけではなく 新しい課題に進むことも出来るだろうとの考えのもとに お尋ねしますので おしえてください。

 線形と非線形とのちがいについて 次の回答を検索で見つけました。
 ◆ ある関数f(x)を考えたとき,f(ax + by) = af(x) + bf(y)が成り立てば線形,成り立たなければ非線形.(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1312294318
 ☆ ヰキぺディアにもありましたが 数式がめんどうなので こちらの例解をもとにお尋ねします。
 そうしますと いろんな問いが思い浮かびます。
 (1) そもそも この関数が成り立たない非線形の場合は 関数に表わすことができるのですか? 言いかえると 非線形の現象については その因果関係が捉えられないということですか?

 (2) 捉えられなくとも 大きくは何らかの関数に収まるとしてお訊きします。そこに変数( x, y )と定数( a, b )があるというとき われわれ人間は 変数ではないと思われるのですが この点 どうなのでしょう?

 (3) たしかに人も大きくは可変的な存在として 一種の変数ですが その自己表現という生そのものとしては このように関数表現の中におさまるのではなく 関数表現を得て 世界を知るという主体である。この主体的な存在でありつづけて 朽ちて行くというものである。つまり 関数表現におさまるのは 人間の思考や行為のほうである。と思うのですが いかがでしょう?

 (4) しかも 関数表現という形態は 科学としての文体行為であって 生きるとしての文体行為は この関数表現を補助として用いて 自己表現をおこなっていく動態である。言いかえると 文体としての文体は 科学的にまちがった内容をも含むかたちで おこなわれるのが つねである。間違っていると言わないにしても 情報つまり特に因果関係の分析などにおいて なお不足しているであろうのに そのまま 発車するのが つねである。のでは?

 (5) つまりは 文体は 人間存在(ないし《わたし》)の全体を つねに総合して 自己表現すると言っても 生きているという現実そのことと そのまま 等しいと言えるわけではない。つけ加えるなら 科学行為は この生ないし文体行為というような全体観・総合的な動態を そもそも捉えようとはしていないのではないか? つねに 要素・要因ごとに 現象を認識するということではあるまいか? 非線形は どうなんですか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (あ) 哲学思想のその文体は、非常に狭い情報量しかありませんね。
 (い) その土台は世界全体のクオリアであって、さらにそれを支えているのが時空間宇宙です。
 (う) 文体、クオリア、時空間宇宙の間はたとえ同じ作業していたとしても非線形ですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (あ)は (4)と同じだと思います。
 (い)は わたしの感覚では こうなります。
 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 文体が そこから情報を得るというところの世界は そのまま時空間宇宙であり 特にはこの地球上の自然現象および社会現象である。
 これらとの接触によって 人は クオリアを得る。
 それにもとづき 抽象的思考をも加えて 知解行為を行なう。
 認識作業とその総合的な知解が 科学行為である。
 科学の成果を 文体は 活用する。あやまつのが つねという恰好ででも 活用をつづける。
 (ちなみに 科学者は 科学行為と文体行為とを分けて生きているのではないか? あるいは むしろ 分けているのが ふつうであるべきではないか?)

 ○ (う)を交えて言えば 因果関係が 錯綜していて 全体がつかみ切れないとき その現象は すべて 非線形である。
 あるいは 因果関係が 相を転換しつつ つまりは 非連続となりつつ しかもあたかも連続していく現象は 非線形である。そういう時空間宇宙である。
 それを受けて 人はクオリアを得る。
 クオリアを得る前にも 人は生きている。もしくは 生きているということは 時空間宇宙からクオリアを得つつあり 得つづけることである。
 この前提条件のもとに 人は 文体行為をおこないつつ 生きる。
 この文体行為のために・つまりはまたその自己表現の形式をも内容をも向上させることによって 生きるというクオリア内容を豊かにするために 人は 科学行為を行ない それを補助として用いる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 非線形の現象を捉えた内容は 《それを科学行為として 文章に表わし説明する場合》と 《これを基礎として活用しつつ 自己表現をおこなう文体行為の場合》とでは その言葉による表現に 形式的なちがいがあるか? あるように感じられるが どうなのか?

 独語のようになっていますが どうぞよろしくお願いします。

投稿日時 - 2008-10-20 11:21:41

補足

非線形も数式に成ります。しかし、非線形方程式が解けるようになっても、ここではあまり意味がありません。
関数表現も文体で、そのままが表現されます。非線形方程式は、線形方程式のように簡単には解けない方程式になります。
重要なのは、入力に対して出力が線形か非線形かです。あるいは出力結果から見て入力が線形が非線形かです。

(1)全体の因果律は守られています。相が変わっているだけです。
(2)関数表現は文体側です。同一視してよいと思います。定義によって人間の部分を抽出して関数、定数にすることは
   問題ないと思います。
(3)定義次第となります。生そのものは、抽象的過ぎてとても関数表現できません。
(4)科学としては、ある限界内とか、その実験の範囲では正しいとして表現するのが常です。
   常に正しいとは言えなくとも、その範囲で正しければ発車しますが、結論に達する分析が不足しているのに
   発車することは間違っています。
(5)>つけ加えるなら 科学行為は この生ないし文体行為というような全体観・総合的な動態を そもそも捉えようとはしていないのではないか? つねに 要素・要因ごとに 現象を認識するということではあるまいか? 非線形は どうなんですか?
  
  科学はその全体観・総合的な動態に焦点を当てつつあるとは思いますが、常には、捉えようとしていません。
  そして、 現象を認識する ということを行う時に、 現象と認識 の間が遊離しています。 


>(あ)は (4)と同じだと思います。
 (あ)で言いたかったのは、(4)のことではなくて、文体はクオリアではないということです。
  どう組み合わせても文字情報にすぎないと言うことです。

>文体が そこから情報を得るというところの世界は そのまま時空間宇宙であり 特にはこの地球上の自然現象および社会現象である。
 これらとの接触によって 人は クオリアを得る。

 文体から、クオリアそのものは得られません。
 文体の表現者が、自らのクオリアを、文字表現して、受信者が、自らのクオリアをベースとして表現者のクオリアを得たように思っているにすぎません。

 金属光沢をもつリンゴ と表現した場合、受信者が、一度も見たことも想像したことがなくても、金属光沢とリンゴのクオリアがあれば
 組み合わせて新しいクオリアを得ることができますが、金属光沢のクオリアとリンゴのクオリアの両方がなければこれはできません。

  科学者は 科学行為と文体行為とを分けて生きているのではないか? それは、作家、文芸作家にも同じことが言えますね。
 科学行為と文体行為の間が乖離よりも、現象と観察の乖離の方が遙かに大きいですね。


>○ (う)を交えて言えば ~ この文体行為のために・つまりはまたその自己表現の形式をも内容をも向上させることによって 生きるというクオリア内容を豊かにするために 人は 科学行為を行ない それを補助として用いる。

 仮に、クオリアの直接移動が可能だとすると文体行為は不要となりませんか。
 文体によるコミュニケーションは細いパイプでやっているように思います。

>☆ 非線形の現象を捉えた内容は 《それを科学行為として 文章に表わし説明する場合》と 《これを基礎として活用しつつ 自己表現をおこなう文体行為の場合》とでは その言葉による表現に 形式的なちがいがあるか? 
 
 この話のややこしさは、単に非線形の現象を客観的立場から観察しているのではなくて(氷と水)、一方の側からのみ自らの他方を観察しようとする試みになっているからです。水であるのに、自ら氷に成ることを説明しなければならないのです。あなたは、水なのに何をいっているのかと軽く突っ込まれます。
 文体が時空間宇宙から遊離していることを文体で表現しなければならないのです。それは、無理なのです。パラドクスです。
 この非線形方程式を、文体側からのみ解くことはできないのです。

《それを科学行為として 文章に表わし説明する場合》これは単純に非線形現象を説明することですね。
《これを基礎として活用しつつ 自己表現をおこなう文体行為の場合》は、表現する対象が違うので棘の道ですね。
 自分が非線形である。クオリア所有者、文体表現者、文体受信者としての自分とANo.23 1. 文体は 生活である ところの文体は、
非線形であることが、発信地ですから大変です。
 我々は、水なんだから氷のことなんて関係ないじゃん。と簡単に言われていまいます。

投稿日時 - 2008-10-20 15:00:46

お礼

一応、この質問は、おかげさまで2割は解けたと思っています。あとの8割は非常に難しいでしょうからそろそろ幕引きかと思ってますがどうでしょう。

投稿日時 - 2008-10-20 15:04:47

ANo.21

 No.20からです。

 表現の自由です。したがって 批判の自由です。だと思います。

 生物全般にわたる生命というものについて なかなか しっくりとした説明を わたしは 得ていません。得ていても 納得行かない状態です。
 蚊も蝿も 被造物は すべてよしとされているというのですが。 
 ただし 人間が それらを支配しなさいというのですが。
 
 生命尊重については どこまで どのように 徹底させるか むつかしいですよね。人間としては 開き直るしかないように思えてしまって・・・。いさぎよく感謝しつつ 食べる。ここまでです。――お手あげです。

 《わたし(人間)》は 何であるか? これについては わたしなりの答えを出したつもりです。人間存在の社会的な独立性と関係性 / 自然本性 / その自由などなど。

 《わたし》は 誰であるか? 《自己》とは 何であるか? これについては 《わたしは / わたしが / わたしの / わたしを / ・・・》と言っている本人のことです。
 つまり むしろ《わたし》というのが その本人の固有名詞だと考えます。何の何べえという一般的に言うところの固有名詞は じつは 代名詞であるという見方です。ただし 固有名詞が 誰にとっても 同一では困るので 一般には これらが互いに逆転しています。

 もともとは わたしにとって固有の名は 《わたし》であり その代わりにつける呼び名が 何の何べえだという見方です。
 この《わたし》が もし自己分裂するとしたら それは 時間的な過程において その前後関係での振る舞いや言動が違っていたという場合です。でも それは 以前の行動から その現在は 考えが変わったのだと言えば 通っていくようにさえなっています。《わたし》は 言語表現の上で 一貫性があるようになっています。統括者になりうるようになっています。
 つまり このわたしとは何かについて その中身は よく分からないのですが 言葉による表現行為としては 簡単に 《自称する主体》であると言えるのではないでしょうか。

 そう考えると なるほど
 ▲ 《ひとはわれを経て来たり われに到り われの中に休む》という意味である。
 ☆ の《われ》について bananasandさんが わかるとおっしゃったのは わたしにも わかると 今回 思いました。枠組み ないし 骨格 ないし 場としての存在 といったふうに捉えたときです。

 ただし原文では この《われ》は イエス・キリストのことを言っているというのも 実際です。つまり《道であり真理であり生命である》その《われ》のことです。みづから そう語っているという場面です。まぁ けっきょくは 絶対者であることを言っているということになるのですが。そして 論理的にはわかるわけです。
 また キリスト・イエスは みづから語って言うには 
 ○ わたしは どこから来て どこへ行くのかを 知っている。
 ☆ とも言いますから その論理上の思想構造は 分かるのですが ほんとうに分かったのかと訊かれれば やはり ピンと来ていません。

 日本の経済人やエンジニアらの充電期間に 思想関係でも 発展があるといいですね。

 こんなんで クオリア論でありうるとすれば もう少し延ばしましょうか。

投稿日時 - 2008-10-18 21:15:05

お礼

>《自称する主体》

 自称する主体が、命の重さは豚も人間も同じだとすることは、
 いいのですが、それを主張をしつつ豚肉を食べているその人間の意思は、
 自称する主体には含まれないということでしょうか。
 豚肉を食べるという選択、自由意思、は自称する主体に
 含まれない。
 パックに入った豚肉は豚ではないという感覚なんでしょうけど
 その錯誤、幻想も 自称する主体 の一部ということですかね。

 居酒屋で豚キムチを食べながら、命の重さを語り合う図は
 結構笑えます。

 自称する主体は理解しつつも、それが幻想であることも理解するんですよね。
 そして、

《ひとはわれを経て来たり われに到り われの中に休む》

 ですが、

 ひと が われ を経る過程で ひとはひとを失っていきます。われ が 随から染みだしてきます。まさに ひと から染みだしてきます。
 
 われに到り には ひと はいません

 休むのは、もはや ひと ではないのです。だから、休めます。

 ということでした。理論なら、非線形ですね。

投稿日時 - 2008-10-18 22:27:52

ANo.20

こんにちは、bananasandさん。

●あれ、バッタが飛んだ。


(○¥○)v ←“V3”ってか? ←(面つながり)


“シフトチェンジ!飛べ!”~いけめんぱらだいす~
http://www.fujitv.co.jp/hanakimi/index2.html


おっと、飛ぶ前に…


携帯品に護身術の本携え(熟読)、ヘイ!ロン!
http://www.ruralnet.or.jp/~NCL/set/59309832.htm
【QNo.2746186 ほにゃらか形而左右学】 ANo.24
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2746186.html


【ヤンの気象万華鏡・・元気 天気 呑気】 ~浮浪雲~
http://hb8.seikyou.ne.jp/home/y-ken/
【耳掻き】
http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/hana-white-powderpuff_large.html
http://www.kagiken.co.jp/new/kojimachi/hana-red-powderpuff_large.html

膝枕もじりてこれを『草枕』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/776_14941.html



『落語娘』
http://www.tv-tokyo.co.jp/telecine/cinema/rakugomusume/story.html

おあとがよろしいようで m( _ _ )m

投稿日時 - 2008-10-18 15:14:50

お礼

ご静聴ありがとうございました。

般若はすごく気に入ってます。魎呼ほどでありませんけどね。

日帰りのショートトリップだったなぁ。

蝉の声は、鮎の口元で鳴くんだよね。泡があるからね。。

今日、やっと雨が止んだね。



あれ、ちょっと、まだ臭うのかなぁ。

投稿日時 - 2008-10-18 16:30:13

ANo.19

 No.18です。

 ★ 《わたし》の起源
 ☆ わたし( brag. )には分かりませんが つまり いまだにピンと来ていませんが 次のような一つの答えがあります。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《われは道なり 真理なり 生命なり》(ヨハネ14:6)という言葉は 《ひとはわれを経て来たり われに到り われの中に休む》という意味である。
(アウグスティヌス:キリスト教のおしえ De doctrina christiana 1・34 服部英次郎訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ むろん 伝イエスの言葉です。理解できるものでしょうか?

 とっくに 退散しなければならぬモードなのですが。

投稿日時 - 2008-10-18 14:23:51

お礼

理解ではなく・・・そうですね・・<わたし>からは見えます・・・

われを経て来たり ・・・・ まさしくです。

休む というには、完全な場所とは言えませんが
落ち着いてはいます。平静を取り戻したと言う感じでしょうか。

われを経ないと来ない というの非常に象徴的です。

でも、でもですよ。<ひと>が解りません。
<われ>はクオリアとなっています。
<ひと>もわたしというクオリアはあります。
だから、歌うしかないでしょう。

ところで、

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4407292.html


ですが、解答する気にもならないし別に批判するつもりもないのですが、
家畜の屍肉を食らいながら、命の重さを平気で語るのが
主観というやつでしょうかね。
この逆立ちしたくなるような 自己分裂 の自己っていうやつも解らないのですよ。
主観?、行動?、選択?自由意思?

退散する前に、ご意見を、拝聴いたしたく

投稿日時 - 2008-10-18 16:15:18

ANo.18

おはようございます、bananasandさん。



(-_-;)uuu… ようそこまで ボケ かましてくれるわ.。oO


いまから思えば…


そういやあ、ANo.4へ《この回答へのお礼》の中に


●さてと、歯でも磨くかな。真剣にね。 


ということばがおかれていた…

なんでもないような言葉なのだけれども…

…思い出せ

●世にはいろいろな種類の言葉があり、どれ一つ意味を持たないものはありません。

そうだ、どれ一つ意味を持たないものはないんだ。

【QNo.3965802 輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか】 ANo.79
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3965802.html

だとすると 《さてと、歯でも磨くかな。真剣にね。》 は…


            “ 予告状? ”

 “ボケることへのことわり” で、 『回答(怪盗)二十面相』 (-_-;)uuu… 


何でそう思うかって?

ループした単純な系が謎を解く手がかり

突っ込まれればボケる ボケれば突っ込む  ←これお笑いの“基本”

☆「昨日は確か アイス 食ったよね。」
★「あぁ、いたかったー」
☆「ん?」「いたかった???」「アイス 食って???」
★「あぁ、いたかったー」
☆「いたかった アイスって どんな アイスやねん?」
★「あぁ、いたかったー」
☆「わかったって いたいんは。 それって 知覚過敏ちゃうの?」
★「あぁ、いたかったー」
☆「わかったってゆてるやん いたいんは。 いっぺん 歯医者行け!」
★「あぁ、いたかったー」(尻を摩る)
☆「おぃおぃ どこ摩ってんねん。 いたいんは 歯やろ? そこは 尻や」
★「はい 滑りました つきました もちを」(><)(T T)(*^^*)

【ice face】
http://jp.youtube.com/watch?v=ps6Hh0HKI_M&eurl=http://iceface.blog123.fc2.com/page-5.html
【霧の中のジョニーという吸血鬼のお話】
http://blackbell.sakura.ne.jp/xyz/2008/03/hakabakitaro09.html
http://www.excite.co.jp/News/bit/00091196264334.html
【霧の発生の仕方】
http://hb8.seikyou.ne.jp/home/y-ken/mechanism/kiri/kiri.html
http://blog.goo.ne.jp/kirioji1201




【平成18年版 環境白書】
http://www.env.go.jp/policy/hakusyo/h18/html/kh0601030200.html
【第1章 人口減少時代の環境】
http://www.env.go.jp/policy/hakusyo/h18/html/kh0601010100.html#1_2_1_1

投稿日時 - 2008-10-18 06:14:06

お礼

>これお笑いの“基本”

 頭 かっちかちやど  くやしぃ です。 違うか~。 ボケ~。 こりゃ、惚れちまうだろ~ 。

 そんなの関係ねー。 のか オッパッピー。 そうだろ ホワイト赤マン。 やっちまったなぁ。

>これお笑いの“基本”?  ← こっちは真剣だ。

《方々に散っていっても来た道を辿りかえれば一本の道へ続く》


明日は、奇襲攻撃だ。目標地点まで、53km。無線機はおいてゆけ。
緊急事態が発生した場合は、白煙弾を使え、全区域を衛星からモニターしている。
直ちに救出へ向かう。

はい、小隊長殿。両腕は、振り回しますか。いつ、泣き叫ぶかは、自分の判断にお任せ下さい。



サードは 三村 が守るさ。

境内で色づいたヘロインは本命のアウターだね。

明日、研究室でプール開きなんだ。今頃かい。



あれ、バッタが飛んだ。

投稿日時 - 2008-10-18 12:03:29

ANo.17

 No.17からです。

 《自分自身を対象にするクオリア》について 正直に 書き過ぎました。他者が思っているところが ほんとうの自己だという説があるので それに合わせようとしたのかも知れません。

 歌って欲しいのは そうですね。いくらか段階を飛び越えてとしては やはり 世界の指導的役割を果たす日本人といったところです。ありますかね。

 ★★ わたしは、未だ、自己を知りません。
 ☆ これは これとしての《自己にかんする一つの理論》なのですか? そういうかたちで 《わたしがわたしである》と打ち出しているのでしょうか?

投稿日時 - 2008-10-17 21:20:07

補足

日本人ですか。
毒入りインゲンの対応には、頭がどうかしているように思いますね。

首相も、厚働省も受け入れ検査態勢を強化する動きをメインにする発言をしてますね。
人間が故意に入れたものを人間が受け入れ検査する? 
防げる訳がない。検査する方もテロ対策とかの大儀を作ってくれないと馬鹿馬鹿しくてやってられません。
現場を考える力がないんでしょうかね。中国製品が危ないからという検査理由は危険です。
犯人は素人かもしれませんけど早めにテロとして扱えばいいんですよ。
犯人への威嚇のためにも、日中の警察力がハッタリでいいから大々的に動く場面でしょう。
もう2度目なんです。4回目、5回目になったら、これはテロだと言い出すのでしょうけど・・
緻密な捜査網の存在が最大の防御だとは思いませんか。
受け入れ検査がメインとは、いやはや。

しかし、経済面で、こういう局面になると日本にとってはチャンス到来。決断を間違うと奈落の底。
金融面は全くの素人なので解りませんが下手に動かないで体力の温存じゃないですかね。
日本のお客さんにお金が無くなったということですから、技術を磨く場面でしょう。
エンジニアもヒマになったでしょうから。じっと耐えて、刀を研ぎ澄ます。
2年ぐらい前から米経済の破局は警告されてましたから驚きはしませんが、日々のニュースを
見るのは、重苦しいです。
この局面をどう耐えるか、大戦前の精神性に比べて、今後かなり悪化した状況にも耐えられる精神性を
得ているかどうかが鍵なのかもしれません。
刀を研ぎきれるなら、世界へ指導的役割を果たす立場になるのではないでしょうか。

投稿日時 - 2008-10-18 11:56:16

お礼

★★ わたしは、未だ、自己を知りません。
☆ これは これとしての《自己にかんする一つの理論》なのですか? 
そういうかたちで 《わたしがわたしである》と打ち出しているのでしょうか?

この質問の趣旨の一部です。理論というより、感覚、直感です。
わたしは、わたしであるのは・・・・そうですね。
目を閉じて瞑想をしているときは、わたしはわたしである だけですね。
目を開けて、関心を腕に送れば、腕の感覚があり、目にも見え、そこで、わたしに取り込まれる。
リンゴを口にすれば、臭い、味があり、呑みこんだらわたしに取り込まれる。
空想すれば、その宇宙も、わたしに取り込まれる。

歌っているときは、わたしはいない。

入力するときにわたしがいて、出力にはわたしはいない・・・そんな感覚がありますね。

わたしは、わたしだ は 解りますけど、わたしとはなにか わかりません。

投稿日時 - 2008-10-18 11:58:16

ANo.16

 わたしが 目の位置(目線というのでしょうか)としては きわめて傲慢で ものの言い方が上からの言い方になってしまうと 自分でも 思っている要素を 白状します。
 次の対話のあり方が かなりきめ細かく 《質感》をもって せまって来ているという事情です。あらかじめ言えば 弟子ペトロに代表される人間の情けなさ こちらのほうに共感を持つという事情であるに過ぎないのですが。

 ▼ (ヨハネ福音21:15~17) ~~~~~~~
 ・・・食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。
 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。
 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《羊を飼う》という箇所に共感を持つというのでも 必ずしも ありません。なぜなら それは むしろ 親鸞のごとくに 《みな互いに御同朋》であると わたしが 思っているからです。そうでもなく 《愛しているか?》――《愛している》というやり取りの部分についてです。
 原文では 《愛する》を イエスは よく引き合いに出されるように 神の愛にかかわる《アガぺー》系の語で言っているのに対して ぺトロは 人間の愛にかかわる《フィロス》で答えているという箇所です。しかも 三度目に問うたときには イエスは ペトロに合わせて 《フィロス》の語に替えて 言っているというところです。
 つくづく 情けないと思うし それは わたしのことだと思うわけですし 神の愛は 人間には・あるいはわたしには 無理だという思いのことにも到るわけですし せいぜいわたしに出来ることは 仮りに出来たとしても ペトロのように 《倣う》だけであり それであってよいと思われて来ますし いざというときには このペトロと同じように イエスを裏切ることにまで堕ちていくかも知れないと思わないでもなかったのですし・・・。

 何が言いたいかと言いますと 少なくとも このように――わたしの場合 自己満足で《清らかな》であると思っているだけかも知れませんが―― おのれの《愛》の情けなさや 《愛》には むしろ あるべき《清らかなおそれ》のこと これについて 一度は思いを致し 少しは そのことを省みたという痕跡を残していて欲しい。したがって その痕跡が見られない文章で しかも 自分を押し出している文章に出会うと きわめて強い憎しみを感じて 上からの物言いになるということだと思っているのですが。
 という白状です。

 * 憎しみと言いましたが これは ひとに対するものではなく 文章に対してであり つまりは その中の思想内容に対してです。ということは 《相手とのあいだに 埋めるべきみぞを見出した》とき 《憎しみを感じて 上からの物言いになる》というよりは 実際には もう突き放したり 放っておいたりするという所作に出るということだと思います。

投稿日時 - 2008-10-17 16:28:17

お礼

わたしには、歌うべき歌は見あたりません。それは歌ではありません。
毎日、歌いたい歌があるから歌っています。

歌っているのはわたしでしょうか。
歌がわたしを歌っているのでしょうか。

歌っているときはそんなことはどうでも良いことです。
でも、歌っていないときはそれをよく考えます。

あなたは歌いたいのですか と聞かれれば
もちろんです
と答えるでしょう。

リクエストにもお応えします。
あなたの聴きたい歌がわたしの歌いたい歌です。
それでは、歌います。あなたの心まで届けばいいのですが・・
聞いて下さい・・・・

投稿日時 - 2008-10-17 17:25:30

ANo.15

 No.13からの続きです。このまま続けてよいとすれば つづります。

 ★ 事後の説明責任・・どちらかというと行政法?の臭いがしました。
 ☆ これは 《もちろん その後も 対話を重ねていくわけです》とも書いているそのとおりのことです。個人と個人との行為関係として 考えたものです。でも 法律にかかわる場合もあるでしょうか。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしは、未だ、自己を知りません。
 <本質>だけでは、愛が流れません。うまく共鳴しません。
 歌が歌えません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 強力な文章であり 特につけ加えることもないと思いますが 思ったことを書いてみます。

 他者のことはおろか 自己ですら どういう人間であるのか 分からないということは 誰にも起きることかと思います。
 わたし自身が 自己を知ったと思ったのは 単純に 《孤独》をとおしてです。話が合わない・合っていない・つまり ひとは 上辺で 話を合わせているのだと受け取らざるを得なかった体験。また このことは 友や家族ですら そうであったと分かったとき。
 細かいことをも述べるなら その親友は すでに互いの間に埋められない溝があるのを 互いに知って もはやと 受け容れ合った〔という感触を持った〕そのあとも 最後まで 言葉では 友情の黄な粉をまぶしていたということ。もの分かりのよさを 顔面の笑みに浮かべていたということ。

 その後 《あやまつなら わたしは ある。 / 欺かれるなら わたしは ある》と聞いて あらためて 社会的な孤独を知った。そうして わたしはわたしである。 / ゆえに わたしはわたしする と唱えた。
 経済的な困難 健康の損ない 愛情の崩れなど 苦難は いろいろあると思いますが 社会的な承認の欠如も 大きな苦難だと考えます。うわべだけの人間関係をつづけることが わたしにとっての苦痛でした。
 いまは 勇み足で言うとすれば 果かなく消えてゆくような人間関係を 食ってかかっています。どういうわけか 孤独に耐えていくことができています。
 存在が 独立的であると同時に 関係的でもあるというように 孤独も その孤独どうしという関係性の側面をも忘れてはいけないということなのだと思います。

 そうなると――ここからは やや自慢になると思いますが―― ひととの食い違いが 反発すべき攻撃すべきみ差異であるよりは 埋めるべきみぞであるという・それこそ質感としてのクオリアを感じるようになりました。
 まぁ まだまだ いまでも けんか腰になりますが。ならざるを得ないという考えしか浮かばない状態に留まっているということなのか ほんとうに反発を感じさせるように反応せざるを得ない状態に 相手が 陥っているということなのか。後者は 自己弁護にしか過ぎないのか。というところだと 自分では 思っています。

 今回は ここまでです。

投稿日時 - 2008-10-17 11:12:56

お礼

深いところまでつづって頂き、ありがとうございます。

 自分の孤独と他者の孤独、埋めるべき溝・・・・

>埋めるべきみぞであるという・それこそ質感としてのクオリアを感じるようになりました。

 brageloneさんのこだわりがようやく解りました。それが質感としてあるのですね。
 次のライブでその体温と鼓動をわたしが歌います。 
  
>★ 事後の説明責任・・どちらかというと行政法?の臭いがしました。
>☆ これは 《もちろん その後も 対話を重ねていくわけです》とも書いているそのとおりのことです。個人と個人との行為関係として 考えたものです。でも 法律にかかわる場合もあるでしょうか。

アカウンタビリティからすぐ連想するのは、行政庁の不利益処分に
おける理由説明の義務だったので、そう感じたのです。

長きに渡り、ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-10-17 14:00:27

ANo.14

 No.13から続きます。

 ★ その行うべき愛が、<本質>と絶対の間に脈打っています。
 ☆ この《本質》は わが存在つまり自己と言えば いいのでは?

 愛は おそれを知らない。愛のあるところに おそれはない。
 しかも 相手に自分勝手な欲求をぶつけているだけではないだろうかという清らかな不安を感じ 相手に対する単なるおしつけの愛になってはいないだろうかという清らかなおそれを つねに 持っている。

 ここまでが 人間能力としての理性のできることである。この領域を超えては みこころのままにという祈りになる。《絶対との間に脈打っている》?

 きよらかなおそれは あなたに 決してくじけない 弱さを与える。崇高なしなやかさを身につけさせる。

 この場合のおそれは 愛のないところには無い。単におそれを知らないことは 愛がなくても起こりうる。


 ★ 法律
 ☆ は 苦手です。法学概論は 好みます。法の哲学というのでしょうか。

投稿日時 - 2008-10-17 03:23:18

お礼

ありがとうございます。

>★ その行うべき愛が、<本質>と絶対の間に脈打っています。
>☆ この《本質》は わが存在つまり自己と言えば いいのでは?

わたしは、未だ、自己を知りません。
<本質>だけでは、愛が流れません。うまく共鳴しません。
歌が歌えません。

事後の説明責任・・どちらかというと行政法?の臭いがしました。

投稿日時 - 2008-10-17 10:28:44

ANo.13

こんばんは、bananasandさん。

さきに言っときます。「ノイズだ!」なんていわないでくださいね。
うろちょろしてたら、あっ!?これだ!ってのがちと浮かびました。
お耳障りでしょうが、まあまあそういわずにちょいとお耳を拝借。

【NHKニューズ~社会 痴ほう症 必要治療受けられず】
http://www.ryokufuu.com/backnumber/seineniryou.htm



ここで投げかけられてる話は、今・現在 さらに 過去・未来に通ずる話じゃないか?


“救われない痴呆高齢者が逆にたくさんでてくるという問題を内包している”


少子化に加え、一人っ子の独身未婚者(又は、その他の事情でひとり身の者)が独身未婚者(その他の事情でひとり身の者)のまま年老いていけば…将来、老人の絶対人数はいまよりも少人数になるのだろうけれど、逆に今以上に介護の人手を要することになるのだろう。ベビーブーム世代の人数は多いといえども、在宅で身内が介護にあたる家庭もまだある。みながみな施設まかせではなくとも医療現場の現状はベット不足、人手不足に悲鳴をあげている。今現在の老人全体からしても、特別養護老人ホームへ入所できているのはほんの一握りの人。この現状でいけば少子化の時代に生まれた子たちが将来独身未婚者(その他の事情でひとり身の者)のまま年老いていけば、在宅で家族(身内)が介護にあたるその家族(身内)もないとなれば介護難民あふれでるのは必死。痴呆症の話【NHKニューズ~社会 痴ほう症 必要治療受けられず】は、高齢者のみの問題ではなしにこれから育つ子どもたち自身の問題でもある。


【QNo.2797136 ほにゃらか形而左右学 影 】ANo.15
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2797136.html

投稿日時 - 2008-10-17 01:33:30

お礼

ご回答ありがとうございます。

ボケヨボー ボゲボゲ~ ボケヨボー よぼよぼ ジジィ 呆け呼ぼう ボケヨボー 呆け予防

脳細胞が先か、肉体が先か・・・・・やっぱ、肉が先か。脳が先の方が楽だな。黒姉死す クロネーシス
 
シェルショック。それがどんなものかやつらにはわかってるのか。
大の男が半狂乱で両腕を振り回し、子供みたいにわんわん泣き叫んでは近くの兵士にしがみつき、一人にしないでくれと哀願するんだぞ。

はい、軍曹殿。明日からがんばります。私にもやらせて下さい。


昨日は確か アイス 食ったよね。

洗いたてのスピッツが見る空の雲にはゴルフはできないんだよ。どうしてもだよ。

明日は、いよいよ裁判所で調停だね。


あれ、少し、背中痒いわ。

投稿日時 - 2008-10-17 10:36:56

ANo.12

 引きつづいて bragelone です。

 ☆☆ 自分で 《わたしがわたしである》と言える範囲
 ☆ そう思っていれば いいのだと考えます。
 
 所有物のことまで 《わたし》だと言う人は その考えが無効だとわかるでしょう。《国家 それは わたしだ(朕は国家なり)》は 冗談でなければ 気がくるっています。つまり 無効です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 結局、今と現在を峻別したり、<想定>を不可欠とするのは、
本質、変化、愛、それぞれが浮き彫りになって、ことに愛をはっきりと認識するためなのですよ。
 ・・・
 愛は、その<本質>の中に厳然と存在はしていません。
<本質>と絶対の間に脈打っているのではありませんか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《愛を 〈認識〉》しても始まりません。愛は おこなうものです。主観で いいのです。主観で これが愛だということを意志し おこなえばよいのです。認識は さまざまです。むしろ憎悪を表わしているとか それじゃ けんかだとか 大きなお世話だとか 評価は さまざまな結果をまねくでしょう。かまいません。もちろん その後も 対話を重ねていくわけです。
 存在していようが いまいが どこに脈打っていようが 愛は ただ 主観の最善をつくして おこなうだけです。むろん その事後も 説明責任を持ちつづけます。
 
 ★ 今・現在 さらに 過去・未来
 ☆ これらは わたしの場合は いろんなふうに 定義すればよいという立ち場です。

投稿日時 - 2008-10-16 22:03:22

お礼

ありがとうございます。

行うべき愛は、brageloneさんの言われる通り最善をつくして行うべきで、わたしもそうしています。
その通りだと思います。もろ手をあげて賛成します。

その行うべき愛が、<本質>と絶対の間に脈打っています。楽園は、すぐ近くです。わたしの中枢を刺激して止まない炎が燃えています。

この愛を歌いましょうか。それとも踊りますか。

わたしは、わたしを知らないままではありますけどね・・

>事後も 説明責任を持ちつづけます。
ところで、法学やってましたか?

投稿日時 - 2008-10-17 01:00:54

ANo.11

 No.5&6&7&8&9&10&11です。

 自分で 《わたしがわたしである》と言える範囲が 《わたし》なる存在です。
 記憶喪失になって ほかの人が そのことをおしえてくれることがあります。記憶が戻れば わたしです。

 本質と言えば 自然本性のことを言うほうが ふさわしいかも知れません。自由意志と その自由の基本的な例として 良心・信教・表現の自由などが 自然本性の中身となります。
 わたしにとってのこの自由は ほかの人の《わたし》にとっても 同じようであると想定されます。互いに自由であるということは 対等であり平等であると帰結されます。
 意志による自由な選択は 存在≒自然本性≒生命をよく保持し向上させるものだと さらに想定されるなら 愛が 同じく 必然的に帰結されます。自然本性としての自由 ないし それにかかわるところの精神=身体の 持ち前の能力を 自己が よく発揮しようとするとともに 他者が よく発揮するようにと気遣うことです。存在の愛 および 存在関係の愛です。

 クオリアとは 何ぞや。

投稿日時 - 2008-10-16 19:55:27

お礼

ご回答ありがとうございます。

そうですよ。
その存在の愛に、驚愕しているのです。
結局、今と現在を峻別したり、<想定>を不可欠とするのは、
本質、変化、愛、それぞれが浮き彫りになって、ことに愛をはっきりと認識するためなのですよ。
炎とか、熱とか表現していましたが、
結局、生命現象とか、生命への愛へ収斂されます。
それ以外にはなりようもありません。

愛は、その<本質>の中に厳然と存在はしていません。
<本質>と絶対の間に脈打っているのではありませんか。



それは、さておき、この質問の本題へ戻ります。

わたしがわたしだ言える範囲  ですが

「言える」とはどういう意味なのでしょう。
わたしが確信することでしょうか。
わたしが決断することでしょうか。
わたしが支配している状態のことでしょうか。
確信していれば、その限界内に入るのでしょうか。
それとも想定しているのでしょうか。

わたしがわたしである という文章と意味しか知らず
それ以外の記憶も感覚も全くない人間もわたしであり、

肉体、精神、知覚できる全ての対象までもわたしである
と認識する人間もわたしである。

のでしょうか。


クオリアについては、検索すれば色々出てきますね。
クオリアとは、何かというより、
クオリアという新語をもって、感覚だとか、質感とか、言うものを
認識論、脳科学などの側面をもって、再認識したことが
重要なのでしょう。

この質問でも、わたしがわたしをわたしだと感じている感覚
で構いません。

投稿日時 - 2008-10-16 21:38:34

ANo.10

 No.5&6&7&8&9&10です。

 ★ 本質( Wesen )
 ☆ というのは 人間にとっては 《存在》のことです。一人ひとりが存在するので 主観を伴なうという意味で 《わたし》のことを言います。
 中身として 肉です。すなわち それは 身体および精神から成ります。
 精神とは 身体の動きを捉えるはたらきです。身体が 直立二足歩行を会得したところ その体の伸びに従って 精神も 伸びを示します。あたかも経験存在としての肉(=身体および精神)の限界を超えて 伸びようとします。むろん 限界を超えることは出来ませんが その限界の向こう側を わざわざ 想定しようとします。《絶対・超経験・無限・永遠・不可変性》などです。

 ひとは このように 互いに肉どうしの存在であると認識します。精神は 朽ちるべき肉の世界としての有限で可変的・相対的・経験的な世界にあると 互いに 自己を位置づけつつ 同じくさらに 互いに その精神では分かるか分からないかが分からない領域を 絶対として 想定していきます。経験法則によって 雁字搦めになっているのではないと言いたいのでしょうか。ついに叶わない自由の志向性なのでしょうか。
 いづれにせよ 《相対‐絶対》の全体に広がった拡大世界を 人間精神は 想定するようです。そこで この世で肉なる存在という 精神=身体の一体として生まれたという条件を超えて 心の伸びを 想定し 志向します。日本語では 精神=身体の伸びを 特に 心という言葉で 示そうとしていると採ればよいと思います。
 そこで 精神(=身体)のはたらきとして ものごとを認識(知解)しこれを記憶するという二つのほかに その記憶に秩序を見ようとし これを知解して来て その内容にもとづき ものごとを欲するという意志を みづからのもとに見出します。つまり 心の伸びです。

 ひとつの見方として 世界はすべて 意志の動態であり その意志どうしの関係であり 世代を超えて 意志関係としての社会的な軌跡としてある。と考えられます。ということは 世界史は 心の伸びの張り合い 伸び具合いの張り合いであるとも捉えられます。すなわち 自由・平等ないし民主主義というわけです。

 クオリア これを いまの世界認識の中に どのように位置させようとしているのか まだ よく分かりません。(勉強不足です)。

投稿日時 - 2008-10-16 15:44:32

お礼

brageloneさん。すばらしい文章です。感動を覚えます。さすがです。

教えて下さい。《わたし》の中身が、肉と精神である・・・

右腕を失ったら、わたしではない。
昨日の記憶を失ったらわたしではない。
視覚、聴覚、味覚を失ってもわたしは、わたしである。
時間感覚を失ったらもはやわたしではない。
空間認識を失ってもわたしはわたしである。
主観さえあれば、わたしはわたしである。
犬もわたしを持っている。本質をもっている。
昨日のわたしは、わたしの本質ではない。
明日のわたしも、わたしの本質である。

朽ちるべき肉の朽ちる過程においてどこまでが本質ですか?

テーブルの上にあるリンゴはわたしの限界内ですか限界外ですか?
自分の腕の動きは限界内ですか?

議論をふっかけているのはありません。
この<わたし>が正直、<わたし>に驚愕しているです。
その本質にですよ。

投稿日時 - 2008-10-16 18:45:46

ANo.9

 No.5&6&7&8&9です。

 Q: 自分自身を対象にするクオリアってありますけど、 / このループした単純な系が狭い意味で自己の本質でしょうか。

 ☆ これが まだ どういう事態であるのか 分かりかねていますが いただいたコメントに応答します。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしはあくまでわたしです。
 でも、それが幻想であることは解っているじゃありませんか。
 幻想である主体が、自らが幻想であることを理解しているのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん 存在の自同律(=《わたしがわたしである》こと)について それは《幻想である》と言うのなら そういう想定だと断らなければいけないでしょうね。そうでない場合 つまり つまりそうでないと想定する場合もありますと 言っていなければいけないでしょう。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 同時肯定が論理になるでしょうか。
 はじめから、相反する矛盾したものを同時に肯定すると言っているのです。そんなの、論理的に間違っているではありませんか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というように です。
 でも そこへ 別の論理を持ち出してくるわけです。つまり
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 とはいってもですよ、無限大のエネルギーが一点に集中していたという矛盾を両方肯定しないでどう説明するというのでしょう。無限大のエネルギーという視点から観る?一点であるという視点から観る?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 推論が 弱いと考えます。
 ★ 無限大のエネルギーが一点に集中していた=(a)
 ☆ というのは まづ そういう想定であり仮構なのですから 
 ★ (a)という矛盾を両方肯定しないでどう説明するというのでしょう。
 ☆ という議論は もう生じないと言うべきです。
 ★ 無限大のエネルギーという視点から観る?一点であるという視点から観る?
 ☆ というように 視点を分割する必要はありません。観察者としてのわたしという一つの視点で じゅうぶんです。その一視点によって 《矛盾をふくむ事態を 仮りに想定した》だけですから。

 まだどこ行きの電車なのか 分からずにいます。

投稿日時 - 2008-10-16 13:09:22

お礼

おっしゃりたいことは、十分、解っています。

わたしは、わたしにとって、確実にわたしであるが、わたしは、幻想である。

わたしが幻想であることは想定であって、あくまで、わたしは確実である。

解っていますって。否定しません。そう言う立場では、ないからです。
それでも、不足してます。その想定というものを不可欠であるとしているのです。不可欠な想定とはもはや想定ではありません。

あ~。 それでもですよ。
>無限大のエネルギーが一点に集中していた

これは、仮の想定ではありません。
時空間宇宙側の事実です。話は、繋がっています。
この矛盾を単に想定して、放置しているのではありません。

ニュートンの方程式がその限界内で正しいと同じように
アインシュタインの方程式も正しいのです。

わたしが、わたしであると同程度に正しいのです。

それを理解しているのもわたしだろう・・・解ってます。

Q: 自分自身を対象にするクオリアってありますけど、 / このループした単純な系が狭い意味で自己の本質でしょうか。

 その想定というのが不可欠だと思いますね。

投稿日時 - 2008-10-16 14:28:05

ANo.8

 bananasand さん ご説明ありがとうございます。分かったと思うところがあります。そして 全体として どこへ議論が向かっているのか それが 分からないままですが 一点についてだけ 反応します。

 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (A) 現実感側 = 現在側 = 幻想側 = クオリア側

 (B) 非現実感側 = 今 側 = 時空間宇宙側
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まづ 引き続き この前提にもとづきます。
 次の引用は すべて 同じ一つの事柄を示す内容です。
 ★ (B)の視点で同時であっても(A)の視点では同時とは言えません。
 ★ (A)は、(B)を直接捉えることは絶望的なのです。(B)の上に(A)が成り立っているのです。
 ★ (A)が成り立っている時には(B)は使われてしまっています。 / アプリ=(A)は OS=(B)の存在になかなか気づきません。

 ☆ わたしにとって 分からず 問題になることは 次の一点です。
 ○ 《視点》は 《本人》に属している。したがって (A)も(B)も この本人の視点によって 把握される事柄であっても それ自体に いづれも 視点を持つことは ない。
 ☆ これです。
 ★ アプリ=(A)は OS=(B)の存在になかなか気づきません。
 ☆ そのような捉え方は 出て来ないのです。《存在》は 本人としての人間 あるいは 《わたし》です。このわたしが (A)も(B)も 見ているのですし 把握しているのです。
 ★ (A)は、(B)を直接捉えることは絶望的なのです。
 ☆ と仮りに たとえとして 成り立つとしても そのことを知っているのは 本人=人間存在=わたし です。

 ですから 二重らせんは 必要ないと考えます。形状として 二重らせんであっても いいわけですから その例を採用するとしますと 
 ★ 二重螺旋を見ている
 ☆ のが わたしであっても それは いいわけです。そのわたしは いわば(A)(B)両側面を 総合的に見ており もう少し色をつけて言えば 全体を統括しています。(思う通りに統括し得ているかは 別の問題としてです)。

 このように《視点 あるいは 思考や行動の主体性》は わたしの場合 人間にのみあるということ その点が 違っているということ これが今回分かったと思います。
 それにしても いったい どういう理論を駆使しておられるのか と思って 非常に なぞにつつまれています。

投稿日時 - 2008-10-16 03:06:03

お礼

brageloneさん こんにちは

はじめからそうなんです。

>人間にのみあるということ その点が 違っているということ これが今回分かったと思います。

それを否定していません。わたしはあくまでわたしです。
でも、それが幻想であることは解っているじゃありませんか。
幻想である主体が、自らが幻想であることを理解しているのです。

もともと矛盾しあっている2つの概念を両方とも肯定していると言っているじゃありませんか。

>どういう理論を駆使しておられるのか と思って 非常に なぞにつつまれています。

 同時肯定が論理になるでしょうか。
 はじめから、相反する矛盾したものを同時に肯定すると言っているのです。そんなの、論理的に間違っているではありませんか。
 とはいってもですよ、無限大のエネルギーが一点に集中していたという矛盾を両方肯定しないでどう説明するというのでしょう。無限大のエネルギーという視点から観る?一点であるという視点から観る?

投稿日時 - 2008-10-16 12:28:16

ANo.7

 No.5&6&7です。

 ご説明にしたがって 考えをつづってまいります。符号(A・B)をつけました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  (A) 現実感側 = 現在側 = 幻想側 = クオリア側

  (B) 非現実感側 = 今 側 = 時空間宇宙側

 ここでの問いはその本人を問うてます。どちらにも属しているようには思っているのですが・・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (A) 差別(たとえば 就職が叶わなかった)=不自由・不平等(また その感覚としてもよい)――(B)差別は違憲行為という理念=自由・平等。むろん (A・B)ともに 《本人》に属する現実である。この例示でよいのでしょうか?
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (あ) そして、そうだとすると、無理矢理言えば、自由意思というのは、現実感側で肯定され、時空間宇宙側に留保され外観上否定されます。
 (い) 自由意思から本人は生まれません。本人がいるから現実感側で自由意思を発揮しています。

 (う) おかしな言い方ですが、この現実感と非現実感は両方とも肯定すべき現実なのですよ。
 (え) お互いに補完しあっているのです。一方を否定すると両方とも否定せざるを得なくなるのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (あ) 自由意志は むろん《本人》のものです。自由意志が《存在する》という意味では (A)(B)両面で 存在するとして《肯定》されます。そのあとの認識には 違いがあります。《(B)の時空間宇宙側では 理念として 留保され 肯定されており (A)の現実感側では 無効の行為によって 踏みにじられ 否定されている》です。
 後者の側では 《その考えが無効である。つまり 自由意志を否定することは 無効である。しかも 現象としては 実際に起こっている》ので ややもすると 人びとは その無効の有力なる現実を前にして ひょっとすると 差別には理由があるのではないかという幻想を持つに到るということになります。
 (い) 自由意志は 人間存在につきものです。同時一体のものです。(B)において 理念として 現実であり (A)においても その現実が 実現するよう つねに 緊張しています。
 (う) (A)(B)とも 実際に起きています。(A)は 揚棄すべき現象です。(B)を実現させるべきです。
 (い) 《補完しあっている》のではありません。無効の考えが 有力である実際の情況に対して 人は 譲歩しているのです。(A)の差別は 理念においては すでに 否定されています。その理念どおりに 人びとを たとえば政治の力によって 行動させるのは 管理社会となってしまいます。共同自治ではなく 統制社会になります。差別をおこなっている人間が おのれの自由意志によって 差別をしない普通の対人関係を 実現するのでなければ 自由や平等の意味がないからです。その実現のときまで ひとは 譲歩しているのです。
 理念においては (B)が ほんとうの現実であり それに基づき (A)は 否定されています。言いかえると (A)は (B)の否定です。したがって (A)の否定は 《否定の否定》つまり (B)の肯定です。
 こうして 弁証法的な歴史過程を ひとは 展開していきます。らせん状にループした系を 行動の軌跡として 残すように 人間とその社会は すすんでいくもののようです。すなわち 民主主義という思想(=生活態度)のことです。

 これでは 論理的にすぎるということなのでしょうか?

投稿日時 - 2008-10-15 23:07:36

お礼

brageloneさん こんばんわ

>これでは 論理的にすぎるということなのでしょうか?

そうではないのです。
brageloneさんの表現していることは、私は100%理解しているのです。
それを否定しているのではないのです。もともとそちら側は肯定しているのです。
不足していると言っているのです。言葉じりとか論理そのもののことではないのです。
自由意思は、その通りなのです。正しいのです。それだけではないのです。
ヘーゲルの延長線上ではなくて、非線形なのです。

<らせん状にループした系を 行動の軌跡として> いるならば、
それを補うもう一本を加えた二重螺旋を見ているのです。
 行動の軌跡は(A)側のみに具体的に存在し
(B)側にはないのです。それを軌跡として思い起こすためには、
(B)のその本質たる変化が使われなければならないのです。

言ってみれば多層構造化した立体を見ているのです。
言語は、本当に直線的です。


>(A)(B)ともに起きている。
それはおそらくそうでしょう。<ともに>は両方ともということで
(B)の視点で同時であっても(A)の視点では同時とは言えません。

(A)側は現実側として周囲を捉えることができます。(A)側ではクオリアができあがり、
 時間を作り、空間把握をしています。過去を記憶し、未来を想定できます。

でも(A)は、(B)を直接捉えることは絶望的なのです。(B)の上に(A)が成り立っているのです。

 繰り返すようですが、(A)が成り立っている時には(B)は使われてしまっているのです。

 (B)の本質である<変化>は、(A)において既に変質しているのです。


また、たとえ話ですが・・今度はパソコンです。またしても、あくまで、たとえ話です。

(A)を、液晶画面上にいろいろなキャラクターの動きを映し出すアプリケーションソフトそのものとします。
 アプリケーションにとってはそれが全てです。その世界で完結します。

 (B)は、OSに相当します。

>(A)(B)ともに起きている。

 そうです。でも、(A)が成り立っている時には(B)は使われてしまっています。
 アプリはOSの存在になかなか気づきません。

投稿日時 - 2008-10-16 01:28:23

ANo.6

 No.5&6です。
 ご説明ありがとうございます。
 ご説明いただいたのですが なにかどこか しっくり行きません。クオリアをめぐって なにか感覚的なものだとかが まだわたしには分かっていないところがあるからかも知れません。

 次の一点に反応します。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自己と関係性、自由意思とその有効/無効・・・・・
 ここの根元は解りません。言ってみれば幻想がなぜ幻想として
 発生しているのかを問うているからですね。秘密はあると思います。
 この質問はそこを問うています。

 まぁ、そんなことはどうあれ、時空間宇宙から遊離したこの幻想を 時空間側に還元することが復活の一歩であるとは思うんですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《幻想は 幻想であって 現象として起こっているけれども 現実ではない》ということを議論します。つまり 《現実に還元する》議論です。
 (1) 同和問題は 幻想つまりあるいは 無効の考えによって 現実に起こっている不自由です。被差別者を差別してよいという考えは 完全に 無効ですが 幻想として抱かれ その幻想共同に従わざるを得ないと考える現象として 現実に起こっています。
 (2)《憲法》にも 《14条1項:すべての国民は、政治的・経済的または人種・信条・性別・社会的身分又は門地 といった社会的関係に関らず、法の下に平等であり差別されることはない》とうたっています。これが 有効な思想です。この有効性が 現実の前に 無力とされています。無効の差別思想が 現実に有力となっています。
 (3) ところが 有効だからといって ただちに 有効な考えを 人の自由意志を無視してまでに 押しつけることは出来ないというのも 有効な思想です。《良心・表現の自由》。したがって 《馬を水飲み場にまで連れていくことは出来るが 水を飲ませることは出来ない》。

 (4) 結果は 悪貨が良貨を駆逐する になります。
 (5) とすれば ある程度は 政策も必要なのでしょうが 基本的には かくなる上は 一人ひとりが その思想として 無効な考えを去って 有効な内容を回復するのを俟つ以外にないとなります。
 (6) 目覚めた人びとが 社会の三分の一 次の三分の一が 共感し 残りは 無効の考えを抱いて反対しているといった情況を まづは 目指すべきだと考えます。
 (7) しかも 焦燥感が漂って もう 待てない というときに いろんな幻想が生じます。ひとつに ほんとうに差別されるべき理由があるのではないか等々・等々 さまざまに 待てないという気持ち(クオリア?)から 無効の思想としての妖怪を生むと思われます。(幻想としてのクオリアも あるのでしょうか?)

 (8) 《秘密》は ただ このわれわれ人間の弱さにあると思われます。まづこの弱さを誇ることから 始めるべきでしょう。開き直りで いいのではないでしょうか。あとは 水嵩を増していくことでしょう。自由な井戸端会議をつうじて 自由な連帯です。

 かくして 人間の本質は 《社会的な独立性と関係性とが 同時一体であること》であり その中核は 自由意志にあると考えます。クオリアは 一人ひとりおのおのが その社会的な感覚を楽しんでいるその楽しさにあるのではないでしょうか。解決したという終わりから始めるゆえです。

 またまた ピントがずれているようですが こう反応しました。

投稿日時 - 2008-10-15 15:36:48

お礼

こんばんわ。brageloneさん。

言語というのはつくづく一次元的ですね。イメージする世界に比べて帯域が狭すぎです。

>《幻想は 幻想であって 現象として起こっているけれども 現実ではない》
 この幻想は、あくまで自分からみて、非常に鮮明な現実で、明らかに現実です。それ以外の現実感はありません。
 しかし、それが幻想であることを自分は理解しています。
 映画を観ているのと類似した感覚です。その幻想の必要性も豊かさもストーリーも理解してます。クオリアもこの幻想にあります。

 同和問題も憲法解釈もよく分かります。(6)~(8)も開き直り以外は解っています。
 映画を観ている、幻想を観てる、そして、それを現実としている本人は、
 この現実感(クオリア リンゴがあるという感覚)と非現実感(論理思考としての理解 1+1=2ということ)に打ち震えているのですよ。

  現実感側 = 現在側 = 幻想側 = クオリア側

  非現実感側 = 今 側 = 時空間宇宙側


 ここでの問いはその本人を問うてます。どちらにも属しているようには思っているのですが・・・・
 そして、そうだとすると、無理矢理言えば、自由意思というのは、現実感側で肯定され、時空間宇宙側に留保され外観上否定されます。
 自由意思から本人は生まれません。本人がいるから現実感側で自由意思を発揮しています。

 おかしな言い方ですが、この現実感と非現実感は両方とも肯定すべき現実なのですよ。
 お互いに補完しあっているのです。一方を否定すると両方とも否定せざるを得なくなるのです。

 そうすると、また、2重の定義の話になります。

 今と現在の違い、幻想(浮き草)と現実(時空間宇宙)を分けないと話が進まなくなります。
 私は、両方を肯定しているのです。(←これが開き直りかもしれませんが)
 同和問題も、憲法も解るのです。異議ありません。でも、それでは説明がつかないのです。

 飛ばしてしまいますが、《現実に還元する》のは、クオリア側を非現実感へ反応させることです。
 ここから先は、言語を超えます。
 そうすると、非現実感側=時空間宇宙側にただ驚愕するばかりなのです。

 見えているのです。本人以外はね。それも幻想? そこですよ。肝は。

投稿日時 - 2008-10-15 21:36:57

ANo.5

 bananasandさん コメントをいただきました。これに反応します。

 クオリアと聞いて 何のことかと思ったのですが――しばらく前に ここのQ&Aの場でですが―― ヰキぺディアを見ると 何のことはない 心のことかと思って あとは 勉強していません。今回も ここでのやり取りと並行して 学んでいくことにします。

 ですが bananasandさんの問題にしておられるのは まさしく――古典的に言えば―― 《自由意志》のそれです。
 わたしの捉え方で行けば 
 (1) 人は 自由意志を持つ。
 (2) これは 善つまり自己の存在あるいはその自由 つまりはみづからの自由意志 これにも逆らう自由を持つ。自己を抹殺しようとしたり 自由を持てあまして 従属・服従のほうをえらぼうとしたり 《自由に》 おこないます。
 (3) この一人ひとりの《自由意志》の社会的に錯綜する関係構造においては あたかも悪貨が良貨を駆逐するかのように 意志の自由選択の足を引っ張りあって 《思うように》生きられません。
 (4) 存在および生命が 善であるとするなら それらを維持しよく保ち向上させようとする自由意志は 善である。この前提に立つ限りで 自由意志のおもむくところは 妥当であり 有効である。
 (5) 意志による有効な選択とその行為が 《思うようには》有効ではないのも 実際の現実である。
 (6) 悪貨に駆逐された良貨としての自由意志は その有効性が 社会的な既成事実の力の前で 妥当であっても 無力にされている。
 (7) 有効だが 無力になっている。既成事実や既得権益にもとづくそれとしての自由意志は たとえ無効であっても 有力となっている。無効な意志内容のことでも すでに生活現実となっていると その既成事実を 人は 死守しようとする。これは 容易には 変革できない。

 こういう事情によって説明する理論で どうなのでしょう?
 
 人間の本質は 《社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である》。その心は 《自由意志》にある。この意志自由は 関係性としての本質から 相互の平等・対等を みづからに宿している。
 民主主義は この一人ひとりの意志による自由な選択に 基礎を置いている。ゆえに 既成事実に 妥当ではなく存在を傷つけるような無効の行為関係なる現実があっても まづは 自由意志の発現を 第一の条件としなければ 何も変革が出来ない。
 人は たとえ有効な思想を抱いていても 挫折感や無力感を味わう結果を持つ。

 だが 本質(つまり この言葉じたいが 存在のことである)は 独立性と関係性との同時一体にある。その保持・活用は 自由意志による。社会現実としては 無効の行為関係が 有力となりがちであって このような歴史事実の前には 有効で妥当な思想や行為も 無力になることに甘んじている。その心は 人びとにおける自由意志の自由な発現に俟っているという意味である。
 (それに答えるには 三分割の原則がある。その以前には ひろく常なる井戸端会議が 提唱される。そこでは 有効な考えを実践する人が 三分の一 いて 次の三分の一が 共感し 残る三分の一が 反対しているという情況 これを実現させればよいだろうというものです)。

 ★ 自己の起源
 ☆ については 触れ得ませんでしたが(むつかしいでしょうね)
 ★ 主体ないし主体性 そしてその限界
 ☆ は 自由意志とその有効性の問題であると考えます。

投稿日時 - 2008-10-15 09:35:09

お礼

ご反応ありがとうございます。

>《社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である》
> 有効だが 無力になっている。

 よく分かります。だからこそ非常に難しいと言っていたわけですね。
 
 そして、この《自由意志》ですね。曖昧で、複雑で、とらえ処のない・・個人の中にある三分割を右往左往する・・自由意思。

 心優しく、残酷で、戦争に魅了される平和主義者。慈善団体へ多額の寄付をする拝金主義者。心から愛する家族へのDV。自由意思。

 あたかも既に多くの人格が内在しスイッチ切り替えるが如く
 入れ替わる。あるいは、2重、3重にも多面化した意思。

 自己と関係性、自由意思とその有効/無効・・・・・
 ここの根元は解りません。言ってみれば幻想がなぜ幻想として
 発生しているのかを問うているからですね。秘密はあると思います。
 この質問はそこを問うています。

まぁ、そんなことはどうあれ、時空間宇宙から遊離したこの幻想を
時空間側に還元することが復活の一歩であるとは思うんですね。

投稿日時 - 2008-10-15 13:14:40

ANo.4

 ★ クオリア
 ☆ をどう論じていいのか よくわかりませんので 
 ★ 自己の本質 
 ☆ とは何か? から入って 回答を寄せます。

 人間は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在であると思います。
 人は 孤独です。ひとり生きます。主観が 互いに 違うと言ってもいいと思います。しかも 孤独関係として 主観を共同化し得て その共同主観(コモンセンス)とともに 社会的に生きます。
 自分で これが わたしだと言える程度に 《わたしが わたしである》とき 独立存在であるでしょう。しかも このとき同時に 独立した主観であるゆえにこそ 互いに社会的に 主観を交通・交流させます。どのように社会をかたちづくっていくかについて 基本的なところで――つまりたとえば 自由・平等あるいは 民主主義であるとか の理念について―― 共通の見解に立つことができると考えます。
 たとえ 主観を共同化し得ずとも つねに 話し合いをつづけていけばよいのであって そのとき 人は 基本的に 社会的な関係存在であると捉えられます。

 ★ ループした単純な系
 ☆ というのも よく分からないのですが 主観は 自分からすすんで どういうわけか・何のためにか 孤立していくことはあっても そして 基本的には 孤独でありつつ 孤独関係は つねに成り立っており 主観どうしの話し合いは これもつねに 進められていきます。らせん的に発展するループ状の系として 広く共同主観をかたちづくりつつ すすむものと考えます。これが 人間の本質であり そこに みづからのくせなどをつけ加えれば 具体的な自己の本質になると考えます。

 ピントはづれかも知れませんが 投稿してみました。

投稿日時 - 2008-10-14 21:40:47

お礼

brageloneさん お待ちしておりました。

>人間は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在であると思います。
 そうですね。そう思います。関係が存在です。

>主観は~具体的な自己の本質になると考えます。
 上段の視点から、異論はありません。まさに本質となるでしょう。

 その本質は、それで間違いないのですが、
 その本質を本質とする側の話ですね。禅とか瞑想などの精神性とも
 一応、切り離した思考とこれに伴う感覚としての話です。

 クオリアといっているのは、質感です。感覚です。肉体感覚。心。
 自分というものをその孤独にしている限界内を感じているという
 そのものを指しています。
 それを感じている主体が、その主体を感じているという
 上段で言う関係性が本質なのではないかと問うています。

 自分の起源ですね。
 何かしらの自分の大本の主体があって、肉体、直感、記憶などとの
 やり取りがなくとも大本の主体は成立するのか(脳の極一部の機能だけで成立するか)
 そうではなくて、大本の主体などなくて、それら同士の関係こそが自分を成立させる起源であって、それを主体だと感じているということが自分の本質ではないかと思うときがあるんですね。

 そうすると、自分の限界や孤独はもは意味が消失して、自分の事も知ってはいない・・・解ってもいなければ、説明もできない というような感覚ですね。

 さて、このいばわループした系(関係)が自分なのか
 自分という限界内のなんらかの核が自分なのか・・はたまた、他にあるのでしょうか。
 

投稿日時 - 2008-10-15 04:18:58

ANo.3

こんばんは、bananasandさん。

ANo.3へ《この回答へのお礼》をいただき m( _ _ )m どうもです。

● あ~、イメージは掴めました。

掴めましたか?ホントに?

●大真面目ってことは、もしかして秋田さん御本人ですか。まさかね。

帰って来るかもしんない~♪

来る きっと 来る

うん、お盆も近いことだし…手ぇーあわせとこっと (‐人‐)合掌

“みのるほど こうべを たれる いなほかな” m( _ _ )m よみびとしらず

『漫才作者秋田實 』
http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?nips_cd=9974640032
http://www007.upp.so-net.ne.jp/okeda/articles/akita.htm
http://www.jst.go.jp/pr/announce/20070326/index.html
【QNo.4077221 自然法は もう人気がないのでしょうか】 ANo.44
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4077221.html
【生命科学専門部会報告書構成案】
http://www.science-for-all.jp/minutes/download/report-seimei.pdf
















◎ 話し途切れるんで、一部修正かけて再度アップしておきます。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【回答 ANo.1 】
回答日時:08/08/09 20:13

●自分自身を対象にするクオリアってありますけど、
このループした単純な系が狭い意味で自己の本質でしょうか。

方々に散っていっても来た道を辿りかえれば一本の道へ続く

あーだめだ、イメージが先に浮かんでくる

うん、 ナルト ~分身の術~

本体は一体なんだけど…ダーッと現れると、どれが本体だかわかりゃしない。

自己の本質といえば…

『悟空の大冒険』

これかな

髪の毛一本からたんと生まれる

【第6節 遺伝子の本体】
http://www.keirinkan.com/kori/kori_biology/kori_biology_1_kaitei/contents/bi-1/2-bu/2-3-6.htm

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【この回答へのお礼】
littlekissさん。ご回答ありがとうございます。

いや~思わず笑ってしまいました。そういえば、天地無用の魎呼も2分身でしたね。

分身の術、一卵性双生児、クローン系の話も興味は尽きませんし、
DNA分解酵素、メチル化維持酵素、真性酵素、ヒストンメチル化など
DNAが全く同じ個体でも外形が異なるようになる意外性は、実に面白いですね。

>方々に散っていっても来た道を辿りかえれば一本の道へ続く

 一つの個体内の自分を自分が内心でイメージする自分っていうのは、
一本の道へ続く・・何かに辿り着くのか、それとも結局、こんなようなループそのものの
構造が自分なのかが分からないんですよ。
 架空の話ですが、これらアニメのように分身となった10個の自分が合体するとき
各々の個体が持っていた自分が、一つにもなれるということは、残りの9個の自分は、
どこへいってしまうんでしょう。
 そう考えると、自分というのはもともとが夢幻なのでしょうか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2008-08-10 22:45:35

お礼

あれ、ご回答が入っていたんですね。放置しっ放しですいませんでした。

あれは確か 山の村 だったなぁ。

風に近い蝉の声には川がながれるだよ~ぉ。

明日には雨は止むと思うけどね。



さてと、歯でも磨くかな。真剣にね。

投稿日時 - 2008-10-15 03:08:19

ANo.2

こんにちは、bananasandさん。

●いや~思わず笑ってしまいました。


キャッ-☆ |(><)|  笑われちゃった…(//▽//)ポーッ


ヘンだ!(`へ´)笑わば、笑え!


こちとら大真面目のこんこんちきなんだけどなぁー

自分でいうのもなんだけど…

これでも大真面目に考えてるんだよ (*^^*)v

何を?

擬音語、オノマトペ。

《方々に散っていっても来た道を辿りかえれば一本の道へ続く》

【『若者たち』】
藤田敏雄作詞・佐藤勝作曲
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/wakamonotachi.html
【言語学】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6
【音象徴】
http://www2.kobe-u.ac.jp/~069d703h/JCLA8-PPT.pdf

副次的であるからと、主としてみなされず捨て置かれる。
名もなき者達がいるんだよ、いたんだよ。
夢でも幻でもない、現実にいる。
副次的であったものが、いつしか副次的とはみなされず
主として機能する。機能していく中で新たな副次的なものが育つ。
代替エネルギー

http://www.jst.go.jp/pr/announce/20060214/index.html

ここのところの異常ともおもえる石油の高騰みてて何か思わないか?
なんだこりゃっと?「石油が枯渇する」と、地球存亡の危機が叫ばれはじめたのはいつのころからだったかな?何かひとつでは石油で賄われていた需用を満たすに足る供給量までには及ばない。それからだよ、いろんなところで代替エネルギーの研究が試行錯誤で始まった。需用を満たす供給量を備えないことには、力をもたない。用をなさない。気の遠くなるような時間が流れてく。その時間ののなかで、少し、少しづつ育ってきた石油代替エネルギー。原子力,石炭,天然ガス,水力,地熱,太陽エネルギー,風力発電,水素(燃料電池),廃棄物発電,バイオマスエネルギー…etc。蛇口を開けば湯水のように石油が湧き出てくるとばかりに安堵して暮らしていた国もようようそんな暮らしがいつまでも続こう筈もないことに気づいたのか蛇口を閉ざす。閉ざせば、石油の値はあがり一時的には収入も増えたかに思われもしよう。が、数年後には育ってきた代替エネルギーが成人として世に出る。この間に入ってきた収益を他に割振り経済を成り立たす経済運営に着手しなければ石油を主な収入源としている国の収入は激減する。砂時計をひっくり返したように。

石油を持たざる国日本、ソフト面で培ってきた日本の技術が花開く。

投稿日時 - 2008-08-10 15:20:24

お礼

>これでも大真面目に考えてるんだよ (*^^*)v

 あ~、イメージは掴めました。
 大真面目ってことは、もしかして秋田さん御本人ですか。まさかね。

《方々に散っていっても来た道を辿りかえれば一本の道へ続く》

 そうでしたか。

 副次的であったものが現実に存在する理由。

 代替エネルギー技術は技術思想の創作そのものが存在する理由。

 脳細胞の死はアポトーシスではなく、RNAポリメラーゼII機能障害という、副次的アノマリーであり
 その予定された計画性。 

 ところで、オノマトペの特異性というのは、人間特有と考えていいのですか
 完全に音声信号としてとらえた場合、その音素分布は、成人人間の普通会話を基準に、
 人間オノマトベ、哺乳類、動物、鳥、昆虫の意識レベルと何か相関性や関係性が見いだせるのでしょうか。

投稿日時 - 2008-08-10 19:57:27

対象化できないものを言葉の魔力によって対象化できたと錯覚してしまうというようなことはないでしょうか。

投稿日時 - 2008-08-10 06:58:07

お礼

kaitara1さん。ご回答ありがとうございます。

言葉の魔力。
そうですね。確かに、こうして、書き込みするにはイメージを直接伝えることが出来ず、どうしても言語表現しなければなりません。言葉はイメージを伝えるために手段であり仲介者だと思っていましたが、発信者と受信者のイメージの組み合わせを超えて、錯覚させるほどの魔力が言葉にはあるのでしょうか。言霊の一つでしょうか。

投稿日時 - 2008-08-10 18:58:11

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