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解決済みの質問

復活とは? 不死の境地とは?

 健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。
 そこで持ち上がるのが 人生論です。
 哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。 
 この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。

 最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。
 1. すべてを 終わり=目的から 始める。
 2. では 終わりは どこにおくか。
 3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。
 4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。(二百年なら 実際問題としては 永遠であるだろう)。
 ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。

 この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。
 復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。
 不死の境地については 解脱・涅槃あるいは清浄心のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。
 あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。
 あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。

投稿日時 - 2008-09-30 18:25:36

QNo.4367998

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

○ 霊の呼びかけを受け容れる
☆ だけによって 向上すると思っています。つまり 第一義としては 経験思考や努力によるのではなく 非思考つまり信仰によると思っています。(簡単に言えば 絶対他力ですね)。

否定しません。尊重します。僕は、自然な向上心でいいと思います。おそらく、基本的に差異はないと思います。

 ☆☆ ・・・経験存在としての《肉(身体および精神)》なる《わたし》が 死ぬとしても それは いま予感している復活路線にとって もはや 何のおそれも ありません。
 ☆ この箇所が 語弊を持ったかも知れません。これは 死後を問題にしない と表明しているのですけれど うまく言えていないかも知れないですね。

死後よりも生存中の復活(ある種の反省と出直し)を意味しているのならば、賛成です。異論ありません。なぜならば、超経験・絶対への逆転換(個々の死)は、やはり、超経験になっていると言わねば、論理的な整合性は取れないからです。死後の復活は、他者の記憶の中だけにしておきましょう。ここは、共通認識にできたと確信します。もう、書き残しはありません。これにて、今度こそ退散します。うまく誘導していただけたと思います。ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-10-11 19:30:05

補足

 補足です。
 《復活の人》は どんな状態にあるか。たとえば 次のようにうたわれます。少々 ふつうの人が引くような例を引きます。
 ▲ (旧約聖書・詩篇 84:1~7)~~~~~~~~~~
 万軍の主よ、あなたのいますところは
 どれほど愛されていることでしょう。
 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。
 命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。

 あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り
 つばめは巣をかけて、雛を置いています。
 万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。

 いかに幸いなことでしょう
 あなたの家に住むことができるなら
 まして、あなたを賛美することができるなら。

 いかに幸いなことでしょう
 あなたによって勇気を出し
 心に広い道を見ている人は。

 嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。 
 雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。

 彼らはいよいよ力を増して進み
 ついに、シオンで神にまみえるでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《あなたによって勇気を出し / 心に広い道を見ている》というのは 《自然の向上心》のことだと思いました。

 ▼ (詩篇63:1~5)~~~~~~~~~~~~~
 神よ、あなたはわたしの神、
 わたしは切にあなたをたずね求め、
 わが魂はあなたを渇き望む。
 水無き、乾き衰えた地にあるように、
 わが肉体はあなたを慕いこがれる。

 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、
 聖所にあって目をあなたに注いだ。
 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、
 わがくちびるはあなたをほめたたえる。

 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、
 手をあげて、み名を呼びまつる。

 わたしが床の上であなたを思いだし、
 夜のふけるままにあなたを深く思うとき、
 わたしの魂は髄とあぶらとをもって
 もてなされるように飽き足り、
 わたしの口は喜びのくちびるをもって
 あなたをほめたたえる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ》というのは 《あなたのいつくしみ〔なる存在理由〕は いのち〔なる存在〕にもまさる》と言っているかのようでした。

 かく言うわたしも 引いてしまう部分があります。ただ これらは 旧約の時代の自己表現でもあります。たぶん わたしたちは 新約の時代以降に存在するというだけで 或る種のかたちで この詩編の内容を超えているとも思います。ただし 過去は 現在にとって 非連続にして連続しているとも 考えられますから 参照しうるとも思います。

投稿日時 - 2008-10-11 21:26:00

お礼

 qsxdrfvgyhさん たいへんありがとうございます。いよいよ 漕ぎ着けましたね。長い間にわたって お世話になりました。感謝申し上げます。さらにまた お願いするかも知れません。重ねて よろしくお願い申し上げます。

 ひとこと 覚書のように述べておくとすれば qsxdrfvgyhさんの理論において 次の二点は 必ずしも 一般性を持ってしまっているかどうかは まだ分かりません。いくつかの理論の可能性があるという意味です。
 1.過去=有為 → 現在=無為 → 未来=絶対
 2.超経験・絶対への逆転換=個々の死

 ☆ 総じていえば わたしの立ち場としてですが それは 死後もしくは 生きているときに与えられた復活への方向転換の後に起きる死の時点は 問題にしていない というものです。その意味での無記です。
 言いかえると 生きているときに 復活に向けて もしくは すでに 復活したと言ってのように 生き切る これに尽きるという立ち場です。生き残しは しない という立ち場です。

 ほかのみなさんが この質問でのさらに一言としてでも 投稿されるのを もうしばらく待って 締めたいと思います。よろしくお願いいたします。そして すでに前もって みなさんに 重ねて 感謝申し上げたいと存じます。ありがとうございました。

 * ブッディスムについて 論理的に明らかにする一つの理論が提示されたが 論理を包むようにして 説明したいというご見解が あるかも知れません。それは たぶん qsxdrfvgyhさんの《自然の向上心》 このあたりのことを さらに説明したいといったところではないでしょうか。(もちろん qsxdrfvgyhさんご自身も よろしかったら どうぞ)。

投稿日時 - 2008-10-11 20:05:35

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回答(71)

ANo.71

「ゆとり」があれば 他の人への愛は必ず芽生えるという理論は成り立たないでしょうが、 大きな視野から展望するなら《「しあわせと名づけられるゆとり」があれば 必ず、無心な利他は芽生える》という論理は成り立つと思います。

「しあわせ」と言える状態は、 感性の発達無しにありえるとは私は考えていません。  これには異論はさまざまあるかと思いますが、究極的にはそう言えるとわたしは思っています。

が同時に 生物としての弱さも持っている人間には「ゆとり」と言える生活状況もおおいに必要ということなのです。

しかし生物としての弱さということには、 もともとの人間という生物が弱いということを必ずしも意味していない(頭でっかちの必要性あるいは左脳も使う必要性が 実際にそのもともとの生命力を弱めてしまっている点もありますし、 似たことでは言葉の獲得がかえって知能を混乱させてる部分も多々みられますし、 薬の悪循環がむしろ苦痛を深めて「ゆとり」を奪ってたりもして、 これからのあるべき社会像への道はけして単純とは言えません。)のですが、  大きく大空から力強く言えることとしては、《「しあわせという名で呼べるゆとり」ならば、かならず人の心には矛盾や無理や偽善やウソのない愛が芽生える》という理論は成り立つと私は 思っているのです。   


演繹的にも、帰納的にも 究極的に破れない理論としてです。

そして、私は この理論がしっかり理解されない限り、復活を考えても無意味だと思う者でもあるのです。

この理論から考えられる いくつかのそのへんの検証をしていってみます。

(1)

個人的には感性が ある地点まで成熟しない限り 私は心には>退屈<がやってくると思う。 この>退屈<を私は 生物の弱さの属性としては考えていません。  

仏教思想の中の「日々是好日」とか 聖書の「明日のことは思い煩うなかれ」とかの あたりの思索とも関わるかと思いますが、  これって感性が 実際に日々新鮮で無いと これも頭を混乱させてしまうだけの思索展開になってゆくと思います。

そして、その>退屈<を克服できるだけの 子供のような新鮮な心を私たちの心に取り戻すことがない限り、  神にはその力があったにせよ、簡単中の簡単であったにせよ(ほんとうは、存在が存在させられているのは実際の事実なのですから その困難さは存在しないと考えることはぜんぜん難しいことじゃないんですが^^)   たぶん、永遠の時間なんて人間の脳にとって地獄でしかないでしょうから というよりおそらくやがてはこれが最高の地獄ともなりえてしまうので、 そんな馬鹿なことを神の知性が実行するはずがないと いうのが一つです。

(2)

もし、人間がたった一人の存在だったとしたら、子供のような新鮮な心が日々持続しようとも、その人は「しあわせ」であり続けられるでしょうか?

まず、人類全員が そのような心を獲得しないかぎり、果たして現実的に復活に意味があり希望があるのかどうか?、  それはバッハの音楽のような力強さを私たちにもたらしてくれる何かの希望の厚みを与えてくれるものとさへならないのではないか? 

感性自体には希望はあります。 それはそこからさらにさらに、はるかにはるかに頂上なしの山に通じているからです。  どこまでもどこまでもさらに感性の道は より豊かによりひろさと深さをもってつづいているからです。

いつか私たちは、生物の弱さをもったままでも ほんとうにキリストのように苦痛や恐怖も超えて人を愛せるようになるかと思います。

でも 今の今は、ほとんどの人においてそれは無理だと思います。

これは信仰の問題となるかと思いますが、私は仏陀もそういう心に達していたと思っています。 正確に言うと そういうふうに信じるべき存在と思っているということです。   なぜならば、そのように信頼することによって、 ともすれば天狗になりがちな感性の発達の道程にて いつもその道に謙虚になれるはずだからです。   史実が解らない、 実際はどうだったか解らない、 生物の弱さを別に神秘的な超能力とかではなくわれわれと同じまま克服した証明となるようなものもない。 という仏陀への反抗ということならば、 史実なら新約聖書も今一不明確なところがあるという点から その反抗には意味がなくなるかと思います。   あくまで私の場合は、感性教育の一環としての謙虚さの問題としての仏陀への信仰を言っています。

そちらの言われる 埋葬後の信仰ということなのかもしれませんが。

「しあわせ」とは その意味からも社会の問題でもあるのです。

(3)

同じことかもしれませんが、 別な観点からも言いたいです。

私たち人間は 生物としての弱さを持っています。 深い苦痛や恐怖を見つめたりコントロールしたりできないはずです。

そんな私たちにおいて、

私たちは、肉親が殺されても 許しあえる存在だと思いますか? そこまで私たちの愛は深いと思いますか?  そんな愛を道徳の押し付けとか催眠的教育とかで創れると思いますか?

私には 不可能だと思います。

しかし、感性の道が(神の与えられたこの体のすばらしさの認識の道が)どこまでいっても尽きない泉であり どもまでの深い海であり どこまで登っても展望の開き続ける世界ならば、 やがては私たちは  それがゆっくりと感じられはするでしょうが、   かならず  いつかは強くなれるはずです。

が、 逆に 人が人を許せない状態の時に、復活がやってきて このまま生物としての生活かつ社会人としての生活を永遠に維持することは出来ないでしょう。   すべての人がすべての人を許せるようになることが先決です。

すこしでも もうゆるぎない子供のような新鮮な心を取り戻すことのほうが先決だと思います。

それなしに どうせ、「永遠の現在」という時間は無い、というのが私の哲学なんです。



私は 五感を離れた天国とか復活は想像できないのですが? ?
私には 地球を離れた天国とか復活は想像できないのですが? ?

そういうウソが方便としての価値を持たないと言ってるのではなくて、ここでは実際の希望としての「復活」論を論じています。


わたしは、ここに 善の戦士 という概念を訴えたいです。

「永遠の現在」の謎の時間を手に入れるよりも前に、 その命をかけた闘いがなければ、命を削った闘いがなければ、    当面はたとえば、 薬のあり方をめぐっての闘いがなければ、 つまり「永遠の現在」でなく「現在」の人間としての闘いがなければ、  それは私たちの「時間」の中に永久にどうせやってこない。   ここにて この認識を共有できないものでしょうか?

それが哲学者の心の中の信仰なのではないでしょうか? 「今」に目をも心をいや全身全霊を向けることが です。  理想社会への十字架を少しでも担ぐ道です。 
 


この闘いの良心の地点からは、 これからは私も 仏教の理論の世界についてはうやむやな言い方ではない批判も始める必要を感じるようになっています。

投稿日時 - 2008-10-19 20:35:45

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。《芸術》のほうもそうですが 締めるのは いつでも締められると思って 放っておいた状態でした。
 まだまだ たしかに 探究はつづきます。最終の結論として述べていただいたと思うのですが これから踏み出す課題も述べてもらっていますし たぶん この踏み出しの地点での協力・連帯あるいはまた別行動といったことについても 広く人びとを糾合するというにあたっては 探索はつづくものと考えます。

 全体として すでに方向づけも終えていて 互いに それぞれが これまで 歩み出して来ていた道を 確認しあうといった地点にあると思います。そういう点を確認しあっているわけです。いま この質疑応答において。
 その前提で 異同をも明らかにするという作業があります。
 《異》のほうに傾いて 評言をのべさせてもらいたいと思います。

 いきなりですが 自然本性について どう思われますか? 存在は 存在すべくあるという意味で 善であるという命題。生命の尊重が 善であるという公理。そして 自由意志 あるいは それによる表現の自由。また この自由が 互いに対等であることより ひとは 平等であるという理念。これらをとうとぶという愛の普遍性。

 仏性とも言うわけですが ひとは 無条件で 善であり自由であり愛すべき存在であるという命題です。
 この自由意志は みづからの自由や愛に逆らう自由も持つということにより みづからの存在や能力を傷つけた。うそを言ったし そのうそを ためにするという偽りにまで発展させた。

 したがって 自然本性なる《わたし》に自己還帰すれば 浄福であり 復活につながる。という見解です。手放しの楽観論です。至高の能天気です。《ただ 霊の息吹きを受け取りなさい》というのみだというわけです。――でも 《仏性》は どうなんですか? 寝てしまっていて 起き上がって来ないといったところなのでしょうか? どうなんでしょうか。

 あえて 単純な図式的なことがらで 応答させていただきました。いかがでしょう。

投稿日時 - 2008-10-19 21:43:33

ANo.70

オコリザルです。
最新の大霊界ギャグです。
このところの高次元の霊体のセールストークに変化がありました。
(白旗を掲げながら)やってきて、「あなた様のおっしゃるのは除霊ではなく浄霊ですか?」とのたまいます。
霊は除霊を望みません。
たとえば「無に返れ」と日本人らしく宣告するとはっきりします。
無に返ることが無の境地に至る成仏ではなく消滅を意味します。
「浄霊」で少しは取っ掛かりになるかなと思ったら内訳は「われらを支える教祖様になってください」でした。
現実的にこの信仰は魂を売り飛ばすことを意味します。
霊媒師体験のある私に言わせれば、幽霊相手の除霊は一銭の徳にもなりませんが、宿主たる本人を翻弄する新興宗教解説なら世間一般に十分儲かっています。
そんな儲け話なのですが終始一貫して常識人たる私は聞く耳も持ちません。

霊と煩悩の関係について霊を肯定する方から証言が欲しいところです。

投稿日時 - 2008-10-15 00:36:32

補足

 primeapeさん しばらくぶりです。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。現実に そういう情況があるということですね。
 悪は それ自体としては 存在していない。人間存在という善に付随して その損傷としてのみ 現象していると捉える立ち場に立つ者ですが そうしますと いまそのように primeapeさんが置かれている情況というのは 現実に起こっているのであると同時に その現実は どうも そこに苦悩している人びとが 自分から望んで陥った情況なのである。現実であって 現実ではない。しかも 人びとは そのことを半ばは ちゃんと知っているのだと思われます。
 悪の場合と同じように――善なる存在を みづから進んで うそによって傷つけようとして 現象させているその悪という状態と同じように―― 現実とは何かをじゅうぶん知っているのに わざと そうではない想像=妄想を起こして それを霊界と称して 遊んでいるだけである。だから 現実であって 現実ではない。のではないでしょうか。

 ★ 霊と煩悩の関係について霊を肯定する方から証言が欲しいところです。
 ☆ 《霊なる超経験を肯定する》立ち場から見れば 以上のような見方になりますが まづ
 ★ 霊と煩悩の関係について
 ☆ は 《非思考=信仰》が直面する《霊》と 上に分析した《想像=妄想としての非現実》を《霊界》と呼んでいる場合のそれとは 別だと捉えます。つまり 後者では 霊界をあたまの中に仮想現実としてこしらえているだけであり そこに遊ぶ精神は 煩悩(無明)そのものだということになります。ふつうの精神を持てあましている・その結果 弄んでいるのではないでしょうか。

 昔 《モラトリアム人間》という言い方が 提出されたことがあります。何につけ ものごとに対して自分で判断をせず結論を出さず 行動を迫られても決断を先に延ばす傾向にあるというものです。
 もし その類型で捉えるなら それと同じように決断を自分で下すことをようしない状態にある人たちが
 ★ 「われらを支える教祖様になってください」
 ☆ と言ってくるというのでしたら それは あるいは 多少の前進なのかも知れません。行動を――きわめて消極的に 責任逃れの装置を まづ真っ先に作っておいてのごとくでありながら―― 少しは起こそうとする動きであるかも知れません。そして 確かにそれは いわゆる新興宗教が 受け留めて 商売の相手にしているということかも知れません。そういう現実の部分があるでしょうね。

 ひとつには 個人が一人で考え自分一人ではっきりとした結論を出して すすんで行動するということを嫌うならわしが このくにには あります。それが 《和を以て貴しと為す》ことだと思いこんでいる人びとが 多いわけです。要するに お上には従えと今も かたくなに信じている人びとです。でも たとえ
 ★ 教祖様
 ☆ から受けたものであっても その指針なら 自分も おこなってみようと もし考えたのなら それは きわめて愚かなものでありながら 積極的な行動へ踏み出す微細な一歩であるかも知れません。まぁ ないかも知れません。

 というように受け取りましたが ひとつには むしろ 仏教という現象 これを 徹底的に分析し しかるべきは しかるべく批判していくことが 現状打破の一歩になるかも知れません。空を覆う雲のほうを 先に吹き払うという寸法です。
 直前のご回答では krya1998 さんから
 ◆ アウト・ローやodds、外れものの生き方に大変、人のこの世的なありようをみています。少しすねたり、ひがんだり、落ちぶれ根性というようなのは、私の気性らしくないのはよく判りますが、だから何かいいなぁと思っています。
 ☆ というような述懐が出されています。その人たちに直接に接してこそ 問題のありかから始めて わかるようになるのでしょうが わたしたちの社会全体を蔽う繭――過保護なとも言うべき ほんとうは統治のための装置としてのこの目に見えぬ繭――について 明らかにしていくのも 一法かと考えます。
 多少でも お応えできましたでしょうか。

投稿日時 - 2008-10-15 06:34:42

ANo.69

 この不肖の私を確認、知ってくださっているbrageloneに何か申し上げないでおられませんですからね。無論このしがない私の輪廻転生の中の今生についてもご報告申し上げます。私に見える、ということはそれは私自身のことですものね。

 ☆前回の わたしの評言は 無駄でしたか。残念。
 そんなことはありません。十分私の血肉にしています。そしてまた更に、よく勉強します。
 あぁ骨は自分は感じないのです。でも脊柱は何も触らなくても、何も動作をしなくても、意識と感覚を集中できています。とても爽快です。
 ここのご回答や、brageloneさんのお話を、今進行形のことに区切りがついたら、勉強します。その報告はここの投稿には適さないと存じますので、bragelone様の目を向けていただけるように、質問を起こしてみます。ありがとう御座います。

 しがないではやくざの話も惹かれていますが、私はhttp://kikitai.teacup.com/qa4391498.htmlこういうアウト・ローやodds、外れものの生き方に大変、人のこの世的なありようをみています。少しすねたり、ひがんだり、落ちぶれ根性というようなのは、私の気性らしくないのはよく判りますが、だから何かいいなぁと思っています。

投稿日時 - 2008-10-12 11:43:24

補足

 訂正です。
 前回(No.68)の補足欄にて 
 ▼ マリア信仰を追う
 ☆ のURLが 間違っていました。二つの内のもう一つのほうでした。
 (正)http://www.medieviste.org/archive/documents/filiere2.pdf

 おわびして 訂正します。すみませんでした。

投稿日時 - 2008-10-13 11:01:23

お礼

 krya1998 さん。やはり
 ★★ (ANo.68)~~~~~~~~~~~~~~~~
 それで、私は水を差すようなことに為りますが、やはりご質問の復活や不死には積極的意味を持っておりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という結論のみのご投稿でしたか。お礼を申し述べて わたしのご返答としては 次の箇所の再掲載にて 果たそうと思います。

★★ (ANo.35) ~~~~~~~~~~~~~~~
 fractalもDrosteも、允に取り留めない世界ですよね。あぁ私の中の解釈ですが。これにいくら関与しても仕方ない、非生産的であると存じます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《非生産的であ》あろうがなかろうが 《惹かれて》いくものには 魅力がある といったところでしょうか。《復活》論については 知ったことじゃない というところでしょうか。

 また 覗いてみてください。

投稿日時 - 2008-10-12 13:39:18

ANo.68

 bragelone様
 相変わらず大勢のお方が、たくさんのご投稿をお寄せくださっておりますね。
 それで、私はミ水を差すようなことに為りますが、やはりご質問の復活や不死には積極的意味を持っておりません。
 ご参考までに、この肉体世界での人間のしがなさをよく検討するために、一つは【媒介・境・間・遍歴・来訪】というキーワードでの人の身の際を勉強しております。そういうことのために、質問を出しました。
 http://kikitai.teacup.com/qa4390806.html
 http://kikitai.teacup.com/qa4393059.html

 そして回答も投稿しております。
 http://kikitai.teacup.com/qa4383911.html
 
 関連したことを書き込んでおりますので、お時間が取れましたら、お目を煩わせてください。
 また私の蒙の啓明のためになることがありましたら、どうかお教えください。
 

投稿日時 - 2008-10-12 08:13:49

補足

 ▲ 嶋崎正樹:媒介者の系譜
 ☆ には 
 ▲ マリア信仰を追う(http://www.medieviste.org/archive/documents/filiere1.pdf
 ☆ の紹介記事があります。
 ○ 処女懐胎 から 聖母信仰
 ☆ にまで到る習俗です。《処女懐胎》は 聖書にも 書いてありますが たとえだと考えます。
 もしこれが 《聖母信仰》にまで慣習化しているとすれば 《復活》観には 甚大な影響を与えていると思います。

 まづ 経験事態としても 性愛をさげすんだり 処女性を崇めたりするでしょうし その結果としては イエスを かれは われらの長子であり のちには 友であると言われるのに きわめて特殊な存在にしてしまうということ こういった影響が 挙げられるのではないでしょうか。
 しかも 怒るイエス 大食漢で大酒飲み(マタイ11:19)のイエスが 人間であると同時に 神の霊そのものであると想定され キリストと呼ばれた。わたしたちは この神に対して 非思考という態度でしか接することがむつかしいという信仰に立つのだと思います。どこから 《聖母信仰》に変わってしまうのでしょう。

 このように感じました。

投稿日時 - 2008-10-12 11:26:59

お礼

 アドワ゛イスをありがとうございます。

 ところで
 ★ この肉体世界での人間のしがなさをよく検討するために、一つは【媒介・境・間・遍歴・来訪】というキーワードでの人の身の際を勉強しております。
 ☆ の結果は いかがなのでしょう? 中間の結論でもかまいませんから ご回答として お寄せください。

  ▲ 嶋崎正樹:媒介者の系譜
 ☆ については 読んだあと この質問に関係していましたら 評言をご返答いたします。

 * 前回の わたしの評言は 無駄でしたか。残念。

投稿日時 - 2008-10-12 09:30:44

ANo.66

>相対における無為は 経験世界が 超経験世界に開いた窓のようなものですね。そういう意味での接点という理解でいいですか?

そのような解釈でいいと思います。超経験世界・絶対は、未来であり、無為は現在であり、有為は過去と考えますから、無為(現在)は、超経験世界・絶対(未来)の接点だと応用しても、意味が通ります。ここで、未来とは、方向付けされていない、あらゆる可能性を持つゆえに、分化していない、偏っていない状態として、絶対なのだと僕は見ています。ですから、一般的に、特異な状態を予想するような未来観ではないことを表明しておきます。数日後の日経平均の終値予想的な意味の未来とは違います。偏った状態を予想するのは、有為の延長で見る愚かな認識水準の未来論ですので、正しく見れていないと、brageloneさんならば、理解していただけると思います。

>その超経験世界を わたしは 単純に《絶対》と規定します。そのあと それの説明のために 《無限・永遠・不可変性・真理》などの属性をつけ加えます。もし これを 分かりやすいように 擬人化すれば 《絶対者》であり 《神》であるとなります。これらすべては なぞです。なぞの領域を 《霊》と言って表わすこともある。というわけです。
 擬人化した《絶対者=神》の語を用いて さらにこの世界を説明するとき 《創造の主体》であるという物語が 作られました。経験世界は すべてが 被造物であるという物語による説明です。

異論ありません。

>《超経験の領域》を 《神》と呼ぶのと同じように 《霊》という言葉でも 代理表現しているだけです。
 この神が 霊として・・・経験世界へと開いたあの《窓》から 人間にやってくる。この息を吹きかけられた人は 復活の予感を得さしめられる。という夢です。

超経験世界・絶対(未来)から無為(現在)への相転換は、未完・未了の一回として持続していると、以前に書いたとおり、(神の)「息を吹きかけられ」続けていると僕も思います。でも、それは、復活でしょうか。これが復活の定義だと言えば、反論のしようもないのですが、一瞬一瞬が大事で、その時々に生まれ変わるくらいの意気込みで行動するのだよという教えなのでしょうか。それならば、なるほどねと思うわけです。

>おそらく この《悪に傾く〈わたし〉》の状態を 
 ★ 行動できていない時(当然、死の時も)、「私」は消滅していると考えます。
 ☆ と規定しておられるのでしょう。もしその意味で進めるならば
 ○ 旧き人〔としての《わたし》〕と新しき人〔としての《わたし》〕
 ☆ について 了解していただけるのではないでしょうか。人生の或る時点において 神が 霊として あの窓から 《わたし》にやってきたとき その息吹きに燃え立たしめられて 人生の道が方向転換をします。その時点を境にして 旧い・新しいが 捉えられます。悪の増大する右肩上がり(?)の方向が 転換します。死への一本道が 流れが逆流してのごとく巻き返して 生が生であるようになった。《わたし》が《わたし》であるようになった。悪ないし死が 死なしめられます。死が死ぬ つまり 《わたし》は あらためて生きる。これは 復活ですよね。

他力(ここでは、阿弥陀仏ではなく絶対者の力、又は、究極の他者の力)によって倫理が与えられ、悪から善に方向転換することを復活と言うというような定義のようですね。これは、これで、否定しがたい美しき説なのですが、この世はそれほど理想的ではないと思うのです。復活もあれば、非復活もあります。仏教では、菩提心がないと、仏性は顕現しないと言います。心がけのないものは、他力だけでは救いようがないようです。ここでは、復活にしろ、仏性の顕現にしろ、前提条件は「自然な向上心」としておきましょう。そして、行動できてこその復活です。死後への延長は無意味ですから、止めましょう。ここ(死後への延長の話)だけ、無理しているように見えるのですが。聖書否定はできないのでしょうね。進化論も支持しないのでしょうね。

投稿日時 - 2008-10-11 16:43:34

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 大筋で 再度・再再度 見解が一致しました。ご説明ありがとうございます。

 細かい部分で 聖書やその――わたしが否定している――宗教にかかわって 誤解が生じていると思います。今回は その点についてだけです。

 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・死が死ぬ つまり 《わたし》は あらためて生きる。これは 復活ですよね。
 ○ 《「私」の消滅》が 消滅させられる。
 ☆ のだと考えます。「私」の復活だと思います。実際には その予感なのだと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《復活の予感》という言い方が 二重の誤解を生むようです。
 一方では すでにこの世においての復活を言っているので
 ★ ・・・(神の)「息を吹きかけられ」続けていると僕も思います。でも、それは、復活でしょうか。
 ☆ という批判が 必至です。ただ この誤解については 比較的 容易に 解けると思います。
 ☆☆ 《悪に傾く〈わたし〉》の状態 あるいは 《霊の指し示すところに逆らう自由意志》のはたらき
 ☆ これをも 同時に 言っていると思います。逆に言えば
 ★ 心がけ / 「自然な向上心」
 ☆ が前提となって はたらくならば 《悪への傾き・霊への逆らい》に到らずに 復活の道に就くと思われます。わたしの場合は このとき 心がけ・向上心とまで 倫理的には見ずに ただ
 ○ 霊の呼びかけを受け容れる
 ☆ だけによって 向上すると思っています。つまり 第一義としては 経験思考や努力によるのではなく 非思考つまり信仰によると思っています。(簡単に言えば 絶対他力ですね)。

 いま一つ別様の誤解は 死後の問題です。
 ★ 死後への延長は無意味ですから、止めましょう。ここ(死後への延長の話)だけ、無理しているように見えるのですが。聖書否定はできないのでしょうね。進化論も支持しないのでしょうね。

 ☆☆  となれば 経験存在としての《肉(身体および精神)》なる《わたし》が 死ぬとしても それは いま予感している復活路線にとって もはや 何のおそれも ありません。
 ☆ この箇所が 語弊を持ったかも知れません。これは 死後を問題にしない と表明しているのですけれど うまく言えていないかも知れないですね。
 ★ 進化論
 ☆ は 経験思想ですから(――経験科学だというべきでしょうか それでも この場合には 同じことですから――) 復活論には関係しません。進化したものであろうが なかろうが この《わたし》の存在の――みづからの悪の軌跡からの――よみがえりを問題にしているのですから。もちろん 生きているあいだに どうするか・どう考えるか・どう考えないか・どういう非思考をみづからに得るか だと思います。
  *
 今後は この互いの復活論――いわばその基礎――にもとづき そこから どう踏み出すか どのように出発を方向づけるか もはや何を目指すかでは必ずしもなく 何を目指さないか。さらにあるいは 何々はもはや必要ではないと分かり それら何々の交通整理を いかにおこなっていくか。(良心・信教・表現・結社の自由を 必要最大限に守るかたちでの交通整理です。それには 井戸端会議を と言っています)。これが ひとつの方向だと考えます。
 全体として いかがでしょうか。

投稿日時 - 2008-10-11 18:40:43

ANo.65

>(b) 《無我》は 《死へ向かう生を生きるわたし》が 方向転換せしめられ 《すでに死んだ つまり 死へ向かう一本道にあるわたしが死んだ》とき以降の状態 としては どうでしょう?
 ★ 「私」は消滅していると想定しています。
 ☆ この実際のことが 分かりません。たとえば 
 ○ 《「私」は消滅していると想定してい》る主体は 《わたし》であり それとして 存在していると思うのですが いかがでしょう?

そのとおりです。《「私」は消滅していると想定してい》る主体は 《わたし》であり、存在しているという部分は、全く正しい表現です。つまり、行動できている時、主体・私はあります。しかし、行動できていない時、主体・私はありません。生きている今、想定するという行動をしている時、行動主体の私は存在していて当然です。生存中でも、行動できていない時(当然、死の時も)、「私」は消滅していると考えます。なんら矛盾はありません。常に存在する・しないという単純発想ではないのです。

 ☆ それゆえにこそ 霊に触れられているかのようにして 霊をみづからに宿す・ゆえに 復活の予感を持つ。しかも この経験現実において そうする。と考えるのですが?

霊の常在観ゆえに復活の予感在りという点、永遠不滅の霊魂観は、なにゆえに、有為の世界で絶対視できるのでしょうか。仮に、霊魂が常在だとしても全くの無力なので、有っても無くてもどちらでもいいのです。セーニカ外道との問答の一例を出すと、
「ゴータマよ、もし霊魂が無ければ、誰が記憶するのか。」
「セーニカ外道よ、もし霊魂が有るならば、なぜ忘れるのか。もし記憶する働きが霊魂にあれば、どうして悪い事を記憶したり、覚えのないことを記憶したり、記憶したことを忘れたりするのか。」
霊魂には様々な能力が全く無い実態が、涅槃経では次々と暴露されていくわけです。宿っていても無効であるのです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 絶対と相対(第一仮構相)
 相対における 無為と有為(第二仮構相)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この仮構は 論理的に おかしいと思います。なぜなら 《相対》の世界は すでに 経験現実の世界です。そこに《無為》を想定するのは ちょっと解せません。

前回の「仏陀葬送質問」とも関連しますが、無為は絶対と相対が接するものとして、brageloneさんにヒントを教えてもらった部分です。相対領域の顕現は有為ですが、有為のみではなく、顕現していない無為なる絶対もあって、有為と一体・一如化しているという想定です。経験現実の世界と言う時、有為の世界のことだけ見ているようですね。《相対》の世界は、有為(経験現実)と無為(非自性)の対立概念で一体的に理解しようという立場なので、少しだけ複雑なだけなのです。相対の意味を互いに別様に定義しているようですね。

 こうなると 初めに戻って 
 ○ 勝義諦 無為 真理 真如 実相 // 世俗諦 有為 
 ☆ などの定義を明確にしていったほうが よいかと思います。
 ○ 絶対:経験世界を超えたところ(これを 霊とも言う) // 相対:有限・可変性なる経験世界
 ☆ これが 出発点にある定義だと思います。ここから きちんと定義をつくっていくとよいと思います。

brageloneさんは、絶対を霊、相対を有限・可変としていますが、僕の定義は、絶対は、最強の力(唯一・完全・普遍)に満たされ、自性的で、非空観であり、相対が創造された時、絶対が相転換して、その内部が、最弱の力(無力な無為)で満たされ、非自性的で、空観であると考えています。前回の「仏陀葬送質問」でも同様の回答を見ることができるはずです。

 あと一点。
 ★ 厳密には、自己の死は、この世の出来事ではないと解釈します。他者だけが、経験できる現実として、この有為の世界で死に立ち会うと見るのです。
 ☆ 死が 人によって 経験に属したり 属さなかったりするのは やはり 想定として 妥当性に欠けるように思うのですが?

「人によって」ではありません。自己の死では、「常に、自己が不在扱いになっている」だけです。自己に限定して経験不可なのです。でも、死にかけ体験まではできるのですよ。そこまでなのです。 

投稿日時 - 2008-10-11 11:03:45

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 相対における無為は 経験世界が 超経験世界に開いた窓のようなものですね。そういう意味での接点という理解でいいですか?

 その超経験世界を わたしは 単純に《絶対》と規定します。そのあと それの説明のために 《無限・永遠・不可変性・真理》などの属性をつけ加えます。もし これを 分かりやすいように 擬人化すれば 《絶対者》であり 《神》であるとなります。これらすべては なぞです。なぞの領域を 《霊》と言って表わすこともある。というわけです。
 擬人化した《絶対者=神》の語を用いて さらにこの世界を説明するとき 《創造の主体》であるという物語が 作られました。経験世界は すべてが 被造物であるという物語による説明です。
 ★ 相転換
 ☆ というのも 或る種の説明物語だと思います。
 このような想定です。比較対照をお願いします。

 ★ 永遠不滅の霊魂観は、なにゆえに、有為の世界で絶対視できるのでしょうか。
 ☆ 《霊魂》というときには 人間が死後になるそのものという印象を持つのですが そうだとすれば わたしの場合 《永遠不滅の霊魂観》を持ったことは ありません。《超経験の領域》を 《神》と呼ぶのと同じように 《霊》という言葉でも 代理表現しているだけです。
 この神が 霊として――などと言うと けっきょく 何も語っていないのに等しいのですが―― 経験世界へと開いたあの《窓》から 人間にやってくる。この息を吹きかけられた人は 復活の予感を得さしめられる。という夢です。
 このように霊感を得ていても 人は 自由意志によって それに逆らうことも 自由です。ですから 《記憶が確かでなくなる》こともありますし 《善きことは これこれだと分かっていても それに逆らって その善に損傷を与える》ようなことをしでかします。つまり 悪を行ない得ます。
 ちなみに 上に述べましたように 《永遠不滅の霊魂が記憶する》といったこととは まったく別です。そんなことは 想定していません。(念のために言えば ただし 霊=神は 定義からして 永遠ですよ)。

 ○ わたし
 ☆ の定義も それぞれなのですかね。わたし( bragelone )の場合は このように話している主体が 自己を呼ぶときの名称として 《わたし》を使っています。そこから広がって 話す主体 また その存在じたいを表わすこともあります。要するに 一人ひとりの経験存在です。
 ただし 《わたしが わたしである / わたしが わたしする》というふうに表現することがあります。それは とりもなおさず 《わたしが わたしでなくなる》状態を想定しているからです。さきほどの《善に損傷を与える=すなわち 悪を行なう》ときの《わたし》が それです。《存在ないし生命》が 《善》です。これを傷つける考えや行ないは 善の欠如をもたらすこととして 《悪》と呼びます。もともと《悪》があったとは 見ていないわけです。善なる存在なる《わたし》に みづからが こうむらせたその欠如が 悪です。
 おそらく この《悪に傾く〈わたし〉》の状態を 
 ★ 行動できていない時(当然、死の時も)、「私」は消滅していると考えます。
 ☆ と規定しておられるのでしょう。もしその意味で進めるならば
 ○ 旧き人〔としての《わたし》〕と新しき人〔としての《わたし》〕
 ☆ について 了解していただけるのではないでしょうか。人生の或る時点において 神が 霊として あの窓から 《わたし》にやってきたとき その息吹きに燃え立たしめられて 人生の道が方向転換をします。その時点を境にして 旧い・新しいが 捉えられます。悪の増大する右肩上がり(?)の方向が 転換します。死への一本道が 流れが逆流してのごとく巻き返して 生が生であるようになった。《わたし》が《わたし》であるようになった。悪ないし死が 死なしめられます。死が死ぬ つまり 《わたし》は あらためて生きる。これは 復活ですよね。

投稿日時 - 2008-10-11 15:21:27

お礼

 ○ 《「私」の消滅》が 消滅させられる。
 ☆ のだと考えます。「私」の復活だと思います。実際には その予感なのだと思います。あの《窓》にしても 夢の中のお話であるに過ぎないかも知れません。

 となれば 経験存在としての《肉(身体および精神)》なる《わたし》が 死ぬとしても それは いま予感している復活路線にとって もはや 何のおそれも ありません。たぶん 予期していないときに そのように肉のからだが朽ちることについて 残念という思いが残るのかも知れませんが。

 ▲ (コリント前書15:55)~~~~~~~~~~
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と歌うときは 来ると思います。(《死のとげ》とは 《悪ないし罪》のことです。善なる存在・生命に傷をつけるのは 《とげ》が刺さるかのようです。つまりは そのつどは 小さなとげであるに過ぎない と同時に それが 積もるなら 朽ちる前に体は 腐るかも知れません)。

 吟味・反論をお願いします。

投稿日時 - 2008-10-11 15:28:02

ANo.64

できるところまで、たとえ話を究めてみます。

>(1)No.25補足欄にて 《似像(にすがた)》のことを書いております。神(無為)は 自分の像に似せて 有為の世界における人を作ったという想定です。
 仮りにこれにもとづけば 無為を 複素数と仮定するときには 有為の内の人間については やはり同じく複素数として見たいという傾きを持ちます。のぞみ薄ですか?

なるほど、有為も基本的に複素数でいいと考えます。ただし、虚部をゼロ倍するという方法で、無為から有為になっていると考えてはどうでしょうか。よって、実部のみが残るという顕現の様式となると解釈します。こうして、相対、有為のイメージは、具体的に可能になると考えます。虚部のイメージって、具体的にはよく分からないでしょう。

>もし仮定し得たときには 実部と虚部との《一体》ではなく 複素数どうしの――相似関係としての―― 一体・一如という見方になります。

無為では、複素数を分解せずに、一体・一如と扱い、一如としては実体上、沈黙・無記になっている(具体的なイメージを表現できない)と思うのです。有為では、虚部が欠落することで、相対の世界を顕現していると見ます。一如の部分的な消滅が、偏りを表現できるようになったと解釈します。偏るから、イメージできるという格好です。

>(2) ★ 「究極の他者」――☆ これは 《無為・絶対》でよいと思います。そして
 (2-1)★ 「究極の他者」になる――☆ としたときには 上の《一体》の問題だと思います。

絶対と相対(第一仮構相)
相対における 無為と有為(第二仮構相)
という仮構を想定し、「究極の他者」は、相対の有為から(純粋な)絶対への逆転換だと、以前に書いたとおり、無為というよりも絶対と関係していると考えています。ですから、一体・一如の問題というよりは、唯一・絶対に属する問題だと考えます。

>(2-2)★ 「自己の死は、自己の人生の出来事ではない」――☆ これをめぐっては どういう解釈になるでしょう。つまり
 まづ《死》は 経験現実の延長であると言えると思います。〔そして これを受け容れるという議論も すでに しています〕。

僕は、ウィトゲンシュタイと同様に、自己の死を自己の経験現実とは見ませんし、その延長とも見ないことに賛成なのです。自己の死は、逆転換と見ているのです。他者の死には立会えますが、厳密には、自己の死は、この世の出来事ではないと解釈します。他者だけが、経験できる現実として、この有為の世界で死に立ち会うと見るのです。そして、自己の死では、「常に、自己が不在扱いになっている」とでも言う状況です。

>ですが 生から死へ移ることと この死へ移るべき生が 無為の世界と接していることを体得して 復活することとは 別だと考えます。

無為の世界に接するのではなく、絶対領域に逆転換するという想定です。

>そこで
 (a) 復活を覚えるわたしは 《自己執着》とは別だと考えるのですが いかがでしょう?

絶対領域は、唯一・絶対ですから、私とか他者とかの区別を超越しているのです。自己執着はあってはなりません。別扱いではありません。

>(b) 《無我》は 《死へ向かう生を生きるわたし》が 方向転換せしめられ 《すでに死んだ つまり 死へ向かう一本道にあるわたしが死んだ》とき以降の状態 としては どうでしょう?

「私」は消滅していると想定しています。
 
>(c) でも そのときには 旧いわたしが死なしめられたのであって 新しいわたしは (a)の《復活を覚えるわたし》として 生きている。と思うのですが どうでしょう?

「私」は消滅していると想定しています。旧い私も新しい私もありません。唯一・絶対を貫徹すると、復活の余地などありません。相対、有為の「滅と生」という仮構を延長して「死と復活」を想定するのは、論理的には、お粗末だと思いますよ。

投稿日時 - 2008-10-10 23:51:29

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 今回は 分からないところが はっきりと出てまいりました。
 二点について おうかがいします。

 ★ 「私」は消滅していると想定しています。
 ☆ この実際のことが 分かりません。たとえば 
 ○ 《「私」は消滅していると想定してい》る主体は 《わたし》であり それとして 存在していると思うのですが いかがでしょう?
 ☆ それゆえにこそ 霊に触れられているかのようにして 霊をみづからに宿す・ゆえに 復活の予感を持つ。しかも この経験現実において そうする。と考えるのですが?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 絶対と相対(第一仮構相)
 相対における 無為と有為(第二仮構相)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この仮構は 論理的に おかしいと思います。なぜなら 《相対》の世界は すでに 経験現実の世界です。そこに《無為》を想定するのは ちょっと解せません。

 こうなると 初めに戻って 
 ○ 勝義諦 無為 真理 真如 実相 // 世俗諦 有為 
 ☆ などの定義を明確にしていったほうが よいかと思います。
 ○ 絶対:経験世界を超えたところ(これを 霊とも言う) // 相対:有限・可変性なる経験世界
 ☆ これが 出発点にある定義だと思います。ここから きちんと定義をつくっていくとよいと思います。

 あと一点。
 ★ 厳密には、自己の死は、この世の出来事ではないと解釈します。他者だけが、経験できる現実として、この有為の世界で死に立ち会うと見るのです。
 ☆ 死が 人によって 経験に属したり 属さなかったりするのは やはり 想定として 妥当性に欠けるように思うのですが?

投稿日時 - 2008-10-11 00:36:53

ANo.63

★☆ 「復活」の概念は 自分の中では(書きましたことから解ると思われます)、通過点として思索経験された形の概念となっています。  でも、考えてみれば私の中にては その通過点にいたるまでの時間はかなり長いものでした(人にあのように表現できるような心境にいたるまでの時間です。)。

それを過ぎると 迂回の必要性は無くなるかと思います。

最初のご質問文の中の 3、4の「退屈」と関わる問題も消えています。

あくまで「永遠」は永遠ですが、 ごく普通に常に今が新鮮であり続けるだけのことです。 感性はさらにどんどん深まってゆく可能性があり先が見えないので その過程で、“誰もが この地点は通過できるのでは”という考えです。

しかし、そこへの道には、時には感性教育とか 人によっては禅とか 聖書との出会いとかが必要だったり、 さまざまな地点からのさまざまな思索が必要だったりするわけでしょうし、 その迂回地点での思索展開とかを否定してはいません。

私は このような通過点を何年か前に感じることができたので、やっぱり感性教育とかかわるような地点が一番早道かなとは思いますが、その観点からも他の人の考えは知りたいです。

よく自分自身のその過程を振り返ってみれば、復活とか以前に神の問題で一種の絶望状態の苦しみを経過ももしています。  今それがあまりにも簡単な通過点として感じられるからといって、 よく考えてみるなら「甘い」わけではなかったと思い直しています。



>信仰は みづからを出さないとき 生きると考えている者ですが<
という部分には、気迫を感じますが、 ほんとうは、この公の場では「信仰」というところを「正しい信仰」というふうに言い直す必要があったり、 さらには「非思考への信仰」の説明が必要だったりするところ、

なかなか表現の世界というのは大変なところと思います。


▲イエスも怒った

というところについてですが、 私はこれを「イエスも怒りという感情のコントロールが出来ない時があった」というふうには受け取っていません。

が、それが何かの模範のための演技であったのかどうかは、すくなくとも私に判断できることろでは無いとも思ってはいます。

生物は何か 自分の望みややろうとしていたことや理想とすることを急に止められたり逆撫でされるとそこに怒りが生じるように出来ています。しかし人間はそこにプラスしてそれを「見つめる」ことも可能な能力も本来宿しています。 そこからそれを演技としてコントロールすることも出来ます。 其のときには演技はウソの場(関係性)ではなく、真実そのものでありえる場(関係性)ともなる可能性は宿すという考えがあるのです。

でも、それならば、その演技の真実を越える立場もまたありえるところ、

キリストのような 賛美の場であるべき場所へのそれこそ宇宙大の心を持った人にとっての その場での商売は、生物としては其のぐらいの怒りが起って自然だったのだとも思います。 その感情にただ単に身を任せて見せたという そのような模範であるのかもしれません。


でも、そこにても結局、私達は、与えられたせっかくの感性を伸ばしてゆくことで 其の気持ちに少しでも近づいてゆくことが出来るようになっているのに ? とやはり、感性教育へと私の心は走っていきます。

《目に見える世界》を、つまり生物としてのこの体と五感の中に尊い贈り物あるし、可能性の世界があるし、 そして《神殿(私がここで言ってる意味では体のことです)》や《聖域(コミュニティーや祈りの場所、大地、あるいは物質と言ってもいいかと思います。)があると私は思っているわけですが、     感性教育の本質は やはり聖書で言えば「野のユリ」の美しさを感じる心にあります。  他の感性はそれに付随してこそ生きてくるものと考えるのが本質的は感性教育の世界です。

もしかしたらですが、 その感性教育の世界にて、私ももっと怒るべきなのかもしれません。   

音楽家とかが 軽く音楽とかその他の芸術で儲けることを肯定したりする気持ちとかは、人間性の真実と矛盾しています。 簡単には言えないことかもしれませんが、ほんらい一番お金で買えない宝物をすでに持ってるはずの人が…という疑問があったりします。  そのへんを私はうやむやにすべき人間ではないのでしょう。現代音楽産業(あるいは現代芸術)の間違った所は本気で指摘すべき立場なのでしょう。

私は確かに若いとき何度も聖書は読みましたが、あとは記憶のみとなっています。 聖書の専門家のようなbragelone様の直感は そういうことなのかもしれませんね。

音楽家等の文化人(現代芸術家)のそのへんの自覚の甘さこそが、 「復活」という希望の通過点のそれこそ希望に満ちた庶民(弱き存在)の力強い文化を遅らせているのかもしれません。 

生物である弱さを自覚するほどに 思いっきり歌える可能性がそこにあるというのに       むむ。    む。

投稿日時 - 2008-10-10 19:02:00

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 感性教育
 ☆ あるいは 体験をつうじての生の転換 あるいは 人であることを通じての感化というような交通関係 のようですね。一貫しておられます。

 ★ 野のユリ
 ☆ みなさんのためにも 参照箇所を引きます。
 ▲ (旧約聖書・雅歌2:1)~~~~~~~~~~
 わたしはシャロン〔野〕のばら、谷のゆりです。

 ▲ (ルカ福音12:25~27)~~~~~~~~~~
 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
 そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。
 野の花のことを考えて見るがよい。
 紡ぎもせず、織りもしない。
 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あとは 言わずもがなでしたと おゆるしを乞いつつ。

投稿日時 - 2008-10-10 22:18:51

ANo.62

No.60で、「無為なる世界」と「有為なる世界」が、《接している》という表現は、なかなかいいですね と書きました。
そして、無為なる世界は、絶対領域の相転換だと僕は想定していますから、絶対の痕跡があるはずだと思います。

これらを整合的に物語りにすると、次のようになるでしょう。
無為なる世界の虚部(i)こそが、「不変の実体」あるいは「霊魂」の象徴だと解釈してみましょう。ここに、唯一・絶対にして不変の痕跡が残っていると考えるわけです。そして、この無為なる世界の虚部がゼロになる時、有為なる世界の実数が、相対世界を象徴し、顕現する(接する)と解釈できるのではないかという感じです。ですから、無為なる世界は、純虚数よりも複素数の方が、たとえ話としては都合がよさそうです。
無為、現在では、このように霊魂を認めるとしても、有為、過去では、霊魂のような不変の実体を認めるわけにはいきません。

また、「経験現実」は、無為なる世界では、適用外の観点であり、有為の世界のみに適用可能と見ます。
さらに、「自己の死は、自己の人生の出来事ではない」という意味内容でウィトゲンシュタイの『論考』から以前引用し、「究極の他者」(つまり、自己ではないもの)になるとしてきたとおりですから、死以降も自己に執着しない、無我を貫徹したいと思います。
結局、絶対の痕跡、「不変の実体」あるいは「霊魂」の象徴だった無為なる世界の虚部(i)は、無為ゆえに実体化し得ない、無効な項として存在し続ける役割と見るべきではないでしょうか。
よって、自己執着的な復活観は、退けるべきでしょうね。いかがでしょうか。

そして、このようにならない、論理的に整合的な物語も見てみたいようにも思います。いかがでしょうか。

投稿日時 - 2008-10-10 17:24:17

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 今回も 補足要求です。
 (1)No.25補足欄にて 《似像(にすがた)》のことを書いております。神(無為)は 自分の像に似せて 有為の世界における人を作ったという想定です。
 仮りにこれにもとづけば 無為を 複素数と仮定するときには 有為の内の人間については やはり同じく複素数として見たいという傾きを持ちます。のぞみ薄ですか?
 もし仮定し得たときには 実部と虚部との《一体》ではなく 複素数どうしの――相似関係としての―― 一体・一如という見方になります。

 (2) ★ 「究極の他者」――☆ これは 《無為・絶対》でよいと思います。そして
 (2-1)★ 「究極の他者」になる――☆ としたときには 上の《一体》の問題だと思います。
 (2-2)★ 「自己の死は、自己の人生の出来事ではない」――☆ これをめぐっては どういう解釈になるでしょう。つまり
 まづ《死》は 経験現実の延長であると言えると思います。〔そして これを受け容れるという議論も すでに しています〕。ですが 生から死へ移ることと この死へ移るべき生が 無為の世界と接していることを体得して 復活することとは 別だと考えます。そこで
 (a) 復活を覚えるわたしは 《自己執着》とは別だと考えるのですが いかがでしょう?
 (b) 《無我》は 《死へ向かう生を生きるわたし》が 方向転換せしめられ 《すでに死んだ つまり 死へ向かう一本道にあるわたしが死んだ》とき以降の状態 としては どうでしょう? 
 (c) でも そのときには 旧いわたしが死なしめられたのであって 新しいわたしは (a)の《復活を覚えるわたし》として 生きている。と思うのですが どうでしょう?

 * 虚数のたとえは 数学につよかりせば よからましものを。です。(ほかの方からの参加は 質問者のわたしが 要請するなら いいのではないでしょうか)。
 

投稿日時 - 2008-10-10 21:39:57

ANo.61

★ 虚数
☆ は 実数の部分をも含む複素数のことでは なかったですか? つまり どうしてもわたしのほうをも生かしていたい のですが。

慎重さに欠けていました。「無為」の例示なので、やはり、「純虚数」としなければならないでしょうね。恐らく、ご推察のとおりです。

☆ 実部( a )も虚部( bi )も 0(ゼロ)でないときの《虚数》であれば 《生きて 復活している》という状態が 夢想されます。か?《思い出》だけでは さびしいという煩悩満開からの強引妄想でした。たたき台にでもなりますか?

そうですね。実部も虚部もゼロで無い複素数の場合も、「無為」の例示としては、否定できないかもしれません。となると、虚部の解釈では、「もうすでに死んでいる時のこと」を連想しますが、実部の解釈では、生者を連想できそうですね。しかし、実部と虚部を別々に解釈すべきではなく、一体・一如とするならば、虚実並存の化け物のようにも思われます。この世のものではなさそうです。いかがでしょうか。所詮、たとえ話の解釈遊びのようですが。結局、復活イメージって、どのようなものでしょうか。

投稿日時 - 2008-10-10 07:23:06

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 今回は 註をつけたり 質問をしたりになります。独語のごとくです。
 (1)☆☆ 《思い出》〔や 《歴史的評価》〕だけでは さびしいという煩悩満開
 ☆ これは 生き永らえたいという意味ではなく 意思疎通が行なえて 互いに了解し得るということ つまり コミュニケーションの成立を願うという意味です。
 間主観性というのでしょうか 互いに異なるところと同じところとを 互いに認めて 全体として 社会的な共同主観(コモンセンス)が 形成されている。そういう情況・動態のことです。

 (2) 実数は 正負とも 経験現実に対応すると思いますが――つまり単純に言って 《あるか ないか》だと思いますが―― 《純虚数》は どうなんでしょう? わたしは 残念ながら 知識がすらすらとは伸びません。
 (2-1) 複素数において
 ★ 実部と虚部を別々に解釈すべきではなく、
 ☆ ということでしたら 両者を含む全体が 生者としての経験現実になり得るのかどうか。 
 (2-2)細かく
 ○ 無為は 複素数(《虚数》としての)なのか 純虚数なのか。
 ○ 有為は 実数なのか。複素数にまで 伸びるのか。
 (2-3)いづれの場合にも
 ★ 実部と虚部を別々に解釈すべきではなく、一体・一如とするならば、虚実並存の化け物のようにも思われます。この世のものではなさそうです。
 ☆ この《一体・一如》について どう捉えるか。
 ○ 無為が 有為に接しているというのは 《一体・一如》であるというのか。そうなり得ると言おうとするのか。

 (3) あるいは むしろ 
 ○ 生と死とは どう違うのか?
 ○ 生者が死者になるという経験現実があるとき 生者にしろ死者にしろ その人にとって 復活とは どういう事態として 想定されるのか?
 ○ (前項の註として:)生者と死者とは 横並びであるのではないか。どちらも 経験世界に属するのではないか。
 ○ (同じく:)復活は 人にとって 縦の関係 あるいは 立体的な関係 あるいは その動態的な関係 あるいは その四次元を超えたところとの関係。だというとき どのように代理表現し得るのか。


 * もとに戻って 取りあえず ここまでを考えました。バトンタッチです。

投稿日時 - 2008-10-10 11:51:18

ANo.60

またまた、感想を書かせていただきます。
No.57の補足欄の記載は、素晴らしい論理的な整合化を見ることができました。brageloneさんの120%の読解力と理解力に基づく、解説(読み解き)を尽くしたご返答は、僕の回答を全く生かすものになっています。そして、「無為なる世界」と「有為なる世界」が、《接している》という表現は、なかなかいいですね。そこで、次のように思い付きましたので、書いてみます。

「有為なる世界」は、(正負に及ぶ)実数の世界であり、「無為なる世界」は、虚数の世界であり、隔絶しつつ、《接している》が、単純に接点を見出せないところに、深い洞察力を要する例示となっていると思います。単純に、ゼロを境に正負が接しているという例示では、有為と無為の差異を充分に表現できていないと思うからです。

無為、現在、沈黙・無記なる勝義諦、無為なる絶対、虚数・・・復活
有為、過去、空観縁起なる世俗諦、顕現なる相対、実数・・・思い出

僕の連想言語ゲームでは、やはり、永遠の現在に生きる「復活」は、「思い出」との対比関係だと思うのです。他者のアラヤ識に降り積もり、他者がその時々に現に思い出す回想の中で、復活できるだけに過ぎないという解釈です。様々な記録を通じて、僕たちは全く会った事も無い人のことを想像したりもします。それも含めて言えば、「思い出」では正確な表現ではないでしょう。「記録・思考の跡から推定した人物像」などを思い描くこと・・・「歴史的な評価」とでも言うような言葉でしょうか。brageloneさんの復活とは、現時点でどのようなイメージですか。定義すると、どのような記載になるのでしょうか。中間的なまとめかもしれませんが、示していただけたらと思います。

投稿日時 - 2008-10-10 00:18:53

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 今回 もっとも大胆になって 思ったままを述べます。勇み足を いさめてください。
 ★ 僕の連想言語ゲームでは、やはり、永遠の現在に生きる「復活」は、「思い出」との対比関係だと思うのです。
 ☆ 「思い出」だけでは さびしい感じがしました。
 ★ 他者のアラヤ識に降り積もり、他者がその時々に現に思い出す回想の中で、復活できるだけに過ぎないという解釈です。
 ☆ という《思い出す回想》というからには この《他者》は 現に生きているけれども 《思い出される》ほうのわたしは 死んでいるということですよね。ううーん。わたしも 生きていたいですね。単純に。
 ★ 様々な記録を通じて、僕たちは全く会った事も無い人のことを想像したりもします。それも含めて言えば、「思い出」では正確な表現ではないでしょう。「記録・思考の跡から推定した人物像」などを思い描くこと・・・「歴史的な評価」とでも言うような言葉でしょうか。
 ☆ 「思い出」から 広がりましたが 「歴史的な評価」でも もうすでに死んでいる時のことですよね。
 ★ brageloneさんの復活とは、現時点でどのようなイメージですか。
 ☆ もし間違っていたら 訂正してください。
 ★ 虚数
 ☆ は 実数の部分をも含む複素数のことでは なかったですか? つまり どうしてもわたしのほうをも生かしていたい のですが。
 
 ▲ (ヰキぺディア:複素数=
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A4%87%E7%B4%A0%E6%95%B0)~~~~~
 複素数 z ( z = a + bi )が実数ではない、すなわち虚部( bi )が 0 ではないとき (Im z ≠ 0)、 z は虚数(きょすう、imaginary number)であるといい、実部( a )が 0 のとき (Re z = 0)  z は純虚数(じゅんきょすう、purely imaginary number)であるという。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 実部( a )も虚部( bi )も 0(ゼロ)でないときの《虚数》であれば 《生きて 復活している》という状態が 夢想されます。か?
 
 《思い出》だけでは さびしいという煩悩満開からの強引妄想でした。たたき台にでもなりますか? 

投稿日時 - 2008-10-10 04:33:57

ANo.59

こちらのスレが こんな論議展開になってるのは気がつきませんでした。

体調がよくないためです。

そのため じっくりここまでの論議を読むゆとりなしに ということになってしまいますが、  bragelone様との論議の火花を求めるのであれば、こちらにも書くべき時が来たと思いました。

もし、すでに論議されていることであったり、結論とかが何か生まれている内容であれば、そのあたりを教えてください。

私の復活論?は 単純です。 論と言えるものなのかどうかもよく解っていません。

あくまで 感性が深くなり豊かになれば、人生の意味感も同じく深く豊かになってしまうわけですから、 そんな意味がこの存在に存在してっると知ってしまっては、 存在の謎の裏に神という超自然の知性が存在しないということが考えられなくなってしまうのですが、  

かりに それでも神無しにも その謎がそれだけすばらしい世界を生んでくれているのならば、やはり希望としての「復活感」も自然なものとなるのではないかとは思います。  でも この「無心の信仰」というあたりは、いまいちピンとはきません。

いずれにしても、神がどれだけ物質をコントロールしているかとか しうるかとかも私には非思考でいい世界としか思えないところ、 人間にとってはいずれにせよ神が「創造主のような存在」そのような能力とともにあることは あたりまえのこと?なんです。  非思考なのにそのへんを「あたりまえ」のことなんて言えないかもしれませんが、 要は「謎」の中の究極は「自分という主体の存在」ですから、 それを再び存在させる力が神という存在に無いということは やっぱり考えられないことなんです。

なんでこれが むずかしい論議の世界となるのかが解らないわけです。

それよりも、現在の時間の方が気になるというのが私の立場です。

すみません。 その前に まだ私の復活論(単純なそれ)についてはまだ書いてませんでしたね。

神のその能力があればそんなことはなんの壁のある問題ではないのですから、、 感性がもし

日々、新鮮であれたら、それだけでもなんらかの形での“人間の「復活」”は あたりまえのことと感じるようになる  あるいは 感じるようになりかかる  というものです。

「何億光年もの時間の後に やっととどいた一秒の地球を7回り半もしてしまう光」が今地球で見えている星の光だよ」 と聞いても そういう言葉を記号としてしか感じない人や、 「へえ考えてみればすごいな」程度で終わってしまう人が いる中で、 物理学者でグライダーの趣味の人で計算と現実の距離感空間感覚がいつしか一致してしき ほんとうに広大な宇宙をこの生物の身にても感じられるという人がいました。

でも その人がもし、がゆえにか?地球の空間を小さく感じているのだとしたら、その感性が宇宙大だとは、わたしは少しも思わないでしょう。

しかし、その物理学者の感性もまた、まだ私たちの一般人の知らない感性、感じる心自体の そういう存在のすごさ、可能性のすごさを意味しているものの一つです。

日々新鮮であれると同時に、私たちは、その感性の大海のほんの海辺のすなづぶのような存在なのです。 神という言葉が ここにてまだ不自然というなら、《その「謎」の前にては》と言ってもいいです。

ノーベル賞のニュースは 活力や活気をなんとなくですが与えてくれるという意味では明るいニュースであるのでしょうけど、 くわしく知らないで言うので正確な文言と思わないでほしいことなのですが、  30年も50年も物理の世界は 止まってしまっていたことが明らかになったという実は暗いニュースなのかもしれません(^^)。  ほんとにまともに受け取らないでくださいね。

 いまや物理や科学は応用科学が次の課題としてあるのみというところまできているのだとしたら、マスコミやノーベル・システムは そのへんをもっとアピールすべきなのでは と思うのは私だけではないのではないかと思います。

人間の小ささを知り 互いに助けあうことに学問が向かうように、いよいよその時が近づいているし、その努力を開始し始めるべきときだということを科学者や哲学者が   そのことからも語り始めるべき時代なのではと思うのですが、

この生物の身でありつつ、 同時に健康であるとき まだ意識がはっきりしてる時って、その感性の可能性は 人間に贈られてあるその贈り物のすごさは エベレストのそのまた上のそのまた上の、 まだまだ見果てぬ先が存在する世界なんです。

こうして体調の悪い時には私自身 生物の神経の身として、秋の澄んだ青空に流れ行く雲の糸たちの広大さを見ても その高ささへあまり感じません。  でも もはや、私の知性は、そのすごさへの謙虚さを忘れることは無いでしょう。

緑の葉の色合いの豊かさも無限です。 気がつけば 無限です。 しかも日々新たにそのすばらしさは 別々のように新たに心に入り込んできます。  ここ幾週間の私は感性も衰えていて日々新たではないですよ。

これが 私たちの現実だと 思うのですが…。

でも、私にとって復活というのは 自然に受け入れられる何かの希望なんです。  意味の延長です。   

もしかしたら、 だからかなり簡単に いつ自分自身は消えて無くなってもいい。みんなが幸せなら という気持ちになれるのかも。  ととと

この気持ちですけど、ならば二重に大したものじゃないんですよ。

私は もし戦争状態にでもなって生物としての恐怖の極限におかれたら、たぶん人を殺してでも自分は逃げてしまうようなそんな弱い者でしかないです。  

でも 平和の中に今生きていて 健康をごく普通に知っているならば、私たちは、 この存在してる不思議を あるいは生かされてる大地をしっかり見つめ、  助けられないかもしれないけど少しでも助けたいという人間にしか出来ない状態の現実の世界に、目を向けるべきと思います。

ううむ。 存在(最後から考える?)を信じてるから 言えるのでしょうか?

また この感覚、 やそこからの知的理解は どこか甘い世界なのでしょうか? 

これから じっくりここでの他の論議も読んでいきわたしなりに検討もしていってみたいと思いますが  どうしても複雑な問題とは思えない者なのですが?

投稿日時 - 2008-10-09 19:31:07

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 感性がもし日々、新鮮であれたら、それだけでもなんらかの形での“人間の「復活」”は あたりまえのことと感じるようになる  あるいは 感じるようになりかかる  というものです。
 ★ でも、私にとって復活というのは 自然に受け入れられる何かの希望なんです。  意味の延長です。 
 ★ どうしても複雑な問題とは思えない者なのですが?
 ☆ なるほど。あたらしい――と言いますか 迂回路を通らない――ご回答であり ご見解なんですね。迂回生産を拒むかたちのように受け取りました。
 
 この《復活》論としての質問では わたしは 聖書を簡単に引いています。信仰は みづからを出さないとき 生きると考えている者ですが ここでは その方針を難なく破っています。表現力のおよばないゆえです。まだまだ応用の段階には 慣れていないので 出発点より前の原点にさかのぼろうという意図でもあります。 
 そこで どういうわけか ご回答に接して 次の聖書の箇所が思い浮かびました。まづ 掲げます。注目点は イエスも怒ったという点です。

 ▲ ~~(マタイ21:12~17)~~~~~~~
 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
 そして彼らに言われた、
  ――『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてあ
   る。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。
 そのとき宮の庭で、盲人や足なえが みもとにきたので、彼らをお癒しになった。
 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、イエスに言った、
  ――あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか。
 イエスは彼らに言われた、
  ――そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの
   口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないの
   か。
 それから、イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこで夜を過ごされた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ イエスが怒った / しかも 商売の台をくつがえすほどの暴力を振るった。これいかに? という主題です。
 《祈りの家》であるべきなのに 商売をおこない それを通じて 強盗の巣にしているという理由だと言います。

 ★ ううむ。 存在(最後から考える?)を信じてるから 言えるのでしょうか? // また この感覚、 やそこからの知的理解は どこか甘い世界なのでしょうか? 
 ☆ というふうに《甘い》かどうかが 問いかけられていたから この一節を記憶から蘇らせたのか よく分かりませんが 出て来ました。
 わたしは なんとも 理由づけも出来ず 言い訳の効かない愚行だと思うのですが――つまり 《目に見える神殿なり聖域を大事にしている》だけですし どう考えたものかと思うのですが―― この問題などは やはり あるいは たしかに 迂回思考では らちが開かないかも知れません。ということで ふと 思い浮かべたのかも分かりません。 いかがですか?

投稿日時 - 2008-10-09 22:34:32

ANo.58

> わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行ない、
> その業を成し遂げることである。
簡単にネットで検索して20~30件の記事を読んでみたのですが
う~ん、何というか、子供騙しにしか感じられない説教譚が多くて
正直、辟易してしまいました。
ネットで軽く調べる、なんて態度がいけないのでしょうが
この読みこなしはライフワークになってしまいますね。
(今の自分には正直そこまでの切実さがありません。)
あらためてbrageloneさんに期待します。

付け焼刃であれこれ言うのは怖いのですが
ここでは、霊的な次元での現状認識や時の認識について
弟子たちとイエスの違いが強調されていると思います。
違うことを念頭に置け、と。

霊の食べ物がイエス(の言葉)であり
イエスの食べ物が「イエスを遣わした方の御心を行ない
その業を成し遂げること」といった記述を多く見かけたものの
霊の食べ物がイエスであるというのが
(キリスト者ではない私には?)理解困難で
(一応、キリスト教幼稚園卒なんですが…)
信仰関係を築くことが霊の糧であるというようにしか
とりあえずは理解できません。

仮に霊的な次元での現状認識や時の認識が
肉的な次元のそれと違うのであれば
それは理解すべき類のものではなく、むしろ
肉である私たちの口には馴染まない類のものであり
それであってもただ信じて受け入れよと説いているように思われます。

その解釈がもし正しければ
復活や永遠というのは、(信仰という行為の)単なる結果であり
むしろ、それを目的にしようとするのは
間違いであるように感じられます。
(まさに真理が全てに於いて全てだと思います。)

自分の浅薄な仏教解釈をココに披露するのは恥ずかしいのですが
シッダルダという人(あえて人と書きます)は
●思い通りにならない世界、思い通りに出来ない自分を、いかに受け入れるか?
という(案外絞られた、具体的な)課題に紆余曲折試行錯誤し
ようやく受け入れらるようになった~それが「悟り」と呼ばれ
「いかに受け入れたか?」を説くことを乞われる「仏陀」になった
~とりあえずはそういうことだと思っています。
受け入れた、という行為の結果、超越的存在になったかどうか分かりませんが
もし成ったのだとしても、それはあくまで結果であり
「良くなりたい」「悟りたい」という欲求を入り口にするのは間違い
(良くなりましょう、悟りましょう、を呼び水にするのは間違い)
あくまで「受け入れる」という行為が入り口になっていると考えます。
(だからもし、シッダルダのみが解脱し
他の仏教者が解脱できないのだとしたら
シッダルダが人ではなかったか
もしくは、仏教者が最初からボタンの掛け違いをしている
としか思えません。)

さて、ここで(やや作為的な嫌いがあるかも知れませんが)
シッダルダが示したアプローチも
イエスが示したアプローチも
私には本質的に同種のものではないかと感じられます。
●霊(という肉の口に合いにくいもの)を受け入れられる限り、霊は死なない。
●信じないと、信じてもらえないと、霊は死ぬ。
というと、また美化している嫌いがありますか。

この世が受け入れなれなくて、あの世が受け入れると思ってるのか?
こっちの水が辛いからって、あっちの水は甘いと思うのか?
なあ、お前、天国ちゅうとこは、そんな甘いもんやおまへんで~(by フォーククルセイダーズ)
といった感じでしょうか>そんなふうに思っているのは私だけでしょうか?

宗教が、解釈学になってしまっていると思うのです。
(まるで小乗仏教のようです・・・生活者である私にはリアリティがない)
そうではなく、思い通りにならないことを受け入れていくことを
サポートなりアシストなりするのが、救済としての宗教の役割ではないでしょうか。
受け入れを拒む要素・・・現代社会では何なのでしょう?
いささかワイドショー的発想ですが
例えばそれを仮に資本主義とか新自由主義といったものだとします。
だとすれば宗教が果たさなければならないのは
カウンターカルチャーやカウンターコミュニティーとしての役割でしょう。
それが出来ていない。
まだNPOとかNGOとかの方が、マシに見える。
もう「宗教」と名乗る限りダメかもしれんです。
信用がない。

な~んて書くと、急に青臭く、型にはまっちゃった感じですけど
今はこの辺が私の限界です。

最後に。
> 八十年か 百年か あるいは さらにもう一期間か わたしは
> これこれを ここまでやった。そろそろ 意志の休日である。
ダメですよ。肉は最後まで使い切らないと。
それまでは、まだ休みはあげません。

投稿日時 - 2008-10-09 15:19:55

補足

 アウグスティヌスの見方をご紹介します。少しくさいかも知れません。(2008・10・25)

   *

 私の見た・・・光は 油が水の上にあり 天が地の上にあるような仕方で私の精神の上にあったのではなく 私を造ったがゆえに私の上にあり造られたがゆえに私はその下にあったのです。真理を知る者はこの光を知り この光を知る者は永遠を知る。それを知る者は愛です。

 おお 永遠の真理 真理なる愛 愛なる永遠よ! あなたこそはわが生命 あなたを求めて私は日夜あえぐ。はじめてあなたを知ったとき あなたは私を引きよせて 見るべきものがある だがそれを見うるだけの者にまだ私はなっていない ということをお示しになりました。そしてはげしい光線をあてて弱い私の視力をつきはなされたので 私は愛と恐れにわななきました。そしてあなたからはるかにへだたり 似ても似つかぬ境地にいる自分に気づきました。

 そのときはるかに高いところから

   私はおとなの食物だ。
   成長して私を食べられるようになれ。
   食べると言っても 肉体の食物のように
   おまえが私を自分のからだに変えるのではない。
   逆に おまえが私に変わるのだ。

というみ声を聞いたように思いました。
(アウグスティヌス:告白 7・10 山田晶訳)

投稿日時 - 2008-10-25 07:43:49

お礼

 CUE009さん ご回答をありがとうございます。

 まづ そのくだりを掲げます。
 ▲ (《ヨハネの筆によるよき知らせ》4:31~38)~~~~
 ・・・弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、
   ――わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある。
 と言われた。
  弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。
  イエスは言われた。
   ――わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を
    行ない、その業を成し遂げることである。
     あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言って
    いるではないか。
     わたしは言っておく。
     目を上げて畑を見るがよい。
     色づいて刈り入れを待っている。
     既に、刈り入れる人は報酬を受け、
     永遠の命に至る実を集めている。
     こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
     そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』というこ
    とわざのとおりになる。
     あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるため
    に、わたしはあなたがたを遣わした。
     他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっ
    ている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしも きっかけには なりましたでしょうか。
 ▲  他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。
 ☆ つまり ほかの人びとが労苦し いま わたしはその労苦の実りにあずかっています。

 補足要求も どうぞ。(余裕のこきっぱなし)。

投稿日時 - 2008-10-09 15:57:13

ANo.57

少しだけ追記します。
No.50の補足から

 いいですか。この時空間を超えているところの
 ★ 「無為なる現在」には、混在がありません。
 ☆ どころか 世俗諦における時間とも空間とも 何ら からんではいません。もっと厳密に言えば そこには 《概念の混在があるかないか これさえ 人間には わからない》のです。わかったら それは 勝義諦ではなく 世俗諦に属する概念です。

無為なる現在に、過去や未来が混在していないと人間に分かるはずがないと言っているようですが、無為は、絶対領域の相転換だと僕は定義していますので、混在は無いという想定です(絶対性、唯一性が貫かれている)。そして、相対領域の顕現たる有為の世界の裏(?)に張り付くようなイメージ(虚構)で、又は、アスペクト変換のようなイメージで、無為なる世界を想定しています。そういう世界観です。非ユークリッド幾何学、たとえばリーマン幾何学があるように、僕の絶対・相対/有為・無為の世界観は、様々な世界観の一つとして、別に強制はしませんが、気に入って使用しているだけです。できるだけ、疑問点にはお答えして、精緻化したいと思っています。

前提が違えば、答えも違います。「世俗諦における時間とも空間とも 何ら からんではいません。」とbrageloneさんが書いていますが、僕はそう考えていません。裏(?)であり、アスペクト変換であるというような関係として、勝義諦とは関係しているからこそ、たとえ話で擬似的に接近し得ると思います。しかし、これが高度な思考訓練を要するので、納得したと思うのは、なかなか困難ではあります。不二の法門の極地であり、沈黙・無記と示されて、体得する「超感覚」のようです。「ひらめき」という語が、一番近いのでしょう。言語化する前の一瞬の間に出現するから、過去化の前であり、無為なる現在に最も近い時ではないかと想像しています。ぼんやりとでもイメージできますでしょうか?表現力の至らなさゆえに、さらなる誤解を生みそうですが、非言語的な理解のイメージは、このように考えています。

投稿日時 - 2008-10-09 13:03:59

補足

 qsxdrfvgyhさん 追加修正のご回答をありがとうございます。

 おっしゃるとおりでした。二点とも そのとおりに修正いたします。

 経過を振り返ります。
 まづ CUE009さんの観想によって 超経験なる霊の領域を 経験世界の時間の観念によって測ってはならないとの里程標が得られました。
 ところが そのあと qsxdrfvgyhさん そして bananasand さんとのいくらかの――わたしにとっては――暗中模索のあとで qsxdrfvgyhさんから 《無為》の領域にこそ ほんとうの《現在》を想定すると聞いて わたしの視野が さらに 開けたのでした。
 有為の・経験世界の現在のことではなく 無為の・つまり霊としての《現在》というわけです。
 ここで 一気に 《必死で》 応答を書いたのですが そこで 見直しがなおざりになってしまったようです。

 ☆☆(誤)そこ(=《無為なる現在》)には 《概念の混在があるかないか これさえ 人間には わからない》
 ○(正) 無為なる現在には 経験世界で言う時間の概念があるかないか これさえ 人間には わからない。
 ☆ と修正します。
 ○ 無為なる領域は 《ある かつ ない》という《混在もしくは包摂》が 論理上は ありうるけれども それだと 日常の生活態度(つまり思想)としては なんとも 使い勝手が わからなくなる。
 ☆ と言っていたのでした。

 ★ そして、相対領域の顕現たる有為の世界の裏(?)に張り付くようなイメージ(虚構)で、又は、アスペクト変換のようなイメージで、無為なる世界を想定しています。
 ☆ この点につきましては もともと 霊なる超経験の領域が 経験世界を超えていて しかも 《超える》ことにおいて――特に 有神論にあっては―― 経験世界を《包む》と言っていたのでした。この《包む》もしくは《接点》が おっしゃるところの《相対領域の顕現たる有為の世界の裏(?)に張り付くようなイメージ(虚構)》のことです。

 従いまして
 ★ 「世俗諦における時間とも空間とも 何ら からんではいません。」とbrageloneさんが書いていますが、僕はそう考えていません。
 ☆  これも おっしゃるとおりです。《接している》という想定で もともと わたしも 捉えています。上に述べた《経過》の関係で 文章の見直しが効かなかったようです。
 言いかえると 《何ら からんではいない》という《超絶》の側面と しかもその超絶ゆえに 同時に 《包摂・接触・そして時に 強引に言えば 介入》としての《絡み》の側面とが 想定されます。《人間は 神を見ることができない》(超絶の側面)と 同時に 《神の背面を見ることが出来る》(接触の側面)とです。後者は やはり おっしゃるように
 ★ アスペクト変換であるというような関係として、勝義諦とは関係しているからこそ、たとえ話で ≫擬似的に接近し得る≪ と思います。
 ★ ≫体得する「超感覚」≪  のようです。≫「ひらめき」≪ という語が、一番近いのでしょう。
 ☆ といった表現の意味するところと 同じです。わかっていただけたでしょうか? この二点では 同じ見方であります。
 おわびし ご指摘を感謝して 訂正します。

 そう言えば 以前の《QNo.4279578 :ブッダ葬送を執り行なうときではないでしょうか =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4279578.html》でのqsxdrfvgyhさんとのやり取りでも すでに 相当のところまで行っていたのでしたね。《復活》論にまで たどり着いた恰好だったようです。
 《神をみつけた》とまで 言っておられました。それなのに わたしのほうは――おそらく その発見ゆえにこそ 直後の情況として いくらか 考えが揺らいでいらっしゃったのだろうと わたしが推し測っていてもよいのにもかかわらず ただし これは そおっとしておいて差し上げたほうがよいと思ってでもあるのですが―― ポイントも差し上げずに 質問を締めたのでした。
 このように 《リセット》させていただきます。

投稿日時 - 2008-10-09 15:10:01

ANo.56

では、水入りにしましょう。
人間の驚異的能力からの理想社会の話へ移れなくて残念でした。

確かに定義が変化していってます。 
最近の定義らしきものに合わせて、訂正しておきます

次行も入れておいてください。

ある任意の1秒の間にAさんが太陽光を反射しているリンゴを見ています。

 ★★(ANo.44)~~~~~~~~~
 1秒の間のAさんは、《いま》のリンゴを検知し、《いま》のリンゴを《現在》の完全な存在として認識しているとします。
 ・・・
 1秒の間のAさん自身が獲得する最終結果は、「《現在》、完全にリンゴが存在する。」です。

 《いま》のりんごを完全な存在にしているのは、《いま》のリンゴの実相たる変化を、《いま》のAさんの実相たる変化を使って、
 1秒の間のAさんが、《いま》のりんごを《現在》の完全な存在として認識しているということですね。

 《現在》を作っているのも、《いま》のリンゴを《現在》のリンゴとしているのも、完全に存在しているとすることも、
 1秒の間のAさんが《いま》のAさんの変化を既に使ってやっていますね。
 ・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《いま》には 1秒の間の という前提はつきません。
 《現在》はAさんが知っています。

投稿日時 - 2008-10-08 00:23:47

補足

 アウグスティヌスから 次の一節を見つけました。(2008・10・25)
 《言葉に言い表わし得ぬもの》《沈黙》そして《言語ゲーム》に関連すると思いました。

   *

 神は言語に言い表わされない。
 それ故 如何に相応しい語でも神には適合しない。それはただ 相応しいものを言おうとする意志の表現に過ぎない。

 しかのみならず 《言い表わされない( ineffabilis )》という述語そのものが既に一つの矛盾を含んでいる。《言い表わされない》ということによって既に或るものを言い表わすのであるから。

 しかしこの矛盾を弁証的に解くよりはむしろ沈黙を以って蔽わねばならない。

 そして神自らも 何等適切なものが彼について言い表わされないにも拘わらず しかも人間の言語の奉仕を許し 我々が人間の言語によって彼を讃えて喜ぶことを欲し給うた。それ故我々は彼を神( Deus )と呼ぶ。

 勿論 彼は神という語の音声によって真実に認識されるのではない。それにも拘わらず この神という音声を聞くとき 我々の言語を解する総てのものは 最も完全な 不滅の存在を想起する。・・・
(アウグスティヌス:神の国について 1・6 服部英次郎訳)

投稿日時 - 2008-10-25 07:50:00

お礼

 ★ 人間の驚異的能力からの理想社会の話へ移れなくて残念でした。

 ☆ ぜひ 移ってください。
 《いま・現在》に いろんな定義の仕方があると 共通に認識できれば ご見解の披露へと進むことができると思います。

 ★ 《現在》はAさんが知っています。
 ☆ この考え方でしたら 主観を大事にしたかたちですから 互いの見解を認め合って 話を進めるという恰好だと思います。

投稿日時 - 2008-10-08 00:56:27

ANo.55

オコリザルです。
論議の流れから少し思い浮かぶことがあったのですが、記憶を過去のみを表しその延長としての現在なり未来なりがあると考えるか、記憶そのものに「過去」「現在」「未来」の三様があると考えるかで違ってきます。
記憶を過去のみと捉える中での延長は間違いでしょう。
大霊界語録の中では、この世と現実は異質なものだよと指摘した感覚と、他の方が指摘した今と現在は異質なものだよとのご指摘はこのような記憶の流れについての一致した見解を表していると思います。

鬼神の冒険紀行の証言となりますが、過去は過去で大切にしながらもこの混乱のドグマから向けだす試行錯誤が復活なり蘇生なりとも表現しうるでしょう。
鬼神を持ち出したのは混乱の原因は誰も内包し得ないからです。
探しても絶対に思い当たるフシなんて出てきません。
この点は人間観察で錯乱しているな、との言動を発見することがありますが指摘すると自覚もなく軌道修正して痕跡を残さず忘却します。
元凶を探ると大霊界に行き着きますが、今日の思索で霊体を承認するならそこから幽体が離脱するのを放置するしかないとの考えに及びました。
霊魂に続いて幽霊、この言葉も相容れない概念をこじつけたものになります。

これは小言めいてますが仏教徒を代弁したお話ですが、イエスもまた予言の実現のあかつきには葬送を執り行うべきで、これもまたそろそろではないかと思います。
大霊界現象の発生を仏教徒に任せるのは良く分かります。
入滅した釈迦の墓場荒しを放置していますから。

投稿日時 - 2008-10-07 23:02:11

補足

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 前半は それほど深い論議を必要とするお話ではないように感じましたが 後半は この一回のお応えでは 呼応し切ったということにはならない内容があるように やはり 感じました。

 精神の三つの行為能力として 記憶と知解と意志があると考えているのですが そのうち 記憶は 覚える能力を中核とするというよりは 精神の秩序過程として はたらくその働きだと わたしは 捉えております。
 秩序とは 覚えることや覚えたものごとを整序するはたらきです。
 また秩序とは 順序のことでもあって おそらく ものごとを時系列において整序することであろうと考えます。時系列と言えば 過去・現在・未来です。
 いま思う結論を そのまま 述べますが――というより アウグスティヌスの請け売りですが―― 時間として記憶されているものごとは 過去としての現在 現在としての現在 そして 未来としての現在というふうに区分整理されているのではないでしょうか?
 問題意識・生活意識にあるのは つまり 生活現実であり現実であるのは 《現在としての現在》です。
 たとえば 狩猟・採集・漁労〔のみ〕の時代は 過去です。記憶にあるとするなら 過去としての現在です。たとえば いまあるエネルギとは別の何かがエネルギとなる時代は――単なる想像であるに過ぎないこととして―― 未来です。想像にのぼっているのなら 未来としての現在です。

 このような時間観に関連して言えることは 復活としてのたとえば《真理が すべてにおいて すべてとなる》という命題は どの時間域・どの時代であるかに関係なく あてはまるということです。そういう意味で あとは 文学的な表現として・つまり ただ雰囲気として 《永遠の現在》と言ってみたりするということだと思います。

 後半は 一筋縄では行きません。
 まづ 中段ですが ひょっとして 《霊》というとき――つまり ここでは その霊に関連して 《鬼神・大霊界・霊体・幽霊》などの語を持ち出すとき―― それは 《霊の世界 もしくは その世界における復活》のことを いま現在において 《先取り》しているのかな と思いました。憶測です。

 最終の段落では イエスについて こういうお話を述べます。つまり 将来すべきと 気持ちとしては 思っている未来社会においては キリストのキの字も出ないということ それが この望まれる未来社会の実現となるのだと考えます。言葉としても死んだとき キリスト・イエスの心は生きるという意味です。これは 自説であり 憶測です。

 ★ 入滅した釈迦の墓場荒しを放置していますから。
 ☆ 墓場から 骨や あるいは さも周りに立ちこめているとでも思っての霊気とやらでも 自分のものとして 得たい というようなところなのでしょうか? あるいは そうではなく むしろ 経文じたいを 《墓場》にたとえておられるのでしょうか? いまや現代において 仏教のお勉強は 墓場荒らしに過ぎないのだと。
 イエスの葬送は ほんとうに 生きるという現実の実現のためです。ブッダの葬送は もはやすでに ほんとうに引導をわたすためであるでしょうか? それとも イエスのように ほんとうに再生するためのものになるでしょうか?

投稿日時 - 2008-10-08 00:00:09

ANo.54

brageloneさんの補足から brageloneさんが解らないということが見えます。

 1.《いま》と《現在》とを使い分けているつもりはありません。

  そうでしょうね。話が終わってしまいました。

  これを峻別しないと後のご質問に答えることさえできないのです。
  説明ができないのですよ。

  《いま》と《現在》は全く違うものです。はっきりと見えています。

   リンゴの皮の表面から《いま》反射した光は、1mはなれたAさんの目に
   約3.3ns後に到達します。網膜に映し出され、視神経を通り、
   約20ms後に脳細胞に知覚されます。これでもまだAさんは知覚していません。
   その後、神経回路網で多数のニューロンを通して
   Aさんがリンゴの《現在》を知覚するまでには、約400msもの
   時間を使わなければならないと言われています。

   数値はともかくとして、《現在》は《いま》に遅れるのです。
    この《いま》と《現在》を峻別しているに過ぎません。
   《現在》を知覚しているときには《いま》はどこにもありません。

   そして、《いま》と《現在》とを使い分けないと、qsxdrfvgyhさんの言う最も豊かな
   そして、人間の驚異的能力としての《現在》を浮き彫りにすることができないのですよ。

   
   《いま》なんてものがそもそもあるのか・・という言うのは、一度峻別してからの
   話だと思うわけです。

投稿日時 - 2008-10-07 21:07:23

お礼

 bananasandさん qsxdrfvgyhさんと同じように 水入りにしますか。
 
 ひとつのヰ゛ジョンに もう一つの宇宙観が加わるといった意味のことを述べておられましたので そういうふうに 理論や見解は 人それぞれにあるという前提に立てたのではないでしょうか。
 これは こちら側の論理と都合ですので さらに突っ込んでもらって まったくかまわないのですが 復活論にたどりつくには いま少し 冷却期間をおくのもよいと思いました。

 そう言っておきながら 挑発的になるようなことで 今回のお応えをつづります。つまり 一点のみです。次のように bananasandさんも ご自分の定義にのっとって 《今》という言葉を使っておられる。そのことを指摘しておきます。引用は 脈絡を重んじないで 《今》という語を含む文だけを 拾い挙げただけのものです。

 ★★(ANo.44)~~~~~~~~~~~~~~~~
 Aさんは、リンゴを検知し、今の完全な存在としてリンゴを認識しているとします。
 ・・・
 AさんのAさん自身が獲得する最終結果は、「今、完全にリンゴが存在する。」です。

 りんごを完全な存在にしているのは、リンゴの実相たる変化を、Aさんの実相たる変化を使って、
 Aさんが、今の完全な存在としてリンゴを認識しているということですね。

 今を作っているのも、リンゴをリンゴとしているのも、完全に存在しているとすることも、
 AさんがAさんの変化を既に使ってやっていますね。
 ・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この時点の文章は 修正していかれるかも知れませんが 要は 自由に定義して 用いていけばよいのだと考えます。

 といったところですが いかがですか?

投稿日時 - 2008-10-07 23:09:42

ANo.53

> * 《現在》の定義として それは 《無為》つまり《霊》の世界のことだとお聞きしてから わたしの視野が開かれました。

《霊》の世界かどうかは、分かりませんが、「現在」と「無為」が深く関連していることが、理解していただけたようで、回答した甲斐がありました。ここの共通認識は、今後も重要だと思います。

>《非言語的な理解》という表現から、言い逃れを感じます。わたしだけですかね。何も分かっていないことを言い訳しているように聞こえます。(一部、若干修正しています)

ここは、ある意味、見抜かれていたようですね。説明を省略するために、そのように書いたわけです。なぜならば、沈黙・無記の勝義諦に至るたとえ話は、本一冊で済まないかもしれないからです。そして、ここでの問答の限界を超えますから、残念ながらここまでとしましょう。ほんの少しだけ、論点に接近したということで今回は退散します。では、また、今度の機会まで・・・

投稿日時 - 2008-10-07 20:10:30

お礼

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 ブッディスムについての説明を聞くと いつもと言っていいほど 肝心なところでは 言葉では説明できないという落ちに辿りつくように思えます。(ちょっと たけだけしくなっています)。一気に 言ってしまいました。

 その意味で 結論の部分にもたどり着きたかったですが 一たん 水入りとしましょう。また お会いしましょう。

投稿日時 - 2008-10-07 22:36:04

ANo.52

全く、がっかりです。必死に返答していただきましたが、論点がずれてます。本当に、僕たちは、「現在」に属しているのですか?「過去」に属し、「過去」こそ、僕たちの安住の地だと思いませんか?その身近な過去を現在と錯覚しながら、幅のある時間感覚で認識していると思いませんか?永遠の現在なんて、錯覚でしょう?だから、復活も永遠の現在も破綻していると思いませんか?過去に視点を移した時間論こそ、最も内容豊かな時間論になっています。「現在」って、薄っぺらだと思いますよ。ですから、復活の根拠も薄っぺらなのです。

『沈黙・無記なる勝義諦は、言語化してはいけないので、比喩は、読後破棄扱いです。』と書いたはずです。破棄せずに、比喩を引用してはいけません。無為を有為に転換すると、間違い表現になってしまいます。そこを理解するには、体得する以外にはないのです。非言語的な理解です。辞書の定義に束縛されていては、理解できないでしょう。今までの僕の回答を通読してみてください。論点は限定的かつ明晰です。

投稿日時 - 2008-10-07 16:53:26

補足

 qsxdrfvgyhさん お応えします。

 ★ 本当に、僕たちは、「現在」に属しているのですか?
 ☆ 言葉の力というものについて 少しは 驚かなければいけません。主観ごとに ものごと(概念)の意味内容が 違っていても 総じて 意志疎通が成り立っていきます。
 つまり わたしたちが属しているところを 世界なら世界と言う という結構(かまえ)なのです。出発点なのです。わたしたちが生きているときを 現在と言う ということです。そういう順序です。
 世界も社会も世の中も 現在も今もこの瞬間も劫(カルパ)も おおざっぱでも 通じます。その意味は いろんな定義を 自由に つくればいいというものです。

 ★ ・・・「過去」に属し、「過去」こそ、僕たちの安住の地だと思いませんか?その身近な過去を現在と錯覚しながら、幅のある時間感覚で認識していると思いませんか?
 ☆ そういう世界観を だれも 否定しようと思って議論しているのではないですよ。互いの定義を つき合わせているだけです。とりあえずは。交通整理と言った所以です。

 ★ 永遠の現在なんて、錯覚でしょう?
 ☆ これは 厳格に言えば 定義でさえありません。修辞学上の言い回しです。永遠は無為 現在は有為 これらをつなぎ合わせて おもしろがっているだけです。それでも 言葉のちからは あなどれないからでしょうか うまい具合いに いくばくか 伝えるものがあるのではないでしょうか?

 ★ だから、復活も永遠の現在も破綻していると思いませんか?
 ☆ いくら超経験=霊について 語っていると言っても あくまでわたしたち人間が 経験思考によって 言葉で考え表現しているだけです。そもそも 《破綻しうる》思想をあつかっているです。しかも ふたたびみたび 言葉の力がはたらくのでしょうか 霊の領域に あたかも 達することができたかに思うときがあるのです。むろん 主観ですよ。そうして この主観を 互いに 披露し合っているのです。何の根拠もないのに 意味内容が通じるときがあるのです。

 ★ 過去に視点を移した時間論こそ、最も内容豊かな時間論になっています。「現在」って、薄っぺらだと思いますよ。ですから、復活の根拠も薄っぺらなのです。
 ☆ とおっしゃるところを 復活論として 述べてください。定義が違っても その世界観を わたしたちは 共有することができると思いますよ。異同を 説明し合っていけば いいのです。

 ★ そこを理解するには、体得する以外にはないのです。非言語的な理解です。
 ☆ そうおっしゃらずに 体得したところを 言葉にして ご披露してください。《非言語的な理解》ということばを聞くと――ちょうどあなたが《永遠の現在》という言葉を聞くと ばかにされたように感じると言われたのと似ているかどうか 分かりませんが そして これは 一般論ですが―― 相撲取りが八百長を必死で否定するときのような言い逃れを感じます。わたしだけですかね。何も分かっていないことを言い訳しているように聞こえます。
 辛辣ですかね。

 * 《現在》の定義として それは 《無為》つまり《霊》の世界のことだとお聞きしてから わたしの視野が開かれました。

投稿日時 - 2008-10-07 19:22:50

ANo.51

>まったく分かりません。
 だとすると、このビジョンはもう一つの宇宙観が加わることになると思いますね。

初めにザッと解答して、後から解説します。
1.《現在を想起し得る》ゆえ 《現在を生きている》と思っているのではないですか?
  肯定されます。
2.とうぜん 現在に属している。と言いますか 現在を生きていると思っている時空間が 現在である。と どうして ならないですか?
  前段が肯定されます。後段は、区別して考えます。後述します
3.《残像》を捉えているから それは 現在ではないというのは 現在を 瞬間として扱ったからだけではないのですか?
  この問いは、問いとして成立しません。後述します。
4.現在を どうして いま持続している幅を持った時空間域として 捉えては いけないのですか?
  どちらの現在かによって答えが異なります。
5.あるいは 瞬間として扱う場合にも 《瞬時に過去になった》その過去をも 現在においてというかたちで 体験している(いた)のではないでしょうか? 
  どちらの現在かによって答えが異なります。
6.繰り返しですが 《現在を生きていると思いこんでいる》かどうかではなく 《いま生きている時空間を 現在と呼んでいるだけ》だと思うのですが そういう考え方は 退けられているのでしょうか?
  《いま生きている時空間を 現在と呼んでいるだけ》 ここが切り口になります。鍵穴です。
7.★《〈純粋変化を消費〉して残像化した世界》ということについてですが 《残像化》というのは 《一瞬前は 一瞬前だ》と言っているだけではないですか?
  否定されます。
8.一瞬にせよ二瞬にせよ そのへだたりを持って 過去となったと言うとすれば その過去の世界のことを そのつどの現在において 捉えている。その脳内作業を わざわざ 光速を持ち出して その光速じたいとしての《時空間宇宙の実相=つまり 純粋変化》とのかかわりで おこなったと分析して規定しているだけではないのですか?
  ここでは光速を一旦おいて下さい。理解の妨げになります。わざわざ光速を持ってくる必要はないのです。
9.すなわち 《純粋変化の消費》と言うというのは 単なる後づけなのではないですか?
  否定されます。


6.から切っていきます。
>6.繰り返しですが 《現在を生きていると思いこんでいる》かどうかではなく 《いま生きている時空間を 現在と呼んでいるだけ》だと思うのですが そういう考え方は 退けられているのでしょうか?
《いま生きている時空間を 現在と呼んでいるだけ》における、《いま》 と 《現在》 の違いを明確に峻別する必要があります。
《いま生きている時空間を 現在と呼んでいるだけ》には、 《いま生きている》 ことと、《現在と呼ぶこと》 がありますね。
《いま生きている》 状態というのは、《現在と呼ぶこと》 や 《現在》 を認識する以前から 《いま生きている》 状態ですね。
 この 《いま》 が知覚、記憶、認知される前の 《いま》 です。
 その 《いま》 の時空間を 《現在》 と呼ぶためには、どうしても 《いま》 を知覚しなければなりません。
 知覚、記憶、認知する過程において、どうしても、時間を必要としますから、《いま》 は 《現在》 ではなくなってしまいます。

 《現在と呼んでいるだけ》は、《いま生きている時空間》を既に知覚、記憶、認知し終えているので、
 この《現在》に《いま》はありません。

1.は知覚、認識後の話なので、肯定されます。
2.>とうぜん 現在に属している。と言いますか 現在を生きていると思っている時空間が 《現在》 である。
  ここまでは、知覚、認識後の話として肯定されます。
  6.の通り、現在を生きていると思っている時空間が《いま》ではありません。
3.《残像》を捉えているから それは 現在ではないというのは 現在を 瞬間として扱ったからだけではないのですか?
  《残像》というのは、知覚、記憶、認知のことですから、それは、《いま》ではありません。
  ここで、《いま》を 瞬間として扱ったからだけではありません。知覚、記憶、認知の過程を通しているからです。
4.現在を どうして いま持続している幅を持った時空間域として 捉えては いけないのですか?
  知覚、記憶、認知の過程を通した現在は、幅を持った時空間域であって、そう捉えざるを得ません。
  しかし、《いま》には、幅は一切ありません。純粋変化と表現しているところです。
  
  理解の手助けとして・・・あくまで理解の手助けですよ。
   映画のフィルムを想像してください。
   映画は、24コマ/秒で静止画を流すことで、動画にしてますね。

   動画にしているのは、フィルム側ではなくて、我々だと言うことです。
   動画なんてどこにも無いのです。我々が作っているのです。

   一枚一枚の静止画には幅は一切ありません。
   この一枚一枚をつなぎ合わせて幅を創造しているのは我々なのです。

5.あるいは 瞬間として扱う場合にも 《瞬時に過去になった》その過去をも 現在においてというかたちで 体験している(いた)のではないでしょうか? 
  知覚、記憶、認知の過程を通した>現在においてというかたちで<、その過去をも体験しています。
  瞬時に過去になる前の《いま》は含まれません。
7.★《〈純粋変化を消費〉して残像化した世界》ということについてですが 《残像化》というのは 《一瞬前は 一瞬前だ》と言っているだけではないですか?
  否定されます。《残像化》は知覚、記憶、認知の過程のことです。
  映画で言うと、スクリーンに映し出されている静止画の1コマ前の静止画の知覚、記憶、認知です。
8.一瞬にせよ二瞬にせよ そのへだたりを持って 過去となったと言うとすれば その過去の世界のことを そのつどの現在において 捉えている。その脳内作業を わざわざ 光速を持ち出して その光速じたいとしての《時空間宇宙の実相=つまり 純粋変化》とのかかわりで おこなったと分析して規定しているだけではないのですか?
  そのつど《現在》 において、捉えることができるのは、過去の世界知覚、記憶、認知の過程を完了していて記憶があるからであって、
  そこに《いま》はありません。失われています。フィルムの巻き戻しは御法度です。
9.すなわち 《純粋変化の消費》と言うというのは 単なる後づけなのではないですか?
  以上から、否定されます。

投稿日時 - 2008-10-07 12:15:14

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 おかげさまで 解きほぐしが進みました。わたしの解明具合いを述べます。直前の回答でのやり取りも参照してください。
 そのqsxdrfvgyhさんへのお応えが 総論とすれば ここでは 各論になります。断片的にさえなるかも知れません。

 1.《いま》と《現在》とを使い分けているつもりはありません。どちらも 《瞬間》を言うとすることができるし 《一定の時空域》を言うとも し得ます。
 2.一・二瞬前に《いま》であった時空間が 幅を持った現在時において その現在として 捉えられて 不都合は 何もありません。
 3.なんで このような 柔軟な用語法を採らないのですか?→(6-1)

 4.《フィルム》の比喩は 《理解の手助けとして・・・あくまで理解の手助けですよ》としても 適切ではありません。
 4-1.★《一枚一枚の静止画には幅は一切ありません》――☆ というふうに 時空間が 一枚一枚に分かれるという仮定が 不適切です。そもそも 分割できないでしょう。
 4-2.仮りに このように いわば不連続のものの連続であるとしても 
 ★ この一枚一枚をつなぎ合わせて幅を創造しているのは我々なのです。
 ☆ と どうして なるのか? つまり 《不連続のもの》の すでにわれわれより先に 《連続》であるのです。感知も認識も記憶も みな 連続性として 捉えているはづです。
 4-3.われわれが 時空間を《止めたり 速度を速めたり遅めたりする》ことができるでしょうか? ましてや 《創造している》とは どういうことなのでしょう?
 4-4.或る種の《論理操作》がありうるとだけ 言っているのではないですか? 
 4-5.動画は この現実の世界の過程に 少しでも近づくように 作っているものであって そこから 現実を説明するというのは 順序(秩序)が逆です。

 5.なぜ ★《フィルムの巻き戻しは御法度》なのですか? つまり 現実の時空間の推移でしたら 記憶の中で 巻き戻しも 自由です。《フィルム》を例に持ってくることの具合いのわるさです。

 6.細かいことですが ★《〈残像化〉は知覚、記憶、認知の過程のこと》であるなら 一瞬前の・残像化の始まりの時点は その終わりの時点から見て 過去ですが 《一瞬前は 一瞬前だ》ということを物語っています。その意味は 一瞬前の過去をも含めて 現在域だという見方も できるということです。
 6-1.その可能性を排除しようとしていませんか? おもには qsxdrfvgyhさんですが つまりこれは 《有為・世俗諦》としては ありうるが 《勝義諦・無為》から見ると あり得ないと言おうとしています。それは そうではなく 後者の《真理》から見れば 現在の《瞬間》説も 《流域》説も 絶対ではなく しかも 相対的な見方としてなら どちらも成り立つというふうに言わなければならないところです。

 7.★《 知覚、記憶、認知する過程において、どうしても、時間を必要としますから、〈いま〉 は 〈現在〉 ではなくなってしまいます》。――☆ この場合の 世界認識の方法を 問題にしなければなりません。
 7-1.《現在》も《いま》も 時空域です。《わたし》は この時空域に生きていて 《わたしがわたしである》です。そのわたしの《知覚、記憶、認知する過程》が そのまま 時間の流域です。
 7-2.すでに つねに リアル・タイムなのです。そのあと 分析するというのみです。
 7-3.わたしが 知覚するのであって 知覚が 知覚するのではなく 時間が 知覚するのでもなく 世界が 知覚するのでもありません。
 7-4.純粋変化が 論理操作をするのではなく もし それをするというのなら わたしがするのであり この純粋変化を わたしが 操作して初めて 知覚・認知・記憶するのでもありません。
 7-5.わたしがおこなう論理操作の中に ただ 純粋変化という概念が入っていて これをわたしは用いているというのみです。《純粋変化の〈消費〉》ではないでしょう。

 8.純粋変化は 光速移動体の気分としての《変化のみ》のことでしょうから ★《わざわざ光速を持ってくる必要はないのです》とは言えないのでは?

投稿日時 - 2008-10-07 18:50:29

ANo.50

「現在」という語は、日常の言語ゲームにおいて、瞬間ではなく、幅を持つという感覚は、全く正しいと言えます。たとえば、「現行憲法」下で生きているという時、半世紀以上の時間を引きずって表現しています。でも、この半世紀を現在と言っているわけではありません。現在と過去を混ぜた幅で表現しています。つまり、記述や表現にする時、常に過去を含んでしまうと思われます。有為の世界での用法として、この混在が全く正しいのです。

沈黙・無記なる勝義諦、無為の世界における「現在」は、有為の世界、日常の言語ゲームとは、異質な「現在」になってしまいます。無為の世界で通用するには、有為と決定的に違うのです。ここの違いに、まず気付かねばなりません。本当は、共通した語を使うべきではなかったのでしょう。しかし、適当な語がないので、やはり「現在」とします。無理に造語すれば、「無為なる現在」です。これは、無限の最終数を言うように実現不可能です。厳密なる意味では、有為の世界においては、現在の残像しか認識できないし、「過去化の世界」にしか生きていないと思います。そして、繰り返しますが、現在や未来に関する想起の幅はあるのです。だからこそ、現在を生きていると、日常の、有為の世界では、混在して認識できるとも言えます。

無為と有為の世界の違いが、分かっていないと混乱した思考になってしまいます。brageloneさんは、有為の世界だけでの概念で思考していませんか。「無為なる現在」には、混在がありません。ですから、この場合は、瞬間的だと思います。点です。ゼロです。比喩的に言えば、そのようなイメージです。ただし、沈黙・無記なる勝義諦は、言語化してはいけないので、比喩は、読後破棄扱いです。

投稿日時 - 2008-10-07 12:02:47

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。

 やっと 議論の噛み合わなさについて 原因が分かりました。取りあえず 二点です。
 一点は bananasand さんの場合とも同じようですが 《現在》のことです。その定義をどうするかです。
 二点は 《無為・勝義諦》と 《有為・世俗諦》との関係についてです。前者をどう定義するかです。

 ▲ (ヰキぺディア:法 (仏教)= http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8F%E6%95%99) )~~~
 ○ 《勝義諦(しょうぎたい)》とか真諦とかいわれるのは、「真理の立場からみた世界の真相」であり、これらを出世間法という。
 ○ 覆障諦(ふくしょうたい)とか俗諦(《世俗諦》)といわれる場合には、「いちおう世間の人々がみとめているから真理である」という意味で、世間法といわれる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《勝義諦》については わたしは 《真理》と同義と見ていました(*)ので 若干 違いがありますが 問題は それが《無為》と言いかえられるように 《超経験》だということです。《超経験から見た世界の真相》も 経験思考を超えていることでしょう。

 * → ▼ (岩波仏教辞典1989)~~~~~~
 《勝義》[paramaartha]: 最高の真実。原義は《最高の意義》の意。同義語として《真如・実相》などがある。・・・
 《世俗》は 常識的真実 《勝義》は 超世俗的な真実で無分別知の対象である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 そこで もしこの《勝義=無為》を《現在》と呼ぶとすれば それは とうぜん 無であり 空であり
 ★ ゼロです。
 ☆ けれども
 ★ 瞬間的だと思います。点です。
 ☆ は げんみつには まちがいです。《点》は 存在がなくても 位置がありますから。《瞬間》も《瞬間的》も 《無》ではありません。

 さらに言いかえれば 経験世界を超えているということは 時空間を超えていることであり その《無為なる現在》は 時間でも空間でもありません。ところが 《永遠の現在》の《現在》は 経験世界における時間概念であり おっしゃるように 《世俗諦》に属します。その意味は 相対的な内容であるしかなく さまざまに 定義して 用いればよいというものです。
 現在とは《瞬間》であるという定義も 自由です。《一定の生活意識とその現実が持続する時空域を言う》と定義しても 自由なのです。どちらも 互いに対等です。

 いいですか。この時空間を超えているところの
 ★ 「無為なる現在」には、混在がありません。
 ☆ どころか 世俗諦における時間とも空間とも 何ら からんではいません。もっと厳密に言えば そこには 《概念の混在があるかないか これさえ 人間には わからない》のです。わかったら それは 勝義諦ではなく 世俗諦に属する概念です。
 いいですか。それゆえ
 ○ 勝義諦は 語り得ぬもの。
 ☆ なのです。したがって
 ★ 無記
 ☆ は この場合 《勝義諦が あるとも ないとも 人間には 分からない》ことを意味するのです。決して
 ★ 言語化してはいけない
 ☆ のではありません。事実 《勝義諦・真諦・真如・実相》というように 言語化しているじゃないですか。

投稿日時 - 2008-10-07 15:16:34

お礼

 ○ 言語化しても それは そのもののことではなく そのものを代理する表現である。その限り 自由に用いる。
 ☆ のです。それゆえ ここからは 《真理》をめぐって (a)《指し示し》論と (b)《比喩・物語》論とが はなはだ覚束ない手段でありながらも 表現の手法として 考え出されました。
 いいですか。なおここには 重大な危険が潜みます。
 ★ 言語化してはいけない
 ☆ と言うとき わたしたちは その対象を 言わば《分かった》として 精神の内に取り込んだことになります。《語り得ぬ》のではなく その中身を知った者に言わせれば という恰好です。それを《いや 語ることも ゆるされる》という場合も 同じです。いわば《勝義諦》なるものを 自分が所有したと宣言してしまっています。
 いいですか。《あるとも ないとも 人間には 分からず 語り得ぬもの》を どうして 所有したり 精神の所蔵としたりすることが出来るのでしょう?
 すべては 言語ゲームだったのではないですか。そこでは 《無為なる現在》は 仮りの代理としての表現として用いられて 代理であるゆえに 自由に用いて 議論してよいとなります。ゲームにおいて 合理性があって推論として妥当であるものが 讃えられます。しかも それも 相対的なものです。さらに妥当性に富んだ言説が 出て来ます。

 もし ここで 人間であるゴータマ・ブッダが この勝義諦に立って=つまり世界の真相を見る空観に立って 世界のあらゆる縁起共生の関係を捉えていたとすれば そのときには こうなります。
 (あ)ブッダは 勝義諦=無為=真如=超経験の領域の住人であるとするか      
 (い)人間は 経験存在であるが けっきょくのところ 誰でも 超経験の領域に通じることが出来るとするか  
 (う)ブッダのみが 特殊に 《真如を体現した人間であった》と見るか    
 (え)ブッダは 錯乱していた と見るかです。
 ☆ この(え)や(あ)の場合の延長に 次の見方も成り立つかも知れません。
 (お)ブッダは 《指し示す》理論(a)ではなく 《比喩・物語による説明》理論(b)を 方便として用いたと解釈する場合です。――むろん この(お)は 聖書の立ち場ですね。(イエスは特殊です)。

 ちょうど 趣旨の同じ議論が 次のご回答にも続きます。

投稿日時 - 2008-10-07 16:02:37

ANo.49

>せっかく 張り切って 解釈しているのに そんな言い方をされては 気持ちが醒めてしまいます。

そうなのですか?
逆に、私は、私に適切な表現力が無いことを、本筋でないことでつこっまれているように感じています。
brageloneさんの方が表現力、読解力、理解力は格段に上です。おそらく読書量もとてもかなわないでしょう。
物理的な話は別として、このあたりの話は、既に承知されているはずではありませんか?

「またぁ、・・・解っているくせに・・・」というのが心象です。半分はそうでしょう?

私も自分に錯誤があるかもしれないまでも、ビジョンが無いものや訳が解らないものを言葉ゲームで
紡いでいるのではありません。

>☆ この《純粋変化を消費する》というのは どういうことか 分かる人は いるでしょうか? 

>これが 《時空間宇宙》だったのですよ。
それは、そうです。《純粋変化を消費する》と得られるのは、日常側の時空間宇宙であり、
我々が認識しているいわゆる時空間宇宙そのものです。

では、仕切直しで、失礼してqsxdrfvgyhさんのお言葉を勝手に拝借します。
>瞬時に過去になり、残像化した世界しか体験していない
>「現在」を生きていると思い込んでいますが、決して「現在」には属していない
>現在も未来も想起し得る能力を人類は持っている

ここで、世界 と 残像化した世界 としますが、 残像化した世界が、 上述の日常側の時空間宇宙であり、
我々が認識しているいわゆる時空間宇宙そのものです。

世界が 時空間宇宙の実相 です。 そして、我々は、日常側の時空間宇宙しか体験していない。

それが故に、>「現在」を生きていると思い込んでいますが、決して「現在」には属していない 訳です。

このまさに「残像化」をやっているのは、我々自身ですよね。
我々も当然に 世界 の一部ですから、我々であるところの世界の一部が、「残像化」をやっていることになりますね。
世界というのは、純粋変化であるので、「残像化」をやってのけている過程で、その純粋変化を
使っているということになります。これを 《純粋変化を消費する》と表現しています。

《純粋変化を消費》して残像化した世界にいてもなお、
>現在も未来も想起し得る能力を人類は持っている
ことを私は驚異的能力だと表現しています。

投稿日時 - 2008-10-07 00:13:22

補足

 bananasandさん そうなんですか。
 ★ ビジョンが無いものや訳が解らないものを言葉ゲームで / 紡いでいるのではありません。
 ☆ つまり わたしだけが 《時空間宇宙》論を知らないということのようなのですか。それは qsxdrfvgyhさんに 次のように指摘されたことと 同じ内容でしょうか?
 ◆(ANo.31)現代の時間論とかなりずれているようです。

 ☆ まったく分かりません。復活論にとっては 過程であると思って 部分的に分かるところを頼りに 先へ進めるかたちを取って来ました。途中で 全く分からなくなったところで その旨をお伝えしました。少し解釈が出来かけて来た。・・・そういう経過です。

 時空間宇宙についての一般的な常識を知らない者が 質問します。できますれば お答えをいただきたく思います。次の議論にしぼります。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>瞬時に過去になり、残像化した世界しか体験していない
>「現在」を生きていると思い込んでいますが、決して「現在」には属していない 
>現在も未来も想起し得る能力を人類は持っている
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 1.《現在を想起し得る》ゆえ 《現在を生きている》と思っているのではないですか? 
 2.とうぜん 現在に属している。と言いますか 現在を生きていると思っている時空間が 現在である。と どうして ならないですか?
 3.《残像》を捉えているから それは 現在ではないというのは 現在を 瞬間として扱ったからだけではないのですか?
 4.現在を どうして いま持続している幅を持った時空間域として 捉えては いけないのですか?
 5.あるいは 瞬間として扱う場合にも 《瞬時に過去になった》その過去をも 現在においてというかたちで 体験している(いた)のではないでしょうか? 
 6.繰り返しですが 《現在を生きていると思いこんでいる》かどうかではなく 《いま生きている時空間を 現在と呼んでいるだけ》だと思うのですが そういう考え方は 退けられているのでしょうか?
 7.★《〈純粋変化を消費〉して残像化した世界》ということについてですが 《残像化》というのは 《一瞬前は 一瞬前だ》と言っているだけではないですか?
 8.一瞬にせよ二瞬にせよ そのへだたりを持って 過去となったと言うとすれば その過去の世界のことを そのつどの現在において 捉えている。その脳内作業を わざわざ 光速を持ち出して その光速じたいとしての《時空間宇宙の実相=つまり 純粋変化》とのかかわりで おこなったと分析して規定しているだけではないのですか?
 9.すなわち 《純粋変化の消費》と言うというのは 単なる後づけなのではないですか?
 10.でも それが 復活論のために必要だということでしたら ぜひ進めていただきたいと思います。そのためにも (1)から(8)までの疑問について ぜひ納得させてくださるようお願いいたしたいと思います。
 仕切りなおしまして どうぞよろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2008-10-07 04:08:17

ANo.48

コミュニケーションから社会性までは進めていませんよ。

>★ AさんがAさん自身を認識して、Aさんが確実な存在であると認識するときも、不完全性に不完全性を重ねた / 結果だということですね。
>☆ この文については 質問が飛びます。
>1.自己の存在の認識は 主観の問題です。

 そんな話をしていません。
 Aさんが単純に「我思うが故に我あり」と言っていることは、

 純粋変化であるAさんが、自らの純粋変化を消費して得られた結果であるいっているのであって、
 これが不完全性に不完全性を重ねるということです。

 そうです。純粋変化を消費している過程は、論理思考上の手続きのようなことです。
 人間独特のアーキテクチャです。

 ANo.47 qsxdrfvgyh さんの 最終段落の話をしていて、
  >現在も未来も想起し得る能力を人類は持っているのも事実 からの飛翔からさらに社会性へ広げようとしています。

投稿日時 - 2008-10-06 21:38:25

お礼

 せっかく 張り切って 解釈しているのに そんな言い方をされては 気持ちが醒めてしまいます。
 考えてみてください。簡単に理解できることなのでしょうか?
 簡単に理解できるよというのでしたら もうわたしは 降ります。
 無理です。

 もう一点。ここの解釈は合っているという場合には そのように きちんとおしえてください。一つひとつ こなして行かないと 理解は無理です。
 ★ 純粋変化であるAさんが、自らの純粋変化を消費して得られた結果
 ☆ この《純粋変化を消費する》というのは どういうことか 分かる人は いるでしょうか? これが 《時空間宇宙》だったのですよ。

投稿日時 - 2008-10-06 22:37:40

ANo.47

 ○ 仏性
 ☆ は この《勝義諦=無為=真理=絶対》のことですか?とお訊きしたいと思います。

仏性は、《勝義諦=無為=真理=絶対》の前3つではありません。可能性であり、未来にも通じる面があり、その点で「絶対」にだけは関連しそうです。
 
 ★ 勝義諦が「指し示される」という点は、全く同意見です。
 ☆ でしたら もはや われわれの間の違いは (a)《勝義諦=無為》を それについては沈黙すべきなのだが 沈黙すべきことを分からせるために 沈黙せずに 言葉を使って 指し示すことを行なうか
 それとも (b) 《真理=神=霊》について 言葉で 虚構ないし物語のかたちにして 説明表現するか これだけだと思います。
 《指し示す》とほとんど同じ行為なのです。的確には 《代理表現》とわたしは呼んでいます。

指し示しは非言語なのです。(a)の「言葉を使って」指し示すものではありませんし、(b)言葉で 虚構ないし物語のかたちにして 説明表現するものでもありません。どちらも有為の世界の手法であり、沈黙・無記なる勝義諦の「沈黙・無記」を理解していないようですね。残念です。

 ★ イメージ化するとたとえ話や虚構になるでしょう。
 ☆ というよりも (b)のように あくまで《言葉を用いて説明する》という手段を採った場合 その時点で すべては 表現の問題になっています。なりきっています。全体が 仮構・虚構・おとぎ話です。

そのとおりです。たとえ話や虚構は、理解を助けるけれども、究極の理解においては、これらを捨て去り、超えねばなりません。「沈黙・無記」に至る境地であり、無為の世界は言語ゲームを超えて体得した境地なのです。非言語経験なのです。そして、信仰は、勝義諦とは関係ありません。

勝義諦も現在も、認識しようとした瞬間に、有為の世界(世俗諦)、過去に転換されてしまい、決して言語化したり、記述できません。そこのところが理解できれば、永遠の現在も、全く認識できず、瞬時に過去になり、残像化した世界しか体験していないことに気付くはずです。つまり、「現在」を生きていると思い込んでいますが、決して「現在」には属していない・有為の世界(過去)に主に属していると分かると思います。ただし、現在も未来も想起し得る能力を人類は持っているのも事実なのですよ。この幅を理解できた人は、覚者の初心者であると思います。

投稿日時 - 2008-10-06 19:33:52

お礼

 qsxdrfvgyhさん 概念についての定義内容が 互いに 錯綜しているようです。また わたしの記述について 見落としておられるところがあります。

 次の二点です。
 ☆☆(No.33補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~~
 (a)《無記》とし《沈黙》し 《語ってはいけない》と捉える立ち場と (b)《沈黙》すべきであることを 沈黙せずに言葉を用いて指し示すとする立ち場と (c)《無記》ゆえに 《たとえ話》によって あるいはまた《偶像》をとおして おろかにも あたかも言葉を尽くして 指し示そうとする立ち場とです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★★(ANo.36) 勝義諦が「指し示される」という点は、全く同意見です。以前にもそのように僕も書きました。
 ☆ ゆえに 上の(a)(b)をまとめて ここで(a)とし (c)を(b)としたのですよ。

 ○ 永遠の現在
 ☆ は 対照的な二つの概念を合わせた表現の妙であるに過ぎません。しかも なかなか その内容が伝わる言い方であるようです。
 それから 現在というのは すでに書いたように 時間の幅を持っています。ブッディスムが生まれたときから 今までは その問題意識が つづいていますから 現在時が それだけの幅を持って あります。形骸化したとすれば 過去になっていると見ます。
 現行憲法が発効してからは その憲法という問題意識にかんして その時から 現在が続いています。戦前までは 46年憲法にとっては 過去です。仮りに さらに新しい憲法がつくられるとすれば その時は 未来です。その憲法が すでに問題意識を持って 作成され始めたなら 将来であると同時に すでに 現在でもあると言えるような状態だと考えます。
 問題意識 あるいは 生活意識 あるいは 生活現実 つまり要するに 現実であるとき 現在です。一点の瞬間とだけ捉える必要はないと思います。

投稿日時 - 2008-10-06 22:25:18

ANo.46

ここらで少々箸休めはいかがでしょう。

この数年、私の仕事においては「消費行動の男女差や世代差」が
同僚・同業者間における大きなテーマになっていました。

消費行動の男女差について
私が得た知見を簡単にまとめます。
●多くの男性は目的を消費する
●多くの女性は行動を消費する
定性調査ベースの知見ですので、統計的には不十分ですが
経験的には7割ぐらいの確率で当たっている感じがします。

●多くの男性は目的を消費する
私は「結果志向の目的消費」と呼びます。
要するに「目的買い」です。
何を買うか、獲得目標をきちんと定めてから消費行動に入ります。
●多くの女性は行動を消費する
私は「過程志向の行動消費」と呼びます。
彼女たちにとては「買い物に行くこと」自体が目的で
何を買うか?は「言い訳」のようなものです。
「男の人って、真っ直ぐ買って、真っ直ぐ帰るのよね」と
不思議がっていた女性の発言が印象的でした。

とある同業者(厳密には同業ではありませんが)は
以下のようにまとめます。
********************************
無理を承知で態度・行動面での性差をまとめてしまうと
男は課題志向的・結果志向的だが
女性は過程志向的な傾向が強いと言えよう。
恋愛や結婚生活、また買い物行動において、
男は狩りを好み、女は巣作りを好む。
現代、自殺をするのは圧倒的に男性が多いのだが、
男は、毎日の生活での小さな喜びや苦労にあまり意味を見いだせず、
結局、人生に成功したのか失敗したのかといった発想をしがちだ。
そうした男性が、自殺によって事態の解決を図ろうとすることが多いから
片寄ってしまうのだろう。
http://www.tama.ac.jp/blog/relay/doc.php?p=133
********************************

私がインタビューした中では
「生きてるだけで丸儲けじゃないですか」と言う女性が多かったことと
「(専業)主婦は(つきあいが狭いから)小さな幸せを寄せ集めることが重要なのに
 旦那は分かってくれない、些細なことだとかツマラないとか言う」と
いった不満を持つ子育て主婦が多かったのが印象的でした。

このQ&Aサイトへの投稿は匿名ですから
ユーザーのデモグラフィックが分かりませんが
哲学カテゴリーの住人のほとんどは男性ではないかと思います。
よく「形而上学的な普遍性」みたいなことが求められますが
女性から見たら「そんなの男性特有の思い込みだ」などと言われるのではないかと
最近よく思うのです。

少し元に話を戻すと
●男性は存在理由志向
●女性は存在志向
ではないかと、そんな仮説をもっています。
蛇足ですが
男性は来世を気にするが、女性は前世を気にする、といった
眉唾な話があります。
若い女性に宝飾品などを売る場合「あなたの前世は高貴なお姫さま」
なんて占いをサービスすると売れるのだとか…
男性にとっては「今」は常に出発点で
女性にとっては「今」は常に終着点なのかも知れませんね。

> するってぇと何かい? 一切がどうでもよいことが復活かい?
それは男の理屈だと思います、多分(笑

今回の回答は軽くご笑読頂ければ幸いです。

投稿日時 - 2008-10-06 18:03:05

補足

 この場を借りて soliloquy です。

 bananasand さんや qsxdrfvgyh さんには わるいですが わたしの知る範囲で捉えて言うならば その文章というのは 永井均が論理をふりかざす手法を 自分のものにした結果が 現われているのではないでしょうか。
 1.論理の整合性は 歓迎ですが 別様にも 整合的な理論は ありうるということを ないがしろにする傾きが ちらっと見られます。互いに 比較対照するという視点が 足りません。
 2.一応 整合的な論理であるなら それは 人間ないし社会の総合的な理論になると思っているきらいがあります。論理整合性から ただちに 理論が生まれるわけではありません。
 
 独我論(唯我論)が 問題になっていることを 最近知って 永井均を 数冊読んでいますが 前提としての《わたしがわたしである》については ふつうの理論を構成しています。そのあとが なんとも 捉え難い。
 前提として確認した《わたし》を あとは もう 人びとよ かまわないでくれ そおっとしておいてくれ という防御柵を張り巡らせているように思います。
 若き人よ こころを開きたまえかし。
 

 この場をお借りしました。
 これから お二人のご回答にご返答をいたします。

投稿日時 - 2008-10-07 14:01:02

お礼

 CUE009さん 箸休めをありがとうございます。

 唱和しても あまりおもしろくないので 突っこみを入れることだけを書きます。

 ★ 哲学カテゴリーの住人のほとんどは男性ではないかと思います。
 ☆ いえいえ わたしの知っている人だけでも a-さん  k-さん  l- さん m-さんの四人 女性もいらっしゃいますよ。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 少し元に話を戻すと
 ●男性は存在理由志向
 ●女性は存在志向
 ではないかと、そんな仮説をもっています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは なんとも 見当がつかないですね。男尊女卑だった昔には 女性が《存在理由志向》だと 存在理由志向の男性について行ったということかも知れないですね。でも 従ってでも そうしたとすれば どうなんでしょう? ただし 自由である現代において 存在理由志向の女性というのは あまり聞きませんね。やはり 性差は ありますかね。
 たしか韓国では 《春香伝》という作品が書かれるまでに 貞節で 一本気をつらぬいたという実在の女性(春香)を伝えていたと思います。
 《トリスタンとイゾルデ》や《アベラールとエロイーズ》などの恋愛ものは 不倫や坊主の恋ですからね。男女の愛としての一本気な存在理由志向ですけれどね。
 日本人は どうなんですかねぇ。

 おもしろいお話をありがとう。(ややっ 隠し味で ご回答を寄せておられるわけですかぁ。つまり 男と女の二人ともが 承諾しうる存在理由論であれば 存在そのものを生かすものになるのだと。あやぶかった。もう少しで 書き上がりのクリックを押すところだった。油断も隙もあったものじゃない)。

投稿日時 - 2008-10-06 21:29:16

ANo.45

一人で突っ走ってしまった方が良さそうなので・・・社会性は抜きにして、結論めいたことまで記載してしまいます。

純粋な変化を持ち出しているのは、日常性と社会性 それと 結局、生と死をどう把握するかに関わるからです。

日常性や社会性は、リンゴが確実に存在していなければならないことがベースであって、
社会、経済、教育、法律、政治・・・等々の諸事項をあくまでそのベースを発展させる形で
復活や理想社会を形成するという模索なら、そのベースから見た霊を思考します。

霊はそのベースには無いとするからこそ、それが帰因する「時空間宇宙」の不完全性に
こだわっています。

AさんがAさん自身を認識して、Aさんが確実な存在であると認識するときも、不完全性に不完全性を重ねた
結果だということですね。

で、飛翔といっているのは、方向性を見出してそこへ飛ぶと言うことです。
我々が時空間宇宙から遊離した存在であることが、その可能性を秘めていると思っている訳です。
この驚異的能力の先にあるものです。
私なりの結論は、不完全性に不完全性を重ねることでそこから遊離した存在を作り上げているのですから、
意思をもってそれを還元することによって、<わたし>なるものの消失とすることです。そうです、完全な消失は不可能です。
しかし、ぎりぎり、わたしの 存在 非存在 がそこに出現するわけで、そこではじめて、客体だった時空間宇宙と同相に辿り着きます。

投稿日時 - 2008-10-06 17:28:15

補足

 bananasandさん えらく論理を走らせていらっしゃるのですね。まちがっているかも知れませんが 解釈してみました。

 ★ 純粋な変化を持ち出しているのは、日常性と社会性 それと 結局、生と死をどう把握するかに関わるからです。
 ☆ けっきょく 何ごとについても 究極のかたちを模索するということなのでしょうか。
 ★ (α)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 日常性や社会性は、リンゴが確実に存在していなければならないことがベースであって、
社会、経済、教育、法律、政治・・・等々の諸事項をあくまでそのベースを発展させる形で
復活や理想社会を形成するという模索なら、そのベースから見た霊を思考します。

霊はそのベースには無いとするからこそ、それが帰因する「時空間宇宙」の不完全性に / こだわっています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうも ここが 結論にかかわると思われるのですが 保留です。
 ★ AさんがAさん自身を認識して、Aさんが確実な存在であると認識するときも、不完全性に不完全性を重ねた / 結果だということですね。
 ☆ この文については 質問が飛びます。
 1.自己の存在の認識は 主観の問題です。
 2.そして そのあやふやな主観どうしが 言葉をとおして 意志疎通を図るならば そこで 間(かん)主観性が 成り立ち 互いの存在を認め合ったということになります。それは ですから 《見なし》です。
 3.言葉によるコミュニケーションは それだけに 重要です。何も根拠などないのに 人間どうしとして 相互の承認が 成り立つというかたちになります。
 4.ところが 
 ★ 不完全性に不完全性を重ねた結果
 ☆ という見方を提出されています。わたしの言葉で こうなりますが 合っていますか? つまり あなたとわたしが コミュニケーションをするとき あなたの《純粋変化》(=光速度において飛ぶ時空間宇宙)とわたしの《純粋変化》を掛け合わせるようにして 互いの存在を承認し合う。つまり そういう論理思考上の手続きのようなことを おこなって 存在を確定するのだと。
 5.ただし それは 単なる論理操作ではなく
 ★ で、飛翔といっているのは、方向性を見出してそこへ飛ぶと言うことです。
 ☆ ともおっしゃる。
 6.でも 
 ★ 我々が時空間宇宙から遊離した存在であることが、その可能性を秘めていると思っている訳です。
 ☆ というのであれば つまりすでに《遊離し》ているのであれば 《飛翔》の必要はなく ただ 論理操作だけで済ませるようにも 思われます。そして 次も 結論にかかわるところですが むつかしい。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この驚異的能力の先にあるものです。
私なりの結論は、不完全性に不完全性を重ねることでそこから遊離した存在を作り上げているのですから、
意思をもってそれを還元することによって、<わたし>なるものの消失とすることです。そうです、完全な消失は不可能です。
しかし、ぎりぎり、わたしの 存在 非存在 がそこに出現するわけで、そこではじめて、客体だった時空間宇宙と同相に辿り着きます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ 分かりませんが 解釈します。ひょっとして 光速を重視していて あたかも この光速移動体は 超経験の霊と経験世界との接点ないし接線ないし接触面であるというふうなのでしょうか? この《純粋変化》を 論理上(?)頼りにして 人間も この霊との接触の場に行き着くのだという説でしょうか?

 保留した(α)の中で たとえば
 ★ 復活や理想社会を形成するという模索なら、そのベースから見た霊を思考します。
 ☆ これは 純粋変化を交錯させるようにして コミュニケーションの場で 互いの存在を確認し合ったという《ベース》から見て 霊の世界を《志向》します ということでしょうか。
 とりあえず ここまでを 報告します。

投稿日時 - 2008-10-06 20:59:39

ANo.44

>この二つの側面を まとめて 捉えている人間がいる。これで よくないですか?

 これでは不足していると思われます。

 例をあげます。

 ある任意の1秒の間にAさんが太陽光を反射しているリンゴを見ています。

 Aさんは、リンゴを検知し、今の完全な存在としてリンゴを認識しているとします。

 リンゴは、素粒子、電子等が動き回る、太陽光の吸収しきれない光を反射するという変化です。
 Aさんの方も素粒子、電子等が動き回っていている変化です。

 AさんのAさん自身が獲得する最終結果は、「今、完全にリンゴが存在する。」です。

 りんごを完全な存在にしているのは、リンゴの実相たる変化を、Aさんの実相たる変化を使って、
 Aさんが、今の完全な存在としてリンゴを認識しているということですね。

 今を作っているのも、リンゴをリンゴとしているのも、完全に存在しているとすることも、
 AさんがAさんの変化を既に使ってやっていますね。

 AさんがAさんの変化を使うというのは、「時空間宇宙」の実相を使っていると言うことです。
 その時点で・・いうなれば、感覚的表現ですが「時空間宇宙」真の今は既に消費されているのです。
 これを消費した時点で、真の今は(この今は、ちょっとニュアンスがずれるかもしれません)もう
 無いのです。

 Aさんは、何をやっているのでしょう。Aさんは、記憶にリンゴのクオリアを格納して
 常に呼び出しているといういこともやっていて、これではじめて、「今、完全にリンゴが存在する。」
 となります。

 これは、変な話、リンゴから見れば、Aさんの非常に独特で個性的作業ですし、
 この時空間宇宙の変化を消費している以上、Aさんの「今、完全にリンゴが存在する。」は、時空間宇宙から遊離
 しています。

 以上のことは、どうということはないのですが、その完全に存在するとする認識が、
 リンゴの不完全性とAさんの不完全性から紡ぎ出されていて、非存在=霊に帰因してると見えるところ、そして、
 日常と社会性への飛翔がこのご質問の難しさだと思っているわけです。

投稿日時 - 2008-10-06 14:55:46

補足

 bananasandさん ご説明をありがとうございます。

 そうですね。精確な認識を行なおうとしている とまでは  分かったのですが その中身が どういうことか まだ はっきりしません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 以上のことは、どうということはないのですが、その完全に存在するとする認識が、
 リンゴの不完全性とAさんの不完全性から紡ぎ出されていて、非存在=霊に帰因してると見えるところ、そして、
 日常と社会性への飛翔がこのご質問の難しさだと思っているわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが 結語ですから 取り上げますが。
 (1) ★ 日常と社会性への飛翔
 ☆ とは どういうことか? いま・ここにいて 生活していることが 日常であり 一人でいるのでない限りで 社会性として すでに あると考えられるのですが いったい どういう厳密さを ねらっているのでしょうか? 《飛翔》という捉え方についてです。
 (2) ★ 非存在=霊に帰因してると見えるところ
 ☆ 《非存在=霊》は 初めの想定で 現われるもので 《超経験》であるからには それとして 《経験世界》と 関係しているという想定が 帰結されています。何かが この霊に《帰因している》というのは あくまで 虚構の中に捉えられる仮りの出来事です。そこから 問題が起きるというよりも はじめの想定から そういう出来事が 帰結しているという順序だと考えます。
 (3) ★ その完全に存在するとする認識が、/ リンゴの不完全性とAさんの不完全性から紡ぎ出されていて
 ☆ たぶん 認識じたいは 視認なら視認によって また 生物学の知識をとおして その果物の特徴が分かることによって すでに その《りんごは りんごであり それとして そこに ある》ことは 確定します。そのあと 《完全な認識》もしくは《完全に存在するとする認識》が どうして 必要なのか。どういう性格の認識として実現するのか。なんとも まだ 分かりません。
 (4) ★ 不完全性
 ☆ を なぜ そんなに 問題にするのかも 分かりません。有限で可変的で相対的な存在である人間にとって その存在とそのあり方が 完全ではないことは そもそもの初めからの認識事項です。
 でも 視認することができます。人間以外の生物また自然・現象は 人間の思考において 認識されます。人間にちなんで 存在ということも 言葉としては 使われます。それだけでは 足りないのですか? どうしてですか? それで 何も 不都合はないと思われますが?
 視認は 光速という変化をつかうというよりも 光の運動をとおしてであると思うのですが? 時空間宇宙という純粋変化を持ち出してくる意味が 分かりません。

 というような情況です。

投稿日時 - 2008-10-06 15:45:59

ANo.43

>時間が流れると感じるような変化もある。両方がある でいいのではないでしょうか。

 ズレは、まさにここですね。

 時間が流れると感じるのは我々側ですね。変化には時間はありません。

 両方がある・・・・変化に時間はなく変化だけがある。人間は時間が流れると感じる。

 これらは 全く別のものです。

 変化を感じるには、人間が変化を使わないとそれができないのです。
 つまり、変化を感じるには、それ自体に時間を必要とする、時間を消費してしまっているのです。
 変化を感じるには、変化を使っているのです。

 我々は、時空宇宙の不完全性を、我々が時空間宇宙の不完全性を使って、
 完全なものに仕立て上げています。

 だからこそ、我々は、時空間宇宙から遊離しています。

投稿日時 - 2008-10-06 11:59:30

お礼

 bananasandさん むつかしいです。

 単純にわたしは こう考えています。
 ★ 両方がある・・・・変化に時間はなく変化だけがある。人間は時間が流れると感じる。 // これらは 全く別のものです。
 ☆ これでよいと思うのですが。この二つの側面を まとめて 捉えている人間がいる。これで よくないですか?

 ★ 変化を感じるには、人間が変化を使わないとそれができないのです。
 ☆ 人間は 一方で 《時間が流れると感じる》。他方で 《時間はなく変化だけがある》ところの《光速移動体の気分としての〈変化〉》は それとして 捉えていれば 何も問題ないと思うのですが?
 この後者の《変化》を人間は 《感じ》なければいけないのですか? そのために 《〈変化〉を使わないと》いけないというのは なぜですか? どうして 光速移動体の気分を――つまり その推論し想像したものを―― 時間の世界に持って来なければならないのですか?
 なぜ
 ★ 完全なものに仕立て上げています。
 ☆ という事態になるのですか? そうする必要はあるのですか? すでに そうなっているのですか? 
 ★ だからこそ、我々は、時空間宇宙から遊離しています。
 ☆ という事態は その時間の変化の感受を 過剰におこなっているということではなかったのですか? でも 必要だということでしょうか? 

投稿日時 - 2008-10-06 13:51:00

ANo.42

bragelone様 お久しゅうございます。もうお忘れかも知れませんがbonnnou03です。ご無沙汰しております。久々に思い立ちましたので投稿させて頂きます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

さて、総ては波がなせる業と思います。喩えば大海原を思い浮かべてみてください。ある時はのどかに凪ぎ、ある時は荒れ狂う大波。海水は潮流や風など無ければその場から移動せず、ただ波のエネルギーを伝播させる媒質であると聞きました。時折、様々なエネルギーの波(複合的な原因)が思いも因らぬ高さの波(フリーク波・結果)を生む訳です。強引と思いますが、我々の一人一人はこの「思いも因らぬ高さの波」のようなものであり、大海原は宇宙その物とお考え下さい。つまり、もともと我と宇宙は一体であり、(脳の理解を超える)気まぐれな波の相互作用(複合的な原因)の結果が個の我々であるかも知れないと…。波が立てばこの物質世界に現れ存在し、波が凪げば死を迎えるのです。

しかしその実、大海原は凪いでいても数々のエネルギー(波)を内在しています。寧ろ、その内在している大きなエネルギーがより本来の我々(大雑把に仮に「魂」や「霊」でよろしい)であり、生まれ出でた表層の波は肉体。経験や体験を伴って日々浮かび上がる想いは「泡」過ぎぬと…。我々の多くが飛沫や泡を「我」と思い込み呻吟の日々を過ごし、本当の「我」を知ることなくその波(人生)の終息を向えているのかも知れません。そして再び波(個の自分)は様々な波(原因)の折り重なりによりいづれ復活し消滅もするが大海原は無くなることは無い。その場所(個の自分の領域)は変わらずとも波によりその場所(個の自分の領域)は過去を記憶(とりあえず「過去世」)し生滅を繰り返す。…我々とはそのような者ではないか?と思います。復活もするし、本来不死であると。クドイですが総ての存在は波(波動)が成せる業と思う訳です。因果律により如何なる理不尽な事も総てです。と言いますか、このように考えれば宇宙の生業自体にドラマチックな意味無くなる訳ですが、これも一つの真理と思います。

因みに肉体が滅べば「脳」が無くなるので「思考」する事は無くなると思います。何が言いたいのかと言いますと、巷には目には見えないとされるものをの存在(魂や霊、亡者の意志の発露)を平気で見てきたかのように表現する輩が居りますが、私は「魂」や「霊」は能動的に意志を発信する事無いと思うのです。存在(とりあえず「魂」や「霊」)としての波動が肉体を持つ人の波動と干渉したときに、その肉体を持つ人の現世での過去からの体験に基づく考え方、想い方で色付けした「想念」が湧くだけのことと言う解釈を私は持つからです。…まぁ、ほとんど遊び話ですね(笑)。

自由な見解をとのことでしたので放言を述べさせて頂きました。申し訳ありませんが補足・解説をする気はありませんので素人の戯言としてお聞き流し下さい。bragelone様のご活躍を祈念しております。ありがとうございました。

投稿日時 - 2008-10-06 02:00:05

補足

 bonnnou03さん こんにちは。しばらくです。ご投稿ありがとうございます。

 さて 直前のご回答への返答で 《霊そして霊にまつわるところの復活》にかんしては 《霊の想定じたいが まちがいである。この世界にあるのは 経験的な自然現象と社会行為関係だけである》という見解が わたしの中に思い浮かんだのでした。このbonnnou03さんのご回答をも先に読んでいたから そのような見解につながったのか もともと その可能性を覚えていた・覚えていたけれども これまで触れて来なかっただけだったのか よく分かりませんが
 よく分かりませんが いま分かっていることは 大局観だけを述べてくださったことと 補足要求が叶わないこととです。
 
 心の問題については わづかに 鬼籍にある人と生身の人との交流(?)として 最後のほうに取り上げておられるだけです。
 ★ 存在(とりあえず「魂」や「霊」)としての波動が肉体を持つ人の波動と干渉したときに、その肉体を持つ人の現世での過去からの体験に基づく考え方、想い方で色付けした「想念」が湧くだけのことと言う解釈を私は持つからです。
 ☆ この輪廻転生に けっきょく わたしは 手を焼くのですよね。菅原道真の霊が祟るという恐れを 現代の何の関係もない人が抱くとした場合 それは 道真がこうむった左遷などのいじめと同じようなことを 自分も 誰かに やってしまったから その良心の呵責からであろうと ふつうは 推測します。
 つまり アーラヤ識の種子のはたらきが有るかどうかを別にして そういう判断を下すはづです。それ以上のことは 判断を下しても 欄外のおまけであると見なすと思います。
 ★ その肉体を持つ人の現世での過去からの体験に基づく考え方、想い方で色付けした「想念」が湧く
 ☆ とは 上のような内容に解します。

 そうしますと 結局は 人間関係そして それぞれの個人が 主役に現われますし その人の覚り あるいは 浄福が いかにあるかに帰着すると考えます。
 人生は波である / 波乗りの理論は 雄大な視野を開いてくれて おもしろいし おおむね当てはまっているように思われます。思われるのですが ひとつ 物足りないのは 一人ひとりの人間ということだと思います。波は群がっているように見えるとき しかし 人は 孤独であると言った場合 これをどう扱うか。

 ★ 大海原は無くなることは無い。・・・我々は・・・復活もするし、本来不死であると。
 ☆ もしこれで 安堵し泰然自若したとしますと どうでしょう? この現世では運がわるかったが 次に生まれたときには いいめぐり合わせになるかも知れないよ ということになるでしょうか?
 つまり 波乗り理論ですと このサーファーたちは 一人ひとり 大海原にすべてを預けて 生きよということで基本ができたとすれば 社会ということは・つまりサンガとしての社会ということは どうなるでしょう? 苦をともにし 友となり 広く社会が 和解し合うというサンガ共同体・縁起共生は どうなるでしょう? 行き当たりばったりということにゆだねられるでしょうか?
 大局観なのだと思うのですが。つまり 究極の相対性理論だとも思うのですが 《〈勝義諦〉の指し示し理論》のごとく 言葉は要らないのだという大前提に立つ恰好ですし。大洋に雨が降り嵐がやって来ても 一人ひとりが 悠久の大海原を信じて ケ・セラ・セラの心で 《一隅を照らせ》ばよいの精神で 生きる。ということのようで 暗くないですか? ――無明から明知への転換!!!!です。と思いますが ほかのみなさんから見ると どうなのでしょう?

 この近日来は特に 《Q:われは 有る?ない? どちら》などの質疑応答を見直していたので ご投稿にて お久しぶりに接しても 特別おどろきはなかったようです。では いつかまた お会いする日まで。

投稿日時 - 2008-10-06 10:33:14

ANo.41

時空間宇宙の実相というやつがズレていたんですね。とりあえずここだけ・・

>実相と言っても それは 日常の社会生活そのものだと考えるのですが?

「時空間宇宙」という表現をしていますが・・実は適切な表現がよく分からないです。スイマセン。
これを言うなら○○と言うべきだというのがあれば教えてください。

改めて言うことでもないのかもしれませんが、どう表現して良いか・・・
適切かどうかわかりませんが、極端を表現してみます。

「時空間宇宙」は、観察者によらない純粋な物理現象としての宇宙を指しています。
空間つまり距離とか長さというものは光の波長、伝搬速度からくるのですが、
光速移動体から見ると長さはありません。時間は停止しています。
時間が停止しているといういことは、何も無いと言うことに等しいですね。
その時間といっているものは、宇宙の不完全性=変化するということだけなのであって、
過去、未来は一切存在しておらず現在すらない・・・・。
宇宙には、人間が認識している時間も、空間も、無いのです。
時空間は、そのままエネルギーであって、変化そのものであって、安定化する方向へ変化し続けます。
極端には、物質も、重力も、「そのままエネルギー」の範疇であって、人間もその内部だからこそ
強い影響を受けているに他なりません。

一言で極端を言うと・・・変化だけがある・・・不完全性だけがある・・・ということです。

で、人間の驚異的能力といっているのは、この変化を巧みに捉えて、紡ぎ合わせて
時間と空間を作っていることです。
これが日常ですね。今という現在を今にしているのも我々でした。
生きるために獲得してきた能力が「時空間宇宙」をこのように個性的に把握するというです。
そして、この「時空間宇宙」の変化・不完全性がないとこの把握した存在が無くなるという関係になります。

>(c)実体をあらしめているのが我々だと言うことでしょうか。
と、いうことで、この実体というのが「時空間宇宙」側には無いということです。

反論は覚悟の上なんです。そんなわけはありませんね。「時空間宇宙」が無ければ
我々は存在しないのですから・・・・でも変化だけがある・・・不完全性しかない・・・

ということですね。

投稿日時 - 2008-10-06 01:37:18

お礼

 bananasandさん。でしたら いわゆる客観としての《時空間宇宙》ということで それは ふつうの大自然であり宇宙のことですよね。
 ただ 光速度を問題にして捉えることも入っているわけですよね。

 経験世界は 《自然つまり第一次的な自然》と 《第二次の自然でもある社会現象》と この二つに区分して捉えれば よいのではないでしょうか。
 光速度を問題にするので 《時空間宇宙》という捉え方が出てくるのではないでしょうか。ただ 光速移動体は 想像や推論としてわれわれは 捉えるだけであって その光速移動体の視点に立って ものごとを認識する必要は ないのではないでしょうか。
 《変化だけがある》とともに 時間が流れると感じるような変化もある。両方がある でいいのではないでしょうか。その経験世界に われわれは 存在しているし 存在じたいが そういう経験動態である でいいのではないでしょうか。
 
 ただし この経験世界を超えたところ これをも 人間は 想定するというところから 問題が出て来ている。
 ふつうなら こんな想定など 要らないとなるでしょうね。つまり 無神論ですね。
 しかも ただし そういう場合でも 《無神論》あるいは《唯物論》という自己紹介をしているという事実も あります。そうでなければ  こう言うはづです。――《霊》などという領域を想定すること自体が まちがいである。霊が 《ある / ない / ある かつ ない / あるでもなく ないでもない》などと想定すること自体が まちがいである。霊という言葉を持ち出すこと自体が まちがっている。この世界は 経験世界のみなのだから そこを しっかりと認めたまえ。と。
 どうなんでしょう。自然など初めから与えられていたものごとを除けば あとは 人間の考えと行動とが あるのみだという思想の立ち場は どうなんでしょう?
 じつは ちょうど 次(No.42)に そのような内容のご回答をもらっています。ただし その方( bonnnou03さん)は すでにわたしは存じあげているのですが 心の領域をうんぬんされるわけですから どうなるでしょうか。また 進展があるかも知れません。
 このように保留したままですが 進むことにします。あらたに別のかたちで 《思案中》が継続します。

投稿日時 - 2008-10-06 06:26:17

ANo.40

オコリザルです。
A38.39について少し考えがまとまりました。
まづデーモン現象について自分なりの言葉に直します。
「狂犬病」です。
悪が内包するのみならず、現実にありうると中途半端に信じる人が悪の共感を求める現象です。
A1のコメントの話ですが。
その存在未確定は「悪」か「罪」か「欲」か?いずれも思い当たるフシのない私にはそれらの情念の霊化が起こります。
唯脳的還元現象としての霊化です。

今まで表現してきた地獄ならざる大霊界は不実(罪)の砦のようです。

投稿日時 - 2008-10-05 23:20:51

補足

 primeapeさん No.38&39への返答のあと 翌る朝につづっています。

 今回 《デーモン現象》については おっしゃるとおりの内容もあると思いました。
 今まで捉えていた内容は 単純に 《意識の排泄》としてです。自分にとって嫌だ・要らないと思った思いは 怒りや軽蔑とともに あたかも うんこのように しかも 他人に向けて 排泄するのだと理解しています。
 ★ 悪が〔人間の心の中に〕内包〔され〕るのみならず、現実にありうると中途半端に信じる人が悪の共感を求める現象です。
 ☆ おれは たしかに悪いことを考えている だが おまえも そうだろう? 誰だって そうだろう? と言ってのように ただし これらの言葉を 情念を込めて電磁波としてのごとく 以心伝心させる。こういう場合ではないかと考えます。

 さて ほかの箇所については なかなか 理解が行き届きません。頭が回らない感じです。
 ★ 今まで表現してきた地獄ならざる大霊界は不実(罪)の砦のようです。
 ☆ たとえば 《死んでも 意識は 残り続ける》といったような単純な想像 これによって 死をあいまいにしておく。というような形の《大霊界》でしたら ふてくされによって 起こると No.1で わたしは 考えましたが それだと
 ★ 不実(罪)
 ☆ であるかどうか ですが どうですかねぇ。その心の中というのは 《それが ただ 死でも何でも それらを あいまいな形にしておきたいがために 現実を離れて 想像の世界をこしらえておくのだ》と 自分で 知っているのではないでしょうか? ひょっとして その場合 この人生じたいをも あいまいなものとしておきたいのかも知れません。
 人生において 何ごとも まともに相い対するようなことは 単純に 避けたいというのでしょうか。思考することは 避けたい。考えても 現実は どうにもならない。非現実の想像の中で 暮らしていたい。等々と。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 A1のコメントの話ですが。
 その存在未確定は「悪」か「罪」か「欲」か?いずれも思い当たるフシのない私にはそれらの情念の霊化が起こります。
 唯脳的還元現象としての霊化です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここが むつかしいです。単純に考えて こうなのでしょうか。上に述べた《ふてくされ》の実態が 《「悪」か「罪」か「欲」か?》 いづれであるにしても 《いずれも思い当たるフシのない私にはそれらの情念の霊化が起こります》というふうでしょうか?
 ★ 唯脳的還元現象としての霊化です。
 ☆ 《脳》のあり方自体が 一面として この《ふてくされ》の情念を生む構造になっているのだから その骨格だけとしての現象のかたちに還元して 把握しようとする。こうでしょうか?
 ううーん。脳は ふてくされを 無しで済ませるようになっていないでしょうか。

 今回 わたしのほうが 理解がまとまりません。課題を考えることともに 継続審議となります。

投稿日時 - 2008-10-06 05:45:18

ANo.39

オコリザルです。
日記風の雑談です。
ここ一日二日、人知をアイスクリームのように霊化することで霊体の承認の可能性を試していました。
この実験は完了して、結果は記憶されていますが、いつものように主観においては立ち会っただけ。
言葉に直すきっかけがつかめません。
私自身はひょっこりひょうたん島とまでこき下ろした人知が、実は「人痴」のワープロ変換ミスに過ぎないことを今回の過程で始めて実感したところです。
哲学において百戦錬磨のbrageloneさんに初めて人知を個人的に承認しえた私にアドバイスをお願いします。

投稿日時 - 2008-10-05 22:44:07

お礼

 primeapeさん。
 そうですね。
 
 こう試考してみましょうか。つまり
 ○ 錯覚としての《霊》も ほんとうの霊との接点を成している。
 ☆ だとすれば
 ★ 人知をアイスクリームのように霊化することで霊体の承認の可能性を試していました。
 ☆ が 《復活》の問題として ありうるということになります。《人知》をより分けて その結晶化でもするかたちでしょうか そこで 霊との接点を成す要素を探り当てることができるか というふうに。
 ただし
 ★ 人痴
 ☆ であっては いけませんが。いや というよりも この《人痴》や《錯覚》であっても 霊との接点たりうるという試行でしたね。

 これは どうですかねぇ。
 結果次第ですね。どうも そういう感じを持ちます。

 ううーん。前回のご回答を承けて 課題をみつけようとしましたが まだ うまく行きません。もう一件 ご回答を得ています。

投稿日時 - 2008-10-05 23:53:19

ANo.38

オコリザルです。
A22のお礼で霊の存在が架空のものであることを忘れているとご指摘がありましたが、その通りです。
そんな奈落の底で思索しておりました。
問題点として「盲視」、脳には認知しえるが明白に存在しない事柄。
無意識の証言を借りることになりますが、これは実際にあります。
哲学的に今回のお題目を探求する上では「錯覚をいかに定義するか」の話となります。
心象表現の中から手探りして合意を導くことになるでしょう。

これまで話題にした「霊」に関しては存在未確定ではすまなくて盲視として認知しうる中、けして表ざたに出来ないその事象について空文を承知で論議することを試みた感じですね。

今後の方向性と課題に関してご指示をください。

投稿日時 - 2008-10-05 22:36:59

補足

 primeapeさん。primeapeさんの現在 採っておられる立ち場は みづから選択された結果ですよね? いやいやながら選んだ結果でしょうか? まづ そういった情況の問題もあるかと思いましたが どうでしょう?

 ★ 盲視
 ☆ は たしかに軽々しく お払い箱に入れるのも どうかと思いなおしました。 
 ★★ (ANo.22) ~~~~~~~~~~~~~~
 霊体は感知可能であり無意識的には認識しうることを表しています。
心理学的「盲視」を了解すると無意識に例えなくてもいいのですが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こんな文脈で 出て来ていました。
 要するに わたしの言葉で表現すれば この質問の趣旨に沿ったかたちで
 ○ 神としての霊と 人との接点。つまり 人が霊に触れる機会になっている可能性がある。
 ☆ と考え直したからです。
 ですから
 ★ 「錯覚をいかに定義するか」の話となります。
 ☆ というように 《錯覚》一般を まづは扱いつつも その中から 霊に触れるという《復活》体験を 取り上げることは 大事だと たしかに 思います。そういう場合である可能性があります。
 ただ そういう体験であったなら いづれは そのことの自覚を みづからの中に 持つと思うのです。意識に上がってくると思います。
 逆に 意識に上がって来ていても それが 何の体験であるのかが つかみ切れないという場合もあるかも知れません。が この場合は あまりこだわらなくても よいように思います。必要ならば いつでも 自覚が生まれるのではないでしょうか。だからです。

 ★ 〔絶対としての霊ではなく そうではなく 夢の中の現実というような ちょっとした想像の世界に抱いた非現実 それを霊と言いかえただけの〕霊の存在が架空のものである〔という世界〕 / そんな奈落の底で思索しておりました。
 ☆ もし この《奈落の底》が この社会の現実であるとしたら それは それなりに 自己表現をするかも知れないですし その自己表現を 行き着くところまで 展開していくかも知れません。
 でも そうではないということを 誰でもなく 他ならぬそこでの住民じしんが いちばんよく知っているのではないでしょうか。知っているけれども どうにも出来ないのでしょうか? 
 ★ 空文を承知で〔論議することを試みた感じですね〕
 ☆ だと思うのです。どうにか しようとしないで 自己弁護するのは 《空文》であり そのこと《を承知》なのだと思います。
 だとすれば おのづから 方向は決まると考えます。
 課題は 次のご回答にて 考えます。

投稿日時 - 2008-10-05 23:37:52

ANo.37

おそらく前々回からのズレを引きずっていますね。

存在を時空間宇宙とし非存在を霊としてましたが、

霊の《存在かつ非存在》、有神論、無神論へ移行したように思います。

ちょっと後戻りしますが、

存在を選ぶとその存在理由が存在せず、
非存在を選ぶと時空間宇宙が存在しない。

存在を選ぶというのは、有神論で、それでは、存在理由を説明できないとするのが無神論ですね。
非存在を選ぶというのは、無神論で、それでは、時空間宇宙が存在しないとするのが有神論ですね。

ここで、無神論において、時空間宇宙という存在においても存在理由を説明できない事態になり、
存在が純粋な存在だけでは成立し得ないことが解ったわけですね。
有神論においては、霊の存在自体の証明をすることができず、その形態が人間の精神との類似性が否定される。

(どうでしょうか唯物論が否定され、人格的神の存在は否定されたというところでしょうか。)

そんな状況で、時空間宇宙の実相自体が《存在かつ非存在》の様相を呈してますから、
霊も《存在かつ非存在》に帰結してしまうんですね。

最初の 存在を時空間宇宙 とし 非存在(←時空間宇宙の不完全性の根元)をとしてまして、
存在も存在し、非存在も存在するから、時空間宇宙も存在かつ非存在し、非存在(霊)も存在かつ非存在
するとなってしまいました。


>一般に現代人が
>★ わたしはわたしを見失ってはおらず、むしろ過信しすぎているのでしょう。
>☆ これは 問題ないでしょう。共通認識ですね。
>★  父と子と聖霊は、互いに直交し合ってその交点が我々なのでしょうけど、知解のベクトルがわたしにしか向いていない状態 / なのだと思います。
>☆ わからへん。どういうこっちゃ?

No25 の 15.で、
>聖霊が 意志もしくは愛に喩えられるのは より一層ふさわしい。明・暖であるゆえ。
>そのつてでは 子は 知解であり 父は 記憶である。

と定義されていたので、馬乗りしました。

時間でソートされた記憶の軸と知解の能力軸で構成される知能の平面に、意思を直交させて
貫いているところが人間であって、知解が如何なることを理解しても、理解の方向は<わたし>にしか
向かっていないということです。


>★ 霊が時空間宇宙を含んでいるのは、時空間宇宙の不完全性に霊が帰因するからで、・・
>☆ これは 相対性の世界に生きる有限の人生と能力とを持つ人間にとって その世界を超える領域を わざわざ 想定するという事態のことを言っているはづです。

 そもそも 時空間宇宙の不完全性の根元 非存在/霊としているので、人生の不完全性とは関係がありません。

>《人間は 神なる霊に包まれており その霊を宿すとさえ考えられるのに この霊に逆らって行動する。
>そのような自由意志をも授かっている》。つまり ここで
>★ 独立
>☆ とあるのは そのような 自由意志による・結局は自己に対する背反や反逆のことでしょうか。

 真に、霊に逆らい得る自由意思を持っているのかは、知りようがありません。否定はしてませんよ。
 自らが自由意思を持って選択していると自覚しているまたは思い込んでいることが遊離した存在だとしています。

投稿日時 - 2008-10-05 20:20:47

補足

 bananasandさん 今回も前回に劣らず 理解が行き届きません。最後の段落は 分かりやすいです。

 前々回から 質問を提出します。文に記号を付しています。
 ★★ (ANo.27)~~~~~~~~~~~~~~~
>(3-1) ★ 時空間宇宙の《日常》と《実相》との違い
 ☆(3-1)について:同一の現象を二人の人が 違って観測した場合。観測の地点や情況やあるいは主観の違いによって 異なりうる。――このこと自体は 超経験と かかわらない。

 ここが、最初にANo.12で記載したとおり、ご質問の一番難しいところです。
 (A) (a)社会性は日常性の上に成り立っていますから、(b)時空間宇宙の実相を改めて日常が完全に取り込む必要があります。
 (B) 日常を作り出しているのは、我々であって、時空間宇宙ではないということですね。
 (C) 当然、時空間宇宙なしには日常は成り立ちませんし、日常の全ては時空間宇宙に包含されてますよ。
 (D) しかし、端的に言うと日常を日常たらしめているのは我々自身ということですね。。
 (E)(a) 時空間宇宙の実相を取り込むというのは、(b)時空間宇宙には実体がないということであって、
 (c)実体をあらしめているのが我々だと言うことでしょうか。
 (F) 今の常識的日常という視点で見た時間と空間は、時空間宇宙の実相とはかけ離れた人間知性に都合の良いいわば解釈である
 ということです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ (あ) 《時空間宇宙 / その実相》について 概念把握があいまいだったかと思います。その理解を求めて 進めます。
 (い) (D)は 経験現実として そのとおりですね。
 (う) そう受け取って (B)を読むと どうなるか。わたしが理解していたことにもとづくなら こうなります。
 (B-1) 日常を生き 日常を作り出しているのは 我々人間であって その社会日常に 自然界の動きをつけ合わせれば その全体世界が 時空間宇宙である。
 ☆ となります。(B)は そうではないですよね?
 (え) 同じように(C)を読むと こうなります。
 (C-1) 時空間宇宙の中の人間の社会生活が 日常世界である。〔(Aーa) 社会性は日常性の上に成り立っています。〕 日常の社会生活が 時空間宇宙を構成している。

 (お) 次の文意が分かりません。
 ★ (A-b)時空間宇宙の実相を改めて日常が完全に取り込む必要があります。
 ☆ 時空間宇宙に《実相》が 果たしてあるのか?から 問題になるように思ってしまいます。実相と言っても それは 日常の社会生活そのものだと考えるのですが?
 (か) 従って (E-a)が その文じたいが わかりにくいです。そして(E-b)では 今度は 《実体》が出て来ます。これも 捉えにくいです。(E-c)では この《実体》というのは 日常生活の事実・実態・現実のことでしょうか?
 (き) 以上をまとめて (F)の意味が取りにくいです。そもそも わたしの場合 はじめの定義として
 ○ 経験世界が 時空間宇宙で 超経験の領域が 霊である。
 ☆ という理解ですが どう違いますか?

 (く) また 定義の関連で
 ○ 超経験の霊の領域が 神と呼ばれる。
 ○ この神は 三つの位格を持つという説明がなされる。
 ○ その父・子・聖霊の三つは しかしながら 神であり霊であるのだから 基本的には 人間や経験世界を超えている。
 ○ そのあと 霊と人間との接点が 想定されてくる。
 ☆ こういった仮構だと思います。

 わたしのほうは こういった情況にあります。

投稿日時 - 2008-10-05 23:00:19

ANo.36

沈黙・無記なる勝義諦は、なぜ沈黙・無記なのかについて、例示してみますね。

「現在」を記述しようとすると、それは必ず過去のできごとになっています。つまり、現在は絶対に記述できません。勝義諦は、現在と同じです。記述できないけれども、在らねばならないと想定される概念のことです。それだけです。永遠の現在も、在らねばならないと想定される概念ですが、具体的に実体的に記述できません。これが、無為の世界というものです。有為の世界と全く違っています。

勝義諦が「指し示される」という点は、全く同意見です。以前にもそのように僕も書きました。ただ、在らねばならないと想定されるという意味です。具体的なイメージではないのです。イメージ化するとたとえ話や虚構になるでしょう。そのような表現上の工夫は、創作物として充分楽しめますし、感心したりもしています。現実と虚構の関係を考察し、探究する中で、見極めて行きたいと思っています。

復活は、虚構としてならば、支持できます。そんなふうに今は思うのです。

投稿日時 - 2008-10-05 19:37:47

お礼

 qsxdrfvgyhさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ 勝義諦
 ☆ は けっきょく 《真理》のことでしょう? 経験を超え 相対性の世界を超えた《絶対》であり 有神論では 《霊・神》と呼ぶ領域のことではないのでしょうか?
 一説では わたしは そういういわゆる実体ではなく そうではなく 世界を《縁起説=空観》のもとに見ているその視点(しかも 動態)のことだと思っていました。たぶん 両方の説があるのだと思います。
 つまり qsxdrfvgyhさんには では
 ○ 仏性
 ☆ は この《勝義諦=無為=真理=絶対》のことですか?とお訊きしたいと思います。
 
 ★ 勝義諦が「指し示される」という点は、全く同意見です。
 ☆ でしたら もはや われわれの間の違いは (a)《勝義諦=無為》を それについては沈黙すべきなのだが 沈黙すべきことを分からせるために 沈黙せずに 言葉を使って 指し示すことを行なうか
 それとも (b) 《真理=神=霊》について 言葉で 虚構ないし物語のかたちにして 説明表現するか これだけだと思います。
 《指し示す》とほとんど同じ行為なのです。的確には 《代理表現》とわたしは呼んでいます。
 ★ イメージ化するとたとえ話や虚構になるでしょう。
 ☆ というよりも (b)のように あくまで《言葉を用いて説明する》という手段を採った場合 その時点で すべては 表現の問題になっています。なりきっています。全体が 仮構・虚構・おとぎ話です。

 ★ 復活は、虚構としてならば、支持できます。そんなふうに今は思うのです。
 ☆ これには 二つの側面があります。《復活》は 《神》そのもののことではなく 従って その虚構そのものとして扱うものではなく そうではなく その霊(=風・息)の息吹きが わが生命と存在の全体に吹きかけられて 満ち満ちている状態であろうと思われます。
 つまりは これは 《虚構において説明しているところの神》だけの問題ではなく その神と人間との関係の問題だからです。つまり 虚構を抱く人間の心の志向性つまり《信仰》行為は 現実であるからです。信仰は 生活におさまっていますから。
 ですが ひょっとしたら 信仰の対象(じつは 非思考ゆえ 非対象)は 勝義諦のことであるということになりそうなのですが。

投稿日時 - 2008-10-05 22:07:57

ANo.35

 ★ とも言っておられます。両側面があるということになりますでしょうか。そして そのことは 最後の結論の箇所でのご趣旨に通じているようです。
☆fractalもDrosteも、允に取り留めない世界ですよね。あぁ私の中の解釈ですが。これにいくら関与しても仕方ない、非生産的であると存じます。
 simulacraは創造の原理・仕方で、下降のことですから、自分たちも、じぶんたちのsimulacraに精をだしていたら、いつまでも勝手な世界しか現出しないと存じます。
 そういうマヤカシの仕方から、どう逃れるかが、私の課題です。
 どうかbrageloneさんの明晰な精神でお教えやヒントをいつかご頂戴できれば、幸甚です。

 もう引用しませんが 最後の段落のすべてが 《縦・横の相似関係》を含みつつ 必ずしも ただちに《縦の simulacra 動態》に打って出るというものでもないと おっしゃっているようです。
☆自分の今継続している行の精進と勉強、そして生活の結果がそういうものになるのかもしれません。

 Drosteやfractal現象を 取り押さえて 片づけたあと 対処するということなのか。あるいは その片付けの作業じたいが すでに 縦のsimulacra 動態であると 理論づけされようとするのか。
☆私は、自分の行と勉強を、そして生活をしていくことしか考えられませんので。理論に頼らないということでして。

投稿日時 - 2008-10-05 16:18:21

補足

 ★ 理論に頼らないということでして。
 ☆ わかりました。
 次は 思いつくままに 引こうと思った箇所です。

 ▲ (創世記1:1~2:4)~~~~~~~~~~~
 初めに、神は天地を創造された。
 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
 夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
 ・・・(中略)・・・
 夕べがあり、朝があった。第二の日である。

 神は言われた。「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ。」そのようになった。
 ・・・(中略)・・・
 夕べがあり、朝があった。第三の日である。

 神は言われた。「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。 天の大空に光る物があって、地を照らせ。」そのようになった。
 ・・・(中略)・・・
 夕べがあり、朝があった。第四の日である。

 神は言われた。「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ。」
 ・・・(中略)・・・
 夕べがあり、朝があった。第五の日である。

 神は言われた。「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」そのようになった。
 ・・・(中略)・・・
 夕べがあり、朝があった。第六の日である。

 天地万物は完成された。
 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。
 この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。

 これが天地創造の由来である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この simulacra で 注目するのは 繰り返し出てくるところの
 ▲ 夕べがあり、朝があった。第○の日である。
 ☆ という箇所です。まづ 当時かれらの間では 夕べから 一日が始まるということで 《夕べがあり 朝があった》という順序での表現になるようです。これは 別とします。
 けれども 《夕べがあり》のあとは じつは 《夜になり》という言葉は ないのです。あたかも きみは《夜へは渡されることなく》 翌る朝を迎えると言っているかのようです。第一日から第六日まで すべて このようです。
 これだけの問題です。そういう simulacrum です。

投稿日時 - 2008-10-05 18:34:59

ANo.34

> わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行ない、
> その業を成し遂げることである。
確かに、御伽話もまんざら捨てたものでもない、それどころか
もっときちんと接した方がイイのかも知れないと思いました。
> なかなか 経験思想の範囲内で 哲学として 述べるには むつかしいようです
そうですね。
私の霊は何かを感じたようですが、肉はどう振舞えばいいか分からないようです。
とりあえず、どういう訳か以下の着想を得ました。
> 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても
> 退屈であるのではないか。
ここでいう「千年あるいは五百年」は肉にとっての時間(タイムスケール)ですよね?
霊におけるタイムスケールを、肉のそれで計るのはむしろ不自然ではないでしょうか。
(現代人はアインシュタイン以降の世代なのですから。)

五次元の物体の運動は
我々には四次元での断面(軌跡)としてしか捉えることが出来ないと聞きます。
神や霊を経験思想(人間の理解)から解釈(相似として考える)するのは
ユークリッド幾何学しか知らない者(それを絶対と学んだ者)が
非ユークリッド幾何学を解くようなものではないか?
根本的に間違っているんじゃないか?と
ときどき疑問に思うのです。

霊の時間が肉と同じように連続して一定に流れるとする必然性は
ないのではないでしょうか?
霊の時間は不連続で可変(もしくは相対的)なのかも知れません。

現代人が約80年という寿命に苦しむのは
(それが医学的進歩で150年に延びようと)
古代インド人が輪廻というタイムスケールに束縛されて苦しんだのと
同じようなことではないでしょうか。
仏陀が輪廻から解かれたというのは
現代人が時間的な呪縛から逃れるようなことだとは考えられないでしょうか。

例えば、一期一会とは
瞬間を永遠化することだと考えることは出来ないでしょうか。
無我夢中で「今このとき」に集中できたとき
私は永遠の中に居たのかと思うことがあります。
(するってぇと何かい? 我に返ることが復活かい?)

投稿日時 - 2008-10-05 15:44:34

補足

 CUE009さん。長考一番 やってくれますね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ここでいう「千年あるいは五百年」は肉にとっての時間(タイムスケール)ですよね?
 霊におけるタイムスケールを、肉のそれで計るのはむしろ不自然ではないでしょうか。
 (現代人はアインシュタイン以降の世代なのですから。)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そう来ますか。またも 一本取られたようですね。たしかに 神にとっては 千年が一日だとも言います。このように 記憶の中から思い出すことは 一人前であるようです。
 ▲ (詩篇90:1~12) ~~~~~~~~~~~~
 主よ、あなたは世々われらのすみかで いらせられる。
 山がまだ生まれず、あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、とこしえからとこしえまで、あなたは神でいらせられる。
 あなたは人をちりに帰らせて言われます、「人の子よ、帰れ」と。

 あなたの目の前には千年も 過ぎ去ればきのうのごとく、夜の間のひと時のようです。

 あなたは人を大水のように流れ去らせられます。彼らはひと夜の夢のごとく、あしたに萌え出る青草のようです。
 あしたに萌え出て、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです。
 われらはあなたの怒りによって消えうせ、あなたの憤りによって滅び去るのです。
 あなたはわれらの不義をみ前におき、われらの隠れた罪をみ顔の光のなかにおかれました。
 われらのすべての日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです。
 われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。
 だれがあなたの怒りの力を知るでしょうか。だれがあなたをおそれる恐れにしたがって あなたの憤りを知るでしょうか。

 われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ だけれども あなたの文章には この詩編の思索も 負けるかも知れません。もう引きませんが かがやかしいともしびです。(光は 神の側にとっておくことにして ともし火です)。
 ★ 霊の時間が肉と同じように連続して一定に流れるとする必然性は / ないのではないでしょうか?

 ☆ 弁明をひとつ します。
 ★ 神や霊を経験思想(人間の理解)から解釈(相似として考える)するのは
 ☆ これは あくまで 《超絶》を大前提とし 《はなはだ不類似ながら》という前提のもとに 仮りの・代理の表現をも与えようとすることです。でも 《すべてを伝えたから これからは 〈友〉と呼ぶ》という表現をも得ていますから 引っ込み思案でなくても よいかと思います。

 最後の段落は その最終の一行に つっこみが入っているように やや 美化し過ぎる動きであるかも知れないと思いました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 例えば、一期一会とは
 瞬間を永遠化することだと考えることは出来ないでしょうか。
 無我夢中で「今このとき」に集中できたとき
 私は永遠の中に居たのかと思うことがあります。
 (するってぇと何かい? 我に返ることが復活かい?)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 別の極端を出しますと こうです。《一度会ったことは 一度会ったことだ。二度目は 二度目だ》というように 究極の相対性によって 捉えるのも ひょっとすると 復活にかかわっているかも知れないのではないか?と。
 (するってぇと何かい? 一切がどうでもよいことが復活かい?)

投稿日時 - 2008-10-05 17:33:49

ANo.33

未来は、可能性と関連した想定概念で、隔絶していることを理解していただけたようで、回答した甲斐が有りました。しかし、永遠の現在と復活には、こだわり・思い入れがあるようですね。僕は、これらの虚構を必要としていませんので、どこまでも平行線です。

ただ、「永遠」は、有為の世界・相対領域に馴染まないことを指摘しておきましょう。これは、絶対領域に馴染むように思います。ですから、絶対領域が相転換した、無為の世界には馴染むと考えます。そして、無為の世界こそ、現在だと僕は想定していますので、永遠の現在は言葉の組み合わせとしては正しいと思いますが、有為の世界・相対領域の現実世界の裏でのたとえ話なのです。沈黙・無記の勝義諦に属すので、この世では語ってはいけない用法だと思うのです。ここは前回からの続きになります。

投稿日時 - 2008-10-05 15:42:33

補足

 qsxdrfvgyhさん。有神論と無神論とは 互いに 同じ信仰類型における二つの形態であると ここでは 見てきました。qsxdrfvgyhさんは 無神論 わたしは 有神論という意味です。
 ★ しかし、永遠の現在と復活には、こだわり・思い入れがあるようですね。僕は、これらの虚構を必要としていませんので、どこまでも平行線です。
 ☆ その《平行線》のあり方が 同一の類型の中の二つの形態であると言おうとしています。すなわち
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・無為の世界こそ、現在だと僕は想定していますので、永遠の現在は言葉の組み合わせとしては正しいと思いますが、有為の世界・相対領域の現実世界の裏でのたとえ話なのです。沈黙・無記の勝義諦に属すので、この世では語ってはいけない用法だと思うのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《無為》は それ自体が《世界》であるのではないと理解していました。あるいは 有為を超えた絶対的なものであるのでもなく 有為の世界を それは 一切が 縁起関係として成り立っていると見るその見方 すなわち 《空》観というその動態のことだと理解していました。
 もし《無為の世界》を想定するのであれば それは 《神・霊》と同じ意味です。しかもそのとき この有神論者は 《有》とするからには それについて 《沈黙》し得ず《無記》とし得ず いろんなかたちで 物語を与えて来たというわけです。
 ですから 《この経験世界を超えたなぞの領域》について 《ある》とするか《ない》とするか その二者択一の選択によって わたしたちは 分かれているのだと考えます。《ない》という判断も それは 経験思考なのではなく 非思考での選択であり 大きくは 信仰だという所以です。そのあとは 神ないし無神のことを 自由に正当にも 放っておくという意味です。 

 ちなみに bonbonnier さんという方の見方として わたしは 自分の質問で 次のように学びました。もちろん qsxdrfvgyhさんとは 互いに独立したご見解です。そこでは 《有神論》のごとく 神を擬人法において物語の中に表現するのではなく さりとて 単に《沈黙・無記》とするのでもなく 《指し示す》という理論が唱えられています。
 ◆(《QNo.3454478 :《我れ》はある?ない? どちらですか(仏教) =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html》のANo.43)~~~
 勝義諦の真理としての「不死の境地」に対しては、言葉というものは、それを指し示すことしかできません。しかし、言葉により指示しないのであれば、勝義諦の真理そのものを衆生に伝えることができないのも事実です。
 私たち凡夫は言葉の指し示すものに実体があると思い込んでそこに執着します。ゆえに聖者は、涅槃の境地の上から、仮名としての言葉を自由自在に操って、衆生を不生不滅の戯論寂滅の境地に導こうとします。
 私たちが、その教え通り実践し、戯論寂滅の境地に到達したとするならば、そこではじめてこころの奥底にある一切の言葉生成作用、言語による分別意識が止滅します。言葉とは、この言葉の否定に導くために仮設されたものであったことが、はじめてそこで明らかになるわけです。ここを『大乗起信論』は「言に拠りて言を遣る」と表現しています。
 仏の説いた経というものは、勝義諦の真理としての戯論寂滅の境地を直接に表現するものでは決してありませんが、これを仏の教えとしての真実の言葉として信じることにより、逆説的に、言葉そのものが言葉が否定される境地に導くものであるということを知ることになります。『言に拠りて言を遣るを謂うのみ』とは仏の金言としての言葉の有効性を説いたものです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いづれも 大きく信仰類型において それぞれの位置を持つと思います。次のようにも おっしゃっています。
 ◆(同上の質問のANo.47)~~~~~~~~~~~~
 不死の境地というのは解脱(成仏)の境地ですので、自分の仏教徒の立場からいわせていただければ、何生かかるかはわかりませんが実現できる境地であると私は信じています。・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (a)《無記》とし《沈黙》し 《語ってはいけない》と捉える立ち場と (b)《沈黙》すべきであることを 沈黙せずに言葉を用いて指し示すとする立ち場と (c)《無記》ゆえに 《たとえ話》によって あるいはまた《偶像》をとおして おろかにも あたかも言葉を尽くして 指し示そうとする立ち場とです。

投稿日時 - 2008-10-05 16:54:38

ANo.32

 brageloneさんはお休み宣言をした後も、なかなか働き者ですね。
 simulacraは想像の意識が自分を見ている対象客体の中に見つめ、孕ませる仕方を、私は表現するために使いました。だから離れた垂直ですね。
 Drosteはそうして生じてきた個人たるものが、論理や想像などで、或いは反省したりする、確証をたよりに自己を自分の奥へ奥へと求めていく、やるせないやりかたと、そのいつまでも同じに続く道を指しています。
 fractalは同じ事がいつまでも、とりとめなく、飽きもせずに繰り返されている、この創造の地上のやりかたについて表現する、私のことばです。

 横の相似関係を指摘しておられました。悪くいえば 互いに同じ穴の狢じゃないかという水平的な視点と視線関係のことです。
 ☆そうかもしれません。

 ★ ここを出る〔には光をさかのぼらないといけません。〕それはものの道理を飛び越えるということで
 ☆このとびこえは、もう確証を頼りにすることが許されないので、多くの偉大なご回答者様に、蹴飛ばされるかもしれない、非か超かの論理や確証のない道のりです。
 不合理なるが故に、・・・でしょうか。信仰ではありませんが。
 別の認識の仕方がどうもあるのでしょうね。そうなってしまうという。

投稿日時 - 2008-10-05 14:53:46

お礼

 たしかに問題を放り出すのは かえって しんどくなりますね。
 考えて分からない場合にも 寝かしておくのであって 放り投げることではないでしょうから。

 でも しかし 今回は 非常に 複雑になってまいりました。
 と言うよりも 前回において わたしが そこまで 奥行きの深さを知らずに 解釈したのが 原因だったようです。

 こうなると文字通り 休憩になるのかも知れません。期限を切らずに 寝かしておいて 芽の出るのを待つ というところでしょうか。

 ★ Droste / fractal
 ☆ は 心理の動き 心理的な人間関係が からんでいるようには 捉えますが にわかには 理解に達しないでしょう。
 ★ simulacra
 ☆ は そうしますと ほぼ前回にわたしの述べたところと 同じ内容だと思われてきます。つまり ひとことでは 《生きる》という現在の動態です。
 ただし
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆☆ 横の相似関係を指摘しておられました。悪くいえば 互いに同じ穴の狢じゃないかという水平的な視点と視線関係のことです。
 ★ そうかもしれません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とも言っておられます。両側面があるということになりますでしょうか。そして そのことは 最後の結論の箇所でのご趣旨に通じているようです。
 もう引用しませんが 最後の段落のすべてが 《縦・横の相似関係》を含みつつ 必ずしも ただちに《縦の simulacra 動態》に打って出るというものでもないと おっしゃっているようです。

 Drosteやfractal現象を 取り押さえて 片づけたあと 対処するということなのか。あるいは その片付けの作業じたいが すでに 縦のsimulacra 動態であると 理論づけされようとするのか。

 * 復活ということをめぐって そのような理論を用意されているようでしたら ひきつづき ご投稿をください。

投稿日時 - 2008-10-05 15:37:15

ANo.31

復活とは、死後の問題ではなく、この今の人生において、悟りの境地を体験後に、自己再認識を経て、再生することを意味しているのでしょうか。その時、永遠の現在を生きていると言いたいのでしょうか。

僕は、人間が「永遠の現在」を生きると言われた時、ひどく馬鹿にされたように感じてしまいます。つまり、人は過去も未来も想起できる知的な存在で、主に今を生きる動物の認識水準とは、少しだけ違っていると言いたいわけです。過去も未来もイメージできる能力を持つ、決して現在だけではない時間的な広がり(幅)の中で生きていると言うべきだと思うのです。

>未来は この現在という時が そのまま空間移動するかのように 推移するものと思われます。

ここの空間化した時間感覚が、現代の時間論とかなりずれているようです。未来は、イメージできるが、断絶(隔絶)しているのであり、現在が移行して実現すると考えることは錯覚です。連続的な移行の先に繋がっていると考えるから、いつまでも現在が続く「永遠の現在」になってしまっているのです。隔絶した未来を理解するキーワードは、「可能性」です。「現実性」ではありません。

涅槃経に、ミルクのたとえ話があります。ミルクの中にヨーグルトの元(仏性のたとえでもある)がすでにあったのかどうかという問答です。結論としては、ミルクの中には、ヨーグルトになる可能性があっただけで、まだヨーグルトの味や固形化状態はないわけです。しかし、加工方法を間違えるとヨーグルトにはならず、腐ったミルクになるのです。未来は、可能性です。予期せぬ事態が生じることは多々あるのです。予想外だからこそ、未来は隔絶しているという感覚を持ちますし、日常的な言語ゲームでも、予想外の未来を想定して上で、会話しています。「通り魔も怖いけど、雑居ビル火災も怖いよね」とかです。

「永遠の現在」は、知的で哲学的な人には、あまり魅力的な用語ではないと思います。また、「復活」よりも「自己研鑽」、「修行・修練」の方が、日常的にはしっくり来ると思います。あくまでも、個人的な感想ですが。

投稿日時 - 2008-10-05 12:15:22

補足

 qsxdrfvgyhさん。これまでにも 対話のやり取りを重ねて来ましたし それほど 互いに見解が異なっているとは 思えません。
 用語の問題であるようにさえ 思えます。
 今回のご指摘では 次の二点を別とし得れば おおよそ 共通の認識に立っていると考えます。
 ★ 現代の時間論
 ☆ これをわたしは たしかに 身につけなければいけないと思います。
 ★ 「永遠の現在」は、知的で哲学的な人には、あまり魅力的な用語ではないと思います。
 ☆ この感覚がなかったので 再検討すべきかも知れません。たぶん そうでしたら 魅力的である・ないの二つに分かれるのではないでしょうか。

 あとは 細かいところについて 例によって 質問者が 反論を提出します。
 1. 《終わりから始める》という方針については 人間性の問題と 行為関係ないし社会現象の取り扱いの問題とに 分けて 捉えるとよいと考えます。
 2. 人間性については そのまま もろに 《終わり=目的の成就》という地点から始めてよいし 始めるべきだと考えます。
 3. ミルクからヨーグルトを作るという人間の行為については 設計図としては やはり 頭の中の《終わり》から始めますが その作業や努力の成否は まさにおっしゃるように《可能性》の問題になります。
 4.従いまして 現象にかんしては 紆余曲折・有為転変が そのまま 起きます。つまり
 ★ 《予期せぬ事態が生じることは多々あるのです。予想外だからこそ、未来は隔絶しているという感覚を持ちますし・・・》
 ☆ であると同時に 人間性の問題では このような《現象》の問題につきものの変化から 影響を受けつつも 基本的に 自由だと言いたいという意味があります。

 5. すなわち 現象には 復活という概念がなく 人間性には どうも ついて来るようだと言おうとしているわけですが その意味は こうです。すなわち 《現在》が 《可能性》の問題からあたかも自由になって すでに・いま・ここにおいて 《現実性》として 起きている世界動態である という感覚です。その実現が 復活です。

 6. 現在とは いま生きているという意識かつ問題意識が 持続している時空間です。問題意識に即して 生きることが 持続しているその範囲が定まります。
 7. ミルクだけを飲んでいた時空間(時代)は ミルクを飲みそれをヨーグルトにしても食べる時空間とは 別の問題意識になりますから 過去です。過去のそのこと(ミルクを飲む)自体が 新しい時空間でも 引き続き持続するのは かまわないわけです。

 8. 未来は 未来と将来とに 小区分されます。
 9. 仮りに ミルクやヨーグルトから 何か新しい成分への変化が起こるとすれば その問題意識を持った時点から それとしての現在が始まります。その問題意識に 科学的な可能性があると認識されたなら その《新しい成分の利用》の時代は 将来という時空間になります。《将(まさ)に来たるべき》時代です。
 10. 言いかえると その問題意識が まだ 芽生えていなかった時に その新しい時代を 仮りに捉えたとすれば それは 《未だ来たらざる》未来です。

 11. けれども 人間性の問題として 永遠の現在を生きる人にとっては それらの可能性を考えたり実現させようと努めたりしつつも また未来が将来になり 将来が現在になるという変化を とうぜん 見つつも 人間としての境地は 基礎が出来てからは それほど 《大変》ではないと言おうとしています。

投稿日時 - 2008-10-05 15:09:35

お礼

 * 《通り魔 / 雑居ビル火災》についても その現象と人間性の問題とを分けて考えるべきだと思います。前者では 法律・行政が 科学の助けを借りて 対処します。
 後者の人間性の問題は 被害者・加害者・関係者また第三者と呼ばれる大きく社会的な関係者 すなわち すべての人びとにかかわった問題です。思想と行為とそれらの関係 その関係どうしの相互作用ないし因果関係を 一人の人間についても 社会全体的な視点からも 解明し合っていくこと。
 解明だけではなく もちろん 互いの信頼関係のもとに 悪い可能性をあらかじめ防ぐという日常生活での言語ゲームを――井戸端会議を―― 繰り広げていくのがよいと考えます。

 * 復活した人びとの社会が そういうかたちであり かれらは 三分の一いれば まづ 安心だと思います。安全の網が はたらくでしょう。

 * そのときには これらの人びとも 《勉強》しますが それは 《終わりから始める》方式です。
 ★ 「復活」よりも「自己研鑽」、「修行・修練」の方が、日常的にはしっくり来ると思います。
 ☆ を 悪いと言おうとするのではなく そうではないのですが それでも 《永遠の現在》方式は じつは じつに 逆なのです。 
 ○ 「自己研鑽」、「修行・修練」よりも 「復活」
 ☆ なのです。

投稿日時 - 2008-10-05 15:12:24

ANo.30

 brageloneさん、たくさんのお話ありがとう。
 似像と書くのですか。関連して私の神話もお伝え致します。
 創造の意識の面、そこへ意識を向けた存在は、原材料のオーム界に自分を見つめるという仕方で、つまりsimulacraで構成、紡いでいると存じます。これは私の創造過程の理解です。同じ事をやはり人間はいろんなところで、simulacraしています。これも相似でしょうね。
 創造意識のsimulacraの、光(意識)を通すフィルムの一つが、個々としてではない人(ひとり子━普遍意識)なのでしょう。
 そして個々の人も個々の世界紡きということをしているのでしょう。
 これをbrageloneさんは単なる想像、語りものとされますか。
 実は私は西洋のバイブルやヒンドゥの聖典を理解しております。すべて相似(Droste そしてfractal)ですので、ここを出るには光をさかのぼらないといけません。それはものの道理を飛び越えるということで、何にもないときに観念とことばでの受け取りなのです。

投稿日時 - 2008-10-05 07:46:59

補足

 krya1998さん。遅れたおはようございますです。

 krya1998さん ご明察のとおり 《司法》は 《神の法》とは はなはだ不類似です。似ても似つかない状態の部分も あるかも知れません。あるいはまた すでに《立法》したあとの法律条文の解釈をなすのみであって 摂理あるいは もう少し経験具体的な自然法 からも 遠ざかってしまっている現状にあるのかも知れません。じっさい そういう問題がありますよね。

 しかも 先天的に授かっている・人類にとっての大いなる記憶体系があり そこから立法し司法するのだとすれば その法体系は あたかも 父なる神の記憶行為の 模像であると言えるかも知れません。というより 自由にさまざまに論じ合い そういうあり方に持っていくのが 人間であると思いますが いかがでしょうか? つねに 過程であるでしょうし 過程であっていいという前提で 作業を重ねていくものと考えます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  実は私は西洋のバイブルやヒンドゥの聖典を理解しております。すべて相似(Droste そしてfractal)ですので、ここを出るには光をさかのぼらないといけません。それはものの道理を飛び越えるということで、何にもないときに観念とことばでの受け取りなのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とおっしゃることの実質的な意味は たとえば上のような意志行為にあると 愚考します。
 そして どちらかと言えば いままでは 《 simulacra / 相似(Droste そしてfractal)》について krya1998さんは 横の相似関係を指摘しておられました。悪くいえば 互いに同じ穴の狢じゃないかという水平的な視点と視線関係のことです。ですが 今回は
 ★ ここを出る〔には光をさかのぼらないといけません。〕それはものの道理を飛び越えるということで
 ☆ というふうに 明確に 《人が人を超えるとき》についても ついに 触れたという恰好です。
 つまり これは これが 垂直的な縦の相似関係ですね。
 たしかに そこで
 ★ 個々の人も個々の世界紡きということをしているのでしょう。
 ☆ が出てくると思います。

 ★  創造意識のsimulacraの、光(意識)を通すフィルムの一つが、個々としてではない人(ひとり子━普遍意識)なのでしょう。
 ☆ まだまだ 慣れない表現ですので この表現をぴったりとした理解に持っていくには ただちには 行き届きません。ぼちぼちとにします。
 (印象批評としてなら こうです。《人の子》は 肉につくられましたが 表象し得ないと思われ 《フィルム》にも現像されないかも知れません。と思うのですが しかも このことについて 人間の意識とのあいだの橋渡しの作業が 望まれるということのようです。そうすると それは フィルムへの現像というよりは simulacra としての模像であるかも知れません。模像・偶像であって しかも 《ここから出て》 説明をもたらす表現であらねばならない。うんぬんです)。(いつも 説教口調で すみません)。

投稿日時 - 2008-10-05 10:40:09

ANo.29

霊が時空間宇宙を含んでいるのは、時空間宇宙の不完全性に霊が帰因するからで、・・
我々が時空間から遊離しているのは、我々が脳のシナプスの情報のやり取りで形成されたところの
独特のアーキテクチャで構成されているから、物質、脳内の信号は時空間宇宙に属してはいても
結果である我々はそこに属していない独立した存在となってしまっています。
我々が我々としている意識は、時空間宇宙側の存在とは言えません。

霊の側でもないことも、明らかです。脳細胞を使ってますからね。

>この日常の社会生活において われわれは 《わたしが わたしである》状態を見失っている ということでしょうか?

 わたしがわたしである状態がどこから見ても(わたしから見ても、時空間宇宙から見ても、霊から見ても)現実である
と錯誤を起こしているといういことでしょう。わたしはわたしを見失ってはおらず、むしろ過信しすぎているのでしょう。
 父と子と聖霊は、互いに直交し合ってその交点が我々なのでしょうけど、知解のベクトルがわたしにしか向いていない状態
なのだと思います。

>☆ これを わたしも さらに 追ってまいります。にわかには 思考が進みません。
 
 核心に入って着ましたね。でも、時空間宇宙の不完全性とその実相からすると、有神論、無神論の互いの関係が振動し始めたところで
 8割方、もう見えているではありませんか。超えるべき壁は日常性と社会性だと思うのですが・・

>* 特異点は あくまで 経験世界に属するのでは?
 特異点の存在までは経験世界です。
 特異点の存在理由は経験世界を超えています。

投稿日時 - 2008-10-05 01:37:47

補足

 ううーん。bananasandさん。全体として ようわからん。です。

 ★ 特異点
 ☆ は 勉強不足ゆえ。

 ★ 8割方、もう見えているではありませんか。超えるべき壁は日常性と社会性だと思うのですが・・
 ☆ こういうふうに言われると あせるからでしょうか。余計にわからなくなるのだと思う。
 ★ 時空間宇宙の不完全性とその実相からすると、有神論、無神論の互いの関係が振動し始めたところで
 ☆ という情況なのですが 《振動》が 何のことか?

 一般に現代人が
 ★ わたしはわたしを見失ってはおらず、むしろ過信しすぎているのでしょう。
 ☆ これは 問題ないでしょう。共通認識ですね。
 ★  父と子と聖霊は、互いに直交し合ってその交点が我々なのでしょうけど、知解のベクトルがわたしにしか向いていない状態 / なのだと思います。
 ☆ わからへん。どういうこっちゃ?

 ★ 霊が時空間宇宙を含んでいるのは、時空間宇宙の不完全性に霊が帰因するからで、・・
 ☆ これは 相対性の世界に生きる有限の人生と能力とを持つ人間にとって その世界を超える領域を わざわざ 想定するという事態のことを言っているはづです。
 ★ 不完全性
 ☆ を 人間の生きる姿に あてはめても しょうがないとちゃうん? もともと 不完全ですと返されておしまいに成りがち。と言うか 不完全のまま 不完全を受け容れて 不完全と共に 《遊離した魂を焼き尽くす》ところの復活の生かつ共生を生きるのじゃなかった? bananasand さんのご議論は。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 我々が時空間から遊離しているのは、我々が脳のシナプスの情報のやり取りで形成されたところの
独特のアーキテクチャで構成されているから、物質、脳内の信号は時空間宇宙に属してはいても
結果である我々はそこに属していない独立した存在となってしまっています。
我々が我々としている意識は、時空間宇宙側の存在とは言えません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの言葉では こうなります。《人間は 神なる霊に包まれており その霊を宿すとさえ考えられるのに この霊に逆らって行動する。そのような自由意志をも授かっている》。つまり ここで
 ★ 独立
 ☆ とあるのは そのような 自由意志による・結局は自己に対する背反や反逆のことでしょうか。

 以上は 《思案中です》との中間報告でした。時間を与えたまえかし。

投稿日時 - 2008-10-05 09:59:37

ANo.28

全体の流れをほとんど見ていませんので、かなりずれた回答になってしまいますが、お許しください。
「永遠の現在」というキーワードは、brageloneさんのお気に入り用語だと思うのですが、これが究極的に虚構でしょう。僕たちは、現在という時間分類にだけ属し、生きていると暗黙に了解しているようですが、ここに矛盾が生じます。もしも、僕たちが永遠の現在に生きているならば、思い出も現在に属し、想像・予測・予定も現在に属していると言うべきです。しかし、すべての時間を永遠の現在に包摂するような一元化の発想は、過去や未来を区別したい僕たちの日常的な言語感覚から乖離した特殊な言語ゲームになっています。そのような時間感覚には、違和感を持ちます。僕たちは、過去に生きた痕跡を残し、未来に生きる可能性を孕みながら、決して現在だけではない、時間的な広がりの中で存在しているものと感じています。ですから、「復活、不死」と「永遠の現在」との間には、相当密接な関係があるようであり、僕たちの日常的な言語ゲームから乖離した別の世界(虚構)を形成していて、現実世界から隔絶していると思われてしまいます。そのような印象です。

投稿日時 - 2008-10-04 23:51:53

補足

 qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。
 いま一つ 語弊があると言いますか 表現があいまいで 誤解を生むような主題を扱っているという点 これを 指摘していただきました。 前回では 《霊魂 / 復活 / 不死》が 誤解を招きやすいということでした。この直前のNo.27で bananasand さんからも ご指摘を受けました。
 
 でも 《霊》を持ち出したことに 積極的な意味もあるように思います。それは このきわめて曖昧な霊という概念を きちんと 規定し それにまつわるいろいろな概念のことをも 交通整理しておけるなら 願ったり叶ったりだと思うからです。

 さて 今回は 《永遠の現在》 これを 経験思想において きちんと 定義せよ。こういうお叱りだと受け取ります。
 No.2などで CUE009さんが指摘してくれたことなのですが 要は 《この肉(身体および精神)が朽ちること つまり わが存在が死ぬということ この経験事実を 受け容れよ》 こう言っているだけだとも 言えるのではないでしょうか。つまり そうし得た魂は 《永遠の現在》を 生きることになるのだという意味です。

 解きほぐします。と言いますか すでにこの今 死を 観念においてにしろ 経験事実の問題として 受け留め 受け容れざるを得ないと観念している人は もう あとの生は 死生観に変化を生ずることなく 生きる。これだけで よいと思うのですが。

 過去は この現在時に あたかも収斂してくるでしょうし――ただし 過ぎ去ったことは 過ぎ去ったことです―― 未来は この現在という時が そのまま空間移動するかのように 推移するものと思われます。むろん その動態の過程において さまざまな思考も行動も おこなうのです。新しい事態が 次から次へ起こることに ちがいは有りません。ですから 《一元化》ではないのです。
 言いかえると 《日常的な言語ゲーム》としては 皆とまったく同じ生活を送ります。わづかに その基礎もしくは枠組みもしくは原動力もしくは《わたし》 これらが 新しくなっているということです。すなわち あたかも《復活》したからです。

 あらためて 微妙に違った表現で 説明します。まったく同じ《日常的な言語ゲーム》なる社会生活にあって 《永遠の現在》派は どこが ちがうか。たぶん 人びと一般は いつか来る死へ向かって進んでいる。それに対しては すでに死んでいる。これを言いかえれば 《死への一本道》が その人の心根において 死んだ。つまり 死が死んだ。死が死なしめられた。つまり 生きている。わたしが わたしとして 生きている。この現在が 永遠の現在として 推移するという恰好です。いかがでしょうか。

 日常生活から乖離していくのではなく そうではなく――なぜなら 井戸端会議だと言っています―― 日常生活が 《一回転》するのだと見ます。あるいは《方向転換》すると言えるのではないでしょうか。
 つまり念のために言えば 復活と言っても 死んだあとのことを どうにかして 考えておこうという問題ではありません。

投稿日時 - 2008-10-05 00:49:54

ANo.27

最初に・・
”霊”という漢字を使っているのですが、幽霊とか、それこそ日常で使う 霊 の意味とは全く別のことを
表しているので、継ぎ接ぎで読んでいる方には誤解を受けるでしょうね。

それはさておいて、

選択においては、
《ある》が故に《ない》ではない。
《ない》が故に《ある》ではない。
で終わります。
同一の論理をもってしても、正しさが異なる場合、理解に方向性を持ちますので、
《ある》かつ《ある》、《ある》かつ《ない》、《ない》かつ《ある》、《ない》かつ《ない》
ですね。

そこで、(3)の《ある》かつ《ない》、《ない》かつ《ある》で、

>(3-1) ★ 時空間宇宙の《日常》と《実相》との違い
 ☆(3-1)について:同一の現象を二人の人が 違って観測した場合。観測の地点や情況やあるいは主観の違いによって 異なりうる。――このこと自体は 超経験と かかわらない。

 ここが、最初にANo.12で記載したとおり、ご質問の一番難しいところです。
 社会性は日常性の上に成り立っていますから、時空間宇宙の実相を改めて日常が完全に取り込む必要があります。
 日常を作り出しているのは、我々であって、時空間宇宙ではないということですね。
 当然、時空間宇宙なしには日常は成り立ちませんし、日常の全ては時空間宇宙に包含されてますよ。
 しかし、端的に言うと日常を日常たらしめているのは我々自身ということですね。。
 時空間宇宙の実相を取り込むというのは、時空間宇宙には実体がないということであって、
 実体をあらしめているのが我々だと言うことでしょうか。
 今の常識的日常という視点で見た時間と空間は、時空間宇宙の実相とはかけ離れた人間知性に都合の良いいわば解釈である
 ということです。

  >――このこと自体は 超経験と かかわらない。

   そうですね、この段階で超経験とは関わりません。
 
>(3-2) ★ 《特異点》の問題:
☆(3-2):★ 《特異点が日常ではないにしても当選確実だからですね。是非ここまでは経験の範疇に入れてください》という表明のとおり なおまだ《経験世界》のことなり。

 特異点定理で特異点は避けて通れない問題となりました。量子重力論などによって特異点の数学的点は否定される
 日が来るでしょうけど、微少の特異量子(造語)の存在は間違いないでしょう。
 この特異点は、《ある》かつ《ない》を最も端的に実証するものの一つです。

>(3-3) ★ 人間精神を超えた霊が 精神の中に入り込む事態
☆(3-3):これは 《接点》の問題として捉える。じつは (3-1&2)の場合にも 超経験は 経験現実とかかわらないけれども すでに 接点を持っているかも知れない。《超えている》ということは 《包んでいる》そして ゆえに《接している》と想定しうる。

 我々はどうしても「時間」を消費しないと思考できない存在ですからこればかりはどうしようもありません。
 物質、エネルギー、時間の要素を含まない精神的なものを思考しているのですから・・・かといって、否定しうる根拠も半分しか見あたりません。
 霊との直接接点はありませんし、実体は知り得ません。だから、《ある》《ない》のみの思考となります。

>☆(3-4):おそらく《これゆえ 人間知性は 驚異的能力を持つ》。ただし 《霊との直接対面が 人間にとって 絶望的である》のは 初めからの想定事項だ。
 そうですね。

>☆(3-5):このような《霊と人間》との関係は しかしながら 《二元の対立》ではあり得ない。どちらかと言えば 《越えたほう・包むほう》が 根元だ。その霊を分有するかのように《宿す》ほうは その霊に 基本的に 従属している。要するに 人間に勝ち目はない。
 勝ち目かどうかは解りませんが・・・超えているものが根元でしょう。
 霊は時空間宇宙を包んでいるでしょうね。しかし、我々は時空間宇宙から遊離してしまっているのです。
 つまり、我々の脳細胞は霊に包含されていても我々はそこから遊離しています。独立してしまっているのです。

>☆(3-6):ゆえに ・・・・・・・・・・・・・・最大限に尊重しようとして 出来た理論なのではあるまいか。

 時空間宇宙の実相、即ち、《ある》かつ《ない》からのインスピレーションに過ぎないと思いますよ。 極く単純です。

>以上は 《包摂》観を実相とする思想に立つと 日常生活でわれわれは(わたしは) 身動きがとれないようになるのではないかと恐れて 考えたところです。一応 ボールをお返しできたかと思います。

 そうですね。日常の延長線上に社会性がありますから、今の日常に、単純にこれを入れると
 身動きがとれなくなるというところもこのご質問の非常に難しいところだと思います。恐怖でさえあります。
 そこに潜在力があり、遊離した「生」を焼き尽くし、復活させる熱さがあります。

投稿日時 - 2008-10-04 22:54:31

お礼

 bananasandさん。総じて 前回のわたしの応答でよかったと思います。

 最後の箇所 すなわち
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 今の日常に、単純にこれ(* 霊は存在でありかつ非存在である両面肯定論)を入れると / 身動きがとれなくなるというところもこのご質問の非常に難しいところだと思います。恐怖でさえあります。
 そこに潜在力があり、遊離した「生」を焼き尽くし、復活させる熱さがあります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これを わたしも さらに 追ってまいります。にわかには 思考が進みません。

 一点 ひっかかっているところが あります。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  霊は時空間宇宙を包んでいるでしょうね。しかし、我々は時空間宇宙から遊離してしまっているのです。
 つまり、我々の脳細胞は霊に包含されていても我々はそこから遊離しています。独立してしまっているのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《時空間宇宙から遊離してしまっている》なら 《霊》の領域にある ということでしょうか? その《独立》とは これいかに?

 ちょっと 分かりません。上にあらためて掲げたわたしにとっての新知見のほうで
 ★ 遊離した「生」を焼き尽くし
 ☆ というふうに 《遊離》が使われています。もし この意味あいで捉えるなら どうなるでしょうか。或る種の仕方で 《我々またその脳細胞 あるいはつまり われわれの生》 これが 霊の領域に行ったというのではなく そうではなく 単純に さまよっているというところなのでしょうか?
 この日常の社会生活において われわれは 《わたしが わたしである》状態を見失っている ということでしょうか?
 もしそうでしたら No.25の補足欄に 或る程度のことを書きこみました。よろしかったら たたき台にしてください。

 それこそ 火花が散りましたね。
 そして 有神論と無神論のほかに 非思考(信仰)などどうでもよいと主張したがる第三の道 これは ありうるかの問題にも 一定の回答が得られたのではないでしょうか。よかったと思います。

 * 特異点は あくまで 経験世界に属するのでは?

投稿日時 - 2008-10-05 00:11:33

ANo.26

お久しぶりです。
質問の文面からは、「復活」に関する執着からまだ自由になれていないように推察しました。心身二元論なのですね。デカルト的な発想なのでしょうか。大方の常識では、心身一如だと思いますよ。魂だけが、分離し復活してほしいという願望は、悲しみの反作用として理解できますが、復活は事実じゃないでしょう。事実であるならば、数百億の実例が示されていて、取るに足りない論点になっているはずでしょう。無いもの探しは止めませんか。まともな知識人ならば、寓話とするテーマだと思います。
以前、どこかで、自己の死は、(究極の)他者になることだと書きました。このことが、浅学の私が見聞きした現代哲学の到達点ではないかと思います。他者のアラヤ識において再生(復活)するということならば、同意ですが、実体的な霊魂の復活観は、物語だけにしてもらいたいと思います。

投稿日時 - 2008-10-04 19:54:04

お礼

 qsxdrfvgyhさん お久しぶりです。ご回答をありがとうございます。

 ただ 少し 趣旨が 違うように思いますよ。
 《復活 / 不死 / 霊魂》とくれば ご回答に書かれているように解してしまうという場合も あるかと思います。思いますが これまでの質疑応答をたどっていただければ 復活が 魂だけの永遠であるとかの議論とは およそ 似つかないものだと了解していただけると思います。

 つまり 質問趣旨の中でも
 ○ 復活とは 真理が すべてにおいて すべてであること
 ☆ という一つの定義をしています。すなわち
 ★ 自己の死は、(究極の)他者になることだ
 ☆ とおっしゃるとき いくつかの点で その内容を 包摂しつつ 違いを出していると思いますよ。
 1.《死》を迎えるかどうかを この復活論においては 問題としていない。あるいは その焦点とはしていません。
 2.《他者になる》かどうか これも どちらであっても よいのです。
 3. しかも 《真理が 真理として すべての人間関係において はたらく》情況を 復活というのですから その《他者になること》をも 包摂しているはづです。
 4. ですから ふつうの日常生活において 人間関係 それとしての行為関係 それらの社会的な次元における錯綜的な相互作用関係 つまり これらの《縁起関係》が 分かる。分かるようになる。それに応じて 行動することができる。互いに その自由さを 支え合い 促し合うまで行けたら さらによい。・・・

 これが 復活という事態です。吟味していただくと おもしろいかと思いますよ。ちょっと 勇み足だと思いますよ!!

 * 有神論・無神論の信仰が出ているのは 上のように 現実社会の中身が分かるようになること それには 《非思考》としての信仰のはたらきが 欠かせないのではないか。こういう趣旨です。

投稿日時 - 2008-10-04 20:56:28

ANo.25

 brageloneさん
★★ 相似
 ☆ ということを おっしゃっています。イエスとわたしたち一人ひとりとが この相似関係なのではないでしょうか? ブラフマミンの度合いにおいても そうなのだと思いますが いかがでしょうか?

 相似というのは創造されている、この創造界映画の為され方の通則的あり方を、私の思索(そんな大それたことなどしてない愚かな思索)での思いです。ですが私の精進している教えの大元の考え方にはそれほど矛盾してはいないと存じます。つまりはこの世界は複雑そうにみえ、そういう複雑さで私たちに迫ってきてはいるが、正体は何のこともない、単純な遣り方だ。その一つが同じありようややり方の、位置と角度を調合しながらの、繰り返しではないか。と私は見切ったのです。
 それは手を変え品を変えて、見せているfractal構造と、Droste効果の取り留めないやりかただ。創造にかかる、私たちの眼前の映画はそんあものでしかない。
 ということを説明したいが故のことばであります。
 
 構造的にイエスと私たちが相似かどうか。
 そこに超えがたい川や障壁を、イエスも創造者も設けているとは存じません。基本的にはそうなのですが、そういうありかたで日常の自分を生きていられる存在と、そうでない存在っていう差はとても大きいのです。甘くはありません。
 創造の父となった神が、原初的vibrationを発して、そこに自己を反射させて。創造界はそういう意味で、相似であり、にすがたです。
 こういう表現では私たちは説明はされてはいませんが、私自身個人の見切りということです。だから創造者、イエス様、創造界、そしてその中に右往左往させられ、していて、エンタングルしている、まみれ・まろびいる私たちも、本当の姿、実体は正に同じであるといえるのではないでしょうか。差の大きさはもちろん別にして。

 brageloneさん、教えてください。
 よくにすがたっていいますね、これって似姿と単語登録してもいいでしょうかね。もっといい字やことばってないものでしょうかね。
 どなたかが使っていたような記憶があって、よし記憶したぞ、思いながら、今になって、その使用されていた字が思い出せないのです。

 やはりここ数ヶ月、急激に衰え、機能低下がはなはだしいのです。
 いけないことに、すぐに逆上して、57や53の甥を怒鳴っています。困ったものです。

投稿日時 - 2008-10-04 10:58:21

補足

 似像のお話。

 ▲(創世記1:26~27)~~~~~~~~~~~
 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。 ・・・」
 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 1.わたしは 自分がまちがいを犯すと 我に帰って 申し訳なさと悔しさを伴なって あぁ これが 自分だと思う。
 2. 誰かに欺かれると 我に帰って あぁ しかしながら これが いまのわたしであり 自分だと思う。
 3. 《わたしが わたしである》ときは 現実に起こると思う。
 4. わたしは 自分が わたしして生きたいと思う。

 5. おそらく そもそも先験的に 《わたしがわたしである》という記憶が 誰にも 備わっている。
 6. この記憶が あたかも自己表出するなら それは 《わたしがわたしである》という知解である。
 7. 記憶の内容を知ったわけである。
 8. 《我は我なり》という記憶内容および知解内容 これらを あたかも第三のわたしが 思う。

 9. 《記憶》において わたしは わたしがあるという《第一のわたし》のことを 覚えている。これが 自己表出すると 同じ内容としての《第二のわたし》が あたかも生まれる。そのことを知っている。けれども わたしは さらに《第三のわたし》がいると予感している。そのわたしは 第一の記憶としてのわたしと 第二の知解としてのわたしとを 捉え 思っている。
 10. 《思う》というのは 大事にするということだ。育てよう・生かそうとする。つまり 第三のわたしは 《意志》であり《愛》である。

 11. 記憶と知解とにおける姿としての《わたしがわたしである》ことを 思うとは どういうことか。記憶内容と知解内容とをまとめて 総合的に 全体たるわたしとして 生かそうとする。つまり 《わたしがわたしする》ところの意志行為である。
 12. 一般に 記憶と知解の両者をむすぶ役割を担い 良く意志しようとするゆえ 《愛》の行為である。

 13. 記憶と知解と意志とが 子の父と 父の子と 父および子から発出する聖霊とに それぞれ 相似してのごとく 対応すると捉えられる。
 14. 神は 光にたとえられ 父は 《光源》に 子は そこから生まれるかのような《発耀》に そして 聖霊は それら両者から発出するかのような《明るさ・暖かさ》に それぞれ 喩えられる。
 15. 父も子も 《聖》であり 《霊》であり また 《愛》であるが 聖霊が 意志もしくは愛に喩えられるのは より一層ふさわしい。明・暖であるゆえ。そのつてでは 子は 知解であり 父は 記憶である。もちろん これら三つの位格は 一体である。

 16. 人は 神にかたどり 神に似せて つくられたと推し測られる。記憶と知解と意志とが――はなはだ不類似ながら 神の三位一体に似せてつくられており―― 一体性を備え これを人は享受している。享受しうるように生きるのが よろしい。
 17. 〔不評でしたが〕 社会にあっては 順に 《司法・立法そして行政》に喩えられるのではあるまいか。  

投稿日時 - 2008-10-04 18:18:34

お礼

 これから 野暮用で 出かけます。帰ってから あらためて考えます。

 ★ 相似
 ☆ は おおむね そう考えることもできる ということで よろしいのですね? それなら それは よかったです。

 ★ 右往左往させられ、していて、エンタングルしている、まみれ・まろびいる私たち
 ☆ おもしろい表現ですね。

 ★ 似姿
 ☆ 似像と書いて にすがた と読ませる場合に よく 遭います。
 《かたち(むしろ 像 のほうとして)》が いろいろな面を見せるというその局面が 《すがた(姿)》だとすれば 《像》のほうが 合っているかと推し測られます。
 ただし 《すがた=素・形》という意味から成っているとすれば この和語のほうが 合っているようにも感じます。

 草草にて ごめんください。

投稿日時 - 2008-10-04 11:51:42

ANo.24

>《存在 / 非存在》の両側面を ひとりの人が 合わせて 同時に 捉えると どうなるでしょう? 
>じつは この《ある / ない》というのは あくまで 経験的な存在にかかわる概念です。
>逆に言えば 霊は この・ものごとを有るか無いかで判断するところの経験世界を超えています。

そうでしょうか。
連続した時空間内でAさんの周辺は動いているのに、Bさんの周辺は停止している。
1つのものがA地点とB地点に同時に存在する。
そこを見たときはあるのに、見ていないときはない。
一の移動体がA地点からB地点に到達するにAさんから見て10年必要なのにBさんから見ると瞬時に移動している。

どちらも、互いに否定し合う必要などなくて、両方とも正しいことはいくらでもあります。
これらに神の視点とか裁きとかはありません。

確かに、日常ではありません。
しかし、時空間宇宙の実相を見れば、これが本来の姿であることに驚愕します。

>同時に 認めるということは この超経験を 経験理性が その頭脳の中に 取り込むことになるではないのでしょうか。

上述までは、超経験の手前だと思います。特異点が日常ではないにしても当選確実だからですね。是非ここまでは経験の範疇に入れてください。

両者肯定は、一方を肯定したとき、必然的に他方が否定されることが起こらないのです。そもそもは、一方だけを肯定する態度が
ないのです。原則的には、一方だけに視点を移した瞬間に両者肯定が崩壊します。

で、この先が超経験だと思うんですね。

>3. ゆえに 精神の中に入り込んだ霊は 《精神的なもの》として 現われている。

まさしく、そうなんです。そしてまた、これが人間知性の驚異的能力でもあるのですが、
それこそが霊への直接対面を絶望的にしている所以ですね。

>霊が このように 精神という経験世界に入り込んで来ているとすれば 無神論は もはや 成り立ち得ないと言っているに
>等しいと思われるのですが どうでしょう?

これはそう単純ではありません。
我々にとって、今が常に今であり続ける事実は、2元対立の狭間で一方へと安定化してはいないことが実相だといういことを表しているのではないでしょうか。。
そうでなければ、まだ始まっていないか、既に終わっているはずで、奇跡だとして追いやることの方が違和感があるんですね。

2元対立の両者肯定は、4つのパターンへ分化し複雑化しますが、時空間宇宙が安定化していないことからの
単純な帰結をそのまま受け入れてゆく以外ありません。

神はあるのか、ないのか。
正確には、あるとも言えるしないとも言えるではなくて・・・あるとする肯定とないとする肯定を同時に把握します。
その状態が立場、視点、都合によって変わることを許さない(変わることを包含した)唯一の答えなのです。
なぜならば、それが時空間宇宙の実相だからです。

投稿日時 - 2008-10-04 08:55:52

補足

 おはようございます。

 そうですね。一つひとつの事項を きちんと 検証していかねばならないと思います。

 まづ 次の考えは 魅力的であると思い 重ねて掲げます。
 ★★(No.21)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (α) 不幸、失敗、悩みの本質であるところの / 「生」を焼き尽くすということを基盤としての社会性が成り立つと思うんですね。それが現実としての、 生 の復活となるのではないでしょうか。
 
 (β) 《存在》と《非存在》とは 同時並行して《込み》だと考える  立場が共通意識として満たされたとき、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そして(α)は 表現を わたし風に編成して そのまま 結論としてのように持ちたいと思います。そのわたしにとっての骨子は
 ○ 旧き人を脱ぎ 新らしき人を着よ。
 ☆ になります。
 ですが (β)は 魅力的であるにもかかわらず 実際の生活態度――それが 思想だと思うのですが――にとっては なんとも 受け容れがたいですね。受け容れても 使い勝手が 定まらないのではないでしょうか?
 さて その(β)の《霊にかんして 存在 / 非存在なる両側面を同時に肯定する理論》についてです。
 (1) 最も単純な反論として: 
 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この経験世界を超えた領域を 霊として 想定するのは よい。また それは 《ある/ない》を超えているからには 仮りに規定するとすれば 《ある》か 《ない》か 《ある かつ ない》か 《あるでもなく ないでもない》か それら四通りのどれでも 選んでよい。じつは そうであって そうなのだが 一つを選んだ者は 他の三通りを 同時に 認めていなければならない。それが 《良心・信教の自由》という公理なのだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (2) 次に 上の反論事由の中の《四通り》は 実際には 前二つの二通りしかないということを 論証します。まづ 《あるでもなく ないでもない》という仮りの規定をえらんだ場合です。
 これは あたかも 時と場合によって 仮りに《ある》であったり《ない》であったりするのだと考えられます。けれども これなら 《ある》の一本として選んだ場合と 同じことになります。《ある》つまり有神論に立つという場合にも 神はあたかも現われたり隠れたりしているのですから。
 あるいは もし そういう顕在潜在といった側面とは まったく関係ないとするのならば それは 《ない》という選択つまり無神論を標榜するに等しいわけですから。
 (3) さて 《ある かつ ない》の両者の同時肯定論についてです。いくつかの角度から 捉えることになると思います。
 (3-1) ★ 時空間宇宙の《日常》と《実相》との違い
 (3-2) ★ 《特異点》の問題:
 (3-3) ★ 人間精神を超えた霊が 精神の中に入り込む事態
 (3-4) ★ これが人間知性の驚異的能力でもある〔と同時に〕
    それこそが霊への直接対面を絶望的にしている所以だ
 (3-5) ★ 〔しかも その事情ゆえに 知性と霊との――つま
    り 人間と神との〕2元対立の狭間で一方へと安定化してはい
    ないことが実相だ / そうでなければ、まだ始まっていない 
    か、既に終わっているはずで、奇跡だとして追いやることの方
    が違和感がある
 (3-6) ★ 〔以上の繰り返しではあるが〕神はあるのか、ない
    のか。/ 正確には、あるとも言えるしないとも言えるではなく
    て・・・あるとする肯定とないとする肯定を同時に把握〔す
    る〕。/ その状態が立場、視点、都合によって変わることを許
    さない(変わることを包含した)唯一の答えなのです。 / な
    ぜならば、それが時空間宇宙の実相だから。

 ☆(3-1)について:同一の現象を二人の人が 違って観測した場合。観測の地点や情況やあるいは主観の違いによって 異なりうる。――このこと自体は 超経験と かかわらない。
 ☆(3-2):★ 《特異点が日常ではないにしても当選確実だからですね。是非ここまでは経験の範疇に入れてください》という表明のとおり なおまだ《経験世界》のことなり。
 ☆(3-3):これは 《接点》の問題として捉える。じつは (3-1&2)の場合にも 超経験は 経験現実とかかわらないけれども すでに 接点を持っているかも知れない。《超えている》ということは 《包んでいる》そして ゆえに《接している》と想定しうる。

投稿日時 - 2008-10-04 11:33:59

お礼

 したがって 《霊が精神の中に入り込む》というのは 《身体(感性)》とも《接点》を持つのだから 《霊は 肉(つまり身体および精神)に宿る》という想定事態だ。
 ☆(3-4):おそらく《これゆえ 人間知性は 驚異的能力を持つ》。ただし 《霊との直接対面が 人間にとって 絶望的である》のは 初めからの想定事項だ。
 ☆(3-5):このような《霊と人間》との関係は しかしながら 《二元の対立》ではあり得ない。どちらかと言えば 《越えたほう・包むほう》が 根元だ。その霊を分有するかのように《宿す》ほうは その霊に 基本的に 従属している。要するに 人間に勝ち目はない。
 ☆(3-6):ゆえに これまでは 有神論の場合の分析であったが これを 無神論者は ひとつのことを除いて 認めない。《霊が人間に宿る / 〔ちなみに〕人間には 仏性がある》を ちゃんちゃら おかしいと見る。ただし認めざるを得ない一つのこととはこうである。 《霊》とも呼ぶ《超経験のなぞ》については 一度は それと対面した体験を持つということだ。Uターンして来ただけだ。(未体験であっても いま このことを聞いた瞬間 あたかも 体験した恰好となろう。もしそうでなければ その人にとって 人間は あたかも全知全能だとなる。つまり 《なぞ》は一切ないという立ち場に立つ。ただし これは 非現実だ)。
 この人間にとっては 有神論と無神論とのあいだで 揺れることもあろうし 一たん決めた良心の選びも 変えることは 自由だ。
 おそらく 《存在かつ非存在》の包摂論は この《信教の自由》というその《自由》を 最大限に尊重しようとして 出来た理論なのではあるまいか。

 以上は 《包摂》観を実相とする思想に立つと 日常生活でわれわれは(わたしは) 身動きがとれないようになるのではないかと恐れて 考えたところです。一応 ボールをお返しできたかと思います。

投稿日時 - 2008-10-04 11:42:24

ANo.23

 brageloneさん、お休みに賛成です。お休みですから、応答はどちらでも結構ですよ。

1. ANo.18関係のお礼の欄でいわれている潜在力ってよくわかりませんでした。

2. それと、私はあまり心理が精妙でないのか、私自身は仰せのような心理を自覚しておりません、というか実は何もないのです。考ええても思ってもいないのです。自分で自覚していないのかも知れません。判らないのでしょうかね。

3. 仰せの、みんなブラフミンではないかということについて━そのに2 イエスたちのブラフミンとわたしたちのブラフミン(?)
 お礼のところで、長大な引用を頂いておりますね。
 その中で、
 イエス様が自分につながれ、とか、いろいろいわれているのは、その通りなのでしょうね。
 日月星辰、花鳥風月、森羅万象、万物で神、つまりイエスのものでないものはこの世にありえないし、それから離れた存在というのはないでしょう?
 考えられませんよね、ありえないですよね。
 でも尚且つ、イエスがあらためて、自分につながれというのは、人間たる存在であるならば、人間として、もっと自分性を、本来性を自覚し、主体的に為りなさい、ということをおっしゃっているのではないでしょうか?
 自分は根源のものだと自覚し、そういうふうにいうことのできる、イエスさまと、そうでない、ただ根源から為されるままにこの地上に来てしまっている意識存在とは天地の差がありますよね。同じように根源と一体だといっても。
 イエスのように、根源の中に自己を覚醒してしまうことは、普通の(いくら根源から生まれているといっても)覚醒しない人が、覚醒することは、根源者の意志無くしては絶対に不可能ではないかと存じます。
 雲泥の差以上です。
 そういうイエスだから、どこの界であろうと、自分と根源者の意志と思いで、自由に、どういう形でも必要に応じて赴けるのではないですか?そういう意識と常人の意識を同じブラフミンということばではいえないでしょうね。

投稿日時 - 2008-10-04 07:26:41

お礼

 おはようございます。

 ひとことです。

 ★★ 相似
 ☆ ということを おっしゃっています。イエスとわたしたち一人ひとりとが この相似関係なのではないでしょうか? ブラフマミンの度合いにおいても そうなのだと思いますが いかがでしょうか?

 なら 潜在力も そこに すでに 入っていると思います。

投稿日時 - 2008-10-04 10:04:56

ANo.22

オコリザルです。
A16について、答えを期待して更なる謎かけです。
「聞き分けのよい子」
幼年期のしつけ次第です。

以下の歌を著作権を無視して引用します。
おばけなんて ないさ
おばけなんて うそさ
ねぼけたひとが
みまちがえたのさ
だけどちょっと だけどちょっと
ぼくだって こわいな
おばけなんて ないさ
おばけなんて うそさ

ほんとに おばけが
でてきたら どうしよう
れいぞうこに いれて
カチカチに しちゃおう
だけどちょっと だけどちょっと
ぼくだって こわいな
おばけなんて ないさ
おばけなんて うそさ

だけど こどもなら
ともだちに なろう
あくしゅを してから
おやつを たべよう
だけどちょっと だけどちょっと
ぼくだって こわいな
おばけなんて ないさ
おばけなんて うそさ

おばけの ともだち
つれてあるいたら
そこらじゅうの ひとが
びっくり するだろう
だけどちょっと だけどちょっと
ぼくだって こわいな
おばけなんて ないさ
おばけなんて うそさ

おばけのくにでは
おばけだらけ だってさ
そんなはなし きいて
おふろにはいろう
だけどちょっと だけどちょっと
ぼくだって こわいな
おばけなんて ないさ
おばけなんて うそさ

一般には無頓着かもしれませんがbrageloneさんなら霊への対処法として意味が理解できるのではないですか?
日常における霊への対処としてこの歌は正解です
1章は私が序盤で話した錯覚の話。
2章は現実的な霊への対処。
冷蔵庫に入れてカチカチは存在を固定するの意味とも申しましょうか。
3章は個人的マイブームのポケモン挨拶運動です。
存在するものをあえて霊化することもありうると示しています。
脳は失う能力はありません。
4章、霊体は感知可能であり無意識的には認識しうることを表しています。
心理学的「盲視」を了解すると無意識に例えなくてもいいのですが。
5章、除霊法です。
水に流す心象です。
お化けの国とは無意識が丸ごと大霊界的価値基準に汚染された様で、度が過ぎる人はあまり見かけませんが(哲学カテにはよくいる)霊症とでも言いますか大抵の人は何らかの形で影響を受けます。霊媒師の側に回った私も例外ではありません。

投稿日時 - 2008-10-03 22:44:10

補足

 primeapeさん 答えがあるとは 思えません。というのが わたしの答えになります。

 すでに 最初に
 ★ (ANo.1): 大霊界の住民の証言をしても馬鹿らしいのですが存在不確定のまま生と死に関わるいろんな妄想をして主観を翻弄します。
 ☆ と書いておられます。つまり すべては
 ★ 妄想
 ☆ なのです。それを 《霊》という言葉に置き換えたに過ぎません。そういう問題を扱っておられる。のではないでしょうか。
 つまり この《妄想》というのは 夢を いくらか 現実に近づけた内容のものだと考えます。睡眠中に見る夢を 言葉にして その内容が あたかも この現実にかかわっていると言おうとしたもののたぐいだと思います。

 どんな内容であるにせよ 夢を見ること自体は この現実世界に属しています。見た夢を 語っても かまわないわけです。虚構の世界という扱いを受けます。
 この妄想は この夢のたぐいを 現実であると見なして――それは 全面的にでしょうか あるいは 半ばにおいてでしょうか―― つまりは みづからが そのように錯覚を起こして 錯覚とともに 生きるというものです。

 このように 自己の演出するショウ(演劇ないし演技)とその舞台が さらに自己錯覚ないし自己催眠をつうじて 《カチカチ》に固められていきます。この舞台が《整う》と あとは 半ば ほんとうの現実であるかのように・すなわち《ワ゛-チャルな現実》として 妄想は 《おばけの世界》となって現われます。

 最後の一連で
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 おばけのくにでは
 おばけだらけ だってさ
 そんなはなし きいて
 おふろにはいろう
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と言い放って
 ★ 除霊
 ☆ したようなのですが ルフランが やはり
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だけどちょっと だけどちょっと
 ぼくだって こわいな
 おばけなんて ないさ
 おばけなんて うそさ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と やはり 繰り返しています。《仮想現実》であると ちゃんと 知っているのでしょう。しかも この《仮想現実》を容れた大きな現実 それこそが ほんとうの現実だと思っているのかも知れません。

 つまり すべては 《自作自演》の狂言であるということを 知っていると思われますが あるいはひょっとして 忘れてしまったのでしょうか。ほんの少し 忘れるひとときがあって欲しい / あれば いいがと思っているのでしょうか。
 そんなところだと思います。

投稿日時 - 2008-10-03 23:40:25

ANo.21

まず、霊の存在/非存在と我々の接点は、直接的にありません。
時空間宇宙を薄いカーテンとしてその向こう側に存在/非存在しています。
霊は、時空間宇宙の実相を通して二次的に直感する(この言い方も正確とは言えませんが)以外ありません。
霊は、物質的要素、エネルギー的要素、そして時間的要素のうち我々が時間として捉えている概念を一切含みません。
霊は精神的なものであってもいわゆる精神とは完全に異質です。

では、>非存在と見なすことまでは 同じでも その非存在は 文字どおり ゼロ(無)ですから

おそらくここが微妙にずれているから、有神論と無神論へと地滑りが起こるんですね。
我々から見て、確かに非存在は「無」です。しかし、あくまでも存在/非存在なのです。

この時空間宇宙の中でさえ、brageloneさんの時計は永遠に時を刻んでいるのに、私の時計は停止している
という空間が同時に(変な言い方ですが・・連続した空間の中に)存在しますね。
絵空事とは言えない現実です。果たして、どちらが真の永遠なのか・・・・

両者の違いは歴然としてますが、両者肯定は決してあやふやとは違います。
納得とは違うかもしれませんが、エネルギーを内在したまま、答えを獲得するのです。

>《虚構》と言うのは 無神論との橋渡しのためです。

承知しています。それは、片側の話で、未だ時空間宇宙内に留まるに必要なものですね。
でも突き詰めればここにも存在と非存在の狭間に炎が顔を出しますね。

>★☆ この今現在の世界が 復活であり 不死の境地であり 地獄・楽園をひっくるめて社会そのものだ。

後段の地獄・楽園をひっくるめて社会そのものではありますが、それ自体は復活であり 不死の境地であろうはずは
ありません。 《存在》と《非存在》とは 同時並行して《込み》だと考える  立場が共通意識として
満たされ、かつ、それがシステムとても機能したときに 復活 が成立します。

また、出演者が主役であって舞台は舞台に過ぎません。
霊との間で、>接点を見ないということは 互いに 火花を飛ばすような展開もないということです。
いえいえ、霊との間に直接接点はありませんが、時空間宇宙の不完全性の原因としての位置づけがありますから、
言い換えると、霊との直接の接点がないからこそ、時空間宇宙の存在と いわば不完全性としての 非存在の
間で我々が炎の中に置かれることになるわけです。

幸不幸や成功と失敗、マイナス側の悩み、プラスの悩み・・いずれも個人それぞれの中に存在して当然です。
《存在》と《非存在》とは 同時並行して《込み》だと考える  立場が共通意識として満たされたとき、
各個人の不幸、失敗、マイナスな悩みが炎に焼かれそれが消え去るのでなくて、その不幸、失敗、悩みの本質であるところの
「生」を焼き尽くすということを基盤としての社会性が成り立つと思うんですね。それが現実としての、 生 の復活となるのではないでしょうか。

投稿日時 - 2008-10-03 21:23:27

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 行き違いがありました。前回 大股で歩いて はや 結論に達したかと思ったのですが 概念の用い方に 食い違いがありました。
 確認しつつ つまりむしろ初めに戻って確認しつつ まいりたいと思います。そして 最終的に 補足要求となりました。

 ★ 霊が 存在 / 非存在 である。
 ☆ そうではなくて わたしの場合は 人間という経験存在から見れば その存在世界を超えていると想定するのですから 《不在》として 霊を 捉えていたのでした。
 したがって 有神論――つまり 霊を神として抱く信仰――においては この不在のものが あたかも この経験世界に 現在するというのですから そこでは 人間という存在と 接点を持ち 信仰動態において 火花を散らすであろうと見たのでした。

 たしかに 
 ★ 霊は 同時に 存在でもあれば 非存在でもある。
 ☆ と規定できると思います。《存在》という一面に特化すれば 有神論ですし 《非存在》を全面的に採用すれば 無神論になるからです。というように 言ってみれば 便利な用法をもたらすひとつの定義だとも思います。思いますが どうでしょう。
 この規定にもとづいて 《存在 / 非存在》の両側面を ひとりの人が 合わせて 同時に 捉えると どうなるでしょう? じつは この《ある / ない》というのは あくまで 経験的な存在にかかわる概念です。逆に言えば 霊は この・ものごとを有るか無いかで判断するところの経験世界を超えています。
 超経験の領域に 経験的な概念である《ある / ない》という規定を 同時に 認めるということは この超経験を 経験理性が その頭脳の中に 取り込むことになるではないのでしょうか。
 そして そう言えば たしかに すでに
 ★★(ANo.19)~~~~~~~~~~~~~~~~~
 前回表現した、”時空間宇宙の向こう側の精神的なもののみ”とか「霊」を解く鍵は、 / それが思考の範疇にはあるということですね。
  *
 いわば、永遠も、無限空間も、霊さえも思考の中にあるというわけです。
 しかし、我々自身が我々自身から見て時空間宇宙から遊離して成り立っている不可思議 / はあるにせよそれも脳細胞無くして成せる技ではありません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というふうにも 述べておられました。まさに
 ★ 霊さえも思考の中にあるというわけです。
 ☆ これですね。すなわち
 ★ ”時空間宇宙の向こう側の精神的なもののみ”
 ☆ という表現は 複雑であって 
 1. 霊は 超経験であり 人間の精神を超えている。
 2. その霊を 人間の精神は みづからの思考過程に取り込む。
 3. ゆえに 精神の中に入り込んだ霊は 《精神的なもの》として 現われている。
 ☆ というかたちで いくつかの局面から成り立っているのですね。

 ここで 一点 短所のように思われることは こうです。無神論との理論的な通底性を捉える上で 霊が このように 精神という経験世界に入り込んで来ているとすれば 無神論は もはや 成り立ち得ないと言っているに等しいと思われるのですが どうでしょう? 
 言いかえると 無神論は 霊が この世界にやって来るという考え方は いっさい しないのであり 受けつけないと思われるからです。
 不倶戴天の敵どうしだとなります。どちらか一方しか 真実ではないと言っていることにならないでしょうか?

 そして それは 霊に相い対して 人が それを《有り》として仮りに捉えるか それとも《無し》として もう放っておくか 二つに一つの信仰選択であるにもかかわらず 《有 / 無》の統合論を立てたところに帰因するのではないでしょうか? 包括的に 無神論を 取り込んだのが かえって 無神論との矛盾を露呈する結果になったのではないでしょうか?

 分かりませんが とりあえず このように 今回 捉えたかたちで 考えました。いかがでしょうか?

 * その他 すでに進展していたところは 一たん 保留になります。今回の結語としての
 ★ 不幸、失敗、悩みの本質であるところの / 「生」を焼き尽くすということを基盤としての社会性が成り立つと思うんですね。それが現実としての、 生 の復活となるのではないでしょうか。
 ☆ この鋭く追究した箇所も 一たん 保留とさせていただきます。
 ★ 《存在》と《非存在》とは 同時並行して《込み》だと考える  立場が共通意識として満たされたとき、
 ☆ という条件に立つものですから。

投稿日時 - 2008-10-03 22:38:12

ANo.20

 ▲( コリント前書4:7)~~~~~~~~~~~~
 いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。
 ◎はい、その通りと存じます。

 ★ 自己都合でなく、どこにでもいかれる、自由な人
 ☆ では 自分は ないから あまり 引っ張りださないで欲しいということでしょうか? 
 ◎私がそのような人ではありません、ということを、言うまでもなく、ということをもうしあげたのです。

 わたしは 自分で自分を引っ張り出す人になるのが 自慢をしない人だと思いますと お伝えしているだけですが。
 わたしも 同じく《もちろん自慢などできない、低俗きわまる、未熟そのものの者》ですと呼応し ああ芽出度しめでたしとなるのでしょうか? 潜在力がゼロであるとおっしゃるのであれば 別ですけれど。
 ◎あぁ仰せのことは少しも頭にも、気持ちにも動機にもどこにもありませんの。

 ★ 究極原理からの孤立も独立も、絶対にありえない。極く当然のお話として承りました。
 ☆ ということは 潜在力にかんしては 問うまい / 人が問うものではない / 問うてはいけない というおしえでも あるのでしょうか? つまり 認識だけをおこないなさいというおしえでも あるのでしょうか? それなら 別ですけれど。
 ◎そんなお話になるとは存じませんでした。そんなところに頭が働きません。潜在力って何なのでしょうね。認識だけを行いなさいとは、何がなんだかよくわかりません。
 いつものように、すみませんと引き下がります。全部削除してください。

投稿日時 - 2008-10-03 15:20:24

お礼

 きょうは 応答で てんやわんやでした。

 それだからというわけではありませんが ここらへんで 休みましょうか。

 完全に分からないのは 最初のご応答です。
 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ▲ ・・・もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。
 ◎はい、その通りと存じます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 二つの解釈ができます。
 (1) はい その通りに 《もらっていないもののように誇る》ことをします。→《もっと 能力をください。もっと 欲しい》。
 (2) はい その通りに 《もう もらっていないもののように誇る》ことは しません。《いまもらっている持ち前の能力を生かして 自分も生き 社会の中で共生を目指します》。

 (2)のほうでしたら 《認識だけをおこなう》のではないと存じます。そういう意味ですが。

投稿日時 - 2008-10-03 16:13:57

ANo.19

前回表現した、”時空間宇宙の向こう側の精神的なもののみ”とか「霊」を解く鍵は、
それが思考の範疇にはあるということですね。

まずは・・霊は、この時空間宇宙の不完全性を強引にも補完しようとする精神作用の
発現でもあるし、時空間宇宙の非情な不可逆性からの避難所でもあるわけですが、
人間が空想した虚構で片付けることはできません。

時空間宇宙は、究極において、永遠と停止は同じもの。無限空間と一点は同じもの。
永遠に続く無限空間と完全に停止した極小点は同じものですね。

しかし、これでは足りないのです。完全にすぎます。こんなことでは、宇宙が走り出しません。
宇宙には不完全性が必須で、そうでなければ我々も存在し得ません。

それが故に、こういったことは全く含まれない=精神的なもののみを直感するわけですね。
重力、エネルギーにさえ、影響を受けない存在/非存在ですね。

走っているのは宇宙なのか我々なのかは、別にしても、
我々の思考も、そのものは時空間宇宙から遊離して=脳細胞から遊離して、
我々自身から見て、時空間を所有したり占有したりはしていないんですね。
そして、時間を作り出しているのも思考そのものとも言えますね。
いわば、永遠も、無限空間も、霊さえも思考の中にあるというわけです。
しかし、我々自身が我々自身から見て時空間宇宙から遊離して成り立っている不可思議
はあるにせよそれも脳細胞無くして成せる技ではありません。

そこで、元に戻りますが、物質、エネルギー、時間無くして精神/霊が成り立つか
という問いには、成り立つ根拠が全くない、それが故に、時空間宇宙から完全に遊離した
純粋な霊のみになるんですね。それは、存在とは言えず、非存在とも言えません。

時空間=エネルギーという時空間宇宙の肉体の存在にその肉体とは切り離された純粋な霊が宿っている
(存在しているのではない)と直感するんですね。
この霊は、時空間宇宙の物質、エネルギーでないが故にこれらから自由で、我々から見て、大きさも
形もなく、精神的であるにもかかわらず我々のような時間の概念がありません。

あれこれ、書いてしまいましたが、仮に、このような霊の存在/非存在の真偽とか虚構とかを、
メルヘンとして片づけたとしても、その直感のもとになっているのは、我々が知ってしまった時空間宇宙の
不完全性なのであって、霊は、その裏に厳然と影の如く存在/非存在しています。

 ☆ 《存在》と《非存在》とは 同時並行して 《込み》だと考えるといいかも知れないと思いました。
そうなんだと思います。相反する矛盾したものを両方とも同時に肯定するというある種の理解なんですね。
真理が すべてにおいて すべてである と時空間宇宙内で言い切ってしまうと逆にこの理解から半分が
外れてしまう不思議さがあります。

とまぁ、ここまではいいのですが、社会/理想社会には、確かにいぶかしげです。
楽園なのか、失楽園なのか・・・・ここには、  地獄より光に至る道は長く厳しい。 が、嵌るんですね。
イザヤ書がのみこめているかどうかは解りませんが、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 水が海を覆っているように
 大地は主を知る知識で満たされる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここで、主を、存在/非存在の両者を同時に表現しているなら、現実の生の楽園を表現してますし、
物質的状況に変化のない社会的 復活 さえも象徴的に表しているようにもみえます。

思うに、《存在》と《非存在》とは 同時並行して《込み》だと考える 立場が
共通意識として満たされるなら、現状の地獄も呑みこんでしまって、楽園も呑みこんで、
生きることとしての 《存在》と《非存在》の狭間に打ち震える炎で焼き尽くす 別の意味の楽園
が・・・理想としてではなく、当たり前のようにあるのかもしれません。

これは、個人ではなく、社会ですから、システムとしてそうでなければ成り立たないので、
そうであることが常識とか日常でなければならないということでしょうね。

理想社会と言うには、違和感が残るのですが・・・
その悩みというものの発生が永遠に止まるわけでも、みんなが必然的にハッピーになるとはいえない楽園だから
でしょうね。

投稿日時 - 2008-10-03 13:01:00

補足

 ふううーむ。
 ★☆ この今現在の世界が 復活であり 不死の境地であり 地獄・楽園をひっくるめて社会そのものだ。
 ☆ とおっしゃっているでしょうか?

 まぁ 《永遠の現在》と言うわけですから そのご見解ににじり寄っていきましょうか。
 ということは いま現在の意志行為 これにあるということでしょうか? そのためにこそ 認識・知識がある。またその努力の 成功・失敗は 意志行為という人間関係つまり社会 としての基礎・土壌の上に 繰り広げられるのだから 問題ではない。あってよい。幸不幸も あって とうぜんだ。
 問題は 人間という《存在》が 何だか分からない《霊》なる《非存在》とのあいだに 火花を散らして繰り広げるその舞台である。まづは 舞台のほうである。そういう人間および社会の基礎構築である。あとは 自由に遊べ。生きよ。――それが 《復活》だ。《解脱》などしていなくとも よい。していようと していまいが 全部 織り交ぜて われらが社会だ。われらのための社会であり われらが生きる社会である。

 ひとつの確認と ひとつの希望があります。
 定義の確認です。精神は 思考や意志判断の能力として 神経細胞(身体)とともに成り立っており 経験的なものだと思います。霊は 経験を超えているという想定です。この霊と 精神が接点を持つと言えても 身体(感性)も 同じように 持つと言えるということでしょうから。精神と霊との区別を確認したいと思います。

 希望は 無神論との兼ね合いを 説明することです。
 霊を 非存在と見なすことまでは 同じでも その非存在は 文字どおり ゼロ(無)ですから われわれ人間の存在と 接するとは 捉えません。接点を見ないということは 互いに 火花を飛ばすような展開もないということです。
 かすかに 無神と言って それも 《なぞの何ものか》であって 〔かすかに〕それへの畏怖の念を持つかも知れませんが あとは 世界は 経験的な現象と行為のみであるとします。
 たしかに ブッディスムなら そこから あたかも《永遠の現在》なる境地を 描き出そうとしますし その修行もおこなうのだとは思いますが その思想との 比較対照は 未だしの感が しきりです。無神論たるブッディスムとの対話が 是が非でも 望まれるのではないでしょうか。

 * イスラームは よく分からず わたしの手に負えるものではありません。
 * もっとも ブッディスムも
 ★ 時空間=エネルギーという時空間宇宙の肉体の存在にその肉体とは切り離された純粋な霊が宿っている / (存在しているのではない)と直感するんですね。
 ☆ というところに 
 ● 仏性
 ☆ というものを 持ち出してはいるのですが。どうも これが うなぎを掴まえるようなもので なかなか 理解が定まりません。有神論そのものであるとさえ 認識すべきかも知れないにもかかわらず 依然として ブッディストは 沈黙もしくはのらりくらりを 繰り返しているのではないでしょうか。ブッダ葬送を掲げる所以です。
 
 * 《虚構》と言うのは 無神論との橋渡しのためです。

 大股で歩くご回答をいただきました。ありがとうございます。

投稿日時 - 2008-10-03 15:49:54

ANo.18

 ★ 輪廻転生
 ☆ は いちいち 反対しようとは思いません。~~
 ★krya1998:そうですね。想像をしても始まりません。

 そうおっしゃるなら わたしたちは 一人ひとり みな
 ★ ブラフミン
 ☆ です。イエスは 言いました。
 ★krya1998:イエスやそのほかの方についてはなんともいえませんが、私が創造界に究極意識(原理)の要求を達成するために来た、その原理も、創造界のどんなことも知っている人間とは思いません。
 そういう方はどこでどういうあり方を取るかは、自分の意志と意識で主体的に決められなければおかしいですものね。

 つまり イエスは われらが長子であり 友であるのですから わたしたちは みな ブラフミンであるとなります。その香りは ブラフミンであるでしょう。
 ★krya1998:ブラフミンをそういう意味のことばとするならば、その通りであります。創造をなさっている究極原理のなすところにより、誰しも、他律的に、しかも、究極原理から瞬時も刹那もわかれることなく存在している、そうであらざるを得ない。究極原理からの孤立も独立も、絶対にありえない。極く当然のお話として承りました。

 ★ そういう自己都合での誕生でなければ、どの世界にいようと同じですから
 ☆ どうして そのように自己を誇るのですか? 潜在力を余しているという自慢を どうして いつまで つづけるのですか?
 ★krya1998:私自身がどうして、そんなひとでありましょうか。
  自己都合でなく、どこにでもいかれる、自由な人はどの世界に居ても、好きだの、嫌悪だの、何だのはありませんね。そうでなければおかしいですね。ということです。
 私はもちろん自慢などできない、低俗きわまる、未熟そのものの者だということや言うまでもありません。断るまでもありません。
 言い訳ではありませんが。

投稿日時 - 2008-10-03 12:25:51

お礼

 乗りかかった船です。生来のわが厚顔無恥が この出しゃばりを助けます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私はもちろん自慢などできない、低俗きわまる、未熟そのものの者だということや言うまでもありません。断るまでもありません。
 言い訳ではありませんが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ では 次の文章は どうお読みになりますか?
 ▲( コリント前書4:7)~~~~~~~~~~~~
 いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 自己都合でなく、どこにでもいかれる、自由な人
 ☆ では 自分は ないから あまり 引っ張りださないで欲しいということでしょうか? 

 わたしは 自分で自分を引っ張り出す人になるのが 自慢をしない人だと思いますと お伝えしているだけですが。
 わたしも 同じく《もちろん自慢などできない、低俗きわまる、未熟そのものの者》ですと呼応し ああ芽出度しめでたしとなるのでしょうか? 潜在力がゼロであるとおっしゃるのであれば 別ですけれど。

 ★ 究極原理からの孤立も独立も、絶対にありえない。極く当然のお話として承りました。
 ☆ ということは 潜在力にかんしては 問うまい / 人が問うものではない / 問うてはいけない というおしえでも あるのでしょうか? つまり 認識だけをおこないなさいというおしえでも あるのでしょうか? それなら 別ですけれど。

投稿日時 - 2008-10-03 14:53:21

ANo.17

 brageloneさん。
 たくさんの難しい、夫々の方々のご回答も読み、brageloneのまじめさから、ご対応されなくてはいけないのに、私のものまでにも、私宛の判りやすいことばのご返事を賜り、ありがとう御座います。

 ◎私自身はどうかもう一度繰り返さないでいいように、と願っていますが。
 これについては、単に又父母を持って、保護された育ちの時期を経たくないという気持ちです。そして少年、青年、壮年と、各時代はじぶんなりに最善の積りで生きたのですが、今考えると、波・風に翻弄されての過誤があまりい多いと振り返っています。今を将来振り返れば多分、同じように過誤が多いと思うかも知れません。
 そういう、同じ人生は繰り返したくない。
 そして不完全で、私の存在基盤の判断と原理で、まだ不完全だ、やり残しができていない、という真実の存在である奥の私がいうならば、また女性のおなかに入り、誕生するのでしょう。そのよに存じております。

 ◎意味があればいいのですが。そして残されていることがあれば仕方ないですよね。
 仮に漫然と生まれてくるのでなく、目的と使命、役割、意図と意志でうまれてくるなら、自由も、選択も、認識もあるから言いと存じます。
 ただ、もうこの次は、なんとなくでは、生まれてきたくない。
 ということです。
 ブラフミンはブラフマンを体認識している存在であると教えられていますが、まぁカーストの最上位ですね。これは世襲のではなく、人の本性の質を階級にした場合のことですが。この人たちは、二度生まれている人とも言われますが、本来、自己の原因や自己の動機やよくぼうだはなく、宇宙創造界の創造次元の目的と理由で生まれた人という意味だそうです。釈尊やイエスのことだそうです。
 そういう自己都合での誕生でなければ、どの世界にいようと同じですから、復活とか、再誕も有意義だと存じます。
 完全な、隅々にわたる意識を持っての存在であれば、可能ですね。
 自分の不完全や、今やらなければ成らない自分の義務などが遣り残しで、生まれてくる状況に出来るだけならないようにしたいと存じます。

 輪廻転生を信ずるかどうか、そうあらざるを得ないという、現在の認識ですが。

投稿日時 - 2008-10-03 08:36:28

補足

 がらっぱちが えらそうにお応えします。
 ★ 輪廻転生
 ☆ は いちいち 反対しようとは思いません。その思想によって 弱気になっていたり あるいは その弱気が昂じて やぶれかぶれの強気に転じてしまったりしているところでは 批判をしていきたいと思います。現在の世界において 因果関係が分からないからと言って 安易に 前世や来世にまで 想像力をたくましくして 言い訳や言い逃がれをするべからんや?と。

 そうおっしゃるなら わたしたちは 一人ひとり みな
 ★ ブラフミン
 ☆ です。イエスは 言いました。

 ▲(ヨハネ福音15:1~)~~~~~~~~~~~
 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
  わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。

 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。

 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。

 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの場合 母と父とも もう五・六年 生きているようにと願ったのですが かなえられなかったので そのことは 白状しておきます。

 つまり イエスは われらが長子であり 友であるのですから わたしたちは みな ブラフミンであるとなります。その香りは ブラフミンであるでしょう。
 ★ そういう自己都合での誕生でなければ、どの世界にいようと同じですから
 ☆ どうして そのように自己を誇るのですか? 潜在力を余しているという自慢を どうして いつまで つづけるのですか?

 がらっぱちが えらそうにぶちました。

投稿日時 - 2008-10-03 10:37:23

ANo.16

またまたオコリザルです。
思索がさらに進んだので備忘録をかねて投稿させていただきます。
明快な逆説と受け取れるたとえ話。
一言でそれとわかる嘘。
こういったものの字面だけを眺めて言質を取ったつもりになる心象。
これが大霊界たる混乱に結びついているようです。
意味が二分される弊害とはこのように発生しているのではないかと思い至りました。
仮説です。

投稿日時 - 2008-10-03 01:40:56

補足

 前回につづくものと思います。

 つまり じつは 今回のご回答は よく把握できていません。
 どう分からないかを述べます。

 ★ 大霊界たる混乱
 ☆ これは 最初の若い番号での質疑のやり取りで出て来たように もともと 死の受け容れを拒む・つまり 死をはっきりした事態としては捉えようとしない こういう態度から 派生して現われていることだと思うのですが。それでも 何か別の筋からの問題があるということでしょうか。あるいは 前回・前々回に継いで 第三の道のことでしょうか。

 ★ 意味が二分される
 ☆ のではないと思うのですが。つまり 信じる・信じないという二つの形を取る一つの《信仰》であるのですから 《意味》は 同じ一つだと思うのです。――つまり このことの証明・説明を 行なおうとして みなさんから知恵をお借りしたいという質問趣旨でもあります。

 たしかに そうですね。有神論か無神論かは 意味が二分されるのではなく そうではなく 生活態度が 二分されるのだと見ています。意味は どういう形態を取ろうと 人間性あるいは社会性 としては 同じ一つの類型にまとまる《信仰》なのだということですが。
 これでは 弱いですかね。弱いと見て 質問しているわけですが。ううん。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一言でそれとわかる嘘。
 こういったものの字面だけを眺めて言質を取ったつもりになる心象。
 これが大霊界たる混乱に結びついているようです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いま 少し気づいたのですが これは わたしの言っている《信仰類型論》が はじめに虚構つまり《うそ》を出して来ているので その端(はな)から 人びとは 受けつけない・ばかにしている というようなことでしょうか? だから 信じる・信じないの二つの道ではなく 別の道があるはづだと 固く信じるようになる ということでしょうか? つまり
 ★ これが大霊界たる混乱に結びついているようです。
 ☆ なのでしょうか? ううん。

 つまり 人びとは 
 ○ 自然界の驚異や美しさ あるいは 人間の不思議 つまりこれらの《なぞ》に対して 何も 感じない
 ☆ といったところなのでしょうか?

 そして あらためてつけ加えるとすれば
 ○ 何に限らず 二者択一を迫られるということが いやだ
 ☆ というような事情でしょうか?

 みなさん どうなんでしょう?

投稿日時 - 2008-10-03 06:25:13

ANo.15

オコリザルです。
ごく個人的な悩みの相談です。

私は霊を否定も拒否もした覚えが無いです。
ただ信じる信じないの話ではないと認識しているのみです。
ところが高次元の霊体を名乗るセールスマンが大慌てで営業に来ます。
このあたりで歩み寄った話し合いをするいいきっかけがつかめないでいます。

投稿日時 - 2008-10-03 01:12:13

お礼

 前回につづきます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私は霊を否定も拒否もした覚えが無いです。
 ただ信じる信じないの話ではないと認識しているのみです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかに 問題は 前回(No.15)でわたしも応答しましたように
 ○ 有神論か無神論かの二者択一ではなくて 第三の立ち場が あるのではないか
 ☆ こういう問いかけであるようです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ところが高次元の霊体を名乗るセールスマンが大慌てで営業に来ます。
 このあたりで歩み寄った話し合いをするいいきっかけがつかめないでいます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについては わたしも どういう事態であるのか まづ にわかには 分かりかねています。
 超経験の領域を 神あるいは無神として 信仰の問題に行きつくというかたちではなく そうではなく 第三の道のことを言おうとされているのでしょうか? 
 ★ 高次元の霊体を名乗るセールスマン
 ☆ これが 第三の道に当たるのでしょうか? 第五次元とか あるいは 第八次元まであるぞとか言って 異次元の世界を説くのは 同じ《霊》という言葉を使っているけれど 《信仰》の問題として 扱っているのではなく 無神論でさえなく 何か別の人間の取り得る態度を 示しているということでしょうか?

 おそらく それは かと言って 経験合理性にもとづこうとする経験科学の立ち場でもないのでしょう。
 《異言》ということばが 聖書には出て来ますが そういうたぐいのことなのでしょうか? でも それは 経験合理性で判別できない内容のことを言っているのですが あくまで 信仰から来るものであり 信仰として自己表現する一歩手前の《自動表出》のごとき表現です。有神論という道に含まれます。
 では どうなのでしょうか? 何なのでしょう?

 わたしは 《幸福の科学》を思い浮かべたのですが その中身をよく知らないので いま 何とも 答えられません。
 わたしも 保留です。

投稿日時 - 2008-10-03 05:58:45

ANo.14

オコリザルです。
今回も前進を図るための材料です。
人知の特徴について思い浮かべることがありました。
人知には無形のものを含めて創造する力が無い。
承認のみです。
貪欲に貪る姿の連想を呼びますが、記憶を強固にするために承認は不可欠です。
果たしてそれは必要かどうかには判断が及びません。

霊に関しては存在未確定を宣告した私の意見が及んでいまして、もはや作業仮説といって良いものかかなり突っ込んだとこまで言及していますが、霊の完全否定は弊害を呼ぶのを身をもって知って居ます。
この点は慎重にご判断ください。

投稿日時 - 2008-10-03 01:01:40

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 たしかに いま在るこの時空間 四次元の世界 そこに起こるすべての現象――これらを超えるということを 考えるのが まちがっているのかも知れません。
 ただし その超経験の領域は やはり 考えるのではなく ただ単に想定するだけだと思います。
 ★ 人知には無形のものを含めて創造する力が無い。
 ☆ というとおり この《神》の領域は 人間が 想像し作ったものでは ありません。《経験思考》が止まざるを得ないところ その《非思考》の領域を やはり 想定しているだけです。
 そこに起こっていることは 非思考――つまり 不可思議なるなぞ ですね―― これを 信仰と呼んでいるという
 ★ 承認のみです。

 ★ 果たしてそれは必要かどうかには判断が及びません。
 ☆ については 必要・不必要の二つに分かれると 見て来たわけです。すなわち
 ○ 《なぞ》の承認
 ☆ のあと つまりは そこに《非思考》なる《信仰》がありうると捉えたあと わざわざ 人は その信仰の対象を 神なら神と呼んだわけです。神とは何ぞやと訊かれても わからないので 《霊》と言いかえます。
 * つまり 《風》だとか 《息》だとかの意だそうです。漢語としては 《雨が等しく降るありさま・そのように恵み深い神の力》であるらしいです。《たま・たましい(魂)》は 《丸い玉》から来ていると言います。《玉が 美しい輝きを見せるそのさま》が あたかも 《〈なぞ〉の何ものかが きらっと その光りを見せた》と捉えたのでしょうか。(くわしくは おしえを乞います)。

 このとき
 ★ 霊に関しては存在未確定を宣告した / 霊の完全否定
 ☆ という意味が よく伝わって来ません。《想定》を否定しても 仕方がないはづです。
 ということは 上に提起されていた《信仰というおこないが 必要かどうか》にかかわるのでしょうか。すなわち 必要・不必要の二つに一つという在り方そのものを 否定するということなのでしょうか?

 つまり 《霊》についての《存在未確定 / 完全否定》というよりは その霊とわれわれ人との関係を想定することを 否定するということでしょうか? 信仰の必要・不必要 つまりは 有神論か無神論か この選択を迫るような世界の結構(かまえ) これが 気にくわないということでしょうか? 
 * これは 以前に テーラワーダ・ブッディスムの方が取ろうとした態度ですね。ただし その指導者である人は 《神は いない》と述べて 無神論に立つということを明らかにしていました。

 どうでしょう。《なぞ・霊・信仰》 これらの想定じたいを 避けるという立ち場は ありうるでしょうか。
 《存在未確定》は 態度の未決定を意味すると思います。信仰する・しないを まだ 決められないという状態ではないでしょうか。
 《完全否定》は 無神論の表明を意味するはづです。
 どうなんでしょう? 有神論か無神論かのいづれにも当てはまらない第三の立ち場は あるでしょうか? どうでしょう?
 この問いも 質問につけ加えさせていただきたいと思います。 

投稿日時 - 2008-10-03 05:39:44

ANo.13

オコリザルです。
今回のbrageloneさんは冴えまくっていて試行錯誤の要素がありません。
A5の魂についてのしどろもどろな私の意見に関しての補足です。
ヒントに出来れば幸いです。
A5の表現は魂と言うよりは「絆」に言及しています。
絆は自己の探求に及ぶ隠し球です。
肉体と精神の一致に考えが及ぶ場合生命力を運ぶ絆です。
霊にはどうやらこれが無いようです。
したがって生きる力の源は魂を頼ります。
心理学的には「自己の同一性」がキーワードです。

なんとなくですが、「私たちは生きている」この言葉が素直に共感を呼ぶ理想を思い浮かべました。

投稿日時 - 2008-10-02 23:13:21

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。
 わたしの分析は こうです。 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 肉体と精神の一致に考えが及ぶ場合生命力を運ぶ絆です。
 霊にはどうやらこれが無いようです。
 したがって生きる力の源は魂を頼ります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり 
 ○ 魂 = 肉(すなわち 身体=精神)
 〔* 魂=アニムス・アニマ → アニマル=動物〕
 ☆ というかたちの
 ★ 自己の同一性
 ☆ のことです。つまり 
 ★ 霊にはどうやらこれが無いようです。
 ☆ という類型における信仰 すなわち 無神論のことです。

 つまりは 他方で 有神論にあっては この
 ★ 絆
 ☆ が 《霊》との接点にあります。そういう信仰の類型であり形態であるのだと思います。
 どちらも 互いに対等です。

 つまり じつは 有神論においても 経験的な存在としての《わたし》の自己同一性は むろん 認識しますし 無神論においても じつに 《無神》として選択して捉えた《霊》との《絆》が 一たんは――この霊の領域との対面の瞬間において―― 結ばれかけたわけです。わづかに 結ばれた現実としては 経験世界の《わたし》という存在 つまり おっしゃるように《魂》であるわけです。

 《わたしがわたしである / わたしがわたしする》という自同律 これは 誰もが 持ちます。ここに そのまま 《絆》を結ぶのは 無神論の立ち場です。有神論では この経験世界を超えたところの《霊》というあたかも力と 絆を結ぶという虚構に立ちます。bananasand さんは 《非存在》という言葉を用いて それとわれわれ存在との関係具合いを取り上げています。

 無神論は 虚構を持ち出さないゆえ 現実に即しているとは言っても それはそれで 経験現実という可変性の世界に 絆を結ぼうというのですから きわめて その基盤は あやういという側面を持っていることになります。

 ともあれ どちらの類型においても
 ★ 「私たちは生きている」
 ☆ つまり 《縁起共生》でしょうか――あるいは《連帯》でしょうか―― これは おっしゃるように おおかたの共感を呼ぶと思います。
 ★ 自己の探求に及ぶ隠し球
 ☆ に 二つの互いに同等の類型があるということだと思います。
 つまり しかも この二つの類型は たがいに けんかをしているのではないでしょうか。現代においては かなり両者とも 近づいて来ているように聞いていますが その近づきと和解の 理論的な基礎 これを わたしたちは ここで 求めたいと思うのですが いかがでしょうか。

 * またまた 一方的に 躊躇なく しゃべってしまいました。あしからず お受け取りいただきますよう お願いいたします。

投稿日時 - 2008-10-03 00:04:44

ANo.12

人生論 現在の肉(身体=精神)
再生=復活あるいは不死の境地 真理が すべてにおいて すべてである
理想社会

これらは、視点が違うというか、まな板が別ですよね。
もちろん、関連性は強いのですが、共通して貫くことは非常に難しいですね。
交通整理ですか。考えさせられます。

我々は、存在と非存在の狭間に驚愕していて、始まりと終わりの区別が
つきません。始まっているかさえ証明できませんね。

でも、時空間宇宙の実相が完全に厚みのないものであることを直感します
ので、その向こう側は、なにか精神的なもののみであるようにも思えます。

物質、エネルギー、時間を必要としない精神的なものは存在しえるのか
ということになるのですが、結局、その非存在性と完全性こそが、我々を存在の
海の中に投げ込んでいるということになるのではないでしょうか。

真理が すべてにおいて すべてである のは、我々側ではない、
やはり、そちら側に安定して存在し、かつ、安定して非存在する
と言わざるを得ないのでしょうね。

またしても、両者肯定になってしまいました。

仮にこれを原点に置き、社会に共有する概念となるなら、
既にその状態が始まることもなく終わることもない
幸福でも不幸でもない生そのものとしての共通意識が
成り立つかもしれませんね。

そうでない視点から見た生の復活であり、解脱とか涅槃とは異なるでしょうけど、
不死の境地(死ぬことがないということでなく終わりがないということ)を
知る(垣間見る)永遠(瞬間)としての共通認識ではないでしょうか。

それでもなお、幸福であれ不幸であれ、その悩みなるものこそが我々が生と呼んでいるものである
ところに連帯というか、社会に対する当然の帰結が見えるんだと思います。

投稿日時 - 2008-10-02 17:25:38

補足

 あぁ bananasandさん お久しぶりです。ご回答をありがとうございます。

 ★ 再生=復活あるいは不死の境地 真理が すべてにおいて すべてである / 理想社会
 ☆ これらのつながりについては No.10補足欄とNo.11お礼欄をごらんください。物語つまり虚構ですが なにがしか うったえるものがあると思います。
 * ただし 《生まれ変わる》という考えが入るかどうか どうなのでしょう。入ると 微妙になりますが。つまり 前世・来世ということになると 分からなくなりますが。

 ★ 交通整理ですか。考えさせられます。
 ☆ ありがとうございます。自信がつきます。

 ★ 我々は、存在と非存在の狭間に驚愕していて・・・
 ☆ そのとおりだと思います。非存在つまり不在と言い変えますが この 《〈不在のもの〉の現在》ということをよく言います。

 ★ 時空間宇宙の実相が完全に厚みのないものであることを直感します / ので、その向こう側は、なにか精神的なもののみであるようにも思えます。
 ☆ No.7のCUE009さんへのお応え欄をごらんください。定義〔だけ〕の問題ですが 《向こう側》は 《霊》と呼びます。そして精神は 霊ではないというふうに げんみつに扱いたいと思いますが どうでしょう? よろしくどうぞ!!

 ★ 結局、その非存在性と完全性こそが、我々を存在の / 海の中に投げ込んでいるということになるのではないでしょうか。
 ☆ 《存在》と《非存在》とは 同時並行して 《込み》だと考えるといいかも知れないと思いました。(No.7お応え欄)。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 真理が すべてにおいて すべてである のは、我々側ではない、
 やはり、そちら側に安定して存在し、かつ、安定して非存在する
 と言わざるを得ないのでしょうね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが 《復活》のあとでは あたかもこの経験世界に実現すると 聖書は言おうとしているようです。
 ▲ (イザヤ書11:9)(→No.10お応え欄)~~~~
 わたしの聖なる山においては
 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。 
 水が海を覆っているように
 大地は主を知る知識で満たされる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もっとも これは この世界のあらゆる自然現象および人為的かつ社会的な行為関係とその相互作用――つまり 縁起共生の関係――を人が 知るということと通じていることなのかも知れません。必ずしも虚構であるだけではありません。

 最後の結語の部分は すごいですね。もう再掲しませんが たぶん その基礎かつ基本命題を さらに中身を充実させつつ 展開していってくださるのではないでしょうか。
 人間どうしの中立的だが 基礎としての 関係。その土壌。
 ★ 幸福であれ不幸であれ・・・の連帯
 ☆ そこに 《不在なものの現在》が 垣間見られるかも知れません。そこまでいけば もう《解脱とか涅槃とか》とわざわざ言わなくても よいかも知れません。・・・よいはづです。

 《事件》が おかげさまで 進展しています。進展していきます。

投稿日時 - 2008-10-02 22:22:57

ANo.11

ANo.7&8・・・すいません。
一度回答を投稿したのでが
反映されないので再度投稿したら
時間差でふたつとも反映されてしまいました…orz

投稿日時 - 2008-10-02 16:55:10

補足

 補足です。No.10で 旧約聖書から イザヤ書のひとくだりを引用しました。《復活》と《理想社会》とが つながる文例だと思います。No.12で bananasand さんが その点について いぶかしげのようですから さらに イザヤ書から 引いて 資料としたいと思います。

 ▲ (イザヤ書65:17~25)~~~~~~~~~
 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
 初めからのことを思い起こす者はない。
 それはだれの心にも上ることはない。
 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。
 わたしは創造する。
 見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして 
 その民を喜び楽しむものとして、創造する。

 わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。
 泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。
 そこには、もはや若死にする者も 
 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。
 百歳で死ぬ者は若者とされ
 百歳に達しない者は呪われた者とされる。

 彼らは家を建てて住み ぶどうを植えてその実を食べる。
 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく
 彼らが植えたものを 他国人が食べることもない。
 わたしの民の一生は木の一生のようになり
 わたしに選ばれた者らは 彼らの手の業にまさって長らえる。
 彼らは無駄に労することなく
 生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。
 彼らは、その子孫も共に 主に祝福された者の一族となる。

 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え
 まだ語りかけている間に、聞き届ける。

 狼と小羊は共に草をはみ
 獅子は牛のようにわらを食べ、
 蛇は塵を食べ物とし
 わたしの聖なる山のどこにおいても
 害することも滅ぼすこともない、

と主は言われる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2008-10-02 21:49:19

お礼

 了解しました。

投稿日時 - 2008-10-02 21:21:14

ANo.10

 brageloneさんは、復活、不老長寿や不死、ないしは再誕って、お望みになられますか?
 何らかの積極的(プラス的)価値のあるものとされますか?
 もちろん、精神とか魂とかの意味ではなく、私たちの世界という肉体世界への再来訪のことなのです。
 私自身はどうかもう一度繰り返さないでいいように、と願っていますが。
 意味があればいいのですが。そして残されていることがあれば仕方ないですよね。そうならないように願っています。brageloneさんはいかがですか?すみません補足をお願いします。

投稿日時 - 2008-10-02 16:41:56

お礼

 こういう聖書のくだりもありますよね。あたかも《復活》にかかわるようでもあり また或る種の仕方で 理想社会の問題であるようにも感じられます。


 ▲ (イザヤ11:1~10)~~~~~~~~~~~
 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
 その根からひとつの若枝が育ち
 その上に主の霊がとどまる。
 知恵と識別の霊
 思慮と勇気の霊
 主を知り、畏れ敬う霊。

 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
 目に見えるところによって裁きを行わず
 耳にするところによって弁護することはない。
 弱い人のために正当な裁きを行い
 この地の貧しい人を公平に弁護する。
 その口の鞭をもって地を打ち
 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。

 正義をその腰の帯とし
 真実をその身に帯びる。

 狼は小羊と共に宿り
 豹は子山羊と共に伏す。
 子牛は若獅子と共に育ち
 小さい子供がそれらを導く。

 牛も熊も共に草をはみ その子らは共に伏し
 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。
 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
 幼子は蝮の巣に手を入れる。

 わたしの聖なる山においては
 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。 
 水が海を覆っているように
 大地は主を知る知識で満たされる。

 その日が来れば
 エッサイの根は すべての民の旗印として立てられ
 国々はそれを求めて集う。
 そのとどまるところは栄光に輝く。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2008-10-02 21:33:06

ANo.9

 brageloneさんは、復活、不老長寿や不死、ないしは再誕って、お望みになられますか?
 何らかの積極的(プラス的)価値のあるものとされますか?
 もちろん、精神とか魂とかの意味ではなく、私たちの世界という肉体世界への再来訪のことなのです。
 私自身はどうかもう一度繰り返さないでいいように、と願っていますが。
 意味があればいいのですが。そして残されていることがあれば仕方ないですよね。そうならないように願っています。brageloneさんはいかがですか?

投稿日時 - 2008-10-02 16:40:44

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 察しますところ
 ・前回のわたしの応答については 必ずしも わるくない。だが このいまの問いに答えられないようでは その評価も 落ちる。
 ☆ というような補足要求でしょうか。

 そうですね。
 わたしは 水による洗礼を受けていないけれど 聖霊による洗礼を受けたと公言する一キリスト者ですが その看板とは別に 個人的にお答えします。
 思想として変わり得るという前提をもうけていただいた上で もうします。
 死ねば ごみだと思って来ました。死後は 考えません。逆に言えば 死ぬ間際まで 生き切るという意味です。
 あるいは これこれの仕事を成し遂げ あとは 意志の休日に浸る。という方針でした。それほど 今も 変わっていません。
 * キリスト者という立ち場に立てば もう少し気のきいたことをしゃべらなければならないという気は しています。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・私たちの世界という肉体世界への再来訪のことなのです。
 私自身はどうかもう一度繰り返さないでいいように、と願っていますが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういうふうに述べておられるということは 《生まれ変わる》ということを 前提にしている。つまり 輪廻転生を 受け容れておられるように思えますが いかがなのでしょう?

 ★ そして〔仕事として し〕残されていることがあれば仕方ないですよね。
 ☆ この考えとは わたしも 上に述べたとおり 同じ内容であるように思いましたが いかがでしょう? 

投稿日時 - 2008-10-02 21:20:26

> この 連鎖 が いま一つ わかりにくいので
言葉が上手く選べていないのですが
骨肉は灰などになり、空や大地に帰り、新たな生命の糧となる
というようなことが言いたかったのです。
現代的に言えば、骨肉は「リサイクル」され、他に生かされますよね。
要は「輪廻」と分けたかっただけです。
輪廻は霊魂(のようなもの)が転生するのですよね。
骨肉は「リサイクル」される、というのは
現代人でも(現代人ゆえに)納得できると思います。
(そこに死後の意味や価値を見出せれば幸いです。)
ただ、霊魂はどうなるの?といった疑問は残ります。

> 肉(身体=精神)のからだがあるのなら 霊のからだもあるはづです。
霊と魂の区別がまだ咀嚼できていませんので
とりあえず肉が滅びても残るモノ、永遠の可能性を
(霊と魂を合わせてここでは)霊魂と呼んでおきますが
> 現在の肉(身体=精神)の生をも超えて
> 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで
> わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。
だとしたら、私たちが最も恐れるのは
再生=復活あるいは不死の境地という想定を奪われること
それは例えば「霊魂の死」ではないかと考えました。
とはいえ「霊魂の死」とは何だろう?と思い
その考えを検証するために「死は怖いですか?」という質問を考えていました。
(Q&Aを回す余裕が出来たら質問を上げてみたいのですが…)

> つまり 経験存在であるわたしは 非経験の領域である霊と
> 接点があるという想定になっているわけなのだと考えます。
上手く言えませんが、「接点」というのが
私には重要であるように思えます。
接点、つながり、関係です。
接点が切れると、霊魂は死ぬのかなぁ、などと思ってみたりして。
まだ、ダメですね。
もう少し考え続けてみます。

投稿日時 - 2008-10-02 16:11:25

補足

 虚構ばかりではいけませんが 参考になると思います。資料の引用です。
 ▲ (イザヤ書1:18~26;2:1~4)~~~~
 論じ合おうではないか、と主は言われる。 
 たとえ、お前たちの罪が緋のようでも
 雪のように白くなることができる。
 たとえ、紅のようであっても
 羊の毛のようになることができる。
 お前たちが進んで従うなら
 大地の実りを食べることができる。
 かたくなに背くなら、剣の餌食になる。主の口がこう宣言される。

 どうして、遊女になってしまったのか 忠実であった町が。
 そこには公平が満ち、正義が宿っていたのに
 今では人殺しばかりだ。
 お前の銀は金滓となり
 良いぶどう酒は水で薄められている。
 支配者らは無慈悲で、盗人の仲間となり
 皆、賄賂を喜び、贈り物を強要する。
 孤児の権利は守られず
 やもめの訴えは取り上げられない。

 それゆえ、主なる万軍の神 イスラエルの力ある方は言われる。
 災いだ 
 わたしは逆らう者を必ず罰し 敵対する者に報復する。
 わたしは手を翻し
 灰汁をもってお前の滓を溶かし
 不純なものをことごとく取り去る。
 また、裁きを行う者を初めのときのように
 参議を最初のときのようにする。
 その後に、お前は正義の都 忠実な町と呼ばれるであろう。
 ・・・
 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと。

 終わりの日に
 主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
 どの峰よりも高くそびえる。
 国々はこぞって大河のようにそこに向かい
 多くの民が来て言う。
 「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
 主はわたしたちに道を示される。
 わたしたちはその道を歩もう」と。
 主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る。

 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
 彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。
 国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2008-10-02 22:37:42

> この 連鎖 が いま一つ わかりにくいので
言葉が上手く選べていません。
骨肉は灰などになり、空や大地に帰り、新たな生命の糧となる
というようなことが言いたかったのです。
現代的に言えば、骨肉は「リサイクル」され、他に生かされますよね。
要は「輪廻」と分けたかっただけです。
輪廻は霊魂(のようなもの)が転生するのですよね。
骨肉は「リサイクル」される、というのは
現代人でも(現代人ゆえに)納得できると思います。
(そこに死後の意味や価値を見出せれば幸いです。)
ただ、霊魂はどうなるの?といった疑問は残ります。

> 肉(身体=精神)のからだがあるのなら 霊のからだもあるはづです。
霊と魂の問題の違いが、まだ咀嚼できていませんので
とりあえず肉が滅びても残るモノ、永遠の可能性を
(霊と魂を合わせてここでは)霊魂と呼んでおきますが
> 現在の肉(身体=精神)の生をも超えて
> 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで
> わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。
だとしたら、私たちが最も恐れるのは
再生=復活あるいは不死の可能性を奪われてしまうこと
それは例えば「霊魂の死」なのかな?
ところで「霊魂の死」とは何だろう?
そんなことをイメージしながら「死は怖いですか?」という質問を考えていました。
(Q&Aを回す余裕が出来たら質問を上げてみようとは思っているのですが…)

視点を変えれば
どうすれば霊魂は生き続けていくことが出来るのだろう?
例えば「霊魂の糧」とは何だろう?なんてことを考えているのですが
> 経験存在であるわたしは 非経験の領域である霊と
> 接点があるという想定になっているわけなのだと考えます。
上手く言えませんが、「接点」というのが
私には重要であるように思えます。
接点、つながり、関係です。
接点が切れると、霊魂は死ぬのかなぁ、なんて思ってみたりして。
まだ、ダメですね。
もう少し考え続けてみます。

投稿日時 - 2008-10-02 16:01:40

補足

 CUE009さん ご回答をありがとうございます。
 ★★ 連鎖
 ☆ の件は なるほど 全体としては
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 骨肉は灰などになり、空や大地に帰り、新たな生命の糧となる / というようなことが言いたかったのです。
 ・・・
 ただ、霊魂はどうなるの?といった疑問は残ります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というようなのでしょうね。すでにおっしゃっていましたが たぶん 残念ながら 《前世》や《輪廻》のことを質問している現代人の多くは そういう考え方をすると思います。保留ですね。

 ★☆ 霊魂
 ☆ に関しましては 定義として 別の考えを持っています。
 ★ とりあえず肉が滅びても残るモノ、永遠の可能性を / (霊と魂を合わせてここでは)霊魂と呼んでおきますが
 ☆ この呼び方は いいのですが 概念は 違う捉え方をしております。こう考えては どうでしょう? すなわち
 ○ この世のからだが 肉として 身体および精神から成っているとすれば そのときに・つまりこの生きている現在という時において この肉を超えた領域として しかもまた同時に この肉をあたかも包み どこかで接しているかも知れない領域として 想定するのが 霊である。
 ☆ とします。言いかえると 
 ○ 霊と肉とは 双方とも 同時であり 《込み》のようなもの
 ☆ です。そうでない霊の世界は たとえあるとしても もう人間には お呼びでないと思います。(別の宇宙のようなものでしょうか)。

 * この考えは いまこの応答をおこなうに当たって 新たに出て来た部分があります。これまでのわたしの文章から 飛躍しているかもれませんが あしからず。ということは 大いに みなさんから 吟味して欲しいという意味になります。
 * 精神(理性)は 身体(感性)と共に 霊に接していると想定するときには 精神が そのままで 霊であるのではない。と明らかにすべきだと考えます。精神の領域が 霊の世界なのではないという定義内容です。つまり 精神は 神ではない です。

★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だとしたら、私たちが最も恐れるのは
 再生=復活あるいは不死の可能性を奪われてしまうこと
 それは例えば「霊魂の死」なのかな?
 ところで「霊魂の死」とは何だろう?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いいところを突いて来ますね。現在過程において 死に向かっているこの生 という意味での《死》が じつに 《死なしめられる》ことが起こると 仮りにしますと それが 起こらないことをこそ 恐れるのかも知れません。あとは ご質問の設定ということで その場にゆだねます。

 ★ 例えば「霊魂の糧」とは何だろう?なんてことを考えているのですが
 ☆ これも ううんと唸りました。鋭いと思いました。余裕こいて言っています。それは
 ▲ (ヨハネ福音4:34)~~~~~~~~~~~~~~
 イエスは言われた。
  ――わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を
   行ない、その業を成し遂げることである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ を思い浮かべたからですが でも なかなか 経験思想の範囲内で 哲学として 述べるには むつかしいようです。
 * これが 《存在と存在理由との関係》の問題になるかも知れません。

 なかなか たのしみな思索ですね。えらそうに言ってごめんなさい。
 たのしみです。

投稿日時 - 2008-10-02 21:04:35

ANo.6

 ANo.3
 お話については、理解でき、しかもその大部分が賛同出来るものとして内容と受け取っていると存じます。

 ☆意味があるかないかは 交通整理ができてから考えても おそくはありません。
 ◎これは大変示唆に富む、お話を賜り、朝から感謝申し上げます。
 
 なお私は、どうも世界は相似と同じ原則での創造と構造になってはいないかと存じます
 だから、(使うのは初めてのことばですが、)ビッグバーンで拡大し、収縮するという方式は、私たちという存在と、私たちの中心究極点との間でもいえていることではないかなと、存じるのです。
 そういうことの繰り返しで、遠く離れたり、戻ったりしているのでしょうか。そしてこの場合の私たちっていう言葉を使っていますが、ヨーロッパ語では複数ですが、私たちの観念は複数と単数、自と他の区別があまりないのがどうも本性的ですね。

 そういう繰り返しの中での、復活や転生、再誕ていう肉体に戻ることって、どうも遠く離れる状況でもあるのかな、そして少しも嬉しいこと、いいことではないのかな、という思いなのですが。(これは確かに、ご質問とは直接は関係が遠いとは思いますが。)
 でも、そういう意味で、あまり復活や転生、再誕を考える意味が、私は今は、見出せないのです。

 イエスのthe Resurrection は、of Christというのだそうですね。
 私どもは(of Christ)は普遍意識という意味で使いますから、そういう意識や叡智の取り戻しという意味、感覚での覚醒であれば、意味のあるものと存じます。
 考え方としての回答、感想、そしてお教えのお願いを取り混ぜて、投稿いたします。
 どうか憐笑・憫笑を賜り、お許しください。
 

 

 

投稿日時 - 2008-10-02 07:26:43

補足

 お応えします。
 ★ 私たちの中心究極点
 ☆ これを 想定するかどうかによって また どのような内容で想定するかによって 議論は 分かれるようです。
 (1) 中心究極点を想定する場合
 (1-1) これの想定にもとづきつつも
 ★ 自と他の区別があまりないのがどうも本性的ですね。
 ☆ という人びとの情態かつ社会的な情況が 醸し出される場合。これは もともと 中心究極点を見ない(つまり 《中空》を置く)場合に起きるいわゆるアニミズム原始心性ですが 梵天=ブラフマンを想定した場合にも 引き続き 見られるようです。
 (1-2) ブラフマンの想定にもとづき 人は 個体として それぞれ ブラフマンに相い対する場合。たぶん この場合には 輪廻転生のもとに 梵我一如を目指すのではないでしょうか。そういう《至福》を言うのではないでしょうか。専門家にお尋ねします。
 (2) 《中心究極点》を想定しない場合。
 しかも 《中空》をも置かない場合です。世界を見る観点が 《空》だというもので そこにあるのは 相互に作用し合い依存し合って動く行為とその関係のみである。さらには それらの社会的かつ歴史的な構造過程であるとするのでしょう。
 ただし わたしのおそわったおしえでは この空観=つまり縁起関係観=つまりさらに縁起共生の世界観が 実現するなら 《わたし》は なくなるのではなく 《清浄心なる不死の境地》にあるとうかがいました。これの敷衍もしくは 復活論との対照を さらに おそわりたいというのが この質問のひとつの狙いです。
 (3) 《中心究極点》というより 単純に《超自然=絶対》を想定する場合
 これについて たとえば 質問趣旨にわたしは
 ☆☆(α) 《復活》とは 《真理が すべてにおいて すべてである》
 ☆ と解釈しています。
 ★(β)~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 イエスのthe Resurrection は、of Christというのだそうですね。
 私どもは(of Christ)は普遍意識という意味で使いますから、そういう意識や叡智の取り戻しという意味、感覚での覚醒であれば、意味のあるものと存じます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうなんでしょうか。(α)の《真理》は 超経験ですから いくら(β)のように《〈普遍〉意識》と言おうと 意識は 経験行為としての意識ですから その辺では 違いがあるようです。言いかえると(β)が
 ★ そういう〔普遍〕意識や叡智の取り戻しという意味、感覚での覚醒
 ☆ として 《真理=絶対》と一体となるというのであれば やはり 違ってくるでしょう。一体という説であれば それは 上の(1-2)の梵我一如の場合ですから。
 さらに言いかえると 《真理=絶対》は まづ わたしたちが経験的な思考や感覚によって捉える《相対的な経験真実》とは 絶対的に異なり それを 超えています。しかも この経験真実を覆い包み そこで わたしたちの心と 接点があるとまでは 想定するようです。

 これらの交通整理を 精緻なものにしたいですし 何よりも (1)(2)(3)のあいだを 互いに和解させたいです。そのための知恵を たまわりたいと存じます。
 なおこれらの交通整理には 現実の煩悩=無明についての整理整頓が つきものです。次のような回答を寄せたことがあります。
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人は
 ★ 全ての悩みからの解放
 ☆ が成った存在として しかも同時に 全ての悩みを背負い得る存在として 生まれて来ます。
 あなたの悩みは すべて 過去の人びとや周囲の人びとの悩みを――なぜなら そのような人びとは うそをつくという精神のゆがみによって 悩みをたくわえるようになります そのような他人の悩みを―― 内面に引き受けて 成り立っているものです。
 世界中のあらゆる悩みを引き受けて生きた人たちも いることでしょう。その悩みは 残留放射能のようであり すぐ直ちには 消えません。消えませんが 時として 何ものかによって 包まれ覆われ癒されてくるようになります。いわば人びとの悩みを そのような人たちは 《アース(接地)》となってのように 引き受けるわけです。すでに癒されたからです。ひどい言い方をすれば ごみ処理場です。うつくしく言えば ごみ清浄化再活性化工場です。

投稿日時 - 2008-10-02 10:09:33

お礼

 この現状 この動態としての過程 これで すでに 完全な解放は成っています。心配は要りません。贅沢な心配をすることはありますが やがて この悩みにかんしても 社会の三分の一の人たちが 連帯して 引き受ける情況がやってくるでしょう。つぎの三分の一が共感し あとの三分の一が ごみの排泄専門のおえらい方がたです。そのときには いまの昔をなつかしく感じることでしょう。

 ――というほらを吹きたくなりますね。 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2008-10-02 10:13:15

オコリザルです。
A4について突っ込みが入りそうなことに予め答えます。
魂とは何ぞや。
現実と心のよりどころを確かに結ぶ存在です。
SF的ですが主観とその源を確かに結ぶ存在ともいえます。
霊とは死霊や幽霊の類以外は確かに存在しうるもののようですが自己の本質とは無関係に見えます。
存在するものに無関係を宣告するのには違和感が浮かびますが現状の認識ではそのようなものです。
精霊のような神様の気配を感じることもあるので大霊界バッシングも行き過ぎて霊の完全否定まで及ぶのには気がとがめますが今のところその点は平謝りするしかないです。
ポケモンとしての挨拶はそんな心象も影響しています。

投稿日時 - 2008-10-02 00:11:06

お礼

 primeapeさん 
 ★ 霊の完全否定にまで及ぶ
 ☆ のも ありです。それが 無神論です。
 つまり
 ○ 霊とは この四次元の経験世界を超えたところに わざわざ想定したもの
 ☆ です。つまり 
 ○ 霊とは 経験合理性を超えており 経験思考では 考えても 分かるか分からないかが 分からない領域
 ☆ です。
 この霊の領域については したがって 仮りに あるとすれば 有神論となり ないとすれば 無神論になります。どちらも 良心・信教の自由の範囲で 人が自由に為す判断行為であり 互いに対等の《非思考》の世界です。一般に 《信仰》と言います。
 つまり わづかに 《ある / ない》という判断が 《経験思考》にかかわっている心の志向性のような行為です。つまり 経験存在であるわたしは 非経験の領域である霊と 接点があるという想定になっているわけなのだと考えます。この接点において 向こう側の霊が ある・ないのどちらかに決めるのは 人の自由に任されています。
 あると答えた人は――つまり 一般に 有神論に立つ場合には―― この向こう側の霊の領域が 神として このこちら側の経験世界を蔽う・包むというところまで 想像力をはたらかせます。うんぬん。

 ○ 魂は 一般に 《身体=精神》のこと
 ☆ です。心根とか根性とかとも言います。木の根は 地中深く目に見えず張っていますから そのありさまに 喩えたのでしょう。ただし
 ○ 時には 霊のことを指して 魂という言葉を 用いる場合もある
 ☆ のではないでしょうか。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 魂とは何ぞや。
 現実と心のよりどころを確かに結ぶ存在です。
 SF的ですが主観とその源を確かに結ぶ存在ともいえます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《心のよりどころ / 主観の源》とは 上に出た《信仰》のことだと思われます。ただ このときには けっきょく 《信仰と経験思考》をすべて合わせた経験行為が 《主観》であり《現実》であるとなるはづです。

 このような交通整理をすると よいと考えます。さらに より合理的な整理の仕方をも探究したいと思います。

投稿日時 - 2008-10-02 04:40:55

オコリザルです。
NO1のご返事の中からすり合わせです。
>故意に 不明確にしている人が多いのではないでしょうか。
この以下に続くご説明はもっともですが、そうすると確信犯として「悪」「罪」の予感に及びます。
幽霊はそんな大それたことに例えなくてもいいくだらない存在です。
多分善と悪の見解について意見が違うのでしょう。
私は自分自身を善だとはちっとも思っていません。
むしろ生贄を好み悪魔のそしりを受け入れます。

普通に死ぬと言うことは、魂が肉体を失うことを指します。
「霊魂」なる肉団子みたいな言葉がありますが「霊」と「魂」は相容れない異質なものです。
霊の見解から決別したほうが良いです。

投稿日時 - 2008-10-01 23:53:01

補足

 primeapeさん ご反論にお応えします。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >故意に 不明確にしている人が多いのではないでしょうか。
 この以下に続くご説明はもっともですが、そうすると確信犯として「悪」「罪」の予感に及びます。
 幽霊はそんな大それたことに例えなくてもいいくだらない存在です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 確信犯
 ☆ であるのは 
 ★★(ANo.1)人知が死の定義で錯乱している
 ☆ ところです。すなわち 《定義》がどうのこうのと言うよりも 《現実の〈死〉を受け容れたくない。あいまいにしておきたい》 ということ そして そのために《みづからすすんで 死生観において 錯乱に陥る》ことを言います。
 その結果
 ★★☆ 幽霊 / 霊界 / 異次元の世界 / 死後の世界 / 輪廻転生 / 前世からの因縁
 ☆ が やたらと 好きになっているという状態のことです。ですから
 ★  幽霊はそんな大それたことに例えなくてもいいくだらない存在です。
 ☆ という見方をする必要はありません。《幽霊》を《存在》として捉える必要はありません。勝手に 思い描いているだけですから。

 そうではなく 自己錯乱に対して 殊勝にも 説明責任を果たそうとして 《生まれ変わり》の思想を思い描いた結果 またしても その架空の世界に遊ぶかたちにおいて 自己錯乱を深めているというに過ぎません。
 すなわち No.2のご回答では 次のように説明してくれています。
  ◆◆(ANo.2) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・終わりを受容できない人は
 > 終わりは どこにおくか。
 どこに置いても受容できないと思います。
 この方たちは永遠を求めます。〔千年 生きつづけても〕 退屈なんて考えないのではないでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから このように《死を受容し得ないところから出発した死生観における〈世界〉》は きわめてあいまいな《永遠》なのだと思われます。

 その昔には 《常世(とこよ)》という思想がありました。《鏡》が 貴重な品物であって 霊力にかかわると見なされ 《幽霊》と通じることによって 《息長(おきなが)》という思想を得ます。要するに長寿ということです。《この〈今〉が その後の言葉を用いるなら 天下太平として 〈千代に八千代に さざれ石の苔生すまで〉常世である》と夢見ます。《色は匂へど 散りぬるを 我が世 誰ぞ 常ならむ・・・》というのは 塩味であり 隠し味なのでしょう。
 誰かが これは 《永遠の現在》ではなく 《現在の永遠》の思想だと言ったことがあります。

 したがって これによれば
 ★ 普通に死ぬと言うことは、魂が肉体を失うことを指します。
 ☆ というように 《永遠・常世・息長》なのです。そういう意味で《魂》というわけの分からない言葉で説明する結果になります。《世間虚仮 唯仏是真》という隠し味も 効いているのでしょう。これは 何しろ あの わざわざ上から庶民に対して 《和を以て貴しと為せ》とのたもうた人の言説ですから。

 ですから No.2のご回答に接して わたしも 呼応して 書きました。つまり 《現在の永遠》ではなく そうではなく 《死を受容した 永遠の現在》としてです。
 ☆☆(No.2補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 意識、とか、魂、とかいう要素がどこにいくのか?
 ☆ と問うても 
 ○ この四次元の世界に 在り続けており どこにも行かない。
 ☆ というようになるでしょうか? つまり 
 ○ 異次元の世界などは たとえ それが在ったとしても どうでもよいのだ。いまこの世界との和解 これが すべてである。それが 実現するなら またその実現へ向けての過程を歩むなら それこそが そういう永遠の現在として 生きることなのだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 肉は 身体および精神のことだと考えます。この肉は朽ちます。それだけです。
 あとは 次のご回答に対しての応答に続きます。

投稿日時 - 2008-10-02 03:59:16

ANo.3

 brageloneさん 
 東京地方の長い雨の秋に、似つかわしい思いにおりまるところに、このご質問に接しました。

 人間、そして個人、そして更に私という特定個人の死、或いは生は何にとって、どんな意味があるものなのでしょうね。
 そんな感懐に、長雨の下で感傷しています。
 つまりふつうの人間の意識状態での、生・死、再誕・転生・(the) R(r)esurrectionは、理由や因果律はあるのでしょうが、当人にとって、何の意味もないのではないかと感じざるを得ない空しいい思いにおります。

 1. brageloneさんにとって、この今の人生とか存在が何か意味がおありでしょうか?

 2. 現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死は或いは、仰せの通り境地なのかも知れませんが、それって望ましいのでしょうか、誰にとって望ましいのでしょうか?

 3. そういうのって、どんな状態なのでしょうか?

 4. 生きても、いわゆる死んでも、それは単なる状態、同じ状態という、(brageloneさんがいうところの)境地というのは、普通の人の意識の延長にあるのでしょうか?

 5. 或いは別の状態、境地なのでしょうか

 6. brageloneさんのことであり、brageloneさんのご思索とご質問なのですから、多分そういうこともお考えになってのことなのでしょうね。でも私自身にはbrageloneさんのご質問も、私の感懐も、今のhumanな私たちの存在の次元内での、事項である限りは、想像もつかないことなのだとする以外にないのではありませんでしょうか。つまり端的にいえば、ご質問はご回答を得られるものではないのではないかと存じますが、ご質問を出されたのですから、ご回答を期待されている、そしてご自分も問題として成立するとお考えなのですね。
 つまり別言すれば、不死も復活も、人生の長がらいも、何の意味もないのではないかなという、秋の長雨と老齢の中で感じているのですが、brageloneさんはそういうものではなく、意味のあるものであるとお考えなのでしょうか。(先日、唐突にというより脈絡なく、意識化もなく、自然の中で、妻に「おとうさん、いつまで生きているの、お父さんは死なないの」といわれてもいます。自分の任務も果たし、私の年金で生活ができていると、思っていたのに、空しくなってしまいました。)

 そのあたりの補足的お教えはいただけないものでしょうか?
 ★蛇足ですが、ずいぶん私にも理解できるご注意が為されており、とても感謝申し上げます。

投稿日時 - 2008-10-01 17:18:43

お礼

 お応えします。

 ・交通整理のためです。
 交通整理は 生きたいように生きるためです。

 ・No.1&2の質疑応答において その趣旨につながる内容を述べております。

 ・もう一点は すでに 人類が いろんな思想を打ち出して来ているので それらに合わせて 現代においても 表現する必要があるでしょう。

 ・上記と同じようなことですが さらに物語(もしくは 信仰)の問題として 取り上げることがあるでしょう。それとしての参照文章です。
 ▲ 欲するように生きることが真実となるであろう。

 ▲ 肉(身体=精神)のからだがあるのなら 霊のからだもあるはづです。

 ▲ だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。

 * 答えのある問題なら 哲学としては いちいち 考えることもないでしょう。意味があるかないかは 交通整理ができてから考えても おそくはありません。

投稿日時 - 2008-10-01 21:37:11

●死は怖いですか?
という質問を立ち上げようかと考えていたら
brageloneさんに先を越されてしまいました。

哲学のカテゴリーに寄せられる答のない質問の多くに潜むのは
私たちが死生観を分かち合えなくなってきているという問題ではないか
と思っています。

> という魂に対しては こうして 相手から やってくる場合を除いて
> ただちに 立ち去ります。
つまり、終わりを受容できる人は
おそらくフィジカルな死を容認できると思います。
ですから
> 終わりは どこにおくか。
医者から「ご臨終です」と言われた時点を終わりにおいても
この方たち(私も多分、ここに含まれます)にとっては構わないと思います。

一方、終わりを受容できない人は
> 終わりは どこにおくか。
どこに置いても受容できないと思います。
この方たちは永遠を求めます。退屈なんて考えないのではないでしょうか?
宗教的な永遠や再生に希望を託している人も少数いるようですが
多くの方は宗教的な永遠話や再生話では納得ができない
宗教的真理(真理?)では現代の死生観に成り得ないというのが
現代人の普通の感覚ではないでしょうか?

そこから先は、私も困っています。
とりあえず叩き台を提出します。
少なくとも日本人には、土に帰る、自然に帰る、といった考えが
最も親和性が高いように思います。
輪廻、ではなくて、連鎖、ですかね?
意識、とか、魂、とかいう要素がどこにいくのか?が曖昧なのが
欠点なのは自覚していますが
とりあえず、帰る場所を示すのは一定の効果があると感じます。
(今回はちょっと鮮度に欠ける回答です。)

投稿日時 - 2008-10-01 12:09:36

補足

 ▲(創世記3:17~19)~~~~~~~~~~~
  神はアダムに向かって言われた。
   ――お前は女の声に従い 
    取って食べるなと命じた木から食べた。
    お前のゆえに、土は呪われるものとなった。
    お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。

    お前に対して 土は茨とあざみを生えいでさせる
    野の草を食べようとするお前に。

    お前は顔に汗を流してパンを得る
    土に返るときまで。
    お前がそこから取られた土に。
    塵にすぎないお前は塵に返る。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ま 
 ★ 多くの方は宗教的な永遠話や再生話では納得ができない
 ☆ でしょうが おとぎ話も まんざら捨てたものでもないというところでしょうか。つまり 必ずしも日本人に限らなくても よいようです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 少なくとも日本人には、土に帰る、自然に帰る、といった考えが
 最も親和性が高いように思います。
 輪廻、ではなくて、連鎖、ですかね?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この
 ★ 連鎖
 ☆ が いま一つ わかりにくいので 補足をお願いしてもよろしいでしょうか? 《生まれ変わる》という概念ではなく そうではなく 
 ○ つねに 世界の時空間の中に 時空間とともに 在る。あるいはまた 同じくその時空間・の中にいて/と共に在る他者との関係を みづからの存在に絡ませて 生きる。土に返っても 返る前から つねに そのように 存在している。
 ☆ だから さらには 
 ★ 意識、とか、魂、とかいう要素がどこにいくのか?
 ☆ と問うても 
 ○ この四次元の世界に 在り続けており どこにも行かない。
 ☆ というようになるでしょうか? つまり 
 ○ 異次元の世界などは たとえ それが在ったとしても どうでもよいのだ。いまこの世界との和解 これが すべてである。それが 実現するなら またその実現へ向けての過程を歩むなら それこそが そういう永遠の現在として 生きることなのだ。

 あぁ すみません。流れに乗って ひとつの回答を 質問者が考えてしまいました。でも 最終回答でもないでしょうから やはり もう一つのたたき台にしてもらえば いいはづです。
 終わりから始める方針でいると 終えたところから始めることになるのだと思います。そのまま そうなっちゃった。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一方、終わりを受容できない人は
 > 終わりは どこにおくか。
 どこに置いても受容できないと思います。
 この方たちは永遠を求めます。退屈なんて考えないのではないでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ そうなんですか。そうなんでしょうねぇ。予測はできたはづですが――そして No.1への応答で そのような内容のことをわたしも書いていますが―― そう言葉にするまでは ピンと来てはいなかったです。
 ここからは 終わりを受け容れることができるようにするのか あるいはそうではなく その望みは一たん保留して 受け容れられないことを前提にして どう考え対処していくのか 二つが考えられるのでしょうね。

 ★ 〔千年や五百年を生きても〕退屈なんて考えないのではないでしょうか?
 ☆ そうなんですか。ここまでは つまりこの部分までは 思いつかなかったですね。二百年を生き続けるなら それは 人間にとって 永遠なのだと感じると思っていました。

 あと思うことは やはり
 ○ 何でもないことでもいいから これこれの事柄を わたしは 一生の仕事として おこなう。
 ☆ というのが みつかると いいのでしょうね。
 ○ 八十年か 百年か あるいは さらにもう一期間か わたしは これこれを ここまでやった。そろそろ 意志の休日である。
 ☆ という按配になれば よいと思うのですがねぇ。

 ★ 宗教的真理(真理?)では現代の死生観に成り得ないというのが / 現代人の普通の感覚ではないでしょうか?
 ☆ これについても 具体的に 吟味・探索していければ いいと思います。さしづめ クリスチアニスムとブッディスムとでしょうね。

 CUE009さん 最後になってしまいましたが たいへん面白くて有益なご回答を寄せていただきありがとうございました。いくらかの発展を期したいと思います。

投稿日時 - 2008-10-01 13:42:52

お礼

 * 質問で 先を越してしまって 申し訳ありません。タッチの差だったでしょうか。でも 《●死は怖いですか?》は 主題が 特定していて 答えやすいですから 大丈夫のように思いますが。――同じ内容が この質問で 回答されてくるようでしたら こちらで ともども 回答投稿なさってください。

投稿日時 - 2008-10-01 13:44:35

オコリザルです。
人はいずれ死を迎える。
簡単なことですね。
ところが人知が死の定義で錯乱しているために葛藤が生じる。

brageloneさんにはむしろ難解だと思いますが、最近癖になっている大霊界バッシングから一般にもわかるようなお話を思いつきました。
脳の構造は明快で0と1しかないコンピューターと同じく本来なら存在する存在しないが明らかに分析できます。ところが人間の大脳は半ば野生とは切り離されているので生得的情動とは無関係な奇行を行動として出力することがあります。要するに無くて七癖とも言われる癖のことですが、本来の人間の大脳は生命の根幹を理解するところまで、遺伝子のごとき歴史の積み重ねで理解が進んでおり、奇行を発見すると理解不能に陥り判断を後回しにしたままの中途半端であいまいな定義のまま記憶が保持されます。このあいまいな記憶なり定義なりが大霊界であり幽霊です。ドグマと言うと怖い響きがありますが幽霊たる人形を検証するための論理モデルであり脳内に作られた箱庭です。そこで無意識は神のごとく振る舞い実験をします。その存在不明状態は「悪」か、「罪」か、「欲」か、そもそも生きているのか、この生きているのかが今回の場合需要です。存在不確定のため生きているとは言い切れない幽霊相手で脳内で行われる葛藤又は実験のため翻弄される主観においては、死の意味があいまいにされます。
それから地獄もこのように生きているうちに見る箱庭であり幻の異世界です。
話は飛びますが、ついこの間私は死後は誰もが解脱すると証言しました。ところがそれでは大霊界がうざったいので死後は大霊界と縁が切れて誰もが入滅する。と言い換えたほうが判り易いようです。
大霊界の住民の証言をしても馬鹿らしいのですが存在不確定のまま生と死に関わるいろんな妄想をして主観を翻弄します。
脳はテレパシー能力もあるのでこの手の妄想は飛び火もします。
私には高次元の霊体を自称する幻、心の断片が営業に来ます。
何かの勧誘のつもりらしいです。
霊の類相手に慈悲だの無償の愛だの救いだの神だのといっても一文の徳にもなりません。
玄関に押し売りお断りの張り紙をつけておくだけで十分です。

投稿日時 - 2008-09-30 23:16:15

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 たぶん 故意に 不明確にしている人が多いのではないでしょうか。
 つまり たとえば
 ★ 無くて七癖とも言われる癖 
 ☆ のことです。つまり
 ★ 生得的情動とは無関係な奇行
 ☆ のことです。つまり 《故意に 不明確にしている》ということは これらについて 《明確に知っている》ということです。
 したがって 次の文において その前半までは ふつうの一般的な認識ですが そのことを理由とするところの後半の判断は その帰結が 違って来ているように思われます。
 ★ 本来の人間の大脳は生命の根幹を理解するところまで、遺伝子のごとき歴史の積み重ねで理解が進んでおり(* 以上が前半です)、奇行を発見すると理解不能に陥り判断を後回しにしたままの中途半端であいまいな定義のまま記憶が保持されます。
 ☆ すなわち
 ★ 奇行を発見すると理解不能に陥り
 ☆ ということは ありません。それは もしそうだとすれば おそらく なんとなく錯乱に陥りたいという衝動によってか あるいは 単なるふてくされによってか みづからが故意に そうするのです。つまり《理解不能に すすんで 陥る》のです。そのあとの
 ★ 判断を後回しにしたままの中途半端であいまいな定義のまま記憶が保持されます。
 ☆ については 同じく 故意の錯乱とあいまいさを 記憶しようと 自分が するのです。たぶん ふてくされという要因が いちばん多い例であるでしょう。

 したがって あとは すべてが ここから発しているのですから そのまま素直な帰結に行き着きます。要するに 《死》をあいまいにしておきたいという心づもりといったところでしょう。それゆえに 人は
 ★ 幽霊 / 大霊界 / 異次元の世界 / 無意識
 ☆ が好きなのです。
 ★ 解脱 / 死滅
 ☆ を わざわざ 死後の世界に持って行きたがるのです。この
 ○ 自己錯乱
 ☆ これを 明らかにせんがために 人の子は
 ★ 勧誘
 ☆ という愚かな手段を用いて そこここを 歩き回ります。
 ★ 霊の類相手に慈悲だの無償の愛だの救いだの神だのといっても一文の徳にもなりません。
 ☆ それゆえに 自己錯乱が 自己錯乱であることを 明らかにするのみです。
 ★ 玄関に押し売りお断りの張り紙をつけておくだけで十分です。
 ☆ という魂に対しては こうして 相手から やってくる場合を除いて ただちに 立ち去ります。草鞋についた埃の一塊をも持ち帰ることのないように きれいに その場を立ち去ります。

投稿日時 - 2008-09-30 23:52:52

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