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解決済みの質問

人型を作りたがる訳

昔から、人は人を作りたがっている気がします。

昔のゴーレムの話にしても、
ワザワザ魔法で作るという話にしているにも関わらず、
人型にしている点が、人型の何かを作りたいという欲求が
物語に現れている気がします。

現代でも同様に、物語ではフランケンシュタインやアンドロイドがいます。
また、現実にも人型のロボットを作成している企業も多くあり、
ワザワザロボットに音楽を演奏させるなど、目的が演奏だけであるなら
明らかに非効率なモノですら作成しています。

これらから考えられる事は、あえて人型にする事に意味があるように思えます。

ここが問題なのですが、
これは『何故』なのでしょう?
効率を求めている訳ではないのは明白ですが、その場合の理由が不明です。
あえて人型にしようとする理由を知りたいです。
心理学的観点からの回答が欲しいです。

投稿日時 - 2008-10-24 22:05:00

QNo.4427111

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

No.10です。
テーマが難しいので、今回で私が回答できることも尽きたように思います。
また、この場で私が文章を綴っていても、読んでいて更なる疑問が湧いてくるかも知れませんが、中々旨く表現できません事をご了承下さい。


>1.『自然な交流が出来る相手が欲しい』ために、『人からの理解が得やすい人型』を作ろうとしている

>2.魂(自分達)の本質を理解するために、自分を模した物を作っている。

>の2つが読取れるのですが、どちらでしょうか? それとも両方でしょうか?


後者です。私は両方の意識が働いているのではないかと推察しています。
人間は生命に限りがあるから、魂の不滅を信じたり、自然界に神の姿を見い出したりして来たのではないかと思います。

また、人型を作る意識の中には、“孤独との葛藤や不滅に対する憧れ”があるのだと思います。太古から人が石碑や粘土板、洞窟画、地上絵などに様々な物語や記録を刻んだのも、歌や口承文芸で祖先からの言い伝えや歴史を残して来たのも、全ては、人間が死を避けられないことを知っているから、一個人だけではなく歴史や文化までもが伝える者がいなければ風化してしまうことを知っているから、「記録して来た」のだと思います。
記録は個人や祖先の足跡でもあるのだから、人は記録することによって不死の代わりに「記憶」として残ることを望んだのではないでしょうか。このことは死の恐怖の克服や存在意義を見いだす為に、必要な行為であったと言えるかも知れません。
人型を作るときにも自分たち人類の種、生命に対して“永遠への憧憬”が動機としそこにあるのではないかと思います。この行為にも「記録」の意味合いが濃いと思います。
人型が“流し雛”のような穢れを移す呪具であったときには、穢れそのものを写し取って一時的に「記録」する依り代であったと言えると思います。
始皇帝の兵馬俑で知られている“俑”――この言葉は面白いことに《ひとがた》の意なんですね――これも死者が生前、身近に接してきた妻妾や臣下、衛兵、愛玩動物を模ったものとして共に埋葬されたのは単なる似姿、形の記録ではなくて、「心を記録する(=記憶を保持する)入れ物」としての意味合いが強かったのではないかと思います。

人が人型を作りたがるのは、人間が「記録」する生き物、“自分たちの「記憶」を大切にする生き物”だからではないかと思います。
肉体は滅びるものだけれど、記録として残したものは、“記憶として引き継がれていくことが可能”です。
記憶というものは、相手がいなければ必要のないものです。
人間が自分が何者なのか知りたいと願うのは、存在意義が知りたいからだと思います。存在意義は共感者、自分を理解してくれる“語り合える者”があってこそだと思います。
どんな人でも、人との交流無くしては孤独を埋めることが出来ないのではないでしょうか。――人間が人型を作るのは、孤独と死の恐怖を持っているからだと思います。だからこそ、人は似姿を作らずにはいられないのでしょう。


人型というのは結局のところ「人の記録」であったり、ある人にとっては自分を含めた「記憶の入れ物」であったりするのだと思います。

投稿日時 - 2008-12-03 17:19:06

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回答(12)

ANo.11

 No.9のお書き込みへの私のお返応:せっかく一生懸命駄文を弄したのですが、≪難しい言い回しが多くて理解できているか不安です。≫ということはよくありますよね。
 考えていく筋やリズムに乗り切れないことが。他人の思考や文章って難しい。内面や大事なことほど。
 そういう中で、いろいろと謙遜と用心深い書き方を敢えて、省いて結論的な、内容だけを書かせていただきます。本当はこんなにえらそうに表現しては、気持ちが収まらないのですが。

 ☆人間が創造の下降の中にあるとすれば、現在の他の生命も神に創造されたとされるわけでしょうか?
 ≪回答投稿≫みな神という呼称しかない、存在たる意識の創造であるという認識です。もちろんどんなものもそうです。simulacraですから、その意識の中に当然あるものです。邪悪もそうだと存じます。
 それが下等であるとか、邪悪であるとかは、もう一方の同じ人間の意識フィルムを通し、そのスクリーンに写し、見、評価させられているからなのでしょう。

 ☆そうであれば、我々は他の生命を含めた中で、最も下等であると言う事でしょうか?
 ≪回答投稿≫本当は下等も何も、写っている世界をでることができないで云々しております。悪魔は悪いとか。人間は神の似像だとか。みな似像なのに。下等でもあり、高等でもあるのではないでしょうか?

 ☆自分を優等にしたくとも、既に存在している優等を越えなければ、
下等がいても自分の位置は変わらないと思うのですが?
 ≪回答投稿≫仰せの意味が理解できていないかもしれませんが、虫も植物も、自分の来ている本源と、どこにいくのか(自分の永遠にいるところはどこなのか、つまり自分ってなになのか)を判ればいいことですね。経験して、あぁそうだったのか、なぁんだて。位置も変わらないし、自分の下等性も変わらない。そして下等を越える必要もない。

 ☆その考えでいくなら、神の優等は揺るがないはずなので、
優等の順位を変える手段は無いはずですよね(あれば理論上、神を越えられる事になってしまう)
 ≪回答投稿≫神を越える必要はない。順位は変わらない。なんだ神だったのかだけです。

 ☆フラクタルは元の形も、構成物も『全く同じ形』をとっているという意味だったはずです。(数学的な定義は知りません)
であれば、劣等という考え方は間違っていると思うのですが・・・
 ≪回答投稿≫fractalは創造されて、現にあるこの状況は単に繰り返し、相似を原則にしているに過ぎない、ということの意味でして、神からの似像のことでは申し上げてはいない。優劣の問題の次元のことではない、取り留めなさのことであります。
 ご質問に再度、書き込み投稿していると、十分ご理解されておられると存じます。
 ただ私はこういうことで、40年もつたなく勉強して、精進してきているので、まみれ方、どろまみれの程度が違うだけです。
 こういう考えだけでしかいないので、ほいっとおいでになった方にすぐそうだと、同感同情・同調してもらえないのは、つまりし合えないのは、お互いさまとして、我慢してください。

投稿日時 - 2008-11-25 12:08:57

お礼

回答ありがとうございます。

?な部分が更に増えました。
宗教的概念が強すぎて、心理学的,科学的手法が見られない事が原因だと思います。
その考え方を否定しているわけではなく、私が知っている知識に、『その方面の物が極端に少ない』だけです。
元々、理論的にしか考えられないたちなので、そういう考えになってしまうだけです。

すいませんが、宗教的前提条件が多すぎる回答なので解読をギブアップさせてもらいます。
元々、質問ないようにも『心理学的観点から』と言ってましたしね。
ある程度分かりやすいなら話は別なのですが、ちょっと無理です。
ゴメンナサイ。

投稿日時 - 2008-11-26 01:05:34

ANo.10

No.7です。補足読みました。お返事ありがとうございます。

>人型でないと魂が宿っていないから会話できないとか、そういう考えからでしょうか?

AIBOやバウリンガルが作られたぐらいですから、それはないと思います。ただ、人型に理想を求めたのではないかと…。前回、

“昔のアイヌは、人型や獣の形の物を作ると、命が宿ると考えていたそうです。(中略)取り分け、人型には強い霊力が宿ると感じていたのではないでしょうか。”

“人間が、万物を擬人化するのが好きなのは、そこに魂を見いだしてしまうから――命の儚さを知っているからではないでしょうか”



と記したように、人は動物、自分たちが作り出した物、自然を含めた「万物」に魂を見いだして来たのだと思います。自然は世界中の物語の中で精霊や妖精として擬人化して登場します。前回の回答にアイヌの言い伝えを紹介しましたが、アイヌの神様達は、人間に対する雷、火、太陽、動物等と言った「自然」そのものですが、その本当の姿(魂の姿)は人と同じであり、神の国では人と同じように家を持ち、機を織ったり彫刻をしたり、食事を楽しんだり酒を酌み交わしたりと人間と同じように日々の暮らしを送っているのだそうです。ケルト神話やギリシャ神話の神様も妖精も恋をしたり、嫉妬したり、姿だけではなく心も人間的です。むしろ、古来から魂という存在そのものの真の姿が人間的なものだと思われていたのではないかと思います。魂とは唯単に体を動かすエネルギーではなくて、存在そのものであったり、言霊といいましょうか、人語を解する人格のように捉えられていたのではないかと思うのです。人がその魂の入れ物として、違和感なく同じ目線で語り合える存在を求めた結果が人型だったのではないかと思うのです。

それと、前回、回答していて思い出したのですが、未だに原作は読んでいないのですが、以前ドラマでも設定を日本に変えて『アルジャーノンに花束を』を放映していました。この物語の主人公の成年は知的障害者で、障害故に両親が不仲で、母親にも捨てられてしまうと言う不遇な少年時代を送ってきたのですが、彼は自分に知性が備われば母親に認めて貰えると思い立ち、脳外科手術を受け天才になるのですが、この手術のテストケースに選ばれたのが、ネズミのアルジャーノンでした。
成年は天才になり、一躍時の人として世間から注目を浴びます。しかし、天才になっても彼はただ物珍しがられるだけで幸せではなく、そんな彼が漏らした一言は、
「アルジャーノン、おまえが人間だったならなあ…。」でした。
映画でもリメイクされた『新造人間キャシャーン』の原作アニメでは、主人公の少年が、自分と同じように元の生身の体からロボットとして生まれ変わった愛犬(ラッキー)にむかって発した言葉が、
「フレンダー、おまえが言葉を話せたらなあ…。」でした。

人が人を作りたがるのは、人が複雑な生き物だからじゃないでしょうか。
命の不思議に惹かれると共に、進化の最終形態と考えられる人間を完全に模すことが出来れば魂の謎にも迫ることが出来ると考えたからではないでしょうか。
前回トンコリのことを書きましたが、ヴァイオリンも女性の体を模したものだと言われています。そして、その音色は人間の肉声に近づけたものだそうです。
そう考えると、トンコリもヴァイオリンも女性が歌を歌っているのですね。
人間は人間の歌声を美しいと感じ、言葉そのものも大切に思うのではないでしょうか。そして、その言葉はやはり人型から発して欲しいのではないでしょうか。

人型を作ると言うことは、唯単に入れ物を作ることが目的なのではなく、人間と同等の魂を作り出したい思いがあって、それに見合った入れ物が人型なのではないかと思うのです。相手に人語を表面だけ解するのではなくて、魂の交流を求めてしまうのだと思います。永遠の命を得たキャシャーンが愛犬ロボット、フレンダーの存在だけでは癒しきれないように…。

投稿日時 - 2008-11-18 16:13:01

お礼

回答ありがとうございます。

1.『自然な交流が出来る相手が欲しい』ために、『人からの理解が得やすい人型』を作ろうとしている

2.魂(自分達)の本質を理解するために、自分を模した物を作っている。

の2つが読取れるのですが、どちらでしょうか?
それとも両方でしょうか?

投稿日時 - 2008-11-24 23:05:09

ANo.9

 回答番号:No.5のお礼のお書き込み:
 凡そ、仰せの総括の通りでよろしいかもしれないが、違います。
 無意識という意識は無い。自分で出来ない意識はありうる。
 働いているのはこの世界の原理でしょう。
 相似という原理はこの宇宙で大宇宙から、原子まで。
 神が似像で人間を、いや創造界を作ったという神話的(説明・理解の)、原初の段階 から相似というのは、基本原理でしょう。
 一見複雑、diversityであるかのものも、要素は同じで、絡みや関係の中でそうみえるだけでしょう。fractalが構造様式で、それは主格のsimulacraによるのではないでしょうか。
 私たちもそうやって、自分に似た世界を自分で見て、構成・紡いでいるのでしょう。それは自分より劣等もあるし、理想化世界もありましょう。人形はある意味で両方である可能性はありうるでしょう。
 神というのがそういうことをして創造界を造ったというなら、それもそういう仕方であったはずです。しかし神が究極であるとするなら、神の向こう、その先、その上はないから、神よりもっと優等な理想なもんはありえない。
 最高優等なものは劣等なものを必要としない。
 人間は創造という下降の中で、両方に端をもっているから、自分を優等にしたいと思う。そうすると自分の確認、居るというためには、自分よりも劣等も優等も必要とする、愚かな存在が並みの人ということです。
 並みの善男善女では人の後ろについて、人とともに、日常の仕事と衣食住で終わる。それは影的生き方。同じ事務机にあり、レジを打ち、かんなを掛ける人々。一見。しかし中身は人により異なりましょう。
 人型ということばを使われているが、全て自分の相似でしかない。
 蟹は自分の大きさで穴を掘るようなもの。
 穴を掘っているうちは、なんでもない並みの人間。今般のご質問はつまり、そういう並み人間の本性をお尋ねなのだと理解して、その本性の来るところを説明申し上げました。
 私の拙い文章から、どうか中途半端には受け取られないことを祈っております。

投稿日時 - 2008-11-14 07:42:31

お礼

回答ありがとうございます。

すいません。難しい言い回しが多くて理解できているか不安です。

創造の過程で生まれたものは、全て下等な存在であるからして、
創造の過程で生まれた人間は下等である。
また、下等な存在は、自己より下等な存在を生み出す物として生み出されている。
よって、人は自己より下等な存在を生み出そうとしている。

・・・という事でしょうか?としても、人型である理由は分かりません。

以下、質問。

人間が創造の下降の中にあるとすれば、現在の他の生命も神に創造されたとされるわけでしょうか?
そうであれば、我々は他の生命を含めた中で、最も下等であると言う事でしょうか?
自分を優等にしたくとも、既に存在している優等を越えなければ、
下等がいても自分の位置は変わらないと思うのですが?

その考えでいくなら、神の優等は揺るがないはずなので、
優等の順位を変える手段は無いはずですよね(あれば理論上、神を越えられる事になってしまう)

>fractalが構造様式で、それは主格のsimulacraによるのではないでしょうか。

フラクタルは元の形も、構成物も『全く同じ形』をとっているという意味だったはずです。(数学的な定義は知りません)
であれば、劣等という考え方は間違っていると思うのですが・・・

投稿日時 - 2008-11-24 22:53:33

ANo.8

>>自分と寸分違わぬ経験をクローンにさせることは物理的に不可能です。
>
>理論上不可能ではないですが、実現させる事は確かに非常に難しいとは思います。

クローンを「わたし」と同等にするには、「わたし」の親・兄弟・育った環境その他を完璧に模倣した環境が
必要になりますよね?それを物理的に再現しようとすると、周囲の人間の複製(当然親は年齢が大人でないといけません)が
必要に・・・という循環に陥るので、やはり物理的には不可能です。
タイムマシンで過去に行って、過去の自分と取り替えられるなら別ですが、当然無理です。「親殺しのパラドクス」で検索してみて下さい。

結局は、人格がコンピュータ的にコピー不可能であるという前提で、
(1)人は生物的本能から人を作りたがっているけれども、子育てをする以外では不可能である。
(2)仕方がないので、妥協の産物として人に似たものを作ろうとする。
というところでしょうか?

もし人格がデジタル化可能となると、世の中大混乱になると思います。
コピーの中で誰が「オリジナル」なのか分からなくなりますから。


kiroranさんのご回答を見ていて、一つ思い浮かんだことは、人は社会的動物である、ということです。
要するに、完全な独りぼっちには人間は耐えられないということです。私は携帯電話を余り使いませんが、
四六時中メールを打つ人は、とにかく何でも良いから繋がっていたいという欲動からそうするのでしょう。
「一人が好き」という人も、過去の人との繋がり(本を読むなど)までを未来永劫に完全に遮断されれば、耐えられないと思います。
無人島で単独サバイバル生活、などの実話もこの世界のどこかに自分以外の人が居て、いつかは助かるという
前提で成り立っていると思います。

ここで、私達人類を一つの生物カテゴリと見なしたときに、地球には同等の知能を持つ生物がいません。
(人類を一つの人格と見なす考えは、結構あります。どの国の人が聴いてもクラシック音楽が心地よいのは
人類が心の根底に共通のコードを持つからではないか、というような論です)
人類以外に「仲間」がいないことは、もしかするととてつもなく寂しいことなのかもしれません。
故に、私達は宇宙人(同等の知性体)を探したり、動物の人間くさい仕草にもしかしたら知性があるのでは、
自分たちは一人ぼっち(?)ではないのではという期待を込めるのかもしれません。

話を戻しますと、宇宙探査もない時代には、人間が自分と同じようなものを作れれば、寂しくないという
希望というか願いのようなものがあり、それが様々な人の姿のものを文学作品に登場させ、
そして現在作ろうと躍起になる原動力になっているのかも知れません。

申し訳ありませんが、その存在が何故人の形をしていなければならないのかという、
一番の答えはどうも思いつきません。


思いついたことを書き殴っただけで恐縮ですが、良い思考練習ができたと思いましたので書き込ませて頂きました。

投稿日時 - 2008-11-14 04:50:28

お礼

回答ありがとうございます。

>クローンを「わたし」と同等にするには、・・・
別にそれほど難しく考えた発言ではなく、『全ての周りの環境を同じにするために、全てのクローンを作り出すという事は、確かに現実的ではないですね』という意味で言ったのですが・・・。
人格コピー云々は考えた事もないですね。
理屈が分からないので、可能かどうかは私には分からないです。

投稿日時 - 2008-11-24 22:33:03

ANo.7

昔のアイヌは、人型や獣の形の物を作ると、命が宿ると考えていたそうです。トンコリという楽器も(樺太アイヌが使っていた弦楽器。これ自体は女性の体を模した物。)持ち主が亡くなったのに放っておくと化け物になるという言い伝えがありました。
神道でも同様に日本には古くから万物、人間が作り出した物にまで命が宿るという信仰がありました。
また、エジプト王朝やインカ帝国でも、魂の器としてミイラが制作されるなど古代から人は形あるものには命が宿ると考えていたのでしょう。
取り分け、人型には強い霊力が宿ると感じていたのではないでしょうか。

また、人間は知能の高い動物ほど愛情を感じるようです。
対象から喜怒哀楽を読み取れると、心を通い合わせる事が出来たことに満足感を得たり、共感できたことに喜びを見い出せるのでしょう。
人はゴリラと手話を交わしたり、オウムと会話したり、シャチの会話に方言があることを突き止めたり、バウリンガルを制作して犬との会話を試みるなど、人間以外の生物と会話することに夢や探求心を持っています。
元々人間は、自分達以外の生命と会話する夢があるのではないでしょうか。

人は絵画や彫刻、音楽、詩など、自然を模倣するのが好きです。
一瞬で過ぎ去ってしまうものや命、その時の感動を留めておきたいからではないでしょうか。人間が、万物を擬人化するのが好きなのは、そこに魂を見いだしてしまうから――命の儚さを知っているからではないでしょうか。

人が生き物を飼ったり植物を栽培するのも、元々生命に非常に関心があって、自分たち以外の生命が育っていくことに興味、関心があるからだと思います。コントロールしたいという欲求もあるでしょう。
そして、どんな人でも自分が育てるからには、命を長らえさせたいと望むでしょう。


人型のロボットというのは、これらの人間の夢、全てを凝縮させた物と言えるのではないでしょうか。あえて人型にするからには、やはりそこには命、心というものの交流を人は見出したくなるのだと思います。
限りある命や魂の神秘に関心を持つと共に、人は種としての孤独も持っているのだと思います。人間以外の魂を持った、同等に心の交流を持てる存在を求めているのでしょう。

また、ゴーレムやフランケンシュタインなどのように、出来損ないの人型が物語に畏怖する存在として出てくるのも、人が一番恐れるものが人だからだと思います。。
人は区別や分類できない物を非常に恐れます。そのような物語が作られたのも、外見は人のようでも異質なもの、異様なものは、何か得体の知れない恐ろしい力を秘めているように感じられたからではないでしょうか。人ほど生きることに執着している物の形に宿ったエネルギーは、何か底知れないパワーを持っているように思えたことでしょう。

ロボット工学が発達していくと、外見や仕草といった直接的な機能以外の面から、愛着や憎悪と言った問題も生まれてくるでしょう。
結局は、何処まで人間に似せるのかが論点になっていくのでしょうね。

投稿日時 - 2008-11-05 01:55:07

補足

回答ありがとうございます

>自分達以外の生命と会話する夢がある
なるほどの回答です。
確かにそう考えれば多くの問題は論破できますね。

宇宙人を探すのも、ロボットを作るのも同じだということでしょう。
ただ、1つの疑問は、『人型である理由』です。

やはり、人型でないと魂が宿っていないから会話できないとか、
そういう考えからでしょうか?
でも、犬とかとも会話しようとしている時点で少し違う気もします。
そこんとこ、どうなんでしょう?

投稿日時 - 2008-11-14 03:12:48

ANo.6

人間が人間を造りたいと願うことはNo4の方の仰る通り、生物の
基本的な欲求(子孫を残すこと)にあると思います。
もちろん子どもを産んで育てればその願いは叶いますが、肝要であるのは
無生物であるものから人間に似せて何かを作ったらどうなるのか、という
結構哲学的なお話になる気がします。

心理学に心脳問題という話題があります。
簡潔に言えば「こころ」というものが、どこに属するものであるのかとでも
いう問題です。極めて古典的かつ宗教的には、魂とでもいうものがあり、
それは不滅であって人間の体は入れ物に過ぎないという考え方であり、
対照的には「こころ」と呼ばれるものは我々の脳の情報処理過程で生じる
計算結果とでもいうもので、身体が機能しなくなれば「こころ」もまた
消滅する、というものです。
科学万能の立場からすれば後者が当然だろうと思われますが、この問題は
以外と現在でも議論され続けています。欧米では宗教の影響が強いことも
もちろんあるでしょう。

なぜこの話題かといいますと、この問題の解に後者を選んだ場合は
人格であるとか、心、魂といった概念が全て現実の物質世界に還元可能な
ドライなものであることを受け入れなければならないからです。
人間は昔から生物と無生物を区別し、更に生物の中でも自分たち人間には
心・魂といったものがある、故に自分たちは「他の全てのものと違う」と
考えてきました。
しかし、もし心という概念が脳という器官に依拠するものとすると、
本質的に人間の心、それも生物の中でも特別だと思われた存在が単なる物質の
活動結果というレベルに落ちてしまうという恐怖が発生します。
「わたし」が誰かに造られたりするかもしれないという恐怖であり、
体の死をもって「わたし」が消滅してしまうという恐怖です。

人形の話題はこの話題と密接に絡むと考えます。
現在も幾ら精巧な技術を持ってしても、人間と同等のハードウェアは
造れていません。近い将来にかなり良いものが実現するとしても、やはり
完全に同じものは作れるかは疑問です。運動性能が同等でも、損傷時に
自己修復する機能は難しいでしょう。
そうすると、人に似たものは作れても、人自体はハード・ソフト両面から
制作困難である、ないしは不可能であるという結論に達します。
困難事をやりもしないで無理だということは無意味ですが、これだけ
やっても出来ない・出来なさそうだ・不完全だという事実が、私達を
先ほどの恐怖から遠ざけて安心させるのではないか、と私個人は
考えています。
従って、過去の童話・SFにおいても人間そのものが作られたという内容は
あまり見かけないのではないかと思います。あくまで人間に似た外見を
持つ、(主に心的に)不完全なものでないといけないからです。


補足しますと、クローンは機械的アプローチより簡単に作れそうですが、
その場合は元になる人間が必要になる為、人間を造ったといえるのかは
疑問ですし、仮に自分のクローンを造ったとしても、そのクローンに
自分の「こころ」を持たせることは不可能に近いでしょう。
なぜなら我々の心や人格などは、生まれて持った身体に加えて過去の
経験と記憶の複合体であるからです。自分と寸分違わぬ経験をクローンに
させることは物理的に不可能です。

私の専攻とは分野が違いますが、一意見としてお考え下さい。

投稿日時 - 2008-11-01 18:33:26

お礼

回答ありがとうございます。

つまり、結論は何なのでしょうか?
良く分からないのですが・・・・

>自分と寸分違わぬ経験をクローンにさせることは物理的に不可能です。

理論上不可能ではないですが、実現させる事は確かに非常に難しいとは思います。

投稿日時 - 2008-11-14 03:12:17

ANo.5

 simulacraという現象では見つめることで、何か造形していく経験をしますね。それと共通点ってないのでしょうか。
 私は、ヒンドゥの思想を勉強し精進しておりますが、創造は唯一の存在の意識が見つめ、見つめさせることで始まり、展開した。それは見つめるのも、見つめさせるのも己の似像、観念を造映するのだということを勉強しました。
 そういう現象なのでしょうかね。私はすごく似ている(共通点があうる)と存じますが。宇宙の原理は一面繰り返し、一面相似といわれています。一切が。そんなことの問題かなと、皆様のお話も興味を持ちました。
 欧州の百年以上前の唯物史観とか唯物論の方は、人間が神を作ったというのですが、その人間を作っている根底の意識は唯一なるものというのが、勉強し精進しているヒンドゥの教えなんですけれども、相似を原則として、自分、そして自分の観念を反射(投影ではなく)する作業お仕事だそうです。
 お人形はそういう本能ではないでしょうか。
 日本でも、ある目的のために、ひとがた(人形)を紙で作りますね。
 祀り捨ての効果ですね。本当と思えば本当になるという、現象ですよね。
 それと依り代ですね。いろんなものに依りますね。そこにいるということなのですが、見つめてそこに意識を入れ込んで、入っていくことですね。祈りなどもそういう側面があるようですね。
 万物に霊魂や神が内在するという見方を私たちもそうだと存じておりますが、そういう線上のことが、お人形などをつくることなのではないでしょうか。私はそのように思っております。

 ただANo.3 nomonomo2さんの『完全に「人間」に似せていないのは、「対等に見たい反面、やはり少しは(思考・感情の面で)人間よりも劣った存在であって欲しい」という心理』というご観察は、人間のしがないさが(性)に対して、まことに示唆的なお話で、とても勉強になりました。それでこの投稿を書いてきました。

投稿日時 - 2008-10-29 07:25:11

お礼

回答ありがとうございます。

つまり、自分の虚像を作り出そうという意識が無意識のうちに働き、
無意識のうちに、自分より少し劣ったにしたいという意識が働いている・・・
ということでしょうか?

投稿日時 - 2008-11-14 03:05:39

ANo.4

> 昔から、人は人を作りたがっている気がします。

気がするのではなくて、大昔から、現実に作りたがっています。

生物学的では、DNAが自分の複製を大量に残す為に、
子作りに快感が伴うのはその為との意見もありますし、

宗教なら、「神は自分に似せて人間を造られた」と
人間を神に例えて、人は人を作りたがっています。

「“何故”人型をつくっているのか」というたぶん正しい答えはありません、
そういう欲求・行動・現状があると解っているだけです。
「何故」の答えは、すべて推測、推論ですから・・・

ただし、人間型に近づけば近づくほどに、「可愛い!」とか
愛情が湧くのが人間の特性のようです。

これは、「不気味の谷」と呼ばれる現象があります。
森政弘氏の提唱した説で、Wikiには・・・
『人間のロボットに対する感情的反応について、ロボットがその外観や動作において
 より人間らしく作られるようになるにつれ、より好感的、共感的になっていくが、
 ある時点で突然強い嫌悪感に変わると予想した。人間の外観や動作と見分けが
 つかなくなると再びより強い好感に転じ、人間と同じような親近感を覚えるように
 なると考えた。』とあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%B0%97%E5%91%B3%E3%81%AE%E8%B0%B7%E7%8F%BE%E8%B1%A1

不気味の谷底にゾンビなどがあると言われますし、
映画「ブレードランナー」のレイチェルは、あまりの人間に近過ぎた為に、
愛憎というアンビバレンツな感情を生み出すと同時に、
「人間とは何か?」という、問いを改めて私たちに突きつけて来ます。

この「不気味の谷」が在るかどうかには、異論もあるようですが、
少なくとも、ロボットが人間に近づくにつれて、好感度が上がるのは、
どなたも経験されていることだと思われます。

 ※動物が人間のような仕草をしたとき「可愛い!」と私たちが思うのも、
  ぺットに服を着せて人間化(擬人化)するのも同じ動機が働いているものと思われます。

知能ロボット研究の石黒研究室がアンドロイド研究で興味深い実験をやっています。
http://www.ed.ams.eng.osaka-u.ac.jp/research/0007/

尚、多くのロボット研究者達が、人型のロボットを作るのは、
「手塚治虫先生へのリスペクト(尊敬)」の気持があり、やはり
アトム型のロボットを作りたい(作ってみたい)と、言うのを聞いたことがあります。

投稿日時 - 2008-10-25 14:41:38

お礼

回答ありがとうございます。

結論が何かがイマイチわからないのですが、
『よくわからない』が結論でしょうか?

人型への好感という物も理屈がイマイチわかりませんが・・・・

投稿日時 - 2008-10-25 22:45:14

ANo.3

人間とロボットの大きな違いは、「思考」や「感情」、もっと言えば、「脳」「魂」が人間にはある事だと思います。
ロボットを「人型」に作る理由は、それでも人間と「対等」な存在として、感じたい・感じさせたいからだと思います。

ゴーレムやフランケンシュタインなど、「人型」だが完全に「人間」に似せていないのは、「対等に見たい反面、やはり少しは(思考・感情の面で)人間よりも劣った存在であって欲しい」という心理があるからではないでしょうか。強くて怖い上に、思考・感情・判断力も完璧な人間そのものだったら、いつかそれを作った人間の方がロボットにやられてしまう、という恐れが無意識にある為です。

アンドロイドは、容姿もかなり人間に近いものもありますが、ロボットの技術以外の、人間にしかない「思考」「感情」をプログラミングされているもの程、容姿も「人間」に似せて作られている気がします。人も、「思考」「感情」「容姿」が人間に近いロボット程、同じ「人間」として対等に、本物の人間に接しているかの様に接していると、思います。

人型のロボットが楽器を演奏するのは、演奏そのものが目的ではありません。
ロボットが楽器を演奏するのを見て、「おお~すごい!」と喜べるのは、ロボットを少しでも「人間」として対等に見ており(それでも少しは劣った存在だという認識もある為)、あたかも3歳児が上手にピアノを弾いた時やイルカがラッパを吹くのを見た時の様な、驚きと感動があり、微笑ましく感じるのだと思います。
これが、全く「生物」を感じさせない機械が、ものすごく上手な演奏をした所で、その「機械」に対する驚きや感動はなく、普通に楽器のデモ演奏を聴いている様な感覚だと思います。その場合、上手に演奏された音楽に対する感動はあるかもしれませんが、「機械」そのものへの感動はないと思います。

投稿日時 - 2008-10-25 06:08:49

お礼

回答ありがとうございます。

つまり、無生物界に属する物でないという証明を持つ物を作りたいという事でしょうか?

魂や脳がなくとも、あたかも生物かのように振舞う事で、人に誤認させる事を目的としていると?
それで考えれば、AIBOやASHIMOの形状も納得です。
残る問題は、生物のように振舞う存在を作りたいと思う理由ですね。
やはり、AN.2さんの言うように、支配欲が目的でしょうか?

投稿日時 - 2008-10-25 22:40:37

人間は自然の真似をしていろいろなものを作ってきました。自然探求といっても結局自然をまねる方法を研究することです。人間をまねることは結構難しいことです。特にそれなりに完成された成人を作ることは一番難しいことなのではないでしょうか。このことを実現させるという願望の表れではないでしょうか。あるいは人を自分の思うような人に変えてみたいという人間の支配欲の表れとも言えるかもしれません。

投稿日時 - 2008-10-25 02:54:58

お礼

回答ありがとうございます。

人を作るという困難への挑戦か、支配欲の表れですか。

困難というだけであれば、他にもいろいろとあると思います。
自然界には未解決な問題が山ほどあるのですから。
また、現在のロボットで支配欲が満たされるとは私は思えません。
ですが、作ることは何かしら理由があるはずです。

投稿日時 - 2008-10-25 22:31:44

ANo.1

憶測ですが、子供を生み、育てることで、人類が生きながらえてきたからではないかと思います。
言葉を変えるならば、人=人型のコピーを作ることが、心理的に一番落ち着きやすく、またすばらしいものだと感動しやすいからなのではないでしょうか。

もし、人が人型だと認識されない時代が来れば、変わってくることもあるのかもしれません。

「ワザワザ魔法で作るという話にしているにも関わらず、人型にしている点」という発見はとても面白いと思いました。確かに、ワザワザ魔法で作っているのに、面白いですね。

投稿日時 - 2008-10-24 22:21:49

お礼

回答ありがとうございます。

人型には安心できる何があるというのでしょうか?
リアルな人型は気味が悪いとも言われる事があります。
しかし、現実にはリアルな人型を求めている気もします。
不思議です。

投稿日時 - 2008-10-24 22:45:37

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