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解決済みの質問

現在時における《復活》について

 おしえを乞います。
 次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。

  ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~
 そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。
  ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は 決
   して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇く
   ことがない。
    しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている
   のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたしの
   ところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い出
   さない。
    わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わたし
   をお遣わしになった方の意志を行なうためである。
    わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えにな
   った人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させることで
   ある。
    わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命を受
   け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだからで
   ある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。
 きわめて横着に 《終わりから始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。
 しかるべく 正してください。

 なお 《QNo.4367998 :復活とは? 不死の境地とは? = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4367998.html》の続編になります。

投稿日時 - 2008-10-30 20:54:43

QNo.4442055

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

オコリザルです。
まづ、
>家畜として共生する中で感情移入するして心象において擬人化する理解の試みから生まれた悪夢です。(この点は神話性のない私独自の解釈)

この部分は私自身が理解するためのこじ付けがましい解釈で要するに寝言です。
変身と表現したbrageloneさんの解釈のほうがより忠実であるとわかりました。
このように表現するならです。

 ☆ この《世界の変化》とは何ぞや
個々の精神世界がつながっていく過程と考えます。

自然史過程に関してはbrageloneさんの表現に謎かけめいた物を感じて思いが空回りしました。
このような場合brageloneさんの主張に私の理解が負けているはずです。

個人としてどのように係わるかなら世界に光が増して行くのを見取るだけとなりましょうか。

投稿日時 - 2008-11-05 20:32:18

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《世界の変化》とは何ぞや
 ★ 個々の精神世界がつながっていく過程と考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。わかりやすいですね。いい表現ですね。

 ★ 個人としてどのように係わるかなら世界に光が増して行くのを見取るだけとなりましょうか。
 ☆ これが――上でのわかりやすい情況とかかわって―― 一方では 《特に 人は 何もしない自然史過程として光が増す》のか それとも 《光が増すのは 人の目覚め(ブッダになること)とともに 起こる》ことなのか。・・・というところなのですが。
 けっきょく
 ★ 鬼から牛への変身
 ☆ にしても ある日起きたら そうなっていたというのか。それとも 涙ぐましい努力のあとに成就することなのか。と なお 思います。

投稿日時 - 2008-11-05 21:06:38

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回答(30)

ANo.30

罪の赦しの問題にすこし立ち返ります。

神は、わたしたちを裁きません。 悪人にも善人にも同じ雨をふらすように。

あるいは、哲学的に言えば(厳密に理論的に言えば)神とはいないに等しい(すでにこの存在が贈り物であるということを前提とした上でのことであって無神論とは関係ない点は誤解しないでください。)わけです。

では、私たちは罪を認識したら、さばくべきなのでしょうか?

わたしは、刑罰というのは法律として、今はまだ“しかたなくて必要なもの”と考えます。  私たちが弱いからです。(抽象的の言い方ですけどね。)

心の中では、完全に「罪を憎んで人を憎まず」の理解が必要なところと思っています。

因果のすべてをどうせ知ることは 人間には他人の内面をすべて知ることはできないので無理でも、 無知の知の理解の知恵で、あるいは限界への謙虚さで、他の存在へのリスペクトの力で、  まず理性は知性にては、完全に人をどんな時にても「それはその原因があってその罪に結びついてしまった」のだと理解してあげることは出来ます。

理解してあげるというこの「あげる」という言い方は上から目線でしょう。

自分もまったく同じ状況を同じ能力にて生きたなら同じような罪をおかしてしまうだろう事の理解の知恵からは 上から目線ではないわけなので、真の理解からは上から目線は無いわけですが、 あえてわかりやすくかけば「あげる」という記号も使えるかとおもっただけと理解してください。(ややこしいですが^^)。

わたしの考えでは この完全な許しと、自己反省を促せる教育体制が人間社会の中に ほんとうに確立できたなら、弱いままの人がまだたくさんいても、  実際の「復活」がきても準備はできた状態というふうにかなり前から思っていました。  あまり考えた上での結論ではないので、 いえそれ自体を考えても 現実がそれに向かって進んでいくわけでもないので考えなかった感じなのですが、    考えてみれば不老不死と言う点からもそれは庶民の夢でもあったんですよね。   その点からは もっと考えておいてもよかったかもしれません。

でもともかく未来時間のことは、 今変革の努力しないと何も変わらないということしか私たちには解らないこととも思います。 過去と今の情報をもっともっと勉強し考え抜き、そこにこれからと今からをかんがえて行動もし言葉も組みたてていく ということ。 これぬきには、 私たち人間のこの意思決定ぬきには、何も前には進まないという考えです。

現在時となると、教育改革ということを抜きのコミュニティは考えがたいところです。   急進派ですが、ここは押さえておくべきところのひとつと思ってます。

罪の問題は、その過程での理解の問題と考えます。



一般の哲学人が primeape様との間の会議?に出席するのはよけい話がこんがらがるところなのかもしれませんが、   私の経験とかからのたぶんじっくり解説すれば多くの人にわかりやすい解釈からも いちいち「面白い」内容の思えてしまうので、    間違っているかもしれなくても つい、いちいち解説したくなってしまうのですが、   あくまでもより多くの人にそれなりの意味が通じたほうがより価値的だとはおもいますのでこの井戸端会議にも首をつっこみたいのですがよろしいでしょうか。

たどえば、牛ですが、 これはアフリカでは一番恐れられてる動物です。

ライオンが6頭ぐらいで なんとか「鬼^^」退治をする映像を見たことがありますが、 これは一頭では歯が立たないということです。  野生の牛こそ 百獣の暴れん坊王者です。     一番人や他の弱者をなんの理由も無く利己的に^^、襲う危険な動物王です。

が、今ではこんなに人間に役に立ってるおとなしい動物はいません^^。

すみません。 あまりにも卑近な解釈だったでしょうか?

でも、これもまた、たとえば 精力善用とかの現実教育問題、日本柔道の精神やその競技の健全な発展の問題とかとか  重要な問題のひとつとして私の中にもリアルに浮かび上がってくる問題なのです。

これが 抽象的なままに進んでいっていい論議なのか? 私のほうからは疑問なのですが?

霊媒師?の立場とかがあって 言葉が雲の上の霧がかかったままの対話として進んでいるのか?    primeape様の直感力から生まれる言葉をpremeape様の哲学的理解力自体が追いつけないでいて それで同じ神話理解力のような能力の哲学者に対話を求めているのか?   そのへんがすごく「謎」の人なんですが、   そのキャラクター限界の世界なのでしょうか? 

私もすこしは、 参加していいで笑か?

あ、 きょうはここまでです。

投稿日時 - 2008-11-06 08:06:17

補足

 arayata333さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 回答者どうしの探究の協力――議論と言うことばを避けて こう言うのですが――について いつも 考えていました。要するに 話が進むと思えるからです。
 けっきょく 主題を提示して それについて回答を寄せるというかたち これを採っていただけば よいのではないでしょうか。それに哲学であれば 議論をしつつ(と言いますか 疑問点について 補足要求として 尋ね返しつつ)答えに近づくのが ふつうでしょうから。

 牛については
 ★ 野生の牛
 ☆ のことを別として たとえに用いる。これなら いいのですね。
 さらにそのあとの議論につきましては 《これこれの主題についてですが》と言って ご見解を述べてくだされば よいと思うのですが。

 ★☆ あやまちを赦すということ
 ☆ これは 何を隠そう primeape さんの持ち場でもあるのですが 前提を確認しておきます。
 1.★○(この ○ は一般にも言われるという意味です):罪を憎んで人を憎まず。
 2.〔ちなみにアウグスティヌスの言葉で:〕われわれは欠陥を憎み人を愛すのであって 欠陥ゆえに人を憎んではならず 人ゆえに欠陥を愛してはならない。
 3.そのあと 見解は二つに分かれる:
 ( a ) あやまちを犯した人を こころから完全に 《赦す》。この上なき和解の成就。
 ( b ) 犯されたあやまちを憎み その人を 社会的に共生すべき存在として 愛する。しかるべきつぐないを果たさせ その後 更生することを 制度・措置として さらに整え 充実させる。更生を邪魔する行為に対しては いかなるものであっても社会を挙げて たたかう。

 ★ わたしは、刑罰というのは法律として、今はまだ“しかたなくて必要なもの”と考えます。  私たちが弱いからです。(抽象的の言い方ですけどね。)
 ☆ これについては そのような考え方があるということとは別に わたしの方針としては こうも考えております。
 いま現在 目標とするところは 《世の中の三分の一が 民主・自由の井戸端会議をとおして 共生の社会生活を つねに 権威・面子をかなぐり捨て裸になって 模索してゆき 次の三分の一が それに共感し 残りの三分の一が 何かと抵抗したり邪魔したりする》という状態の実現です。
 これによると 一般に 何かのことで《過渡的》な処置を採っているのだという考え方は あまり しないと思います。《過渡期》という考えはなく つねに 目標実現の真っ最中の現在なのであると思っていますが いかがでしょう?
 
 今回は これにてです。

投稿日時 - 2008-11-06 09:42:49

お礼

 みなさんへ。

 新しい質問 《QNo.4462818 :吉本隆明の思想について =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4462818.html》へ移行しました。
 どうぞよろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2008-11-08 15:39:14

ANo.28

bragelone様の、 復活の問題を 現在の愛の問題として、幸福をどう分かち合うか苦しみをどうなくしていくか!という具体的に社会から目をそらさない精神も問題として さらに話題を展開していこうという  キリスト者としての想いとか詩的表現の気持ちとかは解る気がします。

でも、やっぱり一般の立場からは、「愛を具体的に進めてゆくにはどうすればいいのか?」とか「その時、愛とか慈悲が無い人の心はどうしたらいいのか?」とか、「その教育もしっかりすることのできえる実際の助け合いのコミュニティーを進めてゆくにはどうしたらいいのか」とか、 そのように、キリスト者でも一般人の哲学してる人達に噛み砕いて話を持っていってくださらないと、 なかなか抽象的なお話と誤解されてしまって話しは進んでいかないように思われるところです。

私の場合は この「幸福論」が実際により多くの人の幸福と結びつかなくてものんびりしていられる議論には興味は持てません。  かなり革命志向人間です。  でもだからこそ、あわてないようにという議論であれば、そこには興味というより自戒のための必要性は感じます。

たしか 一度この哲学カテで仏教についてこんな質問をしたことが過去のありました。  回答がつかなかったので消してしまったのですが、ということはせっかちで一日も待てないで消してしまったのかもしれません。

悟りの世界があまりにもすごかったら、私たち凡人の心理を憶えていることは出来ないはず、 なら釈迦はオシャカではないか?  という意味の質問だったと思います。

逆に言えば、もしそうでないのならば、 仏教からは 歌や絵や踊りがあふれるように生まれてすべての教えが 実際に心の中の明るさの証明も含めて誰にもわかりやすくなっていたはずです。

仏教だけに言えることではないですけど。

《イエスキリストはすべてを、たとえ話で話された。 悪人とも友達だった。 自らは神の知性の世界を伝えるほどの知性の明晰性と、純粋な優しさを持っておられたのに。 》   それが“ふつうの市民のキリスト教感(最新の質問は、拝見しています。そちらにも いつもの無知な立場ながら回答してみたいと思っていますが。)”だろうと思います。

brageloneさまの、信仰の純粋性が そのような究理の筆となる 詩心は解るのですが、 やっぱり 哲学の井戸端会議である以上、   そのへんこそ、 回り道してでも、 ゆっくりと、 しかし本気で前に進めて行く必要があるのではないかと思います。

私は かなり昔から今に至るまで 「心の清い人」とはどういう人なのか、うまく具体的には掴めないできました。 いえ、ほとんどその意味合いがうまくつかめていないのです。  でも直感として、今思ったのですがblageone様のような人を「心の清い人」というのかもしれません。

その面からも、文体自体とか文の奥のそのお心の味わいとかの世界を変えずに、そのへんを譲歩するというのはとても困難なところなのかもしれません。

お心が深いことは、私には解ります。 議論内容の深さもです。 すべてではないでしょうが、わたしにはそように読み取れるところがあるのです。

忙しくなっても できるだけ、こちらの井戸端会議には顔を出すようにしてみたくなります。(おさそい ありがとうございます。また おさそいは、必要としている仲間という意味合いとも受け取りました。)



きょうは これから 84歳になる母を食事に連れてゆく約束をしています。 急いで帰る必要があるので、 続きというより 手紙風となってしまいました。   

(哲学のカテには、それがどんな議論展開であれ、私はこうした 歯車のユトリも必要かと思っています。)

取り急ぎ。

投稿日時 - 2008-11-05 20:01:46

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 うちの親も 二人とも 一緒に食事をするのが いちばんの楽しみだったようです。

 ★ 噛み砕いて話〔したまえ〕。
 ☆ 身にしみます。限界が――あると決めつけませんし あるとすることに抵抗を示しますが―― いまは あるのかも知れません。

 復活論については さらに 感想が 二転三転しました。
 いっそのこと 復活した地点に立って――その復活じたいの議論をではなく そうではなく―― いろんな主題について そのまま 語ればよいのではないか。こうも思いました。方向性として これを いま 持ちます。クリスチャンにも ブッディストにも みなさんに 呼びかけたいと思います。

投稿日時 - 2008-11-05 21:14:37

ANo.27

オコリザルです。
神話的解釈と言うよりも諭すように語るなら、地獄の鬼は世界が変わることによって牛に昇華してその苦しみから解放、苦しみと言うのは実は変なんです、ただ報われたと言うべきでしょう。時間の流れはまっすぐですから、元々から牛であったかは立ち入れない(心の)世界です。
A26のコメントでbrageloneさんの考え方にも(あくまでも私から見てですが)何らかのわだかまりがあることを発見しました。
復活へのこだわりが現実からも離れています。
捨ててゴミにしないで取り組んでください。

投稿日時 - 2008-11-04 23:42:38

お礼

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 地獄の鬼は ≫世界が変わることによって≪ 牛に昇華して
 ☆ この《世界の変化》とは何ぞや? と思いますね。
 いわば《自然史過程》といったことなのでしょうか? 
 わたしも それを想定したことはありました。
 ★ 復活へのこだわりが現実からも離れています。
 ☆ という評言が出されてくるということは 人為的な努力によるのでは必ずしもなく やはり《自然史》の流れに従うというようなところでしょうか?
 もっとも わたしの想定した自然史過程は 特にどういった努力をするというのではないのですが それでも 心には つねに かかっているという広い意味のむしろ積極的な《心配》のもとに ある日 《昇華》や《解放》つまりあるいは《自己到来》に到ったという内容のものです。
 その点では どういう内容を見ていらっしゃいますか?

投稿日時 - 2008-11-05 07:30:38

ANo.26

オコリザルです。
無意識からの回答です。
鬼ってのは要するに牛のことでした。
家畜として共生する中で感情移入するして心象において擬人化する理解の試みから生まれた悪夢です。(この点は神話性のない私独自の解釈)
牛さんは、正気になって心のふるさと(楽園)の田園風景と調和して今は安泰です。

このように鬼の(唯識的な)種子は根絶されたのではなく復活しました。

投稿日時 - 2008-11-04 22:31:53

お礼

 ふうむ。と うなって さらに考えますが。

 ★ 鬼ってのは要するに牛のことでした。
 ☆ これは 《鬼》と言っていたものが もともと 《心のふるさとにいる牛》のことだったということなのか。それとも 鬼であったものが 牛に変身したということなのか。と考えたのですが 
 ★ このように鬼の(唯識的な)種子は根絶されたのではなく復活しました。
 ☆ というのでしたら 《変身》のほうですかね? 《復活》ですものね。
 ただし それは 人間存在の 全体としての 再生・復活というよりは 《わたし》は まだ 変わらず そのわたしは 煩悩という鬼が 明るい穏やかな牛になったのを 見出している。ということでしょうか? 大きくは 覚りの問題でしょうか。

投稿日時 - 2008-11-04 23:01:01

ANo.25

罪の問題は、そちらがpremeapeさんにコメントされているのと同じで、私にしても解りきってしまった過去の問題とかいうのでは全くありません。

「べき」の世界も、「恥」の世界も、まだまだ未熟者で知らないことだらけ、おそらく気づいていないことだらけの人間であることを感じます。

“赦すことができる”とい言っても、それはあくまで、心の中で理解してあげられていることを意味するのであって、 表向きには怒ってあげるべきときとかもあったりすると思います。  それどころか殴りつけて、傷害罪になってでも相手を恥じ入らせる覚悟が必要な時と場合とかもあるかと思います。 そのへんがすべてわかるなんていうような人間では無いということです。   いまだにして弱い木の葉みたいな自分でしかないです。 今は強いところもあると思ってもいますけどね。

そちらとは文体がかなり違っていますし、私は表現のジャンルを総合的に知ってたりしますが、 行き着いた考え方がよくよく知ってみれば似てることには、 私も驚いてしまうことがあります。



★「空観の思想」

でも、これも結論となると同じなのかも?知れないのですが…、

空観を 何故 因果を理解する知恵のひとつとして捕らえるのかはよく解りません。

因と縁についての考えにしても、結局抽象的に因果を大きく捕らえているというだけのことで、 それで因果自体をなんら解明してるわけでも解明の方法をほんの少しでも明らかにしてるわけでもないのに、 それがなんで人を赦す大きな力となるのかは 不明確です。

すべてのものがナノ秒にても移り変わってゆくという抽象論でもあるのですよね。 無常観ですか。    これにしても縁起論にしても、 私にはこれは因果を具体的にその大切な観点の何がしかを明らかにするすべをなんら直接持ってるわけではなくて、   それは物事を大きな観点から見つめなおす必要が《文明人には無理やりにでも言葉を極端な形で表現してでも》あるから その方法のひとつとしてその思想が生まれたのだとしか私には思えないのです。

苦の解決の問題としてそれを掲げる人もいますが、 すべてが過ぎ去るという考えは現実的にも力になり うまくそのコツを捕まえてゆくと、ほんとうに苦を苦として感じないほどにまで成ることは不可能ではないと 私も思っています。 ある似た体験があるからです。

でも、これにはおそらく大変な修行も同時に伴うもので、それを意識してやろうとしたら、努力はむしろ無理につながってしまい、逆に苦しみから目をそらすことや 恐怖の世界に陥り、精神をむしろ破壊していってしまうと思います。

これは あくまでも「大きな視点から」少しでも「自他を見つめる目」という人間の本性をとりもどす一助にすぎない思索の世界ととらえるべきかと思うのです。   そしてそれは大きな仏旅(涅槃への道)の力のひとつにはなるかと思うのです。

ですから 逆にこの思想を、ブッディズムの唯一有効な思想というのは考えられないことです。  その他にもたくさんの仏旅への道程が説かれていて気づきやヒントとなるものはたくさんあるかと思います。

ともかく これが涅槃を直接意味するということも とても私には考えられません。 理解不能です。

(空観が抽象的だからといって、底が浅いと言ってるのではないです。 色即是空にしても、言いたい意味は深いでしょう。情欲論とも関わる解釈も出来たりします。  でもそれも抽象的な表現に止まってしまってるのではないかという疑問は起こります。
「見つめる目」あるいは「見つめる知恵」の世界としてそれを捕らえることからはじめなければ 解釈も深めることが出来ないのに、そのへんが出来ていないというか真剣じゃないというか  そこが何かよく解らないところなんです。)

しかし、涅槃がそちらの言われる復活とか 私の書いていますごくあたりまえの復活の概念と関わるのは そのとおりだと思うところ、 というよりだからこそ、  仏教についてもここに触れ始めてみたのですが、 

これも“仏教徒が 復活について語らない理由は 神の概念がそこに無いから”では答えとなりませんか?という疑問がそちらに対して起こってしまうところです。

仏陀は 「こんなすごい命の体験(涅槃)」がここに存在してるのは、神無しには考えられないということで与えられた存在の意味をご自身はそのように解きほぐしていたかもしれません。 でも それ以前に仏陀という人の命の前後に神という言葉が無ければ、 そのすごい体験を誰よりも分かち合わないではいられなくなったとしても、神の思索はまったく仏陀ご自身無かったことも考えられます。 なによりも神という言葉が仏典に全く出てこないところを、その弟子の仏旅の途上の思索に「復活」の概念についての思索を求めても無理かと思います。   現代ではもちろん不可能な対話の世界ではなく現在時ということであればなおのこと対話すべき地点だと私も思いますが、 それだけの読解力があるブッディストがちょうどここを訪れていないと無理かと思いますし、 そのへんはまさに優しい文は必然的に必要なところかと思うのですが、どうでしょうか?   

私が感じる仏教徒への疑問は 本気なのかということだけです。 本気の仏旅なのか?という疑問はそこここに感じる時があるのです。 

そちらの厳しい姿勢にては、それは不誠実で真剣さのないニセの仏旅を埋葬しなければ そのニセ者は後をたたない ということなのでしょうが、 仏教自体には 涅槃への旅のヒントはたくさんあると思っています。



今回は「情欲論」のほうは はしょります。




日本感性教育学会の この命に関する見解も奥が深くて面白そうですよ。

機会がいただければ 私流にですが紹介してみます。

一回限りの生という考えの中に、いかにひとりひとりの人格を尊重するか、その根拠をかなり深い地点に見ているからです。

その中にひとつ、 この現在時における 復活につながる精神の世界に関してとてもおもしろい考えの世界があることを見つけました。

投稿日時 - 2008-11-04 22:09:04

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 直前(No.24)のお礼欄にも書いたのですが どうも 《復活論 特に 現在時に絞ったそれ》については 一たんその議論の手前にまで来たと思っているのですが それ以上は なかなか 進まないのではないか こう思うようになっています。

 けっきょく 覚りや信仰の極致の問題に 議論としては 足踏みしつつ 終わらざるを得ないのかも知れないと思えます。
 逆に言うと そういう議論でよいとも思えます。そもそも 幸福論の哲学は そこに行き着くわけですから。

 ブッディスムを探究されるのでしたら いろんな切り口を打ち出して来てくださるとよいと思います。
 《赦す》問題にしても その理論を展開していただくとおもしろいのではないでしょうか。
 わたしとしましては 空観=縁起共生観のほかに いまは 追究しようという関心が薄れてきてはいますが。もっともっとおしえて欲しいのですが わたしが挑戦的で どこか ブッディスムをばかにしたところがあるので なかなか 切ないところです。

 涅槃にしても どうも 暗いなぁと思ってしまいます。要するに 死 と言っているのでしょう? 不死の境地を 他方では 掲げているようですが。
 
 少々 足踏み状態に陥りました。まとまりのない恰好ですが あしからず どうぞ。
 

投稿日時 - 2008-11-04 22:49:24

ANo.24

オコリザルです。
A23に呼応します。

>primeapeさんの言う《無意識》は 《意識していない領域》というよりは 《無ないし空の意識》だと思うのです。

これに関しては(意識と無意識を)隔てる物を感じないという意味で了解できます。

>マナ識は自由意志

その通りだと思います。
マナ識が(総合的な)自己を確認するための試行錯誤の過程で生み出される欲は阻害する理由がありませんが、なるべくなら望みを載せて解き放たないで二日酔いみたいな状態で自分で耐えるといいでしょう。
アラーヤ識の解説は込み入っていますが要するに記憶のことをおっしゃっているのですが、現在取り組んでいるのが置き去りにされた記憶の救済なんでしょう。それで表現が回りくどくなっています。

復活に関してはご意見は了解可能ですが、聖典が編まれたのは人体の構造に関する医学が発達する前です。現代においては「感覚的なそれ」を、死になぞらえるだけがアプローチではないし、死になぞらえたままだと、たとえば食べることが、本当の死に無自覚なため罪になります。何を起源とするかとも関係しまして無学な私の意見には反論の余地も有ると思いますが、心象において鬼はもはや痕跡(又は過去形の伝説)です。生き死にの問題と違うアプローチも出来るのではないかと思います。

それから将来的希望に関しては、判らないとしか応えられないので、どのような成り行きをたどりつつあるのかは不明です。
したがって復活の達成についてコメントする余地がありません。
今のところです。

空観についてはご説明がまさに哲学であり、理解の行き届かない部分も有りますが、疑問や違和感を感じないで読み進められてので正しいのだろうと思います。

投稿日時 - 2008-11-04 20:42:59

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 全体として おおきな間違いがなくて よかったです。

 ★ 現在取り組んでいるのが置き去りにされた記憶の救済なんでしょう。それで表現が回りくどくなっています。
 ☆ そのとおりだと思います。そして その克服は 復活において 成し遂げられるとも思います。そういう意味では 覚りは 復活のことになります。

 ここまで来て すこし感想があります。
 復活論へと みなさんを 引っ張って来ましたが たしかに 或る意味では その出発点にまでたどりついたと思います。その舞台は 出来あがったのかも知れません。ただ ただし 復活をいま現在捉えるということは なんとも 非現実的であるかとも思いました。
 空観=縁起共生論にしても 人間と社会とを三位一体論において捉える視点にしても これは まだまだ ふつうの哲学思想であるに過ぎないのかも知れません。
 復活論というのは まだまだ 勇み足であったかと思いました。
 もっとも そのように《終わりから始める》という思考形式を採ったことで 哲学思想が わたしの中で 進むことができた部分もあるように思っております。たとえば 社会の全体が 一人の人間の視野に入るかに捉えられるといった問題です。
 もう少し このまま歩みます。

投稿日時 - 2008-11-04 21:10:57

ANo.23

オコリザルです。
私自身の回答は少し脱線もしていましたが今回のテーマは復活でしたね。
そもそも古代人はなぜ、感覚的なそれを「死」又は「死者」になぞらえたのか。
現代に生きる私にはこれが不明です。
自らが編み出したもので手前味噌ですが、その手の事柄は心理学的おまじないである「心の新陳代謝」に置き換えると、復活ではなく蘇生であり割りと簡単そうに思えるんです。

A13より。
>内面のドグマたる箱庭の実態は、生きているか、死んでいるかではなくて、感情を伴っているかどうかに還元するのが本来は正しいのです。

無意識が(天使にもなぞらえる)個体としての生命を支えていて、具体的には脳を仲介した指令を出しているとすると、ドグマのありかも脳に由来しており(マナ識の役割としての)判定は、生命に内包しているのは当然であり、それゆえに生き死にの悩みは問題外で、あくまでも感情が伴うかどうかが正しい処方箋の配り方となります。
これに由来してドグマの生み出す心象風景が私の感覚ではあくまでも箱庭なんです。
もっとも無意識は地球意思のごとく振る舞い、地上を支えているともいえます。
心の広がり(つながり)を演出する無意識は縛られては不都合でもあるのですが、おかげで私は「名前の束縛」と「自らが何者でもない感覚」の間を行ったり来たりしました。

こうも科学を応用すると聖典も迷信なのか神話なのかの判定が難しいですが、聖典は宗教を問わず神話がある前提で迷信に思える事柄も正しく解釈すべきでしょう。
この手の事柄は専門外なのでお任せしますが。

投稿日時 - 2008-11-04 01:02:47

補足

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 今回は 二点お伝えします。
 ひとつは 確認です。みなさんもご承知おきいただきたいと思うのですが primeapeさんの言う《無意識》は 《意識していない領域》というよりは 《無ないし空の意識》だと思うのです。重なる部分もあるでしょうが もっと分かりやすく言えば 《生命》ですとか《存在》のことだと受け取っています。ただし アーラヤ識やマナ識を挙げておられるので とおく精神分析の説くところと重なる部分は ありというところなのでしょう。
 わたしとしましては マナ識は 自由意志なのですが どうも その自由のゆがみを持ち《わたし》が膨れ上がった欲望としての意志であるように ブッディスムの外から見て 見えます。その思いや行ないの軌跡 さらに多くは 積もり積もった不完全燃焼 これらが すでに意識から離れ去って残っているのが アーラヤ識だと思われます。
 そうして そういった認識を一たん離れて 空観を実践する《わたし》がいれば いいのだと考えます。
 空観は 次の一点の中で説明します。

 二つ目は お尋ねの復活です。
 《死んだと思ったあとの生き返り・蘇生》あるいは《生まれ変わり(輪廻)・クローン人間》のことではなく そうではなく このふつうの人間として生死を経験する〔――つまりそれを すでに 肉(=身体かつ精神)において 受け容れている――〕その上で 肉を超えた霊(つまり 絶対というなぞ)との遭遇を味わう。と仮りにすれば この霊の経験が 同じ《わたし》にとっての 霊の生であるかも知れない。再生・復活という新たな世界であるかも知れない。しかも これが いま生きている現在時に すでに 起こるのではないか こういう問いです。

 空観というのは 世の中や宇宙の因果関係(縁起)が すべて 如実に分かるということだと考えます。検証しうるものとして 世界が 物質で出来ていて 脳細胞なる物質の上に精神や心的現象があるとすれば その遡って行って辿りつく先は 火の玉宇宙であるとした場合。この場合 空観によれば そのすべての時間空間のあり方やそこでの出来事が 分かるということです。絶対(霊)の観点からも 復活した人間は そのことが出来て分かるのではないか。こういう主題につながっていきます。
 ちなみに 個人としての人間とその社会にかんしては その縁起共生の関係構造が 次のように 一例として解釈できます。

三位一体(光なる神)・・・:父(光源)‐子(発耀)‐聖霊(明るさ・暖かさ)
                   ↓     ↓     ↓
三一性(精神の光/人間):記憶能力 ‐知解能力 ‐意志能力
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・:精神の秩序‐その表象 ‐愛(自治・自立)
社会行為・・・・・・・・・・・:組織行為 ‐生産行為 ‐経営行為
国家組織・・・・・・・・・・・・:司法府  ‐立法府  ‐行政府

 ・あるいは もう少し詳しく。

身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)
・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・(↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)
[市民/市民社会]
個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)
社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)
経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )
政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 
[公民/公民圏] ・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓
社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )
 〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )

 ☆ これは 次の聖書の文句を解釈したものです。
 ▲ (創世記1:26~27)~~~~~~~~~~~~~~
 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。・・・」
 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《復活》は こういう主題・課題をはらむ問題だと考えます。

投稿日時 - 2008-11-04 08:49:08

ANo.22

すみません。 ANO21ですが、最後の部分が中途半端でわかりにくかったかとおもいますので、 付け加えてすこし続けます。

「現在時における《復活》について」 というタイトル自体が解りにくいのですが、(いつにもまして、含みのある文体なのか^^?)

ともかく 仏教に関しての そちらの疑問も たとえば空という概念が いつも新鮮な飽きることの無い純粋なもともとの人間の心の回復やそこからの発展に本当につながるのか? というあたりであるとすれば、 そのへんの仏旅を問うことが ここでも通じる回答であろうと判断させていただいて、  この上は ここにて私の仏教観も書いていってみたいとも思うのですが、(かなりの仏教への北風かもしれません。哲学の井戸端会議なのですからね^^)。

キリスト教に関しても セックスと不浄の問題は、これは黙っていられない問題なんです。

宗教全体が この問題とへんに関わっていますが、とくに、おそらくキリストが言いたかったこととは逆なことになっている中でも かなりひどいことになっているのがこの人の無意識まで支配するこの心のキリスト教が作り出してしまった問題です。(キリスト教だけじゃないですが)

ほんとうは、成熟したセックスは、一番感性を豊かにする多くの気づきを得ることのできる場とも言えます。

ただ、頭が混乱してると(正確には左脳のみ働いていると、とか無意識の部分が混乱してると、という表現のほうがいいのかもしれませんが、 ほんとうに正確に言おうとしたらいずれにしても 私がかける範囲でもたいへんな量になってしまいそうです。)「自他を見つめる能力」のあたりが、もともとはあったのに、衰えてしまって、 性が発達していく過程で、簡単にそれにおぼれてしまい問題者が続出してきたのだと思うのです。

つまり 言葉とかの頭の文明の最初の心理的な犠牲者達です。

そこを宗教や社会的権威は、おそらく知恵者はなにかおかしいと気づきつつも、抑圧という、ここで一番してはいけなかった“いけない北風”を送ってしまったのです。

大自然の中での素朴な生活の中で、無心に無邪気に動物としての生殖の営みをしていた時には、何の問題も無く それが感性をも高めていたのに   その未成熟な過程の段階の感性が、こうして[考えるな信じろ]の集団催眠のもと、固定された形で悪と決めるけられることとなったのが、簡単に言えばですが、 「不浄」という観念が生まれた原因だと私は推理してるのです。

そこをまず、 もしかしたらアダムとイブの神話は、「知恵の木の実を食べて罪が生まれた」というお話で、へんに頭を使うのはおかしいと主張しようとしたのかもしれません。     でも これも逆のなってしまっています。  すでに「不浄」は罪と思い込んでいる人たちが多かった中で、それはさらなる「不浄は罪」という集団催眠の環をかためる役割を果たしてしまっていると思います。

罪が生まれた概念が こうしてまた欲望こそ、罪の生まれる原因であるとして(利己心、わがままの因)として、  欲を「よく見つめる能力」はもともとは備わっていたのに、 これも抑圧していきます。

罪という概念は この ほんとうは、私たちを肉感的な愛情は子供のような天国の心に導くはずだったセックスの正常な発達を おおいに阻害もしてしまう概念ともなっていったのだと思います。

OKウェブでも 哲学カテなのにこのセックスに関して質問してくる人の心は深くゆれています。  人生相談のカテではこの関連問題は人間関係の問題と絡んで一番切実で量もまた多かったりします。  ほんとうはこの回答だけに集中したい気持ちすら起こります。 私の場合59歳になってようやくその全体像がなんとかかんとかつかめたというだけのことですが、それでもほとんどのケースに対して其の人の問題や考えの長所から解きほぐしていけると思えるようになったからです。 これは強みですよ。

でも一人でできることは知れてるという 打ちのめされた気になってしまうこの量の多さ。  だから 日本感性教育学会にそのへんを問うて仲間が生まれたらなと思うのがその入会を希望する理由のひとつなのです。

この根源が キリストの正常な健康なあの言葉のいいかけだったとするなら、この歴史にはなんという皮肉が起こってしまったのでしょう。

でももしかしたら、この概念が 道徳意識を高める力ともなったかもしれません。 むずかしく複雑なところでもあるところです。

罪の概念も同じくです。

おそらく それでもほんとうの「べき」は、 罪という概念ももはや、越えて理解しあえる私たちとして出会えるようになることです。

キリスト教も この部分こそ、葬り去らなければならない世界でしょう。

聖母信仰も そのへんを乗り越えたなら すばらしい精神文化の一つなのですから、 結局すべての文化は、 長所も短所も深く理解されたうえでの太陽政策を必要としてると 思っています。



では 次には「空」という哲学は 葬り去る地点になのか?

こちらから ここにて質問させていただきます。  brageloneさんは、どう思われますか?

投稿日時 - 2008-11-03 18:04:27

お礼

 つづいてのご回答です。

 先に
 ★ 空の哲学
 ☆ は ブッディスムにかんして 唯一の有効な思想ですよ。相対性としての見方ですし 赦しのところで 因果関係を理解し得たら 赦し得るとおっしゃっていましたが 空とは 縁起という因果関係のことですから。つまり 因(直接原因)かつ縁(情況原因)の相互作用関係のことですから。
 これが分からなければ 無明つまり煩悩の連鎖になりますし 分かれば 明知として 作用関係が 順調に回転するというわけだそうです。涅槃から覚りから すべて この空観のことだと思いますよ。
 
 ただ そこで この覚りは おそらく 人為の極致だと思われるのですが 絶対ということと どうかかわっているのかが 分かりません。はっきり言わないのだと思います。ブッダになるなら 不死の境地だというのですから じつは この復活の問題と 大いに かかわっているのですが 明確な回答が来ないわけです。では 仏性は どうなのか。という問題にもなっているのですが 果たして どうしたもんでしょう?

 ★ 情欲論
 ☆ では どうも 欲望全般から始めて 情欲についても 自然本性そのものだとは 言わないようです。肉つまり 身体=精神つまり 自由意志によって みづから行なう意志のゆがみであったり 自己をあざむく方向の偏りであったりするようです。
 結婚の善ということも言っていて 結婚は やむなく 善かろうと言って しぶしぶ 認めるのではなく そうではなく 結婚は 神が二人を結びつけることとして そのもの自体が 善であると言っているようですが。

 ☆☆ 現在時における《復活》について
 ☆ は No.5の補足欄をごらんください。《終わりの日》における復活ではなく いま現在生きている過程における復活という問題を取り上げているわけです。

投稿日時 - 2008-11-03 19:56:38

ANo.21

アラヤタです。

いまのところは、すぐには日本感性学会には入っていけません。

日本感性教育学会には、会費がいくらか会則とかに明記されていないで入会の手続きだけが出てるため、 今の私には今のところ手が出せないところです。

会費の問題と、それと自分のPCを持てないでいることも問題で、今現在メール機能が失われているPCを使わせていただいてる形ですので、  日本感性学会とはすぐさまメールでのやりとりが出来ないと解ったからです。

こちらにもどって覗いてみまいしたら、いきなりお話は進んでいました(^^)。

まだしばらくこちらに うちこめそうです(^^)。

キグルミさんの指摘する「剣」の問題ですが、 私の場合はその箇所のうち家族への剣の話は覚えています。  もちろん、というかちょうど私自身がとある家族病理という文明病のうちでもかなり深い病理の世界と関わっていたので、 まだ未熟な青二才であったにもかかわらず、最初からこれも「なるほど、たとえ話だ」というふうに受け取っています。

コーランでの聖戦というのはまた別の意味合いがあるかと思いますが、それはよく知らないので今のところ意見とか言えません。  が、キリストの言葉についてならば、あくまでこの「剣」もたとえ話です。

人は兄弟であれ親子であれ、其の前に一人ひとり絶対個の魂(あるいは魂というのはその絶対個を意味している)であり、自律してこそ人に対応するべきそういう存在だということの例えだと解釈していました。

あるいは、感性については特に、お互いがお互いの経験や体験をもっともっと尊重しあうべき、 其の面別な人格としての尊重を物語ってもいるという解釈です。

《絶対個 であって関係がある。》 このへんをアカデミックな西洋哲学ではへんに考えすぎた形で伝えて来てるようですが、 その自律へのきびしさ自体はすでにキリストの簡単なたとえにこそ いつものように力強く集約されていると今でもやはり、 同じように感心してしまう言葉です。 それが創作ならば創作者ってすごいですね(^^)。

が、歴史の長い過程に重い重い人間の過ちが絡んでいてそれが権力欲というやつとなっています。 家族病理もそれがなければ起らなかった世界でもあるところです。

優しさが重要だとか、 愛こそ最高道徳だとか、言葉ではいくらでも言えます。 つまりウソがつけることです。 したがってそれもまたうまくたちまわるために権力が利用できた言葉という記号の世界だったわけです。

このウソを もっともずる賢く扱ってきたのが宗教を影で操ってきたような人達です。 またそのへんをうまくまるめこんだ戦争屋たちです。

ぜんぶ、実際に権力欲よりつよい愛とか 感性の実態の世界が無ければ、実は自らさへ信用できなくなってしまう世界です。

私の思索が 結局「五感の再考察」とか「感性教育とかの実践」の世界に走るのはそのためなのです。



そちらのコメントでの

>ひとつは 《人が 人のあやまちを 赦す》という能力も権限も あるいは そうとすれば 資格も 持ち合わせていないのではないか<

という部分に関しては 解りにくいので  こちらの解釈が間違ってしまうかもしれませんが、  このように答えることができる問いではないかと思います。

理性の問題としては、私たちはたとえば、ヒトラーの罪にしてももし「私がその状況や過程をまったく同じように生きたら私もヒトラーとまったく同じことをしていた」という理解、 この理解のことを許す能力として私は考えているのです。

そのかぎり、たとえ身内が殺されても理性はその人を憎まないでいられるのが真実の世界、真理を知ったものの真理だということになります。

感情は別です。 生物であるかぎり、何かつよく願っていること、今にも実現しそうな長い間努力してきたことなどが、逆撫でされるように打ち破られると 人はそれにたいして、つよい怒りという感情を抱いてしまいます。   それを客観視するのは可能です。 仏教の空観でも可能でしょう。  しかし、強い怒りの時には、客観視しておとなしくしていてさへ苦しみは体を火のようにかけまわります。  まったくそれにはおぼれることがないようコントロールはできる苦しみなのですけどね。(体験者より)

これ、肝心なのは では「それをコントロールできる基盤たる理性だ」ということになるのではないですか?

理性さへ深ければ、其の知恵差へ深ければ、生物であると同時に、人の上にたつのではなく結果的に許しあえます。 というより許しあっているはずです。  正確には 許してるのではなく理解してるという言葉のほうが正しいのですけどね。   つまり「許す」なんていうのは、同じ人間なのですからおこがましいというか  当たり前のことであり自然なできごとでなければならないことであり、其の言葉自体がほんとうは上から目線の権力欲からの心理の一種だというのが正確なところとは思うのです。

>《人が 人のあやまちを 赦す》という能力も権限も<の内の、「能力も」というのは 原因結果をそこまで知ることが出来ない人間の知性の限界のことを意味してるかと思いますが、  逆にその限界を知る能力は私たちにはあるという点が大事だということなんです。    つまり、解らないけど因果は確実にあるということがくっきり類推できるのが知恵の世界であり その知恵は人間の能力にもそなわってるということです。


ヒットラー(代表にあげてしまって すみませんです^^)をも理解する知恵が 復活の前提として必要だというのは たとえばですがあるはずです。  だから 私のこのへんの考えはみんな単純となってしまうのです。  そして、それより、「はやく感性教育についてみんなで考えてほしい 」というふうになってしまうんです。


* あと 罪の問題として、 ここでキリスト教会の歴史が陥ったへんな記述?がキリストの言葉の中にひとつあります。

キリスト自体が何かおかしいと言うのではないんです。 

でも山上の垂訓の中に、キリストが始めてセックスについても触れているところがありますでしょ。(正確にはまた、そちらで引用してください。)

「姦淫は罪だと 昔から言われてきた。 だがわたしは言う心の中で姦淫した者も姦淫したことになるのだ。」

これをキリスト教徒たちは、例の宗教による権威によって其の意味合いを考えることなく いきなり不浄はセックスを心の中でしても不浄なのかというぐあいに、 成熟過程の途中段階の不浄という感覚(森の中で暮らしていた時には無かった)を固定してしまったのです。

これは聖書の作者というよりも、やはり記述者が 理解不能となってこの続きの部分を書かなかったのではないかというのが、私のリアルな演劇感(^^)からは思い浮かぶことなのです。(キグルミさんの考えについてなのですが、 新約聖書がほかにはその短い無名の人について記述された文献が無いからといってそれが創作だとは推理可能だとは思えないのですが、 現代考古学ではそのような推理が可能だという考えとなっているのでしょうか?  私にはそのへんは理解不能です。 でも、4つの福音書以外の記録がそんなに多いのなら全部見てみたいです。)

それを監修しなかったキリストにも問題があったりする問題なのかもしれなくても、  これはキリスト教会が犯した最大級の歴史的な罪と言えそうです。 感性に関してはです。  (簡単な問題ではないので、別な回答の範囲に入ってしまいそうですが、 アダムとイブの神話から まさにその間違った理性の世界に陥ったところ。 むしろ、くわしく書くべきところかもしれません。)

投稿日時 - 2008-11-03 16:20:19

補足

 arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 この質問を進めたいという思いです。よかったです。

 ★ 《剣》が 比喩であるということ
 ☆ 確認しました。

 ★ 《絶対個 であって関係がある。》
 ☆ わたしの言い方で 《ひとは 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である》です。孤独と孤独関係とが あたかも一体であると。
 そこからの逸脱としては 権力の問題を出しておられます。
 アウグスティヌスに言わせると すべての悪は 《高慢・高ぶり》から来るそうです。みづからの存在の善さを損ねるのは 謙虚に欠けるところからだそうです。知恵の木の実(善悪を知る木の実)を食べたと言いますから 科学する心は 中立的には 大切なのでしょうが。
 謙虚と感性との関係は 如何? とも問えるかも知れません。

 《赦す》問題は 目指すところが同じでも その過程における手法や手段は 違っているかも知れません。
 わたしの場合 こころからは《赦せない》のです。《〈ヒトラーを赦す〉と言えない》のです。そこで思いついたのが 《人には 人のあやまちを 赦す能力も権限もない》のではないか。ただ 自分から 更生し再生するのみである。多少は 協力しあってもよい。そして 更生には しかるべき償いの行ないと期間が 必要であろう。というものです。
 加害者に対して 《赦さん。赦せん》とは 言わないけれど 《更生せい。せんと 承知せんぞ》と言う。という考えです。更生するために こちらが出来ることがあれば 多少は 手伝ってやってもよい。更生するのを邪魔する人間がいれば それに対しては わたしも たたかう。という姿勢です。
 原因究明は もとより 必要であり 重要だと思います。それによって 《理解》が行き届いたとき こころが すっかり晴れるか。どうでしょう。自信がありません。自信のあるほうで 罪の共同自治を行ないたい。こういう考えです。
 
 ▲ (マタイ5:27~28)~~~~~~~~~~~
 あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうでしょうか? どう捉えればよいでしょうか? 保留とさせていただきたいのですが だめですか?
 論理を究極にまで進めた。しかも その文字通りの内容に従いなさいと言っているというよりは 単なる究極の論理であることの中から 何がしか 分かるものがある。と思います。実質的には 自己なり 伴侶なり あるいは 未来の伴侶なりに対して 裏切るなかれ・欺くなかれと言っているように感じます。セックスの問題であるというよりは です。

 さらに 主題が 蒔かれているようにも感じますが とりあえず ここまでを お返しすることになります。発展性が あるように思っております。

投稿日時 - 2008-11-03 18:25:55

ANo.20

kigurumiです。

>その心は 虚構が影響を与えるのではなく そうではなく 虚構をつうじて 人間の真実に迫り それをつうじて 絶対の真理にさえ わたしたちは 触れ得たと感じるときがあるということです。

つまり、こういうことでしょうか。
ある教祖は「嘘も方便だ」と言った。
例えば、たくさんの人に教祖様~ と慕われ、加工された自分のキラキラ写真を信者が列を作って並び100万で買う、これぞパラダイスだ と思っている人は、「私は神である」と本当は神でもなんでもないと知っているが、王国の建設のためには、嘘をついて信者が自分を神様だと思ってくれるよう仕向ける。

嘘が信者に影響を与え、我先にと教祖の写真を買おうと殺到する というのではなく、第三者的にみて「誰が見てもただのオヤジだとわかるのに、人間って弱いから、家族に不幸が起こるとかいわれると、100万の加工された写真でも買ってしまうんだなぁ 悲しい性だなぁ」と感想を持ち、「自分はこんなペテン師にだまされ、みすみす人生を棒にふるなんてしないぞ」と思う人が多ければ、教祖の大嘘は存在価値があると感じるってことでしょうか?

この場合の真理は、一部の人間は誰でもわかる嘘が見抜けない。

キリスト教だってそうでしたよね。
文盲の人や知的に問題のある人たちに布教した。
知識を持っていないという劣等感を持っていた人は、その弱点を突かれて、自分は知恵を持ったと思った。
聖貧を解かれて、財産を教会に寄付していき、教会は大きくなって、政治的に影響力を与え、イスラムと土地の奪い合い。
上は富み、下は常に貧乏であるというピラミッドシステムができあがり。
教会が神の代理人だから、教会の言うことを聞き従いなさいと。
罪を犯した? 大丈夫 免罪符を買えばチャラですから と。
で、貴族は金持ってるので、どれだけひどことを農奴にやっても、免罪符さえ買えば天国にいける と。


>ユダヤ人の迫害・改革者への弾圧・魔女狩り あるいは 聖職者によるふつうの人びとに対する高慢な説教等々

私が感じたのは、自分が生きるためなら、兄弟すら売るってことです。
キリスト教はディアスポラしたヘブライ語が話せないチャキチャキのギリシャ子のユダヤ人が作ったと思えるんですね。
その人たちが、キリスト教の基礎を作ったとしれば、ローマの法律を改正させ、ユダヤ人を迫害するように仕向けたのはユダヤ人のキリスト教聖職者ってことになるじゃないですか。
確証取れていませんが。

キリスト教の神は、ギリシャ方面にもあった太陽信仰の神。
戒律を破って他の神を信仰してしまったために、兄弟を売ってしまう結果になった。

魔女の鉄槌を書いたのは修道士ですが、どうやら吟遊詩人が修道士をからかうために言った内容を、修道士は真に受けて、「そうなんだ」って思ったらしい。

キリスト教と信者と相互作用が発生して、社会不穏が起こり、信者が魔女を殺してと訴え、その信者の期待にこたえることで、信者との信頼関係 絆を強めようとした結果、魔女狩りが起こってしまったのではないか と。
また 迷信を、信者もキリスト教も、真に受けて信じていたから。


人類皆兄弟、という精神なら人は殺さないはずですが、ただし魔女は人類じゃあないので殺してもいいという論法になるわけです。
で、金持ちの外国人は貧乏な信者からねたみを買いやすく、魔女(男でも魔女)とされ、殺されてざっまーみろ となっていた。

邪視信仰って地中海方面に今でもあります。
他人からねたまれないよう、目玉のお守りを持っている。
迷信でねたまれただけで死なないが、ねたみから魔女だってなってしまうと殺されていた。


> 教会じたいを解体すべきだと考えます

あと少しでキリスト教の時代は終わり、かつてキリスト教はその土地にあった異郷の多神教のたてものをキリスト教会として使ったように、いずれ教会は別な宗教の建物になり、入れ替わると思いますよ。
ちなみにキリスト教会の建物の上にある十字に○のシンボル。
多神教の太陽信仰のシンボルです。
そのまま異郷の神を崇拝する建物を使うなぁ~っ て、ねぇ。


>《剣を取れと煽動する発言》をしたとは知らないのですが どこですか?

何箇所かあったと思います。
ちょい調べますね。

お待たせ。
まず、ルカの22章。
イエスのペトロの3度の否認の後。

『35 それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」
36 そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。
37 あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた。』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」
38 彼らは言った。「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。」イエスは彼らに、「それで十分。」と言われた。』


もう一箇所は、マタイの10章34-36

『「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁を姑に。こうして、自分の家族の者が敵となる。」』

10戒で禁止されていることをやれと言う。

でキリスト教は新しい契約だから とする。
古い契約を否定するためには、古い契約を信じる両親や目上の人に逆らえ、戦え、勝て と言う。

とっても慈愛にとんだ思想ですね。
戦わずとも、解決策はあるでしょうに。


>初めは 人間どうしであったのが その後 階級関係が発生したわけです。支配階級が 神々とされただけのことで 史実の順序を逆にして述べています。

男集団の特徴ですよね。
男集団は、猿山と一緒で、ボスの座を争う。
が、強いリーダーが出現したと認めると、そのリーダーの命令に絶対服従をするようになる。
カリスマ性を帯びた強いあこがれのリーダーが戦えといえば、命を投げ出して戦う。

女の集団は、そんなことありません。
女の集団内では、飛び出た釘は打たれる。
みんな平等、ぬけがけは駄目。 足並み揃えて いっちに いっちに。
だから女は兵士に向かない。

ローマの初代皇帝は、不利な戦いでありながら、奇跡的に集団に勝利をもたらしたので、救世主、神の子、ユピテル(ゼウス)、神の地上の体現者とされた。
リーダーが勝利を集団にもたらしたため、カリスマ性を帯び、集団を統率できたわけです。


>《すべてが ゆるされています。すべてが 益になるわけではありませんが すべてがゆるされています》と理解してください。《水による洗礼》からさえ自由だと唱えています。

全てが許されるのなら、死後天国も地獄も無くてもいいわけですよね。
じゃあ なぜ信仰を持っている人は、天国とか地獄の存在を信じるのでしょうね。
そう信じていれば、天国も地獄もなくジョン・レノンの歌を歌うはずなのに。
何故ジョン・レノンを迫害したのでしょうね。キリスト教会は。

許しの解釈は、こうじゃないですか?
隣人に過失により損害 例えばうちのヤギが隣のヤギを角でつついて殺してしまった場合、悪意は無いが相手方に損害を与えた以上、一生懸命侘びをする。
「このヤギは種ヤギだったのに どうしてくれる 許さない」と言ってはならない。
自分が逆の立場になったときのことを考え、隣人を許しなさい。 と。

内容は違うでしょうけど、こんな説明でしたよね。
神様に祈りを捧げる時間であっても、まず隣人に誠心誠意謝罪をしにいきなさい と。


同じイスラエルの子が、自分から金を借りたが、返せない状況でも、質に入れた服は返しなさい。 日ごろ嫌なやつだから金返せないのなら、服はもらうと言ってはならない。
なぜなら、その隣人にとって、唯一の服であり、夜凍えてしまうから。
利子を取らずに服は返しなさい と書いてありますよね。


こうやってみると、この教えは集団内 しかも イスラエルの子ら内限定においてのこと。
イスラエルって12支族のあのヤコブ。 
この男の子孫がイスラエルの子ら ですよね。
神は彼の子孫を繁栄させるとイスラエルと契約をした。


> 男根も ひそかに 《崇拝》されているのですかね。

なんで男根崇拝が古代にあったのでしょうね。
集団内の人口が増えれば、それだけ集団の戦闘能力は上がり、他の集団に攻め込まれにくいと考えたのでしょうか。
少人数だと負けて奴隷にされてしまうから?
男の本能で種まき賛美?

聖書を読むと、どうやらユダヤ人の祖先は、数は少なかったが、他の集団に奉公した見返りとして、嫁と財産の分配をされていたようなんです。
昔はギリシャもエジプトもそうだったそうですが、財産は女系に相続されていたそうです。
だから大きな集団から嫁をもらうと、もれなく財産もついてきて、男側の集団が潤い、家畜もわんさかで、繁栄する。
さらに男の子供が増えたら、また他から嫁をもらうと、財産もくっついてくる。
さらに巨大化する。
こりゃあ もう女じゃなくて 男をたくさん産んで欲しい。
精力絶倫であってほしい。
こういうことなのでしょうか。
レビレート婚も、夫を亡くした妻が、実家に帰ってしまうと、嫁ぐときに持ってきた財産はmあくまで妻の財産なので、再婚時にもっていかれてしまう。
それを防ぐために、夫の兄弟と結婚しなければならないとした。

また、夫を亡くした女が他の男を好きになると姦淫したとすれば、殺せた。
妻を殺せば財産は いっただきー。
他の男と結婚させたら、財産もってその男に嫁がれてしまうから、姦淫したとして殺して、財産の流出を阻止。

女系による財産相続の弊害。


>そういう神話や決まりにのっとって 人びとは はりつけの刑に処したのでも イエスがそれに甘んじたわけでも ありません。あとで わけをこじつけたとしても それは イエスの真意でもありません。

イエスは最初 望んでいなかった。
人々が自分を王だとしようと迫ってきたため、弟子たちの元から逃走して、山に逃げ込んだ。
そこで神に祈った。
「どうか この杯を私から取り除いてください。」
で 後に「それが神の意思なら、私はそれを受けます」

人々はイエスを聖王にして、任務を遂行することを期待したが、イエスはとんでもないと拒否したわけですが、結局自己犠牲を払うことで他の人々を救うのが神の意思なら、受け入れましょうってなったわけでしょ?

歴代の聖王の心情はこうだったろうって、聖書作家は推測して書いたんじゃないか と。


>次元が違います。いまの質問のごとく 永遠の生命・復活の問題であると 初めからイエスは言っていたからです。

あれ?説明が足りなかったかしら。
私たち人間よりはるかに昔から太陽はあったことは誰でも知っている。
人間より長生きな太陽。
古代の人々は、この太陽のお陰で、植物が育ち、家畜が増えることを知っていた。
でも、地球が太陽の周りをぐるぐる回るため、夏至以降太陽は南半球よりになる。
だんたん上る高さが低くなる。
日の出も短くなる。
北半球のある地点では、冬至までどんどん日の出が短くなる。
大地は枯れ死んだようになる。

どんどん日の出が短くなり、12月22、23、24日の3日間は、太陽が地上近くを通過して沈む。
視覚的に3日間太陽が停止したかのように見える。
古代の人々はこれを太陽の死とした。

この太陽の死の3日間、その上に南十字星が座する。
形はその名の通り十字の形の星座。

12月25日になると、停止していた太陽は上にある南十字星に向かって一度上昇する。 太陽が十字架にかかるわけです。

この12月25日を境に、夏至まで日のでは長くなる。
太陽が復活して、もりもり勢力をつけていく。

ただし12月25日に太陽の復活を祝う祭りは行われない。
春分点 イースタになったとき、行われる。
春分点で、日の出の時間と夜の時間が同じになるから。
これ以降、夏至まで日の出の方が長くなる。

太陽の死と復活の説明です。

人間の死と復活?
いえ あくまで太陽信仰ですから、神である太陽の復活を祝うお祭りなわけで、、、太陽が復活してくれる限り、冬になってもまた春になるじゃないですか。

それに、これはあくまで北半球のある地点から観測したもので、日本じゃ同じようになりませんもん。
説明されても、日本で日の出がもっとも短いのは12月25日じゃない ってなる。
北極とか南極とかに近いところだと、さらにこのような結果になりません。
ハワイでも一緒。
南半球は12月25日は夏ですし。


>教会が正しいという観念が kigurumi さんにして まだ あるのではないですか?

いえ、正しい人である 正しい人になることを目指す集団だって、宗教集団は宣伝しているじゃないですか。
だから つっこみたくなるんじゃないかと。
ジョークならわかりますが、ボケじゃなく真面目に言ってるらしいところが笑えないし、思わずつっこみ入れたくなる。

死も人生の一部だとどうしてわからないのだろうって。
何故人生の一部である死を絶対拒否するのだろう。
何故人生を否定するのだろうって。

>・・・3人に誕生を祝われ・・・聖職者になり・・・人を復活させ、3日後に自らも復活したという人たちの神話はあって・・・イエスの話になったんだって。
>☆ これは 初耳です。もしそうであれば 《復活》の何たるかを もっと 思索していても よかったのに。

ああ、私の上で話した太陽(神)の死と復活の内容は、ある動画の内容です。
見ても否定するかもしれませんが、参考程度には知っておいたほうが、他のキリスト者と対話するとき、説得力を持つかもしれません。

以前 このサイトで他の人が投稿していたので知ったんです。
このサイト 役にたちますねぇ。

あの動画のリンク先は、直にここに貼れまいので、探し方は。。。

ニコニコ動画ってあるじゃないですか。
アカウントもってなかったら、無料で取れますので、とってください。

で、検索ウインドウで、<Zeitgeist the Movie >で検索してみてください。
2本あります。
一本目、いきなりサブリミナルっぽい映像で、引くかもしれないので、下のバーをずらして、10分後くらいから見てみてください。

他のビデオでは、銀行集団の陰謀とかそういうものも言ってるが、それは関心ないでしょうかが、 関心ごとのイエス関連のこの2本のみは見ておいて損は無いと思います。

開放されるかも。

投稿日時 - 2008-11-03 11:37:58

補足

 kigurumi さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 今回も盛り沢山ですので そっけない箇条書きになります。
 ☆★ 虚構・うそ――人間の真実――絶対としての神の真理 
 ☆★ 宗教・教会の自己解体
 ☆ これらの話については 特に評言を費やさなくてもよいでしょう。

 ★ 《剣を取れと煽動する発言》
 ☆ マタイ10:34(《平和ではなく争いを》と題され得るくだり)の剣については 並行記事として 次があるように 比喩であって 《扇動》までは行かないでしょう。
 ▼ (ルカ12:49~51:《分裂をもたらす》)~~~~
 わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。
 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ その同じルカの《22:35~38:財布と袋と剣》)ですが。
 まづ たしかに 《剣がここに二振りある――それでよい》と応じていますから その剣を使う場面を想定しています。《二振りある》に対して 《もうその話はじゅうぶんだ》という解釈も出ていますが そうではないようです。
 つまり それまでは 良き知らせを弟子たちが伝えるに際して 特に不都合はなかった。けれども これからは イエスには《受けねばならない洗礼がある》 つまり 《22:37 あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた。』(イザヤ53:12)と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです》から 剣を持つことが日常生活でふつうのことでしたら(――オマーンでは 今でも 習慣が残っているらしい――) 携えておれと言った可能性があります。ここから 《扇動》を連想するのは どうでしょうか? 
 ただし もしあなたが分析するように ゼロータイ熱心党員の範型がいるとしたなら そのような・闘争を避けない姿勢の名残りが この箇所には現われているのかも知れません。問題は この暴力闘争を 全体として イエスが よしとしているか それとも すでに高い次元へと揚げて もはや棄てているかです。大方の見解は 後者であるでしょう。聖書全体から 人びとは判断するでしょう。

 ★ 女は・・・みな平等
 ☆ その中で どのくらいの割合が 男の莫迦さ加減に同調しているかも 問題にしてくださいね。有効な井戸端会議を実践していってください。
 ▲ (コリント前書10:23)~~~~~~~~~~
 「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 前回 
 ☆☆ 《虹》だろうが《割礼》だろうが 経験的なもの・表象しうるものが 証しやしるしになったとしても どうでもよいことです。
 ☆ の文脈で出したものです。移ろいゆくものにこだわるなかれ です。

 ★ 人々はイエスを聖王にして、任務を遂行することを期待したが、イエスはとんでもないと拒否したわけですが、結局自己犠牲を払うことで他の人々を救うのが神の意思なら、受け入れましょうってなったわけでしょ?
 ☆ 違います。もし人びとの思いと神の心とが一致していたなら 受けなければならない杯の問題は起こりません。(人間イエスとして おそろしい感覚に捉えられることと 問題として起こっていることとは 別ですから)。
 《人びとを救う》ことにかんして 人びとの想像するところと イエスまた神の心とは 違っていたということです。武力でも知力でもなく そのカリスマの問題でもなく あるいは誤解を恐れずに言えば 繁栄と平和でもなく 永遠の生命とその復活が 《救い》については 問題だと言っているのです。雲をつかむような話なのです。《王》になるかならないかではありませんし また
 ★ 歴代の聖王の心情
 ☆ とも まったく かけ離れた主題なわけです。経験世界を超えているという――あくまで 想定ですが――条件で 捉えてください。
 ★ 太陽の死と復活
 ☆ も 経験的な出来事の問題です。いまは 経験を超えた復活の問題です。生と死とは 経験領域の問題です。それは 経験済みです。受け容れ済みです。その上で 復活を問題にしています。
 ★ 開放されるかも。
 ☆ と言われれば 《ニコニコ動画》は 要らないと思ってしまいました。

投稿日時 - 2008-11-03 13:20:12

ANo.19

オコリザルです。
brageloneさんは平気な事柄ですが、この世を信じてしまう人に対してのコメントです。

>主観的認識では世の中とちぐはぐであったり、まさに寝ぼけているようであったりする影響を受けるだけですが、心の奥底(無意識のような物)は深刻でして何一つ確かな物のない荒野をさまよい続けます。(存在不確定状態と一致)

ドグマ「箱庭」の内情なんですが、存在不確定とは光の子が行方不明になっている状態で、若者がよくやる自分探しの放浪のたびと同じです。

ちょっと煽てて見ましたがどのような成り行きになるかは不明です。

投稿日時 - 2008-11-02 22:44:43

お礼

 なるほど。みづからの港が分からなくなっているのですね。

 そこかしこで かろうじて 寄港地を探し当てることが出来ても 自分の帰るべき港が 分からなくなっているのですね。
 ★ 荒野
 ☆ であれば なおさら たいへんですね。しかも 
 ★ 箱庭
 ☆ なんですか? 狭い場所で さまようのでしょうか。
 ううーん。交通つまり 対話をすれば いいのだと思うのですが だめですかねぇ。機会があっても その話しっぷりは かっこうをつけてしまって 実のある話は出来ないのでしょうか?
 ★ 深刻
 ☆ ですかぁ。ふうーむ。ちょっと 認識不足でした。特に 若い人とは話す機会が めっきり減りました。どうしましょう。とりあえずアンテナを張っています。

投稿日時 - 2008-11-02 23:10:04

ANo.18

オコリザルです。
A13についてですが、唯識めいて無意識を語った場合は脳の構造に関するもので無意識の本質を語ったものではないと判りました。
自分でもその点は勘違いしていました。

投稿日時 - 2008-11-02 22:29:44

お礼

 わたくしも 無意識について――直前のお応えにも書いたとおり―― 安易に捉えていたようです。
 言いかえると 無意識だと言う相手に対しては それについて はっきり問い質せばよいと思いました。無意識を 意識の上に上らせたのか みづからの意志として承認したことになっているのか これを確認すればよいのだと 考えます。

投稿日時 - 2008-11-02 23:00:12

ANo.17

オコリザルです。
アウトプットではなく自分でまとめた考えとして。
私は主観が不安定な状態(一般的には狂気)にさらされ続けましたが、これは神を霊化する現象となんらかの関係があります。
ただしこれを禁じ手にするのは、守れる筈のない不毛な約束で、そうせざる得ない人はやはりそうするべきでしょう。
私は感受性が鋭敏で、どこかで起きているそのような軋轢の予感にさいなまれていたようです。
要するに神殺しの犯行現場です。
もはやこの問題では受け身なだけでなくなったので平気です。

無意識からの引用に対するbrageloneさんの見解は正解ですが、経験からして寝ぼけ眼をたたき起こす場合は、そこまで追っかけなければならない場合があります。

投稿日時 - 2008-11-02 22:26:28

お礼

 無意識について わたしは 安易に捉えるくせがあります。
 安易に捉えるという意味は 意識の上に出して来ない場合には あまり相手にしないという意味です。無視するというよりは 対話がまだ始まっていないと受け留めておくという意味です。

 何でもかでも 無意識をあたまから否定するように言っているという印象をあたえてしまったとすれば 筋がちがっていました。訂正いたします。

 この世という意味での大霊界の現象をめぐって そうとう 頻繁に 人びととの交通が 行き交っているという状態でいらっしゃるのでしょうか? わたしの言うデーモン現象が つづいているということでしょうか? 
 わたしの場合には そうですね ここ数年(七・八年)前までは しきりに そうでしたが おさまって来ました。また あれっ デーモン現象が起こっていたんだなと あとで 気がつくという場合もあります。おおむね ゆるい形 浅い形に なって来ました。
 わたしに エネルギが少なくなって来て 人びとも そのデーモン電磁波を わたしに向けて アースしようと思わなくなったのか それとも わたしが ただちに――それこそ 無意識のうちに――受け取った瞬間に返してしまっていて それが 内にとどまることが減って来たのか。
 受け取った瞬間に わたしが 返してしまうというのは おそらく そのデーモン現象が ほんとうは 錯覚なのだから その錯視だということを 相手が すぐさま 見てとるようになったのか。
 というように いろいろ思いますが そういろいろ思うということは 情況が変わってきているのかも知れません。
 というようなことを考えました。

投稿日時 - 2008-11-02 22:56:22

ANo.16

オコリザルです。
さらにアウトプットです。
人の行いとは(罪ではなく)自然界に恭順する必要の無くなった知性の自由意志ゆえの暴走である。

前にも誰かの質問への答えで似たようなことを回答していますが、より確信に近い感じです。
随分と楽の出来る世の中になりつつあります。

投稿日時 - 2008-11-02 20:00:58

お礼

 ううーん。

 ★ 自由意志ゆえの暴走
 ☆ であっても
 ★ 随分と楽の出来る世の中になりつつあります。
 ☆ ということでしょうか?

 ★ (罪ではなく)自然界に恭順する必要の無くなった知性
 ☆ ここに 鍵があるでしょうか。
 
 今後とも まとめが 必要ですし その方向に進んでいけるとは思っておりますが いかがでしょうか。

投稿日時 - 2008-11-02 21:03:00

ANo.15

オコリザルです。
今日の分の回答に対して無意識からの回答がありました。

A14の事柄はたとえば霊魂とか同一視できない事柄に対して駄洒落でなく謎かけをする事で「誘い水」とする一般的な手法でして、結果は予め心得ています。

マナ識の話が出たので今日一日は「あく」空文「罪」空文「よく」一時的軋轢と踏まえたうえで公平な采配にゆだねることが出来そうです。
無意識の発見した事柄は広く伝播します。
この現象を人知、ヴェーダ、涅槃、イデア界、大体そんな感じの物言いで観察してきましたが、全て空想の産物で無意識の作り出した伝達手段です。(今日はそのように認識しています)
自らが成したのではなく、立ち会っただけとのスタイルは崩すのは早いようですが、このように口外しても救世主扱いではなく単なるエスパー扱い程度で済む感じです。
さらに還元すればこの問題もさらに公平に采配され、誰が偉いなんて問題もなくなります。

投稿日時 - 2008-11-02 19:47:50

お礼

 あぁ No.10で わたしが 無意識の悪口を言ったことですね。

 クリステワ゛ですとか 無意識のほうに持っていけば話がおさまるというような言い方だと思っています。あるいは と言いますか その無意識を 瞬間的に意識して あたかも光の源泉に触れるといったことが出来るし 為し得たのだと言おうとしている。そんなふうに受け取らざるを得なかった記憶があります。これは 混沌だと思いました。

 問題は こうだと思います。たとえば《無意識で これこれと考えた》と言うばあい そのように言うときには すでに意識しており 意識したと見なしており みづからの意志であると承認しており すでに無意識のことは 触れることがなくなっている。と思うのですが いかがでしょうか?

 こういう問題ではないですか? ちがっていたら ご指摘ください。

投稿日時 - 2008-11-02 20:58:32

ANo.14

オコリザルです。

>この世を認める物は現実と瓜二つの虚構の世界をさまよいながら生きることになります。

あくまでもこの世を認める物であり、この世を認める者の事を言ったつもりは無いのですが、この辺を万が一誤解されるともしかして随分と残酷かもしれません。
このような誤解からのろいを受けるように奈落の底に引きずり込まれる。
これが繰り返し地獄に落ちる経験の一つではないかと思い至りました。

投稿日時 - 2008-11-02 19:16:49

お礼

 これも むつかしいですね。ううーん。

 こうでしょうか。この世は どういうわけか わたしたちが生きたいようには出来ていない。いとなみも そのようには おこなわれていない。このこの世を認めるなら 虚構にさらに虚構を加えた像を捉えて さらに そのさまよい振りを 増してしまう。
 そういう意味でも 大霊界と呼ぶべき課題がある。

 たぶん このようにて。

投稿日時 - 2008-11-02 20:46:28

ANo.13

オコリザルです。
割と長く、無意識イコールアラーヤ識の認識が流行しているのでコメントです。
マナ識を表す言葉はただ一つで、

愛に基づく感情は公正に采配を振るう。

これだけわかっていれば良いだろうと思います。
マナ識は脳の前頭葉に位置して感情を采配する機能全般です。
あらゆる時系列の記憶に正しい意味を与えます。

そんなわけで内面のドグマたる箱庭の実態は、生きているか、死んでいるかではなくて、感情を伴っているかどうかに還元するのが本来は正しいのです。

投稿日時 - 2008-11-02 17:45:30

お礼

 ううーん。反応が いまひとつ 出難いご主張ですね。

 要するに 無意識は そのことを言うのが 目的や解決策ではなく あれこれ考えるというよりも やはり自然本性のあり方からして 生き生きと生きなさい。というふうに わたしなら 受け取ります。
 ただし 自然本性と言っても そのままで 筋が通るかどうかは 微妙である。何らかの目覚め また そのための言葉が 必要になるかも知れない。自然界ないし第二の自然としての社会そのものから 何かのきっかけを得られる人は さいわいである。
 といったような。・・・
 
 ちょっと乱暴なまとめであったかも知れません。次のご回答の中でも 考えてまいります。

投稿日時 - 2008-11-02 20:39:59

ANo.12

オコリザルです。
いくつか掘り下げます。
A7の補足、
大霊界とは、
☆ つまり むしろ《この世》のことなのでしょうか? ま 要するに 《なぞ》があったり 《誤解》があったりするときに言うのでしょうね。

私はそのように認識しており一貫してそのように主張してきたつもりです。
brageloneさんですら始めて判ってということは一般には全く難解で意味不明だったでしょうね。(専門家はともかく)
その世界は、幻を見て生きる、寝ぼけた状態、又は脅し混じりに言えば、生きているのか死んでいるのかわからない様な状態です。
主観的認識では世の中とちぐはぐであったり、まさに寝ぼけているようであったりする影響を受けるだけですが、心の奥底(無意識のような物)は深刻でして何一つ確かな物のない荒野をさまよい続けます。(存在不確定状態と一致)
そこが「この世」です。
この世を認める物は現実と瓜二つの虚構の世界をさまよいながら生きることになります。
注意して説明しなければいけないのは、悟った者を装ってこの世のむなしさをとくと仏教世界だからです。
「無」ってのは古臭い自己の認識方なんですよ。
既に古典なのでいまさら引用しても仕方がない。
でもわたしは仏教批判をしませんからこの点はそれだけにします。

A7、
>ここまでの説明で、brageloneさんは消滅たる「死」を宣告された霊体に対する感情移入が可能でしょうか。(有限の世界と言う幻想)

その世界に対しては、
▲  あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 (エペソ書5:8)

これがもっとも正しい言葉です。
具体的除霊手法としては、それ以前の問題外のお化けも、ぞろぞろいるのですが、それはさておき。
私自身はこの聖書の言葉を、(長く続いた軋轢のため)「つげだす」又は「認識する」ことが出来ないでいました。
簡単な言葉ですがすばらしいアドバイスです。
有難うございます。

罪の問題で難しいのは本質的な(それがあるなら)「罪」はふさぎこんで閉じこもりがちなんです。
悩み相談室又は弁護すら取っ掛かりがない。
表ざたに出来れば関係の中からマナ識に由来する愛の判定で、解決、裁定する、観察の上での了解、が、可能です。
実は煩悩(的)罪はあくまでもその本質ではなく、こんなマナ識的な認識のための努力なんです。
このような戦いを自ら望むことが出来れば幸せです。
避けようとすると「苦」なんじゃないですかね。

投稿日時 - 2008-11-02 17:30:22

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 煩悩(的)罪は・・・避けようとすると「苦」なんじゃないですかね。
 ☆ ここらへんに 味噌があるのじゃないですかね。わたしの言い方では スサノヲ自由野生児なる自然本性に 光の源が宿るとなりますが。
 エペソ書の文章が 気に入っていただけて ありがたいことです。増長するくせがあって いけないのですが こういう文章も 思い浮かべました。ご紹介します。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 愛する兄弟たちよ。だれひとりきらめく福音の光を知らず 暗闇の中にみんながじっとすわっている そういう時代が私たちにはあった。
 自分の小屋を見つけられない子どものように そのころ私たちはさまよっていた。心は大きな愛を知らず 耳は神の言葉を聞くことができずにいた。

 パパラギが私たちに光りを運んでくれた。彼らは私たちのところへ来て 私たちを暗闇から救い出してくれた。・・・パパラギの宣教師は 私たちにはじめて神とは何かを教えてくれた。そして 宣教師が誤れる偶像と呼んだ私たちの古い神々から 私たちを遠ざけてくれた。偶像の中に本当の神はなかったのだ。
 (『パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集』)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ サモア島の 二十世紀初めの話です。もっとも これは ドイツ人の作文ではないかという説もあるにはあります。そして この酋長トイアヰ゛は 他方で 白人のほんとうの神は お金であるとも言っています。ドイツを見聞した結果です。

 ★ 大霊界
 ☆ は ふつう 《あの世》のほうに 重心が行きますから はっきりと《この世》であるとお聞きしたのは 初めてでした。要するに 無明・煩悩という言葉を聞いて 分かったような気持ちでいては 実際に その苦悩に出遭うと 困惑するような魂のあり方でしょうか。それを繰り返しているといったところでしょうか。
 ★ 罪
 ☆ は たしかに 言葉だけとしても 扱いにくいですし それがあることだけで 憂うつになりそうな言葉です。
 さらに ご投稿をいただいています。

投稿日時 - 2008-11-02 20:31:46

ANo.11

ANO6です。 続けます。

言葉の考古学的な学術的豊かさも加えて、盛り上がっていますね(^^)。

言葉の資料(史料)も、真実や事実の検討の考察の中に取り入れる広さは哲学には必要な世界なのでしょう。

でも、言葉の海におぼれるために言葉の価値があるのではないと私は思っています。

これはkigurumiさんの言われる新約聖書創作論の価値の正否をうんぬんしたいからということではなく、 そのまえに、そちらのコメントの次の言葉の楽観論に私の方からも口を挟みたくなったということなのです。

>・・・したがって 自然本性なる《わたし》に自己還帰すれば 浄福であり 復活につながる。< 

という部分で、brageloneご自身が楽観論だと言われてるあたりのことです。

もともと森の中で暮らしていたと例えられる有史以前(歴史の史料以前)の人間のほうが、 自然本性なる《わたし》や《わたしたち感》を 其の言葉なしにも豊かに持っていたという私の人類進化観は、ある程度はもう解っていただけたとしてお話しますが、

それを破壊したのは、言葉が記録されるようになった事自体が原因ではなくて、言葉によって権力欲というものが出てきたためだと思っています。

そしてそれは、村の長老という哲学者がさらなる社会の安定のために残した法律とかによって、つぎにはそれを権力に利用しようとして制度化、形式化してしまうことが起り、これが権力欲につながっていったと考えるのです。

宗教がそれです。   仏教やキリスト教の旧約も、其の起こりはだいたい一緒だと思います。  

めちゃくちゃ荒削りな論じかただと思われるかもしれませんが、 まず踊りは、それ以前は初めから現代一番高度だとされる表現表出即興舞踊を自然にみんなが踊れたのです。   そのはずなんです。  ジャズがアフロアメリカ人によって発展して やっとアフリカの音楽がけしてでたらめで野蛮なものではなく それどころか多くの感情が其の分豊かにちゃんとスイングしあってしかも軽やかにリズミカルに調和されて存在してることがわかってきましたが、 踊りはさらにまさに

自然本姓なるふるさとの香りを豊かに豊かに持っていたということです。

しかし、宗教舞踊により 形式化が始まり、自由な即興は消えていきました。

でも だからといって 宗教にはもともとの大自然の中に生きていた素朴な人たちの深く新鮮な感性を反映していないかというと、 もちろんそんなことは無いし、 仏教などでは、むしろそれをこそなんとかとりもどそうという努力の跡がそこここにあるわけですし、 新約聖書はそれが誰かの創作だとしても、また其の出所がどういう経路をたどったのだとしても
まさに そちらの言われる 自然本姓への帰還を深く力強く語っている内容となっています。  イエスが創作だったとしてペトロまでは力強いその示唆に富んだ言葉の跡があり、それがちゃんと、 この歴史をつらぬいている事実は ただただ私の場合敬服してしまうだけなのです。

「たとえ話しの天才」を創作したことで、現代でもそのわかりやすさが誤解の元になり続けてたりもするでしょうけどね。

話を元に戻します。  

しかしながら、素朴な人は、キリストのように強いでしょうか? 純粋なまだ何も知らない赤ちゃんや そぼくなはなっったれ小僧とかは、キリストのように強いでしょうか?

弱いですめちゃくちゃ弱いです。  鬼が島の話があればすぐそれを信じてしまいます。 他の村の人たちは鬼だという言葉が、実際それを哲学しなおしてみること無しにまず受け入れられてしまいます。

ウソが何であるかを知らないうちから ウソを使えるようにもなるでしょう。  つぶさにウソの可能性の世界とその裏の心理の世界を知り尽くしてしまえば、そんなものに影響されずに、もういちど素直な無邪気な心に戻れるのですが、しかももう誰にもだまされませんが、   素朴な人たちには、その最初の免疫すらありません。

こうして 宗教が権威と奴隷の歴史、残酷さや偽善とかの片棒をかつぐ歴史が生まれてきてしまった史実は生まれてきてしまったのだと思います。

ここには簡単に書くしかなかったですけど、言わんとしてることは解っていただけたのではないでしょうか?

アフリカでは アミン大統領の残虐性とかが問題となったところですし 素朴な人どうしの争いのニュースもたくさんあったりします。  

それらを越えてゆくのは、 もういちど、たしかに人間本姓の心を取り戻すことがものすごく大事な地点ではあっても、  これはもう「言葉」の世界からあともどりすることに、その道があるのではないわけです。

わたしは、 これを持って 私らしい闘いを求めて日本感性学会の方への質問へと切り替えてゆき、 しばし再びOkウェブから一応離れようと思っています。 

そこで最後に、私からのメッセージをここに書いておこうと思います。

教会もアミンもヒトラーも南京の兵隊も全部、もし許せなかったら、そういう人が一人でもいたら 復活ってなんなのでしょう? という現在の人間の叫びを、提出しておきます。  

心の乱れた時の状態の私が復活したって私自身だいたい私を自覚してないで笑。意味無いです。   感性の無い灰色の世界しか見えなかった時の私が復活したって、はやく死にたいだけです(笑)。   まさに 永遠に生きとし生ける私たちのすべてが永遠に幸せであってほしい心を獲得するまでは、 復活に意味は無いし、 逆にたった今 キリストのいう「御国が天に行われていますように、地にも行われますように」という主の祈りの御国に たった今入ることも確かに不可能ではないとは思いますけどね。 現在時にて復活の過程にありということでしょうかね。

太陽を送って服をみずから脱がない人はいないというイソップのいう真実の実際の社会における詳しい実現性を哲学する人が増えてほしいです。

哲学での其の闘い抜きに、今後物理学ってどのように発展してゆくのです?(へんな言い方ですけど^^)。

現時点での巨大は応用物理の世界は、日本人の器用な職人の手のうちに握られてたりします。(これも突飛な言い方ですが^^)。

日本がものづくりの時代ではないならば、其の職人技を世界に広げていけばいい時代ではないですか。

資本主義は まだまだ総合哲学がリードするならば良くなると思います。

アメリカだって苦しんでいるのならば、アメリカにもその太陽を送ればいいだけじゃないですか?

太陽だけが、アメリカのうみだす憎しみの連鎖を終わらせるのではないですか?   

より幅のひろい井戸端会議を期待しています。 

幅の広さが重みとなり 感性教育という先端部を、大地の問題群を掘り起こす巨大な掘削機のパワーアップ源とされんことをお祈りしています。

投稿日時 - 2008-11-02 17:20:30

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 どちらか一方に専念しなければならないのですか? それほど時間が忙しくなるのですか? いづれにしましても 自由なかたちが いちばん 望ましいと思いますので それは お任せになるとは思いますが。

 今回は これまで対話を重ねて来ましたので 反応する箇所は 二点です。
 一点は 《手放しの楽観論》について触れておられるところです。けっきょく 言語以前の生活の情況と言いますか そういう原始心性のゆたかさの問題も いま ことばを失くして 自然に還れと言って 探求するのではないとおっしゃっているわけですから 特に問題はないと思います。《わたしの霊の息吹きを受けなさい》という素朴なことば これにも ひとは 反応するのではないでしょうか。
 その限りで 自然本性を 打ち出して行っても いいように考えます。

 もう一点は そのように 自然本性を打ち出していくとき 手法や方法に 思案すべきものがありはしないか? こういうご提案だと思います。
 要するに 互いの交通に際しては 《赦し合いなさい / あたたかく 接しなさい》というご主張です。
 おおきな議論になると思いますが ここでは わたしが要点だと思うところを述べてみます。二つあって ひとつは 《人が 人のあやまちを 赦す》という能力も権限も あるいは そうとすれば 資格も 持ち合わせていないのではないか これです。もう一つは 社会的な交通に際しては 相手のあることであるからには その相手の状態や 大きな情況のあり方に応じて 対処するのも 一法ではないか これです。
 前者は 誤解を招くといけませんが 《赦さないという能力も権限も ない》という意味です。この考え方に立てば 一人ひとりが 更生する・再生するということ。そのためには 或る種の仕方で 一定程度は つぐないの期間を設けることも考えられるということ。その点について 自由に 提案をし合っても よいのではないか。です。
 二つ目の点については 太陽政策もあれば北風手法もあるのではないか これです。相手に応じて 情況を見て こちらの主観の考えるところによって 採ると思っています。

 これからも 井戸端会議に顔を出してください。
 (ただし わたしも 一たん しりぞくという考えを持ったことがありますので どうなるか 分からないのですが)。 

投稿日時 - 2008-11-02 19:55:29

ANo.10

No.2です。

>ただ 惜しむらくは 見解が互いに あまりにも ちがっているということですね。

現代の哲学者は、今までこうだと言われてきたことが、本当にそうなのか、吟味し、取り消し あるいは 修正することで成り立っている。

のだそうです。

<古代文明の謎はどこまで解けたか>という本を読んだことがあります。
Aだと言われたら、普通の人は、そのAから派生した概念をもとに、AB、ABC、ABCDと話を作って本にする。

でも、この本の作者たちは、Aだとどうして言われることになったのかを、掘って掘って探し出した。
実際調査し、分析し、検証した結果がまとめられた本です。


彼らほどじゃありませんが、私なりに掘って掘って掘りまくった。
この堀り具合の違いが、私とあなたの見解の違いかもしれないですね。


私自身も掘りつくしたとは言えませんが。


>イエスは 聖書の登場人物の中でさえも まったく特別なひとであるわけです。アブラハムやモーセやダビデその他その他から かけ離れています。

そうですね、コンスタンティヌス1世は、混乱の解決のために、イエスを神だとした。
彼がいなければ、イエスは神ということにならなかった。
彼はローマ皇帝で、人民の治安を図り、人民の統率ができなければ、失脚する立場だった。
ゆえに、必然的にキリスト教徒がローマ帝国内で起こしている騒動を鎮圧する必要があった。



> 一定の期間としてでも イエスの力が 人類史上に はたらくという物語にもとづいてのご投稿です。

イエスの力ってなんでしょう?
ローマ帝国の繁栄をもたらしたのが、イエスの力の功績だというのなら、確かに<太陽>の沈まぬ国、とされたローマ帝国は、一定の期間<太陽>は繁栄した。
500年ほど前滅亡しましたが、決して<太陽>の沈まぬ国だと信じられていた。

スティーブン・スピルバーグの映画で、太陽の帝国ってものがありますが、これは日本が舞台ですね。
日本も太陽信仰があるから、国旗は太陽なんですよね。


>その特異な事柄は 弟子たちからも裏切られ 人びとすべてから見放されたという点にあります。

ヨセフは12人の<兄弟>がおり、ユダに銀貨20枚で売られた。
イエスは12人の使徒(ブラザー)がおり、ユダに銀貨30枚で売られた。

ユダや人が神を殺したという根拠を持って、ユダヤ人は2千年も迫害されたわけですが、事実無根の罪により、多くのユダヤ人が長い間迫害されてきたことに対し、ヨハネ2世は遺憾に思うと発言したことは有名ですよね。

ピラトは実在の人物ですが、政治犯と疑わしきものは、裁判無しに即処刑していたことで有名な人物。
聖書の話と実際の人物の特徴は違うんですね。
結局 彼はユダヤ人からそのやり方の汚さをローマに訴えられ、リコールされましたよね。

その当時、ローマの法律で処刑方法はいろいろあったが、は政治犯は十字刑だった。

ということは、仮にイエスのモデルになった人がいたとして、その人はピラトに政治犯だと疑われ(実際人々を煽ってローマにたてついていたゼロテ党員だったかもしれない)、裁判無しに処刑された一人ってことになりますね。

律法に違反したら石打ちの刑で、宗教に関することはローマは干渉しなかったようです。
勝手に宗教的問題は内部で解決してくれってわけです。
この宗教関係による処刑は、現代でもユニセフも手が出せない。


イエスが人々に剣を取れと煽動する発言が聖書に残っていますよね。

ユダヤの歴史では、バル・コクバが救世主と思われたとされる。
彼もはハドリアヌス帝治世下の132年から135年にかけて、ローマ帝国に蜂起した。 第二ユダヤ戦争。
これは史実ですが、イエスに関してはまったく歴史的資料が無いので推論するしかない。


聖書? いえ あれは小説であって、人口調査など実際無かったことが物語内ではあったとして記述されており、信憑性に乏しいから、歴史資料としては扱えない。


>主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。

聖王のことですよね。

地面を掘ると、古代文明が出てくることがある。
ローマ市街だったか、ギリシャ市街だったか忘れましたが、その地下から遺跡が発見された。
男根信仰で、大きな岩が祭ってあった。

ダ・ビンチ・コードでもダビンチの絵画で大きな男根の絵が問題になっていますよね。
ダビンチも男根崇拝がキリスト教の元石だと知っていたのでしょうね。


ペトラ あるいはペトロの岩。
大きなものだと、ヨルダンにある世界遺産のペトラ神殿。(インディージョーンズの映画にも登場する。)

聖書ではペトロの岩が神殿を建てるとあるが、ローマ市街か、ギリシャ市街か忘れましたが、本当にその祭られた岩の上に町ができている。

紀元前のいつに男根岩が祭られたのか知りませんが、町の繁栄を願った信仰があったことは間違えない。
この概念が後に新約聖書作家も知っており、作品を作るとき、多神教のこの豊穣祈願の概念を採用したのではないかと。


話はぐっとさかのぼり、旧約聖書作家も採用したバビロン神話では、全ての神々を生み出したティアマトと、ティアマトが生んだ神々との戦いがある。
この戦いが、世紀末、神と神に反逆しサタン側についた天使たちとの最終戦争として現代では語られている。


ティアマトはたくさんの神々を生み出した。
その結果世の中が騒がしくなったため、夫のアプスーは「安息日が無い! 気が休まらない!」として、騒ぐ神々を殺そうとティアマトにもちかけた。
しかし、慈悲深いティアマトは「そんなことをしては駄目」と反対した。

ところが息子のエアは父親のアプスーが自分たちを殺そうとしていると知り、逆に父親のアプスーを殺してしまうんです。

そしてそれだけにとどまらず、全てを生み出した初源のティアマトに「その最高地位をくれ」と使者を送って伝えた。
夫を殺したばかりか、全てを決める権限をくれと言う息子にティアマトは激怒し、エアの送った使者を引き裂いてつきかえした。

孫のマルドクックは勇敢にも、ティアマトに戦いを挑み、苦戦したが、ティアマトがマルドゥクを飲み込み源に返そうとし口を開けたとき、暴風を吹き込み、ティアマトの口を閉じれなくして、その口に矢を射てティアマトを殺した。
そして彼女の肉体を八つ裂きにして、天と地を作った。

つまり命を生み出し、命をはぐくむ大地は、ティアマトの肉体からできているというわけです。

そうなると今まで全てティアマトが一人でやっていたことは、ティアマトを殺したため、ティアマトに反逆した神々がしなければならなくなった。
神々は大忙しになり、身の回りのことができなくなり、マルドクックに苦情を言った。
それで、マルドゥックは神々の身の回りの世話をするものを、土とティアマトの選んだ指揮官(聖王)キングーの血を混ぜ、人間を作り、人間が神との契約を忘れないために虹を空にかけた。

つまり、人間は初源の神ティアマトの肉体とティアマトが選んだ聖王キングーの血で作られているというわけです。

で、人間は負けた側の肉体と血を引くので、反逆して勝利した神々との契約により、永遠に勝った神々の奴隷としてかしずかなければならなくなった と。


キリスト教が<虹は神との契約の証>と言いますが、こういうことなわけです。


一方でそういう伝説を知っている人々は、豊穣を願い、女神に選ばれた地上の王と、女神との結婚を望むわけです。
女神によって選ばれた男は女神との聖婚の際、油を男根に塗った。
ティアマトは自らも生み出したので、永遠の処女ってわけです。

後にこの風習はユダヤ教に入ると、男根ではなく頭に油を塗る風習に変化した。

女神が選んだ男 聖王として、頭に油を塗られていたわけです。
この選ばれた男の精力が続く限り、地上は豊穣になると信じられた。
しかし、男の精力がなくなると、地上は飢饉に見舞われると信じられていた。
地上が不作になると、聖王は紫の衣を着せられ、女神に仕える巫女たち(神殿娼婦とも言われる)と交わり、その後紫の衣をはぎとられ、鞭打たれ、十字架にかけられ、槍で突かれ、血が大地に流された。
血が大地に流されたことで、女神の力も復活し地上が豊作になる と信じられていた。

この風習は結構長く保たれ、聖王とされたものは不作になると殺されてはたまらないと、自分の身代わりをたてたりもしたらしい。


みんなに見捨てられた岩 というより豊穣を願って処刑されることを受け入れる聖王ってわけです。

で、聖王を選んだ巫女たちは、聖王が殉死すると、「アレルヤ」と神殿で泣き叫んだ。
キリスト教では喜びの声として「ハレルヤ(主を褒め称えよ)と叫ぶそうですが、この言葉が発せられる時、地上は豊穣になるが聖王が死ぬ という概念が起源。


で、古代では男は子供が自分の分身だと思っており、女は男の分身をこの世に送り出すただの器だと思われてた時期があった。
ユダヤ哲学者は頭を悩ませた。
「どうして男の分身なのに、女の子が生まれるのだ?」
で、神に喜ばれなかった男には女の子が与えられるとした。

障害を持った子供が生まれた場合も、神から呪われたからと解釈した。

まあ、そういう思想があったとわかると、聖王は死ぬ間際に巫女たちと交わる理由がわかってくる。
しばらくすると妊娠する巫女もいたでしょうから、聖王は死んでもまた生まれてくるって理屈です。

卵子って視覚で見えませんし、卵子の存在は近代までわかっていませんでしたから。


したがって

>彼らは御言葉を信じないのでつまづくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。

古代のキリスト教ができる前からあった概念をちゃんと理解していないキリスト教が中途半端に構築した岩に、あなたはつまづいてしまったってことじゃないでしょうか。



>《そうなるように以前から定められているのです》というような言い方は あとからそう言えるとしても ずるいやり方であるように思います。

ええ、ズルイと思います。
キリスト教幹部は各地の教会に焚書を指示したため、古代の文献が数多く燃やされたんです。
古代の貴重な遺産の喪失。

それでも各地の図書館に残っていたのですが、今度は図書館を閉鎖し
、「信者は聖書だけを読むように」と指示した。

情報が隠蔽されたため、長らく古代の思想を一般信者は知ることができず、だから信者はキリスト教神学者の中途半端な見解の言いなりになってしまうしかなかったわけです。

キリスト教の神学者が「こうだ」と言えば、「そうなんだ」と信者は思うしかなかった。
比較するものがないから。

情報操作されたら、視野が狭くなり、全体が見えず、偏った見解になるのは必然。

だけど現代では、情報操作は昔に比べるとそれほどされていないので、もっと視野を広くし、他の文明とか、古代文明とかと比較することは可能。

キリスト教は焚書したが、地下に埋もれた粘土板の神話までは見つけ破壊することができず、結果現代に出てきてびっくり。
なんだ 旧約聖書ってオリジナルじゃなかったんだって。

紀元前何千年も前から、3人に誕生を祝われ、30歳の時聖職者になり、12人と旅をして、治療し、人を復活させ、3日後に自らも復活したという人たちの神話はあって、しかも時代により主人公の名前が違い、最後がイエスの話になったんだって。

これはイエスの出現が予言されていたと解釈するより、イエスの物語を書いた人が、古代よりあった神話を主人公の名前を書き換えて再販したって解釈した方が自然。

つまり、イエス話は古代にいたとされた人のバージョンいくつ目か。

みずがめ座の時代になると、名前が違えて西暦2150年頃 聖王が3人に誕生を祝われ、30歳で聖職者になり、12人を連れて各地を布教してまわり、人々を治療し、死んだ人を蘇らせ、自らも3日後に蘇って又くるって言う神話ができるんじゃないか と。

そしてさらに2150年後にまた来る。
つまり新しいバージョンで名前が違って神話ができる。

これを神話の復活というのでしょうか。

神話の復活なら、ロードオブザリングもプラトンのギュゲスの指輪の現代版であり、プラトン主義の復活ですよね。

ちなみにプラトンは紀元前400年頃の人で、「善人だとどうやってわかるのだ。善人だと思われるため、善人らしくしているのか、本当に善人だから善をやっているのかわからないじゃないか。 その人が本当に善人かどうか確かめにには、その人からあらゆる善(徳)を奪い取り、鞭打ち、十字刑にして、槍でついても、その人が善人でありつづけたら、その人は善人だったことになる」って言っています。

プラトンの考え出したその話も、彼が古代から伝わる聖王伝説を知らなければできなかったこと。



>イエスが 官憲に捕らえられ はりつけの刑に処せられるに際しては ペテロをはじめとして 弟子たち皆が 背きました。 

でもですね。
「そんなことがあってはなりません」とペトロが言うと、計画を邪魔するなと言わんばかりにイエスはペトロをサタン呼ばわりしたじゃないですか。
サタンの意味は「妨げる者」なので、計画を妨げる者だからペトロはイエスにとってサタンになるわけです。

もし、徹底的に阻止してイエスの計画の未遂物語にしたら、聖書作家は何言いたかったのかってなるじゃないですか。

聖書作家は、他の民族が古代より伝えてきた聖王の愛死をモチーフにして、物語を書いたわけですよね。
この聖王の愛死の概念は、ギリシャ方面でも盛んだったと思います。
だからその土地の神話に熟知している人は当然ギリシャ語がネイティブでしょうから、新約聖書はギリシャ語で書かれたんじゃないかと。


>石工たちが 家の土台のための隅の親石に これはだめだ・使えないと言って 選ばなかった石・そして人びとも こぞって捨てた石 その石が じつは かなめ石だったという存在論上の変容 つまり あたかも蛹から蝶へと変態するかのような人間存在としての復活 これが ほかの人物の場合とはちがって イエスの場合には 人類全体にとって 起こったのだと考えます。

でもですね。
使わなかった はい 終わり じゃなくて、使ったじゃないですか。
コンスタンティヌス1世が。
これによってローマ大帝国ができたわけですよね。

ユダヤ人はこの石を捨てたから不幸になったのではなく、キリスト教がユダヤ人が生きずらいように、ローマの法律を変えてユダヤ人を迫害したからですよね。
人為的なものです。
これが神の業?
神じゃなく人間の業。

これにより無実のユダヤ人たちが2千年も迫害され、人類史上最悪のホロコーストまで起こった。
冤罪をかけて殺すことが善だとは決して思わない。
キリスト教国は人類史上最低最悪 人間とはもはや呼べない悪事をやってしまった。
日本人から見てどうでしょうか。
これが善?

ユダヤ人は神を殺した?
殺していません。
彼らがどんなひどいことを一体したというのでしょう?

もし本当に神がいたら、神の民を殺したキリスト教信者は、神の怒りにより全員永遠の地獄に落ちて燃やされ苦しみ続けるでしょう。

いなくてよかったですね。

私はどうせ神話に心を寄せるなら、裏切られ体を引き裂かれても、地上に生命を生み出し、生命をはぐくみ続ける名誉も何も持たず、ただ癒しはぐくみつづけるティアマアトに深い慈愛を感じます。


ヨハネの黙示録に出てくる女神。
これ ティアマトのことだと思います。
バビロンの大淫婦とかののしられていますが。。。

キリスト教の焚書を免れたナグ・ハマディー資料にはこう書いてある。

 我は最初にして最後なる者ゆえ。
 我は誉れある者にして侮られし者。
 我は娼婦にして聖なる者。
 我は妻にて処女。。。。
 我は石女にして多くの息子あり。。。。
 我は把握し得ざる沈黙。。。
 我は我が名の言辞。

投稿日時 - 2008-11-02 08:52:32

補足

 kigurumiさん ご回答をありがとうございます。

 kigurumiさんと わたしとの違いは まぼろしを見たとするか それこそが幻だとするかです。順序が逆でしたが。
 実在の人物でないなら そして虚構だと分かっているなら それらは 歴史に影響を与えない とは わたしは見ないわけです。もちろん kigurumiさんの歴史実定主義に譲歩して言ったのですが その心は 虚構が影響を与えるのではなく そうではなく 虚構をつうじて 人間の真実に迫り それをつうじて 絶対の真理にさえ わたしたちは 触れ得たと感じるときがあるということです。
 ですから kigurumi さんのお詳しい歴史的事実のほうとしても
 ★☆ ユダヤ人の迫害・改革者への弾圧・魔女狩り あるいは 聖職者によるふつうの人びとに対する高慢な説教等々
 ☆ これらの事実について もしまぼろしの見えると言う人であるなら 《遺憾に思う》だけで 済むとは思えません。丸坊主になるだけではなく 教会じたいを解体すべきだと考えます。二百年は 謹慎しても ばちは当たらないのではないでしょうか。
 ★ イエスが人々に剣を取れと煽動する発言が聖書に残っていますよね。
 ☆ イエスを捕らえる大祭司の手下に対して 一人がその耳を切り落としたあとで イエスは 剣をおさめなさいと言いました。つまりそれは やっとその暴力がすでに行われたあとだったかも知れません。が そのとき 《剣を取る者は皆 剣で滅びるのだ》とも言っています(マタイ26:47~)から 《剣を取れと煽動する発言》をしたとは知らないのですが どこですか?
 ☆ 神話は 経験思想に毛を生やし羽を付け 想像力に任せて空を翔けさせたものです。地続きです。言いかえると 史実ではないのに 初めから 神々がいて そのあと 人間が生まれるという順序です。言いかえると 初めは 人間どうしであったのが その後 階級関係が発生したわけです。支配階級が 神々とされただけのことで 史実の順序を逆にして述べています。
 民主主義の時代に いまだに国王がいますので そのぶん 神話も おもしろがられるのでしょう。
 ☆ 肉の思いは せいぜいが 倫理規範(律法)までです。雁字搦めになるのが 関の山です。
 ★ キリスト教が<虹は神との契約の証>と言いますが、こういうことなわけです。
 ☆ 宗教としてのキリスト教が どう言おうが 関係ありません。また《虹》だろうが《割礼》だろうが 経験的なもの表象しうるものが 証しやしるしになったとしても どうでもよいことです。肉の思いは せいぜいが そのしるしにまつわる戒めによって心を殺されるだけです。《すべてが ゆるされています。すべてが 益になるわけではありませんが すべてがゆるされています》と理解してください。《水による洗礼》からさえ自由だと唱えています。
 ☆ 母の存在はおおきく いまだに 女神という言葉だけでさえ反応する人もいるほどです。処女が言われるほどに 男根も ひそかに 《崇拝》されているのですかね。哲学も 象徴的に ファルスを 理論化していた時期がありましたね。無意識とやらを持ち出せば 何でも言えると思っている輩もいるわけです。
 肉の思いは この地平から 徳( virtue )つまり男( vir )のちからを 義の問題であるとするに到るまで 倫理学を発達させますが せいぜいが 人間的になり これ以上はないというほど人間的になって そこで まわりを見渡すと 誰も その有徳の士はいないと分かって 絶望するという抽象的な規範の問題だったわけです。
 ★ みんなに見捨てられた岩 というより豊穣を願って処刑されることを受け入れる聖王ってわけです。
 ☆ この記述は イエスには当てはまりません。精確を期します。そういう神話や決まりにのっとって 人びとは はりつけの刑に処したのでも イエスがそれに甘んじたわけでも ありません。あとで わけをこじつけたとしても それは イエスの真意でもありません。豊饒を願う問題とは それを含んでもかまいませんが 次元が違います。いまの質問のごとく 永遠の生命・復活の問題であると 初めからイエスは言っていたからです。

投稿日時 - 2008-11-02 13:04:33

お礼

 ☆☆ 《そうなる(つまづく)ように以前から定められているのです》というような言い方は・・・/// ★ ええ、ズルイと思います。
 ☆ とこの箇所で kigurumi さんも 強く反応しておられますね。教会が正しいという観念が kigurumi さんにして まだ あるのではないですか?
 ★ ・・・3人に誕生を祝われ・・・聖職者になり・・・人を復活させ、3日後に自らも復活したという人たちの神話はあって・・・イエスの話になったんだって。
 ☆ これは 初耳です。もしそうであれば 《復活》の何たるかを もっと 思索していても よかったのに。
 ☆ 王は 聖王だろうが プラトンが 焼き直しの話を作ったであろうが 問題は そこでは 《絶対ないしその意味での霊》の話ではありません。肉の思いは・・・です。
 ☆ 弟子たちからも背かれたというくだりについて 評言を与えておられますが 意味が取れません。聖王の愛死とかも 話がかみ合っていませんよ。
 ☆ コンスタンティヌスが イエスを《使った》というお話。史実の順序の錯誤です。
 ★ ユダヤ人はこの石を捨てたから不幸になった
 ☆ とは わたしは言っていません。捨てられたにもかかわらず 死後に なくてはならないかなめ石になったと言っているだけです。――迫害の問題は 触れました。
 ★ キリスト教国は人類史上最低最悪 人間とはもはや呼べない悪事をやってしまった。
 ☆ 《丸坊主になり すべての教会を解体すべし》と わたしと一緒に 言ってください。 
 ▲ (ヰキぺディア:ティアマトhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%88)~~~~~
 〔伴侶の〕アプスーとティアマトは多くの神々を生んだが、彼らとの生活が煩わしかったアプスーは、ティアマトに彼らを殺すよう持ちかけた。しかし、母なるティアマトはそれを拒み、逆に息子達へアプスーの企みを教えて、警告した。エアは、ティアマトの警告を聞くと、兄弟姉妹と語らってアプスーを殺してしまった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ティアマトは 息子たちが伴侶のアプスーを殺すことを阻止できなかったか? この一点だけの疑問でも 提出するに値するでしょう。

投稿日時 - 2008-11-02 13:51:29

オコリザルです。
A7、
>ここまでの説明で、brageloneさんは消滅たる「死」を宣告された霊体に対する感情移入が可能でしょうか。(有限の世界と言う幻想)

信じるものの立場としての、brageloneさんの見解に特に関心のあるコメントです。
「死とは終末である」この見解にはいくらでも反論できるでしょう。
そんな信じるものの光を知りたいです。
思えばわたしは暗闇ばかりを潜り抜けてきました。

投稿日時 - 2008-11-01 23:31:48

補足

 primeapeさん 一連のご回答ですが あらためて ありがとうございます。

 ★ 消滅たる「死」を宣告された霊体に対する感情移入
 ☆ たしかに おおきな主題ですね。あらためて 掲げます。
 ☆☆ (No.7補足欄)~~~~~~~~~~~~~~
 ★ brageloneさんは消滅たる「死」を宣告された霊体に対する感情移入が可能でしょうか。(有限の世界と言う幻想)
 ☆ 互いに対話を交わした人――架空の対話としてでも よいのですが そのように意思疎通を行なって よく知っている人―― この場合には 気持ちが分かることがあるかも知れません。とは思いました。あまり そういうふうに考えたことがありませんでした。
 ★ 要するに私の場合、閉じていく世界を見守るだけで、手を差し伸べない、無意識的に由来する、強い衝動に対する抑制が働いています。
 ☆ わたしの場合には おそらく 理論として――出来るだけ 理論化して―― その気持ちを 代理して表現しようとするかも知れません。《手を差し伸べる》ことからは わたしも――と言っても 事と次第によると思いますが―― 〔引き〕下がっているかも知れません。《「死」を宣告された》というその事情と情況とが 問題になるとも考えますが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 当たり前の答えになりますが 問題は 《事と次第による》と思います。つまりは その人との関係のあり方 また その互いの交通の深度によるのではないでしょうか。
 ★ 「死」を宣告された
 ☆ ということの内容も もうひとつ はっきりしません。
 たとえば イエスも そのような事例に入るでしょうか。それだと このように 出来るだけ かれの立ち場に立って いろんなことを語っているというのが わたしの実際ですし。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「死とは終末である」この見解にはいくらでも反論できるでしょう。
 そんな信じるものの光を知りたいです。
 思えばわたしは暗闇ばかりを潜り抜けてきました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううーん。おそらく この言葉には かんたんに受けとめただけでは 応答がむつかしい内容があるように感じます。
 逆に かんたんに応えるのならば 次の言葉が思い浮かびます。

 ▲  あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 (エペソ書5:8)

 ☆ けっきょく 自己満足です。ところが この自己満足は つまづきを知りません。つまづくのですが 行き止まりにはなりません。

 ▲ (ローマ書7:1~6)~~~~~~~~~~~~
 それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法〔* つまり アマテラス普遍人格語による道徳規範〕とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。
 ・・・
 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。
 わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字(* アマテラス語規範や教科書)に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《霊》は スサノヲ人間語に宿ると知ったからです。
 まだ 自己満足の文章ですが 現在では このようです。

 * 《罪》の問題は 過去のわれわれ人類の歴史を思えば この二十一世紀に入ったあたりの現在でも 話題としては 出てくると思います。さらに つっこみを入れてください。

投稿日時 - 2008-11-02 10:53:53

オコリザルです。
A7、
>大霊界は愛は無償であると語っています。(係わりがない)

高次元の霊体はこれを、「愛は恵みである。」と、解釈しました。
受け入れる準備が出来たそぶりですが、私はだまされません。
ボーダーライン未満です。

今回の回答は独り言でありギャグです。

投稿日時 - 2008-11-01 23:14:37

お礼

 No.7につづきます。

 むつかしい問題かと思っていましたが――かと言って 小さな問題でもありませんが―― 詰まるところは 《金づく》の問題なのでしょうか? 言いかえると 《世の中 すべて 金次第》をうまく包み込むための《道徳規範》の問題でしょうか?
 
 ★ 高次元の霊体はこれを、「愛は恵みである。」と、解釈しました。
 ☆ わたしの解釈と用語では 《スサノヲ人間語》に対する・そしてそれのやんちゃぶりを克服しようとする《アマテラス普遍人格語》の問題であるように感じます。後者は とても口がうまいですし 表と裏とを とても上手に使い分けます。おそらく
 ★ ボーダーライン
 ☆ ? そんなものなど ないのだよと言うでしょう。《表と裏》の一組をタテマエとして ホンネは さらに裏にあるのだよと言うでしょう。なにしろ 悪魔をも手なづける老練・老獪・魑魅魍魎だと思います。竹下・金丸あるいは小沢一郎 こんなイメージです。石原伸晃も 若い感じだったのに そうなりつつあります。

 でも もっと うまい殺し文句もあります。《わたしは ちっぽけな人間です。》と言ったりします。切りがないようです。・・・

投稿日時 - 2008-11-02 10:19:26

オコリザルです。
直球で1つのことを論議する集中力に乏しいので今回は話題づくりです。

>イエスは 一たん すべての人びとから見放されるという経過をたどります。完全に見捨てられたあと 《〈おばけ〉として 弟子たちを初めとして 人びとに 現われた》というわけです。

ここで「お化け」と表現した以上、私が引き合いに出した大霊界の構造も言葉に出来ないだけでご存知なのでしょう。
この「おばけ」とは、何もしないにもかかわらず見事に入滅をはたしたお釈迦様とおんなじなのでしょう。(あの形での人間性の体現は仏と言う幻想を招いた)

かつて私自身の質問の補足に脳独自の空間を初めとする認識能力で「宇宙観」に等しい心の世界が広がっていることを説明しました。
(この部分で確認したいことがあればお願いします)
「この世」とは「あの世」とつながる世界で、ニセモノの生であり、現実に誤解がある場合認識する心象です。
私は冗談混じりに、ここを大霊界と表現しています。
それらは、現実の認識が不十分であるため生と死に関しても誤解のある世界です。
ちなみに死に様に対しての(生き様に対しての)誤解を解くことが供養です。
ここで語られたイエスさんのおばけは、存命中に彼に接した人々にその心の内面にある間違った彼へのイメージを修正するために現れたんでしょう。
苦しみから解き放たれて始めて出来るメッセージでもありまして、脳の「宇宙観」(世界に対する認識)の軌道修正のための受け取り手の(脳の)自然回復力と一致します。
私の場合、この様な自然回復力ないし自然治癒能力が、(この場合死者ですが)関係者とは無縁に、ごく個人的な自らの生命力に基づいて、死者と縁の切れた状態で行われていると錯覚しておりましたが、どうやら霊体というのは認識可能(存在は現時点では疑わしい)(錯覚の可能性あり)なことが了解できたので死者、又は存命中の場合他者と、(要するに槍玉に上がった本人と)係わりがあるらしいと認識しています。
「霊」又は「霊体」は信じないことが現実的に生きるコツでありまして、だからこその幽霊を信じない霊媒師であり、「無に返る」ことが消滅を意味する幽霊に対する殺人鬼でした。
振り返ってみてこの行いは正しかったと認識しています。
ここまでの説明で、brageloneさんは消滅たる「死」を宣告された霊体に対する感情移入が可能でしょうか。(有限の世界と言う幻想)
私の場合は、それが出来ていないことが欠点といいますか弱みです。
要するに私の場合、閉じていく世界を見守るだけで、手を差し伸べない、無意識的に由来する、強い衝動に対する抑制が働いています。

蛇足ですがギャグです。
大霊界は愛は無償であると語っています。(係わりがない)
閉じていく世界を支えるために大霊界の住人はいくら(お金を)払ってくれるのでしょうか?
そして愛情はお金で納得して奉仕するのでしょうか?
幽霊はお金に目がくらんでいまして、この辺がちぐはぐです。
根源的な問題はさておき、豊かさの象徴たる現金に対する動物的?な、錯覚は(衝動でもある)文明社会では顕著です。
この辺はbrageloneさんも質問形式で投げかけておられましたね。

投稿日時 - 2008-11-01 23:05:56

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。
 別の意味でだと感じていますが 今回も むつかしいですね。そしてご投稿は 補足要求なのですね。
 次のご回答で
 ★ 今回の回答は独り言でありギャグです。
 ☆ とあるのを受け取って むつかしさに納得したような恰好です。それがなければ どのように むつかしいのかと首をひねっていたと思います。
 と言っても きちんと尋ねるかたちで 問いかけてもおられます。そして この問いかけにお答えするのも かなりむつかしいように感じています。

 まづ 一点 補足があります。イエスが死後に復活したとき 《おばけとして〔現われた〕》と表現したのは その前のアブラハムらについて 《神のお告げ》だとか《神がかり》だとかという言い方を して来ていたので その系統からでした。
 ただし これに primeapeさんは 反応されましたね。
 もう一度 まづ 《大霊界》とは 次の定義に従うのが いいのですね?
 ★ 「この世」とは「あの世」とつながる世界で、ニセモノの生であり、現実に誤解がある場合認識する心象です。 / 私は冗談混じりに、ここを大霊界と表現しています。
 ☆ つまり むしろ《この世》のことなのでしょうか? ま 要するに 《なぞ》があったり 《誤解》があったりするときに言うのでしょうね。
 ただ イエスの場合には 生前にすでに はっきりと何度も 弟子たちや世間に向けても 《死んだあと 三日すれば 復活する》と言っていましたので なぞではなく また 誤解でもなく むしろ 言っていたとおりだったということになります。(そして よく分かりませんが ブッダの場合とも違っているかも知れません)。
 ★ 脳内の宇宙観
 ☆ については まだ どういうふうに質問をすればよいかが 分かりかねています。
 ▲ (マタイ福音16:20~21)~~~~~~~~
 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。
 ▲(マタイ27:39~43)~~~~~~~~~~~
 〔イエスが十字架にはりつけにされたあと〕 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。
 「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というふうに たぶん イエスの場合は 《おばけ》ないし《大霊界》のあり方とは 違っているように思いますが どうでしょう? 

 * 詳しくは 人間としてのイエスと 神の子としてのキリストとが 同時に あって 簡単ではありません。イエスは あたかも泣きながら このような定めに自分があるというその盃を去らせたまえと 神に祈っています。キリストとしては ユダの裏切りに到るまで 分かっていたようです。はりつけになるのも すべて 分かっていたようです。望んで 死地に就いたとのことです。

 このイエスを離れれば 大霊界についておっしゃっていることは おおむね そのとおりに思います。つまり 一般に 名誉回復なり誤解を解くなりであるとか 自然治癒の力ですとか そういう課題が 死者にも生者にも まとわりついているとは思います。
 ★ brageloneさんは消滅たる「死」を宣告された霊体に対する感情移入が可能でしょうか。(有限の世界と言う幻想)
 ☆ 互いに対話を交わした人――架空の対話としてでも よいのですが そのように意思疎通を行なって よく知っている人―― この場合には 気持ちが分かることがあるかも知れません。とは思いました。あまり そういうふうに考えたことがありませんでした。

投稿日時 - 2008-11-02 00:24:35

お礼

 ★ 要するに私の場合、閉じていく世界を見守るだけで、手を差し伸べない、無意識的に由来する、強い衝動に対する抑制が働いています。
 ☆ わたしの場合には おそらく 理論として――出来るだけ 理論化して―― その気持ちを 代理して表現しようとするかも知れません。《手を差し伸べる》ことからは わたしも――と言っても 事と次第によると思いますが―― 下がっているかも知れません。《「死」を宣告された》というその事情と情況とが 問題になるとも考えますが。

 ★ 大霊界は愛は無償であると語っています。(係わりがない)
 ☆ うんぬんについては 次のご回答にて 応答させていただきます。

投稿日時 - 2008-11-02 00:26:26

ANo.6

わたしも、 前回の続編として回答します。

今、風邪で熱にうだされてる感じなので、知性は働いてないかもしれないですが、前回の記憶はあります。 (いろいろあって、このワーキングプアーの筆のペース遅くなってます。)

人間は人間となった時点でその存在は善と認めうるものか? といった質問が最後にされていたかと思います。  間違いでしたらすみません。

まず、善と言える意味が生じたのは人間以前には無いというのはそのまま事実だったと思います。

動物の行動や心理、感情は、すべて本能であり、「善」と呼べる意味は、そこに助け合いがあっても無かったはずです。   

やがて、悪が出てきて余計な「善」の強調(ともかく複雑な「善」の概念)の世界とかも出てきましたが、それは無しにしても、もともと人間は「善」なる存在だったということは言えます。(詳しい理屈は略します。)

というのは「自他を見つめる」脳となった時点で その意味と呼べる「善」の世界が宇宙に生じたのですから、 それは単に反省し、進歩できる能力を得たというだけではなくて、すでに人間を仲間という概念を越えて理解した状態を得たということになるんです。 脳がです。     

私たちの脳と言える その私たちの脳がです。(うまく言えてないでしょうか?)

私たちという 存在してるだけで仲間である存在同志として、言葉以前に私たちのその脳は認識し始め、 その時点で私たちは人間と呼べる存在として宇宙に誕生したということです。

でも、其の言葉が やがて文明を作ると同時に、心の乱れをも生み出してしまいます。(詳しく書こうとすると、右脳とか左脳とかの話ともなるところでしょうが)

また、ことへんが旧約のもう古い神話の中では知恵の木の実を食べたとなったりするのでしょうが、

その意味では、もともとは「善」だったわけです。 まさに尊い命と其の「意味」自体が最初から誕生していたのです。 

長くなってしまうと思いますので、これを現代のかくされた巨大悪のひとつである「薬漬け」と言えるような医学の世界における善と悪を描写して論じなおすならば、

もともとの生物の設定では、私たちの体は、風邪を引けば治す物質がすぐ今でも出てくるのですから(それが薬を飲めば直ちに其の物質は消滅します。) もともとはかなり人間も頑丈だったし、何よりも痛みにもっと強かったようなのです。   しかも寿命がくれば、苦しくなく衰弱してゆく状態でも今よりはるかに楽に死ねたところ、 今はなんで延命のもと薬の中で苦しむことが倫理の極の正しい行為とかされてるのでしょう、

うううひどいじゃないですか、、l、

でも、これ じゃあ神の責任じゃないというのは もし、神が私たちを創った絶対創造力の主とかいうのであれば、 実は自由意志もなにもすべて神だけの責任です。   自由意志ったって私たち人間は弱い状況に「状況」に置かれてますから。  つまり神こそ悪魔となってしまうのです。  地獄に落ちるのなら落とせです! 私は人間としてそういい続けます。

でも、ほんとうに苦しんでるのは人間ですが、同時に神でもあるじゃないですか?  これわかりますでしょうか?  神もまた絶対じゃないです。   相対そのものの中にいます。 たった今もです。 たった現在時もです。

私たちには、たしかに他人の苦しみは想像からの類推でしか解りません。ならば神こそ 今の苦しみのゼンタイでもあるというか、       人間そのものというか、     

すみません、あの神学の人たちって、意味を見つけたから神を見つけたのでしょ?  だったら言いたいこと解ると思うのですが、   神でも言いし存在でもいいですが、   叫びを知り怒りや涙と知るその良心が発見する世界ですよね。          ここでは理論は 私の方から詳しく書きたくないです。

終わりからはじめると言うことはその信仰からはじめるということですよね。

存在してるってなんてすごいんだという存在への畏敬、リスペクトから始めるということですよね。 それはおそらく存在を生きる過程で 其の発見とともに相互的総合的にそれは自覚され さらに其の上ではさらにさらに総合的な思索の中で深めてゆける世界、それが信仰なのだと思うのですが、

終わりからも 「今」からも、初めからも 同じ重みで今思索死闘い行動し思索しなおし、前に進んでいく人間の魂のありかたこそ、 信じることだということになりませんか?

それとも信仰とは その知の一地点のとどまることなのですか?

せっかく発見したその地点は そこに人を押し込めてしまうためのものですか?

キリストという 《神を当時にてすべて理解しきった上でさりげなくも たとえ話で語ったような人》は 知性も感性もたぶん普通の人じゃないです。  ひれ伏さざるえないような気持ちになってしまいます。  そういう人の役割の世界は、これも私の論じることのできるような世界じゃないです。

たしかにすごすぎますが、  結局彼の説いた教えは 愛でしょ。

愛に実際に生きるのが信仰と思います。

そして、それは、たった今この水のある星で息をしてる どう感じどのように考えてるからはわからない 人たちの苦悩や苦痛と、それでも それでもじつは存在の中には消えない「希望」の世界とに対応して、     動くこと、それが信仰からはじめることですよね。 思索し行動し思索し行動し動いてゆこと。  

むしろ、表現としては神などいないと言ったほうがいいのかもしれません。 人間的であろうと人間が努力するしかないのですから。 あるいは神はいるけれどもいないに等しいことを理解するべき時でなないのかということです。

あれ、なんかおかしいですね。 これは信じてるから言えるのでしょう。やっぱし、そうだとは思います。

でも 人間が人間的に動かなかったら「希望」も キリストの力強い言葉も消えてしまうじゃないですか?   

なんとかしなきゃ、今 今呼吸してる命に対して何かしなきゃ    問題群を解決していかなければ、 すこしでも何も出来なくてもそう行動していかなければ、     復活って 絶対やって来たりしませんから。 だって意味から生まれたのに それって意味ないですから。

はやく一刻もはやく、自分ももっと強くなりたいし、多くの人にも強くなって欲しいと思いますし、  キリストだってその祈りから彼の役割を果たした人ですよね。

愛ということ自体、自分は復活しなくてもいいからみんなが永久の安らかであって欲しいという心だと思います。   二律背反というのはここにも当てはまるのかもしれませんね。 (とある感性からのメッセージです。)

投稿日時 - 2008-11-01 20:38:33

補足

  arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 前編の前回 たとえば こういうお応えを返していました。
 ☆☆ (No.71お礼欄)・・・したがって 自然本性なる《わたし》に自己還帰すれば 浄福であり 復活につながる。という見解です。手放しの楽観論です。至高の能天気です。《ただ 霊の息吹きを受け取りなさい》というのみだというわけです。
 ☆ 《したがって》の前文 つまりこの文章の理由づけが 分からないかたちの引用ですが 最初のところでその点について 触れていただきました。つまり 《自然本性》なる存在は そのまま 《善》だと想定するといった内容のことです。
 そう考えるなら このわたしのコメントは そのまま 《現在時における復活》のことを 言おうとしていましたね。《手放しの楽観論》として。《至高の能天気》として。

 自分の田に水を引き過ぎてはいけませんが そのあたりの議論を その内奥から 基礎から 敷衍し 展開するかたちで 今回 ご回答をいただいたのではないかと思います。特に気持ちとして伝わって来ます。
 自由意志を与えたなら その自由意志によって 存在のしかるべきあり方から逸れてしまうという自由をも許容したのだから その神は 悪の元締めになるではないかとか。――あるいは そうは言っても そのような人間の・自己を頼み自己を誇示し自己の能力に溺れてゆく姿に ともに苦悩するのも 神であるとか。――あるいは その試練のような人生と社会的な共同生活の中で 思索を絶やさず思索し尽くし死闘を繰り広げる道に ほのかな希望をも見出しているはづだとか。・・・
 その基軸その起動力は 愛であるのではないか。
 愛をとおしてはたらく信仰という動態もあるはづだ。
 そこに 祈りも あるはづだ。
 かくして
 ★ 愛ということ自体、自分は復活しなくてもいいからみんなが永久の安らかであって欲しいという心だと思います。
 ☆ という結語に到る。・・・

 たぶん 表現の仕方としては わたしの場合 反対になってしまうと思います。わたしは自分が復活するかたちを生活において現わす。その道の原動力なる愛を愛してゆく。人については そのかれを かのじょを わたしは その自己の愛の 試練の道の上に・中に 見出している。・・・

 井戸端会議として このように応じさせていただきました。さらに展開を期します。

投稿日時 - 2008-11-01 22:12:21

ANo.5

>聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に 持って来て解釈しています。
質問内容を字句どおりに解釈します。
すなわち、《終わりの日》が現在 (2008年11月1日現在)起こっている(起こりつつある)かどうかの意味に解釈します。

危険思想と見ます。ですので、私はこういう思考をとりません。
これって、
1.《終わりの日》が(たとえば)2009/1/1と判っていれば、本日(2008/11/1)現在何をするか。
2.《終わりの日》がいつなのか判っていなければ、本日(2008/11/1)現在何をするか。
において、1.と割り切って行動様式を決めるということですよね?
 ※問題を一般化すれば上記のような解釈となります。
 ※※終末イコール現在という立場なら、こういう問題から逃げないでほしいな。
1.2.で、私ならどう行動するかはまるで異なります。
2.なら、犯罪行為をする気は無いし、1.なら、犯罪行為する気は大アリ。
 (「あの世」を信じていないと、ほとんど必然的にこうなります。)
なお、私が2.と解釈する理由(哲学的な理由。)
《終わりの日》までに何が起きるかは、「黙示録」に書かれているため。
つまり、ありとあらゆる天変地異が起こり現世に生き残るのは144000人。
2008年現在、どうみても人口は144000人より多いです。
このような事態は生じていないため、《終わりの日》は、それなりの未来の現象であり、
現在起こっている現象とはみなせない。

ですので、信仰(=キリスト教の信仰)から考えれば、
《終わりの日》が現在だというのは、キリスト教の教義に矛盾しているとしか言いようがないです。
「キリスト教以外の何か」を信じているのであれば、キリスト教の文献を引用して何かを主張するのは反則です。
もしくは、
・ヨハネ福音は信じてもヨハネ黙示録は信じない。
こういう可能性もありますが、それはそれで、こういう肝心な部分は質問文で明記してもらわないと....

結論。
《終わりの日》を 現在時に持ってくると 聖書と矛盾しまくりだし、
一般道徳に矛盾する行為を許容してしまうから、そういう立場を私ならとりません。

投稿日時 - 2008-11-01 09:26:08

補足

 お礼欄を書いたあと 補足します。

 アウグスティヌスに 《二重の復活》という議論があることを見出しました。《終わりの日》における復活とともに 《いま・ここ》における復活も その解釈において 明らかにしていました。
 ただし わたしのここでの質問趣旨は じつは――お礼欄での言い草とは違って―― 復活は 《いま・ここ》での現在過程におけるものだけを言おうとしていました。なぜなら そうでなければ 《終わりから始める》ことにならないからです。一重の復活しか考えていませんでした。
 このような情況を踏まえて あらためて ご回答をお寄せいただければ ありがたいです。みなさんにも お伝えし お願いいたします。

 アウグスティヌスの文章を引きます。
 ▲ ~~~(『ヨハネによる福音書講解説教』 第25〔・19〕 金子晴勇訳)~~~~~~~~~~
 見たまえ ここにあの二重の復活についてイエスがどのように描写しているかを。
 《わたしのもとに来ている者》はわたしの肢体の内にあって謙虚にされ すぐにも復活する。しかし 肉によれば 《終わりの日に彼を復活させるであろう》。《わたしをお遣わしになった父の御心は 子を見て信じる者が皆 永遠の命を得ることである。わたしはその人を終わりの日に復活させるであろう》(6:40)。
 イエスは前に《わたしのことばを聞いて わたしをお遣わしなったかたを信じる者》(5:24)と言っていたが 今は《子を信じる者》と言う。彼は子を見て父を信じるとは言っていない。なぜなら 子を信じることは父を信じることと同じであるから。
 そのわけは 《父はご自身の内に命をもっておられるように 子にも自分の内に命をもつようにしてくださった》(5:26)からであり それは《子を見て信じる者が皆 永遠の命を得るためである》。
 これは 例の最初の復活のように 信じて命に移り行くことにより生じている。しかし これだけが復活ではないので イエスは言いたもう 《そして終わりの日にわたしは彼を復活させるであろう》と。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2008-11-01 14:30:58

お礼

 masa2211さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 信仰(=キリスト教の信仰)から考えれば、 /  《終わりの日》が現在だというのは、キリスト教の教義に矛盾しているとしか言いようがないです。
 ☆ まったく このようには考えませんでした。浅はかなのかも知れませんが 要するに 考えたことは
 △ 《終わりの日》が この現在にやって来ている。
 ☆ のではなく そうではなく
 ○ 《〈終わりの日〉に復活させられる》ことが すでに 現在 イエスの復活のあとという時点から 始まっている。
 ☆ という意味です。《終わりの日》自体にかんする事柄は 問わないというかたちにしています。そういう観想のあり方です。

 ○ 現在時における《復活》について
 ☆ おしえを乞うています。いかがでしょうか?
 ○ 復活とは どういう事態か?
 ☆ こういう問いに対する答えとしても おしえて欲しいと思います。
 また 前編の《QNo.4367998 :復活とは? 不死の境地とは? http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4367998.html》において
 ○ 永遠の生命とは何か?
 ☆ について いくつかの回答を寄せていただいています。これらを総合して 復活にかんして ご見解を寄せていただければさいわいです。
 もし 復活は 《終わりの日》と切り放しては 捉えることが出来ないというご見解でしたら そのようなご回答として 受け取らせていただきたいと思います。この場合には わたしとしましては 《文字は殺し 霊は生かす》という聖句が ひっかかっています。異言のままではなくて 預言する つまり 解釈をしたほうがよいと 考えていますので この設問のような方向を思ったのでした。このような事情になると思いますが いかがでしょうか?

投稿日時 - 2008-11-01 10:51:48

オコリザルです。
A3のご返答と言うか反応を読んで了解可能でした。
今回はbrageloneさんと論議がかみ合っているのを感じます。
私が今までに、無意識を語るのに終始した心の奥底について、brageloneさんは自らの信仰心の自己主張ではなく普遍的な神話で答えています。
この面ですり合わせが出来たと言いますか、了解できました。
「復活」の、神話といいますか物語について教えてください。

投稿日時 - 2008-11-01 00:35:30

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。
 《原罪》の問題にかかわっていたということで よろしいのですね。

 聖書の物語は 《存在》の思想だと考えます。存在が存在であるための信仰でもあります。最終的に 《復活》に行き着くのだと思います。

 その昔 アブラハムという人は もう七十歳を過ぎているのに 《その父祖の土地を離れ去って 行け》という声(お告げ?)を聞いたそうです。じゃあ どこへかとも定まらないまま これに従ったそうです。たいていは 《神がかり》と見なすでしょうね。
 次に この《神がかり》が 昂じてと言いますか 或る人は――仮りにダヰ゛デとしますが ダヰ゛デは―― こう表現したと言います。つまり その神が言うには 《きょう わたしは おまえを生んだ》というのだそうです。自然の誕生のことではないらしい。そのダヰ゛デは 《〈なぞの何ものか〉によって その日 わたしは生まれた》と表現するような体験を持ったということらしい。

 目覚めたというようなことでしょうか。このような自己表現をつうじて どうやら 《存在》論を 世代を超えて 展開しているようなのです。

 さらに イザヤという別の人が 神がかりに遭います。つまり《存在せしめるものの霊が わたしに臨んだ》とまで表現しました。そして 社会的な弱者を 自分のこととして 受け取ったのでしょう こう表現します。

   主はわたしに油を注ぎ
   主なる神の霊がわたしをとらえた。
   わたしを遣わして
   貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
   打ち砕かれたを包み
   捕らわれ人には自由を
   つながれている人には解放を告知させるために。
    (『イザヤ書』61:1)

 さらに時は飛んで イエスの話になります。かれが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り これらアブラハムやダヰ゛デの詩編やイザヤを書いた書物を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。

   すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い
  てある箇所が目に留まった。

    《主の霊がわたしの上におられる。
     貧しい人に福音を告げ知らせるために
     主がわたしに油をわたしに注がれたからである。
     主がわたしを遣わされたのは 
     捕らわれている人に解放を
     目の見えない人に視力の回復を告げ
     圧迫されている人を自由にし
     主の恵みの年を告げるためである。》
    (=つまり『イザヤ書』61:1-2)

   イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人
  びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 
     ――この書物のことばは 今日 耳を傾けているあなたたち
      に実現した。
  と話し始めた。
     (ルカ4:17-21)

という《存在》をめぐる歴史物語です。つまり 自己到来としての存在の誕生が めぐりめぐって 社会的に 先に目覚めた人が お節介を焼くというところまで来たようです。
 ただし イエスの時に到って 物語は一筋縄では行かなくなりました。No.2のkigurumi さんへのお応えにも書きましたように イエスは 一たん すべての人びとから見放されるという経過をたどります。完全に見捨てられたあと 《〈おばけ〉として 弟子たちを初めとして 人びとに 現われた》というわけです。
 これを解説して パウロという人は こう書きました。

 ▲ (コリント前書15:51~56)~~~~~~~~
 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。
 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。
 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

   死は勝利にのみ込まれた。
   死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
   死よ、お前のとげはどこにあるのか。
   (イザヤ書 25:8〔意訳〕)

 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とげが抜かれ 原罪が克服されたからには このいま・ここで 復活は実現するのではないか。というのが この質問趣旨です。
 ちなみに 《律法》とは すべての倫理規範のことです。墓だけを立派に きれいにしているその心だと思います。

投稿日時 - 2008-11-01 07:29:06

お礼

 訂正です。
 中ほど イザヤのくだりで
   ・・・
   貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
   打ち砕かれた ≫ 心 ≪を包み
   捕らわれ人には自由を
   ・・・
   (『イザヤ書』61:1)

というように 《心》を抜かしました。失礼しました。

投稿日時 - 2008-11-01 23:19:16

オコリザルです。
今回のご質問には問題意識を感じる点や克服する課題がないので発言しにくさを感じます。
脱線にならないようにとっつきを増やそうかと思います。

罪の意識の見地に立てば、許されることが終末です。
それはさておき、

>《終わりから始める》
これに思い当たることがありました。
心の中で繰り広げたチキンレースです。
マイナス感情を王様に仕立てて徹底的に服従してみる。
そんな危険な試行錯誤です。
かつての鬼神の言葉にそんな記憶がありました。

>《もはや共感の必要のないほどに すでに〈終わりから始める〉ところの思考と生活とを実践する段階に入った》
これに関しては(過ち又は試行錯誤を)「繰り返すことをやめる」そんな終末の予感を感じます。
静かな時間をすごすという意味ならば実感しています。
そしてまだ何も始めない。

ですから私は(人類的な)将来や未来について語るのが苦手です。
なんといいますか現在進行形の静かな時間から未来を展望することをしないんです。

話題を変えて、この辺は個人的な悩み相談室なんですが、
日常の人間関係において危険な考えに基づく言動を他者に発見することがあります。
その場合、悪だ罪だと答えるのではなく、ひたすらに何も答えない、従わない、そのような行いをとるしか無く、その人の本質的で、陽性の自らの行いの意味を知る「答え」を、その人自身が気が付くまで待つ中で、べったりとした依存心を持ちかけられて身動きが取れなくもあります。

投稿日時 - 2008-10-31 22:26:38

補足

 primeapeさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 今回は むつかしい感じです。
 ★ 今回のご質問には問題意識を感じる点や克服する課題がないので発言しにくさを感じます。
 ☆ ここです。ここに むつかしさを感じました。
 たとえば アダムとエワとが そもそもの人間存在のあり方を その基本的な自由ゆえに 別のあり方へと持って行こうとしたその自由 つまり いわゆる原罪ですね。そのように 原罪を提出して そのあと この罪を贖(あがな)うという方程式になっています。いました。
 たとえば 無明(煩悩)を提出して そのあと それの消滅(涅槃)を説くやり方。
 こういう方程式を primeapeさんは 嫌っておられる(と言いますか 基本的に 否定しておられる)のだと思いますが 原罪のほうは もうすっかり 消えてしまったわけです。あざか そばかす程度には 残っているかも知れませんが とげは すでに抜かれて あとは 患部の癒えるのを 待てばよいことになっています。

 だったら 復活は すでに 成就しているではないか。というよりも わざわざ 現在過程としての復活というような主題を 持ち出してくることが おかしい。こういう見方をしておられるのでしょうか?

 ううーん。たぶん――わたしは 後ろ向きに前へ進むあゆみをしておりますので―― そういう力強い新しい生き方も この二千年を経て やっと 出来るようになったのではないか。こうも考えます。自分独りにおいて 満ち足りているのでないとすれば です。
 ★ 静かな時間をすごすという意味ならば実感しています。 / そしてまだ何も始めない。
 ☆ これに対して わたくしの場合には とげを抜く仕事に 二十年三十年とたずさわって来て やっと あたらしい作業を始めた段階です。あたらしい作業 それは 何もしないたたかい です。それが 井戸端会議です。
 というふうに応答してくると 動きが 互いに 錯綜しているようでもあるのですが どうなんでしょうかねぇ。そこが むつかしいと感じたところです。まだ 先が見えません。

 悩みだそうですが。
 ★ 日常の人間関係において危険な考えに基づく言動を他者に発見することがあります。
 ☆ この場合というのは わたしの反応は 決まっています。信頼関係を築くのが 第一。築けたなら ただちに その危険な思想を 中身を説明しうるまでに分析しつつ それを表現して 指摘することをします。そういうふうに《待つ》姿勢を採っています。
 必ずしも 信頼関係を築けるものではないようですが。つまり その場合には 相手は 去って行くはづです。
 ★ べったりとした依存心を持ちかけられて身動きが取れなくもあります。
 ☆ ここまで待たなくともよいと考えます。言いかえると 柔軟で自由な思想を回復しそうにないと見えても そこに信頼を寄せていても いいと考えます。ということは 依存心が強くて ひどいとなれば それに対して こちらが ひどいと感じているというその態度を見せてもよいと考えます。つまり 自然本性を回復しうるという信頼を寄せていてもいいのだと考えます。どうでしょうか。

投稿日時 - 2008-10-31 23:03:53

ANo.2

brageloneさん がんばってますね。


以前、「イエスは何ひとつ新しいことを言ってはいないんじゃないか」と思ったことがあるんですね。

それでネットで神学者かな?と思えた人に、その疑問をぶつけてみました。

答えは「その通り、何も新しいことは言っていない」でした。


ラビ文学者は今でいえば哲学者なわけで、彼らは多くの作品を残したわけです。
それは現在旧約聖書にも残っている。

この分野の特徴は、自分の思想を表す時に、自分を主人公にせず、英雄とされた人たちを主人公にした物語を書いた。

例えば、モーセとかダビデとか。
だから、モーセやダビデの話がたくさんあるわけです。

ラビ文学は盛んになったわけですが、後に旧約聖書を作るとき、困った問題が発生した。
どれがモーセやダビデが本当にやったことなのか、哲学者の思想であり史実ではないのかわからなくなった。

で、これは史実だろう と思えたものを旧約聖書に入れたらしい。


新約聖書もそうですよね。
200くらいあった福音書から、4つだけを史実だろうと思って新約聖書に入れた。


で、

>わたしがその生命のパンである。

イエスはベツレヘムで生まれたとなっていますが、ベツレヘムはヘブライ語でパンの家。
すなわち パンの家=おとめ座(処女宮)のことです。

イエスがたくさんの人をパンと2匹の魚で養ったという記述がありますよね。
2匹の魚は魚座のこと。
うお座のシンボルは2匹の魚ですが、この星座を見た古代の人が、視覚的に2匹の魚としたからですよね。

で、キリスト教は初期の頃、十字架じゃなく魚をシンボルとしていたと聞いたことがあるでしょう。
何故だか考えたことありません?
紀元前0から魚座の時代に入るから。
西暦2150年までは魚座の時代ってわけです。
どうして?
だって地球の地軸が、魚座の方向を向いているから。
物理的な問題なわけですね。
古代の天文学者 すごいですね。
こんなこと知っていたんだから。



>しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ているのに 信じない。

前にも、確かに旧約聖書にそう書いてありますね。

疑い深いトマスを思い浮かべます。
トマスは他の神話では、、、、忘れました。すいません。
とにかく、他の神話の人物が取り込まれ、その名前をラテン語かなにかにすると、<トマス>となるそうです。
元ネタのその人物が疑う特徴を持っていたことから、聖書では疑う深いトマスとして採用されたってわけですね。


>《終わりの日》に復活させることである。

AEON ラテン語だと永遠という意味だそうです。



ルカ22章10節
イエスが使徒に「次の過ぎ越しはいつか」と聞かれこう答えている。
「あなたたちが町に入れば、水がめをかついだ男が見えるでしょう。その男についていき、彼の家に入りなさい」

みずがめ座は、男が水がめを担いでいるのがシンボル。
これも古代の人が視覚的にそう見えるとして決めたこと。

魚座の時代は2150年頃までで、地球の地軸は次にみずがめ座の方角を向くから。
物理的なもんなんですね。
地球の歳差運動の結果 こうなるんです。

したがって、イエス(天文学者? 作家)は、この世の終わり とは言っていない。

モーセの時代はおうし座からおひつじ座に変わった時代であり、だから、モーセは牛の偶像を破壊したというエピソードになったわけです。
おうし座からおひつじ座に変わったからといって、この世は滅びなかったでしょ?
おひつじ座から魚座の時代に変わったときも、この世は滅ばなかったでしょ?


なんで、この世の終わりと人々が思ったのか?
マタイ28章20節。
イエスは言った。「この世の終わりまで、あなたがたと共にいます。」
原文はAEON。
ラテン語だと永遠だそうですが、もともとは<時代>という意味だそうです。


「私は魚座の終わりの時代までは、あなたがたと共にいます」

そう イエスは魚座の時代の象徴であり、みずがめ座の時代になるまではいられるが、みずがめ座の時代になったら、去らなければならない。

「いーや 留まる!」ってなると、地球の動きを止めることになり、地球環境が劇的に変わって、本当に地球がほろんじゃうかもしれない。
だから、止めずに素直に座を明け渡し去るのがよろしい。


まあ 要するに、この世の終わり ではなく、「魚座の時代が終わるまではいますよ」って意味。


で、終わりの時代に復活させるという概念が、どこから来たのかはまだわかっていません。


イエスは西暦2150年には去るわけですが、また戻ってきますよ。
一周するのに25,765年かかるから。


地球がその頃滅んでいたら、地球から観察する人はおらず、「魚座の時代がまた来た」と思う人もいないわけで。
ましては北半球からみた星座であり、南半球だとそうはならない。



将来科学が発達して、土に戻った人が、DNAから再び人間になるか というと、、、
仮にジュラシックパークのようにDNAから再び誕生させる技術が開発されたとしても、もう別人格だと思うんですね。

例えば一卵性双生児。
二人はまったく同じ遺伝子を持っていますが、別人ですよね?


最後の審判という概念はエジプトから来てると思います。
10戒に書かれていることは、すべてエジプトの死者の書に書かれていること。

死者の書では、人は死ぬと40以上のことに違反しなかったと証言しなければならない。(そのうちの10が、10戒としてイスラエル人が保持することになった)

マアトは「法」「真理」「正義」を司る神とされた。
マアトの天秤に心臓が乗せられ、もう片方にマアトの羽が置かれ裁かれるわけです。

で、マアトの羽より重かったら、ワニに食われる。

『エジプト神話において、人間は肉体、バー(Ba,云わば魂)、カー(Ka,云わば魄)の3つの要素から成り立っていた。
人が死ぬとバーは肉体から離れ冥界へ行くが、肉体がそのままであればカーがバーと肉体の仲立ちをして再び此岸に戻ってくることができるとされた。そのため肉体の保存が必要となり、ミイラ作りが盛んに行われた。』


エジプト宗教がギリシャ方面に影響を与え、ユダヤ教の概念に、エジプト宗教をミックスし、キリスト教のあの概念ができあがったってことですね。

で、ラー 復活したでしょうか?
グレートイヤーで、またその星座の方角に地球が向いたとしても、復活しそうもないですね。

DNAが同じでも、いろいろな要素がその人に影響を与え、人格を形成していく。
確かに一卵性双生児を比べると、身長などは同じになる。
病気も一卵性双生児の方が、兄弟に比べて、発症率が高いことはわかっている。

だけど、性格を詳細に調べると、DNAが大きく性格に影響を与えていないことがわかった。

別人格ですよね。
別人格なら、自分が復活した(取り戻した)と感じることは無いんじゃないかと。

アイランドって映画があり、クローンは元の人間のために培養され、飼育されていて、元の人間がクローンの臓器を取り、永遠に生きようとしたことに対して、クローンは「そうですか」と臓器の提供をし、死ぬことを承諾するかというと、逃げまくりましたよね。

クローンであっても一人の人間。
ひとつの個性なわけです。

過程で、DNAから復活したとしても、記憶が無ければ、再生したから前の人生の続きをやりなさい って言われても、、、、、
言語から習得して、集団内の考え方とか掟とか習得しなおさないといけないじゃないですか。

これは再生したというより、別の人が生まれたとし、前の人生はキリスト教だったから、キリスト教をやるかというと、別の宗教にはまるかもしれないじゃないですか。

第一、キリスト教は魚座の時代であり、この法則でいけば、イエスは新しいヒーローに破壊されねばならず、キリスト教徒は、新しい主とともにみずがめ座時代に共に入っていき、新しい宗教をすることになるわけですから。

投稿日時 - 2008-10-31 10:50:44

補足

 親愛なる kigurumi さん ご回答をありがとうございます。
 ただ 惜しむらくは 見解が互いに あまりにも ちがっているということですね。

 イエスは 聖書の登場人物の中でさえも まったく特別なひとであるわけです。アブラハムやモーセやダヰ゛デその他その他から かけ離れています。
 今回は いつものような 実在の人物ではないというご主張ではなく 想定としてだけでも そしてまた 一定の期間としてでも イエスの力が 人類史上に はたらくという物語にもとづいてのご投稿です。
 その特異な事柄は 弟子たちからも裏切られ 人びとすべてから見放されたという点にあります。

 ▲ (ペテロ第一書簡2:4~8)~~~~~~~~~~~
 主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。
 聖書にこう書いてあるからです。

    見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。
    これを信じる者は、決して失望することはない。
    (イザヤ書28:16)

 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、

    家を建てる者の捨てた石、
    これが隅の親石となった
    (詩編118:22)

のであり、 また、

    つまずきの石、妨げの岩
    (イザヤ書8:14)

なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまづくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 最後の一節 すなわち 《そうなるように以前から定められているのです》というような言い方は あとからそう言えるとしても ずるいやり方であるように思います。
 とは言うものの 《つまづいた人 / つまづかなかった人》 それぞれいるでしょうが イエスが 官憲に捕らえられ はりつけの刑に処せられるに際しては ペテロをはじめとして 弟子たち皆が 背きました。 
 喩えとして 石工たちが 家の土台のための隅の親石に これはだめだ・使えないと言って 選ばなかった石・そして人びとも こぞって捨てた石 その石が じつは かなめ石だったという存在論上の変容 つまり あたかも蛹から蝶へと変態するかのような人間存在としての復活 これが ほかの人物の場合とはちがって イエスの場合には 人類全体にとって 起こったのだと考えます。
 そして もうこのイエス一人で じゅうぶんでしょう。
 ですから たとえば DNAがどうだこうだで《生まれ変わること》と いまここでの《復活》とは 似ても似つかない主題になっていると考えるのですが いかがでしょう。イエスのあとは ひとりの犠牲も要らないというのが ここでの見方です。二千年のあとにですが それを問うております。

 * 補足欄とお礼欄とは 字数の多寡によって 使い分けています。いづれも 感謝しつつ ご返答申し上げます。

投稿日時 - 2008-10-31 13:16:52

お久しぶりです。
primeapeことポケモンのオコリザルです。
信仰については門外漢ですが思うところがありました。

> わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命を受
   け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだからで
   ある。

SF的にですが、人類が受け取るのは神からの承認ではなく、生命体としての全宇宙からの祝福と解釈しています。

>永遠の生命を受け(復活する)

これは、死なないことや、不老長寿を表しているのではなくて、永遠を理解して自らの存在の本質に触れることなんだろうと思います。
もしかしてこの2000年の間ずっとそうであったように、いつか果たされる予言や約束の類でなく、現在も進行中の事柄なんだろうと思います。(誰もが当事者)

このところ、私は「罪」もまた「悪」と同じく概念であり、実体のないファンタジーであることを知りました。これらは個人として(世の中というよりは)世界とのかかわりの中で生まれる解釈で、実体のない空論です。犬が欲望に翻弄される様を見たことがありますから、別に人間だけが持ち合わせているものではないようです。そのような意味でも自然界から離れて文明を築きあげた人間は無罪です。むしろ霊長として地球を救いつつあります。
罪の問題が解決したので、
>《終わりから始める》
これが共感不能です。
ほんの2~3日前ならケンケンガクガクの話題を振りまいたりもしたのでしょうが、もはや取っ掛かりがありません。

投稿日時 - 2008-10-31 01:26:47

補足

 primeapeさん しばらくですね。ご回答をありがとうございます。

 今回は 《現在 日常に生きているわたしたちのすがた》に 焦点をしぼっております。どうぞよろしくご教示ください。
 げんみつに できるだけ理論として捉えることができるように進めたいとも考えます。

 ★ SF的にですが、人類が受け取るのは神からの承認ではなく、生命体としての全宇宙からの祝福と解釈しています。
 ☆ ここで 《げんみつ》を期そうとおもえば こうなるでしょう。
 ★ 神からの承認 あるいは 生命体としての全宇宙からの祝福
 ☆ これらは いづれも 修辞学ないし文学の問題です。想定ないし飾りとしてのことばです。あるいは と言うよりも 
 ★ 神からの承認
 ☆ は 《神は神である》と想定したとき いの一番に ひとは 受けています。それ以外に 存在のあり方は ありません。(げんみつであろうとしていますでしょう?) そのことを いささか現代風にかつ文学的に表現すれば
 ★ 生命体としての全宇宙からの祝福
 ☆ となります。

 そこで その《祝福》の内容にかんしてです。あたかもただ自然に生まれ いくばくかの時を経て 朽ちてゆく人生の中にも 何がしかの栄光を著わしたか または その栄誉に参加しつつ浴したか そのような光としての祝福のほかに つまり あらためてまとめて言えば ひとの知恵の展開過程なる歴史を享受し得たという栄光のほかに さらにかがやく光を浴びることが出来るのか これです。
 神からの承認とその祝福は どこまで ひとにおよび得るのか これです。《栄光から栄光へ》とも言われていますから。
 〔 ▲ (コリント後書3:18) わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。〕

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 これは、死なないことや、不老長寿を表しているのではなくて、永遠を理解して自らの存在の本質に触れることなんだろうと思います。
 もしかしてこの2000年の間ずっとそうであったように、いつか果たされる予言や約束の類でなく、現在も進行中の事柄なんだろうと思います。(誰もが当事者)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 観想からのことばの表出として得られたのだと お受け取りします。また わたくしの解釈の方向を うべなってくださる結果となっています。
 一般に 観想(テオーリア)が 理論(テオリ)になるわけですが さらに理論化を問い求めていきたい こう思います。《現在進行形》でまいりたいと思うのですが どうぞおつきあいください。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 このところ、私は「罪」もまた「悪」と同じく概念であり、実体のないファンタジーであることを知りました。これらは個人として(世の中というよりは)世界とのかかわりの中で生まれる解釈で、実体のない空論です。犬が欲望に翻弄される様を見たことがありますから、別に人間だけが持ち合わせているものではないようです。そのような意味でも自然界から離れて文明を築きあげた人間は無罪です。むしろ霊長として地球を救いつつあります。
 罪の問題が解決したので、
>《終わりから始める》
これが共感不能です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 同感します。とともに 世間一般の議論としても また できれば 理論としても この内容をさらにわかりやすい言葉で表現し 互いに吟味していきたい こう念願するところです。第一回答として 糸口をつけていただいたのだと思います。
 《共感不能》というよりは 《もはや共感の必要のないほどに すでに〈終わりから始める〉ところの思考と生活とを実践する段階に入った》とおっしゃっていると理解しましたが いかがでしょうか?
 じっさい その趣旨を基調とした井戸端会議を推し進めていけるなら
 ★ 罪の問題も解決して われわれは 地球を救いつつあります。
 ☆ と言えるのではないかと考えます。たしかにわたしたちは 悪の問題や罪の問題に振り回されてもいましたから。――まえから言っておりますが とげが抜かれたのと その患部が癒えていくのとは 別だとも見なければならないとは思いますが。
 
 かくしてまたおしえを乞い始めましたので よろしくどうぞお願いいたします。

投稿日時 - 2008-10-31 08:45:58

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