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締切り済みの質問

吉本隆明の思想について

 次の文章(発言)の解明をとおして おしえてください。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 レーニンが究極的に考えたことは 少なくとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり それは過渡的な形であって ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。
 それはあまり政治なんかに関心のない 自分が日常生活をしているというか そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に 移行すればいいんじゃないか というところまでは考えていると思います。・・・

 では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで〔政治=まつりごととしての秘儀 つまりまたは 社稷というべき国家神道における〕秘儀をあばけば全部終わるじゃないかということに対しても 思想的なといいますか 理論的なといいますか 対症療法として考えたわけですよ。・・・

 レーニンが究極的に ポリバケツをもった ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に 究極に描いたユートピアというものは ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは 江藤さんの言い方で言えば そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか ということを ほんとうは求めたということです。

 つまり すべてが終わったのちに 人間はどうなるんだとか 人間はどうやって生きていくんだということについては 明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また そういうビジョンは不可能だと思います。
 だけれどもすべてが終わったということは そういう言葉づかいをしているんですけれども 人間の歴史は 前史を完全に終わったということだと言っているわけです。
 これは ある意味では江藤さんの言葉で 人間は滅びる というふうに言ってもいいと思います。なぜならば それからあとのビジョンは作り得ないし また描き得ないわけですから。
 だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを 前史が終わる というふうな言い方で言っています。前史が終わって こんどは本史がはじまるというように 楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども そうすれば前史は終わるんだということです。

 まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると 全体でなくなるまでは いつも過渡期です。だから どこかに権力が集まったり どこかにまやかしが集まったり どこかに対立が集まったりすることは止むを得ない。止むを得ないけれども それに対しては最大限の防衛措置というものはできる。そうしておけばいい。しかし そうしながらも究極に描き得るのは 人類の前史が終わるということです。

 あるいは江藤さん的に言えば いま僕らが考えている人間は終わる ということです。それから先は 描いたら空想ですから 描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは 超一流のイデオローグは やっぱり言い切っていると思います。・・・ 
(江藤淳との対談:文学と思想――『文芸』1966・1)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 論点は 次の二点です。
 (あ) 《共同自治の責任者(現在の首相)は 当番制がいい》でよいか。
 ――これには おそらく 現在の二階建て構造を たとえ二層構成のままにしておいたとしても 第一階(A)=市民社会が 主導権を握り 第二階(B)を指導し活用していかなければならないでしょう。しかも これを世界史的に 実現していく必要がある。
 なお 共産主義が 暴力革命を経るのだとすれば 論外とします。

 (い) 《人は 社会的な支配関係を終えれば 〈復活〉するか》。
 ――つまり 《〈ひと〉は〈前史〉を終えると どうなるか》。たとえば 突然変異を起こして 新しい人類が生まれる?

 以上よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2008-11-08 15:37:21

QNo.4462818

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回答(25)

ANo.25

こんばんは、brageloneさん。

午後から大学(母校)へ行って来ました、野暮用で。
行ったついでに構内の図書館へ足のばし、しばし、閲覧。
なにみてきたかって?
うん、藤田嗣治の『猫と女とモンパルナス』と他数冊。
画集さがしてたんだけど、思いのほかなくて…

「藤田嗣治は“黒”をみつけた…云々」とあったもんだから

なんかーなー?、と、蔵書をちょこっとあたってみようかと

まえに、スタンダールの『パルムの僧院』を読んでたせいもあって

“黒”といえばスタンダール作品『赤と黒』がふいっと浮かぶ

パリ、なんで人がこの街に集うんだろう?

《抒情詩の世界を書いた作品の中に 自分を 浸らせる読者》

藤田にしてもスタンダールにしてもパリにその身を浸らせている…

フランス…移民…移民統合…

《世界を消してしまう》って?

人と人が溶け合ってしまうと…だれがだれかわからなくなる?

【フランスの移民統合モデルは有効か】
http://www.diplo.jp/articles02/0201-3.html

●生死や人格がかかっている問題をめぐっては
《角をためて牛を殺》しても いいのではないでしょうか。

◆闘牛あれこれ【雑学編】◆ 
http://fish.miracle.ne.jp/mou-mou/zatsugak/zatsugak.html

【もんきりあそび】
http://www.yma-p.jp/blog/item/228
【モディリアーニと妻ジャンヌの物語展】
http://www.yma-p.jp/archive/modigliani/top.html
【「モンパルナス交友録」】07.11.30
http://www.yma-p.jp/archive/modigliani/montparnasse/index.html
【モディリアーニ 1884-1920】
http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/book/164.html
【藤田嗣治(レオナール・フジタ)1886-1968】
http://www2.plala.or.jp/Donna/foujita.htm

投稿日時 - 2008-12-10 00:57:37

ANo.24

こんばんは、brageloneさん。



************************************************************************

さらにきびしい議論をもって 迫りましょう。
 ● (江藤淳)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・われわれの周囲にある政治理論は たいてい抒情だと思う。つまり世界認識ではなくて 自分の中にある個人的な抒情の欲求のプロジェクション(投影)にすぎないものが多いように思う。
 しかし 自分が世界に投影されると同時に 世界の投影が自分を規定するというのが実際の姿でしょう。
 抒情からは この相関関係がぬけおちている。詩(つまり 抒情)は 世界を消すものですからね。抒情詩は世界を消してしまう。
ところが 実際には 世界を消してしまうことだけをやっているのに 世界になにか寄与していると思いこんでいる人々が多いのです。
 そのへんのところは 直感的にしか申し上げられないけれども そう感じます。
 (吉本隆明との対談・文学と思想)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 日本の論壇に対する手厳しい批判になっていると思います。日本人の哲学に対する態度も この《抒情詩》のようなものが 多いのではないでしょうか。

************************************************************************

(^o^)/ほーい。

ほんじゃ、虫めがねを手にもってみていきましょうか。

と、いっても老眼じゃないですからね。

(@@)パッチリ-☆

「おばあさんの おめめは どうして そんなに おおきいの?」

「お前をよーく見るためだよ」

「おばあさんの おみみは どうして そんなに おおきいの?」

「お前の声をよーく聞くためだよ」

「おばあさんの おくちは どうして そんなに おおきいの?」

「お前を食べるためだ!!」   ちょっと ちょっと ヾ(-_- )

(*^^*)>゛゛゛だは

●さらにきびしい議論をもって 迫りましょう。


と、あったので迫ってみました。これじゃだめ?

うーん、困った。

なんだろうなぁー?

《相関関係がぬけおちている。》って…

―― ちょこっと回想 ――

【QNo.3417579 三身常住は 三位一体とどう違うでしょう】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3417579.html

ANo.19への《この回答への補足》より
   We live in different worlds, you and I.
   Try what means you will.
   We cannot meet, you and I.
   You live in your world and are happy;
   I in mine and am contended.
   Then let us understand better
   Not to interfere with each other's lot.
   We break an ox's horn by bending it;
   We are not meant to be broken like that !
               ( April 1904 )


ANo.22より
私たちは お互いに 違う 世界に 住んでいる。あらゆる 方法で 試して みよう。 でも 私たちは お互い 会うことが できない。君は 君の世界で 生きていて 幸せを 感じている。私も 自分の世界に 生きていて 満足している。それなら もっと お互いを 理解 し合おうじゃ ないか。干渉 すること なく。私たちは 雄牛の角を まげて 壊す。しかし 私たちは そんな風に 壊されたりは しない だろう。




【神戸文学館のすべて】
http://www.geocities.jp/miyamoto_tadao/
【神戸ゆかりの文学者】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E9%A4%A8
【横溝正史】
http://www.yokomizo.to/library/kkbook5.htm
http://www.yokomizo.to/
【「名探偵・名刑事」あれこれ】
http://blog.goo.ne.jp/sakura707_2006/e/17415494215b1f48041737ae3412b908

【Chemical Dynamics 化学反応動力学(化学反応ダイナミクス)】
http://www.riken.jp/chemdyn/research/research2.html

投稿日時 - 2008-12-05 21:34:52

お礼

 littlekissさん こんばんは。ご機嫌いかがですか。ご回答をありがとうございます。

 さらに迫ってまいりましょう。
 道端に横になっていた酔っ払い(?)の人を助けようとしたlittlekissさんは うつくしい人です。
 お風呂を毎日 家人に 入るように勧めたお滝さんを紹介するlittlekissさんは うつくしいです。
 北野武のえげつない思想を超えて ほかの人びとの心を気遣うlittlekissさんは きれいな心の美しい人です。
 サリン事件を起こしても オウム真理教を擁護する(その非を指摘するのを避ける)中沢新一をかばうような振る舞いをするlittlekissさんは 心の美しくないうつくしい人です。
 
 このような《干渉》です。
 ▲ 抒情詩は世界を消してしまう。
 ☆ そのような抒情詩の世界を書いた作品の中に 自分を 浸らせる読者も 《世界を消してしまう》ような趣味の人になるのではないでしょうか。(かなり 論証抜きに 断定していますが)。
 生死や人格がかかっている問題をめぐっては 《角をためて牛を殺》しても いいのではないでしょうか。

投稿日時 - 2008-12-05 21:56:33

ANo.23

こんばんは、brageloneさん。

『 Diamonds 』
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND2899/index.html
プレゼントの山 埋もれもがいても まだ死ぬわけにいかない
欲張りなのは生まれつき パーティーはこれから

耳で溶けて流れ込む 媚薬たちを閉じ込めろ
コインなんかじゃ売れない 愛をくれてもあげない
ベルトをしめて プロペラまわし 大地を蹴って 飛び上がるぞ!

(*^^*)>゛゛゛(Gがかかります)BGM

“ G って何ですか? ”
http://homepage2.nifty.com/eman/dynamics/aboutg.html
http://www2.odn.ne.jp/~cbm15900/html/n14.html


「おいこみかけます!」と、いったからとて…

こんな特訓って…あり???オニー!オニー!鬼コーチ!!!“なまはげ”

「泣ぐコはいねがー」「泣ぐコはいねがー」「泣ぐコはいねがー」

(((((ブルブルブル)))))(((((ブルブルブル)))))(((((ブルブルブル)))))

怠けちゃいません キッパリ-☆

ほだから、カミナリは落としちゃ、やーよ:*:.。.:*(´∀`*)*:.。.:*:

【オームの法則とはなにか】
http://www.geocities.jp/hiroyuki0620785/k4housoku/ohm.htm
【三相式配線および単相3線式配線回路】-三相交流回路-
http://cgi.din.or.jp/~goukaku/denko/chap7/1-7-5.pdf


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
* わたしの親父は 人間は矛盾した存在なんだ 矛盾していて いいんだ 細かいこと言うなと わたしに反応するのが しばしばでした。母親は もうこの歳で 性格が変わろうかさ(変わるわけがない)と言って――気にしつつ なのですが―― はねつけました。わたしは ひとを窮地に陥れるのが好きなようです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
〔作家別作品リスト:No.83〕
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person83.html
作品名:アラビヤンナイト(一、アラジンとふしぎなランプ)
著者名:菊池寛
http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/43122_16871.html

カン!

【国民年金、任意加入と追納、どっちが得?】
掲載日: 2006年 08月 29日
http://allabout.co.jp/finance/nenkinreceive/closeup/CU20060312A/index.htm
http://allabout.co.jp/finance/nenkinreceive/closeup/CU20060312A/index2.htm
【国民年金、任意加入と追納、どっちが得?】
掲載日: 2008年 05月 15日
http://allabout.co.jp/finance/nenkinreceive/closeup/CU20080510A/
http://allabout.co.jp/finance/nenkinreceive/closeup/CU20080510A/index2.htm
http://allabout.co.jp/finance/nenkinreceive/closeup/CU20080510A/index3.htm

【[自賠責保険の補償範囲第1章] 自賠責保険】
http://www.jidoushahoken.info/1/02-05.html
http://www.jidoushahoken.info/1/02-05-02.html
【任意保険の種類】
http://www.jidoushahoken.info/2/02.html

A(刑事・行政):B(民事)    
  
A(自賠):B(任意)

Aで(できること、できないこと),Bで(できること、できないこと)

投稿日時 - 2008-12-02 21:20:20

お礼

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 君子の交わりは 淡きこと 水のごとし。
 ☆ を持ち出さなくても もともと いぢわるですもんね。

 さらにきびしい議論をもって 迫りましょう。
 ● (江藤淳)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・われわれの周囲にある政治理論は たいてい抒情だと思う。つまり世界認識ではなくて 自分の中にある個人的な抒情の欲求のプロジェクション(投影)にすぎないものが多いように思う。
 しかし 自分が世界に投影されると同時に 世界の投影が自分を規定するというのが実際の姿でしょう。
 抒情からは この相関関係がぬけおちている。詩(つまり 抒情)は 世界を消すものですからね。抒情詩は世界を消してしまう。
ところが 実際には 世界を消してしまうことだけをやっているのに 世界になにか寄与していると思いこんでいる人々が多いのです。
 そのへんのところは 直感的にしか申し上げられないけれども そう感じます。
 (吉本隆明との対談・文学と思想)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 日本の論壇に対する手厳しい批判になっていると思います。日本人の哲学に対する態度も この《抒情詩》のようなものが 多いのではないでしょうか。
 ・わたくしも 夢想が多いですけれど。:*:.。.:*(´∀`*)*:.。.:*:      (*^^*)>゛゛゛(Gがかかります)
 おあとが よろしい ようで すよね。

投稿日時 - 2008-12-02 21:53:03

ANo.22

こんばんは、brageloneさん。

今日は11月30日。
早いですね。
明日から12月。
今年も残すところ
あと1ヶ月か…
と、思うと…
なんだかなぁ。。。

なんだかなぁ。。。
と、思うのも…
暦のうえじゃ
とっくに「冬」。
「冬」なんだけど…
気象庁のあつかいでは
いま(11月中)は
まだ「秋」。

『秋止符』
左ききのあなたの手紙
右手でなぞって真似てみる
いくら書いても埋めつくせない
白紙の行がそこにある


おいこみかけます!(とくべつこうこく)



“にいたかやまのぼれ ひとふたまるはち”

http://homepage3.nifty.com/basaranihonshi/konetahon.htm
http://homepage3.nifty.com/basaranihonshi/index.htm


“ 心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花 ”

凡河内躬恒(おほしかふちのみつね)
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/100i/029.html


“ 住の江の松を秋風吹くからに声うちそふる沖つ白波 ”0360

古今和歌集 ―『定家八代抄』による抜萃 548首―
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/hatidai/kokin_s.html
八代集秀歌選 ―『定家八代抄』による―
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/hatidai/hatidai.html


【QNo.2700762 ほにゃらか形而左右学 矛盾】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2700762.html
【QNo.2746186 ほにゃらか形而左右学】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2746186.html
【QNo.3417579 三身常住は 三位一体とどう違うでしょう】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3417579.html



【宗教・こころ】吉本隆明氏に聞く(1)~(4)弓山達也氏と対談
[1995年09月05日・07日・11日・12日 東京夕刊]
http://my.spinavi.net/yumiyama/index.php?itemid=72

投稿日時 - 2008-11-30 21:12:28

補足

 littlekissさん こんばんは。ご機嫌よろしゅう。ご回答をありがとうございます。

 とうとう 取り残しの課題を交えて
 ● オーム真理教(特に サリン事件) と 中沢新一 と吉本隆明
 ☆ という組み合わせに 戻りつつ なりましたね。
 まづ 吉本については オームとのつながり(一定の評価を与えていること)は まったく予期していませんでした。理由は別ですが 江藤淳と同じく わたしの若い頃に たいへん大きな影響を受けた思想家だったのが ついていけないと判断したとき それ以後は 読みもしなくなったのでした。
 江藤は 国家主義の立ち場を鮮明にした時点で――もっとも 国家を 社会形態として 前提にする限りでは ひとつの立ち場でありうるとまでは 思ったのですが やはり―― そぐわない・それは わたしにとって 心地よくないという理由で 離れました。
 吉本は おもしろいことを言っているのですが かれ自身は 何をしようとしているのか 分からない。何もしようとしていない。ただ言うだけだ。と判断した時点で もう読まなくなりました。面白くなくなりました。もう二十年余り前のことです。
 そんな経緯ですが さて わたしの立ち場は 
 ○ オーム真理教に対して 全面的に 否定するという判断を持ちます。吉本は 弓山との対談の中で その殺害事件を根本的に否定し 松本の仏教理解には 見るべきものがあるのではないかと肯定するというように 二重性を持つと言っていますが それは わたしには ありません。
 ☆ もうこれだけを言って 終わりになるようなのですが こういう問題が残るかも知れません。つまり 吉本の理論の中で わたしが 評価している部分は かれが松本仏教理論を評価するところと 重ならないのか これです。
 弓山との対談を読んだ限りでは 重なりません。それ以上に 明らかに 反対する立ち場です。というのも 吉本は 市民社会の倫理と 宗教から見た倫理とは 別であるという見方を持って 松本理論(?)を評価する余地があると言っているわけですが わたしにとっては それは あり得ません。市民社会の倫理や生活が すべてです。そこでの 共同主観=常識を ほとんどただ一つの判断基準とします。
 宗教という組織や社会慣習じたいをも否定していますが けっきょく 信仰は 個人の主観におさまるものという見方です。
 そうなると あなたのご見解を 例の中沢新一のそれとを合わせて 明らかにしなければならなくなったのではありませんか。
 それは 理論の問題があり そして いつだったか 対話の話題にのぼった北野武の思想の問題とも関連するようですよ。つまり オームに対する宗教としての評価をたとえ別としても サリン事件で被害を被った人びとへの気持ちを どう表明するかにかかわっています。主観は 自由ですが そして その内向きのことは 公表しなくても構わないのですが そのとき 被害者の心がかかわっているときには 公表しないというのでは もうその心を無視すると言ったことに等しくなる こういう問題であるのでした。
 北野武のときには あなたは 柔軟な心を発揮されましたが 中沢新一にかんしては そうではなかったのでした。はたして どうなりましょうか。

 吉本とオームとの関係の記事は ご自分で見つけられて ここで 発表されました。しかも 中沢の話題を扱った質疑応答をも 掲げておられます。わたしに そのことに触れてくれと言わんばかりです。とにもかくにも これだけをお伝えします。

 * わたしの親父は 人間は矛盾した存在なんだ 矛盾していて いいんだ 細かいこと言うなと わたしに反応するのが しばしばでした。母親は もうこの歳で 性格が変わろうかさ(変わるわけがない)と言って――気にしつつ なのですが―― はねつけました。わたしは ひとを窮地に陥れるのが好きなようです。

投稿日時 - 2008-11-30 22:22:08

ANo.21

おはようございます、brageloneさん。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どぢゃ? 《体言・用言》などの用語も なかなか 使い勝手がよいようですよ。
 未来社会において 諸言語が 融合するとは思いませんが 文法――特にその生成の観点からする類型分析――は 互いの理解に役立つものと考えます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

No.20への《この回答への補足》…

littlekiss “さま”って、

でだしからいきなり“さま”ときますか?

ずいぶんもちあげてくれてますね?

おもくないですか? 大丈夫?

いつもあたまがさがります。m(_ _)m


“ みのるほど こうべをたれる いなほかな ”


げっ、|(><)| コワッ!

高いところへ上ってる途中で下を見たら…

足が竦んで (((((ブルブルブル)))))

動けなくなる。

もしや、これが体言止め?


ふーん、まだまだ


“ わたの原 漕ぎ出でて見れば 久方の 雲居にまがふ 沖つ白波 ”
http://www.good-land.com/76.html


沖で白波が立つときは… 用心 用心 御用心っと、

【C調言葉に御用心】
http://ja.wikipedia.org/wiki/C%E8%AA%BF%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%AB%E5%BE%A1%E7%94%A8%E5%BF%83


【海洋と気象】
http://www.jma.go.jp/jma/index.html

投稿日時 - 2008-11-30 10:34:11

補足

 お早うございます マドゥムワゼルlittlekissさま。ご回答をありがとうございます。富士山の日本晴れですよ。にっぽん晴れ!! と謹んでもうしあげます。m(_ _)m (と言っても 絵文字は知らないから もう出ない)。

 これまで多くのサイトをご紹介いただきましたが 言語学に関心がお有りですか。もうひとつ おもしろい話題で ご機嫌うかがいです。

 ● 《mo ・ mu 身(モ ・ム)》からの語の形成 ~~~~~~~

 0.mo・mu →モ(身)抜け=蛻け;ム(身)クロ(幹)=骸

 1.mo-i > mi 身(み) (《-i》は 多く 名詞形をつくる)
 2.mu-ki 向(む)キ (身が移動する意) →muka-hi 向カヒ;muka-he迎へ
 3.mu-ki 剥(む)キ (対極相。身の充実の反対概念)
 4.mo-gi 捥(も)ギ  (同じく。/ k・g /も反出・反定相)
 5.mo-si 若(も)シ (《それ自身(mo)である(si)〔とせよ〕》=論述条件)
 6.mu-si 生(む)シ (《自身の充実性 の動態》)
 7.mo-to 本・元(もと) (身の処。/ t /は不定指示相・隔定相)
 8.moto-me 求(もと)メ (上の動詞形)
 9.mo-no 物(もの) (身の自己同一性。/ n /=客体の同定相)
 10.mo-hara( > moppara) 専(もは)ラ (一身のみ)
 11.mo-mi 揉(も)ミ
 12.mo-ro 諸(もろ) (身の全体→《両方整った・すべての》)
 13.mo-ro-si 脆(もろ)シ (対極相。充実性の反対)
 14.mu-re 群(む)レ (身がある・集まる。/ r /は自然想定相・自生相)
 15.mu-ra 村(むら)
 16.mo-ri 盛(も)リ (身の充実性→杜・森 )
 17.mo-ri 漏(も)リ (対極相。充実性が欠ける)
 18.mo-ri 守(も)リ (あるいは mo が ma 目・mi 見と共通相か)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なおコンピューター言語は 分かりませんので 《任せてください》との言葉は 割り引いてくださいね。(先刻承知でしたっけ)。

 ★ “ わたの原 漕ぎ出でて見れば 久方の 雲居にまがふ 沖つ白波 ”
 ☆ 雲居にまで上がった波って あるかなぁ? 暴風雨じゃないんでしょ? あっ 櫨が上げた白波が 船に坐った姿勢から見れば 空のほうにかかって見えるのでしょうか? 
 ★ “ みのるほど こうべをたれる いなほかな ”
 ☆ 実が成って 重いからね。

投稿日時 - 2008-11-30 12:26:23

ANo.20

おはようございます、brageloneさん。

●なにか悪いものを食った?

と、きくかね?! (-_-;)uuu… 

甘んじて…全部食べました。残さず (-_-;)uuu… 


くるくるくるくる◎◎◎◎◎◎◎◎◎ダ――――っと


【ことばをめぐる】
http://www.asahi-net.or.jp/~qm4h-iim/k990322.htm

コラムいっときます。

【子守唄】
http://www.jacom.or.jp/column/kora113/kora113s04093005.html

【松岡正剛の千夜千冊『放送禁止歌』森達也】
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0845.html

第244回 10月12日(日)
【戦争は罪悪である ~ある仏教者の名誉回復~】
http://www.nhk.or.jp/etv21c/backnum/index.html
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2008/1012.html

「たいへんおいしゅうございました。」:*:.。.:*(´∀`*)*:.。.:*:



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 おしえて!
 ○ 例の 《 b 》。
 ☆ これは その後ここで文章を読んでいると 文末に この記号だけで 使われています。どういう意味なのですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
○ 例の 《 b 》。

《ゆでたまご》じゃなかったら…

うーん、いま思いあたるといえば… (-_-;)uuu… 

エド・はるみさんの「グー!」っていうあれじゃないですか?

そうそう、エド・はるみさんっていえば…

今度TVアニメ『ヤッターマン』に出てくるとか。
http://mainichi.jp/enta/mantan/news/20081126mog00m200012000c.html?link_id=TT005


ちがった???



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
未来社会の問題としては 自民党がご臨終であることが 確実なことだけでも その動きがあると言うべきなのでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

うーん、どうでしょう… (-_-;)uuu… 

際際のところで、逆噴射と。体勢をたてなおすこともなくはない

『逆噴射家族』
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD17464/story.html

の例もあることだし…  




【LL法】
http://ja.wikipedia.org/wiki/LL%E6%B3%95
【LR法】
http://ja.wikipedia.org/wiki/LR%E6%B3%95
【生成文法】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E6%88%90%E6%96%87%E6%B3%95
【チョムスキー階層】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E9%9A%8E%E5%B1%A4
【文脈自由文法】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E8%84%88%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%96%87%E6%B3%95
【構文解析】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A7%8B%E6%96%87%E8%A7%A3%E6%9E%90
【形式言語】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E5%BC%8F%E8%A8%80%E8%AA%9E
【品詞】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%81%E8%A9%9E
〔歴史〕
単語をいくつかの品詞のグループに分けるということは、古典ギリシア語の文法研究から始まった。これが、ラテン語の文法研究に受け継がれ、さらにはヨーロッパ諸国の言語の文法研究にも品詞の考え方が取り入れられた。後に、言語学の対象がヨーロッパ外の言語にも広まるとともに、品詞という考え方が世界中の言葉に適用されることとなった。

投稿日時 - 2008-11-29 05:00:34

補足

 親愛なる littlekiss さま お早うございます。ご回答をありがとうございます。ご機嫌いかがでしょうか。

 ★ 【戦争は罪悪である ~ある仏教者の名誉回復~】
 ▲ 真宗大谷派の高僧・竹中彰元さんの写真が 霊のようで こわあーい 感じでしたが 本山は かれの名誉回復だけで もう済んだとしているのでしょうか。丸坊主になる あっ いや すでに 坊主でしたね 謹慎するとか反省するとかは もう済んだのでしょうか。

 ★ 〔自民党は〕 際際のところで、逆噴射と。体勢をたてなおすこともなくはない。
 ☆ 《逆噴射》? ですか? あの羽田沖の? だめじゃん?
 着陸(つまり 解党・消滅)寸前に 誰か救世主が現われて ふたたび 空に舞い上がる? これなら いいのですかね。

 ★ 〔言語学〕 〔歴史〕単語をいくつかの品詞のグループに分けるということは、古典ギリシア語の文法研究から始まった。・・・
 ☆ 次のひとの業績もお忘れなく。
 ▲ 《パーニニ》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%8B
 紀元前4世紀頃のインドの文法学者
 パーニニはサンスクリット・・・文法学(ヴャーカラーナ)の体系を確立した。・・・
 アシュターディヤーイーはサンスクリット文法についての最古のもののひとつとされているが、・・・共時的言語学、 生成言語学としての最古の研究として知られ、・・・言語学の歴史の始まりに位置する。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 言語学でしたら まかせてください。言語類型論が いちばんの関心事ですが。
 ☆ (日本語における語の生成の事例)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 音1 音2・・・語例    文法説明

1 ア - :   Oh !    知覚詞(超文条件詞)=知覚文
2 ア ハ :   Ah !    〃
3 〃 ラ :   Hum ?   〃
4 〃 レ :   Eh !    〃
5 〃 〃 :   that;it   体言(代名詞)
6 アハ レ :  poor X !   知覚詞(間投詞)
7 〃 〃 :   アッパレ; bravo !   〃
8 〃 〃 :   哀レ; Ahness   体言(名詞)
9 アラ ハ :  顕ハ        〃   
10 〃 タ :  新タ・霊験     〃
11 アハレ ニ : 憐レニ     体言+与格活用
12 〃 ム :   憐レム      用言(動態相)
13 アハレニ アリ> : 哀レナリ  体言+補充用言→状態用言
14 アラハ ナリ :   顕ハナリ    〃
15 〃 ル :   現ハル    用言(動態相)
16 〃 ス :   表ハス     〃
17 アラタ シ : 新シ     用言(状態相)
18 〃 ム :   改ム     用言(動態相)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どぢゃ? 《体言・用言》などの用語も なかなか 使い勝手がよいようですよ。
 未来社会において 諸言語が 融合するとは思いませんが 文法――特にその生成の観点からする類型分析――は 互いの理解に役立つものと考えます。

投稿日時 - 2008-11-29 11:17:41

お礼

 ★ 【ことばをめぐる】~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 不思議といえば、五段活用(語数=2812)・下一段活用(1229)に比べて、上一段活用(127)が極端に少ないのも引っかかります。五段・下一段が多い理由の一つは、「垂らす(五段)―垂れる(下一段)」「焼く(五段)―焼ける(下一段)」のように、他動・自動のペアが多く作られたことにもよるのでしょうが、理由はそれだけではないと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 古語で 上(イ・ウ行)二段活用が 下(エ・ウ行)二段活用へ変わり さらにこれは 下(エ行)一段活用になったから。連用形(=名詞形)で示せば。
  ○ 古語 mo-ri 漏り・洩り 上二段活用
   →  mo-re 漏れ・洩れ 下二段→下一段活用
  ○ ちなみに mo-ra-si 漏らし の如く ア行終わりの四段(五段)活用の痕跡が 一般的にも 見られることに注意しうる。
 では何故 上二段→下二段→下一段活用という変化を持ったのか。 
 思うに 上二段の連用形=名詞形は イ行で終わるのだから とうぜんの如く 四段(五段)活用のそれ・つまり連用形と 同形になるからである。
  ○ ka-ki 掻き=書き 四段活用
 ☆ これには * ka-ki かき という上一段ないし上二段活用の動詞はない。つまり あるのは
  ○ ka-ke 掛け・懸け・賭け 下二段(ないし一段)活用
 ☆ だけである。しかも ただし 上の《漏れ∽漏らし》の例と同じく ア行終わりの四段活用のかたちも 見られる。
  ○ ka-ka-ri 掛かり・懸かり・係 
 ☆ 未然形ではあるが ka-ka-zu 掻か-ず の如く 活用するそのかたちである。
 ところが じっさい この ア行終わりの活用形は そこに 《イの折れ》を伴なって 下二段活用の連用形を作りだしたと考えられる。
  ○ ka-ka- かか- ――《イの折れ》を入れる―→ ka-ka-i ⇒ kakae ⇒ kake かけ
  ○ 《イの折れ》とは can をカンから キャンと発音するその傾向である。同じく girl を ギャルと呼ぶ。
 ☆ 《イの折れ》と言わずとも この《 -i 》を付け加える例は 多い。
  ○ ma 目(ma-he 目‐辺=前)→ ma-i = me 目
  ○ ta 手( ta-moto 手‐元=袂)→ ta-i = te 手
  ○ ina (稲)→ ina-i = ine 稲

投稿日時 - 2008-11-29 16:21:29

ANo.19

こんばんは、brageloneさん。

おぉコワッ!
何がコワイかって?
世の風潮が一方向に傾くのが…
たとえば、
同窓会へ出席した後の話を取り上げてのバッシング報道には辟易しちゃう

高齢者医療費「何もしない人の分なぜ払う」
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20081127k0000m010145000c.html
首相は「67歳、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやたらにかかっている者がいる」と指摘。「こちらの方がはるかに医療費がかかってない。毎朝歩いたり何かしているからである。私の方が税金は払っている」と述べ、理不尽さを訴え ...

同窓会、首相はたしか学習院卒だよね、そうすると出席者は…
学習院といえば、また、そこへ通う者といえば、大半が裕福な家庭のご子息ご令嬢?と、そうでなくともそれなりに蓄えのある家庭のこどもたち。卒業後、親の家業を継ぐ者、起業する者、一流企業と名だたる企業なりに就職していったことだろう。所得も高額。さて、その高額の収入を得てきた同窓生たちはそのお金の使い道を何にあててきたか?と、問うているのではないか。社会貢献に寄与してきたかと?67歳、68歳で、よぼよぼしている、医者にやたらにかかっている者がいる。「たらたら飲んで、食べて」←飽食の時代を桜花。その結果、生活習慣病に。糖尿病・脳卒中・高脂血症・心臓病・高血圧・肥満。http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/seikatu/index.html
ある意味、今、現在、高額の収入を得ている者へむけて社会貢献を呼びかけていたんじゃないかな。保健医療にかかわらず福祉・教育方面と多方面に渡るように《ふるさと納税》のような寄付を社会貢献として高額所得者に訴えかけていたんじゃないのかな。高額の納税をしたとしていてもまた違う場面では(企業として法人税)控除・還付を受けている。こと、高額の金額を納税したということは口にすれど、控除・還付されたもののことはあまり口にはしない。なんでだろう?

おっと、それと漢字の読み間違い?にしても五月蝿いっちゃありゃしない。
ありゃ、わざと、わざと読み間違えてみせたんじゃないのかな?何で読み間違う必要があるかって?国民年金がらみじゃないかな?国民年金の名前の入力は、さてだれがした?役所。役所という人はいない。2000年問題のごたごたの時期からこっち、パート・アルバイト・派遣労働と人かき集め、入力作業のどたばた。さてその人たちはいまどこにいる?国民年金のニュースがあがるたびにどこかでビクビクしているかも。読みにくい字はある。現在使われていない字もまたある。コンピューターに内臓されていない字もある。そんな中、年金記録者の記録と氏名の一致作業はつづけられている。年金記録漏れ、確認の取れない年金記録等、年金の支給が滞っている方の不満は重々承知すれど、今後のこともあわせて考える上で漢字への国民の関心を高めるには国会中継のあの場で敢えて4回読み間違えてみせることで広く注意喚起を促そうとしてたんじゃないかな。入力作業に携わるものは特別な誰かじゃない。雇用の分野における男女の均等な機会は法律に記されている。いろんな人がいろんなところで職に携わる昨今ゆえに。読み間違い等の入力ミスを防止しようと体張ってあの場で間違えて見せたとは考えられないかな?


『禁じられた遊び』
http://www.worldfolksong.com/songbook/others/romance.htm
http://www1.kcn.ne.jp/~sug/guitar/Sound_Making/strings_chenge.html
【ネック・アングル】
http://www1.kcn.ne.jp/~sug/guitar/vintage/neck_angle.html

音の変化 ――――by the way――――

●それにしても こんな応答もあったものなんですかね。
  誼(よしみ)に甘えていますでしょうか。


こんな応答……(e_e).。oOありました。

【QNo.4077221 自然法は もう人気がないのでしょうか 】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4077221.html
【QNo.4338027 現代芸術における表現形式は どうなんですか 】http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4338027.html
回答日時:08/10/10 04:40 回答番号:No.27
【QNo.4310709 二分法の起源】 
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4310709.html


「くだんの事件」って… (-_-;)uuu…  

もしかして、“ゆで卵”の件?  甘んじて… (-_-;)uuu… 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ またまた寝てるコを起こしましたね?
 ☆ もし 《ああ 寝てたんだ》と気づいたなら 《ああ それだけも 罰が当たっても おかしくないほどだなぁ》と内に省みても まちがっていない。それが ふつうの子。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(@_@)パッチリ-☆ 寝てません

ほでも、夕べも寝てねぇー

(睡眠不足気味じゃ)(/_-)゛゛゛ゴシゴシ

(e_e).。oO ちょっと ちょっと ヾ(-_-;)

金曜日は公休だったのに―

会社から電話かかってきて、急遽、午後からちょっとだけ出勤

寝坊しないように気をつけます。今夜のところはひとまずこれにて

おしおきは、(><)やだよ―ん~♪


【同時履行とは】
http://www.keyaki-law.gr.jp/05_houritsu_kouza_04.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1312968458?fr=rcmd_chie_detail
【「呼応の副詞(こおうのふくし)」】
http://study-japanese.hp.infoseek.co.jp/hp/grammar/grammar-7.htm
【if構文】
http://www.scollabo.com/banban/cgi/cgi_011.html
【藤原定家】
http://www.ffortune.net/social/people/nihon-heian/fujiwara-teika.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E5%AE%B6
【「百人一首」】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E4%B8%80%E9%A6%96


「愚者の自覚を」
http://www.zenshoji.or.jp/fuku/gusha.htm

投稿日時 - 2008-11-28 01:54:48

お礼

 littlekissさん どうしたのですか。なにか悪いものを食った?
 ご回答をありがとうございます。

 ただただ 麻生太郎を擁護したいということ? ほおっときますよ。論ずるに足りません。

 ★ 「愚者の自覚を」
 ☆ もともと そうだという人びとに向かって そう訴えかけたい愚者がいるのでしょうね。いちいち宗教なんか出さなくても エコ活動なり平和運動なりをすればいいじゃん。

 おしえて!
 ○ 例の 《 b 》。
 ☆ これは その後ここで文章を読んでいると 文末に この記号だけで 使われています。どういう意味なのですか?
 ○ 同じように 文末に 《 w 》も見受けます。
 ☆ どんな意味がありますか? 感じでは 《ほほえみかける姿勢》を表わしているように受け取りますが。上の《ゆでたまご》は まだ 分かりません。

 それにしても
 ▲ 踏襲 → ふしゅう
 ☆ には おかしみがありますね。《ふむ》と読み始めた。ところへ 次にも 漢字がある。たぶん 《とうしゅう》と分かっていたけれど 《ふ》と《しゅう》とで 読んでおいたのでしょうね。そのあと 気がついても そのまま 素通りしたというところが 器の大きさを表わしていますね。・・・んなわけない。
 誼(よしみ)に甘えた文章をつづり続けてすみません。ありがとう。

 未来社会の問題としては 自民党がご臨終であることが 確実なことだけでも その動きがあると言うべきなのでしょうか。

投稿日時 - 2008-11-28 09:22:31

ANo.18

こんばんは、brageloneさん。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

▲ 各自は 能力に応じてはたらき 労働に応じて報酬を受ける。
またさらに 能力に応じて働き 必要に応じて受け取る。
☆ これは おそらく 人間の計画や管理によっては 達成され得ないと
考えますが 或る種の理想です。しかも 現実には この未来社会へ向けて
 
★ 【男女雇用機会均等法】 もしくは 男女平等 
☆ の問題が 前に課題として 横たわっています。
いまのところ 話し合いで決めていく としか 
わたしには 勉強不足で言えない状態です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


サラリーマン専業主婦(夫)
家計の収入源は夫(妻)の働きによる給与のみとした場合
男(女)は外で働き、その間、女(男)は家庭を守る
給与は銀行振込み、自動的に銀行口座へ
女(男)の手もとには給与明細のみ
後は好きにやってくれとばかりに
お金のやりくりは女(男)まかせ
住宅ローンにガス光熱費水道代に駐車場代に
食費に医療費、学費とその他もろもろ差し引けば
すずめのなみだの金額残るか残らないかのぴーぴー
家計簿とにらめっこ
女(男)は男(女)と子どもを優先し
女(男)自身は自分のことは後回し
がまんがまんときりつめる
きゅうきゅうの家計を前に
家事報酬なんてとりようもない
逆立ちしたって出てこない
自分のお金がない
言ってもせんないことと口篭もる
女(男)は誰に気兼ねすることなく
使えるお金を求め外へ働きに出る
外に出て働いてみればそこには
等価交換の原則が…

男(女)の給料減り
女(男)が外で働いて得た給料を合わせても
これまで男(女)が一人で得てきた給料にも満たない
家計の総所得

女(男)が働く場はいくらかでき
外での働き手は増える
買い手市場(低賃金で雇える)
低賃金で人を雇えるとなると
これまでの高賃金で雇われていた者は
玉突きのように押し出される(リストラ)
押し出された者の収入が一家の生計の主だった場合
一家の収入は激減する
新たに職に就けたとしてもこれまで得てきた収入を
得ることは望み薄
必要に迫られ家事育児を家でしていた女(男)までも
さらに外へ働きに出る
すると、これまで以上に市場に人があふかえり
ますます、低賃金労働へと拍車がかかる
働く場も狭まってくる

中学生の冬の頃、教室に“休み時間は運動場に出よう”と、紙が貼ってあった。早くいえば、寒くて縮こまりがちな身体を休み時間の間に運動してほぐしましょうってことなんだろうけど、言葉をまんま受け取って、休み時間に全校生が運動場に出て走り回ったりボール投げして遊んだら中学生だし体格も大きくなってきてるからぶつかって危ないったりゃありゃしない。それに、だだっぴろい運動場ならいざ知らず全校生徒人数に対して運動場はそれほど広くはない。“休み時間は運動場に出よう”理想はあってもそれをおしつけては窮屈になる。外へ出て遊ぶもの教室の中で遊ぶもの適度な均衡が保ててればそれでいい。極度の偏りが、人を生き辛くさせる。

配偶者特別控除を復活させて、
さらにその配偶者特別除額を100万円にしてみたらどうだろう
そのかわり、配偶者特別控除を受けるにあたっては外に出て働かない
働くのであれば、配偶者特別控除の適用外と
専業に従事するかしないかは選択と

市場にあふれかえるほどの人
この人の流出がとまれば
一人の働き手の所得額も上がるんじゃないかな

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★ 人が人をおもえども、おもうことがときに人を傷つけてしまう。 
☆ くだんの事件を放っておいた人をおもうばあい 
あぁ そうか と受け止めるのが おもうことだとおもいます。 
受けとめたくないというのでしょうか。
おもったのだから 感謝せよということでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

★ 人が人をおもえども、おもうことがときに人を傷つけてしまう。

ここに、漠然と「人」って字が3つ
個々におかれた「人」は同一人物か?それとも…

《くだんの事件を放っておいた人をおもうばあい》とありますが、 
放っておいた人をおもう人の位置付けは?

【明治時代後期の教育 ~国家的教育観の具現化の考察~】
http://www.mskj.or.jp/getsurei/yanaka0501.html

投稿日時 - 2008-11-27 00:23:04

補足

 お早うございます littlekissさん。ご回答をありがとうございます。
 《Q:未来論》では 無断引用についてお詫びしましたが 《サルトル論からの〈遊戯的対話〉》の件で それを紹介してもらったことについて まだお礼を申し上げておりませんでした。或る意味では簡単な(――つまり 小説に比べれば ていねいな人物や情況の描写では必ずしもなく そうではなく 場面ごとに つながりを省略して 話の筋を追っていくかたちにおいて 簡単な文章構成の――)戯曲をとおしても 鋭い分析をほどこして行って コミュニケーションにおける人間という問題を 思想として 浮き彫りにした論文だったと思います。ありがとうございました。(それにしても どこから見つけ出してくるのですか)。

 ★★ 人が人をおもえども、おもうことがときに人を傷つけてしまう。
 ☆ 問題は こまかくはお答えしません。(なお足りないというときには 要求してください)。要するに 
 ○ ひとは 外から来る攻撃に対しては たとえ非力であることにより防御がかなわくても それによって 心が傷つくということはありません。
 ○ おのれのこととして内面にあるあやまちについて 自分が自分をとがめるとき その欠陥に気がつきますし その傷はあやまちに応じて深いと分かります。自己努力と自然治癒 両方によって 癒していきます。
 ☆ この単純なことを申し述べたつもりですが?
 もっと 直截に申せば ひとを傷つけたのではないかと考えることは ありますが そしてそのことを相手にぢかに尋ねても構わないわけですが 人が人を傷つけるということは ほんとうには ありません。外側の関係にある限り そうです。内側の関係にあるなら 遅かれ早かれ 伝わります。以心伝心と言います。そうでなければ 内側の関係ではないという意味です。

 ★ 【明治時代後期の教育 ~国家的教育観の具現化の考察~】
 ☆ 《国家》という社会形態についての考察が少ないと思います。《家》には 二階建ても三階建てもありますが 上の階から 下の階に向かって 《和を乱すな》ということを言いますかね? 和を乱さない家庭生活を実現する中に 親は 社会にとってよいことを 子供たちにおしえていくのではないでしょうか。《権威にもとづき 〈さからうこと無きを旨とせよ〉とのたまわる》ことによっては ちゃんちゃらおかしいということになります。家と国家とは 明らかに 基本の思想が異なっていると思います。そこを何とかしないと 何を改革しても 同じではないかと考えています。世界国家をつくっても 同じだろうと。・・・

 雛人形も五月人形も もはや 少子時代で じり貧です。というよりも 十数年前から 斜陽産業です。内裏雛だとか武将の人形だとか わたしは もう旧いと思いますが 日本人形を廃れさせていいとも思いません。この事業のことを思うと もう未来はないのかという気にもなります。特別控除や特別援助制度というわけにも行きませんし。・・・
 われわれが わるかったのだと考えます。野党は ただガス抜きのために 反対を唱えるという体制でやってきたのですから。政治が変わるわけがなかったと言わなければなりません。ここ哲学の質疑応答でも きれいごとの回答が いまだに 少なくありません。昔の社会党が演じたガス抜き討論ということなのでしょう。このQ&Aも 大きく自民党=官僚体制に組み込まれているのでしょうか。われわれは 投票しつづけていますし それに代わる政党は まだ ないでしょう。八方塞がりです。ちょっと毛色の変わった人物が出てきても 難なく この体制に取り込まれ 組み込まれていきます。
 自衛隊の責任ある人間がわけの分からないことを言いだしたり 厚生労働省の役人を殺したりと 後者で ガス抜きしつつ 前者で もはや理屈抜きで 国家が一丸とならなければならないという思潮を植え付けようとする――これらすべては 国家緊急時の大戦略の一環であるというと 気印扱いされるでしょうね。ほんとうかどうかの問題ではなく 絶えず そういう議論は つづけていくことも 地道な活動として欠かせないとは思います。
 考えすぎだよと言われないことを おそれます。それにしても こんな応答もあったものなんですかね。誼(よしみ)に甘えていますでしょうか。

投稿日時 - 2008-11-27 10:06:55

ANo.17

すみません。

<私の方も ここでの論議としては ここまでとさせていただきます。>

というのは あくまで“「エホバ」…”についてです。

自分でも 後から何か変だなと思っていましたが、昨日は目いっぱい家の用事がありましたし、 確認できないでいるうちに訂正が遅くなりました。

一番最後にそのように書いてしまえば、 これで“私の方からの「回答」は全部>最後<”と受けとられてもしかたないですね。  うかつでした。



「バケツへの道(笑)」も、中途半端ですし、 途中で問題提起された男女の問題も終わっていません。

でも、ちょうど、両方の課題とも、私自身の回答には壁が生まれていました。

そのへんを、明らかにして、幕といたしたいと思います。

大手を振って次の舞台へと また歩まれてください。



もともと吉本隆明氏を知らないで回答の筆はなりゆきまかせで進んでしまったわけですが、 レーニンの「バケツ当番制」への道ということで、ここでは高度資本主義の新たな可能性という議論に発展していったかと思います。

「バケツ当番制」には、充分な教育の機会均等ということは前提だというのは常識として、、 その教育が未来においては変わる、 いや、今変わらなければその未来も無い、という考えからも  わたしのほうからは、こうしてまず感性教育という道筋を提出しようとしていたわけですが、

ひとつには、これが私の中のそのビジョンは 全部事業案とも結びついていることだったのです。

総合的にあらゆる人生についての考えを 感性という糸口でまとめてきたのが自分の人生だったわけで、それ一筋の道がゆえいつしかワーキングプアーの立場に身をおくこととなった者、  頭の中では、その総合の道は最後は 経済の道(経済学の道ということではなくて、一言で言えば事業の道)とも総合的に結びついてしまったということです。

わたしは、 その案をすべて、 出来たらお渡ししたい企業にも心当たっています。 それは検討中なのですが、結局 この競争社会にては秘密とならざるを得ません。    情報の公開性も 段階があってのことと考えます。

公の場でもあるこの場では、さしさわりのないとことを選らんではどうせ中途半端になるだけですし、 結局この壁の前に 次をどのように展開していったら言いか解からなくなってしまってもいたところなのです。

*、

一方、男女関係については、「感性教育案」について一応はまとまった段で、 自分の「回答」を伸ばす予定でした。

しかし、これにも迷いが出てきました。

一つには、「後のものが先になり先の者が後になる」と言われるキリストの言葉が妙に気にかかってのことです。   

またもう一つ、それは、不浄とななにか?について、あらためて考えてしまったからでもあるのです。

この二つのことが、へんに絡み合って、迷いを生んでいるようなのです。

この状態で、回答の筆を進めると、吉本隆明氏の世界から離れていってもしまうでしょう。

このへんはまた、

自分の「共産党宣言」への無知も気にかかるところです。



人生について、人の生涯について、存在について、一生懸命考え抜いてきた人間のつもりですが、 ここは無知無学ゆえの限界性もあるところ、

私のほうからは、 やはり、このへんで幕を引き 引き下がっておくべきところかとも思います。



プラトンについても知りません。 善の哲学というのであれば、西田哲学の「善の研究」というタイトル(タイトルだけですが^^)は知っていますが、 似ているのでしょうか?  ともかく たしかに私の中でも知で捕らえうる善の概念は 極地にても相対的なものです。

しかもその極地は そこが行き止まりという意味での極地ではありません。 結局《無限》としかいいようが無いところです。

生物でも そう捕らえるしかない地点にそこから復活してしまうような概念です。  するとそれはもう代理表現でしか語れない神という存在への「希望」とかかわる概念となってゆくというわけですね。

しかし、

>善悪を超えたところの非思考の領域<

このへんが解かりにくいところなのですが、人間には究極的にはこれが善これが悪だということを「今」という地点には知りえないといった意味合いなのでしょうか?

私の中では、無限の悪というのは少なくともこの生物の中には存在し得ない存在です。  しかし生物であるにもかかわらず、善の方の可能性は無限と通じています。  すると、その可能性という御手に手を伸ばして生きるのが、つまり感性を出来うる限り伸ばし、真心を出来うる限り求めて生きることが「希望」であることの自覚が、  悪もあるこの世の闇の中の光であり信仰である。というのが  私の場合の答えのようなのですが、それは  知的にはどこか間違っているのでしょうか?

悪は 相対的であっても善が信仰の自覚にまで達しないと、それを根絶できないという意味合いにもとれますが、 それは理解できるところかと思います。

悪とは、あくまで相対的な時間をかけつつも、いつしか「絶対」根絶したいところ存在ですね。



そのへんは、私の結論の方が簡単な表現で出来ているようです^^。

神は《絶対》でありつつ、「絶対(厳密な知的意味での)」では無い。

なぜなら、こんな相対的な生物が 手を伸ばしたらその手を握ってくれる存在だからです。 しかも確かに そうだからです。

ここに 私の方からは幕を下ろさせていただきます。

投稿日時 - 2008-11-25 20:06:38

補足

 arayata333さん こんばんは。ばつのわるい感じですが 今回も ご回答をありがとうございます。

 無限には 絶対としての無限と そしてそうではない――したがって 実際は 経験領域に属するところの――継起無限とが あります。
 1,2,3、・・・∞とつづく《継起無限》は 相対の世界に属します。数えることができる・つまり 表象し得ますから。
 絶対としての無限は 仮りに分割できたとして そのそれぞれの部分も やはり 無限です。半分に分けたそのどちらも やはり 無限であるというのが 絶対です。経験思考を超えています。非思考です。
 むろん 善か悪かどちらかに片寄っているのでは 《絶対》ではありません。共存しているというのでも だめです。善なり悪なりを あたまで 表象していますから 経験領域に属します。善悪の思考を超えているのが 絶対です。(プラトンのイデアなり善なりは 純粋精神といったところではないでしょうか)。
 ただ そういう絶対は この相対の世界を覆う・もしくは包むとも そのあとに 思われて来ます。そのような想定を置く限りで とうぜん悪ではなく 至高の善であるとか 義なり愛なり慈悲なり知恵なり全知全能なりというふうに 形容されることになります。これは 代理表現であるというよりも 神の《属性》を数え上げたかたちです。

 これで 信仰の定義にお答えできたでしょうか。つまり このような絶対としての神との対面 としての非思考 これが 原点になります。その信仰のあと たしかに 希望 愛などなどが 付随しているように得られます。そこでは わが父よ というような表現で 呼びかけられるとも言います。
 しかも おもしろいことには 信仰は いつまでも あるわけではありません。いま取り上げている主題としての《復活》が成ったなら そのときには 絶対としての神と――想定上――対面しているのではなく そうではなく 神を直視することになると言われるわけです。顔と顔を合わせて見ているわけですから 非思考の心の伸びも 要らなくなっています。希望も消えます。すでに 希望そのものの状態に入ったからです。ただ 愛は 最後まで 残ると言われています。
 これは まだ 残念ながら おとぎ話です。

 感性教育は むしろ 事業の一環としてある というのは どうも そのようですね。わかりました。

 また 神のことですが つけ加えるべきことは 《絶対》が《相対世界》を蔽うという想定です。ここからは 単純に言って 神が なぞの存在として=その意味で 霊として 経験世界に宿るという言い方がされることです。
 でも 精神に宿るとすれば 身体にも宿ると言わなければなりません。霊は 精神や身体 つまり 人間存在を 超えていて そのあと 遍在するとすれば われらに宿るということになります。これは 想像力の問題ではないわけです。もはや あくまで 一人ひとりの主観の内におさめられて 信仰のもとに 捉えられていくことです。その意味で 想定が生きるというものです。二人以上の集団に 霊が 同じかたちで はたらくと言うのは まづ無理だと思います。おのれの主観の内にとどまってこそ 信仰は生きるのだと考えます。

 ★ 不浄とはなにか?
 ☆ これは にわかには 分かりません。どういう文脈からかが分かりません。
 ★ 「後のものが先になり先の者が後になる」
 ☆ これは 信仰(無神論を含む)の始まるのに 人によって 早い遅いがあるということだと 理解しています。遅かった人が 信仰の深まりが早いということもあるのだと。

 吉本隆明から離れてもいいのですが――つまり 復活ないし未来社会が 主題ですから―― 昔の本を引き出して来てパラパラとやっていたら 次のような文章がありました。余興のようにですが おもしろいかも知れません。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 おもえばいままで 最後の親鸞というかんがえに ずいぶん魅せられてきたような気がする。・・・
 〈知識〉にとって最後の課題は 頂きを極め その頂きに人々を誘って蒙をひらくことではない。頂きを極め その頂きから世界を見おろすことでもない。頂きを極め そのまま寂かに〈非知〉に向かって着地することができればというのが おおよそ どんな種類の〈知〉にとっても最後の課題である。
 この「そのまま」というのは わたしたちには不可能にちかいので いわば自覚的に〈非知〉に向かって還流するよりほか仕方がない。しかし最後の親鸞は この「そのまま」というのをやってのけているようにおもわれる。・・・
 (吉本隆明:最後の親鸞 1981 p.5)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2008-11-25 21:31:04

お礼

 ☆ わたしたちは 《終わりから始める》の標語よろしく この《非知》が 非思考であり 原点としての信仰であると主張してきたのでした。となるのですが どうですかねぇ。
 《認識→信仰》という進みを持ち出すと どうしても 順序が逆のようです。非思考は 或る日とつぜんやってくるのだと思います。
 そして それよりも やはり 《知→非知》という《還流》は 人為的なはからいを超えた人為であるように思われます。という意味は 非知は あくまで 経験領域のことを言っていて それに対して 非思考=信仰とは むしろ 次元が違うように感じます。
 《非知》とは どうも 涅槃なり解脱なりのこと つまり 悟りのことのようなのですが。とすると 概念としては 互いに 重なってもよいようなのですが。

 必要に応じて ご投稿ください。

投稿日時 - 2008-11-25 21:42:11

ANo.16

「絶対」という言葉を、 仮に知的に、また宇宙や存在のシステムとして神は絶対的とか絶対だと言うのであれば、  私は怖いです。   私という人間は弱いですから、怖くて、 非思考になるというより、 できうるかぎり考えたくないだけの問題となります。

わたしにとって、阿頼耶識論とか 十階論(論としては現代では成り立たないとさえ言えるあらけずりなものですが、そういう荒い言葉で説明している仏界論自体は深い)は、  仏陀が感性の奥の世界を伝えたかったことを意味してると思えているのと同じで、(感性の無限性について はっきり認識していたかどうかは、 まだ知りません。)

わたしにとって、神の《絶対性》は、神の感性が計り知れない世界だという認識(思考お手上げ状態というのが信仰ならば認識というより、これが信仰なのでしょうが)のことを、はっきりと意味しています。

たしかに、知性も、偏在知と皮膚内の知とではまったく正確がことなります。

が、知の世界では 偏在知とはということを私たちの脳は考えることができます。

感じるという点においてのみ、私たちの知は価値を知るのに? いったいなぜ西洋哲学は神についての探索で 感性という最大の贈り物への感謝の地点を忘れてきてしまったのでしょう?

たしかに、仏陀が感性の完成者という認識は、こうして神という《絶対》への謙虚さと矛盾します。  仏陀イコール神の感性の世界、というのも実は間違った認識です。

ですから、感性教育の進化の暁にはそのへんが自然に正されていくでしょうが、《逆に仏陀という1人間への謙虚さは増す》とも私は思っています。(《このこと》の詳しくは略しますが)



では、わたしにとっての神の絶対性というのはどういうものかというと、それは知的な「謎」自体のことではありません。   時間も空間も、知的には人間の脳からの知では永遠の「謎」ということもありますが、それが神の絶対性を意味してるとすると、これは仕組みへの絶対性ですから怖いのです。   運命絶対予定説と同じとなりますしね。

それは、わたしにとっては、 我以外皆師の極地というか、日々刻々我以外皆師という感じの認識に通じるものです。  感性の世界においてです。

白痴の人に知の師を求める人はいないでしょう。  そういう脳なのですから、 しかし彼が笑う時には、目と目を交わせるときには、その目からも学ぼうとうするでしょう。   なぜなら私はその人を知らないのに神は知ってるからです。 そのすべてをです。     言いたいこと解かっていただけるでしょうか?     

私の経験で言えば、 私がある居酒屋で、毎日いじめにあっていた頃 私は夜中には何度も殺される夢を見てうなされ叫び声をあげて目を覚ましていました。    そんな都会の片隅での 大通りから少し離れたおんぼろアパートの二階にて、その風呂場件トイレの窓からは  窓を開けると二回まで伸びた大きな木の葉っぱが見えました。

さて、それだけのことなのですが、 ある冬の日に 窓を開けるとその大きな葉っぱにちょうど雪が降り始めていました。  心にゆとりなんてなく、超忙しい居酒屋での仕事を終えればすぐにコンビニで買った弁当をたべ、せいぜいフロと便所にいくだけであとは寝込んでしまう生活、しかも何度も何度も夜中に恐怖で目を覚ますような時に、     

でもその雪は なんと 静かで静かで 安らかだったのでしょう。

これ以上言葉でなんて、それは言えませんが。

これって 他の人が見て その胸の感動の内側が仏陀のように静かだったとしても はたから見て何がわかるというのですか?

同じことは いついかなる時にも私が他の人を見るときにもあてはまるということです。

そして、その自覚がわたしにとって神の《絶対》への信仰なんです。

たしかにふるさとの知の地とも言えそうです。



kigurumiさんの中に《絶対》への信仰があるかどうかは解かりません。

しかし、私とは共通項があるかと思います。 それは「絶対」への恐怖感です。 あるいは絶望の世界です。  知の洞穴の世界です。 なにも見えない世界です。  もう何も考えることもできない世界、   が、 怖い、そんなものは考えたくもない世界です。

この西洋神学の失敗でもあろう世界について、彼女は真剣に対応しようとしているのだと思っていました。

でも 今回ご紹介いただいたURLでの論議は、brageloneさんの言わんとしてる《絶対》を 誤解あるいはわざと歪曲してうけとったまま、その対立議論に たしかに巻き込まれてしまっているようにも見えます。

ただ、そうだとしても、これは しかたがないところかなとも思いました。



人は 人の長所をまず知り その中の一部としてまた変形としての短所をもその上でみつめることで、 自分にとっても得るものがある というのが「人皆師」の考えなのですが、 

このへんなのですが、  キリストは、やっぱり「後のものが先になり 先のものが後になったりするであろう」 という意味不明な^^ことを語っていますよね(ちゃんとした元の文をうまく探せないので教えてください。)

それは 哲学「教え・教わる」事態をも意味してると思えますし、実は私にとってはですが、私たち相対的な人間にとっての信仰がそこにあれば、ついねに必然のことでもあるとも思えますし、

さあ、実は今 このことで私は悩んでいる最中でもあるのです。

さらに深い意味があることがわかります。 でも解からないでいるということです。

>〈イエスなる人は神なるキリストである〉はゆるされるのですか。<

という設問ですが、  わたしの方から回答すれば、 ゆるされるもなにも 今の今は仕方ないのではないだろうか? という感じのことです。

しかしながら、私自身には判断不能なことであっても、  キリストが神という認識は 一般にはこの地球に生まれた人は全部キリスト教になるべきだという意味合いの認識となってしまうと思いますし、  それは宗教の権威化という「絶対」に似た怖さを生んでしまう種の一つとなる可能性を私たちは忘れてはならないでしょう。

宗教は理性に明け渡すべきものであり、 権威に渡してはならないものと思います。  相対的な表現としては、三位一体論はおわったほうがいいと思っています。

キリストがいなければ、神が愛だということが解からないようにこの存在は出来ていません。  解かるようにできています。 しかもその深さをどこまでもです。

ただ、それを最初に語ったキリストが、 卑近な例で例えれば むかしビーモンがいきなり数メートルもオリンピック記録を更新してしまいその後何年たっても その記録にはなかなか追いつけなかったように、  それがまるで、走り幅跳びでなんと100メートルもの記録を出してしまったかのような人間であることはたしかに思え、(これ、私には、そう思えるとも言っておきますが)

スポーツマンにとっては、やはりこれは神とたとえてもおかしくない世界なのではないかということです。

わたしが、いままで読んだ知識からは、仏陀はいつしか感性教育の暁にて追い越せる地点を見るでしょう。  反論はあるでしょうが、 そういう観点を私は持っています。  でも、キリストについては、 私自身が弱すぎるからにすぎないのかもしれませんが、     なんとも言えないとしか言えないのです。

神は絶対ですが、それは私たちにとっての絶対的差を意味する絶対であり、 それ以上の何かわけのわからない「絶対」ではないからです。

というより、 わたしという人間は、そのように信じれるようにやっとなった人間なんです。



☆>そうでない場合には ロボットは それ自体が ひとから おそわることはない機械であるということを 子どもたちに しっかりと分からせる必要があるように考えます。<

幼児にとって、ロボットがサンタクロースのようなアイドルであってもいい時期があってもいい と思うのですが、 特に基礎教育を終えた段階からは徹底してロボット哲学の論議を深め合えるように持っていくべきかと思います。  しかし、 では、幼児にはロボットとはといいうことのほんとうのことを教えることは不可能かというとそうではないです。  いまCGとかで大人まで 涙を流すロボ君達の世界を曖昧にしてしまっています。    ですので、まずは 大人たちがそのへんは、 理解を深めなおす必要があるかと思います。

言われておらる観点は重要です。  ありがとうございます。 刺激になります。

☆ 少々 革命が不徹底ではないでしょうか。というくだりのコメントは、 これは気がつかさせられることがありました。

まさにこれも「後のものが先になり、先のものが後になる」ことがどこでどのようにあるか解からない この感性教育の世界では、 今有名のな教師100選というのは  間違ってさへいるでしょうね。

もっと広く 情報を常に集めて対応すべきところですね。 

ありがとうございました。

>☆ きぐるみさんの件で ひと言としては 《神は 善悪を超えている》のであって かのじょの伝える神は 善の極致なる存在であるようです。これは 道徳です。経験思考です。非思考ではありません。といったところです。<

この文は、言い回しが難しすぎるのか うまく理解できませんでした。 今風邪引いていて 頭が痛いせいで、考える力がボケねてるせいかもしれませんが。



「エホバ」については、こちらも 時間がとれないという感じですので、それでは論議しても意味がなさそうだという感じとなります。

私の方も ここでの論議としては ここまでとさせていただきます。

投稿日時 - 2008-11-23 15:26:52

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 さて 最後だとのこと 重ねて ここまで おつきあいを頂き 感謝申し上げます。

 今回のご投稿内容に かんたんに触れて あたらしい舞台へとすすむ所存です。
 
 プラトンの善人の話が 新約聖書つまり要するに イエスの種本であるという見解についてですが まづ そうであっても なくても まったく構いません。問題は イエスの場合 その指し示す神は プラトンのごとく 善の極致のことではなく――もしそうであれば 思考の内に捉えられる精神の産物です ですから そうではなく―― 善悪を超えたところの非思考の領域だという意味でした。

 《非思考》は もっと 単純です。無根拠という意味です。理性的な経験合理性にもとづく根拠は いっさい 無いという意味です。(げんみつには 根拠があるかないかが 分からないと言うべきですが)。
 具体的には 神については 分からないと言わざるを得ません。神は何でないかしか 人間にとっては 分かりません。《善》なる概念でもありませんし 《至高の善人》でもありません。そういうふうに分かるだけです。
 神は何であるかは たとえば 愛である / 義である / 遍在する知性であり感性である 等々と定義したばあい それらは 飽くまで 仮りのしるしとして 述べているという意味です。
 すべては 神を代理する表現です。神という言葉も 代理表現です。もっとも中立な言葉は 《絶対》になります。

 ブッダは 人間であるゆえ ほかの人間が その境地を超えることが出来る――このご見解に そのまま 賛同します。プラトンあるいはその描く善人像を超えることが出来ると言うのと 同じような思想情況だと考えます。

 それでは これで ひとまづ 第一幕なり第二幕なりを終えることになるでしょうか。テーダニ カムサハムニダ。

投稿日時 - 2008-11-23 18:24:43

ANo.15

「現代の黙示録」へのそちらの回答(No1)も読ませていただきました。

仏教における“「無限の感性」の世界への謙虚さ”についてですが、それしか言葉では語れていないのに、その奥の世界を絶対視している曖昧さの問題は確かにあると私もあらためて理解しました。

しかし、現実に 仏教もキリスト教も教え(道徳)の文化として巨大な師弟システムの内に存在してしまっていることを考えると、 ぶっちゃけた話ですが、 キリスト者と名のる者が 仏教を批判する形の中では、その肝心の《絶対》への正しい理解の前に、感情的な壁が生まれて 其の理解はかえって遅くなるということも  私はですが考えてしまいます。

純粋な哲学者と、 其の土台は大切にしていても表現者であることに使命を感じる者との違いが その文に現れてしまう現象自体はか仮に越えられないものだとするならば、  そちらの理論の正しさを理解する私のような表現者の役割はなおのこと大きいのかもしれません。

「絶対」という言葉自体が 悲惨な歴史を生んできてしまった人間の弱さを 同じ言葉を使って変えようとしても、 それが本来“そうとうに大きく必要な観点”であっても そのままでは実情にあわないものとなってしまうと思うからです。

*、

個人の感情を越えた地点でも、宗教戦争のような世界をふくめたひどい争いを早く無くしたいという意志が働く者です。

ほんとうに《絶対》ということを理解できる人が増えれば、 相対にすぎない世界の言葉争いの世界は無くなるわけですが、  これこそ、あらゆる組織に寄り添ってこそ其の理解をさそってゆけるもの とも考えます。

あくまで 哲学の論理の世界がしっかりしたものであることは前提の上でのことです。



同じ音楽を聴くにも、大自然と個との関りや、人間との関りの場によって聴きかたの深さが違ってきます。

そのへんの教育体制を根っこから変えてしまうというのが 私の中に芽生えたユートピアです。

まず、大きく言えば、知育自体が感性教育をじゃまするという考えは無く、知育もまた幼児教育において 早期の段階に(頭の柔らかいうちに)基礎教育を終えることに反対ではないです。

ただ、それが受験戦争とかいう競争に知育が巻き込まれるのを避けるべきだという点は 絶対条件とした上でのことです。

競争は遊びの中でこそ習得すべきであり、格闘技やスポーツのよりいっそうの振興をもむしろ幼児の頃から必須とする考えも裏にあったりします。

この裏の考えは、ここでは略しておいて先を進めますが、 其の知育については、  特に理数系が充実すればいいと考えているのです。

それに特化するかわりに、実はそれはPCとロボットがその最大の役割を果たすように 教育環境を整えなおす必要がある。  というのがまず第一点の 巨大教育改革の目玉となります。

簡単に言うと、 世界一の教師のモデリングをロボットとPCにやらせるということです。  詳しくは略しますが、 そのロボットや 有効画面は大量生産が出きるのですからね。    あるいは 世界100に入る教えるのがうまい教師が さらにその技術を検討しあって そこに仕組んでゆく ということでもかまわないわけです。(ここは そのための具体案というのではなくて、 そのような考え方として理解してください。)

そうすると、いわゆる学力の世界に大勢の児童がそれこそ ほんとうの「ゆとり」を手に入れる形となります。( それ抜きの「ゆとり教育」が、しかも受験体制はそのままに行われても効果が無かったりするのは当たり前の話です。というより それは最初から矛盾しています。)

これにより、次の段では 急ぎ学校の死と再生^^が行われます(笑)。

学校という名前が無くなって 遊校となってしまうということです。

学び舎は、人生全体となります。

学校は遊校化していきます。

遊びの深い理解者が よき教師として採用されることになります。

上述の第一の改革にも それをネットコミュニティの力でやってゆくことにいよってお金は極力かからない形を求めるわけですが、  科学実験遊びにしても お金のかかることは実際にはしないですむ方法も考え出し、
あらゆるお金のかからない友好事業をしてゆきます。  

つまり家族という社会単位にしめる教育費の負担の大幅な軽減も同時に求めます。   

これが感性教育の 実質的な最初の土台の部分となるということです。

教育をビジネス化して考えている人にとってはこれだけでは脅威の案となるでしょう。

しかし あくまでそれは総合ビジネスの一部として考えるということなのです。(この詳しい考えも略しますが)

ひとつ重要なのが 教育のホテル事業化です。

世界中の子供たちが 世界中の街や村にホームステイできるようにホテルが中心となって其の役割を果たしてゆくということなのですが、そういうホテル事業と教育のドッキングということです。

中身は、実はこれが 写真革命という形での、最初の「感性教育論」となってゆきます。

ホテルには当然 あらゆる写真機が用意されています。 また“その地の自然や動物その他のあらゆる被写体の知識を持った心豊かな大人”が待機してもいます。

たとえばですが、釧路湿原のホテルならば、その湿原にはどのようにしたら臆病な蝦夷じかを写せるチャンスが訪れえるのか といった知識を深くそなえた現地のカメラマンがすでにおられるとうのが前提だといったことです。

やがて、いつの日かはロボット機能に私たち人間は写真技術を追い越される時が来るでしょう。

そこまで考えての写真芸術の本質とはというならば、 写真は藝術であるよりも、子供たちの感性教育の最もすばらしい道具の一つと考えたほうがむしろ深いとも言えます。 (今の時代ではまだ簡単に言えるることでもないのですが。)

こうして、感性の豊かさへのその過程に、子供たちは映像の構成の世界をどこまでも学んでもいきます。

写真と絵画の本質的違いである、手という不思議な“心と連動した世界”のタッチとシャッターの違いとして正確に理解する  画家にも育ってゆくことになります。

そうした子供たちの新しい能力によって デザインの世界ももちろん大幅にさらに豊かな世界となってゆくでしょうが、   何よりも  私は 次の革命、 絵画革命がここにこそ 起こってくると考えているのです。

あるいは その世界的な規模の感性の変化の流れとともに、一方で、絵は線のタッチが大事だという本質的な教育ももちろん行ってゆくということです。

ここでは 写真という一ジャンルを中心として、それを語っているだけです。

(詳しい中身は すべて略しているということです。)



ここで話を 仏教への疑問のお話にもどして 今回はそれを持って「回答」とさせていただきます。

アメリカ在住のある写真家が しばらく以前、白鷺という昔は日本にも渡ってきたという鳥が おそらく何万羽もいっせいに飛び立つ様子を 一メートルぐらいの大画面に写した写真を見せてくれたことがあります。

その迫力には どぎもをぬかれる想いでした。  それこそあらためて童心にも帰りました。   遠くの鳥達の極一部一部が鴈の三角形を描きつつも全体は まるで偶然のあらゆる変化を示しつつ 一斉に一羽としてぶつかることもなく飛び立つ様の  命の不思議を その見えない糸の荘厳さを その奥の奥に垣間見える空のそれぞれの色合いの変化とともに、写し撮られたその映像は 「こんなの今までみたことないよ」と思わず思ってしまうような感動を私に与えていました。

地球という青い星の大地のすばらしさを 私たちの大地の奥深さを広さをほんとうに知ってゆくのは、これからの世界の子供たちの世代であるはずです。 が、その先に、さらに無限があります。


釈迦が 最高度の安らぎの境地に達し それが揺るぎ無いことは 信頼するとして、 でも彼がそれだからと言って 流体力学どころか 分数も知らなかったかもしれないことを認めないかのような理論を展開するのがおかしいように、   その時代に、映写のすばらしさを少しでも認識できたはずもなく、 ドボルザークの音楽に感動できたわけでもなく、 その意味では《絶対》ではないのだという点を忘れてはならないことは 現代仏教なら明確にすべき時期なのだと思います。

そうでないと、おそらく釈迦への謙虚さという地点すら価値の無いものとなりかねないと思います。



「エホバの証人」も、キリストの言葉ではなくて、仏教哲学やそこからも生まれた教えの世界を研究すればよかったのかもしれませんね。  彼らなら総合仏教研究互助組織を実現したかもしれません。  その組織はそんな感じなのかもしれませんね

☆きぐるみさん については、女性だとは知りませんでしたが、 見解の相違はおそらく私に 判断能力が欠如しているためだろうと思います。

ただ、だとすると、kigurumiさんに関しては《絶対》という概念が必要でないまれな人と思いますが、キリストを語るなら それでは片手落ちだという批判でしょうか?   

そうですね、 彼女の新約聖書創作論については、プラトン主義のコピーとのみの表現は 片手落ちではあるでしょう。   でも私は それは彼女の「演技(ウソ)」と見ているわけです。   あくまで私はですが 彼女の本心はキリスト者と見ているわけです。  これは自信があるとかではなくて、そう感じるという問題ですので、一見解すぎないわけですが。

投稿日時 - 2008-11-22 14:41:36

補足

 arayata333さん わたしの回答歴とのおつき合いを わづらわせ申し上げて まことに 到らない対話者だと思い すみませんという言葉そのものです。(じつは きぐるみさんの件で 今回も あるのですが)。ご回答をありがとうございます。

 まづその過去の質疑応答歴のあるのを ご紹介しましょう。いくつもあります。ほぼ最初に 昨年の五月六月に 次の質問で持ちました。ほかの回答者のを容れて 22件の長いものですが よく問答の経過がわかっていただけるのではないでしょうか。それゆえ あえて ご紹介します。
 ○ 《Q3043372:〈イエスなる人は神なるキリストである〉はゆるされるのですか。=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3043372.html?ans_count_asc=0

 ★☆ 信仰論
 ☆ たとえば 《絶対》の概念を持ち出すことのミソの一つは こうです。
 ○ “「無限の感性」の世界への謙虚さ”という言い回しを持つとき 《無限》と言えば すでに 最終の到達地点を 意識した場合には もちろん そうでなく 暗にでも無意識のうちにでも 知っているということです。そのことが 分かるということです。
 《無限・彼岸・涅槃・絶対》という言葉を持ち出したなら そのとき ただちに ひとは 意識してかどうかを別として 自己がその絶対のもとにあるということを 知っているのです。それが 信仰です。しかも 非思考として生じる心の伸びです。だから 関心を持つことになります。そうでなければ 何のために 勉強や修行をしようと思うでしょうか。
 昔は 《かみ》と言っても 最終の境地のことを知り得たかどうか分かりませんが 今は 数学で《絶対》をおしえるでしょうし 一般に《唯一神》ということが耳に入るようになり これは 《絶対》のことだと 何となくにでも 分かるようになっています。したがって 《絶対》が《相対》を越えてあると 想定したなら ひとは おのれの魂のふるさとを知ったと知るのです。
 日本人は そのあと――つまりこの《〈絶対〉との対面体験》のあと―― もう 放っておくのが 一般です。世界の人びとと交通対話を持つとなれば この《絶対》なる概念は 一般に 用いて おのれの世界観を説明することが ふつうだと思われます。そのために おのれの無神論を 絶対という概念のもとに位置づけて 説明するという課題があります。日本人と同じく 少なくとも日本の ブッディストは この絶対観をあいまいにしておこうとします。

 ★ 感性教育 その具体的な措置などの提案
 ☆ これらは 専門家を交えての井戸端会議で 練っていくとよいと考えます。実践には実践の課題や手法があると思います。
 一点 技術的・事務的なことで 反論を持ったのは
 ★ PCとロボットがその最大の役割を果たすように 教育環境を整えなおす必要がある。 
 ☆ のは 指摘されているとおりに 理数科の問題であり それに限るのだと思います。あるいは あくまで 補助装置であると思います。そうでない場合には ロボットは それ自体が ひとから おそわることはない機械であるということを 子どもたちに しっかりと分からせる必要があるように考えます。
 ☆ 理念の問題として 抵抗があるのは
 ★ 世界100に入る教えるのがうまい教師が さらにその技術を検討しあって そこに仕組んでゆく
 ☆ のは 少々 革命が不徹底ではないでしょうか。つまり これまでの教え方でうまいことと これからうまい教え方をするそのこととは 同じであるかどうかです。《検討し合って》ということですが それでも すでに 従来の教え方の効果が大きいほうが これからも 有効であろうと前提しているように思われ それでいいのかと抵抗を感じましたが いかがでしょう?

 ☆ エホバの証人は 言いたくありませんが 自分以外のキリスト教界を ばかにしていて 一般に 逆からも 相手にされていないのが 実情です。もちろん 問題は 中身ですが そういう実態もあるということを お知らせします。そういう実態のたぐいのことは ほとんど わたしは これまで話題になっても 素通りして来ましたが きぐるみさんの件で やはり 見解の相違があることを発見して 言っていく必要もあると感じたところです。――エホバの証人は 例の 輸血を拒否するという教義を守る宗派です。

投稿日時 - 2008-11-22 18:15:10

お礼

 ☆ かたて落ちは 差別用語だと言います。どう扱うか どう対処するか 考えるところだと思います。わたしの方針は 無難な行き方で 済ませるところは そうするというものです。この場合 使いません。

 ☆ きぐるみさんの件で ひと言としては 《神は 善悪を超えている》のであって かのじょの伝える神は 善の極致なる存在であるようです。これは 道徳です。経験思考です。非思考ではありません。といったところです。

投稿日時 - 2008-11-22 18:20:26

ANo.14

「エホバの証人」について、詳しいことは知りません。 「ものみのとう」にしてもです。   

ご紹介のURLの部分の質疑はすべて見させていただきました。

そちらは「エホバの証人」の世界について詳しいようですね。

“信仰では無い”とのこと。  bragelone様のような方が見ればそのように見抜けてしまうのでしょう。

「信仰を正しい意味での無限の謙虚さ(無限ですから無思考となるかと思います。)を 人間の良心の知恵が発見すれば それが信仰」という定義については、 bragelone様はどう思われますか?

私はそういう感じで信仰という事を定義しているようです。  そしてそれならば私は確かにキリストを信じていると言えてしまうと思います。

そのへんがキリスト者なのでしょう。

おそらく「エホバの証人」についての考えは そのへんからも信仰とは呼べない段階の思索の世界と言えるのだと思います。



けれども、kigurumiさんに関しては 違う見解を私は持っています。(見解であり 実際についてのすべては神様しかまったく解からないのでしょうが、 推理の浅い深いは、見解の中にもあるかと思います。)

>都合が悪くなると 姿を消して行かれますし。――欠席裁判ですが ここまで言っておけるのは これまで同じことの繰り返しだったからです。< と言われている部分についてですが、

これは 善の行為を理解してるからだと思います。  できるだけ右の手でしていることを左の手にさへ知らせないように ということを考えるのではなくそっと実践しているのだと思います。

純粋で頭の良い方だと思います。

感性は 唯一この有限な生物の世界で、無限を垣間見せてくれる世界です。

私の場合は そこから神を信じないわけにはいかない、というか、それがいつしか自然になってしまっただけです。  無限なのですから 後は信じるべき、 あるいは無限だという理性が働くことが出きるまでの深い感性の記憶が自分の内にある限り、信じるのがあたりまえとなってしまっただけのことです。   それはけだし、表象自体の奥が無限ということでもあるのですから、経験や体験自体の奥にあるものです。  表面的な印象(演劇では そのような捕らえ方がその本質的な捕らえ方であるはず)からこそ、確かに ドラマの配役の感性の全体像や特質を直感できたりします。  が、それはその配役は そのコツさへ捕まえれば演じることが出来ますよということにすぎません。    あくまで表象は その奥の無限の可能性の世界をとらえることは出来ないのです。

そうそう kigurumiさんのお話でしたね。

おそらく彼は 「十字架上のキリスト」の意味をもしかしたら私よりも理解してるというのが あくまで見解ですが、私の見解です。

ただし、 左の手にさへそれを隠している方なのです。

宗教についても 信仰についても その権力の世界の怖さを ありとあらゆる手で表現して、去って^^、行きます。

私も 「エホバの証人」にしても、「カトリック」にしても、 問題はその組織にあると思います。  その組織を哲学的に深めさえすれば(私の頭の中では、最近、そういう哲学がアカデミックな哲学の歴史に育っているのか疑問になってきていますが、…) おのずと それは信仰の段階にまで指導者達がたどりつくという考えです。

そのためには、一つにはですが、私たちは権力の怖さについては、あるいは権力欲の怖さについては 知っておく必要があると思うのです。 それを人の批判を省みずに、黙って実践されてる方がkigurumiさんだと思います。  彼はこのような評価も求めていないでしょうけどね。(でも、孤独は誰にとってもつらいものですから、全く求めていないとも言えないで笑。)



吉本隆明は 庶民的な例えも使う方なのですね。  私の場合は、パチンコ屋の店員だった時もあり、 わかりやすい例えだとおもしろく読ませていただきました。

感性の問題も、 問題点として、重大な観点は 確かに、

>プロとアマとの違いを分析していて これは 権力闘争や資本主義的行動の問題にかかわっているように考えました。<

と言われている部分に大きく関るとわたしも思っています。

やはり、権力、あるいは権力意識と関ってしまっている点が問題なのだと思います。

資本主義社会のプロ意識が 正しく、最後の最後まで“その商品の人にとっての生涯価値”に対して責任を持つ意識 とは成っていないことに問題があるともいえます。   儲かったり、クレーム処理さへうまくこなせれば、後は責任は果たせたとしてしまう浅さと、 がゆえに、 真のフロ意識がその道途上にて、人間の権力欲のほうに負けて行く姿 が問題なのだとも言えそうです。

そこに藝術の世界までが、 同じく負けてしまっている?  とうのが私の中で、大きな大きな疑問となって浮かび上がってくるのです。

吉本隆明とう人は知的な人であるだけでなく、やはりよほど純粋な人でもあったのでしょう。  遊びの世界にても「単なるプロ(それで生きていける)」ことに後ろめたさを感じた様子が描かれているわけです。

藝術の孤高性とかを認めないというのではありません。 でも孤高性がそこにあるのならばあるほどに、 それは本来そのプロということは、その孤高性をより多くの人のものにすべくあるゆる教育法を学んででもまたあるゆるジャンルの表現法を学んででもその努力をすべきものと考えます。 

その責任を放棄して、それは絵なら絵の教室、歌なら歌の先生達にまかせればいいというのは、 これは本来アマチュアだと私は思います。  

もちろん、それが困難である場合は多々あるでしょうが、《その努力こそが実はその結果よりもそのプロ性、責任性を意味しているはず》なのです。  (《 》は、カッコ内の重要性を強調する意味で使っています。)

だから ピカソに私は批判的だということです。   彼がプロ中のプロと言われている点においてです。   同じく音楽の世界ではレイ・チャールズも お金持ち達からそのプロ根性を絶賛されていますが、 其の地点は あくまでおかしな話だということです。

その作品でも商品でも 欲しい人がいればビジネスは成り立つということ自体を否定しているのではないです。 お金を出してでも欲しい人がいるということをです。 それによってマッチングの世界が成り立ち、商売の世界が回っていて、その中に藝術もおかれてしまっている限り、藝術価値も其の中に巻き込まれてしまうというのも解かります。

でも、まず簡単に言えば、心までもそれに巻き込まれてしまうのは、あるいは利己的にわざと巻き込まれるのは、 藝術の可能性の世界をこの存在に贈ってくださった神への冒涜だということです。

哲学者はそれを見抜くべきだと思います。



なかなか、本題の感性教育大改革のお話に入れませんが たしかに重要な点の論議となっています。   ここはゆっくり進むことにしました^^。

ピカソは、 ある人が「いくらでもお金を払うから 絵を描いてくれないか」と言った時、 さらっと3秒で何かを描き「はい、これは200万円です。」と言ったそうです。  「 えっ でも いくらなんでも たった3秒で、200万円とは高すぎる」とその金持ちは言いましたが、そこをピカソはすかさず「いや、3秒ではない。これは私の歳プラス3秒もの時間があって今ここに描かれたのだ」と言い返したそうです。  もちろん、さらっと描いた絵が、何年もかかって描いた駄作よりも優れている場合も確かにあります。 しかし、どんな画家であれ、 歳の重みがまったくない画家はある意味いないとも言えます。

つまり、ピカソは 説明の責任を放棄しているわけです。  自分の絵に孤高性があればそれで良しとしてしまっているわけです。  これこそ資本主義社会の「プロ(吉本隆明が 意識した世界のプロ)」の手本でさえある姿ということなのでしょう。

でも、其の世界は、おそらくこれからの資本主義社会にては 滅びてゆくと私は思います。  死んで行くと思います。  生き延びられないと思います。     

本物と言えるプロ達が やがて登場してくるだろうからです。  そう思いますし、 そのために私は急進的になっています。

以上です。

投稿日時 - 2008-11-21 20:48:01

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 「信仰を正しい意味での無限の謙虚さ(無限ですから無思考となるかと思います。)を 人間の良心の知恵が発見すれば それが信仰」という定義について 
 ☆ まづ 《信仰》の定義については
《Q4492916:現代の黙示録=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4492916.html?ans_count_asc=20》のNo.1に投稿したところです。

 arayata333さんのこの定義については 非常に細かく見て こう考えます。
 1.《無思考》は 《思考し得るが しない》という意味にも取れますので 《思考を超えている》という意味を出すために 《非思考》と言おうとは しています。
 2.《無限》は すでに 《絶対》という概念と同じです。
 3.《謙虚》は 人間の思考がかかわる思惟であり振る舞いであり その経験を積んで得られる境地のことです。
 4.そのように倫理や人間の境涯を 理性と感性との努力によって 体得するという人為の極致は ブッディスムの思想形式だと思います。
 5.そのとき たとえば 《絶対ないし涅槃ないし空観》にたどりついたと言うのは 非常にあいまいであり 微妙だと考えます。
 6.《たどりつく あるいは 実現する》というのは 《非思考の絶対を 思考で捉えようとしている》はづです。これは 信仰ではありません。あくまで道徳なのだというぶんには 何の問題もありません。
 7.《人間・良心・知恵・発見》 これらはすべて 人間の経験的な思考であり行為であり相対の世界に属します。
 8.ですから 相対の世界を超えた領域に対面したという想定から 非思考という状態ないし態度が生まれるのですから その信仰という原点に立って 《人間としての良心と知恵を活かし 謙虚の姿勢を得て行く》という生の動態が生きられるのだと思いますが いかがでしょうか。 
 ★ きぐるみさん
 ☆ については 見解が百八十度ちがうようです。非思考については――ちなみに 女性 だそうです―― かのじょは いっさい 言っていませんし その認識を述べたこともありません。《神は 法則だ》という世界観だそうです。微妙ですが 要するに 《経験法則》のことであり したがって 《神は 経験領域の科学的な つまり思考に納められ得る科学思考的な因果律》だということです。ですが 経験法則を超えたところに――つまりたとえば単純に言って 光速を超えたところに―― 絶対は 想定されるものです。そういう意味で 非思考です。無神論であるのは 何の問題もありませんが 非思考じたいを 知らないはづです。

 ★☆ 藝術もその孤高性から抜け出て 一皮剥けなさい
 ☆ について おもしろく読みました。報酬という点では プロに徹するほうが 安定するでしょうけれど。
 
 あたらしい論点は 出しません。

投稿日時 - 2008-11-21 23:18:20

ANo.13

こんばんは、brageloneさん。

***********************************************************************************

江藤淳が こんなことを言っています。掲げておきます。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だから 個人的な欲求不満は われわれが皮膚で仕切られた個人である限りは その範囲で処理すべきことであって 一般的社会正義に解消すべきものではない。
 もし政治をやろうというなら その政治をやろうという決意のもとに立って 踏み切らなければならない。つまり正義のためにではなく 進んで悪を行なう決意がなければならない。それは人間が社会生活を通じてでなければ存在できないのだから仕方がない。
 人間の共同生活を支えているのは いわば生の根源的な力に根ざしている暗い衝動でしょう。政治は この力に触れなければ 動いていかない。そのためには 常識的に考えたら 嫌なことでもあえてしなければならないだろうと思う。だからスターリンなども あながちに排斥しようとは思わない。それは一つの様態だろうと思う。
 これは実は家庭を治める上にも通じるのです。家族関係は一面で倫理だが他面では政治ですから。
 (前掲の吉本隆明との対談)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうすると たとえ どんな悪でも すべて情報公開すべし となるでしょうか。隠しているから おもしろくないし ちっとも 良くはならないと言えるでしょうか。

 どうでしょうね。
 あるいは もし《復活》というのならば それは 
 ▲ 人間の共同生活を支えている・・・いわば生の根源的な力に根ざしている暗い衝動
 ☆ を 明るいものへと どんでん返しすることも 関係しているかも知れませんが。

***********************************************************************************

この文章の中の

ここの箇所

● もし政治をやろうというなら その政治をやろうという決意のもとに立って 踏み切らなければならない。つまり正義のためにではなく 進んで悪を行なう決意がなければならない。それは人間が社会生活を通じてでなければ存在できないのだから仕方がない。

ここで出てくる“悪”ってなんだろう?と、しばらくつらつら考えてみた。

江藤氏といえば、1999年に自殺されている…。

『知恵子抄』が、ふと浮かぶ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46669_25695.html
“妻の介護”

【高村光太郎】
http://uraaozora.jpn.org/takamura.html
【 あの人の人生を知ろう~高村光太郎 】より一部抜粋
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/koutarou.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
死の3年後、光太郎は30年に及ぶ2人の愛を綴った詩集「智恵子抄」を刊行
した(58歳)。
智恵子の死後、日本は太平洋戦争に突入。文学者や芸術家の大半が戦争に協力していくなか、人道
的詩人であったはずの光太郎もまた、戦意高揚を目的とした戦争詩を作ってしまう。終戦後、ほとんど
の知識人が「時代のせいだった、仕方がなかった」と活動を続ける中で、光太郎はこうした態度をよしと
せず、自らの戦争協力を深く後悔し、自己批判の為に岩手県花巻郊外の山間で、62歳から69歳まで
7年間の謹慎生活に入る。そこは周囲に人家のない孤立した山小屋で、たたみ三畳の小さな土間と
自分で切り開いた畑しかなかった。その地で、心の中に生きている智恵子と暮らした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『智恵子抄』は、智恵子の死後に書かれたもの。
後に高村光太郎は謹慎生活(隠遁生活)を送っている。
謹慎生活(隠遁生活)を送ることになった理由が“自らの戦争協力を深く後悔して”とあるが、それが本当の理由だろうか?理由の一つではあったことではあろうが一番大きな理由は『智恵子抄』を世に出してしまったことではなかったか。もの書きの性とでもいうのか、その身の洗い浚いを吐き出すことによって作品はリアリティさを増す。いまはいない智恵子、智恵子の気持ち(人権)よりも自身の気持ちのままに筆を走らせた。二人の秘め事として留置くことを、智恵子を知らぬ人にまで智恵子を知らしめてしまったことへの自戒にあったのではないだろうか。結果的に『智恵子抄』は社会的に評価を受け、高村光太郎の名声はさらにあがり妻の死によって生かされる。人の死によって生きる己が生。それゆえ常に智恵子の影に怯えていたのではないだろうか。翻って、江藤淳は『妻と私』を書き終えた後、自殺を図っている。高村光太郎と江藤淳、妻を失ったときの年齢はそれぞれちがうけれど両者共、もの書きを業としている。そして、妻のことを書くことにおいては共通している。妻の死後、生きながらえた者と、妻の死後、その命を自らの手で絶った者がここにいる。江藤淳は、自身の命を捧げることを以ってして“妻のことを書く”ことへの赦しをいまは亡き妻に乞うたのか。もの書きの性、書かずにはおれない。書かずにはおれないものはなんだったのか?“介護”という現実だったのだろうか?それとも、性の衝動だったのだろうか?


人が人をおもえども、おもうことがときに人を傷つけてしまう。


『句集 寒冷前線』吉本和子著 深夜叢書社 あとがきより一部抜粋
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
結婚して間もなく夫から「もし、あなたが表現者を志しているのだったら、別れたほうがいいと思う」と云われた。理由は、一つ家に二人の表現者がいては、家庭が上手く行く筈がないという事であった。吃驚したけれど夫は既に、二冊の本を自費出版していたし、ちょっと辛どい恋の後でもあったので、友人とも相談して「ま、子育ても表現のうちか」と納得することにした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

吉本隆明は、吉本和子から文筆という活動を休止させている。文筆活動の休止は、表現の自由の拘束とも見えもしようが、そうではないように思う。和子いはく「ま、子育ても表現のうちか」と。ある意味、女はしたたかである。禁酒法時代ではないが、表現はなにも文筆で表すものばかりではないことを心得ている。無くば無いなりに器用にやりくりをしながらこっそり表現を模索。ものを書くにも身の内の蓄えがないことには実のあるものはでてこない。あたためにあたため70歳を過ぎて出した句集は初々しい。仮に結婚当初から文筆活動を続けていたならば70歳という年齢にさしかかったとき、この初々しさを保てていただろうか?流行に任せ誰も彼もが書き出版すれば、書店のスペースはきまっている、誰に読まれることも無くお蔵入りする書き物は後を絶たない。「もし、あなたが表現者を志しているのだったら、別れたほうがいいと思う」という言葉の中には、生存競争激しい過酷な文筆という闘う場に女を立たせたくはなかったんじゃないのかな。その女がましてや妻ならばなおのこと。男が女を守るものと、そこに男の存在意義をもつ男であったからではないだろうか。

【男女雇用機会均等法】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%87%E7%94%A8%E3%81%AE%E5%88%86%E9%87%8E%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E7%94%B7%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%9D%87%E7%AD%89%E3%81%AA%E6%A9%9F%E4%BC%9A%E5%8F%8A%E3%81%B3%E5%BE%85%E9%81%87%E3%81%AE%E7%A2%BA%E4%BF%9D%E7%AD%89%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%95%E5%BE%8B
〔変遷〕
1.1972年(昭和47年)7月1日-「勤労婦人福祉法」
2.1986年(昭和61年)4月1日-「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」
3・1997年(平成9年)10月1日-「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女性労働者の福祉の増進に関する法律」
4・1999年(平成11年)4月1日-「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律」
5・2007年(平成19年)4月1日-改正法施行

男女雇用機会均等法の促進から、男女の働きにも変化が生れた
夫婦においては、共働きの家庭がその数を増す
外で働くのは男のみにかかわらず女も外へ働きに出ることが常態化
男の存在意義が薄れる
家を守る者がいなくなる
女の存在意義が薄れる
男女の性差がどんどん希薄化していく

これほどまでに、女が外へ働きに出るようになったのは…
倒産、リストラ、生活苦…etc
働きに出らねば生活が立ち行かなくなる現実がそこにあるから

一つ屋根の下に二人の稼ぎ手、所帯主は一人

投稿日時 - 2008-11-21 00:20:24

補足

 littlekissさん ご投稿を寄せていただきありがたい思いです。
 まづ 《Q:未来論》のほうで ご文章から勝手に引用したことを 事後的ながら おあやまり致します。すみませんでした。

 ▲ 人が「緑色の太陽」を画いても僕はこれを非なりと言わないつもりである。
 ☆ と高村光太郎が書いています。これは 《サイト【 あの人の人生を知ろう~高村光太郎 】》の中で
 ▲ 当初の光太郎の詩は、「一切が人間を許さぬこの国では/それ(近代的自我)は反逆に他ならない」と、社会や芸術に対する、怒り、迷い、苦悩に満ちたものだったが・・・
 ☆ とあるところを知りたいと思って 検索した結果です。
 ▲ 高村光太郎:《緑色の太陽》~~~~~~~~~~~~~~~ 
  http://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46507_25640.html
 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている。従って、芸術家の PERSOENLICHKEIT(人格)に無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味において、芸術家を唯一箇の人間として考えたいのである。その PERSOENLICHKEIT を出発点としてその作品を SCHAETZEN(評価)したいのである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とも言っています。ただし この文章は それほど全部を読んでおかねばならないとも思えません。《サイト【高村光太郎】》における《智恵子抄》での自己解説でも述べていたかと思いますが かれの当初の態度は かのじょが仕事をするとなれば そのままに任せたというようだっと まづは 確認するためです。
 それでも 家庭政治がうまく行かなかったとも言えるでしょうし それだからこそ 智恵子が家事を優先させるようになったことは 光太郎に責任があるとも言えるのかも知れません。
 光太郎について それ以上の詳しいことは知らないので そしてまた 江藤淳の場合は かれが 右旋回してからは わたしはよき読者ではなくなったことより 晩年のことも ほとんど知りませんので これ以上は いま 詳しい議論には伸びません。
 提起されている問題 すなわち
 ★☆ 光太郎の戦後の山奥での謹慎生活や 江藤淳の妻を送ってからの自殺
 ☆ の事例は 要するに 《家庭政治における悪とその共同自治》の問題だという見方を提出されてもいるわけですが これについては すべてを端折って 次のようにわたしは考えます。
 ○ 男は 子ども時代に母親に面倒をみてもらって 世の中は まったくうまく行っていたという経験があり たぶん 無意識のうちにもその記憶が なにかと勝って 甘えたがる。
 ○ したがって 出来ることなら 家事にかんして 妻に そういう母親の役をしてもらいたがる。
 ○ 初めから 配偶者が自分の仕事を持っていたなら――または 家庭生活の途中で 仕事をしたいとなれば―― あとは 家庭政治は どこまでも 話し合いによって 役割分担とする。
 
 ☆ 吉本隆明とその妻とのあいだに どういう会話があったか知りませんが 互いに合意を得たのであれば それに従ったということだと思います。それ以上の 
 ★ 新鮮さ
 ☆ だとかは そのとおりなのかも知れませんが 上の考えから行けば 少々うがち過ぎであると思いましたが どうでしょう。

 ▲ 各自は 能力に応じてはたらき 労働に応じて報酬を受ける。またさらに 能力に応じて働き 必要に応じて受け取る。
 ☆ これは おそらく 人間の計画や管理によっては 達成され得ないと考えますが 或る種の理想です。しかも 現実には この未来社会へ向けて 
 ★ 【男女雇用機会均等法】 もしくは 男女平等
 ☆ の問題が 前に課題として 横たわっています。いまのところ 話し合いで決めていく としか わたしには 勉強不足で言えない状態です。
 
 ★ 男は女を守るもの
 ☆ となるでしょうか。つまり 
 ○ 男は 連れ合いに 甘えたがる。
 ☆ というところに対してです。

投稿日時 - 2008-11-21 14:16:46

お礼

 ★ 人が人をおもえども、おもうことがときに人を傷つけてしまう。
 ☆ くだんの事件を放っておいた人をおもうばあい あぁ そうか と受け止めるのが おもうことだとおもいます。
 受けとめたくないというのでしょうか。
 おもったのだから 感謝せよということでしょうか。

投稿日時 - 2008-11-25 12:36:28

ANo.12

◆「聖書で聖書を読む」は、解かりやすそうですね。  ありがとうございます。

ネットでの著作物の無料購読システムには、いろいろ難しいところがあるようですね。   それこそ、私有財産制の生み出した感性とともにはそれを越えた情報化の波はいきなりは起こらないのでしょう。

図書館や出版社側の情報公開の努力も課金性(その収益を出版社や著者に還元する)という形のものを模索しているようです。

グーグルは、それを越えた知の共有化を目指しているといいますし、アメリカではそのへんが、むしろ進んでいるとも聞きます。

昔 ビルゲイツがマックに対して、「その新技術は公開すべきだ」と迫ったことがありました。   他社に対してなのにすごい抗議魂だと思いました。   

もちろん「公開したほうが見返りとしれて得られる協力からの利益の方が  これこれこういう具合に大きいですよ。 」という数字を示してのアドバイスでもあったのですが、  その中で「 それに、社会的にも、それだけの技術の公開には意義が大きい」という意味の説得もありそこに私は面白みを感じたのです。

利益追求の資本主義の会社、しかもアメリカのちゃきちゃきのそれに対して、社会的な正義を求める。 しかもしかも世界一の金持ちになった人が。  なるほど、アメリカという善悪極端な国にては、情報公開に関しては善に傾いたわけだと いう感想を持つところです。

しかし、聖書は神のもの、あるいは神の心のもの、という感覚からは、これが私有財産制とともにある点が引っかかってしまったところです。

昨日、エホバの証人でしたか その信者のような人がパンフレットを配ってきたのですが、 その内容の中のたしか「6つの疑問に聖書は答えている」という記事の中の(哲学的に答えとなっている文はひとつもありませんでしたが^^)「神は私たちを気遣っておられるか?」といった疑問には疑問自体にあきれてしまいました。     

でも、哲学者のほうでも 神が一番苦しんでるとか その当体だとか、一番ミゼレーレと泣いている存在だとか、いう論議を聞いたことが無いですね。    これでは、 しかたないですよね。

偏在という言葉はあっても その意味こそ重要なのに哲学者がまともに考えてこなかったのなら、盲目的な信仰者が そのような疑問?を持ってもおかしくないですからね。

むしろ、私たち哲学者は、 今は、エホバの証人にしろ 「ものみのとう」でしたか、 そういう集団にたいしても 寄り添うように理解もしてあげるべき時かとおもいます。    これはその盲目性の怖さに目をつぶるということではないです。  むしろ、最も早く、 宗教の中のその「恐ろしい」世界を破壊する方法としてです。

解かってあげ、寄り添ってあげる、 これこそ力だと 最近より強く思うようになりました。

これ抜きに 感性教育の革命も無いですね。

* 

キリストの十字架に意味があるならば、とあらためて考えてみたのですが、 それが やはり私たちとともに苦しんでいるということをキリストは最後に示す必要があったということだと思います。

寄り添う心の直感、あるいは《息吹》、 考えてみれば そのへんをいつもbragelone様から気づかされていたところです。

《無思考》の意味合いが今一よくわかりませんが、 そういう関係性の知を超えた世界というか 人間性の良心の世界のことだった、という感じで受け取らせていただきます。

それがキリスト者だというふうにです。

夏目漱石も キリスト者だったのでしょうか^^。  かくされた形としてはそれが真実なのかもしれませんね。(ニセオコリザルより)



私の考える「感性教育」の革命の話は、たぶん面白いので 続けますね。

なかなか 進みませんけど^^。

投稿日時 - 2008-11-20 08:00:51

補足

 arayata333さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 最近 朝寝坊があります。昔は 寝坊しようと思って遅くなったのですが ここ二週間くらいのあいだで 何回かは 知らずに寝坊しています。

 吉本隆明と江藤淳との対話は 主題を互いに煮詰めて 非常に深まっています。もう四十年近く前のものです。
 今回も その一端をご紹介して さらにその展開をこころざしたいと思うのですが。吉本が プロとアマとの違いを分析していて これは 権力闘争や資本主義的行動の問題にかかわっているように考えました。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 僕はかつて スマートボールの景品で食ってた時があるんですよ。失業時代にね。その時 これは方法は簡単なんだけれども ただ どうしてもプロになりきれない最後の一線というのはあるんですね。そして それはやはり屈辱感ということに関連するわけだけれども。
 結局最後は 自分の方法で一番よく入る台というのは ある店によってもうすでに決定的に決まるわけなんです。だから 客がだれもいない 開店直後の時期に すーっと坐れば それはもうプラスなんですよ。利潤なわけですよ。ところがそこにパッと坐ることがどうしてもできないわけです。そのできないということの中には あん畜生また来やがったという様子をされはしないかということ。それでも素知らぬ顔をしていればいいわけで 自分自身でつくりあげた屈辱感であって 案外店のものはどうでもいいと思っているのかもしれないですけれども 素早く所定の場所 ここなら完全におれの方法でやればプラスなんだという台へすーっと だれもまだ客がこない時に行けばいいわけですがね。
 それができるか出来ないかということが プロであるか アマであるかということの分岐点だと思うのです。そして僕は どうしてもそれができなかったんですけれどもね。できなかったというのは 善悪 二つの意味があるので あんまりよくないことだと言えばよくないことだと思うのです。つまり そこまで出来ないくせにそれで食おうとはおこがましいじゃないか という意味合いもあると思いますけれどもね。
 その場合に あえてそこを耐えれば 平気な顔をしていれば スマートボール屋が お客さん いくらか落とし前を出しますからご遠慮下さい と言ってくるか だまってやらせるか どちらにしても利潤なわけですね。そこまでいけばプロなわけです。ところが どうしてもそこは限界だというふうになりまして プロになれなかったな ということがたいへん後悔でもあるんですけれどもね。
 なんかそこの屈辱感というのは 己を低くしなくてどうして王道に達することができようか というようなふうにも思えますしね。しかしこれはそこまでやるのが重要であるのかという 一面ではそういう感じもありますしね。そこが僕なんかの たいへん関心をもっているところですけれどもね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 引用をここまでとして あとは バトンタッチとしたいところです。感性は 何を求めているか。

 ★ 情報公開 図書の開放
 ☆ なるほど 私的におこなう場合もあるでしょうし 公的におこなう場合もあると思いました。わたしも 剽窃でなければ 自由引用でよいと思うのですが。

 ★ エホバの証人
 ☆ は おわかりのことと思いますが どうも 会としては 信仰とは別であるようです。聖書研究会ならびに生活相互応援活動の集まりだと考えます。《Q4074250:キリスト教とエホバの証人との違い= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4074250.html》No.5&7が わたしの回答です。ちなみに 信仰とは違うという意味〔だけ〕では きぐるみさんの出される見解は そういうことのようですね。いえ 信教・良心の自由を認めた上でなら いいんですけれど そもそも《信仰》はないという立ち場であるようにしか受け取れない場合が しばしばです。都合が悪くなると 姿を消して行かれますし。――欠席裁判ですが ここまで言っておけるのは これまで同じことの繰り返しだったからです。

 ★ 十字架上のキリスト
 ☆ 人間イエスは おそれもあったでしょうし 望むところではなかったでしょう。それでも 神の子キリストとしては もとより 人間イエスとしても みづから 勝手に その木に上ったのですよ。
 自己の存在や他者との関係性を消滅させたなどというブッディスムまがいのことではなく そうではなくて 自分勝手に はりつけになったのですよ。そうでなければ 無償ではありません。

投稿日時 - 2008-11-20 10:56:51

ANo.11

★新約聖書のオンライン検索、ご紹介くださりありがとうございました。

でも、これですと、すでに聖書をもっている人やよほど箇所とかを覚えている人でないと使いづらいですね。   

やはり 新約聖書だけは買っておくべきかと思いました。



その中の「聖書とIT」の記事には、疑問が沸きました?

普通、せいぜい50年程度が“著作権の範囲”ですよね。 しかも聖書という神の言葉、あるいはそれに等しいような深みを持った言葉を、いったい誰の著作権としてしまったのでしょう?    出版社がビジネスのために? カトリックがビジネスのために定期的に?    推理も出来かねてしまいます。

それと、これですと、ブログで熱心な人が聖書を写したとしてもそれは著作権違反で罰金とかが取られることになりそうですね。

もし私にHPを作れる力があったなら、新約聖書は その解説とか私の解釈とかも入れて、わたしなりのコンコルダンスも作って 誰もがすぐ参照できるようにしたいところ、それは 世界的に法律違反なのですね。

キリストがそれを知ったらどう思うのでしょうね。 ???

また、

これに対して 誰もアウトローにならないのだとしたら、 キリスト教徒って なんという“飼いならされた羊”なのでしょう。  ???



「衣食足りて礼節を知る」における 衣食足りた状態における優れた礼節への可能性はもちろん大きいです。

欲求7段階説の 7段階の自己実現欲求、 つまりお金持ちになれた時の自己実現欲求から自己実現へいたる道の可能性も大きいと思います。

問題は けれども その可能性について、具体的な話が両サイドから聞こえてこないことにあります。

そのへんもまた “感性教育の遅れ”と関るという感じで私には受け取られてしまうということです。



まず、そちらのNo9へのコメントにありました、次のアドバイスにしたがって「感性教育」について書いていきたいと思います。

>教育というよりは その理念や基本思想を 解明・説明していかれると よいかも知れません。<

確かに教育というのであるならば、「生涯総合文化教育」と言ったほうが具体的であり適切かもしれません。   感性は、多元的にどこから入ってもその道があり、すべてはやがて有機的に相互性を高めあいつつ 進化してゆくと思っているからです。

しかし、基本は「感じる心」です。   

「今見てる星は 何億光年もの遠いかなたからそんな時間を越えて地球にとどいている光なんだよ」と言われても 一般の私たちにはその実感は起こらないでしょう。   でも それなりに、真剣にそのことを考える人には誰にも それなりの「驚く」心が生じます。     

確かに その時、その時空自体 壮大すぎる世界なのですが、それを感じる心が、この大地に存在しているという  受け取る側の存在への「驚き」とかは、ふと忘れられていることが多いでしょう。

そして、感じる側、受け取る側の 心自体を追求する人は少ないのでしょう。

しかし、これこそがほんとうは、すごい世界の正体なのです。

むしろそれ抜きに、宇宙がどんなに広大であると知ってもそれは単なる図と変わりません。  その反対に、雲を見るだけで その広大な空間の広がりに、荘厳さを感じて感極まる心、 それがやがて赤くそまり、流れてゆくさまに 静寂の深さと安らぎを至福と言えるほど感じる時もあるでしょう。 感じる側の心にはです。

では、 生死のあるこの弱い生物の中にて、その「感じる心」とは何なのか?

私の死と関る経験の世界では、 落下による一瞬の「逆さまの景色」の後
気を失ってしまったという、 頭の打ち様にによってはそのまま その「景色」を最後にすべてが消えて土に帰っていたかもしれないような出来事もあったのですが^^、

そのまったく逆に、 肺胞が一つ一つつぶれてゆく じっくりとした死ののた打ち回りの世界も体験しています。

右の肺胞が全部つぶれ、左の肺胞があと少しのときに、医者の「あと三日の命」との宣告も 私の意識は聞いていました。

そんな中の意識にては、 死とはすべての感覚が消えてしまう世界。すべての愛情、人のぬくもりさへも消えてしまうまったくの孤独の世界。 どんな精神すらも消えていってしまう世界と 思い悟らされた世界でした。

(この世界の真実については、それ以上は書かないほうがいいでしょう。)

ともあれ、そういう体験をした人にとっての 生死観は、時として絶望的です。  

でも その絶望のかなたにこそ希望がありました。

簡単に図で書くならば、 死は 円です。 難しい禅問答の円ではなく^^、 その中に 感覚も思索も 知も情も意志も、意識のすべてがあり、その円の外側には何もありません。

最後に、まるく口を開いて息を引き取るその口の形みたいな感じです。

ただし、私たちは、いえ、孤独のうちに「わたし」という意識存在は、「謎」から生まれています。  そしてその「謎」へとその時に、帰ってゆくのです。

新約聖書には、その「謎」が 愛であると解かれています。  あいかわらず本当は「謎」の言葉です。   神の知性の遍在性、 その人の意識と一体化している存在であることを示している何かであっても、それを捕らえるには自分が少しでも「愛」をつかまなければ どうせわからない世界とも言えます。

では、どうしたらそれを捕まえることができるのかについては、まず端的に語られてるのが新約聖書では、「子供のような心にならなければ天国に入れない」という意味のことを表現しているキリストの言葉です。

人類全体が そこへの道を しかも今度こそ 子供みたいに弱い状態ではなく、もはやゆるぎなく(もはやゆるぎなくです。)素朴な子供のような新鮮な心に立ち返ることをめざして歩んでいるようなものです。

その誰も が歩んでいる その道、仏教徒ならば無心への道というのでしょうか?  その感性の道(知という意識は、それ抜きには“たんなる図のお遊び”となるというのは 死をたいけんしたものには大げさな言い方ではないです。 意志ももし、それを抜かした意志であるならば、ロボットと似てます。) あるいは感じる側の世界の道、  別に太陽信仰というのではなくて、太陽の光のほんの小さなさまざまな色合いに感動する世界、 緑に、 たった一枚の葉っぱに、それに降り始めた白い(雪)世界に感動する側の世界、    この世界は、 けだし、“円では囲まれていない”ということにやがて気がつく世界があります。

生物はやがて死にます。 感じる心も 消えていってしまいます。 

でも それでなぜそれは 円で囲まれていないのか?

それは、その価値の世界は 無限だからです。   どこまでもどこまでも新鮮に先がつづいているからです。

「謎」は、ここに解けます。    どんな絶望も、その先には「希望」しかなくなります。



真剣に生死を見つめ 生涯とは何かを誠実の考える人は、虚無という暗い洞穴にまぎれこんでしまいます。

洞穴の中の旅人の例えは、こうして哲学者の例えとして現代に詠われています。

出口の光を求めも求める旅人は 疲れ果ててもなお歩き続けないではいられない希求、上渇きを身に感じます。 光が欲しいからです。  どこまでもどこまでも 倒れても傷ついても歩き続けます。 でも それはやがて絶望にたどりつきます。 それが知性の道だからです。

私には私の絶望の世界があり、それは こんなふうに訪れたのでは無いのですが、 それからも生き延びて、何十年の旅の後に「希望」が見えてきたのですが、   

光とは、その時、 こんなふうだと聞いています。

信仰の光です。  絶望はすべての力を奪います。 希求は願いは、上渇きは情熱は今や、其の分、生きる気力をすべて奪い去る力にしかなりません。  それを絶望といいます。  光と求め求めつづけたからこそなのですからね。

と、倒れこんだ  その目に、 もう体のみか、目の力もうせたようなうつろな目に、光が一点映るのだそうです。

そのとたん、なにもかも失ったはずの旅人は飛び起きます。   それが信仰の光に例えられる光の世界です。

たった一点、 しかし、 もう再び傷ついても たおれても、もはや絶望はそこには無いという それが哲学者にとっての信仰なのだという。

見つけるものは、同じ、 ごくあたりまえの日常のなかの、 あたりまえの新鮮な命の世界です。    でももう ゆるぎなく 感性が消えてさへ、其の記憶がまだあるかぎり、 ありつづける「希望」という名でもある感性、      これが、  この「希望」の太陽が、 感性教育のアルファでありオメガだ。

というのが 図的にも詩的にも表現してみましたが、 生死、存在とも関るところの 私が書いてみたい 基本思想の解明となるかと思います。



読む人によっては 壮大すぎる描写であったかもしれませんが、 けっきょく 当たり前の世界のことでもあるのです。

とても あたりまえだけど、思い切ったことが必要なその「感性教育」とは?、 その革命ビジョンとは!、 それをこれから いっしょに考えていただけると助かります。     (つづく)

投稿日時 - 2008-11-19 19:33:37

補足

 arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 聖書検索は ほかのものを調べてみました。
 ◆ 聖書で聖書を読む http://bbbible.com/
 (福音書や書簡ごとに 読めるようです)。
 ◆ BibleGateway.com――http://www.biblegateway.com/passage/?search=
 (いくつかの言語で見られます。日本語はないです)。

 ★ 感性論
 ☆ arayata333さんのばあい やはり 現場のお話であり 教育の実践と言っていいのでしょう。
 ★ 真剣に生死を見つめ 生涯とは何かを誠実に考える人は、虚無という暗い洞穴にまぎれこんでしまいます。 // ・・・・ // 出口の光を求めに求める旅人は 疲れ果ててもなお歩き続けないではいられない希求、飢え渇きを身に感じます。//・・・//と、倒れこんだ  その目に、 もう体のみか、目の力もうせたようなうつろな目に、光が一点映るのだそうです。 // そのとたん、なにもかも失ったはずの旅人は飛び起きます。   それが信仰の光に例えられる光の世界です。
 ☆ たしかに
 ▲ (マタイ5:6) 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
 ☆ とありますので そのとおりだと思います。ただ その言葉を厚くしたかたちだとも思います。物語にして 明かしてくださいました。つまり 実践だからと言って 具体的な事例をあげよと言う意味ではありません。そうではなく 虚無と絶望と あるいは そこにも見出された一片の希望と そこでなおあらためて義への飢え渇きを覚え 絶望に遇いつつ その末に立ち上がるようになる これらの道筋を さらに 人間の思索と歩みを織り交ぜて 肉付けしてくださるともっとよいと思いました。
 アウグスティヌスだったかの話としては こういうのがありました。人は 義に飢え渇き 人間的になろうとする。たしかになった。ますます人間的になった。この上なく人間的になったと思ったとき 周りを見渡すと 誰も 真面目に 受け取ってはいなかった。そこで 絶望して 世間に合わすように生きることになる。失敗の例です。

 ★ 死の体験
 ☆ は いま その事態に遭っている人にとっては こころづよいお話だと思います。

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【江藤淳】 漱石という人は非常に孤独な人だったと思うけれども 漱石の作品は不思議に読者を孤独にしない。・・・達人のものを読むとおよび難いという感じがして こっちが突き放されますけれど 漱石は突き放さないですね。
 それは彼が個体を越えるなにかの感覚をもっていたからではないか。こういう感覚がほしい。われわれは漱石の時代よりも忙しい とげとげしい時代に住んでいるが しかしわれわれもまた幸福になる必要があるのではないかという気がするのですよ。
 ・・・
 漱石が見たように 生の根源自体が二律背反的にできているのではないかとも思うのです。それは 政治を生むような暗い大きな力の根源でもあるし 同時に 限りない安息をあたえるような場所でもある。そういうものの認識を いったい現代人であるわれわれは どうして得たらいいかと思うのです。
(対談:文学と思想)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2008-11-19 20:52:14

ANo.10

すみません。 もう一度新約聖書を読めるネット上のサイトを教えていただけますか?

旧約とかは、神話の解釈や宗教の専門家でなないですから、興味無いのですが、新約聖書はもう一度読んでみたくなりました。

学生時代に ともかく何度も読みました。 でも、その時には解からなかったことがたくさんあります。

ただ、疑問とかは惹かれた分、残り続けました。

>《わが神 わが神 なにゆえ わたしを見捨てられたのか?》という言葉を発したということです。
 そこで 見捨てられたということにおいて 見捨てられてはいなかったと 分かったのでした。<

というそちらのコメントの部分ですが、 キリストが十字架上で息絶える寸前のような時に言われた「エリ エリ(神よ、神よ)レマ サバクターニ(なぜ、わたしを見捨てられたのか?)」という言葉と対応したものですよね。

(この部分も 聖書が単なる創作ならば、なぜ書かれることになったのか?解かりがたいところですよね。  創作であったとしても、この部分がリアルですよね。)

神が そんな必要(ご自身の存在とかにとっての)無いのに「わざわざ」人間として弱い姿まで さらされた? という「謎」の世界ですよね。

私の場合は、この意味合いは解かっても、 そのようにキリストという人間が神とはということを啓蒙するために演出したというふうに理解してしまうのですが、     いずれにしても、 純粋な知性の人がこの「謎」にぶつかると、特に絶望状態を経験したことのある人は、 ここにこそ「光」のようなものをあびたほどの感動を受けるようですね。

bragelone様が 自らをキリスト者と言われるお気持ちの根っこのようなものが垣間見えてくるような気持ちになりました。

私の場合、人生や存在に絶望したというより神に絶望したという感じのときがあり、 でもそのおかげで自分の弱さを肯定できるようになった経過があったりします。     でも弱い時の自分の状態がどんな  とてくつもなくあるような状態だったかを思えば、そのすべてが灰色のような状態でなぜ自分に絶望しなかったのか?    これが子供の頃の さらに惨めな体験の記憶があったからでしょう。       考えてみればたくさんの体験をしている者です。      キリストの最後のメッセージの意味も 少し理解できる気がしています。



>《衣食足りて 礼節を知る》<、 これは、マズローという心理学者のいう欲求7段階説ににていますね。

6段階を経て、やっと7段階目の自己実現欲求に目覚めるという心理法則?のあたりがです。

でも 「衣食足りて」という言葉は、 私の体験からはとてもリアルな表現として感じられます。    お金が無く、見も知らない土地にて公園のトイレで冷たい雨をしのいで、公演で水を飲んで生き延びた時の 死への恐怖とか惨めさとか 心のユトリの無さとかとかの精神状態を思い出せば、   昔の人たちの想像をぜっする生活からの言葉に思えて、これは解かる気がします。

人間として、軍杯を上げるとすれば儒教の勝ちです。  

でも、資本主義のお金と心理ということでは、あるい植え込まれたニーズの世界ということでは、マズローの心理学はいやに統計的に当てはまる世界ですし、より科学的ではあるということなのでしょう。

しかし、いざ自己実現?して、自己の欲求がすべて満たされ、幸せになり、自分自身はお金も地位も名誉もいらなくなるという人は少ないし、すでに私有財産制にはすっかりなじみになりなれ親しんでいて、それを越える力もなく?           というより、

この自己実現 という言葉自体が抽象的なままなのですから、そこがすでに私には疑問だということなのです。

仕事も充実していて趣味もやりたいことを自由に出きる心と経済体制があったとして、 その趣味がほんものの境地にたどりつけば、始めて自己実現できるというのであっても、 それがなんであるかは一つも語っていないわけです。  

心理の学問というより、 あやしげな催眠術みたいに使われてしまっているという感じです。  役に立つほうが多い怪しげさ^^なので笑けれど(笑)。

つまり 幸せって何なのか?  そのへんが結局語られていなくて、 その理論とかの網の目からは、  ほんとうは一番大切な人間の宝が むしろかえって見えなくされているかのような感じなのです。

卓上論理からいくら心理実験を科学的にこなしたからといって、「しあわせ」についてだけは、解からないことなのでしょうから それは仕方ないのでしょうが。

おそらく 「衣食足りれば、真に自然な礼節への可能性が開かれる」というのが正しいのでしょうが、 儒教も、 可能性に過ぎない点を 結局見落としていたということだと思います。  マズローの方は そのへんもっとマズくて、ローギアがかかってる感じです^^。

いずれにせよ、 やっぱり、ここに必要なのは 感性教育の たぶん、ほんとうに革新的な進化だということになるかと思うのです。



思い切ったことが必要と思っています。  経済的に大勢の人がお金持ちの人も不安に巻き込んで 切羽詰ってきています。   今こそ、ちょうどもしかしたら、その大変革とかが可能な時なのかもしれませんね。

《当番制》というのは、でも、ほんとうは荒削りな表現と思えています。
《リーダー・フォロアーの 回り持ち体験を、充分体験できたそのへんの卒業者達の当番制》としたほうが、これもよりしっかりした未来論としての目標になるかと思っています。  

でもそれへの道についての具体策ということが回答であっていいのですから つづけさせていただきますね。  感性教育についての発表の機会を与えてくださりありがとうございます。  (つづく)

投稿日時 - 2008-11-18 22:44:30

補足

 arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ キリストが十字架上で息絶える寸前のような時に言われた「エリ エリ(神よ、神よ)レマ サバクターニ(なぜ、わたしを見捨てられたのか?)」という言葉
 ☆ については 一説として 次の《旧約聖書・詩編》の一節(つまり 22章の冒頭の一句)を引いていると言います。その章は そのあと 神の讃美へと変調していますので そのように解釈するという捉え方です。
 ▲ (詩篇22:1~2、22) ~~~~~~~~~~~~~~
 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
 ・・・
22:22 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。 ・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 聖書のオンライン検索は 次です。
 http://ebible.echurch-jp.com/
 語句からも 福音書や書簡ごとにも 検索できます。章と節を 算用数字で打ちこむときには 半角になります。その点 やっかいかも知れません。案内にしたがってください。

 ★ 神が そんな必要(ご自身の存在とかにとっての)無いのに「わざわざ」人間として弱い姿まで さらされた? という「謎」の世界ですよね。
 ☆ このなぞについては 一応 答えが出ています。イエスは ふつうの人間でしたが 同時に キリストとして 神の子である・つまり神であるという想定です。つまり 相対的な存在であると同時に 絶対の存在であるという虚構です。人として 大声で泣きながら 十字架に就いたのですし 神として みづから望んで はりつけになったと言います。

 ★ マズロー および 礼節をめぐる儒教
 ☆ いづれも その昔 初めて知ったときには 新鮮で学ぶに値すると思ったのですが 申し訳ないのですが いまでは 世間の知恵というふうに 受け取っています。経験的な努力によって人格を磨くと言いますか そういう知恵であり 経験思想だと思います。
 ですから どうしても 一たん 何ものからも見放され 無となった状態を経て たとえば《当番制》による共同自治をおこなうようになると いまのところ 考えております。
 権力の闘争やその執行についての秘密の部分などが すべて 情報公開になったとしたばあい――つまり すべての人が あらゆる問題や事実を知ったばあい―― 《人間はほろびる》という見方があるわけです。そういう従来の考え方をする人間は 存続できなくなるというわけです。たしかに 分かりませんが そこには 一たん 目を見張るような現実の様変わりが起こるのではないでしょうか。そうでなければ 権力からは もはや まったく自由な人間と そのような人間による共同自治が 実現するかは あやふやであり 見当もつかないと思われます。
 わたしたちは 権力を回避せよというのではありませんが 権力を奪取せよという方針でもないわけです。むしろ 水嵩を増していって 政治を 共同自治の状態へと還元するように持っていくのだと思うからです。
 ですから たとえば 権力の地位にある人びとの中から もはや そのままでは 立ちゆかないというような見通しを持つ者が出るようになるのではないでしょうか。そういう変革が起こって 水嵩を増して行き どこかで どんでん返しが起きる。こんな予想を立てています。
 外れても いいわけです。要は 一人ひとりが 感性・知性ともども 日から日へ 変えられていくのだと思います。

投稿日時 - 2008-11-18 23:34:17

ANo.9

自分には、自分の書いてることへの自信のようなものがあまりありません。

たぶん、自分の中ではもはや整合性がとれていて崩れないのではないかと思えるほどに、いつしか考えがまとまってはいても、 たくさんの本とかを読んでいないので、 いままでの人類が考えてきたことの歴史とか流れとか うずもれていたりもするだろう昔の人の知恵とか、 まったく解からないままであるようにも思え、 その中での自分の立場とかが見えてこないからだと思います。

書いてることの 人間社会での役割のあたりが見えない感じです。

経済カテのほうにも、軽く今の政治の出来事を話題に ほんとうは経済がどういう力のものかを暗にさぐる質問をしていますが、   今のところ同じく軽くあしらわれてしまったような、たぶん日銀とか金融庁とかの対策をひとことで書かれてしまった回答が一件入っているだけです。

ほんとうは、自分もただこうして話でいるだけでなくて、できれば正しい起業に一石を投じて見たい気持ちなのですが、    これはいわば、「AZスーパー」の拡大版のようなもので、よほどの自信がないと身動きできるところではないですね。     

最近の鹿児島の過疎地に出来た巨大なAからZまですべての商品を扱うスーパーの大成功の事例のことなのですが、  それはほとんどが、いままでのマーケットの常識を覆した経営なのです。

在庫はけして返品しない。 一律計算もしないで安く提供する(バーコード方式を無視した形での最安値提供。) 地元の雇用に最大限に貢献する(リストラと逆)、一人でも送迎バスを連絡があれば走らせる、  全部経済法則を無視したかのような経営です。

ただひとつ、 すべてがそろってる、つまり総合的なだけなのです。

これで、連日満員?     

しかし、ここには書けないことであるところ、 ひとこと言うならば 総合化こそすべての味噌であるということなのです。

((これだけで、 言いたいことに気がつくような頭のいい若者が これを読んでくれたらなと 思うのみです。))

でもAZの経営に、理論があったわけではなくて、社長も何故成功したのか首をかしげながら、ただ単にお客中心主義を貫いているだけなのです。

私には 理論が無ければ行動はできません。   勉強の時間も体力も無いところどう出発できましょう。

が、  哲学自体は、まるで地球よりも大きいのかもしれません^^。(自信がないので 破れかぶれで書いてます。)

自分の中では「「総合的だ」」ということです。



自分では やっぱりキリスト者であるかどうかは よくわかりません。

ただ、愛という言葉にしても キリストがその言葉を使ったのはたしか「命を人のために捨てるほどの愛は無い」とかいう言葉ですよね。

これこそ「おしえ」じゃないですよね。 生物である人間の謎の世界であり続けます。    なに一つとっても、 パウロはまだよくわかりませんし、 その人が創作者だったのかもしれないても、 わたしには「謎」というか  先がどこまでもある(私の考えの常に先がある)世界で、 これが庶民のたとえ話で言われてる言葉じゃないですか。

大工さんでしかなかったから 当時の書物に記録が皆無だったのでしょうが、 それをよく拾い出したということなのでしょうが(わたしにはですが 奇跡とかは何かの気迫に押されての勘違いか、ともかく物語りがまざってしまった汚点だとしても、 実在はした人との推理がどうしても働いてしまう内容だということです。)  

でもだからと言って、神という存在とキリストとを結ぶ接点を見出すという感じでもないのです。  神は神であり、キリストは優れた人間(優れすぎてますけど)としか、解からないということです。



「仁」については、 たしかに記録が残っているとすれば、おそらくその「教え」の部分かと推測しています。   でなかったとしたら、中国古典を勉強した偉人達がそのへんを評価していないはずが無い、というふうな推理の仕方なので  あやふやな思索に過ぎないのでしょうけどね。

孟子とか孔子とか、そのあたりの人が「仁」についての道徳を何か語ったりしていましたか?

ほんとうに無知無学な者、恥ずかしいです。

でも、同じ推理力のようなもので、 というかやはりなんらかの体験からの思索なのでしょうが、   それは確かに、ここでの議論の「自然本性」の世界の 人間としての自然な行為として生まれたものと思います。

アフリカの中の 肌をさすって病気の人をいたわる習慣のある種族の集団で病気の人の肌をさすっている写真が、 ある専門の指圧の本に出ていたのですが、 その頃は私自身は気脈の世界も知りませんでしたので 惜しいきもちになるのですが、 その専門家である著者は、 彼らがちゃんと
現代のつぼ医学からみても正しい位置に手をそえてることに驚いていました。

でも、そこからその体系が生まれるのには、たぶん、苦しみをともにするそれこそ「友」と友の      

ちょっと言葉では、 言えないところに差し掛かったみたいですので、また男女関係とも関りそうな体験ですので、 ここに体験をさしはさみます。

私は その女性の手を握ったことも無いですが、 北海道の人でさへそちらのほうが寒さをしのぎにくいという冷たい風の山から吹き降ろしてくる地方にて、ともにその極寒の大地に農作業(主に酪農)にいそしんだことがあります。    苦労をともにしたことが、 どれだけ 人と人との心を通わすものか。   それがどんなにすごいものなのかを 体験している者なんです。    やっぱり、言葉でそれをどういったらいいか結局わかりませんけど。  むむむ。

もしかしらた、ともかく それらの遠い記憶が重なってのことなのでしょう。 わたしには、  健康への願いをこめて肌をさする「友」と「友」のあたりまえの感覚がわかるきがします。

たしかに、それは「おしえ」、道徳とかいうのではないですよね。

中国北方の厳しい大地、遊牧の地でもない荒れた農地にて、おそらく豆だらけの、もしかしたらその時私の手がそうだったように赤切れたセルロイドのような手の平から その気脈の知恵は生まれたのだと思います。



 《一たん これまで考えられていた〈人間〉が 〈ほろびる〉段階を経る》

超一流の思想家の方が そのように思っておられたと言われても 思い当たる点とかは、 あることはあっても自分の考えについては自信とかはやっぱり無いですね。

マズローの欲求7段階説というのは知っています。 これって資本主義の経営書にも出てきますよね。

でも、そういう7段階となってしまう心理は、おそらく「自然本性」の感性に立ち帰ったら、とても存続しえないでしょう。

そうした心理変革が 資本主義のこれからの進展にとって必要だという論議であるならば、 わたしにも解かりそうなところですが  《いったん<ほろびる>段階を経る》という言葉は 強力すぎる比喩ですね。

そのぐらいの 思い切った何かが必要だということを見抜いていたということなら、 私の感性教育改革案はかなり極端な大改革のビジョンですから似ているのかもしれませんね。

私の場合は、その専門の道をそれとさへ知らず(自覚さへしないで)ただ夢中で歩いてきてその案の世界にたどりついてしまったわけですが、  その思索無しに、 そのへんを見抜いていたというのならば、吉本隆明という人は やはりたしかに よほど鋭い思索家だったのでしょうね。

あ  みんな感性教育に結びついてしまうのですが、 はずれまくりでしょうか?   

ともかく、 こうなったら(ネット音痴とお金の無さで日本感性教育学会にコンタクトできないのならば) ここで、その案(ビジョン)を さしつかえなさそうに思える限りは発表してしまおうとも思いますが どうですか?

《当番制》への道は、 ここでの論議の一致点でしょうから、 私という変わり者の、変り種回答もそこをはずしたものでないのならば、 「あり」ということで です。

投稿日時 - 2008-11-17 20:33:19

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。
 
 まづ初めに この質問は 未来社会について 具体的な主題をとおしても 考えるという趣旨ですので その筋でしたら 何でも 取り上げてください。

 ★ 仁 
 ☆ の扱いでは わたしは早走りましたね。中国人は 《ともかく信仰》の側面は 道教のようですし 儒教が どのように位置づけられるのか その判断を わたしは 早まったようです。ただし
 ★★ わたしには、この仁の復活こそ、 男女関係を真に健康にする あるいは永遠の魂の存在という神学をも復活させる、現代の社会の中でのかなりの早道と思えるということなのです。
 ☆ というように 大上段に振りかぶったかたちで 述べておられるようではあります。いづれにしましても もう少し 冷静な分析・判断をすべきところでした。
 たぶん 知行合一というように 陽明学でしたか 理論と実践との統合を言う儒教の一つの展開があったと思いますが そのような主張が現われたということは 《おしえ》として神棚に祀られていたという情況は あったのではないでしょうか。
 ともかく 孔子も孟子も いまは 遠い存在になっていますので あらためての手ほどきののちに 《仁の復活》については 考えてみなければならないと思ったのですが。

 ☆★  《一たん これまで考えられていた〈人間〉が 〈ほろびる〉段階を経る》
 ☆ の問題です。一つには 豊かな社会になっても 一般に 《衣食足りて 礼節を知る》――これは 期せずして 儒教のようですが――というふうには この日本では ならなかった。その昔 これこれの経済行動のやり方では 長い目で見て 立ちゆかないと 友や先輩に言うと いや きみは若い いまは なんと言っても 経済の繁栄を築かねばならぬと返って来ました。そうか しかたがないと見守っていたわたしも 期待が 見事 外れました。
 もう一つの事由は こうです。わたしが こうして 社会から隅のほうへ追いやられても 元気でいつづけることが出来たのは 一たん 死んで 蘇ったからです。それは 一般的な言い方をすれば 《神も仏もないのか》というまでに 世の中から 承認も受容もされなかったということです。あるいは 或る時点では とうとう 《わが神 わが神 なにゆえ わたしを見捨てられたのか?》という言葉を発したということです。
 そこで 見捨てられたということにおいて 見捨てられてはいなかったと 分かったのでした。
 要するに 《古い自分は ほろびる》という回転がありました。その経験からいけば 未来社会は 一面として たしかに 人為を問わないかたちの自然史過程として推移すると思われますが もう一面としては――特に 一人ひとりの個人の人生としては―― どこかの時点で 旧い自分が死ぬというまでの経験を持つのではないか とは思っております。《目から うろこが落ちる》というふうでも いいのですけれど。
 一たん 強い光を浴びて 目が見えなくなったサウロ(つまり パウロへ改名する前の名)は アナニアがかれの上に手をおいたとき
 ▲ すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。(使徒行伝9:18)
 ☆ という例としても記されています。

 ★ 感性
 ☆ の主題は おそらく 言葉で説明していくことに むつかしいものがあるのでしょうが 人と人との関係のあり方に変革が起こるといったところに 焦点をあてて 試みてください。
 あっ 教育というよりは その理念や基本思想を 解明・説明していかれると よいかも知れません。
 わたしも 足元を見つめながら 進まねばならないです。

投稿日時 - 2008-11-17 22:20:17

ANo.8

南島(沖縄)の漁村から生まれた分かち合いの 素朴な姿というのは、文明以前や文明の始まった頃には、人間の世界ではほとんど似たような姿がみられていたようです。

動物は 高度なチンパンジーやゴリラにいたるまで、食べ物を分かち合って食べるという行為は、 本能が故の社会集団の仲間うちでさへ行われなかったと聞いています。  類人猿研究家のような方が言われることですから間違いないでしょう。 (本能としての家族行動のことではありません。動物も親は兄弟達には平等に分配する知性があったりしたと思います。彼らにとって集団も本能の内ということを考えるとわたしには疑問も出てくるのですが?)

それが、人間社会が生まれたとたん、狩の場では男が主に狩をして得た獲物は女性や子供たちや老人達に平等に分配されたということです。

性も 同じ分かち合いの感覚とともにあったわけですが、 これが「自然本性」の場では、  快楽はみんなでというフリーセックスになったわけでは無いということです。

自然にも最初から一夫一婦制(制度としては最初は無かったと思いますが)だったわけです。

それをむしろなんらかの素朴な宗教であれ抑圧が始まった後に、原始的はハーレムの習慣を持つ民族とかも生まれたのだと私は推測しています。

それは、なぜかというと、動物の脳が人間の脳に進化したとき、何が一番変わったのかというと、それが「自他を見つめる」能力だったからです。

だから いきなり目と目をみつめあい、笑いかけあえるユトリを脳が得たと言うことなんです。 ここでは反省の能力とか自由意志の能力とかについての論議は進めませんが、 ともかくその同じ変化がすべてをもたらしたわけです。

本能も欲望も 五感すべても、自然に人間としての出会えた喜びやリスペクトの中で    たぶん ごくふつうに、     「見つめる」ことができたと思います。

言葉以前には、特に、 赤ちゃんみたいに くったくない感性のままにても、 やがて大人になれば、その生活の全体を「見つめる」ことができたと思います。

すると、これは ごく普通の生物としての、家族関係を 性の分かちあいのためにわざわざ壊すという考えが、そこから生まれたとは考えられないという推理です。

一夫一婦という家族形態は、もともとは自然な帰結だったと思います。



そのへんの 歴史とかをマルクスがどこまで 調べたり、推理を働かせたり、研究し考えたかは知りませんが、  食べ物だけでなく 生産物すべての分かち合いを考えた学者が、 自然な男女関係が、私有財産のような
利己心からではなく、人間関係の自然な帰結であるような関係として「見つめられていた」と気がつくのも 納得できそうです。



吉本隆明氏の言われる「関係の絶対性」と言う言葉も、 自然な関係の絶対性という感じもものであるとすれば、 言いたいことは解かる気がします。

でも、もともとは、おそらく弧も関係も両方とも あたりまえに「見つめる」ことができていたのだと、私は思うのです。 けして 家族どおし、別々な存在になってしまうということなど、全く無しにです。

コミュニストとして、私有財産制への反旗を翻す必要から おそらく同じことを「関係の絶対性」という言葉で表現したのだとおもうのです。

権力関係の絶対性とかではなくて、 やはり、もともとの自然な人間関係の絶対性を 心に深く希求した人なのでしょう。

個々の命が、そのままで深く尊敬されるべき 尊い存在だと言う意味での「弧」とか「個」の否定ということなのではなくて、 その自然なもともとの関係性に、立ち帰れば、 関係から「個」は自然に大切にされるし、 そこには不自然な ごますりの笑顔とかの不純な尊敬の姿とかも消えるといったことが言いたかったのかと思います。

しかし、そうだとすれば、気持ちはわかりますけれども、  私有財産制が無くなれば、いきなりその 本来の性が復活したり、本来の人間性が戻ってきたりするというのは ?  その辺が「夢見村」という感じだということです。



つまり、やはり、まず先に、制度としては私有財産のあるうちにも、 性の問題を解決することのほうが先決だという考えであることです。 そのへんは、いろいろ考えてみましたが、私の場合、変わりそうにありません。



シュタイナーについても、一言また触れておけば、 もしかしたらですが、このへんについては急進的でありたかった人なのだと思います。 むしろ、その時代に急進的であろうとしすぎた人というふうに考えると正しい全体像が見えてくるのかもしれません。



アウグスティヌスという方の 性についての模索は現代にてもそのまま充分考察にあたいするものなのだろうと感じました。

しかし、 ここは、先に現代において性とは何かという問題を、彼抜きに考えておくべきなのではと 私には思えたところです。

真の神話の世界の帰結は、もしかしたらその近代人の発言のあたりにあるのかもしれません。 最初の近代人のその苦悩と告白の思索に すでに答えもあるのかもしれません。

でも、それをさぐるためにも、 私たち自身が、もう一度はっきりと性の問題と取組む姿勢を持つべきところかと思うというのが、 私の考えなのですが。



食べ物の味わいを現す言葉として、とろりとした味とかとかの表現を日本人は他の国の言語よりも、はるかに多く持っていると聞いています。

また身体の部位を使って 精神的な意味合いを表す言葉もこれは日本のみの文化と言えてしまいそうな深みと広がりを持って日本には存在します。

ひざを突き合わせて語る。とか 手まめ、足まめ、とかなかなか骨のある人だとか、  これ自体が外国にはほとんど無いところ、あっても意味は浅いところ、なんと、さがぜば何百と そういう言葉がある国が日本なんです。

これを私はですが「肌文化の国」と呼んでいます。  お体を大切に という挨拶の国にふさわしい文化とも言えるかと思います。

医学のふるさとである仁の思想は、薬草のとれない北方の広大なきびしい大地に生まれ、 友として、おそらく最初はなんとか苦しみをなんとかしたいだけで肌をさすってただけだと思うのです。

そのへんの私の中に働いてしまう想像力の世界とか、推理とかは ここでは略しますが、 結果として残り記録されたのは、経絡の医学の世界だったわけです。

でも、医学そのものが仁であるわけではないじゃないですか。

もともとの仁は、上下関係、支配関係、ビジネス関係、すべていっさいなしの、いたわりのあたりまえの人間関係だと思います。

この経絡の世界の、気脈の世界は、わかりにくいとは思いますが 書けばともかく肌上のつぼの位置の流れの世界です。  つぼ自体が、現代にてどれだけ現代医学のこれからと関係するのかについては、私はなんら専門ではありません。  しかし、私はこれが もともとの仁の感性とつながっていることは解かりますし、 それは、「肌文化」の日本人の仕事と考えます。     感性と気脈のつながりを研究するのは 発祥の国である中国より以上に日本にこそその責務があると考えているのです。

話がそれてしまったようにも思われるかもしれませんが、 わたしには、この仁の復活こそ、 男女関係を真に健康にする あるいは永遠の魂の存在という神学をも復活させる、現代の社会の中でのかなりの早道と思えるということなのです。

日本感性教育学会でも、気の世界と感性との関係は研究課題の一つとなっているようなのですが、 くわしいことはまだ解かりません。  気といっも、“中途半端に医療とむすびついたりする怪しげだったり、もじ通り中途半端立ったりする”世界もありますし、 気にかかるところです。



究極的には、こうして私の場合、性の問題は59歳あたりの時に仁の世界と重なったわけですが(さまざまな解決してなかった性の問題がこれで卒業できました。 それもまたあらたな出発地点にすぎないことなのですが)

そこから考えると、 逆に恋愛はもちろん、フリーセックスの世界とか新たなセックス共同体とか、その他の火遊びとか言われてる世界も、要はきちっとした、成熟への過程としてみとめ、安全に責任を持って指導できるような遊びの広場として開放できるはずだという考えが生まれます。

そして、「みだらな」とか「いやらしい」とか「不浄」とか言う言葉も、しっかりした信頼の出きるそのシステムの中では、やがてその心ともとに消えてゆくと私には思えます。

おおらかな優しさと尊敬の息吹のみが その「みだなら」「いやらしい」「不浄」の心の変わりに 徐々にかもしれなくても広がってゆくと思います。

(逆に、日本人の特性でもあるような言葉や心の文化も、このままでは消えていってしまうと思います。 …。 だから私はあせっているのだと思います。 だからせめて急進的?になるのかもしれません。)

ここで、その実現への道をどこまで論議したり出きるのかはともかく、

おそらく吉本隆明氏は「関係性」と言うことの中に、そのような「関係性」の世界を求めていたのではないでしょか?

投稿日時 - 2008-11-16 13:28:06

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。正直申せば こういうご回答を かなり わたしは 待ちましたね。一たん ご自分はキリスト者ではないかとおっしゃった時点で 同感し 共鳴していましたが その後は いくらか 揺らいでおられました。(どうも わたしは あけすけで いけませんが 乗りかかった船です)。今回 まづは 錨を降ろして 帰港されたのではないでしょうか。

 えらそうに言ってすみませんなのですが 全体として 共感しました。
 わたしへの批判 アウグスティヌスを出してくる旧いわたしへの批判も 大いに 出していただくこととして 今回について あえて いくらかでも違和感があったと思われる所は 次の二箇所です。
 ★ わたしには、この仁の復活こそ、 男女関係を真に健康にする あるいは永遠の魂の存在という神学をも復活させる、現代の社会の中でのかなりの早道と思えるということなのです。
 ☆ シュタイナーのサイトで
 ▲ ここで人智学を学ぶものにとって気をつけなければならない一つは教条主義、律法主義に陥らないことであると私は思う。
 ☆ と言っていたことを No.1補足欄でわたしは触れたのですが その重要性は 日頃 思っていることなのです。
 ★ 仁
 ☆ に何の抵抗も反対もないのですが その主張が つねに 《おしえ》になって出されると 《教条主義・あるいは 〈仏性〉なり〈悟り〉なりの標語主義》となってしまうように感じています。その意味は
 ○ 愛 だとか 自然本性の回復 だとか
 ☆ のように 標語としては 漠然とした言葉のほうが(つまりは なるべく道徳から離れていて その規範化し難いような)言葉のほうが ましだと思っております。《仁》は 広い内容を持つとすれば よいかも知れませんが すでに《倫理規範化》した歴史もあると見られます。つまりは たとえば《〈自然本性〉と言っても 昔は〈仁〉という概念で捉えた思想もあったんだよ》といったふうに 持ち出してくるのは どうでしょう? とは言うものの 《愛》も すでに 手垢がついているかも知れませんね。

 ▲ 「関係の絶対性」
 ☆ この概念は 何せ 昔のことですから 今ではもう 歪曲して解釈しているかも知れませんが 要するに
 ★  《絶対個 であって関係がある。》
 ☆ とおっしゃる意味だと取っています。つまり 《関係性》というからには 関係しあう存在がいるということです。もし解釈がちがっていたとしても もうそのことには触れないことにします。つまり しかるべきときには 別の課題として取り上げることにしましょう。
 というのも 吉本のばあい 取り扱いにくいのは 《絶対の反体制》を標榜するからです。《ただ単に〈資本主義体制への反対〉として 〈私有財産制への反旗を翻す〉》のとは 違うという論陣は 張っていると思います。《反旗》には じつに 《仁》や《自然本性》とも書いてあると言いかえすと思いますよ。手ごわい相手ですよ。
 すなわち
 ★ おそらく吉本隆明氏は「関係性」と言うことの中に、そのような「関係性」の世界を求めていたのではないでしょか?
 ☆ と その概念の発展性において おっしゃるとおりなのですが まったくそのとおりなのですが そのことの中身は もう少し複雑です。つまり 趣旨説明に掲げたように 《一たん これまで考えられていた〈人間〉が 〈ほろびる〉段階を経る》と見ていることも 重要だろうと思われることです。
 むろん ここは arayata333さんと 論点を形成するところなのです。わたしも その点では 《屈折 ないし 変容》が どこかで 起こるのではないかと見ている口です。存在じたいの革命が 起こって 前史を閉じ あらためて 後史なら後史に入るのではないかという推測です。

 応答が適切に出来ていないようですが とりあえず このようにお返しすることに致します。

投稿日時 - 2008-11-16 14:58:03

お礼

 ここで 訂正があります。

 趣旨説明で

 ▲ 《吉本隆明と江藤淳の対談:文学と思想――『文芸』1966・1》=A

とした出所は 勘違いで 次が 正しいのでした。お詫びします。

 ▲ 《吉本隆明と江藤淳との対談:文学と思想の原点――『文芸』1970・8》(『江藤淳著作集 続5』1973所収)=B

 そうして 他の引用について 明らかにしておきます。

   No.2補足欄―― B
   No.3補足欄―― A

 このようですので よろしくお願いいたしたいと存じます。

投稿日時 - 2008-11-16 15:12:05

ANo.7

前々回の回答に、自ら反省するべきことを感じたのは、その回答の非対話性のあたりです。   空回りしてるのではないかと感じたのです。

でも それがなんであるか解からず、急遽追加補足文を書くこととなったという感じです。



私自身が、 美人とブスとの間に差を感じる必要性を完全に卒業して、やっと男女関係の正常な出発点に立てたのは、なんとかなり遅く、59歳になってからです。  もちろん、これではまだよちよち歩きでもあるでしょう。

よく考えてみれば、それ以前は、そんなにも長い間、私自身が(結婚していませんが)もし、結婚をしていたらそこに女性の所有感を完全に克服していたなどとは言えないこととなります。

対等な人間としてもお付き合いしつつ、でも心の奥ではその関係にとらわれていたはずだと思うわけです。

それはたしかに 歳とともにその所有感とやらは薄らいでいたでしょうし、わたしが結婚していたら、もしかしたらですが、もっと早くその地点は卒業できていたかもしれませんが、  いずれにしても、ここに思い出すのは次の 私自身の若い頃の汚点です。

たしかに恋愛も経験していたので、その中ではセックスは純粋な心としてのみ経験したわけですから、それにおぼれてる状態の中にては美人もブスも関係なかったとも言えます。

しかし、それ以外の女性はやはり美人でないと、女性として感じられず、その恋愛経験がゆえに、逆に女性として感じることができない女性とはセックス関係に入ってはいけないという観念を持ってしまっていたことは事実です。

しかし、 そのおかげで、実際に私は、ある女性の心を大きく傷つけてしまうことにもなったのです。

それをブルジョアの女性所有感、あるいはそういう感じの無意識界というふうに、コミュニスト達は考えたのでしょうか。

ブルジョアは 女性所有の選択肢を持っている関係でもある、 といったふにです。

家族とは、家族自体が大切というのではなくて、そのとき、そのぶん、意識すると否とを問わず、 会社や家族という所有権を保証してくれる資本主義を守る生殖という生産手段としてそのブルジョアの心に映っているはずだという論理があったということでしょうか?

ブルジョアの心と言えば、資産をコントロールもして私有財産を守り増やし それが社会的不平等を生み出しても省みず、家族を守るという大義名分のために鬼となる心というふうにも そのへんの思索の幅を広げることが出来たりするかとおもいますが、  コミュニストの論述は、そのへんの関係が共産主義となれば終わるので、 それによって家族制度はともあれ、男女関係のお互いの関係性が一気に変わっていくはずだ、という論議なのでしょうか?

わたしは、現在の私たちの間でさまざまな男女関係の問題が起き、未熟さがはびこっていたりするのは あくまで文明病とその克服の過程(の困難さ)の問題だと考えている者なのです。

その観点から考えるならば、共産主義が仮にいきなりやってきたとして、変わる可能性があるのは、むしろ家族制度の方かと思います。 心自体がそれほど大きく変化するとは思えません。

 共同体の中で心通う男女たち、愛称のあう男女たちが いままでの一夫一婦制の枠を越えて肉体関係も持ち、共同体メンバーはその男女関係によってかなり規定されて変化しつつ、あらたな構成員に常に生まれ変わりつつ(変わりつつ変わりつつ)存続していく形で、 子供たちのいままでの親に当たる人たちは、必ずしも自分の親だけでなく共同体の大人たち全員だ、というような関係の制度化です。 結婚式とかはなくなるわけです。婚姻届とかもたぶん無くなるかと思います。

大人も子供もより さまざまな性格の人と交わり、より多くのコミュニケーション力をみがき、 こうしてそのまま自然にても、今までの家族の問題もなくなり、より豊かな文化の原点としての第一次共同体が生まれることになる とう考えです。

おそらく、 もしかしたら そんなふうになるかもしれないし、 それはその時が来てみないと解からないけれど、 ともかくきっと所有関係が終われば男女関係は大きく変わっていくだろう。 というのが《「共産党宣言」》とかでの見解だという感じでとらえていいのでしょうか?

新たに自分自身の過去の女性観とかを振り返ってみたりして、考えてみましたが、 実はそのへんのそちらの文は 無学と読解力の限界で読み取れていなかったところだったのです。

おおよそは、こんな感じで受け取ってよろしいでしょうか?(すでに、自分の意見も混ざっていますが)



もし、そのようなことだとすると、 やはり、制度によって、男女関係の心自体が大きく変化するということは私の考えではあまり考えられません。

今までの家族に変わる共同体が生まれて、たしかに新たな支配関係やその心がその真集団に生まれる可能性は 極端に少なくなるでしょうけど、それが人間の心に 支配欲とか権力欲とかがいきなり無くなる大きな因になることだとは 思えません。

また、そういった変化を予測するのは、むしろ混乱を招くだけだと思います。

たとえば、家族制度はそのままでも、私有財産の心自体を感性の成熟で克服していれば、人の心はそのために不平等の大義名分を持つことも無くなるわけですし、  肉感的愛情自体が成熟すれば、そこからはあらゆる創造意志がみなぎるでしょうから、 家族を超えた付き合いは、子供たちも巻き込んでどんどん豊かになってゆくでしょう。   

そうすると、 では、この男女関係の問題で重要なのは何かということは、

遠い未来や 巨大の制度の改革(共産主義)以前の、 現体制内にての、その中での資本主義の理想的な発展の力としての、男女を中心とした愛情の問題ということになるかと思います。

情報化社会には、その力は巨大になる可能性を秘めているというのが私の考えの中にあります。



ここで、かの「のほほん村」の先生の お話の中にて、 自我の真の確立と男女関係がほのめかされてる部分も、 たぶん、同じことをやはり神秘主義からのメッセージとして語っているのではないかと思われる部分があったことを思い出します。

「のほほん村」というのは、この存在から苦という存在を無くす切実さ(あるいは福祉の面の切実さ)に欠けている欠点を彼らが持っているという批判を オコリザル風に言ってみた形ですが、要は、詳しくは略しています。

欠点は、それがなんであれ、長所の中に封じ込めてできる限りはそのようにして語りたいところだからです。

彼らは 彼らの立場を きちっと誇示しつつ(方便も交えつつ)、ほんとうは、男女関係についても、感性的にしっかりとした考えを持っていたとう長所の部分がそこに見られるということです。



bragelone様の言われる「霊的な婦人の共有」という言葉は さらに深いと思います。

信じてるから考えることはおこがましいという智や知の盲目状態を作ってしまったような信仰の世界とは逆に、 信じてるからこそどもまでも疑うことさへ出きるという純粋で知的な立場にたっておられるbragelone様のような「信仰」の世界からは、 それが他の人がそうであっても、そのような深さが生まれてくる客観的地点なのかもしれません。

私が 59歳のあたりを堺に、 感じるようになった少しも分け隔ての無い男女愛の世界は、 東洋医学の発祥の元、医学のふるさとの心とも言われる仁の心を生み出した人たちの発見した気脈の世界を知ることからやってきています。

それ以前の私の 女性観はまだ 恋愛時点でのそれにおぼれた感覚の方がまだ真実味のある世界だったとも言えます。

でも今の私なら、そのへん寅さんにも負けない^^かもしれません。

その感覚は、 では どういったものかというと、 魂の感覚を知るという感じもものでもあるのです。  言葉で言うとそういうふうにも言えます。

「霊的な愛情」あるいは>霊的な婦人の共有<という言葉の「霊的な」と言う言葉のあたりが、幻想的なといった意味とは逆の《知的な認識での「魂」》という言葉の世界をとらえたものであるならば、   これは同じ 仁のふるさとの世界でもあると思います。

神様からの贈り物としての生物でもあり人間でもある存在の、全存在をやさしく抱きしめる世界です。

仁という言葉には、神も セックスも出てはこないわけですが、 肉感的愛情という点においては、ここで通じる世界だと思います。



「のほほん村」の村長であり教育長でもあるシュタイナーも、 方便はいろいろ交えつつも そのような男女の肉体関係の健康な発展は、のほほんとした表現ながら暗に語っているわけですし、

では、そのへん、すこしでも早く、無策の日本が(すみません、無策じゃなかったですね一策さくでしたね。  急進的皮肉氏より。)大変なことにならないうちに、  では、まず日本はそのへんどうすべきなのかということに 回答の筆を進めていってよろしいでしょうか? 

*   

今度は  対話の空回りは かなり克服されてると思うのですが。

投稿日時 - 2008-11-15 20:21:10

補足

 arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 arayata333さん 今回は わたしも思案に思案を重ねている主題ですので arayata333さんにも さらに 考察をつづけていただこうと 勝手に 思いました。たたき台を述べ続けるかたちになります。

 まづ 《共産党宣言》が そんなに 決して みだらなことを想定しているのではないことを 示す文章を 引用のみしておきます。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 男性の女性にたいする関係は 人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。
 だから どの程度まで人間の自然的態度(* 自然児スサノヲの人間語)が人間的(* 品格を重んじるアマテラス人格語 もしくは スサノヲ=アマテラス統合語)となったか あるいはどの程度まで人間的本質が人間にとって自然的本質となったか どの程度まで人間の人間的自然が人間にとって自然となったかは 男性の女性にたいする関係のなかに示されている。
(マルクス:経済学・哲学草稿  第三草稿〔二〕私有財産とコミュニスム 城塚登訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも 《霊的な婦人の共有》ないし《人間の 自然的・感性的かつ人間的な 社会関係》のことを言っていると見てよいと思います。《感性が人格を形成する核である》とさえ言っているようですよ。

 ☆ かえって 聖書にも 女性蔑視の文章があると しばしば 指摘され批難されている箇所をめぐって アウグスティヌスは 次のように論じています。男の側からの見方が現われていて 擁護しがたいかも知れません。考察を加えていくべき主題だと考えます。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
     男が神の似像(にすがた)であり 栄光であるから 頭に蔽
    いをかぶってはならない。しかし 女は 男の栄光である。
    (パウロ:コリント前書2:7)

  ・・・男は神の似像であり したがって 女には被るように勧めるその蔽いを 頭から 取り去るように〔使徒=パウロは〕語っている・・・。
 精神は 永遠なものを志向すればするだけ 神の似像によって形成されるのであるから 自己を節制し 抑制するように引きとめられるべきではない。したがって 男は 頭に蔽いを被ってはならないのである。

 しかし 物体的・時間的な事物に巻き込まれるあの理性的な行為にとって より低いものへ余りに突き進むのは 危険である。だから それは 頭の上に抑制されるべきものを意味表示する蔽いを示す権能を 持たなければならない。

 ・・・神は 時間によって 見たまうのではない。また 或るものが 時間的・暫定的に生じるとき 動物や人間の内的な感覚 また天使たちの天的な感覚さえも 影響されるのであるが そのように神の直視と知においては 新しいものが 生起するのではない。
 ・・・
 それでは 信仰篤い婦人は 身体の性を失ったのであろうか。
 そうではない。かれら(かのじょら)は 神の似像――そこには性は存在しない――によって新しくされたゆえに 神の似像――そこには性は存在しない――によって 言い換えるとその精神の霊において人間が造られたのである。

 それでは 男は神の似像であり栄光であるゆえに なぜ 頭に蔽いを被ってはならないのであろうか。またなぜ 女はあたかも創造主の似像にしたがって神の知識へと新しくされる その精神の霊によって新しくされないかのように 男の栄光であるゆえに頭に蔽いを被らなければならないのであろうか。

 女は身体の性によって男と異なっているから その身体の蔽いによって宗教的な典礼で 時間的なものを管理するため下に向けられる理性の(*――理性の である――)あの部分を象徴し得たのである。そのため 人間の精神が その部分から永遠の理性に固着し それを直視し それに訊ねることをしないなら 神の似像は 留まらない。この精神は 男のみならず 女も持つことは 明らかである。
 だから 男と女の精神には明らかに共通の本性が認められる。・・・
(アウグスティヌス:三位一体論12・7)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《理性のあの部分》については 直接の解説はありません。《経験的な あるいは むしろ 経済的な ものごとを管理する知恵のはたらき》のようなことでしょうか。
 
 要するに けっきょくは 未来社会における人間の人間との関係を 変なことばですが 先取りして 考えてみておこうという課題ですね。男と女との関係を 捉えられれば――マルクスではありませんが―― 人間と人間との交通関係が 分かるようになるかも知れません。

投稿日時 - 2008-11-16 01:46:01

ANo.6

補足します。

自分の考える性の考え方が 知性の世界?とか哲学論争とかの世界では、かなり前衛的なのかもしれません?

感性教育というのも かなり総合的に実際の教育の現場とも結びついた、たぶん歴史的にも裏のある<でもはじまったばかりでもあるという>日本感性教育学会の考えよりも、さらにはるかに急進的ですから。

でも残念ながら わたしはネット音痴ですし、お金が無いのでスタッフを雇うことができない という状況にいつしか求道のみの人生の中陥っていました。    自分の考えが正しいのかどうか その専門の方々に問いただすことも出来ない状況です。

そこですべて迷いつつ回答してると言う感じなのです。

自分の考えの社会的な位置のようなものも解かりません。

すべてそのような中での、中途半端の状況にての回答です。 もし何か落ち度とか 批判とか またご迷惑な点とかがありましたら、遠慮なくおっしゃられてください。

よろしくお願いします。

投稿日時 - 2008-11-14 17:48:27

お礼

 No.5のご回答で
 ○ 競争なり権力闘争なりを このまま 進めていけば しかるべき会社なり指導者なりが 台頭して来て 要らない競争や権力者は なくなっていく。
 ☆ というような展望をお聞きしました。おもしろい見方だと思っております。
 と同時に わたしの関心は さらに その過程で そのどこかで 人間の更新が 起こるのではないか にあります。
 むろん 信仰もかかわっているのですが そうではなく(つまり それを 前面に押し出すのではなく) あくまで 哲学思想として この今から そういう変革のことを 考えていくと いいのではないかと思っています。
 つまり 競争の問題にしても 変革を捉えつつ議論しつつ いまの方式を進めていくところに 要らない競争や権力関係が 淘汰されていくのではないか こう感じています。
 いや どうでしょう? 何もいじらずに 自然史過程にまかせたほうが いいものが残るという自然淘汰が実現するでしょうか?

投稿日時 - 2008-11-14 20:07:47

ANo.5

>南島(沖縄)論<というのは、たしか以前そちらが質問していた内容と関わる問題ですよね。  忙しくて議論に参加できなかった時でしたが、チラッと目をとおした覚えがあります。

素朴な人の習慣の一つの例として興味を惹かれたからです。 分かち合いというのは人間本来の本質的な心理と関わるものだと思うからです。  うれしいことがあると、遠くの知人にまで知らせに駆けつけたりする心でもあるし、おいしいものがあると、他の人にも食べて欲しくなる心です。

でも、それをそのまま文明の社会での制度とかとして取り入れるのには、問題があるはずです。  心が素朴ではなくなっている問題です。  そのままでは制度は成り立つものであっても、心はついていけなくなる場合が出てきて  真心、あるいは自然は心が「分かち合いたい」からの行為なのかというあたりにウソが生まれ文明社会の人の心をより複雑にしてしまいます。

それで、簡単に回答とかに参加しても意味無いと思い時間が無い中で参加しなかったのだと思うのですが、はっきり憶えていません。 



性の問題、あるいは男女関係の問題は、すでに頭を使う人の間、あるいは文明の社会にて、めちゃくちゃ複雑な問題となっているようですね^^。

笑い事にも思えてしまうところ、笑い事なんかじゃない問題でもあるのですよね。

しかし、その超一流?とか超一流に関わる知性の人たちが、そちらのご紹介くださった文章にみられるような混乱をおこしてるのだとすれば、 これはどう言ったらいい問題か、考えあぐねてしまいます。

昔、支配階級が反抗を抑えるためにセックスを奨励したとかとか、そういう話を聞いたりしますが、 そんな類の論議に 超一流でなくても一流と言えそうな人たちもひっかかっていたのでしょうか?

感性教育も始まったばかり?(まだその内容には疑問があったりもしますが)のようですが、 やはりこここそ、感性教育が基礎から必要なところなのだと思います。

この問題が ここでの対話のたたき台になることは確かだと思います。

でも、この人たちの論議とあまりつきあいたい気持ちは起こりません。

エンゲルスという人は たしかエンゲル係数とかを語った人ですよね。

数字で消費を計算する一つの単純な数式を提示した人ですよね。

エンゲルスの書いた文ということで紹介してくださった文ですが、

最後の>それに応じた個々人の実践にかんする世論とを みづからつくるであろう――それでおしまいだ。< という「第二章家族」とかのまとめは、 「それで、家族関係はおしまいだ。」という意味合いのものでしょうか?    よくはわかりませんが 前段の文からすればそのように読めますよね。

でも、これは感性が発達して正常な成熟をした男女ならば いつの時代にても権力関係や楽な生活とかとは別の惹かれ方をする問題ですし、かつほんとうに成熟したら、欲望とかも大きくなる(快も深くなるのですからあたりまえですが)と同時に 欲望のコントロール力もそれ以上に無理なく大きくなるので、 結局は一夫一婦制は、制度以前の重みを回復するだけの話です。

未熟な間は 恋愛は巨大な感性教育の力となる世界です。 その巨大とさへ言える価値へのチャンスです。 でも 成熟すればその必要もなくなります。   すべての人が 一夫一婦制の中でも 素朴な時代にそうであったように、いや現代ではさらにゆるぎない確信を持って愛し合え、かつお互いが力となりあえるはずなのです。

男女関係の中には、そのような大きなチャンスがさまざまな色合いで文明の中にも存在してると思います。

おそらくブルジョアという言葉の中での男女関係も 知的なだけの人たちには 家族とは利益共同体というイメージとしてのみ写っていたのだと思います。  自分達家族の私有財産を守ること、それが肉感的な愛情だ、という感覚です。

そういうふうな家族は、  >その生涯をつうじて 貨幣(かね)やその他の社会的権勢の手段で女性の肉体提供を買いとる状況に一度も遭遇したことのない男性たちと 真の愛情以外のなんらかの配慮から男性に身をまかせたり 経済的な結果を恐れて恋人に身をまかせるのをこばんだりする状況に一度も遭遇したことのない女性たちとの 世代< つまり共産主義のん時代がやってくれば、 終わりを告げる ということなら 文章は通じますが、

その時代以前にも 正常な男女関係にては そういうセックス関係は終わっているわけですし、  もしこれが フリーセックスの関係を暗示してるならば、フリーセックスが自然な開放された心の帰結だという反欠けのイメージのせいにすぎないことだと思いますよ。

逆に言えば、 ちゃんとした共産主義が来ても そのような男女関係の健康な回復にすぐにつながったりするようなことはありえないということです。

>男女関係が 《前史が終われば》変わると見ているようです。<

というふうに 日本の思想(?)が思っているのであれば、 考えが浅いというより おそらく未熟なままでの知性だけ進んでいっての帰結だったりする世界なのかと思います。



しかしながら、 この家族の正常な肉感的な愛情につながる論議は、これからの資本主義にとっても 大きな力となる世界ですし、また 出きるならば思想家達が真剣に話し合えればなあと思ってしまう問題のひとつです。

というよりも、  私は実は 総合哲学さへあるならば、総合的な事業は今のビジネスをはるかに越えた力を持つと考えていますので、 生物学の「複雑系の科学」ではないですが、 そういう哲学をまがりなりにも持っているだけで私自身、 競争に勝つビジネス案ならいくらでも総合的な地点からですけど持ち合わせてもいるのです。  ちょっと考えただけでも 事業領域とかをマトリックスにして縦横からアイディアのひねり出すなどといった単純な作業とかよりも はるかに多くのまったく新しい事業案はつぎつぎと生まれていくようなものです。   これは私にその能力があるというのではなくて、 総合的にすべてを考えようとするとそうなるということです。

が それを具体的に 今後のその商品の見通しとして語ったら、 利己的な段階の人も それを応用してしまうわけです。   ですので、そういったことは 公の対話では語りえません。    それなりに、若い有能な人達へのヒントとかは書けたりしてもです。

でも、 今物事を総合的に考える力が無いのは、一つには感性の部分の進化が遅れていて、物事を総合的に考えているようでもその部分がぬけているからだと思うのですが、     その面からも この男女関係の議論は意味ありますし、   なによりも 成熟した もはや嫉妬とかいった雑念のない男女関係は、何よりも、個人的は利益よりも 人間の利益を優先する資本主義への道を大きく開きます。  またその知恵自体も そういう人たちからは膨らんでゆきます。

会社には理念が必要だと言いますけど、 今のままでは簡単に言えば「ごまかし」です。  理念などなくても 社員を情熱でまとめることができれば同じようなものです。

ある意味「理念」はいらないと思う。 競争でいいんです。  でも大きな正常な総合的な成熟した男女の会社には、やがて誰も勝てなくなるんじゃないですか。

企業競争の終焉ならば やがて、その向こうにはやってくると思います。

その闘いの向こうにはです。  けだし何もしなければ、たしかに怖い世の中のようです。 どこへ向かっているのか ?  奈落の底なのだろう?

怖いいいいいいいいいいいいい? ナあああああああ! ああああ!(シュールレアリスムより^^)。

投稿日時 - 2008-11-14 14:03:01

補足

 arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。今回のご回答としては 感性教育の前途は別とすれば わたしにとっては 総じて まだ 満足できないですね。
 社会主義者エンゲルス――ちなみに エンゲル係数のエンゲルとは 別人ですよ――も けっこう いいことも言っていると思います。
 性を経済とからませることのない社会が来ると言うのですから。
 ▲ 婦人の共有
 ☆ などという物騒なことについては かつて わたしは
 ○ 霊的な婦人の共有
 ☆ と言ってみたことがありました。これは 女性差別になるのかどうかも 分からないのですが もし 或る程度 あたかも寅さんのように――ほんとかどうか知りませんが―― 女性の気持ちをやさしく包むことが 社会的な自発的な務めとして あるとすれば そういう表現になるかも知れないと思ったまでですが。
 問題は 《いまのままの人間・今までの人間》が そのまま 未来社会において 男女の おそらくふつうの関係を実現することができるか だと考えます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 でも、これは感性が発達して正常な成熟をした男女ならば いつの時代にても権力関係や楽な生活とかとは別の惹かれ方をする問題ですし、かつほんとうに成熟したら、欲望とかも大きくなる(快も深くなるのですからあたりまえですが)と同時に 欲望のコントロール力もそれ以上に無理なく大きくなるので、 結局は一夫一婦制は、制度以前の重みを回復するだけの話です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは 素直に そのまま 新しい人間関係へ入っていけるとおっしゃっています。このとき 上の
 ○ 霊的な婦人の共有 と言うよりは 霊的な人間どうしの関係
 ☆ も 同時に 伴なって実現すると見ますか?
 いまのところ わたしは 基本的に言って なにか どこかで どんでん返しのような革命が起こるような気がしています。政治革命でもなければ 必ずしも経済制度の革命でもなく 人間じたいが 旧い人から新しい人へ 変えられることだとは 予想しています。
 エンゲルスが
 ▲ それでおしまいだ。
 ☆ と言っているのは 資本主義的な人間関係だと思うのですが かれらは まづ 政治経済革命を経て 社会主義的な生産様式へ移行するにつれ そうなると言うはづです。これには もうこだわらなくてもよいと考えますが たとえば いくらかわたしが arayata333さんよりも悲観的なのは これだけ豊かになった段階で 《衣食足って礼節を知る》というようにはならなかったからです。
 もっとも
 ★ しかしながら、 この家族の正常な肉感的な愛情につながる論議は、これからの資本主義にとっても 大きな力となる世界ですし、また 出きるならば思想家達が真剣に話し合えればなあと思ってしまう問題のひとつです。
 ☆ というように この主題を さらにこれからの課題として位置づけてもおられますので 将来へ向けて やはり井戸端会議を推し進めて行ってもよいと思いました。
 ★ 総合哲学とそれの事業への応用
 ☆ ともども そしてあらためて 感性教育ともども 課題となっていくのでしょう。
 ★ ある意味「理念」はいらないと思う。 競争でいいんです。  でも大きな正常な総合的な成熟した男女の会社には、やがて誰も勝てなくなるんじゃないですか。
 ☆ というふうに ちらっと 述べておられるのですが 今回 いまひとつ はっきりしなかった嫌いも残りました。
 つまり 人間とその歴史にとって 《前史から後史へ》などという見方をする必要はないのかどうかに関してです。《競争》については いまの競争方式を そのまま つづけていけば どこかで 要らない会社は 立ち行かなくなり 要らない競争は なくなっていく。そのようなどんでん返しが やってくるという見方でしょうか。

投稿日時 - 2008-11-14 19:55:42

お礼

 社会的な支配関係 これが――情報公開の問題ともからんで―― どうなるのか。競争の行方と同じように やがて どこかで 支配関係が この場合は ひっくり返ると言うよりは もはや 消えていくでしょうか。権力闘争(競争)も 行き着くところまで行って 勝ち負けがなくなり そうすると 指導者・責任者は 支配関係から出るのではなく 従って 単純な《当番制》へと 移行していく という方程式を描くことが出来るでしょうか。
 わたしは 自分が 信仰を持っているから言うのではなく そうではなく 信仰や神という言葉を出さずに どこかで 社会全体として 何かの変革が起こるような気がしています。
 かつては いったい 何だったんだと言って 振り返るような回転が 起きるかに思います。これ以上は 分からないだけではなく 憶測で言うことの物足りなさがあります。また 聞く人に 失礼になります。言ってしまいましたが。

 こんなかたちです。

投稿日時 - 2008-11-14 19:58:54

ANo.4

★シュタイナーについては、URLでご紹介くださったところを読みました。

これですと、エーテル体とかアストラル体もヨガでのお話と変わりないですし、実証主義といっても「将来それは科学的にも立証されるであろう」ということで、なんらその方法についてさへ明言していたわけではなかったわけですね。  今回感性は 深く学ぶべき地点の人であることが私には解かりましたが、 premeapeさん式にですが、哲学に関してはこう言っておきたいです。

「のほほん村」の村長さんでも感性は健康でとても豊かでありえる点を 日本感性教育学会に入れたら その点も専門的に論議課題の一つとして取り上げる必要があることを 今回知りましたが、 急進的な私としては「のほほん村」自体は後回しにしておきたい。(ニセオコリザルより)



吉本隆明さんという方は、全共闘世代の思想家のようですね。 でも、では計画経済の具体的ビジョンを何か掲げられていますか? 過去のそれでしたら権力欲という暗い部分もやむおえないなどという哲学が生まれてしまうのもやむおえないかもしれません。 でも、それなら、すでに過去形でしょ。

これだけ計画経済が大きく失敗したのに、巨大な改善案無しに共産主義を語るには「夢見る村」のお役人にでもなりたい人なのでしょうか?

あるいは、高度資本主義についてでもいいです。 何か具体的な進展の方向を掲げられていますか?  総合的グローバル企業(この回答では 詳しい書き方をさけています。)が独占すれば、 競争という概念も競争の自由と言う概念も資本主義社会から企業に関しては消えていってしまいますが、    それへの具体的第一歩さへ語らない段階で、その時が来たら人間が消滅するとか その先のビジョンは解からないだとか、これは そんな夢うつつの論議に思えてしまうことです。

その段階を 縁起がすべてわかったような段階とはとても思えませんし、(それに縁起というなら、それは人間には完全には読みきれない世界だと思います。)  《前史》、《後史》でくくれるようなほどの区切りの時とも思えません。

競争自体さへ無くなるわけではないですしね。

また逆にそのときまでに「競争」を「見つめる目」が誰においても完璧に育ってるなんてことも無いと思いますしね。

文字通りの「復活」は ここで論じるテーマではないでしょうが、 人間本性の復活、「見つめる目」の深まりと安定化も、つまりその面の<復活>も、経済のその変化とはま別の次元で変化進展してゆくと思います。



わたしは、今は、資本主義の発展のことしか考えて無いですが、 たとえばその人たちは、 貧しい国の人たちの仮設住宅とかの材料の化学とかは、また食料の配布のためにコンビニやさらなる流通革命、あるいはドメステックのそうした国での進展状況をどのように考えているのでしょうか?  せめてそのへんだけでも語ってほしいですが。



対話も大切ですが、 そのへんの対話は ここでは難しいですね。

投稿日時 - 2008-11-13 07:59:16

補足

 arayata333さん 論点が定まって来て おもしろくなって来ましたね。ご回答をありがとうございます。
 ★ シュタイナーについては・・・実証主義といっても「将来それは科学的にも立証されるであろう」ということ
 ☆ なるほど。了解しました。長い目で見ることも大切です。
 ★ 「のほほん村」
 ☆ は 分かるような分からないような ですが これも 今後へと進めましょう。
 ○ 吉本隆明については 趣旨説明として述べるべきことが まだ あったようです。と言っても それは わたしが もう二十年 へたすると三十年近く 故意に=つまり かれを棄てたかたちで 遠ざかっているということです。
 きわめて魅力的な思索を残していて 大いにおそわったのですが 全体として ついて行けない / これは まちがっていると結論した結果です。《関係の絶対性》を言います。人について 独立存在であるほかに それと同時に 関係存在でもあると わたしが 自分の見解をつくったのは 影響されてのことです。南島(=沖縄)論で 外からやってきた種族が 土着の思想(宗教)を 自分のものとして――そして土地の人びとには むしろ 自分たちの持っていた宗教を 持たせるようにして―― とうとう 島全体を 乗っ取ったという理論についても 学びました。そこから ムライスムやスサノヲイスムを 立ち上げました。
 でも 全体として かれの思想には ついていけない。というより どちらへも向かわない / 議論だけだと位置づけました。

 ☆ コミュニスムに対する・考えうる批判を出しておられます。逆に ここでは かれらの側に わたしが まわって 応えてみましょう。と言っても もはや一点です。
 吉本も言っているように 《人間の〈前史〉が終わるまでは そのあとの〈本史〉なり〈後史〉なりについては 分からない》という大前提に立ってですが 人間関係の中でも 男女関係が 《前史が終われば》変わると見ているようです。
 まづ コミュニスム全般にかんして 次のようです。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 共産主義は経験的にはただ《一挙に》( auf “einmal” )または同時になされる支配的な諸民族の行為としてのみ可能であるが このことは生産力の普遍的な発展およびこれにつながる世界交通を前提している。・・・
 共産主義はわれわれにとっては つくりださるべき一つの状態 現実が基準としなければならない一つの理想ではない。われわれが共産主義とよぶのは いまの状態を廃棄するところの現実的な運動である。
 この運動の諸条件はいま現存する前提からうまれてくる。

 ところでただの労働者たちの大衆・・・は したがってまた一つの保証された前提としてのこの労働そのもののもはや一時的でない喪失は 競争を通じて世界市場を前提する。だからプロレタリアートはただ世界史的にのみ存在することができ おなじくかれらの行動である共産主義も一般にただ《世界史的》( weltgeschichtlich )存在としてのみ現存することができる。諸個人の世界史的存在とは 直接に世界史とむすびついているところの 諸個人の存在のことである。
(ドイツ・イデオロギー 古在由重訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 あえて『共産党宣言』から引きましょう。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そして 共産主義者よ 君たちは婦人の共有を採用しようとするのだろう と全ブルジョア階級は いっせいにわれわれに向かって叫ぶ。
 ブルジョアにとっては その妻は単なる生産用具に見える。だから 生産用具は共同に利用させるべきである と聞くと かれらは 当然 共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。
 ここで問題にしているのは 単なる生産用具としての婦人の地位の廃止だ ということにはブルジョアは思いもおよばない。
 何しても 共産主義者のいわゆる公認の婦人共有におどろきさわくわがブルジョアの道徳家振りほど笑うべきものはまたとない。共産主義者は 婦人の共有をあらたにとりいれる必要はない。それはほとんど常に存在してきたのだ。

 わがブルジョアは かれらのプロレタリアの妻や娘を自由にするだけでは満足しない。公娼については論外としても かれらは 自分たちの妻をたがいに誘惑して それを何よりの喜びとしている。

投稿日時 - 2008-11-13 10:02:07

お礼

 ブルジョアの結婚は 実際には妻の共有である。共産主義者に非難を加えうるとすれば せいぜいで 共産主義者は偽善的に内密にした婦人の共有の代わりに 公認の 公然たる婦人の共有をとり入れようとするという非難ぐらいであろう。いづれにせよ 現在の生産諸関係の廃止とともに この関係から生ずる婦人の共有もまた すなわち公認および非公認の売淫もまた消滅することは自明である。
(《共産党宣言》第二章 大内兵衛・向坂逸郎訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この点 エンゲルスがさらに 次のように見通しを述べています。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 したがって きたるべき資本主義的生産の一掃後の性的関係の秩序について 今日われわれが推測できることは 主として消極的な種類のものであって 大部分は脱落するものにかぎられる。

 だが 何が付け加わるだろうか。それは 新しい世代が成長してきたときに決定されるであろう。この世代は その生涯をつうじて 貨幣(かね)やその他の社会的権勢の手段で女性の肉体提供を買いとる状況に一度も遭遇したことのない男性たちと 真の愛情以外のなんらかの配慮から男性に身をまかせたり 経済的な結果を恐れて恋人に身をまかせるのをこばんだりする状況に一度も遭遇したことのない女性たちとの 世代である。

 このような人びとが出てきたばあい 彼らは 今日の人間が彼らのなすべきことだと考えていることなど 意に介さないであろう。彼らは 彼ら自身の実践と それに応じた個々人の実践にかんする世論とを みづからつくるであろう――それでおしまいだ。
(F.エンゲルス:家族・私有財産・国家の起源  第二章 家族)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たたき台には なりますでしょ?

投稿日時 - 2008-11-13 10:04:39

ANo.3

こんばんは、brageloneさん。


*******************************************************************************

 ☆ 言ってみれば 空観として 世の中の縁起共生の関係・その歴史事実は すべて 知って公表すべきであるか。そうしたら 《全部終わり。人間社会は 存続しなくなる》か。
 吉本に言わせれば 《人間が滅びる》そのこと自体を 超一流のイデオローグは ほんとうは 求めたのだと言います。そのあと どうなるかは 分からない 分からないまま そう求めたのだというのが かれです。
 ここでは そのとき 人間の《前史》が終わって その《本史》が始まるのか。《復活》するのか。こう問うています。おしえてください。一緒に考えてください。

*******************************************************************************


うん、
【会社更生法と民事再生法の違い】
http://www.shinenet.ne.jp/~kikuchi/bengoshiron/bengoshiron03.htm
【倒産法制】
http://www.nct9.ne.jp/s12/kie/e10.html
【『新入社員のやるき』質問番号:403255】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa403255.html

と、いうふうに読み替えて考えたらちょっとは読みやすくはなんないかな?

投稿日時 - 2008-11-12 22:30:13

補足

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 【『新入社員のやるき』質問番号:403255】ANo.10
 ☆ いわば 全員経営者論だと思います。その方向を わたしも 思っております。《知るべきものは すべて 知るべきである》となりましょうか。

 江藤淳が こんなことを言っています。掲げておきます。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だから 個人的な欲求不満は われわれが皮膚で仕切られた個人である限りは その範囲で処理すべきことであって 一般的社会正義に解消すべきものではない。
 もし政治をやろうというなら その政治をやろうという決意のもとに立って 踏み切らなければならない。つまり正義のためにではなく 進んで悪を行なう決意がなければならない。それは人間が社会生活を通じてでなければ存在できないのだから仕方がない。
 人間の共同生活を支えているのは いわば生の根源的な力に根ざしている暗い衝動でしょう。政治は この力に触れなければ 動いていかない。そのためには 常識的に考えたら 嫌なことでもあえてしなければならないだろうと思う。だからスターリンなども あながちに排斥しようとは思わない。それは一つの様態だろうと思う。
 これは実は家庭を治める上にも通じるのです。家族関係は一面で倫理だが他面では政治ですから。
 (前掲の吉本隆明との対談)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうすると たとえ どんな悪でも すべて情報公開すべし となるでしょうか。隠しているから おもしろくないし ちっとも 良くはならないと言えるでしょうか。

 どうでしょうね。
 あるいは もし《復活》というのならば それは 
 ▲ 人間の共同生活を支えている・・・いわば生の根源的な力に根ざしている暗い衝動
 ☆ を 明るいものへと どんでん返しすることも 関係しているかも知れませんが。

投稿日時 - 2008-11-12 23:29:40

ANo.2

おはようございます、brageloneさん。

ふぅー。
あいてた。
河岸はこっちですか。探しまわりましたよ。
どっこもこっこも締まってるしー。
おかげで寄り道ではないですが、
地の底深く、みてまわりましたよ。
ふぅー。

【大陸移動説からプレートテクトニクスへ】
http://georoom.hp.infoseek.co.jp/7old/3litho/24platehistorical.htm
【プレートは動く】
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/chigaku/archive/resume015.html
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/chigaku/archive/chapter025.html
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/chigaku/index1.html
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/chigaku/index.html
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/chigaku/index3.html
【プレートテクトニクス理論と光磁気ディスク】
http://www.tdk.co.jp/techmag/inductive/200808/index2.htm


《吉本隆明の思想について》
うーん、吉本隆明さんといえば…
『詩的リズム -音数律に関するノート-』
 菅谷規矩雄著 大和書房

この本の中でちょいちょいその名が挙がってた。
p49 三、発生の原基
§I 前=言語あるいは場面
吉本隆明が韻律の本質にふれて、言語の条件の底辺に想定した
< 非言語時代の感覚的母斑 >に対応するものを、現在における
非言語的表出の形態のうちにさぐりもとめてゆくとき、
非言語的であるとともにかならず前=言語的であるような
ひとつの恒常的な発生領域にあたるだろう。

とりわけ、謎めいた言葉が措かれていたのが印象に残ってた。
で、本棚に手を伸ばし本を手に取りページを開く。
******************************************************************
【進化のきっかけとなる大量絶滅】
http://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/44/research_11.html
――環境劣化の原因はやがて消え去り、地球環境は生きものが暮らしやすい元の状態に回復する。すると、生態系に大きな空白がうまれ、幸運にも生き延びたたわずかな生物は、それを埋めるように急速に広がる。そこでの頻繁な遺伝子組み合わせの試みの中で、種の多様化が急速に進んだだろう。このように、大量絶滅は、既存の生物の消滅と同時に、進化の次の段階を促すアクセルの役割をもっている。――
******************************************************************

投稿日時 - 2008-11-10 05:43:07

補足

 littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 
 そうですね。質問趣旨での引用をさらに広げて その背景説明を述べます。

 江藤淳は そもそも 自己および日本人とその社会にとって いちばん大切なものとして 《社稷》を持ち出します。《土地の神と穀物の神》のことですが 簡単に言えば 《国家》のことです。必ずしも 厳格な概念ではなく また学問や政治だけのことではないようです。いわば《情感の共同性》から社会が成り立っていて その核とも言うべき意味で 《社稷》の概念を持ち出しています。そのあとでは 当然のごとく この社稷をあずかる政治の行為に 焦点を当てていきます。そのあとでは この社稷を守る政治行為のもとに 少なくとも かれ自身の時間(生)は あります。

 それに対して 吉本隆明は  伝統と言えども 共同自治が 制度化し社会支配体制となった側面については きびしく それと対峙します。結果として あとで 伝統を守ることになっても構わないのですが 一たんは 日本の歴史伝統的な体制と自己との結びつきから 完全に自由なる《時間》を主張します。そのためには たとえば支配体制に残されている共同祭儀・その秘儀をあばくべきだと言い それに対して社稷に拠る江藤は そうなると《全部終わり。つまり 人間社会が存続しなくなる と思う》と応えています。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【吉本】・・・僕に言わせれば その秘儀の実体ははっきりさせろということです。とにかくはっきりさせればすべて終わりであるとおもいます。・・・江藤さんは そういうのはあったほうがいいし またそれは別の形では どんな社会がきてもあるんだというふうにおっしゃるかもしれないけれども 僕は どんな社会がきても 全部秘儀はあばいたほうがいいと思います。・・・
 【江藤】・・・思想というか イデオロギーといいますか・・・これはもともと言行不一致のもので だからといってあながち責めることはできない。つまり それはプロジェクションですから 何か努力目標として投射したわけですから。ただ僕は 思想と言う時 そういう努力目標としての思想というものを あまり信じないのです。現実にどう生きているかということを正確に言うものが思想である。あとは 時代は崩れ 人は滅びる それだけだという そういう心境です。・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 言ってみれば 空観として 世の中の縁起共生の関係・その歴史事実は すべて 知って公表すべきであるか。そうしたら 《全部終わり。人間社会は 存続しなくなる》か。
 吉本に言わせれば 《人間が滅びる》そのこと自体を 超一流のイデオローグは ほんとうは 求めたのだと言います。そのあと どうなるかは 分からない 分からないまま そう求めたのだというのが かれです。
 ここでは そのとき 人間の《前史》が終わって その《本史》が始まるのか。《復活》するのか。こう問うています。おしえてください。一緒に考えてください。

投稿日時 - 2008-11-10 08:43:03

ANo.1

吉本隆明という人も江藤淳という人も知らないのですが、お二人の対談の中での吉本隆明氏のこの発言をめぐり、 brageloneさんの論点に絞って私のほうからの回答を書いてみます。

超一流のイデオローグというのが、 未来をごみ当番が首相でもいいというところまでの先の先を読みきっているのかどうかは、 わたしには想像のつかないところです。   (私という肉体労働者が おとなしいもんでごみ当番のようなものですが なんという光栄な世の中がくるんで笑。)

でも、まず、私たちは過去と今さへ読みきっていない姿にもっと気づくべきときなのだと思うのです。(ムムム偉そうなこと言ってます。)

感性教育の遅れのこともそうですけど、 では神智学から実証主義を採用して反逆した人智主義のシュタイナーのことはどれだけ私たちは理解してるのでしょう。   これは 私自身の現在の反省ですので少し書いてみます。

でも 若い頃私は、 人智主義とかいっても、結局は中身はどうせ同じだろうという頭がありました。

神秘主義の一種で、見せ掛けの科学性をまとっているだけだというふうにです。

そこで実際に 専門であった踊り心の研究の一環として、シュタイナーが教育とかで取り上げているオイミュトリーという名の リズム体操のようなものを調べてみたことがあるのです。

いくら動いてみても わたしには、そのどこがいいのか解かりませんでした。

しかたなく、今度は本をもう少し読んでみたら、 色鉛筆でのシュタイナー自身の絵が描かれてるのを見て、  これで私は 失望してしまったのです。

ウソだと思ってしまったということです。   これじゃあ、そのへんの宗教教祖のごまかしじゃないか。  鉛筆ならばどこまでも細かいタッチの変化に精神の深みも豊かさも無限といっていいほど描き分けることが出きるのに、まず、この人は色で人をひきつけようとして、こぎれいな色の色鉛筆を使っているけど、  物理的な色鉛筆の性格そのままに、出ているのはそのまま こぎれいな色合いでしかなく、 タッチはむしろ、子供のような絵そのまま幼稚なだけの絵じゃないか。

というふうに見てしまったということです。

でも それから30年近くたって、  それがもう、虹の絵だったか花の絵だったかも忘れているというのに、 この色の粉に過ぎないはずのその絵が、 なんとも客観的に優れた絵として私の心の中に 今になってよみがえるという 記憶現象を、  私個人の中だけの迷想と考えていいものなのでしょうか?

私は 絵に描けるものは、声にも出せる(音声の躍動の豊かさとして歌のなかとかでは同じ感性を表現できる)と思っています。 逆は難しいですが、たとえばゴッホならたぶん難しくなかっただろうと推理していたりします。マチスも同じです。 ピカソはわかりません?     そのわたしが、 声で試してみても、 それは深い色合いで、心の中のよみがえってきた色合いだということが解かりました。

科学的にはどういうことか? 鉛筆のタッチならば、描き分けてるところをビデオで撮れば、 大勢の人にその違いとか豊かさの世界は かなり簡単に教えることが出きるはずです。  でもそれが色鉛筆では、 いったいどういう魔法をシュタイナーが使ったのか?    あ

わたしが魔法という言葉を使ってはいけないですね^^。

それは どう実証可能なのか?        もしそれが今ここにての深い実証であるというのなら、よほど深い世界ですね。

私という鑑賞者を通して、30年の年月を経て 歌の世界にて声の変化の世界にて実証的に観測された世界。   

これでは、 感性教育の革新性の前に、 私自身が過去の超一流の精神の世界の人たちのことを知らないことになります。

おそらくオイミュトリーも 私の方が理解できなかっただけでしょう。

動き自体は、もう憶えていなくても(すっかり関心がさめてしまったので、記憶には残らなくなってしまった)、それにも関わらす、 そうか そういうことだったのか、というような  その動きのコミュニケーション性のようなものはわかる気がしてきましたけどね。  でもやっぱりはっきりと解かるような動きの世界ではないです。

あくまで 幽玄のほうが私にとってはるかに解かりやすい動きですし、奥は深いと思えてしまいます。     もし、色鉛筆の この実証?の世界が本当ならば、 けれど、これもさらに深い世界なのかもしれません?

こうなると、ヨガでは単なる方便だと思っていたアストラル体の話も彼の説の中では真実味があるのではとも思えてきます。

21歳まではアストラル体という ヨガでは言わないかなり概念の違うアストラル体についての話です。

また、彼の農業や医学についての見解とかも その後の関連の社会活動とかも すべて無視できなくなってきます。

いずれにせよ、 悟った人とか神秘主義の人の絵を墨絵の白隠以外見ていません。  白隠の場合は 墨絵ですからタッチではないので、私には最初から判断不能な世界ですが、これも結局 感性教育の改革だなんて言いながら、  ただ単に何も 気がついていないだけなのかもしれません。

シュタイナーはキッカケにすぎず、そのへんすべてに、今自信を失ってもいます。

他の人は解かるのでしょうか? 超一流ならば、やっぱり過去や今もそして未来も そこから究極まで見通せるのでしょうか?

書く資格なんかないような人間からの回答だったかもしれませんが、 いままでのよしみで、 一番強く心にひっかかってしまったことを書いてみました。

せっかく意気込んでいた感性教育改革、 今ちょっと、いや、かなり、自信を失いかけてます。     これこそ、私たちの (あ)の道の現実なのかもしれないですけどね。   こうして誰もが反省しながら進んでいくしかないところなのかもしれないですけどね。

倒れて起き上がる人が強い、という言葉を聴いたことがありますが、 今の自分も そうあって欲しいと祈るばかりです。

投稿日時 - 2008-11-09 19:06:10

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。
 ひとに 《前史》や《本史》がありますか?

 ★ シュタイナー
 ☆ に関して ヰキぺディアの解説を読み 《シュタイナー研究室:http://www006.upp.so-net.ne.jp/ekorange/》というサイトを こちらは ちらっと 見ました。
 全生涯をつうじて みづからの持ち前の能力を保ち 発揮しようとしたように まづは 思われます。結局は 中身ですが まだ 詳細をつかみ切れていません。
 ちょっと見た限りでは まづ 重要なこととして 《教条主義、律法主義に陥らない》ようにと うたっているのですが そのあと 人智学の初めを読むと なにやら――わたしには――七面倒な倫理的な目標となるような境地が説明されていました。つまり いづれにしても《おしえ》ですね。

 オイリュトミーや絵の方面は 分かりませんが 問題は こういう神秘思想にかんしては 一点に絞られるのではないでしょうか。重要な判断基準があるということです。例によって 聖書からですが 人びと一般に分からない言葉として《異言》があると言います。神秘思想の内容は そういう種類になるかと思うのです。それよりは わかるように解釈した《預言》を大事にせよと パウロは 言っています。
 ▲ (コリント前書 14:1~&)~~~~~~~~~
  ・・・信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。
 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。
 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。
 あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。
 だから兄弟たち、わたしがあなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう。 ・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 人智学というほどですから 理解できるように表現しているようですが まづは それこそ《感性》や 生活態度としての《境地》が 言葉で表現されていて その言葉が たぶん初めは 窮屈に感じられると思いますが どうでしょう? 

 どうなんでしょう。たとえば こういうことを思います。つまり 感性教育よりは 人間教育であり 人間教育よりは 話し合いであり 対話をとおして どれだけ心が通ったか その小さな分かり合いから 出発するというように考えるのですが? 単純にです。
 おっしゃっていたように 《関係》の側面ですね。自分の存在のいま一つとしての側面 つまり社会的な《関係》という側面ですね。ここから 世界に広がるように思うんですけれど。

投稿日時 - 2008-11-09 20:58:17

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