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解決済みの質問

道徳規範は 愚の骨頂

 ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう?

 道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。
 ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。
 ▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2
  ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。

 ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。
 ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。
 ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。

 そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのですが いかがでしょう? おしえてください。

 * おそらく 宗教という問題にかかわっているとも思います。わたしは 宗教は 個人の信仰が内面から外に出かけるというおのれの自殺行為から出た慣習だと考えているのですが そのような外化としての教義化と 一般における道徳規範とが つながっているかとも思います。このあたりのことについても よろしかったら どうぞ ご見解を示してください。

投稿日時 - 2009-01-06 11:16:51

QNo.4607794

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

ちょっと基本事項を整理します。
まず、法律及び道徳規範の外面性と道徳の内面性、
法律の国家による強制と道徳規範の強制がない部分を図にしてみました。
A部分は、内面的道徳だけ、Bは、強制力を伴わない道徳規範だけ、
Cが法律の実体法、Dは法律の中で道徳とは関連のない手続上の決まりなどの部分で、

Eは、実体法の中で何らかの理由で道徳から外れた不合理で妥当性の見出せない法律です。

 法律Cはよく言われる最低限度の道徳とされ、行為が現実に行われたことを問題として,
それを評価の対象とするのに対し,道徳は,人の心理の内側を問題として行為の動機を
重視します。法律C部分は、「人間がいるところ争いが起こる」がその存在理由です。

 動性道徳は、道徳における「行為の動機」を形成する非常に帯域の広い内面を
各個人が熟成させることであって、この広がりによって結果として究極的にBC部分が
形骸化されることです。

 国家による強制力の発動は、そういう意味では形式上最低限に抑えられている
ことにはなっていて、国家対個人の関係では自由の保障がされてもいます。
 そして、一階と二階では、憲法で一階が主体であることが謳われているわけですが、権力は
実質的に二階に存在します。法律Cを最低限度の道徳としながら、二階の詔勅等E部分を一階に強制すると
上記の形骸化がなされないどうしようもない部分ができることにはなりますね。でも、一階には
これを排除する力が法律Cによって与えられています。
 なにが言いたいかというと、法律、規範には、究極的に形骸化できるものC部分と
なしえないものE部分があるということであり、なしえないものは排除しなければならないという
ことですね。

 そして、前回、規範の存在を意識することのない人間が存在していると記載しましたが、
単に気ままな暮らしをしていると言うことではなくて、やはり、気づきが重要で、
排除すべき規範への気づき、規範の限界への気づき、及び帯域の広い内面の熟成によって、
規範BCから自由になります。
 あと忘れてはならないのは、この全体が時間経過に伴って変化するということに対して、
規範も、法律もその静的態様からCがEに変質することがあると言うことですね。

 結論を急いでしまいますが、規範が無くならないのは、気づきがないことと、
動性道徳の不存在がその理由となります。つまり、それがあるなら、BCは自然と
形骸化するということで、二階からのEの強制は排除、Cの強制は即形骸化します。
 規範という帯域の狭い情報に、帯域の広い動性が縛られてしまうのは、内在する道徳の不存在
ということでしょうか。二階にいる人の言葉には弱いということも、宗教の話もこの二つで
説明できるように思います。
 


 

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投稿日時 - 2009-01-16 16:50:32

補足

 bananasandさん とうとう 佳境に入ってきましたね。ご回答をありがとうございます。

 ▲ 《ハドソン川の奇跡》 《ハドソン川の英雄》
 ☆ の話が しきりです。最後に いま一度機内を見まわって 残った人はいないかを確認してから この機長は 脱出したそうです。Bravo !
 ところで このとき 危機管理のマニュアルとしての対処法と そして 道徳上の対処の仕方とが あるかとも思われます。《機長や船長は 飛行機や船と 生死をともにするのだ。危機を脱出するのは とうぜん 乗客乗員すべての最後である》という考え方を 規範ととるか もっとも合理的な対策として考えられたものととるか。

 こう考えると どうも 帯域の広い《道徳》というときに わたしは 動性道徳とさえ言わずに もしくはその枠をも超えて 思想または生活態度あるいは行為形式と呼んで捉えたほうが よいように思うようになりました。
 例の将来の歴史に向けての行為形式を 方程式と呼びましたが そう呼ぶ限り まだ 規範に近い感覚が残ります。思考実験を煮詰めたあとに残る合理的な形式も 規範のにおいがしないでもない。
 ですから ちょうど 法律を 実体の部分と手続きの部分とに分けて捉えたように 基準や原則として扱われる行為形式については 規範の部分と手続き上の規則の部分とに 分けてみるとよいかも知れないと思ったのです。
 言いかえると A・B・C・D・Eの全部を包含する X なら X を 思想哲学あるいは生活態度ないし行為形式として さらに 設定してみると どうですかね。あるいは こう言えるかも知れません。つまり 《思惟・内省=生産・行為形式》です。いちど こういう用語を作ったことが じつは ありました。帯域が広いでしょう?

 その利点は たとえば 《動機》を 必ずしも 扱わなくてもよい。あるいは 規範化の問題について 特別のかたちで 《気づき》として おしえ合わなくてもよいかも知れない。
 ★ Eは、実体法の中で何らかの理由で道徳から外れた不合理で妥当性の見出せない法律です。
 ☆ このEも いかに 不合理なものであろうと 広く人間の思惟=行為の形式であるとして その基礎の上に乗っけておくと そのEを持ち出してきて取り立てようとする相手に対して それもそうだがうんぬんと言って切り出していくことができる。

 あとは 二階族の言語習慣の問題になるでしょう。その方言の特徴や 表現形式の特徴などなどを 基本的に押さえて認識しておくと きわめて便利になると考えられます。
 ひとつ 最初に思い浮かぶのは 何でもかでも 相手の思想(思惟=行為形式)を 先取りすることです。おれは おまえの考えや思いを知っているぞ あるいはおまえの心をちゃんといつも思っているのだぞと 思わせようとするその手法のことです。先取りと言っても 時間的なあとさきであるよりは 考え方において おまえの思考や思いを包むほどの思いを おれは 持っておるぞと思わせるものです。
 世間の誰が 分からなくても おれだけは おまえの気持ちが分かる ようく分かるという態度を 持ち続け たとえ勘違いが 途中で 見つかっても 絶対的に 初めから 分かっているのだぞという姿勢を崩さない そういう方言形式です。(アマテラス語とは 誰かが 言っていました)。(これだけでは ありません。いろいろ あるはづです)。

 ★ 結論を急いでしまいますが、規範が無くならないのは、気づきがないことと、 / 動性道徳の不存在がその理由となります。
 ☆ ですから 別の角度からみつめつことも出来るわけです。《気づき》については アマテラス語方言の表現形式を知らないゆえ 気づかないのだとすれば その表現形式の特徴を分かれば そうとう 効を奏す可能性がある。あるいは 《動性道徳の不在》という観点から見るほかに 別様に 最大限に広い帯域としての思想(思惟・内省=生産・行為形式)が あいまい・あやふや・はにかみやの傾向を持ち ともかく 思考の訓練が まだまだ なされていないという観点から 捉えていくなら いいかも知れない。つまりは 《動性道徳》を旗印にして掲げつつ 説いていくと またまた 規範として間違われるおそれがある。――以上のごとくです。
 
 * 今回は 試行錯誤でよいと思って 荒削りのままです。

投稿日時 - 2009-01-16 19:51:05

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回答(39)

ANo.39

では、ちょっと脱線した話題を最後に。

デパートのトイレットペーパーなんです。
いわゆる公共の場所で、トイレットペーパーを置いておけない国が
けっこう沢山あるということですね。
国内でも駅構内はないところもありますし、経済状態にもよるのですが、
有価物であるトイレットペーパーを自分が使う分だけ使って、
残りはちゃんと残しておく。
ほとんどのそのようにするのが当たり前だから、それで支障がないという状態。
ほとんどの人が持って帰るようでは、管理側もとても置いておくことはできないわけです。

他の状況を見渡せば、国内もトイレットペーパーレベルといってしまえばそれまでですが、
これが意外に重要だと思うんですよね。

所有物でない、貸借物でない、公物でない、消費される物・・・・

トイレは清潔に! おあとがよろしいようで・・

投稿日時 - 2009-01-17 21:08:35

お礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 昔の言葉では 《公徳心》と言っていました。
 そう言えば 《パブリック》とは どういうことかという話を NHKのテレビで ものすごく昔に聞いたおぼえがあります。
 オランダでの体験を語っていたのでしたか 図書館の本は みんなのもので これは パブリックだと言います。パブリックのものは みんなで 大事に使うのだと。ただし 自分の所有する本は 乱雑に扱うのだとも言っていました。
 あまり一般化することは出来ないが 日本では これが 逆ではないかという話でした。自分のものは 大事にするが 図書館の本なら 自分のものではないから 破ろうが 書き込みを入れようが 自由勝手だと思っているのではないかと 話をつづけていました。

 図書館の本は きれいに使いましょう! それでは。

 あっ あの《羞恥心》現象について 名前をつけておくといいですよ。流行語大賞をめざして 考えてみてください。いくらか時間が経つと この現象を命名し 促したのは ここでの回答からだったということになるでしょう。

投稿日時 - 2009-01-17 22:36:17

ANo.38

>相手との関係では 問題点を しっかり 処理しておくことこそが あるいは それだけが 重要だと考えます。<

この冷静なご判断には、もう少し対応すべきかなと思え、 

「先送りされてる」とおっしゃられる問題から ともかく書いてみます。



>はっきり言えば 何の価値もないという評価をしています。世の中成るように成る これだけの思想です。これだけが 思想です。まったくとるに足りないものだという評価です。それを あなたは 良く評価するところもあると言うのですから 真っ向から対立しているのです。そういう問題が 尾を引いています。<

「Kiさん」のことに絡むわけですが、そちらの問題とされている「世の中成るように成る」という思想との対立点は、 この質疑の問題とも関るものと思えますので、 筆を伸ばしておきます。

*まだ、完全にはOKウェブを去るとは決めていませんが、 それによってその地点を再び考えてみます。  OKウェブを去るのは、ともすれば激しくなってしまう私の筆に 自粛の意味もあるのですが、 もし、ほんとうに問題点を冷静に処理できるのであれば、  そのへんにももっと柔軟に対応すべきかとも思えます。 それは、  おそらく 価値的論議の大きな進展につながるかとも思うところです。(勝ち負けは関係ないです。でもそこに心が傷つく人がいれば、 私には、それは ともかく 出来ないことです。)*

まず、その問題に入る前に確認しておきたいことが2点あります。

その問題へと入る前に、 何故? 何故そちらは >何の価値もない<という意見の世界の人が 論争から無責任に逃げたからといって、それをあえて他の質疑の中に持ち出してまで問題としようとしたのでしょう。

そんなに価値の無い意見ならば ほおっておけばいいのではないでしょうか?

規則違反をしてまで、それを問題としたのは、まさに、

《世の中成るように成る》との思想が、深い間違いだとの指摘をしたいということなのでしょうか?

感情的な対立とはいっさい関係ないわけですね。

2点目は

>>はっきり言えば 何の価値もないという評価をしています。世の中成るように成る これだけの思想です。これだけが 思想です。まったくとるに足りないものだという評価です。<
というところまでの 文章についての疑問ともなりますが、 この文章ですと (A)“「世の中成るように成る」という思想をKiさんが持っている、それは問題だ“ とも読めますし 反対に(B)“「世の中成るように成る」という思想こそ、思想の中の思想と言えるものであり、いやそれだけが思想なのだ。 Kiはそのへんを全く認識していない”というふうにも読み取れてしまいますが、 (A)(B)どちらが言いたいのでしょうか?

まったく間逆の二つの解釈が出来てしまうと思うのです。

わたしは、 私の数少ないKiさんとの質疑にては、まったく「世の中成るように成る」という言葉を読んだわけでもなく またそのように解釈したり、そう推理できるようなことは読んでいませんでしたので、 あるいはそう理解できるような理解力が無かったということなのかもしれませんが、   それで余計に 二つの解釈が頭をよぎってしまうのだろうと思います。

たぶんですが、(A)の“「世の中 成るように成る」は おかしい、間違ってる” という方の 考えをbrageloneさんは持たれてるのだとは思うのですが、

神というと 運命予定説のようなものもあるかと思いますので、「成るように成る」という言葉は そのようにも思え、またまた疑いですが、 文章としては そう思えてしまいかねない文となってしまっているわけです。つまり 間逆に(B)の方である という場合も想定できてしまうということです。

ほんとうに そのように疑っているということではありませんよ。

でも 言葉とは時として むごいほど微妙ですね。 はっきりと これは(A)(B)二つに読めてしまうところだと思います。



では、ともかくここでは(A)の場合を想定して 話を進めておきます。


「世の中成るように成る」という文は 運命予定説にもつながる文としても読み取れますが、 もう一つ「世の中成るようにしか成らない」といういう文の裏返しとしても読み取れる文とも思います。

そして、この「世の中成るようにしか成らない」という文自体もまた いろいろ解釈が出来てしまうものなのです。

「だから どうにでもなれ どうでもいいや 世の中なんて」という発想にもつながる解釈が あるう一方、

でもこれは 人間の小ささの自覚の問題を訴えるものとも言えます。

明日 私の命は無いかもしれない。 あるいはそういう命であるということの自覚です。

そしてその自覚からは “世の中 「賭けでしかない」”というこれも2つにとれる考えも生まれます。

“価値なんて言うものはこの世には無いんだ”という 投げやり性にも受け取れますし、 一方は“ 何事もやってみなければならない、 そのうえで限界を見極め ことを決定すべきなのであって ともかく相対的な存在である人間はそうやって前に一度進んでみるしかないのだ”という真反対の科学愛や実験精神の必要性を訴えている良心の叫びとも受け取れる言葉なんです。

どういう人が言っているのかによっても まったく異なってしまいますし、 その微妙な判断は 文だけですとよほど総合的にその人の文をよく読みこなしてからでないと はやとちりして逆の読んでしまう場合もある言葉であり文だと思います。

そのように、二重にも三重にも読み取れてしまうそちらの問いかけ、 その部分が引き伸ばしになった因の一つです。



あの文だけでは、Kiさんの何が深く問題なのか はっきりわからなかったので  何も答えることは出来ませんでした。



しかしながら、 この文明の世の中の 「成るようにしか成らないさ」その混迷さの深さは、深いです。

そう思ってしまう人が 大勢いたとしても不思議ではないかと思います。

それでもなお闘うのが いえ出来ないと解ってさへ前に進み続けようとするのが人間の良心だという主張ならば、 それは私の考えと同じであり、

その意味で「成るようにしか成らない」という考えを否定する気持ちも同じです。

しかし、そのあまりにもの根深さを考えると、心虚無の暗闇にあえぐ、あえぎ苦しむだけの人の心にも  もっともっと、まず寄り添うところから
説得したい気持ちになるのが私の  気持ちなのですが、  そのへんが理論的にどこか甘かったりするのでしょうか?

もし、私がKiさんの心に虚無の闇の中のあえぎをみたのならば、 私ならば対立する形は出きるだけまず避けます。    そこを あのように取り上げたのは、やはり  そちらが人間の弱い姿の一つとして何か、攻撃により感情的になってしまい 時としては傷ついてしまうのかな、 と今は思えてしまっているということなのです。

いや、そうではなくて、 愛がゆえに、Kiさんに“重大な思想の地点にて論議なので逃げないようにと促されている”のだとしたら、   

これは、 言葉 表現の世界の難しさの問題が ここに大きく立ちふさがっている問題なのでしょうか?



ここにても 「成るようにしか成らなさ」の混迷は深いです。

そしてその「成るようにしか成らない」とい考えを否定してあげるとしてその場合の対応法も また難しいはずです。

簡単に その考え(思想)により添っていっしょに考えてあげる優しさが必要とも言えませんし、 つまりそういう道徳規範だけでは考えられない地点ですし、

かと言って そういう考えをずばり否定してあげる厳しさという 道徳も同じように簡単に    

たしかに道徳規範だけでは考えられない難しさを持っていたりします。

両方とも 愚の骨頂とまでは言えないでしょう。  

ならば何が 必要なのか?  

私は それを 感性の進化による説得の道筋として 主としてその面からとらえます。 この場合、 寄り添うしかない という考えとなります。

そこを そちらは信仰の理論として考え、対立は対立とするのかもしれません。

でも それのみでは それ自体解決しない、 あるいは 両方の考えがここには必要というのが私の考えです。

その道はきびしい。 しかし希望はあり 希望はすててはならない。 これが私の考えです。

あくまで「世の中成るように成る」は ここにて否定します。

あるいは、今となっては そんなこと言う資格の無い人間なのかもしれませんが、

Kiさんのことであれば そんな感想をここに回答しておきます。




★蚊論争 については、 違い自体は やっと私も解ってきたきがします。

法学理論のあたりは わかりませんが  言葉の意味合いの違いはです。

しかし、    これは、   感性のあたりの違いから来てると思いました。

と、これもまた 表現の違いの問題にすぎないのかもしれませんが、 感性の専門家が論争してはならない地点と認識せざるを得ません。



では、 もしかしたらですが、 しばらくお会いできないかと思いますが、  ご活躍お祈りしております。(とくに、この論議の発展をねがっています。)

反省と勉強と そして実践と 生活の建て直しにしばし、集中させていただきます。

投稿日時 - 2009-01-17 17:17:32

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。
 
 まづ 《ひとを傷つける》ということについて 質します。
 1. ひとは 外からくる何ものかによって 精神や心が 傷つくということは ありません。あり得ません。
 2. 外から来るその何かをめぐって 自分も 一枚 咬んでいて 自分の側に自分をあざむくやましさを持っていたときには それによって 傷つくということだと考えます。
 3. 自分には 何も やましさもないのに 心が騒ぐという場合 それは 相手の疾しさの一端を――たしかに その何ごとかの事件に 一緒に 絡んでいたからには―― わざわざ 分かち合って 持ってやるという意味になります。
 4. これは 半ば 自動的に 分有しつつ あたかも そのやましさを共有しているかっこうになります。存在は 関係性より成っているからだと考えます。

 ★ 《ケ・セラ・セラ》の思想問題を なぜ 持ち出したのか。
 ☆ あなたとの間で その内容をめぐって 対立しているからです。その対立が この際 持ち上がったからです。
 ★ 二点目
 ☆ は (A)(B)どちらでもありません。《ケ・セラ・セラ》の考え方を arayata333さんが 今後 部分的にでも 肯定しつつ 持つとなると この際 行き着くところまで 論議を尽くしておかないと 話が 何も進まないという意味です。このくらげのような思想が どこからともなく 勝手に 入ってくると(という意味は arayata333さんが その思想に 突然 逃げ入るようであるなら) いちいち そのつど 議論を余儀なくされます。
 
 ○ 神を抱くことと 運命予定説とは 何の接点もありません。仮りに 運命があるとすれば それは 神が決めます。だったら 運命によって成るように成ることは いっさい ありません。

 ★ 世の中 「成るようにしか成らないさ」〔と見えるとき〕・・・〔成らない・〕出来ないと解ってさへ前に進み続けようとするのが人間の良心だという主張
 ☆ ではありません。有効な思想が 現実に《成らない》のは 既成事実としての有力が 前に たちはだかっているからです。有効だが 無力であり 既成事実は ほとんど無効だが有力なのです。ただ それだけのことです。
 歴史を ご破算で願いましてはというように 元にもどして 始めるわけには行かないというただそれだけの理由です。有効は どこまでも 有効でありつづけます。

 ★☆ 寄り添う寄り添わないは 理論とは 別です。自由です。
 ☆ kiさん自身の問題は ここで 扱いません。その意味は わたしとkiさんとの関係としては もうじゅうぶんやり取りを尽くしているという意味です。馬を水飲み場まで連れていくことは出来ますが 水を飲ませることは出来ません。もう 何の問題もありません。
 ひとこと言っておけば 神話の神々と信仰の神とのちがいを分からないし分かろうとしないのですが この問題については 学習効果はゼロです。このように ここでも 触れておけば 何らかの効果は出るかも知れません。ただし この場は arayata333さんとのやり取りの問題です。余計な口を差し挟んだことになります。余分なことに触れることによって arayata333さんの理解がすすむと考えるからです。(この前のごとく 勘違いはあります)。

 ★☆ 再度 寄り添うのは 自由です。この場合には 相手が 去って行ったわけですから 追わないというのも ふつうの対処の仕方になります。

 ★ 蚊論争と感性
 ☆ 《無効》の問題をめぐっては 違います。別です。
 要するに ものを盗んだとすれば その品物を 持ち主に返します。つまり 盗みという行為は 無効であって すべてのものごとを 原状に復帰させるのが 絶対要請です。それだけのことです。
 時間を元にもどすことなど出来ないのですが 考え方の上では 無条件に 原状復帰です。
 行為は 有効であり 一般に認められる。ただし その行為は 蚊が刺したようなものだとたとえる。これは つまり 一種の気休めですね。なぐさめです。
 無効の宣言によれば なぐさめる必要が ないわけです。なかったことになるからです。人情の問題として 《蚊が刺しただけ》という表現を採ってみるということです。

投稿日時 - 2009-01-17 19:49:54

ANo.37

>《動性道徳》を旗印にして掲げつつ 説いていくと またまた 規範として間違われるおそれがある。

気づきの必要性とその限界、および、言語表現の静的態様ゆえの限界でしょう。

あと、違いは、個別崩壊説か全体崩壊説とでもいうものでしょうか。

もとに戻りますが、愚の骨頂は、移り変わりゆく全体Xすなわち
X+時間の中にそびえ立つ硬直した規範にあるわけで、これを崩落させるのは、
全体Xのダイナミックな動態となることに違いはないでしょう。

でも、この答えは痛いほどの現実の折り重なりの中にあるでしょう。
いわば平和、自由、平等、人権という言語の呪縛と
広い帯域とのギャップはあまりに大きいわけで、方程式を完全に解くことはできないまでも
間違いとは言えない幾つかの解を現実の中から拾ってゆくしかないように思います。

投稿日時 - 2009-01-17 12:02:06

補足

 一点 補います。

 ○ 動機
 ☆ については 理論の分析要素などとして 用いるのは 極力 避けたほうがよいとは つねづね 思って来ました。
 これを問い始めると 茶の木畑に入って行ってしまうと思うのです。
 この点を添えつつ。

投稿日時 - 2009-01-17 19:05:10

お礼

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 《荒削りでよい》と思って 書きこんでいくと けっこう どんどん 思考が 進んでいたようです。我ながらです。
 ただし せっかくの法律・規範・道徳などの図式を 何の気づかいもなしに その他人のふんどしをいいことにして 突き進んでしまったようです。おとなげないさまにて 申し訳ありません。
 でも かなり いい線を行っていたでしょうか。
 ただし 考えてみれば
 ★ 気づきの必要性
 ☆ が 重要です。重要だというよりも 《気づき》があって初めて 全体 X の行為形式としての一般化も 出てくるのでしょうし 第二階における方言形式の問題も 見えてくるというあり方にはなっているようです。
 ★ 言語表現の静的態様ゆえの限界
 ☆ これは もうつねに そうなのだと思います。言語あるいはつまり文字は ひとを殺すと表現して その観念化の弊害を言いますから。

 ★ 個別崩壊説か全体崩壊説
 ☆ これは 展望になるのでしょうか。それとも すでに いま現在の行為形式として 捉えようとしていますか。
 ★ この答えは痛いほどの現実の折り重なりの中にあるでしょう。
 ☆ これは そのとおりでしょうね。
 ★ 間違いとは言えない幾つかの解を現実の中から拾ってゆくしかないように思います。
 ☆ ですから 広いあるいは全体の帯域を 基礎としつつ いわばどこからでも 個別にも 一定の集団としても 自由自在に 言葉は悪いですが ゲリラ方式のごとくに と言っても 無理に突っ走る必要もないように思いますし そのつど 問題・課題を捉えて その過程において互いに情報交換をもしつつ 一歩一歩 すすめていくとよいように わたしも 思います。

 ここまで来たら かなりの収穫ですよね。
 たしかに作戦などと言ったら この質疑応答の場では ふさわしくないでしょうから これからも 基本的な考え方を 模索しつつ 進めていくとよいと考えます。あせらず 着実に まいりましょう。

 もう少し 寝かせておいて 締めることにします。
 今の段階においても ありがとうございます。進みましたね。進めましたね。

投稿日時 - 2009-01-17 18:58:18

ANo.36

あくまで、質問に対する回答として自分の考えを述べてるに過ぎないので、長々と議論する気もないので、これで、最後にしたいと思います。わたしたちの日常生活において 生活によきことは だれもが すすんで 行ないますし そのために 互いに 助けあいます。これで ふつうの生きた道徳です。と書かれていますね。これも、一つの社会正義です。でも、道徳教育などが失われていけば、これらも、なくなるということです。でも、これらが当たり前じゃない奴らが増えているから、道徳教育が継続的に続いてるのだと思います。勉強でも同じだと思います。当たり前のようにできる人にとっては必要ないものでも、出来ない人にとっては必要なものです。和を乱すことを知らなかったのではなく、知っていて行わなかったと言うのが理性であり道徳だと思うのですが、争いごとの火種は少しでも、少ないに越したことはありません。ここに、そのひとの心が表れていると思いませんか?ただ、仲良くしようとしている人。和を乱すことを知って、和を乱すもの、この人は、周りの人間を大切に思ってるとは、とても思えません。他にも社会正義とは人を殺してはいけないとか、人のものを盗んではいけないとか、沢山あると思います。でも、現実に沢山起きています。そして、誰もが、そうなる可能性を秘めているのだとも思います。でも、これらが、心に根付いてることで踏みとどまれる場合も多々有ると思っています。それと、これらの行為を誘発させようと挑発してる人、指示してる人、脅迫してやらせてる人、などのほうが、よっぽど、悪だと思っていますね。こういう人を減らしていかないと、犯罪は増えていくと思います。以上で、終わらせていただきたいと思います。

投稿日時 - 2009-01-17 11:28:01

お礼

 victoryroaさん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 和を乱すことを知らなかったのではなく、知っていて行わなかったと言うのが理性であり道徳だと思うのですが、
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これで じゅうぶんです。満足です。そうですよね。
 なぜなら わたしの文章にしたがう限り その前提は 
 ○ 《和を以って貴しと為せ》という表現を知らない前における出来事であるのですから。
 ☆ 論理的には ちいさな矛盾がありますが そういう趣旨になるはづです。ですから じゅうぶんだと考えます。

 ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-01-17 11:50:08

ANo.35

補足、道徳教育が行き届かないと社会正義のない社会になると思います

投稿日時 - 2009-01-17 01:14:51

お礼

 補足 ですね。

 やはり 正面から ぶつかってみましょう。
 ★ 社会正義
 ☆ とは 何でしょう? わたしたちの日常生活において 生活によきことは だれもが すすんで 行ないますし そのために 互いに 助けあいます。これで ふつうの生きた道徳です。
 《正義》とは なんですか?
 
 たしかに その昔 
 ○ 国ゆづり
 ☆ という事件が起きたのです。どうしても 幹事をおれにやらせてくれと言って 拝み倒す人間が出ました。例の《神のごとく いかなるものの下にも立つまい》と心(?)に誓ったあの人間たちです。
 ときの おほきみ ミワのふつうの市長の系譜の人たちは そのかれらの執念に 根負けしました。お山の大将でいないと それらの人たちは 生きていけないほど気ぐらいが高かったのでしょうね。これは カワチの系譜のおほきみたちですね。
 だだをこねくりからかしました。とうとう 根負けして それではと 市長の位をゆづって 好きなようにさせたのです。泣く子と地頭には勝てません。

 市長の位をゆづったのが とうとう 国ゆづりにまで 膨れ上がりました。よほど 気ぐらいが高く よほど勉強したのでしょうね。人一倍 がんばりました。ついに 天の高みにまで登りつめました。
 現代では 市民主権になっていますが その優秀な種族は むろん 国の中枢にいて 立派な指導者となって わたしたちを 大いなる和の世の中へと導いてくれているというわけです。
 世の中が どこか 具合いがわるくなってくると ひとつには 道徳が 乱れていると見立てるのでしょうね。それには 道徳教育が 大切であり しっかりやりなさいということなのでしょうね。そうすれば 社会正義が 回復され しっかりと根づくと見込んでいるのでしょうね。
 たぶん すべてが 逆であるというのが ここでの質問趣旨です。これに対する批判を 大いに 展開してください。

投稿日時 - 2009-01-17 08:07:16

ANo.34

2度目です^^えーと、道徳規範が愚の骨頂だと考えるなら、なくなれば、どうなると、お考えでしょうか?自分は争いごとが増え、また、昔の戦乱の世に逆戻りなきがしてなりません。それどころか、科学の進歩した現代の方が戦争の規模もでかくなるでしょう!17条はあくまで、人間心理を書かれているものに過ぎないと思います。こうなれば、こうなるという物事の道理ですね。あなたの中にも道徳規範が根付いてると思いますよ。道徳規範とは、普段の日常の中に充分現れてるお互いを大切にしあう心による言動こそが道徳規範であると、私は考えています。

投稿日時 - 2009-01-17 01:10:35

補足

 victoryroaさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。べらぼう話をしてみましょうか。
 victoryroaさん あなたは こうして わたしの仮説としての意見に反対していますね。けれども 道徳のおしえるところは
 ▲ 忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。
 ☆ ではないのですか?

 もっとも そんな争いをしていては 何にもなりませんで たしかに そのあとに言うとおり
 ▲ 人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。
 ☆ であるわけです。それゆえにこそも
 ▲ 和を以って貴しと為せ
 ☆ なのでしょう。ところが 《人みな党あり》の情況にあって どんぐりの背比べであるとき 出した結論は
 ▲ ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)〔いなさい〕
 ☆ というようなことですね。そうではないでしょうか?
 
 仮りにでも 道徳ですから その中身が わるいわけではありません。旧いものもありますが 一般に わるいことを説いているわけではないとしましょう。ですが いま上の結論では――これも 一般にですが――
 ○ 思考停止 
 ☆ に 人びとは 陥るのです。あるいは
 ○ 《和が大事だ。お上に逆らうな》という音の響きを ちょっとでも 聞いたならば もはや すぐさま いわゆる条件反射をおこなうのみ。
 ☆ となります。一つの側面としては 
 ○ マインドコントロール
 ☆ という見方も 出ていますね。人の中には こういう大切なことに気づかせてくれるから 逆に言って 《道徳規範》は――つまり 反面教師として―― なくてはならないのだと言う人もいるようですが おそらく それは 屁理屈です。なくても 生きた道徳が 実践できれば それで いいのではないでしょうか?
 ★ 道徳規範が・・・なくなれば、・・・自分は争いごとが増え、また、昔の戦乱の世に逆戻りな気がしてなりません。・・・
 ☆ とお考えのようですが わたしから見れば
 ○ 《和を以って貴しと為せ》という表現を聞かなかったときには わたしたちは 和を乱すことを知らなかった。
 ☆ というのが 現実の見方だと考えるのです。けんかは しょっちゅうと言っていいほど していたでしょうが 敵を含めて みな 仲間なのです。だれも あたまの上から――そのてっぺんのさらに上から という意味です―― 《戦争をしてはいけない》とは言わなかったし 聞かなかったのです。それで 村むらの共同体が それなりの平和に生きていたのです。《和を胸にいだけ》と言い出した人間が たとえば 斥侯(スパイ)という手段を考えだしたのです。
 あたかも神のように いかなるものの下にも立つまいと 或る日或る時 思いついたのでしょうね。それには 《大いなる和》を 第一の道徳規範として掲げるのがよい。その傘の下で その和を保つためには 自分たちのあいだで 少々 けんかをしてもいいが 《お上には さからうな。君父にはしたがいなさい》という付属条項をも入れておいたのでしょうね。・・・
 といった見解のもとに 仮説をかかげ 質問をしております。お応えになったでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-17 07:45:42

ANo.33

>● 《Q:So this is Christmas,戦争のない世界について》~~~~
  ​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4569432.html
 (ANo.18)  表現の《ゆとり》が必要<

は、ANo、16でコメントが無いうちに再び続けて書いてしまう形の規則破りも、哲学のカテでは 歯車にゆとりが必要なように そのユトリのあたりは認めてください。 と Okウェブの方等に理解を求めたものです。

他にも哲学価値があり、がゆえに質問しつつ、コメントにて自分の見解も述べてしまう人がいて、それのことはここで想定していました。

今 言っても信用してくださらないかもしれませんが、その時はbrageloneさんのことは想定していませんでした。  しかし、そちらの質問も同じ価値があるのに削除の対象となってしまう点があったりするのであれば、それは、ここでそれを守ろうとしているということです。

まして、そちらの回答にゆとりが無いなどという想定は いっさいしていないわけです。  そのような文には一切なっていないわけです。

これは、 やはり、 そちらの感情を害してしまったということなのかと思いました。

だとしたら、 お詫びしてもお詫びしてもお詫びしきれないようなことを私はしてしまったのでしょう。

ひとつだけ

オブラスツォーフについては、過去に書いた内容とは別な視点の回答内容である点だけ書いておきますが、

まさに、 蚊論争に手も足も出ずに負けた者に、その地点の答えを出せない者に、次へ進む資格は無い 事態となってしまったのでしょう。

加害者感覚の鈍感さを問われてももしかたない事態となってしまっているということなのでしょう。

わたしは、その意図は演技であったとしても 結果 ほんとうにけんかをおっぱじめてしまったという結果を生んでいるのでしょう。

非常識極まりないことを しでかしてしまったことには変わりなきところ、

私には これ以上 ここに参加する資格はないと思います。

ほんとうに申し訳ありませんでした。

投稿日時 - 2009-01-16 19:23:13

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 ● 《Q:So this is Christmas,戦争のない世界について》における《ゆとり》の問題
 ☆ 分かりました。わたしの早合点であると分かりました。お詫びして 撤回します。
 ★ オブラスツォーフ
 ☆ について 新しい情報ではありました。

 ★ 蚊論争に手も足も出ずに負けた者
 ☆ 結果として そうなのかも知れませんが 問題は 認識の違いを互いに確認することです。
 ○ Aが《同じだ》と言った。 ○ Bが《いや これこれの事由で 中身が違う》と言った。 ○ そのあとの確認の問題でした。
 ☆ 勝ち負けは さらに そのあとの問題です。どうでもよいはづです。

 あとは 《世の中 成るように成る》思想について 論争が 先送りされているという情況です。

 心理とは 延々とつづく麻雀競技のごとくで おもしろいかもしれないけれど 果てしのない議論であるに過ぎないと考えます。動機も ある意味で どうでもよいものです。あやまる際にしても その心のありようは おのれの主観としてこそ 大いに問題であったとしても 相手との関係では 問題点を しっかり 処理しておくことこそが あるいは それだけが 重要だと考えます。

投稿日時 - 2009-01-16 20:14:50

ANo.31

はじめまして^^自分は道徳は平和を維持していく上でとても、大切なことだと考えています。例に挙げられたものも、道徳だと思うのですが、道徳と言うのは、長い戦乱の歴史の中で、平和に仲良く笑顔で暮らせるように試行錯誤を繰り返しながら出来たものだと思います。つまり、道徳がなくなれば、社会正義がなくなり、損得や欲望が優先する世の中になるでしょう!そうなりつつ、ある世の中ですが、そうなれば、戦争ばかりが起き、人を大切にすることはなくなるでしょう!それこそ、獣と同じになるでしょう。そういう世界なら道徳は必要ないでしょう。そうなれば、平和だからこそ、得られるいろんな感情はなくなると考えます。そして、いつの日か、また、平和を求め、人は何故争うのだろうとなり、また道徳的考えに戻るのだと思いますが、何事も作ると言うことは、簡単ではありません。ですから、この憲法を作られた方は、本当に偉いと思います。平和を愛し、みんなが、それそれの、幸せを手に入れられるように、考えられたと思います。そして、平和を維持していく為に、お互いの心を大切にするところから入っていると思うのです。同じ行為をしても、善意と悪意とでは、結末が違ってきます。法律でも、善意と悪意とでは違う判決が下ります。だから、自首すれば、罪も軽くなると法律はなっていますが、今の悪党は、その法律を、うまく利用しています。そして、心を軽んじて、人を軽んじて、社会正義がなくなりつつある世の中でしょう!だからこそ、政治家が教育の見直しを訴えているのではないのでしょうか?ルールを守らない人が増えてる世の中だから、日本も戦争が起きる日も近いのでは?と危惧しています。道徳規範とは、物事を考える基準です。これを読んでいただいて、少しでも道徳の大切さを共感出来れば、幸いかと思います。

投稿日時 - 2009-01-16 03:13:26

補足

 victoryroaさん はじめまして。ご回答をありがとうございます。
 初対面なのに 言いたいことを述べます。
 《憲法》と称する次のような《道徳規範》を持っていたのですが そして 初めの《和を以って貴しと為す》は いまも 通用しているように見えますが 果たして 総合的に判断して おっしゃるように 朽ちることのない大事なものであったし いまも そうであると判断できるでしょうか。わたしは 疑問を持つのですが その疑問は このように規範として 頭に頂くなら それは 愚の骨頂でしかないという意味です。もっぱらの公民である人たちだけには 好都合であるかも知れないという意味です。

 ▲ (十七条の憲法)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
http://www.geocities.jp/tetchan_99_99/international/17_kenpou.htm
 第一条 (読み下し。以下同様)  一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

 第二条 二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。

 第三条 三に曰わく、詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め。君をば則(すなわ)ち天とし、臣(しん)をば則ち地とす。天覆(おお)い地載せて四時(しじ)順行し、万気(ばんき)通うことを得(う)。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊(やぶ)るることを致さむのみ。ここをもって、君言(のたま)えば臣承(うけたまわ)り、上行なえば下靡(なび)く。ゆえに、詔を承けては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。

 第四条 四に曰わく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼にあり。上礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり。ここをもって、群臣礼あるときは位次(いじ)乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自(おのずか)ら治(おさ)まる。
 (現代語訳) 四にいう。政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 いかがでしょう? 総合的に見て どういう判断をくだされますか?
 
 * これまでの質疑応答を読んだ上で もう一度 ご投稿いただければさいわいですという横着なお応えなのですが どうでしょう?
 * 言いかえると 今回おっしゃっていることは あまりにも 抽象的なご議論であると受け留めているものです。

投稿日時 - 2009-01-16 07:05:33

ANo.30

では、動性道徳における道徳に焦点を当てる危険領域に入りますね。
この道徳は言語表現に馴染まないもので、鮮烈で豊かな体験から体得あるいは育成される
性質のものでしょう。特に大きな失敗や苦悩、苦痛から得られるものでしょう。
失敗や苦悩を知らなくとも周りのほとんどが体得していれば
今の我々が規範に染まっているように、この道徳に染まってゆく性質はあると思います。

(1)道徳規範は なぜ なくならないのでしょう?~国家という社会形態をめぐる歴史を~
No10で、
>これは、簡単です。法律、掟の存在です。
>憲法であり、民法の信義則、公序良俗等々があるからです。
と記載しました。
手続法の類は別として何故法律や掟が存在するか。
法律がその前提としている「人間がいるところ争いが起こる」からですね。

とすると、動性道徳における道徳を強いて言えば、
規範を放棄する究極を前提とするなら、「人間がいるところ調和が起こる」となるでしょう。
善と善の対立は有り得ても、調和と調和では対立のしようがありません。

そうすると歴史的展望ということでは、人間の本性にかかわるのですが、人間は欲であるとか、
人間は殺すものであるという、そういった部分が動性道徳にかかわると思います。
 人間は目に見えたものが欲しくてたまらない。
だから、他の最も欲っしている者に与えて極自然に自らが喜ぶということでしょう。
自らを律して他に与えているのとは全く異質です。

 でも、こうして究極的な記載をするとどんどん動性道徳が異臭を放ちます。
言いたいことは、こういう規範臭いことではないんですよね。

 まぁ、でも、歴史的な見通しのポイントは、気づきの連鎖だと思います。
 狩猟から農耕へ転換し工業化、経済化の中の人間、そしてその先にあるものでしょうか。
愚の骨頂をやっているうちはダメなんですね。規範の消滅が先か動性道徳が先かを思えば、
動性道徳が先にあって、規範はいずれ消滅するということですね。
規範が消滅して動性が残り内在する道徳が無ければ規範が復活します。
でも、そう考えると今現在においても規範のない(規範と出会わない)人間は存在しているということになります。
(あれ、そうすると道徳規範は なぜ なくならないかというと
 個人単位では、各人の動性道徳の不存在といういことか。)
 
まぁ、とはいえ、このあたりから宗教・無宗教、そして教育との関連がでますね。
どちらもその静的な剛直性は、もっと揉みほぐさないと化石になる価値もなくなりますね。


究極を記載してはみたものの動性道徳からずれて規範に近づくのを
感じます。もっと、現実寄りで、規範よりも遙かに帯域が広く豊かでダイナミックです。

 

投稿日時 - 2009-01-15 22:59:15

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 へぇー そういう思考実験もあったんですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 動性道徳における道徳を強いて言えば、
 規範を放棄する究極を前提とするなら、「人間がいるところ調和が起こる」となるでしょう。
 善と善の対立は有り得ても、調和と調和では対立のしようがありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《善と善との対立》で 世の中を 生きる。これが そしてその発想も いいと思いました。

 《道徳規範は なぜ なくならないか》に対する解答としての
 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ~国家という社会形態をめぐる歴史を~ No10で、
   >これは、簡単です。法律、掟の存在です。
   >憲法であり、民法の信義則、公序良俗等々があるからです。
 と記載しました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 気がつきませんでした。
 村の共同自治であれば たいていは 長老がいて 壮年の者らが中心となり 考えを煮詰め合って 村の一人ひとりの自己経営も 社会の経営も いとなまれていくでしょう。成文不文を問わず 掟も持たれるでしょう。しかも おそらく その運用に際しては 融通が効くはづです。
 村を束ねてその上に第二階をつくって そこから 掟を発布する場合には 事情がまるっきり異なってくるものと思われます。曲りなりにも保たれていた村の和は 上から《公序良俗》と規定されるに到ります。
 御言告り(詔勅)であるから 従わなければならないという論理が 加わってきます。公序良俗を守れというお達しがあるから 和が貴いものだと 錯覚しかねない情況が 醸し出されて来ます。
 うんぬんということで 理解を伸ばせていれば 分かったのでしょうが。残念でしたし 欠礼いたしました。

 ★ でも、こうして究極的な記載をするとどんどん動性道徳が異臭を放ちます。 / 言いたいことは、こういう規範臭いことではないんですよね。
 ☆ ということで その例示のご議論については 省略に従います。短い議論では むつかしい。

 あとの箇所についても もはや引用しませんが たぶん どこかに 突破口がある(出て来る)はづなのではないでしょうか。
 いわゆる《敵失》を待っているというのも おかしな話になるでしょうが けっきょくたぶんは こういふうに哲学なら哲学として それぞれの主題を取り上げて 考え尽していくことが ひとつの道であるのではないでしょうか。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この動性道徳は言語表現に馴染まないもので、鮮烈で豊かな体験から体得あるいは育成される / 性質のものでしょう。特に大きな失敗や苦悩、苦痛から得られるものでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかに この探究では
 ★ 危険領域
 ☆ にも踏み込むような思考実験になるかも知れません。(言論の弾圧といったそういう危険とは 問題が 別のですが)。わたしが 歴史の展望として 方程式のような思想を出して来ることになったように 思考実験においても 決まった形式としての命題が出て来てしまって やはり方程式にも成り かえって 
 ★ 究極的な記載をするとどんどん動性道徳が異臭を放ちます。
 ☆ ですかね。

投稿日時 - 2009-01-16 07:19:58

ANo.29

No28からつづけます。

オブラスツォーフは、ドキュメントには 主題が必要だということを、映画界に参加してすぐに気がつき(でないフィルムの羅列は ただに雑録になる。) 人形劇の大家としての経験と知恵からの独特のその考えを生かす方法や技術を語った人としても有名です。

たとえば、 鉄工所のドキュメントであったとして、そこで働く人の大変さがその主題なのか、 あたらしい製品への開発やその情熱が主題なのか、あるいは 今ではこんなに簡単にその製品が出来上がってゆくというオートメーションシステムのすばらしさが主題なのか それとも、そこにたどりつくまでに、どれだけ大変な歴史があったのかが主題なのかで、 そのドキュメント作品はまったく別のドキュメントとなるということです。

そこを、彼は 長い間に身に付けた演劇人としての直感から ドキュメント映像と それを説明するナレーションとの関係を 深めていき、 その時間とタイミングの理論のように、現代ではさらに効率化されている技術も最初にはっきりとさせた人でもあるのですが、  そこには 現代でもそう簡単には追いつけない彼独自のナレーションの工夫もあったのです。

ロシアの人ですが、 世界中を旅していて日本にも文楽を研究しに訪れています。

また、チャップリンともかなり親交のあった人としても知られています。

その彼のドキュメント作品は どれも興味深いのですが、 その中の『映画は告発する』というドキュメントについて、 書かせていただきます。

スタッフとともに、ヨーロッパ中を取材してのドキュメントなのですが、

その『映画は告発する』というドキュメントの中にも その独自の深いナレーション技術が発揮されています。

フィルムは、取材した段にては、ばらばらな雑録、 しかして、 すでに主題があって取材したまさにドキュメントの主題であったところ、


ここで、大井数雄訳のオブラスツォーフの「続・人形劇 わたしの生涯の仕事」の中から、その文のままを書きますが。


顔いっぱいのほほえみや流れるような涙、超豪華な家や貧民窟、恋人どうしや娼婦たち、教会の礼拝と戦争、死体、拷問、飢え、廃疾、レプラ、乞食、居酒屋、大麻、阿片、クー・クラックス・クラン、幸福そうな子供たちや腹がふくれた骸骨のような子供たち。 

画面から私の声による言葉(アラヤタによる註、これがナレーションの部分です。)は、各シーンによってはじまっていく。 はじめの言葉とシーンとは、こうなる。

「家が倒れた。 犠牲者少数。 一名。

だが、この一名が……あなたの子どもだったら?
あるいは、あなたの妻だったら?
あるいは、あなたの父だったら?

そのときに、あなたは、犠牲者がわすかだ、というだろうか? もしかすると、それはあなたの生活のすべてであろう!

ひとりの人間は、二人より小さくない。人間を足し算したり掛け算したりはできない。人間はひとりひとり、唯一のものであり、またとないものである。 その人が生まれるまで、そういうひとはいなかったし、そのひとが死んだら、そういう人はあらわれないであろう」
最後の言葉はこうだ―
「すべての人間にはひとつの生命があり、二つ目の生命はない。だれでも、みんなと等しく、子どものときから、幸福になる権利をもたねばならない。そうなるだろう。世界中で、そうなるだろう。今日出なければ、明日。その明日がはやくやってくるよう、ひとりひとりが知らねばならないこと、忘れてはならないこと―
今日、いま、大地が燃えている。
子どもが泣いている。……。」

****  と続いてゆく名文、名ナレーションの部分です。

時代はスターリンの時代へと入っていました。

どんな時代のどんな場所にも おなじ人間の叫び、 リスペクトの魂はあったのです。

今、 この叫びを 情報化時代の良心の旗印としたいです。

そちらの言われる「霊」の世界にも、、 その魂の叫びの一表現としてぶれないシンプルさを垣間見させていただきました。

ここから、語る思いが、その良心からの計算が、そちらの懐疑と質疑と祖の会議を彩っているわけです。

誤解なんてかまわない。 とはそれはわたしには見ていられないところだったわけなのです。 でも そちらご自身がそこをもすでに見つめられた上でのことならば、まさにでしゃばりなずべて 年寄りの取り越し苦労だったというお話です。



この場をかりて、やはり、私の方から、このいち表現者の専門家の方から
あたまのよい人たちへ訴えます。

brageloneさんのこの質問は ふかく正しい信仰からの 魂の叫びと理解してください。 

ぶれないその魂からの質問だということです。

深すぎるがゆえの 誤解を わたしは、やはり 恐れます。



以上を私のほうからの、今回の回答とさせていただきます。

投稿日時 - 2009-01-15 19:37:43

お礼

 どうですかねぇ。

 まぁ せっかく書き込みがありましたので 応答しますが
 そんなことを言ったら 何にでも 誤解はあるでしょう。

 こう考えられませんか。誤解を持つのも その人にとって ひとつの過程として必要であるのだと。
 避けられる誤解を避けるのがよいと言うのでしょうが 今回の《霊》および《三位一体》に対する誤解は もう何度も わたしは述べてきた内容であって いまさらと思うものです。誤解したい場合には 誤解するのとちがいますか。

投稿日時 - 2009-01-15 22:10:34

ANo.28

蚊論争については、 私には無理です。  論争出きるだけの能力において、何かが欠けていると思うのです。

私は ちょうど分数をならう時期に 死の床をさまよっていました。

そのために、大学には入れたのは推薦入学によるもので、数学は全くわかりませんでした。

分母が下で分子が上のあの記号が どういう意味かを知ったのは、電気工事士の資格を取る必要があった時に、 盆休みいっぱい、小学生の参考書を勉強したかっらです。

それでも、もう頭が固くなっていて その部分は理解が進んでいません。

だいたい解かっただけです。 

人それぞれ、 まさにかよわい存在で 欠点とかさまざま持ってると思います。

であって、この井戸端会議に価値を感じそれを ともかくもわたしなりに逆説的に 年寄りの知恵で守ろうとしてみたのは、 あるいは そのような動的和の実際を示そうともして、いわゆる和の道徳を踏みにじってみたのは、(ほんとうの和は 馴れ合いの産物では無い、という意味も含まれているわけです。)  弱くて間違いだらけでもそれでも 価値あるものは価値あるもの、という深い見解からのつもりでした。

人間は間違いだらけでしかたないと思います。

でも、 それでいて、その存在はたしかに 尊いわけです。

やはり、「霊」についての、私の考えをここに、まず書いておきます。



むかし、ある親しい尊敬する物理学者が 神についてこんなふうに言っていました。

「存在を自覚するとは 手のひらの上に乗っているという事の自覚だ。

手のひらの後ろの事は つまり神の事は解らないということの自覚だ。

しかし、手のひらの上が こんなにも豊かであるのは、その解らない手のひらの裏の世界を 私たち人間は神と呼ぶことになる。」

もっと端的になのですが、 意味合いはこんなふうでした。

宇宙のはてまでその何がしかを理解しているのだろう物理学者がそのように、深い目でそう言われる世界には、 そのあまりにも 単純な 理論とすら言えないのかもしれない論理に、 まさにシンプル・イズ・ベストの反論しようのない 確かさを教えられた思いでした。

brageloneさんの 「霊」につての こちらからの質問に対する回答もずばり、 単純なものでした。

>霊とは 人間には 分かるか分からないかが分からない何かです。<

語彙は少ないです。 しかし、これが 私が実直さと 表現した内容です。

あくまで へたすれば頭のいい人たちから誤解されやすい文に通じるところです。 でも それはbrageloneさんご自身がすでに理解されていて計算の上で書かれている文とのこと、 そこは 私の失敗であったわけですが、 

ともかく、こうして、 ほんとうは、この井戸端会議を守る目的の逆説的な試みの一つであったことは、 これを読んでいる人のために書いておきます。

いずれにせよ、まさに、実直という言葉では語れないような 何かの深みからしかシンプルな回答は生まれないという点を ここにさらに付け加えておきます。

それを 私は「科学者であり哲学者である者の信仰への気づき」というふうに呼んでいるわけです。



そのbrageloneさんですら、たぶんですが 私の「喧嘩」という言葉を ほんとうの喧嘩と思ってしまったふしがあるかと思います。

でも それってふつうです。  神様じゃなくて人間なんですから。

私が 取り越し苦労をしたのも 神様じゃないからです。

また、これは、動的道徳にしたがうには、 実際問題としてはですが、 それだけすべてをわかって無いと無理だということをも意味するかと思います。    その深さの分の深さがそこには必要だということです。

私の失敗は、私が その深さ広さに達していなかった事実を ここにさらけ出してしまっています。

が これも ふつうかもしれません。 神様じゃないからです。



ここに大事な、 そこに ほんとうの信仰の基準があるかどうかだけです。

あるいは、キリストの言われる意味での愛(そんなふうに私たち凡人が言う資格があるのかどうかは解りませんが、 どういうふうに言おうともキリストや神が怒るわけではないので、使わせていただきます。) が、そこに《どれだけ有るか》どうかだけが基準です。

私にとって、 理論家のbrageloneさんが、理論とも言えないあまりにも単純そのものシンプルそのものの>分かるか分からないかが分からない何かです。<とずばり答えた意味は大きいです。

つまり、これを読まれてる方も ここをこそ理解すべきだということです。( あ、 また余計なお世話をしでかしてしまってるのかもしれませんが。)



でも、ほんとうに、これこそ大事な点であり 基準だと思うのです。

物理学者の答えが 一番わかりやすいでしょう。  

ビックバンの歴史の あまりにも広大な歴史を知る人が、語る無限の時間の人間にとっての「謎」、そのとらえることの不可能な「謎」の裏は あまりにも巨大です。  言葉で謎とか 無限とか 図式化してるのとわけが違うわけです。

言葉とは 詩あるいは、言葉の置き方で内面を現す何かです。

シンプルさは、この場合、 その感動の真実の何がしかを物語るものです。

ひとつ、人は感謝すべき という多くの人が常識として認めている道徳に関しても、 もし、そういう存在どうしであるという深さ、つまりリスペクトの基準がそこに無いのならば、  それは簡単におべっかとかごますりとかの嘘と摩り替わってしまう商売道具のレベルにもなってしまいかねないもの、 そんなんじゃないよ道徳とはということを語りたいのならば ありがとうってそんなもんやないよ、と語りたいならば、 その奥にそれを規範としてしまわない動的な流動性の 基準の確かさ、人間リスペクトへの深さが必要となるわけです。

ここから ストレートに語る「道徳規範は 具の骨頂」という文の 真意、裏の深さを 私たちは見抜くべきところなんです。  (あ、 又言ってしまいましたが。)



むかし、ロシアの共産主義革命が起こり、そこに多くの人が人間の夜明けを信じ、 その平等が実現したら 人間はどれだけ愛し合えるだろうと夢見ていた その革命前夜、  ロシアにはなんとも言いがたい 人間的なエネルギーが庶民のなかには起こっていたと私は思っています。

無学な私の歴史観は狭いでしょうが、 その頃のロシアに生まれたロシア民謡のすばらしさや、その頃のロシアに起こったスラニラフスキーという近代演劇の父と言われる人を中心として演劇のエネルギーにしても、 このエネルギーの深さすばらしさは とても語りつくせないものがあると確信しています。

それだけに 官僚主義となり腐りきってもしまったその後の世界についてはなんとも悲しい世界であるわけですが、 それは ここでは別の論議として、

私は ここにその頃の 偉大なロシアの人形劇の大家であり、かつドキュメント映画の世界にも、深い作品を残したオブラスッーフという方の その思想のすばらしさを紹介したいと思います。

紙数の都合で 一度とぎり、すぐつづけます。  内容の価値がゆえの規則破りです。  

私たちのあたらしい情報化時代のすばらしい「Q&A」システムは、固まっただけの規範を土台としているのではない、という良識をここに信じます。 

投稿日時 - 2009-01-15 18:29:40

補足

 arayata333さん 一たん 振りかざした刀は きちんと鞘に納めてから 新たな話に入るものです。たとえ 竹光であったとしても 抜いたなら 相手との間合いを取り 場を納める話が 先になります。
 ● 《Q:ポルノと言う存在》 ~~~~~~~~~~~~~~~~
  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4533194.html
  (ANo.48) 結論がまったく一緒だった?  
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ とあります。《一緒ではありません》というわたしからの主張です。ふつうなら このやり取りに決着をつけて 新たな話に入るのです。

 このように たとえ竹光でも抜くという動作に入りましたので ほかに 衝突している問題も この際 一気に 浮かびあがり 全体として 同じけんかを構成することになりました。その中から 二点だけを取り上げておきましょう。
 ● 《Q:So this is Christmas,戦争のない世界について》~~~~
  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4569432.html
 (ANo.18)  表現の《ゆとり》が必要
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ この評言は わたしの投稿に対して言ったものだと受け取りました。つまり わたしの回答ぶりには 《ゆとりがない》という批判です。その点を明らかにしておかないことには 次へ進めないという情況になっている。というのが けんかを受けたこちらの言い分です。
 自分中心に 世の中が回っていると言うわけにはいかないでしょうね。

 ● 《Q:吉本隆明の思想について》~~~~~~~~~~~~~~
  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4462818.html
 (No.14補足欄) 〔kiさんとは〕見解が百八十度ちがう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そのNo.14のあなたの回答を受けて このようにわたしが言っているのです。これだけを言って あとは あなたが 引き継がなかったから わたしは 放っておきましたが 問題は 深いのです。
 はっきり言えば 何の価値もないという評価をしています。世の中成るように成る これだけの思想です。これだけが 思想です。まったくとるに足りないものだという評価です。それを あなたは 良く評価するところもあると言うのですから 真っ向から対立しているのです。そういう問題が 尾を引いています。

 これらは 今回 けんかが明るみに出たから その勢いによって――つまり その勢いを わたしが受けて あぁ それなら こういう問題もあったなぁということで―― 全部 引っ張られ出て来たのです。
 そういうけんかをおっぱじめたのです。加害者は 感覚が分からないと よく 言いますが そういう事態なのですよ。

 ☆ わたしの言論について 解説を加えるのは 自由ですが そんな作業は おもしろくないでしょう? まっ わたしは 関知しません。

 ★ セルゲイ・オブラスツォフ
 ☆ については 次のやり取りの中に すでに 出て来ています。
 ● 《Q:現代芸術における表現形式は どうなんですか》
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4338027.html  (No.8)

 今回は こういう対応にて。

投稿日時 - 2009-01-15 21:59:51

ANo.27

昼休みですが、 「蚊論争」についてのコメントです。

ほんとうはそれほど難しくない論議なのかもしれませんが、

やはり、いざ

> 無効であれば その事実は すべて なかったと 法律上は 見なされるという意味です<

のところが解からないために、 すべての意味合いが解からない形になってしまうようです。

おそらく、 法学理論とかに関して 基本的な考え方が私の頭の中から抜けているからなのだろうと思います。 

例えば、

電気配線は 基礎的な理論を知っていれば、あとはそれに慣れればそんなに難しく無かったりしますが、  その基礎の部分を知らないと 簡単な配線でも どうなってるのかいくら眺めても解からなかったりするかと思います。

brageloneさんの質問の議論に、ほかの部分ではそれなりについてゆけても、 その簡単そうにお話されてるその部分だけ どんな意味合いなのかつかめないのは、 おそらくそのように、 基礎的な概念が抜けているのではないかと思われます。

もしかしたら、そんなに自信を失ってしまうようなことではないのかもしれませんが、

でも、 法の歴史には私の推理の世界にて、深くその重みに敬意をいだいている者ですので、  そのへんの無知を知ったことは ショックはあります。

こんなんで、なんで哲学コミュニティーのコンセンサスがとれるのか。 という自分への懐疑です。

その意味で 無知さが身にしみたということなのです。



喧嘩、 あるいは疑いは、 表現者としての善意からのとある演技(それはよけいなことであったわけですが、 本当の喧嘩が目的のものではなかったわけです。)であるわけですが、   また その真意は 神様だけが知っていればいいことですが、

「これでは だめだ(私の無学さ)」という意味でのショックはなんら演技のものではないです。

意図的に気づかせてくれたのだと思ってましたが そうであるか そうでないかに関らず、 自分にとって大事は気づきでした。

繰り返しになりますが、 お礼は そういう意味あいのお礼です。 

あせらないでは いられない地点であるわけです。

投稿日時 - 2009-01-15 12:49:13

お礼

 ★★ この事件は あった。起こった。それは みとめなければならない。だが それは 蚊にさされたようなものだ。
 ☆ という意味でしょう? と問うたのです。それに対して わたしの見方は
 ○ その事件は たしかに 現象として 起こった。それを 削除したり 時間を戻して 起こらない前にまで 修正したりするわけには たしかに 行かない。過去は過去。起きたは 起きた。だが それにもかかわらず 何にも 起きていない。人間のかよわい自然本性にもとづき 単なる主観として言えば 何も起こっていない。ただ――たしかに 時間は経過したのであるから 言うとすれば―― 蚊が刺しただけという歴史は あった。
 ☆ です。

投稿日時 - 2009-01-15 14:08:54

ANo.26

動性というものの少し踏み込んだ表現を試みます。
例えば、ちょっと極端ですが「逆鱗に触れる」というのがあります。
これは、ある規範に照らして、ものごとがその規範に大いに反するから
そのように反応するのではなくて、具体的ものごとに対して規範なく直接反応しますね。
逆鱗の理由付けをしてしまうと規範になります。
これ程の情動が無くとも、要するに規範無く直接反応することが
動性たる所以でしょう。まさにこの部分に規範ではない豊かなる道徳が内在することを
規範道徳との対立的な概念として、動性道徳と表現してます。

「羞恥心」の話は、この動性とNo10の
>一人ひとりの思考を基軸とした試行錯誤として 始まっているとも言っていいでしょう
に反応しています。(道徳とは関連がありません。)
私には、「羞恥心」は単なる天然ボケ人気を越えた感があります。
「羞恥心」側ではなくて、その人気を作る側です。つまり、視聴者側です。
彼らの規範無く直接反応する心地よさ、つまり、あるがままの動性への
みんなの気づきが始まっているように思うわけです。

対象に対する一人ひとりの動性が強く反映されたものが「人気」
となりますから、その時代の動性●●を象徴する面があるわけで、
羞恥心人気にはさらに単なる人気に加えて、その動性そのものへの気づきが
含まれると思うわけです。Exileや大橋のぞみ人気とは質的に違います。

それはさておき、国家の時代の問題、《市民‐公民》構造を持って生活する社会まで発展は、
は、もしかして、brageloneさんが引っ張りたい方向性でしょうか。

愚の骨頂が解消された暁には、国家の発展的解消があると・・

紙に書いたルールではなく、それぞれのものごとに具体的な豊かでダイナミックな動的な道徳を要求するわけで、
その発展形として、国家の発展的解消(内部での消失)や
国境が消失するかどうかは、(その方向だとは思いますが)
予測不能ではないでしょうか。動性にかかるからです。

それぞれの対立に対して一律の規範を当て嵌めるのではなくて、
動性道徳を持ってくるわけで、ものごとそれぞれの結果を予測できません。予め条文の当て嵌めたり判例を適用することに意味がありません。

確かに、平等の概念も発展的に消失し、所有権絶対の原則も市民レベルで崩れ、
規範によってバランスされるのではなくて、個別のものごとにおいて具体的受容的に
バランスされるでしょうけど、壁を作っておくことがそのものごとの道徳になる
場合があるでしょう。風土、文化、宗教への寛容ある振る舞いにはなりますが
同化、併合、相溶する場合もあり、単に認め合うに留まる場合もあるでしょう。

《和》は実現は、ダイナミックに成されるという状態が続くことになります。
民も公も《市民‐公民》構造への変化するでしょうけど、決してスタテックな
状態にはなりません。
緩やかながらも、さらに《市民‐公民》を越えた発展に向かうとも想像できますが
予測はできないでしょう。

予測するには動性道徳の何が道徳であるかを言語表現することになって、
やわら規範になりますね。

投稿日時 - 2009-01-15 12:18:50

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。
 なかなか つっこみますねぇ。いつものように えらそうに言い続けますが すごいことをおっしゃっていますよ。時代の・社会のうねりにうねろうとしている大波のことを 捉えて かんたんに言ってのけていますねぇ。おそれぇ入りました。
 たぶん 社会思想家や社会評論家の誰も まだ 言っていない・捉えていないような思潮のうねりであるのではないでしょうか。わたしが
 ☆☆(No.10) 一人ひとりの思考を基軸とした試行錯誤として 始まっているとも言っていいでしょう。
 ☆ と言ったのは 古代市民の歴史を――日本人の祖先の人間たちのことですが―― 思い浮かべていたのです。

 ところが いわく。――
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私には、「羞恥心」は単なる天然ボケ人気を越えた感があります。
 「羞恥心」側ではなくて、その人気を作る側です。つまり、視聴者側です。
 彼らの規範無く直接反応する心地よさ、つまり、あるがままの動性への / みんなの気づきが始まっているように思うわけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしは 「羞恥心」の活躍じたいについては分かりませんが このように 社会現象として説明されれば その事態について 分かります。
 ★☆ 動的道徳 動性道徳 動く道徳 生きた道徳
 ☆ この用語については さらに 練って しゃれた言葉を作るといいでしょうね。《ダイナミック・モラル》では ださいでしょう。《エチカ・ディナミカ》も どこまで 浸透しましょうか。

 ちなみに 天然ボケの《羞恥心》と もしこの質問者のわたしとに 共通点があるとすれば それは わたしの能天気でしょう。大きくは――大きくは つまり たとえば 国家の生成から衰退に到る歴史的経過を見とおそうとする大きな視点では―― 計算づくですが あとは まったく 能天気 つまり 早い話が 天然ボケなのですから。自然児とか野生児とかは 言って来ましたけれど。要するに スサノヲよ おまえだけが なぜ 自由なのかとつっ込まれるスサノヲの類型です。
 ★ Exileや大橋のぞみ
 ☆ に反応できないわたしが います。後者は 名前も聞いたような聞いていないような・・・でさえあります。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それはさておき、国家の時代の問題、《市民‐公民》構造を持って生活する社会まで発展は、
 もしかして、brageloneさんが引っ張りたい方向性でしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この分析と指摘については いくつかの局面に分かれます。
 (1) まづ そもそもは 《道徳規範は なぜ なくならないのでしょう?》に答えるものとして 国家という社会形態をめぐる歴史を思い浮かべたという問題です。考古学の対象としてなら 道徳規範も 遺されるであろうというご指摘を受けて けっきょく 国家の今後の見通しにまで 勝手に 触れたというところです。
 (2) しかも ただし 《動性道徳》の動向にもかかわって そういう歴史的展望を持ってもよいのではないか。こうも思います。
 (3) むろん いくつかある中の一つの理論展望です。
 (4) たとえば社会形態という視点を取り上げて 歴史的な見通しを立てるというのは 何も 規範を作るのではなく 規範になるものでもないでしょう。
 (5) ただし 行為形式や行動方針にまで喰い込んでくるようないわば歴史の一つの方程式になるかも知れず 無理にそうしようとする動きが出てくるかも知れません。
 (6) そうして 要は すべて 学問であったり 言論活動であったりするのみです。大前提は そこまでのものであるに過ぎないでしょう。
 (7) でも たとえば国連をもっと機能的にするとか言う話よりも おもしろいと思うのですが どうでしょう。
 (8) ただ地方分権なり道州制なりと言っているよりも 動性道徳の一つの実験になりえませんか。共同自治の首班を みんなが 当番制で担当するとすれば おもしろいじゃないですか。
 (9) こういう方程式も 規範となり固定化するかと言えば どうなんですかね。
 (10) まっ わたしなぞは スーパーや百貨店の品物を 市民は 好きなだけ 勝手に取って来て 消費するという社会を描いていますので(――究極的に 所有権解体論。占有は むろん 現象している――) そういう規範つまり 規範の無という規範 に凝り固まっているかも知れません。
 (11)こうなると 動性道徳じたいも まるで流動的であるかも知れません。

投稿日時 - 2009-01-15 13:45:01

お礼

 

 わぁっ 言いたい放題になってしまいました。とにかく 《なぜ 規範が なくならないか》の問いに対する答えは じつは すでに――わたしの主観では―― 得ているわけです。おかげで かなり 見通しがすっきりしました。ありがとうございます。
 そして むろん すべて 吟味・検証していきたいとも思っております。

 * いま ふと思ったのですが 《宗教》に対して 動性道徳を勧めるという反面で いわゆる《無宗教・無信仰》を名乗る人びとのその思想のあり方についても 何らかの《勧告》が必要ではないでしょうか。その無制約の道徳過程は たしかに動性であるかも知れませんが どうも いちばん悪くいえば くらげのような動性であるのではないか。軟体動物のごとく 背骨が その思想に 見えない。これじゃ 動性だと言えるのかどうか。
 あぁ 口さがない能天気老人なり。
 (あぁ この難局を 元に戻していただけると ありがたい)。

投稿日時 - 2009-01-15 13:52:14

ANo.25

No21の最初に謝っていますが、 謝り方がおそまつでした。  

実は ある配慮からわざと書いたものでもあったのですが、いらぬお世話であったろうことからも 二重にお詫びすべきところだったと思います。

申し訳ありません。 また恥ずかしいです。すみませんでした。



また、無学さも今回は、身にしみました。

蚊論争、自体意味が理解できないだけでなく、 それと>拉致問題<との関連性にしても考えようとしても、手がかりすらつかめませんし、 また法学理論も知らないところ(これが、理解しえない原因なのかもしれませんが)、 今回は解からないことだらけです。

恥ずかしいですが どこがそんなに解からないのか わからない点を書いておきます。

>無効の行為< これは言葉自体の意味合いから解かりません。

もちろん そのまわりの文も同じくとなってしまいます。

せっかく >無効ということは 初めから すべて 何もなかったという意味です。<というところまで 詳しく解説してくださっているのに、それでも解からないのです。

>自由意志たる善< これも それ自体意味がつかめないでいるところです。前回の質問文の中に出ていたところでもあるのでしょうが 結局それを理解できていないのですから 解からないのは当然なのでしょう。

その周りの文も したがって同じくです。

そして、おそらく肝心の次の文へと それが何故つながるのかさへ 何故なのか 考えても考えても解からないのです。

>理論上は 拉致行為の直前の原状に 無条件に 復帰することが するべきことです。
 時間を取り戻すことは出来ないと同時に それにもかかわらず その拉致行為は まったく なかったことになります。時効も 問題になりません。これが 原則です。<

その次の文

>そうして こういう場合の《原則》は――いま 気がついたのですが―― きわめて 《規範》に似ていますね。<

は、“国家という存在の《原則》は、 そのような性格の《規範(たぶん静的な)》になる”ということなのでしょうか?

でも これが法学理論ということなのでしょうが、やはり無学ではこのへんの理解できないようなんです。 考えるすべすら失っています。

以下蚊論争に関しては、 以下 最後まで 同じ感じです。

論争以前に、 お手上げ状態ですね。



それ以下の文は、 学問のあるなしとは関わらない問題でしょうが、 これも >結論<から書かれているからなのか、理解にまでは、いたっていない感じです。

<すべての規範から《自由であれ》が、方程式化されるべきか否か?> というのがとちらの問いであるならば、もしかしたら この質問は 私の回答能力を超えた質問であるのかもしれません。



はて、さて、

つづけて書こうと思っていたことの概要は書くべきところかもしれません。

しかし、無学な者が 道徳に関する高度な質問に参加するというのは 土台が無理だったのかもしれません。

なるほど、無知を思い知らされました。

また ここは感謝すべきところかと思います。

お教え ありがとうございます。  自分を知ることが ステップになるところです。   ありがとうございました。



ウィキペディアの道徳教育の 徳目どうしが衝突するという説明の仕方についての、 わたしの中の別な方向からの見方については、あいかわらず肯定的ですが、  しかし、 自信を失った感じの今の今だからということなのかもしれませんが、   うまく続けられません。

<流動性にも 明確な基準はある。> という見方であるわけなのですが、

次の

> ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。 <

についてこそ、「許す」とはということの理解の問題であるわけですから、キリストの言葉をいろいろ考えてきた私の得意とするところであるはずなのですが、

それも今は、 このような私にそれを論じる資格があるのだろうか?という気持ちとなってしまいます。

以外と弱いところがあるのかもしれませんね。

その次にしても、こんな感じでうまく書けません。

> ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。 <

この二つの規範の流動性の基準は 一番簡単なはずです。 身なりとは、という事の意味合いがどこまで解かっているのか? というのが答えとなるはずですから。

しかし、これさへも ワーキングプアーが言うことではないという卑屈な気持ちになってしまうところなんです。

いろいろ 長い人生でいじけてきてもいますしね(とっとっと ここまでマイナス思考になってはいけないですね。)



次に書こうとしていたことこそ、 例の「“全ての情報の無料化”論」です。

善の戦士というからには、 この自論にこそ筆の熱をこめるべきところでしょう。

しかし、小学年の道徳の問題ですら 今 答えを失っている人間に それを書けと言われても、 やはり、その気迫を失ってしまっている感じです。

いや、少しは書くべきでしょう。 

本物の情報、あるいは考え、あるいは感性を持っている人間ならば それ自体ですでに大きな幸せを得ているはず、 清貧とかいうのではなく すでに豊かなはず、 苦しみは苦しみだが みずから その情報価値を儲けのために使う あるいは儲けと関わるのは、本来一番、その必要のない人間だ。  ならば。 そうならば、そうす「べき」なのは、 そうでない人よりはるかに強い「べき」だ。  とう道徳論との交差の問題です。

この質疑にて書くまでもないような内容でしかないのかもしれませんけどね。(むむむ。 あくまでかなりマイナス思考ですね。)



そのほか 論戦の部分もまだ残っています。 例の「多元性」の問題です。

しかし、このダメージ後にては、論戦は無理かとも思えてしまいます。



そして 最後が

その上での「霊」の問題についてなのですが、  でも こればかしは簡単には書けません。

流れから 後はむしろ、私の方からは 今回は、この問題だけ書くべきところなのかもしれません。

どうでしょうか?

投稿日時 - 2009-01-14 19:50:40

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★★ (ANo.21) 誤解自体は すべて解けました^^。
 ☆ とあれば 《誤解》のほかの《疑い》は まだだと取るのが ふつうでしょうね。じっさい そのあとに その疑いのことが述べてあるのですから。
 ★ 謝り方がおそまつでした。 
 ☆ ということに尽きます。

 ☆☆ (No.22お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★★ (arayata333) 蚊に刺されたようなものです。
 ☆☆ (bragelone) 蚊が刺しただけです。
 ☆ これら二つは まったくと言っていいほど 違います。
 後者では 《蚊が刺しただけ》が 歴史事実です。前者では なにかが別に歴史事実としてあって それが《蚊が刺した》ことに喩えられると言っています。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この説明で通じないでしょうか。《なにか別に歴史事実としてあっ》たとしても もし 無効であれば その事実は すべて なかったと 法律上は 見なされるという意味です。拘束されない自由・生命を脅かされない自由あるいは表現の自由などなど 基本的人権としての自由を奪う行為は 法律上も 倫理上も 無効であると見なします。
 無効であるとなれば そこで起こった行為事実は すべて 何もなかったことになります。実際には そう見なされるという意味です。そして その行為が起こる直前の原状に あたかも時間を戻すかのように 復帰するのが 絶対要請となります。
 ★★ 蚊に刺されたようなものです。
 ☆ という表現であるならば 行為事実じたいは あったと見なされます。あったけれども あたかも蚊が刺したようなものだと喩えていることになります。つまり 無効と捉えるのではないわけです。
 わたしの場合の表現は 行為じたいが 無効であると宣言するものです。ちがいが分かりましたでしょうか。釣りかも知れないと思う心に逆らいつつ。

投稿日時 - 2009-01-14 21:46:44

ANo.24

ちょっとおじゃまします。

愚の骨頂については、賛同することは前に記載した通りですが・・
NO10と11で
>規範は六法に留めておけば良く、
>六法にしろ宗教書にしろ図書館では成立しないものですね。
としました。

究極的に、道徳規範を完全に放棄しても、完全な動的道徳が存在?すればよろしいことを理解しますし、道徳規範に動的道徳を補完する役割が
あることを論じても意味がありませんね。
しかし、この道徳規範は、少なくとも図書館に歴史として、あるいは、考古学として、記載保存しておく価値はあると思いますよ。
道徳規範は、動的道徳のいわば対立的概念になっていて、動的道徳を阻害しますから、その言語表現の限界(静的性質)の理解を助ける意味で有効だと思います。ここが愚の骨頂の限界でしょうか。

ところで、「羞恥心」のブレイクにこのご質問との類似性を感じます。
彼らは規範なく、動性によって結局正しさを勝ち取ってしまったと
思うんですね。いや、彼らが勝ち取ったのではなくて、みんなで
それを大いに認めたところに類似性を感じるのかもしれません。
この御時勢で、あぁ、これもこうであれば正しいんだ。ということですね。

投稿日時 - 2009-01-14 15:59:21

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 ★ ところで、「羞恥心」のブレイクにこのご質問との類似性を感じます。
 ☆ おバカさんトリオのことですよね? 笑っていいともで たぶん 三人とも 見たと思うのですが 歌については そして 三人組としての活動については 知りません。
 《ブレイク》は 《人気》の問題じゃないのですか? 社会現象になっているのですか? それが
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 彼らは規範なく、動性によって結局正しさを勝ち取ってしまったと
 思うんですね。いや、彼らが勝ち取ったのではなくて、みんなで
 それを大いに認めたところに類似性を感じるのかもしれません。
 この御時勢で、あぁ、これもこうであれば正しいんだ。ということですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ということなんですね? ううーん。ちょっと その中身をつかめ得ません。
 ★ 規範なく / 動性によって / 正しさ / 正しさを勝ち取る
 ☆ これらが 何を言おうとしているのか あいまいではないのですか? わたしがピンと来ないだけのことですか?
 ★ みんなで それを大いに認めた
 ☆ これは ただの人気の問題ではなく 社会現象にかかわるという場合 その中身が いま一つというよりも 全然 分からないのです 往生します。保留しつつ 気に止めていようと思います。

 さて 前半の文章を読んで はたと膝を打ったことは 人類史の中で 社会の形態として 《国家》――特には ふつうの市民圏と特殊な公民圏との二階建て構造から成るという点――の時代の問題だということです。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ヘーゲルは 国家から出発して 人間を主体化された国家たらしめるが 民主制は 人間から出発して国家を客体化された人間たらしめる。・・・
 (K.マルクス:ヘーゲル国法論批判)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ もちろん 平屋建てであって それとして 市民社会の形態だった時には 二階建て構造を目指して 進んだ歴史もあるわけです。国家という形態においては 概念の普遍性が おもには 手続きや接触の面からの実際問題だけのことなのでしょうが 広く 確立して行ったと考えられます。
 ▲ 国家から出発して 人間を そのような二階建てに応じた恰好の《市民(わたくし)と公民(おほやけ)》とから成る存在形式に作り上げた。
 ☆ しかも――マルクスが言うには―― その国家という社会形態の中から 誰もが市民でありつつ 共同自治の主体として 同時に 公民であろうとする民主制が 芽生えた。ところが この民主制は 《人間から出発して 国家を客体化された人間たらしめる》。
 《公民 つまりこの場合には 専門として公民である公務員》は 《市民‐公民》構造としての人間なる概念を 国家として・つまりは 具体的には おのれの姿として おのれの存在において 実現せねばならないという主張です。社会思想が そこまで 発展し変化したのでしょうね。《公僕たれ》から さらには 《万民の平等》を主張する方向を採った。

 となれば おそらく たぶん 将来は 都市ないし市町村が それぞれ あたかも独立してのごとく その基礎の上に 互いの連携・連合をつくっていく社会形態が来るかも知れない。国際連合のごとく より上へ さらに上位へという流れではなく ふつうの市民が ふつうに《市民‐公民》構造を持って生活する社会 そして それを基礎とする世界 が来るかも知れない。
 《国家の揚棄》とか 国家の発展的解消とか言われる事態である。

 以上の見通しに立って 道徳規範は 国家の時代とともに 持たれ 国家の消滅につれて 過去の遺物になるという展望をしてみました。そういう反応を 持ちました。と いまは お応えするほかありませんが いかがでしょう。

投稿日時 - 2009-01-14 17:00:29

お礼

 補います。

 国家として したがって 人びとが国民として まとまって歩む時代。このときには 一時期の頂点として 《ただ一人の存在だけが 朕は国家なりと宣言する》という中央集権の極点に達しました。
 この時代の進むにつれて 市民一人ひとりが 共同自治の主体として わたくしたる市民であると同時に おほやけたる公民であるという存在の形式が 実現しつつあります。
 こうなると もっぱらの公民らのあいだでも みな 一人ひとりが 市民であり 人間であるという思想が 必然的に 現実のものとなりつつあります。その中間で 《市民おのおのが 〈わたしは国家である / 一人ひとりが 国の経営者である 〉と宣言する》段階を経て 公務員とて まったく 同じ人間存在であるという現実が 見えて来たところなのではないでしょうか。

 こうなると ふたたびのごとく 社会は あらためて 平屋建てに限りなく近い形態へと みづからを 作りなおしていくのではないでしょうか。中二階と言いましょうか あたかも屋根の上にのぼって 人びとのために全体にかんする仕事をするのは それぞれの《市長》であり あとは その市町村の連合として 統計やら情報交換やら互いの調整役やらの仕事をこなす委員ないし当番(つまり 共同自治連合政府)であるという見通しです。
 こうなれば すでに 《和》は実現されていますので わざわざ 十七条に書き連ねて 規範とする必要もなくなるでしょう。甘すぎますか?

投稿日時 - 2009-01-15 09:54:30

ANo.23

そちらへの疑いが解けたので、けんかは終わったということで^^(解かりやすいので^^マークをつけておきました。)

このテーマでの論戦はまだこれからですよ。



喧嘩という言葉は それこそ誤解されるかと思いますが、 お互いがそれを「見つめる」ことが出きる場合は あきらかにおもしろい発展とか会議の活性化をもたらします。  時には愉快にすらなり、 スポーツとかのバトル以上の 熱とかをも生みだすと思います。

まさに 喧嘩はいけないという 規範ではとらえようのない地点で笑(しょう)ね。

又、私は 相手が弱いとみたら喧嘩はしません。

計算しての発言が出来ていることを知ってるから 全体の活性化のためにも、こちらも鬼のふりをして計算して 喧嘩もしたりするわけです。

ただし、 相手の表情とかが見えない現時点でのネットでの会議に このやり方を使うのは、ひやひやものですね。   例えば その格闘がプロのリングであるならば、思いっきりたたいても 相手もまた回復してこちらのぶつかってくるだけであることとかが解かっていますが、  相手が素人であれば、 軽くたたいただけで、鞭打ち症にもなってしまうかもしれません。  犯罪にもなってしまうでしょう。

ともかく 今回の件は 終わってしまったことですので、 次の論戦へと進んでいきましょう。

蚊論争は 蚊論争ですよね。  頭が言いわけではないので、 言われてる意味合いはよく解かりませんでしたが、 それは蚊似すぎないこととして次に進んでよろしいでしょうか?



とりあえず、つづけます。

>・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。<

ここから行きます。

これこそ、相手のことを思っての寄り添うコツの問題だと思います。

昔 新聞配達をしていた時、 配達順路を教えるのに、みんながさじを投げ出した人を わたしは教えるのがうまいということで、店長がわたしにその子に配達順路をおぼえさせてほしいと頼んできたことがあります。

まったくの無表情の人で、「おはよう」と言っても もちろん知らん顔であり、なによりもまったく反応が無いのです。

でも 私は それを、何かの原因があって こうなっていてその原因は解からないけれど、  《別に 普通の人だ》と気がつくことが出来たんです。

あとは 信頼すればいいだけでした。

むしろ、いつもより以上に こちらもつっけんどんに ただだまって後をついてこさせただけでした。   ほかの人と同じようにです。

そして、ほとんど同じに そろそろという時に 短い路地を5件ぐらい配らせたのです。  ただあたりまえにです。 一件まちがえて配ってきたので その事を いつもどおりに 指摘したら    その子は その時始めて苦笑いしました。     信頼(この場合つっけんどんな態度が それを可能にしたということです。 親切という道徳にしたがっていたらけして 彼の表情は、動かないままだったでしょう。)

見てみぬ振りです。

ほんとうは、誰よりも その子が普通に戻って欲しかっただけです。

同じ人間なんですから。  それだけです。   だから 道徳とは逆な態度になれたということです。

生きた指導と 道徳規範とは たしかに別ですね。(もちろん、その子は他の人たちと全く同じ期間で 配達順路を憶えました。)

今回は ここまでとします。(昼休みですので)

つづく。

投稿日時 - 2009-01-14 13:05:18

補足

  arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 まづ ★ 蚊論争 ですが
 ☆ 拉致は 無効の行為です。一方には かっさらうという内容の意志があるように見えますが このように存在あるいはその自由意志たる善を阻害する行為は 存在していないという判定になります。
 (《悪は 存在しない》を このように 法学理論として 考えればよかったかも知れない)。
 被害者は 相手のかっさらうという意志(じつは 存在しえない意志行為)に同意したという場合が ややもすると 考えられるかも知れません。けれども 刑事が追求するときの自白強要と同じで 拉致された状態において 《連れて行って》と意思表示したとしても それも 無効です。
 拉致は その意志のありようからして 行為から何から全部が 無効です。無効ということは 初めから すべて 何もなかったという意味です。理論上は 拉致行為の直前の原状に 無条件に 復帰することが するべきことです。
 時間を取り戻すことは出来ないと同時に それにもかかわらず その拉致行為は まったく なかったことになります。時効も 問題になりません。これが 原則です。

 そうして こういう場合の《原則》は――いま 気がついたのですが―― きわめて 《規範》に似ていますね。
 《人間の個別の存在と それらの関係構造》 言いかえると 《社会的人間》 これに内在する《原則》として 無効の理論は あると考えます。この原則(あるいは 公理)は 道徳をつくったり それを規範化したり それらの道徳や規範について それでいいとか悪いとか議論したりするときの基礎であるように考えます。
 たとえば《殺すなかれ》は 無条件に求められる行為形式であると言えると思いますが 多少は――緊急避難の事例のように―― 社会的情況としての条件がつく場合があるかも知れません。ところが 無効の行為について 原状復帰というのは 無条件に そうするものです。条件づけられる場合というのは むしろ その原状復帰を どのようにして実現するかをめぐってであると考えられます。
 極端に言って 被害者本人が 原状復帰を望まないと言った場合 それでも 原状復帰という原則は 無条件に当てはめられ そのあとの措置として 本人の意向に従うということになるのだと思います。

 道徳規範は 話が別です。
 ★ 生きた指導と 道徳規範とは たしかに別ですね。
 ☆ の問題に移りますが この質問趣旨が言おうとしていることは 微妙でありまして 結論から先に言ってしまえば
 ★ 道徳とは逆な態度になれたということ
 ☆ という方程式化についても 問うています。規範化とまでは行かない場合にも 《つねに 動的であれ》という《規範》をあてはめようと考えています。つまり 《自由であれ》は 先ほどの《原則(公理)》と同じく 無条件に 社会的な生命存在にあてはまる考え方なのだと言いたいということになります。どうでしょう。
 ★ つっけんどん
 ☆ にしても だめだったという場合もあるだろうから 《自由であれ》と言いたいという趣旨なのです。
 全員参加の井戸端会議によるしかないだろうし そのときには われらが旗には 権威権力 地位身分 いっさいから自由であれという標語が書かれているでしょう。プライドを持つのは 自由だが その思考において また 判断において プライドや面子から とうぜんのごとく 自由であれとなります。そういう質問趣旨でありますが どうでしょう。

 * 疑いは 一たん 発表したからには 相手に ひとこと あやまりの言葉をかけても 罰はあたりません。

投稿日時 - 2009-01-14 14:06:54

ANo.22

(A)(B)両方とも、もちろん含みます。  すみません。 この内容ですから、私の書く時間帯をもっと考えて、いっぺんに書くべきところでした。 いそいでお詫びしたい気持ちになったものですので、あわてました。

徹底して疑ったということは、その誤解が解けたということですから、徹底したbrageloneさん応援団となれたということでもあるわけです。

それにしても、応対が早いですね。  「今日中に書きますので、待っていてください。」と書いておけばよかったですね^^。



No20の方のコメントについてですが、
↓↓↓

「霊」についての 考えのズレにつながりそうなことについては、後で書きます。

先に 三位一体についてですが、そこが重要な誤解となっていました。

まず、詳しくはともあれ そういうキリスト信仰であるならば、まったく問題は無いと思えますし、 それどころか キリストへの謙虚さの私などよりはっきりした謙虚さをこそ意味するだけであり、  ふたたび、 これにより、そちらのその謙虚さの地点のブレの無さに、感動しています。

たとえそこに《幻想》とかが混ざっていたとしても <それならば*註あり>私の考えにては問題のないところ、 (信教 良心の自由)

>主観内面における自己表現であるに過ぎません。< という表現は、人間としてすばらしい表現だと思います。

註*→<それならば>の内容ですが、 教祖様云々とは間逆に 人に上下をつけない事の正しさの核心の確信としての信仰こそ 「謙虚さ」を意味すると思いますので、 そのへんが むしろ以前よりもはっきりしたということを意味します。   ならば幻想が例えあったとしても、何で何の問題があるのだろうと、私には思えるということです。

( 例えば、 ちょうどいい例があるのですが、 私は これはたった一回だけなのですが、 ある時 ふと、なんとキリストが私を見ているとその視線を感じたことがあります。  なんでキリストとわかるのかも解かりません。 ただ はっきり あまりにもはっきり、その時はそう感じたのです。  えっなんで?  なんでただの青二才の ただの馬鹿なふつうの人間を見に来たの? どんな意味があるの?   ??

しかし、 後から考えても それがあまりにも確かに思える感覚だったので、意味が解からないだけでなく、、そんなことありえないという科学観からも否定したい気持ちにはなっても しばらく否定は出来ませんでした。

まず、そんなにも強い《幻想》が、人間の脳にはありえるということです。

どうやって 私がそれを幻想と規定したのかについては ここではともかく、 さて、 もし、私がそう規定することが出来ずに、そのままそのことを信じたとして、  そこに問題があったとすれば、 それが故に 私は特別な人間でありほかの人間とは違うのだと思いこんだ時だけです。

そうではなくて、いよいよ、謎の前に 人間や自己の小ささに気がつくのみであったとしたら、そこには何の問題があったでしょうか。 

そういうことなんです。)



次には No21へのコメントとしてまとめてくださった(A)(B)が重要と私も思います。

常識に 歩を合わせないのは、まさにこのケースにての動的道徳そのものということですよね。

brageloneさんの>《挑戦的な質問》<は、↓

(A)(B)二つに関ることと思いますが、和という道徳や 良識が、すばらしいものでありえるものでありつつ、 すばらしいからこそ、それゆえに思考停止になっている この見えにくい事態とその矛盾を、その尊さを深く信仰によって認識するからこそ、見抜いている!事態を意味します。

科学と哲学による純粋なそちらの信仰は、 そのへんがはっきりと見えるだけでなく、 常識が権威となってしまっている姿をも、おそらく誰よりもクリアーに見抜くのでしょう。 見えてしまうのでしょう。 おそらく リアルにリアルにくっきりとです。

アンデルセンの「裸の王様」の話は 正直で素直な子供が王様の服が 透明であることを見抜いたら死刑になるかもしれないという邪念で曇らされていなかった といったたとえ話にすぎませんが、  現実には、この和のまやかしの世界は、 その“だまし だまされ”の世界は、 それが真の和の世界を邪魔してたりします。   因果をたどれば それこそが人間の大きな醜さや悲惨さの原因だったりします。  半端でなく切実な現実の問題です。(あるいは 平和への道の巨大な壁としての因が、そこにあります。)

***

おそらくbrageloneさんは、 直情的というのではなく、そういう性格はあるかもしれないですが、それよりも 実直な人というのが当たっているかと思います。 それも実直すぎるのです。

以前 そちらの心の清さへ感動したと書いたことがありましたが、それがゆえに実直すぎ、 実直すぎるから誤解を受けてしまうような書き方表現をも平気でしてしまうのだと思います。   

たしか キリストの言葉のどこかでも「心に清い人は神を見るであろう」という言葉があったと思うのですが、 まさに brageloneさんはそういう実直さを持った人なのだと、あらためて思いました。

(それプラス 頭の回転が速いです。 ついてゆくのが大変なぐらいどんどん理論が頭の中に出来ていってしまう感じですね。  早合点も 自然に生まれてしまうということもあるかと思いますが、 ともかくこれでズレが生じるのかもしれません。)

***

しかし、それらのあまりにも実直な文は 時として、今回のように大きな誤解へと発展していってしまいます。

和という道徳ですら 実直な鋭い矛盾凝視が必要な世界です。

ですから そういう「見抜き!」と その鋭さは この世界にどうしても必要なことですし、 実直さゆえの言葉や文体も すばらしいものでもあるのです。

そして、それは まさに 私たちの文化の内 宗教という権威ある世界がむしろ陥ってきた さらに見えにくくなってしまってもいる矛盾の世界です。

なおさら そちらの実直な筆は反骨の熱をおび、 一般の常識の目からは誤解を生みやすくなってしまうのでしょう。

その接点にて、この「道徳規範は、具の骨頂」という質問があり、懐疑の文が 抗議の文があるのだと思います。



仏教についてのそちらの姿勢も キリスト者だから攻撃するというのではなくて、 まさに《無限》の前の人間ゆえ、 同じ人間仲間としての辛らつな発言なのだと理解しました。(それもまた 誤解の種となってしまっても、実直ゆえに、 ストレートにそちらはままに語り続けるのでしょう。)



「霊」については、 私もうまく言いたいことを表現できるかどうかはともかく、 これは中途半端には書きたくない点ですので、 それで 後回しになるということです。  再度、ここに記しておきました。



いずれにしても、このような感じで誤解自体は すべて解けたということなのですが、 霧があったとすれば そのあたりの霧自体はすべて消えたかと思うのですがどうでしょう。



今後 私は 忙しくなるかと思います。 ですが、 ここまで実直すぎる反骨では、心配となります^^。  今後も ここでの井戸端会議にだけは ちょこちょこと 見に来たり お邪魔虫となったりすると思います。

今は このまま 先をつづけましょう。



>▲ 《ヰキ:道徳教育》~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ​http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2
  ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。

 ・ 転倒した児童が自ら立ち上がる強さも大切であるし、それを他の児童が助けてあげるのも大切である。
 ・ いたずらを起こした児童生徒を厳しく諌めるのも大切であるし、許すことも大切である。
 ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。

 そのような場合に教師がどのような評価を下したらよいのか、明確な評価基準がないために、評価は流動的である。<

の部分なのですが、 これは 確かに 中途半端の語り口です。

《その流動的な評価の下となる精神的機軸となる世界》は、けだし明確に求められるべきと考えるからです。

そのへんから 議論を再開したいと思いますが  、よろしいでしょうか? 

また(筆自体は進めますが) brageloneさんならば、どう思いますか?     

あの、 あまり深くはまだ突っ込まないでください^^。 早すぎるとついてゆくのが大変になります^^。( どうか私のいそがしい>状況の応じて 考えつつ対処<していただけますよう、お願いいたします^-^:。

投稿日時 - 2009-01-13 19:39:44

補足

 補います。

 すべては 計算づくだと 受け取ってください。
 この段階で はっきりと お伝えしておいたほうがよいでしょう。

 計算通りに行くか行かないかは また別の話ですが 表現のありようは 《たとえ にせの信仰者に見えようとも》です。あるいは 表現は まさに自己表現であり 自己表現であるほかなく 自己を 思う存分に発揮するかたちで 表現していくのですが それにもかかわらず 自己を見せるためにおこなっているのではないわけです。

 さらに言えば 自己を見せる表現をするという場合 これさえも あるわけです。しかもつまり すべては 計算づくなのです。

 直情的だの実直だの 心が清いの清くないのと言っているようじゃ まだまだだなぁ。
 《メンタル》は 相手の問題として とらえなさい。こちらは どうでもよいのです。じっさい 心理の動きなどというものは 延々とつづく麻雀競技のごとくであって おもしろいかも知れないけれど 果てしがありません。
 おのれは 《たとえ にせの人間であるように見えようとも》 相手が わたしがわたしするようにということを願って 表現するようにしてください。
 というのが 《道徳規範は 愚の骨頂》という意味になると思うのですが いかがでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-14 11:26:42

お礼

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 もう けんかは終わったのですか?
 なあんだ つまんないの。

 ふたたび 今度は こちらから ふっかけましょうか。

 ★★ 蚊に刺されたようなものです。
 ☆☆ 蚊が刺しただけです。
 ☆ これら二つは まったくと言っていいほど 違います。
 後者では 《蚊が刺しただけ》が 歴史事実です。前者では なにかが別に歴史事実としてあって それが《蚊が刺した》ことに喩えられると言っています。 

 それは 次の表現にも見て取れます。
 ★★ 瞬時に過去のトラウマから開放されたりもすると思うのです。
 ☆ これでは だめです。《〈トラウマ〉も何もかも 〈蚊が刺した〉という事実以外には まったく なかった》のです。
 ★★ その時は、大きく心傷ついたことであったとしても、
 ☆ 《心が傷ついたこと》も何も なかったのであり 《大きく心傷ついたことであったとしても》という仮定も何も なかったのです。

投稿日時 - 2009-01-13 20:08:00

ANo.21

大きな誤解、どうもすみませんでした。  まず、お詫びいたします。

誤解自体は すべて解けました^^。



悪人どころか、大勢の人がおいしい魚、必要な食べ物を得るために共同でしっかり握っている常識にすら 歩調をあわせようとしないで、なんでキリストの言われる「1千歩く事を強要されたら 2千歩歩きなさい」という例えのシンプルでかつ深い世界を理解し、そこへ謙虚な姿勢を持った者と言えるのか? とか

それならば、キリストへの謙虚さは表向きのことで、ほんとうは、神から特別自分だけに与えられた「霊」により 自分だけは間違わないというまさに幻想におぼれた人なのではないか?  あらたなキリスト教の新興宗教の教祖様のつもりなのだろうか?  とか いう徹底した疑いです。

実際には そういう部分もあるのでは? という疑いなのですが、 そのへんのところは、かくしてずぱりここでは そこまでの疑いをはっきり表現したわけです。



まず「霊」の問題ですが、  時間が無いので、 また後でつづけます。

上記の誤解の真相については、「ポルノとは」とか「なぜ、神は人間に性欲を与えられたのか」とかいった質問への私の回答を読めば そのへんのいきさつがわかるようになっているのですが、 そちらも参加されてる質疑ですので、おそらく 今はすでに わかっておられるでしょう。

後は 仕事が終わってからつづけます。

投稿日時 - 2009-01-13 08:01:29

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 誤解自体は すべて解けました^^。
 ☆ 《すべて》が 次の二点を含むかの確認です。というのも 
 ★ 徹底した疑い
 ☆ とかかわっているようなのです。

 ☆(No.20補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (A) ★ 権力とのかかわり
 ☆ については bananasandさんのANo.10へのお応えの中で 《挑戦的な質問》のいきさつを説明しています。 
    *     *     *
 (B) ★ 当為論の問題
 ☆ すなわち 《規範として受けとめ そこから要請されて 規範だから少し背伸びしてでも わたしは 実践します》というかたちではないこと これが 大事だという意味です。・・・
 和の規範の場合には 背伸びではなく 逆に お上には逆らえないという意識を呼び起こし 思考停止ないし 《ともかく従う》という条件反射に追い込まれます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ (A)の問題では 次の認識が 現実であり 真実を表わしていると考えます。
 ● (ANo.11=bananasandさん) ~~~~~~~~~~~~~
 ・・・な~るほど。真の挑戦者は、brageloneさんではなかった、つまり、brageloneさんは、反射鏡ですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 問題は わたしが えらそうに言っているところだけにあるのではないという意味です。この一言で 同じく誤解は溶けると思うのですが 説明を延ばしましょうか。

 ★ あらたなキリスト教の新興宗教の教祖様のつもりなのだろうか?
 ☆ 宗教は 信仰の内面から外へ出かけ ひとの信仰を勝手に値踏みし あたかも慣習制度化する自殺行為だと言っている人間が 宗教を始める気配があるということでしょうか?
 ★ ほんとうは、神から特別自分だけに与えられた「霊」により 自分だけは間違わないというまさに幻想におぼれた人なのではないか?
 ☆ 神の《霊》が えこひいきするという意味でしょうか? もしえこひいきするとすれば おそらく 信仰をさづける順番の早い遅いとしてでしょうね。しかも 《あとの者が先になり 先の者があとになる》のが ひとのつね 世のならいと来ています。
 そういうことを分かっていても わたしは 一ぺん ひとのかしらに立ってやろうという野望を抱いているようだ。という意味でしょうか。そんなに言うのなら やってみようかいな。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 悪人どころか、大勢の人がおいしい魚、必要な食べ物を得るために共同でしっかり握っている常識にすら 歩調をあわせようとしないで、なんでキリストの言われる「1千歩く事を強要されたら 2千歩歩きなさい」という例えのシンプルでかつ深い世界を理解し、そこへ謙虚な姿勢を持った者と言えるのか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この文章の意味が 飲み込めません。
 まづ 聖句は 《・・・倍の二千歩も 一緒に 行ってやりなさい》です。《一緒に》が 大事です。それが もろに 上の(A)の問題情況です。しかも (B)の問題にもかかわります。
 たぶん 《常識》では 《おとなしく 追随する》ことが 《謙虚》であり 《左のほほをも向けよ》の実践だと思われているのかも知れません。《だまって 追随する》のは 《一緒に 歩いて行ってやれ》なる謙虚ではないのです。そんなに謙虚を踏み外すのなら 一緒に歩いてやろうと わたしは 言っているし そう行なっているというだけのことです。
 《そんなに挑戦的になりたいのか。なら こちらも おつきあいしてやろう》と言って 自己表現をしているのみです。こんな謙虚な人間は いないでしょう。謙虚を 自分も ともに 踏み外しても いいから あなたがたが それに気づくまで おつきあいしましょうと へりくだって 言っているだけのことです。 
 《おとなしくしていましょう》というあなたがたは 謙虚違反の人びとを 見殺しにしているという情況なのです。そんな高慢な 自分だけが救われれば あとはよいという自分勝手な信仰は ありません。
 どうですか。道徳規範は 愚の骨頂ではありませんか。

投稿日時 - 2009-01-13 09:19:10

ANo.20

一般に認識されている意味合いからは(常識的な見地とかからは) 道徳という言葉自体が 静的な意味合いも動的な意味合いも含んでいると思います。

ですので、その常識的は見地に よりそった言い方(表現のしかた)で、そちらの質問テーマを語るとすれば、

道徳を>規範<化してしまい、さらにそれを固定化してしまう事態が世の中のいまだはびこっているのですが、その原因をみなさんといっしょに追求してみませんか?  とかいった質問テーマとなったりするところかと思うのですが、

なぜ、brageloneさんの場合、そのような怖い?(無知な権力家を後押ししてしまいかねないような)書き方の文となってしまうのか? 考えてみました。

誤解を恐れずに 強い印象的な言葉づかいでずばりテーマを掲げておく。

こういうことなのでしょうが、 ちょっと疑問も生まれてきましたという事なのです。

それは、前回の削除されてしまったテーマにも感じた疑問ですし、 その最後に私がそちらに質問しようとした内容のものと重なります。

今回も No18の私の回答へのそちらのコメントを見て 同じ疑問を感じたのです。

そのコメントですと、 マーガンディアという美女に対する仏陀の不適切な対応をもって(それが史実であとうろどうであろうと、それを仏教徒たちが見落としてきたのは事実なのだから←これは私の方から 解かりやすく書き添えているところなのですが)  まるで すべののその後の長い間に生まれてきた仏教の求道の過程で生まれた思索を、 なんとまるで十羽一からげのように >道徳規範<として位置づけというより決め付けようとしているかの
 
そのような見解として見られかねない文となっているからです。

そこで、 No18に予告しましたそちらの質問意図に寄り添って、実例を挙げての説明しようとしていた内容の前に  その疑問について書いておくことにしました。

その実例というのは、情報企業は、アートも本屋も含めすべて非ビジネス化(無料化)す「べき」ではないか? という地点を この問題にからめて扱おうとしましたが、  それはそちらにとっても いきなりではハイレベルすぎる問題だったのかもしれないとも 思いなおしました。



キリストは「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい」との言葉を さらに同じたとえ「1千歩歩くことを強要されたら、さらに2千歩あるきなさい」でしたか そのように強調して言われていますよね。

そこを私の場合 高校生の時のなんとも人生を知らない時にても、それもまた何かのたとえ話として受け取っていて、 けして静的な>道徳規範<として受け取っていません。

まず、 どんな人間も そういう因果があって悪人となってしまうのだからそこに差別をつけてはならない、自分だってその因果がそこにあれば同じように悪人になってしまったはずだから。  悪人いたなら なおさらその心にそって よりそってその上で その人の幸せのために 本気で対応しなさい という意味合いで受け取っていました。

つまり、その上でならば、右の頬をはたかれたらその人の両頬をたたくことがその人のためになると理解しての行動が必要となる時もあるとうふうにです。

あくまで 固定的な見方は、すでに青二才の時ですらしてはいないのです。

であって、 キリストの言葉は シンプル・イズ・ベストとも思いました。

そして、さらにさらに深いというふうに、今は思えています。



道徳は、 あくまで必要性ということから言えば、 子供たち(心が柔らかすぎ 悪にもすぐそまってしまう弱い存在)に対しては あえて泣いてでもなぐってでも、強制的にでもおしつけてでも 時にはですが そのように規範的にしつける「べき」ところものとも言えます。

通常の私たちの常識には、重みをもってそれらの認識が存在していたりもします。

世の中の悪人にたいしてもです。

しかして、子供で無い場合には(宗教については いきなりそのへんが複雑になるのですが、またそれで後回しとさせていただきたいと言ったのですが) 悪人については、 まず書きましたように その因果を理解しその因果から生まれると推測される心への 精一杯の寄り添いから 対応してゆくべきかと思います。

その上での 必要な場に応じての厳しさ が必要なのだと思うのです。



すると、 その動的な「べき」を認識するには、 その前に人間理解の深みという内実なしには、 生まれないということも、 ここに考慮すべきところでもあるところ、

動的道徳以外は 具の骨頂という文の表現や さらに>なぜ なくならないのでしょう?<という文の置き方は、

あまりにも 私たちの内実の実情に寄り添っていない不親切を越えて へたすれば またまた権力を容認してしまうような危険な思想と混同しかねない文となってもいると思うのですが どうなのでしょうか?

悪人どころか  大勢の人の常識や良識の中の正しい認識(「べき」という言葉時代が 動静幅広い、フレキシブルな使いかたであり、 そこにさらに中庸を自然にも 多くの人が探っています。)にすら 寄り添わずに なんでキリストの動的道徳の シンプルさと深さをしっかりと認識しえていると言えるのでしょうか?



そちらの キリスト者(単なるクリスチャンのように組織にいれば安心という姿勢ではなく、キリストの言葉の深みを理解した者、あるいはそこに謙虚な姿勢の者と受け取っていますが)としての姿勢にしても たしかに論理的なのですが  疑問を持ったのは、 前回消去された質問への回答で最後に書こうとしていた  「霊」についての解釈への疑問です。

「息吹」とか「霊」というのは、神秘主義者だけでなく おそらくパウロも使った言葉なのでしょう。

そしてそれが なんらかの教会の権威化とかの過程で 三位一体説とかになったのだと思うのですが、  

キリストの実際の眼差しや声に接していたパウロ達のその言葉と 後の教会の理屈(神学という哲学装った世界)の世界とを、 brageloneさんのような理論的な人でも何か混同されてしまっているのでは? と思ったのです。

宗教の作り出す 集団催眠的な力、あるいはその他の催眠性は、かなり強烈な幻想とか 錯覚とか言えるものを作り出します。  その強固さゆえに、bregeloneさんのような人でも さすがに“霊という言葉”を 《生命物質》とは別に存在する《何かの意識》と捕らえてしまったのかもしれませんね。

《生命物質》 こんなにすばらしい《贈り物》はないという 贈り物認識を信仰と思っていますが、  その信仰に気がついた時には、 もちろんまず知的に自他の命への深いとしか言い様のないリスペクトのふるさとような根源性に気がつくと思います。  また そこで一気にある 落ち着きや、明るさと もう崩れないような安定感も得たりするでしょう。  

そうすると、ここで感性もいきなり急に成長する人もいるはずです。

その何がしかがbregeloneさんにも その信仰が正しい形であったがゆえに訪れたのだと思います。

そこから見渡すと、 道徳って 固まったものじゃないでしょ。 という地点がそうでない人とは雲泥の差で見えてくるということも 充分考えられます。

しかし、 である地点にとどまって 信仰の無い人の心を知ろうとせずに そこに寄り添う努力をもしないというのであれば、 姿勢としては仏陀の姿勢と似た批判を自ら受けてもしまうところなのではないでしょうか?

おそらくですが、 そちらの信仰にはまだ、 幻想の部分(三位一体)という形の信仰が混ざっていて それがゆえに、いつまでも そのへんが唯一論理的なわかりやすさをともなえないでいるところなのだと思うのですが、どうでしょう。

そちらは、土台としては はっきりしっかりした信仰を持っていられるので、何も歯に衣をきせたような オブラートにつつんだような批判をするのではなくて、 すばっと言わせていただきました。  揺らぐことの無い地点を持ってる方は 強いはずです。   ふつうは、私は、こんなはっきりした批判とかはしません。  長所についてははっきり言いますけどね^^。


霊や息吹を、神から受けたという強い幻想を “《無思考》の信仰”とどこか ふと 混ぜてしまっていませんか?

そうすると せっかく 信仰で得た 人間の上下の無さ、平等性との間に
キリスト教会の作り出した選民性が 再び哲学の仮面をかぶって登場してそれを無にしてしまいかねない論理が生まれてきてしまうと思うのですが?

まさか brageloneさんは、キリスト者とは神から選ばれた特殊な人間とか思ってるわけではないですよね。  そうではなくて、その逆の信仰の世界に気がついたということですよね。

もしかしたら、そのへんが brageloneさんの論理の中で今一不明確なために つぎからつぎへと質問群が生まれるのかもしれませんが、 もしそうだとすれば、このままでは、 答えはいつまでたっても、うまれてこないかと思います。

ここで、再度はっきり質問します。

キリストの「霊」とか「息吹」というものを brageloneさんは どのように解釈していらっしゃるのでしょうか?



その点を明確にした上で、 ここはまず、ウィキペディアに掲げられた学生達におけるしつけの実例にそって、  どうすれば明確な 流動的な評価基準を指導できるようになってゆけるのかについて、 次の論議を進めてゆくという 舵取りを私の方からの回答としては 試みてみたいと思いました。

投稿日時 - 2009-01-11 12:03:42

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。どうなんでしょう。どこがかみ合わないかが やっと 分かったように感じているのですが それを 的確に 表現するのは むつかしい と思っていることを まづ お伝えします。
 一番の違いは 霊の認識です。
 ○ 《霊》は なぞの何ものかのことです。それが 何であるか 人間の言葉では ただしるしとしてだけ――神なら神という記号としてのみ――言い表わすことができるので やはり《分からない》という意味を込めて 《霊》と言っています。
 ○ 霊とは 人間には 分かるか分からないかが分からない何かです。基本的に 論理上は この相対世界においても想定されるべき《絶対》のことです。
 ○ その霊との関係として――つまり それは もはやあくまで 一人ひとりの主観としてしか 起こりませんが―― たとえば その霊を受け容れるであるとか その霊が この肉(つまり身体=精神)に宿るであるとか 表現するというものです。
 ○ 想定上 そのような言葉で表わしたい事態が 主観にとっては 起きているという意味です。文学的に《息吹き》と表わすこともあるわけです。
 ☆ ですから このような信仰の核としての事態は ほとんど 道徳や道徳規範とは 直接には 関係しません。霊なる神は 道徳でもなければ規範にもなり得ないものです。人間のつくったものでもなければ 人間が認識し得たものでもないわけです。

 次に 三位一体なる神について まったくの誤解があります。
 ○ 三位一体は 神についての説明として 持たれています。
 ○ いちばんの中核は 《ナザレのふつうの人間であるイエスが 神の独り子としてキリストと呼ばれるやはり神である》というドグマです。論証も実証も為し得ない想定です。
 ○ したがって 主観の内での《霊ないし息吹き》を言いかえた説明であるに過ぎませんから ★《教会の権威化》以前の問題ですし ★《幻想》でも《幻想の部分》でもなく ただの《想定》です。
 ○ むろん 論証し得たものではないと言っても ほかの人が 《幻想》かどうかを決めるのは 他者の良心の中に手をつっ込むことになるというものです。
 ○ 信教・良心の自由という前提の上での主観内面における自己表現であるに過ぎません。そのことを指摘するするのは 自由であり 普通のことです。《幻想》だと決めつけるのは 行き過ぎです。
 ○ 《霊》を見たとか体験したとか言う場合 もし 主観の問題であるという条件を超えて これを言い張るなら 行き過ぎです。
 ☆ 虚構の世界や 一部の社会的な現象(スピリチュアルとか)として 平気で 《霊を見た》と言っていますが これらは 文学表現の問題であり ただの金儲け(奴隷の自由を得たいという需要に応じたそれ)です。

 ★ 権力とのかかわり
 ☆ については bananasandさんのANo.10へのお応えの中で 《挑戦的な質問》のいきさつを説明しています。 

 ★ マーガンディヤー事件
 ☆ を取り上げると ブッディスム全体を貶しめているという意味合いで受け取られているご様子ですが マーガンディヤー事件を ブッディストやその擁護者は どう受けとめているのか 知りたいと言っているだけです。答えられないようなので だいたいの内実は分かりました。

 ★ 生命
 ☆ は 贈り物ですが 
 ★ それの贈り物認識
 ☆ は 《信仰》から得られる思いというところでしょう。信仰じたいではないでしょう。《なぞ》の部分を共通としているかも知れないでしょうが なぞの何ものか自体と 生命とは また 別です。

 あとは
 ☆ (No.17お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もし規範の内容が――愛なら愛という規範の内容が―― 奥深い内実を持っているとしたなら それは 自己の思惟によって当為として立てた観念内容や命題の内容を 当為なる行為ではないかたちで 実践し得たときです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 《規範として受けとめ そこから要請されて 規範だから少し背伸びしてでも わたしは 実践します》というかたちではないこと これが 大事だという意味です。これは まだ 有効な問いだと思います。規範のあるところ つまり規範意識があるところ この背伸びの行為があり それは 愚の骨頂であることをまぬかれていないという物言いです。
 和の規範の場合には 背伸びではなく 逆に お上には逆らえないという意識を呼び起こし 思考停止ないし 《ともかく従う》という条件反射に追い込まれます。

投稿日時 - 2009-01-11 16:13:34

ANo.19

#8
>>>道徳規範は何故なくならないか
>>道徳規範が無い場合、「自分さえ良ければ他人はどんなに不幸になってもよい」 / ということが正当化される、つまり強盗殺人okと言っているのに等しいため。
>まさか!あまりにも 決めつけた議論です。根拠として何が提出されているのか分かりません。
え??? 意味わからん。私はbrageloneさんの書いたことを字句どおりにとっています。字句どおり以外の意味を持つなら、それは、文章の書き方がオカシイということです。それを前提にします。
で、道徳規範が愚の骨頂ということと、道徳規範として出回っていることを無視しても差し支えないということですよね?
※それ以外のシチュエーションにおいて、「愚の骨頂」とまでの強い言い方をする用例を私はみたことがありません。

また、道徳規範が愚の骨頂という限り、たとえば「あいさつはすべき」というようなしょぼい(必ずしも全世界で普遍的とはいえない)ことだけでなく、
「強盗殺人は良くない」というような、社会生活にとって影響が大きい徳目についても愚の骨頂といえる何かがあるのですよね?
別に、強盗殺人でなくてもいいけど、具体的にそれは何ですか?
私には、何も思い浮かびません。そういった意味で、道徳は動態でなく生態であり、また、愚の骨頂などとんでもない。行動原理と言ってもいいくらい、道徳規範は確固たるものです。

以下、「道徳規範は愚の骨頂」と、「道徳規範を守る必要がない」が、事実上同義語である、というのを議論の前提とします。
※何で、こんな自明もいいところをわざわざ断りをいれないとアカンの?ほんと、疲れる....

技術者倫理
http://www.tokai.t.u-tokyo.ac.jp/~madarame/rinri_note.html
について。

>参照サイト(上記)は 規範の是非といった質問趣旨に合った議論が なかなか 出て来ません。
当然そんなことは出ません。
道徳を以下のカテゴリに分割します。そして、どのカテゴリの属することを述べているか。
1.法令で規定されているもの。たとえば、強盗殺人・個人情報開示・誹謗中傷。
2.どのように行動しても法令に触れないもの。かつ、個人が単独でどのような行動をとっても社会的影響の無いもの。たとえば、毎日の挨拶。
 ※毎日の挨拶を誰も行わなければ社会的影響は大きいかも。でも、それは個人単独とでは影響は無い。
3.法令に触れない(or抵触する程度)が社会的影響が大きいもの。たとえば内部告発。
内部告発について、たとえば、農薬入り食品など、大勢の方の健康に影響します。そして、それが顕在化するかどうかは、個人の行為にかかっています。
そして、内部告発しようがしまいが法津上の罪に問われることは無いです。むしろ、内部告発は会社をクビいなることを意味するから、
<個人の利益と社会の利益>という、典型的な二律背反です。ですから、
1.法令で規定されている程度に社会から受け入れられている事項は道徳規範として認知されており、異を唱える必要は無い。
2.どのように行動しても法令に触れないもの は、どう行動しても社会的影響が無いがゆえに、議論の対象外。
よって、3.の行動のみを対象としいています。3.の行動是非を決めるためには、
道徳規範は正しいという仮定は必須であるため、規範の是非といった話題は、ハナからありません。
徳目どうしが衝突する徳目どうしが衝突する
で、
「強盗殺人は非道徳である」というのには同意してもらえるとして、
にもかかわらず、「道徳規範は愚の骨頂」とは、どのようなレベルからそういえるのですか?
明記しない限り、「道徳規範全ては愚の骨頂」、すなわち、「強盗殺人は非道徳である」も愚の骨頂、すなわち、強盗殺人アリ」としか言いようがありません。
いくら何でも、ハムラビ法典や「劉邦の法3章」から連綿として誰も否定しないことをいくらbrageloneさんといえど否定しないでしょうから、
※否定するならそれでもいいけど、では、どのレベルから? 単に「道徳規範は愚の骨頂」では、その範囲が示されていない以上、反則です。
 で、brageloneさんの定義する道徳規範の中に強盗殺人も含まれているか。それが知りたいのです。そこが肝心要の点。逃げないでね。
※※私の議論は、道徳規範の中に強盗殺人も含まれているとしています。 理由:#1で、この件について反論していないため。
※※※道徳規範を、「法令の隙間を埋めるもの」とする流儀もあり、私は本質的にはそっち派です。ただし、そっちだと、法令=絶対であり、本議論にそぐわないので採用していないだけです。

で、私が否定する箇所は、論理の展開方法にあります。
ヰキぺディアの記事を引いて、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E5%BE%B3%E6%95%99%E8%82%B2
評価は流動的であり、それゆえに道徳規範が愚の骨頂である、という評価を下すのが議論の骨子ですよね。

とんでもないです。
評価が流動的であっても、ある範囲内で振れている場合であれば道徳規範が愚の骨頂であるといいえるか?
答はノー。単に道徳規範に幅があるだけであり、道徳規範が愚の骨頂というわけではない。

で、評価が流動的についてですが、
・徳目どうしが衝突する、と明言されているんだけど....
何でそれが、「道徳規範が愚の骨頂」となるの?
たとえば、例にあげられている
 ・ 身なりが整っていない児童生徒をいじめることはよくないが、身なりを整える習慣を身につけることも必要である。
ですが、
・身なりが整っていないのは悪である。
・悪いことは本人に伝えるべきである。
というのと、
・欠点を指摘するのは、その人に人格を傷つける。
・人格を傷つける行為は悪である。
という、典型的な二律背反。「徳目どうしが衝突する」とあるから、字句どおりに解釈すればこうなるでしょう。
道徳規範 が流動的だの、道徳規範が愚の骨頂だの、そんな解釈は普通じゃないだろ、ということです。
二律背反は、
「道徳規範について完全に合意できても、二律背反の場合は、行動が正反対になる場合がありうる。」
ということなので、二律背反を話題にする場合、道徳規範は静的で絶対的と考えても何ら差し支えありません。
それでも行動はまるで規定できないから、必然的にこういう結論となります。

で、件の技術者倫理のHPですが、
道徳として求めれられる行動規範はたったの2つです。
ですので、その2つの是非が、道徳規範が愚の骨頂かどうかの決め手となります。
で、その箇所は、HPにも書いてあるけど、
1つは、個人の尊重。
もう1つは、キリスト教でいう黄金律。「自分の望むことを人にせよ」あるいは「自分の望まないことを人にするな」
この2つは二律背反の要素があるので、道徳規範というのは、究極的には
個人の尊重と社会の尊重と、この2つの二律背反から成り立っています。

で、何?  #8より。
>二律背反は 単に論理的な問題です。思考過程としての道徳は とうぜん 人格の全体の問題として 徳目の矛盾に対処するでしょう。そんなことは 問題でもありません。
え~??そんなはずは。
二律背反が根源的な問題であるはず。
某大学HPにしろwikipediaにしろ、二律背反が根源的な問題という前提で書いてます。
少なくとも、そういう暗黙の前提で読んでも、何も矛盾は無いけど....
で、二律背反という根源的問題に対し、個々の事項の道徳の成否なぞ、どうでもいいとしか思えません。
※強盗殺人の是非のようなものは決着済ということを前提としています。で、#8の応答を読む限り、
brageloneさん自身、強盗殺人の是非までを問題にしているようには思えないけど....

で、私の道徳規範について見解を以下にまとめます。この部分が議論の中核です。
細かいことはどうでもいいです。中核に対し反論してください。

1.道徳規範は愚の骨頂ではない。道徳規範は有効。
2.道徳規範で重要なのは以下の2点。この2点は普遍的とする。
  ・個人(自分自身)の尊重。
  ・他者の尊重。
3. 一般道徳は、2.のバランス(=二律背反)の上に成立している。
4.したがって、時代や地域により、2.の範囲内で個々の道徳は変わりうる。

で、上記2.に対し「違う」というの?言わないの? 
上記のような考えでも、某大学HPやWikipediaの記述には全く矛盾は生じません。でも、brageloneさんは、#8でこう言い切っています。
>二律背反は 単に論理的な問題です。思考過程としての道徳は とうぜん 人格の全体の問題として 徳目の矛盾に対処するでしょう。そんなことは 問題でもありません。
私の意見、某大学HPやWikipediaの記述は違うのですよ。
道徳規範の差異が生じる主因は二律背反であり、他は無視して差し支えない程度なんです。
ですから、二律背反のときどう対処するかを考えることと、道徳規範を考えることはイコールです。
それとも、個人の尊重、他者の尊重のいずれかが誤りなんでしょうか。そんなことないと思うが。
brageloneさんが、どんな意見であろうがそれは自由です。
でも、それと真っ向から対立するWikipediaの記述を、自分の意見の
補強材料とする。それは反則と違います?

投稿日時 - 2009-01-10 18:28:45

補足

 masa2211さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。歴史物語から入ります。
 その昔 奈良のミワ系の皇子イチノヘのオシハ(押し歯)が カワチ系の皇子オホハツセワカタケによって 狩りの野で 暗殺された。その子オホケとヲケの兄弟は その現場から 命からがら逃げた。
 のち ワカタケの死んだあと オシハの側が 二人の皇子を探し見つけた。ワカタケの血統は絶えて これら兄弟が おほきみの位に就く。
 順序は 弟ヲケが先だったが かれらは 暗殺の現場だった野原に行って ちょうど その地の住人が ワカタケらによって 父オシハの遺体が埋葬されるところを見ていたことが分かり そこで 掘って 遺体を確認したという。八重歯(押し歯)で 特定できたという。
 そのあと ヲケは 父親のかたきのワカタケに報復をせねばならぬと考える。ただし その恨みも深かったが すでにワカタケは死んでいる。ヲケは そのみささぎ(陵墓)を 壊せと命じた。その役目を 兄のオホケが やらせてくれと言って 引き受けた。
 オホケは 行って 墓の一部分の土を掘り崩して 帰って来た。弟のヲケには そのような部分的な恥づかしめをもって 仇に報いたのだと説明した。ヲケも これを了解した。

 このとき 《目には目を 歯には歯を》も そして 逆に 《敵を愛せ》も 言ってみれば 道徳規範です。(法律問題は いま 別としていますから)。
 わたしのこの質問での趣旨は これら二つの規範にしても それぞれ その字句どおりに鵜呑みにして行動しても それは 人間として あまりにも機械的であって おかしいでしょう。あるいは もしこれらの規範が 人びとの間に受け容れられていて それによって 社会的な秩序が 曲りなりにでも 維持されているという情況があるのであれば その規範をまったく無視してしまうというのも 問題が生じるでしょう。 
 したがって いえ そう言うよりも そもそもの初めに 人は 規範には こだわらずに 自分の考えで この場合の報復なら報復について 判断するであろうし そこから自分なりの行動を選ぶであろう。こう考えるわけです。
 
 考えてもみてください。《目には目を》 だから おれは 復讐するのだとか あるいは 《汝の敵を愛せ》 だから わたしは 自己犠牲をもいとわず 命を差し出しますとか どちらも そのように規範に縛られるのは おかしいでしょう。《左のほほをも向けよ》と書いてあるではないか おれが ぶったら そう出来るか?と言うのも おかしな理屈であるでしょう。《書いてあるから そうであり そう成る》などという考えは 愚の骨頂ではないですか?
 われらが祖先は 自分で 考えたわけです。動的な思考過程としての道徳を 実践したわけです。そうじゃないでしょうか?

 一方で 個人の尊重として 仇を打ちたい / 恨みを晴らしたい があり
 他方で 社会(他者という個人)の尊重として 生命の尊厳 / 共生 があります。
 あるいは オホケ兄弟にとって 一方で 個人の思いとして ワカタケは 父の仇である。他方で 社会的に われらが従父(をぢ)であり おほきみの職をも務めた人間である。
 一方で もし仮りに――この点は あまり 触れたくないのですが―― 因果応報という思潮が 社会的に 優勢であるとすれば 復讐を何らかのかたちで果たさないと 人心に不安が生じる。他方で 報復と言えども 殺すなかれという規範に反する。

 このようなこちら立てればあちら立たずの情況にあって オホケ・ヲケ兄弟は 自身の判断によって みづからの考える道徳を 実践したのだと言えるでしょう。道徳規範は たしかに そのような実践道徳の中から 一般化し抽象概念によって理論づけたものでもあるでしょうから 大事だと言えば大事ですが それを無条件に頭に頂いて 無条件にその文句に反応するのは やはり 愚の骨頂でしょう? それとも どういう良いところがあるでしょう?
 あらためて お尋ねしたいと思うのですが。

 * つまり 規範があるとするなら それを 守るべき規範の地位から 一たんとしてでも わたしたちの目の位置にまで 降ろして来て その規範の内容について 自分たちで考え捉え直していくといいのではないでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-10 20:48:27

ANo.18

No17から続けます。

すみません。 やはり、急ぎすぎの回答だったようです。

通常 私は質問文は徹底してよく読んでから回答を書き始めるようにしています。  それでもなお、 読み落としすらあり、 もちろん、その質問文自体の裏のその人の人生など、読めてなんかいないからです。 慎重にならざるを得ないはずだと思っているわけです。

しかし、 この質問文の場合は それの質問意図の深さを読めなかったというよりも、 何故なのか?自分でも不思議なぐらいよく読まないうちに回答を始めてしまっていました。

肝心のその文自体は後回しで、先に回答者のみなさんの文をざっと読み 突然書き始めてしまった感じでした。   失礼いたしました。



道徳規範の規範という言葉も、「べき」という言葉も、 含まれている意味合いは ピンからキリまで、 レベルの低い認識で解釈したものから 高度な深い意味合いで認識されたものまで、 さまざまであり、 これは

確かに“言葉の使い方の難しさ”をも意味するところなのでしょうが、

ご質問文をよく読んでいれば、 《“考えが固定されてしまった「べき」として受け取られた段階の個人の当為としての、動的でない(その場によって違ってくることを理解していない)取り決めとしての 道徳規範”は愚の骨頂である》という意味合いであることは、 すでに明白なところであったわけです。

具体的に言えば URLに掲げられた例にても、 ここは助けちゃいけない甘えさせちゃいけないんだ。 自分で考え、傷ついてでも自分で起き上がることを学ぶべきところだ。 と明らかに思える時ですら、 

助けなさいと 先生(> 一定の地位にある公的人物<)が言ったから、あるいは その宗教の教義に書かれてるから なんであれ助けるのが正しいという、そんな内的強制をともなう規範は 愚の骨頂ではないか?

ということなのですよね。

実際に 強制力(公的罰)をともなう法律は、けっこう深い理解から生まれている(弱い者の立場の重視、個人の尊厳性の理解、あるいは互いに矛盾する規範の場合におけるバランス、とかの理解の上に、 さすが罰をともないそのコンセンサスを前提ともしているだけ、よく考えられていて、そこには長い間の重みもある。)けれども、

ほんとうは、外からの強制力をともなわない、内的規定こそ、さらなる中道あるいは中庸のより深い理解が必要なものであるのに、   そこを間逆(その状況等の理解とは間逆)にも規定してしまう>規範<は、 まさに>愚の骨頂<なのではないか? 

なんで?、 この時代にても その大切な点の大切さに関する疑問の声が何故あがらないのか?
という 誠実で強烈な内的叫びからの 質問となっていると思いました。

☆その観点から 宗教をながめると、 大の大人が なんとそんな地点の>規範<に閉じ込められているすがたが見えてくるではないか。 そんなの 信仰と言えるのか?  信仰の名をかたる、考える行為の自殺なのでは?  

という疑問も ここには絡んでいるのですが…? 

といった意味合いの質問文ですよね。



これでは、別な観点からの見方もありますよ。とう回答では それはそうであっても 回答として不十分すぎますよね。



先へ論議を進める前に、 まず わたしが 急ぎ書いてしまった(1)キリストの言葉のあたりと、 (2)仏陀のことについて コメントをいただきました点に筆を伸ばしておきます。

>宗教<への疑問という内容もともなう質問だと思いますので、 この論議自体 回答の内と言えるかもしれませんが…。

(1)「私は 律法を否定するために来たのではない。 完成するために来たのだ」と言われるキリストの言葉の中での 律法は、もちろんその言葉(「律法」という言葉)自体が、 動的な道徳の事を言っているのは当然と私も思っています。   >規範<に閉じ込められた道徳や律法のことなど最初から眼中には無い感じの言葉として、 明らかにそう解釈できる言葉だと思っています。

そうでないと、全体の“キリストの言葉”に整合性も生まれませんし、これは ちゃんと考えれば誰もがそのように理解できるところと判断出きるかと思います。

(2)私の中には、 悟りきって戻ってこれなくなった人は この世にいらない(オシャカ様にすぎない^^)という前提がありますが、 マーガンディアのは話がもし実話であれば、 そしてそれが仏陀が悟った後のことであるというならなおさら、  仏陀自体はオシャカとして考えるべきだという前提にもなるところです。

仏教に対しては その上での悟って無い人達の 努力(幻の仏旅)のほうから学ぼうとするという立場ですし、 そこにしか《多元性》という観点からの仏教への《よりそい》の道徳意義は感じません。

ただ単なる ブッディスト規範での 仏界への謙虚さとか仏教への謙虚さを大事にしているのではありません。  たぶん 結論はbrageloneさんにしても同じだと思います。



これに反論とかがあれば 別ですが、 同感であるならば、上記(1)と(2)については、ここまでとさせていただきたいところです。



私の急ぎにての回答の方でも、別意図でこちらから取り上げてしまった問題、

》★ すべての宗教の和解という大きな課題《

については、 ここでのもともとのそちらの質問文とも直接に対応する問題と思われます。 重要な論議の地点であることは理解しているつもりです。

しかし、 これも 後回しの論議課題とさせていただきたいと思います。

もう大の大人であるにもかかわらず、《>規範<に閉じ込められている》姿を 大勢の人が子供でもあるかのように露呈している姿は、 一度その怪奇さ?に気がついた人にとって、  なんとも、簡単には言い表しようがなく 考えがたい感じの問題となってしまいます。

どんなに理性的に批判しても 泣いて怒ってみても、 物語で理解をうながそうとしても、 何かの実践にて体験を通じて事を解かって欲しいと実行してみても、  目的である理解を深める地点には 出てこれないかのように思えてしまう事態と認識しています。

ですので、 ともあれ、 最後の論議として 心にとどめつつも、 回答の筆を 待っていていただきたいのです。

(これも 反論があれば、必ずしもその限りではありません。 規範としてそう思っているわけでは、ないからです^^。)

☆ しかし、そちらの その点についてのコメントの前半部分については、後回しの問題とさせていただきたいということなのですが、その後半部、

その後半部分の、 “深い内実があれば、 >道徳規範<には縛られない、その状況に応じた意義の深い実践性が生まれるはず” という論理については、 ただ賛同するだけでなく、

そこをこそ 私の方からも より具体的な、>一つひとつの主題や現実の課題に対して 何が 必要で 有効であるか この視点を重視するという わたしの側からの 物言いです。<と言われるそちらのコメント意図に添った形の回答にしていきたいと 思っています。

今回は その予告偏回答とさせていただきました。



なお、>慈悲は 経験現実か。< という部分のコメント文について、少し説明していただけますか。

愛は経験現実か。 という命題とは別ですか?

「経験現実」とは、というあたりの言葉の定義のあたりが 今一掴めていないからです。

かってな私の解釈から言えば 「当然、愛も慈悲も経験現実だ。」ということになるのですが。 それは、もちろん「慈悲とは」のそちらの質問の時に私が回答した内容は前提とした上でのことです。

これも ここでも 論議の対象となりそうですか?

投稿日時 - 2009-01-09 20:51:26

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。少し氷が解けたのではないでしょうか。全部と言いたいところですが 疑問も 残ります。

 ★ すべての宗教の和解という大きな課題
 ☆ これを 保留ということで あとは そのとき 道徳規範あるいは 規範としての教義の問題にからめて 《道徳規範は 愚の骨頂》とは別の見方が成り立つかどうか に焦点が当てられます。
 しかも この質問趣旨としては 別の見方は 成り立たないと仮説しています。むろん どなたかのお応えとして書いたことを覚えているのですが 成り立つという歴史的な事実や 理論が あったなら おしえて欲しいという問い求めになっています。

 ★ 慈悲は 経験現実か。 愛は経験現実か。
 ☆ これは 字義どおりの問いです。すでに
 ★ 「当然、愛も慈悲も経験現実だ。」ということになるのですが
 ☆ とお答えいただいても います。ここでは 《当為》とからむこととなったと思って あらためて 持ち出したのですが たいした質問ではないと考えなおしました。
 つまり 主観としては できる という答えが返ってくるでしょうから あまり 対話にならないようだと あとで 反省しました。

 課題は 保留の件と あと マーガンディヤー問題ですね。
 後者は 
 ★ 悟りきって戻ってこれなくなった人は この世にいらない(オシャカ様にすぎない^^)という前提
 ☆ がよく分からないのですが 焦点は 単純です。成道のあと つまり 法を説き始めたあとのブッダが この女性に対しては ほかの人びとに対する接し方・法の説き方とは違って ついに 最後まで 説得し得なかったという問題です。たとえ実話ではなく 虚構であったとしても そういう物語として 伝えられてきたその意図は 何かと問うことができます。
 のちに 王の第三夫人となったマーガンディヤーは 第二夫人で ブッダの弟子となった女性を憎んで その館に火を放ち 女官何人かとともに 焼死させた。ブッダから マーガンディヤーは 道徳という見地から見て すでに 死んでいると酷評されたわけですが それでいいのだろうかという素朴な疑問が残ります。それだけです。
 ブッダが どういうことを言ったかではなく 事実が 上のようだったという点に 説明が求められるという意味です。もし かのじょにブッダがかけた言葉こそが 深い意味あいを持つというご見解でしたら その意味あいを 上の不幸な事実の解き明かしを交えて 説明しなければならないと思われます。

 次のご回答において arayata333さんは 多くの場合に 予告編だけであることがあると言われないようにと 当事者であるわたしが いま 言っても まちがった言挙げではないように思い始めています。と 心より お伝えいたします。

投稿日時 - 2009-01-09 21:39:09

ANo.17

No13です。 ある実践へ向けて急ぐ気持ちはあると言っても、 ここでの対話をすぐに切り上げるという形ではありません。

他の質問様への回答にしても、答え等が中途半端なまま完結していないものも現時点でいくつかありますし、 すくなくともそれは書き終わってからのこととなります。

その実践というのは、 もちろん私の中にて、そうす「べき」実践です。

その「べき」の中には、 身近なせっぱつまった状況(毎月の自転車操業の額が大きくなりつつあるのをなんとかしなければという経済状況とかもあったりします。)もからんでいますが、 ブログ等で 正しいコミュニティーを訴え、かつ創造して行くという過程とともにある実践です。

目的は 経済も含んだ 平和と繁栄(抽象的ですが、これを長く具体的に書いたら、何十冊もの本になってしまいますので^^)のためです。

そしてそれを急ぐ気持ちになるのは、 もちろん、目の前にても経済格差で苦しんでいる人たちを見ていますし、 今では世界中のさまざまの苦しんでいる人のニュースを私たちは知っているからです。

一人では 何もできない あるいは力は微々たるもの。 しかし もし深いコミュニィティーがそこにあるならば…、と考えると、動かないではいられない表現者としての自分が見えてくるわけです。

Okウェブでの 回答や質問は、私にとって大勢の哲学する人どうしのコンセンサスはどのようにして得られるのか?ということの探究の意味合いもありました。

それは、まだまだとても終わったと言いえるものとはなっていません。

《多元性》という言葉は 高校生の時に聞いた言葉であるわけですが、 今では、それもそのコンセンサスのための理論の一環として考えているところのものです。

一つには、妥協とかいう中途半端なすぐ崩れかねない地点ではない、すべての宗教の和解という大きな課題も 私という表現者の課題の中にはありました。

しかし、この論議は この「Q&A」形式の質疑の中では時間がかかりすぎる課題として あまり力を入れて取組んではいなかったものです。

でも、そのためにも、 この道徳をめぐる問題は、実はとても重要な地点にあるとも思っている問題でした。

キリスト教ではこうだ。 仏教ではこうだ。 という形での論議から論じてゆくと、なにが「べき」なのかは、複雑すぎる怪奇とすらいえるような議論となりかねません。  さきに「べき」とは、というあたりを明確にしてから そのお話にも進むという方向が必要と つくづく思いました。

ならば、 実践へと急ぐ心はそのままにも、 この問題だけは、きちっと最後に brageloneさんという知的で反骨精神のたくましい方の質問文での質疑の中にて、コンセンサスを確立しておくべきかとも思いなおしました。

今 昼休みで急いで書いてましたが、 すでに少し時間オーバー、 これにて一度 とぎりますが、  そういうことですので、 よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2009-01-09 13:11:34

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。今回のご投稿をいただいた段階でも 前回No.13でのご返答が 有効だと思います。

 お応えを欠いていたと思えるのは
 ★ 《べき》論
 ☆ でしょうか。さっそくですが わたしの場合には 自己表現ということにかんして 当為と作為と自然発出(自然な自己表現)とのあいだに あまり 区別をつけないというのが 一応の方針です。
 その心は 当為であろうと 自己の意志によっておこなう作為ですし 自然表出であっても その結果について 答責性を持つわけですから 作為としてのおこないになります。という意味です。

 当為というのは むろん 主観の内では 重い意義があります。それ以外には考えられないというほどの重要性が 主観において 与えられることになります。そういう意思決定をほどこした思惟であり行為です。――しかも この世界にあっては すべてが 相対性の・それこそ規範(法則)に従うという基礎に立っています。
 ですから 特別に 《しかるべき》と《ただ このように ある》とを わたしは それほど 区別しているわけではないのです。

 ですから ここで ひとつ言えると思えることは
 ○ 当為を重要視するか否か
 ☆ といった議論が 先に来るのではなく そうではなく 一つひとつの主題や現実の課題に対して 何が 必要で 有効であるか この視点を重視するという わたしの側からの 物言いです。

 ★ すべての宗教の和解という大きな課題
 ☆ これは 上に述べた課題に直面して 何を 理論するか 何を 政策とするか の問題であるように見えますが そう見えるようですが どうも これまでのご回答内容を総合して考えるには そうではないようにも見えます
 けっきょく 感性および幸福の哲学のもとに ひとは 互いに 愛すべきであり 多元であるたとえば諸宗教は 互いに 和解すべきであるという初めの結論から 出て来ていると思われます。やはり 当為論が 先にあり これが 掲げられ すべては そこから 帰結されているように映ります。(先走って 印象批評をしているわけです)。
 つまりは もしそうであるとすれば――初めに当為論ありき であるとすれば―― それは 取りも直さず いまの《規範》の問題とからみあっているというように感じます。

 もし規範の内容が――愛なら愛という規範の内容が―― 奥深い内実を持っているとしたなら それは 自己の思惟によって当為として立てた観念内容や命題の内容を 当為なる行為ではないかたちで 実践し得たときです。つまり 奥深いなら奥深いほど それは 当為としての行ないであっては だめなのです。自己の特別のはからいによって為したものであり その場合にこそ為し得たことであるからです。
 要するに ふつうに 日常生活の一環として ふるまう行為の中で 奥深い意義ある規範内容を実践し実現したというのでなければ ただのいわゆるパーフォーマンスであるに過ぎないことになります。
 慈悲は 経験現実か。なのです。

 先取りしたような話になっていますので ここまでとしたいと思います。

投稿日時 - 2009-01-09 15:03:34

ANo.16

こんばんは、brageloneさん。

むっちゃ、おもしろい。
何が?
wiz0621さんの間のとりかた。
うーん、何だろう?と
しばし――― 行間を読む ―――
(^O^)/はい、読みました-☆
何と読んだか?
コレはですね、ぴょん ぴょん ぴょん 石飛び? うんにゃ ちゃう
「石飛び伝い」
http://mahoroba.shashin-haiku.jp/e13442.html
赤塚富士夫さんよろしく
柳の枝に猫がいる だから ねこやなぎ.
これでいいのだ~ これでいいのだ~ ボンボンバカボンバカボンボン
吟じます!
これでいいのだ~ これでいいのだ~ 
ネコや~なぁ~ぎぃ~
ぎぃ~とくりゃ、「義を見てせざるは勇なきなり」
(*^-^)b いけると思います。とおりゃんせ~♪


ところで、今週の[このカテゴリで人気のQ&A]1.『悪は 存在しない』をクリックしても表示しない。ってことは…『悪は 存在しない』ってと???変くない?たとえば、会計報告書であまりにきれいに000000が並ぶと逆に[ ? ]と。凸凹な数字が並んだ方が実態に近しいように思うんだけど[000000]←コレは何ですか?と、突っ込みいれたくなる。ケスクセ?消すなってば!!!メリット・デメリット両論併記あるほうがいいんじゃないの?『悪は 存在しない』の質問をもとにもどしてよ。消すなってば!!!教えて!gooの真骨頂は、“君子豹変する”君子は過ちを直(ただ)ちに改める。君子は時代に応じて自己を変革する。

【QNo.3463663 ポイントカードシステムのメリット・デメリット】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3463663.html

【データフローダイアグラムの書き方】
http://www.dab.hi-ho.ne.jp/sasa/hyoryuki/dfd/

【仮想メモリの設定】
http://www003.upp.so-net.ne.jp/shigeri/speedup/speedup2.html

【蘇生の話】
http://www.osoushiki-plaza.com/anoyo/takai/takai2.html


おっと、話を『雷見舞』にもどしてっと、
http://hansichi.hp.infoseek.co.jp/contents/miuras10.html
http://hansichi.hp.infoseek.co.jp/contents/miura.html

「はゝあ、それは不思議な御縁でしたね。むかしから雨宿りなぞというものは色々の縁をひくものですよ。人情本なんぞにもよくそんな筋があるじゃありませんか。」

虚構 仮構 仮想 現実 …バーチャルリアリティー

岡本綺堂-三浦老人昔話
三浦老人が語る話は本当にあった話だろうか?
何の疑いもなく聞き手は話に聞き入る、そして…


『こぶたぬきつねこ』
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND51718/index.html

投稿日時 - 2009-01-09 04:25:55

お礼

 littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 自分の頭の上を素通りして ほかの人が褒められていると 嫉妬するものですね。と言いますか 飛び石が どうして むっちゃ おもしろいのか そのへんの感覚が 分からないということのようです。批判ではなく 感覚が ぴんと来ていません。
 明日香の飛び石は 写真だけでも きれいですね。心休まる風景ですね。
 天才バガボンも 作品を見たことがないですし そのへんのことが影響しているのですかね。

 そう言えば 昔 削除された質問が 復活したことがありましたね。わたしのもので 一挙に 二件 ありました。そう言えば そのとき 何の説明もなかったでした。

 ★ 【蘇生の話】 
 ☆ が おもしろかった。むっちゃ おもしろい。何が? 死の判定としての科学的な規範を超えるところ。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 岡本綺堂-三浦老人昔話
 三浦老人が語る話は本当にあった話だろうか?
 何の疑いもなく聞き手は話に聞き入る、そして…
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《そして・・・》どうなった? 
 考えてみれば 規範は 人間のうそである。小説のうそよりも うそっぽい。むしろ 規範は 死んでいる。生きた日常生活の抜け殻として君臨しているのではないか?
 

 でも 道徳規範が 大事だと思うひとも いるようなんですね。これでいいのら。とは 思わない頑固者として まだ 質問を開いています。

投稿日時 - 2009-01-09 10:29:45

ANo.15

おそらく質問者さんの結論と、私の個に対する認識は
近しいものがあると思います。つまり、世界には多様な状況が
存在する以上、多様な考えがあってしかるべきでしょう。
ただし、思想の強制を行わないという、その考えを実行する場合
自分の常識とは異なる、世界の側の「常識」を知らないことは、
重大な問題となるのです。







wikiの例示に「社会科見学で臭いと言わない」というのがありますが
一方で私は「ゴミ処理場や臭いのある工場見学では臭いと言わなければならない」
と考えています。実のところこれが私の目指す道徳であるのです。
というわけで、常にアホの子を体現する私は、社会科見学のときに



「なんでこんなに臭いんですか!」と質問しました。そう、神聖なアホの信念を持って!



工場長さんは苦笑しつつも理由を教えてくれましたが、
翌日当然のごとく教師に呼び出され、ありがたい鉄拳制裁と共に
冬場にリノリウム張りの廊下に正座させられ、何故かその日の
国語の授業に出た漢字書き取り数ページの罰則を受けました。

(殴られるのも正座も人間は普通に慣れるものですが、このアホの存在すべてを
否定するような"漢字の書き取り"が私にとって人の尊厳を奪う、
全き拷問であった・・・・のは、今回全く関係がないので置いておきます。)






このアホの子がやらかしたのは、つまるところ真理を追究するあまり
最低限度の礼儀すら弁えていなかったところです。
相手が不快に感じるという可能性を考慮していませんでした。



現状において、相手が最も不快に感じる可能性が高い行動。
それは道徳(上記の場合は礼節という道徳です)から外れた行動でしょう。
繰り返しですが、個々の基準の存在を認めるということは
相手の基準を知る必要があるのです。そして、社会が用意する
規範=道徳は言い換えるならば「社会生活の上で、この範囲ならば
噛み付いてもいいよ」という距離の指標なのです。



道徳の批判者であっても、さらにその批判者であっても、
その最後のラインを踏み越えることは、すでに個々の基準を軽視しているという
矛盾に陥ります。つまり、どちらの側の人間も、道徳(社会思想)を
知っておくことが不可欠であると考えます。





もちろん、お互いが真理を追究している場合、つまり相手の領域に
踏み込んでもいいよと認めている場合はこの限りではありません。
この場合ならば、どんどん
「こいつはくせえッー! ゲロ以下のにおいがプンプンするぜッーーーーッ!!」
と言ってもかまわないと思います。







相手に迎合する必要も、相手に強制する必要もありません。
社会で小利口に生きることを重視する必要もありません。
(もちろん重視しても良いですが)
結論として、最も重要な事は相手の思想を知り、
その上で生きる"距離感"をつかむことなのです。









こういった「パースペクティブ主義」を主張した"狂人"が
過去に居たような居なかったような。

投稿日時 - 2009-01-08 23:40:34

補足

 wiz0621さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。道徳ないし道徳規範は
 ★ 「世界の基準」
 ☆ を示すものだから これを知らなければいけない。自分は 別様の考えを持っていても 一向に 構わない。しかしながら この《基準》は いわばパスポートのようなものだから わきまえていて つねに 提示することも出来るようにしておく。
 その考え方は 
 ★ 「パースペクティブ主義」
 ☆ と言える。
 つまりは 重ねて確認しておくならば
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ただし、思想の強制を行わないという、その考えを実行する場合
 自分の常識とは異なる、世界の側の「常識」を知らないことは、
 重大な問題となるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ そうですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「ゴミ処理場や臭いのある工場見学では臭いと言わなければならない」 / と考えています。実のところこれが私の目指す道徳であるのです。
というわけで、常にアホの子を体現する私は、社会科見学のときに // 「なんでこんなに臭いんですか!」と質問しました。そう、神聖なアホの信念を持って!
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここで べらぼう話をしてもいいでしょうか。
 わたしの場合ですが ひととの距離感は わたしは 抜群のものがあったのです。しかも 感覚をとおしてです。《神聖》も《アホ》も何もなく 《信念》など ゼロでした。自意識すら どこかに行ってしまっている状態すら 多かったかも知れません。小学生のときのことです。
 ただ 感覚として ひととの距離関係を測る そのことによって すいすいと 学校社会を泳いでいました。ただし そのこと自体が やがて 煙たがられることになりましたが。
 つまり まだ要領を得ない説明のままですが そのようなわたしは 《パースペクティブ主義》を通り越していたのだと思います。言いかえると 感覚をとおして――そして 少し 色をつければ 以心伝心のように―― 《くさい》なら《臭い》という反応や思いを まわりの生徒や 工場の人びとに対して 訴えていたことでしょう。実際には そういう社会科見学を体験していないのですが おそらく そういう事態になったのだと思います。

 言ってみれば 距離感や基準のことを 嗅ぎ取っているのです。そして 主義や自分にとっての規範は ないのです。このように思惟をするようになっている現在のわたしも 規範から自由でいて 主義主張は ないとも言えるし 逆に 良いものは あらゆる思想から嗅ぎ取り かつ 理解して 自分のものとしている。というような状態です。いわば能天気なる利口です。《パースペクティブ》は 無です。少しは恰好をつけるなら 流動的なパースペクティブを持っているかも知れません。つねに その枠や中身をも 突き抜けて行きますけれど。

 どうですかねぇ。能天気の利口は このような主題で質問をするということは 日本社会を相手として その距離感をつかんでいない脳足りんになるでしょうか。まぁ 実際には 計算済みゆえに そうしているのですが。

 たぶん 煮詰めていえば こういうことじゃないですか。つまり 工場見学を例にとるなら たまらないほど臭いときには 相手の工場側の人たちが 見学するわたしたちの側から 《くさい》と反応する言葉を言ってもいいと思うように またさらに 言って欲しいとまで思うように その人たちの心と対話をする。だと思います。どうでしょう。

投稿日時 - 2009-01-09 00:43:53

ANo.14

遅ればせながら

“ あけまして おめでとう ございます ” brageloneさん。

m( _ _ )m


年明け早々から“がっかり…”とか

ドンマイ ドンマイ

次いこう次

(*^^*)v イェーイ!

どっからでも つづけられるさ

線路は続くよどこまでも

野をこえ 山こえ 谷こえて

『スイッチガール!! 7』
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%83%83%E3%83%81%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%AB-7-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/4088463544

『スイッチガール!! 6』
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_b?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%83X%83C%83b%83%60%83K%81%5B%83%8B%21%21+6+%286%29&x=11&y=26

どかっと、本の山 手渡され 「これおもしろいよ」と 1巻~7巻まで固め読み。読み終えて、『愚の骨頂』の質問眺め見れば…。「あっ!?」6巻目の終りの方でポイント云々の話がでてくる。本の中のとある学校では入学した時点から一人一人にポイントがつくカードが支給される。学業成績、学校生活の中でポイントは積み上げられるとか。このポイント、生徒同士の間で合意があれば交換可能。そして、学年末にこのポイントが一定値に届かないと留年になるとか。ポイントの高い順に希望の学部へ進学できるからとポイントをめぐってのカツアゲやらポイントの現金売り買いが日常化。それがあたりまえと囲った社会の中じゃ、無償の行為は存在しない。

その話を聞いた主人公の仁香が発した言葉

「…それじゃあ…自分の利益になることしかしなくなっちゃう…」

ほじゃ、ほじゃ 

さきほど、「あっ!?」と思ったのは…

この仁香の言葉を思い出したのでございます。



自分の利益になることしかしなくなっちゃ←コレぞ『愚の骨頂』だべさー



“がっかり…”なんて言ってないでつぎつぎ話しすすめよ。

投稿日時 - 2009-01-08 22:57:05

お礼

 ボンナネ! ユヌ トレ ジョワイユーズ エ ウールーズ アネ! littlekissさん。ご回答をありがとうございます。
 励ましてももらって 恩に着ます。(問い合わせたら 質問者が 余計なことを書きこみ過ぎだとか。こちらは 回答者のみなさんと 共通の前提に立つために その説明をしているわけですが しゃべりすぎであるようです。まっ 野生児でいきましょう)。

 ★ 自分の利益になることしかしなくなっちゃう←コレぞ『愚の骨頂』だべさー
 ☆ なるほど。つまり 規範は 公的なものとして 誰もが従うべき規範というかたちで あたかも アドバルーンのごとく ちらつかせられたら ひとは ひとによっては その規範をも 自己の利益を得るための手段とする てえーことか? 逆手に取る ってやつだ! 
 そうとでもしなければ やってらんない ということかも知れないなぁ。
 愚の骨頂には 愚の骨頂で 対抗するという手があった。
 
 まぁ しかし それは 線路を外れているけれどもね。
 それで 仁香ちゃんは どうしたのですか? どうなったのですか?
 (*^^*)v イェーイ!

投稿日時 - 2009-01-08 23:17:09

ANo.13

私のほうからは、 別な見解(別な方向からの見方)もあるという点だけ 書いておきます。

論議自体の時間は、あまり無いからです。



「道徳規範が 愚の骨頂」 とは言えないという見方です。

道徳規範の理解や解釈の浅さ 抽象性、あるいは網の目の荒さが、 愚の骨頂なる硬い(あるいは非動的)道徳堅持を生む  という考え方もあるという地点です。

例えば 最高徳と言われている「愛」や「慈悲」にしても、 その意味合いの深さを知らない人にとっては、 たんなる規範でしかなかったり、 極端な話が硬い解釈どころかその規範を利用して自分をよく見せる権力欲であったり、まさに最高徳でさへその時 愚の骨頂になりえるということです。

しかし、この最高徳というのは 考えれば考えるほど、哲学すればするほど奥が深いです。 そして それはそうするほどに 生き生きしたさまざまな価値を生み出し始めます。

そこを逆に そうであるからこそ、そのぐの骨頂に気おつけようという、ここでの井戸端会議をなんら否定するものではなくて、 偽善への“知のその闘い”を 私はここでも応援したい気持ちになります。

ただ、一つ一つの道徳なり道徳規範なりに あるいは「べき」にそれぞれ奥があり 深みがあるという見解もあり、  一概に 道徳規範を愚の骨頂としない考えを 簡単に避けたりしないようにする「べき」ところかなと思いました。

また キリストをあえて持ち出してしまいますが、 キリストは「私は律法を否定するために来たのでは無い、 完成するために来たのだ」といった意味合いの言葉を言われているはずです。  文自体は正確には覚えていませんが、そのへんの深さを考えさせられ 憶えているところです。

たしかに、 キリストが言われてることは奥が深いのです。 というよりそのシンプルな言葉は あまりにも端的です。  私は何もキリストを絶対視するというわけではないんです。 そんな意味で それを心のカテドラルの中心の柱の根元(ねもと)と表現するのではないんです。   実際に、 謙虚になるべき どこまでいっても謙虚であるべき そういう言葉を語られているからです。それだけのことなんです。

同様に カテドラルという形の知的図形にてそれを語るから 当然中心の柱が、一神教のあるいは存在が与えられている存在だということの感得の柱となるのは当たり前で それを最初にして語りきったキリストへの謙虚さを語るのも当然なのですが、 その図のにおける脇の梁の一つとしての仏教にしても 同じ殿堂を構成するということであり、  どっちがレベルが上とか下とかいうことでは無いということであり、 同じく仏陀への謙虚さの必要も私は、 ごく普通の語りたいだけなんです。

これが二段ロケット論法ということなのかもしれませんが、 私のその図自体はあくまで《多元的なカテドラル》の図であり、 そこから私の表現は生まれています。

たとえば、 仏陀というかたが、 当時のあの例の美女を 糞尿の詰まった体にすぎない と表現したことも 、  実はいろいろな解釈は可能であり、   阿頼耶識とかで表現されてる仏界を信頼するならば、 その深みから推理すれば、  すでに仏陀が悟ってしまいそのために糞尿の含めて存在のすべてがただただあまりにも美しく快いものとしか感じられなくなり、 静寂のその感性からは、  慣用語を使ってみるしか指導できなかったという見方も可能になります。    これは 何を言ってるのか解からないかもしれませんが、   ?  でなかったとしたら私には悟りってなんだか逆の解からないので、 私の推理の中では その可能性の一つとして成り立ってしまうことです。  つまり仏陀は 教育は下手だったとも言えるということです。    私たちの中に残っている下心とか嘘の心とか 思い出すこともできなくなり、 言葉として憶えてることを下にのみ、それでも新鮮な心を大勢の人と分かち合おうとしたのだと思えるということです。   あくまでそれは推理ですけどね。

推理は推理に過ぎないですから、 結局 事実がどうだかは解からないわけですが、 これは人間の脳ではどうせ人のことですから解からないことなんです。      もしかしたら 仏教の歴史というのは、だだの青二才の理想主義者に、大勢の真剣に生きたかたたちが惑わされ だまされもしてきた歴史かもしれません。

しかし、今となっては、 史実の裏の心の世界とはという観点から過去を探ってもどうせ何も生まれないんです。   必要なのは、より深い人生の解釈でありより深い人生の理解です。

道徳にしても、歴史的には あきらかに 上からの規範、押し付けであり、それがまかり通った歴史とかもあったでしょうし、 それこそ最悪の粛清とかにまでその規範がまかり通ってしまった歴史もあったでしょう。

何が よりよい規範かも含め その規範の深さを学ぶという姿勢が 「今」を生きる姿勢と思います。  さらには、その上での自在の行動とうものも ここでの追求課題でしょう。

論議を深められていってください。

私のほうからは、道徳の中に 最高徳としての「愛」がある点、 そして道徳は、その見方が深まれば規範に縛られたものとしてではなく理解されてもくる という見方^^もある、 というここではちょっとヒネた見解を提出しておきました。

そこから では「愛」という道徳においてはどうなのか?という議論をさらに進めていくのもおもしろいかと思います。

時間が生まれれば また参加します。

では、ご活躍をお祈りしております。



もし、 前回のそちらの質問の削除の原因が 私の極端な形の表現(いっぽう的に見える)が原因だったとしたら、  私の不徳といたすところ、申し訳ないことをしました。    誤解は ここで同時に解いたつもりですが、 後のまつりですね。 

投稿日時 - 2009-01-08 19:47:29

補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 ううーんんん。表現の問題 表現の差の問題のようにも見えますし。・・・
 まづ 道徳と道徳規範とを分けて 捉えて欲しいとも思います。道徳という場合には 特には 人間関係において 互いに不都合なことを慎しみ 好ましく望ましいと思われることを相手にもおこなうといった内容です。ここから 学習効果としても得られる理論 つまりは 特に 望ましいと考えられる内容を形式(形相=イデア)としてまとめたもの これが 規範であり そのとき 重要なことは 社会にあって 一定の地位にある公的人物が これを掲げるという場合です。
 単なる規範だけであれば つまりは そういう理論だけであれば 一人ひとりの生き動き存在する過程においても 主観および相互の横の主観関係として 持っています。言ってみれば 切磋琢磨するその過程が 道徳であり そこに 抽象化し一般化した行為形式もしくは 行為関係形式も 持たれます。後者は 理論であり 道徳に内在する単なる規範のことです。

 ★ キリストは「私は律法を否定するために来たのでは無い、 完成するために来たのだ」といった意味合いの言葉を言われているはずです。 
 ☆ 律法が たしかに 規範です。公的な場において共有され はたらくところの規範です。
 ですが 残念なことに 見解を異にするのですが 《律法を完成する》ということは この公的規範が その言葉・その確定した言葉としての法的な効力が どうであろうと 一人ひとりの個人としての人間が その内容を みづから 体現して生きる ということだと思うのですが どうでしょう。つまり 動く道徳のほうを言っているのではないでしょうか。規範を 規範として 大切にしようとか 規範が 規範として 公的に 掲げられてこそ その律法規範を完成させるのだとか そういう意味ではないように受け取っているのですが?
 ★ 愛
 ☆ も 同じですね。たしかに 《神を愛せ および 隣人を愛せ》という これら二つにして内容が同じ一つの命題を 唯一の戒めとして つまり 規範として 持てとも言われています。しかも 中身は 動いている と見るべきではないでしょうか。動いているという意味は 固定しない。愛という何ものかがあったり 固定した理論があったりするのではない。
 仮りに理論としてもあったとした場合でも その理論=規範が 問題なのではない。生き動く道徳としての愛は 理論や規範性をも 難なく超え 突き抜けているのではないでしょうか。
 もっとも奥にあるその核は 規範から自由な息吹きのような動態であるでしょう。それが 愛であるでしょう。どんな規範や理論による規定をも 突き破って 活動していると思えます。

 ブッダの美女マーガンディヤーに対する態度の問題は 言葉のそれではなく また その言葉の奥に秘められた意義のようなものでもなく そうではなく かのじょが 悟りを得るかどうかにあります。ブッダを嫌って 反抗し ほかの仏弟子を殺すまでに到ったという問題です。ブッダが よいことを言ったかどうかの判定ではありません。しこりが残った その結果 殺人事件にまで発展した。そこに 問題は なかったのか これです。
 規範化を嫌い たとえ規範を 社会的に持つこと・それに従うことを余儀なくされたとしても 規範も 流動的だと見ている人は――つまり それが 質問者の趣旨ですが その観点からするならば―― ブッダとマーガンディヤーの人間関係 これが 生き生きとして それこそ《和》を表わしているか ここにあります。それ以外のところに 解答を見ようとも思わないという姿勢であり 思想です。

 どうでしょう。こうして さらに この質問への解の問い求めが たしかに 深められていくと思います。そういう意味で ご投稿に重ねて感謝を申し上げます。今後とも 自由に ご回答ください。

投稿日時 - 2009-01-08 21:18:20

ANo.12

>この質問においても 出ていますし。
このご質問は、規範を放棄することによって、真の道徳を獲得しようという
ことなのに、規範(規則)によって削除対象になるという愚の骨頂がされるかもしれない
ということですか・・・削除されればこのご質問冥利につきるということですか(笑)
真意が理解されれば、削除されることはまずないでしょう。

> ☆ いまの日本は 充電が切れて来ていますか?
やっぱり、ここに繋がりますか。
充電が切れて来ているのはどちらかというと日本ではなくて、世界ですね。
サブプライムの甘汁は、さぞ、美味しかったに違いありません。
この急速放電は、動的道徳の欠如を表していることになるわけですね。
見方によっては、この状況を作り出したのは、日本に原因(長期に渡るゼロ金利政策)が
ある訳でその分の責任を負う必要もあります。
必要なのは、ホリエモン、ムラカミエモン?の類の再来ではなく、
それこそ、力強い動的道徳から発揮される具体的行動でしょう。
日本は何本かあるバッテリーのうち、貯蓄残高、企業の保有資産残高、円の独歩高という
充電はされてますし、精神性だって一部が腐っても鯛ですからね。
空になっているバッテリーへ充電を開始すれば、
飛び立つ準備は完了するでしょう。
キャッシュフローをとにかく増やさなければならないことは解っている訳で、
その具体的施策、行動に動的道徳が必要と言うことだと思います。
この際、大いに憂い、悩み、苦労した方が良く、それでこそ感性が磨かれ、
その実体験である動的道徳を注意深く短期間のうちに熟成させ、それを発揮させるということでしょうね。
国はその総体ですもんね。米国発の経済危機に対し、日本発の「落ち着き」へ
転換できるチャンスではないでしょうか。
この状況は誰が作ったのでもない、人間の動的道徳、動的悪徳?が作ったのですから、
せいぜい苦労してあるべき姿へ戻しましょう。全エネルギーを傾ける価値があります。
それが日本の動的道徳なはづです。

くれぐれも、どこぞの「change」という掛け声だけに直接・間接に踊らされたり、
日本固有の精神論だけで楽な道を選ばないようにということですね。

投稿日時 - 2009-01-08 17:36:00

お礼

 bananasandさん いやに冴えていますね。(失礼!)。ご回答をありがとうございます。

 その言や良し。
 ★ 日本は・・・精神性だって一部が腐っても鯛ですからね。
 ☆ よくぞ言ったり。よくぞ言ったもんですね。質問者冥利に尽きます。同僚や友だちだったら 何か 悪いものでも食ったんか? と茶々を入れるところです。
 とにかく 
 ★ 動的道徳
 ☆ が 鍵語ですな。
 公務員をあてにせず しかも その役人たちをも活性化させるほどの・常識の盲をついた動く道徳 いろんな角度から捉えた人間関係としてのコミュニケーション過程 というような描像を 思い浮かべます。
 おそらく ただちに このイメージを壊して 社会の今まで見えていなかったところに光を当てつつ 道徳のゲリラ活動が 始まるかも知れません。
 たのもしい。(たぶん わたしより若いと思うから えらそうに言っています)。ほんじゃ もう少し さらに質問をかかげて みなさんに おそわってまいりますか。

 なかなか よろしいですね。

投稿日時 - 2009-01-08 19:13:59

ANo.11

>道徳の《規範化》という事態を引き起こした人びと自身が~~傲慢にも 挑戦的だったのであり
>いまも 挑戦的でありつづけている。
な~るほど。真の挑戦者は、brageloneさんではなかった、つまり、brageloneさんは、
反射鏡ですね。

>あの派遣村に集まる人びとは 果たして はたらく意志があるのか
その真偽と規範形成的発言の真意はともかく、動的道徳流に言えば、その解を得ようとるなら、彼らと直接接触をもって、経験体感をしなければならないことになります。
ボランティアに参加している人はそれぞれが体感として解っているでしょう。
これが「動的道徳」的で、そのボランティアの意見を他人が言語として聞くことも「規範」的ということですね。
そのボランティアは言うでしょう。次官、本当に 知り たければ、あなたも参加しなさいと。

>あたかも昔の人びとが ありがたいお経を 後生大事に頂いて途端に~~思考停止してしまう。
確かにその通りでしょうね。でも、明治以前の昔の人びとの感性、言語能力等々から、想像するに、
結果的に思考停止に陥らせていた、そして、挑戦的だったのであって、
最初から、その目的を意識的に持ってはいなかったでしょう。

だからこそ、
>一人ひとりの思考を基軸とした試行錯誤として 始まっているとも言っていいでしょう
なのだと思います。そして、これに必要不可欠な気づきは、そこそこ高度だと思います。

逆相の動的悪徳が解り易い。
暴力団、詐欺グループ等の「規範」的悪の類を除けば、悪の「規範」があるから、悪さをすのでなく、
本来の規範があるから、対抗として悪さをしているわけでもない。
まさに、規範があるにもかかわらず、動的悪徳があるから、生の悪さをするわけです。

もとに戻してこれの逆が動的道徳なら、規範は六法に留めておけば良く、豊かな実体験、つまり、
自分と他人との関係、自分と社会との関係、自分と自然との関係の成功と失敗から
個人のおいてそれが醸成され、これらの集合体が社会(全体)において非常にダイナミックな動性を
内に秘めることで、そして、まさにその動性を土台とし緩やかに変化しつつも「落ち着き」といったものを
獲得するんでしょうね。

人間の集団は、この動性道徳のエネルギーが蓄えられていればいるほど、その集団が安定するということ
になります。そして、何がなくとも常に充電しておかないと砂上の楼閣に化すということでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-08 11:40:16

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 もうひとつのわたしの質問が削除になってしまって がっかりしています。要らぬことですが 回答以前の中身による投稿に対して 対処の仕方が――むろん 自信をもって おこなっていますが―― ここの管理者の考えに反しないようにするには むつかしいようです。この質問においても 出ていますし。民主主義は 投稿の自由を守るとすれば それに対する応答も 質問者の自由にするのが 妥当な方針であると考えます。
 まぁ 規則は ここでの規範の問題という段階ではないとは思います。
 そのつてでは
 ★ 〔派遣村ではたらく〕ボランティアの意見を他人が言語として聞くことも「規範」的ということですね。
 ☆ というのも 未確認情報であるとか 参考資料・参考意見という程度に捉えるのは どうでしょう? 確認ということ自体が これまた どこまで 証明できていれば いいかで 変わってくるでしょうし。
 〔わたしの場合は 年末からの夜中の《朝まで生テレビ》に出ていた・解雇された派遣社員の自己申告(三人ほど)が 情報源ですが これとて 本人が言ったことだからと言って 鵜呑みにしていいかと言えば まだ いけないということになります〕。
 
 昔の人びとが 規範に出会って 思考停止になったり 上の人びとの中には その規範化を 挑戦的に 行なったりしたと言っても たしかに その基礎には やはり庶民の人びとの地道な日常生活における人間関係構築の積み重ねがあると 見ておくべきでしょうね。

 ★ 動的悪徳
 ☆ 規範は だいたい ひとつでしょうね。その情況その時代に 基本的なものは 悪徳や徳のどちらの側にとっても 同じものではないでしょうか。そして 規範は 善悪観とは 切り離して捉えたほうが 分かりやすいようにも思います。
 殺すなかれというような善と呼ぶべき普遍的な規範にしろ 姦淫するなかれというようなその行為じたいを抽象的に取り上げて善悪を判断してもあまり意味のないと思われるような規範にしろ(――つまり ひとつには 合意の問題であるように思われるからですが――) いづれにしても 善悪観とは別にも 規範は ここでも あまり意味がないと捉えられます。《殺すなかれ》という言葉のスイッチを押したら そのとおりに言葉を守って行動するというのは 実際の人間として 考えられません。規範は 現実からすらも 浮いたものだと思われます。
 浮いたものでない場合というのは あとでも触れますが 上下関係において 規範が 持ち出されたときではないでしょうか。
 なぜ悪をおこなうかの問題は 保留しておきます。

 あと 最後の二つの段落は 合点しました。うまく表現しますね。

 あと 強いてつけ加えるとすれば やはり
 ○ 規範は 社会にあって おもに 縦の上下関係において 問題になる。そしてまた そもそも この上下関係そのものから 規範は 出て来ているのではないか。
 ☆ ということのように思えます。横の関係においては 仮りに規範を持ち出しても あれっ どうしたの? いつから 原理主義になったんだい? と訊かれるくらいが 関の山でしょう。
 ★ 人間の集団は、この動性道徳のエネルギーが蓄えられていればいるほど、その集団が安定するということ / になります。そして、何がなくとも常に充電しておかないと砂上の楼閣に化すということでしょうか。
 ☆ いまの日本は 充電が切れて来ていますか?

投稿日時 - 2009-01-08 13:35:46

ANo.10

brageloneさんもかなり挑戦的なご質問をなさいますね。

>なぜ なくならないのでしょう?
これは、簡単です。法律、掟の存在です。
憲法であり、民法の信義則、公序良俗等々があるからです。

でも、そんなご質問じゃありませんよね。
全然次元を異にしていて、
これら規範そのものの静的態様と、具体的事象への動的なあるべき行動との間の
乖離をおっしゃっておられるのですね。
であるなら、その通りだと思います。

道徳自身も変化します。まさに、動的です。
しかし、文章というか言語の静的な思想表現からして、そこはそれの限界です。
とはいえ、この動的性質を予定しない規範は愚の骨頂。
変化を許容しない規範は悪臭を放つということでもあるでしょう。

ご質問の趣旨と思われる時間軸を持たせた生の道徳は、これを手渡してゆくのが本来の道徳伝授である
としか言いようがないように思います。
これは、規範にはなり得ず言語表現の限界を超えて、生の体験をベースにしたものにしか成りようが
ありません。研ぎ澄まされた感性と思考力、知力、行動力を養い、そこから生み出される行動の根底には
規範があるのではなくて生の動的道徳があるということでしょうか。

何にしても、六法にしろ宗教書にしろ図書館では成立しないものですね。

愚の骨頂には賛同しますが、ではどうするかがまた規範になってしまうので、
どうしたものか頭を抱えてしまいますよ。

投稿日時 - 2009-01-08 01:22:02

お礼

 んっ? と一たん いぶかったら おおうーーっと納得する流れですね。bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 時間軸を持たせた生の道徳は、・・・規範にはなり得ず 言語表現の限界を超えて、生の体験をベースにしたものにしか成りようが / ありません。 
 研ぎ澄まされた感性と思考力、知力、行動力を養い、そこから生み出される行動の根底には / 規範があるのではなくて生の動的道徳があるということでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《過程/ 動態》などとだけ言っていないで こういうふうに 説明するとよかったのかなぁ・・・。あぁ 遅かりしゆらの助。
 このあと たしかに
 ★ 愚の骨頂には賛同しますが、ではどうするかがまた規範になってしまうので、 / どうしたものか頭を抱えてしまいますよ。
 ☆ という課題が 待っています。まぁ 《規範になってしまう》と決まったわけではないでしょうし すでに ただ 一人ひとりの思考を基軸とした試行錯誤として 始まっているとも言っていいでしょうし あるいは そう言わなければ何にもならないでしょうし なのですが。
 一点 あります。あたかも昔の人びとが ありがたいお経を 後生大事に頂いて わけの分からない漢文を呪文としてのごとく唱えるかのように そのように 《和を以ってうんぬん》という響きを耳にするなら 途端に 思考停止してしまう。こういう事態を避けることだけは 心してまいりたいと考えるのです。

 ★ brageloneさんもかなり挑戦的なご質問をなさいますね。
 ☆ これは 道徳の《規範化》という事態を引き起こした人びと自身が その行為において すでに 社会一般においてふつうに生活している善良な市民たちに対して 《大胆に あるいは 傲慢にも 挑戦的だったのであり いまも 挑戦的でありつづけている》のだという社会認識になります。
 いわく 《あの派遣村に集まる人びとは 果たして はたらく意志があるのか》!?!?!?!? (撤回したようですが)。

投稿日時 - 2009-01-08 06:47:43

ANo.9

参考程度に
道徳規範を持ち込めばその規範に縛られ、なくすれば猿のような人間が増え、人間社会のありようはまことに頭痛の種ですね。
ジハードといえばジハードに縛られ、憲法を作れば憲法が神器になり一歩も出られなくなる。これらを総称して原理主義と呼びます。
すべての人間を分類すれば多様に分類できます。決して同じではありません。乳幼児、幼稚園、小学生、中学生、高校生、大学生、院生、博士課程、助手、講師、準教授、教授、学部長、学長、学長さえピンからキリまで分類可能です。これは学生のことを言ってるわけではありません現実の個々の人間の総合レベルの分類を比喩として述べているのです。
つまりこのように多様な人間が二次元的な同一平面に隣人として社会人として生きているのが社会ですね。
あるレベルの人間には道徳規範が必要であるし、あるレベルの人間にはそのようなものは必要がないのは明白ですね。社会を形成するには最低限の共通の価値観は必要ですが、それもケースバイケースですね。
例えば、田舎道の交差点に信号機があり、誰も通ってないときに赤信号を無視して渡るのは当然しても良いことですが、誰もいなくとも規範は規範として止まる人もいるわけですね。規範の意味を知れば意味の無いこととわかるはずですが規範に縛られる、あるいは規範が有る故に不要な罪悪感を持つ人もいるわけですね。こんなところから道徳規範は愚の骨頂だともいえなくはないんですが、人間は皆同じレベルではないことを認めれば、道徳規範の必要性もあるといえますね。
そういう点で、学校として、幼稚園、小学生、中学生ぐらいには最低の共通価値観は教えてもいいと思いますね。
一方、宗教が規範を持ち込んでいるとの指摘については、その通りですね。特に間違った罪悪感をもたらすような規範は特に寛容であるべきものですがこれも人間のレベルの問題に起因しますね。つまり宗教であれ教育であれ多様な人間レベルが存在する以上、規範の否定も肯定も難しいかと思います。道徳規範教育もやってみて朝令暮改でしょうね。理由は、やはり分類もピッラミッド構造なんですよね。上へ行くほど少なくなりますから、逆に言えば下ほど多いのですね。規範に縛られる人のほうが多いという意味ですね。そういうもんだと思ってしまいますね。

投稿日時 - 2009-01-07 22:31:00

補足

 mmkyさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。思考過程としての・動態としての道徳=倫理は 必要と言いますか ふつうの生活にふつうに伴なうものだという理解が 一方に あります。ところが この道徳する試行錯誤の過程から 命題のかたちで その経験成果を取り出し これを 規範化する。じっさい こういった道徳規範を わたしたちは 持っています。
 《和を以って 貴しと為す》 これが いわば典型であり 最大の事例だと思います。

 そこで これは 哲学としての視点の取り方の問題になると思うのですが わたしの場合 こういう見解にたどりつくのです。
 ○ 《和を以って 貴しと為す》と言われなければ わたしは 和を乱すことを知らなかった。
 ☆ です。つまり 試行錯誤の過程だけで いいのだという見方です。次の物語を参照していただければ さいわいです。
 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 現実の個々の人間の総合レベルの分類
 ☆ としてですが

  (あ) 原始心性: 何ごとにも 憑依する。それこそ《規範》を知らない。
  (い) 歴史知性: 時空間ないし歴史の中にあり 歴史を生きる自己に到来した。死すべき動物であると知っているその線分としての人生を 知性によって生きる。
  (う) 超歴史知性: 上の歴史知性の得た成果を 規範として 掲げ これを 守る生き方を唱えた。実際には 自分は (い)の歴史知性であるのだが (あ)の歴史知性以前の心性に対しては その道徳規範を覆いかぶせ それによって 寄らしめる。つまり 規範を 統治のための手段とする。

 ちなみに スサノヲは 原始心性のひとが多い社会にあって 統治者アマテラスが 寄らしめるべき民は 原始心性のままでよいと言ったとき これに異を唱え ここに 知性のふたつの形態が衝突した。歴史知性に目覚めた自由のひと・スサノヲが あらゆる悪の手段にうったえることによって ともに 自由になろうと主張しつづけたとき ここに アマテラスによって 天つ罪が創成された。
 この罪は 殺すなかれといった普遍的な規律ではなく ただし 普遍的な内容を含めてのものであるが 要するに 次のようです。水平的な市民どうしの横の連帯としての和をとうとぶのではなく それだけではなく アマテラス統治体制としての秩序を乱してはいけないという垂直的な和を 第一に掲げたことだと捉えます。むらの和から 国の大和(つまりまた やまと)に成り この大和が 人びとの頭に 上からかぶせられたのだという認識です。
 昔のふつうの和を乱す場合は わざわざ新たに 《国つ罪》として規定され 先の《天つ罪》と 区別されるようになった。
 要するに 人間に 階級という区分けが あたかも 生まれつきのものであるごとくに 出来た。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これ以外の道筋で 規範化が現われたといった歴史事例を おしえていただけるなら ありがたいと思っての質問になっています。

 性急なかたちで 拙速をおそれずに 述べていると思います。

投稿日時 - 2009-01-07 23:47:32

ANo.8

>その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって
>規範とその応用は 愚の骨頂である
そうやって「考えて対処する」ことを「応用」というので、
・規範を応用して対処すべきところ、そうするのは愚の骨頂である。
ということになり、何を言いたいのか全く理解できません。
規範は個々人で異なる、とか、規範は支配者に都合の良いように作られたものだから従う必要がないと言う主張なら、同意はしないけど理解可能ですが.....

>道徳規範は何故なくならないか
道徳規範が無い場合、「自分さえ良ければ他人はどんなに不幸になってもよい」
ということが正当化される、つまり強盗殺人okと言っているのに等しいため。
そういう主張は自由ですが、自分が殺されることに対しての歯止めが無くなってしまいます。

>ヰキぺディアの記事の中に 次のように 思考の動態であることを示す一節もありました。
>>ただし、〔生徒たちに 道徳心を身につけさせるに際して〕 同じ行為においても、徳目どうしが衝突することは頻繁に起きる。
私は、〔 〕内を補完するつもりはありません。 道徳心を持っていても頻繁に起こる実践問題であるため。
以下を参照。東京大学の倫理の講義内容(具体例てんこ盛)が示されているHPです。
http://www.tokai.t.u-tokyo.ac.jp/~madarame/rinri_note.html

で、徳目どうしが衝突することが思考の動態であるいう見解も私はとりません。
徳目どうしが衝突するのは、二律背反であり思考の動態ではないため。
で、道徳(倫理)が思考の動態であるのも間違いないけれど、それは、道徳規範事態が時代と共に(or集団により)
価値観が変わるため道徳規範も変わることを指し、試行錯誤では、道徳規範は変化しない、という立場です。
※具体的に、最近、どのような点が変わったか、というと、
 父親的温情主義が現在では通用しなくなった、というような具体事例も上記HPに載っています。

投稿日時 - 2009-01-07 22:11:36

補足

 masa2211さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。総じて言って 正直に申せば 批判のための根拠が 薄いと感じました。一つひとつ見てまいります。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって
 >規範とその応用は 愚の骨頂である
 そうやって「考えて対処する」ことを「応用」というので、
 ・規範を応用して対処すべきところ、そうするのは愚の骨頂である。
 ということになり、何を言いたいのか全く理解できません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いいですか。
 ○ 《考えつつ対処する》=《応用》は 動態としての道徳をあつかっているのであって 《 規 範 の応用》ではありません。
 ☆ お門違いになります。

 ★ 規範は個々人で異なる、
 ☆ とは言っていません。《規範》は愚の骨頂だと言っています。
 ★ 規範は支配者に都合の良いように作られたもの
 ☆ だとは おおむねその趣旨を――この質疑応答の過程で―― 言っています。ところが
 ★ だから従う必要がない
 ☆ とは言っていません。規範じたいが 愚の骨頂だと言っているのみです。そういう見識のことです。
 ★ と言う主張なら、同意はしないけど理解可能ですが.....
 ☆ これは ですから わたしには 関係ありません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >道徳規範は何故なくならないか
 道徳規範が無い場合、「自分さえ良ければ他人はどんなに不幸になってもよい」 / ということが正当化される、つまり強盗殺人okと言っているのに等しいため。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まさか!! あまりにも 決めつけた議論です。根拠として何が提出されているのか分かりません。《試行錯誤ででも 思考しつつ道徳=倫理として 社会生活をいとなむ》という事実は 《道徳規範が無い場合》に あり得ないと決めつけることが出来るのですか。

 ★ 道徳心を持っていても
 ☆ 《道徳心を持つ》というのは 規範を抱くという場合と 思考過程としての道徳という場合と 両方があるでしょうね。
 ★ 徳目どうしが衝突するのは、二律背反であり思考の動態ではないため。
 ☆ 二律背反は 単に論理的な問題です。思考過程としての道徳は とうぜん 人格の全体の問題として 徳目の矛盾に対処するでしょう。そんなことは 問題でもありません。

 ★ 時代と共に(or集団により) / 価値観が変わるため道徳規範も変わる
 ☆ 規範が変わるかどうかは ここでは 問題ではありません。変わろうが変わるまいが 規範化じたいが 愚の骨頂だと言っています。
 ★ 父親的温情主義
 ☆ は 道徳規範であるとは 考えません。たしかに 人間関係の問題であり その限りで 倫理の過程を形成することですが いわば世間の知恵に属します。倫理規範というよりは 倫理形式のうちいくつかある手法の一つといったところでしょう。人間関係のドライな手法も ありうるでしょう。
 
 参照サイトは 規範の是非といった質問趣旨に合った議論が なかなか 出て来ません。途中で あきらめました。あしからず。

投稿日時 - 2009-01-07 23:13:26

ANo.7

道徳を規範することは決して愚かしいことではありません。
そして子供にいわゆる「道徳教育」は必ず行うべきです。





道徳とはなんであるか、というと、質問者さんが例示された
記事の記載どおり、一言で言えば社会常識です。
常識とはなんであるか?というと、世間一般の人の考えと
言い換えることができるでしょう

事実、道徳を守る人間は社会的に評価されますが
一方、道徳を守らない人間は社会的に評価されません。
その実行上、様々な問題が生じることももちろん事実ですが、
一方で社会で生きるにあたって、道徳は守ったほうが良い基準である
ことは、否定できないのではないでしょうか?


特に子供は、誤解を恐れずに言うならば、人間として完全ではありません。
彼らは知識を得ることにより、より人間として完全に近づくのです。
もちろん、この場合の人間とは社会生活を営む生物を指します。
「子供である」とは、こういう生き方をすれば社会的にも評価される、
逆を行えば社会的に非難される、こういった基本的な社会の状態すら
知らない状態です。

もちろん、道徳がこの世のすべての真理を体現した完成された
究極の思想である、などと言うつもりはさらさらありませんが
それでもなお、これから社会に生きようという準備段階である
子供は必ず「他の人が何を考えているのか」
「これまでの人間が何を考えてきたのか」を知る必要があるのです。











何故か?もちろん、社会で生きるための準備という意味が強いのですが、
それ以上に「世界の基準」を知ることは、子供がモノを考えるという
技術を得る第一歩なのです。








道徳を教えたときに何が起こるか。道徳、つまり
「他の人が何を考えているのか」を教えれば、そのまま子ども自身が
「道徳は正しい。世界はすべて道徳の実行者たるべきである」
という結論を出す、というケースは考えにくいです。
そこまでの強制力を学校が持ちえるのでしょうか?






恐らくもっとも多い反応は
「なんで道徳があるの?」「どうして道徳を守らなきゃいけないの?」
というものでしょう。世界への疑問、これこそが
「思考を行う生物」の最初の一歩です。


(余談ですが、ここで教師が別の大人に答えをなんて教えればいい?と
逆に問うのは、残念なことではありますが子供が
教師をやっているのでしょう。答えは「そんなもん子供に考えさせろ」です。
もちろん両方の意味で。)









その子供が真に道徳に、あるいは道徳が説くような思考や
論理に誠実であった場合には「道徳には虚偽が存在する。
その上で我々は何を行うべきか」と指摘する力を得て、
新時代の道徳を生み出すこともあるかもしれません。
あるいはそれすら超えて、旧来の道徳の実行者たることもあるでしょう。
もちろん、どちらの場合においても、途中で思考を停止する
可能性もありますがそれもまた、一つの人間の形ではないでしょうか。



道徳教育とは、道徳の体現者と道徳の否定者。双方に必要なものなのです。
存在そのものの否定から何かを生み出すのは非常に困難を伴います。
どちらの人間も、まず道徳という「世界の思考」という基盤の存在を
受け入れた上で、肯定と否定を行うのです。

投稿日時 - 2009-01-07 21:48:56

補足

 wiz0621さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。二つの側面を捉えて 応答して行きます。ただし けっきょくは それら二つの視点も 融合して来ることになります。
 (1) わたしが 《道徳》と《道徳規範》とを分けて捉えているところを wiz0621さんは 一緒にして論じておられる。
 (2) それでも 見解が分かれるところ。

 まづ(1)ですが わたしは 規範化していない道徳という場合には 倫理と同じように 生活の中でのいわば哲学過程であると見るわけです。たとえば 
 ○ (質問趣旨) 道徳は 倫理としての試行錯誤の中にしかない。おのおのの思考の過程であり 生活共同の動態であるはづです。
 ☆ ところが 規範化した道徳については
 ○ (質問趣旨) 〔動態としての道徳は〕その場その時に応じて また 自分や相手や情況に応じて 考えつつ対処するのであって 〔しかしながら〕 規範とその応用は 愚の骨頂だと思うのです。
 ☆ というように区別しています。

 その中身としては こうです。
 ○ (No.2補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もし規範にしたがうことによって 和が維持されたとすれば 規範の内容を理解したからではないでしょうか。理解によって その規範を超えて みづからの意志行為として 和としての考えやおこないを表現するからだと思われます。それ以外では すべて 《愚行》であるのとちがいますか? 
 思考停止 あるいは この《和を以って貴しと為す》の音のひびきを聞くとともに ただ条件反射しただけというのでは 愚行にならないですか? 
 なぜ規範にしたがうか。その内容を みづからの意志の表現として 妥当だと考えるからでしょう。規範がなくても そのひとは 考えるでしょう。規範があるから――世間で その規範を やかましく言うから―― それに従うのでしょうか? もしそれなら 愚考かつ愚行であるのではないでしょうか? 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この区別をした上でも 《道徳》も《道徳規範》も 大事であり 《道徳教育》も 必要であると主張される(2)に移ります。字面では そう述べておられますが じつは どうも 結論は わたしの仮説と違わないと思われます。すでに前もって そのようにも お伝えします。
 ちなみに その前に (1)にかんするわたしの側の趣旨は 次のご指摘に けっきょく同じように 明らかなかたちで現われていると確認しておくことが出来ます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 その子供が真に道徳に、あるいは道徳が説くような思考や
 論理に誠実であった場合には「道徳には虚偽が存在する。
 その上で我々は何を行うべきか」と指摘する力を得て、
 新時代の道徳を生み出すこともあるかもしれません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ それでも 規範は 愚かなことではないというご見解についてですが 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 何故か?もちろん、社会で生きるための準備という意味が強いのですが、
 それ以上に「世界の基準」を知ることは、子供がモノを考えるという
技術を得る第一歩なのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ けっきょく この場合は いわゆる世間の知恵を身につける あるいは 世間を生き抜くすべを知ることであるようです。現実的であるというわけです。
 つまりは 哲学は この《移り変わり行く「世界の基準」》としての道徳規範について 
 ★ 虚偽が存在する。その上で我々は何を行うべきか」と指摘
 ☆ することになるわけです。ということは (2)は 必ずしも (1)と違ったことを言おうとしているものではないとも 受けとめることができます。

 どうなんでしょう。wiz0621さんは たとえ机上の空論でもよいから 哲学として倫理を究めなさいというのか あるいは それではだめなのだ 世の中を生き抜くことこそが 哲学の生きる道である まづそちらが大事であるというのか どちらなのでしょう?
 でも これとても 二者択一ではないでしょう。哲学は 世間の知についても 自分の体系の中に 整合性をつけて やがて 取り込むことになるでしょう。
 とおっしゃっているのではないですか。つまりは 規範は 無用の長物であり それがあることによって ひとが思考停止になるようなら 百害あって一利無しという結論にいたるのではありませんか? どうでしょう。

投稿日時 - 2009-01-07 22:29:32

ANo.6

maimai.susです。

それは、質問ではなく、たんに世の中に対する不満でしょ。
そして、こうあるべきだと言う自分の主張でしょ。

brageloneさんは、どうやら根本的なところの間違いに気付いていない部分が多いと思いますよ。話の内容もそうですが。

投稿日時 - 2009-01-07 15:33:45

補足

 お礼欄を補います。

 ★ brageloneさんは、どうやら根本的なところの間違いに気付いていない部分が多いと思いますよ。話の内容もそうですが。
 ☆ この部分もそうですが 全体として maimaisusさんのご投稿は わたしの言葉に翻訳するならば 次のように言っていると受け止めます。
 ○ brageloneの見方考え方を わたし(=maimaisusさん)は 採らない。
 ☆ あとは その根拠を明らかにされると よいでしょう。自分の願望や勝手な決めつけを書きこむのは 回答として どうかということになりますから。
 ここまで 説明すれば 次のように言っても ふつうのことになるのです。
 ○ maimaisusさんは、どうやら根本的なところの間違いに気づいていないと思いますよ。話の内容も まだ 説明になっておらず 回答以前のようです。

投稿日時 - 2009-01-07 15:57:59

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 ★ それは、質問ではなく、たんに世の中に対する不満でしょ。
 ☆ この《それ》が 何を指しているのか 必ずしも 明確ではありませんが わたしの文章の全部を言っているとして お応えするならば それは 哲学が 何を考えおこなうかを はっきりさせないところから来るご反応であると受け止めます。
 ★ 世の中に対する不満
 ☆ であろうが 満足であろうが 哲学は 独自に 主題をとらえて 考えを進めます。それだけのことではないでしょうか。主題を提示したなら 問い求めは 始まります。
 
 ★ そして、こうあるべきだと言う自分の主張でしょ。
 ☆ 《自分の主張》を持たない質問があるとお考えですか? 《こうあるべきだ》と主張しない考えがあるでしょうか? 哲学としてです。
 
 あとの書き込み部分については 説明を受けないことには 対応のしようがありません。

投稿日時 - 2009-01-07 15:51:22

ANo.5

 あっはぁ、brageloneさんは戦前の空気を、隣組や在郷軍人、出征兵士の家という表札を知らないでしょうね。
 隣組みんなの消防や警防の訓練など。6ヶ月の妊婦だって、病人だってことわるなんて非国民って、みんなに指差しされるのですよ。
 隣組長が怖いから、梯子に乗って、バケツ・リレーして、水を屋根の上の人に渡していたのです。近所のおばさんが、思い出を語ってくれました。思っただけでぞっとしてきます。
 治安はいいでしょうし、躾もいいでしょう。
 いわゆる道徳もその意味では完璧でしょう。
 しかし、それって人間性が活きる余地がないですよ。
 一定の規格にはまらない、一定の水準にいかない、早産虚弱の私は、出来損ないです。まぁなんか恵まれていたのか、それとも拾う神さまのおかげか、いたわられ、大事にされ、後ろの役をしていましたが。
 姉や兄、そして家に居た徒弟たち、兵隊前の職人たちが面倒も見てくれていましたが。
 なにもかも足並み揃え、一斉の統一行動ですから、それが出来ない能力だとはじかれてしまいます。違う考えは認められません。
 そういうことになるような、国や統治のための教育であったり、或いは規範化はしてはいけないでしょうね。
 この国は昔からそういう意味では統治しやすいのではないですか?
 焼け野原の瓦礫の間にコスモスが咲き乱れ、雲ひとつ無い青空はとても人間を解放してくれるものでした。胸いっぱいに空気が吸えるのです。
 権力は表に出るものでは在りません。
 生活や教育、文化や思想には介入したりしてはいけません。
 政治・統治の権力も、社会や経済の権力も、新聞やジャーナルの評論権力も、踏みとどまるところを、自制するところを心得るべきです。
 教科としての道徳なんて、なんとセンスもない、露骨な思考をして設置したものでしょう。
 ロマン・ロランも「何だって、道徳を教えるだって?それは不道徳を教えるってことだ」と、もう昔に喝破しております。
 道徳は規範にはなりません。
 パタンジャリのヤマ、ニヤマは規範ではありません。
 個人の生き方にゆだねられているものです。個人が経験から認識するものです。
 ガンディーのアヒムサも無論そうです。思想が規範などを創るわけがありません。
 (今度は調子に乗っていて、brageloneさんにまた叱られるかな?)

投稿日時 - 2009-01-07 10:56:01

補足

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ロマン・ロラン / パタンジャリのヤマ、ニヤマ / ガンディーのアヒムサ
 ☆ これらに しゃれたお応えをできればいいのですが 残念です。
 ★ 隣組
 ☆ に反応します。どういうわけか この制度の名を聞くと わたしは イスラーム社会を思い浮かべます。まちがっていたら ごめんなさいなのですが どうもそのような共同体としての互いの絆があるとも見られるようですし また なにがしか相互監視のような窮屈な感じを覚える要素もあります。
 ちょうど 今朝の朝刊に ムスリム社会の話がありました。
 ▲ 山内昌之:中東の混迷も見落とすな ~~~~~~~~~~~~
 《危機を超えて――世界新秩序と日本――》#3・・・日経
 要旨として 
 1. 人口急増するイスラム 《自己主張》強める
 2. 若い世代の多さが失業やテロの温床に
 3. 解決には中東市民の《意識改革》が重要に
 
 ▼(1) イエメンの出生率6.2を筆頭に 多子若齢化が進んでいる。・・・世界人口のうち四分の一を占めるムスリム市民は 2030年代には三分の一に達する。・・・
 人口増は不完全雇用という歪みを生み出す。
 (2) 四人の息子がいる家族でも二人は何とか手近なところで就職できるかも知れない。 / だが あぶれた二人に残された道は・・・国外移住 犯罪 国内クーデター 内戦または革命 集団殺害と追放 越境戦争という六つしかない。
 (3) それでもテロの根絶には 長期的には教育と産児制限・・・が大事であろう。
 例えば女性解放や文字改革による識字率向上に取り組みつつ イスラム圏全体の近代化を刺激したトルコの世俗主義経験は 転換モデルとして学ぶに値する。
 ・・・《道義的な世界救済》として多数の移民を受け容れる選択肢もありうる。
 ムスリム市民の意識改革を含めた長期の展望〔が重要〕。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とにもかくにも 隣人を愛せという一種の規範を持っていても 人殺しを止めなかった西欧キリスト教世界に比べても ジハードを一種の規範の中に含むイスラーム世界は どう捉えればよいのでしょう。
 この問題は もうわたしの生きている間には わたしに出来ることはないとあきらめていますが それにしても 考え方として どう捉えればよいのか 道徳規範の問題にからまっているとは思いました。
 半ば余談になりましたが 
 ★ 焼け野原の瓦礫の間にコスモスが咲き乱れ、雲ひとつ無い青空はとても人間を解放してくれるものでした。胸いっぱいに空気が吸えるのです。
 ☆ なる情況を 願い つくっていきたいものです。

投稿日時 - 2009-01-07 13:13:50

ANo.4

 《ヰキ:道徳教育》をちょいと読みました。
 昔の修身や躾教育ですね。国や統治の立場や社会や大人の側からの、何らかの考えやご都合で、お託宣されるのはどんな効果があるのでしょうね。
 私はこういうことには早熟でしたので、外在からのお仕着せや押し付けは、子供の頃から反発し、いわれたことの反対のことばかりしてきました。何かいわれたら、言い返してきました。

 独善やおしてきではない民族教育や、生活の仕方、世界と人類のありようなどの参考的情報は必要でしょうが、私は宗教の教育も反発します。宗教は自分でそれに近づき、自分のものにしていくのだと存じておりますので。
 《ヰキ:道徳教育》を担当する教師は、まじめなのでしょうかね。
 悩みはないのでしょうかね?まぁその授業の仕方、取り上げ方ではありましょうが。
 しかしこういう教科がないと教育できないとは、教育の貧困、社会の未成熟ですね。
 仰せのとおり当に愚の骨頂もいいところですね。

 宗教や倫理、道徳を哲学や学問で教えたり、論じたり、することも私は全くナンセンスだと存じます。
 その外形的状況や歴史と社会のことであれば、存在価値も無くは無いと存じますが。
 昔の修身って、強制力も加わっていたのでしょう?brageloneさんはこの辺のご経験は豊富ではないでしょうか?
 お国のための、ご都合、国の統治と運営のためが主眼だったのでしょう?まことに不愉快ですね。
 戦前のわが国の歴史と社会・文化性には大きな評価をしているわたしですが、修身や愛国教育、軍国教育はまことに不愉快、大嫌いです。

投稿日時 - 2009-01-07 07:54:22

お礼

 おおおおおおおおおおおおおっ。
 ★ 仰せのとおり当に愚の骨頂もいいところですね。
 ☆ krya1998さん ご回答をありがとうございます。今回は 快晴も快晴 空が突き抜けてしまいますね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 お国のための、ご都合、国の統治と運営のためが主眼だったのでしょう? まことに不愉快ですね。
 戦前のわが国の歴史と社会・文化性には大きな評価をしているわたしですが、修身や愛国教育、軍国教育はまことに不愉快、大嫌いです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 政治の問題に いづれ なるとは思っていましたが そして ちょうど 直前のNo.3で まだ自重しようと思ったところでしたが ご回答をいただいて 我が意を得たり でありまして この種の議論も みなさんにも 加えていただこうと考えます。

 つまり では どうすれば いいのかです。規範化をしない / 道徳教育をしない だけでいいのかです。

 たぶん ひとつには
 ★ 宗教や倫理、道徳を哲学や学問で教えたり、論じたり、することも私は全くナンセンスだと存じます。
 ☆ なのですが そのとおりだと思いますが たぶん 哲学史なり宗教地図なり あるいは 論理学のような基礎の学問を おしえるのは よいだろうし 必要だとも思われます。どうでしょう。
 ★ 昔の修身
 ☆ は――戦後うまれですから―― さすがに知らないのですが 人びとの頭は つねに ひとの目を気にする癖と相いまって 《和をとうとべ》というあたかも強迫観念によって 動かされているように見えました。むろんご存じのように その当時は 治安が 抜群に よかったですから 《和が大事》という規範は たしかに 共同の幻想などではなく 現実的な感触もあったとは つけくわえておかねばならないのでしょうね。
 要するに 学校の事情に詳しくはありませんが PTAなり 生徒会なりにおいて その対話をつうじて 和なら和 道徳なら道徳を 互いに 磨いていくとよいかも知れません。
 
 たいへんありがとうございました。

投稿日時 - 2009-01-07 09:55:32

ANo.3

 >道徳規範は 愚の骨頂ではないでしょうか? なぜ なくならないのでしょう?

んー、単に必要と考えている人が無くさないからでは?もしくは他に思惑のある人がいるかもね。

個人的には、中身はどうであれ、それが無いと、何も始まらないと思うのですが・・・。そう言う意味においては、必要かと思うね。

投稿日時 - 2009-01-07 00:17:16

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 ★ んー、単に必要と考えている人が無くさないからでは?もしくは他に思惑のある人がいるかもね。
 ☆ これは 単に示唆的であるだけではなく 現実の問題を言い当てていると わたしは 考えるのですが そのお話は もう少し 探究が煮詰まって来てからと考えました。要するに 共同自治をどうするか。つまり 現状としては 自民党政治をどう揚棄するかになると考えます。

 総じては No.1&2での質疑応答を ごらんください。そこでのわたしの述べたところをもって まづは
 ★ 個人的には、中身はどうであれ、それが無いと、何も始まらないと思うのですが・・・。そう言う意味においては、必要かと思うね。
 ☆ に対して お応えできるかと思います。
 その昔 九州の筑紫の市民たちあるいは対馬の住民は 或る日或る時 どこかからの詔(みことのり)を受けました。ここから向こうは別の国だが ここから内側は 畏れ多くもわがおほきみの国だ その領界線に従い 領土をしっかり守りたまえと。対岸とは それまで 自由に行き来していたであろうのにです。
 道徳規範というのは ちょうどそのように 頭の上から かぶさって来るあほらしいものではないでしょうか。中身は いいものですよ。和をとうとぶのですから。けれども 《朕は国家なり》とのたまう勢力の言う《和》とは なんでしょう? 対岸のプサンの市民との横の交流と和のほうが よほど 大事であって それに並ぶ和は ないくらいではないですか? 
 人間関係の動態としての倫理なり道徳なりは まだしも その規範化は 要らないのではないですか?

投稿日時 - 2009-01-07 09:30:30

ANo.2

>なぜなら 道徳やその規範によって われわれは 生きているのではなく それによって 社会生活をいとなんでいるのでもない。

そうですかね。
私にはこれもまた真なりと思います。
生きるうえで他人の存在を考慮しないわけにはいきません。
その道具としての道徳規範じゃないでしょうか。
生きることの側面のひとつとして規範に従うことも愚行とはいえないと思います。
それにbrageloneさんも道徳規範がなければ道徳規範に問題点があるとは気づきえなかったでしょう。
つまり道徳規範を土台にしてこの質問は成り立っているのではないでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-06 16:35:55

補足

 shift-2007さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。印象だけで ものを言ってよいとすれば たぶん shift-2007さんは この問題を 哲学としては 半分程度にしか 取り扱っておられない。まづ こう感じます。
 ★ (No.1) 〔道徳規範にかんして〕 それだけ人はパターン化しているということだと思います。
 ☆ この《パターン化》の現象は 今回のご回答を合わせて捉えるなら 必ずしも 法律問題としてではなく 道徳規範の問題として 扱われていると見られます。つまり
 ★  生きるうえで他人の存在を考慮〔するため〕の道具としての道徳規範じゃないでしょうか。
 ☆ というように 《生きる》という現実に 組み込まれていると見ておられるようだからです。

 文章なり片言隻句なり 言葉で表わされたものは 規範としてあるかどうかにかかわらず 記号である要素として 道具になるでしょうし あるいは いわば時と場合によっては 琴線に触れる重みをもって告げられたもののようにもなるでしょう。そのような側面を別として 道徳規範が どういう 意味を持つかなのですが
 ですから 回答いただいたところの 
 ★ 生きることの側面のひとつとして規範に従うことも愚行とはいえないと思います。
 ☆ を取り上げてみましょう。規範の具体例としては やはり 次が いいでしょう。
 △ 和を以って貴しと為す。
 ☆ そうしますと けっきょくのところは
 ○ なぜ 規範に従うか。
 ○ 愚行とは言えない従い方が ひとつの側面としてでも あるか。
 ☆ こういう問題になります。

 もし規範にしたがうことによって 和が維持されたとすれば 規範の内容を理解したからではないでしょうか。理解によって その規範を超えて みづからの意志行為として 和としての考えやおこないを表現するからだと思われます。それ以外では すべて 《愚行》であるのとちがいますか? 
 思考停止 あるいは この《和を以って・・・》の音のひびきを聞くとともに ただ条件反射しただけというのでは 愚行にならないですか? 
 なぜ規範にしたがうか。その内容を みづからの意志の表現として 妥当だと考えるからでしょう。規範がなくても そのひとは 考えるでしょう。規範があるから――世間で その規範を やかましく言うから―― それに従うのでしょうか? もしそれなら 愚考かつ愚行であるのではないでしょうか? 

 ★ つまり道徳規範を土台にしてこの質問は成り立っているのではないでしょうか。
 ☆ つまり人間の知恵と思考とによって 道徳(倫理)を 生活の動態として考え出すのであって また そのように行動するのであって 規範は それとは別に そう(規範化)したい人びとが 勝手に作ったものではないですか? そんなものは 要らないのではないですか?
 思考――それが いくら試行錯誤であっても――が 土台であって その土台の動態として 道徳ないし倫理が編みだされるのであって これらの規範化は 何の意味もないのとちがいますか?

 道徳規範は 現在の社会において 既成事実です。既成事実であるからと言って この今の質問が その既成事実という土台の上に成り立っているというのでしょうか?
 あなたは いま 日本語を使って ものを言っている。その言語は 土台であるはづだ。そのように 日本語を土台として この質問は成り立っているのではないでしょうか。――と言われても おかしいでしょう?
 そういう問題ではないはづです。いかがでしょうか。

 * 道徳規範が 既成事実であることと 日本語が 土台であることとは 性質のちがう二つのことですが それでも 例示に取り上げたのは
 ★ 道徳規範を土台にして
 ☆ というときの《土台》という言葉の用い方が 適宜なものではないからだと思います。
 
 * 相手が shift-2007さんなので わたしも 余裕をなくして 論議に夢中になっているかも知れません。そのへんのことは あしからず ご海容のほどを ねがっておきます。

投稿日時 - 2009-01-06 20:04:13

ANo.1

愚の骨頂とまでは言えないですよ。
だって規範は便利じゃないですか。
人を殺してはいけないという規範で人を裁いても殺人事件の99%は問題ないんじゃないですか。
のこり1%に正当防衛とか例外的な事例があるだけじゃないでしょうか。
それだけ人はパターン化しているということだと思います。

投稿日時 - 2009-01-06 14:15:45

補足

 shift-2007さん ご回答をありがとうございます。久しぶりにご投稿をもらった感じです。

 ★ だって規範は便利じゃないですか。
 ☆ 一般に 規範化したということは それまでに じゅうぶん 何人ものひとが 思惟を重ねた結果であろうと推測されます。それゆえ 便利な方法であり手段になるかと思われます。
 もう少し詳しくは したがって たぶん その規範をあてはめる際には その事態の当事者としての人びとの思想や環境をめぐる条件や また広く情況という条件について それらを 一般化したかたちになっているのでしょう。つまり その一般化したかたちで 規範を採用してよい場合なのだと推測されます。
 さらには 一般化してわるい場合についても すでに 考えられていて その但し書きも 備わっているのかも分かりません。

 さて そのように
 ★ パターン化
 ☆ してよいのだろうかという問いになります。どうでしょう。言いかえると 
 ★ 人を殺してはいけないという規範で人を裁いても殺人事件の99%は問題ないんじゃないですか。
 ☆ このお考えについては 規範として持たれる道徳の問題と そして その道徳の思想を法律に援用したあとの問題と ふたつの側面が あって ここでは 残念ですが 法律〔への応用〕については 一応の基本としては 扱っていないのです。

 片や 殺人を犯すなら これこれの刑罰に処するという思考形式と そして ここで取り扱うところの 
 ★ 人を殺してはいけないという規範
 ☆ とは 違いもあると考えられます。刑法や法律は――細部に到っては その事情などの特定が争われますが―― ほとんど一義的に その条文にもとづいて 対処します。規範とその執行が それとして 対応しています。むしろ機械的であってよいし そのほうが 取り決めとしては 誰もが 予め情報が得られるので よいわけです。そのように秩序のために 規定が決められます。
 ですから 道徳規範のばあいには どうかと問うています。
 
 この質問による物言いは そのような規範は なくてよいし なくすべきだという内容になりますが それは こうです。
 ○ たとえ 事態や事件や情況としての条件や あるいは当事者の思想や生育環境といった条件が 一般化して 捉えてよいものであるという場合にも 規範の言葉を 右から左へ あてはめてよいとは 思われない。
 ○ なぜなら 道徳やその規範によって われわれは 生きているのではなく それによって 社会生活をいとなんでいるのでもない。人間として 人間の社会として 生きているのだから つねに その人間関係としての倫理は――つまり それとしての道徳は―― 生きているし 動いている。
 ○ その生き動き存在するひととして そのひとという位置に立ってでなければ 倫理(その意味での道徳)は あり得ない。
 ○ したがって 道徳規範は 無用の長物である。
 ☆ と考えたのですが いかがでしょうか。

 * 《和を以って貴しと為す》という規範によって わたしたちは 和を尊ぶのではないし 和を乱さないのでもない。生きる過程で 一人ひとりが それぞれ 考えつつ 試行錯誤をも伴ないつつ そうするのです。
 逆に この思想を《道徳規範として》おしえられることによって 和を乱すことを知ることになる。そうなれば 愚の骨頂だと考えられるのではないでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-06 15:13:21

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