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締切り済みの質問

人を救えぬ哲学は言葉遊びではないか

このカテでこのような質問もなんですが、
哲学があるいは哲学者が人を救うことができない或いはするつもりがないなら、それは言葉遊びの探求ということではないでしょうか。
リアリティのない極端な形而上な事柄への思索について自重すべきではないでしょうか。
単なる趣味ならかまいませんが。

投稿日時 - 2009-01-15 14:43:06

QNo.4632161

暇なときに回答ください

このQ&Aは役に立ちましたか?

13人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

回答(49)

ANo.49

落花生の殻って…

で、バリバリバリーとモリモリモリーって…

どんだけ食べんねん!!!



【QNo.落花生の殻むき機ってありませんか?】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1579416.html
落花生脱粒機
http://www.kiya-ss.co.jp/rs25r25.html
http://www.shin-norin.co.jp/ka.html


まだたらん?


ちょっと、目チカチカするかも知れんけど…

【フラクタルオブジェの世界】
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/hideaki/FireFlower.html
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/hideaki/FractalWave1.html
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/hideaki/

ちょっと目疲れたんとちゃう?

目のお正月しましょう

【正絹螺鈿工芸九寸名古屋帯】
http://shop.yumetenpo.jp/goods/d/waraya.co.jp/g/02-02-00010/index.shtml
【名古屋帯の種類】
http://www4.ocn.ne.jp/~tomasan/nagoya.html

ほんでもって、このへんか?

【フラクタルの森で考える】 
http://www.kibi.ne.jp/~genmei/furakutaru/050206.html
【フラクタルとカオスの館】
http://www.kcn.ne.jp/~saiji/entrance.htm

バリバリバリーとモリモリモリー 食べるのは、けっこうなことやけど

夜やで、寝る前には、歯みがきしいやー

投稿日時 - 2009-01-28 21:02:34

お礼

おしい脱粒機じゃなくて、
脱鞘機なんだよねー。

でも調べてくれてサンキューです。

投稿日時 - 2009-01-29 20:12:12

ANo.48

こんにちは、shift-2007さん。

【QNo.3728673 悩みとは何ですか】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3728673.html

「種」キャッチー☆

種といえば、植物、被子植物・裸子植物と…

ほんでもって、芥川ときたならば文学つながりで近松ときたもんだ

近松といえば門左衛門

で、みてけば『虚実皮膜の論』めっけー☆

…意味のない言葉はない …意味のない言葉はない …意味のない言葉はない

『近松門左衛門について』
http://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/geitohito20.htm

投稿日時 - 2009-01-28 14:59:18

お礼

悩みの種とはよく言った!

悩みは向上心の裏返しかしら。

種つながりでおしえてちょ。

落花生の殻あるでしょ?

めんたまつながりのおまわりさんみたいな形の殻

あれを剥く機械を探してるのよ

こうバリバリバリーとモリモリモリーと剥くようなやつ。

知ってたら教えて!goo

投稿日時 - 2009-01-28 17:30:44

ANo.47

勉強になった、といっても、それは「救い」とは全然別様のものですよ勘違いなさってるようなので念のため。
むしろ本来ならば、勉強する必要もなかった、しないほうがいいくらいの体のものです。

あなた自身が「自分で蒔いた種だろうが」と撥ねつけられた悔しさを抱え込んでいる人だとお見受けしました。

ご自分の見たいようにのみ見ておられるようには薄々は感じていたからこそ連投投稿になってしまいましたが、あなたと私では基本的に似ても似つかないですから、正直なかなかピンと来ていませんでした。
あなたと私とでは問題意識の在り処が根本的に違います。この点は、あなたも勉強してくださいな。

ところで私の「蒔いた種」は、もともと悪い種なんかではなかったはずなのです。ある一人の人を除いてはね。でも、一人でも「そんな種蒔かないでよ」と言う人がいればアッサリやめるだけのこと。どうしても、というほどの必要もなかったことですから。
だから、私の場合、「蒔いた種」というよりも、「蒔くのをやめた」ことが問題なんです(笑
「類は友を…」にしたって、ものの一ヵ月たたないうちに決裂しましたから、全然「友」なんかじゃないのです(笑
そもそも、引っ掛けようとか試そうとすること自体に、並々ならぬ動機がある。
相手の本当の姿を暴露しようと試すときには、まさに「穴二つ」なんですよ(笑

それにしても、こんな「熟年」やら「知識人」がヌケヌケと跋扈してるんだから、いまの若い子たち、かわいそうだなあ。

投稿日時 - 2009-01-28 07:09:37

お礼

ご回答ありがとうございます。

そもそも、私と他の人とのやり取りの中で出てきた言葉を自分のそれと勘違いしたのはnoname002さんですよ。つまりあなたのことを書いたのではないのです。けれどもnoname002さんはその中で自分のことを書かれていると思った。つまり思い当たる節があったということです。そのことに気づいたのなら自覚という意味で一つ勉強になったねといったのです。あなたや下の人は他人に助けてくれとは言わないでしょうから、気づくということは己が己を救うための大事なきっかけでもあるのではないでしょうか。

それともう皮肉を言うのはやめなさい、自分を汚しますよ。
あなたは自分が思っているほど強くない、それこそ他人を攻撃することは「穴二つ」ですよ。
孤独という墓穴を掘っていることに気づくべきです。

投稿日時 - 2009-01-28 10:24:51

ANo.46

「迷える子羊」に萌えちゃいましたか(笑
「私のクライアント」
いやいや、今や、あなたが「子羊」のクライアントになっちゃったのではなくて?

いっぺんで、あなたという人の本性が出てしまいましたねぇ。
あなたもまた、人を「救う」ことは無理な人種であると自ら暴露なさいましたね。

このたびもまた、勉強になりました(笑

投稿日時 - 2009-01-27 11:53:22

お礼

私とbrageloneさんのやり取りの中で自分を見たのですね。
勉強になりましたね。

投稿日時 - 2009-01-27 12:04:06

ANo.45

 No.43です。

 ★ (No.43お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 趣味です。

 brageloneさんも悩み事があるならここに書いてみたらどうですか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ふざけんな。

 ★(No.3お礼欄) 人を救いを風任せにはできないように思うのですが。

 ★(No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >ひとを救うという使命でも帯びているというのでしょうか。

 でも使命でなくても人はそれをするんじゃないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★(No.16お礼欄) 人を救うにも哲学が役立つしむしろ必要でしょうといっています。
 
 ★(No.19お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 メンタルヘルスや人生相談には助言を必要としている人がたくさんいますよ。
 ご自分の今まで積み上げてきた経験をその人達に還元しないのはどうしてなのでしょう。
 私は役に立ったかどうかは分かりませんがいろいろ回答してきましたよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★(No.24お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >つまり 相談者が 垣根をつくっているのではありませんか

 そうですね、そうだと思います。
 それならばなおさら回りがそれに対して手を差し伸べる必要があると私は思います。もちろんすべてを助けることはできないですが。・・・だからたぶん我々のような人がおせっかいを焼く必要があるんじゃないかと自負しております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-01-26 20:36:36

お礼

最近私の周りでは妙な風が吹いていましてね。
自覚症状のない迷える子羊が己のプライドとは裏腹に私に救いを求めてくるんですよ。
正直、あなたが置かれた今の状況はあなたが今まで生きてきた結果によるもので自分のまいた種だ。と突っぱねたいところなんですがそうもいかないので自尊心を傷つけないように、またはくすぐるようによいと思われる方向に導いているわけです。
妙にこの質問に食いついてくるところを見ると、そういう意味でbrageloneさんもどうやら私のクライアントのようなのですよ。
brageloneさんには哲学ではなく人生相談が必要ですよと風が申しております。

投稿日時 - 2009-01-27 11:03:47

ANo.44

>苦悩こそが哲学の発祥だと私は思います。
つまり、質問者さんの考えでは、苦悩こそ哲学の発祥だから、哲学は人を救うべきということですよね?

しかし、この前提(苦悩が哲学の発祥)には再考の余地があると思います。好奇心が哲学の発祥と言うこともできるからです。
苦悩が哲学の発祥であるというのは、どこまで説得力があるのでしょうか。

さて、質問者さんは、機能主義に陥っていませんでしょうか。機能がなければ意味がない。意味がなければ存在しない方がいい。
そういう理屈のように見えます。それは、あまり多面的な見方とは言えないのではないでしょうか。

個人的には、哲学は、(分かる言葉で書いてくれているのなら・・・)興味深い学問範疇だと思います。別に、そこに実用性などなくて良いと思います。アニメや漫画と同じです。哲学はあまりに現実離れしすぎていて日常生活にはほとんど何の価値もありません。
しかし、そうした「遊び」の部分は、人間にとってけっこう大切な物なんじゃないかなあと思います。

あ、一応、後付までにひとつ。
現代の医療倫理は、誰の命を救うのか決める際に、カントやベンサムの哲学を基盤にしています。医療の現場で、どういう命を救うべきなのか・・・その方針を決定するまさに核の部分に、哲学があります。
その意味では、間接的にではありますが、人を救っているとも言えなくもないと思います。
参考文献:エドガー・E・ペンス『医療倫理』みすず書房

(私の所には、無理にコメントつけなくても良いですよ)

投稿日時 - 2009-01-25 21:58:41

お礼

ご回答ありがとうございます。

要約すれば、哲学には色々な部分が含まれているということじゃないでしょうか。
そこには遊びもあるでしょうし、苦悩に対する答えを求める気持ちもあるでしょう。
その割合は人によってさまざまでしょう。遊びの部分が大きい人にはぴんと来ないかもしれませんが、
私のような人間には哲学はとても実用的なものなのです。

投稿日時 - 2009-01-26 18:50:23

ANo.43

 No.40です。

 ★ 書きたい人もいる
 ☆ これが
 ★ 言葉遊び
 ☆ でないの?
 ★☆ 単なる趣味ならかまいませんが。

投稿日時 - 2009-01-25 14:17:04

お礼

趣味です。

brageloneさんも悩み事があるならここに書いてみたらどうですか。

投稿日時 - 2009-01-26 18:03:41

ANo.42

>私もパチンコや競馬にのめりこんだ事がありますがあれは損をするために賭けるようなところがありますね。

ちょっとビックリ。御質問者さまって、捻りや個性的なものを出しながらも基本は実直そのもので、賭け事などの方面には、もとからクールな姿勢でいらっしゃる、ようなイメージでした。

最近つくづく思うに、この私に対しても、いろんな人が、何を根拠にか、いろんなイメージをもって語られるのですが、もちろん、こうした場で、自分を全部さらけ出そうと、たとえ欲したとしても、できるものじゃないですし、反面、思わぬところで滲み出てしまうものもあるでしょう。これは芥川龍之介が文学作品について言ったこととも共通します。

ですが、やはり人間のサガだなあと思うのは、しょせん「虚像」に過ぎないから、と自らが言っていても、やはり信じたいがために追いかけて追いかけて、その虚像をトコトン追求して、あげく打ち壊してしまうところまで突き進んでしまったりもするのですね。こうなると紛れもない悲劇です。
こんなことなら、自分にとって心地良いイメージを信じたままおればよかったろうに、と思います。
でも、信じているだけでは済ませられなくて、確かな手応えを求めてしまうわけですが。。。
ですから、こういう人が、しょせん虚像だろ、なんて嘯いてるのは本心ではない、ということ、自ずとバレてしまいます。

たとえば火事の下手人さんが「バチあたれ」とか「ざまあみろ」と言ったのは「虚像」が言ったに過ぎないのだよ、としても、言わせている者はいるわけですし、私が目をつけるのは、単語そのものの意味ではなく、その単語を選択させているものにあります。そこをいくら言っても理解できなかったらしいのですがね(笑)

>楽しくない遊びは遊びとはいえないですね。
お金を出して楽しくない遊戯をするのですから人間というのは不思議な生き物

私が問題視しているのは、他者が楽しくはない、むしろ不快、苦痛だ、と訴えていることを楽しむ、という精神性です。
そればかりか、そのことがまた、結局は自分自身を破滅に追いやってしまうということ。
仰るように、そこには人間の根深い心理的問題が横たわっているとみております。


>他者との関係に強い興味を持っておられるようですね。

御質問者さまも、そうではないですか?以前に、確か、そのことに関して、お話させていただいたことがありましたね。
心理に関する問題と切っても切れないことです。

>私は男なので天上天下唯我独尊みたいなところがあり、今回の質問は自戒の意味も含んでおります。
言葉と行為の乖離は哲学にはついて回るのだろうと思います。
花という言葉は花そのものではない

ええ、以前どなたかの御質問で、哲学や論理、理論に拘る男性特有の傾向性があるとしたら、それは恐らく或る種の脆弱性に発しているのではないかと指摘したことがあります。
まさに「埋める」道具でもあるのでしょう。
先述した科学の専門家氏、この人は最初期の頃から、「ひょっとして意外なくらいニブさ極まる人かも?(汗)」と思わせられましたが、彼は、まさに「花という言葉は花そのものではない」ことに満足できず、そのためにこそ理論という枠を嵌め殺しにしてみたり、もう信じていいのだ、という場所に辿り着かんがために足掻きを繰り返しました。

哲学についてまわる「乖離」、これは哲学だけの問題ではないでしょうけれど、いずれにせよ、当然ながら「乖離」が決して目的ではないのだ、ということは、じゅうぶんに窺えます。


精神や心理方面の医師なり専門家でもない者が、自分の生業の糧や何かの目的に役立てるため、他者の心を実験し、幾度もの追試を繰り返して、それを炙り出そうとするための場を許しておいていいのか、という、このことは、これからのネット社会で見過ごせない問題になりかねないと私は危ぶんでいます。
このサイトでも常に警告されていますよね、質問者に対して病名を付けたり、診断的な行為はしないこと、という。

これだけ精神分析や心理学方面の知識が一般の人に広がってきてますし、そうした知識を、なまじな専門家それも本来は分野外の者が、その優秀な頭脳でもって、あくまで理論としての知識を振りかざし、しかも予備情報を持たない初対面の者を実験する、そういう場への未練と執着を、いまだに保ち続けているような連中もいるようです。
専門家だの会社経営者だの大学教員だのといった立場にいるという連中がやろうとしていただけに、タチが悪いと思ったのですけど。
私が出した質問『力の刻印』は、そのあたりのことも問いたかったのですが、なかなか、そこまでの問題意識を持っておられるかたは少いようです。
いずれ私の手で、何らかのかたちで明るみに出そうと思います。
御質問者さまが仰るように、「救う」こととは正反対のことですから。
このサイトに参加してから、よく思うのは、学問精神の歪みです。

投稿日時 - 2009-01-25 10:48:36

お礼

ご回答ありがとうございます。

江原さんに言わせると今の時代は権威が崩壊してきているとのことです。
会社、政治、ヒーロー、宗教などなど
自分を律することにみんな躍起になっているんじゃないでしょうか。
その過程で皮肉屋になったり、言葉をもてあそぶだけの人になったりするのかしらと思います。
寄るべき大樹を失ったなら人は自分で立たなければいけませんので今はその試行錯誤の時代なのだろうかと思います。
関係とは自分を映す鏡だといった人がいました。
類は友を呼ぶのことわざもありますので、私たちは反面教師の中にも自分の姿を見ることができるのではないでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-26 17:59:56

ANo.41

おはようございます、shift-2007さん。

●怖っ、何で埋めるつもりだ!!



埋めるって…?  

埋め… 人を呪わば… 穴二つ… |(><)| キャッー☆

もうー、コワイってば.

あぁ、コワイといえば…

どうして、教育費ってこうも高いんでしょうかねー?

オヤジの給料の内、教育費の占める割合は… 

どこぞから、オヤジのため息が… トホホ

泣くのはまだ早い! 

うめあわせしましょ。

『SWEET MEMORIES』
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND2684/index.html


ねじり鉢巻 汗かいてください ガンバ

【ドリル】
http://dorilu.net/
【目次】
http://okawa-denshi.jp/techdoc/
【ラプラス逆変換】
http://okawa-denshi.jp/techdoc/2-1-6Rapurasuriten.htm

投稿日時 - 2009-01-25 04:03:12

お礼

穴の中には竈馬がみっしり・・・・
萌ぇぇ

投稿日時 - 2009-01-26 00:21:50

ANo.40

 哲学は 迂回生産です。
 ひとをすくうということを生産に喩えるならば 超迂回生産です。
 また それで いいのです。そういう道もないのならば 人間は・社会は いやに あせって生きているということになるでしょう。

 迂回の度合いも さまざまに あります。
 それぞれ あとは 自信をもって 取り組めばよいのです。言葉遊びしか出来ないひとは 放っておくしかありません。百科事典から引き出してきて ここに 回答を書いている場合などです。

 なんで こんな当たり前のことで 長々しく ひまを費やしているのか shift-2007さん!! そのほうにこそ 疑いがかけられますよ。

投稿日時 - 2009-01-23 14:31:00

お礼

回答する人が絶えないのでお礼が追いつかないからまだ開いているのです。
でもやっと追いついた。
それに書きたい人もいるでしょうからもうしばらく開けておきます。

投稿日時 - 2009-01-25 00:00:36

ANo.39

あたるも はっけ?


みあって みあって

はっけ ようーい!

見料って… (|||_|||)とるのかよー

さて、これなーんだ?

o(^-^)oo(^▽^)oo(^-^)o

ガチンコ?


ちゃう


おそらく…


あとに“笑う”と言葉がおかれている…

そして…

付け加えたかのような
[[なぞの“鞄”]]


浪つながりか?

浪漫飛行か?

いやいや

浪はダミー

次の漫にあたりをつければ…

笑ー鞄ー漫

“もぐろふくぞう”が浮かび上がってくる

『笑うセールスマン』

転じて…

巡回セールスマン問題とみた!

(これを解けってかぁ?)

大の字に小の字がのっかると…

尖(でこぼこフレンズ~♪)



くちびる ツンと 尖らせて~♪(*^-^)b

投稿日時 - 2009-01-23 13:09:35

お礼

心の隙間お埋めします・・・・
怖っ、何で埋めるつもりだ!!

投稿日時 - 2009-01-24 23:55:55

ANo.38

質問者様がもし、哲学という学問全体を貫くイメージとして「言葉遊び」とおっしゃられているのならば、「哲学は人を救うべきものだ」という質問者様の哲学観の方が誤認であるという可能性はないですか。哲学全体が全然「人を救う」方向に向いていないという印象を受けられたのなら、普通は、自分の哲学観の方を修正するものではないでしょうか。

実際、私も哲学が「人を救う」方向に向いていないのは明らかなことだと思うし、それどころか哲学はあまりそのようなことに関心がないと言えます。しかし、哲学がある時点で「人を救う」という本来の目的を忘れて、違う方向へ向いてしまったというのならまだ話は分かりますが、哲学という学問の発祥からして(詳説はしません)、「人を救う」という方向にはそもそも向いていないのですから、「哲学は人を救うべきもの」という哲学観の方がそもそも誤解だったということになりませんか。

投稿日時 - 2009-01-23 13:01:07

お礼

ご回答ありがとうございます。

哲学のあるべき姿をどうこう言うつもりはないのですが、
本来人は哲学せずにはいられない生き物だと思います。
なぜ哲学するのかは自明で生きるうえでの苦悩がその発端ではないでしょうか。
精神の不安定さが哲学を求めるのではないでしょうか。
ならば哲学者が哲学によって得た英知をつかって人を救うのは不思議なことではないと思います。
苦悩こそが哲学の発祥だと私は思います。
ほかの人の哲学観がどうであれ人を救うことに何か問題があるとは思えません。

投稿日時 - 2009-01-24 23:52:12

ANo.37

火事の下手人さん(自首?)よほど構って欲しそーなので、一度くらいは目鼻をつまんで(鼻はつまめるけどさ~?)「大目にもって」みましょうかね(笑


ニョウボ泣かすは そっちの勝手
他人泣かすな どあほヘボ落語
(いつになったら上達すんのかねー。向いてないんじゃない?)
(「どうもすぃません」額にゲンコツをかざす)


文句はあるけど呼んでないゾ。


「罰あたれ」「ざまあみろ」とか言ってるうちに
金のわらじ履いたまま、からっぽの鞄さげて、ま~た家出されちゃったよぉ凸(▼▼メ)ミジメミジメ~♪(笑

(「どうもすぃません」額にゲンコツをかざす)

さあ皆さん笑って笑って。見料も お忘れなく!(削除もネ♪)

投稿日時 - 2009-01-23 12:15:31

お礼

あぁ男にはわからない女同士の不思議コミュニケーションだ。

投稿日時 - 2009-01-24 23:39:33

ANo.36

おはようございます、shift-2007さん。

●昔話のわらしべ長者はなにを示唆してるんだっけ?


“姉さん女房は金のわらじを履いてでも探せ”


『浪花恋しぐれ』
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND3425/index.html
~♪芸のためなら 女房も泣かす それがどうした 文句があるか~♪
~♪雨の横丁 法善寺 浪花しぐれか 寄席囃子~♪
~♪今日も呼んでる 今日も呼んでる ど阿呆春団治~♪

【東西落語特選―『厩火事』―】
http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/umayakaji.html

人の営み 古今東西

投稿日時 - 2009-01-23 09:54:21

お礼

そうか、姉さん女房はそんなにいいのね。

でも、ぴちぴちに惹かれるのは本能なのよ。

心と体の乖離だなー

>それがどうした 文句があるか~

あるよねー

投稿日時 - 2009-01-24 23:35:50

ANo.35

「アフレコ現場で様々な断末魔演技が開発され続け、声優の言葉遊びの中から生じた叫び声もある。さらに物語が進むにつれて、とても断末魔とは思えない所までエスカレートした。」
やがては声優たち個人の欲求を混入させようとし始めて、それはもちろん却下され、たり、しなかったりだったそうです(爆

御紹介いただいた質問者さまの過去スレを拝見したあとから思ったことがあって、さらに追加投稿となりましたが
病名をつけることによって生じてくる種々の問題たとえば甘えとか。これは「理論ありき」の場合に惹起される問題と同じことみたいです。
理論どおりにしか行動できなくなる縛り、理論を前提にしてるのだという言い訳でしか発話できない。。。むしろ「理論」のなかでなら言ってしまっていいんだよ、という「隠れ蓑」。
だけど、どうしたって、そうはいかないんですよね、生きてる人間ですもの。まさに「アタマ隠してシリ隠さず」。(笑)
で、はみ出す部分が隠しきれなくなると「辻褄が合わない!」と騒ぐことになる。
「こんな私に誰がした」(爆)

「…「ゲームの範囲」がどこまでかをめぐるトリック」
たとえば、これは「理論」に則った発言であり、どこまでも「コトバあそび」に過ぎないのだ、と言い張ったところで、その「理論」の存在を知らないゆえ、それに則っていないことが分かっている者の発言には思わず拘ってしまう、異様なほどに。
この異様な拘りから、たちまちにして「対称性の破れ」が惹き起こってしまう。
だいぶ以前に、私が回答で述べたことですけど、まさに「コトバを軽んじる者はコトバに裏切られる」のです。
そもそも、真っ直ぐに向けられたコトバを、自分に都合のいいように、いじくりまわして継ぎはぎし、似ても似つかぬものに作り変えてしまわずにおれないのだとしたら、それが自然な成り行き、つまり自然のあそびではないのであれば、どうしたって動機は問われます。
「だが「正解」は、その規則が適用される範囲、つまりゲームの範囲の外にある。」
「そのゲームの範囲の外に、本来のゲームの範囲があることを発見すれば、初心者の勝ちなのである。」

コトバを自分の手のなかに捕え、ぐちゃぐちゃに握り潰し、つごうよく作り変えてしまいたい、、、本来は、コトバに対する大変な怖れが潜んでいるのかもしれません。ならば、そういうやり方では克服できないのですけどね。
愚者の悲喜劇です。
巻き込まれる者は大迷惑!(笑)

参考に挙げました『恐怖のシンクロニシティ』のなかで、こうも述べられています。
「だからこのゲームは、その場にいるほとんど全員がルールを知っていて、それよりも少数の人がルールを知らない場合にのみ、おこなわれる。全員がルールを 知っていたら意味がないし、反対に、ひとりだけルールを知っている場合は、ゲームができないわけではないが、そのルールを知っているひとりがみんなから の敵意の的になる。」

これは実際、私自身が経験したことなのですが、全員がルールを知っているなか私一人が知らずにいた、その「ルール」のもとになっている、ありとあらゆる「理論」の存在は知らずにいたからこそできたゲーム。どうやら彼らは、「あそび」と称して、その類の「ゲーム」をやっているらしいということには、わりに早くから気づいてましたから、私は、そういうやり方に抗議する気持ちを込めて自分なりの哲学と思想を貫きました。
それが彼ら側からすれば、私一流のマイルールを秘匿して自分たちを逆に翻弄しようとしている、こんちくしょう!と思ったようです。自分たち自身がしていることを、ナマイキにも今度は私のほうがやり返し始めた、というところでしょう。
だからこそ、ある女性などは執拗に私に付きまとっては「奥歯にモノ挟まっとんかい本心を言えー!!」と言い続けたわけです(笑)
とは言え、以下の部分も『恐怖のシンクロニシティ』からですが、その女性の姿にも重なるところではある、とみています。

「ユーニス・パーチマンがカヴァディール一家を殺したのは、読み書きができなかったためである。
 主人公ユーニスは中年過ぎた家政婦さんで、金持ちのカヴァデイール家に雇われるが、文盲であることを隠していた。そして彼女は、必死の努力と知恵で、文字が読めるように振舞うのだ。
「そこまで苦労するなら読み書き習えばいいじゃん!」と思ってしまうが、コンプレックスと裏腹に妙なプライドがあるユーニスは無学である事実をひたすら隠し、カンニング的方法で切り抜けることばかり巧みになっている。
 ところが、そんな綱渡りにも破局が訪れる。…」

そして案の定、と言いますか最終的には私を狂気じみたKY呼ばわりし始めました。これ、最先端をいく科学の専門家を自称する、まさにテツガクを趣味とするインテリの男が言ったことですよ(笑)
実際、私が「くだらない」と言ったとき、その専門家センセイは「発展性のないことを言う情けないパー」と仰いました。
「ルールがばれた時点で、そのルールのくだらなさ、というか「悪意」があらわになる。」
そこまで悪気はない、とかイロイロ言い訳だけはしてましたが、事実やってしまったことは取り返しがつかないのですね。彼ら自身が、です。

「空気が読めないのは困るが、ちゃんと空気を読み取ったうえで、あえてその空気に亀裂を入れることも、時として必要になる。いや、あまりに素朴で純真なために空気が読めないということも多い。が、そういう空気の読めない素朴な視点が、その空気の邪悪さ、あるいはくだらなさを暴露することがある。アンデルセ ンの「はだかの王様」を思い出してみればいい。」

この始終をテレビドラマ気分で眺めて喜んでる人もおられますけど、ま、そのていどの、ですね。

いかがですか、「救う」以前の問題もあるわけです。「あそび」と呼ぼうが「シュミ」と呼ぼうが。
前前回ご紹介した心理学カテでの私の質問スレ、新たに継続させてますが、御質問者さまのようなかたにも関心を持っていただきたいものと思っています。

投稿日時 - 2009-01-23 08:45:17

お礼

ご回答ありがとうございます。

他者との関係に強い興味を持っておられるようですね。
私は男なので天上天下唯我独尊みたいなところがあり、今回の質問は自戒の意味も含んでおります。
言葉と行為の乖離は哲学にはついて回るのだろうと思います。
花という言葉は花そのものではないのですから。

投稿日時 - 2009-01-24 23:31:15

ANo.34

お礼と補足、拝見しました。
『北斗の拳』って「ひでぶ~」とかいうの?
「あべし」は写真とるときスマイルに使える!
それくらいしか知らないのよ(笑
仕方ないのでウィキを見てみたら「ひでぶ」というのは原作者の悪筆が原因の誤植で本当は「ひでえ」が正しかったんですってね。
アニメ版では、「やられ役」たちのレギュラー出演者らにより、アフレコ現場で様々な断末魔演技が開発され続け、声優の言葉遊びの中から生じた叫び声もある。さらに物語が進むにつれて、とても断末魔とは思えない所までエスカレートした。んだそうな。(爆
まぁ「ひでぶ」や「あべし」で救われる人がいるなら、それも楽しいなぁとは思います(笑
>気に入った女性に
気に入りかた、ってのも、いろいろあるんですわねぇ。
「焼印」って、、、牛扱いか。そのうち鼻輪も付けさせられそう(笑

御紹介のスレッドも拝見しました。いい内容ですね、見落としがちな問題だと思いました。

>極端な形而上学的思索に夢中になりすぎることに釘を刺す

御気持ちは理解できますよ。♪命短し、救えよ哲人。(笑

また少し考えてしまったのですが
御質問者さま仰る、このような場での「救い」とは言わばボランティア精神でしょうか。
ボランティアというのは本来まさにステイタスと余裕のある人が行うものなんだそうですね。それができない、する気もないというのは、実は、その人自身が余裕がない、ということなんでしょう。
だいたい、このカテだけみてても、この人自身メンヘラじゃないの?って思っちゃう人多いし。。。
ですから、どなたか仰ったように、回答する側自身が、そのことで救われてる面もあると思います。もちろんコトバの宿命的なものと同様、両刃の剣ですけど。
私自身、なんとか正気を保ってこれたのは、コトバの力、論理の力に助けられてる面が大きいのですが、でも、コトバの力で正気が保てなくすることだってできるのですもの。

ところで、私自身、以前から考えていたことなんですが
形而上学は「あそび」か
肝腎の「あそび」とは いかなるものか、ということが置き去りになってるのではないでしょうか。
余裕のない、ガチガチの「あそび」なんてものがあるのかどうか?
酒色や賭け事に耽ったりすることも言うのですが、これは何かしら良きものを産み出す前に身を滅ぼしますよね。
「あそび」というコトバにかこつけて、その実そうではないこともありますから、こういうのには騙されたくないなぁ。。。
「殺しのゲーム」という名称もありました。
万人の万人による戦い。こういう状態のなかでは、やるかやられるかになってしまって、とても余裕なんか持てないでしょう。こういうのを求めてやまないとしたら、それは「あそび」なんかじゃなく、アディクトじゃないでしょうか。

たとえば、こういうゲームに参加することで居場所を確保しようとする者もいれば、できない、それを選択しない者もいます。
『恐怖のシンクロニシティ』
http://blog.tatsuru.com/2008/01/05_1559.php

教祖をうち立て、自らはファシリテーターとして君臨しようと無理な足掻きを繰り返したものの、宗教にまでたどり着く前に崩壊した「アッシャア家」の荒地が紹介されていて思わず苦笑してしまいましたが、ここに住み着いておられる(た)かたたちは、リアルでは、けっこうな生活おくってらっしゃるリッチマン揃いで、だからこそ「形而上あそび」に興じることができているんじゃ~ないですか。「救い」の優先順位としては低くていいんじゃないかと(笑
意味があると、かえってシンドイこともあります、問題は「有害」になっちゃってる、ってことでしょう(笑
いかなる理論であっても、広い意味での自然に則ったうえで、こういうふうにできてるはずだという確信が得られてから実践に移せます。
ところが、最初に理論ありきで、まるで逆算するようにして無理やり形式だけ理論どおりにもってけば、うまく行くはずと目論んで大失敗することがあります。まさに、その理論を無理になぞろうとする舞台には、自分自身という自然を加えていることを忘れてしまってたのですね。これは愚かの誹りを免れなくても仕方がないです。これこそが理論信仰という一種の宗教的思考停止なのですから。
何ものかを救うために別の何ものかを犠牲にする、というのは、これをも「愛」のうちに含めるとするなら、まるで原初の鬼子母的な愛ですが。。。

>対処療法的(一時的には)には有るでしょうが。逆におかしくなる事も多々有るみたい

私も、これは実感してます。

われわれ皆、自然の強制力に従いつつ生きているのは確かです、かえって、そのことによって、いろいろなものを産み出してもきました。しかし人為で人工で強制してみたって、そこから何か産み出せるかといえば、逆の結果に陥りがちなのが人の限界という現実ではないでしょうか。
生かしもするし殺しもする、だけど自然自身は無理、無駄を行いません。
自然の営み自体が神のみわざ、と言いますけど、「汝、殺すなかれ」とも言ったといいます(信者だけ、という意味?)。
人為で いかに救おうとしても、最後は、その人の力です。それも自然のうちなのでしょう。
私たちは、せいぜいサポートしかできない、自然を あまねく支配する神のような存在ではないのだから、無駄に殺すことまで引き受けることはないんじゃない?と思います。

素粒子の観測問題を考えてみても、その反映のありさまには、自分自身を問われるものがあるように感じます。

投稿日時 - 2009-01-22 09:08:31

お礼

ご回答ありがとうございます。

私もパチンコや競馬にのめりこんだ事がありますがあれは損をするために賭けるようなところがありますね。
楽しくない遊びは遊びとはいえないですね。
お金を出して楽しくない遊戯をするのですから人間というのは不思議な生き物です。
確かに遊びというのは不思議ですね。
ある人に言わせるとこの世界は神様が遊びで作ったそうですから。

投稿日時 - 2009-01-24 22:47:44

ANo.33

哲学も宗教も人も、人を根源的には救えません。対処療法的(一時的には)には有るでしょうが。逆におかしくなる事も多々有るみたいですね。

救えると思う傲慢さを捨てれば、或は救われることを諦めれば、お天道様は救ってくれます。無学の智恵です。

投稿日時 - 2009-01-22 02:18:40

お礼

ご回答ありがとうございます。

根源的というと少し大げさな気がしますが
>救えると思う傲慢さを捨てれば、或は救われることを諦めれば
これもまた哲学の範疇のようにも思います。

投稿日時 - 2009-01-22 21:44:11

ANo.32

No.13とNo.20にて回答したものです。

全体的な流れを見ていると、「極端な形而上学的思索は避けるべき」という流れがあるようですね。

たとえば、
:回答番号:No.28
> 私としては極端な形而上学的思索に夢中になりすぎることに釘を刺すつもりでした。
> 過ぎたそれは恐らく現実逃避の手段としての哲学であるのかもしれません。
> なれば人にかまう暇などないというのもわかる気がします。

です。

「果たして、極端な形而上学的思索は、人を救えない」のでしょうか?No.20にても、逆説的な意味で「極端な形而上学的論争が多くの人々を救ったであろう例」を上げていますが、今回は私自身の経験を踏まえて書いておきます。
===
私が中学・高校生の頃、マイコンキットの出始めの頃なのでネットなんて言うものがなかった時代、様々な心的葛藤を含む思春期の悶々たる思いは、大学ノート10冊程に書き散らされています。

生きる目的・死後・自殺する友人・事故死した友人・恋・性・家族内の宗教的葛藤等々。。。

生きていこうとするならば、避けて通ることの出来ない形而上学的問題が眼前に横たわっていました。

当時は受験勉強で忙しい(だろう)時期であったにも関わらず、深夜のラジオ番組を聴きながら、答えのでない問題であろうと、なかろうとに関わらず、考え続けねばならないという状況にあったといえます。
もし、そういった「極端な形而上学的思考」に関して思索することを止めていたら、私は、私自身の心・人生に終止符を打っていたかもしれません。

そのころの自身の自身に対する格言(戒めの言葉)の一部です。
「這いずり回って得たものは大きい」
「格言を真の意味で理解するのは、経験した後であり、遅すぎるのである」

いくら「極端な形而上学的論争が無意味」だとか、(ヴィトゲンシュタインの)「語りえぬことに関しては沈黙しなければならない」とかいう言葉(知)を知っていたからといって、それだけで(極端な)形而上学的思考を停止するということが出来るのなら、それは、自身の自身に対する「思い・情」を堰き止めて(せきとめて)しまう行為に繋がることでしょう。

短く・儚い(はかない)人生であるにも関わらず、成長過程での1ページでは、その後の人生の数倍の思索が綴られることもあるわけです。

ネットの出現(「情」報ではない「状」報=「知」の氾濫)が、そういった個人個人のレベルでの自身の人生に深く関わる(情的な要素の大きい)思索というものに対して、どのように影響しているのかは興味深いところですが、少なくとも、他者の(極端な)形而上学的思考や論争というものを見る機会は増えている訳ですから、思春期の(過去の私を含め)彼ら自身の人生に対する悩みに対して、直接的・間接的に救いとなっている場合もあり得ると思います。(「間接的に」とは、一言で言ってしまえば「人の振り見て我が振り直せ」です)

もし、「極端な形而上学的論争は無意味だから、止めてあげることが救いに繋がる」と思っている人がおられるならば、下記にて論争がくり返されていますから、救ってあげてください。

http://philo28-forest.1616bbs.com/bbs/

投稿日時 - 2009-01-21 04:10:03

お礼

ご回答ありがとうございます。

10代のころのそれ(形而上学的難問)と私のような熟年のそれはずいぶん違うようにも思います。
若いころはそれを見出すことによって今の自分の存在の理由付けをしているのではないでしょうか。
なぜ学校に行かなければならないのか、なぜ生きねばならないのか。なぜ死ぬのか。
そういう意味で当人にとってはとてもリアリティのある事柄なのだと思います。
幸か不幸か我々大人はその問いについては『問わない』という暗黙のルールが出来ているようです。
それでも問うならもちろんそれはいいのですが、その理由が現実逃避でないこと、その結果得たものを他人に還元すること、は大人の哲学者にとっては必要なのではないかと思うのです。

前回例に挙げていただいた仏陀の例は無記ですね。
私が思うには形而上学的な事柄は今の実生活上で起きている諸問題を解決する助けにはならない。あの世に極楽を求める前に、今この生きている世界を極楽にせよということだと思います。

紹介していただいたリンク先は面白そうですね。
止めてあげることが救いに繋がるわけではないですが私なりの救いをしてみたいと思いました。

投稿日時 - 2009-01-21 17:04:46

ANo.31

言葉遊びに堕する哲学論議は多いと思います。しかし、人間が精神活動をする以上、なんらかの形而上的な考えをもつのは必然的であり、それについての類型化、系統化は道具的に役に立つことも多いと思います。

すなわち、それはプラトン(もしくはニーチェ)的考えと類似しており、このような帰結と限界があると予見できるといった感じです。人を救えないといったら、学問(特に文系の学問)の多くは直接はひとを救っていません。しかし道具にはなっているのです。よって、言葉遊びにすぎないとするのは言いすぎでしょう。

「リアリティのない極端な形而上な事柄への思索」がどのようなことを指すのかにも拠りますが、それが人を救うことを前提としていなかったとしても、道具的に役に立つことを否定できない場合(否定することが難しいのでこの場合が多いかも)、言葉遊びにすぎないとするのは言いすぎでしょう。

繰り返しますが、実際には言葉遊びに堕する哲学論議は多いと思います(苦笑)。私はそういった論議を軽蔑します。

投稿日時 - 2009-01-20 17:40:33

お礼

ご回答ありがとうございます。

結局はその道具をどう使うかが問われるのかもしれませんね。
バランスが大事ということなのかもしれません。

投稿日時 - 2009-01-21 16:38:57

ANo.30

仰るように それは「趣味」でしょう
第一に 人を救うなんて傲慢すぎますし
仮にそんな使命感を持つ人がいるとしたら、
おおきな思い違いであると思います。
それを目的とするなら、
哲学はその機能もなくその力もありません。
実体がない言葉をいじるのですから リアリティなどそもそもありません。
また、自重するもしないも、趣味の範疇であればOKだと思います
もっとも、趣味によって気晴らしができるという
非常にライトな救いはあるかもしれませんね。
まあ、適当にやる分には、楽しい遊びですね。

(真剣に取り組んでいる方 すみませんね)

投稿日時 - 2009-01-19 16:30:49

お礼

ご回答ありがとうございます。

哲学にとっての使命なんて問うつもりはないのです。
哲学を趣味とする人にはある種の力があるのです。
その力を使うと他人の助けになることがあるのではないかと思います。

この国では年間3万人の自殺者がいます。
原因は色々でしょうが人の心理によって死ぬという意味では同じものです。
心理カウンセラーとは違うやり方でしょうが、哲学者は心理に対して精通しているところがあると思います。
どなたか言っておられましたが、哲学者で自殺する人はとても少ないとのことです。
その力を役立ててほしいと思うのであります。

投稿日時 - 2009-01-21 13:21:34

ANo.29

哲学的思考にはあまり縁のないものの独り言として、
「たしかにそういう側面【も】あるでしょう」というのが端的な回答になると思います。
【も】と述べたのは、つまり、私の見解の要旨はどちらも人を救う可能性はあるだろうし、そうでない可能性もあるのではないか。
ということです。

「救う」ということですが、人は様々なことによって救われることがあり、その対象は人それぞれ千差万別でしょう。
全くの無関心が人を救う場合もあれば、深く入り込んでくる関わり合いが救うこともあります。
人間関係カテで学校でのいじめに関する相談をし、もらった回答で救われる人もいれば、この哲学カテでのやりとりを見て新たな視点のヒントを見出し、そのことによって救われる人もいるでしょう。
それは個々の現在おかれている状況によって異なるはずです。
その意味で、「>哲学があるいは哲学者が人を救うことができない」という前提は除かれるべきと思います。

>或いはする(=救う)つもりがないなら、それは言葉遊びの探求ということではないでしょうか。
:「つもり」があるかどうか、という点に関して。
「救うつもり」という意思が強ければ強いほど、相手は救われないのではないか。
と私は考えます。
本当に救いたければ、「結果として」救うことになる、という方向性で進むべきです。
なぜなら、「救われたという事実」は救われる者にとって確かに嬉しいことに違いはありませんが、無意識領域においては必ずや負担になるはずだからです。
最も留意すべきは「救ってもらった」という印象を相手に残さないことでしょう。
この点で、「直接的救い」にもまして「間接的救い」の有意義性は認められるべきだと思います。
哲学における救いの最たるものは何か、と問われれば「視点の転換」ではないでしょうか。

つまり、「>つもり」があるかどうかということは大した問題ではないように思われます。
たとえばですがフィギュアスケートの浅田真央は人を救うために演技するわけではないでしょうが、どんな理屈より救われる、と感じる人は多いと推測できます。
同様の理屈で、「言葉遊びの探求」が人を救わないとは言えませんし、個人的にはむしろ他の救いと比較して遜色はないのではないかと思います。
よって、
「>リアリティのない極端な形而上な事柄への思索について自重すべきではないでしょうか。」
というご意見に関しては、「その必要はないでしょう」というのが私の考えです。

因みに、このサイトにおいては、質問する人、回答する人、どちらも「救われる人」である。
というのが私の持論です。
どちらが上位ということは【全く】ありません。
自分の考えを表明できる、ということ自体がまさに救いの一種であるからです。
・何を質問し、
・どのように答えるか、
ということは、本質的にはその人の自己救済のスタイルではないか、と思われます。
shift-2007 さんのこの質問にしてもそうだと思いますが、基本的にはおっしゃりたいことはよくわかります。
最初に【も】と述べたのはおざなり表現ではありません。
「人を救えぬ哲学は言葉遊びではないか」と言わざるを得ない状況というのは【間違いなく】あることでしょう。
ただ、「常に」ではないわけで、その選択は個人に委ねられるべき事柄と考えます。
「他者を救う」といっても、所詮は「自身を救う」ことに他ならないのですから。
自我と超自我のバランスはここ(救うという状況)でも求められざるを得ないはず、と思います。
しかし、すべて目論見済みとすれば、意見の表明としてはインパクトのある効果的アプローチでしたね。

論点がずれているかもしれませんが、素人(ということを逃げ口上にするつもりはありませんが。と、わざわざ断るということはやはり逃げ口上にしてるのかな^^;)ゆえとお目こぼしのほどを。
 

投稿日時 - 2009-01-19 13:45:07

お礼

ご回答ありがとうございます。

縁なき衆生は度し難しなんて言葉がありますが、逆に言えば救われたいと思うなら案外それはたやすくて、色々なところにヒントがあるということかもしれませんね。
全ては受けてにゆだねられているのですが、私はももう少しおせっかいな役回りをしていきたいと思います。

>すべて目論見済みとすれば、

そうでしょう?なんちゃって。

投稿日時 - 2009-01-21 13:12:31

ANo.28

またぞろ長くなりそうですが、御容赦ください。

「仕事」と「遊び」を厳然と分けて考える方、という御指摘がありますねぇ、これ、なにも質問者さまだけじゃなく、この私自身も、最近あるかたからそういうふうに言われたことがあるんです。私としては、そこまで区切った考えでいたわけじゃなかったんですけれども。。。まあ、めったなことを言うわけにもいかない事態になってしまってるのに気づいて、黙っていたのですけど。

そうですね。。。
「救うか」「救えるか」「救わぬか」「救えぬか」ということ、これを追求しだすと、いかにも難しい。前回も申し上げたと思います。
哲学が、そもそも「救う」といった目的を最初から背負っているわけでもない、それもそうです。

「救う」気持ち自体はあるとしても、そのなかにおいても積極的か消極的か、の違いが出てきます。
たとえばメンヘルや人生相談カテの質問者を救いたかったら、このカテゴリーへ案内せよといった考え方、これ、ちょっとお役所的ですね、「求めよ、さらば…」なのか知りませんが、救う、救いたい側として積極的な姿勢とは言えないでしょう。それよりは、「救われたい」側のほうの積極性をこそ要求しているように感じます。

ところで、たとえば病気になったときのことを考えてみますと
本当に痛い、苦しいとき、女性特有の病気なんかですと、そういうことも、ままあるのですが、病院に助けを求めに行くという、そのこと自体が困難で、部屋のなかでジッと横になっているしかない状況もあります。そういうとき、昔のお医者は気軽に往診ということをしてくれたのでよかったよなあ、と思うことがあります。

せっぱつまってる人って、余裕がないのが当然ですよね。
遊ぶのも机上の議論を闘わすのも、おなかを満たしてくれるわけじゃない。夢中で遊ぶ幼い子どもだって、おなかが空き切って寒い思いをしていたら遊ぶどころでなく、保護者の温もりを求めて泣き叫ぶでしょう。
愛と美の女神ヴィーナスといえど寒さに凍えたら、顔をしかめて蹲ってしまう(そんな昔の西洋絵画がありますね)。

私が、まだ実家にいた若い頃、庭にノラ猫たちが居ついてたことがあるのですが、なかの一匹が、小さい子猫の乳離れが始まると、なにかと狭いひたいで画策しては、私に自分の子どもたちの面倒を託そうと計るのです(笑)
あるとき私が、まだじゅうぶんに懐いていない子猫たちを持て余して、その親である猫に向かい、手近にあった丈の長い草を手折り、それを使って(私が)じゃれ始めたところ、猫は、すまなさそうな表情をして(ホントですよ)しんどいの、ごめんね、と言わんばかり私の膝に2、3度頬を擦り付けた、そのあとすぐにトボトボと去って行きました。
それっきり、もう会うことはなかったのですが、ご近所の話では、ひとり静かに、こときれていた、と。
ずいぶん前からシンドそうにはしていたので、私の母が「これ、もうながくないで」と言ったりしていたのでした。
乳離れ前に残された子猫たちも、生きのびることができませんでした。これにもエピソードがありまして、やはり近所の人の話ですが、飼ってるオス猫が、そこの家の庭先で横になっては、残された子猫たちに、出るわけもない自分の乳をふくませてやっていたそうな。
家の人が、子猫から引き離し、オス猫を家のなかに閉じ込めると、ガラス戸越しに子猫を見ては啼いていたそうです。

それにしても、先ごろ、空腹の女性浮浪者が市役所で「ごはんを食べたい」と言ったら、公務員がレンジでチン用ご飯を冷たいまま渡して放置していたところ、その女性も、ご飯同様そのまま冷たくなってたとか。こういう現実の人の世です。

これは私自身の体験から言うことですが
救うとか救わない、哲学だ遊びだ、という前に、
「救う」とは逆のこと、すなわち
「殺す」ということについて考えるときではないか、と思います。

今回、こちらのスレに参加なさってるなかに、とくに、このことを考えていただきたい(できそうにないですが)人が混じっておられます。
文学を或いは科学でも、まるで商売道具として役立てることしか考えられないような人に、そもそも哲学のあり得べき姿を論じることなど無理な相談でしょう。
人を試すことで「文学」の題材にしようとする人もいるし、また、人を試して「科学」の資料にしようとする人もいる。こういうのは、その人自身が文学なり科学なりに使役される、まさに「道具」側なのです。
哲学は、そういったことも含め全てを見渡し思索する人のものではないでしょうか。

なにごとかに使えるか使えないか、という基準に限るのでしたら、それは道具的に扱う視点になりましょうか。
花をいけるための花瓶が、殺しにも使えるわけです。
毒もスパイスになり得る、でもスパイスそのものを食べたいわけじゃない(笑)

救うつもり或いはサラサラ救うつもりなどなかったのに、逆の結果になった。

実際、人は一輪の小さな花を見て自殺を思い止まりもするし、たった一言のコトバ、それこそ「ことば遊び」で死に赴くことだってあり得るのですね。それは、精神的なことも含めてです。

そういうことであれば、われわれに可能なことは…

いずれにせよ、経験量や思索の視野が狭い人に、他者を救う、ということが、はたしてどこまでできるものか、私は甚だ疑問なのですけれど。
また、とことん他者に寄り添い続けるということが、どのように覚悟を強いられるものかも少しは知っております。

御質問者さまにおかれては、メンヘルや人生相談カテの質問に、もっと関心を向けて、このカテゴリー常連の人たちに考えてもらいたいというお気持ちがあるのでしたら、できる限り、そうした提案をなさっていかれるといいと思います。しかし、メンヘルや人生相談カテの質問に答える答えないについての考え方にもまた、私を含めて、いろんなスタンスがあることでしょう。

「救えぬ」かどうかという以前に
「哲学」或いは「文学」「科学」が、どのように人を殺すことがあり得るかについて私は考察中です。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4630924.html

投稿日時 - 2009-01-19 08:00:19

補足

「力の刻印」について難しいことはさっぱりですが、
昔の漫画で北斗の拳ってありましたね。そのキャラでユダというのがいたんですが、こいつが気に入った女性に自分のマーク確か”UD”だったと思いますがそれを焼印するんですね。私がぱっと浮かんだイメージはこれでした。

また、どのように人を殺すことがあり得るかは昔こんな質問をしたことがあります。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3558168.html

投稿日時 - 2009-01-20 22:05:06

お礼

ご回答ありがとうございます。

こちらの気持ちを色々汲んでいただいてありがとうございました。
私としては極端な形而上学的思索に夢中になりすぎることに釘を刺すつもりでした。
過ぎたそれは恐らく現実逃避の手段としての哲学であるのかもしれません。
なれば人にかまう暇などないというのもわかる気がします。

投稿日時 - 2009-01-20 21:53:37

ANo.27

突破口としては、
・人を救うことができる言葉遊びを考える
・人を救う必要などないとする立場もまた哲学であるととらえる
このへんなんでしょうが、なにやら泥沼にはまりそうなんでやめましょう。

「議論はいやよ。 よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。 空の盃でよくああ飽きずに献酬が出来ると思いますわ」(漱石「こころ」)

哲学は男のものだけではないのはさておくとして、空の盃(リアリティのない極端な形而上な事柄)で献酬(思索)というのは、傍目から見ればくだらないことなのでしょう。
私もできれば過度なことは自重した方がよいと思うものです。

しかし、虚しいことに気づかないでのめり込んでしまうことは誰にもあるでしょうし、それを自重すべきと言われたところで簡単に自重できるものでもないとは思います。
「語りえぬことに関しては沈黙しなければならない」(ウィトゲンシュタイン)といくら言ってみたところで、沈黙しない人はしないでしょう。

沈黙ばかりでは味気ない。趣味に限るというわけではないけれども、スパイスとして遊びはあってもよいかなとは思います。

「遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ」(梁塵秘抄)

投稿日時 - 2009-01-18 22:33:57

お礼

ご解答ありがとうございます。

スパイスとしての遊びですね。
それなら楽しいでしょうね。
それと女性は哲学的なことを考えるのはあまり好きではないようですね。
何でだろう。

投稿日時 - 2009-01-20 17:06:58

ANo.26

研究ってそういう面もあるんじゃないでしょうか。
宇宙の果ては何か、宇宙の始まりは何か。
知ったところで地球に立っている我々には無意味と言えば無意味だしさ。
オレは別にそういうのでも良いと思います。
役に立ちそうだから研究するでも、立ちそうに無くても研究するでも。

投稿日時 - 2009-01-18 20:04:49

お礼

ご解答ありがとうございます。

力のある人は力のない人の手助けをする。
器用な人は不器用な人の手助けをする。
それがお互い様というものだと思います。

哲学を好きな人はそういう意味である種の力を持っています。
だから、その力が弱い人を助けるべきだろうと思います。
どんなに強い力を持っていても人を救うのは人なのですから。

投稿日時 - 2009-01-20 17:00:43

ANo.25

No.14です
ホイジンガの遊びの理論について補足を。

>働かざるもの遊ぶべからずで、遊んでばかりでは困ります。
>大人なのですから、自分の遊びがどんな意味を持つのかは自覚してほしいと思います。

shift-2007さんは、「仕事」と「遊び」を厳然と分けて考える方のようですね。
まぁ、一般に多くの人がその傾向を示しますが、「仕事」と「遊び」は厳然と分けられるモノでもないんですよ。
スポーツ(競技)、法律、戦争、詩、哲学、芸術などあらゆるものの中に「遊び」の要素が含まれています。
そして、「遊びの要素」こそが、なにかを生み出す原動力になっていくのだと。
しかし、この「遊びの要素」を忘れて「真面目」になったが故に、人は人として見られずに商品を生み出す機械として捉えられたり、ルール無視で無差別に人を殺す戦争がおこったり、商品としてスポーツが捉えられていったり、、、。
「遊びの要素」が無くなったことで、道徳(遊びの中にある自発的に守られたル ール)の退廃や文化の破壊が起こってくる。
哲学もこれと同じじゃないでしょうか。
「哲学」から「遊びの要素」が無くなったら、救える人も救えなくなるんではと思います。


ただ、哲学はなにも「人を救うこと」が目的ではありませんよ。
あくまでも「智の探求」であり、そこで得られた「智」をどのように使うかは個々人の自由です。
まぁ、「探求だけして他者に伝えない」では無意味になりますけど。
でも、そんな人は少数ですね。
誰でも何らかの形で他者に伝えることをしてますから。

また、qsxdrfvgyhさんが「医学」を例に説明されていますが、ちょっと拝借して私も。
例えば、医者は二つのタイプに分けられます。
一つは研究室で基礎的な研究をする人。(例えば、万能細胞の作成法を見つけて有名になった山中伸弥京大教授のような方)
もう一つは、臨床医として現場で患者を救うために活動してる人。
どちらも、医者であることに変わりはありません。
でも、前者は直接人を救うわけではないし、無駄になった研究だって沢山あります。
しかし、そうした基礎研究によって、現場で救われる命もあるわけです。

哲学に対する人の姿勢も、これと同じようなモノでしょう。
哲学を一生懸命やって「智」を追求していく人もいれば、その発見された「智」を人に伝えて救うことを志している人もいるでしょう。
そして、前者が直接救わなくても、後者を通して救うこともあるでしょう。
ここのQ&Aだって似たようなモノでしょう。
このカテで得た知識を使って人生相談のカテで相談に乗ってる人だっているかもしれませんよ。

投稿日時 - 2009-01-18 17:07:08

お礼

ご解答ありがとうございます。

tyr134さんはうまいまとめの仕方をするなーと感心しつつ。
日ごろ、知の探求だけの哲学では寂しいなと思っています。
普通の人間である私たちは他人とのかかわりを持って生きているのですから、哲学好きであるならばそれを生かすことは喜びであり、哲学に縁のない人にもその価値を再認識してもらうことになるのではないかと思っております。

投稿日時 - 2009-01-20 16:56:21

ANo.24

 No.19ですが。
 No.22に ひととおりのことを書いていますので 次の一点について述べます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 メンタルヘルスや人生相談には助言を必要としている人がたくさんいますよ。
 ご自分の今まで積み上げてきた経験をその人達に還元しないのはどうしてなのでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは それらのカテゴリから こちらの哲学へ移って来てくれれば いいと思います。たぶん ですが たぶん そちらのカテゴリでは その一つの事件なり問題なりに集中していて そのときには 人間全体のことから 逸れるのではないでしょうか。(つまり 相談者が 垣根をつくっているのではありませんか。推測ですが)。
 だから かたくなになるというわけではありませんが そんなにおっしゃるのなら そういう相談者の方々に こちらへ来てもらうように言ってもらうか それとも あなたが 全部を身につけて 相談に乗ってやったら いいのと違いますか。(考えてみます)。

 あとは いぢわるを言い合いっこすると おもしろいでしょう。話が 噛み合うでしょう。さらに そのようにまいりましょう。できれば 初対面から その方針で行きたいと思っております。

 * もし《ひとをすくう》ということで いわゆるカッコウをつけているのではないならば 知識の問題だけではなくて 動く対話 八百長ではない生きた取り組みを 目指しましょう。いかがですか。
 (えらそうですね。もっと あほ呼ばわりしてください。精神衛生の問題だけではなく 真に それに値しますから)。

投稿日時 - 2009-01-18 14:50:13

お礼

ご解答ありがとうございます。

>つまり 相談者が 垣根をつくっているのではありませんか

そうですね、そうだと思います。
それならばなおさら回りがそれに対して手を差し伸べる必要があると私は思います。もちろんすべてを助けることはできないですが。こちらに来てもらえば哲学の面白さは感じてもらえるとは思いますがたぶん彼らにはその余裕がないと思います。だからたぶん我々のような人がおせっかいを焼く必要があるんじゃないかと自負しております。

>いぢわるを言い合いっこすると おもしろいでしょう。話が 噛み合うでしょう。さらに そのようにまいりましょう

これは勘弁です。

>動く対話 八百長ではない生きた取り組みを 目指しましょう。

出来ることからやります。

投稿日時 - 2009-01-19 13:57:41

ANo.23

No.18のお礼欄の記載に関して、お返事いたします。

>私の質問はそんなに難しいでしょうか。

他の回答の返答を見ていませんので、質問文だけから判断しますが、哲学は、「言葉遊びの探究」や「単なる趣味」くらいなものだと断定していますね。仮にそうだとして、「救済のない遊び・趣味」とは、言い切れません。いくらかの救済もあるでしょう。救済の可能性を否定するあなたの根拠がはっきりないから、多くの反論が寄せられるのです。

>普通の人ならわかるはずだと思っているのですが。

自重すべきとの見解を分かる人はいません。哲学は諸学の基礎・基盤ですからね。法哲学、仏教哲学、・・・いろいろあるはずです。

>鉄という材料だけでは車は出来ませんが、鉄がなければ車は出来ないでしょう。鉄を哲学に置き換えるとわかりやすいですか?

哲学がなければ、車は出来ない?
「車」の方も「 」に置き換えないと意味が通じません。
どうしても、哲学を材料や道具にしたいようですが、その存在的な発想が、存在論的な思索とは異質であると直感的な拒否を巻き起こしていると思いますよ。

最後に、No.18で書いた例示は、基礎と応用ということです。
医学は基礎で、医療技術は応用です。
哲学は基礎で、哲学技術(?)は応用です。
そして、哲学技術の例として、順天堂大学病院のガン哲学外来を挙げておきましょう。
そして、哲学技術という言葉は不要で、哲学は基礎も応用も含んでいるという反論は可能だし、それでもいいと僕も認めておきます。

投稿日時 - 2009-01-18 13:32:12

お礼

ご解答ありがとうございます。

わかるはずだという思いから言葉足らずになっているのは申し訳ないです。
このご解答を読んで私の言わんとすることは伝わっていると感じましたので私は満足です。

投稿日時 - 2009-01-19 13:24:00

ANo.22

 《すくう・すくわない / 救える・救えない》にかんして 基本的なことを考えます。

 ひととひととが ふつうに 話し合いを どこまでも どこまでも とことん どこまでも どれだけ かぁっとなったとしても 言葉をとおして 続けられるなら その持続過程を実現するなら ひとは 救われたと言えるのではないでしょうか。

 ひとつには その軌道に乗るかどうかです。その分かれ目について とらえることは 大事でしょう。
 ところが――ここからが 反論と言いますか ご質問への直接の回答ですが―― そのどちらの段階においても 言葉遊びは出て来ますし まじめな問い求めも むろん わたしたちは 行ないます。いわば 人間あるいは人格の全体で その全体をとおして 哲学をも いとなんでいくでしょう。ちがいますか。

 あとは もし
 ★ リアリティのない極端な形而上な事柄への思索について自重すべきではないでしょうか。
 ☆ という思いと危惧を抱いたのなら そのとき その事例に対して直接に ことばをかけるということ これが 大事なのではないですか。
 つまりは どこまでも 対話を成り立たせ 持続させるという方程式です。成り立たせなければいけないでしょうし それを 段階ごとに きちんとした解決を得つつ 持続させることが 肝心です。
 とにかく 噛み合わせなきゃ と考えますが いかがでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-18 12:24:43

お礼

ご解答ありがとうございます。

>間あるいは人格の全体で その全体をとおして 哲学をも いとなんでいくでしょう。

これは私も同意見です。
なので人格の大きい部分を占める心理についても切り捨てるのはどうかと思います。

>噛み合わせなきゃ と考えますが いかがでしょうか。

話し合っている当人同士はもちろんそれは必要でしょう。
まぁ文字だけのやり取りなので(特に私は文字に心理的な部分を乗っけるので)なかなか難しいと思います。

投稿日時 - 2009-01-19 13:11:47

ANo.21

おはようございます、shift-2007さん。


●鉄という材料だけでは車は出来ませんが、
鉄がなければ車は出来ないでしょう。
鉄を哲学に置き換えるとわかりやすいですか?


わかりにくい。

それよか、

わらしべ長者は錬金術師!? ←のほうがよくない?

ほんでもって、考察として

【租税実体法解釈の原理とその具体的展開】
http://www.tkcnf.or.jp/19ao/kaityou1212.html

みてけばいいんじゃないの?

投稿日時 - 2009-01-18 09:56:51

補足

今気づいた、littlekissさんはボケだと思ってたけどツッコミだったんだ。

投稿日時 - 2009-01-19 13:12:42

お礼

おはようございます。
でも今は12:30。

昔話のわらしべ長者はなにを示唆してるんだっけ?

勧善懲悪でもないし・・・

租税法とわらしべ長者

この関係こそが錬金術?

投稿日時 - 2009-01-19 12:40:29

ANo.20

No.13です
哲学を「道具」(知)として捉えるのも一つの見解でしょうが、わたしの述べようとしていたこととは、少しずれています。

私の言いたかったのは、「哲学」とは、得られた(ないし得ようとしている)「知」そのものではなく、「知を愛するという行為そのもの」が哲学なのではないでしょうか? ということです。
以下、wikipediaから引用です。
=====
ギリシャ語の「philos」(愛)+「sophia」(知)の結合であり、「知を愛する」という意味が込められた語である。
(中略)
広義には哲学は思索を経て何かの意見や理解に辿り着く営みでありそのような営みの結果形成されたり選ばれたりした思想、立場、信条を指す。例えば、「子育ての哲学」「会社経営の哲学」などと言う場合、このような意味での哲学を指していることが多い。
---http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6
=====
哲学の位置づけですが、(歴史的にも)自然科学も哲学の範疇に入りますし、広義の科学(=分科の学問、○○学=○○ philosophy)の範疇に入るものでもあります。すなわち、思考・思索する時には、理論的・論理的であることが多く、知の体系化にても、理論的・論理的であることが求められるため、「知を愛する」の「知」の部分のみ強調されすぎる嫌いがあると思っています。

哲学・philosophyの本質は、広い意味での「思索」全般(知)を「求めようとする心」(情)にこそあると思います。
そう言った意味で、哲学とは、生きていく上で必要不可欠な行為・情動と結びついていると思います。

また、
「リアリティのない極端な形而上な事柄への思索について自重すべき」
ですが、
哲学的な思索の傾向が強い原始仏教では、たとえば
===
ブッダは、同一の魂あるいは死後の生について「あるのでもなく、ないのでもない」といういい方で批判したからである。「魂はない」といってしまえば、それはまた別の実体を前提することになってしまう。彼は、実体としての魂があるかどうかというような形而上学的問題にこだわることそのものを斥けたのであり、人間の関心を他者に対する実践的な倫理に向け変えようとしたのである。したがって、彼は輪廻からの解脱をはかる修行一般を斥けた。初期の仏教が主にそれまでさげすまれていた商人階級や女性によって支持されたのは、当然である。
(柄谷行人「仏教とファシズム」『批評空間II-18』太田出版)
===(仏教青年 Q & A・魂という概念、http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_7_23.htmlから引用)
といった思索もあり、「救う・救われる」といった概念に密接に関与する場合があります。

投稿日時 - 2009-01-18 06:34:35

お礼

ご解答ありがとうございます。

>広義には哲学は思索を経て何かの意見や理解に辿り着く営みでありそのような・・・・

私にとっての哲学はこの解釈が一番しっくり来ます。
知に対する愛があるなら哲学が自己満足に終わることはないかもしれませんね。

投稿日時 - 2009-01-19 12:29:03

ANo.19

 No.16です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人を救うにも哲学が役立つしむしろ必要でしょうといっています。

 そんなに難しい質問でした?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ じゃあ 初めのほうで 回答者たちが受け取った解釈で いいんじゃないですか。《人を救う》という言葉についてのことです。
 そんなに 話し合いがへたなのなら まだ 哲学の話をするには 十年早いのとちがいますか。

 《すくい》とは何かについて 必ずしも 明確ではなくても ともかく ひとが《あぁ これによって すくわれた》と表現することがあれば そこで 哲学なり何なりが役立ったというふうに捉える。こういう前提であるなら すでに みなさんも じゅうぶん 回答しているのじゃないですか。

 ★ (No.3お礼欄) 人を救いを風任せにはできないように思うのですが。
 ☆ そうではありません。ようく話を聞いて こたえなさい。

 ○ 《言葉遊び》であっても 時として 気ままな風によって ひとをすくうことがある。

 ☆ と言っているのです。
 ★ 人を救うにも哲学が役立つしむしろ必要でしょう
 ☆ 《人を救う》というところは 《風の吹くに任せて ひとをすくう》と言いかえて そのように はじめから 言っているじゃありませんか。まづ そのように捉えなさい。 そのあとで その内容を 自分は採らないと言って 否定しなさい。

 けれども 《言葉遊び》でも あるいは《単なる趣味》でも 《ひとをすくう》ことは じゅうぶんに あると言っているのですから あらためて きちんと受けとめた上で こたえるべきでしょう。
 考えてもみてください。自然現象であっても 人は そのことに接して あぁ すくわれる思いだと言ったりすることはあります。何がきっかけになるかは 決まっていません。何でもあり得ます。
 この見方に賛成できなくても まづ そういう見解であるということは 受け止めなさい。それが ないので 話が おかしいのです。
 世話の焼けるお方ですね。

投稿日時 - 2009-01-18 04:54:07

お礼

ご回答ありがとう御座います。

>じゃあ 初めのほうで 回答者たちが受け取った解釈で いいんじゃないですか
そうですよ、ただ、私はbrageloneさんに対して回答をしたのですからこれはbrageloneさん向けであって誰のものでもないじゃないですか。

>そんなに 話し合いがへたなのなら
ご冗談でしょう?
この質問でこれほどまでに攻撃的なのはbrageloneさんだけですよ。
なぜそれほどまでにあなたは攻撃的なのですか?
まあ私に原因があるというのでしょうが少し度が過ぎませんかね。
人間の心理については切り捨てるのに、自分の怒りという感情にはながされやすい。
私から見ると話し合いが下手なのはbrageloneさんの方だと思います。

>《人を救う》というところは 《風の吹くに任せて ひとをすくう》と言いかえて そのように はじめから 言っているじゃありませんか。
ここは私の理解度が低かったようです。
すいません。

brageloneさんは哲学的な知識や考え方を人一倍所有しているのになぜ哲学のカテでしか回答しないのですか。
メンタルヘルスや人生相談には助言を必要としている人がたくさんいますよ。
ご自分の今まで積み上げてきた経験をその人達に還元しないのはどうしてなのでしょう。
多分brageloneさんは私より年上でしょうから、若い者たちのサポートは年寄りの仕事じゃないですか。
私は役に立ったかどうかは分かりませんがいろいろ回答してきましたよ。
別のIDでやってるというならいいんですが。

投稿日時 - 2009-01-18 13:10:55

ANo.18

人を救いたいためにある医学もある意味、「人を救わない」でしょう。
つまり、新薬や新しい治療法の基礎研究の場合、コンピュータ抽選で処置群と未処置群に分けて比較検討しますから、未処置群に属すと救いはありません。
また、救うのは、医学ではなく、医療技術と施された方のうちで、それも全部ではなく、一部だけが救われています。

哲学は、基礎的で、徹底的な探究ですから、基礎的な医学と同様に研究に過ぎません。趣味といえば趣味でしょう。救済の道具にしたいならば、科学技術・医療技術のような哲学技術(僕の造語です)という話になるのではないでしょうか。つまり、的外れの質問だと思います。

投稿日時 - 2009-01-17 14:35:24

お礼

ご回答ありがとうございます。

私の質問はそんなに難しいでしょうか。
普通の人ならわかるはずだと思っているのですが。

鉄という材料だけでは車は出来ませんが、
鉄がなければ車は出来ないでしょう。
鉄を哲学に置き換えるとわかりやすいですか?

投稿日時 - 2009-01-18 01:25:29

ANo.17

 「言葉遊び」に救いがないとはいえ、それが無意味だったり意義がないとは思いませんが、哲学の枠から外れては本来の目的(哲学の基本思想みたいなものです)すら見失いそうではありますね。その場合は自重すべきだと思います。俺は哲学の枠から外れたものを「言葉遊び」と思っているわけですが、その見方からいえば質問者様はそれも哲学の枠に入れているようですね。

 とはいっても、哲学と「言葉遊び」の境界線をうまく説明できませんし、定義を持っているわけでもないですから、その哲学が「言葉遊び」ということを否定はできません。そんな思考含めて哲学だと結論付けるのは軽薄にみえていいたくはありませんが、結局はそういうことだと……。境界線を引けず、うまく見えないことが問題なのでしょうかね。

 >リアリティのない極端な形而上な事柄への思索について自重すべきではないでしょうか。単なる趣味ならかまいませんが。

 それは確かに思いますね。質問者様の仰るとおり、趣味なら構わないとは思いますが、それから外れると意図を図りかねますし。その視点から見た人に「言葉遊び」という言葉で片付けられても、少なくとも俺はその人に反論できる術を持ちません。 

投稿日時 - 2009-01-17 12:20:00

お礼

ご回答ありがとうございます。

あらゆる行為に意味を見出すことは出来ますが、それが過ぎれば大人気ない屁理屈の領域に入りますので今は境界線がどこかというより当人以外の人から見て明らかに自己満足の中での哲学を言葉遊びと思っています。遊びにも価値があるというならその結果を他の人のために還元しなさいと思うのです。

「何のための哲学か」私が言いたいのはそこだけであります。

投稿日時 - 2009-01-18 01:18:38

ANo.16

 No.8ですけれど
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >だったら 哲学は 何も出来ませんよ。

 それがbrageloneさんの哲学なのでは。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《だったら》の中身をようく読んでちょうだい。じゃあ あなたの哲学は 病気が直せるんかいな?

 ☆☆ (ANo.5) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 とは言え 何がきっかけになるかは まったく 分かりません。本人も 分かっていないという そういうものです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 世話の焼けるおっさんやなぁ。

投稿日時 - 2009-01-17 06:51:09

お礼

人を救うにも哲学が役立つしむしろ必要でしょうといっています。

そんなに難しい質問でした?

投稿日時 - 2009-01-18 01:08:14

ANo.15

こんばんは、shift-2007さん。

●昔、近所の夏祭りで浴衣を着たクラスメートになまめかしさを感じたなー



あかん、まだまだやー

何が?

何がってな?つっこみがきいてない

ボケてんねんで、この時期に盆踊りやで、おかしいやろ?

季節ぶっ飛んでるやろ?

そこ、つっこみどころ。 「なんでやねん!」

ハイ、では、つっこましてもらいます。

●東京音頭かぁ

パシッ-☆「なんでやねん!それも言うなら『夢一夜』やろー」
http://www1.ocn.ne.jp/~naka222/index200040.html

寝ぼけたらあかん

起きやー、起きやー、起きて踊るでー

用意はええか?

んじゃ、いくで

UFO-☆

(^人^) 未知との遭遇やね

投稿日時 - 2009-01-17 01:14:17

お礼

UFO-☆

ピンクレディー??

モモレンジャー!?

菊池桃子!

ふぅー

投稿日時 - 2009-01-18 00:39:34

ANo.14

ちょっと視点を変えて。
「遊び」は無駄なのか?という問いを立ててみましょう。

通常「遊び」というと、「学問」や「労働」などとはワケて考えられますよね。
「休日のレジャー」のように、労働や勉学とは別の部分、言い換えれば、労働に上乗せされた「余暇(余剰)」と思われますよね。
本当に、「遊び」は余剰で「学問・労働」にとっては必要ないのでしょうか?

オランダの歴史家・ヨハン・ホイジンガは、「人は遊ぶ存在である」と言っています。
そして、「真面目が支配するようになった十九世紀」は「遊び」と「労働」が厳然に区別されるようになり、「遊び」は無駄なモノ、不純なモノとして排除されていったが、「遊びが人間社会の文化の根源」であると主張します。
そして、「遊び」を次のように分析します。

・日常空間とは袂を分かった場所で行われる(儀式、祭典的、裁判、戦争)

 ・その内部で、自由意志に従いルールが適用される(通過儀礼、闘技、詩の形式、裁判)

 ・物質的利益や必要を度外視している

 ・熱中・緊張・昂揚をもたらす

こうした「遊び」とは文化と表裏一体の関係にあり、あらゆるところに影響を及ぼしていると言います。
「企業活動、議論、戦争、人の活動のあるゆる局面に遊びのようなルールと開始と終わりのあるゲーム的性格が見られる」と分析してみせます。
「真の文化はある程度遊びの内容をもたなくては成り立ちえない」とも主張します。

「哲学」も、「文化である」と規程すれば、そこに「遊び」を見いださなければなりません。
ということは、「哲学」の発展には一見無意味に見える「論争」や「言葉遊び」も、無駄では無いと言えるのではないでしょうか。
いや、むしろ「遊び」に裏打ちされて初めて「必要な哲学」が生み出されるのではないでしょうか。

実際、私たちに様々な利便性を提供してくれる「科学技術」も、その「論理」をたどっていけば、ほとんど「宗教的」と言って良いくらい「無駄な議論」が成されていたりします。
例えば、理論物理学ですがこれはほとんど「宗教的(信じるか・信じないか)」の世界だったりします。
そのため、「実験物理学」という実証を重んじる立場の人からはしばしば「遊び」だとして批判を浴びたりしています。
しかし、その一方で「理論物理学」から生まれた「仮説」から「実験」を成功させたりしています。
つまり、「遊び」である「理論物理学」に裏打ちされているとも言えるのです。

ということは、「人を救えぬ哲学」という「遊び」から「人を救う哲学」も生まれるという事になるかもしれません。
まぁ、あくまで「ホイジンガ」の「遊び」を援用しての仮説ですけど。

蛇足ですが、一見合理的な行動しか取らないと思われていた野生動物も、最近の研究では「(一見無意味な)遊び」をやることが知られています。
もちろん、子供だけでなく大人でも「遊び」があります。
そして、その「遊び」が「危険回避」や「進化」に繋がるとも言われています。

投稿日時 - 2009-01-16 23:46:23

お礼

ご回答ありがとうございます。

働かざるもの遊ぶべからずで、遊んでばかりでは困ります。
大人なのですから、自分の遊びがどんな意味を持つのかは自覚してほしいと思います。

投稿日時 - 2009-01-17 07:32:16

ANo.13

言葉遊び。。。
哲学。。。philosophy,philosophia。。。
智を愛する。。。
「愛する」は「情」であり、「智」は「知」であり、「主体」は「私」である。
これは「知」を越える「情」になろうか。。。
「愛を愛する」
とか、
「智を知る」
とかは何だか変だ。。。
(「無知の知」というのはありえるが。。。)
「愛を知る」
というのは、ありうる。。。
すなわち、「知」を越える「情」、「情」を越える「知」というものが自然と表されているのではないだろうか?
「知」で「知」を越えようとするとき「無知の知」といった、否定神学的な方向とかににしか逃げようがないのだろう。。。
(以上、稚拙ブログからの引用)

「人を救えぬ」こともないと思います。
現にわたしは自殺することなく、今を生きていますから。。。

投稿日時 - 2009-01-16 23:43:42

お礼

ご回答ありがとうございます。

哲学も道具であると考えるなら使い方次第でしょうね。
自分を救って、なお人を助けることが出来るならいい道具であるといえます。

投稿日時 - 2009-01-17 00:14:11

ANo.12

こんばんは、shift-2007さん。


もしもし、つっこみそこねてるやん! 

せっかくボケてくれてんのにそこでつっこみいれなー

ボケた方はそこでつっこみはいらな救われんやん サブ

「ソンしました」と言われたらすかさず「何でやねん!」ってかえさなー

「それも言うなら忖度(ソンタク)やろー、度ぬけてるやんけー」

あれ?まてまて、ソンとアホがでてきたってことは…ここで一曲

おどるあほうに みるあほう おなじあほなら おどらなそんそん

で、おどるときたならば…

ハァ おどりおどるなら チョイト
東京音頭 ヨイヨイ
花の都の 花の都の真中で サテ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤットナ ソレ ヨイヨイヨイ
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/tokyoondo.html


ドあほって?失礼やなー、それも言うなら愚か者とでも呼んどくれ

はいはい、それではもう一曲

『愚か者』
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND1149/index.html

んー、人間の営みその中でおこるあれやこれや

「はかなきは人の世の営み」
http://www.kitashirakawa.jp/taro/latin36.html

投稿日時 - 2009-01-16 20:59:32

お礼

おや、ごぶさたではないですか。

東京音頭かぁ
昔、近所の夏祭りで浴衣を着たクラスメートになまめかしさを感じたなー

踊る阿呆と見る阿呆・・・
哲学的ですな。

投稿日時 - 2009-01-17 00:07:50

ANo.11

私は、どちらかといえば長文回答になりがちなものですから、ふだん、御質問者さまのスレに参加させていただくのは少々気が引けるのですが、今回、かつて私が当サイトで初めて質問したおりお世話になった懐かしいかたが お目見えで、久しぶりに参加させていただく気になりました。

さて「人を救えぬ哲学」以前に「人を救えるか救えぬか」
これは難しい問題です。実際、救うつもり(自分であれ他人であれ)が、あるいはサラサラ救うつもりでもなかったのにかかわらず、皮肉な、逆の結果をもたらしたというようなこと、いくらもございますでしょう。

「粋」ってのは、さっぱりと垢抜けしていて、しかも色気がある、ことなんだそうですけど、これもネチネチとした強制行為によって歪められるような事態になってしまえば、およそ「粋」とは程遠い。「粋」にしても「アイロニー」にしても、余裕を失っていては楽しむどころではありませんよね。でも、ネチネチ考えるのが哲学だろ、って意見もあるのは確かです。素直さに胸打たれることもあるし、いかにも泥臭いのを「美」と受け止める向きもあるでしょう(笑)

ところで「粋」「アイロニー」ってコトバが挙がっておりますけど、これって皆、同じ感覚なんでしょうか?自分は、これをしも「粋」だと「アイロニー」だと思う、その基準が、てんでにバラバラだと、とりあえずにせよ何を基準に持ってこなくてはならなくなるでしょうか?
同様、「救えるか救えぬか」の実際も、何が誰に、どう はたらくか分かったものではない。

ただ、当サイトこのカテゴリーにおいて、これだけは揺るぎ無いのは、質問に答える、ということです。
そこで、答えかた、ですけれど、どのようなスタイルであろうと、質問者並びに閲覧者が、そこから何がしかでも汲み取れる良きものがあれば、それでよい。尚且つ、少しでも汲み取ってもらえるように、独り善がりに陥らぬよう気をつけながら、できるだけ配慮する。これは、まごころです。真っ当でシンプルな姿勢でしょう。
しかし、そこから逸脱すると、たちまちにして不快と争いを招き始める。それもまたドラマ、人生である。それもそうかもしれません。

なるほど私も「強制」が嫌いです。ましてのこと、それが自分にとって不愉快極まることなら抵抗しますし、その嫌悪を知っているからこそ他者に対しても、わきまえておきたいと思っています。にもかかわらず、思うようにいかないからこそ、それこそ「ドラマ」が生じてくるわけですが。。。しかし、他者の時間と生を歪め、潰してしまうようなことがあっては、これではドラマにすらなりません。まさに越権行為です。
私個人は、こうした場で「救い」というほどのものを求めるつもりもありませんが、それでも、いらぬ悶着を吹っ掛けられたくはないものだとは思います。いわゆるリアルのなかだけで充分過ぎですので。

「粋」も「アイロニー」も、ひとしなみでない。同様、哲学が「趣味」かどうか「趣味」でなければならないか。
そのかみ、哲学発祥の地ギリシャの哲人においては、哲学とは、まさに「血みどろの戦い」であったといいます。
私自身は「血みどろの戦い」をしたいわけでもないのだけれど、しかし「趣味」でなければならんとも思わずに、ただただ気づけば、思索をしている。なにものかに出会って、自然と、そうしている。それだけのことです。
ですが「強制」なんぞされたひには、哲学以前に、その「強制」と戦ってしまうのです。

哲学は、いかんせんコトバを用いて行うものです。ですから往々「言葉遊び」に陥りがちにもなるのでしょう。それでも、せめて「粋な言葉遊び」となって、そこからでも何がしかの慰めや良きものが拾えればよい。
でも、何ら良きものが拾えないときには、むなしい。口のなかに泥を詰め込まれたような気分になることもある。その泥を、おいしいと言って呑み込みなさい!と「強制」する人の「哲学」って、何なのかとも思います。
そういうとき避けるのも自然ですし、こうした場では、それが許されているはずです。
同様、救わなければ許されないわけでもない。
どこまでも付き合って付き添って、相手の気が済むまで自分を殺さなければならないなんてことはないはず。
それよりも、私が思うに、このような場で、救わねばとか救って欲しいなどと思い詰めるような期待があるとしたら、何も「リア充」たれ!とは申しませんけれど、それこそ問題なんじゃないかという気もします。

哲学は驚異を持って根本を問うもの。「リアリティ」を「形而上」を「言葉遊び」を「常識」なるものを疑うのもよし。
しかし、なんにせよ、それが自分一個の感覚や考えについては問答無用で棚上げしたうえでのものであるなら、私は、それこそが哲学から程遠い、むなしいことだと思っています。

(長くなってしまいました、ごめんなさいネ)

投稿日時 - 2009-01-16 15:14:16

お礼

ご回答ありがとうございます。

このカテの常連の方は誰かに救ってもらおうなんて思ってないでしょうね。
なので救われるべきは我々ではなく、例えばメンタエルヘルスや人生相談のカテで質問を立てているような人たちです。
そういう人たちに対して哲学的な考え方は新鮮に写るんじゃないでしょうか。
その程度でいいと思います。

投稿日時 - 2009-01-17 00:01:31

ANo.10

人は、脳の思考で、何でも解決しようとしますが、考えることは、迷いとストレスばかりで、何も解決しません。逆に脳を、休めると、新しい世界が体験できます。日本の伝統芸能は、脳を休めて、心を癒す目的で、創られています。哲学よりも、伝統芸能を体験すると、心が癒されます。座禅、能、茶道、人形浄瑠璃、演歌、舞、邦楽、日本画、落語、俳句、短歌など

投稿日時 - 2009-01-16 10:25:58

お礼

ご回答ありがとうございます。

考えるとはどういうことなのかを知る必要はありますね。
バランスが大事でたまには脳みそを絞るのもいいのではとは思います。

投稿日時 - 2009-01-16 23:33:36

ANo.9

 ≪哲学はその通り、趣味ですね。詩や音楽、絵もドラマも粋なのは、アイロニー(皮肉、逆像)あってこそ強調され順当な素直な作品より鑑賞する醍醐味奥深さも増すものだし。哲学は粋なものであればいいんです。オブジェとして我人生に飾るのさ(by師匠)。≫
 はよく納得できます。
 ご回答者さんにいうのではありませんが、哲学のお話は根本から根本へいくことがほしいことですよね。
 そして自分(そのお話)がどういうものであるかをしっかり意識して、提示していくことが望まれますよね。
 その拠って来たる論の基盤と、価値理念の提示は不可欠だと存じます。
 私の思いですが、知、演繹、認識能力(カントの批判はまだ中途ですが、無論あの大先生はその中途までをご自分の範囲とされていますが)の性格と基盤、そして正体の提示ですよね。
 それは哲学を、換言すれば知的操作を出るところまで赴かないと、充足させられないと存じます。
 その一つが、直観とかいうもの、その一連のことではないでしょうか。
 いろんなお説の中には、そういう実現認識に到らないで、知の、概念の演繹でなんとか全部分かってしまおうという、ところが見えますね。
 山の景色はそこにいって初めてみられるもので、到達もしないで、ことばで判るというのは、その範囲で終始している、作業しているかのような節(ふし)もあると見受けられています。
 そういうことはとても非生産的ですよね。
 ご質問のタイトルはそれはそれで。内容の中のことば遊びというところでは、私は以上のように思えております。
 そういう言葉での範囲は、形而上でもなく、もっとも愚劣なものぐさの形而下だと、感じることがとても多いのです。
 そういう意味でご質問の形而上という表現はまずいなと存じました。
 具体性を書いているという意味であればわかりますが。
 言語という手袋をしたまま、握手したり、触診したりするようなもんですね。
 言語を出て言語の説明や操作をして欲しい。それでこの投稿文章は言語をでておりましょうか?
 私においては出たところから書いておりますが、書いたものは明らかに言語の着物をきています。くるんでいます。
 それを脱がしてくれるのは、お読み下さるお方のお心でしかありません。

投稿日時 - 2009-01-16 08:42:39

お礼

ご回答ありがとうございます。

>自分(そのお話)がどういうものであるかをしっかり意識して、提示していくことが望まれますよね。

ここが運命の分かれ道なのかもしれませんね。

投稿日時 - 2009-01-16 23:31:02

ANo.8

 No.5です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >ひとを救うという使命でも帯びているというのでしょうか。

 でも使命でなくても人はそれをするんじゃないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《ひとを救う》を そういう意味で使っていたのですか。
 救急であってもなくても 生命救助・病気治療や あるいは 何か具体的に必要とするものごとの問題として 手を差し伸べる助けあいや そういう社会的な相互援助のことを言っているのですか。
 だったら 哲学は 何も出来ませんよ。下品な言葉を使えば 女ひとりをはらますことも出来ないと 昔から 相場は 決まっています。
 くだらん質問につきあって そんしました。

投稿日時 - 2009-01-16 06:37:31

お礼

ご回答ありがとうございます。

>だったら 哲学は 何も出来ませんよ。

それがbrageloneさんの哲学なのでは。

投稿日時 - 2009-01-16 23:08:39

ANo.7

そもそも「リアリティー」とは何でしょう?
「形而上」とは?
「事柄」とは?
「思索」とは
「人を救う」とは?

こういうことを
ひとつひとつ考えていくと
あなたの質問にしろ、
私たちの回答にしろ、
きわめて意味が疑わしくなってくるわけです。

日常的に前提とし使われている概念や言葉を
「・・・とはそもそも何か?」として点検していくこと、
それこそが哲学の問いなのだと私は考えています。

したがって「哲学が無用かあるいは有用か」ということも、
これらの問いに答えた後でなくては意味をなさないわけです。

投稿日時 - 2009-01-16 02:14:04

お礼

ご回答ありがとうございます。

哲学が無用かあるいは有用かはあまりどうでもよくて、
思索によって得たなんらかのものを人を助けることに還元すべきではないかと思うのです。
究極の答えが出るまで待つことはないのではと思います。

投稿日時 - 2009-01-16 23:06:11

ANo.6

常識とされることを常識的に判断していれば日常生活も順風に送れる可能性が、確立が高いものの、現実には人を助けるにも限界があったり、不可知なこともある。

何を考えているのかとか、非常識とか、薄情な奴と指さされたり、バカアホなどど石を投げられたりすることがあっても!?
哲学することの利点は予定通りに事が進まなくても不条理を持ち出し決め付けないことですね。
何だが幸福も不幸も生き生き生きているからこその果実に見える。
粋に見える。

哲学はその通り、趣味ですね。
詩や音楽、絵もドラマも粋なのは、アイロニー(皮肉、逆像)あってこそ強調され順当な素直な作品より鑑賞する醍醐味奥深さも増すものだし。
哲学は粋なものであればいいんです。オブジェとして我人生に飾るのさ(by師匠)。
そんな師匠に感化されてしまった私の哲学も趣味範囲ですね。
誰に強制もしません。

投稿日時 - 2009-01-15 21:57:28

お礼

ご回答ありがとうございます。

とても健全だと思います、ほんとに。

バランスが大事ですね。

投稿日時 - 2009-01-16 00:47:55

ANo.5

 No.3です。補います。

 遊んでいる姿であっても つとめて何ごとかに打ち込む姿であっても いづれが すくいのきっかけになるかは どうなんでしょう。
 分からないと言いたいところ あるいは 言うべきところでしょうが おそらく 遊んでいるところのほうが より一層 つよく長持ちのする印象を与えるでしょうね。
 逆に言えば まじめで 立派な姿勢でいる場合に きっかけとなったとしますと それは メッキであったということが しばしば 起こります。なぜかと言えば その人のまじめではない遊びのときの姿を あらためて 見てみると 多かれ少なかれ 失望を禁じ得ない印象が やはり出て来てしまうものだからです。誰でも そういうものではないでしょうか。

 とは言え 何がきっかけになるかは まったく 分かりません。本人も 分かっていないという そういうものです。

 もう一度言いかえるなら けっきょく 二十四時間体制での自分の姿を見せているということに尽きます。ただし 見えてしまうことと 見せるということとは やはり違いますから 煮詰めて言ってしまえば 他者に対する態度においても 他者に対するという意識や意図は まったく どうでもよいというのが 結論になるでしょう。
 それでなければ その人は いったい どういうつもりで 生きているのでしょう? ひとを救うという使命でも帯びているというのでしょうか。 そんなばかな!! わたしたち人間が ひとをすくうのではありません。勘違いしてはいけないでしょう。

投稿日時 - 2009-01-15 18:10:57

お礼

ご回答ありがとうございます。

>ひとを救うという使命でも帯びているというのでしょうか。

でも使命でなくても人はそれをするんじゃないでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-16 00:36:55

ANo.4

 回答番号:No.2です。
 この直後のご回答は、ものごとの成り行きと結果としては極く当然の理(ことわり)ですね。
 ある人を救うことになるかならないかは、確かに判らないことですが、自己と人類の問題について解決する真摯な意図、態度は必要ではないかと存じます
 哲学ということでは、する側の自分と他者に対する態度の問題が質問者さんのご質問かと理解できます。
 そういう意味での回答番号:No.2に対する補足を致します。回答者同士の議論はこういうサイトでは慎むべきですから。あくまでも補足です。 

投稿日時 - 2009-01-15 16:36:05

お礼

ご回答ありがとうございます。

そうですね、できれば人を助けることができる哲学であってほしいと思います。

投稿日時 - 2009-01-16 00:15:57

ANo.3

 こういうふうに考えてください。

 風は 気ままに吹く。
 いつくしもうと思う者をいつくしみ あわれもうと思う者をあわれむ。

 全世界 歴史の全体 哲学談義を含めて社会におけるできごとのすべて これらのどれが 《すくい》のきっかけになるかは ひとには 分かりません。
 むろん きびしいことを言えば すくいのきっかけにすら いっさい 成らないということかも分かりません。ただ それは 分からないのです。
 という事情そして情況を前提として 捉えるとよいでしょう。

 つまりは 問題は 哲学が 言葉遊びであるかどうかを はるかに超えています。何ごとであっても きっかけになりうるという意味です。

投稿日時 - 2009-01-15 16:15:20

お礼

ご回答ありがとうございます。

人を救いを風任せにはできないように思うのですが。

投稿日時 - 2009-01-15 23:50:24

ANo.2

 冷たく、外科医のメスのような知のための知ということであれば、回答番号:No.1様の哲学も哲学といえます。いえそう思います。
 55年も前中学の頃、仲間同士で“観念の遊戯化”などと呼び合いました。
 真剣に真理を求め愛するものに、単に知の好奇心、辻褄、或いは知の操作で認識をしようとと、質問することは、する方もされる方もくつうであることを経験しております。
 そういう質問探求は、的外れ、誤解、思い違いの内容を得ることしか出来ません。
 このカテでよく膨大なやり取りの質問や回答があり、そのナンセンスさを指摘すると、地図は必要であるといいます。
 地図は必要でありますが、誤解や思い違いしかできていない地図は地図の意味はないと存じます。
 宗教と哲学は異なる側面もありましょう。
 哲学の無い宗教は無目です。
 宗教の無い哲学は立脚根拠と価値理念の無い、メカニカルな、或いは砂漠の冷たい歩みです。たどり着く目的を失っています。
 そういう意味で、おせわになった、このカテでの質問と投稿を悲しく去る決意をしているところです。
 ヒンドゥなどの東洋の哲学と異なり、ギリシアやキリスト教の神学などはどうしても、私にはなじめません。
 知の貫徹と充足は大切ですが、やはり価値と立脚を喪失していて、なんとか知だけで歩こうとしているような感想をもたされます。
 知はたいせつであり、これを疎外した、宗教は存立しているとはいえません。信仰は盲目的。そうでしょうか?信仰こそ知という目も、それ以上の透徹した意識も、存在も必要だと思います。安易な信仰は信仰ではなく、自己放棄です。
 自己放棄では、自己を超越、捨てることはできません。
 信仰ほど哲学と論理を必要とするものはないのです。
 哲学ほど、知を超えた存在の認識を提示するように求められているものは無いのです。
 そういう意味で、質問者さんの提起に同感しております。
 知のための知。それは学として必要です。その知を徹底して、知が存立し、それを超えていることが何かを提示できない学を私は軽蔑する気になってきました。

投稿日時 - 2009-01-15 15:59:30

お礼

ご回答ありがとうございます。

人のインセンティブは不思議なもので、自分のため以上に人のためというのが強く働きますね。
このサイトには色々なカテゴリがありますのでkrya1998さんのいうところの哲学、宗教を必要としている人はたくさんいると思います。

投稿日時 - 2009-01-15 23:40:34

ANo.1

別に人を救えなくても、本人が納得できればそれで良い。
たとえそれが自分を救わない答えであっても。

哲学って別に宗教のように他人を救うためにあるのでなく、ある命題(真理とか正義とか善悪とか)にたいして考え答えを導き出すものです。
それを言葉遊びと見るのか、そういう追求が大事と思うのかは価値観の違いでしょう。

投稿日時 - 2009-01-15 15:13:00

お礼

ご回答ありがとうございます。

哲学することには何も異存はないのですが、それをどう生かすかが重要じゃないかと思うのです。

投稿日時 - 2009-01-15 18:43:58

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