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解決済みの質問

悪は 存在しない

 《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。
 もとに戻って この質問をします。
 ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。
 ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。
 ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。

 以上について 成否・当否を おおしえください。

 なお 
 ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。
 ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。
 ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。 
 ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。

 これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。
 問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。

投稿日時 - 2009-01-19 14:05:12

QNo.4642854

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

こんにちは。

言葉を超えたイメージを議論するのは
本当に難しいですね。

> 《自由意志》の扱い方を きちんと まとめることが 大事になると考えます。
これを考えていて躓いてしまいました。

絶対は、理屈を超えており
私たちはただ受け入れるしかありません。
絶対に由来するものは、否定できません。
絶対に由来するものが、この相対世界にやってきた段階で
善悪に評価が分岐します。
だから、厳密に言葉にこだわれば「絶対悪」も「絶対善」もありません。
善悪が分岐する以前の状態を指し示す言葉があれば話は分かりやすくなりますが
残念ながらそのような言葉はありません。
ただ、善悪が分岐する以前の状態は、否定できませんから
●「善悪を超えている存在(状態)」を分かりよいように「善」と規定する。
●それで、全体が説明できるか、やってみよう。
ということですね。

では、説明を続けましょう。

もし私が絶対につながっているなら
絶対に由来するものが私に注がれているなら
その注がれたものは何人たりとも否定できません。
よって、私を根本から否定することは出来ません。
同様に、brageloneさんも根本から否定することは出来ません。
相対世界にいる全ての存在は、根本から否定することは出来ません。
(そういう意味では
聖書という物語は人格神にしてしまったところが失敗だと思います。)

私たちは、どういうわけか、相対世界に来てしまいました。
そして、相対世界にいる全ての存在は、根本から否定することは出来ません。
つまり、相対世界では「多様性の受容」が「善」であり
「多様性の否定」「排他」は「善の欠如」だと思います。
これが「自由意志」の前提だと考えます。
(多様性がなければ、そもそも自由はありませんね。)
(多様性の受容が行動化すると「隣人愛」になるのでしょうか。)
(重ね重ね、人に限定しているところが失敗ですね。)

ところが
> 存在(=生命・人間という生命体)を存続するのが 善である。
個という生命体を維持するために
私たちは「排他」というシステムを持っています。
(異物の、体内への侵入を許しません。)
> 自然から生まれた人間の行いに不自然なものは無い筈だ
といった言説は一見説得力を感じますが
私たちが獲得した「排他」のシステムは「自然から生まれた人間の行い」
ではないだろうか?
このとき、「自由意志」とは「他存在の受容」と「排他」の
どちら側に存在するのか?
はたまた、軸の取り方が間違っているのか?

なんて、あたりまで考えて、今、躓いてます。
希望としては「多様性の受容」が「自由意思」を生む、なんて
方向性になると、全体の見取りがよくなってくる気がします。

何だか、brageloneさんの質問に答えるスレッドじゃなくて
brageloneさんに質問するスレッドになってきてますね(笑

投稿日時 - 2009-01-29 14:01:31

補足

 CUE009さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ brageloneさんに質問するスレッドになってきてますね(笑
 ☆ これは だいじょうぶです。まさに たたき台ですから。まさに そういう過程を経るのが 哲学だと思っております。(そればかりではないかも知れませんが)。

 ★ 絶対に由来するものは、否定できません。
 ☆ 《絶対》=《無神》とする無神論なる信仰は 《〈絶対〉と〈この相対世界における人びとの存在〉との由来関係を いっさい 断つことによって その同じ関係を 受け容れている》のだと思います。《〈わたし〉なる存在》を 完全に 相対的なものであると規定して 扱う。
 それは 一見 きわめて 冷酷で悲惨な感じさえもたらすような見方ですが このとき すべての人間存在について 《完全に 相対的な〈わたし〉なる存在》と規定し見ているからには 完全に 互いに 平等であり この平等において 互いに 自由であると主張するはづです。
 すなわち
 ○ 絶対と わたし との関係は あたかも 絶対的である。
 ☆ と考えられます。しかも それゆえにも 自由意志は 自由でありつつも あやまち得るという結果が得られます。《絶対的》だという《関係(つまり 信仰)》は 非思考だからです。なぞだからです。

 ★ (そういう意味では / 聖書という物語は人格神にしてしまったところが失敗だと思います。)
 ☆ これは 表現の問題だと捉えると 分かりやすいはづです。
 ○ 絶対 ―→〔人格化〕―→絶対者―→〔絶対と相対世界との関係の物語化〕―→創造主なる神
 ☆ もはや 神と人との関係は 《父と子の関係》にまで物語が 伸びて広がります。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 つまり、相対世界では「多様性の受容」が「善」であり
 「多様性の否定」「排他」は「善の欠如」だと思います。
 これが「自由意志」の前提だと考えます。
 (多様性がなければ、そもそも自由はありませんね。)
 (多様性の受容が行動化すると「隣人愛」になるのでしょうか。)
 (重ね重ね、人に限定しているところが失敗ですね。)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここは 特に 触れなくても よいと思いますが 細かく言えば こうだと思います。
 ○ 存在の相対性ゆえに 自由意志は 曲がり得る。あやまち得る。
 ○ 勘違いなどのへそ曲がりとしての自由度(遊び)もある。
 ○ しかも 特別に 存在の持続を意識しないという場合も あり 自由度は さらに 広がる。
 ○ つまり この《自由意志のあそび》から 個性が出て来て 《多様性》が現われる。そこに 悪にかかわる癖などが 加味されると なお 多様になる。
 ○ ということは 《多様性の互いの受容》は もともと 存在の善の尊重と受け容れを基礎として その社会的な共同性として 実現してくると思われる。
 ○ この結果
 ★ 相対世界では「多様性の受容」が「善」であり / 「多様性の否定」「排他」は「善の欠如」だ
 ☆ という共同主観が得られると考えられます。幸か不幸か この多様性は 人間のものです。ほかの生物にかんしては 人間の目から見ての多様性とその受容になります。一気に そういう宇宙全体的な平等現実をつくることは むつかしいように思うのですが? ひとによって 他の動物のほうを優先させてしまったなら 話し合いは 混乱します。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 個という生命体を維持するために / 私たちは「排他」というシステムを持っています。 / (異物の、体内への侵入を許しません。)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも 他の生物に対する《排除》と人間どうしの《排他》とを区別する必要があると思います。人間・対・人間であれば 存在の排除ないし拘束(活動阻止)は 明らかに 悪です。
 存在を愛するゆえに この悪を 互いの和解に導かねばなりません。この悪を もとの善の状態に復帰させて 存在を愛して行かねばなりません。
 ○ 欠陥を取り除くことによってではなく 存在を互いに愛することをとおして 和解と癒やしにみちびく道が 用意されていなければならないし その準備に つねに 入っていて わが自由意志のあそびの内に ただちに その愛の実践に移れるように 緊張していることが 望ましい。(無理には 無理でしょうが)。
 ☆ となると思います。

投稿日時 - 2009-01-29 15:52:37

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回答(44)

ANo.44

こんばんは、brageloneさん。




●宇宙の果てにまで到るほど 飛んで行きます。


あのね、なんぼ肩がええいうても

そこ(宇宙の果て)まで放り投げるかね???遠投

信じれんわぁー

何?

“信じるものは すくわれる” 

ってかー?!

これまた、えらい信心深いことを…

“あたるもはっけい あたらぬもはっけ”

どないやっつーの!!!

ええっ 何???

「ホントウニ スマナイト オモウ」

あのね、(-_-;)uuu… (-_-;)uuu… (-_-;)uuu… 

ちょっとは手加減したらどないやー!!!

オニ オニー オニコーチ!!!

おもい~こんだ~ら~

“試練の道”で“未知との遭遇”ーUFOに乗ったらじきやで、ってか?!

ぴゅーいー 三(/ ^^)/ 三(/ ^^)/ 三(/ ^^)/

≡≡≡ヘ( ^-^)ノ hey!おまち-☆ 帰還 ただいまー(*^^*)v

【驚異の小宇宙 人体III 遺伝子】
http://www.showtime.jp/tv/nhk/jintai/
【QNo.3646831 無意識と‘「記憶を司る脳領域」の作用’との違い?】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3646831.html
【QNo.4338027 現代芸術における表現形式は どうなんですか】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4338027.html
【QNo.480852 愛の反対は何ですか?】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa480852.html


 ★ 【QNo.3689191 男と女】ANo.20
 ☆ 正直に言って 意味が取れません。フラ語の単位を落としたってことを言いたいのですか?

【QNo.3689191 男と女】(ANo.20から一部抜粋)
女性は子供を産むという前提でいろんな場面で法律的にも保護されている。女性は出産でカルシウムを失うことが多い。骨粗鬆症然り。肉体的な性差への配慮がなされている。給食のおばさんのお昼寝タイム然り。ところが、肉体は男性の骨格をそなえた性別女性だったり、肉体は女性であっても子供を産むことがなかったら、男女平等の名のもとに、これまでなされてきた女性への性差への配慮が小さくなりはしまいか。と、こんなことを口走ろうものなら田舎のばあちゃんが怒鳴りだしそうだ。「わしら、子供を産もうが休みなく畑さでてるださ、そんなの関係ねえー!」いやいやばあちゃん、それはそれだども法律では一応女性であるということで守られていること結構あるもんよ。


田舎のばあちゃんは果たして、女性に属するのか男性に属するのか???

投稿日時 - 2009-02-07 00:58:18

補足

 補います。

 ★ オニ オニー オニコーチ!!!
 ☆ オニでない者が オニになるから味が出るんや。
 手加減せえへんで。

 とお礼欄につけ加えておけば よかった。

 まだ ほかの参照サイトは 読んでません。ほかの回答で補足欄などが空いているから そこを使います。
 ひとこと 添えるのみ。

 * ちょっと 言い過ぎたかな。仲が親密すぎてしまう。
 * 人気ランキングに復活したよ。あんじょう答えてや。被害者から見た悪の問題やで。

投稿日時 - 2009-02-07 10:33:34

お礼

 littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 全体として 何のこっちゃ?

 くだんの事件に関する被害者の見解として わたしの仮想インタヰ゛ュ―は おおむね 賛成ということで いいのかいな?

 あとは 追って 補足欄にて。

投稿日時 - 2009-02-07 09:40:05

ANo.43

おはようございます、brageloneさん。

●できましたら 女性の意見を聞かせていただけませんか?

ちょっとまって、

≪女性≫の意見って?←ココ、ミソちゃうん???

「女性への暴力は、女性の普遍的人権と基本的自由を侵害するものである」

うーん、この≪女性≫ちゅうのがだんだん捉え難うなってきとうから厄介やー
“ 女性の定義? ”

ああ、以前に質問あげたとき、質問があがったとき、にも考えさせられてんけど

【QNo.46437 人の心の中には、鬼が棲でいますか?】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa46437.html

【QNo.3689191 男と女】ANo.20
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3689191.html

それにしても、恩に着ますって…『夕鶴?』ー鶴の恩返し

まー、それはそれとして

≪女性≫と言葉が先におかれてると何かやり難いわー

何が、やり難いかといえば…

この括り

女性の立場からの意見やろ?

込み入った複雑な事件をここ≪女性≫に固守してみてけば

へたすると、理想像なる女性像を内につくりあげてしまうかもしれへんやん

女性であるまえに人であることに意識がはたらき難うなる

言い方変えたら、人みな女性と思い込んでしまいかねへんやん

あやうい あやうい

なんでこない出だしの言葉で止まって先へ話を進めんのかと疑問をもたれることやと思うわ。うん、さっき本棚から本を一冊引っ張り出してきて読んどったんよ。えっ?何の本かって?『医学史と数学史の対話――試練の中の科学と医学――』川喜多愛郎 佐々木力 著 中公新書 P196~【第六章 臓器移植医療をめぐる省察】―――――P226~〔苦悩の中の臓器移植〕(一部抜粋)
[川喜多]: ところで、ここにどうしても素通りできない話が残っています。それは日本における脳死・臓器移植論議のいわば弁慶の泣き所と言うべき論題です。移植推進論者の決まって持ち出す「殺し文句」はこうです。「今ここに放っておけば死が必定の心臓病患者がいる、移植という現代的な医療技術によって彼の命を救うことができる、しかもそこに善意のドナーがいる、こうした条件が揃ってなお、お前はそれを見殺しにできるのか?」。それは心臓移植を内心おぞましい技術と感じている人々をもたじろがせる議論です。前に私は私が仮にその技術をもっていてそうした情況に置かれていたらうんと悩んだ末、もしかしたらメスを取るかもしれないと正直に申しました。

脳死体から臓器がもっていかれる、死後有無もいわれぬうちに

…そして、移植―――――誰知ることのない肉体へ

これを、誘拐・監禁・性的虐待とみれば、みれなくはない。

脳死―――――人は死んでいるのか?


【致死的な移植関連疾患のクラスターにおける新規アレナウイルス】
http://www.nankodo.co.jp/yosyo/xforeign/nejm/358/358mar/xf358-10-0991.htm
【感染症速報】
https://www.forth.go.jp/cgi-bin/promed/search.cgi?title_link=20070423-0360&button_detail=on

投稿日時 - 2009-02-05 09:13:37

補足

 補います。

 ★ 【QNo.46437 人の心の中には、鬼が棲でいますか?】
 ☆ については 以前にすでに わたしの意見を述べた気がします。
 本能は 無いと考えたほうがとよいと思います。
 すべては 想像力です。どこまでも 伸びて行きます。うそから出た想像力のばあい よけいに 宇宙の果てにまで到るほど 飛んで行きます。ただ それだけです。
 《旧い人》には 《鬼が棲んでいる》と言える側面は まだ 残っています。ただ それだけです。

 ★ 【QNo.3689191 男と女】ANo.20
 ☆ 正直に言って 意味が取れません。フラ語の単位を落としたってことを言いたいのですか?

 今年になってから辺りから 文章が ぽつっ ぽつっと出されるかっこうになっていると感じます。以前は 判じものとして 難読のところもありましたが 現在は それ以上であります。

投稿日時 - 2009-02-05 11:04:07

お礼

 littlekissさん お早うございます。
 いま帰って来ました。ちょいとお仕事。

 で だめなんかいな。
 わたしの言う《女性の意見》というのは
 ○ 人間としての見解のほかに 男であるわたしが見逃がしているかも知れないところ つまりは 女性であるなら 容易に きちんと分かると思われるのに見逃がしてところ これが知りたいという意味です。
 だめですか?

投稿日時 - 2009-02-05 10:21:14

ANo.42

こんばんは、brageloneさん。


☆ すでに落ちて来ている石に注意せよとのこと。


と、注意書きがあったので

ヘンゼルとグレーテルではないですが、

道に迷ったら落ちてる石の後を辿れば…

・あなたは すくわれていますか
・情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか
・道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)
・悪は 存在しない

ここの中に石があんじゃないかと

ダー――ッと、乱読

個別にみてけば、一見なんの繋がりもなさそうなのだけれど…

共通点は、漠然とした問い(骨)

組み立てるには…

漠然ともの考えるよか、ちょこっとコロモ着せた方が

考え巡らせやすいかなと。

投稿日時 - 2009-02-04 21:49:46

補足

 できましたら 女性の意見を聞かせていただけませんか?
 込み入った複雑な事件ですが 初めの二つが 参照サイトです。
 三つ目に わたしの意見を述べています。恩に着ます。(こう言うのは 二度目のようですが)。

 ● ヰキぺディア:サビーヌ・ダルデンヌ
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%8C
 ● 来日したときの会見
 http://www.sonymagazines.jp/new/sabine/report.html
 ● 《Q:情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか》
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4668146.html
 そのNo.9お礼欄

投稿日時 - 2009-02-04 23:13:26

お礼

 こんばんは littlekissさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 個別にみてけば、一見なんの繋がりもなさそうなのだけれど…

 共通点は、漠然とした問い(骨)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《あなたは すくわれて・・・》のほかの三つは 互いに けっこう つながっていますよ。《悪は 善の損傷》という線で。
 《情欲は・・・》は いまでは 少しは まとまった考えを持てて来ていますが 方向性もなく 船出しています。
 この《悪は存在しない》は 必ずしも 検証していたわけではなかったのですが 断乎として 主張したいという思いがありました。むろん 吟味・検証の場なのですが。
 《あなたは すくわれて・・・》は きわめて単純な問いなのですが 現代人にとって 大きな問いかけになるのではないかと思っております。ほんの少しの隙間が埋められるかどうかによって 世界の見方が変わってくるのではないかという思惑があります。

 それにしても littlekissさんというお名前は 個性的ですよねぇ。よくつけられましたね。これは これだけのことです。

投稿日時 - 2009-02-04 22:13:52

ANo.41

おはようございます、brageloneさん。

・あなたは すくわれていますか
・情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか
・道徳規範は 愚の骨頂。(感情について)
・悪は 存在しない

禅問答(レス&Q=レスキュー)

『浮草』
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD26445/story.html
『終着駅』
http://homepage2.nifty.com/cs-vision/meigakurabu%205.html

【地域資料コーナー】
http://www.milai.pref.mie.jp/mie-lib/data/mienohon/147.html
『陰徳記』
http://www.e-furuhon.com/~matuno/bookimages/11729.htm

石ひろってきました。

投稿日時 - 2009-02-04 11:00:48

補足

 No.44への補足です。

 ★ 《Q:愛の反対は何ですか?》~~~~~~~~~~~~~~~
 他の誰でもなく、自らの身に向けて語っているのではなかろうか
 自らの犯した過ちにわけのわからない畏怖をおぼえるのではないだろうか

 我が身のうちに潜むあさましさをかき消すように
 あいということばを口ちづさむのではないだろうか

 あいという名のことばのやさしさにときにふれ
 あいという名のことばにときにきづつき
 あいという名のことばになみだする

 こぼれおちるなみだ
 くやしなみだ
 うれしなみだ
 はずかしさをつくろうなみだ

 あいってなんなんだ!
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 知らんの?
 相手とのあいだに 一方通行か双方通行か いづれにせよ 方向性が決まり しかも わたしの意志の内容によって プラスかマイナスかの向きが決まる。相手に対する思いやりか嫌悪か 愛情か排除か このどちらかの向きをもって わたしは 相手に 意志疎通をおこなう。コミュニケーションですね。
 この交通の関係ないしその過程 これが 一般に言う《愛》です。
 ですから 知らない人は別として 知り合いや目の前にいる人に対して その関係として 向きがまったくないという無関心であれば それは 意志の自殺行為です。一人にだけ その無関心となるという場合でも その一人が 人類を代表します。意志の死である無関心が たしかに 愛の反対概念です。

 好きも愛 嫌いも愛 けんかも愛 いぢわるも愛・・・だが 無視は死であり 愛ではない。

 ★ 【驚異の小宇宙 人体III 遺伝子】
 ☆ 見たいと思ったけれど 有料だって。

投稿日時 - 2009-02-07 21:33:33

お礼

 littlekissさん ご回答をありがとうございます。
 きょうは 朝がおそかった。一たん 三時ころに目を覚まし 当然まだ早いと寝なおして 起きたのが 十時。うすうす目ざめていたので おそくなってもよいと思って 寝つづけていたのですが それにしても このみごとなわざ!!

 しかも ほかの質問に回答をもらって けっこう忙しい。
 ★ 禅問答(レス&Q=レスキュー)
 ☆ だと言いますが このご回答も 禅問答ですよ。少し前から そうですよ。
 四つの参照サイトも てんで ばらばら。どうなってるの?

 ★ 石ひろってきました。
 ☆ じゃあ 分かりません。何か いいことをしたということですか?
 ★ 浮草
 ☆ は ストーリが あるとは思ったけれど ほかのは 詳しくはわからない。つまり 何を捉えればよいのかが 分からない。

 質問群は つながりが 捉えにくいですか。それとも もっと おもしろくせぇいということですか。まだまだ 頭の使い方がたらんというような。

投稿日時 - 2009-02-04 15:19:04

ANo.40

こんばんは、brageloneさん。

●…注意が必要ですねといったおざなりのことしか 言えず 弱っていますが。

車走らせ前方に落石注意の標識
http://webweb.s92.xrea.com/picture_p/m/rakuseki1.php
http://aym.pekori.to/koneta/archives/cat5/

それを目にした後、ハンドルを握りながら

「どないして注意するんじゃい!!!」

と、口走ったものです。。。

【厚生労働省】
http://www.mhlw.go.jp/topics/
【食品に含まれるカドミウムについて】
http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/iyaku/syoku-anzen/cadmium/index.html
【ホタテガイ副産物の有効利用システムの開発】
http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sk/kgs/douritsu/seika/kousi03.htm

投稿日時 - 2009-02-03 21:28:32

お礼

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それ(落石注意の標識)を目にした後、ハンドルを握りながら

 「どないして注意するんじゃい!!!」

 と、口走ったものです。。。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すでに落ちて来ている石に注意せよとのこと。それも そうぢゃ。

投稿日時 - 2009-02-03 22:00:03

ANo.39

こんばんわ。
知識は無いので建設的な討論の中に入るのをためらつておりましたが、

>悪は 存在しない
:この、やさしい事実に、すくわれることができたので、
お礼を言いにまいりました。ありがとうございます。


>悪は 存在しない
:同意します。
存在するのは「ある個体」と「ある固体」のあいだの「ちがい」であり、
この「ちがい」のために生じる摩擦であり、

摩擦を止める媒体が無い(善が欠如している)場合に発生する
摩擦の進行と、その結果の過度の摩擦であり、
過度の摩擦による、摩擦熱・磨耗です。
火事や、こすりすぎによる穴です。

存在するのは「ちがい」であり「かんちがい」であり「まちがい」です。
「かんちがい」を「正しい理解」になるよう働きかける
「まちがい」を「反省・訂正・修正」する
それだけです。



いま「善の損傷」について考えています。
ある個人αの中に善が不足しているとすると、
その個人αは不足しているのであるから善を得る必要があり、
善を得るためには
個人α自身が何ものかに善を求める必要があると思うのですが、

何ものに、どのようにして求めるべきか
ということについて考えている次第です。



また何か思うときに、ここが開いていたら、
気分次第で現れるかもしれません。
現れないかもしれませんが。


読んでくださりありがとうございます。





.

投稿日時 - 2009-02-03 00:16:14

補足

 neutralさん 朝になりまして お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 現実の生活の中で きちんと 考えておられるご様子に接し そういう場合には わたしは あぁ 話が抽象的だったかぁと思うことがあります。でも けっきょく 一般化して問い求めることになるのですが むしろ neutralさんの姿勢をこそ
 ★ 建設的 
 ☆ と捉えて歩む部分を 多くしていきたいと考えます。たぶん 具体的な事例を きちんと はっきり 出していくべしというところかと考えます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 存在するのは「ある個体」と「ある個体」のあいだの「ちがい」であり、
 この「ちがい」のために生じる摩擦であり、・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この観点は 
 ○ みづからの心に沿った《ほんとう》とそしてそれに反する《うそ》とに分け 善と悪とを捉える
 ☆ というよりは
 ○ わたしたちは 善だの悪だのと 頭の中で 細かい価値判断を言うことから離れよう。
 ○ 存在は 互いに その自己表現において 自由であるのだから 互いに 必然的に 差異を生じさせる。
 ○ 問題は この差異を どう 扱うかにある。
 ○ つまりは 差異の互いによる認容 あるいは 異者の受容と呼ばれている解法が 有効なのではないか。
 ☆ というふうに受け取りました。そのまま 《建設的である》と思います。そういうことなのだと考えます。

 この《異者の受容 / 差異の認容》が実現していれば
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 存在するのは「ちがい」であり「かんちがい」であり「まちがい」です。
 「かんちがい」を「正しい理解」になるよう働きかける
 「まちがい」を「反省・訂正・修正」する
それだけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と言えると思います。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 いま「善の損傷」について考えています。
 ある個人αの中に善が不足しているとすると、
 その個人αは不足しているのであるから善を得る必要があり、
 善を得るためには
 個人α自身が何ものかに善を求める必要があると思うのですが、

 何ものに、どのようにして求めるべきか
 ということについて考えている次第です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ の問題について 逆に わたしのほうから ひとつの回答を提出したかっこうですが 全体として そうなるのではないかと考えます。
 つまりは 
 ○ 存在は 善悪の価値判断を超えており 言うとすれば 善である。(存在≧善)。
 ☆ ですから すでに もともと その自然本性として 善の素を備えていると――強引にでも――考えるわけです。その《われに還ればよい》というきわめて暢気な考え方です。

 お互い 
 ★ 過度の摩擦による、摩擦熱・磨耗 / 火事や、こすりすぎによる穴
 ☆ を出さないように 大きくしないように その初期から 差異の受容――つまりは まづ 互いに 意見が違うと互いに認識すること――から始めたいものですよね。
 
 この質問は 期間が長くなりましたので 締めることになるかも知れません。もしその時には さらに 間接的な内容としてでも 続編を問うてみたいと思いますので いつでも ご投稿をお待ちしていたいと思います。ありがとうございました。
 (お礼欄におさまらない長い場合には いつも 補足欄にて ご返事申し上げておりますので あしからず ご了承ください)。 

投稿日時 - 2009-02-03 10:01:35

ANo.38

maimai.susです。

?この質問はこうですよね。 
 >《存在は 善悪を超えている》(質問として:​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html​)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。
 もとに戻って この質問をします。
 ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。
 ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。
 ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。

 以上について 成否・当否を おおしえください。

ですから。《存在は 善である》を定義の考察は基本的に、必要ないんじゃないの。


その訳は、存在を正確に認識するという事に関して偏りが生じやすいから。もしくは、正しく認識し難いから。
っという事を言っている訳であり、では何故、私がそう考えるのか、その理由を今までの回答で言っているのです。

>ひとの文章に対して
 ★ 間違っていると思いますよ。
 ☆ という判断は 必ず 根拠を示す必要があります。
 ★ そんなカメラのレンズに色を付けるような事
 ☆ を きちんと 説明しないのであれば ただのいちゃもんつけだと断定します。

 だから、もう一度、考えながら読み直してくださいと言っているのです。
今までの回答の中での事を、理解して下さっていれば、根拠も説明もわかるはずです。
もし、ただのいちゃもんつけだとお思いになるならば、それは、私の説明が悪いか、brageloneさんの理解力がないか、はたまた、両方なのかもしれないですね。

投稿日時 - 2009-02-01 01:50:22

補足

 ● (No.35)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 えーとですね。
 
>★ 〔《存在は善なり》にもとづく《善・悪》を前提として 考えることは〕 「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考える
 ☆ ことは 正確な認識ではありません。

そう言う事を言いたい訳ではなく、
 
 brageloneさんの《存在は善なり》にもとづく《善・悪》を前提とし て考えること。

 maimai.susの「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考える。多角的認識。

と比べてみて、
どちらの方が存在を正確あらわしているかどうか。って話な訳です。

つまり私は、存在という事に関しては、前提に存在は善なりは、必要ないと思っている訳です。

ですけど、そもそも善・悪って言葉の意味としても正・誤とか上・下、左・右と同等種の言葉でないの。
 
    *    *    *

 ★ そもそも善・悪って言葉の意味としても正・誤とか上・下、左・右と同等種の言葉でないの。
 ☆ 考えや行ないについて 存在の持続にとって好ましく望ましいことを 善と言うという想定です。好ましくない場合を 非善つまり悪だと言います。

 考えや理論について 《正誤》を判断して言うのは 存在の維持向上という善のためであるという前提が わざわざ 言う必要のないほど とうぜんのこととして あるからではないですか。

 《美醜》は 善悪に関係なく 判断して決まりますが それが 存在にとって 善のために なるかを考えます。あるいは 悪にならないように どうすればよいかを考えます。つねに わざわざ そこまで 考えなくてもよいのですが だとすれば それらは 善でも悪でもない無記のものとして 《善なる存在》を基礎として 捉えられることがらです。
 それに 《美醜》を持ち出すと言っても いまの質問としては 《考えや おこないについて》のことですから その点を忘れてはなりません。おそらく 善悪とは あたかも 別様に その認識がなされますが だからと言って 別世界のことだというものでもありません。花が美しいとか 容貌が醜いとか そういう問題ではなく そうではなく 《思惟や行為にかんすること》なのですから。
 この場合の美醜は けっきょく 先の 正誤の問題と 同じように捉えられるでしょう。善悪を前提とした正誤であり 美醜であるとなります。

 《上下 左右》は 存在とその持続のために 善であるかどうかが 一概には 決まりません。それだけのことです。それらは 思惟や行為ではないでしょう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-02-01 03:17:44

ANo.37

こんばんは、brageloneさん。

【QNo.3607859 「花を手向ける」の「花」は何の花?】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3607859.html




スティーブンス・ジョンソン症候群

去年だったかな、人と言葉を交わしていた中で

『スティーブンス・ジョンソン症候群』という名を聞いたのは…

風邪をひいて飲んだ薬によって他の病気を発症するとか

特段かわった薬でもなく、ごく一般に市販されている風邪薬

薬には、使用上の注意書きが必ず添えられている

これこれこういう症状が出た場合は、

すぐに薬の使用を中止し、医師・薬剤師に相談をと

けれど、ごくごく一般的な風邪薬ともなれば

添えられた注意書きあれど…

ごくごく一般的な風邪薬ということもあり

安心感からか、注意も薄れる

とにかく、症状を緩和させたいとの思いが急くからだろう

体質には、個人差がある 体調は一様ではない 体質は変化する

A(B)にはよくてもB(A)にはよくなかったり

同一のA(B)であっても

その時々の体調によっては、よかったりよくなかったり

知っているようで知らない自分の身体



コンビニでの医薬品販売、手軽に薬が手に入るようになった昨今

このあたり、今一度、注意してみていかなあかんのんちゃうやろか?

投稿日時 - 2009-02-01 00:42:04

お礼

 こんばんは littlekissさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 コンビニでの医薬品販売、手軽に薬が手に入るようになった昨今

 このあたり、今一度、注意してみていかなあかんのんちゃうやろか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 《注意書き》をよく読めば だいたい 防げるといった程度の問題なのでしょうか? それとも 読んでも はっきりした指示が分からないのが 一般であって かなり ふつうに 陥りやすい問題でしょうか。
 服用のばあいの問題と 医薬品じたいの問題と 両方があるのでしょうね。共同自治という視点と場において 注意を呼び起こし 対処して行かなければならないようですね。

 ほかに 比喩としての意味は ありますか。あっても 現段階では 発表は ここまでですか。

 それとも 比喩・比喩でないどちらの場合にしても 個人的な情況も からんでいますか。

 いづれにしても
 ○ 存在とその維持向上のためとして ひとつの部分に対して善であるものが ほかの部分に対しては 善ではなく 悪であるという事例。
 ☆ なのですね。

 病気と寿命は 必ずしも つねに つながっているとは――素人考えですが―― 思っていないのですが それにしても 注意が必要ですねといったおざなりのことしか 言えず 弱っていますが。

投稿日時 - 2009-02-01 03:41:51

ANo.36

maimai.susです。

ですから、そう言う話ではないんです。もう一度、考えながら読み直してください。それで同じ答えなら、やっぱり私の答え方では、通じないと言う事です。どんな答えを出しても、brageloneさんのプラスになる回答は、私には出来ないという事ですね。残念ですが。

でもまあ、そんなカメラのレンズに色を付けるような事は、基本的には、むしろ間違っていると思いますよ。

投稿日時 - 2009-01-31 21:15:43

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 ですから そういう話なんです。そうでなければ 質問から それてしまいます。
 これだけ 説明すれば 通じると思っているんですが。

 ひとの文章に対して
 ★ 間違っていると思いますよ。
 ☆ という判断は 必ず 根拠を示す必要があります。
 ★ そんなカメラのレンズに色を付けるような事
 ☆ を きちんと 説明しないのであれば ただのいちゃもんつけだと断定します。

投稿日時 - 2009-01-31 22:06:34

ANo.35

maimai.susです。

えーとですね。
 
>★ 〔《存在は善なり》にもとづく《善・悪》を前提として 考えることは〕 「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考える
 ☆ ことは 正確な認識ではありません。

そう言う事を言いたい訳ではなく、
 
 brageloneさんの《存在は善なり》にもとづく《善・悪》を前提とし て考えること。

 maimai.susの「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考える。多角的認識。

と比べてみて、
どちらの方が存在を正確あらわしているかどうか。って話な訳です。

つまり私は、存在という事に関しては、前提に存在は善なりは、必要ないと思っている訳です。

ですけど、そもそも善・悪って言葉の意味としても正・誤とか上・下、左・右と同等種の言葉でないの。

投稿日時 - 2009-01-30 22:48:41

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 ★ そもそも善・悪って言葉の意味としても正・誤とか上・下、左・右と同等種の言葉でないの。
 ☆ 考えや行ないについて 存在の持続にとって好ましく望ましいことを 善と言うという想定です。好ましくない場合を 非善つまり悪だと言います。

 考えや理論について 《正誤》を判断して言うのは 存在の維持向上という善のためであるという前提が わざわざ 言う必要のないほど とうぜんのこととして あるからではないですか。

 《美醜》は 善悪に関係なく 判断して決まりますが それが 存在にとって 善のために なるかを考えます。あるいは 悪にならないように どうすればよいかを考えます。つねに わざわざ そこまで 考えなくてもよいのですが だとすれば それらは 善でも悪でもない無記のものとして 《善なる存在》を基礎として 捉えられることがらです。
 それに 《美醜》を持ち出すと言っても いまの質問としては 《考えや おこないについて》のことですから その点を忘れてはなりません。おそらく 善悪とは あたかも 別様に その認識がなされますが だからと言って 別世界のことだというものでもありません。花が美しいとか 容貌が醜いとか そういう問題ではなく そうではなく 《思惟や行為にかんすること》なのですから。
 この場合の美醜は けっきょく 先の 正誤の問題と 同じように捉えられるでしょう。善悪を前提とした正誤であり 美醜であるとなります。

 《上下 左右》は 存在とその持続のために 善であるかどうかが 一概には 決まりません。それだけのことです。それらは 思惟や行為ではないでしょう。

投稿日時 - 2009-01-30 23:51:32

ANo.34

maimai.susです。

うーん、なるほどね。
どうやら、今の私では、今のbrageloneさんに、自分の回答を理解して頂けないようですね。

☆ 善悪にかんする言語習慣を どう解明するか。そのために 存在は善であるという想定を 出発点に置く。そうすれば 基本的に 全体として 解明することができた。どうでしょうか。と何度も問うています。
 この話の筋を外れて行こうとしていませんか。むしろ 基本としては 賛同するという答えを出してもらったのではないですか。

基本としては、の基本、「善悪にかんする言語習慣を どう解明するか。そのために 存在は善であるという想定を 出発点に置く。」
その部分が、足りてない、こうゆう考え方の方が正として考えた方が、(「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考えるのが)自分は正しいんじゃないですか?比べてみてね。と言っている訳です。なので、
 >☆ これらすべての場合 基本的に 善なる存在の持続という善なる思惟および行為を基盤として 現われると言っています。
この意見は、私の回答を全く理解していないんだな、とおもいますね。まあ、他の話も似たようなもんですが・・・。


 >☆ 《足りる》と言っているのですから 《なぜ 足りないか》を明らかにする必要があります。うしろの一文は その論証ではなくて 情況説明です。しかも 情況説明としては わたしの場合 《弱肉強食》という現実の実態にだけもとづくことはしませんとお伝えしています。

これについても少し。
足りる、と言っても、善性は目に見えて触れる物ではなく、それ単体では、存在と言うには余りにも不完全。足りていない明らかじゃあないですか。
もし存在=善性だとすると、何の解明にもなっていないし、意味のない事ですよね。それよりも、色んな要素で判断・認識した方が意味があると思いますよ。
意味がない=不必要な事ですよね。ある意味。

私が賛同したのは、存在=善性だとしたならばの話の事です。それはそれで、良いんじゃあない程度に。

どうでしょう。私の回答は間違っていますか?

投稿日時 - 2009-01-30 11:56:24

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 今回は 次の一点に 絞ることができるでしょう。
  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考えるのが 自分は正しいんじゃないですか?比べてみてね。と言っている訳です。なので、
 >☆ これらすべての場合 基本的に 善なる存在の持続という善なる思惟および行為を基盤として 現われると言っています。
 :この意見は、私の回答を全く理解していないんだな、とおもいますね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 〔《存在は善なり》にもとづく《善・悪》を前提として 考えることは〕 「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考える
 ☆ ことは 正確な認識ではありません。
 ○ 存在がなければ また その持続を前提としなければ 《「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」・・・「強さ・弱さ」》は 意味をなさない。
 ☆ このように 前々から 言っています。考えてみてください。
 《「明・暗」》は 自然現象とすれば 別の問題です。存在をめぐる環境の問題ですから 《存在が善である》と 競合しません。
 わかりましたか。

投稿日時 - 2009-01-30 12:32:00

ANo.33

maimai.susです。

>もし 誇るなら 弱さを誇ろうというのが わたしの標語ですから これも 違います。

もちろん、良い意味での弱さだとは思いますが。
弱さから出る悪って有るじゃないですか。あれ凄く嫌いなんですよね。
特にそのせいで、美しさが損なわれるのが特に。
話が逸れてすいません。ついでにもう少し。
まあ、brageloneさんの定義からは存在しないのですが、純粋な悪(欲望)結果的な悪は、逆に好きですね。不純物の少ないそれは、美しさや強さがあるからです。
中途半端な善より、個人的には好きですね。
もちろん、強く美しく調和のとれた善性的欲望に越した事はないのですがね。

抽象的で理解できないかもしれませんが。

>この差異を互いに受け容れて さらに 対話がすすめば よいでしょう。

とても、こちらの意見を理解したお答を頂いていないので、とてもそうは思えないのですが。まあ、その通りですね。

そうそう例えば下記考え方の、何処が間違いなのか、お答え願いたい訳です。そうしないと、わたしの考えかたが何処まで伝わったのか分からないからです。

 (1) そう言う意味でなら、「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考えるのが正しいと思います。

 (2) 例え、不都合はなくともそれよりも、正しく認識出来るのであれば、その物事や、存在は善である必要性も無いと思いますが。

など。それに何故私の答えを理解していないと思うのかと言えば、

>わたしは いま提出している善悪観が ゆるい規定であっても むしろそれゆえに 現実に妥当すると考えていますので そういった点など もし 批判をさらに伸ばしていかれるときには 触れてくださるとよいと思います。どうでしょうか。

善悪観の話では無くて、存在観の話を答え続けているんですよ。ってことなんですけどね。どうもここから先に話が進まない訳です。
何故って、brageloneさん自分の意見の前提だけでしか話しないんですもん。
それでは、他人の意見は、理解出来るはず無いでしょ。っておもう訳です。どうでしょう。

投稿日時 - 2009-01-30 00:20:02

補足

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 これまでのご回答内容からすれば 質問の趣旨説明に対して 大きな間違いが指摘されるということは なかったようです。それだから
 ★ どうもここから先に話が進まない
 ☆ ということで よいわけです。

 前回(No.31)に対して あらためて ご返答しましょう。
 ★★ だから、存在の一部って事でしょ。
 ☆ 善か悪か無記(いづれでもない)か いろんな行為のあり方が見られることは
 ○ 存在の ≫あり方≪ の一部って事です。
 ○ 大きく総括的に 存在は善だという想定です。その善なる存在が 意志の自由な選択行為により 一般に 同じく善なる思惟と行為を持ち 時には この善に反する内容(つまり 悪)を持つことがある。
 ○ さらには 特に善とも悪とも規定する必要のない事柄も ひとは おこなっている。
 ○ ただし この最後の行為に分類されるものも 基本的には 善なる存在から表現されるものであって その存在の持続という善の上に乗っかった行ないである。
 ☆ この《善でも悪でもないことがら》については 趣旨説明に 触れていませんでしたが 付属していると考えられます。それに 不都合はないという意味です。これで 《正確な》認識だという意味です。ゆるい分類による認識で 問題ありません。正確です。

 ですから 次の文章は 上のように解することと 矛盾しないはづです。
 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 例え、不都合はなくともそれよりも、正しく認識出来るのであれば、その物事や、存在は善である必要性も無いと思いますが。
まあ、善でも問題ないですよ。でもそう言う事言っている訳ではないですよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★★ 良い方には変わらないと思いますよ、物事を正しく認識しているとは言えないからです。
 ☆ 《正しい認識》を示すべきです。

 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 存在 ≧ 善、見たいな大雑把で軟弱な考え方だけは、全足りないと思います。
 これからの時代は、尚更ね。そもそも自然の節理自体が、基本的に弱肉強食ですから。強さは大切だと思いますよ、色んな意味において。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《足りる》と言っているのですから 《なぜ 足りないか》を明らかにする必要があります。うしろの一文は その論証ではなくて 情況説明です。しかも 情況説明としては わたしの場合 《弱肉強食》という現実の実態にだけもとづくことはしませんとお伝えしています。

 以上の経過なわけです。

 ★  (1) そう言う意味でなら、「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考えるのが正しいと思います。
 ☆ これらすべての場合 基本的に 善なる存在の持続という善なる思惟および行為を基盤として 現われると言っています。

 ★ (2) 例え、不都合はなくともそれよりも、正しく認識出来るのであれば、その物事や、存在は善である必要性も無いと思いますが。
 ☆ これまでのみなさんのご回答を総合して判断するに いま現在 提出しているたたき台で足りるようですと言っています。《ゆるい分類による認識で 不都合がなく それであれば それをもって 正しい認識とする》と言っています。むろん さらに探究するというのは とうぜんのことです。

 ★ brageloneさん自分の意見の前提だけでしか話しないんですもん。
 ☆ この《前提》つまり 趣旨説明に対して 見解を示していただく質問なわけですから。

 ★ 善悪観の話では無くて、存在観の話を答え続けているんですよ。ってことなんですけどね。
 ☆ 善悪にかんする言語習慣を どう解明するか。そのために 存在は善であるという想定を 出発点に置く。そうすれば 基本的に 全体として 解明することができた。どうでしょうか。と何度も問うています。
 この話の筋を外れて行こうとしていませんか。むしろ 基本としては 賛同するという答えを出してもらったのではないですか。

投稿日時 - 2009-01-30 02:47:19

ANo.32

こんばんは、brageloneさん。

公的補助がおりるものといえば、民間の採算ベースにのらないもの

特定疾患
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%AE%9A%E7%96%BE%E6%82%A3

で、民間の採算ベースにのるものといえば…

たとえば…

風邪、特別の誰かではなくだれかれ関係なしに風邪ひきますよね

って、ことは…薬の需要がある

たーんと研究開発費を注いでも需用が供給を満たすことから研究開発費はペイできる

できるとなれば、採算ベースにのるわけだから民間でとなり補助費はなし

自主採算

で、どちらからも漏れ落ちるものが…その外側にいる

時間の経過とともにそのおかれる位置も変化する

投稿日時 - 2009-01-29 22:42:28

補足

 littlekissさん 補います。

 ● 《Q:〈われはブッダなり〉と宣言する人は》
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3843320.html
 ☆ ここのNo.1&3&4&5&7を見てみてください。No.7だけで よいです。
 わたしは 相手に 花を持たせ過ぎました。持ち上げすぎました。有頂天が わざわいしたのかも知れません。確信犯に変身してしまいました。
 まぁ 悪の問題でもあるのですけれど。わたしの手を離れました。という感覚を持っています。現状報告のみですが。

投稿日時 - 2009-01-30 13:24:49

お礼

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ううむ。
 ○ 善か悪かの判断の前に と言いますか それとは別様にと言いますか 病気という状態があるのではないか。また そこから表現される思惟や行為があるのではないか。
 ☆ こういうご見解でしょうか?
 たぶん と言いますか 基本としては それがそうであっても 社会の中で いちおうは ふつうに生活している人に対しては まったくふつうに対応するというのが わたしの場合です。つまり そのふつうの社会生活にあるのであれば たとえ病気のせいであっても そのおこないが悪であると判断されるなら その悪であることを指摘すると思います。
 病気であるかどうかに関係なく 相手や情況に応じて その指摘の仕方を変えたり 時には指摘じたいを控えたりするのは これも ふつうのことです。

 ★ どちらからも漏れ落ちるものが…その外側にいる
 ☆ 民間の研究開発から漏れ 公的補助による研究開発ないし治療にも含まれないものが 出てくるということでしょうか? それは 訴えないし 訴えても 取り上げられないということでしょうか? 訴えつづける必要があるという考えでは 足りないということでしょうか?

 それとも もっと 頭を使え。まだ ものごとを見ていないぞ。といったお叱りでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-30 03:03:49

ANo.31

maimai.susです。

☆ そういうふうに 一部分のほかに 善悪とは直接かかわりのないいろんな状態でいることが 人間には あることは 分かっているわけです。

だから、存在の一部って事でしょ。

 >ところが そういうふうに 善でも悪でもない状態は 飽くまで 存在の自己表現としての さまざまな姿であり状態です。この存在を持続させるための はっきりとした善でなくても 大きくは 善の範囲に入る場面だと捉えることも出来るわけです。それで 不都合はないはづです。

例え、不都合はなくともそれよりも、正しく認識出来るのであれば、その物事や、存在は善である必要性も無いと思いますが。
まあ、善でも問題ないですよ。でもそう言う事言っている訳ではないですよ。

>☆ というふうに たしかに 優先順位が ひとによって また その時その都度によって 違うのですが すべては この《存在 ≧ 善》という大前提の上で 起こっていると見るものです。中には この善を傷つける思いや行ないが 現われる。これを 悪と呼んでいるのだと捉えれば 世の中の見方が 変わってくると思うのです。よいほうに変わると思うのです。どうでしょう。

良い方には変わらないと思いますよ、物事を正しく認識しているとは言えないからです。
世の中良いが方向に向かうためには、一人一人の人間がより強く、より多くの物事の認識、思考を正しくして行く事だと私は思います。
そのためには、存在 ≧ 善、見たいな大雑把で軟弱な考え方だけは、全足りないと思います。
これからの時代は、尚更ね。そもそも自然の節理自体が、基本的に弱肉強食ですから。強さは大切だと思いますよ、色んな意味において。

投稿日時 - 2009-01-29 17:12:49

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 ★ そもそも自然の摂理自体が、基本的に弱肉強食ですから。強さは大切だと思いますよ、色んな意味において。
 ☆ 摂理が もし あるとすれば それは 《弱肉強食》あるいは適者生存の自然淘汰だとは 考えません。この出発点が 違っているようですね。
 もし 誇るなら 弱さを誇ろうというのが わたしの標語ですから これも 違います。
 ここまで分かって よかったと思います。この差異を互いに受け容れて さらに 対話がすすめば よいでしょう。ともかく ここまで やって来ました。
 わたしは いま提出している善悪観が ゆるい規定であっても むしろそれゆえに 現実に妥当すると考えていますので そういった点など もし 批判をさらに伸ばしていかれるときには 触れてくださるとよいと思います。どうでしょうか。

 存在は善 この前提の上に 思惟や行為としてあると考えられるのは 大きく分けて
  ・善 もしくは 
  ・非善としての悪 あるいは 
  ・善でも悪でもないことがら(しかも 一般に 善という基礎の上に乗っている)
 これらの三種類ではないかと思います。こういった仮説でもあります。

投稿日時 - 2009-01-29 19:31:00

ANo.29

maimai.susです。

>少し 話がかみ合っていないようですが どうでしょう。
そうですね、そこを分ってもらうために、回答させて頂いています。

そもそも《存在は 善悪を超えている》とbrageloneさんは思った訳ですよね。その時点で、存在=善では無くなっているんだよ。存在>善だよ。と言う事になっているのに、思考が善悪に縛られるあまり、正しい物の見方を逸脱している様に私には見えるのです。

感覚で言うなれば

(1)花は、善であり、愛であり、草であり、花である。

(2)善は、花であり、愛であり、草であり、花である。
 
上記例で見ると(2)を見て、あれ?って思いません?

 >世の中で 善あるいは悪という言葉を わたしたちが 使っています。人間そして社会の問題として そのような言語の習慣は どのように成り立っているのか これを 探究しようとしています。

そう言う意味でなら、「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考えるのが正しいと思います。
存在=善と考えるのは、偏った=足りない物ばかりの思考だとしか思えません。これは、あくまで私個人の見解ですが。

>ふつうに善であるとき そして そういう善の状態が 基調になっているけれども 時に その善をゆがめて 悪を思ったりおこなったりするとき こういうときのことを どう考え説明すればよいのか こういう質問になっています。どうでしょう。

だって人によって、意識の優先順位が違うでしょ。

善悪よりも、好き嫌いを優先させればそれ相応の状態になるでしょ。
そう言う人の場合、好き嫌いが、善悪を凌駕している訳だから、その人の存在は、好き嫌いを大部分とする意識と言う事になる。
善のへそ曲がりより、正確に物事を説明していると思いますが。

 様は付け足す部分が、有るよ、それだけでは不十分だよ。って部分を分かってもらいたい訳です。
 従って、善悪は存在の一部分だよ。っと回答させて頂いている訳ですね。個人的に。

偏った=足りない物ばかりの思考は、その意味において部分的にしか意味をなさないと言う事を理解して下さい。

投稿日時 - 2009-01-29 11:31:49

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 善悪は存在の一部分だよ。
 偏った=足りない物ばかりの思考は、その意味において部分的にしか意味をなさないと言う事を理解して下さい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そういうふうに 一部分のほかに 善悪とは直接かかわりのないいろんな状態でいることが 人間には あることは 分かっているわけです。
 ところが そういうふうに 善でも悪でもない状態は 飽くまで 存在の自己表現としての さまざまな姿であり状態です。この存在を持続させるための はっきりとした善でなくても 大きくは 善の範囲に入る場面だと捉えることも出来るわけです。それで 不都合はないはづです。
 ★ 好き嫌いが、善悪を凌駕している
 ☆ 状態であっても 存在という善の大前提は 生きている。と解釈するわけです。そうすれば 《悪》は どこを探しても それ自体としては 存在していない。このように世の中を見るならば かなり 風通しがよくなるのではないか このような仮説です。まだ 持ち堪えていきたいと思うのですが?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そもそも《存在は 善悪を超えている》とbrageloneさんは思った訳ですよね。その時点で、存在=善では無くなっているんだよ。存在>善だよ。と言う事になっているのに、思考が善悪に縛られるあまり、正しい物の見方を逸脱している様に私には見えるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは かんたんです。
 ○ 存在 ≧ 善
 ☆ と捉えればよいと思いますよ。
 すなわちあらためて
 ★ だって人によって、意識の優先順位が違うでしょ。
 ☆ というふうに たしかに 優先順位が ひとによって また その時その都度によって 違うのですが すべては この《存在 ≧ 善》という大前提の上で 起こっていると見るものです。中には この善を傷つける思いや行ないが 現われる。これを 悪と呼んでいるのだと捉えれば 世の中の見方が 変わってくると思うのです。よいほうに変わると思うのです。どうでしょう。

投稿日時 - 2009-01-29 13:54:57

ANo.28

brageloneさん回答ありがとうございます。

「哲学は学問ではない」というのは池田晶子さんの言葉の中にありました。
私は学問として扱っているのではなく、brageloneさんの《悪は 存在しない》を理解するためにbrageloneさんの言う「悪」と「存在」とはどういうことかについて質問しています。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

●下記の4つについては説明が無い、もしくは足りないと思いますので回答をお願いします。

No.3.当人が善いことと思って行っても悪ならば、もはや善の欠損としての悪の範囲に収まらないのではないか?

No.3.善の欠損(悪は存在しない)のと悪(悪そのもの)をどう見分ける?

No5.ただの「存在」が「善として存在する」となるのはいつですか?。またどうやってなるのですか?

No11.自分だけでは善悪という概念は存在しないのではないですか?7と近いですがこちらでは一般の人を想定して話して下さい。


_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
●下記は回答を頂きましたが引き続き不明な点がありますので追加でお願いします。

6.「自分の存在は善である」
は分かりますが、何故「だから他人もそうである」と考えられるのですか?
は4同様に無根拠と言う事で宜しいですか?


3の>>存在(=生命・人間という生命体)を存続するのが 善である。
私利私欲を貪る為にひたすら生き長らえる行為が善とはとても思えないのですが?


>>【4】は おのおのの主観を持ち寄って 互いに 決めていく。
ということは少なくともここで書き込みをしている人のそれぞれの主観は同等で、そう考える人と考えない人が
互いに自ら決めれば良いと言う訳ですね。それは真理ではないのではないですか。
”悪は存在しない”は相対的な各々結論に過ぎないことということですか?


17(7の回答)
を見ると、「社会が存在を善にする」(していく)と考えられるわけですね。
とすると「存在は善」なのではなく「社会の影響を受けた存在は善」に過ぎないのではないですか?
即ち影響する社会側が悪であったら「存在は善」、にはならないのではないかと。


19.【10】について。
信仰が存在以上で善悪が存在以下なのは分かりました。ですから善悪の概念はどこにあるのですか?
個人の内の何処か? と言う問いと 宇宙?の何処にあるか? という二つの意味それぞれにお答え下さい。


13. 主観は 共同化できるものがあるわけです。《うそは いけない》や《殺すなかれ》は 共同主観(コモンセンス)です。
<<うそはいけない>>は方便、本音と建前に過ぎずその本質を理解されていない気が致します。
例えば簡単に、顔にゴミが付いていたり、ファスナーが空いている人を必ず指摘するとは限りません。
時と場所と立場を選ばないと指摘する方もされる方も却って悪い思いをするからです。

brageloneさんの《うそは いけない》に基づけば気が付いているのに言わない時点で善の欠損となってしまいます。
即ち、共同主観と言うものの中にある善悪の概念はもっと複雑なものです。
「ウソを他者に強要する善」が少なくとも現代の人類の共同主観には含まれて居ますよ。

《殺すなかれ》も同様に、ではなぜ死刑制度があるのでしょう?
国家の名の下にの行う刑の責任は全国民一人ひとりに寄与するとなると、全員が悪を働いていることになります。
また先のイラク戦争のように人を殺す行為を善とするピースとして宗教は欠かせない存在です。


5.ウソは善に逆らう意志行為である。意志が 初めの心のあり方に背向いた。
この「初めの心のあり方」を自分の心の内で認識できない人が沢山居ると思います。
池田晶子さんは「倫理は教育によって身につくことはない。」と書いておられました。
つまり、そういった人にとって「初めの心のあり方」たる善は多分一生その人の行為に表れない訳です。
とするとこの人は果たして善なのか悪なのかという話になります。
どう考えられますか?。

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追加質問

自らの行いに悪が無い、所謂善人と自他共に認識している人が居るとします。
この人が他者の悪行を注意しないとしたらそれは悪人ではないですか?
逆に注意するとしても、その他者にとってはまさしく善行だとしたら、それを咎める方は悪人となってしまいます。
いわゆる生存権というものに関わる事態を想像頂ければ分かりやすいかと思います。
どうお考えですか?

投稿日時 - 2009-01-28 19:11:00

補足

 poipoi_saさん ご回答をありがとうございます。

 個々に答弁してまいります。
 ★ 「哲学は学問ではない」
 ☆ 論理学や倫理学あるいは哲学史としての学問は あるようです。

 ★ No.3.当人が善いことと思って行っても悪ならば・・・ 
 ☆ 善か悪かの判断は 基本は 本人の主観です。という意味は とりもなおさず 社会にあっては 主観どうしの取り決め ないし 話し合いによります。
 一人の人の主観にまちがいがあれば 勘違いとか あやまちとかと言われます。訂正されます。すべて 人びとの総合的な判断によります。意見が対立すれば どこまでも 話し合いをつづけます。

 ★ No.3.善の欠損(悪は存在しない)のと悪(悪そのもの)をどう見分ける?
 ☆ 同じものです。悪そのものといった実体はないという仮説です。善の欠損として 意志した行為が 悪と呼ばれるもので それとして 現象しています。現象としては 起こっています。

 ★ No5.ただの「存在」が「善として存在する」となるのはいつですか?。またどうやってなるのですか?
 ☆ そうではなく 《存在は 善悪を超えているものだが 仮りに 善と規定してみる》という作業仮説です。この想定によって 全体が 説明できれば よいという問題です。定義したから 善があるとか 善になるとかの問題ではありません。

 ★ No11.自分だけでは善悪という概念は存在しないのではないですか?7と近いですがこちらでは一般の人を想定して話して下さい。
 ☆ 自分だけで 善か悪かの判断は すでに おこなっていると見ています。それが 一応 確定するのは 人びとの総合的な判断によります。しかも 時代とともに その結論が 変化することさえあります。
 
 ★ 6.・・・何故「だから他人もそう(善)である」と考えられるのですか?
 ☆ 人びとによる取り決めで 決まります。

 ★ 私利私欲を貪る為にひたすら生き長らえる行為が善とはとても思えないのですが?
 ☆ 存在と行為とを 分けてください。

 ★ ・・・人のそれぞれの主観は同等で、そう考える人と考えない人が / 互いに自ら決めれば良いと言う訳ですね。それは真理ではないのではないですか。
 ☆ 《【4】は おのおのの主観を持ち寄って 互いに 決めていく》のです。各自の主観を ばらばらのままに放っておくのではありません。《真理》は 信仰に関係します。善悪の価値基準は 心の真実という問題として 時代によって 変わることがあり それは 思想に関係します。

 ★ 影響する社会側が悪であったら「存在は善」、にはならないのではないかと。
 ☆ 上の経験思想の問題です。その人びとの思考がまちがっていたら 価値基準は まちがったものになります。民主主義の世の中になりました。そこでは 人びとが まちがうことは 割り合い 少なくなりました。 

 ★ 善悪の概念はどこにあるのですか?
 ☆ 個人の主観の内に あります。ただし 社会的には 人びとの共同主観のほうが 優勢です。どちらが 真実で妥当であるかは 一概に決められません。多数のほうが まちがっていることもあります。

 ★ 《うそは いけない》は その本質を理解されていない気が致します。
 ☆ 第一次に 主観において 自然の心に反する内容は うそであり 悪です。この第一次の場において 同時に 社会的な側面が伴なっています。それによると 相手の主観(それによる 善悪の判断)を尊重する必要があります。つまり わたしの判断としての《うそはいけない》は 相手との話し合いを介するという行為を 必然的に 伴なうよう 促しています。相手と情況に応じて 声をかけてもよいと思います。
 ★ 「ウソを他者に強要する善」
 ☆ これは 悪です。

 ★ 《殺すなかれ》も同様に、ではなぜ死刑制度があるのでしょう?
 ☆ これが 時代の問題です。
 ★ 国家の名の下にの行う刑の責任は全国民一人ひとりに寄与するとなると、全員が悪を働いていることになります。
 ☆ そのとおりです。共同主観です。

投稿日時 - 2009-01-28 20:14:32

お礼

 ・
 ★ 人に〔よ〕って「初めの心のあり方」たる善は多分一生その人の行為に表れない
 ☆ 存在に潜在すると捉えてください。その善の開発の問題になります。気づきとも言いますが。対話や交通が 望まれます。

 ★ 他者の悪行を注意するかどうか
 ☆ 第一に わたしの主観が 相手の行為に 悪があると判断する。第二に このわたしの考えを 時に応じて また 相手の状態に応じて 発表し 話し合いを持つ。そこで 決め合っていく。

 ★ 生存権
 ☆ は 善であると想定した《存在》を 法律上も 擁護するものです。

 どうでしたか。善悪の判断について ひとにより 社会により 時代により けっこう 流動的であると思います。これは 経験思想に関係します。相対的な善悪ですから。普遍性としての真理は 信仰に関係します。それは なぞです。

投稿日時 - 2009-01-28 20:18:43

ANo.27

どうもこんばんは。一生懸命説明いただいたのは感じるのですが、どうも私の知りたい事と関連の有る内容とは思えません。
というのは、私が何を知りたいかを理解して書かれた文とは思えないと言う事です。


伝え方が悪かったのかも知れませんので再度整理してみました。
知りたいのは、
1.brageloneさんの言う悪とは何であるか。
2.存在とは何か。
3.善悪の概念はどこにあることになっているのか。
という3点です。

以下質問を詳細に11個作っておきましたので各自解答をもらえると助かります。
その下の解説は質問だけで分かりにくいニュアンスを解説しています。

●善悪について

1.brageloneさんの定義による善と悪を両者がより明確に区別できるように教えて下さい。

2.「善を悪用している」のと「悪」とはどう見分けるのですか?

3.当人が善いことと思って行っても悪ならば、もはや善の欠損としての悪の範囲に収まらないのではないか?

3.善の欠損(悪は存在しない)のと悪(悪そのもの)をどう見分ける?

●存在について

4.人が「善として存在する」と言い切れる根拠を説明して下さい。

5.ただの「存在」が「善として存在する」となるのはいつですか?。またどうやってなるのですか?

6.「自分の存在は善である」は分かりますが、何故「だから他人もそうである」と考えられるのですか?

7.一生誰とも出会わないで生きる人間がいたとしたら、善悪の概念は芽生えますか?つまりその人の「存在は善」ですかただの「存在」ですか。


●善悪の概念はどこにあることになっているのか。

8.「存在は善」とはどれだけの規模共通して言えることなんでしょうか?
brageloneさんの中で、もしくはbrageloneさんが生きている間全ての人類で、過去の人類と現在の人類にとって、全ての人類にとって、
brageloneさんの定義する「存在」を持つ対象(宇宙人など)全てにとって、brageloneさんの定義する「存在」を超えて、善悪の概念を持つもの全てにとって。
大体このいずれかに近いと思いますので、お選びになって前後との違いなど説明下さい。

9.誰から見ての善悪なのですか?

10.信仰は4次元で絶対、では善悪はどこにある?

11.自分だけでは善悪という概念は存在しないのではないですか?7と近いですがこちらでは一般の人を想定して話して下さい。


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★★★解説★★★

●悪について。

<<人を殺すことが あたかも善であると思われているというわけです。存在を さらに善くしようと思っての意志行為~これに反した判断によっています。つまり 悪です。>>
と説明いただきました。
しかし当人が善いことと思って行っても悪ならば、もはや善の欠損としての悪の範囲に収まっていません。
一体善か悪をどうやって見極めればよいのでしょうか?

上の首狩族はbrageloneさんにとっては悪かもしれませんが、お聞きしているのは(brageloneさんが考える)普遍的な悪についてであり、
多くの悪行は、善行の名の下に行われてきた歴史を見れば、人々の善悪の基準がいかに当てにならないかが分かります。

そして今こうして善悪を計ろうとしている私やbrageloneさんの基準も同様です。
そんな中で、brageloneさんが言うように「善悪を生きている間に限定」して展開するのは土台に無理があるんじゃないでしょうか。

まず人を殺すのを悪とするのに無理があるように思えます。中には死を望む人々をいるからです。戦場で致命傷を負った兵士や、不治の病で痛みに苦しむ人々はどうなるのでしょうか?
また、なぜ人を殺す事だけが悪なのでしょうか?人以外の動植物はどうなるのでしょう?


以前の補足で「悪を善用している」という表現がありました。とすると逆に善を悪用することも可能ということでしょうが、
例えば「善を悪用している」のと「悪」とはどう見分けるのですか?
言い方を変えれば、善の欠損(悪は存在しない)のと悪(悪そのもの)をどう見分けるのでしょうか。
見分けられないとすると両者が区別できず主張が成り立たないことになりはしませんか?。


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●存在について

>>三つの行為能力を持つのが 人間の《自然本性》です。自然本性は 人間存在にそなわります。存在は 生命です。
3つとは知性と記憶と愛と言う事でよろしいでしょうか
すなわち存在とは、知性と記憶と意志を持つ人間の事であると。

この時点では、彼らは善でも悪でも無いわけですよね?。ただの存在ですから。
この存在が善となるのはいつの事ですか?
また、brageloneさん個人的に自分の存在の元は善であると考えるのは分かりますが、だからと言って他の人もそうであると考えられるのは何故ですか?

存在に関しては私も扱ったことがほとんど無いのでしょぼくて済みません。

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●善悪の概念はどこにあることになっているのか。


議論をしていても今ひとつ掴めない所です。ご自身で善悪の共通性「悪は存在しない」を上げて置きながら、それが一体どこにあるのかが定かにされておりません。
人類に不変の共通の真理とでも言うべきものであるなら、それは「人が生きている間」に限定されるものではないし、かといって現時代のみの人類という狭い枠組での事とも思えません。
また、「人間が生きて死ぬまでの間共通に有る真理」という事ならば、それはつまり、人間が生まれたり死んだりするより根本にある真理で、それを意識できるのが「生きている間」に過ぎないのではないですか?
だとすると、人が生まれる前から死んだ後まで「存在は善」という真理が存在することになります。

またこの善悪の善い悪いというのは誰がどうやって決めるのでしょう?または決めたのでしょう?真理であるならば宇宙とでも言うべき存在がからくりをつけたという事で
人間にとっては善い悪いという価値基準の中身の本質は、実はそれほど変わらないという事でしょうか?

もしそうであるとして、人間同士が殺し合ったり、他の生物を好き勝手に弄ったりしたとして宇宙に何の利害があるのでしょう?
池田晶子さんの書籍の中に「自然から生まれた人間の行いに不自然なものは無い筈だ」と言うのが有ります。
とすると善悪という概念は人間が勝手に人間の為に持ち出した考えではないのですか?、


しかも善い悪いを判断するのは常に他人ではないのですか?

すなわち、ある行いをして、「これは善い」とか「これは悪い」と善悪を決定づけるのは、「他者(基本的に生命体が対象)がどう思うか」であり、
自分が自分だけで悪いとか善いとか思う行為と言うのが思い当たりません。
「こんなことをして奴に悪いことした」とか「こうしておけばあいつによく思ってくれるだろう」と言う風に個人の善悪の概念は必ず他者の存在とセットで出てくるという所です。


とすると善悪の概念は、「自己の他者への意識」=(他者意識とでも呼んで置く)の中にあることになります。
「自己の他者への意識」は自分なのか他者なのか私にとって区別が難しい部分です。
「自分の見た他者」がそれを構成する元になっている以上、自己とも言えますが、
意識の中にまず「自己意識」がありそれに対する所の「他者意識」としてを保有しているということは、
自己と他者を区別して意識しており、まず自分という存在が有って、初めて成り立つ他者意識は自己ではない気が致します。
多くの人にとって自分の中の他者意識は当然他人を写したものですから何を考えているのか分からないのは、文字通り意識を違える他者であるからです。
(同時に他者意識形成に自己意識を代替している場合もあり、その時は「思っていた人と違う」というように現実のその人と、自分の「他者意識」の間に差異が生じたりします)


まとめると、善悪の概念が自己のどこにあるかというと。
1.他者と交わる所に関係していることは間違いない
2.完全に自己意識の中では成立しないのではないか
3.完全に他者意識の中でも成立しないのではないか


ということであくまで自分の善悪の概念と一般的に言われますが、これが自分のどこに位置するものなのか私には良く分かっていません。

投稿日時 - 2009-01-28 08:49:21

補足

 poipoi_saさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 たぶん poipoi_saさんとわたしの違いは 哲学を 学問として 扱っているかどうかにあるのではないでしょうか。わたしの場合は 学問は どうでもよいのです。知の体系として そこでの主題や課題を取り上げて 哲学とその研究史に寄与しようですとか そういう考えは 微塵も わたしには ありません。ただ 生きるには どういうことを考えておけばよいか それだけのことなのです。それだけのために たとえば《悪は 存在しない》と言いたいのです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もしそうであるとして〔* 《善悪の判断またその基準は 定まらない》として〕 人間同士が殺し合ったり、他の生物を好き勝手に弄ったりしたとして宇宙に何の利害があるのでしょう?
 池田晶子さんの書籍の中に「自然から生まれた人間の行いに不自然なものは無い筈だ」と言うのが有ります。
 (α) とすると善悪という概念は人間が勝手に人間の為に持ち出した考えではないのですか? 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆  《宇宙》がどうあろうがどう文句を言ってこようが 人間にとってであり わたしにとっての問題なのです。
 わたしの行ないが 自然であろうと不自然であろうと 社会に困ったことがあれば 問題です。
 ゆえに (α)そのものが ここでの質問の前提です。《人間が勝手に人間の為に持ち出した善悪という概念》は 果たして どういうふうに 使われているのか。これを解明したい ただ これだけのことです。解明できれば たぶん 風通しがよくなり 生きやすくなるでしょう。ただ そのことのために 考えているのみです。

 《うそ》という言葉があります。その言葉に対応する現実行為もあります。このとき ウソと言うからには ウソでない何かが 心にあることが推し測れます。主観の問題なのですが 一般化しうる見方です。
 だとすれば ウソは 心の自然本性としてのありか または あり方に反した内容を持っていると想定します。その自然の心は それが何であるかは分からずとも 心の基礎である存在が存在していなければ そもそも 存在し得ません。人間という存在 あるいは むしろ一人ひとりの《わたし》という存在 これが 基礎です。
 ウソかウソでないかを判断するのは 人間の〔記憶や知解にもとづいた〕意志であり むろん これら意志などの行為能力も 存在に基礎を置いています。つまり 意志による価値判断は 存在に後行しています。価値判断という行為に 存在が 先行しています。
 これらの現実情況から概念を取り出し 見取り図をつくろうと思えば こうなるのではないかというのが 質問趣旨です。すなわち
 1. 善悪という価値判断に先行する存在は 善悪を超えている。
 2. 仮りに この《善悪を超えている存在》を それでも 分かりよいように 《善》と規定したら どうか。それで 全体が説明つくようであれば よしとすることができる。
 3. つまり 存在(=生命・人間という生命体)を存続するのが 善である。この善がなければ 善悪の判断をすることすら 為し得なくなるのですから。
 4. そうして おそらく それが何であるかは分からないが 自然の心のありか または あり方があると思われるとき これをも 善とよぶことにする。なぜなら その思いによって 存在を持続させると思っているのだから。
 5. ゆえに ウソは 善に逆らう意志行為である。善に反対する判断に発している。意志が 初めの心のあり方に背向いた。叛くことによっても 存在じたいをよくしようと思っているかどうかは 二次的な問題としてあるが 一次的には 非善である。このように 善に傷をつける判断と行為を 悪と呼んでいると見る。
 6. この想定の限りでは 悪は その悪というものが初めにあって 現われるのではなく そうではなく 飽くまで 存在ないしその善というあり方から 出て来ると帰結し得る。
 7. さらに この仮説の検証が 望まれる。

 このような出発点であり そこからの踏み出しであったわけです。具体的に細かく例示したり 検証したりしていることになります。
 8・ うそも方便。これは 悪の善用と解すればよい。
 9. 他者の問題は 二の次である。おのれの主観の内において 善と悪のあり方 また 発生の実態は 少なくとも 自分にとっては 分かる。
 10. 他者の問題は その他者の自己表現が わたしにかかわっているなら その内容について 問い質す。ことによって 善悪の判断をおこなう。また 話し合いにおいて その違いを埋めていく。とことん どこまでも 対話をつづける。

投稿日時 - 2009-01-28 10:47:59

お礼

 11. 《殺すなかれ》は 存在という善を欠如させるなですから 第一次において 普遍的な命題です。二次的に 他者〔の悪の行為など〕にかかわって 緊急避難や 尊厳死などの問題が 持ち上がります。
 12. 《悪の善用》は 悪のことです。つまり《善用》というときの善は 主観が そのように意味のないことを言い張ろうとしているだけです。
 13. 主観は 共同化できるものがあるわけです。《うそは いけない》や《殺すなかれ》は 共同主観(コモンセンス)です。
 14. そこでのウソや殺しという《善の欠損》は そのまま 《悪》のことです。
 15. 主観が下す価値判断は 他者との民主的な対話において その成否や当否が 決められていきます。
 16. 【4】は 無根拠です。人間どうしが おのおのの主観を持ち寄って 互いに 決めていくのです。
 17. 【7】: 社会の外にいる人間については その《存在が善である》は 潜在的に 当てはまると解してください。
 18. 【8】: いま現在において 考えられる限りの人間存在について 当てはまるはづです。
 19. 【10】《信仰は4次元で絶対、では善悪はどこにある?》:信仰は 《絶対》との関係です。経験的な相対世界(これが 四次元の世界ですよ)を超えたところに想定する絶対との関係です。
 20. とうぜん 絶対は また 絶対との関係としての信仰は 経験的な善悪とその判断を超えています。ただし 一般に 信仰のままが 現実であるとは 言い難いところです。
 21. 信仰は 人間存在においては その自然本性にとっての《なぞ》の中核であるでしょう。意志などの能力にとって 信仰は 存在という基礎のさらに基礎です。なぞとしては 意志を超えて つまりは 自分の考えた範囲のことを超えて ものごとが進んだり 成就したりということがあります。
 22. この信仰を なぞの中核として 一般には 知性による生活態度としての思想を持ちます。この経験思考ないし思想が 善悪の判断にかかわるものです。信仰は この善か悪か〔無記か〕を判断する意志を なぞにおいて 導きます。信仰をとおして 愛(意志)がはたらくと言われます。

投稿日時 - 2009-01-28 10:59:25

ANo.26

オコリザルです。
言いっぱなしは良くないので。

A23
これには 基本的に言って わたしは 反対の意見を持っています。《悪は 存在しない》つまり《悪というものが独自にあって 存在していることは あり得ない》と仮説していますが そのときにも 《心のへそ曲がりとして そのような意味合いでの 善の欠損として――それを 悪と呼ぶのですから――》 悪は 存在しています。そういう現象が 悪として 現実に起こっています。
 その意味は 相手に 自分の考えていることやおこなっていることが どういう内容でどういう事態であるのかを気づかせるために 悪やウソを用いることはあっても そのウソや悪に成りきる〔というのであれば その〕ことは どうかという見方をしています。
 
外見。又は代表する人格。この手の現実的現象に悪を自覚させるのは乱暴であるとするのが私の見解です。あくまでも内面の悪意を当事者が取り押さえるための介助としてウソをついて誘導します。当事者かつ責任者はこの場合は無意識の領域の自己です。このための告発法は言葉だけでなく全身のしぐさでメッセージを送ることになります。持久戦ですが進展はあります。

要するに以下に続くご意見は的を得ていますが、

>そうではなく 《善そして悪についての捉えかた・考え方を すでに ひとは 持っているそのことに落ち着くように そのきっかけを与える》 これが 必要だと考えます。そして それには 理論が 大事だと考えるのです。

この場合の論理は格闘の後の和解として、勝利宣言のごとく他者と分かち合う形を起草します。予め喧嘩の前口上にするとお互いの尊厳とそれぞれの正義の問題になるのではないかと思います。相手によってはありえるでしょうが。

A24
存在又は生命に関する無知が生み出す幻です。

愛が全て煩悩であるならば、私の考えは犬を愛したいとする煩悩と同じ生命への理解が働いています。台所を這い蹲るゴキブリにも家族の一員としてほほえましく思う感情(愛の片鱗)を感じます。母はゴキブリホイホイを仕掛けますが、そんな母の行いに「悪意」や「罪の咎め」を感じることも無くやはり愛を感じます。ゴキブリに対する殺意も母の愛だとわかります。話は変わりますが私の姪っ子は幼い時ゴキブリを口に運んで嘗め回して母親(妹)をびっくりさせました。ゴキブリに対する殺意はそんな愛情の本能です。

話は変わりますが、
《悪は 心のへそ曲がりであり 歪みであり 心を善と想定すれば 善が傷つけられ損なわれた状態のことである。ゆえに 悪そのものは 存在していない》という仮説のほうが すべての霧を吹き払ってくれると思うのですが どうでしょう。

「存在」がそもそも確定していないのが哲学の現状であり人知の理解の実情なのでしょう。「存在していない」の言葉に「では存在とは何ぞや」の問いかけが返ってくるのでは無いかと思います。
無の悟りなんて言っても「無いものは無いと言うこと」納得しきれないお馬鹿さんが世の大勢を占めているのと同じです。
無意識と相対した経験からして内情はそんな感じです。
日常的に話し言葉として使う「無」なり「存在」なりが実は十分に哲学されないまま使われているのです。

それ以下の文には「悪意と同居しない」とする自由意志の上でさらに思索すると進展が図れるのではないでしょうか。

A25
★ 捨てろだの、解脱しろだのは、煩悩を抱える本来の意味を知らないから生じるのでしょう。
 ☆ とおっしゃるとおりだと わたしも 思います。腰が引けたら 負けです。ただ
 ★ 煩悩はそれ自体が欲望であるとの勘違いも多いですが、実際は欲望を打ち消す試みが煩悩です。
 ☆ については ふたつの解釈が考えられますが どちらでも よいでしょうか。ひとつは 《無理に〈欲望を打ち消す試み〉に入るから だめなのだ》という意味なのか。それとも そうではなく 《〈煩悩〉ということ自体に 〈欲望を打ち消す〉動きがあって その〈試み〉は あたかも自然治癒としてのごとく 人間存在にそなわっている》という意味なのか。

ご理解いただきありがとうございます。
欲望に対する果敢な挑戦として積極的に煩悩を認めてもいいと思います。

A25の前半が判り難いのはその通りでしょう。
モデルが想像上なのです。
要するに善に忍び寄る欲望の話です。
何度か披露した高次元の霊体ギャグの実情です。

質問の趣旨に戻ります。
《存在は 善である》
存在は善性を備えている。(善そのものではない)
これが私の見解です。

○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。
この場合、愛と善を同一視しないで「愛」「善」と二つの言葉にそれぞれの概念を持たせたほうがいいのではないかと感じます。

○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。
「ウソ」の話はしましたね。存在の確定しないものへの仮説として特に悪意に対しては仮説と言うよりも全てがウソです。

○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。 
善の欠損としての悪と、善の歪曲としての「悪」?(欲ないしウソかもしれない)の違いの取っ掛かりにしようとしたのがA25の前半です。

○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。
これいいですね。実際に行っている心の傷を癒す作業はこんな標語が似合うと思います。

投稿日時 - 2009-01-27 22:19:15

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 今回は 次の一点のみです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《・・・悪そのものは 存在していない》という仮説のほうが すべての霧を吹き払ってくれると思うのですが どうでしょう。

 ★ 「存在」がそもそも確定していないのが哲学の現状であり人知の理解の実情なのでしょう。「存在していない」の言葉に「では存在とは何ぞや」の問いかけが返ってくるのでは無いかと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 表現が うまく伝わっていないようです。
 ○ たとえば 人間は 存在しています。限りある生ですが 存在しています。経験的・時間的な存在です。いま こうして 話をしている存在が あります。
 ○ そして この存在を 善と想定します。もしくは 善悪を超えていると想定します。なぜなら 善悪の判断をする以前に 存在があるからです。その存在は おそらく 悪ではないでしょう。悪であったなら こうして 考え合うことは 何の意味もなくなるからです。善という前提があるから よかれと思うことを 考えることになります。
 ○ ところが 確かに 良かれと思うのではなく 善くなくてもよいことを考えることが 人間には 起きて来ます。悪しく生きるのでもよいという場合が 出て来ます。おそらく これこれでもよいというのですから 全体として 良かれと思ってのことだとも見られますが 存在のためにならないことを考え しかも それをおこなったりします。ウソ あるいは 存在を亡きものにする行為などです。
 ○ このウソや 死なしめる行為が 悪だというわけです。わけですが この悪は 悪じたいとして 果たして 存在しているのだろうか。これが 問いです。
 ○ 《ほんとうのことを言う》ことと 同じように それと並んで 《うそをつく》ことが 存在しているのか です。ところが 《ほんとうのことではない内容を言う》のが ウソであるはづです。あるいは 《存在を生き続けさせることを 妨げる・止める》のが 死なしめることです。つまり 存在するもの=もしくは 善であるものごと これを 損傷させるのが 悪です。
 ○ 善が存在するから その減少としての悪が 出て来ます。存在する善を 減らし欠けさせるのが 悪です。悪というものが 存在しているわけではないはづです。善を傷つけるのは 自由意志です。意志は 人間存在にそなわった自然本性です。善だと想定される意志が へそを曲げるとき 悪が発生するのではないでしょうか。
 ○ 意志のへそ曲がりは 自由だからでしょうし 相対的な世界に住む相対的な存在だからです。有限の 限界のある能力だからです。能力じたいは 想定として 善であるはづです。光が曲がるように 意志は へそを曲げるのです。そして それだけが 存在するものです。その存在に付属して 悪が発生します。悪は 従属物です。

 まだ きれいに言えていないようです。どうでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-27 23:32:56

ANo.25

オコリザルです。
たたき台のつもりです。
善の欠損でなく善性のゆがみとして悪に気がつかない場合もあると思います。(損傷を自覚しない)体験に基づく善性の哲学が悪を内包していてもそれと気がつかない場合です。

人物像を例にとりましょう。
子供のころから恵まれていて周囲の人がすべていい人であるとの、幸せな人生を送ったとしましょう。そして善に関してとやかく悩むこともない。
このような人物像の場合、利己的考えから抜け出す必要があります。
要するに自分に良くしてくれる人は善人。
意地悪をして激励する人は悪人。
そして自らと関係のない大多数はつながりや連帯のない無関係。
そんな損得だけの真心をお金に換算できる価値観です。

ほんらいはすべてが関係しているので、このような振る舞いは利己的であるので博愛の精神を育てることができません。
悪に妥協しやすく、欲望を招きやすい、そのような偽善です。
存在に関して善性を終着駅にしないで更なる高みを望むのはこのように「誰もがいい人」ではすまないからでしょう。

それから犬に感情があるかについては、要するに「犬を愛したい」そんな煩悩としての愛の働きです。
煩悩はそれ自体が欲望であるとの勘違いも多いですが、実際は欲望を打ち消す試みが煩悩です。捨てろだの、解脱しろだのは、煩悩を抱える本来の意味を知らないから生じるのでしょう。

投稿日時 - 2009-01-27 17:58:56

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。いつものとおり 率直に反応してまいりますが。
 煩悩について
 ★ 捨てろだの、解脱しろだのは、煩悩を抱える本来の意味を知らないから生じるのでしょう。
 ☆ とおっしゃるとおりだと わたしも 思います。腰が引けたら 負けです。ただ
 ★ 煩悩はそれ自体が欲望であるとの勘違いも多いですが、実際は欲望を打ち消す試みが煩悩です。
 ☆ については ふたつの解釈が考えられますが どちらでも よいでしょうか。ひとつは 《無理に〈欲望を打ち消す試み〉に入るから だめなのだ》という意味なのか。それとも そうではなく 《〈煩悩〉ということ自体に 〈欲望を打ち消す〉動きがあって その〈試み〉は あたかも自然治癒としてのごとく 人間存在にそなわっている》という意味なのか。

 ★ それから犬に感情があるかについては、要するに「犬を愛したい」そんな煩悩としての愛の働きです。
 ☆ これは 残念ながら まだ 分かりません。《犬を愛したい》という言い方は わたしは 聞いたことがないですよ。わたしだけなのでしょうか? 《動物愛護》と 《愛》とは どうも ちがうように思うのですがねぇ。保留とするしかないですね。いつか 何かのきっかけで 分かるようになるかも知れませんから。

 前半の事例は 正直に言って いまひとつ 焦点が合って来ません。なぜでしょうかねぇ。
 あっ たぶん いわゆる純粋培養の事例を持ち出しておられるからでしょうか。そういう場合は なかなか 参照例として成功する割合が 少ないと思いますよ。
 わかるような気もするのですが どうも 最後まで 筋を捉えきることができないもどかしさが やはり あります。あるいは 別の反応になりますが
 ★ 博愛の精神
 ☆ という言葉が あいまいであるように感じます。これは わたしだけの特殊な感覚なのかも分かりません。いづれにせよ あいまいだという意味は 《すべての人》というふうに 漠然と 対象をかかげているところから わたしにとっては 来ています。それだと――ちなみに 《利他》という場合も 同じようですが―― けっきょく 抽象的な《道徳規範》であるように受け取ってしまうのです。もっと言えば 上から あたかも何かの命令としてのように 受け取らねばならない倫理規範という感覚です。
 それに 《利他 あるいは 博愛心》という言い方をすると ちょうど 煩悩にちなんで 《捨てろだの、解脱しろだの》と言う場合と同じように 一種の強迫観念によって そう努力するように導かれている という感じがするのです。

 ま こういう受け取り方もあるという程度に 聞いておいてください。そういう反応です。

 わたしも 細かい人間であるようです。

投稿日時 - 2009-01-27 20:03:29

ANo.24

オコリザルです。
せめて神秘と受け取ってくれればと思いますが、一般向けのイデア界(心のつながりのある世界)に関する説明なり案内です。
こんな命題に取り組んでください。
(西洋からの輸入思想)「犬に感情は無い」。
答えからするとこれは嘘です。
大脳の構造からして、感情を伴った情動でなければ外界からの刺激に反応することは出来ません。犬にも意思決定すらあるでしょう。
さらに、おおっぴらに嘘をついていることは、西洋人は犬の品種改良に際して性格の良い犬の子孫を残す交配を行ってきたことからも明白です。性格が認知できるのに感情が無いだのと支離滅裂な嘘をついているんです。
そこで輸入思想として「犬に感情が無い」との命題に取り組むと、色々な考え方が(煩悩の一種ですが)頭の中を駆け巡ります。この煩悩を説得して初めて自分の意見がわかります。一般的な日本人はペットに情を傾けておりその情に犬や猫が答えるのを体験しています。そうして「犬に感情が無い」とは西洋から舞い込んだ迷信であると判ります。このように煩悩と格闘するときに自分自身ではない他者の意見と格闘する場がイデア界です。説得に成功できれば自らの考えがわかり、他者の迷いや欲の類を人知れず打ち消す、キレイ事を言えば救うことが出来ます。
内心の考えですらこうです。
口から出た言葉はさらに明白です。
自らを判ることはこのように関係の中で成立し、独りよがりは成り立ちません。

「悪」の命題に関しては、世の中には確かに悪人がいます。
では、悪とはなんぞや。
存在又は生命に関する無知が生み出す幻です。
要するに前述した成立しない筈の独りよがりです。
世界又は現象は愛のみによって成立しており、その意味においては悪は存在しません。
無根拠で証明されていないのが悪です。
この点はいい加減にして欲しいです。
無いものは無いです。
逆さにしても悪意は出てきません。
しかし現代人は未だに悪意を予感し得ます。
この悪意を体現して証明することは不可能です。(せいぜい欲張りになるだけ)
悪人は悪意と戦う正義の味方です。(馬鹿でもあります)
悪人は内心に感化しうる悪意と格闘しているんです。
悪人に接してもその内心に存在しない暗闇たる悪意を予感できないようであれば、悪人にも存在の善性を確認できるので、一般的には十分に人徳者です。(これも馬鹿ではあります)
悪人に会ってもいちいち神頼みをしないで人間として向き合える処世術をお勧めします。

投稿日時 - 2009-01-27 01:14:51

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。直前のご回答とは別に 理論をあつかっておられるのですが 全体として いまひとつ もどかしさを感じてしまうのですが いかがでしょうか。
 ★ (西洋からの輸入思想)「犬に感情は無い」。 / 答えからするとこれは嘘です。
 ☆ これは 以前にも おしえていただいたのですが 未だに よく分かりません。残念ながら 悪の問題とどうかかわるのかが分かりませんし そもそも 《犬に感情がある・ない》という主題じたいについて どういう問題であるのかが 分かっていません。犬や動物を ほとんど 飼ったことがないので そういう結果になっているのかどうか そのことすら ピンと来ていません。弱ります。
 一点だけ わたしに分かっていることは 犬は 言葉を話さないということです。情感をかよわしたとしても それは 言語をつうじて 意思疎通をおこなったということではないはづです。まして 善と悪の問題に 犬は そして 犬と人間との関係は かかわっていません。
 これは 西洋の思想の肩を持って言っているのではありません。犬に感情はないという西洋の思想すら 思い浮かばない状態なのですから。ですから この点は どうしても のれんに腕押しになってしまいます。

 とは言うものの 犬の感情の問題とは別のかたちとしても 次のような推論は 悪の問題にかかわってくるとも思われます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 このように煩悩と格闘するときに自分自身ではない他者の意見と格闘する場がイデア界です。説得に成功できれば自らの考えがわかり、他者の迷いや欲の類を人知れず打ち消す、キレイ事を言えば救うことが出来ます。
 内心の考えですらこうです。
 口から出た言葉はさらに明白です。
 自らを判ることはこのように関係の中で成立し、独りよがりは成り立ちません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですが どうなのでしょう。すべてを端折って言ってよいとすれば 《独りよがり》でない場合にも ひとは 悪の問題に立ち至ります。自分の内面としても そういう情況ないし相手のある場合としてもです。

 そういう見方から つづく後半のご議論を読んでいくと どうでしょう。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 では、悪とはなんぞや。
 存在又は生命に関する無知が生み出す幻です。
 要するに前述した成立しない筈の独りよがりです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ひとつには この定義では 《無知》のありようが まだ 分かりません。ひとつには それを《要するに》ということであれば ふたたび 《独りよがり》に戻ります。
 もはや 我田引水になりますが この場合には やはり 《悪は 心のへそ曲がりであり 歪みであり 心を善と想定すれば 善が傷つけられ損なわれた状態のことである。ゆえに 悪そのものは 存在していない》という仮説のほうが すべての霧を吹き払ってくれると思うのですが どうでしょう。
 これなら 《悪意》は 存在していないということになります。《存在・自然本性・その心としての意志 これに逆らいこれを損ねてもよいと考える別様の意志》があるだけだとなります。それを ただ 悪ないし悪意と呼ぶだけだとなります。自由意志 つまり 意志の自由な選択 これは そういう意味でも(つまりプラスとマイナスを合わせた意味でも) 広く 当てはまると言わなければならないようです。
 つまり 趣旨説明で 或る程度のたたき台を提出していますので それに絡ませて ご回答をいただくとうれしいと思うのです。

 おそらく
 ★ 悪人 正義 人徳者 処世術
 ☆ これらは 実践の場での言葉です。
 ★ 存在又は生命に関する無知 〔またその無知〕が生み出す幻
 ☆ この定義さえ 実践用ではあっても 理論としては 使い勝手が 正直に申していますが いまひとつの感があります。いまは そういう問い求めにかかずらわっています。どうでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-27 06:27:35

ANo.23

オコリザルです。
何日か振りにこのカテによったので他の方のご回答は読んでいません。
第一印象として「悪」を取り上げてからのbrageloneさんの質問趣旨そのものに進展がありません。意地をはっていると言うかねばっているというかそんな印象を受けます。
私は処世術として悪人を装うこともありますが、これは好きでやっています。
共感から心のつながりに進展させるために必要です。
むしろ私の生き仏風の考え方に期待してキレイ事しか聞かない人物であれば何も進展しません。前もってやり込める必要があるんです。

悪というよりも嘘と関わりますが、内心において滅びの子(存在しない種子)を検証する場合はその存在に対する仮説が全て報われることの無いたとえ話で、すなわち嘘であるのです。
したがってたとえば相対した人物が悪意などの存在を我がこととして確認している場合、要するに、その存在を信じている場合、口裏を合わせる嘘から、やがて「それは存在していないよ」と言うその人の本来の人間性に自覚できる段階まで嘘を付き続けます。brageloneに対してもそうです。
内心の考えですらイデア界なり涅槃なりを土台にしたモノで自分ひとりの考えではありません。口にする言葉はなおさらそうです。ですから真実は等しく分かち合わなければ成立しません。かつて一人で先走った私を待ち受けたのはくだらない大除霊バトルです。

投稿日時 - 2009-01-27 00:18:01

補足

 primeapeさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。今回のご回答は 実践のあり方についてであると思います。
 たとえば わたしも よくいぢ悪なことを言います。相手に応じてです。
 ですが この質問としては あくまで 理論を問い求めています。悪についてという主題のもとにです。まぁ もうそれは 分かっているとおっしゃるかも分かりませんが やはり大事だと思っての探究です。

 もう一点は 悪に対する実践の上で 
 ★ 処世術として悪人を装うこともありますが
 ☆ の問題もあります。
 ★ その人の本来の人間性に自覚できる段階まで嘘を付き続けます
 ☆ という対応の仕方についてです。

 これには 基本的に言って わたしは 反対の意見を持っています。《悪は 存在しない》つまり《悪というものが独自にあって 存在していることは あり得ない》と仮説していますが そのときにも 《心のへそ曲がりとして そのような意味合いでの 善の欠損として――それを 悪と呼ぶのですから――》 悪は 存在しています。そういう現象が 悪として 現実に起こっています。
 その意味は 相手に 自分の考えていることやおこなっていることが どういう内容でどういう事態であるのかを気づかせるために 悪やウソを用いることはあっても そのウソや悪に成りきる〔というのであれば その〕ことは どうかという見方をしています。

 煮詰めた言い方をすれば 一方で 《その思いや行ないが悪であることを気づかせること》と そして他方で 《誰もが人間として・その自然本性において 存在は 善である(もしくは 善悪を超えている)と気づかせること》とは どうも違うように捉えているからです。《ウソをつきとおす あるいは 悪に成りきる》ことは 《悪を 自分のもとに・自分の内面において 気づかせること》のほうに当てはまると考えます。

 そして 簡単に言って どう違うかと言えば 《悪についての気づきを得させる》ことのほうは その一つひとつの思惟や行為ごとに 気づかせる必要が出てくる のではないでしょうか。
 そうではなく 《善そして悪についての捉えかた・考え方を すでに ひとは 持っているそのことに落ち着くように そのきっかけを与える》 これが 必要だと考えます。そして それには 理論が 大事だと考えるのです。
 
 おそらく 差があったとしても 微妙な差であって 何を言っているかとお叱りを受けるようなことであるかも知れません。そういうことにこだわったようであるかとも思います。でも この《意地の張りよう》は 張りがいのあることだと なお 思っておりますが いかがでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-27 05:51:43

ANo.22

maimai.susです。

17の回答には、2つの答えが出されています。

ひとつは、誤りの部分。質問形式で書かせていただきました。

ひとつは、正しい部分です。
最後の認めている部分だけで、自分の妥当性だけ認識したのであるならば、前半に書いた文章はまったく、理解してない言う事になりますよ。

例えば
>では私の答えは上記問いかけに対して間違っているのでしょうか?
>増して、上記問いかけに対して、善性でもの事を見る意味がない。
とかについて、どうお思いですか?

投稿日時 - 2009-01-26 23:01:15

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 少し 話がかみ合っていないようですが どうでしょう。

 ★ 〔ANo.17の〕前半に書いた文章はまったく、理解してない言う事になりますよ。
 ☆ そうではありません。
 《テストの問題を解いている》場合であろうが テストを出して試験官として立ち会っている場合であろうが あるいは 眠っている場合であろうが 人という存在を 全体として 捉えますとお答えしています。
 そうすると 《悪》の問題に対して 《存在は 善である》という作業仮説を提出するなら 妥当性のあるかたちで その悪あるいは善について 説明がつきますよという話になっています。
 世の中で 善あるいは悪という言葉を わたしたちが 使っています。人間そして社会の問題として そのような言語の習慣は どのように成り立っているのか これを 探究しようとしています。テストを解くのに心を集中している場合であっても 存在としては・またその全体として捉えるなら 善そして悪をどう捉えるかは つねに つきまとっているはづです。むろん そのテストの最中に この悪の問題を考えよという意味ではありませんが。

 ですから 妥当な解明を 問い求めています。
 いいでしょうか。《テストを解くのに集中している人》について――つまり その状態ですね その状態について――  善悪観をあてはめるのではなく そうではなく 人間存在というふうにまとめて捉えた場合に どうなのかです。
 もし 仮りに その状態が 善でも悪でもないとすれば ほかの状態において 善であったり悪の行為をなしたりすることがあるけれども では その人間存在は どう捉えるかです。状態によって 分かれるというご回答でしょうか。
 それなら もしそうであっても では ふつうに善であるとき そして そういう善の状態が 基調になっているけれども 時に その善をゆがめて 悪を思ったりおこなったりするとき こういうときのことを どう考え説明すればよいのか こういう質問になっています。どうでしょう。

投稿日時 - 2009-01-27 05:25:06

ANo.21

maimai.susです。

>☆ と尋ねてはいますが そのようには 考えていませんと言おうとしていました。どうでしょう。

うーん、何で?自分(maimai.sus)の答えって間違ってます?
私の回答は無視ですか?考える価値もないものなのでしょうか?
それとも何か恐れていますか?

投稿日時 - 2009-01-25 23:38:57

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。
 ですが No.17あたりから 中身は進展していないようなのです。

 ★ (No.18) 自分の見たいものを見たいように理論付ける。それはそれで、正か誤は別として、認めますよ。 
 ☆ この《正か誤は別として》から 進まなくなったようです。《正か誤か》を回答していただく質問ですから。
 そして 今の時点で わたしは わたしの仮説が 妥当であると考えますとお伝えしています。
 ANo.17へのわたしのお応えについて もう 別の見方なり反論なりが 出ていないと見たので そういうその後の対応になっています。

投稿日時 - 2009-01-26 04:31:51

ANo.20

brageloneさん。回答ありがとうございます。
おおむね書かれていることは読めるのですが、租借が今までで一番難しいです。
私は物理学(というより時間ですが)の、brageloneさんは宗教の知識をベースに会話しているので翻訳ができません。
所々意味が合致しているような所もあるのですが、自信がもてないで居ます。

まず3点、どうも意味が取れないというか矛盾しているように見えるところがあります。ここを埋めてもらえますか?

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

>>★ 誕生以前 / 死 / 死後については 第一に 生きている間について 言っている
>> この生きている間の前と後とは きわめて乱暴に言ってしまうなら どうでもよいということです。

この二つの文が矛盾しているように思えるのですがどうでしょうか?
上記では善悪を生きている間に限定し、下記で信仰は時間を摂り入れているので生前死後を区別しないと言っています。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

>>の信仰のもとにある存在は 意識しているかどうかに係わりなく 想定として 善として ありつづけているでしょうし そこに ウソという歪みを持つなら そのマイナスの善は 悪とよぶものですが やがて 修復されていくというかたちです。
この場合のウソはどこまで言ってもウソで有って修復されては困るのではないですか。brageloneさんがご自分で仰っているように「絶対というなぞを受け容れることが 信仰」ですから、修復された瞬間に、絶対はなぞでなくなり、信仰ではないものになってしまいますよ?。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

宗教はウソであることも有るということでしたが、質問文ではウソは悪であるということでした。そして題名では悪は存在しないと書かれている。これでは宗教は存在しないと言う事になってしまいますが、この辺りが混乱しているのです。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

あと、4点こっちのは先に進む為の質問です。


★ 非存在 ☆ をも包みこんでしまう。という所が何となくイイ線言っているような直感がします。

悪は存在しない=悪は非存在
ですから 悪をも包み込んでしまう。
包み込めると言う事は、悪は存在している事になってしまいます。これはどういうことなんでしょう?

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

今池田昌子さんの書籍をまた読んでいるのですが、そこで気が付いたのが、brageloneさんのいう悪とは何であるか
まずそれをもっと詳しく教えてもらわなければならないと言う事です。

○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。

と説明に有りますが、まず、生命とは人間以外の動物も含みます。行為能力とは殺人も当然含みます。思い=意志=愛というのも善を指す言葉とは限りません。

上記に基づくと『動物が人間を食い殺す行為や意志も善である』と言う事になってしまいます。

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

この質問は話のタネ。悪について説明しにくいようでしたら補助にお使いください。上記書籍でエロスとタナトス(死や破壊への衝動)の話が少し出てまいりました。
一般的にはタナトスが悪として扱われる事が多いようですが、実際には物事はそう簡単ではないようです。
brageloneさんの言われる悪とタナトスの関係についても述べていただけますか。
例えば人殺しが悪とされず、善とされていた時代や場所が現在もありますし、今までもありました。
人々の信じる善と悪が真逆の事もあり得るわけです。
特に殺人は、人類史上信仰を持つ人々によるものの方が数として多いかもしれません。
とすると宗教や信仰こそは悪に近い事になります。
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

同様に、brageloneさんのいう存在とは何であるかもお願いできますか?
「悪は存在しない」の時の存在です。

投稿日時 - 2009-01-25 06:49:11

補足

 poipoi_saさん ご回答をありがとうございます。

 たしかに 論理が 行き届かないで 矛盾が生じたり 逆に 別の概念の話に 論理が 入って行って 別のかたちの矛盾を生じさせたり していますね。
 それもこれも まづは 《絶対》という領域〔という言い方をしますが〕を扱うものだからだと捉えてください。

 まづ 《絶対》は 表象が不可能です。かたち(象)に表わすことが 人間には 無理です。なぞです。ただし ひとつ 《無限》という概念があって これは あたかも その《絶対》の内実のかたちが分かったように思える例です。あるいは 《絶対》の内実が 何であるかではなく 何でないか これが 分かったように思える具体例です。
 ○ 無限は――絶対ですから それを 分割することは出来ませんが 仮りに=想像力を駆使して 分割できるとして捉えるなら―― 分割しても その分割したあとの部分は それぞれ しかも 無限である。
 ☆ これが 絶対のことです。はなはだ不類似なのですが 光に喩えられることがあります。光源とその発耀とそれらが持つ明るさや暖かさの三つに分けて捉えるとき しかも 光は 光であって その三つのそれぞれが 全体としての光です。

 わたしたち人間の意志は 憎悪を抱くときもありますが 思いやりを持って ひとに接するとき あたかも《暖かさ》を発揮します。そのように たとえ憎悪としてであっても 人と人との関係は 意志行為においては 愛という問題になっています。
 その基礎に 知性があるでしょう。知性の出所は 記憶です。
 記憶行為は あたかも 光の源であり 知性は その輝きであり それらの有する明・暖というのは 意志ないし愛に当たります。
 これら三つの行為能力を持つのが 人間の《自然本性》です。自然本性は 人間存在にそなわります。存在は 生命です。

 ここでは 人間を基軸として 一般に 考察をしています。他の生物は 人間の目から見てという 横着なやり方を採っています。(便宜上ですが さらに適切な方法があれば おしえて欲しいという意味です)。
 光が 差すゆえに 影や陰が出来ます。光は明・暖を持ちますが 人間の持つ意志ないし愛には じつは じつに 暖かい思いやりのほかにも それと反対の冷たい嫉妬や憎悪が あります。つまり それでも 存在という善の持つ意志=愛から そのような言わば善と非善(つまり悪)とが 出て来ます。その意味でも 自由意志と呼ばれます。
 光があるから 影が生じます。影が生じているから 光のあることが分かるという順序もあり得ますが そもそもは 逆です。人間のばあいは 善として存在するところから 善と悪とが生じます。
 意志の自由な選択として 存在=生命=おのれの心に従う内容(つまり善)と そうでなく 心に逆らう内容(つまり 非善=悪)とが 出て来ます。現象として たしかに 悪は 存在しています。しかも それは 善の欠如としてあるというのが その内実です。つまりそれを ただ 悪という言葉で呼んでいるのみだとも言えるのではないでしょうか。そして この善の欠けた部分は 修復するのが 一般です。うそをついたら ほんとうのことを明らかにします。

 この限りある人生とその世界において ところが はじめに想定した《絶対》の場合には つまり この絶対とわたしとの関係の場合には 簡単に言えば 善悪を超えていると考えられます。もしくは 包みこんでいる。時空間をも むろん 超えている。
 そこからの物語としては 絶対⇒絶対者⇒創造主なる神 がさらに想定され この神は 善人にも悪人にも 等しく 雨を降らすと言われることもありますし あわれもうと思う者をあわれみ いつくしもうと思う者をいつくしむとも(つまり えこひいきするとも)言われることもあります。ただし 善悪を超えており それらを包んでいることは うそ=虚構として すでに 共通の認識が得られています。
 なぜなら ふつうのウソは 経験事象を扱っていますから それが ウソか本当かが 検証できます。絶対との関係(つまり信仰)から来るウソ=虚構=物語は 検証ができません。初めの絶対という概念の想定が 認められたなら あとに付随してくる物語は その枠内で 意志=心において 真実であるなら(つまり善であるなら) それとして 認められることになります。ただし 信仰じたいは あくまで 一人のひとの主観内面における問題です。

投稿日時 - 2009-01-25 13:15:25

お礼

 つまり 絶対ないし信仰においては 死および死後また誕生以前といったことは これらも 包み込まれていると捉えられます。信仰の動態としての人生は 区切られた線分としてのような時空間を生きますが それ以外の時空間をも あたかも呼び集めて 凝縮したようなかたちで 持っていると言えるかも知れません。そういう意味で 死後や誕生以前は――人生そのものを 精一杯生きるので―― どうでもよいと言ったわけです。

 首狩り族の話があります。人を殺すことが あたかも善であると思われているというわけです。おそらく その首を狩った人間の魂を みづからの魂とし 魂つまりは生命ないし存在を さらに善くしようと思っての――その推論は まちがっていますが――意志行為であるのではないでしょうか。存在が善であるというのは 想定であっても 内容は 原理原則ですから 誰の存在であっても 当てはめなければなりません。これに反した判断によっています。つまり 悪です。

 ★ エロスとタナトス
 ☆ エロスは 人生の間の出来事ですから その善悪を超えた存在観のもとに 意志が 基本的にも そのつども 判断するでしょう。(もっとも エロスは 生命力だとか魂のようなものだとかとまで言う人も いるようですが)。
 タナトスについては 死ないし死後を包み込んでいるという物語に含まれることになります。言いかえると タナトスといったそれ自体の物語は 特には 作りません。(自由ですが 扱いません)。

 どうでしょうか。だいたい 触れ得たでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-25 13:20:01

ANo.19

maimai.susです。

>この質問でわたしは 後者の立ち場にあります。どうでしょう。
すいません。これは、私の質問の事ですか?それとも上記の話のことなんでしょうか?

投稿日時 - 2009-01-24 22:52:47

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ そもそもひとりの人間に うそ偽りがなく迷いもなく 妥当な内容の見解を提出しているとすれば その見解は およそ 同じ一つの基本内容として 誰にとっても 当てはまるはづだ。
 ☆ のほうです。言いかえると はじめの命題が 持ち堪えていると思うという意味です。

 ○ 悪は 存在しない。存在は 善である。
 ○ その善である存在にそなわる自然本性 これの中身である三つの行為能力の内の特に 意志 ここから 存在にプラスである善と そのほかに マイナスである一部が欠けた善と 二つの思惟や行為が 出て来る。
 ○ それは 自由意志である。
 ☆ この仮説です。
 したがって
 ☆☆ もしわたしも 心にうそ偽りがなく maimaisusさんも 同じくそうであるなら 別々の見方が 出来るということをおっしゃっているのでしょうか。
 ☆ と尋ねてはいますが そのようには 考えていませんと言おうとしていました。どうでしょう。

投稿日時 - 2009-01-25 12:07:46

ANo.18

maimai.susです。

概ね予想道理の反応ですね。

例え話で
ある人が、テストの問題を解いています。その時その人の存在はどうでしょうか?

brageloneさんの答えはもちろん善性だと思います。

私の答えは、テストの問題を解こうとしている人です。

どちらの答えが間違いと言えるでしょうか?
確かにbrageloneさんの理屈を当てはめれば、それはそれで勿論間違いではないです。
では私の答えは上記問いかけに対して間違っているのでしょうか?
それもまた間違いとは言えないのです。
どちらも間違っていないなら、どちらも存在すると言う事ですよね。
と言う事は少なくとも2つの存在から成り立つ1つの存在といえる訳です。
増して、上記問いかけに対して、善性でもの事を見る意味がない。
と思うのです。
人はどうかは知らないが、自分が上記状態であったなら、少なくともその時の自分は、問題を解くと言う意思が一番であり善性どうこうではないですね。(少なくともその時の自分は)ですよ。

>☆ この場合の《感覚・認識・思考》は 大きく漠然と言って 《善悪の判断行為》のことです。
んー自分がそうだかと言って、他の人間もそうだとは限らないんじゃあないの。

>存在にそなわる能力である意志行為からは その意志(こころ)に合った善なる内容のものと それに背向くマイナスの善としてのものとが 出てくるという見立てです。
 後者を 悪とも呼びますが その悪じたいとしては 存在していない。こういう仮説です。どうでしょう。

何度も言ってますが、それはそれで良いでない。

自分の見たいものを見たいように理論付ける。それはそれで、正か誤は別として、認めますよ。

投稿日時 - 2009-01-24 15:12:02

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 もしわたしも 心にうそ偽りがなく maimaisusさんも 同じくそうであるなら 別々の見方が 出来るということをおっしゃっているのでしょうか。
 あるいは 逆で そもそもひとりの人間に うそ偽りがなく迷いもなく 妥当な内容の見解を提出しているとすれば その見解は およそ 同じ一つの基本内容として 誰にとっても 当てはまるはづだとおっしゃっているのでしょうか。

 この質問でわたしは 後者の立ち場にあります。どうでしょう。

投稿日時 - 2009-01-24 15:23:54

ANo.17

maimai.susです。

>☆ における《+a+b+c+d+e・・・》の部分に何があるか ではないでしょうか。すなわち 《善》ではなく 善のほかに 善とは異質な何かが あるというふうに どうしても規定しなければならないかどうかです。

規定では、無く単に有ると認識しているだけです。
肉体的感覚(5感)とか、美的感覚、快楽、そのたモロモロね。

そう言ったモノを全部、善性に当てはめることは、物事を在るがままに見ようとする事において正しいとは思えないのです。
そもそも、存在を善悪と言う物とて考えて、それほど意味があるとも思えないのです。
皆さんどう思っているんでしょうね。

むしろ存在(人間性)とは
感覚・認識・思考って考えた方が、いろんな意味で理解しやすいかも。

う~んネチケット引っかかるかも・・・(-_-;)。

投稿日時 - 2009-01-23 22:40:56

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 《善+a+b+c+d+e・・・》の 《+a+b+c+d+e・・・》の部分について
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 肉体的感覚(5感)とか、美的感覚、快楽、そのたモロモロね。

 そう言ったモノを全部、善性に当てはめることは、物事を在るがままに見ようとする事において正しいとは思えないのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは どうなんでしょう。《存在》というときには 《全体として》捉えていますね。部分に分けないという意味です。存在は 生命とも言いかえられますし あるいは 《わたし》とも言います。すべて 《全体として》です。
 ★ むしろ存在(人間性)とは / 感覚・認識・思考って考えた方が、いろんな意味で理解しやすいかも。
 ☆ この場合の《感覚・認識・思考》は 大きく漠然と言って 《善悪の判断行為》のことです。
 存在にそなわる能力である意志行為からは その意志(こころ)に合った善なる内容のものと それに背向くマイナスの善としてのものとが 出てくるという見立てです。
 後者を 悪とも呼びますが その悪じたいとしては 存在していない。こういう仮説です。どうでしょう。 

投稿日時 - 2009-01-23 22:57:00

ANo.16

Q.神の存在は『経験世界を超えた領域』に居るのにもかかわらず、人間の概念で定義されても妥当性が疑わしくないのでしょうか?
A.絶対というなぞを受け容れることが 信仰

良く分かりました。しっくり来た感じです。
要すると、妥当性が疑わしいものを受け入れるから信仰になると言う事ですね。brageloneさんのことではありませんが、信仰を持つ人の中には、その妥当性の疑わしさを知らない?人が居るような印象を持ちます。最近ではイラク戦争のときなどそうでした。
私などは知りたいと強く思うタイプなので、信仰を持ったら、その対象の妥当性の疑わしさ、(つまりどこがどう疑わしいのか)を知らなければ気がすみません。それが無ければ信仰ではなく、盲信でしょうか。

対象----神や死後の世界など----を信じるか信じないかが重要で、妥当性が疑わしいかは問題ではないと。
そりゃ当然信じるには信じるに足る妥当性が必要ですが、根元の所では信じたいか信じたくないかであると。

ということで初めの書きこみNO10の4の話に妥当性を持つを思ってもらえるよう試みてみます。繰り返しが出てきてしまうかも知れませんがご理解ください。
>>誕生=善。消滅=悪
という所です。
存在を善と仮定した瞬間に、存在を脅かすものを----悪は無いというbrageloneさんの話に基づくと----善でないものとしなければなりません。
代表は死、もっと言えば自らの死です。
非存在を善でないものと捉えるのは、存在を善と仮定した考えの義務であり、逃れられるものでは無いはずです。
ここまでは異論は無いと思います

とすると、死を善でないものとすることは妥当性が疑わしいわけです。経験世界に死を体験したものは居ないからです。
これも引用>>経験世界を超えた領域に対して 簡単に その同じ言葉を 同じ概念で用いることには 妥当性がない
から見て取れるようにbrageloneさんも同様だと思います。


結果、存在を善と仮定する事は間接的に妥当性がないことになります。
なぜなら存在を善という仮定の中に、非存在を善でないものとする仮定も同時に含まれてしまっているからです。

ですから、非存在(生前)から存在(誕生)するということは、善でないものから善が生まれる。
即ち、悪(非存在)が存在しなければ、善(存在)は無いのであるから、善が先だという考え方はおかしいわけです。

これが先の雑談でお話した仮定によって見えなくなるものだと思います。

だから当質問に意味が無いと言っているのではないですよ。brageloneさんが言われるように仮定は手段であり、目的は哲学することですから。
手段に妥当性が無くとも目的の役に立てば有益です。
brageloneさんの問題提起により、私も考えたことの無かった善悪への理解が深まったのは気が致しますし、悪は存在しないという考え方に妥当性が無い(矛盾がある)と個人的に分かっただけでも収穫です。

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○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。
もう少し進んで、質問文から気になった上記のものを考えて見ます。

これは詰めて行くと「非存在は存在するか?」
という問いになると思います。
非存在であるのに、それが存在するのはおかしい訳です。
存在してしまっては非存在ではないし、かといって存在しなくては非存在は無い事になってしまい、これまたおかしい訳です。

以後は推測に入ってしまうの(まさしく哲学することとも言う)で言語化が非常に困難ですが、お付き合い頂ければ嬉しいです。

思うに、そもそも非存在が矛盾してしまうのは、存在のほうが矛盾しているからではないかと考えてみます。
つまり、存在ということを人はよく分かっていないのではないかということです。(当たり前ですみません)

>>悪そのものとしては 存在しない。
を置き換えてみると
>>非存在そのものとしては存在しない
となるわけですがこれは意味が通じます。上に書いたとおり非存在は存在してはいけないし、存在しなくてもいけないからです。
これを更に当てはめると
私が存在するから、非存在(死、生前、死後など)がある
となり、一見おかしい所は見受けられません。

自分が存在しなければ、非存在は無い。なぜならば認識できないから。
という確か「何とか」という有名な考え方になります。

しかし、よく見ていくとこれもどこかおかしい訳です。
どうしてかというと、自分が、自分の存在を意識していないときは存在しないことになってしまうからです。
日常生活で人は自分の存在を常に意識してはいません。
例えば寝ているときは、自分は存在するのでしょうか。
まどろんでいるときはどうなるのでしょう。
逆に覚醒しているときに、まどろんでいる自分や寝ている自分は居ないのでしょうか?

もう少し言い方を変えると、「思わず○○した」(思わず避けたなど)という行為をしたとき、
思わず避けた自分は存在しますが、思わず避けたいと思った自分は存在しません。
なのに結果、思わず避けた自分だけがそこに居るわけです。

自分の中にさえ存在しなかったものが、現実に存在してしまう訳です。

難しい言い方をすると
意識化に認知されているかどうかと、対象が現実に存在するかは関連性はあるが確実ではない。
となり、必ずしも存在が無ければ非存在が無いとは言えない事になります。

地球には(今の所)生物が無いところから生物が誕生したと言われています。
この生物誕生前の無は、有を含んでいないのでしょうか。
見方によっては、誕生する瞬間までは無で、誕生した瞬間に有になるのであり、無はやはり有を含んでいない。
と見る事もできます。

しかし無は有への変化を含み、逆も同じですから、有そのものは含まなくとも、有への変化を含んでいます。
つまり、非存在も存在(への変化)を含んでいるし、存在も非存在を含んでいる。
こう考えると、存在だけが非存在を含んでいる=
○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。
というのはやはりおかしいと思います。

初めに言った物理学の毛が出てきた気もしますが、推測なので自信はありません。
brageloneさんにも見て頂いて真偽の程を確かめたいです。
どう思われるでしょうか?

投稿日時 - 2009-01-23 21:13:41

補足

 poipoi_saさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 誕生以前 / 死 / 死後
 ☆ については 触れませんでしたが それは まづ 第一に 生きている間について 言っているということでした。
 第二に しかしながら 生きている間の存在と その以前および以後との違いを はっきりさせないと 納得しないというところでしょうか。

 仮りに 時間の流れを――妥当かどうか その検証を いま 抜きにしますが―― 一本の直線で 表わすとしますと 人生は 一定の線分になります。誕生以前と死以後は この線分に もし つながっていると見れば あたかも 経験世界であるようにも考えられます。ただ 見えないだけだという解釈です。
 この解釈を 主張するためではないのですが それは 質料(モノ)つまり身体を作っている素材としては 分解されて ずっと つづいて 存続していくわけです。人間という生命存在ではなくなりますが。

 けれども 問題は いま
 ○ この経験世界を超えた《絶対》の領域
 ☆ にあります。この絶対と わたしたちおのおの生きている人間存在との 関係のことです。絶対については 何が分かるかと言って 何も分かるものは ありません。ただ なぞがあるというだけです。しかも これが なぞであることにおいて どこまでも――絶対は 無限でもあるわけですから―― 変わらない関係で持続します。
 この信仰は――つまり 有神論および無神論とも―― あたかもこの四次元の世界に いま一つ 別の次元が 加わったかに思えるという状態です。じつは 何も加わってはいないのですが ただ 四次元の世界が あたかも どこかに 窓が開いたかのように思えるというものです。少なくとも わたしたちの心が 閉じられたままでは いない。つまり あたかも開かれている。これが 信仰です。わづかに 心の伸びがあります。

 そうすると この心の伸びのもとに 誕生以前や死後が 捉えられるのではないでしょうか。つまり その答えは この生きている間の前と後とは きわめて乱暴に言ってしまうなら どうでもよいということです。信仰にもとづく人生は 誕生以前と死後とを 自己のもとに包んでしまう。あたかも時間を すべて 摂り入れてしまう。のではないでしょうか。
 ★ 非存在
 ☆ をも包みこんでしまう。と思っております。いかがでしょうか。

 この信仰のもとにある存在は 意識しているかどうかに係わりなく 想定として 善として ありつづけているでしょうし そこに ウソという歪みを持つなら そのマイナスの善は 悪とよぶものですが やがて 修復されていくというかたちです。
 悪という呼び名を除けば 起きていることは
 ○ 存在=善:その意志行為として うそをつけば 善が減る―→このマイナスの善を 埋め合わせる
 ☆ という事態だけです 
 ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。
 ☆ となります。いかがでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-23 22:21:50

お礼

 No.27お礼欄にて 間違った表現がありました。(1月28日 記す)

 ● (旧文章= 誤) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 12. 《悪の善用》は 悪のことです。つまり《善用》というときの善は 主観が そのように意味のないことを言い張ろうとしているだけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 次のように訂正します。
 ○ (新文章= 正) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 12.《善の悪用》は 悪のことです。善である存在やその意志能力などを その善に欠如した部分のあること(つまり 悪)に用いるのは そのまま 悪です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 間違いました。すみません。よろしくどうぞお願いします。

投稿日時 - 2009-01-28 12:41:26

ANo.15

どうもこんばんは。
3度目の書き込みです。
どうやらbrageloneさんは絶対と普遍の差について私よりも区別する知性がおありなようです。
池田昌子さんの書籍で私が見たものでは絶対と普遍についてそれほど区別しておりませんでした。
年齢も若い人向けの本でしたのでそこまでは筆者が読者に求めなかったのだと思います。
なので普遍的な悪が存在するという理解で十分ニュアンスは伝わっていると思います。
むしろ普遍的な悪の存在が恐ろしいほどの発見だったのですが(笑)。

一つ気になるのはbrageloneさんの中で「絶対」が「領域」という言葉と結びつきが深い点です。
領域という言葉によって、絶対が神と結びつき、私のような宗教的に無教養な人間にはよく分かりません。
絶対は、ただ相対ではないということで、基本的にそれ以上でもそれ以下でもないはずです。


>>絶対は この経験世界あるいは ひとの経験思考を超えたところに ひとが 想定する領域です。
と言うことですが、その人間が相対的な存在なのですから、人によって想定された絶対もまた絶対ではないですよね。

不完全な人間が定義したのであるから、神もまた不完全だ。と言う話です。

神が居ないと言っているのではないですよ。私には神の存在の有無は分かりませんから。

ですが仮に完全なる絶対な神というものが存在したとしても、不完全で相対な我々人間は、永遠に完全と絶対を真に理解し言い表す事は不可能ですから、
あくまで不完全な範囲で神を理解することしか出来ないだろうということです。。

これは多分brageloneさんにとって信仰と関わるデリケートな話なのかもしれませんが、
絶対と領域と神という言葉それぞれの関連性を、より細かく選別してもらえれば、私にも意味が掴めるかと思います。

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信仰と宗教に関してのお話は、しっくりきました。私が宗教についてもっと知識があればより理解が容易だと思いますが、無いなりに良く分かりました。


ただ、質問の内容、
>>宗教は<<経験世界を超えた領域に対して 簡単に その同じ言葉を 同じ概念で用いること>>なしに存在し得るものなのですか?
については良く分かりませんでした。

有神論の方は、『経験世界を超えた領域』を仮に神と表すとすれば、我々人間の概念を用いずにどうやって神を表すのですか?

『生命存在のさらに以前』については、『経験世界を超えた領域で同じ概念を用いると妥当性が無く』、
神の存在は『経験世界を超えた領域』に居るのにもかかわらず、人間の概念で定義されても妥当性が疑わしくないのでしょうか?

決してbrageloneさんを批判しているのではなく、信仰に詳しい人はこの辺をどう考えているのか純粋に興味があるというだけですので差し支えあれば無視していただいて結構です。

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話が善悪からずれてしまいました。ようやく本題に入れます(ふう)。

>>★ 善悪と優劣
>> ☆ 善悪という判断は あくまで 人間がおこなう行為です。~~ウソでない誠が善で ウソなる悪に対して 優れています。いつでも どこでも 誰でもです

非常に失礼な発言と受け取られてしまいそうで恐縮なのですが、
シンプルに、読んで初めに思った事をbrageloneさんにぶつけてみたいと思います。
ずばり、『宗教とはウソではないのですか?』

これはbrageloneさん個人にとってどう考えるか、一般的な宗教への印象(これも日本人とかアメリカ人とかで分かれますが)をbrageloneさんがどう考えるか
の二つの疑問それぞれにお答え頂ければ幸いです。

二つ補足させて下さい。
1.まず、『では無宗教は真実なのか?』という話が当然反応としてあると思います。
この問いに答えるには私は勉強不足ではありますが、人間が自身を超える大いなる存在を意識するようになったのは、人間という意識を持つのとそれほど時間的に差異があるとは私は考えていません。
つまり、それだけ宗教とは人にとって必要なものであるという話です。これで足りるでしょうか。

2.更に補足すれば、私は必ずしもウソが悪だとは考えておりません。相手を思う結果としての思いやりのウソもありますから。
ですからウソを悪とし、そう決まっていると断定してしまうことは危険に思えます。
危険とは哲学する上ではとの条件付です。社会生活を送る意味では一般的に「人殺しは良くない」と思えていたほうが有益でしょうから。

もし更に深いウソ、つまり自らの善に背く偽善?のようなものをウソと呼ばれているのでしたら私の見当違いです。
ただそうなると当人が意識できず偽善行為した後に、気が付いて後悔した場合、――法律用語でいう「善意管理義務」の違反には当たります――だからと言ってそれを悪とまでは呼べないと思います。
「絶対」という言葉の用法と同じく、「ウソ」についても双方に相違があり、大事な所でお話しする障害となっている気も致します。


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永井均さんについては既に読まれていたという事で失礼致しました。
ただ、No.11での《わたし》を 出発点に 置く説明の仕方も拝見させて頂きましたが、かなり彼の話に近い気が致しました。

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>>★ 《存在は 自我(意識)を超えている》

善悪の話からの関連性では少し薄かったかも分かりませんね。
追記しておくと<<自我>>、<<わたし>>、<<存在>>は別のものだと言う話です。
繰り返しで恐縮ですが、自我やわたしは「意識」であり、生物にとって生存する手段にすぎません。言うなれば雌雄が別れたようにです。

brageloneさんという生物としての肉体存在にとって、自らを統括する意識(自我)が仮に私poipoi_saであっても何ら問題は無いわけです。
肉体を維持し生存活動を行いさえすれば、意識の種類など「アジア人はみんな同じ顔に見える」他国の人と同じくらい、どれでも良いという話です。

善悪という判断意識を詳しく見ていけば自ずと、brageloneさんの言う初めに善ありき、と、考えるのはものの道理な気が致します。

更に進むと、善悪の元となる快不快の欲求は、我々の意識を超えた生物たる人間の体に根付いており、その段階の快不快には判断する意識がありませんから当然優劣はありません。
では我々の人間の善悪意識に、生命たる快不快の欲求の影響が薄れているかと言えば逆で、多分に(もしくは全て?)生命の欲求に影響されています。
善悪と快不快、両者を分けて考えるのは思いのほか困難だと感じます。

初めに善ありき。は意識の上での話であり、それより深くから出でる生命の欲求には善悪という概念や快不快の優劣は余計です。
どちらが優れているという話とは違うと思います。

投稿日時 - 2009-01-23 01:54:47

補足

 poipoi_saさん ご回答をありがとうございます。

 対話がかみ合って来ましたね。わたしの側の不十分なところをもご指摘いただいたと思います。吟味してまいります。

 ☆☆ 絶対は この経験世界あるいは ひとの経験思考を超えたところに ひとが 想定する領域です。
 ☆ まづ 《領域》は 明らかに 恣意的な想像によって つけくわえています。ただ 単に《絶対》というだけでは 何か観念として捉えがちになるのをおそれて 場のイメージで わたしは 言うことにしています。
 絶対にかんしては 《なぞ》であり 《〔絶対である〕無限は その半分が やはり 無限である》といった捉え方で 進めていけると思います。《有るか無いかを超えており 善か悪かを超えている》などなどです。

 何かを欲しいというとき 手元に無いその何かのことを言っていますから もしこのものが手に入らないと 嘆き悲しむわけです。あるいは 自分が善だと思って 心をこめておこなった行為が 妨害されたり 相手に何ら顧みられなかったりすると 善とは何なんだ!? 世の中 悪ばかりなのか?! と悔し涙を浮かべます。
 その何かを手に入れている人もいるとなれば あるいは 世の中から自分が何ら受け容れられていないと思ったとすれば それらが昂じてくると もはや 《神も仏もいない》とか 《神よ われは 汝を呪う》とか言ったりする事態にならないとも限りません。
 ★ 人間が自身を超える大いなる存在を意識するようになったのは、人間という意識を持つのとそれほど時間的に差異があるとは私は考えていません。
 ☆ というように 日常生活において 《神》なり《絶対》なりに出会う機会は 多いと思われます。

 有神論の場合には
 ○ 《絶対》を 擬人法で表現して 《絶対者》とします。――想像ないし表現の問題に入るわけです。無神論者は こんなことをしません。――さらに これを《神あるいは 主ないし創造主》と呼びます。そして 世界の創造という物語にまで広がります。
 ☆ 《絶対》という言葉じたいが すでに そうなのですが すべて これらの言葉は 代理表現です。無限である絶対の中身そのものではありません。そもそも 知り得ないのですから。《なぞ》を指し示す代理のことばです。
 その意味で 同じ言葉を 同じ概念で 非経験の領域(つまり絶対)に あてはめることは 妥当ではありません。有神論つまり《神は有る》と 実際には 表現していますが この《有る》を 経験的な概念と同じ意味で 使うのは 妥当ではないわけです。代理として 仮りに 指し示しているというのが 正解です。無神論の《無》にしても 同じです。絶対が無だと決まったわけではないのです。知り得ません。
 もし代理表現でないのならば
 ★ 不完全な人間が定義したのであるから、神もまた不完全だ。と言う話です。
 
 そこで この《絶対とわたしなる存在との関係》は 経験思考を超えています。非思考です。これを 《信仰》と呼びます。《信じる》とは 《絶対》を わけの分からないものながらも 心に受け容れるということです。そんなものは何も無いさと言って 受け容れる―― 一たんは 受け容れるのです――のが 無神論です。早く言えば 無神論も 信仰です。
 良心・信教の自由という公理がありますが 表現・結社の自由もあって この個人の内面の信仰を わざわざ ひとに勧めたり おしえたりするという宗教も 人類史においては 起こりました。わたしから見れば それによって 人類は困っていると思います。(生活態度としての思想を述べたとき その思想の根源は 何かと訊かれて これこれこういう信仰なのだと明かすことは あるでしょう)。

 ★ ずばり、『宗教とはウソではないのですか?』
 ☆ そもそも 経験事象について観察した結果を 人間の言葉で表現することは おそらく つねに 《うそ》が入るでしょうね。心の真実としての信仰にしても うそでないという保証は ないでしょうね。
 ただし 或る神なら神というその全知全能といった固定観念を念じて心に取り込むというのではなく 絶対というなぞを受け容れることが 信仰ですから 《思いこみ》や《憑依・取り憑き》としてのウソではありません。
 宗教は 組織をつくり教義を持つに到るので このウソつまり一般に虚構は 広がるでしょうね。

 ★☆ うそも方便
 ☆ の場合は うそは あくまで 悪ですが その悪を善用していると採ればいいでしょう。
 ○ 善のマイナスとしての悪には 勘違いや記憶違いによるウソやその行ないがあります。へそが 知らずに 曲がってしまった場合です。へそを曲げる つまり 平気でウソをつく場合もあるわけです。

投稿日時 - 2009-01-23 09:09:57

お礼

 ★ 永井均さんについては
 ☆ 《わたし》が 社会的な独立の存在であるというところまでは 同感です。その後がついて行けません。どうも 勘ぐればですが 社会的な関係性を持った存在でもあるという側面を 避けて 関係を持たない自由もあるのだと言っているように受け取れます。これは もしそうだとすれば こう言い直せば いいのだと考えます。つまり 《人は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である。その上で わたし(永井均)は 人と具体的に関係を持つのは 極力 避ける方針である》とです。この差は 実際の読者への影響としては 大きいと思います。

 ★ 自我
 ☆ は 面倒です。もしどうしてもと言うのであれば 《わたし》に含まれると言えばいいのではないでしょうか。
 ★ 自らを統括する
 ☆ ところの《わたし》は 《存在》の具体的なあり方です。
 ★ 意識
 ☆ は わたしが捉えた世界のすべてです。

 ★ 生命
 ☆ は 存在のことです。
 ★ 生命たる快不快の欲求
 ☆ は むつかしいのですが 基本的に言って 《快不快》を わたしは 必要であれば 善悪として 判断し識別いたします。判断とその意志のとおりに 実行できるかは また 別です。《快楽原則》は それが 生命の欲求であるからと言って そのまま 存在としての自然本性であり 意志(こころ)の真実であるかは 必ずしも 一概に決まりません。
 生命存在に相即的であるなら 議論の余地は むしろ ないのですが どう捉えるかは けっこう 王様になりたがる自由意志は 自分の裁量のもとに置いておきたいという欲求も持っているのではないでしょうか。つまりは 早い話が 《むさぼるなかれ》といった 大きくは 善悪判断のことです。
 ▲ すべては ゆるされている。でも すべてが 益になるとは限らない。すべては ゆるされている。でも すべてが わたしを造り上げるものではない。
 ☆ これは 自己の欲求を制御しなさいという意味であるよりは 相手との関係 つまり 相手の自由意志をないがしろにしてはいけないという意味が 重要なのではないでしょうか。
 自由意志は むろん 自然本性として 存在にそなわる能力です。つまり 善の系譜です。その自由意志から マイナスの善つまり悪も 出てくるのですが。つまり 自由意志が うそをつきます。

投稿日時 - 2009-01-23 09:27:36

ANo.14

maimai.susです。

種子と趣旨間違えました。

投稿日時 - 2009-01-22 20:37:32

お礼

 了解です。

投稿日時 - 2009-01-23 12:41:39

ANo.13

maimai.susです。

種子も何もないです、単に

存在=善(愛)では無く。

存在=善+a+b+c+d+e・・・・・・・・・だよ。って話な訳です。

 ☆ これに対して この質問趣旨では 次のように言っています。
 1~16
は、単に善悪基準の想定の話で、とても存在という意味において、足りない部分が多くて、意味をなしえていないと思うのです。
私が今まで回答内容で書かせて頂いたのは、その足りない部分の指摘です。(他の質問回答含む。)

1~16に対しての自分個人の意見を言えば、
皆さんが、そう認識すれば、それはそれで良いと思いますよ。

投稿日時 - 2009-01-22 20:34:14

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。それでしたら
 ★ 存在=善+a+b+c+d+e・・・・・・・・・だよ。って話な訳です。
 ☆ における《+a+b+c+d+e・・・》の部分に何があるか ではないでしょうか。すなわち 《善》ではなく 善のほかに 善とは異質な何かが あるというふうに どうしても規定しなければならないかどうかです。
 そもそも われわれの言語習慣において 善だ悪だと使っているこの二つの言葉に関して その定義を しておこうという程度であるとも言えるわけです。
 《存在は 善である》 こう想定すると そこから 概念を捉えて行って 悪の概念にまで到り 全体が きれいに解釈できる。という仮説の検証作業において どうしても 《+a+b+c+d+e・・・》の部分が必要であるかというところに 焦点が当たります。
 つまり その部分は なくても 善と悪とを用いる言語慣習を説明できるとは 踏んでいるのですが いかがでしょう。

投稿日時 - 2009-01-22 22:38:59

ANo.12

返信ありがとうございます。少し補足を述べさせていただきます。

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>>★ 絶対悪 
>>☆ この用語は 妥当ではありません。そもそも 哲学の用語として 不適切でしょう。

1.感覚的に率直に申し上げれば
私もそう思います。哲学とは私の印象では「絶対」を作らない考え方を基礎としている印象があるからです。
ただ、池田昌子さんにとっては普遍的な悪というものがあるという解釈が自然なようでした。
例えば宗教は死への恐怖=絶対悪に対抗する為の手段として考案された産物である。という考え方です。
私の説明下手で考えが曲解を呼んでは申し訳が立ちませんので池田昌子さんの名誉の為に添えておきますが、詳しくは書籍をどうぞ。

2.哲学的にお答えすれば
>>絶対、もしくは絶対悪は思考の産物に過ぎず具体的な現象に仮に当てはめようとした用語
というのはその通りだと思います。
ただそれを言うならあらゆる言葉は、人間が>>現象に仮に当てはめた物
に過ぎないですよね。
例えば善という言葉を例としても>>想像ないし思考の産物に 善という名をわたしたち人間が 仮りに あてはめようとした用語です。


<<こうなると 先に出た《絶対悪》というのは 次のような内容を持っていると解釈することが出来ます。すなわち ウソならウソという人間の悪について その判断を 最終的に=つまりは 人間にとって普遍的に 決めるのは 《絶対》という想定概念であるということです。また この《絶対》に対する背向きのことを あたかも――用語は 適切ではありませんが―― 《絶対悪》と言っているのではないかというものです。>>
これはその通り、意味は通じていると思います。


>>はじめの存在は 善である
多分brageloneさんの仰りたい所は掴めていると思います。人間の思考として自然であるからです。
質問で既に述べておられるように
>>《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそう
と存在を善と仮定することは手段であり、目的は哲学することなのですよね。

突き詰めてゆけば、ではそもそも善悪とは何であるか、さらに善で定義する「存在」とはどういうものなのか?という疑問に当たってゆく気が致します。
「存在」という仮定なしに、存在を善と仮定することは出来ないからです。

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>>★ 生命は悪=闇から生まれ、善=光を経てまた闇に帰る存在なのでしょうか?
>> ☆ ここまでは 手を伸ばしません
すこし外したようですね。自分で書いた文なのに引用だけみると何やら怪しい思考が背後にある気すらしてしまいます(笑)。
一応弁解しておくと
>>経験世界を超えた領域に対して 簡単に その同じ言葉を 同じ概念で用いること
これはわたしにとってまさしく哲学の基礎である気が致します(簡単にではないので哲学される方は苦労されているようですが)。ロゴス主義という奴です。
brageloneさんはそれについて>>妥当性がない
と語られておりますが、偉そうにお答えするとある意味正しく、ある意味誤っているように見えます。経験も世界も一つの解釈にすぎず
仰るとおり非常に不完全で哲学には妥当性というものが存在しないのです(私の説明下手は除く)。科学なら基本的に「誰がいつどこで行っても同じ結果が出る」という前提の上に成り立つ学問ですが、哲学は人が自らの意識に基づいて ――多分全ての人の意識が異なるにも関わらず―― 考えて人間共通の真理に至ろうという矛盾を抱えた学問であるからです。

生前を悪、誕生を善、死後を悪としたのも、brageloneさんの「存在は善」という仮定を真として時系列で(少なくともあほな私にとっては)哲学してみただけの事です。
目的は、生前死後の世界を考える事ではなく、存在は善という仮定の真偽を確かめる事です。上のは思考の手段ですね。

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★逆に質問
またこれは個人的疑問で、brageloneさんは聖書も読まれているようなので逆に教えていただきたいのですが、
宗教は<<経験世界を超えた領域に対して 簡単に その同じ言葉を 同じ概念で用いること>>
なしに存在し得るものなのですか?何やら哲学、科学、宗教がごっちゃになっており意を得なくてすみません(笑)。

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>>★ 3.<<善悪に優劣は無い>>
>> ☆ これは 何を言おうとしているのか よく分かりません。
一番説明をはしょった箇所なので案の定という感じです。私の不徳の致すところです。
単純な話で捕食行為で例えると、

食べられるほうから見たら=悪
食べるほうから見たら=善

となり同じ行為が見る人(生物)により善悪いずれにもなりうるという話です。

善悪は判断であり、判断は個体や状況によって変化するものですから
一つの事柄に二つの判断が下れば、立場が違うので善悪が真逆になり得ます。
ここで存在するのは一つの事柄と二つの判断だけで優劣はありません。

個体が自分にとって都合の良いほうを優、都合の悪いほうを劣とするならば優劣は有ります。
ですが、だから善と悪という概念に優劣があるという話にはならないわけです。

生物の一個体としての判断レベルでの定義では確かに善が先かもしれません。
動物にとって悪いは存在せず、善いと善くないがあるだけだという話ですね。
詰めてゆくと快不快の話になりますが、快――生命に異常なし――は時に、他の不快――生命に異常有り――になりますから

善悪の定義の対象が個体から複数体に変わった瞬間に、善悪は同時に発生し、優劣は無い事になってしまいます。
最も初期の善悪の定義に、他者の存在が組み込まれているとは思いませんが、人間にとって善悪とは他者(他生物)と密接に関わる事柄であり、
善悪の優劣も、自己としての視点からだけでは見えてこないのではないかという話でした。

ぶっちゃけて言えば、無人島で育った人に出会った事にない人間が居たとして、その人物に快不快は有っても善悪の概念が生まれるか疑問であるという事です。
人類は善悪が無い所から、善悪の概念を生みましたが、それ以前に他者の存在がありました。他者無しに善悪は生まれ得ない気がします。
そして他者と共に善悪の概念を保有したと考えると、有るのは優劣ではなく、二つの判断だけではないでしょうか

結論は、個体としては善が優、集団としては善悪同時、但し善悪という概念は集団なくしては生まれない。

自分の説明に自信がありません(笑)。話せば話すほどbrageloneさんの知りたい事からずれて行く気がします。
私の中で永井均さんのお話が未消化である証拠です。私もこれを機会に読み返してみようかと思います。

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>>★ 永井均
>>☆ というひとは いったい 何をおそわって どのように育ち 何を考え 生きて来たのでしょう? 

wikiによると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%9D%87

哲学的に見ると独我論に近接する学説を論じておられる方です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E6%88%91%E8%AB%96

話をお聞きして、どうやら「善悪に優劣があるか」がbrageloneさんの知りたいことのような気がしてきました。
私の知っているところではbrageloneさんの興味には多分永井均さんの著作が適している気が致します。
私が読んだのは〈子ども〉のための哲学という書籍です。まさしく永井均がどう育ってきたか書かれていました。
そもそも、よい・わるいとはどう言うことかとか、ぼくとは何かなどについて得意な方だと思います。

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失礼な言い方で恐縮ですが、brageloneさん返信を見て「話の通じる方だ」という印象を持ちました(笑)。
ここからは存在は善という仮定について非公式な雑談として思ったことを率直に語っておきます。

解らない事を解釈するのに仮定から入る方法は自然なことですが、人はその仮定をいつしか真理のように勘違いしてしまいがちです。
仮定から入り、得た結論は全て仮定の上に成り立ついわば空想であり、ある段階に至ったら今度は仮定を取り除く ――建築現場の足場を除くように―― のが望ましいですが、
現実には人間の考えは全てが仮定であり、仮定をどれだけ積み上げても本当には至れない気も致します。
大切なのは存在は善という仮定によって却って見えなくなるものもあることを心に置いて思考へと旅立つことではないか。
と書き込みを拝見していて思いました。

私が述べた<<絶対悪>><<善悪に優劣は無い>>.《存在は 自我(意識)を超えている》などは、
仮定を真理と思い込むことを防ぐ警笛として効果があるのではという意味も込めて選んだものです。もちろんそれ以上に有意義な考え方ですが。
哲学にとって真理の追究とは、分からないことを如何に分からないかを知る。という事だと(ある側面では)私は理解しています。
この辺の行き着く先は宗教とは異なるものですね。

投稿日時 - 2009-01-22 20:27:01

補足

 poipoi_saさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ことばを概念として用いるときに その中身を どう定義しているか これは ひとによって違いますので そもそも 議論の初めには 互いのすり合わせと言いますか 確認が必要ですね。
 このことを やっておきましょうか。
 ○ 絶対: 相対ではないということですね。
 この経験世界は 相対の世界です。何一つ それ自体で 存在しているものはありません。すべて 移ろい行くものです。すべては 程度問題であって 何かそれだけが 他のものとは 次元が違うといったことは ありません。
 絶対は この経験世界あるいは ひとの経験思考を超えたところに ひとが 想定する領域です。いっさい それが 何であるか 分かりません。分かるか分からないかが ひとには 分かりません。不可思議であり なぞであり 表象も不可能です。
 無限も 絶対です。無限を 仮りに分割したとしても その仮りに言ってみるところの部分は やはり 無限です。これが 絶対です。

 したがって
 ★ 絶対悪
 ☆ という概念は 《悪》が 人間の判断つまり思考を介在させていますので 《絶対》とは 結びつきません。もし 想像という範囲内で 《悪》つまり《絶対悪》と言ってみるとすれば それは 《絶対善》と同じ内容を表わすということになります。すなわち 《絶対》の中身については ひとは いっさい 分からないのですから ひとの判断を加えてみても 中身に何の変化も与えないわけですし そもそも ひとの判断や思考を超えているものだったわけです。

 ★ 普遍的な悪
 ☆ これは もし悪が 善の欠如であるとすれば いくつもあります。《うそ》もそうですし 《存在の抹殺としての人殺し》もそうです。誰が見ても 誰にとっても どこでも いつでも 悪ですから 普遍的な悪です。《絶対悪》という用語は その事例では 別の意味になるでしょう。

 ★ >>絶対、もしくは絶対悪は思考の産物に過ぎず具体的な現象に仮に当てはめようとした用語
 ☆ これは 最初の《絶対》は 引用間違いでしょうね。そうでなければ 意味が通じません。《絶対》だけは 何か経験事物に当てはめようとするものではありません。当てはまりません。そういうもの(領域)を 絶対という言葉で 想定するのですから。
 ★ >>経験世界を超えた領域(* すなわち 絶対の領域)に対して 簡単に その同じ言葉を 同じ概念で用いること〔は 妥当でない〕
 ☆ というときにも いまの議論が有効です。

 そして 《信仰》とは この《〈絶対〉に相い対する〈わたし〉の心のあり方》を言います。絶対を神と言いかえるなら 有神論としての信仰であり 無神論は 絶対と《わたし》との関係が――つまり 信仰が―― なにも無かったと捉えるものです。両者は 互いに対等であり どちらを選ぶかは ひとの自由です。
 《宗教》は この信仰を ひとにおしえようとする意志に発します。《絶対とのあたかも対面としての信仰》は あくまで 個人の内面に属します。なぜなら 絶対は ひとが考えても 分からない領域だからです。これを ひとにおしえようとするなら 必然的に ひとの内面を 他人が 詮索して 決定する(あるいは 裁く)という行為が 伴なわれて来ます。これは 信仰の自殺行為です。悪です。という考えを持ちます。

 ★ 善悪と優劣
 ☆ 善悪という判断は あくまで 人間がおこなう行為です。他の生物は おこないません。人間が 善悪判断するなら それは 具体的に決まって来ます。ウソや殺人の例を出しました。ウソでない誠が善で ウソなる悪に対して 優れています。いつでも どこでも 誰でもです。殺人の例の場合に 緊急避難といった例外的な事態もありますが それをしない善から見れば その善の欠如であり 悪です。社会的人間にとっては そう決まっています。
 その意味で
 ★ 永井均
 ☆ については その見識をうたがうという意味で 疑問を呈しました。わたしは 買いません。(数冊読みました)。

 ★☆ 存在は 善である。 
 ☆ という形でなく つまり 《善》という言葉を用いない形で 質問趣旨を No.11で 言いかえることを試みていますので よろしかったら 当たってみておいてください。《わたし》を 出発点に 置く説明の仕方です。

投稿日時 - 2009-01-22 22:27:06

お礼

 ★ 《存在は 自我(意識)を超えている》
 ☆ これについて 前回 触れませんでしたが どうなんでしょう。
 意識は すでに 現実世界の意識として 世界そのものであるようにも捉えられます。存在をふくむ世界であるように です。
 意識において 行為するところの善悪 これを 存在が 超えているというのは ごくふつうの認識になると思います。(特に強く 言おうとしたものではないので 触れませんでした)。
 (つまり 《自我》であれば 《わたし》と言いかえて 《存在》のことを表わし得るのではないかと思ったということです)。

投稿日時 - 2009-01-22 22:30:37

ANo.11

こんにちは。

> おおむね 賛同いただいたと理解してよろしいでしょうか。
選ばれた言葉の意図を私が理解できているかという不安がありますが
概ね賛同したつもりです。

選ばれた言葉の意図を私が理解できているかを確認するためにも
以下を返答いたします。

> 《自然本性を曲げる悪》は《うそ》に発すると考えてよろしいでしょうか。
「うそ」というのはある種の「未熟さ」だと私は考えていたのですが
(善を自然本性とすれば、善の未熟な状態の判断が悪につながる)
意図するところは概ね同じでしょうか?
(善という語にも違和感があるのですが、代替案を思いつかないので放っておきます。)

> もしクリスチアニスムに合わせて
> ~なぜなら舞台は全世界であるゆえ~考えるなら
>「原罪」を取り上げないわけにはいかない。
原罪を背負うのは「人間のみ」ですよね?
(キリスト教理解が浅いので誤解や偏見を指摘頂ければ幸いです。)
私はここに「人間だけ」を「特別扱い」する思想を感じるのです。
ここでは「負の方向性を持った特別扱い」ですが
そもそも「人格神」を「絶対」化しているところから
人間を特別扱いしていますよね?
それは何でなんでしょう?
だいたい、何でキリスト教者は関係を主従で置きたがる、というか
何で位置や方向にあらかじめ序列をつけたがるのでしょう?

私は、これが分からない(アンフェアな姿勢を感じる)ので
原罪については言及しにくいです。

話のついでに、ちょっと思いつきを書くことを許して頂くと
> 《寄留》という思想は 旧いのではありませんか?
古いよね、今は「共生」だよね。

投稿日時 - 2009-01-22 15:06:39

補足

 CUE009さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 > 《寄留》という思想は 旧いのではありませんか?
 古いよね、今は「共生」だよね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この違いが 意外に 相当というよりも あたかも 根本的に 大きいようなのです。天ないし神の国より出て この経験世界に生まれ また 天に帰っていくというとき 高みから元の高みへ移る間にある低きこの世は 谷であると言うものです。あたかも谷に落とされ 自分たちは なるほど 光の子らであるが そうではない闇の子らの間にあって その人たちとの或る種のたたかいにおいて 生きなければいけない。したがって 涙の谷としての人生を送ると言います。
 これが 《寄留》です。白装束で 巡礼の旅を送るというものです。この消極性あるいは死のにおいを打ち破りたいと思っています。むろん 理論の問題としてです。

 ★ 原罪 および それにまつわるもろもろの思想の問題
 ☆ No.9補足欄で 《性善説》との比較によって 《悪は 存在しない》を説明したところは いかがでしょうか。
 問題は やはり
 ○ 自由意志 および それによる心の曲がり
 ☆ にあるはづです。《善》という言葉が どうも 目ざわりのようで 今回は 別様に
 ○ 《存在》の具体的なあり方として 《わたし》を 取り上げてみる。
 ○ そして この《わたし》は 数として 《一》とする。存在が 《有る》ゆえに。ゼロではないという意味において。
 ○ したがって 存在=生命の維持向上としての愛は――いま 善とは言わないかたちで―― 《わたしが わたしである》ことの愛(その持続)である。さらには 《わたしがわたしする》過程として 生きることの愛である。
 ○ 数としては わたしが 己れの心から逸れたとき ふたたび わたしに還ることは――つまり 善の減少を 元に戻す埋め合わせは―― 《一》の保持・持続である。
 ○ いわば《一》なるわたしに わたしなる《一》を掛ける。自己の自乗なる過程である。自己の冪を作る動態。そうして 一の連乗積は つねに 一である。

 ☆ さて 原罪は このわたしの自乗なる動態が 相対的な能力であるに過ぎない自由意志によって あやまちうることを前提しつつ おこなわれるということを 言っています。それだけだと言っても よいと思います。
 なぜなら 神は もし創造主であるなら そのように 人間が やがて原罪を侵し その結果 神のおぼしめしそのままに生きるものではないということを知っていたはづですから。
 早い話が 《原罪を侵した結果 うそを言わない人間は いない状態になった》。つまりは 原罪と言わずに 《自由意志が 有限で可変的で可謬的である》と言えば ほぼ 同じ内容になると思います。
 なぜなら そのときには 創造主を想定しない場合にも この果敢無い自由意志は それでも 自分たちの相対世界を超えた絶対の領域を 想定するという能力は持っていて この絶対は 取りも直さず 創造主なる神のことであるか それとも 無神論として無神であるか どちらかであるのですから。

 ★ 「うそ」というのはある種の「未熟さ」だと私は考えていたのですが(善を自然本性とすれば、善の未熟な状態の判断が悪につながる)
 ☆ 微妙にちがうと思います。《未熟 / 成熟》にかかわらず 《一なるわたし》を保持しうるかに 《うそ》をめぐる問題――すなわち 広く 悪の問題――はあると考えます。一般に社会性において未熟な子どものほうが 《うそ》とみづからの心との距離について 分かっているかも知れません。
 ★ 原罪を背負うのは「人間のみ」ですよね?
 ★ 人間を特別扱いしていますよね?
 ☆ そのとおりです。人間中心主義とは言わずとも 人間が つねに 思考や生きることの基軸として 捉えられています。つまりは 他の生物の生命を慮るにしても 人間の目から見てのことになると思います。
 これは 何にも増して 《自由意志》の存在によって 分かれるのだと考えます。さらに より良い考え方があれば わたしも 従いたいと思います。

 だいたい 重要事項に触れることができたでしょうか。
 キリスト信仰に立つ生活態度(思想)として述べた内容は むろんすべて わたし自身の思うところです。一般的な教義よりも すすんでいるとは 自負していますが その点 注意が必要であるかと思います。よろしくどうぞ。

 * キリスト教義には 《アンフェアな姿勢を感じる》のですが ほかの代替案を考えるに際しては 《自由意志》の扱い方を きちんと まとめることが 大事になると考えます。

投稿日時 - 2009-01-22 16:10:57

ANo.10

brageloneさんどうもはじめまして。久しぶりに回答する気になったので少々お邪魔いたします。
哲学は半年ぶり位でなまくら頭のふつつかものですがどうぞ宜しく。

私は特に学校で哲学を学んだことも無く、少々興味がある程度読んだ本も池田昌子さん、永井 均さん、中島義道さんを少々位です。
ただ物理学も同様に少々興味を持ったことがあるのでそちらのアプローチ色が出やすい人間だと判断ください。

初めてなのでbrageloneさんが当問題によって本当に知りたいことは何なのか正直全く掴めません。書いた後の読み直しもせず一発勝負です。
以下はその程度の話だとお考え下さい。
多分善悪と人の存在について興味おありなのだと思いますのでその辺の話をしておきます。
番号を振っておきますので関心を持っていただければもう少し掘り下げてお話させていただきます。

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1.《存在は 自我(意識)を超えている》

《存在は 善悪を超えている》は当然で、善悪は判断ですよね。

中島義道さんの書籍を読んでいて覚えたのは
《存在は 自我を超えている》と言うことでした。自我もまた判断であり、自我無き者も存在している(と言うことができる)訳です。
支離滅裂な例えしか出てきませんが、仮に私の自我が存在していなくとも、brageloneさんという他者は存在しているからでありますし、
生物の発生は自我無き存在から出発したと言われています。よって(少なくとも非生物は置いておいて)生物にとって自我(意識)は手段に過ぎません。

brageloneさんという生物は、brageloneさんの「自分と言う認識」=自我 を抜いても存在していると言うわけです。


しかし、自我無き自分(存在)を果たして「存在している」と言って良いものなのでしょうか?
そこにいるのは生存の為に肉体を動かす一固体であろうという定義以外の何者であるかすら想像付きません。意識があるかも定かではないです。

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2.<<絶対的な悪は存在する>>

これは池田昌子さんの書籍で見かけたものです。

善悪は判断であり、判断をする人間は無数であり、無数の人間同士は空間(場所)、時(時代)を超えて分かれている以上、絶対的な悪は無い気もします。

例えば戦争の時代では敵を多く殺せるものが英雄であるし、平和な世では狂人であるという程度の話です。

しかし、池田昌子さんが言うには(少なくとも人類が持つ「現在までの人類への知識」の範囲内では)全ての人間は共通して腹が減り、眠り、子孫を残したい。
そして自らの死への恐怖が有る。と言います。即ちごく自然な生物としての共通点です。(私はあほなので言われるまでこんな単純なことも分かりませんでした(苦笑)。)

この「絶対な人類の共通点」が有る以上、その依存の上に判断される悪にも「絶対悪」があると言うことです。
確か以前にも「なぜ人を殺してはいけないのか?」と言った質問にお答えする際にこの話をしました。
今説明したようにそれは「絶対悪」に背くからだと。

この解釈に基づいてbrageloneさんの善悪への疑問(興味?)を眺めると、善悪とは自我を超えた生物としての人間から発祥している、より根源的な欲求に基づいたものであり、
人が自我という解釈によって善悪を判断し、その時空間及び自他という相対的別離を経ても、善悪判断の結論は(一般的な人が考えるよりも)ずっと共通なもの=絶対悪がある。という話になります。
よって《存在は 善悪を超えている》は、

=人を生物としてみれば可→(ぶっちゃけて言えばみんな死にたくないから)。
=自我としてみれば(善悪は自我(意識)という存在を)超えているので否。→(生物が意識を獲得する前から死は有った)

となります。
ちょっと話し手たる私の能力不足から分かりにくくなっているでしょうか?
もっと簡単にも書けるのですが意味を削らないといけないので、取り合えずこの位で勘弁を。


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3.<<善悪に優劣は無い>>

永井均さんの書籍では「悪い人も自分の子供は良い(善い)人に育てる」という話が印象的でした。
極悪人であっても、自分の周りの人は善い人の方が自分(の存在)にとって都合が良いからです。
即ち「良い悪い善悪とは、自分と他人どちらからみるかによって真逆になりうる」と言うことです。
別に取り立てて言うほどもない自然な話ですが(笑)、分かりやすく言うと
牛や豚、鳥などの家畜からしたら、「自らの死」という絶対悪ですが、我々人間たる捕食側からしたら良い食事です。

この話から、「悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。」というbrageloneさんの話を(私なり)眺めると、
悪は善の欠如ではなく、元々善悪は一つの価値基準(生存本能)によって判断されており、この世に生命が誕生した瞬間に共に生まれたと言うことになります。
つまり、自分に嫌な影響を与えるものは悪。良い影響を与えるものは善。両者に優劣はありません。

これは仮に生物の形態が時空間を超えて、何千、何万年先の宇宙の端っこで生まれた鉱物でできた生命体であったとしても共通だと言う話です。

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4.
3の補足にも当たります。まずbrageloneさんの言葉を引用します

>>『《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。』

3の結論を、こういう疑問で捉えるとどうなるでしょうか?。
「生命が生存すると言う事が既に善であるならば、存在=善なしに悪は成り立たないのだから、やはり善が優。先なのではないか??」

brageloneさんの言葉は多分こういった意味だと思います(違ってたらすいません)

生命と言う存在が「ある時点で誕生」したとして、(一般的に将来の)「ある時点で消滅」するとすれば、
誕生=善。消滅=悪。のように見えますが、その誕生の更に前、つまり生まれる前の時点では、生命は存在しなかったわけですから、消滅=悪、が先に有ったことになってしまいます。

生命は悪=闇から生まれ、善=光を経てまた闇に帰る存在なのでしょうか?

これは一番私にも説明が難しい箇所に当たります。

自分を生物として見た時、死が悪であることは間違いありません。
しかし、死とは実は「無」なのではないでしょうか?
(一般的には)誰も前世の事を覚えていませんし、死後生き返った人も居ません。そこには何も無い、まさに『「無」すらない「無」』があるだけです。(無宗教基準でのお話です)


我々は無から生まれ、無に帰るのだとして、無と悪はやはり違う気がします。その証拠に、人類史上、どの言語でも無と悪は違う単語で区別されているはずです(多分)。

では何故無を悪と呼ぶかと言えば、自らが有であるからです。

実はこれは勘違いに過ぎなくて、自分が有であるから無を悪と思い込んでいるだけだと思います。
つまり、

自分は善である前に既に自分である=《存在は 善悪を超えている》のだから

(かなり強引ですが)有とは善悪で無い以上、無もまた悪ではないと言うことです。

何か分かっている人が読めば分かる文の域を出ないダメ説明な気もしますが私のあほ脳では出来たほうです(笑)。

ちなみにこの辺の話は論客コミニュティという所で皆さんとお話して知りました。http://www.yamcha.jp/fnd/dsc/

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長文最後までお読みいただきありがとうございました。
最初にも書いたように興味があれば引き続きどうぞ。
自分の復習の為に書いただけなので興味をひか無ければ返信無しで構いません(笑)。

投稿日時 - 2009-01-22 09:39:20

補足

 poipoi_saさん こちらこそ 初めまして。ご投稿いただき ありがとうございます。今後とも よろしくお願いたします。

 そうですね。今回のご回答の内容によっては 正直に申せば 説得されることは ありませんでした。せっかくの長文をいただいたのですが 結論は そうなりました。率直に わたしの受け取ったその内容を わたしの見方に立って 説明してみます。そういう出で立ちですが その文章について 再反論を よろしかったら お寄せください。

 ★ 絶対悪
 ☆ この用語は 妥当ではありません。そもそも 哲学の用語として 不適切でしょう。
 ○ 絶対: これは この相対世界を超えたところに 人間が 想定する領域です。それは 経験世界の一切を超えており 経験思考の及ばないところです。不可思議であり 非思考です。
 ☆ そのとき この《絶対》について 悪あるいは善といった判断ないし思考をおよぼすことは 想像の範囲内でという条件において あり得ますが きちんとした定義としては あり得ません。ですから 
 ○ 提出なさった《絶対悪》は 想像ないし思考の産物として 経験的で具体的な行為や現象に わたしたち人間が 仮りに あてはめようとした用語です。

 これを 別の思考経路から 別様の見方において 説明してみます。
 さて 《うそ》の話から始めます。そもそも 《うそ》と言うからには そのウソとは別の何らかの内容が 心にはあると言わねばなりません。この《まこと》と《うそ》との差異に 心のゆがみが出ていると ここでは 言っているのですが そうして この嘘や真事を表象する主体である存在が もし善であるとすれば ウソは 善の減少だと考えられます。ウソ一個分 善が減る このことを 悪とも呼ぶというわけです。
 ところが この悪について 人間の能力と努力とでは 最終的には どうにも することが出来ません。謝る・償いをするなどの行為によって 他者とにせよ自己とにせよ 和解することは出来ますが 最終的に ウソから自由な存在であろうとしても 人間の力では 無理であるでしょう。
 そのとき 《絶対》が 人間の心にも 現われるのです。自己の力によっても 人間どうしの和解によっても 最終的なウソからの自由は 得られないというとき それは つまりその悪は 《絶対》への背向きであるという思想が 現われます。つまり いわゆる《罪》という概念です。
 こうなると 先に出た《絶対悪》というのは 次のような内容を持っていると解釈することが出来ます。すなわち ウソならウソという人間の悪について その判断を 最終的に=つまりは 人間にとって普遍的に 決めるのは 《絶対》という想定概念であるということです。また この《絶対》に対する背向きのことを あたかも――用語は 適切ではありませんが―― 《絶対悪》と言っているのではないかというものです。

 すなわち ここでも 《悪》あるいは《絶対悪》というモノが 初めに 存在するというようなことは ないわけなのです。同じく ここでも 《うそ》は マイナスの善であり それとして 悪と呼ぶというに過ぎないわけです。
 どうしても 《善》という概念で 《存在》のことを 捉えるという必然性もないかも知れませんが 存在の良さ・好ましさ・望ましさがあって それが 減ったとすれば その減った分は マイナスです。マイナスゆえに 人間の言語習慣では この現象を 《悪》と呼ぶとすれば はじめの存在は 善であるという想定になります。おかしくありません。

 このいきさつから言えば 悪が起こって それが マイナスであるゆえ はじめのプラスを 善と呼ぶというふうに順序が 逆であるように見えますが 考え方の上から行けば やはり 善があって その減少として 悪が 起きるのです。

 ★ 生命は悪=闇から生まれ、善=光を経てまた闇に帰る存在なのでしょうか?
 ☆ ここまでは 手を伸ばしません。この世界において 善悪という言葉が どういう意味で使われているかの解明だけでじゅうぶんです。仮りに おつきあいすれば 生命存在のさらに以前というのは 《有》でも《無》でもありません。有・無というのは この経験世界において ものごとを捉える言葉ですから その経験世界を超えた領域に対して 簡単に その同じ言葉を 同じ概念で用いることには 妥当性がないと言わねばなりません。
 仮りに 《絶対無》と想定するとするなら それは 《絶対有》と同じような概念になります。つまり 有無には ほとんど 関係なく 《絶対》のことなのです。(有神論では この絶対ないし絶対者を むろん――その自分たちの物語として――《善・至高の善》と呼びます。無神論では 《無記(善とも悪とも規定しない)》というところでしょう)。

投稿日時 - 2009-01-22 11:23:49

お礼

 ★ 3.<<善悪に優劣は無い>>
 ☆ これは 何を言おうとしているのか よく分かりません。
 存在が善であり その善の中身の減少が 悪であると規定しておけば
 ★ 「良い悪い善悪とは、自分と他人どちらからみるかによって真逆になりうる」と言うことです。
 ☆ などということは 起こり得ません。定義は 持続しますから。(ただし 人間から見てという前提は あります。人間存在を 不遜にも 善だと 人間じしんが 規定しているからです)。しかも 《善悪どちらかに見ている》というのなら 《優劣》はあるはづです。人それぞれであっても あるはづです。

 ★ 元々善悪は一つの価値基準(生存本能)によって判断されており、
 ☆ 生存本能を超えて 人間の知性によって 生命存在を善とする初めの想定から出発して 判断するということでしょうね。機械的という意味での本能的ではないでしょう。生命存在が善だという想定には いわば先験的なその想定の持つ判断も 含まれているようですが だからと言って この判断を ひとは 鵜呑みにして 条件反射として反応するようには 無思考ではないでしょう。

 ★ 永井均
 ☆ というひとは いったい 何をおそわって どのように育ち 何を考え 生きて来たのでしょう? 

 これで おおむね お応えできたかと思います。すでに 断定して述べているところもありますが 率直に 思っているところを訴えました。あしからず どうぞ。

投稿日時 - 2009-01-22 11:28:23

ANo.9

maimai.susです。

>どうしても いまの想定がまずいということでしたら もう少し その不都合について 批判を展開していただけないでしょうか。ただ 無理があると言われているようなのです。

ですからね。

>★☆ 酒類が 存在のことだと喩えるのなら その種類のすべてが 存在であり 善です。

を例で挙げるとですね。

お店で「ワイン下さい」て言ったら、「うちのお酒、悪い物無いですよ」って答えてるみたいな話ですよね。

石があるとします、大きさ・重さ・色・成分を調べて下さいと言われているのに、大きさを測る道具だけで、大きさ何センチ・重さ何センチ・色何センチ・成分何センチ見たいな事、言われてもね。

>★ 人間目の前にいる人間に対して、この人間は何の為にここにいるのか、何を考えているのか、どうゆう能力があるのか、そういった事を考える
 ☆ のではありません。うそなら嘘 そういう表現行為を扱っているのみです。人間について その存在は 善であると規定し そこから繰り出される表現行為(そして そのための内的な思惟も 含みますが)については 善に即した内容としての善か または その善を減らすような内容としての悪かに分けるというものです。

っも、そうですがどうも大切な部分を理解して下さってようですね。
~必要を感じるけど、善か悪かと言う事を見ようとするのは偏見の元にしかならんと思うのですよね。が抜けてますよ。ココ大事な意味あるんですけどね。

そもそも、嘘がどうこうの話で、この部分の話をあてはめること自体、過ちですね。


悪気は無いのですが、何か批判的な回答になってしまい、すいません。

投稿日時 - 2009-01-21 02:45:16

補足

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 批判は 歓迎なのですが その主旨が どうも飲み込めません。
 ☆ (No.3お礼欄) 作業仮説
 ☆ という点について むしろ maimaisusさんのほうが 飲み込めておられない。こう捉えて 以下に 説明します。

 ● ヰキぺディア:《性善説》〔=α とする〕
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%96%84%E8%AA%AC
 ☆ これを出汁に使います。
 まづ
 ▲ 「性」とは、人の本性やものの本質のこと。字書的にいえば、「性」という字は生まれながらの心という意味である。
 ☆ だそうですから ここでの《自然本性》にあたります。これが 人間の《存在》にそなわると言い また この存在が善であるという仮説ですから ほとんど 同じであるようです。
 ただし 《悪 ないし その起源》については 分かれるようです。

 ちなみに その前に 性悪説 あるいは 《「性無記説」(性には善も悪もないとする告子の学説)や「性が善である人もいるが、悪である人もいる」とする説、「人の中で善悪が入り交じっているのだ」とする諸説》(α)もあるわけです。要は どの仮説にせよ それによって 人間ないし社会のありようをよく説明し得たかが 問題です。

 もうひとつ ちなみに いくら性善説と言っても
 ▲ 孟子も朱子も、人の「性」は善であっても放っておけば悪を行うようになってしまうため、「聖人の教え」や「礼」などによることが必要であると説いている。
 ☆ とも知られます。この点は 《悪》の定義によって すなわち 次に取り上げる 悪の起源にかんする仮説内容によって 違ってくるようです。

 さて 悪の起こりについてです。
 ▲ (α) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 孟子は以下のように説明する。
 悪は人の外に存在するものであるが、天が人に与えたもの、すなわち「性」には「耳目の官」(官とは働き・機能を意味する)と「心の官」が有り、外からの影響を「耳目の官」が受けることにより、「心の官」に宿る善の兆しが曇らされるのだ、と。
 すなわち善は人に内在する天の理法であり、悪は外在する環境にあると説いた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これに対して この質問趣旨では 次のように言っています。
 1. 善であると想定される存在が備える自然本性 その行為能力である内のひとつの《自由意志》 これによって 思惟や行為としての善と悪が起こる。
 2. すなわち われらが意志は 悲しいかな 喜ばしいかな みづからの存在に内在するおのれの心に 従うのも 従わないのも 自由と来ている。
 3. おのれの心に従う場合――それは 基本的に 存在の愛(維持向上)である――が 善であり 従わない場合が 悪である。
 4. これは とりもなおさず 悪とは その内容が 存在の愛に反することである。
 5. 意志が おのれの心に従わないというのは 心を 曲げるということである。
 6. 人間の意志は 悲しいかな 喜ばしいかな 心に へそ曲がりを持つ自由を持っている。それは 自由意志である。
 7. すなわち 善はもとより 悪も 存在の内から 自由意志によって 起こる。
 8. ただし それは 善のへそ曲がりであって 本性は 善が 基礎となっている。そうでなければ 《へそを曲げることすら 出来ない》。
 9. つまりは 《悪》というものが どこかに 存在していて それが 現象としても 現われるというものではない。
 10. たとえば 善なる心が 悪にさそわれるというとき その悪は すでに歴史事実として継承してきた現実に見られるものを言っている。
 11. それを取り上げるならば 孟子の言うように 《悪は外在する環境にある》と言えるかも知れない。
 12. ただし おそらくは その起源は そうではなく 内在する自由意志のへそ曲がりにある。
 13. すなわち 《存在は善である》と言っても それは 想定であり しかも 悲しいかな 喜ばしいかな 相対的な善なのである。有限であり 可変的である。ゆえに あたかも光のごとく 曲がり得る。
 14. 自然本性の持つ知性・理性は あたかも 光のごとくであるが いかんせん それは 経験事物としての太陽であるに過ぎない。朽ちるべき光である。
 15. しかも 存在とその自由意志は 曲がりなりにも 善である。悪でもなければ 善と悪との混在でもなく 存在するのは 相対的な善のみである。
 16. この善がなければ 悪は存在しない。

 以上のような仮説です。さらにご批判をどうぞ。

投稿日時 - 2009-01-21 10:12:20

ショウクロス(聖書根本主義者のウイルス学者)は言い放った。
「今度は、罪人は誰も逃れられない!誰一人としてもだ!!」
女(娼婦)はショウクロスの手をどけた。
「あんたの神とあたしの神は、共通点はあまりないようね」
「おまえの神だと!!」ショウクロスは吐き捨てるように言った。
「それって、あたしには神をもつ資格がないってこと?
そりゃ失礼。国連憲章のどっかに書いてあると思ったけどな。
誰もがその人自身の神とともに生まれるけど、
生きていくうちに神を捨てたりなくしたりしたら、
ただでは取替えがきかない、みたいなことが」
「さて、罰当たりなのはだれだね?」
女は肩をすくめた。
「まあ、あたしの神はまだ機能しているけど、あんたのはちょっと災害っぽい感じ。
あたしのは世界の全ての問題を取り除いてはくれないけど、
少なくとも逆の極端に走って事態を悪化させたりはしない。」
(グレッグ・イーガン「道徳的ウイルス学者」より。「しあわせの理由」に収録)

++++++++++++++++++++++++++++++++

私はキリスト教幼稚園に通っていました。
だから、幼い頃から「原罪」のことなどは
一応聞いておりました。

ただ、何と言うか「許しを得るために生まれてきたのか」と
反感を持ったのですよ、子供心に。
原罪理解に対する解釈論を交わす気はありませんが
無邪気な心に罪悪感を刷り込むなよ、何か、陰険だな、と。

嘘をついたら、嘘をついた相手にあやまればイイだろう
嘘をついた相手に謝ることの方が大事だろう
神が許してくれれば‘That's All Right’なのかよ、と。

難しいのは、自分に嘘をついた場合だが
神が許してくれれば、それで良くなっちゃうのかよ、と。

(まだ子供だったんで、こんなふうには語れませんでしたが。)

++++++++++++++++++++++++++++++++

グレッグ・イーガン「道徳的ウイルス学者」の続き。

(中略)

「あたしが何を考えていようとも、あんたにはどうでもいいのは分かっているけど、
それでも言うよ。あんたは今週目にしたうちで、一番悲しくて、
一番わけわかんなくなっている男だよ。
だから、あんたは特定の道徳律を生きる指針に選んだ。
それはあんたの権利で、頑張りなと言うほかない。
でも、あんたは自分のしてることに、本物の信念をまるで持っていない。
自分の選択にどうにも自信がないから、自分は正しいと自分に証明するだけのために、
他の選択をしたあらゆる人に地獄の業火を浴びせる神を必要としている。
神が願いを叶えてくれないと、自然災害をあさりまわって”罪人たちへの罪”を選びだす。
神が自分の味方だと証明したとでも思ってる?
あんたが証明したのは、自分の自信のなさだけなんだよ。」

投稿日時 - 2009-01-20 19:38:40

補足

 CUE009さん ご回答をありがとうございます。

 おおむね 賛同いただいたと理解してよろしいでしょうか。

 (あ) 次のように 《自然本性を曲げる悪》は 《うそ》に発すると考えてよろしいでしょうか。
 ☆ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (4) 己れの心をいつわって うそをついたとき それは 存在に内在するはじめの何か――心のありかのようなもの――をゆがめたことになる。これが 悪である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (い) もしクリスチアニスムに合わせて――なぜなら 舞台は 全世界であるゆえ――考えるなら 《原罪》を取り上げないわけにはいかない。そのとき 次のように解釈することに 違和感はありましょうか。
 ☆ (No.2補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 キリスト・イエスの出現・・・の後の《原罪》は いわば痣やほくろや蒙古斑のような母斑にすぎないと理解します。ただし まだまだ その後遺症は 大きいとも言わなければならないようではあります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 (う) No.7のプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神に関して 引用した箇所では 核心に触れ得なかったと気づいたところが さらに あります。掲げます。
 ▲ (大塚久雄:社会科学の方法 pp.179-180) ~~~~
 ピュウリタニズムが資本主義の精神の生誕にあずかって力があったというのは ・・・一見逆説的です・・・。
 単なる貪欲からおこなわれる 他人の損失も不幸も考えていないような金儲け・・・こうした営利欲をピュウリタニズムはみごとに否定してしまった。その結果として 生産力を高め 民衆の生活を豊かにするような 自己の倫理的要求と一致するようなタイプの営利が生まれてくることになった。・・・
 この資本主義経済が成長し その営利主義が前面に出てくると しだいにピュウリタニズムの精神から離れることになる・・・。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち はじめは 《隣人愛》の実践から出発したとも言います。
 わたしたち日本人も 《道徳的ウイルス学者ショウクロスと そして 女との討論》に割って入るくらいに 仮構としてでしょうが 理論を持って 世界に生きることも 必要なのではないでしょうか。

 原罪〔という概念のあること〕は 困ったもののようですね。

投稿日時 - 2009-01-20 21:17:26

ANo.7

こんにちは、brageloneさん。

ちょい、休みがとれたんでおじゃまします。

うーん、ここのところ人と話していてどうもわからんのですよ。

話の何がわからんのかといえば、個々人が発する「ファンド」ということば。

猫も杓子口を揃えたかのように「ファンドはハゲタカだから」と

確信したかのようにいいます。

「ファンドの意向がそうだから」と。

その話を黙ってきけばきくほど???ハテナが飛びます。

誰一人ファンドの者と直接言葉を交わしたこともないなかで

なぜにファンドの意向がわかるのかが正直疑問。

で、きいてみました。「ほんとうにそうなの?」と。

すると、「ファンドとはそういうものよ」と、言葉が返ってきました。

で、またきいてみました。「そういうものって?」

こんどは少々あきれたような顔で言葉が返ってきました。

「安く買い叩いて買い取ったら数年したらまたどっかに売っ払う、

高く買い取ってくれるならあとは野となれ山となれとばかりが常。

ファンドは利のことしか考えてないよ。それが、ファンドの仕事。

買い取られた会社の自分たち社員やら会社の行く末など考えるわけがない」と。

こう応える人の言葉の端々にファンドへの期待のなさを感じました。



どうして、見たことも会ったことも話したこともない

相手の意向というものがわかるんだろう?

人が口を揃えたかのように言い放つことばが

いつのまにかに虚像をうみだし実体と化す。

似て非なるものもあるというのに…

【企業再生ファンドとは】
http://www.h7.dion.ne.jp/~shindan/saiseifund.html

投稿日時 - 2009-01-20 16:57:16

補足

 littlekissさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。《 vulture fund 》とか言うのでしょう?一部分か二部分か知りませんが そういう金儲けのための投機資金が《活躍》しているのも 実際なんでしょうね。
 むろん そうでない企業育成のための基金があります。参照サイトは 自治体や地方銀行が主体となった基金のようですね。

 ちょうど こういう一節を いま 読んでいたところでした。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ピュウリタニズムの徹底的な現世拒否の態度・・・それは・・・何よりも ピュウリタンたちが現世を完全に拒否したがゆえに かえって それを楽観的に肯定した儒教とは比べものにならぬ程の強さで現世に働きかけ それを根本的に変革してしまうという たいへんな精神的エネルギーを生み出す そうした逆説的な結果を歴史の上にのこした・・・。

 神の栄光を増すために この現世を神の国に近づけようと努力する。これは信徒たちの最大の義務であるばかりでなく またそういう現世をよくしようという仕事をおしすすめる行為そのものが 自分自身が神によって救われていることの証しとなるというわけです。
 こうして 永遠の時の流れからみれば ほんのわづかの やがては終わるべき旅路である現世の生活に ひじょうないきおいで精神的エネルギーが注ぎ込まれることになる。・・・
 (大塚久雄:社会科学の方法――ヱ゛ーバーとマルクス―― 1966)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まだまだ このような勢いが アングロサクソン系などには じゅうぶん 残っているのでしょうか。

 もっとも そもそも 投機的な行動というのは どのスーパーで買えば 安くつくかというそのような利益機会をねらっての行為と同じだとも 言われますけれど。
 あるいはまた わたしは 資本主義でも 勤勉キャピタリスムと ガリ勉キャピタリスムとに分かれるのではないかとも考えたことがあります。勤勉じたいが 目的となったなら ガリ勉になると。
 あるいはそもそも 資本主義経済は 見込み生産で 販売をしていくわけですから 需要が減って 売れずに 在庫投資がたまると 生産も落ち 景気の上げ下げやその循環が 避けられないと言います。今回の不況も ただ その波が大きかっただけだとも一部で 言います。
 ただし もはや 人口の増加も 先進国では止まり いわゆる後進国地域も 経済成長への離陸が始まったとするなら どこまでも 成長一筋の発展というわけにも行かず 一定の転換期を迎えているということになるのではないかと思えて来ています。これからは 中身を充実させていくという行き方なのでしょうね。
 《最先端を行くハゲタカ・ファンド》の投機的な資金運用によって 景気が引っ張られて来た部分もあるとかで ますます 中身の充実という路線が 現実になってくるのではないでしょうか。

 悪は 存在しない。どこに絡ませたらよいか。ううーん。

投稿日時 - 2009-01-20 19:34:34

お礼

 補います。
 
 《雇用》の問題で ひとつの情報を得ました。
 《民間企業でもない 政府セクターでもない 中間組織》が イギリスで現われたそうです。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 英国の《社会的企業( social enterprise )》は 一般の民間企業と異なり 利益は追求するがそれを株主ではなく地域社会に還元することを目的に設立された企業体である。
 寄付や補助金に頼らずに事業活動で安定的な資金を集める。一方 特定の社会問題解決を目的に出資した投資家は 企業から元本だけを返済され 配当の代わりに社会貢献したという満足感を得る。利益が出れば 事業の改善や拡張に使われる。
 英国では バスの運行やリサイクル 地域再生 学校の課外活動の運営 家具や装飾品製造など多岐にわたる事業が行なわれ 長期失業者や障害者などに座学や現場訓練を実施し 自ら雇用したり 他社へ就職あっせんし 《教育訓練つき社会的企業》として自立支援を行なったりしている。
 民間企業に比べ給与が低いわけではなく 経営能力にたけた人も多く 労働者の意欲が高い分 一般の民間企業よりも生産性は高いという。
 英国政府の調査では 社会的企業は 06年には従業員を雇っている全企業の5%にのぼり 働く人は05年に78万人に拡大した。
 (樋口美雄:均等待遇強化こそ本筋――日経《経済教室:雇用・・・非正規の論点 上》1月20日)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《従来 日本企業は 所得や生きがいを社員に保障し 人づくりを進める役割を果たしてきた。だが グローバル競争が激化する中 その機能が弱体化した》うんぬんと つづきます。
 覚書ほどですが。

投稿日時 - 2009-01-20 21:34:25

ANo.6

 あぁヨガの種類で、もう一つありました。
 ハタ、もしくはハサです。最初、私はこれからはじめました何もわかりませんでしたが。50年も前、十数年やりましたが、結局今のラージャになりました。
 ハタは、いわゆるストレッチや美容、健康にも応用されたりはしていますが。これは体操ですね。

 でも本来のハタ・ヨガは理論の認識が不可欠とされます。
 ハタの理論なくして、ハタをしても、それはちょいとした体操やマッサージよりすごいですがね。
 理論をしっかりそのときに適用すると、意識や生命性、それを超えたものが齎されます。確かに病気など治癒はしますが、それが目的ではありません。
 普通、こういうのだけがヨガだと思っていますね、多くの人は。
 どの分野のヨガも、一応こういうのをやりますがね。
 理論もありますよ。宇宙論、身体論、意識論とね。
 オーム真理教って、何なのでしょうね。
 最初にそういうのに走ってしまうと、それはそれなりにあるものがあるから、夢中にさせられるのですね。
 人間の動機や契機は大事ですね。それは人間の姿勢の問題、何に自分を置くかの問題ですよね。

投稿日時 - 2009-01-20 11:34:31

お礼

 なるほど ヨーガの場合には
 ★ 理論
 ☆ も つねに ついているのですね。それは どうなんでしょう 座禅との違いなんでしょうか。

 ★ 意識
 ☆ これは 意識された現実 という意味で むしろわたしは 現実として捉えて来たように思います。むしろ 他者や外側であるという感じが 強いですね。すなわち その他者や外側のこととの関係が つねに あるわけですから その側面では やはり つねに 《わたし》が 参画しているということは 実際なのです。

 ちょっと 質問者として 質問との関係を どのように つけていくか 分からなくなってまいりましたが――つまり この禅定と言うのでしょうか その実践については からっきし 知らないということですが―― そうですね 特別に 深追いすることはしないと 一応 決めることにしました。ですから 逆に そちらから この質問に こういうかかわりがあるのだよということでしたら どしどし ご回答を寄せていただければと思います。
 ★ オーム
 ☆ については けっきょく こう考えたことがあります。一人だけに完全な自由が与えられる。しかも そのグルの命令は絶対だと決める。この条件のもとに 参加者は 自由を たのしむ。ただ それだけだ。というものです。
 ヨーガに似たことも やっていたのでしょう? 果たして どうなんでしょうか。例のチベット仏教から採ったというポアの論理は いただけないですね。

投稿日時 - 2009-01-20 13:51:47

ANo.5

 ヨガということばもいろんなことに使われ居ますね。
 何も私たちのを専売特許と主張などしませんが。
 
 バクティ(信仰)、カルマ(行為・勤行)、ジャニューナヤ(叡智)、そしてラージャ(総合━根本的ですから総合になります)とあります。
 それぞれオーヴァー・ラップする部分があります。截然と区切ることはできません。ヨガの語義は自身の本性を再度奪回するといういみであります。その方法であり、目的であるわけです。そういう状態です。

 ★ 禅・座禅 (あるいは ヨーガでしょうか)
 私たちの理論の中でで、ラージャのヨガだな、と思っていてもいいけれど、その道の方はそういう名称では括れないと、思っておられるはずですので、勝手にそうなんだなどとは失礼です。

 ☆ については 分からないわけですが 心身ともに また 脳の活動をも合わせて 調(ととの)えるのでしょうか。
 そういう説明もいえるでしょう。でもこの説明でイメージをつかめないと存じます。イメージしても内容にはなりえないでしょう。

 ☆ちなみに 愚問と言いますか 素人の質問ですが 座禅やヨーガのときには 脳ははたらいていないのですか? はたらかせないのですか? 休めるということは 放っておくのでしょうか?
 意識というのを、意識してないはずですよ、どなたも。経験や知覚、意識のしたそういう行為の結果だけを認知しているのでしょう、みなさんは。
 意識自体を分析し、把握し、コントロールして、それを創造界から引き上げ、本来に差し向ける修行です。

 ☆そのとき 悪についてどうこうといった意識は むろん ないのですね。悩みだとかの意識は なくすのでしょうか。自然にあるがままに放っておくのでしょうか。
 そういう説明になると存じます。でもそれで、万感の納得するには行の経験が必要です。

投稿日時 - 2009-01-20 11:22:46

補足

 krya1998さん ご回答ご教授をありがとうございます。

 そうですね。もしわたしが――ヨーガは 体を動かすでしょうから いまこれを措いて―― 座禅をするとすれば どのようになるだろうかと考えてみました。
 まったく指導もなしに 坐ってみるということです。思ったことは たぶん わたしが 毎日 一日を終えて 床に入って 眠りにおちいるまでの間に いくらか 脳のうごきを意識するあいだがありますが この場合のことでした。
 その一日にあった出来事で まだ 済みになっていないことや それまでにも長いあいだ 関心をもって考えてきたことや 実際に相手がいて その関係においても 課題がつづいて来ていることなど これらの事柄が 思い浮かんでくるのですが そのあと どうか。
 あるとすれば 自分の言ったこと行なったことについて 反芻するように考えなおすということも する場合があります。相手がある事例については 意識の動きが落ち着かない場合さえあります。
 一件落着するものもありますし あとは 保留として 落ち着くこともあるわけです。
 こうして いわば元の白紙の状態に こころは 戻ります。そして 寝入るのでしょう。

 考えてみると 
 ☆☆ 心身ともに また 脳の活動をも合わせて 調(ととの)える
 ☆ というのは わたしの場合 以上のようなことだけのようです。それ以上の《ととのえ》は 座禅としては しないと思います。あとは 同じく 眠るのではないかと思います。

 まぁ こういうなまぐさなことを あらためて 確認してどうするんだ?ということになってしまいましたが 愚問でしたね。
 ★ 意識自体を分析し、把握し、コントロールして、それを創造界から引き上げ、本来に差し向ける修行です。
 ☆ たぶん こうおしえられるとき この
 ★ 意識自体の分析
 ☆ これを わたしは やらない と言いますか やりたくないと言うのでしょうか これについて 分からなさを 逆に 深くするという結果になってしまいました。
 ○ わたしは いま 意識としてある。意識が 意識じたいを 意識している。
 ☆ というような中身を 予想して いいのでしょうか。とにかく 白紙なのだから――つまり つねに 消されてしまう黒板なのだから―― その意識について意識するということは しないと わたしは 思ってきました。この点は 入門以前のわたしにとっての疑問といったことになるのでしょうか。

 善という元のふつうの状態―→その善の減少・損傷―→その悪の状態を 元に戻す こういうふうな行為とその修復過程について ヨーガや座禅は どうなのかなと思ったものですから お聞きしてみました。何とも頼りない生徒で すみませんでした。
 もう一件 ご回答をいただいています。

投稿日時 - 2009-01-20 13:06:03

ANo.4

 brageloneさん、相変わらずご懇切なお教えをありがとう御座います。
 親鸞と道元は無論共通を探すことはおかしなことですが、
http://okwave.jp/qa4638088.htmlでの回答番号:No.1さんのお話は、私たちの行でもとても参考になりました。
 質問者さんはどう対応できるでしょうね。
 そういうことの言える座りをするのでしょうし、これこそプロセスだし結果ですものね。
 私たちの行でも同じ、類似です。このことばで座ることは最高ですね。
 究極である。その先はない。これなんです。
 創造は歪曲、下降である。
 しかし創造者は下降の経験をして、また、一定の行をした。
 それにより、自己の意識になっている。
 宇宙と世界はもう完遂しているのだ。
 私達は、それをしていけばいいだけだ。
 根本はもう為されている。なのです。
 まぁその際に創造者が使った行を、私達は未熟ですから、何度か繰り返し行っているわけです。
 そんな一度なんかで自分の意識には戻れやしませんね。
 ども実体は戻っているのだよ、というのが教えなんですけれども。
 悪はもう、存在しない。だからそこには居ることはないよ。
 戻りなさいってね。
 

投稿日時 - 2009-01-20 09:34:54

お礼

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 そうですか。こんなに すんなりと わたくしの理解が 通じたとは 少し 意外でした。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 創造は歪曲、下降である。
 しかし創造者は下降の経験をして、また、一定の行をした。
 それにより、自己の意識になっている。
 宇宙と世界はもう完遂しているのだ。
 私達は、それをしていけばいいだけだ。
 根本はもう為されている。なのです。
 ・・・
 悪はもう、存在しない。だからそこには居ることはないよ。
 戻りなさいってね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これだけ ぴったり合っているとは 少し(正直に申せば 少し ということになります) 意外でした。
 ★ 禅・座禅 (あるいは ヨーガでしょうか)
 ☆ については 分からないわけですが 心身ともに また 脳の活動をも合わせて 調(ととの)えるのでしょうか。
 ちなみに 愚問と言いますか 素人の質問ですが 座禅やヨーガのときには 脳ははたらいていないのですか? はたらかせないのですか? 休めるということは 放っておくのでしょうか?
 よろしかったら おおしえください。そのとき 悪についてどうこうといった意識は むろん ないのですね。悩みだとかの意識は なくすのでしょうか。自然にあるがままに放っておくのでしょうか。

投稿日時 - 2009-01-20 10:40:29

ANo.3

ども。maimai.susです。

brageloneさん存在の話しするに何時も思うのですが・・・・・。

 ○酒類(存在)の中にワイン・日本酒・ウイスキー・ウォッカなどがあるのに、酒類はワインだけもしくは酒類はワインから出来ている。見たいな感じに受け取れるのですが、解釈が全然ちがうのでしょうか?

そもそも存在の話を根本的にしようとすると、物理的な思考が絡んで来るので、善悪で存在どうこう言うのは無理があると思うのです。
むしろ善悪は、抜きで考える方がより正しい思考だと思います。
だって人間目の前にいる人間に対して、この人間は何の為にここにいるのか、何を考えているのか、どうゆう能力があるのか、そういった事を考えるのは、必要を感じるけど、善か悪かと言う事を見ようとするのは偏見の元にしかならんと思うのですよね。

そもそも、
○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。
が間違ってると思うですが。

投稿日時 - 2009-01-19 22:37:16

補足

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。いつも ご投稿をありがとうございます。

 そうですね。わざわざ 善を持ち出すこと そして 存在を善だと規定して話を始めること このような想定には ひょっとしたら 必然性は ないかも知れません。おっしゃるとおり 別の思考体系の道があるかも知れません。
 ですが 哲学思想については 作業仮説を提出して その想定から始めることは じゅうぶん 考えられます。というよりも つねに そうであるとも言えます。
 どうしても いまの想定がまずいということでしたら もう少し その不都合について 批判を展開していただけないでしょうか。ただ 無理があると言われているようなのです。

 それというのも 今回は
 ○ うそ
 ☆ を題材にして と言いますか 典型例として 考え進めています。かんたんな定義から始めています。 
 ○ うそをついたとすれば そこには つねに 《うそではない何か》の存在が 前提されています。
 ☆ この《うそではない と心で捉えている何か》 それは 《存在》から来るという想定です。ですから
 ★ 人間目の前にいる人間に対して、この人間は何の為にここにいるのか、何を考えているのか、どうゆう能力があるのか、そういった事を考える
 ☆ のではありません。うそなら嘘 そういう表現行為を扱っているのみです。人間について その存在は 善であると規定し そこから繰り出される表現行為(そして そのための内的な思惟も 含みますが)については 善に即した内容としての善か または その善を減らすような内容としての悪かに分けるというものです。

 しかも 善の欠損としての悪は 存在しないという仮説になります。
 存在するのは 《善が減った ゆえに 善を元に戻す》という事態だけであるという見方です。
 ★☆ 酒類が 存在のことだと喩えるのなら その種類のすべてが 存在であり 善です。
 ☆ ところが そこに 水を わけもなく 増したとか ほかの原料を混ぜたとかになれば それは 善を減らすことになります。減った分が 悪とよぶものです。この悪は 修復することが 要請されます。
 ということは 《善が減った。元に戻した》という中身があるだけですから 悪という言葉で呼ぶことはあっても 実際には 悪は 存在していない。ということになりませんか? どうでしょう。

投稿日時 - 2009-01-19 23:03:01

ANo.2

 brageloneさん
 悪は 存在しない、というテーマの問題につい幼稚で、初歩的なことですがて少し、コメントをいただけるとありがたいのですが。

 1. 原罪は悪で、それは本来存在するべからざるもの、という意味もふくんでいますか? そしてエデンの原状況、つまり原罪以前は善であり、これこそが存在たるべきものであるという意味なのでしょうか?

 2. 人間の、自己の不完全性、しょうがなさ(これを悪とし、これ)に対する負い目の心理も悪であり、存在すべからざるものである。
 だから、これに心理的に端をおいての人間の向上心も意味がないのだ、という意味にいきますでしょうか?

投稿日時 - 2009-01-19 17:57:08

補足

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 原罪
 ☆ は 今では 過去のものとなりました。そう理解しています。
 ▲ (旧約・エレミヤ書1:34) ~~~~~~~~~~~~~
 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とすでに 預言されています。《そのとき》とは キリスト・イエスの出現のときです。
 その後の《原罪》は いわば痣やほくろや蒙古斑のような母斑にすぎないと理解します。ただし まだまだ その後遺症は 大きいとも言わなければならないようではあります。
 イエスは 《第二のアダム》とも言われるごとく 第一のアダムが陥った自由意志のゆがみ つまり 原罪としての悪 これを 埋め合わせ 元に戻したということだと理解します。
 第一のアダムやエワの はじめの存在の状態よりも さらに善い状態に引き上げられたとも言われます。
 それは いまも――時間的な情況の中に生きていることから来る無知によって 自由意志は まちがった判断を下すことがありますから―― 元の自然本性としての善から 離れて脇道に逸れることがあります。それでも こういうときにも その悪(ないし 自己欺瞞としての罪)から あわれみによって 覆い包んでくれる聖霊を与えられているとも言われるからです。アダムやエワがエデンの園を追われたようには 新たなエデンの園を追われることはないと考えられるからです。

 これを要するに ひとは なお つねに まちがいを侵します。その悪が 善の減少であれば その減少した分を埋め合わす作業が 始まります。
 問題は この傷ついた善の部分の修復作業が 人間の能力と努力だけでは 成らないと考えられるところにあると理解します。人間は 弱いわけです。つねに あやまつという点で 弱く これをつぐない得るかという点でも 弱い。しかも 誇るなら この弱さを誇ろうと言われているのですから 
 ★ 人間の、自己の不完全性、しょうがなさ(これを悪とし、これ)に対する負い目の心理も悪であり、
 ☆ というときにも 最終の判断は おのれのはからいには拠らずというところに こたえがあるように 理解しています。
 したがって 逆に あたかも原罪の後遺症に悩まされる現代のわたしたちにとっては すでに 何ものかによって 完全につぐなわれたという大前提に立って あとは みづからの力であゆむということになるかと思います。
 ★ だから、これに心理的に端をおいての人間の向上心も意味がないのだ、という意味にいきますでしょうか?
 ☆ に対しては したがって いいえだと思います。《最終の判断 あるいは 最終のすくいに関しては すべて ゆだねた。そのあとは みづからの向上心によって 努力する》 こういう方式になるかと考えています。

 たぶん いわゆるキリスト教の教義からは 批判が出ると思います。それをも待っているのですが 現在のわたしのはだかの心を述べました。大いに みなさんからも おしえていただければと思います。

投稿日時 - 2009-01-19 21:59:46

ANo.1

かんたんに言いますが
善を存在させたいがために
相対的な対象としての悪が必要だった。と仮定します。
善という観念は、悪を悪として定義させてはじめて
善という観念の存在と、その有効性を持ちえるからです。

たとえるなら
タリバーンという「悪」を定義することで
敵対する米国の「善」を可視化するということです。
悪の存在が対照的になければ
善は、その有効性を一気に失います。

投稿日時 - 2009-01-19 14:54:44

お礼

 htx2005さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 善なり悪なりについての定義が どうも 互いに ちがうでしょうか。それとも 解釈の仕方によっては 同じような箇所もあるでしょうか。つまり
 ★ 善を存在させたいがために / 相対的な対象としての悪が必要だった。と仮定します。
 ☆ この
 ★ 相対的な対象としての悪
 ☆ というとき 《善に対立するものとしての / あるいは 善の欠損としての悪》ということでしたら 同じ定義になると思います。すなわち
 (1) 善は そもそも すでに 存在するものについて言っており わざわざ その存在を 善という必要はない。
 (2) けれども どういうわけか――たぶん ひとには おのれの意志によって 自由に思惟や行為を選択する能力があって―― 時には 思わぬ内容のことをえらんでしまうことがある。
 (3) つまりたとえば うそをつくことは 本意ではないというときです。
 (4) 己れの心をいつわって うそをついたとき それは 存在に内在するはじめの何か――心のありかのようなもの――をゆがめたことになる。これが 悪である。
 (5) このような悪の発生に際して 元の存在とその自然本性が 《悪の無い》状態としての善として 規定される。
 (6) 逆に言いかえると 悪は 善の無い状態であり 善の欠損である。
 ☆ どうでしょうか。

 ★ たとえるなら / タリバーンという「悪」を定義することで / 敵対する米国の「善」を可視化するということです。
 ☆ これは どうでしょうか。ターリバンについて かんたんに 《善の欠如》の状態にあると断定しうるでしょうか。
 《敵対する双方》について 一方が 悪であり 他方が 善であると 言い切ってよいでしょうか。
 これについては きちんとすべての情報を把握した上でないと なんとも言えないように思うのですが どうでしょう。

 解釈によって 賛同のご回答をいただいたとも思っています。まづは ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-01-19 15:49:04

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