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解決済みの質問

究極の悪とは――存在について――

 《Q:悪は 存在しない》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html を承けて あたかもその一見 例外であるような形態を この質問で 取り上げます。
 ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。
 ○ じつは 神学には 悪の究極の形態について 理論がつくられています。その実在性を問います。

 悪は こころのへそ曲がりに発します。うそ のことです。
 ウソと言う限りで ウソでない心のありか または あり方があるはづです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりであり それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。
 つまり 悪は 悪というものが なにか・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ 現われると考えます。自然本性と言うべき心としての善が減ること・また善を減らすこと これを 悪と呼び 善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。

 さすれば 悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。

 これは 単純な例として 身体の抹殺(つまり 殺すことですね) あるいは 精神的に 無視し無関心となること(あるいはつまり 虫けらとして ひとを扱うこと)を挙げることができます。
 言いかえると 悪の究極とは 身体にとっても精神にとっても 死のことです。存在の消滅のことです。
 ところが 《悪は 存在しない》という基礎命題は この究極の悪としての《死》が死ぬということを 内包しています。善が欠けただけなのですから 埋め合わすことができるという主張です。減った分を 増やせばよいとなります。すっからかんとなって なくなっても まだなお 善を回復すればよいという考え方です。

 ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。初めの死が 第一の死だとすれば その死が死ななくなるということは 死の確定・固定を意味するようです。つまり 善の欠如のままであるという意味です。
 これが 《第二の死》と呼ばれる《とどのつまりの悪》だという説明です。俗に言う《生けるしかばね》でしょうか。
 果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。ぜひ ご教授ください。

 * わたしの感触としましては いまのところ このように《第二の死》としての悪が 想像上で考えられているというその理論を知れば 初めの善なる存在ないし《わたし》に戻ることができる。というふうに捉えるなら それだけで じゅうぶんなのかも知れないという捉え方です。果たして どうでしょう。お知恵を拝借します。

投稿日時 - 2009-02-11 16:38:04

QNo.4708484

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

オコリザルです。
前に反物質おばけってのを話した憶えがありますが、このおばけは反物質についての論理武装をした特異な知性でした。
私は無学なのでその手の知識はありません。要するに経験に無い自らが生み出したものでない魔物でした。
このおばけは光、神、存在、あらゆる面で人知に想像しうる正反対の性質を備えた知性です。地球上の生命に想像しうる第二の死を、いわば転生の目標とした困った存在です。
お相手はメチャンコ悪魔君が担当しました。
このおばけには言葉がありません。
マナ識の、要するに私自身の声の、代理として、メチャンコ悪魔君がその知性を解きほぐし復活蘇生させました。
神様がいずこからか連行してきた縁の無いおばけでしたが、私の脳と体はこのおばけに反応しましたので生命に内包しうる知性でもありました。このときの脳の反応が、(エヴァンゲリオンみたいに)知性の暴走により無意識が浮き彫りになる状態です。
人間の手で克服することが人間の普遍性を記憶する上で重要であったと推測します。
primeapeなんて気取っていますが実際は神様のモルモットです。
第二の死の究極の姿さえも救いえます。
ですから勝負は全て買って下さい。

無意識の話ですが個を超えて連携している無意識は地上で起きている事象で理解できないことは何も無い状態にする目標でしょう。
理解の行き届かない影が闇の子です。

投稿日時 - 2009-02-14 23:31:40

補足

 ほおうっ primeapeさんの武勇談デンデンですね。まづは ご回答をありがとうございます。

 ううん。そうですか。そうなんですか。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 第二の死の究極の姿さえも救いえます。
 ですから勝負は全て買って下さい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 要するに 悪魔と対決して勝ったということですよね。

 ▲ (コリント前書15:26) 最後の敵として、死が滅ぼされます。
 ☆ というたたかいに近いのでしょうね。あるいは
 ▲ (ルカ福音20:42-43) ~~~~~~~~~~~~~~
 イエスは・・・言われた。
  ――ダビデ自身が詩編の中で言っている。

     『主(* 父)は、わたしの主(* 独り子)にお告げになった。
       「わたしの右の座に着きなさい。
        わたしがあなたの敵を
        あなたの足台とするときまで」
      と。』 (詩編110:2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかに 単純化して 《わたしたちの敵は わたしたちの足台にされた》と言うべきでしょうね。《なぜ すくわれているのに すくわれていると言わないのか》。

 次の文章は パウロの思想に似せて書かれたと学問的に考えられているものです。たたかいの一端がうかがえるかと思います。
 ▲ (伝パウロ:エペソ書6:10-18) ~~~~~~~~~~~
 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。
 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 十字軍を連想されるなら まづいのですが。
 《メチャンコ悪魔君》の武勇伝とくらべて どうですか。(比較のための問題では むろん ありません)。

 ★ 前に反物質おばけってのを話した憶えがありますが、このおばけは反物質についての論理武装をした特異な知性でした。
 ★ このおばけは光、神、存在、あらゆる面で人知に想像しうる正反対の性質を備えた知性です。地球上の生命に想像しうる第二の死を、いわば転生の目標とした困った存在です。
 ☆ 悪魔メフィストーフェレスは ファウストに向かって 次のように自己紹介したそうです。
 ▲ (ゲーテ:ファウスト) ~~~~~~~~~~~~~~~
  ――私は常に否定する精神です。      (1338行)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 再掲載しておきましょう。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 マナ識の、要するに私自身の声の、代理として、メチャンコ悪魔君がその知性を解きほぐし復活蘇生させました。
 神様がいずこからか連行してきた縁の無いおばけでしたが、私の脳と体はこのおばけに反応しましたので生命に内包しうる知性でもありました。このときの脳の反応が、(エヴァンゲリオンみたいに)知性の暴走により無意識が浮き彫りになる状態です。
 人間の手で克服することが人間の普遍性を記憶する上で重要であったと推測します。
 primeapeなんて気取っていますが実際は神様のモルモットです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-02-15 06:23:43

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回答(55)

ANo.55

maimaisusです。

>あなたの日本語が分かる人がいたら 逆立ちしましょう。

アハッ、その点に関しては、今更って気もしますが、悪意はないことだけは、解ってくださいね。

私は、お力になれませんでしたが、これからもがんばってください。

あ、これ含みないですよ、そのままですから。

ではでは。

投稿日時 - 2009-02-21 19:05:18

ANo.54

maimaisusです。

☆ であるか はっきりと きちんと 精確に 明らかにしなさい。

この話は、質問 あなたは救われていますか。でbrageloneさんが理解できないということで、話が終わっています。
なので、brageloneさんに対しては、きちんと 精確に 明らかにはならないと思います。
確かに私は古臭く、片寄のある、考えかたとは言いましたが、全てが間違いだとは、言っていませんよ。


ま、それでも、brageloneさんが、自分の考えを進めていき、何かを気がつけば、良いと思い、brageloneさんの、理論に合わせ、回答させて頂いた訳です。

それと、

>☆ どこが 《なので》なのですか? ひとに《非がある》というときには どこの何が なぜ そうなのかを明らかにして 伝えるものです。

これは、

> ○ 質問の答えは まだ 出ていません。ただし その趣旨には 賛同します。しかも その趣旨説明は まだまだ 一般に 理解されていないところがあるように思う。たとえば これこれの点だ。どうでしょう。

に対し、

なんてことは、全然、思いもしていないので、あたかも、私がそう考えているような、造り、変な思い込みは止めてくださいね。

と言う、事柄で伝えてますよ。

あとですね、

>☆ 哲学の理論に 《妥協》はありません。応用に際して 人間の状態・境地・そのときの情況に応じます。これだけ長く同じことでも 伝えているということは 大幅の《譲歩》だと思いなさい。《理解》すべきところは して来ています。

《理解》出来ていないから、長引いているのですよ。
と言うとまた、どこの何が なぜ そうなのかを明らかにと言われそうなので、言っときますが、この文章の上下の内容が、理解できていない処です。 

それに、

 >いちど非を認めたのは うそだったのか。

このことに関しては、後の回答欄で、

>私は、自分の悪い処を、謝っただけです。

誤解を生むような、そう言う書き込みは困るんだよね。毎回思うのだけど。

と、言っているでしょ。
もう一度言います、私は、自分の悪い処を、謝っただけです。

そして、

>わが神がほほえんだ人を 無下に 締め出すわけには行きませんな。

に対して、

>誤解を生むような、そう言う書き込みは困るんだよね。

と抗議していた訳ですから。
そう言う点においては、brageloneさんの非ではないですか。

投稿日時 - 2009-02-21 14:15:46

お礼

 あなたの日本語が分かる人がいたら 逆立ちしましょう。

 ★ (No.56) sonoma52ma氏の狙いどうり、削除ですな、この質問。
 ★ (No.61) ちなみに、No.60の質問回答は、全部規約違反です。
 ★ (No.62) 〔デーモンがどのこうのとか〕 規約がどうこうは二の次ですね。

 ☆ 《Q:あなたは すくわれていますか》の最後のやり取りでのわたしの応答を 掲げておきましょう。
 ☆☆ (No.48)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 ですが どうも 堂々めぐりのようですね。
 もともと 
 ★ ただのい炉端会議
 ☆ ですから どうお応えしてよいやら 何もないのです。

 ★ 今までの回答の中に、答えはあります、そう言った質問が出ること自体が、理解といいますか、認識すらしていない証拠ではないでしょうか。
 ☆ そうなんですか。弱りましたね。もう根気が続きません。お手上げです。すみません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-02-21 16:16:00

ANo.53

maimaisusです。

あのですね、

> ○ 質問の答えは まだ 出ていません。ただし その趣旨には 賛同します。しかも その趣旨説明は まだまだ 一般に 理解されていないところがあるように思う。たとえば これこれの点だ。どうでしょう。

なんてことは、全然、思いもしていないので、あたかも、私がそう考えているような、造り、変な思い込みは止めてくださいね。

少々言い方は良くないですが、むしろ、

そんな、古臭く、片寄のある、考えかたは、これからの人間の考え方としては、より多くの人間の持つべき基準としては、相応しくない。

と思っている訳です。

しかし、そんな事をサックと、言っても、brageloneさん自身が、受け入れられないと思い、それこそ、意味がないので、今回の、質問からは、brageloneさんの理論の、矛盾点を、解決するべく、回答させて頂きましたが、どうやらそれ以前の所で問題があったようですね。


なので、伝える私の方にも非はありなすが、受け取るbrageloneさん自身も非を認めになってはいかがですか。
そう言う意味で、お互いの妥協や譲歩、理解はあって良いと思いますよ。


自分は良くて、人はだめでは、人間関係成り立ちませんしね。

投稿日時 - 2009-02-21 09:52:25

補足

 maimaisusさん ご投稿を寄せていただくことに感謝を申し上げますが そのアドワ゛イスには 中身の説明が いっさい ありませんので そのことを 繰り返し繰り返し お伝えしております。 
 今回も 同じことの繰り返しです。そこは 質問者という立ち場のつらいところ 甘んじて きちんと 述べなければなりません。

 ★ 自分は良くて、人はだめでは、人間関係成り立ちませんしね。
 ☆ そんなことまで 確認しなければ話をすることができないのですか。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そんな、古臭く、片寄のある、考えかたは、これからの人間の考え方としては、より多くの人間の持つべき基準としては、相応しくない。

 と思っている訳です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ したがって どこが
 ★ 《古臭く、片寄のある、考えかた》
 ☆ であるか はっきりと きちんと 精確に 明らかにしなさい。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかし、そんな事をサックと、言っても、brageloneさん自身が、受け入れられないと思い、それこそ、意味がないので、今回の、質問からは、brageloneさんの理論の、矛盾点を、解決するべく、回答させて頂きましたが、どうやらそれ以前の所で問題があったようですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これを 支離滅裂と言うのですよ。
 ★ なので、伝える私の方にも非はありなすが、受け取るbrageloneさん自身も非を認めになってはいかがですか。
 ☆ どこが 《なので》なのですか? ひとに《非がある》というときには どこの何が なぜ そうなのかを明らかにして 伝えるものです。何度言ったら 分かるのかい。
 ★ そう言う意味で、お互いの妥協や譲歩、理解はあって良いと思いますよ。
 ☆ 哲学の理論に 《妥協》はありません。応用に際して 人間の状態・境地・そのときの情況に応じます。これだけ長く同じことでも 伝えているということは 大幅の《譲歩》だと思いなさい。《理解》すべきところは して来ています。

 ★ 人間関係成り立ちませんしね。
 ☆ にしているのは あなたであることを知りなさい。わたしが いつ 自分が まちがっているところを まちがっていないと言って 我を張りましたか。

 いいかい maimaisusくん。こうやって 話が長引いているのは そもそも きみが 《この質問は 規約違反だよ》と言ったそのことから 再び 始まっているのだよ。話が 違ってきているではないか。そのこと一つとっても きみは 信頼関係の問題では ひとこと 触れていても おかしくない。それも出来ないで 何が 人間関係が成り立つ成り立たないがあるもんか。あるわけないであろう。いちど非を認めたのは うそだったのか。

投稿日時 - 2009-02-21 11:20:36

ANo.52

オコリザルです。
私とbrageloneさんの論議では1つ接点すらない言葉があります。
それは、嘘に対する見解です。
無意識。つまり心象に取り組んだ私にとって、そこは嘘すらも本当になる世界です。
悪ははったり。
つまり悪は嘘であるならば、その嘘がまかり通るのは心の中のみです。

投稿日時 - 2009-02-21 01:07:14

補足

 補います。一応の結論が 削除になりましたので 再掲載します。

 ▲ 《ワルプルギスの夜》――『ファウスト』――
 ☆ ここでは デーモン(悪鬼たち)が踊り出すのです。

 文体としての自己表現の過程における 性関係とその自治の問題は とうぜん 広く政治関係たる共同自治の問題と 根は同じです。人間関係としての愛一般の問題です。しかも 政治において または 政治との関係において 狂気が 発生します。

 この時この情況の中で わたしたちは 《押してるつもりで 押されてる》と気づくことがあります。みづからのあやまちも然ることながら 到るところで――《坊っちゃん》のように―― 欺かれます。とき 死にます。第一の死です。

 しかも 光の子らであるわたしたちは 暗闇の夜へとは連れていかれずに つぎの朝をむかえ 日々生きている。以前のように・いつものように 自己表現としての文体を押していく。《押してるつもりが押されてる》結果を招いて第一の死を味わったとしても この意味で おそれない。あるいは もともと かかわっていない。

 わたしたちは 到るところで このように欺かれるが 欺かれることを欲していないという自然本性〔の意志〕は無力ながら あざむかれ得ない。有効である。善は 保たれている。このささやかな生活を わたしたちは 堂々と すすめていく。

 自然本性が みづからの自由意志によって うそへ傾き うそにメッキをほどこすおのれの《神学(善悪観)》をこしらえ それが 思念や観念のデーモン(意識作用)となって 停滞する。つまり 死ぬ。

 この無効の・停滞する・死の文体が しかも 既成事実とその権力関係の上で 実効性をもって いわばデーモンからは観念の放射線(または 意識の排泄)を飛ばして 有力な政治の王国を築く。このとき かれらは 或るファウストに出会うと そのデーモンが 踊り始める。

 そこで 観念のねじ曲げによって死んだ善なる自然本性のその死が 死ぬ人と なお死なないようになる人とが いることになる。いわばわれわれおのおのの精神の政治学過程において 肉の眼でではなくこころの眼で このことを わたしたちは 直視しなければならない。(実際には 《第一の死が死なないようになったという観念や思念つまり悪魔 のとりこになる》という意味である。人じたいが 悪魔にはなれない)。

 わたしたちは デーモンの踊りも再発狂も おそれないが デーモンじたいは それとして おそれる。良心のためである。ここで良心とは わたしたちのそれではなく――なぜなら それは すでに健全である―― そうではなく かれらの良心のことである。なぜなら 注意を怠らずに 光の子らへの道を指し示してやらないと わたしたちが 責めに任じなければならない。

 無理なら無理で いいのだけれど あとに悔いを残さぬようには 心を傾けても わるくはない。ただ触媒としてあり続けるだけではあるが おそれるかぎりで 推移を見守り 新しい展開を 直視してみなければいけない。デーモンによる第一の死が 死ぬ人と 死なないようになる人とが いることを。

 わたしたちの生活! このように――だから むしろ 何もしないで――すすめていくわたしたちの生活。概念を用いるとき メッキとしての恰好をつけたアマテラス語の観念へ停滞していかないし そのように スサノヲ人間語として息づいているとき 停滞することを知らないのだが それゆえにこそ デーモンの停滞をおそれる ところのきよらかな心の自由。いまだ無力の しかも のぞみにあふれる有効な 自由。

 へそ曲がりの観念の死が 死ぬことは つまりだから デーモンがほろびることは その人にとって 有益である。その死が 死なないようになる人が わざわいである。かれらは じつは その第一の死が 死んだというように 自己の姿を見せかける。つまり 生き還っていると見せかける。自己にとって有益で有効な 精神の政治学過程が 心に あらためて 生起したと見せかける。

 《わたしの死は 死んだ。とにかく わたしは死んだ》と 正体不明の・悪魔なる観念=メフィストーフェレスのちからを借りて 或るひとつの見せかけの正体をあらわす。これが 言わずと知れた アマテラス語による人格像 もしくは 道徳規範である。・・・《ルール》とも言うようです。

投稿日時 - 2009-02-21 11:33:49

お礼

 つづいてです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 そこ(無意識)は嘘すらも本当になる世界です。
 悪ははったり。
 つまり悪は嘘であるならば、その嘘がまかり通るのは心の中のみです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも 簡単です。
 ○ うそ と言うからには ウソではないものがある。
 ○ あるいは ウソをつくなら 心に 何がしかの やましさを感じる。こういう言葉はあまり好きではありませんが 或る種の罪悪感さえ感じる場合がある。
 ○ このように 《まこと と うそ》を区別し 善と悪とに判別します。
 ☆ すなわち
 ★ 嘘すらも本当になる / 嘘がまかり通る
 ☆ というのですから
 ○ うそであることは 知っている。本人は 知っている。
 ☆ これだけで 善悪の判断には 間に合うと考えますが どうでしょう。
 うそを認めなければ 事態は 複雑になりますが 本人には 到って かんたんなことです。何の問題もなく ウソはウソ 悪は悪です。
 どうでしょう。

投稿日時 - 2009-02-21 07:47:41

ANo.51

オコリザルです。
そろそろ一区切りですね。
補足要求です。

悪は絶対であるとお考えですか。
又はそのような論理の簡単なほころびとして、悪は絶対と並びうるとお考えですか。

この補足要求には予めわたしの意見というか経験を通した見解として、
「悪ははったり」
と言うのをコメントしてあります。

投稿日時 - 2009-02-21 00:10:07

補足

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 この点は かんたんです。
 ○ 悪は 存在の生物学的および社会的な生命のとうとさという善を欠如させることです。
 ○ この善の完全な欠如は 究極の悪であり 人間にとって 第一の死です。
 ○ ちなみに 《善の完全な欠如》を ほかの人に与えるのも 自分に与えるのも 同じ悪です。ほかの人を殺すという第一の死は そのまま 殺した人間にも その時点で――《存在の関係性》において―― 当てはまります。自分にこの第一の死を与えること つまり 自殺は その時点で 同じく ほかの人にも――《関係性としての存在 つまり 愛の問題》としては―― 与えてしまいます。
 ○ 第一の死が 一般には 元の存在の善という基礎に立って 死ぬと考えられます。元の善が回復される。
 ○ 元に戻らない場合は 実際に あるかが 問い求めの中心だったわけですが もし 戻らないとすれば それは 《第一の死の確定・固定》として 論理的には もはや 《絶対》です。
 ○ つまり 《第二の死》は 論理上 絶対です。
 ○ おそらく しかしながら この場合 《絶対》と言っても 人間存在が 永遠ではないからには その思念ないし観念が 人から人へ 世代を超えて あたかも 永続するということであろう。
 ○ したがって 厳密に言えば 《絶対》ではない。第二の死 もしくは 悪魔 これは その意味でも 思念や観念であり その社会的な共同性をも帯びて 幻想である。
 ○ 悪 特にその究極の究極としての第二の死という悪(悪魔)は 人類が 世代を超えて 永続する限りで あたかも永続しており 《絶対》であるように見える。
 ☆ このように考えます。したがって
 ★ 「悪ははったり」
 ☆ にもつながります。

 ★ そろそろ一区切りですね。
 ☆ 今回の質問は 今までにない事件が起こりました。primeapeさんなら それは 想定内だと言ってくださるでしょう。
 問題は それよりも 
 ○ 《悪魔は はったり》ですが 《悪》は 具体的に 意志のへそ曲がりから始まって 現象としては 実際です。 
 ☆ この問題が 消えたわけではないことが ひとつです。
 もう一つは ローマ教会が 教義として 《悪魔》を 実在としているのではないか――それは 《エクソシスト》が まだ 《活躍》しているのではないか――という問題です。

 《意志のへそ曲がり》ないし うそ の問題で 次にも 投稿をもらっています。

投稿日時 - 2009-02-21 07:36:26

お礼

 primeapeさん 今は 21日(土曜日)の夜です。

 この質問を締めて 次の質問へ移りました。
 いくらか 中途で締めたかも知れませんが あしからず 次へ移ってくださるよう お願いします。

投稿日時 - 2009-02-21 21:23:05

ANo.50

maimaisusです。

☆ 何も《言っても》いないということに 気づくべきです。

言ってますよ。brageloneさんが理解していないだけです。
そもそも、この後の文章、

《あまえさんと おれとは 意見がちがうよ》と 言っているだけです

自体が勘違いか思い違いです。
私は、

文章の意味が正しく伝わっていない。

という事を言っているのですから。

それに、

>人と人とが 考えが違うということは むしろ 初めの前提です。だから 話し合うのです。わたしのほうは すべて 話しています。そのどこが違うのか。たしかに その箇所は 引用で掲げてありますが どう違うのか なぜ違うのか まったく 明らかにしないままに ここまで来ています。
 そういうたぐいの人びとが
 ★ 正直、世の中、色んな争いが絶えませんが、こう言うような事も、原因の一つなのでしょうね。
 ☆ と勝手に 理屈をつけて 争うのです。それだけのことです。

みたいなこと書かれると、私が何の理由もないのに、争いごと起こしている人みたいに、他の回答者の方に受け取られかねないので、変な引用は、避けた方が良いとおもいます。人として。

☆ いったい どこが 《変》なのか。どうして 《焦点がずれている》のか。これだけ やり取りをして来て いっさい 言ったためしがなかったというのは いったい どうしたことでしょう。


何度も言いますが、説明はしています。brageloneさんが理解していないだけです。

私はbrageloneさんご自身の理論の探究に、お手伝いしているだけなので、話が通じないという事は、brageloneさんに害こそあれ、いい事はないと思うのですよね。
なので、単に退散すると言っただけのことです。

>☆ という言葉が 意味のない批判を含んでいるのに対して

そんな風には思っていませんよ。 

あまり偏屈に受け取らないで下さいね。

では、失礼します。

投稿日時 - 2009-02-21 00:01:11

お礼

 maimaisusさん アドワ゛イスをありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私は、

  文章の意味が正しく伝わっていない。

 という事を言っているのですから。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たしかに 以前の投稿で そういう趣旨であることを聞いたように思いますが そのときも 説明はありませんでした。
 今回は 初めて その趣旨であることを聞きました。

 ★ 何度も言いますが、説明はしています。brageloneさんが理解していないだけです。
 ☆ たしか 《善の完全な欠如》の状態に到ると 《無》であるのではないか / 《無》であると ひとは 採ってしまうのではないか という内容のご指摘がありました。そして そのことを明らかにしておくことは 重要であろうと わたしも応じました。
 でしたら そのように さらに新たな指摘があるのなら それをおしえてください。ないのに もしくは 説明を伴なわないのに 《説明はしています。おまえさんが理解していないだけだ》と言われても もう あほらしいだけです。なんで これだけ長く むだな話がつづくのですか。

 あるいは こう述べて投稿すれば よいのです。
 ○ 質問の答えは まだ 出ていません。ただし その趣旨には 賛同します。しかも その趣旨説明は まだまだ 一般に 理解されていないところがあるように思う。たとえば これこれの点だ。どうでしょう。
 ☆ こう言えば いいのです。
 どれだけ
 ★ 失礼
 ☆ が続いたことか。

投稿日時 - 2009-02-21 07:10:38

ANo.49

maimaisusです。

いやー、本当に申し訳ないです。

ここまで話が通じないと、どうにもならんです。

正直、世の中、色んな争いが絶えませんが、こう言うような事も、原因の一つなのでしょうね。

あまり、変に、物事捉えない方がいいですよ。
焦点が、ずれていますよ。
 >(5-1) 含みがなく 《あらためて思うけれど われわれ人間はどこか 到らないところが あって これは 驚くほどですな》と問いかけた場合。《そうですな》と応じるはづである。それ以外に あり得ない。

>☆ この場合も 《ある程度》がくせものなのです。《ふくみ》があると 《そうとう程度》に広がり 果ては 《全部》 軍門にくだったというふうに相手は 解釈するというものです。取り返しがつかない場合が しばしばなのです。

>つまり わたし bragelone が 到らないところがあるのだから 相手に 多少の到らなさがあっても――ということは 回答内容において むしろ基本的な弱点があったとしても という意味ですが―― そのときにも 大目に見て 

>例外だとか ゆるく扱ってもよい場合だとか そういう場合には とうぜん そのように わたしは そして 哲学も 言って来ています。みんなが 証人です。このきびしさが いやなら わたしの質問には 答えられません。切られます。しかも しっかりと その理由を 説明しています。いままで 切られた人は きちんと その理由が飲み込めたからこそ 去って行ったのです。心のきよい人は 何べんでも 挑戦して来てくれます。心の より少なく清い人は もう 訪ねて来ません。ただ そういうことであるだけです。

それは、変な思い込みです。
ご自分にはご自分の理屈で話しておられ、自分自身は、それで納得していても、周りの人間も同じだとは限りません。

とまあ、言っても無駄なので退散します。

投稿日時 - 2009-02-20 07:36:01

お礼

 maimaisusさん ご投稿をありがとうございます。

 ★ とまあ、言っても無駄なので退散します。
 ☆ 何も《言っても》いないということに 気づくべきです。
 《あまえさんと おれとは 意見がちがうよ》と 言っているだけです。理由も根拠も説明せず しかも どういう内容のことかさえ 明らかにしていません。
 ちがう ちがう わたしのほうにも 多少の気づかいをしてくれたまえ と言い続けてきただけです。

 人と人とが 考えが違うということは むしろ 初めの前提です。だから 話し合うのです。わたしのほうは すべて 話しています。そのどこが違うのか。たしかに その箇所は 引用で掲げてありますが どう違うのか なぜ違うのか まったく 明らかにしないままに ここまで来ています。
 そういうたぐいの人びとが
 ★ 正直、世の中、色んな争いが絶えませんが、こう言うような事も、原因の一つなのでしょうね。
 ☆ と勝手に 理屈をつけて 争うのです。それだけのことです。
 ★ あまり、変に、物事捉えない方がいいですよ。 / 焦点が、ずれていますよ。
 ☆ いったい どこが 《変》なのか。どうして 《焦点がずれている》のか。これだけ やり取りをして来て いっさい 言ったためしがなかったというのは いったい どうしたことでしょう。
 わたしの見解を飲めと言っているわけではありません。批判すれば いいのです。できない言いわけを 《変だ / 焦点がずれている / 話が通じない / 言っても無駄》と 意味のない言葉を連ねて 述べたように思っているだけです。できるのなら それを 表現したまえ。
 と これは 
 ★ 退散します。
 ☆ という言葉が 意味のない批判を含んでいるのに対して 述べ返したものです。引きとめたり追ったりするのではありません。

投稿日時 - 2009-02-20 08:35:42

ANo.48

maimaisusです。

そう言った、意味でNo.60の話を例題に挙げた訳ではないんですよ。

私も至らない処もありますが、brageloneさんも至らないところがあるね。
それはこう言う処だよ。

って話なんですけどね。No.61は。

信頼関係を大切になさるならば、そう言った処も大切だと思いますよ。
相手の話をある程度理解しないと、お話にならんもんです。

デーモンがどのこうのとか規約がどうこうは二の次ですね。

そう言う処、理解してほしいですね。

投稿日時 - 2009-02-19 17:56:53

補足

 maimaisusさん ご投稿をありがとうございます。

 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私も至らない処もありますが、brageloneさんも至らないところがあるね。
 それはこう言う処だよ。

 って話なんですけどね。No.61は。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 前々から 起きていますが 非常に 微妙な問題をはらんでいます。
 というのは (1) 世間話として あるいは 最初の他愛ない挨拶ことばとして 言う場合。――これは この質疑応答の場で あっても 取り上げなくてよいはづだ。
 (2) 挨拶ことばになるほどの内容であれば じつは そのようなことは 言わなくても なんら 構わない。《そうですね》と応えるだけの話である。
 (3) しかも 《到らなさ》というのは 人間どうしで どんぐりの背比べなのだから 高が知れている。つまり 程度問題であるということになる。
 (4) しかも わたしが いちいち 言わなかったとしても 言葉の端々に そういう人間の謙虚な姿勢というのは 現われているはづだ。
 (5) しかも それでも わたしが しっかりと そういう挨拶ことばに対応すべきだという意見が出た場合。これは 二つの場合に分かれる。
 (5-1) 含みがなく 《あらためて思うけれど われわれ人間はどこか 到らないところが あって これは 驚くほどですな》と問いかけた場合。《そうですな》と応じるはづである。それ以外に あり得ない。
 (5-2) したがって 《含み》がある場合である。したがって
 ★ それはこう言う処だよ。
 ☆ というその《こう言う処》を きちんと 言葉で取り上げ ふつうは その理由や根拠を しっかりと 説明しなければ 意味がない。

 そうしてこそ
 ★ 信頼関係を大切にする
 ☆ ことになるのです。
 ★ 相手の話をある程度理解しないと、お話にならんもんです。
 ☆ この場合も 《ある程度》がくせものなのです。《ふくみ》があると 《そうとう程度》に広がり 果ては 《全部》 軍門にくだったというふうに相手は 解釈するというものです。取り返しがつかない場合が しばしばなのです。
 わるいが 信頼関係は まだまだだったからね。
 ★ そう言う処、理解してほしいですね。
 ☆ という場合には 何もその《含み》が サブプライム・ローンの隠し条項のようなものではないだろうが 問題がなくはない。それは こうです。 
 つまり わたし bragelone が 到らないところがあるのだから 相手に 多少の到らなさがあっても――ということは 回答内容において むしろ基本的な弱点があったとしても という意味ですが―― そのときにも 大目に見て 
 ★ 理解してほしい
 ☆ という結果になるからです。要するに まちがいを だいたいは 正しいと認めろという意味合いが――意図していなくても―― 含まれているのです。

 だから ゆづれないところは やはり ゆづれないのです。なあなあ まあまあ では 立ち行かなくなるのです。哲学なのですよ。学問なのですよ。
 例外だとか ゆるく扱ってもよい場合だとか そういう場合には とうぜん そのように わたしは そして 哲学も 言って来ています。みんなが 証人です。このきびしさが いやなら わたしの質問には 答えられません。切られます。しかも しっかりと その理由を 説明しています。いままで 切られた人は きちんと その理由が飲み込めたからこそ 去って行ったのです。心のきよい人は 何べんでも 挑戦して来てくれます。心の より少なく清い人は もう 訪ねて来ません。ただ そういうことであるだけです。
 むろん わたしの到らなさについては そのつど きちんと 申し上げています。改めることに努めて来てもいます。
 要するに 少しのちょんぼは 見逃がせという要請に対しては ちょんぼの中身が 問題だと申し上げておきましょう。
 重ねて指摘しますが 漠然として 《こう言う処で 手を打とう》という場合が くせものです。相手の解釈と こちらのそれとは 一致していないのです。経済活動でも 問題になるはづです。哲学は 妥協しません。

投稿日時 - 2009-02-19 19:02:03

ANo.47

maimaisusです。

うーん、確かに、具体的に示したり 根拠を説明したりすることが苦手ですね。
自分では、説明しているつもりなのですが、何か違う受け取られかたしたりしてるし。

例えばNo.60答えがそうです。
 自分で通報しないのは、削除されるまで、表現は悪いが、半分は楽しむため。半分は、抗議ですね。

の私の文章に対し、
★ 半分は、抗議ですね。

もう半分の理由がどこ行ったの?って感じに、部分的に受け取られ、
 
☆ 《半分》しか ないのですね。それは 単なる規約違反のうたがいがあるという程度ではないですか。でも ありませんよ。
 というより 質問趣旨に間接的にしか つながらないかたちで いま このように やり取りしていることが 《半分》 違反ですけれど。

みたいに、それが変な風にしか伝わらないのですから。

ちなみに、No.60の質問回答は、全部規約違反です。

投稿日時 - 2009-02-19 14:50:17

お礼

 maimaisusさん ご投稿をありがとうございます。

 反論です。
 ☆☆ (No.59) あたまのてっぺんからつま先まで 悪に染まった人びとが出てきましたね。応用問題ですな。
 ☆ この《応用問題》として とうぜんのごとく 間接的に 質問と応答に関係しています。それ以外のものではありません。

 第一の死の状態から デーモン(その思念や観念そしてその意識作用)が 躍り出て来るということ。
 そこから その死が死ななくなる場合もあるということ。(実際には 《死が死ななくなった》という第二の死についての思念や観念のことです。この観念を それが幻想であると分かっていても 迎えに行くという意志行為のことです)。
 もはや 自然本性としての意志のすなおと言う善が 回復し得ないほどの状態になることです。つまりは 《ほどの》という近似値を言います。
 
 このように 間接的には まったく 質問趣旨に合致していますよ。

 ★★ 半分は、抗議ですね。
 ☆ あとの半分を 棚に上げて――この場合 棚に上げて です(どうでもいいからです)―― 《抗議》があるというなら それは
 ○ 第一の死の状態から デーモン(その思念や観念そしてその意識作用)が 躍り出て来るということ。
 ☆ なのです。そのものなのです。
 こじつけているようですが 質問趣旨の含みとしては その当のものになります。
 質問じたいは この《デーモンの踊り出てくる》ようなとき 実際に ひとが 《第二の死》に陥ることがあるか でした。いまのところ 《第二の死》じたいは 思念や観念だけなのではないかという答えを 一応として 得ています。
 しばらく この答えを 寝かしておき わたくしも ほかの方々も 慎重を期しているところです。

 ですから
 ★ No.60の質問回答は、全部規約違反
 ☆ ではありません。また そこでのやり取りも
 ★ 変な風にしか伝わらない
 ☆ でもありません。もう《半分》のほうは どうでもよいから 取り上げていないだけです。

投稿日時 - 2009-02-19 15:22:50

ANo.46

sto60ihuoさんどうも、本当ですね。まったく訳が判りせんよ。常識が通じません。

しかし腹立やつですね。あーいえば  こー言うしね。

>きみのためだ。見習いなさい。損はしない。  ですよ。即感情的に成るくせに。


少し調べてみました、どうも、統合失調症、近辺の人格者見たいですね。


言っても無駄だと判りました。こちらも吊られて変になりそうです。

他の方の迷惑にもなりますしね。  sto60ihuoさん有り難う、まだまだ寒いので身体に気を付けて  お元気で。

投稿日時 - 2009-02-19 01:17:42

お礼

 sonoma52maさん 気は済みましたか。
 まだ 余韻が残っているようだ。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 規約違反だと指摘され
 ☆ 規約の精神には違反していないと答えたのだよ。

 あとは どうしても 相手になって欲しいようだったので お相手したまでだ。

 ☆ きみの語彙は セックスか精神障害かしかないのかね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 変な余韻は すべて きれいに吐き出しましょう。そのためにも
 ★ あーいえば  こー言う
 ☆ は けっこう 効くものだよ。

投稿日時 - 2009-02-19 09:47:08

ANo.45

maimaisusです。

私は、自分の悪い処を、謝っただけです。

誤解を生むような、そう言う書き込みは困るんだよね。毎回思うのだけど。

sonoma52ma氏の狙いどうり、削除ですな、この質問。

投稿日時 - 2009-02-19 00:54:55

お礼

 ★ sonoma52ma氏の狙い
 ☆ は 話相手になって欲しいということのようだよ。そうでなければ とっくに 通報しているのではないか。

投稿日時 - 2009-02-19 09:40:25

ANo.44

子供も育てた事のない洟垂れ小僧が。プライドだけは高いんな。



sonoma52maさんもう相手にしない方が良いですよ。もう止めた方が良い。

投稿日時 - 2009-02-19 00:40:09

お礼

 ★ プライド
 ☆ という言葉は わたしの辞書にはない。けれども
 ★ 子供も育てた事のない洟垂れ小僧
 ☆ であることに 間違いはない。



 話相手をして欲しいわけではないだろうから 放っておくよ。

投稿日時 - 2009-02-19 09:38:04

ANo.43

>わたしを見習いなさい。

お前は神様になったのか、自己愛が強い本当ね。

本当に凄い人は上から物を言ったり簡単に感情的になったりしない。

知識○○だ。








議論は規約違反はやめろ本当に。ルールは守れ。言っても無駄か。

投稿日時 - 2009-02-19 00:13:53

お礼

 ★ 議論は規約違反はやめろ本当に。ルールは守れ。言っても無駄か。
 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 規約違反だと指摘され
 ☆ 規約の精神には違反していないと答えたのだよ。

 あとは どうしても 相手になって欲しいようだったので お相手したまでだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >わたしを見習いなさい。

 お前は神様になったのか、自己愛が強い本当ね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《神様》に見えたのかね? 《神様》は 《自己愛が強い》のかね どうなのかね ?

 ★ 本当に凄い人は上から物を言ったり簡単に感情的になったりしない。
 ☆ 《神様》は 《本当に凄い》のか そうでないのか。あるいは 神ではなく ひととして 《本当に凄い人》を きみは 知っているのか。
 本当に凄い人でない者から 《上から物を言われた》のか きみは? 《感情的になられてしまった》のか? 不覚であったね。

 ★ 知識○○だ。
 ☆ この伏せ字をするおそれが きよらかなおそれであるか どうか になる。

 もう相手をして要らないというときは いつでも そう言いなさい。

投稿日時 - 2009-02-19 09:35:27

ANo.42

 ★ 解る人から見ればどちらが大バカか解かだろうな。
 ☆ ばかと言われることをおそれているようだね。
 
 わたしのように 大ばかになって ばかを包むようになりなさい。わたしが 狂気であれば それは 神のためだ。正気であれば きみのた>めだ。見習いなさい。損はしない。

少し冷静になったのか。ではこちらも少し冷静に、お前に言っても無駄だと思うがね、規約違反だと指摘され支離滅裂に感情的になる人格者、だれもお前が宗教的にすごいとは思わない。自分自身が全く見えていないな。

一種の人格障害か精神障害だね。物凄く自己愛が強いね。性格性格が偏っているね。。。なんなんだろうね此のジジイ。  



こんな奴に引きつられ感情的になって悲しいね。

投稿日時 - 2009-02-19 00:00:12

お礼

 ★ 規約違反だと指摘され
 ☆ 規約の精神には違反していないと答えたのだよ。

 あとは どうしても 相手になって欲しいようだったので お相手したまでだ。

 ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 デーモンが踊り出す百鬼夜行の祭りが始まるときは じっさい 理性的であり 理性的に見えるものだと思います。
 そういったかたちで はじまるものではないでしょうか。
 なぜって デーモンがぐらついて 狂気の観念が いやされかかるところから 始まるのだから。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そのあとのことは また 人それぞれの道を行くことになる。

 ☆ きみの語彙は セックスか精神障害かしかないのかね。ばかなら せめて わたしのように 大ばかになりなさい。

投稿日時 - 2009-02-19 09:25:40

ANo.41

>《大ばかにした》のだが。効いていないようだね。

バカっていう方がバカなのよ。子供の頃よく言いわなかったか。

解る人から見ればどちらが大バカか解かだろうな。

誰かが言ってたが確かにお前は屁理屈にもなってないな。

投稿日時 - 2009-02-18 23:07:27

お礼

 ★ 解る人から見ればどちらが大バカか解かだろうな。
 ☆ ばかと言われることをおそれているようだね。
 
 わたしのように 大ばかになって ばかを包むようになりなさい。わたしが 狂気であれば それは 神のためだ。正気であれば きみのためだ。見習いなさい。損はしない。

投稿日時 - 2009-02-18 23:11:20

ANo.40

>>本性を出すことが出来て うれしいかい。


ジジイお前が先だろ。それを見習ったのよ。お前は気が狂ってるな。  一物しゃぶってもらって寝な。


ところで女の喜ばし方どうするの教えたあげようか。

お前の一物汚くて誰もしゃぶらねえな。

投稿日時 - 2009-02-18 22:53:12

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >>本性を出すことが出来て うれしいかい。


 ジジイお前が先だろ。それを見習ったのよ。お前は気が狂ってるな。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ さらに わたしを 見習いなさい。狂気であれば それは 神のためだ。正気であれば きみのためだ。そのように見習いなさい。

 あとは はんこでも作って押しているのかい。同じ語彙しか出てこないようだな。わたしを見習いなさい。

投稿日時 - 2009-02-18 23:05:02

ANo.39

ittlekiss 君、来たね。brageloneに女の喜ばし方教えてやれよ。あんなに気持ち良いこと知らないんだって。


議論は規約違反やめときやす。brageloneやん。

投稿日時 - 2009-02-18 21:26:56

お礼

 ★ 議論は規約違反
 ☆ これは 事実と違う。どこを見て 判断しているのか。

 それほど 社会から ひどい仕打ちを受けて来たのか。
 それとも わたしの質問に回答を寄せて 批判を受けたからか。
 いづれ 癒やされるであろう。それまでは 気持ち良いことでも やっていなさい。

投稿日時 - 2009-02-18 22:05:40

ANo.38

こんばんは、、brageloneさん。

●そうかなぁ。ホームページってことでしょ?

ちゃうちゃう、って、

さっきURLあげたところは確かにホームページのはなしやけれど、チーム制作いう取り組みは、ここで質問立ち上げそれに取り組む取り組み方では共通するとこあるん違うやろか?一つの質問にいろんな人が参加して答え、応じ、ほんでもって形のないもんを形作っていくんちゃうん。一つの質問にどんな意見でもそこに参加すればその質問の中ではチームの一員やろ。なんせ、共同作業やねんから。質問があってこその回答であり、回答あっての質問が成り立つわけやから。

ほんでな、≪コンピュータ言語を学んで 技術を習得してなど やる気が起こらない。≫それもわからんことはないけど、世の中いろんな言語が存在するやん。日本語いうたって、方言もあれば、業界用語もあれば、なんや知らんけどようさんあるやん。それに、よう喋る人もおれば口べたやら天邪鬼やらはにかみややらいろんな人がおるやん。文面に上がる文字からはわからん人の思いっていうのもあるやん。言い当てられて恥ずかしいなって、引っ込みつかへんいう場合もあるやん。照れ隠しに怒って誤魔化すいうんだって。

 * 《ぱっと見》で 判断しちゃ だめだってことですね。

そうそう、《ぱっと見》で 判断しちゃ だめなんちゃうかな?

万が一、文面道りだという場合であったとしてもやね、考えるお題をいっこもらえたとおもえば悪は存在せいへんのんちゃう?質問へ参加したってことはチームの一員やいうことやねんから。意思をもって参加しとうはずやろうから。形のないものを形あるものに形作っていくお手伝いしてくれはるんとちがうかな?どないやろ?

投稿日時 - 2009-02-18 20:57:11

補足

bonjour !
samedi, le 21 fevrier, bragelone.

投稿日時 - 2009-02-21 19:23:07

お礼

 littlekissさん 巻きこんじゃったね。

 ☆ それは いい考えである。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それに、よう喋る人もおれば口べたやら天邪鬼やらはにかみややらいろんな人がおるやん。文面に上がる文字からはわからん人の思いっていうのもあるやん。言い当てられて恥ずかしいなって、引っ込みつかへんいう場合もあるやん。照れ隠しに怒って誤魔化すいうんだって。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 確かに 原則 これである。
 問題は 原則の実現のほうだね。

 ただ こういう考えを もともと わたしは 持っています。
 一般に 人と 話していて うそを言っていると分かっている場合 わたしなら 一たんは その表面のことば つまりウソのほうで 応じるのが ふつうです。
 それは もう一方での 自己申告の原則に基づきます。ウソをついたと 自己申告するという原則です。
 こちらの都合を どうしても悪くする場合 というよりは そのウソによって 以前に言ったことと すでに 矛盾していると はっきりして来た場合 そのときには その場で ウソを質します。

 いま ここでは 具体的に どうすべきかが 問題のようです。特に 面と向かって 話しているのでないときには ですね。

 とは言っても 長期的な視点で見て 究極的には やはり
 ★ 形のないものを形あるものに形作っていくお手伝いしてくれはるんとちがうかな? どないやろ?
 ☆ これで 当たっていると考えます。その意味でも たしかに 原則です。そして さもなければ(つまり 一定の長期的に見ても そうでなかったという場合には) それは お手伝いしてくれはる人びとは 滅びるでしょう。しかも 滅びるという場合も 滅びて 再生してくるでしょうから 原則として 当たっていると言えます。

 岡本綺堂でしたか その雷の話に あたまのてっぺんからつま先まで 悪に染まった人びとが出てきましたね。応用問題ですな。

投稿日時 - 2009-02-18 21:49:27

ANo.37

>究極の悪とは――存在について――

理屈、いや、へ理屈のbragelone思考回路。外に出て、頭おかしくなるぞ。


議論は規約違反はやめようね。おじいちゃん。 ittlekiss元気、夜になったらタッグ組んでホテルかい。(大笑い)それとも一人じゃ怖いから2人で因縁か。ようこそようこそ。

お前、女の喜ばし方しってんのか。ittlekiss教えてもらえ。大笑い

ittlekiss君すき^。  陰気臭いbragelone様きらい。


議論は規約違反だまこころ。  枯臭のおじさん。おふたり。

投稿日時 - 2009-02-18 20:50:21

お礼

 ★ 議論は規約違反
 ☆ これは 事実とは違う。よく読んで 判断したまえ。

 言いたいことを言えて うれしいか。

投稿日時 - 2009-02-18 22:00:35

ANo.36

こんばんは、、brageloneさん。

もうちょろっと、あたってみました。

【チーム制作のメリット・デメリット】(3クリックルール)
http://www.thinkit.co.jp/article/44/4/
http://www.thinkit.co.jp/article/44/4/2.html
http://www.thinkit.co.jp/article/44/4/3.html

何かなと?ルール、ルールと壊れたレコードのように繰り返すのは?

究極の悪とは――存在について――というよりも悪は 存在しないに通ずるかも?

だっておかしいもん、【運営スタッフに連絡する】ってボタンがあるのに…何回も何回も ルールを連呼、で、ここで→…サイトを開かれればとご忠告させて頂いているのに。と「?」。ぱっとみ、単なる苦情(言いがかり)のようにみせてその実【チーム制作のメリット・デメリット】を指し示めてくれてはるんちがうやろか?

投稿日時 - 2009-02-18 18:25:03

お礼

 littlekissさん。大忙しですね。ご回答をありがとうございます。

 そうかなぁ。ホームページってことでしょ?

 ブログで じゅうぶんだと思うのだけれど。
 それに コンピュータ言語を学んで 技術を習得してなど やる気が起こらない。全然 知らずにやっているから。資金もないし。

 まぁ このあたりで 質問をすることは 控えようかねぇ。

 二度あることは 三度ある。もういっぺん この同じスタイルで 投稿することになるのかなぁ。笑っちゃった。

 * 《ぱっと見》で 判断しちゃ だめだってことですね。

投稿日時 - 2009-02-18 19:25:27

ANo.35

maimaisusです。 

規約違反は承知で。

人間的に、至らなく、申し訳ありません。

善性を持って、広くお受け止め下さい。

投稿日時 - 2009-02-18 10:38:15

お礼

 わが神がほほえんだ人を 無下に 締め出すわけには行きませんな。








 こちらこそ 到りませんで。

投稿日時 - 2009-02-18 10:44:50

ANo.34

こんばんは、、brageloneさん。

ちょろっと、あたってみました。

【スパイラルアップ】
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru_reply.php3?q=4708484
http://web.agr.ehime-u.ac.jp/~chiiki/spiral.htm

何かなと?規約違反、規約違反と壊れたレコードのように繰り返すのは?

究極の悪とは――存在について――というよりも悪は 存在しないに通ずるかも?

だっておかしいもん、【運営スタッフに連絡する】ってボタンがあるのに…何回も何回も 規約違反を連呼、で、ここで年齢等を記載記述することが「?」。ぱっとみ、単なる苦情(言いがかり)のようにみせてその実【スパイラルアップ】を指し示めてくれてはるんちがうやろか?

投稿日時 - 2009-02-17 21:01:34

補足

 littlekissさん お早うございます。(水曜日 朝)。このlittlekissさんの《おまじない》が 効いたかのように その後――わたしは やがて 寝てしまったのですが―― 壊れたレコード投稿は 消えていますね。

 じつは テレパシーを受けたのか何なのか 朝 目覚めると 案が浮かんでいました。述べます。

 先日のこと この質疑応答の場で 或る質問者が 自家撞着を起こしているのに それを 強行突破するという事態が起こりました。
 存在の《関係性》の側面では――その相手は わたしだったのでしたが そのわたしに対して―― 対話の扉を閉めたというその反面で 存在の《個としての独立性》の側面では なおまだ 《おれには 心の赤き直き すなおの善は ある。おまえには 示さないだけだ》という自負と 自己解釈としての善があったのではないか。
 こう考えると 第一の死〔という悪〕も 当然のこと 存在およびその自然本性としての善の上に成り立っているというものです。しかも もし このまま 第一の死としての《善の完全なる欠如》が 確定してしまうまでに みづからの意志を その死なる悪で埋め尽くしたとすれば どうなるか。

 たぶん どうもならないのではないか。ただ その思念がはたらくだけではないか。想像力の遊飛行に終わるだけではないか。
 なぜなら たぶん 存在の善の上に成り立っているからには ただちに その善としての一丁目一番地に 引き戻されて来るのではないかと考えられるからです。《第一の死》が固定し 《わたしは 第二の死の状態に入った。みんな 見てみたまえ》と言っても くだらぬことだと 分かっているからです。どうせ 戻って来ると分かっているからです。さもなければ――促すわけではないわけですが―― 自死のほうをえらぶでしょう。
 というわけで おそらく あるのは 想像物としての・思念としての《第二の死》 つまり悪魔という概念 だけだという見通しです。

 《絶対》も たしかに 想定であり 《神》と言い直したところで それは 物語です。しかも この場合は 想像や思考を超えて 非経験として想定しているからには 逆に その虚構が 《わたし》との関係において・つまりは《非思考=信仰》において 現実的になります。
 ところが 《第二の死 =悪魔》なる想像物は 飽くまで 経験思考の世界に属します。思念です。理論です。情念です。あたまの中におさまります。しかも この思念・理屈・情念・幻想としては 人類が生き延び続ける限りで 個々の人間を超えて 永続します。幻想の共同性さえ 獲得して あたかも君臨しています。

 実際問題として 悪魔に みづからの社会的な弱みを知って 避けどころを求める人も その悪魔じしんの避けどころとして 存在の善なりあるいは単純に神なりを 大前提としています。悪魔に助けられることを その悪魔が 何ものか大きな善によって ゆるされているからこそ 求める。そう考えているものと思われます。
 それでも だめだったときには 確かに 自暴自棄になるかも分かりません。分かりませんが それは 悪魔なる思念や理屈の限界が もはや 分からなくなったときのことでしょう。自己矛盾がはなはだしくなり 自己錯乱におちいるのでしょう。
 そのためにも 《悪は 存在しない。悪魔は 無益なまぼろしである》と 哲学は 宣言して行かなければいけない。神学をすら 反故にする覚悟を固めなければなりません。
 (ちなみに いまだに ローマ教会には エクソシストがいるとの情報があります。わたくし一人ででも その自己解体を迫ってまいります)。

 というテレパシーを受け取りました。今朝のことです。

投稿日時 - 2009-02-18 10:34:11

お礼

 持つべきものは 友 とは よく言ったものだ。お滝さん いや ちがった littlekissさん。ご回答をありがとうございます。

 我為大家、大家為我。あれっ ちがったかな。
 Un pour tous, tous pour un. あれっ これも ちがったかな?

 なに そうすると やはり もっと あたまを使えってこと?
 ★ 【スパイラルアップ】
 ☆ が 足りんってこと?
 でも この問い求めは むつかしいよお。

 知恵は 印欧語では 女性名詞だから 知恵の女神は その名のとおり 女性なんだそうだよ。
 観想にかんしては――古代人なら いざ知らず―― 男は だめかも。女性の知恵は 偉大なり。おだててでも いい知恵をひらめかせてくださいませませ。

 ★ ぱっとみ、単なる苦情(言いがかり)のようにみせてその実【スパイラルアップ】を指し示めてくれてはるんちがうやろか?
 ☆ あっ。その変な投稿の文章の中に 暗示があるってこと?

 ◆ 文書なの拝見している折は、りっぱな方かなと思っておりましたが。本当に残念です。
 ☆ こんなの 知らなかったが こう言われれば その場で 肩の荷が降りるというもの。自然児野生児だからね。

 その投稿の《参考になった》の投票が 点が増えてる。ひょっとすると 悪魔の手下たちが――応援しているというよりは―― 早く 欠けた善の回復手段を指し示せと言っているのかなぁ。
 あぁ また 減らず口をたたいたわい。

 と言って ちっとも 困ってもいないのだけれど。何だかなぁ。
 ずっと 見守ってくれていたの? 涙が ちょちょぎれるぅ。

投稿日時 - 2009-02-17 21:32:48

ANo.33

おはようございます、brageloneさん。


仮想現実

夜景を目で見たときと同じようにとれ、プリントアウトしたあとも変わらぬ出来栄え。最近のデジカメってすごいやー。だってさ、ちょっと前まで、夜、ライトアップした場所で「めっちゃきれいー」と、歓び勇んでシャッターパチパチ。さーて、現像、現像と出してみれば仕上がってきた写真をみてみれば…あれあれ???なんじゃこりゃ???真っ暗な中にぽつぽつと小さな黄色いマル。目で見たあの夜のあの場所のあの景色はどこへ???と、なったもの。それがだよ、いまじゃ、夜景を目で見たときと同じようにとれるんだからなんかすごくない?カメラが自動的に二枚の画を合成するとかでクッキリハッキリと肉眼で見たときと変わらないような画があらわれるんだって。合成は自然じゃないと人はいうかもしれないけれど、従来のカメラで夜景を撮るとよほどのプロじゃない限りシャッター速度をあわすのは難しい。目で見た景色と同じようには仕上がってはこない。で、仕上がった夜景の写真を見た人は言う、「なにこれ?真っ暗じゃない?目で見た景色とは違うわ。不自然よ」と。人は、目で見た景色の画を求める。合成を自然と感じ、自然を不自然と感じる。人は合成は自然じゃないというけれど、自然を目にして不自然といい、合成を目にして自然という。これはどういうことか?何故に生み出されたのか?おそらく…人が欲したからではないか?「求めよ さらば 与えられん」究極の悪とは――欲する人の心ではなかろうか。


「福は内、鬼は外」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~kitakyo/message/010204.htm

投稿日時 - 2009-02-17 03:44:00

お礼

 littlekissさんが 真面目^^。お早うございます。まじめのご回答をありがとうございます。

 ▲ (「福は内、鬼は外」のサイト) 是非一度、聖書をお手に取って御覧になることをお勧めします。
 ☆ とお勧めされちゃった。

 ★ 何故に生み出されたのか?おそらく…人が欲したからではないか?「求めよ さらば 与えられん」究極の悪とは――欲する人の心ではなかろうか。
 ☆ おっしゃるとおり 心のすなおである善はもちろんのこと それに反する悪も とうぜん 心が欲する結果です。意志行為の結果です。そちらをえらんだのです。
 しかも この一度えらんだ ちいさなウソ としての悪が 細胞分裂するのかどうか分かりませんが みごとに その想像力のつばさにも乗って 宇宙の果てにまで 飛んで行きます。悪の究極にまで到ります。

 善がすべて欠如してしまえば 完全な悪です。そして そこまでは つまり善の完全な欠如という状態に到り得るというところまでは 案外 かんたんに 理解できます。想像力のなせるわざですから。
 問題は その悪の究極が 固定してしまうところの《第二の死》 これが 実際に 人間の状態として 起きるのかです。
 単なる究極の悪は 第一の死として つねに その死が死ぬということ つまりは 元の善の回復が 比較的容易に 可能であるということと捉えられます。比較的容易にというのは 一瞬のひらめき 一瞬の気づきによって 元の心は よみがえるという事態のことです。
 これが よみがえらなくなるという第二の死は 果たして 実在するか。

 これまでの質疑応答の中で いくらかの答えを――試行として――得させてもらっていますが なかなか むつかしいと考えています。
 わたしたちの扱う価値や倫理は 飽くまで 相対的な善悪であるからして それこそ究極の答えは 表現しがたいことなのかも知れません。
 
 そんな状態であり情況です。

投稿日時 - 2009-02-17 07:34:33

ANo.32

こんばんは。
補足をありがとうございます!
でもでも。。。本当にbragelone様は返答を素早くしかも論理性や主張を見失わずに組み立てられるのですね。。。
それはこれ迄の鍛錬や心がけの成果なのでしょうか?
コツ等ありましたら、ご教授下さると嬉しいです。

>☆ この《悪は 善の前提無しでは 存在しない》の命題は 最初知ったときから きわめて強い衝撃を与えてくれたのですが

とお書きになっていらっしゃいましたので、出典があるのでしょうか?
何かこの「性善説の究極」のような清々しい論を(出来ましたら判り易く^^)扱っている本がありましたら、御教え頂けないか?と御邪魔致しました。
よろしく御願いします!

「思索」については、焦点を絞り練り直してまたお智慧拝借を御願いするかも知れません。その時はまた御願い申し上げますね。

投稿日時 - 2009-02-17 00:35:53

補足

 yukkinn66さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 ★ 出典 / 扱っている本
 ☆ につきましては 先日 同じように尋ねられて 次のようにご返事を書きました。
  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ お勧めの本
 ☆ という問題にも わたしの柄にもなく なるのですが わたしは もはや 何を隠そう すべて アウグスティヌスに拠っています。すべて 請け売りです。ただし しかも ねじ曲げているはづです。
 ▲ (コリント前書9:24) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ このパウロに対して アウグスティヌスは 《いや そうではない。一人ひとりが 一等賞を得るのだ》という意味合いのことを言っています。
 旧くは 信仰のあかしとして 割礼が命じられましたが これは不要となりました。新しく洗礼がはじまりましたが そしてアウグスティヌスは むろん これを絶対的に必要な秘蹟として命じていますが わたしは 水による洗礼を受けていません。受けません。請け売りと言いながら 反逆しています。

 ○ アウグスティヌス:『三位一体論』(中澤宣夫訳)
 ☆ で わたしは 自分がつくられました。
 これを ただブッディスムのライワ゛ルとして読み始め 読み継いでいたとき 聖霊によるバプテスマを受けました。すべて なぞです。なぜ受けたか どういう内実か すべて 最終的には(つまり 説明しきったという判断を下すことは無理のようですから) なぞです。そのあと 三年ほどは 集中して これに取り組み 格闘しました。来る日も来る日も――二度 通し読みをしたほかは 毎日少しづつ―― 主食としました。

 でも 抹香臭いですよ。道徳規範でかちかちの文章がずらりと並んでいます。ときほぐせば 一流だと思いました。これまでいろんな思想を勉強して来て 世界の――もし 人生は たたかいだとすれば――最前線の哲学を 千六百年経っても いまだに 提供していると考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ むろん アウグスティヌスには 膨大な著作があります。中では 《告白》と《神の国》が よく挙げられます。《三位一体論》が しかし 中核だと思います。
 お勧めすべきかどうか 分かりません。例の長い長い一文が ずらっと続きます。いわゆる護教論として論じているところも見られますから 退屈になります。おとといのこと
 ● 《Q:神のにすがた》
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4716885.html (No.3)
 ☆ に 三位一体について 投稿しています。これが 簡単な紹介になると思います。その結果で 決められるといいと思います。

 * たしかに もう ほとんどの場合――つまり 引用をするときでない場合―― そのまま 自分の考えとして 述べていますので 《鍛えた》のだと思います。それにしても 思えば 最近では 出典に触れなくなっていました。わたしは アウグスティヌスのことばを咀嚼して 自分の考えをかたちづくりましたと 時々は 言っていないといけません。

投稿日時 - 2009-02-17 06:44:24

ANo.31

>ありがとう。

悟り得た人は、持って素直であり。こういう仮想世界に一日中埋没する中毒にはなりません。

もっと人の世界に入り困った人を助けるようになると存じます。

bragelone様、外に出てますか?一日中、仮想世界の中だけでは、精神衛生に悪いですよ。

「規約」は守りましょう。  

投稿日時 - 2009-02-17 00:15:52

お礼

 sonoma52maさん ご投稿をありがとうございます。 

 《ありがとう》とのみお応えしましたが それだけでは通じないとすれば こういう考えでいますと説明します。

 すなわち 
 ★ 「規約」
 ☆ よりも 人間の信頼関係のほうが 大事です。
 規約を守ることをとおして 信頼を 互いに得るというのが 一般ですが 信頼関係を どうでもよいものとして やり取りをするというのであれば 規約に違反してでも そのことを きちんと 指摘することは より一層 大事です。

 ★ 精神衛生に悪く 中毒になっている
 ☆ なら これだけ 妥当性のある文章を書くことは出来ません。それが理解できないのであれば ご投稿は 何のために おこなったのかということになりますよ。

 * ほかの回答者のみなさんへ。
 そういう事情ですので もしこの質問が削除になったとしても どうか 文字よりも あるいは いくら妥当性のある理論であっても その理論よりも 人と人との信頼関係のほうが より一層 大事であるという趣旨において 〔削除に〕甘んじてくださるよう こころより お願いいたします。

投稿日時 - 2009-02-17 06:37:43

ANo.30

maimaisusです。

最後に良いですか。

今回の質問
究極の悪とは――存在について――
では、存在や善・悪については、自分の世界観は、持ち込まないで回答しています。

むしろ、今までの基本、存在は善を、完全なものとするための作業を、行っているつもりです。
基本が、ちゃんとしていないと、幾ら仮説立てたとしても、なんら正しい答えは、出ないと思うからです。
例外や矛盾ばかりの、理論が正とおもいますか。
感覚的な事を、誰もが矛盾なく理解する為の理論が必要だと、私は考えているのです。
その為に矛盾がなく考えられる、考え方をあらわしているのです。自分なりに。
そう言う意味では、同じことを目指していると思いますが。

別に私の世界観、理論を押し付けている訳では在りませんよ。

投稿日時 - 2009-02-16 23:53:36

お礼

 いまの問題は―― つまり ここ数件の投稿にかんする情況は――
 ★ 世界観、理論
 ☆ の問題ではありません。対話・交通をすすめる上での 信頼関係のそれです。
 一つひとつの小主題についても 互いに これこれのかたちで処理しえたと(または 保留しましょうと) 合意した上で 次の課題に移るものです。
 それが 出来ないのであれば 理論もへちまも ありません。

投稿日時 - 2009-02-17 06:26:20

ANo.29

オコリザルです。
A22に引き続きです。
「異言」なり「異端」なりの解説ですから悪魔の話でしょうね。
人と人が分かり合えなくバラバラであれば、私の心もバラバラです。
それが部分たる心の断片の解説でした。
それからbrageloneさんに苦言と言うのは今のところ無理なんですよ。
私はとりすがりに直面して絶対他力がわかりません。
正しい信仰を理解できなくもあります。
神にひざまずく人間の多くは同じ人間に傲慢である一方で内面において一方的依存心から他者に要求を突きつけます。この依存心は世界を構成するあらゆるものなり現象なりに向かいます。
無神というのは依存心たる海坊主見たいな妖怪に覆いかぶされながら歯を食いしばることです。これは真実を見抜ける確信なり自信なりがあるから貫けます。ご存知と思いますが信じるものあるが故の無神です。
無神が悪魔的なのは、ゆがんだ信仰から自らを守るため攻撃するからです。悪魔と同じです。悪魔はそんな歪み、へそ曲がりに食いついているだけで神に戦いを挑んだりしてはいません。悪魔にとって神の意思はそこら中にすっころがっているといいますか、より理解すれば神の意思で世界が満ちている中で悪魔は一体となっています。
brageloneさんのように信仰が忠実な方には悪魔はどう接するのか。
本物の悪魔なら、ひれ伏したりはしないでしょうが一目は置きます。
メチャンコ悪魔君は人間臭いですよ。
彼女の場合なら無邪気になつくでしょう。
悪魔的魅力を振りまきながらです。
私はそれにどこか狂っていますね。
鬼神に魅了された知性とでも言いましょうか。

投稿日時 - 2009-02-16 23:16:15

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 primeapeさんの文章と言いますか 見解と言いますか やはり いまさらですが 独特ですね。

 ☆☆ 異言
 ☆ というのは 意味が 容易には 分からない言葉であり文章です。いわゆる神秘思想です。観想の成果でありますが。
 (ですから 異端とは 違います)。
 要するに 異言については 一般に分かるように 解釈が望まれると言われるそれです。

 ★ 無神論
 ☆ については おっしゃるような内容だと思いますが
 ★ 絶対他力 もしくは 神にひざまずく人間
 ☆ については 部分的に誤解もあるようです。
 いちばん分かりやすい説明は こうです。
 ○ 絶対他力としての信仰のほかの経験領域では ということは 日常生活の一般の場においては ということですが 無神論の場合と そして 特に信仰にこだわらない場合と 基本的に まったく 同じです。自力の努力をします。同じようにです。
 ★ ご存知と思いますが信じるものあるが故の無神です。
 ☆ これと ほとんど 同じではないですか。つまり 神は なぞなのですから。非思考ですから。顔と顔を合わせて見ることは出来ないわけですから。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 無神が悪魔的なのは、ゆがんだ信仰から自らを守るため攻撃するからです。悪魔と同じです。悪魔はそんな歪み、へそ曲がりに食いついているだけで神に戦いを挑んだりしてはいません。悪魔にとって神の意思はそこら中にすっころがっているといいますか、より理解すれば神の意思で世界が満ちている中で悪魔は一体となっています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 少し違うかも知れません。というより なかなか 理解が行き届きません。
 primeapeさんは 何か たえず このような《思念》を 持っているといった状態なのでしょうか? あるいは ほかの人が そういう状態にあることを 受けとめて 何がしか その思念を引き受けておられるのでしょうか? 
 たしかに そのへんは わたしには 分かりません。 わたしの場合 自分の中には そういう思念は ありません。ほかの人の何らかの問題を引き受けるとか ほかの人との間で 意見の衝突があるとかする場合には その思念と言いますか けっきょく 一般に言う思想ですね 思想として捉えて それについて 整理したり その新たな展開をおこなうかのように 考えを及ぼしたりするかたちになります。それだけですね。整理がつけば それで 終わりだと思います。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 メチャンコ悪魔君は人間臭いですよ。
 彼女の場合なら無邪気になつくでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは わたしに対する接し方だそうですが 思念として見て どうですかねぇ。どうなんでしょう。わたし自身としては 思想が互いに衝突する場合以外は あまり 思念を交わらせることも しないかも知れませんね。問題が起こるとき以外は あたまを あまり 使わないのです。放っておくのです。まぁ 能天気とも言いますが。
 ちょっと 取り止めがなくなりました。今回は このあたりにて。

投稿日時 - 2009-02-16 23:46:29

お礼

 primeapeさん こんにちは。18日・水曜日に記しています。

 No.39の補足欄で ひとつの結論に近い成案を得ました。
 悪魔は 思念としてのみ あって その幻想を 人びとは 共同化しているだけだというprimeapeさんのご持論にたどり着きました。
 そういうことで ひとこと ごあいさつです。

 ただ primeapeさんご自身の文章が そのままでは なかなか 一般的に 読み取りにくいという点は 残念に思います。対面して 会話している場合には 差し障りもないのでしょうが 文章だけによっては 伝わりづらいところもあるかに思われ 思いやられます。
 ともかく 報告です。

投稿日時 - 2009-02-18 12:31:44

ANo.28

maimaisusです。

 >何でもかでも 乞えば おしえてもらえるとは 限らない。

いえー、別にそう言うつもりはないですよ。理解する為の努力、私なりの愛です。

良く取ろうと思えば、良くも取れるし、悪く取ろうとすれば、悪く取れる。
私は鏡のようなものですよ、感情的には。

ご自分から逃げますか?

投稿日時 - 2009-02-16 20:17:47

お礼

 ☆☆ それ相応の礼儀が 必要である。
 ☆ ものには順序があります。順序というからには 一つひとつ 事柄が 区分けされているという意味です。対話では 事柄ごとに 互いに処理をしたのだという合意を確認して 進むものです。
 すでに昔の《Q:悪は 存在しない》No.9補足欄を 理解していなかったことが 明らかになったわけです。それが 何もなかった という振る舞いをしていますねという問いかけです。むろん もはや 答えを期待したものではありません。

投稿日時 - 2009-02-16 21:23:07

ANo.27

こんにちは。
のろまな人間がまた無礼をしでかすのでは。。。と躊躇ったのですが、来てしまいました。
御許し下さい。

>ウソでない心のありか/あり方を 善と呼ぶとすれば 
>悪は 善のひねくれ/ねじ曲がりであり 
>それが くせとなれば 善が損傷を受け 欠けていきます。

>悪は 悪というものが 他の一切のものから独立して存在するのではなく 
>善が減少していくにつれ 現われると考えます。

>自然本性と言うべき善が減ること・また善を減らすことを 悪と呼び 
>善が減った状態のことも 悪と呼ぶという見方です。

勝手に私が読みたいように書き直してみました。汗

このご質問を拝見して、私は「悪は存在しない」と言う命題の「証明」を読んだ気がしたのです。
今迄「命題」そのものに直感として大きく同意してはいましたけれど、それがどのように導き出され(=証明され)たのか?は、きちんとは理解しておりませんでしたので。
ですので、それをしっかりと教えて頂いたお礼を申し上げたくて伺いました。

「悪」は単体では存在し得ない、とのお考えでよろしいのですよね?
「善」は「存在の始まり」である。それ単体で存在し得る。

悪と善は、対極ではない。
悪は善が在って初めて存在し得る存在である。
善は悪の存在を支える。悪は善の存在を必要としている。
しかし、善は悪の存在を必要としない。

この私の勝手な理解の上で、
>果たして この もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。
と言うご質問にはどう答えられるのかなあ。。。

>悪の究極の究極とは 
>この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》こと

と言う言葉を拝見した限りでは、
「死が死ななくなる」んだから、そりゃあ「(この世界には)実在しない」のじゃないかな?。。。です。
「死」が実在する世界に「死なない存在」は実在しない、と言う考え方から導いた回答ですが、いかがでしょうか?

既出でしたら申し訳ありません!
情報過多でまた混乱するのを恐れて、他の回答はざっと流し読みした程度ですので。。。。

投稿日時 - 2009-02-16 17:35:21

補足

 yukkinn66さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 この質問も さらになお本格的に 取り組まねばならないように感じています。
 まづ
 ★ 「死」が実在する世界に「死なない存在」は実在しない、と言う考え方から導いた回答
 ☆ につきましては 想像の範囲を出ませんが 次のように考えています。まづ《第一の死》にかんしてですが。
 ☆☆ (No.21お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 自由意志のすなおとしての善が すべて 欠如したとしても 存在には――信仰をとおして―― 霊が それを包むように はたらくと想定される。ゆえに ただ《無》だというのではない。《善の欠如 としての無》をも包みこんで 元の善を回復することを可能にするという想定です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ したがって 《第二の死》のような状態として考えられることは このとき 《善の完全な欠如の状態が その人の死ぬまで つづく》こととなります。つまり 《生物学的な死の訪れるまでは 〈第一の死が死なない〉》ことになります。
 問題は この場合 偶然に そのように一生つづいたのか それとも 《第一の死が――意志によってなのでしょうか―― 確定し固定してしまっているのか》の判定にあることになります。後者では 《質の変化》が 起きているのか。そんなことが 実際 起きるのか。

 分かっていることは おそらく たとえ この第二の死が 現実に起きたとしても なお存在とそれを超えて包むなぞの霊が 善として この第二の死という悪を 包みこんでいるであろうことです。
 それなら あるかも知れないと まづ 考えてみます。
 ただし 次のようにも 考えました。
 ☆☆ (No.20補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・第二の死の状態になったとしても その状態が 社会的な必要性あるいは必然性を持たないのなら ほとんど 意味がなく 起きないと思われる。そして やはり その第二の死の状態に限りなく《近づく》だけに限られるであろうという見方です。
 必然性というのは その《第二の死》という悪を 何らかの社会的な目的や必要性のために 善用する必要があるかどうかです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ この《悪は 善の前提無しでは 存在しない》の命題は 最初知ったときから きわめて強い衝撃を与えてくれたのですが それにもかかわらず 必ずしも くわしく検証して来なかったのです。そのつけが まわって来ています。神学すら 白紙還元して 哲学としての答えを求めたいとは思います。

 ★ 単体
 ☆ という概念を用いるのは たぶん 善を 実体視する あるいは 実在するとする哲学の行き方に立つのだと思います。そして それも あるかも知れません。いまここでは 《善と悪》という言葉について 概念整理するというかたちに立っています。きわめて ゆるい扱い方です。
 たぶん 前者でも 当然のこととして 《相対的なもの》として扱うという前提を明らかにしていれば 同じことになるとは思います。

 あと わたしの感触では 《第二の死》に近い状態というのは 《話が 通じない。一生 通じなかった》というような場合だと 単純に 思っています。

 * 《思索》のほうで イヂワルやキザにかかわって ほめていただきました。考えてみますと イヂワルは 思索のときには 白紙還元として 既成の価値観を疑ってかかりますから 何らかのかたちで 避けられないかも知れません。キザは 自分で言うのも何ですが 愚直の振る舞いから そう見えたようですね。そういう場合があっても 仕方がないと考えることにしました。特に 気を遣うこともないと決めました。ふっきることにしましたので よろしくどうぞお願いします。

 * 質問にかんして まだ 試行中である部分があるように思っています。

投稿日時 - 2009-02-16 21:13:57

ANo.26

maimaisusです。

 >1. 人類は それぞれの言語において 《善および悪》という言葉を用いて 社会生活をいとなんでいる。

確かにね。

 >2. この言語習慣を解明することは 有益であるはづだ。

まあー、有益でですね。

 >3. そこで 人間の存在 / そこにそなわる自然本性 / その具体的な行為能力としての特には 自由意志 /  そのすなおな まこと(ウソでないこと) これを 《善》と呼ぶというふうに 仮説してみる。

これ解明ではなく、善という言葉を使い、存在を表現していると言うだけですよ。

>4. 意志のへそ曲がり つまり ウソをみづからの意志とすること これは 仮説からすれば 善の損傷だと捉えられる。このように善を損傷させること・また 損傷させられた状態 これを 《善の欠如》というふうに言っていると長いので 一言で 《悪》と呼ぶ。

別に損傷と言うより変質化でしょ。在ることが違うように伝わるのだから。


>☆ これに対して この質問趣旨では 次のように言っています。

1.2.はともかく3.4.5.について、
 >3. おのれの心に従う場合――それは 基本的に 存在の愛(維持向上)である――が 善であり 従わない場合が 悪である。

例えば、
妊婦の人がいて、母体か、子供か、と言う話になった時に、母親が子供を優先させるということについて。

自分を犠牲にして、より多くの人の命を救うと言った場合。

武士道のように、命より、心を重んじた場合。

は、どう言う判断になるのでしょう。

投稿日時 - 2009-02-16 16:26:52

お礼

 何でもかでも 乞えば おしえてもらえるとは 限らない。
 それ相応の礼儀が 必要である。

投稿日時 - 2009-02-16 16:33:00

ANo.25

maimaisusです。

> ★ 善のへそ曲がりである悪もまた善という事で
 ☆ これは 意味が通じません。
 ★ 善の欠如=悪は理論的に成り立たないと思うのですが。
 ☆ 意味が通じません。

だって前提が、存在は善であるって事でしょ。最初から悪否定していしているのに、例外でありますって変でしょ。
その時点で、存在は善は成り立たなくなっている訳です。これは、理論の話ですから。
これが、意味が通じないと言うのでしたら、

>悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。
もまた、意味が通じないという事になりなます。
しかし、感覚てきに物事をとらえているのであるならば、解らなくもないですがね。

>☆ 《善が欠如した状態》を《悪》と呼ぶというだけのことです。

何で?《善が欠如した状態》は、存在の善が欠如した分、存在が減少するッてことでしょ。前提が存在は善なのですから。その状態を悪とするのは、変ではないですか。普通に考えたら、存在が減少しているだけです。

>★ 存在=善・悪であると言う事になりますね。

の前提は、存在は善で、善が欠如した状態を悪と言うならばですね。
矛盾している、理論的に。と言う意味。

>そんなことを言っても 何にもならないでしょうね。なりますか。

そもそも、そんな話をしているは、ご自分ですよ。って言うか、そんなこと言ってないしね。

投稿日時 - 2009-02-16 12:35:49

補足

 maimaisusさん――とロボット投稿に対して 名前で呼びますが―― 勘違いのありかが分かりました。次です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >☆ 《善が欠如した状態》を《悪》と呼ぶというだけのことです。

 何で?《善が欠如した状態》は、存在の善が欠如した分、存在が減少するッてことでしょ。前提が存在は善なのですから。その状態を悪とするのは、変ではないですか。普通に考えたら、存在が減少しているだけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 直前の応答から 引きます。
 ☆☆ (No.24補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 1. 人類は それぞれの言語において 《善および悪》という言葉を用いて 社会生活をいとなんでいる。
 2. この言語習慣を解明することは 有益であるはづだ。
 3. そこで 人間の存在 / そこにそなわる自然本性 / その具体的な行為能力としての特には 自由意志 /  そのすなおな まこと(ウソでないこと) これを 《善》と呼ぶというふうに 仮説してみる。
 4. 意志のへそ曲がり つまり ウソをみづからの意志とすること これは 仮説からすれば 善の損傷だと捉えられる。このように善を損傷させること・また 損傷させられた状態 これを 《善の欠如》というふうに言っていると長いので 一言で 《悪》と呼ぶ。

 ☆ このような作業仮説を提出しているだけだとも 言えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ○ 作業仮説
 ☆ ということについて 理解が届いていないようです。

 ☆☆ (《Q:悪は 存在しない》No.9補足欄)~~~~~~~~~~
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html
 ○ 作業仮説
 ☆ という点について むしろ maimaisusさんのほうが 飲み込めておられない。こう捉えて 以下に 説明します。

 ● ヰキぺディア:《性善説》〔=α とする〕
  ​http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%96%84%E8%AA%AC ​
 ☆ これを出汁に使います。
 まづ
 ▲ 「性」とは、人の本性やものの本質のこと。字書的にいえば、「性」という字は生まれながらの心という意味である。
 ☆ だそうですから ここでの《自然本性》にあたります。これが 人間の《存在》にそなわると言い また この存在が善であるという仮説ですから ほとんど 同じであるようです。
 ただし 《悪 ないし その起源》については 見解が 分かれるようです。

 ちなみに その前に 
 ・性悪説 あるいは 
 ・《「性無記説」(性には善も悪もないとする告子の学説)や 
 ・「性が善である人もいるが、悪である人もいる」とする説、
 ・「人の中で善悪が入り交じっているのだ」とする諸説》(α)
もあるわけです。要は どの仮説にせよ それによって 人間ないし社会のありようをよく説明し得たかが 問題です。

 もうひとつ ちなみに いくら性善説と言っても
 ▲ 孟子も朱子も、人の「性」は善であっても放っておけば悪を行うようになってしまうため、「聖人の教え」や「礼」などによることが必要であると説いている。
 ☆ とも知られます。この点は 《悪》の定義によって すなわち 次に取り上げる 悪の起源にかんする仮説内容によって 違ってくるようです。

 さて 悪の起こりについてです。
 ▲ (α) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 孟子は以下のように説明する。
 悪は人の外に存在するものであるが、天が人に与えたもの、すなわち「性」には「耳目の官」(官とは働き・機能を意味する)と「心の官」が有り、外からの影響を「耳目の官」が受けることにより、「心の官」に宿る善の兆しが曇らされるのだ、と。
 すなわち善は人に内在する天の理法であり、悪は外在する環境にあると説いた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これに対して この質問趣旨では 次のように言っています。
 1. 善であると想定される存在が備える自然本性 その行為能力である内のひとつの《自由意志》 これによって 思惟や行為としての善と悪が起こる。
 2. すなわち われらが意志は 悲しいかな 喜ばしいかな みづからの存在に内在するおのれの心に 従うのも 従わないのも 自由と来ている。
 3. おのれの心に従う場合――それは 基本的に 存在の愛(維持向上)である――が 善であり 従わない場合が 悪である。
 4. これは とりもなおさず 悪とは その内容が 存在の愛に反することである。
 5. 意志が おのれの心に従わないというのは 心を 曲げるということである。

投稿日時 - 2009-02-16 12:58:22

お礼

 6. 人間の意志は 悲しいかな 喜ばしいかな 心に へそ曲がりを持つ自由を持っている。それは 自由意志である。
 7. すなわち 善はもとより 悪も 存在の内から 自由意志によって 起こる。
 8. ただし それは 善のへそ曲がりであって 本性は 善が 基礎となっている。そうでなければ 《へそを曲げることすら 出来ない》。

 9. つまりは 《悪》というものが どこかに 存在していて それが 現象としても 現われるというものではない。

 10. たとえば 善なる心が 悪にさそわれるというとき その悪は すでに歴史事実として継承してきた現実に見られるものを言っている。
 11. それを取り上げるならば 孟子の言うように 《悪は外在する環境にある》と言えるかも知れない。
 12. ただし おそらくは その起源は そうではなく 内在する自由意志のへそ曲がりにある。
 13. すなわち 《存在は善である》と言っても それは 想定であり しかも 悲しいかな 喜ばしいかな 相対的な善なのである。有限であり 可変的である。ゆえに あたかも光のごとく 曲がり得る。

 14. 自然本性の持つ知性・理性は あたかも 光のごとくであるが いかんせん それは 経験事物としての太陽であるに過ぎない。朽ちるべき光である。
 15. しかも 存在とその自由意志は 曲がりなりにも 善である。本性として 悪でもなければ 善と悪との混在でもなく 存在するのは 相対的なものだが 善のみである。
 16. この善がなければ 悪は存在しない。

 以上のような仮説です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-02-16 13:03:54

ANo.24

回答・補足など、全部読んでません。前回の?というのも読んでません。通りすがりです(お気を悪くされたら無視してください)。

究極も何も・・・個の人間に「悪」はありえません。(もちろん善も)
あるのは「社会悪」のみです。

投稿日時 - 2009-02-16 02:27:54

補足

 w-hiteroseさん ご回答をありがとうございます。

 《全体》にわたる問題をはらんでいるようですから かんたんに受け応えするわけにも行きませんが 問題点や基礎的な認識事項を省みておきます。

 1. 人類は それぞれの言語において 《善および悪》という言葉を用いて 社会生活をいとなんでいる。
 2. この言語習慣を解明することは 有益であるはづだ。
 3. そこで 人間の存在 / そこにそなわる自然本性 / その具体的な行為能力としての特には 自由意志 /  そのすなおな まこと(ウソでないこと) これを 《善》と呼ぶというふうに 仮説してみる。
 4. 意志のへそ曲がり つまり ウソをみづからの意志とすること これは 仮説からすれば 善の損傷だと捉えられる。このように善を損傷させること・また 損傷させられた状態 これを 《善の欠如》というふうに言っていると長いので 一言で 《悪》と呼ぶ。

 ☆ このような作業仮説を提出しているだけだとも 言えます。そうすると
 ★ 「社会悪」
 ☆ についても かなりきちんと整理したかたちで 把握することができると考えられるのです。

 5. 《社会》という視点もしくは場にかんしては ひとの存在をめぐって その《個としての独立性》のほかに しかも 同時に 《他者との関係性》が 自然本性じたいにそなわるという・やはり仮説で 応じます。
 6. 自由意志による判断および行為が とうぜんのごとく 《社会的な関係性》を持つという意味です。

 7. しかも 問題は このとき 意志行為の自由およびその答責性(説明責任)は 個としての独立存在のほうにあると見る。つまりは おのおのの《わたし》のほうに あるという見方です。(共犯といった事態についても 一人ひとりの《わたし》に 責任があるという原則です)。

 8. もう一点は この《関係性》が 経験的な見えるものごとをとおして つながっているというだけではないだろうという視点が あります。
 9. これは 端的に 経験世界を超えたという意味で 《霊》とさえ言っています。(その同じ意味で 《たましい》と言ってもいいでしょう)。
 10. つまりは おのおのの意志行為の社会的な相互連関(そしてさらには その歴史的な蓄積や伝統を交えての切り結びのありよう)といった経験的な内容だけの《関係性》に限られず ひとの《信仰》をとおして 非経験の《霊》をつうじても 人びとは 切り結びし合っているという仮説です。

 11. 個別の意志行為については あくまで その特定の《わたし》に その自由とともに 責任がありますが それが 原則なのですが ただし こうも考えられます。つまり――ややこしくなりますが―― この《社会的な関係性》という視点からみて 社会的な土壌といった基礎としての場においては 考え方として 責任には 人びとみなにとって その共同性があると見るべきでしょうね。
 〔12. 小泉政権が 派遣労働者にかんする規制を緩和しなければ 今のこれほどの苦しみは なかったか または 別のあり方になっていたであろう。けれども ひとりこのおっさんに責任をなすりつけることは 出来ない相談で それは 社会的な共同責任という部分が 《関係性》の視点からは ひじょうに大きいと考えられる。うんぬん。〕

 ☆ このたぐいのことを 
 ★ あるのは「社会悪」のみです。
 ☆ という簡潔な一文で おっしゃっているのだと理解しました。《個人としてのわたしの意志行為をめぐる自由と責任》 この原則を 伴なわないと 真意は伝わらないように思われますが いかがでしょう。

投稿日時 - 2009-02-16 10:19:33

ANo.23

オコリザルです。
もう1つ

★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 第二の死の究極の姿さえも救いえます。
 ですから勝負は全て買って下さい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 要するに 悪魔と対決して勝ったということですよね。

「勝った」と受け取らないで「勝てる」と受け取ってください。
困難はあるので楽勝とはいえませんが必勝です。

投稿日時 - 2009-02-16 00:55:28

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 分かっていますよ。
 今回は 《文学的な表現》の問題です。

 ★ (パウロ:ガラテヤ書5:24) ~~~~~~~~~~~~
 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉(* =身体および精神)を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《十字架につけてしまった》という完了相における表現形式は 文学的でありまして 《生まれ来る人びとそれぞれが 自分の境涯に応じて 将来すべきこととして この完了形で述べられた事態に臨む》という意味に取られます。
  しかも 《このことばを受け容れた瞬間に すでに かたちのない希望において すくわれている。すなわち 潜在的には 実現している》と知ることになります。
 ☆☆ 悪魔と対決して ≫勝った≪ ということですよね。

 * ちょっと 恰好をつけすぎましたか?

投稿日時 - 2009-02-16 09:44:20

ANo.22

オコリザルです。
今回は自らの言葉をなぞって後になって意味を知りました。
この手の現象は考えが現実なり実態なりと遊離しているゆえ起こります。

>このおばけは光、神、存在、あらゆる面で人知に想像しうる正反対の性質を備えた知性です。地球上の生命に想像しうる第二の死を、いわば転生の目標とした困った存在です。

あらゆる面で正反対と言いながら、そして生命に内包しているといいながら、提示した事例は光、神、存在、のみで肝心の人間性に関する見解がうかがい知れません。そのくらい飛びぬけた純粋な知性であることが伺えます。むしろそれを想像しえた人知のすごさです。人知とはいずこに所在するのでしょうか?。定番は涅槃であり、イデア界でもあります。これらは無意識が個を超越してつながっているからこそ生まれる世界です。地球上の生命の歴史でもあります。「世」とは数学的な三次元世界では無く涅槃たる心のつながりのある世界の現れです。「世」の本来の意味はそのように表現されます。これは私の発見かもしれませんね。高次元の霊体の宣伝する魂の高次元構想はいただけませんがね。階層を作るのはごめんです。無意識的な生命の取り組みは地上の理解不能な現象を人類の英知を持って解消し、いわば、まだ頼りにするならば、地球さんに生命を生み出したその意味を聞くことです。そして宇宙に迎え入れられる。まだたとえ話なので表現は文学的ですが、そのような現代(耄碌した人には現世)の取り組みなり潮流なのです。

投稿日時 - 2009-02-16 00:48:09

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 今回は 苦言を呈しましょう。
 ★ まだたとえ話なので表現は文学的ですが
 ☆ 文学的な表現であるかどうかとは別に やはり
 ○ 異言
 ☆ であることが 問題と言えば問題です。無神論の立ち場から 《無意識》と言っておられますが 《霊》にあてはめて読んでください。
 ▲ ( コリント前書12:4-) ~~~~~~~~~~~~~~
 賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
 務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。

 ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

 体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
 もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。
 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
 すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。

 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
 わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。
 見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。

 それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。
 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これで 行きましょう。きもーいという感じがするのだけれども 究極の悪の様相を呈するひとも わたしたちにとって 互いに 部分であるでしょうから。(もしくは 主体どうしの社会的な関係総体であるでしょうから)。
 もっとも 去っていくひとを追う必要はないと考えます。むしろ 追わないというのが 正解だと考えます。
 
 ★ 涅槃
 ☆ は いかにも 暗いと思うのですが?

 * わたしにも 苦言を呈してください。ここまでの付き合いなら 遠慮は要らないでしょう。

投稿日時 - 2009-02-16 09:31:08

ANo.21

aimaisusです。


>今回も 結論のみ述べて 根拠については いっさい触れずの文章でしたね。

根拠も何も、No.17・18で説明した通り。単にbrageloneさんの理解する気がないのか、読み流しなのかは分かりませんが。
そもそも、存在は善はbrageloneさんの論理でしょ、もう一回よく考えてみたらいかがですか、もし例外があるなら、それは理論的矛盾でありどちらかの在り方が間違っているかあるいは両方間違っているという事です。
もし、私の言っていることが解らないのであれば、文章並べて、誰かに聞いてみては?

投稿日時 - 2009-02-15 23:03:46

お礼

 ★ (No.17)んー、brageloneさんの論理、存在は善を踏まえてお聞きしたいのですが、善が欠如すると言う事は、存在が欠如するという事なので
 ☆ 《存在が欠如するということ》というのは 舌足らずでしょうね。
 うそに発して 自由意志による善のねじ曲げ これによって 善が損傷を受け 欠如していくということです。それによって たしかに 《存在にも欠損が出来てしまう》とは言えます。

 ★ 善のへそ曲がりである悪もまた善という事で
 ☆ これは 意味が通じません。
 ★ 善の欠如=悪は理論的に成り立たないと思うのですが。
 ☆ 意味が通じません。

 ★ 正確には、善の欠如=無って事ではないでしょうか。
 ☆ 《無》の問題は すでに説明済みです。自由意志のすなおとしての善が すべて 欠如したとしても 存在には――信仰をとおして―― 霊が それを包むように はたらくと想定される。ゆえに ただ《無》だというのではない。《善の 欠如としての無》をも包みこんで 元の善を回復することを可能にするという想定です。

 ★ もし、善が欠如して悪になるなら、存在=善・悪であると言う事になりますね。今までの話から行くと。
 ☆ 《善が欠如した状態》を《悪》と呼ぶというだけのことです。
 ★ 存在=善・悪であると言う事になりますね。
 ☆ 善が 部分的に欠けた状態だから その欠如の部分が 悪で ほかの部分が 善だという意味でしょうか。そんなことを言っても 何にもならないでしょうね。なりますか。

 No.18では 《無》の問題には すでに 説明済みであり ほかに 問題点はないはづです。

 上の意味が取れないところは 仕方がありません。説明を求め続けてきたのですから いまさら 補足要求しようとは思いません。

投稿日時 - 2009-02-15 23:25:16

ANo.20

>《人間故の情動、衝動》は ここでは 心において まことかウソかで 善悪を判定してください。また その人の主観の問題です。本人は 知っています。

まことしかありません。本人が知っている本人の心に本人がウソをつくことはできません。
本人に巣くっている野獣は、その時の本人の心には見出せません。隠されているか別の顔をしています。
仮に本人が理性で気づいていてもその行動は、それを上回る本人にとっての善があるということです。

無差別殺人犯は、その時、自分の野獣を知っていた?解放者の顔をしていたに違いないのです。

>もし仮りに 普遍的であるという解答が得られたのなら

 今発生している物事の善悪の判定は、常に未来にあります。その範囲を限定する必要は
 ありますが行動に対する結果にあります。

 それを知らない今の本人に、善悪は信ずるか、推測するしかないでしょう。
 だからこそ、帯域の広い領域を鍛え、刻々と変化する状況を忍耐強く注視し、対応するしか
 ないと思いますが・・・

投稿日時 - 2009-02-15 17:40:14

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 ★☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >《人間故の情動、衝動》は ここでは 心において まことかウソかで 善悪を判定してください。また その人の主観の問題です。本人は 知っています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この問題ですね。
 ★ 帯域の広い領域を鍛え、刻々と変化する状況を忍耐強く注視し、対応するしか / ないと思いますが・・・
 ☆ この締めくくりに 異存はないのですが その理由つまり
 ★ それ(* =《常に未来にある物事の善悪の判定 同じく 行動の結果》)を知らない今の本人に、善悪は信ずるか、推測するしかないでしょう。
 ☆ には 異議があります。つまり異議は 上に掲げた問題です。
 
 ☆☆ (No.13) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ ドクターレクターが悪であって
 ☆ というのは この人間が 人肉食について おのれの心において まことか それとも うそかを 判定することに基づきます。
 存在としての善を欠如させるゆえ 悪だと判定する。判定するけれども その嗜好は 止められない。――というときには 善の完全な欠如に近いという状態であるでしょう。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりは 基本的には あるいは 第一次的には こうです。
 ○ 一つひとつの事柄についての 意志による内面における判断 および 外面における行為 これの善悪は 心に うそがあるか無いかで 判定する。そのことを 本人は 知っているという意味である。
 ☆ もし 本人が もはや 善悪の判定を決められないとか 結果を待って決めるのだとか いうのでしたら それは 二次・三次の派生的な事態だと見ます。すなわち うそを まことだと見なしたいという自己錯乱に みづからが みづからを 落とし入れる。つまり そういう悪の意志行為であると捉えます。
 ▲ 悪魔は 本心から うそを言う。
 ☆ と言いますが そこまでには到っていないとも言えます。でも 自己錯乱は やはり 悪です。ドクター・レクターも 自身では 分かっているはづです。それとも 悪魔の本性に近づいているかです。

 したがって すでに みづからが そのウソかまことかを判定し得なくなっているとすれば たしかに 広い帯域において 情況や事態を注視していかねばならないでしょう。一人でも多くの人びとの的確な対応が 望まれます。

 * 考えの変化があります。もし 霊が 第一の死あるいは第二の死の状態を 霊として 包むという情況が 原則に沿って 考えられるならば――という意味は 基本的には 元の善を回復することができるという原則が 有効だという意味ですが そうであるならば―― その第一の死も 実際に 人間に起きるかに思われます。第二の死に近い状態も 起きるかも知れないと思うようになりました。
 ただし 後者のほうは 第二の死の状態になったとしても その状態が 社会的な必要性あるいは必然性を持たないのなら ほとんど 意味がなく 起きないと思われるということ。そして やはり 《近づく》だけに限られるであろうという見方です。
 必然性というのは その《第二の死》という悪を 何らかのために 善用する必要があるかどうかです。

投稿日時 - 2009-02-15 18:58:53

ANo.19

maimaisusです。

(1)に対しての回答ですが。
そうであるならば、尚更、善の欠如が悪だというのは、間違いだと思われます。
そうであるならば、前提自体が成り立ちません。
したがって、(2)も存在は、善の欠如としてではなく、善性のゆがみとして存在しなくてはならないと言う訳です。
そう言う意味では、究極の悪とは、自身以外の全ての抹殺(自分以外の存在を全て殺す)ではないでしょうか。

(3)はそう言う意味なら存在するといえます。

 

投稿日時 - 2009-02-15 14:12:00

補足

 maimaisusさん 対話・交通する人間どうしの関係として重要な分岐点において なんら きちんとした意志表示を行なわずに 補足要求がつづいています。わたしのほうは そのつど 一回切りの回答だと受け留め 応答してまいりましたが 今回も 結論のみ述べて 根拠については いっさい触れずの文章でしたね。
 ロボット投稿を相手にするつもりで 応えてまいりましょう。

 前回(No.18お礼欄)の(1)(2)(3)とも 互いに つながっており 全体として まとまった内容です。どれか一つが 間違いで ほかのものが妥当であるということは あまりないはづです。
 ☆☆(No.18お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (1) ひとは 個人として存在しますが その個人としての独立した存在そのものにおいて 社会的な互いの関係性が 存在するという見方。
 この社会的な関係性としては 死後にも ほかの人びととの関係において 何らかのかたちで 存在しつづけます。それは 端的に言えば どういう人格であったかが 存続するのでしょう。
 したがって 第一の死ないし第二の死の状態であったのかとなれば 大きな問題になります。そういう意味では 存在は 善であり 存在として 善でありつづけると言えるようです。つまり 《無》に成り切るということがないという意味です。

 (2) 悪魔は 理論上 想定される絶対悪のことです。いま そう規定しています。

 (3) 《霊》は 《絶対》のことです。この《絶対》として想定された《霊》と 《わたし》との関係――これが 信仰ですが―― ここにおいても あたかも《霊》のはたらきを受けているという想定になります。あるいは 虚構ないし物語という意味です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 善の完全な欠如――精神の側面で 自由意志によって みづからのその自由意志じたいの抹殺を行なったというかたちが考えられます―― この第一の死(むろん 悪です)も それを 《信仰》において 《霊》が包むという状態が考えられます。そこから 善の回復が得られるという寸法です。
 第一の死が死なない つまり 善の回復が――そのとき 究極の悪は 質の変化を伴なって―― できなくなったという第二の死 これは 想像の上で このように 考えられます。人間の状態として 実在するか。

 これは ふと 思ったのですが この第二の死の状態も 仮りに 霊によって 包まれているとすれば――つまりは 言いかえると この絶対悪が 絶対と言いながらも それみづからのみで 他から独立して存在するということは あり得ないという前提を確認しうるならば―― 実在としても ありうるかも知れないという推測です。
 ただし おそらく その実在の可能性は その実在の社会的な必要性もしくは必然性 これがなければ やはり 無意味であろうとも 考えました。
 これは まだ ただの試行です。

投稿日時 - 2009-02-15 16:37:11

ANo.18

maimaisusです。

 >自殺は 自由意志をみづから抹殺するという《存在=善》の欠如そのものですから とうぜん 悪です。

やっぱり存在が無くなるということは無ですよね。
それに、みずからをぼく抹殺もそれ自体が自由意思の一つですしね。

>或る種の霊を残したかに ほかの人びとには映ります。そして いじめに対して 抗議しているかに見えます。けれども これは 悪です。完全なる悪です。つまり 理論上 第二の死です。

これも、生きている人間の問題で、死んでしまえば、その人自体はどうこうでいない訳ですから。

まあ、霊がいるかどうか、悪魔がいるかどうかの話しをすると、形は、どうであれ、いますね。確かに。

自分と、周りそしてより広い幸せが、善、そのために、相手をより理解しあい、足りない物のを、補いあう、愛。
に対し
悪魔のかたちは、核となる欲がありそれを増強させた物と言えるだろうか。

そう言う意味では、それに近い人間は存在する。=それに近い意識も存在する。

霊は、前提が難しいのでなんとも。
しかし、霊とは別として、ひとの記憶や、情報として残っている以上、何等かの力の流れとしてあるものと思われる。

投稿日時 - 2009-02-15 11:47:27

お礼

 ご回答を読みづらくしている事柄を 指摘いたします。反論があれば どうぞ。

 (1) モノがある・なしと 存在があるか無いかとは 一概に 同列に扱うわけにはいかないでしょう。
 水不足だ・空気が希薄だ・お金が足りないといったときの《無〔に近い状態〕》と 存在・特にここでは 人間の存在について 一般に《亡くなる》と表現される・その限りでの《無》とは おそらく次元を異にすると言っていいのではないでしょうか。
 これは 死後の世界といったことの問題ではありません。ひとは 個人として存在しますが その個人としての独立した存在そのものにおいて 社会的な互いの関係性が 存在するという見方のことです。
 この社会的な関係性としては 死後にも ほかの人びととの関係において 何らかのかたちで 存在しつづけます。それは 端的に言えば どういう人格であったかが 存続するのでしょう。
 したがって 第一の死ないし第二の死の状態であったのかとなれば 大きな問題になります。そういう意味では 存在は 善であり 存在として 善でありつづけると言えるようです。つまり 《無》に成り切るということがないという意味です。むろん 《完全な悪の状態に陥ったのではないか》という問題も そこには 入っています。

 (2) 悪魔は 理論上 想定される絶対悪のことです。いま そう規定しています。

 (3) 《霊》は 《絶対》のことです。この《絶対》として想定された《霊》と 《わたし》との関係――これが 信仰ですが―― ここにおいても あたかも《霊》のはたらきを受けているという想定になります。あるいは 虚構ないし物語という意味です。
 たとえ 同じ神を抱いているのでないとしても 《信仰》としては 同じ類型であるので 人びとは 関係性ないし共同性を持っており その人の固有の物語(つまりあるいは 生涯をつうじての境涯)がどうであったかは 他者にも かかわっているというのが 現実なのでしょう。

 以上は 特には 次の文章について 評言を与えたものです。
 ★ 生きている人間の問題で、死んでしまえば、その人自体はどうこうでいない訳ですから。

投稿日時 - 2009-02-15 12:10:13

ANo.17

maimaisusです。

んー、brageloneさんの論理、存在は善を踏まえてお聞きしたいのですが、善が欠如すると言う事は、存在が欠如するという事なので、善のへそ曲がりである悪もまた善という事で、善の欠如=悪は理論的に成り立たないと思うのですが。
正確には、善の欠如=無って事ではないでしょうか。
もし、善が欠如して悪になるなら、存在=善・悪であると言う事になりますね。今までの話から行くと。

投稿日時 - 2009-02-15 00:31:35

補足

 補います。

 いじめに遭った者が 死をもって 抗議することがあります。抗議であるかどうかも分かりませんが 自殺という行為を 自分の道として 選択することがあります。
 仮りに自殺未遂となったとすれば そのときには 善なる存在が欠如した状態に一たんなったが あたかも魂が残っていて これをとおして 元の善=存在が 回復したという虚構を持つことも出来るかも知れません。
 未遂になろうがならなかろうが 自殺は 自由意志をみづから抹殺するという《存在=善》の欠如そのものですから とうぜん 悪です。
 完全にこの世を去ったという場合 或る種の霊を残したかに ほかの人びとには映ります。そして いじめに対して 抗議しているかに見えます。けれども これは 悪です。完全なる悪です。つまり 理論上 第二の死です。
 つまり 第二の死などという虚構が あたかも 現実であるかに見える事例であるかも知れません。

 練れていないのではないかとおそれます。いま 考えたものです。

投稿日時 - 2009-02-15 05:36:20

お礼

 善の完全なる欠如= 第一の死 という状態において 理論上 もしくは 論理として たしかに 存在じたいが 欠如してしまうかたちが 描かれます。
 この問題は もしそうだとしても これも 理論上になりますが たましい(正確には 霊 つまり 何ものかは分からない つまり なぞ のことですが)として 存続しているという想定です。
 言いかえると 信仰の問題です。言いかえると 《絶対》と《わたし(なる存在)》との関係の問題です。有神論および無神論 どちらの信仰においても この《不思議関係》が なお 第一の死の状態にあっても はたらくという想定です。
 つまり 元の自然本性としての善=存在を 回復することができるというものです。

 繰り返しますと 善が完全に欠如してしまって 《悪》だけの状態になった場合 その場合にも元の善は 生きていると考える そういう物語です。
 ここから想像を伸ばして もし元の善を回復することができない状態を想定するとすれば――それが 《第二の死》とよぶものですが―― それは いったい どういう現実か と問うています。ただの絵空事であるのかどうかです。
 これまでにおいて 得られている回答は 次のようです。
 《第二の死》は 人間には 起きないのではないか。ただし 起きているという観想も ひとによっては 持たれている。そして それに近い状態に ひとは なることがあるのではないか。となっています。

 たしかに 鋭く いいところを 突いていただきました。

投稿日時 - 2009-02-15 05:16:47

ANo.15

maimaisusです。

少々お伺いしたいのですが、今の段階でも

悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を言うと推し測られます。

って考えているのですか?

投稿日時 - 2009-02-14 21:37:14

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 今の段階でも

   悪の究極とは 人間存在にそなわった善が すべて 欠如した状態を
  言うと推し測られます。

 って考えているのですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ その死が固定する前の段階である《第一の死》としては 現実でありうると考えております。
 固定してしまった《第二の死》 これは 理論上 あると考えており 現実に 人間が その状態になるかというのが この質問です。
 感触として得ている内容を さらに つけ加えれば 《この状態に近い場合が ありうるのではないか》というものです。

投稿日時 - 2009-02-14 21:54:03

ANo.14

[ううーん。
 ちなみに そうだとしますと この究極の悪を体現し その死とも呼びうる悪が 固定してしまった《第二の死》の状態にあるという人間は 現代人には いますか? いませんか?]

について一言まで
brageloneさんの定義に合致する現代人はいないですね。ただ眼に見えない究極の悪に踊らされて《第二の死》の状態に陥りつつある者は何人かはいますね。知ってやってるか知らずにやってるかは問題ではなく、その効果や結果から同等とみなされるということですね。これがあの世の評価ですね。
それから、キリスト教でいうサタンはかって大天使の1人が地上に生まれたときの名前ですね。聖書以前のはるか遠い昔ですが実際に存在して霊能力にも優れていたから神近い人物であったのですね。サタンとして生きた後は、地上に生まれたことはないですがいまだに悪さしてますね。ある領域に閉じ込められて悪さしか考えないような魂は死んだも同然ですね。これを魂の死と呼んでますね。消えるわけではないんですね。
聖書には書いてないことばかりですけど、疑問を持った者は誰しも数十年もすればわかることです。

投稿日時 - 2009-02-14 21:20:10

お礼

 mmkyさん ご回答をありがとうございます。

 ★ brageloneさんの定義に合致する現代人はいないですね。ただ眼に見えない究極の悪に踊らされて《第二の死》の状態に陥りつつある者は何人かはいますね。
 ☆ そうですか。なるほど。次のサタンの場合と同様に 《近い》という状態であると 分かるような気がします。だれが どうかということは わたしには 分かりませんが。
 
 ★ それから、キリスト教でいうサタンはかって大天使の1人が地上に生まれたときの名前ですね。
 ★ 聖書には書いてないことばかりですけど、疑問を持った者は誰しも数十年もすればわかることです。
 ☆ 《観想》ということをとおして 得られる知見は ないとは言えないと考えます。現代では 稀れだとは思っていますが
 ○ 異言
 ☆ という現象が起きるとは 聞いております。
 ▲ (パウロ:コリント前書12:10) ~~~~~~~~~~~  
 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そして たしかに 《異言を解釈する預言のほうが 重要である》とも 言ってはいますが 現象を否定すべくもないと聞いています。

 それと もう一点。すでに イエスがそれらに勝利したということも 大事だと思います。後遺症のごとく つづいているかに思われます。

 そのような究極の悪をも 人間が 知性を用いるだけによって 善用することができるようになれば しめたものなのですが。

投稿日時 - 2009-02-14 21:48:53

ANo.13

映画「羊たちの沈黙」で悪の権化であるドクターレクターが、
アウレリウスを語っています。
目に見えるものを手に入れようとする非常に強い欲求。

これは、人間故の情動、衝動であり善となり、悪となります。

一方で、神(神学の神よりも広い意味かもしれませんが)のおぼし召しは、
情動に由来する善とする理由も悪とする理由もありません。
宇宙の意識とか宇宙の意思という表現をする場合もありますが、
人間から見て、これを善の位置に据えると、悪の位置も必然的に
変わらなければなりません。
いわゆる人間生活における善悪と神、宇宙、ガイヤなどは、
善悪は善悪でも別の言語を使用しなければなりません。
共通する部分がないとは言いませんが、明らかに異なる概念であって、
意識して分けておかないと訳が解らなくなるように思われます。

最大の違いは、前者は存在を含め死を悪とするが、後者では必ずしも悪とならない(あるいは
知りえない)ことでしょう。

>《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》
 ということから、究極の悪と人間にとっての真の敵は違うものに聞こえます。
ドクターレクターが悪であって、羊の救出が善であるのは誰にでも単純に理解されます。
一方で、究極の悪が無いことも解ります。
でも、これは人間にとっての真の敵とは、異なることのようにみえます。

善の不存在、第二の死といっても、上述の人間の善悪と神の善悪との関係から、
いわゆる善悪は二重に折り重なっていると思います。

20世紀最大の悪人ヒトラーの所業は、もちろん悪なのですが、
もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪とは言えませんね。
とはいっても、人間にとって言えば、ヒトラーの再来を許すことが、
ヒトラーの所業に匹敵する真の敵であるとは言えると思います。

投稿日時 - 2009-02-14 15:38:14

補足

 bananasandさん ご回答をありがとうございます。

 今回は 残念ながら 
 1. アウレリウス
 2. 神(神学の神よりも広い意味かもしれませんが)のおぼし召しとしての善悪
 ☆ これらが はっきりしません。《羊たちの沈黙》については ヱブ上で 《あらすじ》を大体 把握しましたが 《アウレリウス》は 出て来ないのです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 目に見えるものを手に入れようとする非常に強い欲求。 /
 これは、人間故の情動、衝動であり善となり、悪となります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《人間故の情動、衝動》は ここでは 心において まことかウソかで 善悪を判定してください。また その人の主観の問題です。本人は 知っています。
 ★ 情動に由来する善とする理由も悪とする理由もありません。
 ☆ 《神のおぼし召し》からすると ということですが それは 分からないのです。また 判定のために 持ち出しません。主観の中で たとえ持ち出しても それは その人ひとりだけの判定基準であるに過ぎません。《わたし》にとっての まことか うそか 善か悪か これだけを扱います。(普遍性について あとで もう一度 取り上げます)。
 ☆☆ 《究極の悪》≒《人間にとっての真の敵》
 ☆ としたのは ほかのお応え欄で述べたように その内実は 《話が通じない》という事態を招くことです。これが 《敵》だという最大の理由です。一生 話も心も通わないという問題です。

 ★ ドクターレクターが悪であって
 ☆ というのは この人間が 人肉食について おのれの心において まことか それとも うそかを 判定することに基づきます。
 存在としての善を欠如させるゆえ 悪だと判定する。判定するけれども その嗜好は 止められない。――というときには 善の完全な欠如に近いという状態であるでしょう。もし この嗜好をやめるくらいなら 人間をやめるというまでに意志を固定し始めたなら それは 第一の死の究極の状態に限りなく近づいたと同時に その第一の死が死ななくなるという第二の死にも 馴染んで行ったことになるでしょう。

 思うに――思うに ですが―― 第一の死の状態になっても なおまだ あたかも魂が残っているというかのように 存在としての善を回復することは可能であるように思います。そして 人間が 現実に その第一の死の固定という究極の死に到るというのは 考えられないように思えます。

 これらを 神から見たら どう見えるか。これは 分かりません。言いかえると 人それぞれの主観において 想像することは 自由です。もし仮りに 普遍的であるという解答が得られたのなら その人は みづからの主観を みなに 披露すべきでしょうね。これを 人それぞれが 判断します。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 とはいっても、人間にとって言えば、ヒトラーの再来を許すことが、
 ヒトラーの所業に匹敵する真の敵であるとは言えると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ といった主観を共同化しうるような内容の解答が 得られるかも知れません。

 * 総じて言って 今回は 中身が いささか あいまいであるように思えるのですが。

投稿日時 - 2009-02-14 17:29:32

ANo.12

またまたオコリザルです。
A11のデットリーなゲームをさらに面白くするルールです。

私が勝手に決めました。

死にたいと言う亡者を殺すことで答えると殺人衝動が起こります。
大抵の方々はこの殺人衝動を抑えるために、生きることお蹂躙して気を紛らわせます。
これが性欲です。
本質は快楽殺人犯志願者です。
brageloneさんに言って置きますが所詮現実の愛の営みとは目的が違うゆえ無縁。よって無罪でも無害でもあります。
さて、本当に思い余って亡者を殺してしまうと、(存在の場合は)あたまから角が生えるかわりに、行き場を失った縁起ゆえ実社会で殺人を犯すことになります。一昔前は鬼を娑婆に養って置けば事が済んだのですが承知で出来るでしょうか。
そのような困った問題の答えを自分で出して亡者の願いを聞き届けることが供養です。
この勝負を買うとすぐ方が付きますよ。

投稿日時 - 2009-02-14 02:17:45

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 誤解があるかとおそれますが 前回のやり取りを継ぐとしますと わたしには 別の見方があります。

 ★ 亡者
 ☆ とは およそ 善と悪との見分けがつかなくなっている人間だと定義します。それは 当然 自分の心の中のことは ウソでないかウソかの見分けくらいはつくのですが それよりも 社会の中での勝負の問題に接して ウソでない善が勝つかウソのほうが勝つかによって 影響を受けるということです。果ては ウソか まことかではなく どちらのウソが勝つかの問題になります。

 そうなると 内面のまことかウソかは もうどうでもよいことになります。善か悪かは 内面の判断の問題ではなくなり 世の中の強いほうが 仮りの善だという認識になります。仮りの善が 永遠に続くという見方です。そうなると 寄らば大樹の陰であるどころか 地獄の沙汰も金次第という《判断形式》が みづからの意志行為となって 固定して来ます。それでも
 ★ 死にたいと言います。
 ☆ ということでもあるのでしょうね。心が 失われていなかったのでしょう。しかも そのあと 善の回復に向かうのではなく そうではなく 善の欠如の完全性を目指して 絶対悪なる悪魔のもとへ馳せ参じるということも起きるのでしょう。

 この亡者を忌々しく思う人が その者に対する殺人衝動を起こすという場合ですか。どうなんでしょう。
 分かっていることは もし そこで 衝動が起こるとすれば その者のほうにも 亡者におけると同じような悪が巣食っているということなのでしょうね。亡者の内面における《善の欠如》を 自分の中にも見るからこそ その欠如をどうにかしたいと思うのでしょう。

 その二人のあいだで 互いに どちらも
 ○ ほろびなさい。旧き人を脱ぎ 新しき人を着るために ほろびなさい。
 ☆ と言い合いをすると よいのではないでしょうか。
 ★ あたまから角を生やして
 ☆ 互いに 徹底的に 互いの欠陥を憎み合い 互いに その存在の善をみつめる地点へ出るよう ののしり合うとよいでしょう。
 ○ おまえは 亡者だ。
 ☆ と言い合いっこすると よいでしょう。方がつくかどうかは 分かりません。進展はあるでしょう。

投稿日時 - 2009-02-14 16:25:04

ANo.11

オコリザルです。
A4の続きで思考実験を名目にした肝試し大会です。

>一般の人が考える非業の死とは違います。
そういえば業によらない罪の無い死なれば安心していられると思うのですが、一般には非業の死は恐怖とされていますね。

地獄の業火に焼かれる(業火ですよ!)亡者には非業の死はあくまでも恐怖であるはづです。
存在の本質、例えるなら魂は、死後彼岸にわたります。そこでは先達の計らいを受けるまでも無く自ら業が無いことを悟ります。この彼岸の悟りたる非業の死であれば、要するにいかなる苦もない。したがって死後は誰もが存命中に煩わされた燃え盛る業火と縁が切れて入滅を果たします。ところがそのような故人も存命中は真実の死を知らない。したがって世間様のご期待の通り苦痛と恐怖にまみれた、亡者の案内どおりの非業の死を体験します。それはこの世に、肉体と一緒に脱ぎ捨てて逝く仮面です。その苦痛の叫びを受け取るのはお葬式に参列した人々です。そして死者に許しを請いたくなります。この辺は先祖崇拝のダークな一面ですが、故人を全て仏と見なすのは正論です。このとき故人は非業ゆえに存命中の方えと伝播感染する亡者が第一の死を望む魔物です。存在とは無縁に、ただ偽者の死から死えと渡り歩いていく亡者です。娑婆を精神世界の中心にすえると、このような亡者とお付き合いすることになります。だからそのような場合は慈悲が必要です。

亡者がこのようにつかみ所が無ければおっかないですね。
除霊は霊媒師にお金を払って頼んでも無理ですから自分でしてください。(見抜ける私としては、いい迷惑でした)神様は、存在と無縁であることが決定的でして、感知しようがありません。
ですから亡者のお願いは自分で聞いてあげるんです。(それしかありません)
そうすると死にたいと言います。
その勝負に乗ってください。
それが慈悲を全うすることでもあります。

いや~。おっかないですね~。ほんとだったらこわいですね~。
でも、このような心理構造が日本人仏教徒の業の側面です。
その信仰が真摯であればお坊さんも神様も頼りになりませんから、自ら何とかしようとするでしょう。その場合は何を持って仏とするかです。自分に気が付いているかどうかです。人様に親切にして「救い」を助け合いでお茶を濁したりしていられないと思いますよ。亡者のゴミ掃除もしないでどんな顔をして「悟りたい」だの「救って欲しい」だの考えるんでしょうかね。

投稿日時 - 2009-02-14 01:50:45

補足

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 ★ ふつうに言う《死》
 ☆ の問題と絡めて 突いて来ましたね。前回わたしは この点は 保留していますからね。
 まづわたしの死生観を明らかにします。
 ▲ (ヨハネ福音10:18) ~~~~~~~~~~~~~~~ 
  ――だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそ
   れを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けること
   もできる。これは、わたしが父から受けた掟である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ みごと このイエスのとおりに行くと断言しているのではありませんが いまこう思っていても それは 誰に迷惑をかけることでもないと考えます。したがって 
 ★(No.4回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私の自らの死に様に対する認識やイメージは「解き放たれて自分に帰ること」です。そのような至福を思い浮かべます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というふうに 《イメージ》があるわけではないのです。言いかえると 死後のことは 何も考えてもいません。無記です。《至福》であるかないか 天国かどうか そのようなことを一切考えていません。もっと言えば どうでもよいのです。そういう死生観です。《死ぬ前に やりたいことを全部やっておこう。やり遂げて死のう》 これです。
 このイエスの言葉を聞いて 中には《彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている》と言う者もいれば いや《悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない》と言う者もいたと言います。

 ★ 非業の死
 ☆ とは ブッディスムでは
 ○ 前世の善因を受けないこと。また、そのさま。
 ☆ としての死だそうですね。ただし
 ○ 非業:《仏語。前世の業因によらないこと。》
 ☆ という意味もあるようです。こちらのほうをおっしゃっているのですね。
 ★ 存在の本質、例えるなら魂は、死後彼岸にわたります。そこでは先達の計らいを受けるまでも無く自ら業が無いことを悟ります。
 ☆ 《業因によらない》だけではなく 《業が無い》ということですね。

 ここで 話を端折ってしまいますが 問題は やはり
 ○ 三世をつうじての因果応報 / 善因善果(楽果)・悪因悪果(苦果)
 ☆ にあるのではないでしょうか。(1) 誕生以前および死後 これは 人間に分からない。分かったと言う人がいても その真偽は 永遠に確かめられない。どこまでも行っても 切りがないという悪無限に陥ります。 (2) 善行をしたから善果を得ると決まっていれば つまり悪行をしたから悪果を得ると分かっているのであれば それは 世の中すべてが 人間の理性能力と努力とで 決まると言っています。相対的なものごと あるいは 相互依存関係にあることがら これが それぞれ人の善あるいは悪の行為によって 区分けされ その意味で 調えられるということになります。もしそうであれば だれもがと言っていいほど みなが そうするのではないでしょうか。逆に いちど間違いを侵したなら もうあとは悪因悪果だというのであれば だれもが腐ってしまうでしょう。
 因果応報説のあほらしさです。そもそも ブッダは このような輪廻転生を 説いたのでしょうか。説いたとすれば ゴータマの馬鹿野郎です。
 ですから この因果応報の観念の渦の中に飲み込まれて 欲望や悪のとりこになっているような《亡者》については たしかに
 ★ 亡者のゴミ掃除
 ☆ が必要となるのでしょうが 考えてもみてください。亡者になる素があるわけですから その元さえ断てば もはや 闇の子らは いなくなります。
 ★ そうすると〔* 亡者は〕死にたいと言います。
 ☆ という暗闇。
 ▲ (伝パウロ著: エペソ書5:8) ~~~~~~~~~~~~
 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。

 ▼ (パウロ:コリント前書13:10) 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ブッディスムが 《部分的なもの》であると わたしからは 言います。とにかく 《仏教は 暗い》。親鸞のみだと いまのところ 考えています。

 ★ そうすると〔* 亡者は〕死にたいと言います。
 ☆ このような闇の子らは たしかに 第二の死を 永遠に耐える悪魔のもとに 身を寄せるもののようです。そこなら 安心だと思うみたいです。善のかけらも亡くしてしまえば 完全に悪となり その完全さが 神からの光のように思われるのでしょう。

投稿日時 - 2009-02-14 15:40:04

ANo.10

究極の悪とは正義のことだと思います。人を憎んで殺したり、金に困ってものを盗んだり、賄賂を使って利益を得たりするのは、究極の悪ではなく、心の弱さの結果だと思います。究極の悪を行う人の心は公明正大で自身に満ちている必要があります。唯一それを可能にするのは、正義だと思います。

投稿日時 - 2009-02-13 21:24:15

お礼

 oilllioさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 究極の悪とは正義のことだと思います。
 ☆ ここには 分からない言葉が ふたつ あります。
 ○ 究極の悪: 《悪の究極》と言っても それは どちらでもよいのでしょうが それは 《善の完全な欠如=第一の死》そしてさらには《この第一の死が死ななくなるという第二の死》とは別に捉えられているのでしょうか?
 ○ 正義: これも 一般に なんとなく分かった気がする言葉ですが その内実は 分からないと思われます。

 ☆ これら 二つの概念を 等しいということは 感覚として 次の意味になるのではないかと推測しました。

 ○ 社会の安寧と秩序のためには 悪を行なうことに対して その行なう者を 何らかのかたちで 拘束しなければならない。いわゆる警察機能ですね。
 ○ 現行の法律では 極悪の犯罪に対しては 身体の拘束だけではなく 死刑という悪を内容とする手段で臨む。
 ○ こういった秩序のための行動をとるときには 《公明正大》な対策と処置が必要で 《自信に満ちて》行動しなければならない。
 ○ このように 究極の悪とは 社会正義をおこなうところに見られるものである。

 ☆ でしょうか?
 おそらく これは 法とその執行に関して 性格づけをするなら そういう側面があるのではないかという議論なのでしょうね。
 趣旨説明の中の《悪の究極》のこととは別でしょうね。人間ないし存在じたいが その本来の善を すべて 欠如させて 死の状態になること しかも その死が死ななくなって 固定してしまうこと これとは 関係なく 社会秩序の維持は 行なわれるでしょうから 別なのでしょうね。
 でも ありがとうございました。解釈が まちがっていましたら 指摘してください。

投稿日時 - 2009-02-13 22:31:02

ANo.9

maimaisusです。

 >【A】 《絶対悪》は 《第二の死》として 理論上 考えられるが これは 人間において 実在するか。

存在が善で在ると想定するなら、理論上考えられないし、存在もしません。
ってご自分の持論でしょに。

>(A-1) 第一の死: 存在としての善の完全な欠如 = 悪の究極の状態

としての存在はなく、善性の屈折の形みたいな事じゃあないですかね。
そうでないと、もともとの存在は善である理論が成り立ちません。

【B】の回答も、同じ理由で存在しませんが、現実の話とは切り離して考えるべきだと思われます。
そもそも、存在は善と言う考え方自体が、現実とか実在をあてはめて考えるには、不向きな考え方だと、思うからです。
過去の私への回答欄にも、現実とかの事は言っていない理論の話、そんな様な、内容の話があったと思いますが。

>北朝鮮のえらい人 あるいは 世界の警察を自認するアメリカ政府 それらの思想は 悪鬼に近いでしょうか。どうでしょうか。
 麻生内閣 あるいは 小泉政権は どうでしょう?

北朝鮮の偉い人と、アメリカ政府を一緒にしたらまずいですね。
そもそも、北朝鮮の偉い人に会ったことないし、アメリカ政府自体は思想的には、悪いとは思いません。ただアメリカ政府の偉い人たちがどうかは、よく知りませんので何ともお答えできません。
麻生内閣・小泉政権も同じ理由ですね。
本当の処はよくわからないので、無責任な事も言えないでしょ。


そうそう、書き忘れたので。
存在としての善の完全な欠如=悪ではなく、善の完全な欠如=無です。
従って悪も存在しない状態と考えるのが妥当という事です。理論上は。

投稿日時 - 2009-02-13 20:39:56

お礼

 ご回答を寄せていただき たいへんに ありがとうございました。
 
 ご見解が ちがっていて それは 前提が違っているということのようですね。
 わたしの提示した前提では 考えられないというご趣旨だと受け取りました。
 その点 了解いたしました。

投稿日時 - 2009-02-13 21:17:55

ANo.8

こんばんは、brageloneさん。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どこだったか 分からないだけではなく その話の中身も 覚えていない。というていたらく。

 ただし 《第二の死》ということは これまでに 触れたことがあったと記憶しています。

 ○ 善が完全に欠如した状態は 人間として 死だと規定します。
 ○ ふつうは この死が――なぜなら 善が欠如しただけですから その善を埋めればよいわけです それなのに―― しかも 死ななくなる。
 ○ 死の状態が 固定してしまう。
 ○ 埋め合わせればよいはじめの死は 第一の死です。この第一の死が 固定してしまって 埋め合わすことも出来なくなった状態 これが 第二の死です。
 ○ つまり 第一の死が 死ななくなった状態です。
 ☆ これは 人間として 実在するとお考えになりますか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【QNo.3417579 三身常住は 三位一体とどう違うでしょう】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3417579.html
右脇にくれないの傷跡(あと)ふたつですと?うーん。だとすると、仏さんは左利きか。脇に差すといえば…脇差し。で、傷跡ふたつとなれば、大小を腰に下げていた。で、右脇に跡なのだから自ずと左利きだと推察できようか。あかく跡が残るとは…よほどの力がかかったか、脇に差した大小が熱をもつかしなければこれほどまでに跡は残るまいに。仏さんに何があったというのだ。うーむ。

【QNo.4278933 命が大事ならば】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4278933.html
“肥料だってほかの動植物の死骸だよ。”

また、クッサイこと言うて  ヾ(-_- ) ちょっと ちょっと 無理がある
植物がテクテクテクと動物の死骸のとこまで歩いて行って
「お命ちょうだいいたす」とでも言うかー?
言うわけないやん。



ほーい、時代劇場バージョン?

敵討、仇討ち…相殺…家名の復興

【相殺とは】
http://www.kazu4si.com/HP/kaisyuu/nakami/sousai.htm
http://www5f.biglobe.ne.jp/~saigyou/sousai.html

投稿日時 - 2009-02-13 18:08:52

お礼

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ですが よう分からん。なんのこっちゃ?

 相殺すべき債権債務があるってことですか?
 何かのことで おあいこってことですか?

 ヾ(-_- ) ちょっと ちょっと 無理があるよ。

投稿日時 - 2009-02-13 18:25:11

ANo.7

maimaisusです。

>《死が死なない》絶対悪のほかに 限りなく絶対悪に近い究極悪があるかも知れません。
 言いかえると――どれだけの妥当性があるか分かりませんが―― 《永遠の死であり悪であるサタン》に仕える悪鬼 この悪鬼になった人間は いるのではないか。こういう問いも 派生していると考えることができます。

存在が善という前提ならば、それは、在りません、存在する限り、善なので、どんな形であろうと、それは善です。言うなれば、善のへそ曲がりです。

>それは 一般的な言い方では まづ《無視・無関心・取り合わない》なのですが 具体的には 《話をしていても 話が 通じない》という場合です。

これいに関しては、幾つかの要因が挙げられると思います。
単に話しても自分が負けるのが嫌で話さない。
精神的に、話している余裕がない。
話す気がない。
思考的に、そう言った話をする土壌がない。(これ、私とbrageloneさんみたいな感じ。)
まあ、他にもあるとはおもいますね。

>わたしは 妹の介護をしているのですが 或るとき かのじょから《お兄さんに面倒を見て欲しいと頼んだ覚えはない》と言われました。この種の発言によって 百回を超えて 絶望に陥りました。《悪鬼》ではないかと疑いました。

自分も似たような事、言われたことありますが、そんな風には、思いませんでいた。
何故ならそれは、自分が自分である為にしていることであって、相手がどう思うかは、相手のかってだと思っているからです。
あとは、そう言う人たちに、そう思わせないように、いかに相手を理解するではないかでしょうか。

 >(1) 《善の欠如》としての悪の究極 すなわち 《善の完全な欠如》は 考えられます。

考えられますが、前提状の話から行くと、存在しません。
そう言う、前提の話です。
従って、2.3.4.は存在しないって事でしょ。今までの話(他の質問を含む)で、そう言う話になっていたと思いますがね。

投稿日時 - 2009-02-13 14:42:44

補足

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 関連質問を出しましたので 注意が分散するかも知れません。
 まづは 整理します。

 【A】 《絶対悪》は 《第二の死》として 理論上 考えられるが これは 人間において 実在するか。

 (A-1) 第一の死: 存在としての善の完全な欠如 = 悪の究極の状態
 (A-2) ただし この第一の死も 《悪は存在しない》という前提に立てば 存在に拠って 欠如した善を回復することができる。
 (A-3) 第二の死: 第一の死が 確定し固定してしまい いわば 質が変化して 善の回復が望めなくなった状態 = 悪の究極のさらに究極の状態 = 絶対悪
   * (註) ここで 《いわば 質が変化して》を補います。

 【B】 第二の死の状態にあるものを サタン(悪魔)だと仮りにすると このサタンに仕える悪鬼というものが 考えられる。想像上・理論上考えられるこの悪鬼は では 人間として 実在するか。

 (B-1) もし仮りに 《悪鬼》なる状態の人間が実在したとしても それは 善の回復が見込めると思われる。
 (B-2) そこでは 《絶対悪》への《質の変化》は 起こっていないという想定になる。
 (B-3) 上の二つの事項の認識は それで よいか。

 ★ 存在が善という前提ならば、それは、在りません、存在する限り、善なので、どんな形であろうと、それは善です。言うなれば、善のへそ曲がりです。
 ☆ これは 《悪鬼》の問題についてですが 上の(註)――《〈いわば 質が変化して〉を補います》――および (B-1、2、3)を参照してください。
 もちろん これに対して 《そういう質の変化は 起こり得ない》という見解を示すことも あり得ます。それによって その悪魔に仕える悪鬼というものも 存在しないという見方のことです。
 あらためて お考えいただけるでしょうか。

 ★ 《話をしていても 話が 通じない》という場合・・・に関しては、幾つかの要因が挙げられると思います。
 ☆ これについては 要因・理由がどうであるかを問わず 《話が通じない》という状態を考えます。《咬み合わない・咬み合わせない》場合です。その状態が 一生つづくという場合です。
 したがって こちらの側の《理解の量も質も》 問いません。《通じない》という場合なら 少々おおげさであっても 《悪鬼》ではないかと疑うという場合を 取り上げます。内面を そのように 問わないで 話を進めて行って なるほど 疑いには 根拠がなかった(つまり 間違いであった)と分かれば それでいいという思考実験です。(要因を取り上げて 調べるより 早いと考えます)。

 北朝鮮のえらい人 あるいは 世界の警察を自認するアメリカ政府 それらの思想は 悪鬼に近いでしょうか。どうでしょうか。
 麻生内閣 あるいは 小泉政権は どうでしょう?

投稿日時 - 2009-02-13 15:49:57

ANo.6

へー究極の悪そう言う捉え方ですかなるほどね。

brageloneさん論から言うと、てっきり
善性の搾取。例えば快楽殺人とか、大量虐殺・戦争の誘導みたいなことだと思ってました。より多く、人間が死ねばそれだけ善性が減る訳ですから。

brageloneさん論からすれば、
>《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。
は、無いのでは。

投稿日時 - 2009-02-13 10:15:52

補足

 補います。

 《死が死なない》絶対悪のほかに 限りなく絶対悪に近い究極悪があるかも知れません。
 言いかえると――どれだけの妥当性があるか分かりませんが―― 《永遠の死であり悪であるサタン》に仕える悪鬼 この悪鬼になった人間は いるのではないか。こういう問いも 派生していると考えることができます。

 しかし この悪鬼の事例は 具体的に明らかにすることは きわめて むつかしいと思われます。その事例の情況をすべて説明しなければならないでしょうし その人の生まれてからの歴史をすべて説明しなければなりません。また その人との関係をも 明らかにする必要が生じるでしょうし そうなると こちら・つまりわたしの歴史をすべて説明しないと 判断がつかないと考えられます。
 この前提に立って 簡単な説明で済ませてもよいと思われる事例を 取り上げます。

 それは 一般的な言い方では まづ《無視・無関心・取り合わない》なのですが 具体的には 《話をしていても 話が 通じない》という場合です。
 わたしは 妹の介護をしているのですが 或るとき かのじょから《お兄さんに面倒を見て欲しいと頼んだ覚えはない》と言われました。この種の発言によって 百回を超えて 絶望に陥りました。《悪鬼》ではないかと疑いました。今では ほとんど安定していて ほぼ何の障害もない状態になっていますので 病気が言わせたのかと思われます。

 ほかの事例は もう一点 ほかの人間との関係において ありますが 要するに 話がかみ合わないし 交通が出来ないという場合です。すでに 公表していますが そういう場合もあると述べておきます。
 《お二階さんとのやり取り》も そうかも知れません。

 中途半端のままですが。

投稿日時 - 2009-02-13 12:52:21

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 brageloneさん論からすれば、
  >《第二の死》としての最終的な悪は 実在するものでしょうか。
 は、無いのでは。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (1) 《善の欠如》としての悪の究極 すなわち 《善の完全な欠如》は 考えられます。
 (2) それを 《第一の死》と呼ぶことも 考えられるでしょう。
 (3) 《悪は 存在しない》の命題にもとづくなら この《第一の死》として 善が完全に消滅したとしても なお 存在に拠って その回復が 得られると 理論づけることは できるでしょう。
 (4) では この《第一の死》が もはや 固定してしまうこと したがって 元の存在の善なることが 復活しなくなること これは ありうるか。
 ☆ こういう問いです。
 (4)は 《究極の悪なる状態》として 《第二の死》と呼ぶようです。この理論は 実在の人間存在において 現実となるものなのか。どうでしょう。

投稿日時 - 2009-02-13 11:04:23

ANo.5

こんばんは、brageloneさん。

★ とするなら、「書を捨てよ、町へ出よう」と。 
☆ この結論は 必然性が ありません。書の読み方を変えれば いいわけですから。


頬かむり、頬かむり  ( ̄^ ̄) しらんぷり~♪

「書を捨てよ、町へ出よう」と、言葉通りに町に行ってくれてたならば

“鬼の居ぬ間に”と、思ったんだけど… あまかった。

くそお、おぼえてろー。

●ここで 悪の究極の究極とは この《〈善の完全な欠如である究極の悪である死〉が死ななくなる》ことだと言います。


おぼえてますって、あれはたしか…

一休さんのお話の中にありましたね。

和尚さんが出かけたすきに “ペロリ”

―――――死のうと思ったけど、死に切れません―――――

という奇妙な話


他には…

【附子(ぶし)】
http://www.hal.msn.to/kankaisetu/chuyaku106.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%83%96%E3%83%88
ソクラテスの死の謎への疑問がわいてくる
風の便りで東洋に生薬というものがあることをこのときすでにソクラテスは耳にしていたのではないだろうか?西洋の医学の領域へ東洋の医学が侵犯してくるのではと脅威を感じていたとしたら…ソクラテスが呷ったとする毒杯の毒はトリカブトだったとしたら…あえて、毒杯を呷り自らの死をもってして西洋の医学の領域を守ろうとしたとは考えられやしまいか?いやそうではなく、ソクラテスは西洋の医学に東洋の医学をとりいれようとしたのではないかな?自らの死をもってして塊根の運用法を後世に課題として残したとは考えられないかな?

投稿日時 - 2009-02-12 18:37:10

お礼

 littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 いそがしいですね。コーチも たいへんだ。
 ★ おぼえてますって、あれはたしか… //一休さんのお話の中にありましたね。
 ☆ コーチが 思い出せない。《Q:ブッダは 神ですか》などを探したけれど 見つからなかった。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 和尚さんが出かけたすきに “ペロリ”
 ―――――死のうと思ったけど、死に切れません―――――
 という奇妙な話
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どこだったか 分からないだけではなく その話の中身も 覚えていない。というていたらく。

 ただし 《第二の死》ということは これまでに 触れたことがあったと記憶しています。

 ○ 善が完全に欠如した状態は 人間として 死だと規定します。
 ○ ふつうは この死が――なぜなら 善が欠如しただけですから その善を埋めればよいわけです それなのに―― しかも 死ななくなる。
 ○ 死の状態が 固定してしまう。
 ○ 埋め合わせればよいはじめの死は 第一の死です。この第一の死が 固定してしまって 埋め合わすことも出来なくなった状態 これが 第二の死です。
 ○ つまり 第一の死が 死ななくなった状態です。
 ☆ これは 人間として 実在するとお考えになりますか。

投稿日時 - 2009-02-12 19:22:48

オコリザルです。
私の自らの死に様に対する認識やイメージは「解き放たれて自分に帰ること」です。そのような至福を思い浮かべます。
一般の人が考える非業の死とは違います。
そういえば業によらない罪の無い死なれば安心していられると思うのですが、一般には非業の死は恐怖とされていますね。

悪の最後のはったりたる第一の死については、その勝負を買って第二の死を目指せばいいんです。勝負はあっけなくつきます。悪の認識する死は訪れません。

この勝負は本当ならすでに誰もが試して決着のついている問題です。
悪は心ないし無意識野での課題ですが、かつて流行した世紀末の予感やノストラダムスの予言した、かの大王様の封印合戦の内訳がこの悪意の死のはったりを笑い飛ばす行事でした。もう終わったことです。記憶を検索する場合は2000年でなく2001年に立ち会ってください。

投稿日時 - 2009-02-12 17:59:07

お礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 ううーん。むつかしい。
 ★ 悪の最後のはったりたる第一の死
 ☆ という言い方は おもしろいですね。《悪》が われわれに 勝負を挑むというわけですね。すでに われわれは 勝利しているとさえ 言っているので そしてまた 言っているからこそでしょうか 悪の残党が 《死を覚悟で 勝負を挑んで来る》ということですね。そういう見方は おもしろいですね。

 ★ その勝負を買って第二の死を目指せばいいんです。
 ☆ これは むつかしい。理解が 焦点を結びません。なんだかなぁ。
 ★ 第二の死を目指す
 ☆ とはどういうことか。
 (1) 悪からの呼びかけに挑むのだが もはや 勝負はついたとして 実際には 放っておくのか。
 (2) 何らかの応酬を こちらからも 行なうのか。それは たとえ 《〈第二の死〉につながるような振る舞い》であってさえ 果敢に こちらからも 何かを仕掛けるのか。
 (3) あたかも その悪を体現した人間を相手にして とことん おつき合いをするという意味なのか。つまり そのときには 第二の死へ導かれるおそれが あるが 気にしないということか。
 (4) あるいは おつき合いをするその前に すでに こちらから 何らかの仕掛けを出して 勝負に出るのか。そのときには あたかも 相手の悪の状態よりもさらにわるい状態を こちらは よそおって 相手に 度肝をぬかせしめるのか。

 ★ 勝負はあっけなくつきます。悪の認識する死は訪れません。 
 ☆ ということのようなのですが。ううーん。むつかしい。

 ★ この勝負は本当ならすでに誰もが試して決着のついている問題です。
 ☆ これも 同じようですね。
 ▲ 《わたし すでに この世に対して 勝利している》(ヨハネ福音16:33) 
 ☆ とは イエスが 言っているのだけれど。
 ★ かつて流行した世紀末の予感やノストラダムスの予言した、かの大王様の封印合戦の内訳がこの悪意の死のはったりを笑い飛ばす行事でした。もう終わったことです。
 ☆ これが 分からないのです。わたしは この予言者を てんで 相手にしていなかったですから。何のことやら という状態です。
 primeapeさんは ふつうに 説明をほどこすというスタイルでもないですからねぇ。
 留保しつつ 進みます。

投稿日時 - 2009-02-12 18:35:14

ANo.3

追伸まで
 ☆ というとき 《至高神のお考えに沿ってい》るかどうか その意味での《善 / 悪》は 人間に理解できるか。これが 問題になります。
 理解できなければ 《絶対悪》は 人間の存在としては ありえないとなります。どうでしょうか。

★ その通りです。全体の99.999999・・・% 人間の存在としては ありえないのが正しいですね。でも100%じゃ無かったのですね。至高神のお考えを知ってひねた人間が過去にいたのですね。過去人間として存在し今も多くの人を惑わしてますね。惑わされたものは無知の知だから《絶対悪》では無いといえるでしょうが。知っていた者は存在していたわけですから《絶対悪》も存在するわけですね。知るということは神に近い人物ですね。神に近い人物はひねれば《絶対悪》にり得るわけですね。キリスト教ではその例として天使がサタンになった話が残ってますね。
逆に言えば、全体の99.999999・・・%の人間は知りえないことだから人間にはありえないともいえますね。神近くの存在からいえば《絶対悪》はあり得るし、絶対多数の神から遥か遠い存在からいえば《絶対悪》はあり得ないという結論が出るわけですね。どちらも正しいですね。私は《絶対悪》の存在も知ってますし、それが極一部のひねたものであることも知っていますから、存在の肯定はしますが特異な例なので否定もするのですね。こういった特異な例を除くとほとんどは「無知の知」で悪を働くものですね。

投稿日時 - 2009-02-12 09:43:46

補足

 mmkyさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。

 いやぁー すごいことになってまいりました。
 ★  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 全体の99.999999・・・%の人間は〔* 絶対者なる神を〕知りえないことだから 〔* 《絶対悪》は〕人間にはありえないともいえますね。
 神近くの存在からいえば《絶対悪》はあり得るし、
 絶対〔* 的な〕多数の・神から遥か遠い存在〔* であるわたしbrageloneたち〕からいえば 《絶対悪》はあり得ないという結論が出るわけですね。どちらも正しいですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ その例として
 ★ 神に近い人物
 ☆ が挙げられています。
 ★ 神に近い人物はひねれば《絶対悪》になり得るわけですね。キリスト教ではその例として天使がサタンになった話が残ってますね。
 ☆ まづ 《天使》は 《人間》ではない ですね。そうすると この《神に近い人物》とは 誰かとなります。人間の言葉を用いて明らかにするということは できることなのでしょうか? どう お尋ねすればよいかも分からないのですが。
 ひょっとして エデンの園におけるアダムやエワなる人間たちのことでしょうか? 神と会話が出来ていたみたいですから。その神に逆らうほどの根性(?)を持ち合わせていたようですから。
 ただし 楽園を追放されただけで あとは おそらく 必ずしも 《第二の死》の状態にまで堕ちたのでもないようには 受け留めているのですが。

 ううーん。
 ちなみに そうだとしますと この究極の悪を体現し その死とも呼びうる悪が 固定してしまった《第二の死》の状態にあるという人間は 現代人には いますか? いませんか?


 ▲ (コリント後書11:14-15) ~~~~~~~~~~~
 だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
 だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 前回での
 ▲ (ヨハネ福音8:44) 悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その〔* 偽り者たちの〕父だからである。
 ☆ をも合わせて考えるのですが これら《サタン=悪魔》は やはり 天使の成れの果てであって 人間ではないと考えられます。そうして それゆえにも
 ▲ サタンに仕える者たち / 悪魔は 〔偽り者たちの〕父である
 ☆ というように いわゆる怒りの子らないし闇の子らの父であり親分であると理解します。つまり 人間が サタンに仕え 悪魔の子になるのですが 絶対悪を体現するというサタンは 人間ではない。と いまのところ 考えられるからです。
 いまのところ なんとも 分かりません。

投稿日時 - 2009-02-12 10:17:27

ANo.2

こんばんは、brageloneさん。

【QNo.4693818 読解の質問(2)】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4693818.html


ここのお話に出てくる主人公の僕の文末の「(…と言う大人がい
ないのが)残念である。」

この言葉なんだけれど、何で残念だって言葉が出てくるんだろう?

先の言葉に

「彼らまだ勉強をする義務がある。子どもに本の味を教えるのはちょっと早いかもしれない」

と、言葉がおかれてる

不自然なんだよなー。

何が不自然かといえば、僕も当時、子どもだった筈。

「僕は昔から本の虫だった。」←の言葉からしてかなりの本好きのよう。

仮に、僕が思うように

「彼らまだ勉強をする義務がある。子どもに本の味を教えるのはちょっと早いかもしれない」

と、言う大人がいて子どもから本を取り上げたとしたら…

子どもである僕も本を読むことはできなくなったことだろうに。

なのになぜ

「(…と言う大人がい ないのが)残念である。」

と言う言葉が出てきたんだろう?

図書館は僕の聖地、ズカズカズカと見知らぬ者がやってきて

場が荒らされるから?それに対する嫌悪感?

はたまた、誰も彼もが本を読み出すことで、子どもの内では

それまで僕しか知らなかったことを他の子どもたちも知ることになる。

すると、物知りとして一目おかれていたことが一目おかれることではなく

知っててあたりまえの常識となり、それまでの僕の存在が希薄化する。

そのことへの脅え?

うーん、これを書いている僕は…

読書とは教育ではなく、世知辛い現実を捨てて、豊かな世界に耽ってしまう人の性であり、現実を忘れさ
せる合法的な麻薬である。


と言うところからして、おそらく子どもではなく大人の僕なんだろう。

だとしたら…悔恨?

子どものしがちな無茶なことはせず、大人の命令に逆らわない従順な
児童だった。

他の小学生はのびのびと育って←僕もそうありたかったのかも?

時には子どものしがちな無茶なこともし、大人の命令に逆らい反抗もする児童期を過ごしたかったのではないか?

実体験を積む機会を逸してしまったことへの自戒?

とするなら、「書を捨てよ、町へ出よう」と。



【書店革命に挑む不思議な魅力の人(その2)】
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20070809/132092/?P=1&ST=spc_smb

投稿日時 - 2009-02-11 21:26:08

お礼

 littlekissさん ご回答をありがとうございます。

 ★ とするなら、「書を捨てよ、町へ出よう」と。 
 ☆ この結論は 必然性が ありません。書の読み方を変えれば いいわけですから。

 ▲ 「彼らまだ勉強をする義務がある。子どもに本の味を教えるのはちょっと早いかもしれない」と言う大人がいないのが残念である。
 ☆ 作者の考えでは
 ▲ 読書とは教育ではなく、世知辛い現実を捨てて、豊かな世界に耽ってしまう人の性であり、現実を忘れさせる合法的な麻薬である。
 ☆ というのであれば そのようには読むすべも持たない子どもたちが 読書をすると言っても 意味がないだろうと言っているようです。

 これは ただの趣味の問題です。こんな文章は どうでもよいものです。出題者の気がしれません。
 出版業・取り次ぎ業・書店業については よく分かりません。ブックオフの引き取り値段の安いこと。そんなものかなぁと思う。よく分かりません。回答は?

投稿日時 - 2009-02-11 22:07:39

ANo.1

brageloneさん、mmkyです。また難しい問いですね。この問いでやっと「悪は存在しない」に関するbrageloneさんの真意が理解できました。brageloneさんはあまりに高潔なので、例えば、内村鑑三先生のように多々理解できないとこがあるんですね。これはほめ言葉ととってくださいね。
さて、すこし、外れてるかもしれませんが、究極の悪というものを真理の目から見た回答を以下参考程度に書いておきます。

正確には善の欠如が悪ということではありませんが、「うそ」を「善の欠如=悪」と定義するということであれば、本人は善意であるが「うそ」を「正しい」と信じて、更にそれを広めることが究極の悪と呼ばれるものですね。現実にこういう人たくさんいますし、そういう人たちの死後は悪霊とか悪魔と呼ばれてますね。悪霊とか悪魔は積極的に「うそ」を広めているからそう呼ばれるのですね。これはある意味一面的見方なんですね、なぜなら彼らの側に立てば、「うそ」が「まこと」であるから、つまり善を広めているのですからね。
そういう意味で、「もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は実在するものでしょうか。」は存在します。しかしながら本人が「うそのまこと」に気が付けば「善の欠如=悪」がなくなるわけですから個人的な「悪」はなくなりますね。ただし、うそを広めたわけですからそれに感化された多数が悪なんですから、その責任はあるということですね。この答えは「悪は存在しない」に通じるものですね。
最初に戻って、善の欠如とはなんぞやということですが、本性の欠如だけでは善性の欠如とはいえません、すべての捕食動物は何かを殺して生き延びるしかないので、人間が殺すことを生きがいとしてもそれは、人としてではなく動物の本性と呼ばれるだけだからですね。動物の存在は悪とはいえませんね。人間の形のライオン、スフィンクスなどといえばよいだけですから。本性論は人間は動物にもなれるという証明だけですね。それを善とするか悪とするかは決め事であるといいたいのですね。
つまり、何を善「まこと」とし、何を悪「うそ」とするかは誰かが決める必要があるのですね。善悪は、人間の本性にもかかわるが、そんなに単純な問題ではないということですね。
「もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は実在するものでしょうか。」は存在します。といいましたが、過去多くの宗教家、哲学者、思想化がそのわなにはまって最終的な悪になっていることは事実なんですね。
一流であればあるほど、弟子も多く、大善ですから逃れられないですね。自らの善がうそであるとは信じられないというかたばかりですよ。私はいつも正しいこと「善悪の善」を答えているつもりですが、お前の言ってることはうそと思う人のほうが遥かに多いでしょうね。それは「うそがまこと」だからですね。
つまり無知の知が究極の悪ということなんですね。無知の知を悪とするには当然、真知が存在するためですね。真知がどこから来るかといえば究極の至高神からですね。言い換えれば、至高神のお考えに沿っていれば善、反すれば悪と呼ばれるのが真理ですね。
あまりに簡単すぎて高潔な哲学者には耐えられないかもしれませんが「まこと」はこれしかないのですね。

投稿日時 - 2009-02-11 18:36:29

補足

 mmkyさん ご回答をありがとうございます。

 項目として ふたつ ありますね。
 ひとつは これまでにも 問題としては挙がっていたもので 
 ○ 他の動物の生命については どうなのか。殺して肉を食べることは 悪ではないのか。
 ☆ というものです。これにつきましては まだ 逃げの一手です。
 ★ それを善とするか悪とするかは決め事であるといいたいのですね。
 ☆ のごとく 共同の主観がさだまれば いいのですがという姿勢です。(いい考えは ないでしょうか)。

 さて 
 ★ 「もはや元の善に戻ることのない《第二の死》としての最終的な悪は実在するものでしょうか。」は存在します。
 ☆ というお答えをいただきました。この問題です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・「うそ」を「善の欠如=悪」と定義するということであれば、本人は善意であるが「うそ」を「正しい」と信じて、更にそれを広めることが究極の悪と呼ばれるものですね。現実にこういう人たくさんいますし、そういう人たちの死後は悪霊とか悪魔と呼ばれてますね。悪霊とか悪魔は積極的に「うそ」を広めているからそう呼ばれるのですね。これはある意味一面的見方なんですね、なぜなら彼らの側に立てば、「うそ」が「まこと」であるから、つまり善を広めているのですからね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 分からないのですが 部分的には 疑問ないし補足要求を提出することができます。
 (α) 善そして悪の判断は 飽くまで 主観の問題である。本人が 知っている。なぜなら 自然本性としての心(《まこと》)に逆らったかどうかは 自分の心に 分かっている。
 (β) ウソを言うことが その相手に対しておよびその情況において 最善の策だと判断したばあいには うそも方便ということで それは 悪の善用だと考えられる。
 (γ) ところが そういう日常の次元をはるかに超えて
 ★ 本人は善意であるが「うそ」を「正しい」と信じて、更にそれを広めることが究極の悪と呼ばれるもの
 ★ 悪霊とか悪魔は積極的に「うそ」を広めている
 ☆ という事態があると言われます。これについても まづ
 (γ-1) 他者に向かって《善意》と言おうが言うまいが 本人は 心の善から逸れているかどうかは 分かっている。〔=(α)〕
 (γ-2) つまりは 《「うそ」を「正しい」と信じて》と言っても 本人の心の内では すでに 《うそ》だと 分かっている。言いかえると それは 自己欺瞞である。つまり 悪である。

 (γ-3) 次の文句は どう解釈すべきでしょう。
 ▲ (ヨハネ福音書8:44) ~~~~~~~~~~~~~~~
 悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。
 彼の内には真理がないからだ。
 悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり この《悪魔》の状態が 実在の人間として ありうるかです。あり得ますかねぇ。
 ★ しかしながら本人が「うそのまこと」に気が付けば「善の欠如=悪」がなくなるわけですから個人的な「悪」はなくなりますね。
 ☆ ともおっしゃっています。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 無知の知が究極の悪ということなんですね。無知の知を悪とするには当然、真知が存在するためですね。真知がどこから来るかといえば究極の至高神からですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ これは まづ 
 (δ) 《無知の知》というところは けっきょく 《無知》ということですね。言いかえると――ソクラテスのそれではなく―― おそらく 心の中で 自分のまこととしての・つまり善としての心が分からないというふうに取ると むしろ 分かりやすいように思います。
 (ε) 次の概念に対しては むしろ 人間の次元における(α)の自知の原則を持って来たいとは思うのです。
 ★ 真知 および 至高神=真理
 ☆ なぜなら これらは 人間にとっては なぞだからです。言いかえると
 (ζ) 人間の判断する《善》は 相対的なものであってよいという構えなのです。《悪》も 実際には 善の《部分的な》欠如であって やはり 相対的なものです。
 (η) 言いかえると この相対的な善か悪かを みづからの心の内で 判断できないというのであれば それは たしかに 悪としての無知です。

投稿日時 - 2009-02-11 20:02:39

お礼

 一般には ウソあるいは心のへそ曲がりであることを知っていて つまりは 悪であると知っていて これを みづからの心に逆らって おこなうのだと考えられます。
 (θ) したがって いまの課題は
 ○ 果たして 究極の悪 ないしは 絶対悪は 人間において 実在するか。
 ☆ です。

 ★ 言い換えれば、至高神のお考えに沿っていれば善、反すれば悪と呼ばれるのが真理ですね。
 ☆ というとき 《至高神のお考えに沿ってい》るかどうか その意味での《善 / 悪》は 人間に理解できるか。これが 問題になります。
 理解できなければ 《絶対悪》は 人間の存在としては ありえないとなります。どうでしょうか。
 あるいは そこまでの概念をあてはめるのではなく――つまり《絶対者》の視点を持ってくるところまでは行かなくても―― 限りなくその絶対悪に近づくという場合が あるか。これは 依然として 問いに残っています。そのような《第二の死》があるか。です。

投稿日時 - 2009-02-11 20:09:35

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