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解決済みの質問

命より大切なものはあるか

昔から「命あっての物種」といいます。また「人命は地球より重い」などといいます。

 しかし特攻隊員は国のために、愛する者を守るために、海の藻屑と消えました。またわが国では年間3万人以上が自ら死を選びます。その一方で尊厳死も認められません。

 何度か死のうと思ったことがありますが、死ぬ勇気さえありませんでした。しかし決死の救助活動を見ると胸が震えます。

 何かに命懸けで取り組む人がいます。彼らは「ここで死ねたら本望」と口にします。私には命を懸けるものがありません。

 果たして命より大切なものがあるのでしょうか?あるとしたら何なのでしょうか?

投稿日時 - 2009-04-04 01:58:31

QNo.4850985

困ってます

質問者が選んだベストアンサー

bird48です。
2度目の補足へのお答えをします。

>何故にそこまで命の尊さを大切になさるのですか?

そうですね
別に理由は無いのです
理由という理由は無いのです
私が歳だからでしょう
歳だから感じるまでのことです。

今年はすでに告別式に10回ほど参列しました
ほとんどが年配の方ばかりでしたが、それでも寂しく感じるものです
つい最近では、身内同様の人がお風呂の中で急に亡くなり、私も手伝ってお風呂から出してあげた事もありました。
その時には
むごいとか、汚いとか、そんなどころではありませんでした
もうすでに息をしていなかったのですが、早く救急車を呼んで病院につれていくだけで夢中でした
翌々日には日取りの関係で早々とお葬式にもなり、火葬や埋葬も済ませたのですが
終わってみると、なんとあっけない感じもし、寂しくもありました
あっという間に一人の人生が終わってしまったのです
87才でしたので、年に不足はなかったのですが
やはり、いた人が急にいなくなるというのは、何とも寂しく空しくも感じるものです。

また、すこし暗い話になってしまいますが
一年前には同級生の友人が自殺をしてしまい、大変な騒ぎになったことがありました
亡骸を同級生で運んで、自宅に迎えて安置したとき
枕元で私は思わず、馬鹿野郎と言ってしまいました
寂しい馬鹿野郎です
不思議にそのとき、薄目が開いたのを覚えています
(すこしだけ帰ってきたのかもしれませんね)
皆な何とも言いようのない暗い気持ちでいっぱいでした。

幾度も、人の死に目に立ち会ってきたせいなのか
こうして生きている事が不思議で貴重な感じがします
普段は何気なく聞いている人の声も、重く感じられるときがあります
(この声もいつかは聞こえなくなってしまのか、とふと思ったり)
死という暗い厳しさの前に
生きている事が明るく大切なもののように思えます

私も若いときには、死にたいと思ったことが何度かありました
でも歳をとって、この頃は死というものをかなり実感してきたせいでしょうか
生きている今の時間を大切にしたいと思うのです
大切にしなければいけないような感じもします。


前回の答えはだいぶ気張ったものになってしまいました
少し背伸びしたかな、とも思います
でもやはり、こだわりでも何でもなく
命が大切だと思うのは、私にとって人生の自然な結論です
命がある時間ですか
その時間をこの頃は感じます
重く明るく感じます。

投稿日時 - 2009-04-06 22:20:13

お礼

「死を思え」との言葉を思い出します。身に滲みて命の大切さを実感しておられるのですね。お話を教訓にいたします。何度もお答えいただきありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-07 05:48:40

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回答(62)

ANo.62

こんにちは

<命より大切なものはあるか
「命より大切なものはある。」と思っている人にはあるのでしょう。
「命ほど大切なものはない。」と思っている人にはないでしょう。
「命より大切なものがあるかどうかわからない。」と
思っている人には、命より大切なものがあるかどうかわからないでしょう。

<あるとしたら何なのでしょうか?
「命より大切なものはある。」と思っている人それぞれの命より大切なものでしょう。


さてそこにどちらが正しいとかって人類普遍の絶対回答なんて
あるわけありません。
この宇宙のどこかの隠された伝説の箱の中に
「これが絶対、人の命より大切な黄金のこんにゃく」とかないです。
古来より秘密にされた伝説の巻物に
「これが絶対人の命より大切なもの」ってのが書かれていても、
結局「それ全然大切じゃないじゃん」とか
「ああ、おれもそれ命より大切だと思うわ。」とかって
人それぞれが判断するんでは。

そんな訳でここの回答でも「黄金のこんにゃくだよ。」とか
「冷めたピザだわ!!」とか「んなもん命のほうが大切だよ。」とか
それぞれですよね。

投稿日時 - 2009-04-14 00:46:23

お礼

人それぞれとの回答は無効との暗黙の了解が哲学村にはあります。勝手に質問を締め切った後のお返事をおゆるしください。ご回答いただきありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-25 11:06:28

ANo.61

> 生にリアリティを持たせるには「尊厳」が必要だと思います。
> キューキューさんにとって尊厳とは何なのでしょうか?
なぜ「尊厳」がフォーカスされたのか?が
いまいち咀嚼できないようで
考えているうちに、迷ってしまいます。

生のリアリティを考える上で
尊厳にフォーカスしたのはどんな思惑ゆえでしょう?

投稿日時 - 2009-04-12 13:30:38

お礼

まあ、尊厳を必要とするのは人間に限りますが、聖書に「人はパンのみに生くるにあらず」ともありますね。しかも騎士道では決闘、武士道では切腹なともあるわけです。これらは死よりも体面を選んだといえましょうね。しかし痛みに苦しみ、ただ延命を図るよりは死を選ぶ。たとえは悪いですが強姦殺人に合った際、なぶられる最中に舌を噛み切るという選択もあるでしょう。人が人でなくなるとき生きることが第一の命題となるのか確信が持てません。利用停止を食らって忙しさもあり、お返事が遅れて申し訳ありません。また私の質問にお答えいただけたら幸いです。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-25 11:02:06

ANo.60

 No.53&45&42&39&31&22&9&6の bragelonne です。

 ★ やはり信仰は主観的現象にすぎないのでしょうね。
 ☆ ご賛同をいただき ありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 前にも触れましたが日本のキリスト教会では、初詣や焼香を容認することが多いようです。これは妥協して信仰の姦淫を犯すくらいなら殉教さえ勧める聖書の教えに矛盾していませんか? この質問の趣旨と大きな関連があると思います。よろしくお答え願います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。そもそも はじめに 教会という集団を認めたなら その《妥協》が 妥当であるかどうかの問題よりも前に 集団・組織としての規則で 行動をふくんだ表現の 自由を侵してよいかどうかが 問題になると思うのです。
 妥当な妥協であっても そういう行動を 集団として決めて 成員は それに従うという行為の形態が ひとの自由と両立するかは 問題だと思うのです。

 ただし 妥当性を問うという問題は それじたいは それほど 大きなことではないとも思っています。
 わたしは 仏教徒ではありませんが 母親は 毎日 仏壇に手を合わせて 生活していましたので 先祖からの仏教式で その葬儀をおこないました。父親は 仏教芸術やその歴史に関心をもっていましたが 信奉していたわけではなかったので その葬儀は 非宗教のかたちにしました。
 わたしの考えは 相手に合わせるというものです。基本的に そうします。
 ★ 信仰の姦淫を犯す
 ☆ というよりは 微妙なところも たしかに あるように 思うし感じたりもするのですが これは
 ○ 信仰の外面形態化にかんする妥協 あるいは 非妥協
 ☆ の問題であるように捉えています。つまりは どちらも 自由だと思うのです。一般に 相手に応じて 相手の流儀に合わせても よいように考えます。

 あとは
 ★ 聖書の教え
 ☆ ということに 議論の余地があると思います。《聖書の教え もしくは そこに書いてあること》は 重要です。しかも やはり 《文字は殺し 霊は生かす》だと考えます。意味は 《すべてが ゆるされています。でも すべてが有益なのではありません》というところにあると思います。
 《教義》が ひとを拘束することは ありませんし あってはならないと考えます。つまりは ひとりの人間の主観内面に すべては おさまるのが 信仰だと考えます。どうでしょう?

投稿日時 - 2009-04-10 00:05:38

お礼

私も信仰は主観内面にあると考えたからこそ教会を離れました。私の通った教会は信仰の貞操を強要しないものの、信仰の姦淫を忌避する方針を明言していました。私が未成年のとき、親族の法事の出席を拒否したとの証しをした際には、満場の拍手をもって迎えられました。この点で主張に一貫性があったことは今でも評価しています。私はキリスト教徒だったので、キリストを神として偶像崇拝をしないと契約したわけですから。もちろん信者以外には関係のないことで、世間一般の理解を得ることは不可能でしょう。とはいえ、キリスト教会は原理を振りかざしつつ妥協することに長けています。近代から現代にかけて世界の主導権をピューリタンが握ったのは当然の帰結といえるでしょう。もとはといえば私は中学時代にWASPに憧れて受洗したのです。しかしキリストが神性を纏っているものの、「主」すなわち唯一絶対神とは相容れないと考えるようになりました。父、子、聖霊の三位一体についても問い質しましたが、信仰がないと退けられました。キリスト教会はこのあたりを秘蹟としてあやふやにしています。結局は信じるか否かの問題と気づいて教会を離れました。イワシの頭も信心からといいますが、イワシは神ではないと師は語りました。イワシに祈る愚は別にして、祈る心の問題ではないでしょうか?主観内面において私は神と会話ができます。その内容を師は高く評価し、しばしば説教においても引き合いに出しました。その神はキリストでなければならないのでしょうか?自らの思惟を神意の上位におかないかぎり、神についての思索は許されると考えます。お返事が遅れて申し訳ありません。利用停止に触れるとこっそり削除されるようです。勝手ながらこの質問は締め切らせていただきました。また別の質問でお会いしましょう。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-24 08:29:16

ANo.59

maimaisusです。

そうですね、真理の追究は、私と言うモノの中で大切な構成物の一つです。その他の部分を挙げるなら、心の美学とか強さ面白さの追究も同じくらい大切です。
しかし、考え方によったら、命があり心があるからそれらの大切さが分かる、だから命より大切なものはないと言う風にも言えると思います。
だけどそれは、考え方ですよよね、心がなければ命のある意味がないとすれば、心の方が大切な訳ですから。
結果的に、一概には言えない、命より大切なモノがある場合がある、と言う処が正確な処だと思います。
なので、色んな方向から、物事を認識すると言う事は、より多くの考え方を受け入れる為には、必要な力の一つだと思います。



やっぱり私、説明下手ですね。
そう言った意味で質問した訳ではなく、私の言っている事がどうして伝わらないのかが、知りたかった処なのです。
そんなに、難しいこと言っているとは思わないのですが、可笑しな事とか回答しているのかどうなのか、pokoperopoさんから見てどうなのか知りたかったのです。

投稿日時 - 2009-04-09 23:31:24

お礼

私の率直な感想を述べるとマイマイサスさんは例示をされることが少ないように思います。ご自分の措定を認識させないと議論になりません。失礼ながらブラジュロンヌさんの意見より言い回しに反発しているように思えます。ブラジュロンヌさんは議論はいけないとは言っていません。けんかはいけないとされているが、もとをただせば交流とは口論でなければおかしいのではないかと問うているのです。必ず交流には意見の対立があるからです。和解や妥結は二次的な問題です。ですから口論ではない交流があることを立証しないかぎりは、残念ながらマイマイサスさんの負けです。利用停止を食らってお返事が遅れて申し訳ありませんでした。また私の質問にお答えいただければ幸いです。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-24 07:31:41

ANo.58

>> 命に現実感が持てるかということですね。
> 命・・・かな?
> ちょっとよく分かんないかもです。
生きるというコト(行為)については
それがいつまでも続くことではないということも含めて
何となくリアリティを持ち始めました。
命、っていうのは何なのでしょうね?
コトではないように思うし。
モノですかね?

投稿日時 - 2009-04-09 10:02:14

補足

生にリアリティを持たせるには「尊厳」が必要だと思います。キューキューさんにとって尊厳とは何なのでしょうか?よろしくお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-09 21:10:23

お礼

ご回答ありがとうございます。私はこういうわけで尊厳を失いました。

【特設】アンケート 外でズボンやスカートが破れてしまった経験 QNo.7965510 ANo.2

 渾身の生き恥晒しにも拘わらず、選外に漏れました。またもや『お漏らし』した気分です。

投稿日時 - 2009-04-09 21:07:23

ANo.57

No.24&29&34&37&51です。

んー無欲と言うより欲の向いている方向が、違うのかも知れません。
私は、真理とは何かを知りたいのです。




それと、苦戦と言うよりも、話が一方通行で、議論として成り立たないので何とも。
全然、悪意とか敵意は無いんですけどね。
説明が上手く通じないみたいで、段々泥沼状態です。
つーか何故??????????????????
逆に教えてほしいですね。pokoperopoさんから見てどうなんでしょう。

投稿日時 - 2009-04-09 00:26:50

補足

実はマイマイサスさんは勝利への秘策はお持ちなんでしょう?隠さずにおっしゃってください。

投稿日時 - 2009-04-09 20:51:23

お礼

なるほど真理の追求こそマイマイサスさんの命題なわけですね。戦況についてひとことコメントさせていただくなら、ただ応戦するだけではなく、大向こうを唸らせる定立をなさったほうがよいでしょう。相手の土俵に乗り込むのではなく、ご自分の土俵に引き込むのです。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-09 20:58:37

ANo.56

>彼らは「ここで死ねたら本望」と口にします

それは救助活動が自己の生命の本質を成すものだからです。

また祖国の名誉や自己の信念の為に、すすんで自己を犠牲にするような場合でも事柄の本質は同じです。
そういった生命の本質を成すものを失う惧れの為に生命を断つことは、かえって人間の自己保存欲と一致した行為と言えるのです。

投稿日時 - 2009-04-08 23:34:02

補足

よろしければ自己犠牲が人間の保存欲と一致する理由をお教え願えますか?

投稿日時 - 2009-04-09 20:45:45

お礼

生命の自他同一ということでしょうか。さすがに深いです。なるほどさすがに「アホか」と名乗られるだけのことはありますね。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-09 20:49:03

ANo.55

> 命に現実感が持てるかということですね。
命・・・かな?
ちょっとよく分かんないかもです。

> うーん、痛みは感じますがね。
老いたな、という現実を認めることが、ですか?
痛いけど、同時に、ここまでは意外と受容できる、という感じ。

> 街でウンコを漏らしてしまったらどう対処なさいますか?
え??分かんないすよ。
やってしまわないと。
でもpokoperopoさんは何とか対処されたのでしょう?
なら自分も何とか対処するのだろうな、と思います。
そういえば去年
田園都市線で線路異常などのトラブルが重なって
乗った電車が動かなくなり
車内に2時間近く閉じ込められたことがありまして
そのときは尿意や便意を催したらどうしようと思いましたが
どうしようもないよな、自分だけに降りかかる問題じゃないし、とか
そんなふうに考えたことを思い出しました。
もしかしたら、おばさんとかが気遣ってくれて心配してくれて
私はすいませんすいません、なんて謝りつつ、恥ずかしがりつつ
でも、助けてくれる人がいてありがたいな、とか
そんな感じだとイイかしら。
このご質問で私は何を見られてしまうのかしら。
あんまり裸にしないでくださいね(笑

投稿日時 - 2009-04-08 23:08:11

お礼

そういいつつもノッてくれるキューキューさんが好きです(^з^)Chu!

投稿日時 - 2009-04-10 07:39:04

ANo.54

おはようございます。
15分後に会議がありますので、それまでのお付合いです。

> それではどんな時に気づきがあるのでしょうか?
現実を直視せざるを得ないようなときですかね。
逃げられない、現実を認めなければならない、というようなとき。

> 気づきの教訓は日々の暮らしに活かされているのでしょうか?
このご質問の後には気づきの内容はどんなものか?が続くのでしょうか(笑
気づいた中身はなかなか言葉になりませんが
どういうことに気づいたか?といえば
「老いてきたな」という「当り前」や
「死とはこういうものかもな?」とか
その裏として「生きるとかはこういうことかな?」みたいなことです。
漠然とした概念のようなものたちが徐々にリアリティを持ち始め
また、そのリアリティを徐々に自分が受容し始めている、という感じです。
それは「教訓」というよりは
日々の暮らしの「支え」に近いものだと感じています。

投稿日時 - 2009-04-08 11:01:22

補足

もう少しキューキューさんのことを知りたいのです。キューキューさんはもし電車で出掛けて、街でウンコを漏らしてしまったらどう対処なさいますか?命の次くらいに大切な問題だと思います。実は私は成人してからそれを経験しております。ついでに小便も漏らしたことがあります。次回の参考としたいのでよろしくお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-08 22:19:27

お礼

命に現実感が持てるかということですね。うーん、痛みは感じますがね。それよりぽこぺろぽはこの瞬間、下痢気味で腹部に痛みを感じております。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-08 22:27:19

ANo.53

 No.45&42&39&31&22&9&6の bragelonne です。

 ★ 聖霊のバプテスマを授かった信者が異言を吐くのを何度となく目撃しています。取り憑かれているようにも見え、なんのこったかわかりません。
 ☆ 信仰は 無根拠ですから そのひとの内面において 何が起こっているのか 分からないとしなければならないようです。自分の中においても 何が起こっているのか 分からない場合があります。
 ――って 何だか 説教師のごとくになってきたのですが ひととおり 行き着くところまで 行ってみます。
 ▲ (コリント前書14:2-3) ~~~~~~~~~~~~~~
 異言を語る者は 人間に向かってではなく 神に向かって語っているので だれにもわかりません。かれは霊によって神秘を語っているのです。しかし 預言する者は 人間に向かって語っているので 人を向上させ 励まし 慰めます。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いづれにしましても 《神秘思想》というのは まだ なくならないように思われます。《観想=テオーリア》から 《理論=テオリ(セオリー)》が得られるように思われるからです。神秘思想を預言する・つまり解釈するという場合が あるかに思われます。

 ところが このように個人の主観をあつかっている場合は 異言のごとく 分かりがたいものでも まだ いいのですが この信仰が すでに二人集まったところで 互いの考え方や行動の 或る種の仕方で 規範などになった場合は どうなるのか。集団となり 組織をつくるまでに至るなら どうか。そのように個人の信仰を 複数の人間が寄り集まったところで 宗教として持った場合 その
 ★ 彼らの自家撞着をいかに指摘すれば慌てふためくのでしょうか?

 ☆ 異言や観想や神秘思想は ということは みなもととしての信仰とはという意味ですが これらは あくまで ひとりの人の主観内面における出来事だといわねばならないと まづは あらためて 思います。
 仮りに宣教や伝道をとおして 信仰が つたわったという場合でも それは 人間のことばという仮りの表現に すでにその人の自然本性にそなわった信仰としての心が反応したのであって 宣教者の人間としての力が それを 起こしたのではないと考えます。
 もし 人間としての力が 信じることを起こしたとすれば それは 伝える人と伝えられる人との両者の関係において 起こった出来事だと考えられます。どちらか一方によって 起こったとは考えないということです。
 伝える人とて 自分から その非思考を受け容れるように 信仰を編み出したわけではなく 代理としてのことば(聖書など)やそもそも世界のありさまに 反応し呼応して こころが動き始めたのだと捉えます。
 のちのアブラハムであるアブラムのばあいも ふるさとを去って 行けという仮りの言葉に反応し従っただけなのですから。外から来たにしても それと 中のこころとが呼応したゆえに 信じるは 起こったのだと考えられます。(この意味で 霊によるバプテスマが 普遍的な出来事なのだと思います)。

 この信仰が 外に出かけたとすれば どうなるか。それは 自殺行為です。
 外に出る場合も 次の条件において あり得ることはあり得ます。信仰の内容を 仮りに ことばで外化する・つまり 表現する・そしてそれは 疎外することにもなるけれども 仮りの表現だという条件が ついている。この条件が 自殺行為でないことを 担保している。
 この表現行為という 信仰の仮象を しかしながら 信仰の成否・当否・可不可などを判断する基準とすることは 出来ない。
 主観内面に起こる信仰は いわば絶対的に 自由である。良心・信教の自由として 公理とされている。
 言いかえると 教義に照らし 組織の規則に照らし 果ては 組織の責任ある地位に就いている者の判断に照らして ひとの信仰のあり方を いかなる形においても 権限にもとづき処分をともなったようなかたちで 批判するのは 人間沙汰ではない。こう考えられます。 

 * 信仰者の集まりとしては 研究会や広く文化活動あるいは 生活協同組合のような活動として 考えられるかも知れません。でも けっきょくは 信仰の階層などは あり得ないということが まったくふつうのことであるようになると思われます。

投稿日時 - 2009-04-08 10:31:08

補足

前にも触れましたが日本のキリスト教会では、初詣や焼香を容認することが多いようです。これは妥協して信仰の姦淫を犯すくらいなら殉教さえ勧める聖書の教えに矛盾していませんか?この質問の趣旨と大きな関連があると思います。よろしくお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-09 20:28:56

お礼

やはり信仰は主観的現象にすぎないのでしょうね。確かに異言を吐くのをこの目で見ているのですが、それはおそらくまじないの一種で、私がどっぷり漬かったせいなのかもしれませんね。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-09 20:37:15

ANo.52

#50

>空っぽの空間を共有するとはどういう意味ですか?

単なるイメージですので。
空っぽの空間が「私」の本体。
世界中の「私」の本体は同じもの。

投稿日時 - 2009-04-08 08:14:05

お礼

シフトさんはいつも端的でクールに、しかも深いお話をされますね。ムーミン谷のスナフキンのようで、ぽこぺろぽは仰ぎ見てしまいます。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-08 22:37:49

ANo.51

No.24&29&34&37です。

・・・何か、よこしまな事考えていませんか?誰かさん見たく回答数100越えとか・・・・・・・。失礼。


>つまりバッタの大群に農地を食い荒らされて、生活の糧を失ってもかまわない。ご自身は運命に身を委ねて生命を破壊しないとおっしゃるわけですね?

別にそう言う風に考えている訳ではなく、そうなった時に、失ったものと得たものが何なのか知りたいのです。
生命の破壊については、単純にそれだけの事に関して言えばただの現象でしかないと思っているからです。
それによって何がどうなるか、善悪どうなのかとかは、また別の問題と言う考え方をしているからです。
そして、それがあるものをある様に見ると言う事だと思うからです。(ある意味)
なので、私にとって「命」とは、在る形の一つであり、大切かどうかは別の問題と言えます。
こんな、書き方すると心がないように思われるかも痴れませんが、あくまでも思考上の話なので、私とと言う人間は心がない訳ではありません。ヨロシコ。

投稿日時 - 2009-04-07 23:48:23

補足

つまりマイマイサスさんは、バッタの襲来の顛末を他人事のように見極められるほどに、おそろしく無欲な方と受け取っていいのでしょうか?よろしくお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-08 06:04:14

お礼

皆さんからたくさんの回答をお寄せいただいたことは有り難く思います。しかし百回答越えなどという不遜な野望は抱いておりません。第一、当のマイマイサスさんが大台越えに最も貢献なさっているではありませんか。端から見るとちょっぴり苦戦なさっているようですが。私のマイマイサスさんの印象は「いい人」です。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-08 06:12:28

ANo.50

#49

>「私」とは私だけのものなのでしょうか?私はあなたの「私」をどう扱えばよいのでしょうか?

「私」という窓が人の数だけ付いている大きな部屋があり、
普通とは逆に部屋の外から中を見ている。
部屋の中には世界がある。

窓(私)からは世界を通して別の窓(他人)が見える。

部屋の外は空っぽ。
互いの窓は空っぽの空間を共有している。
空っぽの空間を通して私とあなたはつながっている。

そんなイメージでしょうかね。

投稿日時 - 2009-04-07 23:45:54

補足

空っぽの空間を共有するとはどういう意味ですか?よろしければお教え願います。

投稿日時 - 2009-04-08 05:29:55

お礼

てっきり逆で、部屋の中から「私」という窓を通して、他人の「私」を見つめていると思っていました。その窓を透かして見なければ、部屋の外という宇宙は見えないとも思っていました。私に自他に対するイメージの錯綜があったのでしょう。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-08 05:27:19

ANo.49

#48

>「私」とは何なのでしょうか?

私には「私」を名乗るものということだけしか分かりません。

>果たして命より大切なものがあるのでしょうか?あるとしたら何なのでしょうか?

もちろん「私」ですね。

投稿日時 - 2009-04-07 22:30:11

補足

「私」とは私だけのものなのでしょうか?私はあなたの「私」をどう扱えばよいのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-07 22:33:33

お礼

「私」とは命を超越したものなのですね。時に永遠に思いを馳せます。「私」はいつ生まれたのでしょうか。おかげさまでまたひとつ課題ができました。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-07 22:37:40

ANo.48

私の体は私の所有物であり、結果的にその命も私の管理化にはおかれていますが、管理者は私というだけのことで、私=命とはならないのではないでしょうか。
自殺者は自分の体を殺すことは出来るかも知れませんが、「私」という自分を殺すことはできません。
命は大切かもしれません。しかしそれは「私」とは関係のない話だと思います。
大切かどうかは価値という物差しによって計られますが、命に価値が「ある」、或いは「ない」はある意味「私」には関係のないことではないでしょうか。

投稿日時 - 2009-04-07 20:35:51

補足

「私」とは何なのでしょうか?詳しくお教え願います。

投稿日時 - 2009-04-07 21:56:57

お礼

私にある肉体は永遠から見たら瞬きほどの時間も持たないのでしょうね。ご回答いただきありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-07 22:00:23

ANo.47

> 「当り前」とは何のことですか?
曖昧な言い方ですんませんです。
あくまで予感なんですが
死の直前に「そういうことか」と悟ることは
案外、何でもないような当り前のことじゃないか、ということで
その当り前の中身は今は見えてないです。
日常でもないですか?
気づいてみたら、当り前だった、みたいなこと。
何でもないようなことの意味に気づいてトキメクようなこと。

投稿日時 - 2009-04-07 18:19:34

補足

考えてみれば何気ない気づきは日常的にありますね。それではどんな時に気づきがあるのでしょうか?また気づきの教訓は日々の暮らしに活かされているのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-07 18:59:07

お礼

私にもふとした瞬間に悩みがバカバカしく思えることがあります。しかししばらく経つと悩みに取り憑かれる自分がいます。この落差は何なのでしょうね。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-07 19:02:20

ANo.46

お返事ありがとうございます。

でも、難しいご質問を頂戴してしまいました。
> 死の直前に知れば間に合うのでしょうか?
これに答えられたら、私はもはや「死んでも構わない」状態です。
ただ、何となく予感としては
死の直前に「そういうことか」と悟るのではないかと思います。
多分、当り前のことを悟って納得して死んでいくように思います。
ドラマティックな悟りを得たいなら
もう少し生き方をドラマティックに切り替えないと、とも思います。
でも、まあ、今は「当り前」のことが分かれば十分かな、と。

投稿日時 - 2009-04-07 11:43:37

補足

「当り前」とは何のことですか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-07 18:03:37

お礼

そうなんですよ。私の人生にはドラマチックな要素があまりにも欠けているのです。たとえ間違いにせよ、ドラマチックに人生を終えたいものです。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-07 18:06:33

ANo.45

 No.42&39&31&22&9&6の bragelonne です。

 ★ どういうわけかキリスト教は愚かであることを信者に強く求めます。
 ☆ わたしも
 ☆☆ 〔宣教を通じての 聖霊によるバプテスマにかんして〕 あたまの良さも 善行も 関係ないようです。
 ☆ と書きました。ということは
 ○ あたまが良い場合も 善行を積んでいる場合も そうでない場合も ともに同じく まったく問題なく 息を吹きかけられている。
 ☆ と理解します。

 これ以外に――聖霊もしくは真理を 受け容れて 《わたしが わたしであり わたしする》ということを―― 自覚するという契機は ないと思いますので そのことが 
 ★ パウロが 聖霊のバプテスマを 口やかましく言うのは なぜでしょうか?
 ☆ のお答えになると考えます。無根拠ですから 証明などは いっさい ないと考えるのが ふつうだと思います。
 証拠があるとか 証明し得たとか言うのは 神を表象しえたということになりますから その神は 経験的な想像ないし思考の産物だと言わざるを得ません。つまり 神ではないはづです。

 《神の背面を見る》というのは どういう事態か?
 わづかに指の先で 触れられたように 一瞬 なにものかを感じるかに思ったという体験は あるのかも知れません。
 理知的には 何が神でないかを どこまでも突き詰めていけば 単純ですが 厳密性を要求される作業でもあり その道において 背面を見るようになると思います。
 あとは 背面が見えたなら いわゆる境地の問題になると思います。

 ★ 聖霊のバプテスマは「永遠のいのち」と、どうつながるのかを牧師に尋ねてもイマイチ理解できませんでした。
 ☆ 闇を突き破って差して来た光を受けたひとは――と言いますか 誰でも それを 受け容れれば それだけで よいのだと思いますが―― 泉の水が尽きないように 永遠のいのちが得られるというのは 将来すべきこととして 臨むのが ただしいと言われます。
 肉(つまり 自然本性としての精神および身体)が この相対世界を超えたところの霊によって 包まれているなら そのなぞの無根拠は 無限であり 永遠ですから その《絶対》に触れていると考えられます。

 永遠のいのちに すでに 十字架のしるしをとおして 足を突っ込んでいます。(変な表現になりましたが 残しておきます)。
 ▲ (ガラテア書5:24) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 キリスト・イエスのものとなった人たちは 肉を 欲情や欲望もろとも 十字架につけてしまったのです。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そういう部分も すでに 経験事態として あるのだと捉えます。このように 永遠なる世界に触れている状態で たとえば 百年の倍の二百年も 生きれば ほんとうに 永遠に生きたということになりませんか? そのくらい生きれば もう じゅうぶんでしょう。そのようにはなるのではないでしょうか?

 ▲ こころのきよいひとは さいわいである。かみをみる。
 ☆ これは どう解釈すればよいでしょう?

 ★ 聖霊のバプテスマは「永遠のいのち」と、どうつながるのか
 ☆ バプテスマにおいて 息を吹きかけられ よみがえった――わたしが わたしに還帰した――と同時に その息が 霊のことでしょうから すでに 《永遠》の領域に あたかも部分的に 入ったことになるのだと思います。
 そのとき さらに同時に わたしたちも あたかもイエスと同じように 十字架上で はりつけに遭ったことになると言われているのだと思います。だから 《つながる》のだと思われます。
 ですから すでに この経験世界にあって われわれは それぞれおのれが復活したという感覚を持ったのではないでしょうか。そのような うわさが ひとからも 聞かれるようになるのではないでしょうか。

 その上で
 ▲ あたらしい天とあたらしい地
 ☆ が さらにどのように 起こるのか これは 分かりません。突然変異くらいしか 想像がつきません。

 * ローマ教会を初め 宗教組織には 自己解体を 勧めていこうと思っております。わたしとのその接点は まだ 起こっておりません。その動きを起こしてもおりませんが このように 言い始めています。
 * ただし 結社の自由という 根源的な自由とのかかわりの問題もあります。

投稿日時 - 2009-04-07 10:30:16

補足

宗教は遠い未来に旧ソ連のような内部崩壊は起こり得ると思いますが、自己解体に乗り出すとは乗り出すとは到底思えません。彼らの自家撞着をいかに指摘すれば慌てふためくのでしょうか?

投稿日時 - 2009-04-07 18:17:25

お礼

聖霊のバプテスマを授かった信者が異言を吐くのを何度となく目撃しています。取り憑かれているようにも見え、なんのこったかわかりません。しかし日本のキリスト教のご都合主義は凄まじく、信仰の貞操観念は皆無に等しいです。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-07 18:22:39

ANo.44

>我が子のために命を投げ出す親の愛についてはいかがお考えですか?

我が子がために命懸けで自らの死を選択。命懸けと自殺は根は同じ。自らの生け贄、自らを屠殺。
我が子の悲しみは、如何ばかりか。
それが愛か、感謝へ転じ生き延びる者の傲慢と化すのか。
どっちにしても、我が子が生きれば、他の子が死ぬ。



世を儚んで自ら死を選ぶ。生け贄として、身を捧げること。
命懸けの表と裏。世への裏返しの深い愛情。
自らの世を捨てることは、他の世を生かすこと。
我々もそれに触れ、深く悲しみ歓喜する。

感性豊かで慈悲深く愛に溢れた傲慢で残酷な鬼畜である。

投稿日時 - 2009-04-07 09:42:07

お礼

言い切りますね。そういわれるとそうかもしれないと思ってしまいます。何度もお答えいただきありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-07 17:46:23

ANo.43

>はたして傲慢ではない命の懸け方はあるのでしょうか?

それは、ありません。生け贄であり、屠殺です。傲慢の所以です。
途方もない痛みを知ります。
可愛がっていた豚をかわいそうかわいそうと号泣しながら、
でもおいしいおいしいとその味を堪能する。

それは、愛でしょうか、鬼でしょうか。
我が子は可愛い。我が子が生きれば、豚は死ぬ。
ここに命を懸けねばならない訳がある。豚を殺す訳がある。
そう、鬼畜の如き所業には愛がある。

当初のご質問に戻りましょう。
>果たして命より大切なものがあるのでしょうか?あるとしたら何なのでしょうか?
この「訳」でありこの因となりました。

投稿日時 - 2009-04-07 00:07:49

補足

我が子のために命を投げ出す親の愛についてはいかがお考えですか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-07 05:51:04

お礼

命を奪うのもまた命のため、粗末にするものではない。信念により命を投げ出すことは傲慢であるとともに生命に対する冒涜であるといったところでしょうか。おっしゃるとおり人は思い込みでも死ねるものです。生きとし生きるもの、そのすべてを大切にしたいものです。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-07 05:56:08

ANo.42

 No.39&31&22&9&6の bragelonne です。

 聖書講解のようになってきました。
 ★ パウロの福音の旅こそ命懸けのおせっかいだとは思われませんか? 正邪は別にして、人に真理の押し売りをするパウロこそ、命を燃やし尽くした者といえるのではないでしょうか? 使命からの生より他は頓着なかったわけですから。
 ▲ (コリント前書1:21-25) ~~~~~~~~~~~~~
 事実 この世は神の知恵に囲まれているのに自分の知恵で神を知ることができなかった。そこで神は 宣教という愚かな手段によって信じる者を救うほうがよいと お考えになったのです。
 このように言うのも ユダヤ人はしるしを求め ギリシャ人は知恵を探しますが わたしたちは 十字架につけられたキリストを宣べ伝えているからです。・・・
 神の愚かさは人間よりも賢く 神の弱さは人間よりも強いからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あたまの良さも 善行も 関係ないようです。

 ★ キリストは何のために十字架についたのでしょうか?
 ☆ イエスは ふつうの人間であり キリストは 人間を超えた神であるという物語として 伝えられました。
 もし神ではなく ただ人間イエスとして 磔になったのなら わたしたちのようなふつうの人間も あたかもイエスに倣って ひとのためになるのであれば その犠牲になるという考えを 自分たちの考えと思いと能力によって おこなおうと思えばおこなえると思ってしまうでしょう。
 もし人間ではなく キリストなる神であるのみの存在として 十字架上に登ったのなら それによって成就するという人間の罪の贖いという行為は あぁ やはり 神だから出来たのだ われわれ人間には 関係ないと思ってしまうでしょう。

 たしかに キリスト・イエスは 勝手に 十字架に就いたのですが――つまり 人びとよ わたしはこのように犠牲になるから そのわたしの愛を受けよというように おしつけがましく 行動したのではなく そうではなく 勝手に はりつけになったのですが―― 人間イエスであると同時に 神キリストでもあったと受け取られたもののようです。
 《愛》は 人間であれば だれでも出来るおこないであるのではなく かと言って 神でなければ出来ないと言おうとしたものでもない。
 神のことば(それは 霊である)が 肉(これは 精神と身体とを言うと採ったほうがよいようです)になったと うわさされたのだと思います。
 霊によるバプテスマを受けたと 精神を含めた肉なるわたしは 思っております。
 血筋によらず 肉の意志によらず 人間の意志にもよらず わたしたちは 生物自然としての誕生のあと さらにいまいちど いづれかの時点で 光の子として 霊によって 生まれるもののようです。
 先の者があとになり あとの者が先になると聞かれます。
 霊とは 真理ですが なぞであり 無根拠ということです。

投稿日時 - 2009-04-06 23:03:34

補足

パウロが聖霊のバプテスマを口やかましく言うのはなぜでしょうか?聖霊のバプテスマは「永遠のいのち」と、どうつながるのかを牧師に尋ねてもイマイチ理解できませんでした。

投稿日時 - 2009-04-07 06:03:43

お礼

どういうわけかキリスト教は愚かであることを信者に強く求めます。愚かであれと何度も叱責を受けました。十字架についても信者は自分の罪の赦しに涙しても、人の罪を論うことが多く、またその自覚も薄いようです。私の通った教会は初詣はおろか、焼香すら禁じていました。しかしほとんどの教会は焼香も容認するようです。これでは踏み絵に殉教したキリシタンも浮かばれません。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-07 06:12:27

ANo.40

返事を頂きましたが、尋ねたことに答えておられないこともあり、それと少し思っていたようなところでは無そうなので遠慮させて頂きます。
お返事ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-06 16:17:27

お礼

>ここはこれらのやり取りが普通にされる場所なのですか?-何ともいえません。あなたがこのやり取りをどう捉えられているかはわかりませんし、それを普通にしているかも基準がないので判断できないからです。あなたは初めてのご利用なので、それをこちらから問い質すのも失礼かと思い、直接お答えすることをためらった次第です。逆に失礼な対応になってしまい、申し訳ありませんでした。お気に召さなかったことは遺憾に思いますが、気がお変わりでしたらまたお寄りください。わざわざお返事をくださりありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-06 16:55:36

ANo.39

 No.31&22&9&6の bragelonne です。

 ★ 何かお薦めの本はありませんか?できれば軽めがいいです。
 ☆ 軽めのものは ないですね。

 § わたし bragelonne は なぜ 水による洗礼を受けないのか。

 寄るべき聖句を たとえば 二点挙げることができる。

 ▲ (ヨハネ福音1:13) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  この人びと(* 《ことばを受け入れた人・その名を信じる人びと(1:12)》)は 血によってではなく 肉の意志によってではなく 人間の意志によってでもなく 神によって生まれたのである。
 ▲ (ローマ書10:9-10) ~~~~~~~~~~~~~~~
  口でイエスは主であると公に言い表わし 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら あなたは救われるからです。
 実に 人は心で信じて義とされ 口で公に言い表わして救われるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 言いかえると わたしは 次のような聖句に 逆らって 振る舞っています。
 その前に その背きの理由としては こうです。つまり これら二例の文章に表わされたキリスト者は 霊による洗礼を受けたものであり その状態においてすでに 水による〔およびそのとき同時に 霊による〕洗礼を受けたクリスチャンと同じ 神の子らであると考えられるからです。

 ▲ (ヨハネ福音3:5) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 イエスは答えた。
   《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない。》
 ▲ (マタイ福音28:19) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 《・・・ あなたがたは行って すべての民をわたしの弟子にしなさい。かれらに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。・・・》
 ▲ (使徒行伝22:16) ~~~~~~~~~~~~~~~
 〔アナニアからサウロ=パウロへ語っている箇所〕《・・・今 何をためらっているのです。立ち上がりなさい。そのかたの名を唱え 洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。》
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ちなみに 次のような聖句もあります。洗礼は要らないというかのようです。
 ▲ (コリント前書1:17) ~~~~~~~~~~~~~~~~
  なぜなら キリストがわたしを遣わされたのは 洗礼を授けるためではなく 福音を告げ知らせるためであり しかも キリストの十字架がむなしいものになってしまわないように 言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 無味乾燥の資料集でした。

投稿日時 - 2009-04-06 15:50:10

補足

パウロの福音の旅こそ命懸けのおせっかいだとは思われませんか?正邪は別にして、人に真理の押し売りをするパウロこそ、命を燃やし尽くした者といえるのではないでしょうか?使命からの生より他は頓着なかったわけですから。

投稿日時 - 2009-04-06 20:00:04

お礼

『父よ、彼らを赦し給へ、その為す所を知らざればなり』 ルカ書 23.34 -私は父に赦しを乞わず、人を赦せない者です。それすら認めない信者が大勢います。キリストは何のために十字架についたのでしょうか?そういうわけで、私は水の洗礼を受けたものの教会を離れたのです。聖書を精読してみます。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-06 19:52:19

ANo.38

哲学カテにおいては「質問しない回答専門」な私ですが
本質問に出会い思索を開始してしまいました。

> 命より大切なものはあるか
命を絶つと「先」がなくなります。
先、というのは「未来」とか「将来」と言うと一般的かしら。
すなわち命というのは「未来」「将来」との関係性を維持するものだと思いました。
> 彼らは「ここで死ねたら本望」と口にします。
つまり、「今」「ここ」「瞬間」を、「先」「未来」「将来」より
重視したのだと思います。
「ここで死ねたら本望」と言えるのは「使命感」ゆえなのでしょうね。
「使命」を見出した人は、命より使命を優先する。
でも、使命を見出したいけど未だ見出せない人は「猶予」が欲しい。
猶予は、「先」「未来」「将来」の言い換えだと思っています。
使命を見出す気持ちのない人は、もはや命にはこだわらないのでしょう。
苦しみがなければ命には固執しない、という感じでしょうか。

「使命」を「希望」と言い換えた方が、汎用性が高いかしら。

このご質問に出会って
●命より希望が大切
もしくは
●希望がない命は抜け殻のようなものだろうな
という思いが浮かびました。
思いを廃棄するのも勿体ないので
ここに置いていかせて下さい。
(返事を頂けないかも知れないのは了解済みです。)

投稿日時 - 2009-04-06 12:58:03

補足

「猶予」すなわちモラトリアムに着眼されたのは鋭いと思います。その期間はいつまでなのでしょうか?早い人は未成年から天命を知ります。死の直前に知れば間に合うのでしょうか?よろしくお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-06 19:08:54

お礼

私は「回答専門家」を忌避すると公言しています。彼らは人の疑問には難癖をつけ、自分の疑問には欺瞞をもって処理するという、自己愛が強く他罰的な傾向がはっきりと認められるからです。正直に哲学カテでは質問したことがないと断ったうえで、立派な回答をされるあなたは彼らとは似ても似つかない方です。いつか私もこのカテであなたのご質問にお答えしたいと思います。とにかく一問でもこのカテで質問なさってください。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-06 19:18:20

ANo.37

No.24&29&34です。


>例えばバッタの大群があなたの農地に襲いかかったらどうしますか?命に対して何と申し訳しますか?よろしければお答え願います。

どう言う条件下なのかが分からないとお答えできませんが。何の条件もなければ、農地が襲われたらそそままにしておくと思います。バッタがいなくなったら、考えます。


しかし、私の前回までの回答は、命が大切と言う事を基準にして考えると、そう言った考えになるんじゃあないか。っと言うことであり。
別に人間の今ある形を否定している訳ではないです。
何故なら、ある意味、今の形も自然淘汰だからです。
そして、世界に不必要ならば世界に削除されるし、残るならそれは世界の一部として、必要要素の一つと言う事ではないでしょうか。

そう言う意味で言うなら、仏教とかの悟りとかは、人間を超えて世界の必要要素の一部になると言う事なのかも知れませんね。

投稿日時 - 2009-04-06 11:16:30

補足

つまりバッタの大群に農地を食い荒らされて、生活の糧を失ってもかまわない。ご自身は運命に身を委ねて生命を破壊しないとおっしゃるわけですね?

投稿日時 - 2009-04-06 18:11:50

お礼

自然淘汰は現実世界に遍く見受けられます。もしあなたが寿命よりもはるか以前に淘汰されたら、私は悲しくて仕方ありません。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-06 18:14:39

ANo.36

こんにちは。
まずは前回の訂正「十悪の最後の項目であり」は「十善の最後の項目であり」でした。

では再び書いてみますね。

<<「不快・苦痛・悩み」を感じない人々は知覚障害あるいは人格障害、または良心の著しい欠如を指しています。これらの人々は現に存在します。>>

六根のうちいくつかが肉体的要因によって感じすぎたり、感じられなかたりすることはあると思います。

しかし六根の感覚全て無い生命は成り立たないと思います。

精神的な要因によって、観察能力や理性的な思索能力、言語能力が育まれていない方もいるでしょう。

怒り・貪り・混乱・落ち込み、などの強い感情に支配されていたり、あまりに現実と乖離したものを意固地になって信仰して決め付けて現実の現象を捏造して、明らかな証拠があるにもかかわらず認めない。「『こうあるべき』理想の自分・世界(他の生命・物質)」への執着が強くて、観察能力や理性的な思索能力、言語能力が低下している方もいるでしょう。

酒・麻薬などで理性を逸している状態も同じでしょう。

だからといって「不快・苦痛・悩み」を感じていないとはいえないと思います。

感情や我見への執着・酒・麻薬に酔っていて現象を観察する能力がなくなっているだけだと思うのです。

私の語っている「不快・苦痛・悩み」は表面的なものだけでなく生命の最小単位のものを含んでいるつもりです。これが無ければ生れ落ちることは不可能と思います。


<<実践しますので今後ともお手引きをお願いいたします。>>

詳しい実践はスマナサーラ長老の書籍などをオススメします。
生命の希求・慈悲喜捨の修習は
「やさしいってどういうこと?」
道徳である十善十悪の実践は
「的中する生き方」
がオススメです。

八正道はサンガ出版の
「仏法」がとても詳しいと思います
ダンマパダの解説書
「一日一話」の最後にも軽く解説されてます

集中力・観察力の妄想・感情の対策力の育成は
「現代人の為の瞑想法」
などに詳しく載ってますのでオススメです。

命懸けでもやる価値はあると思います。

参考になれば幸いです。
~生きとし生けるものが幸せでありますように~

投稿日時 - 2009-04-06 10:13:51

お礼

いつもご丁寧なアドバイスをありがとうございます。実をいうと私は、「えせクリスチャン」なのですが、その理由はキリスト「教」がエセだからです。今からでも遅くない、多くを学び精進します。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-06 19:02:11

ANo.35

少し拝見させて頂きましたが、答える前にひとつ質問したいのですが、ここはこれらのやり取りが普通にされる場所なのですか?
それを尋ねてから把握した上で、回答してみたいと思うのですが・・
どうぞよろしくお願いします

投稿日時 - 2009-04-06 04:43:38

補足

ここは哲学カテの中では、少し難易度低め、テンション高めですね。手始めにお尋ねします。あなたにとって命より大切なものはありますか?あるとすれば何ですか?できるかぎり詳しくお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-06 06:01:26

お礼

ようこそお越しくださいました。初めまして、ぽこぺろぽと申します。ここはOKWave随一のワンダーランド「哲学の更地」です。初めてのご回答が私の質問とは身に余る光栄です。ちょっと濃いめですけど、優しくしますのでよろしくお願いします。

投稿日時 - 2009-04-06 05:55:59

ANo.34

No.24&29です。

>人間は他の命必要以上に物色してますしね。


人間は人間以外の生物に対しては、例えば牛とか豚、鶏と言った家畜に対しては、クローン技術などを使ったり。
虫なども、害虫などと言って、自分たちの都合だけで駆除したりとか、そう言いた部分の話です。
しかし、そう言った生命にもやはり命はあると思うのです。
環境破壊とか凄いしね。そのせいで、死ななくても良いはずの、命が多く失われている訳ですから。

そして、その人間達を、一つの命として置き換えると考えると、人間の行動はあまりにも、理不尽かつ自己中心的なな物にも思えます。

投稿日時 - 2009-04-06 03:56:46

補足

例えばバッタの大群があなたの農地に襲いかかったらどうしますか?命に対して何と申し訳しますか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-06 06:47:22

お礼

おっしゃるとおり人間は無責任かつ自分勝手です。それを糾すには穏当な手段では通用しないと考えます。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-06 06:49:53

ANo.33

>もちろん命を懸けられる人は強いばかりでなく心優しいのです。
承知しています。その優しさが自分サイドの集団を思う自己愛、愛国心でその外側への対立、敵意、支配、そして、その強さを傲慢と言っています。

>いっそ自動車交通をなくしてみてはいかがでしょうか?
一切車は運転しません。運転する人は命懸けで運転しない人をも殺す。みんなやめれば死亡するひとはなくなり、システムが崩壊し生きられません。だから生け贄。

投稿日時 - 2009-04-05 23:01:13

補足

はたして傲慢ではない命の懸け方はあるのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-06 06:43:36

お礼

偽りの強さは傲慢さを招き両刃の剣となり、一匹の子羊を救う試みは共倒れとなる。うーん、どうしましょう。またひとつ悩みの種が増えました。再度のご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-06 06:42:01

ANo.32

bird48です。
補足への答えをさせていただきます。

命を懸けるほどの大きな命題に立ち向かう、ということですが
その言葉から受ける第一印象は
大変に若々しいエネルギーを感じるものです。

そうですね
若いときには、そういった理想に自分をぶつけてみたい
一度はやってみたいと思うのかもしれません。
狭い人生の枠を超えて、何かしら純粋な理想に自分の全てを捧げたい
という事なのでしょう。

それは大変素晴らしいことだとは思いますが
現実的には、そうした理想を持つことも
理想に向かって進むことも、共に大変困難なようにも思えます。
しかし、いつの時代にもそうしたフロンティア精神に燃えた人達によって新しい時代が切り拓かれてきたのかもしれません。
新しい時代を築いていく人達と
築かれた時代を生きていく人達とがいるのかもしれません。

尊い命を懸けてでも何かをやってみたい・・・
一番尊い命を懸けてでも、と思える何かを持つことのできた人は確かに幸せかもしれません。
しかし・・・
失礼になるかもしれませんが
質問者様もそのような幸せを得たいと願っているのでしょうか
また、そのような形で自己放棄をしたいともお思いでしょうか
私は
自己放棄の願望にもとずいた理想は持ってほしくないのです
たとえ、どんな事があっても尊い命を粗末にしないでください
命を大切にする事が本当の理想だと思うからです。

投稿日時 - 2009-04-05 20:43:46

補足

参考までにお聞かせ願いたいのですが、何故にそこまで命の尊さを大切になさるのですか?よろしくお願いします。

投稿日時 - 2009-04-06 06:36:26

お礼

何が幸せかは実感としてわかりませんが、何かに懸けるならそれ自体が幸せであると思います。問い直したにも拘わらず、再び命の尊さを説かれたあなたを尊敬します。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-06 06:34:08

ANo.31

 No.22&9&6の bragelonne です。

 今回は いわゆるなぐり書きなるものをしてみます。

 一時期 このようにしていたというそのことを書きます。
 作文は もういい。優等生の作文〔のような著作〕は ちょっと 背伸びをすれば 誰でも 書ける。こう思って そうなら どうしたか? ですが 新聞紙の広告記事ですとか 歌謡曲の歌詞 あるいは コピー文や 街の看板に書かれた文字 または テレビドラマのちょっとした台詞などなど そんな片言隻句に注意を向けて 何か意味があるのではないかとの思いで 解釈をしていたことがありました。
 あぁ あるいは その時期 映画を――おもにフランス映画を――よく見ました。やはり 片言隻句を捉えようとする目的をも持ってです。
 ○ ニーナには おまえの知らない理由があるのだ。
 ☆ この文句が いま 思い出されました。(ちょっと 違っているかも分かりません)。そのほかは すぐには 思い出しません。
 そんな言い回しが けっこう 考えをすすめる上で こやしになったのを覚えています。
 あぁ そうそう。ちょうどそのころ 街のアメリカンセンターで 小説家が話をするというので 聞きに行ったのです。そうすると かれは――もう名前を覚えていませんが―― いつも 書くときには ホテルに籠もって 一行づつの文句を 手当たり次第 どこからでも 抜き書きして タイプし それを 一行づつの短冊型に切って そこら中に 並べるのだそうです。
 その寄せ集めから ストーリを紡いでいくのだと言います。

 これは なんで お伝えしようと思い立ったのでしょう? ここまで書いてきて 不思議に思うようになりました。どうしましょう。

 そうですね。たぶん 心に沁みる中身というものは ちょっとした些細なことに呼応するものなのかも知れない。こう言おうとしたのでしょうか。

 その後 ひょっとしたら 世界一で史上最大のセールスマンではないかと疑った人間の物語のほうに のめり込んで行ったのですから 世の中は 分からないものです。ぐんぐん 引っ張られて行きました。
 月並みな言い回しでは 砂漠の砂が 水を吸い込むように その文章――福音書よりは パウロ パウロよりは アウグスティヌスでしたが――にかかり切りでした。
 
 高次元のものは 低次元のものをとおして 分かるのでしょうか。それとも 初めっから 高次元の雷によって打たれるのが よいのでしょうか。
 (ただし 聖書にかんしては 入門書にしても 解説書や研究書にしても ピンからキリまでです。直接に あたったほうが いいと思います。と言って アウグスティヌスにしても 解説者なわけですけれど)。

 ものには ときがあると言います。
 しかも もう一方では 時を得ても 得なくても 〔伝えて行くべきだ〕とも言います。
 さらに安易な文句を出しましょうか。先の者があとになり あとの者が先になる。

 これらは 塞翁が馬と言って あとづけによって うそぶくためではありません。それだけは言って 締めにならない締めとします。お口汚しでした。

投稿日時 - 2009-04-05 20:40:26

補足

何かお薦めの本はありませんか?できれば軽めがいいです。お願いします。

投稿日時 - 2009-04-06 06:28:06

お礼

「主よ、殉ずるものを与へ給へ、ただしいますぐにではなく」私の心境はこんなところです。もう少しまとめてみますね。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-06 06:26:11

ANo.30

私もmaimaisusさんに近い意見で、命より大切なものを持っているか・あるとすれば何か、は人それぞれだと思います。完全な価値観の共有は不可能ですから、これらの事項に関して他人が理解しようとしたり、評価したり、口出ししたりするのは無意味だと思います。

あえて具体的に例をあげれば、例えば信条や信念、他人の命のために命を捨てた者は過去に少なからずいると思います。本能などではなく、理性で思惟した結果自己以外に自らの命を捧げられるのは人間の素晴らしい一面だと思います。

投稿日時 - 2009-04-05 18:32:18

補足

生意気にも反論したことはお詫びします。芋神さんも反論がおありなら、どうぞご遠慮なくおっしゃってください。

投稿日時 - 2009-04-06 06:20:49

お礼

はいと言いたいのですが、いいえ違いますってば、芋神さん。理性で考えて命を投げ出すのではなく、本能でそうせずにはいられないから、愛なればこそ命を投げ出すのです。川に溺れた子供を助けるために、自らの危険を顧みずに飛び込むのは勇気ではありません。訓練により鍛えられた消防士ならともかく、我々が飛び込むなら愛なればこそです。理性が働けば足は竦みます。ここはその価値観を口出ししあう場です。あなたは根本から勘違いしています。根が優しい方なのでしょうが、私には頷けません。悪しからず御了承ください。ご回答いただきありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-06 06:18:13

ANo.29

No.24です。

書き方が良くなかったですね。すいません。

あくまで、個人としての主観としての価値を書かせて頂いたのですが。

上手く説明出来なくて申し訳ないのですが、見様によっては、命は大切でも何でもないです。
それを大切だと、思う、心があって初めてその価値があるのではないでしょうか。
人間は他の命必要以上に物色してますしね。自分の命だけ特別扱いも何だと思います。

極端な話、自分が植物人間の様になってしまった場合、自分自身は、生きる事にこだわるのでしょうか。
大切なのは、生きている事により、行う行動や、思考と言った事が大切になってくるのではないでしょうか。(そう言う見方もある)
そうであるから、人間は、今があるのではないでしょうか。


何が大切かは、個人の自由で良いと思うのです。
それが、誇りなのか、生きると言う事なのか、仕事、家族、平和、金、芸術、その他、何かは分からないのですが。


結局、人間は死ぬ訳ですから、その時に悔いの残らないようにと考えると・・・・・・ねえ。

まあ、そう言う広い意味で、「心」って書いた訳ですが。

投稿日時 - 2009-04-05 16:37:01

補足

>人間は他の命必要以上に物色してますしね。-イマイチ理解できませんが、意味深にも感じます。よろしければこれについてもう一度ご説明いただけますか?

投稿日時 - 2009-04-05 17:48:02

お礼

おっしゃるとおり「心」が生命の重要度を決定するのでしょうね。再度のご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-05 17:50:34

ANo.28

<<言葉尻を捕えるようですが「不快・苦痛・悩み」を感じない人もごく僅かながら存在します。彼らは精神科を受診すれば何らかの病気と診断されるでしょう。しかし彼らは病気というよりかは「死んでいる」のではないでしょうか?よろしければお答え願います。>>

前回の回答を読んでいただけたでしょうか?

私は「肉体の感受は苦から苦への引越し」という分析をしました。「感覚は苦しみ」だと思います。

「生命ならば感覚という苦しみがある」と思います。

精神的な「不快・苦痛・悩み」はパパンチャにより、六根からのデータの捏造によって起こると書いたつもりです。

そのパパンチャを破る方法こそ命懸けでもなすべきことではないだろうかと…

<<「不快・苦痛・悩み」を感じない人もごく僅かながら存在します>>

言い切りますねw
完璧に知っているのですね。

僕の概念の「感覚」の定義からすれば「生命」として成り立たないと感じます。

私はそのような生命を見たこともありませんし、今まで聞いたこともありません。

肉体的な働きとして起こる感受の苦しみでなく、精神的な働きとして「悩み」が皆無ならば、そのかたは、個人の尺度・価値判断が無くなっていると思います。「『こうあるべき』自分・世界」あれば、怒りも貪りも混乱・落ち込み(今を不満足に陥れる思考=悩み)も起こるでしょうが、無いならばおこりようがないものと思います。


そのような方がいて、どうやって精神的病気といえましょう??

●「不快・苦痛・悩み」を感じないと思っている・思い込んでいる人が存在します

なら理解できますが…


前回の回答で悪根と書きましたが間違えでした。
「不善根」でした。

<<十善を知り十悪をも知ることが「十全」なのでしょうかね。>>

十善を善・十悪を不善・貪瞋痴が不善根・無貪無瞋無痴が善根と知ることが十悪の最後の項目であり八正道の先行する項目「正見のあるもの」と称されます。


参考になれば幸いです。
幸福であれノシ

投稿日時 - 2009-04-05 15:29:28

お礼

「不快・苦痛・悩み」を感じない人々は知覚障害あるいは人格障害、または良心の著しい欠如を指しています。これらの人々は現に存在します。もう一度よくご回答を読み直してみます。またアドバイスをお願いします。再度のご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-05 17:57:28

ANo.27

命懸けをやる人は傲慢です。
命を懸けているから許されて、命を懸けていない人を殺すということ。
自ら命を懸けるなんて言う人は、利己的で傲慢などうしようもない自己の正当化をしています。

自ら死を選ぶ人は、やさしいです。
懸ける命を自ら捨てて、自ら死を選ばない人を殺しません。

目的が何であれ、誰のためであれ、「私は、命を懸けている」という者が、他から奪い、奪われた者は自ら死を選ぶ。

もし、簡単に押せる自殺スイッチと人類滅亡スイッチがあったとすると、人は絶望に接しどちらを押すでしょう。
自ら死を選ぶ者は自殺スイッチ、「私は、命を懸けている」という者で命を懸けてやってきたのに絶望させられたと思う者が人類滅亡スイッチ。

命より大切なものは、対比として観て、主権、社会システムです。
これのために人々は生け贄となります。犠牲となります。個人から観て、社会システムが自らの命よりも大切ではあります。
交通システムと発生し続ける自己被害者の関係です。
例を挙げれば、交通死亡事故被害者発生より交通システムの維持の方が大切としているのは明らかです。

投稿日時 - 2009-04-05 13:16:15

補足

もちろん命を懸けられる人は強いばかりでなく心優しいのです。交通システムの維持に務めて、毎年何千人の尊い命が失われるならいっそ自動車交通をなくしてみてはいかがでしょうか?それはそれで意義深いことだと思います。よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-05 14:42:06

お礼

はじめまして憂き世の生え?さん。命懸けが傲慢とおっしゃる理由も何となくわかります。しかしぽこぺろぽは何となくこのまま生きたくはないのです。少なくとも誰かにぽこぺろぽが生きたことは憶えていてほしいと願います。これもエゴには違いありませんが。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-05 14:48:56

ANo.26

pokoperopoさん、こんにちは。
maggaです。

<<何かに命懸けで取り組む人がいます。彼らは「ここで死ねたら本望」と口にします。私には命を懸けるものがありません。果たして命より大切なものがあるのでしょうか?あるとしたら何なのでしょうか?>>

とのことなので、まずは私の「病気」という視点からの分析を書き写してみますね。この先に私が考える「命を懸けるもの」を提示します。

では。

『病気』とは「肉体的・精神的働きに、不快・苦痛・悩みなどを感じて通常の生活を営みにくくするもの・そのような状態」のことと思います。

そのうちの『肉体の病気』についてみてみましょう。

肉体に生まれる「不快」や「苦痛」は「感覚」の中に分類できると思います。ではどのようなときに「不快」や「苦痛」の感覚を感じるのか考察してみます。

すると

「同じような感覚が続く」
「強い感覚」

になると「不快・苦痛」を感じるのではないかという結論に達しました。(もう一つ、経験や肉体の性質などによってでしょうか個人差のある「好き嫌い」原初的な快・不快があるように感じますが、この分類が肉体に当たるものか精神に当たるものか分別できるほどの観察能力を兼ね備えてないのでここでは無視しますw)

「同じような感覚が続く」と「強い感覚」になるとも思います。

「同じような感覚が続く」つまり肉体が『止まる』状態でいると同じような感覚を得て強い感覚に感じ「不快・苦痛」が強くなると思います。

苦痛になると、動きますね。他の感覚に移しますね。するとさっきまで感じていた苦痛が減った分「楽になった」「楽を得た」と一般的には言うと思います。

しかし、その次ぎの感覚も感じ続けていると不快苦痛が強くなっていきますね。移った感覚が「楽」であるわけではないと思います。苦痛・不快の少なくなった分を「楽」と呼んでいるだけで、「苦痛・不快」から「苦痛・不快」への引越しで、感覚は「苦」であるといえると思います。


そして生まれた生命には老いて死ぬという性質も発見できると思います。

老いとは「肉体の生理的働き」が異常をきたし「動き」が弱り、「不快・苦痛」を感じ、「通常の生活を営みにくくする」ことであり、死はそれらのはてに営みを終えること。といえると思います。

ということは「老い」という性質自体が「病気」でしょうw

そして肉体は常に必要なものを取り入れ不必要なものを外に出していますね。食を必要として汚物を出し続けていますね。

汚物とは「身体に有害もしくは不必要なもの」です。

汚物は常に悪臭を放ちそれらを、洗ったり何なりしなければ悪臭はより強いものとなってしまい、仕舞には体の維持(老いにはかないませんが)も難しくなりますからますから、我々は体の垢・糞尿・などなど(全て汚物ですよね)を出して、流し落としてなんとか維持していることと思います。


●★●★●★●★●★●★●★●★●★

まとめると

『肉体とは、悪臭を放つ徐々に老いて死をむかえ壊れる定めの汚物の生産工場で、感覚があり、常に苦痛・不快を避けるために、「苦」から「苦」へと引っ越し「動く」もので、病気そのものである』

といえると思います。

●★●★●★●★●★●★●★●★●★

そこから見出せる生命の希求は。

幸福でありたい
悩み苦しみは嫌だ避けたい
努力は実ってほしい
今なすべきことがすぐにひらめいてほしい

という希求かと思います。


生命のネットワークの中で、精神的に「苦しみを避け幸福に至る」には、「心を堕落させず。向上すさせる。」には、この生命の希求を自分に・周囲に・全生命に認めること。自他の希求を守ること。肉体や感覚の事実を認めること。

が必須になると思います。

そこで、事実を認めることの邪魔になる「自分勝手な価値判断・尺度」にどう対処するかという問題が出てくると思います。

私の見解ですが、「精神的な悩み苦痛」は、自他の希求を認めず、事実を受け入れないで、「自分勝手な価値判断・尺度」によって「『こうあるべき』理想の自分・世界(他者・物質もふくむ)」をつくりだして、現実との軋轢に「自分いじめ・他人いじめ」して苦しむものと思いますので…

「自分勝手な価値判断・尺度」は精神的苦しみ・精神の働きにおける病気の根っこかと思います。

パーリ語の仏典では「パパンチャ」と呼ばれるもので、スマナサーラ長老は「捏造・データの捏造」と呼んでいたと記憶しています。


●★●★●★●★●★●★●★●★●★

生命の希求を認め守るための心の育成である
「慈悲喜捨の修習」
生命のネットワーク内で自他を守る
「十善の実行」
十善を善、十悪を悪と知り、邪見を無くし正しい見解を得て、善の根である感情・悪の根である感情を知り、善根を育み・悪根を滅するため。智慧をあらわす
「八正道の実践」
その道の多く修習することが期待できる支援策
「七支の前兆」

このような道が・修習が、精神的な悩み苦しみを滅したい人にとって(生命の希求だと思いますが)、必要になると思います。


●★●★●★●★●★●★●★●★●★
『この道こそが命を懸けてでも実践すべきものではないかと思います。』
●★●★●★●★●★●★●★●★●★

何か参考になれば幸いです。
幸福であれノシ

投稿日時 - 2009-04-05 12:26:12

補足

言葉尻を捕えるようですが「不快・苦痛・悩み」を感じない人もごく僅かながら存在します。彼らは精神科を受診すれば何らかの病気と診断されるでしょう。しかし彼らは病気というよりかは「死んでいる」のではないでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-05 14:20:27

お礼

ようこそマッガさん。いつもためになるお話を聞かせてくださってありがとうございます。十善を知り十悪をも知ることが「十全」なのでしょうかね。実践しますので今後ともお手引きをお願いいたします。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-05 14:31:46

ANo.25

NO23です。質問者様への回答ではありませんが、
NO24様の回答の中で
>命がなんであるか、人それぞれですし・・
と書かれていますが、こういうのを”無知”と言います。
私は”無知の知”を知らせるべく書きました。
個人の自由とかで我見を述べられては困ります。

この場は論争の場ではありませんので、上記に対してNO24様が異論反論されても、私はこれで終わりにします。
質問者様、失礼しました。

投稿日時 - 2009-04-05 12:23:47

補足

よろしければ温泉さんもお寄りになってくださいまし。あなたにとって命より大切なものは何ですか?

投稿日時 - 2009-04-05 14:05:49

お礼

論争の場でないとはあくまで建前だと思います。しかしその他のご指摘には全く同感です。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-05 14:08:04

ANo.24

単純に、価値観の問題だと思います。命がなんであるかは、人それぞれですし、大切なものも人それぞれと言うことで。
あくまでも、本人主観の問題ですが。

って事で、結果的に、広い意味で、「心」って事ですかね。

投稿日時 - 2009-04-05 11:46:55

補足

人それぞれだと思うからこそお尋ねしたわけです。もう一度お尋ねします。あなたにとって命より大切なものはなんですか?もしなければ見聞からの推測でもかまいません。よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-05 13:58:47

お礼

そうですね。「心」は大切です。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-05 14:02:14

ANo.23

人は生まれたことも無く、死んだこともありません。
それが真実です。
いわゆる死を経験すると自分が死んでいないことを実感します。
これは死ぬとわかります。
そこでその人の心境により、環境を創り出し、生活を(生前の生活とは少し異なるが)します。
幸せな心境の持ち主は幸せな環境を創り出し、
不幸な心境の人は(例えば病気で苦しんで亡くなった人は、借金苦で亡くなった人等は)同じような環境を創り出し、そこでも苦しみます。
特に、自殺して来た人達はとても苦しそうです。有名、無名関係なくです。
生きるも死ぬも同じ事とはここから来ています。

人は命があるから生きています。
命とは全ての全てのもの=神(仏)です。
人は自分の中にある命=神(仏)を顕すため(表現するため)にこの世に出現して来ています。

努力とはそのためにもちいられるべきものなのです。

神(仏)を顕した時、人は心の解放を得られ、自由自在となるのです。
以上を参考に生活(=生命の活動)して行かれると実相(本当の姿)が見えて来ます。
私が言いたいのは先ず己を知っていただきたいと言う事です。

自分の本質は神(仏)であり、他の人々、動植物、鉱物も、天地一切全てのものは、その本質に於いて神(仏)と知る事です。

フト、心のままに経験して来た事を書いてみました。

投稿日時 - 2009-04-05 10:35:49

補足

ふと私は神(全知全能という意味ではなく)なのだと感じることがあります。私は精神病に罹ったのでしょうか?よろしくお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-05 13:47:53

お礼

お話のとおり、ものは試しに死んでみます。・・ってわけにはいきませんね。生への執着は捨て切れません。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-05 13:53:50

ANo.22

 No.9&6の bragelonne です。

 ★(α) 《自由勝手に命を投げ出す》その前に説明を試みても周囲の猛反対に合いそうです。
 ★(β) また愛するものを残して《自由勝手に命を投げ出し》ていいものでしょうか?

 ☆ このようなご発言をうかがうと 
 ★ 私には命を懸けるものがありません。
 ☆ ゆえに それを問い求めているというご趣旨にも 採れますし かと言って ほかの回答者の方々へのご返答を読んでいると 感覚として いや そうではなく 《命が 大事である》とうったえてさえおられるようにも採れます。
 ★ 果たして命より大切なものがあるのでしょうか?あるとしたら何なのでしょうか?
 ☆ 前半で 《それは ない》という見方を示し 後半では 《いや あるかも知れない。命を懸けて取り組むものを見つけたい》という表明を出しておられる。というように ひとまづ 受け取られます。

 (α)も(β)も それとしての内容をもった補足要求であるとも思えません。命を投げ出す理由を明らかにして 《説得しうるか》の問題におさまります。

 しかも そうではなく けっきょくは 正面から 《生きること》にかんする哲学思想を問い求めているとも受け取られます。
 少し 質疑応答の行方を 見守りたいと思います。ということで。

投稿日時 - 2009-04-05 09:28:54

補足

浅学でしかも無責任な私には確たる哲学がありませんが、「私のいのち」は哲学を追い求めています。この矛盾をどう捉えればよいのでしょうか?

投稿日時 - 2009-04-05 18:20:25

お礼

ありがたいことにさらに皆さんから多くのご回答をお寄せいただきました。そろそろお戻りいただきましょう。

投稿日時 - 2009-04-05 18:23:31

ANo.21

>果たして命より大切なものがあるのでしょうか?
>あるとしたら何なのでしょうか?

この質問の趣旨は、寿命よりもかなり早めに死ぬことを積極的に選択するに足る理由があるとするならば、それは何かということかなと思います。

今、生きている者は、ことごとくタイムリミットを有しているはずですが、その限界を積極的に早めるように、自己決定することを問題にしているわけですね。それも、終末期の一日二日ではなく、年単位、10年単位くらいの期間(それは想定に過ぎないわけで、次の日に事故死する可能性もあるのですが)を前提にしているようです。

まず、その状況は、命の浪費可能状況だと思いました。
ある種の美意識に酔いしれて、あるいは、ある種の美意識を実現するために、命の浪費を自己正当化する状況なのかなと思った次第です。

昔の話ならば、「主君の敵を討つために」、「誇りのため、家名のため」、・・・
様々な事例を挙げることができると思います。
でも、決して、それらをお勧めしているわけではありませんからね。

これらは、社会的な無言の圧力(誘導環境)が有っても無くても、結局、個々の自己決定ですから、如何に馬鹿げていようとも、また、賞賛する者が居たとしても、普遍的に誰にでも適用できる基準というわけではないと思います。

「自爆テロを実行する者の心理」を記述すると、今回の質問の答えが出るのでしょう。しかし、それには、普遍性は無く、個々に形成された「ある種の美意識」の差があるように思いました。

投稿日時 - 2009-04-05 08:48:22

補足

当初の質問の趣旨はご指摘のとおりです。しかし逆も考えてみたいと思います。例に挙げられた自爆テロの被害者の魂はどこへ行ったのでしょう?被害者の遺族は何と声を掛けられたら慰められるのでしょう。よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-05 13:21:33

お礼

ご指摘のとおり、私は死に美意識を追い求めているのかもしれません。「殉教」が今日では普遍的価値を持たないからこそ意義を感じたのかもしれません。しかし己の美意識のため、愛する者を守るためならともかく、忠臣蔵や知らない誰かのためなら御免です。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-05 13:34:46

ANo.20

自分自身の中に「永遠の命」がもう既に存在している事を体感する事をお勧めします。それは悟りを開く事です。

それは自分の抱いている全ての疑問に答えてくれます。又自分自身の全ての苦悩を、救ってくれます。それは自分自身を知るという事です。

自分自身を苦悩に導いているものは「誰か?」自分自身に疑問を抱かせているものは「誰か?」という事です。

この事の答えを知る方法が「禅」であり「禅問答」と言えます。不安の元、人間に何かしらの不安を感じさせるものを捕まえろという事になります。

ヒントは、自分自身の自我意識は左脳の意識と言えます。その機能は分別する事です。人生は割り切れない問題に満ちています。分別だけでは割り切れない問題には「無力」と言えます。

割り切れない問題を解く能力がもう既に人間には備わっています。その能力とは右脳の意識に、割り切れない問題を解いてもらうという事になります。是が「悟り」です。自分自身を知るという事です。

是で心の分裂が終了する事になります。人生問題の解決という事です。人間の苦しみとは「左脳の自我意識」の能力で、割り切れない問題に対処している事です。是は不可能な事に挑戦しています。解く事が出来ない問題と言えるからです。

恰も、ソフトの入っていないコンピューターにその機能を要求している事になります。自分自身の左脳には出来ない事を自覚させる事が「禅問答」という事になります。禅問答が解けた時には、人間は全ての脳の働きが「働きだします」言い方を替えたなら、漠然とした不安が、今度は絶対の安心に変わります。

もっと言うならば、有限の自分自身に「永遠の命が」味方になってくれます。是は「神と和解した」という事になります。左脳が上位を占めていた生き方が苦しみの元を作っていた事が分かります。

それ以後は右脳の意識「神、仏性」が心の上位に座るようになります。この事から、もう心は二度と争いを起こしません。心の分裂が解消するからです。是が人間苦からの解放という事になります。「平常心是道」という事の体得となります。

貴方が命よりも大切なものを探している事は、そうさせるものが貴方には存在しているからです。その解決には禅は有効と言えます。参考になるとするなら、鈴木大拙博士の書いたものはいかがでしょうか?博士は25歳で悟りを開いています、その一言一言に、無駄が無いと思うからです。

投稿日時 - 2009-04-05 07:03:16

補足

鈴木大拙博士のご本を薦められました。手始めに何から読めばいいのでしょうか?

投稿日時 - 2009-04-05 13:04:04

お礼

悟りですか。私はそれから程遠いから皆さんにお尋ねするのでしょう。あらゆる瞬間に自我が邪魔をします。禅についても詳しいお話を伺いたいものです。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-05 13:13:14

ANo.19

>その暇つぶしにお答えになるあなたは何なのでしょうか?

いい年されているんだから、それぐらいのことは言われなくても理解しなさい

投稿日時 - 2009-04-05 05:47:31

補足

私は低能なので、もったいぶらずに教えてくださいってば☆

投稿日時 - 2009-04-05 05:56:33

お礼

あなたのように率直な指摘をなさる方が何よりもありがたいのであります。サンキュー(^з^)Chu!

投稿日時 - 2009-04-05 05:59:14

ANo.18

意義ですか・・・
ここでの質問はあなただけを満足させるためにするものではない事を知る必要があります。
補足があったので答えますが、ここは常連作って雑談する場所ではないですよ。

暇つぶしにしていることぐらいは、誰もが分かっていることでしょう。
それに並んで答える人達がいるのも現代の病なのかもしれません。
暇つぶしで質問するということは、心にも無いこと(質問するために作った質問)を質問しているということ自分で言ってるようなものですが、そういう人に何を教えなければならないのでしょう?

いろんなコーナーで困っている人を見かけますが、そういう人にはがんばってもらいたいという気持ちも沸きますが、暇つぶしで質問されてるようでは勝手に方法を捜してくださいとしか言いようが無いですね。

もう返事は必要ありません。通報もご自由にどうぞ。
現代の病から抜けられることをお祈りします。

投稿日時 - 2009-04-05 02:38:20

お礼

大変参考になりました。暇つぶしとはあなたがおっしゃったことをそのまま認めただけです。質問するにも日頃から思ってもいないことは意を託し切れません。その暇つぶしにお答えになるあなたは何なのでしょうか?批判されるくらいならご自分を鑑みたらよろしい。二度に渡ってご回答いただきありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-05 04:04:02

ANo.17

命より大切なものは、あえて言うなら愛情でしょうかね。
自分の子供が危険な目に会っている時は、自分がどうなろうとも(命を失ってでも)助けますね。
実際に経験しましたが、そういう時は体が無意識に動きます。
言葉では簡単には言えますが、実際そういう状況で守ることが出きる人であるならば、命よりも大事なものは愛情と言えるんじゃないでしょうか。
しかし、そういうものは比較してどちらが大事なんて考えるほうが馬鹿げてますけどね。

こういうことは言葉で尋ねるものではなく、本当に疑問として感じるならば行動することです。
命の大切さはこんな場所で理解できるはずもありません。
自分の目で見てこそ真実です。言葉では好きなことが言えますから。
孤独な人が考えることも無く、質問を出して暇つぶしをしているぐらいにしか思えないですね。

投稿日時 - 2009-04-05 02:14:00

補足

おっしゃるとおり暇つぶしには違いありませんが、皆さんのお言葉をいただくこともそれなりの意義があると考えます。では私は何から始めればよいのでしょうか?それすらわかっていません。よろしければお教えください。

投稿日時 - 2009-04-05 02:20:38

お礼

人間の本能とは生存ではなく愛なのですね。肝に銘じます。ご回答いただきありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-05 02:23:13

ANo.16

3。
> 自分が生き延びるために敵兵を殺さなければならないかもしれません。私にはそんなことができるのでしょうか?
> 食卓に肉が供されます。私が生きるためにかわいそうな牛さんは殺されてしまったのです。これは善いことなのでしょうか?

あなたが臨終のときになったら
「だれの命をひきかえにして自分はここまで生きたのかしら」
「私の命をやってもよいことがあったかしら」
と考えるのかもしれませんが、
できるだけ生き越して、受け取るだけ受け取り、投げ出しもしなかったという
錨を降ろしたように重い命を抱えた自分を見つめて死ぬということに、

命への誠実な態度があるのではありませんか。

善い態度などというものが、ほんとうにあなたの望みなのだろうか。
善いとか悪いとかを決めて判断を終われば楽なほうへ逃げられるでしょうが、
命が積み重なり、ときにはどうしようもなく不条理な積み重なり方で、ときにはあずかり知らぬ方法で、
生き越してある命だからこそ、重く、大切に運ぶのではないですか。

ひかりごけ の当時者の船長の身にでもなってみれば、
あまりの命の重さゆえにご質問のような言葉など舌のどこからも出てこなくなって、
死の最後の一秒の長さにさえ重さに耐えて、大切さを放棄はしないでしょう。

投稿日時 - 2009-04-05 01:10:15

補足

人はどこまで生きる痛みに堪えられるのでしょうか?末期ガンの痛みに苦しむ患者には何と声を掛けたらよいのでしょうか?それが「ガンバレ」では痛みがわかっていないのでしょう。それとも仮に法が許し本人も望むなら筋弛緩剤を投与すべきでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-05 02:11:06

お礼

雨合羽さんのおっしゃるとおりです。私には死を直視できない甘さや逃げがあります。考えたことは怠惰への免罪符にはならないでしょう。「ひかりごけ」読んでみます。再度のご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-05 02:14:52

ANo.15

命は大切です。
ここで問題となるのが、自分の命だけが大切なのか、他者を含めて命は等しく大切になるのかです。
我欲の働きで、自分の命だけが大事だとする煩悩もあるでしょうが、命を最も大切にするならば、自分以外(他者)の命も等しく大切にする心理へと思索は進みます。
いわゆる博愛と言うやつです。
真実の愛であれば、博愛が自己犠牲にまで進展することはありません。
他者である自分と等しく大切な命が自己犠牲を悲しむからです。
そんなわけで、食べるためには、まづ殺していますが愛なれば許されます。

投稿日時 - 2009-04-05 00:41:58

補足

>食べるためには、まづ殺していますが愛なれば許されます。-仕方がないとは思います。「業」ってやつですか。しかし本当はゆるされないけれども、生きるためには誰しもやっていることだからいいことにしているだけではありませんか?なぜいにしえの日本では屠殺などの生業を穢多に押し付けたのでしょうか?そこには「穢れ」から逃れたい支配者の卑劣さを感じます。どうかお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-05 01:20:32

お礼

ようこそおいでくださいました。ぽこぺろぽと申します。他の質問でオコリザルさんのご回答を拝読して話してみたいと思っておりました。おっしゃるとおり自己の存在を愛するならば他者の存在をも愛さねばなりません。逆もまたしかり。ですから自己犠牲による死は自家撞着といえるかもしれませんね。ご回答いただきありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-05 01:29:56

ANo.14

命を何かに掛けなくとも、時間がくれば死にます。物理的に、或いは自分の意志とは別に寿命が在ると思います。命より大事なものは、良く分かりません。只生きている今を大事に生きると言う事でしょうか?

春が来たら、春風に生きている事を体感させてもらいます。一日一日の中に「生」を抱きしめて。

投稿日時 - 2009-04-04 23:24:44

補足

若い日にしか為せないこともあるかと思います。私は先延ばしの生き方を後悔しています。もし明日にでも不慮の事故で死んだなら悔やんでも悔やみ切れません。死ぬ前に何かひとつやらなければならないことがあるとすれば、それは何なのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-05 01:50:15

お礼

私には「生」の実感が乏しいからこんなことを考えてしまうかもしれません。季節の移ろいには「いのち」の儚さを覚えます。日が長くなり秋が深まる頃には人恋しくもなるのですが。新緑薫る季節までには「生」の実感を取り戻して見せます。春風を抱きしめながら。ご回答いただきありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-05 02:00:20

ANo.13

答えになっていなかったらすいませんが・・・
私は小さな生き物が好きなのですが
小さな虫なんかを見ていると、生きているって不思議だなと思います
これから先、科学がどんどん発達しても
生き物を創り出すことは出来ないのでは、と思います
バクテリアのようにごく小さくても、やはり創りだせないのではと思います。
(生命操作はできるでしょうが)
自分もまああまり大きくない人間という生き物なのですが
人間に近いロボットぐらいで終わってしまうような気がします。

生きているって考えれば考えるほど不思議なもんです
命より大切なものはあるか、と聞かれても
人によってはある人もいるのかもしれませんが
私には思い浮かびません

小さなかわいい生き物を見ていると
自分と同じだな、とも思いますし
この不思議な命に代えられるものも思い浮かびません。

自然な感想を言わせていただきました。

投稿日時 - 2009-04-04 22:11:09

補足

おっしゃるとおり生命の神秘の前には言葉を失います。私も命を捨てろと言うつもりはありません。しかしいつかはなくなる命なら座して死を待つよりも、命を懸けるほどに大きな命題に立ち向かうこともあっていいのではありませんか?大切ないのちだからこそ、生まれては死ぬ意味があると思うのです。よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-05 01:37:50

お礼

いいえ、素晴らしいお答えです。あなたの生命を尊敬する姿勢には心より感服します。私もワナワナ震える生まれたての子犬を見るとき、自然に頬が緩みます。ご回答いただきありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-05 01:42:14

ANo.12

>あなたは何のためなら死ねますか?
>あるいは何のためなら人を殺せますか?

 その時の「ノリ」で、できるかもしれませんね~
これといった「信念」も無ければ「理想」も無い
つまらない男なので生死について真剣に考えたりしてませんし
これからも考えません

>それとも是が非でも生きながらえたいですか?

 特に生きながらえたい理由は、ないけど
死にたくもないかな~

 アナタの期待するような回答できなくてすみません
世の中には、いろいろな考えの人がいるというだけでも
わかったんじゃないかな(笑)

投稿日時 - 2009-04-04 18:54:53

お礼

あまり深く考えすぎても生きるのが嫌になってしまいますね。おっしゃる意味はよーく理解できます。再度のご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-04 20:01:34

ANo.11

[果たしてひとはいかにして天命を知るのでしょうか?なぜそれが天命と確信できるのでしょうか?よろしければお答え願います。]

天命は誰にもありますが多くの人は忘れているものですね。天命を思い出す方法を書いておきましょう。反省的瞑想法といいますが、1人になれる場所で静かに現在から過去を思い出しながら振り返って見る方法ですね。子供のころまでさかのぼることができれば、必ず天命が何かを思い出すはずですね。反省的瞑想法で大切なことは生まれてこの方の学び、人生経験などを全て白紙にしてあなた自身の本当の自分を見出すことですね。無邪気なあなたが何をしたかったのかを思い出せばいいだけなのですね。それが現在の自分と同じか違っているかを見出せばおのずとわかるということですね。人は皆、生まれてくる前に人生計画書をあの世の区役所に提出しています。それを生きて読むことはできませんがヒントはいたるところにあるようになっているのですね。迷いはヒントへの気づきの時でもあるので、探してみることですね。
それでもわからなければ、仏陀をお探しなさい。それが天命を知る近道でしょう。
追伸:坂本竜馬というお方は明治維新という改革を実行するために生を受けた魂ですが、たとえ道半ばで殺されたとしてもあの世では立派に評価されています。人生はこの世とあの世を貫いていますので、天命もこの世とあの世を貫いて一乗なのですね。何をなすべきか、何をなしたかが重要なことで、それ以外は泡のように消え去るものなのですね。
尚、現代の日本に生を受けた人達は、皆、世界の精神的・文化的・経済的指導者としての気概をもって生まれているはずですよ。それが日本に生まれる条件ですからね。

投稿日時 - 2009-04-04 17:32:32

補足

よろしければ反省瞑想法について詳しくお教え願えますか?

投稿日時 - 2009-04-04 19:54:51

お礼

>天命は誰にもありますが多くの人は忘れていますね。すでに与えられているのですね。思わず我が身を振り返りました。再度のご回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-04 19:58:34

ANo.10

>果たして命より大切なものがあるのでしょうか?
「ない」と思います。
しかし、命を大切にする事が、単純に命をただ生かすだけの行為とは思いません。大切な命を、どう使うか?どこで使い切るか?それは人それぞれ違うでしょう。



私は命は最も大切なものとは思いますが、安楽死は認めてもらいたいです。
命は大切と思いますが、牛や豚を食べさせて頂いています。
自己満足と思われるかもしれませんが、食するからには、残さず責任もって頂き、無駄にする事はないようにしています。


大切にする事と、絶対に殺さない事とは別だと私は思っています。


今のような普通に生きてれば死ぬ事が稀な時代では、「死に際」を見極める事は難しく、私には出来ません。あなたも、見極められないのを恥じる必要はないと思います。


自殺と言う選択をした彼らも、死に際を考えに考え抜いた、意義ある行為だと思い、批判する気にはなれません。

数え切れないほどの自殺者がでている中、彼らの死が全て無駄死にだったとは、思いたくはないのもあります。


しかし、死ぬ価値を見極められない限りは、死を自ら選ばないようにして欲しいです。

「死ぬ価値」を見極めるために生きるのも、それはそれで「生きる価値」はあると思います。

投稿日時 - 2009-04-04 15:10:36

補足

お優しい方だとお見受けしました。では自らの命は大切にするが、他者の命は大切にしない者についてはいかがお考えですか?つまりどこかで殺人事件が起きても気にも留めない者、自国の存続のために他国を攻撃する、あるいはそれを支持する者などです。よろしくお答え願いします。

投稿日時 - 2009-04-04 19:44:45

お礼

>見極められないのを恥じる必要はないと思います。―あなたの思いやりに感謝します。まず与えられた命を大切にすべきですね。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-04 19:48:37

ANo.9

 No.6です。

 pokoperopo さん どこか何か熱いものがお有りのように思えて 筆を執りました。
 まづは 訂正があります。

   誤: ▲ (近藤道隆:舞鶴特攻隊 日経4月4日)
   正: ▲ 〔近藤道生(みちたか):舞鶴 航空 隊 ・・・〕

 です。澄みませんでした。
 
 ★ (No.6お礼欄) 真理がわからないから生命も理解できないのではないでしょうか。理解できないので生命に苦しめられるのではないでしょうか。
 ☆ これは ごもっともだと考えます。おっしゃるとおりだと思います。
 むろん 《真理が分かる》というのも 語弊がありますが その《なぞの真理を そのまま 受け容れている》ということだと捉えます。
 受け容れるか受け容れないか あるいは 否として――つまり無神論の無神として――受け容れるか いづれの道にしても きちんと えらんで歩んでいれば 迷うことも苦しめられることも なくなるでしょうから。

 ★ (No.6補足欄) 果たして「私のいのち」には絶対に投げ出してはならないというほどの価値があるのでしょうか?
 ☆ これに関して 次のように考えます。
 価値があるかは 分かりませんが 投げ出しては 絶対に いけないと考えます。絶対にが 崩れるときの条件を示します。

 《関係の絶対性》を ふたたび 持ち出します。
 不可抗力による場合を除けば やはり 何らかの志の半ばにして 自分から世を去っていくのは おかしいと思えるのは この《関係性としての〈わたし〉の存在》という側面ゆえです。
 むろん志を求めている過程の半ばにして という場合も 同様です。

 なぜならば 関係し合っている人びと つまりは 実際に交通をつうじて知りあった人たち その人びとと すでに 社会的な関係性が みづからの存在〔の一側面〕として 出来あがっているからです。
 ですから 最低限のエチケットとして その友だちや知人に対して その皆が納得のいく理由と根拠を 説明してから 《自由勝手に 命を投げ出す》べきです。
 《存在 もしくは 命》に どれほどの価値があるか 知りませんが――というよりは 価値測定を超えていると思っていますが―― いま上で言った説得力のある説明をしないならば 絶対に 命を投げ出してはいけない。こう思います。いかがでしょう?

投稿日時 - 2009-04-04 14:40:44

補足

《自由勝手に命を投げ出す》その前に説明を試みても周囲の猛反対に合いそうです。また愛するものを残して《自由勝手に命を投げ出し》ていいものでしょうか?

投稿日時 - 2009-04-04 20:11:42

お礼

真理がわからないというよりは受け容れられないのですね。真理に抵抗するから苦しむのでしょう。何の説得力もなく命を投げ出すことはムダ死にです。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-04 20:19:40

ANo.8

 ここに投稿する方の特徴として、人生経験の少なさのためか、考えることを重視し、実践を忘れている印象を受けます。命より大切なものがあるかどうか分からなければ、アジア、アフリカでまともな水さえなくて死んでいく乳幼児がどれほどあるのか、直接現場に乗り込んでみてはどうでしょうか?そこで命が粗末に扱われていることを知れば、あなたの進むべき道は見えてくるのではないでしょうか?
 国境なき医師団では、ロジスティック関係者を求めています。勿論英語で交渉できることが最低条件です。

投稿日時 - 2009-04-04 09:40:20

補足

あなたの分析は理解しました。たとえば「知の巨人たち」も何かを疑問に思った時に、他者への問い掛けをしたはずです。もちろん問われた者の中には「知の巨人たち」より知力が大きく劣るものもいたはずです。彼らの回答を「知の巨人たち」は軽視あるいは侮蔑したでしょうか?あるいは「知の巨人たち」はこの問い掛けを無意味と斥けたのでしょうか?是非お答え願います。

投稿日時 - 2009-04-04 13:53:29

お礼

おっしゃるとおりです。私には人生経験も乏しく、しかも足りない頭であれこれ考えているのです。命の現場に行けば全く別の想いやある種の使命感さえ芽生えるかもしれません。あなたは豊かな学識をお持ちのようですが悲しいかな私にはそれもありません。お言葉ですが、他の質問や回答を批判なさるなら質問してみるとよろしい。私も愚問とわかりつつ質問したりかいとうすることがあります。少なくともあなたのような批判専門家ではございません。意見の別れる質問をした場合、回答しかしない方にはお礼を書かないつもりでいました。しかしご回答の内容をありがたく感じたので今回は特別です。あなたのような秀才が凡人をバカにするのは大変見苦しいです。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-04 11:50:12

ANo.7

「果たして命より大切なものがあるのでしょうか?あるとしたら何なのでしょうか?」

あるよ! かって中国の高僧・天台チギは「この身千貫の岩に砕かれようとも仏陀再誕の時代に生まれて直接仏法を学びたい」といっていますし、近代の吉田松蔭は「学ばずして死ぬことほど恥ずかしいことはない」といってます。人生高々80年、生まれ出た者はほっといても死ぬことになってます。与えられた時間を真理の学びに使うか、人のために使うか、国のために使うか、それは本人次第ということですね。現代の日本に生まれたのならば、未来の人のためにまず真理を学ぶべきでしょうね。大法はすでに地にありますよ!

投稿日時 - 2009-04-04 09:19:57

補足

やはり命より大切なものはあるのですか。しかしそれを知りながら先に命を落としては意味がありませんね。果たしてひとはいかにして天命を知るのでしょうか?なぜそれが天命と確信できるのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-04 13:07:09

お礼

おっしゃるとおり息をするだけのために生を授けられたわけではありませんね。何もせずに命を惜しむ者は私と同じく愚かです。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-04 13:12:03

ANo.6

 何だか 穏やかでない部分も 見えていますね。
 pokoperopo さん お早うございます。 bragelonne です。
 
 ★ (No.2補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私が問うているのは生きる価値だけではありません。命を投げ打つに値するものを探しています。
 例えば三島由紀夫は自衛隊員に決起を呼び掛けたのち切腹しました。彼はその檄文の中に彼なりの命捨つる価値を見いだしていたと思います。
 このまま漫然と生きるなら死を賭して何かを守るほうが生より価値があるかもしれません。何になら命を投げ出してもよいのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの答えは
 ○ 《何にでも 命を投げ出して》は いけません。
 ☆ です。

 今朝の《私の履歴書》には こうあります。
 ▲ (近藤道隆:舞鶴特攻隊 日経4月4日)~~~~~~~~~~
 私の任地は舞鶴海軍航空隊。・・・ 
 最寄り駅で汽車を降り 紺の制服に短剣を吊って歩いて行った。すると通りかかった小学生が深々と頭を下げる。・・・
 真珠湾攻撃を成功させたのは海軍航空隊。まだミッドウェーの敗戦は秘せられている。国民 それも《少国民》と呼ばれた軍国の子どもたちにとって 海軍航空隊士官の軍服を着た軍人は英雄であり神様だった。
 そのことに思い到った途端 胸の奥底から熱い塊がこみ上げてきた。
 ――この子どもたちのためにこそ死のう。
 少国民の澄みきった瞳に次々と射すくめられて 私は命を捧げるべき対象と大義を初めて得たような強い感動を覚え 田んぼの中の一本道でしばらく立ちすくんでいた。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ しかしながら です。pokoperopo さん しかしながら です。この著者は 学生のころから すでに 彼我の経済力と戦力の差を いやというほど知っており やむを得ずの参加でしかあり得ません。
 とうぜん 皮肉を交えて このように言っております。高々 次善の策として 《未来の国のため 未来の日本人のために 死のう》ということだと言うべきです。

 もっとも譲歩して言うとしても
 ○ 生きるために命をささげよう。
 ☆ です。それでも なお
 ○ 《命を投げ出して》は いけません。
 ☆ 絶対です。なぜなら そうでなければ その死が 生きないからです。
 ★ 生より価値があるかもしれないものがあるとしたら それに 命を掛ける
 ☆ ということだと思われるからです。それだったら 
 ○ その死が 生きないのであれば 死んでも 何にもならない。
 
 その昔 わたしも 《真理のためなら――わたしの魂も心もすべて知っている存在のためなら――死ねる》と思ったことがあったものです。
 ですが これは わたしの 人間としての 想像裡を出ません。ただの考えです。ところが 《われ思う ゆえに われは あり》ません。その経験思考の限界を知ったそのわれが 存在の中核です。しかも この中核も 有限です。
 その意味で 真理は この人間のこころの真実を超えていますが つまり いますので その真理のためなら かなりの程度まで おのれのはからいによって ことを成すことができる。と言えるでしょう。
 ですが やはり 死ぬのは 《生きる》ためです。生きるとは たしかに 共生でもあります。共生としては 人間の自由ということです。(平等・対等と言いかえても 同じことだと思います)。
 ところが 
 ▲ わたしを知る者は 真理を知るであろう。
 ☆ と聞き なんでだ? 真理なんかを知って どうするのか? という問い返しに答えるかのように
 ▲ 真理は きみたちを 自由にする。
 ☆ というではないですか。では どうするか。どうなんでしょう?



 ★ 果たして命より大切なものがあるのでしょうか?
 ☆ やはり それには 
 ○ 《生きる》とは どういうことか。
 ☆ こちらの命題を追究するところに見出されるのではないでしょうか? どうでしょう。

投稿日時 - 2009-04-04 09:12:15

補足

仮に私が命を投げ出したところで屍を乗り越えてまた新しい命が誕生します。この生命が誕生し続けることそのものが大宇宙の生命だと思うのです。もちろん犬死には避けなければなりません。果たして「私のいのち」には絶対に投げ出してはならないというほどの価値があるのでしょうか?お教え願います。

投稿日時 - 2009-04-04 13:27:31

お礼

私もしばらく哲学の質問は立てないつもりだったのですが、やはり我慢できませんでした。しかもあなたをそのうちお招きするつもりだったのですが、早速お越しくださいましたね。真理がわからないから生命も理解できないのではないでしょうか。理解できないので生命に苦しめられるのではないでしょうか。少なくとも『少国民』は命を懸ける者への礼節は教えられていたと考えます。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-04 13:42:08

ほかの動物(人間の体も同じですが)は時々刻々環境の変化に応じて体を変えていきますから一貫して不変の自分というものがありません。彼らは未来について心配もしないし過去を悔んだりもしません。人間だって体は不安も抱かないし過去を悔んだりしません。長年の不摂生で体が傷んでいても何でもありません。また体は死ぬことさえ嫌がっていません。一方人間の自我意識は生まれて物心ついて以来不変の連続したものとして考えられています。実際はやはりどんどん変わっておいるのですが少なくとも名前と同じように何か同じなものと考えられています。これが錯覚であるということはなかなか分かりません。つまり自分と思っている不変のものが実はどんどん変わっているということに気が付いたら自分が大切と考えている命もその時その時違うものになっているということです。自分さえどんどん変わって行ってしまうのならば何か変わらないものを求めたくなるのではないでしょうか。命だけは不変であると考えたら命以上に大切なものはなくなるのではないでしょうか。しかしこの不変の命というのはフィクションだと思います。だから政治家は名誉、学者は研究、多くの人はお金などに命をかけるのではないでしょうか。

投稿日時 - 2009-04-04 04:53:09

補足

反論するのではありません。賛同したうえでお尋ねします。命が不変であるならば捨ててもかまわないでしょう。戦争や飢饉で尊い命が奪われています。他者の都合で殺されたりもします。いかなる理由なら命を絶ち奪ってもよいのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-04 12:56:24

お礼

きっとわれわれの魂は永遠にさまようのでしょう。肉体は魂の乗り物です。その乗り物を与えられた意味を探り続けます。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-04 13:00:17

ずいぶん生き急がれるのですね。
私は自分にそこまで価値が見いだせません。
ただ、割腹自殺といえば、もと大阪副知事の「極道の妻」だったという弁護士さんを思い出します。私は本を読んでいないので詳細は存じませんが、その後に猛勉強をされて司法試験を突破されたことは有名です。
彼女も何かに命をかけてのことだったのでしょうか。
「いのち」はそこにあるもので必死に守っていくものではないかと思っています。必死に守ってやっと生きている子供を育てた時、どれほどの苦労でもやはり守りたい。それは本能で動物はもっと強い。
あなた様の命もやはり守られるべきで、何物にも代えてはならないと思います。

投稿日時 - 2009-04-04 03:45:57

お礼

生き急いでいるというよりは無力感に苛まれているのです。また私は生と死は《対》にあると考えます。生に価値があるならまた死も然り。おっしゃるとおり生は守るべきもので抗うべきものではないかもしれません。何物にも変えがたい命なら何かを為すためにせいを享けたかもしれません。正直なところ全くわかりません。再度のご回答をいただきありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-04 12:35:05

ANo.3

あなたが自分で決めることではないか。
自分だけが深く知っている価値だから、自分の命を賭けられる。
つまり他人の命はそこには賭けられない。
他人が知っている何ものかの価値に、あなたの命は賭けられない。
その価値を他者と共有するとき、感動して胸が震えるんでしょう。

投稿日時 - 2009-04-04 03:13:27

補足

自分で決めたいのは山々ですが、もし徴兵制が復活したら、自分が生き延びるために敵兵を殺さなければならないかもしれません。私にはそんなことができるのでしょうか?食卓に肉が供されます。私が生きるためにかわいそうな牛さんは殺されてしまったのです。これは善いことなのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-04 03:24:31

お礼

自分の命だからこそ懸けられるのでしょうね。そんな共感を分かち合いたいものです。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-04 03:27:20

「いきている」
「死のうとすれば死ぬ手段はある」
「死にたい気持ちになったことがある」
これは多くの人がそうだと思います。テーマの哲学からすると「生きる意味」を問うておられるのでしょうか。
「生きる努力」平たく言うと生活に苦労して忙しくしていると、生きようか死のうか考える暇がなくなるらしいです。
私事では「死にたいほどつらい気持ち」になることは多々ありますが仕事を探したり、「生きていく」苦労は大変です。「よりよく生きる」ことはなにか楽しく前向きでいい感じがしますが、せっかくまだ生きているので「もっといい暮らし」がしたいし「よりよいもの」になりたいです。
ひとからは「わるいもの」と罵倒されることがここ数年多くなりました。世界の片隅の生ごみの気分で生きる価値があるか不安なのも、やや世相のせいもあるかもしれません。「罵倒」する人は罵倒すると気分がいいのでしょう。でも、アウシュビッツを生き延びたフランクル博士が有名な著書「夜と霧」の中で、どんな暴力も無感動になっていったが、「罵声」にはどんなに疲弊しても怒りに体が熱くなった・・・・ような意味のことを書いています。案外死にたくなる理由の多くは他人の声だったりしますよね。

投稿日時 - 2009-04-04 02:23:06

補足

私が問うているのは生きる価値だけではありません。命を投げ打つに値するものを探しています。例えば三島由紀夫は自衛隊員に決起を呼び掛けたのち切腹しました。彼はその檄文の中に彼なりの命捨つる価値を見いだしていたと思います。このまま漫然と生きるなら死を賭して何かを守るほうが生より価値があるかもしれません。何になら命を投げ出してもよいのでしょうか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-04 02:48:56

お礼

やはり誰にでも死にたいと思うことはあるのですね。「夜と霧」で罵倒されるのが何よりも堪えると読んで胸が締めつけられました。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-04 02:52:33

ANo.1

>果たして命より大切なものがあるのでしょうか?
>あるとしたら何なのでしょうか?

 人により価値観は、様々ですので・・・
また、その時の状況、立場etcにもよりますので・・・

例えば
・自分の命より子供の命(家族の命)
・自分の命より国
・自分の命よりお金(財産等)

 自分にとって自分の命より大事なものを
見つけてみるのもいいかもね

投稿日時 - 2009-04-04 02:07:31

補足

あまりに早いお答えなので私と一緒に考えていただきたいのです。そこで単刀直入にお尋ねします。あなたは何のためなら死ねますか?あるいは何のためなら人を殺せますか?それとも是が非でも生きながらえたいですか?よろしければお答え願います。

投稿日時 - 2009-04-04 02:35:57

お礼

早速のご回答ありがとうございます。ただ息をしているだけでは寂しいですよね。私なりの生きる価値を模索します。何かに生きる価値を見いだせば潔く死ねるかもしれません。

投稿日時 - 2009-04-04 02:39:41

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