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解決済みの質問

ぶっきらぼうは いただけませんか?

 【Q‐1】 まっ 罪ではないでしょうが ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか?

 【Q‐2】 愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか?

 【Q‐3】 ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか?
 それとも 何らかの愛想があることが 地であって その上に 愛想の多い少ないや よい悪いが 図柄となって 実存していますか?

 【Q‐4】 《愛想》とは 何でしょう? あるいは 《社交性》とは どういうことでしょうか? つまり 《ぶっきらぼう》には 社交性は ないでしょうか?

 自由にご見解を述べて ご回答をお寄せください。

 【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】には たくさんのご回答を寄せていただき まことにありがとうございます。これは 続編のごとくになりますが よろしくどうぞ。

投稿日時 - 2009-04-16 08:47:04

QNo.4883224

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

bragelonne様、いつもわたくしを諭して下さって本当にありがとうございます。
わたくしとのやりとりが「bragelonne様が何らぶっきらぼうでもなんでもない」ことを証明しているかのようです。

お題:ぶっきらぼうvsのっぺらぼう

>わたしの思うに その中味が《未整理・未整頓》であっても 《いま・そこにいる存在》のほうが 哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり《えらい》のです。この大前提に立って と言いますか この大前提じたいが 《わたし》の問題 すなわち それとしての《他人》の問題なのではないかと思っています。さて いかがなものでしょう?

はい、おっしゃる通りでして、だからこそ【のっぺらぼうが多数派】なこの時代だからこそ【哲学や自然科学のとうとい営みよりもやはり≪えらい≫のです。】とこだわりをもって信条を貫くという意味の【ぶっきらぼう】なお方が何よりも「貴重で得難い」のだと確信するのです。
それに≪わたし≫を尊重すればするほど、≪わたし以外≫のものが相対的に尊重されなくなるのは自明のことです。
何故あえて両者の優劣をつける「必要」があるのでしょうか。

ちなみに、≪神≫と≪ハサミ≫は同じ視点で語られるものなのでしょうか。
仮に≪ハサミ≫をフーコとするならば、「主体=使用する人」によっていかようにも社会という紙切れを切り刻むことができると思うのです。
で、≪ハサミ≫にも「顔」がついていたら、気持ち悪いし、話しかけられても困ります。
やはり≪ハサミ≫は高品質な無機質なものでないと、でものっぺらぼうと思えばやはり不気味にも思えてきます(笑)。

で、切り刻む紙切れにしても、例えばありきたりの白画用紙でも、幾重にも手間暇かけて製作された温かみやぬくもりのある美濃和紙でも土佐和紙でも、どちらでもよろしいかと思われます。
まさか≪ハサミ≫で≪神≫や≪わたし≫を切り刻むなんてあり得ないと思います。
もちろん、≪ハサミ≫を用いるのが気に入らないから、≪神≫や≪わたし≫には「両手」がありますので、必要であれば紙切れを丁寧に半分に折って、つつ~っと慎重に切る方法もアリかと思うのです。

最近の子供って、不器用といいますか、なかなか「手で切る」といったような昔ながらの手法を知らないケースが多々あるように思われます。
ですから、臨機応変にハサミや手で切るなど使い分けを伝えていきたいなあ、と母親として感じます。

そして、「さて、どうでしょう?」という一つの言葉にわたくしは限りなく「哲学の可能性」を大いに予感させられます。
だって、「科学の合理性」によるならば、どうひっくりかえっても「ハイ、終わり!」に帰結する問題があるはずです。
でも哲学の思索においてはどこまでも延々と続く可能性が秘められているのですから、bragelonne様が「さて、どうでしょう?」を放棄しない限りにおいては、わたくしはこの対話を続けさせていただけるのです。
何て嬉しいことでしょう! これって凄いことです♪

>そして たしかに この全部のボウを なぜか 女性は 持ち合わせている(包みこめる)のかも知れません。

そりゃあそうです。
この一行だけを取り上げてみると、朝から顰蹙ですが、何故か意味深なものを感じずにはいられません。
a様のおっしゃる「芸術哲学」に通じるものがあるかもしれません(汗)

>その試行錯誤の道のりを 尊ばない。《あやまちを侵したであろうがあやまたなかったであろうがあとから検索することなどどうでもよい》主義。

所詮≪ハサミ≫はハサミですから。
わたくしがランチに何を食べよう?と問いかけようにもこたえられないように思うのです。
ただし、韓国焼肉のようにお肉をハサミで切るなど異文化においては「エエッ!こんな用途もあるの?」という視点はユニークで面白いものだ、とは思われませんか。

また、フランスで友人と大ゲンカしたことがあります。
たかが直径10cmの缶詰のふたを切るのに台所の棚の最上段奥から「電動缶切り」を出そうと言ったときです。
わたくしは思わず「面倒なこった♪」と言ったところ、「これは便利なの!手で切る方が面倒でしょ?」と言われて「は?バッカじゃなかろかフランス人って♪」と派手にやりあってしまったのです。

キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。

Alors, a tout a l'heure!

投稿日時 - 2009-04-21 08:58:52

補足

 mashumaro2 さん もう一度お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 興味本位から入ります。
 ★ キッチンにおいては「全て」を包み込める女性とはいえ、男性同様に譲れない流儀がある、ということでしょうか。
 ☆ あぁ これも 或る種の ぶっきらぼう ですね。よかった よかった。と言っても いけませんかね。

 なるほど 上手におっしゃる。フーコは はさみであると。(フーコーを改め フ―コ とわたしも します)。例の passcard さんから そういうふうに一度指摘されていたのですが たとえば次のような指摘も あたまに残っていました。
 ▲ (今村仁司:構造主義 『現代思想を読む辞典』1988)~~~~~~
 ・・・
 構造主義の《構造》概念に関する認識論的諸問題 さらに構造主義が秘かに想定している存在観の諸問題を吟味することが残されている。
 構造主義の科学は完了しているのではなく 今後も批判と討議を経て発展すべき未来に開かれた学問である。
 構造主義に反対することは 認識論的にみて反動的である。したがって 構造主義の認識上の成果を踏まえつつ 同時に認識論上と存在論上の批判的検討を条件として私たちは前へと一歩進まねばならない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《構造主義が秘かに想定している存在観》 これですね。認識論は はさみでしょうが 思想つまり すでに 生活態度の問題にも 入って来ているようにも感じたのでした。《無主体》説では 困ると思います。ぎゃくに 認識論だけなら・つまり はさみであるなら 道具であるということですから 無主体は 当然ですね。

 ○ 鬼に金棒
 ☆ この表現は 鬼も金棒も 話し合い主義にとっては まずいですね。戦略・戦術だとか 男性軍・女性陣だとかも そろそろ 代わりの表現を探すべきでしょうね。《大船に乗った気持ち》も どうも古いですね。

 さて 前編からのつづきとしましては mashumaro2 さんと《過激性》を競うという誘惑にかられました。
 ☆☆ (【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】No.78補足欄)~~~~~~
 その昔 ひとが死ぬということを知ったとき ひとは その存在の時間的な存在性に・そしてその時間的な存在が互いにいとなむ世界に みづからの意志において 《イリ(入り)》しました。歴史知性の獲得です。
 その以前には なにごとにも《ヨリ(寄り・依り・憑り)》する原始心性でした。アニミズム心性でしょうか。
 歴史知性を確立していくにつれ 《ヨリ心性》に留まっている場合をどうするかという議論が起き 片や そのまま 《イリ知性》の漸進的な歩みを説く人びとと そして 片や そうではないと言って この歴史知性の潜在なるままの《ヨリ》原始心性を 《ヨセ(寄せ)》るのだと主張する人びとが出て 対立します。
 結果は ヨセなる言わば超歴史知性の側に イリ知性の側が 国ゆづりするというかたちで 譲歩し従属することになりました。
 途端に それまでの社会は いわば平屋建てであったものが 二階建てに早変わりしました。むろん 二階には スーパー歴史知性なるヨセ派が 住まうということになります。

 この二階から 説いて言うには 第一条として
 ▲ 一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。
 ☆ でした。そののちにも 大きく王位を争う六七二年の乱をはじめ 自分たちの雲の上では 波風を立てても よいが 下々では ならぬと言う。その以前には 蘇我氏と物部氏が 仏教受容かどうかで 争ったとき 聖徳太子は 前者の軍に加わり戦っておきながら 上の条文をこしらえた。
 ということは 《ヨセ》なる知性は 別格であって 人びとは その知性に対して 波風を立ててはならないと言っている。ことになるのでしょうか? どうでしょうか?
  ヨセなる超歴史知性:天つ神 
  イリなる歴史知性: 国つ神
  ヨリなる原始心性: うつ(現)しきあをひとくさ(青人草)
 あるいは
  ○ 罪には ヨセなる第二階を侵そうとする天つ罪と イリなる第一階で争われる国つ罪とがある。
 ☆ という世の中が 出来あがって行きました。とさ。

投稿日時 - 2009-04-21 10:22:14

お礼

 結論:第二階がなかりせば けんかは 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたちであった。のではないか?
 どうでしょう?

 * あるいは イリ歴史知性の中から ヨセ超歴史知性が出たのと 似てはいるが 少し違うアマアガリも見られました。その後 歴史知性が 理性として・理性なる神として 歴史を超越するかたちで あがめられるようになった。のではないか? 
 * 内面において自己崇拝的な《ヨリ》を《復活》させてのように あらたな歴史知性として立った《コギト》知性。これによれば たしかに もはや 人びとの知性は 針ねずみのごとき容貌を現わして来た。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《コギト》について 悪口のみを言っています。偏見です。《はさみ》説を普及させる必要があります。
 かくて 世界は 《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》なる知性の入り交じる交通関係網より成るとなるでしょうか。粗削りですので よろしければ たたき台として どうでしょう?
 現代には 《純粋な》ヨリは いないでしょうね。イリ歴史知性に 一たんは 目覚めたのに ふたたび どういうわけか ヨリの眠りのほうへ 傾いていく。それが のっぺらぼうなのかも知れません。
 まなざしをもっぱら上から注ぐ超越知性のヨセも ふつうのイリ歴史知性が 本籍です。コギトも 同じくです。コギトを イリが使うのと ヨセが使うのとでは 微妙に 違ってくるのではないでしょうか?
 二階建て構造は むしろ 逆立ちしていないでしょうか。

投稿日時 - 2009-04-21 11:11:19

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回答(73)

ANo.73

私は昨日から「一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ」という本を読んでいます。
私の下手な説明より「母親」に、この本を読んでもらいたいです。


99ページ
「この『神の前での自己正当化』において人は、神を神とするのではなく、自分の知っているところの
判断基準を神として、その判断基準に神を従わせようとしている。
つまりこの態度は、神が何を正しいかを決めることを拒絶する態度である。
そして神は、実は自分自身である。知恵によって人が『神のように』なっているのである。
したがってこの態度においては、神の前での義の可能性は完全に失われてしまうことになる。
神との断絶が決定的になってしまう。」


この「神の前での自己正当化」を批判するために、ヨブ記とコヘレトの言葉が登場します。
さらに、「神殿」が登場します。

母親は神殿を建設しようとしているから、私は神殿の必要性を説明したかった。


103ページ
「罪の問題があるということは、神と民が断絶しているということである。
そして神殿での儀式が神と民の繋がりを具体化したものならば、これはかけがえのないものになってしまう。
すでに確固として存在する神と民の繋がりを確認するといった程度のことではなく、神と民の繋がりが存在しないので
神殿での儀式は何としても行わねばならないものになってしまう。」


105ページ
「神殿の儀式は、その儀式自体が不十分な正しさのものでしかないことを刻々と証明している。
神との断絶が決定的になることを刻々と回避する活動であるとも言うことができる」


また誤解を与えるかもしれないけど、回答です。

投稿日時 - 2009-05-08 15:42:56

お礼

 sennin- さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 回答です。
 ☆ ということですからね。どうしたもんでしょう。
 いっそのこと 飛躍しましょうか。ぶっきらぼうは 自由自在なのです。律法なんて すべて わがこころの神殿に おさめられています。
 わたしたちは みな 一人ひとりの存在が 神の霊の神殿です。日々 つくられています。日々 つくられていきます。昼は わたしがつくり 夜は たぶん キリストがつくります。たぶん 夜は わたしたちは 日々 死んでいるのでしょう。そういう儀式を わたしは わがキリストとおこなっています。どぢゃ?
 
 これほど 自由な世の中になったと ヨブのぢいさんもほかのコヘレトたちも 集まって来て よろこんでいるでしょう。
 もう 罪だの義だのと 言わなくてよいのですよ。すべて 飲み込まれてしまった。なにを今さら 引っ張り出してくるのでしょう? それは あの木の上から まだ 息を引き取らないうちに 勝手に 引きずり降ろすことになりませんか?
 神と民のつながり ですって? そんなものは 初めから そして お望みなら 終わりから 出来あがっているに決まっているぢゃないですか。いまさら 何をぶつぶつ言うのでしょう。それは ふたたび あの木の上に はりつけにしようとすることではないでしょうか。
 
 sennin- さん よろこべ。ときは近づいた のではなく もう来てしまっている。なぜ 山は逃げるのか。なぜ 海は しりぞくのか。

 ★☆ 誤解を与えるかもしれないけど、応答です。

投稿日時 - 2009-05-08 16:25:38

ANo.72

・・・なんと言えばいいのか。

カトリックとプロテスタントは戦争していたようですね。
何も言われないよりはずっと良いけど、
はっきり駄目と言ってないよね?
いや、わかるけど、でも。

これからどうしよう。bragelonneさん。
できるなら、私は和解したいけど、どうなんだろう?

投稿日時 - 2009-05-07 13:23:12

補足

 Zohar さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 Zohar さん Zohar というからには――ちょっと 検索して初めて分かったのですが―― ユダヤの信仰ではなかったのですか?

 ユダヤならいざ知らず キリストの神に
 ★ カトリックも プロテスタントも
 ☆ ありません。あり得ません。個人の信仰の観念共同としての宗教は 忘れてください。そんなものは へのかっぱです。

 わたしは たしかに 水による洗礼を受けていません。 
 ▲ (ローマ書10:9-10) ~~~~~~~~~~~~~~~
 口でイエスは主であると公に言い表わし 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら あなたは救われるからです。実に 人は心で信じて義とされ 口で公に言い表わして救われるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たとえば この聖句をとおして キリスト者と自称しています。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 これからどうしよう。bragelonneさん。
 できるなら、私は和解したいけど、どうなんだろう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なにを気の弱いことを言っているんですか。理論や見解やあるいは くせや手法にかんしては 互いに差異を認め合って 批判しあっていけばよいでしょう。けれども ひとと ひととのあいだに どうして 差異があるのでしょう? あったら たしかに ぶっきらぼうではいられないかも知れません。

 すべてを終わりから 初めてください。何か和解すべきことがあったから 和解をすると見るのではなく すでに はじめに 和解しあっているというところから ものごとを始めてください。いちいち めんどうなことは ありません。神をなんと思っているのですか。自分の・人間のあたまの中にでも おさまるとでも 思っているのですか?
 
 というわけで つぎのように わたしは わたしで 減らず口をたたいています。

 ▲ (コリント前書1:27) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ちなみに そのあとをも 引いておきましょうか。

 ▲ (コリント前書:承前 1:28-29) ~~~~~~~~~
 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この際 わたしは 引用魔になりましょうか。

 ▲ (コリント後書2:14-17) ~~~~~~~~~~~~~
 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。
 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。
 滅びる者には死から死に至らせる死の香りであり、救われる者には命から命に至らせる生命の香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

 わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ あぁ 権威を笠に着てしまいました。ま いつも かな。

投稿日時 - 2009-05-07 14:18:51

ANo.71

こんにちは。

こういう物語があります。
イエスとマグダラのマリアは結婚して子どもがいる、と。

マグダラのマリア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%80%E3%83%A9%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2

レンヌ=ル=シャトーの謎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%8C%EF%BC%9D%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%88%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%AC%8E

メロヴィング朝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E6%9C%9D

>神話と伝承
>メロヴィング朝の始祖は、ナザレのイエスとマグダラのマリアの子の血を引く云々。[1]

聖杯伝説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%9D%AF%E4%BC%9D%E8%AA%AC

>レンヌ=ル=シャトーの謎─イエスの血脈と聖杯伝説』で、 聖杯をイエスの血脈と関連付ける考えを示した。
>これは、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』にも借用されている。

投稿日時 - 2009-05-06 07:01:00

お礼

 Zohar さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ですけれど 公認の聖書記事にも 大食漢で大酒飲みだと言われたと書かれていますよね。
 たしか 木に向かって 枯れよとか言っていましたね。イエスは。負け惜しみでしょう?
 うづくまって 地面に線か字を書いていたのでしょう? 罪の女の場面では。
 
 もし ほんとうに問い求めようとしているのなら わたしの過去の質疑応答を読んでみてください。しっかりと説明していますから。
 要は イエスは まったくふつうの人間であり 同時に キリストと呼ばれるようになったなぞの存在です。わたしたちが 信じるのは――つまり それは 無根拠というなぞの存在との関係を言うのですが―― むろん 人間イエスではありません。
 ただし 微妙ですので ことばを添えますが さらにこのキリスト信仰としては そのドグマとして(ただの想定であり 論証不可能であるのに 人間の言葉で表現してしまったものとして) 要するに このナザレのひとは 人間であると同時に神の子であり神であったと言っています。
 神は なぞですから 霊という呼ばれ方をしており この霊は 或る程度は いわゆる仏性と呼ぶものにも似ています。つまり それが 誰もに宿るという意味でです。

 物語の持つ衝撃力に耐えきれず 次つぎと 経験存在としてのイエスの部分について 経験的な行為や現象を さらに物語って行ったといったところでしょう。

 血筋によらず 肉の意志によらず 人間の意志にもよらず・・・と書いてあるでしょ? まだ 息を吹きかけられませんか? (えっ なんで このぶっきらぼうのわたしが 宣教するの?!)

投稿日時 - 2009-05-06 08:01:06

ANo.70

初めに断っておきますが、

僕はぶっきらぼうを罪だとは思いません。 十人十色、と思っています。

しかし、聖書では、
テモテへの第二の手紙3章1~3節
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
1)しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。
2)その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、
3)無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、
4)裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、
5)信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

だそうです。(融和しない人=ぶっきらぼう)

お耳汚しまでに、、、。

投稿日時 - 2009-05-05 19:13:06

お礼

 zatousan さん ご回答をありがとうございます。

 直前のお応えにも書きましたが zatousan さんと Zohar さんと そして Lazarus- さんとは 似通った内容を書いてきますので こんがらがりますね。

 zatousan さん 今回は いやに おとなしい(失礼!)ご回答ですね。あるいは おとなしすぎはしませんか? あるいは 少し見方を変えると いささか律法主義くさいとも見えますね。
 これらの悪者の列挙は やや 紋切型に思えます。パウロその人の文体ではないように見受けられます。

 ううーん。いっそのこと すでに今 新しい天と新しい地との話をしてみては どうですか? ちょうど 別の質問のほうで わたしが やらかしたので 言うということもありますが 《終わりの時代》などというのは どうも ゆううつですね。つまり 《永遠の現在》とも言いますしね。

 もっともっと自由に もっともっとさらにもっと自由に 自説を展開していかれたら どうでしょう? すべてがゆるされている。すべてが益になるというわけではない。すべてがゆるされています。すべてが 益になるというのではありません。
 でも 最大限に自由に! そのさらに一歩先の自由を!

 世紀のぶっきらぼうからでした。

投稿日時 - 2009-05-05 21:02:21

ANo.69

欠けているものがありました。

ヨハネによる福音書11章43節

こう言ってから、「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれた。
すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。

>ぶっきらぼうは いただけませんか
いただけません。

対話しないと。それに、隣人愛は律法です。
。。。私が言っても説得力がないけど、それでも。

>死後のことなら むしろ 《輪廻転生》のほうの問題なんですけれど。

いいじゃないですか。べつに。キリスト教は奇跡が登場するから
比喩や物語ってことにしないと問題だらけですから。
「文字は殺すが霊は生かす」、でしょう。

投稿日時 - 2009-05-05 16:09:57

お礼

 Zohar さん ご回答をありがとうございます。
 Zohar さんと zatousan さんと そして Lazarus- さんとは 回答内容が 似通っていて こんがらがりますね。しかも Zohar さんが ラザロの話を出してきますしね。

 元気を出してきた Zohar さんですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >ぶっきらぼうは いただけませんか
 いただけません。

 対話しないと。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ はい。分かりました。これからも さらに 気をつけて ちょっとの隙間をも逃さずに 対話をねらっていきます。

 ただ 《ぶっきらぼう》というのは――この質疑応答の初めから―― すでに 対話をしていて その表現が 必要最小限にとどまるといった傾向を言っているのです。引っ込み思案ではないのです。
 それに対して 《のっぺらぼう》というのは けっきょく 一般的な知識や社会情況や あるいは何つけても いわゆる一般論は 言うが 自分の意見や意思表示は 言わないし しない。こういうくせ(エートス)のことを言っています。顔がないという言い方で 言います。知識は すごいのですけれどね。

 あと 律法が 文字のことだから 気をつけましょう。石の板にではなく 胸の板に書きつけられた律法のほうで まいりましょう。
 Zohar さんと わたしは 或る種の仕方で 競争ですな。

 まだ ことばが 足りんようですな。まだ 布を巻いているのかい?

投稿日時 - 2009-05-05 20:49:27

ANo.68

補足

 お礼欄は ぶっきらぼうでしたか?

 ★ フランスに詳しいですよね?
 ☆ ったって 限られていますよ。
 《マリアたち》の伝承・伝説については No.71の Zohar さんへのお応えの中で 少し 触れて 述べました。どう扱うか どういう性質の物語であるのか そういう視点ですね。

 マルタだったか 妹のマリアだったかが イエスが訪れてきたとき もてなしの食べ物のことなど そっちのけで ぶっきらぼうだったわけでしょ? 
 何でも いいですから もう少し ことばを継いでくださいませ。

投稿日時 - 2009-05-07 09:11:56

お礼

 Lazarus- さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ですが これだけでは いったい どういうことの《補足要求》であるのか。・・・
 ひとつには 要するに 伝承・伝説がつくられているということではないですか?
 死後のことなら むしろ 《輪廻転生》のほうの問題なんですけれど。どうしたものですかね。
 ううーん。分かりません。もう少し説明をしてくださいよ。

投稿日時 - 2009-05-05 13:50:03

ANo.67

まったく。。。

帰ってきました。

>哲学信条を「ゆづる」ということは、はたしてあり得るのでしょうか?

あり得ます。

>こうやって投稿しているからには これは 理由になりません。理由を述べないのなら 投稿もしない。
>または それでも 投稿したなら 無視されてもかまいませんと 断わっておいてください。

bragelonneさん 断っておきます。
無視されてもかまいません。


ヨハネによる福音書第1章

彼は証しをするために来た。

「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」

洗礼者ヨハネ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%97%E7%A4%BC%E8%80%85%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D

>ヨハネは当時の領主ヘロデ・アンティパスの結婚を非難したため、捕らえられ、首をはねられて処刑された(マタイ福音書14:1-13) [1]。
>ヘロデ・アンティパスの家令(執事)の妻が首を埋葬した。キリスト教伝承では首はのちに再び発見され、
>コンスタンティノポリスにもたらされたとされる。


あれ。。?

なにかが。。。

物語の作者はいったい誰?

投稿日時 - 2009-05-04 10:11:15

お礼

 Zohar さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >哲学信条を「ゆづる」ということは、はたしてあり得るのでしょうか?

 あり得ます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ よく読んでいるのぢゃないですか。この回答に 理由をつけるといいでしょう。わたしが すでに 述べていますが それに 批評・批判を与えるといいのでは?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 まったく。。。

 帰ってきました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こんな質問への回答とこんな質問者とのやり取りを 二度以上つづけるつもりなど いっさい なかったのに というところですか?
 わたしも 対話上手のようですね。

 ★ bragelonneさん 断っておきます。 / 無視されてもかまいません。
 ☆ わが外交の勝利ですね。では あとは 勝手に料理しておきます。

 ★ 「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。 / 『主の道をまっすぐにせよ』と。」
 ☆ 洗礼者ヨハネに当てはめようって魂胆ですか? 似ていますか?
 たぶん もうすでに 道は まっすぐになっているから そのように局面は はっきり 大転換しているでしょうね。その意味では 何のつながりもないですね。

 けっきょく 
 ★ 物語の作者はいったい誰?
 ☆ であるかを つきとめた上でないと 何も思想としての態度を採れない・採りたくないというところでしょうね。そういうやり取りは すでに じゅうぶん して来ました。都合のわるいところでは とんずらでした。とだけ 言っておきましょう。
 でも 過去の質疑応答を 読めばいいぢゃないですか。ね。わたしは それらにかんして noname#80116 ですが。

投稿日時 - 2009-05-04 12:14:35

ANo.66

> もう一点です。noname#83027さん・・・・
> どうも 何も わたしは 分かっていないようです。ご破算で願いましてはとしたほうがよいように思いました。

お話がよくわかりませんが、気分の問題でご破算としてよろしいのでは。
ことは2点しかありません。
1、bragelonneさんのご質問で抹消されたほうの『日本語は論理表現にふさわしくないのか』において、
この方が地雷は僕のことですかと言っておられたこと。
わたしといやな絡みのあった参加者の文体が透けて見えましたから、
なんかあるわけですよ。わたしの職業的自信としては。意地悪くも地雷と呼んでしまいまして。
2、noname#83027さんの質問『「取扱い注意」のラベルが貼られる心』の応答中に
わたしの質問におけるbragelonneさんへのお礼中の語句が明記されていること。

この2点以外に、
bragelonneさんがお関わりのことは何もないでしょう。
お気を遣って何かなさっていたとは気づきませんで。。。

付け加えれば、『「取扱い注意」のラベルが貼られる心』において
思索家の集うサイトへの外部リンクを貼って既存関係の露わにされた投稿を読みましたから、
わたしとしてはなるほど関係者かと思うわけです。
例の「地雷」は起爆したようだとnoname#83027さんに申し上げた次第ですね。
それ以外に思い当たることは、わたしにはありません。
好きなタイプでもなさそうですしね。。。

投稿日時 - 2009-05-04 05:29:04

お礼

amaguappa さん ご回答をありがとうございます。

 いやぁ 健忘症と能天気とは このことかと。・・・・
 《取扱注意》とかで 検索したりしましたが 一向に 見つからず 諦めたのでしたが あの《日本語は》のほうでしたか。《地雷》はたしか 言われたかれが あやまっていたと記憶していて もう何ともないのとちがいますか?

 でも そのあと 尾を引くように noname#83027さんは あなたの書いた語句を 勝手に分かるように使ったということですね。しかも あたかも予言どおりに 地雷が起爆したようだということですね。

 こうなれば ですね。やはり さらにさらに対話 ですよ。問題は どこで やるかですね。ぶっきらぼうに絡ませて ここで やっていただくのが いいのでしょうかねぇ。
 あぁ わたしも 今回 noname#83027さんについて 新規参加のあと 少し 知るようになったことがありますし また amaguappa さんも よく読むと
 ★ わたしといやな絡みのあった参加者の文体が透けて見えましたから、 / なんかあるわけですよ。
 ☆ ともおっしゃっている。つまり これは 《わたし bragelonne とは別のこと》ですね。でしたら どこまでも対話で行かれたら いいように思うのですが どうでしょう?

 第(2)点について 確認がまだ 取れていません。《取扱い注意》のほうでは むしろ 《対応のしづらい》相手の場合に触れていた箇所がありましたが これは また別の人であるようですし。とりあえず そんな報告と 提案です。

投稿日時 - 2009-05-04 11:59:39

ANo.65

> 《わたし》の主観はどうなのかと その中味に 人びとのあいだで主観共同化に耐え得る内容があるかどうか
> 言いかえると あるのは 主観真実とその妥当性としての共同主観性であるのではないか 

主観とおもっているものは、共同主観をそれなりの解像度・解析度で焼き直したものですから、
焼き直しの点で高性能な人々もいれば、割れた鏡や曇ったレンズみたいな人々もいます。
仕方がないですね。

公私の照らし合わせは、主観よりもethics 倫理の問題として考えるべきであろうと思います。
現実において議論をする者であるには、ロゴスを持つ者であるには、
資格、資質ともいうべきようなものが問われるべきではないでしょうか。
ここから始めるほうが本質的ではあると思いますね。
宗教指導者や政治家は、その主観真実を妥当なものとするようなシステムを作り上げます。
共同主観から主観へ、また主観から共同主観へ、と螺旋運動のように渦巻いている意識総体が歴史にはあるのでしょう。
この運動そのものをコントロールすることが有意義な哲学であろうし、それは倫理に根を下ろすものになるだろうと思います。

ぶっきらぼうからロゴスへ、ロゴスから共同主観へ、そして意識総体の螺旋運動と倫理哲学へ、
とわたしの場合は話が進んでいきますけれども。知の整理方法は人それぞれ違いますからね。

投稿日時 - 2009-05-04 03:04:14

補足

 amaguappa さん お早うございます。と言っても だいぶん 日も上がってまいりました。今朝は 遅く起きたにもかかわらず ご回答を数件もらっていて てんてこ舞いです。ご回答をありがとうございます。

 ★ 知の整理方法は人それぞれ違いますからね。
 ☆ このような手続き上の相違 つまり この相違だけの問題になってきましたでしょうか。
 とは言っても 理論をつくる者にとっては 異論反論が 一人ひとりにあるでしょうし しかもそれであるからこそ 互いに 自己の理論の整合性が さらに整理されていくのでしょうね。

 表現がちがうなと思ったところを 二件 お伝えしてご返答といたします。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 主観とおもっているものは、共同主観をそれなりの解像度・解析度で焼き直したものですから、
 焼き直しの点で高性能な人々もいれば、割れた鏡や曇ったレンズみたいな人々もいます。
 仕方がないですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 生まれてこのかた うそをついた時から ひとは 《割れた鏡や曇ったレンズ》であると言いきったほうがよいと考えます。
 そこで 次の問題です。
 ★ 公私の照らし合わせは、主観よりもethics 倫理の問題として考えるべきであろうと思います。
 ☆ わたしの場合 すべての基礎に 《曇った割れガラスの主観》があります。この主観たちの井戸端会議が 基礎です。この実践において わたしは 失敗のような事態に遭いましたので 大きなことは言えませんが 動態でありつづけるという大前提でもありますので さらに進めています。
 つまり 公私のいづれも 一人のひとの主観におさまっているし また 倫理も論理も 理性も感性も やはりおさまっているという出発点の捉え方です。区別はあるでしょうが 段階や優劣の差は 置かないのが ふつうです。
 ★ 現実において議論をする者であるには、ロゴスを持つ者であるには、 / 資格、資質ともいうべきようなものが問われるべきではないでしょうか。
 ☆ これは たしかです。そのわたしの意味は こうです。つまり基礎であり基盤である井戸端会議の上に 必要に応じて 専門的な議論をする場が 持たれるでしょうね。
 ★ 宗教指導者や政治家は、その主観真実を妥当なものとするようなシステムを作り上げます。
 ☆ これは そうだとも それでは まだ足りないとも 応答すると思います。既成事実にもとづき なるべく波風を立てず破壊も行なわないようなかたちで 現実の秩序を優先するというとき そのとおりでしょうね。
 まだ足りないというのは 
 ★ この運動そのものをコントロールすることが有意義な哲学であろうし、それは倫理に根を下ろすものになるだろうと思います。
 ☆ このご指摘の事態そのものだと考えます。
 それなのに 言い方が違うと思った(感じた)のは 最初の《曇りガラスの主観》の問題ですね。《宗教指導者や政治家》も この同じ主観を出発点に持つ主体だという意味です。つまり言いかえると 先の専門家たちによる《専門的な議論の場》 これとて 割れたレンズの主観が やはり 出発点であるからには その基礎は どうしても 井戸端会議にあると思われます。
 というよりも この《主観真実を妥当なものとするようなシステム》は けっきょく いろんな人たちのさまざまな言い分を聞いて取り上げ 交通整理するかたちで 施策をつくり 高度に政治的な判断に あとは ゆだねるということだと考えられます。
 で いつも一言多いぶっきらぼうが べらぼうな話をしますと 
 ★ ロゴス / 共同主観 / そして意識総体の螺旋運動と倫理哲学
 ☆ と説明されるとき わたしには思われるのですが すべては 一介の・ちりあくたに過ぎない《わたし》の主観 もしくはさらに べらぼうに言えば その感性にこそ 潜在的な判断力があるのではないか。こうなってしまうのですが どうでしょう?

投稿日時 - 2009-05-04 11:14:11

ANo.64

Bonsoir, monsieur.

【★ この「ゆづる」はキリストの教え「右の頬を殴られたら、左の頬を出しなさい」にも通じるものか】
>《理念》というものは 果たして いかなる意味があるのか・実践と どうつながるのか 
>○ しかるべき抵抗も排除しないと考えています。

上述の件に関して、わたくしは数日間思考停止状態となりました。
≪理念≫として理解し得ても、仮に我が子に危害が及んだ場合、現実的な実践として、とてもこの≪理念≫を抱くことはできないと思われるからです。
前提条件として実践できそうもない≪理念≫というスタンスはあり得るのでしょうか。

【哲学は すべてをうたがえとも言います】
これはデカルトさんの例の主張でしょうか。

【イスラエルとパレスチナ】
>解決策が 思い浮かばなくても とにかく 双方が 対話のテーブルに就く・そして話し合いを たとえ半永久的にでも つづける。

はい、おっしゃる通りかと思います。
数千年に渡るいがみ合いと戦争のツケが未来のある時点から解消される、お互いの積年の思いが氷解するわけがあり得ない、というのは彼等当事者たちが一番良く認識しているのではないでしょうか。
求められていることはいかなるレベルであれ「対話」をすること以上でも以下でもないかのように察せられるのは気のせいでしょうか。

但し拉致被害者の場合は家族会並びに被害者の方々の年齢的な制限上、より早急な具体的な解決策が求められてしかるべきかもしれないと思いました。

以上となりましたが、最後にもう一つ。
哲学信条を「ゆづる」ということは、はたしてあり得るのでしょうか?
bragelonne様流に「ぶっきらぼう」にお答えいただきたいと思います。

ありがとうございました♪

投稿日時 - 2009-05-03 23:14:28

補足

 mashumaro2 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 【★ この「ゆづる」はキリストの教え「右の頬を殴られたら、左の頬を出しなさい」にも通じるものか】
 ☆ たとえば 軽水炉に重油を供給したり 食糧援助をしたりと 《左のほほをも向けてやっている》と思いますよ。

 ★ 【哲学は すべてをうたがえとも言います】 / これはデカルトさんの例の主張でしょうか。
 ☆ 澄みません。漠然と そういう言い方をするものだと思って使いました。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 哲学信条を「ゆづる」ということは、はたしてあり得るのでしょうか?
 bragelonne様流に「ぶっきらぼう」にお答えいただきたいと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 議論の起こるところだと考えます。ですが 哲学信条というように 非思考の信仰に近い領域での知性もしくはむしろ意志のはたらき これに関しましては 
 1. あり得る と考えます。
 2. それは 《ゆづる》の意味にもよるのではないでしょうか。

 3. つまりぎゃくに 経験科学の知識については 難なく《ゆづる》と見えますが それは 《より良いほうを選んだ》に過ぎないと考えます。
 4. 相手の見解を 肯定し 賛同するというのは 自分の面子を捨てて 相手にゆづっているようですが 妥当性を優先させただけであって ゆづる必要もなかったとさえ思われます。
 5. 相手にゆづったのではなく 実利性や損得勘定を 面子やゆづる精神よりも 優先させた。
 6. それが証拠に 口では 相手をたたえていても 心ではゆづっていないことが しばしば 露呈する場合があります。
 7. 口では ゆづっていないのだが 相手の言い分を認めて 実際には その言い分のとおりに 実行するという場合もあります。

 8. ここで やっと 初めの(1)の答えに戻ります。
 9. 平俗的に表現するならば (7)の場合の人間というのは その場ないし情況に 自己の面子をゆづったということではないでしょうか?
 10. わけの分からない表現を用いるならば 《神の弱さは 人間の強さよりも強く 神の愚かさは 人間の賢さよりも 賢い》です。これゆえに ひとは ひとに 半歩ゆづるということを成し得ます。哲学信条にしても そうです。
 どうでしょう?

投稿日時 - 2009-05-04 10:29:36

ANo.63

>さよなら。
今日は用事があって出かけないといけないから、戻ってきたらまた。

>理由は あっても 答えないというところでしょうか?
引きこもりだから。他人と会話していないのが主な原因だと思う。

投稿日時 - 2009-05-03 06:56:39

お礼

 Zohar さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。引用は 精確に しましょう。
 ★ >さよなら。
 ☆ でもなく 《ほな さいなら》でもなく 《さようなら》と書きました。意をとって 引用にも 修正をほどこすこともあってよいと考えますが 意をゆがめる場合には 気をつけたいと考えます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >理由は あっても 答えないというところでしょうか?
 引きこもりだから。他人と会話していないのが主な原因だと思う。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こうやって投稿しているからには これは 理由になりません。理由を述べないのなら 投稿もしない。または それでも 投稿したなら 無視されてもかまいませんと 断わっておいてください。
 ★ 今日は用事があって出かけないといけないから、戻ってきたらまた。
 ☆ としましょう。

投稿日時 - 2009-05-03 07:14:26

ANo.62

こんにちは。
みんなが盛り上がっている理由がわからないけど

なんか言えというなら
私はこれで良い。

みんな私のことがわかってない。
ぶっきらぼうでした。

投稿日時 - 2009-05-03 00:34:42

お礼

 Zohar さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 私はこれで良い。
 ☆ つまり
 ○ ぶっきらぼうで良い。
 ☆ というご見解でしょうか? 理由説明はなしですか。それとも
 ★ みんな私のことがわかってない。
 ☆ ゆえに 理由は あっても 答えないというところでしょうか?

 わかったような とは言い難く どこまでも 分からないようなご回答ですが ありがとうございました。さようなら。

投稿日時 - 2009-05-03 06:36:04

ANo.61

 「ぶっきらぼう」を記号的に考えるなら、回答者ID下の「専門家」と「一般人」の違いなどが、それではないかなとも思います。また、近ごろ度々耳にする「回答専門家」と「質問専門家」というのもまた同型的だと思います。
 それらの使用法にポリシーを持つ――という方々にとって、それはテクストを読む(また読んでもらう)というための愛想だろうと思いますが、どうでしょう?

 このような記号に無頓着であるという方々、あるいはそもそもそんな記号に意味があるのだろうかと思う方々は、愛想を振り撒く方々に比べれば、ずいぶん「ぶっきらぼう」だなと思われるのではないでしょうか。
 また、この掲示板を「読む」ことと、質問にせよ回答にせよ「書く」こととの行為を考えてみたとき、掲示板に踊る文字たちの群れと、無言で眺める読者の視線は、愛想と「ぶっきらぼう」のどちらになるのだろうかと思わずにもいられません。

 さらに、何よりも思うのは、ひとつの投稿とつぎの投稿との間に横たわる時間と空間の広がりです。現実の会話では、言葉のほかに、相手の表情、容姿や態度、間合いといった会話に必要な多くの情報を、言葉以外のものから受け取って、相手の意を汲むというような作業をしています。やり取りのなかで、これは結構、複雑な作業だと思います。
 そのやり取りを、たとえば手紙のようなものにしたらどうでしょうか。
 話し言葉と違って書き言葉は、確かに何度もじっくり読めるだけ、相手の意を確実に捉えられるはずだと思われがちですが、実際にはさにあらず、書かれている言葉の意味が、字面の意味から羽ばたいて、さらに広がりを持ち、驚くような深読みができてしまったりするものです。相手の意を汲むどころか、字面の意味はむしろ焦点がぼやけ、曖昧になっていくような感じです。恐らく、こういうご経験はあると思います。
 どうしてこんなふうに、なってしまうのでしょうか。

 つぎに、ネットの掲示板を考えてみます。
 文字だけのやり取りという事であれば、結果は手紙と同じ筈です。ところが、実際の掲示板のやり取りを見ていますと、話題がこじれる内容ほど、投稿と投稿のすき間が狭まり、次第次第に会話に近づいてゆくような様子が見られるのではないでしょうか。
 投稿の間隔が狭まるという事は、内容が会話化するとともに、手紙の時のようなぼやけた焦点が、次第次第に狭まってゆく効果があるとは思われないでしょうか。くり返されるうちに、焦点は狭まり、白熱してくるとほぼピンポイントのやり取りに変わってくる。ひとつの投稿が入ると、ほぼ反射的に返答をするというようなかたちです。逆に現実の会話では、焦点を明確にしてそれのみを語り、それのみを聞くというのは、討論でもないかぎり、勝手に入り込んでくる情報がある以上とても難しいだろうと思います。

 会話には、こんな特性があるような感じがしませんでしょうか。もしもあるとすれば、言葉の焦点、つまりピントを合わせる作業には、投稿と投稿との間に横たわる時間というものがとても重要な役割を持ちそうです。
 さらに、急ピッチで進められる会話と手紙とを比べるとき、そのなかに誤字(エラー)が混入していた場合はどうなるでしょうか。恐らく前者はそのエラーを読み手自らが勝手に修正するのではないでしょうか。そして後者は、そのエラーを指摘して相手の像を修正するというかたちを取るのではないでしょうか。それが例えば、(誰にでもわかる)稚拙なエラーであった場合、その修正作業による違いは、アンカーを打てた場合と打てない場合では、避けられないほどの広がりを持つのではないでしょうか。

 このように考えると、もしも時間とエラーを操作したら、ずいぶん違った内容のやり取りになるのではないかと考えるのです。なぜ、立て続けに投稿せねばならないのか、なぜ、エラーを混入しておかねばならないのか。内容も然ることながら、投稿はそれだけでひとつの記号としての意味を持つと思うからです。

 確かにバルトの『神話作用』は重要です。が、僕としてはここに書いた「時間」と「エラー」をどうやって操作しているかのほうが、掲示板においては大きな影響を与えるのではないかと思います。
 そしてさらに重要なのは、履歴を持つかどうか、また発話するかどうか、だと思うのですが、どうでしょうか。noname#83027さんは、そんなふうに言ってる気がするんです。

 いつも優しいamaguappaさん、慰めのお言葉は大切にいただきました。
 要らぬ気遣いかもしれませんが、元気を出してください。

投稿日時 - 2009-05-03 00:07:45

補足

 noname#83559 さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。のっけから 身も蓋もない結論を申し上げるぶっきらぼうを――このように議論が熟して来ている今としては―― 発揮いたしましょう。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「時間」と「エラー」をどうやって操作しているかのほうが、掲示板においては大きな影響を与えるのではないかと思います。
 そしてさらに重要なのは、履歴を持つかどうか、また発話するかどうか、だと思うのですが、どうでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 前者の二つは 経験上 支障はないと見ています。後者は 《履歴》は ふつう 見ていません。《発話するかどうか》 これは なぜ どういう意味で 挙げられているのかが 分かりません。投稿したなら 発話していますよね?

 ▲ コノテーション・デノテーション
 ☆ むろん これくらいは知っていましたが これを
 ★ バルトが 《神話作用》として
 ☆ 言っていたのですか。また 妙に つまらない議論をしているのですね。当たり前ではないだろうかと 日本人なら 誰しも 思うのではないでしょうか?

 ◆ (『教師――息子アデオダトゥスとの対話――』)~~~~~~~~~
 われわれが語っている場合 記号を作っている( signa faciens )のであり そこから指し示す( significare )という言葉が派生している・・・
 つまり 語る場合に わたしは言葉によって言葉を指し示し また言葉以外の他の記号を指示しているように思われるのだ。

 たとえば わたしが“身振り”とか“文字”とか言う場合がそうだ。というのは これら二つの言葉によって指し示されるものもまたさらに〔別のものの〕記号だからだ。
 あるいはまた 語る場合 記号でない他のものを指し示しているように思われる。たとえば“石”という言葉は何かあるもの(石)を指し示しているのだからそれは記号であるが “石”ということばによって指し示される石そのものは記号ではないわけだから。

 したがって この種の記号 つまり 記号でないものを指示する言葉はわれわれがここで論じようとしている種類の記号には属さないことになる。われわれは 記号が記号によって教示される種類の記号について考察しようとしているのだから。
 そしてこの場合 この種の記号の中に二つの区分がみとめられる――すなわち記号によって同じ記号が教えられ想起される場合と 〔その記号とは別の〕他の記号が教えられ想起される場合とがみとめられるのだが・・・。
 (§4 記号は記号によって指示されるか)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《記号によって同じ記号が教えられ想起される場合》というのは 次の引用文によれば 《記号系の再帰的うごき(recursive move)》というらしい。《〔その記号とは別の〕他の記号が教えられ想起される場合》は 《<外への指示・外延指示>(denotation)》だと知られる。 少々荒っぽく言えば 学者たちは 千六百年ものあいだ いったい何をしていたのだろう。 
 ● (菅野盾樹)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかしながら、グッドマンが――そもそもパースその人も!――明らかにしたように、記号機能とは、記号系の再帰的うごき(recursive move)に他ならない。すなわち<外>(=<外への指示>(denotation))は記号機能が遂行された後にはじめて設けられるカテゴリーなのである。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ◆ (『教師』)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 アウグスティヌス(Aug): さあ それでは これから別の側面を つま
  り 記号が記号によって指し示される場合ではなく われわれが《指
  し示されうるもの( significabilia )》と呼ぶところのものについて
  考えてみようではないか。
  それで まず第一に 人間は人間であるかどうか わたしに言いたまえ。
 アデオダトゥス(Ad ):今 あなたは冗談を言っておられるのかどうか 
  わたしにはわかりかねますが。
 Aug:どうしてそのような?
 Ad:なぜなら あなたは 人間が人間以外の何かであるかどうか わたし
  に聞くことが必要だと考えておられるからです。
 Aug:そう もし わたしが 
  《この名詞( homo )の最初の音節が “ ho "以外のものであるかど
  うか また 第二の音節が“ mo ”以外のものであるかどうか》
  を尋ねているのであれば 〔なるほど〕きみはからかわれていると考える
  だろうとわたしは思うがね。

投稿日時 - 2009-05-03 06:28:19

お礼

 Ad:たしかにそうだと思います。
 Aug:ところで これら二つの音節が結合されると “ homo ”(人間)
  となる。このことをきみは否定するだろうか。
 Ad:だれが否定しましょう。
 Aug:ではきみに尋ねよう。きみはこれら二つの音節をあわせたものであ
  るかどうか。
  ・・・
 Ad:《人間は人間であるか》とあなたが問う場合に あなたがわたしに問
  うているのは これら二つの音節〔 ho-mo 〕についてなのか それと
  も それらの音節が指し示しているもの(実在)それ自身についてなの
  かを わたしがまず初めにあなたから聞かない限りは わたしが何を考
  えているかはあなたに言わないことにします。
 Aug:それよりもむしろ わたしの質問をきみがどんな意味で受け止めた
  か 答えてみなさい。・・・
 (§8 指し示されたもの(実在)に注意を向ける必然性)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-05-03 06:32:11

ANo.60

ぽこぺろぽであります。現代社会においては、井戸端会議を重んじ、「万事公論に決すべし」ですが、猿どもとまともな議論は望めないのです。封建主義は否定され、民主主義の世の中にはなりましたが、やはり重要な時案については、料亭でひそひそ話をしてから、八百長の議論をすべきなのです。

 「そりゃ、お前の言うことは大衆蔑視思想じゃないか。国民をバカにすんなよ」という批判をかわすためにも、権力者は低い身分に甘んじるべきです。それにはアマテラス族の懐柔が必要ですから、彼らから交通安全標語を募り、上位入賞者は高く顕彰します。彼らは井沢元彦によると「コトダマイスト」ですから、五七調のお題目を唱えることはお手のものです。佳作 ぽこぺろぽ小 〇山〇彦 「もう一度 左右を見てから 渡ろうよ」。入賞者は大金を与えるか、学費を免除されます。

 問題は階級間の交流ですね。ご指摘のとおり、本案には生産性に問題があると考えておりました。高貴な猿どもには農工業実習という学問をしていただき、生産性の向上を図ります。主に賎しい支配階級は、猿どもに罵倒されながら奉仕する、公務員やサービス業に従事します。これで何とか階級間の交流は保てるはずです。

 ところで、呉智英という評論家は自称封建主義者だそうです。しかし呉も、日本における民主主義の父、福澤諭吉の慧眼を絶賛しております。その息子が諭吉に、真に理想とする政体とは何かと問うたところ、「それは無政府である。政府や法律があるのは悪いことだ」とキッパリ答えたそうです。

 私は福澤諭吉が無政府主義者であると初めて知りました。真に民主的な社会とは無政府なのでしょうか?無政府社会においては、けんかやぶっきらぼうは許されるのでしょうか?未だに解けない疑問であります。

投稿日時 - 2009-05-01 20:52:35

補足

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。いろいろ考えていただいていますし 論点もしくは視点を提出してもいただいております。
 前半で 階級が そのまま 存続しているというのは いささか 奇異に感じます。正直そういう思いですね。後半は 民主主義あるいは無政府主義にかんしましては 歴史的な展望において捉えるのが よいと考えます。
 そういった意味で もしよろしければ 次の思想を いちど 通っていただくのは どうでしょう? そのままを受け容れる必要はないわけでして ただし その考え方を いちど通過して あらたな社会を展望するのがよいと考えるのですが どうでしょう?
 ☆☆ (【Q:吉本隆明の思想について】)~~~~~~~~~~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4462818.html

 レーニンが究極的に考えたことは 少なくとも政治的な権力が階級としての労働者に移るということはたいした問題じゃない。つまり それは過渡的な形であって ほんとうは権力というのはどこに移ればいいのか。
 それはあまり政治なんかに関心のない 自分が日常生活をしているというか そういうこと以外のことにはあまり関心がないという人たちの中に 移行すればいいんじゃないか というところまでは考えていると思います。・・・

 では 権力が移行するというのは具体的にどういうことか。そういう人たちは 政治なんていうのには関心がないわけですから お前 なんかやれと言われたって おれは面倒くさいからいやだと言うに決まっているわけです。しかしお前当番だから仕方ないだろう 町会のゴミ当番みたいなもので お前何ヶ月やれ というと しょうがない 当番ならやるか ということで きわめて事務的なことで処理する。そして当番が過ぎたら 次のそういうやつがやる。そういう形を究極に描いたんですね。そういうことで〔政治=まつりごととしての秘儀 つまりまたは 社稷というべき国家神道における〕秘儀をあばけば全部終わるじゃないかということに対しても 思想的なといいますか 理論的なといいますか 対症療法として考えたわけですよ。・・・

 レーニンが究極的に ポリバケツをもった ゴミ当番でいいじゃないかと言った時に 究極に描いたユートピアというものは ほんとうはたいへんおそろしいことだとおもいます。おそろしいというのは 江藤さんの言い方で言えば そうしたらすべてが終わっちゃうじゃないか ということを ほんとうは求めたということです。

 つまり すべてが終わったのちに 人間はどうなるんだとか 人間はどうやって生きていくんだということについては 明瞭なビジョンがあったとは思えないんです。また そういうビジョンは不可能だと思います。
 だけれどもすべてが終わったということは そういう言葉づかいをしているんですけれども 人間の歴史は 前史を完全に終わったということだと言っているわけです。
 これは ある意味では江藤さんの言葉で 人間は滅びる というふうに言ってもいいと思います。なぜならば それからあとのビジョンは作り得ないし また描き得ないわけですから。
 だから人間はそこで滅びるでもいいです。それを 前史が終わる というふうな言い方で言っています。前史が終わって こんどは本史がはじまるというように 楽天的に考えていたかどうかはわかりません。だから人間はそこで滅びるでもいいと思います。だけれども そうすれば前史は終わるんだということです。

 まず第一に政治的な国家というのがなくなるということは ほんとうは一国でなくなっても仕方がない。全体でなくならないとしょうがない。そうすると 全体でなくなるまでは いつも過渡期です。だから どこかに権力が集まったり どこかにまやかしが集まったり どこかに対立が集まったりすることは止むを得ない。止むを得ないけれども それに対しては最大限の防衛措置というものはできる。そうしておけばいい。しかし そうしながらも究極に描き得るのは 人類の前史が終わるということです。

 あるいは江藤さん的に言えば いま僕らが考えている人間は終わる ということです。それから先は 描いたら空想ですから 描いても仕方がない。理念が行き着けるのはそこまでであってね。だけどそこまでは 超一流のイデオローグは やっぱり言い切っていると思います。・・・ 
・・・《吉本隆明と江藤淳との対談:文学と思想の原点――『文芸』1970・8》
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-05-01 21:26:22

ANo.59

だいぶ進みましたようで遅ればせながら
失礼して、いただいた名句を抜粋してつなげますが、

「像は つねに 動態である。表現の過程そのものである
 明言された表現をめぐって また それのみを問題として
 外化された言葉を 扱って 
 なおも 言葉による表現を 繰り出していく
 さらにさらに 対話である」

実際のこうした場合、
言葉についての言葉、メタ言語を使って言表の妥当性を検討するわけです。
言表の妥当性 というのは、何らかの論理に立ち、それと一致していること。(=ロゴス)
とりわけ、権力の論理に立たない者が
メタ言語を使って
ロゴスに基づき自由に発言する
といったところに、パレーシアの意義があるのでしょう。

まあしかしロゴスは曲者ですね。

掬い取ること=レゲイン[grec. legein>Logos]、言葉=ロゴス、真理=アレーテイアという語彙群をめぐって、概説的な論文があります。
キリスト教義との違いを指摘していますので、今後の参考になるのではないでしょうか。
http://www.t-kougei.ac.jp/research/pdf/vol2-25-06.pdf

フーコーへ進めて考えれば、言表の主体として自己の真理を語るということもまた、
何らかの論理との妥当性のなかに「生き」ている者として、ディスクールの担い手である者として、
公けの真理を語ることにほかならないでしょう。
誤謬や捏造や隠蔽を包括してということになります。

言表でない部分、言表を組み立てる構造のうちでありながら言表から落ちている部分というものを
読解できるレベルが同じくして在る
それがロゴスの在ることであると言えるように思いますが、
世界が神の手紙のようではないとき、
諒解、同意、期待、予定調和、約束、契約といったことがらによって、
われわれの世間で、場の構造化を握るロゴスというものが取り沙汰されるわけです。
「さらにさらに対話」においては、
言表から落ちている部分を、言表を組み立てさせている真理につなぎとめる、
消極的でもそういう抱え方でもって抱える必要があると思うのですよ。

> わたしの考えですが A´ だとか B´ だとかの像を持ち出すとき つねに 主観と照らし合わせて 間違っていたら 《違う》と
 はっきり言えばいいのだと思います。あるいは 逆に AとA’といったように描像を二つ 提示するところから 行き違いが生じるように考えます。

まあ、主観と照らし合わせるのでは意味がないでしょう。
やるとしたら、相手のロゴスと自分のロゴスの照らし合わせでしょう。
まずもって誤読の撤廃は無理だと思いますがね。
また、AとA’は出発点ではないです。
そして、階層がありますので二重化ではないです。齟齬はきたさないですよ。ふつうは。

> けっきょくは 言葉による表現に 基本的には 帰着すると考えるのです。

ぶっきらぼう、つまり言表から落とすロゴスにもとづく場合。
表層の襞と襞の戯れを言表に掬いあげるロゴスにもとづく場合。
言葉による表現はいろいろありますでしょう。
コンテクスト(文意)の把握は、言説のロゴス(言表の連結力)がみえるかどうか、です。
人格や精神といった正体のないものも、そこに留まります。
それがみえるとみえないでは、コミュニケーションは大きく異なります。


さて、ひとまず最後です。
noname#83027さんに勝手に引き抜かれたわたしの言葉の行方を見届けるために、
予定より余計にQ&Aサイトに長居しながら、ずっと開いていたこの質疑で遊ばせていただいた形となりました。
途中、bragelonneさんは傍観者として次の言葉を挟まれました。
かかわり(たく)ないとおっしゃるものに巻き込まれるのを潔しとされる気性はともあれ、
巻き込みましたね。すみません。いえ、ありがとう。
 ★ 蛇足
 ☆ 一点 異見を持っています。器質の問題でない場合には いっさい 病気は ない。あり得ない。とわたしは 勝手に 考えています。 (No.42)
 ★ 蛇足分に関し
 ☆ わたしは 承知していないのです。《合意形成》とか ちらっと見ましたが ことのいきさつのほうは 分かっていません。 (No.46)
 ★ 茶番
 ☆ この部分だけですね。現実性があるのは。しかも その現実性は おそらく 
 対処の仕方をまちがっています。このやり取りにおいては A も A´も A″も
 ないのだと考えます。行先を決めていない電車だからです。白雪姫は
 あそびで電車ごっことして 《修正》するのなら いいのですが
 ほんとうに その 電車に乗って 運転手や車掌やを きっちり 決めようとさえ しているかに 見えます。
 もうこうなると わたしは ついて行けません。姫は 参加した初めから まじめに 対話をしようとする姿勢だったようですが。
 それに この名無しの姫は わたしには いやな絡みが この質疑応答で
 あったものですから なんとも わたしには かかわりがないのです。 (No.48)

「病的なもの以上に習慣的なもの....何か教育が適正でなかった...」(No.42)とのわたしの言を噛み砕けば、
理解できない外国語で教育を受けたか、知覚障害にしかるべき措置をとらずに教育を受けたかなど、
社会的に作り上げられた病のありかたを問題としたのです。
なぜそう見るかといえば、知性があり、情緒は不安定でも訓練されており、ただ、
コノテーションとデノテーションを区別できない、
そして誰から誰へのデノテーションであるか判別できない、
伏線に明示された遠いデノテーションを結びつけることできない、
という大きな問題を持っていることが指摘できるからです。
また、デノテーションの非理解のために、メタ言語を生成できないのです。
それは、その非理解を、コノテーションの非理解と混同することから起き、
デノテーションについての質問を避ける習慣が自尊心と結びつくことからも起きていると思われるのです。
或る場所でちょうど「行先を決めていない電車」のごとく、
テクストを向いた独りごとが発される。こんどはそれを対象テクストとして、独りごとのメタ言語が生まれるとします。
これは、デノテーションを理解できない場合には、決して理解できない重層化なのです。
テクストの言及のテクスト化のさらなる言及のテクスト化、という表層運動にたいして、
内在運動つまりコノテーションを理解しようとすることが、
「ほんとうにその電車に乗って 運転手や車掌やをきっちり決めよう」ということにほかなりません。

以上はnoname#83027さんの慰みのために。
目に届くようにと願っています。

ぶっきらぼうには、コノテーションの排斥力の上に成り立つデノテーションとしてロゴスが有るはずであり、
愛想には愛想のルールの了解が要る、というふうに考えてみるとよいのかもしれません。
bragelonneさんが、文体(文の身体)は公私を包括するものとおっしゃり、
(自己において)世界と文体との社会的な連関および錯綜のみがあるのだとおっしゃっるのに深く同意いたします。
言葉と身体が、あたかもその人なりの太極図となるのに対して、
身体にふさわしい言葉でその人なりの世界が作られることの失敗を、わたしは病のなかの病と考えます。

投稿日時 - 2009-05-01 05:34:44

補足

 ★ まあしかしロゴスは曲者ですね。
 ☆ おおーっ。ふむふむ。やっほーっ。
 amaguappa さん ご回答をありがとうございます。
 ▲ (谷崎秋彦:古代ギリシアのロゴス――隠蔽と露呈としてのロゴス――)~~
 ・・・その《〔* あたかも 信仰としての〕開け》は 語られ得ぬものとして(なぜなら、語られる主題は常に〔* 経験的な〕存在者であるから)、常に語り落とされる。その開け、その隙間、《〔* むしろ非経験としての〕存在》そのものは、「語り」としての「ロゴス」からすれば、不断に現れざるもの、つまりは無としてしか出会われない。すなわち出会われ「ない」。
 ◆ (アウグスティヌス:神の国について 1・6)~~~~~~~~~~~
 神は言語に言い表わされない。
 それ故 如何に相応しい語でも神には適合しない。それはただ 相応しいものを言おうとする意志の表現に過ぎない。
 しかのみならず 《言い表わされない( ineffabilis )》という述語そのものが既に一つの矛盾を含んでいる。《言い表わされない》ということによって既に或るものを言い表わすのであるから。
 しかしこの矛盾を弁証的に解くよりはむしろ沈黙を以って蔽わねばならない。

  そして神自らも 何等適切なものが彼について言い表わされないにも拘わらず しかも人間の言語の奉仕を許し 我々が人間の言語によって彼を讃えて喜ぶことを欲し給うた。
 それ故我々は彼を神( Deus )と呼ぶ。
 勿論 彼は神という語の音声によって真実に認識されるのではない。それにも拘わらず この神という音声を聞くとき 我々の言語を解する総てのものは 最も完全な 不滅の存在を想起する。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 後者は――わたしは詳しくないですが―― 《語り得ぬもの》を言ったヰ゛トゲンシュタインを思わせるそうですね。でも 先ですからね。ソクラテスの以前と以後とを つらぬくと見られませんか? その神については 谷崎は
 ▲ 本稿では立ち入らずにおく。
 ☆ と断わっているので ずるい指摘です。ただしつまり やはり 同時に論じ扱うのでなければ 現実性は 薄まると思われます。
 字数制約上 引用が出来なくて 次の一つの事項を取り上げるのみとします。
 ▲ (谷崎秋彦)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 在るもの(* 経験事物)を人間が語り出すとき、そこにともにあるロゴスは、人間の占有物にして所有物、人間の機関(オルガノン・道具)であるかに見える。ロゴスとともにある語りを人間の特権とするこの観方を、ヘラクレイトスは「傲慢」と見るのである。・・・
 とはいえ、この傲慢は、その実、ロゴス自身が用意し、ロゴス自身が唆(そそのか)してくる、ひとつの「罠」にほかならない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ ぶっきらぼうには、コノテーションの排斥力の上に成り立つデノテーションとしてロゴスが有るはずであり
 ☆ と触れておられる問題でありますが もはや わたしの結論です。わたしたち人間は このロゴスのわなに すすんで平気でよろこんで かかっていくものと思います。ことばは 記号であり しるしであり 文字は殺し霊は生かすというときの文字であると考えます。
 外化され疎外さえされた言葉をとおして 人間は さらにさらに対話をすすめていくものと考えます。わなの中からしか 外には出られない。と考えます。
 わたしたちは すでに 光を見ましたが またそして つねに 照らされていますが わたしたち自身は それぞれ 薄暮の光だと思われます。夕暮れなのだから すべては 病いであると見ておけば いいのではないでしょうか? どうでしょう。ぶっきらぼう万歳。

投稿日時 - 2009-05-01 13:07:04

お礼

 補います。(09.05.02)
 二点あります。
 議論は おかげさまで ひじょうに大きな収穫をもたらしてくれているように思います。ただ てつづき上から 場をあらためたほうがよいかと考えるようになりました。
 1.もともと わたしが 対話を切ってしまったことの反省から 始まりました。 2.《〈分かったが 別の考えもある〉と言ってくる場合 どうするか》です。別の考えなどないのにです。緊急避難が 人殺しの違法・無効性という原則を 反故にするわけではないのに あたかも例外があると言ってくる場合です。 3.主題は飛んで 対話における話し手・聞き手 あるいは 表現の発信と受信(理解) これら双方のつながり具合いにかかわってきている。 4.さらにあるいは そもそも 《ことば》とは何であって どのように用いるのがよいか。 5.意味とは何か。 6.言語能力とはどういうものか。等々。
 回答の件数も増えて来て 区切りを打っておいたほうがよいのではないでしょうか。

 もう一点です。noname#83027さんとの絡みについて わたしは 傍観者の域を出ないようです。しかも そうであるにもかかわらず 仲介者になろうとしたかの振る舞いも ありました。これを 一たん 清算したほうがよいように考えました。仲介の内容を 撤回するわけではありませんが どうも 何も わたしは 分かっていないようです。ご破算で願いましてはとしたほうがよいように思いました。

 あらためて 第一点のほうですが。理解に際して その中身を或る像として打ち出し これを一つの基準とするという形式が 描かれているようにも受け取られます。言いかえると この基準は そもそもの《自己の真理 / あるいは 公の真理》というかたちです。
 簡単に述べることになりますが わたしの捉え方では 《わたし》の主観はどうなのかと その中味に 人びとのあいだで主観共同化に耐え得る内容があるかどうか これだけであるように思うのです。言いかえると あるのは 主観真実とその妥当性としての共同主観性であるのではないか これです。

 amaguappa さんや みなさんからの反応によって 締める方向に向かうと思います。

投稿日時 - 2009-05-02 11:53:45

ANo.58

ぽこぺろぽ少尉であります。身の程知らずにも大佐に異論があると申し上げましたが、異論とは大差が示された《ヨリイリヨセコギト》の措定にではなく、スーパーヨセ知性人であるところの聖徳太子にであります。

 私が支配者なら、自ら高い身分は名乗らずに「賎民」と称し、征圧した猿どもを「高貴な身分」とし、彼らと監視目的以外の《交流》を断絶します。彼らに実質の伴わない高い身分と、必要最低限のエサと、娯楽を提供し、謀反の気勢を削ぎます。

 支配者は外国との通商を振興するため、より玄関口に近い一階に住まいます。猿どもには自らの地位を錯覚させ、外界と接触させないために二階に押し込めます。早い話が愚民政策です。今の民主主義がこのような図式に近いと考えます。加えて下々の者を二階に住まわせれば動乱は起きません。つまり名を捨て、実をとるわけです。さしもの聖徳太子にも、これは思いつかなかったようです。

 猿同士のけんかは放っておきます。収拾がつかなくなったら初めて「貴兄らは高貴な身分であらせられるから、けんかのような下々のすることはなさらぬように」とだけ諭します。一切のけんかの裁定はしません。なぜなら支配者の私は『下々』の者ですから、仲裁などというおこがましいことはしてはならないからです。また、怒りの矛先が自分に向かないためでもあります。

 そういうわけで建前は「けんかはいけない」ですが、実際においては「須らくけんかす可し」となります。けんかは《交流》の必須条件となります。ただし「けんかなんかしないよ」という欺瞞的態度が推奨されます。

 猿のけんかはレフリーを立てることを前提には行われません。猿同士は殴り合うだけなので、下手に仲裁に入るととばっちりを受けます。しかし権力を持つ者どうしのけんかにはレフリーは必要です。自らの盛衰を賭した紛争は、必ず第三者にまで強い影響を及ぼすからです。

 この区別をつけることこそ今後の課題となります。カントが夢見た平和な国際社会規範も、各国にこの共通認識をもたらしたときに妥結するでしょう。もちろんその道のりは遥か彼方まで続きますが。

投稿日時 - 2009-04-30 14:00:32

お礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 現実的であろうとなさっているのだと思います。
 そして その割には たとえば
 ★ 征圧した猿ども
 ☆ というときの《征圧》について どういうふうに行なったのかが まだ わたしは 想像がついていません。というよりも その前に 《ヨセ》なる超歴史知性のアマテラス族の懐柔が 必要ですね。それとも このことを 《猿ども》とおっしゃっているのでしょうか?
 そして 一部階級の隔離政策であるとか 特別待遇政策であるとかによっては 社会は うまく回らないとも思うのですが だいじょうぶでしょうか?

 ★ 聖徳太子
 ☆ という人間は どうも政治には不向きだったのではないでしょうか? 手練手管に長けた人びとにかつがれただけではないでしょうか。 大平正芳首相は まさしく 田中角栄によって かつがれたのだと考えます。聖徳太子にたとえるのではありませんが その末路は 決まっているという意味で 例示しました。要するに 要らなくなれば お払い箱という意味です。

 ★ 支配者
 ☆ この概念からして そもそも 《イリ》なるふつうの歴史知性には 異質の社会生活ですね。指導者は 多数決が まちがった方向に振れるのを警戒し それに注意をうながせば よいと思うのです。あとは 市民社会が 自由に やっていくでしょう。
 イリ・ヨリ・ヨセが 同感・共感・反感として 三分割して 共生する社会です。指導者は 名誉職のようなものです。
 ただし 反感の集団からは つねに 批判が出されてくるでしょうから これに 答えて議論を行きわたらせる必要があると考えます。批判の応酬としてのけんかは あると考えますが ほかに どういうけんかをするのでしょうか?

 現実は いわゆる警察機能も 必要になると考えますが 基本思想は 完全な話し合い主義ですよ。基礎としての井戸端会議を絶やすことなく その中でも 課題に応じて 全体的な討論の場をも 設けることになると考えます。或る種の仕方で 万機公論に決すべしですね。

 どうでしょう?

投稿日時 - 2009-04-30 14:51:41

ANo.57

Bonsoir, monsieur.

【キリストのキの字を言わなくても】
>世界の歴史およびすべての現象が 神からの手紙であるという立ち場です。
>同じ趣旨であるものについては すべて 摂取します。

なるほど、そういうことだったのですね。
わたくしはbragelonne様のようなゆるぎない信条や深い信仰をもったことがありません。
自然界のあらゆる生き物と何ら変わらず、かけがえのない生を与えられたことに感謝し、与えられた境遇とご縁に感謝し、過去の先達にならって平凡な営みを全うしたいと願うに過ぎません。

ですが、フーコの本を先日再び手にしてから、不思議な感覚なのですが、過去~現在に至る多様な思想に自発的にふれ、取捨選択により自分の内に何らかの信条を築いていきたいと思い初めているのです。
そしてこの「ゆづる」も、フーコのハサミ同様、自らに取り込みたいと願っている思想の一つなのです。

bragelonne様のように再構築・洗練させた一本の思想の柱にまでには至りませんので、清濁を内在した幾つもの思想哲学の束の中から「これは!」な部分を参考・心の拠り所にしていきたいと願っているのです。
ですが、自身の内なる信条、信仰の拠り所として多角的な視野に立とうとすると、相対的に己の信条そのものが脆弱になり下がってしまうようにも思えます。

また、この「ゆづる」はキリストの教え「右の頬を殴られたら、左の頬を出しなさい」にも通じるものなのでしょうか。
であるならば、目指す境地が崇高な高みのゆえに、やや非現実性が否めないのかな、とも思ったりも致します。
ですが、理念であるならば四角四面に現実に摘要する必要もないのかもしれません。

【男女差別、同和問題】
わたくしは男女雇用機会均等法施行数年目で入行し、妊娠退職するまで5年ほど勤めました。
当時の女子総合職は早慶上ICUと相場が決まっており、男性の取締役社長と会長は東大京大法学部と暗黙の了解がありました。

海外上場や海外格付け担当などの業務を行っておりましたが、海外の取引先から「なぜおたくの銀行の社長と会長が同じ学歴なのか?」と聞かれて返答に窮したことがあります。世界の非常識でした。
職場で男尊女卑?な風潮といえば、大晦日の打ち上げでお酌してまわる、生保会社が配る外人ヌード卓上カレンダーを机上にあからさまに置く、お尻を触る、彼氏の有無とどんな職業か聞いてくる、人の私物を勝手に使用して食べ物を切って放置する、分煙でなかった職場で当然の如く喫煙する、といった当時は他愛もないことばかりでした。
でも当時はそれが当然視していたため、想い入れある私物の件を除けば、テキトーに流していた覚えがあります。

当然視していることに疑問を抱かないという状態というのは、ある意味不幸であって、でも必ずしも不幸ではなかったりするのかもしれません。

当時鳴り物入りだった女子総合職は企業側も持て余していた部分が否めず、産休後の復職などレアケースであっただろうと思います。
であるからこそ、子育てもきちんとこなしながら現役で仕事をしてきた女性達をパイオニアとして素直に尊敬に値するのです。
同和問題は『破戒』を読んだくらいで勉強不足です。すみません。

【拉致被害者問題と非核化や安全保障の侵害】
>拉致被害者家族は 心中を察してくれとは言っていないと わたしは 思います。
>国際法と人道にもとづき 違法行為の解決と処理をおこなって欲しいと訴えているのだと考えます。

はい、bragelonne様のおっしゃる通りだと思います。
非核化とは全く別の問題、自国民の人権侵害に対する原状回復を目指すものです。
ですが国際法上の主体は国家であり、世界人権宣言、拉致禁止条約は存在するものの、現実は各懸案事項のpriorityをつけて米韓と連携・交渉せねばどうにも立ち行かないありさまなのは周知の事実です。

このように「訴えるべき相手」に訴えが伝わらず、アメリカの国威に頼らざるを得ない状況においても「ゆづる」といえるのでしょうか。

また「物理的なちからによって 解決を図ることは 放棄しているということ」と「物理的な力を持たない国民ゆえに放棄せざるを得ない、断腸の思い」とでは意味合いが異なるようにも思われます。

>加害者が 人間存在であることは つまりその言い分は つまり言い分を述べる表現の自由は どこまでも 守る。

ちょっと過去の質疑を参照させていただきました。
「蚊論争」を拝見し、以前に比べだいぶ理屈の上は理解できるようになりました。
ですが、日本人拉致被害者と関係者が被ったの長年にわたる人権侵害に対し、かの国の首謀者の人間存在並びにその言い分と表現の自由を、この「ゆづる」を援用したとして、どれほどまでに尊重し守られるべきものなのでしょう。

これはあくまでbragelonne様への思弁上の質問です。
「良いところを取り入れたい」という趣旨からすると、「もったいない」同様、多少の融通性をもってあまり深く突きつめ無くても、十分素晴らしい理念だと思っております。

もちろん「もったいない」に比べてはるかに体現化するのが難しそうではあるのですが。

投稿日時 - 2009-04-29 21:51:56

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。

 一面で わたしのほうが答えるような展開ではありますが 案外 mashumaro2 さんのほうが ご自身のお考えを 明らかにされていくかたちで たしかに わたしは 質問者として お伺いしているようにも思います。
 たとえば
 ★ この「ゆづる」はキリストの教え「右の頬を殴られたら、左の頬を出しなさい」にも通じるものなのでしょうか。
 ☆ これにつきましては――《理念》というものは 果たして いかなる意味があるのか・実践と どうつながるのか という問い求めを持ちましたので――
 【Q:《左の頬をも向ける》とき 抵抗を排除していますか】 
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4094847.html
 を 質問しています。(適当に 質問趣旨だけを見てみてください)。わたしの結論は
 ○ 抵抗を排除しない。
 ☆ です。それは 同じ個所に 《千歩を行けと言われたなら いっしょに 二千歩を行ってやりなさい》という表現で説明されているとおり なんで殴るのかという問い返しもあれば しかるべき抵抗も排除しないと考えています。それは 《いっしょに〔行ってやれ〕》というところに 表わされているように考えます。そういうかたちで 《ゆづる》のだと考えます。

 そうして 誰かが言ったとか言いますが 哲学は すべてをうたがえとも言います。そして そういう意味では 現行の制度や考えに立つ思想に対しては つねに 《けんか》を仕掛けるかにとられるかも知れません。変な表現だと思いますが 使いますと 哲学の宿命のようですね。

 差別問題は ひとまづ ご体験などをお聞きして 拉致問題に移ります。総じて言って 今度は 具体的な交渉の問題になると 《ゆづる》の方針を どのように実践すればよいかは むつかしいものがあるということに たしかに なるようです。
 まづ 先週の《朝まで生テレビ》は ミサイル問題を取り上げていました。その中で 田原総一朗が 外務省の高官の話として こういう事情を紹介しました。それは 拉致被害者が亡くなったのだと言って 骨を送ってきたその骨の鑑定について 必ずしも まだ はっきりしないと言います。
 その鑑定なり 亡くなったかどうかの問題なりについて もう少しさらに具体的に こちらからも あちらに働きかけるべきだと アメリカ政府は 言いつづけたそうです。一年のあいだ わが政府は 何もしなかった。業を煮やして アメリカは とうとう テロ国家指定を解除したのだという話なのです。つまり わたしたちは てっきり ブッシュ政権は 日本を裏切ったと思ったはづなのですが そうではなかったという見方を紹介していました。
 被害者は ゼッタイ 生きているという大前提を固定させ そこから 一歩も 動けなかったという見方のようです。
 このように紹介したこと自体は ほんとうですが 事の真偽は わたしには 分かりません。というように 具体的な交渉の一つひとつの問題になると もう 事情が分からない点が 出て来ます。
 一たん 日本に帰って来た被害者たちを もう二度と あちらに戻さなかったのは 無効の行為に対しては 当然だとしても その後に こちらの対応に 何らの不手際もなかったかと言うと 分からない部分があるのかも分かりません。
 むろん 放棄することは あり得ませんが 交渉事に関しましては なかなか 明確に言える材料と判断を わたしは 持っていないのです。どうでしょう?

 たとえば――またまた 突飛な仕方で飛びますが―― イスラエルとパレスチナの問題は 解決策が 思い浮かばなくても とにかく 双方が 対話のテーブルに就く・そして話し合いを たとえ半永久的にでも つづける。こう考えます。北朝鮮とも そういう基本方針なのですが どうでしょう?

投稿日時 - 2009-04-29 22:51:29

ANo.56

「ぶっきらぼう」とか「愛想のよい・わるい」とかは、人と人との関わりにて表面的に(知的・言語的に)記号化されたものでしょうね。

地と図といった関係で紐解こうとするならば、そのような言葉で表現可能なもの同士を対置するのではなく、そういった「言葉・表現」と、その両側に立つ人々の「思い」同士、ないし、それぞれの「思い」の移ろい同士を多義図形的概念(※)にて配置すべきだと考えます。

「思い」とは、ネットや言葉や表現といった分断されやすい状況をも越えようとするものでしょうし、そういった「越えよう」とする「思い」こそが、社交性というものを成立せしめているのだと考えます。

※多義図形的概念:どちらが地でどちらが図といったものではなく、相補し合いながら成立する概念という意味です。

投稿日時 - 2009-04-29 06:00:53

補足

 k_jinen さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 多義図形的概念:どちらが地でどちらが図といったものではなく、相補し合いながら成立する概念という意味です。
 ☆ ですか。ここで これまで主題として論じられてきた《フーコ または そのハサミ》を取り出してみましょう。要するに 事実認識として 考えましょうというところです。

 ★ 「言葉・表現」と、その両側に立つ人々の「思い」同士、ないし、それぞれの「思い」の移ろい同士を多義図形的概念(※)にて配置すべきだと考えます。
 ☆ これが たぶん 社会の一階どうしであれば そのような《どんぐりの背比べ》なのでしょう。ところが 二階と一階とでは どうも 様子がちがうのではないでしょうか。(二階どうしでは どうか。どうなんでしょう)。

 わたしの友には 大手銀行の専務までアマアガリした人間がいます。(もう わたしは そんな歳です。かれのほうは さる地方銀行に入社して 合併を重ねて そうなりました)。この二人のあいだには いろんな《思い》や 学習・趣味・恋がたきをめぐる自己表現をとおして 《多義にわたる相互交流の関係過程》が繰り広げられたわけです。
 ところが 一点 重要だと思われることがあります。
 二階のアマテラス(A)圏にいることと 一階のスサノヲ(S)圏の住民であることとは 人生にとって 有意の差があるというものです。ひとの一生にわたって この《 A ‐ S 》連関が 表現の自由に 影響を及ぼすとすれば 経験相対の世界にありつつも いわば絶対的な《図形的概念》を描く関係過程になるというものです。
 アマテラス圏の人間は スサノヲ圏の人びとを 生かすように その地位にあって 広い意味の権力を揮うと言えば フーコのハサミを使って考えたことになると思います。
 
 したがって まづ
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「思い」とは、ネットや言葉や表現といった分断されやすい状況をも越えようとするものでしょうし、そういった「越えよう」とする「思い」こそが、社交性というものを成立せしめているのだと考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《思い そして その社会的な展開としての社交性》が もし 《 A - S 》連関としての《生かす・生かされる あるいは 一般に まなざしを注ぐ・注がれる》の しかもその具体的な事態や場面としてはきわめて多義的な 相互に入れ替わったりするような 地と図との錯綜関係を さらに《〈超えよう〉とする〈思い〉》を発揮し得れば 言うことないでしょうね。そういう問題だと これまでに みなさんとともに 考えて来ておりますが どうでしょう?

 * つまり 何もかも 全部を超えるところを見ようとしているのが ここでの ぶっきらぼうだと思います。能天気も 入っていますね。
 * また この質疑応答の場で―‐bananasand さんという方ですが―― このように 二階と一階の階層を 難なく超えた《印象を抱かせる》のは あの《羞恥心》トリオだという見解が示されています。そこでのミソは 一般の人びとのほうが このグループを・そしてその印象と描像を 迎え入れたということだと言います。
 * それに応えて わたしは それは――つまり《羞恥心》現象は―― 万葉集のルネサンスだと言いました。無名の作者が 過半数というところからです。

投稿日時 - 2009-04-29 08:56:50

ANo.55

ぽこぺろぽです。タイの国王に謝罪しつつ、クーデターの当事者同士が和解を勧められる絵は、麗しくもかなり笑えます。そんなに王室を尊敬し、たやすく和解に応じるなら最初からクーデターを謀るべきではないでしょうに。やはりあれにも八百長くささを覚え、さもなければ手心を加えているかのようです。タイもまた、日本のような全会一致主義を持つ数少ない国の一つのようです。

 二階建て構造については異論があります。ぽこぺろぽの頭を改造して、スーパーヨセ知性を得て制圧した暁には、二階建てにしても一階に住まいます。万一の火事で逃げ遅れたくはありませんし、日頃から楽に出入りしたいからです。また老後は足腰の不安もあるため一階にかぎりバリアフリーとします。また二階への通路は屋内の見通しの良い場所に梯子を設けるのみとし、低脳なイリ猿どもを幽閉するため二階住民は出入り禁止とし、また二階には一切窓を設けません。しかしエロビデオやスポーツ中継等の受動的な娯楽はふんだんに与えます。しかも猿どもに「あなたたちは高貴な階級であるから二階に住まう。我々は賎民であるから一階に住まう」と宣言します。早い話が座敷牢で愚民政策を実施します。

 話は変わりますが、件の単身者向けの共同生活家屋では、皆が仲良しで力なく平等であるから、けんかになったら仲裁が聞き入れられないと考えるのです。唯一、鶴の一声を発せられるぽこぺろぽ大家の裁量で和解が妥結するならば、それを繰り返すうちに納得の行かないものが意図的な規約違反により反旗を翻すでしょう。また安い生活費に引かれた乞食外人が大挙して押し寄せます。山谷のドヤ街の様相を呈することは必至です。周辺住民からは入居者の傍若無人な振る舞いに関する苦情が寄せられます。

 ところで、けんかが交流であるかぎり、けんかを嫌う者はぶっきらぶうといえるという私の見解について、ご考察をお聞かせ願います。やはりけんかはすべきです。しかし共通認識に立たないけんかは堂々めぐりとなりますし、徳の高い者にレフリーを依頼すべきでしょう。レフリーは決着がついたとき、話が噛み合わずに膠着状態に陥ったときに分かちに入る必要があるでしょう。

投稿日時 - 2009-04-28 23:08:03

お礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 二階建て構造については異論があります。
 ☆ これは 比喩ではないのですか。社会ないし国家のことではないのですね? けれども
 ★ 〔二階に〕低脳なイリ猿どもを幽閉する・・・。しかも猿どもに「あなたたちは高貴な階級であるから二階に住まう。我々は賎民であるから一階に住まう」と宣言します。早い話が座敷牢で愚民政策を実施します。
 ☆ よく分からなかったのですが こうなると 社会の問題ですか?
 ★ 《イリ猿》と呼ばれ 低脳だが高貴な階級
 ☆ があって
 ★ 賎民
 ☆ がいて その賎民が住まう一階に 
 ★ スーパーヨセ知性
 ☆ に変身したぽこぺろぽさんが いて 
 ★ 愚民政策を実施します。
 ☆ ですか。
 ★ 話は変わりますが
 ☆ あぁ 変えないで!!! 変わったあとでは 純然たる個人の問題ですね。

 ★ ところで、けんかが交流であるかぎり、けんかを嫌う者はぶっきらぶうといえるという私の見解について、ご考察をお聞かせ願います。
 ☆ たぶん 二階に対する《謀反》にしても その波風は すき好んで立てるのではないと思います。一階さんどうしのあいだで けんかをすると言っても 知れたものだと思います。
 だから 《交流》と言うのでしょうけれど こんどはまた 《交流》だから すべからく けんかをすべし ということにもならないように思いますが どうでしょう?
 さらにまた そのぎゃくに けんかをしたなら 自分たちどうしで 決着をつけるくらいでなくては やり甲斐もなければ 交流的解決も望めないように思います。
 ★ 共通認識
 ☆ は 必要でしょうね。これも そうでないと やり甲斐が なくなるでしょうね。と言いますか 途中で 続かなくなるのでしょうね。
 こういうわけで わたしの考えるぶっきらぼうの場合には 《交流》という頭(観念)が 先にあるということもないですし 調停役や審判役も  事前に・あるいは途中からでも 用意するという感覚は ないですね。実際には そういう第三者が介入する場合が あるのかも知れないので 《感覚は》と言いました。
 たぶん お膳立てをして それに乗るけんかは あまり ないように思いますが どうでしょう?

投稿日時 - 2009-04-28 23:59:23

ANo.54

bragelonne様、へっぽこなわたくしをお導き下さっていつもありがとうございます。

>《ぶっきらぼう》が 世界に飛躍するかになってまいりました。

すみません(汗)、bragelonne様とは違った「せっかち=理解不能はすっとばして次へ進む」悪い性質なので、このペースで行くと近日中には「宇宙物理学と人間哲学「ぶっきらぼう」は重なる極点があるのか?」などと飛躍しているかもしれません。 
なお、過去に頂いた大小様々な卵はあたため中です。

>もうひとつ しかも ことは いわばわたしたちの議論のことの発端にも行き着きました。
 ○ 《蚊が刺しただけ》という命題。

すみません(汗)、あの質問全体がわたくしの理解の範疇を超えていたため、「Qui pleure la, sinon le vent simple,...」と、愛しのエロ・オヤジの性愛談義と、a様の「Marshmallow÷2=66?」の箇所しかまともに読んでおりませんでした(反省)
質問者様におかれましてはbragelonne様の「無効は どこまでも 無効である。初めから なかったのである。」は極めて崇高かつ説得力があったかと思われます。
ですが、「無効はどこまでも無効だからという論理で、痴漢したエロ爺を愛せよ」なんて、わたくしはババアなのに絶対ムリです(笑)

閑話休題★☆★☆★☆

【男尊女卑という《 A ‐S 》差別連関 その他の差別問題】
 ○ ゆづった側は その自由が 有効である。

よろしければこの場合における「男尊女卑」や「その他の差別問題」につき参考例をあげていただきたくお願い申し上げます。
就学前~女子高生まで「女の園」で育ち、大学~社会人時代~今日まで「これだから女ってズルイ!」と始終言われてそのつど「悪いわね」と謝ってきたので、「男尊女卑」の概念における「デメリット」を「メリット」ほどに感じておりません。
また、夫の実家は「アマテラス一族」の神話の世界の近県に位置するスーパー男尊女卑的ド田舎と揶揄されておりますが、「名より実を取るように」舅は姑に頭があがらない状況です(ちなみに高千穂は素晴らしく良いところですよね!)
むしろ、なまじ一律に男女平等を「規範」とすることにより、必ずしも全ての事象が「メリット」ばかりになった、とは言い切れないようにも思えるのですが…この点につきましても、あまりよくわかりません。

【しかも この命題かつ問題を 世界という視野に立って 考えていかなければいけない。これに わたしたちは 直面しているようです。】

はい、これには大いに賛同致します。
記憶に新しいところでは、Six-Party Talksで目前の大いなる懸念【「日本という国の存続並びに大多数の国民の安全保障にも関わる核実験施設の査察」<<<「少人数の自国民の命と安否確認を最優先」】を我が国が一貫して主張してきたことと重なるかと思われます。

もちろん拉致被害者の関係者の方々のご心情からすればごもっともではあるのですが、人的物的損害規模からすれば、核査察や各実験施設の解体促進をも最優先事項として挙げられる可能性があります。
この辺りの判断はかなり難しいところかと思われます。
いかがお思いになられますでしょうか。

【日本国政府は議論の末、10月1日に福田赳夫首相(当時)が「人命は地球より重い」と述べて、身代金の支払い及び、超法規的措置としてメンバーなどの引き渡しを決断】

たしかにbragelonne様のご主張通り、この件は対外的に非難の集中砲火を浴びたようではあるものの、その後の各国におけるテロ対策や日本と言う国の孕む「一種独特で異質な価値観」を世界に知らしめた点において、今以上により評価されて良いのかもしれません。

ただやはり「人工衛星打ち上げ」を行った隣国と「やっぱありゃ人工衛星だよね」と同調する別の隣国の対日姿勢に関して言えば、やはり日本にとっては究極の「ぶっきらぼう」のように思えるのですが、はたしていかがでしょうか。

【まとめ:《超法規的措置》の有効性や いかに。という主題】
 1. 無効行為をおこなう人間について その存在は われわれは 愛さなければならない。
    М:一概にはムリ。無効行為を行う相手を愛するにも限度というものがあり、痴漢も将軍様もつけあがるから牽制する必要があるのではないでしょうか。

 2. むろん 行為の無効は無効だと どこまでも 言って 批判をつづけていく。
    М:行為の無効は無効だというのには、1と同じ理由なので、ケースバイケースで対応する必要を感じます。肝心なのは、国連決議であれ議長声明であれ、いかに具体化し実効させるかであって、批判の連呼だけでは意味が薄いと思われます。

 3. すなわち 存在を われわれの存在と同じ程度には とうとぶのであるなら その理不尽な要求に 屈服し ゆづらなければならない。
    М:北朝鮮のミサイル攻撃には晒されたくありません。やはり理不尽な要求の内容いかんかも知れません。いかがお考えでしょうか。
理念としてはとても素晴らしいものなのですが、う~ん。

 4. よって 犯行者については 生け捕りが 至上命令となる。
    М:これは3の流れ「存在を われわれの存在と同じ程度には とうとぶ」の論理からすれば妥当かと思われます。
    ただし、被害者が既出だとして、そのご遺族の心中を察すれば、ケースによっては必ずしもその限りではなさそうな気も致します。

 5. これが 《人命は 地球よりも重い》の意味だと考える。
つい近年発生したタリバンによる現地民間外国人拉致事件と釈放状況を踏まえれば、時代の風潮は日本赤軍の時代より幾らかbragelonne様のご主張寄りになってきているように日本人のわたくしからは思えるのですが、はたしてどう思われますでしょうか。

最後に、ふと浮かんだことなのですが。
今までアウグスティヌスの引用を盛んになさっていらっしゃったのは、単純に純粋なるキリスト教徒の信仰心からではなく、一人の人間として内なる自分を誰よりも深く思索し究めた彼の哲学思想が何か今回の「スサノオ云々」にリンクするから、のように思えてきました。不思議です。
間違っておりましたら、こちらに関しましても訂正をお願い申し上げます。

投稿日時 - 2009-04-28 14:49:51

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。

 あぁ そうでしたか。わたしのほうに 都合のよいように 解釈していたようですね。全般的に。それは 失礼しました。これからは お尋ねしつつ 話を進めてまいります。

 ★ アウグスティヌス
 ☆ に対しては (1)水による洗礼を わたしは 拒んだ。(2)古代人およびローマ人であることにより 生活習慣上などから違和感を抱く部分があり これを 違うなら違うと わたしは はっきりさせている。(3)数字のごろ合わせで 創世からの年代を議論したり その他の議論をするところがある。これを わたしは 摂らない。
 およそこの三点を除けば わたしにとって 唯一の信仰および思想の導き手であります。かれにとっては パウロが そうです。みな 行き着くところは 同じです。
 神がなくなる時代を わたしは 見とおしています。キリストのキの字を言わなくても その信仰および思想が おおむね 行きわたるという社会情況のことです。
 ちなみに 日本神話に 信仰の観点から 同じ趣旨を見て取れると捉えております。言いかえると 世界の歴史およびすべての現象が 神からの手紙であるという立ち場です。反面教師としての書簡でもあり得ますが 同じ趣旨であるものについては すべて 摂取します。ぎゃくに ローマ教会が説くことの中で 間違っていることであれば 批判します。そして 宗教組織における信仰は もはや 個人にとっての信仰ではなくなっていると見る立ち場です。

 ★ 女性差別
 ☆ につきましては こういう話に出くわしたことがあります。社長夫人が 独自に 別の事業を起こして 立ち上がったところで 取引相手からは こう言われたそうです。《なあんだ。てっきり いまの会社の事業だと思っていたのに。奥さんおひとりでおやりなさるのなら ちょっと まだ 何とも ご返事できかねます》。昔ですけれどね。
 それに 女性の給与は 男性の半分くらいですよね。
 差別といえば 同和問題が いちばんでしょう。いま現在も 会社間で あくまで裏で調査するそうですが その情報を融通し合っていると聞きます。

 ★ もちろん拉致被害者の関係者の方々のご心情からすればごもっともではあるのですが、
 ☆ これはですね。もし このように 人道上の理由から 無効の行為を認めて 被害者らを 原状復帰させなさいという要求をするのなら それは 理念どおりの行動です。現行の制度としては あくまで 国権の侵害(国民の生命・財産の保護が 侵された)を理由に 返しなさいというのだと思います。
 軍事力の発動をしない あるいは それを脅威の手段としても使わないとしているのですから あとは どちらかの理由によって 返せと言い続けるよりほかにないのではないでしょうか。そして このことは 非核化や安全保障の侵害とは 別に 独立した大問題です。

 あとは 国家単位の外交活動を別とすれば――つまり その活動と 次の活動は 並行して おこなうという意味ですが―― やはり インタムライスムの事業を 地道におこなっていくことだと考えます。
 拉致被害者家族は 心中を察してくれとは言っていないと わたしは 思います。国際法と人道にもとづき 違法行為の解決と処理をおこなって欲しいと訴えているのだと考えます。被害者の生命を投げ打ってでも 法的および人道上の秩序が回復されることを望み うったえているのだと思います。
 つまり 同情して欲しいとは言っていないはづです。つまり ぶっきらぼうの文体であるはづです。ただし 物理的なちからによって 解決を図ることは 放棄しているということだと思います。
 加害者が 人間存在であることは つまりその言い分は つまり言い分を述べる表現の自由は どこまでも 守る。と同時に 間違いは 正すべきだと こちらも どこまでも 解決が成るまで 言い続ける。こういう態度だと考えますが 非現実的でしょうか?

投稿日時 - 2009-04-28 18:09:28

ANo.53

Bonjour, monsieur!

【この《譲歩》は 自由な主体性 主体の自由を守ったと言えるか】
bragelonne様のideeの最も要となる柱だと思います。
これは以下の憲法による「人権擁護」の論理と酷似しているのでしょうか。

  38条1項:何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
  38条2項:強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。

bragelonne様の以下のご主張、
「わたくしは 言えるという立ち場です。それは 自由な表現行為が 生命と存在を脅かす悪に基づいている・つまり 無効であった場合 その無効としての自由が しかも 現実に実効性を持って 有力となった場合 そうだとしても それは やはり無効だと見ることができると思われるからです。服属の要求という 自由な表現行為は けっきょく 無効であると考えられます。」

に照らし合わせますと、おっしゃるところの 

「しかも 新しい憲法のもとの 戦後民主主義社会にあって わたしたちは この《伝統》の自由を謳歌することができていると言うべきでしょうか。」

とのご主張が合致するかのように思えます。
ですが、

「ゆづる側は したがって 無力の 有効としての 自由を保っていると。」

この「ゆづる」という「自由意思?」こそが肝心で、あまり私はスッキリこないのです。
何をもって「ゆづる」と規定するのか、いまいち漠然としております。
たしかに「ゆづる」は理念上は「もったいない」と同様に日本人には比較的許容する土壌があるように私には思えます。
(confer: Il vaut mieux plier que romple.=柳に雪折れなし )

例えば、先日の記事による「滅私奉公的な企業に対する不正糾弾、排除の試み」の類は「我が身をゆづる」と考えられなくもありません。
ですが、この論理を仮に政変レベルで考えますと、ちょっと現実と理念との乖離が予想される気もするのです。

「服属要求という表現行為に関して それは 自由のもとに成り立った有効であるのか それとも すでに 相手の自由を拘束しようとするゆえ 無効であったか。無効の表現行為に対して 譲歩したということであれば そのゆづる側は なお 自己の屈服という表現行為にも 有効性を保持しており その人びとは 自由であると考えられるか。」

この論理はあくまで自国向けと想定してよろしいのでしょうか。
仮に国内においてコンセンサスがとれたとしても、はたして「日本以外の国々や世界のコモンセンス」からすると、どのように捉えられるのでしょうか、ちょっと気になるところではあります。

ともすると「日本の常識は日本以外の国々では非常識」と映り、どこぞの国が「誤解」して「人工衛星を再打ち上げ」しかねないかもしれません。
「隣人との不仲」は往々にして国家間規模のみならず個人の住居レベルまで存在するようですから、これもある種の命題になり得るのかもしれません。
「売られた喧嘩は~」の永久ループを脱する良い理念ではあるのですが。

ちょっと朝から大真面目に考えてみました。
ですが、わたくしもbragelonne様同様にパソコンを閉じれば「~♪」などこにでもいるごく平凡で能天気な主婦なので、これくらいで丁度良いようにも思えたりもします♪

投稿日時 - 2009-04-28 07:07:16

補足

 mashumaro2 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 朝いちばん 来ましたねぇ。
 しかも 《ぶっきらぼう》が 世界に飛躍するかになってまいりました。 もうひとつ しかも ことは いわばわたしたちの議論のことの発端にも行き着きました。
 ○ 《蚊が刺しただけ》という命題。
 ○ 無効は どこまでも 無効である。初めから なかったのである。という命題。
 ☆ また 一過性の問題だけではなく 
 ○ 男尊女卑という《 A ‐S 》差別連関 その他の差別問題
 ☆ といった永年の普遍的な課題にも 直結しています。
 ○ ゆづった側は その自由が 有効である。
 ☆ と考えられます。

 しかも この命題かつ問題を 世界という視野に立って 考えていかなければいけない。これに わたしたちは 直面しているようです。

 事件じたいは 一過性ですが 可能性の恐怖は 続いている事例として ここで 《1977年9月28日に、日本赤軍が起こしたハイジャック事件》を取り上げたいと思います。それに対処する日本の常識が 通用するかの問題です。
 ▲ (ヰキぺ:ダッカ日航機ハイジャック事件) ~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%83%E3%82%AB%E6%97%A5%E8%88%AA%E6%A9%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 ● 犯人グループは人質の身代金としてアメリカドルで600万ドル(当時の為替レート〈1USドル≒約266円〉で約16億円)と、日本で服役及び勾留中の、メンバー・日本赤軍に加えようと目をつけた囚人(新左翼活動家や、「獄中闘争」を評価した一般刑事犯)9名の釈放を要求し、これが拒否された場合、または回答が無い場合は人質を順次殺害すると警告した。

 ● 日本国政府は議論の末、10月1日に福田赳夫首相(当時)が「人命は地球より重い」と述べて、身代金の支払い及び、超法規的措置としてメンバーなどの引き渡しを決断。

 ● この事件における日本の対応は、一部諸外国から「日本はテロまで輸出するのか」などと非難を受けたといわれる。だが、当時は欧米各国においても、テロリストの要求を受け入れて、身柄拘束中のテロリストを釈放することが通常であり(例、PFLP旅客機同時ハイジャック事件、ハーグ事件などを参照) かかる非難や、その非難を理由とした当時の政府に対する現代的視点からの批判は当を得ていない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということのようですが 記事は その後 西ドイツ(当時)が 対テロ特殊部隊をつくったのを皮切りに 各国でも創成し 事件解決にも役立っているとも伝えています。

 ○ 《超法規的措置》の有効性や いかに。
 ☆ という主題を 立てることもできるのではないでしょうか。一気に わたしの結論に飛びますが
 1. 無効行為をおこなう人間について その存在は われわれは 愛さなければならない。
 2. むろん 行為の無効は無効だと どこまでも 言って 批判をつづけていく。
 3. すなわち 存在を われわれの存在と同じ程度には とうとぶのであるなら その理不尽な要求に 屈服し ゆづらなければならない。
 4. よって 犯行者については 生け捕りが 至上命令となる。
 5. これが 《人命は 地球よりも重い》の意味だと考える。

 どうでしょう? たたき台になりますでしょうか。

投稿日時 - 2009-04-28 10:06:31

ANo.52

オコリザルです。
埋没している話題ですが眠れないので考えてみました。

 しかるがゆえに 味気ないぶっきらぼうだと言われかねないのですが 必要なら言う 必要でないなら言わない という基準があると思うのです。
 ★ より柔軟な思考を集めることが出来るなら意味があるでしょう。
 ☆ これも そうなのです。もし愛想や愛敬を発揮するというときには
 ★ ただし、焦点のぼやけた文章と受け止める人もいるかもしれませんので、そのバランスは考慮する必要があります。
 ☆ ということになるかと思うのですが ぶっきらぼうの場合には 必要かどうかで決めますから 《バランス》の問題だとは考えないのではないでしょうか。
 ★ 思いやりをこめて文章を膨らますことになるでしょう。
 ☆ これに対しても きわめて ぶっきらぼうなのです。必要ないと判断すれば 思いやりも 表現しません。言いかえると 思いやりが必要だと考えるというよりは――という意味は 相手のことについて あれこれ 思いめぐらせて 決めるというよりは―― 自分の意思表示にとって 必要不可欠かどうかを しっかりと 判断する。その結果 思いやりが発揮されればよい。という考えです

愛情を守りの姿勢でなく攻めの姿勢で表現する。
そんななつき方です。
いい人であってもらいたい。とか、世直しの姿勢では意味があります。
bragelonneさんの、「売られたけんか全て買います」の姿勢ではきりが無いですよ。

投稿日時 - 2009-04-27 23:42:46

補足

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ (No.28補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  《親切で必要な装飾》 こういう概念は 成り立つか。こういった問題にもなってまいりました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この――疑問を呈するかたちでの――締めくくりのほうをも 引用していただくとよかったのではないでしょうか。

 まづ はじめから分かっていることは 自己表現は つねに 動態であることです。つねに 次の表現へと進める過程にあります。 
 ★ 愛情を守りの姿勢でなく攻めの姿勢で表現する。 / そんななつき方です。
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 相手のことについて あれこれ 思いめぐらせて 決めるというよりは―― 自分の意思表示にとって 必要不可欠かどうかを しっかりと 判断する。その結果 思いやりが発揮されればよい。という考えです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このようですから 初めに 《愛情》だとかそれを《守る》あるいは ここでおっしゃっている《愛情を攻めの姿勢で表現する》ですとかを 頭の中に入れて 自己表現に及ぶのではないゆえ おそらく ぶっきらぼうという性格が 出てくるのではないでしょうか。
 でも そうしたほうが――つまり 愛情を攻めの姿勢で表現したほうが―― よいとおっしゃっているのでしょうか?

 ★ いい人であってもらいたい。とか、世直しの姿勢では意味があります。
 ☆ これは 攻めの姿勢を前提としてでしたら ぶっきらぼうには 当てはまりません。強いて言えば ひとは その自然本性において 存在が 善である(つまり いい人である)とは 想定しています。その上で その善が 実際においても 現われていて欲しいということを 《世直しの姿勢》とおっしゃっているのでしょうか?
 でも 実際の実際に その相手の人に対するとき 《いい人であってもらいたい》と思うのは 《姿勢》の問題であるよりは ふつうの思いなのではないでしょうか?

 ★ bragelonneさんの、「売られたけんか全て買います」の姿勢ではきりが無いですよ。
 ☆ この上での思考内容とのつながりが 分かりにくいのですが この姿勢も ぶっきらぼうとは 微妙に違います。
 たぶん 結果として 《売られたけんかを すべて 買った》ことになるのだと思います。人格全体で相い対し 自己表現をするからです。避ける・よけるということは まづ しないのだと思います。

 ★ ・・・ではきりが無いですよ。
 ☆ という意味は 分かりません。人間の社会的な生に関する限り その互いの交通は 《きりが無い》のと違いますか?

投稿日時 - 2009-04-28 06:37:42

ANo.51

Bonsoir, monsieur.

【 《パレーシア》の問題です。《言うべきことを きちんと言い おこなうべきことを おこなう》】
>「茶の湯こそ 大陸文化を取捨選択して独自の文化を築いた日本人の美意識を証明しているのではないかと この茶碗を見るたびに思う。」

「目利ニテ茶湯モ上手、数寄ノ師匠ヲシテ世ヲ渡ルハ茶湯者ト云、一物モ不持、胸の覚悟一、作分一、手柄一、此三箇篠ノ調タルヲ侘数寄ト云々、唐物所持、目利モ茶湯モ上手、此三箇モ調ヒ、一道ニ志深キハ名人ト云也。」『山上宗二記』

高価で希少だった当時の唐物至上主義に対し、それを持たざる者であれど美を見極める力があれば茶の湯者であるとし、何も持たぬ侘び人であれど数寄の道はある、という日本人としての独自の新たな美意識、価値観を感じさせるテクストです。
後に唐物に対し圧倒的に安価かつ価値なきものとみなされていた我が国の茶陶が爆発的・想像的な発展を遂げていくのは周知の事実です。
そしてこのようなことは、現代日本における哲学思想の分野においてでさえも一考に値することなのでしょうか。

日経記事のご紹介をどうもありがとうございました。
わたくしは…どちらかというと同日付の「春秋」の記事に目がいきました。
両親と渡仏直前に訪れた「フォンテンブロー」は今は無き名店でして、
当時高校生だったわたくしは重厚な雰囲気の中とても緊張した記憶があります。
村上シェフは日本の料理界の中でも伝説的な方で大層努力家でいらしたようです。
彼のように狭い世界に身を置きながらも「筋が通し自己の信条・信念に基づいて行動した」という点においては、どのようにカテゴライズできますでしょうか。
不正を正すようなふるまいこそが「理想とされる知性」なのでしょうか。

【要するに わが国では お上(アマテラス)の権威が強い】
>ところが 西欧では そもそも 個人から 出発する。そのとき ひとは あたかも《 A = S 》対等かつ連結の構造から成っているのではないか。
={アマテラス圏(個人は《A=S》)‐スサノヲ圏(個人は《A=S》)}のごとくの連関構造なのでしょうか。

哲学思想系のド素人の戯言で恐縮ですが、我が国は「お上の権威が強い」=「元来の個人の概念が希薄」なのではないか、と思います。
「政権システム自体を根底から覆す革命=revolution」「王政復古=restauration」を経て「現在の共和制=Cinquieme Republique」に至る壮大な歴史観を抱く国民と日本国民の抱くそれとでは、大きな隔たりがあるように思えてならないのです。

更に外交交渉から個人間のディベートまで「駆け引きに長けて洗練されている」ように思えるのは、やはりかの国の地理的歴史的経緯が否めないと感じます。
ロシアや北朝鮮のしたたかな外交術にしても、かつて他国の後塵を拝した、或いは、他国から蹂躙された苦い経験が現在の狡猾な権謀術数と化しているように映ります。
また、「revolution」を他国に先駆けて経験したが故に、後の各国の政変に絡む亡命貴族、政治犯を一定下で許容してきた懐の深さなどを鑑みても、フランスの哲学思想界において斬新かつ急進的なアイデアが育まれてきたのは決して偶然ではないことのようにすら思えるのです。

翻って、わが国はどうでしょうか。
「敗戦」を経験した以外に、たとえば隣国大韓民国のような他国から蹂躙されてきたような屈辱的な尋常でない歴史観があったでしょうか。
数年前に夫の出張に同行した際、FTAの交渉の閉塞感のためにホテル前にデモを行っていたのには大層驚かされましたが、後に焼身自殺者まで出たのには唖然としました。
つい数十年前まではかの国は軍事的戒厳令体制を夜間に強いていたのを思い出します。

ですが、海外からみてやはり日本の歴史性と現状の意識こそが「異質」なのでしょうか。
先の「天目茶椀」の「irregulier」「inparfait」も、20年周期で「朽ちる自然観の前にひれ伏す人間観」とも言える伊勢神宮の式年遷宮と通じるものがあるように思えてなりません。
このあたり、bragelonne様のおっしゃる「アマテラス」「スサノオ」のアイデアの源とリンクするところがありますでしょうか。
特段「日本人にとって最適な哲学、思想とは」と究めていくアプローチもアリでしょうし、逆に、個別に井戸端のおしゃべりから少しでも集約的な形を見出すのもこれまたアリかもしれません。

なかでもbragelonne様のアイデアは物語的かつユニークなものだとわたくしは思います。
ご教授くださった各質問をじっくりと拝見させていただいております。
どれも奥が深く、考えさせられることばかりです。

ちなみに、「アマテラス」「スサノオ」の「国譲り」の件は思弁上の形かと思いますが、その後の「オオクニヌシ」との対決や「壬申の乱」に至るrebellionの類は、先に口すべった「効率性」と同様にナンセンスな歴史的語彙なのでしょうか。

投稿日時 - 2009-04-27 22:36:43

補足

 Bonsoir, madame.

 伝えられるところによりますと その昔 オホクニヌシは その祖であるスサノヲの築いたイヅモ(スガの宮)の国を 植林に励み 医薬(薬草)の開発に精を出して 人びとと共に営んでいたところ アマテラス国から 使者を受け 服属せよと要求されるに至りました。

 何度も来ました。数年 数十年にわたって 使者も入れ替わり立ち変わり 来ました。その要求を受け容れたのは 二人の息子に相談し 何でも 腕相撲をして決めたとかでした。むろん 海の沖合いでは 剣を突き立てていて それを背景にして 談判に及んでいるという情況もありました。

 使者とのやり取りは省略します。主戦論も非戦論(和解従属論)も いづれも人間の弱さから発していると考えられ 要するに オホクニヌシは みづからの国を譲りました。果たして ここから どのような社会形成の理論が 得られているでしょうか。

 この国譲りのあと 隷属とも言えるような踊りを踊っても見せたのですが この《譲歩》は 自由な主体性 主体の自由を守ったと言えるか これも 問題点です。
 わたくしは 言えるという立ち場です。それは 自由な表現行為が 生命と存在を脅かす悪に基づいている・つまり 無効であった場合 その無効としての自由が しかも 現実に実効性を持って 有力となった場合 そうだとしても それは やはり無効だと見ることができると思われるからです。服属の要求という 自由な表現行為は けっきょく 無効であると考えられます。
 韓国併合は 自由な表現行為として 有効でしょうか。相手も すべて 自由のもとに 交渉した結果 成り立ったというべきでしょうか。現在の世界観としては 無効だと考えられます。

 ゆづる側は したがって 無力の 有効としての 自由を保っていると。

  *

 ところが さらにその昔 オホクニヌシの先祖であるスサノヲは 自らの役割として課された海原の統治を嫌がり 泣きどおしであったと言います。いっさいその役割を分担せず おまけに 田んぼの溝を埋めるわ 畔を開け放つわで 統治者アマテラス(かれの姉ですが)に対して 嫌がらせばかりをしていたと言います。
 アマテラスが ついに 天の岩屋戸へ雲隠れをするに到ったり あるいは この姉と弟は その前には 互いに心の清きを争って 賭けをも したりしたと言いますが 要は スサノヲの悪行が極まって かれは 爪を剥がされたりしながら 追放されたという経過が 過去にありました。アマテラスの国を追いやられたスサノヲは イヅモに来て 自らの場を得るということになり やがてオホクニヌシの歴史に受け継がれたわけですが そういう過去のいきさつが 問題になって 尾を引いていたようです。
 
 問題は スサノヲに任された海原の統治というのは 結局 死者の祭祀を司るということだと考えられます。スサノヲは――いま 推論が貧弱ですが―― これを嫌って 泣いてばかりいたというのは 宗教の自由を主張したものと考えられます。言いかえると 良心・信教の自由を唱え 唱えつづけたと言えるかも知れません。髭が 胸先に伸びるまで 泣いていたと言います。
 イヅモの国では この心の問題は 自由に 人びとの生きるに任されたと いささか甘く 見ておきます。そうして オホクニヌシの服属以後 この思想・表現の自由も 今度はすべて 主宰者である姉のアマテラスのもとに 管理されるようになったという歴史であり現実です。

 このとき 問題は ひとことで 日本人は 自由であるか。人間の自由を持つか。持っていたか。
 服属要求という表現行為に関して それは 自由のもとに成り立った有効であるのか それとも すでに 相手の自由を拘束しようとするゆえ 無効であったか。無効の表現行為に対して 譲歩したということであれば そのゆづる側は なお 自己の屈服という表現行為にも 有効性を保持しており その人びとは 自由であると考えられるか。
 こういう課題にいきつくと思うのです。

 この自由論は 日本社会論そのものになるのではないでしょうか。おそらく 自由についての認識論だけによっては わたしたち日本人は 満足しないと思われます。

 しかも 新しい憲法のもとの 戦後民主主義社会にあって わたしたちは この《伝統》の自由を謳歌することができていると言うべきでしょうか。

 * 壬申の乱は すでに 国家が出来上がったあとで 民主派(天武天皇)か保守派(天智天皇=大友皇子)かの争いだと思われます。でも 民主派(スサノヲ派)の色彩を保っていたとすれば 市民の自由も 死んでいなかったと思われます。

 * かえって 脚色したもので たたき台としたほうがよいと思いました。

投稿日時 - 2009-04-27 23:59:11

ANo.50

おはようございます、大佐殿。清々しい朝に爽やかな風をお届けするぽこぺろぽであります。迂回生産を認めていただきありがとうございます。大佐のような上級者はヘッポコには手心を加える義務があります。さもなければ私は神経衰弱に冒され、フルボッコの憂き目に会います。主題から逸れっぱなしにならないよう配慮します。

 大佐の呼称ですが、お気に召さなければ別の呼び方をご教示ください。皆がドタバタ茶番劇に出演したくて、大佐を悪役に見立てて楽しんでいるのでしょう。「大佐」とは好戦的で波風を立てる者です。小泉ポピュリズムとも異なります。なぜか革命軍のリーダーは大佐の呼称を好みます。大佐が革命思想をお持ちでないのは承知しておりますが、皆からするとそのご考察は、眉に唾するほどの危険思想に映るのです。ちなみに『百年の孤独』のブエンディア大佐は堂々めぐり、戦闘の長期化を指します。普段のあなたは「大佐」とは似ても似つかないのでしょうね。

 実は私も受洗前から大佐と同じ指摘を受けました。なぜか指摘する者は判で押したように、人格に大きな問題が見当たらないのです。本来は徳の高い者ほどけんかを奨励し、その普及とルールの整備に努めるべきです。なぜなら徳の高い者は、引き際を見極める思慮深さも持ち合わせるはずだからです。

 私は野球の次にアイスホッケーが好きなのですが、ホッケーはボディーチェックを必要とするため乱闘が絶えません。たいてい当事者以外は遠巻きに眺め、殴り疲れたところで分かちに入ります。どのみち当事者は5分間の退場を課されるので、互いの噴怒の発露を黙認するのです。つまりルールで裁かれる以上はけんかは許されているのです。逆説的にはけんかをしない者は、けんかを交流とするからには、ぶっきらぼうといえるかもしれません。確かに一神教は好戦的ですが、けんかが嫌いな者が判で押したように、一神教よりも教条的なことは不思議です。

 嫉妬につきましては、宙さんと同じようなご見解をお持ちでも、それぞれ違う切り口で展開されますので、お答えいただけるとありがたいです。

投稿日時 - 2009-04-27 08:13:50

補足

 pokoperopo さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ▲ (日本俗語辞書:フルボッコ)~~~~~~~~~~~~~~~
  http://zokugo-dict.com/28hu/hurubokko.htm  
 フルボッコとは、徹底的に殴りつける様を表す言葉。
 【年代】 2007年  【種類】 若者言葉
 フルパワーでボッコボコ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 さて
 ★ 皆がドタバタ茶番劇に出演したくて、大佐を悪役に見立てて楽しんでいるのでしょう。
 ☆ こういった情況のようです。
 ★ 「大佐」とは好戦的で波風を立てる者です。
 ☆ ほぼ 当たっています。
 ★ 小泉ポピュリズムとも異なります。
 ☆ まぁ たしかに位置がちがいますから。
 ★ なぜか革命軍のリーダーは大佐の呼称を好みます。大佐が革命思想をお持ちでないのは承知しておりますが、皆からするとそのご考察は、眉に唾するほどの危険思想に映るのです。
 ☆ 《眉に唾》しなくなったのが 直近の情況です。《おまえの言うことも 妥当だが 別の考えもある。そのことを認めたまえ》という調子です。
 ★ ちなみに『百年の孤独』のブエンディア大佐は堂々めぐり、戦闘の長期化を指します。
 ☆ 或る程度の長期化は わたしの場合にも ありますね。同じ説明を二三度繰り返すはめになったとき 見放します。
 ★ 普段のあなたは「大佐」とは似ても似つかないのでしょうね。
 ☆ 人前に立つのが こわかった段階を たぶん 卒業していると思いますが 立つようになった経験が乏しいので なんとも分かりません。でも すべての人が 《指導者》であるという情況になっていくと考えます。《首相当番制》ですね。
 それにしても 《大臣》は 今や ないでしょう。《部長》だとか《委員》でじゅうぶんです。

 ★ なぜか指摘する者は判で押したように、人格に大きな問題が見当たらないのです。
 ☆ 《フーコのハサミ》という道具のうち 法律を決めたりその解釈や運営 あるいは 自然科学の知解作業の分野では 《善良なる市民》は 勤勉です。社会全体にかんする問題については 一人ひとりの存在が ハサミやメスを使って切り込むことは しませんね。ご法度のようです。つまり みづから 自分の手足を縛っているみたいです。

 ★ アイスホッケーは ボディーチェックを必要とするため乱闘が絶えません。
 ☆ これも ちっとも知りませんでした。そうですか。ま スポーツは 多少とも けんかの要素が――けんかに代わるものとして――あるのでしょう。

 ★ 本来は徳の高い者ほどけんかを奨励し、その普及とルールの整備に努めるべきです。なぜなら徳の高い者は、引き際を見極める思慮深さも持ち合わせるはずだからです。
 ☆ タイの国王みたいですね!!?? 
 二階建てかどうかで また 違ってくるように思います。

投稿日時 - 2009-04-27 09:56:04

ANo.49

>この名無しの姫は わたしには いやな絡みが この質疑応答であったものですから なんとも わたしには かかわりがないのです。

まず申し上げておきます。
「いやな絡み」というのは、もとは、そちらが発端ではありませんでしたかね?
ご自分の側から、心得違い勘違いによる無礼極まる発言を浴びせかけておいて、それを棚上げしたまま、とうとう一言の謝罪もなく、よくも延々と、こちらをご自分の質問スレのネタに利用なさることなさること!!
ご自身の質問スレで、ご自身「かかわりがない」はずの他人の噂を頻りにせずにいられないとしたら、なぜですか???
やはり「井戸端会議」なればこそなのでしょうか?(笑)そのへんのオバチャン連中顔負けで、ここまでくると男性には珍しいようにすら思います。このスレのなかをザッとみても明らかですね、噂話に うち興じておられるのは、ほぼ男性がた(笑)
それにしても、ひとたび目をつけた特定の人物からは、どうあっても関心をそらすことができない御気性と見受けました。

私としても、そちらさま以上に、二度と関わりを持ちたくはないものと、かねて決心しておりましたが、例の「学者野郎」氏との経緯もあって、しぶしぶ見ておりましたらば、あまりにも頻繁に噂のタネにされている。不在裁判のごとき不愉快さで、ついに、無理をして出てまいりました。
ですから、なるたけ、この一度限りで失礼させていただきたいということは今のうち あらかじめ おことわり申し上げておきます。そちらさまには、ご不興かもしれませんでしょうけども悪しからず。
そして、今後、私のことをアレコレと論評することを控えていただくべく再び申し上げておきます。このあとの御姿勢如何では、管理局への連絡も考えます。
さて、他のかたへの御返事なのですから、遠慮するべきかとも思いますが、敢えて とりあげさせていただきます。

>わたしも多少は ついて行ってみようとしましたが だめでした。無理です。なぜですかねぇ?

なぜですかねぇ?ついて行ってみようとされたのは??
ま、いいんじゃないでしょうか、そんな必要があるとも思えませんし。

>比喩でやり取りするにしても 噛み合っているかどうか 

そりゃあ そうでしょう、噛み合わない比喩など、どうにもなるものですか、と思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○○姫みたいな名前の方は、そこに、自分の像が理不尽に描写されたと受け取った。
 そして、与えられた像と自己の不一致にもがき、鳥や胃袋の像を修正します。修正した像への攻撃開始となります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
これは、その「姫」なる人が、「鳥」や「胃袋」像へ向けて攻撃した、と言うのですか?
で、その攻撃は間違っていると仰るのでしょうか? 

>☆その現実性は おそらく 対処の仕方をまちがっています。このやり取りにおいては A も A´も A″もないのだと考えます。行先を決めていない電車だからです。○○姫は あそびで電車ごっことして 《修正》するのなら いいのですが ほんとうに その電車に乗って 運転手や車掌やを きっちり 決めようとさえ しているかに見えます。もうこうなると わたしは ついて行けません。姫は 参加した初めから まじめに 対話をしようとする姿勢だったようですが。

そちらさまが「ついて行けません」などと、なぜ仰る必要性があるのか分かりかねますけど、とにかく、この事に関して全く事情をご存じないはず。
かつて やり込められた逆恨みを抱いてきた気に食わない者が間違っていることとしたいのは、それも自然な感情ではあるのでしょう、しかし、現実の当事者としてハッキリ申し上げておきますよ。

まず、あの場においては、基本的には目指すべき方向性というものが、しっかり設定されておりました。
どっち向こうが、どっちつかずであろうが、延々と空疎なグルグルまわりを続けるだけでも良しという場としては決して設けられておりません。そういう場は他に設けられていました。いくらなんでも限度というものもあります。或いは新参者が知らされないでいる特殊な目的のあることを、すでに始めていたのかもしれない、しかし、それについて全く何も知らされていないのだから、関わる必要性があるとする者どうしのあいだの話です。
しかも、「姫」なる者が、他の者らから、ある種の強圧的な力をもって押し付けられていた或いは要求されていたところの役割姿が、「空疎なグルグルまわり」もしくは「ヨッパライの ぐだぐだ話」に対して、どうやら大いに関与しているらしい、だが、このことを明らかには指摘しがたいという新参ゆえのハンデも加わって、そうとうの苦労があったわけです。
「姫」なる側の抵抗を「攻撃」などと呼ばわるならば、当然、圧力をかけてきた側は、せめて先行攻撃としなければ、いかにも浮かばれません。
なにも「運転手や車掌やを きっちり 決めようと」などは しておりませんよ。そこまでの采配をふるえる立場でなし、その気もありません。ただ、このままでズルズルズルズル行ってばかりでもしょうがなかろうということは言うべきかと思っていました。全く無視されていたわけですけど。
そういうことでいいのだということであれば、最初に聞かされていた話の内容とは甚だ大きく乖離しますので、こちらも戸惑います、それならそうと簡潔でいいから説明らしきものがあってもいいのではないか、こういうことです。なにしろ最初に聞かされていた内容というのは、その場を設立なさったかたの立派な お志に満ちたもので、大事なことであると聞いていたからです。私自身、その趣旨に深く共感していました。
要は
>「明言された表現をめぐって また それのみを問題として やり取りをしていけばよい」
そして「固定」の要求、こういったことで苦労したわけなんですよ。
「統合」「認識」などといっても、そのありかたは各人によって、なかなか違うもののようですしね。

>「主観と照らし合わせて 間違っていたら 《違う》と はっきり言えばいいのだ」
この点は同様の考えですよ。シンプルに行けばいいじゃないかと思っています。ただ
>「明言しなければ 放っておけばよいという考え方」これは、
「名言」しない、放っておく。「名言」しない、放っておかない。
「名言」する、放っておく。「名言」する、放っておかない。
一本だけで通るわけでもないようです。
最後に一応、御質問本文のことを。もし、つけたしみたいで失礼じゃないかとでも お感じになるようでしたら(お察しでしょうが実のところ目的は前半部にありますので)完無視で けっこうです。そもそも、あまり突き詰めて考えたことがないテーマなので。他のかたとカブっているかもしれません。

【Q1】ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか?

表現や、その あらわれかたにもよると思います。
と言うよりも「ぶっきらぼう」とは、こうこうであるといえる標準モデルみたいのがあるのかどうか知りませんし。

【Q2】愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか?

殆どの場合、関係するように思われますが、それにしたところで表現とか、その「愛想」の持ち主のキャラ如何が、実際には大きく影響を及ぼすように感じます。

【Q3】ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか?
 それとも 何らかの愛想があることが 地であって その上に 愛想の多い少ないや よい悪いが 図柄となって 実存していますか?

「ぶっきらぼう」の定義みたいなものがキッチリあるのかどうか私は存じませんし、「地」であるのならば、むしろ、その本人は「ぶっきらぼう」にしようとか「愛想がある」ようにとか、いちいち意識しないでいるでしょう。ただ、自分が「ぶっきらぼう」にしてやりたいとか「愛想」のあるところをみせたければ そうするだけ。
意識しなければならない状況にあたって、「多い少ない」「良い悪い」「図柄」?などというようなことの配慮が のぼってくるのが実際のように思います。

【Q4】《愛想》とは 何でしょう? あるいは 《社交性》とは どういうことでしょうか? つまり 《ぶっきらぼう》には 社交性は ないでしょうか?

「愛想」とは、まあ大雑把ですが、その分、円滑にいくか、スムーズにいかせたいから「愛想良く」というくらいのことだと思っています。べつだんの思惑もなくて、単に人を見たら反射的に愛想良くせずにいられない性分もあるようです。
「社交性」って、友人知己が多いとか人あしらいや人付き合いが うまいとか発展家とか?このていどにしか考えたことはないので。。。
「ぶっきらぼう」の定義や標準モデルとでもいうものがあるのならともかく、「ぶっきらぼう」でも、なんとはなしに人好きがする雰囲気の人もいるだろうし、付き合いが うまいとかマメだとか。要は「ぶっきらぼう」だからイコールで「社交性」を大きく左右するとまでは思いません。
むしろ「媚」とか「取り入り」と言ったほうがいいのか「愛想」の良過ぎだとか不自然な「愛想」だと不審に感じて嫌がられたりすることも けっこうあるようには思います。
以上でございます。 

投稿日時 - 2009-04-27 07:45:34

補足

 noname002 さん 対話に応じましょう。(09.05.01)

 ★ 「いやな絡み」というのは、もとは、そちらが発端ではありませんでしたかね?
 ☆ 《発端》であることはあり得ません。わたしの質問に そちらが投稿してきたからには わたしから――つまり 初対面から―― いちゃもんをつけることなどあり得ません。ただし――と言っても これは あなたの場合ではありませんが―― 最初から フルボッコで 批判することはあります。
 ★ ご自身の質問スレで、ご自身「かかわりがない」はずの他人の噂を頻りにせずにいられないとしたら、なぜですか???
 ☆ 悪いが 気にしたこともなければ 噂をしたつもりもない。ふつうに応じているのみ。
 ★ それにしても、ひとたび目をつけた特定の人物からは、どうあっても関心をそらすことができない御気性と見受けました。
 ☆ この質疑応答の場で 特定の人物として見ることになったのは 一人しかいません。あなたではありません。
 ★ かつて やり込められた逆恨みを抱いてきた気に食わない者が間違っていることとしたいのは、それも自然な感情ではあるのでしょう、
 ☆ めざめなさい。独り相撲になっているが まじめに発言していますよと言ったのみ。ひょっとして 逆恨みというのは あなたが わたしに持っているの? ぜんぶ 吐き出してみて。そのための対話です。受けとめてあげましょう。
 ★ それならそうと簡潔でいいから説明らしきものがあってもいいのではないか、こういうことです。
 ☆ このうったえは 通るでしょう。

 ○ ぶっきらぼう
 ☆ とは すべてを ただちに 解決するという心意気です。できないと分かれば ほうっておくという気性です。

投稿日時 - 2009-05-01 17:27:38

お礼

 ◆ (【Q:輪廻と業によれば 被害もすべて自業自得ですか】No.66)
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3965802.html 
 ★★ (種類:回答; どんな人:一般人; 自信:自信あり )~~~
 リクツにすらなっていない。
 他者の時間を食らい尽くさずにおかない飢餓。
 餓鬼の言う「人間以前」とは、笑止千万!
 自分の無明に付き合ってもらいたいがためには人を侮辱することも厭わない。それを「技術」の一種とカン違いしている誰かさんと同じレベル。
 リクツも哲学も信仰も、あなたには永久に無縁でしょう。

 ☆☆ (この回答へのお礼 )~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 誰かさんと同じレベル
 ☆ この箇所を取り除くと 自己診断になるはづです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ★★ 他者の時間を食らい尽く
 ☆ そうとは思いませんので 控えましょう。
 なお amaguappa さんとわたしが触れた文章は すべて 公開のものです。

投稿日時 - 2009-04-27 10:56:46

ANo.48

なるほど神代に《ヨリ》《イリ》《ヨセ》の年代記ありということですね。面白いですね。

前回の続きですが、たぶん、言ってみれば心の中の《ヨセ》と《ヨリ》の絡み合った
状態を見つめることになるのかもしれません。

10 の表現は過激になっていますが、愛想とは装飾品売り場での批判であるともいえますね。むしろ批評かな。
肖像画家は批評眼がなくては肖像画を描けないということを思います。
11 についてですが、少し厄介な視点です。
 A ----- A'
  \    \
    B'----- B

AさんとBさんが向き合うとき、Aさんに映ったB'像、Bさんに映ったA'像と四つ組になります。
AさんがBさんを批判するということは、B'像がBさんを苦しめることです。
B'像とは、部分を寄せ集めてAさんが主観的に構成した像で、Aさんは必要に応じて修正します。
Bさんの意見は、たかが意見でも、人格を成す一部分ということになりそうですから、
B'像を修正していくことでしか、Aさんの批判の収拾はつかないのではないかと思います。

売れる肖像画がかならず行っているごとく、
A'像やB'像を、何かの都合に合わせて良い感じに捻じ曲げる、というのが愛想ではないでしょうか。
わたしの言うぶっきらぼうは、相手の像を統合しないというふるまいです。
ま、向き合っていないといえば一言で片付きかねないのですが
相手をを固定的に見ているのではないという態度にはなるのです。
あるいは、パーツを集め切るまでは「全体像」を組み立てない、という慎重さを表すことにもなるのです。

縄をかけてあげたほうがいい場合もあると思うのは、
言葉より人物を見る信頼の過程で、必要になることがあるからでしょう。
たしかに、bragelonneさんの態度のように、言葉の熟成がすすみすぎる人は放っておいてもよいかもしれません。
ただ、どうせ四つ組になるのなら、よい連関であったほうがこちらも楽ではあります。
AがぶっきらぼうにB'を棚上げすると、同時に、A'像を誘導することもできなくなります。

言わずもがなですが、重要なのは子どもや成長途中の人で、
自己像を作る段階にあるわけですから、良い部分を照らして主観的な構成をすることが、
やはり、彼ら自身の、像と自己の関係を楽なものにします。
そうして、大人は大人の像を誘導する必要があるはずなのです。とわたしは思うのです。

ひとつ上にかかった質問はご覧になっていない?
リンク先に面白い茶番をみます。日本語の論理と、けんかと、上記の像の話が、具現されていました。
白雪姫みたいな名前の方が、未来の記憶について、松岡正剛の稲垣足穂考を提示しました。
絶滅危惧種の鳥みたいな名前の方が、その足穂考からもっとも肝心な一節を正確に抜き出しました。ベルグソンに拮抗する和歌です。
胃袋みたいな名前の方が、見事な和歌解釈を披露しました。雅びの暗号である掛け言葉を解き明かし、読み手の心情表現を解釈し、
さらに駄洒落を混じえ、現代に置き換えると「うざ」い歌だというような感想を述べました。
白雪姫みたいな名前の方は、そこに、自分の像が理不尽に描写されたと受け取った。
そして、与えられた像と自己の不一致にもがき、鳥や胃袋の像を修正します。修正した像への攻撃開始となります。
これで愛想のあった人間関係がめちゃめちゃになるという茶番です。
まあわたしの目から見ればです。

上記の経緯では、情報を取得するよりも先に調子を合わせることによって、つねにぼやけた焦点を招くというケースに、
病的なもの以上に習慣的なものをみとめますね。何か教育が適正でなかったという感じですね。
bragelonneさんは病を社会的にとらえておられ、公私を包括した連帯責任と見ておいででしょう。
さらに言うと、画一でない教育や治療、一人一人に応じた支援によって、
社会への参入をスムーズなものとするまでが、病にしろ病でないにしろ必要な視点なのだと思いますよ。
若干話がそれましたが、茶番見物から学ぶところでは、
愛想とぶっきらぼうは、独善のもとではたいした境目がない、と言えるように思いました。
隣人への愛に基づいた場合にも、たぶんたいした境目はないのでしょうね。残念ながらあまり経験する機会はないですが。

投稿日時 - 2009-04-26 22:35:10

補足

 amaguappa さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 茶番
 ☆ わたしも多少は ついて行ってみようとしましたが だめでした。無理です。なぜですかねぇ?
 比喩でやり取りするにしても 噛み合っているかどうか これが いちばん大事です。あるいは その電車は どこへ向かっているのか。多少は 互いに 噛み合わせないと 無理です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 白雪姫みたいな名前の方は、そこに、自分の像が理不尽に描写されたと受け取った。
 そして、与えられた像と自己の不一致にもがき、鳥や胃袋の像を修正します。修正した像への攻撃開始となります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この部分だけですね。現実性があるのは。しかも その現実性は おそらく 対処の仕方をまちがっています。このやり取りにおいては A も A´も A″もないのだと考えます。行先を決めていない電車だからです。白雪姫は あそびで電車ごっことして 《修正》するのなら いいのですが ほんとうに その電車に乗って 運転手や車掌やを きっちり 決めようとさえ しているかに見えます。
 もうこうなると わたしは ついて行けません。姫は 参加した初めから まじめに 対話をしようとする姿勢だったようですが。
 それに この名無しの姫は わたしには いやな絡みが この質疑応答であったものですから なんとも わたしには かかわりがないのです。

 わたしの考えですが A´ だとか B´ だとかの像を持ち出すとき つねに 主観と照らし合わせて 間違っていたら 《違う》と はっきり言えばいいのだと思います。あるいは 逆に AとA’といったように描像を二つ 提示するところから 行き違いが生じるように考えます。
 人格といえば 存在の全体ですが つまり そのことに間違いありませんが けっきょくは 言葉による表現に 基本的には 帰着すると考えるのです。明言しなければ 放っておけばよいという考え方です。
 明言された表現をめぐって また それのみを問題として やり取りをしていけばよいと考えます。
 ★ 自己像・全体像
 ☆ を 持ち出さないという意味です。そういう概念を打っちゃってしまうという意味です。像は つねに 動態である。表現の過程そのものである。という思想です。
 ★ A'像やB'像を、何かの都合に合わせて良い感じに捻じ曲げる、というのが愛想ではないでしょうか。
 ★ わたしの言うぶっきらぼうは、相手の像を統合しないというふるまいです。
 ☆ この二つの《像》の扱いについて 極端になりますが すべて 同じ主観というものだと捉えます。主観の認識のあり方や意図などが 違うということでしょうが それでも 表現に及べば もはや その外化された言葉を 扱っていけばよいという考え方です。
 ★ 病い
 ☆ というのも 一時期あるいは多少長いあいだ 休んでいる。というただそれだけの認識でよいのではないでしょうか?その人は その人である。あとは 表現をのみ問題とする。つまり 文体ですね。
 文体は 公私を もともと 包括しています。したがって もはや この世界は 文体とその社会的な連関および錯綜が繰り広げられるのみである。錯綜は 時間過程の行き違いによって未解決となっているもろもろの意志行為の複合というコンプレックスです。
 錯綜についても いくつかの像を描き持ち出して分析するというよりは なおも なおも 言葉による表現を 繰り出していく。さらにさらに 対話である。という方針で よいのではないでしょうか?

 ここへ来て やっと少し ぶっきらぼうのあり方を捉え得たかに思います。勢いで書いてしまいましたが そのままを 提出いたします。
 ★ 相手を固定的に見ているのではないという態度にはなるのです。
 ☆ とはお書きになっておられました。くしゅん。

投稿日時 - 2009-04-27 00:13:47

ANo.47

ご無沙汰をしておりました。とりあえずぽこぺろぽです。まず私がブラジュロンヌさんを、なぜ大佐と呼ぶかをご説明しましょう。

 あなたの識見が大佐級だからではありません。私の抱くイメージが大佐だからでもありません。他の回答者のあなたを見る目は「大佐」へのそれを想起させるからです。この「大佐」とはリビアのカダフィ大佐、あるいは『百年の孤独』の「大佐」です。自由主義社会に住む者の、軍事クーデターの指導者に対する見方です。ファシズム云々を口にするのも、このイメージをあなたに投影しているからでしょう。金正日将軍とも少し違いますね。

 これを踏まえたうえで以下に回答します。

1:そういうわけでぶっきらぼうは負の印象です。彼に自己の主体が否定されたと錯覚するからです。

2:ほとんど関係しません。ぶっきらぼうは態度に滲み出る印象です。意識すれば文章には現れにくいです。

3:ぶっきらぼうは地とは言い難いです。主観において他者に対する没交渉の消極的意志表示です。対象を主体的に受容すればおのずから愛想は良くなります。

4:まだわかりません。この点についてけんかを申し入れます。大佐どの。

 ハンデとしてこれまでどおり勝手に迂回生産を認めていただきます。

 話は変わりますが、先のご質問の中で例示されたレストランの話を無視したのは、この一年ほど前に全く同じことを犯した気恥ずかしさによるものです。一人で深夜に立ち寄った支那料理屋で青椒肉絲とビールを注文して、タバコを買おうとした時に財布を覗くと、3万円余り入っていた財布に一枚の札もないのに気づき、慌てて駐車場の愛車の中を確認しに戻りました。念入りに探しても見当たりません。恥ずかしくて持ち合わせがないとも言えずに、そのままブッチこきました。運転なのにビールを注文したことは不問に付していただきたいものです。

 真相は急に入り用になった家族が拝借しただけですが、人間は焦るとトンデモナイことをするものです。えっ、私だけ?失礼しました。これは支那料理屋からするとぶっきらぼうでは済まされませんね。続きをお願いします。

投稿日時 - 2009-04-26 12:06:26

補足

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。
 ちなみに 【Q:嫉妬・・・】につきましては 宙ぶらりんさんが 自然な感情であると答えておられたので 重なりますので 遠慮しました。

 ▲ (日本俗語辞書:ブッチ・ぶっちする)~~~~~~~~~~~~~
 http://zokugo-dict.com/28hu/bucchi.htm
 ○ ブッチとは、授業など出席しないといけないものを理由もなく意図的に休むこと。
 【年代】 1987年  【種類】 若者言葉

 ○ ブッチ・ぶっちするの解説
 ブッチとは授業や部活、アルバイトなど出ないといけないものを風邪など正当な理由がないにも関わらず意図的に休むことで、『ぶっちぎる』の略である。
 またここから転じ、「約束をやぶる」「無視する」更に「電話に出ない=電話を無視する」~「一方的に電話を切る」という意味でも使われるようになる。・・・
 余談だがブッチは漢字で『仏智』と書き「仏の円満な智慧」という意味の言葉もある。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いやぁ 知らなんだったら 知らなんだ。プッツンぢゃなかったんですね。

 まづ
 ★ 迂回生産
 ☆ を認めますと言えばいいのですね?

 ★ 3:ぶっきらぼうは地とは言い難いです。主観において他者に対する没交渉の消極的意志表示です。
 ☆ このお答えをいただくということは わたしの側の 質問の趣旨説明が 舌足らずだったと反省します。
 ○ ぶっきらぼうとは ふつうに交通(まじわり)の意志があり 実際 交通しているとき まづ 必要なことは しっかりと意思表示するし 伝達する。(つまり 電報のごとく 最低限 必要なことは 述べる)。そのとき 愛想も愛敬も人情も同情も――ないのではなく――示さない場合を言う。
 ☆ こう説明すべきところでしたね。ただし それでも
 ★ 主観において他者に対する没交渉の消極的意志表示です。
 ☆ と見える場合があるというご教示であるようです。その中身として
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 あなたの識見が大佐級だからではありません。私の抱くイメージが大佐だからでもありません。
 他の回答者のあなたを見る目は「大佐」へのそれを想起させるからです。
 この「大佐」とはリビアのカダフィ大佐、あるいは『百年の孤独』の「大佐」です。自由主義社会に住む者の、軍事クーデターの指導者に対する見方です。
 ファシズム云々を口にするのも、このイメージをあなたに投影しているからでしょう。金正日将軍とも少し違いますね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 正直に言いますと 昔 自分の考えを友だちに吐露すると たしかに決まって 日本は多神教の国だ〔から 一神教のような思想は 馴染まないという意味合いだと思われる〕という答えが 返って来ましたね。判で押したように。
 その昔 小泉八雲が 松江で生徒たちに 《蛙》という題で 英作文を課したら 決まって 小野道風の逸話を書いたそうです。同じようなのです。日本人は 善良でまじめな人ほどと言いたくなるかたちで 《けんかは いけません》という判子を押しますね。ちゃんと 印鑑を持っているかのようです。――どこが 多神教なのですか。こんなに絵に描いたような一神教は ないでしょう。骨の髄まで アマテラス教が浸透しています。
 ただし
 ★ 大佐・軍事クーデタの指導者
 ☆ の描像は 初耳ですし ピンと来ませんね。これは 時代とその情況が変わったということでしょうか。もっとも
 ★ ファシズム
 ☆ これは アマテラシズムが その全体主義に利用されたのですから つながって 描像に結び付けられるのは 分かります。
 そして わたしの言い分としては
 ★ ファシズム云々を口にするのも、このイメージをあなたに投影しているからでしょう。
 ☆ ではなく 精確には そうではなく もともと あたかも小泉劇場といわれるようなチャンチャンバラバラを見続けていたいという願望が その人びとの気持ちに中にあって そのような社会そのものとしてのドラマが みづからも出演者となるかたちで 始まらないかと思っていたところへ わたしの言説に出会って これなら ひとつの台本になるかも知れないと嗅ぎ取ったのではないでしょうか。脚色かつ演出に打って出たらどうだという要求を かれらは 続けていたのでしょうか?
 (いま 振り返ると いろんなふうに 分析できるかも知れません)。
 今回 お応えすべきは こんなところでしょうか。
 そうそう
 ★ 『百年の孤独』の「大佐」
 ☆ については 分からず まだ ピンと来ていません。澄みません。

投稿日時 - 2009-04-26 14:31:28

ANo.46

お返事1~4はそのとおりと思います。
まあ2は定義というほどのものでは。。。わたしの場合に限定しましたので。定義とするには反証がないという検証が必要です。
5,6,7はちと迷走の怖れがあるやもしれず、おっしゃるところを把握しかねているのですが、ねんのため、
最上部構造での麻痺というのは、
《ヨセ》においては、たとえば鳥瞰図法や透視図法や遠近法や、メルカトル図法やモルワイデ図法や正距方位図法や、
ユークリッド幾何学や射影幾何学や何やと、対象の認識の構造を選んで、考える作業にとりかかるという運びになりませんか。
人間のやることですから仕方ないですが、認識のとりこぼしに目をつむる形となり、麻痺していると思うのですよ。
それだけなんですが、《ヨセ》の理解が違ったのかもしれません。

7は、人情がないとは思えません。
「わたし」が「あなたが綱をどう思うか」を認識して伝えるときは、
多少「わたしのこと」に再構成して主体性を発揮するしかないですから、
その多少というところが問題で、全部ではない、との忸怩たる思いがあることもあるわけで。
それがすなわち人情だということもありますでしょう。

8は考えがそこまで及んでいませんでした。なるほど。そうですね。
9は《ヨセ》において繊細な構造問題となり、《ヨリ》において無骨な感覚の問題となるというほどの意味でしたが。
10以降は考えを先に進めないとわかりません。保留してみます。

病はわたしもそう思いたいですね。
しかし図法と化した紋切視点も必要なのです。本人が苦しくなければ必要のないものですが。

セリフを自分で出して自分で片づけられましたね。
照れというのはなんでしょうね。ここにも主体性の問題があるような。

蛇足分に関し、日本語の行き違いかと思われるところをねんのため。
「加害者(たち)」とは、「混乱」のなかで生じている概念です。もちろん現実の被害者たちです。
運営側努力によって痕跡はほぼなくなりましたが、つきまとうなと叫ばれたわたしもそのうちに含まれます。

ところでbragelonneさんはまた人にわたしの言葉を投げて尋ねている。。。
パスカードさんとわたしをお友達にするつもりですか。
まあでも今回はご随意にお任せします。bragelonneさんに慣れた今、いろいろなことがどうでもよくなりました。

投稿日時 - 2009-04-25 14:36:03

補足

 amaguappa さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ところでbragelonneさんはまた人にわたしの言葉を投げて尋ねている。。。 / パスカードさんとわたしをお友達にするつもりですか。
 ☆ ほんとですね。ひと事風ではいけませんが ほんとですね。
 あぁ でも 今回は この野郎なら 何でも知っていると思って 気軽に訊きました。昔は 誰かおしえて!!といった調子だったですね たしか。わたしは いけしゃあしゃあ。図々しいですね。知らないとき 知りたいという思いが早ると ですね。ごめんなさい。
 でも 鬼に金棒 いや なんでしょうね。孫悟空に如意棒!! になるでしょう。たぶん。おふたりがそろえば。ま この老好々爺(!!)に免じて そこのところを。・・・たぶん この学者野郎も また もどってくるでしょう。

 ★ 蛇足分に関し
 ☆ わたしは 承知していないのです。《合意形成》とか ちらっと見ましたが ことのいきさつのほうは 分かっていません。

 ★ 病はわたしもそう思いたいですね。
 ☆ あ それでいいんですか? そんなに すんなり うべなわれてしまっても。・・・
 ★ しかし図法と化した紋切視点も必要なのです。
 ☆ か。臨床は よく分かりません。

 ○ ヨセ
 ☆ は 実際に 
 ▲ オキナガタラシヒメのミコト(神功皇后)は 当時(そのかみ)神を帰(よ)せたまひき。(《古事記》仲哀天皇のくだり)(400年ころ)
 ☆ という記事があるのです。その前に
 ▲ 崇神ミマキ《イリ》ヒコイニヱのミコト(第十代ですが 実際に《初国知らししすめらみこと》とたたえられています)。(300年ころ)
 ☆ という名も見られますし その前は
 ▲ 卑弥呼(ヒミコ < ヒめのミコと)(『三国志』「魏志倭人伝」):鬼道をよくす。(三世紀前半)
 ☆ とか言っていますが 《憑依》の《ヨリ》だと思われます。
 第一代・神武カムヤマトイハレヒコの皇后が ヒメタタライスズヒメで またの名を イスケ《ヨリ》ヒメと言います。

 ヨセも その歴史知性として 本籍は イリだと考えられます。ただし その上を行ったかたちです。精神のアマアガリでもあるのでしょう。少々 減らず口をたたけば あたかも神のごとくに いかなるものの下にも立つまいという誓いでも立てたのでしょうね。
 そのために いかにも人間的になろうとしたはづです。いよいよ人間的になったところで まわりを見たら 誰も そうではなく その値打ちがなかったと知ることになります。たぶん あたまでっかちだという意味だと思います。それでも ますます人間的となって この上ないスーパー第一知性になってしまったのでしょう。あとへは 引けなかったのだと思います。腰を低く 誰よりも低くして とうとう 全国制覇を遂げました。

 ★ 人情〔のかけらもなく〕
 ☆ やはり ここは 《紋切型》でいかなくっちゃ!!??

 最後が 最後にふさわしいとも思えませんが おあとがよろしいようで。

投稿日時 - 2009-04-25 21:21:32

ANo.45

すみません、訂正させていただきます。

×フーコの≪ハサミ≫はのっぺらぼう理論であれど、決してぶっきらぼうを「意図したものではない」と。

○フーコの≪ハサミ≫はのっぺらぼう理論であれど、決してのっぺらぼうを「意図したものではない」と。


今から出かけてきます♪ 
誤字脱字はお許しを。←ぶっきらぼう

投稿日時 - 2009-04-25 12:18:38

補足

 Bonjour, Mme mashumaro2 et bonjour a tous.(09.04.26)

 《パレーシア》の問題です。《言うべきことを きちんと言い おこなうべきことを おこなう》。
 ▲ (近藤道生:私の履歴書 日経4月26日) ~~~~~~~~~~~~~~
 §25 天目茶碗――会社の暗部 断ち切る / 絶えぬ気苦労 茶席で癒やす――

 当時の商法には利益供与禁止規定がなく 多くの企業には社外の者たちが群がり 企業も必要悪としていわれなき金品を提供していた。
 博報堂事件を通じて 我が社にもそんな慣習が根付き 事件を生んだ土壌と水面下で結びついていることがわかった。経営の近代化のために博報堂は彼らと一切の縁を切る必要がある。
 私が一時期長官を務めた国税庁は 税務行政をつかさどるだけではない。税務調査を通じて隠された犯罪 反社会行為を暴くという一面も持っている。当時の私は相手が誰であれ 一戦を交えるときは交えるという覚悟で日々を過ごしていた。
 一民間企業の経営者としては事なかれ主義を決め込むこともできたが たとえ危険な目に遭おうとも そうした者たちとの戦いを避けるつもりは毛頭なかった。
 まづ一斉に金品の提供を絶った。他社が博報堂に同調すれば彼らは糧堂を断たれるから 反応は早く鋭かった。本社に近い神田駅で博報堂と私を中傷するビラが大量にまかれた。会社へもひっきりなしに押しかけてくる。
 大物には私が直接会った。ソニーの創業者 盛田昭夫さんから譲ってもらった高性能テープレコーダーを 応接室の床に造った空間に隠して対面する。
  ――いままで払っていたものをなぜやめる。
  ――理由がないからです。
  ――我々はそれなりに会社に貢献してきたはづだ。
  ――前社長とは見解が異なります。
 そんなやり取りを録音したテープを警視庁に持ち込んだ。
  ――近藤さん みんながあなたを殺すと言っていますよ。
 という脅し文句も聞いた。しかしこちらは戦地で死線をくぐり抜けてきた身。言葉だけなら怖くもなかった。
 一人が退散すると地下茎でつながった別の人物が現われる。総勢十人余り。警視庁との連携プレーが一年か一年半ほど続いたところで彼らは諦め 博報堂はようやく身ぎれいになった。
 昭和五十六年 制作出身の東海林隆取締役の提案で 《博報堂生活総合研究所》を設立した。大衆消費社会を迎えて 広告会社は顧客企業の先にいるエンドユーザーの動向を直接知る必要が出てきたからだ。その後の調査と研究が先駆的な《生活者志向》の広告へと結びつく。
 仕事を離れて私を癒してくれたものは やはり茶の湯だった。静嘉堂文庫や徳川美術館などの役員を長く勤めてきたこともあって 内外の美術品に触れる機会を得た。
 特筆すべきは 《曜変天目茶碗》の美しさだ。作られた中国にはなく 我が国に主だった三点が伝存する。
 日本には古くから大陸文化が流入したにもかかわらず 室町末期になると茶の湯など《日本文化》と呼べるものがはっきりと姿を現わす。私は敗戦を迎えたペナンで 部隊の将兵にランプレヒトを引いて異文化間の戦いについて語った。茶の湯こそ 大陸文化を取捨選択して独自の文化を築いた日本人の美意識を証明しているのではないかと この茶碗を見るたびに思う。
 社員の頑張りで社業は拡大を続け五十八年十二月 社長の座を 長く信頼を寄せてきた大蔵省の後輩 磯辺律男君に譲って 私は会長となった。平成六年二月 会長を辞して代表。一四年六月 最高顧問。そして今日に至る。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 全文でした。
 いつも アマテラス族の悪口をばかり言っているわたしとしましては せめてもの罪滅ぼしとして さらにわが思いをきよらかにして悪口街道をまっしぐらに邁進するべく 引用しておきたいと思います。

投稿日時 - 2009-04-26 11:25:27

ANo.44

bragelonne様、おはようございます!

子供が宿題を出さないと担任から注意されているのと同様に、対話の宿題を頂いているのに貯め込むどころか勝手に自由課題を提出するわたくしの厚かましさをお許し下さいませ。
頂戴している宿題はヒナが孵り次第、オスメスをご報告致します。
恐らくは「レディ・メイド」な域を出ないものかとは思われますが。

今から外出致しますので超せっかちに書かせていただきます。
わたくしにはますますアンテルムライスムの理論と「フーコの≪ハサミ≫とにある共通点を見出すのです。
フーコの≪ハサミ≫はのっぺらぼう理論であれど、決してぶっきらぼうを「意図したものではない」と。
アンテルムライスムにおける《イリ知性ないしその自由意志》にもとづく意思の自由を尊重するのであれば、フーコの≪ハサミ≫も既存の価値観や不可視な権力からの自由開放を叫ぶというのも、どこか似ているように思えてくるのです。

フーコの思想にふれるにつけ、国歌のような伝統的とも言える「血なまぐさいレジスタンス」な反骨精神を強烈に感じるのです。
わたくしは解説本の類は一切読んでおりませんので、勘違いがあれば忌憚なくご教授くださいませ。

フランスに造詣が深いbragelonne様でいらっしゃいますから、かの国の奇異ともとれる労組ストライキに対する異常とも思える大衆の懐の深さの源は御承知かと思われます。
法の下の平等は制度上の「規範」としてあれど、現実的には諸々の権力を掌握している超エリート官僚と旧態依然な有閑特権階級に対し、その他多勢な人々は、お互いのルサンチマンを自助努力によってやむを得ず許容しあっているのです。

この手の感覚というのは私達日本人にはなかなか解りづらいのではないでしょうか。
また、一見しただけだと、フーコの思想の根源の「おどろおどろしさ」も理解しづらいのかもしれません。
単なる「のっぺらぼう理論」として、無機質に社会に思想を被せようとも映りかねないと思われます。

で、フーコの古い語彙「権利」「規範性」という言葉を使って「フーコ・ファッション」の最も狭義な「ア・ラ・モード」を考えてみます。
あまりに日常過ぎて哲学とはリンクしそうもない、まあ、どーでもいい分野のようにも思えるのですが。

フランス人は日常のファッションにおいて、ある「レジスタンス精神」を持つ傾向をかの地で感じたことがあります。
いわゆる「買ってきたばかりの新品」を極端に嫌悪し、自らの手で汚したり、わざと使い古すといったことにより≪わたしらしさ≫を自由に主張し尊重したがるのです。
これは「規格化された商品」に限らず、たとえばエルメスの「オーダー」の品でさえ、執拗にかつイヤミったらしく「で、あなたはどうしたいの?」と≪わたしらしさ≫を追及してきます。
オーダーとはいえ、決して「あなたまかせ」「お店まかせ」には出来ません。
この点につき、日本人とは真逆かもしれません。
もちろん、彼らとて「権威あるブランド」にはなんだかんだで目がありませんが。

そうそう、フランスの管弦楽団の演奏傾向として、得てしてアレンジ至上主義的な傾向がみられるのでは、とこちらのサイトで質疑を行ったことがありました。
何か「画一的」「規範的」な演奏に対し個性を主張することで反骨精神を演奏のうちに感じずにはいられないのですが、何か相通じるものがあるのでしょうか。

「ア・ラ・モード」の話に戻りますが、20年前のファッションと現代のリバイバルとでは、マイナーチェンジの他に決定的な差が見られます。
それは当時にはあり得なかった「何を着ても今はOK」という「おおらかさ」「自由」といった感覚です。
たとえば、女性の着るコートのすそからワンピがチラ見というのは、四半世紀前はツンツルテンでみっともないの代名詞でしたが、今では逆にinで若々しい、という新たな価値観が生じているのです。

ですが、この「inな若々しさ」でさえも、所詮は「流行の担い手、洋服の作り手、情報発信源であるメディア」側からの影響「力」からは私達は完全に逃れられることはできないと思うのです。
人はいかに自由である、いかように服を選び着まわす自由があるといえど、現実には奇抜な格好をするのは大変「人目を憚られるもの」であり、むしろ、TPOを勘案して、より≪わたし≫がその「規範」に「嬉々として」縛られてしまっている面もあるのです。

と、このようにフーコの≪ハサミ≫をもって「ア・ラ・モード」な事情を考察しますと、我が身の「懐事情」と相談して、「まあ、たかが流行だからあまり流されないように」とか、「いやいや、ミセスだからこそ流行を多少は追わなければチープに思えるし」などと「力に抗いがたい自分」を「囚われから解放し、自由を享受できる」、つまり、内なる損得勘定によってそこそこに処世できるのです。

ちなみに、『マネの絵画』の序では、フーコ亡き後のオリジナル録音を新たにおこすための周囲が奔走する「協奏曲」のさまが記されています。
フーコはあの世から呆れているかもしれません。
"Nous sommes fous? Ou ils sont fous?"

投稿日時 - 2009-04-25 12:11:45

補足

 mashumaro2 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。はっきり言って われらが日本人は あたかも精神が去勢されたかのように おとなしいですね。それにくらべ かの地では 活気がありましょうか。血の気が浮かび出るかに 息吹きが感じられましょうか。
 とは言ってみるものの わたしは 団体旅行で二週間ほどヨーロッパには行ったのみですから 生活感覚が 一向に 分かっていません。ちなみに 仏語科(外国語学部)ですが 経営学専攻(卒論も)ですし 別の大学の修士課程でそれを継続したのですから フランス事情は てんで 分かっていません。つまり 哲学についても 同じです。素人も いいところです。

 今回のご提案の主題につきましては したがって あくまで思弁的に考えたものとして わたしの見方を提出します。
 国家という二階建て構造の社会形態は 一般に 《アマテラス(公民・A)圏‐スサノヲ(市民社会・S)圏》の連関構造です。(断定で表わしてまいります)。あたまでっかちで 逆立ちしているのではないかと見ますが その逆立性がはなはだしければ はなはだしいほど 両圏のあいだには 断層があります。
 そのとき 個々の市民は 《スサノヲ(わたくし)‐アマテラス(おほやけ)》連関なる構造を 精神において 持つのではないか。
 (別様に 《S(身体)‐A(精神)》連関としても あるいは 《S(女性)‐A(男性)》の連関としても 分析し得ます)。
 要するに わが国では お上(アマテラス)の権威が強い。

 ところが 西欧では そもそも 個人から 出発する。そのとき ひとは あたかも《 A = S 》対等かつ連結の構造から成っているのではないか。したがって 社会形態のあり方は

 {アマテラス圏(個人は《A=S》)‐スサノヲ圏(個人は《A=S》)}

 のごとくの連関構造なのでしょうか。もしくは さらに 対等かつ連結が進んで {アマテラス圏=スサノヲ圏}といった平等観念の発達した社会(人間関係)が 現実なのだろうか。また それは そうは言っても まだまだ 理念の世界に限られると言うべきなのでしょうか? どうでしょうか?
 いづれにせよ 日本社会との対比は できますね。要するに 革命とは 此方では 《A圏‐S圏》連関体制は そのままにして 全体として観念的に 天命を革(あらた)めるのであるのに対し 彼方では アマテラス圏とスサノヲ圏とのしきりに続く互いの回転( revolution )であると見うるのではないか。

 したがって 彼方では ひとは たとえファッションにおいてにせよ みづからの《A‐S》連関が 対等にして連結しているかたちにおいて 何らかの姿を表わして実現したなら ひとまづ 満足である。そこに 人間性ないし自由の発現を感じ 自分は 生きていると思う。また その上で その対等の市民の中から アマテラス公民が出たのなら そして その結果 多少の格差が現われたとしても 容認する。のでしょうか?

 わが国は ぬえのごとくして 複雑です。見方によっては スサノヲ市民の誰でも 実力があれば アマアガリして行ける。自由である。しかも 構造としての《A‐S》連関――しかも 逆立していると感じられる――は びくともしない。格差は 一般に ほかよりも 小さい。しかも 《二階(A)》と《一階(S)》との格差は 永遠にして絶対的である。まなざしの注ぎ方は 実際には 上に行くほど おほやけには こうべを垂れて 下から来るかに見えます。腰が低くなります。しかも その社会的地位は 安泰となります。

 ただ やはり ひとつ 重要なことがあるのではないでしょうか。わが日本人は この二階の増築に際して 一階は やはり 《国ゆづり》したのです。かつ 神話上 アマテラスとスサノヲは 実の姉と弟です。ソシアリスムかどうかを別として フェビアン主義にして 漸進的に《イリ歴史知性》のあまねく社会に行きわたることを信条とし これを宣言して来ました。
 A圏とS圏との相互の回転( revolution )は いさぎよしとしなかった。信長も その前には 義満も アマテラシテの削除は これをいさぎよく思わなかった。明治維新は ただ のちの明治天皇アマテラシテを 実際にも 利用するだけのために かつぎ出したとも聞きます。いわば 将来においても 名誉革命を目指しているようです。
 フーコのハサミは ちょうど 漢字検定事件のごとく アマテラス圏の内部で 自分たちで 解決しなさいという遠まわしの合唱に変わります。草なぎくん事件のごとく 言わず語らずに 市民の生活と人格を守ろうとする声なき合唱となって現われます。

投稿日時 - 2009-04-25 13:47:36

お礼

 わたしたちは このようにして かれら以上に 日本人なのですし 彼方の国の人びとに勝るとも劣らず 人間なのです。
 ただし のっぺらぼうが好きな人たちも いますし あるいは もはや そばが伸びたような議論を展開する人たちも います。しかも 井戸端会議が 基礎ですし 基盤です。
 と考えます。いかがでしょう?

 なお 次のわたしの投稿を 時間があるときにでも 参照していただけば よいと思います。
 【Q:現代日本に必要な哲学は?】そのNo.1&8&9
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html

投稿日時 - 2009-04-25 13:52:12

ANo.43

 「ぶっきらぼう」にお答えしますと、
 お嫌なのを知りつつ、勝手に回答欄の文言をお借りしたことは、平に謝ります。ごめんなさい。けれど、そのおかげ(ではないか、と思うのですが)で現実に、他のカテゴリーで行われていた複数の質問は閉じられ、蒔かれた混乱の種は芽を出さずに終わったのを見届けることができました。つまり、僕のokwaveにやってきた目的は果たされました。

 文体からご覧になられる僕の分析は、仰るとおりでしょうね。邪まな目的を持っている点は、どう取り繕おうとも見過ごされるものではないと思います。それが、喉の詰まりや息苦しさに現れる。声をお聞きになる方にとっては、奇妙な茶番に映るでしょう。
 そう思いますから、ご親切は大切に胸の内に取っておきます。ただ、お書きになった点でひとつ違うのは、彼女たちは加害者ではなく被害者だということです。
 どうしたものかなと考えるうちに、ふと妙案を思いつきました。
 その方はIDにとても明確な個性の立っている方でしたし、何しろお強そうな方だったので、少しふところをお借りすることにしたのです。要するに、甘えたのです。幸い、僕も言葉を頂きました。そこで僕は、回答欄から言葉を選び出し、その言葉を育て上げて、少しの混乱から、よりたくさんの混乱を生み出しました。
 暗い混乱よりも、明るい筋道の通ったシンプルさを好むのが人間だと思いますから、僕の放った混乱に、おそらく生来の冷静さを取り戻してくれたのだろうと、今では勝手に思っています。

 少しだけ愛想について書きます。
 最後に謝罪されているのが、「勝手な言い草」に対してなのか、それとも「一瞥でしかない」ことに対してなのか、僕はそれを後者だと思うような性格です。「ふざけんな」そう言われる前に、最初に謝っておこうと思います。ごめんなさい。

投稿日時 - 2009-04-25 09:16:36

お礼

 passcard さん お早うっす。ご回答をありがとうございます。

 次の術語について 精確な説明を 必要に応じて めぐみたまえかし。
 ○ 予期依存 / アフォーダンス / プライミング / マルセル・デュシャンの便器 /
 ○  独我――これは わたしも 永井均の本を読んで わきまえているつもりですが 一般には知られていない事柄などありましたら おしえたまえかし。
 ヰ゛トゲンシュタインについては――その著作じたいは わたしは 途中で投げ出した口です―― 二つの論点があって 一つ目は 《わたしの唯一存在性》を論証した点 これは 賛同しています。
 もう一点は そこから伸ばしていく議論のことですが これは 分かりません。要らぬ議論であるように思います。いわば《わたし》は 発信ないし議論としての交通はおこなうが あとは 鎖国でよいのだという主張のように映ります。

 ○ 最上層構造 / 基底構造
 ☆ については――あなたに向かって言うのも なんですが―― 表現が 逆ではないかと思うのですが? 基礎ないし基底構造において ひとは・つまり のっぺらぼう人は 思考を麻痺させる。表層構造においては さかんに 論陣を張る。わたしから見れば 喰ってかかってくるかの感あり。
 へらず口が つづきましたが よしなに おはからいいただきますよう。

投稿日時 - 2009-04-25 09:45:02

ANo.42

言語表現における、ぶっきらぼうについて。
受け取る相手のなかで言葉がどう熟成するか これを見越さない(見通さない)ために、
というのが、わたしのぶっきらぼうの場合の本意ではないかと思います。
自分の目に眼帯をかける行為としてのぶっきらぼう、というものがあるかもしれません。
これは自分の視界を奪うことでもあるし、わたしの視線の先を相手に読めなくすることでもあります。
予期依存を回避するともいえるし、視線の先という空間に潜む時間の幅を稀薄にするともいえそうです。

アフォーダンスか、プライミングか、と概念化をもって図法となったツールに依ると、話がわかりやすいかもしれませんが
まあそんならそうした概念を了解していること自体で話が足りる。
その先は議論の質が問題になるので、話す相手と場を選ぶという性質が、いやらしくも浮上して、ぶっきらぼうを扱う話でもなくなります。
せっかくのぶっきらぼうという切り口がアフォーダンスやらプライミングやらの話になります。
たぶんこれがbragelonneさん独特にいうところの最上層構造で、起こる麻痺。

枝ぶりの立派な木の下に人をひきずっていって縄を手渡すというおだやかでない話の、縄のようなものが言葉であると考えてみますか。。。

ぶっきらぼうに渡すわたしは、その人にたいする自分の感情に目をひらかず、
数分先の未来を、わたしとその人のあいだに、具体像として介入させないのかもしれません。
その人が何のつもりでいるか、縄をどうするかということも、わたしには予断がないことで、
ぶっきらぼうに渡されるその人のほうは、わたしの心のあるなしも内容も知ることがないでしょう。

その延長でマルセル・デュシャンの便器のようなものをぶっきらぼうと呼んでみてもよいかと思うわけですが
こういうのはどちらかというと、受け取る側が瞠目することや、
指示が解釈の網に取られて自動的な熟成をはじめることのほうに、関心が行きがちかと思います。

便器のアフォーダンス自体を展示するというような仕方で、繊細な問題を扱っているともいえそうですから
ぶっきらぼうとは、最上層構造の問題としては繊細であり、基底構造の問題としては無骨なのであろうと思います。

愛想というのはかける相手の反応を予期して見越す心境で、予断で対象にゆるく縄をかけるようなものと思います。
人の心に入る言葉を弄すれば、縄はきつくかかります。
暴力の才能を持った人種には、しばしばたいへんな愛想の持ち主がおります。

受け取った言葉の熟成がすすみすぎる傾向の人を相手にするとなれば、
言葉は、言ったことでも2倍3倍になり、言っていないことでも言ったようなことになります。
この場合、縄をかけてあげたほうが、相手が楽になります。
こういう傾向にあっては、相手は言葉よりも発語する人物を見ているため、
意味を知りたいのではなく心を知りたいということになります。
木の下に戻れば、縄は縄であるということを知りたいのではなく、
「『わたし』にとっての『あなたにとっての縄』」を知りたい、と。
(相手は自分にとって縄が何であり、どのようにあり、何故あるか、
ということをわたしが指摘できることを望む。占いのトリックである。)
こういうことを伝えることを、愛想 とわたしは考えるわけです。

蛇足ながら、
地雷は起爆があったようですね。
わたしの質問の片隅にある文言から別の質問を着想なさった見知らぬ方に、ここから袖を振って慣れない愛想を実践します。
混乱の中に生きている方がわたしのIDに目を付けて妄想激しく絡んできていたため
( この「混乱」において「加害者(たち)」は時間を超え空間を超えて繋がる。全同一人物化か一味化が常套。
早とちりや勘違いは、繰り返される自己正当化の過程で是正されながら、別の理由に接がれる。
その場しのぎの論理が溢出する。
少なくとも双極性感情障害の症状はみとめられるとわたしは思う、わたしの親切心から言うのですが)
新規参加の方が文体の中に同じ地盤を曳きずっており、文の上でよく似た声であるのをみとめて、
地雷を踏まぬよう避けた次第です。
多少あきらかにされた事情から察するに、声か似ているのは向こうが似たのでしょうかね。
あるいは新規参加者の心に心象映像群のように向こうの声がこだましていたのかもしれません。
声についてはわたしが聞きたいくらいでメカニスムはわかりません。
奇妙な声音はこのへんがあってのこと。謝罪します。奇妙な論理・悪声・取り扱いの難しさは別の話です。
まあ難聴性と弱視性が勝り、自分でも持て余すというような猪突猛進の走りかたをされるわけです。文がです。
ところが、とてもぶっきらぼうな性分であるのに、愛想を忘れない心がけが多角的検討を持ち込むのか、
独我が合わせ鏡の世界のように分裂している。ああでもないこうでもない、つきあうのに骨が折れそうだ、と、そういう話です。
しかし一瞥でしかないのですから (長い投稿を読む時間はあまりないのです) 勝手な言い草でしょう。これも謝罪します。
では。 (あまり愛想がありませんでした。やはりわたしはぶっきらぼうなのです)

投稿日時 - 2009-04-25 02:57:17

補足

 amaguappa さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 わたしなりに要約しつつ復唱してまいります。
 1.一般に 批判が根源的(=人間にとって 不可欠・不可避)であるのに その批判を発信する者が ぶっきらぼうであるという場合を取り上げておられます。(以下 敬語をはぶく無礼をおゆるしください)。つまり そういう場合に
 2.★ 受け取る相手のなかで言葉がどう熟成するか これを見越さない(見通さない)
 ☆ のが 《ぶっきらぼう》の定義である。
 3.この場合 時には
 ★ 自分の目に眼帯をかける行為としてのぶっきらぼう、というものがあるかもしれません。
 ☆ が それは けっきょく《批判としての言葉の行方としての熟成》に やはり自分から 無頓着になることである。

 4.いづれにせよ 《批判内容》には すでに 一般的な妥当性があり 相手にとっても 《意味》がある。《とるべき行為の可能性》を持った意味がある。(アフォーダンス)。しかも その可能性つまり行為の選択肢をえらぶことへと 誘導すると言うべき要素さえある。(プライミング)。
 5.ただし このアフォーダンスないしプライミングの効果は 相手によっては 相手が自分の神経を麻痺させて回避しようとする場合がある。
 6.マヒを起こすにせよそうでないにせよ 相手は その批判を受けて 自分は 枝振りのいい木の下につれて行かれ しかも 縄を渡されたようなものだと受け取る。

 7.しかも ぶっきらぼうは いっさい 《人情のかけらもなく》 ぶっきらぼうである。
 8.同じくしかも ここで 《愛想がある》というのは あたかも《縄をゆるくかける》ようなものである。つまり愛想があったとしても 批判の効果に関しては 同じことを認識している。
 9.ぶっきらぼうは 人間性の問題にかんして《繊細》であり 人情の問題にかんして《無骨》である。
 10.ただし 人情に厚い場合というのは けっきょくその場合も 真綿で首を絞めるというように 《装飾品》売り場につれて行って 好きなものを買い与えつつ 同じ批判を突きつけることである。
 11.いま取り上げている批判の発信という場合には ひとによっては すでに その言葉の問題ではなく つまり言葉を超えた問題として 人格が問われているのだと 〔すでに〕受け取る場合がある。こうなると 一定の問題をめぐっての質疑応答は 人格どうしの格闘の様相を帯びる。
 12.★ この場合、縄をかけてあげたほうが、相手が楽になります。――☆ わたし( bragelonne )は まだ 決めかねている。たぶん わたしは そうはしない。放っておく。
 
 ★ 蛇足
 ☆ 一点 異見を持っています。器質の問題でない場合には いっさい 病気は ない。あり得ない。とわたしは 勝手に 考えています。
 病気というのは 治療者と患者(被治療者)との関係が 社会的に(人びとの主観が共同化されるかたちで その観念として)固定する場合を言います。
 言いかえると 病いや症状というのは――つまりたとえば アマアガリ症候群とかアマテラス予備軍シンドロームといったような場合―― 多少とも すべての人は その情況および個人的な状態の一端を共有しています。その意味で 連帯責任です。また 悪は存在しないです。
 善の欠如とその元の善(自然本性)を わたしたちは 誰もが 共有しており この基礎において 連帯することができます。
 この自由な人間の自由な連帯は ぶっきらぼうでも 実践し得ます。むしろ 愛想は要らないとさえ考えます。

 そうして 本論のほうで 《縄》の意味するところは たしかに《わたしの〈古きひと〉の滅び》ですが むろん同時に 《〈新しきひと〉を着ること》です。だって――というよりも―― すでに あの木の上で わたしたちは 同じように この世の肉(精神および身体)を 欲情や欲望もろとも はりつけにしてしまったからです。
 三日後に復活したそうです。物語のゆたかさと やさしさ。うそのような現実性。

 よっ 千両役者! どこで そんなせりふを覚えてきたんだい? 

投稿日時 - 2009-04-25 09:21:31

ANo.41

こんにちは

>たぶん あなたは 自分の言説について おそらく 大局から眺めて その位置づけも それに対する或る種の反応や反響も すでに発信の時点で 予見しているのではないか

 僕はひとり踊りの愚かな男ですから、さっぱりわかりません。

>欧米か!! あ ちがった。シャーマンか!!

 幾らかの記述を補足するとすれば、フランスという国は本当にふところが深く、分厚い文化を持つ国だと思う、まさにそのことが、フーコをテーマにするとよく見えてくるということでしょうか。
 フーコを巡る各国の研究者たちの論説を聞いていますと、ある特徴に驚かされます。
 と言いますのは、主に英語圏の論者は、黒人貧困の「系譜」であったり、自動車産業における職場「階級」であったりと、(彼らの知っている)特定地域の問題を論じるときに、フーコの概念を利用するという姿勢を見せます。
 それに対し、欧州の研究者たちは、アセチュール論ですとか、古典読解、新しい領域ではマネを論じた「絵画についての考古学」のように、何らかのテーマを切り口にしてフーコを「読む」という姿勢を目指しているように感じるのですね。(恐らく同じような「感じ」をお持ちの方がおられ、その「感じ」を想像しつつ、僕は書いています)
 どうしてこんな違いが、姿勢に現れるのでしょうか。
 僕の感じるフランスは、例えばディディエ・エリボンのように、「私たちはどのようにフーコを利用し得るか」ということへの問い語りを常に忘れない姿勢にあるんです。
 これって、ふところの深さが違うじゃないですか。
 だから、欧州の研究者たちがフーコを語るときに好んで用いるのは、後期の書簡やインタビューの言説です。作品についてはあまり触れない。でも、米国や中国の研究者たちは、盛んに作品の言説を抜き取りたがります。日本も、どちらかというと米国に倣っているのかな、と思ったりしますが、そういう意味では国家論や政治を語るよりも、音楽や美術を専攻されている方のほうが、フーコに造詣が深いような気がするんです。

 本音を言いますと、フーコの国家とか権利とか規範性なんて言葉は、もう前世紀にとうに片付いていて、僕にとってはどうだって良いのです。それよりも、新しい分野(論文の多さからしたら、ネオコンとかネオリベラル、あるいは市場経済、社会保障、それと絵画ですか)を語る時期に来ていると思うんですね。
 こういう世間の流れにいちばん遅れているのは、たぶん大学教育でしょう。何時までたってもフーコの規範性から脱出できない。学生たちは相変わらず、江戸時代に戻ったかのようなテーマ取りでフーコを語るし、先生は先生で、爪楊枝でその文章を突付きまくる。
 フランスでは、さんざんフーコに批判された右派の連中だって、しっかりそれを受容して、ネオコンとして転向しているのにです。例えばMEDEFを取り仕切るエヴァルドのような人物が、ネオリベラルなどと称して、学校の外にはいるのです。商取引をするなかで、彼らはフーコの概念を企業による効率的な統治の道具として用います。
 僕にとってはどうでしょうか。会社を持ち、金を融通する仕事をしている者にとって、どうも、彼らの言説は、なんだかずいぶん聞き慣れたはずのものぢゃないか? 
 という現実に、度々遭遇するんです。以上は【Q2】への補足です。
 消さないでください。

投稿日時 - 2009-04-24 11:53:36

補足

 passcard さん ご回答をありがとうございます。

 このたび フーコを問題にして来て 中山元の解説を読みました。かれは 最後を次のように締めくくっています。
 ▲ (中山元:フーコー入門 1996) ~~~~~~~~~~~
 《最後のフーコ》は パレーシアと真理のゲームという概念が社会と人々の関係を作り替えていく可能性を秘めたツールになると考えていた。このいづれも プラトン以来の真理の理論や魂の形而上学の理論とは異なる古代の道徳性の可能性を生かしたものであった。
 フーコにとってパレーシアとは 真理を語ることをみづからの生活のスタイルとする実存の美学の行為そのものを意味していた――形而上学的な真理を語るのではなく 真理のゲームの中で 《別の真理》を語ること。そのことによって普遍的なものと信じられている真理の自明性を揺るがし 真理の歴史性を暴露すること。
 フーコはこれが 人々が社会における支配の関係を少しでも望ましい方向に変えていく可能性を確保する道だと信じていた。フーコにとって哲学とは 政治的 経済的 性的 制度的な支配など さまざまな次元でさまざまな形で現われる《あらゆる支配の現象》を問題とすることだったのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん こういった《まじめな》見解と 今回あなたが紹介したいわば《フーコ・ファッション》との異同を 明らかにしていくことで 文体とその影響(つまり【Q‐2】あるいは 人どうしの文体をつうじての相互影響)を追究していけるのではないでしょうか。
 とは言うものの 《絶対としての真理》と《相対性のもとにある経験真実》との区別は 分かりきっていることで 上の《まじめな解説》も古いと言うべきでしょう。《道徳性》は 争点としては どうでもよいでしょう。しかもここで 《パレーシア》という概念は 論点になるのでは?

 ◆ 〔ヰキぺ:パレーシア(Parrhesia)〕~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2
 フーコーは古代ギリシアのパレーシアの概念を次のように要約している(1983年)。
  「より正確に、パレーシアは話者が自己の真理への個人的な関係を表現し、自らの生命を危険にさらす言葉の活動である。
 なぜなら彼は(自分自身同様に)他人を改善させる、あるいは助けるための義務として真理を語ることを承知しているからである。
 * ( bragelonne 註:これは 真相究明とその公表の問題のようです。→北野舌禍事件)。
 パレーシアの中で、話者は大胆に話し、説得の代わりに率直さを、嘘や沈黙の代わりに真理を、身の安全の代わりに死のリスクを、おべっかの代わりに批評を、利己心と道徳的な無関心の代わりに道徳的な義務を選ぶ」。
 * ( br.註:ここで《真理》は 《こころの真実あるいは真相》の意。《道徳》は われわれの議論では 及びでない。《死のリスク》は あくまで主観の問題)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《註》をほどこすと 《テクストを消す》と言われかねないところですが われわれの問い求めを 急ぎましょう。要するに
 ○ 《パレーシア》とわれらが《ぶっきらぼう》とは どう違って どう同じか。
 ☆ と迫る問い求めの態度を示すことによって あなたの《フーコ・ファッション》との異同を明らかにしていけるのではないか。ほら 《消さなかった》でしょう?
 ★ 「私たちはどのようにフーコを利用し得るか」ということへの問い語りを常に忘れない姿勢
 ☆ は このような出で立ちにおいてなら 誰にとっても おもしろいのでは?
 ファッションが 哲学としての探究にあたいする中味を持つものか 例示して 論じるなりしないと まだ 山のものとも海のものとも 分かりかねるのではないでしょうか。
 今回のご回答は 総論だと思われるという意味です。

投稿日時 - 2009-04-24 13:44:17

ANo.40

 こんにちは。

>この例外となるかに思われる事態に出会ったのです。(具体的には 四人の数にのぼります)。この失敗ないし敗北のありさまを しっかりと 分析しておかねばならない。

 どうでしょう。失敗だったのかな。
 失敗だとすれば、確かに分析が必要ですね。考えてみます。

> ☆ 何だかんだと言っても いちいち 実践に 実践主義などと 主義の語をつけるところが どうも 気に食わぬ。意味があるのですか?
 井戸端会議が 生活であり 実践です。その上に 経済・政治ないし文化活動は すべて 乗っているでしょう。

 主義が付くと「持続」になります。実践はその場の行い。実践主義は行い続けること。違うでしょうか。

>それとも 自分の視線まで 上がって来いと呼びかけています?

 いや。阿呆がひとり踊りをしているだけなら、記述はきっと消えないに違いないと思っただけです。フーコについて、他意はないです。訳文解釈に『Le souci de soi(自己への配慮)』のテクストを用いましたが、言説がどこで見つかるか探してみるのも一興です。
 それと、意味と意義、繋がりと引き剥がしについて、思うことを書きました。それ以外は、中味のない文章ですよ。

投稿日時 - 2009-04-24 09:33:42

お礼

 passcard さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 主義が付くと「持続」になります。実践はその場の行い。実践主義は行い続けること。違うでしょうか。
 ☆ まぁ そうでしょうが でも 井戸端会議は その時その場だけの問題ではないですよ。いやでも 地球の寿命と同じほど 続きますよ。
 どうしても 《主義》と言いたければ 《〈生きる〉主義》だと 初めに 言っておけば すべての行為を ひとは 《持続》において 捉えてくれるでしょう。
 《文体》は 生きているかぎりの動態です。おそらく 文体過程として二十四時間体制をとるとき 休息が意味を持つだろうし じゅうぶんに休息をとりつつ 持続が持続するでしょう。フィチーノさんも そのように召されて 生きたのでは?

 ★ ひとり踊り
 ☆ について《ひとり踊り》をしているうたがいが 生じています。
 たぶん あなたは 自分の言説について おそらく 大局から眺めて その位置づけも それに対する或る種の反応や反響も すでに発信の時点で 予見しているのではないか。
 相手のある場合には つまり 相手が特定している場合には その応答を 一応 相手から 確認しつつ さらに新たな局面や段階へ 歩をすすめる。ことを怠ってはならないでしょう。
 ですから
 ★ フーコについて、他意はないです。
 ★★ 彼は何らかの線を越えたのだなと思います。
 ☆ これら二つの言説について オブスクランティスモに陥らないように 訪問者すべてのみなさんにも 明らかにしたほうが よいでしょう。

 ★ 訳文解釈に『Le souci de soi(自己への配慮)』のテクストを用いました
 ☆ 留意します。

 ★☆ 対話の失敗・敗北
 ☆ ま 正直なところは 《ゆづった》とは 内心 思っています。でも さらにこの障壁を超えることができるのならば なおよいと思われます。女性は 朝飯前なんでしょうかねぇ? 接し方も あしらいも いなしも 諭しも。
 あっ そうか。しびれうなぎになれば よいのかなぁ。欧米か!! あ ちがった。シャーマンか!!

投稿日時 - 2009-04-24 11:08:05

ANo.39

bragelonne様、おはようございます。
補足を拝見致しました。ありがとうございます。

取り急ぎ、以下の件について。

【道徳規範は愚の骨頂】

>艦橋で相浦さんは土田さんに――これを持っておれ。俺は泳げるから。と言って自分用の救命胴衣を差し出した。
>土田さんは――私も泳げます と固辞し 救命胴衣を壁に立てかけて 艦橋を出る。
>沈没の少し前 相浦さんは泳げない水兵に救命胴衣を渡し その命を救っていた。
>☆ 戦争は それじたい くだらないのですけれど。
>《空》だ《さとり》だというよりも 譲歩の哲学・国ゆづりの精神として イリ歴史知性を 基礎としたいと思っています。
 
わたくしはかねてより「内なる損得勘定」に照らし合わせてふるまうのを好む性質があります。
損得勘定、と言葉に出すと得てして、冷たい、計算高い、ずる賢いというネガティヴなニュアンスを一般的に帯びるように思われます。
確かに邪な考えの下に行動することはと~~っても多いです(笑)

でもね、「ここぞ」のときに何というか、ある種の信条をもってして、「内なる損得勘定」を勘案してふるまう潔さって、あるのだなあと思ったりもするのです。
ある種の心情を「イリ歴史知性」と捉えてもよろしいの?
それって今ごくフツーに「道徳」「規範」として広汎に存在しているところのものとはちょっと違う気がするのですが。

【アンテルムライスム】
補足を拝読致しまして、先に申し上げた「効率性うんぬん」はちょっとピントがずれていたように思えてきました。
帰宅したらじっくり再読したいと思っております。

それからね、大真面目なのですが、アルキビアデスの回答をわたくしはと~~ても楽しみしているのです。
何というか、もうね、尊敬しております。
ある意味ソクラテス以上かもしれません?

Alors, bonne journee!

投稿日時 - 2009-04-24 09:13:47

お礼

 mashumaro2 さん お早うございます。いまは ラリーというのでもないように感じますが あるいは 言ってみれば 将来の延長線上の課題を いま 先取りして すでに 取り扱おうとしているようにも思えますが 長く つづいていますね。ご回答をありがとうございます。

 ★ 「内なる損得勘定」 / ある種の信条 / ある種の心情を「イリ歴史知性」と捉えてもよろしいの?
 ☆ 各自の自由意志と良心が 大前提です。ということは わたしの場合は どうかをつづれば よいのだと思います。
 1. わたしの場合は 単純に そもそもが 《絶対他力》です。備わった能力と努力を それの尽きるまで 発揮しようとしますが そのように走ることにより 目指すところに到達できるかは 人間の与り知るところとは思っていないという意味です。
 2. 言いかえると 《内面における信条や くわだて あるいは はからい》が 《目標としてのこの世の経験的なことがら》を成就しうるかは 何とも分からないという意味です。
 ☆ あとは こうです。
 3. 《イリ歴史知性》は 誰もに共通の普遍的な 自然本性といった内容です。先ほどの良心といった要素もあるでしょうし 基本的に 記憶や知解の能力とともに とりわけ 意志とその自由が その内容です。
 4. したがって 《「内なる損得勘定」 / ある種の信条 / ある種の心情》は 《イリ知性ないしその自由意志》にもとづいて それぞれが みづからの考えに沿って 具体的に形成した思想であり生活態度であり 究極の信条であるのだと思います。絶対的に自由でしょうね。またそれゆえに 互いに 批判しあうのも 自由です。

 ★ 【アンテルムライスム】
 ★ アルキビアデス
 ☆ これらは ご議論のすすむにつれて ということですね。
 ソクラテスうんぬんは そのとき 突然出て来たものです。まだ 何が定かなものなのか 分からない部分もあります。
 では。

投稿日時 - 2009-04-24 10:37:48

ANo.38

オコリザルです
A28のことで、普通に心をこめた上で、簡潔かつ明瞭の精神を発揮したとして、それでも酔っ払いが分別を失って絡んでくるように、ぶっきらぼうだとか、なんのかんのと言ってくるならば、はじめの回答に戻って「貴方の馬鹿さ加減が見抜けなかった私のほうが悪いのは当然である。」これしか思いつきません。
その心情の具体的行動は酔っ払いがただ酒の肴にしたいだけですから、むしろいたわりをこめて「はいはい」と言っていれば良いということになります。

簡潔で明瞭な話し方とは、聡明で、思考に混乱のない話し方です。
観念になぞらえて、たとえば私が言及した非業の死なんかについて正反対の解釈をしているならば、そのあたりが酔っ払いのお馬鹿さんぶりです。
そうするとわたしの経験にも(アマテラスのごとく)完全に聡明で思考に混乱のない状態であったとはいえないでしょう。それでも自己については了解していて、考えも整理してあるゆえ、簡潔で明瞭を心がけることは出来ます。
ソレをもってぶっきらぼうと受け取るのであれば、話にそもそもついていけない問題外か、簡潔かつ明瞭の精神を経験したことのない煩悩大き方です。
そうした程度の低いと受け取られる方々を多少は弁護しますと、私も繰り返し地獄におちる体験と言うのをつんでいますが、世間から悪人とされる、地獄の居心地のよさに染まった方々は、救われたいという煩悩よりも(自分より以上の悪鬼を)救いたいという煩悩のほうが強いんです。この「救いたい」の気持ちの強さが悪党の良心です。自らを救う自助努力は希薄ですがね。
この救いたいという悪の煩悩にも今後取り組む必要がありますね。
要するに鬼の正義です。


>正義は 旧い言葉ではないか。経験合理性にもとづく思考過程とその内容の妥当性 このことを ひとに対して 特別に訴えようとして 用いる主観語なのではないか。
 そして もしこのようであるなら たしかに その表現の古さについて 思考を及ぼし いわば整理しておこうという意図としては 考えられるというように捉えました。

正義を攻撃する意図はなかったです。
まったく持って悪と戦う善の正義が不明です。
「戦う正義」この言い方も曲者で不明です。
影がなくなれば戦う相手もいないでしょう。


>死については これも 同じように それを考えるということは 或る種の仕方で やはり 古い。なぜなら 基本は 生を問題にするのみである。したがって そのやはり 死をどう扱うかという問題の立て方の古さを きちんと 考えまとめておいて あらたな出発をするという意図としては 捉えました。ただ 死を二分し 考慮すべきものほうについては やはり残しておこうとおっしゃっている。さらに突き抜けてしまってもよいと思いました。

現状の死は、その哲学は、私の主張では屍の克服です。
ご回答は少なかったですが、話はいい方向に持っていけてそれなりに思索は進みました。
マジ切れ回答との戦闘経験値を増やしたいとも考えました。
無謀にも今度は「あなだはゾンビですか?」で、2発目をやってみても良いかもしれません。

それから私の場合「伝心」を意識できるのが諸刃の剣です。
質問を締め切らないでおくと、だれかの回答したいという感情に反応してしまいまして雑念の種になります。
思索を掘り下げたい感情と、思索を先に進めたい感情の均衡を図ると、質問を立てていい気持ちでいられるのは3日位、義理が出来て我慢するにしても5日位です。

投稿日時 - 2009-04-23 23:03:27

お礼

 primeape さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ううーん。なんだか なやましいと言うのでしょうか。そこまでは 実際には なつき難いけれども あぁ そんな悩みを持っておられるのかというような感覚ですね。

 でも あたまを真っ白にできるとおっしゃっている。白紙の状態ではないのでしょうか?
 というよりも わたしの場合は もっともっと 単純でして とにかく世に言う能天気なのです。それが 自己表現には ぶっきらぼうとして 現われるのだと思います。必要だと思ったことは ぜんぶ 考えるし 表わそうとします。
 でも それ以外は もう 考えませんし 表現が終わったら 特には 気にかけません。ぎゃくに そうであれば 表現し尽くすとも言い得るかに思われます。それで そのあとは 白紙状態です。つまり 白紙状態に わざわざ なるのではなく そうではなく もともと 白紙状態であって 表現が終われば 元の状態に戻るというだけなのだと思うのです。

 primeape さんは 何か 使命のようなものを つねに 気にかけていて 意識さえしておられるのかも知れません。分かりませんが 何か つねに なすべき仕事といったものを持っている。この《持っている》という気持ちが つよいのかも分かりません。
 だって 正義にしても 死にしても わたしの場合 ほんとうに 考えないですよ。思索として議論として主題を捉えたときに 初めて 意識にのぼるのですから。

 イデア といったことを 出しておられましたか? 観念ですね。それが 強い人間であるというお方なのかも分かりません。
 ただ 色がどうだとかも 言っておられますね。これは どうでしょう。わたしには 何とも 分からないのです。
 けっこう長く対話はつづいていますが まだ 何かどこか わたしには分からない探究のような悩み 悩みのような探究を持っておられるのかも分かりませんね。どうでしょう。

投稿日時 - 2009-04-24 00:25:13

ANo.37

こんばんは。
bragelonne様の関わっていらっしゃる質疑は興味深く、是非とも読み解き、自分の身にして行きたいと思うのですが、悔しい事に私の理解がついて行きません。涙
んーーー。。。自分のアンバランスさと混沌と澱みをしっかりと感じ取れてしまう「あまり健康でない」状況から来ているのでしょうか。。。
この理解の鈍さが是非是非「一時的な症状」であって欲しいと願っています。
だって、こんな自分が一生続くなんて。。。ちょっと嫌です。。。

さて「論たけなわの場へどう割り込むか?」と言う器用さは持ち合わせておりません。
只、頂いたお礼へ、ちょっと手を加えさせて頂こうかと。。。

>☆ 愛想とは「他者の領域に侵入する為の手段」。
>★ これは ちょっと かわいそう。欲のない愛想 あるいは 愛嬌もあるように思うのですが どうでしょう?

>★ うらやましいです。小学四年生になったあたりから 引っ込み思案ではなかったし ならなかったのですが(つまり 活発でいつづけましたが) 何かというと 顔が赤くなってしまうのです。かなりこの赤面症には 悩みました。人の前に立つのは 苦手だったですね。

上記2点について、です。

まず1点目、愛想とは「他者の領域に侵入する為の手段」。
かなり質疑が進んでおられるご様子から、もうすっかり疑問は解けてしまっているかも知れませんね。。。でも取り敢えず。。。

「侵入」と書いたから「欲」と言う表現を出して来られたのだと思います。
私が言いたかったのは「侵入」もそうですが、「相手自ら、戸を開けたい気持ちにさせる」と言う考えも有ったのです。

「相手の領域に滑り込み易い」或は「相手に心の戸を開放してもらい易い」のは「愛想」を手段とした場合だと思うのです。

それかか2点目です。
こちらは本題とは直接には関係ありませんが。。。。^^

赤面症については同様です。今でもちょっと「あれ?」と思った途端に顔が上気します。止める事は出来ません。
でも今はかなりましになったように思います。
小学校半ばからその「癖?」に気付きました。
自覚した事で更に頻繁にそれこそ「一瞬で耳朶迄真っ赤に」なる事が増えました。涙

でもそれと併行するように「人前で何かする」と言う事に執着するようにもなって行きました。
これはつまり「人目に晒すに値する自分」「注目されるに値する能力」を自分に求めたからに他なりません。

顕示欲とも言えるかも知れませんが、とにかく「人の為になる/役に立つ自分」になりたくて仕方が無かったのです。

勿論赤面症は傍から見て面白いらしく、かなりからかわれもしました。
だからと言って引っ込んでいるのは嫌だ!と言う、何とも意地っ張りです。
火が点いたように熱い自分の顔を私は無視しました。
無視して壇上で作文等読み進めてしまえば、そのうち熱さが引いて行く事を知りました。
無視するにも、今思えば面白い程必死でしたが。。。笑

もう少し、自分に甘えても良かったかもしれない、と今は思います。。。

以上です。^^

投稿日時 - 2009-04-23 22:59:42

補足

 yukkinn66 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私が言いたかったのは「侵入」もそうですが、「相手自ら、戸を開けたい気持ちにさせる」と言う考えも有ったのです。

 「相手の領域に滑り込み易い」或は「相手に心の戸を開放してもらい易い」のは「愛想」を手段とした場合だと思うのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 納得しました。《侵入》は 《侵す》ですからね。《進入》なら 後半の意味あいになりますね。

 ★ 赤面症については同様です。
 ☆ そうでしたか。
 ★ もう少し、自分に甘えても良かったかもしれない、と今は思います。。。
 ☆ なるほど。わたしの場合は 甘えるというふうにも思わなかったですね。とにもかくにも 人前に出れば というよりも 出るということが分かれば もう そわそわでした。
 学芸会では 劇の主役をやっていたのが もう ハーモニカ合奏だったかの一員に追いやられました。人前でなければ スポーツから何から だいじょうぶだったのですが。

 そうですね。三十歳ころでしたか どうも 関係性という要因があるのではないかとも ひらめきました。相手の問題 相手との関係の問題です。ちょっと 高ぶりの心になってしまうので 大きい声では言えないのですが 相手も こちらを まぶしいと思っているのかも知れないわけです。その感情が あたかも敏感に伝わってくることで こちらの赤血球だか何だかが 騒ぎ出すのではないか。こうも考えましたね。振り返ってみれば。

 しかも この赤面の問題を通り越して こうも考えました。どうも 人びとは ちょうど今 議論になっているように まなざしを注ぐ・注がれるといういづれか一方の側にいるのではないかという事態。しかもこのまなざし関係が 互いに錯綜し 階層を成して網の目のごとくに 張られている情況。こういうところまで 分析が進みました。
 何が言いたいかと言いますと この関係を わたしは アマテラス‐スサノヲの連関構造と言っていたのですが――二人は 実の姉と弟であるにもかかわらず―― まなざしの上下関係を形づくっており しかも あたかも一般に上から下へ 意識の排出をおこなっている。こう捉えました。 

 従わせるために あるいは 怒りを表わすかたちで あるいは 自分のやる方のない不満をぶつけるために そういう感情を 意識の《排泄》として 勝手に おこなっているのではないか。言いかえると 《アース(接地)》です。上司が部下に 意識を アースしている。
 かくて 感染列島 ではないのか?
 
 人びとは このアースを しない人間に対しては まぶしいし うらやましいようなのです。そのはづかしさを さらにまた アースして こちらに ぶつけてくるのではないでしょうか。これを受け取って われわれは その感情を 疑似的に 体験して 顔を赤らめる。こういうことが 幸か不幸か うそかまことか 起こるようです。

 関係性の問題ではないでしょうか? 
 アースをしないからと言って うそをつかない人間でもありませんし 悪いことを胸に考えたことのない人間でもありません。やはり 完全な善ではないのです。悪の一端をになうことになるようです。どうですか?

投稿日時 - 2009-04-23 23:59:43

ANo.36

>「─我々の趣旨は社会学者や改良主義者としての仕事を行うことではない。理想的な監獄を提案することが問題なのではありません。」

なるほど~。非常に面白いテクストをどうもありがとうございます。

何が「狂気」で何が「普通」なんですかねえ。
わたくしね、「倫理」「道徳」の意味するところに若干「ふんだ。」というひねくれた性質があるので、
フーコの肩を持つとは申しませんが、彼が対峙していた「闇の部分」に対して「警戒」ではなく「興味」を抱きました。

こちらのサイトで紹介していただいた『毛沢東の私生活(上下)』も読みました。
まあ・・・なんだかね、でございます。

ところで、No.30の回答者様からテキトーに見繕っていただいた、妥当と思われる訳文、恐ろしく酷いですわね。
>訳者が市場経済に留め置かれたのは、むしろ良心的とも言えるでしょう。
>道具の恐ろしさは、それが用いられたとき、「フーコがそう言っている」と語られる点にある気がします。

まさにおっしゃる通り!
gooも教養深く語学に長けた哲人からボンクラ脳なし主婦まで多々書き込みしていますので、玉石混合を承知の自助努力が求められると確信しております♪

投稿日時 - 2009-04-23 20:58:33

お礼

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。
 pさんへの感謝のことばを打とうとしたとき ご回答をが 誤解等をとなって出て来たので 大笑い。

 さて フーコ:《私は耐え難いものを感じる》につきましては わたしは あまり 言うべきことばを持ちません。

 ★ わたくしね、「倫理」「道徳」の意味するところに若干「ふんだ。」というひねくれた性質があるので、
 ☆ radicale でもなくていらっしゃるということでしょうか? わたしなどは 【Q:道徳規範は 愚の骨頂】という質問まで しています。

 ★ 毛沢東
 ☆ もあまり知らないですしねぇ。

 ★ 何が「狂気」で何が「普通」なんですかねえ。
 ☆ これは 何かを言えるわけではなく そうではなく しかも 大きな主題であると心得ております。みなさんについて 勉強してまいります。

 しりきれとんぼにて。

投稿日時 - 2009-04-23 23:25:22

ANo.35

>おれのことかぁ?

 何がどう結び付くと、そういうふうになるんでしょうか。まったく

投稿日時 - 2009-04-23 20:25:50

お礼

 あれっ 違ったの?

 ヨリ・イリ・ヨセ // コギトだの アマテラス予備軍だのと言っているのは 学問畑からみれば 哲学の外だということになるのだと思ったのさ。

 スサノヲ圏・市民社会に対する公民アマテラス圏において 国家の元首・国王・象徴は アマテラシテ amaterasite, amaterasity, Amaterasitaet ( feminin かな?)と言いますよ。命名も おもしろいでしょう?

 ちがったのなら しかたねーべ。

投稿日時 - 2009-04-23 22:15:46

ANo.34

>☆ 要は これらの重要な術語が 多義的であると言うことですね? 解釈の幅をゆるしているということですね?

 そうです。ですが、その幅の問題も然ることながら、術語に幅を生み出すフーコの言説が、そもそもどういったものだったのか(それは哲学なのか、歴史なのか、はたまた、人間としての生き方なのかという、フーコ自身の受け止め方)という点もあります。
 世間が評価するフーコ像と、ご本人はどうだったのかって、案外違うじゃないですか。
 そして、フーコのシンパというのは、ずっと後になってあまり穏やかではない記録を作っていたりもします。こういうのを見通して、「無主体は~云々」と仰っていたのかなと思っていましたが、どうでしょうか。
 僕は、「本の世界」に留まるフーコは尊敬しますが、そうではない場合は、少し警戒するようにしているんです。

>☆ 三つの術語が そこまでの解釈可能性を持つということですか? げぇーっ。そして 《ホロコースト》にまで到る? ぎゃおっ。

 でも、毛沢東の例もありますから、少し後に資料をつけました。あとはご自身で、判断してください。

> ☆ このような可能性を考慮すればよいのではないですか? 意味も意義も 同じような意味です。

 仰る通りだと思います。そんな大げさなという声は、まったくその通りだと思うんですが、けれど少しだけ笑えない気がするのは、フーコが実践主義者だったからです。 
 おそらく大西雅一郎氏の訳だと思いますが、ウェブにちょうど情報があがっていました。あまり読まれないテクストだと思いますから、お読みいただくとわかります。
 ・
http://members.jcom.home.ne.jp/thinking-reed/downloads/MICHEL%20FOUCAULT%20DITS%20ET%20ECRITS%20IV-94,95.pdf

 抜粋しますと(5/6)、

 私はかつて狂気の歴史について本を書きました。ブランショやバルトといった数人を除いては、その本の反応は余り芳しくありませんでした。最近でもなお、大学では、学生にこの本の話をするときには、それは医者の手になるものではなく、従ってペストと同じように警戒しなければならないと注意するのが普通だったのです。ところが、あることが私を驚かせました。ここ数年前からイタリアではバザリアを中心にして、またイギリスでも反精神医学と呼ばれる運動が展開されています。もちろん、これらの人々は彼ら自身の考えと経験に基づいて運動を展開してきたのですが、彼らは私の書いた本のなかに一種の歴史的な正当化を見て取っていて、彼らはいわばその本を改めて引き受け、考慮に入れ、ある点まではその中に自分たちの姿を認めたのです。このようにしてこの本は実践的な成果というべきものを得つつあるのです。ところで率直に言うと、私は少々嫉妬深いので、今度は自分自身でやってみたいと思うのです。人々に引き継がれて実践的に司法を問題にするような司法の歴史の本を書く代わりに、私は司法の問題化から始めてみたいのです。

 このように語ったフーコは、ちょうど同じ時期に、デリダから受けたテクストの批判に対して、こんなふうなことを回答しています。――デリダの批判は、『狂気の歴史』とそれに続くテクスト群が、つまり哲学の外側にあるという点を問題にしている。けれどそれは、フランスにおける哲学が、常に実践され経験されているような他の仕方に対して、常に外から見ているだけのものであったから、だから(デリダの)批判が注目されるものに映っているだけだと答えたんです。

 ずっと昔に読んだ本ですが、70年代を迎えたころに、彼は何らかの線を越えたのだなと思います。

投稿日時 - 2009-04-23 19:11:49

補足

 passcard さん むつかしい。そのむつかしさというのは きわめて複雑に 事項もしくは(/ ならびに)視点が 入り組んでいて 何を 議論の焦点にすればよいのか 迷うところです。

 ご回答をありがとうございます。
 でも ひょっとすると 最大の論点は 案外 はっきりしているかも知れません。
  【Q‐2】 愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか?
 →【Q‐2a 】 ぶっきらぼうは 文体をつくるか。
 →【Q‐2b 】 《文体は 人間である》に 例外があるか。

 要するに わたしは 先の質問【Q:けんかをしては・・・】において この例外となるかに思われる事態に出会ったのです。(具体的には 四人の数にのぼります)。この失敗ないし敗北のありさまを しっかりと 分析しておかねばならない。

 で
 ★ フーコが実践主義者だった
 ☆ に 少しだけ 触れるなら 二点 あります。
 1. 文体は――そして ぶっきらぼうも 文体であるなら ぶっきらぼうも―― 《実践》である。要するに 生活が 実践である。
 2. 迂回生産も あるのだから とうぜん 悠長な研究や著作活動も 実践であり 《生産》である。
 ☆ 何だかんだと言っても いちいち 実践に 実践主義などと 主義の語をつけるところが どうも 気に食わぬ。意味があるのですか?
 井戸端会議が 生活であり 実践です。その上に 経済・政治ないし文化活動は すべて 乗っているでしょう。

 ★ 世間が評価するフーコ像と、ご本人はどうだったのかって、案外違うじゃないですか。
 ☆ これにつきましては 両方の見方があると見るべきでしょう。あるいは ひとの数だけ 見方があると言うべきでしょう。さらにあるいは 一人のひとにとってさえ いくつかの見方があるかも知れません。
 言いかえれば その像の一つひとつを 必要に応じて 取り上げて 論じていけばよろしいのでは?――〔あぁ この提言をしも 実践主義と言いつべきかな〕。

 ★ 〔ずっと昔に読んだ本ですが、70年代を迎えたころに、〕 彼は何らかの線を越えたのだなと思います。
 ☆ これも――まづ  何を言おうとしているのか にわかには 分かりがたいものがあるのですが―― このひとつの像を取り上げるのなら それとして しっかりと 問題提起すればよいのだと考えます。どうでしょう? オブスクランティスモは よくないのぢゃなかっぺ? それとも 自分の視線まで 上がって来いと呼びかけています?

投稿日時 - 2009-04-23 23:07:21

お礼

 passcard さん ご回答をありがとうございます。

 その後 昼寝(夕寝)して いま起きたところ。
 ざっと読んだら ここに言うフーコたぁ おれのことかぁ?
 
 あとは 夕食と夕刊のあとにします。

投稿日時 - 2009-04-23 19:37:15

ANo.33

本当に伝わっているかどうか懐疑的な面があり、【Q2】についての補足をします。

 なぜ訳文が正しいかの決定的な点を挙げますと、この文章がどこに所在したものかはわかりませんが、少なくともこの文章はフーコの解説ではあっても、フーコの主張ではないという点が明確だからです。原作者はフーコの用語を用いて、何かを主張する際にこの文章を用意している。これくらいは、ブラジュロンヌさんだってお分かりでしょう。

 例えば、生産(la production)、基準(de normes)、価値(de valeurs)という用語は、この文章が用いられる場の何かを表現する「複合的な記号」であって、その記号からどのような意味を剥ぎ取るかについては、決定不能の要件を満たしたままです。言い換えれば、それらを「死」、「罰」と「罪」と捉えれば、ホロコーストを現象化することにも繋がりかねない曖昧さを持ち合わせます。

 このような「意味」の接続と「意義」とは、念入りに区別する必要があります。訳者が市場経済に留め置かれたのは、むしろ良心的とも言えるでしょう。道具の恐ろしさは、それが用いられたとき、「フーコがそう言っている」と語られる点にある気がします。

投稿日時 - 2009-04-23 16:03:44

補足

 passcard さん ご回答をありがとうございます。

 あぁ 
 ★ 本当に伝わっている
 ☆ とは言えません。
 フーコ自身の文でないことは 分かります。ただし そのフーコの一応に言うところの真意に 忠実な思想を反映している文章であると思って 受け取っていました。ちがうのでしたら 《本当には 伝わっていません》。

 ただし そのための説明には bragelonne さまのご理解を得られるかとなると 少々 うたがわしいところが出てまいります。
 ★ 例えば、生産(la production)、基準(de normes)、価値(de valeurs)という用語は、この文章が用いられる場の何かを表現する「複合的な記号」であって、その記号からどのような意味を剥ぎ取るかについては、決定不能の要件を満たしたままです。
 ☆ 要は これらの重要な術語が 多義的であると言うことですね? 解釈の幅をゆるしているということですね?

 ★ 言い換えれば、それらを「死」、「罰」と「罪」と捉えれば、ホロコーストを現象化することにも繋がりかねない曖昧さを持ち合わせます。
 ☆ 三つの術語が そこまでの解釈可能性を持つということですか? げぇーっ。そして 《ホロコースト》にまで到る? ぎゃおっ。

 ★ このような「意味」の接続と「意義」とは、念入りに区別する必要があります。
 ☆ 奇奇怪怪な表現に わたしには 映ります。
 (1) 著者の一応の真意(じっさいに 意識した《つもり》)
 (2) 語じたいが 文脈にも逆らわずに持ち得るいくつかの意味の可能性 
 (3) その選択肢からの決定
 (4) 多少は 原文に逆らってでも 自由解釈をおこなって 意識的に 別様の意味を 取りだすその意味
 (5) 時代や地域や言語の違いによって 意図せずとも 解釈に 違いが生じてくるときのその意味
 ☆ このような可能性を考慮すればよいのではないですか? 意味も意義も 同じような意味です。

 ★ 訳者が市場経済に留め置かれたのは、むしろ良心的とも言えるでしょう。
 ☆ これは 実際のその書物を 全体的に捉えたあと 判断できるのとちがいますか? それまでは 何とも分からない。
 ★ 道具の恐ろしさは、それが用いられたとき、「フーコがそう言っている」と語られる点にある気がします。
 ☆ これは 理解に苦労しません。

 ソフィストとまでは言わないけれど 学識が まぶしいと申し上げておきます。それで どうなんですか?

投稿日時 - 2009-04-23 16:34:55

ANo.32

>中文が なんで 《興奮》なの?

 だって、我非常感謝□的答応とお書きじゃないですか。
 非常? 熱烈ならそうかと思うけど、あまり使わないと思いますけど。何かあったのかなと思いました。

投稿日時 - 2009-04-23 14:35:44

お礼

 謝謝。

 非常: very much

 ★ 【神の存在】
 ☆ むつかしいと言いますか ややこしい議論ですね。こればっかりは ぶっきらぼうが 恋しい。

投稿日時 - 2009-04-23 14:41:39

ANo.31

>把素加度先生 □好! 我非常感謝□的答応。我覚得有好意思。但是太複雑。

 何を興奮しているのでしょうか。

>☆ こんなややこしいことを。《われは かく思う》で ええのとちゃいますか? フーコさんは これこれの意味で書いているだろうけれど 実際には これそれと考えられるでは いけませんか?

 どうでしょうか。でも、せっかくちゃんとした訳文をマシュマロさんが提示してくれてるのにですよ? それを解釈する側が足りるとか足りないとかと、ぐずぐず質問をあげて論評している姿勢があるわけでしょう。
 そういうのは、すべて揚げ足取り以外にないじゃないですか。
 誰が何と言おうとも、フーコの言ってるのは、訳文どおりで間違いないです。「力」をどう解釈するか。ふつう、そういう読み手の注釈は本文ではなく脚注で書かれるべきものです。文字に変わったテクストとは別に、どう訳せば良かったか、その概念を考え続ける訳者の姿勢は常に正しく尊いものです。その姿勢に対してですよ、誰かが「こうだ」と一方的に決めるもんじゃありません。
 注釈は概念ですから、認識の範疇に留めるべきものです。
 
 言いたいのは、「Q2」でお書きの事は「姿勢の」問題だという点です。

投稿日時 - 2009-04-23 14:08:30

お礼

 passcard さん ご回答をありがとうございます。

 誤解です。誤解です。
 ★ でも、せっかくちゃんとした訳文をマシュマロさんが提示してくれてるのにですよ? それを解釈する側が足りるとか足りないとかと、ぐずぐず質問をあげて論評している姿勢があるわけでしょう。・・・
 ☆ これは わたしが一般論で そちらが 特定の文章についてのお話ですから すれ違っています。つまり たしかに
 ★ 言いたいのは、「Q2」でお書きの事は「姿勢の」問題だという点です。
 ☆ この一般的な姿勢については 書いたつもりです。

 言いかえると 翻訳にせよ一般に読みについては――いつも わたしは 言っているぢゃないですか 相手が まづは 正しいと信じて 読むと―― 自分をなくしてでも 受け取り受け容れるわけです。
 ですから そのあとです。そのあとの 自分の発信のことです。発信=自己表現に及べば 解釈が 当然 入るという意味です。
 ★ 誰かが「こうだ」と一方的に決めるもん
 ☆ なのです。それでこそ 弁証法過程は 有効に すすむのです。誤解があれば そこでこそ 正されていくものです。どんどん 自己の《誤解》を出すべきです。《表現》とは そういうものでしょう?

 同感 同感 今回は 同感のみあり。同感しかありません。

 中文が なんで 《興奮》なの?

投稿日時 - 2009-04-23 14:21:09

ANo.30

 こんにちは。

 ぶっきらぼうと愛想との関係性についてですが、少し思うところがあり、回答を補足してみます。質問文の【Q2】「愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか?」というところでしょうか。
 ここで取り上げるのは、「愛想」と「対話や議論の文章」についてです。例えば、

 ---Selon le philosophe francais Michel Foucault, le pouvoir n'est pas une autorite s'exercant sur des sujets de droit, mais avant tout une puissance immanente a la societe, qui s'exprime dans la production de normes et de valeurs.

 適当に見繕ってみましたが、 このような文章があったとします。
 妥当な訳としては、「フランスの哲学者ミッシェル・フーコーによると、権力とは権利主体に行使される権威ではなく、何よりも社会に内在する力であり、規格と市場価値の生産を表すものである。」と、このようになるでしょう。

 ところが、文中のふたつの名「pouvoir」と「puissance」について、これをどう取り扱うについては、度々議論にあがることがあるようです。ともに「力」を現わす語ですが、この解釈問題(同一性命題)についての哲学的考察は、まさに『ぶっきらぼう』問題、強いては「愛想」と「対話や議論の文章」との関係性になってきます。
 似たような問い語りにおいて、この質問の少し上にある『神の存在』という質問に、あらましを投稿しておきました。質問者様にとっては、ご参考になればと思います。

 ところで、命題に対する立ち位置として、事実命題と価値命題のあいだのジレンマというのがあります。訳と言うのは本来、前者に所属する問題であり、それを後者で論じようとすれば、そこには必ずジレンマが生じるでしょう。
 何故ならば、意味は同じでも意義が異なるからです。それを他者が指摘するとき、世間では(別な表現を借りれば)、「揚げ足とり」などとも呼ばれたりするようですが、僕の用語で言えば、「ひとり踊り」ということになるのでしょうか。

 さて、「pouvoir」と「puissance」についてですが、何時だったか、両者の違いを禁止「~できない」と、当為「~すべき」だと説明したことがありました(覚えておいででしょうか)。前者は、何かを可能にする力、後者は、一般的には権力ですが、史的に語るならば、la tout-puissance divine(能動因としての全能性とでも呼びましょうか)に出自を見ることができるでしょう。
 ですから、古典的には一者がもたらす可能因と、能動因の違いというふうに呼びかえることもできるわけです。こういうこましゃくれた事を手っ取り早く説明するために、禁止と当為だとお話したのですが、きっとお忘れになられたんでしょうね?
 「どう訳すか」と「どう解釈するか」この違いを明らかにして楽しむためには、先に書いたジレンマを弁える必要があるでしょう。愛想といいますか、個人的には、このような悶々とする感じって、好きなんですけどねぇ。むしろ、悶々にとらわれ過ぎて、「対話や議論の文章」という事実を見落とす事のほうが憂慮されるべき問題だと思います。

投稿日時 - 2009-04-23 11:25:27

お礼

 把素加度先生 □好! 我非常感謝□的答応。我覚得有好意思。但是太複雑。
 □:ni =あなた。(入力できず)。
 複雑:ややこしい。

 ★ 「pouvoir」と「puissance」
 ★ 前者は、何かを可能にする力、後者は、一般的には権力ですが、史的に語るならば、la tout-puissance divine(能動因としての全能性とでも呼びましょうか)に出自を見ることができるでしょう。
 ☆ さよか。知らなんだ。ほなら 王権神授説に近いのかなぁ? やっぱり 降って湧いた《まなざし関係》かいな。
 《和を以って貴しと為す》のは いまや 大自然のいとなみと等しいちから( puissance )があるからね。《当為》をさえ 突き抜けています。えらいちからやね。かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き・・・。

 あとは むつかしいです。
 ★ 「どう訳すか」と「どう解釈するか」この違いを明らかにして楽しむためには、先に書いたジレンマを弁える必要があるでしょう。愛想といいますか、個人的には、このような悶々とする感じって、好きなんですけどねぇ。むしろ、悶々にとらわれ過ぎて、「対話や議論の文章」という事実を見落とす事のほうが憂慮されるべき問題だと思います。
 ☆ こんなややこしいことを。《われは かく思う》で ええのとちゃいますか? フーコさんは これこれの意味で書いているだろうけれど 実際には これそれと考えられるでは いけませんか?
 ★ 事実命題と価値命題のあいだのジレンマ
 ☆ どう考えても 価値命題のほうが えらい。それゆえに 事実命題も 事実認識に 正確を期す。単純でいこまいか。
 と言うと ランボーではないけれど
 ○ sans coeur !
 ☆ と言われるのかなぁ。これが ぶっきらぼうだろうか?

投稿日時 - 2009-04-23 13:37:01

ANo.29

bragelonne様、おはようございます。
そしてお礼を拝見致しました。 いつもご教授を賜りまして本当にありがとうございます。

【女性のぶっきらぼう、のっぺらぼうに対するふるまい】 
>一般に男よりもすぐれて 包容力を発揮してのように 難なく 接し 対処していくことができる。

はい、男女における脳のメカニズムの差異につき、概して女性は男性以上に「他者との対話もしくは心情吐露しつつ思考していく」傾向があるようです。
女性の他者との関係を重んじる態度や他者への許容度合いなどにおいては、男性のそれよりも優れているのかもしれません。
もちろん個人差によるところも大きいと思われますが。

【《まつり》を中心とした生活→余剰をあてにした歴史知性の発生と「効率性」】

縄文時代において少人数規模の狩猟の結果生じるような「余剰」の概念と、稲作のような大規模共同作業の結果生み出される「余剰」とでは、「時間の長さと時間概念に対する囚われ感」も自ずと異なっていたと思われます。
そして「いま目の前に存在する余剰をどう再分配するか」と、現代社会における大きな価値観「余剰をあてにする、もくろむ」とでも、全く意図するところのものが違うのではないでしょうか。
後者は現代の貨幣経済における最重要命題「効率性」に則っていて、将来この命題が放棄されるとは今現在想像つきかねるのです。

では、≪ヨセ歴史知性≫から≪イリ歴史知性≫へ思想の流れを変えるには、この「効率性」を今後いったいどのように捉えていけばよろしいのでしょうか。
南北問題、発展途上国問題におきましても、経済発展は国の最大の悲願でもあり、なかなか容易には理解され得ないように懸念するのです。

【偏差値的価値観】
>のっぺらぼう史観でしょうか? それとも 同時に ヨセ史観をも含むでしょうか?

効率的なカリキュラムのもと、ある意味訓練とも言える一律な教育内容を課す。
そして数値化された試験結果を基準として相対的に判断した後、能力と適正を階層的に管理するという点においては、フーコ的のっぺらぼう史観によって上手く解釈できるかと思います。
「イリ」「ヨセ」の各史観ではどのように解釈することができるでしょうか、逆にお聞きしてみたくなりました。

【脱偏差値的価値観=本人≪主体≫の絶対評価】
>☆ ここで やはり 《絶対》は 言い過ぎでしょうね。
>★ ≪主体≫至上
>☆ の《至上》も 言い過ぎだと思います。

集団における相対的な序列化、生徒の学習評価を人数割合に応じて各段階に分類する「相対評価」は、偏差値的価値観と密接な関係があると思います。
逆に、他者との比較ではなく、あくまでも生徒本人自身が「どれだけ自己目標に到達し得たか、学習内容が身についているか」を他者との比較無しに評価する「絶対評価」という見方があります。
これを多少比喩的に「本人≪主体≫の絶対評価」と軽い気持ちで表現してしまいました。

で、このたびの件もふまえて、≪主体≫≪絶対≫≪至上≫などという言葉選びに関しては、哲学カテにおいて特に慎重を期さねばならないのかな、と真面目に思いました。
そしてまた、各種思想によってもその語彙の適用に関しては差異が生じる余地があるのでしょうか。

何度も例えて恐縮ですが、フーコの思想においては、考察、解釈するところの語彙は多少の拡大解釈もしくはリンクするところが大きいようで、むしろ一義的に厳格にあてはめることは良しとしない、という趣旨を対話集(コレクション)上でふれています。
ですが、これすら各思想によりかなり異なるものなのでしょうか。

先日関連する仏文和訳を試みた拙文に対し、別カテ内にて回答者様から辛口批評を頂戴した上で今後一層精進したいと思う次第です。
(拙文の稚拙さ未熟さは疑いようもありません。ですが、
出典先も不明な中、ワン・センテンスだけピックアップして訳すのは、どの著書の内容に基づくかによっても語彙選びが異なってくると思い、わたくしには荷が重かったです。)
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4881447.html

こちらの質問における命題とはかなりズレて恐縮ですが、この点につきましても、bragelonne様からご教授いただけたらありがたいです。
お手すきの時で結構ですので、どうぞよろしくお願い致します。

投稿日時 - 2009-04-23 09:52:04

補足

 mashumaro2 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 まづ No.26で 考えが――昨夜ですね――まとまらなかったので 今朝 あらためて考えたところを No.21補足欄そして続いてNo.24お礼欄にて したためました。どうぞご覧になってください。

 ★ フ―コ関連の仏文ですが 全体観を持てていませんので わたしには 自信がありません。例によって Pさんに頼みましょう。
 ○ le pouvoir / une autorite / des sujets de droit / une puissance / 〔la production de〕 normes et de valeurs
 ☆ これらの術語が 著述全体の中で どういう使い方をされているか 明るくありません。どうも 《世間のならわし( normes et valeurs )》を言っているように わたしには 思えます。しかも わたしの見方としては そのような《世間の目( une puissance )》のあり方は 《アマテラス・マツリゴト》( l'autorite s'exercant sur des sujets de droit )から発生しているもののように映ります。
 全体として 人びとも それぞれ その場に参画している社会力学の情況であるように捉えています。

 ★ 拡大解釈・言葉選び
 ☆ これは 自由だと思います。ただちには 分かりませんでしたが。《絶対評価》という語が 使われているのですね。
 ただし 問題は 《学力》に特定し限るとした場合には 別の話になると考えます。わたしが No.26へのお応えを補足した追加(No.21+No.24)では この(α)【偏差値的価値観】について 比喩的な解釈をしています。《学力》ではなく ひとが社会において占める位置を ただ現象として・また結果として それのみを取り上げた場合の《人間力》と捉えて応用しました。
 (β)【脱偏差値的価値観=本人≪主体≫の絶対評価】では 位置の占め方あるいは そもそも歩き方もしくは世界観が ちがっているところから 出発しているので 次元がちがうと見ました。《ゆづる思想》であり これは 現実に損な役回りですし また こんなふうに次元がちがうと言っているのは 負け惜しみだと言われるであろう哲学になります。
 ★ フーコ的のっぺらぼう史観によって上手く解釈できるかと思います。
 ★ 「イリ」「ヨセ」の各史観ではどのように解釈することができるでしょうか、逆にお聞きしてみたくなりました。
 ☆ これらには 追加補足のほうで おおむね お応えできたかと思います。

 ★ 【《まつり》を中心とした生活→余剰をあてにした歴史知性の発生と「効率性」】
 ☆ きわめて思弁的に考えただけかも分かりませんが 次の見方をしています。
 ○ 資本主義を 勤勉キャピタリスムとガリ勉キャピタリスムとに分ける。
 ☆ ガリ勉のほうは 勤勉資本主義が 自己目的となったものです。生活の中で 剰余のほうから計算するという経済行為をおこなうだけではなく その《はからい》そのものを 自己の生活とする。
 ガリ勉なる思惟の形式のもとに 人びとをも経済行為をも 寄せる場合だと見ます。
 一般に ふつうに 経験合理性にもとづき 経済行為をいとなむという行き方の勤勉資本主義が ガリ勉資本主義の有力に どれだけ 寄せられて行くかだと考えます。当面は ですし 当面は まだまだ 後者は ブルドーザーのごとく 一人歩きしていくかも分かりません。
 インタムライスムの共同自治のあり方が このキャピタリスム経済の動きを どれだけ 軟着陸させうるか。だめかも知れないですし だめでも 経済活動は それ独自の動きとして ガリ勉思考をどこまでも突き抜けて行ったときには 一般に 共生という主題にたどりつくのかも知れません。
 思弁的なものですから 一種の山師のような言説であることをお断りします。
 こんなふうに考えています。翻訳については Pさん よろしくお願いします。

投稿日時 - 2009-04-23 11:35:57

ANo.28

オコリザルです。
簡潔かつ明瞭の精神は大切ですが、その言葉を装飾すると聞き手の知解の幅が広がるようです。
より柔軟な思考を集めることが出来るなら意味があるでしょう。
ただし、焦点のぼやけた文章と受け止める人もいるかもしれませんので、そのバランスは考慮する必要があります。
そうすると主観的に自らの心に受け止めて、思いやりをこめて文章を膨らますことになるでしょう。
この場合の思いやりは武器でもありまして、マジギレ、けんか腰、見当違い、などは心をこめた作文を心がける事で実際に回避できます。

投稿日時 - 2009-04-22 23:22:37

補足

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 primeape さんのご質問に わたしは投稿しなかったのですが 考え方を述べます。正義は 旧い言葉ではないか。経験合理性にもとづく思考過程とその内容の妥当性 このことを ひとに対して 特別に訴えようとして 用いる主観語なのではないか。
 そして もしこのようであるなら たしかに その表現の古さについて 思考を及ぼし いわば整理しておこうという意図としては 考えられるというように捉えました。
 死については これも 同じように それを考えるということは 或る種の仕方で やはり 古い。なぜなら 基本は 生を問題にするのみである。したがって そのやはり 死をどう扱うかという問題の立て方の古さを きちんと 考えまとめておいて あらたな出発をするという意図としては 捉えました。ただ 死を二分し 考慮すべきものほうについては やはり残しておこうとおっしゃっている。さらに突き抜けてしまってもよいと思いました。

 さて 今回 投稿していただいた内容は ぶっきらぼう論の正統であるように まづ 思います。しかも もし 横目で眺めると ちがった見方もできるという なかなか めんどうな問題点を孕んでもいるように考えました。
 ★ 簡潔かつ明瞭の精神は大切ですが、その言葉を装飾すると聞き手の知解の幅が広がるようです。
 ☆ なのですが――なのですが―― ぶっきらぼうとしましては 別の基準 つまり《必要性》 をも用いると思ったのです。
 ぶっきらぼうは 基本的に 《装飾》はしないのですが 《簡潔かつ明瞭の精神》を発揮しているときというのは 伝達や意思表示にとって 必要なことを漏らさず 表現していることを意味すると思うのです。
 
 しかるがゆえに 味気ないぶっきらぼうだと言われかねないのですが 必要なら言う 必要でないなら言わない という基準があると思うのです。
 ★ より柔軟な思考を集めることが出来るなら意味があるでしょう。
 ☆ これも そうなのです。もし愛想や愛敬を発揮するというときには
 ★ ただし、焦点のぼやけた文章と受け止める人もいるかもしれませんので、そのバランスは考慮する必要があります。
 ☆ ということになるかと思うのですが ぶっきらぼうの場合には 必要かどうかで決めますから 《バランス》の問題だとは考えないのではないでしょうか。
 ★ 思いやりをこめて文章を膨らますことになるでしょう。
 ☆ これに対しても きわめて ぶっきらぼうなのです。必要ないと判断すれば 思いやりも 表現しません。言いかえると 思いやりが必要だと考えるというよりは――という意味は 相手のことについて あれこれ 思いめぐらせて 決めるというよりは―― 自分の意思表示にとって 必要不可欠かどうかを しっかりと 判断する。その結果 思いやりが発揮されればよい。という考えです。
 結論として
 ★ この場合の思いやりは武器でもありまして、マジギレ、けんか腰、見当違い、などは心をこめた作文を心がける事で実際に回避できます。
 ☆ このように 《武器》もしくはそれとしての《愛想や愛敬》を あたまの中で 考えていないのだと思います。ぶっきらぼうの精神は です。
 こんな細かいこと――重箱の隅を ほじくってみました。どうでしょう?
 
 ふたつの行き方があるということになるのでしょうか? そして 愛想や愛敬というよりも 親切や世話の問題になるのでしょうか?
 必要かどうかをつらぬくか。それとも 相手のことを 最初から頭に入れていて 必要性の問題ではなく 親切心を 自分の信条として 発揮するかどうかの問題になるか。多少要らぬお世話になっても 親切心を出しきらないよりは 出したほうがよいという考え。きちんと 正統な世話や助けあいの精神を 遺憾なく 発揮するという問題。

 ううーん。どうなんでしょう? ぶっきらぼうも 相手の存在のことは とうぜん あたまに入っているのです。相手との関係においてこそ 考えているのですから。でも――これは もちろん 主観としてですが―― 装飾だと思ったら 表現しないですね。
 《親切で必要な装飾》 こういう概念は 成り立つか。こういった問題にもなってまいりました。

投稿日時 - 2009-04-23 06:39:57

ANo.27

bragelonneさん、再びです。
つっけんどんな私の回答にご丁寧なお返事を頂戴しまして、嬉しい驚きを感じております。
さて、実に興味深い内容のお返事を頂きましたので、こうして間を置かずにしゃしゃり出て参りましたが、まあ私は猪口才な人間ですから、どこまで貴方様のお求めになるベクトルでお答えできるかは、わかりません。
 
 > ○ ぶっきらぼうは 愛想のない状態である。☆ として捉えていました。

なるほど。私は、ぶっきらぼうというものを「(愛想のない)状態」と捉えるならば、その状態に至る理由は、様々あるはずですから、それを愛想のあるなしでは判別できないと考えています。

 > ○ 愛想は いわゆる潤滑油ではなくて 或る種の人間性である。☆ と見ておられるでしょうか?

人間性とは何ぞや?ということになってくるかと思いますが、愛想というより、愛敬でしょうかね。人間性という観点で言えば。

>ぎゃくに わたしの感覚的な定義ですが それは
 ○ 人間性は 愛想の以前にも ある。いま・そこにいるただの存在であること これが これで 人間性である。

なるほど。bragelonneさんが仰った言葉の、人間性から「性」を除いて、
人間は、愛想の以前にもある。いま・そこにいるただの存在であること。これがこれで人間である。
とするならば、私も全く同感となります。

>それは 《社交性》にまで行かなくても ひととの関係性は 持っている。生まれながらに 持っている。と考えるものですから けっきょく 《ぶっきらぼう》でも――つまり 愛想がなくても―― 一般的に言って 《社会人》であるとは 思っているのです。つまり それは
 ★ そもそも人は人と協調して行きたいという想いを持っているものではないでしょうか。
 ☆ とおっしゃるところに いちばん 近いと思いますが どうでしょう?

はい。私の意図するところをきちんと解釈してくださってるようです。

 
 
>(1) 《仏頂面》は 愛想がないと思われますが 社交性は あるでしょうか?
>(2) 同じく 仏頂面のままで ひととまじわり 話をするとき それは 社会性が欠けているわけではないと思われますが 社交性に欠けていますか?

二つまとめてお答えするという怠慢をしてみたいと思います。
仏頂面は、協調性の中に含まれ、協調性は、社交性の中に含まれるという点で言えば、仏頂面は社交性が「低い」とはいえても、「欠けている」とはならないでしょうね。

>(3) ぶっきらぼうは 愛想はないのですが 社会に生きるのですし ひととの交通(まじわり)も ふつうに おこないます。だとすれば これが 人間の《地》であるようにも見られますが どうでしょう?
>(4) 仏頂面は ただその場の表情のみを言ったものです。したがって 言いかえると 人間は 地が ぶっきらぼうで 図が 片や 仏頂面であったり 片や 愛想のよい状態であったりするという見方を してみたのですが いかがでしょう?

これについては、そもそもが、人間の本質的な部分をオールオアナッシング的な考えをするのかどうかで、答えは変わってきてしまうのではないでしょうか?

投稿日時 - 2009-04-22 21:32:45

お礼

 bijou0 さん ご回答をありがとうございます。

 なぜか ちょうど これまでの考えから少し違った見方が 出来るのではないかと 思ったところがあったものですから まさに お訊きしてしまいました。
 おおむね お互い 同じ方向において 捉えているとも分かったようで お訊きしてよかったと思います。

 ★ 愛想というより、愛敬でしょうかね。
 ☆ これは これまでのご投稿にもありましたので よく分かります。
 ★ 人間性から「性」を除いて 人間〔とする〕
 ☆ このご議論も 理解できました。《存在》の問題として 同じように理解しますから。

 あとは 《仏頂面》のところで――それが にわか仕立てだったゆえもあるかと思いますが―― いくらか 違いがある というよりも 事情が 複雑になるでしょうか。複雑になるというよりも 場合を規定しなければ決められないというところでしょうか。
 仏頂面と愛想とを 互いに 相容れないものと規定する必要があるようですね。
 そういったところでしょうか。さらに きっかけにしてまいりたいと思います。いちおう このかたちで ありがとうございましたとお伝えいたします。

投稿日時 - 2009-04-22 22:16:55

ANo.26

Ah! C'est bizarre, n'est pas?

bragelonne様、お礼をどうもありがとうございます。
ね、先のP様への言及は、息子をたとえにして、拙い私なりの理解の再確認も意図していたのです。

偏差値的価値観=他者との相対化=「構造主義」
対して
脱偏差値的価値観=本人≪主体≫の絶対評価=アンチ「構造主義」

これって、おかしいのです?

ごく当たり前と囚われがちな社会システムや既存の価値観は、普段はあまり気づかないような類いの性質で、bragelonne様がおっしゃるところのご主張は、この「のっぺらぼう」=「イリ歴史」の再認識並びに再評価を基にした≪主体≫至上なidee、と考えてよろしかったのですよね?

わたくしは、これを意図していたわけでして、何も我が子の教育の悩みを打ち明けたわけではないのです、なのに・・・凹

C'est bien ma chance!!

投稿日時 - 2009-04-22 18:07:34

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。

 ★ Ah! C'est bizarre, n'est pas?
 ☆ どうも さくじょは 以前からのわたしの質問を あたかも ねらっていたかのようです。今回は 全部 間接的であれ 質問趣旨の延長線上にあると思うのですが。これだけにとどめます。

 まづ ひとつ 修正=確認をしたいと思います。
 ○ 女性は ぶっきらぼうに対しても のっぺらぼうに対しても 一般に男よりもすぐれて 包容力を発揮してのように 難なく 接し 対処していくことができる。
 ☆ こう表現すべきでした。男が ものごとの処理能力に欠けるというのではなく そうではないのですが ひととの接触に際しては その接点を狭く捉えて 互いに その箇所を突っつきがちである。のかも知れないと。
 もう一点は 今頃ですが ぶっきらぼうの定義をしてみました。(=直前のNo.25へのお応え)
 ○ 人間は 地が ぶっきらぼうである。その地の上に 図として 一般に表情や人との接し方が 片や 仏頂面である場合と 片や 愛想のよい場合とがある。
 ☆ こういう見方をしてみました。途中から 軌道修正のようでもあります。もしそう考えるなら 今回提出いただいた世界理解につきましては かなり 違ってくるかも知れないと思うことになります。そういう見方も 考慮に入れてみてください。

 《のっぺらぼう》について あらためて 説明してみます。
 ○  その昔 木から木の実を採る単純な仕事が 稲から米を育てる歴史時間をともなう仕事に移るにつれ 人間の知性も 時間的な・歴史的なあり方をとるようになった。
 ○ もともと 子育てとしても 時間過程とともに 生きていたけれど 自然環界との絡みにおいて 狩猟で獲物を採ったり 木の実を採集したりするのとは違って 最終の収穫に到るまで 時間をかけて 手を加えるという作業を伴なうようになった。
 ○ このとき―― 一般に 縄文人から弥生人への移行として―― ひとは ヨリなる原始心性から 世界へイリ(入り)したと考えられ これを イリなる歴史知性の獲得と呼んだ。
 ○ しかも こうなると 今度は 木の実や稲の実のほうから ものごとを捉え考えるに到った。あたまの中で 剰余ないし利潤が先行するわけである。
 ○ 実りをかみがみに捧げたという《まつり》を中心とした生活から 今度は 余剰をあてにした別種の歴史知性のあり方が 発生した。発生させた。
 ○ この場合は 人びとを寄せるというよりは 生産物とその活用を おのが知性のために 寄せる。この意味でも ヨセなる超歴史知性。
 ○ やがて この剰余価値としての実のりが 巨大古墳として《結実》したと言うべきか それとも 巨大古墳として結実させるために 収穫をより多くあげようと努めたと言うべきか。それにしても 土木技術も発達したわけだけれど。

 ○ ここで 《のっぺらぼう》というのは 自分が 時間的存在であることを自覚する《イリ》なる歴史知性に 一たん 成っているのに あたかも その時間的過程を やはり 無くすかのようにして すべてを のっぺらぼうに見立ててしまう場合である。
 ○ 巨大古墳の造成といった高度成長の成果として ゆたかになったからなのか。あるいは 逆に その作業に こき使われて やぶれかぶれになってしまったからなのか。
 ○ あのとき こう言ったとか その時には こうだったとかという時間のことを それが過去になってしまえば 忘却のかなたへ葬り去る。みなが 似たりよったりの顔をしていると見てしまう。投げやりなのか それとも むしろ 自信に満ち溢れているゆえなのか。

 《構造》とは このとき
 ○ ヨセとイリとの関係において 前者から後者へ まなざしが注がれるという行為関係およびその社会的な総合
 ☆ を言うと思います。このとき
 ○ イリ史観としては ヨセが そのように意志して おこなっていると見る。自分は そのまなざしに対して 《まつらふ》ことを選択した。非戦論であり そういう国ゆづりをした。
 ○ のっぺらぼう史観なら この場合 あたかも 《〈構造主義〉主義》としてのように 社会ないしその構造は 誰がどうして かれがこうしたというのではなく ひとの意志にかかわりなく このまなざし関係が 成り立ってくるものだと見る。
 ○ ヨセ史観からみれば 事態は おのれであれ おのれの崇める英雄であれ そのスーパー歴史知性の徳のなせるわざであると見る。

投稿日時 - 2009-04-22 21:58:55

お礼

 ★ 偏差値的価値観
 ☆ というのは どうなんでしょう? むしろ のっぺらぼう史観でしょうか? それとも 同時に ヨセ史観をも含むでしょうか?

 ★ 脱偏差値的価値観=本人≪主体≫の絶対評価
 ☆ ここで やはり 《絶対》は 言い過ぎでしょうね。
 ★ ≪主体≫至上
 ☆ の《至上》も 言い過ぎだと思います。
 
 要領をえない部分が残ったかにも思いますが 少しづつ すすめていければと思います。いかがでしょう?

投稿日時 - 2009-04-22 22:01:39

ANo.25

はじめまして。
面白い議題ですね。
ぶっきらぼうと愛想を対置させる感覚が不思議です。


【Q‐1】負の印象かどうかは、全て程度問題、およびTPO次第ではないでしょうか。

【Q‐2】対話や議論の文章に影響するかどうか、ですが、こちらも上と同じような原理+その議題自体への関心の度合い・相手への関心の度合いなども大きく影響するのでは?

【Q‐3】極論ですが、「誰に対してもいついかなる際でも」全く愛想のない、という人間はいないのでは?
愛想の程度ということについて言えば、自分への賞賛を求めて愛想を「振りまく」という場合も往々にしてあるでしょうし、また緩衝材として意図的に「振りまく」場合もあるでしょう。
ですが、それとは次元を異にして、そもそも人は人と協調して行きたいという想いを持っているものではないでしょうか。
その意味で「振りまく」という意識が潜在的に行われていると考えます。

【Q‐4】愛想が「誰に対しても」「いついかなるときでも」、よければ、それは人格者であるとも言えると思いますね。
そうなると、それを社交性という括りで表現するのは、随分傲慢な視点となるのでは?
ですが、恐らく私含めた一般人の大多数はそのような「人格者」には到底なれないという暗黙の了解があるでしょうから、必要に応じて愛想を社交性のツールの一つと出来るかどうかということではないでしょうか。
自分への賞賛欲しさに愛想よくする人も多いですから、それだけで社交性があるとは私は思いません。

投稿日時 - 2009-04-22 17:41:17

補足

 bijou0 さん こちらこそ はじめましてのお方ですね。ご回答をありがとうございます。

 全体として 一概に決まっているものではない。つまり逆に言えば 人と場合と かかわっている主題とそして相手の人との関係等々によって 決まってくるであろうと お答えいただいたと思います。
 これまでのそのたぐいのご回答よりさらに その情況との関係について 強調しておられるように受け取りました。

 はじめに 次のように指摘なさった点 すなわち
 ★ ぶっきらぼうと愛想を対置させる感覚が不思議です。
 ☆ とおっしゃるのは 意外です。つまり 
 ○ ぶっきらぼうは 愛想のない状態である。
 ☆ として捉えていました。

 さて 【Q‐3】と【Q‐4】のご回答を合わせて受け取ったのですが それは やはり 《愛想とは何か》にかかわります。
 ★ 極論ですが、「誰に対してもいついかなる際でも」全く愛想のない、という人間はいないのでは?
 ☆ とおっしゃるとすれば
 ○ 愛想は いわゆる潤滑油ではなくて 或る種の人間性である。
 ☆ と見ておられるでしょうか?
 ★ 愛想が「誰に対しても」「いついかなるときでも」、よければ、それは人格者であるとも言えると思いますね。 / そうなると、それを社交性という括りで表現するのは、随分傲慢な視点となるのでは?
 ☆ このあたりが じつは 上の愛想とは何かにかかわっているように思えてくるのです。ぎゃくに わたしの感覚的な定義ですが それは
 ○ 人間性は 愛想の以前にも ある。いま・そこにいるただの存在であること これが これで 人間性である。
 ☆ と考えているのです。いわゆる《人格者》というのとは違うと思いますが その人間性だけで すでに 人格を形成しているとまで 思っているのです。
 それは 《社交性》にまで行かなくても ひととの関係性は 持っている。生まれながらに 持っている。と考えるものですから けっきょく 《ぶっきらぼう》でも――つまり 愛想がなくても―― 一般的に言って 《社会人》であるとは 思っているのです。つまり それは
 ★ そもそも人は人と協調して行きたいという想いを持っているものではないでしょうか。
 ☆ とおっしゃるところに いちばん 近いと思いますが どうでしょう?

 ★ 愛想を「振りまく」という場合
 ☆ にも触れていただいていて その点 わたしが うまく尋ね返していないかと思いますが どうでしょうかねぇ。

 こうお尋ねすれば よいでしょうか。つまり
 (1) 《仏頂面》は 愛想がないと思われますが 社交性は あるでしょうか?
 (2) 同じく 仏頂面のままで ひととまじわり 話をするとき それは 社会性が欠けているわけではないと思われますが 社交性に欠けていますか?
 (3) ぶっきらぼうは 愛想はないのですが 社会に生きるのですし ひととの交通(まじわり)も ふつうに おこないます。だとすれば これが 人間の《地》であるようにも見られますが どうでしょう?
 (4) 仏頂面は ただその場の表情のみを言ったものです。したがって 言いかえると 人間は 地が ぶっきらぼうで 図が 片や 仏頂面であったり 片や 愛想のよい状態であったりするという見方を してみたのですが いかがでしょう?

投稿日時 - 2009-04-22 20:29:59

ANo.24

bragelonne様、心温まるお礼をいつもありがとうございます。
なるほど、タモリのギャグから「キザ」ではなく「がらっぱち風味」だということがようやく理解できました。 はあ、長かった(笑)

>《ヨリ》なる心性について 果たして 歴史知性であるのか

これ、よく考えたら、≪ヨリ≫は歴史知性でないですね。
大変失礼致しました。

>今後はインタムライスムそしてインタナシオナルなインタムライスム。〔ムラ(村)=市町村など自治体の自主的な連合制〕

もしかして、この壮大な絵巻物的発想はご自身のオリジナルなのですか?! 
だとしたら、なんてuniqueな思想なのでしょう!! 

>こうなると ふたたびのごとく 社会は あらためて 平屋建てに限りなく近い形態へと みづからを 作りなおしていくのではないでしょうか。(インタムライスム)。
>あとは その市町村の連合として 統計やら情報交換やら互いの調整役やらの仕事をこなす昔の国家次元の役所が 共同自治連合政府として当面 残るかも知れません。 

う~ん。この件についてなのですが、
例えば戸建のメンテナンス(庭の草むしりや屋根の修繕など)が嫌い、だからマンション住まいがラクでいい、などといった、他力本願的で管理されたがる、つまり「自治」を面倒がって嫌う人々がいるとしたら。
その場合はどうなさるおつもりなのでしょう。
残念ではありますが、人民一人一人が皆、志が高いとも思えないのですが。

でもまあ、このご主張をなさりたいがために、bragelonne様ったら確信犯的に≪ハサミ≫に「あーだこーだ」と因縁つけていらしたのですね。

投稿日時 - 2009-04-22 15:55:41

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。

 ○ インタムライスム
 ☆ アンテルとも インテルともせずに インタとしたのは 分かりやすさを優先させました。文化活動あるいは 経済協力 あるいは 共同自治における協働もおこなってまいります。
 たとえば N市と南京市とが 市議会議員を交換したり 互いに 議員を選挙でえらんだり 政策の協議をおこなったりして行きます。一つの市町村が いくつかのほかの国の市町村と 連携していくのが よいと考えます。

 ★ 残念ではありますが、人民一人一人が皆、志が高いとも思えないのですが。
 ☆ 《イリ》なるふつうの歴史知性に立つ人びとが 三分の一を占め これに共感する人びと(浮動層でもあります)が 三分の一 そして残りの三分の一を 言わばお呼びでない人びと(《ヨセ》なる超歴史知性に立つ頑なな方々)が占めるという具合です。

投稿日時 - 2009-04-22 17:08:26

お礼

 No.26への補足として No.21の補足欄よりつづくものです。(4月23日朝)。

 14. アマアガリの階段を上っても ふつうの《イリ》歴史知性を守りつらぬいた人たちの事例です。ちょうど 今朝の新聞から次の記事を拾います。
 ▲ (近藤道生:私の履歴書22 日経09・04・23)~~~~~~~
 相浦さんは土田さんにこう言ったという。
  ――来年の今ごろ 東京には米兵が充満しているだろう。この艦はいづれ おとり艦として撃沈される。志願してこの艦に乗り込んできた私は艦と運命をともにするが 君は内地に帰って我が国の行く末を見守ってくれたまえ。
 そして十六日深夜 台湾沖で雲鷹(=艦の名)は敵潜水艦の魚雷を受ける。艦橋で相浦さんは土田さんに
  ――これを持っておれ。俺は泳げるから。
 と言って自分用の救命胴衣を差し出した。土田さんは
  ――私も泳げます。
 と固辞し 救命胴衣を壁に立てかけて 艦橋を出る。
 翌十七日朝 ついに艦は沈み土田さんは六時間も荒波にもまれた末 味方の海防艦に救助された。
 私が聞いたのはここまでだったが・・・相浦さんの最期を目撃した生存者〔の証言〕。
 《艦長は 羅針盤を背にして 洋刀を持って直立され 主計長は 海図台の前に 戦闘服装に軍刀をついて 前方をじっと眺めて直立されていた(中略)艦橋における木村艦長と 相浦主計長の最期の姿は 神そのもののごとくでありました》。
 沈没の少し前 相浦さんは泳げない水兵に救命胴衣を渡し その命を救っていた。相浦さん二十四歳。凛とした覚悟に 思わず涙をぬぐった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 戦争は それじたい くだらないのですけれど。

 《空》だ《さとり》だというよりも 譲歩の哲学・国ゆづりの精神として イリ歴史知性を 基礎としたいと思っています。
 その裸のままのぶっきらぼうでは ちょっと いけない場合もあるでしょうか。そういう問題ですね。

投稿日時 - 2009-04-23 09:32:30

ANo.23

> RiRong くん どぢゃ?

 恋の相手はフィレンツェにおられます。
 その方は、度々ソクラテスの名をお話しになるのですが、どちらもすでに、性を無くした方です。神はなくとも、恋人はいます。賢い先人たちが苦労に苦労を重ね、一生懸命にがんばって無くしてきたものを数え上げてみると、どうにも悩ましいものを無くし忘れている気がするのですが、どうでしょうか。

投稿日時 - 2009-04-22 11:29:44

お礼

 passcard さん ご回答をありがとうございます。

 ○ 有神論=無神論。信教・良心の自由。どちらも 対等。

 ★ 賢い先人たちが苦労に苦労を重ね、一生懸命にがんばって無くしてきたものを数え上げてみると、どうにも悩ましいものを無くし忘れている気がするのですが、どうでしょうか。
 ☆ えっ 何ですって? 《苦労に苦労を重ね、一生懸命にがんばって無くしてきたもの》ですか? 《がんばって無くしてきた》 ですか? あぁ 取捨選択と言いますからね。
 ただし 《捨てる》ことを 《がんばって》したのですか?
 ★ どうにも悩ましいものを無くし忘れている
 ☆ あぁ つまり 《捨てるのを がんばらなかった》から 残っているというわけですか。そのものは
 ★ どうにも悩ましいもの
 ☆ なのですね? ぢゃ だから がんばろうとはしないということですね? でも けっきょくは 捨てたいのですね?
 それぢゃあ 捨てましょうか。でも がんばらなくても ふつうに 捨てればいいと思うのですが? すでに――たぶん そのひとだと思うのですが おそらく―― われわれは 容赦なく 棄てたことがあったのではないですか? 同じ要領で ポイ捨てすれば よいのでは?

 というよりも われわれ人間が棄てようが棄てまいが へのかっぱなのではないですか? そのひとにとっては です。
 だから いちいち 触れずにおくことも 何の問題もありません。

 あれっ 何の話でしたっけ。

投稿日時 - 2009-04-22 12:41:40

ANo.22

さて、少々くどい、そのわりにやっかいな回答が残っています。「それは 《まなざしを注ぐ・注がれるの上下関係》は きわめて一般的な人間関係であると認めなければならないことが ひとつ。もうひとつには この上下関係を あくまで 人間が その意志によって おこない 作っているのであると認めなければいけないことです」とお書きになったところですが、

 認めるとか、認めないとか、これはそういう「認識」の問題ではないという事です。ソクラテスにはわからないと思いますが、人間は恋をするんです。例えば、あなたが「それは一般的な人間関係であると認めなければならない」「その意志によって おこない 作っているのであると認めなければいけない」と、そのように言ったとしましょう。
 僕はきっと、そうですねと頷くと思います。
 でもね、その理由はそれを「認める」からじゃない。僕があなたに恋するように、それを一般的な人間関係だとすること、意思によって行い作っているとすることに対して、恋しているから、頷くのです。
 それが恋であることの証は、あるときは頷いても、またあるときは頷かないというその先が、ついぞ恋する者にしかわからないという、その性質にあるんです。
 居着かないとは、そういうことです。

投稿日時 - 2009-04-22 10:20:39

お礼

 パスカルデカルト さん ご回答をありがとうございます。

 ぢゃ ナザレのひとに恋すれば いいぢゃないですか。
 かれは 人間であると同時に 人間でなかったそうです。
 人間でなかった部分では 性は 存在していません。
 性は存在していないところでは おそらく まなざしも おだやかな やさしい光であったでしょう。あるいは つねに あなたの足元から あるいは みづからの背面を見せてのように・背面をのみ見せてのように どこかから 見護っていてくれる ものみであり 観世音であるでしょう。
 といった物語を なんとかして 止揚してまいりましょう。
 神のなくなる時代に差し掛かっていると見るべきでしょう。

 ナザレのナは言っても キリストのキの字は もう言わない日を早めましょう。そうなれば どんなにたのしいか いまから たのしみです。
 RiRong くん どぢゃ?

投稿日時 - 2009-04-22 11:07:37

ANo.21

何というか…わたくしは哲学のどシロウトということでトンチンカンな戯言を厚顔無恥ながらも書かせていただいてきましたが、bragelonne様のおっしゃることは…ちょっとね、40ちょいのわたくしにはとても到達し得ないような「人生の深い円熟期から来る何か得難いもの」を感じてならないのです。
これは天地の差ほどある人徳や教養、知恵を差し引いて、尚、あまりあるのは言うまでもないことですし、たとえばフーコ批判を通じて目指すものは、短絡的でなく、もっと人間の尊厳にかかわるような純粋な思いから発露しているように思えていたのです。

ちなみに、わたくし個人的にはいまだにフーコは≪ハサミ≫という便利な道具だと気にいって使っています。
ん? 何故≪ハサミ≫を思いついたか、ですって?!

ま、自分のような≪バカ≫と≪ハサミ≫は、ほら、セットの言葉があるでしょう?(笑)

投稿日時 - 2009-04-21 22:11:22

補足

 mashumaro2 さん No.26への補足です。(4月23日朝)

 ★ (No.26)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  (α) 偏差値的価値観=他者との相対化=「構造主義」
 対して
  (β) 脱偏差値的価値観=本人≪主体≫の絶対評価=アンチ「構造主義」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについて ようやく考えがまとまりました。
 基本的には 両者は ――安易なことばですが――次元が違うと見るべきだと考えます。
 まづ 遠まわりします。
 1. (α)は 世間(loka-dhaatu)に そして(β)は 出世間(loka-uttara) に それぞれ 当たるのではないか。
 [ヰキぺ:世間]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E9%96%93
 2. 世間とは 《移ろい行く領域》であり 《なおまだ開かれるべき何ものか(一般に真実のもの)が 覆われている》場であり また 《区別・差別の関係》だと言います。
 3. だとすれば 《まなざしの上下関係》は 世間のつねとなります。
 4. 出世間は この世間を 《無明=煩悩》から来る縁起(因果関係およびそれが相互に錯綜する構造)の過程と捉え かつ 移ろい行くものに過ぎないと明らかに見る。その空観に立って生きる。そうすれば 何がしか・いくばくか 縁起の言わば悪循環を 好循環に変えていくことができるということのようです。
 5. つまり (β)で そういうことを捉えようとしておられたでしょうか?
 6. ちなみに いわゆる《出世》とは この《出世間》という語から出た言葉ですが むしろ (α)の世間において 社会的地位が上がることを言うというのは 皮肉なことのようです。

 で 今度は 前回に少し触れた《歴史知性》の類型に照らし合わせてですが
 7. (α)として やはり どうせすべては 諸行無常で 移ろい行くものなのだから 基本は 《のっぺらぼう史観》に立つと言う。
 8. 中には この無常の世界にあっても 階段を上るということ・また 階段を上って あくまで二階から 世の中を見るのでなくてはいけないという《ヨセ史観》にも進出する。
 9. 《アマアガリ症候群》と わたしは 言っています。また 二階に行かなくても ヨセ史観の側に立とうとする思惟形式(ナポレオン崇拝のごとく)は 《アマテラス予備軍シンドローム》と呼びました。
 10. 《ただそこにいるふつうの人・ふつうのぶっきらぼう市民》としての《イリ歴史知性》は 基本的に(β)ですが 特に《出世間》とは違う捉え方として考えるに やはり 《国ゆづり》の思想があります。
 11. 一歩もしくは半歩 ひとに道をゆづります。社会全体のこととしては 国(市民社会なる第一階)をゆづりっぱなしではいけないでしょうが――それでも 歴史は 民主主義=《第一階に主権あり》 になってきましたが―― 一人の人間としては おそらく 最前線にいるのですが常にしんがりを務めるかのように 九十九匹よりは一匹を とうとび 譲歩の哲学を実践するという損な役回りを引き受けているでしょう。
 12. このような意味で (α)と(β)とは 次元がちがうと考えます。
 13. (9)で アマアガリを ぼろくそに言ってしまいましたが そのアマアガリの階段を上りつつ立派に《イリ歴史知性》を守りつらぬいた人たちも 多くおられます。これを No.24のお礼欄に つづけて 書きこみます。

投稿日時 - 2009-04-23 09:06:02

お礼

 mashumaro2さん ありがとうございます。

 ブラジュロンヌにとりましては
 身にあまる光栄にて
 まことに忝く候。
 向後とも精進してまいる所存でぇーす。

 熟田津に 船乗りせむと 月待てば
 潮もかなひぬ
 いまは 漕ぎ出でな



 直前のご回答へのお応えで つぎのように いっぺん 言ってみたかったです。

  ――拙者 お主が切れるかな?
  あっ いや まちがった。
  ――お主 拙者が切れるかな?

 タモリのギャグ いっぺん まねして使ってみたかったです。お礼欄補足欄すべてを使ってしまったものですから。《けんかしている》と言われてしまったからには。―― あぁ これが 男の習性なんですかねぇ。おあとが よろしいようで。

投稿日時 - 2009-04-22 08:59:20

ANo.20

>けんかは 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたちであった。のではないか? どうでしょう?

 そりゃ、そうでしょう? それ以外に喧嘩をする意味なんか、無いじゃないですか。

 やっと目的を果たしたぞと思い、きれいさっぱり退会するかと思ったら、どうも僕は、あなたと喧嘩していたらしいのを思い出した。一応、僕だって男ですからね。
 そう思ってしげしげ見ていたら、どうもブラジュロンヌさん。僕の目に狂いが無ければあなた、ひょっとしてマシュマロさんに慰められていたのですか。それともこの僕が、あなたに打ち負かされて涙を流して悔しがっているとして、同情なされたのでしょうか。

 この僕が、そんなに良い奴なわけないでしょうが。

 こっそりこうやって回答を見て、この質問はどうなるのだろうと行く末を考えていたのですが、ひとつ自己流で答えを書かせていただきます。

 【Q-4】「愛想」とは、もしも本当の「愛想」があるのなら、それはまっすぐ前だけを見つめる勇気だと思います。表情などは要らない。目だけが、まっすぐ前を向いていれば良い。決して、まわりを見回して振りまくものではないし、まっすぐ向いたその目の前に、いつか必ず現れる対話の相手だけに注がれるものです。
 その眼差しこそが、愛想にふさわしい。
 それができるのは、いったいどんな人かを考えてみれば、おのずとぶっきらぼうがどういうものか、おわかりになるのではないでしょうか。

 それと前にもお話しましたが、いい加減《無主体の構造主義》という道具の使い方を覚えてくださいな(パソコンみたいなもんです)。彼らの定義する認識は、論理思考のための道具に過ぎません。あなたの考える認識と、ごっちゃにしてはいけません。
 人間は、道具を使って哲学する時代になったのです。その道具は、主体と呼ばれて頭のなかの思考を全て司っているとしても、そこまで譲歩したところで、それは所詮、考えごとでしかない。人間はそんな自分の考えの「便利なところだけ」を上手に使って、自らの信仰とともに現実を生きている。クレタ人の昔から、こればっかりは変わりません。
 違いますか?

投稿日時 - 2009-04-21 21:12:32

補足

 passcard さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。全体として――例によって ぶっきらぼうに言いますが―― 説明不足ですね。なんとも 責任ある応答をし難いといったところですね。
 ★ 違いますか?
 
 ★ 【Q-4】「愛想」とは、もしも本当の「愛想」があるのなら、それはまっすぐ前だけを見つめる勇気だと思います。
 ☆ 拡大解釈でしょうね。《ぶっきらぼう》についても 同じ拡大解釈が出来ます。
 ★ 表情などは要らない。目だけが、まっすぐ前を向いていれば良い。決して、まわりを見回して振りまくものではないし、
 ☆ これが そっくり ぶっきらぼうにも 本当のぶっきらぼうとして あてはまると言えましょう。ただし 次の箇所すなわち
 ★ まっすぐ向いたその目の前に、いつか必ず現れる対話の相手だけに注がれるものです。 // その眼差しこそが、愛想にふさわしい。
 ☆ これは ぶっきらぼうなり 愛想なりとは別に 議論の余地があるでしょう。まなざしを注ぐ相手を 特定する必要はないでしょう。出会ったひと みなに それぞれ まなざしを注ぐと言うよりは わたしがわたしであり わたしがわたしするその人格をもって 向きあうのでしょう。その意味で 比喩として 《まなざし》を言ったのなら お詫びしておきます。

 相変わらず 用語の使用が あいまいのようですね。
 ★ 《無主体の構造主義》という道具
 ☆ この表現は 矛盾だらけです。
 1.《主義》と言ってしまえば 一般に すでに 思想であり  思想の主体を前提としており つまりは 道具ではありえません。
 2.《無主体》というのは 認識論に徹しますよと言っているだけのことです。《構造》という言葉は あくまでも 認識の道具として使いますよと確認するためのものです。
 3.つまり げんみつには 《無主体》という思想は あり得ないし 概念としてさえ 《人間》という存在には 当てはまらないと言うべきでしょう。
 4.《構造》が 人間の社会的な交通関係を指して言っており しかも その関係には まなざしを注ぐ・注がれるという上下の関係が その交通網として 出来上がっているということを言うとすれば――つまり それが 認識道具であるという意味ですが―― この上下関係が 人間という生物とその織りなす社会にとって 普遍的に見られる宿命の現実であるとまでは 言っていないと 明確にしなければいけません。後者の場合には 主義主張になります。つまり 思想です。。
 5.この思想のほうを あたかも道具だと言い張って 分析手段として 社会関係に当てはめている――つまり 勝手な道具の使用法であって まちがっている――のは いただけませんね。
 6.★ その道具は、主体と呼ばれて頭のなかの思考を全て司っているとしても、そこまで譲歩したところで、それは所詮、考えごとでしかない。
 7.☆ たしかに 上の(5)については このように 微妙に そして 巧妙に いわばアリバイが作ってあります。思想だと言われても 弁明できるように 仕掛けは作ってあります。いわく
 ★ 主体と呼ばれて頭のなかの思考を全て司っているとしても、そこまで譲歩したところで、それは所詮、考えごとでしかない。
 8.☆ すなわち 《思想》だと言われる側面は たしかに《主体と呼ばれて頭のなかの思考を司っている》と言わねばならない部分だが 《そこまで譲歩したところで、それは所詮、考えごとでしかない》のだとおっしゃる。
 9. だったら――つまり あくまで《認識手段》としての《考えごとでしかない》のだったら―― 《主義主張》ではないと宣言しなければいけないし 《思想》ではないと言わなければいけない。このことは どういうことか? 
 10. それは 《無主体》を説いているのではないと 明らかにして 認識の道具に徹しなければいけないということです。
 11. それは 《まなざしを注ぐ・注がれるの上下関係》は きわめて一般的な人間関係であると認めなければならないことが ひとつ。もうひとつには この上下関係を あくまで 人間が その意志によって おこない 作っているのであると認めなければいけないことです。
 12. この(10)および(11)の内容と 
 ★ あなたの考える認識と、ごっちゃにしてはいけません。
 ★ 縄文人の昔から、こればっかりは変わりません。

 ★ 僕の目に狂いが無ければ ☆ 以上のわたしからの批判は まだ 未確定なのですから きちんと 説明なさるべきでしょう。

投稿日時 - 2009-04-22 00:34:57

お礼

 補いです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >けんかは 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたちであった。のではないか? どうでしょう?

 そりゃ、そうでしょう? それ以外に喧嘩をする意味なんか、無いじゃないですか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの文とそれへの批評と その全体に関して 言えることは あくまで 《平屋建て》だった市民スサノヲら〔およびかれらの市長としてのアマテラス公民→つまりいづれも イリなる歴史知性である〕の社会における出来事だということです。
 もしくは 社会形態が 二階建てになったあとにおいても その一階のスサノヲ市民社会の場では やはり 自由なけんかを 自由に享受していたと言ってよいでしょう。

 問題は お二階さんが この一階の庭に対して いろいろお小言を言ってくる場合のその みことのり のことです。わざわざ ひとの犯す罪には この一階人が 二階に対して楯つく行為を 特別の《天つ罪》として 取り上げているところに 顕著です。つまり ですから 総じて言って 《和を以って貴しと為せ》となっています。
 われわれは 《和を以って貴しと為せ》と言われなかったなら 和を乱すことなど知らなかったのです。高がけんかだったのです。ぶっきらぼうたちも 居心地がよかったのです。
 土一揆なり 米一揆なりの《けんか》には それとしての情況と理屈とがあるということになります。
 わざわざ 波風を立てようと思ってなら けんかなどをしようと思うはづがないぢゃないかと叫ぶ人間たち――《イリ》歴史知性たち――なのですよ。
 ☆ 仲間うちのむしろ交流であり 交通のひとつのかたち
 ★ 以外に喧嘩をする意味なんか、無いじゃないですか。
 ☆ とは 行かない《けんか》も あるぢゃないですか?

投稿日時 - 2009-04-22 01:04:04

ANo.19

 ブラジュロンヌ大佐はぶっきらぼうではありませんよ。

 まずはご連絡まで。

投稿日時 - 2009-04-21 20:52:08

お礼

 ぽこぺろぽさん こんにちは。
 お知らせをありがとうございます。合点了解しました。

 あぁ たしかに お久しぶりですね。前編の【Q:けんかをしては・・・】は 勝手に 締めてしまいました。あしからず ご了承くださいませ。

 相変わらず 軍隊階級なんですね。まぁ おもしろみもありますが。

 ブラジュロンヌを擁護してくださって ありがとうございます。
 では そのうちですね。では。

投稿日時 - 2009-04-21 23:50:51

ANo.18

 (1) わたしについての《印象》のもたらした・相手側における気持ちの変化や影響 これは こと《ぶっきらぼう》という一つの性格に限る問題であろうか?
限らないですね。実際のところ、八方美人になろうとしても良く思われない事はあると思います。

 (2) ぶっきらぼうであっても 気持ちが良いという場合も ないわけではないという意見に対して どう答えるか?
少なくとも愛想が良い方が可能性として良いのではないかなと思います。

 (3) 《あいつは人と仲良くなれないんだと決め付ける》ことは ぶっきらぼうが たとえ《友好の意志がある》としても 起こるとすれば いったい ぶっきらぼうは ぶっきらぼうゆえに その《決め付け》に甘んじなければならないのか。それとも そう決めつける人びとは 相手が ぶっきらぼうでなくても そうする場合があるのではないか。
決め付ける側の問題でもあるとおもいます。出来るだけ決め付けは避けたいです。
一方、それとは別に愛想良くして欲しいと言うのが希望です。

>問題は どうも ぶっきらぼうという性格じたいや態度そのものにあるというよりも 相手が どう受け取るかにあるのではないか。相手との間に起きることは、結局どう受け取るかじゃないでしょうか。
そうかもしれませんね。
それとは別に考えて。改善点でもある気がします。
というのも相手の解釈が「ぶっきらぼうの態度で構わない」ならこの関係では良いんですが、多分皆が皆そうじゃないと思うので、その時には問題がおきそうですね。
だから、それで良い事はあっても、基本的には避けた方が無難じゃないかと考えます。



的外れならごめんなさい。

投稿日時 - 2009-04-21 20:34:49

お礼

 kanota さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 少なくとも愛想が良い方が可能性として良いのではないかなと思います。
 ★ 一方、それとは別に愛想良くして欲しいと言うのが希望です。
 ★ だから、それで良い事はあっても、基本的には〔ぶっきらぼうは〕避けた方が無難じゃないかと考えます。
 ☆ こういった助言をいただいているようですね。
 つまり 重ねて確認するなら 次の理解が おおむね 基本である。そして 実際には どちらかと言うと ぶっきらぼうよりは 愛想がよいほうが 無難である。でしょうか?
 すなわち基本として
 ○ さらに言いかえると どんな気持ちを抱くようになるにしても その相手が その一定の気持ちを持ってしまえば その原因が ぶっきらぼうであろうが その逆であろうが それほど 大きな差がないのではないか。
 ○ つまり まづは どちらがどうとは言えないという見方です。そういう出発点のことだと考えました。
 ☆ 人びとの なんとなくだが 一般的であろうと思われる感覚としては ぶっきらぼうよりは 愛想のよいほうが 好ましいといったところでしょうか。
 ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-04-21 23:43:07

ANo.17

bragelonne様、お礼をありがとうございました。

【構造主義に反対することは 認識論的にみて反動的である】
>したがって、構造主義の認識上の成果を踏まえつつ 同時に認識論上と存在論上の批判的検討を条件として私たちは前へと一歩進まねばならない。
>《無主体》説では 困ると思います。

なるほど、そういうことなのですね。
だったら、もっともっと思うところのものを声高にお叫びになればよろしいかと思われます。それに、

>思惟や行動にかんしては――つまり その存在に対してではなく 一般に 思想に対しては―― わたしは はっきりと 間違いなら間違いだと言ったりします。そのとき同時におこなうところの 存在を愛するというのは その人の意志の自由を 自分のそれと同じように 受け容れ守るということですが  思想に関しては 世間の評価が高ければ高いものほど もし批判すべきところがあると考えるときには やはりドンキホーテよろしく まっ正面から 批難します。

というご主張もわたくしは特段異論がありません。
まあ哲学の対話なんていうものは、真っ向勝負する限りにおいては、時間をフルに使った贅沢な人間の「頭脳戦」の側面もあるでしょうし、「たぶん そのような姿勢が デリカシがないということで ガラッパチだと言われるのだと思います。」のフレーズもあえて必要ないと心底思うのです。

己の信念を貫くためなら、なんといいますか…もっと「暴れんぼう」になってもよろしいのではないでしょうか♪
で、憂慮されるべきは、やはりお互いの中傷合戦へ陥りがちになるという、非合理な特性を孕む言語の二律背反によるところが大きいのかもしれないなあ、と思いました。

>ひとつには 議論の問題ではなくて 包容力のそれであるかも知れません。ただし 安易に 甘やかすのも どうかと思うところもありますし。あるいはまた アイドル( idola )としての権威や まして 権力によって なびかせるとなれば ほとんど論外になるでしょうし。

ふむふむ。 上述において包容力だけでなく時には甘やかすのもどうかとおっしゃるのですね。
なるほど、一理あるかもしれません。

ここで、たしか以前の「フーコ『監獄』」質問にてP様がおっしゃられていたことを無許可ながらコピペさせていただきます。お許しあれ。

「フーコーの著作は、現代では社会科学の分野では必読の書物となった。それを学習する事は、ある意味、制度的な義務となったと言っても良い。大学を出て院生を目指す子どもたちは、フーコーの術語を用い、フーコーの考えたフレームで世界を眺め、フーコーの準備した推論から外れないようにする事を強制されています。
これこそが、フーコーの語る「権力」ではないでしょうか。
制度への疑いの眼差しを向け続けたフーコーの疑念、その疑念が、作品を通じてまさに疑われようとしている、その当の制度的権力のなかへと埋没してゆくことに対して、フーコーは如何なる思いを抱いたでしょうか。」

この件につき、bragelonne様が唯一矛先を向けるとしたら一体どれでしょうか。

αフーコの思想(≪無主体≫)
βフーコの思想を何らかの思惑のために「制度化、権威化させようとする」ために尽力する(した)彼の支持者たち
γフーコの思想もしくはフーコ批判に対しテキトーにそこそこの理解で済ませようとする一般大衆
ζフーコ批判により現代思想の潮流の渦の流れを変えられないジレンマ

ちょっと、お聞きしてみたいとかねてより思っておりました。
というのもね、何だかこの「大学内でのフーコ思想の制度化権威化」の話をうかがって、ちょっと「ふうん。そうなんだ…。」とちょっぴりシラケたのも事実だから。
ちょっと動機がbragelonne様の「それ」とは異なる「ひねくれ者の戯言」ですが(笑)

【《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》】

ユニークで面白いお話ですね。
わからなかったところですが、まず、「罪には ヨセなる第二階を侵そうとする天つ罪と イリなる第一階で争われる国つ罪とがある。」という「罪」の概念です。補足をお願い致します。これは必要なのでしょうか。

>結論:第二階がなかりせば けんかは 仲間うちのむしろ交流であり交通のひとつのかたちであった。のではないか?どうでしょう?

う~ん。
わたくし、この「~がなかりせば」な質問は一番思考停止です。ごめんなさい。
第二階のせいでけんかしちゃったものはしょうがないし、覆せない。
で、どうすれば良いか、としか考えられません。
けんかした衝突から今の葛藤が存在するわけですし。う~ん←頭真っ白け

>イリ歴史知性の中から ヨセ超歴史知性が出たのと 似てはいるが 少し違うアマアガリも見られました。その後 歴史知性が 理性として・理性なる神として 歴史を超越するかたちで あがめられるようになった。のではないか? 

ちょっと不思議に思ったのは、「あがめられるようになった。」そのあがめる当の主体は一体誰か、ということです。
はたして本当に【《ヨリ(寄り・依り・憑り)》する原始心性でした。アニミズム心性】はおっしゃるように【現代には《純粋な》ヨリはいないでしょうね。】なのでしょうか。

たかが人間が形作ってきた「歴史」だから、所詮はご都合主義的な「勝者の歴史史観」的意味合いが強いのではないでしょうか。
聖徳太子も「勝てば官軍」、だからノーテンキなことを言えたと思います。
敗者の歴史史観だって、ありえます。
ただ、勝者に埋もれて「見えていない」だけ。
【ヨリなる原始心性: うつ(現)しきあをひとくさ(青人草)】はその後の鎌倉時代における「本地垂迹」のような神仏習合のような形で時折時代に顔を出してきたとわたくしには思えます。
で、【イリなる歴史知性】はどこに見受けられるでしょう。

聖徳太子のような為政者たちの「権力闘争」による「国譲り」という視点からは、たしかにおっしゃるような論理になると思われます。
で、逆に被支配層の民たちに【ヨリ】【イリ】が受け継がれていかなかったか、とまでは言えないようにも思えるのです。いかがでしょうか。
現に今の私達に、全く【ヨリ】【イリ】的感覚がないか、といえば、そこまで否定はできないと感じるのですが。
もしかすると「相対的な視点でないから」とちょっと敬遠されがちな面があるのかもしれませんけども。

>二階建て構造は むしろ 逆立ちしていないでしょうか。

おっしゃるように「逆立ちしてるよ!」という視点も現代においては貴重だと思います。
ちなみに室町時代の鹿苑寺金閣は一階が和洋の住宅風、二階が和洋の仏堂風、三階が禅宗風、でして、和漢混合の最先端建築物でした。
で、現代において、はたしてそれはどう映りますでしょうか。
構造主義なるのっぺらぼうは、この先の将来、どのようになるのか。
≪主体を大切にする≫ぶっきらぼうは、この先リベンジができるのか。
誰にも予測がつかないのではないでしょうかね。

また、先の『監獄~』質問に戻って、仮に中世のことは中世という枠組みでしか捉えられない「歴史の断絶性」をもってするならば。
bragelonne様のおっしゃるご信条も現代風にアレンジし直さないと、ともするとold fashionedと映りかねないのかな、というのが正直な感想です。

紳士服はそれほど流行がないのでご理解しにくいかと思われますが、婦人服は20年以上前の流行のリバイバル風味を漂わせています。
この意味において「歴史は繰り返す」とは思うのですが、決して当時と100%同じ流行ではなく、微妙にマイナー・チェンジがなされているため、とても新鮮に映るのです。
もちろん当時のヴィンテージ・ドレスもその希少価値ゆえに高根の花なブランドもあるわけでして、ただそれだけを着るとどうしてもoutなので、最新流行なinな小物とミックスすることで「頭抜けたお洒落」を醸し出せるわけなのです。

Vous ferez cela ou vous direz pourquoi.

投稿日時 - 2009-04-21 17:59:00

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。
 議論をかなり進めていただきました。思った以上に〔 m(_ _)m 〕 radicale でいらっしゃる。

 一般に 日本のばあい 人間どうしの交通関係は その社会全体的な様式として 《断絶》は ほとんどあたかも なかったかに思われます。いわゆる国家として 二階建ての《家》が出来てからは 明治維新で 立憲君主制となるまで大まかに言えば 律令制のもとにあったとさえ言われることもあります。先の敗戦で 主権在民となったのは 大革命だと言えるようですね。
  ぎゃくに言いかえるなら 民主制は 驚天動地の出来事ですが 世間のならわしは いまだに アマテラス圏(=第二階)の主導によって スサノヲ圏(=第一階=市民社会)が営まれています。
 これを分析する道具も なかなか モダンなものになって来ない恨みがあります。
 ★ 【ヨリなる原始心性: うつ(現)しきあをひとくさ(青人草)】はその後の鎌倉時代における「本地垂迹」のような神仏習合のような形で時折時代に顔を出してきたとわたくしには思えます。
 ☆ 私度僧とか 聖(ひじり)と言ったのでしょうか。正式の受戒を得なくても 各地に 公共の利益・民衆の生活のために 橋を作り寺院を建てと活躍したようです。そして 明治維新にも 《草莾(そうもう)の士》として 歴史の舞台に現われましたね。
 これを 《いま・そこにいる〈わたし〉》としての普通の市民たる《イリ》歴史知性と言ってよいと思うのですが。
 《ヨリ》なる心性について 果たして 歴史知性であるのか なかなか きびしくていらっしゃるようですが ま いまは 保留しましょう。純粋な原始心性であれば やはり 漸進主義になると思います。

 そして 言わずと知れたこととして 国家という二階建てが出来る前と後とでは 決定的な《断絶》があると考えられます。
 次のように 分析してみました。
 《まつり》そして《まつりごと》を鍵語として。
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《まつり(祀り・祭り)》とは 土地の神々に 特にはその年の初穂を 差し上げることです。捧げた上で 神々と共に 村の人びとは 感謝をもって 共食します。
 たぶん 人びとは 《共生》が その人生の真骨頂だったでしょう。

 そのあと 賢い人びとが この《まつり》を 概念として まつりあげました。われ考えるゆえに われありを 《われ考えるなら われのみあり》と言わんばかりに その思考・その理性こそが 神々の現われであると唱えました。その思想を体現した人間も 神々であると 訴え始めました。

 したがって このように 村々の共生である《まつり》を 一段と高いところから 束ねるようにして 統治することは 《まつりごと》というわけです。たぶん どうしても大将にして欲しいと だだをこねたのでしょうね。人びとは これには ゆづらざるを得なかったようです。(《国ゆづり》)。

 したがって 村々の人びとが 共食するまつりは 二階への税金を払って そのあとの残りで 共同自治し共生するかたちを採りました。これは 《まつらふ》と呼ばれ やがて 《まつろう=服する》という意味の言葉となっていきました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 【Q:美しい国はどのようなものなのでしょうか】そのNo.10
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3384834.html
 【Q:道徳規範は 愚の骨頂】そのNo.35お礼欄
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4607794.html

 今後は 
 ○ インタムライスムそして インタナシオナルなインタムライスム。〔ムラ(村)=市町村など自治体の自主的な連合制〕
 ☆ として 市民スサノヲ圏が公民アマテラス圏を主導する=つまり 何のことはなく 民主制による――当面はなお 二階建ての――社会形態を目指します。世界に向けても 自治体連合によって 国家主導方式を揚棄して行きたい。

投稿日時 - 2009-04-21 23:00:17

お礼

 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 国家という社会形態の時代。したがって 人びとが国民として まとまって歩む時代。このときには 一時期の頂点として 《ただ一人の存在だけが 朕は国家なりと宣言する》という中央集権の極点に達しました。
 この時代の進むにつれて 市民一人ひとりが 共同自治の主体として 《わたくしたる市民》(スサノヲ)であると同時に 《おほやけたる公民》(アマテラス)であるという存在の形式が 実現しつつあります。同じひとりの人間が その内面において 《スサノヲ‐アマテラス》連関構造を持つという恰好です。
 〔アマテラス理性のみの優位によって 人間と人間との関係が 現実の場面では まなざしを注ぐ・注がれるという上下の関係に陥りかねないようです〕。
 ――〔フーコは この上下関係を あたかも人類に普遍的な権力関係だと 果たして 見たのでしょうか? 時代ごとに断絶があり 形は変わっていくけれども あたかも着せ替え人形のように その支配の関係というあり方は 変わらないと言ったのかどうか?〕

 こうなると もっぱらのアマテラス公民(つまり 公務員)についても みな 一人ひとりが 市民であり とりわけ人間であるという思想が 必然的に 現実のものとなりつつあります。逆に 《市民おのおのが 〈わたしは国家である / 一人ひとりが 国の経営者である 〉と宣言する》段階にも来ているのかも分かりません。

 こうなると ふたたびのごとく 社会は あらためて 平屋建てに限りなく近い形態へと みづからを 作りなおしていくのではないでしょうか。(インタムライスム)。あとは その市町村の連合として 統計やら情報交換やら互いの調整役やらの仕事をこなす昔の国家次元の役所が 共同自治連合政府として 当面 残るかも知れません。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-04-21 23:30:53

ANo.15

bragelonne様、わたくしにはあなたが「ぶっきらぼう」とは思えません。ましてやどこが「がらっぱち」なのです?

>mashumaro2 さんにおかれましては その《過激なご回答》を わづかに 突き抜けていただけば よいのではないでしょうか?

あたたかいお言葉を頂戴して本当に嬉しかったです。
実はわたくしはpros and consの間を自由に泳ぎまわるのを好む主義なので、「哲学」「科学」のどちらにも思い入れをもちたいと望んでおります(=つまり欲張り)。
また、こちらのように様々な意見が集約される場においては、嬉々としてminorityやアンチ優等生的回答を選ぶひねくれた面があります。
ですので、bragelonne様のご意見は大変参考になり、得難いものがあるのです。本当にありがとうございます。

>☆ たぶん まづ このように基本的な概念であればあるほど その定義内容(もしくはその解釈)が あいまい(つまり 多義的)になるようです。この多様性と言いますか あるいは 従って 個別性というもの これを 哲学は 数学とちがって あつかうのではないでしょうか。

ああ!なるほど、そうなのかもしれません。
基本的かつ抽象的な概念であればあるほど、「それ自体」が空でありナンセンスに近づくということでしょうか。
であれば、その多様性により個別の思索を深めていくものと思えてきます。
であるならば「cogito, ergo sum」もそれ自体は何ら意味するものではない、と。

【人間存在というその個別性ないし多様性を扱い続ける】
う~ん。 この意味においては、哲学とは科学よりも古く脈々と、古代から未来永劫まで繰り返される人間の慎み深い営みの一つなのかもしれません。
むろん、何も考えずとも一生を終えることを自ら欲する人間もいても何ら非難し得ないものとは思われますが。
また、「科学」であれ「哲学」であれ、専門性を深めていくにつれ閉鎖性を帯びるようにも映ります。

>《わたし》は 《かけがえのない存在》と言います。数学では どうですか? 《いま・ここにいる〈わたし〉》というそれだけの存在であって しかも ほかに その存在は いないということ・代わりの存在はありえないということ これを 数式で表わし 扱っていきますか?

う~ん。
ただのアマチュア愛好家の戯言に過ぎないので恐縮ですが、
いくら宇宙物理学で宇宙を論じようとしても、所詮は全宇宙論を論じることが出来ない、つまり、「人間のユニークな目線」でしか宇宙を語ることができないわけでして、この「人間らしいユニークな目線」というものがおっしゃるところの≪かけがえのないわたしという存在≫に相当するのではないのかな、と思うのです。

>フーコーが もし《無主体》を前提としているなら そして 数式が 《かけがえのなさとしての一》を表わし得ないとするなら そしてさらにそのことで 世界観にとってじゅうぶんだと言うのなら 哲学は そして わたしは 抵抗し 批判をすると考えます。おっしゃっていることは そういう問題だったでしょうか?

このフレーズの中で【世界観にとってじゅうぶん】というあたりにわたくしは強く違和感とナンセンスを感じるのです。
同様に「科学」についても言えることでして、宇宙観にとってじゅうぶんだ、という法則など何一つあり得ないし、表し得ないようにも思えるのですが。

但し、わたくし以外の他の方々がどのようなお考えを持とうと、それはご自由ですし、それを尊重したいと思っております。
逆に、様々な自分と異なる考えを見聞したいと願っているに過ぎません。

>数学は 道具である。あるいは 認識の領域にとどまる。のではないでしょうか? いえ たしかに判断の領域にも正当にも進出します。するのですがその判断についての認識はひとが世界史においてそれぞれ ただひとりの存在であるという側面を表わし得るかという問題になるでしょうか?

はい、そうですね、おっしゃる通りかもしれません。
でも、逆に、自らが対峙せざるを得ない現実社会へのよりよき対処や洞察の手段の一つとして、フーコーやメルロを「道具」の一つとして取捨選択する自由があってもよろしいのではないでしょうか。
もちろん、「使えない道具だ」と思う自由もあって当然かと思いますが。
そしてこれとは別に、bragelonne様がおっしゃるところの「ただひとりの存在であるという側面を表す」際には、それはそれで適した哲学思想を適宜好めばよいのではないでしょうか。

>百科事典がひとを包み込むのではなく一人のただのひとがその存在としては百科事典や数論を含んでしまっている。どれだけ《未整理・未整頓》であってもこの《人間存在》のほうが《えらい》のです。ひとは哲学者も数学者もいづれも

はい、ただ、何をもって≪えらい≫と申しましょうか、自身のたゆまない真剣勝負で葛藤し生を終えた先人たちが遺してくれた「数々の恩恵」も同様に≪人間存在≫同様に評価する余地があってもよろしいのではないでしょうか。
彼等の遺した「過去の業績」に、仮に彼等の存在以上の想い=信条が込められているとするならば、「実際にその恩恵を受けているにもかかわらず」≪えらくない≫というシビアな評価を下すのはあまりに酷いようにも思えるのです。

人間なんていうものは、自分の生きる時代に抗えない以上は、それほど器用に立ち振る舞えないと思います。
≪えらくない≫と言いきってしまうのは、そんな愚かで不器用な人間たちを切り捨ててしまう排他的なものを感じるのです。
それほどまでに≪わたし≫は≪他人≫よりも≪えらい≫のでしょうか。

>一人ひとりの人間を みづからの心に 自己と同じ程度には 受け容れる。《わたし》という百科事典を つねに 開いている。動態としての事典である。どこからでも ページを開くことができる。という問題を 哲学は あつかうと思われます。

なるほど。そうかもしれません。お話、よくわかります。
では、≪わたし≫の問題はさておいて、わたし以外の他人との関係においてはどう哲学の問題を捉えたらよいのでしょうか。

科学・数学においては客観性をもってして自他とのコンセンサスが得られやすいように思えます。
ですが哲学の場合は客観性に則るとまでは言えないと思われますし、極めて≪わたし≫といった個人的な信条に繋がる性質上、自他との軋轢は免れ得ないと考えます。
ですからおっしゃるところの「ついに対話を放棄する事態に到りました。」というのも、わたくしにしてみたら至極自明のことであり、ですからbragelonne様が何ら杞憂するに至るものは何もない、と当初から疑っていないのです。

そしてわたくしが当初から何ら哲学的な思考へと進展が進まない至らない点につきましても疑う余地もありません。
Ah! ca ne marche pas.

投稿日時 - 2009-04-20 23:54:37

補足

 mashumaro2 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 なるほど。コギト派・数学派・自然科学派は ただ装っただけであって あくまでも 情況に応じて 対処しておられる。こういうことのようですね。それが見通せなかった ですねぇ。
 どうも この情況は――わがくにだけでしょうか?―― たしかにおっしゃるように まだ長く続くかのように見えますね。自然科学は自然科学で その分野において 大いに 究めようとする人たちは出て来ているのに でしょうか。ということは おっしゃるように 総合的な視点が 一人ひとりに備われば 鬼に金棒といったところでしょうか。それには ぶっきらぼうと のっぺらぼうとの 或る種のたたかいがあるのかも知れません。
 そして たしかに この全部のボウを なぜか 女性は 持ち合わせている(包みこめる)のかも知れません。ぎゃくに言いかえるなら 男は もともと 同じように ぜんぶ持ち合わせているのに いづれか一方に 片寄って行ってしまうのでしょうか。それは 世間というものが そういうあらそいをしているからなのでしょうか。片寄っていくから あたかもだまし合いのような世間になっていくのでしょうか。

 ぶっきらぼう論は 女性論なのでしょうか。
 大地にしっかりと根を張っているということなのでしょうか。それにくらべ 男は さなぎから変態すれば 単純に 飛びまわることをたのしむようになってしまうのでしょうか。あるいは でも 女性も 飛びまわるようになって来ているでしょうか。どうなのでしょう。飛び回り方が ちがうと言うべきでしょうか。

 たとえば――いくらか 世間に合わせるための故意にでもありましたが―― 男のわたしは 一方が他方に対して 《えらい》という言葉を用いました。そういう見方・考え方が まだまだ つよいようなわけでして どうしたものでしょう?
 あるいはまた 思惟や行動にかんしては――つまり その存在に対してではなく 一般に 思想に対しては―― わたしは はっきりと 間違いなら間違いだと言ったりします。そのとき同時におこなうところの 存在を愛するというのは その人の意志の自由を 自分のそれと同じように 受け容れ守るということですが  思想に関しては 世間の評価が高ければ高いものほど もし批判すべきところがあると考えるときには やはりドンキホーテよろしく まっ正面から 批難します。
 たぶん そのような姿勢が デリカシがないということで ガラッパチだと言われるのだと思います。

 でも のっぺらぼうと わたしの名づけた思想つまり 無思想 に対しては 批判がとどかない。知恵を尽くし知識を尽くし心を尽くしても なお 限界があるとさとりました。無思想と言うと しゃれた感じですが 非思想でしょうか。自己の生の軌跡について 索引をいっさい作らない。その試行錯誤の道のりを 尊ばない。《あやまちを侵したであろうが あやまたなかったであろうが あとから検索することなど どうでもよい》主義。顔がない あるいは 自分の顔をつくらない という意味で のっぺらぼう史観と名づけました。
 ぶっきらぼうは 負けました。鬼に金棒の出番のようです。

 Ca ne marche pas? Pourquoi pas?

 ひとつには 議論の問題ではなくて 包容力のそれであるかも知れません。ただし 安易に 甘やかすのも どうかと思うところもありますし。あるいはまた アイドル( idola )としての権威や まして 権力によって なびかせるとなれば ほとんど論外になるでしょうし。
 そして わたしの思うに その中味が《未整理・未整頓》であっても 《いま・そこにいる存在》のほうが 哲学や自然科学のとうとい営みよりも やはり《えらい》のです。この大前提に立って と言いますか この大前提じたいが 《わたし》の問題 すなわち それとしての《他人》の問題なのではないかと思っています。さて いかがなものでしょう?

投稿日時 - 2009-04-21 05:54:12

ANo.14

武羅寿論縫さん。こんにちわ。12番です。
ご返信ありがとうございます。

すっぴんな回答に紅をさしていただいた気分です。

>誰でも 持ってはいるのですね。
:はい、ということは
>ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか?
:については「そうではない」かもしれないとも思います。
生まれたての赤ん坊をご覧になったことがありますか?
生まれたその日に目を閉じたままニコッと笑うのですよ。

玄関(出入り口)のない木造や鉄筋の箱は、
おうち、とは言わないです。
玄関(出入り口)は、おうちの「大切な一部」であり、
そして「たかが一部」です。

ふたたび、
>ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか?
:ずっと慢性的にぶっきらぼうでいる、というのは
たぶん、できないのじゃないかと思います。
必ず、喜びを表現しないではいられなくなるはずです。
ただ、ぶっきらぼうでいる時間がある、それだけであり、

その時間は長かったり短かったりすると思いますが、
わたしとは無関係なところで始まったり終わったりもするし、
わたしと関係のあるところで始まったり終わったりもします。

>ぶっきらぼうは いただけませんか?
:たまねぎとか、らっきょうみたいなもので、
おいしくいただける方法を試行錯誤すると思います。

>ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか?
:鍵のかかっている玄関や、
 手入れをサボって錆びかけて重いドア、
に出くわしたような気分です、
やれやれ、開くまで待たふ・・・あるいは、
油でも注して開かしてみよう・・・と思います、
それが愉快であることも、あります、わたしの都合で。


>★ 「江戸女風」
 ☆ とは どういうふうですか?
:「武骨」「さばさば」「カラっと」ということのようです。
先ほどの回答が、そのまんまですね。

投稿日時 - 2009-04-20 15:47:34

お礼

 根雨十螺琉さん ご回答をありがとうございます。

 あぁ 浅はかだったか。搦め手の忍びが控えているのを読めなかったか。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「武骨」「さばさば」「カラっと」ということのようです。
 先ほどの回答が、そのまんまですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ 《入り鉄砲に出女》と言ったそうですが 《江戸女風》も おそろしや。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか?
 :については「そうではない」かもしれないとも思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ 赤ちゃんでも 生まれたてから 愛想の何たるかを知っている。ですか。
 愛想が 地なのですね。かくて
 ★ 玄関(出入り口)のない木造や鉄筋の箱は、/ おうち、とは言わないです。
 ☆ 玄関だけを見ていては いけないということのようですね。
 でも いつかは 一度や二度は
 ★ 必ず、喜びを表現しないではいられなくなるはずです。
 ☆ なのですね。

 ★ :たまねぎとか、らっきょうみたいなもので、/ おいしくいただける方法を試行錯誤すると思います。
 ☆ わたしは たまねぎを みじん切りにして 納豆と一緒に食べるのですが そのようなぶっきらぼう食用法は やはり いただけませんか? 味付けはないですが からだにいいですよ。
 ★ :鍵のかかっている玄関や、 / 手入れをサボって錆びかけて重いドア / に出くわしたような気分です、
 ☆ でも すでに 《玄関》を入って 《居間》にとおしているのですよ。坐ってもらっているのですけれど。
 いただけませんか?

投稿日時 - 2009-04-20 17:58:14

ANo.13

bragelonne様、お返事が遅くなりました。ごめんなさい。
わたくしの方こそ、お礼を申し上げなければなりません。
本当にありがとうございます。

【例の質問の件】
承りました。わたくしの思い込みも過ぎたところがあったとのこと。
ですが、今以上に自重してまいりたいと思った次第です。

【《絶対という想定としての神》】
bragelonne様がご教授下さった《あやまつなら われあり》を拝見し、この≪神≫の正体がどうやら「一般に想起される神」ではなさそうだ、と認識しつつあります。
もし間違っておりましたら再度ご教授賜りたいと存じます。

【フーコーとバルト】
こちらの質問内にてふれるのはテーマから大きくズレかねないので、やはり自重していきたいと思っております。
いかなる思想であれ、最善の選択はあれど、唯一絶対、一義的といったものがはたしてありうるのかと考えますと、昨今の思想状況を鑑みますと、別質問においてのbragelonne様の御姿勢はなかなかに得難いようにも思える一面がわたくしにはあります。

【「訳あり」な Je ME pense, donc je suis.】
>☆ さらに解明されるのを望みますと言って ひとごとの如くになるのが ちょっぴり悲しいです。

これに関して、もう一度だけ以前の別質問にふれさせていただきます。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4503143.html
わたくしはこのカテで恐らく誰も主張したがらないであろう、過激な回答を試みました(mashumaro2=noname#76229)。

お礼でご教授下さった「同情」の語彙「sympathie」一つであっても、実に多義的で交錯する意味合いを包含するかが認められます。
しかしそれは、数字の1が2になり得えない「合理性」に寄り添う余地はあれど全く則るものではない以上、ともすると精神上の作業、更にはただ言辞だけから発する観念世界の作品になり下がりかねない、とも思えるのです。

「一方では、自然科学の獅子奮迅の躍進から刻々に圧迫、突破、急襲をうけ、また一方では、文献学者、言語学者たちの丹念克明な業績からは、最も古く最も牢固たる(またおそらくは棄てていささかも惜しくはない)伝習も不安と脅威に晒されては、哲学はどうなるのでありましょうか。 ≪我れ思う≫はどうなるのでしょうか。 ≪我れ在り≫は、どうなるのでしょうか。思えば虚中に堂々闊歩してきたあの空にして摩訶不思議なる動詞Etre(アル)はどうなりますのか、いや、どう立ち直りますのか。」(ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法170~171頁)
この文面にふれるたび、幼少より自然科学の図鑑に夢中であった性分のわたくしとしましては、いまなお迷いもなくレオナルド賛歌せずにはいられません。

ですが先の質問において、わたくしの回答後の意趣返しのようなa様のご回答内容と、先の「フーコー質問」のbragelonne様のご回答が不思議と交差するように思えてならなかったのです。
そして、この問題と【je ME pense, donc je suis.】がリンクするかどうか、はっきりとはわからないのですが、何故か気になって仕方がないのです。

【Q:日本語は 論理表現には ふさわしくないのか】
こちらの質問を拝見させていただきました。ありがとうございます。
とてもわたくしには理解の範疇を超えております。
自分独りの論理表現と対話形式の論理表現とでは、また微妙にケースが異なってくるのでしょうか。難しいですね。

【百科事典派】
>ぶっきらぼうの辞書の定義も まだ 見ていなかったです。

そういえばフランス時代に友人・知人宅を訪れた際、不意の訪問にもかかわらずどの部屋も「整理整頓」が徹底されていたことから、いかにも百科事典を編纂するお国柄なのだなあ、と感慨にふけったことがあります。
ひるがえって我が日本の各家庭のライフスタイルはどうなのでしょう。
どのご家庭も寸分の隙もないほどこざっぱりと整頓されているのでしょうか(特に地方)
言語の論理性と「整理整頓」における国民性との間に何か因果関係があったりなんかして(まさか)。

Ca y est, je suis prete!

投稿日時 - 2009-04-20 14:34:44

補足

 mashumaro2さん ご回答をありがとうございます。
 
 ▲ (レオナルドと哲学者たち p.172) ~~~~~~~~~~~~
 実在とはなにか と哲学者は自問する そしてまた 自由とはなにか と。
 彼は こうした実在とか自由とかいう名詞の 比喩的であるとともに社会的でもあり また統計的でもある淵源に関しては いっさい与り知らぬという状態に自分を置いているのであるが こうした名詞がさまざまの定義しがたい意味のほうへ傾斜してくれるおかげで 彼はみづからの精神をして もっとも深奥でもっとも微妙な組合わせを産出させることができるようになる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん まづ このように基本的な概念であればあるほど その定義内容(もしくはその解釈)が あいまい(つまり 多義的)になるようです。この多様性と言いますか あるいは 従って 個別性というもの これを 哲学は 数学とちがって あつかうのではないでしょうか。
 【Q:哲学と言葉】では わたしの嫌いな回答者(c…)の回答で そういう意味合いが触れられていましたが たしかに 哲学は あたかも永遠に答えの見つからないままにでも 特には 人間存在というその個別性ないし多様性を 扱い続けるのではないでしょうか。《わたし》は 《かけがえのない存在》と言います。数学では どうですか? 《いま・ここにいる〈わたし〉》というそれだけの存在であって しかも ほかに その存在は いないということ・代わりの存在はありえないということ これを 数式で表わし 扱っていきますか?
 というような問題だと思うのですが いかがでしょう?
 フーコーが もし《無主体》を前提としているなら そして 数式が 《かけがえのなさとしての一》を表わし得ないとするなら そしてさらにそのことで 世界観にとってじゅうぶんだと言うのなら 哲学は そして わたしは 抵抗し 批判をすると考えます。おっしゃっていることは そういう問題だったでしょうか?
 数学は 道具である。あるいは 認識の領域にとどまる。のではないでしょうか? いえ たしかに 判断の領域にも 正当にも 進出します。するのですが その判断についての認識は ひとが 世界史において  それぞれ ただひとりの存在であるという側面を 表わし得るか という問題になるでしょうか?
 
 たぶん わたしが思うには こうではないでしょうか? 数論としての道筋ないし道理は 宇宙にまたがって つらぬかれていると思いますが そしてそれは 人文科学においても たとえば百科事典に結実しますが おそらく 百科事典が ひとを包み込むのではなく 一人のただのひとが その存在としては 百科事典や数論を 含んでしまっている。どれだけ《未整理・未整頓》であっても この《人間存在》のほうが 《えらい》のです。ひとは 哲学者も数学者もいづれも
 ▲ 実在とか自由とかいう名詞の 比喩的であるとともに社会的でもあり また統計的でもある淵源に関しては いっさい与り知らぬ
 ☆ のだと考えます。神の問題にもなるでしょうが かけがえのない存在の問題にもなると思います。百科事典を 生活の次元で 編みつつ積み重ねていくとともに それと同時に しかも いくらかは それ以上に重要なこととして 一人ひとりの人間を みづからの心に 自己と同じ程度には 受け容れる。《わたし》という百科事典を つねに 開いている。動態としての事典である。どこからでも ページを開くことができる。という問題を 哲学は あつかうと思われます。
 というこのわたしが 【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】のやり取りでは ついに 対話を放棄する事態に到りました。ページの開きようがないとの結論にたどりつかざるを得ませんでした。この地点から さらに新しい段階へと進めればよいと思って この今の質問を設けました。
 mashumaro2 さんにおかれましては その《過激なご回答》を わづかに 突き抜けていただけば よいのではないでしょうか?

 質問者が 或る種の主張をしましたが むろん 意見交換のラリーですから。

投稿日時 - 2009-04-20 16:36:05

ANo.12

葡羅儒論禰さんこんにちわ。
恋人に「江戸女風」「がらっぱち」と言われている宙ぶらりんです。


>ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか?
:脇の下か足の裏をくすぐりたくなります。

>ひとは ぶっきらぼうが その地であるのでしょうか?
:わかりません。空白。

>愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか?
>《愛想》とは 何でしょう? あるいは 《社交性》とは どういうことでしょうか?
:愛想は、そのおうちの玄関であり、
 社交性は、そのおうちの居間のようなもの。

>愛想のよいわるいは 対話や議論の文章に 関係しますか?
:玄関のドアをノックする回数が増えたり減ったりするだけです。

投稿日時 - 2009-04-20 13:41:56

お礼

 子卯虎瑠さん こんにちは。ご投稿をありがとうございます。

 たのしいご回答ですね。
 ★ 愛想は、そのおうちの玄関であり、
 ☆ ふうむ。なるほど。《玄関》であるなら 誰でも 持ってはいるのですね。たしかに 会釈を切らせるということではないですから ましてや あいさつをしないということでも無いわけですから そういうことですよね。《装飾》とは思っていませんが 入り口は あるわけですものね。
 ★ 社交性は、そのおうちの居間のようなもの。
 ☆ ううーむ。なるほど。こう解釈しても いいでしょうか? つまり 飾りなどをつけずに 骨格と肉付けだけで 文章を書いている場合にも――というのは それが わたしの場合には ぶっきらぼうだと思っているのですが―― 《玄関》を開けて 《居間》にまで 相手をとおしているということですね。
 文章を読んでくれる人びとに対して 自分の《居間》を あたかも開放しているように 示し伝えるということになりましょうか。
 つまり それが あれば 《愛想》もあるし 《社交性》を欠くとは言えない。こう考え得れば かなり 心強いものですね。いいことを伺いました。多謝。

 ところで
 ★ 「江戸女風」
 ☆ とは どういうふうですか? ほんとかどうかを別にして 《がらっぱち》と同列に並べられているということは 《おしゃべりで 気風がよい》といったところでしょうか?
 もう一つ ところで
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >ぶっきらぼうは 負の印象でしょうか?
 :脇の下か足の裏をくすぐりたくなります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とおっしゃるのは ぶっきらぼうに関して そんなことは(つまり《負の印象》だとは) 言わせないということでしょうか?
 考えてみれば 
 ○ 世に言う《のっぺらぼう》
 ☆ とは 似ても似つかないものであるからには けっして 肩身の狭い思いをしていては だめのようですね。
 と考えました。再度 謝謝。質問は してみるものですね。

投稿日時 - 2009-04-20 14:49:51

ANo.11

bragelonne様、お礼を拝見させていただきました。ありがとうございます。
そのうえで、とり急ぎ弁明のみをさせていただきたいと思います。
もしお気に召さなければスルーなさって下さい。

【《われあり》の諸命題】
>それほど――失礼!!――重大なこととも思わなかったのです。
>この哲学カテゴリの場全体に対しての わたしのささやかな抵抗のようなものという感覚だったのです。

今となっては「ささやかな抵抗の理由」をお伺いすることすらままならないのかもしれません。
法学部で政治社会学のサブゼミにてフーコーをちょっとかじった程度の経験しかない西洋哲学のド素人のわたくしにとっては、おっしゃるところの≪主体≫について大真面目に考えさせられる良い機会を与えていただきました。
本当にありがとうございました。

【搦め手とキザ】
これは例の質問で「誰かさん」がわたくしを「幾度となく意味ありげに言及」なさっていらしたこと、続いてbragelonne様の「私は搦め手を知りません」のとのご回答、ならびに本質問No.2のお礼の出だしの更なる「マシュマロが二つ」にふれているお礼内容から、「何かお二人にはわたくしの回答方法に特別におっしゃりたい忠告があるのだろう、それを甘んじて受けなければ」と勝手ながら拝察してしまったことから「自身=搦め手」と申し上げておりました。

また、わたくしの「キザ」発言はあくまでわたくしなりに「何とまあタイミング良く絶妙な詩をご紹介なさるのだろう」と純粋にオマージュした発露から出ているもので、逆に、bragelonne様が「ガラッパチ」とはわたくしは微塵も思いもせず、さらには「気障わりのキザ」との間で要らぬご心労をおかけしているとの認識が全くないまま幾度もふれていた件につきまして、深くお詫びをしなければならないと思いました。
本当に申し訳ありませんでした。

【フーコーとバルト】
こちらに関しましても、特段bragelonne様と論戦しようとなどとは露にも思っておりません。
週末電車内の吊広告上での週刊誌の見出しにおいて北野氏がふれられていたのを思い出し、「いかなる情報であれ人の手を通した情報というものは必ず主観が入る余地があるために、読み手というものはマスコミ糾弾以上にまずは自助努力をもってしかるべき」との思いを込めた次第です。

恐らく例の別質問においてはフーコー批判をなさるおつもりと拝察致しておりますので、この限りにおいてはわたくしは自分の非力も痛感しておりますし、また、批判に対するカウンターパートをつとめられるとも思っておりません。 申し訳ありません。

【Je ME pense, donc je suis.】
>《あやまつなら われあり》を受け継いでいるようにも思ったりするのですが どうでしょう?

ヴァレリーのCahiersの2(言語・哲学)あたりに収められているものでしょうか。
通常の「penser a ~」の用法を逸脱しているから、おっしゃる通り「訳あり」な意図を感じます。
たしかに「精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っているje」とも考えられますし、もしくはアウグスティヌスのそれとは違う意図でje ME pense,~としたのでしょうか。
う~ん、とっても不思議です。

最後に、
【「対話を重ねることによって自他共に更なる探究を強く希求する」ことが誤解を受けかねない、つまり「ただの持論至上主義な論戦好き」】
これに関してはあくまでそういう可能性がある、そしてわたくしの経験的な失敗例を申し上げたまでのことで、わたくし以外のいかなる人をも想定したつもりは毛頭なく、したがって「わたしは あるということかも知れないですね。」とbragelonne様を困惑させてしまったのであれば、責任を取って、今回は発車している電車から途中下車させていただくしかないのかな、と自省している次第です。

Cela depend de vous.

投稿日時 - 2009-04-19 17:38:23

補足

 mashumaro2 さん 胸を打つご文章のご投稿をいただき ありがとうございます。こころして お応えしてまいります。

 ポルノ論のほうの事情をかいつまんでなぞっておきます。
 ☆☆ (【Q:ポルノと言う存在】)~~~~~~~~~~~~~~~
 (No.47 noname#80116=bragelone=bragelonne)
 ○ それは 蚊が刺しただけです。
 ☆ よほど コミュニケーションが通っていないと 言えない文句です。
 ですが わたしは いぢわるぢいさんよろしく mashumaro2さんや miko-desiさんのご見解に 輪をかけて 傾くものです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こうも書いております。
 そして 《搦め手》の問題は
 ☆☆ (No.36 bragelonne) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 〔質問者さんは〕 必ずしも すばり ものごとを言うことも 適宜に 避けておられるのでしょうか。そこは よく分かりません。・・・
 搦め手から攻めるという手法を わたしは ほとんど 知りません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こうして むしろ この質問者さんへの評言ですね。
 そして 友の ara… さんに関しましては 一たん 細かい談義のほうを任すという恰好にしました。が そのあとすぐ かれは 質問者の応答を待たずに つぎの投稿をしてしまいました。これを見て わたしは 任したことは まちがいだったと反省しました。そのために ごめんなさいの意味を込めて ワ゛レリの詩を掲げさせてもらったのでした。
 直接には あやまらなかったです。ara… さんの述べること自体が そう悪いとは思わなかったです。勇み足になりはしないかというおそれです。

 ★ 【《われあり》の諸命題】
 ○ 哲学カテゴリの場全体に対しての わたしのささやかな抵抗
 ☆ これにつきましては たとえば 《絶対という想定としての神》のことを知らなかったりすることや あるいは ぎゃくに 《ただの切りのない・その意味で悪なる無限の対話に陥るところのスピリチュアル談義》を何度も繰り返して質問したりしていることに対して それは 哲学の看板を掲げるにしては あまりにも 幼稚であると いまも ゲリラになった気持ちでいます。

 ★ 【フーコーとバルト】
 ☆ 《週刊誌》について わたしの頭から 抜けていました。おわびします。ごめんなさいませ。この《論戦》につきましては わたしは ドンキホーテです。

 ★ 「訳あり」な【Je ME pense, donc je suis.】
 ☆ さらに解明されるのを望みますと言って ひとごとの如くになるのが ちょっぴり悲しいです。カイエのほかは ひととおり翻訳で読んだと思いますが 論じるほどには行きません。すぐ次の主題に移りました。ナルシシスムあたりで いやになりました。たとえば 日本古代へ行ったりするというぐあいです。それにつけては 移り気ですね。

 ★ この質疑応答の場での 対話のあり方
 ☆☆ (No.10お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしの質問への訪問者の方々が 自由に 去っていくということ・また わたしは 追わないということ これだと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この・わたしにとっての《かすかな光》が フーコー論のほうではなく 日本語論のほうで 風前のともし火に 成りかけました。
 【Q:日本語は 論理表現には ふさわしくないのか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4827221.html
 いま並行している論議ですが けっきょく わたしの言説は 世の中の秩序関係(つまり フーコーの言う権力関係ですが)における社会的な役割分担に従わない。ゆえに 訪問者は 回答しても 通じないと見て 去っていくのだという論理で 反論されております。こういう論理があるとは!!?? といったところです。

 けっこう わたくしという能天気は 相手の思想に対して 突っこんでいますでしょ? つまり 搦め手から攻めるということは 苦手でして 正面から 或る程度は妥当な議論を槍にして ドンキホーテ振りを発揮しているのではないかと思います。いかがでしょう。新幹線くらいに お互い なってまいりましょうか。

投稿日時 - 2009-04-19 19:09:18

お礼

 No.10に対して 補います。
 ★★ (No.10) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「同情」の語彙「sympathie」には同義として「好感」「同感」「共感」も含む余地があるようです@crown仏和辞典
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ありがとうございます。そして 遅れてしまい 申し訳ありません。No.8で 少し 触れていたので 失念したようです。
 ○ 同感:感性および理性において 同意する。
 ○ 共感:気持ちに響き合うものがある。(感性のほうですね)。理性のほうとしては なんとなく 同意するといった程度でしょうか。
 ○ 好感:これは おそらく 趣味嗜好の問題に より一層傾いたときの共感でしょうか。人によって 大きく違っても かまわないといった事態でしょうか。
 ○ 同情:わたしは これをここで問題にするまでは 気休めのことだと思っていました。その相手の立ち場に立って ものを考えるという思いやりを含むという見解を No.8でおしえてもらいました。そして
 ○ sympathie のほかに pitie(ピチエ)もありますね。
 ○ pitie :憐憫、あわれみ、同情 (2)〔やや軽蔑の加わった〕あわれみ (例)Quelle pitie ! 情けないな! (スタンダード仏和)

 そう言えば 百科事典派だか あるいは もっと以前でしたか こういう定義集を出していましたね。あぁ もう遠ざかっていたつけが 来ています。
 そういえば ぶっきらぼうの辞書の定義も まだ 見ていなかったです。でも こういうふうにして 一歩一歩  ですかねぇ。
 とりあえず 宿題を 終えてはいないかも知れませんが 前へすすめようとしました。

投稿日時 - 2009-04-19 21:01:37

ANo.10

bragelonne様、拙文に対し柔軟にかつ懐深い対話の機会を与えて下さることに心より感謝申し上げます。

>《同情》の問題にも気づきました。はっきりしていて わたしは するのも されるのも きらいだという年来のくせ これに関係しているようにも思われます。

「同情」の語彙「sympathie」には同義として「好感」「同感」「共感」も含む余地があるようです@crown仏和辞典
そしてわたくしは以下の点においてbragelonne様に「同情」「好感」「共感」を覚えます。

>ぎゃくに いつも どうして デカルトの命題だけを人びとは話題にするのかなと いぶかしんでいましたので

現代人には所詮真に測りし得ないかもしれませんが、デカルトやアウグスティヌスも「いつもどうしてアウグスティヌスの命題ばかり」「なぜキケロやその手の輩ばかりを」といぶかしんだかもしれません。
(歴史が繰り返すとしたら、このような人智の営みでしょうか?)

どうもbragelonne様には旧い権威、既存の価値観やヒエラルキー、大規模な組織の弊害に対する「冷徹で懐疑的な目」をお持ちのようで、この点につきわたくしは個人的にこころ魅かれるものがあるのです。

また、「ぶっきらぼう」「信条を貫く」というスタンスをとることは、一見「頑なな姿勢」に映りがちであり、「実際には非常に広範で多義的な視野を持つという面」が「不可視的」になるのでしょうね。

だって、激しくデカルト賛歌な(笑)ヴァレリーの詩にあれだけ造詣が深くていらっしゃるのですから、『レオナルド=ダ=ヴィンチの方法』や『テスト氏』など、各種ご考察もきっと深いものがおありのはず。
これって「デカルトの≪主体≫批判」と矛盾してますよね?(こじつけです?)
それにおっしゃるところのパスカルの「繊細さ」というものは、「現代だからこそ」ただ単に彼の哲学信条の問題だけで語られるものではない奥深さを含んでいるのかもしれないなあ、とこれまたド素人ながら思ってみたりもするのです。

もしかすると「対話を重ねることによって自他共に更なる探究を強く希求する」ことが誤解を受けかねない、つまり「ただの持論至上主義な論戦好き」と捉えられかねない側面があるのではないかな、と、これは私自身の辛い経験から申し上げる次第です。
そして「《場外》に移らずに どこまでも この場において 互いに答え合っていく・きちんと時間をかけて全部を伝え合う これを 信条にしています」とのbragelonne様のお言葉をまさにわたくし自身がお借りしたいくらいなのです。

>《哲学は 恥ぢさらしなり。ストリップなり》とも。

はい、対話を通じて「相手を素っ裸にさせようとのトラップの掛け合い」を望みつつ、その実真っ裸になっているのはいつも自分ですから(笑)

>広告収入の欲しさに愛想を振りまく放送会社等のメディアが なんとも 情けない。
>また そういうふうに一般市民から見られてしまうということに対して いやしくも公器としての集団であるのならば みづから つつしむという姿勢が ふつうのことであるように考えます。

ああ!なにげにbragelonne節が炸裂していますね♪
先の回答でふれた拙文「ディスクール」の件はバルト的に言っちゃえば、
「帰着する世界の認識は、雑報(三面記事)を消費する者によってではなくそれについて語る者によって第二次段階で作り上げられる知的な、分析的な認識に他ならない」
「雑報(三面記事)は、語る者(マスコミ)の世界の認識の方法によって作り上げられる」
「アノマリティは必ずしもある一人の人間にとって外的な事実であるのではなく、精神の深層における≪得体の知れない≫部分に対応する」
と申し上げたかったのです(意味不明です?)

 【Q‐6】はおっしゃるところの「社会にとって好ましくないところを良くしようとするためなら」真相究明してもよろしいのではないでしょうか。
但し、「個人の範疇にかかわることなら」その限りではないのかもしれません。

 【Q‐7】はフーコーの権力関係にもある意味通じるものがあると思われます。
つまり、現代人は望む望まないにかかわらず、深層心理のうちに力量関係のバランスをうまくとっている面があるのではないでしょうか。
例えばわたくしとbragelonne様とでは深遠なる人知の差が存在するために、「尊敬の念」「忍耐強い諭し」によって「喧嘩になりえない」わけでして。
ですが、仮に拮抗するか微妙な力量関係であるならば、往々にして張り合ってしまうこともあるのでは…?

>いえ 存じ上げてはいなかったのですが

あらま。「キザな方ね。」と申し上げた例の質問の意趣返しだったのですが。
「搦め手」で私自身が猛省し、「正統派なぶっきらぼう」にてNo.6様の御信頼を勝ち得たのは言うまでもありません♪

投稿日時 - 2009-04-19 01:29:58

補足

 mashumaro2 さん これは 《搦め手》というよりも 《根こそぎ》と言って おそれなければいけない状態に わたしは あるということかも知れないですね。《かも知れない》というのは 例によって 能天気のわたし bragelonne ゆえです。
 とにもかくにも ご回答をありがとうございます。

 そうですね。とりあえず 二点 思います。ひとつは 《われあり》の諸命題にかんしては これで 三度目の投稿になったということでしたから それほど――失礼!!――重大なこととも思わなかったのです。
 (ほとんど同じ文面です。したがって この哲学カテゴリの場全体に対しての わたしのささやかな抵抗のようなものという感覚だったのです。失礼ながら 正直に申せば です)。
 もう一つは
 ★ あらま。「キザな方ね。」と申し上げた例の質問の意趣返しだったのですが。「搦め手」で私自身が猛省し・・・。
 ☆ とおっしゃるとき つぎの《「搦め手」とおっしゃった方がいらっしゃいましたが》というその方は 誰かも分からず 全体として まだ ピンと来ていないありさまのことです。
 ★★ (No.5) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 何も考えずに行き当たりばったりで神業的に早くボレーを打つのが得意なのです。
 で、かつて、それを「搦め手」とおっしゃった方がいらっしゃいましたが…ひょっとしたらご存知でしょうか♪ 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしが気にしていたことは 二段階があって 最初は 《ことあるごとに ガラッパチと言われていた人間が キザと言われて それは いったい どういうことかと戸惑った》段階です。二つの形容は 矛盾しているのではないか です。次の段階は キザは 気障りだとすれば いいところがないぢゃないかと思って 気になったことです。
 そのほかのことは きわめて鈍感で 来ています。幸か不幸か 《意趣返し》とおっしゃっても 何に対して何がなのか 完全に にぶいままです。あるいはまた yukkinn66 さんが わたしの回答にポイントを与えた点についても どうも わたくし自身が 力点をおいた内容からは ずれているようなので(それ自体は よくあることだと考えます) その意味では やはり ピンと来ていないのです。
 その質疑応答を 眺めてみたのですが もうこれ以上のことを 問題点などとして 想起し得ないでいます。

 ★ フーコー論
 ☆ は もしよろしければ わたしの別の質問のほうにまわしていただくことで どうでしょう?
 ★ 真相究明の問題
 ☆ について 異論ありません。
 ★ バルト流ディスクール論
 ☆ これは――と言っても バルトを知っているわけではありませんが―― まだ その段階に達していないのではないでしょうか。というのも 公共の報道機関の配信するニュースとしては この北野事件は その内容が 伝えられていないようなのです。このOKWaveでの質疑で わたしは知ったもので それは 事実の伝達に徹しているように受け取ったからです。(そこから わたしが 問題を膨らませて 評言を与えてしまいましたが)。これも よろしかったら フーコー論のほうで いかがでしょうか?

 ★ 激しくデカルト賛歌な(笑)ヴァレリー〔を持ち出すなら そのことは〕 これって「デカルトの≪主体≫批判」と矛盾してますよね?(こじつけです?)
 ☆ その詩のいくらかを訳しただけですので ワ゛レリ論に入れないにもかかわらず 悪運つよく 覚えていることとして 
 ○ Je ME pense, donc je suis.(われ われを思う ゆえに われあり)。
 ☆ があります。つまり このように修正したほうが いいのではないかと たしか ワ゛レリは言っていたのだという記憶です。もし間違いがなければ これなら 《あやまつなら われあり》を受け継いでいるようにも思ったりするのですが どうでしょう?

投稿日時 - 2009-04-19 08:34:00

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もしかすると「対話を重ねることによって自他共に更なる探究を強く希求する」ことが誤解を受けかねない、つまり「ただの持論至上主義な論戦好き」と捉えられかねない側面があるのではないかな、と、これは私自身の辛い経験から申し上げる次第です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 搦め手からに留まらず 根こそぎになる運命を感じさせるご指摘ですね。と思います。
 ここで かすかな光を感じることができると みづからに 言い聞かせるそのひとことは こうです。わたしの質問への訪問者の方々が 自由に 去っていくということ・また わたしは 追わないということ これだと思います。

 さて いかがなものでしょう。世界は いかが相い成っているのでしょう。

投稿日時 - 2009-04-19 10:07:34

オコリザルです。
bragelonneさんは相手のエートスに合わせることが出来ますからそのように振舞えばぶっきらぼうと判断されることは少ないじゃないですか。
簡潔かつ明瞭に伝えることは重要です。
最も判り易い伝え方である筈です
それでぶっきらぼうと受け止められるならば相手のエートスに粉飾があって見た目以上に馬鹿であったことになります。
そのような場合に肉付けして説明しなおすのは良いでしょう。
不特定多数の場合は、明朗簡潔の精神でまづうったえて、しかる後に判り難いとされた部分に関してのみ補足すれば良いでしょう。

Q-1
マイナスに及ぶ負の印象はあくまでも自己責任です。
受け止めてによっては「おめーはあほだ」と(若気の至り)寛大に接してくれたり、礼節のなさとして怒りを抑制して表すことでしょう。
ねちねちと負の印象を持つ人もいます。
自己責任です。

Q-2
相手の人格を理解する要素である以上は多分影響します。

Q-3
地ではないでしょう。
簡潔かつ明瞭な表現を不遜なぶっきらぼうさと受け止めるならば言葉に修飾をつけるまでです。
文学的でキレイな修飾が理想ですが、相手によってはけんか腰にしか修飾できない場合もあります。その場合は貴方の馬鹿さ加減が見抜けなかった私のほうが悪いのは当然である。と、へりくだるべきです。

Q-4
相互の交流において愛想を振舞うのは礼節の一部であると考えます。
「貴方の愛が判る」そのようなお礼です。

投稿日時 - 2009-04-18 23:44:54

お礼

 primeape さん オコリザルさん お久し振りです。ご回答をありがとうございます。

 たしかに しっかりと 簡潔明瞭に お答えいただいたという感じです。なんだか ほほえましいような感覚をも覚えました。勘違いをする人に対して その行為を鮮やかに 切って捨てていただいたようにも思います。
 ★ 簡潔かつ明瞭が 基本であり 重要。
 ★ 必要に応じて 肉付けをする。それは 礼節でもある。
 ★ すべて 自己責任。
 ★ 人格をも理解すると なお良い。いや つねに そうなのだ。
 ★ これでも なお 負の飾りをつけて ぶっきらぼうだと言ってくるなら 《貴方の馬鹿さ加減が見抜けなかった私のほうが悪いのは当然である。と、へりくだるべきです》。

 ☆ このように まとめてもよろしいでしょうか。まぁ
 ★ ばか
 ☆ という言葉は あまり 用いないほうがよいと――こういうふうに たぶん 長いこと 互いに やり取りをしてきた primeape さんですから わたしに分からせようとの思いで 書いてもらったのだと思うのですが―― やはり 思うものですね。なんだかなぁ。

 次の一点は 言葉の用い方として あらためて ひっかかったところです。
 ★ 相互の交流において愛想を振舞うのは礼節の一部であると考えます。 / 「貴方の愛が判る」そのようなお礼です。
 ☆ 愛としての交通・交流となれば もはや いわゆる《愛想》ではなくて 直前のご回答にもご指摘いただいたのですが 《人間の原初的な性質》の発揮ではないか。こうも 考えましたが どうでしょう? たぶん 《愛想・愛嬌》という言葉を 広く 解すれば 同じことになるのでしょうか。そんなところでしょうか。

投稿日時 - 2009-04-19 08:26:58

NO.1 です。
追加で新たなご質問が負荷されました。これ、ありでしょうか(笑;)。

>わたしの場合 話の中味については しっかりと述べるようにしています。
大体、”まともなぶっきらぼう人間氏”にはそういった特質があるようですね。対人関係において最低限自分の側から見て必要なことはしっかり遂行する。もちろんそれは利己的だということではなく、人間の原初的な性質がそこに現れているということで、相手は注意深くありさえすれば充分彼との交流は可能であり、むしろそれゆえに強い真心からの結びつきも可能だということでもあるのでしょう。
>と同時に 相手の気持ちについては 端折りたいという気持ちがあるのだろうということです
当然、誰であれそういった性格は持ち合わせているものです。程度問題でしょう。注意しなければならないのは、相手の気持ちを忖度することと愛想よくするということは関係がないということです。相手の気持ちになって考えるということはとても重要な社交能力のひとつですが、社交性にはそれだけではなく、もっと違った不純なものが沢山含まれているように思います。そこで
【Q‐5】 《同情》とは 何ぞや? 一般に ひとに対しては 同情すべきか? 同情することは 常識であるのか?
ですが、「同情」はとりあえず弱者である相手の立場に仮に自分の身を置いて想像してみるということです(ここまでは人間として必須の行為でしょう)が、それだけではない、それと同時に相手の弱さを憐れみ、相手にそういった自分の気持ちを示すことでしょう。これだって多くは素直な親切心からのものでしょうが、その弱者の立場をわずかであれ持ち上げてやりたい、悲しみを軽減させたいという目的は殆どの場合達成されず、むしろ余計に相手を傷つける場合が多いものです。同情とはこのようになかなか難しいものですから、下手に相手に踏み込むことはしないでおくというのが常識でしょう。ですから、この場合においてもぶっきらぼうは合理的に働くと思います。常識的に
○ ぶっきらぼう :× 同情する  だとおもいます。

もうひとつの宿題
>【Q‐6】 真相究明という問題。究明した真相を どこまで公表するのがよいか。
これは哲学というより社会学 あるいは政治学のカテではないかと思いますが、小生の考えでは純粋にプライベートな問題でなければ、徹底的な公開,公表が正しいありかたではないかと思います。

投稿日時 - 2009-04-18 22:48:40

補足

 amazo007 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 追加で新たなご質問が負荷されました。これ、ありでしょうか(笑;)。
 ☆ あ これは だいじょうぶですよ。関連質問は 補足欄で 追加すればよいという答弁を 運営者のほうから聞いています。

 ★ 人間の原初的な性質がそこに現れているということで、相手は注意深くありさえすれば充分彼との交流は可能であり、むしろそれゆえに強い真心からの結びつきも可能だということでもあるのでしょう。
 ☆ ほめていただいているようで ありがたく思います。
 ★ 人間の原初的な性質
 ☆ これに注目しました。たぶん 《原初的な性質》を満たす あるいは 発揮するなら 互いに 交通および交流は 無理なく すすめて行けるというように わたしも 思います。

 ★ 注意しなければならないのは、相手の気持ちを忖度することと愛想よくするということは関係がないということです。
 ☆ 哲学らしくしていただきました。なるほど。潤滑油が 必ずしも 動力になるわけではないといったところでしょうか。――これは この質問 どうやら 初めの予想とはちがって 息の長いものになりそうですね。まぁ かも知れないというところでしょうか。

 ★ 「同情」はとりあえず弱者である相手の立場に仮に自分の身を置いて想像してみるということです(ここまでは人間として必須の行為でしょう)が、それだけではない、それと同時に相手の弱さを憐れみ、相手にそういった自分の気持ちを示すことでしょう。
 ☆ 正直に告白しますと この同情のことを持ち出したときには ただ単に 《同情とは 気休めのこと》とだけ思っていました。このあとのご回答で 《同感》の問題も出してもらっているようです。
 同感は 心でも論理でも 同意することだと捉えており 《共感》は 感覚的に 思いを同じくすることだと わたしは 規定していました。(もしくは なんとなく 同意するというようです)。同感は 基本的に 行動をも含むもので 共感は 思いにとどまるという意味合いで 捉えていました。
 《同情》には 相手の立ち場に立つという思いやりの姿勢もあるというご指摘ですね。それと
 ★ 弱者である相手
 ☆ とも規定されています。たぶん 弱い状態あるいは ふつうに 落ち込んだ状態にあるという一時的な弱者のばあいをも含むと思われるのですがどうでしょう? 言いかえると 対等の立ち場にある者同士で 時には 同情することもあるのではないかという意味合いです。
 それでは
 ★ 憐れみ
 ☆ とは何か? ということも 課題になって来ますね。
 ★ 相手にそういった(=憐れみとしての)自分の気持ちを示すことでしょう
 ☆ というかたちで 同情にかかわる。そして それらは
 ★ 素直な親切心から
 ☆ だとも説明されています。
 ★ その弱者の立場をわずかであれ持ち上げてやりたい、悲しみを軽減させたいという目的
 ☆ を持つと知られます。何だか 慈悲の問題にもなるかに思われて来ました。
 ★ 同情とはこのようになかなか難しいものですから・・・
 ☆ たぶん この点は 慈悲が 果たして 実践可能であるか つまり
 【Q:慈悲は 経験現実か】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4531636.html
の問題にも 足を踏み入れるかに思われます。(こちらのわたしの質問は けっきょく 答えが分からずじまいでした)。
 ★ この場合においてもぶっきらぼうは合理的に働くと思います。
 ☆ これは 次の前提 すなわち
 ★ ”まともなぶっきらぼう人間氏”〔は〕 対人関係において最低限自分の側から見て必要なことはしっかり遂行する。
 ☆ という前提に立って 帰結されているのだと考えます。そして もし
 ★ その弱者の立場をわずかであれ持ち上げてやりたい、悲しみを軽減させたいという目的
 ☆ が われわれ人間に達成可能なことであれば ぶっきらぼうの殻を破って その実践にもおもむきたいとは わたくしも 思います。果たして――けっきょく 愛とは何ぞや? とも絡んで―― 現実は どうなんでしょう? 

投稿日時 - 2009-04-19 07:58:48

お礼

 ★ 真相究明〔に関しては〕・・・小生の考えでは純粋にプライベートな問題でなければ、徹底的な公開,公表が正しいありかたではないかと思います。
 ☆ 同感します。基本の内容として また 方向として 愛や慈悲の問題から見ても のぞましいあり方だと考えます。公人は 面子を破り 恥ぢさらしを生き抜く必要があると考えます。

 とは言うものの 愛とは 慈悲とは さらに具体的に どういうことになるでしょう?
 おそらく はじめに戻って
 ★ 人間の原初的な性質
 ☆ ないし自然本性を 満たし 互いに 発揮するという内実が 基礎になるように思われますが 果たして いかがお考えになりましょうか。みなさんも どうでしょう?

投稿日時 - 2009-04-19 08:01:02

ANo.7

 ○ 印象
 ☆ の問題だというふうに 受け取るようになってしまいましたが それで いいでしょうかねぇ。
印象と、態度をとられた方の気持ちの問題でしょうか。
ぶっきらぼうじゃない方が気持ちが良いという事で。

 ○ 相手に対して、情は ほとんど示さないが 友好の意思があるという態度は 持っている。
 ☆ ものだからです。そう考えます。
確かにそう言われると、あいつは人と仲良くなれないんだと決め付けるのは問題になってきそうですね。

投稿日時 - 2009-04-18 19:55:13

補足

 kanota さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 印象と、態度をとられた方の気持ちの問題でしょうか。
 ぶっきらぼうじゃない方が気持ちが良いという事で。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 意外と きびしい問題があるように受け取りました。むしろ 人びと一般にとっての問題です。
 つまり この二文に表わされた思想には 二点について くわしくお伺いせねばならないことがあると考えます。
 (1) わたしについての《印象》のもたらした・相手側における気持ちの変化や影響 これは こと《ぶっきらぼう》という一つの性格に限る問題であろうか?
 (2) ぶっきらぼうであっても 気持ちが良いという場合も ないわけではないという意見に対して どう答えるか?

 もう一点 ただちに ここにつけ加えます。まづ 引用です。
 ★ 確かにそう言われると、あいつは人と仲良くなれないんだと決め付けるのは問題になってきそうですね。
 (3) 《あいつは人と仲良くなれないんだと決め付ける》ことは ぶっきらぼうが たとえ《友好の意志がある》としても 起こるとすれば いったい ぶっきらぼうは ぶっきらぼうゆえに その《決め付け》に甘んじなければならないのか。それとも そう決めつける人びとは 相手が ぶっきらぼうでなくても そうする場合があるのではないか。
 ☆ こういった問題です。
 すなわち 三つの問いかけは ほとんど同じ一つの問いに収斂すると言ってもよいようです。すでに そういう指摘を ほかのご回答の中にももらっています。

 【共通の問い】 問題は どうも ぶっきらぼうという性格じたいや態度そのものにあるというよりも 相手が どう受け取るかにあるのではないか。
 ○ いや もっと精確には こちらと相手との関係において 決まるのではないか。
 ○ さらに言いかえると どんな気持ちを抱くようになるにしても その相手が その一定の気持ちを持ってしまえば その原因が ぶっきらぼうであろうが その逆であろうが それほど 大きな差がないのではないか。
 
 どうでしょう? わたしの側に有利な考えに片寄ったと受け取られるかも分かりませんが どうも 相対性という世界のあり方は こういうふうな事情をかかえているように思えて来ました。
 つまり まづは どちらがどうとは言えないという見方です。そういう出発点のことだと考えました。

投稿日時 - 2009-04-18 22:10:15

ブラジュロンヌ様、こんにちは。
お邪魔させてください。^^

【Q‐1】について。
私はあまり安定感のある人間ではないので(汗)他者とのやり取りはまず「防御」しつつ入ります。
ですので「愛想良く防御を感じさせない」人に対しては余計に防御を強めてしまいます。他者の領域に滑り込む手段が「愛想の良さ」だからです。

逆にぶっきらぼうや無愛想な相手だと「むやみに入り込まれない安心感」を感じます。
勿論「積極的に攻撃」を感じてしまう時もありますが。^^

【Q‐2】について。
うーーーん。。。「積極的に攻撃」「防御が高じての攻撃」があるとさすがに「これ以上話すのは嫌なのかな?」と言う判断としますが、
「只近寄り難い」と言うぶっきらぼうは、返って興味をそそられます。^^

【Q‐3】について。
これはどうなのでしょうねえ。。。汗
うーーーん。。。見当違いな幼い見方かも知れませんが、
「上っ面が愛想良い人は地がぶっきらぼう」で
「上っ面がぶっきらぼうなひとは、地が愛想良し」かなあ。。。と。

そんなことありませんでしょうか。。。?

【Q‐4】について。
愛想とは「他者の領域に侵入する為の手段」。
社交性とは「何かをやり遂げる為に他者から力を抽出する能力」。
(うわ!独断的意見です。。。汗)

>《ぶっきらぼう》には 社交性は ないでしょうか?

私は目立ちたがりやで役に立ちたがりやなので、「多数が集まる所で半分の力で手伝う」より「ちょっと敬遠されている所で全力で手伝う」方が良いです。
その方が相手にも近づけますし。^^

穴だらけな見解だと思いますが、投稿してみます。。。
よろしくお願いします。^^

投稿日時 - 2009-04-18 17:43:00

補足

 yukkinn66 さん こんにちは。お久し振りです。ご回答をありがとうございます。

 ☆ 「愛想良く防御を感じさせない」人に対しては余計に防御を強めてしまいます。
 ★ あ そうなんですか。あ でも ぶっきらぼうの場合でも 《防御を感じさせない》ということは ありませんか?
 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 逆にぶっきらぼうや無愛想な相手だと「むやみに入り込まれない安心感」を感じます。
 勿論「積極的に攻撃」を感じてしまう時もありますが。^^
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ ふうーむ。《防御を感じさせない》のと《むやみに入り込まれない安心感》とでは 違うのですね。

 ☆ 「積極的に攻撃」「防御が高じての攻撃」
 ★ いづれの場合にも わたしは きわめて《攻撃的》です。つまり 批判としてのけんかをせねばならないと決めた場合にはです。《やさしい》場合にも 批判は 少しづつでも おこなっていく性分です。
 (あぁ これは ほんとうです。相手と自分との関係において そのあいだにあるものとして 何かあると思うと それを 自分の中で 自分の批判すべき部分として 認識し きちんと捉え 捉えたものを憎み そうして 棄てようとします。棄てたということを 相手に わざわざ 伝えるのだと思います)。

 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「上っ面が愛想良い人は地がぶっきらぼう」で
 「上っ面がぶっきらぼうなひとは、地が愛想良し」かなあ。。。と。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ そうですね。先のほうは よく芸人が 仕事のときと休みのときとで このように まったく違うとも言いますね。あとのほうは 口べたであったりすると そうなるかも知れませんね。これは わたしも まだ 発展させがたいように感じました。いろんな場合があるのでしょうか? まだ よく分かりません。

 ☆ 社交性とは「何かをやり遂げる為に他者から力を抽出する能力」。
 ★ これは 考えさせられますね。愛ということですね。自分から力を抽出するのと同じように なのでしょうね。教育 to educate も抽出するということのようですよね。
 そういうふうに 社交性を捉えれば ぶっきらぼうを 恥ぢることもないかも知れません。
 ☆ 愛想とは「他者の領域に侵入する為の手段」。
 ★ これは ちょっと かわいそう。欲のない愛想 あるいは 愛嬌もあるように思うのですが どうでしょう?

 ☆ 私は目立ちたがりやで役に立ちたがりやなので、「多数が集まる所で半分の力で手伝う」より「ちょっと敬遠されている所で全力で手伝う」方が良いです。
 ★ うらやましいです。小学四年生になったあたりから 引っ込み思案ではなかったし ならなかったのですが(つまり 活発でいつづけましたが) 何かというと 顔が赤くなってしまうのです。かなりこの赤面症には 悩みました。人の前に立つのは 苦手だったですね。
 ふうーむ。yukkinn66 さんは 何かことがあれば かつぎ出せば いいのですね。^^(これで いいのかな?)

 《地と図》の問題が よく 分かりません。わたしは 人間は 地では 無個性だとも 考えていましたが。あれっ 漱石も 何だか そういうたぐいのことを言っていなかったですか?

投稿日時 - 2009-04-18 18:46:05

ANo.5

bragelonne様、お礼を拝見致しました。ありがとうございます。

フーコーのスレでbragelonne様から拝聴したものは、わたくしにとって大変に得難いものでした。
「アウグスティヌスの≪主体≫よりデカルトのそれが後退しているかもしれない」は「フーコーが歴史を断絶する手法により、不可視性だった事象を可視性にして、また可視だったものをも反転もさせる」以上に脳天チョップをくらって軽い脳震盪をおこした気分になりました。

哲学って、結構面白いかもしれないなあ、って「厚顔無恥ながらも」そう思い始めています。
そして「要らぬ形容詞をつける邪な動機」をもbragelonne様ならきっと見透かしていらっしゃるだろうなあって(笑)

>北野誠の辛口批評の事件もあるようですから 哲学の問題になるかも知れません。

これに関しては私には興味のない情報でしたが、もし興味がある方がいらっしゃるならば、「人は己のうちなる殻に似せて、外なる穴≪ディスクールを掘る≫」ではないかな、と思いました。

>日常性を超え 生活感からかけ離れた思索を――おそらく ただ論理的にあるいは合理的にのみ―― 繰り広げる文章論述のこと
>「愛想がよい」以上に「ぶっきらぼう」の何に人は興味を抱くのでしょうか。
>対話が白熱してそう映るのか、それとも「ぶっきらぼうの何か」に反応して、対話が白熱していくのか。

の答えは、bragelonne様の毅然とした以下のご信条、

>いま 思うことは ひとつです。あくまで 自分がみづからその主題に向き合って考えたかどうか。自分の思索の歩みにもとづいて 述べているかどうか。

を貫かれるかぎりにおいて、対話が白熱するのは自明のことであるはずです。
つまり、「ただ論理的、合理的、正統にぶっきらぼう」であるならば、喧嘩も口論もエスカレートしていくのは当然なのではないか、
そしてそれこそが哲学の対話の本来の姿なのではないのかな、と「無知で愚鈍な」わたくしは大真面目に思うのです。

ですから、bragelonne様が質問なさったお気持ちほどに、あまりお気になさることはないようにわたくしは拝察致しているのですが。

ただ、強いて言えば、哲学・思想というものは、人類救済の一縷の望みといった希望的な面を担う一方、我知らぬうちに独善的な罠に陥ってしまいかねない可能性をも否定できないかもしれません。
また、こちらのサイトも一種のコミュニティとみなすならば、質問者と回答者の関係はヴァーチャルな対峙のみで何ら口論後の場外フォローもあり得ませんから、その後の気まずさを危惧、懸念される方々も相当数いらっしゃるのではないか、と拝察致しております。

そして、その方々のご心情も、また至極自然で誠実な対応であると、これまた大真面目に考えているのですが。 いかがでしょうか。

>ちょっと ボールを相手のコートに打ち返すのが 早過ぎたでしょうか?

本来のわたくしは、あまりの愚鈍ゆえに、何も考えずに行き当たりばったりで神業的に早くボレーを打つのが得意なのです(しかもライン上にのったためしがない、笑)。
で、かつて、それを「搦め手」とおっしゃった方がいらっしゃいましたが…ひょっとしたらご存知でしょうか♪ 

投稿日時 - 2009-04-18 00:47:16

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。いくつか わたしが知らなかったこと・気づかなかったことをおしえていただきました。
 ★ 脳震盪
 ☆ は ごめんなさい。わたしの思いとしては ぎゃくに いつも どうして デカルトの命題だけを人びとは話題にするのかなと いぶかしんでいましたので 哲学カテゴリならばと思って 反応いたしましたというのが 正直なところでした。

 でも これも ぶっきらぼうの問題として どうも 相手の気持ちに関する気づかいが かかわっているようですね。
 そして じつに ちょうど直前のご回答へのお応えをする過程で 《同情》の問題にも気づきました。はっきりしていて わたしは するのも されるのも きらいだという年来のくせ これに関係しているようにも思われます。
 ちなみに 北野誠の発言も その中身ではなく まわりへの配慮の問題に 問題は あるようです。

 中味の問題としては
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ただ、強いて言えば、哲学・思想というものは、人類救済の一縷の望みといった希望的な面を担う一方、我知らぬうちに独善的な罠に陥ってしまいかねない可能性をも否定できないかもしれません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とご指摘のあったように けっきょくは 互いの対話 自由な対話 どこまでも対話 まだまだ対話 とことん対話をつうじて 互いに修正していくということなのでしょう。
 その上で 気持ちの問題 まわりへの配慮だとのご指摘です。

 そのためにも再掲載します。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 また、こちらのサイトも一種のコミュニティとみなすならば、質問者と回答者の関係はヴァーチャルな対峙のみで何ら口論後の場外フォローもあり得ませんから、その後の気まずさを危惧、懸念される方々も相当数いらっしゃるのではないか、と拝察致しております。

 そして、その方々のご心情も、また至極自然で誠実な対応であると、これまた大真面目に考えているのですが。 いかがでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。この全部を受け取ったあと うんとか すんとか言ってみろと言われればですが 《場外》に移らずに どこまでも この場において 互いに答え合っていく・きちんと時間をかけて全部を伝え合う これを 信条にしています とは言いたいですかねぇ。
 ちなみに 《先の者があとになり あとの者が先になる》とも つねづね 言っています。あるいは 《哲学は 恥ぢさらしなり。ストリップなり》とも。

 そうしますと
 【Q‐6】 真相究明という問題。究明した真相を どこまで公表するのがよいか。
 ☆ にも関連しますし あるいは 同時に
 【Q‐7】 相手の気持ちに配慮するというとき そのふつうの人間としての心と そして いわゆる社会的な面子とがあると考えられる。後者に 果たして どこまで 気づかうべきか。
 ☆ こういう問題にも発展するのでしょうか。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 何も考えずに行き当たりばったりで神業的に早くボレーを打つのが得意なのです(しかもライン上にのったためしがない、笑)。
 で、かつて、それを「搦め手」とおっしゃった方がいらっしゃいましたが…ひょっとしたらご存知でしょうか♪ 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《ボレー》という攻撃が ぎゃくに 《搦め手》という戦法だと見られるということでしょうか? いえ 存じ上げてはいなかったのですが 発言の終わるのを待って ただちに 搦め手から・つまり背後を攻めるなら そういうボレーですと ひょっとしたら 相手も 面子を考える間もなく まじめに つまり いつもよりもまじめに 対応することになるかも知れませんね。

 ううーん。何だか 電車が動き出したようでもありますね。ここらあたりにてです。

投稿日時 - 2009-04-18 08:27:31

NO.1 です。
先ほどはぶっきらぼうな回答に懇切丁寧な補足を戴き、ありがとうございました。このような質問者様はまったく「ぶっきらぼう人間」ではありえないと思います。
>たのしく読みました。
つぼに嵌ったご質問で小生の方が愉しませていただきました。ありがとうございました。

意外性を感じられたのですね。でもおおむね良くご理解いただけたと感じております。蛇足を承知で多少”補足”させていただきます。
>愛想も 一般的であり たとえ《仮面》であっても むしろその余裕を持って つくろうことも 社会一般からすれば 間違いではないだろう。
全くその通りだと思います。愛想は官能に心地よいがために大多数が賛同します。大衆社会にはおおむね必要なのです。これは常識です。
ただ、私は愛想を武器として打算づくで擦り寄ってくる輩、その手法に長じているだけで得をしている人種が許せない。更にその無意味さを快く感じて対価を払っている多数の俗物の存在がたまらなく嫌なのですね。その反動として、何の虚飾もない、いはば意味だけで困難な勝負に挑んでいる(極端な場合存在するだけで社会に立派に生きている貴父君のように素朴で冒険的な)少数の人種に好感を抱くことになるのでしょう。舌禍の北野某に好意を凭れておられるらしい質問者様には理解いただけることと存じます。

お詫び:×愛想がある→愛想が良い ですね。
愛想がない(=愛想が悪い) とはいいますが。

投稿日時 - 2009-04-17 23:24:22

補足

 amazo007 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 まづは わたしが ぶっきらぼう人間ではないと言っていただいて ありがとうございます。それにつけても 気づいたことは わたしの場合 話の中味については しっかりと述べるようにしています。と同時に 相手の気持ちについては 端折りたいという気持ちがあるのだろうということです。なかんづく 《同情は されるのも ごめんだし したくもない》という性格 これではないかと気づきました。

 【Q‐5】 《同情》とは 何ぞや? 一般に ひとに対しては 同情すべきか? 同情することは 常識であるのか?

 こういう質問も 追加したいと思いました。

 もう一つは 社会問題のほうのようですね。
 ★ ただ、私は愛想を武器として打算づくで擦り寄ってくる輩、その手法に長じているだけで得をしている人種が許せない。
 ☆ するどく迫っておられるようにお受け取りしました。それに関連して
 ★ 舌禍の北野某
 ☆ の問題にしても どうも 某宗教団体(究極のところでは 事実性を わたし自身が確認したわけではないので こう言います)がスポンサーになっての広告収入の問題に帰着しているとも受け取られています。
 【Q:北野誠の不適切発言】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4870954.html
によりますと――ちなみに この質問は 《役に立った》が 425件になっています―― この宗教団体をとおしての政治献金あるいは政治活動について 北野誠は 触れたことが 問題とされたようです。問題を起こしているのは はっきりと ぎゃくだと思います。信徒による政治活動は 公然の事実なのですから。
 もし実際がこのようであるとすれば 広告収入の欲しさに愛想を振りまく放送会社等のメディアが なんとも 情けない。また そういうふうに一般市民から見られてしまうということに対して いやしくも公器としての集団であるのならば みづから つつしむという姿勢が ふつうのことであるように考えます。宗教団体が 政党を牛耳っているのではないと みづからが 証明すべきではないでしょうか。

 一方的に つづってしまうという仕儀になりました。お耳に障るようでしたら 聞き流してくださいませ。(→この程度の 愛想は わたしにも あるみたいです)。
 ちょっと 軽はずみと見られかねない応答内容になってまいりました。中身については わたしの自由な発言です。言いかえると

 【Q‐6】 真相究明という問題。究明した真相を どこまで公表するのがよいか。

 社会にとって好ましくないところを良くしようとするためなら 解明し公表し みんなの話し合いの場に 載せていくのがよいと考えます。

 さらに一方的になってしまいました。その点 お詫び致します。
 それでは このあたりにて。
 (字数が多い場合には お礼欄の内容をも 補足欄に いっしょに 述べるかたちにしておりますので あしからず ご了承いただきますよう お願いいたします)。

投稿日時 - 2009-04-18 07:39:23

ANo.3

【Q‐1】ぶっきらぼうはいただけないか。いただけないと思います。
いたずらに否定はしないですが。

【Q‐2】印象は違って見えると感じます。

【Q‐3】そんな人もいれば、違う人もいると思います。

【Q‐4】相手に対して、情や友好の意思があるという態度。
社交辞令として見せることもあるでしょうね。

投稿日時 - 2009-04-17 20:27:09

お礼

 kanotaさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。お叱りのほうのご回答ですね。
 そして 
 ★ いたずらに否定はしないですが。
 ☆ とおっしゃるごとく さらにまた わたしも 《まっ 罪ではないでしょうが》と言ったごとく 今回は 総じて言って
 ○ 印象
 ☆ の問題だというふうに 受け取るようになってしまいましたが それで いいでしょうかねぇ。

 というのも
 ★ 【Q‐4】相手に対して、情や友好の意思があるという態度。
 ☆ という定義によって これは たとえば倫理の問題にまではなっていないのかなと思ったのですが ううーん どうなんでしょうかねぇ。むろん
 ★ 社交辞令として見せることもあるでしょうね。
 ☆ というマイナスの側面は 別としてです。

 というのも ぶっきらぼう人間であっても けっきょく
 ○ 相手に対して、情は ほとんど示さないが 友好の意思があるという態度は 持っている。
 ☆ ものだからです。そう考えます。
 
 どうなんでしょうか。わたしが 自分に都合のよいほうへ 傾いたでしょうか。どうでしょう。

投稿日時 - 2009-04-17 21:57:46

ANo.2

bragelonne様、こんにちは。
トンチンカンなわたくしですが、対話していただけますでしょうか。

【Q‐1】負の印象とは一概に言えないと思います。
何をもって「ぶっきらぼう」とするかにもよります。
仮に「そっけない、つれない態度、所作」「ネット上のやりとり」と限定すると、
「ぶっきらぼう」の正負の印象はあくまでも受け手の捉え方によって異なるのではないでしょうか。

【Q‐2】「愛想のよい」を「相手との対話と続ける上で最小限不可欠な努力」とするならば、「自他共に建設的な」対話や議論が延々と続いていくでしょう。
「愛想がよい」=「ぶっきらぼう(愛想がない)」なのでしょうか。

しかしながら、「ぶっきらぼう」場合のほうがしかるべき努力が欠如しているにもかかわらず、得てして対話を通り越して熱い議論が展開されるように思います。 何故でしょう。
「愛想がよい」以上に「ぶっきらぼう」の何に人は興味を抱くのでしょうか。
対話が白熱してそう映るのか、それとも「ぶっきらぼうの何か」に反応して、対話が白熱していくのか。
愚鈍なわたくしにはさっぱりわかりません。ごめんなさい。

【Q‐3】 現代の管理社会の中であっても人間は一人一人豊かな個性の塊とみなせば、ぶっきらぼうを地でいく人もいるでしょうし、また、天然な愛想の上にそれが態度として表される人もいるでしょう。
更に、ぶっきらぼうや愛想のよさを何らかの思惑や信念のために表層的に故意に表現する人もいるかもしれません。

【Q‐4】 《愛想》とは、自然な発露にせよ作為的なものにせよ、自分以外の他人のために行う人間関係を円滑にする所作で、一般的には社交性があると思います。
ですが個性ある人間同士の関係においては、受け手によってはかならずしも適切な社交性があるとは言えないかもしれません。

であるならば、「愛想がないぶっきらぼう」であっても、社交性がある、と言えるのではないでしょうか。

わたくしには以前から抱く強烈な囚われ、つまり、深い哲学的な思索や文章論述に対する決定的な負の印象がありました。
ですから、厚かましくもbragelonne様の逞しい胸をお借りするつもりで書き込ませていただいた次第です。

で、わたくしの場合を申せば、自分自身が現実に邪な思惑から、常に八方美人でイヤラシイ人間なので、どちらかというと「ぶっきらぼうな人間」のほうが好印象です。
あとね、マメでちょっと煙たいくらいの方がいいかも(笑)


 

投稿日時 - 2009-04-17 09:43:30

補足

 これはこれは mashumaro2 さん ようこそ。先日は フーコーのご質問にて 横入りで 失礼しました。ふつうに向かい合ってのお話は これが 初めてになりますね。いつぞやは 誰かさんに マシュマロが二つと言われていましたね。それぢゃ 連想――何を?――してしまいますよね。(すみません)。
 ご回答をありがとうございます。

 二件 つづけて ぶっきらぼうに対して好意的なご回答内容を受け取って いささか あれっ どうしたんだろうと思ってしまいました。それもそのはづ この質問の前編にて いやというほど わたしは 潤滑油を切らしたと思われる応答をおこなっていたからです。そのせめてもの罪滅ぼしといった軽い気持ちで――それがいけなかったか―― 設問したわけでした。

 でも No.1補足欄にて触れた北野誠の辛口批評の事件もあるようですから 哲学の問題になるかも知れません。とりわけ 大きな現実の主題として 取り組まれているかに受け取られるご投稿をいただいたということになったようです。

 ふたつの側面に分かれるようですね。先に まづ
 ★ 《愛想》とは、自然な発露にせよ作為的なものにせよ、自分以外の他人のために行う人間関係を円滑にする所作で、一般的には社交性があると思います。
 ☆ という前提を確認することができます。そしてこの前提を踏まえたあとでは
 ★ 「ぶっきらぼう」の正負の印象はあくまでも受け手の捉え方によって異なるのではないでしょうか。
 ☆ というご指摘が 一般的な捉え方になるでしょうか。繰り返すなら 先の前提を踏まえた上では
 ○ 《ぶっきらぼう=愛想がない》は 必ずしも 《愛想がある・社交的である》より つねに 劣っていると見るまでには到らない。

 さて もう一つの主題は つぎの点でしょうか。
 ★ わたくしには以前から抱く強烈な囚われ、つまり、深い哲学的な思索や文章論述に対する決定的な負の印象がありました。
 ☆ この思索や文章論述が ぶっきらぼうとかかわっているなら いまの質問の むしろ 中心課題であるかも知れません。(最初の側面にかんして いくら ぶっきらぼうと言っても 多少のあいさつくらいは 交わしますから)。
 たぶん この場合のぶっきらぼうとは 日常性を超え 生活感からかけ離れた思索を――おそらく ただ論理的にあるいは合理的にのみ―― 繰り広げる文章論述のことなのでしょうか。
 しかも そのように見る反面では 別様の 妙に気になるぶっきらぼうも あるかも知れない。つまり
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかしながら、「ぶっきらぼう」の場合のほうがしかるべき〔愛想の〕努力が欠如しているにもかかわらず、得てして対話を通り越して熱い議論が展開されるように思います。 何故でしょう。
 「愛想がよい」以上に「ぶっきらぼう」の何に人は興味を抱くのでしょうか。
 対話が白熱してそう映るのか、それとも「ぶっきらぼうの何か」に反応して、対話が白熱していくのか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 思わぬところから 主題を提示されたかっこうです。

 ううーん。どうなんでしょう? これは ほかのみなさんにも 質問趣旨に加えていただいて ご回答を寄せて欲しいところですね。
 
 いま 思うことは ひとつです。あくまで 自分がみづからその主題に向き合って考えたかどうか。自分の思索の歩みにもとづいて 述べているかどうか。ですかねぇ。

 ちょっと ボールを相手のコートに打ち返すのが 早過ぎたでしょうか? どういう展開になるかも ちょっと 見当もつかずにて になります。

投稿日時 - 2009-04-17 10:47:55

ぶっきらぼう大好き人間なので、ぶっきらぼうに回答したいと思います。
Q1ま、そうでしょうね。人間は基本的に群れることを好む動物ですから、非社会的人間は少なくとも平均的人間(多数派)には好まれない、つまり負の印象を持たれるでしょう。
Q2 対話や議論の文章にその当人のぶっきらぼうさが表現できるかどうかということでしょうか?この文章だけでは質問者様の意図がよく理解できませんが、当然出来ると思いますよ。それがフィクションだったらなおのことでしょう。ひょっとしてぶっきらぼう人間がそういったダイアローグの文章を起こしたら自然に「愛想の悪い文章」になるのだろうかということでしょうか?そういうこともあるかもしれませんね。ただ、愛想がよい悪いは相手があってのことですから、対話の中身自体がそういった反映をしても、それを文章化するかどうかには無関係でしょう。
文章そのものは社交性は当面関係なく、意味が伝わればそれで一応の役目が済むので、愛想のない文章が一般的には普通のことか(むしろ良質だと言われるはずです)と思います。ちなみに、愛嬌がある、あるいは魅力的だということとは全く次元がちがいます。
Q3 普通そう考えられています。しかし、愛想だけで出来上がった人間も巷には存在しています。文学などで「ぶっきらぼう人間」が弱者としてよく魅力的に描かれることがありますが、そんな場合多数派愛想人間は当然ながら背景的に通俗的に描かれるのが普通です。つまり愛想というものは愛想でしかなく、極端な場合中身のある人間には必要とされないし、むしろ屈辱的なものだと考えることも可能だからです。
Q4 人間の社会性を示す、あるいは保つ仮面だといえるでしょう。群れて生きなければならなかった人間が種として必然的に、必要悪的に持つことになった2次的特性でしょうか。仰るとおり「ぶっきらぼう」は社交性を拒否するものでしょう。

投稿日時 - 2009-04-17 00:04:40

補足

 amazo007 さん ご回答をありがとうございます。

 たのしく読みました。
 そうですか
 ★ ぶっきらぼう大好き人間
 ☆ でいらっしゃいますか。なんらかのお叱りを覚悟していましたので いささか機先を制せられたようにも感じてしまいました。
 ★ (α) 仰るとおり「ぶっきらぼう」は社交性を拒否するものでしょう。
 ★ (β) ちなみに、〔愛想があることと〕 愛嬌がある、あるいは魅力的だということとは全く次元がちがいます。
 ☆ この二点が あたまに残っています。(β)は そこまで考えを伸ばしてみないといけないと感じました。(α)は わたしの場合 社交性に乏しいけれども それを《拒否》してはいないと思ったりという感じです。

 わたしの親父は 若い頃 そして結婚後の数年ないし十数年まで 周りの人から 《電報人間》と呼ばれていたそうです。《する・しない / 要る・要らない / 好き・嫌い》など どちらか一方を言ったり答えたりするほか 何も言わなかったそうです。
 わたしは 多くの人びとと同じように 親に反抗し 違ったことをしようとして来ましたが どうも このぶっきらぼうについては 似たところがあるようです。
 しかも それは とっつきが悪いというだけだとも 長年 思ってきたのですが このところ そうでもない部分があるようだと感じたものですから この質問にあい成りました。《ぶっきらぼう大好き》と言われると 少し拍子抜けのようでもあります。

 【Q‐2】は 舌足らずでしたね。文章とは切り離して捉えてよいようですね。
 そして (β)の 愛想というよりは 愛嬌やその種の魅力の問題 こちらのほうが 大事なのでしょうね。愛想は たしかに つくるという印象が伴ないますから。
 でも
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 Q4 人間の社会性を示す、あるいは保つ仮面だといえるでしょう。
  群れて生きなければならなかった人間が種として必然的に、必要悪的に持つことになった2次的特性でしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というように 愛想も 一般的であり たとえ《仮面》であっても むしろその余裕を持って つくろうことも 社会一般からすれば 間違いではないだろう。また したがって 愛想を ふつうのこととして 受け取り合っていけば ぎゃくに いちいち 愛想を振りまくことも 必要がなくなってくるかも知れない。――このように 受け取りました。

 (α)ですが 《拒否》には こだわってしまうのですが。つまり たとえば 愛想を振りまくような仕草に対しては わたしは 軽く会釈して 受け取り 受け容れるというところまでは しているつもりなのです。
 別のかたちで 考えるとしますと 
 ○ 社交性とは 話し合いを拒まず むしろ積極的に 互いの考えの異同を 明らかにしていく。その異なる部分を それとして 受け容れる。そうして どこまでも 対話をつづけていく。
 ☆ こう考え 振る舞ってきたつもりですので 《拒否》には 違和感を覚えました。――たぶん 全体から察すると 作り愛想 これは拒否するといった意味合いでしょうか。

 あとは
 ★ 文学などで「ぶっきらぼう人間」が弱者としてよく魅力的に描かれることがあります
 ☆ という点ですが このように特別視されているようだと それは逆に まだ 市民権が 得られていないなというようにも感じられました。

 再度見直した結果ですが
 ★ Q2 対話や議論の文章にその当人のぶっきらぼうさが表現できるかどうかということでしょうか?
 ☆ これについては けっきょく 次のような疑問を描いていたのだと気づきました。
 ○ あいさつや しゃべり方のくせなどではなく 対話や議論の 内容としての 文章をとおして ぶっきらぼうが 見て取れるのだろうか。(ぶっきらぼう人間が 表現しようとして できるかではなくて です)。
 ☆ 一気に そこから思ったことは こうです。
 ○ ぶっきらぼうと思われるのは 《歯に衣着せぬ表現》ということからなのだろうか。
 ☆ です。たとえば 最近 北野誠というタレントが 辛口の批評をおこなって 活動休止となりました。そのような表現のあり方 あるいは 内容として いわゆる真相をどこまで 公表してよいのかなどなどと ぶっきらぼうとは つながっているのでしょうか。とも ふと 思いました。

 ありがとうございました。
 (お礼欄では 字数が おさまらなくて 補足欄に 述べました。ご了承ください)。
 (取りまとめて すっきりした筋にしようと思えば 出来ないこともないとは思いましたが 思いのたどったこのままにて 失礼します)。

投稿日時 - 2009-04-17 09:07:12

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