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解決済みの質問

すべてのひとを説得することができますか

 コミュニケーションについて問います。

 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?
 ☆ わたしの感触を述べますので ご見解を述べやすいように たたき台としてください。
 【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。
 (2) ひとが納得するかどうかは 説得者の能力や努力の及ばぬところである。
 (3) よって 理論によって すべてのひとを 納得させうるが 説得し切れるかは 分からない。

 ☆ そもそも コミュニケーション論です。
 【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか?
 【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。

 ☆ 【Q‐ω】に付随して わたしの関心を持って知りたい課題です。
 【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?
 【A‐β‐1‐br.】 (1) 対話の主体として 話し手(書き手・発信者)と聞き手(読み手・受信者)の関係を おのれひとりの内面に 機能させるために きっかけとなる。
 (2) その意味では そばにいて欲しいと同時に 仲介者の役をになってもらってもよいのだが 基本的に 説得行為ないし対話には その発言は 加わらないのではないか。
 (3) 前項は 第三者の存在が 重要であり大事だ。と同時に 一対一の対話の発言には 局外者となるのではないかという意味です。

 【Q‐β】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならないことですか?

 ☆ 研究論文などは読んだことがありません。でも コミュニケーション論として 実質的に 最先端を行く日本一の内容を目指します。問い求めの過程として 世界一を目指します。
 ふるってご投稿ください。おしえてください。

 なお これは 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】および【Q:けんかをしては 何故 いけないのか】の続編です。

投稿日時 - 2009-05-08 19:51:34

QNo.4942224

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

bragelonne様、こんにちは!

ところで、「芸術・感性」「哲学・思想(宗教含む)」「(広義の)科学」を 《アマテラス圏‐スサノヲ圏》における「ヨリ」「イリ」「ヨセ」に呼応させることは可能なのでしょうか。

仮にそう出来ると考えますと。

原始の時代━ヨリ感性━芸術・感性中心の時代

スサノヲ覇権時代━イリ知性━哲学・思想(宗教含む)至上主義の時代

アマテラス覇権時代━ヨセ知性━(広義の)科学至上主義の時代

という歴史を経てきたように考えるわけですが。
で、bragelonne様はアマテラスからスサノヲへの主従の転換を求めていらっしゃいます。
「哲学・思想(宗教)>>>(広義の)科学」という主張になるのでしょうか。

いっそのこと、この2つの概念の主従転換ではなく、芸術・感性といった概念も加えて三つ巴のバランスのとれた状態が心地良く求められるのではないのかな、と考えるのですが。
科学を否定的に捉える意見が多いため、わたくしはちょっと「?」なのです。
この3つの概念は、領域が重なる余地はあるかもしれませんが、概念同士が衝突することを求めることは決して人間の未来にとって得策ではないとわたくしは思うのです。

もしbragelonne様がご賛同くださるなら、どのように考えることが出来ますでしょうか。
それとも…やはり3つの概念の中で「哲学・思想(宗教)」至上主義時代の到来を望んでいらっしゃるのです?

ps:
(1)「芸術・感性」って…どこぞのa様のことをふと思い出して、我ながらソファからずり落ちそうになりました♪
わたくしね、あの方がカム・バックするまで、超不得手とする哲学カテに居座っているのですが、考えるのが苦手だから、つ、つらい…。
(2)コマ回しにはね、ちょっとかなりの自信があります。ふふ。

投稿日時 - 2009-05-18 13:13:32

補足

 mashumaro2 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 いろんな観点から いろんなふうにお考えになるのですね。ふと見ると 横にいたり あるいは むしろ前を走っていたりと 神出鬼没でいらっしゃる。
 ★ a様のこと
 ☆ 《一家言》のあり方もさることながら――つまり 部分的に どう取り扱ってよいか戸惑うところがあったと思うのですが それ以上に―― どうも イニシアチヴを取ろうとするといった問題ではないかと いま 思っています。任せてもいいのですが 全権委託というわけには行かなかったように思います。
 ★ コマ回しにはね、ちょっとかなりの自信があります。ふふ。
 ☆ 《ジャイロ効果》などについて 明るくないので 論を発展させていってくださって いいと思います。

 さて 人類の歴史を展望するときになりました。!!!
 わたしの見方からは 図式を 修正します。それは 《ヨリ・イリ・ヨセ // コギト》という知性のあり方を基礎にしますと 最後の《科学思考》は 或る意味で 中立の道具ですので 《ヨリ》は別としても 《イリ》にも《ヨセ》にも 大いに用いられるという点を加味するとよいと思うのです。たとえば

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ 原始の時代━ヨリ感性━芸術・感性中心の時代
 ↓
 ○ スサノヲ自立時代━イリ知性━哲学・思想(宗教含む)への目覚めとそのいとなみの時代
  * すなわち すでに ここで 《コギト》が始まった。
  * 稲の栽培=時間過程という要素;共生は動態である。
    鉄の発明・利用=道具の進化
    薬草の開発=物理化学の探究
 ↓
 ○ アマテラス覇権時代━ヨセ知性━(広義の)科学至上主義の時代
  * 日子(=彦)・日女(=姫)というように また 《天照らす》
  というように 直前の時代から 人間の精神に 理性という光を見る
  ことが始まっている。
  * 《日子の御言》としての光から 《すめらみこと》として後光の
  差した光になることを みづから 追い求めた。すめらとは 須弥山=
  最高峰のことだそうで いよいよ人間的となり ますます人格を磨き
  全世界において統一第一日子であることを 夢見たし これを 実現し
  たと思った。
  * そのためにこそ 知性も芸術も宗教も そして あらゆる科学も
  利用・活用するという思潮が 社会的に 優勢となった時代。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 第二と第三の段階のちがいは ふつうの勤勉とスーパー勤勉すなわちガリ勉との違いと見ると 分かりやすいかも知れません。

 ★ いっそのこと、この2つの概念の主従転換ではなく、芸術・感性といった概念も加えて三つ巴のバランスのとれた状態が心地良く求められるのではないのかな、と考えるのですが。
 ☆ あの火炎の舞うような意匠をもった縄文土器には その感性のあふれ出るような美しさを感じます。もちろん 全部を 活用したい。ただし ふつうの知性たるイリの視点で 活かしていきたいと思います。

 どういう時代の到来を望むかと考えれば そうですね。ゴートの王で ローマ(西ローマ)を短いあいだ支配したテオドリック大王という人間がいます。その統治のもとでは 街道には 追い剥ぎが出ないどころか 落とし物をしても 持ち主に返ってきたと言います。そういう治安のよさのもとでの生活がよいように思いますが どうでしょう?

投稿日時 - 2009-05-18 14:46:32

このQ&Aは役に立ちましたか?

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回答(53)

ANo.53

ぽこぺろぽです。あのですね、私は大佐や皆さんの質疑応答に、ケチをつけているのではありませんでして、ハイ。ただ、主題が主題なだけに議論は避けられないであろう、運営者も哲学カテにかぎっては、質問提出時に議論に釘を指しつつも、実際には容認している、これを厳密に裁定しては、ひとたまりもないであろうと申し上げたわけです。

 これは、ほとんどの哲学の質問にいえることですし、数学のような正答を求めるカテゴリーにおいても、片側が正答を認めない、あるいは現段階においては、正答が見当たらない場合には、議論が起こり得るとの旨を指摘したまでです。運営者の議論禁止の方針は、アマテラシズムの賢明な適用だと考えますが、はたしてわれわれ利用者が、これを真に受けていいものかとの懸念を抱いております。なぜなら、単純に面白くないからです。

 学術的、技術的な疑問の純粋な問いかけは、単に適切な回答が寄せられれば解決します。所詮、QAサイトもエンターテイメントですから、それだけでは飽き足らない利用者の増加は、当然のごとく予想できたわけです。それには対話が必要で、それに議論が付随することは避けられません。

 運営者は敢えておおざっぱに、議論禁止を謳っているだけで、挑発的な投稿を制限し、問題となる投稿を編集しやすくしているのだと考えます。法は遵守されるべきですが、お上の理念までも逐一に支持する必要はありません。これに追従して当然であると説くのが、アマテラシズムであります。

 実は、私のかつての恋人も統合失調症でしたから、つらいお気持ちはよく理解できます。私も彼女にゴミ扱いされたこともありましたが、倒錯しているので本心ではないことは明白でしたし、おそらく私は彼女の《存在》だけではなく、《欠陥》も‘愛’してしまったのだと思います。

 しかし、お礼をしない溺れている子供には、私がどうしても助けたい動機がありませんし、彼の本心を窺い知るまでの対話の余地がありませんから、どちらでもよいのです。助けなければならないとすれば、私の代わりは他にいないということでしょう。それはそれで、私の存在理由となりますから。愛していないからには、彼のことはどちらでもよろしい。彼を憎んではいません。

 このご質問への回答は、これを最後とさせてください。また、別のご質問にお邪魔します。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-05-30 17:02:41

お礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 今回は むしろ 行動方針において互いに 違いがあると分かりましたよ。
 分かりやすく焦点を突出させたかたちで言えば こうなるでしょう。
 つまり 造反の仕方についての 行動方針が 違う。のだと思います。

 ★ アマテラシズム
 ☆ に対する抵抗は じつは 反対論は いっさい 言わない。持ち出さない。というのが わたしの方針です。
 あたかも アマテラス為政者と同じように えらそうに ものを言う。これが 基本です。

 このことを 別の側面をめぐって言いかえれば こうです。
 ○ アマテラシズムの言い分は すべて ともかく いちど こちらは 飲んでから ことに当たります。
 《議論禁止》の条項をも あたかも無条件に 飲んで ことに当たります。
 問題が起こったとき できれば 双方で 話し合いをもって いちばんよい方法を考え出していく。こういう方向を目指しますし そういう情況の実現を目指します。
 途中で 議論が起きてしまったとき 極力 これを回避しますが 相手のあることですから そして 相手に合わせないことには 対話は 続けられないと来ていますから 思案のしどころになります。
 けっきょく いまのところ――これまでも そうして来たように―― 対話という前提でつづけられるかぎりで その議論にも こちらは応じます。つまりは 違反とそれによる削除を覚悟して そうするという意味です。

 これは 行為形式――たとえば 《存在を愛し 欠陥を憎む》――としてではなく 行動方針として 違っているもののようです。旧い言葉では 戦略ではなく 戦術がちがうようです。対等ではないでしょうか。

 ★ お礼をしない溺れている子供
 ☆ に対しては もっとも冷酷無残な考え方を採用するとすれば こうです。出来るだけ早く ほろびるように促すこと これです。それには その人間が 心が癒やされ 魂が救われることが 必須のことです。そして そのためには 存在を愛する=つまり この場合 生命救助をまづは しておく。こういう考え方です。
 これが 戦術の違いか 戦略の違いかは にわかには 定かではありません。

投稿日時 - 2009-05-30 18:04:26

ANo.52

ぽこぺろぼです。あらかじめお断りしますが、「存在を愛し、欠陥を憎む」との、措定そのものには異論はございません。対話の必要性についても同様で、問題に気づく、あるいは気づかせることが肝要です。

 さて、議論禁止はこのサイトに限定された話ですが、アマテラス影響下の一般社会においても、議論はしばしば罪悪視されます。あらかじめ議論禁止と決められている以上は、私もそれに従うに吝かではありません。

 しかし、質疑応答で良質な議論が起こり得る、あるいは水掛け論になるといった、両極端な効果が出る可能性がある以上は、罵倒や皮肉や頻度の高い問答の応酬のみを、禁止するといった措置も考えられます。失礼ながら、大佐の提起された質疑応答は、必ずといっていいほど議論に発展しています。大佐ご自身も議論の余地を含むことを、自覚なされてのご質問でしょう。運営者がこれらを杓子定規に捉えた場合、規約に抵触すると判断しても不思議ではないでしょう。もちろん、有意義な部分も多く内包しますし、ご質問ごと削除されては、複数のご回答を寄せられている皆さんも、私も途方に暮れてしまいます。

 溺れている子供の存在を助けるのは自由ですし、その行動は人道に適ったものです。ただ、私は彼を憎むから助けないのではなく、双方の自由意志の合致をもって助けないのです。通常であれば、憎まれっ子も助けます。しかし、お礼を拒絶する子供には、事故の前後ともに対話の成立の可能性がありません。

 私はいかなる極悪人も、断頭台に架けてはならぬとの信念を持ちますが、正気の自死の責任は負いません。責任があるにしても、事故を目撃したことによるもので、助けるかどうかは二次的な問題です。他の者による救助の邪魔立てなどという、不粋は決して致しません。こうした態度で臨まなければ、対話拒絶を目論む者はなくならないでしょう。私は極論を唱えているのでしょうか?

投稿日時 - 2009-05-28 00:54:29

補足

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 どういうふうに言い表わせば いいでしょう。
 わたしには 統合失調症の妹が います。入院していますから それほど 手間がかかるわけではありません。もう一人の妹がいて いくらか離れたところに 住んでいますが わたしが 責任者となっています。 
 或る日 こう言いました。虫の居所がわるかったのでしょうか 何も お兄さんに面倒を見て欲しいと わたしが頼んだ覚えはないと。しかしながら――つまり 小さなことを数えれば もう百回二百回は 絶望したことがあるわけですが―― ほうっておくわけには行きません。
 こういった単純なことを言おうとしていたのですが どうでしょう?

 あと 議論につきましては あくまで 主題を決めて それについて 回答と応答とを繰り返して――つまり 《情報交換》は 規約の趣旨なのですから―― よりよい解を見出していくというに尽きると思うのですが どうでしょう? 哲学の主題――つまり 質問内容ですね――に関しては この質疑応答が 長くつづくということ。あるいは 言いかえれば 解を見出すことは むつかしく ほとんど常に 問い求めを広く深くすすめる程度に終わるというものです。
 交通整理をしておくといった情報交換になると考えます。
 これは 規約の精神にも そして 規約の条項にも 合致しているとわたしは考えますので 質問者として そういう姿勢で臨んでいます。それでも 規約違反の議論をしていると言われれば もう わたしは あぁ そうですかと返すほかないというところです。

 たぶん pokoperopo さんは この基本的な考え方から遠く離れておられるわけではないと思います。ただし さらに何とかならないか もっとうまい方法はないものかと探っておられるのではないでしょうか? ですから わたしの場合は 実際に 規約にも合致して わたしの哲学の考え方にも沿った理想的な情報交換としての質疑応答を 実地に おこなっていくことで 新たな地平に ともに 駆け上がりたい。こう思うのみです。

 おっしゃっていることは 原則であり 原則として 妥当だとわたしも考えます。世の中にあるのは この原則が想定している人びとの行動だけではないようなのです。違反しているというよりも その違反の状態であることが分かっていないという場合が あると わたしは 分かったわけです。
 ちなみに なぜこのように地球外知性が現われたか。わたしの考えでは スーパー歴史知性によってふつうのイリ歴史知性がパクられて 超道徳規範として打ち出された《和の精神》が 厚い壁となって 立ちはだかり これは 人びとを 次から次へと 絶望の淵へ落とし込んで行ったからだと見ます。
 素朴な生きた横の関係としての《和》が 縦の関係となって 規範として堂々と掲げられ頭の中にいつもひんぽんと翻る不動の大旗と化した《大和(やまと)》に取って代わられています。
 あとは どうも 独我論とやらが 同じく 人びとの頭の中で こんな旗などは もはや 自分には関係ないと言い聞かせるようになった。つまり 自分のほうから――アマテラスではないふつうの市民のほうから―― 死んでいけばいいのだと思うようになったのではないか。うんぬんです。どうでしょう?

投稿日時 - 2009-05-28 07:31:31

ANo.51

ぽこぺろぼです。ご感想をいただきありがとうございました。常に「存在を愛し、欠陥を憎む」とおっしゃりますね。ここで疑問が生じました。

 まあ、対話に関する認識の錯綜につきましては、私にも責任の一端がありますから、今後の課題となりましょう。議論が生じる可能性を認めなかった方がいらしたのは、少しばかり驚きましたが、私は議論を禁止しても起こり得る以上は、編集の他にも方策があるのではないかと問題提起した次第です。

 さて、本題はこちら、お礼をしない子供が溺れている場合です。彼は、あらかじめ対話を拒絶しています。仮に、断崖絶壁に立たされても、お礼はしないと宣言しているわけです。実際に、彼は溺れてしまいました。私は彼の《存在》を愛します。しかし、彼は自己の《存在》よりも、自己の《欠陥》を愛したのです。このような相手とは、対話が成立するのでしょうか?

 独り言にしても意義を感じません。見殺しにするといえば聞こえは悪いのですが、彼には《命》より大切なものがあるのです。三島由紀夫の矛先は曲がっていますが、信念による命懸けには敵いません。前拙問にて、私が皆さんに説得されたのとは、わけが違うのではありませんか?

投稿日時 - 2009-05-27 22:44:58

お礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 まづ
 ★ 議論
 ☆ のほうは たぶん もっと ことは 単純なんぢゃないでしょうか? つまり 水かけ論になったり どちらも言い分だけを繰り返していて 堂々めぐりになったりする場合 このような場合としての議論を 《禁止》としているということではないでしょうか?

 ★ お礼をしない子供が溺れている場合
 ☆ これは どこまでも 単純化になりますが
 ○ 存在の保障が 最優先される。
 ☆ と考えます。極悪人でも 医者は 生命救助が先です。一般は この医者の言うことを 聞くべきです。
 そうでなければ この
 ★ 自己の《存在》よりも、自己の《欠陥》を愛した子ども
 ☆ と 対話をつづけることも出来なくなります。親 特に 母親は 医者の立ち場と同じなのではないですか?
 たぶん pokoperopo さんは 助かってからのことを おっしゃっているのですよ。どうでしょう?

投稿日時 - 2009-05-27 23:42:32

ANo.50

いつもご丁寧なお礼を下さりまして、本当にありがとうございます。

>Achille enivre   au "Cimetiere marin"

Parfait!!!
素敵な詩ですね!
完璧に美しすぎるので、とうとうギックリ腰になってしまいました~
特に、第2節目が何といっても諳んじていて心地良いです。
抑揚も含めてとにかく悩ましすぎます。
「一行の音節数を合わせ 韻を踏んで作ることは どのくらい むつかしいのかを実験したまでですので」なんてサラリとおっしゃらないで下さいませ。
本家のかの君を凌いでいるのではないでしょうか?! 
う~。←吠えてる

bragelonne様、凄すぎ。 三跪九叩の礼状態です。
こちらの詩で特にご自身でこだわった箇所はどちらなのでしょう。
第4節目のくだりなのでしょうか?

で、同じくひっくりかえったのは、「Sensation」のあの訳がそれほどお若い頃のものだったとは!!!
「おんななどを従えて」は「ぶっきらぼう」な感じで、bragelonne様のあの訳には、やはり一番相応しいと拝察致しております。
以前英語訳を見かけたことがあるのですが、「as happy as if with a woman」(暫定私訳)だと、何だか「あれれ?」な感覚に襲われるのです。
やはり…言語的な音感によるものでしょうか(笑)

>《全単射》なら 相互の理解がなめらかに行っているということですね。理想的であると。

はい、かぎりなく理想的かもしれません。
ですが、「相手を説得する」という行為自体が本来は決して楽観的なものではないのかもしれません。
いかに優れた理論やアイデアとはいえ、わたくしたちはその発案者の意図や思惑をも自ずと察知しつつ、かつ、相手との駆け引きやバランス、更には自らの「損得勘定」をも加味しながら、本当に納得できるかどうか判断していっているように思えてならないのです。


そうは言っても、やはり、基本は対話ありき、発案ありき、かと思われます。
幾ら気の利いた偉そうなことを主張しているようでも、所詮は誰かの見栄えの良い意見をマイナーチェンジしたものにすぎない、ということが多い中、bragelonne様のアンテル・ムライスムは本当にユニークで独創的だなあ、と感心致しました。
抽象的な理論ゆえに愚鈍なわたくしは現実と混同したりしてテンテコマイに何度も陥りましたが、おかげさまで色々と勉強させていただきました。
(ここだけの話、今までの稚拙なわたくしの回答の中で、No45の図式が一番気に入っているのです、フフ♪ 笑い飛ばして下さいませ。)


いかに、自分が無知の知すら知らず、表層的に物事を捉えて満足していたか、p様の絵画論でも身にしみました。
哲学カテの方々の洞察力っていうのは、素晴らしいと思います。
記述力、表現力がどうの、という問題ではないことが良くわかりました。

「わたくしとは何者か」と自ら問うた経験すらなかったわけでして、少し哲学カテを離れて静かに頭をリセットしてみたいと思います(つまりついに思考停止状態、笑)

また厚顔無恥な質問がお目にとまった際は、ご教授のほどよろしくお願い申し上げます。ありがとうございました。
(p様もどうもありがとうございました。またご教授お願い申し上げます。必ず全て読破します!)

投稿日時 - 2009-05-26 09:23:30

補足

 ご回答をありがとうございます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「相手を説得する」という行為自体が本来は決して楽観的なものではないのかもしれません。
 いかに優れた理論やアイデアとはいえ、わたくしたちはその発案者の意図や思惑をも自ずと察知しつつ、かつ、相手との駆け引きやバランス、更には自らの「損得勘定」をも加味しながら、本当に納得できるかどうか判断していっているように思えてならないのです。
 この点につき、いかがお考えになられますでしょうか。

 そうは言っても、やはり、基本は対話ありき、発案ありき、かと思われます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが 実践論として 或る種の仕方で 壁のごとく 立ちはだかる課題であるでしょうし もうひとつの見方としては ゆっくり じっくり 時間をかけ 人びとの同意を得つつ 水嵩を増して行って ことに当たらねばならないところなのでしょうね。
 勝海舟と西郷隆盛の直談判によって 無血開城の明け渡しになったことは 二人の人柄や境涯によることも然ることながら もはや徳川幕府には 人心を掌握し 社会を主導していく思想的な基盤が消えてしまったと見られると聞いたことがあります。まさに 情況の全体を見て判断せねばならないでしょうし しかも それまでたどった経過の質と量などなどが さまざまに影響し合って 流れをかたちづくっていることでしょう。
 ★ そうは言っても、やはり、基本は対話ありき、発案ありき、かと思われます。
 ☆ の上に ここでは わたしは 哲学の徒に似つかわしからざる発言として 運の良さを挙げたいと思います。テオドリック大王は 先駆者のオドアケルがやったこと・やろうとしたことの上に うまく乗って 運良く 統治を運びました。
 あとは 《駆け引き》などというものは まったく どうでもよいのだという見解もあれば いやいや ほんの些細なことで 駆け引きのごとくに 右か左かを決めたことが 大きな分かれ目になったという事実もあるかも知れません。
 自分自身の損得など どうでもよいという勇ましい(?)考え方は たぶん 通用しないでしょうし もし通用したとすれば その考えの持ち主が 指導者になっても 人びとは あまり 面白くないのではないか。そのあたりの事柄は もはや 軽々と論じるべきではないでしょうし おそらく 個別にその案件ごとに 事情が違うでしょうから 論じることは出来ないと言うべきなのでしょう。
 鳩山由紀夫が 友愛ということを――前から 言っていましたが―― 持ち出して来ましたね。潮の流れが 変わるでしょうか。燕が一匹では 春にはならないでしょうか。(これは ただ わたしが やや面白がって 言っている部分もあります)。

 あぁ これで 一たん 休憩ですかねぇ。
 あぁ そういえば a様が戻るまではとおっしゃっていたぢゃないですか。ま 最良の道は 変更に変更を重ねるものですが。
 取りもあえず この不愛想のままにてです。a bientot.

投稿日時 - 2009-05-26 11:01:18

ANo.49

God morgen!
ノルウェー人女性の友人宅に遊びに行った時、寝るときにトップレスだったから焦ったことがあります。
たまたまだったのでしょうか?
bragelonne様のID名にオマージュをこめて。
(だってご自身でおっしゃっていらしたでしょ、これ。 またまた腰を抜かしました、笑)

>○ 永遠の現在
>☆ という観想としての視点 もしくは 思想(生活態度)に進まれると思います。

はあ。哲学カテ潜入以前と以後もエピキュリアンな「永遠の現在」というスタンスは何ら変わってはおりません。
今後歳を経るとともに、さらにその想いが強くなるのでしょうか。

>○ 固有時
>▲ (ヰキぺ:全単射) 

この図は理解したのですが…これはコミュニケーションをする上で「教える」「教えられる」における一時的な断絶によって単射、全射、全単射と異なるということをおっしゃっていらっしゃるのでしょうか。
と思って、わざとこちらの質問に移動したわけなのですが。
 
>縁覚 (Sensation)

  Par les soirs bleus d'ete, j'irai dans les sentiers,
  Picote par les bles, fouler l'herbe menue
  Reveur, j'en sentirai la fraicheur a mes pieds.
  Je laisserai le vent baigner ma tete nue.

  Je ne parlerai pas, je ne penserai rien
  Mais l'amour infini me montera dans l'ame,
  Et j'irai loin, bien loin, comme un bohemien,
  Par la nature, heureux comme avec une femme.

「縁覚」って一体なんですか?
「タイトルのsensation」「夏の青い夜などに わたしは小さな野径をたどる」「ただ果てしなき遥かかなたへ」「ボヘミアン」で、おそらくこの詩かと。
これはね、諳んじることができる数少ない詩の一つです。
で、第2節目からは、少年のハスキーがかった声が加わって、一緒に諳んじている不思議な錯覚に襲われるのです。

以前、「ビートルズの曲って、女の子には100%はわかるはずないよ」と言われたことをふと思い出しました。
この風来坊な感覚って、ある時期の男の子特有のものでしょうかね。
わたくしもどちらかというとフラ~リ、なのですが。

「俗界を隈なく」「西」ですか…。
Yspania? finis Africae?
オリジナルがbragelonne様の手にかかると、深遠で敬虔な宗教的ニュアンスに彩られているかのように感じられます。
「西方」というのは…日本人の宗教的な方向を指し示す「sensus communis」なのでしょうか?
わたくしは、何故かカマルグ地方の湿地帯と海が浮かびます。
つまり、「南」です。 

>☆ 哲学のほかに 文学の問題があるということ。もうひとつには 道草を喰うことにも意義があるだろうということ。

哲学の道において道草を喰うことと、哲学の道における「無駄」「ロス」とは似て非なるものなのでしょうか。
哲学にかぎらず、お互いのどちらかが「無駄」「徒労」「飽きた」とするならば、コミュニケーションは途絶えてしまいがちになるわけでして。
ちょこっとpokoperopo様に問われまして、「解をbragelonne様へふっちゃえ!」と丸投げさせていただいた次第です♪

投稿日時 - 2009-05-25 10:51:55

補足

 シャローム(安寧)ハシムニカ! Ms.masumaro2 .Jeg takker for svaret.(これは オンライン翻訳です)。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   Achille enivre   au "Cimetiere marin"

On erre sur mer vers une mere
D'une terre septentrionale;
On s'inquiete en quete de Sete,
Une villette meridionale
Dont un poete de Zenon traite:
Comme Achille on flotte a bord
Entre a butte son Cimetiere
Et sa mere qui loin soit a la mort.

Torture, tantalise, point agile,
Depuis avant-hier peu avant minuit,
Pauvre Achille au talon fragile,
La butte comme une tortue devant lui,
Il faut s'en retourner ...sur sa chemin...
Chez soi...toute la voie; On se hate
Sur mer, songeant, ce silencieux matin,
Tant a sa mourante qu'a son bat.

O mirroir morne de la Mer romaine,
Malade a la mort est ma mere!
Ah! pauvre maman, pantheiste reine!
Qui t'amene? quel vent mauvais et amer?
Mechant typhon fruitant des mechantes pluies?
Que je hais de notre hemisphere
Bien qu'elle maintes cereales produit
Cette hemoragique saison fiere!

O mon pere, a votre mystere
De la fleche ailee et solaire,
Je me prete, et je le regrette!
Je volais, voyageais, et ne volais pas,
Jusqu'a ce moment, ce triste trepas,
Comme une planete ou une flechette
Qui vole immobile a l'envers!
Inaccessible etiez-vous, mon pere!
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (1) 豚もおだてりゃのごとく ランボ・サンサシオンの翻訳の評判に気をよくしまして。(2)西欧に――生活基盤としては――さよならを言っている例として。(3)南のカマルグに近い土地ということで。
 ☆ 《縁覚――独自にさとりを開く境地―― / 俗界 / 西方》が ブッディスムの用語です。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >○ 固有時
 >▲ (ヰキぺ:全単射) 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは ひょっとして 通じていらっしゃるかもと思ったものですから。
 ★ これはコミュニケーションをする上で「教える」「教えられる」における一時的な断絶によって単射、全射、全単射と異なるということをおっしゃっていらっしゃるのでしょうか。
 ☆ なるほど。これは おもしろいですね。《全単射》なら 相互の理解がなめらかに行っているということですね。理想的であると。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 哲学の道において道草を喰うことと、哲学の道における「無駄」「ロス」とは似て非なるものなのでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについては 自信があります。これこれの主題は 《無駄・無益・どうでもよい・ロス》等々と規定しておけば あとは その主題をいじくるにしても 自由に 道草を喰うことができます。そういう問題だと考えます。
 その場合は たぶん 《全射・単射》が 互いに別次元のものと おこなわれている。つまり あそびですね。広い意味の文学だと思います。

 ★ この風来坊な感覚って、ある時期の男の子特有のものでしょうかね。
 ☆ これは はっきり言って 個人差があります。これぢゃ 答えにならないのですが 仕方ありません。わたしの親父は 若い頃 仕事先でウマが合った人と その日 仕事をほっぽり出して その人の故郷だというので 九州まで 突然 旅をしました。晩年 ひまを見つけては 奈良・大和地方へ行きっぱなしでした。たぶん 男は いつまでも 男の子だと思います。
 ☆ そう言えば bragelonne の語源は なんでしょう? あの回答に対しては その投稿者の名前におつきあいしたまでですので そこのところを よしなに どうぞ。

 これで ぜんぶ お応えできましたかね。盛りだくさんですよね。あの詩が 幅を取ってしまいましたね。(いくつかあるのでは ありませんので その点も よろしく。つまり 一行の音節数を合わせ 韻を踏んで作ることは どのくらい むつかしいのかを実験したまでですので)。

投稿日時 - 2009-05-25 14:09:01

お礼

 補足です。

 ランボ訳詩において
 ○ おんななどを従えて
 ☆ という無神経な文句は 《縁覚 / 俗界 / 西方》の抹香臭さを消すために どうしても そこに行きました。なら 仏教風を消せばいいではないかとも考えましたが そのときは まだ アウグスティヌスにも出会っていませんでした。なら もう今は 持ち出してくるなとも思いますが どうでしょう。手直しできますでしょうか? もう今は というより二十代まででしたから 創作は むりですね。――ごめんなさい。

投稿日時 - 2009-05-25 14:36:41

ANo.48


 さて、問題は対話意欲もさることながら、対話への認識です。現在は、以下のような状況にあります。

(拙問) なぜ議論が禁止されているのか QNo.4971420

 もうひとつ、これは回答へのお礼を暗喩してのご質問とのことです。

お礼をしない子供がおぼれています。 QNo.4974651

 対話への道は果てしなく遠く、説得はアンドロメダの彼方にあります。よろしければご感想をお聞かせ願います。

投稿日時 - 2009-05-23 20:45:26

お礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 ですが 今回のご回答内容には 質問者ですが わたしは 賛同いたしかねます。

 【Q:なぜ議論が禁止されているのか】
 ☆ これについては わたしの考えは 単純で はっきりしています。
 質問の主題ないし趣旨に沿って 回答を寄せ その内容について 質問者・回答者の双方が さらに 吟味・検討していく。よりよい解を問い求めていく。――これに尽きます。
 その質疑応答の過程で 議論と呼ぶべきことがあったとしても それは 二次的な問題であると 主観的には 心得ています。それで 規約に抵触するのなら もはや 仕方無いと見ます。
 きわめて 単純です。
 それ以外に 多少の寄り道をしたり 派生する課題や話題に触れたりしても いいでしょうし いいでしょうが あくまで 問題は 質問の問い求めを どこまでも 追究すること この一点です。どうでしょう?

 【Q:お礼をしない子供がおぼれています】
 ☆ これも わたしの反応は 単純で はっきりしています。存在を愛し 欠陥を憎む。この原則です。生命救助はします。そのほかの欠点は それとして 自分の中にまづ認識し これを・つまりその観念を 憎み棄てる そして その棄てたことを その相手の子どもに伝える。――ここまでの作業を ひとまとめとして おこないます。わたしにとっては この問題で 議論の余地はありません。つまり わたし本人が どうするかですから。

 ですから これら二つの質問の主題をめぐって 一般的に言って みなさんは 尾ひれをつけたり 飾りを飾ったりして それこそ 議論をしておられるように見受けます。そういう意味で 今回は 賛同しかねました。どうでしょう?

投稿日時 - 2009-05-23 22:55:07

ANo.47

ぽこぺろぽ上等兵であります。3度目の蟄居を命じられ、不名誉除隊寸前であります。しかるに、もとよりの無学に加えて、舌鋒鋭くというわけには参りませんがおゆるしください。

 彼らを水飲み場に連れていくには、水の安全性や美味さを説くことではなく、《渇き》という本能に訴えるのが鍵となるでしょう。いや、むしろ「み、水をくれ・・」と相手が懇願するようになれば儲けものです。ということは、予め水のありかを示唆することは、説得方法として下策なのではありませんか?

 この《渇き》を引き出す方法が、対話と呼べるのでしょうか?対話というものは、自らも主張すると同時に、相手の主張も許すということです。そうなると、水飲み場よりも普段の牧草地での生活がいいやということになり、水飲み場のありかを教わりたいという願望が生まれにくくなります。対話にもかかる必要性に応じた力学が働くので、説得と呼ばれる状態にあること自体が、説得困難な状況の証左と考えますが、いかがでしょうか?

投稿日時 - 2009-05-21 18:48:12

補足

 pokoperopo さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 3度目の蟄居ですって? 少々荒いことをやっておいでになるスサノヲイストでいらっしゃいましょうか。ほうっときますよ。

 今回のご回答へのお応えは 比較的かんたんです。
 ★ 彼らを水飲み場に連れていくには、水の安全性や美味さを説くことではなく、《渇き》という本能に訴えるのが鍵となるでしょう。
 ☆ これは おっしゃるように
 ★ 予め水のありかを示唆することは、説得方法として下策なのではありませんか?
 ☆ です。そのとおりだと考えます。
 つまり 決して 《水の安全性や美味を説く》ことはしていません。ただただ 主題に応じて 自分の見解を述べて 対話をすすめているだけです。《〈渇き〉という本能に訴える》ことも 決して けっきょく それとしては していません。すべて 主題をめぐる問答のすすむところなのだと考えます。 
 つまりは とうぜんの如く わたしたちは みな 水を求めています。そのことが 対話の過程で 分かってくる。気づいてくる。ただ それだけです。つまり それだけで すでに 水飲み場まで馬を連れていったことになります。決して 策を弄しているわけではないのです。

 ★ この《渇き》を引き出す方法が、対話と呼べるのでしょうか?
 ☆ たしかに おのづから 《渇き》に気づくようになるということは 《引き出した》かたちになっているようですね。でも それは つねに そういう状態にあるということではないでしょうか。それに気づかないのは その水を もう まったく 問い求めないという場合でしょう。要するに 水を棄てたという人の場合だと考えます。
 ということは 気づいてよかったという人の場合が まづ あります。ただし そのとき 気づかされたと思うと 素直に 飲もうとはしない。のが 多いのでしょう。
 気づかないという人がいます。気づいても 気づいただけ さらに 遠ざかるということなのでしょう。むろん ほうっておくしかないと考えます。
 ですから 次のご批判に対するお答えは 決まっています。
 ★ 対話にもかかる必要性に応じた力学が働くので、説得と呼ばれる状態にあること自体が、説得困難な状況の証左と考えますが、いかがでしょうか?
 ☆ 対話ないし説得というとき じつに 焦点が違うという前提があります。あくまで 対話も説得も 一定の主題について すすめるというものです。水や渇きのことを 直接には あつかっていません。
 しかも そのことに気づかされるというのは ひとつに 哲学というのは そういう人間問題をあつかうということ。ひとつに 人は つねに 水と渇きの問題を かかえているということ。という事情なのだと考えます。どうでしょうか?

 ★ 水飲み場よりも普段の牧草地での生活がいいやということになり・・・
 ☆ ですから くどいように繰り返すなら 《水と渇き》の問題は 《普段の牧草地での生活》の真っただ中に つねに 起きている。それは 《水飲み場》への場所としての移動の問題ではない。というふうに思われるのです。

投稿日時 - 2009-05-21 20:23:46

ANo.46

bragelonne様、こんにちは。
ご丁寧なお礼と明快な図式説明に対し心より感謝申し上げます。
ありがとうございます。

>☆ 第二と第三の段階のちがいは ふつうの勤勉とスーパー勤勉すなわちガリ勉との違いと見ると 分かりやすいかも知れません。

この「ふつうの勤勉とスーパー勤勉すなわちガリ勉との違い」とおっしゃるところの意味は、「経済性」「効率性」をどう捉えるかの差異、と受け取ってもよろしいのでしょうか。

>どういう時代の到来を望むかと考えれば 
>ゴートの王で ローマ(西ローマ)を短いあいだ支配したテオドリック大王
>その統治のもとでは 街道には 追い剥ぎが出ないどころか 落とし物をしても 持ち主に返ってきたと言います。
>そういう治安のよさのもとでの生活がよいように思いますが どうでしょう?

はい、昨夜『ローマ世界の終焉━ローマ人の物語XV』(塩野七生)の第三部をざっと読みました。
オドアケル以降の「パックス・バルバリカ(蛮族による平和)』政策により、「平和」が人間社会にとっての究極のインフラストラクチャーであることを示した良い例かと思われます。

同著において当時の特徴としましては、ほかに、「敗者の活用━被征服者であるローマ人の登用」「宗教的寛容さ━支配層(アリウス)と被支配層(カトリック)の共生」が挙げられます。
元来のローマの「多神教」の精神的土壌を勘案しても、なかなかに目指すところの理論の理想としては目の付けどころがよろしいのでは、と感服しながら拝察致しております。

ちなみに、bragelonne様のおっしゃる「治安の良さ」は一体なにをよりどころになさるのでしょう。
「sensus communis =共通感覚 あるいは 情感の共同性」なのか、それとも「宗教的なモラル」によるものなのか。
ときおり、哲学カテにおいて、「無宗教によるモラルの欠如が云々」といった道徳心の欠如を憂う回答を目にします。
「無宗教」の定義が何たるか、なわけなのですが、≪絶対神≫を意識しないわたくしにとりましては、少し気になったものですから。
(もちろん絶対神を否定する気など微塵もございません。
要はあまり深く考えたことが無く、まあ、死んだら夫の家のお墓に仲良く入るんだろうなあ、というしょぼいレベルの意識にすぎないだけです。)

あとですね、コマ論理はオリジナル発案のb様のものなので。
科学の法則に例えるなら、あくまで理念とはいえ、人間の「フラストレーション系」による集団の中のストレス発生は化学物質の粒子の成長則同様決して否めない、というのはいかがでしょう。

多少の粒子の不揃い(三角形、五角形、七角形…=必要悪を自認する泥棒?追いはぎ?)といったように不揃いにして均衡がとれないようにすれば、結晶全体として成長するように、人類もまた日々進歩していくのではないでしょうか。
「粒子の平均の大きさ=定数x(時間)mという「粒子成長」の法則から考えてみました。
まあ、個人的には追いはぎなんて遭遇したくはないですが(笑)、ちょっと、パリにいる物乞いやスリで生計を養っている方々を想うにつけ、何をもって自らの理念・理想とするかが難しくも思えたまでです。
なかには、バタイユの「完全な常軌逸脱(境界の不在に身を委ねること)は、共同体の不在のための規則である。」なんてぬかす人々もまとめ上げることになるのですから。
理論をどこまでも純粋に究めていくほどに、何故か現実世界との乖離が生じていくような気がしてなりません。
理論とはそういう性質のものなのでしょうか。

で、今回わたくしが腰を抜かしたのはですね、コレ↓
> ○ やはり どこまでも対話。とことん対話。いかなる事態になっても対話。です。
> ○ ただし相手が この対話を意図的におろそかにする場合。あるいは こちらの人格じたいを無視するような表現を使った場合。このときには その表現行為がどういう内容を持つかを説明しておいて それが改められなければ その対話を打ち切ると告げる。または 実際に その場で 打ち切る。

これって…銅剣と銅鐸ってことになるかと…。
コミュニケーションの肝心肝要な点は、「対話によって生じた誤解をいかに解くよう説得し、お互い尊敬の念をもって再度同じテーブルにつく」ということではないでしょうか?

小娘(40前半女)がエラソーに申してすみませぬ(ぺこり)
ps:「ヒナ」についてはまだ思案中です♪

投稿日時 - 2009-05-19 17:53:16

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。

 ★ これって…銅剣と銅鐸ってことになるかと…。
 ☆ 対話の問題ですね。
 ☆☆ さらにさらに考えてまいりましょう。
 ☆ と結んではいますが 過激あるいは了見が違うでしょうか。
 ★ コミュニケーションの肝心肝要な点は、「対話によって生じた誤解をいかに解くよう説得し、お互い尊敬の念をもって再度同じテーブルにつく」ということではないでしょうか?
 ☆ たぶん もし違いを際立たせようと思えば わたしの場合は こう定義します。
 ○ 互いに まづ 主題を共有する。その解法の問い求めに向けて 話をすすめる。その際 互いに 推論の誤謬や飛躍について 指摘し合い よりいっそう妥当な内容を得るよう目指す。
 ○ このとき 主題をすり替えたり 推論の誤謬を認めなかったり 関連事項ではあるが その知識のお披露目に時間を費やしたり等々と 要らぬことをおこない これを指摘しても おこないつづける場合には そのことをも指摘しておいて その対話を見限る。
 ○ その意味は 別のひとが こちらの役割を引き継ぐというかたちを想定することである。
 ☆ どうでしょうかねぇ。腰を抜かしてもらっては いけなかったですね。
 ○ 問題は もし それでも わたしが その対話を そのまま続けるとすれば その対話における欠点を わたしが 認めてしまったことになることです。
 ○ いつまで経っても話は進まないだけではなく 次にも同じ人との対話が始まっても 同じ欠点が出ます。つまり 同じあやまちを繰り返しても その責任は 二度目からは むしろ その欠点を認めたわたしのほうにあることになります。

 ★ 多少の粒子の不揃い(三角形、五角形、七角形…=必要悪を自認する泥棒?追いはぎ?)といったように不揃いにして均衡がとれないようにすれば、結晶全体として成長するように、人類もまた日々進歩していくのではないでしょうか。
 ☆ はぁ そういうものなのですか。演技論でいうスタニスラフスキー理論のようですね。

 ★ 「治安の良さ」は一体なにをよりどころになさるのでしょう。
 ☆ 異者の受容 信仰形態の相違の認め合いが 基礎です。最終の根拠は ありません。無根拠です。言いかえると 人間であることが 基礎です。
 そのとき コモンセンスは よいほうに導いてくれると思います。モラルは モラルを重視する人びととの関係において 留意しなければならないでしょうが 大した要因だとは考えません。精神の努力には 限界があります。

 ☆☆ 「ふつうの勤勉とスーパー勤勉すなわちガリ勉との違い」
 ☆ につきましては 文化活動としても共同自治としても 経済活動としても すべてにつき イリ思想とその自己目的化としてのヨセ思想との違いだと考えます。自己目的化の《自己》は 代々の子孫に継がれるというふうに拡大され得ます。
 中国や西欧では この《統一第一日子》の座を自由に争ったのだと思います。日本では いちど明確にゆづったのだから そのゆづり返しを――なぜなら それだけの有徳のひとだと見なすからです―― 待っているかたちです。言いかえると スサノヲ市民らは みづからが 同じようにスーパー勤勉のヨセ思想になって 争うつもりはないみたいです。家康ぢゃないですが フェビアニスムのようです。

 まだ 触れずじまいの箇所もあるようですが きちんと留意しておきます。

投稿日時 - 2009-05-19 20:23:12

ANo.45

ぽこぺろぽです。誰もが説得したいと願いますが、そもそも片側がそう願うこと自体が説得を遠ざけます。

 用語の定義を示すことも必要ですが、アマテラシズムでは明確な定義づけよりも、通りのいい言葉こそが有用なのです。ですから、それを問い質し、より適切な認識を知らしめようと試みることは、指導被指導の関係でもないかぎりは、通常のコミュニケーションでは受け入れられません。

 では、どうすれば問題の解決に十分足り得るコミュニケーションが図れるのでしょうか?おそらく愚鈍を装う必要があるでしょう。「オレはバカだから、お前も利口なことは言うなよ」というわけです。これはこの社会では、理に適った考え方なのでしょう。なぜなら、「理外の理」を求めているからです。よく論争になると、横から「理屈じゃないんだ」と得意げに叫ぶ人がいますよね。私は以前はそういう人を「ここは論争の場だから」と窘めていましたが、今では彼らにとっては、あれこそが理論武装なのだろうと、考えを改めるようになりました。

 しかし、わたしには彼らの本意がわかりかねています。というわけで、私には彼らを説得するなど、とてもできません。少なくとも、進んで耳を貸してくれるようにするには、どうすればよいのでしょうか?

投稿日時 - 2009-05-19 00:17:41

補足

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。二つの側面があるように わたしには 思われます。
 1. どこまでも 理論を しっかりと精緻なものに仕上げる。
   1-1. ここで 情感を 文面に表わせるかどうかなどの問題が
    あるのかどうか。あって それが 出来ればいいでしょうが まだ
    必ずしも よくは 分かりません。
 2. 実際に その理論をもって 説得する場合。
   2-1. とうぜん 基本的に言って 対話という事態だとおもわれ
    ます。どちらにも 表現と発言の自由が じゅうぶんに 保障され
    ることが 第一でしょう。
   2-2. あとは たしかに 具体的に 相手とのやり取りについて
    いろんな事柄が 課題になったりするのでしょう。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 2-2-1.アマテラシズムでは明確な定義づけよりも、通りのいい言葉こそが有用なのです。
 ですから、それを問い質し、より適切な認識を知らしめようと試みることは、指導被指導の関係でもないかぎりは、通常のコミュニケーションでは受け入れられません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは アマテラシズムの影響下にある一般の人びとの状態ですね。たぶん 放っておくことになると わたしも 思います。
 アマテラシズムの唱導者(アマテラス公民)に対しては 理論およびその政策としての位置づけについて 説明することでしょうね。さらにそのあと 政治的な判断が 控えています。そうして アマテラス語の問題 つまり こちらのスサノヲ語と あい通じ合えるかの問題があるようです。
 上の一般の人びとの問題をさらに追究しておられます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  2-2-2. では、どうすれば問題の解決に十分足り得るコミュニケーションが図れるのでしょうか?
 おそらく愚鈍を装う必要があるでしょう。これはこの社会では、理に適った考え方なのでしょう。なぜなら、「理外の理」を求めているからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん 《装う》という必要は ないのではないか。説得するために 人間性を失わない限りで 必要十分な策を取ろうとして そうしたという場合が あるかと思われます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 2-2-3.  しかし、わたしには彼らの本意がわかりかねています。
 というわけで、私には彼らを説得するなど、とてもできません。少なくとも、進んで耳を貸してくれるようにするには、どうすればよいのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここで 無難なまとめ方は 《馬を水飲み場まで連れて行くことは出来るが 水を飲ませることは出来ない》ということなのでしょうね。
 ひとつにたとえば 言葉の用法を 人びとに合わせることも必要なのでしょうか。《マインドコントロール》は 行動の結果を良い方に導けるように自分に暗示をかけるというように 積極的な意味に使うようにもなっていますね。
 あるいは 《洗脳》という言葉について あたかも良い方に導けるように洗うというような用法が 出てきたのかも知れません。
 そう考えると やはり おっしゃっていたように
 ★ 用語の定義を示すことが必要
 ☆ であるというのは 基本であるように考えられます。

 いまのわたしの結論としては
 ○ やはり どこまでも対話。とことん対話。いかなる事態になっても対話。です。
 ○ ただし相手が この対話を意図的におろそかにする場合。あるいは こちらの人格じたいを無視するような表現を使った場合。このときには その表現行為がどういう内容を持つかを説明しておいて それが改められなければ その対話を打ち切ると告げる。または 実際に その場で 打ち切る。
 
 さらにさらに考えてまいりましょう。

投稿日時 - 2009-05-19 08:44:09

ANo.43

>《スサノヲ圏主導‐アマテラス圏従属》の正立連合制社会へ

ここへ行き着きますか。
その微妙なバランス維持が動性のなんたるかですね。

ジャイロ効果をご存じですか。いやゆる地球コマです。

全体としては静止しているか、非常にゆっくりと回転しています。
しかし、中は高速で回転していて、この回転のスピードが
速ければ速いほど全体の姿勢がピシッと制御され、
外部からの変化からも元に戻ろうとします。
しかし、内部のコマのバランスが崩れると全体が
ガタガタになります。

スサノヲである内コマの回転が緩むとアマテラスが暴走する・・
だからこそ、生きるとは鮮烈で、戦う価値があるわけですね。

投稿日時 - 2009-05-18 12:17:48

お礼

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。

 少々 短絡的に表現しましたが その議論は かなり 一般的に言って わたしは おこなって来ましたので 推論には 自信があります。
 それは別としても おそらく アマテラス公民にとっては 人為の極致に すでに 達したという達成感が出てしまったのではないでしょうか。
 かんたんには 高度成長を済ませ ものづくりの社会をも抜け出ていこうとしているからです。情報社会にかんしても その指導的地位に立って 主導するという見方もあり得るでしょうが もうそれほどの集権的な制度を役立たせる局面でもなくなったかも知れません。
 もうひとつには もうすでに その人格が やはり 極致(極値)に達したという感覚がただよっているのではないか。もう開発の余地がないと思っているのではないか。あまりにも十分に――内実はともかく――人間的になり過ぎた。人間的な あまりにも人間的な人間になりおおせた。
 高度に政治経済的にして人間的な社会であり人間であるというこの事態は――もう一つの視角から見れば―― これもやはり 国家という形態つまりは 二階建ての構造 と連携して 実現しえたことだと考えられます。これが 逆立ちしている。あたまでっかちである。という情況であり状態であることは その内部における発展の余地が もし なくなれば 崩れざるを得ない。のではないか。

 ざっと こういうふうに考えてみたい誘惑が 現代には あるのではないでしょうか。

投稿日時 - 2009-05-18 12:48:12

ANo.42

なるほど、なるほど。

ホテルカリフォルニア信奉者からみると、
アマテラスは自らが内在する野獣スサノウを
殺すことはできないということですね。

根であり、まさに、足ですからね。

そうすると、アマテラスというのは、
公というよりもっと広い意味を持っていますし、
戦争や殺戮もコミュニケーションの極端な形態の一つになります。
話し合いでないという意味で、コミュニケーションの対義語のようにも
思えますが、これ程強い意思表示はなく、再生に必要な破壊、
伝家の宝刀ですかね。

それであっても、血湧き肉躍らせた野獣スサノウが見た夢は、
新たなアマテラスという亡霊なのでしょうか。

投稿日時 - 2009-05-18 00:54:33

補足

 bananasand さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。かつて《鉄の檻》とも呼ばれた資本主義社会の 人びとの動きにとっての雁字搦めの状態を 描像として描いておられましょうか。
 ▲ (M.ヱ―バー:プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)~~~
 〔プロテスタンティスムの〕禁欲は 世俗を改造し 世俗の内部で成果をあげようと試みたが そのために世俗の外物は 

  * ( bragelonne 註)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   近代市民は 経済的な生活において 生産物(販売物)のうちに 中核としての《使用価値=スサノヲ語価値》のほかに 抽象的人間的労働たる《アマテラス語〔上部構造〕価値=交換価値》を あたかも 共同生活における等価交換ゆえに自由平等かつ友愛の要因であると見出してのように 分業=協業にもとづく市場経済社会を発達させ 築きあげた。この《機械的生産の技術的・経済的条件に縛りつけられている近代的経済組織》といった《世俗の外物》は
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

かつて歴史にその比を見ないほど強力となり ついには逃れ得ない力を人間の上に揮うにいたった。今日では禁欲の精神は――最終的にか否か 誰も知らない――この外枠から抜け出てしまっている。

 * ( br )~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   はじめの禁欲の精神に その精神主義的で《観念的な神》を見出し これに拠るところのアマアガリの禁欲(と言うよりは 分かりやすく 勤勉ないしガリ勉)の精神は つまりそのようなものが 現実の存在だとするのだから この外枠=つまり政治的には実際の《A‐S》連関体制世界から抜け出てしまったというのである。ふつうの人びとに そのような事はありえないのだが もしこのような認識を得てまた表現までするに至るためには そしてその実物であるガリ勉キャピタリストらは たしかに天をアマガケルごとく自己を空気のような身体とせねばならなかったであろう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ともかく勝利をとげた資本主義は 機械の基礎の上に立って以来 この支柱をもう必要としない。

  * ( br.) このように見るばあい この支柱であるという禁欲・超勤勉の精神は 自己の神であると 観念的に 思っているのでしょうか。

 ・・・将来 この外枠の中に住むものが誰であるのか そして この巨大な発展がおわるときには まったく新しい預言者たちが現われるのか 或るいはかつての思想や理想の力強い復活がおこるのか それとも――その何れでもないなら―― 一種異常な尊大さでもって粉砕された機械的化石化がおこるのか それはまだ誰にもわからない。それはそれとして こうした文化発展の《最後の人びと》にとっては 次の言葉が真理となるであろう。
 
  精神のない専門人。心情のない享楽人。
  この無のものは かつて達せられたことのない人間性の段階にまですで
 に登りつめた(* アマテラス人格語を究め尽くした) と自惚れるのだ。

と。――       (2・2) 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 日本資本主義において 《禁欲》というのは どの程度 現実であるでしょうか。
 ☆ それは措いて たぶん いまは インタムライスムという方向を向くのでしょう。

 《アマテラス圏主導‐スサノヲ圏従属》の逆立連関体制から
 《スサノヲ圏主導‐アマテラス圏従属》の正立連合制社会へ

 だと思われます。これからは ムラ(市町村)の公務員に 優秀な人間が集まるでしょう。お二階は ムラムラの調整機関のごとく つけ足しになるでしょう。

投稿日時 - 2009-05-18 11:15:23

ANo.41

bragelonne様、こんにちは。
昨日は二度目のご回答をありがとうございました!

「アマテラス年金制度 落とし穴対策マニュアル」を拝見して、また過去のくっだらない我が経験を思い出しました。

・失業手当を申請する期日を遥かとっくに過ぎてしまっていたのに「諸々の理由」を以て審査請求した結果、社会保険事務所から無事満額給付を認めてもらうことができた。
(不正支給でも何でもないわけですし、当然審査は厳しく悲観的だったのですが、ある時思い切って電話をかけたら妙に審査官と話が通じてしまい、その後はトントン拍子に事が運んだ、ということが不思議なのです。たまたまラッキーだったのでしょうか。う~ん。)

・滞仏時に日本から送付してもらった仏参考書やおせんべいの類の小包に課税付きで到着したため、郵便局にて2時間ゴネて、「これは課税されるべき対象物。だけどあなたの言い分もわからなくもない。だからあなたは払う必要がない。」と郵便職員を関税の支払い拒否を納得させた。

で、わたくしの後方で順番待ちしていたフランス人たちは2時間そのまんまだったのですが、この手の対話や話し合いを傍観したりそのための時間のロスに対しては、得てして「おおらか」です(本来彼らは凄くエキセントリックな一面を持つというのに)。
むしろこの点においては、日本人のほうがせっかちだったり、交渉事が上手くいかないと突如「逆ギレ」しがちに見えるのです。
単なる気のせいでしょうか。
アマテラス知性の聖徳太子の長年に渡る意識統制”和を尊ぶ”が破たんしたときに、その反動で「あとは野となれ山となれ」状態に陥るのかも?

とにかく、運が良いと(程度問題ですが)、アマテラスのお役所の方々を納得させたり打ち負かすことができることもあるわけです。
日常における「世の中理不尽な要求=ゴネ得」なんていうものは、論理的な哲学カテにはあるまじき危険思想なのでしょう。←もう病みつき&趣味&わが信条

人間というのはアマテラス語とスサノオ語を巧みに使い分けつつ絶えずせめぎ合っているのでしょう。
そして対個人のコミュニケーションにおいては、相手を説得・納得させるうえで、やはり何らかの両者における《共通感覚 sensus communis 》が関与する余地がありうるのではないのかなあ、と思ってみたりもするのです。
これ、意見や信条を異にする相手と対峙する場合であるならなおのこと、より多くを求められるものなのかもしれません。

で、逆に、集団的意思を形成しそれを個人に課す際には、当の本人たちが正確を期して理解しているか否かはこの際二の次でして(笑)、感性や情感を省いた「理論をめぐる同感のほうが はるかに 《説得しうる》と思われるのです。」とおっしゃることが至極自明のように思われてくるのです。

三葉虫はカフカ風味をイメージしたのでしょうか?!

投稿日時 - 2009-05-17 14:26:45

補足

 mashumaro2 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
 そう言えば 初めてではなく 二回目でした。初回は いわば衝動買いのようでしたから 数えていなかったかたちだったのかも知れません。

 ★ 失業手当・・・社会保険事務所から無事満額給付を認めてもらうことができた。
 ☆ わたしの場合も この社保事務所では きわめて親切ていねいな応対だった経験があります。

 ★ 滞仏時に・・・郵便職員を関税の支払い拒否を納得させた。
 ☆ はぁ アマテラス公務員も 特有のアマテラス語方言を話すのではなく 人間語を話したということですね。人徳もありましょうか。
 ★ で、わたくしの後方で順番待ちしていたフランス人たちは2時間そのまんまだったのですが、・・・得てして「おおらか」です(本来彼らは凄くエキセントリックな一面を持つというのに)。
 ☆ ふうむ。そうなんですか。
 ★ アマテラス知性の聖徳太子の長年に渡る意識統制”和を尊ぶ”が破たんしたときに、その反動で「あとは野となれ山となれ」状態に陥るのかも?
 ☆ ふうむ。何て言いましたかね。《 Apres nous, le deluge ! 》――あとは 《洪水》ですか。ただし ことは 《反動》の問題ですね。あぁ そう言えば いま――くわしく見ていませんが―― 大学などで 衝突を起こしているようですね。

 ★ 人間というのはアマテラス語とスサノオ語を巧みに使い分けつつ絶えずせめぎ合っているのでしょう。
 ☆ なるほど そうですか。体験の裏付けにもとづく立論のようですね。
 ★ そして対個人のコミュニケーションにおいては、相手を説得・納得させるうえで、やはり何らかの両者における《共通感覚 sensus communis 》が関与する余地がありうるのではないのかなあ、と思ってみたりもするのです。
 ☆☆ 【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら・・・
 ☆ と わたしは 言っていますが けっきょくは 両方の側面が大事なのでしょうね。すなわち
 ○ sensus communis =共通感覚 あるいは 情感の共同性
  および
   = common sense =共同主観 あるいは 常識(知識というよりは むしろ 判断力ないし判断のあり方)
 ☆ というふうにです。そして
 ☆☆ 感性や情感を省いた「理論をめぐる同感のほうが はるかに 《説得しうる》と思われるのです。」
 ☆ と たしかに言ったのですが ぎゃくに 科学の成果として 知識のほうは 研究がすすむにつれ 深化しつつでしょうが 変わりますから これも いくらか あやうくなって来ました。そしてたとえば
 ○ 共生
 ☆ という判断力ないし判断内容は 科学の発達とは別に 普遍的であると言えるようでもあります。どうなりましょうか。

 ★ カフカ
 ☆ は わたしの場合 村上春樹ととうぜん違いますから あたまの中にあったとか そのような効果をねらったとかいうことは ないのです。自分がおもしろいと思ったことだけを あつかっていました。

 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?
 ☆ この問い求めが 進展したようですね。文字に表わされないところで 何かおもしろい感覚が得られたのではないでしょうか。
 A語とS語の問題も 出ましたね。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-05-17 17:52:20

ANo.40

おはようございます、bragelonneさん。

よそ見し過ぎ。って……ぶつぶつ

【図表1 連結ピン】組織図みながら考えごとしてただけだよ。

考えごとは何か?

うん、遺族年金等々…。

子がいる人、いない人に共通して起き得ること…

【年金の落とし穴 第3話】
http://homepage2.nifty.com/SWAVE/ana/ana3.html

これとは別に、これまできちんきちんと、ずーうっと年金を納めてきて、ある時なんらかの事情で《亡くなる前の直前の1年の間》に未納期間が1回でもあった場合は、遺族年金・障害者年金は支払われない。何らかの事情(病気・失業等)が起きた時点で免除or猶予申請手続きをとり許可を得ていれば、その期間は免除or猶予が適用され実質未納であっても未納とはみなされない。きちんきちんと、ずーうっと年金を納めてきても《亡くなる直前の1年の間》に未納期間が1回でもあると遺族年金・障害者年金の受給資格がないとなる。何事も申請主義だから、申請を怠れば未納と取り扱われる。《亡くなる前の直前の1年の間》を注視しているのは何でなんだろう?

投稿日時 - 2009-05-17 03:22:37

お礼

 ★ よそ見し過ぎ。って……ぶつぶつ
 ☆ この
 ★ って……ぶつぶつ
 ☆ の中味をしっかりと 言葉にて 明らかにするのが おとなというものです。対話というものです。

 ★ 寡婦年金・前倒し給付・《亡くなる前の直前の1年の間》に未納期間が1回でもあった場合は、遺族年金・障害者年金は支払われない。
 ☆ については そりゃあ 設計から手続きから いろんな考え方の上で 成り立っているのでしょうよ。
 でも 最後の場合は 極端な違いが出てしまうようですね。わたしたちが 直して行きましょう。

投稿日時 - 2009-05-17 09:48:40

ANo.39

>《スサノヲでたらめ自由でありつつも根底において人間語》
>アマテラス人格・格式張り語の取り扱い

解ります。でも、あえてですね、コミュニケーションを(その相手も含めて)自己の外部としない立場、つまり内部に存在するという考えを取ります。そこには、スサノヲもアマテラスも活動していて、自己内部のせめぎ合いをやっているんですがそれも含めて自己なんですよね。

前回の逆の言い回しをするなら、スサノヲもアマテラスも含めて自己の自由選択の裏返しがその人間の長年構築し続けてきた社会になるのだということですね。

そこから一歩さがると、知らず知らずにアマテラスの腐敗が進行していて、スサノヲの破壊がカウントダウンしているということなのではないでしょうか。

そして、bragelonneさんに言わせればだからこそ、どうするか・・ということになるのでしょうけど、アマテラス自動制御フェイルセーフ剛直コンピュータプログラムとスサノヲ劇場型銘刀正宗との関係で重要なのは、伝家の宝刀は常に研ぎ澄ませておくことではないですかね。それでこそ、アマテラスも襟が立つでしょう。たとえ、自己の中であってもね。

投稿日時 - 2009-05-16 11:05:02

お礼

 bananasand さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そして、bragelonneさんに言わせればだからこそ、どうするか・・ということになるのでしょうけど、アマテラス自動制御フェイルセーフ剛直コンピュータプログラムとスサノヲ劇場型銘刀正宗との関係で重要なのは、伝家の宝刀は常に研ぎ澄ませておくことではないですかね。それでこそ、アマテラスも襟が立つでしょう。たとえ、自己の中であってもね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが あえて次の表現を用いますが 暫定的な結論でしょうね。もしくは 一応の結論です。再応があります。決定的な結論があるはづです。
 それは 一気にわたしの今の考えをぶつけますが 問題が
 ○ アマテラス語は 普遍概念も いわゆる客観も あるいは その規範化を経たかたちでの道徳・法律そして人格も けっきょく 幽霊である。
 ☆ からです。《けっきょく 形而上学的なことがらであるに過ぎない》というふうに 言いかえたほうが おだやかでしょうが 要するに
 ○ アマテラス語は 足のない幽霊である。また 色をつけ 花を持たせた言い方をするなら 人為の極致であり究極の経験知である。
 ☆ ということだと思います。ということは 問題は
 ○ 足は スサノヲ語である。しかも この足であるスサノヲ語が むろん 身体全体であり その内面に アマテラス語を 宿す存在なのである。
 ☆ こういう事情――人間の自然本性として――にあるのではないか。
 もし この洞察が ほんとうであるなら 上の暫定結論は いくらかは 趣きが変わってくると思われます。志向性や取り組み方で 違ってくるのではないでしょうか。より一層 《動性》を帯びるでしょう。どうでしょう?

投稿日時 - 2009-05-16 11:21:55

ANo.38

こんばんは、bragelonneさん。

いいセックスって???

なんやようわからん。

こっちか?

【 連 結 ピ ン 】
http://www.mri.co.jp/NEWS/magazine/club/05/__icsFiles/afieldfile/2008/10/20/20080301_club07_2.pdf

投稿日時 - 2009-05-16 10:14:43

お礼

 littlekiss さん アドバイスをありがとうございます。
 ★ こんばんは
 ☆ なんでやねん。

 ★ 【 連 結 ピ ン 】
 ▲ (野中郁次郎:私と経営学03)~~~~~~~~~~~~~~
 § 人間関係論――いつまでも主役になれないヒューマナイザー ――

 人間が自らの仕事において 社会的な意義や存在価値を自覚したときに大きな力を発揮するのは 意志の力である。また 自律的に創意工夫し 新たな何かを生み出す創造の喜びは 金銭には換えがたい面がある。
 人間は もともとそのような成長と創造の可能性を秘めた知的存在なのであり その特徴は 人種や国境によって左右されはしない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 いいセックスって???

 なんやようわからん。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ よそ見し過ぎ。それとも システム?

投稿日時 - 2009-05-16 10:45:02

ANo.37

説得をセックスで考えてみました。
男と女、男と男、女と女でもセックスはあって、
お互いが納得していなければ
いいセックスにはならない。

全ての人を最高のセックスでイかせる事ができますか。

物理的な問題を無視すれば
不可能ではないような気もします。
すごく丁寧に時間をかければ可能なのかもしれない。

40億の人間のほぼ全員とのセックスが完了し、
最後の一人とセックスするというとき、
第3者はそのとき、そこに居なくても
自分の一部(ブランドみたいなもの)
として働くように思います。

下品な内容になってしまったかもしれません。
でも、コミュニケーションを考える時に
セックスは外せないような気がしました。

投稿日時 - 2009-05-16 05:51:13

お礼

 almar さん ご投稿をありがとうございます。

 しかしながら 質問についての誤解があります。
 次の二つの行為は はっきりと別でして ここでは はじめのほうについて 扱っています。
 ★ 口説くという説得行為。つまり 性行為にまで到ろうが到るまいが そういったコミュニケーションの問題。
 ★ 性行為

 ★ 下品 
 ☆ かどうかではなく 問題が違っています。
 なぜなら 
 ○ 納得すること
 ☆ は むろん 意志による行為だからです。この意志行為の成否が 問題であるからには 基本的に 言葉をとおしての対話を扱います。

投稿日時 - 2009-05-16 08:21:44

ANo.36

スサノヲ人間語、アマテラス人格語ですか。
両方使うんですよね。スサノヲにもなるし、アマテラスにもなる。

>《思いっきり 自己の立ち場から 発言する》

さて、ことコミュニケーションでは、これは、何かを言っているようで実は何も言っていないんですね。どう転んでも、常に《思いっきり 自己の立ち場から 発言する》なんですから。

でも、あえて、その自己のコミュニケーションから自己が自己の社会を自己の内部に構築しているとすれば、ある弁護士は、法律と法廷が最も身近な社会だと染みつき、ある人は、野球に生き、バッターボックスへの歓声が最も鮮烈な社会だと感じる・・・等々、1つの世界とか1つの社会は厳然となど存在などしていないってことになりますね。

そうすると、社会って言うのは丸ごと自分の裏返しであって、コミュニケーションというのは、自分の構築をやっていると言うことですね。

アマテラスの腐敗も、スサノヲの破壊も、自分の再構築に繋がると言うことでしょうか。

投稿日時 - 2009-05-15 22:20:42

補足

 bananasand さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 スサノヲ人間語、アマテラス人格語ですか。
 両方使うんですよね。スサノヲにもなるし、アマテラスにもなる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ ごもっともです。説明し損ねていました。
 わたしの言い方では こうなります。 
 ○ スサノヲ人間語の中に アマテラス人格語(ないし普遍概念語)が 宿る。潜在している。
 ☆ 後者が 単独分立してしまうと あたまでっかちになります。極端で乱暴な言い方でたとえれば 例の《考えるゆえに〔のみ〕われあり》でしょうし そうではなく スサノヲ人間語を土台とするばあいは 《ある。ゆえに考える》となります。 
 そういう意味で
 ★☆ >《思いっきり 自己の立ち場から 発言する》
 ☆ であるとは 思っていたのですが 舌足らずについて 分析していただきました。
 ★ さて、ことコミュニケーションでは、これは、何かを言っているようで実は何も言っていないんですね。どう転んでも、常に《思いっきり 自己の立ち場から 発言する》なんですから。
 ☆ 個人個人というのは そういうことなのでしょうね。
 つまり わたしの念頭にあったことは 一般にも そうだと思うのですが 要するに 自分の意見を なかなか 言わないという傾向があります。そのようなくせ(エートス)のことです。
 しかも これが アマテラス語になると――役人あるいは政治家を イメージするのですが―― スサノヲ市民であるわれわれが知りたいことは なかなか あるいは 最後まで 言わない。規則や決まりを 膨大な資料の説明とともに こう言ったりああ言ったりして 答えつつも こちらが知りたいことは ついに 言わないというアマテラス方言が まかり通っているのではないでしょうか。
 ですから わたしたちが 多かれ少なかれ エゴをもって生活しているからには まづは
 ★ そうすると、社会って言うのは丸ごと自分の裏返しであって、コミュニケーションというのは、自分の構築をやっていると言うことですね。
 ☆ となりますが たしかに なるのですが このコミュニケーション論で ひとつの重大な課題としては やはり このアマテラス格式一点張り方言の扱いではないでしょうか。
 ★ アマテラスの腐敗も、スサノヲの破壊も、自分の再構築に繋がると言うことでしょうか。
 ☆ 《スサノヲの破壊》は もう近年では 一揆をやらず デモすら少なくなりましたので それはそれとして あとは このおっしゃるとおりの方向が 持たれるのではないでしょうか。つまり
 ○ 《スサノヲでたらめ自由でありつつも根底において人間語》に アマテラス普遍概念語を宿し これを 開発し発揮し 《自分の再構築》に向けてあゆむ。
 ○ アマテラス人格・格式張り語の取り扱いには 慎重にして すすもう。
 ☆ と考えられて来ます。どうでしょう。

投稿日時 - 2009-05-15 23:04:38

ANo.35

こんにちは、bragelonneさん
無視してもいいです。

前にbragelonneさんが質問した「第二の死」について、考えています。

私が哲学に興味を持ったのはキルケゴールの「死にいたる病」を読んでからなんですけど
「弁証法」が全く理解できなかったので困っていました。

私は知ったかぶりの自惚れ屋なので、わかったふりをしてきましたが。。。
ここにきて、また読んでみようと思います。

というわけで、また休みます。前はすぐに戻ってきたけど、今回はどうだろう。
私はもう、宗教を否定してしまったし、「母親」とうまくいかないのがつらいし、
世の中に迷惑かけるし、どうしようもない状態ですから。

「絶望」と向き合ってきます。

投稿日時 - 2009-05-15 04:04:11

お礼

 ふうむ。

 パウロなんかは 《日々 死んでいます》と言うのだからね。
 だから 何だ ですか? いや 日々死んでいるということは 日々生きているってことにもなります。

 いやいや わたしたちは 肉を 欲情や欲望もろとも あの木につけてしまったのだとか。

 わたしは世間に対して 世間はわたしに対して はりつけにされています。って どういうことかいな?

 ★ 宗教を否定してしまったし、
 ☆ 当たり前。
 ★ 「母親」とうまくいかないのがつらいし
 ☆ だから 母親って だれだ? 何のことだ?
 ★ 「絶望」と向き合ってきます。
 ☆ これは かまわんが
 ★ 世の中に迷惑かけるし、どうしようもない状態ですから。
 ☆ これは ただの愚痴だ。聞きたくにゃあ。

 ★ というわけで、また休みます。前はすぐに戻ってきたけど、今回はどうだろう。
 ☆ たっぷり 休みを取ったのではなかったのかいな。

 ★ キールケゴール
 ☆ は 途中までしか進まなかったなぁ。その立ち位置について 独特な感覚を覚えたけれど 言っていることは それほど 魅力的だとも言えなかったなぁ。分からなかったのかなぁ。

 あぁ そうだった。前回 そうだった。
 気が短いというよりも 人間が 自分で 決めつけるというその傾向を持っておるようだね。これを止めるというのが 宗教を否定するという意味なんだが。おっほん。

投稿日時 - 2009-05-15 04:20:51

ANo.34

 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?

 しかし、途方もないことを仰るものです。「すべてのひと」であれば、きっと説得できるんじゃないでしょうか。そのひとが――死んだ者が生まれ変わった――ゾンビでさえなければ。相手がひとであるならば、必ず鏡に姿が映るはずです。

 「生」と「死」の両者を隔てているのは、国境線のようなボーダーラインじゃない。確かにゾンビはその国境線を超えたと嘯いているが、境界線に置かれているのは一枚の鏡でしかありません(しばらく前に見てきましたから)。これは、断言できます。
 ゾンビは、その鏡の国からやってきたとでもいうのでしょうか。
 だとすれば、ちょうど足元から延びた影をハサミで切り取ったようなものです。このところの陽射しに元気付けられて、影も力を増しているのでしょう。あるいは切り取られたことに、腹を立てているのかもしれません。
 いずれにしても、影は切り取られるべきではなかったんでしょうね。一応、同情はしてきたつもりです。

 切り取った人はきっと、今も他人の夢を見ているでしょう。彼は陽射しの下には出られません。月明かりでさえ弱った目には、刺激が強すぎるからです。暗い図書館で、骨を撫でながら夢を見る――それが彼の仕事になったんですね。
 影は切り取るべきじゃなかったんです。夏が近いですからね、影はきっと、そう言いたいんだと思います。

投稿日時 - 2009-05-14 21:03:28

補足

 ri_rong さん ご回答をありがとうございます。

 何ですって?
 ★ ゾンビ 
 ☆ ?  《しかし、途方もないことを仰るものです》。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・境界線に置かれているのは一枚の鏡でしかありません(しばらく前に見てきましたから)。これは、断言できます。
 ゾンビは、その鏡の国からやってきたとでもいうのでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ しかし これは どの線ですか? ヘルメス・トリスメギストス? フィチーノ師匠がおっしゃるはづはない。
 あっ 見失っていました。
 ★ 「すべてのひと」であれば、きっと説得できるんじゃないでしょうか。
 ☆ これですね。これだ! これだ! これで おしまい。あとは おまけのお話ですね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だとすれば、ちょうど足元から延びた影をハサミで切り取ったようなものです。このところの陽射しに元気付けられて、影も力を増しているのでしょう。あるいは切り取られたことに、腹を立てているのかもしれません。
 いずれにしても、影は切り取られるべきではなかったんでしょうね。一応、同情はしてきたつもりです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 一応、同情はしてきたつもりです。
 ☆ ってことは 
 ○ ri_rong さん vs. zombie
 ☆ って構図ですか? しかしながら 次の文章では 《影を切り取った人》は ri_rong さんでないかも知れない。男ではありますね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 切り取った人はきっと、今も他人の夢を見ているでしょう。彼は陽射しの下には出られません。月明かりでさえ弱った目には、刺激が強すぎるからです。暗い図書館で、骨を撫でながら夢を見る――それが彼の仕事になったんですね。
 影は切り取るべきじゃなかったんです。夏が近いですからね、影はきっと、そう言いたいんだと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ しかしながら 《影》が ゾンビなのか。ゾンビとは別にまた 切り取られた影が いるのか。
 ★ 相手がひとであるならば、必ず鏡に姿が映るはずです。
 ☆ ゾンビだったから 境界に置かれた鏡に 姿が映らなかった。ゆえに ただし 影は映ったので これを 切り取った?

 おあとがよろしいということに・・・。

投稿日時 - 2009-05-14 21:16:48

お礼

 ○ 遺伝子から見て 同じひとは いないのでしょう?
 ○ 生まれ変わったという存在は あり得ますか? 

投稿日時 - 2009-05-15 11:02:39

ANo.33

夢は終わったんでしょう?
誰も救われなかった。

これが現実だった。
ダメなの?

それとも続けますか?

投稿日時 - 2009-05-14 11:33:04

お礼

 ふうむ。

 ★ 夢は・・・・それとも続けますか?
 ☆ わたしが夢を見ようが見まいが 現実は 生きています。
 

投稿日時 - 2009-05-14 12:22:58

ANo.32

 こんにちは、ブラジュロンヌさん。
 
 共感と同感ですか。でしょうね、あとはシステムに増幅装置が付いているかどうか。

 ・http://www.asagaku.com/rika_time/2005/8/0817.html

 どうやら、ステップ2が大事ってことですか。

投稿日時 - 2009-05-14 08:58:39

お礼

 おはよう じーじゅんぐくん。

 ★ どうやら、ステップ2が大事ってことですか。
 ☆ あんじょう すすめてちょう。また エタージュということで。

 ★ あとはシステムに増幅装置が付いているかどうか。
 ☆ システム? 何のシステム? 増幅装置? 何を? 言説という信号を 増幅するのですか? どういうことになるのかいな? ようわからん。ごめん。

 ★ ステップ1:糸電話 一対一
   ステップ2:人数や材料をかえてみる
 ☆ ステップ3:・・・
   ステップn:・・・
   ステップα=ω:以心伝心=無線通信。

 ソリロクイア
 ○ ノイズは きちんと 表に出すべきなのかなぁ。
 ○ 輪廻転生説に対するダメ押し もしくは その手前の決定打が 必要なのかなぁ。

投稿日時 - 2009-05-14 09:39:08

ANo.31

こんばんは、bragelonneさん。

●それで なんですか。もうそろそろって おとしで?!



(-。-)y-゜゜゜おとしどころ?

TVドラマじゃ、カツ丼が出されるシーンを目にすることはありますが…

ネコのてんこ盛りで、何が落ちる? 

……天井からネコが落ちてくりゃ、そりゃ、まんま、ネコマンマ (*^_^*)

笑ってる場合では、……ない (-_-;)uuu… 


●…もうそろそろって おとしで?!←言いたい放題かい!!!( ̄^ ̄)しらんぷり

おとしといえば…… 

【だるまおとし】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A0%E3%82%8B%E3%81%BE
http://www.ysc.go.jp/ysc/info/show-da.html

ちなみに仔猫の名前は、テンとジョー。『 かんせいの法則 』



ちょこっと、準備運動をしたところで『今日の出来事』を少し

いまは、引き継ぎ時間が残りわずかなこともあり、机にかじりつき。ここのところ自分のことで手いっぱい、時間的余裕もなかった。そんなとき、隣の席から声がかかった。わたしが職場で使っているパソコンでしか作業ができないらしく少しの間パソコンを使わせてほしいと。隣の席へ移った。移った席の机の上にも一台パソコンがある。画面をみるとやけにアイコンとかの表示が全体的にすごく小さい。ここの席でこのパソコンを普段使っている方は、使い辛くはないんだろうか?というのもここの席でこのパソコンを普段使っている方は、わたしの親の年以上の年配者。そういえば、なにかと画面に顔を近づけておられたようにも思う、ディスプレイ(画面)の解像度の設定が、あってないのかな? ――――― 自分の席へ戻る際、きいてみた。「敢えてこの設定にしてるんですか?」と。きけば、「見にくいなと思いいつつも、見にくいのは年のせいだからしかたがないと思ってたんだけどね」と。了解をとり、設定を変更し、席へ戻った。

【ハンディがあっても利用できるページづくり】
http://www.kanzaki.com/docs/html/accessible.html

投稿日時 - 2009-05-14 00:34:16

補足

 littlekiss さん ご投稿をありがとうございます。と遅ればせながら。

投稿日時 - 2009-05-15 11:08:22

お礼

 

 (^O^)/ういーすぅー。

 (-。-)y-゜゜゜

 (*^_^*)

 (-_-;)uuu… 

 ( ̄^ ̄)しらんぷり

 ★ ちなみに仔猫の名前は、テンとジョー。
 ☆ Only this can go.(?)→これだけは いける。

投稿日時 - 2009-05-14 05:23:56

ANo.30

 こんにちは。ブラジュロンヌさん


 あれですか、他の質問を見ても、どうも行き詰まっているように見えるのですが、気のせいでしょうか。ところで、どこにいったのかと思っていたんですが、見間違いでなければおそらく、僕は下の子猫ちゃんの名前を知っています。

 えっ、何のことだ? きょとんとしている、その猫です。
 おそらく、その子の名前はシャノンです。シャノンの定理の「シャノン」です。

 えっ、情報が少ない? そうでしょうか。むしろ、量の問題ではないでしょうか。

 良かれと思って発した言葉が、思わぬ解釈を伴って返ってきたとき、思わずびっくりしてしまう事ってありますよね。
 ある用語が(その言葉どおりに)共感される確率(p)を予測したとする。発話に際しては、きっと誰もがこのpについて多かれ少なかれ考えていると思います。それで、その後に共感されたかどうか(q)を聞かされたとき、自分はどのくらいびっくりしたか。
 つまりは、こういう事ではないでしょうか。

 だとすれば、共感されたときq=0、共感されなかったときq=1に、この「びっくり」の程度が計量できれば「びっくり」が少ないほど共感されたと言うことができるでしょう。対話では幾つもの用語が使われるわけですから、その都度「びっくり」の程度を加算したい。
 情報理論ではこの「びっくり」の程度を情報量と呼ぶようです。それに従えば、情報がq=1のとき、-log(p)だけびっくりする事になっています。
 要するに「わかってもらえると思っていたのに、わかってもらえなかった」とびっくりするわけです。この場合は「共感されたときq=0、共感されなかったときq=1」ですから、底は2です。2の場合をシャノンと呼ぶんですが、それが子猫ちゃんのお名前でしょう? 
 そしてq=0の場合にも-log(1-p)だけびっくりする。これは「わかりっこないさとと思ってたのが、わかっちゃった」とびっくりする程度です。
 「びっくり」は「どっきり」でも良いのですが、どうでしょうか。

投稿日時 - 2009-05-13 16:24:58

補足

 ri_rong さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 情報が盛り沢山で しかも エラーもなく伝送されては来ているようなのですが――つまり 中には 仮りに文字の打ち間違いがあったとしても わかんない―― ところどころ 暗号化も ひょっとして 為されているのかなという具合いにて まだ 戸惑いの渦巻きの中にあります。
 歴史は繰り返すではありませんが いちど 昼寝(遅い昼寝)をしたあと 応答をしたという記憶があるのですが きょうも そうです。そのあと 風呂に入ってしまったものですから 気分はさわやかですが 頭は 普段よりは回りがにぶいと覚悟しています。(つまり 言い訳です)。

 さて 
 ★ えっ、情報が少ない? そうでしょうか。むしろ、量の問題ではないでしょうか。
 ☆ おっしゃるとおりです。寸分の違いもなく そのとおりに存じます。量が質に変化しているかどうかも分からないかたちの 量の問題です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 良かれと思って発した言葉が、思わぬ解釈を伴って返ってきたとき、思わずびっくりしてしまう事ってありますよね。
 ・・・(中略)・・・
 つまりは、こういう事ではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはですね。
 ○ 共感と同感とで おどろきの質も量も ちがう。
 ☆ と考えます。心で同意する後者のばあいには その同感の成否にかかわらず 次の作業にすすみます。成ったなら さっそく 次の段階に入るでしょうし 否定を受けたなら  再反論しつつ修正しつつ 次の仕事を目指します。
 共感のばあいは けっきょく 《なんとなく賛成》ということですから もし その成否によって その成否じたいを問題にするとするなら それは おどろきという事態ではなくなるかも知れません。確執という事態であるでしょう。
 ★ 要するに「わかってもらえると思っていたのに、わかってもらえなかった」とびっくりするわけです。

 さて
 ★ この場合は「共感されたときq=0、共感されなかったときq=1」ですから、底は2です。2の場合をシャノンと呼ぶんですが、それが子猫ちゃんのお名前でしょう? 
 ☆ これが わかんない。意図だとかのほうではなく 意味そのもののほうです。つまり おつむの問題です。こういう質問の仕方はありえますか? 
 ○ 底の2が シャノンという子猫で これを何乗すれば 何になるというかたちなんですか?
 ☆ ここで 行き詰っています。

 しかたありません。このまま ご返答といたします。

投稿日時 - 2009-05-13 20:01:26

ANo.29

ぽこぺろぽです。こちらのご質問のほうが、実りあるお話ができると考えたので移住します。

 結論から申し上げましょう。すべての人を説得するのは到底ムリです。なぜなら共通認識を確認することすら、忌避する者が多く存在するからです。私が以前「けんかを・・」のご質問で迂回生産と称してくどくどしく、「投打の重要性は常に等しい」との定立を説いたのも、この質疑において、大佐と皆さんとの間に共通認識が、殆ど見受けられなかったからです。

 皆さんが大佐の措定に頷くまえに、持論を展開した、あるいはもっと酷い方になると、自らの主張を例示すらせずに大佐に反駁していたのを見て、身をもって共通認識に立つ難しさを呈しようというわけです。根気強くおつきあいいただきましたが、大佐のような頭脳明晰な方にも、私の拙い説明では、ご理解いただくのに骨が折れました。おそらく、あの定立を自らは何の根拠も示さずに、頑として受け入れない者がゴマンといるはずです。

 対話よりもずっと浅い段階の問題があります。とくに日本において、稚拙な議論は必ずといっていいほど、共通認識の確認作業を行っていません。対話以後につきましては、お返事をいただいてから改めて思索します。

投稿日時 - 2009-05-13 00:48:38

お礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。対話以前の問題ということですね。
 ★ 共通認識の確立
 ☆ lioneater さんのご回答に対してだったと思いますが わたしは こう応えました。用語の定義を前もってしていないのは どの主題についてでも 自由な回答を 寄せてもらうようにである。回答者の使う用語におうじて わたしが 応答していくかたちであると。
 その方式は この共通認識の確立の問題にも 当てはまるとは思うのです。また そういうふうに いままで やって来ました。
 そして 何度も触れますように ここ最近になって――それは 年が変わってからくらいでしょうか―― その方式では わたしが お手挙げになる場合が生じたのです。
 繰り返しますと 共通認識の確立は ぶっつけ本番で 一人ひとりと おこなっていた。ある程度まで 効を奏していた。ところが これが 壁にぶつかった。という現状です。

 ここでの言い分は ささやかなものです。
 理論を それじたいとして 納得のいく普遍性のあるものにすれば 納得させる・つまり説得するのは 二の次であって よいというものです。言いかえると 説得することに成功はしないが 成功するか否かは もう あとは 相手の判断次第であるというところまで コミュニケーションを推し進めるということです。また そのためには どういう理論が 現代コミュニケーション論として 考えられているかです。
 どうでしょう。

投稿日時 - 2009-05-13 07:12:47

ANo.28

補足要求についてのご回答拝見しました。
《アマテラス‐スサノヲ》に随分深い意味をこめられたのですね。
言語体系が異なる者同士、この名詞が適切か否かはあえて考察せず、
>人間(現実)は 変わる
というお考えには同意いたします。

してみると、bragelonneさまは「すべての人に受け入れられる教えはないか?」という問いを全回答者に対して突きつけておられるのですね?
既存のキリスト教・イスラム教・ヒンズー教・仏教といった枠を超えた新しい精神的な支柱を夢想しておられるのでしょうか。

だとすれば、あるいはこの質疑応答に更に参加したみたいと思います。
そうではなく、まったく現実味の無い空理空論を弄ぶのみならば、言葉遊びの範疇を出ませんから、私は退散いたしますが。

投稿日時 - 2009-05-12 19:59:23

お礼

 lioneater さん ご回答をありがとうございます。

 鋭く指摘していただきました。
 ここでは たしかに そういった普遍理論をたくらんでおります。
 たとえば次のようなわたしの投稿は 億面もなく そういう意図と企図をあらわしているのですが この質問では たしかに コミュニケーションに絞ったところがあります。
 
 【Q:現代日本に必要な哲学は?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html
 次の三件が わたしの投稿です。
 No.1:新しい社会へ向けて――《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関を切り口として 社会の基礎理論です。

 No.8:さらに日本社会に即してです。古代社会の分析から迫ります。

 No.9:《絶対》の説明 または 信仰類型論です。

 よろしかったら これらを コミュニケーション論に 織り込んで 批判および展開を すすめていってみてください。
 わたしは 言語表現については いくらか 考えたところがありますが コミュニケーションについては ほとんど それとして 素養がありません。進展を期したいと思います。
 なお わたし自身は 水による洗礼を受けていないキリスト者です。

 それでは お待ちします。

投稿日時 - 2009-05-12 20:29:36

ANo.27

どういう謎が解けるか楽しみだったな。。。

「自分のやった労苦に満足すること。それこそ神が人間に許された唯一の事。神を畏れ敬え」


これでもういいのかな。
目的は無くなった?

それと、人間の欲望でも弱さでも注目すればいいと思います。

投稿日時 - 2009-05-12 15:57:51

お礼

 なあんだ。かついだのか。

 それは それ。これは これ。

 だが ちと 変わったね。

投稿日時 - 2009-05-12 16:20:58

ANo.26

お礼と補足を拝見しました。

その…意味がよく分からないのですが《アマテラス‐スサノヲ》とは何を意味して(あるいは意図して)おられますか?それとも最近の哲学ではメジャーな用語なのでしょうか(だったら浅学をお詫びします)

>《人間として・人間であるなら》
人間は自我を持ち、自我は自己の存続を最優先します。よって、利害関係の無い人間関係は皆無に等しいと思います。そこを無視すれば、bragelonneさまのお考えは成立するでしょう。ですが、この世では実現できますまい。(それを机上の空論と表現しました)
マルクスも考えは素晴らしかったのですが、人間の欲が彼の思想を破綻させました。今も昔も人を見ていない議論は空理空論の域を脱しないのではないかと危惧する次第です。

投稿日時 - 2009-05-12 12:42:17

補足

 lioneater さん 打てば響いていただいたご回答をありがとうございます。

 ★ その…意味がよく分からないのですが《アマテラス‐スサノヲ》とは何を意味して(あるいは意図して)おられますか?
 ☆ これは 失礼いたしました。最近では よく持ち出していたものですから うっかりしました。さしづめ 次のようにご理解ください。わたしの勝手な造語です。
 ○ スサノヲ―――アマテラス
 ○ わたくし・・・おほやけ
 ○ 市民・・・・・公民
 ◎ スサノヲ圏――アマテラス圏
 ○ 市民社会・・・市民政府(元首は アマテラシテ amaterasite;
Amatersitaet; amatersity )
 ○ 一階・・・・・二階

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >《人間として・人間であるなら》
 人間は自我を持ち、自我は自己の存続を最優先します。よって、利害関係の無い人間関係は皆無に等しいと思います。そこを無視すれば、bragelonneさまのお考えは成立するでしょう。ですが、この世では実現できますまい。(それを机上の空論と表現しました)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ごもっともです。そして わたしとしましては ここまで 大ほらを吹いているわけですから 少々 とりつくろいますと 次を 歴史的に予期し 前提としています。
 ○ 人間(現実)は 変わる。
 ☆ たとえば その結果として 《アマテラス圏主導‐スサノヲ圏従属》連関が どんでん返しをおこなうといった大風呂敷であります。スサノヲ圏のムラ(市町村)を主体として その連合・しかも国際的な連携を 予定しています。これを
 ○ インタムライスム
 ☆ と名づけています。たとえば N市と南京市とが 提携し 市議会議員を 相互選出するとか 経済的・文化的な交流を拡げるといった方向です。その錯綜するまでの網の目の連携です。
 このような空理空論は けっこう おもしろいでしょう?

 なお 最近のやり取りとしては 次をごらんになってくださると よいかと思います。ざっと目をとおされて ひっかかったところを 読んでいただけばよいかと存じます。少々 出しゃばっていますが。題名に反して 議論がすすんでいると思います。
 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4883224.html

 横着なお応えの仕方になりますが。

投稿日時 - 2009-05-12 13:35:22

ANo.25

>でも 非思考ですよ。無根拠なのです。
>耳をかたむけてください。その声に聴き従ってください。
>究極のコミュニケーションを ぜひ どうぞ。

声が聴こえるまで、待ってみます。
またしばらく休みます。

投稿日時 - 2009-05-12 12:35:22

お礼

 わかりました。
 まるっきりお休みというのも 何だと思いますが でも じっくり待つというのは とても いいことだと考えます。

 というよりも 雪山さんは わたしは 以前のままで 問題ないと思うのですけれど いまここで それを言うのは ちぐはぐになりますかね。

 ということは それでは になりますかね。

投稿日時 - 2009-05-12 13:15:58

ANo.24

確かに、社会とはうんぬんはいまさらなんですけどね。社会は、2つの観かたがありますね。

社会科学から観る社会、つまり、科学的方法により観察、分析して、体系的に把握する社会であって、社会がそれ単独で存在している いわゆる社会ですね。
もう一方は、哲学の一部、認識論、生死論、自他論などから観る社会、つまり、社会はすべて、観察者の中に存在するという社会ですね。

前者は観察者が消失しても社会は厳然として残りますが、後者は、観察者の消失と共に社会も消失します。どちらも正しくその場その場で使い分けています。でも、このご質問だとそうもいかない・・・bragelonne さんが両刀使いでどの方向からも回答を受ける力量は解りますけど・・・・・

>→【Q‐α‐φ(ゼロ)】 コミュニケーションにとって 社会とは どういう事態か。
> 1. ひとは たぶん いや たしかに 祝福されて 生まれてくる。
中略
> 11. つまり 社会は この自然本性によるきづなや つながりを持った共同体であると言えるか。それが 基礎だと言えるか。

bragelonne さんのこの社会は、どちらかと言えば、前者の社会なのですが、
これは、丸ごとbragelonne さんに内在する社会なのですよね。

------と言うような------以上の社会、コミュニケーションは
丸ごと私に内在しているということのようにも思うんですね。

そうすると、後者が前者を包含していると観ることができますね。

それでですね、この前者と後者とでは、コミュニケーションが本質から違うんですね。だから、このご質問は頭が爆発しそうになるんです。

投稿日時 - 2009-05-12 12:26:11

補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。

 ごもっともです。
 ○ 客観的であろうとする《社会科学》と 主観をこそ大事にし主体的であろうとする《社会思想》と
 ☆ ですね。この質問では 《思いっきり 自己の立ち場から 発言する》 これを 基本としたいと思います。経験科学の客観性を志向する場合にも その成果を けっきょく 自己ないし主観に置き換えるという作業が 伴ないます。その意味でです。
 参考になると思われる文章をかかげます。

 ▲ (水田洋:社会思想小史)~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・一般的には 社会観=社会思想は 社会科学にたいする主観的な障碍ではなくて 逆に その成立のための主体的な(しかも社会的な)根拠なのであり この実践的契機なしには 理論としての社会科学じたいが成立しえないのではないかと わたくしはおもうのである。

 ▲ 社会科学が社会を分析するには 対象としての社会が とにかくひとつの体制として 成立していなければならない。ところが ひとつの社会体制の成立は ひとつの階級の支配の確立をいみする。したがって その社会体制の客観的認識は 社会と個人との矛盾がなくなったとき あるいは そういう矛盾を感じない立場から 可能になる。

 それはむしろ支配階級の立場であってそのとき 被支配階級は この社会体制を批判するけれども 全面的はあくの点では支配階級におよばない。
 社会思想および社会科学の歴史のうえでは A.スミスとK.マルクスが きわだった例外として 理論と実践 認識と批判 客観分析と主体的意欲との すなわち社会科学と社会思想との たぐいまれな統一をしめしている。それは ふたりのすぐれた方法や態度にもよるが 同時に スミスの時代のブルジョワジー マルクスの時代のプロレタリアートの歴史的条件にもよるのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ところが このように
 ▲ スミスの時代のブルジョワジー マルクスの時代のプロレタリアートの歴史的条件にもよる
 ☆ ということは やはり その理論なり思想なりも どこかの社会的な立ち場に 自分をおいていると考えられます。わたしの場合は 自分自身であり 少し  広くとれば 《スサノヲ市民》ないしその《井戸端会議》です。これも漠然としていますが アマテラス公民ではないという点で はっきりしています。
 ですから たしかに 使う言葉が違うかも知れません。
 スサノヲ人間語――情感もゆたかに――と アマテラス人格語――たてまえ主義ですね けっきょく――との区分が うまく行くように思います。どうでしょう。

投稿日時 - 2009-05-12 13:10:35

ANo.23

>なんで 自分で決めるんですか。神のことを なんで 人間が 自分で判断し 決めつけるんですか。冗談ぢゃない。
>何さまなんですか。ぜんぶ 受け留めているにきまってるぢゃないですか。

>★ 富に仕える
> ☆ ことがあったにしても すべて みちびかれます。なんで 人間のあなたが 心配するのですか? 
>神にでもなったのですか?


あの、自分で決めなくていいんですか?
もちろん私は神ではありません。

私は勝手に自分で決めつけてる。。。

これがエゴイズム?

だとしたら

キリスト教をどう解釈すればいいんですか?

投稿日時 - 2009-05-12 11:07:44

補足

 yukiyama20 さん ご回答をありがとうございます。

 こういうことです。
 コミュニケーションは 相手のあることです。相手とは わたしと同じ人間存在です。人間という存在には 自由意志があります。ほかの動物とちがって その自然本性には 意志による自由な選択という判断ならびにその実行があります。
 だからこそ 説得といった要素をふくむ対話がおこなわれます。
 これが 人間どうしの世界です。
 《エゴー》つまり《わたしは これこれを判断する / あれそれを実行する》というのが この世界です。みな エゴイズムのもとに 生きています。
 だいじょうぶです。すべて しかるべきところに落ち着きます。最終的には 万事あいはたらいて 益になります。だそうです。
 これを 全体的に 秩序ただしく ことが運ぶようにと しきりたいというのが 神のように如何なるものの下にも立つまいと決め込んだ超歴史知性――スーパーアマテラス神話――です。
 エゴイズムをも よく用いる共生の生活をいとなもうとするのが スサノヲ市民です。スサノヲ人間語とアマテラス人格語との 言語のちがいが 出てきます。しかも これらのあいだで コミュニケーションをはからねばなりません。たとえば そのためのキリスト信仰です。無根拠にもとづく非思考=信仰です。
 でもこの非思考なる心の明け もしくは 伸びが 経験思想の形成に ちからあると考えられます。
 ★ キリスト教――つまり その宗教 つまりその教義(《文字》ですね)――
 ☆ これは へのかっぱです。非思考なる信仰を 外に出してしまって 自分たちで 勝手に 教義としているだけです。エレミヤ書31:31以下を読んだでしょう。《教義をおしえるなどということは いっさい なくなるし ない》のです。
 教義などに関係なく 
 ○ ぜんぶ 受け留めているにきまってるぢゃないですか。
 ☆ つまり 誰かは 分かっているでしょうね。教義を知っているかどうかに関係ありません。また その教義があるからというので 後生大事に あたまに頂いて あたかも道徳規範に従うというかのように 実行するのだというのは 自由ですが 非思考=信仰の問題ではありません。経験思想や信念の問題です。
 信念や経験思想によれば その努力にしたがって 報いを受ける場合もあれば そうはいかない場合もあります。信仰による場合にも 結果が どう出るかは 分かりませんが それでも
 ○ ぜんぶ 受け留めているにきまってるぢゃないですか。
 ☆ だめな場合は なぜだめか そして あらたに どうすべきか やがて 分かるようになります。万事あいはたらいて 益になります。なんで そうなるか 人間が つまり あなたが 詮索しても どうにもならないのとちがいますか?
 そのからくりが 知りたいのですか? でも 非思考ですよ。無根拠なのです。あやまつならば われあり なのです。
 あやまったと気づいたとき 非思考の瞬間が 与えられます。われに還るというような瞬間ですね。そのあと――そのあと です そのあと―― このあやまち あるいは 還ったというわれについて わたしは 考えをおよぼします。われ考える ゆえに われありというのは その後半の部分を言っています。あやまっても あざむかれても うたがっても そのわれは 存在しているからです。
 ★ キリスト教をどう解釈すればいいんですか?
 ☆ も へちまも ありません。耳をかたむけてください。その声に聴き従ってください。非思考は わが主観の中にしか ありません。教義や組織やヒエラルキアには ありません。
 究極のコミュニケーションを ぜひ どうぞ。

投稿日時 - 2009-05-12 12:12:11

ANo.22

すべての人を説得する事はできません。
何故なら、すべての人間は各々異なった言語体系を持っているからです。この場合の言語体系とは「ある単語を聞いた時に感じる心象の体系」です。

失礼ながら【A‐ω‐br.】でお示しの(1)~(3)は空論です。
(1)人が言葉を聞く場合「感性ないし情感」無しには理解できません。
(すべての人びとが納得する理論には数学の公理や科学法則など無矛盾な物が既に存在します)
(2)「説得者の能力や努力」は重要な要因です。営業マンの成績に差があるのは運ではありません。
(3)説得できるか否かは利害関係の有無が重要であって、お示しの(1)、(2)は関係ありません。

【Q‐α】に対する質問者さんのご回答には「力関係」の視点が欠けています。だから、【Q‐β‐1】が混乱した回答になってしまっています。
対等なコミュニケーションは、この世においては皆無に近いと思います。唯一、親友と呼べる相手との会話くらいでしょうか?
【Q‐β‐1】にある第三者が、自分より経験豊富だったり、理路整然としていたりすれば、そちらの意見が強くなる事は明白です。

【Q‐β】に対しては、語の統一(ディベートをする前には必ず行います)が最も重要だと考えます。失礼ながら、今回の質疑応答を拝見するに、質問者さんのお礼や補足がこんなに長々と書かれているのは、最初に語の統一が行われていないからと拝察します。脱線しているのはその証拠です。
折角の良い質問もこれ以上長くなってしまうと、新規回答者が投稿をためらうのではありませんか?
と、これも私からのコミュニケーションではあります。第一段階で問題が生じてしまっている事を、どうぞご賢察ください。

投稿日時 - 2009-05-12 09:40:36

補足

 lioneater さん ご回答をありがとうございます。

 ひさびさのご批判です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 失礼ながら、今回の質疑応答を拝見するに、質問者さんのお礼や補足がこんなに長々と書かれているのは、最初に語の統一が行われていないからと拝察します。脱線しているのはその証拠です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この点は 明らかに おっしゃるとおりです。文句なしに そのとおりです。そしてまた 副次的な主題(つまり αとかβとかの区分のことですが)のどこからでも ご見解をよせてもらおうとの魂胆です。ま そういう方針であると お答えいたします。(つまり すでに 発車していますので この方針に従います。途中で どうしても 立ち行かないとなれば ご助言にしたがいます)。

 さて そのほかのご指摘は 部分的に同意いたしますし せざるを得ないようですが 再反論がないわけではありません。
 あっ ちなみに
 ★ 語の統一(ディベートをする前には必ず行います)が最も重要だと考えます。
 ☆ につきましては ここで 《ディベート》をするつもりは ないです。投稿者の方が使われるご自分の用語を受けて こちらで対処してまいります。

 ★ 【Q‐α】に対する質問者さんのご回答には「力関係」の視点が欠けています。
 ☆ そうですね。これは 途中で おぎなうかたちになりました。
 ○ (No.19)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【Q‐γ】 社会言語という問題
 【Q‐γ-1】 アマテラス人格語とスサノヲ人間語――社会階級言語として。
 ――社会の二階建て構造が現われたこと(つまり 国家の成立・展開・消滅)が 大きな論点であり 人間の存在のあり方として基軸を成すかとも思います。
 スサノヲ市民とアマテラス公民とは 話が通じるか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが コミュニケーションにとっての社会力学との絡みという主題です。前前編の【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】で フーコの権力論にもからんで この《アマテラス‐スサノヲ》連関は まなざしの注ぐ・注がれる関係として ご回答を受け展開して来ています。
 この論点で ご見解がおありでしたら ぜひ ご披露ください。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 すべての人を説得する事はできません。
 何故なら、すべての人間は各々異なった言語体系を持っているからです。この場合の言語体系とは「ある単語を聞いた時に感じる心象の体系」です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ これは これまでに 一方で ひとにとって 内面主観に横たわるかのような《孤独》の問題として 他方で 他者の主観を受けとめたその《クオリア》の問題として すでに 議論に入っているとも見られます。孤独は どうも 共通であるようですし クオリアは どうも逆に 自己の主観による受けとめというくせ(エートス)や趣味の問題もあって どこまで共同のものであるか きわめて あやしいとも 問い求めが進んで来ています。
 どうか貴重な一石を投じていただければ うれしく思います。つまりは その《言語体系》の違いというのは いわゆる《他者性》の問題だと思いますが それにもかかわらず 意志疎通をこころざし続けるのが われわれ人間であるとも考えられますので 主観の共同化が成るかどうかの問題だと捉えています。

 ★ 失礼ながら【A‐ω‐br.】でお示しの(1)~(3)は空論です。
 ☆ これはですね。mashumaro2 さんから問いかけられて 次の例を出しました。
 ☆☆ (No.16) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ▲ 《復讐するは われにあり》と主は言われる。
 ⇒○ 仕返しは 大いなる自然史過程にまかせるべきだ。
  ○ ひとは おのづから 報いを受ける。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これを 《すべてのひとが 納得しうる》理論として 提出します。説得し切れるかどうかは 説得する側の能力と努力を超えたところにあるという見方は 暫定的なわたしの結論です。能力を磨き努力を怠らないのは おっしゃるとおりでして 何の異論もありません。ただし
 ★ (3)説得できるか否かは利害関係の有無が重要であって
 ☆ というご見解に対しては 対立いたします。納得する・説得するというのは ここでは 《利害関係にかかわらず》というのが 前提です。《人間として・人間であるなら》という意味です。机上の空論であっても 同意するかどうかを成否の基準にします。

投稿日時 - 2009-05-12 11:28:36

お礼

 ★ 営業マンの成績に差があるのは運ではありません。
 ☆ 異論はありませんが ここでの問題の立て方とは 違うでしょうね。その商品によるという条件が 営業マンの事例には つくからです。やはり ここでは 理論の説得の問題なのです。その普遍性にかかわります。
 (あるいは エスキモーに冷蔵庫を売るかどうかの問題とも 微妙に 違います。エスキモーに一人でも 基本的に言って 要らないという場合があれば 納得や説得の中身が違うと言わざるを得ません)。

 ★ 数学の公理や科学法則など無矛盾な物
 ☆ このたぐいについては どうなんでしょう。 
 ★ すべての人びとが納得する理論
 ☆ に当てはまるとして いいのでしょうか? 内容が 人間の意志にとっては 無味乾燥なのではないかと 思ったりしますが どうでしょう。含まれるとしても 特に 問題はないと思います。

 だいたい お応えしえたかと思いますが いかがでしょう。

 ★ 対等なコミュニケーションは、この世においては皆無に近いと思います。
 ☆ ぎゃくに 六・七割の実情へともっていこうと致しております。自由に ご参加ください。

投稿日時 - 2009-05-12 11:39:59

ANo.21

・・・どうしてわかったんですか?

もしそうなら、
あなたは私より、私のことがわかっています。
そして私が今まで出会った人々の誰よりも。
あなたは何者なんですか?


私は理由をずっと考えています。

そして、今回の「母親」との関係は、「あの人」の再現だと思っています。
あなたは「あの人」に似ています。

あなたも黙っていなくなりますか?

どれほど私に能力が無いのか、なんなのか教えてください。
映画も小説もほとんど観ないし、読みません。


そして、見捨てますか?

さて、

最近、キリスト教ってなんだろうと悩むようになりました。
何も知りませんでした。


「だれも、二人の主人に仕えることはできない。
一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。
あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」


幸せになりたいから、神を信じるという理由は
間違っているんでしょうね。

それともこの解釈は違うのでしょうか。

「何よりもまず、神の国と義を求めなさい。」


神の国と義が、まだわかりません。

投稿日時 - 2009-05-12 09:37:55

お礼

 yukiyama20 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 神の国と義が、まだわかりません。
 ☆ 分かったほうが いいでしょうけれど 分かったから 息を吹きかけられる(つまり 聖霊によるバプテスマを受ける)わけではありません。
 それに
 ★ 義だの正義だの
 ☆ は もう 旧いです。ただの主観です。主観におさまっていますので 取り立てて言うのは おかしいでしょう。ひとに向けて表現しうる範囲としては 経験合理性から見た妥当性のことですし それを包む確信のことであるに過ぎません。人間にとっては です。人間から見ては です。そして 人間として言うしかないのです。
 ★ 神の国
 ☆ もう来ていると言ってるぢゃないですか。うたがいは とことん うたがい抜くべきです。一点の曇りもないように疑いつくすべきです。世界一の史上最大最高のセールスマンだとうたがっていたのですから わたしは。
 ▲ 「何よりもまず、神の国と義を求めなさい。」
 ☆ 文字は殺し 霊は生かす。ですよ。突き抜けてください。

 ★ 幸せになりたいから、神を信じるという理由は / 間違っているんでしょうね。
 ☆ なんで 自分で決めるんですか。神のことを なんで 人間が 自分で判断し 決めつけるんですか。冗談ぢゃない。何さまなんですか。ぜんぶ 受け留めているにきまってるぢゃないですか。もっと うたがうべきです。ぜんぶ うたがいを 引き出しの奥の奥まで探し出してきて 問うべきです。なまぬるいから 吐き出されるのです。熱いか 冷たいか どっちかにして欲しい。

 ★ 富に仕える
 ☆ ことがあったにしても すべて みちびかれます。なんで 人間のあなたが 心配するのですか? 神にでもなったのですか?

 ★ ・・・どうしてわかったんですか?
 ☆ わたしは 表現に反応しているだけです。いわばひとつの鐘でして 撞木で打たれれば 打たれ方に応じて ひびきます。ただ それだけです。
 これが わたしの文体であり わたしのコミュニケーションの取り方です。ほかの質疑応答も 読んでますか?それらについても どしどし 突っこんでください。批判は 歓迎です。次のご投稿は 批判のようです。このあと 応答です。

 ★ 今回の「母親」
 ☆ っていうのが まだ はっきりしないなぁ。まぁ 気長にまいりましょう。

投稿日時 - 2009-05-12 10:40:15

ANo.20

こんばんは、bragelonneさん。


(^O^)/ういーすぅー。昼から出かけてました。

どこへ行ってきたかといえば…ちょいと、社会保険事務所まで

そそそう、4月がお誕生日のlittlekissですから「ねんきん定期便」なるものがちょっくら前(4月)に自宅へ郵送されてきてました。読んでもよくわかんないところがちょこちょこあるもんで、社会保険事務所へ出向き聞きに行かねばと思いつつも4月初めから仕事の引き継ぎ等なんじゃかんじゃとバタバタで休み返上のありさま。5月に入り、やっとこさGWは休めると思いきやGW前に…天井から仔猫が二匹落っこって来て壁の隙間に閉じ込められる。深夜に仔猫の叫び声。居間には、うちの母さんとお姉ちゃんと私の三人。三人顔を見合わせ「ほっとけんでしょう。」と、夜中12時をまわっているというのにそこから壁板をノミとカナヅチでトンテンカンするはノコギリでギコギコ近所迷惑をよそに仔猫を救出。突如として、仔猫二匹を飼うことに。GWは仔猫の世話にあけくれ、両腕は仔猫のツメのひっかき傷まみれ。そんなこんな日々、やっとこさ平日に振り替え休日が一日とれ、社会保険事務所へき聞きに行けたのよ。

【学生納付特例制度】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E7%94%9F%E7%B4%8D%E4%BB%98%E7%89%B9%E4%BE%8B%E5%88%B6%E5%BA%A6

大学へ通っていたから20歳をこえてからの2年間(24ヶ月)申請してないから記録記載されてない、申請はいつどのようにするのかな?窓口の係りの人に聞いてみた。「年金受給年齢に達するまでには、まだまだ間がありますから年金受給年齢に達したときに資格期間が足りない場合に卒業証明書等を添付し申請するものです。」とのこと。加入期間が最低25年(300ヶ月)あることが、受給対象者の要件。受給要件を満たした場合であっても加入期間の間でいくら納めたかで年金受給金額は変わってくる。大学へ通っていたから20歳をこえてからの2年間(24ヶ月)は、加入期間としては加味することはできるが満額払い込みでない場合は、カラ24ヶ月ゆえ金額としての加算はされない。

大変申し訳ございませんが、この投稿に添付された画像や動画などは、「BIGLOBEなんでも相談室」ではご覧いただくことができません。 OKWAVEよりご覧ください。

マルチメディア機能とは?

投稿日時 - 2009-05-11 21:55:49

お礼

 littlekiss さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★☆ 子猫との そして 隣近所との コミュニケーション問題ですね。
 ☆ うちの BIGLOBEなんでも相談室のほうでは 画像が出ない。OKWave のほうで 見なきゃなんない。

 ★★ むかんしん
 ☆ ぢゃなかったの?
 ☆☆ 社保庁
 ☆ を わたしが出したので ちょうど符合したってわけですか?
 事務所のほうは けっこう コミュニケーションは うまく行きましたよ わたしの場合も。一たん 三百か月に満たないと知らせが来たんだけど じつは 漏れてたとのこと。天から降って湧いたように 資格期間に足りてしまってしまいました。ただ いくらおさめたかがねぇ。

 アマテラス語は つうじたようですね。それは ようございました。
 それで なんですか。もうそろそろって おとしで?!

投稿日時 - 2009-05-11 22:17:14

ANo.19

休んでいたけど
「母親」に呼ばれたから来ました。

はい、そうです。


>何か特殊な目的があったってことですか?

幸せになるためです。

あとは、どうしたらいいの?
洗礼は?

投稿日時 - 2009-05-11 20:25:10

補足

 雪山さん ご回答をありがとうございます。

 どうした? 
 ★ あとは、どうしたらいいの? / 洗礼は?
 ☆ 洗礼のための《説得》は あまり要らないでしょうね。
 わたし bragelonne は なぜ 水による洗礼を受けないのか。最近では 次のように答えたことがあります。

 寄るべき聖句を たとえば 二点挙げることができる。

 ▲ (ヨハネ福音1:13) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  この人びと(* 《ことばを受け入れた人・その名を信じる人びと(1:12)》)は 血によってではなく 肉の意志によってではなく 人間の意志によってでもなく 神によって生まれたのである。
 ▲ (ローマ書10:9-10) ~~~~~~~~~~~~~~~
  口でイエスは主であると公に言い表わし 心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら あなたは救われるからです。
 実に 人は心で信じて義とされ 口で公に言い表わして救われるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 言いかえると わたしは 次のような聖句に 逆らって 振る舞っています。
 その前に その背きの理由としては こうです。つまり これら二例の文章に表わされたキリスト者は 霊による洗礼を受けたものであり その状態においてすでに 水による〔およびそのとき同時に 霊による〕洗礼を受けたクリスチャンと同じ 神の子らであると考えられるからです。

 ▲ (ヨハネ福音3:5) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 イエスは答えた。
   《はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ 神の国に入ることはできない。》
 ▲ (マタイ福音28:19) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 《・・・ あなたがたは行って すべての民をわたしの弟子にしなさい。かれらに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。・・・》
 ▲ (使徒行伝22:16) ~~~~~~~~~~~~~~~
 〔アナニアからサウロ=パウロへ語っている箇所〕《・・・今 何をためらっているのです。立ち上がりなさい。そのかたの名を唱え 洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。》
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ちなみに 次のような聖句もあります。洗礼は要らないというかのようです。
 ▲ (コリント前書1:17) ~~~~~~~~~~~~~~~~
  なぜなら キリストがわたしを遣わされたのは 洗礼を授けるためではなく 福音を告げ知らせるためであり しかも キリストの十字架がむなしいものになってしまわないように 言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 長い質疑応答なら 次があります。わたしの質問です。
 【Q:水による洗礼は必要不可欠なことですか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3013375.html

 もし何かあれば わたしでもいいし だれかにきちんと話したほうがいいよ。その後どうしてたとか ここでは 何だから。いいかい。

投稿日時 - 2009-05-11 20:45:58

ANo.18

昼休みの急ぎ回答です。

>《理論》も 変化するのですが  中略  区別したいのです。

これは、その通りでしょう。
声、文面とは、テキストデータの論理面のみならず、
声や文の言い回しから、受信側が受ける心象、印象を言っています。

>(その共同性について 何がほんとうに共同なのか これもまた 主題になるかも知れません)

そうですね。共同なのか、自己に存在する共同だと思っている心象なのか。
これら二つは同じものと言えるか。でしょうか。
そして、理論ですか。

ここで、社会はどこに存在するかということを何とかしなければなりません。
孤独も共同も理論もいわば社会の所在に依ります。

社会は、特定の個人とは別に存在する。
社会は、各個人の中に存在する。
社会は、自己の中に存在する。

いずれも正しいように説明できます。
構造的に、排他的に論理立てて説明することができるのでしょうか。

結論は、そこから生まれる様に思いますがどうでしょうか。

投稿日時 - 2009-05-11 12:24:48

補足

 bananasand さん たのしいご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ここで、社会はどこに存在するかということを何とかしなければなりません。
 孤独も共同も理論もいわば社会の所在に依ります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここで ほほえましく感じました。むろん 真面目な議論であって わたしも そう 受け取っているのですが 互いに ここまでやって来て ここで 《そもそも 社会とはうんぬん》ということになったかと思って でしょうね かえって たのしくなりました。
 いちど コミュニケーション論の以前に 言語表現とは何かの問題があるだろうと 気づいて 主題につけ加えたのですが それと ちょうど 同じようなことかも知れません。
 【Q‐α‐φ(ゼロ)】 コミュニケーションにとって 社会とは どういう事態か。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >(その共同性について 何がほんとうに共同なのか これもまた 主題になるかも知れません)

 そうですね。共同なのか、自己に存在する共同だと思っている心象なのか。
 これら二つは同じものと言えるか。でしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これにつきましては 質問者も 問い求めに参加せよということでしたら こう答えます。こんどは わたしが bananasand さんのお株を奪ったように 
 ○ 主観が 相手の主観とのあいだに 何らかのクオリアとして 共同性があると感じたり思ったりすれば それは 共同性である。
 ○ したがって この共同性のことを 互いに 述べあって だいたい 同じようなものだと分かれば 共同のクオリア共同性であるとなる。
 ☆ つまり 自己の主観に 引き寄せたかたち・クオリアはいっさい収斂するという見方を 踏襲したものです。どうでしょうか。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ここで、〔理論として〕 社会はどこに存在するかということを何とかしなければなりません。
 
 孤独も共同も理論もいわば社会の所在に依ります。

  社会は、特定の個人とは別に存在する。
  社会は、各個人の中に存在する。
  社会は、自己の中に存在する。

 いずれも正しいように説明できます。
 構造的に、排他的に論理立てて説明することができるのでしょうか。

 結論は、そこから生まれる様に思いますがどうでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 暫定的なご回答ですので 少しづつ あつかってまいります。
 
 →【Q‐α‐φ(ゼロ)】 コミュニケーションにとって 社会とは どういう事態か。
 1. ひとは たぶん いや たしかに 祝福されて 生まれてくる。
 2. やがて 子離れ=親離れとともに 独り立ちする。
 3. この独立性は おそらく 誕生に際しての祝福を受けたことにかんがみれば 人びととの関係性を 意味している。
 4. ひとの社会的な独立性は 社会的な関係性を それ自体の内に 有している。
 5. 家族や身内にしろ身の回りの人びとにしろ 関係性(かかわり)の具体的な実践として 《交通(まじわり)》が始まる。
 6. 基礎としての《独立性=関係性》の次元では 人間の自然本性にもとづくいわゆる共同体が 実現しているだろうか?
 7. 家族は 運命共同体だろうか?
 8. 《自然本性》は 特に 意志である。自由意志と呼ばれる意志行為であり それは すでに一般に おのれと 他のひととの交通関係におけるものであるからには 関係行為である。
 9. 意志による関係行為が 基礎に行なわれていて それゆえに 人びとは 互いに 家族としての《きづな》や 社会的動物としての《つながり》を持っていると言えるだろうか。
 10. つまり 人は 共同体をかたちづくっていると言えるだろうか。
 11. つまり 社会は この自然本性によるきづなや つながりを持った共同体であると言えるか。それが 基礎だと言えるか。

 あと 社会の二階建て構造が現われたこと(つまり 国家の成立・展開・消滅)が 大きな論点であり 人間の存在のあり方として基軸を成すかとも思います。
 スサノヲ市民とアマテラス公民とは 話が通じるか。わたしと社保庁とは コミュニケーションがとれるか。果たして 同じ言語で話しているか。
 《わたくし語=スサノヲ人間語》と《おほやけ語=アマテラス普遍人格概念語》とで 溝が出来ていないか。

投稿日時 - 2009-05-11 14:03:22

お礼

 あっ 《孤独》を抜かしました。

 10a ひとは およそ人間存在に関するかぎり 絶対的な関係性のもとにあるが それでも――大きくは 相対的な経験世界なのであるから―― 交わりは 破綻しうる。つながりは 破られうる。きづなさえ 壊れ得る。
 10b そのまじわりの破綻に際して ひとは 孤独を味わう。亀裂 もしくは 破綻のおそれによっても 孤独――言いかえると 独立性の側面――に向きあわされる。

 【Q‐γ】 社会言語という問題
 【Q‐γ-1】 アマテラス人格語とスサノヲ人間語――社会階級言語として。

投稿日時 - 2009-05-11 14:10:10

ANo.17

bragelonneさん、おはようございます。

ちょっといいですか?

‟ 無 関 心 ”

ちゅーう、キワードがありますやん。これ、素通りしてもよいんやろか?

義を見てせざるは勇なきなり
http://www.great-saying.com/w-rongo05.html



いやね、ほれ、以前にですね、

【QNo.480852 愛の反対は何ですか?】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa480852.html

愛の反対は、無関心という答えを目にしたことがありましたからね

人が「無関心」と、言葉を発するとき、愛の反対という場合もあるのかな?

他には?

投稿日時 - 2009-05-11 09:54:23

お礼

 littlekiss さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 無関心 
 ☆ ですか。無関心は きついですが しかたありません。
 ★ 義を見てせざるは勇なきなり
 ☆ の場合のみ 関心ありということですね。

投稿日時 - 2009-05-11 11:19:59

ANo.16

回答のお礼ありがとうございました。

面白い質問でいろいろ考える機会を作ってもらえました。笑

多人数のコミニティー、具体的には会社や人間関係、取引先、仕事にまつわり、人との関係がもっと円滑に、また発展していくために共同で意思の疎通が必要になることが、多くあります。反発や伝達のミスなど、小さな食い違いで混乱が起こる事が結局事業などの失敗成功などにかかわってきます。よく目につくのは、いくら働いても給料は変わらないという本音の愚痴は多いですね。また作業が大変で苦しいというもの。
当然はかどりません。
 人類の長い歴史から考えて、いまだにコミニケーションについて議論している。はっきりと答えが出ていない。ということを今更ながら少し驚きを感じました。歴史の中で人間関係のコミニケーションでの蓄積された知恵が伝わってないんでしょうか?と今更ながら感じました。

 コミニケーションで現実にあった事で良かったことは、取引先の会社に、事業閉鎖を考えているので、もし増資や借り入れをするなら、少し待ったほうがいいと伝えました。そういうことは内部情報ですから下請けさんには言わないんでしょうが、こういうことは普通しないのをわかっていましたから、あえて伝えたところ、事業閉鎖で、仕事はなくなり、その間に下請けさんも会社閉鎖で借金も抱えることなく不況下を乗り越えることができたそうです。もしいわなかったら通常どうり何百万もかけて機械の修理修繕と原料の何ヶ月ものストック注文をしていたでしょう。当然私に利益があったわけではないですが、大変になって困るのはわかりましたので予想して伝えました。
 やはり情報というのは、情が入っていなければ、ただの報告になりますね。報告ではなく情の入った情報でなければコミニケーションを現実に生かすことはできないでしょう。

 現実に意思疎通を計って、共に発展していく。という目的を見失ってコミニケーションがうまく成り立たない。その結果、具体的な不利益が生じる。失敗につながる。という当然な結果で小さな積み重ねの中の問題がいろいろな混乱がありますね。
 私のコミニケーションで意識することは、苦しい立場の仕事をしてる人に、仕事振りに感謝したり、また、よく言うのは、助かりました。ありがとうございました。ということは心がけます。特に、下請け企業に出向いた場合、現場の方に直接いいます。上司のかたに言ってもしょうがないので、実際に労働した方に言うようにしてます。こちらがお金を払い、また感謝してお礼を言うのは客の立場でするのがコミニケーションだと思います。それによって、立場、管理職立場すら超えることができると思いました。また愚痴を言いながら、面倒な仕事だといいながらやってもらうのは不幸だと思います。一言でもそういうことが変わるならと、積み重ねで必ず、また、毎日、必ずいう。というのが、私のコミニケーションで心がけてます。
 私にとってはそういうことが重要な実学で、現実に使えない理論は机上の空論と思えます。ですから、高尚な理論が具体的に使えるようになったら、私ももっと現実生活で生かし、もっと心豊かな生活になれるのではと、少し残念な気持ちです。
 しかし回答を載せた以降、あなた様の回答のお礼がとても読みやすくわかりやすくなったように感じました。もし少しでも得る部分があったのなら、これほどうれしいことはありません。私はこういうコミニケーションから、とてもすばらしい感動を何度か味わいましたが、感動が高等なコミニケーションにはある。と今更ながら再確認できました。
 ですから、回答のお礼のお礼を書きたくなりました。
 またこの掲示板でいろいろ学ばせてもらいたいと思います。

投稿日時 - 2009-05-11 07:34:16

お礼

 aai1 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 回答のお礼のお礼を書きたくなりました。
 ☆ それはそれは ありがとうございます。
 振り返ってみれば たしかに むろん 日常生活や仕事の場で ここのカテゴリで交わされるような質疑応答を あまりしていませんよね。
 ★ 実学
 ☆ ともおっしゃっているように 現場というものは いわば待った無しで ことが進められるものですから とうぜん 遠まわりの学問を その場で していられると言うわけにはいきません。

 という現実をおさえておいて やはり 哲学の徒は できるだけ 迂回して考えようとするのでしょうね。そして さらにむろん
 ★ 机上の空論・・・が具体的に使えるようになったら、
 ☆ ということを けっこう 真剣に考えているのだとも思います。だって たとえば 《孤独》なんて 毎日の生活の中で ほとんど 考えたりしませんが ぜんぜん 思わないものでもないはづでしょうし ですから そのとき もし この孤独について しっくり納得できるような理論かまたは思索が 得られるものなら それを
 ★ もっと現実生活で生かし、もっと心豊かな生活になれるのでは
 ☆ という方向 この方向を目指していることは 偽りのない実際だと思います。

 ビジネスが 機械的な作業ではないということも 哲学が言いたいところだと思いますが それを 現実に 実行しておられるようですので ということは どちらも 総合的に 互いに互いを 生かし合っていくということでしょうかね。
 そんな思いを持ちました。たのしく進んで行きたいとは思います。

投稿日時 - 2009-05-11 10:05:05

ANo.15

やっぱりこのご質問は深いですね。

>○ ひとは 他者を ほんとうには 知り得ない。けれども にもかかわらず それにもかかわらず こころの交流を その互いにそれぞれの孤独を基盤として おこなえると言えるところもある。
>○ 主観における考えや情感について 互いに 共同化しうる部分もある。
>☆ と言えるとすれば いい方へ はっきりすることになります。

孤独感がなぜ生まれたかは、他者が自己の外に存在するという幻想から
発していると思います。

話を変えますが、自分の直感なのですが、直感はあくまで自分で、他人からの意見は他者であるとすることが完全とは言えないと思うんですね。突然舞い降りてくる直感は、他者からの意見の様でもあると言うことです。

何を言いたいかというと、自分のクオリアはハッキリしている、他人のクオリアは直接知りえない、そして、自分の直感の源泉も知りえないと言うことではないかと思うんですね。

そしてですね、他者というのは、その外観、声、文面、予想し想像される他者が持つクオリアが自分に形成されているので、直感よりも他者の方が自分に近いようにも思えるんですね。
でも、夢、白日夢、直感・・・そして悪夢さえも、自分でしょう。
そうすると他者も自分に転じてしまい、コミュニケーションは、自己拡張行為になってしまうんですね。

もとに戻りますが孤独というのは全体としてみればもともとから事実なのであって、孤独感というのは幻想ですね。

そこのところの限界を痛いほど知りつつも、「互いに 共同化しうる部分もある」というのが、拡張行為といっているつもりですがどうでしょうか。

投稿日時 - 2009-05-10 20:51:30

補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。

 孤独観とクオリアの共有論 このふたつの論点でしょうか。

 たぶん 後者は わたしは 《情感の共同性》という言い方をしています。《親和力》というような言い方が意味する 放出・吸収の作用も 含まれるかに思われます。
 ですが やはり《情感》をあてたいと思うことには
 ★ 声、文面をつうじて伝え合われる《意見》 一般に ここでは 理論
 ☆ これについては クオリアとは呼ばないか もしくはクオリアだとしても 別種のものとして 区別したほうがよいと思うのです。
 ひとつには 《情感》関係のクオリアは やはり そもそも うつろいいくものと規定することができるのではないでしょうか。
 《理論》も 変化するのですが そのつど 妥当性をもって 迎え入れられていると考えられます。また そういうふうにして 妥当性の深化・拡張といった変化に応じた 主観の変化だと言えると思います。この意味で 区別したいのです。

 広義の主観に 片や 情感関係と 片や 理論的なものとがあり どちらも それぞれとして 共同化されうると考えられます。(その共同性について 何がほんとうに共同なのか これもまた 主題になるかも知れません)。このとき では
 ★ 突然舞い降りてくる直感は、他者からの意見の様でもあると言うことです。
 ☆ と表現されると わたしとしては 上の区別にかんして 戸惑います。《直感》は 情感のほうで 《意見》は 理論のほうだと思うからです。
 では なぜ このような区別をするのか。
 説得ないしコミュニケーションは それが 過程的にでも 実現したとして 把握できるものは どうしても 理論のほうだからです。直感や気持ちが 一致したということは いくらでも じつは ありますが それでいて その安定性がないと言わなければならないのではないでしょうか。
 人生 意気に感ずで 意気投合したということを たとえば文書にしたためておいて その安定性・確実性を保証したとしても おそらく どうにもならないでしょう。理論とて 究極の確実性はないのですが 破綻したら ふたたびあらためて よりよい理論を求めます。
 ですから コミュニケーションにおいて 共同主観といえば 理論のことを言うと考えるのです。むろん 情感の共同性をないがしろにせよということでは 全く なくて 補助としてささえるというふうに 捉えておくとよいと思うのです。

 そうしますと 一気に いまの結論に進みますが こう考えます。
 ○ 《同質になる》というのは 情感クオリアのほうだと考えられる。
 ○ 主観の共同化にあたっては 一般に ことばで表現して伝え合う理論を 問題とする。
 ○ 孤独は 一般に 情感クオリアのにせよ 理論としての主観のにせよ その共同性が 思わぬところから その理由も表明されず分からずじまいにおいて 破綻することによって 味わうことになる。
 ○ そのとき たしかに 孤独とは 人間にとって もともとの存在のあり方だったと知る。
 ○ しかも ひるがえって この孤独と そして孤独どうしの関係から成る社会において 互いに 主観の共同化を あらためて 妥当な内容をもって たえず発展させつつ 図っていく。

 ★ もとに戻りますが孤独というのは全体としてみればもともとから事実なのであって、孤独感というのは幻想ですね。
 ☆ 最後の部分について 《幻想》という言葉は あるいは 言い過ぎなようにも感じますが いかがでしょう? 或る種の仕方で 現実であるという意味を 持ち得るのではないか。つまり 共同性の破綻のときの実感ですね。もっと言えば 通俗的に言って 裏切られたという感覚を持つ場合です。
 (ただし 《あざむかれるなら 我れあり》とも言っていくのですが)。

投稿日時 - 2009-05-10 22:36:23

ANo.14

bonjour, monsieur.

>【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?
>【A‐ω‐br.】 (1) 感性ないし情感を措いて考えるなら すべての人びとが納得するような理論は 提示し得るだろう。

無理です。
逆に、感性ないし情感を伴えば、人々が納得、共感することさえあり得るかと思われます。

ちょっと視点を変えて国外と外国語、外国人との「対話」に目を向けてみたいと思います。
言葉ってとても不思議なものですよね。
こちらのカテでは様々なインポート思想哲学がさも当然の如く平然と語られております。
でも、はたしてそれはどこまで「誤解無く」理解し対話されているものなのでしょう。

また実際に、いわゆる母国語native languageというものは、それ自体がそれを用いる人々の集団的帰属意識の象徴の役割を果たしています。
言語そのものが政争問題に繋がることは洋の東西を問わず知られるところかと思われます。
ex.:ベルギーのワロンvsフラマン言語紛争と政治的対立
  ETAバスク/カタルニア地方独立問題
  「Mes enfants, c’est la derniere fois que je vous fait la classe. L’ordre est venu de Berlin de ne plus ensigner que l’allmemand dans les ecoles de L’Alsace et de la Lorraine...」
当のアルザシアンはドーデの『最期の授業』を一体どのように捉えたことでしょう。

さらに、旧い階級制度が現存しているイギリスでは、各階層classごとに使用する言語が異なり、まるで識別ツールのようでもあります。
わたくしの友人曰く、オフィスでの仕事とは異なり、プライベートな恋人や結婚相手となると、自分と近しく同じclassの相手を往々にして選びがちとのこと。
この場合はネット上のフラットなコミュニケーションのほうがお互いの階級の垣根を越えて対話し得るのかもしれないと思いました。
実際はどうなのでしょうね。

さらに、外来語やその語彙に対しても主観的な「変質」「ビミョーなズレ」にも注意に値する点かと思われます。
たとえばバタイユの「エロティシズム」という単語一つでさえも、日本国内で対話される際、かの地のそれと何かビミョーなズレが生じているのではないかという懸念を感じます。
ま、そんなことにいちいち神経を使っていたら、何も前進できないようにも思われるのですが。
仮に「克服しかねるような大いなる溝」を共に乗り越えようとする他者との「対話」の場合であればあるほど、お互いの歴史、文化、習俗への深い理解の希求なしにはコミュニケーションの余地はあり得ないのではないでしょうか。

ちなみに、先日の例の詩の和訳にわたくしは惚れぼれしました。
大変に情感がこもっていて、本当に美しかったです♪
ですが、その力量をお持ちであればこそ、
仏語原文を諳んずる際の抑揚やリズムの美しさと、和訳文を諳んずる際のニュアンスの当然の差異にはお気づきのはず。
同様に、通常の対話であっても、またたとえ同じ言語を用いたとしても。
上述の詩の翻訳の、とまでは申しませんが、やはり主観的な心情表現や微細なニュアンスを伝えるのはコミュニケーションの大変難しいところです。

でもなによりも、本当に困難なのは。
「単に意見を異にする」だけでなく、「人生の基盤化している信条、宗教を互いに異にする相手との対話」にほかなりません。
上述の芸術的主観でさえも、かりに嗜好が合致する者同士であれば、拙い意思疎通であれど、「言葉を超えたコミュニケーション」つまり共感が得られて対話が続くはずです。

数千年も対立してきた歴史を持つ民族紛争を見るにつけ、「【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?」に対して悲観的になってしまうのは、「ぶっきらぼう」の続編とはいえどうしても否めません。

今回も突拍子もない「薮から棒」な回答にお付き合いくださいましてありがとうございます。

投稿日時 - 2009-05-10 19:04:21

補足

 mashumaro2 さん なかなかおもしろく楽しいご回答をありがとうございます。
 おもしろいと言うと 語弊がありますが ひとつには まづ はっきりと 反論を得ることができたことです。
 ひとつには 実践編と申しますか 現実にのっとったご議論であること。この点は 経験現実と やはり今回も 理論とは 微妙に 視点と表現がちがってくるのではないかと のちに お尋ね返しを予定しています。

 ひとつには 母語を異にする場合 誤訳や概念の曲解があっても その相違を またふたたび 互いに 受けとめ合って 対話をつづけていくという人間の業の深さ(?) おそらく こちらにも 造詣が深くていらっしゃるであろうのに マイナスの側面のほうを述べて 議論となさっていること。これも 見方によっては おもしろく映ります。
 ★ 「克服しかねるような大いなる溝」
 ☆ このことを むしろ 初めに 何事にかんしても その初めに 噛み締めておけば 互いの違いには ある程度 慣れていくのではないか。というよりも これほど 違いがあるのに 公理と呼ばれるような概念とその基礎理論にかんしては ほぼすべての人が 考えを同じくすると思われること――つまりたとえば 自由・平等・兄弟愛ですね―― こちらのほうが おどろきであるように思うのです。

 もしこの線上で考えるとすれば さらには
 ★ 逆に、感性ないし情感を伴えば、人々が納得、共感することさえあり得るかと思われます。
 ☆ にかんしましても この場合の共感・納得は ややもすると 一時的だったり もしくは 一部の地域ないし住民だったりするのではないか。その意味では 理論をめぐる同感のほうが はるかに 《説得しうる》と思われるのです。

 なかなか このような対話は おもしろいと わたしは 感じます。

 すべての人を説得することができる理論の例を出してみます。

 ▲ 《復讐するは われにあり》と主は言われる。
 ⇒○ 仕返しは 大いなる自然史過程にまかせるべきだ。
  ○ ひとは おのづから 報いを受ける。

 ☆ この理論ですが むろん 現実が このように事が運ぶという意味ではありません。理論であり しかも この理論をもって 復讐を思いとどまるひとが増えるならば 悪事をおこなうこと自体が 少なくなる。という考えです。
 しかも この一回きりの人生においてのことです。何度も人生があると思えば 明日やれることは 今日はやめておこうとなるのが 一般です。
 ここまでの理論は すべての人が 納得しうる内容だと考えるのですが いかがでしょう?
 いま言っていることは ここまで言えるということは そういう理論として 人びとの間に 明らかにしておこうという問題です。それ以上のことについても 関心は とうぜん ありますが 段階を踏むという考えでの提出です。

 方言・社会階級言語・民族言語などの違いによる誤解は はじめから 前提しておく。これは すでに 触れましたが 翻訳の問題としては こう考えます。原典と翻訳とでは すでに違う作品であり どちらも 同等の作品であるという見方です。翻訳者の立ち場が 弱い・劣るということは 変わりません。

 たぶん 現実感からすると いまだ――という表現を使いたいのですが―― このわたしの反論は べらぼうな議論に映ると われながら 思います。どうでしょう?

投稿日時 - 2009-05-10 21:37:30

ANo.13

傷ついた人を見捨てない。
たとえ逃げたとして戻ってくる。
自分の心の醜さと向き合う。

投稿日時 - 2009-05-10 15:41:54

お礼

 yukiyama20 さん ご回答をありがとうございます。

 ひとは 他人の言葉や行為によって 心が傷つくことはありません。
 心理が さざ波のようにゆれるのみです。
 もし傷つくことがあるとすれば それは みづからの嘘によります。みづからが 心を偽って 証言したり行動したりしたゆえです。ひとは 誇り高き存在です。みづからのよごれを ほんとうには ゆるしていないのです。

 さらに自由に もっと自由に もっともっと自由に。どんだけぇーっ? もっともっともっと いやというほどにです。自由な自由を 自由に自由する。

 心の醜さも 飲み込んでください。たしかに向き合うことは 必要であり 大事です。そこで止まっては まだ 残念となります。
 だから
 ★ たとえ逃げたとして戻ってくる。
 ☆ とき どんなつらをさげて もどってくるかです。これが コミュニケーションですね。

投稿日時 - 2009-05-10 18:29:06

ANo.12

>これの理論化と また逆に 応用実践編の物語りになるかと

 理論と実践ですね。うまくできるかどうか、まず、誤読と言ってしまうとその人の不注意、あるいは認識の違いといった意味になるかと思いますが、そうではなくて、もっと別な見方をしようと思っています。例えば、なぜ、人間はコミュニケーションを求めるのか、というような、そういう問い語りです。

 ちょっと変な言葉遣いをします。
「人が言うということ」は、聞かれる者において「言われること」の背後に、忘れられて残っている。この実在的なもの――つまり、人間は決して「言いたいこと」が言えないという、この現実と気持ちとの乖離こそが、人間を言語に駆り立てる原動力になっているのではないか、という事です。これは理屈ですが。では、実践へ。

 例えば、僕たちは過去に経験したちょっと忘れられないような思い出について、出来事の細部までを生々しく覚えていて、語って再現する事ができる。けれど、その語る「こと」のなかには時として、その記憶の風景に自分自身が映りこんでいるときがある。
 そんな経験はないでしょうか。
 その場にいた自分の視覚を通じて風景は記憶されているわけだから、自分の手足や衣服の一部が映像に混入することはあっても、自分の全身像や、少なくとも自分の顔、そして目が、その映像に映り込むことはあるはずがない。けれど、記憶のなかには、時として自分のベストショットや、ひどい場合には自分の後ろ姿が映っている。いったいなぜ、自分の背中が見えてしまうのか。
 そして、そこに映っているのは、いったい誰なのか。
 もしそこに映っているのが自分だとしたら、その自分を見ているのは、いったい誰の視線であり、その記憶はいったい誰のものだったのか。あるとき自分の記憶を思い返してみて、このような事実に気付いてしまうと、間違いないはずの自分の記憶と、その記憶によって裏付けられた自分の正当性とのあいだに、乖離感、あるいは疎外感を、感じてしまうのではないだろうか。そして、信じていた自分の正当性は、いったいどのような言葉となって語られていたのだろうか。

 このような現実を考えるとき、行為の辻褄が合うように説明してみようとすると、どうしてもこんなふうに考えざるを得ない。それはつまり、言葉は自らが本当に体験したことや、自らが本当に考えていることを明らかにし、あるいはそれを拠りどころとして、本当の自分を探り当てるために語られるのではない、ということです。
 自分のなかにある、何かによって埋められることを待っている欠落感――それが、疎外感(孤独感)の原因だと思いますが――に、恐らく言葉は届かないのではないだろうか。それは、損なわれてしまった「切なさ」が、何ものを持ってしても、もう二度と埋まらないように。そうではなく、むしろ言葉が届かない何かがそこにあって、その何かを認めてあげることで初めて可能になる他者への語りこそが、その何かの要請する自らの疎外感を埋め合わせてくれるのだと思います。だからこそ、人は他者に語りかけるのではないか。だからこそ、人は他者に「愛しているよ」と語りかけていかねばならないのではないか。
 僕には、そんなふうに思われます。

投稿日時 - 2009-05-10 15:39:08

補足

 ri_rong さん ご回答をありがとうございます。

 【Q‐β‐1】 《第三者》とは どういう存在か
 ⇒【Q:言葉は真理を伝えない】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4772278.html
 ● (No.11):答えを返さない《三人目》――《テクスト・物語》:M.ブランショ
 ● (No.10):心の奥なる《どの言語にも属さない言葉》――《内なる人》:アウグスティヌス

 今回は 次の主題にかかわっていると思われます。
 【Q‐α‐1】 言語表現とは何ぞや。
 【Q‐α‐2】 伝えるのは どういうことか。何を伝えるのか。
 【Q‐β‐2】 《孤独》という言語――《主体》の内なる。

 ★ だからこそ、人は他者に「愛しているよ」と語りかけていかねばならないのではないか。
 ☆ だからこそ ひとは 何も言わずにも 分かり合える他者を持つことが出来るのではないか。たぶん 一人のみであるだろう。一人持てば その余韻として 多くのひとと分かり合えるようになるだろう。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうではなく、むしろ言葉が届かない何かがそこにあって、その何かを認めてあげることで初めて可能になる他者への語りこそが、その何かの要請する自らの疎外感を埋め合わせてくれるのだと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうではなく むしろ言葉が届かない何かがそこにあって この何かを わたしが 飲み込むなら それは 意志が引き受け その表現としての文体が 引き受ける。その文体の或る種の陰影が 他者をして その孤独に呼応するゆえ 自己表出へと促し 自己を表現せしむる。かくて 交感と呼ばれる 文体相互の交響曲がひびく。あぁ その窪んだところの何かは 疎外感であったか それを 他者が埋めてくれた ありがたい となる。 

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自分のなかにある、何かによって埋められることを待っている欠落感――それが、疎外感(孤独感)の原因だと思いますが――に、恐らく言葉は届かないのではないだろうか。それは、損なわれてしまった「切なさ」が、何ものを持ってしても、もう二度と埋まらないように。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ わが孤独は 何かによって埋められることを待っている欠落感を知覚した。それは それが 隣人であるのだろうか。言葉は届かない。どの隣人とかかわるのだろうか。けれども 千の切なさも わたしは 飲み込んで来た。万のうれいも 精神の胃袋に消化して来た。億の悲しみに わたしは 泣いた。けれども それらすべて 埋めてきたのではないか。損ないは すべて 覆われた。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 このような現実を考えるとき、行為の辻褄が合うように説明してみようとすると、どうしてもこんなふうに考えざるを得ない。
 それはつまり、言葉は自らが本当に体験したことや、自らが本当に考えていることを明らかにし、あるいはそれを拠りどころとして、本当の自分を探り当てるために語られるのではない、ということです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ わたしは わたしの孤独の知覚するままに 孤独と孤独との関係において――それが 社会というものだ―― わたしの中で 自己表出が 言葉をさがし 言葉は 自己表現を求めて 文体をかたちづくる。

 打ちにこたえる鐘のひびきにて。

投稿日時 - 2009-05-10 18:18:11

お礼

 ○ 記憶に浮かびあがるみづからの姿について。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 けれど、記憶のなかには、時として自分のベストショットや、ひどい場合には自分の後ろ姿が映っている。いったいなぜ、自分の背中が見えてしまうのか。
 そして、そこに映っているのは、いったい誰なのか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは わたし個人としては さだかではないという状態です。つまり
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 その場にいた自分の視覚を通じて風景は記憶されているわけだから、自分の手足や衣服の一部が映像に混入することはあっても、自分の全身像や、少なくとも自分の顔、そして目が、その映像に映り込むことはあるはずがない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と 漠然とした結論ですが 思います。つまり 今のところ
 ○ 自分の像が 夢を見ているわたし(あるいは 記憶をよみがえらせているわたし)と 相い対しているという経験は 定かではありません。
 ○ その意味は そういう場合というのは たとえば 同一時点においてなら 写真として現われるとか あるいは 過去の自分として 現われるとか さらにあるいは これから これこれの行動をおこせば あれそれの姿となって現われるだろうというときのその像であったりとか に限られる。
 ☆ と いまのところ 思いました。わたしは 特殊でしょうか?
 わたしは ときどき 大きな河に落ちる夢を見ますが そしてそのとき 落ちていこうとする自分の後姿を見るというかたちが 現われますが まだ 途中までなんです。落ち切らない。空中で 決まって 止まるのです。そうして その後姿を見ている自分に その像は 戻ってくる。
 こうだとすると この事例では やはり 想像の中で 自分のうしろすがたを思い浮かべているのであって それ以外の状態ではないと思われます。つまり 自己の像を それから離れたかたちで 自己が見ているという情況ではないと思います。
 むろん 記憶から消えたものについては どうしようもありません。

 事実の問題として おぼえている限りで 報告しておきます。

投稿日時 - 2009-05-11 16:04:53

ANo.11

また来ました。

>では どうしたいのですか?

私は「母親」と和解したい。
「母親」が好きだと何回も言っています。

円融三諦
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%81%88%E3%82%93%E3%82%86&dtype=0&stype=0&dname=0ss&pagenum=1&index=102185200000

http://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/0103.html

ところで、
私は「母親」から、好きとも、愛しているとも言われたことがありません。「母親」は私をどう思っているのだろう。

言わなくてもわかる?
でも、たまに言って欲しいです。

投稿日時 - 2009-05-10 14:12:08

お礼

 yukiyama20 さん ご回答をありがとうございます。

 なにを 女性のいくらかがよく言うせりふみたいに言ってるんですか。
 ★ 言わなくてもわかる? / でも、たまに言って欲しいです。
 ☆ この休息のあいだ 何をやっていたんですか? 変なものを食べましたか? 子ども返りしてしまったんですか?

 ▲ (大谷大学:きょうのことば)~~~~~~~~~~~~~~~
 円融三諦:
 ここでいう三諦とは空・仮・中(くう・け・ちゅう)のことです。
 智によると、すべての法は実体的に存在するのではなく、縁起の法則によって様々な因や縁により成り立っているにすぎません。この側面を捉えて、諸法は「空」であると説かれます。
 しかし諸法は因や縁の和合により仮に存在するので、「仮」という側面も持っています。
 さらに諸法は空・仮の両側面を兼ね備えているので、その側面を「中」として表現しています。
 つまり諸法には空・仮・中の三側面がありますが、「円融三諦」とはそれらの三側面がすべての法に同時に備わっていることを示す言葉です。
     *
 「中道」とは、空にも仮にも片寄らない、「円融三諦」として語られる諸法の真実の姿を意味します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こんな定義としての説明は もう どうでもいいのです。
 《中道》から見れば 世界は つまり コミュニケーションの世界は どう見えるか どういうふうにありたいか これを 語ってください。

投稿日時 - 2009-05-10 14:59:02

ANo.10

このご質問は、範囲が広すぎませんか。頭が爆発思想になりますよ。
そろそろとやっていきます。

【Q‐β】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならないことですか?

>【A‐β】いずれの過程においても常に主体が変化しているのだということですね。
○【A‐α・β・ω‐ba】 コミュニケーションとは つねに変化する主体が(――つまり 考えを 情況や自己の境地に応じて 変える主体が――) 互いに 相手と《同質になる》ことをとおして おのおの人間の能力を発揮するというような意味で 自己表現の《拡張行為》である。

えっと、ここは重要なところなので、補足します。

相手とコミュニケーションをしているのだというは、幻想にすぎず、
クオリアの話でも解るように真に相手を知ることはできません。

言うなれば、如何なるやり取りをやったとしても、相手があるクオリアを持っているだろうことを含めて自分がその相手クオリアを自分の中に形成しているに過ぎないと言うことです。

コミュニケーションの主体はすべて自分の中にあるということですね。

なので、【A‐β】で、「過程」といっているのは、コミュニケーションの過程のことで、
聞く、話すこと自体がその主体を変化させるということです。


そろそろですが、いただけませんか。

投稿日時 - 2009-05-10 12:02:52

補足

bananasand さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ コミュニケーションにおいて その主体どうしが 互いに相手と《同質になる》。
 ☆ について 説明をいただきました。まづ むしろ 最後にある説明 つまり
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【A‐β】で、「過程」といっているのは、コミュニケーションの過程のことで、
 聞く、話すこと自体がその主体を変化させるということです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 分かりやすいですね。
 ○ 主体は 情況およびみづからの境地に応じて 説得を受けてであろうとなかろうと 考えを変えることをも厭わず 躊躇もしない。

 ☆ 次の前置きも 分かりやすいです。
 ★ 相手とコミュニケーションをしているのだというは、幻想にすぎず、 / クオリアの話でも解るように真に相手を知ることはできません。
 ☆ いわゆる《他者》の問題ですね。他者について わたしが分かるのは わたし自身にある性格などの部分であって わたし自身にないものは ほんとうには分からないはづだというものですね。
 したがって 相手も 受け容れてくれる限りで こちらが理解し受けとめた内容として=つまり そういう幻想としての相手と向かい合って 話をしている。に過ぎない。という問題ですね。《わたしがわたしであるところの存在と心》は その相手によって その数だけの《わたしのクオリア》があって それをつうじて 互いに 理解し合っていると思っているし じっさい その限りで コミュニケーションを図っているのだと。
 ★ 言うなれば、如何なるやり取りをやったとしても、相手があるクオリアを持っているだろうことを含めて自分がその相手クオリアを自分の中に形成しているに過ぎないと言うことです。
 ☆ したがって
 ★ コミュニケーションの主体はすべて自分の中にあるということですね。
 ☆ なのですが そうなのですが これを 《相手と同質になる》という見方とからめて 捉えるなら まだ はっきりしないところが残るのではないでしょうか?
 たとえば
 ○ ひとは 他者を ほんとうには 知り得ない。けれども にもかかわらず それにもかかわらず こころの交流を その互いにそれぞれの孤独を基盤として おこなえると言えるところもある。
 ○ 主観における考えや情感について 互いに 共同化しうる部分もある。
 ☆ と言えるとすれば いい方へ はっきりすることになります。

 ○【A‐α・β・ω‐ba】 コミュニケーションとは つねに変化する主体が(――つまり 考えを 情況や自己の境地に応じて 変える主体が――) 互いに クオリアをつうじてでも あるいは 言葉に表された世界認識ないしその見方を理解しあうことをつうじて 相手と 主観を共同化することができる。
 
 ☆ あとは
 【A‐β‐ba】 コミュニケーションの過程のことで、聞く、話すこと自体がその主体を変化させる。
 ☆ これについて 内容の細かい説明が 待たれるようですね。というのは 主体としての《わたし》は その考えとしての主観を 自由に 変えていく=発展させていくと同時に 考えてみれば あたかも《わたしが わたしである》ことが つねに 同一であるとも考えられる。このような主体のあり方 これについて くわしく知りたいとは思います。

 もうおいしく頂いていますけれど こんなところでしょうか。

投稿日時 - 2009-05-10 14:45:48

ANo.9

bragelonneさん、おはようございます。

ご無沙汰です。(PC復帰)



親の言うこと、担任の先生の言うこと、校長先生の言うことてんでばらばら。

そんなとき、こども(生徒)は…戸惑います。

投稿日時 - 2009-05-10 09:18:42

お礼

 すっごいご無沙汰。littlekiss さん おはようございます。ご回答をありがとうございます。
 そういえば PCの故障でしたね。忘れていました。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 親の言うこと、担任の先生の言うこと、校長先生の言うことてんでばらばら。

 そんなとき、こども(生徒)は…戸惑います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《戸惑い》は 正解でしょうね。で どうします?
 1. わたし(その子ども)の言うことも 思うことも てんでばらばらだと思うか。
 2. では わたし(その子ども)は しっかりと 自分の考えを決め そのことを 表現していこうと考えるか。
 3. たとえそうしても その表現は 親にも学校の先生にも 通じないとき 《戸惑い》をたのしむことにするか。
 4. さて この《戸惑い》の渦巻きの中から 何が 出てくるのでしょう?
 日本一の正解を どうぞ。

投稿日時 - 2009-05-10 12:24:17

ANo.8

>研究論文などは読んだことがありません。でも日本一の内容を目指し
うわっ、洋の東西を問わず、そんなこと言ったらだれからも相手にされないでしょう。言っちゃだめだ。
東洋版。孔子いわく、
思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。
http://www.hmt.u-toyama.ac.jp/chubun/ohno/hitoriyogari.htm
西洋版。APECエンジニアの定義。
http://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/inter/kensetu/apec_1/index.html
APECエンジニア(国際的な語術者の相互承認)の要件の筆頭に、
・認定もしくは承認されたエンジニアリング課程を終了していること
 (要するに、きちんとした教育を受けていること)
とある。(※日本で資格取得する場合独学アリですが、欧米流は大卒イコール資格取得であり、要件自体が妥協の産物。)

>【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか?
>【A‐α‐br.】 対話です。三者の会話は 三つの対話から成るという意味です。
4者の場合の対話数はいくつになるのですか? 各人がそれぞれと考えれば6ですが、そう考えていいの?
そう考えるとするとして、10人の場合の対話数は約50万です。
これでは、大人数のコミュニケーションは不可能ということになります。
で、マスコミのコミはコミュニケーションの略です。これは対話(双方向)ではないです。一方通行です。

ついでに、「職場のコミニュケーション」とは、
・社員どうしの親睦を深めるための会話 (=無駄話)
を指しません。
・業務に必要な指示報告がなされていること
を指します。

ゆえに、
コミュニケーションの本質は情報発信です。(双方向である必要は無い。また心情について発信する必要も無い。情報の受け手の判断の元となる情報があればよく、それこそが本質である。)

したがって、
コミュニケーションイコール情報発信(片側通行アリ) とみている者からみた場合の疑問点。
表題の、「すべてのひとを説得することができますか」を考える場合、
コミュニケーション論を論じたいのであれば、表題は不適切きわまりない。


>【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?
レフリー役。
理由。
第一者:説得する側 第二者:説得される側 第三者:どちらの立場でもない
というふうに用語定義されている(それぞれが複数の場合がありうる)ので、
第三者にとどまるためには説得行為(など)に加担できない。加担した時点で第三者でなくなる。
第三者の定義は以下のとおり。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E8%80%85

投稿日時 - 2009-05-10 08:19:46

補足

 masa2211 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 masa2211 さんとは けっこう長いやり取りの経歴があります。ただ そのつど 一・二回で終わってしまうので 必ずしも 共通の認識事項などにかんして 基礎が出来たとは まだ言えないところかも知れません。
 ですから ここは 初めは ぶっきらぼうに ご議論の難点を示して澄ましていようと思ったのですが これを思い返して 思いっきり ええかっこうをして 振る舞いたいと思います。
 ただし 冒頭の
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >研究論文などは読んだことがありません。でも日本一の内容を目指し
 うわっ、洋の東西を問わず、そんなこと言ったらだれからも相手にされないでしょう。言っちゃだめだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ に関しましては まだ わたしが ばか丸出しの人間だということを さとらないのですか? と申し上げておきます。あとは 真剣に取り組んでまいりましょう。
 ひとつ お断わりせねばならないことは わたしは 研究史の研究を していないということです。学者ではないという意味です。しかも 横から 日本一・世界一をめざす。こういう出で立ちです。

 ★ で、マスコミのコミはコミュニケーションの略です。これは対話(双方向)ではないです。一方通行です。
 ☆ この説 つまり 《一方通行》説は わたしは 採りません。《双方交通》の中に含まれていますから。
 ○ communication < common = gemein :共通の・共同の 
   < co-/ge- + -mon / -mein :かふ(交ふ・支ふ・替ふ・買ふ・換・代・変)
 ☆ こう捉えるなら 日本語から見ても すべて当事者二者の話でしょう? モノを介していますが 双方通行の対話として成り立っていませんか?
 売り買いには 感情も情感も 入っていると言うべきでしょうね。

 ★ 【A‐β‐ma】 レフリー役。 / 第三者:どちらの立場でもない / 説得行為(など)に加担できない。加担した時点で第三者でなくなる。
 ☆ これは たぶん ひとつの有力な見解を示しているものと思われます。《公平な第三者として 審判役をになう》という説ですね。
 で これを 解体させようという魂胆なのですが それは たしかに やはり 
 1. この《審判としての第三者》を まづ 人間としての存在から 外す。
 2. ましてや けっきょくは 観念としての《正義なる神 / 神なる正義》を 霧のかなたへ置いておく。
 3. しかしながら 昔ながらのいわゆる《裁定の場としての良心》を これに当てる。当事者それぞれが 《わたし》の内に そもそも 宿していると見なす。なんなら 《仏性》でもよい。
 4. 《良心》というモノではなく 全体として 存在たる《わたし》である。特には その自由意志のことである。《仏性》も はたらきを言う。
 5. このとき 良心は 孤独の海に浮かぶその孤独を覆う闇に あたかも海流の波が 《対話》をとおして交わす衝突にも似て ぶつかりあって ほのかにも鋭く 射放つひかりであるかも知れない。
 6. こころに まどが開いたと 孤独のこころは 思うかも知れない。
 7. どうやら 闇のかなたに もうひとり 孤独が うめきながら あえぎながら このわれらがひかりを 問い求めているかに思われる。
 ☆ これが 《第三者》もしくは 《わが内なる人》ではないの?
 〔これを 出してよいと思われることには この内なる人も 神ではないからです。経験的な思惟 もしくは その判断力ですから〕。

 けれども 《審判》? 《さばく》? 
 たしかに ものごとを《捌く》だろうが 《道徳規範の愚の骨頂》によって だれが ひとのこころを そんなにたやすくも 《裁く》ものか!! おのが孤独に まづは 立ち戻って そこで じっと胸に手を当てて 考えてもみたまえ。なんで 人間が 互いに 裁き合わねばならないのか。
 《どちらの立ち場でもない》から レフリー役だって? そりゃ その第三者という存在じたいは 大事だし ありがたいことだが 何で 悪だ罪だと ひとを 裁かねばならんのだ。

 とうとう ええかっこうしいを しまいまで 貫けなかったようです。
 masa2211 さん いつも 出汁にしてしまって 澄みません。独り善がりの極致が出せましたでしょうか。出せたとすれば あなたのお蔭です。出せなかったとしても あらたに 出発します。
 生まれ変わってではなく この一生のうちにです。

 あぁ 《独り善がり》のことを誤解していますね。わざとですけれど。

投稿日時 - 2009-05-10 12:09:28

私は「母親」に暴力を振るいましたが、相手に無関心でした。
隣人愛から助けてくれた人に、律法を破っていると言って殴る病人は、どうしようもないですね。

「母親」の心の痛みに気がつきませんでした。

投稿日時 - 2009-05-10 08:04:27

補足

 yukiyama20 さん お早うございます。けさのご気分は いかがですか? ご回答をありがとうございます。

 さて それでは ただいまから ヒエログリフの解読にかかります。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私は「母親」に暴力を振るいましたが、相手に無関心でした。
 隣人愛から助けてくれた人に、律法を破っていると言って殴る病人は、どうしようもないですね。

 「母親」の心の痛みに気がつきませんでした。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これを 絵として 全体として見なきゃいかんとおしえてくれた人がいたので そうするのですが。
 1. まづ あなたに つまり あなたのいろいろな振る舞いに対して 《心を痛める》存在があるのですね?
 2. ひとは 他人の言動によって 心が傷つくことはないと考えるわたくしですが それでも この場合 あたかも存在をみづからの存在と同じものとして捉えている《母親》が いるのですね?
 3. 《暴力を振るった》とき 《相手に無関心でした》というのは その《相手》とは やはり 《母親》のことですか? それとも 漠然と 身の周りの人びとのことを言っているのですか?
 4. 真ん中の第二文 これは 難解ですね。いっそ 突飛な解釈をしてみましょう。
 5. むしろ あなたが 《母親》もしくはその身内と呼ぶべき人に 《隣人愛》を発揮して 何らかのかたちで 《助けてやった》。それなのに そのあなたを 《律法を破っていると言って殴る病人》がいるのですね?
 6. この線で通しますが 《隣人愛から助けた》ことが 《律法をやぶる》行為だというのは どうしてですか? その《病人》の言い分は どうなんですか?
 7. しかも 《殴る》ことまでするような《律法破り》があったと その病人は主張しているのですね?
 8. だけれども その病人に対して 《どうしようもないですね》と すでに あなたが言っているとしたら では どうしたいのですか?
 9. あぁ ただ一点 《「母親」の心の痛みに気がつきませんでした》ということですか。

 いくらか 筋が通った解釈になったかと思うけれど なんとも 分かりかねる内容ですね。

 あ. 《律法》を持ち出すのは もう旧いでしょう。それにもとづこうとしても 話が 進みません。ひょっとして ユダヤ教徒のあいだでの話ですか?
 い. いまはもう 《「母親」の心の痛みに気がつ》いたのなら いいではないですか。心のまま わびれば いいのではないですか?
 う. 《病人》の問題は ここでの《説得・コミュニケーション》の問題ですから よろしくご投稿を。
 宣伝に持っていくなんて 高等手段ですね。どぢゃ?

投稿日時 - 2009-05-10 10:43:40

ANo.6

No.2 です。なんとなく解りました。奥が深そうですね。
なので、自分自身、核というか、筋が見えていません。

そろそろと逆から回答していきます。

【Q‐β】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならないことですか?

>【A‐β】いずれの過程においても常に主体が変化しているのだということですね。

【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?

>【A‐β‐1】第三者は相手と同質になるんですよね。大きな違いがあるのでしょうか。
 三つの対話は、結局、主体へ帰結すると思うのですが・・・。

【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか?

>【A‐α】社会は、全て主体の中にあるということを念頭にするなら、拡張行為ですね。

【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?

>【A‐ω】補足頂いた「説得」であればできます。
と言うか、ここがbragelonneさんとの対立点になると思うので最後にしたんですが、
相互理解まで行き着き、説得する、説得されるは同質になるのでしょう。
それがコミュニケーションですね。

ところで、コミュニケーションの対義語は広い意味の暴力になるんでしょうかね。


かなり、ぶっきらぼうですが、いただけませんか。

投稿日時 - 2009-05-10 01:18:40

補足

 bananasand さん 《かなり、ぶっきらぼう》なご回答をありがとうございます。わたしは 味付けについて知らないし ソースもしょうゆも 最小限で使うたちなのですが いつものそのようにして いま いただいているところです。
 
 どうも これは ただちに読解とは行かず まづ 解凍してみなければなりませんね。

 尻から行きましょうかね。
 ★ ところで、コミュニケーションの対義語は広い意味の暴力になるんでしょうかね。
 ☆ あぁ なるほど。ただし これは 注意を要するようですね。
 ということは コミュニケーションの中にも 言葉を使って 《暴力》をおこなう場合が ある。のではないか。――追い追い この点も みなさんからも 論議が出てくることでしょう。
 
 【A‐ω‐bananasand 】補足頂いた「説得」であればできます。
 ☆ これは 
 ★ 説得する、説得されるは同質になるのでしょう。
 ☆ ということで ほかの応答内容にさかのぼらなくてはなりません。

 【A‐β‐1‐ba.】第三者は相手と同質になるんですよね。
 【A‐α‐ba】社会は、全て主体の中にあるということを念頭にするなら、拡張行為ですね。
 ☆ 合わせて 捉えてみますが 
 ○ 主体どうしが 互いに 《同質になる》。
 ☆ そして
 【A‐β‐ba】 〔コミュニケーションの〕いずれの過程においても常に主体が変化しているのだということですね。
 ☆ をも考え合わせるならば 
 ○【A‐α・β・ω‐ba】 コミュニケーションとは つねに変化する主体が(――つまり 考えを 情況や自己の境地に応じて 変える主体が――) 互いに 相手と《同質になる》ことをとおして おのおの人間の能力を発揮するというような意味で 自己表現の《拡張行為》である。

 ☆ 《同質になる》 この意味が もうひとつ わたしには ピンと来ませんね。どうしてですかね。どういうことなんですかね。
 ○ 合理的で妥当だと思われる認識および判断を おのおの主観において 共有し 〔動態的にして〕共通のものとする。
 ○ つまり そのそれぞれの主観から 自己表現が展開されるということは 《拡張行為》としては 互いに 共同主観の形成を促し合う。
 ○ さらには この共同主観が 社会において 時の動きにつれて 観念化し 果ては 共同の幻想とならないように 主観も共同主観も その変化と動きの中において 保つのだ。

 ☆ このような社会過程の中で 《同質となる》という要因が 重要だということでしょうか?
 一面で その表現――つまり 《同質》という言葉そのものですね――が ピンと来ないと言いますか なんで 《質を同じくする》とまで言わなければならないのかなぁと思いますが その点 どうですか?

 見逃しがあるかも知れませんが 追い追いということで とりあえずここまでとします。

投稿日時 - 2009-05-10 10:12:25

ANo.5

 久しぶりですね。

 同じ問い語りの質問で、「言葉は真理を伝えない(回答番号:No.11)」に少し意見を述べましたが、もう一度掲載してみたいと思います。

==============================
 三人目に用いられた「言葉」、あるいは三人目に問いかける「言葉」は、案外どうでも良いものかもしれません。けれど、答えを返さない「言葉」を通じてしか「伝えられない」言葉があるように思います。
==============================

 生みの親が抱える抑圧も然ることながら、文字を介したコミュニケーションに関して言うと、生産されたテクストがいかなる抗争の場になっていて、テクスト自らが如何に語り、如何に人々を罠にかけ、如何なる読解を誘うかという問題なのではないでしょうか。

 クリステヴァにせよ、先日、交わしたあのラカニアンとの対話もそうですが、結局のところ(あの彼でさえ、そうだったのですから)如何なる専門家であろうとも、「読み」の呪縛からは自由になれない。それくらい、人間は孤独なのだという事でしょう。けれど、その孤独さって、そろそろ隠すことはやめて、この際なのだからもっと声高に誇ったほうが良いんじゃないかと僕は思います。その誇りのようなもの(と、誇りを尊重する気持ち)があれば、コミュニケーションってうまく行くんじゃないでしょうか。
 ニーチェの時代、孤独は貴族だけの責務であったようですが、もう21世紀です。しかも、ここは日本です。昔と違って、孤独は誰もが嗜む時代になっているのではないでしょうか。その孤独を隠そうとするか、あるいは見せようとするか。誇ろうとするか、蔑もうとするか。こういう違いが、ただそれだけが、あるのだと思います。
 違いは、孤独に対する各人の姿勢だけではないのでしょうか。あるいは装いとでも言うべきか。近ごろは誰もが裸ではなく、誰もが衣服を着るのですから、それくらいは寛容さで見てあげるのが、上手いコミュニケーションのコツだろうと思っています。

投稿日時 - 2009-05-09 23:03:13

補足

 お礼欄をおぎないます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人間は孤独なのだという事でしょう。
 けれど、その孤独さって、そろそろ隠すことはやめて、この際なのだからもっと声高に誇ったほうが良いんじゃないかと僕は思います。
 その誇りのようなもの(と、誇りを尊重する気持ち)があれば、コミュニケーションってうまく行くんじゃないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ お説 ごもっともに存じます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 その孤独を隠そうとするか、あるいは見せようとするか。
 誇ろうとするか、蔑もうとするか。
 こういう違いが、ただそれだけが、あるのだと思います。

 違いは、孤独に対する各人の姿勢だけではないのでしょうか。あるいは装いとでも言うべきか。
 近ごろは誰もが裸ではなく、誰もが衣服を着るのですから、それくらいは寛容さで見てあげるのが、上手いコミュニケーションのコツだろうと思っています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 華厳の巻として お受け取りしました。

 かくなる上は これの理論化と また逆に 応用実践編の物語りになるかと存じます。
 孤独論からの切り込み あるいは ほかの視点や理論の取り扱い いろいろ お世話になりたいと存じますので よろしくどうぞ。

 * クリステワ゛は テクストの読みにおいて 言葉のわなにかかっているということですか?

投稿日時 - 2009-05-10 12:45:56

お礼

 ri_rong さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 蘭語も むろん やったのですが――I. べークマンの話ですが―― 言語というものは 櫂の船で流れをさかのぼるごとき奴にて 毎日少しづつ学んでも 川の中の同じ位置を保つのが せいぜいです。ほうったらかしにしていれば どんどん うしろへ流されていきます。と言い訳をはさみまして。

 けっきょくは やっきょくにて ブランショは かれも アウグスティヌスの焼き直し? なのですか?
 《内なる親密なことば――どの国の言葉にも属さない心の奥のことば》と 《人間ではないのだが 三人目として そこにいて 決して答えを返さない言葉――ものがたり》と。どうなんだ? ブランショくん!

 あ 見つけたぞ。《三人目 ないし 第三者》としての《物語》は けっきょく 《テクスト》なのですね? だったら アウグスティヌスとの違いがある。こちらは あくまで 心の目にのみ見える《内なる人》であり あちらは 目に見える(耳に聞こえる)《ことばのテクスト》なんですね?
 そうすると どうなるかなぁ?
 あっ またもや へウレーカ!
 《テクスト》というようにモノのほうに 第三者を見るかたちにするから あなたの言う
 ★ 孤独の問題
 ☆ が 別様に 発生していることになる。のぢゃないか? それが 《内なる人 としての心の言葉》だと言っていれば おのづと 孤独と孤独との関係は 《記号としての言葉》を突き抜けて――《文字》を突き抜けて―― 《霊》に・・・おっと これは いくらなんでも 飛躍のしすぎです・・・つまり 《わたしの わたしたることば》に到らざるべからず。
 ひとは 見よ。このおおいなる孤独の地平線を。水平線に姿をあらわす日のひかりを。アマテラス??!!

 冗談が過ぎました。つまり じつは もう眠いです。再考のために 補足欄を取っておきます。ぼんぬ・にゅい! まぎすてる・じいじゅんぐ!

投稿日時 - 2009-05-10 00:51:33

ANo.4

コミュニケーション

現実と仮想の議論がありますが、

現実では心を声に響かすと言うように、心や心情は見えないので、言葉に変えてわかるように伝えます。
 その気持ちのやり取りがコミニケーションです。
 ですから、コミニケーションは人間的思いやりと他者を思いやる人間のすばらしい想像の能力を使って、豊かな心情のやり取りをします。
 たとえば、失恋で悲しいとか、つらいとか、同調し、またどんな気持ちか本音を聞き、また本音は純粋で傷つくことを言えば、相手は言わなくなって隠すので、注意して、包むように大事に受け答えする。
 愚痴について、怒りなど、対処にはしっかりコミニケーションの重要性がある事を知る必要がありますね。

 わからないように言うのはコミニケーションではありません。
 
本当にわかってる人は難しい事を小学生にもわかるように簡単に話します。これはコミニケーションの達人ですね。知識がもてはやされてますが、えせインテリぶった人が知らない知識語録をわざと使って煙に巻くのもよく見ますが、
わざと使うという
真意を感じるということ
を相手に伝えてるということから、
やわらかく簡単に表現するか、しないかで、相手のコミニケーション能力はわかります。
 たとえば、有名な科学者が小学生になぜ雲ができるのと聞かれて、
 あったかいお茶を出して答えを教える。本物と偽者とは見分けられるものです。答えは、お茶の湯気が雲になる原理だよ。と誰でもわかるように答える。というエピソードがあります。
 
実際にコミニケーション能力で、心と心の豊かな生活が作られなければ、すべて机上に空論ですし、また、人間らしい豊かな心情、誠意誠実正直という人間としての心がなければ、コミニケーションという1つの手段、道具は生かすことはできないでしょう。また言葉の使い方、選び方も必要だと思います。
 言葉は相手を怒らせることも、喜ばすことも、元気にさせることもできます。これも心の伝え方から言葉の選び方に至ると思います。
 
すべてのひとを説得することができますか?という質問ですが、
 現実をしってればいろんな人、性格があるでしょうから、納得してもあなたが嫌いだから反対のことを答えたり、説得を嫌がる人もいるでしょう。
 大事なことは、1人1人が違うので、しっかり相手の意見をききながら同調してもらえるようなら、お願いする。同調してもらう。
 すべてのひとを説得することは、こちらが頭をさげてお願いすることでしょう。
 論破するのは、傲慢で相手の感情を無視して無理やりな理屈で頭ごなしに説得させる。させるという強引さを感じます。人は嫌がると言うことに気づくことがコミニケーションでは一番大事だと思います。人間の気持ちを無視したコミニケーション論は本末転倒ですね。
 人の生活のなかで具体的に使用し、豊かな毎日をつくっていなければ、本来の目的を見失ってしまいます。
 >>対話の主体として 話し手(書き手・発信者)と聞き手(読み手・受信者)の関係を おのれひとりの内面に 機能させるために きっかけとなる
 この文章では伝わらない、機械語のようですね。こういうわかりにくいのをもっと伝わるように砕いて、話し言葉のようにしていくのが教育、育てるためのコミニケーション教育や能力ではないでしょうか?
 どういう人間を作りたいのか、そこに教育があると思いますし、生活の中で使える実学、実践に生きる知識が必要で、そのためのコミニケーション学、または論ではないでしょうか?
 ちなみに仮想の偽者学者的のような議論は嫌いですし、そういう話し方からは、本質を知らず、専門知識用語で本質を知らない事を隠していることがよくあります。これは騙しと同じです。
これではコミニケーション自体、心のやり取り自体できません。注意しましょう。
 やはり本音を伝える難しさ。それを知って、、、それが伝わるように技術を使って、していけれればいいと思います

投稿日時 - 2009-05-09 22:07:19

補足

 aai1 さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 心のやり取り / 本音を伝える
 ☆ が 基礎であり 内容本体であるということでしょうか。

 1. コミュニケーションには 現実と仮想とがある。
 2. 仮想も 現実のほうに基づく。
 3. 現実のコミュニケーションは 心のやり取りである。
 4. それには 一般に 言葉を用いるが 言葉は 心そのままを伝えるとは限らない。
 5. 心のやり取りは 基本的に 本音を伝えるものだが つねに 本音を そのまま 言葉にして 表わせばよいというものではない。
 6. ただし このとき たぶん 《愛想・同情》と《ぶっきらぼう》という二つの表現形式が 対比されるであろう。
 7. 相手の理解できるように 表現する。

 8. 説得に関して。説得をいやがる場合がある。
 9. ここでも 相手に《同調》するか それとも 《ぶっきらぼう》に 伝えるべき内容を 必要に応じて きちんと 伝えようとするか に分かれるようだ。
 ★ 人間の気持ちを無視したコミニケーション論は本末転倒ですね。
 ★ すべてのひとを説得することは、こちらが頭をさげてお願いすることでしょう。
 ☆ ?

 10. 中味の伝わりがたい《機械語》のような表現がある。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 こういうわかりにくいのをもっと伝わるように砕いて、話し言葉のようにしていくのが教育、育てるためのコミニケーション教育や能力ではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 11. ★ どういう人間を作りたいのか、そこに教育があると思います
 ☆ 果たして 《どういう人間を作りたいのか》を決めて 《教育》として コミュニケーションが行なわれるのだろうか。――ま たしかに 子どもを見ていて この性格を引き伸ばしてやろうとしたり この能力を引き出してやろうとしたりしますけれど。
 12. 《騙(だま)し・騙(かた)り》がある。(同じ文字なのですね)。
 
 13. 伝えるべき意思内容や情報と それを あたかも記号として表わすという言葉との関係 言いかえると 表現行為 これのあり方が コミュニケーション論には 大きく 横たわっているようですね。
 【Q‐α】 コミュニケーションとは何ぞや。
 ☆ の以前に
 【Q‐α‐1】 言語表現とは何ぞや。
 ☆ が やはり ありましたか。

投稿日時 - 2009-05-09 22:43:26

こんにちはbragelonneさん

>すべてのひとを説得することができますか

これ、無理だと思います。

たとえば私が、有といえば、無という人がいるし。
私が無といえば、有という人がいるし。

このサイトにいた間も、それの繰り返しが多かった。

たとえば、普遍と差異。

私がコミュニケーションしたい相手といえば「母親」だけど
「母親」が望む回答を望まない人もいる。

その望まない人に配慮した回答をすると

「母親」が離れていく。

それだと私がつらい。
だからサイトからいなくなろうとしたし。

どうしたらいいんだろうね?

投稿日時 - 2009-05-09 16:10:34

補足

 yukiyama20 さん ご回答をありがとうございます。
 yukiyama20 くん 気づいていましたよ。プラトンの質問で。いつぞやは ハローと言ってくれていたのに 気づかなかって ごめんなさい。事情は 書いたとおりです。

 ★ 母親
 ☆ も きみだったのか。それにしては 冴えない――焦点の合わない――文面だったもんだなぁ。

 さて
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >すべてのひとを説得することができますか

 これ、無理だと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と来たのですか。
 ただし その説明は ふるわないものですね。理由説明にかろうじて なるか ならないかぢゃないですか。
 ★ 母親
 ☆ は あれかい? つまり 西川直子の引き合いに出していたJ.クリステワ゛のいうあれですか? なんて言ったっけ。すぐ忘れる。ル・セミオティック。原記号態。
 ま 四角四面の すぐに観念化しがちな 規範たろうとする理論を追うよりも 人間性のゆたかさには通じると思うけれど。ル・サンボリック(記号象徴態)では 精神の緑野が 見えなくなる。
 でも わたしは そのとき 書いたように 《母親》なり《原記号態》なりについて すっきりとした理解が得られていません。わたしには 説明が要ります。
 なお
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 たとえば私が、有といえば、無という人がいるし。
 私が無といえば、有という人がいるし。

 このサイトにいた間も、それの繰り返しが多かった。

 たとえば、普遍と差異。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは GUCCI ですよ。ぐち。つまり 愚痴。愚と痴ですよ。だめです。
 漱石でしたか。自己本位の四文字を掲げたのは。あなたは こんな愚痴を言っているようぢゃ 相手本位そのものだべさ。くだらん。一蹴。
 ★ どうしたらいいんだろうね?
 ☆ 修行が足りん。かつでもいれてみたまえ。

 ○ ひとを説得する。
 ☆ というのは 知恵を尽くし知識を尽くし心を尽くしと言われるけれど 問題は 納得できる妥当性のある中味を用意すれば もう九合目まで登ったことになります。あとは たしかに――わたしの経験と中間結論としては―― 放っておくしかないように考えます。
 でも さらに ここで 思ったことは その納得あるいは 心で同意するという理解 これは 必ずしも 相手や他人から おしえられたり さとされたりするという問題ではないと考えます。自分で自分の内面に聞いてみて その《内なる人》によって むしろ わたしは おしえられる。他人は ただ 記号としてのことばを こちらに よこしただけ。(アウグスティヌス:『教師』)。

 こんなところにて。

投稿日時 - 2009-05-09 19:36:28

ANo.2

ご質問のベクトルがいろんな方向を向いていて回答しにくくなっています。

コミュニケーションは相互理解、意思疎通、共感、相談などをイメージするのに対して
説得は、説き伏せ、論破、洗脳などですね。前者は双方向、後者は一方向。

第三者も、コミュニケーションのおける第三者と、説得とでは様相が異なります。

それともコミュニケーションをお互いに説得し合うこととらえるのでしょうか。

投稿日時 - 2009-05-09 11:44:27

補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。《説得》という言葉の意味を 広く取ってください。
 たとえば次の休みに どこへ行こうかという《対話》になったとき こちらだ いや あちらだという互いの見解ないし主張を 互いに 納得させる話し合いとして捉えてください。 そうすれば
 ★ それともコミュニケーションをお互いに説得し合うことととらえるのでしょうか。
 ☆ という見方で 行けるのではないか。こう思ったのですが?
 ★ 洗脳
 ☆ は ないですね。(と言っても 今は この言葉をも 広く解しているように思えます)。
 ★ 一方向
 ☆ 対話であれば 一方が たとえ 受け身であっても けっきょく 説得されるかどうかは 自分で決めるわけですし 時には 逆に 説得し返すという場合もあるでしょうから そういう意味で 広く 《説得のし合い》という捉え方で 対話ないしコミュニケーションを わたしとしては 捉えました。

 ★ ご質問のベクトルがいろんな方向を向いていて回答しにくくなっています。
 ☆ これは ですね。じっさい はっきり言って コミュニケーション論の全部を 視野に入れたいとは考えています。
 いま わたしが知りたいのは 
 【Q‐ω】 人間は すべてのひとを 説得することができますか?
 【Q‐β‐1】 説得に際して 第三者は どんな役割をにないますか?
 ☆ この二点です。問題意識として 実際上の事態です。
 そうして 全領域を いづれは 扱うのなら ここに
 【Q‐α】 コミュニケーションとは どういう社会行為ですか?
 ☆ から そもそも 始めることとし もう一点
 【Q‐β】 コミュニケーションの主体について どういう事項が 心得なければならないことですか?
 ☆ なる主体の問題を 《第三者》の問題から広げて 設けておこうと考えました。

 といった設問事情ですが けっきょく どこからでも ご回答を寄せていただいて けっこうなんです。わたしの主要な関心事は じつは これなんだとか コミュニケーションといえば 何とも言っても これが 重要なんだとか 一般に あれは そうは言われているが じつは 間違っているよとか そういうふうに入っていければよいと思います。
 【Q‐β】の《主体》論については わたしは あまり それとして 考えたことがありません。でも ご投稿の内容にしたがって 勉強し(ぶっつけ本番ですが) ついてまいりたいと思います。

 つまりは 質問としての課題・論点を 【Q‐γ、δ、・・・】というふうに 加えて行っていただいても いいわけなのです。
 そういう出で立ちです。どうぞよろしく。

投稿日時 - 2009-05-09 12:43:11

お礼

 補足です。

 ご回答に際しましては bananasand さんなら たとえば

  【A‐ω‐ba】 【A‐α‐ba】 【A‐β‐1‐ba】・・・

 のごとく 中心となる命題については 示してくださると 分かりやすいと思います。

投稿日時 - 2009-05-09 12:48:59

オコリザルです。
聞き手に理解してもらったらその後の説得はいらないでしょう。
ところが何らかの誤解などにより、ほどほどの理解しかえられなかった場合はその後に説得する権利が発生します。
あなたがこう言ったから、私はこうしたんだ。なんて言い訳を聞かなくていいようにするためです。

第三者の役割は不明です。
共通の話題に共通の理解が得られる進行が理想ですが、反則攻撃と乱入による場外乱闘が実際に多いようにお見受けします。
私はどちらかというと乱入するほうですね。

投稿日時 - 2009-05-08 22:52:20

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。第一番ですね。

 ★ 聞き手に理解してもらったらその後の説得はいらないでしょう。
 ☆ まぁ こう言われてしまえば そうなるしかないでしょうかねぇ。
 ★ 聞き手に理解してもらう
 ☆ これが そもそも 《説得する》ことなのでしょうね。
 ★ 誤解の可能性
 ☆ をも 考慮すれば けっきょく 対話の継続 ということでしょうか。

 ★ 第三者の役割は不明です。
 ☆ そうですか。必要かどうかというよりも ほとんど つねに いるものでしょうかね。
 第三者が いない場合というのも あるには あるでしょうね。そういう場合のためにも
 ★ 共通の話題に共通の理解が得られる進行が理想です
 ☆ と たしかに 考えられます。
 ★ ・・・理想ですが、反則攻撃と乱入による場外乱闘が実際に多いようにお見受けします。 / 私はどちらかというと乱入するほうですね。
 ☆ あぁ そうですか。これは 仲介者や調停者としての第三者では 必ずしも なくて 野次馬に近いのでしょうか。失礼ながら。
 ただし 《乱入》にしても 入り方の問題は 別とすることができるでしょうから 当事者どうしの説得ないし対話が そのまま 基軸となって 展開されるといいでしょうね。
 ま 《場外乱闘》も 見世物としては 人びとの興味を引くようにも見えますね。

 といったところで 滑り出したでしょうか。

投稿日時 - 2009-05-08 23:55:08

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