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解決済みの質問

みづからにとって 《わたし》は 固有名詞ではないか

 質問: 《わたし》は みづからという存在の固有の名称であるのではないでしょうか? 

 趣旨説明: (1) みづからの存在を指し示すとき それを 日本語で 《わたし》に代表させるとしています。
 (2) 現行の文法には こだわらず 実質的に見た場合です。
 (3) したがって 何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞である《わたし》の 代名詞ではないでしょうか?
 (4) 繰り返せば 《わたし》という固有の名称を代理する名称として《何の某》という名前が それぞれ つけられている。

投稿日時 - 2009-05-14 14:14:52

QNo.4958074

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

 たびたび、すいません。

>《関係性》の側面が 存在には つきまとっているからだ。――というご趣旨でしょうか?

 どうも作為的な匂いがしますが、というのも別な質問に、レヴィナスの『実存から実存者へ』の(たぶんそうだと思いますが)解説がありますよね。再掲しますと、

================================
 《存在することに疲れてしまう》とき 私は私の存在に遅れている。この遅れ 《遅延》がしかし本質的なのである。ただ《それがそこでもつ(イル・イ・ア)》 たんにある(イリヤ) のではなく 私が私の存在を所有する。私はこの所有に疲弊している。
 この疲労が ある《隔たり》を つまり《存在すること( exister )》そのものからの距離をつくりだす。その距離によってこそ 《現在》そのものが《構成》される。かくてはじめて《存在するもの( l'existant )》 《私》という《一存在者》が誕生するのである。
================================

 この何を言ってるのかよくわからない表現を見ると、それだけで読む気を無くす著者だなと感想を持ちましたが、いったいどんな本なのでしょうか。それにふと、あれこれ考え合わせてみて、どうやら僕はその延長にいるのだな(違うでしょうか。それとも、気付くのが遅すぎるのでしょうか)と思った次第です。さて、

 ○私は私の存在に遅れている――どうして、遅れているのでしょうか。

 ハイデガーの論理はこうです。まず、存在と存在物は厳密に言えば異なる。例えば、仔猫は天井について、すなわち存在する「もの」については知っているけれど、その根底にある「存在」については知らない。存在というのは、言い換えればその空間の占有のことです。その場所が与えられること。同一空間に二物はない。
 ですから、dasein(「そこ」で明らかになるの意)と表現するわけです。この場所の占有というのが、仔猫にはわからない(わからないから、落っこちる)。それが認識できるのは人間だけだ――というのが、あの長ったらしい『存在と時間』のご主旨だと思いますが、この場所の占有というアイデアにレヴィナスは強く影響を受けています。

 その場所の占有について、レヴィナスは「眠り」という形容をします。生きて活動している「わたし」は、その場所に留まらない。けれど、疲れて眠るとき、「わたし」に「そこ」が与えられる。横たわる、それはまさしく実存を場所に、位置に限定することです。

 意識化あるいは定位の前段では「わたし」は、実存者なのではない。
 「雨になる」とか「疲れがある」と同じように、無主格の実存がそこにはあるだけであって、実存が実存者に変わるというのは、名詞が与えられ、「存在する」という名付け得ぬ動詞が実詞に変わる、まさにそのことなのだということです。
 この実詞化によって、「在る」の基底の上に「存在者」が姿を現わす。その代わり、無名の存在は「在る」としての性格を失う。存在者は、存在するという動詞の主語であり、そのことによって存在をみずからの属性とし、その運命に支配を及ぼす。
 そこには、存在を引き受ける「誰か」が居り、存在は今やその「誰か」の存在になっているということなのでしょう。自他はここで区別される。

 「わたし」がその「誰か」すなわち他者へと眼差しを向けるとき、見られている「誰か」は、「わたし」の視覚の対象として与えられる限り、「わたし」の意識の一部となっている。すなわち、その誰かは「もの」ではなく、名詞らしくそれは「こと」に変わる。

 たぶん、こんな感じだと思うのですが、どうでしょうか。

投稿日時 - 2009-05-25 23:02:31

補足

 ri_rong さん ご回答をありがとうございます。

 ええっと やはり 《存在論》ですよね? まづ
 ○ 存在に関して いちいち必ずしも 《関係性》の側面を持ち出すこともない。
 ○ 一生を生き切ったそのとき その完了性をもって 存在に対して 固有の名称が与えられ得るのであり 与えられる。それだけのことだ。
 ☆ といった見解になりますか?
 そうして 
 ○ この完了するまでの存在に関して 実際には 《存在者》であること あるいは 《現存在(これが Dasein でいいのですよね?)》といわれるあり方 これが ものを言うと見なければならない。 
 ○ ただし じつは この《空間の占有》としての《そこにいる》は まだ 《眠り》の状態でしかない。そこから 生きて動く《実存者》になる必要がある。
 ☆ という問題意識ないし問題提起が なされるはづだ。と解してよいでしょうか?
 レヰ゛ナスとハイデガーが ここでは 参照される。
 前者をめぐって 著者の熊野純彦(『レヴィナス入門』)に対する文句と これを引用した〔そしてさらに援用しようとしたとみなされるところの〕わたし bragelonne に対する文句とがある。となりますか?
 たぶん わたしに対する文句は 当たらないと思います。わたしは そこでの質疑応答において 《遅れ》は――わたし自身の経験から言って―― わたしにとって《問い求めるもの》が たしかに 延び延びになっていた・つまり 三十歳ころやっと得ることができたので 納得したと書きました。《疲労》は 別のように感じるとも書きました。
 だけれども ri_rong さんは この《遅れ》をも 必ずしも 正当な もしくは 一般的な 理論だとは見なさないということなのでしょう? 《眠り》から《目ざめて 動く》 そうして この動詞が 実詞となれば もう 実存者が誕生するのだから 《遅れ》を ことさら 強調することはない。ということですよね?

 次には ここでの質問にかかわる主題が来ます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 〔* 存在者が誕生し 生きることに対して 主体となるなら〕 そこには、存在を引き受ける「誰か」が居り、存在は今やその「誰か」の存在になっているということなのでしょう。自他はここで区別される。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり この《自他として区別されるところの「誰か」》は 一般に 一人ひとりにとって それぞれ 《わたし》である。のではないか。こう問うています。
 ところが 《わたし》より《誰か》のほうが 注目を浴びているように思われます。いわく。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  「わたし」がその「誰か」すなわち他者へと眼差しを向けるとき、見られている「誰か」は、「わたし」の視覚の対象として与えられる限り、「わたし」の意識の一部となっている。すなわち、その誰かは「もの」ではなく、名詞らしくそれは「こと」に変わる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん おっしゃるとおりだと思うのですが 質問のおもむくところに焦点をあてていただくなら その《他者》も《わたし》も ひとことで 第一次的にその中身を示し得る言葉をえらべと言われたなら 《わたし》だと答えると思うのですが いかがでしょう?

投稿日時 - 2009-05-26 00:24:32

ANo.46

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回答(55)

ANo.55

ぽこぺろぽです。《私》に関しましては、自己を神のごとく捉える独我論を、他者にも認めるというのが結論であります。

 《三位一体》に関しましては、この質疑応答の主題の派生的産物でありますので、皆さんを巻き込んで、改めてご一緒に考えていただきたく、新しく質問を立てましたことを、どうかご了承願います。

 理解を拒んでいると、おっしゃられては返答に窮しますが、理解できないことに頷くのは、かえって失礼であるというのが、私の拠り処でもあります。つきましては、抗弁するものではないとご理解をお願いするとともに、いま一度、この問題を全体で共有することを旨に、新拙問をご覧になっていただきますよう、よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2009-06-01 18:13:33

お礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 今後の方向として わかりました。承知いたしました。

 保留になりますが 留意点のみ記します。
 ★ 《私》に関しましては、自己を神のごとく捉える独我論を、他者にも認めるというのが結論であります。
 ☆ わたしという存在の 互いの対等な関係性を言おうとしていることは分かります。願わくは 
 ★ 自己を神のごとく捉える および
 ★ 独我論
 ☆ につきまして くわしい説明が俟たれるものと存じます。


 これで この質問も締めようと思います。
 みなさん ありがとうございました。
 ひきつづき あたらしい質問にも よろしければご参加ください。

投稿日時 - 2009-06-01 19:54:12

ANo.54

夜分に失礼をばいたします。寝つきの悪い、ぽこぺろぽです。筋金入りのスサノヲイストの私としましては、実効性のない強制力には反発を覚えてしまいます。三権分立のご説明は理解の助けとなりましたが、とりわけ司法の優位性が謳われなければ、法的に強制ができませんので、法令を公布して、それを諳じていれば一件落着とするアマテラシズムは、どうにも馴染めないのです。

 キリストを受け入れよとの、原始教会の教えにも反発を覚えます。父を差し置いて、子の話ばかりをするからです。私は十字架の意味を考えますが、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。これに尽きると考えます。つまり、イエスは人として蔑みと苦しみを引き受けたのです。イエスですら耐えられない苦しみを、何人にも負わせないことが、十字架の贖いを受けた者への戒めです。十字架に相応しい者など存在しません。つまり、私は死刑廃止論者です。原始教会は十字架の美しさ、無償の愛ばかりを強調するので苦手です。子の捉え方は、イエスが救世主であると同時に、人の子であることを忘れてはなりません。

 そういうわけで、父なる神の《私》は、疎かにされがちです。《私》には説明が不要、『有りて在る』の神こそ、究極の独我論、完全無欠の真理ではないかと考えます。その神を模した、《私》と名乗るわれわれは、日常の主体意識においては、自己を神と考える〈小さな神々〉なのです。三位一体そのものは受け入れますが、父の優位を確認しない三一等価論は虚妄です。《私》は独我論であると同時に、神(主体意識において)を意味する。したがって、乱立した〈小さな神々〉を区別するための固有名詞である。これが私の結論です。

投稿日時 - 2009-06-01 04:00:29

お礼

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 全体として 意外なお答えであり 三位一体についてのわたしの二三度にわたる説明に対して 理解を拒んでおられるのは 心外に感じました。むろん その拒否ないし否定の理由が明確でないという意味からです。
 たとえば 細かいことを述べますが―― 一般にも神は細部に宿るといいますから――
 ★ 原始教会は十字架の美しさ、無償の愛ばかりを強調するので苦手です。
 ☆ 今回・つまりは いま 三位一体について重大な問い求めをしている最中に まったくあさっての事柄を出して来ておられる。これが 一事が万事 わたしの説明を相手にしていないという証拠です。心外に感じます。
 
 あなたの結論も述べてありますが すべて 信条および心情を そのまま 明らかにしているそれだけです。わたしのように 説明をするということをしておられない。
 ★ 父の優位
 ☆ またまた同じように この一事を取って見ても もし一つの位格が 他のそれに対して 優位であり 差があるというのであれば それは 《一体》ではありません。そういうあらたな見解をお出しになるのは いいのですが そういう性質の結論だとはっきりさせなければいけないでしょうし なかんづく その説明をしなければなりません。《一体》だというのであれば
 ★ 三一等価論
 ☆ なのです。ですから 新説を提出するのだと言って 説明する必要があります。
 ★ 《私》には説明が不要、『有りて在る』の神こそ、究極の独我論、完全無欠の真理ではないかと考えます。
 ☆ まづ 《独我論》は わたしにはお呼びではありません。もしくは その内容を定義しなおして やはり説明し説得する必要があります。そして もしこの説明が 妥当だとすれば その説明内容のすべてが 子なる神にも聖霊なる神にも 等しく 当てはまるというのが 三位一体論です。
 そうでないとおっしゃっているようですから そこのところを明らかに分かるように述べる必要があるでしょう。つまり じつは もはや 三位一体の神ではないと言おうとされていると受け取っても 早合点ではないと言わざるを得ないところまで来ています。

 そこのところを しっかりと 説明されるのでしたら わたしも さらに 自説を超えて 耳を傾けてお伺いしてまいります。いかがでしょう?

投稿日時 - 2009-06-01 09:52:59

ANo.53

>どうしても それは まちがっているぞという物言いなり助言なりがありましたら

そんなことはありません。人それぞれで、ご自分の手に入れてきた方法で生きて行けば良いんじゃないですか。そのやり方を相手が受け入れるか受け入れないかは、貴方にはどうすることも出来ないのですから。

少なくとも私にとってはこの場所は、適度の娯楽の場所で、一寸したおしゃべりをしたり、普段英語ばかり書いているので、日本語を書く恰好の練習場が出来たと喜んでいる次第です。遊びの場所と心得ているので、ときどき投稿者をからかったり、蘊蓄を傾けたりと、まあどの年寄りでもやるような嫌らしい悪戯心を弄んでおります。

自分の長年の経験で、人を説得するには、先ず木を論じるよりも森を見せることに重心を置いて全体の流れを把握してもらうように努力しております。したがって、できる限り言葉を区切らないで読者の頭に滞り無く全体像が入ってもらうように、そして、出来ることなら2度読んでももらわなくても相手が分かった気になるような文章を書くことを心がけているつもりです。

人それぞれ世界の認識には固有の歴史が在りますので、こちらが伝えたいことをこちらの論理で細かく展開した所で、相手は自分の言葉と論理で組み直してからで無いと、暗記は出来ても理解はしてくれません。したがって「だから何なのだ」という全体を見せ、どうしてそういう結論が導き出されるのかと言う論理を展開するよりも、結論は何なのだと言うことに重点を置くことの方が、遥かに重要だと考えております。こちらで主張したい結論が有意義であるという自信があるならば、どうしてそうなのかと言う細かい論理は、読者や聞き手が自分の言葉で考えれば良い。その方がこちらの細かい論理を提示するよりも遥かに説得があります。まあ年の功とでもいうか、こちらの出来ることは、相手を「分かった気」にならせることだけで、相手が本当に分かるためには、自分の言葉で考えてもらわなければ不可能だと言う経験則を手に入れたわけです。

私が学生に論文の読み方や、講演会の聞き方について指導する時は、
「その論者は何を問題にしており、どんな結論を導き出したかに焦点を当てなさい。それをどのような論理で導き出したかは参考にする程度で宜しい。論者の追体験をするだけでは決して自分の物にはならないから、追体験を適当にすると同時に、細かい所は自分の言葉や論理を見つけなければ駄目だ」
と、年寄りが言えそうなことを言っているわけです。

投稿日時 - 2009-05-29 21:47:19

お礼

 cyototu さん ご回答をありがとうございます。

 たぶん これで はっきりしたのではないでしょうか。何がって 哲学と自然科学とは やはり違いますよ。
 問い求めの過程――つまり 推論ですね―― これだけですよ 哲学にとっての問題は。何故って 答えは ひとそれぞれにあって 一人のひとにとってでさえ その場の情況や相手に応じて いくつか違った実践としての答えがあるはづですから。自然科学なら 正解は いちおう 決まるのでしょう? どこでも 誰が扱っても。

 ですから 哲学が 示せるのは わが主観真実のみです。その思惟の過程のみです。しかも その真実に 一般性・共同性もしくは普遍性があるかどうかが 大事なのは 言うまでもないことです。
 別の質疑応答で 《情況の法則》という説に行き当たりましたが(どうも削除されたと思うのですが) これは たしかに 全体を見るべしと言う視点であり そのことが やはり 大事であるのも 実際です。しかも けっきょくのところ 主観に行き着くと言うべきでしょうし 事実 哲学の有効性は この一人の人間が現実に実践しうるかということにかかっていると考えます。

 これらを総合して考えるに 経験合理性に立って妥当性があるかどうか これが 判断基準であるはづですが それには つねに どんな些細な事柄であっても 些細であればあるほど 哲学の徒は 少しおかしいかなと思えば わざとでも その石につまづいてみて 立ち止まり 急がば回れとしての思惟を敢行しなければならない。こう考えます。
 こんなところでしょうか。どうでしょう?

 * 問題意識から およそすべてが始まるというのも これは おっしゃるとおり 推論の過程に先立つ重要なことであるでしょう。

投稿日時 - 2009-05-29 22:35:31

ANo.52

ぽこぺろぽです。私が変なことを尋ねたせいで、話題が飛び火してしまい、申し訳ありません。これは質問趣旨から大きく逸脱するうえに、愉快なやりとりとはいえませんね。

 さて、三位一体です。三位一体を明らかにしているのは、このくだりでしょうか?

證する者は三つ、御靈と水と血となり。この三つ合ひて一つとなる。
第一ヨハネ書 5:8

 それにしても、いまだに理解できないのですが、一神教に汎神論(聖霊)が含まれるのはよしとして、なぜ子を父と同格にしたのかをです。人の子を御子と敬い、十字架の贖いに思いを馳せるのはよいのですが、父が子をこの世に送ったのであって、代理権までは与えていないと考えるからです。やはり、父は絶対唯一神であるべきです。

 師に問い質したところ、「私には三位一体の崇高さを、うまく説明ができない。あのパウロでさえ、『朧げにしか知らない』と語っている。それをわからないままに課題としない、あなたの拙速さこそが不信仰といえる」と諭されました。何か、聖句からでもヒントはありませんか?よろしくお願いします。

投稿日時 - 2009-05-29 18:37:35

補足

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。
 批判は大歓迎です。批判になっていない場合が 問題です。だいじょうぶです。

 ○ 三位一体
 ☆ そうですね。No.36へのお応えを参照していただきたいと思います。光のたとえです。光源=父 その発耀=子 両者から発出する明るさ・暖かさ=聖霊とたとえて その三つのペルソナ(位格)ないし一つの存在は 時空間を超えているのですから 絶対であり無限です。そして 無限を仮りに三分割しますと その三分の一は やはり 無限なのです。これが 《絶対》というものです。
 ですから ペルソナのそれぞれの個は ほかの個と等しい。個は 全体とも等しい。全体は それぞれの個とも等しい。これが 三つのペルソナの絶対的な一体性( Trinitas )です。
 子も聖霊も じつは 光源であり 父も聖霊も 発耀であり 父も子も明・暖であります。

 人間の自然本性のうち精神の行為能力としては 《記憶(精神の秩序作用)》が 父にたとえられ 《知解》が子に 《意志(愛)》が聖霊に それぞれ たとえられます。
 社会形態としては 《司法》が 記憶ないし父に 《立法》が 知解ないし子に 《行政》が 意志ないし聖霊に それぞれ たとえられます。
 神としての三つの位格の一体性は 瞬時に成っていると言いますか 永遠に一体性としてあります。人間およびその社会形態としての行為関係としては 記憶から知解し 両者にもとづき意志を決める。そして実行する。実行の結果を見て ふたたび 記憶に尋ね そこから知解し 全体として 意志する。このように三つの能力行為は 時間過程をともなって 一応 一体性を実現するように進むと見なされます。三権分立も 分業しているということは 互いに 協業しており その時間的な隔たりを持ちながら 一応 一体性を発揮するように進みます。(これを 三一性と言います)。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人の子を御子と敬い、十字架の贖いに思いを馳せるのはよいのですが、父が子をこの世に送ったのであって、代理権までは与えていないと考えるからです。やはり、父は絶対唯一神であるべきです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 例によって 上と同じく アウグスティヌスの三位一体論に拠ります。わたしが 投稿したものがあります。
 【Q:なぜ神はイエスをこの世に送ったのか】
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3093850.html
 No.4&17&19が わたし(= noname#80116 )の投稿です。

 ☆☆ (上記質問への回答No.19)~~~~~~~~~~~~~~~
 闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。(人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが)。

 いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのだと思われます。

 人間としてというのは たとえば 弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態(つまり 神であるとは ほんとうには 心得ることなど出来なかったこと)を意味します。あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 人間として死を死んだということ。などです。

 人間としてでなければ――つまり 神として 十字架上で奇蹟を起こしたなら もう話は別だということになってしまうという意味なのですが 人間としてでなければ―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。

 しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。コギトとしての光 もしくは コギトの根源なる観念ないし思念としての神に終わってしまう。逆に言いかえると 神は人間の精神なのではないと知らせる必要があった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-05-29 20:04:37

お礼

 ☆ 記憶における理念としての《自由・平等・兄弟愛》が それとして 知解され それらにもとづき 意志される。これら記憶・知解そして意志の三つの能力行為が そのまま 自由なら自由を 現実に表現しうるか? と問うたとき それら三つの行為は 時間的な隔たりをもって まあ幾分かは 一体性を表わすかのように 幾分かは 実現するように思われます。民主主義を勝ち得て来ました。

 このように ひとは考えます。努めます。走ります。目指す目標に達するのは 人間の三一性としての光と そしてそれはあたかも月明かりのごとくであって あるから 三位一体としての光に照らされることが 必要だという非思考のドグマが表わされているのだと考えます。

 したがって 無神論によれば 有神論と同じく 人間の理性も感性も有限であることを認めつつ あとは この自分たちの努力によって 目指す目標へと進むということではないかと思います。この場合 目指す目標に到達できるかどうかは 分からないとなります。到達できると発言するときには やはり 非思考のドグマが表わされるという寸法です。無神論も 非思考つまり 信仰の一つの形態なのです。

 有神論という信仰は 神の存在を言い ここに絶対の光を見ている。
 無神論という信仰は 神などいないと言い 無神ないし無が 絶対の光だとやはり言うのだと理解します。
 どちらにも 非思考の次元と そして ふつうの経験思考とがあるのではないでしょうか。
 もし 無神論が 無神という絶対の光を あたかも仏性のごとく 人間が宿していると言ったとすれば それは 有神論において 子なる神が 父なる神と一体であるというのに 限りなく近いでしょう。

投稿日時 - 2009-05-29 20:17:24

ANo.51

趣味の問題ですか。しかし、ここで書かれる文章は、他の人にも読んでもらうつもりで書かれる文章ですから、独りよがりというわけには行かないでしょう。

>そういう意味と、少し、似ていて、読点は、じゃまに感じます。

確かにこのような読点だらけの文章を書いたら、誰でも読点をじゃまに感じることに同感です。だから誰でも、

「そういう意味と少し似ていて、読点はじゃまに感じます。」

と書いてスッキリさせたくなりますね。

>文字を追うのは、一般に、だれでも、読みづらいですよ。 



「文字を追うのは、一般にだれでも読みづらいですよ。」 

ではっきり意味の伝わる読みやすい文章に成っていますね。

美は単なる趣味の問題ではなく、普遍的な説得力があるからこそ芸術の対象に成っているのですね。

投稿日時 - 2009-05-27 21:31:39

補足

 お礼欄に 一点を補います。

 ○ 黙読
 ☆ を わたしは しているからかも知れません。ですから 読む速度は 遅いです。ゆっくり頭の中で 一字づつ 読んでいるので それに合わせて 書くときにも 文節を区切る。ということのように 思われました。
 黙読は しませんかね? 流行りませんか?

投稿日時 - 2009-05-28 21:35:19

お礼

 cyototu さん cyototu さんも まともな投稿になってきましたので こちらも 心を入れ替えてお応えします。
 まづは ご回答をありがとうございます。

 そうですか。趣味を超えた一般的な読みやすさの度合いがありますか。
 たぶん これからは いまの考えですすめていく過程において 考え合わせていこうとは思います。
 それは わづかに まだ 次の二つの理由があるからです。
 ひとつは
 ☆☆ (No.50お礼欄) つまりは たのしく書くこと(入力すること)のほうが のぞましいのは 当然です。
 ☆ わたしが たのしいと思うやり方をえらぶという意味です。読む側への気配りとの兼ねあいになるでしょうね。

 もうひとつは 次の三つの文は 必ずしも 同じものではないと考えるからです。
 ○ そういう意味と 少し 似ていて 読点は じゃまに感じます。
 ● そういう意味と、少し、似ていて、読点は、じゃまに感じます。
 ★ そういう意味と少し似ていて、読点はじゃまに感じます。

 ☆ いま気づいたのですが(ただし 以前に 自覚していたことで 今回 忘れていたことですが) たしかに わざと 読みにくくしているということです。それは 読む人をして 振り向かせるという意味を含みます。
 おっしゃるように ★印の表記が いちばん 読みやすいでしょう。●印にするくらいなら ○印の方が ましでしょう。けっきょく この○印のかたちにして わたしは 読み手に 立ち止まって 読み その内容を受けとめ 消化せよと 迫っていることになります。

 そもそも わたしは 応答を必要とする文章を読むときには 読みなおしを 一度は おこないます。つまり 二回 全体を読むということです。わたしの文章は それに値すると思っていますので それなりの主張をしていると採っていただいて いいと考えます。
 しかも いちばんの理由は 先のたのしさを追求すること ここにあります。

 保留と言いますか 留意と言いますか そのようにして あらためて 進みたいと考えますが どうしても それは まちがっているぞという物言いなり助言なりがありましたら お手数ですが いまひとたび ご投稿をいただきたく お願いいたします。

投稿日時 - 2009-05-27 21:59:23

ANo.50

 >★ 読点の除去
 >☆ 原稿用紙の場合 そのまま 一マスを空けておけばいいわけですから 省エネになるからです。

と言うことは、ワープロでは一マス開けの命令も句読点の命令もエネルギー消費に関しては変わりがないので、句読点を入れて読んでもエネルギーの無駄にはなっていませんね。そこで句読点を入れて読んでみると、句読点だらけの文章ですね。こんな句読点の多い文章は小学生が書いても何だこれと怒られてしまう文章で、読みづらいことと言ったら目も当てられないですね。言葉でご自分ばかりでなく人をも説得できるという信念を持っておられるようですから、空白を開ける理由をもっとしっかりした言葉で納得させて頂けませんか。

投稿日時 - 2009-05-27 11:43:50

お礼

 批判は 熱烈歓迎ですよ。

 ★ 原稿用紙とワープロとでは 要領がちがうから あらためて 考えたまえとのご批判。
 ☆ ところが
 ★ 空白を開ける
 ☆ 頻度は それほど多くはないはづですよ。どうですか?

 たしかに このご投稿の文章にくらべれば 多いですね。つまり どちらも 読みづらさでは どっこいどっこいではないでしょうか? 両極端でしょうか。

 余分な話です。つまり 趣味の問題です。
 ひとつに 送り仮名のルビを 文字の脇に振るのは つまり それを読むのは 嫌いです。別の行を 不規則につけ加えているみたいだからです。
 ルビはやめて 送り仮名をすべき文字のあとに――つまり 同じ行のなかに―― 括弧書きして 振ればいいわけです。
 そういう意味と 少し 似ていて 読点は じゃまに感じます。
 
 つまりは たのしく書くこと(入力すること)のほうが のぞましいのは 当然です。
 それと 
 ★ 言葉でご自分ばかりでなく人をも説得できるという信念
 ☆ は 読点のあるべき空白を 多くしようが少なくしようが あまり変わりないはづです。
 一文が長すぎるという短所を持っていますが この文節が空白でちぎれちぎれだというのは それほど大きな短所だとは 感じないですね。おかしいですか?
 文字を追うのは 一般に だれでも 読みづらいですよ。

投稿日時 - 2009-05-27 13:19:17

ANo.49

ぽこぺろぽです。実はいつかお尋ねしようと思っていたのですが、大佐は文章中で読点を用いずに、分かち書きをするのはなぜでしょうか?ここに大佐の《私》を感じます。

 そうですね、デンパですね。あの人とは話しづらいとか、おかしみを感じるとかいうのも、ある種のデンパでしょうか?《ヨセ》社会では、このデンパの受け取り方が下手な者は、「空気が読めない(KY)」として疎んじられます。かくいうぽこぺろぽはKYです。

 山本七平は『空気の研究』で、この日本社会の特殊性に触れていますが、アマテラシストでなければ「空気」を感じないのでしょうか?もしかしたら他者に《私》を感じさせないことが、空気を読めるということのような気がします。

 余談ですが、晩年のフーコは「男は皆、ホモであるべき」とのたまわっていましたが、人類滅亡でも呼びかけていたのでしょうか?それとも独我論の強烈な発露でしょうか?いまいち、フーコはわかりません。

投稿日時 - 2009-05-26 20:59:31

お礼

 pokoperopo さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ フーコ
 ☆ は 著書を読んだ結果で言っているのではなかったです。澄みません。最近の質疑応答で知った結果で 言っています。
 ★ ホモ
 ☆ は――自然本性に反すると言いますが―― そのこと自体として 人格がどうのこうのとは言えないようには 考えるようになっています。気がちがっているのではないかと思っていましたし いますが 人格をうんぬんするまでの根拠はないと考えるようになっています。

 ★ 山本七平:『空気の研究』
 ☆ あぁ いま気がつきましたが ほとんどは読んでいますが この本を そういえば 読んでいなかったですね。どういうわけか 分かりません。NHKテレビなどで よく説明を聞いていました。
 ★ 空気
 ☆ につきましては――えらそうに申しますが―― 次のように あつかってくださいませ。
 ○ まづ 基本的な方針として 《悪事には 子どものようであってよいが 考え方としては おとなになってください》。
 ○ KYを決め込んでいても いいでしょうし あるいは わざと――面従腹背のように――その空気に乗っかっていっても よいと考えますが 基本的には 空気を読むこと自体は おこなっておくべきです。
 ○ そのあとの行動は 具体的に規定するのは むつかしいわけですが やはり 存在を愛し 欠陥を憎むだと考えます。
 ○ しかも このとき 利害関係ないし損得勘定が からんでいますので そのときには 鳩のようにおとなしく へびのごとく賢くふるまってくださいませ。

 ○ デーモン・デンパ = 意識の排泄
 ☆ は アースとして受け取り受け容れても 容易に 消滅していきます。《存在は愛し 欠陥は憎む》ことを続ければ だいじょうぶです。そのことによって かえって――文学的な言い回しを用いますが―― こちらの魂が さらに 強められていきます。その瞬間ごとに 魂が与えられるといったかたちでもあります。感覚としては そのとき あまり快いものではありません。

 ★ 読点の除去
 ☆ 原稿用紙の場合 そのまま 一マスを空けておけばいいわけですから 省エネになるからです。

 ★ 三位一体論
 ☆ は どうなりました?

投稿日時 - 2009-05-26 22:37:37

ANo.48

>質問のおもむくところに焦点をあてていただくなら その《他者》も《わたし》も ひとことで 第一次的にその中身を示し得る言葉をえらべと言われたなら《わたし》だと答えると思うのですが いかがでしょう?

 まさしく、これは同意します。その通りだと思う。

投稿日時 - 2009-05-26 09:18:19

お礼

 ri_rong さん ありがとうございます。
 ご回答とご賛同とについて 感謝します。

 ただし ri_rong さんと若き madame との直接のやり取りのないまま しばらく 休憩になるかも知れないようですが そうだとは!!
 
 と記して 継ぐべきことばに窮しましたが ぼちぼち まいりましょうか。

 哲学のいとなみは 大海の水をバケツで汲み出そうということだそうですから 気長に行きましょう。

投稿日時 - 2009-05-26 11:11:08

ANo.47

#39,45です。

私の回答と、まず前提が異なっていたようですね。

私は、固有名詞とはそのものの固有性を示すものである、とは捉えておらず、
単なる他と区別できる呼び方である、として回答しています。
固有名詞とは何か、を決めなければ、答えは出ませんね。


ちなみに、固有名詞がそのものの固有性を示すものだとして、
《何の某》という名前が、固有の人間性を表すことはないが、
《何の某》という名前がつけられたことによって、その人の固有の人間性が、
《何の某》に付加される、というベクトルが逆の考えはどうでしょうか。

《何の某》というものには、もともと何も意味が含まれていないもので、
誰かの名前となって初めて、その人の固有性が含まれる。
《わたし》も同様に、もともと何も意味が含まれていないもので、
誰かが発することによって、その人の固有性が含まれる。

ただし、《わたし》は「自らが発したとき」だけだが、
《何の某》は名付けられた以降なら、「(本人含め)誰が用いても(また文字としてあるだけでも)」、
その人の固有性(今そう呼んだ・呼ばれている時点での)が含まれる。
《何の某》のほうが汎用性が高いので、より固有性を指すものとして適当である。

《何の某》は他人が用いるものなので、その固有の人間性を表せない、
ともいえますが、《わたし》が自分が用いたときのものであっても、
自分が用いていれば自身の固有の人間性は表せている、
といえる根拠はないと思います。
自分が見た固有性と他人が見た固有性、どちらが正しく表しているかは
断言できないのではないでしょうか。

ただの言葉遊びのような気もしますが。


また、質問者様の補足部分は私もそうだと思っていますが、それがなぜ
>哲学的な見方のほうが 常識よりも 合理性から見て より妥当であるのではないか 
なのかがわかりません。
固有→他と異なるそれだけのもの→《何の某》はその人だけに名付けられた→《何の某》は固有のものだ
合理的だと思うのですが、これがダメな理由は何でしょうか。
これが合理的でなくなるには、前述のとおり「固有」の意味を決めなければなりませんが、
それは合理的かどうかとは別問題だと思います。


おそらく私の意図が質問者様に通じておらず、質問者様の意図を私が理解していない点が多々あるようですが、
だんだん自分の意見表明になってきており、回答のため短く文章化するのが苦になってきたこともあり、
今後この質問への回答は止めることにします。
すみません。

投稿日時 - 2009-05-26 04:38:40

お礼

 kishiroot さんにとって 《何の某》という名前のほうが 自分自身に固有の名称であると感じられるのであれば もう 何も 言うことはありません。
 《固有》とは この質問では そういう意味です。

 ただし わたしの憶測としましては この《常識としての固有名詞》である何の某よりも 《わたし》という呼称のほうが みづからの存在を表わすのに 固有のものだと感じている人びとのほうが 多いのではないか。そういう問いかけでした。
 ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-05-26 08:58:45

ANo.45

#39です。

私の回答への返答を拝見しながら、何気なく他の回答への返答を見ていたところ

>○ 《固有の》というからには 《仮りの ないし 代理の》ではないという意味です。(No.34へのお礼)

というのが目に付きました。
私は「固有の」とは「『仮の、代理の』ではない」と捉えることが出来ません。
例えば、人以外のものを挙げた場合
固有名詞・・・富士山
一般的に・・・山、土、場所、などなど
のように、一般名詞だと限定できないものを、限定するために
「仮に」名付けて、それが他人にも通用するようにして、
それのみが他と区別がつけられるようになった名称が、
「固有の名称」だと思っています。
すべての固有名詞は、誰かが仮につけたものといえるのではないでしょうか。


>○ 固有時 云々・・・
言葉というものは、一人で作って使うものではなく、
複数の人がいることで、初めて存在しうるもの、と考えているので、
個々人が固有の生を生きているとしても、言葉は複数が同様に感じる
ことの出来る世界のもの、として扱うほうが良いのではないかと考えます。

>○ 人類の一員 あるいは ひとりの地球市民
前の富士山の例を取ると、山の一つとか一つの場所、という言葉が
固有に感じることはないでしょうから、やはり人は自らが言葉を用いるということが問題になってきそうです。
ただ人の名称も、呼ばれるその人がその場にいなければ、ものと同じで
あり、複数の人が扱う言葉としては、人もものも同じであると考えます。

ちなみに、小さい子供などは《わたし》が自分を指す名称だとわからず
親からつけられた名前で、「○○ちゃんは…」のような言い方をよくしますが、
その時点では、自分を指す名称がそれしかないわけですから、
その子供にとって、親からつけられた(他から与えられた)名前でも、
唯一無二の固有の名称といえる気もします。

投稿日時 - 2009-05-25 22:46:45

補足

 kishiroot さん ご回答をありがとうございます。

 《通り相場》という言葉は 安易でしたが 要するに 一般的にそうだと受け取られている解釈 これを kishiroot さんは たしかに 言っておられる。
 そして わたしは ここでは このいわゆる常識とは別の見方がないか あるのではないか このように問うています。
 なにも この別の見方が 成立したとしても いまの常識としての見方が なくなるとか・なくせとか 言っているわけではありません。おそらく 哲学的な見方のほうが 常識よりも 合理性から見て より妥当であるのではないか このようには 見ています。

 たとえば 《何の某》という各自の名前は 仮りに変えようと思えば 法律上の問題を別にすれば 自由に変えられます。昔は 歳とともに変える風習もありました。たしかに 成人するにおよんで 牛若丸を義経に変えたことによって かれの人間性と個性は より一段と 固有のものに成長していったかも知れません。そうでなかったかも知れませんが 成長していくという場合が 一般に 考えられます。

 では この何の某という名前は 固有名詞だという常識が どこまでも どういう批判にも耐えて 通用するかとなると 必ずしも そうではないように 考えられるのです。

 義経であろうとほかの人であろうと その人に固有のものと言えば 何であるか。言いかえれば 幼少の時の松若丸から 範宴を経て 綽空・善信を超えて 親鸞と名乗るに到るそれらの《常識としての固有名詞》は 果たして かれの固有の人間性を指し示しているか。
 わたしには 《人間・存在》といった言葉のほうが 固有性を表わしていると思えます。親鸞本人からすれば 《わたし》という言葉ではないだろうか。と問う質問になっています。
 つまりは ひとにとっては だれもが それぞれ みづからの固有の名称は この《わたし》であるのではないか。こういう問いです。

 同じ音韻による言葉ですが 一人ひとりにとってのその《わたし》という言葉は それぞれにとっては 唯一無二なのではないでしょうか。同じ発音の言葉でも それぞれにとっては 中身が違うのではないでしょうか。それぞれのクオリアを帯びたわたしに なっているのではないでしょうか。一人ひとり まったく 違うのではないでしょうか。
 ただし 音韻としては 同一ですので 別の言葉つまり 名前をつけて 互いに 呼び合うこととした。こういうことではないでしょうか。
 どうでしょう。

投稿日時 - 2009-05-25 23:29:00

ANo.44

 なんだか補足を頂いたようで。

>つまり 《何の某》は 固有の名称だとは 思えないのですが?

 僕の考えとしては、固有名詞などというものは、その人が死んだときに名付けられる、あの戒名のようなものだということです。その最期の名付けの前まで、誰ひとりとして人間は呼称、あるいは代名詞でしか語れない。
  
 もちろん限定詞を使えば、この僕を表現することはできるでしょう。
 けれどそういう根気の良い仕事が、とりわけ人間を呼称するための固有名詞に配慮されているとは思えない。むしろ、固有名詞は「変わらない君」「そこにとどまる君」、いや率直に言えば「死体と同じ、君には成長なんてないんだよ」という差別用語にしか聞こえてこないんです。少なくとも、僕にとってですが。
 それにここではみなさん、IDを使って投稿をなされます。こうして文字を綴るとき、せめてその間だけは、戸籍上の道徳から自由にさせておいてくれという、実に人間らしい気持ちがあるからじゃないんでしょうか。

 世の中には「与えられる」ことも「勝ち取る」こともできないものがあるって思います。固有名詞は、「わたし」が去った後にしか生まれない。いや、それでも持っているんだという幻想、だってこれだけは確かじゃないかという虚ろな気持ち、そういうのを一つひとつひき剥がしてゆくにつれ、気持ちは沈み、暗く深い井戸にでも降りて行くようなやるせなさが訪れる。
 人間とは不思議なもので、平和で満たされているときは、あれが無いこれが無いと、無いものばかりを数え上げるが、神戸の震災を振り返ってみると、罹災した人々がそうだったように、自分にはこれがある、あれがあると言って、あるものばかりを数え始める。けれど、そうやって固有名詞をひとつ手に入れるたびに、ひとつだけ確実に代名詞が死ぬ。
 僕はいったい、どうやって答えを書けば良いのだろうか。

 あまりに無力で、自分が嫌になりますよ。

投稿日時 - 2009-05-25 17:32:35

補足

 ri_rong さん なにも 困ることはないと思いますよ。――まづは ご回答をありがとうございます。――つまり たとえば 《そのとおりだ。おまえの言うことに同意する》とでも回答するのが ひとつですし 《まったく 意味がない。存在論を 文法の名称によって 説こうとする意図からして まちがっている。出直したまえ》というのも ひとつです。そして そのあいだに いろんな形式の回答があるかと思います。(ご趣旨とは 焦点がずれているかも分かりませんが そういう視点もありうるという意味で このままとします)。

 ですが 今回は 特異な――絶妙な――ご回答をいただいたと思っています。
 ★  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 僕の考えとしては、固有名詞などというものは、その人が死んだときに名付けられる、あの戒名のようなものだということです。
 その最期の名付けの前まで、誰ひとりとして人間は呼称、あるいは代名詞でしか語れない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりは その人間というものは 一生を終えてみなければ 真価は定まらない。真価と言ったって 人にも自分にも やはり分からないだろうけれど 評価してみておくことは 重要だし 有益である。《関係性》の側面が 存在には つきまとっているからだ。――というご趣旨でしょうか?
 つまりは さらに煮詰めて言って 
 ○ 固有の名称というものは ひとにとって ない。
 ○ すべてが 仮りの名称を用いて 呼び合っているのだし そのこと自体が むしろ 人間にとっての固有のしるしとなっている。
 ☆ といったご趣旨でしょうか?
 ユニークですね。(ユニックと表わせと言ったひとが いました)。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 むしろ、固有名詞は「変わらない君」「そこにとどまる君」、いや率直に言えば「死体と同じ、君には成長なんてないんだよ」という差別用語にしか聞こえてこないんです。少なくとも、僕にとってですが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すごいですね。感性が研ぎ澄まされていると言うべきか。あたかも中性子か何かが人体を貫いて通りすぎていくように 存在じたいをも 突き抜けた向こうのほうを見ておられるのでしょうか? 
 どうも これは この視点ないし思想じたいが 探究に値する対象ではないかと思えてきます。昔から ですか? ここまででは 分からなかったです。

 ★ 世の中には「与えられる」ことも「勝ち取る」こともできないものがあるって思います。
 ☆ これについては 論理的には 破られるのではないでしょうか。それがあるとしたなら それは けっきょく 神だけでしょう。でも その神との関係は おのづと 与えられています。ひとによっては 無関係という関係が 与えられているわけですから。
 そして この――奇しくも 存在に固有の名称などないとの理論に呼応した――世の中観の裏側にとでもいうように 見出される《神との〔無〕関係》は 科学にとって べらぼうな想定ですが あんがい 《〈固有名詞〉の幻想性》よりも 現実的であるかも知れません。なぜなら それは 自由だからです。有神論も無神論も どちらも 自由に 選べますし 有神論だけを取っても その中で いくつかの神の中から 自由に あたかも 選べますから。
 そうして たしかに この自由の理論としての究極的な選択があれば もはや 存在にとっての固有名詞は 要らないし さらには ないということになるようです。

 あとは わづかに――わづかに―― わたしたちは この現実において それぞれ みづからを指して 《わたし》を名乗っているという言語生活があるということではないでしょうか? (つまり 我が田に水を引こうとしています)。どうでしょう?

投稿日時 - 2009-05-25 18:16:59

お礼

 補足です。

 後ろから三つ目の段落の中で
 ● 世の中観 
 ☆ は
 ○ 《世の中》観
 ☆ のことです。読みづらかったと思います。澄みません。

投稿日時 - 2009-05-25 22:17:28

ANo.43

こんばんは、bragelonneさん。

(*^^*)>゛゛゛ヘッへへ



>゛゛゛


の「 > 」は、頭のうしろへもっていった手を表す

で「 > 」に「 ゛゛゛」が付くと動きを表す

音で表すと、「ポリポリポリ」 と、いったところですかね。

これとはべつに

「ノシ」っつーうのも動きを表してはいるのではないでしょうか?(推測)

下側に《ノ》を付けることで視覚の残像効果を表現しているのではないでしょうか?

パラパラ漫画を思い浮かべ「ノシ」を絵文字ととらえれば、理解可能。

いかがでしょうか?

●《ヘッへへ》は ふつうの文字だよね。言葉ですよね。

さー、どうでしょう? 音かも? |(><)|キャッ-☆

投稿日時 - 2009-05-24 01:40:42

お礼

 littlekiss さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「ノシ」っつーうのも動きを表してはいるのではないでしょうか?(推測)

 下側に《ノ》を付けることで視覚の残像効果を表現しているのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ほんまかなぁ。合っていると思うけれど うまく合いすぎなんぢゃない?
 ★ 頭のうしろへもっていった手を表す・・・音で表すと、「ポリポリポリ」 と、いったところですかね。
 ☆ こんなところまで 考えるのですか? すでに いろいろ出回っているのですか?
 でも最初に考案したひとにとっては 理解されなかったら どうします? わざわざ 説明も添えるのですか? そんなら 言葉で言ったほうが 早い。――でも 絵文字も入れることが みそなんですかね。

 ま また変な音を聞かされては 困るので これはこれ。質問は質問。
 みなさんは これが 回答かと怒っておられるかも知れないから そのへんは あんばいよくたのみますよ。

投稿日時 - 2009-05-24 08:21:02

ANo.42

こんばんは、bragelonneさん。(*^^*)>゛゛゛ヘッへへ

フルーリーってなんやろ?

フリスビーの語源ならまえにどっかでみたことあるけど…
 
【フリスビー】
1940年代後半に、アメリカ合衆国コネチカット州にあるイェール大学の学生が、フリスビー・パイ・カンパニー (Frisbie Pie Company) のパイ皿を投げて遊んだことから始まったといわれる。それをヒントに、建築検査官のウォルター・フレデリック・モリソンが金属製のものを試作し、1948年にはプラスチック製のものに改良。1955年、ワーム・オー社に買収され、1959年にフリスビー・パイ・カンパニーの "frisbie" のスペルを変えた "frisbee" で商標登録された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AF

フルーリーとフリスビー

はじまりの音が「フ」、終わりが「リー」と「ビー」の長音

なんか似てなくない? 音 < 空耳だよ、きっと

【商標の類否】
http://www1.neweb.ne.jp/wa/bestpat/ruiji.htm

うーん、母音と子音がきになる

【QNo.3492846 母音と子音】
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3492846.html

ときに、フルーリーとはなんぞえ?と、ネットサーフィンしてみていくと

FLEURIE(フルーリ)と書いた標識発見!?
http://www.mmatsuura.com/others/france/fleurie.html

ほでも、「リ」は短音 ……他人の空似?

(TT)メソ。。。フルーリーの意味って何?

【JICFS商品分類基準】
http://www.topnavi.net/toll/search/food/c3/item2.html
http://www.topnavi.net/toll/search/food/c3/item4.html

投稿日時 - 2009-05-23 23:48:49

お礼

 littlekiss さん こんばんは。ご投稿をありがとうございます。

 ★ FLEURIE(フルーリ)
 ☆ って いいとこですね。田園もあって。これは たぶん そらみみアワー。
 このFLEURIE(フルーリ)の出ているサイトで 左側上のほうに ロカマドゥールってあるのに気づいた。これは すごい町だよ。岩の岸壁に家家が 建てられている。びっつくり。

 ★ (*^^*)>゛゛゛ヘッへへ
 ☆ まづ 《ヘッへへ》は ふつうの文字だよね。言葉ですよね。そして 初めの顔を示すところまでは 分かるのだけれど そのあとが 分からない。
 ★ >゛゛゛
 ☆ にが笑いかなぁ。最近では 《 ノシ 》を覚えたのだけれど そして これは 手を振っているしるしだから バイバイを意味するというのだけれど 《シ》の下側の 《ノ》の部分が何を表わすかが分からない。何であるのか。なくてもよいのにと思うのだが どうなのでしょう?

投稿日時 - 2009-05-24 00:21:45

ANo.41

#39さんとの遣り取りを端から見ていたら、私の信奉している16世紀ルネサンス期のフランスを代表するある哲学者の方の宣われていた次の断片を思い出しました。曰く、

アリストテレスばかりでなく大部分の哲学者がむずかしさをよそおったのは、空虚な事柄に箔をつけて、われわれの精神にうつろな、肉のない骨を与えてしゃぶらせ、好奇心を満足させるためでなくて何であろうか。、、、難解さは、学者が手品師のように自分の技倆のむなしいことを見せまいとしている貨幣であり、愚かな人間どもはこれで簡単に支払いを受けたつもりになる。

  彼はあいまいな言葉のために、むしろ愚かな者の間に有名である。、、、
  なぜなら、愚かな者は難解な言葉の下に隠された意味を見つけて感嘆し、これを喜ぶからだ。

、、、彼(ソクラテス)はどんなことをたずねられても、常に、まず質問者にその現在と過去の生活を語らせて、それを吟味して判断した。その他の知識はすべて副次的でよけいなものと考えていたからである。

ここで、お得意の川柳を披露させて頂きます。

唐人の 寝言に驚き 目が覚める  卍素っ頓狂人

お後が宜しいようで。

投稿日時 - 2009-05-23 23:28:41

お礼

 現行の文法としての整理が 飾り付けに過ぎないと見るべし。

投稿日時 - 2009-05-24 00:30:51

ANo.40

こんばんは、bragelonneさん。

マックフルーリー
http://www.mcdonalds.co.jp/menu/limited/mcflurry/index.html

なんか、これみてると甘いものが食べたくなってきた。

で、ひとつおもったんですが…

マックフルーリーとはなんぞや?アイスそれともパフェ?メニューのカテゴリーじゃ、デザートに属するのかな?ドリンクじゃないし…それとはべつに、JICFS商品分類基準っちゅーのをみてみると…【菓子類】の中に[デザート・ヨーグルト]と[アイスクリーム類]がある。みてけばその中に[その他デザート・ヨーグルト]と[パーソナルアイスその他]がある。この中じゃ、マックフルーリーはどれにあたるんだろう?

投稿日時 - 2009-05-23 20:57:27

お礼

 littlekiss さん こんばんは。ご投稿をありがとうございます。

 さて 甘いものも好きですが このマックフルーリーは クッキーの割れが載っていて あまり おいしそうに見えない。
 えっ なんやて?
 ★ この中じゃ、マックフルーリーはどれにあたるんだろう?
 ☆ って? ソフトクリームだそうだから [アイスクリーム類]だろうけれど アイスクリームではないと言うべきでしょうね。ぢゃが この中では もう [パーソナルアイスその他]しか答えはないと考えるしかない。あぁ きょうは 二本 アイスクリームを食べちまった。暑くなってきましたね。
 フルーリーって どういう意味ですか?

投稿日時 - 2009-05-23 22:04:01

ANo.39

いろいろ回答されていますが、あまり哲学を考えない単純な考えとして、
固有名詞とは、誰もがその名称を用いて同一のものを示すことが可能、なものしかそう呼ばないのではないでしょうか。「固有」とはそういう意味だと思っています。

《わたし》はその言葉を使う人によって指す人が代わります。
《何の某》は誰が使っても《何の某》しか指しません。(同姓同名など指す人が限定されないことはありますが)

投稿日時 - 2009-05-23 17:23:14

補足

 kishiroot さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。一般に そういうこと つまり おっしゃっていることが 通り相場でしょうね。

 ただし
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 固有名詞とは、誰もがその名称を用いて同一のものを示すことが可能、なものしかそう呼ばないのではないでしょうか。「固有」とはそういう意味だと思っています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ には たぶん 別の解釈もできるのではないかと思います。そして その別の見方に立って 考えたのが 質問の中身になるでしょうね。
 ○ 固有時
 ☆ という言い方があります。これの物理学上の定義については どなたか詳しい方が 解説してくれると ありがたいのですが 要するに ひとりの人間という存在は 人間として ほかの人と まったく同等・対等・平等であるのですが それぞれの人生は 違うと言えば違います。同じ人生を歩むとは限りません。ですから 固有の生として時間過程があると考えられます。
 その固有の生ないしそれを生きる存在は では どういうふうに表わすかですが どうでしょう?

 いま《わたし》という言葉を使って 自分つまりほかの誰でもない自分の人生を生きているこの存在にとって 親から与えられた《何の某》という名前は――別に嫌いだというわけでもありませんが―― 固有の名称かという問いですね。
 たとえば こういう名称は どうでしょう?
 ○ 人類の一員 あるいは ひとりの地球市民
 ☆ これでも 自分にとって固有だという感覚が持てるようにも思いますが いかがでしょう?
 たぶん 《何の某》は――親がつけてくれて ありがたいと思う側面もあったりしますが それでも―― このいまの固有の自己到来としての感覚にとっては その上に 取ってつけたというふうに思えたりもするのですが どうでしょう?
 《わたし》や《みづから》や《おのれ》が 何も不変の絶対的なものだと言うわけではありませんし じっさい そうではないのですが どうも 個々の名前よりも しっくりと来るように思えるのです。
 言ってみれば この質問は その程度の問題であるとも思います。
 そしてただし このことは ともかくも 《存在》をあつかっているからには 存在論として・人間観として・さらには世界観として 論じるに足る内容もある。こういうふうで いろんな見解を寄せてもらっているのだと考えます。
 そういった事情だと見るのですが いかがでしょうか。

投稿日時 - 2009-05-23 18:00:01

ANo.38

#37です。せっかく回答への補足となっているので、お答えします。
「諧謔は説明する物ではなく、味わう物である」と言うことです。ま、スルメみたいな物ですね。補足要求などと、無粋なこと。貴方の補足要求のお陰で、粋なはずの私まで無粋な説明をさせられてしまったようです。何ともはや。

投稿日時 - 2009-05-23 12:12:03

お礼

 ぢゃあ 分からないので うっちゃっておきます。

 分からないより 無粋のほうが ましでしょう。

投稿日時 - 2009-05-23 13:28:16

ANo.37

なるほど、自らにとって自分の屁は臭くないと言うことを言いたいのですね。

投稿日時 - 2009-05-23 10:30:37

補足

 あまりにも 虚仮にするのは かえって 愛が強すぎるか または 甘やかしすぎるので ひとこと 添えます。

 おっしゃることは わかるようで まだ 分かりません。判読せよという回答形式のほうに 責めはあると考えます。

投稿日時 - 2009-05-23 11:45:14

お礼

 ri_rong さん(No.35) わたしの側に 読みはづしがありました。

 ★★ (No.35) どうでしょう。確信的に僕には「わたし」が再帰代名詞のように思えるのですが。
 ☆ はっきりと 
 ★ 再帰代名詞
 ☆ と明記されていました。つまり 《代名詞》だとおっしゃっていたのですね。

 この点 よく飲み込めません。
 つまり そうしますと 固有名詞は 現行の文法のままに 《何の某》だということになりましょうか? どうでしょう?
 そういうふうには 捉えておられないという先入見が わたしには あったようです。
 たとえば もしそうしますと――つまり 固有名詞が 《わたし》でも《おのれ》でもなく また 《何の某》といった名前でもないとしますと―― 
 ○ 《存在》あるいは《ひと》という言葉が 固有名詞である。
 ☆ というような結論になるのではないでしょうか? そのつてで 《わたし》は 再帰代名詞であるのだと。ちがいましょうか?

 こういった点など いまいちど 考察していただいて 全体としても ご回答をいただければ さいわいに思います。

 * 個々の《存在 ないし ひと》が 互いに互いを識別するために 仮りに 名前をつける。のだと思うのです。つまり 《何の某》は 固有の名称だとは 思えないのですが?

投稿日時 - 2009-05-23 11:20:06

ANo.36

ぽこぺろぽです。えーと、そうですね。独我論そのものが無根拠といえます。私がそうだから、あなたもそうだろうとしかいえません。

 いちいち固有名詞を用いず、人称代名詞ですませるのはなぜでしょう?もし「私はあなたが好きです」と言えば、おそらく「ありがとう」と返されるでしょう。しかし「ぽこぺろぽはブラジュロンヌが好きです」と言えば、「わたしは ホモぢゃありません」と返されそうです。

 そういえばマシュマロさんが、ママ友同士では「〇〇ちゃんのお母さん」と呼び合うことを指摘されましたね。まあ、実際には存在としてよりも、子供を通じた繋がりを重視した関係でしょうから理解できます。

 しかし、私の女友達のHNや、目にするペンネームの多くに『〇〇ママ』とあるのはなぜでしょうか?彼女らとそれを目にした私は、彼女らの子供を媒介せずに繋がっているのです。彼女らがいかに我が子を愛しようとも、私には関係がありませんから、全く理解できません。彼女らは△△であって、〇〇の付随物ではないのです。まして彼女らは産みの親ですから、養われもする子供が付随物です。

 その意味では、聖霊は神意を媒介するでしょうから、三位一体はまだわかります。しかし子の立ち位置は未だにわかりません。父と同列に扱う、あるいは同一視する意味もわかりません。人の子は、父と一体であるとは言いましたが、自らは創造主とは宣言していませんよね?

 不愉快におなりになるかもしれませんがおゆるしください。某掲示板でこの質疑応答を、デンパ対デンパと揶喩しておりました。揶喩する者はバカなので、放っておけばよいのですが、なぜデンパな質疑応答とされたのか、揚げ足取りしかできない蒙昧な民は、どう勘違いしているか知りたいものです。まさか、人称代名詞に決まっているだろうという短絡ではありませんよね。

投稿日時 - 2009-05-22 23:45:19

補足

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。pokoperopo さん以上に そのむしろ
 ▲ デンパな質疑応答
 ☆ と見なした連中も ことを むつかしく 捉えているように思えてくるのですが どうでしょう? つまり むつかしい道をたどって 問い求めを敢行している。のではないでしょうか?

 ことは 単純です。
 ○ 分からないものは 分からない。分かるか分からないかが 分からない。
 ○ ついぞ 分からない。未知であるのではなく 経験科学の知解作業を超えている。
 ☆ なら デンパとでも あるいは 霊とでも あるいは もののけとでも 言うほかありません。
 しかも むつかしい道を通ろうとしていると言うのは この《霊》について やはり 分かろうとしておられる。のではないか。つまり デンパと言った場合には 無神論として 《霊》をあつかうのではなく あたかも自分たち人間の認識と管理のもとにおけるものであると見なし じっさいに おこうとしている。

 たしかに 三位一体を言い出したことも 霊を分かろうとするいとなみですが これは あくまで 論証しえぬドグマであるという前提のもとに おこなうものです。それでも 世界について 人間の知り得る限りにおいて 観想を得つつ その観想の解釈をしようとするいとなみです。

 しかも たしかに もしドグマの中に分け入るとしたなら 子なる神と聖霊なる神との違いを捉えることは いちばん むつかしいようです。
 まづ 神は 光にたとえられます。父なる神は 光源に そこから生まれる発耀は 子なる神に そして その両者から発出する明るさや暖かさが 聖霊なる神に それぞれ たとえられるという寸法です。
 でも 光は 経験的なものごとですから あくまで 時空間のものです。時間の概念を超えている存在(または 非存在 つまり 霊)について 《生まれる》とか《発出する》とか言っても そこに 時間の過程をたどるというわけではありません。三者は 絶対的に 一体だというわけです。
 精神=身体における記憶ないし秩序作用じたいが 存在そのものであるという存在。知解するということ自体が 存在そのものである。明るくする・あたたかく包むつまり愛すること自体が 存在そのものであるという存在。――そんなものは どこにもないようなので 霊と言うのだと思います。
 父も霊であり 子も霊であり 父も知解し 聖霊も知解し 子も記憶し聖霊も記憶し 父も子も聖霊も みな 愛です。
 このことを 預言者たちを介して知るのではなく 神が直接 みなに知らせるのでもなく ひとりの人間が 指し示したという恰好になっています。そういうとてつもないデンパです。ですから ムハンマドの言うあり方を超えています。むろんと言う如く ユダヤ人たちのように 旧約の神物語のあり方にとどまらなかった。
 しかも この三位一体論を得たところで もはや この神について知れとは 言わなくなる。(エレミヤ書31:31以下)。この三位一体は はなはだ不類似ながらも或る種の仕方から見た相似形において 人間一人ひとりにそなわっているし 社会やその形態のあり方にも あたかも仏性のごとく 行きわたっているかに見える。
 と考えます。

 ★ 『〇〇ママ』
 ☆ というのは 一部の人びと――でも身近な人たち――に そう呼ばれているということを言っているのだと思います。
 ロシア人は このような通称をもって 互いに呼び合う習慣のようですね。正式には それはそれで 例の父称(つまり 父は誰かを表わす呼称)をつけた名称をも 重んじるようです。
 ジミー・カーターは ジェイムズをやめて 通称を選んだのでしょう?

 ★ 独我論
 ☆ について 詳しく説明できる人 いませんかね。

投稿日時 - 2009-05-23 07:19:37

お礼

 補足です。
 ▲ デンパ
 ☆ と呼ばれるのも むべなるかな と思います。かつて わたしは 次のような回答を寄せたことがあるくらいですから。

 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人は
 ★ 全ての悩みからの解放
 ☆ が成った存在として しかも同時に 全ての悩みを背負い得る存在として 生まれて来ます。
 あなたの悩みは すべて 過去の人びとや周囲の人びとの悩みを――なぜなら そのような人びとは うそをつくという精神のゆがみによって 悩みをたくわえるようになります そのような他人の悩みを―― 内面に引き受けて 成り立っているものです。
 世界中のあらゆる悩みを引き受けて生きた人たちも いることでしょう。その悩みは 残留放射能のようであり すぐ直ちには 消えません。消えませんが 時として 何ものかによって 包まれ覆われ癒されてくるようになります。いわば人びとの悩みを そのような人たちは 《アース(接地)》となってのように 引き受けるわけです。すでに癒されたからです。ひどい言い方をすれば ごみ処理場です。うつくしく言えば ごみ清浄化再活性化工場です。
 この現状 この動態としての過程 これで すでに 完全な解放は成っています。心配は要りません。贅沢な心配をすることはありますが やがて この悩みにかんしても 社会の三分の一の人たちが 連帯して 引き受ける情況がやってくるでしょう。つぎの三分の一が共感し あとの三分の一が ごみの排泄専門のおえらい方がたです。そのときには いまの昔をなつかしく感じることでしょう。

 ――というほらを吹きたくなりますね。 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ そのように ひとから来る電波は 
 ○ デーモン電磁波作用
 ☆ と呼んでいます。このデーモン・デンパが 一般に社会において 上下関係に絡んで 発射されるでしょうから 輻射列島だというわけです。いぢめにしても そうでしょうし 母原病にしても そういう要素があると考えます。要するに ほとんど そうだと捉えます。周縁における最後の弱いひとは 屈してしまうかも知れません。
 フーコのいう日常生活における権力関係ですね。まなざしを注ぐ・注がれる関係ですね。つまり A‐S 倒立連関ではないでしょうか。《ヨセ》意識に付随するデーモン電波作用だと思います。

投稿日時 - 2009-05-23 11:44:49

ANo.35

 ブラジュロンヌさん、こんばんは。
 質問を読ませていただいて、回答を寄せてみたいと思いました。

 ★みづからにとって 《わたし》は 固有名詞ではないか

 どうでしょう。確信的に僕には「わたし」が再帰代名詞のように思えるのですが。
 この場合の「わたし」は「自分」でも良いですし、「オラ」でも「ワシ」でも良いわけですが、そう呼んでいる諸々の「何か」は、実はその「何か」を用いること無しには決して定義できない――だから再帰だと思います――ものではないでしょうか。

 ★(2)現行の文法には こだわらず 実質的に見た場合で

 良いということですから、「何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞である《わたし》の 代名詞ではないでしょうか」と文法的には考えずに、代わりに「わたし」をリカージョンの問題にしてみたいと思いました。と言いましても、

 近ごろは100円ショップでも売っている「ラカン人形」のようなもので、お嫌いなクリステヴァの表現を借りれば「sujet suppose savoir(知っていると想定された主体)」――どうやら、そういうものを想定することなしには、人間の知性はその次元を繰り上げて認識することができないようです。巷では「神」とか呼ばれているようですが。

 もしも知っているならば、○○と考えるに違いない――という再帰的推論に、「わたし」は常に支えられているのではないか。具体的に書けば、十年後の「わたし」は、今の「わたし」が抱えるこの刹那的な悩みについて(今の「わたし」にはさっぱりわからないが)どのようにしてか解決したその方法を、知っているはずだという推論です。
 このような推論は、犯人の描かれない推理小説とか、途中で話が終わってしまうような物語は、ひょっとしたら読む気がおきないという心理に原因があるかもしれません。「わたし」という主人公の物語を読もうとするとき、恐らく誰もが、やがて己にも「ラストが来ること」を信じている。その結末は、決してドラマチックではないかもしれないが、映りが悪くて途中で終わってしまったり、映像が途切れて音声だけになったり、あるいは死んでから本当の結末や、続きが始まるような物語ではなく、一応ちゃんと、そこには「区切りがあるだろう」というような漠然たるラストのことです。
 そのラストは今の自分にはわからないが、わからないとしても、必ずそのラストはあるはずであり、ラストがあることだけは確実だ――という認識に支えられている結末のことでもあります(なかには、例外的にその認識が無い方もいますが)。

 「どんな結末かはわからないが、結末があることだけはわかっている」

 感覚的にはわかっているのだが、どのようなのかがわからない――それは再帰理論の対象とする集合が、ちょうど計算可能な全単射であり自然数と対応できるような(それゆえ計算の不可能な数の)集合であることに近しい気がします。
 これまでにたくさん与えられた「わたし」というものを、一つひとつ数え上げていってみるのだけれど――もうずいぶん数えたはずなのだが――いったいどこまで数え続ければ終わりが来るのだろうかという「そのこと」は、数えている者には決して知ることができないという、階層がひとつ上の認識のようなものです。

================================

 この認識のおかげで、ある興味深い認識論的観念について、特定の形式主義に囚われない絶対的な観念を「わたし」に与えることに成功したわけですから、敢えて数学のカテゴリーで形式主義について愚かな質問をせずとも済むわけです。
 内田氏の表現を借りれば、「たぶん僕たちが無意識のうちに『わたし』と呼んでいる者は、『普通の人よりたくさんわたしのことを知っている主体』のことではない」という事なのでしょう――これは、ささやかなる僕のファンへ、愛を込めて付け足しておきましょう。

投稿日時 - 2009-05-22 22:45:15

補足

 ri_rong さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。まづ 全体として言って こういうことでしょうか?
 ★ どうでしょう。確信的に僕には「わたし」が再帰代名詞のように思えるのですが。
 ☆ と もし しますと
 ○ みづからの存在にとって 固有の名称は 《おのれ あるいは 自分》である。
 ☆ と解釈していいでしょうか? どうでしょう? たぶん 細かくは 次に取り上げる理由の中身にかんして――経験知と絶対知のような議論ですので―― 違ってくるかに思われます。そして もし その理由の問題を別とすることができるのなら けっきょくのところでは 質問趣旨と 同じような結論ではないかと考えます。つまり 
 ○ 《〈わたし〉が 固有の名称で その再帰名称は 〈おのれ〉である》という見解と そしてそのぎゃくの用法としての 《〈おのれ〉が 固有の名称で 〈わたし〉は その再帰名称である》という見解とは ほとんど 軌を一にしている。
 ☆ と考えられるからです。

 ですが 問題(論点)は 理由説明のほうです。その説明の仕方のほうです。
 ただちに 評価を交えてのお応えになりますが その前提を問題にすべきかと考えます。
 ○ みづからの存在の名称というときに 《知解 ないし 認識》を問題にしておられるのではないか?
 ☆ このように反応いたします。細かい点から 入ります。
 ★ 内田氏の表現を借りれば、「たぶん僕たちが無意識のうちに『わたし』と呼んでいる者は、『普通の人よりたくさんわたしのことを知っている主体』のことではない」という事なのでしょう
 ☆ 《無意識のうちに呼ぶ》のかどうかに まづ 疑問があります。――自覚して 自認するように 自己表現をするというように思うのですが どうでしょう?
 《たくさん知っている》というように どうも 《認識》だけではなく その《量》が 問題になっていることに反応します。――おそらく 《あやまつなら われあり》と参照できると考えます。この気づきにおいて わたしは いわゆる我れに還るというとき やはり すでに 全体として(存在の全体として) 自己に到来すると思うのです。しかも 必ずしも 知性による認識の問題ではなく 直観によると思われます。そして この直観のほうが 《存在の自覚》にとって 根源的であると考えるのですが いかがでしょう?
 じつは むろん 内田氏も 《量の問題ではない》と述べておられるわけです。そして そのような消去法での作業の積み重ねの末に 
 ★ 数えている者には決して知ることができないという、階層がひとつ上の認識のようなもの
 ☆ に到るということだと察せられます。まとめてみれば
 ○ まづ 認識するかどうかが 前提となっていると思われること。
 ○ 認識と言っても 量の問題ではない。人生の最後に向かうとき それでも 量の積み重ねの問題ではなく そうではなく あたかも次元の高いところへ出るというかたちで説明がなされていると思われること。
 ☆ に こだわりました。

 以上のこの対比において すでに 理由説明として述べていただいた内容に関して ひととおり 触れ得たのではないかと考えます。けっきょくのところ
 ★ 巷でうわさされるところの《神》とやらの存在(その想定)
 ☆ にしても 上の《みづからのあやまちについての気づき》のときに その直観において この想定が 図らずして 含まれている。のを知る。のではないでしょうか? ――この点では 順序がぎゃくであるように思うのです。
 経験知と絶対知 これらの想定を前提として 《おのれ》なり《わたし》なりの名称が 現われ 持たれ このような言葉をとおしての自己表現を わたしは 敢行する・・・というのではなく そうではなく 《わたし》なり《おのれ》なりの固有の名称を持っていて 使っていて 或る日或る時 わたしは おのれが 世界によって 欺かれたと知る。その瞬間 瞬時にして わたしは わたしである。と知る。
 その気づきと自覚の中に 絶対者の想定が おのづと 含まれている。のを知る。
 もしこの順序とこのような前提の再設定によるなら
 ★  「どんな結末かはわからないが、結末があることだけはわかっている」
 ☆ という順序(秩序)も ちがってくるかも知れません。
 ○ わたしは 終わりから始める。
 ○ わたしは すでに 死んでいる。ここから 踏み出していたと知る。
 ○ 死よ おまえのとげは どこにある? おまえの勝利は どこに行った?
 ☆ 最後のは 余計ですが このような世界観への揚棄も 可能になるのではないでしょうか?
 率率直直にて。

投稿日時 - 2009-05-23 00:19:13

お礼

 * じつは 勇み足の可能性があります。次の箇所の理解が わたしに 薄いことにかかわります。
 ★  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 感覚的にはわかっているのだが、どのようなのかがわからない――それは再帰理論の対象とする集合が、ちょうど計算可能な全単射であり自然数と対応できるような(それゆえ計算の不可能な数の)集合であることに近しい気がします。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここには すでに 継起無限(可能無限)によって 自己到来に迫りいく手法ではない内容が 言われているのかも知れません。悲しいかな よく 分かりません。ひっくり返る可能性を残しますが 上のようなかたちにて 失礼します。

投稿日時 - 2009-05-23 00:24:17

ANo.34

>>借り物であるなら 固有名詞にはならないというのは lioneater さんのご見解ではなかったですか?
誤解も甚だしいですね。

どうもご理解いただけないようなので箇条書きにいたしましょう。
1.「わたし」という語は、自らを指す。
2.「わたし」という語は他者が自らを指す用例を見て初めて知り得る。
3.「わたし」という語は他者が用いた場合、用いている者を指す。
上記2.の例外は、語を自ら発明した者のみ、である。

bragelonneさまは例外の部分に反応されているので、推論のベクトルがあらぬ方向に行ってしまわれたようです。

bragelonneさまは1.のお立場からこの質問を立ち上げられました。
私は、3.の立場から「わたし」とは代名詞である、と主張しました。(その論拠として2.を用いて論を進めました)

違うご質問にも書きましたが、語の意味を統一しないのだから話が噛み合うはずもありません。
あえて補足要求いたしますが
A.「固有の名称」と「固有名詞」はbragelonneさまの中では同一ですか?
B.代名詞と固有名詞ではどちらの種類が多いとお考えでしょうか?

無理にお答えいただく必要はありませんが、ここは語の意味を統一しておかなければ、一方は天体の月を語り他方は暦の月を語っているような虚しさから脱却できないと思う次第です。

投稿日時 - 2009-05-20 23:05:30

補足

 ご投稿をありがとうございます。

 そうですか。どこで どう噛み合わないのでしょう?
 たとえば 質問趣旨の 

 (2) 現行の文法には こだわらず 実質的に見た場合です。

 を問題にしているのですが それは 確認いただいているでしょうか? 
 わたしの立ち場から先に説明してまいりますが あらためて 次のような質問です。
 ○ みづからの存在にとって 固有の名称は どういう言葉であるか?
 ○ 《固有の》というからには 《仮りの ないし 代理の》ではないという意味です。
 ☆ こういう問いですが どうでしょう?

 ★ 1.「わたし」という語は、自らを指す。
 ☆ この《指す》という言葉の意味が 微妙に違っているのかも分かりません。
 《わたし》が 自らを指して言う自称(または 第一人称)であり 《あなた》が 相手を指して言う対称(第二人称)であり 《かれ》は これら自称および対称のほかの第三者を指して言う他称(第三人称)であることは 現行の文法の決まりです。
 これとは別に 実質的に――という意味は 哲学の観点から見て とも言えます―― これら呼称は 内実と合っているか? このように問うています。
 そして 《わたし》は 自分以外の相手も第三者も その人たちみづからの呼称としては 同じく 用います。それは ひとにとって みづからの存在を捉えて 言葉で唱えるには 《わたし》が ふさわしいということを表わしているのではないか? こういう問いになっています。
 そして 言葉は 誰もが 幼児のときから 周りの人たちの話す言葉を聞いて覚え 使うようになる。それは 《わたし》という言葉に限らない。このような事情は まったく 明らかなことです。

 ★ A.「固有の名称」と「固有名詞」はbragelonneさまの中では同一ですか?
 ☆ 上に述べた説明からすれば 《わたし》は みづからの存在にとって 《固有の名称》であるというのが 基本です。ただし 現行の文法では 《代名詞》として取り決められています。ですから それとの対比では ほんとうは 《固有名詞》であると言うべきではないか? という意味を込めて 同時に 持ち出しているものです。 

 ★ B.代名詞と固有名詞ではどちらの種類が多いとお考えでしょうか?
 ☆ これは 現行の文法に即しての問いでしょうか? それとも 実質的に見た場合の問題でしょうか? 
 ですが 数を問うておられるのですよね? 《種類》と言われていますが どういう立ち場から 答えればよいのでしょう?
 もし《わたし》を固有名詞だとした場合には 固有名詞というものは 数少なくなりますね。でも どうして このような問いが出ているのかが 分からないのですが どうなんでしょう?

 なお重ねて 次の一点は ご留意ください。
 ☆☆ 趣旨説明:(2) 現行の文法には こだわらず 実質的に見た場合です。

投稿日時 - 2009-05-20 23:41:03

ANo.33

#8です、お礼拝見しました。
>そうですね。初めての批判です。
ええ、意外でした。もっと多くのツッコミがあっても不思議じゃないと思ったのですが。

>> 【問い】 ぢゃあ 《何の某》という名前も 固有名詞と言うのは 間違いですね?
いいえ。まったく逆です。「何の某」こそが固有名詞です。借り物か否かが固有名詞の成立要件だとお考えなのは、bragelonneさまと、このQ&Aに参加しておられるごく少数の方だけだと思いますよ。

繰り返しになりますが、「わたし」という語は他人が自らを指して使っている事でのみ知り得るのですから、他の存在をも指す語であることを認識しているはずです。
もし、bragelonneさまの説が正しいなら第三者をどうやって認識するのですか?1対1ではお互いが私と呼んでも差し支えないでしょうが、第三者との会話が成立しなくなるのは明らかです(もし、成立できるならこのQ&Aで名乗る人は誰もいなくて良いはずですよ?)
他のbragelonneさまの質問も拝見していると、後半は必ず常連さんとの会話ですね。しかも、常連さんは他の回答者を無視してbragelonneさまとの会話をしておられます。その狭い世界でしか「私=固有名詞」という説を受け入れてくれる人はいないのではないでしょうか?

少々非難めいた回答になってしまいましたが、固有名詞という表現は間違いであると思います。

投稿日時 - 2009-05-20 20:43:59

補足

 lioneater さん ご回答をありがとうございます。

 総じて言って まだ おっしゃっている根拠がよく分かりませんでした。お尋ねしてまいります。
 ★ 借り物か否かが固有名詞の成立要件だとお考えなのは、bragelonneさまと、このQ&Aに参加しておられるごく少数の方だけだと思いますよ。
 ☆ 少数意見であることが 根拠の薄いことと つねに 対応しているわけではないと まづ 反論して 問題は それよりも
 ★ 借り物か否かが固有名詞の成立要件だとお考えなのは
 ☆ というところではないでしょうか? なぜなら 借り物であるなら 固有名詞にはならないというのは lioneater さんのご見解ではなかったですか?
 ★★ (No.8) 何故なら、言葉を自らが発明したのでなければ「私」という語は、自分以外の存在が自らを指して使っているのを見ない限り、知りえないからです。
 ☆ この推論で明らかなことは 固有名詞であることの条件として 次のことが 必要だということです。

 1. 言葉を自らが発明したものであること。
 2. (1)はないから しかし そうでなくとも 自分以外の存在が自らを指して使っているのを見なくても 自分が知り得た言葉であればよい。
 3. だが (2)もない。
 4. そうすると 言葉の中で 固有名詞になりうるものは ない。

 ☆ このようではないでしょうか? つまり
 ○ 《何の某》という名前も 固有名詞ではない。
 ☆ となります。

 ★ もし、bragelonneさまの説が正しいなら第三者をどうやって認識するのですか?
 ☆ たとえば 《あそこで 〈わたし〉と自称している人》とか 《いつぞや 互いに一緒に どこどこで会った人》とか言えばよいのでは?
 ★ 1対1ではお互いが私と呼んでも差し支えないでしょうが、第三者との会話が成立しなくなるのは明らかです。
 ☆ よく飲み込めませんが その第三者も 《わたし》と自称してよいと考えますが どうなんでしょう?
 ★ (もし、成立できるならこのQ&Aで名乗る人は誰もいなくて良いはずですよ?)
 ☆ 固有の名称が すべての人において 同じ《わたし》になるから 互いに互いを区別するために 名前を 代理の名称として つけることになったと すでに 言っていますよ。
 そのあと 文法では わづかに 固有名詞と代名詞との呼称が 逆になっているのだと見るわけです。
 
 まだ 持ち堪えると思いますが わたしに誤解もしくは理解しえないでいるところが あるでしょうか。よろしくご指摘ください。

投稿日時 - 2009-05-20 22:15:42

ANo.32

でも、「母親」は神秘主義を批判していたはず。。。
仏教はブラフマンを否定しているし。


キリスト教の三位一体と神秘主義は違うでしょう。

また考え直さないと。。。

投稿日時 - 2009-05-19 22:03:46

お礼

 ★ 神秘思想
 ☆ は 
 ○ 異言
 ☆ という捉え方もあるように 要するに
 ○ 預言つまり 経験合理性で分かるように解釈する
 ☆ と よいはづです。それが できなければ 意味がない。か あるいは その解凍を ながく待つかだと思われます。

 三位一体だって 解釈をほどこされて ようやく なんとか 哲学の次元で捉えられるようになったのではないでしょうか。

 

投稿日時 - 2009-05-19 22:20:03

ANo.31

えっと。。。
「母親」対する感情が複雑になってきた。好意ではあるんだけど。。

カーリー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC

ラーマクリシュナ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A

投稿日時 - 2009-05-19 21:07:25

お礼

 神話は すべて 思考や想像力の産物です。
 むろん そういう形態であることが わるいわけではありません。ですが それ以上の――つまり 想像力で 描いた像やその世界であること以上の――意味がなければ どうしようもないでしょう。

投稿日時 - 2009-05-19 22:14:28

ANo.30

こんにちは。。。

三位一体は、どういうことなんでしょうね。

「一つの本質、三つのペルソナ」と言われても。。。

神に名前は無いようだけど

マタイ福音書28章に

「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」

父と子と聖霊の名って書いてますよ。。。?

投稿日時 - 2009-05-19 15:21:11

補足

 yukiyama20 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 三位一体は、どういうことなんでしょうね。
 ☆ まづ 神もしくは無神のいづれかで呼ばれる《絶対》については いいでしょうか? 相対世界を超えたところを 想定して 《絶対》と呼び さらに これを 《神はある》ないし《神はない》のいづれかで 代理して表現した形態であるというに過ぎないのですから だいじょうぶだと思います。

 ○ この神もしくは無神が 《三位一体》であるとは どういうことか。
 ○ 神ないし絶対という「一つの本質」であり しかも この本質(むしろ 存在といえば分かりやすいでしょう)が 「三つのペルソナ(位格)」を持つ。とは どういうことか。
 ☆ まづ 分かっていることは 有神論の中で このキリスト信仰(つまり聖書に示された信仰)は 特異だということ。つまり この《三位格の一体》を言う点で 特徴的であり それは とりもなおさず ドグマです。つまり 論証しえぬ表現において 信仰の内容を説明したものです。
 ですが それほどわたしたちの常識からかけ離れた遠いものではありません。
 いちばんの特徴は 次です。
 ○ 相対世界を超えたところのなにものか(=絶対=神)が この経験世界に 肉(人間存在)となって現われたというもの。
 ○ つまり キリストなる神の子であり神である《無根拠》は ナザレの出のイエスという名の人間になったというもの。
 ☆ イエスは ふつうの人間であり しかも 同時に 神であるというものです。
 この点について ブッディスムはどうかと考えて 幾度か質問したのですが どうも はっきりしません。つまり
 ○ ブッダは 神であるか? もしくは 
 ○ 仏性がひとに宿るというのは 神である霊を 人間が分有しているということと同じであるか?
 ☆ と問うのですが 答えは あいまいなままです。然りという答えであれば われわれにも なじみ深い観想としての考え方であるのではないでしょうか?

 つまり 三位一体なる神という説明は おとぎ話です。文学です。
 ただし この文学は 《信仰という人間のおこない(動態)》と《経験合理性による思考としての哲学》とのあいだに位置しています。哲学も 一枚 噛んでいるでしょう。
 それゆえ たとえば 父なる神は 人間の行為能力としては 《記憶》にあたり そこから生まれる《知解》という行為能力が 神の位格としては 子なる神にあたり それらから発出する聖霊なる神は 人間にとって 《意志》という行為能力にあたるという説明がなされます。
 そして 社会のあり方としては 《司法》が記憶に相当し 《立法》が知解に そして 《行政(つまり 共同自治)》が意志に それぞれ 相当するという見方です。つまり このようなかたちで 《神は 自分のかたちに似せて ひとをつくった》という文句が説明されます。
 ○ 神の三位一体 ∽ ひとの三行為能力の一体性 ∽ 三権分立(分立=協業という一体性)
 ☆というものです。
 これなら 哲学の思考に耐えられるのではないでしょうか? むろん あくまで 信仰という非思考を なんとかして人間の言葉でその思惟において 表現しようとしたという条件(制約)があります。観想(瞑想)と思考との中間に位置するのではないでしょうか。

 三位一体は 個々の位格について 個が他の個と 全体が個と 個が全体と それぞれ 等しいわけです。無限の三分の一は やはり 無限だからです。

 いろんなふうに説明されるでしょうから これでは 足りませんが とりあえずの紹介でした。
 繰り返し 述べれば 《仏性は 例外なく ひとに宿ると言えるか》 こういう問題が 三位一体論だと言ってよいでしょう。

投稿日時 - 2009-05-19 19:24:34

ANo.29

ぽこぺろぽです。過去の拙問、『有りて在る』に戻ってしまった感もあります。さらに手ほどきを願いましょう。

 私は、「神は在る」とする立場ですが、「神は無い」とする人も少なからずいるでしょう。この相対性の世界においては、異なる見解を完全に無視して、呼称を定めるわけにはいきませんから、「在る」ことを示すための固有名詞が、便宜上必要となるのでしょう。しかし、神の存在を実証する必要はありませんし、神の概念そのものは普遍的ですから、本来は絶対唯一神に固有名詞を用いてはならないと思います。

 しかし、多くの者がそれぞれに神を思い描き、その宗教観を論じ合ううちに、論者によるところの固有の性格を持つ神を作り上げて、差別化することで公民を支配するようになったわけです。これは文化的には認められるものの、私は絶対唯一神の確立という観点から認めるわけにはいきません。

 さらに、キリスト教における、天使や聖霊についてはいかがでしょうか?これらはどうみても汎神論です。父と子の区別も判然としません。三位一体に到っては、永遠のなぞなぞです。

 人間社会においては、「私」が固有名詞であることをもって、独我論の有用性をみるといえるでしょう。これは神に適用できないのでしょうか?

投稿日時 - 2009-05-19 12:20:33

補足

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 むつかしい問題ですね。もしくは むつかしい切り口で 問い求めをしておられるように思います。
 ★  人間社会においては、「私」が固有名詞であることをもって、独我論の有用性をみるといえるでしょう。
 ☆ まづここから 反応します。おそらく 独我論のうち 《わたしの存在の唯一性》の側面を言い当てているものと思われます。ただし 他者が この《かけがえの無い存在であるわたし》とは 別の知覚作用を持っていて 同じ存在つまり同じ人間という存在であるかどうか 分からないという側面の議論については どうでしょう?
 わたしは 公理として・すなわち無根拠において 一人ひとりは 類としての存在であると捉えます。人間として 同じだという意味です。

 その公理とほとんど同じ内容を 実質的に 表わすと思われるのが 《神》もしくは《絶対》の問題ではないでしょうか。
 そして この経験的な相対世界を超えるというのですから 《絶対》は あくまで そういう想定です。そして 無限という概念があるほどですから この想定をするということは 現実です。
 想定のあとは いろいろと名称をつけるということだけだと考えます。神でもいいし 無神でもいいし その中身に言い及ぼうとして 《わたしはある》あるいは《かれは あらしめる》でも《義の太陽》でも《日の老いたる者》でもありうるでしょう。
 これらは ひとによって まったく自由に選ばれるでしょうし 一つひとつの名称は すべて互いに 同等です。
 ★ 神はある・ない
 ☆ これは 想定であり しかも 絶対についてのことですから どちらにしても 一方だけに決まるということはありません。《経験的なものごとについて言う〈ある・ない〉を超えたところのことを 仮りに 人によって 〈ある〉 あるいは 〈ない〉と 表わす》のですから 決められません。
 この絶対がそう呼ばれるところの《神》については したがって 無根拠です。有神論にしても無神論にしても 無根拠です。経験合理性による根拠がない(分からない)ところのことを 絶対と呼ぶのですから。
 無根拠は なぞであり 不思議です。何が何だか分からないこのものを 《霊》という言葉で呼ぶこともあるというわけです。
 ですから 父なる神も 子なる神も すべて 霊です。絶対であり 無限です。
 ひとが 記憶から知解をなすとき 父から子が生まれるようだと たとえられます。記憶は 精神の秩序機能だとも捉えられますが そこから 知解作業をするとき すでに 意志がはたらいています。そして 知解の結果を 自己の意志行為として実行します。
 この個人の精神の三つの行為能力は 社会において 記憶が司法と 知解が立法と そして 意志が行政と それぞれ 対応すると考えられます。この社会的な三権分立=協業は 個人における三つの能力行為の 一般的に言って時間過程的に結論が出されることになる一体性と 相似形をなすというものです。
 この三行為能力の一体性としてその自然本性が出来ているという存在が 《ひとは 神〔の三位一体〕に似せてつくられた》ということの内実だというわけです。三位一体の一体性は 絶対の領域ですから 時間的な行き違いがないわけです。

 人間イエスが 
 ▲ (ヨハネ福音8:58) アブラハムが生まれる前から 《わたしはある》。
 ☆ と言ったのは 三行為能力の一体であるひとについてではなく 三位一体の神(その位格としては 子なる神)キリストについて 言っています。
 ▲ (同上16:7) わたしが〔去って〕行けば 弁護者をあなたがたのところに送る。
 ☆ という《弁護者》とは 聖霊なる神のことです。
 ▲ (同上16:14-15) ~~~~~~~~~~~~~~~
 その方(弁護者=聖霊)はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて わたしのものである。だから わたしは 《その方がわたしのものを受けて あなたがたに告げる〕と言ったのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というように 三つの位格の一体性が 表わされています。

 ★ 天使
 ☆ については 分かりません。《知らせ》として捉えればよいと思います。

投稿日時 - 2009-05-19 13:52:41

ANo.28

yukiyama20です。

たとえば《わたし》は
5つの名前を使いました。

「自分」は?となったら
yukiyama20です。

自分と他者を分けるわけですね。

投稿日時 - 2009-05-19 06:52:59

お礼

 yukiyama20 さん ご回答をありがとうございます。

 ○ as-sum ( ad-sum, ad-est; adesse ):そこに(そばに)いる、現存している、出席している 2.現われる、生ずる、近づく 3. 法廷に出頭する 4.ある人の面前に立つ、ある人に隷属する 5.ある事にあずかる、協力する 6.ある人に味方する、助力する 7.気をつける、注意する 8.落ち着いている、覚悟している

 ○ dasein :そこにいる(ある) 2.出席している、居合わせる;存在(現存)する
  Dasein : 現存、現在、出席、居合わせること 2.生存、存在、生活、生命;定有(ヘーゲルの)、現存在(ハイデガーの)


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 たとえば《わたし》は
 5つの名前を使いました。

 「自分」は?となったら
 yukiyama20です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん 二つの場合があると思います。
 1. 五つの名前の中で どれがいちばん 自分に合っている(気に入っている)か? の答えを出す場合。
 2. 自分とは何か? の問いに答える場合。

 ☆ (2)の場合なら それは 《いま・ここで 〈わたし〉と名乗っている存在です》という答えになると考えます。

投稿日時 - 2009-05-19 08:08:22

ANo.27

 回答番号:No.21
 あれは今詳しく読んでいないが、知とそのドメインなどで把握しようとするのがおかしいし、非生産的であるから打ち切りたいということである。
 何かを把握するという事自体がもう捉われでしかない。
 それだけのことです。何の他意もないし何も考えても思ってもいない。
 ここであんなこと出すのはくだらないことだ。

投稿日時 - 2009-05-19 06:35:36

お礼

 ★ くだらないこと
 ☆ にこだわって 澄みません。でも 澄みません。どうか ご心配などせずに 放っておいてください。

投稿日時 - 2009-05-19 08:10:51

ANo.26

本当に何のことかわからないから聞いているのに・・・

投稿日時 - 2009-05-18 22:02:06

お礼

 まじめに応えていますよ。

投稿日時 - 2009-05-18 22:30:29

ANo.25

AとB。本来の自分。

わからないことばかり。。。
私、自虐してるらしいけど、これもよくわかりません。

でも、神の存在だって
カントの要請?で、いることにできるらしいし

隣人愛で、あなたを愛する。

私が望めばいいわけですよね。

子どもが欲しいなら子どもだって。

投稿日時 - 2009-05-18 21:43:27

お礼

 さて
 ★ 本来の自分。
 ☆ こういう概念の立て方は あまり生産的ではないと考えます。
 つまり 《実存は 本質に先行する》のだと考えられ いま・ここにいることを 出発点とするほうがよいのではないでしょうか。
 しかも 自己還帰・自己到来は 瞬間の出来事です。
 《あやまつなら わたしはある》あるいは《欺かれるなら わたしはある》というその気づきの一瞬だと思います。それが 自己到来であり そのとき 《わたしは わたしである》し その出発点から 《わたしは わたしする》はづです。
 《考える》のは その《あやまち》について なぜ あやまったか(あるいは なぜ 欺かれたか)であり その《わたし》を思うのだと考えます。

 ★ 私、自虐してるらしいけど、これもよくわかりません。
 ☆ こんど 自虐していたら ご指摘申し上げましょう。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 でも、神の存在だって
 カントの要請?で、いることにできるらしいし

 隣人愛で、あなたを愛する。

 私が望めばいいわけですよね。

 子どもが欲しいなら子どもだって。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これらは いづれも おおざっぱだと考えます。どこから手をつければいいか 分かりません。
 でも たぶん そんなに 思うとおりに ことが運ぶものではないと考えますが どうでしょう?

投稿日時 - 2009-05-18 22:29:19

ANo.24

。。。それはそうと
今日は「そこにある」について考えていました。
またwikipedia使いますけど、せっかくだから。

ラテン語の「adest」と

ドイツ語の「Dasein」は関係ありますか?


存在と時間
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

マルティン・ハイデッガー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC

「世界・内・存在」


プラトンのイデア論・・・

本質存在と事実存在の区別



ジャン=ポール・サルトル
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AB

即自存在と対自存在

投稿日時 - 2009-05-18 16:16:42

お礼

 yukiyama20 さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 今日は「そこにある」について考えていました。
 ☆ 《そこ》あるいは《ここ》とそして 《いま》とで 《わたし》の存在は 決まるのではないでしょうか。
 ぎゃくに言いかえると その存在の固有の何かが 《わたし》という言葉で 言い表わされるということではないでしょうか。

 人間存在について みな 同じ《わたし》という言葉では 識別がつかないので 仮りに 《何の某》という名前によって 区別するのだと思います。

 ★ 世界内存在
 ☆ は わたしは 《いま・ここなる〈わたし〉》と同じことだと思います。

 さて 以上のことのほかには 明るくありません。あと
 ○ 実存は 本質に 先行する。
 ☆ と考えます。

 あなたは どうなんだよ? どう考えるのですか?

投稿日時 - 2009-05-18 18:51:01

ANo.23

>エワは 人間ですよ。女神でもなければ 神でもないですよ。

私は「母親」を女神だとか呼んでいました。
でも、「人間」ですね。

私もそろそろ獣から「人間」に成れるといいんですけどね。。。

投稿日時 - 2009-05-18 15:33:21

お礼

 よろしいんぢゃないですか。

 獣かよ!! ――三村くん。

投稿日時 - 2009-05-18 18:43:10

ANo.22

名詞。名。

創世記2~3章

アダムは女をエバ(命)と名付けた。
彼女がすべて命あるものの母となったからである。


ところで、私は彼女に何を与えることができるだろう。。。

投稿日時 - 2009-05-18 14:21:52

お礼

 yukiyama20 さん ご回答をありがとうございます。

 今回は 意図ですとか 文面の帯びる彩りですとか これが 分かりません。ピンと来ません。

 ひとつ。
 エワは 人間ですよ。女神でもなければ 神でもないですよ。

 人間だから
 ★ ところで、私は彼女に何を与えることができるだろう。。。
 ☆ というふうに 《与える》と言っているのですか?

投稿日時 - 2009-05-18 15:04:27

ANo.21

 回答番号:No.9
 ☆☆ これを受けて あぁ この方は わたしとのやり取りを蛇蝎のごとく嫌っておられると受け取りました。
 ★ばかばかしいご理解である。
  しかも本質問では、関係のない話である。

投稿日時 - 2009-05-18 10:22:49

お礼

 そうかも知れませんね。

投稿日時 - 2009-05-18 11:46:39

ANo.20

オコリザルです。
世の関係の中で「私」として役割を演じる。
人間本質を預かる無意識に取っては、この演じる役目があくまでも演劇であり、冷静なはずの無意識(君)にとっても、すべての世の事象を「嘘」としてほうり出したいときがあるようです。
こうして疲れるんです。
何故かは不明ですが、(自らを解ろうとしない?)むしろ嘘のほうをもてはやそうとする人格の影すらご対面します。

投稿日時 - 2009-05-18 00:16:20

お礼

 ★ 演劇 / 世の関係の中で「私」として役割を演じる。
 ☆ そりゃあ 疲れると思いますよ。《わたしが わたしである / わたしが わたしする》という自己表現に 何か潤滑油を塗ったり飾りをつけるというわけでしょ? ぶっきらぼうから さらに 着飾るわけでしょ?
 肩が凝りますよ。

投稿日時 - 2009-05-18 11:44:46

ANo.19

オコリザルです。
人称を「みんな」として表す。または実践的に体現する。
偉そうに述べてきましたが私にとっても過酷です。
分け隔てなく「みんな」として個を認識する心情は「私」も実践に至らず、無意識野が(もう、暴れませんが)独り歩きしています。
個はあくまでも「私」と表してもそれで良い訳ではないんですよ。
等しく「みんな」とする認識が必要です。
私の場合は解っているというよりも、つげだしにより確かめた事柄です。
しっかりしないといけないのですが、いろいろな取り組みは「みんな」としてお互いに分け隔てなく共感を呼ぶ境地を目指しているとも言いうるでしょう。
他方のご質問にもありましたが、私の場合人格を置き去りにして、これに取り組んでいるので「疲れた」と弱音を吐きたいときもあります。「疲れた」というよりも、人格の置き去りが大げさでなく、自分の居場所がなくなる体験を多くしました。

投稿日時 - 2009-05-18 00:06:16

補足

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 「みんな」としてお互いに分け隔てなく共感を呼ぶ境地
 ☆ たぶん この《みんな》と《共感》という表現に わたしは こだわります。
 《みんな》と そして 個別の存在にとっての――独立性つまり孤独と並らぶところの――《関係性》とは その同じ点や違う点が はっきりしないうらみがあります。
 《共感》は わたしの定義では 《なんとなく賛成》なのです。ちなみに 《理論的にも 心から 同意する》のは おなじく《感》を使いますが 《同感》と言います。
 いまわたしが物言いをつけていることは ひとつに 表現の問題であるにすぎない。もうひとつに この物言いが 全面的によいとも言えない。という留保がつきますが 注意し留意すべきことがらだとは思います。
 たとえば 次のようです。
 ▲ (A.スミス:国富論) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 われわれが自分たちの食事をとるのは 肉屋や酒屋やパン屋の博愛心によるのではなく

  * ( bragelonne 註) 自己の同一性保持の観念そのものによる道徳心=交通規則的な倫理によるのではなく 

かれら自身の利害にたいするかれらの関心による。

  * ( br. )ただし そのような倫理をとおしてである。

われわれが呼びかけるのは かれらの博愛的な感情にたいしてではなく かれらの自愛心 self-love にたいしてであり われわれがかれらに語るのは われわれ自身の必要についてではなく かれらの利益についてである。

  * ( br. ) と言っても 自愛心も 自己の愛つまり自己の同一性保持のおもいであるゆえ 民主的で自由な交通関係は すでに大前提として 言われ終わっている。とすると 《交換の相手にかれらの利益について》ことさら語る必要もないようになるが すでに ふつうの使用(消費)価値=《必要》のほかに それがカサアゲされた形の交換価値も 交通しあう精神のあいだに 流通しているのであるから その限りで 語ってもよい。語ることを含んでもよい。交換価値とは 貨幣価値あるいはむしろ 値段のこと。

 同胞市民の博愛心に主としてたよろうとするのは 乞食をおいてほかにはいない。乞食ですら それにすっかりたよることはしない。・・・かれがそのつど必要とするものの大部分は 他の人たちの場合と同じく 合意により

  * ( br. ) 民主自由主体である同じ市民どうしとしての同意により

交易により

  * ( br. ) だから 交換により

購買により 充足されるのである。かれは ある人がくれる貨幣で食物を買う。かれは 別の人が恵んでくれる古着を もっとよく自分にあう古着と交換したり または必要におうじて衣食住のどれかを買うことのできる貨幣と交換したりするのである。   (1・2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここには 反面で ドライで機械的な交換をつうじてのただのやり取りとしての交流といった論調が見えているのですが たぶん 関係性が おそらく 独立性に基礎をおいているという一面を言おうとしているように思います。どうでしょう?
 《博愛心》や《みんな》というのは 肩が凝りませんか?

投稿日時 - 2009-05-18 11:40:12

ANo.18

私がまた勘違いしているかもしれませんし、

馬鹿にしていいですけど

私が女性で、彼女を女性として好きだ。。。ってことなの?

わからないです。
このサイトにいてゲイだとか同性愛者だとか言われたの無視してきたけど。

男性が女性になって女性を愛したらなんて呼ばれるんですか?

投稿日時 - 2009-05-17 21:44:28

お礼

 yukiyama20 さん どうしたんですか?
 
 いったい 何を言っているんですか?

 前から そうだったんですか?
 そうでないのに 言われていたんですか?
 そうなったんですか? なんでしたっけ? カミングアウト?

 わるいが 質問とは関係ないようだ。
 しっかりしなさいよ。

投稿日時 - 2009-05-17 22:00:05

ANo.17

こんにちはbragelonneさん
私は、ラテン語がわからなくて困っています。
それに「母親」が、私に何を認めさせようとしているのか。。。

ところで、bragelonneさんが以前、
「神に性別は無い」と言っていたのが気になりました。

ヘルマプロディートス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%B9

性同一性障害
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%90%8C%E4%B8%80%E6%80%A7%E9%9A%9C%E5%AE%B3

ジェンダー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC

男性名詞、女性名詞、中性名詞

「初めに言があった」

投稿日時 - 2009-05-17 18:04:05

補足

 yukiyama20 さん こんにちは。ご回答ありがとうございます。

 ★ ラテン語がわからなくて困っています。
 ☆ 《 vir = 男・人》の箇所ですか? あなたの目の前にいる男が それ(=真理)だという意味だと思います。――大して 実りのある議論にならないと思います。(境地と手腕によるでしょう)。

 ★ 「神に性別は無い」と言っていたのが気になりました。
 ☆ 次のわたしの回答を参照してください。
 【Q:現代日本に必要な哲学は?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html
 そのNo.1 No.8のあと
 No.9が 《絶対》の説明 または 信仰類型論です。
 ☆ つまりは この経験世界を超えたところが 絶対であり 神なのですから この経験存在としての《有る無し》やら《性別》やらは やはり 超えています。そういう想定ですから。
 《父なる神》というのは 三位一体論において 子に対して 親であることを表わします。性別があるという意味ではありません。もともと 神という規定じたいが 仮りの表現であり 代理としてのしるし(記号)なのですから。つまり 文字は殺し 霊は生かす。・・・いつも ここに たどりつきますね。
 想像や思考は 経験行為であり その想像の産物は これも 経験行為であり経験事物です。
 《肉》というのは 身体だけを指す場合もありますが 身体および精神をまとめて言う場合もあります。《神の言葉が 肉になった》というのは 身体および精神を持つ人間存在になったという意味です。この肉を超えているのですから 《霊》です。そういう想定ですよ。《ことばで言い表わし得ぬ領域》のことですよ。《なぞ・不思議あるいは 無根拠》のことです。
 
 ★ ヘルマプロディートス
 ☆ これは 神話 つまり言いかえれば 文学ないし想像力の問題です。すべて 経験的な思考・想像の世界です。中性ないし両性互具という想像の産物です。これは 《絶対》の想定ではありません。
 女神や男神というのも 同じです。想像の産物です。
 ★ 性同一性障害
 ☆ これは わたしは 心理的な意志行為時間の錯綜かつ複合(コンプレックス)の問題であるように思います。
 ★ ジェンダー
 ☆ これは 自然の性別を抽象化し 観念として 置き換えた概念だと考えます。自然本性ないしその自然の性別が スサノヲ人間語の次元にあるとすれば それの観念化としてのアマテラス普遍概念語に属します。わたしは 足のない幽霊だと規定していますが どうでしょうか。

 ★ 「初めに言があった」
 ☆ 父なる神に対する子なる神は 記憶に対するそこからの知解にあたると言います。それゆえ 《ロゴス》という言葉が選ばれているのだと考えます。
 【Q:神とイエスと聖霊】 そのNo.7をごらんください。
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3377425.html

 ★ それに「母親」が、私に何を認めさせようとしているのか。。。
 ☆ これは まだ 分かりません。つまり 《母親》が まづ 分かりません。《神》のことを言ってるの?

投稿日時 - 2009-05-17 18:58:37

ANo.16

bragelonneさん、お礼文ありがとうございます。

やはり見当違いでしたか。

人間は一致していても、多重人格者の場合、人格は違うのではないかと思ったのですが。

例えば多重人格者などを説得する場合、つまりお前は実際にはAではなくてBであるという場合、身体的特徴、究極的にはDNAの一致を示すしかないと思うんですよね。
人間の同一性を保障するものは身体であるという考え方ですね。

しかし、その多重人格者が極端な懐疑論者だとしたら、それはきっと偽造に違いないと主張するでしょう。

結局、私からすると、私がいつも同じ私であることを絶対的に保障するものは何なのかということになるんです。
わたしという意識自体は常に統一されてはいるのですが。

もしご存知であればお教えいただけませんか?

投稿日時 - 2009-05-17 15:29:27

補足

 bollfish11 さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。わたしの場合 ほとんど現代の脳や神経の科学やあるいは生物学にもとづいて言っているわけではないので その点 おことわりしておきたいと思います。直観によっているかも分かりません。
 まづ 前回のわたしの文章について 補正があります。次のように ≫・・・≪ の部分を補うべきでした。
 ☆☆ (No.10お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ ひとは 存在そのものに関する限り 《いま・ここなる〈わたし〉 もしくは その身体=精神》が 代替性のない自己同一性としてのひとです。
 ☆ 身体の欠けや 精神の障害にかかわらず ≫その≪存在そのものが 社会的な関係性においては ≫その存在である人にとって≪ 他者であるわたし≫が≪ 我が存在と同じ動態であり 至上の時空間であると≫見なすものだと≪考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ さて
 ★ 多重人格者の場合、人格は違うのではないかと思ったのですが。
 ☆ につきましては こう考えます。つまり
 ○ その多重人格のすべてをまとめたかたちで ひとつの人格である。
 ☆ として相い対するのだと思います。そして むつかしいことだと思います。

 ★ 人間の同一性を保障するものは身体であるという考え方ですね。
 ☆ いま・そこにいるその人 ということだと思います。言いかえると 植物人間であっても 変わりないという意味です。変わりなく 基本的には われわれと同じ人格のあり方であり 存在であるという意味だと考えます。

 ★ しかし、その多重人格者が極端な懐疑論者だとしたら、それはきっと偽造に違いないと主張するでしょう。
 ☆ みづからの意志行為が その目指すところ あるいは むしろ悲願でさえあったこと これが 長く 報われないでいるとき その一つの意志行為とそれに付随するいくつかの意志行為は 達成感なく さまよっているとすれば そこに時間の錯綜ないし複合(コンプレックス)を起こします。ひょっとして このようなコンプレックスが 多重人格にかかわっているかも知れません。
 しかもなお 懐疑論者であったとすると なかなか コミュニケーションを図ることがむつかしいでしょうね。――おそらく しかも その人格のあり方の全体を 受けとめるしか 交通の仕方は ないのかも知れません。おそらく 人格が変わったなら そのつど 変わったねと言ってやることも 大事かと思います。(これも 直観です)。

 ★ 結局、私からすると、私がいつも同じ私であることを絶対的に保障するものは何なのかということになるんです。
 ☆ 夜になれば 布団の中に 大の字になって 眠りに就く《わたし》です。《ただ そこにいるという存在》のことです。あるいは 《〈わたし〉と名乗る存在その人》です。ほかに 保障するものごとを求める必要はないと思うのですが どうでしょう。現代科学は どう言っているでしょう?
 ぎゃくに おしえてください。

投稿日時 - 2009-05-17 17:16:03

ANo.15

オコリザルです。
今回はギャグです。
高次元の霊体が久しぶりに営業に来ました。

「つながり」でなく「つながり方」ではないですか?

だ、そうです。
霊体と相対した場合の考え方なる哲学は当然ないでしょうが、変な宗教におぼれたなら、人間でもいいそうなことです。bragelonneさんは哲学の人なのでこのような笑いのエッセンスを検証する哲学はお持ちではないでしょうが、私にとってはこのようなお笑い草も楽しみの一つです。

投稿日時 - 2009-05-17 00:20:00

お礼

 ふうむ。
 ★ 「つながり」でなく「つながり方」ではないですか?
 ☆ この一文をちらっと見ていたものですから No.12のお応えを書くときには そういう訂正だと思ってしまいました。
 そうは変わらないということでしょうか。
 
 わたしの捉え方では どちらでも あまり変わりないですね。抽象的な言い方であり そうあることを貫かねばならない性質のものですから。つまり 
 ○ 関係性(つながり) そして 具体的には 交通(まじわり)
 ☆ というふうに わたしは 捉えています。

 この表現の問題は
 ★ ギャグ
 ☆ なんですか。ふうむ。

投稿日時 - 2009-05-17 09:39:39

ANo.14

オコリザルです。
思索を始めると止まらないのでA12以降はご返事をもらわないままの連続投稿です。

>絶対者とは哲学で何者おいうのか知りませんが、他者の心に投影される「私」と、自らが自覚または意識する「私」が完全に一致したならそう言えるのかもしれません。この点は難しく考える必要はなく「つながり」の問題です。

一言で言って(乱暴かもしれませんが)このような境地によりとことん他者と分け隔てないのが自らを「みんな」とする感覚です。
知解が行き届かないので、あくまでも感覚です。
つながりなら平等なんですが、支配してもらいたい奴隷根性をお持ちの方も多いようです。この点は本来は精神世界の問題ですが「あなたみたいな人こそ政治家になってください」とか具体的に言葉で話しかけてくる人もいます。観念において、つながりは平等で、奇麗ごとも誰かがえらい、だのとの話もありません。

投稿日時 - 2009-05-17 00:07:17

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一言で言って(乱暴かもしれませんが)このような境地によりとことん他者と分け隔てないのが自らを「みんな」とする感覚です。
 知解が行き届かないので、あくまでも感覚です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いえ 《感覚》でよいと思うのですが つまり 《認識》よりは《感覚》の状態でいることのほうが ふさわしいと思うのですが それでも これは まづ あくまで わたしの主観内面の問題にとどまります。次に そのことを 知っていても つまり わたしは 十分というほど知っていたつもりですが それでも 挫折を味わいました。この 
 ★ とことん他者と分け隔てな〔く〕 自らを「みんな」とする感覚
 ☆ が 届かないという事態です。共同主観でありうることが あり得ないとして はねのけられる瞬間ですね。
 あるいはつまり この感覚を 相手に届けるというよりは もともと 相手も 同じく・全く同じく この《みんなとしての感覚》を持っているという大前提 これが 拒まれ排除されようとするという事態です。

 たぶん ひとつには――いま思ったのですが―― その人たちは 謙虚なのです。謙虚すぎるのです。まあ
 ★ 奴隷根性
 ☆ という言葉も出しておられますが どこまでも 腰が低く相手を立てようとする姿勢を崩さない人たちなのではないでしょうか。
 世の中は アマテラスとスサノヲの関係の話ではありませんが えらい人びとと普通の人びととから成っていると かたくなに思いこんでいるということではないでしょうか。

投稿日時 - 2009-05-17 09:33:13

ANo.13

オコリザルです。
一つ思いついたことです。

私はあなたを知っている。
でもあなたは自分自身を知らない。

日常で、これは多いです。
私から初めて自分らしさを教えてもらって喜んでもらうのは結構なのですが、「元気の出るきれいごとを一発お願いします。」
こんなリクエストも多くて困ります。
戒めの言葉も等しく受け取ってもらいたいものです。

投稿日時 - 2009-05-16 23:55:03

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私はあなたを知っている。
 でもあなたは自分自身を知らない。

 日常で、これは多いです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ま この言い草だけを取り出すと 高飛車な態度として受け取られても仕方がないでしょうが じっさいにあり得ますね。あるいは 《私はあなたを知っている》と言うだけではなく 次のようにくわしく述べたほうがよいでしょう。
 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしは わたし自身を思っている。つねに 自己に還帰するかたちにおいて思っている。
 その過程で ひとと対話の過程に入ると その話題に応じて あなた・つまり相手の思っていることが分かる。場合がある。
 でも ほんとうは それは あなたが あなたも あなた自身を思っているからこそ それが わたしに伝わってきて わかるのだと思う。
 ★ でもあなたは――いま現在は―― 自分自身を知らない。
 ☆ つまり あなたは いま 自分自身を見失っている。そのことを わたしは 知っている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私から初めて自分らしさを教えてもらって喜んでもらうのは結構なのですが、「元気の出るきれいごとを一発お願いします。」
 こんなリクエストも多くて困ります。
 戒めの言葉も等しく受け取ってもらいたいものです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ primeape さん これは きざです。たしかに
 ★ 一つ思いついたことです。
 ☆ という気軽なお話なのですが なぜ受け取る側では感じがわるいかと言うと 具体的な話ではないからです。こういう手柄話では 事例を出さないと 納得が薄れてしまったり反発をまねいたりするのではないでしょうか。とは思いました。どうでしょう。

投稿日時 - 2009-05-17 09:18:34

ANo.12

オコリザルです。
ここ暫く「われはある」を宣言していますが知識に関心のない私は哲学ではかつてこの考えがどのように解釈されていたか知りません。
したがってA5からの発展も困難なのですがそれはさておき。
私は幽霊ではありませんからこうして作文のできる体があります。そこには「私」のよりどころとでも表現しましょうか意識があります。
この意識たる「私」には健康な状態でもやはり自我があるのでしょう。この自我には我執のようなまとわりつく現象を感じることがありますが一瞬でそれを払いのけることができます。そうすると自然体では「自らが何者でもない感覚」とでも申しましょうか。
私は自らが意識できますが、人格の問題でしょうか、他者が確認する私にはズレが出ることもあります。この点はそのズレにありうる可能性(言いうる可能性)を見出せば交流により解消できます。話しかけてきた場合は言葉で返し、単なる思い込みは伝心現象により解消します。相対した方とどちらかが一方的なら思い込みの形でなら、孤独を感じるか憎しみを感じるでしょう。解消を試みる限りではむしろ憎しみの形です。常につながる姿勢なら常に憎しみです。
絶対者とは哲学で何者おいうのか知りませんが、他者の心に投影される「私」と、自らが自覚または意識する「私」が完全に一致したならそう言えるのかもしれません。この点は難しく考える必要はなく「つながり」の問題です。

投稿日時 - 2009-05-16 23:44:42

補足

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。昨夜は このご投稿を読んだのですが もう眠かったです。

 この質問は じつは いちど 気軽な主題をあつかいたいと感じていたら いいものが見つかったと思って もうけたのでした。つまり 《わたし》という言葉について 文法で言う用語が 実質的に言って ちがっているのではないか。これを言うためだけのものでした。
 でも 最初のご投稿から むつかしい主題内容として 受け取られていたようです。

 No.5のご回答内容を基礎とするとおっしゃっていますので そのように受け取って 応答いたしていまいります。
 ★ ・・・こうして作文のできる体があります。そこには「私」のよりどころとでも表現しましょうか意識があります。この意識たる「私」には健康な状態でもやはり自我があるのでしょう。
 ☆ なぜか わたしは 《意識》ですとか《自我》といった言葉に どこか抵抗があるんですよね。むろん 自分でも使いますし 言ってみれば ごくふつうの用語なのですが 感覚的なものなのでしょうか。
 あぁ そうですね。《意識 / 自我》については 《存在 ないし 〈わたし〉》を 全体として 表わさないきらいがある。のではないでしょうか?
 次につづく文章は そのような事情を明らかにしているようにも思います。
 ★ この自我には我執のようなまとわりつく現象を感じることがありますが一瞬でそれを払いのけることができます。そうすると自然体では「自らが何者でもない感覚」とでも申しましょうか。
 
 ★ 私は自らが意識できますが、人格の問題でしょうか、他者が確認する私にはズレが出ることもあります。
 ☆ これは いわゆる《他者の問題》ですね。つまり わたしが 他者の人柄なり人格のあり方なりについて分かったところは わたしが自分について分かっている部分に限られるのではないか という問題だと思います。
 ★ 他者が確認する私にはズレが出ることもあります。
 ☆ 絶えず 対話をすすめて 相互理解を拡げ深めていくということなのでしょうね。つまり
 ★ この点はそのズレにありうる可能性(言いうる可能性)を見出せば交流により解消できます。
 ☆ わたしの最近の事情は ご承知のように この対話とそれによるズレの解消に行き詰まりが 部分的に 生じたというものです。部分的にと言っても ひとりの人間に対して生じたということは それで すでに 全体的ですから 問題は 大きいです。

 ★ 絶対者とは哲学で何者をいうのか知りませんが、他者の心に投影される「私」と、自らが自覚または意識する「私」が完全に一致したならそう言えるのかもしれません。この点は難しく考える必要はなく「つながり」の問題です。
 ☆ あとで 《つながり方》の問題だという訂正がありますね。
 たぶん この認識に対して 修正を加えるという姿勢でも方向でもなく そうではなく 別の志向性のあり方が考えられるとは いつも 思っております。
 それは つねに 動態であるということ。これは 何か 一つひとつの広く言って《仕事》を ともにするということ。仕事における協働を介して コミュニケーションを図っていくということ。そこで――つまり言いかえると 第三者もしくは《三人目という〈目〉》を介して―― わたしと相手との互いの主観の共同化を 図っていくということ。
 この第三者とは ひとである場合だけではなく このように 仕事をともにするということであってよいと思うのです。

 こんなふうに応答しました。

投稿日時 - 2009-05-17 09:02:47

ANo.11

固有名詞とは、国語の分類で使われているだけの専門用語です。
知識の分野での話しですね。

言葉は心を声に響かすといいますから、言葉自体それは、関節語だと思いますよ。
 言葉も心を正しく伝わるように選択して話してないことが多いでしょう。感情で口走った。というのはこの類ですね。
 精神的な思いという観点なら、固有名詞としても見れると思います。

 しかし、言葉とはその中に思いが託されていますから、思いから見れば、個人を入れてると思います。
 言葉は伝達のための道具ですから、伝わればいいとおもいます。
 その道具自体に意味はないですね。
 存在の固有が伝わればいいとおもいます
 

投稿日時 - 2009-05-16 20:04:47

お礼

 pupurpu さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 固有名詞とは、国語の分類で使われているだけの専門用語です。
 ☆ 趣旨説明:(2) 現行の文法には こだわらず 実質的に見た場合です。

 ★ 言葉は心を声に響かすといいますから、言葉自体それは、関節語だと思いますよ。
 ☆ 《声》ではなく 文字によっても 心を響かせることはできるのではないでしょうか。
 ★ 関節語
 ☆ ですか? 記号でもよいと思いますが? つまり しるしですね。《関節》と言うと それ自体に 何か役割があるという意味合いが出ますね。

 ★ 精神的な思いという観点なら、固有名詞としても見れると思います。
 ☆ そうですか。つまり 質問趣旨としては 言葉そのものが ここでは 問題ではなく みづからの存在を表わすのには 《何の某》よりも 《わたし》のほうが 固有の内容を指し示すのではないか そういう中身です。《何の某》は その固有の内容(つまり みづからという存在)を代理する名称ではないか。そういう問いです。

 ★ しかし、言葉とはその中に思いが託されていますから、思いから見れば、個人を入れてると思います。
 ☆ たぶん 言葉よりも それを用いての文ないし文章 さらにあるいは 文体という表現の動態 これが 思いや心を託すかたちだと考えます。判断つまりは意志行為が そこに 表明されるからだと考えます。

 ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-05-16 20:32:17

ANo.10

《わたし》とは「この私」つまり見られる自我のことですね。

では記憶喪失者の場合はどうでしょう?

人格の同一性を保証するのは記憶ではないでしょうか。

(見当違いの場合はスルーなさってください。)

投稿日時 - 2009-05-16 16:01:27

お礼

 bollfish11 さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 人格の同一性を保証するのは記憶ではないでしょうか。
 ☆ 言語能力に関する限り そういうことになるかと存じます。
 ただし 存在そのものに関する限り そうではないと考えます。
 ○ ひとは 存在そのものに関する限り 《いま・ここなる〈わたし〉 もしくは その身体=精神》が 代替性のない自己同一性としてのひとです。
 ☆ 身体の欠けや 精神の障害にかかわらず 存在そのものが 社会的な関係性においては 他者であるわたしの我が存在と同じ動態であり 至上の時空間であると考えます。

 ★ 自我
 ☆ は 《わたしを 意識した状態》 さらには 《意志を特定してその行為をおこなうときのわたしを 意識して その状態を 半ば至上のものと見なしている自己意識》でしょうね。
 要するに 考えすぎの状態になるわたしだと考えます。どうでしょう。

投稿日時 - 2009-05-16 17:17:07

ANo.9

 bragelonneさん
 回答番号:No.7の貴兄様のコメントは私には理解ができませんでしたよ。

投稿日時 - 2009-05-16 14:57:57

お礼

 ★★ 全ての言葉は尽くしきりました。
 ☆ これを受けて あぁ この方は わたしとのやり取りを蛇蝎のごとく嫌っておられると受け取りました。

投稿日時 - 2009-05-16 17:07:00

ANo.8

国語カテゴリーでしたら「<<わたし>>は固有名詞ではなく、人称代名詞です。」の一言で終わってしまう質問ですが…哲学カテゴリーでも、流石に無理があると思います。

失礼ながら、「鏡」と「鏡像」の関係を混同しているかのような質問ではないでしょうか?
誰でも鏡を見れば自分の顔が映りますが、だからと言って、世界中にある全ての鏡に映っているのは自分の顔ではありません。鏡は見る人によって映る映像が異なるからです。

「わたし」は自らを指す固有名詞だと主張できるのは、絶対者(他者と会話した経験を最初に持たない者)か、自己と他者の境界線が不明瞭な人格障害者か、語彙が貧弱な人しかありえません。
何故なら、言葉を自らが発明したのでなければ「私」という語は、自分以外の存在が自らを指して使っているのを見ない限り、知りえないからです。
だから、「私は【ある】」と宣言できる方(自称キリスト者であれば何を意味するかご存知ですよね?)か、我と汝(bragelonneさまの表現を借りればスサノヲ-アマテラスでも結構ですが、自分と自分以外の関係)の関係構築が正常でない者か、人称代名詞という語を知らない人(母国語での表現に長じていない者も含みます)しか、そう主張する事はありえないと思います。

bragelonneさまに賛同している方を含め、気分を害されたら申し訳ありませんが、誰かを非難してるわけではありません。あくまでも哲学的に考察を記したつもりですので、どうぞご理解ください。

投稿日時 - 2009-05-16 14:04:06

お礼

 lioneater さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。初めての批判です。
 根拠と言いますか 理由が よく分かりませんでした。
 ★ 何故なら、言葉を自らが発明したのでなければ「私」という語は、自分以外の存在が自らを指して使っているのを見ない限り、知りえないからです。
 ☆ まづ
 ★☆ 「私」という語〔* に限らず 言葉〕は、自分以外の存在が自らを指して使っているのを見ない限り、知りえない
 ☆ ですね。母親なり育ての親なりそして周りの人びとから まづは 聞くことをとおして 言葉を覚えます。あるいはまた
 ★ 言葉を自らが発明したのでなければ
 ☆ という条件は 当てはまるとしましょう。(言葉の起源 あるいは 言語能力の潜在性 あるいは 単純に 造語がありうることなどの問題を 問わずに いまいる人びとが 言葉を発明したのではないという条件を 認められたものとしましょう)。
 さて
 ★ 何故なら 〔この条件のもとでは 《わたし》という言葉を ひとは〕 知りえないからです。
 ☆ という論理ですね。つまりは
 ○ 《わたし》は 言葉として みづからにとって 借り物である。借り物であるものを 《固有の名称》だとすることは出来ない。
 ☆ こういう論理でしょうか。
 【問い】 ぢゃあ 《何の某》という名前も 固有名詞と言うのは 間違いですね?
 ☆ どうでしょう?

 ★ 失礼ながら、「鏡」と「鏡像」の関係を混同しているかのような質問ではないでしょうか?
 ☆ これも よく分かりません。触れ得ずに 澄みません。

投稿日時 - 2009-05-16 17:02:03

ANo.7

 bragelonneさん。
 仰せのとおりですね。
 私も、誰しも、自分の名前で考えたり、それを表現したりはしておりませんよね。
 名前は他と区分する徴し、位置を示す張り紙です。
 自己というものの代名詞です。これは至言です。意識の探求にはとても役立ちます。
 名前が無くても自己はおりますし、自己は変わりません。

 ご存じかもしれませんが、そして仰せのご質問とは関係ないことですが石垣さんが、この中でちょいと面白いことを書いています。
 表札っていうやつです。
 http://www1.canet.ne.jp/~yojonsa/book.htm

投稿日時 - 2009-05-15 15:34:41

お礼

 ★★ (No.85) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【Q:《絶対》の概念を日本人は理解していないのですか。】
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3061598.html

 全ての言葉は尽くしきりました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-05-15 16:07:43

ANo.6

bragelonne様、こんにちは。
お礼を拝見させていただきました。
ありがとうございます。

>《ヨセ》意識で すぐに思い出すのは かれらは いつも 名前を交換するという外交術を使っていることです。奈良・三輪の《イリ》政権から 権力奪取というよりも 婚姻をつうじて 血筋を正統のものにしたあと じわりじわり おのが子孫の筋へと代替わりさせていくのが 応神ホムダワケです。

応神ホムダワケはチェーザレ・ボルジアより確実かつ冷徹な手法をもって血統を盤石なものにしたということでしょうか。
たかが名前、されど名前なのですね。

ヨセの≪わたし≫とイリの≪わたし≫には大した差異がないということなのですか。
なるほど~。

そこのところはですね。
「je pense, donc je suis.」と高らかに宣言した、かのデカルト先生に対し、
「あ? んじゃねえよ。Je ”est” un autre.でオレはイイんだよ!」
と噛みつきガメの如くつっぱった、どこぞの若者を思い浮かべただけです。
「je=il」、つまり≪わたし≫なんていうものは、他人から客観視される存在にすぎない、上等ぢゃあねえか。と吠えていたりして(笑)
ヨセとイリとの関係性もこんなだったら面白いかなあって。

…それともつっぱってると穿った見方をしているのは、わたくしだけなのかもしれません??

投稿日時 - 2009-05-15 12:37:03

補足

 こんにちは mashumaro2 さん。ご回答をありがとうございます。

 ★ チェーザレ・ボルジア
 ☆ カエサルというくらいですから そうとうな人物なんでしょうけれど しゃれた評言のひとつも 残念ながら 出て来ません。
 P.ワ゛レリと同じく 探究が中途半端になったA.ランボですが かれについてなら 多少はご相伴してまいることができるかと思います。

 ▲ (ヰキぺ:ランボー) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・ジル・ドゥルーズは「カント哲学を要約しうる4つの詩的表現」(『批評と臨床』収録)において、ランボーの1871年のいわゆる「見者の手紙」の中の
 ○ 「私は他者である」(Je ”est” un autre.)
 ○ 「詩人は長期間の、破壊的で計算された錯乱によって見者(ヴォワイヤン)になる」
 という言葉などをとりあげ、カントの可能性の中心を担う「調和し得ない緒力の束」を体現するものとして、ランボーを挙げている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どうなんでしょうね。言葉で表わせないものを探究するというような生易しい作業であるよりも もとから――生まれつき―― 言葉を介した世界を突き抜けてしまっていたかにも思われます。極北を目指したというような形容では 効かないように思います。
 ただ あとで 普通の人間になったかにも(いや 分かりませんが つまり もう わたしは エチオピアまでは きちんと お伴しませんでしたから) 思われるのですが その点も どうなんでしょう?
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「je pense, donc je suis.」と高らかに宣言した、かのデカルト先生に対し、
 「あ? んじゃねえよ。Je ”est” un autre.でオレはイイんだよ!」
 と噛みつきガメの如くつっぱった
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ かれにしてみれば 自分にとって ふつうに 振る舞っていたとさえ言えるのかも知れません。(これも 憶測です)。
 ★ 「je=il」、つまり≪わたし≫なんていうものは、他人から客観視される存在にすぎない、上等ぢゃあねえか。と吠えていたりして(笑)
 ☆ 言いかえれば 《このランボさまには 〈わたし〉などという固有の存在は 要らないのだ》というほどに 応答していたのでしょうかねぇ。・・・

 ちなみ(ち=道 なみ=並らび)に その詩童にイカレていたときの狂言を おなぐさみにでも。

 Je est un autre.
 と嘆くわたしと
 Elle suis le meme.
 と誇るわたしと


 老練な妖艶が
 わたし・《Je》のまわりを翔び交い
 偽りのクピドーの矢を射掛けてくる


 両極が放電してやまないわたしだが
 搦め手・《Elle》は 不実の《Je》を開門して
 このとき互いの自由電子のはねつきは もはや 頭にない
 射手を招き入れ妖艶の核が踊った


 わたしは貫かれたと認めて また旅立たなければ
 ならない
 かなしみを力として
 両極の分裂は 射手の側に見えただけなのだから
 《Je》は三葉虫から屈辱を経てヒトとなる
 《Elle》はヒトから哀しみを経て詩人となる

投稿日時 - 2009-05-15 13:15:18

オコリザルです。
ご質問の趣旨説明の通りだと思います。
その「私」の意味に内包するのは、自己はある、そして自己は何者でもない、です。
ただこれだけのことを私は無意識を代理として語っていましたね。
しかし、無意識野では、さらに進めて自我の影響を受けずに、それでも我はあるとする暗闘が繰り広げられています。
そこには固有名詞を「私」としないで「みんな」とする見解が出ています。(私がつげだしました)
完璧な連帯と協調の象徴たる自己認識です。

また変なこと書いちゃいましたね。

投稿日時 - 2009-05-15 00:11:13

補足

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ご質問の趣旨説明の通りだと思います。
 ☆ これで 三人目の方ですね すんなりと諾と言って 認められた方は。
 ただし 何ですか。その内包するものが 規定されていますね。
 ★ その「私」の意味に内包するのは、自己はある、そして自己は何者でもない、です。
 ☆ 《自己はある》という存在に さらに 《自己は何者でもない》がつけ加わっているというかたちですね。
 ★ しかし、無意識野では、さらに進めて自我の影響を受けずに、それでも我はあるとする暗闘が繰り広げられています。
 ☆ すでに はっきりと 《自己はある》という《わたしなる存在》が確定しているのに 《それでも我はあるとする暗闘》を必要とするということでしょうか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そこには固有名詞を「私」としないで「みんな」とする見解が出ています。(私がつげだしました)
 完璧な連帯と協調の象徴たる自己認識です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううーん。どうなんでしょうか。どうなるということでしょうか。
 たしかに ひとりの人間存在に その個体としての社会的な独立性を認めるとき――わたしの見方では―― 同時に 社会的な関係性を捉えて そのまま 関係的な存在性を やはり 認めるのですが そういうことなのでしょうか?
 社会的な 独立性と関係性とのふたつの側面を ひとりの人間つまり《わたし》なる存在に 同時に 認めるというのは たとえば 《孤独》という捉え方で 説明します。
 関係性は 親子のつながり・そして兄弟姉妹としての同世代のつながり これが 基礎であると見ますが 別の見方としては やはり 孤独と孤独との存在関係として 捉えます。
 ひとは 血筋をも――否定するという意味ではなく―― 超えることができます。ぎゃくに それゆえなのか そのつながりが どうしても 破られ壊れるということも ありえます。つまり ひとは 独りの個体として 独立しており 孤独なる存在です。
 そして しかも 互いに この孤独なる存在どうしの関係を有していると見られます。

 このような存在どうしの関係性と
 ★ 「みんな」とする見解 / 完璧な連帯と協調の象徴たる自己認識
 ☆ とは 微妙に ちがいますよね? 後者は 一段と そのつながりの側面について 踏み込んで認定しようとするかたちのようです。
 さて この点について どういう見方が ひろく 為されることでしょう。

投稿日時 - 2009-05-15 03:31:26

ANo.4

Buonasera signor bragelonne!
Va bene, adesso ho capito.

主語が何たるかによって動詞の活用が変化するから、通常はあえてラテン語(イタリア語)、スペイン語の主語は省くのは周知の事実。
何故同類のフランス語などは滅多に省かないのでしょうね。

この点、日本語において主語が省略されやすい事情とはまた異なるようにも察せられます。
また日本語のテクストの場合、≪わたし≫の記載が多いほどに自己主張が強いテクストのように映るように感じるのは≪わたし≫だけでしょうか?(笑)

☆閑話休題☆

>(3) したがって 何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞である《わたし》の 代名詞ではないでしょうか?

はい、おっしゃる通りかと。
さらに≪わたし≫の場合、ママ友のあいだでは、「○○さん」という氏名以上に「△△ちゃんのママ」のほうがいまだに優勢でもあります。
いつになったら≪わたし≫を氏名で呼んでくれることやら。
まあ、かつての『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母の例もあることですし←≪わたし≫と格が違い過ぎ

しかしながら、一番≪わたし≫の固有名詞(氏名)でバツが悪いのは、氏名を間違えられる、もしくは同じ氏名の人同士confuseすることではないでしょうか。
たかが氏名の記号くらいで≪わたし≫に何ら変質が生じるわけでもないのに、不思議な感覚です。なぜでしょう。

≪わたし≫は、いったい誰?(笑)
そして、中世ヨーロッパの≪わたし≫と古代古事記ワールドのヨセ意識の≪わたし≫とイリ意識の≪わたし≫とは異なるのでしょうか。

Arrivederci, Ciao♪

投稿日時 - 2009-05-14 18:36:33

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。

 さすがですね。わたしも 負けずに勉強だけはしたのですが すぐには 出て来ません。
 
 ★ はい、おっしゃる通りかと。
 ☆ No.1の pokoperopo さんも 簡単に 諾を投じてくれたのですが 意外と すんなりですね。

 ★ ママ友のあいだでは、「○○さん」という氏名以上に「△△ちゃんのママ」のほうがいまだに優勢でもあります。
 ☆ あぁ たぶん 子どもを中心において捉えているんですかね? あぁ そのほうが 心が広くて なごやかですね。

 ★ しかしながら、一番≪わたし≫の固有名詞(氏名)でバツが悪いのは、氏名を間違えられる、もしくは同じ氏名の人同士confuseすることではないでしょうか。
 ☆ わたしの場合は 名前の漢字をただしく読んでもらったためしがない字なので これも 困ります。

 はてさて
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ≪わたし≫は、いったい誰?(笑)
そして、中世ヨーロッパの≪わたし≫と古代古事記ワールドのヨセ意識の≪わたし≫とイリ意識の≪わたし≫とは異なるのでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ でっかい視野に立たなきゃいけませんね。ううーん。アベラールとエロイーズは 自由に大胆に 振る舞っているように思えるのですが どうなんでしょう?
 《ヨセ》意識で すぐに思い出すのは かれらは いつも 名前を交換するという外交術を使っていることです。奈良・三輪の《イリ》政権から 権力奪取というよりも 婚姻をつうじて 血筋を正統のものにしたあと じわりじわり おのが子孫の筋へと代替わりさせていくのが 応神ホムダワケです。
 角賀(つぬが⇒敦賀)の気比で イザサワケと 親交をむすび 名を交換したとありますから こちらが 本名だったかも知れません。近江や山城地方の豪族と連携し――推測にたがわず 政略結婚をつうじてです―― そう言えばこの言葉が問題になりましたが 大和を 搦め手から 周りから 囲い攻める頂上制覇大作戦を展開した模様なのです。
 このような場合 《わたし》は スーパー歴史知性ですから 誰とでも 通じあうかのように 自由自在であるかも知れません。柔軟で有徳なマキャヱ゛ッリストのようですね。(ま 暗殺も 多いのですけれど)。

 Hasta luego !

投稿日時 - 2009-05-14 19:17:04

ANo.3

武羅儒論縫さん。こんにちわ。
ぶっきらぼうな根無し草です。

生まれた瞬間、苗字が決定されているのが第一のまちがい、
生後何時間か何日間かの間に名前をつけられるのが第二のまちがい、
幼児から学童になるころに
それを「わたし」「ぼく」と呼び始めるのが第三のまちがい、
だと思っています。

どんどん「わたし」「ぼく」の範囲が狭くなり、
「ない」ものが「ある」ことになり、

世界が狭くなります。

投稿日時 - 2009-05-14 17:55:09

お礼

 neutral さん ご回答をありがとうございます。
 なんで 《根なし草》なんですか? 《宙ぶらりん》は分かるのですが。

 さて
 ★ 世界が狭くなります。
 ☆ とのこと。はてさて どうしたもんでしょう。
 ○ 人間存在に 決まった言葉がつけられて それが固定してしまうことは 世界が狭くなることだ。
 ☆ という意味でしょうか?
 考えてみれば
 ○ 苗字も 名前も 言葉そのものも すべて 与えられたもの。
 ☆ ですね。ま その中で
 ○ 自己の存在を 言葉で表わすとすれば 自分にとって 《わたし》という言葉が 固有の名称であり その代理が 《何の某》である。
 ☆ と考えた結果の質問なのですが これをも突き抜けろ・乗り越えよというご趣旨でしょうか?

 ★ どんどん「わたし」「ぼく」の範囲が狭くなり、 / 「ない」ものが「ある」ことになり、
 ☆ この《「ない」ものが「ある」ことになり》というのが 分からなかったのですが どうなのでしょう?

投稿日時 - 2009-05-14 18:35:34

ANo.2

>趣旨説明: (1) みづからの存在を指し示すとき それを 日本
語で 《わたし》に代表させるとしています。

関西圏では特例になるのでしょうが、二人称(you)を名前で呼び捨て
る代わりに「自分」と表すことがあります。

例:「自分な~、自分は自分はって、自分のことばっかりやろ、うち
(私)のことかて考えてえや」
↑私は誰?状態。
ですが、習性習慣?、由来とかもわかりません。
親密さから自他の区別も超越(?)したものと思います。

回答になってません?

投稿日時 - 2009-05-14 17:00:18

お礼

 miko-desi さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 親密さから自他の区別も超越(?)したものと思います。
 ☆ たぶん こういう理解になるかと思います。そして 批判しようと思えば できます。
 ○ 自他未分離
 ☆ とも言えるからです。ということは
 ○ 《わたしが わたしである》ことが 親しい人たちとのつながりにおいて初めて(――言い過ぎでしょうか?――) 成り立っている。
 ☆ とすれば 問題でしょうね。親離れつまり子離れの問題と似ているかも知れないですね。

 けれども 考えてみれば
 ○ 対称(第二人称)である《あなた》は 《かなた》という他称(第三人称)です
 ☆ ね。遠慮しているのでしょうか。
 ○ 独語では ズィ‐と言えば 三人称の《かのじょは》であり《かれらは》ですが 二人称の《あなたは》にも 上の日本語と同じように 使っている。
 ☆ ようですね。

 ○ なんぢ(汝)は な‐むち(貴)から成り 《な》は 汝つまり二人称である前に やはり な(=我れ)つまり一人称だった。
 ☆ と言います。朝鮮韓国語の《 na =我れ》と同源だと言います。(大野晋)。あるいは
 ○ おのれぇーっ!
 ☆ というふうに 再帰称を用いて 相手のことを言っていますね。つまり こちらのほうですね 次の例は。
 ★ 例:「自分な~、自分は自分はって、自分のことばっかりやろ、うち(私)のことかて考えてえや」


 あれ わたしは 何を述べていたんでしたっけ。
 お応えになってません?

投稿日時 - 2009-05-14 18:24:09

ANo.1

ぽこぺろぽです。今回のご質問に対しましては、全く異論がございません。

 自らは、その主観においては「自己」を、他者が内包する自己とを、区別する必要がありません。ですから、私は自らを『ぽこぺろぽ』と呼ぶ必要がないのです。ぽこぺろぽが自らを称するときは、『私』が固有名詞となります。

 固有名詞は、複数の他者を区別するために用います。ですから私は、絶対唯一神に固有名詞をつけること自体が、偶像崇拝であると考えます。なぜなら、絶対唯一の存在ならば、他者と区別する必要が生じないからです。神の概念を表す言葉で呼べばいいのです。

 しかし、幼児や若年女子の一部には、自らを固有名詞で呼ぶ者もいます。これは自己を主体的に自己でしかないことを、自らに認識させない甘えであります。

 『自分』という言葉は「‘自’らを(他者と)‘分’かつ」ことではないでしょうか?自らを『私』と呼ぶことは、他者や社会へ、自己を「渡し」つけることではないでしょうか?何だかそんな気がします。

投稿日時 - 2009-05-14 14:54:36

補足

 pokoperopo さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。いくつかの事項についておしえていただきました。論点になるのかどうか分かりませんが 復唱しておきます。ただし 細かいところで わたしにとって 分からない箇所もあります。

 ★ 固有名詞は、複数の他者〔* もしくは 存在〕を区別するために用います。
 ☆ たぶん ここから 出発するものと考えます。
 ★ 自らは、その主観においては「自己」を、 ≫他者が内包する自己とを、≪  区別する必要がありません。
 ☆ まづ 括弧内(≫・・・≪)を読まずに そのとおりだと考えます。《主観》と《自己》とは 指し示すものとして 同一です。そのとき おそらく 括弧内の箇所を読んで捉えても 同じことなのだろうと思われます。他者も 同じように そう捉えていることでしょう。
 その結果 《固有名詞》が それぞれ 同じ言葉になるようなのですが それでも
 ★ ですから、私は自らを『ぽこぺろぽ』と呼ぶ必要がないのです。ぽこぺろぽが自らを称するときは、『私』が固有名詞となります。
 ☆ つまり 他者にしても 同じようなのでしょう。
 その結果 同じ《わたし》という言葉が それぞれにとって 固有名称になるようです。しかもなお
 ★ 『自分』という言葉は「‘自’らを(他者と)‘分’かつ」ことではないでしょうか?
 ☆ という含みをも持って すでに わたしは その自分を 《わたし》と呼びます。
 ★ 自らを『私』と呼ぶことは、他者や社会へ、自己を「渡し」つけることではないでしょうか? 何だかそんな気がします。
 ☆ ということは ひとは それぞれが 同じ《わたし》という言葉で 自己を相手に対して 《渡し》つけあっているということのようです。
 たぶん その結果 ここでこそ 互いの区別をつけるために 
 ○ 代理としての名称 または 代名詞
 ☆ を発案し 使用することになったのでしょう。《何の某》ということなのでしょうか。
 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかし、幼児や若年女子の一部には、自らを固有名詞で呼ぶ者もいます。これは自己を主体的に自己でしかないことを、自らに認識させない甘えであります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶん 他者から自己を区別するために 社会的に 仮りにこしらえ合った《何の某》という本来は代理名称であるものを 自称に使うという事態なのでしょうか。《わたしは わたしである》と みづからに 名乗っていないのでしょうか。

 さて 次は 議論を呼びそうな予感がするのですが?
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ですから私は、絶対唯一神に固有名詞をつけること自体が、偶像崇拝であると考えます。
 なぜなら、絶対唯一の存在ならば、他者と区別する必要が生じないからです。神の概念を表す言葉で呼べばいいのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (1) すでに 現代において 《絶対唯一神》という定義を与えた結果において このように語ってはいますが そもそも この《絶対》を ひとは 呼ぶということをするのかどうか。これが まづ 問題になるでしょうね。
 (2) 呼ぶとすれば たぶん 経験的には その《絶対》が《ある》と見なしているのでしょうね。
 (3) なぜなら 《ない(無)》と呼ぶ・つまり 《呼ばない》場合もありうるでしょうから。
 (4) ★ なぜなら、絶対唯一の存在ならば、他者と区別する必要が生じないからです。
 ☆ というとき わづかに 上の《無》と見なす場合との区別が必要なのでしょうね。
 (5) したがって 《無神》という《神》を そこに 大きく含んだかたちで
 ★ 神の概念を表す言葉で呼べばいいのです。
 ☆ となるのでしょうね。
 (6) あとは 
 ○ 《わたしはある》 あるいは 《あらしめるもの》 もしくは 単純に 《存在》
 ☆ これらを 代理名称とすることは あるかも知れないとは思います。愛称・ニックネームのたぐいでしょうか。

 と一気に反応しましたが どうなりましょうか。

投稿日時 - 2009-05-14 15:38:48

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