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解決済みの質問

われわれは原罪を犯せしや?

 【質問】 神はアダムとエワに じぶん(つまり神自身)に背くというへそ曲がりを起こさせたその罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。
 こう表現しては 間違いでしょうか?

 * 批判的なご見解 つまりそれは間違いだというご意見の場合には特にこてんぱんに けちょんけちょんになるまで述べてくださるよう願います。

 * 原罪についてのわたしの考えは ついこの四月でも 次のような内容でした。よかったら参照してください。
 【Q:原罪】その回答No.3
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4904345.html

投稿日時 - 2009-06-20 12:00:16

QNo.5059303

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

>二河白道のほうは そこにかすかに見える道を行きなさいというブッダの声がすると言っているようです。後ろから後押しし 前からも導いているみたいです。

以前、何かで読んだことのある話です。これは、留まることなく原罪と対峙し続けていることが祝福されているということと同じではありませんか。

>>鋭い界面は、原罪が祝福に包まれているという神の御心を知る傲慢を
>>許してはくれません。だから、祝福されているというパラドクスがあります。

このパラドクスを固定された呪縛だとは思ってはいないのです。
その動性のなかで、常に解かれているのだと思っています。
原罪を抱えたまま楽園に入れないとは思いますけどね。

>開き直りが昂じて

ここからは、メルヘンの世界ですが、
今の現状も前の天と地から見て、新しい天と新しい地だという
感覚があります。
輪廻転生とか前世、来世というこの時空間内の話ではなくて、
特異点に帰還した後の全く別の新たな世界ですね。

そんな中で、現在が、常に、今である問いう事実は、日常の想像を
遥かに超えた重大な事象だと直感するんですけどね。
だって、「こと」は、まだ始まっていないか、既に終わっているはずでしょう。そうはならず、「こと」が今わたしに起こっているんですから・・・ここ聖地エルサレムにおいて・・・

投稿日時 - 2009-06-24 12:57:33

補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。

 ▲ (イザヤ書) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・
 狼と小羊は共に草をはみ
 獅子は牛のようにわらを食べ、
 蛇は塵を食べ物とし
 わたしの聖なる山のどこにおいても
 害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは むろん比喩ですが あなたの
 ★ 《界面を生きる》問題 ∽ 他者の合理的な排除の問題
 ☆ にかかわっていますね。生物ないし食物の連鎖が いまとは違ってくると言おうとしているようです。無根拠にですが。
 人間の社会においても その社会力学がよい方へ変質するかも知れないと言おうとしているようです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そんな中で、現在が、常に、今であるという事実は、日常の想像を
遥かに超えた重大な事象だと直感するんですけどね。
 だって、「こと」は、まだ始まっていないか、既に終わっているはずでしょう。そうはならず、「こと」が今わたしに起こっているんですから・・・ここ聖地エルサレムにおいて・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ キリスト教音痴と自己紹介する方で これほど鋭く突っ込んで把握し表現したひとには あまり会いませんでした。
 ○ 永遠の現在 という自己表現の過程=動態=時空間=固有時
 ☆ の問題ですね。しかも
 ★ 聖地エルサレムにおいて
 ☆ という表現が すでに《新しい天と新しい地》の次元を――永遠の現在において――先取りしていますね。
 ★ 特異点
 ☆ についてわたしは詳しくありません。
 ★ 輪廻転生とか前世、来世というこの時空間内の話ではなくて、 / 特異点に帰還した後の全く別の新たな世界ですね。
 ☆ もちろんですと言いたいところです。たぶん さらにべらぼう話を延長させ得れば この
 ○ 特異点は はりつけになったイエスなるわたし
 ☆ のことではないかと言いたいところです。少々わるふざけが過ぎましたでしょうか。

 ★ メルヘンの世界
 ☆ が現実よりも現実感があるとは これ如何に? 文学のほうが 哲学を超えているのかも知れません。

 ★ これ(二河白道)は、留まることなく原罪と対峙し続けていることが祝福されているということと同じではありませんか。
 ☆ ブッダの場合は そのブッダがつねにブッディストの頭の中に人間の乗り越えられない存在として宿っているようです。どちらかと言えば やはりアイドルではないかと疑われます。
 言いかえると 無明とつねに対峙し続けるというよりは 無我だの無の境地だのと言ってそのブッダの境地を下敷きにしてなぞろうとしているように思われます。ブッダもブッダで そのような自己とその他の人びととの隔たりをすでに前提しておしえを説いたのではないかとやはり疑われます。
 これを解いてくれるブッディストは いません。そこまでの普遍的な存在であるブッダを 神(絶対者)としては見ない。どういうわけか見ようとしません。そのような論理や理論の問題よりは 修行のほうを持ち出すでしょう。修行が足りんという答えにしかならないようです。
 ただし唯一 親鸞の信仰は いまこのように扱っているわたしたちの信仰(=非思考のこころ)と同じ類型だとわたしは捉えています。

投稿日時 - 2009-06-24 13:39:12

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回答(18)

ANo.18

>ブッディスムの悪口は 言い甲斐があります。
>こちらの批判が当たっているということになります。どうでしょうか。

ははは、修行が足りないと口にするブッディストが何を言いたがるかは、
折り込み済みでしょうに。

まあ、教祖を失った宗教は、弟子や信者に基準のようなものが移転しますし、
現ブッディズムの総体のようなものは信者側が作っているっているのですから
こういった批判がまともに当たってしまうということだと思いますね。

教祖と直接触れられなければ、自分の都合の良いところを抽出してしまいますから
仕方がありません。もちろん、わたしも含めてです。

でも、わたしの釈迦は原罪も絶対も神も楽園も指し示しておいでです。
ブッディズムには非線形性が多数組み込んであることに気づき自分なりに解けています。

そして、そんな中で説法も、禅も、瞑想も、写経も、勤行もすばらしい。
これらは、日曜礼拝で神父の話しに耳を傾け、祈りを捧げ、聖歌やゴスペルを歌うことに
全く劣らないでしょう。むしろ、深いかも知れません。

とはいったって、如何にたくさんの経を上げても、何千枚もの写経をしても
「わたし」というのはブッディズムの最終目的であるブッダにはなれません。

楽園へ帰る者を悟りを得た者としてブッダというなら、「わたし」というのはそこにいませんね。
「わたし」の成り立ちからして、この悟りというのは「わたし」と全く別次元の話ですね。
フッダとは何かとか悟りとは何かを完璧に知っている訳ではありませんけどそこだけは解ります。

要するに、よく解りもせずにブッダを知ったかぶりして語り、無邪気に人を巻き込むなということでしょう。

わたしの釈迦は、俗物のわたしが鋭い界面にいることを慈しんではおられるのです。
あくまでこの鋭い界面を知るものとして・・神がわたしをこよなく愛しておられる様に・・

投稿日時 - 2009-06-27 22:31:36

お礼

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。

 今回は あいづちを打って お応えに代えます。
 と言っても わたしのほうは引用です。親鸞。それも 歎異抄ではなく 末燈鈔からです。わたしの勝手な解釈を挟みます。

 ▲ (《末燈鈔》:有念無念の事) ~~~~~~~~~~~~~~
 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。
  * 往生に際して菩薩が迎えに来るというのは いろんな修行によって
  往生する場合である。それは一般に《自力》の場合である。次も同じよ
  うな意味あいである。

 臨終といふことは 諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。
 また十悪五逆の罪人の、はじめて善知識にあふて、すすめらるるときにいふことなり。
  * 罪人の場合は その罪をさとしてくれる先達に会うというのだから
  自力とは違うけれども 罪を知って往生を願ったり目指したりするなら
  まだ《往生》なり《臨終》という意識ないし計らいがある。

 真実信心の行人は 摂取不捨のゆゑに、正定聚のくらゐに住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。
  * 阿弥陀仏が摂取し捨てずというのだから すでに《ブッダ》になっ
 ている。《臨終》も《来迎》も関係ない。

 信心のさだまるとき往生またさだまるなり。
  * 信仰という非思考は その瞬間その現在で すべてが決まる。なぜ
  なら 非思考というからには 《はからい》がない。絶対者があるのみ。

 来迎の儀則をまたず。
  * むろん儀式も〔あるいは修行もお経等々も〕関係ない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いくらか bananasand さんのご見解とも違っていますでしょう。すべてを削ぎ落として きわめて単純でしょう?

投稿日時 - 2009-06-27 23:39:58

ANo.17

親鸞については、まさに同意するところです。
歎異抄は、本質を突いているだけに深く解りにくい。
安易にとらえると間違った解釈をしてしまいますね。

それはともかく、
神=絶対、原罪、楽園はわたしの中ではこうなっています。

絶対は、色即是空などの教えの根本にこれがあると捉えられます。
絶対は非線形な特異点であると言ったことがあったと思いますけど、
始まりも終わりも大きさも重さもないことであって、
すでにブッディズムはそれを非思考として指し示してはいたと思います。
ところが、フッダという思考側のイメージがどうしても線形で捉えてしまって、
この理解を阻んでいたと思うんですね。
以上のような意見は多くのブッティストから袋だたきにあうことでしょう。
別に構いませんが。

原罪は、親鸞の言うことろの悪人の罪なのですが、殺人者、窃盗犯そのもの
を指すのではなく、それを内在する人間がそれに葛藤していることを指していて、
罪の内在を外部に追いやろうとする善人に本質を捉えることは悪人よりも難しいと
言っているんですね。それは、人間がどんな状態であれ、存在している限り
原罪を抱えていると言うことを示唆するものではないでしょうか。
煩悩なんて言い方もするのですがそれが存在する場所が罪と同じであるが故に、
外部に追いやろうとする方向を向いてしまい、対峙しようとしないことが
本質を遠ざけるということでしょう。

そして、楽園ですね。ブッダは確かにアイドル的存在で、アダムが楽園に
帰るときがあるなら、その状態をブッダとして象徴できるのではないでしょうか。
涅槃、悟りと言われますが、結局、「わたし」の存在と原罪に深く関係すると
思いますね。

わたしが無我の境地に到るというパラドクスを正しく理解するか、大きく誤解、
するかなのですけど、修行を積んだ結果として崇高な「わたし」がブッダには存在しているとイメージしているなら、bragelonneさんのご指摘の通り、
その修行とやらの最大の障害になるでしょうね。

いつまでたっても「わたし」はブッダにはなれないのですから。

これらもつたないイメージですけどね。
南無~。

投稿日時 - 2009-06-26 14:44:47

補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。

 なかなかおもしろいですね。
 ブッディスムの悪口は 言い甲斐があります。
 理論的にはすでに批判が終えられているかも知れないのですが ブッディストの――あえて申せば――陥っている状態の深さとその人数の多さは 問題です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 煩悩なんて言い方もするのですがそれが存在する場所が罪と同じであるが故に、
 外部に追いやろうとする方向を向いてしまい、対峙しようとしないことが
 本質を遠ざけるということでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの考えるところです。たぶん 《煩悩》は 《無明》のことで おそらく《原罪》と同じ根から出ていると考えます。それは ひとが存在するということ自体において 現われると聞きました。
 生きるというとき その生きることを計らうなら その意欲なり欲望なりが 煩悩だと言うのだと思います。生きることの純粋な動態が仮りにあるとすれば それは 《無明》をひっくり返した《明知》の状態であると言うのでしょう。《はからい》としての意欲からも欲望からも自由なのだと。
 なぜなら はからいということは 常に――原罪ふうに言えば――妄語でしたか うそをつくおそれ もしくは へそ曲がりに陥るおそれを持つと考えられるからなのだと思います。
 このことと
 ★ 対峙しない
 ☆ とすれば それがいちばんの悪い原因なのではないでしょうか。つまりは 何らかのブッダやその境地の描像を頭に入れ思い描いているとすれば――もしくは その描像をまったく消去しようとつとめるとすれば―― どこまでもアイドルとの自家撞着のようなあそびに終わると思われるからです。

 ですから 
 ★ いつまでたっても「わたし」はブッダにはなれないのですから。
 ☆ というのであれば いっそのこと 前にも書きましたが
 ○ わたしはブッダである。
 ☆ と宣言してしまえばよいのではないでしょうか? なぜなら 《ブッダ》というのは ただの言葉です。ただの発音です。もしその境地の中身を知っているのならば やはりそう宣言しても まちがいではないでしょうし 知らないのならば そしてそれでも ブッダを目指すというのであれば それが間違いではなく むしろ望ましい目標としての境地であるのでしょうから 少々先取りして宣言しておいても それほどの問題はないように思うのです。
 むしろ先取りして宣言することにおいて みづからにその原動力を与えているということになるだけだと思えるのです。そうでなければ――つまり ゆくゆくは 同じようにブッダになるというのでなければ―― ブッダは 大うそつきでしょうし いまブッディスムを研究したり修行したりすることもなくなるでしょう。いったい何をやってるんだということになるでしょう。
 でも つねにいつまでも ブッダとの隔たりをつくっておくということのように見受けられます。おままごとであるように わたしには映ります。難行苦行をやりたければ 勝手にやってくださいと言いたくなります。社会にとって どれだけ必要有益であるかは 分からないと思います。

 言いたい放題でした。でも 批判が出てこないのが おかしいと思います。と言いますか こちらの批判が当たっているということになります。どうでしょうか。

投稿日時 - 2009-06-26 17:57:09

ANo.15

>ゆえに人間は生きている。死んではいない。あぁ 生きてその罪がおおわれている者にさいわいあれ。

どうも、キリスト教音痴のわたしはKY状態に陥ってしまって
いるのでしょう。
とはいえ、その差は意外に大きいのかも知れませんね。

鋭い界面は、原罪が祝福に包まれているという神の御心を知る傲慢を
許してはくれません。だから、祝福されているというパラドクスがあります。

かよわい子羊は原罪と対峙し続けていることが祝福されていて、
犯した罪は全て許されるとしても、犯そうとしている罪が祝福される
ことはありません。

>神はアダムとエワに じぶん(つまり神自身)に背くというへそ曲がりを起こさせたその罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。

アダムとエワは、これで祝福を得られるでしょう。
しかし、そのままで楽園にもどることはやはり出来ないのではないでしょうか。

投稿日時 - 2009-06-24 00:57:18

補足

 bananasand さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 まづは余興です。
 ▲ 二河白道:  http://www.d7.dion.ne.jp/~gyoun/niga.htm
 ☆ をご存じですか? 浄土経方面のおしえだそうです。行く手には海があって よく見ると 二つの河(もしくは海)に分かれている。その真ん中に一本の細い道がついている。この白い道を行けというものだそうです。
 両河は 《わたし》を無にするかそれとも丸出しにするかです。つまりむさぼりの欲を〔わざわざ〕無くすか それとも 〔何をしなくても〕ひとを除け者にしているかです。つまり――わたしは 弥次郎兵衛というような変なたとえをしましたが――
 ★ 原罪と祝福との間の界面にあって どこまでも界面をすすみつつ生きるわたし
 ☆ がただ一本の白道を行くことであるようです。
 もっとも
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 鋭い界面は、原罪が祝福に包まれているという神の御心を知る傲慢を許してはくれません。だから、祝福されているというパラドクスがあります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というとき 二河白道のほうは そこにかすかに見える道を行きなさいというブッダの声がすると言っているようです。後ろから後押しし 前からも導いているみたいです。

 ★☆ >ゆえに人間は生きている。死んではいない。あぁ 生きてその罪がおおわれている者にさいわいあれ。
 ☆ これはですね。見方によれば 投げやりであり 開き直りです。
 二河白道は無い。あっても 人間であるわたしに分かるわけがない。と決めつけています。
 弥次郎兵衛というなら まだ 起き上がりこぼしのほうが 喩えとしてふさわしいでしょうね。
 そうして 
 ★ 鋭い界面
 ☆ はとても無理だという開き直りがあります。言いかえると この《界面》というのは 理性による理解であって わたしが人格(というよりも精神および身体)の全体で進むことにとって 指針とは ようしないのです。可能かも知れませんが たぶんキリスト者は ようしないでしょう。
 理論的に言えば コギトは わたしの意志行為の一部でしかないと思っているところがあります。
 だからこそ――もし伝統的な理解によるならば―― 原罪を 神が肉(精神および身体)となった人間によって償われなければならなかった。というわけです。神の独り子であったからこそ償えた。つまりもっと露骨に言えば 神であり人間である存在のいのちと引き換えに 原罪を始めとするじんるいのすべての罪を贖った。
 そういう等価交換であるようです。原罪によって自業自得のごとくこの世の生に対して制約を受けていたじんるいは その有限の人生というかたちの人質を イエスの十字架上の死によって買い戻されたというふうです。

  死よ おまえの勝利はどこに行った?
  おまえの棘(=罪)はどこにある?
 
 と歌います。このような《人間における死に対する勝利》の手付け金(前受け金)として かの聖霊が遣わされたというものです。将来すべきこととして人間が臨むその《復活》のための保証金として 聖霊が 用意されているというふうです。
 わたしは このとき 原罪の話を抜きにしたいと思っています。原罪の部分を抜きにして 生命が 一人ひとりの人間に永遠の現在として与えられており これが いまの有限の生という状態から いづれかの将来において 復活するかたちをとるだろうという部分のみを イエスの物語として摂るのがよいと考えている。こういう話なのです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 アダムとエワは、これで祝福を得られるでしょう。
 しかし、そのままで楽園にもどることはやはり出来ないのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから――開き直りが昂じて―― 将来の復活というのは
 ○ 楽園どころの話ではない。新しい天と新しい地である。
 ☆ というものです。突然変異やら何やら具体的にはいろいろあるでしょう。また今はまだ分からないと思います。
 こういう大風呂敷のもとに
 ☆☆ ゆえに人間は生きている。死んではいない。あぁ 生きてその罪がおおわれている者にさいわいあれ。
 ☆ という言葉を聞いております。

投稿日時 - 2009-06-24 11:08:38

お礼

 ○ 新しい天と新しい地
 
 ▲ (イザヤ書 65:17-25) ~~~~~~~~~~~~
 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
 初めからのことを思い起こす者はない。
 それはだれの心にも上ることはない。

 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。
 わたしは創造する。
 見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
 その民を喜び楽しむものとして、創造する。

 わたしはエルサレムを喜びとし
 わたしの民を楽しみとする。
 泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。

 そこには、もはや若死にする者も
 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。
 百歳で死ぬ者は若者とされ
 百歳に達しない者は呪われた者とされる。

 彼らは家を建てて住み
 ぶどうを植えてその実を食べる。

 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく
 彼らが植えたものを 他国人が食べることもない。
 わたしの民の一生は木の一生のようになり
 わたしに選ばれた者らは 彼らの手の業にまさって長らえる。

 彼らは無駄に労することなく
 生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。
 彼らは、その子孫も共に 主に祝福された者の一族となる。

 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え
 まだ語りかけている間に、聞き届ける。

 狼と小羊は共に草をはみ
 獅子は牛のようにわらを食べ、
 蛇は塵を食べ物とし
 わたしの聖なる山のどこにおいても
 害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-06-24 11:21:34

ANo.14

最後の追伸

☆ さて一般化・共同化できるでしょうか? 

● については肯定的に可能でしょう。現在のキリスト教的解釈より十分に良いと思いますね。
また、
☆ 弁解がましく聞こえます。
についてですが、創造主の御心を知る私にとっては、2000年前に結果的にそのように取られても仕方が無いことになってしまったという事実は事実として認めざるおえないのですが、イエス様がオリーブ山から逃げておればまた別の展開があったことも知っていますので複雑なのですね。
今後はそのようなことが無いように創造主ご本人がご降臨され全ての罪を消されることだと思います。
創造主は永遠と思える時間を孤独にすごされていたのですね。宇宙を創り銀河を創り惑星を創り、その星に生物や似せて人間を作ろうと考えられてからも更に永遠という時をへて創造を始められたのです。星を創り生物を創り人間を作られたときのお喜びは人間の想像をはるかに超えるものだったのですね。そのようにして創造した自らの分身たちをどうして憎むことができようかということなのですね。地上の人々が悪に染まれば自身の分身たる大霊を降臨させ、創造主の愛を復活させんとしてきただけなのですね。人類のはるかなる歴史の中であきもせず何度も何度もですね。だからそれも神〔創造主〕の愛と答えたのです。
「罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。」だけでは宮本武蔵の格言「誰知ろう3尺下の海の深さを。」の深さの部分ですね。それが損なわれるように感じているからですね。

投稿日時 - 2009-06-23 12:09:08

補足

 mmky さん ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ さて一般化・共同化できるでしょうか? 

 ● については肯定的に可能でしょう。現在のキリスト教的解釈より十分に良いと思いますね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ありがとうございます。一つには この原罪――むろん特にその意識ですね――に悩まされてきたという場合があるように感じています。(わたしは図々しいですから 早い段階で卒業できました)。またそのように苦悩する姿を訴えることが信仰の篤さを表わすと思っている人がまだ多いようです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。」だけでは宮本武蔵の格言「誰知ろう3尺下の海の深さを。」の深さの部分ですね。それが損なわれるように感じているからですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とのこと。まづ次のご発言を引き出したことで ひとまづ満足したいと思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 創造主の御心を知る私にとっては、2000年前に結果的にそのように取られても仕方が無いことになってしまったという事実は事実として認めざるをえないのですが、・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ただし問題は残るようですね。先に武蔵にかんしては検索した結果 次が分かりました。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 吉川英治が『宮本武蔵』の最後に書いた文章です。

  波騒は世の常である。波にまかせて泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は躍る
 (踊るではない)。けれど誰が知ろう。百尺下の水の心を。水の深さを。
  http://blogs.yahoo.co.jp/takashidoing0826/54320873.html
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは 昔――大昔――たとえば
 ◆ 燕雀いづくんぞ鴻鵠の志を知らんや。
 ☆ と言っていましたが
 ▲ 誰が知ろう。百尺下の水の心を。水の深さを。
 ☆ と言うのは 武蔵のような志の深い人間の心であり しかもこれを通り超えて 絶対者のみこころを言うということでしょうか。

 そうですね。この場合二通りの解釈があるように思います。もしそういうふうに神の深い心が問題であるのならば そのことを人間に分かるように何らかのしるしによって(と言っても やはり言葉がよいのですが)神は知らせると思われるのです。――言いかえると 知らせないのだとすれば その知らせない(または 人間はその深い心を知らないでもよい)ことを分かるようにしているはづだと思われるのです。

 ここでは――《最後》とお書きですが――なお物言いがつくと考えます。
 ★ 地上の人々が悪に染まれば自身の分身たる大霊を降臨させ、創造主の愛を復活させんとしてきただけなのですね。
 ☆ つまり 
 ★ 悪に染まること
 ☆ をとうぜん神は分かっていたということなんです。実際に人間が悪に染まったときに ではと言うので 大霊を送ったというのでは 自作自演だと――人間の目からは――見られてしまってもしょうがないはづです。つまり弁解がましく映ります。
 なおもなおも問いかけてくるヨブに向けて語ったように 有無を言わせず従えと答えるでしょうか? 陶器が陶工に向かって何を言うかと一喝するでしょうか? ――どうもそれでは身勝手に映るというものではないでしょうか? どうでしょう?

投稿日時 - 2009-06-23 13:25:03

ANo.13

【質問】 神はアダムとエワに じぶん(つまり神自身)に背くというへそ曲がりを起こさせたその罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。
 こう表現しては 間違いでしょうか?

それで良いと思います。

【質問2】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしたちは うそをつくとき心にやましさを感じます。これを原罪と呼ぶとすれば これをどう扱うか? 
 どういう根拠でそう扱うか? 
 そのように扱うと どうなるか?

一つは否定です。否定に次ぐ否定です、心に受け入れたくないという否定です。この事が人間を苦しめ続けます。是は受け入れるまで続きます。受け入れるまで「妄想の世界を」さ迷う事になります。是は言い方を替えたなら「救いのない人生に救いを求め続けて、ついに失望する事になります。何故ならば求めると言う事が問いを発している事が分からないからです。言い方を替えたなら、救いを求めている事が「業であって」「原罪」が業であるからです。

一つは肯定です。この事が出来たなら「原罪」は消滅します。何故ならば原罪を払いのけようとしていないからです。全てを受け入れる事が出来たことの証明になっているからです。原罪とは自分自身が「自我意識」に加えている圧迫です。自分の中に全てを肯定して見ている者が存在しています。

誰の心にも存在しています。それは「命の働き」と言う方が適切かも知れません。納期が来た時に「自我意識」に知らせています。人に会うときにも、教えてくれています。まして初対面の人には特別の感じを「自我意識」に抱かせます。高い処に上がった時にはどうですか?鋭い刃物を見た時にはどうですか?スピードを出した時のカーブを曲がる時に微妙な感じは「誰が教えていますか?

自我意識はそれ自体は感情を持っていません。感情を湧かせている者が自分の中には存在しています。恐怖と言う事は対鏡が在って初めて成り立つものです。対鏡がなくなれば恐怖も収まります。是が普通の恐怖ですが、しかし、恐怖症と言う事になると違ってきます。

何もない処に恐怖感が湧きだします、これが妄想ですが、是は自分に教えてくれるものを怖がっていると言う現象です。怖いと教えているものを受け入れられないと言う現象です。この事を無明と言う言い方をしています。自分自身が分からなくなったと言う現象です。全ての問いや疑問は此処から発しられます。自分は何者か?と言う事です。

原罪と言っても業と言ってもそれらに共通する事が在るとするならば、共通点は、割り算が出来ない事を、割り算で割ろうとしている事と言えます。人間の感情は、人間の心は矛盾に満ちていると言う事です。割り切れないものを分別脳で考えると言う事には限界が在ると言う事になります。

精神疾患も、悩みや、人間苦と言う事にも言えるとするならば、感情や、体を使う事などを分別脳だけで計らってゆく事には限界が在ると言う事になります。どちらの脳で考えるのかをお釈迦様や、キリストは教えようとしています。どちらの脳に問題を割り振ってやるのかが間違っている事が「無明」と言う事になります。

自我意識では解けない問題「禅問答」これが解けた時には分別脳はおとなしくなります。分別脳がおとなしくなった時に生死の問題が解決したと言います。それは「天国に一番近い存在」幼子になった時です。仏教的に言うならば、「大人の嬰児」が出来た時と言えます。

それは自我意識が「命の働きを主として、自我意識が従になった時」禅に生きると言う事は分別が従となって「自分の働きが」主となると言う事かと思います。その時には心の矛盾がなくなっていると言う意味になります。絶対の安心が手に入ったと言う意味が在ります。

投稿日時 - 2009-06-22 21:42:11

お礼

 tumaritou1 さん ご回答をありがとうございます。

 もし【質問】のほうが 
 ★ それで良いと思います。
 ☆ としますと 【質問2】のほうですが これはきわめて複雑に感じました。まづそう感じたというのが ほんとうのところです。
 こうなりませんか?
 ★☆ 分別脳も何何脳も あるいは脳も自我も 苦も悩みも疾患も 無明も業も原罪も 恐怖も恐怖についての恐怖も 命の働きも 釈迦もキリストも
 ☆ うっちゃってしまって
 ○ わたしはわたしである。わたしがわたしする。
 ○ わたしはブッダである。わたしはキリストである。(なぜなら それらは ただ人間の理性で捉えたものであり その言葉であるに過ぎない)。
 ○ 根拠はない。無根拠である。
 ○ わたしはこうして生きている。死んではいない。このように自己表現をして生きている。あなたに話しかけているのだ。

 ☆ これでいけませんか?

投稿日時 - 2009-06-22 23:13:54

ANo.12

>bananasand さんは 敬虔すぎますよ。

それは、大きな誤解です。
敬虔じゃないし、慈悲もそこそこ、只酒には喜んでついてゆく俗物で
あります。

合理的排他というのは、「わたし」が「真の神を見ることはない」という
実情からの論理的帰着です。
如何に神々しく燦然と光り輝く神を感じたと思っても、
仮にそれがわたしにとって大きな心のよりどころになり得ても、
それは、神ではありません。
宇宙がわたしの手中に収まり、物理法則さえ書き換えれらる能力を
獲得しても神は未だわたしの外です。

「わたし」というやつは、この非常に鋭い界面に立たされているのです。

神はわたしにとっていないのです。
わたしがいないところに神は厳然と存在します。なぜならば、わたしが存在しているからです。
神とわたしが両方存在することはありません。
神とわたしが繋がったとするなら神がいるのであってわたしはもはやいません。

ということになります。

そうすると、原罪というのは、存在の罪であり合理的排他が当然に含まれます。

一方で、神は存在を祝福していると言います。
神はわたしを愛して止まないと言います。

このパラドクスを深く理解しなければならないと思うんですね。

神はわたしを楽園から追放しておきながら、愛して止まないと
言っています。この鋭い界面にいることを求められています。

原罪と祝福・・・両方とも同時にそのまま肯定すると言うことですね。

社会性を捉える場合は、如何なる分野も中心にいるのは人間となりますから、
それは、別の視点だと思っています。使い分けるつもりはないのですが、
初めから存在は、肯定してかかり、個人の尊厳、生命尊重、自由、平等から
スタートします。
餃子の原料たる豚は肥えさせて食ってしまうのは当たり前が共通認識であって
それを否定するのは自由としても覆すには大きな社会変革が不可欠です。

毒ギョウザ事件は、国対国の話であって、中国政府がどうあれ、
日本にとって、希望するようにことが進まなかったことを、
日本が反省すべきだと思うんですね。
被害者なのだから、当然の権利を主張するのはいいのですが、
誰に如何なる方法でやるかが戦略であって、裁判官がいないところで
闇雲に非難してもダメなのは当たり前でしょうね。
前にも書きましたけど、「中国ギョウザ問題」と言うのがそもそもの間違いで、
中国国内で何が起こっていようが、「天洋食品ギョウザ問題」として
取り上げるべきで、初めから対中国としてとらえて、直接非難しては
ダメだったと思いますね。
日本政府と中国政府が協力し合える基盤を作れなかった日本側の初期動作ミス
があったと思っています。国の基準と云々するBSE問題とは全然違います。

あと、理性の神、偶像、アイドルですけど、これらは非常に強力な手法ではない
でしょうか。教祖がいるうちは不要です。核がありますからね。

>アイドルを介在させると 話がうまく運ぶということでしょうか。
でも、話がうまく運ぶとは限らないでしょうね。
これらは、教祖の伝えたいと思っていた本質を指し示すことはできても、
変質し易く時として逆を向く場合も多いのではないでしょうか。

投稿日時 - 2009-06-22 19:38:05

補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。

 ○ 敬虔の問題
 ☆ そうですかね。きびしい倫理をご自分に課しておられるようにお見受けしましたが。肉食についての殺生の問題としては 昔からある倫理課題ですけれど。

 ★ 「天洋食品ギョウザ問題」・・・日本政府と中国政府が協力し合える基盤を作れなかった日本側の初期動作ミスがあったと思っています。
 ☆ このように確認します。社会総体としての問題であるということも確認することになると思います。

 さて独特の神学を披露なさいました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうすると、原罪というのは、存在の罪であり合理的排他が当然に含まれます。

 一方で、神は存在を祝福していると言います。
 神はわたしを愛して止まないと言います。

 このパラドクスを深く理解しなければならないと思うんですね。

 神はわたしを楽園から追放しておきながら、愛して止まないと言っています。この鋭い界面にいることを求められています。

 原罪と祝福・・・両方とも同時にそのまま肯定すると言うことですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わざと中途から引用しています。おそらくこれでよいのだと考えます。原罪は わたしとしては《うそ・偽りというへそ曲がり》において bananasand さんとしては《そもそもの話として 他者の存在を排除しようとして存在じたいが一面で己れを示すあり方》において ある。あるのだが bananasand さんは 《そのような原罪において楽園を追放されねばならなかった反面で 追放した本人である神は この人間を愛し祝福している》ことにおいて つまりはこの
 ★ 鋭い界面にいることを求められつつ
 ☆ 人間は生きている。死んではいない。右や左に揺れ動く弥次郎兵衛のごとくではあるが この界面を歩む。
 わたしとしましては〔原罪は うそ・偽りとして存続しているが〕 愛と祝福とのもとに包まれている。ゆえに人間は生きている。死んではいない。あぁ 生きてその罪がおおわれている者にさいわいあれ。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神はわたしにとっていないのです。
 わたしがいないところに神は厳然と存在します。なぜならば、わたしが存在しているからです。
 神とわたしが両方存在することはありません。
 神とわたしが繋がったとするなら神がいるのであってわたしはもはやいません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この理論にまともにぶつける仮説としましては
 ○ 神はどこにもいない。縁の下の力持ちであると言っても それはまだ経験的な事物であり 想像の産物(その描像)です。
 ○ 神はどこにもいない。わたしの原罪を覆い包んでいる。と言っても それはただわたしのまぼろしであり やはり想像の産物である。
 ○ 神はどこにもいない。と表現することにおいて わたしは その神がいるとどこかで思っていることを明かしている。そうではないだろうか。
 ○ 神はどこにもいない。わたしが存在しているから。いてもいなくても 神はわたしを存在せしめている存在である。どこにもいないからである。


 * ★☆ >アイドルを介在させると 話がうまく運ぶということでしょうか。
 ☆ これは皮肉で言いました。

投稿日時 - 2009-06-22 22:56:42

ANo.11

再度の投稿になりますが、貴方が抱いている疑問は貴方に抱かせている者がいるからです。貴方の中に貴方に疑問を抱かせている者と言う意味になります、その事の答えが仏教でいえば「仏性」です。

キリスト教で言うならば「神」と言う事になります。その者は貴方の全てを支配しています。貴方の場合にはあまりにうまく支配されているために気が付き難いのかも知れません。

自分自身を知ると言う事でその事は達成できます。仏教であれば悟りを開くと言う事になります。キリスト教であれば、神に会って和解をすると言う事になります。つまり自分自身の心と出会うと言う事です。言い方を替えたなら心の矛盾が解消されると言うことです。

人間の悩み、苦しみとは有限の壁を越えられない苦しみと言っても良いかと思います。左脳の機能「自我意識」に頼っている事から有限の壁は越える事が出来ません。左脳には割り切れる問題しか解く事が出来ないからです。

矛盾をした問題、或いは永遠に関する情報は、自我意識の能力では解けません。如何しても自我意識には一回だけ降りてもらわなければなりません。是が分かる時にあなたの抱いている全ての疑問は解けます。分別脳の機能では今言った事を理解する事には限界が在ります。

割り切れる問題を解く事を分別と言っているからです。分別は有限の別称です。分別で考えている限りは仏も、神も理解出来ないように人間の脳が出来ています。右脳の働きは多分「それ」かと思います。

投稿日時 - 2009-06-22 12:42:22

お礼

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【質問】 神はアダムとエワに じぶん(つまり神自身)に背くというへそ曲がりを起こさせたその罪をつぐなうために イエスをとおして《ごめんなさい》と詫びた。
 こう表現しては 間違いでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 もしくは 次の問いに対して回答を寄せてください。
 【質問2】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしたちは うそをつくとき心にやましさを感じます。これを原罪と呼ぶとすれば これをどう扱うか? 
 どういう根拠でそう扱うか? 
 そのように扱うと どうなるか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-06-22 13:48:30

ANo.10

まずは、原罪についてです。神学としてと言うより私の個人的捉え方ですけどね。

自由、平等が守られていれば罪はありあせん。
しかし、原罪はあると思うんですね。

私がこうしているのは、生まれ、屍を食らい、教えられ、各種選別(試験、面接など)を通り、利を貪っているからです。
知らず知らずに合法的排他をやっているんですね。
それは、悪いことではありませんが、他を虐げています。

連帯性は、自分が属するテリトリー内と外に境界線があります。
家庭内外、会社内外、国内外、人類内外(ネアンデルタール絶滅、
養豚)等々・・テリトリーの外側をどうしても浸食するんです。

存在しているんですから、他を浸食しているのは、当たり前なんですけどね。パラドクスの種がもうここにあるんです。

で、人間存在は、われ思うが故にわれありというやっかいな荷物を
持ってしまっているので存在の罪≒原罪が際だつんだと思っています。

そこで登場するのがまさに
《理性を超えたところに位置づけるものではあるが 
それとして理性の産物である神》ですね。
神は、神を思うその人間の最も外側にある内部存在になりますね。

そして、パラドクスからメタパラドクス。
いずれにしても、気づいたら、原罪を犯していて楽園を追放されていた。
その犯す前に犯すことを制止する意思があると言えないし、
理性がハッキリし、明晰であればあるほど罪深い。

そうなんですね。
>自己意識を伴なった《楽園の住人》はいるか?
自己意識を持っている人が楽園に行くことはできるのですが、
入り口で自己意識を置いていかないと入れないということでしょうね。

「われわれは原罪を犯せしや?」
われわれは結果として原罪を犯したことにはなってるんだけど、
犯したとき「われわれ」はギリギリいなかった。

ということになりはせぬかと・・

投稿日時 - 2009-06-22 12:26:18

補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。

 bananasand さんの倫理思想は きびしいものですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  私がこうしているのは、生まれ、屍を食らい、教えられ、各種選別(試験、面接など)を通り、利を貪っているからです。
 知らず知らずに合法的排他をやっているんですね。
 それは、悪いことではありませんが、他を虐げています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 合法的排他
 ☆ の事例として 上の中では
 ★ 利をむさぼる
 ☆ だけだと思うんですけれど? 言いかえると bananasand さんは 敬虔すぎますよ。きびしい信仰に立っていらっしゃるのですね。
 そして――なまぐさなわたしとしましては―― 
 ○ 利のむさぼりに対しては 等価交換を原則とする。もしくは 双方の合意によって取り決めをおこなうのを原則とする。
 ☆ ことによって 上辺でつじつまを合わせています。

 これは 合法的な排他ないし搾取を隠そうとするためではなく 社会全体の仕組みがそのようであって その仕組みに対する人びと総体としての合意にもとづくものだと見るからです。
 つねに綻びがあるのですし 一般に社会力学上の力関係によって いわばどうにでも法律がつくられるとするなら この合法的な犯罪行為が絶えないという事態をも常に見ようとしているのですが その社会的な不正と罪について 倫理的に・もしくは信仰において 罪悪感なり原罪を覚えるかと言えば わたしは 希薄だと告白せざるを得ません。
 ただし 《うそ・偽り》については 原罪と見なします。つまりは 等価でないのに等価交換と偽っている場合や相手が片寄った情報しか知らないのをいいことにして合意を取りつける場合には 原罪の問題だと考えます。

 言いかえると 個人的に直接かかわる事態や問題については うそがあれば罪を感じるけれど 社会総体の中における関係性としての・つまり仕組みとしてのむさぼりについては 罪悪感を感じません。
 むしろそれについては 人びとがそれぞれ支え合っていくという姿勢において 言うとすればゆるし合うのであるし いわば弁証法過程として一段高いところに揚げてみなで保つのだと考えています。

 以前 毒ギョウザ事件を話題にしましたが うやむやにせずにまた狭い一角に閉じ込めないで社会総体にとっての問題として捉え合うことを通じて 問題を保ちつつその解決方法を考えていく。つまり言いたいことは やはり話し合いだという意味です。(中国が応じないのでしょうか)。
 この問題にしても こちらは被害者であってさえ 経済活動の周り回っての関係過程としては その商品ごとや流通段階のさまざまな分野ごとに 《むさぼり》の問題が発生しているはづであり だとすれば毒を注入した犯罪人だけを咎めることで終わるとも言えない側面があるように思われます。
 合法的なむさぼりとすでに違法行為であるそれとは違うのですが そのことを承知しない人をも相手にしていかねばならないでしょう。合法性が 力関係によってつくられているとすれば造反有理だと訴えるかも知れません。CO2の問題にしてもそうではないでしょうか。

 違いが浮き彫りになったと思います。すすめてまいりましょう。
 * 理性の神は 信仰の神を理性(ことば)で捉えたそれと同じように 一般に上に立つ側がその主張を通すために利用する想像の産物であり偶像です。アイドルを介在させると 話がうまく運ぶということでしょうか。

投稿日時 - 2009-06-22 13:37:25

ANo.9

原罪とは人間が感じる「罪悪感」の事です。言い方を替えたなら「漠然とした不安」と言う事です。もっと言うならば自分の死が迫ってきた時の「恐怖感」と言っても言い過ぎにはならないかと思います。

貴方の考えている原罪とは何の事でしょうか?

投稿日時 - 2009-06-22 07:43:28

お礼

 tumaritou1 さん ご投稿をありがとうございます。

 わたしは 以前の名前が bragelone でした。いまその名前は noname#80116 になっています。この名前に覚えはありませんか? 
 tumaritou1 さんからは数回わたしの質問にご投稿をいただいていますが つねに回答内容としては明確ではありませんでした。言っていることが明確でないのではなく 質問趣旨に対する答えとして はっきりしなかったわけです。そのつどわたしは その点について指摘しております。
 そういう事情もひとこと今回にあたっても お伝えいたします。
(かいつまんで申せば けっきょくすべてを症状に結びつけて神経ないし精神の病気の問題として捉えることが先行しています。言いかえると すでにご自身の関心のある問題とその答えが自分なりにあって その内容にすべてをあてはめて 投稿なさるという難点です)。

 さて今回は 補足要求ということですが これは解せません。
 ○ 神・アダムとエワそしてイエス
 ☆ この言葉があって 《原罪》と言っているのですよ。
 もしそれでも分からなければ――と言いますか このクリスチアニスムに関心がうすい場合でも まったく構わないのですが ですから分からなくても―― ひとつには これまでの質疑応答を読んでみるという手があります。じっさいわたしも質問趣旨を追って説明してきています。
 もう一つには 同じことですが 趣旨説明の中に 参考にしてくださいと その箇所が明記してあります。そのわたしの文章によって 相当程度 必要な趣旨説明が得られると思います。
 ぜひそのようにしてください。

投稿日時 - 2009-06-22 08:27:59

ANo.8

追伸02
☆ 《ルシファーら悪魔連中や放蕩息子連中》 これらは わたしである。
● 同意。過去の私自身、現在の私自身あるいは未来の私自身であるかもしれない。常に自戒ですね。

 ☆ と現在のわたしたちは 一人ひとりそれぞれが 宣言する。互いにこのことを認め合い 内面において処理する。存在を愛し 悪を憎む。その悪を棄てる。内面において棄てる。――その物語を互いに文学としても哲学としても扱っていく。
● 同意できますね。

☆(1) 神は人間に その自己同一性を裏切りうるところの自由意志を与えた。
● 同意。
☆ (2) つまりは 原罪を犯すであろう存在として――それを見越して――つくった。これを へびや悪魔のしわざの所為にするわけには行かない。
● 確かに自己責任の原則ですから、たとえ惑わしが存在したとしても惑わされるのは自身のせいであるという意味で同意。
☆ (3) だからその原罪を消すために――原罪を犯す以前の存在を回復させようとして―― イエスを送ったというのは あまりにも弁解がましい。
● イエスは救世主ですから愛の回復(人々がその心に積み重ねた原罪の消滅)のために送り込まれたことは認めます。自由意志を与えたがゆえに生じた問題解決のためにそうせざるおえなくなったといっても言い過ぎではないように思います。でもそれも神の愛なんでしょうね。
☆ (4) ゆえに 第一のアダムと第二のアダム(つまりイエス)とのあいだの歴史は 原罪にかかわる箇所としては 無きに等しい。
● チャラにしたですね。同意。
☆ (5) イエスは 神の愛を――非思考において持たれるものとして ただし人間には実現不可能のこととして しかもその人間に神の愛がはたらくなら その形で実現可能なこととして――指し示した。
● 同意。
☆(6) ほかに 《復活》の命題があるが この愛(つかみどころがないので 霊・聖霊と呼ぶ)のことを伝えただけでじゅうぶんだ。
● 同意。 
以上、私の思考論理過程は網羅されていると思います。

投稿日時 - 2009-06-21 12:57:07

お礼

 mmky さん ご回答をありがとうとございます。

 さらに別の角度からも批判を受けることを期したいと思いますが ここまで同意をいただけたというのは 驚異です。ありがとうございます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (3) だからその原罪を消すために――原罪を犯す以前の存在を回復させようとして―― イエスを送ったというのは あまりにも弁解がましい。
 ● イエスは救世主ですから愛の回復(人々がその心に積み重ねた原罪の消滅)のために送り込まれたことは認めます。自由意志を与えたがゆえに生じた問題解決のためにそうせざるおえなくなったといっても言い過ぎではないように思います。でもそれも神の愛なんでしょうね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 言葉として《同意》がいただけなかったのはここだけですね。おそらくは
 ★ でもそれも神の愛なんでしょうね。
 ☆ のもとに 論理的には 神のイエスによる救済は 最初の人間をそのように救いを必要とするかたちに作った上でのことであれば 弁解がましく聞こえます。ということのように思います。けれども
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (4) ゆえに 第一のアダムと第二のアダム(つまりイエス)とのあいだの歴史は 原罪にかかわる箇所としては 無きに等しい。
 ● チャラにしたですね。同意。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということであれば 結果として同じことになるようにも思います。(すべては 人間の論理思考のみの話です)。

 さて一般化・共同化できるでしょうか? 

投稿日時 - 2009-06-21 14:48:05

ANo.7

>パラドックスではないメタパラドックスがあるかも知れないからです。

信仰が教祖を離れ教義となったときに一定の限界が発生せざるを得ないため、
ストーリー、メルヘン、寓話などを用いて、教祖が伝えようとした本質を
指し示すため、結果として巧妙なメタパラドクスが構成されることになった
ということでしょうか。

>たとえば《うそをつく》とき われわれは心に多少とも やましさを感じます。これが原罪だと考えます。

やっぱりキリスト教音痴のためか元がずれていました。

人は、他の死や犠牲の上に成り立つ、罪深い存在であって、
これは、やましさの前に自分と他との分離から始まると思っていました。

自他の意識のない幼児は楽園の住人でしょう。この子はこの子から見てどこにもいません。空腹や不快で泣き叫んでいてもこの子はいません。
この子が「自分がある」のだという思いを抱いたとき、このエワちゃんは楽園から追放されたと思うんですね。

この原罪を犯すまで、エワちゃんはいなかった・・
つまり、自分というものが「いる」のであれば、そのために犠牲になった
ものへのやましさがあるということです。

だから、イエスをとおして詫び、祈りが必要なのだと思っていました。

やましさを感ずべき思考なり行動が無ければ原罪とならないのでしょうか。
逆質問・・おっと、補足要求です。

投稿日時 - 2009-06-21 11:28:55

補足

 bananasand さん ご回答をありがとうございます。補足要求としてでも 推論を進めてくれますので 過程的なご回答です。

 二点 わたしが基本と考えることがらを述べ直してみます。
 まづ自然としての誕生のあと訪れる 意識における自己の誕生に関してです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自他の意識のない幼児は楽園の住人でしょう。この子はこの子から見てどこにもいません。空腹や不快で泣き叫んでいてもこの子はいません。
 この子が「自分がある」のだという思いを抱いたとき、このエワちゃんは楽園から追放されたと思うんですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ 物心が着く(≒自他の意識を持つ)前の幼児は 心にやましさも感じないゆえ 言わば《楽園の住人》である。
 ☆ この前提に立って
 ○ 物心が着いたとき(≒《「自分がある」のだという思いを抱いたとき》) すでに《うそ》の問題を知っているか? つまりは 《このエワちゃんは楽園から追放された》と言うべきか?
 ☆ 言いかえると
 ○ 自己意識を伴なった《楽園の住人》はいるか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >パラドックスではないメタパラドックスがあるかも知れないからです。

 信仰が教祖を離れ教義となったときに一定の限界が発生せざるを得ないため、 / ストーリー、メルヘン、寓話などを用いて、教祖が伝えようとした本質を / 指し示すため、結果として巧妙なメタパラドクスが構成されることになった
 ということでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こうだと考えています。つまり
 ○ もともと信仰=非思考=《無根拠のなぞに対する受け容れ》がひとに起こって これが経験現実つまり歴史に対する言わば目に見えざるパラドクスに成っていた。
 ○ この信仰が 言葉に表わされ教義となったとき つまりは目に見えるパラドクスが現われたのであるから 非思考の信仰は メタパラドクスの方面へしりぞいた。
 ○ しかも この依然として目に見えないメタパラドクスは とうぜん存続しているのであるが いわゆる理性の優位を唱える思潮のもとでは 省みられなくなっている。
 ○ この点でひとこと付け加えるとすれば プラトンにおいてすでにイデアという《理性を超えたところに位置づけるものではあるが それとして理性の産物である神》が現われていた。


 あと 次の点について 考えるところを述べてみます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人は、他の死や犠牲の上に成り立つ、罪深い存在であって、
 これは、やましさの前に自分と他との分離から始まると思っていました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このように表わされた思想は 別様に或る種の倫理学として存在するものと思います。
 たぶん神学としては 緩衝材がひとつ差し挟まれていると考えます。それは 善行悪行あるいは罪などを問わず人の思惟やおこないは その一人の人間において・つまりはその自由意志の振る舞いにおいて 完結しているという見方です。
 さらに言いかえると この独立した意志自由の公理において ひとは社会性をかたちづくり互いに関係性を持つ。つまりは 自由の互いによる尊重であり いわゆる平等性だろうと考えます。
 この自由と関係性とは ひとりの存在にそのまま共存していると捉えますが 互いに他を侵食するまでには到らないとも見ます。一方で ひとは
 ★ 他者の死や犠牲の上に――関係性の側面における限りで――成り立つ罪深い存在である
 ☆ のですが この罪深さが 自由意志によって独立しているその存在の固有性を傷つけることはなく まして葬り去ってしまうこともないと考えます。
 親子兄弟あるいは夫婦でも 一方で連帯責任という考え方もとうぜんのように当てはまるという見方もあるのですが 他方では基本的に 一人ひとりは それぞれの自由つまり責任において生きていると考えます。そのようにして堂々と生きていると見られます。
 またそれゆえにも 関係性において助けあうことができます。責任の連帯性を引き受けるまでに 互いに 平等を目指します。

投稿日時 - 2009-06-21 12:46:08

ANo.6

 ☆ その《悪魔連中》の為すことをゆるしているのは 神でしょう? やはり神がいちばんいぢわるです。

● そうきましたか。確かにそのようにも見えますね。
神は人間に自由意志を担保して創られた。それをひたすら守っているように思えるのですが。私はそれが神の愛の証と取りますね。
よほどだめになると神ではなく地球自身の反作用(天変地異)が生じて何もかも綺麗さっぱり無くなるという、例えばソドムやポンペイの出来事のようになると思えますね。
ソドムの時はロトが神の警告を伝えてますし、ポンペイでも大災害の10年ほど前に警告としての地震があったようですね。
そう考えると、神は耐えてるとしか思えないですね。悪魔連中にだまされた放蕩息子も、地球の反作用による粛清にも何とか救いたいと思ってるのではないでしょうか。
おっと悪魔連中でさえ放蕩息子連中でしたね。放蕩息子の筆頭はルシファーですね。
悪魔連中は無し。地獄(煉獄)にいる人霊は無し。といえばたちどころに消えてしまう存在ですが、私の知るところでは地獄にいる霊でさえ60億もいますよ。地上人口は約60億ですから、同じぐらいの数の放蕩息子や娘が瞬時に消えてしまうということですね。
何のために人霊を創造したのかわからなくなってしまいますね。
誰しも長い転生で一度は地獄にごやっかいになってると聞いてますから、その都度消せば地球人口はもっと少なかったのではなかったでしょうか。天使しか残らず7万人、あるいは7千人ですか。
いくらなんでもそりゃないでしょうと思いますし、産めよ増やせよの神がそんなことを望むわけもないかと。

投稿日時 - 2009-06-21 09:52:33

お礼

 mmky さん ご回答をありがとうございます。

 まづ
 ☆☆ 七千人
 ☆ と書いたのは エリヤの時の光の子らの数です。現在何人なのか知りませんが ちょうどそれに応じた数の人たちが 子どもたちをいぢめるバール神には耳を貸さないで 今は今でいるであろうと考えた結果です。

 二点 問題提起です。
 ○ 《ルシファーら悪魔連中や放蕩息子連中》 これらは わたしである。
 ☆ と現在のわたしたちは 一人ひとりそれぞれが 宣言する。互いにこのことを認め合い 内面において処理する。存在を愛し 悪を憎む。その悪を棄てる。内面において棄てる。――その物語を互いに文学としても哲学としても扱っていく。
 (名前は それを規定して物語を進めれば分かりやすいという限りで なお残るかも知れません)。

 ★ 神は人間に自由意志を担保して創られた。それをひたすら守っているように思えるのですが。私はそれが神の愛の証と取りますね。
 ☆ (1) 神は人間に その自己同一性を裏切りうるところの自由意志を与えた。
 (2) つまりは 原罪を犯すであろう存在として――それを見越して――つくった。これを へびや悪魔のしわざの所為にするわけには行かない。
 (3) だからその原罪を消すために――原罪を犯す以前の存在を回復させようとして―― イエスを送ったというのは あまりにも弁解がましい。
 (4) ゆえに 第一のアダムと第二のアダム(つまりイエス)とのあいだの歴史は 原罪にかかわる箇所としては 無きに等しい。
 (5) イエスは 神の愛を――非思考において持たれるものとして ただし人間には実現不可能のこととして しかもその人間に神の愛がはたらくなら その形で実現可能なこととして――指し示した。
 (6) ほかに 《復活》の命題があるが この愛(つかみどころがないので 霊・聖霊と呼ぶ)のことを伝えただけでじゅうぶんだ。

 どうでしょう?
 (がけっぷちを歩きつつ 述べています)。

投稿日時 - 2009-06-21 10:34:56

ANo.5

全体が大きなパラドクスにあるとも言えるし、アダムとエワが象徴する状態から原罪を導いているとも取れますね。

そして、原罪を犯す主体が楽園に真に存在しえたのかという疑問ですね。アダムとエワは楽園にいたのでしょうか?そんなことがありえるのでしょうか。
ありえるなら、はたして、原罪を犯し神に背いたとしても楽園から一歩も外に出ていないのではないでしょうか。

つまり、「われわれは、原罪を犯せしや?」という犯す前の我々が主体的に存在していたととは言えないということですね。
だから、原罪とわれわれは不可分であって、「われわれ」の消失とイエスを通して詫びることが同じにならないと原罪は消えないでしょう。

原罪を犯したわれわれが罪を償って、われわれが残り、楽園へもどるなんてことなど有り得ません。と思ってます。

>けちょんけちょんになるまで述べてくださるよう願います。
聖書をザッと目を通しただけでキリスト教音痴の私には上述の感想めいた記載が限界です。

投稿日時 - 2009-06-21 07:04:01

補足

 bananasand さん この件でも期待申し上げます。特に
 ★ キリスト教音痴の私
 ☆ なる方がたにも 絶対音感を持っておられる方がたと同じように――勝るとも劣らず同じように―― 何ものにも縛られない自由なご発言をいただきたいと願っています。神学の伝統ないし公式見解に挑もうとしています。
 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 全体が大きなパラドクスにあるとも言えるし、
 ☆ これですね!! 
 ○ 初めの人たちが わたし(=神)に背いた。その基本的な罪をつぐなうには 原罪以前の状態に戻って身代わりにならねばならない。それに合う人間はもういない。
 ○ 原罪を犯す以前の自然本性を保つ人間 もしくはそれ以上の善である存在が 身代わりになった。つまり神の独り子が わざわざ人間になってこれを実行した。
 ☆ というのであれば このイエスの歴史上の出現は もしアダムとエワに原罪という事件がなかりせば 必要でなかった。通俗的に言えば 《初めに自分で火をつけておいて あとでやはり自分で消火活動をおこなう》つまりいわゆる《マッチポンプ》ということになります。

 悪いこともおこなえば良いこともおこなう人間の本流としての歴史があります。その脇に いまのこのマッチポンプの物語をパラドックスのごとく置いてみた。ということではありませんか? というのが質問趣旨です。
 質問の中に趣旨説明を述べようと思ったのですが 長くなることを恐れてやめました。というのも 上のような物言いだけを提起しても まだどうもしっくり来ません。
 歴史の街道の脇道にパラドックスを敷いたという問題ではなく そうではなく そのような経験事物としてのパラドックスではないメタパラドックスがあるかも知れないからです。非経験・非思考としてのメタ物語は つまりは信仰として なお生きていると考えるからです。
 早くいえば マッチポンプの物語は 非思考=つまり信仰の神を 狭く狭く人間の理性という枠組みの中に押し込めようとしているのではないか。これです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 つまり、「われわれは、原罪を犯せしや?」という犯す前の我々が主体的に存在していたととは言えないということですね。
 だから、原罪とわれわれは不可分であって、「われわれ」の消失とイエスを通して詫びることが同じにならないと原罪は消えないでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たとえば《うそをつく》とき われわれは心に多少とも やましさを感じます。これが原罪だと考えます。うそに伴なうやましさを味わう前のわたしは 《主体的に存在していた》か?
 ★ 「われわれ」の消失
 ☆ という意味がよくわからなかったのですが それは
 ○ 原罪を犯したわたし(つまりその意志行為)が 元のわたしに戻る
 ☆ ということでしょうか? それには
 ★ イエスを通して詫びること
 ☆ が必要だということでしょうか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 原罪を犯す主体が楽園に真に存在しえたのかという疑問ですね。アダムとエワは楽園にいたのでしょうか?そんなことがありえるのでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 幼いときわれわれにものごころが着くのは おそらく 《うそに伴なうやましさ》を感じる前にも出来るでしょうから そのぶん 主体的に生きるというのは 子どもとしての限りで出来ていると言うべきでしょうか?

投稿日時 - 2009-06-21 09:35:45

ANo.4

☆ という大胆かつ傲岸な見方なのです。
● ちょっと大胆すぎますね。

○ 原罪は むろん人間が犯したのですが そうさせたのは神だという物言い
 ☆ なのです。

● それは困りましたね。アダムとエバの逸話の焼き直しは後のエリアとバール信仰の逸話でしょう。アダムとエバはエデンの東に追放ですが、バール信仰の坊主たちはカルメル山で焼き殺されてますね。アダムとエバをそそのかしたのはサタン(サーペント)、追放したのはお怒りの神、一方バール信仰をそそのかしたのはサタンの手下のベルゼベフ、打ち滅ぼしたのはお怒りの神ですね。これらの例から見れば、そうさせたのは悪魔連中となりますね。人間をそんなにやわに作ったのが神だとしても実行犯は悪魔連中でしょう。

○ 原罪を犯させてごめんなさいという詫びを 神は イエスをとおして人間に伝えた。
 
● 生け贄の子羊という意味で原罪と関連づけてるのでしょうか、常識的には神の一人子の死は親の感情からして悲しいものですし、旧約聖書のなかでも長男を生贄にと望んだ神もいましたが結果は羊にしてますよね。つまり子供を生贄にしたことは一度もないですよね。神だって子供を生贄にはしないはずですね。じゃだれがということですが、ご本人が予言の成就を望んだのか、悪魔がやらせたとしか思えないですね。

と思いますがどうでしょうね。

投稿日時 - 2009-06-21 03:33:34

お礼

 mmky さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ● ちょっと大胆すぎますね。
 ☆ 驚かれましたか?

 ● ・・・人間をそんなにやわに作ったのが神だとしても実行犯は悪魔連中でしょう。
 ● ・・・じゃだれがということですが、ご本人(* =神)が予言の成就を望んだのか、悪魔がやらせたとしか思えないですね。
 ☆ その《悪魔連中》の為すことをゆるしているのは 神でしょう? やはり神がいちばんいぢわるです。

 わたしは思うのですが どうもこの
 ○ 悪魔・サタン・へび・ベルゼブブ・バアル等々
 ☆ を人間と悪行とのあいだに介在させること これをやめよと神は言っているのではないか。こう思われてなりません。しかもさらに もうわたし(つまり神じしん)のことは 言葉にも出すなと言っているとしか思えないのです。
 エリヤのように いちいち神のちからを証明するような振る舞いは もう要らないと 人びとよ 知りなさい。肝に銘じなさい。口にも出して言いなさい。こう言っているのではないでしょうか?
 まぼろし? 幻聴? でしょうか。七千人には聞こえているのではないでしょうか?

投稿日時 - 2009-06-21 08:58:42

ANo.3

ユダヤ教のアダムとエバの作った原罪はイエスがチャラにしたということですね。
それはそれでよいと思いますね。
さて、そこでですが、イエスに石を投げ、罵倒し、十字架に掛けた多くの罪人達(実行犯及び教唆)の原罪は誰が償うのでしょうかという疑問が残りますね。
これは、イエス再誕まで持越しでしょうか。それとも父がでて「sin no more」と言わないとなくならないのでしょうか。
もし、イエスあるいはその父が再誕して、また同じように迫害され屠られた場合、ナザレのイエスの時に作った原罪はなくなりますが、新たな原罪が発生しますね。つまり同じことの繰り返しになりません。
歴史は繰り返すのが諺ですからそれでもおかしくは無いと思います。ただそれでも、最初の仮説に一定の疑問が生じますね。
さてそれはいかがしましょうや?

投稿日時 - 2009-06-20 20:59:52

お礼

 mmky さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ユダヤ教のアダムとエバの作った原罪はイエスがチャラにしたということですね。
 それはそれでよいと思いますね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ mmky さん じつは ずばり申しますが これがこれでよいとは見ないという仮説を思いつきましたという内容なのです。
 ですから そのあとに問うておられる疑問とその課題とは微妙に方向も違ってきています。
 どういうことか? 
 ○ 原罪は むろん人間が犯したのですが そうさせたのは神だという物言い
 ☆ なのです。
 ○ 原罪を犯させてごめんなさいという詫びを 神は イエスをとおして人間に伝えた。
 ☆ という大胆かつ傲岸な見方なのです。

 むろん人間は 人間どうしで うそをつき罪を犯します。しかもこれらの
 ○ 人間の互いに犯すこれらの間違いと過ちとは 自分たちの自治において 罪の共同自治としておさめるものだ。
 ☆ という見方です。
 こてんぱんにやっつけてください。批判をお願いします。( 別に M ではありませんので 反論も致します。わたしが納得のいくまで お尋ねしてまいります)。

投稿日時 - 2009-06-20 22:23:35

補足質問にお答えします。この世界は仮の世界なので、始めと終わりがあります。だから仕切りなおしですから、終わりが来ると、それぞれの元の世界へ帰ります。脳は脳の世界へ、人は神の世界へ帰ります。2012年の予言は今ブームになっています。

投稿日時 - 2009-06-20 20:18:57

お礼

 eyasi2012 さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。 
 ★ 2012年の予言は今ブームになっています。
 ☆ これには 《知りません》とお答えします。それ以外にお答えのしようがないでしょう。

 ★ この世界は仮の世界なので、始めと終わりがあります。
 ☆ 《仮りの世界》というよりは 移ろい行きやがて朽ちると知っている世界なのだと考えます。そして前回ふれたように 物語としては 新しい天と新しい地の展開があるかも知れません。

 ★ だから仕切りなおしですから、終わりが来ると、それぞれの元の世界へ帰ります。脳は脳の世界へ、人は神の世界へ帰ります。
 ☆ たぶんこの有限の世界そして有限の人生を わたしたちは一人ひとり 固有の時空間としてその動態を生きているのでしょうね。
 このいまは限りある存在を生きていくことをとおして みづからの固有時を実現していくなら そのとき 永遠の現在を生きている。のであるからには そのまま新しい天と地との世界に入っていくかも知れません。
 そういうふうには考えますが なぜわざわざ
 ★ 脳は脳の世界へ、人は神の世界へ帰ります。
 ☆ というふうに《終わりの到来》やらをつうじて 《元の世界に帰る》やらを想定してくるのでしょう?
 もし物語を持ち出すなら 
 ▲ 夜中に盗人が家に押し入るように その《とき》は来る。
 ☆ のではないですか? どうでしょう。

 ★ 仕切り直し
 ☆ という考えは みづからが固有の時空間を生きていないゆえにこそ現われ出てくるものではないでしょうか? 

 そういう永遠の現在という・通俗的に言わば充実感が得がたいという思いは 
 ○ 原罪とその意識
 ☆ の問題がかかわっているのではないでしょうか。そのように考えたものですから この質問をお訊きしました。

投稿日時 - 2009-06-20 20:49:14

正しいと思います。神が意図的にした事と思います。なぜかというと、神の子である人は、不調和を調和に変換する使命で、天国、神の世界から地上、仮の世界の地球に来ました。そして不調和世界の脳の自我と、合体しました。しかし今では人は、自分は脳の自我だと思っています。本当は神の子なのに、しかしいよいよ2012年、仮の世界も終わり、神の子は使命を完了して、脳の自我を分離して、神の調和世界へ帰ります。

投稿日時 - 2009-06-20 13:43:20

お礼

 eyasi2012 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 正しいと思います。神が意図的にした事と思います。
 ☆ そんなに簡単に OK を出していただいても とまづ思いました。

 ★ なぜかというと、神の子である人は、不調和を調和に変換する使命で、天国、神の世界から地上、仮の世界の地球に来ました。
 ☆ まづこれは おおむね一般的な理解でもありますね。
 ★ そして不調和世界の脳の自我と、合体しました。
 ☆ 肉(精神および身体)に宿ると言いますね。《絶対なる調和》と《相対的な調和》とが 同時に一人のひとに存在するというところでしょうか。

 ★ しかし今では人は、自分は脳の自我だと思っています。本当は神の子なのに、
 ☆ 《神の独り子》ではないけれども 《かれを長子とする〈光の子〉であり それとして神の子ら》であると物語られています。
 ★ 脳の自我
 ☆ というのは 要するに 《相対的・時間的ゆえに移ろいいく朽ちるべき調和》というところでしょうか。物語にさらに《復活》がありましたが いまは措いておきましょう。

 ★ しかしいよいよ2012年、仮の世界も終わり、神の子は使命を完了して、脳の自我を分離して、神の調和世界へ帰ります。
 ☆ ご質問になります。
 (1) 神の独り子は もうすでにこの地を去って行って しかも復活したとうわさされ そのあと聖霊を 父とともに送ってくれたのではないのですか?
 (2) 《新しい天と新しい地》と言われるのは この地上が 《調和世界》になることなのではないでしょうか?
 (3) だとすれば 相対的な調和としての《脳の自我》をも包み込んで 新しい人間として登場するという筋書きではないのですか?
 (4) その《とき》は 人間には分からないのではないですか?
 いかがでしょう?

投稿日時 - 2009-06-20 14:25:28

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