こんにちはゲストさん。会員登録(無料)して質問・回答してみよう!

解決済みの質問

関係の絶対性

 についてそれがどういう事態を言うのか これを問い求めます。
 
 【Q:去る者は追わず 来る者は拒まず】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5294596.html
 のやり取りを経て この題目のことばにたどり着きました。去って行った者について 追わないことを原則としますが 離れた状態にあるときそれでも 互いの関係は絶対性のもとにある。のではないか? そういう問いです。

 この言葉は 吉本隆明のものです。
 ▲ 関係の絶対性
  http://shomon.net/ez/yosi/1955.htm
 ☆ マチユ書つまりマタイによる福音書についての評論の中で出てくるようです。クリスチアニスムと同時に 革命論にもかかわっているもののようです。

 この吉本の議論を交えても交えなくてもいいですので お考えになっているところをおしえてください。
 いまわたしが考えているところとしましては こうです。
 (α) 共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。
 ☆ というふうな理解です。存在論になるでしょうか? どうでしょう?

投稿日時 - 2009-09-23 00:26:06

QNo.5311248

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

>《絶対者=神》のことを想定していますか? 

いいえ。違います。ここで、対象とは、相手であり、自己以外のあらゆる対象です。
無論、自己は対象を見て聞いて触れて知り得たつもりになりますが、
それをやっているのは、自己であり、
対象が対象を対象としているように、あるいは、神が対象を対象としているように
知ることは決してできません。あくまでも、自己が対象を対象としているようにしか
知り得ません。
これでは、対象を知ったことにはならず(不可知、知の限界)、自己を対象に反射させている
にすぎません。この性質も自己内部の「関係」が絶対性を帯びる所以でもあります。


あとは、おっしゃる通り、《独立》、自由意志、責任、は孤独そのものの性質です。

へそ曲がりの謳歌は、こういったスタテックな話しではなくて、もっと具体的で
揺れ動くダイナミックな態様だと思います。

投稿日時 - 2009-09-23 22:28:35

お礼

 そうですね。そうでした。つまり
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >《絶対者=神》のことを想定していますか? 

 いいえ。違います。ここで、対象とは、相手であり、自己以外のあらゆる対象です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この対象たる相手は いわゆる《他者》のことでした。その他者について こちらは自分と同じ部分については分かるが 違う部分については分からないという視点ですね。なぞにもつながります。
 ★ あくまでも、自己が対象を対象としているようにしか / 知り得ません。
 ☆ したがって 断絶を見ることになるし むしろ断絶ゆえに関係しあう要因をおのづから持つことになる。断絶ゆえに 自由であり互いに対等になれるのかも知れません。

 ありがとうございました。
 k_jinen さん(No.2)のところで持ち上がったのは コミュニケーション論でした。コミュニケーションの断絶を超えてどのようにつながるか・かかわっているか。これは 広すぎますかね。かれの投稿をもう少し待って そのあと締めます。
 《もっと具体的で揺れ動くダイナミックな態様》についても 設問を改めたほうがよいでしょう。
 ただし 補うことなどありましたら どうぞお伝えください。
 あらかじめながら 導いてくださってありがとうございました。

投稿日時 - 2009-09-23 22:51:22

このQ&Aは役に立ちましたか?

9人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

回答(52)

ANo.52

 早速のご回答いただきまして、どうもありがとうございました。

 現時点で、論点とすべきところは、”民主主義”なるもについて と思っております。
 つきましては、愚生の方向と致しましては、以下の3つがございますが、(1)はbananasand様ご自身のものですし、また愚生も本日回答をお寄せしようかとも考えていたのですが、最近はお読みになられていないようでしたので、ご遠慮させていただきました。
 (2)につきましては、個人ー組織の点からも興味深いテーマかと考えておりますので、明日にでも、回答をお寄せできればと思っております。
 なお、(3)でございますが、せっかくですから、ある程度一段落つくまでお付き合い頂戴できればと思っております。

(1)bananasand様が立てておられるご質問にお付き合いさせていただく方向。

(2)本日立ち上げられましたbragelonne様のご質問に、愚生が参加させていただく方向
http://dell-support.okwave.jp/qa5364088.html 

(3)このまま、民主主義論に絞って対話を続けさせていただく方向

 急変更となりましたが、もう少し継続させていただければ幸甚でございます。

 それでは、ご検討の程よろしくお願い申し上げます。

投稿日時 - 2009-10-14 01:07:08

お礼

 Hidocchi さん 文句も異論もまったくありません。
 ぜひ そうなさってください。 

 お早うございます。(その後就寝とあいなりました)。

 自由か平等かの質問については これまでの回答者の回答では変な言い方をすれば行き詰っているようですから あたらしい風が吹くといいのかなとは思います。

 どうぞどうぞ。

投稿日時 - 2009-10-14 06:51:23

ANo.51

 夜分恐れ入ります。Hidocciです。

 No.7の回答欄にて、bananasand様の回答にて、いったん変更される予定だったのですね。愚生と致しましては、少し、気が引けていたところもございました(bananasandも中々深い考えのお持ちの方のように見受けられました)。

 つきましては、新しく、設問設定の方向に向けてくだされば、幸いでございます。

 それでは、よろしくお願い申し上げます。

 Hidocchi拝

投稿日時 - 2009-10-13 23:11:55

お礼

 お答えいただきありがとうございます。

 いえいえ 吉本隆明に触れていただきありがたかったのです。
 
 そうですね。ひとつには いまちょうど bananasand さんが出しておられる質問
 【Q:自由か平等か】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5343872.html
 これも民主主義論です。

 そして 個人の信仰と集団としての宗教 およびそれにまつわる民主主義社会のあり方――言いかえると 良心・信教の自由と表現・結社の自由との兼ね合い―― この問題を別の質問にてわたしは問うています。

 先の戦争での詳しい事例を途中で打ち切ったかたちになってしまったのは わたしが終結の方法の問題として捉えてしまったからです。たとえば パールハーバー襲撃のあとほどなくして降参すればよかった。というような考え方で だいたい足りるのではないかと早合点したことが 原因です。

 これはたしかにペンディングですので そしていま挙がっている質問では 戦争関係は薄いですので ここでいま一たび続けてみましょうか? どうでしょう?
 もう一度ご判断をあおぐかたちで恐縮ですが どうでしょう?

投稿日時 - 2009-10-13 23:30:29

ANo.50

ご返答いただきまして、誠にありがとうございました。Hidocchiです。

> 神話の語る歴史的なスサノヲのことなんですが あたかもそのスサノヲ類型にあてはまる人間がいるとすれば どの時代であってもその人をも含めたいと思います。

 承知致しました。

> アマテラスは なんとも分かりにくい人物です。政治的人間という言葉を思い浮かべさせますが 当たっているかどうかは分かりません。

 愚生は、知人に(厳密にはその知人の友人のフランス人)、「昨今見られる社会保険庁の不祥事が、もしフランスで起こった場合、とんでもない大暴動が起こるだろう。なぜ、日本人は怒らないのか?」と聞かれましたが、回答に窮してしまった経験がございます。「相手が圧倒的存在の場合、ひとは絶望して無抵抗になってしまう傾向があるのかもしれません。」そして、「痛みに耐えろ! のスローガンの下、(いきなりKOではなく、徐々にジョブを決められるように)弱っていってしまったのかもしれませんね。」等、適当に答えるしかございませんでした。未だに理由は分からずじまいでございます。

>  ☆ という次元の問題としましては 《奪われ得ない》とも考えるからです。社会的な無力に追いやられることと人間の自然本性としての良心の自由等が剥奪されることとは どうも別だと考えるからです。

 申し訳ございませんでした。前回の愚見を見直したく存じます。以下の考えの方が正しいかと考えらますし、また史実もそうであったかと思われるからでございます。
 「実際問題として 相手(つまり主人)の言うことの範囲で自由を謳歌する奴隷の自由に陥るということもあるのですが そのときにも 内面における信教の自由が消滅するということはないと考えております。」

 意見を等しく致します。(毎回、少しマニアックな史実で申し訳ございません)
 以下に、その例を挙げてみたいと思います。
(1)キリスト教が禁じられていた頃の隠れキリシタンの”オラショ”
 
 ----- オラショとグレゴリオ聖歌とわたくし 皆川達夫 -----

 上記サイトでは、今なお”オラショ”の幾つかは、伝承されているようです。確かに、奴隷状態ではなかったのですが、自由はかなりの制限が課されていた時代であったかと考えております。

(2)奴隷下における黒人による”黒人霊歌”
http://hakusanglee.web.fc2.com/reika.html 
 他国(アメリカ)のはなしでございますが、奴隷として連れて来られた黒人の歌でございます。ただ
、宗教は白人(主人)と同じキリスト教でした。ですが、様式等は白人のものとは異質のものであった
かと思われます(おそらく、教会も別々であったかと思います)。

黒人霊歌「All my trials」の最後の部分です。
Trials(試練)は虐げられた“黒人達の人生”を指すと考えています。

If religion were a thing That money could buy(もしも信仰が金で買えるものだったら)
Then the rich would live. And the poor wooul die(富める者は生きながらえ、貧しい者は朽ちるの
でしょう)
All my trials Will soon be over(主よ、我が試練(=命)ももうすぐ終わります)

黒人霊歌「Swing Low, Sweet Chariot」の最後の部分です。
Home(故郷)は天国を指すと考えています。

The brightest day that I can say,(最も人生で輝かしい日)
Coming for to carry me home,(故郷へと運んでおくれ)
When Jesus washed my sins away, (神が私の罪を全て拭い去ってくれたとき)
Coming for to carry me home. (故郷へと運んでおくれ)

 これらの歌詞からも、内面には、強い信仰心が見て取れます。

> これもそれも 問題は 日本人の復活が課題です。アマテラス圏の人びとは割り合いに自由ですでに復活を果たしているかも知れませんが スサノヲ一般市民のよみがえりです。いわば万葉集のルネサンスは成るか。こういうふうにも(こういう方向にも)捉えております。どうでしょう?
 
 「スサノヲ一般市民のよみがえり」の件でございますが、愚生は”ある意味では”よみがえってはいるかと考えています。ただ、その方向性については幾分問題があるとも考えております。
 まず、「痛みに耐えろ!」と叫んだコイズミを絶大に支持したのは、日本国民だったかと記憶しております(結局、最貧層の方達の首をさらに絞めることになってしまったのですが)。しかも、コイズミ批判をしていた政治評論家 森田実(愚生とは必ずしも意見が一致するとはいえませんが)を視聴率が下がるとの理由から、テレビ放送から外そうとしたのも、電通という私企業でした。その当時、コイズミを支持した経済学者も幾人かはいました。ですが、彼ら経済学者達も今では、昔とは別人のような発
言内容となっています。
 これらを鑑みますと、確かに“よみがえり”はしたかもしれませんが、その動機は単に閉塞感からの開放といった マイナス要因からの回避といったものだったように見えました。
 愚生も、日本国民の一人として、プラスの(建設的)方向性を持った国民のよみがえりを切に望んでおります。ただ、愚生を含め、スサノヲ市民が、民主主義なるものについて、もう少し理解・思索・反省を要するかと考えております。

 ご一読いただきまして、誠にありがとうございました。

投稿日時 - 2009-10-13 21:18:14

お礼

 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。
 腰の据わったご発言のようにお受け取りしました。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「スサノヲ一般市民のよみがえり」の件でございますが、愚生は”ある意味では”よみがえってはいるかと考えています。ただ、その方向性については幾分問題があるとも考えております。
 ・・・(中略)・・・
 これらを鑑みますと、確かに“よみがえり”はしたかもしれませんが、その動機は単に閉塞感からの開放といった マイナス要因からの回避といったものだったように見えました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とおっしゃるからには わたしたちは よみがえりの入り口に立ったと まづは良い方に採りました。
 ★  愚生も、日本国民の一人として、プラスの(建設的)方向性を持った国民のよみがえりを切に望んでおります。ただ、愚生を含め、スサノヲ市民が、民主主義なるものについて、もう少し理解・思索・反省を要するかと考えております。
 ☆ たしかに《民主主義》の問題であると言ってよいかとわたしも考えます。インタムライスムという方向をわたしは考えていますが 宣伝になるので いまは控えます。

 スサノヲ市民が アマテラス公民のちゃらんぽらんな振る舞いに対して 最終的な暴動を起こさないのは どうも 《くにゆづり》という歴史にあるかも知れません。
 とにもかくにも譲ったのですから 口が裂けても返してくれとは言えません。力づくで相手を倒そうとするのもかないません。思想内容を別として 例のフェビアン主義のごとく気の長い――と言っても まだ千五百年ほどですが――歴史的な関係性(からみあい)において 民主主義を模索しているのかも知れません。
 ほかの国々では 《 A - S 》連関が回転( revolution )しつづけていますから わが国はちょびっと社会事情の伝統がちがうように思われます。

 けっきょくお話はここからが佳境に入るということのようですが どうしましょう? まづは この質疑応答で言い足りなかったこと・補っておきたいことなどありましたら 書きこんでいただいて そのあと再出発をどうするか考えましょうか? どうでしょう?

投稿日時 - 2009-10-13 22:18:35

ANo.49

 こんばんは、Hidocciです。

> 特にあの戦争についてなどあんなにご存じなのに 水を差してしまったようです。

 かえって、気を使わせてしまい、誠に申し訳ございませんでした。余りマニアックになってしまいますと、論点がかえってずれてしまうと予想したためでございます。この場をお借りし、お気遣いに対しましては、厚くお礼申し上げます。


>でも 戦争終結の方法の問題や 兵士たち一般は優秀であったという問題について見解の方向を同じくしていただいてありがたかったです。

 敬愛しておりますbragelonne様と、かような込み入った話で、同意がえられたことは、 愚生にとりましても光栄でもございます。
       

> 良心・信教の自由を唱え 唱えつづけたと言えるかも知れません。髭が 胸先に伸びるまで 泣いていたと言います。イヅモの国では この心の問題は 自由に人びとの生きるに任されたと いささか甘く見ておきます。そうして オホクニヌシの服属以後 この思想・表現の自由も 今度はすべて 主宰者である姉のアマテラスのもとに 管理されるようになったという歴史であり現実です。
このとき 問題は ひとことで 日本人は 自由であるか。人間の自由を持つか。持っていたか。

 もし、良心・信教の自由が奪われていたとすれば、「自由」なるものは持っていなかったと解しております。理由は、”脅迫”による契約等は原則、私法では無効かと存じますが、良心・信教といったレベルともなりますと、そうした域を逸脱していると考えられるからでございます。もし、これらが完全に奪えわれたとしますと、その民族はその中核をなす”精神性”にまで影響を受けてしまうからでございます(自己の本性に従うこと=「自由」という定義からでございます)。


> 服属要求という表現行為に関して それは 自由のもとに成り立った有効であるのか それとも すでに相手の自由を拘束しようとするゆえ 無効であったか。無効の表現行為に対して譲歩したということであれば そのゆづる側は なお自己の屈服という表現行為にも有効性を保持しており その人びとは 自由であると考えられるか。

 こういう課題にいきつくと思うのです。

 確かに、愚生のような門外漢にも、この論理展開は理解出来ます。


> しかも 新しい憲法のもとの戦後民主主義の社会にあって わたしたちは この《伝統》の自由を謳歌することができていると言うべきでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ○ スサノヲは自由か? あるいはむしろ 
 ○ どうしてスサノヲひとりだけが自由なのか?

 誠に、恥ずかしい限りなのですが、スサノヲ=新憲法下におけます(2階部分の1階に住居している)日本国民と捉えるべきでしょうか。それとも、ご説明いただきました神話のスサノヲのことなのでしょうか? 愚生にはついていけなくなってしまいましたため、ご教示いただければ幸甚に存じます。

 ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2009-10-10 17:40:33

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ スサノヲは自由か? あるいはむしろ 
 ○ どうしてスサノヲひとりだけが自由なのか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この問いを取ってつけたように出してしまったようです。これは 神話の語る歴史的なスサノヲのことなんですが あたかもそのスサノヲ類型にあてはまる人間がいるとすれば どの時代であってもその人をも含めたいと思います。
 どうもこの姉弟の関係は 分かりづらいところもあるようです。そもそも姉アマテラスは すでに初めにあたかも主宰者であるところから存在が始まっておりそのあと私生活を持つかに見られます。
 スサノヲが長いあいだ泣いていたあと これでは何にもならないからわたし(スサノヲ)は亡き母のところに行こうと決めてその旨をアマテラスに言って去ろうとしたところ アマテラスは スサノヲが自分の領地を奪いに来たらしいと思ったと書いてあります。
 ただしそのあとスサノヲが神の宮の前庭に糞をしていったりとかしたい放題をしても 何もとがめなかったのです。天の岩屋戸からアマテラスが出て来てからスサノヲを咎めて追い払ったのは 取り巻きのほうでした。
 アマテラスは なんとも分かりにくい人物です。政治的人間という言葉を思い浮かべさせますが 当たっているかどうかは分かりません。

 この神話の語るところは どうもかなりの程度で日本社会の成り立ちを物語っているように思うものですから しきりに例として引き合いに出すのですが まづ(1) スサノヲは 哲学的に理想であるかどうかを別として どこまでも自由であると思います。その印象を与えます。
 (2) オホクニヌシのくにゆづりは 無力である社会的身分の状態を露呈したが人間の主体性としての自由にとって有効を保ったのではないか。これは
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もし、良心・信教の自由が奪われていたとすれば、「自由」なるものは持っていなかったと解しております。理由は、”脅迫”による契約等は原則、私法では無効かと存じますが、良心・信教といったレベルともなりますと、そうした域を逸脱していると考えられるからでございます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とおっしゃるように 自己放棄のごとく取り返しのつかない行為であるかにも思われます。そうなのですが 
 ★ もし、これらが完全に奪われたとしますと・・・ 
 ☆ という次元の問題としましては 《奪われ得ない》とも考えるからです。社会的な無力に追いやられることと人間の自然本性としての良心の自由等が剥奪されることとは どうも別だと考えるからです。
 実際問題として 相手(つまり主人)の言うことの範囲で自由を謳歌する奴隷の自由に陥るということもあるのですが そのときにも 内面における信教の自由が消滅するということはないと考えております。
 早い話が 面従腹背というごとく 二枚舌――逆二枚舌――を使っているということもあり得ます。

 尻切れトンボになってしまいましたが これもそれも 問題は 日本人の復活が課題です。アマテラス圏の人びとは割り合いに自由ですでに復活を果たしているかも知れませんが スサノヲ一般市民のよみがえりです。いわば万葉集のルネサンスは成るか。こういうふうにも(こういう方向にも)捉えております。どうでしょう?
 
 * 万葉集は 過半のうたは無名の人びとによって歌われたものですから そういう方向のことです。たとえば ブログ万葉集!?

投稿日時 - 2009-10-10 18:35:02

ANo.48

 ご返答いただきまして、誠にありがとうございました。Hidocchiです。

> そうですね。ここまで来ると 詳しい話(研究成果)の問題になろうかと思われます。
 誠に申し訳ございませんでした。確かに細かいところは、現時点でも見解が分かれるものもございま
すので、でしゃばり過ぎたと思っております。深くお詫び申し上げます。

> まづ
 ★ やはり、“無責任体質”、“社会秩序の形成・維持の困難さ”なるものがあるように見受けられ
るのですが、
 ☆ という点でわたしが身を置いた情況についてですが ひとつだけははっきりしています。《批判》はまったく歓迎しますし そのときから歓迎でしたということです。
 信頼関係は築けず対話にもならないといった情況については憂えましたという事情だけをお伝えしました。

 《批判》を受け入れられる姿勢には愚生も感服しております。ご承知の通り、愚生は新参ものでございますので、事情は把握しきれていないのですが、今に始まったことではないのですね。一般に、ひとは閉塞感、飢餓感等に襲われた際には、“私刑”なるものをしてしまう傾向が高いと聞いたことがあるのですが、経済状況等とは全く別個のものなのでしょうか?それとも、偶発的・集団的なものなのでしょうか? 差し支えのないところで結構でございますので、お教えいただければ幸甚に存じます。
 実際、ご存知のことと思われますが、特定のご質問者様(カトリック教徒の方と思われます)を確実に攻撃対象としているひとも見られ、こういった状況は余り気持ちのいいものではございません。

> 固有名詞よりは イリ歴史知性派(ミワ系)とヨセ(またはタラシ・ワケ)超歴史知性派(カワチ系)とに分けたいと思います。
 あらためて統一が果たされたのは 天智天皇とその弟の天武天皇との戦いの結果ではないでしょうか。六七二年(壬申)の乱を経てということのようです。天武天皇はスサノヲ圏の人びとに気を配ったようです。イリの系譜に立つのですが もはや国家という二階建ての社会構造は 存続することになりま
した。

 詳細なる解説を賜りまして、どうもありがとうございました。神道につきましては、愚生も勉強したいと思っております(既に、ショッピングサイトの「お気に入り」に入れさせていただきました(笑))。


> すなわち主戦論を採用して戦いに入るなら 出口戦略をもあらかじめ考えておいて欲しかった。これです。戦争終結の見通しと その仕方についてです。

 仰られますように、悲惨な終戦だったかと思っております。日露戦争のときのアメリカのように、ソ連(不可侵条約締結国)を仲介役にしたかったようですが、むしろ逆に裏切られる立場となってしまいました。そのときの外交能力もやはりまずかったと考えております。確かに、もう少し現実的な出口戦略を考案しておくべきだったかと考えております(原爆を2発も落とされるとは、、、)。


> むろん戦争について詳しく述べてわたしを説得なさるという場合には その必要性がおありなのだと思いますので お願いしたいと思います。わたしがやめてくださいというものではありません。

 日露戦争時の国民・軍人、また、日露戦争程ではないにしても あの戦争の一部の国民・軍人には知力、精神力両面において優秀な人達がいたということを申し上げたかっただけでございます。従いまして、あの戦争につきましては、とりあえずはペンディングとさせていただきたく存じます。


> ★ ・昭和のあの戦争時の日本人
 ☆ につきましては 明治からの立派な人間もいたであろうが あたかも悪貨は良貨を駆逐するというかのように かき消されてしまったかも知れません。どうでしょうか?

 昭和14年、ソ連とのノモンハンでの戦いでは、ソ連軍のジューコフ将軍は、「日本軍は兵士下士官は勇猛果敢で有能、前線指揮官は平凡、そして高級指揮官や参謀たちは無能」と評したそうです。実は、同じ感想は太平洋戦争で日本軍と戦った米軍の将軍たちも抱いた、といいます。悪貨に駆逐されてし
まった感がございます。

 ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。厚くお礼申し上げます。

投稿日時 - 2009-10-08 22:43:42

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 Hidocchi さん どうもわたしは遠慮を強いてしまいましたね。特にあの戦争についてなどあんなにご存じなのに 水を差してしまったようです。でも 戦争終結の方法の問題や 兵士たち一般は優秀であったという問題について見解の方向を同じくしていただいてありがたかったです。
 ★ あの戦争につきましては、とりあえずはペンディング 
 ☆ ということに一たんさせていただくなら 《関係の絶対性》の社会歴史的なあり方の点で わたしの見方をあらためてお伝えして ひとまづまとめとするか それとも ふたたび共同探究に入るか決めていただこうかと思いました。
 わたしの弱点である具体的な歴史論を避けるようにしてですが 基本的な日本社会の成り立ちをめぐってになります。
       
 ○ (日本における歴史社会的な《関係の絶対性》)~~~~~~~~~
 伝えられるところによりますと その昔 オホクニヌシは その祖であるスサノヲの築いたイヅモ(スガの宮)の国を 植林に励み 医薬(薬草)の開発に精を出して人びとと共に営んでいたところ アマテラス国から使者を受け 服属せよと要求されるに至りました。

 何度も来ました。数年 数十年にわたって 使者も入れ替わり立ち変わり来ました。その要求を受け容れたのは 二人の息子に相談し 何でも 腕相撲をして決めたとかでした。むろん海の沖合いでは 剣を突き立てていて それを背景にして談判に及んでいるという情況もありました。

 使者とのやり取りは省略します。主戦論も非戦論(和解従属論)も いづれも人間の弱さから発していると考えられ 要するに オホクニヌシは みづからの国を譲りました。果たしてここから どのような社会形成の理論が 得られているでしょうか。

 この《国譲り》のあと 隷属とも言えるような踊りを踊っても見せたのですが この《譲歩》は 自由な主体性・主体の自由を守ったと言えるか これも問題点です。
 わたくしは 言えるという立ち場です。それは 自由な表現行為が 生命と存在を脅かす悪に基づいている場合・つまり無効であった場合 その無効としての自由が しかも現実に実効性を持って有力となった場合 そうだとしても それは やはり無効だと見ることができると思われるからです。服属の要求という自由な表現行為は けっきょく 無効であると考えられます。
 韓国併合は 自由な表現行為として 有効でしょうか。相手も すべて自由のもとに交渉した結果 成り立ったというべきでしょうか。現在の世界観としては 無効だと考えられます。

 ゆづる側は したがって 無力の・有効としての自由を保っていると。

    *

 ところが さらにその昔 オホクニヌシの先祖であるスサノヲは 自らの役割として課された海原の統治を嫌がり 泣きどおしであったと言います。いっさいその役割を分担せず おまけに田んぼの溝を埋めるわ畔を開け放つわで 統治者アマテラス(かれの姉ですが)に対して嫌がらせばかりをしていたと言います。
 アマテラスが ついに 天の岩屋戸へ雲隠れをするに到ったり あるいはこの姉と弟は その前には 互いに心の清きを争って賭けをもしたりしたと言いますが 要は スサノヲの悪行が極まって かれは爪を剥がされたりしながら追放されたという経過が 過去にありました。アマテラスの国を追いやられたスサノヲは イヅモに来て 自らのところを得るということが成り やがてオホクニヌシの歴史に受け継がれたわけですが そういう過去のいきさつが 問題になって 尾を引いていたようです。
 
 問題は スサノヲに任された海原の統治というのは 結局 死者の祭祀を司るということだと考えられます。スサノヲは――いま 推論が貧弱ですが――これを嫌って泣いてばかりいたのですが それというのは 宗教の自由を主張したものと考えられます。言いかえると 良心・信教の自由を唱え 唱えつづけたと言えるかも知れません。髭が 胸先に伸びるまで 泣いていたと言います。
 イヅモの国では この心の問題は 自由に人びとの生きるに任されたと いささか甘く見ておきます。そうして オホクニヌシの服属以後 この思想・表現の自由も 今度はすべて 主宰者である姉のアマテラスのもとに 管理されるようになったという歴史であり現実です。

投稿日時 - 2009-10-08 23:26:22

お礼

 このとき 問題は ひとことで 日本人は 自由であるか。人間の自由を持つか。持っていたか。

 服属要求という表現行為に関して それは 自由のもとに成り立った有効であるのか それとも すでに相手の自由を拘束しようとするゆえ 無効であったか。無効の表現行為に対して譲歩したということであれば そのゆづる側は なお自己の屈服という表現行為にも有効性を保持しており その人びとは 自由であると考えられるか。

 こういう課題にいきつくと思うのです。

 この自由論は 日本社会論そのものになるのではないでしょうか。おそらく自由についての認識論(いわゆる理論)だけによっては わたしたち日本人は満足しないと思われます。

 しかも 新しい憲法のもとの戦後民主主義の社会にあって わたしたちは この《伝統》の自由を謳歌することができていると言うべきでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ○ スサノヲは自由か? あるいはむしろ 
 ○ どうしてスサノヲひとりだけが自由なのか?

投稿日時 - 2009-10-08 23:34:09

ANo.47

ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

 まず、買ってながら、いままでの対話内容を整理しておきたく存じます。

・明治時代(日露戦争)時の日本人: bragelonne様、愚生共に、高く評価
・昭和のあの戦争時の日本人: bragelonne様( ); 愚生は、低く(少なくとも日露戦争に比し)評価


 そこで、《主戦論》、《非戦論》の2つの対応策がある。なお、記紀神話では、
・スサノヲ=ミワ系《非戦論》
・アマテラス=カワチ系《主戦論》

> 要は 《主戦論》と《非戦論》 このいづれかの方向のことだと考えます。

 さらに愚生は《主戦論》の中に、「戦争自体」と「各々の戦闘レベル」の2種類に分類させていただきたく存じます。
 愚生は、一旦戦争が開始してしまった場合、「戦争自体」の《非戦論》は不可能に近かったと考えております。一方、「各々の戦闘レベル」では、回避は不可能ではなかったと考えております。
(1)インパール作戦
 ハッキリ申し上げますと、非現実的な戦闘であったかと考えております。
・出兵:約9万人、
・戦死者:約3万人(戦時中という極限下では、決しておかしくはない数字かと考えております)、
・疫病・餓死等:4万人(戦闘になっていないかと考えられます)

 この数字をみても明らかに作戦自体に無理があるものと推察しております。
 理由は“兵站”の無視、牟田口の無謀が原因であったかと考えておりますが、どうして、このような無茶な作戦が実行されたのかは、牟田口の独断的要素が高かったと考えております。また既に仰るとおり、日本の旗色が悪い状況となり、一発逆転を狙ったものも含まれると考えております(これは、東条の考えで、「うまくいけば」という希望的観測のものと思われます)。    

 ですが、
(1)どうして、牟田口中将という1人物により、このような無謀な作戦が実行に移されたのか?(寺内元帥等、さらに階級の上のものがいたにも関わらずにです)
(2)明らかに、作戦は失敗に終わりましたが、立案者であり、現場の指揮者であった牟田口はどのような責任を取ったか
でございます。

(1)につきましては、組織の脆弱性、そして上層部の無責任さに起因するものと考えております。寺内元帥も「よきにはからえ」の一言だけだったそうです。また同僚の河辺中将も「牟田口くんがやりたいなら、やらせてあげたい」だったとのことです。当時の陸軍上層部では、単なる、“お友達同士の集まり”であって、軍隊としての組織自体が成り立っていたかどうかは非常に疑わしいと考えております

(2)牟田口中将自身は、自身に責任が無かった旨を強調する冊子を配布し、一切の責任の放棄をしました。また戦争の転換点となった“ミッドウェー作戦”におきましても、山本大将(後元帥)は部下の失敗には不問に帰しました。作戦戦訓研究会すらも開かれませんでした。無責任体質なるものがまかり通っていたと推察しております。これは現在とほぼ変わらないかと思っております。

愚見: 確かに、各々の戦闘では、ある程度、《非戦論》の主張はなされたと思いますし(インパール作戦の“兵站”担当者は猛反対でした)、実際取りやめになったものもあろうかと思います。あの戦争におきましては、個々の戦闘は取りやめになりうることがあっても、少なくとも、戦時中では、《非戦論》-「戦争の終結」に切り替えは不可能であったと解しております。そして、戦争が始まっている以上は、戦闘せざるをえないことも事実かと考えられます(勝か負けるかですから)。その各々の戦闘につきましては、強引に進める者もいましたし、逆に阻止されたりもしたかと考えております。


 一方天皇の責任に関してですが、上記戦闘は天皇により、阻止は可能だったかと考えられますが、各々の戦闘に対しては、天皇御自身は口をはさめなかったかと思います(一つずつの戦闘にまで、口を挿んでしまいますと、立憲君主制の危機となりかねないからでございます)。
 
> (3) 次のような立派な日本人がいたことが わたしの根拠です 
 ▲ (近藤道生:私の履歴書22 日経09・04・23)~~~~~~
 
 確かに、心に響く(訴えかける)美談でございます。

> ☆ 単純に言って 主戦論であったという推測が成り立ちます。

1945年2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して、国体護持のための早期和平を主張する「近衛上奏文」を奏上の件 → 東京大空襲はその年の3月10日であったことから天皇御自身には、緊張はなかったものと推察しております。またその後、すぐに鈴木貫太郎に首相になってくれるよう、天皇自らが嘆願したこともあり、少なくとも、《主戦論》ではなかったかと考えております。

> ★ つきましては、信頼関係・社会秩序を形成するのは、困難な時代になってきたとの思いがございます。
> ☆ これにつきましては わたしの人生はことごとく挑戦を受けて(=足を引っ張る勢力からの挑戦を受けて)その波風をしのぐために相手や世の中からはわたしが波風を立てていると思われじじつそのように取り扱われてきたという歴史です。いまに始まったことではない。とはお伝えしたいと思うのです。

 いつもお疲れ様でございます。愚生もお世話になっております。「挑戦」は結構だと思うのですが、“アラシ”はとても残念に思っております。

 ただ、bragelonne様におかれまして、理論家でもあり、ヒガミを受けたこと多かろうと思っております。ですが、これを一般市民における社会生活というものに置き換えればいかがでしょうか。やはり、“無責任体質”、“社会秩序の形成・維持の困難さ”なるものがあるように見受けられるのですが、

 ご一読いただきまして、誠にありがとうございました。

投稿日時 - 2009-10-07 20:00:18

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。ここまで来ると 詳しい話(研究成果)の問題になろうかと思われます。わたしは自信がありません。つつしんでそう申し上げざるを得ません。

 まづ
 ★ やはり、“無責任体質”、“社会秩序の形成・維持の困難さ”なるものがあるように見受けられるのですが、
 ☆ という点でわたしが身を置いた情況についてですが ひとつだけははっきりしています。《批判》はまったく歓迎しますし そのときから歓迎でしたということです。
 信頼関係は築けず対話にもならないといった情況については憂えましたという事情だけをお伝えしました。

 もう一点 おぎないます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そこで、《主戦論》、《非戦論》の2つの対応策がある。なお、記紀神話では、
 ・スサノヲ=ミワ系《非戦論》
 ・アマテラス=カワチ系《主戦論》
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしのほうで舌足らずでした。それは アマテラス公民圏の側で ミワ系=《非戦論》とカワチ系=《主戦論》とに分かれるという見方をしたほうがよいと考えます。また 固有名詞よりは イリ歴史知性派(ミワ系)とヨセ(またはタラシ・ワケ)超歴史知性派(カワチ系)とに分けたいと思います。
 応神ホムダワケ(その母が 神功皇后オキナガタラシヒメ)のときから ヨセ(人心を寄せる)なる思想が現われたという見方です。
 百年後 雄略ワカタケとそれに対するイリの系譜との対立があって これがともかく収拾すると 例の越前から出たという継体オホドが統一したということになっています。
 あらためて統一が果たされたのは 天智天皇とその弟の天武天皇との戦いの結果ではないでしょうか。六七二年(壬申)の乱を経てということのようです。天武天皇はスサノヲ圏の人びとに気を配ったようです。イリの系譜に立つのですが もはや国家という二階建ての社会構造は 存続することになりました。

 ★ 愚生は、一旦戦争が開始してしまった場合、「戦争自体」の《非戦論》は不可能に近かったと考えております。一方、「各々の戦闘レベル」では、回避は不可能ではなかったと考えております。
 ☆ この問題につきましては はじめに述べましたように詳細を論じるちからはもうわたしにはありません。一点だけ ずるいかたちになるかも知れませんが申し上げたいことは こうです。すなわち主戦論を採用して戦いに入るなら 出口戦略をもあらかじめ考えておいて欲しかった。これです。戦争終結の見通しとその仕方についてです。

 むろん戦争について詳しく述べてわたしを説得なさるという場合には その必要性がおありなのだと思いますので お願いしたいと思います。わたしがやめてくださいというものではありません。
 ちょっと肩透かしのようにお感じになったかも知れませんが だいたいこういったところではないかと思います。
 ★ ・昭和のあの戦争時の日本人
 ☆ につきましては 明治からの立派な人間もいたであろうが あたかも悪貨は良貨を駆逐するというかのように かき消されてしまったかも知れません。どうでしょうか?

投稿日時 - 2009-10-07 21:48:16

お礼

 おぎないです。 
 No.48のご回答の中で 次のお尋ねについて失念してしまいました。お応えしてまいります。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一般に、ひとは閉塞感、飢餓感等に襲われた際には、“私刑”なるものをしてしまう傾向が高いと聞いたことがあるのですが、経済状況等とは全く別個のものなのでしょうか?それとも、偶発的・集団的なものなのでしょうか? 差し支えのないところで結構でございますので、お教えいただければ幸甚に存じます。
 実際、ご存知のことと思われますが、特定のご質問者様(カトリック教徒の方と思われます)を確実に攻撃対象としているひとも見られ、こういった状況は余り気持ちのいいものではございません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とは言うものの しっかりとはつかんでおりません。
 後半の問題は たぶんそのひとのことだと思うのですが 《攻撃対象としてい》てもいいと言わざるを得ないでしょうから おそらくもっと気の効いた回答と言いますか批判を述べて欲しいと思っています。
 前半のほうですが 追い詰められ行き場のなくなった人間が過剰防衛と言いますか 逆襲するまでに到る問題。これはわたしも分かりませんので かえって推測によりますと 《そのひとによる》のではないでしょうか?
 経済状態や家族のあいだの人間関係やあるいはさらにほかの人間を巻き込むかどうかなどなどの要因が きっかけやその発生の形態にとって それぞれ原因となっているかと思いますが 《ひとによる》という要素も大きいかと推測しました。つまり 同じ原因を持ち同じような情況にあっても ひとによってどういう行動をとるかは違ってくるのではないか。こう考えました。―― さらに一般的な分析が待たれます。
 (澄みません。お茶を濁すかたちにて)。

投稿日時 - 2009-10-09 00:17:48

ANo.46

ご返答遅れまして、申し訳ございませんでした。Hidocchiです。


> わたしは結論としては 方向が決め手になると考えています。
> 要は 主戦論と非戦論 このいづれかの方向のことだと考えます。
> ☆ 取らなかったという見立てですから。あの戦争は 途中からでも《非戦論》に切り替えているべきでした。無駄死にが多すぎました。

 あの戦争におきましては、少なくとも、戦時中では、《非戦論》に切り替えは不可能であったと解しております。

 と申しますのも、1945年2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して、国体護持のための早期和平を主張する「近衛上奏文」を奏上しましたが、その目的のために軍部の粛清を求めましたが、昭和天皇に却下された経緯がございます(理由は「まだ早い」というものだったかと記憶しております)。
 また、最後の首相となった鈴木貫太郎(慶応3年生まれで、就任は77歳というご老体でした。収拾を付けることできる人は他にはいなかったのだと思われます)も、御前会議にて、いわゆる「聖断」をもって終戦にこぎつけましたが、僅か一票差で勝ったものでした。そして、“宮城事件”というクーデターが起こり、首相の鈴木、木戸幸一、平沼騏一郎らは暗殺のターゲットとなり、実際彼らの自宅は放火されてしまいました(その後、暗殺者から逃れるべく、鈴木は6回もの転宅を余技なくされています)。
つまり、玉音放送(天皇御自身の発表)を聴いても、このような有様でしたから、戦時中は《非戦論》を唱えるのは非常に困難であったかと考えています。もし、失敗すれば、間違いなく、軍部主導の内閣が出来上がり、さらに原始爆弾を数発見舞われようと、ポツダム宣言には妥協しなかったと思っています。

 なお、現在では、アメリカ流の「競争主義」なるものが、日本に浸透していると考えています。つまり、普段の仕事業務等におきまして、日本人は“競争・戦い”を余儀なくされている(《非戦論》を主張しづらい状況)かと思っています。つまり、直接殺されるということはございませんが、“競争”等に何らかの関わりをもたされているかと思われます(責任を取らされるのは、下っ端らの“トカゲの尻尾切り”かもしれませんが)。

 つきましては、信頼関係・社会秩序を形成するのは、困難な時代になってきたとの思いがございます。

 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2009-10-06 20:17:29

補足

 Hidocchi さん 積極的なご回答を寄せていただきありがとうございます。

 ★ つきましては、信頼関係・社会秩序を形成するのは、困難な時代になってきたとの思いがございます。
 ☆ これにつきましては わたしの人生はことごとく挑戦を受けて(=足を引っ張る勢力からの挑戦を受けて)その波風をしのぐために相手や世の中からはわたしが波風を立てていると思われじじつそのように取り扱われてきたという歴史です。いまに始まったことではない。とはお伝えしたいと思うのです。

 ★ あの戦争におきましては、少なくとも、戦時中では、《非戦論》に切り替えは不可能であったと解しております。
 ☆ もはや復唱もはぶき 用意しました三つの反論をそのまま掲げます。
 (1) 天皇が決意すれば出来たと推し測られる。次の二つの事実をもとにしてそう考えます。
 (2) つぎの(3)を含め明治人のような気骨あふれた人間で《非戦論》を唱えるひとは いくらでもいたはずです。ひとつの例を挙げます。
 ◆ (ヰキぺ:インパール作戦) ~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BD%9C%E6%88%A6
 ・・・大本営陸軍部は、1943年8月、第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の立案したインパール攻略作戦の準備命令を下達した。
 しかし、作戦計画は極めて杜撰であった。川幅約600mのチンドウィン川を渡河し、その上で標高2000m級の山々の連なる、急峻なアラカン山系のジャングル内を長距離進撃しなければならないにもかかわらず、補給が全く軽視されていることなど、作戦開始前からその実施にあたっての問題点が数多く指摘されていた。
 さらに牟田口は援蒋ルートの遮断だけでなくインド奥深くに侵攻することまでも企図していたとされ、この作戦の成否を一層危ういものにしていた。
 こうした問題点を内包していたことで、大本営から派遣されてきた竹田宮恒徳王が、「一五軍ノ考ハ徹底的ト云ウヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案」と評したように、当初はビルマ方面軍、南方軍、大本営などの上級司令部総てがその実施に難色を示したインパール作戦であったが、1944年1月に大本営によって最終的に認可された背景には、日に日に敗色が濃くなっていく戦局を一気に打開したいという東條英機の思惑が強く働いていた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (3) 次のような立派な日本人がいたことが わたしの根拠です 
 ▲ (近藤道生:私の履歴書22 日経09・04・23)~~~~~~
 相浦さんは土田さんにこう言ったという。
  ――来年の今ごろ 東京には米兵が充満しているだろう。この艦はいづれ おとり艦として撃沈される。志願してこの艦に乗り込んできた私は艦と運命をともにするが 君は内地に帰って我が国の行く末を見守ってくれたまえ。
 そして十六日深夜 台湾沖で雲鷹(=艦の名)は敵潜水艦の魚雷を受ける。艦橋で相浦さんは土田さんに
  ――これを持っておれ。俺は泳げるから。
 と言って自分用の救命胴衣を差し出した。土田さんは
  ――私も泳げます。
 と固辞し 救命胴衣を壁に立てかけて 艦橋を出る。
 翌十七日朝 ついに艦は沈み土田さんは六時間も荒波にもまれた末 味方の海防艦に救助された。
 私が聞いたのはここまでだったが・・・相浦さんの最期を目撃した生存者〔の証言〕。
 《艦長は 羅針盤を背にして 洋刀を持って直立され 主計長は 海図台の前に 戦闘服装に軍刀をついて 前方をじっと眺めて直立されていた(中略)艦橋における木村艦長と 相浦主計長の最期の姿は 神そのもののごとくでありました》。
 沈没の少し前 相浦さんは泳げない水兵に救命胴衣を渡し その命を救っていた。相浦さん二十四歳。凛とした覚悟に 思わず涙をぬぐった。
 * これはすでに次の質問でのやり取りに書いたものです。
 【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4883224.html
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 いかがでしょうか。昭和天皇が非戦論ではなかった。
 ★ と申しますのも、1945年2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して、国体護持のための早期和平を主張する「近衛上奏文」を奏上しましたが、その目的のために軍部の粛清を求めましたが、昭和天皇に却下された経緯がございます(理由は「まだ早い」というものだったかと記憶しております)。
 ☆ 単純に言って 主戦論であったという推測が成り立ちます。

投稿日時 - 2009-10-06 21:08:37

ANo.45

 ご返答いただきまして、お礼申し上げます。Hidocchiです。

 深い洞察を賜りまして、改めて深く感謝の意を述べさせていただきます。

> Hidocchi さんとは ずばり天皇制の点で考えがちがうかも分かりません。

 愚生も分類はしてございます(もし、誤解を招く表現をしていましたなら、深くお詫び申し上げます)
 (1)国民から直接・間接的に(民主主義的手続きにより)選任されるシステムと、(2)それ以外のシステムでございます(大部分の国には、過去には”建国に関与した神話”が存在したと思っていますが、現時点では国権(象徴も含みます)に関与している少なくなっていると思われます)。ただし、(1)のシステムを採用している国々でも、絶対者(神)との契約はなされているようでございます。例えば、米国では、大統領就任式では、聖書に手を置いて”宣誓”しますし、英国も歴代の王は教会で戴冠式を経ているかと記憶しております。
 愚見では、”神道”の理解不足も多分にございますが(この機会にでも、勉強したいと思っております)、原則、”神話としての記述”だけで十分かと考えております。

> ★ ”責任の取り方”というもの
 ☆ が確かに 大きな要因となったのではないかとわたしも考えます。腹をかき切るというのは いかにも日本人的なのですが 自由と責任は 信頼関係や社会のまとまりにとって 大きく作用するように思います。発言の重みあるいは果ては人格の整合性 これによって秩序というものが出来上がります。

 元来、日本人は忠誠心が高かった民族かと思われます(下記著作をご参照くださいませ)。

リヒャルト ハイゼ著「日本人の忠誠心と信仰」  内容(「BOOK」データベースより)
「本書は、日露戦争の数年前に来日し現在の一橋大学などで二十数年にわたって教鞭をとったドイツ人が、日本滞在中に深い感銘をうけた忠臣蔵や白虎隊悲話、日本人の信仰などについて書き綴ったものである。日本の近代化に寄与すべく来日したはずのドイツ人教師は、身を捨てて忠誠を尽くすサムライの物語や自我を否定する日本人の信仰に魅せられて、結局は病める西洋文明へのアンチテーゼをこの国で発見することになる―かつて日本にあった精神文化を生き生きと伝える異色の日本人論。 」
 これらの忠誠心の根底には、仰られますような要因があったのではないかと考えております。

> そしてふたたび戦後に目をやるのですが その昭和天皇の存在は これも二重の側面があるように思います。一方で 戦後の復興のために人びとのやはりまとまりを確保する要素となったかと思われるのに対して 
 他方では 戦争責任に関しては なんともあいまいな状態のまま時は過ぎて行きました。マッカーサーに向かってあれほど責任の所在を確認したのは ただの言葉だけだったのかとも思えるような一面が 国民に植えつけられたのではないでしょうか。二・二六事件で決起した一部軍人たちをしりぞける発言をしていますから 憲法上意志はないのだと言っても あまりそのままには受け取ることが出来なかったでしょうね。

 極東国際軍事裁判の映像をみたことがあるのですが、明らかにこの裁判では、天皇責任をあえて避けたものでしたし(共産主義化に対する防波堤としてそのまま存続させる という考えはGHQの意向だったようです)、また天皇責任の曖昧さは今もなおのこっているかと存じます(なお、愚生は、「天皇制維持派」でございます)。
 そこで、もしあのとき、昭和天皇が、現在の平成天皇に継承させる等、天皇制を残したままで、責任をおとりになられたら、現在ではどうなっていたのか とも考えたりもします。これはもちろん愚見ではございますが、かような無責任主義はまかり通ることはなかったのではないかと考えております。「あの昭和天皇ですら、御自身が進んで責任をお取りになられた。いわんや、、、、、」といった形ででございます。

> この――全面的にではないでしょうが――《無責任》は 《人生いろいろ 会社もいろいろ》《ちょっとくらい公約を破っても どうってことない》に到って頂点に達したのだと見られます。あるいはそのあたりで底入れをしたと言うべきでしょうか。

 「そのあたりで底入れをした」と ただただそれを願うばかりでございます。

> このあと 少なくとも明治人の心意気を回復することができればと願わざるを得ません。

 確かに、利便性は明らかに高くなったとはいえ、失ったものは大きかったと考えております。

> 戦後民主主義の開放感とそこからくるいい意味での諦観のさまよいも悪平等主義の浮かれ過ぎも もう醒めたでしょうから。
 
 今年の、5月4日(ほんの数ヶ月前のことかと思われます)の世論調査を以下に紹介させてもらっております(以下のサイトです)。
 なぜ????? 
 もうそろそろ醒めてもよさそうな気がするのですが.....

http://www.j-cast.com/2009/05/05040627.html

 ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。

投稿日時 - 2009-10-04 22:40:56

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。たぶん
 ○ 伝統
 ☆ これをどのように捉えているか。ここにかかっていると思われます。
 たとえば 《ルサンチマンの乗り越え》として記紀神話より引きました双子の兄弟(オホケとヲケ)は 第二十三代顕宗と二十四代仁賢の天皇ですが ミワ(三輪)系でして カワチ(河内)系と 思想が別だとわたしは捉えています。
 厩戸王(聖徳太子)は 蘇我馬子の崇仏派にあって 排仏派と呼ばれた神道派の物部氏を倒す戦いに身を置きました。そのあと 《和を以って貴しと為す》と言っています。カワチ系だと捉えます。
 そういう問題があると見ています。
 昭和天皇が どちらの系譜か分かりませんが マッカーサーに対して自己の責任を表明したのは事実だと聞いています。それだけです。

 ★ リヒャルト ハイゼ著「日本人の忠誠心と信仰」
 ☆ この種の本であれば たとえ読んでいなくても 紹介された記事を読んでいてもいいのですが これまで知りませんでした。赤穂義士と白虎隊を取り上げているようですね。
 わたしは結論としては 方向が決め手になると考えています。忠臣蔵の時代では この方向をどちらに取るかは まだ封建制の社会にあって無理だったかも知れません。白虎隊の時代に到れば もう少し開明派とでもいうべき考え方を持ち得たのではないか。こうも思います。
 要は 主戦論と非戦論 このいづれかの方向のことだと考えます。なぜなら アマテラス帝国から 服属の要求を受けて スサノヲの後裔のオホクニヌシらは いづれも人間の弱さからおこなう選択であると考え 非戦論を採りました。世に言う《くにゆづり》です。そして 推測ですが アマテラス=カワチ系 スサノヲ=ミワ系であると見とおしています。ミワ系のイチノべのオシハを暗殺したのは カワチ系の雄略ワカタケです。記紀神話に《大悪天皇》と書かれています。そういう問題が潜んでいると考えます。

 Hidocchi さんとは ここで大きく見解が分かれましたね。
 ★ 「あの昭和天皇ですら、御自身が進んで責任をお取りになられた。いわんや、、、、、」といった形ででございます。
 ☆ 取らなかったという見立てですから。あの戦争は 途中からでも《非戦論》に切り替えているべきでした。無駄死にが多すぎました。

 * 東京裁判には まったく触れていません。どうでしょう?

投稿日時 - 2009-10-04 23:30:15

ANo.44

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> やや弱気になっていらっしゃるかに映りましたが どうでしょう。

 イェドヴァブネ事件を思い出し、少しオセンチになっていたのかも知れません。ご心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした。


> 《日露戦争における上村彦之丞とリューリック乗組員救助》の中の話です。
 
 貴重な情報どうもありがとうござました。戦時中という極めて非人間性を課せられる状況にもかかわらず、”武士道”を貫いた史実には心に響くものがございます(著者の長谷川氏はこの本を自費出版されたそうですね。全くの驚きです!)。


> ☆ 司馬が言うには この日露戦争までの日本人は立派だったそうです。特に中国侵略と太平洋戦争時の日本人が異常であったと言います。
 どうなのでしょう。もし そうだとすれば どうして そうなったのでしょう。・・・

 確かに異なる部分は存在したかと考えております。以下に思いつく所を列記させていただきました。

(1)政治について
 日露戦争、もしくはそれ以前では、”元老”が実質的に実権を握っていたかと考えられます。そして国民自体も、元老の発言を天皇の言葉の代弁とみなしていたようです。日露戦争時では、幸運にも、責任感と能力のある”元老”が存在し、国の発展に寄与したかと思われます。(渡部昇一著「渡部昇一の昭和史」からです)
 また、軍人自体も「腹を決めて戦に挑めた」という側面も見られます。日露戦争終了時には、アメリカに仲介役を委ねることになりましたが、この実行を即座に移せたのも、軍上層部の責任の基に実施されたようでございます。おそらく、その当時では、「腹をかき斬って、責任をとる」という責任の付け方により、ケリがつけたように見受けられます。極端な話、自分が自決しさえすれば、それで終わりであるという(許されるという)慣習が残っていたかと思っております。
 ですが、五・一五事件以後になりますと、その”元老”も僅か西園寺1人のみとなり、さらに「五・一五事件「檄文」」では、「日本国民に檄す」として、この特権階級たる”元老”は逆に非難の的となってしまいました(西園寺は死ぬ最後まで(昭和15年逝去)、日米会戦には大反対でした)。おそらく、元老が1人という状況でなければ、こうした非難は発せられなかったことと推察しております。また、今の”責任論”にも顕著に見られますが、”責任の取り方”というものが非常に曖昧になっていたかとも推察しております。
 そしてさらに不幸なことに、この普通選挙制度を採択した結果(これは、これで異議のあることかと考えております)、選挙活動のために、”金権政治”が盛んとなりました(”イメージ戦略”は今も昔も変わらないようでございます)。これも国民の政治不信につがったようでございます(逆に、軍部支持に繋がってしまったようです)。

(2)国民について
 元来、日本人には、ある一定の”諦念感”といったものがあったかと思うのです(例えば、「生まれが異なれば貧富の差も当然異なる」といったものです)。 
 しかし、普通選挙を通して、民主主義が誕生しました。このこと自体は繰り返しになりますが、大変有意義なことと考えています。ですが、この民主主義のために(これは致し方ないことと思うのですが)、こういった不平等に対しても諦めるという風習が薄らいでいってしまった感もございます(平等主義の蔓延がこの主要因と考えております)。 


> ★ イェドヴァブネの闇 ―ユダヤ人虐殺とポーランド住民 勝瞬ノ介
 
 NHK放映前のブログなのですね。当時から静かではありましたが、注目する方もおられたのですね。愚生には、あのドキュメンタリーは生涯忘れられないものの1つかと思っています(1人の(加害者の)娘さんを中心に据え、映像化されていたのもその要因でああったかとも思っております)。


> ▼ 共同祭儀・秘儀をあばけ
 ☆ 吉本の言うのは 大嘗祭などの天皇の儀式のことなどのようです。天皇は 稲の霊と添い寝をするのだそうです。あるいは天の霊であるかも知れません。

 もし天皇の儀式・祭儀の根源部分にまで踏み込むとなりますと、これもまた、いやそれ以上に国民に虚無感を強いる可能性が高いかと考えておりますし、また”国民の分断”なるものも惹起してしまう危険性すら孕んでいるかと考えております(そもそも実証の可能性は少ないと思われますし、当然、確証部分が見つからなければ、分裂を招くだけかと考えているからでございます)。吉本氏の「支配体制に”残されている”共同祭儀・その秘儀をあばくべきだ」 → 「古事記」等の伝説(伝承)の記述で十分かと考えているのですが.....


> わたしは単純です。
 ○ 《スサノヲ( S )市民社会 ‐ アマテラス( A )公民圏》 連関制
 ☆ のその第二階に さらに《アマテラシテ Amaterasite / Amaterasitaet / amaterasity 》という元首・国王および天皇〔あるいは大統領〕という制度上の役割を位置づけて捉えることを主張するのみです。これが わたしにとって《秘儀をあばく》ことです。
 
 具体的な、ご教示をいただきましてどうもありがとうございました。
 連関性・関連性でしたならば、今後の日本の未来におきましても(関係性は、今後も絶対的に存在するからでございます)、益する所は大かと考えております。

 ご一読いただきまして、誠にありがとうございました。

投稿日時 - 2009-10-03 23:36:47

補足

 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。
 連日 勉強しております。ある程度は この質疑応答の場でこれまでにやり取りしてきた部分もありますが 歴史の具体的な推移につきましては それとして考えをまとめたりするようなことはして来ておりませんで 少しづつ深めていきたいと願っています。

 Hidocchi さんとは ずばり天皇制の点で考えがちがうかも分かりません。わたしは 一方で ほかの国の元首や国王や大統領と同じように市民ないし国民から得られている権威の部分(アマテラシテ)と 他方では 神話の不合理な要素ないしそれを拡大するかのような再神話化によってかもし出された権威とは 分けて捉えています。
 明治時代には 国民のまとまりがよかった(――西南の役のあと とにもかくにも 富国強兵でやっていかなくてはならないと人びとは覚悟した――)ということもあったでしょうか。戦後の高度成長期には 経済活動としてのまとまりが特にはよかったのでしょうね。 
 ご見解をお聞きして このような方面へ片寄って解釈をしてしまいましたが
 ★ ”責任の取り方”というもの
 ☆ が確かに 大きな要因となったのではないかとわたしも考えます。腹をかき切るというのは いかにも日本人的なのですが 自由と責任は 信頼関係や社会のまとまりにとって 大きく作用するように思います。発言の重みあるいは果ては人格の整合性 これによって秩序というものが出来上がります。

 そしてふたたび戦後に目をやるのですが その昭和天皇の存在は これも二重の側面があるように思います。一方で 戦後の復興のために人びとのやはりまとまりを確保する要素となったかと思われるのに対して 他方では 戦争責任に関しては なんともあいまいな状態のまま時は過ぎて行きました。マッカーサーに向かってあれほど責任の所在を確認したのは ただの言葉だけだったのかとも思えるような一面が 国民に植えつけられたのではないでしょうか。二・二六事件で決起した一部軍人たちをしりぞける発言をしていますから 憲法上意志はないのだと言っても あまりそのままには受け取ることが出来なかったでしょうね。
 この――全面的にではないでしょうが――《無責任》は 《人生いろいろ 会社もいろいろ》《ちょっとくらい公約を破っても どうってことない》に到って頂点に達したのだと見られます。あるいはそのあたりで底入れをしたと言うべきでしょうか。このあと 少なくとも明治人の心意気を回復することができればと願わざるを得ません。
 戦後民主主義の開放感とそこからくるいい意味での諦観のさまよいも悪平等主義の浮かれ過ぎも もう醒めたでしょうから。
 
 ★ イェドヴァブネの闇 ―ユダヤ人虐殺とポーランド住民
 ☆ これは NHKの映像が衝撃的だったもののようですね。加害者本人ではなくその娘さんでありながら 大きな後遺症のごとき結果をまねいているのですね。

 ひとは 評言を与えようとして こんなにも自分の田に水を引くかたちになるのかと 読み返して思ってしまいますが 対照させたと採っていただけるなら さいわいです。

投稿日時 - 2009-10-04 00:42:16

ANo.43

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> オホケは 行って 墓の一部分の土を掘り崩して 帰って来た。弟のヲケには そのような部分的な恥づかしめをもって 仇に報いたのだと説明した。ヲケも これを了解した。

 このような美談があったのですね。恥ずかしながら、今まで知りませんでした。それにしましても、本当にすばらしいですね。


・江藤淳の見解:いちばん大切なものとして 《社稷》を持ち出します。いわば《情感の共同性》から社会が成り立っていて その核とも言うべき意味で《社稷》の概念を持ち出しています。
 それに対して 
・吉本隆明の見解:きびしく それと対峙します。結果として 一たんは 日本の歴史伝統的な体制と自己との結びつきから 完全に自由なる《時間》を主張します。そのためには たとえば支配体制に残されている共同祭儀・その秘儀をあばくべきだと言い 
 それに対して社稷に拠る江藤は そうなると《全部終わり。つまり 人間社会が存続しなくなる と思う》と応えています。

 愚生にとりましては、考えさせられる問題でございました。
 なお、愚生は江藤氏を支持します。と申しますのも、突き詰めていきますと、「別段根拠のないもの(こちらは、虚無主義を導く可能性が高いかと思われます)」 or 「その時のお偉い人達が適当(都合よく)に作ったもの(価値を根本的に喪失させ可能性が考えられます)」、等が導かれ、今までその国民が持ち続けてきた価値観が、根本的に崩壊するかもしれないからでございます。
「そのあと どうなるかは 分からない。分からないまま そう求めた」→ 大博打は危険かと思われます(愚見でございますが)。
 
 一方、ヤーウェがモーゼに十戒を与えたように、”(確固とした)絶対者”がその名のもとに云々の“律法”なるものを与えた というのならば、逆に救われる可能性が高いと考えられますが。


> ☆ ポルポトの社会主義政権はひどかったですね。貧困者の天下になるというだけでは どうもうまく行かない側面があるようです。権力を握ると 狂気を起こしたのかと思えるほど めちゃくちゃ弾圧し次から次へと殺したようですね。先生だとか教養のある人間をです。
 確かに、教養のある方々(その後の教育を担う人達です)をなくしたため、当初はカンボジア復興は絶望視されたようでございます。ただ、どうして、その貧困者層の方達が一人の革命家ーポルポトに加担したか? ということでございます。諸説あるようでございますが、通説はないようでございます。

 愚生がNHKにて、考えさせられた事件がございました(ご存知のことかと思われますが、インパクトが強かったため、敢えて紹介させていただきました)。以下のサイトは人様のブログでございますが、感じ取った部分に共通したところがあったため、紹介させていただいた次第です。この事件では、 教養のある方々(本来ならば、虐殺を阻止する方向に働く人達)が、国外逃亡・退去してしまっていたことが、悲劇に拍車をかけてしまったようでした。
http://silvership.at.infoseek.co.jp/200209.html

 印象に残ったのは、
・ルサンチマンの連鎖が最終的には、最も弱者のところに吐き出されてしまったこと そして、
・自国の ある意味”恥”と見なされる部分を、勇気を持って、国家・国民がそれを公にしたこと でござます。


> じんるいの《前史》にあるかぎり 世俗的な《関係の絶対性》がはたらいているかに思われますが 
どうでしょう? 

 2階建ての構造は存在していたことは事実かと考えております。もしかしますと、《後史》にも《関係の絶対性》がただ単に、隠れているだけで、何かのきっかけけで大事件(大惨劇)として起こりうるものかとも考えております(ポーランドの件もそんなに昔の話ではなかったことからでござます)。

 もし、愚生の理解に、瑕疵等ありましたなら、ご指摘の程賜れば幸甚でございます。

 駄文お読みいただきまして、厚くお礼申し上げます。

投稿日時 - 2009-10-02 22:14:17

補足

 Hidocchi さん こんばんは。お答えを継いでくださってありがとうございます。
 思えば 《関係の絶対性》とは如何に? そして特には社会階級間の関係と言いますか しがらみ あるいは 雁字搦めのような絡み合い この主題からでしたね。

 やや弱気になっていらっしゃるかに映りましたが どうでしょう。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もしかしますと、《後史》にも《関係の絶対性》がただ単に、隠れているだけで、何かのきっかけで大事件(大惨劇)として起こりうるものかとも考えております(ポーランドの件もそんなに昔の話ではなかったことからでございます)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《後史》を言うのはわたしですが 後史もやはり過程でしょうね。そういうことで 《気がする》の問題ではあるのでしょう。気がするでよければ 前向きの明るい一面を引き出しておきます。
 《日露戦争における上村彦之丞とリューリック乗組員救助》の中の話です。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 出雲(軍艦)に収容されたリューリック乗組員の一ロシヤ将校が 
  ――艦内に飼われている小鳥は前々からここにありしか。
 と問うた。日本人通訳が 
  ――いやいやあれはリューリックの溺者を救助にいったものが 救い漏
   れは最早ないかと 救助艇をあっちこっち漕ぎ廻していると 浮いて
   いた板にあの小鳥がとまっていた。大海の中だし放って置いては 小
   さい翼では飛べまい。可哀そうだと捕えてきて ああして飼っている
   のだ。
 と答えると ロシヤ将校は涙をうかべ 
  ――あれは私の飼っていた小鳥でした。われわれは北海で奈古浦丸を撃
   沈して以来 金州丸・常陸丸・和泉丸と撃沈し 佐渡丸も破壊したの
   だから その報復を今こそ受けると思いの外(ほか) かくも優遇を
   うけつつある。日本人はどうしてかくまで義侠なのか。
 といい 神に黙祷を捧げた。
  (長谷川伸:『日本捕虜志』 上 (1)。昭和37年版 p.169
   山折哲雄〔および司馬遼太郎〕:『日本とは何かということ―宗教・歴史・文明』p.217より引用)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 司馬が言うには この日露戦争までの日本人は立派だったそうです。特に中国侵略と太平洋戦争時の日本人が異常であったと言います。
 どうなのでしょう。もし そうだとすれば どうして そうなったのでしょう。・・・
 ★ イェドヴァブネの闇 ―ユダヤ人虐殺とポーランド住民 勝瞬ノ介
 ☆ あぁ そうなんですか。ポーランド人は ドイツとロシアに挟まれて なんておとなしいのかと感じていましたが そういう事実もあったようなんですね。
 ★☆(要約) 弱者にしわ寄せ / 集団となるとおそろしい / あとできちんと調査・究明する
 ☆ とのこと。

 ▼ 共同祭儀・秘儀をあばけ
 ☆ 吉本の言うのは 大嘗祭などの天皇の儀式のことなどのようです。天皇は 稲の霊と添い寝をするのだそうです。あるいは天の霊であるかも知れません。
 わたしは単純です。
 ○ 《スサノヲ( S )市民社会 ‐ アマテラス( A )公民圏》 連関制
 ☆ のその第二階に さらに《アマテラシテ Amaterasite / Amaterasitaet / amaterasity 》という元首・国王および天皇〔あるいは大統領〕という制度上の役割を位置づけて捉えることを主張するのみです。これが わたしにとって《秘儀をあばく》ことです。
 あとは 《アマテラスとスサノヲとは 実の姉と弟である》とか《わたしたちの誰もが一人残らず いまあるのは 万世一系としてである》などのみです。
 〔アマテラシテは アマテラスを抽象名詞化したことばです。象徴ですから〕。

投稿日時 - 2009-10-03 00:06:49

ANo.42

 ああ、そうそう、駄目押しです。

 《アース役》ばかりでは、意味がないですね、電気を起こし、闇を照らす人もいてこその世界です。

 地味~な《アース役》は、質問者に適任です。才能、能力がないからこその、文字通り地面に接した底辺の役割です(もちろん嫌味です!)

 ☆☆☆ 終 了 ☆☆☆

投稿日時 - 2009-10-02 03:03:38

ANo.41

 ああ、それからもうひとつ、自分で愚生と名乗る理由が在るとすれば、それは

 自分が書いたことに万一間違いがあった場合、もしくは間違いが認められた場合(及び反論された場合)、愚生だから と、言い訳できるからですね、つまり基本的に「俺の書いた文章にオレは責任持ちません」と宣言している、浅ましく卑怯な人間?であると考えて、間違いないだろうと思います。

 ご参考まで。

投稿日時 - 2009-10-01 23:00:35

ANo.40

――――――――――――――――――――
 この質問に対する回答は締め切られました。 ?!?!?
――――――――――――――――――――


 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。

 確かに、ボールをキャッチさせていただきました(因に、愚生も基本的にはノンポリでございます)。

 また、bragelonne様のお元気そうな文章を拝見できまして、愚生と致しましても何よりでございます。

> 経験的な交通関係の複雑さは アマテラス( A )とスサノヲ( S )とのかかわりに限るものではないでしょうが 社会の構造からすれば だいたいこの《 A‐ S 》連関制に基盤を置くというように思われます。

 確かに仰るとおりかと考えております。

> 一般的なかたちで言って二階建ての社会が どんでん返しを繰り返すと革命、、、
 
 愚生の間違いかも知れませんが、例えば前の自民党におきましては、旧福田派は旧田中派に憂き目にあっていたかと思われます(1970年代のことでございます)。
 ですが、時が過ぎれば逆に立場がひっくり返り、旧田中(橋本派)が旧福田派(森派)により壊滅状態に追い込まれたかと思っております。つまり、”社会”ももちろんそうでございますが、もっと小さな集団、例えば”派閥”のようなものにまで、この「関係の絶対性」が及んでいるのではないかと思った次第でござます。そしてさらに、さらなる最小単位を考えていきましたが、、、、、やはり、「 孤独と孤立」の単位にまでは、及ばないよう察せられました。確かにこの吉本氏の文脈では少しきびしいかと認識致しました。
 
>《関係の絶対性》は 社会的な経験事象としてのそれよりも さらに・むしろ単純な《人間》どうしとしてのそれのほうが より基礎的であるようにも思えてくるような気がします。これは 気がするだけです。
 
 ただ、これは愚生の経験談でございます。個人同士(2、3人の友人同士等でございます)の関係ではとても良好で、それら友人とも結構深い考察を交えたりもし、また関心させられる意見も多く聞くことができたのですが、これが一つの”集団”となりますと、時折、違った表象を見せられるときがございました。農耕民族故の集団心理みたいなものが影響しているのかもしれませんが、集団化してしまいますと、その深い考察はどこにいったの?と思わせるようなごく平凡な意見になってしまうのです。さらに幸か不幸か、(以前仰っていました)「アース役」を愚生が演じているときもございました。
 上記理由は愚生も、確固たる自身を持って申し上げられるような意見を持ち合わせてはいないのですが、「個人ー個人」と「個人ー集団」とでは、ひとは異なった様相をみせるように感じたことは何度かございました。何度も繰り返すようで、誠に恐縮ではございますが、愚生は「ひとの善性」なるものを愚直に信じているものでございます。個人では、とてもおもしろいのに、集団化してしまいますと、、、この理由の詳細は未だ理解できてはおりません(涙)。

 これがあくまで愚説でございますが、(申し訳ございません。気分を重くさせてしまいます)、例えば、前の革命なるものも、さらには、ドイツのユダヤ人迫害もそうなのですが、群衆化してしまいますと、何か「妬み・僻み等のルサンチマン」が根深くあったような気がするのです。前者におきましては、マルクスの予想に反し、資本主義の最も進んだ英国ではなく、むしろ貧しく、貧富の差が激しい国々において、革命が起こったと思われます。そして、その実行に移した一部のリーダーを除き、一般の人達は恐らく「資本論」も読んだこともなく、もしかしますとその存在をも知らない人達だったかと思うからでございます。
 また後者におきましては、第一次大戦直後、ドイツ人は、ほとんど返済不可能な賠償金を請求され、さらにハイパーインフレに悩まされてはいましたが(このため、かえって強力なリーダーを求めてしまったのかと思います)、金融で比較的裕福であったユダヤ人に対しても同様な「怨念じみたもの」をもっていたと考えています。これは、ヒストリーチャンネルで見たことがあるのですが、ヒトラー自身はユダヤ人に対して、個人的な憎しみ等はもっていたとの決定的な証拠は全く存在しないというものでございました。つまり、群衆がそれを望んだのではないかということでございます

 この件につきましては、愚生の方でもさらに考察を深めたいとは思っております。

 ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。

投稿日時 - 2009-10-01 22:42:49

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 《アース役》が共通のよしみで 話をどんどん進めます。

 でしたら わが日本人の歴史を持ち出します。
 (1) まづは 《ルサンチマン》の乗り越えの物語です。

 その昔 奈良のミワ系の皇子イチノヘのオシハ(押し歯)が カワチ系の皇子オホハツセワカタケによって 狩りの野で 暗殺された。その子オホケとヲケの兄弟は その現場から 命からがら逃げた。
 のち ワカタケの死んだあと オシハの側が 二人の皇子を探し見つけた。ワカタケの血統は絶えて これら兄弟が おほきみの位に就く。
 順序は 弟ヲケが先だったが かれらは 暗殺の現場だった野原に行って ちょうどその地の住人が ワカタケらによって 父オシハの遺体が埋葬されるところを見ていたことが分かり そこで 掘って 遺体を確認したという。八重歯(押し歯)で 特定できたという。
 そのあと ヲケは 父親のかたきのワカタケに報復をせねばならぬと考える。ただしその恨みも深かったが すでにワカタケは死んでいる。ヲケは そのみささぎ(陵墓)を 壊せと命じた。その役目を 兄のオホケが やらせてくれと言って 引き受けた。
 オホケは 行って 墓の一部分の土を掘り崩して 帰って来た。弟のヲケには そのような部分的な恥づかしめをもって 仇に報いたのだと説明した。ヲケも これを了解した。

 (2) 吉本隆明には多くをわたしは学びました。ただし どうも仏つくって魂入れずの感が無きにもしもあらずと思っています。反対の立ち場にあります。
 次のような質問をしたことがあります。その中の一齣です。

 ☆☆ (【Q:吉本隆明の思想について】No.2補足欄)~~~~~~~~~
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4462818.html
 江藤淳は そもそも 自己および日本人とその社会にとって いちばん大切なものとして 《社稷》を持ち出します。《土地の神と穀物の神》のことですが 簡単に言えば 《国家》のことです。必ずしも 厳格な概念ではなく また学問や政治だけのことではないようです。いわば《情感の共同性》から社会が成り立っていて その核とも言うべき意味で 《社稷》の概念を持ち出しています。そのあとでは 当然のごとく この社稷をあずかる政治の行為に 焦点を当てていきます。そのあとでは この社稷を守る政治行為のもとに 少なくとも かれ自身の時間(生)は あります。

 それに対して 吉本隆明は  伝統と言えども 共同自治が制度化し社会支配体制となった側面については きびしくそれと対峙します。結果として あとで 伝統を守ることになっても構わないのですが 一たんは 日本の歴史伝統的な体制と自己との結びつきから 完全に自由なる《時間》を主張します。そのためには たとえば支配体制に残されている共同祭儀・その秘儀をあばくべきだと言い それに対して社稷に拠る江藤は そうなると《全部終わり。つまり 人間社会が存続しなくなる と思う》と応えています。
 ▲ (吉本隆明と江藤淳との対談:文学と思想の原点)~~~~~~~~~~~~
 【吉本】・・・僕に言わせれば その秘儀の実体ははっきりさせろということです。とにかくはっきりさせればすべて終わりであるとおもいます。・・・江藤さんは そういうのはあったほうがいいし またそれは別の形では どんな社会がきてもあるんだというふうにおっしゃるかもしれないけれども 僕は どんな社会がきても 全部秘儀はあばいたほうがいいと思います。・・・
 【江藤】・・・思想というか イデオロギーといいますか・・・これはもともと言行不一致のもので だからといってあながち責めることはできない。つまり それはプロジェクションですから 何か努力目標として投射したわけですから。ただ僕は 思想と言う時 そういう努力目標としての思想というものを あまり信じないのです。現実にどう生きているかということを正確に言うものが思想である。あとは 時代は崩れ 人は滅びる それだけだという そういう心境です。・・・
 (『文芸』1970・8――『江藤淳著作集 続5』1973所収)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-10-01 23:27:37

お礼

 ☆ 言ってみれば空観として 世の中の縁起共生の関係・その歴史事実は すべて 知って公表すべきであるか。そうしたら 《全部終わり。人間社会は 存続しなくなる》か。
 吉本に言わせれば 《人間が滅びる》そのこと自体を 超一流のイデオローグは ほんとうは 求めたのだと言います。そのあと どうなるかは 分からない。分からないまま そう求めたのだというのが かれです。
 ここでは そのとき 人間の《前史》が終わって その《本史》が始まるのか。《復活》するのか。こう問うています。おしえてください。一緒に考えてください。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ マルクスの予想に反し、資本主義の最も進んだ英国ではなく、むしろ貧しく、貧富の差が激しい国々において、革命が起こったと思われます。そして、その実行に移した一部のリーダーを除き、一般の人達は恐らく「資本論」も読んだこともなく、もしかしますとその存在をも知らない人達だったかと思うからでございます。
 ☆ ポルポトの社会主義政権はひどかったですね。貧困者の天下になるというだけでは どうもうまく行かない側面があるようです。権力を握ると 狂気を起こしたのかと思えるほど めちゃくちゃ弾圧し次から次へと殺したようですね。先生だとか教養のある人間をです。
 じんるいの《前史》にあるかぎり 世俗的な《関係の絶対性》がはたらいているかに思われますが どうでしょう? 
 《本史》とまで言わずとも 《後史》にでも入ればいいかも知れません。例によって 後史に入った三分の一の人びとというシナリオです。

投稿日時 - 2009-10-01 23:56:23

ANo.39

――――――――――――――――――――
 この質問に対する回答は締め切られました。
――――――――――――――――――――

投稿日時 - 2009-10-01 19:43:25

ANo.38

>それは、私をそうさせた社会と世界と神の責任でもあります。

 もちろん、これは私の責任でも在るということですから、一言、どうぞ。

投稿日時 - 2009-10-01 18:57:54

ANo.37

 もし、理詰めあるいは念力で質問者を追い詰めたが故に 自尊心を守るべく、最後に残った信仰に逃げ込ませてしまったのなら、それは私の責任でもありますが、それは、私をそうさせた社会と世界と神の責任でもあります。

 であるので、今度「神」に会ったら ☆ハゲ!☆と伝えておいてください。

投稿日時 - 2009-10-01 18:56:09

ANo.36

☆無知の知だとか
☆愚禿親鸞だとか

☆愚禿は 親鸞みづからが言っている。

◇さて、これらの語句の関連性がなく、何が言いたいのか解りませんが...

☆ 神は 《不可知》ではない。《可知》だとは言えないが 不可知だとも決めつけられないなぞなのだ。

◇であるからして、人間よりも愚かかどうかが、分からないと言っております。

☆ 神が分かったと言おうとする姿勢が みっともないと知るべきだ。

◇みっともないのは質問者。普段から、不自由で対等ではない人間関係の中に在るから、「神の信仰」という、「自由」「対等」へ、逃避している。不可知であれば、いるかいないかも解らない、いるとするならそれは本人の信仰であり、可知 不可知 の問題ではない。

> ☆ このせりふに もう飽き飽きした。 
 わたしは 別の質問に投稿して《前向きで気長が大事》と言っているが そしてここでは《関係の絶対性》を見ようとしているが おまえには飽き飽きした。原則をここでわたしは破る。勝手にしたまえ。
 ひとりの人間がすべての人びとを説得しうるわけではない。


 ◇質問者の☆サル神(かもしれない)☆体験を聞きたかったのだが、それを説明し、私に「それってやっぱり☆さる神☆なんじゃあ。。。」と言われたら、その、唯一守ってきた神を想定しての信仰による絶対的な『自由 対等』を侵されるから、説明したくないだろうな とは思っていました

 ◇結論としては、☆サル☆から破門されたということでよろしいですか?

投稿日時 - 2009-10-01 17:06:36

ANo.35

☆愚禿親鸞だとか

◇これは誰が言ったか知りませんが、ヒドイですね、親鸞に怒られますよ、ついでに日蓮にも誤っておいてください。

☆神の弱さは人間の強さよりも強く 神の愚かさは人間の賢さよりも賢いとか

◇誰の言葉を引用したのか知りませんが、補足です。

 神より強い人間もいるだろうし、神より弱い人間もいるでしょう、なにしろ神は質問者が言うには、「不可知」なのですから。愚かさと賢さについても同様です。

☆恰好をつけないほうが 人間的ですよ。

◇もうすでに格好をつけてもどうにもならない袋小路の人間の言う台詞ではないですよね(言われたほうが納得できないと言う意味において)、格好をつけないほうが人間的 という主張自体は理解できますが。

☆でも神とかかわりを持てたという主観ですね。

◇相変わらずはっきりしませんね、具体的にはどのような体験を以って、「神とかかわりを持てた」と言っているのか、それを説明してもらわないと、その「神」が☆さる神☆なのか、そうでないのか、なんとも言いようがありません。説明願います。

投稿日時 - 2009-10-01 07:50:34

お礼

 愚禿は 親鸞みづからが言っている。

 神は 《不可知》ではない。《可知》だとは言えないが 不可知だとも決めつけられないなぞなのだ。

 なぞゆえ 《主観》である。一人ひとりのこころが世界であると心得るべきである。それでこそ 互いに自由であり自由として独立しており しかも自由どうしとして対等である。

 神が分かったと言おうとする姿勢が みっともないと知るべきだ。

 ★ もうすでに格好をつけてもどうにもならない袋小路の人間の言う台詞ではないですよね
 ☆ このせりふに もう飽き飽きした。 
 わたしは 別の質問に投稿して《前向きで気長が大事》と言っているが そしてここでは《関係の絶対性》を見ようとしているが おまえには飽き飽きした。原則をここでわたしは破る。勝手にしたまえ。
 ひとりの人間がすべての人びとを説得しうるわけではない。

投稿日時 - 2009-10-01 10:12:41

ANo.34

 結論IIの補足:

>「愚か者!」と罵声を浴びせられる可能性を初めから回避できるからであると言えます。

 愚か者でなければ、そう言われても冷静に対処すれば、その汚名を晴らすことが出来ます。そもそも、愚か者でなければそういわれることもないかもしれません。そういった恐れが普段からあり、恐れが多いほど愚かであるのは間違いないでしょう。従って、愚か者を自ら名乗るものは、やはり愚かだと言うことになります。

>あるいは、「オレは愚かじゃないもーん」という、逆説的?な主張なのかもしれません

 愚か者でなければ、誰からも指摘されてもいない段階で、自分から「おれは愚かじゃないもーん」と主張する必要性もないでしょう。わざわざそういうということは、自分がそうであるかもしれない という、恐れからでしょう。
 従って愚か者であると自ら言うということは、愚かであるということになります。

 了

投稿日時 - 2009-09-30 21:26:09

お礼

 これはわたしもおそわったことですが

   デシデリウス・エラスムス:『痴愚神礼讃』

 をおすすめします。すっとんでしまうでしょう。

 わたしたちは 自分たちが正真正銘の人間と見えるようにではなく たとえにせものと見られたとしても あなたがたが 《わたしがわたしである》ことを自由にちからづよく推し進めていかれるようにと 自己表現しているとか。

 《アース工場》をめざしてください。

投稿日時 - 2009-09-30 22:48:31

ANo.33

 結論IIとしては、愚生を名乗る人は、そう名乗っておけば、「愚か者!」と罵声を浴びせられる可能性を初めから回避できるからであると言えます。あるいは、「オレは愚かじゃないもーん」という、逆説的?な主張なのかもしれません、まあ、どちらかであるのは間違いない。

 反対に、賢者を名乗るものは、そう言われることで、ムナクソ悪い思いをするのが嫌だからでしょう。

 私ですか?私は私です。

投稿日時 - 2009-09-30 21:15:15

お礼

 無知の知だとか
 愚禿親鸞だとか

 神の弱さは人間の強さよりも強く 神の愚かさは人間の賢さよりも賢いとか
 わたしが正気ならばそれはあなたがたのためであり 狂気であればそれは神のためであるとか
 わたしたちはすでに見世物になっているとか

 どちらかと言えば 恰好をつけないほうが 人間的ですよ。

投稿日時 - 2009-09-30 22:42:01

ANo.32

 お世話になっております。Hidocchiでございます。

 サイト先にございました吉本氏の言説を、愚生の追加事項と共に以下に記載させていただきました。 なお、()内は愚生の追加した言葉でございます。

 人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を”信ずること”もできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を”嫌悪すること”も出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の情況(or 人間の行動)を決定するのは「関係の絶対性」だけである(つまり、 選択の自由を付与された人間の”意志”すらも、人間と人間の関係が強いる「関係の絶対性」の前では、相対的化されてしまう)。
 ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするとき(革命の実行を試みるとき)だけは、じぶんの発想の底(奥深く潜む、その決意への動機、執着など)をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とはなにか。もし人間の生存における矛盾を断ちきれないならばだ。(逆に、人間生存における矛盾を断ち切る必要性が存在しない、もしくは既に断ち切られている(矛盾というものがそもそも存在しない)ならば、自問することは要しない)

 また末尾に以下の記述が見られます。
「“原始キリスト教”と“ユダヤ教”の相克」
 つまり、
“原始キリスト教”「不合理な貧困と不遇をしいられている側」、一方
“ユダヤ教”「富と力を以て世界を支配する側」に対する、
の敵対図式によって貫かれている。というわけです。
 そしてこれらの(絶対的)関係性において相克を目指すというのが吉本氏の目指すところのように理解いたしました。

 もちろん、時代等により、「不遇を強いられる側」=A と「支配する側」=Bとは入れ替わります。先の大戦の前では、A=ドイツ人;B=ユダヤ人という構図が出来上がっていました。また、先の選挙においても、一昔前ならば、A=高級官僚;B=一般市民の構図でしたが、今回の選挙結果は(脱官僚化なるものを訴えたことにも起因するかと思いますが)A=民主党を応援した一般市民;B=高級官僚(特に自民党に肩入れした方々)であったかと考えております。

 例えば愚生も以下のように考えたことはございます。
 「わたしも何度か殺してやりたいという人間に出会ってきました。しかし、実際には、殺していない。一方で、殺してしまうひとがいる。この違いは何か?決して、わたしの心が良かったから殺していないのではない。もしじぶんが同じような境遇(つまり、「人間と人間の関係性」)に生まれついたら、殺人を犯してしまうかもしれない。」と でございます。

 突き詰めれば、主義・主張なるものを発せられたときには、いかなる場合であれ、既に“関係の絶対性”の範疇に収まっている とも解せられます。

 一方、ヒネクレ者の愚生と致しましては、逆に、これらの「関係の絶対性」というものから逃れる方法を考えてしまいます。ですが、この逃避が可能とするのは、逆に社会なるものに全く関与していない“孤立”した場合、もしくは、各自が置かれた状況に全く無関心の場合のみであるかと考えられます。

 まとまりのない文章になってしまして、誠に申し訳ございませんでした。

 末尾ながら、ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。。

投稿日時 - 2009-09-30 20:56:54

お礼

 Hidocchi さん 重ーい! Hidocchi さんの新たな一面を垣間見た思いですね。
 こちらこそお世話になっています。ご回答をありがとうございます。

 吉本隆明に触れられた最初ですね。
 あるいは最後のほうのお考えで 殺す・殺さないは 親鸞をほうふつとさせます。

 ううーん。
 ふたつの側面がある。こういう反応を持ちました。
 ひとつは経験事象にそのままべったりとかかわる側面。わたしが スサノヲ市民とアマテラス公民との関係と呼ぶものです。
 もうひとつは 経験事象を超えたところに アマテラス公民もスサノヲ市民も すべてのひとが なぞにおいて かかわりを持つと思われる側面です。

 経験的な交通関係の複雑さは アマテラス( A )とスサノヲ( S )とのかかわりに限るものではないでしょうが 社会の構造からすれば だいたいこの《 A‐ S 》連関制に基盤を置くというように思われます。
 社会が 第一階と第二階に分かれて統治もしくは共同自治が行なわれている。その現実ということではないでしょうか。
 あとは くわしく述べていただきましたので 何をかつけ加えんやといったところです。

 そうですね。一般的なかたちで言って二階建ての社会が どんでん返しを繰り返すという革命は 政治革命ですので それは限界もあるかと思われますし そう言われてもいます。その点をも添えておくべきでしょうか。
 そう考えると どこか――どこか です。なぞにおいてです どこか―― 《関係の絶対性》は 社会的な経験事象としてのそれよりも さらに・むしろ単純な《人間》どうしとしてのそれのほうが より基礎的であるようにも思えてくるような気がします。これは 気がするだけです。
 とは言うものの けっきょく神話において アマテラスとスサノヲとは 実の姉と弟なのですから どうなっていると言うべきでしょう?

 球は そちらのコートに打ち返すことができたでしょうか。(ちょっと端折っています。孤独と孤立など この文脈では扱いづらいと感じています。考えてはいましたが かたちはノンポリでした)。

投稿日時 - 2009-09-30 22:36:17

ANo.31

 山田太郎さんの父親がいたとして、「私の父親は山田一郎です」と言ったところで、太郎さんがすでに自立していて、親元を離れて自分の生活をしていれば、関係性はほとんどない といえるでしょう。特に年に一回「里帰り?」をするくらいであれば特に。まあ、しかし太郎さんにとって普段の住居がすでに里になっていれば尚更でしょう。

 そういう意味で、親としての絶対的な関係はあると言えるし、もうほとんどない、とも言えるでしょう。

 人によって違いますね、そのひとがどれだけ親や、故郷に思いをはせているかが 関係性の度合い に関わってくるのではないですか。

 霊が憑く については、この質問の補足、お礼欄で、「神から話しかけられる」という文章を読んだので、その体験がどういうものが語ってもらえれば、私はそれについて、自分なりの判断が出来ると思います。参考になるかどうかは、わかりませんが。しかし、興味のあるところです。

投稿日時 - 2009-09-30 17:37:49

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 霊が憑く については、この質問の補足、お礼欄で、「神から話しかけられる」という文章を読んだので、その体験がどういうものが語ってもらえれば、私はそれについて、自分なりの判断が出来ると思います。
 ☆ これは 次の箇所ですね。
 ☆☆ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 貴方が信じる神は間違っています。
 ☆ ちょいと表現をいじくります。語弊のある言い方をしますが ひとは自分から《信じる》わけではありません。軽く指で触れるみたいに声をかけてくれるのは 神のほうです。その神は 普遍であるゆえ 間違いようがないのです。
 なぜ普遍か? ですって? あなたが
 ★ 本当の神
 ☆ という言い方を自由にするのと同じように それは 経験合理性に即して言うならば 無根拠のことだからです。ふつうに言えば なぞだからです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 舌足らずの感無きにしもあらずですが 所詮 比喩ですね。
 ☆☆ 軽く指で触れるみたいに声をかけてくれるのは 神のほうです。
 ☆ つまり《声をかける》と表現しましたが 実際に《話をする》のではなく そうではなくあたかも《指で触れるみたい》という印象の問題ですね。でも神とかかわりを持てたという主観ですね。そういう心の明けまたは伸びと言っています。
 たとえです。語弊がありましたなら あやまります。

 ところが
 ○ 関係の絶対性
 ☆ というときには あたかも――やはり あたかも――この神とのなぞのかかわりの如き関係を言っており その関係の避けられ無さを言おうとしています。見ようとしています。
 今回のご回答では そういう微妙な関係のあり方に触れているようにも受け取り得るようですが なんともこれだけでは はっきりしません。とまづは 正直にお返しせざるを得ないようです。
 身内でなくても ひとは 一般にひとと逃れ得ないかかわりを持つのか? 持つと見るのか見ないのか? こういう問いです。

投稿日時 - 2009-09-30 21:55:57

ANo.30

 結論としては、自分を愚生という人は愚かであり、サルと名乗るものは、その人の本質がサルであるのではなかろうか、と思います。

 自分がサルではないからサルを愛するかと言えば、そうでもないでしょう。自分と似ているところが在るから好むのだ とも言えます。

 自分と違う性質の霊が憑く というのであれば、神が憑いてもおかしくないですよね...

投稿日時 - 2009-09-30 03:20:18

お礼

 owlsjp さん こんにちは。
 正真正銘の人間でいらっしゃるとのことですから お尋ねしてまいりましょう。

 ○ 《自分を愚生と言》って《おろかであ》るひと あるいは《サルと名乗》って《本質がサルであるのではなかろうかと思》われるひと
 ☆ これらのひとと あなたは 《関係》がありますか?
 あるのであれば どういう関係ですか? その場合には特にはその関係が《絶対性》を持つかどうかをお訊きします。つまりその関係は ひとである限り避けることのできないものであるのかどうかです。
 結論としては どうなのですか?

 ★ 霊が憑く
 ☆ 問題は わたしには関係ありませんので 触れられても応答いたしません。あしからず。

投稿日時 - 2009-09-30 09:39:12

ANo.29

 進化 と言うものが在るとすれば、生殖や子孫を残さねばならない といったような考えや生き方をしていない人でしょう。生物は、下等になればなるほど、一回の出産によるコドモや卵の量が多くなります。人間は、一人もしくは二人です。平均の数字にすれば、1.○ でしょう。

 他者のハラを読むことに長けていたり、他者の気持ちを嗅ぎ取る能力は、知的にモノを考えるものとは別方向であり、原始能力に近いものだと思います。

 少なくとも、家庭を持つこと、子供を持つことを肯定したり、推奨したりする人間は、ニュータイプではない、と思います。特に否定はしませんが。

 しかし、ピラミッドも、底辺があってこそ、頂点があります。地面があってこそ、空があると言えます。

投稿日時 - 2009-09-30 02:27:06

ANo.28

オコリザルです。
> ☆元祖サル☆として、正式に認定いたします。
猿への私の接し方に基づくと、これは、
霊長の始祖と認定する。
このようなほめ言葉です。

エスパー化または新人類化に翻弄される私としてはノーベル賞を貰うより嬉しいほめ言葉です。

憎まれ口じみていますが本音です。

投稿日時 - 2009-09-29 23:17:03

お礼

投稿日時 - 2009-09-29 23:45:10

ANo.27

オコリザルです。
しんみりした思い出話です。
私は中学生の時大人になったらアフリカに渡ってゴリラの研究者になりたいと本気で考えていました。
ゴリラの知性と交流して、恐らくゴリラほどの知性なら伝承の類があるでしょうから、その信仰に対して研究して、神に触れたいと考えました。
人間で成し遂げられないならゴリラに聞くのが近道だと、、、

ゴリラの生死がかかわる場面ですらうんこ爆弾を投げつけてくる戦い方や戦術は、その実質的に攻撃力が無く、殺さない姿勢に感激していたからです。
有名なドラミング、胸を叩いてどんどんするやつです。
その威嚇も同様に「殺す」意図の無い威嚇です。
アフリカを探検した白人はドラミングで威嚇するゴリラを銃で撃ち殺し、そのはく製をもちかえることでヨーロッパ社会で、英雄のようにふるまいました。
そんな人知の無理解で蔓延したのが弱肉強食の風潮です。
私は割とこういうのが嫌いなんですよ。
猿の方がよほど霊長らしいとすら感じた中学生時代です。
猿は好きです。
誤解を覚悟してあえて言いましょう。
猿を愛しています。

サル霊は本当に私に憑いています。
私を守ってくれます。

投稿日時 - 2009-09-29 22:48:25

お礼

 そうですね。

 京大の先生で若いときアフリカへゴリラの生態を研究しに行ったその土地を三十年後かそのあたりでふたたび訪れたときのことをテレビで見ました。何でも深く知ろうとすればどこまでも深くなるんでしょうか。
 その映像では むしろその当時手伝ってもらった現地の人びととの出会いのほうにも多くの時間を割いていました。
 わたしも 動物が好きならいいのですけれど。別にどうしても嫌いという思いや体験も少ないのですが 飼ったりすることもなく来ていますので 残念ながらピンとくるものがないというのが 現状です。

投稿日時 - 2009-09-29 23:13:37

ANo.26

 実際、◇人間◇は、☆サル☆とケンカすることが可能です。☆サルはうんこを投げてきますが、人間は麻酔銃で仕留めて、山へ返してやることも出来ます。

 ケンカをしているという事実を以って、「うんこの投げあい」と言うのは、不適切でしょう。しかし、サルにとっては、◇人間◇と☆サル☆のバトルを目撃したところで何が起こっているか解らず、「うんこを投げ合っている」としか、映らないでしょう。


 No.24の回答の訂正:

 この意味が解らないなら、正真正銘の比喩でない、「サル霊」が憑いている可能性があります。神でなく、高級霊でもなく、それどころか、前人未到の☆☆☆サルの霊☆☆☆と仲良しの人間です。ある意味、☆快挙☆であり、誇って良いと思います。

⇒ この意味が解らないなら、正真正銘の比喩でない、「サル霊」が憑いている可能性があります。神でなく、高級霊でもなく、それどころか、前人未到の☆☆☆サルの霊☆☆☆と仲良しのサルです。ある意味、☆快挙☆であり、誇って良いと思います。

投稿日時 - 2009-09-28 23:39:25

お礼

 ありがとう。

投稿日時 - 2009-09-28 23:44:13

ANo.25

 それから、外野からうんこを投げつけてくる 総理 に申し上げます。

>どちらを猿と見なすか?

 人間は、サルをそれと認識できますが、サルは人間を、それと認識できないはずです。出来たとしても、「何かわかんないけど俺達とは違う」程度の認識でしょう。

 ◇つまり、どちらがサルか解らないのなら、取りも直さず、自分がサルである ということの証明となります。

 外からあーでもないこーでもない と言わずに、私が投稿した質問で何か意見を言うか、そうでなければ、怒ったサルは止めて人間になってください。 名前 は、重要なんですよ、自分で思っている以上にね。もちろん、これは「引っ込め」といっているわけではありません。汚系キャラとしての サル は、もう卒業したらいかがでしょうか。

 それから、http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5045745.html

 この質問の補足とお礼に対しての回答をせずに、ここで 人間のではなく、☆さるのうんこ☆ を投げつけてくるのは、道理ではありません。

 この◇道理◇がわからないなら、 ☆元祖サル☆として、正式に認定いたします。

 以上、たいへん失礼しました。

投稿日時 - 2009-09-28 23:24:53

ANo.24

> ★  ☆サル☆ が人間になり、◇人間◇がサルになることは無いのですから。勘違いなきよう。
 ☆ このあたりだろう。
 自分はサルでしかないと謙虚に認めたことになる。

 いいえ、◇人間◇は、すでにサルを超えているのですから、「超える」ことは不可能である。という意味です。

 この意味が解らないなら、正真正銘の比喩でない、「サル霊」が憑いている可能性があります。神でなく、高級霊でもなく、それどころか、前人未到の☆☆☆サルの霊☆☆☆と仲良しの人間です。ある意味、☆快挙☆であり、誇って良いと思います。

 ご参考まで。

投稿日時 - 2009-09-28 23:05:46

お礼

 ありがとう。

投稿日時 - 2009-09-28 23:07:44

ANo.23

オコリザルです。
どちらを猿と見なすか?
この哲学バトルを展開中のようですね。
私の表現ではうんこの投げ合いとなっています。
誇り高きゴリラは戦いに際して本当にうんこを投げるそうです。
偶然ですが私は「オコリザル」です。

投稿日時 - 2009-09-28 23:02:03

お礼

 ・

投稿日時 - 2009-09-28 23:06:20

ANo.22

オコリザルです。
>ご健在をお祈りします。
は、
権現様のご健在をお祈りします。
の意味です。
bragelonneさんに対しては「許してやれ」と受け取られては心外なところです。
そのようにはなっていませんね。
引き続き猿回しの実技指導を見物します。

投稿日時 - 2009-09-28 22:51:40

お礼

 分かりました。
 ★ 猿回し
 ☆ のつとめがあるのであれば ひきつづき進みます。
 でもそういう意識もつもりもないのです。
 来る者は拒まずの原則のみで――なぜなら これっぽっちも まごころが見えなければ放っておきます―― 進みます。

投稿日時 - 2009-09-28 23:01:59

ANo.21

> ☆ よほど《サル》が 自分に近い存在(=この場合は 生物存在の意)だと感じるのだろうか。
 せっかくこちらは人間が――人間存在が――《人間を虚仮にする》と言ってやったのに あたかもサルがこれをおこなうと採ったのかい。

 いいえ、☆サル的な人間☆は、真人間を 虚仮にする表現をおこないつづける ことはできません という意味です。

 ◇つまり、「人間よりも劣るという意味での比喩としての☆サル☆という表現は、使えません。」

 を違う表現で言うなら、「人間よりも劣るという意味での比喩としての☆サル(的人間)☆という表現は、使えません。」

 ◇と、いうことになります。

 しかし、☆サル☆が行間から、その意味を読み取れないのは仕方のないことかもしれません。

> はかまるだしの精神は わたしと共通のようだ。将来が たのもしい。

 何を言っているか解りかねますが、☆☆☆さる丸出し☆☆☆の言いぶんのように見受けられます。

 ご参考まで。

投稿日時 - 2009-09-28 22:50:02

お礼

 ・

投稿日時 - 2009-09-28 23:05:05

ANo.20

 いいえ、◇人間◇が☆サル☆を超える事は出来ません。

 それに、☆虚言を弄したパウロ☆は、地獄に行ったようです。今のままでは、危ないですね。(パウロが虚言を弄していたのなら、確かにそうなります)

 ◇幻を見せている相手に幻を見せるのは、道理なのです。

 ☆○ 先の者があとになり あとの者が先になる。

 これは、陰陽を考えればそうですが、質問者と私との関係においては、当てはまりませんね。単なる相対性の関係ではないのですから。

 ☆サル☆ が人間になり、◇人間◇がサルになることは無いのですから。勘違いなきよう。

投稿日時 - 2009-09-28 22:41:20

お礼

 すくいがあるとしたら
 ★  ☆サル☆ が人間になり、◇人間◇がサルになることは無いのですから。勘違いなきよう。
 ☆ このあたりだろう。
 自分はサルでしかないと謙虚に認めたことになる。
 問題は このあとだ。

投稿日時 - 2009-09-28 22:48:36

ANo.19

オコリザルです。
ボヤキです。
高次元の霊体とは謎を秘めていたのですが、権現様のご活躍で実態が、今まで何を表現していたのかが良くわかります。
大変為になるので「参考になった」ボタンをぽちっと押してみました。
ご健在をお祈りします。

本気でくたばるんじゃねーぞ。

投稿日時 - 2009-09-28 22:12:16

お礼

 ご投稿をありがとうございます。

 《ぼやき》だそうですが 全体として いまひとつしっくりと捉えることが出来ませんでした。その趣旨がです。
 わたしに対してではない一面もあるのかなと思いはするものの 今回はなかなかつかみにくいところがあるようです。

 と正直にお伝えするのみとお答えするしか・・・。
 

投稿日時 - 2009-09-28 22:41:38

ANo.18

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 言葉をしゃべる☆サル☆は、居ないはずですので、これは却下といたします。
 ☆ ひとを虚仮にする表現をおこないつづける人間は《サル》でしょう。サルが気をわるくするでしょうが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ◇ ☆サル☆は、「ひとを虚仮にする表現をおこないつづける」ことはできません。従って、上記の文章は精神錯乱状態にある戯言と認定い致します。☆サル☆ には、理解できないかもしれませんが。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《関係性を持つ》のは 《存在において》と限定していることに注意すべし。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ◇人間の存在において☆サル問題☆を、人間が議論するのは関係性を持っている と言えます。従って、上記の文章は、まさに☆サルの戯言☆であると、認定いたします。

 ☆サル☆ には、不服かもしれませんが。

 ◇今後、☆サル☆の戯言は無視致します。

 ☆★サル☆★が気をわるくするでしょうが。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 α追加:

 ☆ひとを虚仮にする表現をおこないつづける人間は《サル》でしょう。

 ◇仮に、サルが <<ひとを 虚仮にする表現をおこないつづける>>ことが出来たとしたら、人間よりも劣るという意味での比喩としての☆サル☆という表現は、使えません。

 ご参考まで。

投稿日時 - 2009-09-28 13:44:40

お礼

 よほど気に入ったようだね。わたしのたとえが。
 おもしろいから 前言をひるがえして相手になってやろう。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ◇ 仮に、サルが <<ひとを 虚仮にする表現をおこないつづける>>ことが出来たとしたら、人間よりも劣るという意味での比喩としての☆サル☆という表現は、使えません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ よほど《サル》が 自分に近い存在(=この場合は 生物存在の意)だと感じるのだろうか。
 せっかくこちらは人間が――人間存在が――《人間を虚仮にする》と言ってやったのに あたかもサルがこれをおこなうと採ったのかい。

 はかまるだしの精神は わたしと共通のようだ。将来が たのもしい。

投稿日時 - 2009-09-28 14:56:24

ANo.17

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 言葉をしゃべる☆サル☆は、居ないはずですので、これは却下といたします。
 ☆ ひとを虚仮にする表現をおこないつづける人間は《サル》でしょう。サルが気をわるくするでしょうが。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ◇ ☆サル☆は、「ひとを虚仮にする表現をおこないつづける」ことはできません。従って、上記の文章は精神錯乱状態にある戯言と認定い致します。☆サル☆ には、理解できないかもしれませんが。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 《関係性を持つ》のは 《存在において》と限定していることに注意すべし。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ◇人間の存在において☆サル問題☆を、人間が議論するのは関係性を持っている と言えます。従って、上記の文章は、まさに☆サルの戯言☆であると、認定いたします。

 ☆サル☆ には、不服かもしれませんが。

 ◇今後、☆サル☆の戯言は無視致します。

 ☆★サル☆★が気をわるくするでしょうが。

投稿日時 - 2009-09-28 13:36:59

お礼

 どうも けっきょくわたしを超えたいのだな。

 張り切ってすすみなさい。

 いまのままぢゃ だめだよ。それこそサルまねになっている。

 かべ のようかね?

 日差しくん せっかくのことだから つぎのことばを贈り物としよう。
 ○ 先の者があとになり あとの者が先になる。

投稿日時 - 2009-09-28 14:48:15

ANo.16

> たしかにサルが山から出てきて畑を荒らすからと言って ひとと存在において関係性を持つとは言えたもんぢゃない。

 いえ、その場合は別です。実際、「サル問題」として人々の議論として扱われることもあります。いわゆる☆サル害☆として、です。その場合は関係があります。でなければ、「人里に下りてきて☆悪さをするサル☆をどのようにすべきか」ということが、人間同士の会話でなされることは無いでしょう。

>ただ 言葉をしゃべっているサルについては どうか?

 言葉をしゃべる☆サル☆は、居ないはずですので、これは却下といたします。

 ◇ご参考まで。

投稿日時 - 2009-09-28 09:40:53

お礼

 ★ 言葉をしゃべる☆サル☆は、居ないはずですので、これは却下といたします。
 ☆ ひとを虚仮にする表現をおこないつづける人間は《サル》でしょう。サルが気をわるくするでしょうが。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  > たしかにサルが山から出てきて畑を荒らすからと言って ひとと存在において関係性を持つとは言えたもんぢゃない。

 いえ、その場合は別です。・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《関係性を持つ》のは 《存在において》と限定していることに注意すべし。

 このように分かり切ったことを並べ続ける投稿の場合には これからは無視。

投稿日時 - 2009-09-28 12:25:45

ANo.15

 こんにちは、面白そうな議論ですね、私も参加させてください。早速ですが。
 ◇すべてにおいて因果関係があり、つながりが在ると考えれば、関係性もあると言えますが、少なくとも

 ☆アホで性格が悪くてブサイクで弱くて冷酷な、真実からかけ離れた老人☆

 と、

 ◇聡明で性格が良くてカッコよくて強くて優しい、真実に近い若者◇

 とは、全く関係性は無いとは言いませんが、限りなく関係性は薄い と言うことが出来るでしょう。

 ◇99匹から抜け出たがゆえに ヒト 

 になった者と、

 ☆99匹のサル

 との関係であれば尚更そう言えるのではないでしょうか。

 ☆サルと◇ヒトと関係が在るかといえば、確かにあるかもしれませんが、それはそれ。もうすでに人になった人同士の会話、人間社会と人間関係についての議論に、「サル」を考慮して会話するヒトは居ない ――例えば政治についての議論にサルの存在は考えないことに現されるような―― でしょう。 

 そういう意味で、「全く関係ない」と言っても差し支えないと思います。

 ご参考まで。

投稿日時 - 2009-09-28 01:02:07

お礼

 たしかにサルが山から出てきて畑を荒らすからと言って ひとと存在において関係性を持つとは言えたもんぢゃない。
 
 ただ 言葉をしゃべっているサルについては どうか?

 ご参考までに。

投稿日時 - 2009-09-28 08:31:10

ANo.14

袋小路デブ(ぎみ)麻呂さん
あなたのコメントをみて少しびっくりしました。本当に何も分かってないのですね…

?さて何とも読み取りにくい本論です。

私の文章がわかりづらいとは、はてさて… (シナリオ・作文指導してるんでしょう、くだらないポーズをとらないでくださいね。いい加減にしてください)

まあいいでしょう。

質問者様の思考レベルがどの程度なのか検討されるべきです。

具体的論理----------
例)
 わたし(質問者様)は、でぶぎみですが、「デブとは二重あごの状態を含む」という定義であるなら、デブではありません。

回答者 無言(「なにそれ」と思う)

-------------
論理展開としては、「『二重あご』とデブは、違う世界の話。両者の関係は『なぞ』です。」いう趣旨で主張されておられますが、

これは「貴方だけにとって都合のよい」論理です。

神の概念と我々が関係する世界は、関連しています。二重あごとデブに特定の関係があるように…でも「デブじゃないもん」という主張は貴方の主張。…

関係しない=なぞとは、貴方の主張。矛盾から誤謬を導く典型的例です。OX主義経済学ならではの説明。社会の大多数の人々はすでにその世界から卒業しています。

貴方がキリスト教を名乗ると、キリスト教者に失礼なほど低レベル前近代の議論です。貴方の経済学なら第三巻のあとがき。結局わからなくてどうでもよくなるという結語。関係性の論理を「あちらの論理」とする「云い様」も、話をはぐらかしているだけです。

質問者様の主張=X
質問者「?自分を鏡に見て思わず発したことばであるように聞こえます。」

「鏡ミーィ。『批判ビーム』を反射したゾ!」

質問者様の主張=Y
質問者「?神といえば神。絶対として想定するものです。」

「神様絶対ビーム!絶対より強いものはないんだモーん!どうだ神様は絶対だ。わかったか!」

回答者 無言(「なにそれ」と思う)

本当に何も分かってないのですね…

質問者の質問の典型モデル
質問A
「α質問者の主張
 βそれ以外
 回答者の正論」

私(質問者様)の結論は、Aとその回答です。読んでみてください。

キリスト教関係の引用・他の作家の主張を議論すること自体にも言えることですが、
あなたは、
回答者の正論・引用もとの議論(特にその『なぞの神一連の内容』を含まない正論)を利用して、自分の権威付けを謀っているだけです。

質問者様の思考レベルがどの程度なのかもう一度、検討されるべきです。

会社・生産工場・車両の例に戻りますが、社長が間違った指示をする筈がない。責任者はただいま音信不通ですというのであれば、

「欠陥車両」は、少なくとも公共交通から取り除かればならず、少なくとも欠陥部品・欠陥構造を修理もしくは、最悪の場合、廃車にさるべきでしょう。

醜いものの信じる醜い神が、貴方の「論じようとしても論じることの出来ないナゾのかみ」です。キリスト教という事にしているのは、アウグスティヌスと聖書を利用したいからでしょう。それ以外の理由はない。なぞなら金輪際話題にしないでください。

あと詳しくもないのに解答するなとも言っておきましょう。(詳しくはありませんが…専門家ではありませんがという言葉遣いもやめてください。)OX主義経済学および国語・文学の質問があったら答えればいいでしょう?

ヘリクツをやめて、文学・国語(経済では学問としてもはや認められないでしょう)に立ち去るように。お願いいたします。

投稿日時 - 2009-09-26 23:12:56

補足

 nananisse くん ごきげんよう。ご投稿を感謝しましょう。

 ★ 「欠陥車両」
 ☆ は経験事物の問題です。それを超えている神について 同じ次元で語ることができるわけがない。それを 無根拠とか なぞと言っています。
 神について認識できたという議論があったら 眉つばものと知るべきです。そういう話をお聞かせしています。

 ★ 袋小路デブ(ぎみ)麻呂さん
 ☆ 《袋小路》は 事実に反します。
 ★ デブ
 ☆ については わたしは《太り気味》と書くところを すでにそちらで《デブ》という言葉が出ていたので それを使ったまでです。

 ★ シナリオ・作文指導してるんでしょう
 ☆ これはわたしの友の話です。わたしではありません。(名前を出してもいい立ち場ということです)。

 ★ 貴方がキリスト教を名乗ると
 ☆ わたしは キリスト者・キリスト信仰あるいはクリスチアニスムという言葉を使っています。組織をつくる宗教は 個人の信仰の自殺行為だと言っています。個人の内面〔の非思考=信仰〕を 他の人間が 査定したりまだ成っていないとか言って決めつけたりすること これが 反人間的行為だという理由からです。なぞゆえ 他の人間が判断しうるわけがありません。

 ★ 「神様絶対ビーム!絶対より強いものはないんだモーん!どうだ神様は絶対だ。わかったか!」
 ☆ そのように人間が神のことを決めつけることは出来ないという意味で 《なぞ・無根拠》と言っています。またそれゆえ ひとはそれぞれ自由で対等です。この場合は 絶対的に自由・対等です。これが 《孤独かつ関係性》から帰結するところと一致すると見ます。
 敢えてこの論理に合わせて言うとすれば
 ○ ひとは孤独という《神様絶対ビーム》を一人ひとりが放つので 互いに《対等》である。この対等関係において 一人ひとりが自由である。
 ★ 自分の権威付けを謀っているだけです。
 ☆ 人間の尊厳を あたかも絶対的に 主張しています。
 ★ 社長〔や 総理大臣〕
 ☆ の無謬性ではありません。

 ★ 醜い神
 ☆ 《なぞ〔なる神〕》に 《醜い》とか《美しい》とかの形容が 人間の思わくにおいて 成り立つものではありません。ただし おのれの内面における《神様絶対ビーム》においては――つまりそういう場合の主観においては―― 美しいとも善であるとも形容して表現することは 自由です。
 ★ なぞなら金輪際話題にしないでください。
 ☆ ぎゃくです。なぞであるゆえ いかなる表現も まづは主観の内において 自由です。話題になるかどうかは その表現が普遍性を持つかどうかの問題です。さいわいわたしの表現は 妥当性があると見てもらっています。
 ★ ヘリクツをやめて、
 ☆ という言い方をするかどうかはどうでもいいのですから その《屁理屈》の中身をしっかりと論じるべきです。これまでにほとんどないのですよ。まづは 非思考の次元における神と 経験思考の次元における経験事象とをしっかりと分けて考えることから始めるのがよいでしょう。
 ★ あと詳しくもないのに解答するなとも言っておきましょう。
 ☆ 受けたまわっておきましょう。

投稿日時 - 2009-09-27 00:00:42

ANo.13

bragelonne様
今回は、「あえて」反論いたしません。
私が口ごもってしまい、きっぱりと書くことを躊躇指せうる、もう一方の極、すなわち、私の父の立場そのものをずばり書いてくださったからです。
両方の極を「うん、そういう見方もあるよね」と単に揺れ動くのもいいのですが、私の場合、「あえて」同時成立にこだわっているということです。

。。。と、いっても、根本的に誤っておられる1カ所の指摘をするにとどめさせていただきます。

>>>------
科学は量的データには統計処理をおこないますが、質的データには統計処理は(通常は)おこないません。「1/3秒程度の遅れ」の「1/3秒程度」は統計処理された値ですが、「遅れ」そのものは質的なものであり、「だれも無意識よりも先に意識を表明することはできなかった」
ということです。
>>>
任意の時間に被験者に手首を曲げてもらい、それと関連する脳活動を観察する実験
<<<
とは、
>>>===
 2. 《手首を曲げる》を《手を挙げる》に代えて考えるなら この行為には たとえば《賛成のひとは手を挙げて》という指示が先行します。そのあと すでに考えていた結論にもとづき 一たん賛成なら賛成という意見を確認しつつ《手を挙げ》ます。
===<<<
といった状況とは異なります。
「賛成・反対といった判断とは無関係に、いつでもいいから手を挙げて」
という指示に対し、「今、挙げようと思った」という意識の瞬間と、実際に手を挙げようとする動作に入った無意識の瞬間のズレのことです。
「無意識の状態変化を先んじて、手を挙げようと思うことができなかった」のです。その差の平均が1/3秒程度だったということです。
------<<<
上記に対する私自身の反論を記しておきます。(すなわち、これは、No.12のbragelonne様の主張に賛同する【側】の記述でもあります)
「わたし」という概念を「意識する主体」のみに限定することは、一つの見解であり、それこそ、唯脳論的認識論を正確に踏襲し、無意識の側を排除する方向性を有しているということです。(すなわち、養老氏の指摘するところの「人間のさが」から抜け出せていない状態)
「わたし」という概念は、時として「意識する主体」という概念に限定されることもありますが、(境界設定が曖昧な)「無意識の側」も「わたし」であるときっぱりと明言しなければならないときもあります。
その「無意識の側」すなわち身体の側(さらには自然)を脳(いや、意識の側)が切り離すことは出来ないということです。

投稿日時 - 2009-09-26 00:09:04

補足

 じねんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 おとうさんとの対話につきましては 《そのものずばり》と言っておられますが でしたら今のように進めてまいりたいとまづは思います。

 まづ訂正に近い補足です。
 ☆☆ (No.12補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ○ 能動と受動 あるいは孤独と関係性 これらが同時に成立するかどうかと問うよりは どちらも 最終の状態においてはわたしの意志行為であり――確認したという受け身の態度だけであっても 意志行為であり―― しかもこの意志行為は わたしがおこなっているのだと考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この中で
 ○ 孤独と関係性
 ☆ は その概念としては 《同時に成立する》と考えます。単純に《わたし》の内と外として認識し得 その《外》が《関係性》として《内》にもともと備わっているとまでこころ得ることが出来ると思います。
 で 意志行為の過程としてならば 孤独の発見やらそこでの自己到来を経て さらに関係性の世界つまり現実に生きているという――いま敢えて混同した言い方をすれば――縁起=空観の共生に到る。
 何らかの《孤独感》がひとをおそい その感性を扱う上で その感情や情況を見つめ返す。見つめ直す。見つめ切って孤独を突き抜ける。といった時間的な作業は どうしても必要なのではないでしょうか?
 そしてこの主題は 次のご議論と同道しているように思います。
 ★ ・・・、(境界設定が曖昧な)「無意識の側」も「わたし」であるときっぱりと明言しなければならないときも〔* →が〕あります。
 ☆ これで 《わたしがわたしである / わたしがわたしする》という自己表現の歩み( basis )が成ったと考えます。

 この歩みは《基本(基本動態)》ですから つねにここに戻って来て わたしはその《わたし》を自乗してあゆむ。

 《わたし》が《一》ならば その連乗積はつねに《一》です。いわば完結性を保ちます。この《一》は 孤独としてなぞであり自由ですが 相手もなぞの孤独として《一》であるならば――つまり 共生の現実に戻ってきたのであるゆえ 《一》であると見るのだから―― 対等です。

 ★ 「無意識の状態変化を先んじて、手を挙げようと思うことができなかった」のです。その差の平均が1/3秒程度だったということです。
 ☆ この《意志の決めに1/3秒ほど先んじる無意識なる脳細胞の変化》は 実験において《いつ手を挙げようかと思案するあいだに起こる脳神経への刺激》ではないのですか? 一連の動きであるようにまだ思います。
 ★ 科学は量的データには統計処理をおこないますが、質的データには統計処理は(通常は)おこないません。
 ☆ もしそうなら まづわたしが統計学をけなしたことは間違いでしたが 別の視点からは統計学そして科学は このような実験内容の《質》については 問うていないですよね? 人間論にとっていかなる《質》を扱う実験やその資料であるかは 統計学は問題にしていませんし 科学はおそらく存在論としてのひとつの人間理解にもとづき実験の仕方を組むのだと思います。
 つまりは 単に《手首を曲げる》というのでは 《意志行為》を軽く扱っている人間理解にもとづいていると考えられます。現実に生活し仕事をしている人びとを相手にして 脳細胞の観察をおこなうことでしか分からないとさえ考えられます。

 《意識》というのは 中立だと思います。知解したことがら(つまり概念)を意識しますし その中から結論や行動を決める意志行為をも意識します。そのように意識した《わたし》をも意識するかも知れません。
 そこで《意識》があたかも《行為の主体》であるかのように拡大して捉えられてしまうのではないでしょうか。わたしが意識するのは わたしがいわば内省しようとするためだと言えると思います。

投稿日時 - 2009-09-26 10:57:23

ANo.12

(能動的な)質問者の質問に、(受動的に)回答者が反応し(能動的に)回答する。
(能動的な)回答者の回答に、(受動的に)質問者が反応し(能動的に)補足する。
。。。
このくり返しには、能動・受動が時系列に沿っているとしてなんら問題はありません。仰るように時間のズレ時系列全体に渡って「私」があるといってもいいです。

しかしながら、上記「能動・受動」ですが、逆の記述も可能だと思われます。
(受動的な)質問者の質問に、(能動的に)回答者が反応し(受動的に)回答する。
(受動的な)回答者の回答に、(能動的に)質問者が反応し(受動的に)補足する。
。。。
この反転が生じうるのは、意志・意識の方向性や情・情動の方向性が関与しているでしょう。

たとえば、何らかの事象を見て(見せられて)、大変なことだと思って(思わせられて)、強く主張した(させられた)。
程度の差とは、たとえば「見た」のか「見せられた」のか(また、「見たくない」)に関わる要因の程度の差ですが、これら反転するかのごとくの能動性・受動性といった概念は、まさに意志・意識の方向性や情・情動の方向性を意識した途端に、同時成立的に生じ得ます。

更に言えば、私が、私として、意志決定を行っているという過程において、純粋に能動性のみ、純粋に受動性のみということはあり得ません。両者の狭間(関係性)においてのみ意志行為(ないし《わたし》)という概念が成立しうると考えます。

前野氏の受動意識仮説ですが、下記リベットの実験結果を援用した「仮説」のようです。

※ウィキペディアの「自由意志」の最下段、脳科学(神経科学)の項
>>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%97
脳科学(神経科学) [編集]

現在では生きたままの脳を研究することが可能になってきており、『意志決定の「機構」』(the decision-making "machinery") が働いている様を観察することができる。

この領域における重要な実験が1980年代にベンジャミン・リベットによって行われた[49]。任意の時間に被験者に手首を曲げてもらい、それと関連する脳活動を観察する実験である(このとき、準備電位(readiness potential)と呼ばれる電気信号が立ち上がる)。準備電位は身体の動きに先行する脳活動としてよく知られていたが、行動の意図を感じることと準備電位が一致するかどうかはわかっておらず、Libetはこの点を探求した。行動の意図が被験者にいつ生まれるかを決定するために、時計の針を見続けてもらって、動かそうとする意識的意図を感じたときの時計の針の位置を報告してもらった。

Libet は、被験者の脳の活動が、意識的に動作を決定するおおよそ1/3秒前に開始したことを発見した。これは、実際の決定がまず潜在意識でなされており、それから意識的決定へと翻訳されていることを暗示している。

後に Dr. Alvaro Pascual-Leone によって行われた関連実験では、動かす手をランダムに選ばせた。ここでは、磁場を用いて脳の異なる半球を刺激することによって被験者のどちらかの手に強く影響を及ぼしうることを発見した。例えば、標準的に右利きの人は実験期間の60%の間右手を動かすことを選ぶ、しかし右脳が刺激されている間、実験期間の80%の間左手を選んだとされる(右脳は体の左半分を、左脳は左半球を統括していることが想起される)。

この場合、動かした手の選択へ外的影響(磁場を用いた脳に対する刺激)が加えられていたにもかかわらず、被験者は「手の選択が(外的影響とは独立に)自由になされたことを確信している」と報告している。
<<<

投稿日時 - 2009-09-25 04:57:08

補足

 k_jinen さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 例によって反駁します。自然科学の知識の問題は 強行突破ですので そういう目で見てもらえれば こちらもありがたいです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 更に言えば、私が、私として、意志決定を行っているという過程において、純粋に能動性のみ、純粋に受動性のみということはあり得ません。両者の狭間(関係性)においてのみ意志行為(ないし《わたし》)という概念が成立しうると考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この中で 
 ★ (ないし《わたし》) 〔および〕 という概念
 ☆ の部分を取り除いてください。基本の中身は すべて
 ★ 私が、私として、意志決定を行っているという過程
 ☆ という自己表現の行為です。
 ○ わたしが 意志するのであって 意志がわたしするのではありません。意志が意志するのでもなくです。
 ○ わたしが表現するのであって 表現がわたしを動かすのではありません。(補足修正をうながすことがありますが そのあらたな表現を決めるのは わたしです)。 
 ○ したがって げんみつな言い方をすれば 能動がわたしそのものに代わることはなく 受動がわたしを動かすものでもありません。
 ○ わたしが 自己の内外の現象や新知見を受動するのであり わたしが意志行為を たとえいやいやながらであっても 能動的におこないます。
 ☆ ですから やや別の新しい見方になりますが 
 ○ 能動と受動 あるいは孤独と関係性 これらが同時に成立するかどうかと問うよりは どちらも 最終の状態においてはわたしの意志行為であり――確認したという受け身の態度だけであっても 意志行為であり―― しかもこの意志行為は わたしがおこなっているのだと考えます。
 ――たぶん 再反論がしやすいと思います。

 ▲ ※ウィキペディアの「自由意志」の最下段、脳科学(神経科学)の項――前野氏がその受動意識仮説をつくるのに援用したリベットの実験結果――
 ☆ いくつかの疑問を箇条書きに記します。
 1. 前提として 一般に統計学が 存在論や人間学をきづくひとつの根拠になるのか。
 2. 《手首を曲げる》を《手を挙げる》に代えて考えるなら この行為には たとえば《賛成のひとは手を挙げて》という指示が先行します。そのあと すでに考えていた結論にもとづき 一たん賛成なら賛成という意見を確認しつつ《手を挙げ》ます。
 2-1. ですから 意志行為には それ以前の知解行為によって結論がいくつか選択肢を用意されておりそのあと判断をくだすという一連の作業過程があります。このことを軽く捉えてよいのか。
 3. 賛成のために手を挙げるという例で言って 右脳が刺激されていた状態において 左手を挙げたといった実験結果は いったいどれだけのことを経験科学として言えるか。
 3-1. 右脳だろうが左脳だろうが そこに受ける刺激がどういうものかによって 違ってくることはないのか。
 3-2. その刺激は けっきょく過去にすでに自分が考えておいた結論の想起という刺激であるかも知れない。だから
 ▲ 動かした手の選択へ外的影響(磁場を用いた脳に対する刺激)
 ☆ と言っても 《外的影響》であるとは一概には言えない。
 4. 要するに 文学的に言わば 意志行為は そのつど 歴史的に一回きりの行為です。あとで訂正・修正補足することは出来ますが それらもそのつど一回きりの意志行為――すなわち ほかの誰でもない《わたし》の知解における思惟と推論とその結論についての自由な選択判断としての意志行為――であるしかありません。
 5. 車を走らせるのに右側か左側かは 《わたし》たちが決める意志行為です。
 6. そのようにどちらでもよい場合のほかにも 好きか嫌いかわたしが決めます。デートの申し出を受けるか受けないかをわたしが判断します。結婚するかしないか どちらの選択であっても意志による自由行為です。
 6-1. 仕事はこれを――いかに周りの人びとの意見があろうとも――わたしがえらぶのだと言うべきです。影響を大きく受けたという場合も 最終的にわたしが決めたのであるにほかなりません。
 6-2. (封建時代においても そういうものです。ほかの選択がありえたと知ったならば 意志行為は ひとつに決まっているのではなく 選択肢を自由に選び得るというのが 人間論です)。
 7. 《『意志決定の「機構」』(the decision-making  "machinery") 》ですって? ちゃんちゃらおかしいぢゃありませんか。
 
 おあとがよろしいようで。反論がしやすいワ゛ージョンとなっています。

投稿日時 - 2009-09-25 11:57:52

ANo.11

逆方向からの視点を述べる前に、整理していただき、ありがとうございます。

私が「一方の極」として例示した受動側を中心に解釈すると、仰るように(※おそらく、7の表現は除いて)
>>>===
★☆(要約) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 1. ひとは その自然本性としての存在のあり方からして《逃れ得ない関連性》のもとにある。
 2. ゆえに《孤独は錯覚である》。
 3. したがってこう考えなさい:
  《「人は、孤独である」という錯覚をどうして抱きうるのか?》
 4. すなわちその答えとして: 
  《さて、〔脳のはたらきなどの〕受動性の側からの(極端な)見方を
  (二者択一的に)能動性の側が否定しようとすると、関連性を排除する
  方向に向かわざるを得なくなり、(コギトであるところの我として)
  孤立性・孤独性が浮き出してくることでしょう。》
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おそらくこれですと まづは《孤独として自己を認識するという過程を通る必要はない》とすることになります。その代わりとしては こうです。
 ★☆(要約) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 5. 孤独感をあなたがおぼえたのは 考えるという作業をあなた自身が――あなた自身の《わたし》という主体が――おこなっていると錯覚したからだ。
 6. 考えるという作業は あなたが能動的におこなっていると〔思ったと〕しても そのとき同時に あなたの体や脳神経も共におこなっているのだから そのことを知れば 〔孤独感は〕錯覚と分かるはずです。
 7. あなたの思惟や行動のすべてには あなたが意志行為を働かせる以前に活動している脳のはたらきが対応している。そのことを知りなさい。
 8. そうすれば 孤独ではなくあたかも自然のふところに抱かれているというべき実態としての《逃れ得ない関連性》に あなたは包まれているとさとることでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
===<<<
となります。
(※意志行為を離れて 知解行為を単独分立させて《わたし》としてしまうのではありません。知的行為のみでなりたつものは、既に存在する現存のコンピュータ全般が該当しますが、そこに《わたし》とか《コギト》とかを見て取ることはできません。)

受動性のみへと偏ることは、まさに、一切の自己責任を排除し、外部へ責任転嫁しうる概念でもあります。

さて、No.8で提示させていただいた参照URLを読んでいただければ分かると思いますが、「多くの人々が違和感を覚える」仮説でもあります。
※この「仮説」に対する(能動性が存在しうるという)反証については個人的な見解を持っていますが本論からずれるので省略します。

で、私の立場は、何度か申しあげているように「能動・受動の双方の程度の差こそあれ、同時成立するところに私がある」です。

(他方を排除しようとする故に)どちらかの極にへばりついてしまう(そういう意志をもとうとする、ないし、そういう情況へ陥ってしまう)のは、いわゆる知情意のバランスが偏っている(ないし、それぞれの内部にて偏っている)情況とも捉えられるでしょう。

生まれてから死ぬまでの間、聖人君主のごとく、知情意のバランス(ないし能動・受動のバランス)を取って、孤独感に襲われることもなく、悟りきっている人はいません。「いくら知的に理解したとしても」です。
また、さまざまな情報を早熟な内に「知的に」得ることができたとしても、情意が伴わなければ、バランスを崩して様々な問題を併発することでしょう。そういった問題が発生する前に、自己の境界を揺り動かすのだと思います。
揺り動かす方向の、一方の極に「孤独」といった概念があると思います。
孤独へと至りたい時と、孤独感に苛まれる時と、それぞれの意志・情の有り様は、全くの逆方向を向いています。(※「知」のみでは、方向性は生じ得ません。)

そのように揺れ動くことで生きている人間に対し、たとえ、「繭のごとく」包み込もうとしても、「矛のごとく」突き破ろうとしても、当人の意志・情は、繭であれば「食い破ろう」とし、矛であれば、「盾をぶつけて」くることでしょう。
いくら「反抗期がある」と知っていても、「反抗期」は突き抜けるためにあり、通過すべきものでしょう。

そこにおいて、知情意・能動受動のバランスは(いや、全体に対する認識すら)大きく揺れ動くのだと思います。

以前、私の言っているところの「全体」は、bragelonne様の「全体」とずれていることを知りました。そのことによって、(もはや、知的な対話が不可能になりつつある父ですが、)父に対する思いを再度(いや再々度)転換させるべき時期だと悟らせていただいたのかもしれないと思っています。

投稿日時 - 2009-09-24 23:17:50

補足

 ★ 逆方向からの視点を述べる前に、
 ☆ 全体観を得させるように 初めに《このあと 逆方向からの視点をも述べます》とひとこと事割るべきです。
 一般に――あっ じねんさん ご回答をありがとうございます。いつも しっかり考えてくださっているという感覚は抱くのですが どうも焦点がずれたりしていると感じると もういまとなっては あなたとの対話において容赦をするなどということは考えられません―― 引用および参考すべき研究者ないし文献資料の紹介が 下手でいらっしゃる。
 養老猛などは 解剖学の分野はいざ知らず 思想としては 片寄っていると思いますよ。悪しき唯物論のごとき思考形式だと感じます。
 ★★ 一方の極としての「前野氏の受動意識仮説」を念頭に置いています。
 ☆ というように たしかに《一方の極として》のみ引いているとしても この――まちがっていたら ごめんなさい――仮説は 他方の・能動のほうを想定していないのでしょう? もしそうであるなら 援用の仕方がまづいのと違いますか? ぎゃくの見方からすれば わたしの《要約》も その(6)で
 ☆☆ そのとき同時に 
 ☆ と言っています。能動・受動の両方を捉えたかたちで要点整理しようとしています。そりゃあ たしかに わたしも
 ★★ 物理学的な相互作用全般 / 柄谷氏の「諸関係の束」
 ☆ に明るくないという無責任さが顔をのぞかせているにはいますが。

 さて前向きにまいりましょう。
 ★ 意志行為を離れて 知解行為を単独分立させて《わたし》としてしまうのではありません。
 ★ 揺り動かす方向の、一方の極に「孤独」といった概念があると思います。
 ☆ という二点の確認ができれば 大同小異の大同が成ったと思います。やれやれですよね。
 ただし次の事項は まだはっきりつかめていません。場合によっては 小異ではなく 大異であるかも知れません。
 ★ で、私の立場は、何度か申しあげているように「能動・受動の双方の程度の差こそあれ、同時成立するところに私がある」です。
 ☆ 《両極・両方向》があると言うのと《それら両方向が同時成立する》と言うのとでは 問題が違うはずです。別に 能動と受動とで互いに時間差があってもいいのではないでしょうか?
 知覚としての受動のあと 知解し意志する。意志行為としての能動のあと その反応や反響を受動する。どうなんでしょう? 《同時成立》説によって言わんとするところは 奈辺にあるでしょうか?

 ★ 以前、私の言っているところの「全体」は、bragelonne様の「全体」とずれていることを知りました。・・・
 ☆ 《境界は 断絶とともに・しかも同時に(これこそ同時に)関係をもつくる》あたりでしょうか? 《全体》観として特にどこかで強調して述べたおぼえがないのですが?
 ま そんなことはいいとしまして まづは同じ土俵に上がった段階でしょうか。《繭を突き破る》とも言っていただきましたし。
 ところでわたしの経験からいけば ざっくばらんに打ち明けますが 親というものは 子に対して言うべきことを言って去って行きますね。言わなかったとしても あとでこちらが気づくようになっているようですね。変な言い草になりますが ちゃんとしたときに往きますね。ちゃんとしたときに健忘症にもかかるものですね。なかなか孤独関係というものを味わわせてくれるものです。
 (どうもこういうことを言うのは われながら下手ですね)。

 さてここからどう展開しますか。

投稿日時 - 2009-09-25 00:25:57

ANo.10

袋小路は下麻呂さんもとい袋小路デブ麻呂さん。

車工場を例にとって見ましょう、
欠陥車両が公共の路上で走り回っているとします。

欠陥品を作った会社の処置はどうでしょう。

 貴方の信仰を創った神は、それ相応に評価されるべきです。

欠陥信仰を作った欠陥神

 どうでしょう。貴方が投稿をやめれば回答してもいいですよ。
いいかげん子羊からちょろまかすのをやめて、学んだ経済学を生かし慈善事業をしなさい。

ここからは立ち去ってください。
(文学に言って春樹の悪口をいいようにかいていてください。)

投稿日時 - 2009-09-24 21:29:04

お礼

 まづは 事実にもとづく話をこころがけるようにしましょう。
 ★ でぶ
 ☆ は 二重あごの意味ですから それにわたしは該当しません。
 ★ 学んだ経済学
 ☆ 経済学研究科の所属でしたが 経営学専攻です。
 ★ いいかげん子羊からちょろまかすのをやめて、
 ☆ 得になったらそのとき考えます。

 ★ 春樹 
 ☆ は放っておきますが
 ★ ここからは立ち去ってください。// 袋小路
 ☆ この二点は あたかもご自分を鏡に見て思わず発したことばであるように聞こえます。

 さて何とも読み取りにくい本論ですが。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 車工場を例にとって見ましょう、
 欠陥車両が公共の路上で走り回っているとします。

 欠陥品を作った会社の処置はどうでしょう。

 貴方の信仰を創った神は、それ相応に評価されるべきです。

 欠陥信仰を作った欠陥神
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 何とも理解しがたいですな。
 ★ 欠陥信仰
 ☆ 信仰に欠陥があったなら それは信仰とは言わないですね。せいぜいが信念をともなった思想です。一般には思い込みです。
 神も同じようです。神であるか それとも 神でないか 二つにひとつです。欠陥神というのは 表現において矛盾しています。
 なぜ神には欠陥がないか? 絶対として想定するものだからです。ですから 神といえば神。神と言わないならば 単なる神話の英雄や伝説の聖人があたかも神々のひとりに 人為的に加えられたに過ぎません。取り扱う必要がないしろものです。
 ★ 貴方の信仰を創った神は、それ相応に評価されるべきです。
 ☆ 人間が神を評価しようと またどう評価しようと 神には痛くも痒くもありません。ということで。 
 神の次元と 経験的な思惟や行動を表わす《車両》とは きちんと区別して話をすることにしましょう。後者を超えているからこそ 前者を想定するわけですから。
 わかりましたか?

投稿日時 - 2009-09-24 22:17:00

袋小路はげ麻呂さん
 ヘリクツは即刻やめるように。
貴方が袋小路です。

 救われるものが信じる神が本当の神
  貴方が信じる神は間違っています。

投稿日時 - 2009-09-24 17:40:17

お礼

 あぁ これはこれは nananisse さん。ようこそ。
 こちらが勝手にお招きしたに過ぎないにもかかわらず こたえてくださりおそれいります。

 そうですね。
 どうでしょう? たとえば ほかの質問へのご投稿をそのままでいいですから ここへ寄せてみるというのは? 関係とか孤独とかという言葉をひとこと絡めてもらえば よいのでは?

 * きちんと言っとかないと あとあと困ることになるかも知れないので 事実はそのつど明らかにしてまいりましょう。
 ○ わたしは でぶ気味だが 禿頭ではありません。部分的にもそうではありません。

 * ご投稿を読み返してみて もう一点 いまはっきりさせておきましょう。
 ★ 貴方が信じる神は間違っています。
 ☆ ちょいと表現をいじくります。語弊のある言い方をしますが ひとは自分から《信じる》わけではありません。軽く指で触れるみたいに声をかけてくれるのは 神のほうです。その神は 普遍であるゆえ 間違いようがないのです。
 なぜ普遍か? ですって? あなたが
 ★ 本当の神
 ☆ という言い方を自由にするのと同じように それは 経験合理性に即して言うならば 無根拠のことだからです。ふつうに言えば なぞだからです。――これで 《孤独》の問題とつながりました。削除の対象をまぬかれたでしょう。

 どうですか?

投稿日時 - 2009-09-24 19:52:38

ANo.8

No.2です
養老氏の唯脳論(というより認識論)は、端的に言えば「人としての視点を介して」です。
>>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%84%B3%E8%AB%96
人は己の意のままにならぬ自然から開放されるために人工物で世界を覆おうとする。そのようにしてできた世界が脳化社会である。その特徴は下記の通りである。

人工空間の成立
仮想空間の成立
自然の排除
<<<
にて、見て取ることができます。
上記記述の前段階、「人工」と「自然」とを分けている(分けようとしている)時点で、既に唯脳論的な捉え方をして(人としての視点を介して)います。

《関連性》ですが、どのレベルで取っていただいても何ら問題はありません。

私の場合、通常は(非局所的な量子エンタングルメントを含む)物理学的な相互作用全般を想定しています。場合によっては、柄谷氏の「諸関係の束」だったりしますが。。。

それゆえ、「コミュニケーション論だろ?」と言われたとしても、「そうかもしれないですね」としか答えようがないです。

《全体》については、既に解釈が分かれているので省略しますが、能動性・受動性との関連からすれば、一方の極としての「前野氏の受動意識仮説」を念頭に置いています。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/27/news022.html
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/27/news022_2.html
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/27/news022_3.html

>>>http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/28/news050.html
それは各自が反射的にタスクをこなす機能の集積によるボトムアップのシステムである。我々の体内では膨大な反射からなる無数のタスクが機能しており、これらタスクの「並行分散処理」が行われている。そして局面ごとに活発になったニューロンが行動の主導権を握っていく。

 このプロセスの連続が、私たちのふるまいである。そして意識は、こうしたプロセスの結果としてあとからアウトプットされる、いわば物語なのである。私たちがありありと感じる“わたし”という意識は、実は行動を決定していないのだ。

 こう考えると先に提示した問いは解決する。受動意識仮説では、私たちのふるまいを決定しているのは、私たちの体の中で行われている活動のすべてであるといってよい。だから最初の「わたしという意識はなにゆえに?わたし?という個性を持つのか」という問いの答えは、無数のタスク、体内の小人たちの結合のあり方である。

 我々はまず遺伝子にもとづいてこの世界に生まれてくるが、その後さまざまな経験を経て、自分であり続ける。その経験(それは外界のできごとのみならず、思考や読書を通じての体験のような内面世界の情報も含まれる)によって体内の小人のあり方は変わってくる。それが“わたし”という意識のユニークさにつながる。
<<<

さて、受動性の側からの(極端な)見方を(二者択一的に)能動性の側が否定しようとすると、関連性を排除する方向に向かわざるを得なくなり、(コギトであるところの我として)孤立性・孤独性が浮き出してくることでしょう。

で、上述のような極端な場合であっても、能動的な側と受動的な側への端的な局在ではなく、能動・受動を併せ持っていて揺れ動いている情況であっても、そんなことなど考えもしないという状況においても、「《関連性》からは逃れ得ない」ということだと考えています。

投稿日時 - 2009-09-24 03:54:20

補足

 じねんさん このご文章を読むかぎり そこでのあなたは 袋小路に入っておられるとでも見ざるを得ません。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・で、上述(* 省略したかたちで引用します)のような極端な場合であっても、能動的な側と受動的な側への端的な局在ではなく、能動・受動を併せ持っていて揺れ動いている情況であっても、そんなことなど考えもしないという状況においても、「《関連性》からは逃れ得ない」ということだと考えています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という結論のところですが こういう意味において 《関係の絶対性》が言えるということでしょうか?
 ですが その情況 いえつまりは それは存在にとって基礎的な情況のあり方でしょうから言いかえると 自然本性としての存在のあり方ですね この自然本性そのままの《逃れ得ない関連性》なる情況にあって生きるとき そのときにもなおも人は いわゆる孤独感をおぼえます。
 そういう現象が起こり しばしば人はこれを厄介に感じます。

 このとき ここではすでにさいわいに bananasand さんより答えを得ております。たとえばわたしの言葉で
 ○ 孤独を突き抜けるとそこは 共生という現実だった。
 ☆ になります。《共生という現実》が 《逃れ得ない関連性》です。問題にしたいとわたしが考える違いは
 ○ 孤独を突き抜けると
 ☆ という部分つまりそういう過程を捉えるか否かです。孤独を一たん通るか否かです。孤独を《錯覚》と見ないか見るかです。

 つまりは じねんさんのご主張からすれば こうでしょうか。
 ★☆(要約) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 1. ひとは その自然本性としての存在のあり方からして《逃れ得ない関連性》のもとにある。
 2. ゆえに《孤独は錯覚である》。
 3. したがってこう考えなさい:
  《「人は、孤独である」という錯覚をどうして抱きうるのか?》
 4. すなわちその答えとして: 
  《さて、〔脳のはたらきなどの〕受動性の側からの(極端な)見方を
  (二者択一的に)能動性の側が否定しようとすると、関連性を排除する
  方向に向かわざるを得なくなり、(コギトであるところの我として)
  孤立性・孤独性が浮き出してくることでしょう。》
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おそらくこれですと まづは《孤独として自己を認識するという過程を通る必要はない》とすることになります。その代わりとしては こうです。
 ★☆(要約) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 5. 孤独感をあなたがおぼえたのは 考えるという作業をあなた自身が――あなた自身の《わたし》という主体が――おこなっていると錯覚したからだ。
 6. 考えるという作業は あなたが能動的におこなっていると〔思ったと〕しても そのとき同時に あなたの体や脳神経も共におこなっているのだから そのことを知れば 〔孤独感は〕錯覚と分かるはずです。
 7. あなたの思惟や行動のすべてには あなたが意志行為を働かせる以前に活動している脳のはたらきが対応している。そのことを知りなさい。
 8. そうすれば 孤独ではなくあたかも自然のふところに抱かれているというべき実態としての《逃れ得ない関連性》に あなたは包まれているとさとることでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしはこれは 自然科学の手法による観念の繭だと思います。
 わたしの命題(α)を解き明かしたかたちになっているのですが〔たとえば (7)を参照〕 わたしのほうは (あ) 意志行為を問題としており(あるいは 孤独感を意志行為の問題として見ており) (い) したがって経験行為の過程を伴なうということが 特徴です。
 ぎゃくに言えば じねんさんの命題は (う) 意志行為を打っちゃって 認識(知解)に還元していると人は感じるだろうということ それに(え) したがってその認識をおこなう時点に立つのみとなり 現実の行為過程から一歩退くかたちをとる。
 わたしのおそれは これは コギト〔の悪い事例〕と同じではないか。すなわち意志行為を離れて 知解行為を単独分立させて《わたし》としてしまう悪い事例のさらに縮小版に陥るのではないかというものです。どうでしょう?

投稿日時 - 2009-09-24 06:17:44

ANo.6

まとめに挑戦してみます・・

この絶対は、自己が自己を自己とする完全性です。これが孤独です。
その絶対からして、対象は不可知であり、対象からの自己反射が「関係」となり存在ならしめます。
「関係」は自己に附従性を有し、不可分であるが故に絶対性を帯びます。それが現実です。

投稿日時 - 2009-09-23 20:50:04

お礼

 ふむ。今回は 満足してないですね。

 どう不満かを言わねばならないですね。
 ★ この絶対は、自己が自己を自己とする完全性です。これが孤独です。
 ☆ 《わたしがわたしである。ほかの誰でもない。人間は生きることに限りがあるけれども そのあいだを貫いて わたしはわたし以外の者ではなくわたしであり続ける》――自己同一性のことですが いわば《完結性》とでも言うと分かりやすいようにも思いました。
 言いかえると 《孤独》も わたしなる一人の人間において完結している。わたしの中に孤独はたしかにある。わたしの外は 分からない。外の人びとはそれぞれ 何やら人としては同じ存在であり同じ孤独のようであるが 分からない。わたしの孤独とは 一たん切れている。その意味でもわたしの孤独は わたしにおいて完結している。
 この境界は 経験的で相対的なものだが それとして 定まっている。人びとの社会的な配置のあり方は 断絶とむしろそれゆえに互いに関係する位置取りと成っている。
 これ以外の選択肢は ひとにないと思われる。或る種の仕方で この存在のあり方は 絶対である。
 ★ その絶対からして、対象は不可知であり、対象からの自己反射が「関係」となり存在ならしめます。
 ☆ これは ひょっとして 《絶対者=神》のことを想定していますか? 一応として不可知な対象は 神ですけれど。その
 ★ 対象からの自己反射が「関係」となり存在ならしめます。
 ☆ 先の社会構造における《断絶と関係》あるいは《孤独と関係》もしくは《独立と関係》といった配置が 定まると言っていいでしょうか。
 ★ 「関係」は自己に附従性を有し、不可分であるが故に絶対性を帯びます。それが現実です。
 ☆ 《独立》は 自由意志につながります。《関係》は その自由意志の帯びる答責性(責任)につながります。意志の自由と責務がすでに 孤独そのものであるとも見られるし それが取りも直さず《関係》であるとも見られます。
 おそらくこの基礎としての現実(つまりそういう社会構造)に則るならば あとはまったく自由であり この自由が対等であり そこにおいてわたしたちは 自由を享受することができる。

 そして一般には この基礎現実の上でわたしたち人間は まだ 自由を曲げたり責務を素通りしたりして へそ曲がりを《謳歌》している。
 どうでしょう。

投稿日時 - 2009-09-23 21:49:50

ANo.5

>《わたしのほかに一人として わたしと同じ存在はいない。=かけがえのないわたし》から孤独および それとしての孤独と孤独の関係 を見ていました。

 この孤独は、相手の孤独を認容する単純な孤立の色を帯びてますよね。
 でも、「関係」の絶対性を肯定すると、孤独にも絶対性が不可欠となりなりますので、
この御質問のそれが意味するところは完全な孤独だと思いますし事実そうなんですよ。

 相手の孤独は、自分が完全な孤独であるのと同様の孤独であるかどうか、
完全であるか否か、自分は知り得ないということから自分の完全な孤独が成り立つのでは
ないでしょうか。相手が完全に孤独であることを推定や共感の域を超えて、自分が実体験として
知り得るなら自分の完全な孤独は成り立ちません。

>ひと(他者)の孤独の中を覗こうとしたり忖度したりするのには馴染まない。といったところなのでしょうか? 

 その推測、忖度、共感を駆使して、まさに、自分の孤独が「関係」作りをし現実を形成すると言うことですが、如何に懸命になっても絶対性を打破することは不可能という限界があると言うことになります。

>○ 孤独の中身は なぞである。なぞのまま 互いに自由に交通するなら そもそもの関係性が活かされて互いに対等の間柄になる。

 核心ですね。

 孤独の中身は、絶対である。存在の所以である。「関係」こそが現実である。
 相手の孤独の中身はなぞである。なぞは絶対を映しだすが故に常に対等な間柄である。

投稿日時 - 2009-09-23 17:14:53

お礼

 お答えをいただきたいへんありがとうございます。

 ほおう。
 ○ なぞ
 ☆ でいいのですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 孤独の中身は、絶対である。存在の所以である。「関係」こそが現実である。
 相手の孤独の中身はなぞである。なぞは絶対を映しだすが故に常に対等な間柄である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ あとは 《絶対・絶対性》の意味を明らかにしておかねばならないようにも思いました。それは
 ★ 完全な孤独
 ☆ というものとも関係しているようにも伺えますね。
 というのも わたしの場合 ここでは 次のようです。
 ○ 関係の絶対性というときの《絶対性》とは 《そのかかわりやつながり(=関係)を避けることが出来ない》という意味あるいは《選択肢がほかにないと思われる場合》のことです。
 ☆ 要するに 離れ離れになるときもあるが そのかかわり(関係)は もう一生のあいだ そこから逃がれられないという意味に採っていました。親子の間柄と同じ関係なのだというような意味です。

 そこらへんは いま少しあいまいな形になっているでしょうか?
 そのあたりについて触れて まとめていただけるならさいわいです。よろしくどうぞ。

投稿日時 - 2009-09-23 18:50:30

ANo.4

>○ 関係において ひとは孤独でなくなるというよりは 孤独なる自然本性どうしとして生きる。そのときひとは 孤独があたかも自由で独立していると 互いに認め合うかも知れない。時として 対等があたかも実現したと思う。

「お互いに認め合う」とする相手の孤独は絶対に知りえないのだという事実が、自分の孤独と「関係」に絶対性を与えています。
相手の孤独を推定し、共感し、対等があたかも実現したと思う相対性が、孤独を共生に変容させます。もちろんそこにこそ現実とか「関係」があるのですが、これらは、自分の孤独が作り出しているからこそ、元の絶対性が担保されていると言うことだと思うんですね。
しかし、そこが限界で、相手の孤独はどうしたって知りえない、もし知り得るなら自分は孤独ではなくなるという界面に到達します。

>○ 何らかのかたちで訣別したひとがいる。去って行ったのだ。このとき 離れていても 人間存在としては 関係が断たれたわけではない。それを 関係の絶対性ということばで表わそうとしたのですが とは言えそれは いったいどういう現実か?

それは、その通りで、日常生活上や法律上あるいは生死で関係が絶たれたという現実と、自分の「関係」の存在という現実は別のことです。「関係」の絶対性というのは、自分の中にある「関係」ほど確かな存在はないということで、相手が如何に関係を絶ったのだとしても、自分の「関係」の絶対性は侵されることはないと言うことになります。翻すと、これが孤独の絶対性の所以でもありますね。

>○ 放っておけば その関係というのは言わばそれ自体で 時の経つにつれ あたかも熟れてくるということでしょうか?

それは、関係の折り重なり、万物の変化、忘却により絶対性の中であっても熟成されると言うことでしょうけれど、真剣に議論すると存在論、時間論の迷宮へ誘われますね。

投稿日時 - 2009-09-23 15:33:46

補足

 球を打ち返していただいてありがとうございます。

 ★ ・・・関係の折り重なり、万物の変化、忘却により絶対性の中であっても熟成されると言うことでしょうけれど、真剣に議論すると存在論、時間論の迷宮へ誘われますね。
 ☆ なるほど。ひとつの簡便な答えは そうすると 《断たれていた関係(交通)が 或る日 つながった。つまり出会いが成った。》というときに その間の空白の時間には どのような熟成が出来ていたか分かるというところでしょうか。それまでの途中の段階において議論や推測には馴染まないということですかね。
 ううーん。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「関係」の絶対性というのは、自分の中にある「関係」ほど確かな存在はないということで、相手が如何に関係を絶ったのだとしても、自分の「関係」の絶対性は侵されることはないと言うことになります。翻すと、これが孤独の絶対性の所以でもありますね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ひょっとすると このような意味で《じんるいはみな兄弟》といった見方になるのでしょうか。《信仰》の以前に・ふつうの社会生活という次元において かかわり(関係)とつながり(あたかも対等な兄弟姉妹関係)が捉えられるというところまで行きますか?
 だったら 自由にけんか(口論)が出来ますね。余分な感覚的反応ですが。

 ★ 「お互いに認め合う」とする相手の孤独は絶対に知りえないのだという事実が、自分の孤独と「関係」に絶対性を与えています。
 ☆ なるほど。こちらから攻めるのですね。わたしの場合は 《わたしのほかに一人として わたしと同じ存在はいない。=かけがえのないわたし》から孤独および それとしての孤独と孤独の関係 を見ていました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 相手の孤独を推定し、共感し、対等があたかも実現したと思う相対性が、孤独を共生に変容させます。もちろんそこにこそ現実とか「関係」があるのですが、これらは、自分の孤独が作り出しているからこそ、元の絶対性が担保されていると言うことだと思うんですね。
 しかし、そこが限界で、相手の孤独はどうしたって知りえない、もし知り得るなら自分は孤独ではなくなるという界面に到達します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いいですね。何か心配をしていて損をしたといった感じですね。
 《しかし》のあとが いまひとつ分かりづらいです。
 孤独は 動態であり過程であり生きることそのものであるから 誰かと訣別したあとの離れ離れのときに その関係のときが満ちるのを憶測したり議論したりしても始まらなかったのと同じように ひと(他者)の孤独の中を覗こうとしたり忖度したりするのには馴染まない。といったところなのでしょうか? 
 そうすると あれですね。わたしはいつも《なぞ》ということを言っているのですが
 ○ 孤独の中身は なぞである。なぞのまま 互いに自由に交通するなら そもそもの関係性が活かされて互いに対等の間柄になる。
 ☆ ???

 もう少し わずらわせ申し上げます。

投稿日時 - 2009-09-23 16:07:30

ANo.3

>孤独どうしの存在関係は 普遍的だという推定および推論および直観的な納得およびそれとしての生活感覚かつ生活共同が現実だというところまで延びませんか?

 孤独と共生のパラドクスなんですね。
 繰り返しになりますが、孤独どうしの存在関係を孤独側から見ると孤独では無くなるということです。この問題は、孤立ではなくやっぱり孤独でしょうね。

 孤独どうしの存在関係は相対的であり、孤独に存在する関係は絶対的である です。

 したがって、「普遍的だという推定および推論および直観的な納得」は、
 あくまでも、孤独の内部にあり、共生の海に出航したとしても、
 孤独が作り出している絶対的な関係であるということではないでしょうか。

 後段の、生活感覚かつ生活共同が現実だということはその通りだと思います。

>孤独を突き抜けるとそこは 共生という現実だった。

 これは、絶対的な関係であることから、その通りだと思います。
 共生という現実を構成しているのは孤独だった。 

投稿日時 - 2009-09-23 11:39:43

補足

 ご回答をありがとうございます。

 大同小異になってまいりました。と思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 生活感覚かつ生活共同が現実だということはその通りだと思います。

  >孤独を突き抜けるとそこは 共生という現実だった。

 これは、絶対的な関係であることから、その通りだと思います。
 共生という現実を構成しているのは孤独だった。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 部分的な引用ですが 大同としての基本であるように思います。
 小異が どのように異なっているか これがまだ つかみかねています。
 どうも
 ○ 孤独
 ☆ という言葉の定義にもかかわるのかも知れません。
 ★ 孤独どうしの存在関係を孤独側から見ると孤独では無くなるということです。この問題は、孤立ではなくやっぱり孤独でしょうね。
 ★★ (No.1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この「関係」には、二つの解釈があるように思います。。
 一つは、自分からみた関係であり、まずは、その絶対性を肯定します。
 もう一つは、関係そのものの絶対性なのですが、孤独どうしのかかわりなど / そもそも存在のしようがありませんから否定したいですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まづこの二番目の《関係そのものの絶対性》は 別としてよいようですね。たぶん概念のいじくりのようなものになるかと思います。
 と書いて来て いま分かったのですが 違いは次にあるのではないか?
 ★ ( bananasand さん) 孤独どうしの存在関係を孤独側から見ると孤独では無くなるということです。// まずは、その絶対性を肯定します。
 ☆ ( bragelonne ) (1) ひとは おのおの《わたし》なる存在として 身体かつ精神のまとまった自然本性を持って ひとりにおいて生きる。同じ人間は 一人としていない。
 (2) 精神=身体の――精神=身体の一体となった存在の――ところどころを他の人と取り換えたり しばらくの間他の人の代わりとなって生きたりするということは ない。
 (3) この《世界に二人といない〈わたし〉は〈ひとり〉なる存在である》という《孤独》は 誰もがこの孤独であるからには その孤独どうしとしてかかわりあっている。(社会に生きるかぎりかかわっている)。
 (4) 《わたし》は みづからが孤独であると知っている。と同時に 社会はその同じ《孤独》という存在条件のもとに共に生きる関係として成り立っている。
 ・・・
 
 ☆ ここまで来て 初めに分かったと思ったことが必ずしも明確ではなかったようです。初めに気づいたと思ったことは
 ○ 関係において ひとは孤独でなくなるというよりは 孤独なる自然本性どうしとして生きる。そのときひとは 孤独があたかも自由で独立していると 互いに認め合うかも知れない。時として 対等があたかも実現したと思う。
 ☆ でしたが すんなりとは行きません。申し訳ないですが このまま球をそちらに投げ返します。

 あと 質問じたいの動機は こうでした。それについても考慮いただけるならさいわいです。
 ○ 何らかのかたちで訣別したひとがいる。去って行ったのだ。このとき 離れていても 人間存在としては 関係が断たれたわけではない。それを 関係の絶対性ということばで表わそうとしたのですが とは言えそれは いったいどういう現実か?
 ○ 放っておけば その関係というのは言わばそれ自体で 時の経つにつれ あたかも熟れてくるということでしょうか?

投稿日時 - 2009-09-23 14:13:28

ANo.2

「人は、孤独である」という錯覚をどうして抱きうるのか?
おそらく、問題はそこから始まるのではないでしょうか?

意志行為の始まる前、ひとは母体から生まれいずる。。。

太古にて、生命がその息吹を「自然に」得たとしても、周囲との関連性があったが故に、それら周囲を含めた「自然」(母体)から切り離されては生まれ得なかった。。。

孤独という概念は、人が個別に、知的に思考しうるということと関連しあっていると思います。

養老氏の唯脳論(的な認識論)は、(脳側を中心とした)思考から排除しようとするもの(排除されやすいもの)が、(関連性を有しているが故に、不自由に感じる)身体側を通した自然(摂理)だとしています。

存在の側から思索すれば、「孤立して存在しうるものはあり得ない」になり、認識の側から思索すれば、「関連性から孤立した視点、ないし、あらゆる関連性を考慮に入れた視点、ないし、あらゆる関連性に影響を受けない視点、あるいは、自由な着眼点を求めようとする」ことになるでしょう。

知的思索が全体の部分でしかなく、かつ、全体との関連性から独立し得ないということは、(認識の側が存在の側をどのように捉えたとしても、)孤独(ないし孤独感)すら、全体の部分でしかありえないということになるでしょう。。。

投稿日時 - 2009-09-23 02:30:14

補足

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★☆(要約) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 1. 孤独というのは錯覚である。
 2. 存在が生まれてくるあり方は――それを自然本性と言うならば 自然本性は―― ほかのひととの関係性の内にある。
 3. 孤独ともし言うとすればそれは 思考能力および実際の思考にかかわって――あるいはおそらくわたしの見方では 意志行為として―― 捉えられる。意志による自由な選択行為としての孤独。
 4. 養老猛説は意味がとれませんでした。あしからず。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ となりましょうか。
 例によって 反論です。
 (3)の《意志による判断を代わりの人間がおこなうことは出来ない》ゆえの孤独は (1)に言うところの《錯覚》ではないでしょうし
 (2)の《自然本性としての関係性》と両立しうると思うのですが どうでしょう?
 《関係しつつ孤独である》つまりは《孤独でありつつ関係し合っている》ことは まだ持ち堪えうるように思いますよ。

 用語について吟味します。
 ★ 関連性
 ☆ は具体的なかたちで 血縁があるとかないとか 出身(地縁・国)が同じ・違うとか言う場合に用いるとよいと考えます。具体的な交通(まじわり)をつうじての関係性(かかわり)と言った意味合いです。ひとは特に関連性を持たなくても 存在として関係し合っているという見方です。(反論あれば乞います)。また
 ★ 孤立
 ☆ も同じく具体的な要素や要因をつうじて現われた孤独のかたちに用いるとよいと思います。周りから《孤立》すると 存在感がないと見なされ発言の力も失われたりしますが このように《孤立》していなくとも ひとは存在として《孤独》としてあるという見方です。(反論をどうぞ)。
 
 ★ 知的思索が全体の部分でしかなく、かつ、全体との関連性から独立し得ないということは・・・
 ☆ たぶん上の(3)の問題だろうと思います。コギトつまり思考(知解)に限れば 存在ないし自然本性ないし精神(ここに記憶と知解と意志を含む)を代表させ難いのだと見ます。でも 意志行為は 存在ないし人格の全体を表わすと見うるのではないでしょうか? 
 つまりは 知解の結果現われる意志行為という段階にあっては すでに他者との関係(つまりこのばあい交通)が前提されているからです。社会行為でありうる知解(思考)が 意志行為として現われることによって 実際に社会行為となる。
 言いかえると 意志行為としては 意志じたいにみづからの価値観を排除しておらずその上に 知解のコギト(ないし理性)とともにすでに情感(感性)をも伴なっており これらが合わさってその場での人格の全体を表わすと言えるのではないか。
 ですから――そうとう我が田に水を引いていますが――
 ★ ・・・(認識の側が存在の側をどのように捉えたとしても、)孤独(ないし孤独感)すら、全体の部分でしかありえないということになるでしょう。。。
 ☆ こうではないでしょうか? つまり 全体は・人格の全体が 《孤独でもあり関係性でもある》。

 その上でこの質問は
 ○ 関係性 あるいはさらに関係の絶対性
 ☆ とまで言い出してみたものの その実態は如何に? という恰好なのです。
 ただし
 ★ 非孤独としての孤独説――自然本性において――
 ☆ につきましては しかと受け賜わりました。つまりその上で 具体的にはどうなのか? と問いたい気持ちが残っています。
 存在論と言いましたが コミュニケーション論でもあるようですね。つまりは コミュニケーションが取れていなくても関係の絶対性を言うわけですから その中身はいったいどういうことなのか? です。

 * この場を借ります。nananisse さんに告げます。対話の意志がおありだと見ましたので どうぞよその場でそうしないで ここに投稿を寄せてください。

投稿日時 - 2009-09-23 08:47:27

ANo.1

こんばんわ。bragelonneさん。

>共生の問題として およそひとの意志行為の始まる前に 《ひとは――孤独でありつつ その孤独どうしのかかわりとして―― 絶対的に関係しあっている》。

ひとは、孤独でありつつ「関係」が絶対性を帯びている・・・パラドクスですね。

この「関係」には、二つの解釈があるように思います。。
一つは、自分からみた関係であり、まずは、その絶対性を肯定します。
もう一つは、関係そのものの絶対性なのですが、孤独どうしのかかわりなど
そもそも存在のしようがありませんから否定したいですね。
「孤独どうし」が成立する状態が認められるならもはや孤独ではありません。
違いますでしょうか。

そうすると、絶対的に関係しあっているのではなくて、絶対的に関係している・・
つまり、一方の孤独側から真で、他方は真が推定されるのみで、これを関係しあっているとは言いきれない断絶が「孤独」にはあると思うんですね。

《ひとは――孤独でありつつ ―― 絶対的に関係している》

投稿日時 - 2009-09-23 01:23:49

お礼

 bananasand さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。質問を挙げて寝てしまいましたので 一夜明けてからになります。

 ★ 《ひとは――孤独でありつつ ―― 絶対的に関係している》
 ☆ なるほど。
 ○ 主観の内に 存在と存在どうしの関係を捉えようとすることは――むろん 構わないし ふつうのことだが―― それはすべて わが主観の側の見方におさまる。
 ☆ でしょうか?
 ★ つまり、一方の孤独側から真で、他方は真が推定されるのみで、これを関係しあっているとは言いきれない断絶が「孤独」にはあると思うんですね。
 ☆ ふうむ。
 ○ 《関係》である限り 他方の主観についても《推定》をおこなっている。その他方のひとがどう主観しているかを別として こちらの主観は 《関係の絶対性》をその通りだと推定している。
 ○ つまり こちらはわが主観の内で 他者と《絶対的に関係し合っている》と勝手に思っている。
 ☆ というところですね? それにつけても
 ★ 「孤独どうし」が成立する状態が認められるならもはや孤独ではありません。
 ☆ ということで・・・。ふうむ。・・・

 さて反撃開始です。
 こういうふうに考えられませんか? つまり
 ○ 《孤独》という言葉は 多少とも好悪ないし価値観の色合いがついているかも知れません。《孤立》と言えばなおさらであるようです。ここではまづ 要するに《ひとりである》ということ。たとえば 《ひとは誰かほかの人の代わりに食べたり寝たりして生活することは出来ない》。
 ○ その孤独は ひとにとって普遍的な存在のあり方ではないでしょうか? ――もしそうであれば 孤独どうしの存在関係は 普遍的だという推定および推論および直観的な納得およびそれとしての生活感覚かつ生活共同が現実だというところまで延びませんか?

 ○ 孤独を突き抜けるとそこは 共生という現実だった。
 ☆ は成り立ちませんか? つまりは この命題の真がたとえ確認されなくとも 互いにその基礎(出発点)に立って突っ走ってもいいのでは?
 危険はないように思います。孤独ゆえ 自由意志ということですから つねに相手の意志に問いかけ その自由意志のありかを確かめ合って――大同小異となったところで――初めて 共同作業になるわけですから。そういう共生なのですから。どうでしょう?

投稿日時 - 2009-09-23 07:10:23

あなたにオススメの質問