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締切り済みの質問

復讐に意味はあるのでしょうか。

復讐に意味はあるのでしょうか。
憎しみとは一体なんなのでしょうか。
どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。
別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。

また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても、その意味までは分かっていない状況なので、どなたか分かりやすく解説して頂けるのであれば幸いです。
宜しくお願い致します。

投稿日時 - 2009-11-22 04:10:06

QNo.5466279

暇なときに回答ください

このQ&Aは役に立ちましたか?

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回答(39)

あらゆる言動の軌跡は記号の範疇に留まっています。

投稿日時 - 2011-07-16 15:40:52

ANo.38

価値の欠如は有り得ますが、意味が無ければ言葉を存在させられません。

投稿日時 - 2011-04-01 01:21:48

ANo.37

私は、「復讐に意味はあると思う」という立場です。
例えば、人は、いじめを受けて傷つくと、エネルギーを相手に奪われてしまうのです。
引用となりますが、以下のような理屈です。

「いじめの本質とは、「相手からエネルギーを奪う」行為に他なりません。
いじめを受けている人達は、エネルギーを奪われ続けているのです。   

エネルギーを奪われると、人は卑屈になり、自分自身を「過小評価」するようになります。
言わば、「いじめっ子」によって、「自分自身」を小さくされてしまうのです。

いじめっ子に奪われたエネルギーを取り戻せば、「本来の自分自身」に戻れます。
しかし、エネルギーを取り戻し、「本来の自分自身」に戻るには、
まず、いじめっ子の「膨れ上がった虚栄心」を叩き壊す必要があります。

なぜなら、一度奪われたエネルギーは、
相手の「貯蔵庫」を破壊しない限り、絶対に戻って来ないからです。

いじめられた貴方が、「エネルギー」を取り戻すには、
いじめっ子の「膨れ上がった虚栄心」を徹底的に破壊する事が必要です。」

結論から言えば、復讐とは、奪われたエネルギーを取り返す、
「エネルギー奪還の行為」なのではないでしょうか?

もちろん、違法なことはしてはいけませんよ(^ー^)

参考URL:http://d.hatena.ne.jp/bagensan+ijimekaiketu/

投稿日時 - 2010-08-30 02:20:16

ANo.36

「教えて!検索」で「憎しみ」をキーワードに「全カテゴリーから検索」すると、参照URLに記載した質問が見つかります。
これの、ベストアンサーが一番的を得ていると思います。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3784996.html

投稿日時 - 2009-12-24 16:56:41

ANo.35

 でも 本音を言うと「自分がだけが変われ 他者は関係ない」と言うのも 極論だと思うんだけどね。

投稿日時 - 2009-12-04 02:45:47

ANo.34

 質問の仕方が適切ではなかったかもしれませんね。

 単なる復讐ということであれば No.42の言い分は正しいと言えますが、そうではない義憤、憤りであれば 「やって欲しくない」という主張に対してのバランスを取る意味でも

 やるべきことはやりなさい と言えます。

 自分のレベルで他者を見て、論じる人間に反論するのは復讐ではなく、正当な行為であると考えられます。

 人は、自分が出来ないこと、やれなかったこと などのこだわりがある場合、それを揺るがすと思われるような主張や質問に対しては 過剰に反応するものです。

 特に、正当な行いをされた時に身の危険や精神的安定を壊されそうだと判断したときに 「あれをやってはダメ」「これをやりなさい」と声高に主張します。

 人は他者を変えることは出来ません。しかし、他者との関係性、他者に対してどう関わるかで自分と自分の世界を変えることが出来ます。

 とにかく、ここで言葉として語るべきことは語り尽くされたと言って良いでしょう。

投稿日時 - 2009-12-02 22:23:16

ANo.33

 11月26日の代理母出産の記者会見を事例に。
 26日午前6時30分。ある母娘が会見。娘が1歳で卵巣がんになり、その手術の代償で不妊つまり産めない女性になった。その娘が27歳(たしか。怪しいから確認を)になり、結婚。その娘の受精卵を母親の体内に入れ代理母出産した。その母親は57歳で高齢出産で帝王切開で産んだ。この母親は記者会見の時に「娘を母親にしてあげたかった」と言った。妊娠の危険やリスクに対する記者に、自分のリスクより娘を母親にしてあげる事を優先したのだ。つまり、代理母出産は妊娠のリスクで、他人のためにリスクを背負うという理屈はおかしいというかもしれない。ただ、その母親が娘を母親にしたい思いに涙が出る。母娘は代理母のイメージや認知や関心を持ってもらうやめに、中傷を覚悟して会見したのだ。

 同日18時30分。代理母出産の意見で非常に稀に見る中傷といえる意見があった。
1人目 母親の偉大さに感動する。
2人目 同上
3人目 同上
4人目 代理母出産に反対です。私は避妊治療をしています。妊娠の母子に関するリスクで問題です。憤りを感じます。

 その4人目の意見は何だと思いませんか。その母娘に関する意見ですが、4人目は自分が避妊治療してという、誰も聞いていない内容(私だけか?)を答え、自分の避妊治療と代理母の論理的関係も曖昧で、さらに憤るだと。その態度はおかしいですね。その会見の母娘で母親の気持ちというのが分かりますか?その女性の人が同じ境遇だったら、同じ意見が言えますか?無責任です。4人目の女性が産めない女性なら、自分の子をどうしても欲しいとかの感情はないか。つまり、妊娠の危険性という一次元の問題(科学的思考)が先に行きついている。婦人科学会も代理母出産は認めていない。だが、その医学の先にあるものは何か。それは、母親の強い思いや信念や決意という二次元の問題(人間心理的思考)であるのだ。その科学という先に、暗闇があり人間としての明るさを見失ってはいないか。科学も哲学も明るい未来を見ないといけない。
 確かに、代理母出産に関する医学上の問題で他人の子を産むことへのリスクの問題がある。生命倫理も代理母出産を生命の尊厳に反するとの意見がある。そのため、母子への安全性を重視するのは当然といえよう。だが、問題は違う。
 この問題は、会見の母娘の話のみであったはずだ。母子は安全で事故が起こらなかった。ただ、事故が起きればその母親の生命は危ぶまれたかもしれない。ただ、彼女(母親)は成功した。もっと、その思いやりを持ってほしいと思われたのだ。世間は冷たい。代理母も法制的に認めていない。だが、彼女を批判し自己の体験でリスクがでは可笑しい。尚、ニュースの意見募集の4人目の「憤り」という言葉も不適切。あなたは当事者(加害者と被害者)ですか。原告が被告にいうなら「憤り」も正しい使われ方です。他人の事で「憤る」という態度は何事ですか。それはあなたの主観で主張して言うからそうなるのです。なるべく、中立に客観的に書く。それを我々は疎かにし、自分の主張に独善になり配慮が足りないものになりえる。つまり、相手の思いや思考を理解し公平や中立に心掛けないといけない。そのため、どの世界も過激派の立場は歓迎されず、中立的な立場を求める。ならば、文章力という問題も作者自身の精神的な問題や常識度が出てくる。自分が苛立つ気持ちがあり書くと、誰も不愉快な気分にさせる文章になりえる。だから、文章表現とは自分の感情と文章に間を少し空けて書くのが重要なのである。
 「復讐はあるか・憎しみはあるか」という質問者の問いにも同じことが言えるのではないかと思います。復讐するや憎むは自分の欠点を認めず、相手に一方的な悪を主張する事です。紛争や喧嘩もどちらが正解や正論とかありませんね。紛争が起きた時に裁判で自分が正論だと主張する人がいますが、民事訴訟は和解が多く勧告も多いのです。ですから、どちらかが譲る、いいえ両方が譲り合う事が重要です。第三者の人の忠告は誠意を持って受け取りましょう。でも、当事者同士が和解できることが大切です。お互いが欠点を認めることが大切です。
 哲学も自分の主張が正しいという独善的態度も感心しません。まず、哲学の論争も彼らが相手に嫌味や悪気を思って対立するのではなく、彼らの大事な考えや譲れない思想で対立します。つまり、自分の正義と相手の正義のぶつかり合いで、どちらも人間として恨みや復讐を第一に考えていません。つまり、実存主義と構造主義の対立もサルトルとレヴィ・ストロースの論争も、彼らの正義の価値観が異なったことです。サルトルはマルクス主義者ではないがマルクス主義に正義があるとおもった。レヴィ・ストロースは歴史が重要と思った。それは、サルトルが歴史を重要とは考えなかったことにある。しかし、1970年を境に実存主義から構造主義に変わった。
 構造主義とは何か。天才言語学者ソシュールが、言葉は物を表す物でしかないという事からです。つまり、「犬」は動物を表すのでなく、ある動物に人間が「犬」と命名したことにあります。犬は英語は「dog」ですね。それが、比較言語学で「一般言語講義」なのです。それをソシュールが発見した。そのソシュールも夭折した。だが、学生は講義ノートを合わして作ったのが「一般言語講義」です。
 レヴィ・ストロースは構造人類学者です。彼はユダヤ人で、フランスで哲学教授の資格を得たが、それでも幼少時代の趣味で人類学を諦められず、ブラジルに渡り人類学を教えました。そのブラジルの先住民の研究がレヴィ・ストロースを構造主義に導いたのです。彼が構造主義の親です。
 今はポスト構造主義いや、構造構成主義ですね。どう時代が変化するか楽しみですね。
 かなり話が脱線した。復讐の話だっけ。まず、自尊心がないから復讐を誓うのです。自分にプライドを持ちなさい。そうすれば復讐に明け暮れるのが馬鹿に思えますよ。自分の欠点を克服しましょう。

投稿日時 - 2009-11-27 16:04:11

ANo.32

 あらためまして こんにちは。
 ただし 参考資料のみの投稿です。

 ▲ (パウロ:ローマの信徒たちへの手紙12:9-21) ~~~~~~
 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。

 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。

 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。

 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。
 「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」(申命記32:35)と書いてあります。

 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」 (箴言25:21-22)

 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 解釈を述べませんが 注意が必要だとも思います。
 1. 信仰(非思考)の問題である。
 2. 時代情況が 踏まえなければならない文脈としてある。
 3. ただし 合理的で納得しうる解釈ならば むしろ自由にこころみるのは 問題ないと思われる。

投稿日時 - 2009-11-27 09:31:23

ANo.31


こんにちは、No11です。
booter さんの、その後の回答者に対するお礼などを読んでいて、考える所があり、再書き込みをいたします。


>> <復讐することの意義は,何か>
>> <復讐は,何を生むか>
>> <復讐には,正当性が有るか>
>> <復讐の念を持つことが,生きる意味なのか>
>そこです! 
>核心をついて頂きありがとうございます。
>復讐の念は沸き起こるが、社会正義に反している。そのジレンマに悩んでおり、どう捉えれば良いのか分からないのです。


質問者 booter さんは、「復讐」および、「憎しみ」に対して、哲学的解釈を求めているのが、強く感じられました。
それが、booter さんを救う一つの道だと理解したので、突き詰めて、本質的解釈を試みました。

「復讐」「憎しみ」は、強いイメージを持っています。ですから、そのイメージに左右されて、それらが悪とか、倫理に反しているとかの考えになりがちですが、それらをイメージから離れた、言葉で本質的に捕らえ直して、その事を見つめることが、 booter さんの「背負っている荷物」が何であるか、客観的に見ることが出来ると思います。

まず、「復讐」ですが。色(イメージ)のない言葉で表現すると、

自己の存在(生きること。より良く生きようとすること。自尊心。経済的な保障)等を、脅かされたり、または、大きく破壊された場合、それを行った対象の「存在」に打撃を与えて、自己の存在を回復しようとする行為。

同様「憎しみ」を同じ様な、色のない言葉で表現すると、
(これは、復讐と重なる部分が多いのですが、行為以前の感情とすればいいと思います。つまり)
自己の存在(生きること。より良く生きようとすること。自尊心。経済的な保障)等を、脅かされたり、または、大きく破壊された場合、それを行った対象を忌み嫌う感情。

どうでしょうか?上の解釈は府に落ちたでしょうか?
とにかく、イメージの付いた言葉は良くありません。色眼鏡で世界を見ているようなもので、そのままの姿が捉えられません。

さて、ここで、上の疑問を考えて見たいと思います。

>> <復讐することの意義は,何か>
復讐を、自己を回復する行為に書き換えます。
自己を回復する行為に意義はあるか、・・・・ 自己回復する意義がある。(自己の尊厳等が回復できる)

>> <復讐は,何を生むか>
自己を回復する行為は、何を生むか・・・・ 自己が回復できます。相手へのダメージを生みます。場合によっては、相手も自己回復したいとの気持ちが生まれる場合もあるでしょう。
(しかし、これは、質問者さんの自己回復する「手段」により、相手の反応は違ってくるでしょう。つまり、再発防止の効果もあるでしょう。)

>> <復讐には,正当性が有るか>
自己を回復する行為には、正当性があるか・・・いままで、考察を重ねたように、(言葉を変えて考えると)必ずしも正当性でないと、結論する訳にはいきません。
例えば、再発防止としての、正当性があるとも言え。自己を回復するという正当性があるとも言えます。
ただ、悪と言う言葉は、色が付きすぎているので、使いませんが、法に触れなければ、問題ないとも解釈できます。
または、本人が法に触れても、その覚悟があれば、それも問題でないと考えることも出来ると思われます。
(法が、必ずしも本質的な正義ではないからです。)


>> <復讐の念を持つことが,生きる意味なのか>
自己回復の念を持つことが、生きる意味なのか・・・これは、No11でも回答したように、行為の意味に答えを見出すのは難しいので、別の方向から考えたいと思います。
自己を回復させたいと考えるのは、人情だと思います。
ただ、それは、上で、書いたように心理的には、「荷物を背負う」事に似て、本人には、重苦しい思いが付きまとうと思います。
その思いを続けるのは、精神衛生上好ましいと言えません。
その荷物は早く降ろしたほうがいいと思います。

なお、上で自己を回復する行為としましたが、完全に自己を回復することは無理で、ある程度回復されると、解釈してください。

それから、自己回復の行為後の心情はどうなるか、という問題があると思います。

これは、実例をもって、紹介したいと思います。
自分の知人にも、ある恨みから、自己の回復の行為を行った人がいます。
相手へ打撃を与えるという目標は、半分しか達成できなかった様ですが、行動せず悶々としているより、行動したほうがとても気持ちが楽に
なったと言っていました。

なにか、良くないことを言っているような印象を受ける人もいるかもしれ知れませんが、僕は、道徳論を好みません。
客観的な、現実的(哲学)の上に立つことを良してしています。

道徳論を語るにしても、「生」とか「悪」とかについても、徹底的に考える必要があると思っています。
例えば、人殺しを重ねた、極悪犯がつかまって、刑が確定したとき、殺された人の親族が、「犯人を捕まえてくれた、関係者様。ありがとうございます。これで、娘にやっと報告ができます。」という言葉をリアルに受け止めたいのです。

booter さん、突き詰めて、「復讐心」を色のない言葉になるまで突き詰めて考えて、それで、考えてみました。
色の付かない言葉を使うと、いかに、物事がクリアーに見えるか驚かれませんか?

この解釈が、「腑に落ちない」なら、また、回答へのお礼で再度要求ください。
もう一度、突き詰めて、考えたいと思います。

どうか、客観的な言葉で、客観的に問題を捉えることを希望します。

投稿日時 - 2009-11-27 07:38:21

ANo.30

>それを産み出し、かつ包含している者に任せておくことが、いずれは最も厳しく残酷な、最高の復讐となる。

 「それを生み出し」ているのは、 司法に従事している者及び法による統治を積極的に認めている者 を指しているのか?


 三角関係による 、その社会の一片 としての今までどおりの生き方と言うわけですね そこからもう一歩踏み出したい気が...

 もし最高にして最も残酷な第三者というか世界による復習をしたら(しているつもりでいたら)その無慈悲さにより自らの精神が崩壊するのでは(例えば繊細な感受性が死んで音楽を楽しめなくなるとか)


 悪い事した奴(赦せないと判断した奴)は、それを記憶としてしまっておけば、その想念がカルマのエネルギーとなって そいつに帰っていく ってことか

 そーかなー... のうのうと、嬉々として暮らしていたりして。

 過去のラクシュミさんとアスラさんの意見って事で。

投稿日時 - 2009-11-26 22:09:37

ANo.29

ちょっと一言言ってしまったけど
No.24 Lakshmii様の回答以上に言うことなし。
これ以上でもこれ以下でもない。
と思います。

投稿日時 - 2009-11-26 18:49:02

ANo.28

復讐するは我にあり
一切をどこかにしまいこんで
忘れないで忘れることできる
バカになりきれる人が一番恐ろしいちゅうことでしょ。

投稿日時 - 2009-11-26 16:53:59

ANo.27

 まあ、もちろん自分の身の回りのモノの整理、環境の改善を図るのも同時にやり、自分の精神を高め、深めていく のが前提としてあります。言われるまでもないと思われるかもしれませんが。

投稿日時 - 2009-11-26 11:26:39

ANo.26

誤:その時 持っている、自分の気持ちを反映されているだけなのだから。

正:その時 持っている、自分の気持ちが反映されているだけなのだから。

投稿日時 - 2009-11-26 00:58:07

ANo.25

> 確かに。最大限の復讐をしようと思えば 無視、忘れ去る ほっとくこと。それをしたくないと思うなら、相手を訴えることです。

 情 が勝ちすぎて、自分を粗末にしがちな人間は、最高の復讐をし、他者を 見捨てるのも良いかもしれませんね。

◇しかし、見捨てることが出来ないなら、そして下策である第三者に訴えるという方法と取れない、取っても無意味 というのであれば、

 その思いを普段から忘れずに忘れていて、似たような場面、似たような人間に会った時に 強い、厳しい態度で臨むようにすれば良いでしょう。これは、いわゆる「江戸の恨みを長崎で」ということではありません。その時 持っている、自分の気持ちを反映されているだけなのだから。

投稿日時 - 2009-11-26 00:56:32

ANo.24

>阿修羅は 天界と 人間界を 繋ぐ者

 そうでもないか、単にその中間にあるというだけのことかもしれない


>心底から、まことに僅かも些かも許すわけにいかない者であるならば、御自身の命を無用に縮めさせることなく、忘れず忘れていてください。それが最大最高の復讐となるでしょう。

 確かに。最大限の復讐をしようと思えば 無視、忘れ去る ほっとくこと。それをしたくないと思うなら、相手を訴えることです。

 情 が勝ちすぎて、自分を粗末にしがちな人間は、最高の復讐をし、他者を 見捨てるのも良いかもしれませんね。

 段階があるということでしょうか

投稿日時 - 2009-11-25 20:26:15

ANo.23

誤:第三者に視点に立つなら ためらいもなく。

正:第三者の視点に立つなら ためらいもなく。

投稿日時 - 2009-11-25 18:36:26

ANo.22

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85

阿修羅が勝てなかったのは 邪推によって トドメを刺せなかったからでしょう。

あるいは 自分の気持ちでなく、相手の気持ちになってしまったからか

第三者に視点に立つなら ためらいもなく。

阿修羅は 天界と 人間界を 繋ぐ者

投稿日時 - 2009-11-25 18:34:41

ANo.21

(^o^) こんにちは。映画やドラマの「復讐劇」は大好きです。み終わるとサッパリした気分になります。

私がいままでに印象に残っている「復讐劇」の名作は2つ。

「修羅雪姫」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E7%BE%85%E9%9B%AA%E5%A7%AB
私は梶芽衣子さんのしか観てないけど、話題になった釈由美子さん主演のも、そのうち見てみたいです。

「初 恋」
http://kankoku777.com/archives/479
あのヨン様が、主演の韓国ドラマで、タイトルに似合わない(?)内容はバリバリの復讐劇で、復讐を成し遂げはじめる段階のドラマは圧巻です。視聴率高かったらしいのも納得です。

この2つは「復讐を思いつめた果て」の結末が正反対です。前者は強大な力を持つ相手に命をかけて復讐を成し遂げる為に、この世で「もっとも愛した人、もっとも自分を愛してくれた人」の命が・・・まるで「ひきかえ」のように犠牲になります。そして主人公は、さらに修羅の旅に・・・イスラエルとパレスチナのような復讐の連鎖もラストに暗示されます。

後者は、日本の「復讐劇」には無いパターンのようなラストがビックリしました。兄貴が令嬢と身分違いの恋愛関係になったことから、父親である金持ちの権力者に目を付けられ、前半はヨン様の家族は、ともかく、どんどこにヒドイ目にあうのですが・・復讐を誓うヨン様は、相手を倒すために法律の勉強をしたり、敵に対抗できる別勢力の権力者に恩を売ったりして・・・表の世界にも裏の世界にも強い立身出世を果たして・・・とうとう復讐を遂げられるだけの力を身につけて戦いに挑みます。しかし敵を追い詰めて勝利を確信した瞬間に・・・復讐を「寸止め」で思いとどまるハメになるのです。どんなにか悔しくても、悔しくても・・・血の涙が出そうでも、それでも、「復讐」と引き換えるわけにいかなかったもの・・・「復讐」という行為で汚すわけにいかなかったモノ・・・それが、たかが「若き日の初恋の思い出」なんです。

どちらの「復讐」も納得がいき、スッキリとした気分になります。

(^^)「復讐」は、映画やドラマの中だけにしときましょう。映画やドラマの「復讐」がスッキリするのは、ソコで終われるからです。

現実の世界での「復讐」は、胸がスッするのは一瞬だけです。すぐ相手の思わぬ逆襲にあったりして、ソコで終われないのです。汚い現象がグズグズ続いてしまうのです。いつまでも嫌な現実の連鎖がドロドロ、ズルズルと、アトをついてくるものです。結局は後悔すると思いますよ。

身近な人間関係の「摩擦」から、うまれる日常の中にある「恨み・憎しみ」については、有名な「甘えの構造」という本が、私にとっては理解しやすかったです。「うらみ」や「憎しみ」は、自分の甘えの当てがはずれたことに起因して起きている「感情」なのだそうです。「甘えたい」が、前提にあるのです。相手に何を「期待したのか?」そのへんを冷静に分析してみると、何かの突破口が見えるかもしれませんよ。

※ 映画やドラマのオチをバラすのは、通常ではマナー違反ですが、ココは「哲学カテ」なので、あえて承知の上でしました。

m(_ _)m ご容赦ください。

投稿日時 - 2009-11-24 10:47:07

補足

(前補足の続き。補足欄を使用させて頂きます)

さて、そうすると正義を元に達成する行為が復讐だとするならば、なぜそれがいけないのか。これは以前の御礼に記載させて頂いたように「個人の正義と社会の正義にギャップがある」という事になるでしょう。
正義とは何かについては、繰り返しになりますが、私は「人間が生きる上での正しい行動規範」だと私は考えています。こちらも繰り返しになりますが重要な点なので引用しますと、正義的な倫理観とは、これが人間の中ではある種の傾向は持つものの、個人個人で微妙に異なる事は自然であり、現状の日本社会ではその差異を社会正義で埋めていて、個人個人が社会的に納得できる点に持って行っているという事になります。
私が観察するに、現在の日本社会ではその社会的正義と差分のある個人正義を達成する場合に「復讐はいけない」という感情が生まれる傾向があるようです。そしてその差分の乖離が大きければ大きい程、そうした傾向が強くなるようです。

但し、上記が「何故復讐をどう捉えるべきか」という根本的な説明になっていません。ただ単に社会的現象を観測しただけであって、それではどういう理由でどのようにすべきかという説明には至っていません。
難しい問題ですが、できるだけ核心に迫れるように一つずつ書いていこうと思います。

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人は自己の持つ倫理観と情念の間で葛藤する生物とも言えます。相反した場合に悩みが生まれるのですが、復讐は最たる例でしょう。できれば人として正しい道を歩みたい、だが自分の中に湧き上がる情念も自分のものであるから、どちらを優先すべきか分からない。
こうした中、プラトン「国家」の中に私なりの答えを見出す事ができたのでこちらに記載しておきます。
下記はそのままの引用ではなく、私なりに噛み砕いた解釈ですので、大変お手数ではありますが、原文参照の場合には書籍をご覧下さい。
「人は皆、自分の心の中にさまざまな欲望を持つ巨大な怪獣と、ライオンと、そして人間自身を持つ。この内のどの魂が人間の肉体を支配すべきだろうか。まず怪物の魂が人間を支配する例を考えるが、欲望のままに動く怪物に支配させてはならない。一番適当なのは人間が人間自身を支配する事である。そして時には勇気のあるライオンを友にし、怪物を抑え、社会の中で戦っていくべきなのだ」。
「人間には情念が必要であるが、情念のみに身を任せる事は怠惰である」
「何も考えずにできるような怠惰な仕事は、卑賤の者に任せれば良い」

という事で、上記の例から、湧き上がる情念を抑えて理知的に動く事が人間としての行動規範なのではないか、という中間結論に至りました。暴力的措置なら動物にだってできる。人間として生まれたならば理知的な解決の方向に進むべきなのでないかと。
これを個人と社会の関係に私なりに適用しますと、個人の理によって社会正義の場で事象を裁くべき、という形になります。

-----
それでは更に一歩進めて、復讐は全くしない方が良いのか、というとそうでもありません。個人の理によって社会正義の場で事象を裁くべき、という事を考えれば、裁判や、あるいはマスメディアによる情報究明、出版などによる利権の訴求などが社会的公平性を保った状態での社会権利を取り戻す事ができると思うのです。

まだ核心には辿り着けていない文章ですが、取り急ぎここまで。

投稿日時 - 2009-12-11 12:19:35

ANo.20

みておりましたが、どうも、個人的に恨まざるを得ない御事情を抱えていらっしゃるようですね。

復讐することの意義、正当性…。

「阿修羅」像、興福寺にある国宝は、またの名を「美しき怒り」と呼ぶそうな。
もとはゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーであるとか、大日如来であるとか、敵対し勝つ帝釈天こそは魔王であり悪であるとか、こうした神話の類にも、人間世界の生々しい利害関係によって、国家レベルで所変われば入れ替わるということが、あからさまに表わされておりますね。

御質問のような場合に「昇華」ということを目指すならば、個人のレベルから、様々の意味で公けのレベルへと移行・引き上げさせることです。そのときに、周囲からの、これもまた「理不尽」な激しい突き上げに遭うこともございますね。周囲の者らが、それが「昇華」であると認めない、あるいは分かっておらないときにです。
そこで負けてしまうと、あるいは「泣き寝入り」状態になってしまうと、当の本人にとって、筋が通らぬ、理不尽であるという思いが強いからこそ、よりいっそう怒りは募り、絶望感と共に深い恨みを抱え込むことになってしまいます。
そこから来る影響たるや、それが、いかにも恐ろしいことであるからこそ、負けまいと執着し、戦い続けようとします。

ですから、ある人が理不尽な情況にあることを分かっていて、それを認めない者、そういう情況に他者を陥れて喜ぶような者は、まことに忌むべき者です。

ですが、個人的なレベルで怒り、恨み、復讐に燃え続ける人、考えてみてください。
その復讐は、世のなかにとって、どうなのですか?

個人のレベルでしかない復讐は、個人のレベルの復讐でしかありません。
個人を超えた復讐は、個人を超えた復讐です。
これでしたら、当人以外の者らからみても、それが多少は理非を知る者らであれば、その多くは快哉を感じることでしょう。これは、世の人々に希望を与えるからです。
逆に、これが通らないと、世は混乱の坩堝と化していきます。これが、「悪しき連鎖」というものを生みます。誰も何も信じられなくなってしまいます。
このような情況を喜ぶ者は、魔の種族と呼ばれるに足る者です。
これに真に勝とうと思えば、それを産み出し、かつ包含している者に任せておくことが、いずれは最も厳しく残酷な、最高の復讐となる。それが「復讐するは、われにあり」という言葉であるのでしょう。それを信じておれる者だけが、「忘れずに忘れて」いられます。つまり、自分の命を縮めずにおれます。
哀しいかな、そこにたどり着くだけでも、凡人は大いに大いに苦労をするのです。
それを楽しんで見ている者の醜さといったらありません。
どちらも、それぞれに悲哀の感を覚えさせます。ですが、凡人は、どちらもで似たりよったりですね。源が同じようなことですから。

>復讐の念は沸き起こるが、社会正義に反している。そのジレンマ

さて、御質問者さまは、すでに「社会正義に反している」と御判断されておられます、その怒り、恨み、復讐心は、世にとって、どのような位置にあるものと思われますか。
個人のレベルから、公けのレベルに引き上げるに堪えるものですか。ここは、厳しく御検討なさることです。

しかし、堪え得ることであるのなら、やはり、それも「復讐するは、われにあり」に任すということになりましょう。

もしも、貴方が怒りの対象としている者に、幾ばくかでも情けをかけようと思われますなら、思う存分、その復讐の実行をおやりください。
ただし、個人で何か実行した分だけ、そのときには、「減る」のだとお考えください。
つまり皮肉にも、それは、貴方が許すまじと思っている者に、最終的に、どこかで甘く見逃す情けを与えるに等しくなってしまうということです。
そうしますと、個人で何とかしようと思ううちは、むしろ、大した復讐心ではないとも言えましょう。底の浅い復讐です。社会的にも無力な個人ならば尚更です。肝心の自らの命を犠牲に道連れにするのですから。
しかし、
心底から、まことに僅かも些かも許すわけにいかない者であるならば、御自身の命を無用に縮めさせることなく、忘れず忘れていてください。それが最大最高の復讐となるでしょう。
そこには、世の全ての崩壊・壊滅という報いすらもあり得ますよ。

貴方の怒りは、「美しき怒り」ですか?

投稿日時 - 2009-11-24 02:03:32

補足

(前補足の続き。補足欄を使用させて頂きます)

まず心理学観点からの見解です。
復讐については、マズローの5段階欲求説をご覧下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96
ここで、自己の欲求が他者に阻害された場合に復讐が発生するケースが考えうるのですが、これをもうちょっと詳しく分析すると、
・各欲求は、個人が得られるべき権利として自己が認めている。
 あるいは社会的に認められている。
 ある種の甘えがある、というご回答は、この権利におんぶにだっこという状態を想定していると思われます。
・当然受けるべき権利を他者から阻害された場合、権利を侵害されたとしてそれを何らかの手段で取り戻そうとする。
 ここでの場合、この行為は一般的には理知的な意思と情念によって達成を目指す事になると思うのですが、この情念による行為達成を復讐の心理として扱う事にします。
・とすると、マズローの例に倣えば復讐には大別して5つの種類があるという事になります。
 生存を脅かすものには然るべき行為を。
 安全を脅かすものには然るべき行為を。
 愛への裏切りには然るべき行為を。
 誇りへの侮蔑は然るべき行為を。
 目標達成の阻害には然るべき行為を。

-----
それでは上記の「然るべき報復措置」を人間は何故やろうと思うのか、という原因について私の考えを書いていきます。
人間はその個人個人や社会集団において「守られるべき道徳規範」や「人として基本的に受けられる当然の権利」というものが、意識せず言葉にしないながらも心の奥底で感じているものだと思います。これを私なりに更に言い換えさせて貰えれば「人としての正しい行動規範(正義)」と「その達成によって得られる個人権利」となります。
個人や社会の持つ正義(人としての正しい行動規範)を判断基準に権利が侵害された場合に復讐という感情が湧き上がるのではないか、というのが私の考えです。
現在の所は正義と権利を復讐心理の最小単位として考える事にし、その行動原理は上記のようになるかと思います。

代理母出産に関しての抗議は個人の正義を社会的な正義に適用拡大された方の意見と考える事ができます。
この件に関する私自身の考えは、正義的な倫理観は社会集団にはある傾向を認められるものの、個人によって差異が生ずるのは自然であり、かつそれを他人や社会集団に適用するのは不自然であり、その適用を求める者に対しては個人権利を侵害するものであれば拒否する権利が生ずる、という考えを持っていますので、「うらみに関するお門違い」だと思われます。
同じような個人の正義を社会に適用してしまった顕著な例が大阪小学校の事件であったり、秋葉原の事件だったりすると考えています。(現在の日本ではお陰参りや終身雇用などの低所得者層のガス抜きができていないという件もありますがこれは機会があれば別途考察したいと思います)。

まとめると、復讐は個人・あるいは社会集団のもつ正義の倫理観と権利によって行われる、という事になります。
※ここで義務は加えません。なぜかというと、義務をしたから正義を基に権利を得るべきだ、という判断を下した場合、社会奉仕ができない重度の障碍者の方達は生きる権利が無くなってしまうからです。

(次の補足に続く)

投稿日時 - 2009-12-11 12:19:26

ANo.19

でも

 物事を人より認識できる人 感受性が高い人 繊細な人は

 思い知らせるべき人には思い知らせてやらねばならない

 相手のためにも

 世界のためにも

 自分のこころを守るためにも

 正当なやり方で。

 そのために生きている人もいる

投稿日時 - 2009-11-23 23:08:58

ANo.18

訂正:

誤:あれれ?解んなくなってきちゃった

正:解ってきました


 でもそうするとやっぱり他者は必要なくなってくるなぁ...

投稿日時 - 2009-11-23 23:00:01

ANo.17

 ある意味 因果が個人間の間で 帰結する・させることができない社会、それを許さない法があることで、別のエネルギーとして科学技術や その他もろもろの人間世界の 営みが発生してきた。たぶん、それは良いこと

 究極的には自分の中だけで 因果を帰結・完結させる


 そうすれば 即刻 昇天

 あるいは 別次元へ 移動

 もしくは 生きながら 極楽

 自信:自信あるなしあるなし あれれ?解んなくなってきちゃった

投稿日時 - 2009-11-23 22:57:35

ANo.16

改めまして・・・

私がお勧めしたかったのは、自分自身と向き合う事でした。
阿修羅を通してご自分と向き合う事の中から、答えが見つけられるのでは、と思ったのです。
お礼の言葉の中に、・・・古い記憶・・・とありました。
失礼ながら、一時の感情では無く、積年の思いが・・・という風に感じ取らせていただきました。
今までに、有り余る心の葛藤を繰り返されてきた事とお察しいたします。
ご自分の中の阿修羅を見続けてこられたようにも思われます。

他人である私が、この先申し上げられる事は社会通念上限られたものになってしまいますが、少しでもご参考になればと思います。


復讐をしたい、という人に、復讐を勧める人はいません
いるとすれば、同じ憎しみを持っている人だけです
同じ憎しみを持っている人にしか理解してもらえず、その人が居なければ、孤独の内に憎しみはさらに増すばかりでしょう。

以前の事になりますが、別なカテにおいて、女性の方で個人に対する非常に強い恨みを持った人の相談が載っていました。
私の答えもありますのでご一読してみてください。

仕事上での感情的な軋轢の場合ですと、最終的には会社内の暗部の内部告発という形での復讐を遂げたいと思っている人が数多くいるようです。
そうした話を聞かされた事もあります。
しかし、そうすれば自らの社会的な地位も失い、家庭崩壊の危険すら覚悟しなければならないものと思われます。
差し違えの覚悟で仇を討つ・・という事になってしまいます。
私が話を聞いた人は、家庭があるから、大切にしたいから・・・という事で思い留まっているようでした。
冗談まじりに、やってみれば・・・などと言ったりもしましたが、あくまで気晴らしになる範囲の冗談です。
このような話が目に見えないところで、日常的に行われているのでしょう。
失礼ながら、会社内の事でしたら、こうした会話によって気分転換を図るのもよい事だと思います。
一人で抱えすぎない事でしょう。

しかし、話相手がいない場合には、自分だけでいずれは結論を出さなくてはならなくなります。
その結論に対して、私が言いえるのは
人間として許される範囲での事・・・というものです。
たとえ感情的にどのようなものであっても、客観的に許される範囲に留めるべきだと思います。
でなければ、自分自身が救われない
自分で自分を責める、さらに苦しい世界に落ちていくように思えます。
復讐が悪に至れば自分を苦しめるだけです。

以上です。
ご無理なさらぬように、少しでも明るい方を目指して進んで下さい。

投稿日時 - 2009-11-23 21:39:13

補足

(前補足の続き。補足欄を使用させて頂きます)

長らく反応せずに大変申し訳ありません。
皆様の回答のおかげで、自分自身の考えを見つめなおす事ができました。
切に御礼申し上げます。
いろいろと復讐の性質を追った際、自分はどうすべきかという事についてある程度の所まで結論が出ましたので、どうやら復讐はせずにすみそうです(まだ可能性は残りますが)。思考実験の結果、復讐の命題に関し私なりの哲学的な真の解答に近づけた事について私自身嬉しく思っています。

また私の中での中間結論、「復讐」なるものは一体どういうものなのか、そしてどう捉えるべきかという事について、文章力が無いながらも私なりにまとめてみましたので、参考までに記載しておきます。もし、今後、皆様が同じような問題に直面した場合にこの意見が少しでもこれを読んでいる方に対して考え方の御一助となれば幸いです。
時間的都合の為、完全に推敲をしておらず読みにくい部分もあるかと思いますが、無いよりはマシだと思いましたので、敢えて記載した乱文を投稿する、という愚挙に出ました。ご容赦下さい。

まず、第1点、復讐について心理学観点からの見解(なぜ起きるのか)、その原因は何か、その原因の定義は何か、そして出来る限り人間の心理状態を最小のものに分析してから再度構築する事で、復讐のメカニズムを追う、という事を書いていきたいと思います。
第2点として、復讐はなぜいけないのか、という事を書いていきたいと思います。
そして第3点、人間として生きる我々は(というより私個人の意見なので私は、というのが正しいのでしょうがここはあえて我々は、と記載させて下さい)、復讐をどのように捉えるべきなのか。復讐をすべきかすべきでないか、という問題について触れて生きたいと思います。
誤りやご意見などありましたらご指摘下さい。

(次の補足に続く)

投稿日時 - 2009-12-11 12:19:09

ANo.15

 No.14です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 かく言う私も社会的に死んだも同然です。
 そしてそのうらみつらみを晴らさなければならない。
 過去の私の記憶と私のつけた記録が復讐せよと訴えています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ かくまでにこころの〔表面の〕錆びてしまった人であるとは思いもしませんでした。極北の詩人と申せばよいのでしょうか。

 すでに申しましたように 解決法はまだ分かりません。ご返答を受けて考えてみます。

 まづ お問い合わせです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >もっと言えば やがて死ぬのではなく すでに じつはわたしたちも 死んでいます。

 すみません、この辺から分からなくなりました。
 大局的に見れば、我々の生きている時間は一瞬であり、死んでいるも同然、という意味でしょうか? 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おっしゃるところが ひとつの内容ですし もうひとつは われわれの誰ひとりとして 《憎しみを抱かれ復讐をしてやりたいと思われている人間》でないという保証はない。こういうことではないでしょうか。
 こころに逆らって うそをついたということ これですでに人は死にあたいすると考えられるからです。そのやましさや後ろめたさは もう一生消えません。ゆえに すでに死んでいます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そしてゲバラの言葉が浮かんできてしまいます。
 「打撃は、絶え間なく与えなければならない。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは うっすらと聞いた話では その《絶えず与える打撃》によって 体制側にしろ社会全体にしろこころある普通の善良な市民一般にしろ 目覚める・反省する。ならば 絶対的な暴力革命には意義がある。というような趣旨だったでしょうか?

 たぶん こうでしょうね。その暴力によって失われるいのちが再生するのあれば それも考えようであるかも知れない。こういう答えになるのではないでしょうか? たぶんこれは決まりでしょう。それ以外にはないと思います。その意味では このようにご回答申し上げます。

 と突き放したものの言い方をしてしまいましたが ひとつには 《第二の死》をどのように回避するか。すでに落ち入っているのなら それにどう対処するか。もうひとつには 次の思索が 大切であるのではないかと考えるものです。
 【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5468127.html
 ☆ ひとは 能力において ひとのあやまちを赦すことも出来ないし 赦さないことも出来ないという命題を提出して 問うています。
 罪や犯罪ならそのつぐないを求めることが出来ますし まちがいなら その訂正・修正を求めたり言論として批判をおこなったり出来ます。しかもそれらの対処のあり方というのは――それで 基本的に 全体なのですが―― ひとの心の内における主観としての赦す・赦さないとは 別個のことである。という見方です。

 思索の深まっていかれることをいのります。

投稿日時 - 2009-11-23 12:29:47

補足

(前回答での補足欄の続き)
5.
では、復讐とは一体何なのかという事を探ってみます。
まだ材料を揃える段階で、どうとも結論できないのですが、一応書いておきます。

復讐は別の関連する語句で仇とも言います。
仇となる相手に対しては、「言われ無き仕打ち」を受けたのが発端になります。
上司がミスをした部下を怒るのは理由があるので仇の対象にはなりませんが、
気分で怒ったり理不尽だったりする場合には仇の対象となるでしょう。

また、仇の反対として「恩」を考えてみる事にし、その後再度仇とは何かを考えてみる事にします。
恩とは何かが欠乏している時に無償で与えてくれた愛に対して感じる感情が恩だと仮定します。
「言われ無き愛だが、有り難いもの」となるでしょう。
そして、これに対しては必ず返したくなる事が道理です。
対して仇は「言われ無き仕打ちで、忌避すべきもの」となり、
今度は、これに対しても必ず返したくなる事が道理となります。

6.
他の回答者の方から頂いたご意見も含めさせて頂いた上で書くのですが、
倫理観の基準は集団と個で異なります。

「人を一人殺せば殺人者だが、
 人類を半分殺せば英雄だ。
 自分以外を殺せば神になる。」

これは人を殺す場合だけのお話しになるのですが、この言葉はそれを正しいと認識する人数の割合によって倫理観が変化する事を示しているように思います。
上記が集団の倫理観であれば、それでは個の倫理観とは何かと言った際、自分自身の信念や信仰に関わる部分によって決まるとも言えるでしょう。

復讐の社会的正当性は、社会を構成する人間の、同じ倫理観を持つ人数比によって決まるとも言えます。
そして現在は、それが国家が個人から取り上げた復讐権を公的に行使する事で復讐の社会的正当性が達成されているように思います。

但し、これは飽くまで集団の倫理観であって、個人の倫理観や情念との間にギャップがあってもおかしくはありません。
今回の問題はここが核心なのではないかと睨んでいるのです。

投稿日時 - 2009-11-29 07:06:21

ANo.14

No.1です

ご質問の背景、確認させていただきました。既にお礼欄にてご自身でまとめられておられるようですので、蛇足になるかも知れませんが、私の記述した内容について補足させていただきます。

私がNo.1で例示させていただいたのは、「復讐」という感情が貫いているであろう連鎖を遡っての記述に該当します。
「復讐したい」という情が消失する、ないし癒されるというのが、どの地点にて落ち着くのか?
典型的な二つのパターンにてそれを表してみました。

被害をもたらすであろう直接的な原因のみへの排除でいいのか(ボールが顔面に当たらないように防具をつける。弾丸が体に当たらないように防弾チョッキを常に身につける。)---「復讐」の情は、直接的な原因のみのレベルにて収束するのと同じことでしょう。

被害をもたらした物理的な機構のみへの対応でいいのか(ボールを投げるコントロールを良くする。弾を発射する装置・拳銃を排除する。)---「復讐」の情は、物理的な機構レベルにて収束するのと同じことでしょう。(このレベルまでは、「能動的な主体・相手」という概念ではなく、「受動的な主体・私」という概念内部で処理可能ということを意味するでしょう)

被害をもたらした個人(人間)のみへの対応でいいのか(ボールを投げたのは自分だから自業自得だと悟って、どうすればいいのかを考える。息子を殺害した犯人を捕まえて私刑・仇討を行う。)---「復讐」の情は、個人レベルにて収束するのと同じことでしょう。

被害をもたらした個人(人間)を育んできた社会への対応でいいのか(ボールを壁にぶつけなければならなかったのは、むしゃくしゃするような状況を作った他者との関連性だと悟って、柔和な関連性を構築するよう考える。どうして殺人を犯すことになったのかを明らかにし、同様の人が生み出されないように裁判を行う。)---「復讐」の情は、社会レベルにて収束するのと同じことでしょう。(このレベルになると、「昇華」させているという概念になろうかと思われます)

「怒り・恨み・憎しみ」といった情、ないし「復讐」といった情は、失ったもの・損害を受けたものの「交換可能性・不可能性」に依拠して、その程度が変容するものでしょう。交換可能なものであれば、情は、それほど動かされないでしょうし、そのもののみに限局しているので、被害をもたらすであろう直接的な原因レベルでのみ、対処しうると思います。

しかしながら、「交換不可能なもの(かけがえのないもの)」を失った場合、そのものへの「思い・情」は、特定のものを通り越し、社会レベルでの対応を越えた先へと思いが残り、「復讐」といった情が消え去らない場合もあるかもしれません。

そうして切断され、切り口を塞ぐことのできなくなった情は、たとえば宗教的な救いへと繋がれ・癒されるのかも知れないですし、自身の知的・意識的な思索にて癒されうるかも知れないでしょうが、少なくとも自己と他者との関連性において「情」自体のありようが変遷していくことは確かでしょう。

知識として知っているということと、本当に分かるということとの違いは、おそらく、そういったレベルでの経験を通して、自身と他者との関連性を結びつけている「情」というものを見直すときに明らかになるのかも知れません。

投稿日時 - 2009-11-23 04:35:30

補足

皆様、回答ありがとうございます。

御礼が追いつかないので、補足への書き込みで少し御礼に替えさせて頂きます。
皆様からの回答で少し復讐という概念が少しずつ見えて来ました。
また、自分でよくよく考えたのも加え、復讐というものは、ある観点からは意味を為すが、ある観点からは意味を為さない、という所に着地しつつあります。
整理前ですが、考えている材料を少し書いておきます。

1.
まず自分というのは思考、情念、知識(記憶・経験)で成り立つものと思っていますので、
情が深く関わっているであろう事は同意します。
これを復讐の観点から見直すと、
思考:再発防止、見せしめの為に行う必要がある。
   再度同じ事がなされた場合、自分が同じ損害を蒙る可能性があるのでこれを防止する。
情念:憤慨する気持ち
でしょうか。ちなみに私の場合はある程度の部分までは再発防止ができたように思いますが、絶対に再発の防止ができているかというとできていないように思われます。

2.
復讐という観念は人間に必ず備わるものである。
そしてそれが良いか悪いかは、その時代の倫理観が決める。
・韓国の恨はある種国全体のイデオロギーである。
・チェチェンの「血の報復の掟」によれば、男子として生まれれば、先祖7代の名前を覚えさせられる。
 どこで生まれてどこで死んだかという事も暗記させられる。
 そして先祖7代で誰かが殺されたならば、そのやった相手も憶えさせられる。
 そして調査した後、必ず報復せねばならない。
 (なので、チェチェン掃討の時のロシア兵は顔を覚えられないように覆面をして作戦遂行したそうな)
・上記は日本人の観点から一般的ではない、
 「江戸の敵を長崎で討つ」という言葉があるではないか、
 戦争をしたアメリカとも、今では仲が良いではないか
 という意見もあるでしょうが、そもそも怨みが無ければ「怨み」「かたき」「仇」「仇討ち」という言葉は生まれない。
 呪詛のかけようも無い。
 復讐の感情は日本人であっても逃れる事はできない。
 一番分かりやすい例が下記になるかと。

 長州風年始の挨拶
 http://www.shigyoblog.com/wakabayashi/index.php?itemid=14530&catid=182

 後は徳川家康が幼少の人質時代に受けた恨みをずっと憶えていて、
 偉くなった時に呼び出して切腹させている、という話しもあるようです。

 各個人が心に持つ「正義」を基準にしてうらみを持つ為、個々の復讐が公平足りえない結果を残す事は必然的な帰結といえます。

3.
復讐に関して忘れる事が最善、という意見もありましたが、どうしても納得できませんでした。
少し辛辣な言葉になってしまいましたが、重要な事だと思いますので書かせて下さい。
過去の話しになりますが、第二次大戦時の東京大空襲で日本人を人とも思わないような形で作戦を遂行したカーチス・ルメイには、当事者からすれば怨み晴らさでおくべきかという感情がつくられるのではないかと想像します。そしてこのような所業に対してもともと怒りが沸かない、あるいは「まあまあ戦争など悲しい事は忘れて」と言う言葉を信じてしまう、そういった場合には失ったものへの悲しみを捨てよ、といった基本的に人間としての愛が足りない思想で諭しているように感じるのです。
大切なのは愛情を基にした「怒り」に対して、それをどうコントロールするかという部分にかかっているのだと思います。
復讐の有無に関わらず、ここが人間としての出発点だと思います。
皆様の回答を頂いた後に、過去の怒りを忘れるという事は愛が無い事と同義であると私は考えました。
そして、復讐をする場合には徹底的にやり、復讐をしない場合には「あなたがやった事は鬼畜にも劣る所業だが、私は人間なので復讐はしない」と復讐を超えた態度を毅然と取る、このいずれか2択のうちの一つを選択する事が必要なのだと思いました。

まとめると、まず物事の理不尽に対する怒りありきで、その次に論理的判断、乃至は信仰を基に対象を赦す、という流れが良いように思われます。
最初から「怒りは人間として持つべきではない」とすると、人間的な人間足り得ないように感じるのです。

4.
そして上記を基に考えた場合、
>その次に論理的判断、乃至は信仰を基に対象を赦す、
とした場合に論理的判断を考える上でこのQAで消化できれば良いのではないかと思いました。
ただ、頂いた回答の中で信仰に対するご回答を蔑ろにする訳ではなく、むしろ考える材料を提供して頂きありがたいとも思っていますので、ここに補足させて頂きます。

投稿日時 - 2009-11-29 07:05:05

ANo.13

憎しみは段々に薄らいでいくものであっても、完全に消え去る事はないものと思います。
そして、復讐をしても救われるとは限らない
人を呪わば穴二つ・・・と言いますね。
イスラエルとパレスチナのようなものでしょう。
憎しみの連鎖は断ち切りがたく、救いが無い・・・
争いにつぐ争いの姿は、客観的に見れば愚かなようであっても
当事者にとっては、どうにもならない感情に動かされた結果なのでしょう。

阿修羅と帝釈天の争いの話は有名ですが、ここから伝わってくるものは、復讐の悲しみと憎しみを抱く狭量の悲しさ・・・といったものです。
どうする事もできない憎しみを抱えなければならない悲しさ・・・
阿修羅はその姿を表しています。

一度、阿修羅像でもご覧になってみてはいかがでしょうか
憎しみと悲しみの姿から何かを得る事ができるかもしれません。
理屈だけでは、まず解決できないでしょう。
幸運を祈ります。

投稿日時 - 2009-11-22 23:00:22

お礼

回答ありがとうございます。

阿修羅像は写真でいろいろな角度から見た事があります。
(現物は見た事があるかもしれませんが記憶になく・・・)

私の阿修羅像を見た中で一番古い記憶を引っ張りだすと、
徹夜明け当たりですいている電車に乗って座席に座った所、ふと目を上にやると電車のつり広告に阿修羅像展だかの広報がありました。
この広告に使われている阿修羅像の写真を見て、
「あれっ、何で自分の顔があそこにあるんだ? 」
というおかしな感想を持ったのが最初だったように思われます。
ともあれ私自身がその広告に写っている訳でもなく、私がその写真のモデルになっている訳でもなく、よくよく観察してみると怒りながらも悩んでいて葛藤している表情が当時の自分自身のそれとそっくりだったのと、徹夜明けで朦朧としていたのでこれを錯覚していたのですが、私自身がその当時から阿修羅のような怒りに溺れていたのでしょうね。

Wikipediaを読んでみて、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E4%BF%AE%E7%BE%85
「たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる。」
とあります。
ただ、私はこれが倫理的に良くないものであるとは知識として知りましたが、どうしてそうすべきなのかまでは理解できません。

復讐をせよと私の心が命令しているのですが、社会的に悪なのかもしれない、という点でジレンマに陥ってしまい悩んでいる状態なのです。

投稿日時 - 2009-11-23 11:41:38

ANo.12

お礼欄を確認させていただきました。
ああ、「再発防止」のことを念頭に置かれていましたか。なるほど。最も重要なことでしたね。

前回わたしが申し上げた、「忘れ去ること」、これによって、その意義を深く実感し終えているならば、これだけでも、じゅうぶんな再発防止になる可能性はあると思われます。
ですが、長い時間をかけて、やっとの思いで、そこまでたどり着く前に、またも復讐心を掻き立てられるような出来事が起こりますと、その前から抱え込んで解消へと向かう途上であった怒りまでが触発されかねないですね。

もちろん、一番理想的なのは、個々に怒りを起こさずにおれること。あるいは、妬みなどの感情を持たないでおれるなら、それに越したことないのですが、現実問題として、あまりにも理不尽な、と疑問や怒りを感じざる得ないような出来事が起きないようにすることも、あるいはまた、妬みの感情というのは、これは比較の意識から出ますから、この意識を全廃するということも、人間まず不可能な要請でしょうね。
個々に努力といっても、その資質やら何やらで、結局、全体的に限界があるのは目に見えてます。

昔の、公的裁きのシステムが整っていなかった時代ならば、個々の憤りや理不尽な事件の処理は、素朴に、各自で判断・実行に及んでいたのでしょうね。
しかし、だからといって、「目には目を」というわけには、これが実際のところ、いかなかったことも多々だったのではないかと思われます。
それを、公的なものに移行・定着させていくために、為政者側は、社会階層の構成具合なども吟味・利用しながら、あれこれ画策し、努力を重ねてきたのでしょう。
いまの時代、まさにインターネット世界が、公的法整備の充実を急がれるところではないでしょうか。


理不尽な出来事が起きて、それをどうすることもできないで、それどころか、解消のための努力すら、重なる理不尽を呼び込んでしまう、こういう状態でズッときた者が、
あるいはまた、比較競争のなかで、はみ出し、落ちこぼれした者の居場所がない、それが続いていって、しまいには、どんな人間になっていくか、想像に難くないですね。

となると、前回申し上げた「不信」というもの、ここを考え、手をつけていかなくてはならないと思われます。
但し、考え違いも見受けられることが多く思われるのですが、「信用がおける」ことと「依存できる」こととは混同すべきではないでしょうね。

「理不尽」に対しては、あらゆる角度から、それに応じた何らかの妥当な手立ては見込めるのだという、
他人の足を引っ張らずとも居場所の心配など無用なのだという、
希望と安心の支えがなければ、世は荒涼として、個々で復讐という名の「見せしめ」が横行し、その社会の健全さも共生システムも容易に壊れていくのではないでしょうか。
大雑把ですが、さしあたって、このように考えております。

投稿日時 - 2009-11-22 20:26:19

補足

回答ありがとうございます。

暫く考えて見ます・・・。

投稿日時 - 2009-11-23 11:20:17

ANo.11

こんにちは†

<復讐の連鎖>なるなの。
〔復讐は、復讐を持って,復讐と為す〕
になるなのなの。

どちらかが,我を取り戻し,冷静に物事の判断が出来る状態になるまで続くなの。

日本の代表的なことなら,
●幕末の動乱期
●忠臣蔵騒動
は,今だに,人々の中に深く刻まれていることなの。
復讐はしないにしても,どこかで,心のスイッチがONになり,感情的になる場合が有るなの。

殺人事件・戦争・テロのいずれにしても,そうなるなの。


<復讐することの意義は,何か>
<復讐は,何を生むか>
<復讐には,正当性が有るか>
<復讐の念を持つことが,生きる意味なのか>
なんて感じが,人それぞれにお題目として出来てしまうなの。


結局は,人それぞれが,
<気持ちの切り替えをすること>
と,
<折り合いを持つこと>
により,
<前向きの未来志向になれるか>
が問題だと思うなの。

投稿日時 - 2009-11-22 14:01:29

お礼

> <復讐することの意義は,何か>
> <復讐は,何を生むか>
> <復讐には,正当性が有るか>
> <復讐の念を持つことが,生きる意味なのか>
そこです! 
核心をついて頂きありがとうございます。
復讐の念は沸き起こるが、社会正義に反している。そのジレンマに悩んでおり、どう捉えれば良いのか分からないのです。

> 結局は,人それぞれが,
> <気持ちの切り替えをすること>
> と,
> <折り合いを持つこと>
> により,
> <前向きの未来志向になれるか>
すみません、今の心情ではそうした聖人君子が如き考えにも到りそうにもありません。
この感情を良い形で消化する為に、「復讐とは何か」という哲学的な疑問の解消で解決したかったのですね。

とりとめの無い御礼内容になってしまい恐縮です。
回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-11-23 11:18:42

ANo.10

 こんにちは。

 世の中には――と言っても それはほんとうは縄文もしくは弥生時代までのことだとしたいのですが――
 ★ 復讐に意味はあるのでしょうか。
 ☆ などと考えることなく まったく《自分が何をしているのか分からない》まま 結果として復讐とよばれるおこないをしてしまったという場合があります。ありました。《かれらおのれの為すところを知らざればなり》。
 つまり 復讐とは何かを――たとえその一時期だけとしても――知らなかった場合です。
 (衝動的に振る舞うことと ほとんど同じ行為なのですが その衝動が一定の期間にわたる場合を言おうとしています。へたをすると そのきっかけになることが起こったときから 死ぬまで一生のあいだその衝動に駆られていたという場合を考えると 分かりやすいと思います)。

 言いかえると 
 ★ 復讐に意味はあるのでしょうか。
 ☆ あるいは 
 ○ 復讐とは何であるか。わたしは何をしようとしているのか
 ☆ について考えるひとは もうその本人にまかすよりほか無いと思われます。《復讐するは我れにあり。――と主は言われる》といった言葉に たとえ勘違いとしてであっても 触れたことがある場合ですが この場合は たとえ肉親であろうと親友であろうと 他人が口出す余地は 基本的にないと考えるべきだと思います。

 ということは 復讐とはどういう行為で何たる意味があるのか無いのか――たとえ分かりきらなくても――考えたことのあるひとが 復讐という行為に出るのは 基本的に言って抽象的な言い方ですが そのひとが死んでいるからです。

 赤穂浪士らは――とことん煮詰めて解釈していくと―― お家の断絶という《内の会社》の倒産に遭い 自分たちは死んだと受け取ったのだと考えます。仇をつくってこれを殺すまでのおまけがつきましたが かれらは死んでおり死にたかったのです。こころに反してであっても そうなるという意味です。なぜなら 心に反しているということは 当たり前であり 分かり切っているからです。
 むろん そういう思想としての振る舞いだと言おうとしています。

 思想と言いましたが そのもっとわるい事例を持ち出せば納得できるのではないでしょうか。すなわち 一昔あるいは二昔前には ほとんどのサラリーマンにとって《うちの会社》は わが命だったのです。
 ま 大企業のことでしょうが 《会社は永遠であり ひとは限りある》という思想です。そのさらに昔は 《お国のためには この命などは屁とも思わぬ》でした。《ぬちどぅ たから》に変わりましたが 会社社会は わが家わが家族だった頃があります。
 会社の不祥事が発覚し世に問われると 会社のためを思うその思想に殉じようと また《多くの人たちが犠牲になるより ひとりの人間が死んで詫びるほうが 善である》という考えによって たいていは 責任者ではなく担当の部下が しかもその部下のひとは みづからの固い信念によって 命を断ちました。
 
 ですから すでに《死んでいる》ひとは それに応じた思想を持つと考えるのが分かりやすいと思われます。言いかえると ふつうには一体その人が何を考えているのか まったく分からないということだと思います。

 ですが すくいはあります。ひとすじの光はあります。
 考えてもみてください。われわれは 遅かれ早かれ 死にます。この肉体は朽ちます。とうとき思想であってもその精神も移ろい行くしろものです。もっと言えば やがて死ぬのではなく すでに じつはわたしたちも 死んでいます。そういう時空間の中にいます。
 ところが――すくいと言うからには 雲のかなたのよしなし事になるのですが―― この《すでに死んでいるその死》が 死ぬと宣言されたという歴史物語もあるわけです。
 いまの死が死ぬのです。それぢゃ 生きるしかありません。いちど どんでん返しのように生まれ変わるということを意味しています。それ以外に この物語の解釈に従う限り 採りようはありません。

 この《死が死ぬ》というおとぎ話の現実性については みなさんの解釈におまかせしますが もうひとつ大事な話が これにはついています。
 大事な話です。中には 《いまの死が死ななくなる》場合があるというものです。死が死なない つまり 死が確定する。いま死んでいる状態が 永遠の状態になる。と言います。これが 《第二の死》とよばれるもので われわれが最もおそれなければならない――不用意にその言葉を使ってしまえば――悪ではないでしょうか。究極の悪だと考えます。

 さぁ わたしも現在は その考えがここまでです。
 その昔 《まつり》は 収穫されたその年の初穂をささげ 村の人びとはみんなで感謝を等しくし いわば神と共食したと言います。そのはずです。どんちゃんさわぎは 措いておきますが ですから 生きることは ともに生きることです。
 悪とも共生です。究極の悪とも われわれの良心は 共生を思っています。うそだと思うなら この胸を切り裂いて 赤き血潮を噴き出させて うそかどうかをためしてみればいい。
 死が死ななくなった人間をどうあつかうか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 憎しみとは一体なんなのでしょうか。
 どう捉えれば良いのか、どう解消すれば良いのか、黙って飲み込むしかないのか、それとも復讐してすっきりした方が良いのか。
 別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この問題は 《第二の死》をわれわれはどう見るか これにかかっていると考えますが いかがでしょうか? わたしはまだ分かりません。

投稿日時 - 2009-11-22 12:53:57

補足

回答ありがとうございます。

>もっと言えば やがて死ぬのではなく すでに じつはわたしたちも 死んでいます。

すみません、この辺から分からなくなりました。
大局的に見れば、我々の生きている時間は一瞬であり、死んでいるも同然、という意味でしょうか? 

====
かく言う私も社会的に死んだも同然です。
そしてそのうらみつらみを晴らさなければならない。
過去の私の記憶と私のつけた記録が復讐せよと訴えています。

そしてゲバラの言葉が浮かんできてしまいます。
「打撃は、絶え間なく与えなければならない。」

投稿日時 - 2009-11-23 11:08:15

ANo.9

 復讐 したいと思うということは、自分に何の責任、原因も無いのに被害をこうむったと思っているからですね...
 あるいは悪意のある行為振る舞いをされたと。

 そう思ったとしても、たとえば殴りたいと思うほどの感情とエネルギーがあるなら、それを昇華させるというか、本気で相手に意見を言うか、真相を確かめるための行動をするとか...で良いんじゃないの。

 怒りを溜めるとその感情のエネルギーが恨みや憎しみに変じるでしょう、おそらく

 とにかく、具体例がないと良く解んない

投稿日時 - 2009-11-22 12:41:57

お礼

回答ありがとうございます。

> そう思ったとしても、たとえば殴りたいと思うほどの感情とエネルギーがあるなら、それを昇華させるというか、本気で相手に意見を言うか、真相を確かめるための行動をするとか...で良いんじゃないの。
「本気で相手に意見を言うか」についてはもうしました。
ですが心の決着がまだつきません。

>具体例がないと良く解んない
申し訳ありません。こちらは申し上げる事ができません。

投稿日時 - 2009-11-23 11:03:13

ANo.8

コミックで「復讐クラブ」というのがあります。
確か、テレビの「世にも奇妙な物語」にもなったと思います。
内容は、自分の恨みを復讐クラブに依頼するというものです。
しかし最終的には、みんな誰かには恨みを持っていて、
ほとんどの人が復讐クラブに依頼しました。

要は恨まれていない人間などはいない。
誰かが誰かに恨まれている。ということでした。
みんなが復讐をするようになれば、秩序が乱れ平和が
保たれませんね。
したがって、復讐はしたくても辛抱するしかないのでは
ないでしょうか。

投稿日時 - 2009-11-22 10:15:44

お礼

運命として飲み込む派ですね。
回答ありがとうございます。

投稿日時 - 2009-11-22 11:37:47

ANo.7


ここは、哲学のカテゴリーだから、哲学的に答えるけど、
まず、質問がいけない。
復習に意味があるでしょうか?って聞いているでしょう。
生きることに意味があるでしょうか?
愛することに意味があるんでしょうか?
結婚することに意味があるんでしょうか?
って、聞かれた場合、答えが困難なことは分かるでしょう。

意味って質問への答えは難しいんですよ。
だって、意味があって生まれたわけじゃないから。
意味があって、復讐心が芽生えたわけじゃないから。
意味を問うのは後付だからね。


前置きはさておいて、
復習は、倫理に反している・・・・そんなことは無い。
会社で、部下のミスで上司の評価が下がる。
部下を叱る事は、ある意味復讐であるけど、倫理に反していない。
自分の娘が殺されて、その犯人を自分で捕まえ、裁判で死刑になる。
これも、復讐だけど、倫理的に問題はない。
子供が悪さをする、何度言っても直らない。つい手を出してしまう。
これが、復讐の範疇に入るかどうかわからないけど、深い意味では、憎いという気持ちがあれば、復讐とみなせないことはない。でも、倫理に反しているとは、断定できない。

こんな、事を色々考えていると、復讐=倫理に反するとは言えない。
哲学は、こんな当たり前の事を疑って考えるから。

だから、一つの答えは、倫理に反しない方法で復讐を考え、実行するというのも答えとしてありうる。すっきりするから、これが一番いいと言える。

最後に、哲学的ではなくて、現実的なことを言うけど。
復讐する方法を考えることで、復讐心を開放してあげている部分がある。つまり、復讐心が小さくなる効果があるわけだ。
だから、倫理に反しないで、復讐する方法をじっくり考えるといい。

実行するか、どうかは、哲学的な面での答えは無いんじゃないか?
倫理学なら、別だけど

投稿日時 - 2009-11-22 09:19:20

お礼

>意味って質問への答えは難しいんですよ。
それが哲学の存在する「意味」だと思います。

>だって、意味があって生まれたわけじゃないから。
確かにその通りですね。失礼しました・・・。
私が書いた意味という言葉の使い方が誤っていたのかもしれません。

「なぜ会社に入ったか」は「給料を貰いたいから」という意味、
「なぜ成果を挙げたか」は「名誉を上げたいから」という意味、
という風にして人間が意図する所の意味を問うのは優しいのですが、
「宇宙は何故存在するのか」「正義とは何か、何故存在するのか、行使すべきか」「愛とは何か、何故存在するのか、行使すべきか」「善とは何か、何故存在するのか、行使すべきか」「真理とは何か」といった人間の意志が介在しない、あるいは介在しにくい問題については難しい問題だけれども、古典から論じられていると思います。

これと同様に「復讐は何か?」という命題も哲学の対象になりうるのでは無いかと思っているのです。そして、その当たり前の根源を探りたいのです。

>だから、一つの答えは、倫理に反しない方法で復讐を考え、実行するというのも答えとしてありうる。すっきりするから、これが一番いいと言える。
そうですね。私もこの辺探っています。事実を本にし、出版して復讐を遂げる方もいらっしゃるようです。ただ、私はそのような気概がありません。

>実行するか、どうかは、哲学的な面での答えは無いんじゃないか?
そうですね。これは私の質問がいけなかったのかもしれません。
復讐の実行手段ともより、そもそも復讐に意味があるのか、と考えたのがきっかけです。

投稿日時 - 2009-11-22 11:37:03

ANo.6

そこから何を読み取るかは
海の深さの度合いによる

人生は
それぞれが
それぞれの歩んできたものでこれを味わう

じいさん
ばあさんが
陽だまりの秋の縁側で
ほろ苦いお茶を飲みながら
庭先で孫達の遊ぶ音を聴くように

いつかそんな日が
来るように
当たり前の風景として
そこにあるように

投稿日時 - 2009-11-22 08:01:53

お礼

回答ありがとうございます。

投稿日時 - 2009-11-22 11:24:29

「憎しみ」とは、憎いと思う、その気持ちのことですが、反感や敵意というものも含まれますね。なぜ、そういうものを感じるかというと、自分と、自分が持つ世界を維持できない、破壊される(された)という怒りから起きるのが大まかな原因でしょう。

それで、直接自分自身ではなく、自分の大事な存在の者を殺められて仇打ち、ということが起きてきたりするわけですけども、これを別の角度で見れば、人に復讐心を惹起せしめた者(この者自身、妬みなどの反感による「復讐心」から、他者のそれを起こさせた張本人であったりするわけです)が直接の打撃を受けず、むしろ、その周囲の者が、代わりにやられていく、というやり方も起きてくるわけです。
なぜなら、自分自身が直接やられるよりも、自分の大事な存在・重要な存在をやられるほうが、もっと辛く脅かされるという効果が望めるわけです。最も残酷な報復かもしれませんね。

余談ですが、昔は「解死人」という制度があったらしいですね。

> 復讐してすっきり
昔の仇打ちなんかは、果たしたあとは、間髪入れずに自分自身も自害に及ぶ覚悟でやったんじゃないでしょうか。自分の命も惜しまないで、つまり、命がけでやってるんですよね。「人を恨めば」なんとやらという言葉もありますが。
自分の命が続いていけるようにすることが、
> 別の形で昇華させる
ということでしょう。ですから、俗に言う「命知らず」という者は、手がつけられないのですね。(笑)もはや、惜しむものがないのですから。

個人レベルで復讐するというのであれば、ひとえに「不信」からきているのではないでしょうか。
「復讐するは、われにあり」という言葉がありますが、自分以外のものに、それを信じていることができないのですね。

社会的倫理に反するとされるのは、社会というものが取り決めて設けている法律や捜査や審判等のシステムを無視して飛び越し、たった一人でカタをつけようとした、つまり、やはり、それらに信を置いていないわけです。
まあ、「第三者」というものが、本当に妥当な裁きを出来ているかというと、これも甚だ怪しいものがあるのかもしれません。冤罪だって現に何度も起きているらしいのですから。

こうした面で、「不信」が蔓延すると、いとも殺伐とした世の中になってしまいます。お互いが、お互い信用することができませんから、まともな社会システムの崩壊に繋がっていきかねない。したがって、社会倫理の崩壊ですね。

余談ですが、
映画やドラマなんかで悪役専門の人が、実生活でも悪役のイメージで遇されるという実例など、なんぼでもあるそうです。恋人どうしや夫婦役を演じた俳優同士、実際の個人としての生活でも交際や結婚する切っ掛けになったり多いですね。


最高の復讐は、「忘れ去る」ことだと言います。そのとおりでしょうね。アウト・オブ・眼中です。(笑)
ですから、それをさせまいとて、常に相手を刺激し続ける者は、これも大きに罪ある者、本当の意味での「下手人」と言えるかもしれません。

「昇華」させるには、凡人の場合は時間が必須ですから、まず、それを与えてやることです。
こんなところで。。

投稿日時 - 2009-11-22 07:45:20

お礼

回答ありがとうございます。大変参考になりました。

ただ、復讐には個人の感情の発露だけではなく、同問題の再発防止も兼ねているのではないかとも思うのです。

ですので、「忘れ去る」というのは感情の発露の問題は解決できえたとしても、再発防止はできないとも思えるのですね。

投稿日時 - 2009-11-22 11:24:08

ANo.4

それなりの意味はあるだろう

投稿日時 - 2009-11-22 06:48:37

お礼

回答ありがとうございます。

Ano.1さんへの回答への御礼にも書いたのですが、私自身の中では社会的に意味を為すと解釈しました。

投稿日時 - 2009-11-22 11:14:26

>また社会的にも倫理として反しているという事は知識として知ってはいても

復讐に執着するタイプは、復讐を思うまでの状況の因果関係を何度も点検する作業を怠っている場合が多いです。
別の言い方をすれば、観察もしていないし多角的な分析ができていない場合が多い。

その結果、復讐の対象ではない人間を復讐の対象と思い込む可能性もあります。そういう独善を避けるには民事・刑事裁判などで第三者に判断してもらうのが一番でしょう。

投稿日時 - 2009-11-22 05:52:37

お礼

そうなのですよね。

客観的な意見を頂けて嬉しいです。

投稿日時 - 2009-11-22 11:13:37

ANo.2

>>復讐に意味はあるのでしょうか。

意味が無い。
舞台劇(時代劇)では主役と切られ役がいますが舞台裏ではみんな仲良しなんですね。舞台で切られたからといって切り返せば舞台にならないでしょう。舞台劇を見ているときに理解できることが、自身が人生という舞台劇の主人公になるとわからなくなってしまうのですね。それだけのことです。

投稿日時 - 2009-11-22 05:17:07

お礼

>自身が人生という舞台劇の主人公
シェイクスピアでしょうか。
これは飽くまで観客視点だからだと思います。
いざその当人になってみると、湧き上がる憎悪の感情を殺す事はできません。さながら舞台の上にいる役者のように。

これが解消されるのは人生という舞台から降りた後(死んだ後)にどうでもよくなるのでしょうが、私はまだ私自身の人生という舞台に立っておりますので、感情の発露のまま、憎しみ貫き通せば良いのでしょうか。

投稿日時 - 2009-11-22 11:12:38

ANo.1

「意味がある」と思えば意味があるでしょう
「意味がない」と思えば意味はないでしょう

「別の形で昇華させるなどとはとても考えられません。」
というのであれば、
1.別の形で昇華させる方法を身につける
2.別の形で昇華させずに復讐する
3.別の形で昇華させたり復讐したりしない
などなど、様々でしょう。。。

たとえば、誰かが息子を拳銃で殺したとします。復讐するとして、どうします?

a.息子の命を奪った弾を取り出して潰す
b.息子の命を奪った弾を発射した拳銃を破壊する
c.撃った人を殺す
d.拳銃で人が死ぬような世界を破滅させる
e.aからdの全てをやりたいが、死んでしまった息子は帰っては来ない・・・息子のような運命に合うようなことのない世の中にしたいものだと思って、行動する・・・
f.その他・・・

たとえば、壁にボールを投げて跳ね返ったボールが顔面を直撃したとします。どうします?

a.ボールを潰す
b.壁を破壊する
c.投げた手を切断する
d.ボールが跳ね返ってくるような世界を破滅させる
e.投げた自分に腹を立てるが、ボールや壁を壊したら遊べなくなるし、自身に復讐するのもばからしいし、世界を破滅させるのも不可能なのでのでやめておく・・・それよりも、ボールをよけるだけの反射神経を得ようと努力する。
f.その他・・・

どの選択肢がいいとかわるいとかいった問題以前に、どのように感じ、どのように対処しようと思うのか・・・

少なくとも、「他者との関連性」を完全には切断できない世界に生きているということを、前提に考えるべきでしょう・・・

日本では中世において、「仇討ち」は制度化されていましたが、それ以前の時代(鎌倉時代)では、禁止されていたようです。

仇討ち http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B5%E8%A8%8E

仇討ち禁止令(復讐禁止令) http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/adauti.htm

投稿日時 - 2009-11-22 04:54:28

補足

回答ありがとうございます。

まず質問が言葉足らずであった事をお詫び申し上げます。
下記の点を補足させて頂きます。
私が考えている復讐とは何か、をまとめますと、
・他者から自分に対して何かが侵害された事が起点になる事。
・人類共通で抱える普遍的な問題である事。
 (なので法律で整備される事)。
 普遍的でなければ忠臣蔵は毎年放映されない事。
 どこかで何かしらの共感があるのでしょう。
・wikipediaの「報復」を見ると、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E5%BE%A9
ハンムラビ法典では1:1の報復を認めていた事。
現在では
>報復行為を国が代行するかわりに国民から報復権を取り上げている
事。
・自分に対する他者からの侵害が起点になる、と書きましたが、
 報復する、しないのいずれにせよ、再発防止をしたい、という感情は必ずあると予想しています。

投稿日時 - 2009-11-22 10:09:26

お礼

回答ありがとうございます。
まとまりがなくなったのですが、下記記載させて下さい。

復讐の手段についてですね。
一般的には復讐という言葉は人間に対しての言葉だと思います。
例に挙げて頂いたボールに対して復讐する、というのは一般的ではないように思います。
失敗した意図や意思などの起点が自分ですから再発防止を図れば良いのです。
他者の意図が自己を侵害する際に発生する感情、うらみつらみ、ねたみ、そねみが復讐に転化されるものだと思っています。

では、息子が銃で殺されてしまった場合のケースで言えば、犯人に対して何らかのアクションをして自分を納得させねばならないのですね。
・法整備を強化し、再発防止を図る。
・裁判で決着し、国が復讐の代行をする。
 (そもそもwikipediaの言うとおり、「報復行為を国が代行するかわりに国民から報復権を取り上げている」「刑罰が応報であることを認めつつも」という前提があった場合、法で定めなければ、報復権は個人に自然に付与される、という解釈になると思います)
 そして何をやっても息子は戻らない、というのは一般的な法整備の基準として「元の状態に戻りにくい」という事が他人の意図に発生した場合、その度合いに比例して刑罰が定められていると思います。放火の刑罰が重いのがその一例でしょう。
・個人的に復讐を行う。
・天命だと感情を押さえ込み、事態を飲み込む。
というのが具体案になるのだと思います。

現実的には裁判で、という事になるかと。これも一つの復讐のような形になります。

ここで「復讐とは何か」をまとめますと、
・復讐は人間の自然な感情の発露である。
・法で規定しなければ報復権は個人に付与される。
 (元々復讐そのものに社会的に意味があるという解釈である)
・報復(復讐)は現代においては一般的ではなく、
 私刑であればその量が公平でないので
 公的機関を通して公平に与えられるべきである。

といった、社会的観点から復讐は本来の意味を為すけれども、私刑は公平でないのでいけないよ、という解釈に辿り着いたように思います。

投稿日時 - 2009-11-22 11:07:51

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