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解決済みの質問

人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)

 次の質問の続編です。

 【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html
 ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。
 赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。
 あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。

 ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から
           《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ

 ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。

 (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。

 (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。

 (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。

 (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。

 (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。
 (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。

投稿日時 - 2009-11-22 22:01:07

QNo.5468127

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

 いつもお世話になっております、Hidocchiです。

> (1)《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。
> (2)《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。

 意見を等しく致します。確かに、primeape様のように、全てを《赦す》と仰られるようなご立派な方もおられるかもしれません。ただ、罪を犯してしまった以上は、法治主義国家であるため、その刑に服する(もしくは、損害賠償をする)というのが原則かと思われます。もちろん、刑等を決めるのは(無罪有罪も含みます)公的な法的機関(裁判所)でございます。

> (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。

 各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。

> (4)言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。

 上述のとおり、「加害行為に対する処置」とは直接つながってはいないと考えています。むしろ、直結しない方が、法の安定上好ましいとも考えております(私法・リンチによる裁きを防ぐためでございます)。

> (4-b)ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。
(4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。

 「社会は その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ」には異論はございません。
 そこで、加害者の“更生”につきまして、愚見を述べたいと思います。
 まず、再犯率のデータでございますが、昨年は最悪だったようでございます。

・安定した仕事がある人の再犯率は19.3%
・アルバイトなど仕事が不安定な人では29.0%
・無職では34.4%
・ただ、仕事が不安定でも、家族と同居の場合は再犯率は低かった。
(ソース:http://www.asahi.com/national/update/1113/TKY200911130221.html )

 もちろん、保護観察官による観察は行われているかと思われます。また所内での職業訓練等、さらに“更生”に向けた種々の取り組みがこの国においても、実施されていると思っております。ですが、これらのみでは、“更生”は困難なようにも見受けられます。

 一方、上記データからは、収入、家族との同居率とは、逆比例の関係があるようでございます。つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。“職の安定”は、その時折の経済状況に左右されますので、対策は立てづらいかと考えられます。“家族との同居”これも一見困難なように見受けられます。ですが、保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。因みに、以下のサイトは“修復的司法”のものでございます。実際の効果の程は調べられなかったのですが、“被害者”をも含め、そのコミュニティーが加害者の“更生”の一助になりうるとの考えによるものかと考えられます。
 また、一方では、“被害者”側も、裁判では、かなりの疲労を強いられるようでございます(過失を問われる、または犯罪を誘発するきっかけを与えた等です)。従いまして、“被害者”を救う上でも地域コミュニティーによる“はたらきかけ”も重要かと考えております。元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。

“修復的司法”
「ある犯罪について、その加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場を設けて、それぞれの関係を改善する事によって、加害者の更生などを実現しようとする司法のこと。加害者の反省感情・謝罪感情を育み、被害者感情を軽減することなどを目的としている。欧米ではこれを行う数多くの団体が存在。一定の成果を認める立場がある一方、これに反対する立場も存在する。近年、国内でも、一部で同様の試みが始まっている。」
http://www.kw-guide.jp/newwords/post_278/ からでございます。

 ご参考になれば、幸いでございます。

投稿日時 - 2009-11-26 19:38:34

補足

 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。

 そうですか。理論的な検討は成されていると考えていいようですね。

 まづ さらに記事の中から 数字として08年は
 ▲ 再犯者率最悪、41% 
 ☆ だったのですね。
 そこで 更生のための考え方ですが。
 ★ つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。
 ★ 保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。

 ☆ ほかにも触れていただいており それらの点を踏まえて
 ★ “修復的司法 restorative justice ”:加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場 
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 →刑事司法・応報的司法・懲罰的司法に比して言う語。
 →司法における主体性を、国家からコミュニティーに移行させている点において、これまでの司法とは大きく異なる概念となる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という思潮がすでに起こっているということなのですね。ヰキぺも調べてみました。
 ▲ (ヰキぺ:修復的司法) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E5%BE%A9%E7%9A%84%E5%8F%B8%E6%B3%95
 修復的司法とは、当該犯罪に関係する全ての当事者が一堂に会し、犯罪の影響とその将来へのかかわりをいかに取り扱うかを集団的に解決するプロセス、又は犯罪によって生じた害を修復することによって司法の実現を指向する一切の活動を言う。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まさに(4‐b)の目指すところですね。
 いくらかの事例の紹介もありましたが 課題になるかと思われることは 国家ないし公権力が この和解会議にどの程度参加するか。でしょうか。
 コミュニティ主導であることは 言うまでもないと思いますが 市町村当局との連携は あったほうがよいでしょうか。それに裁判を経た場合には たしかに司法権力との連携も 有益であるでしょうから。

 だけれど どうですかねぇ。町や村で すでにその生活共同としての日常にそういう対話の態勢ですとか 協力の体制が出来ているということが 重要であるようにも思います。司法ひとりの問題と見るよりは 社会生活の全般にわたって 共同体が共同体として動いており その中に 更生の課題も組み込まれるかたちで 取り組まれていく。
 ううーん。ちょっと高ぶった見方・言い方になったでしょうか。

 ★ 元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。
 ☆ この風潮を翻したならば あとは みんなでうまくやって行けるように単純に思うのですが どうなんでしょう。
 素人として 加害者や被害者に接したほうがいいと思える側面もあるように思います。

 この具体的な施策は いくらかあと回しにするとすれば あとは どうでしょう。公共の法治制度にゆだねたあと なおも個人の《赦せない》という憤りをどうあつかうか。自己内面の領域についてきちんと位置づけたり また実際にその気持ちやこころをどうおさめるかに思惟をめぐらしたりして 《ゆるし》の問題をもうしばらく問い求めておきましょうか。

投稿日時 - 2009-11-26 21:36:31

お礼

 補足欄についておぎないます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    > (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。

  各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このこころの領域について さらに問い求めてまいりたいと思います。
 おそらく 《私的報復ないし自力救済》の否定という原則を その成り立ちについて明らかにしておきたい。こういう課題であるかと考えております。どうでしょう。

投稿日時 - 2009-11-27 12:28:06

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回答(72)

ANo.72

bragelonne様、皆様、こんにちは。
Hidocci様、ご丁寧なお返事と鋭いご賢察にあらためて感謝申し上げます^^

>「さわらぬ神、にたたりなし」「思考停止社会-空気のみの支配による社会」

仰る通りです。
「事件性」が浮き彫りになり、第三者である皆の関心が向いている時こそ「社会福祉の必要性」の論議をする絶好の機会だったはず。
当時各メディアが一様に取り上げなくなったのは、とても残念なことだと思いました。

>A級戦犯者

レオナール=フジタ(藤田嗣治)といった画家たちにも、当時は戦争画を描く強い要請がありました。
国を挙げて戦意を鼓舞していた時代であれば権力とマス・メディアの癒着は必然的にも増すということでしょうか。

>「その国の政治家はその国民の身の丈にあった政治家しか選べない」>「身の丈にあったメディア」にしかなれない」

はい、それは否めないと思います。
人の手を通じて伝達される以上は、いかなる情報も変質は否めません。
海外メディアも含め、氾濫するあらゆる情報の適宜適切な取捨選択のため、日々の自助努力は必須なのですよね。
情報に安易に流されない「距離感」もまた大切かもしれません。

>地域コミュニティの重要性を謳いたい

Hidocci様の想い、重々承知致しております。仰ることはごもっともだと思います。

我が子たちは6歳離れておりまして、状況の差を肌で感じます。
昨今の不況のせい、もしくは女性の社会進出(共働き傾向)のせいでしょうか。
集団登下校時の引率など、学校行事以外の地味で善意ある補助的活動に、自発的に参加する父兄が徐々に減ってきております。
(逆に我が子にかける塾や習い事の支出は増加している?)

私は共働き傾向の是非を問くつもりなど毛頭ございません。時代の流れがあると思います。
現状を鑑み地域コミュニティの必要性が問われ、そこでは理念が高らかに語られます。
でも、中心的役割を期待される年齢層が最も参加意欲に乏しく余裕が少ないという一面。
これにも焦点を当てる必要があるはずで、むしろ理念の構想以上に難しく、いま理念と「同時に」問われている問題だと思います。

Hidocci様、ご多忙な中拙文をお読み下さったことに感謝申し上げます。
寒くなります、御身体ご自愛くださいますよう^^

bragelonne様、私ももうおわづらわせすることはないかと思います^^
ただ一つ、決定的な違いを見出したのでここに記させていただきます。
(くどいようで恐縮ですが、bragelonne様を説得するつもりすら毛頭ございません。
それに「意見の共同化を希求する」ではなく「意見の差を理解し認めあう」スタンスです、例によってどうか右から左へと流してうっちゃって下さい。)

>◆ (【Q:ポルノと言う存在。】回答No.48 ) ~~~~~~~~
>・・・じわっとした感じで あるいはごく普通の大地に足を踏みしめた感じで、  人を愛せれば その時どんなゾゾゾゾゾゾゾ体験もそれごと、笑って抱きしめられるよ、 ということが解かります。
>レイプトラウマは、その時 何もかもが 何もかもがですが 消えているはずです。 蚊に刺されたようなものです^^/。(〔* bragelonne とは〕喧嘩してる最中なのに 結論がまったく一緒だった? なぜだああああ。

私の結論とはやはり異なるようでした。
≪蚊が刺した≫として性犯罪や痴漢行為を≪無効≫と捉える。
それは、あくまで「幸せになりたい」という「自分自身のため」にほかなりません。

むろんそれは自らの自由意思に基づくものですが、その自由意思は被害のダメージで傷ついた精神状態からは自然発生しないものと考えます。
つまり≪蚊が刺した≫の理論に精神的な拠り所を得るのではありません。
(サビーヌさんの場合であれば)BFに対する愛情や家族友人などの強い支えがあって強く健全な自由意思が形成され、ようやく≪蚊が刺した≫を受け容れられるものと考えます。
だからでしょうか、理論の精緻化ではなく、現実にいかに即すかという視野に私は立ってしまうのです。
一事が万事この傾向にあると思われます。

恐らくbragelonne様はちゃらんぽらんな私とは違ってとてもストイックな生き方をなさっていらっしゃるのだと思います。
その差だと思いますし、私は素直にbragelonne様を尊重します。
逆に私はどう思われようと気にしません。
ゲリラでもマでものっぺらぼうでも、お好きなようにどうぞ^^

さらに「人を愛せれば その時どんなゾゾゾゾゾゾゾ体験もそれごと、笑って抱きしめられるよ」に関しては、行為自体が「無効」である以上、犯人の更生ならびに愛し抱きしめるなど、想いを馳せることすら無いと私は考えます。
一切が全く関係なくなります。
「赦す、赦さない」の問題ではなくなると考えます。
他の人は、もしかすると性犯罪者である加害者を「赦すことができる」のかもしれませんね。わかりません。
それは私ではないので「可能性も否定できない」ということになります。

でも、arayata様の仰ることもとても奥が深いお話のように思われて、う~んと頷かされるのです。もちろんこちらにつきましても尊重しております。
私も御歳に近づくほどに、そのようなあたたかい心を得られたらと、願わずにはいられません^^

そういえば、昨年エロ爺に太ももを撫でられて帰宅した際、上の子がぼそっと言い放ちました。
「誰でも良かったんじゃないの?」

だから≪蚊が刺した≫と考えられるのであって、この「自由意思と無関係な事象に対する無効宣言」は何かとつかえそうですし(幾らなんでもこの先は痴漢には遭わないと思うので、笑)、これからも私なりに何に適用できるか現実に即して模索していくつもりです^^以上でえーす。

投稿日時 - 2009-12-03 18:16:33

お礼

 わたしに向けての文章は
 
  おまえには有徴性がある。

 という上塗りであると受け取りました。
 その事情ならびにわたしの物言いは すでに述べてあります。

投稿日時 - 2009-12-03 20:09:14

ANo.71

 回答番号:No.72
 ★ 赦して水に流す、という状態にはなっていません。
 ☆ ということでしたら それは 過去の人間たちの子孫として言っているということでしょうか? 
 ◇:いや、現実にやった人やそれを継続している人は、死んでしまった人はともかく、赦して欲しいとも想ってもいない状況であり、赦すとか何とかの前に、事の真実について共通の認識にさせ、そうなることが必要でしょう。そして赦すとかなんとかの前に、被害者という側としてしっかりした態度と行動があるべきでしょう。
 
 ローマ・ワ”チカンが表に出せない資金の洗浄化をおこなっているという事件について質問を出されていましたが それも おそらく過去の清算すべきあやまちの一つだというところでしょうね。
◇:これも未だに大きく基本的な暗黒面の勢力なのでしょう。過ちとおもっていないのではないですか?だから赦す前に、糾弾する事が必要でしょう?

 ★ 赦すとかどうかの問題ではありません。勇気もない、意志も発揮できない存在が赦すというのは偽善であり、欺瞞。嘘です。逃亡です。いいわけです。懶惰です。言葉の遊び、美化だけです。
 ☆ これではじんるいもまだまだ悪循環に落ち入っている。こう言わざるを得ない。おっしゃるとおりでしょうね。
 ◇:赦す前に事柄を、お前は悪い事をしたぞ、今もやっているぞ。やめろ。ということをしっかり言動で表示し、抵抗しなければいかんではないですか。

 国家なら今も私的報復ないし自力救済をおこなう。それが 公共の権力だというんでしょうか? それは国家族にとっての社会公共のものでしかないのではないでしょうか? 社会生活人にとっての公共とは どういうものなのでしょう? それと 個人のあやまち もしくは それにまつわる個人間の敵対関係とが 絡み合っているように思えます。
 ◇:そういうことは申しておりません。

投稿日時 - 2009-12-03 17:50:54

お礼

 ご投稿をありがとうございました。

投稿日時 - 2009-12-03 20:10:14

ANo.70

オコリザルです。
かつて大袈裟に人間信仰として人間同士が信じあうことの尊さを満身で理解しようとしていた私ですが、そのような視点でテレビの凶悪なニュースを見ると人間が人間でいるために、そのような凶悪犯の心に閉ざされた愛を何とか汲み取ろうと考えます。
死刑が免れない場合でも赦されて死ぬのならずいぶん違います。
「赦せない」「殺してやりたい」には「あいつは人間で無い」が含まれるでしょう。そんなはずないじゃないですか。

投稿日時 - 2009-12-02 22:10:39

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★(α) 「赦せない」「殺してやりたい」には「あいつは人間で無い」が含まれるでしょう。そんなはずないじゃないですか。
 ☆ この問題は 次のように《第二の死》をどう扱うかにかかっていると考えます。

 【Q:復讐に意味はあるのでしょうか。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5466279.html
 ☆☆ (そのNo.14) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  死が死ななくなった人間をどうあつかうか?

  この《死が死ななくなった》という《第二の死》をわれわれはどう見るか
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりひとの自然本性としての善性がぜんぶ損傷を受け失われた状態 したがって究極の悪 としての第二の死をどう見るかにかかっているのではないでしょうか?

 この第二の死などあり得ないと見れば (α)がそのまま有効なのだと思います。
 たぶんこの問題は 非思考のなぞの領域において決裁されるのではないでしょうか? (これは 逃げになりますが)。

投稿日時 - 2009-12-02 22:36:04

ANo.69

回答番号71から 続いて回答となります。

すみません、 久しぶりに回答を書くこととなり、とまどってしまったところがあります。

この質問に回答すべく 急いで他の方の回答の流れとかを一応掴んでおいたほうがいいと思い、ざっと読んでいましたら、なつかしいマシュマロ2様の回答とかもあり、 そのマシュマロ2様が、 bragelonne様のことを、「様」とつけて呼ばれていたので、  つい昔、ここで一応に人の名前に「様」をつけていた時の気持を思い出し、 私もbragelonne様と 「様」をつけてしまいましたが、

その昔の、その心は、ネットでは言葉でしか語れないのだから、尊敬の意味合いを言葉に込めるのに、それが自然と思っていた、ということであり、
そのうちに、ネットの言葉を通しても、心の通うさまざまな友が出来てくるにしたがい「様」では不自然とも感じるようになり、 「様」と「さん」を使い分けるのも これも不自然、 ならば「さん」に統一しようという気持になったのを、 ここに思い出しました。

で、 そんな感じで ここにbragelonne様を、 ここからbragelonneさんと呼びかえる形になってしまうことを、ご理解ご了承ください。

失礼いたしました。

しかし、 次の点、 《無思考》と《非思考》を 区分けしないで書いてしまった点は、 とまどいとかいった点を越えた、 不注意だったと思います。

私自身が、 「無思考」という言葉を使ったかどうかは憶えていませんが、たしか宗教組織の中の頭のいい人までまるで夢遊病でもあるかのような思考停止状態にあることに 驚いた体験を いくつかこのサイトでも書いているところ、  

「無思考」という言葉であっては“そんな状態の《信仰?》”という意味合いを連想させてしまうところですね。

もちろん、bragelonneさんは、わたしがそんな意味でこの回答に使っているなどとは、もはや思ってはいないでしょう。

しかしあくまで、そこは、曲げてはならない言葉の使い方(言葉の置き方)であったと思います。

この不注意も、最初にお詫びしておきます。

その上での回答なのですが、

やはり、bragelonneさんとの対話には、《信仰》についての論議を全く避けて通るということは、 すくなくとも私との対話においては、難しいことのようです。

ただ、 ここでのbragelonneさんのご質問は、「人が 人のあやまちを赦すことができますか(づつき)」ですから(すみません、前回の質疑はまだ読んでません。 読む必要がありそうな《流れ》がここにありますでしょうか? それによっては急いで読んでみます)

できるだけ その質問の回答の範囲で、その《信仰》との関りの世界も膨らませてゆきたいと思います。

1つに 私の感性哲学の世界と 信仰の世界は 両方とも「《表象》とそれを越える世界」という文脈の言葉を使っていますし、それをもっとも重要な点の1つとしている点でも似ていますので、 

また その点を抜かしたら 私の方からも「人間は あやまちを赦すのは難しい」という観点が生まれてしまいますので、 私の方からは、 そのあたりを、ここでは、主として追求していきたいと思います。

でも、 ここに戻ってきたからには、 以前によくbragelonneさんの言われてもいた「ゆっくり行きましょう」を 1つの軸としたいと 私も思います。

その「ゆっくり」さが、 「ベテランの技とは、いつもゆっくりに見えながらじつは早い」という範疇であることを 祈りつつです。(これは《長期、中期、短期》についてのマシュマロ2さんとの論議と重なるところかもしれません)

まず、
おおむね、上記の主旨に従いつつ、 私の方も ここに少しだけ信仰論の方に話を持っていってみたいと思います。

まず、 bragelonneさんの書かれている《非思考の信仰》というところに なぜキリストという歴史的人物が関ってくるのか? というそのへんこそは ここではつっこまないでおきたいところなのですが、

「表象」という点で こんなことが思い出されます。

ずっと昔、私がまだ若かった頃ですが こんな話を聞いたことがあります。

ある神父さんが、電車の中で 見も知らない男からこんなふうに声をかけられたそうです。「神なんていない。 ならばキリストはなんなのか?」とかいった問いかけだったと思います。 即座にその神父さんは、こう答えたそうです。「私たちが そういう疑問を持つのはあたりまえだ。 キリストでさへ、絶望して死んでいったのだから」

そのとたん、その男の目からは 滝のような涙がこぼれてきて 彼は即クリスチャンとなったのだそうです。

クリスチャンというと、その組織の一員でしょうし、自覚が故の信仰とは言え、bragelonneさんの言われる《キリスト者》の世界とは別なのかもしれませんが、 私は その彼の涙の世界も“《表象》しえない世界”の1つだと思います。

いずれにしても、 bragelonneさんの中にも おそらくよほどの大きな体験の、そんなふうな世界が そこにあったのではないかと思われるのですが、いずれ、そのことについても もっとつっこんでお話し合いできればと思っております。

また、《非思考と信仰》それ自体についても、ここでは簡単に次の一般的疑問を提出しておくことにとどめておきたいと思います。

論理からも神への信仰への道はあるかと 私は思います。

論理が苦手な(数学を知らない)人間の 簡単な推理の世界なので、とんでもなく甘い考えかもしれませんが、 恥とか外聞よりも、わたしには議論をともかく進めたい気持のほうが強いですので 書いておきます。

確率とは ということの正確な数の世界を私が解かるはずはないのですが、 これって 数字が大きくなるほど、確率計算って不確かな世界になってゆくのではないですか?

分数のあの記号の 分母が下かどうかさへもうすっかりその面の頭が固くなった50歳になろうとしていた時に やっと知った人間が 何を言い出すのかと自分でも思うのですが、 どうしても疑問となるところなので逆に質問させてください。

万華鏡が もう一度全く同じ模様となる確率は 確か数百億年もの後のこととなると聞いたことがありますが、これって実際には、その日が明日かもしれなくても、あるいは数秒後であるかもしれなくても、真逆にはほとんど永久に同じ模様でが現れることはありえない、という世界でもあるということですよね。

これは 金融確率理論でしたかの理論に支配されていた経済界への疑問とも重なることかもしれませんが、そこまではここでは考えないこととします。

では、 この地球が ブラックホールから生まれた確率は ?

と考えると、あるいはこの存在を自覚する命である人間が生まれた確率はと考えると、

そこには無限という《非思考》が思考の中から生まれ出てくる。

という論理です。

でも 私は 《信仰》イコール《神の存在の確信》とした場合、それをもってその地にたどりついたというのならば、それはまだはっきりしない論理に思えます。

そのことに《驚く心》の存在、また その《驚く心》の存在に驚く心の存在、つまり 感性という存在がそこに存在しないならば その論理もまた半欠けと思う者なのです。

逆に言って その時の《驚く心》の世界、それ自体がすでに 私の中では《非思考》と捕らえられてしまっているのです。

《表象》で捕らえられる「驚き」の世界もあり、それは思考(比較)ができ、言葉で語られえますし、 その世界の「驚き」がいかに科学の発展や文化の発展に重要だとしても、それが《非思考の信仰》となるとは私も思っていない点までは、 bragelonneさんのお考えとたぶん、同じ、あるいは同じ言葉づかいで真実を追究しているかと思うのですが、

たぶん、違うと思われるのは、 芸術にも 《表象》と《それを越えた世界》があると私が思っているのに対して  bragelonneさんのお考えは《表象を越えた世界》はすべてイコール《信仰の世界》となっている点ではないかと思うのです。

まだ 論議の始まりにて すでに長文となってしまいましたが まず、そのへんどうでしょうか?

私は 深い感動を呼ぶそのような芸術ならばそれは人の心に 時間はかかっても やがて、どんな時にも人とあらゆるあまやちを赦せる力をもたらすと思っています。

どうでしょうか。

投稿日時 - 2009-12-02 21:14:29

補足

 そうですね。――ご回答をありがとうございます。――前回の説明につぎのことを加えれば 今回は 要が足りると思うのですが どうでしょう。

 1. 経験的な思考および行為の世界は 相対性の支配する世界です。経験合理性を基準としてすべてを 妥当か否かとして 判断します。

 2. ひとは どういうわけか この相対世界を超えたところを想定してしまいました。超えているのですから とうぜん 絶対の世界であり 経験思考の及ばないなぞの領域です。

 3. ところが げんみつに言うと 経験思考が及ぶか及ばないかが分からない領域というべきだと考えられます。それが 絶対という意味です。

 4. その意味での無限は 一、二、三・・・無限大というように一つひとつ数えて到達するかのようなものではありません。なぜなら――これは 《可能無限》と言って じつは実際には 経験思考の世界に属しますが―― 無限大+一 という数を表象しうるからです。さらに +一・・・と加えて行けるということは 表象し得るのであり 経験的かつ相対的です。

 5. 絶対としての非思考としての無限は 一を足すことが出来るかどうかは分かりません。そして仮りに――仮りにです 仮りに――この絶対としての無限を分割しうるとして 二等分や三等分したとします。ところが その半分や三分の一は じつは なお無限なのです。そういう内容で想定されるのが 《絶対》です。

 6. (3)の持つ意味は こうです。相対世界を超えているということは この相対世界を ひょっとすると 覆っている。あるいは包んでいる。かも知れないということです。あるいはもっと言えば どこにでも存在している。つまり普遍であり遍在であるということかも知れません。そういう意味合いが はじめの想定からは出てきます。

 7. つまりたとえばですが 絶対無限を神と言うとすれば 《神は 遍在す》あるいは 《神は愛なり》うんぬんというふうに いろんな形容がなされていくということです。《神は 〔超えているゆえ〕不在である。不在であるが いま現在する》とも言われます。《非思考の信仰がいだく神は 不在なるなぞの現在である》などと言います。

 8. これで分かっていただけると思います。あくまで初めの想定にのっとる限りですが 《表象し得ぬ領域》が《表象し得るこの経験世界》に やって来ている。あたかも介入している。と言い表わすような情況が 仮りの思考において得られます。――これは ただし結局はあくまで 非思考の信仰を抱くその《わたし》の主観の内においてのみです。

 9. その主観内面に思い描かれた仮りの描像を 他者に伝えてもよいのですが それ以上のことは もう《仮りの上の仮り》の表現の問題に陥ってしまいます。文学の問題に入り 哲学はつつしむはずです。

 10. たとえば 《驚くこころ》にあたかも神の存在が宿るかも知れません。宿らないかも知れません。たぶん そんなことは分からないでしょう。しかも分かるかも知れません。――けれども分かるというのは あくまでひとりの《わたし》における主観の内に起こる現象としてです。しかもこの現象じたいも じつは神のはたらき自体ではなく その仮りのものを 人間の言葉で表現しただけのものです。

 11. 主観――そこに非思考の信仰を含む――の内のことがらとして 《ひとのあやまちを赦すことができる》と言えます。しかも――そのことを ほかの人に伝えることまでも出来ます しかも―― そこまでです。そこまでのことも もしそれが信仰において赦すのだということであるなら あくまで全く 仮りのことなのです。神の力か人間の力か どういう力がはたらいたか 分からないからです。
 
 12. もしそこで信仰には関係なく おのれの経験思考において《赦す》というのであれば その後の心の経過やその相手との相互関係の進展具合いが 吟味されることになります。これは 一生かかります。《赦す》というのは どういう現実であるのか。これは ひとには分からないのです。と考えます。一般性をどう捉えればよいかが分からないからだと思います。

投稿日時 - 2009-12-02 22:24:58

ANo.68

 こんばんは、Hidocchiです。

> Hidocchi さん。もし関心をお持ちになるようでしたら つぎの情報に当たってみてください。

 かような経緯があったのですか。愚生は、「コミュニティにおけます“加害者”、“被害者”“第三者”の関係および、そのあり方について」のみの議論かと思っていたのですが。そうではなかったのですね。
 こちらの方は、また後日(興味深い議論が出てきた折には)、対話させていただければと思っております(愚生は、病なのか薬(パキシル?)の副作用かわからないのですが、もう“性欲”はなくなってしまっていますが)。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 また、mashumaro2様におかれましては、ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。

 まず、最初の疑問点につきまして、概ね意見が一致したかと思っております。

> でも、誰が、でしょうか?情報の取捨選択は本当に難しいところだと思われます。

 視聴率至上主義の弊害かと考えております。因みに、メディアも、加害者が“障害者”であったと判明したとたん、即座に報道を取りやめました。“人権派”と呼ばれる人たちからのバッシングを恐れたためかと推察しています。ですが一方、社会福祉の必要性についても全く取り上げませんでした。「さわらぬ神、にたたりなし」といったところでしょうか。
 あれだけ、騒ぎ立てたのにも関わらずに です。これでは、「思考停止社会-空気のみの支配による社会」を招くだけかと考えてしまうのですが…..
 先のご質問に、あの戦争のことが載っておりましたので、思ったところを述べさせていただきます。

 あまり知られていないと思いますが、A級戦犯に、正力松太郎(読売新聞社社長;第三次指名)等新聞社のひとたちもいました(戦争によって、新聞紙の売り上げを2倍近くまで上げることに成功しています)。新聞社と軍部の“お友達関係”は戦前からよく知られたことでしたが、詳細は半藤 一利著「昭和史」、またメディアのミスリーディングについては田原総一郎「日本の戦争」をごらんくださいませ。

A級戦犯者:http://ja.wikipedia.org/wiki/A%E7%B4%9A%E6%88%A6%E7%8A%AF 

> マスコミの「知る権利」をかざした報道姿勢に対し、いかに被害者加害者双方の家族縁者のプライバシーを守るかという問題にも繋がります。

 メディアは権力の監視役であると同時に、社会的な権力者ともみなせます。従いまして、メディアと国民との間に、国家と個人のような垂直的な権力関係と類似の関係が生じていることは否定できないと考えております。ですが、憲法は「国家対私人」に対して有効であり、「私人対私人」(メディアも私人ですから)では、適応外となってしまうため、条文化は困難なようでございます。「その国の政治家はその国民の身の丈にあった政治家しか選べない」とは耳にしますが、メディアにおきましても、視聴するのは国民である以上、「身の丈にあったメディア」にしか、なれないのかもしれません(暗くなってしまい、申し訳ございません)。

 それでも、それでも、最後の最後まで、国民を信じていますが…….

> 地域住民のクチコミや噂も重要な情報ソースとなり得ますから、毅然とした態度、安易に口をはさまないという姿勢が求められると考えております。

 意見を等しく致します。

> ルサンチマンを放出して日々生きていく。いえ、生かされているのでしょうか。誰に?

 これは、愚生のオツムではわかりません。

> 最後の給食のご質問でございます。

 各地域により、差があるのはお分かりいただけたかと存じます。また刑務所よりも貧弱な給食すら見かけます。
 「給食費未納問題」ですが、これは、あくまで愚生の推察ですが、各校に未納者が数名程度であるならば、こんな問題とはならなかったかと思っています。おそらく、未納が連鎖的に広まって集団的に生じたものと考えています。一応、学校給食法11条2項には、「前項に規定する経費以外の学校給食に要する経費(以下「学校給食費」という。)は、学校給食を受ける児童又は生徒に規定する“保護者の負担とする”」 と明文化されているのですが。
 そこで、愚生はコミュニティの重要性を謳いたい訳でございます。「老齢者の“孤独死”を防ぐ」、「身障者への福祉活動」、「未来を託す学園児への支援」、これらは、地域コミュニティの“思い”の共同化なしには成立しえないと思っているからでございます。

 駄文、ご一読いただきまして、まことにありがとうございました。

投稿日時 - 2009-12-02 20:37:06

ANo.67

bragelonne様、こんにちは。ちょっとお借りします^^

Hidocci様、こんにちは。
いつも拝察致しております。大変多くの学びがございます。
こちらこそどうぞよろしくお願い申し上げます^^

>そもそもこういった情報というものは、旧友等は別として、一般的にはメディアを通して得られることが多いと思うのです(野次馬)。

はい、仰る通りです。
野次馬を含む一般人にとって、メディアによるこの事件の報道とは、一体何を意味し、もたらしていたのでしょう。
必要、不必要、或いは程度問題にも繋がるでしょうか。

>そもそも、彼ら“野次馬”は元来事件には何ら関係のない人たちです。どうして部外者にもかかわらず、こんな面倒なことにまで首をつっこんでくるのかは、ある意味不思議なのです。

確かに不思議だと私も思いました。
マス・メディアによって人為的につくられた”関係ないのに声をあげたがる人たち”。
”関係ない”にも色々次元があると思いました。

野次馬がメディアを通じて一喜一憂する「健全な」代表例として、テレビ観戦する熱狂的なファンが挙げられます。
直接競技場には赴かずとも、リアルタイムで贔屓チームの勝敗に狂喜乱舞、或いは怒り心頭によりテレビ局に八つ当たり電話をかけます。
この電話苦情係のバイトを私は大学時代に経験しました(時給はかなり良かったです)。

ナンセンスな言いがかりが多かったです。
「あの解説者を呼んだから今日は負けたんだ!」と。
だから女子大生の猫撫で声でなだめさせていたのでしょう。

でも、そう言えば、今は当時ほど毎日定時に放送されなくなりました。
大衆の趣向も一様ではなくなったとみれば、それはそれで意味深いものもあるように思われます。

または、自分のお目当ての娯楽ではなく、ある特定の社会情勢や風潮に絡み、ピンポイントで焦点を当てられた人の姿に反応する人もいます。
そしてご承知の通り、大概が自説の検証を目的として、当サイトで質疑が交わされることも見かけられます。

非正規雇用者の雇用打ち切り問題も当時は厳しい意見が目立ったように映りました。
「だって非正規だから切られてもしょうがない。自分は苦労して正社員になったんだ。世の中甘くはない。」と。
でも本来は、雇用者が対峙すべきは経営側であり、雇用者はむしろ一丸となっておかしくないはずです。
しかもそのソースが、何と朝の「めざましテレビ」をチラ観だったとのことでした。
朝の慌ただしい時間にスポット的な情報で憤ってしまったのでしょうかね。

そしてこのたびHidocci様がご指摘下さった帽男事件の場合。
本当に「自分と全く接点のない」野次馬たちによる嫌がらせが多々あったとのですね。
加害者家族に対する不必要な社会的制裁を如実にあらわしています。
やはりそれもエンタメ流に情動的に制作されたソースによるものかもしれません。
ニュースも娯楽な時代であり、刻一刻新鮮なネタを必要としています。

でも、誰が、でしょうか?
情報の取捨選択は本当に難しいところだと思われます。

>彼らは、珍しさといった理由もあるのでしょうが、心の中に何か“ルサンチマン”みたいなものがあるように思われるのです(社会の閉塞感みたいなものが起因しているかと)。

はい、全くその通りだと思います。
しかも、何かしら社会において異質な存在の中に「有徴性」を見出し攻撃することで、自らのアイデンティティを日々保つ人々も存在します。
それは本来の思考の柔軟性やゆとりの部分を喪失してしまった日常の裏返しとも言えるのです。
ルサンチマンを放出して日々生きていく。いえ、生かされているのでしょうか。誰に?

「レッサーパンダ帽」「自閉症」「事件関係者」といった「普通の人々」と隔てる「異質」な「徴」。
被害者家族、加害者家族双方にとってこの「有徴性の烙印」は相当酷いものとは想像には難くありません。
ですが、やはり経験した者でないと、想像を絶する取材合戦と嫌がらせの嵐は、とても第3者が述べられる類のものではありません。

>彼らコミュニティの一員であった場合(加害者のコミュニティの一員としてくださいませ)、どのような行動を取るか

マスコミの「知る権利」をかざした報道姿勢に対し、いかに被害者加害者双方の家族縁者のプライバシーを守るかという問題にも繋がります。
地域住民のクチコミや噂も重要な情報ソースとなり得ますから、毅然とした態度、安易に口をはさまないという姿勢が求められると考えております。

これすらも実際にその当事者の周辺人物の身にならないと、本当のところはわかりません。
でも、第3者が口を滑らせるほどに事件の物語性が膨らみますから、やはり憚る必要があるでしょうか。
また一連の加熱した情報合戦により、被害者加害者双方が疲労困憊し、事件によって生じた亀裂を深刻化させているという面も見過ごせません。

Hidocci様、以上全般並びに、このような一般市民による傷害、殺人事件の報道について、どのようなご見解をお持ちでしょうか。
忌憚のないご意見を頂戴出来ましたら大変嬉しいです。
長い拙文をお読み下さって本当にありがとうございました。

ps:S市の給食(メロンパン&牛乳)にはあまりに酷いですよね。
大人用だからでしょうけれど、刑務所のメニューが一番ヘルシーで十分すぎると感じました。
今の世知辛い世の中を鑑みると、服役中とはいえ三食が保障されている点については、恵まれていると言えるのではないでしょうか。
(あと一切の光熱費なども?)

bragelonne様はどのメニューがお好きなのですか?

投稿日時 - 2009-12-02 10:06:48

補足

 mashumaro2 さん ご投稿をありがとうございます。

 ☆☆ (No.69お礼欄)たいへんお騒がせしてごめんなさい。
 ☆ と前回わけの分かりにくいことを書きましたが もうおわづらわし申し上げることもあるまいとの意味でした。

 わたし宛てに声がかかっており 何はどうあれここはわたしの質疑応答の場ですので もうひとことお応え申し上げます。同じく前回のわたしの書き込みです。

 ☆☆ (No.69お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ★★ (No.68ご回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
   私は現実社会に用いて幸せに一歩でも近づけてこそ、哲学はナンボ、のスタンスです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ 長期か中期か短期かの違いだけだと思います。    
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ことほどさように ひとは誰もがみづからの主観を むろんしかるべく自由に 述べあうものです。
 主観には その基礎としておのれの価値観ないし信条や信念があります。
 あるいはさらにその中核にあって これは誰に対してであってもそれ以上はゆづれないという自由意志とその心の在りかを持ちます。
 そしてこの中核は 意識しているいないにかかわらず ひとの非思考としての信仰に いしずゑを置いているはずです。

 主観の自由な対話において きわめて煮詰めた捉え方をするなら ひとは互いにその信仰を しかもしかるべく自由に うながしている。こう考えます。なぜなら そうであるゆえに ひとは 心で同意し 主観の中身を互いに共同化しうる。
 つまり話し合える。理解し合える。こころざしを同じくし得る。また正当にも違いを分かり合える。間主観性とか 共通感覚あるいは共同主観 つまりそれとしての常識です。知識の問題というよりは これは判断力だと考えられると思います。

 このように《非思考なる信仰》は その中身をただちに具体的にこれこれだと言って示し得るものではないにもかかわらず おおむね意志の自由(その互いの平等)に関しては 共通である。こう言いきってもよいはずです。
 ところが この信仰を積極的に打ち出すブラジュロンヌなる輩は 突出していると見えるようで つまり有徴性を帯びているようです。
 これまで それを契機として 排除の論理なる風が吹きすさびました。量としては風当たりが強かったようです。けれどもこの台風は 構造的に衣替えを いま しつつあります。不当な排除であると明らかになりました。そもそも何の根拠もなく 批判と言うにはまるで論旨が成っていない投稿だったわけです。

 このたび 根拠はなお明らかになってはいないのですが 論旨がはっきりしている批判の投稿が舞い込みました。つまり おまえには有徴性がある。突出しているきらいがある。というところまで はっきりしている。根拠はなおありません。有徴性が突出していようがいまいが 誰もが同じく互いに信仰をうながすという要素を持つ対話をしている。これだけのことなのですから。

 でもあたかも第二次の第三項排除の論理という歯車が回り始めたかに見えます。いわく:――
 ★★ (No.69ご回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 当初から私の対話目的は「お互いを少しでも理解する」に留めており、bragelonne様の「お互いに合意を求めあう」とは異なると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 留めようが留めまいが 中核の信仰を しかるべく自由に 互いに促し合うことは 誰もがおこなっているのです。

 というもう成すこともないと思った弁明を 成しておきます。

投稿日時 - 2009-12-02 10:55:10

ANo.66

 回答番号:No.57
 原爆投下、戦争における加害。そして文化的侵略。
 十字軍遠征、大航海時代の西欧などの侵略進出。そして大東亜戦争。
 
 これらは継続している事であります。終了しておりません。
 彼らは悪いと思っていません。そして赦してもらう必要も考えていません。
 この事に対する被害者としての東洋人、アジア人、そして加害者でもあるわたくしたち日本人は、まだなすべきことがあります。
 赦して水に流す、という状態にはなっていません。
 被害に関しても、そしてその抵抗も、そしてその反省と方向転換についても、やらせ、そして我々としてやらせなければならないことは多々あります。
 武器はともかく、身を挺してしなければいけないことは世界史の中で多々あります。
 赦すとかどうかの問題ではありません。勇気もない、意志も発揮できない存在が赦すというのは偽善であり、欺瞞。嘘です。逃亡です。いいわけです。懶惰です。言葉の遊び、美化だけです。

投稿日時 - 2009-12-02 08:11:10

お礼

 krya1998 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 これは 部分的にご見解の基調をお変えになったでしょうか。
 あるいは じんるいという観点に立って 誰もがあやまちを犯したという過去を背負っているという歴史的事実を指摘なさっているというところでしょうか。

 もし
 ★ 赦して水に流す、という状態にはなっていません。
 ☆ ということでしたら それは 過去の人間たちの子孫として言っているということでしょうか? 
 輪廻転生説に立って過去の自分が言っているということではないでしょうから そして社会的な行為関係の錯綜して相互に影響しあうような事実としての因果関係の問題ではなく ひとが価値観をもって捉えるところの倫理的な意味での善因善果や悪因悪果 これとしての因果応報の説に立ってのことでもないとわたしは見ますから 類としてのヒト そしてその子孫である者として現代において現在にあって 過去の清算は必要である。こう訴えておられるというふうに受け取ります。
 ローマ・ワ”チカンが表に出せない資金の洗浄化をおこなっているという事件について質問を出されていましたが それも おそらく過去の清算すべきあやまちの一つだというところでしょうね。
 ★ 赦すとかどうかの問題ではありません。勇気もない、意志も発揮できない存在が赦すというのは偽善であり、欺瞞。嘘です。逃亡です。いいわけです。懶惰です。言葉の遊び、美化だけです。
 ☆ これではじんるいもまだまだ悪循環に落ち入っている。こう言わざるを得ない。おっしゃるとおりでしょうね。

 国家なら今も私的報復ないし自力救済をおこなう。それが 公共の権力だというんでしょうか? それは国家族にとっての社会公共のものでしかないのではないでしょうか? 社会生活人にとっての公共とは どういうものなのでしょう? それと 個人のあやまち もしくは それにまつわる個人間の敵対関係とが 絡み合っているように思えます。
 ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-12-02 10:08:37

ANo.65

bragelonne様との議論となると、 やはり時間がかなり必要となってしまいますね^^。

さっそく、かなりややこしいこととなってしまいました。

まず、わたしのキリスト観は、やはり信仰ではない(あるいは、そこにいたっていない)と思います。

例えば 最近論語に触れたのですが、 孔子という人をすっかり見直してしまいました。

礼儀を重んじ 人間関係を大事にした人としか考えていませんでしたので興味もそれなりのものでしかなかったのですが、  この人はまず歌の真髄をもとらえていますし、 人の死に対して礼などかなぐり捨てて周りの人のことも忘れて泣きまくったりするような人でした。

老子のようなところも内包しつつ、そのうえで、あの時代を当意即妙に生きたすばらしい人であり、 そうであれば、 どこまでもやはり謙虚であってこそ論語を読んでゆくことができるのではないか。 と驚いているところです。

もちろん、さらに歴史を貫く言葉を キリストは単純明快にも思えてしまうたとえ話で語っています。

が、わたしにとっては、同じに ちょうど言葉というものが人間の文化の中に定着し始めた頃に、 その文化の全体を極限まで達観した人たちが現れたのだというふうに思っていて キリストもその一人としてまず考えるわけです。

私自身は その意味では、まったく平凡な人間そのものと言えるでしょう。

一方 私は、これも最近なのですが 縁あって確かにこの人は悟った人だと思える純粋な人とメールを交わしたことがあります。

新約聖書の言葉も 仏教の経典も語りますが、すべて純粋に悟りを開いた者の立場から語られています。

こういう人をすごい人とかいうふうにも形容できません。

ただただ純粋だからです。

彼は私にこう書いてきました。「あなたは、まだ天眼を知らない」 

でも、それは 私自身が 聖書の「盲人が盲人の手を引いても両方とも穴に落ちるだけだ」という言葉に悩み続けたところの 盲人だと思っていますので、 それは言われなくても解かっているとも思えるところ、

しかしながら、 そこで盲人なりに得たものは大きいのです。

彼が忙しくなければ もっと多くを聞きたかったところです。

bragelonne様の場合は、 どこまでも議論が出来ます^^。

がbragelonne様の場合は、 悟った人と逆です。

悟った人は、 もはや、不純な心の世界をすっかり忘れています。

弱い心の世界や、苦悩の世界、 生物として苦しみもだえる世界を 記憶のかなたには覚えているかのようでも、どうみても実感としては忘れすぎています。

と、実際にこの社会での “《今在る》《今 あり続けている》苦しみの世界に対応する力は ” あまり無いです。  その情熱も、薄いです。

それはそれでいいのですが、 ならば 私自身は悟りたくないと思いました。

bragelonne様の場合は その逆です。

最初びっくりしましたが、 怒ってみせるとかではなく、本気で怒ってしまうこともあり、そのへんは怒るとかは「見つめていられる(めちゃくちゃな時には おなかが痛くなるのですよ、それは苦しいです。でも見つめてるので 寝転がってはいられたりするのです^^)」強さを持っていたりする私よりも弱いのかもしれません、  つまり、 弱い人の気持や苦しみを 徹底的に理解することもできる人です。

にもかかわらず、 なんらかのキリストに関する信仰体験から その純粋さとゆるぎなさ、 言われていることのそのへんの整合性とかは まるで悟った人に似ています。

私には難しい言葉に思え、よく解からないでいるのですが、それが《無思考の信仰》ということなのでしょう。

であれば、 その信仰と関ることに どこまでも こだわることは誠実さそのものを意味しbragelonne様らしい生き様であり、それは当然の「らしい」姿勢だと思います。

どんな誤解を受けても まずその点については関るなら 必ず話さないではいられなくなってしまうのも もっとも人間的な人間性の1つと言えるでしょう。

そこを 私は またしても キリストの言葉を書きつつ、 私の結論を述べてしまったのですから、  話が そのへんに進んでもしかたないところでしょう。

こちらも誤解を覚悟で 言葉を綴るならば、

私は 企業戦士のように、最後まで 1つ1つをクリアーにしつつ 1つ1つを整理しつつ、 最後まで、寄添った人に 赦しと幸せへの道への責任を負い続ける気持があります。(その、それだけの責任感をいつしか感じるようにもなっていたということです)

(普通企業戦士というと 利己的なところが私とは合いませんので、ほんとうは誤解して欲しくないのですが、 簡単に書くために、 上記のように略して書きました)

上記からお解かりのように、 「信じる」とい言葉を あの時点では あくまで相対的な意味で使っていました。

同じに絶対的な何かでも 悟った人よりも、bragelonne様の純粋さのほうが人間としての価値は大きいと私は思います。(これは うまく言えてないかもしれないですね)

ともかく 女性の母性は 私が感じるところでは、ものすごい「大きな」世界ですが、 それに似たものを理論家でありつつ持ち合わせているところがあるのです。 ある意味 奇跡のようなものと思います。

それを 得たのがキリストによるものであるのならば、 私はあまりにも不用意にキリストの言葉と《信じる》という言葉とを一緒に使ってしまったと思います。

この信仰の意味合いについても、 これからは きちっと話し合いましょう。

しかし、ここは、別な意味合いの回答であったことを理解してください。

マシュマロ2さんがおっしゃってくださった意味合いで《信じる》という言葉も使っていたわけです。

前から思っていたのですが、《表象》という概念も 私とbragelonne様とはすれ違っているのかもしれません。

でも似ているし同じ言葉であるため、 そこで、最後に《表象ではとらえられない》ものとしての信仰の世界が 今一つかめていないのかもしれません。 

信仰の世界についても、いずれ おっしゃられるとおりに、》しっかりと《 話し合いましょう。

が、 わたしの考える《表象》の世界を越えた世界と この一歩一歩、最後まで責任を取るという意味での その精一杯さを 意味する相手をどこまでも信じて進むという時の《信じる》は 矛盾しないのです。

《信仰》のことは、 ここではおいておいて、 それでは、 bragelonne様は この相対世界が「表象の世界を越えた世界と矛盾無く結びついている」とする 私の上記の考えを どう捕らえられますでしょうか?

今は、 こちらの方に 議論を移していただけないでしょうか。

今回は以上です。

投稿日時 - 2009-12-01 22:15:35

補足

 ご回答をありがとうございます。

 企業戦士という言葉を出したのは 大げさでしたが わたしの定義する《信じる》とは別だという意味を取り立てるために使っています。
 まづ この質問への回答としては 信仰では意味を成さないというわけを説明します。
 しかも単純です。その企業戦士という語の意味合いを薄めてかつ《利己的》なところを別として 今回おっしゃるような趣旨でしたら わたしの言う信仰とは別だと分かるからです。
 ★ 私は 企業戦士のように、最後まで 1つ1つをクリアーにしつつ 1つ1つを整理しつつ、 最後まで、寄添った人に 赦しと幸せへの道への責任を負い続ける気持があります。(その、それだけの責任感をいつしか感じるようにもなっていたということです)
 ☆ つまりそのように努力するという意味であり そういうご回答です。これを その人の信仰において行なうと言ってしまえば 人間の努力なのか それを超える力のはたらきなのか まるで何にも分からなくなる。これゆえです。

 ではその信仰とは どういう現実か?
 ★ 《無思考の信仰》
 ☆ ではありません。ここはげんみつに行きます。
 ○ 非思考においてあたかも心に窓が開いたかのようにして心が伸びる。そういう感じがする。そしてこのことを受け容れたと――これははっきりと みづからの意志行為として――確かめる。これが 信じるという非思考の受け身かつ能動の行為です。これの持続が 信仰です。
 ☆ 《無思考》と言えば 思考がない状態・思考していない状態を言うはずです。《非思考》とは 経験的な思考を超えているという意味です。考えても分かるか分からないかが分からない領域を それとして想定するものです。
 これに対峙するときひとは あたかも心の明けもしくは伸びを持つかに感じる。それを受け容れたというとき 信仰が始まります。そして あくまでどこまでも 非思考です。

 ただし この非思考であるにもかかわらずひとは この心の明けから何がしかの経験的なものごととして意味のある事柄をあたかも得るようです。これを 言葉にしてみるようです。たとえば その領域とわたしの関係は――あくまでそういう想定のもとにということですが―― ちょうど《愛》という力のはたらきを感じるといった表明です。
 《神は愛なり》。
 といったように 非思考・非経験の信仰から 経験的な思考の問題としての言葉が得られるというようです。そしてそれは あくまで想定のもとに得られるというものです。言いかえれば その言葉は 仮りのものです。なぜなら 《神》も《神は愛なり》もその言葉じたいが 神ではないからです。信仰から仮りに得られた言葉であるに過ぎないからです。

 ですから たとえばこの《神の愛》において ひとは ひとのあやまちを赦すことができるとか 悪人にも最後まで寄り添ってその隣り人になるとか言えば あくまで仮りの答えにしか成らない。こういう意味です。
 むろん 信教・良心の自由をとうとびますから その発言を否定しようとか ないがしろにしようとかいうことではありません。仮りの言葉では・つまり非思考の領域のことでは 一般には分からない。こういうふうに決まります。

 この《仮りの言葉》というのが 《表象し得ぬ領域を 仮りに表わしたもの》です。
 《絶対世界》を仮りに《相対世界》における人間の言葉で表わそうとすることもあるのだと思われます。これを表現の自由と 人間の世界では 言う。そういう問題だと考えます。

 ですから わたしの見るかぎり 《信じる》をこの相対世界のものごとに対して当てはめることは 矛盾であると考えます。もしくは それは 《考える・想像する・表象する・信頼を置く・信用する・強く妥当だと考える・熱心に思う》という経験的な意志行為のことを 誇張して 信じるという場合がある。これは特に文学的表現としてありうる。こういう事情だと考えます。どうでしょう?

投稿日時 - 2009-12-01 23:02:10

ANo.64

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

> ★佐藤幹夫著「自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」
 ☆ まづ残念ながら レヰ゛ューを読んでも 《自閉症》の具体的な状態が分からず 従って その《罪と罰》のあり方もよく分かりませんでした。

 この本の主旨は、自閉症一家(妹は健常者ですが、末期癌という状況です)に、社会福祉等からの手の差し伸べがあれば、かような事件は生まれなかったのですないか。というものでございます。

 申し訳ございませんが、以下のスペースをお借りいたします。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 mashumaro2様にご質問させていただきます。

以下は、佐藤幹夫著「自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」からのそのままの引用でございますが、「私もジャーナリズムというのは、すごくそういう役割(世の中をよくしようという役割)があると思う。しかし、大半は、世の中をよくしようなんて考えてねえ、ただの野次馬だろ。姉の家も、マスコミに囲まれて、出入りができないほどやられた。Mちゃん(被害者)はほんとうに気の毒だった。どんな思いをして亡くなっていったか、考えて余りある。けれどもマスコミに対する腹立たしさ、これもまた同じくらい強いんだ。マスコミ不信どころの話ではない。だからあなたの取材も、できれば避けたかった」
私は一言もなかった。

「こういう事件があって、誰が自分たちのことを本当に考えていてくれるか、改めてよく分かった。野次馬は、電話をかけてくる。今度の事件のあの子、あんたのところのなんとかだろう、そう電話で確かめてる人間もいる。私らのことを考えてくれている人は、なにも言わない。黙って、そっとしておいてくれる。いまだから笑い話になるけれど、事件のあと、店がしばらく暇だった。いつも来てくれていたお客さんも、ばったりと来なくなった。後で聞いたら、かける言葉はないし、とてもじゃないが足を運ぶことができなかった、そう言う。そうした人はほんとうにあるがたかった。」  (p.306から307)

 つまり、彼ら(被害者、加害者)とは全く関係のない、また近隣に住む方でもない場合、どうして、かような“野次馬”なるものが発生するとお考えでしょうか?
 これは、愚見ではございますが、そもそもこういった情報というものは、旧友等は別として、一般的にはメディアを通して得られることが多いと思うのです。bragelonne様のような、マスコミがどうの世間がこうのという問題にはかかわらない方は別としまして、実際、関わってくる方もそれなりにいるかと考えております(いわゆる“野次馬”です)。彼らは、珍しさといった理由もあるのでしょうが、心の中に何か“ルサンチマン”みたいなものがあるように思われるのです(社会の閉塞感みたいなものが起因しているかと)。そもそも、彼ら“野次馬”は元来事件には何ら関係のない人たちです。どうして部外者にもかかわらず、こんな面倒なことにまで首をつっこんでくるのかは、ある意味不思議なのです。

 さらにでございますが、もし、mashumaro2様が彼らコミュニティの一員であった場合(加害者のコミュニティの一員としてくださいませ)、どのような行動をお取りになれるでしょうか。

 そして最後なのですが、mashumaro2様には、お子様がいらっしゃるということですので、次の質問をさせていただきます。参考URLの箇所に各小学校と網走刑務所の給食の写真を載せておりますが、どのような感想をお持ちでしょうか?これらの給食の質素化(?)は(S市がひどいですが)、給食費の未納が主な原因と考えられます。また、この現状を“よし”としますでしょうか?それとも何らかの対策を考えるでしょうか?

 駄文を長々と綴ってきましたが、お暇な折にでも、ご返答いただければ幸いでございます。

 それでは、ご一読いただきまして、皆様方に厚くお礼申し上げます。

参考URL:http://image.blog.livedoor.jp/dqnplus/imgs/0/e/0e8e7d41.jpg

投稿日時 - 2009-12-01 19:45:22

お礼

 Hidocchi さん。もし関心をお持ちになるようでしたら つぎの情報に当たってみてください。

 【Q:ポルノと言う存在。】   
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4533194.html
 ☆ これは 性犯罪の問題をあつかうもので じつは mashumaro2 さんも参加されています。arayata333 さんもです。
 そこでわたしが いわゆるレイプについて つぎのように発言していることが取り上げられているのです。

  ☆☆ (回答No.47) ○ それは 蚊が刺しただけです。

 ほかに関連の質問をかかげます。
 【Q:蚊論争について。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4670999.html
 上とおなじ yukkinn66 さんの設問です。
 その回答No.3にわたしは 《ベルギーのその種の被害者であるサビーヌ・ダルデンヌさん》の発言などを出しています。

 その後 次のようなやり取りが arayata333 さんとわたしと の間に起きました。
 【Q:道徳規範は 愚の骨頂】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4607794.html
 ☆☆ (No.22お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ★★( arayata333 さん) 蚊に刺されたようなものです。
  ☆☆( bragelonne ) 蚊が刺しただけです。
 
  ☆ これら二つは まったくと言っていいほど 違います。
  後者では 《蚊が刺しただけ》が 歴史事実です。前者では なにかが別に歴史事実としてあって それが《蚊が刺した》ことに喩えられると言っています。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ arayata333 さんのご発言の詳細です。
 ◆ (【Q:ポルノと言う存在。】回答No.48 ) ~~~~~~~~~~
 ・・・じわっとした感じで あるいはごく普通の大地に足を踏みしめた感じで、  人を愛せれば その時どんなゾゾゾゾゾゾゾ体験もそれごと、笑って抱きしめられるよ、 ということが解かります。

 レイプトラウマは、その時 何もかもが 何もかもがですが 消えているはずです。 蚊に刺されたようなものです^^/。(〔* bragelonne とは〕喧嘩してる最中なのに 結論がまったく一緒だった? なぜだああああ。)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 いまも引き続いている感じがありますので お伝えしようと思いました。

投稿日時 - 2009-12-02 14:53:45

ANo.63

bragelonne様、こんばんは。
もうすぐ職場を離れますので、取り急ぎの乱文をお許し下さいませ。

>☆ くどくなりますがつまり 《こちらのサイトでセクハラなどの被害にあった女性の質問に際しましたら、うんぬん》と考えて行動しようとしていらっしゃる mashumaro2 さんは 逆に言えば《現実に対して理想をも見ようとしているし その隔たりを埋めようともしている》という意味で理想主義ですね。

私は以前こちらの夫婦カテで本当に得難い助言を頂戴致しました。
おかげさまで私の今の幸せが成り立っているのです。
本当に感謝し尽くせません。
ですから、もし誰か、≪蚊が刺した≫理論を知って理解することで、辛さ苦しみから解放されるような境遇の女性がいたならば、是非進言させていただきたいと最近考えておりました。
それはお互いに対等に支え合うという互助会的な意識によるものです。

>arayata333 さんのご見解について
>★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>これは「信仰」の問題ではありません。
>≪蚊が刺した≫を礎とするお考えをどのように第三者に伝えるかという非常に大切な姿勢を示している思います。
>~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
>☆ と批評しておられます。もしそれでしたら 《それこそそれを ≫信じて≪ 歩き続けるかどうか?》というときの《信じる》を言わなければよいと考えます。

この「批評しておられます」に関しては全くの誤解です。
私はa...様のご回答を「批評」するどころか、むしろこの姿勢を高く買った上で引用させていただきました。
まさか≪信じる≫が御二人の中でそれほど深い意味合いをこめているとは存じ上げず、あらためて明晰性の隔たりと対話の難しさを痛感させられました。

そしてbragelonne様の仰る通り≪信じる≫は私も不要だと思います。
それは自らのうちの「信仰心」を指すためでもありません。
あくまでも≪蚊が刺した≫を受け容れるかどうかは、第三者が自らの意思によって決めるべき、と思うからです。
でも、その第三者にいつでも求められたら助言できるように慎ましく寄り添っていくのが望ましいと思います。

私はa...様のご信仰の詳しいスタンスもご信条も殆ど良く存じ上げておりません。
ですからこのa...様の件に関しまして、わたしはこれ以上の関与は慎ませていただきたいと思います。念のために。

>ひとは おのれの主観をこそ自己表現しようとしている。

これは同意致します。
各自が書きたいことを書いているのだと思います。

>>でもそれだと逆に、bragelonne様が皆に間接的に信仰を促しているようなものだとは思われませんか。
>>だから「学習が足りない」という言い回しになってしまったのではないでしょうか。
>☆ というのは われわれ人間の誰もがおこなっているそのすがただと考えますよ。

いいえ、そうは思いません。
私ははなから信じてもらおう、などとは毛頭思ってはおりません。
誤解を晴らすため特定の箇所は強く信じてほしいときはもちろんございますが、目通しさえしていただければそれで十分です。
当初から私の対話目的は「お互いを少しでも理解する」に留めており、bragelonne様の「お互いに合意を求めあう」とは異なると思います。
これも、かの地で体得した一つです。
かといって、bragelonne様のスタイルに何か進言しようとしているわけでもありません。

ですから「《長期の視点に立った理論は いま実践しがたいから うっちゃっておきなさい》などと思ったこともございません。
以上、多少なりともご理解いただけますでしょうか。
ほぼ私の申し上げたいこと全て出尽くしたと思われます。

>☆ わたしの場合は 理論も十割 政策実践も十割 どちらも全力投球です。そして実践は 試行錯誤です。

理論が十割というあたりに、リさんのご回答「理論の精緻化を試みる父性」@「女性の哲学者…」を思わず想起致しました。
で、何故か女性の論文のたとえが「本格小説」を指しているような気がして、思わず笑みがこぼれてしまいました。

こまったものです、まだほとんど読んでいないのにね。
やはり読むのを半年遅らせようかしら。

投稿日時 - 2009-12-01 18:35:10

お礼

 ★★ (No.68ご回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私は現実社会に用いて幸せに一歩でも近づけてこそ、哲学はナンボ、のスタンスです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 長期か中期か短期かの違いだけだと思います。
 たいへんお騒がせしてごめんなさい。

投稿日時 - 2009-12-01 20:22:22

ANo.62

bragelonne様、おはようございます。
たくさんお返事を下さって、本当に嬉しく思います。
全て、何度も拝読させていただきました。どうもありがとうございます^
その上で、考えたことを正直に申し上げますね。

>寄添うべき、それを必要としている人に対しては そうしなさい。ということだと思うのです。
>どこまでより添えるのか、 どこまで人間を信じて寄添い続け、 赦しそして助けてあげることが出きるのか?
>私はそれを「それは、できるか?」「それは、可能か?」ではなくて、 それこそそれを信じて歩き続けるかどうか? がどこまでも問われている問題と思います。

これは「信仰」の問題ではありません。
≪蚊が刺した≫を礎とするお考えをどのように第三者に伝えるかという非常に大切な姿勢を示している思います。

私はこの≪蚊が刺した≫を高く評価させていただいております。
bragelonne様の場合は理屈の上でご満足ご納得なさったのでしょう。
私の場合は、自らの軽微な性犯罪被害の実体験を通じ「なるほどこれなら克服できるかも!」と考えた末によるものです。

しかしそれ以上のケース、たとえば大切な人が傷害、誘拐、殺人の被害に遭った場合に関しましては未経験ですから「大丈夫かも」などと、とても公言できませんでした。


≪理論≫だけ幾ら思索に耽っても、どこか絵空事のようにしか私には思えません。
今回のご質問に関して言えば、それが当面現実社会にそぐわなくても構わないから、まずは論証を重ねていきたがっていらっしゃるようで、それに対し若干の不協和音を感じるのです。
実際bragelonne様は現実問題から一歩後ろに引いていらっしゃるし、あまりかかわり合いたくないご様子。
むしろ、bragelonne様は≪理論≫を「実践する人間以上に完璧なもの」になさりたがっていらっしゃるのご様子。
あたかも自発的に皆が支持し実践したいと心から願うような、そんな究極の理論に一歩でも近づきたいとでもいうような。

でもそれだと逆に、bragelonne様が皆に間接的に信仰を促しているようなものだとは思われませんか。
だから「学習が足りない」という言い回しになってしまったのではないでしょうか。

結局≪理論≫は≪理論≫にしか過ぎません。
そして今回のように第三者の人間の生き方にかかわる問題の場合にはなおのこと。
≪理論≫の積み重ねもさることながら、a...様の仰るような「いかに人に寄り添い根気強く謙虚に伝えていくか」という「姿勢」も問われてしかるべきだと思うのですが。
≪理論≫ばかり優れていても、それを人が用いて幸せにならなければ、何の足しにもならないと思うのはましゅまろだけでしょうか?

また、先の謝罪は、今まで何もbragelonne様のお考えを攻撃も掠りも出来ていなかったことに対してのものでした。
私は現実社会に用いて幸せに一歩でも近づけてこそ、哲学はナンボ、のスタンスです。
ですから≪究極の理論理屈≫そのものを思考していたのではなく、どう現実社会に適用し得るか、リアリティを持たせて応用出来るか、ばかりを考えてまいりました。

「この≪理論≫一つで人間が幸せになれる」なんてナンセンスであり、いかにそれを用いるかが肝心なのであって、結果として無数に未来が拡がるものと考えております。
そして現実的にどんどん実践していきたいのです。

そしてたとえばそうですね、≪蚊が刺した≫を性犯罪に適用するなら、≪80%≫として、残りの20%を「長期カウンセリング」「性犯罪者の再犯防止対策の強化」など、具体的な事例を挙げて、約100%になるだろう、と考えてます。
フランスで買い物した際、おつりを渡されていって最後は購入代金にしてオワリ、といった感覚に近いです。

一方、自ら経験したことのない大切な者が傷害、誘拐、殺人の被害に遭ったケースに関しては、経験上「大丈夫ですよ。」とはとても言えないので、「当事者になってみないとわかりません」とお断りしつつも、いかに100%に近づけるよう残りの%を「被害者家族救済費用の見直し」を始め諸々の施策を列挙することで模索させていただきました。

このように私はあくまでもベースをbragelonne様の≪蚊が刺した≫という極めてシンプルな≪理論≫をそのまま素直に受け入れておりまして、社会政策推進を主眼には全く置いておりませんでした。

bragelonne様には本当に申し訳ないことを致しましたが、少なくとも私にとりましては、Hidocci様をはじめ皆様方から多くをご教授頂きましたので、結果的には大変得難い財産ととなりました。
また冗長な拙文をお読み下さって本当に感謝申し上げております。

そして更に一つ厚かましいお願いがあるのですが…。
こちらのサイトでセクハラなどの被害にあった女性の質問に際しましたら、実際にその理念を拝借させていただきたく、その方の辛い現状を克服できる有力な考えとして伝えますけれど、bragelonne様的にはよろしいでしょうか。
もしご了承いただけましたら、あまり事例は多くないとは思われますが、是非とも回答させていただきたいと強く思っているのです。

よろしいでしょうか?^^お返事をお待ち致しております。

ps:
α「理想主義者」は撤回します。
βダルタニャンは共通感覚がありますが、「眠狂四郎」は共通感覚がありません。ごめんなさい。「桃太郎侍」なら知ってる(気がする)。
あとはですね、NHKの「腕におぼえあり」は観てました。ご存じですか。

投稿日時 - 2009-12-01 11:13:12

補足

 そろそろ昼飯だと言ってPCから立ち去ろうと思ったところ ご投稿をいただいていました。
 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。

 ひとの犯す取り返しのつかないあやまち これを人はどうこなしていけばよいか。しかもこのご回答については その態度や姿勢の問題に絞られます。

 ★ ps: α「理想主義者」は撤回します。
 ☆ くどくなりますがつまり 《こちらのサイトでセクハラなどの被害にあった女性の質問に際しましたら、うんぬん》と考えて行動しようとしていらっしゃる mashumaro2 さんは 逆に言えば《現実に対して理想をも見ようとしているし その隔たりを埋めようともしている》という意味で理想主義ですね。
 問題は 
 ★ ≪理論≫ばかり優れていても、それを人が用いて幸せにならなければ、何の足しにもならないと思うのはましゅまろだけでしょうか?
 ☆ について考えれば まづふたつあると思います。
 (1) 理論が優れているかどうか。優れているのならば いくら長期の視点に立つとしても《実践しうる》と考えられます。
 (2) ところが たとえ優れた理論であっても 応用してみて その理論内容どおりに行くとは限らない。見落としもあれば 見落としがなくても限界があります。
 ☆ こういう前提に立ってわたしのいまの姿勢は ぶっちゃけて言えば すべていまの現実のままで 人がそのこころにおいて《よっしゃ。光が見えた。決まった。これだ》と言える考え方を得ようとすることにあります。
 眠狂四郎のように 虚無(諸行無常)を通過したかたちです。そして狂四郎のように虚無主義のまま生きるものではない。そしてとうぜんのごとく 政策・施策にまでゆくゆくはたどり着くつもりです。

 そのような考え方 つまり広く言って知的財産は わたしもぱくりという変な言い方をしていますが 考え方としては原則すべて自由だということではないでしょうか。フェアユース( fair use )の考え方もあるようです。引用・援用とひとこと言っておけば 大丈夫なのだと考えます。

 細かい点で物言いをつけます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そしてたとえばそうですね、≪蚊が刺した≫を性犯罪に適用するなら、≪80%≫として、残りの20%を「長期カウンセリング」「性犯罪者の再犯防止対策の強化」など、具体的な事例を挙げて、約100%になるだろう、と考えてます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの場合は 理論も十割 政策実践も十割 どちらも全力投球です。そして実践は 試行錯誤です。

 arayata333 さんのご見解について
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 これは「信仰」の問題ではありません。
 ≪蚊が刺した≫を礎とするお考えをどのように第三者に伝えるかという非常に大切な姿勢を示している思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と批評しておられます。もしそれでしたら 《それこそそれを ≫信じて≪ 歩き続けるかどうか?》というときの《信じる》を言わなければよいと考えます。この結論をみちびくのにかれは キリスト・イエスの言葉を持ち出していますが それを別としても ここは 経験的な思考と努力を超えて《信じる》の領域を言おうとしていると思いますよ。
 以前のかれのくせ(エートス)からまづ推し測るのですが そうでなくとも ここはもし《信じる》を除くなら 企業戦士よろしくいわゆる精神主義で乗り切るというような努力のあり方を言っていることになりませんか? 
 しかも問題は かれの言う《信じる》は 今日から明日へ明日から明後日へと 一つひとつ梯子を登ってたどり着くものとして思い描かれています。(いました)。これは 非思考・非経験の信仰ではなく 実際は無限に思考と努力を尽くそうという経験行為の問題だと言わざるを得なかったのでした。――これは 追ってかれから説明があると考えます。

 従って今は保留としますが このつてで わたしの言いたいことは ことほど左様に ひとは おのれの主観をこそ自己表現しようとしている。そして主観には おどろくなかれ無宗教と名乗る人であっても 誰もがじつは 《信じる》が入っており この《信じる》問題をこそ人に伝えたがっている。のではないでしょうか? すなわち

投稿日時 - 2009-12-01 12:09:32

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 でもそれだと逆に、bragelonne様が皆に間接的に信仰を促しているようなものだとは思われませんか。
 だから「学習が足りない」という言い回しになってしまったのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というのは われわれ人間の誰もがおこなっているそのすがただと考えますよ。

 ですから――もしそうだとすると―― 誰もが 現実と理想 実践と理論 そして時に超現実の物語(つまり 信仰関連)に多かれ少なかれたずさわっている。こうお思いになりませんか?

 そして この質問でわたしは 実践ということに関して言えば 《長期の視点》を持つということだけが ひとと違う点だと思います。でも短期や中期の見方を排除しているわけではありませんから 受け留めとしてはだいじょうぶです。

 だいたい申し述べることができたでしょうか。どうでしょう。と自問しつつ。

 * 誰もが 直接にせよ間接にせよ おのれの主観を述べているのですから 間接的に特にはその信仰を 相手に促そうとしているのは否めない現実なのではないでしょうか?
 mashumaro2 さんがわたしに《長期から短期の現実に迫って来い》とおっしゃるのは 信仰と特に関係ありません。《長期の視点に立った理論は いま実践しがたいから うっちゃっておきなさい》というなら 或る種の仕方で 信仰をうながしているということになると思いますが いかがでしょう? というところまで述べてわたしはつつしもうと思います。

投稿日時 - 2009-12-01 12:22:33

ANo.61

オコリザルです。
今回は姿勢についての話です。
姿勢ですのである種のたとえです。

愛に基づき「赦さない」を表明する姿勢。
善性の発露として「赦さない」を表明する姿勢。

この違いで考えるところを述べてください。
感想で表現するのが理想ですが、事例から発展させても結構です。

投稿日時 - 2009-11-30 23:11:14

補足

 お借りします。
 ▲ (ヘーゲル:精神現象学) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 或る哲学的著作が 同じ対象についての 他のちがった研究に対してもっていると思われる関係を規定するときにも 的はずれな関心が引きいれられて 真理の認識の根本となっているものがぼかされてしまうことがある。
 想念(思いこみ)というものが 真と偽の対立を固定させるものである。が そうなればなるほど想念(思いこみ)は現存の哲学体系に対し賛成か反対かの何れかを期待し この体系について説明するときには賛否の何れかだけを見るのが普通である。想念(思いこみ)は諸々の哲学体系のちがいを 真理が前進するときの展開とはみないで このちがいの中に矛盾だけをみている。
 つぼみは 花が咲くと消えてしまう。そこで つぼみは花によって否定されると言ってもよい。同じように 果実によって花は植物の偽なる定在と宣告され 植物の真として果実が花の代わりとなる。
 これらの形式は互いに異なっているだけでなく 互いに相容れないものとして斥け合う。しかし これらの形式は 流動的な性質をもっているため 同時に有機的統一の契機となり この統一にあっては形式は互いに対抗しないばかりか 一方は他方と同じように必然的である。
 けれども或る哲学体系に自分の体系が矛盾する場合 一方では今言った仕方で矛盾を理解しないのが普通である。また他方では捕捉的意識は 普通この矛盾を一面的な姿から解放してやり それを自由にしておくことを心得ていないし また争い対抗し合うように見える形態の中に 互いに必然的な契機があると認めることを 心得ていないのが普通である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-12-01 14:50:10

お礼

 これはですね。一般化して述べることは むつかしいと思います。

 その相手またどういう行動が振る舞われたのかなどなどの情況 これによって違ってくると考えます。

 ただし 《善性〔の発露〕》という概念は あいまいだと考えます。
 いえ それ自体は 明確です。そもそも存在のあり方としての自然本性そのものを言うと捉えますが そうだとすると 基本的には へそ曲がりでない限り すべての意志行為は 善性の発露であるとなります。そういう定義を用いています。

 ★ 愛に基づき「赦さない」を表明する姿勢。
 ☆ これはあくまで その相手のそのときの状態と情況に応じて そういう表現を用いてそういう姿勢に出るというものだと考えます。
 《赦す》と表明するより よい結果が得られると確信したとき そういう姿勢に出るというものであり 一般化し得ないという考えです。

投稿日時 - 2009-12-01 01:33:50

ANo.60

私の考えには、
《未来に可能性があり そちらの方向に進む意志があるのであれば》過去は忘れるほうがいい。 という考えがあります。

お久しぶりです。 詳しくはともかく、その気持でここに戻ってきましたので、過去は私の方からは 忘れる立場をとらせていただきたいと思います。

ここは 私の体験をまず、少し書かせてください。

私自身の想像力は貧しい方なので、だからといって 被害者や加害者への感情移入が深いとか言えるものではなくて、 あくまでみなさんが言われているのと同じぎりぎりの気持でもあるのですが、

子どもの頃、 あぶなく私がそのために廃人となるところだったほどのいじめをある学校の先生から受けた時の、 ある時の友達との対話をここに思い出します。

私は その先生が憎いと その友達に必死に訴えるのですが、その友達も必死に「どんな時にも人を憎んではいけないよ」と訴えてきました。

が 私には  まったくの??? しか、  

どういったらいいのか   完全なまでにその友だちの言ってることが解からなかったことを憶えています。

で、わたしは、 そのあたりから、   

両親に言っても信じてもらうことも出来ない孤独が さらに孤独となり狂気の世界へと進みはじめていったのです。

通学の途上で 壁にうつる自分の影だけが揺れているのです。

まるで映画での描写かなにかのようですが、現実です。

子どもながらも なんども、他の人の影が揺れていないのを確かめつつ、 その傾向を心に察知していました。

とうとう、それからたぶん数ヶ月後だったと思いますが、 わたしは二度ほど あちらの世界にいってしまったことがあります。

それは はっきり憶えてはいる事なのです。 

その間は苦しいわけではありません。
でもその間は、 まったく普段の意識状態ではありません。

見えてはいます。

ですから、むしろ そこで見た世界は、むしろ忘れようにも忘れられません。 一部始終、62歳の今でも思い出せます。

いまでははっきりとではないですが、 その電車の中で人の足をポンポンふんずけながら走りまわっている私を誰もが 見てみぬふりをしていた様子と、たった一人だけ年配の女性の方(かた)が わたしの目を覗き込むようにして笑いかけようとしたそのひきつった顔まで思い出せるのです。

それが最初の体験です。  そしてそれは 乗り換えの駅で自然に体がおぼえていたのでしょうが、 降りたった時がみじめな体験でした。

その時に、子ども心にも 自分が今どうなっていたのかを知ったわけです。

詳しくは長くなりますので 二度目の時のまた別な様子は略します。

が二度目の時は、さらに惨めでした。

もう、おしまいだ!と、 おもったのです。

廃人という言葉は知らなかったと思います。 でも それは察していました。

ごめんなさい。 話が脱線したと思います。

でも すこしでもリアルに書きたかったのです。

肉親の命を奪われたような体験を持つ加害者のことを 他の人がその心の奥まで察知したり想像したりすることは難しいと思います。

が、 その後 親がやっと気づいてくれたことをきっかけに つまり《ぎりぎり》で助かったのち、  わたしは海辺の虚弱児施設にて、 その頃のおおらかな先生方や素朴な子ども達の友達たちに囲まれ、 そこに真逆に天国をも体験することで   たったそこにいた4ヶ月の間に 別に恨む必要は消えていました。

その天国の楽しさの深さもほんとうはリアルに それが何を意味するのか、その豊かさはどういうものか について、できれば詳しく書きたくなります。

が、ここで言いたいのは 教育とは、偉ぶって上の立場から教えるとか言う世界のことではなくて、 ほんとうに友だちとなってよりそってくれる人たちがまわりにまずいることだと思っているということです。

この《結論》を持ってしまう時には、

私は そのへん政治家的であり医者的な 切羽詰ったような感じで理想を追い求めることになります。

死自体 あるいは自殺でもいいですが、それ自体最大の不幸とも思えないでいる私には 死刑制度の意味はよく解かりませんが、

被害者が加害者に同じ苦しみを望むなら、それは確かに「憎しみの連鎖は、そのままでは永久に人間の力では断ち切れない」ということを意味しますし、  わたしには、そういう心も人間にはあるとリアルに思えますが、同時に、その心もまた変わりえるともリアルに思えるのです。

二度目に気が狂った時の私の状態は おびえた動物の意識そのものでした。

ふーーー、と睨む子どもを守る時の猫のような状態と言ってもいいかもしれません。  子どもではなく自分を守る本能そのものとなった状態です。

その時、私は確かに 人間ではなかったのです。

だから 解かります。

人間なら 変われる。 人間なら 人間になれる。  その可能性は かならずある。

それは 加害者が 反省の色も見せないような 冷たい冷たい心の殻の意識のすべてが押し込められているような場合、被害者にとって鬼の中の鬼でしかないような場合ですら、 それは同じ事が言える と  わたしは信じています。

死刑制度うんぬんは、また別の問題として、ただの島流しは意味無いです。

そう信じれる サリバンがヘレンケラーに言葉を教えた時のように、その真っ黒な何もない意識(何も比較するものがほとんどない意識?)の中に、言葉の光をとどかせた奇跡を起こした時と同じような、 そう、人間を信じることのできる 教師達のもとにのみ そういう加害者たちを送り込むべきであり、  それはこの社会にもどるもどなないとかいうのではなくて、 いかにそういう人にも 人間の可能性の世界 その世界がどんなにすばらしいかを教えることができるか どうか それを私は問います。

わたしは、 被害者と加害者の鉢合わせを なぜ理想の1つとするのかわかりません。

もし、被害者が 赦せない状態が長く長くつづき その心が変わらないままであるならば そのまま無理は無理のままと思います。

が、 ここに1つの答えが、なんとかぎりぎりかもしれませんが あると思うのです。

被害者もまた、 人間の可能性を信じれる時がきたなら、絶対変わる。 ぜったいどんな人も赦せるようになる。

ぜったい 悪魔の親分ベルゼベブですら赦せるようになり、悪魔幻想もこの世から消えてゆく。  そう私は 私の体験の中からは信じているのですが、…。

答えは1つだと思います。

どれだけ 人の心に寄添える教育が この世に発展するか? ここにすべてがかかっているのではないでしょうか。

キリストの言われる「右の頬を打たれたら」というのにつづいて「千歩歩く事を強要されたら」という二重のたたみかけるような例えは、 その前に「悪人には」という言葉がついている点があまり語られていません。

それはキリストにとって おそらくとても象徴的な大事な例え話だったと思います。

寄添うべき、それを必要としている人に対しては そうしなさい。ということだと思うのです。

どこまでより添えるのか、 どこまで人間を信じて寄添い続け、 赦しそして助けてあげることが出きるのか?

私はそれを「それは、できるか?」「それは、可能か?」ではなくて、 それこそそれを信じて歩き続けるかどうか? がどこまでも問われている問題と思います。

投稿日時 - 2009-11-30 22:47:50

補足

 arayata333 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。すでに投稿内容の話に入りますが いくつかの主題や論点を挙げておられる中で わたしの読んだ限りでは 最後のあたりが際立って ご主張の中身であるだろうと受け取ります。
 ただしそれは 信仰の問題 その境地の問題を持ち出したかたちのようです。
 ということで 扱いにくいご見解であるかと まづ思います。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (α) 寄添うべき、それを必要としている人に対しては そうしなさい。ということだと思うのです。

 どこまでより添えるのか、 どこまで人間を信じて寄添い続け、 赦しそして助けてあげることが出きるのか?

 私はそれを「それは、できるか?」「それは、可能か?」ではなくて、 それこそそれを信じて歩き続けるかどうか? がどこまでも問われている問題と思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ せっかくの久しぶりのご訪問にその初めから わたしは対立する意見になるのですが 考えを述べます。
 ★ どこまでより添えるのか
 ☆ これは 《信じる》の対象ではないと考えます。というのが わたしの考えであり 基本になると思いますので いのいちばんにしっかりとお応えしてまいります。
 ○ 《寄り添ってやる》ことが 自分のすべきことだと確信したなら(これは 直感としてでも理詰めの結論としてでもです。確信というように《信》が入っていますが 単に強めるためだと見ます) その確信が間違っていたと分かるのでない限り そうする。
 ☆ ただ こういう経験的な行動であり 意志行為であるのだと考えます。言いかえると 《赦しや助けにつながるかどうか それが出来るかどうか》 これは 分かっていないのです。ただし《寄り添ってやる》ことは 必要だという確信があるのみなのです。
 というふつうの経験的な行動として捉えます。

 その第二の説明として 聖書じたいの解釈についても考えておきます。先の(α)のお考えは 次のように聖書の推し出しているものだという解釈です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 キリストの言われる「右の頬を打たれたら」というのにつづいて「千歩歩く事を強要されたら」という二重のたたみかけるような例えは、その前に「悪人には」という言葉がついている点があまり語られていません。

 それはキリストにとって おそらくとても象徴的な大事な例え話だったと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《左の頬をも向けてやる / いっしょに二千歩行く》と表現されたことを 《寄り添ってやる》ことと解釈されていると思うのですが もしそうだとしますと これは 《右の頬を打つ / 千歩行くように強要する》という行動から始まって 《人間に戻る。戻って心を回復する》という最終の状態を得るまで《寄り添う》ということだと採りますが それでよいでしょうか?
 問題は 《最終の状態に到るまで もしくはその到ることを 信じる》というときの《信じる》とは何を言うかです。
 わたしの場合は それは 先に述べたように《最終の状態に到ること》をではないわけです。《赦しそして助けてあげる》ことの実現 これを信じるのではないと考えます。
 なぜなら そのような境地としての状態は 経験事象でありその以前には想像でありその観念です。だから それは《考える》の問題であり 《信じる》ものではないと思うからです。

 たぶん以前から こういう点で あなたとわたしとは考えが違っていたように思います。やはりそういうふうであるのではないかと思います。その点 しっかりと対話をさらに続けてまいりましょうか。
 《信じる》という要素を入れると この質問への回答にはならない。こう考えています。そのあたりを説明願えればありがたいと思いますが いかがでしょう?

投稿日時 - 2009-12-01 01:21:26

ANo.59

オコリザルです。
正誤
>個人に働きかける霊視としての

>故人に働きかける霊視としての

過ちを赦すために(受け入れるために)被害者加害者共に癒される必要があります。
野次馬がギャースカ言うのは耳障りです。

投稿日時 - 2009-11-30 22:29:55

お礼

 ★ 野次馬がギャースカ言うのは耳障りです。
 ☆ これは言うまでもないでしょうね。
 ★ 過ちを赦すために(受け入れるために)被害者加害者共に癒される必要があります。
 ☆ こういうふうに《癒される》を用いるとすれば わたしには 《ひとが癒やされる》のには ふたつの場合があるように思いました。
 ひとつは このように事件に即してその影響をもう受けないような元の状態を回復するという場合です。
 もうひとつは そもそもこの個人としてこの世界に孤独でもある人間そのものが癒やされるという場合です。

 そして同じくわたしには思われるのですが どちらの癒やしを得ても ひとはひとのあやまちを赦すことはなかなか出来ることではない。というように感じています。(いつまでも 衝突します)。
 しかも ただ 人間存在として癒やされているならば いくら赦せないという感情から憎しみを持ち恨んだとしても そのときにも 意志行為が誰のものであり 誰のものではないかということをしっかりと把握しており それに従って 自分の意志行為でないものごとについては まったく影響をうけることがない状態でいられる。こう思います。
 ――論証はし得ていないということでもあります。

投稿日時 - 2009-12-01 00:32:48

ANo.58

オコリザルです。
レッサーパンダ帽男の話で考えました。
私は田舎住まいなのにどうも事件事故に詳しいのですが、中学生時代仲の良かったクラスメイトの母親が近所の知的障害者に普段から親切にしていたところ、その知的障害者から刺殺されると言う殺人事件に発展しました。今回の事例では「もしも」ではありません。本当に殺されました。この事例では遺族が顔見知りですが、個人に働きかける霊視としての伝心でその故人となった母親は「愛の成就を確かめて昇天した」という直感が働きました。遺族の役目を担うクラスメイトに確かめるまでもありません。犯人を赦している筈です。
そのクラスメイトとは同窓会で会っていますが、殺人を十分共通の話題にできる私から、特に話しかける必要はありませんでした。予感として霊視や伝心が働きます。語ることで過ちを犯すまでも無く彼は赦しています。
レッサーパンダ帽男については殺人を計画できる時点で責任能力ありです。情動的だったとしても殺人を犯せばどうなるかに考えが及ぶ限り計画的犯行です。その点に社会や法が異論を唱えれば、遺族は慰霊のために抵抗するでしょう。

投稿日時 - 2009-11-30 22:19:06

お礼

 primeape さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ふうむ。
 ★ 殺された被害者としての母親とその遺族であるかのじょの息子(あなたのクラスメイト)は 加害者を赦している。
 ☆ というのですね。
 こういう場合 もし取り上げるとすれば あなたがそのクラスメイトに問い質したりしなくてもいいと思うのですが そのかれの表情や状態・情況の何らかの報告をつけ加えてもらえるなら また どうなんだろうと関心をもって考えようとすると思ったのですが どうでしょう?

 ★ 予感として霊視や伝心
 ☆ これらについて 一般的には ほとんど信用しないと思いますが その内容と照らし合わせるための 当人の情況が分かると わたしなどは いいがなぁと思ったりします。
 文学の問題としてになるとは思いますが。

 自閉症男については 対話能力の問題であるように思うのですが むつかしいのでしょうか。

投稿日時 - 2009-12-01 00:23:22

ANo.57

 こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。Hidocchiです。

「人間が歴史を学んで分かることは人間は歴史から何も学ばないということだけだ」
が事実のようでございます。
(ヘーゲル『歴史哲学講義』岩波書店からです)

 この間違い訂正は、愚生に「もっとしっかりしろ!」とのご意見を賜ったと理解いたしました。

 さて、以下に愚見を申し上げます。

佐藤幹夫著「自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」
http://www.amazon.co.jp/  で“レッサーパンダ帽男”で検索をかけていただき、商品の説明と各レヴューアーの記述から、事件内容の概略はつかめるかと思います。)
 とても後味の悪い事件なのですが、この著作に、以下の記載がございました。

 以下は、被害者の叔父が著者に話した言葉です。
「私もジャーナリズムというのは、すごくそういう役割(世の中をよくしようという役割)があると思う。しかし、大半は、世の中をよくしようなんて考えてねえ、ただの野次馬だろ。姉の家も、マスコミに囲まれて、出入りができないほどやられた。Mちゃん(被害者)はほんとうに気の毒だった。どんな思いをして亡くなっていったか、考えて余りある。けれどもマスコミに対する腹立たしさ、これもまた同じくらい強いんだ。マスコミ不信どころの話ではない。だからあなたの取材も、できれば避けたかった」
私は一言もなかった。

「こういう事件があって、誰が自分たちのことを本当に考えていてくれるか、改めてよく分かった。野次馬は、電話をかけてくる。今度の事件のあの子、あんたのところのなんとかだろう、そう電話で確かめてる人間もいる。私らのことを考えてくれている人は、なにも言わない。黙って、そっとしておいてくれる。いまだから笑い話になるけれど、事件のあと、店がしばらく暇だった。いつも来てくれていたお客さんも、ばったりと来なくなった。後で聞いたら、かける言葉はないし、とてもじゃないが足を運ぶことができなかった、そう言う。そうした人はほんとうにあるがたかった。」  (p.306から307)

 なお、損害賠償請求は、被害者の父君が辞退したそうでございます。

 ただ、残念ながら、マスコミ批判をすれば、以下のbananasand様の意見を超えることができないので
はないか、もしくはそのまま引っ張っていくだけではないのか との自問自答(自省)がございました。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html No. 42 and 48

>☆ のお話を聞いて その被害者の遺族である父・母・妹でしょうか この人たちは そんな加害者の
闖入によって何も生活が乱されることはない。こう思われてしかたがないのです。人生が乱されても仕
方がないのは 加害者のほうです。

 そこで、担当直入に申し上げます。
意見を等しく致します。その事件(惨事)を耳にした第三者(コミュニティーの方たちは除きます)は、メディアのフィルターを通して、その犯行の残虐性、悲しむ遺族の方たちを目の辺りにして、怒り等の感情を煽られているだけなのかもしれません。なにしろこの閉塞感に満ちた社会にあっては、ルサンチマンの大きなはけ口を要求している観がございます。
 また、人生が乱されたのは、この事件においては、おそらく、被告人であったかと考えております。因みに、被告人の家族は以後、以下のような道をたどりました。被告人の刑と引き換えに、社会からの救いが得られました。
・被告人の父:父にも、知的障害があることが判明し、障害者手帳を支給されました。
・被告人の妹:父と兄の2人の生活費および自分の病気の入院費を得るため、働きずくめだったそうですが、兄の逮捕後、ボランティアの人達により、すぐに手厚い入院・治療が施され、ほんの僅かだったでしょうが人生の楽しみを覚えたそうです(享年25歳)。

> ただ 被害者やその遺族が なぜ つらい思いをしなければならないのでしょう。悲しみの極みというのなら 分かりますが うちひしがれるかのようにその後の生活を生きなければならないとしたらこれも 学習が足りない――あぁ 言ってしまいました――という側面を見ようとせざるを得ないのではないでしょうか。それとも わたしたち周りの者の支援が足りないということなのでしょうか。

 「うちひしがれるかのようにその後の生活を生きなければならない」と仮定しますと、それは、むしろ第三者(メディア、野次馬含めてでございます)の無神経さ等に起因するものかと考えております(上記の事件からの憶測でございますが)。
 一方、わたしたち周りの“支援”の方は、どちらかと申しますと、司法と行政の管轄かと考えられます。もちろん、コミュニティの方たちの配慮も必要かもしれません(“静かにしてあげておく”等の気配りでございます)。ここでの第三者(野次馬を含みます)はあまり余計なことはむしろ避けるべきかと存じます。

> ジャイアンがいじめられていない頃は、ジャイアンに対するルサンチマンを原っぱで隠れて皆で晴らしていたはず。

 はい、そのとおりだったかと存じます。またいじめられるのを防ぐには、ジャイアンの家来になる 等の方法があったかと思うのですが、これらの手段が講じられなくなったのでは、かつてはいじめ、もしくはその家来であった自分が、今度はいついじめられる側になるのかは予想のつかない状況でございます。これは、“KY(空気を読めない)といった風潮”がその原因の一つとなっているようでございます(その場の空気のみによる支配があるのかもしれません。参考:土井隆義著「友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル」; 小室直樹著「日本国民に告ぐ」からです)。ただ、心理的圧迫感を若者にまで、及んでいるのには、少し酷なところがあるかと感じております。

> もうこれで全面的に ワルモノになった思いです。

 いえいえ。論理的にかつ淡々と話しを、お進めになるため、日本人的な(もしくは日本人が好みます)“情緒性”が感じられにくい という唯その一点のみかと存じます。

 それでは皆様、どうも駄文をご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。

投稿日時 - 2009-11-30 20:30:10

お礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 今回も 反応は 言葉としては少なめです。

 まづ 歴史哲学と歴史哲学講義との違いがあるということですね。

 ★ 佐藤幹夫著「自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」」
 ☆ まづ残念ながら レヰ゛ューを読んでも 《自閉症》の具体的な状態が分からず 従って その《罪と罰》のあり方もよく分かりませんでした。さまざまな視点からよく捉えて考えていこうということなのでしょうか。無期懲役だそうですね。量刑の量は もう技術的なことも加味しなければならないでしょうから これも分かりませんが あやまちの中身からして そうかなという感じを持ちます。でも障害の内容の問題があるのですね。
 わたしは マスコミがどうの世間がこうのという問題には まったくと言っていいほど かかわりません。うわさという事態には けっこう免疫になっているのです。事実無根が 高校時代に飛びまわったという経験をしています。それをわたしは 卒業後に知ったという何とも浮世離れした能天気だったのも 事実です。
 みづからの意志行為にかかわらないものごとからは わたしはまったく自由であるという原則を確立させたいです。

 主題や論点を全部はまだ取り上げておりませんが 受けとめたかたちとさせていただきます。議論のゆくえに従って 復活してくるかも知れないですし。今夜は 訪問者が多いです。

投稿日時 - 2009-12-01 00:11:27

ANo.56

bragelonne様、こんばんは。
いつも懇切丁寧なお礼をくださりまして、本当にありがとうございます。

>☆ 理想の社会というものを《想定している》のではなく 《希求している》。《めっちゃ欲している》です。
>ほとんどすべての出発点として 違いを生じさせているのではないでしょうか?

出発点というか向いている方向が正反対なだけだと思います。
私は常に現実社会に向かってただひたすら目を見開いています。
理想と現実のギャップは非常に大きく、私は理想主義者からは程遠いスタンスですので、今までかなり的外れな事例を挙げてしまっていたようですね。
本当にご迷惑をおかけしたと思っております。
大変申し訳ございませんでした。

なお、この期に及んで申し上げますと、いかなる理論理屈をもってしても、当事者になって見ないことには、何もわかり得ないし確かなことは何一つ言えない、ということに尽きるかと思います。すみません。

>女性の理論哲学者はいないのではないでしょうか? 出ないと言おうとするのではなく 少ないのは何故かと考える方向に行ってしまいます。

え、bragelonne様もあのご質問にご興味を抱かれていたのですか。
私は全く興味がありませんで、こちらの絡みで拙文を寄稿しただけで、むしろ何故あのような質問をあの質問者が問いかけたのだろうと考えておりました。

>《 Un pour tous, tous pour un. 》の精神に反すると見られることを こころの問題で言ったかも知れません。

なるほど、そうお考えになられたのですね。
とても参考になります。
私は、Edmond Dantesが神父に出会う不思議な投獄生活が一番の醍醐味だと思い、そこばかり繰り返し読みました。
で、復讐をするたびに、内心ではますます虚しさを募らせていったのだと独善的に思い、一連の復讐劇を切なく感じた記憶があります。

また、Jean Valjeanなどの別作品キャストにも通ずるような一連の社会道徳的な大衆小説があの時代に花開いたのが面白いとも思いました。
現代と文学が果たす役割が異なっているのでしょうか。

>いじめ役さえいじめられるようになったというのは 時代がいい方に変わるしるしとして前向きに受け取れることではないでしょうか?

そうでしょうか?
私はちょっと不気味だと思いました。
いじめは決して褒められたものではありません。
ですがドラえもんに夢中になるような小学生の時代には、子どもは本来無邪気でストレートですから、いじめの類があってまあ自然だと思っております。

行き過ぎたいじめなどは論外ですが、子どもはリーダーやその他の役割を流動的にこなしながら、大人社会への適応力と免疫力を高めていくのではないでしょうか。
そして、多少の肉弾戦も交えるうちに「手加減の見極め」を会得していくのだと思います。
でないと「それを言っては(やっては)おしまいでしょう!」と大人になってから後ろ指を指されかねないはずです。

とは言うものの、私は今までロクないじめに逢ったことも加担したこともないお調子者でとても楽しい子ども時代でしたから、それこそ理想を追い求めてしまうのかもしれません。
マズイですかね、過去を振り返るのは老化の証拠?!


>そのあと 犯罪心理学だか何だかいろんな研究成果にもとづいて 具体的な政策を敷くのは いまは別の段階だと思っているという意味です。

はい、仰る通りでして、具体的な事例や経験ばかりをやたらひっぱる私の回答は、今までbragelonne様のご質問に対し、本当に的外れのものばかりだったと思います。

ここにあらためてお詫び申し上げます。
ri_rong様、ご教授下さって、本当にありがとうございます。

投稿日時 - 2009-11-30 18:38:18

補足

 ううーん 今回のご回答はよく分からないですね。ううーん。
 mashumaro2 さん 秀吉の朝鮮侵略のテレビ番組を録画で見ていて 夜おそくなりました。ご回答をありがとうございます。

 ★ 今までかなり的外れな事例を挙げてしまっていたようですね。
 ★ 本当に的外れのものばかりだったと思います。
 ☆ もっと自信を持ってください。共通感覚からのご発言であると思っております。ただしわたしは そしていまは さらにもっと周り道をしてみておこうとも思っております。ご発言を受け取りご指摘を受け留め いづれ政策を考えるときには参考にしようという意味です。
 北朝鮮の問題がいちばん この場合 はっきりした例だと思います。とにもかくにもわれわれ一般市民が知らない交渉の歴史と資料があるのだと思います。いまわれわれが得ることのできる資料や判断材料で どういう対策を打ち出すか とても最終的な結論として考え得ようとは思えません。
 程度問題として 大きな事件などの現実に密着した問題点は いまのわたしには 同じような社会事実であるように思えます。少しづつ知って経験知をひろげていくしかないと思っています。
 mashumaro2 さんがもし そのような問題点を指摘されて いますぐにも具体的な政策をまとめようということであれば たしかにいまのわたしには手の届かないところでの作業であるように思います。
 あるいはぎゃくに これこれこういう政策が考えられるがどうか?というご提案であれば それはそれとして受け留め考えたいとは思います。
 被害者を支援する予算が加害者向けと同じほどには 増やすべきだとか 訴因の書き込み方をもっと現実に合ったかたちにしようとか これらは そのとおりに受け留めております。(ていねいにはお応えしておりませんが)。われながらわたしの質問での質疑応答は かなり自信を持っております。参考資料になると思います。いまはそういうかたちで 受け留めております。

 さて
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 出発点というか向いている方向が正反対なだけだと思います。
 私は常に現実社会に向かってただひたすら目を見開いています。
 理想と現実のギャップは非常に大きく、私は理想主義者からは程遠いスタンスですので
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしだって現実に立脚していますよ。ただ資料と知識がとぼしいだけです。《理想主義》だとか《理念だけではだめだ》とか そうではないと反論してきているはずですが だめでしょうか。
 理想という言葉でつっこまれれば その同じ言葉で返しますが わたしは理想主義とは違っていると思いますよ。たとえば インタムライスム これは これまでの歴史としていまある現実を分析すると そういう新たな方向が得られたというだけの話で はじめに理想だとか目的因があって その考え方を出して来ているのではないですし そもそもそういう発想はありません。いまの現実を引き継ぐのであることは 当然です。
 ただし たしかに現実離れをした話を出すこともあります。やがて病人の半分はからだが丈夫になるとか いまはもっぱら悪に従事する人びともやがて みづからの衣替えをするだろうとか のんきなことを言います。ひとの寿命は 二百歳になるだろうとか。二百年も生きれば もうそれは永遠であるとか。

 そしてともかく この質問としましては 《ひとのあやまちを赦すことはむつかしい。けれども 被害者も加害者も関係者も誰でも その心がすっかりとげを抜かれてのように癒やされること これはありだ》という命題をいろんな参考意見を得て考えていきたい。こう思っております。その点 具体的な政策論に対しては 腰が引けていると思います。

投稿日時 - 2009-11-30 23:12:42

お礼

 ☆☆ いじめ役さえいじめられるようになった
 ☆ なら 第三項排除の論理が破たんするという意味で そのぶん 自由度が増す。こう感じます。
 これまで偉い人が ひとに向かってやたら当たり散らすというかたちで意識の排泄を行なって来ました。偉くない人は それをアース役となって受けとめごみ処理をして来ました。もしここで 偉い人もアース役を引き受けなければならなくなったとすれば 感染列島の様相が変わると思います。こころが内面に向いて 自己到来しうるようになります。

 女性哲学者論への投稿は 例の a さんが投稿していたので こころみました。(すでに かれは このわたしの質問に投稿して来ました。いま 見つけました)。

 巌窟王の話に花を咲かせうべかりせばたのしきものを。
 がらっぱちだとすでにお伝えしていますが わたしがダルタニャンが好きだという意味は ちゃんちゃんばらばらが好きだという意味に等しいです。眠狂四郎も好きですから。あぁ 単細胞!

 * ri_rong さんのご投稿内容とどういうふうにつながるのか いまひとつ分かりませんが ともかく共通感覚については自信を持ってください。それからわたしをあまり理想主義者呼ばわりしないで欲しいですが というよりは ここがこうだ そこがああだと どんどん突っ込んでいただくとたいへんありがたいと思います。謝謝。

投稿日時 - 2009-11-30 23:23:53

ANo.55

 オコリザルさんの投稿――赦す、赦さないは、交流とかかわりの中から生まれる情動で、神のかかわらない、人間だからこそできる行為ではないか?(No.9)――に発想を得て書きますが、

 つまり、制裁か赦しかという問いはどうもその表現に物騒なところがあるし、無警戒に文字にされる事で、質問という役割に紛れ込んだ問うてはならない問題に対して、実に無邪気な答えを誘引される恐れがあるからですが、恐らく質問主旨は変わらないと見て、このように問いの表現を変えてみたいと考えました。つまり、「人は、『何を学ぶべきか』という問いに対する回答は、常に事後的にしか手に入れることができないもの――なのではないか?」 というふうな感じです。

 これはつまり、「人は何を学ぶべきか」という当為に対する古典的な問いの焼き直しですが、
 ここではむしろ文章の後者に意味があって、人は数学を学ぶ、英語を学ぶ、というふうに、人は目的語を補う可能体としては定義できないというものです。
 どうしてこのように書くかというと、――おそらく、質問者の根っこには「学び」に対する何らかの意図が見え隠れしているからで、率直に書くならば、「お前らもっと、勉強せえよ」という、どうもその下世話な声が聞こえてくるからなのですが、どうでしょうか。

 プラトンの受け売りですが、少し、綴ります。

 自分の知らない「何か」を知ろうと学ぶとき、人はそれが何かを「知らない」にも係わらず、それを知っているだろう人物を、師と仰いで教えを乞うことが「できる」(ソクラテスの場合はアポロンでした)。そしてプラトン曰く、学びは「それについて知らないはずの」自分が「それについて知っているだろう」師を選ぶという――極めて不条理なプロセスが発端となるそうです。
 この不条理さが可能体の正体なのですが、第一に自分の無知を悟り、第二に満足のいく師を見つけたとしても、この時点では実はまだ十分ではない。師を見つけたソクラテスが、対話を通じてそうしたように、「学び」には常に、師をその気にさせるという技術が必要になる。

 その気になった師から、自分はいったい何を「知らされるか」――こういうのは、日常的にもそうなのですが、実のところ「学んだ自分」に聞いてみる以外、わからないことなのだと思います。それが赦しだったのか、いや制裁だったのか。それはあくまで小説の結末でしかありません。

 ところでこの可能体に対する答えがあるとすれば、
 やはり第三のプロセスである、(自分の学びに対して)相手をその気にさせることができるかどうかという力(あるいは技術)になるでしょう。世間ではこれを「学力」と呼ぶように思いますが、個人の《赦す・赦さない》という行為は、この力の使い道を尋ねていると思いました。

 近代においてここに問うべき師は、社会という場の存在が相応だろうと言われます(制度はその社会の要請によって生じる)。けれどももし、それが個人となったならば、師は、小さな神である自分という事になるでしょう。
 しかしここではそうでもなく、質問者は、理想の社会というものを想定している。思うところ、その社会には制度がなく、先に書いた三つのプロセスによって、常に結果が導き出されるような、言わば幻想の社会です。どうでしょう? ブラジュロンヌさん。

 残念ながら、近頃は学力が低下しているんですよ。

投稿日時 - 2009-11-30 15:55:43

補足

 ri_rong さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 いくつかの主題で ご推察が部分的にわたしを射ぬいている。まづは こう思います。部分的にという意味は わるく言えば かすっているというかたちです。

 ★ しかしここではそうでもなく、質問者は、理想の社会というものを想定している。思うところ、その社会には制度がなく、先に書いた三つのプロセスによって、常に結果が導き出されるような、言わば幻想の社会です。どうでしょう? ブラジュロンヌさん。
 ☆ 理想の社会というものを《想定している》のではなく 《希求している》。《めっちゃ欲している》です。
 その社会には《制度がなく》ではなく 《既成の制度を受け継ぐ》です。《予見としての制度がない》は そのとおりです。
 先に書いた三つのプロセスによって、常に結果が導き出されるような、《言わば幻想の社会です》ではなく 《一歩一歩あゆむ社会 そして どこかで――現在の歴史の段階としては――コギトの優位を感性と同じ位に置くようにどんでん返しが起こる社会である》と考えています。
 《三つのプロセス》については
 ★ 第一に自分の無知を悟り、第二に満足のいく師を見つけたとしても、この時点では実はまだ十分ではない。師を見つけたソクラテスが、対話を通じてそうしたように、「学び」には常に、師をその気にさせるという技術が必要になる。
 ☆ と規定されるとき 《師》については 次のご見解のほうに傾きます。
 ★ 近代においてここに問うべき師は、社会という場の存在が相応だろうと言われます(制度はその社会の要請によって生じる)。けれどももし、それが個人となったならば、師は、小さな神である自分という事になるでしょう。
 ☆ 【Q:ひとは だれから おそわるか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4974759.html
 で問い求めたようにそしておっしゃるように 《師は おのれです》。《ひとは 自分で自分からおそわる》です。ですから このときこの三つ目のプロセスがわたしの場合 先頭に来ますから あとの二つは 順序もそしておそらく内容も どうでもよい(どうでもあり)と考えます。どのようにでも ひとによって場合があり そういうプロセスを採る場合もあるという意味です。
 従って
 ★ やはり第三のプロセスである、(自分の学びに対して)相手をその気にさせることができるかどうかという力(あるいは技術)になるでしょう。世間ではこれを「学力」と呼ぶように思いますが、個人の《赦す・赦さない》という行為は、この力の使い道を尋ねていると思いました。
 ☆ 質問を立てているからには 《この力の使い道を尋ねている》のですが それは上の結論に従うなら 《一人ひとりが おのれに尋ねているだろうから その成果を出し合おう》と言っています。
 
 ★ ・・・率直に書くならば、「お前らもっと、勉強せえよ」という、どうもその下世話な声が聞こえてくるからなのですが、どうでしょうか。
 ☆ もしこの趣旨にのっとってお応えするなら ひとつ前までのこれまでの議論とは少し次元をたがえていて 《わたしは どういうわけか 人間の存在として 癒やされている。この問題・この現実を 知って欲しい》と腹の底あたりで言っているでしょうね。ま 下世話と言いますか そういうわたしの煩悩ですね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そしてプラトン曰く、学びは「それについて知らないはずの」自分が「それについて知っているだろう」師を選ぶという――極めて不条理なプロセスが発端となるそうです。
 この不条理さが可能体の正体なのですが、
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについては――つまり特に 《この不条理》というところですが―― 保留とさせてください。パウロは 有史以来 神の霊はいたるところで見られる(感得しうる)という意味のことを言っています。そのことと この《この不条理》とが絡み合っているように感じていますが はっきりしません。いつお応えできるかも分かりません。

 《〈赦す・赦さない〉は われわれ人間の能力にはかかわらない》という或る種の理想を たしかにすでに掲げていると思います。論証したいということのようです。たぶん。(ちょっと たとえは悪いですが 山の向こうかどっかから襲ってくるゲリラのような回答に出遭って その流れに乗ってしまったかも分からないので)。

投稿日時 - 2009-11-30 16:53:39

お礼

 12月1日の朝に補足欄をおぎないます。

 どうも ご回答の構えと趣旨とその流れに乗ってしまったようです。
 非思考にかかわる《癒されること》と経験思考としての《学ぶ・勉強する》とを――きちんとわたしは 《次元をたがえる》と書いてはいますが―― けっきょく同じ次元で読まれてしまうような表現のままにしておいたようです。

 ですがそれはそれですから ここで補おうと思ったのは そうではなく ご回答の最後の一文つまり
 ★ 残念ながら、近頃は学力が低下しているんですよ。
 ☆ についてです。見落としたのではないですが 応答していなかったようです。
 つまり 上の問題を超えて《同じ次元》において応じるとすれば 《「お前らもっと、勉強せえよ」と言ったって そんなことは知ったこっちゃねぇよ》というご趣旨なのでしょうか? それなら 見落としていてはいけなかった。
 わたしのこころは
 ☆☆ (うえの補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  質問を立てているからには 《この力の使い道を尋ねている》のですが それは上の結論に従うなら 《一人ひとりが おのれに尋ねているだろうから その成果を出し合おう》と言っています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ にありますが それをもやはり超えて《知ったこっちゃねぇよ》というのでしたら わたしが介入するすべもなければ つもりもない。というお答えをしておかねばならなかったでしょうね。
 つまり 《ゲリラ回答》の問題どころではなかった。のに わたしは のんきだったというものです。

 これでぜんぶを吐きだしていると考えます。

投稿日時 - 2009-12-01 10:37:10

ANo.54

bragelonne様、こんにちは。
遅くなりまして大変申し訳ございません。
そしてHidocci様、あたたかいお言葉を頂戴したばかりか拙文におつきあいくださることに心より嬉しく思っております。
皆様のこのたびのご厚意に感謝申し上げます。

>その被害者の遺族である父・母・妹でしょうか この人たちは そんな加害者の闖入によって何も生活が乱されることはない。こう思われてしかたがないのです。人生が乱されても仕方がないのは 加害者のほうです。

はい、理屈の上では加害者のほうが人生を乱されても仕方がないのでしょうが、現実は加害者のみならず被害者も人生を乱され、被害者意識の分だけ一層辛く苦しい人生を送ることになるのかもしれません。
加害者は「更生」というリセットがあるのに対し、被害者には何の罪も無いのに「ヤラレ損」ですから。

>何か ほとけごころがあり過ぎるからなのか。感情移入がゆたかすぎるのか。度を過ごしているような感じなんですが みなさんはいかがお考えになるでしょう?
>全体の見方を少し外しても 何かそういう感じを持つのですが どうでしょう?

なるほど、そうなのですね。
私は逆にあの書を読んでも、被害者の壮絶な苦しみや辛さを真に推し測れていないのだろうと思うと無力感を感じましたし、仮にいかなる思想や思考にふれたとしても、あの被害者ご家族には何の気休めにもならないのではないかというのが正直なところです。
気休めになるというなら、やはり加害者からの相応の謝罪と賠償(就労や精神的ダメージに対する)が実現して、はじめて耳を傾けることが出来るのかもしれません。

ちなみに私の上の子がちょうど加害者、被害者双方と同年齢ですから、bragelonne様よりは感情移入しやすいケースだと思っております。
加害者の親も殺人犯にするべく育てたわけではなく、「俊雄は父親を反面教師に、子どもは理想的な環境に育てるべきだと考えた。そのために<育児書を読み、真綿でくるむように>して育てた。もちろん<物質的には、子どもの要求を先廻りして満たしてやる>ような、何不自由のない生活を与えた。(p27)」のでした。
良かれと思って子にしてやったことがいつしか度が過ぎたり親のエゴの押しつけでしかないことは私自身が大いに認めるところです。
しかもその加害者の親の親がまた私生活で自堕落だったことを鑑みれば、その親もまた謹厳実直な生活を貫くようになったのも無理からぬことで、どこまで遡れば良いのか…ということになってしまいます。 

>これだけの予算額の違いを突きつけられますと、被害者には非常に酷な社会になっていると考えさせられました。

はい、仰る通りでして、予算額のみならず法制度においても被害者には不利なこともまだ少なくありません。
たとえば「訴因の設定」についても、日本ではまだ被害者には権限がないため関与が一切できませんから、検察官の決定次第というのが現状です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B4%E5%9B%A0
端的に言えば集団リンチの暴行の末被害者が殺害された場合、
被害者家族は殺人での起訴を願っても、検察官の起訴に一任されるために、例えば傷害致死で起訴した際にはどうする手段もありません。
せめて審理の申し出でも出来たなら…でもそうすると、被害者家族の大半が殺人罪で起訴を願うこともあり得ます。
このような法整備はなかなか難しいところで素人が談義するもの限界がありますので、その面からも予算額の大幅是正は求められてしかるべきと考えております。

>その後アメリカは「厳罰主義」に転換したそうでございますが。

日本が方針転換しないのは何故なのでしょう。

>犯罪者が社会的存在(定義が曖昧でございますが、自分で生活が可能という程度でございます)にもなりえること、また現在少年院にいる人にも幾ばくかの希望は与えられるとも思うのです。と申しますのも、この加害者も、弁護士になり、幾人かの無実のひとを救ったかもしれません。そう考えますと、社会的に認められるうるものに、自分もなり得るのだという希望を与えられるとも考えられるからでございます。

はい、そうですね。
彼等の「更生」の芽と希望をつむことはあってはならないとも思います。
被害者に深く謝罪する加害者も相応にいるからこそ、ご教授下さった「修復的司法」のような試みも始動し始めているのですね。

>これらの「関係の絶対性」というものから逃れる方法を考えてしまいます。ですが、この逃避が可能とするのは、逆に社会なるものに全く関与していない“孤立”した場合、もしくは、各自が置かれた状況に全く無関心の場合のみであるかと考えられます。

はい、今私は傍観者の立場ですが、いつ加害者の親、被害者の親になるとも限りませんし、または加害者本人になり得るかもしれません。
結局は事件を経験しないことにはどうにもならないことなのだと思うとやはり虚無感に襲われます。

>一昔前ならば、ジャイアン役がイジメをし、スネ夫役がコバンザメと化し、ノビタをイジメるという構造だったのですが、学級崩壊が進んでしまったのでしょうか。現在では、ジャイアン役もイジメの対象にもなりうるのだそうです。すみません。話が飛んでしまったようです。

「ドラえもん」のお話ですね。
中国では評判がすこぶる良く、フランスあたりでは他力本願だとアジアほど人気がないと小耳にはさんだことがありますけど、どうなのでしょうね。
たしかに親として「ドラえもん」は「クレヨンしんちゃん」ほどには抵抗がないです。
後者はたしかスペインあたりで放送禁止になったとか?

そうですか、現在ではジャイアン役もイジメの対象になってしまうのですか。
作中ではのび太をいじめることによってジャイアン&スネ夫がやっつけられ、でも結局姑息な手段で?復讐を果たしたのび太も結局は因果の報いを受けるというワン・パターンですよね。
「喧嘩両成敗」的なところが長寿の秘訣なのでしょうか。
bragelonne様の「倫理的な意味での因果応報説は まちがいである。または 応報であるかどうかは 人間には分からないと言わなければならない」がいかにも抵触しそうな漫画(番組)ですね。
そうすると不思議と「クレヨンしんちゃん」が妙に「健全」に思えてくるから不思議です?!

誰でもイジメの対象になるというのはある意味恐ろしい話だと思います。
ジャイアンがいじめられていない頃は、ジャイアンに対するルサンチマンを原っぱで隠れて皆で晴らしていたはず。
それが、ジャイアンも一様にいじめられるようになったということは、皆全員に対して人間不信に陥りかねない、もしくは人間関係がとても希薄になってしまっているということでしょうか。
良くわかりません、すみません。

>☆ ベルギーの被害者少女が 事件は関係ないんだと宣言して ボーイフレンドと会見したとか。そうすすんで行って欲しいです。
>★ 北朝鮮
>☆ を同列に語れるのか?! とお叱りを受けるのも覚悟の上で 《ゆるす・ゆるさない》の能力は どうも 人間にはないように思われます。抵抗・批判・損害賠償そして罪の償いとしての制裁・更生 これらはすべて 当然のこととしてです。

このbragelonne様の≪ゆるす・ゆるさない≫の論理の前には「痴漢、レイプ」「北朝鮮」も同列に語れるのだと思いますし、被害者の心の拠り所の考えとしてお示し下さるのは掛け値なしに得難いことだと私は思うのです。

但し、当の被害者がどう捉えるのかといった点については決して第三者は言及し得ないし、当事者になってみないことには真の気持ちなど理解しようがないと思います。
ですから「学習が足りない」「周囲の支援が足りない」ということにはなり得ないと拝察致しておりますが。

>――あぁ 言ってしまいました――

では、ましゅまろも~。
もしも、我が子が殺人を犯し加害者の親になったとしたら、死ぬまで被害者家族に謝罪し続けるのは当然ですが、その一方で秘かに我が子の味方というか、精神的な盾となります。 頼ってくるかはわかりませんが。
で、逆に被害者の親になったとしたら。
そうですね、先の事件の被害者少年は包帯をグルグル巻きの全身ミイラ状態で自宅に戻ってきた惨状だったそのような場合。
主人が絶対相手を殺しに行くはずですから、当然殺人ほう助をすることでしょう。
とは言うものの、当事者になってみないことには全くわかりません。
これまたbragelonn様から「学習が足りない」と仰られそうですね。

>ここなんですよね。もしわたしが 《 sans coeur 》と呼ばれるとしたら ここなんです。親の死に悲しくはなりましたが 泣きはしなかったです。

「母のcoeur」を別質問「女性の哲学者が少ないのはなぜ?」にこのあと殴り書きしますから、気が向いたらお目通しをお願い申し上げます。こちらへのこじつけ拙文ですので不自然で恐縮なのですが。

>☆ これは 《広義の生理現象であること》が 経験現実であるということです。理念も この経験現象に基礎をおいていると言えると思います。《良心の呵責》というのは 観念の想像〔だけ〕ではなく 胸の生物物理的な現象だと思います。極悪人にも同じように起こるだろうと。だったら理念は 空想ではないのではないか。

≪良心の呵責≫は人の感情と意思であり、それがもとで胸がドキドキする生物物理的な現象を引き起こすということですか。
嘘発見機もそのような用いられ方でしょうか。
結局のところ信憑性は定かなのかどうか。
≪理念≫が空想でないというのは、≪理念≫を現実に体現し成し遂げた時ではないのでしょうか。
例えばフランス革命時の時のような。

>☆ ほんとは 英雄にあやかってダルタニャンと言いたいところでしたが 
>モンテクリスト伯は ドラマで見たのですが なんと重い復讐劇でしょうか。生涯をかけてですか。

bragelonne様も英雄がお好きなのですか。ダルタニャンになさればよろしかったのに。
もしNHK衛星で放送された仏ドラマでしたら、Edmond Dantes役のGerard Depardieuのブサのせいです。
原作(和訳)を中学生の頃読んで以来、思い入れ激しく凄い美青年をイメージしていただけに、あの彼には全く萌えませんでした。
ドラマのハッピーエンドも違和感ありました。
しかしこの作家は力量もさることながら、人生も小説を地でいくような破天荒ぶりだったのですね。

>もっとも そもそもにおいて自由を見ていたように その自由への変身をも説いています。それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして わたしたちは獲得することができるとも言います。
>また 模倣欲望を実行している最終の過程で 《流行》現象の反面には起こると思われるように 《みんなと違いたい願望》が 同時にこれも はたらいてくれるとよいとも考えられています。

これは「臭い物に蓋をする」ということは、ひいては社会全体に動脈硬化をもたらすことになるので、時には≪異者≫≪影≫とのコミュニケ―ションが豊かな文化を生み出すということでしょうか。

>第三項は それがいわば見事な排除であった場合には 排除し切ったあとで ぎゃくにそれを《聖化》すると言います。呪われて去った除け者を 生け贄と見なし それに聖性を付与する。
>したがって今度は この《聖なる第三項》を みなであがめる。このことを通して あらためて秩序と安寧をたしかなものにする。

何だか閉塞感に満ちた社会全体をリセットかけるような印象を受けました。

ギリギリ午前中でしょうか?!

投稿日時 - 2009-11-30 11:53:01

補足

 mashumaro2 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 対話・鼎談が 相撲で言えばガップリ四つ 序盤から本論に入って来たと思いました。ただし 残念ながらまた或る意味で失礼ながら わたしの立ち位置はすでに申し上げたように腰が引けています。
 今回は 主題の噛み合わせによりも この姿勢のほうについて説明してまいります。
 総じて見た場合に わたしはまだ為政者の立ち場にそのまま立つものではありません。その意味は――なぜなら―― 共同自治の直接の責任者であれば 部分的には合理性のより少ない政策を採用しなければならない場合があり 時には悪との妥協を強いられることに甘んじなければならないと考えるからです。
 言いかえると 哲学としては 理論的に思いっきり自由に考えておくべきという心構えでいます。

 《第三項の排除》については 今頃言うのもいけませんが 《いけにえ=その聖なる第三項化=それの秩序のための〔宗教〕儀式化》を おおむね歴史事実として認めますが その理論を わたし自身が主張として打ち出しているというのではありません。
 イエスがキリストとしてわざわざ生け贄となったのは 初めに《原罪》が設定されていたからです。マッチで火をつけておいて その罪のあがないを十字架上でおこなうことによってすべて消した。こういう物語の構造は 後ろ向きの対処法です。
 問題は ウソという或る種の意味での原罪によって ひとは誰もが こころに棘が刺さってしまっている。つまり死んでいる。このとげは抜かれたという物語のほうが つまり生命のおとぎ話のほうが 大事です。つまり生け贄説は どうでもよいという意味です。

 理念が 経験現実にもとづいているというのは ひとがこのウソについてウソはウソだと分かっているという経験のことです。やましさを感じるから 理念は実現しているというわけに行かないのは もちろんです。でも知っているのです。後ろめたさの感覚を捨てようとする自由意志も人間には起こります。そのときも その行為がうそ偽りであるのを知っていることまでは 現実だという意味で言っています。
 そのあと 犯罪心理学だか何だかいろんな研究成果にもとづいて 具体的な政策を敷くのは いまは別の段階だと思っているという意味です。

 ただしわたしも直観派でして 現実の思想を考える生活哲学と あらゆる可能性を捉えてすべての論理を観念的に導いておく理論哲学との二つがあるとすれば わたしはその中間でしかありません。
 戦後という時間に限ってみて――なぜなら 一応平和の時代で民主主義になったという時代を言おうとするのですが―― 女性の理論哲学者はいないのではないでしょうか? 出ないと言おうとするのではなく 少ないのは何故かと考える方向に行ってしまいます。

 ただし 人間交通の問題 他者とのまじわりの問題 ここにおける《こころ》は 上の哲学をめぐる分類や性差にはそのまま対応していないように感じます。理論哲学とて 生きた人間のこころとのつながりや整合性を結局は 基礎にしているはずです。

 そのこころですが ゆるしの問題に入ります。基本的なこととしてお聞きしたいのですが 被害者側は 加害者による謝罪〔と相応のつぐない〕をむろん求めますが それが言い出されなければ 最終的に 事件は済むものではなく こころも癒やされない――というお考えでしょうか? 加害者の謝罪を聞かなければ 何も済むことはない――というお考えでしょうか?
 罪の行為は どこまでも批判しますが――ということは そのあやまちをみづから認めるまで批判を続けますが―― 被害から癒やされるのは その加害者の謝罪を聞くかどうかとは別だとわたしは思っています。つまり 犯人の発言や状態とはまったくかかわりなく 被害者側の人たちも こころが《完全に》癒やされることはあり得る――こう思っています。
 この姿勢で どうも見解が分かれて来ている。こう感じました。それと 具体的な政策・施策をどうするかをめぐっての問題もありますが それにはまだ入り口の段階にあると思いますから 上の《こころの癒やし》をどう捉えるかの問題が ほとんどすべての出発点として 違いを生じさせているのではないでしょうか?

 たしか四回連続の仏ドラマだったでしょうか。たしかに原作とドラマ化とは違うということでしょうね。
 《 Un pour tous, tous pour un. 》の精神に反すると見られることを こころの問題で言ったかも知れません。《ひとり》がその個人としてすでに完全に癒やされるという事情を言おうとしています。

 いじめ役さえいじめられるようになったというのは 時代がいい方に変わるしるしとして前向きに受け取れることではないでしょうか?

 補足欄いっぱいにて。

投稿日時 - 2009-11-30 14:05:48

ANo.53

>確かヘーゲルだったでしょうか、「歴史が教えることは、
>為政者や民衆が歴史から何も学ばないことだ」という言葉

間違っています。

投稿日時 - 2009-11-30 05:37:54

補足

 sanagi01 さん ご投稿をありがとうございます。

 《いやいや 人びとは歴史からじゅうぶん学んでいる。それでこそ 曲りなりにも民主主義の世界が導き出されたのではないか》――こういう趣旨のご見解でしょうか?
 そういうことでしたら わたしもそしておそらく Hidocchi さんも同意しますし 同意されると思います。

 と同時に 《取り返しのつかないあやまちが起こってしまった。その加害者・被害者そして関係者さらに一般の人びとを含めわれわれは まだまだその歴史の経験から学んでいないようだ》の趣旨は それとして 言えると思います。どうでしょう?

 なおヘーゲルの文章を探してみました。《時代によって違う。過去の時代から安易に学ぶということも出来るとは限らない》という意味合いもあるようですね。
 ▲ (ヘーゲル:歴史哲学) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人々は君主 政治家 民衆に向かって 歴史の経験から教訓を汲むべきだと説く。
 けれども 経験と歴史の教えるところこそまさに 人民や政府がかつて歴史から何ものをも学ばなかったということであり また歴史からひっぱり出されるような教訓に従って行動したということもなかったということそのことなのである。
 各時代はそれぞれ特有の境遇を有し それぞれ極めて個性的な状態にあるものであるから 各状態の中で各状態そのものによって決定されねばならないものであり またそうしてのみ決定され得るものである。・・・
 (序論・第一篇[一般的序論]・一[歴史考察の種類] ( b )[反省的歴史] ( bb )[実用的歴史] 
 武市健人訳『歴史哲学』上 1971 岩波文庫版 pp.58-59)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-11-30 08:31:52

ANo.52

 こんばんは、ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

 愚生もmashumaro2 様のご意見を拝読させていただきましたが、mashumaro2 様の仰られることから、多くの知見を得られましたし、また多くの”考えさせられる”きっかけを頂戴致しました。また、社会公共的観点から見た考察力の深さには感嘆の感を禁じ得ませんでした。

> 「krya様の共同体論を拝見した上で、夫婦、家族単位で捉えることは可能だろうかと思いました。」

 因に、愚生もkrya1998様の”共同体論”に感化され、投稿させていただいた次第でございます。
 また、http://dell-support.okwave.jp/qa5311248.html No.32にもございますように、「わたしも何度か殺してやりたいという人間に出会ってきました。しかし、実際には、殺していない。一方で、殺してしまうひとがいる。この違いは何か?決して、わたしの心が良かったから殺していないのではない。もしじぶんが同じような境遇(つまり、「人間と人間の関係性」)に生まれついたら、殺人を犯してしまうかもしれない。」 との考えから、加害者に若干心情が近かったかと思います。
 ですが、これだけの予算額の違いを突きつけられますと、被害者には非常に酷な社会になっていると考えさせられました。

 『心にナイフをしのばせて』(奥野修司/文藝春秋刊)からでございますが、

> 「「更生は敗者復活戦ではない」、「更生は人生のリセットではない」という認識と罪の意識をしっかりと刻むよう処遇していくことが肝心」

 この件につきまして、同意見でざいます。その当時の少年法は、GHQの介入によって、アメリカの伝統的保護主義を反映し、全ての非行少年は保護と教育によって充分に”更生”できるという理想を盛り込んで施行されたそうでございます。その後アメリカは「厳罰主義」に転換したそうでございますが。
 従いまして、以下の文章にも意見を等しく致します。

> 「そしてさらに私が思うことは、加害者少年もまた、当時の社会の縮図として犠牲者となった部分が少なからずあるのではないかということです。たかだか14歳の少年、尋常ならぬ惨劇をもたらした当時の彼の心境だけを特異化して考察したり、事件を風化させてはならないはずです。」 確かヘーゲルだったでしょうか、「歴史が教えることは、為政者や民衆が歴史から何も学ばないことだ」という言葉を喚起させられた次第でございます。
 ですが、ご心証を害されるかもしれませんが、ここからも、犯罪者が社会的存在(定義が曖昧でございますが、自分で生活が可能という程度でございます)にもなりえること、また現在少年院にいる人にも幾ばくかの希望は与えられるとも思うのです。と申しますのも、この加害者も、弁護士になり、幾人かの無実のひとを救ったかもしれません。そう考えますと、社会的に認められるうるものに、自分もなり得るのだという希望を与えられるとも考えられるからでございます。

 まだ、ご意見を頂戴していないのですが、《第三項(いけにえ)排除》の理論は、一般的にはよく見られることかと存じます。誰か(別段、それほど特異的存在という訳ではないのですが)を”仮想敵国”にし、他のものは仲間を形成する というものでございます。イジメ等でよくみかける光景かと存じます。一昔前ならば、ジャイアン役がイジメをし、スネ夫役がコバンザメと化し、ノビタをイジメるという構造だったのですが、学級崩壊が進んでしまったのでしょうか。現在では、ジャイアン役もイジメの対象にもなりうるのだそうです。すみません。話が飛んでしまったようです。

 今後のお話の展開を楽しみにしております。

 以上のように、誠にとりとめのない話に終始してしまった観がございますが、愚生も徐々に皆様のご意見にも、注意をむけていきたいと思っております。

 かようなご機会をお与え下さり、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2009-11-29 19:55:48

お礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 お話を受け留めました。受け留めましたが どうお応えしてよいか なかなか言葉が見つかりません。考えがまとまりません。

 いっそのこと 部分的に感じていること―― 一般とちがっていてもどうもこういう気もするということがら―― これを書いてみましょうか。
 ★ 『心にナイフをしのばせて』(奥野修司)
 ☆ のお話を聞いて その被害者の遺族である父・母・妹でしょうか この人たちは そんな加害者の闖入によって何も生活が乱されることはない。こう思われてしかたがないのです。人生が乱されても仕方がないのは 加害者のほうです。
 何か ほとけごころがあり過ぎるからなのか。感情移入がゆたかすぎるのか。度を過ごしているような感じなんですが みなさんはいかがお考えになるでしょう?
 全体の見方を少し外しても 何かそういう感じを持つのですが どうでしょう? 

 ★ 確かヘーゲルだったでしょうか、「歴史が教えることは、為政者や民衆が歴史から何も学ばないことだ」という言葉を喚起させられた次第でございます。
 ☆ そうですか。まだ学習が足りないのですね。
 そうだと思いますが ただ 被害者やその遺族が なぜ つらい思いをしなければならないのでしょう。悲しみの極みというのなら 分かりますが うちひしがれるかのようにその後の生活を生きなければならないとしたら これも 学習が足りない――あぁ 言ってしまいました――という側面を見ようとせざるを得ないのではないでしょうか。それとも わたしたち周りの者の支援が足りないということなのでしょうか。

 部分的にと言いましたし 事実そうだと思っているのですが もうこれで全面的に ワルモノになった思いです。こうこうこれだから それは成り立たないといったおしえを垂れていただけるなら たいへんありがたいと思います。どうでしょう。

投稿日時 - 2009-11-29 21:09:52

ANo.51

 回答番号:No.38(お礼欄)
【被害者の赦せないという感情の問題と 加害者の更生の問題】
 ◇:私も、私たちも被害者とともに赦せないと存じます。これは頭脳の論理の話では参りません。
 でもともに地上に来て、そして地上を歩き、去っていかなければならない。人間がどうこう考える事ではなく、赦せなく、そしてともに生きていく。
 そういう無残な行為は、接触し、その後ともに地上に居る上で、ハードルになるであろうし、雲散霧消はしないでしょう。
 事ある毎にそのことは意識され、影響し続けるでしょう。でも時間は展開していく。人生とはそんものかも知れません。
 すべきとされていることはしていかなければならない。
 ともに地上を歩くように、とされたことはしていかなければならない。のだと私は思います。
 私たちの考えることはその範囲の事になると存じます。
 こうすべきということを私たちが結論を出せないし、与えられた結論を度外視することもできない。
 わたしたちはともに生きていく。赦せようが赦せまいが。
 そして時間は経過する。私たちの思考はそういう中でのことになる。
 のだと存じます。論議ではなく、演繹、推論、弁証でもない。思索でもない。
 語り合う事はありえましょうが。これが人間の限界です。だと存じます。

投稿日時 - 2009-11-29 12:38:35

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 何とかして前向きにという願いのみで なお質問を引っ張っています 今は。
 むつかしい問題のようです。ごもっともな見方を述べていただきました。
 たとえば 被爆者の人びとは どうだろう?と思うとき おそらく述べていただいたように考えているのではないかと思われます。
 あるいはわれわれは勝手に(つまり相手の国の弱きにかこつけて)ほかの国に入って行ったのですから そのとき土地の人たちに与えた被害については どうか?
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしたちはともに生きていく。赦せようが赦せまいが。
 そして時間は経過する。私たちの思考はそういう中でのことになる。
 のだと存じます。論議ではなく、演繹、推論、弁証でもない。思索でもない。
 語り合う事はありえましょうが。これが人間の限界です。だと存じます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 


 ☆ ひとつすでに質問した主題ですが こういう問題もあるということで掲げておきたいと思います。
 《因果応報》の説は だめだという問題です。なぜならこの説によれば 被害に遭ったということはその人の過去の悪業の結果であり 報いであるということになってしまうのです。一般にこのことは まだ承知されていないのではないでしょうか? 
 倫理的な意味での因果応報説は まちがいである。または 応報であるかどうかは 人間には分からないと言わなければならない。こうだと考えます。
 あるいは この赦せないという憎しみの問題と輪廻転生説とをつなげるのは いただけないと思います。解決策にはならないはずです。二人として同じ人間はいないのですから。

 ということは 恨みも憎しみも おのれの一世一代の問題として捉えなくてはならない。そこからひょっとして窓が開かれ 問い求めるものが あるいは 問い求める場所が 得られて行くのかも知れません。あるいは おっしゃるように
 ★ 人間の限界
 ☆ ということが 答えの入り口であるのかも分かりません。
 のんきなことを言っていますが 過去をかかえつつも前向きにあゆむというすがたを問い求めたいと思います。

投稿日時 - 2009-11-29 14:08:14

ANo.50

 夜分恐れ入ります。Hidocchiです。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

> それはそうと Hidocchi さんも このmashumaro2 さんとのやり取りに参加していただきたいとも思いますが いかがでしょう?

 愚生でよければ、喜んで、ご参加させていただきたく存じます。早速明日にでも、mashumaro2様のご意見に対する感想を添えさせていただきたいと思っております。

 それでは、こちらこそよろしくお願い申し上げます。

投稿日時 - 2009-11-29 00:25:54

お礼

 お早うございます。遅くなりました。
 Hidocchi さん それはよかったです。
 ご回答をお待ち申し上げております。

 【Q:復讐に意味はあるのですか】と同じような主題になっていると思いました。いえ もともと主題は同じなのですが その焦点がともに 憤り・恨み・憎しみの感情の問題に当たってきたようです。
 それでは。

投稿日時 - 2009-11-29 10:13:50

ANo.49

 こんばんは、ご返答いただきましてどうもありがとうございました。Hidocchiです。

> 感情の扱い方 これが気になっております。《触らぬ神にたたりなし》の風潮と比例しているのでしょうか。そうではなく 人間のこころの底から起こる憤りなのでしょうか。

 第三者にとりましては、少なくとも、当初は《触らぬ神にたたりなし》の風潮がおおいかと思っております。ですが、被害者に感情移入した際には、”憤り”の感情が心の底から起こるように思われます。先ほどにも出てきました「罪を憎んで人を憎まず」でございますが、特に人(加害者)の反省のなさ等が見られた場合等はその傾向が見られるように見受けられました。

> 死刑廃止論をめぐっては わたしのほうからは深入りしない方針です。(ずばり切れるという理論がありましたら おしえてください。ただし 死刑は 刑罰には該当しないという理論はあるそうですね)。

 Wikipedia ”死刑存廃問題” を参照致しましたが、特別な理論はないようでございました。ただ、世論調査からは、国民の80%近くが”存続”を指示しているのだそうです。この数値からでは、当分は”廃止”の方向にはいきにくいかと思われます。また、下記の書籍はアマゾンでは”死刑問題”では、人気上位に位置(2位)しておりました。ただ、木村氏につきましては、批判的な方もブログでは散見されました(奥様の弥生様への批判も何故か多かったです)。
 門田 隆将「なぜ君は絶望と闘えたのか」
 下記videoをご参照いただければ、ご記憶の方もおられると思われます。
 http://www.dailymotion.com/video/x2morw_yyyyyyyyy-yyyyyyy_news

> よろしかったら おしえてください。(というこのような質疑応答の場で学んで行こうという姿勢になっていて やや申し訳ないのですが)。

 いえいえ、むしろ、愚生こそ、学習させていただいている次第でございます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
> Hidocchi様の様が脱落しておりました。
深く深く反省いたしております。 本当にごめんなさい。 すみません。

 全く気にしておりませんので、お気遣いは無用でございます。ただ、ご丁寧なお詫びの言葉には、厚く感謝申し上げます。

 駄文、ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。

投稿日時 - 2009-11-28 22:08:42

お礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 mashumaro2 さんのお言葉を ぶっきらぼうにも放っておいて澄みません。いつも 様をつけてくださっているていねいな方です。

 それはそうと Hidocchi さんも このmashumaro2 さんとのやり取りに参加していただきたいとも思いますが いかがでしょう? というよりわたしが応えられないところを補っていただければという虫のよいお願いになるかと思うのですが。よろしかったら 主題は広く共通ですので 規約に対しても 大丈夫かと思いますから どうぞよろしくお願いいたします。

 憤り の問題。第三者から見た場合と 被害者に感情移入した場合とに分けて考えてもらっていますが なぜかご見解と同じような傾向がわたしにもあります。あるいはわたしは 感情移入がより少ないと言わなければならないかも知れません。
 《罪を憎んで人を憎まず》は それでいいと思っております。

 ★ ”死刑存廃問題”
 ☆ 本村氏のヰ゛デオを見ましたが 正直に言えばわたしには かれは何か別の観念をたずさえているかに感じます。別の観念に振り回されているというのではなく その観念を自分のものとして自分のもとにたずさえているとは思います。
 ▲ ( 門田 隆将「なぜ君は絶望と闘えたのか」)~~~~~~~~~~~
 何度も挫折を繰り返し、司法の厚い壁に跳ね返され、絶望の淵に立ちながらも、青年はこの日、ついに犯人の「死刑判決」を勝ち取った。
 人は、これを九年にわたる青年の「孤高の闘い」だったという。巨大弁護団を一人で敵にまわして、今は亡き妻と娘のために、若者が愛と信念の闘いを最後まで貫いた――と。
 だが、その裏には、この九年間、青年を支えつづけた、これまた信念の人たちがいた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 本人でなくては分からないことがあるでしょうし 当事者の話をしっかり聞かないと予断を許さないということでしょうが 何か どういう闘いでどういう信念であるのかが いまひとつ分かったという方向へ行かないようにも思っています。(言いっ放しになりますが そういう感想もあると言いたいような思いです)。

 あと味のわるいことを書いてしまいました。
 吹っ切っていただきたいと思います。
 もう少し この質問にあたりたいと思っております。

投稿日時 - 2009-11-28 22:52:15

ANo.48

bragelonne様、忍耐強くお付き合いくださいまして本当にありがとうございます。

>☆ 被害者の母娘さんに わたしのほんとうの気持ちとこころを述べたいです。
>みづからの意志行為でないものごとに振り回されるのは 気の毒で仕方ないのですが どうかそれに対しては距離を置いて欲しい。もともと隔たりがあるということです。
>他人の意志をひとはどうにもすることが出来ません。その境目を捉えて欲しい。その上で怒りを見つめて欲しい。じぃっと見つめて行ってそこから みづからの言葉をつむいで欲しい。きっとあたたかい光を宿した言葉が 自分にも敵にも 得られ与えられるのではないか。・・・
 
そうなのですよね。
本当に本当にその通りだと思います。
自分自身の気持ちの整理はこれでつくかもしれません。
問題は「亡くなったあの子(兄)がさぞ無念だったろう、悔しかっただろう。」と故人を想い偲ぶ気持ちだと思うのです。
病死の子の歳でさえ親というものはいつになっても指折り数えると言いますから、ましてや…。

>☆ というこの種の問題は もはや哲学が考えるよりも たとえば文学が物語にして さまざまな人物像を描いていくことによって 共同体意識を持つようになるのでしょうか。テレビドラマでもけっこう流れているのでしょうね?

はい、仮名手本忠臣蔵(赤穂浪士の討ち入った時期もそろそろですね)も「敵討ち」が主題です。
封建制を経た歴史を持つ日本人の意識として深く沁み込んでしまっているのでしょうか。
私の大好きな「Le Comte de Monte-Cristo」の個人的な復讐劇とはちょっと性格を異にすると思います。
そういえばbragelonne様のお名前の由来をまだお伺いしておりませんでしたが…もしや”Le Vicomte de Bragelonne”?

すみません、テレビドラマは殆ど見ないのであまり詳しくはないのです。
復讐劇や敵討ちの題材って、他に何かありますでしょうか。
アガサ・クリスティの全員が犯人で一人一回ずつ刺していった、などに代表される推理小説なども復讐の題材の宝庫かもしれませんね。
なにげに日常のルサンチマンをはらしていたりもして?!

>えらそうに言いっ放したままに 却ってしておきます

いえいえ全くその逆で、根気強く説き続けなければならない大切なことと拝察致しております。
本当に骨が折れることと存じますし、別質問(復讐)におけるご回答も拝見させていただいた上で申し上げている次第です。
ましゅまろは頭が下がる思いで一杯なのです。

>中国では《人肉の食肉》が 一部の人びとの間では 習慣にまでなっていたとか。歴史上 中国だけではないようですが 宮刑と呼ばれる刑罰を受けて宦官がつくられました。

なるほど、そうなのですね。
中国では椅子とテーブル以外は何でも食べると揶揄されることがあると聞いたことがあります。
たしかオスマントルコのハーレムを司る男性召使(チーフ格?)も宦官でした。 
アジアの専制君主に使える男性宮廷人の宿命だったのでしょうか。
ウブな私には全く想像すら出来ないことですが。

>愛するという行為に出て しかも相手の鳥黐(とりもち)か膠のようなねばねばした態度に足を取られてのように もはやもがいても出られなくなってしまうという問題。
>これは 自分の意志行為でないものについては そのそうでないという距離をつねに保つとよい

そうなのですよね。わかります。本当に。
ただ、北朝鮮を思い出すと、ちょっと、と思うのです。
ですが、例のポルノ・痴漢問題を克服するには相応しいと考えます。
…「蚊がさした」とはこのことだったのですか?!

>★ 理念
> ☆ につきましては 経験現実にもとづいているとは考えています。《あやまちの認め》として おのれの身体=精神において《やましさ・後ろめたさ あるいは 顔の赤らめ》といった広義の生理現象が起こる(α)。
> これは 自由平等あるいは意思疎通の可能性が 経験現実であることを物語ると考える者です(β)。

すみません、αとβがどのように繋がるのかもう少しご教授いただけますでしょうか。

>いけにえをめぐる議論として 《第三項(いけにえ)排除》の理論があります。

これは次回に必ず。
明後日の朝にまたご回答申し上げます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。 

投稿日時 - 2009-11-28 13:30:12

補足

 ★ 忍耐強くお付き合いくださいまして・・・
 ☆ いえいえ こちらこそこんなに刺激的なご見解を それもいくつも寄せられるとはと――あぁ 《知らんがな もう》と言ったからですね ついついホンネが出ました まぁうれしい悲鳴ですね―― 久しぶりにたのしくいそがしくしております。その前の primeape さんにはわるいですが ri_rong さんのご投稿の頃から ギアがかかってきたでしょうか。いえ はじめからギアは入っています。ものは言いようですけれど。かれは怒らないと思いますが 景色が変わってきたのは 実際ですね。

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。

 ★ …「蚊がさした」とはこのことだったのですか?!
 ☆ なつかしいですし そのこころなんですよね。ベルギーの被害者少女が 事件は関係ないんだと宣言して ボーイフレンドと会見したとか。そうすすんで行って欲しいです。
 ★ 北朝鮮
 ☆ を同列に語れるのか?! とお叱りを受けるのも覚悟の上で 《ゆるす・ゆるさない》の能力は どうも 人間にはないように思われます。抵抗・批判・損害賠償そして罪の償いとしての制裁・更生 これらはすべて 当然のこととしてです。

 ★ 理念の αとβ
 ☆ これは 《広義の生理現象であること》が 経験現実であるということです。理念も この経験現象に基礎をおいていると言えると思います。《良心の呵責》というのは 観念の想像〔だけ〕ではなく 胸の生物物理的な現象だと思います。極悪人にも同じように起こるだろうと。だったら理念は 空想ではないのではないか。

 ☆☆ 食人風習
 ☆ は調べたら 日本でも記録・言い伝えがあるようでした。中国では 市場価格がどうのと書いてありました。
 ○ ヰキぺ:カニバリズム
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0#.E6.97.A5.E6.9C.AC

 ☆☆ 宦官
 ☆ については 対馬海峡は大きな防波堤になっているのでしょうか。ヨーロッパにもあるようですね。

 ★ ブラジュロンヌ子爵
 ☆ おっしゃるとおりです。ほんとは 英雄にあやかってダルタニャンと言いたいところでしたが 歳を考えて ぎゃくに次世代の若い人の名前にしました。でもかれは 戦死してしまうんでしたっけ。
 モンテクリスト伯は ドラマで見たのですが なんと重い復讐劇でしょうか。生涯をかけてですか。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 問題は「亡くなったあの子(兄)がさぞ無念だったろう、悔しかっただろう。」と故人を想い偲ぶ気持ちだと思うのです。
 病死の子の歳でさえ親というものはいつになっても指折り数えると言いますから、ましてや…。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここなんですよね。もしわたしが 《 sans coeur 》と呼ばれるとしたら ここなんです。親の死に悲しくはなりましたが 泣きはしなかったです。むしろうれし泣きを――と言っても 涙がこぼれるというだけですが――よくします。ワ゛イオリン演奏に泣きましたから。
 言ってみれば もうわたしのこころの中に入ってしまっていると割り切っているというような状態でしょうか。無理に何とかするというわけにもいかないですし。

 ☆★ テレビドラマ
 ☆ たとえば町の人びとの寄り合いを 演劇の上でかたちづくって行ってもよいかと思いました。やわらぎの集まり。井戸端会議のほかにも 何かいい名前があるといいですね。

 《ゆるす・ゆるさない》がわれわれ人間の能力にないという命題は どうも《自分の意志行為でないものごとと直接のかかわりを持たない》という考え方が いまのところ基本であるようです。
 そしてそのように意志行為でないことは その限りで無効の行為ですから 損傷を受けたら原状復帰が必然です。むろん損傷の結果 原状がそのまま回復されることは稀れなことですから いわゆる損害賠償となります。
 ということは 損害を賠償されてよろこぶわけには行かない。この気持ちが どうも《赦さん。赦せない》という発言につながるのでしょうか。
 いやぁしかし まだ分かりません。取り返しのつかないことについては 前向きにかかわっていくという行き方は むつかしいのでしょうか。

投稿日時 - 2009-11-28 17:38:55

ANo.47

申し訳ございません!!!

Hidocchi様の様が脱落しておりました。
深く深く反省いたしております。 本当にごめんなさい。 すみません。

 

投稿日時 - 2009-11-28 09:59:46

ANo.46

bragelonne様、こんにちは。ご丁寧なお礼を下さりまして本当にありがとうございます。

>     ○ 与: 同意してゆるすこと。仲間になること。《与党》
>     ○ 允: 承知してゆるすこと。《允許》

ご教授下さった一連の漢字を拝見しつつ、ふと漢字発祥の隣国を想起しました。
≪ゆるす≫にまつわる漢字の種類の豊富さもさることながら、≪容易にゆるさない≫についてです。
たしか…死してなお墓を暴き死体に鞭打つ、或いは子々孫々まで彫像を侮蔑の対象にする等々、容易に赦し水に流すを美徳とする日本とは隔たりがあった(ある)かと思います。
また、別の隣国韓国における歴代大統領の極刑判決と恩赦のパターンも日本とは何か違う≪ゆるす≫を感じさせられます。いかがでしょうか。

>☆ そりゃあもう 加害者の更生以上に被害者およびその身内の保護支援が大事です。更生の段階で 当事者どうしを会わせるということも試みられているようです。
>「修復的司法」Hidocchi さんにおそわった次の理念かつ施策。
>加害者の反省感情・謝罪感情を育み、被害者感情を軽減することなどを目的としている。

こちらのご教授につきましても大変勉強になります。Hidocchiにも感謝申し上げます。
欧米主導の司法システムなのですね。
修復的司法を支える共同体意識のコモンセンスも日本のそれとは異なるのでしょうか。

キリスト教といえば前回の痛ましい事件の父親が事件後に帰依していたようです(被害者少年、妹、母親は以前より信徒、両少年の通学校もカトリック系)。
また、被害者の慟哭、赦し、救済費用に関する引用を先の書より引用させていただきます。ご参考までに。

「父はよく神父さんにこう言ったそうだ。『息子が殺されたからといって、人を憎むことはできない。ただ私は平和でいたいのです』 人を憎まず、平和でいたい──。「シャローン」という名前は、平和でいたいという父の気持ちをあらわすために、ヘブライ語の「シャロム(平和)」からとったという。」(p170)

「父はキリスト教に帰依してまで兄の死を受け容れようとした。そして兄の死を納得したはずだった。だが、そんな表面の冷静さとは裏腹に、父の胸の奥底では、死の際まで無念さが渦巻いていたのではないだろうか。今でもそんな気がしてならない。」(p228)

「私は、みゆきさんの話を聞くたびに圧倒され続けた。 母親が二年近くも寝込み、髪が真っ白に変わり、自殺未遂まで引き起こしたなどとは想像もつかなかった。 またみゆきさん自身も、涙を忘れるほど感情をあらわさなくなり、親には猛然と反発し、はてはリストカットを繰り返しと、波乱万丈の人生を辿ったことに驚愕した。 
 とりわけ驚いたのは、母娘そろって、加害者を恨んだことがなかったと言ったことである。 恨まなかったのは、自分たちの家族を回復させ、本来の姿を取り戻すことに精一杯で、加害者を恨む余裕がなかったためだと知ったとき、あらためてあの事件の凄まじい破壊力を思い知らされることになった。…
…みゆきさんは、いまだに見つめられると身体が震える。 これもすべてあの事件を引き起こしたAが原因である。 それなのにAからいまだに謝罪の言葉ひとつなく、これで「更生した」といわれても、みゆきさんやくに子さんには白々しいだけだろう。 
 ごく単純なことだが、Aが『更生した』といえるのは、少なくとも彼が加賀見君の遺族に『心から詫びた』ときだと思う。『更生』とは、そのとき遺族が加害者のAを許す気持ちになったときにいえる言葉ではないだろうか。」(p267-268)

「2004年度で、日本政府が犯罪加害者の更生にかける支出は年間466億円。 これでも他の先進諸国にくらべたら少ないといわれるが、被害者のための予算が年間わずか11億円と聞けば、いかにこの数字がいびつかがわかる。 これも神戸の連続児童殺傷事件以降であり、それ以前はわずか数千万円と、加害者にかける費用の一千分の一以下であった。」(p250)

そして先の『少しぐらいなら貸すよ、印鑑証明と実印を用意してくれ、今は忙しいから一週間後に店に持って行くよ』と言い放ったA(本来なら慰謝料を払わなければならない立場でいまや地元の名士)が提示した金額はたったの≪50万円≫でした。


>罪にはきびしく人にはやさしくと言うとき 更生者には この和解と修復の道のりを自分で考えてあゆんで行けるようにと 辛く当たってのようにしてでも学ばせることが大事でしょうね。

はい、仰ることはごもっともなことでして、「更生は人生のリセットではない」という認識と罪の意識をしっかりと刻むよう処遇していくことが肝心だと思います。
上述の被害者の慟哭も加害者に罪の意識と謝罪があれば多少は緩和されたでしょうか。

そしてさらに私が思うことは、加害者少年もまた、当時の社会の縮図として犠牲者となった部分が少なからずあるのではないかということです。
たかだか14歳の少年、尋常ならぬ惨劇をもたらした当時の彼の心境だけを特異化して考察したり、事件を風化させてはならないはずです。
また、北朝鮮問題にも通ずるような被害者家族への世間の風当たりと現状の日本社会の支援活動の実態を鑑みても、なにか社会そのものにはスケープゴート(=被害者への差別意識)が必然なのではないか、その予防としての何か理念はあり得るのだろうかとも思いました。

>☆ 触らぬ神にたたりなしといった考えですよね。小学生の時から 修復的司法ないし町における和解会議のことを学ぶとよいかも知れないとは思うものの・・・です。

はい、本当にその通りだと思います。
小学生には「加害者の犯した犯行と更生に関する修復的司法、和解会議の必要性」を諭しながら、なお犯罪の芽を摘むべく、社会全体を通じて「社会のこどもたち」として目をかけることも大切と考えます。
簡単なようで結構難しいことかもしれません。
また、こどもの親世代の(共働きなどの理由による)地域社会への参加促進とコミュニティ意識の高揚は言わずもがな、高齢者の諸先輩方のお知恵とご助力が更に望まれるところとお願い申し上げる次第です。

>★ 「あやまちをおかした人」は他のいわゆる「社会的弱者」と等しくやさしさを享受できるものなのか。
>☆ 長い目では 然りと答えていくべきなのでしょうね。

はい。私もそのご意見に賛同致します。
但し、仮に惨劇の被害者家族になってしまった際には、心変わりするかもしれません。 すみません、移り気で。

以上、昨夜の補足もかねてご回答申し上げました。
被害者関連に関してはもう申し述べることは冗長ですので私の方からは控えさせていただきますね。
長文をお目通しいただくだけで十分感謝致します。本当に有難うございます。
また、信仰類型論に関してもゆっくり拝見させていただきたいと思います。

ちなみに私はbraglonne様の「意見を少しでも近づけるため」の対話の試みを高く評価するスタンスです。
意見の相違は致し方なくても、お互いの理解に少しでも努めることが何よりも肝心だと思うからです。


>男女の違いの説については 引っこめます。
>《愛していた》ではなく 《そのとき雷が走ったごとく愛した》という想定(読み)になるでしょうか。

いえ、bragelonne様の男女の違いの説は、私にはとても斬新に映りました。 ひっこめなくても全然よろしいと思います。
≪そのとき雷が走ったごとく愛した≫など、どこからこのような絶妙な表現が出てくるのだろう?とも感じました。
作家の水村さんならよろこびそうな。

はい、そうですね、bragelonne様のお勧めもありましたので、早速本日から読み進めることに致します。
「本格小説」は、何と申しましょう、行間に隠れた「孕み」(=感情)を想像するのが一番の醍醐味かもしれませんね。
小説に限らず、たとえばこちらでのやり取りのように、日常使用する語彙の持つ多義的で曖昧な「孕み」によって対話の展開がうつろうのと若干似ておりますでしょうか。

私には「本格小説」が「心境小説」としてカテゴライズされることを理解するよりも、bragelonne様が「本格小説」に対し「う~ん。はっきりせい!」と困惑なさるご様子を想像する方が容易なのですが?!

投稿日時 - 2009-11-28 08:51:23

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。
 mashumaro2 さんの湧き出るような社会公共的な共通感覚から繰り出されるご発言には たぢたぢです。これは いまはわたしは 急がば回れをひとつの方針にしている事情ゆえとは思っております。重心をまだ移さないでいようという心づもりです。(その前は 信仰と神学でしたから。さらにその前は ふつうの人間でした)。

 さてお応えのしやすいと思ったところまいりますが。
 ★ 私には「本格小説」が「心境小説」としてカテゴライズされることを理解するよりも・・・
 ☆ これは前回 両方とも大きく《読み》の自由な成果として捉えるならば カテゴリのような区別にはならないと理解したのですが どうでしょう? どちらも文学である。文学とは スサノヲ市民の自治・自立そして共同自治を扱う表現形態であると。

 ☆★ 雷が走ったごとく
 ☆ これは 《 coup de foudre 》だったですよね? ぱくりですよ。
 ちらぁっと思ったのですが――まだお読みになる前に敢えてですが―― よう子のほうが この雷の一撃を初対面で受けて しかも《殺したいと思う》ほどであったところ その気持ちを相手の太郎が引き受けてしまったということはないでしょうか? もしくは二人とも同時にであったか。――ううーん。いや 分かりません。全体として辻つまが合わないとだめですよね。

 ★ 《ゆるし》をめぐる日中韓の比較対照
 ☆ やはりまだこれから学ぶという感を深くしますが 聞くところによりますと 中国では《人肉の食肉》が 一部の人びとの間では 習慣にまでなっていたとか。歴史上 中国だけではないようですが 宮刑と呼ばれる刑罰を受けて宦官がつくられました。韓国朝鮮でも オリンピック会場になった場所は チャムシル(蚕室)というところで そのような形をした建物の中で 去勢の手術をしたと聞きます。
 日本はほとんどこれを受け容れなかったようです。これらは 牧畜(それへの去勢習慣)の関係からでしょうか。たとえばこういった慣習が影響しているのでしょうか。
 交流が望まれますね。

 ★ 更生したと世間では言われる少年の問題
 ☆ この少年には どういう言葉を言えばよいか分かりかねています。それでこちらは放っておいて 被害者の母娘さんに わたしのほんとうの気持ちとこころを述べたいです。
 みづからの意志行為でないものごとに振り回されるのは 気の毒で仕方ないのですが どうかそれに対しては距離を置いて欲しい。もともと隔たりがあるということです。
 他人の意志をひとはどうにもすることが出来ません。その境目を捉えて欲しい。その上で怒りを見つめて欲しい。じぃっと見つめて行ってそこから みづからの言葉をつむいで欲しい。きっとあたたかい光を宿した言葉が 自分にも敵にも 得られ与えられるのではないか。・・・
 (えらそうに言いっ放したままに 却ってしておきます)。

 ★★ 事件当事者が帯びる有徴性の問題 言いかえると 人びとが落ち入りがちな「異質を排除する」性質
 ☆ これには――失念していましたが―― いけにえをめぐる議論として 《第三項(いけにえ)排除》の理論があります。
 まづ 人には《承認欲望》があると言います。
 人は 存在としてまたその関係として 社会的である。しかも主観は 独立した歴史知性であるゆえ 自由な関係を希求する。しかも その自由への変身を まちがって追い求める傾向があると。
 
 独立主観であっても基本的に 関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ばしいものとして受け取る。そのとき ややもすると この承認を 自分から 追い求めて行く傾向を持つ。
 この承認欲望がおのれの身にはたらくと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を持つ。

投稿日時 - 2009-11-28 11:27:57

お礼

 そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段階でも その一様性あるいは同じ歌の合唱という情況だけでは まだ相互の承認が完成したとは見なされない。
 そこで 一定の基準を持とうとする。この誰にも共通の基準となるものが 《第三項》である。

 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである。追いやられ仲間ではなくなるという意味で 第三項と称される。このときそ社会は 《一》対《他の皆》という構図をつくる。《一》となった第三項 たしかに《除け者》として扱われる。
 第三項を皆で排除する構造が出来て初めて 互いの承認が実現し 人びとは安心して安定した《仲良し》状態となり《秩序》を楽しむと言います。
 このような傾向を人類は 悲しいかな残念なことに持っているのだと。今村仁司『排除の構造――力の一般経済序説』1992です。

 もっとも そもそもにおいて自由を見ていたように その自由への変身をも説いています。それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして わたしたちは獲得することができるとも言います。
 また 模倣欲望を実行している最終の過程で 《流行》現象の反面には起こると思われるように 《みんなと違いたい願望》が 同時にこれも はたらいてくれるとよいとも考えられています。

 排除された第三項は 歴史的にキリスト・イエスであるとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のことであるとも論じていました。
 第三項は それがいわば見事な排除であった場合には 排除し切ったあとで ぎゃくにそれを《聖化》すると言います。呪われて去った除け者を 生け贄と見なし それに聖性を付与する。
 したがって今度は この《聖なる第三項》を みなであがめる。このことを通して あらためて秩序と安寧をたしかなものにする。
 ですからそこでは はっきりした敵が新たに出来たなら 戦争にまでも 社会がこぞって容易に飛びつくことができる。うんぬんと。

 字数ぎりぎりです。ごあいさつをはぶく無礼をおゆるしください。

投稿日時 - 2009-11-28 11:31:35

ANo.45

bragelonne様、こんばんは。遅くなって申し訳ございません。

先の拙文につきbragelonne様が≪ゆづる≫を示して下さったように思います。
また、漢和辞典でお調べ下さって本当に有難うございます。
私など、全く思いもよらず、大変勉強になりました。

No.36の補足を拝見致しました。
 ○ 悪人や罪人にやさしく 悪や罪にきびしく。
 ○ あやまちをおかした人にやさしい社会。
 ○ これを 隣近所 町や村でならわしとする。

仰ることはお世辞抜きで大変素晴らしいものと思います。
ですが残念なことに、高い理想を掲げるほどに、世知辛い現実の酷さが露呈するように映るのです。
この理念を推し進めるにあたって更に考えるべき事柄が幾つかあるように思いますので補足要求させていただきます。

「あやまちをおかした者を赦す」というのは哲学の命題になり易いのだと思います。
また、共同体社会そのものが独自の使用言語(方言)や風習などの文化による「自他の差異性を認める」「異質を排除する」性質を有しています。
ある犯罪が生じた際、事件を通じて加害者、被害者ともに「有徴性」を
帯びるのです。

裁かれる被告人として加害者は公私ともに非難を浴びるものの、一連の裁判上、人権という観点からは最低限守られていると考えます。
ですが被害者はどうでしょう。
先の一昨年に成立した改正法により、殺人、強姦等の被害者家族は検察官を通じて裁判長に申し出ることが可能となり、晴れて許可された暁にようやく「被害者参加人」として一定の範囲で参加できるようになったばかりです。

また事件後に強いられる被害者の心身の苦痛は尋常ではなく、十分な補償を受けられず、相対的に加害者のそれより冷遇されているのが現状なのです。

『心にナイフをしのばせて』(奥野修司/文藝春秋刊)というノンフィクションをご存知でしょうか。
昭和40年代、高1の少年が同級生を殺害し(47か所めった刺し、かつ首を切り落とし放置)、少年院に収容され国家から無償で教育を享受し、出所後に大学を卒業し弁護士として「更生」した人物です。
かたや殺害された被害者の母親は苦しい年金生活を強いられ、少年からはロクな謝罪や賠償もなく、「お金がないのなら金を貸してやる。印鑑証明と実印を持って来い」とまで母親に言い放ったとされています。

これは本来の少年法が犯罪を犯した少年に対する保護処分と責任(刑罰)を課するべきものにもかかわらず、実際は一生償うべき責任認識や被害者家族への謝罪をおざなりにしてまで加害少年の更生第一と変質してしまっているたとえです。

むろん加害者全員が罪の意識を背負わないとは全く思いません。
ですが、中にはこのような輩もいるのです。

ですから、
> (2) 加害者の更生をどうあつかうか。
>法律の問題を望み見ながら 共同体がどう対処できるか。どう対処するか。

に関しては、加害者の犯した犯罪の程度質量を相応に鑑みたのちに、「更生≠敗者復活戦」と罪の認識、再犯防止と監視強化(出所後の被害者宅へのお礼参りの防止)、並びに被害者家族への全面的支援(カウンセリング費用や休職手当の拡充)が求められますし、共同体も一丸となって支援すべきと考えます。
そしてこれが完璧に成されてから加害者の更生を考えるのがスジではないでしょうか。

そして
>人間交通のあり方→ここでは特に 町における生活共同のあり方
> →ひとりの個人が《赦せない》事態に遭ったとき 
> (1) その憤りと憎しみと恨みをどのようにあつかうのか。

やはり≪赦す、赦される≫当事者間の問題と捉えます。
たしかに日本は法治国家ではありますが、被害者の憤り憎しみと加害者の更生とでは果たしてどちらが尊重されるべきなのかという問題だと思います。
ちなみに被害者の権利利益の保護のための刑事訴訟法の一部改正法が一昨年ようやく成立したばかりで、それ以前は被害者は加害者に対して損害賠償を求めるために民事訴訟を提起する必要があり相当苦痛を強いられたものと推察致します。

「あやまちをおかした人」は他のいわゆる「社会的弱者」と等しくやさしさを享受できるものなのか。
刑に服せば犯罪を犯した「有徴性」は薄まっても、被害者に刻印された「有徴性」は何ら薄まるどころか生きることさえ望みを絶たれるかもしれません。
社会の内に生きる私たちは多かれ少なかれこうした事件の「有徴性」と隔てた自分たちを暗黙のうちに認め安堵しきっている部分があると思います。

高い理想理念を掲げるには、まず何よりも、共同体社会を構成する一人一人の意識の高揚が一番欠かせないと思います。いかがでしょうか。
少しご意見を伺いたいと思います。

長くなりましたので、他は次回にまわさせていただきたくよろしくお願い申し上げます。

投稿日時 - 2009-11-27 21:18:05

補足

 mashumaro2 さん ご回答をありがとうございます。
 いやぁ むつかしくなってまいりました。

 まづ訂正があります。
 ☆☆ No.37お礼欄
 まちがい:○ 与: 同意してゆるすこと。《允許》
 ただしい:~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     ○ 与: 同意してゆるすこと。仲間になること。《与党》
     ○ 允: 承知してゆるすこと。《允許》
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 まづ Hidocchi さんにおそわった次の理念かつ施策を確認します。
 ◆ (No.46回答:“修復的司法”) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「ある犯罪について、その加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場を設けて、それぞれの関係を改善する事によって、加害者の更生などを実現しようとする司法のこと。
 加害者の反省感情・謝罪感情を育み、被害者感情を軽減することなどを目的としている。
 欧米ではこれを行う数多くの団体が存在。一定の成果を認める立場がある一方、これに反対する立場も存在する。近年、国内でも、一部で同様の試みが始まっている。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そりゃあもう 加害者の更生以上に被害者およびその身内の保護支援が大事です。更生の段階で 当事者どうしを会わせるということも試みられているようです。

 いくつか大事な問題点を挙げていただいています。
 ★ 「あやまちをおかした人」は他のいわゆる「社会的弱者」と等しくやさしさを享受できるものなのか。
 ☆ 長い目では 然りと答えていくべきなのでしょうね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 刑に服せば犯罪を犯した「有徴性」は薄まっても、被害者に刻印された「有徴性」は何ら薄まるどころか生きることさえ望みを絶たれるかもしれません。
 社会の内に生きる私たちは多かれ少なかれこうした事件の「有徴性」と隔てた自分たちを暗黙のうちに認め安堵しきっている部分があると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 触らぬ神にたたりなしといった考えですよね。小学生の時から 修復的司法ないし町における和解会議のことを学ぶとよいかも知れないとは思うものの・・・です。

 罪にはきびしく人にはやさしくと言うとき 更生者には この和解と修復の道のりを自分で考えてあゆんで行けるようにと 辛く当たってのようにしてでも学ばせることが大事でしょうね。

 ★ 「異質を排除する」性質
 ☆ これは 島国根性でしょうか。これはある程度 哲学の問題としても扱えるでしょうね。手前味噌になっておもはゆいですが わたしには信仰類型論という議論があります。ちょうど先日 amaguappa さんとやり取りした質疑応答がありますので よろしかったらざっと目をとおしていただければさいわいです。
 【Q:ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――】 
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5440380.html
 いま調べたら長い応酬になっていて申し訳ないようなのですが No.55・111・*139・*164・167・226で * 印の二件に信仰類型論を書いています。

 けっきょくこのように 基本的な考え方をおさえておこうという或る意味で横着な出発だったかも知れません。具体的な議論や施策にはまだ踏み込まないという考えを じつは むしろ持っています。つまり 長期的な見方をしようという心づもりではいます。
 でもここまでのことを学べて わたしもありがたいと思っています。

 どうなんでしょう? ここまで来ると
 ★ やはり≪赦す、赦される≫当事者間の問題と捉えます。
 ☆ というこの種の問題は もはや哲学が考えるよりも たとえば文学が物語にして さまざまな人物像を描いていくことによって 共同体意識を持つようになるのでしょうか。テレビドラマでもけっこう流れているのでしょうね?

 愛のパラドックスの問題もありました。
 愛するという行為に出て しかも相手の鳥黐(とりもち)か膠のようなねばねばした態度に足を取られてのように もはやもがいても出られなくなってしまうという問題。
 これは 自分の意志行為でないものについては そのそうでないという距離をつねに保つとよいのではないかと考えました。この点も さらに進めてすっきりとした見通しが得られればよいと思います。

 実際編・現場の問題 これにはまだへっぴり腰でいて歯痒く思っていらっしゃるかと思いますが ただし出していただくことがらについては 受け留めてまいりますので よろしくお願いいたしたいと思います。

投稿日時 - 2009-11-27 23:12:50

ANo.44

 こんばんは、Hidocchiです。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

 また、Wikipediaにて補足してくださりまして、厚くお礼申し上げます。

> 町や村で すでにその生活共同としての日常にそういう対話の態勢ですとか 協力の体制が出来ているということが 重要であるようにも思います。司法ひとりの問題と見るよりは 社会生活の全般にわたって 共同体が共同体として動いており その中に 更生の課題も組み込まれるかたちで 取り組まれていく。

 申し訳ございませんでした。愚生の舌足らずでございました。今回は司法のみのご説明となっておりました。
単に、司法の面から見ましても、共同体(コミュニティ)による“更生”の可能性が示唆されているわけでございます。従いまして、「他の(司法だけでなく)コミュニティによる協力体制」により、更なる“更生”効果が望めるのではないでしょうか? ということでございます。
 別言しますと、社会での現実生活におきまして、コミュニティが自然と(自ずから)、かような“更生”等の諸問題を課題として取り組んでいくということは、ベストな状態かと思っております。

> ☆ この風潮を翻したならば あとは みんなでうまくやって行けるように単純に思うのですが どうなんでしょう。

 確かに、仰るとおりかと存じます。ただ、こうした風潮(無視 or 空気による判断)をどのようにして排除していくことができるのかという問いに対しましては、現時点では、愚生には知恵はございませんが.....

> 《私的報復ないし自力救済》の否定という原則を その成り立ちについて明らかにしておきたい。こういう課題であるかと考えております。どうでしょう。

 以下に愚見を述べさせていただきます。

(1)《私的報復》の否定について
 2つの考え方があるようです。ただ、“復讐の連鎖”の阻止という概念は共通にあるようでございます。
1.国家により、被害者の代わりに報復する。復讐の権利あり。
2.社会秩序を守る。復讐の権利なし。

 なお、本国でも明治6年2月までは、復讐(仇討)が認められていたようです(太政官布告第37号として、仇討禁止令が発布)。ただし、その権利を行使できるのは、武士階級のみだったそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B5%E8%A8%8E からでございます)

 おそらく、上記2説におきましても、主張者の信条に関わるように見受けられました(単に、ブロブで適当に見ただけなのですが)。
 例えば、“復讐の権利あり” とは、加害者の心情を汲み取ったものであろうかと考えられますし、一方、“復讐の権利なし” では、一般的には、国家権力への危惧感を抱くひと、死刑廃止論者に多いように察せられました。

(2)《自力救済》の否定について
 ただ、民法に入るだけで、趣旨は上記と同じかと考えられます。ただ、「通説・判例は原則禁止の姿勢をとっている」 そうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%8A%9B%E6%95%91%E6%B8%88 からでございます)

 ご参考になれば、幸甚に存じます。

投稿日時 - 2009-11-27 20:50:28

補足

 Hidocchi さん ありがとうございます。よく分かりました。
 わたしは 私的報復で検索していたので 見つからなかったようです。急いでそうしただけに終わってしまいました。
 まづ 次のように公共の機関との連携は必要であるように思うようになりました。
 ▲ (ヰキぺ:自力救済) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 たとえば、自転車が盗まれて犯人と自転車の所在が分かっているとき、この自転車を奪い返す行為は自力救済にあたり罰せられる。
 こうした自力救済を容認すると、力が正義ということになり、実力行使を請け負う私的機関がはびこって社会秩序の維持が難しくなるためである。近代化にともない、権利のあるなしの判断や執行は裁判所によってなされるべきとされ、私人の介入を排した。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 市町村を単位として権力を考えてもよいかと思いますが 司法との連携も必須なのでしょうね。うかつでした。
 この説明は けっこう分かりやすいように思います。しかもそれでいて 殺害事件などに到ると 遺族の悲しみと怒りとは 《赦せぬ。死刑を要求する》となりがちです。(そう言えば この種の回答もあったようです)。自力救済の不可を受け容れても 刑罰には 個人の主観が介入しているかに思えます。やむを得ないのでしょうか?
 つまり 罪のつぐないとして極刑を望むという《憎しみ》の公共化も 感情や心情として一般に強いようです。なかなかこれをなだめることは容易ではないと思われます。

 例外についても述べているようです。
 ▲ (ヰキぺ:自力救済) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ 民法のなかで自力救済を規定した条文は存在しない。しかし通説・判例は原則禁止の姿勢をとっている。
 ○ 1965年の最高裁判決では、当該事件そのものについては自力救済にあたるとして棄却したものの、一般論として「力の行使は原則として法の禁止するところであるが、法律に定める手続によったのでは、権利に対する違法な侵害に対抗して現状を維持することが不可能または著しく困難であると認められ緊急やむをえない特別の事情が存する場合においてのみ、その必要の限度を超えない範囲内で、例外的に許される」と述べた。しかし判決として自力救済を容認した例はほとんどない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 緊急避難という場合で それとしての例外規定はふつうということなのでしょうか。そうなのでしょうね。

 感情の扱い方 これが気になっております。《触らぬ神にたたりなし》の風潮と比例しているのでしょうか。そうではなく 人間のこころの底から起こる憤りなのでしょうか。
 死刑廃止論をめぐっては わたしのほうからは深入りしない方針です。(ずばり切れるという理論がありましたら おしえてください。ただし 死刑は 刑罰には該当しないという理論はあるそうですね)。
 よろしかったら おしえてください。(というこのような質疑応答の場で学んで行こうという姿勢になっていて やや申し訳ないのですが)。

投稿日時 - 2009-11-27 21:26:07

ANo.43

>人知は たぶん自分で 最悪の場合などを想像すること
>を言うのではないでしょうか?

こういう発言に偏差値はないのでしょうか?

投稿日時 - 2009-11-27 02:29:35

補足

 そうですね。補足要求と言われても おっしゃっている意味が採れません。
 まづこの発言にも とうぜん 文脈があります。回答者の発言を受けてのものであることを踏まえて欲しいと思います。
 踏まえているということでしたら 
 ★ 発言に偏差値がある・ない
 ☆ という意味がよく飲み込めないのですが どういうことなのでしょう? 大した内容の発言ではないという意味でしょうか?
 もしそれだとしても その理由を述べるのが きわめてふつうの投稿だと考えます。

投稿日時 - 2009-11-27 09:04:28

ANo.42

オコリザルです。
A47で人知と言う言葉を思考に仲介するものとして引き合いに出しましたが、これを社会の第三者、世論、などとすると当事者外の赦さざる人々です。
赦す許さないの話しに割り込む世間様です。
これが無ければ人間たるもの何事でも許せるでしょう。
世論とは自分で無い者の考えであり迷いや煩悩です。
世論は個人ではありませんから、何者でもありませんから、これが「我は無い」です。
この我は無いは神格化されていますからさらに掘り下げて検証が必要でしょうが、我で無い、何者でもない、そんな思考が煩悩です。
そうするとお釈迦様の無の悟りとは支離滅裂です。

投稿日時 - 2009-11-26 22:57:14

お礼

 こちらのほうは 思索の問題のようです。

 ★ 人知 / 社会の第三者、世論
 ☆ これを持ち出すと 赦せない感情のほうへ片寄るということでしょうか?
 人知は たぶん自分で 最悪の場合などを想像することを言うのではないでしょうか。その場合には 怒りもこみあげてくるということかも知れません。
 世論は たぶん 世間の野次馬といったところのことでしょうか。たしかに すぐに首をつっこんできて損得勘定などの話をも交えるでしょうね。
 そういうところだと思うのですが。

投稿日時 - 2009-11-26 23:09:25

ANo.41

オコリザルです。
日常について世間話です。
10日ほど前私の勤め先に暴走した車が突っ込み壁を壊して柱を折る被害がありました。昨日内装の補修が終わったところで忙しかったです。
ちなみに車が突っ込んだとき私はトイレでおしっこをしていました。壁が破れた個所はといれから3メートルほど離れた場所でした。要するにドライバーさんのハンドル加減ではトイレに突っ込んで私はふりちんで、かつ、おしっこをちびった状態で救助される可能性もありました。
こんなのは笑い話ですよ。
わざわざ赦せなくするのは、ふりちんで発見される可能性を人知が教えるからです。
大袈裟に時わたりをもちだしますが、時間の流れに冷静でふりちんの醜態をさらす可能性を選択肢に乗せる必要が無い私にはその「もしも」は笑い話です。
ところが人知により判明しますが、そんな「もしも」に冷静でいられないで過度に被害者妄想をもつ方もいるでしょう。
そして赦せない理由を作るか、条件付きで赦すことを妄想します。
赦せない心情なんてそんなもんですよ。
現実に忠実であれば、または心情において現実に受け入れられない事がなければ、赦さないは発生しません。

投稿日時 - 2009-11-26 22:44:01

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 災難でしたね。壁・柱ぢゃ そうとう中に入って来たようですね。
 でも 感情は それほどでもないということでしょうか。

 ★ 現実に忠実であれば、または心情において現実に受け入れられない事がなければ、赦さないは発生しません。
 ☆ たしか こういう言い回しがありました。《理解できれば 赦せる》といった意味合いだったんぢゃないでしょうか。ことわざかどうかは分かりません。

 そうですね。ちょっとなまなましくて 言葉を控えてしまいます。大きなけがなどに到らなくて不幸中のさいわいでしたと思います。
 ★ 被害者妄想
 ☆ といった問題も出てきました。

投稿日時 - 2009-11-26 23:01:23

ANo.39

(質問文)人のあやまちを赦すことができますか

 赦せないから 「法を強化しろ」

 って言うんだろうね。

 そうすると 司法関係の従事者が増える。

 法がなくても豊かに暮らすことが出来るようになるのが 理想であるのを忘れてはいけない

投稿日時 - 2009-11-26 14:58:11

ANo.38

 それから、法と 犯罪 についての関係性を理解するためにもこちらをご覧ください。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-137903-storytopic-11.html

↑~~~高齢者による犯罪が急増している。高齢者人口の増加率をはるかに上回る勢いだ~~~

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/081107/trl0811071025001-n1.htm

↑~~~7日公表された犯罪白書では、高齢者犯罪のうち特に多い窃盗、傷害・暴行、殺人について、昨年東京地検・区検が受理した事件などをもとに特別調査を実施している。~~~

http://www.kobe-np.co.jp/rensai/200612kourei/index.html
↑高齢者犯罪の今  -「異変」の現場から

http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20080125/1201233045
◇ 何が 問題なのか。


http://blog.goo.ne.jp/mks13/e/d3262139af3c4a81476dffc450404348
↑~~~ことしの犯罪白書によりますと、刑法犯全体が減少するなか、高齢者による犯罪は増え続け、去年1年間に窃盗などで検挙された65歳以上の高齢者は4万8000人余りで、10年前に比べて4倍近くになったといいます。~~~
~~~厳しい格差社会の到来で、「勝ち組」「負け組」の二極化が進んだといわれて久しい。~~~

投稿日時 - 2009-11-26 14:41:53

ANo.37

訂正:

誤:それから私は 保護監察官にはなってはいませんが

正:それから私は まだ保護観察官にはなってはいませんが


http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/25/nfm/n_25_2_2_4_3_4.html
(引用)~~~高齢者は,その実人員は少ないが,各罪名中に占める比率が総数に比べて高い。これら高齢犯罪者に対しては,検察,裁判,矯正及び更生保護の各段階において,その身体的・精神的状況に応じ,適切な処遇が行われている。~~~

 とのことです。


☆高齢犯罪者について
http://ameblo.jp/hiromiyasuhara/entry-10022439673.html

 御参考まで。

投稿日時 - 2009-11-26 12:10:12

ANo.36

 あ、それから私は保護監察官にはなってはいませんが、高齢の保護観察処分を受ける人もいるようです。

 御参考まで。
http://hakusyo1.moj.go.jp/jp/48/nfm/n_48_2_5_5_2_2.html

投稿日時 - 2009-11-26 11:57:13

ANo.35

 回答番号:No.38:友人もこういうことをしていますが、ご覧頂いていると存じます:ご参考に:
 http://www.moj.go.jp/HOGO/hogo04.html
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E5%8F%B8

投稿日時 - 2009-11-26 11:24:18

ANo.34

回答番号:No.30

 こうお尋ねしたいと思いますが いかがでしょうか?
 ○ 罪のつぐないをした(つまり 刑期を終えた)人間をひとり そのおたくの町内に住まわせて 更生するまで面倒みてやってくれませんか。という依頼が舞い込んだら どうなさいますか?

◇:そういうことを委嘱される人って、名称がありましたよね。
  町内の誰かにその方が、ちょいとお話になるのでしょうかね。
  そしたら話がみんなにいって、商店の人にもいって、
  “・・・だって。”
  “ふぅん、あぁそう。”と別に手出しも、特別のことも必要や、求めがない限りしないで、普通のとおりにやっていきます。
  会話、世間話、相談事、挨拶。みな同じにします。なにかをわざとやることはありません。
 
 ★ 対象のその方が、存在している事を認識から落とします、いないことになります。
 ☆ ぜひこの島流しに遭わせるのではなく 一人前の市民になるよう面倒を見てやってくださいというお願いです。
◇:普通の市民生活ができるようにするのは、近所つきあいではないし、島流しにもしません。
  面倒はご近所さんという関係です。
 委嘱を受けた方や公的機関のやりかたに無関心にはしておりません。
 日常どのようにしているかはみんなが、目の端にして必要あれば、話し込む。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 対象の人のお人柄が何かで認められると、過去がどうであれ、きちんと相手をし、メンバーとしています。それ以上でも以下でもありません。赦すのなんののはなしではないですね。人間同士であり、お互いだということです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 日本中をこのような町にしたいと思いますので。島送りだけはしないで済むようにという方向なのですが どうでしょう?
◇:日本の庶民は、普通は人を島送りにしないと存じました。
  大それた事を考えないし、普通のお互いで毎日やっていますが。

投稿日時 - 2009-11-26 11:13:58

お礼

 krya1998 さん ご回答をありがとうございます。

 分かりました。自然体というのでしょうか。日常性の範囲である。とのこととうけたわりました。

 ◇:日本の庶民は、普通は人を島送りにしないと存じました。
  大それた事を考えないし、普通のお互いで毎日やっていますが。

 ◆ かくなる上はですね 日本中をそのようにしたいわけですから 次のご投稿にある保護観察官や保護司の仕事も大事ですし そこに次のようなことを合わせて考えようと思うのですが いかがでしょう?

 たとえば小学生の頃から 人に対して取り返しのつかないことを行なってしまった人が その罪の償いを終えてふたたび社会に復帰するとき その人が住む町や村は 更生の手助けをするし 手助けもしつつ更生することを見守っていくのだということ このことをおしえておく。
 特に保護観察官などの仕事をするわけでなくとも 人びとの誰でも そういった公共の仕事をささえる考え方を持つようにという趣旨です。

 ともかくこの問題は きめの細かい配慮をしないと何もうまく行かないような実際の仕事とかかわっているようです。
 被害者の赦せないという感情の問題と 加害者の更生の問題と これらは一見すると こちら立てればあちら立たずといったふうに両立しがたく見えるのですが そこを探っていくということではないかと思います。ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-11-26 13:20:43

ANo.33

bragelonne様、こんにちは。

論理的な思考が苦手で返答に窮すると煙に巻く反面、曖昧な解釈の余地を残すことで相手との決定的な亀裂を避けたいと願う悪い癖を私自身痛感しております。
かねてよりご指摘いただいていた答責性、明晰性を第一に心がけてまいりますし、身も蓋も無く何ら建設的でない内容であっても、他意など一切持ち合わせておりません。

>《ゆづる》があれば 《ゆるさん》という感情は 消えはしないでしょうが 主観の内におさまるかに望みが持てます。

はい、万人が≪ゆづる≫の精神を多少なりとも持ち合わせていたならば望みが持てます。
ですがどちらかというと理念上の指針的性質のものである以上、現実にこれに則るべきとは残念ながら言い難いです。

>《承知しない》といえば 《ゆるさない》と言っているのと同じではないかという物言い
>《おまえの罪を承知せんぞ》とは言わないですね。

はい、何か違和感を感じます。
≪おまえの罪を「認めないと」承知せんぞ≫というのはいかがでしょうか。
この「認めないと」の部分、相手の意識に対する干渉の有無が≪ゆづる≫と≪赦す≫の差の一つではないかと考えております。

>存在じたいは おのれの存在と同じように 愛している。だけれども まちがいやあやまちについては とことん憎んでやって 直さなければ承知しない。

はい、仰る通り、まず何よりも存在自体を認めることが大前提で非常に重要なことだと思います。
そしてそこから先が問題で、夫婦家族の間柄でさえ上述の理屈が容易ではありません。
あかの他人だからではなく、身内だから、愛しさがこみ上げるからなおのこと。
≪存在のみを果てしなく愛し、間違い過ちだけを憎み是正させる≫というのはとてもとても難しいと思います。

いえ、だけれどもの手前の≪愛する≫という段階で既に破綻してしまっているとも考えられます。
夫婦であれ、家族であれ、例の北朝鮮問題であれ、相手を愛そうともがいても、結局は逆に相手に自らを貪り取られてしまう、というパラドクスを内在しているのです。

>個人の意識における赦しの変遷ですか

はい、そもそも≪赦す≫ということはどういうことか。
近代以前のそれは専ら神との関係性が主として意識づけられ、むろん中世ヨーロッパでは「社会」を通じた更生システムなどありようもなく。

その≪赦す≫が幾許かの個人という意識の萌芽と共に徐々に神の手から離れ、より深く自らの内へと深化していき、他方では「社会」「法」との関係性に主眼が置かれつつ共に変遷していったとみなすならば、≪赦す≫そのものの判断基準も時代と思想哲学の影響を大いに受けてきたとは考えられます。

>☆ の問題が いわば更生者とのつき合いの問題以上に差し迫ったかたちで起こっていて もしその問題をときほぐすことが出来たなら 更生者の受け容れも あるいは容易にできるようになるかも知れない。そういう見方ですね。おそらく krya さんの町の共同体論と重なっているのでしょうね。

はい、krya様の共同体論を拝見した上で、夫婦、家族単位で捉えることは可能だろうかと思いました。
たしかに社会に対する理念はやはり大事だと思います。
アナーキーではとても済まされません。

しかし≪ゆづる≫≪赦す≫それ自体に相手から搾取されてしまいかねないという矛盾を孕むことを鑑みると、例え理念上の希求であれ、いっそのこと≪無私≫を持ち出した方が手っとり早いとも考えます。

また現実的には、同じ地域共同体とはいえ赦す立場の人間と傍観者の人間とでは自ずと更生者に対する意識の温度差が異なるはずです。
そこの摺り合せに関しては理念よりも情や法、社会システムに則った方が「幾許かの個人」の意識が尊重されるのではないでしょうか。

ps:
>―― 《殺したいと思った》は どうも男女間の感覚に起因しているのではないか。とも思うのですが どうでしょう? はっきり言えば 男はないですよね? つまり太郎は男ですが 書いているのは 女性です。――これも課題です。(問い求めの上での発言の範囲ですよね)。

この件につき男女の意識差について考えてみました。
ですが、私自身の半生に照らし合わせても、正直なところ全く思いつきません。
イメージ的には男女差というより≪殺したいと思った≫ほど≪愛していた≫愛憎の深さや自己愛の強さだと思いますが。
また、こちらの書は皆様方のご感想が薄れてからでないと先入観ばかりが先行してしまうと思い、手元に置きながらも未だ読めずにおります。申し訳ございません。

>☆ これは ちょっと問題あるんぢゃないですか。けっきょくのところ 作品の内部世界とは別個の世界を 読み手が創作し繰り広げるということでしょう? はっきりとした第二次創作ということではないでしょうか。わるいという問題ではなく 主題が別になると思うのです。ma・・・さんにでも訊いてみますかね。

ある一冊の本に感銘し、時をおいて何度か読む度ごとに新たな発見をしたり、作中の人物に興味を抱いてみたりと、私は以前読んだときと随分印象が異なることが殆どです。
作家のメッセージ性が変質しているのではなく、読み手である自分自身が以前と変化しているのだと思い、我ながら楽しいと感じます。
根が優柔不断でストイックさが大の苦手だからかもしれません。

これにつき、やはり作品の主題とメッセージ性を第一義と捉えて問題ありと思うのであれば、自らが作家の意図したものを可能な限り忠実に正確に捉えようと読めばよろしいわけで、仰るところの第二次創作であろうが主題が別になろうが、作家が書いたものとはそのように変質していくものだと思うのであれば、そのように愉しんで読めばよいだけのことのように考えております。

どちらに魅力を感じるかは個人の読書スタイルの自由でしょうし、このような場合にこそ「個人」という呼称は相応しいと思います。

ちょっとゆっくり回答させて下さい。どうぞよろしくお願い申し上げます。

投稿日時 - 2009-11-26 11:13:47

補足

 mashumaro2 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
 なお No.36補足欄の中間のまとめも ぜひごらんください。

 何本かイッポンを取られて bragelonne くんは立ち直れるのでしょうか。
 ★ 仰るところの第二次創作であろうが主題が別になろうが、作家が書いたものとはそのように変質していくものだと思うのであれば、そのように愉しんで読めばよいだけのことのように考えております。
 ☆ つまり《創作》も《読み》である。何の問題もない。
 そうしますと――ただしですが―― 本格小説と心境小説を分ける意味もないことになると思うのですが それでいいですよね?

 ★ どちらに魅力を感じるかは個人の読書スタイルの自由でしょうし、このような場合にこそ「個人」という呼称は相応しいと思います。
 ☆ 分かりました。イッポンの上塗りを喰らいました。《自由》は とうぜんわたしの専売特許ではないです。
 ここまで見通しておられるのなら もう今すぐに読まれても何の問題もないと思いますよ。

 ★ イメージ的には男女差というより≪殺したいと思った≫ほど≪愛していた≫愛憎の深さや自己愛の強さだと思いますが。
 ☆ 男女の違いの説については 引っこめます。ただ 感情の深さ強さにつきましては 初対面でのその思いという想定(額面どおりの解釈)ですので どうだろうかとも思ってしまいます。でも雷に打たれたのなら そうなるでしょうか。これは 保留・継続ですね。
 つまり 《愛していた》ではなく 《そのとき雷が走ったごとく愛した》という想定(読み)になるでしょうか。

 ★ 理念
 ☆ につきましては 経験現実にもとづいているとは考えています。《あやまちの認め》として おのれの身体=精神において《やましさ・後ろめたさ あるいは 顔の赤らめ》といった広義の生理現象が起こる。これは 自由平等あるいは意思疎通の可能性が 経験現実であることを物語ると考える者です。
 ということは 《ゆづる》ときには ゆづっても共通の理解が得られないなら どこまでも対話を求め続けてもよいという考えも出来ます。
 ただ すでに取り返しのつかない事態が起きていて 赦せないと感じる場合というのが この質問ですね。

 歴史的な変遷につきましては きわめて大雑把なことを言いますが 現代のいわゆる法治社会においてという条件で考えていただいて結構だと思います。ということは そうでなかった時代と社会との比較対照をとおして 現代を考えるといった見方になるでしょうか。

  人間交通のあり方→ここでは特に 町における生活共同のあり方
 →ひとりの個人が《赦せない》事態に遭ったとき 
 (1) その憤りと憎しみと恨みをどのようにあつかうのか。
 (2) 加害者の更生をどうあつかうか。
  ☆ (1)は個人が個人としてその内面において処理せざるを得ないもののようです。なお どう考えていけばよいか。
 (2)は 法律の問題を望み見ながら 共同体がどう対処できるか。どう対処するか。

 あとには 大きな問題が提起されています。愛の逆説でしょうか。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 いえ、だけれどもの手前の≪愛する≫という段階で既に破綻してしまっているとも考えられます。
 夫婦であれ、家族であれ、例の北朝鮮問題であれ、相手を愛そうともがいても、結局は逆に相手に自らを貪り取られてしまう、というパラドクスを内在しているのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 継続審議ということになると思うのですが いまひとこと述べておけとなれば 安易には次のように言うことになります。
 《赦す・赦さない》の思いそしてそれにまつわっている憎しみ等々の感情 これについては 人間はその能力において むしろなじまない現象なのではないか。これです。
 きわめて直截的なこころの底から起こるような人間現実なのですが それでも その現実は 《わたし》の意志行為とは基本的に別である。その限りで なじむべき現実ではない。
 論証がまだです。初めからの命題ですので みなさんともども 論究していっていただきたいと思います。

 昔の対話に戻りましたでしょうか? その間お互い水準を挙げて来ているでしょうか。この環をひろげて行けますでしょうか。

投稿日時 - 2009-11-26 12:59:15

お礼

 おぎないます。今頃ですが 漢和辞典を引きました。(ヱブでは 見つかりませんでした)。

 ▲ (《ゆるす》を表わす漢字のそれぞれの意味) ~~~~~~~~~
 ○ 許: それでよいと認めてゆるす。勝手次第というたぐい。《許可》
 ○ 与: 同意してゆるすこと。《允許》
 ○ 免: 刑の執行をやめる ゆるしてやる。《赦免》
 ○ 放: 追いはなして自由を与える。 《放免》
 ○ 宥: なだめゆるす。罪をみのがしてやる。《赦宥》
 ○ 原: 罪のある者をその実情によってゆるすこと。《原宥》
 ○ 恕: あわれんでゆるすこと。《寛恕》
 ○ 容: 堪忍してゆるすこと。《容恕》
 ○ 赦: 罪をゆるすこと。《大赦》
 ○ 釈: ときゆるめて ゆるすこと。《釈放》
 ○ 肆: 心まかせにさせること。《放肆》
 ○ 縦: 肆に同じ。《放縦》
 ○ 聴: 先方の望みをききとどけて ゆるすこと。《聴許》
  (貝塚茂樹ほか編:角川漢和中辞典 1959初版)
 ▲ (承知) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ 承: 【解字】 ・・・手を上にのば(昇)す。手でうける(請)意。
 【字義】 うける。うけいただく 2.うけつぐ。ささげる 3.とどめる 4.たすける 5.しのぐ 6.次第。順序 / [国訓]うけたまわる
 ○ 承知: 主旨をうけたまわって知る 2.知っていること。わかっていること / [国訓]聞き入れる。承諾 
 ○ 承諾: 承知する。許す。承知。
 (同上辞典)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ≪おまえの罪を「認めないと」承知せんぞ≫というのはいかがでしょうか。
 この「認めないと」の部分、相手の意識に対する干渉の有無が≪ゆづる≫と≪赦す≫の差の一つではないかと考えております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まだしっかりとしたお応えをし得ないでいます。澄みません。

投稿日時 - 2009-11-27 14:08:14

ANo.32

オコリザルです。
連続投稿です。

条件付きで赦す。
条件付きで謝る。

このような行いが「赦す」と言う観念に色を付けているだけでしょう。
主観内に収まる個人的心情から発展させて、全ての場合で赦せる事が相互に理解できるかどうかが今回の御質問なのでしょう。

投稿日時 - 2009-11-25 23:44:27

補足

 みなさんへ。
 中ほどのとりまとめです。

 踏み出しは こうです。
 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 われらは ひとを愛しあやまちをにくむべし。
 あやまちゆえに ひとをにくむべからず。
 ひとゆえに あやまちを愛すべからず。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   * (アウグスティヌスのぱくりです)。

 旗じるしを得ました。
 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から
       《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 里程標の先に見えるものは 
 ○ あやまちをおかした人にやさしい社会
 ○ 悪人や罪人にやさしく 悪や罪にきびしく。
  (= 罪を憎んで人を憎まず。)
 ○ これを 隣近所 町や村でならわしとする。

 ○ 隣りびとというよりは 男女の間柄や夫婦そして家族という人間関係の問題が 基礎にありました。これが 集団としての核であるでしょう。

 ○ 《ゆるし》の思想というものもあるでしょうか。

 ○ 文学(アニメ・マンガを含むのでしょうか?)・映画演劇 あるいは美術・音楽などなど幅広く芸術は 《罪を憎んで人を憎まず》の思想を体現した創作活動なのでしょうか。
 (中身の吟味も必要でしょうね)。

 ○ 法律やもろもろの制度については 追って考えよう。

 ☆ そこでなお 罪を憎む気持ちが《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ》といういきどおりになって治まらない という問題があるでしょうか。そして 憎しみや恨みつらみの問題も扱っておくべきでしょうか。あるいは ふるいのですが 復讐という問題もくすぶっていましょうか。
 サハリン島やオーストラリアは 島流しの行き着く先でした。今では――変な言い方であり 失礼にあたるのですが―― 更生しきっています。この時間の幅を短縮させて つぐないを終えた者を町のど真ん中への島送りとする。といった方向は どうでしょう?

 ちらっと触れるならば 人間には 非思考・超現実のもんだいがあります。
 【Q:慈悲は経験現実か】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4531636.html
 【Q:なぜ神はイエスをこの世に送ったのか】
  (わたくしの回答No.4&17&19)
  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3093850.html
 ☆ うまく哲学に導けるというひとは そのようにご回答をお寄せください。
 

投稿日時 - 2009-11-26 11:23:01

お礼

 ★ 全ての場合で赦せる事が相互に理解できるかどうかが今回の御質問なのでしょう。
 ☆ いや そこまでは 実際の問題としてむしろ無理だと考えています。それは ううーん 哲学の問い求めとして 理念的に考え方の上で追究することがあるのかも知れませんが どうですかねぇ。どうもそれだと あたまの中での体操であるように思えるのですが。

 ですから それよりは 出来ることがらにおいて処理をきちんとやっておくということ。それをやっておけば むしろそのような・つまり更生の実現というどちらかと言うと外面の態度や生活の方面で きちんと事後処理が出来たならば 〔むしろ〕その外面のつぐないによって 内面が影響を受けるとさえ考えられるかも分かりません。

 どうも厄介な問題を扱っているようですね。

投稿日時 - 2009-11-25 23:57:33

ANo.31

オコリザルです。
A33と34を比べてみると、
謝罪を受け入れた後の将来的な発展と、条件付きの謝罪の受け入れは違う事が判ります。
考えるのが面倒ですから、乱暴に条件付きの謝罪の受け入れは赦しではないとして、普通の人も大抵は日常でいろいろな事を赦して生きている。
したがって、大体まあ、赦せないほうが例外である。
突き詰めると全てが赦せる。

今回はいい加減な回答です。

投稿日時 - 2009-11-25 23:16:07

お礼

 まぁ 忘れることもありますし 仕方のないことだと諦める場合もあるでしょうし。
 ただ ですから 少なくともその加害者が ふたたびは同じあやまちを繰り返さないことを願っているのだと考えられます。ですから 内面における赦す・赦さないはあたかも内面におさめておくかたちで この更生の問題をしっかりと実現させることができたなら 大きく前進したことになると見ることができるかも知れません。
 とは言うものの たしかに憎しみや恨みの問題に関しては しこりが残るといった大きな問題があるので これを問わないでおくというよりは なかなか手がつけられないので 手をつけられる方面においてきちんと処理しておきたいという・ただそんな次善の策であるかも知れません。

投稿日時 - 2009-11-25 23:50:32

ANo.30

オコリザルです。
今回は材料集めです。

赦しは主観内で収まる個人的な心情なので、条件付きで赦す事は偽りであると考えます。それでは自己完結しないからです。
謝罪を要求するだけで条件付きで赦す事です。

反社会的な行動の更生のみが罰です。
法に触れれば裁かれることになり、法に触れない反社会行為は、他者から阻害される事となります。
社会との関わりはそうでありますが、個人的に嫌いになる場合もあるでしょう。
その、個人的に嫌いになる理由が社会に通用する公平さをもって正当であればただ一個人に謝っても済まないでしょうね。

投稿日時 - 2009-11-25 23:06:51

お礼

 そうですね。

 細かいことを言えば つぐないが 物によって成し得る場合には 交渉に入ることさえありますね。それだけでは赦せないとか それなら赦すとか。ま これは すでに和解が成立しているところから進める交渉ということで あまり深入りはしません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 個人的に嫌いになる場合もあるでしょう。
 その、個人的に嫌いになる理由が社会に通用する公平さをもって正当であればただ一個人に謝っても済まないでしょうね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは その嫌いになった理由を公共の前ではっきりさせておけばよいかも知れないですね。問題が明らかになっているなら 内面における赦す・赦さないとはあたかも別個に 公共の問題としてみんなで取り扱っていけるし 判断が一般的なものとして発表しうるまでになると思います。

投稿日時 - 2009-11-25 23:42:13

ANo.29

オコリザルです。
他の回答者様に表明しますが、bragelonneさんと私との対話のみが質問の本流であるとわみなさないでください。

実を言うと私は普段の日常で謝ることで解決させない癖があります。
もちろん謝る事はあります。
謝る事で一区切りがつき、さらにその先に発展がある場合のみタイミング良く謝ります。
反面として、意地を通すかの如く謝罪を要求されても、あやまらない事があります。安易に謝罪で解決しようとする相手には特にそうです。
他者から謝罪を受ける時はまちまちでして、謝ることで解決しようとする場合は、謝罪の言葉はただ聞き流すことにしています。
謝罪を通した交流が可能であれば、それだけで「人は過ちを赦すことができる」となります。
赦せないとは、普通で無い状態であると私は考えます。むしろ赦せない事が例外的事例です。
A2の場合は死による決別と言う特別な場合での話です。

投稿日時 - 2009-11-25 22:49:47

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 たぶん 交通(まじわり)における円滑さを求める側面もあるでしょうが 基本的に 人間関係における信頼関係の問題をおっしゃっているのだと見ます。あいさつや表現によって決まるものではないのだと。

 ただそのことと 赦す・赦さないの問題とは 一対一には対応していないように思うのですが どうでしょうかねぇ。

 ★ 赦せないとは、普通で無い状態であると私は考えます。むしろ赦せない事が例外的事例です。
 ☆ ううーん。どうもこれは まだその判断の基準がわかりにくいところですね。
 ★ A2の場合は死による決別と言う特別な場合での話です。
 ☆ その特別な場合にも《赦せる》ということでしょう? いまひとつ一般性としては わかりにくいように思います。重ねて述べるようですが。

投稿日時 - 2009-11-25 23:32:10

ANo.28

お久しぶりです。

以前≪ゆづる≫という問題につき、こちらでご教授いただいたおぼえがございます。
で、こちらの質問を拝見しながら≪赦す≫と何がどのように違うのだろう?と何度も自問しておりました。

「法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になる」とのご指摘ですが、私はこの質問を目にした時、社会を構成するの最小単位である「一組の男と女=夫婦」の相克や愛憎を真っ先に想起致しました。
もしくは「家族」でもよろしいかもしれません。

ライフ・カテゴリーにて浮気なり家族の不祥事に関して、日夜繰り広げられる質疑応答に接するごとに、

>赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。

という仰るくだりが的を射ていると私も考えます。
ですが、「突きつめていけば、それは相手を赦すことができない」のではなくて、どうも「赦す立場である自らを赦すことができないし、その能力をも持ち合わせていない」と映るケースが多く、その質問者の過去の生い立ちやしがらみも絡むせいか、解決への困難さが極まっているようにも思えるのです。

≪ゆづる≫と異なる≪赦す≫という問題は、より自らの意識を相手に投射しやすいとも言えるでしょうか。

質問の流れが反れるかもしれませんね。
ここに一言お詫び申し上げておきます。

また、ヨーロッパにおける法制度の整備、並びに個人という意識の発露の前後で≪赦す≫の意味合いが変わったことなどあるのだろうか、などとも考えております。

投稿日時 - 2009-11-25 20:59:27

補足

 マさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。どうも文字通りには違反行為になるやに思いますが 直前のリさんに怒られどおしになってもいけません。
 それと そのやり取りの中で ふたつ主題が挙がっており ほかの方のご見解をうけたまわりとう存じます。よろしければ 例によって最大限に自由にご投稿をお寄せくださるよう願っておきます。

 なるほど 《ゆづる》があれば 《ゆるさん》という感情は 消えはしないでしょうが 主観の内におさまるかに望みが持てます。と感じます。《きちんとふつうに人間として生きよ!》と最大限に ののしるかのごとく 叫んでやればいい。存在じたいは おのれの存在と同じように 愛している。だけれども まちがいやあやまちについては とことん憎んでやって 直さなければ承知しない。

 あぁ そう言えば 《承知しない》といえば 《ゆるさない》と言っているのと同じではないかという物言いがありました。どうなんでしょう。《おまえの罪を承知せんぞ》とは言わないですね。どこか意味や用法が違うのでしょうね。

 ★ ≪ゆづる≫と異なる≪赦す≫という問題は、より自らの意識を相手に投射しやすいとも言えるでしょうか。
 ☆ そうですか。たぶん実際の現場〔というのでしょうか〕の消しも消されぬ現実なのでしょうね。そして
 ★ 夫婦の相克や愛憎 あるいは家族
 ☆ の問題が いわば更生者とのつき合いの問題以上に差し迫ったかたちで起こっていて もしその問題をときほぐすことが出来たなら 更生者の受け容れも あるいは容易にできるようになるかも知れない。そういう見方ですね。おそらく krya さんの町の共同体論と重なっているのでしょうね。

 わたしは 実際の現実は 応用問題だと思うくせがあっていけません。(あるいは 面談でなければ埒が開かないと思うくせです)。
 そこへ持ってきて 
 ★ また、ヨーロッパにおける法制度の整備、並びに個人という意識の発露の前後で≪赦す≫の意味合いが変わったことなどあるのだろうか、などとも考えております。
 ☆ 知らんがな もう。こんな研究したことないです。別の質問を誰かが立てるか何かするかですが とりあえずこの質問にも さわりなどでも提出してみてくださいますか。みなさんとともに 扱い方や方向を決めていけばいいのでは?
 法律制度は 細かくなると扱いにくくなるかも知れませんが 個人の意識における赦しの変遷ですか これについて 一たん発車させておいて様子を見てもいいのではないですか。

 いそがしくなって来ました。

投稿日時 - 2009-11-25 22:19:13

お礼

 おぎないです。(11月27日)

 ★★ (No.37回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかし≪ゆづる≫≪赦す≫それ自体に相手から搾取されてしまいかねないという矛盾を孕むことを鑑みると、例え理念上の希求であれ、いっそのこと≪無私≫を持ち出した方が手っとり早いとも考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《無私》は 幅広い思想的な概念ですので 一概に規定してしまうわけには行かないでしょうが いつも次のような注意書きをわたしは出しています。
 ▲ (ナーガールジュナ『中論』の中村元注釈) ~~~~~~~~~~~~

   《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは
  存在しない。
   《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものを見
  る者は 〔実は〕見ないのである。
    (『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)

 という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。
 チャンドラキールティの註解によると

   《自我意識が無いこと》《わがもの》という観念を離れたこととい
  う独立な原理または実体を考えるならば 実は事物の真相(諸法実
  相)を見ないこととなる。(『プラサンナパダー』)

 という意味であるという。・・・
    (中村元『龍樹』2002 pp.225-226)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 一概には規定し得ませんが。

投稿日時 - 2009-11-27 14:53:46

ANo.27

 投稿を続けます。

> 《外在批評》として味わう作品は 虚構としての小説であり文学であると思われますか?

 例えば、こんな経験はおありでしょうか。初めて読むはずの小説なのに、どういうわけか結末が朧に予感されて、ふと感じただけのその予感が、どんどん読み進むうちにやがて確信へと変わってゆく。
 既視感にも似た奇妙な体験です。そして読み終えると、何とも言えない訝しさが残り、その理由が何なのかに囚われてもう一度ページをくって読み直すと、驚くことに先とは違って物語のまるで違う側面が見えてきたりする。大まかにいうと、こんな経験のことです。

 夢ではなく、ちゃんと読んでいたにも係わらず、どうしてこんな誤読をしてしまったのかと呆気に取られてしまうような、そんな経験です。外在「批評」という表現にちょっと御幣があるかもしれないですが、これはどういう事かというと、物語の内部ではなく、(内部が誘引しているのでしょうけれど)外側に別な世界を創作してしまっているんですね。

 ある作品を読み、そこから何らかを感受する。その読みはもちろん、読者の創作活動です。この創作活動について、ひとつの仕方としては作品の内部世界との合一を目指し、内部世界を読み手の内に忠実に再現してみせることに心血を注ぐ方法がある。と同時に、もうひとつの仕方として、内部世界にはきっかけだけを求め、決して合一を目指さないという創作もあるのだろうと思います。
 批評というのはこれらの活動の先端を行っているだけで、どちらも文学であり、どちらも創作活動であるという点では変わりはないと僕は思いますよ。


 さて、思考実験のお話は興味深く読みました。

 ここでも同じ屋根の下で暮らす事になった彼らと、彼らとは境涯の違う(という事になっていますが)太郎という図式がありますね。《殺したいと思った》は単なる誇張――つまり事実としてはおかしい――だけではなく、心境においては、純粋に主人公の気の持ちようを描いているのだと思います。
 だからこそ、主人公の抱いている心境は矛盾している、あるいはよく分からない――もしくは何か他に理由があるんじゃないの? と感じられてしまう。
 ともかく、この男はどうも白黒をはっきりさせてない。僕流の書き方ですが、これは物語の構造がそう思わせているのです。それがとても現実に近しいのですが、

 読者にとっては、そこで辻褄を合わせるべく、その心境の変化に対してそれらしい時間的順列を与える読みが生まれてきます。そしてこの読みこそが、この復讐物語の構造の深みに読者を誘うようです。
 作者に白黒はっきりさせよと要求する動機は、おそらく《更生せい!せんと承知せんぞ!》に近しいのではないかと思いますが、どうでしょう? と言いますのも、質問文で「人が 人のあやまちを赦すことができますか」という可能・不可能の様相で赦しを問うておられるからですが、赦しというのは、小説の結末と同様、その様相では語れないもののような気がするんです。

 赦しは、存在論ではないですか? 聖書においてはどうなんでしょう。

投稿日時 - 2009-11-25 18:57:54

補足

 ri_rong さん お話をつないでいただきありがとうございます。

 環境にやさしい製品 またその製品を使うにしても 環境にやさしい生活全般にわたる生き方 このエコ運動があるとすれば 悪人にやさしく罪人にやさしい近所づきあいから政治のあり方まで そういう行き方もあっておかしくない。
 悪やあやまちはどこまでも批判していきますが 存在じたいについては 互いにとうとび共に生きていくしか道がないと思われます。
 これは 途中で考えるようになった質問趣旨の深化ですが ええっ!? いろんな主題や見解を出してもらっていますね。

 ★ 赦しは、存在論ではないですか? 聖書においてはどうなんでしょう。
 ☆ そうなんですが わたしはNo.15のやり取りで次のように書いています。

 ☆☆ (No.15お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  わたしは 非思考においては(つまり あくまでこれは 主観の問題であると事割らなければならない発言であるのですが) この人間が その能力をあたかも超えて ひとのあやまちを赦すことが出来るというほうに賭けていますよ。
 でも哲学では それは 無理だと考えています。一般性が出て来ません。説得力が現われません。

 次善の策を考えるべきだと考えたわけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おのれのへそ曲がりが あたかも覆われ包まれて行き とげが抜かれたかのように癒やされて行く。これが――こういう存在論ですが―― 赦しを或いは持てるかも知れないみなもとだと推し測られます。
 でも できない・その能力はないと前提して人文科学や社会科学として考えて行ったほうが 建設的ではないかと慮られます。隣近所から始まる人間的交通の問題という主題の設定に立つからにはです。
 またそのほうが むしろ《白黒をはっきりさせずに済ませる》方法ではないかと ぎゃくに考えるのですが どうでしょう? つまり赦す・赦さないを問わないでおいて 《多少ともふつうの人たちと同じように社会生活ができるようになればよい》という目標を設定するやり方なのですが?

 それと よう子らのいる環境に入って太郎は 格差ないし落差を感じるということですが でもかれの場合は 罪の問題でもなければ〔少なくともまだ〕悪の問題でもないように思うのですが どうでしょう?
 そして――次の ma・・・さんからの投稿をちらっと見たからでもないのですが―― 《殺したいと思った》は どうも男女間の感覚に起因しているのではないか。とも思うのですが どうでしょう? はっきり言えば 男はないですよね? つまり太郎は男ですが 書いているのは 女性です。――これも課題です。(問い求めの上での発言の範囲ですよね)。

 ★ 外在批評
 ☆ これは ちょっと問題あるんぢゃないですか。けっきょくのところ 作品の内部世界とは別個の世界を 読み手が創作し繰り広げるということでしょう? はっきりとした第二次創作ということではないでしょうか。わるいという問題ではなく 主題が別になると思うのです。ma・・・さんにでも訊いてみますかね。

 お応えを書いたあと ひと眠りしたのです。にもかかわらず 何にもひらめき無しです。
 ラリーがつづきますね。

投稿日時 - 2009-11-25 21:22:30

ANo.26

 bragelonneさん、
 浅学菲才から何かとうこうできるかと、訪問し拝読しました。
 でも社会学、法政策学、刑事政策学の分野のような、まとめ内容ですね。
 communityの分解と亡失が論じられてもうかれこれ50年を越えてきております。
 質問の箱のご文章を、そのように拝読するのは、誤読なのでしょうかね。多分私の読解力の欠如でしょうね。
 私の読解でのご質問内容として、やはり対象となる過ちがどういうものであるかということで、考える事になると存じます。
 bragelonneさんが地域で、どのようなcommunityにお住いになられているのか。
 私たちの近隣も、下町ですが、やはり東京でして。隣りは隣り。
 なんですね。
 でもダメ、となったら、誰も付き合いませんよ。
 それは行為自体の性格によりますね。
 普段あまり関係ない人たちも、誘い合って一定のところ、ファミリレストランなどに集まり、話し合って一致しますね。
 対象のその方が、存在している事を認識から落とします、いないことになります。
 こういうcommunity、隣近所も珍しいと存じますが、住宅街です。
 地域の商店街では、むしろ商売ができなくなりますよ、そういう行為の対象者は。
 法律だの何だの前に、相手にしません。
 対象の人のお人柄が何かで認められると、過去がどうであれ、きちんと相手をし、メンバーとしています。それ以上でも以下でもありません。
 赦すのなんののはなしではないですね。
 人間同士であり、お互いだということです。

投稿日時 - 2009-11-25 14:30:01

お礼

 krya1998 さん ご回答をありがとうございます。

 たのしい町のご様子ですね。共同体という現実ないしその喪失のもんだいですよね。

 どうも楽しい世界を垣間見た者は いぢわるを考えたくなります。
 こうお尋ねしたいと思いますが いかがでしょうか?
 ○ 罪のつぐないをした(つまり 刑期を終えた)人間をひとり そのおたくの町内に住まわせて 更生するまで面倒みてやってくれませんか。という依頼が舞い込んだら どうなさいますか?
 そういう問題なんです この質問は。

 ★ 対象のその方が、存在している事を認識から落とします、いないことになります。
 ☆ ぜひこの島流しに遭わせるのではなく 一人前の市民になるよう面倒を見てやってくださいというお願いです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 対象の人のお人柄が何かで認められると、過去がどうであれ、きちんと相手をし、メンバーとしています。それ以上でも以下でもありません。
 赦すのなんののはなしではないですね。
 人間同士であり、お互いだということです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 日本中をこのような町にしたいと思いますので。島送りだけはしないで済むようにという方向なのですが どうでしょう?

投稿日時 - 2009-11-25 17:36:06

ANo.25

 「子どもの頃初めて出会ったときから 殺したいと思っていた」

 素晴らしいところを抜き出されます。
 太郎は初めて出会ったときから、ほんとうに殺したいと思っていた――のか、どうか。あるいは本当のところ、これは太郎が何時、持つことになった心境なのか。またあるいは、太郎が持ったというその心境は、本当によう子を見て持ったものだったのかどうか。

 仰るように、主人公たちに内在する心境を追って読む読者には、こんなふうな感想が生まれるだろうと思います。そしてそれとは別に、主人公たちをひとまず置いて、作家とそれを取り巻く作品環境から、作者が主人公たちに語らせる言葉には何かの意図があるはずだというふうに、外在批評をする読者もいることでしょう。どっちの視点に立っても読める作品だし、どちらもありだと思います。

 前者で読む場合には、けっきょく最後まで読み通しても、まるで作者が書き忘れてしまったかのような足りなさが残るでしょうし、後者で読む場合にも、何かの意図があるとは思えない、もっと持って回った謀に対する疑惑――こういう不明が感じられる。
 これを指して、失敗作と呼ばれていると思います。拘っておられるようなので改めて書きますが、そういう意味で、失敗というのは妥当な表現だなというのはすでにお答えしました。

 ブラジュロンヌさんは、私は前者で読むのだと宣言されてますから、ここではそれにお付き合いして進める事に致しましょう。人というものは意志を超越したところ――それは生理のようなものとして――で、罪に対する抵抗を内在しているものだという、そういうお話でした。
 そして、それが生理であるからには、万民共通のものだろうと。およそ哲学は、その次元で基礎ができているものだと。だからこそ、過てば礎に帰らねばならない。さらに礎の問題に対して、意識下の出来事は語るに足らないのではないか――と、こんな感じのお話でしたね。

 さて、表現に異なりはあっても(確か、ブラジュロンヌさんは無主体が嫌いなのでした)、論じ方の構造は先に僕が書いたのとあまり変わらないと思いますが、どうでしょうか。
 そこで問題となる冒頭の表現に、戻ってみます。
 さて、「子どもの頃初めて出会ったときから 殺したいと思っていた」。もちろん、口にして意志を表明するのは可能ですが、ところであり得ますかね、こんなことが?

 もしこの言表があり得るとすれば、ふたつに一つ。ひとつは、殺したいと思ったのが、初めて会ったときより前だった(つまり殺したいという対象が何か、そのときはわかっていない)。もうひとつは、後だった(つまりある対象を知り、そして殺したいと思った)――のではないかと、思います。
 太郎の語る物語がどこか小説めいて聞こえてくるのは、よう子に初めて会ったときから、殺したいと思っていた太郎が読者に後付けられているからであって、その理由は彼らの暮らす空間がよく描写されているにも係わらず、時間の経過はすっぽりと隠されるという、遠い過去の物語が口承されることで、まるで時間が止まっているかのような場面を物語上に作り出しているのが遠因だと思います。

 あるいは、案外、あの話のように、罪は語られたときにすでに制裁を帯びており、そして同時に赦されている――これを辻褄の合うかたちに整理し、誤魔化しながら、人間は受け止めようとするのかもしれません。そして多かれ少なかれ、人間のこころにはこんなふるまいをするところがあるぞと、僕は思っています。どうでしょうか。

投稿日時 - 2009-11-25 14:00:12

補足

 お礼欄につづいて考えていきます。

 瑣末な問題をひとつ出しておきます。
 《外在批評》として味わう作品は 虚構としての小説であり文学であると思われますか? 
 ★ 作者が主人公たちに語らせる言葉には何かの意図があるはず
 ☆ これだと この《作者》は批評家であり 或る種の記録文学ないし報告文学(ルポルタージュ)としての作品だと思えるのです。
 歴史を扱っているので 或る種の大河小説の体裁を帯びますが もしこの《そこに隠されたかたちで込められた作者の意図》を読むのがおもな味わいかたであれば 文学なぞなぞのように思えるのです。人文科学ゲームのごとくです。――人物像との距離を測りながらまさにその人物たちの物語りをたのしむのが 小説ではないかと。

 さてお礼欄では 人間存在と社会との条件は 先験的に無主体というべき領域(いわば生理としてのはたらき)があると同時に これを主体がその意志行為として保持することが肝要であると見ました。
 そこで太郎の心境告白についてです。その解釈として 思考実験をおこない第三の道を模索してみます。
 ○ 太郎は――その境遇の違いから言って というのが大きな要因だと考えるのですが―― よう子に初めて会ったまさにそのときに この人間を亡き者にしたいと思った。
 ☆ こういう思考実験です。つまり
 ★ よう子に初めて会ったときから、殺したいと思っていた太郎が読者に後付けられている
 ☆ のではない道の模索です。なぜなら それならよう子が最初に言い寄って来たとき 太郎がそれをはねのけた理由になるからです。《時間は止まっていなかった》と言えるかと思うからです。
 ただし 二回目の言い寄りを――おそらくすんなりと――受け容れたその理由が分からない。

 ・・・
 いやぁ 帰ってきて勇んで書いていますが どうも前へ進みません。
 《殺したいと思った》は単なる誇張であるという見方 これもあるかも知れないとは思ったものの これでは 面白くないようです。
 いま分かっていることは
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 あるいは、案外、あの話のように、罪は語られたときにすでに制裁を帯びており、そして同時に赦されている――これを辻褄の合うかたちに整理し、誤魔化しながら、人間は受け止めようとするのかもしれません。そして多かれ少なかれ、人間のこころにはこんなふるまいをするところがあるぞと、僕は思っています。どうでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とまとめておられますが わたしにはまだまだ そこまでは飛躍があるということです。
 ただ ここで《罪》というのは よう子のにしろ太郎のにしろ それは 質問趣旨にも合っているようなかたちの 純然たる《こころにおけるこころに対する逆らい》のようなものだとは受け取るのです。
 あぁ 座礁!・・・ May Day !

投稿日時 - 2009-11-25 17:26:03

お礼

 お答えをありがとうございます。まづは 取り急ぎ書きます。

 ★★ (No.21) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ですから、その第三者(実際には発言者なんていませんが)の言葉に、同意できるか否か――というのが、(4)の表現をより正確にしたものだろうと思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 そして、それが生理であるからには、万民共通のものだろうと。およそ哲学は、その次元で基礎ができているものだと。だからこそ、過てば礎に帰らねばならない。さらに礎の問題に対して、意識下の出来事は語るに足らないのではないか――と、こんな感じのお話でしたね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 同じ趣旨だと思います。そして そこで大事なことは いわば二段階的であって 第一次に いしずえは生得的ですが これが容易に崩れてしまう。その意味で 第二次につねに
 ★ 第三者の言葉に同意できるかどうか
 ☆★ 過てば礎に帰らねばならない
 ☆ というふうになっている。そのようにひとは生きている。
 容易にひとはこのこころに逆らってそれを部分的に失ってしまう。傷つけてしまう。たえず原点(初心)に還らなければならないと。


 ★ さて、「子どもの頃初めて出会ったときから 殺したいと思っていた」。もちろん、口にして意志を表明するのは可能ですが、ところであり得ますかね、こんなことが?
 ☆ 佳境に入ってきたようです。野暮用で一二時間るすにします。帰ってからにさせてください。

投稿日時 - 2009-11-25 14:56:23

ANo.24

 おおむね、ご返事には同意しているのですが、少し違うところもあるなと思い補足します。
 この部分、

>☆ この《第三者》は わたしの考えでは 個人における《共生を願うこころ》だと思います。そういう意味での《人びとの総意――存在起源的な 意志というよりは 意志を含む全体としてのこころ(自然本性)――》ではないかと。《良心》でもいいと思います。


 「こころ」という言葉はとても便利なもので、常々移り気で全く取り留めのない代物かと思いきや、あたかも時間を超越して、それが本当の自分――つまり一個の普遍――であるかのように、取り扱われる。この「こころ」という言葉に与えられた普遍性が、時には制裁であり、時には許しであるような行為へと、個人の内面世界を導いていると思われる(一般にはそう言われる)でしょうが、本当のところはそういう自己の推論形式によって形づくられた、第三者(制裁や許しをする自分)という存在を、「こころ」の普遍性を優先させるあまり、事後的に描き出しているだけだろうと思います。

 背景にあるのは、シンプルな算術です。要は、矛盾を嫌っているのでしょう。
 けれども、もしも「こころ」をリセットできるのならば、制裁や許しとは無縁の自己が、ただひとりぽつんと立っているだけなのが現実だという事に気付けるだろうと思います。
 ぽつんと立っている――そして現実というのは、時代的なもの(社会制度のような)や個人の観想とは別に、おおむねそのようなものだと思います。

 ところで、「良心」という大雑把な表現について、もう少し考えてみたいと思います。
 先に、自分の意見を表明するとすれば、変わらない自分――つまり「こころ」の普遍性――に対する、千変万化する現実(あるいは一向に変わり映えしない現実に対して、ころころ変わっている自分)という矛盾を前にして、第一にその矛盾を受け入れることができるかどうか、そして第二に受け入れた後、尚、変わらない「何か」を経験的にか直感的にか、とにかく手に入れようとする行為に移れるかどうか。

 文字で表現すれば、これが良心なのではないかと僕は思います。

 そして冒頭の本格小説へと帰るとすれば、この良心に対して「人間の」という表現を足すことができるかどうかだと思っています。ですから、《人びとの総意――存在起源的な 意志というよりは 意志を含む全体としてのこころ(自然本性)――》に向かって、如何に社会が目まぐるしく変わろうとも、多くの矛盾を貫いている「何か」を見つけ出そうとする個人的なふるまいを、人びとの総意と表現するにはあまりに独善的な気がするし、やはりごくごく個人的なものなのではないかと思います。

 ですから、決して私小説にはなり得ません。月にうさぎはいないのです。
 月はただ、光っているだけのものだ――こういうのが、ひと昔前の小説だろうと思うし、漢詩の世界ではないのかなと思ったりしますが、どうでしょう?

投稿日時 - 2009-11-25 11:09:49

補足

 ri_rong さん お答えをいただきありがとうございます。

 たぶん 《私小説・心境小説》を 部分的には 誤解されているのではないかと考えました。
 あの女主人公(またその名を失念してしまっています)に東太郎は 《子どもの頃初めて出会ったときから 殺したいと思っていた》と告白しています。その境遇から来る反応だったのかどうなのか かなり重みを持つ発言です。
 むろん作者が 登場人物に語らせたものです。これは《心境》なのです。しかも謎解きは 残したままであるとも言えるようです。(これだけでは 何が何だか分かりませんし 全体を考え合わせても 謎は残ると思います)。
 このように 《心境》はそれを吐露した場合でも なお謎が残りますし 吐露していなかったなら同じく謎であると読み手は受け取ります。 そうして《なぞ》については けっきょくのところ 読み手は《第三者≒一般意志≒共生のこころ≒良心》に照らしてのように判読しようとするはずです。

 ここで道は ふたつに分かれます。
 ひとつは 哲学思想とそれに近い文学評論の立ち場であり その謎を《人間一般》という前提のもとに考えていく道です。
 したがってもうひとつは 登場人物一人ひとりについて謎解きが出来るように 成るたけ微に入り細に入り 迫っていく道です。何の某が いつ・どこで・どのように・誰とのかかわりにおいて そうしたか。
 誰との話し合いにおいて 《月にうさぎがいる・いや いない / ただ光っているだけだ・いや そうぢゃないうんぬん》と語り合ったか。枝葉末節のつまらないもののすべてをさえ表現してでも 《そのひと》の描きだそうとします。
 むろん作者の腕前が絡んできますが むしろ《独善的で ごくごく個人的なものごと》をも描くものであるし それは要らぬ描写は省いてもいいし間接的に描いておいてもいいわけですが 何の某の人物像が分かるようにはしておくものだと考えます。


 そうして 感覚人間のわたしには 直観派としての思考のくせを持つわたしには これら文学と哲学との二つの道も なお地続きであるとも思われます。先の《こころ(自然本性=つまり 感性および記憶・知解・意志)ないし良心》は まったく単純に うそをついたときの《やましさ・後ろめたさなる感情 あるいは 顔を赤らめるという超意識的な現象》に現われているのではないか。ここで地続きであるのではないか。こう単細胞的に思っております。

 復唱の手続きを怠ってしまいました。書き出しがわざわいした恰好です。過不足の修正訂正補足で 確認していただけばさいわいです。(ちょっと自信ありげになっています)。

投稿日時 - 2009-11-25 12:19:32

ANo.23

オコリザルです。
今回の御質問は久々に、ほぼbragelonneさんと私の身の対話となっていますが、bragelonneさんは見当違いの類に関して憎まれ口を言いすぎていると感じますよ。
それでこそ哲学バトルの本分なのでしょうが、私が質問を立てた場合なら、憎まれ口は言わないで、うっ屈した憎しみに対して「あなたの憎しみを晴らしてあげます」と呪殺で追い打ちをかけます。
bragelonneさんは哲学の本分を必要の無い場合まで徹底しているのでしょう。
必要のない場合などあるものか?と私自身至らなさを感じますが。

投稿日時 - 2009-11-24 23:30:50

お礼

 あぁ そうですか。
 哲学としての思考は いわば中立であると思っているのですが もしそうだとすれば 中立であるゆえに よそよそしく冷たいと感じるかも分かりません。
 書いている本人は 憎む・憎まれるや気持ちとして溜まった感情からいっさい離れて見ているし そう見たものをそのまま書いていると思っているのですが。

 ★ 私が質問を立てた場合なら、憎まれ口は言わないで、うっ屈した憎しみに対して「あなたの憎しみを晴らしてあげます」と呪殺で追い打ちをかけます。
 ☆ この《呪殺で追い打ちをかけます》というのは じつはまだよく理解できていないと思います。

投稿日時 - 2009-11-24 23:56:57

ANo.22

オコリザルです。
ESP研究です。
お茶の間のテレビで見る、不祥事をやらかした企業等の記者会見は謝罪の儀式ですが、その謝り方に不信感が芽生えたりするのは正確な直感です。
情動に訴えた場合はつながりが起きます。
過去の謝罪の表明で不信感を募らせるのではなく、私の場合時間差を認識したときわたりゆえの、当事者の「今」との直接の伝心で赦すことを了解可能にします。
bragelonneさんも以前に幼さ故の無防備さで「テレビ電話なら知ってるよ。」とうっかり非思考の内情を漏らした事があるそうですね。
心の本来の姿はそのようであるのでしょう。

投稿日時 - 2009-11-24 23:02:12

お礼

 ★ ESP研究です。
 ☆ か。おおむねおっしゃることは 胸に入って来ますが これも別の意味で一般性がどれだけあるか。になると思います。
 ★☆ テレビ電話
 ☆ もまだまだ一般性をもって受け容れられていないでしょうね。

 ですから 謝罪というのは そのあとどうするか。行動で示すということでしょうね。

投稿日時 - 2009-11-24 23:51:32

ANo.21

オコリザルです。
赦しを乞われた場合に、お前はまだ自らの罪を認めておらず、悪人のままではないか。
このような直感が働いたなら謝罪の言葉はむしろ怒りを招きます。
罪を認めた誠実な謝罪であれば、ああいいですよ。お互いに無かった事にしましょうよ。こんな感じで気さくに和解できます。
情動はつながりがありますので、直感は正確でしょう。
積極的に許したなら、悪人は罪を認めることになる。
そのうえで、生命として存在する限り罪そのものにはなりえない故に、(悪や嘘にも)人間性の回復を承認することはスムーズに運びます。

投稿日時 - 2009-11-24 22:47:31

お礼

 ええ 同意します。同感です。

 ひとつのみつけ加えますが それは No.23のお礼欄に書いたことです。つまり
 ★ 赦しを乞う
 ☆ というのは 人間関係の円滑なあゆみを願っておこなうことであり げんみつな意味での《ゆるしや その願い》ではないのではないか。こういう思いを持っています。

 ★ お前はまだ自らの罪を認めておらず、悪人のままではないか。
 ☆ これはですね。わたしの見るところでは その相手が 何を罪としているのか・どういうあやまちを犯したのか そしてその事後処理をどうしようというのか などなどについてはっきりとさせていない場合です。ただ謝罪のことばを述べているだけという場合だと思います。

 ですから ゆるす・ゆるさないとは別に あやまちや悪の行為が起きたら その把握と分析 どういう迷惑をかけたか・これからどうするか こういった咎めや批判の問題は 必然的についてくると思います。
 それは 大きく捉えるなら けっきょく人間どうしの交通関係における対話の問題だと考えます。
 そして 罪ないしその赦しに関しては 一人ひとりの主観内面におさまっているし とどまるものだと思っています。

投稿日時 - 2009-11-24 23:46:35

ANo.20

オコリザルです。
A16は文学だと言う事ですが、同意します。
そしてA2の赦すという表現自体が、その全体がやはり文学だと気がつきました。
マイクを向けられた場合を想定した「赦すとはいかなることか」と言う文学です。
死につながりかねない犯罪に直面して、悪に対して常にに受け入れていると表明する事です。

投稿日時 - 2009-11-24 22:29:42

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 A2の赦すという表現自体が、その全体がやはり文学だと気がつきました。
 マイクを向けられた場合を想定した「赦すとはいかなることか」と言う文学です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから その少年と直接 話しをした場合であれば いくぶん一般性が出るようには思いました。

 ★ 死につながりかねない犯罪に直面して、悪に対して常に受け入れていると表明する事です。
 ☆ わたしも舌足らずだったと思ったのですが 《悪との共生》という表現は 《行為としての悪に対してはこれを憎み 憎んだそのこころの内でみづからの中では棄ててしまい その悪をおこなったひと・その存在じたいはこれを愛する。自分と同じ程度に愛する》 こう補います。

投稿日時 - 2009-11-24 23:36:36

ANo.19

オコリザルです。
そもそも、赦されることを望むのはいかなることとお考えですか。

たいていは罪の意識がそうさせるのでしょうが、罪など無いと表明するのであれば謝罪を受け入れるわけにはいかなくなります。

投稿日時 - 2009-11-24 22:19:50

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。今宵も始まりました。
 
 ★ そもそも、赦されることを望むのはいかなることとお考えですか。
 ☆ ひとことで言えば 甘えによると考えます。必要のないことだという意味です。
 だれに対して・何に対して 罪を犯したか。これの見方によって 《ゆるす・ゆるさない・ゆるされる》の問題が 違う意味を持って来ます。
 わたしの考えでは みづからの自然本性・その直きこころに対して へそを曲げ 罪を犯した。こう考えます。

 ★ たいていは罪の意識がそうさせるのでしょうが、罪など無いと表明するのであれば 謝罪を受け入れるわけにはいかなくなります。
 ☆ ですから 《ごめんなさい / 申し訳ありません / 二度としませんから おゆるしください》などのあいさつは 人間関係をなめらかにするための行為だと考えます。気持ちよく過ごして欲しいというこちらの気持ちです。
 つまり きわめて端折った言い方をすれば 《犯した罪や その意識 そして謝罪》は 相手とは関係がないのだという見方です。《おのれを傷つける行為》であり 《その傷の処理》が いちばんの務めになると考えます。
 ただし ひととの関係を円滑にする必要がありますから 謝罪をしますし その気持ちをぜんぶ伝えたほうがよいと考えます。

投稿日時 - 2009-11-24 23:29:43

ANo.18

 どうも。ご質問は本格小説についての続きのようですね。

 いや、――そうではないという意思表示を、たとえなさったとしても、その表明とは無関係に、この制度問題は否応なく、かの質問と絡み合ってくるのだろうと思います。

 この「無関係に」という部分が、ご質問の主旨ではないかと思いますが、
 この種の社会現象に与えられた次元の異なりは、いったい何時から、どのようなきっかけと指向性のもとに定着してきたか。つまり、(4)に記述される「初めから無いと見なされている」という個人の立ち位置がもしも現実のこととして認識されていたならば、だとしたら、加害者への制裁とともに、許すという行為は制度化されたりしなかっただろうと思います。

 だからこそ思うのですが、恨みは決して許されたりはしない。誤魔化しや忘却はあったとても、許しというのはあり得ないのではないでしょうか。権利とか、資格の問題ではなく、人間に備わった記憶する能力がある限り、許しは制裁とともに刻印されている。

 「ともに」という表現には御幣があるかもしれない。許しと制裁はその特徴が異なります。特徴が異なるのは、所属する制度が異なるからであり、その異なりは所属する社会の要請が異なるからだろうと思うのですが、個人の心境(どう思ってもらうのも良いのですが)とは別に《赦す・赦さない》という社会の要請のみが、第三者の言葉を借りて語られているという事だと思います。
 ですから、その第三者(実際には発言者なんていませんが)の言葉に、同意できるか否か――というのが、(4)の表現をより正確にしたものだろうと思います。

投稿日時 - 2009-11-24 18:24:27

補足

 ri_rong さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。抽象度が高いので まだ消化しきれていないかも分かりません。むろん 一歩一歩ですので それなりに進めます。

 ★☆ 本格小説という文学の行き方もしくは作品である『本格小説』と この質問との関係・無関係
 ☆ につきましては こう考えます。文学の中でも評論もしくはそれとしての哲学思想として捉えるなら 地続きである。つまり関係ありです。わたしとしては そう採ってすすめます。
 ただしそうは言っても のっけから
 ★ この「無関係に」という部分が、ご質問の主旨ではないかと思いますが、
 ☆ という重い一文があたかも立ちふさがるかのように 門の看板に書いてあるのが 気にかかりつづけます。
 そのこころで 次のくだりに行きますが そこでは
 ★(α) 許すという行為は制度化されたりしなかっただろうと
 ☆ とありますが この認識は ここでふたつの側面を明らかにして確認しておくべきと思います。つまり 私的報復ないし自力救済の否定という考え方のことだと思います。
 この原則には 二つの側面があると見ます。
 ○ 片や 《赦す・赦さない》という判断は――そもそも能力として人間には出来ないとわたくしは見ているのですが それでも そういう気持ちの問題は事件の直後から尾を引くと思われますので取り上げるのですが―― やはり個人の主観の領域にとどまる。その外へは出ないものである。
 ○ 言いかえると つまりしたがって片や 個人の報復ないし救済に代わって 公共の機関がこれを制裁および更生の制度としておこなう。
 ☆ (4-b)は 個人もこの公共の制度をになっていると言おうとしています。個人の公共的側面としてです。
 このように
 ★(β) この種の社会現象に与えられた次元の異なり
 ☆ を理解するのですが ひょっとして 上の(α)は 別の意味あいが含まれているでしょうか? つまり 何らかのかたちで《赦し・許しが あたかも直接に制度化される》というような意味あいです。
 そしてそれが ひょっとして 文学芸術というもののになう役割であるのだと。特には 《ゆるす・ゆるさないなどの心境》にこだわるのではなく《人間とその行為関係についての観察》を言葉にする種類のそれだと。
  
 まだ分かりませんが 次も多義的に見えます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  だからこそ思うのですが、恨みは決して許されたりはしない。誤魔化しや忘却はあったとても、許しというのはあり得ないのではないでしょうか。権利とか、資格の問題ではなく、人間に備わった記憶する能力がある限り、許しは制裁とともに刻印されている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 対照させると分かりやすくなると思われ そうしてみます。
 ( a ) 加害者の自由剥奪という制裁(および罪のつぐないかつ更生目的の含み)が 個人のゆるしの問題から切り離されているゆえに ひとは 恨みも憎しみも やがて癒やされていくことができると考えます。
 ( b ) そのこころは もし手前味噌になって やがて癒やされていくと言えるとするなら 個人内面における《ゆるす・ゆるさない》の問題は とどのつまりにおいて どうでもよいと考えることができるかも知れない。
 ( c ) 話を早くすれば 赦す・赦さないの権利も資格もあって無きがごとくであり どうでもよい。
 ☆ つまりこの( a / b / c )の見解は 
 ★ 許しと制裁はその特徴が異なります。特徴が異なるのは、所属する制度が異なるからであり、その異なりは所属する社会の要請が異なるからだろうと思うのですが
 ☆ というご見解に物言いをつけています。むしろ(β)の《次元の異なり》のほうに近いと考えます。ですから
 ★ 個人の心境(どう思ってもらうのも良いのですが)とは別に
 ☆ であると同じく見ているのですが 
 ★ 《赦す・赦さない》という社会の要請
 ☆ という見方を出来る限り希薄化させたいし させるのが人間のつぐないの問題にふさわしい処置ではないか。
 ★ 《赦す・赦さない》という社会の要請のみが、〔* ではなく ゆるしと切り離されたつぐない及び更生の処置への要請が〕 第三者の言葉を借りて語られているという事だと思います。
 ☆ ただちに続いて

投稿日時 - 2009-11-24 22:07:44

お礼

 ★ ですから、その第三者(実際には発言者なんていませんが)の言葉に、同意できるか否か――というのが、(4)の表現をより正確にしたものだろうと思います。
 ☆ この《第三者》は わたしの考えでは 個人における《共生を願うこころ》だと思います。そういう意味での《人びとの総意――存在起源的な 意志というよりは 意志を含む全体としてのこころ(自然本性)――》ではないかと。《良心》でもいいと思います。

 途中から我が田に水を引きましたが 対話として 進めやすいのではないかと考えます。いかがでしょう? (ただし まだ飲み込みが足りないというきらいはあります)。

投稿日時 - 2009-11-24 23:11:06

ANo.17

>応えがないことを含めて 更生せい! せんと承知せんぞ。

と言うことですので、国語の辞書を調べてみました。

ゆる・す [許す]
{動サ五(四)} <「緩(ゆる)」「緩(ゆる)い」と同語源>
1 、、、
2(「赦す」とも書く)過失や失敗などを責めないでおく。とがめないことにする。「あやまちを―・す」

と出ていました。また、

しょうち [承知]
1 、、、
2 、、、
3 相手の事情などを理解して許すこと。多く下に打消しの語を伴って用いる。「この次からは―しないぞ」

だそうです。だから、この辞書が間違いでない限り、「承知せんぞ」は「赦さんぞ」と同義語になっております。

そこで、質問者様に補足要求致します。

おなじ質問者様の口から出た次の2つの言葉、

>応えがないことを含めて 更生せい! せんと承知せんぞ。

という言葉と、

>人は、その持てる能力において、人のあやまちを赦すことは出来ないし、赦さないことも出来ない。

という言葉が矛盾していないことを、素人でも分かるようにご説明下さい。私ばかりでなく、多くの方に参考になると思います。ただし、風が吹けば桶屋が儲かる式な説明は素人には頭がゴチャゴチャになって、とても理解ができないので、できるだけ誰にでも分かるように説明して下さることをお願い致します。

今回は、人生の糧であるユーモアを避けて、できるだけ無味乾燥に書いておりますので、他の方の投稿内容を闇から闇に葬らないで、質問者様がご自分の主張を正々堂々と披瀝して下さることを祈ります。

それと、ユーモアって百万語の理屈より説得力があるので、時々はユーモアも赦して下さいね。

投稿日時 - 2009-11-23 23:36:18

補足

投稿日時 - 0000-00-00 00:00:00

お礼

  前回は触れませんでしたが これまでのやり取りにおいて

 《わたし( bragelonne )の言語学の研究成果を まだ何ら形さえ成さない研究の下に置くという発言を 何の論証もなさずに平気でおこなった》

 という過去があります。そう言われて 言葉の問題について どう答えたものでしょう?

投稿日時 - 2009-11-25 12:34:34

ANo.16

オコリザルです。
分かった。だとすれば 誰であっても 多少の部分では その一貫性があると言えるのではないか。つまり 整合性は 一人ひとりにおいて 程度問題だということになる。完成している場合と 未完成でも或る部分では貫かれている場合と ほとんどだめな場合とがある。
 別の見方でいえば 赦すその対象となるあやまちの程度が問題になるということではないかと。ほとんどの人が 赦すことのむつかしい極悪の程度だったらどうかと。


これから進展して赦せないゆえにわれがあると表明するなら、量刑を無視して一律死刑です。
お得意の呪殺です。
観念上の死。
心が枯れる現象です。

投稿日時 - 2009-11-23 23:28:38

お礼

 ★ 赦せないゆえにわれがある
 ☆ これは こう言うところでしょう。つまり
 ○ あぁ こころを清くして いと高きところに思いを置こうとしても そのこころを持ってしても この極悪の犯罪行為は われ 赦せざるかな。あぁ われ 人たるかな。

 ☆ つまり 《われあり》というように存在の根拠を言うものではないと思いますよ。むしろ みづからの非力・無力・弱さを嘆いているのではないでしょうか。

 また今頃になって出すのですが 次の点は 重要だと思います。
 ○ 人間としての存在そして生命 これは 憎まないし おのれのそれを愛するという意味の中に含むかたちで 愛する。つまりその意味では 存在については 《ゆるしている》場合がある。ただし 行為つまり罪のほうは いつまでも憎い。とことん憎む。
 ☆ つまり 罪を憎んでひとを憎まず の問題ですね。

投稿日時 - 2009-11-23 23:47:10

ANo.15

オコリザルです。
なんとなく思い出しました。
対話を始めたころに、宇宙の変革、神の意志を、その本質たる愛ではなく、慈悲から学び始めるでしょう。

確かこんな感じの事を言った覚えがあります。
何かに包まれているとしたら「それ」ではないでしょうか。
神様にしてみれば(そのような意思にしてみれば)慈悲を施すことが赦されていたことから学び始めるでしょう。

ここでつながるのが、
赦すなら、私は私ではない。
です。

潔く、処刑されたソクラテスや、イエスさんは立派でした。
そのような故事が語る通り、死刑囚は立派に生贄の務めを果たしました。

投稿日時 - 2009-11-23 23:20:11

お礼

 そうですね。
 慈悲も神の愛も――そりゃあ 神のと言うくらいですから―― 人間の能力と努力を超えています。

 ★ 赦すなら、私は私ではない。
 ☆ この表現は 誤解を生みませんか? 
 ○ もし赦すことが出来た場合には それはもはやわたしではなくなっているわたしが行なったことになると思います。
 ☆ といった意味ですよね?

 ★ ソクラテス / イエス
 ☆ ソクラテスは いわば人間の知恵で――哲学の行為として――考え振る舞ったと思います。
 イエスの場合は 人間としては大声で泣きからかしていました。《この杯を除けてください》とも願いました。《でも みこころのままに》とも言いましたが。神の子であり神であるキリストとしては そういう手段をみづから望んで採ったのです。
 ほかにも手段はいろいろあったでしょうが 人びとのこころに突き刺さった(つまり 自分でへそを曲げて 突き刺してしまった魚の骨のような)とげの抜かれるためには わるくない手段だったのではないでしょうか? うんぬん。

投稿日時 - 2009-11-23 23:37:30

ANo.14

オコリザルです。
ときわたりはあんまり聞いた事が無く謎めいているので表明です。
私は現在過去未来の整合性がとれているために今を生きていられるんですよ。
生は、常に今しかありません。

投稿日時 - 2009-11-23 22:55:06

お礼

 いえ 考えやおこないの一貫性つまり時系列における整合性があるという意味で 時わたりという言葉が使われているのだなと思いました。

 ただし これは 説得力のための必要条件でしょうが 十分条件にはならないと思います。
 また ひとりの人間の自己表明では――それは 誰であってもです―― 哲学としては 説得力が出ません。その一般性をどうして納得すればよいかと問わなければならないからです。

 あるいはまた 今という時間において 赦すという考えと意志行為は 確立されていて 一貫していると言ったばあい それに対する物言いは こうです。
 分かった。だとすれば 誰であっても 多少の部分では その一貫性があると言えるのではないか。つまり 整合性は 一人ひとりにおいて 程度問題だということになる。完成している場合と 未完成でも或る部分では貫かれている場合と ほとんどだめな場合とがある。
 別の見方でいえば 赦すその対象となるあやまちの程度が問題になるということではないかと。ほとんどの人が 赦すことのむつかしい極悪の程度だったらどうかと。

 ですから この程度問題を扱う相対の世界について 一般性のあるそして説得力のある説明が 欲しいということになります。《わたしは赦すことができます》という自信のある場合にはです。

投稿日時 - 2009-11-23 23:16:26

ANo.13

オコリザルです。
ものは試しに、
> 犯人の少年を許す。つらい思いをしないで生涯を平穏に過ごしてほしい。

こうではなく、
犯人の少年を赦したいです。つらい思いをしないで将来を平穏に過ごしてほしいと願います。それこそが母の子として生まれた私の務めです。

このように表明したら感激されるんではないでしょうか。
私にとっては過剰な演出です。
理解してほしいゆえの涙ぐましい努力です。

投稿日時 - 2009-11-23 22:45:29

お礼

 この表明は げんみつに言うと(哲学はそうしなければなりません) 表現の問題になります。文学です。

 もちろん 文学の表現がじょうずだったから 相手は 折れたとか 自分の非を詫びたとか 告白するようになったとか そういう効果があるかも知れません。でもそれは ひろい意味での技術の問題です。
 哲学は 表現の技術に依存して成り立つとは思いません。別の問題です。

 また――あまり一般性が出るとは思いませんが―― 実際の交通(まじわり)における相手とのやり取り これが 説明をゆたかにする場合があるかも知れません。

投稿日時 - 2009-11-23 23:04:47

ANo.12

オコリザルです。
質問趣旨の考え方から質疑応答で表明していただいた見解まで、実に理路整然として了解可能なんですよね。
それでいて赦す能力が無いと言う見解については、私もその赦しきった現在と赦せなかった過去の整合性に精霊のときわたり能力の発露として介助があったことを指摘します。赦せなかった過去と赦せる現在の整合性を記憶において採るために過去からすでに赦していたとする無意識的な記憶操作です。私の場合はこのような時わたりがうまれつきでして、さらに過去に向けてではなく未来に向けて羽ばたいているため平気で赦せるんです。
人間の能力では無いとは言わないでください。

投稿日時 - 2009-11-23 22:19:30

お礼

 ★ 人間の能力では無いとは言わないでください。
 ☆ わたしは 非思考においては(つまり あくまでこれは 主観の問題であると事割らなければならない発言であるのですが) この人間が その能力をあたかも超えて ひとのあやまちを赦すことが出来るというほうに賭けていますよ。
 でも哲学では それは 無理だと考えています。一般性が出て来ません。説得力が現われません。

 次善の策を考えるべきだと考えたわけです。

 ★ 時わたり
 ☆ これについてでしたら むしろわたしは 自分の過去においておこなった嘘の問題 これの――法律に抵触しなかったとしても――ゆるされることを願います。《整合性》をもって 過去から未来まで きれいに赦されるということをです。
 いまの時点では わたしは そのようなへそ曲がりの問題については 何ものかによっておおわれていると捉えています。自分のことながら つつまれていて いまは咎められないというように感じています。
 それで 言ってみれば 癒やされているわけです。整合性のもとに 癒やされています。
 それならば ひとのあやまちを赦す・赦さないは もはや別の問題としておいて あとは 相手がへその曲がりを癒されるのを俟つ こういうかたちになっています。
 そこから出たわけです。この質問の趣旨は。
 つぎのご投稿に移ります。

投稿日時 - 2009-11-23 22:58:36

ANo.11

オコリザルです。
試しにポーズだけけんかを売っています。
A2に承服できないと言う憎しみを私は赦します。

書いてみたけどなんか変ですね。
大体私は憎まれたら「その憎しみを晴らしてあげましょう」
恨まれたら「その恨みを晴らしてあげましょう」
このように必殺仕事人のシャーマン版みたいな呪殺の呪いをお返しします。

投稿日時 - 2009-11-23 21:45:34

お礼

 お答えします。
 ★ A2に承服できないと言う憎しみを私は赦します。
 ☆ まだ《承服できない》ですが 《憎しみ》は関係ないですね。
 ☆☆ (No.2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ★ 理解不能な私の行動
  ☆ これをなお理解可能な言葉による表現で説明すること になるでしょうね。どうでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういう反応です。もし実際のおこないを問題にしたいということでしたら たとえば《犯人の少年》とのやり取りはどういうふうに行なわれたか。この点を述べて説明なさるなら あるいは一般性が出てくるかも知れません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 書いてみたけどなんか変ですね。
 大体私は憎まれたら「その憎しみを晴らしてあげましょう」
 恨まれたら「その恨みを晴らしてあげましょう」
 このように必殺仕事人のシャーマン版みたいな呪殺の呪いをお返しします。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《憎しみ / 恨み》 これらをなぜ どういうふうにわたしがNo.2の回答に対して持ったのでしょう?

 もしあなたの体験がそのまま一般性を持つ理論であり説明であると受け取らなければならないとすれば わたしの体験をともなったこの命題――すなわち 《赦すことも赦さないことも出来ない》――に承服することが出来ないのは どうしたことでしょう? と問い返すことができることになります。そういうものではないでしょう。

投稿日時 - 2009-11-23 22:14:25

ANo.10

オコリザルです。
接点つくりです。

まづ 定義をしておきます。No.3で《罪のつぐないをすれば 罪はなかったことになる》という趣旨のことを述べておられるように
 ○ 赦すとは あやまちが無かったことにすることである。
 ☆ とします。もし物言いがありましたら 言ってください。

あやまちはあくまでもあったでしょうよ。
それを過去にして、今を許して生きるのは出来るでしょう。
そこで起きる勘違いが過去の記憶を滅びの子の種子として扱うことです。

投稿日時 - 2009-11-23 18:14:39

お礼

 ★ あやまちはあくまでもあったでしょうよ。
 ☆ ここから出発します。
 ★ それを過去にして、今を許して生きるのは出来るでしょう。
 ☆ これは 《わすれる》ということでしょうね。《ゆるしていない》場合でも 部分的には忘れることは出来ます。
 ★ 許して
 ☆ とあるのは そういう形容の言葉を当てたのだと思います。本人が赦した あるいは 赦すことが出来た ということとは まだ別だと思われます。それは 次の言葉に顕われているようです。
 ★ そこで起きる勘違いが過去の記憶を滅びの子の種子として扱うことです。
 ☆ この勘違いは 忘れることと赦したということとの取り違いであり勘違いであるように思えます。忘れていたのに何かの拍子で 赦していなかったことが思い出されたとき みづからを滅びの道に走らせる場合もあるということだと思われます。

 従って ここからの教訓は 主観内面における《赦す・赦さない》の問題を 加害者の罪のつぐないと更生の過程という公共の場での問題と つながない。つなげて考えることをしない。それが大事なのではないか。これが 質問の趣旨です。
 もちろん内面におけるこころの整理も大事であり何はさておいても大事なのですが そのことを整理する上でも 社会公共の問題という側面にもしっかりと 考えをおよぼし行動すべきは行動するということが肝心であると考えます。
 あやまちについて きちんと何故いけないか・何故あやまったか・どういう性質の意志行為だったと考えるべきか・そして再発をふせぐにはどうすればよいかなどを考えておくべきです。つぎは そういう意味です。

 ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から
           《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ

投稿日時 - 2009-11-23 19:47:23

オコリザルです。
赦す赦さないだと接点が無く平行線ですから、赦すことができる、赦すことができないに置き換えてのご検討は可能ですか。

投稿日時 - 2009-11-23 17:44:47

お礼

 はい もともとそういう問いです。
 ただし 人間の持てる能力において という前提です。
 言いかえると 意志があっても ほんとうには 赦すことも赦さないこともできないという命題を提出しています。

 そういうまねごとはしている。けれども 《あやまちが無かったことにする》ことは出来ない こういう意味です。
 まねごとと言いましたが げんみつに言うとです。事実を無くすわけには行かないからには そうなります。ただし 当事者の心理をやわらかくつつむという問題は ことばをとおして出来るかも知れません。そのとき ひょっとすると 相手によっては《ゆるす》という言葉が 効果を持つことすらあり得ます。

 《〈あやまちが無かったことにする〉ことは出来ない》とき 赦すと言っても赦さないと言っても 特に事態や情況は変わらないという意味を基本に置きます。
 それなら 被害を つぐなうことが大事である。そして ふたたびはあやまたないこと。それには どうすればよいか。本人も そして まわりも。となるはずです。

 このように主観内面の《ゆるす・ゆるさない》という心理と そして社会公共の場での対策とを きちんと分けて考えること。ひとまづは このことを明らかにしておくには どういう理論が必要か? です。

投稿日時 - 2009-11-23 19:29:52

オコリザルです。
信仰にもかかわるかもしれませんので一応提起しますが、少なくても「ゆるさない」は、神様の頓着しない問題ではないでしょうか。
許す、つまり認めることから発達して怨恨を解消して無かったことにする赦しはできると思います。
私がただ一人で赦しているとしたら、赦された当事者は救い主のような幻想を抱くでしょう。
これも人間の問題です。

投稿日時 - 2009-11-23 13:35:25

補足

 オコリザルさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 信仰にもかかわるかもしれませんので一応提起しますが、少なくても「ゆるさない」は、神様の頓着しない問題ではないでしょうか。
 ☆ この一文の意味が取れないでいます。そもそも
 ○ 《神様》は その神様が何を考えているのか何を成そうとしているのか それらはすべて人間には分からないというとき初めて 神=なぞ=無根拠(そしてそれと向き合うわたしの非思考)が成り立つ。
 ☆ というものです。ですから
 ★ 神様の頓着〔する問題も〕しない問題
 ☆ もないのです。ただ のぞみと願いといのりにおいて ひとは《あやまつは ひとのつね。ゆるすはかみ》ということわざを持っているのです。
 
 ★ 許す、つまり認めることから発達して怨恨を解消して無かったことにする赦しはできると思います。
 ☆ それは分かっています。そうおっしゃっていることは分かっています。問題は 哲学として・ということは 経験合理性において誰もが納得するような説明として明らかにすることが出来るか。ここにかかっています。
 理念を述べるというだけの問題ではないですし あるいは 一人の人が奇跡的に出来たという話のそれでもないですし あるいは 多くの人びとのあいだで それぞれいくらかの相手に対しておよび一人の相手に対して或る一定の期間において ゆるすことが出来たという話の問題でもないのです。
 たとえ現実につねに実現しているのでなくても 理論的には あぁそれなら誰でも実践可能であると納得するかたちの説明が欲しいと考えます。
 たとえば《良心》あるいは《自由ないし平等》あるいは《生命のとうとさ》などについては 必ずしも理論によっても明らかにされていなくても みんなが認める公理であるとして一般に認められています。この公理にもとづいて 《ひとは ひとのあやまちを赦すことができる》という命題であれば まづはそれを論証することが求められるのだと考えます。

 ★ 私がただ一人で赦しているとしたら、赦された当事者は救い主のような幻想を抱くでしょう。 / これも人間の問題です。
 ☆ これは どうでしょう? あなたをわるく言うつもりはないですが 一般論としてなら その当事者の人によりけり ではないでしょうか? なんとも決められないと考えます。

 あるいは こう考えると一般論に近づくのではないでしょうか。つまり あなたの場合 その犯人を《ゆるした》とします。その時間が どれだけ有効であるか。ここにかかっているのではないでしょうか? つまりは 一生のあいだ 有効でありつづけると 一般の人びとが受け取るかどうかです。それを論証することはむつかしいですし まして実証することは 生涯を終えて初めて分かるということになりかねません。
 これは 一人の人間の主観において出発するものですが そのひとつの主観において完結するとは考えられない問題だと思います。
 そしてけっきょくは ひとつに またもや【Q:慈悲は 経験現実か】という問いにかかわって来ます。

 少し話を前にすすめるならば そのようなので ですから 主観の内における《ゆるす・ゆるさない》は 別の問題としておいて 哲学の扱うこととしては (4)に述べようとしている《公共》の施策としての社会問題であるのではないか。こういう方向に趣旨は向いています。どうでしょう。
 まづは この一人の人間の主観における問題と社会公共において扱うべき問題との区別を はっきりさせておきたい。区別じたいを明確になるようにしたい。そういう趣旨です。

投稿日時 - 2009-11-23 14:04:07

オコリザルです。
赦す、赦さないは、交流とかかわりの中から生まれる情動で、神のかかわらない、人間だからこそできる行為ではないか?

同様に、救う、救わないも、単なる助け合い、ともに生きるかかわりの中で生まれる情動を、おおげさに表しただけではないか?

このように「赦し」と「救い」は神に望みをかけてもいたしかたない事で無いか?

だからこそ救い主はあくまでもイエスさんなり釈迦さまでなければおさまらなかったのではないか?

私はむしろそのように考えます。

投稿日時 - 2009-11-23 05:02:35

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 まづ 定義をしておきます。No.3で《罪のつぐないをすれば 罪はなかったことになる》という趣旨のことを述べておられるように
 ○ 赦すとは あやまちが無かったことにすることである。
 ☆ とします。もし物言いがありましたら 言ってください。

 ちなみに日本語で言葉に即しただけの理解は こうだと思います。何かを認める基準をゆるくするというのは 許可すると言う意味での《許す》でしょうし あやまちを《赦す》というのは その責任追及の手をゆるめるということだと思います。

 さて
 ★ 赦す、赦さないは、交流とかかわりの中から生まれる情動で、神のかかわらない、人間だからこそできる行為ではないか?
 ☆ これは あり得ないのではないでしょうか? ぎゃくではないでしょうか? 《一度起こったことを無かったことにする》のは 人間わざではありません。

 ★ 同様に、救う、救わないも、単なる助け合い、ともに生きるかかわりの中で生まれる情動を、おおげさに表しただけではないか?
 ☆ そういう考え方もあると思います。おおげさの度合いがまた 問題になると思います。《いちど起こったあやまちを無かったことにする》という意味での《救われる・救われない》は 同様に 人間わざではないと考えます。

 ★ このように「赦し」と「救い」は神に望みをかけてもいたしかたない事で無いか?
 ☆ 《このように》という前提は 上に述べてきたようであるなら まったく違っていますが その前提を取り払ってこの一文を解釈するなら こうです。つまり
 ○ 《神に望みをかけてもいたしかたない事》をわざわざ 非思考として あたかも別の世界があるというかたちで 神なり謎なり無根拠なりを想定する。
 ☆ というものです。

 ★ だからこそ救い主はあくまでもイエスさんなり釈迦さまでなければおさまらなかったのではないか?
 ☆ 釈迦さまはわれわれと同じひとりの人間であるという見方にわたしは従います。イエスさんを救い主という場合は 神の霊がこのイエスという人間に宿ったという物語がついて来ますが 基本としては 上の《神・なぞ・無根拠》をめぐる非思考の単なる言いかえの問題です。

 どうでしょう。

投稿日時 - 2009-11-23 11:51:28

ANo.6

>人は、その持てる能力において、人のあやまちを赦すことは出来ないし、赦さないことも出来ない。

と言う貴殿を私は赦せます。

と言うことは、もし貴殿の主張が正しければ、私は人ではない、人の世よりもなお住みにくかろう人でなしの国に引き越した住人ということになります。

と言うことは、私は、

 犬か猪突か衝突か 熱き血潮のやわ肌か はたまた神か権現か

でも、私がこんなわけの分からないとこを言っていると、空から、

 井戸の蛙が空うち眺め 四角なものだと議論する

 白だ黒だとけんかはおよし 白という字も墨でかく

ってな声が聞こえて来たような気がしました。ああそうか、空から聞こえて来たから空耳か。でも、なんか、

 熱いしるこに口とがらせて 吹けばそこだけちと凹む

なんて屁理屈捏ねてないで、

 恋に焦がれてなく蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす

ちゅうではないか、

 一人涙で暮らそうよりも 二人笑うて暮らしゃんせ ああこりゃこりゃ

なのじゃ、って言っていたような気もしました。私の聞き間違いか幻覚だったら、乞うお赦し。赦せなかったら、赦して下さらなくても結構です。

投稿日時 - 2009-11-23 00:55:09

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >人は、その持てる能力において、人のあやまちを赦すことは出来ないし、赦さないことも出来ない。

 と言う貴殿を私は赦せます。
 と言うことは、もし貴殿の主張が正しければ、私は人ではない、人の世よりもなお住みにくかろう人でなしの国に引き越した住人ということになります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 質問の趣旨などを勘違いしておられます。

 ひとつには 《赦す》ことが出来るのであれば その現実性を明らかにして言わばわたしを説得して欲しいという趣旨です。
 (但し書きとして。小さなあやまちを咎めないというふうに 責任追求をゆるくするという意味で《赦す》ことは 別とする)。

 もうひとつには もしこの論理に従うならば 上に引かれたわたしの命題が《人のあやまち》であると唱えていることになります。つまりその証明がなされていません。


 なお いつも土足で入って来ますが――と言う意味は 直前のやり取りでの言いっ放しをそのままにして 何もなかった風をよそおって入って来るということですが―― わたしはそのことを批判しています。応えがないことを含めて 更生せい! せんと承知せんぞ。と言っておきましょう。

投稿日時 - 2009-11-23 11:18:40

オコリザルです。

>人は その持てる能力において 人のあやまちを赦すことは出来ないし 赦さないことも出来ない。

懐かしい回答ですが、私の表明はこうでした。

人間はいまだいけにえを必要とする。

でもこれも古臭いですよ。
赦しは、表明できるでしょう。

投稿日時 - 2009-11-22 23:45:37

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人間はいまだいけにえを必要とする。

 でもこれも古臭いですよ。
 赦しは、表明できるでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《いけにえ》は《古臭い》でしょう。
 《いけにえを必要とする》というのは あやまちを犯すことをとおして初めて更生することができる人間の場合には そのあやまちの犠牲になる人も必要だということでしょうか? それは どうでしょう? 結果としてそうなっているとしても そうは言えないでしょうし 言うべきではないと考えますが? 
 なぜなら そのような必然性の過程に巻き込まれるために 人は 生まれて来るわけでもなければ そう生きているわけでもないからです。

 ★ 赦しは、表明できるでしょう。
 ☆ これでは あいまいです。理念としてそうだという場合 つまり現実性にとぼしいと見なされる場合がありますから。
 ではその表明が現実性を持つというのは いったいいかなる人間の如何なる意志行為において見られるのか。その説得力のある見解が望まれると思います。

投稿日時 - 2009-11-23 00:21:03

オコリザルです。
どうも耄碌して曖昧な記憶をたどりますが、

○ 非思考つまり信仰つまりは なぞの無根拠にもとづいて 《人が人のあやまちを赦す》というその意志がかたまり表明することがあるというのは 現実か否か?

これに関して他方で、
犯罪被害にあいその犯罪者に赦してくださいと懇願されたら、
(私自身の感覚では)
「ええ許したますよ」
「つねに許ししてます」
そのように答えたのち、罪人を保護する専門職の警察に保護を依頼する。

このようにコメントしました。
犯罪者が許されることに何を期待するのか?
また、どんな罪も許せる生き仏の、その「赦し」に、どんなご利益があるのか?
それを言えば赦すとは、心の問題です。
御利益は無いのではないかと考えます。
赦したくても赦さないことを望んでいればどうなるのでしょう。
これと同義で(多少飛躍しなすが)
救いたくても救われない事を望んでいればいかがでしょう。
ならば「救うのは困難」ではなく、「救う必要は無い」でしょうか?
これが鬼の論理です。
許しから発展して、救うとはいかなることか?
このようになるでしょう。
感性の所在に基ずいて、心情において赦せるが、その赦したる救いを施す事が出来ない。
そのような葛藤の話に展開するのでしょうか。

投稿日時 - 2009-11-22 23:41:49

お礼

 ★ 感性の所在に基ずいて、心情において赦せるが、その赦したる救いを施す事が出来ない。 / そのような葛藤の話に展開するのでしょうか。
 ☆ いえ 違います。
 ★ 許しから発展して、救うとはいかなることか?
 ☆ 救いについても 同じことが言えると考えています。
 ○ 人は その持てる能力において 人を救うことは出来ない。救いたいという心も意図も努力も 持ったりおこなったりしても自由であるが そしてそれとして行なうであろうが 最終の結果において 救うことが出来るかどうかは 人には分からないし 分からない限りで その能力を持つとは言えない。
 ○ つまりあるいは 救わないという選択をしたとしても その救わないということにも効力がない。なぜなら 救うという能力がないのだから。

 ですからわたしの考えでは もし
 ★ 犯罪被害にあいその犯罪者に赦してくださいと懇願されたら、
 ☆ わたしは 人間には赦すという能力も赦さないという能力もないと思うと答えるでしょうね。
 ★ そのように答えたのち、罪人を保護する専門職の警察に保護を依頼する。
 ☆ のは 同じです。
 
 次のご議論はまだ飲み込めていないのですが。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 〔こちらが〕赦したくても〔相手が〕赦さないことを望んでいればどうなるのでしょう。
 これと同義で(多少飛躍しますが)
 〔こちらが〕救いたくても〔相手が〕救われない事を望んでいればいかがでしょう。
 ならば「救うのは困難」ではなく、「救う必要は無い」でしょうか?
 これが鬼の論理です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 分かっていることは 出発点が違っているということです。わたしの場合には 《鬼の論理》に行きつくという道がないと見ているわけです。
 そして ここで《手を貸す・手助けする》というようなふつうに人間が出来る範囲で救うという場合は 別だということは 共通の了解に立っているでしょう。
 次のご投稿に移ります。

投稿日時 - 2009-11-23 00:11:31

オコリザルです。
そう言えばA2で表明した見解については、反対意見や他者の見解に対して私自身はほとんど対応しませんでした。
出来ませんでした。
赦せないとする見解に反応できませんでした。

投稿日時 - 2009-11-22 23:20:14

お礼

 そうですか。
 たぶん 非思考に根拠を置く(つまり 無根拠であると初めから説明している)場合 
 ★ 反対意見や他者の見解に対して私自身はほとんど対応しませんでした。 / 出来ませんでした。
 ☆ となるかも知れないとは思います。

 ★ 赦せないとする見解に反応できませんでした。
 ☆ この《赦せない》は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》のことですよね?
 これについて ただちに反応がわたしも出て来ませんで ちょっと考えをめぐらしてみて 次のわたしの見方に対しては どう反応されますか? と問うてみます。つまり質問の趣旨なのですが 次のように言うと分かり易かったかも知れません。
 ○ 人は その持てる能力において 人のあやまちを赦すことは出来ないし 赦さないことも出来ない。
 ☆ わたしはこう考えているのです。どうでしょう?

投稿日時 - 2009-11-22 23:33:54

オコリザルです。
赦すことで事態は好転します。
善性に基づき「よし」として赦そうとしても独りよがりです。
つながりを持つ事として愛の発露として赦すのが真の許しです。

それから、
犯罪者が刑期を終えて社会復帰する場合は、社会又は世論は元犯罪者の人間性回復を祝福する必要があるのではないかと考えます。
罪を清めるみそぎを済ませたなら再び社会の一員となる事を歓迎するのは義務に等しいのではないかと考えます。
その場合は「罪」は、無かったことになるのだろうと思います。

投稿日時 - 2009-11-22 22:44:20

補足

 つづいてですね。

 ★ 犯罪者が刑期を終えて社会復帰する場合は、社会又は世論は元犯罪者の人間性回復を祝福する必要があるのではないかと考えます。
 ☆ うんぬんの部分は (4‐b)の問題ですね。
 ★ 罪を清めるみそぎを済ませたなら再び社会の一員となる事を歓迎するのは義務に等しいのではないかと考えます。
 ☆ 標語として 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ ですから 質問趣旨と合っていると思います。つまりは 《手伝うから 更生せい!》と要求するこちら側の権利でもあると思われます。
 ★ その場合は「罪」は、無かったことになるのだろうと思います。
 ☆ これは どうでしょう? (1)~(3)の趣旨からすれば 《罪があったと思いつづけるか 無かったと見なすか》 これは 一人ひとりの主観の問題としておけばよいので 一般に決めることはないという見方も出てくるかと思います。どうでしょうね。


 次は 哲学としての理解可能な言葉による説明だと思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 赦すことで事態は好転します。
 善性に基づき「よし」として赦そうとしても独りよがりです。
 つながりを持つ事として愛の発露として赦すのが真の許しです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おそらく 方向として大方の理解を得られるのではないかと思うと同時に その現実性についてさらなる説明が求められるのではないでしょうか? 
 ★ 善性に基づき「よし」として赦そうとしても独りよがりです。
 ☆ これは ほとんど皆が納得いくでしょうね。理念だけでは 現実性がないといった考え方だと思います。それでは
 ★ 愛の発露
 ☆ とはどういうことか? ですが まづ
 ★ つながりを持つ事として
 ☆ とあります。積極的に声をかけ 話し合いを持つということでしょうか? その愛の発露として
 ★ 赦す
 ☆ これは どうでしょう? 対話としての交通(まじわり)を持ち そこでおそらく信頼関係を築くということだと考えますが そしてそれも《愛》であるとは考えますが その愛の発露として《赦す》ことは出来るのか? そもそも赦すという能力が われわれ人間にあるのか? こういう問いをまだ持つというようには思いますが どうでしょう?

 * いやらしい問い詰めになっているかも知れませんが 行けるところまでとことん問い求めて行きたいと思います。

投稿日時 - 2009-11-22 23:15:59

オコリザルです。
たたき台として他方で表明した見解の使い回しです。
論議を展開するにあたって趣旨が違いますがそのまま掲載です。

テレビのニュースで殺人事件があると、遺族の方が「犯人を殺してやりたい」「許せない」などと語りますよね。
私が21歳か22歳くらいだってこと、家庭内の不和でむしゃくしゃした非行少年が、ただ騒ぎを起こしたいと言うだけで、私の母をナイフで切りつけるという事件がありました。この時母は2週間入院しました。
この時にわたしは、もしも母が死ぬようなことになっていたら、マイクを向けられたら、犯人の少年を許す。つらい思いをしないで生涯を平穏に過ごしてほしい。そのように語るだろうなと考えました。
私にとってはそれが自然で自分らしくある事です。理屈、論理、哲学、信仰はそこにありません。
この話を友人にしたら帰ってきた問いは「あなたって神様?」でした。
このような犯人を許せる心情を理解したいと思うでしょう。
私に何故?と尋ねるかもしれません。
このように自らは共感できない事柄に理解を示そうとする場合、
神とは。
人間本質とは。(要するに仏)
愛とは。
などの前提になるようです。
理解できないから論理に直そうとする前提から出発します。
そして論理を形成すると、今度はその論理の枠内のみで思考し肝心の信仰が限定され歪みます。
だからこそ非思考が大切です。
そして出発点は理解不能な私の行動の研究であるため、いつまでたってもその論理は、
私の生き方。
私の言葉。
私の考え方。
と、されてしまいます。
こうして神様の出来上がりです。
私にしてみるとこのような最悪パターンでは自らの非思考が蹂躙されます。

投稿日時 - 2009-11-22 22:35:49

お礼

 オコリザルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 あらためての質問であり やり取りになります。
 オコリザルさんのこのご見解の特徴は
 ★ 犯人の少年を許す。つらい思いをしないで生涯を平穏に過ごしてほしい。
 ☆ つまり 明確な意志表示を伴なっての
 ○ 人として 人のあやまちを赦せるし 赦す。
 ☆ という命題にあります。
 確認するならば わたしの問いは 
 ○ そのように人が人のあやまちを赦すという能力は ないのではないか。 
 ☆ です。
 ですから 《赦す》と表明して 人から驚かれ《神様》扱いされるという事態とも この質問じたいは 方向が違うようにはまづ思います。

 ですが これら全体として 次のようにまとめることが出来るでしょうか。
 ○ 非思考つまり信仰つまりは なぞの無根拠にもとづいて 《人が人のあやまちを赦す》というその意志がかたまり表明することがあるというのは 現実か否か?
 ☆ 言いかえると
 ○ 非思考なる信仰においては 人が人のあやまちを赦す能力もそしてそうとすれば資格もある。そういう現実が起こりうる。
 ☆ という命題をめぐって 考え合うということになるようです。

 ということは それなら 《非思考なる信仰とは何か》に帰着してしまいます。
 どうしたもんでしょう?

 ううーん。そうですね。いえいえ これは 決まっています。この
 ○ 《非思考なるこころのあり方を 出来る限り 哲学として 経験合理性をとおしての理解に合わせて 説明すること》
 ☆ です。そうなるでしょうね。
 ★ 理解不能な私の行動
 ☆ これをなお理解可能な言葉による表現で説明すること になるでしょうね。どうでしょう?

投稿日時 - 2009-11-22 23:00:07

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