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アリストテレスの思想について

いま倫理の授業でアリストテレスをならっています。
そこで先生から問題があったのですが、それについて皆さんにたずねてたいのです。
アリストテレスは友愛(フィリア)の徳は「相手との均等性、類似性の上に成立する」、言い換えれば、経済状態や社会的地位・文化的背景が大きく異なる者同士には真の友情は成立しえないとかんがえています。この見解についてあなたはどうかんがえますか

投稿日時 - 2009-11-27 21:14:11

QNo.5480824

困ってます

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回答(2)

ANo.2

「ニコマコス倫理学」に即して説明するべきでしょうが、その余裕がなく(すみません)、わたしなりのアリストテレス観でいかせていただきます。
「ニコマコス」の頻出語に訳語で「うるわしい」(英訳ではnoble)があります。人間の幸せは「うるわしい」生き方をすることにある(それが究極の「倫理」です)。
そういう文脈で「友愛」がでてきます(たしか9巻)。

「ニコマコス」はリアリスティックでとても美しい(handsome)本です。ぜひ読んでみてください。

そこで――こんな思考実験はどうです。
月収200万円の人(A)と月収20万の人(B)(いまの日本では普通に実現する仮定です)はどんな交際になるでしょうか。
たとえば「3000円」くらいのランチを一緒に食べるとします。ここで「対等」なつきあいとは何でしょうか。3000円ずつ出し合うのは本当に対等でしょうか。計算上、概算で、Aが5500円、Bが500円出すという考え方もありうると思います(負担率?が対等であるならば!)。これを不服とする(みじめすぎますから)Bは、たぶん、Aと「対等」になるよう努力するはずです→何とか月収を200万にするよう努力するでしょう(本当にAが自分にとって大切な人だとおもうならば。AはたぶんそんなBの気持ちを察して、とうぶん会うのを控えようと思うかも知れません。「友情」とは、それが真剣であればあるほど、そんな微妙な綱のうえに成り立つものかもしれません。

友情とは「自己」の延長だと考えたのがアリストテレスだったと思います。相手は自分がなりたいその「理想」なのだと。だから「弱い」自分を相手にも見せない。「病気」のとき「経済的に困窮した」ときの自分を見せない、反対にそういう状態の相手を(そっと気づかうことはあっても)訪ねたりは絶対しない。
わたしにも友人がいますが、いまは少し違う方向の仕事をしています、たまに会っても、互いの仕事を相手に「わかってもらおう」なんてふるまいはしません(見苦しいので)。いつも今度あうのは、相手の葬式のときかもしれないと思って別れます。相手が死んだとき、相手の仕事の真の意味がわかればそれでいいのだと思います。ちなみに、わたしの師は癌が発病したとき、わたしが病院にお見舞いにいくことをゆるしませんでした。師の骨を拾ったときの悲しさ寂しさはいまも消えません。

いまの自分はあいてに「会う」ことが「できる」のか、という問いかけのない友情はありえません。

ぐちをいったり、おしゃべりしたり、ほど友情から遠いものはないのだと思います。友情とは何かを真剣に考えると、アリストテレスの言葉も別なように見えてくると思います。

アリストテレスの考えはいっけん冷たいように、封建的(?)なように見えますが、現代にも通用する冷徹な真実ではないでしょうか。
ニーチェはやわなキリスト教徒を否定し、ギリシャ精神をもちあげましたが、アリストテレスこそ「超人」思想を実現したものだというのがわたしの結論です。

投稿日時 - 2009-12-01 12:18:08

ANo.1

 アリストテレスの時代背景にもこのフィリアの解釈は影響すると思うのですが、当時のいわゆる奴隷制度的な社会ではそもそもの人間間の理解や愛というものが上流階級と奴隷階級では非常に難しいものがありましたし、当時は外国(文化の違う土地)と言ってもヨーロッパの一部であって非常に限定的な地域を指していました。
 例えば当時は科学は賢い人間の仕事でしたが、技術は劣った人間の仕事でした。今でいうところの工芸技術は奴隷の仕事でした。科学的な思弁と実践的な技術が分離していた時代です。いまでこそ科学と技術は類似した分野ですが当時は別ものでした。
 ただ当時の時代背景を考え合わせて現代の我々の思考回路に応用することを考えるとさほどとんちんかんなことではないと思います。というのも私自身も外国人の知り合いや友人が何人かいますが、彼らとは経済状態、社会的地位、文化的背景が全く違います。しかし、均等性、類似性の上に成立しているのはさほど間違っていないと(感覚的に)思えます。
 まず、言葉の壁がないです。共通語は英語と日本語とドイツ語のミックスです(笑)。お互いの国のことはお互いによく知っているので文化的な差(言語の差)は感じません。またお互いに両国を行ったり来たりしていることからお互いに自国ではアウトサイダーです。これも類似していると思います。均等性、類似性は至るところに探すことができると思います。
 逆に例えば国内の内乱や不和ということになると同じ文化的背景や地理的条件でも様々な面で差異が生じているという解釈も可能だと思います。

投稿日時 - 2009-11-27 22:21:25

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