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解決済みの質問

悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。

 次の二つの理由で あらためて問います。
 新しい回答者から別解が得られるかも知れない。そして 究極の悪という現象に関して まだうまく捉え切れていない。

 たたき台は つぎのようです。
 
 1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

 2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。

 3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考えです。

 4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。
  

 かつての質問は つぎです。
 【Q:究極の悪とは――存在について――】
  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4708484.html
 【Q:悪は 存在しない】
  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html

投稿日時 - 2009-12-28 13:22:16

QNo.5552729

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

こんばんは。
興味深いトピで見入ってしまいました。

悪は存在しない。
私もそう思いますね。
そもそも何をして悪と呼ぶのか?

人道的な事に反していない限り(※人殺し:盗み)それは悪ではない。
元々悪とは、自分で作るものではなく相手がそう受け取るものであるのだから。

例えば価値観が合わない:自分と違う:噛み合わない=何だか嫌=悪として自分の中から排除してやれという思想が生まれたりもします。
嫌い=悪 でも無いんですがね(笑)

反対に正しさとは何かといえば、結局これもまた誰かに決められたりするものでもないんですよ。
だって今ある自分の正しさは「生きてきた結果」としての価値基準としてあらわれているわけで。
そうすると、時々その人の正しさについて言及したりああだこうだ言おうとする人もいるけれど、それはその人本人の「生」を否定することになる。

だから誰も間違ってはない(悪ではない)

正義も悪も紙一重ですから、結論トピ主様が行きつかれた答えにたどりつくんじゃないのかなと。
きっと性善説性悪説では無しに、物理的な根拠も、哲学的なウンチャラを語らなくたって

当たり前のことだと思います。

人により、
人により、
何が正しくて何が悪なのかなんてわかりませんのですから。

人に人は裁けない。
万能な人もいない。

だからこそ悪だの正義だの言う前に、
まずは「相手を受け入れる」こと。
それが「悪」という存在を潰す唯一の特効薬だと思います。

青二才が失礼しました。

投稿日時 - 2009-12-31 02:29:56

お礼

 おおっ。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人に人は裁けない。
 万能な人もいない。

 だからこそ悪だの正義だの言う前に、
 まずは「相手を受け入れる」こと。
 それが「悪」という存在を潰す唯一の特効薬だと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 一歩すすめてもらいましたね。

 hamaki1978 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 きっと性善説性悪説では無しに、物理的な根拠も、哲学的なウンチャラを語らなくたって

 当たり前のことだと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここも いいですね。ひとの《自然本性》なんだから ああたらこうたら講釈をつける前にすでに わたしたちは自由に生きている。
 ★ だから誰も間違ってはない(悪ではない)
 ☆ ここから出発するのでなくっちゃ。ね。そのあとでなら ただし
 ★ その人の正しさについて言及したりああだこうだ言おうとする
 ☆ のではなく その人の具体的な考えについて 反対意見を持つなら 大いにこれも自由に批判をもしつつ話し合っていけばよい。相手を受け容れたゆえに 考えの妥当性を互いに問い求め 自由な批判を大いにおこなっていく。ならば互いにさらにいい考えにたどり着けるでしょう。人びとの知恵というのも捨てたものではないでしょう。偉い人だから 正しいとも限らないですし。・・・

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 例えば価値観が合わない:自分と違う:噛み合わない=何だか嫌=悪として自分の中から排除してやれという思想が生まれたりもします。
 嫌い=悪 でも無いんですがね(笑)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここんところを 互いにそして広く一般にも 考え合い考えなおして行くとよいでしょうね。
 批判しあって 議論がかみ合うと けっこう互いに楽しいものですよ。そこから和を以って貴しと為すが生きてくるのではないですか?

 ありがとうございました。これからも自由なご批判をお待ちしております。

投稿日時 - 2009-12-31 12:15:04

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回答(30)

ANo.30

私の回答の方こそ取り留めのない形だったのですが、丁寧に補足して頂きありがとうございます。
おかげでまた多くの考えるきっかけを頂きました。今回は回答というよりも感想に近いですので根拠はありませんし、また思い違いが多々あるかと思いますが、何かの考えのお役に立てればと思います。
失礼ながら、以下の文でbragelonneさんの引用の方法を使わせていただきます。

★1.そうですね。こう考えて来て 案外 はじめの基準つまり《主観それも感性だ》という判断基準は生きているようにも思いますね。これに逆らったなら それとして――つまり多少の悪を交えるかたちとして――仕事の成功や失敗が結果として出てくる。このように見て それほど問題もないように思いますが どうでしょう?

☆1.私もそれで問題は無いと思います。複数の人の間、または一人の人の中に矛盾する価値観が存在したら、どちらをとってもどちらかには反してしまいます。でも人間は矛盾を嫌い、心の防衛機能を働かせると思います。どちらの価値観もとらなかったり、二つの価値観以上に大切な価値観を見つけたり、どちらかには反するが仕方ないことと割り切ってどちらかをとったり、その時の情況や価値観の重要さによってその行動は様々でしょう。それに善悪が決められても、善悪にも程度がありますし必ず善だけではいけないわけではないと思いますから。

★2.もう心の完全な死に行き着いていて よみがえることの出来ない悪を究極のそれだと定義したいと思っておりますが いかがでしょう?

☆2.なるほど、「心の完全な死」ですか。ちなみに私はとりあえず「心を失くす≒価値観・感情を失くす」と考えています。人間はただ動物的に生きるだけでなく、価値観を持ち、良い生き方・真実の探求をすることなど精神性の充実(活きること)を求めます。そうするとその「心の完全な死」の状態は、「人間が人間らしく生きることが善い」という否定できない価値観において悪であり、その状態を善しとすることはできない(心の完全な死を受け入れることは人間であることを諦めて、動物としてのヒトとして、ただ生きることだと思います)ので、確かに究極の悪と呼べると思います。

 ところで、この「心の完全な死」の状態は私が前の回答の例えで述べた「闇」の状態に似ていると思いました。例えは「光(善)=ある価値観で善しとされること」、「影(善でないという意味での悪)=その価値観で善しとされないこと」、「闇=価値観(心)の無い状態」です。光と影は同時発生するものであり、光も影も無い状態が闇です。これを用いて闇に行き着くまでの過程について私が以前思ったことを以下に述べたいと思います。

 いくつかの光のある中で、一つだけあまりにも強い光がありました。その光は絶対に揺らぐことは無くその光は容赦なく周りを自分の色に照らします。そうすると弱い光は強い光の影になってしまい、周りからやましいもの(影・悪)だと罵られます。弱い光はそれに耐えることが出来ずに、光の無い闇の世界に来ます。そこでは自分をやましいものとして罵るものもいないけど、自分自身の光も無いので活きる喜びも無い。つまり、強いものからの自己防衛機能(逃避)として闇に逃げ込むのです。

 こんな考えを思い出すと、究極の善(光)の存在がそれ以外のものを究極の悪(闇)へと追いやるのかな、なんて思いました。

投稿日時 - 2010-01-08 06:10:32

補足

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★☆(要約) 価値観の位置づけ そして 究極の悪(闇)へと追いやられる問題
 ☆ このふたつについて それぞれ別の見方もあるんぢゃないかというかたちで述べてお応えとします。

 ○ 価値観は 知性人(ホモ・サピエンス)として人間が勝ち得た花であり実であると思うのですが やはりその幹や根は 身体の神経組織――それが精神や知性に直結するということでしょうが――としての感性である。のではないか。
 ☆ この視点をゆるがせにしたくはないという気持ちがあります。まぁ 幹は精神の記憶という秩序作用やものを考えるところの知性であるかも知れませんが。
 だから teneburun さんのお考えがいけないとか言うものではなく そういう観点をつけ加えて欲しいという思いがあります。(これは lu-mu- さんにもお伝えしたかと思います)。

 《心の完全な死》としての《闇》の問題。《光(明)と影(暗)》というのではなく 暗闇の問題。
 お名前とつながりがあるような無いようなで うかつなことは言えないとも感じるのですが 別の見方も成り立つ余地があるのではないか。これも こういうかたちの物言いになります。
 ○ 闇であれば きわめて強烈な光でなければその海底に届かないという側面も考えられます。
 ★ その光は絶対に揺らぐことは無くその光は容赦なく周りを自分の色に照らします。そうすると弱い光は強い光の影になってしまい、周りからやましいもの(影・悪)だと罵られます。
 ☆ ここについても別の見方があり得ます。《弱い光は強い光の影になる》というのは よほどの場合ではないかと思うのですが? むしろ照らされてさらに光を強め〔られ〕るのではないかと思うのです ふつうは。心強く思うのではないでしょうか?
 もしそれでも
 ★ ・・・周りからやましいもの(影・悪)だと罵られます。弱い光はそれに耐えることが出来ずに、光の無い闇の世界に来ます。
 ☆ というのでしたら どうなんでしょう そういう事態が起こることは 《強い光》のせいなのでしょうか? 
 《弱い光》が 強い光と比べられて《やましいもの(影・悪)だと罵られる》とすれば そのように《罵る》周りの者たちも そこでしっかりと《強い光》を見ています。見ることができています。そのほうが 大事な現実であるように思えるのです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 どちらの価値観もとらなかったり、二つの価値観以上に大切な価値観を見つけたり、どちらかには反するが仕方ないことと割り切ってどちらかをとったり、その時の情況や価値観の重要さによってその行動は様々でしょう。それに善悪が決められても、善悪にも程度がありますし・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ というような対処の仕方をわれわれは知っています。《光の強さにも程度がある》ことを知っています。われわれの知恵は捨てたものではないと思うのです。
 ★ そこ(闇の世界)では自分をやましいものとして罵るものもいないけど、自分自身の光も無いので活きる喜びも無い。つまり、強いものからの自己防衛機能(逃避)として闇に逃げ込むのです。
 ☆ これも緊急避難として捉えたらどうでしょう? 逃げ込んだ人たちに光の世界への手を差し伸べることは出来るのではないでしょうか?

 そう言えば この究極の悪つまり闇の世界〔としての思惟および行為の形式〕が 光の世界へ復帰することが出来るか? というのはわたしの相談事項でした。できるのではないかと勝手に いま自分で言ってしまいました。どうなんですかねぇ。そこのところを みなさんともども 問い求めていきたいと思うのですが?

 またまた論旨があっちへ言ったりこっちへ来たりになりましたが。・・・

投稿日時 - 2010-01-08 09:46:12

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-25 16:05:43

ANo.29

私なりの意見ですので、見当違いの場合はご容赦下さい。

 1,2,3に関して、まず悪に限らず善もまた存在はしないと思います。善はそれぞれの人の持つ価値観によって違います。そしてその善の価値観に反することを悪といいます。そうすると「善と悪」の関係は「光と影」のように同時発生的なものと考えられます。但し必ず善が先に定義されるものです。悪の定義は、善の定義の排他(否定)だからです。善悪に関して何も価値観を持たない状態が闇(光も影もない状態)です。善の価値観のあり方には私が大きく分けると二種類あります。
 
 一つは「Aだけが善い」とする価値観。これに反するものは「A以外は全て悪」です。この時の善悪の量的関係は善の価値観が増える(減る)程、悪が減る(増える)。
 
 他方は「Aは善い」とする価値観。これに反するものは「Aに反するものだけは悪」です。但し「Aと,Aに反するもの」以外に関しては中立。この時の善と悪の量的関係はどちらも同じ数になります。善が増えれば(減れば)、悪も増える(減る)。
 
 また、善悪が実体化されるのは、ある行為について善悪の価値観を持っているものが二人以上いてその二人以上がお互いを認識できるところで、誰かがその行為を起こした時です。つまり誰かの行動が他者の価値観で判断された時、行為(現象)は善(悪)とされます。その行為自体は善も悪も無く、人間の価値観が善悪の要素を生むのだと思います。

 4.に関して、私が考える人間の善悪の判断基準は、とりあえず以下の三つあります。
  I.動物としての善悪 (「生きる」が善、「死ぬ」が悪。)  
  II.道徳としての善悪 (理想の自分像、自分にとっての善悪) 
  III.IIの理想に近づくための成長機能としての善悪 (理想に近づこうとすることが善)

 私は上のIとIIIに関しては問題ないと思います。Iは同じ人間同士なら同じ価値観のはずですから。しかし、IIに関しては多少問題があると思います。理想の自分像、自分にとっての善悪は他者に判断されることがありません。自分は善だと思っていても、他者にとっては悪であるなどの場合があるため、絶対的なものではないということです。極論だとIに反して「人間を殺すことが自分にとっての善だ」などと言うことがあるかも知れません。

 最後に参考までに、絶対的な悪としていえる行為があるなら、それは「裏切り」だと思います。他者にあることを約束した上でそれに反する行為をするわけですから、悪の定義とほぼ同義ではないでしょうか。

投稿日時 - 2010-01-07 04:18:46

補足

 teneburun さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 直前(No.30)の lu-mu- さんのご回答で 悪とはどういうふうに定義するかの第一ステージが 念押しのかたちで 確かめられたと思っています。
 具体的な事例が必要だと言いましょうか あるいは 念押しに念押しをする作業もやはり必要だと言いましょうか そこは哲学ということで うかうかとしてはいられないようにも感じられるといったところでしょうか。

 これまでの定義の大枠に沿って述べてもらったので そして teneburun さんご自身に合った全体的なデザインのかたちで再定義されたので それ自体には直接触れずに 個別の小主題や課題についてわたしの考えるところを交えるという恰好で述べたいと思います。

 ★ 絶対的な悪としていえる行為があるなら、それは「裏切り」だと思います。他者にあることを約束した上でそれに反する行為をするわけですから、悪の定義とほぼ同義ではないでしょうか。
 ☆ いきなりですが ここは 《絶対的な・究極の悪》については 定義が 別様にもあります。つまり その悪じたいに関してはおっしゃるとおりなのですが 《裏切り》もまだそこから善(ふつうの人間の心)を回復することができるという意味で《究極》とは わたしの場合 見ないのです。
 もう心の完全な死に行き着いていて よみがえることの出来ない悪を究極のそれだと定義したいと思っておりますが いかがでしょう?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 理想の自分像、自分にとっての善悪は他者に判断されることがありません。自分は善だと思っていても、他者にとっては悪であるなどの場合があるため、絶対的なものではないということです。極論だとIに反して「人間を殺すことが自分にとっての善だ」などと言うことがあるかも知れません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これまででは 判断の基準を (1)《わたし》の主観 しかも(2)そこでやましさを感じるかどうかという感性に置いて来ましたが 《他者》の判断という要素を入れてみるとどうなるか?
 基本的には やはりその他者の《主観》であり《感性》であるのですが 要するに見解が異なった場合 どうであるか? もし
 ★ その行為自体は善も悪も無く、人間の価値観が善悪の要素を生むのだと思います。
 ☆ という場合が実際に起こるとすれば これは感性の問題を超えて 理論の問題になるかと思われます。
 やはり基本的には 互いに議論し推論の妥当性を互いに問い求めればいいと思いますが そのときの注意点などはどうか? つまり《行為じたいは善でも悪でもない》けれど 互いに意見が異なるという場合などです。

 ううーん。あまりいい例を思いつかなかったのですが こういう場合は どうでしょう? 
 大学時代からの友だちで ライワ゛ル会社にそれぞれが就職して ちょうど互いに競合するかたちで或る会社のプロジェクトを請け負いたいという情況になったときです。互いに正々堂々と自社の持てる力を発揮して競争しようと誓い合ったのですが 上司からの要請で多少とも相手を《裏切ってでもよいから》出し抜いて仕事を取れということになった。

 もうここからは 互いに議論をして妥当な考えを共有するというわけには行かなくなります。あるいは 別の一面では 自分がおのれの心に問うてやましさのない行動をつらぬいたとしても 仕事を取れないならばそれは どういうことになるか? それでよいのか? 多少とも情況に合わせて行動すべきか?

 そうですね。こう考えて来て 案外 はじめの基準つまり《主観それも感性だ》という判断基準は生きているようにも思いますね。これに逆らったなら それとして――つまり多少の悪を交えるかたちとして――仕事の成功や失敗が結果として出てくる。このように見て それほど問題もないように思いますが どうでしょう?

 とりとめのないかたちになりました。取りあえずこのようにお応えしたいと思います。いかがでしょう?

投稿日時 - 2010-01-07 10:30:32

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-25 16:06:04

ANo.28

ようやくわかりました。
私なりにまとめるとこうなります。
でも私好みに修正(加筆?)加えちゃったので(大変失礼ですが)、もしそこは違うというところがあったら言ってください。

bragelonneさんの善悪の定義

善の定義

善とは、人間である。
その「人間」という言葉が含むものは以下の通りである。
1)人間という存在そのもの。
2)人間が生まれながらに持っている感性、欲求などの生にとって必要な能力
3)後述する「悪」を伴わずに後天的に得た価値観

これらを善として認める理由は、我々人間は、人間を至上の価値とすべきだからである。なぜなら、この宇宙に絶対の価値観はそもそも存在せず、あらゆる価値は生命から生まれたからである。そのあらゆる価値の根源である生命(人間)を至上の価値とせずに、それを損なう価値観は誤りである。また人間の本質は生であるから、その生に必要な諸能力は肯定されなければならない。それに加え、人間の生のために生まれた価値観も肯定されるべきである。


悪の定義

悪とは、善(人間)を損なうことである。
1)の善を損なうとは、人間を損なうことである。人間を傷つけたり、殺したりすることなどがそれである。
2)の善を損なうとは、生に必要な能力を損なうことである。自感じるままのことを欺いたりして、本来持っている生のための能力が鈍ってしまうことなどがそれである。
3)の善を損なうとは、生にとってよい価値観を否定したり、また生にとって悪い価値観を生み出すことである。



まとめ終わって気づいたのですが、自説を取り入れちゃってbragelonneさんのとは違う感じになってしまいましたが、けっこうスマートになったのではないかと思います。
これは私の説ではないということでしたら言ってください。

投稿日時 - 2010-01-06 05:53:49

お礼

 なあんだ お分かりぢゃないですか。
 ご回答をありがとうございます。

 たぶんこのデザインと性能の車で運転されれば 快適なのではないかと思いますよ。

 というわけで わたしの色合いをも添えさせてください。
 善悪観は いわば交通法規に当たりますが いまクルマに喩えたように――そして人間が主体であり基本ですけれど あえてクルマで言ってみるならば―― 交通法規をみづからに備えたクルマになると思います。
 それで 燃料を何にするかやら運転の癖やらで色合いが違ってきますが わたしの色合いは つぎのことがらにあります。

 (あ) 感性を 知性よりも基本的な判断力であるとみる。

 (い) 知覚(これは ひらめきでもよい)や感性は 何がおのれの心であるか・つまり何が善であり悪であるかを知らないわけではない。

 (う) 愛は 理論家である。愛が 何を愛すべきかをほんとうに知らないということはあり得ない。ただ その自覚どおりにことを行なえるかどうかは また別であるというのみである。

 (え) あやまちを冒すことのある自由な人間語としての市民スサノヲ語を 概念整理され価値観としてもまとめられた人格語としての公民アマテラス語よりも 重く見る。

 (お) スサノヲ人間語のほうが アマテラス人格語よりも 自由で人間的である。後者は つねにマニュアル化・自動機械化の弊害にさらされている。

 (か) 《なんぢ ころすなかれ・ぬすむなかれ》という規範アマテラス語よりも 自然・自由・柔軟な野生児スサノヲ語によってこそ その《ころさない・ぬすまない》という共生の基礎が実現されうると思われる。

 (き) ただ スサノヲ語は 互いに胸を心を人間を開かなければならない。全開にしなければいけない。鎖国政策では 自由と自然が泣く。

 (く) 胸を開き腹を割って話し合うのなら そこでいくらけんかをしても構わない。アマテラス語ですましていてはだめである。

 (け) なぜなら アマテラス語の規範に盛り込まれた善は スサノヲ人間語という根から出た善である。

 (こ) 世界のスサノヲイスト こころをひとつにしよう。クルマのデザインはおのおのである。

投稿日時 - 2010-01-06 10:07:01

ANo.27

オコリザルです。
bragelonneさんは、ミラーニューロン(さかしま)と言う言葉を表現に取り入れられていますよね。
それならば悪意はそっとしておいていいんじゃないですか。

投稿日時 - 2010-01-05 23:21:27

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 わたしが ミラーニューロン現象という場合は 《アース現象》に限って言っています。
 脳科学が広く捉えているのでしょうけれど わたしの用法は特殊な場合に限っています。

 一般に権限を持って地位が上にある相手から その意図や欲求の内容をほとんどそのまま受け容れざるを得ない情況にあると自認し この言わば上司の意識の排泄を みづからの身に受けるというアース役の場合です。
 したがって 一般にみづからこのミラーニューロン現象を身に引き受けているということです。ですから ゴミ処理工場であるとか ゴミ再活性化工場だとかと喩えています。
 ただ このアースの引き受け役の荷が重い場合も なかには あります。そういう場合には 休息を必要とするような症状を呈することも出てくるかも知れない。ここまでのことを捉えています。

 ★ それならば悪意はそっとしておいていいんじゃないですか。
 ☆ この場合 意識の排泄というからには 上司はおおむね言いたいことを言い アース役に対しおこなって欲しいことを要求していますから たしかに《悪意》があります。アース役はどうなっても構わないというようなちゃらんぽらんなところがあるからです。
 で その悪意を《そっとしておいていいんぢゃないか》とのことですが まづアース役を引き受けているということは ほぼやりたいようにやらせています。つまり 《そっとしておいて》やっていると言えると思います。
 ただ もしそれだけに終わらないとすれば それは そのゴミ処理を終えて さらにリサイクルがうまく行って始まろうとするなら その再生を何らかのかたちで アース役は上司に要求するでしょうね。かたちでどういう表現になるか その中身としては実質的に言って 《人間たれ》と迫るでしょうね。つまり そのときには《そっとしておいて》やらないでしょう。

 これらはぜんぶ互いに自由意志においておこなわれています。したがって 自由に批判をすればいいわけです。《そっとしておいてくれないとは 何事だ!? これこれこういう問題がある。だからきみの考えとやり方は間違っている。どうだ?》というように批判すればいいのです。
 むろんアース役も 批判し返すでしょう。そういう対話の問題だと考えます。

投稿日時 - 2010-01-05 23:50:54

ANo.26

ふつうの人は

 ○ 存在(=善) ≧ 自然本性(=善) > 意志という行為能力(=善)
これらが善だと言われても、対象物である悪がどのようなものか全くイメージできないのではないかと思いますが、どう思われますか?
私にとってのその理由は、善を確信を持ってイメージできないからです。
bragelonneさんの言葉はどれも抽象的すぎます。

これは議論を要することですが、抽象的な言葉ばかりでは論理的に正しい答えは出せないのではないでしょうか?

例えば自然本性という言葉ひとつとっても、それがどういうものであるか明確に説明できていませんし、ご自分でもよくわかっていらっしゃらないのではないでしょうか。

私が前に哲学ではないと言ったのは、善悪とは何かという議題ではなくて、議論の進め方についてです。抽象的な言葉で書いた命題に対して真偽を出すのは危険だと思います。

あと別の質問なのですがbragelonneは外国の方ですか?
文章をスペースで区切っているのでなんとなくそう思ったのですが。

投稿日時 - 2010-01-05 20:54:59

お礼

 そうですね。

 これまでの説明――それは 次の要約にだいたい明らかだと思いますが――で理解できないと言われれば もはや仕方ないと考えます。致しかたありません。

 ☆☆ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 たたき台は つぎのようです。
 
 1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

 2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。

 3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考えです。

 4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。
 ☆☆ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ふたつ おぎないつつ仮説を補強します。

 ( a ) 善悪の判断は 飽くまで 一人ひとりの主観に基礎をおきます。

 ( b ) 善悪から自由な場合がある。たとえば 食べるのに箸でかフォークでか手でかは 一般に――という意味は 手であっても 衛生上まずくなければ―― 善悪の判断から離れています。自由に選択するでしょうし それぞれは等価です。
 くるまが右側を走るか左かは 善悪の判断とは別であるようです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2010-01-05 21:24:54

ANo.25

善≒自然本性という言葉の定義が不明確です。
不明確な言葉を使って仮説を作ってもその仮説は何の意味もなしません。

あなたの定義した自然本性という言葉に非常によく似た言葉で本能というものがあります。これは生命が生まれながらにして持っている能力、欲求であり、また生命は本来利己的な存在であるため、本能も利己的です。
利己的という言葉は、自分本位ということですから、社会の信頼関係とは対にあたるものです。

まず、あなたの自然本性が本能とどのように違うのかを示してください。
自然本性というのが本能をまるごと含むのか、一部含むのか、全く別のものであるのか。一部含むのなら、それは本能の何を含むのか。

あなたの定義する自然本性というのは、まるごと善だということですね。
そして人間は本来自然本性のみの存在であるから善の塊であるが、いずれ善が壊れ、へそを曲げて嘘をつくようになり、それを悪と呼ぶということでした。
つまりあなたの場合の「悪」はある行為ではなくて、単に「自分の心に嘘をつくこと」という心の中の現象のみを指すことになります。
そうだとすると、あなたの定義では殺人を悪だとできませんし、復讐も悪だとできません。

失礼ですが、私には哲学というより、言語ゲームをしているだけのような気がします。

投稿日時 - 2010-01-05 04:35:13

補足

 さらに補足要求のようですね。分かりました。

 ★ 善≒自然本性という言葉の定義が不明確です。
 ☆☆ (No.25補足欄)  ○ このように悪は 善≒《自然本性としての意志という行為能力》≒存在から来ていますから・・・
 ☆  というように使ったところです。今回 《 》もつけました。
 ほとんど三つは イコールでもよかったのです。
 きちんと述べるなら こうです。
 ○ 存在(=善) ≧ 自然本性(=善) > 意志という行為能力(=善)
 ○ つまり 自然本性は 意志のほかにも記憶や知解の能力を持っていますから しかもその中でもやはり自由意志が中核を占めると思われるので 近似値(≒)の記号を使ってしまったというところです。 

 そうして このわれわれ人間の社会では われわれの使う言語に習慣のようなものがあって そこでは 善および悪という言葉をおよそ日常生活においてもふつうに用いています。
 この用法について交通整理をしておこうという意味合いにもなります。

 ★ つまりあなたの場合の「悪」はある行為ではなくて、単に「自分の心に嘘をつくこと」という心の中の現象のみを指すことになります。
そうだとすると、あなたの定義では殺人を悪だとできませんし、復讐も悪だとできません。
 ☆☆ (趣旨説明)  4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・また ≫この善を減らすこと≪ これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。
 ☆ ≫ ≪の記号でくくったところが 《行為》をも表わしています。たしかにこの言い方では 《へそを曲げる》という行為のみを指すとも採れますが まぁ一般的に言って そのとき実際に行なう行為――つまり たとえば文字通り《ウソをつく》行為でしたら そのウソを実際に言うという行為――をも含んでいます。殺人もその種の復讐行為も とうぜん含みます。
 言いかえると そういう実際の行為を伴なわないのであれば それはただ心の中でへそを曲げた・つまり曲げようかなと思っただけのことになります。

 ★ 本能
 ☆ の問題はややこしいですね。そんなものは他の動物にこそあれ 人間にはないのだ・つまり人間では壊れているのだという見方もあります。
 本能は 自然本性の内 感性あるいはさらに細かく言って身体の知覚に現われる欲求や衝動を ひとがどのように処理するかその処理の仕方にかかわります。
 こう見たあとは すでに大まかに述べますが 二つの場合に分かれます。
 いかに自然の欲求であっても 意志の自由に任される場合は――という意味は たとえば性欲は一生のあいだその欲求にあらがい拒むことも出来るかも知れませんから そのように自由意志のちからが及ぶ範囲においては―― その意志行為としての善さもなければその欠けとしての悪という捉え方が そのまま当てはまります。
 ★ 利己的ないし自分本位
 ☆ というのも いまの場合は 意志による判断が効くと見るわけですから それなのに情況を把握できず自分の利益のみのために行動することは 善にさからう悪だと言えると思います。

 食欲は どのくらいその欲求を拒むことが出来るか分かりませんが(――また 拒み続けて餓死することは やはり善なる存在の損傷ですから 悪になりますので――) そのとき意志による判断が効く範囲と効かなかった場合とに分かれるかも知れません。
 もし意志のちからが及ばなかったという場合には それは 人間の手に負えないものごとだという理解になるかと考えます。いたわり合うといったところだと思います。(そのとき取った行為じたいとしては 善を損傷させていないかどうかで いちおう善か悪かが決まります)。
 こんなところでしょうか。
 哲学の根幹ですよ。

投稿日時 - 2010-01-05 06:32:16

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-25 16:06:39

ANo.24

その「へそを曲げる」というのも自然本性の現象なのですか?


>そのあと この善から みづからの損傷として 悪が現われます。
そのあと、というのは生命が生まれた後ということでしょうか。
損傷というは自分の外の世界によって傷つけられるということですか?
それとも自分自身で傷つくということですか?
100%善の塊なら自分自身を傷つけることはないですよね?

なぜ善は傷ついてしまうのでしょうか。
自分自身を守る能力は持ち合わせていないからですか?

>善≒自然本性としての意志という行為能力
大切な人が殺されて相手に復讐心を抱くのも自然本性だと思うのですが、その意思も善ということでいいんですよね?

 ★ 善悪というカテゴリーと言葉が存在するのは事実なので
 ☆ という言語習慣と いまの仮説がなじまないとは思わないのですが どうでしょう?
質問者さんの定義ですと、ある行為についてそれが善なのか悪なのか判断がつきにくいと思います。どこからどこまでが自然本性なのかの線引きは明確なのですか?

投稿日時 - 2010-01-04 22:26:02

補足

 lu-mu- さん ご回答をありがとうございます。

 まだ説明が足りなかったかも知れません。
 まづ
 ○ 自然本性というのは 自然の感情を含むものです。
 ○ 良心あるいは 記憶行為や知解行為そして意志の行為といった精神またその能力 それらに感性を加えて 自然本性と言います。中では 自由意志と呼ばれる判断力が 中軸となると見ます。感性が 自然の感情ですね。

 ★ その「へそを曲げる」というのも自然本性の現象なのですか?
 ☆ はい そうなります。意志(またその意味で こころと言う場合もあると思います)が 自分の心にさからって何かをしようと決めること これはウソ偽りであり へそ曲がりであり 悪だと見ます。このとき 自分の心が 善です。善にさからうというかたちです。
 意志行為をするようになってから こういう現象が起こるようになると言っていいのではないでしょうか?

 ★ 損傷というのは・・・自分自身で傷つくということですか?
 ☆ はい 自分の自由意志が 自分のへそを曲げますから そうなります。
 ★ 100%善の塊なら自分自身を傷つけることはないですよね?
 ☆ ところが この《善》は 移ろい行くもので 限りある能力です。相対的な善です。虫の居所が悪かったときには 心にさからって何か別のものごとを選ぼうとしますし ええい バチが当たるなら当たれとか言って 選びます。実行します。善は傷ついたでしょうね。
 ひとつやふたつのウソくらいでは 善はだいじょうぶだとでも考えたかも知れません。このウソがくせになると やがてならわしとなって 善はみづからの内に悪を囲うことになります。
 心の内に善と悪とがあるとなりますが げんみつに言えば 善である心にどこか穴が空いたその穴のことを悪というのだと見るわけです。善とは別の《悪というもの》が存在するとは見ないわけです。あるのは《善のマイナス》だという言い方もいいと思います。それを悪と呼ぶだけだというふうにです。

 ★ なぜ善は傷ついてしまうのでしょうか。 / 自分自身を守る能力は持ち合わせていないからですか?
 ☆ 《自由》なんでしょうね。へそを大幅に曲げることも自由だということなんでしょうね。自由なら いっぺんやってやれってな調子だと思います。はじめは です。

 ★ 大切な人が殺されて相手に復讐心を抱くのも自然本性だと思うのですが、その意思も善ということでいいんですよね?
 ☆ これは いくつかの側面(または観点)があると思います。
 大切な人を守るという善の側面が ひとつです。すでに殺された場合には あたかもそのような善なる存在の抹殺を もういちど元に戻そうとさえ思う自然の感情は ひとのこころだと思います。
 と同時に もしそれが復讐心となって そこから実際に復讐するという場合 つまり殺した犯人に何らかのかたちで危害を加えようとする場合 これは それが誰であれ人間としての《存在つまり善を傷つける》ことですから やはり悪です。
 ふたつの側面があると思います。

 ★ 質問者さんの定義ですと、ある行為についてそれが善なのか悪なのか判断がつきにくいと思います。どこからどこまでが自然本性なのかの線引きは明確なのですか?
 ☆ これは 飽くまでおのおの《わたし》の主観です。感性と知性とによる判断によります。みづからの心に聞いてみるということです。
 ただその相手なり情況なりをぜんぶしっかりと考慮に入れないと 心が納得しない場合があるかと思います。ということは 三人寄れば文殊の知恵ですから ひとりだけの主観によるのではなく みんなで善悪を考えていくのがよいと思います。
 もし《線引きが明確でない》場合には とことんみんなで考え合うということになると思います。

 たぶんこの仮説にかんして おおまかなところでは だいたい合っているといまは思っていますが たとえば究極の悪とは何か? これについては やはりみんなで考えていくのがよいのではないでしょうか?

 いちばん基本となる線引きは 《わたし》の心がやましさを感じるかどうかの感性によるものです。情況を把握した上で判断したなら たいていは 人びとにも共通の判断結果が出ると思うのです。どうでしょう?

投稿日時 - 2010-01-04 23:01:20

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-25 16:06:58

ANo.23

たぶん質問者さんの質問は、善悪のカテゴリーを作ってそれぞれのカテゴリーの中にあるものが「形あるモノ」なのか「現象」なのかということだと思います。そういった条件のもとで、前者なら存在すると言えるが、後者なら存在するとは言えないということじゃないですか?
ただ善悪というカテゴリーと言葉が存在するのは事実なので、それでいろいろとごっちゃになっていたのではないかと思います。
悪人と呼ばれる人はいますけど悪はないんじゃないでしょうか。

オバマさんなんかは「悪は存在する」って言いきっちゃってますけど、アメコミとハリウッド映画の中で育ってきたならしょうがないですね

投稿日時 - 2010-01-04 20:43:12

補足

 lu-mu- さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 「形あるモノ」なのか「現象」なのか
 ☆ という分け方が もうひとつ分からないのです。現象は モノではない(あまりモノとは言わない)でしょうが 《形ある》ことですね。(このとき 《形ある》ものですね という言い方はしますね)。

 ですから 趣旨説明にありますが
 ○ 善は 自然本性と言いますか ひととして生まれてきたその存在のことであり その能力一般のことを言います。生命と言ってもいいかも知れません。
 (善悪の価値判断にかかわらせたくないときには そのまま《本来の性質》とか《ふつうの状態》とかと言えばいいと思います)。

 ○ この《わたし》という存在とその知性や意志の行為能力は 《現象》としても捉えられますが 一般には 《生まれた あるいは 存在している》という現実を言っています。そこから来ています。
 それが 《善》です。そういうふうに名づけるという意味です。(ふつうの言語習慣と特に違っているということはないと思います。生命の尊厳と言いますし ひとはそれぞれが掛け替えのない存在だと言ったりしますから)。

 ○ そのあと この善から みづからの損傷として 悪が現われます。この自然本性としての善は 相対的な善だからです。へそを曲げることが起こるという意味です。へそを曲げることじたいをも――それは 善を曲げ傷つけることですから―― 悪と呼びます。

 ○ このように悪は 善≒自然本性としての意志という行為能力≒存在から来ていますから 初めにこの自然本性の内に 善とはちがった《悪》としてあったとは考えないのですし じっさい考えられないのではないでしょうか? という問いになっています。

 ☆ まづはそのこと――悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるだけだ――について 問うています。
 あとで 究極の悪についても問おうとしています。

 ★ 善悪というカテゴリーと言葉が存在するのは事実なので
 ☆ という言語習慣と いまの仮説がなじまないとは思わないのですが どうでしょう?

 ★ 悪人と呼ばれる人はいますけど悪はないんじゃないでしょうか。
 ☆ 悪は存在していない。ただし現象として悪の行為や状態がある。その悪をさかんに行なうひとは 悪人と呼ばれるでしょうね。

 ★ オバマさんなんかは「悪は存在する」って言いきっちゃってますけど、
 ☆ したがいまして この質問の仮説にもとづけば 《悪という現象は 存在する》という意味に解します。悪魔がいてひとに悪を吹きこみその結果 悪をおこなうとは見ないわけです。自分の善の中から そのウソ偽りとして 悪が現われると見るわけです。
 善に悪は従属している。というふうにも言えるのではないか。といったところです。

投稿日時 - 2010-01-04 21:13:20

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-25 16:07:20

ANo.22

11です

>たぶんそこでわたしが推測で表現した内容じたいは それほど違っていない

であるなら神がいるという前提で話さなくてはなりませんが、神がいつかどうかは人類4000年以上の歴史がありますがいまだに否定派の意見を肯定派は覆すことができないのであなたの質問自体成り立ちません。

以上で私の話は終わります。

投稿日時 - 2010-01-04 10:22:32

お礼

 神が目に見えるものだったの?

 悟りを得ておられたんぢゃ?

投稿日時 - 2010-01-04 11:03:38

ANo.21

オコリザルです。
言葉の投げかけです。
私はこの問題に詳しいんですよ。

純粋な悪の観念に基づくと、生きようとする事それ自体が、最大の悪と見なされてきた。

投稿日時 - 2010-01-03 23:26:27

お礼

 ★ 純粋な悪の観念に基づくと、生きようとする事それ自体が、最大の悪と見なされてきた。
 ☆ このときには
 ★ 生きようとする事それ自体
 ☆ の中味が もうひとつ分かりづらいと考えます。
 ○ 生きようとすることのすべて
 ☆ を言うのでしょうか? それだと 質問趣旨での定義とは別になります。生きるという意志行為に 心にさからうウソから発する悪と そうではなく心に従う善とがあると見る立ち場ですから。
 そうして そのように《すべてが悪と見なされる》のであれば もう善悪をいちいち考えることも要らなくなると思います。

 わたしの定義との異同を もう少し詳しく述べてもらえるなら さらに互いの見解のそれぞれの当否をわたしも考えてまいります。

投稿日時 - 2010-01-04 00:02:10

ANo.20

オコリザルです。
現代的な私の心情では、
死からの生還が悪の定めである。
それはもはや善であろう。

こんな感じです。

投稿日時 - 2010-01-03 23:16:38

お礼

 前回(No.21)に
 ○ 悪は 心の死へと歩をすすめること
 ☆ と言いましたが その
 ★ 死からの生還
 ☆ は 誰もが望むことですし 望ましいことです。つまり
 ○ 悪に陥ったなら 善への復帰 つまり 死からの生還が望ましいし 必ずそうなって欲しい。
 ☆ ところです。そういう意味でなら 
 ★ 悪の定めである。 
 ☆ とも言えるかとも思います。ただし
 ★ それはもはや善であろう。
 ☆ というのは 生還したなら 《もはや善である》でしょうが ただし生還する前の悪の状態が 《もはや善であろう》ということにはならないと思います。
 どうでしょう?

投稿日時 - 2010-01-03 23:55:50

ANo.19

オコリザルです。
「悪は存在しない」なので、敗北や「死」に代表される虚無への回帰でしょうか。

たたき台のつもりです。

投稿日時 - 2010-01-03 23:14:23

お礼

 primeape さん ご回答をありがとうございます。

 次のようにおぎなって採ってもよろしいでしょうか?
 ★ 「悪は存在しない」なので、〔* 悪は〕敗北や「死」に代表される虚無への回帰でしょうか。
 ☆ どうでしょう? 飛躍があるように思えるのですが。
 まづ 悪が存在しないと見るのは 悪が善の損傷である部分を言うのみだからです。

 きのうまで親にほんとうのことを言ってきたが きょうは なぜかほんとうのことで答えたくない。これなら まだ子どもの反抗期の問題です。
 ただしそのようなウソが 面白くなり病みつきになったとしたら どうでしょう? 大人になっても 自分の心のほんとうのことは言わない。それが面白い。友だちにも恋人も 教師にも上司にも もうほんとうのことは言わない。つねにウソをついている。そんな場合を考えてみると どういうことが言えるでしょう?
 
 まづ ふつうの心のほんとうの部分が どんどん傷つき消えて行ってしまいます。その消えて行くと言いますか 自分で消していくというその行為 これが 悪ですし 消えてしまった善の部分も悪です。
 いわば心にぽっかりと 穴が空いてしまった。つまり善の欠如つまり悪が 出来てしまった。

 この悪は
 ★ 敗北や「死」に代表される虚無への回帰でしょうか。
 ☆ ひとつに おそらくこの悪は 《心の死》であるでしょうね。あるいは 身も心も含めて その死への歩みをたどっているということでしょうね。
 虚無かどうか?
 どうでしょう? いろいろなのでしょうが この場合 たとえばこの《心の死》へ歩をすすめているというので――どこか薄っすらとは 自分でも自覚しているのでしょうね だから―― かえって陽気になり いつも躁状態にいるかも知れませんね。その反動で鬱も出てくるのかも知れません。
 
 そんなところでしょうか? 《回帰》という言い方は あまりふさわしいと思えないのですけれど。回帰もしくは回復は もとの善への復帰のほうを言うのが いいと思いますから。どうでしょう?

投稿日時 - 2010-01-03 23:48:28

ANo.18

これって単純に宗教観の話ですよね?
人間から宗教観を除いたら、世の中に悪はいなくなるって話。

人間以外の動物に純粋な悪はいませんから。殺しても単なる食物連鎖の一言ですんでしまいます。

ちなみに、悪の対義語が善なら、善は悪あってこそ存在の価値を見出せる。善は悪がいないとただの中立であり、悪を食って初めて存在意義を出す。この場合の悪は人間とは限らず、人間が定義した悪だけが悪とみなされる。

よって、この世の人間は全て悪であるともいえるし、善であるともいえる。二つが同時に存在できるのは「宗教観」あってこそである。

究極の悪とは、悪を憎む善の心であると考える。

くだけて言うと、100人しかいない村で99人に嫌われている人がいるとする。それだけで、その1人はどんな善人であろうと「究極の悪」である。
現代社会の法を使えば村人達が「あいつは気にいらない」とすれば、99人が結託して濡れ衣を着せて村から追放する事が可能である。

アメリカで、2人の少年が児童虐殺を起こしたという事件があった。当初二人はドクロをあしらった悪趣味な嗜好品や派手な音楽を好んでいたことから、悪魔崇拝をしていたとし、スピード解決ともいえる早さで実刑が下った。

だが最近になって、この事件が見直されている。雑誌の取材などで警察の証拠はでっちあげと判明。被害者の親の奇行なども発覚して、小さな町で町人と警察が起こした大規模な冤罪事件として物議をかもしている。
その町は敬けんなキリスト教信者が多く、そんな町で少年達はハードロック、ヘビメタを好んでいた。そんな町では音楽もドクロのアクセサリーでさえも受け入れられなかった。二人は町にとって邪魔だったという説が高まってきたのだ。

しかし、警察も町人も全て完璧に証拠隠滅をしていて、外部からの取材にも非協力。元少年達の再審をするすべはない。

こんな事件が現実にあったのだ。

キリスト教を崇拝する善なる者達が、自分達のみなす悪を追放するべく、罪のない子供を殺して少年2人に罪を着せた「かも」しれないという事件。
ちなみに、皮肉なことに少年の名前が「ジェイソン」と「フレディ」だったことも当時、世論はゴシップ的にたたき上げ、この事件を冤罪と疑う者はいなかったという。


宗教上で究極の悪神は「アンラ・マンユ」という説が有力です。
人間だった頃のエピソードが面白いのですが、アンラ・マンユに関するネット文献は意外に少なかったので、興味があるなら図書館などで調べてください。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%A6

投稿日時 - 2010-01-02 23:40:43

補足

 ご回答をありがとうございます。

 ★ これって単純に宗教観の話ですよね? / 人間から宗教観を除いたら、世の中に悪はいなくなるって話。
 ☆ ではないです。ですが 《宗教観》のところをたとえば《ひとの自由意志》に置きかえれば或る程度 話が成り立つかに思われます。
 というのは 《自由意志》を言うのは 少なからずクリスチアニズムにかかわるでしょうから。
 もう一つ 《というのは》をつなげますが なぜ焦点が違っているかと言えば 趣旨説明においてたとえば 
 ☆☆ 1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。
 ☆ というふうに述べて 《宗教観》や宗教の教義とは明らかに距離を置いているからです。

 ですから
 ★ 宗教上で究極の悪神は「アンラ・マンユ」という説が有力です。
 ☆ この情報は いまわたしが考える限りでは 関係ないですね。この善悪二元論を yuichi7 さんが 質問の趣旨を批判する要素として掲げておられるのでない限り 関係ないです。
 でも その気がなきにしもあらずのようですね。
 ★ よって、この世の人間は全て悪であるともいえるし、善であるともいえる。二つが同時に存在できるのは「宗教観」あってこそである。
 ☆ 善も悪もそれぞれが根元として互いに並び立つというのであれば――つまり互いにどちらが力なり価値なりにおいて強いか上かが定まらないのであれば―― ものごとの一方を善と呼び他方を悪と呼ぶことなど 何の意味もありませんから。その心は つねにどちらをも善とも悪とも呼び得るということです。どちらで呼んでも まったく違いはないということになるからです。
 ★ 人間から宗教観を除いたら、世の中に悪はいなくなるって話。
 ☆ そのときには――つまり ザラトゥーシュトラの宗教は その宗教観を除かなくても 悪も善も共にいなくなるって話になるでしょう。つまり悪も善も共にいても どっちがどっちでも一向に構わないって話になるでしょう。

 ★ アメリカで、2人の少年が児童虐殺を起こしたという事件があった。うんぬん。
 ☆ この《冤罪》の問題は 宗教もからんでいるでしょうし しかもどの民族のどの宗教がからんでいても 同じような《第三項の排除》現象は 起こることでしょう。

 ★ 悪の対義語が善なら、うんぬん
 ☆ げんみつには 《対義語》ではないでしょう。《悪は善に従属し その善の損傷のことを悪と呼び この善の損傷よりほかのかたちでは悪はない》 こういう定義を示していますから。また そういう定義なのですから それと絡ませて批評・批判を展開してくださると よいでしょうしありがたいと考えますが いかがでしょう?

 ですから
 ★ 究極の悪とは、悪を憎む善の心であると考える。
 ☆ などの《究極の悪》の定義も 《善悪が互いに対義語である》というところから出発したものであると思われますので なかなか捉え難いようにまづは思われます。

投稿日時 - 2010-01-03 00:42:33

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-25 16:08:00

ANo.17

juyjuyです。

うそは泥棒の始まり
という古い格言が日本にはあります。
質問者さまは結局このことを言いたいのでしょうか?違いますね?
これは質問者さまが嫌いな「道徳」です。善悪というのは道徳の規準の言葉です。
質問者さまのように「道徳」「倫理」以外の観点で善悪を論じておられるので回答者が混乱するのだと思います。

質問者のお礼の内容を含めて考えると
 1:人に被害を与えるのが明らかだと自分が思うウソ
 2:自分が人に被害を与えたかなと自分が疑うウソ
 3:自分が人に被害をあたえないと思うウソ
 4:自分がウソでないと思っている事
について論じておられるのではないかと思います。

これは哲学的にも面白い命題だと思いますので、質問者さまがもう一度整理されて質問をだされればもっといい回答が得られるのではないかと拝察します。
善悪という言葉はある種の固定観念(「道徳」や「倫理」)に縛られているので自由な論議にならないと思います。

投稿日時 - 2010-01-01 21:25:41

補足

 みなさんへ。
 これまでご回答を寄せていただきありがとうございます。
 そしてこのあたりから 《究極の悪》について考えていきたいと思うのですが どうでしょうか?

 No.3の karelcapek さんのご回答にあった論理で 究極の悪についての趣旨説明(たたき台)を述べたいと思います。

 ☆☆ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ★ 究極の悪とは、思考当事者にとって、対象が何が一番不利益を被るのかのイメージ次第でしかないと思います。
  ☆ これは 損得の極限と言うのでしょうか そういう意味での究極であるように思います。その内容をなかなかうまく定義できないところの《しあわせ》に関してなら どうかといった視点もあるのではないでしょうか。
  もうそこまで落ち込んでしまっては立ち直れないだろうという究極の悪とは 何か? こういった観点で考えたいとは思っているのです。これについても どうですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そのときは こんなふうに書いてしまったのですが――それは 《第二の死》ということを念頭に置いていたものですから そうなってしまいました。 karelcapek さん 澄みませんでした。ごめんなさい―― この論理で 次のように考えました。どうでしょう?

 ○ 究極の悪とは:

   自分にも相手にも つねに自分が心でよいと思うこととは違った内容
  のことを選択しまた判断し それを実行するその考えとおこない。
   したがって 四六時中あらゆる思考と行為について 自分の心に逆ら
  うということです。しかも それでよいと開き直り 確信犯となる場合
  です。
   ということは 自然本性としての心の善をすべて使い尽くしたかのご
  とく その善がまったく欠如してしまった状態になっています。善は
  すっかりその抜けがらのごとくなって 悪が満ちている状態です。

 ☆ これについてわたしの考えるところは こうです。
 (あ) 心の全部が悪で埋められているのだけれども 生まれつきの自然本性の蝉の殻じたいはまだ残っている。とすると 善の回復は可能か?

 (い) この《悪人》〔と呼びますが〕は こう言い張るかも知れません。

  ――世の中には おれのような頭のてっぺんからつま先まですべて悪に
   染まった人間が一人か二人はいてもいいんだよ。それでこそ 社会は
   うまくやって行けるんだ。な そうだろ?

 ☆ どう答えますか? 
 第二ステージも みなさん よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2010-01-02 20:03:42

お礼

 juyjuy さん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 おっしゃっていることは こうだと思います。すでに人びとには 既成の考え方――決まったものとしては 倫理規範ないし道徳――があるので それとのつながり具合い・あるいは切れ具合いについて しっかりと明らかにしていないと なかなか新しい考え方は 頭に入っていかない。こういうことではないでしょうか?

 でも意外とそれらの間の関係具合いは 分かりやすいもののようですよ。

   わたしは どうしても欲しいと思っていた物を目の前に見てこれを手
  に入れたいと思った。ところが それは 他人の物である。ええい ちょ
  ろまかしてやれと ふと心に持った。ここで これはやばいことだと 
  ほんとうは心は知っている。もしその出来ごころを実行するとなると 
  心にわたしはウソをつくことになる。
   ここから 《汝 ぬすむなかれ》という道徳が持たれることになる。

 これだけの話なのだと考えますが どうでしょう?
 ★ 善悪という言葉はある種の固定観念(「道徳」や「倫理」)に縛られているので自由な論議にならないと思います。
 ☆ というところを 悪の起源をさかのぼってたどって行くと 案外かんたんにその成り立ちが分かる。こう思うのです。どうでしょう?

投稿日時 - 2010-01-01 21:48:30

ANo.16

Ano16です。

すみません、 頭がこんがらがっていました。

また、 この質問の仕方では 回答者は頭がこんがらがってしまう可能性が高いとも思いました。  私だけなのでしょうか?

よく考えてみてください。 ?

悪という現象は 存在するわけです。

》悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。《

という質問自体が、 現象は存在しない? と言っているようにも読めてしまうわけです。

悪 および、現象はもちろん まず、存在するわけです。



悪の因果を考えた時、 それが最初は細かいものであれチリが積もるようにして大きくなったから その悪という行為の引きがねとなったのだから、 深くその因果を大きな目で「みつめた」のならば、 悪は赦されるべき存在でもあり、そう気づいた気づきがある人にとってそれは罪としてのレッテルは貼らないだろうし、張る必要はどこにも感じないだろう というふうに、 私は、そのへんを整理しています。

したがって 神にとって 私たちが普通に認識している罪でもある罰すべきところの悪は存在しないというふうにも それは言えるということです。

ここまでで どこかbragelonneさんのお考えと異なるところはありますでしょうか?


次に、 ここまでを私の考えの前提として 進めていけば、

その悪の因についてなのですが、

それを私は まずは単純に 生活の困窮と 病気による意識の混濁とが、最初の原因であり、

それが もともとの森の中の生活の素朴な人たちの中の善の心《うれしいことがあれば伝えずにはいられない心、分かち合わずにいられない心、 そして苦しいことがあれば 相身たがいの 上下関係無しの助け合わないではいられない心、 あるいは友としての人類意識》を  希薄にさせたり(病気や苦しみや飢え) 生活の困窮からの略奪や 争いが起こっていったというふうに 大筋推理しているのですが、その理解をどう思われますでしょう。

最初の原因は シンプルにそのような状態だったのではないでしょうか?

その頃(文字文化以前)は、 嘘という概念があったとは思えません。 ですが、 このようにすでに悪という現象は発生していたと思います。  もっと大きな目で見れば 非生産的で無駄で悲しい出来事がすでに その貧困からは生まれてしまっていると思います。

《嘘》という 《記号(文字)を 自分に有利にするために事実の記述と組み替える作業》を行うようになったのは、 もちろん そういう記号を文化の中で獲得してからだと思います。

が、 むしろ 嘘自体は悪ではないわけです。  

それを自己に有利にするために使用することで、 それによってどこかに不幸な人が生まれて始めてそれが悪の現象として生じるわけです。

また、 そうした記号化による脳の複雑化によっても じつは病気と同じように もともとの自然な素朴な時の感性から生まれる人間性(分かち合いや、いたわりあい)の希薄化は いくらでも起こりえます。   頭の混乱から、精神の病も生まれるというカタチでもそれは起こるでしょうが、  おそらく そうした点こそ、むしろ小さく見える因の積み重なりが積もり積もって その因果が 人間の想像力を越えたようなカタチで 悪の現象へとつながっているのだろうと思うのです。

ここは、一足飛びに、人間の能力の小ささを自覚して、直感ですべての罪を赦せる気づきの世界が必要なところと私は思っています。

悪人とは 罰するよりも前に抱きしめてあげるべき そういう心で接すべき存在であり、その上で始めて それってあなた幸せなの?と 泣いてなぐってあげたり 対峙の仕方がきまってくるものなのではないですか?

セックスというのは、 歪んだ醜い心(所有欲とか)と絡んでいたりするので、恥ずかしいこととか不浄なこととして嫌われたりもする世界でもあるのですが、  そういう文明の脳の混濁によって起こった不浄現象(心の中の現象ですが)を乗り越えたカタチでの 本来の新鮮な感性の下には、 それは 感性をいきなり 素朴な森の中の感性の世界に戻したり その気づきを与えてくれる大きな力となるものです。

本物の芸術と言えるものも、そうなのですが、私たちをもともとの分かち合いと いたわりあいの人間性を快復させてくれます。  その大きな力の1つが 私の考えている気脈によるセックス革命なのです。

おそらく、 現代人がその心の故郷を心に得たのなら、その感動と知恵の世界からはもう悪へのあともどり(善、あるいはもともとの人間性が減るということ)は 消えていってしまうと思うのです。

投稿日時 - 2010-01-01 19:15:47

補足

 §1 ☆☆ 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。――これにもとづき

   ★ 悪という現象は 存在するわけです。
 
 これを論破します。《存在》ということは まづ――人間がこうして考えるからには―― ヒトについて当てはめます。(人間中心主義だと揶揄されても そういう想定です)。生まれた赤子はものを言わなくてもすでに存在です。
 ひとは言葉をしゃべります。聞いて耳に心地よい声や中味のものもあれば 耳ざわりのする声や中味のもあります。
 言葉やその発声・発音は ひとから現象します。

 たしかに現象も 《起こる》というときそれは《ある》つまり《存在する》というふうにも表現し得ます。
 ですが ひとが存在することと 発言という現象が《存在》することとは 同じ次元であつかうことができましょうか?

 《ことば》が ヒトという存在や《他の一切のものから独立して存在する》と言えますか?
 したがって つぎが帰結されます。
 ☆☆ (趣旨説明) 3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 〔ひとという存在としての〕善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考えです。

 §2 悪の起源

 これについて何ら明らかになっていないと言わざるを得ません。
 ★ 悪の因果を考えた時、 それが最初は細かいものであれチリが積もるようにして大きくなったから その悪という行為の引きがねとなったのだから、
 ☆ これでは分かりません。《細かい悪》がどのようにして現われたのか? 《細かい悪が重なったとき 悪という行為の引き金となった》というように言っています。《悪》の起こりを説明するのに《悪が積もること》を持ってきています。

 ★ まずは単純に 生活の困窮と 病気による意識の混濁とが、最初の原因であり、
 ☆ 《生活の困窮》が起こったときその瞬間に
 ★ 相身たがいの 上下関係無しの助け合わないではいられない心・・・を希薄にさせた
 ☆ のでしょうか? つまり 
 ★ もともとの森の中の生活の素朴な人たちの中の善の心
 ☆ はどうして希薄にされたのですか?

 ★ まずは単純に 生活の困窮と 病気による意識の混濁とが、最初の原因であり、〔* ――この原因が善の心を希薄にさせたので(?)――〕 生活の困窮からの略奪や 争いが起こっていった
 ☆ ということは どこかの時点で《助けあい》をしなくなったということのようですね。それは どの時点で どういうふうにして起こったのでしょうか?

 ★ その頃(文字文化以前)は、 嘘という概念があったとは思えません。 
 ☆ とのことですが もしご議論に沿って質問するならば 《善の心 その助けあいの心 ここに 或る日或る時 うそが生じた》からではないでしょうか? 善の心を なぜだか曲げたくなった。助けあう善の心そのままに行動したくなくなった。心にはウソをつくことになるが そうした。つまり助けあわなくなった。のではないでしょうか?

 ★ が、 むしろ 嘘自体は悪ではないわけです。
 ☆ と言えるでしょうか? ウソが起源でないならば どういうふうに悪は発生したでしょうか? 悪から悪が発生したというのでは 困ります。
 ★ 悪という現象は・・・貧困からは生まれてしまっていると思います。
 ☆ ですから問題は なぜ森の人びとの間で《貧困》という《苦しみを助けあわないではいられない心》が希薄になったか? この問いです。善の心にも生じることになった《うそ》からではないでしょうか? これが悪の起源なのではないでしょうか?

 起源があやふやなままで
 ★ 現代人がその心の故郷を心に得たのなら
 ☆ ということを言えると思うほど その議論についていくことはわたしには出来ません。

投稿日時 - 2010-01-01 20:41:30

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-25 16:08:24

ANo.15

No.11です

信託とは神から下されるものですが、これ「善は悪、悪は善」は悟りです。

投稿日時 - 2009-12-31 18:10:36

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 なるほど。ごもっともです。
 神託は 自分とは別のところから得る命題でしょうね。

 その上で たぶんそこでわたしが推測で表現した内容じたいは それほど違っていないようにもなお思っています。
 というのは
 ★ 「善は悪、悪は善」
 ☆ は一般には そのままではまだ分かりづらいと思われるからです。それが 悟りだと言われればそうなのでしょうが 回答としては中味が分かったほうがよいと思いますから。

投稿日時 - 2009-12-31 19:36:43

ANo.14

直接 本文に入ります。

4.の》自然本性と言うべき心としての善《という事の内容如何によって 回答は違ったものとなってしまうと思います。

猿から人間への進化の過程がどのようだったのかについての推理論議は端折りますが、 物事や生活を見つめる脳が宿って人間となったということは、

それ自体がその時 人は本能仲間としてではない存在としての他の人をそこに見たのであり、友としての他の生物をそこに見、 友という言葉を知らない以前から、そばに友がいることを喜ぶ感情は持てたことを意味すると思っています。

物事を見つめることができる脳が見た物事は 比較の対象とその検討吟味を加える脳自体をも含んだものと思うのですが、 がゆえに 精神まで含んだ言葉という記号化が 後の人間の時間に起こることとなったわけですが、

その、言葉以前にも、 人間は 森の中にて、この奇跡の水の星、その大地のあまりにものさまざまな光、 風のそよぎ   青い空、夕焼け雲の流れ、そして一番星、満天の星空を見て、 目と目(心と心)を通わしあうような 感性をも、 本能の制約から逃れたユトリの心とともに、  見つけたのだと思っています。

特に平和のうちにはです。(詳しくは略します)

その頃には、人間の本性があったという意味で言われるのが、自然本性ということであるのなら、 

こういったことが まず言えるかと思います。

その頃の森の人たちの心には、『何かうれしいことがあったら伝えずには入られない友感』と、 『何か苦しいことがあれば、体をさすっていたわざるを得ない相身互いの友感』の二つの『友意識』は、明確にあったと思います。

深い 大自然(あるいはこの星、この大地)への感動を忘れる時には、その地にても、それなりの友感の薄れはあったと思います。

苦しいことは、みんなに撒き散らしてやろう。とか、 うれしいことは独り占めしてやろうとか、 いわゆる自我の殻の内側に閉じこもった そういう主観内面の世界がそこにすでに生まれてきたかもしれません。

病気が そういう希薄さをそこに生み出したりもしたかもしれません。

であっても、そういう森の社会の中では すぐに その人間本性は、自然に取り戻せたと思います。

bragelonneさんは、そんなふうな状態を 》自然本性《と呼ばれているのでしょうか?


もし、そうならば、 確かに 文明が文明を保持しつつ そのもともと神 あるいは存在から与えられた自然の中の私たちの精神状態《自然本性》を快復出来さへすれば、 そこから文明が作り出した罪や悪の存在は その因果の完全に近い因果の理解のもと、神ならずともすべて赦せるでしょうし、  意味をなさなくなるかと思いますが、

それ以前には、 道徳も 私たちが苦しみから逃れるためには必須となってしまうと私は単純に思っています。


その快復こそが重要なのですが そこに登場するのがセックス革命、 “性の喜び、楽しみの世界”と“生殖”との完全切り離しのための革命です。

その革命を可能にするのが、私は東洋医学の発見した気脈の世界にあると考え、それを実践化しようと考えているのですが、 その気脈の世界とは なんと科学的には》電磁波《とかかわりがありそうなのです。   科学的な面は苦手で、これからその面もなんとか学習してゆきたいとは思っていますが、 まずは 私にとっては実践が先となってしまいます。

そちらで問題とされた電磁波のスレが スサノオの眼差しを求めてのことであれば、もしかしたらその気脈の世界こそその眼差しなのかもしれませんね。

でも その論議よりも私には その実践の方が先となってしまうということです。

そこにその実践方法があるかぎりです。

神にとって 原罪などあるはずがなかった。 キリストは原罪について何か言っているのですか? あとからかってに学者が考えただけでしょ。    が、今こそ、私たちも少しは神に近づいてもいい時でしょう。   罪は無い。 悪は幻想から生まれる。 そこにあるのはあってはならない不幸だけ。 苦しみや悲しみの生産状態だけ。  それをもう克服してもいいじゃないですか。

と思います。

投稿日時 - 2009-12-31 15:23:48

お礼

 自然本性の理解について互いに共通の内容を確めあう必要がまだまだあるようですが いちばんの問題〔だとわたしに思われたところ〕は 次の部分です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 それ〔* 自然本性の損傷とその回復の〕以前には、 道徳も 私たちが苦しみから逃れるためには必須となってしまうと私は単純に思っています。

 その快復こそが重要なのですが そこに登場するのがセックス革命、 “性の喜び、楽しみの世界”と“生殖”との完全切り離しのための革命です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり《道徳》と《セックス革命》 このふたつの事柄が 善および悪の捉え方とどのようにかかわっているのか これがまるで分かりません。
 分かりませんというよりは このような述べ方では 分からせようとしているとはとうてい思えないという物言いです。
 もっときちんと言えば 質問に回答を寄せるつもりがあるのか そのことに疑いが生じているというのが ほんとうのところです。

 ★ 悪は幻想から生まれる。
 ☆ だから 悪は存在すると言うのか それとも 質問趣旨のごとく 善に従属していて初めて現われると言いたいのか 何ら答えようとする気配がない。こう断じざるを得ません。
 ありがとうございました。

投稿日時 - 2009-12-31 17:28:32

ANo.12

#3、13です。

>☆ これはどうでしょう? たぶんリンゴか柿かの選択は 善悪にかかわらないと思います。ですから《好きだという事実を曲げたとしても それはただ 何か実験でもやっている》と採ればどうでしょう? 
後ろめたさを感じることはないと思うのです

そうなのです。ですから、 
「1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。」
は、そのままでは適用出来ないということです。
私や他者が理解するには、「1」の説明には、他に補足や、限定条件が必要なんです。
最初の回答で、「ひとりひとりの主観」にまず限定しました。今回は「実験を除く」という限定条件を追加しました。
もう一つ、「情況によって 偽りになるかどうかが決まるのではないでしょうか? ならない場合もあるでしょうね。でも相手には失礼だから その分ではウソであり悪でしょうか」
という補足があります。
これらを条件を含んでいく「1」はこれからも、回答があるとどんどん長くなる可能性があると思うのですが、定義としてはあまりに長くなるのはどうでしょう。

>そうしてたとえば《人をころす・ぬすむ・むさぼる》ことは およそ誰にでも《やましさを覚える》ことであり それらが善の損傷であり悪だということは じんるいに共通で普遍的だという結論が得られます。そういう成り立ちだと思います。

人をころす・ぬすむ・むさぼるにやましさを覚える人間は、それが悪いことであると認識している人間だと思います。
悪いことと認識していなければ、やましさを覚えませんので、共通で普遍ではないと思います。

>倫理規範は およそ精選された思惟を基礎として成っており 間違いだというものではないでしょうが 問題は その規範としてす
でに持たれている文句に あたかも思考停止において 従うようになること ここにあるのではないでしょうか?

道徳という言葉に反応されたのでしょうか。
でも質問者さんも間接的に使ってますよ。
「そうしてたとえば《人をころす・ぬすむ・むさぼる》ことは およそ誰にでも《やましさを覚える》ことであり」
これって社会道徳ですよね、
しかし、それは良いとして、私の意図するところとは違います。
私はその後に、2つの相反する社会道徳から自分の道徳を形成する道徳と言いました。
社会道徳そのものとは言ってません。
つまり自ら、選択し、考え至った感情です。
他人の道徳を選択して自分の道徳にするのもしないのも、安直に選択するのも、その人自身の考えです。
普遍的で万人に共通するものを求める場合、おかしな人や特別な環境を除かず、いろんな人、いろんな場面を考えた方が良いと思います。

でも、「道徳」と言わず、「個人の道徳」と言っておいた方が良かったですね。これは間違いでしたね。
実は最初に閃いたのは「良いと思うこと」なんですが、あまりにバカバカしいなと思い、「道徳」に置き換えてみたんです^^

ちなみに質問者さんがこの質問上で使っている「心」とは何ですか?
広辞苑と同じ意味ですか?それなら、そのうちのどの意味になるでしょうか。

すごく批判的な文章になってしまってすみません。
ちなみにチェコは良く知りません^^

投稿日時 - 2009-12-29 22:38:50

補足

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 私や他者が理解するには、「1」の説明には、他に補足や、限定条件が必要なんです。
 ☆ ですから 趣旨説明の(1)~(4)に加えて つぎの( a )( b )をおぎないましたよ。
 ☆☆ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ふたつ おぎないつつ仮説を補強します。
 ( a ) 善悪の判断は 飽くまで 一人ひとりの主観に基礎をおきます。
 ( b ) 善悪から自由な場合がある。たとえば 食べるのに箸でかフォークでか手でかは 一般に――という意味は 手であっても 衛生上まずくなければ―― 善悪の判断から離れています。自由に選択するでしょうし それぞれは等価です。
 くるまが右側を走るか左かは 善悪の判断とは別であるようです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 したがって これらの条件と基準にもとづき つぎの三つをつねに区分することができると思います。

   I ウソでない心に従うものごと:善
   II ウソだと知っているものごと:悪
   III ウソとは別段かかわらないこと:善でも悪でもない

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私はその後に、2つの相反する社会道徳から自分の道徳を形成する道徳と言いました。
 社会道徳そのものとは言ってません。
 つまり自ら、選択し、考え至った感情です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ たしかにわたしは 《自分の》とあっても《道徳》というほうに変に反応してしまったようです。ただ それでもやはり《道徳》と言えば 《考え至った〈感情〉》と言えるのかどうか あやふやだったのだと思います。言えるのでしたら まったくわたしは間違えました。申し訳ありません。
 でも未練を残して言えば 《個人の道徳》と言うと紛らわしいので どちらかと言えば《信条》とか《信念》とかと言うといいのではないかとは思うのですが どうでしょう?

 ★ 心
 ▲ (広辞苑:心) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  (禽獣などの臓腑のすがたを見て コル(凝る)またはココルといったのが語源か。転じて 人間の内臓の通称となり 更に精神の意味に進んだ)
 1. 人間の精神作用のもとになるもの。また その作用。
  (1) 知識・感情・意志の総体。《からだ》に対する。
  (2) 思慮。おもわく。
  (3) 気持。心持。
  (4) 思いやり。なさけ。
  (5) 情趣を解する感性。
  (6) 望み。こころざし。
  (7) 特別な考え。裏切り あるいは晴れない心持。
 2. (比喩的に用いる)
  (1) おもむき。風情。
  (2) 事情。
  (3) 趣向。くふう。
  (4) 意味。
  (5) わけ。
   ・・・(以下省略)
    (1991.第四版)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 1.の(1)が 基本になると考えます。知解能力および意志行為における判断力が中心となるという意味ですが そう言うときにも実際には 感性ですとか 気持ち・なさけ・思いやり・望みなどが 大いに共にはたらいていると考えます。感性のほうが先だとも 実際には言っていますし。

 批判をもらったのは 次でしょうね。
 ★ 人をころす・ぬすむ・むさぼるにやましさを覚える人間は、それが悪いことであると認識している人間だと思います。 / 悪いことと認識していなければ、やましさを覚えませんので、共通で普遍ではないと思います。
 ☆  微妙にちがうのは 《悪いことと認識する→やましさを覚える》という順序です。つまりわたしの定義では 逆なのです。
 でも そのやましさをも覚えない場合があるのではないか? こういう物言いが成り立つようです。思うにこれは はじめは覚えたということではないでしょうか? あとで慣れっこになって行った。その感性が鈍ってしまったのだと。どうでしょう?

 全体の風景が少し見えてきたように思うのですが どうでしょう?

 * 《ひとの物をぬすむ・ひとをころす》というそのすでに動作に入ろうとするとき 人は心に何らかの胸騒ぎなり乱れなりをおぼえるのではないでしょうか? その気持ちのあり方によって 善とそうでない悪とに分けようという魂胆なのです。きわめて主観的な局面を捉えて しかもその主観の判断は およそ人であれば共通の要素を持つ結果になるのではないか。こうも考えております。

投稿日時 - 2009-12-29 23:23:54

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-25 16:08:56

ANo.11

#3です。

>( a ) 善悪の判断は 飽くまで 一人ひとりの主観に基礎をおきます。
A一人一人の主観であるということは、ランダムに選んだ、たった一人の人間が持つ意思なのか
→それならば善悪の判断はその選んだ人間によって変わってしまうでしょう
B一人一人の主観であるということは、質問者さまの持つ意思なのか
→それならば善悪の判断は質問者様の意思のみであり、質問の意図するところとは違うでしょう
C一人一人の主観であるということは、ランダムに選んだとしても問題がない、誰もが持つ人類全てに共通する普遍的なものなのか

Cということでよろしいでしょうか。

>ですから たしかに展開してもらったように 世の中さまざまであり まちまちの善悪にかんする価値観を持つであろうけれどおおよそ(1)から(4)までと上の( a )( b )の条件をまとめたかたちで基準とするなら 案外人びとに共通で普遍的な区分ができるのではないかと思っております。どうでしょう?

ちょっと分かりにくいのは、この部分ですね。

>1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。

「悪という現象は、嘘に発します」として考えました。
心のへそ曲がりというのは、「心に嘘をつく」という意味で良いでしょうか。
だとすれば「悪という現象は、心に嘘をつくこと」との意味になりますね。
ここが一つの問題ですね。
「りんごが好き」という自分の心に嘘をつき「りんごが好きと思わないようにする」のは悪でしょうか。
或いは「りんごは赤である」に嘘をつき「りんごは黒だ」とか。
「腹減った」に嘘をつき「腹いっぱい」とか。
ちょっと分かりにくいですよね。

それなら「心」より「道徳」にした方が辻褄が合う気がします。
道徳に反することをすれば、悪いことをしたと思うでしょう。
戦争では「殺してはないけない」という社会道徳と、「殺さなければいけない」という社会道徳をもとに自分の道徳を形成すると思いますが、殺しても殺さなくても、どっちにしても罪悪感を持つことはありえますよね。
ただ、こういった言葉の入れ替えは、突き詰めれば「善の反対は悪である」「悪いことは悪いことである」になってしまいますけどね。

>もうそこまで落ち込んでしまっては立ち直れないだろうという究極の悪とは何か

万人に普遍的な悪でなければならないでしょうが、その共通の悪ですら、見つけることが難しい状況です。
意識、存在の消滅である「自らの死」すら、万人の悪ではないのですから、具体化するのは困難ですね。

投稿日時 - 2009-12-29 19:08:06

補足

 karelcapek さん――あっ ちなみに チェコにお詳しいのですか?―― ご回答をありがとうございます。

 そうですね。karelcapek さんは 結論をきちんとまとめておくという習慣をお持ちですかね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 C 一人一人の主観であるということは、ランダムに選んだとしても問題がない、誰もが持つ人類全てに共通する普遍的なものなのか

 Cということでよろしいでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このように落ち着くのだと思うのですが この場合は むしろ出発点のほうが大事なような気がします。

 ☆☆ (趣旨説明) 2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。 
 ☆ 従って 飽くまで《わたし》が《心でウソでないと思うこと》と《心でウソだと思うこと》の二つがあり――右側通行か左側かの選択のように どちらもウソだともウソでないとも思わない場合を除けば―― この二つのいづれかにつねに区分されます。誰が知っている知らないと言って 《わたし》が知っているからです。
 そうしてたとえば《人をころす・ぬすむ・むさぼる》ことは およそ誰にでも《やましさを覚える》ことであり それらが善の損傷であり悪だということは じんるいに共通で普遍的だという結論が得られます。そういう成り立ちだと思います。

 ★ 「りんごが好き」という自分の心に嘘をつき「りんごが好きと思わないようにする」のは悪でしょうか。
 ☆ これはどうでしょう? たぶんリンゴか柿かの選択は 善悪にかかわらないと思います。ですから《好きだという事実を曲げたとしても それはただ 何か実験でもやっている》と採ればどうでしょう? 後ろめたさを感じることはないと思うのです。

 ★ 或いは「りんごは赤である」に嘘をつき「りんごは黒だ」とか。
 ☆ これはどうでしょう? このウソは やばいですかね? やばくても敢えてそうする場合もあるのでしょうが ウソであり心を曲げているという意味で 悪だと思います。

 ★ 「腹減った」に嘘をつき「腹いっぱい」とか。
 ☆ これはたぶん情況によって 偽りになるかどうかが決まるのではないでしょうか? ならない場合もあるでしょうね。でも相手には失礼だから その分ではウソであり悪でしょうか?

 ★ それなら「心」より「道徳」にした方が辻褄が合う気がします。 / 道徳に反することをすれば、悪いことをしたと思うでしょう。
 ☆ じつはこの考え方は わたしは 大嫌いです。
 【Q:道徳規範は 愚の骨頂】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4607794.html
 倫理規範は およそ精選された思惟を基礎として成っており 間違いだというものではないでしょうが 問題は その規範としてすでに持たれている文句に あたかも思考停止において 従うようになること ここにあるのではないでしょうか?

 ですから もしそうだとすれば やはり《いま・ここにいるひとりの人間としての〈わたし〉》の思惟として ウソでないかウソか この基準においてしっかりと判断することが大切だと思うのです。またそれでこそ 道徳と呼ばれる思想内容も実際に生かされるというものだと思うのです。
 もしそうだとすれば 
 ★ 道徳に反することをすれば、悪いことをしたと思うでしょう。
 ☆ という安直な思惟や判断および意志行為の手引きは 人間の生きた生活にとってだらしのない行動様式であると考えます。
 結果として合っている・間違っていないという場合はあるし 多くの場合そうなのでしょうが それは 安直です。思考停止でいいぢゃないかという人びとの論理です。
 こころは どこへ行ってしまっているのでしょう? 休めているのではなくて 捨ててしまっているということではないでしょうか?
 だとしたら この《わたし》たちのこころは 
 ★ 戦争では「殺してはないけない」という社会道徳と、「殺さなければいけない」という社会道徳をもとに自分の道徳を形成すると思いますが、殺しても殺さなくても、どっちにしても罪悪感を持つことはありえますよね。
 ☆ という情況に接してその主題について じゅうぶん考えを煮詰めていくことが出来るでしょう。また 人びとの知恵を寄せ集めるという手もあります。じゅうぶん納得のいくように わたしたちは考えを繰り広げまた深めていけるのではないでしょうか? 一歩一歩すすめていけるのではないでしょうか? こころは捨てたものではないと思うからです。

 どうでしょう? すでに考えたことのある範囲でしたので えらそうに語ってしまっています。あしからずお受けとめください。また 批判を自由に寄せてください。
 究極の悪は 追って考えます。 

投稿日時 - 2009-12-29 20:23:40

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-25 16:09:37

ANo.10

基本的に、「自分(意識)の外に独立した世界(存在)がある」
という日常的感覚(素朴唯物論)をベースにして考えるところに、
絶対化・普遍化の困難があります。

そうした「存在的有限性」が本質的なものではなく、人間の不完全
な認識による(量子的な相補的不確定性を本質的に確定しない)
階層現象の表面的な定性化によって派生しているのです。
認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。
その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に
無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、
自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。

言い換えれば、全てのものは、あなたが存在するための
(物理的根源にまで遡った)補完なのです。
無(=不確定性無限)の潜在としての自我仮説に対して、補完的に
時空仮説が生じる場合、それはある意味では任意です。
ただしその「任意」は、階層現象的表面的な自覚にとっての
(自己中心的な)自由ではなく、自己存在の本質的な必要と
してのものですが(認識が成立するための必要)。

投稿日時 - 2009-12-29 12:20:44

補足

 psytex さん ご回答をありがとうございます。

 ですが ここまで理論として突き抜けておられるのでしたら もうついて行けません。これは 神秘思想です。神秘主義に足を踏み入れています。
 しかもいわゆる神学でもないと思われます。

 その難点を以下にあげつらいます。
 1.★ 「自分(意識)の外に独立した世界(存在)がある」 / という日常的感覚(素朴唯物論)
 ☆ 誰もこんな考え方をする者はいないはずです。たとえそう言ったとしても そのことは無理です。《独立》という表現は適切ではありません。経験世界はすべて相対的で有限で相互作用しあう場です。《独立》もへちまもありません。
 ですからこの素朴唯物論を批判の対象にすること自体が 無意味だと申せましょう。
 
 2. でも そのように言う場合にも
 ★ 「存在的有限性」
 ☆ は言っていますし 保たれていますよ。はじめに相対世界だと言っているのですから。
 ★ 人間の不完全な認識
 ☆ これは当たり前のことです。つねにそうです。例外はありません。
 ★ 階層現象の表面的な定性化
 ☆ これも当たり前のことです。相対世界にはつねに差異は起こります。しかもつねに《表面的》なことです。

 3. ★ 認識性を除外した存在
 ☆ これは 両義的・多義的な表現です。これまでの説明から行けば 《先験的・超越論的なヒトの自然本性》にかんするほんのわづかな《認識》 これを《除外した存在》ということになると考えますが それはいったい何? と問い返さなければならない表現です。自然本性としての能力がまだ顕在化していない状態にある存在つまりヒトのことかと推しはかりますが どうなんでしょう?
 ★ 〔この認識性を除外した存在〕は、無=無限不確定性になります。
 ☆ ううーん。これはまだ知性や判断力が潜在しているというほどのことではないですか? わざわざ《無=無限不確定性になります》とまで言わなくてもよいように思うのですが? つまり糸の切れた凧のごとくたとえなくてもよいと思うのですが?
 (ただし 最後のほうで同じ《無(=不確定性無限)の潜在としての自我仮説》とあるので そうすると 《わがまま》のことを言っていっるのでしょうか?)

 4. でもその宇宙をさまよう凧からこそ 大いなる認識が芽生えるというのでしょうか?
 ★ その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に / 無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、 / 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。
 ☆ ううーん どうなんでしょう?
 ★ 仮定断面 その運動 これを想定する
 ☆ ここがうまく行けば ミソになるのでしょうが どうでしょうかねぇ。
 いっそのこと この仮定と想定をすべて止めて 能力のいまだに開花しない前の・何もしない能天気をそのまま推し進めるとすれば どうでしょう? そのほうが知性や意志自由の芽生えは 現実的であるように感じますねぇ。(たぶん 言葉という環境の中にいることは必要でしょうが)。
 ★ 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです
 ☆ 表現に違和感をどこか感じますねぇ。《わたし》も《宇宙》も すでに光や光の奥のなぞをあたかもながめつつ それぞれが時空間の主体およびその時空間として 動態である。と さとる。といったところでしょうか。さとりが問題なのではなく そこでの――動態の場および過程としての――共生ないしおのおのの《仕事と生活》が 大事でしょうね。
 その意味で《認識》から一歩先へと踏み出すところまでを――神秘思想にとどまらずに――言い出して欲しい。

 5. ですから
 ★ 言い換えれば、全てのものは、あなたが存在するための / (物理的根源にまで遡った)補完なのです。
 ☆ 《補完》ないし《相互作用にかんする認識の作業》はもういいのです。すでに舞台はととのったのであり それだけではなく その舞台の上にすでにわたしはいるのです。
 ★ 無(=不確定性無限)の潜在としての自我仮説
 ☆ はもうすでに通り過ぎて来ているのです。要らんものである。
 
 どうでしょう?

投稿日時 - 2009-12-29 13:39:33

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-25 16:12:04

ANo.9

悪は善です  善は悪 ですので善も悪もない 善も悪も人間が勝手に定義しているに過ぎないだけです。

投稿日時 - 2009-12-29 10:42:59

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 これは分かりやすい回答内容とお見受けします。
 つまり ちょうど直前のご回答(No.10)についてわたしが推測した内容と同じようではないかと考えるからです。
 ごらんになって欲しいのですが その一部を再掲しておきます。

 ☆☆ (No.10補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ★ ( bragelonne の推測として) ~~~~~~~~~~~~~
  すべては先験的・超越論的に ヒトの《身体および精神》なる自然本性において 潜在的に善悪の概念もはたらきも宿っているものなのだ。
  これを さらにちょっと精神をめぐらせて認識を敢行するならば これらの概念もはたらきもすぐさま 顕在化するものである。
  あとは いちいち個別のものごとについて 善だの悪だのと言っていても ほとんど世界は始まらない。汝自身を知り 世界に生きよ。人びとは共生せよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ こういう神託であるように思えますが どうなのでしょう?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2009-12-29 11:05:14

ANo.8

>組織の内外での組織化

個体も細胞の組織です。
組織の中の「組織化」は個体の一部であり、
組織の外の「組織化」は組織の延長です。
あらゆる現象は、ある単位の相互作用に生じる進化
≒組織化>階層現象上位単位化のくり返しです。
ここでは「悪」という認識を発生する意識体を
個体としているので、それ以降の相互作用に生じる
組織性が「組織化」の対象です。

>相互作用の編成

認識の本質は五感を通じた感受を脳内に再構成する事で、
外的存在として把握=相互作用の予測を行う事です。
その予測は、単なる自己中心的な欲求の延長だけでなく、
環境の変革による二次的効果の予測による道具や、
個体同士の協力による社会性を派生させます。

>経験の移入

先の「認識の本質は五感を通じた感受を脳内に再構成」
において、その「五感の相関」には本能=生理的欲求の
先入が不可欠です。
たとえば「赤」という色は物理的には存在せず、単なる
可視光線の連続的変化の途中の波長において、炎や血と
いった生理的に影響のある経験(個体的&遺伝的)を
蓄積する事で、「波長の連続的変化」という一次元に、
四次元的な(五感の相関した)経験が先入化した結果、
生じるのです。
(空間的広がり自体、光や音といった情報性の強い相互
作用に対する、触覚や味覚といった生理的相互作用を
先入化したものです=“そこ”何が起きるかの予測)。

(あとは長くなるので、自分で考えて下さい。
大事なのはこの言葉を理解する事ではなく、日常の
感受にこうした観点を投影する応用力です)

投稿日時 - 2009-12-29 09:02:54

補足

 ご回答をありがとうございます。

 そうですねぇ。
 まづわたしの質問を確認します。次の二点であらましを述べていると思います。
 ☆☆ (No.5補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【Q‐4】 衝動が意志として〔展開される〕とは 衝動をわたしが意志において引き受けるということでよいのか? もしよいなら それは すでに衝動そのものではなくなっていて ふつうの経験行為としての意志であり意志行為となっている。

 ところがそれが 《認識上に〔展開される〕》とある。ならば ただ認識するというのみであるということになるが そういうことか? 衝動の内容を意志として採用するかどうかを決める過程での出来事を言うに過ぎないのではないか?


 【Q‐10】 ・・・わたしにとって どういう役に立つものとなるのか? 知らなくても済んでいく《常識》ではないだろうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どういうことかと言いますと 《認識》の問題と《生活日常における実践》のそれとに分けるならば 前者に片向いておられる。のではないか? こういう疑問です。
 理論と現実とをまとめて認識しようとしておられる。けれども その認識の成果を実行に移すとなると むつかしい。それは何故かというと 理論がどうも その視点として あたかも宇宙のかなたのどこかの地点に足場を置いたものとなっているのではないか? と考えられるからです。
 言ってみれば
 ○ わたしは憐れもうと思う者を憐れみ 慈しもうと思う者を慈しむ。
 ○ わたしは 双子の兄のエサウを憎み 弟のヤコブを愛した。
 ☆ と悪びれずえこひいきをも堂々と言う神の立ち場のごとくであるのですが どうですかねぇ? つまりこの世の経験的・相対的なものごととしての善悪をとうぜん超えたところの視点 であるように伺うのですが それの現実性や如何に? というところではないでしょうか?

 あるいは いやいや現実的なのだよという反論が返ってくるとすれば それは 次のような内容になるのかも知れません。
 ★ ( bragelonne の推測として) ~~~~~~~~~~~~~
 すべては先験的・超越論的に ヒトの《身体および精神》なる自然本性において 潜在的に善悪の概念もはたらきも宿っているものなのだ。
 これを さらにちょっと精神をめぐらせて認識を敢行するならば これらの概念もはたらきもすぐさま 顕在化するものである。
 あとは いちいち個別のものごとについて 善だの悪だのと言っていても ほとんど世界は始まらない。汝自身を知り 世界に生きよ。人びとは共生せよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ こういう神託であるように思えますが どうなのでしょう?

投稿日時 - 2009-12-29 10:59:36

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-25 16:11:37

ANo.7

人類にとっての悪は存在しません。。
自分にとって都合のいいことは善です。
自分にとって都合の悪いことは悪です

投稿日時 - 2009-12-29 02:13:49

お礼

 応答のしづらいご回答内容であることに間違いないでしょう。

 ★ 都合のいい・悪い
 ☆ これらの内容をさらに具体的に分析すると いかがあい成りましょうか?

 簡略であい澄みません。

投稿日時 - 2009-12-29 10:39:28

ANo.6

質問者の本文とNo.3さんへのお礼を基にして見解を述べます。

善悪の定義は過去の多くの哲学者が試みた所ですが、明確な(だれでもが納得する)定義はまだないと思います。
ましてや「善悪」の基準を「一人ひとりの主観」に置くという前提となると水掛け論を防ぐもう一つの仮説が必要でしょう。哲学的な方法では答えが出せませんのでここでは「脳科学」的な面から少し意見を述べます。

一人ひとりの主観ということは自分の脳がある事柄を「善」と考えるか「悪」と考えるかということに帰着されます。脳の働きには遺伝的に決まる部分と生後の環境との関わりで決まる部分があります。・・となれば「一人ひとりの主観」そのものがその人が生きてきた環境・社会に影響されざるを得ないと言えます。(特に善悪という抽象的な考えを司るといわれる前頭葉前部は死ぬまで発達を続けると言われています。)

ということは厳密な意味で「一人ひとりの主観」でとらえられる善悪はその人だけのことです。普遍的な悪(あるいは善)の定義は主観的には出来ないというのが脳科学の結論です。
「究極の悪」はこの前提で一つの定義を与えられます。
・・地球上のすべての人間が悪とみなしたことこそ「究極の悪」である。

これは面白くない結論でしょう。ここには御説のような善の減少(不足?)による悪という説(質問者の方の真意が十分理解できていないのですが)は出てきません。こうした説は自分が悪人であることを心底考え抜いた親鸞聖人のレベルに達したら考えられるのかもしれませんが今の私にはまだわかりません。

殺人は多くの人が悪だと考えますが例外は山とあります。
チャップリンがいった「戦争の英雄」・・多くの場合「善」とされます。
介護疲れで妻を殺した夫・・「善」とはされないが多くの人はこの夫に同情する。

極端な例をあげると
地球を破壊する爆弾を発明した人がいて「これだけ悪を犯す人間は宇宙のためにならない。これを滅ぼさねば自分は宇宙に対して善をなしたことにならない!」と言ってその爆弾を破裂させた。本人はこれが「善」だと思ってやったことだとしてもこれを究極の「善」とは言いにくいでしょう。
つまり人類滅亡といった最大の殺人・・これは多くの人が最大の悪だと思うかもしれませんが少なくともこの本人にとっては「善」だったわけで・・実は「人類がいるから環境破壊が起こる。人類は早く滅亡した方が良い。」と思っている人は決して一人や二人ではありません。こうした人々は「脳神経症」として病人と扱われる場合があります。しかし過去の多くの著名な哲学者や芸術家が「病人」となっていったことは人類の思想を研究する上で重要な事だと思っています。

御質問の内容とはかなりはずれた見解になったかもしれません。その場合は読み飛ばしてください。

投稿日時 - 2009-12-28 22:05:37

補足

 juyjuy さん ご回答をありがとうございます。

 ううーん。正直に申します。残念ながら わたしの出した条件が ちがった方向に持って行かれました。つぎのところです。
 ★ 一人ひとりの主観ということは自分の脳がある事柄を「善」と考えるか「悪」と考えるかということに帰着されます。
 ☆ わたしが《主観》を言うのは 《うそでない心》と《うそをつくときウソと知っている心》とに分ける〔(2)〕のであって そのさらに具体的な基準は 《感性》つまりそのとき《やましさ・後ろめたさを感じるかどうか》〔(1)〕だと言っております。
 
 この基準で善悪を区分してみます。
 ★ 脳の働きには遺伝的に決まる部分と生後の環境との関わりで決まる部分があります。
 ☆ 遺伝で決まろうと環境によって決まろうと 決まったかたちの脳の働きにおいて 何らかの主題を前にしてその事態や由来や関係者のことやなどを知解してその情報を整理し そこからわたしの意志に合ったことを取捨選択する そうして最終的な判断をくだす さらにこれを実行する。この判断について わたしの心が《やましさを感じたか感じなかったか》 これで悪と善とに二分されるという方程式なのです。

 ★ 地球上のすべての人間が悪とみなしたことこそ「究極の悪」である。
 ☆ それは どうでしょうか 投票するのでしょうか? それよりは《顔を赤らめるかどうか》 この基準のほうが てっとり早くてしかも確実であるようですよ。なぜなら 他人は分からなくても 当人は必ず知っていることだからです。
 ★ 殺人は多くの人が悪だと考えますが例外は山とあります。
 ☆ ありません。本人が必ず知っています。
 ★ チャップリンがいった「戦争の英雄」・・多くの場合「善」とされます。
 ☆ 多くの場合かどうか分かりませんが もしそうだとしても それは 社会的な・政治的な第二次の――辻つま合わせの――判断であるでしょう。第一次での判断は 決まっているということです。
 ★ 介護疲れで妻を殺した夫・・「善」とはされないが多くの人はこの夫に同情する。
 ☆ 同情するけれども その行為が悪だということは 誰もが知っています。
 ★ 本人はこれが「善」だと思って
 ☆ というのは 社会的に他人に向かって言うときの《思い》は すでに第二次の判断です。
 ★ 人類滅亡といった最大の殺人・・これは多くの人が最大の悪だと思うかもしれませんが
 ☆ これはわたしには分かりません。一人のひとを殺すという悪と何人ものひとを殺すという悪とは 同じ悪だと考えます。
 究極の悪とは どうもほかにあるように考えています。

 どうでしょう? 一方的に批判をこころみましたが このように考えております。

投稿日時 - 2009-12-28 23:17:09

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-25 16:11:10

ANo.5

悪(あく):深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。

その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。

そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。

その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。

それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属する。

投稿日時 - 2009-12-28 21:24:59

補足

 psytex さん ご回答をありがとうございます。

 ううーん。ともかく初めて出会う文体です。
 まづ個別に理解がむつかしい用語や判断箇所を挙げますので 再度説明をつけ加えてくれませんか?

 ★ 深まる認識が・・・組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成〔する〕
 ☆ 【Q‐1】 個体どうしの相互作用は 組織化するかどうかにかかわりなく また 組織の内外でも 起こると思われるが なぜ《組織化に於ける》とここでは限定するのか?
 【Q‐2】 《認識が 個体どうしの相互作用を〈編成〉する》とは どういうことか? 認識上の整理を言うのか? ただそれを言うのか?

 ★ 経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動
 ☆ 【Q‐3】 《衝動》が 《経験の基底(移入)である》とは どういうことか? 人間の経験行為はすべてその基底に衝動を持つということなのか? 《移入》とはどうしてか?
 【Q‐4】 衝動が意志として〔展開される〕とは 衝動をわたしが意志において引き受けるということでよいのか? もしよいなら それは すでに衝動そのものではなくなっていて ふつうの経験行為としての意志であり意志行為となっている。
 ところがそれが 《認識上に〔展開される〕》とある。ならば ただ認識するというのみであるということになるが そういうことか? 衝動の内容を意志として採用するかどうかを決める過程での出来事を言うに過ぎないのではないか?

 ならば 【Q‐5】 それだけの《認識》の作業過程によっては
 ★ 不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。
 ☆ ことはまだない。かまたは まだ不十分であると考えられる。《体系性(>価値観)を帯びる》には到らない。その前の段階にあると思われる。
 それは したがって【Q‐6】
 ★ 体系への編入(常識)は ・・・先験的価値領域を形成する。
 ☆ というふうにつながるのか? つまりここまででは わたしの意志ないし意識にのぼらない段階(または領域)のことを言うのか? ただしすでに《認識》行為として語られている。

 ★ そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、・・・
 ☆ 【Q‐7】 《自己中心的〔認識〕》とはどういうことか? その《補完》とは何か? 
 【Q‐8】 もしそれを《善》と呼ぶのなら 《認識》とは言っているものの じつは《意識以前》の領域における先験的な《身体=精神》的体得のようなはたらきを言うのか? そういうことではないのか?
 ★ ・・・それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。
 ☆ 【Q‐9】 これは やはり同じく認識しうるとしても意識や意志のはたらきより前の段階における《精神=身体》的な動きを言うのか? つまりは寿命の時間的な変化だとか 身体・体力の衰え それに伴なう精神的な基礎条件の変化 こういったことを言うのか?

 【Q‐10】 もしこういう内容で善悪の規定をおこなって その世界における位置やはたらきを明らかにしたとすれば それは たしかに
 ★ 善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって
 ☆ ということになると考えられる。つまりそれは《他律的常識》に属する。つまりそれは わたしの自律の能力と範囲を超え出ているものである。放射能が そのはたらきが物質に応じて一定のかたちに決まっているというたぐいの《善悪》であることになる。のではないか?
 つまりそれだと 宇宙のかなたのどこかから わたしの経験行為を動画におさめて この部分が善であの部分が悪だと認定しているに過ぎないということではないのか?
 わたしにとって どういう役に立つものとなるのか? 知らなくても済んでいく《常識》ではないだろうか?

 以上 よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2009-12-28 22:49:41

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-25 16:10:49

ANo.4

 心は一つ。

 ハートのマーク。

 右と左に別けてみたくなります。


 風船に例えましょう。

 心の風船をひょうたんのようにしてみましょう。

 ハートのように左右均等に形よくなれば、バランスの取れた標準的人間といえるように思います。

 仮に、右を好ましい心(神や仏の世界への指向性)、左に好ましくない心(悪魔とか煩悩といった悪への指向性)と受け止めてみたく思います。

 人の心はひょうたんのような形の風船のようなもの。

 心の状態で、右側が膨らんだり、左側が膨らんだり。


 今回のbragelonneさんの質問の趣旨は、とても良く分かりました。

 真実を見るための、視点が共通しているように思いましたが、早合点でしょうか。

 

投稿日時 - 2009-12-28 20:14:28

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-25 16:10:30

ANo.3

ちょっと理解がイマイチなので、質問者さんの意向と全く違ったらすみません。

善と悪といった言語による抽象的な表現は、思考の当事者によって評価が変わると思います。
同じ事象でも、Aという人にとっては善でもBという人にとっては悪であることが考えられます。
当事者にとって、直接的、或いは間接的な利益損失をなんらかの方法ではかり、決定されます。
例えば雨です。これを良いと思う人、悪いと思う人は両方います。
単純な例でいえば、前者は農家、後者は傘を持っていない濡れるのが嫌な人です。第三者がどちらの味方になるかは分かりません。
雨は意識を持たない、されど、善にも悪にもされます。
意識を求めるなら、擬人化しても良いでしょう。
どのような考えを雨が持っていたとしても、その考えが伝わらなければAとBの評価は変わりません。
別の場面で人に置き換えても、当てはまるのではないでしょうか。

善の減少が悪になるという考え方ですが、これは何を起点にするかでまた変わるのではないでしょうか。
善がなければ悪がないということは、最初は善であったということになります。
何を持って最初を善としたのかが一つの問題になるでしょう。
悪が最初はなかった前提では、悪との対比ではないです。
お腹の中にいる赤ん坊は、当然、善と悪という言語を知りません。
肉体と精神が形成されるにつれ、快感、不快感を形成していくわけですが、これをもって善と悪としてみましょう。
形成される前は無ではないでしょうか。
神経が発達して最初に感じるものは何か分かりませんが「心地よい」でも「気持ち悪い」でもいいです。
「心地よい」が赤ん坊にとっての善だとしても、「気持ち悪い」が悪だとしても、どちらを先に感じるかで善と悪を説明できるとは思えません。

究極の悪とは、思考当事者にとって、対象が何が一番不利益を被るのかのイメージ次第でしかないと思います。

投稿日時 - 2009-12-28 17:17:27

お礼

 karelcapek さん ご回答をありがとうございます。
 
 ふたつ おぎないつつ仮説を補強します。
 ( a ) 善悪の判断は 飽くまで 一人ひとりの主観に基礎をおきます。
 ( b ) 善悪から自由な場合がある。たとえば 食べるのに箸でかフォークでか手でかは 一般に――という意味は 手であっても 衛生上まずくなければ―― 善悪の判断から離れています。自由に選択するでしょうし それぞれは等価です。
 くるまが右側を走るか左かは 善悪の判断とは別であるようです。

 でもこの( b )の選択は 主観においては ひょっとすると善悪にからませて捉えられるかも分かりません。ことほどかように ( a )の主観による判断は 基礎を成します。
 しかもそのとき 人びとに共通の・つまり普遍的な基準は じつに 感性にあると見ています。それが (1)における悪の知覚かつ認識の問題です。
 ★ 雨
 ☆ は( b )に入るでしょうか。
 ★ 快不快
 ☆ はこの快不快じたいをさらに ( a )という過程をとおします。つまり主観判断です。言いかえると この場合 快であろうと不快であろうと それが《うそにかかわるやましさ》を伴なうかどうかで悪と善とに分けられるという寸法です。

 ですから たしかに展開してもらったように 世の中さまざまであり まちまちの善悪にかんする価値観を持つであろうけれど おおよそ(1)から(4)までと上の( a )( b )の条件をまとめたかたちで基準とするなら 案外人びとに共通で普遍的な区分ができるのではないかと思っております。
 どうでしょう?

 ★ 究極の悪とは、思考当事者にとって、対象が何が一番不利益を被るのかのイメージ次第でしかないと思います。
 ☆これは 損得の極限と言うのでしょうか そういう意味での究極であるように思います。その内容をなかなかうまく定義できないところの《しあわせ》に関してなら どうかといった視点もあるのではないでしょうか。
 もうそこまで落ち込んでしまっては立ち直れないだろうという究極の悪とは 何か? こういった観点で考えたいとは思っているのです。これについても どうですか?

投稿日時 - 2009-12-28 19:10:54

ANo.2

1.2.は「嘘」についてなので論点がまったくズレていますが
「嘘=悪」にするには間違いと判断します
社交辞令も悪なら世の中争い傷つけあうだけです誰の為にもなりません
嘘にも種類があって、その人の嘘の使い方次第で白か黒か(または混ざった状態か)が決まります。
物事をまったく別の物に掏りかえるのはとても罪深いことで
指摘を受け間違いを正せないのは悪にあたります。


さて、ここからが本題

>> ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。

自分のこころ、悪と分かってての言動や思考と私は思います。

投稿日時 - 2009-12-28 14:49:27

補足

 tp068875 さん ご回答をありがとうございます。

 まづ序論のほうですが
 ★ 「嘘=悪」にするには間違いと判断します
 ☆ うそをつくことは どうなんでしょう 自然本性としての心をひねくれさせませんか? ひねくれたなら 元の状態(つまり これを単純に 善と言うだけなのですが)が傷を受けませんか? 傷がつくなら その善の欠けの部分は悪であるという定義なのですが? まづそういう定義をしているということですが どうでしょう?
 でも この定義によれば 一般に善悪という言葉の使い方にかんして だいたいは説明することができると思っているのです。

 ★ 社交辞令も悪なら世の中争い傷つけあうだけです誰の為にもなりません
 ☆ これもつまりは 社交辞令と自分が捉えた時点で おのれの心にウソが入って来ているのだと考えるのです。
 ★ 嘘にも種類があって、その人の嘘の使い方次第で白か黒か(または混ざった状態か)が決まります。
 ☆ これは 一たんウソだと自認した時点で 善ではなく悪〔が生じた〕とも自覚しているのですが そのあと ウソも方便というかたちで 《嘘の使い方次第で》自分の善に対してにしろほかの人の善に対してにしろ よい効果や影響があるということだと思います。二段階があるようです。
 ★ 物事をまったく別の物に掏りかえるのはとても罪深いことで / 指摘を受け間違いを正せないのは悪にあたります。
 ☆ 別の物をもって互いにすでに認め合ったほんとうの物だと言うのは 偽りです。悪です。《指摘を受け間違いを正せないのは悪にあたります》。つまり すでに行なった悪を持ち続ける結果となります。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 さて、ここからが本題

   >> ○ 《究極の悪(または 人間にとっての真の敵)》とは 何か。

 自分のこころ、悪と分かってての言動や思考と私は思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。いわゆる確信犯にあたりましょうか。言わば二重のうそ偽りですね。いちど心を偽り その偽った意志行為が偽りではないとさらに偽る。
 なるほど この場合には うそ偽りという悪が 言ってみれば 《固定》します。《確定》します。一重のウソであるなら つねにそれを直す機会があり 容易に直すことができます。一たん いえ 二たん うそ偽りを固めたなら へその曲がりが 折れ曲がってしまっていることでしょう。直すのに苦労が要ります。相手に対しても 説明やらつぐないやらが むつかしくなります。

 ただ この二重のうそ偽りでも 煮詰めて捉えるなら ひとは直そうと思うし 周りの人びともその心を応援すると思います。つまり 究極の悪であるかどうかは まだ定まらないように思うのですが どうでしょう? 
 とりあえず このように考えております。どうでしょう?

 * 長くなった場合には お礼欄に代えて補足欄を用いますので あしからずご了承ください。

投稿日時 - 2009-12-28 15:26:44

お礼

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2012-01-25 16:10:01

ANo.1

.
すみません。質問の意味が良く分かりません。

有名な「神戸連続児童殺傷事件」別名『酒鬼薔薇事件』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E9%80%A3%E7%B6%9A%E5%85%90%E7%AB%A5%E6%AE%BA%E5%82%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

この事件のどの状況、どの点が、上の(1)~(4)に相当するか具体的に、説明してください。
.

投稿日時 - 2009-12-28 14:26:35

お礼

 mintarou1 さん 補足要求をありがとうございます。

 ▲ (ヰキぺ:神戸連続児童殺傷事件――概要) 
 ☆ からは つぎの行為を取り上げます。
  ○ 殺傷
 ☆ これは 存在としての・おもには身体に損傷を与える行為です。身体はむろん 精神としての能力とそのはたらきの基体です。ですから
 (あ) 身体=精神としての存在とそのはたらきに損傷を与えることは 善の減少であり悪です。
 (い) その悪をおこなうことも 悪です。
 (う) そのような悪をおこなおうとする意図も心も――もとの自然本性としての心から逸れてしまう・その同じ心の働きとしてなのですが――  善のひねくれであり悪です。
 (え) つまりは 自然本性として善なる心ないし意志より 自然本性そのままの善としての具体的な意思とその行為が出てくると言えると同時に この善を偽ろうとする別の意思ないし心が現われて――つまり そこでへそが曲がって―― 善を傷つけるところの悪もおこなうようになる。

 これで (1)~(4)の全体と合っていると考えるのですが どうでしょう?
 その(1)は そもそも心がなぜ・どうように曲がるのかを問おうとしています。つまり 《うそでない心》と《うその心》とです。
 大きくは 同じ心のいわゆる自由意志のことですが この同じ善から そのまま善なる考えおよびその行為と 善を欠けさせた考えおよび行為との二種類の意志行為が出てくるという捉え方です。

 面の皮が厚くなれば ウソというものが他人から容易に見分けられるのはむつかしいようですが 本人は 死ぬまでうそ偽りがうそ偽りであることは 百も承知です。そこに へそ曲がりでない心とへそ曲がりの心とが識別され得て 善とそうでない善の部分としての悪とが起きていると捉えられます。
 つまり悪は現象として現実に起きておりそれとして認識することができるが ほんとうには存在するのは 善のみであって それに従属する悪は それとして存在してはいない。こういう結論を得ているのですが どうでしょうか?

投稿日時 - 2009-12-28 15:06:46

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