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解決済みの質問

めぐみ(恩恵)について

 次にかかげるパウロの文章を読んで お考えになるところをおしえてください。
 
   これはまづお事割りしますが――集団の宗教やその教義に関すること
   は一切取り上げていませんが―― 個人の信仰ないし神学にかかわる
   特殊な主題です。ですが その判断基準は 経験科学としての哲学に
   あります。

 ▲ (パウロ:ローマ書9:11-18) ~~~~~~~~~~~~~
 (α) その子供たち(双子)がまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、

   「兄は弟に仕えるであろう」(創世記25:23)

 と〔母〕リベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行ないにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。

   「わたし〔=神〕は〔弟の〕ヤコブを愛し、〔兄の〕エサウを憎んだ」
    (マラキ書1:2-3)

 と書いてあるとおりです。

 (β) では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない。 神はモーセに、

   「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を
  慈しむ」(出エジプト記33:19)

 と言っておられます。 従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。

 (γ)  聖書には〔モーセに敵対したエジプト王〕ファラオについて、

   「わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現わし、
  わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」(出エジプト記9:16)

 と書いてあります。 このように、神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは――α・β・γ三つの主題はいづれもひとつの課題におさまるように思われ――端的に言って 神による《えこひいき》あるいは《不条理》のもとに《めぐみ》があるという意味なのでしょうか?
 たとえば 
 ▲ (ヨハネ福音 3:8) 風は思いのままに吹く。
 ☆ とありますが そういう意味でしょうか? つまりこれは イエスの言葉で 次の話につづくものです。
 ▲ (ヨハネ福音 3:6-7) ~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ わたしに見方はあり考えも持っていますが どうも柔軟性が劣って来たかに感じたものですから みなさんからの知恵をお借りしたいと思いました。(ですから わたしに分かっているところは ただちに突っ込みを入れさせてもらいます。そうして なにかが得られどこかの地点に出られるなら さいわいです)。ブレインストーミングのごとくにでもご見解をお寄せください。

投稿日時 - 2010-01-02 12:59:27

QNo.5562231

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

 こんばんは、Hidocchiです。

 実を申しますと、今回の回答には全く自信はないのですが、何らかのご参考になればと思い、筆を取らせていただきました。

(α)神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れむ?
創世記25章23節「主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」

 主は、母リベカに、息子二人について告げております。しかも、兄弟2人のことのみならず、将来袂を分かつであろう2つの国民(民)のことまで、話しておられます。

 そして、一般人からしますと、ヤコブの方が悪者に見えなくもありません。つまり、嘘をついてまで、“祝福”を得ようとしたのですからでございます。
創世記27章24節(祝福を与えるイサクは)言った。「お前は本当にわたしの子エサウなのだな。」ヤコブは、「もちろんです」と答えた。

 しかし、最後には、(裏切られた)エサウと(祝福を受けた)ヤコブの二人は仲直りします。(創世記33章4節からです)

 しかし、「エサウ」の子孫“エドム”の民については、最終的には、以下のような絶望的な結末を迎えます。 (イザヤ書34章からです)
2節 主はすべての国に向かって憤りを発し、怒りは、その全軍に及ぶ。主は絶滅することを定め、彼らを屠るために渡された。
9節 “エドム”の涸れ谷は変わってピッチとなり、その土は硫黄となる。その土地はピッチとなって燃え上がる。
10節 夜も昼も消えることなく、とこしえに、煙を立ち昇らせ、代々にわたって廃虚になり、永遠にそこを通る人はない。

(β)詳細は省略させていただきます
 これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものだからです。もちろん、主語は“神(主)”でございます。

(γ)省略させていただきます(ある意味当然のことですので)。


> ☆ これは――α・β・γ三つの主題はいづれもひとつの課題におさまるように思われ――端的に言って 神による《えこひいき》あるいは《不条理》のもとに《めぐみ》があるという意味なのでしょう
か?

(1)神による《えこひいき》あるいは《不条理》は存在するか?その際、神の“不義”も存在するか?

 神による《えこひいき》等は存在すると考えられます。上述しましたエサウとヤコブの件でもそうでございますが(仲介役として、リベカが存在しますが)、どうみても、《不条理》なるものが見られます。
しかし、それが“不義”かどうかは別問題かと考えらます。例えば、エサウの子孫“エドム”の民は滅亡しますが、それには、人から神への不義が最初にあるからでございます。
マラキ書1章14節 「群れの中に傷のない雄の動物を持っており、それをささげると“誓い”ながら、傷のあるものを主にささげる偽り者は呪われよ。わたしは大いなる王で、わたしの名は諸国の間で畏れられている、と万軍の主は言われる。」 とございますが、“エドム”の民は、その“誓い”を破っていたからでございます。つまり、神に対して、真っ先に契約違反をしていたからでございます。

(2)神による《えこひいき》とは何を意味するか?

 この神による《えこひいき》とは、時間・空間に縛られた人なる存在には、理解できるものではないと考えております。神は当然、時間・空間を超越しておられます。ですが、人はそういう訳ではございません。
 例えば、卑俗な例で恐縮ございますが、つい最近勃発したアメリカ発の“金融危機”がここまで、深刻化すると予想していた経済学者を愚生は知りません。また、2009年初頭に、「1年後の2009年末(大納会)の日系平均はいくらになるか?」について、経済評論家、アナリスト達が予想していましたが、ことごとく予想をはずしていました。
 つまり、人はせいぜい目先のことだけしか予想できないと思うのです(目先のことといっても結構アヤシイのですが)。しかし、神は、将来のことまで見据えて判断していると思うのです。
 また、先ほどの回答者様意見には、“原爆投下”の件が述べられておりました。かような発言は不謹慎かと存じますが、敢えて述べさせていただきます。“原爆”による被害は悲惨を極める事件であったかと考えております。そして、犠牲者の冥福を心よりお祈りしたいとも思っております。そして、アメリカへの“原爆投下”への憤りはもちろんございます。と申しますのも、広島には、軍事基地等はなく、投下時にその場にいたのは、兵士でもなく、老人と女子・子供だけだったからでございます。つまり、戦闘行為というよりも単なる大虐殺であったかと考えられるからでございます。しかし、この被爆の影響につきましては、後の核医学には、少なからず貢献したのも事実かと思われます。約60年前の原爆被害の(病状)記録がアメリカ人に残されていました。そしてその記録の正確さは、数年前、東海村での臨海事故によって証明されることになりました(同じ日本人であったというのは無念としか言いようがないのですが)。またかような惨状をもたらす兵器であるという認識から、核兵器を用いた、もしくは、それを用いざるをえない大戦争は避けることができたという説もございます(愚生はこの説は正しいと考えております)。

 以上から、申し上げますと、「神の《えこひいき》とは、勝手に人が《えこひいき》だと感じたものに過ぎない。またその意味するところは人には認識不可能」ということでございます。

 何らかのお役に立つことができれば、幸いでございます。

投稿日時 - 2010-01-07 18:35:27

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 何だか おもい気持ちでいます。こういう問い求めは 取り急ぎで掲げるものではないようです。

 双子のあいだの行く末が分かれたという問題。抜け目のない弟のヤコブ。兄エサウの子孫であるエドムの民のたどる道のこと。
 こういった全体像を明らかにしてくださって 分かりやすかったです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 マラキ書1章14節 「群れの中に傷のない雄の動物を持っており、それをささげると“誓い”ながら、傷のあるものを主にささげる偽り者は呪われよ。わたしは大いなる王で、わたしの名は諸国の間で畏れられている、と万軍の主は言われる。」 とございますが、“エドム”の民は、その“誓い”を破っていたからでございます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ イエスのまだ出ない前の時代だからでしょうか 単純な話に映りますが これもまた分かりやすい事情があるようです。あるいはむしろ あとでおっしゃっているように われわれ人間にはほんとは分からないのだけれど 分かるような事情があるかも知れないという情況を説明していると言えるのかも知れません。
 ▲ 創世記25章23節「主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」
 ☆ といったふうに ともかくも聖書記者は言葉を得たというところなのでしょうか。

 とは言うものの 比較的分かりやすいと感じたそういう物語にしても 神によるえこひいきだと一たん受けとめたとしても
 ★  以上から、申し上げますと、「神の《えこひいき》とは、勝手に人が《えこひいき》だと感じたものに過ぎない。またその意味するところは人には認識不可能」ということでございます。
 ☆ という問題が土台と思われるところに横たわっているように思われる。・・・
 ▲ (ヨハネ福音 3:6-8) ~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 風は思いのままに吹く。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ あぁ おもたい問いでした。

 かえって不謹慎なことをを言うとしますと 原爆投下ですが 降伏を遅らせたのがわるいのか 実際に――実験でもあるかのように――落としたのがわるいのか?

 あぁ おあとがよろしいようで。

投稿日時 - 2010-01-07 20:08:35

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回答(7)

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。

>  ☆ という問題が土台と思われるところに横たわっているように思われる。・・・
 ▲ (ヨハネ福音 3:6-8) ~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 風は思いのままに吹く。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ あぁ おもたい問いでした。
 
 確かに、愚生には荷が重過ぎるご質問だったかと思っております(改めて、自分の駄文を読み返して見ましたが、恥ずかしくなってきました(笑))。

>  神を持ち出さなくても この恩恵論についてひとは思いを明らかに述べあって 共有すべきことがあるのか無いのか。

 “共有すべき何かがある”と信じつつ、筆を進めてまいりましたが、まとまりに欠ける文章となってしまいました。深くお詫び申し上げます。

 土居健郎の「甘え」(「聖なるもの」との関連性)に関しますスレッドをお立てになられたようでございますが、こちらの方で頑張ってみたいと思っております(「甘えの構造」は、英語版でも出版されているようでございます。タイトル等は、John Bester翻訳「The Anatomy of Dependence」なのだそうです)。

 それでは、駄文ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2010-01-08 19:29:26

補足

 おぎないです。

 このやり取りを見ていて 何かひとこと言いたいという人が現われるかも知れないと思ったら もう少し開いていようとは思いました。そうします。

投稿日時 - 2010-01-08 19:46:12

お礼

 こんばんは Hidocchi さん。ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ あぁ おもたい問いでした。
 ☆ と言いますのは はじめは 神学のことばを解禁すれば何とか表現しうるのではないかと思っていたのが かえって――この《恩恵》論ではだと思うのですが―― おもたく感じてしまい 重要な大きな主題なのだなぁと思ったというところでした。
 旧約の時代の話は 割り合い分かりやすいようにも思いますが これとても うかつに解釈していてはいけないようだとも思った次第です。

 という事情のもとに
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >  神を持ち出さなくても この恩恵論についてひとは思いを明らかに述べあって 共有すべきことがあるのか無いのか。

 “共有すべき何かがある”と信じつつ、筆を進めてまいりましたが・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という経過を共有しつつ 一たんは手を引こうと思います。
 ありがとうございました。
 いつかは パウロの文章も共観福音書も分かるようになりたいです。
 それでは ひとまづです。

投稿日時 - 2010-01-08 19:45:58

ANo.5

すみません、 すぐつづけます。

あれから、 とうとう30年近く 死なないで生きてきました。

で、何が解かったのでしょう。

何も解からないままだったのでしょうか?

考えることは、出来ていないかもしれません。 その辺はよく解かりません。

でも、 今度は、 この体全体に、たぶん右脳も左脳も加わって、 こんな確信がうまれてきています。

別に悟ったとかどうとかではありません。

あれ、 永遠は 存在するよ。 という確信も そこからのものです^^。

地球は狭くなった 知られることによって また交通の発達によって狭くなったとよく言われます。

正確に言うと 狭く感じられるようになったということですよね。

ところが、実際はその逆であることを感じ始めるようになっている人が じつは増え始めているはず。

知れば知るほど、 ムラ(村)ひとつですら、 どこまでも この大地は広い、 いや広がり始める。ということを、 地球の広がりのほうから 教えられ始めているのです。

小さな町や村の 散歩道、 そこに小川があり 千歩でもその小川の脇を歩けば、それがどんな豊かな空間なのか、 せせらぎが聞こえ、青空は映り、小川と同じ水の分子でできた雲が様々な形で映り、 いろいろな緑の草がその流れに生い茂り、 小鳥達が飛びかい、鴨や白鷺が水辺に泳ぎ、 ふと見ると魚が跳ねている  いえ、 たったそれだけでも ではやがて夕焼けとなり、 星が映る頃の描写にしても  書こうと思えばどこまでもかける、そんな散歩道を   さて、 このまえに 雨にぬれて寒さで寄添いながらそっと見上げて自分の目を見つめた友である小さな老犬が、 今日は元気に 久しぶりに走って 自分を追い越してこちらをふりかえり、自慢げに見つめた、 …  文学でももちろん書けるこうした想像の世界も、 じつは実際の散歩道の延長、   つまり、 私たち人間の世界は 心の世界は感性の世界にて、 どこまでも どこまでも どこまでも、 それが純粋で新鮮な境地にさへたどり着けば つづいていること、 ひろがりつづけること、 生物の一匹でありつつ、  その可能性がそこに 見えること。

その可能性が、 今の私の体全体の中に、確信となって見えているということ。

経験の中の無限推理?なのか?  でもこれってここまでくればもう考えることもないでしょ。

私たちが 存在しているということは、 こういう可能性とともに 存在している「今」がここに存在しているということです。

贈られているとしかいいようがありません。

完全に、完全に 平等にです。

が、 同時に 可能性ではなく、 同時に、苦しみもまだ存在します。

何も知らずに 何の感動もなく、悪い心と、くだらないなぐさめ程度のお楽しみと、深い孤独だけしかしらずに 同じ人間なのに死んでいってしまう人も、確実に大勢いるわけです。

しかも それすらなく、苦しいだけの生を終えてしまう人もです。

最初に書きましたとおりです。

が同時に ここがそちらと同じなのでしょうが、

存在は じつはありえないことがここに起こっている事、 これもいつしか確信となっていました。

1不平等と、その極限あってはならない地、 2、どこまでも可能性のある人間の感性の世界、3、 存在の不思議、  この三つがそろえば、

其の存在は 永遠の命を保証している(思索によるものを越えていると思う)との確信のたどりつくということです。

と、つぎには、 つぎにはなのですが、 始めて 輪廻ということも その確信の内に入ってくるのですが、    それはもはや、   非思考(たぶん)の内の輪廻の確信、つまり死後の霊とか死後の存在とか死後の意識とかいう空想(私にはそうとしか思えない)とは別の確信です。      説明は ここで入らないと思いますが。…。

ここでならば、 キリストの言葉(の私の解釈)の延長としても、 《後のものが先になり》とかのそのbragelonさんの言わんとしている機会の平等は  すでに与えられていると言えるからです。

仏教は物語の中の方便として、スピリチュアルな人たちは思索と想像の力でのごまかしとして輪廻を語っているだけだということが この《巨視的「今」》の視点からは ここからも明らかになってしまう。 とも言っておきましょう。 (部分観だといえるとはとても思えないですから)

私の方からの回答は こんな視点からのものとなりました。

以上です。

投稿日時 - 2010-01-06 15:40:47

お礼

 投稿スペース泥棒――そういったところだな。

投稿日時 - 2010-01-06 21:21:07

ANo.4

これは、過去にもそちらへの回答の中で書いたことなのですが、

こちらの文の流れの中でも、もう一度書いておきます。

お酒を飲む機会の多い人は、 自分が酔いつぶれて気を失ってしまったはずなのに、 ちゃんと誰にも頼らず自宅まで帰っていて、自分の布団の中で気が付いたといった体験をしている人が多いです。

私も そんな体験はかなりしましたが あの時には、その気を失った状態で何故、 この車社会に道路を間違えなく歩いていけるのか?についての理由の一つを 知ることができた機会でもあったのです。

私は まず周りがまったく見えなくなっていました。

真っ黒なのです。 目の神経がふっとんでしまったのでしょうか?

真っ暗ではなくて、 おそらく生まれつきの盲目人がそうであるような状態でしょうか。

そんな状態なのに、私は 周りの人の普通にしゃべっていました。  右脳の力なのでしょうか?

しかも憶えているのは 借りたお金をきちっと返したところまでも憶えているのです。

そうして 私は 歌舞伎町のその頃寝泊りしていた個室に戻っていったのですが。


わかりますでしょうか? お酒によって神経とかが麻痺した状態とはじつは逆さまに むしろ意識がはっきりしすぎていたという状態でそれは起こったのです。

例えば、 原爆はたしかに人為的な行為で起こってしまいました。

その場で 興奮のうちにそれほど苦しみを感じないまま息を引きとつた人たちはまだいいです。

私は中学生の頃、テレビで 「助けて」と叫びならがベットにうめいている子ども達と その声を聞きながら 何も出来ずに同じようにベットで仰向けとなっている大人たちの無念な顔を見たことがあります。   あってはならない そのあってはならなさ、 これ以上言葉にしようがありません。

その因の因の因の因の因は、…、…、…、

そうした人生の、いえ《存在》の不条理が、突然、その時頭の中に押し迫ってきたのです。

うわわわわーー、 という感じ、 ではなく、 実際に私はうめくように叫んでいました。

口から血があふれ出したので 急いで洗面器を持ってきましたが(あくまで むしろ正常な神経なのですよ)、 血を吐きつつ 血を吐きつつ 私は叫んでいました。

その時に、私の口から出てきた言葉が、あの言葉です。

「神よ、おまえこそが悪魔じゃないか。 いやお前だけが悪魔だ」

もちろん、心の中では、「「「そうじゃないんだよ」」」とかいう声をどこかで期待しながらですが…、

恩恵?、 もし、 何かえこひいきする神がいたとして、誰かだけを助けたとします。天国という幸せな感性の心のうちに、その誰かだけが入れたとします。

恩恵とうものがそういうものであるなら、 はてさて、 私ならそんな神は、 信じるどころか信頼するどころか 信用すら出来ませんね。

そう思いませんか? いつ天国から誰が蹴落とされるかわからないではないですか?

そんな考えは馬鹿馬鹿しいだけです。

が、

極限の苦しみ それは存在します。 がそれは完全に相対的なものです。 それが生物だということです。 心がともなってもなおそれは相対的な地点にあります。  そして苦しみは極限でなくても あってはならないような世界がたくさんある世界です。 苦しみについての考察はここまでとしましょう。

しかし、あの時、

その晩中、私は 血を吐いて叫び続け(神をのろいつづけ)、とうとう力尽きて、床に倒れ込んで朝を迎えていました。

何があったわけでもないです。 ただただ静かでした。 もうなにも他にはなくただただ静かでした。  エクスタシーの一種です。

動けませんでした。 私の口から出てきていたのは それでも考え続けていたのでしょう。

「もう、何も何も、 何も解からないよう。     もう解からない」これだけです。

bragelonneさん、  では、 それ以後は 解かる日が来たのでしょうか?

いえ、それから20年たっても、 もうそのことは何も考えるよすががありませんでした。

ここまでは、以前にも書いたとおりです。 でも これを機に もう少し詳しい前後の内訳を書かせていただきました。

((つづく))

投稿日時 - 2010-01-06 14:37:53

補足

 ☆☆ 極限の情況
 ☆ にしても取り違えています。わたしの言うのは 《恵みを受けているかいないか》の後者 つまり恵みが無しの場合ですから 言ってみれば――《感覚的なくるしみ》の問題ではなく――《人間であるかどうか / 人間を人間として扱っているか・また人間が人間として扱われているか》の問題です。

 人格を変えて投稿してきた回答を受けつけて来ましたが その以前の人格での過去をどう清算するかの問題も然ることながら あたらしい人格での対話によってすべてを突き抜けることができるか これを見てきましたが どうも同じ結果に終わりそうです。

 質問に答えるかたちで投稿してください。
 さもなければ 質問の仕方が これこれこういうわけで間違っていますよというかたちで書いてください。それ以外の余計なことは もう受けつけません。

投稿日時 - 2010-01-06 15:13:06

お礼

 ☆☆ (趣旨説明) 端的に言って 神による《えこひいき》あるいは《不条理》のもとに《めぐみ》があるという意味なのでしょうか?
 ☆ この問い求めに集中してください。

 そうではないと言うのなら もうそれでよいです。
 ただ感情で えこひいきはないのではないかと答えているだけなのですから。

投稿日時 - 2010-01-06 14:59:32

ANo.3

すべての源因が神にある。 という点について書いているところへ、(途中だったわけですが) 自由意志の問題がさっそく入ってきましたね^^。

自由意志があれば、人間にも責任はあるという点ですよね。

通常、神あるいは宇宙的(あるいはさらなる巨視的)視点で 悪も問題を考えることはあまり意識に上らないし、その必要を感じないでしょうから、 ふつう私たちが問題にしているのは悪の原因をそれを犯した人の責任としてのみ追求することになるわけです。

しかし、これも書こうとしていた巨視的な視野から考えると、 たとえばへそを曲げたにしてもその因の因の因の因を考えてゆけば けっきょくはそうなっていたから、つまり神が源因ということになってしまうのです。

ここに、私たちの知性は はっきりと「罪あるいは ここでは悪でもいいのですが、その行為や実態は憎んでも 人は憎まず」の根拠を得るのだろうと思うのです。

その時

機会は私たちの短い命の中で おおむねは平等に与えられていると言えるでしょうか?

(「恩恵」という言葉は この流れで使うと複雑になるので、後回しにしています)

「後の者が先になり 先の者が後になる」というキリストの言葉は私もおぼえていますが、

それは こんなふうに解釈していました。

たとえば、体が丈夫で心も健康な人が知恵の面でも そうでない人よりも、精神的にもはるかに進歩したとします。  でも一番惨めに思えた体が弱く心も乱れ頭も回らず 自分を馬鹿だと思い込んでいて、人からもさげすまれ、その集団催眠の状態からもいよいようだつがあがらない状態となり 人間的進歩なんてそれこそ考えたことも無かったような人すら

いやだからこそ、他の人がどうとかいう世界にとらわれない何かの大切な大自然との触れ合いの知恵を掴み いきなりそこから人間とは何なのかがわかって来るかもしれないのです。

そうなったら 苦労したぶん、より多くの人を人間的にするリーダーともなっているかもしれないじゃないですか。

そうしたことが 世の中にはいっぱいあります。  それをしっかり見つめて すこしでもゆだんせず、より強い人になって行きなさい。という これもたとえ話による力強いメッセージの1つとして受け取っていました。

単純な解釈だと思いますが、それでいいのではないでしょうか?

ともかく、 ここから話をつづけます。

まず、 私の酒豪歴の因果のあたり^^を、いきなりですが書かせていただきます。

それはある話しをするのに誤解を避けるためです。

私は、お酒は飲まない家系の家に育ちましたから、大学時代に町の演劇サークルで その応援をしていた本屋にて、生まれて始めて 地酒だというそのお酒を飲んだのです。

そうしたら、 これもとても言葉ではどう表現しようもないような、 体の奥の奥からの「「なんなんだろう、 こんなおいしいものがこの世にあったのか」」という味わいが体中に広がったのです。 しかも、酔っ払うどころか 意識がはっきりしてきて周りの人の気持ちのひだまで それまで見えなかった細かい心と心の触れ合いが 意識の中に入ってきました。

おそらく 考え込むことのおおかった青年の左脳は 考えることには価値はあるものの、そのおかげで右脳の部分を覆い隠していた、あるいは左脳の神経が右脳の神経に侵食しかなり麻痺もさせていた。とかいった現象が  そのお酒によって取り払われたということなのかもしれません。

じつは それ以後 いっさい あの時ほどの味わい深いお酒を飲んだことはないのですが^^。

ともかくこうして 私はお酒のとりこになっていったのです。

えっ、そんなにもすごい世界があったのか。 ならば お酒の世界のすべてを知ってやれ。

そんな感じでしたので、 ありとあらゆる飲み方をしました。

ただ、 どうしても自棄酒と、悪酔いの体験だけはできませんでした^^。 つまりそれだけ真剣にいつもお酒を飲んでいたからです。 冗談ではなくで 本当に本気だったのです。

やがて私は 類まれな酒豪となっていました^^。  

泡盛の何度だったか忘れましたが、かなり強いやつを水のように飲んでも(というより水はあんなふうに飲めません)まったく平気になってました。

飲まれるのではなく飲みとるのだ、という感じは じつは長い修行(と言えるかどうかはともかく)の後に得られるものです。

余談が長くなりました。

体を壊す以前は ほんとうにこんな感じだったのです。

それが、 あの真っ黒な中での  暗闇の中のあの 叫びへとつながっていった形です。

((すぐ、つづく))

投稿日時 - 2010-01-06 13:52:11

お礼

 ご投稿をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「後の者が先になり 先の者が後になる」というキリストの言葉は私もおぼえていますが、それは こんなふうに解釈していました。

 ・・・(大幅に中略)・・・いきなりそこから人間とは何なのかがわかって来るかもしれないのです。

 単純な解釈だと思いますが、それでいいのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ よくありません。もしくは 観点が違っています。
 いまは《めぐみ(恩恵)》を世界とその歴史の中にどう位置づけどう捉えるかの観点を問うているからです。

 ★ (要約) 人間的進歩 あるいは 《人間とは何なのかがわかってくること》
 ☆ これもたしかに恵まれているかいないかの問題ではありますが ここでの問いの観点は もっと全体的で根本的なものです。
 ○ 風が吹いたかどうか。すなわち 《神の憐れみや慈しみを受けているかどうか》としてのめぐみ。
 ☆ が問題だからです。

 めぐみについて いわば全か無かの問題なのです。なぜかと言えばもし《無》ならば 《〔そういう人びとは〕光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている》(ヨハネ福音3:19)という極限の情況に陥る問題だからです。

 ですから そのめぐみを受ける《とき》のあと先を別にすれば やはり
 ○ 神のえこひいき
 ☆ はそこに見られるのではないか? という問いに集中しています。

投稿日時 - 2010-01-06 14:16:10

ANo.2

この世の中、あるいはこの《存在》、あるいはこの生涯の中に、存在する事実であるところの

人為的な因果の連鎖以外にも 明らかに存在する《不平等》の問題ですね。


たとえば、 私は3歳の頃も肺炎になったらしく、両親の話では、ちょうど海外から取り寄せたペニシリンがぎりぎり間にあってそれがゆえ峠を越して助かったということですが、

まず、歴史の因果の流れにペニシリンという人がいなければ、私は まだ今の私の記憶がない世界の内に死んでいたわけで、今の私の意識のすべては、もともとこの宇宙や《存在》の中に存在しなかったことになります。

命(生物としての)の連鎖の広大な時間の後に私たちは そんな危うい形でこの世に存在するその意味では人間も虫けらのようなちっぽけな存在です。(このように達観する視点は宇宙的、あるいはもっと巨視的見方かもしれませんが^^)

そして、その私の知らないその私という子どもについては、私はまったく知らないので彼が(へんな言い方ですが、表現です^^)その生にてどれだけ苦しんだかも知る由も無いのですが、

また死に際して何を思ったのかも知る由もないので、 はたして その短い生が不幸だったか 幸せだったか その私自身の短い生については^^、何も言えないわけですが、

その後知った 意識が現在まで続いている「わたし」の意識の中には、 けだし“「私」自身”の体験も含めて不幸な人生やそのまま死んでゆく人たちの確実に存在するという認識にいたる経験はたくさんあります。

同じ死でも、 もし小学校5年生のあたりの、これからこそ生きられるという希望やもの心ついたばかりの時の しかも、いじめで心身がすっかり狂ってしまって惨めな状態のままの死は、はっきり言って残酷な残酷なあまりに残酷な苦しみの世界でした。(もちろん、それも医者の予想を超えてぎりぎりにところで峠を越えて助かったので   今、 これを書いてる人間がここにいるわけですが^^)

さあ、その5年生のぼうやの一生が そこまでだったとしたら、 その生涯は、なんて不平等な存在なのでしょう。

自分がそうであれば、世の中に、そんな人はいっぱい見えてきます。

自業自得、 それもあるでしょうけど、 因果を探ればその面はどんどん小さくなってきます。(ここ、説明がいるでしょうか?、 説明するとすると長くなるとおもいます)

けっきょく その因の因の因の因…を想定してゆけば、人間に因があるのではなくて その苦しみの源因は 神にあるということになってしまうわけです。(あるいは わかりやすく《存在それ自体》にあるというふうにも書いておきます)

神話には、昔の人の宗教や社会秩序の必要から真剣な気持ちにても生まれた物語の一要素として「悪魔」という存在を登場させていますが、 その悪魔が仮に存在したとすれば、その原因も神にあるわけです。

やっぱり、この問題は書き出すと長くなりますね^^。どうせ紙数も足りませんし、

ちょうど仕事が入ってきてしまいましたので(物を運ぶ仕事です)、続き物として書かせていただきます。  一度ここで閉めて、一時間後ぐらいにまた書きます。

宜しくお願いいたします。

投稿日時 - 2010-01-06 10:51:56

お礼

 途中までということのようですから 取りあえずつぎのふたつのことがらを確認しておきます。

 ひとつは わざわざヨハネ福音のひとくだりをまとめて掲げた理由についてです。 
 ★★ (No.1) つまり、《αβγ》と 《(ヨハネ福音3:8)(ヨハネ福音3:6-7)》とは まったく別質なものという前提が私の場合 生まれてきてしまうのですが、
 ★ このご指摘について 《別質》だとは思えないということを示そうとしたものです。

 もうひとつは いまわたしが得ている答えです。それは――自問自答になるのですが――
 ○ 先の者があとになり あとの者が先になる。
 ☆ という見方に立つというものです。これなら めぐみを受けるそのときのあと先があるのみというものです。
 へそを曲げたりひねくれたりしていれば あとになる場合はあるという考え方です。へたをすれば 生きているあいだにめぐみを与えられない場合さえある――ということも考えられます。
 でも そういう見方に立つのならば おおむね自由であり機会が平等であると考えられるからです。
 ▲ (ローマ書9:18) 神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。
 ☆ という表現で言っていますが 要は 人間じしんの問題だという見方になります。
 つまり言いかえると 実際もんだいとしては 神は関係ないということです。
 どちらにしても――神がほんとうに人間をかたくなにしている場合と 神は関係なく人間がみづからかたくなになっている場合と どちらにしても―― めぐみ(恩恵)について それでいいのか? これが いまの問いです。

 恩恵というからには たとえば人間として生まれてきたというめぐみひとつを取っても それについて社会がみんなで考え合っていくということがあるのか? あるとすれば どのようにか? 神を持ち出さなくても この恩恵論についてひとは思いを明らかに述べあって 共有すべきことがあるのか無いのか。このような方向です。

投稿日時 - 2010-01-06 11:36:30

ANo.1

まず、 お話してみたくなったことがあるのですが、

おそらくbragelonneさんは、 キリスト教から なんらかの思索過程の後、いきなり《「非思考」とう存在の概念》にたどりつけたために、キリスト教のキリスト以外の学者や弟子から生まれた言葉も キリストの言葉と似ているほど大事にされてしまっているところがあるのではないかと思えてきたのですが、どうなのでしょうか?

まず、非思考についての、 私の考えですが、

《神》あるいは《存在の性格》を、ずばり表現している言葉の一つと思います。

時間については、 線で過去から未来にむかって流れとして描くことなら出来ますが、実際は「今」という存在の中に、 まだ存在しない世界と記憶の中にしか存在しなくなった世界とがあるという不思議な存在として私たちの意識に、生きている間とらえうる世界として存在しているだけなわけです。

が、その「今」という存在は、ただただ、何故それが存在しているか全く考えることの不可能な存在でもあるわけです。 線をどういうふうにも構築しようがありません。  それも表象ではとらえられない世界ということになるでしょう。

が、意識が、それが生まれてから死ぬまでの間の時間に存在しているということなら私たちもわかりますし、 その意識の大切さを守るなんらかの目的がそこに生まれたらその目的にのために 私たちの意識は そこから太陽暦を利用したりして時間を分析する図を描くこと自体はできるわけです。

で それでも「今」はあいかわらず、どこまで有効にそれを描こうとも 非思考の存在として、あるいはあまりにも不思議な存在としてそこに存在している事を私たちの意識は捉ええることが出来るわけです。

そのような意識が 何故生まれたのかもこの考え方でしっかり考えてみると 同じように不可思議な存在として目の前、或いは意識の前に現れます。

お父さんとお母さんの間に生まれてきた「わたし」という存在は、たしかに長い長い命の連鎖の後に生まれてきたわけで、その悠久さの前に ふとひれふしたくなるような感動を覚える人もいると思いますが、 それだからといって、もうひとつ、私と同じ感じ方や性格の同じ体つきの同じ遺伝子の、しかし《「わたし」でない人》が同じお父さんとお母さんから生まれていた可能性が否定できないという巨視的視野視点というのがあるのです。

つまり「わたし」という存在は、この宇宙があったとしてもブラックホールにどのようなエネルギーが秘められていたとしても それだからといって存在しなかったかもしれないという巨視的視野です。 これも無限にどこまでもその可能性がある中に私たちは存在していることになるのです。

そこまでゆくと、宇宙という物質外の「今」とは、無限?であるとなり、こうして存在の本質は、人間の意識ではわかりえない存在→非思考となるという感じです。

この存在や《「今」ここ(そこがどこでも)》は、そんなふうな贈り物として《今、ここ》に存在し続けています。 意識があるかぎりそれの気がつきうる能力とともにです。

「私たち」つまり人間であるということは、そういう「私」と「私」との関係であるということにもなります。  存在している時点で 宇宙の歴史よりも尊い存在だとも言えるでしょう。

歴史は、神話でなくても しかし、すべてその資料を集めて編集した個人の主観に影響されています。 その意味で聖書も同じ歴の資料の内です。  そうした時 大事なのは、始めてそういう存在であると明らかにとらえておられると整合性ある形で読み取れるふうに神を語ったキリストの言葉への信頼と、 それを聞いて当時のそれぞれの記録法で記録しただけの聖書の記述の特に、それまでの宗教や神話の解釈の世界とを いっしょくたに解釈の生板にのせるのはおかしいとおもいます。  次元がちがいすぎると思うのです。

つまり、《αβγ》と 《(ヨハネ福音3:8)(ヨハネ福音3:6-7)》とは まったく別質なものという前提が私の場合 生まれてきてしまうのですが、
もしかしたら、 これ以上回答しなくても、bragelonneさんならば、ご自分でその違いに気がつけるかもしれないですね。

ともかく、どんな形であれ、神に《えこいいきという形》が存在するわけがないのですが?

投稿日時 - 2010-01-05 20:35:58

補足

 ご回答をありがとうございます。
 
 ひとくだりを掲げます。
 ▲ (ヨハネによる福音書3:1-21――イエスとニコデモ――) ~~~~
  さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
  ある夜、イエスのもとに来て言った。
   ――ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師である
    ことを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのな
    さるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。

  イエスは答えて言われた。
   ――はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見
    ることはできない。

  ニコデモは言った。
   ――年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一
    度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。

  イエスはお答えになった。
   ――はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、
    神の国に入ることはできない。
     肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
    『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったこと
    に、驚いてはならない。
     風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこ
    から来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのと
    おりである。

  するとニコデモは、
   ――どうして、そんなことがありえましょうか。
  と言った。
  イエスは答えて言われた。
   ――あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からな
    いのか。
     はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見た
    ことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入
    れない。
     わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを
    話したところで、どうして信じるだろう。
     天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者
    はだれもいない。
     そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられ
    ねばならない。
     それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためであ
    る。
     神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り
    子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
     神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子に
    よって世が救われるためである。
     御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。
    神の独り子の名を信じていないからである。
     光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方
    を好んだ。それが、もう裁きになっている。
     悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐
    れて、光の方に来ないからである。
      しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれ
    てなされたということが、明らかになるために。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはまったく経験思考を超えています。
 焦点は 《光よりも闇を好んだゆえに すでに裁きになっている》人たちは 《えこひいき》されなかったのではないか? にあります。
 ファラオもエサウも えこひいきを受けることがなかった。それぞれ相応の役目があったとしてもです。
 まづこの出発点から あらためて確認します。どうでしょう?

投稿日時 - 2010-01-05 21:17:02

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