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解決済みの質問

きみはヨブを見たか。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 神はヨブが試されることを悪魔に許した。
 ヨブは試された。
 悪魔は困惑させられた。

 ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。

 神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。

 ヨブは言っております。

   主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。
   主の御名はほむべきかな。(1:21)

 と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。
 (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 これを哲学のことばで表わして欲しい。
 いまわたしに思い浮かんだのは 
 ○ 能天気
 ○ 聖なる甘え
 ☆ このふたつです。
 ヨブやアウグスティヌスへの批判をも含めて ご見解を明らかにしてご投稿ください。

投稿日時 - 2010-02-17 14:30:11

QNo.5684019

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。

> でも 生まれつきの病いについてはどうかと思います。つまり なかなか分からないところがあります。神の栄光が現われるためですとか説明があるかも知れませんが その合理性としての理解には 困難をきわめるように思います。Hidocchi さんもすべて分かっておられて この主題を出されたのだとも思います。
 はい、確かに愚生もそうでござます。
 もしかしますと、例えば、野口英世(彼の左手のやけどは先天的ではございませんでしたが)の医学の進歩へのある種のエネルギー、また憲法学者小林節慶大教授(左手は先天的奇形があるようでございます)の将来に向けた憲法論議、さらには、子供・兄弟が先天的病を持ったが故に、科学・医学の前進にエネルギーを注いだ方達もおられるかと思っております。
 「神は、彼らのある種のエネルギーを、見たい、見守りたい」 とそう思っているのではないか? と考えたことがございます。もちろん、正解は神のみぞ知るといったところかと思われますが………….
 
> ☆ この試練は ヨブと同じようにだとわたしも思います。
《もっと大きな業を行うようになる》にも希望を持ちたいと思います。

 愚生もかような希望を抱いている一人でございます。

>  ☆ 録画しまして いまの時点で半分ほどを見ました。《コンプライアンス》は出て来ました。
 これを《アマテラス語》の問題と受けとめました。
 ほかの人の質問で このアマテラス規範語は 枡にあふれる米を掻き棒でそぎ落とすかのように 四角四面の枠に人を嵌め込むと捉えて投稿しました。

 アマテラス規範語は、似非アマテラスが大きくし、さらに拡大解釈をもしていると思っております。
 さらなる、ご意見賜れば、幸いでございます。

> そして この”神へのコンプライアンス”は われわれ人間にとってむつかしいと来ています。甘えてもいけないでしょうし もはや甘えるくらいに――エポケーをも経つつ――甘えきったかたちになるほかないようにも思えますし。
 ▲ わたしは世間に対して 世間はわたしに対して はりつけになっています。

 これは、ひとはひとえに誰もが最も知りたいところかと存じます。ですが、超難問ですし、その回答が正しいかどうかは、その時点ではわからい という難しさもあろうかと考えております

 ご意見賜りまして、厚くお礼申しあげます。

投稿日時 - 2010-02-28 22:04:35

補足

 Hidocchi さん 今回は 依然としてお互い分かりあぐねていると思いますが 今回は それにもかかわらず 微笑みがこぼれます。のぞみがあります。
 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 〔生まれつきの病いについてはどうか〕――「神は、彼らのある種のエネルギーを、見たい、見守りたい」 とそう思っているのではないか? と考えたことがございます。もちろん、正解は神のみぞ知るといったところかと思われますが………….
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほどですね。通俗的に言うとすると 切り替えが出来るかどうかでしょうか。――正直に申せば この場合わたしは 人間の志向性や努力をも 要因の一つに容れて考えていたかも知れません。今回は 思いつかなかったです。以前に そういうふうに捉えたことがあったかという記憶です。
 でも おっしゃるように・そしてわたしもずっと考えていましたが まづ《自由》という答えがあるのがふつうだと思いますから。

 ★ アマテラス規範語は、似非アマテラスが大きくし、さらに拡大解釈をもしていると思っております。
 ☆ その通りですよね。似非アマテラス――アマテラスもどき。
 アマテラス予備軍。
 アマアガリ症候群に罹った人たち。
 アマテラス語方言へと単独分立して行った場合。
 そして 超アマテラス=スーパーアマテラス(すなわち 神のようにいかなるものの下にも立つまいと誓って ガリ勉資本主義もしくはガリ勉国家主義に走る人びと)。

 話は逸れますが ユダヤ人の考え方として面白い解説を得ました。ちょっと 紹介してみます。
 ▲ (内田樹:私家版・ユダヤ文化論) ~~~~~~~~~~
 ユダヤ人は行動する自分を、見つめ 思考する自分をみつめるように呪われているとサルトルは書く。しかし この呪いは本来すべての人間にかけられたものではなかっただろうか。人間は端的に人間であるのではなく 他人からの承認を迂回してはじめて人間になる(《自己意識はただ承認されたものとしてのみ存在する》)と書いたのはヘーゲルではなかったか?

  ◆ (サルトル:ユダヤ人問題) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ユダヤ人はあらゆる種類の知識をむさぼるように吸収するが それを中立的な向学心と混同してはならない。というのは ユダヤ人は人間に関するあらゆる知識をかき集め 宇宙に対する人間的視座を獲得することによって 《人間》に 純粋な人間 普遍的な人間になろうとしてそうしているからだ。ユダヤ人が教養を身につけるのは 彼らのうちなるユダヤ人を破壊するためなのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 個別的・歴史的なエスニシティやナショナリティを脱ぎ捨てて 《端的に人間的であること》を目指すのは 諸国民のうちただユダヤ人だけである。だから ユダヤ人は《端的に人間的であろうとする》まさにそのみぶりによって 彼がユダヤ人であることを満天下に明らかにしてしまうのである。
  (pp.196-197)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ コスモポリタンという言葉もありましたが 面白い見方だと思います。でも 《日本人および人間》といったように或る種の仕方で 重層的であってよいでしょうか?

投稿日時 - 2010-02-28 22:58:45

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回答(51)

ANo.51

補足の補足は蛇足を承知の上でで再度。
絶対帰依は哲学でも使用されうる言葉かと言われると「う~ん」と唸るしかないのですが、「絶対服従」と言う言葉を避けました。
何故なら、「絶対服従」には「私」がありません。「滅私」です。
しかし、「絶対帰依」には希望、不安、歓喜などの「私」が存在します。その意味で使いました。仏教、イスラム等の宗教的観念は は一寸置いて下さい。
もし、余りに仏教的な言葉であるとのことならば
    ○ナウマク YHWH
でも良いかと思います。(此処にも仏教用語と思しきものが出ますが)
ヨブは確か嵐の中からの声に対して、頭をうな垂れ、言葉を発しなかったと思いますが(違っていたら御免なさい。)、これを
    “「沈黙」の帰依”
と捉えたと思っていました。
この不条理の読み物には若い頃から興味を持っていました。
神の懐の中に悪魔がいる?俺が天地創造の時にお前は立ち会ったのか?
等などです。
それで、このカテには目を通してはいましたが、投稿はしないと決めていたのですが、ついついbragelonneさんに乗せられてしまいました。
大変失礼致しました。

投稿日時 - 2010-03-06 10:46:19

補足

 1000827313 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ 絶対帰依は哲学でも使用されうる言葉かと言われると「う~ん」と唸るしかないのですが、「絶対服従」と言う言葉を避けました。
 ☆ あぁ そうですか。そうですね。信仰のことだとわたしも言っていますが これは 信仰のことを哲学として分析した場合にも使うだろうという意味でした。あいまいでしたかも知れません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 何故なら、「絶対服従」には「私」がありません。「滅私」です。しかし、「絶対帰依」には希望、不安、歓喜などの「私」が存在します。その意味で使いました。仏教、イスラム等の宗教的観念は は一寸置いて下さい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。用語を使い分けられたのですね。これでしたら よろしいのではないでしょうか。というのも いづれにしましてもまづ
 ★ 絶対
 ☆ が問題になると思うのです。その概念じたいの定義は 想定として もう泣いても笑っても相対を超えているのですから 人間の能力や努力の及ぶ余地はありません。ありませんがそれでも 人間が絶対〔の服従なり帰依なり〕をおこなうというのですから その場合には 実際問題として《想定としての概念そのままの絶対》ではないですね。《絶対的》というふうな言い方をして 曖昧さを添えておかねばならない用い方になるはずだと思うのです。
 すなわち指摘されているように
 ★ しかし、「絶対帰依」には希望、不安、歓喜などの「私」が存在します。その意味で使いました。
 ☆ と事割っておられるところです。ここで できましたらさらにその《わたし》という存在の介在にかんして《希望・不安・歓喜などの心的な要素》のほかに 《あいまいさ》をもつけ添えてもらえれば分かりやすくなるとも思いました。 

 ★ 仏教、イスラム等の宗教的観念は は一寸置いて下さい。
 ☆ これはそれでよいと思いますが その場合にも 《帰依》は 自分から人間の意志行為としておこなうのか それとも或る意味で向こうから(つまり絶対のほうから)さそいが来るのか という問いは残ると思います。

 そして
 ★  ○ ナウマク YHWH
 ☆ が来ますが どうなんでしょう? ヤハヱーについてはヨブの問題ですから 考えてまいりますが 《ナウマク》については《帰依》という意味のほかに 真言密教でしょうか 深い意味があるのでしたら それについてはわたしはまだ聞いていませんので なんともお応えのしようがありません。つまり 残念ながら分かりません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ヨブは確か嵐の中からの声に対して、頭をうな垂れ、言葉を発しなかったと思いますが(違っていたら御免なさい。)、これを
    “「沈黙」の帰依”
 と捉えたと思っていました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうですね。わたしの理解では――いきなりですが―― おっしゃるところの《“「沈黙」の帰依”》をヨブは その初めから持っていたのではないか。つまり 物ごころがついたときから すでに与えられていたのではないか? こう採っていますが どうでしょう?
 ◆ (ヨブ記 40:3-5) ~~~~~~~~~~~~~~~
 ヨブは主に答えて言った。
  ――わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などで
   きましょう。わたしはこの口に手を置きます。
    ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、
   もう繰り返しません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 試練に遭って その信仰がぐらついたのか どうだったのか。これについては いづれにしても――つまり どれだけぐらついたとしても――
 ▲ (α) 神ご自身がヨブから去りたまわなかった。
 ☆ と解釈しうるのだと思います。それどころか
 ▲ (β) 試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。
 ☆ という結果さえついて来ました。どうなんでしょう? おっしゃるところを咀嚼しますと つまり

投稿日時 - 2010-03-06 12:41:44

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この不条理の読み物には若い頃から興味を持っていました。

 神の懐の中に悪魔がいる? 俺が天地創造の時にお前は立ち会ったのか?
 等などです。

 それで、このカテには目を通してはいましたが、投稿はしないと決めていたのですが、ついついbragelonneさんに乗せられてしまいました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ などなどを拝読しますと およそ(α)や(β)の基本線で了解されているのかなぁと思うとともに どこか 1000827313 さんは独自に むつかしい側面のほうをくわしく読み解こうとされているのではないか? 

 つまり 試練の中身やら あるいは同じことで神と人間との絶対的な格差やら あるいはおっしゃるように《神の懐の中に悪魔がいる?》といった一見したところ矛盾する内容やら さらにはたぶん友人たちの議論もやはり一見するとさもありなんと思われる中身であるのにけっきょく通らなかった(ヨブに負けた)ことやら これらの《不条理》をむつかしく解釈される方面も見受けられる。このように感じました。

 そういう能天気のわたしの文章でも 1000827313 さんをお誘いできたのならばよかったと思いますが たぶん単純と複雑との違いではないかと考えます。はてさて どんなものでしょう?

投稿日時 - 2010-03-06 12:48:52

ANo.50

 こんばんは、どうも私的なものごとにまで、お聞きする次第となってしまい、申し訳ない限りでございます。

 ですが、bragelonne様も回復されたとお聞きしましたので、何よりでございます。もし、このOKWaveがなければ、そしてbragelonne様とお会いしなければ、愚生はどうなっているやら と思っている次第でございます。
 経験世界と非経験世界(非思考世界)との両世界に対するご考察につきまして、愚生をはるかに上回る鋭い洞察力をお持ち合わせた方はお目にかかったことがないものですから.......

 そして、愚生に対する励ましのお言葉、どうもありがとうございます。
 このご恩は、ゆきやま様にお返しできればと思っております。

 実を申しまして、眠狂四郎は、テレビの再放送で小学生の頃、印象深く見ただけでございます。従いまして、そのニヒリズムを漂わせた感覚というのは、愚生には理解できないでおりました。ただ、”円月殺法”だけはなぜか記憶に残っていた次第でございます。

> 質問も考えてまいります。

 期待させていただいている次第です。ゆきやま様も徐々にご回復され、質疑応答しあえる日を祈りつつ、今回のご返答へのお礼を申し上げたいと思います。
 どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2010-03-03 22:15:59

お礼

 ご返答をありがとうございます。

 円月殺法から竪琴に切り替えまして 例によって 詩歌をお贈りしたいと思います。

【Q: 「自分を閉じ」た事の有る方、集合!! 】その回答No.5です。
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4731792.html

 ☆ アポロンの生誕 ☆


 砂の海に
 立ち込めた
 陽炎が
 しなやかな身体を
 くゆらせ
 ボレロを舞い
 魔法使いの鏡の中で
 か細い腰を
 さらに細めながら
 昇天してゆき
 なおも激しく
 また登り始めたかと思うと
 異教の寺院で祈る娼婦のように
 長々と寝そべり
 半透明の捩じれを
 駄々をこねながらも
 あたり一面に散らして
 晴れ上げるとき

 虹色の南の風が立つとき

 一群れの鳥が
 はばたき始め
 次からその次へと
 一気に翔けのぼり
 うず高く浮かび上がり
 さらに翔けのぼり
 瀕死の陽炎を追いかけ
 ふたたび急降下し
 みたび舞い上がり
 チョコレート色の翼一杯に
 そよぐ風を浴びて
 砂の海を
 去ってゆく

 ひと群れの
 うずら
 初夏

 ・・・
 (つづく)

 * 季節も合わず かなり異教的ですが。

投稿日時 - 2010-03-03 23:06:14

ANo.49

 こんばんは、Hidocchiです。ご返答賜り、厚くお礼申しあげます。

> 日露戦争のときに日本国債を買ってくれたのは ユダヤ人資産家だったのだそうですね。

 かのロスチャイルドかと記憶しております。米国のロックフェラーと比較され、
”ロックフェラー 対 ロスチャイルド” の図式の陰謀論がもてはやされているうようでございます。

 確かに、かの戦争におきまして、最も利益を上げたのは、ロスチャイルドだったと言われております。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89%E5%AE%B6 からでございます)。

> あたらしい質問がなかなか思い浮かびません。

 今まで、これだけのご質問をなさって来られたのには、むしろ感嘆の念を禁じえません。全く驚かされるばかりでございます。

> ゆきやまくんは クリスチアニズム・ブディズムはもちろんですが グノーシス主義やカバラーなどなど相当詳しく世界の宗教について研究しているようです。対人関係で難儀しているようでもあります。

 愚生も、ゆきやま様のことが気になり、回答なるものを寄せさせていただいております。

 因みに、愚生も最近質問させていただいたことがございます(笑)。
 http://dell-support.okwave.jp/qa5687306.html

 おそらく、自分では、現実逃避のような気がしております(不思議がるのは、愚生だけでなく、親戚の者もそのようでございますが)。

 もし、ゆきやま様に対し、愚生におかしな発言が見られた場合、”注意”してくださいませ。何卒、よろしくお願い申し上げます。

投稿日時 - 2010-03-03 19:59:19

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ○ ジェイコブ・シフ
 ☆ この名前です。思い出しました。アメリカ人として記憶していましたが ロンドンのロスチャイルドとの縁があるのですね。
 ▲ (ヰキぺ:ロスチャイルド家) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 日本が日露戦争を行う際、膨大な戦費をまかなうため外貨建て国債を発行したが、日本の国力に疑問を持つ向きが多かった。そうした中で、ニューヨークの銀行家でユダヤ人のジェイコブ・シフが支援を申し出たため、外債募集に成功した。シフの働きはロンドンのロスチャイルド家の意向を受けてのものであった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ちなみに ワ゛チカンとつながりましたね。
 ▲ (ヰキぺ:同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 パリのロスチャイルドは、1870年に資金難にあえぐヴァティカンに資金援助を行うなどして取り入り、その後ロスチャイルド銀行は、ロスチャイルドの肝いりで設立されたヴァティカン銀行(正式名称は「宗教活動協会」、Instituto per le Opere di Religioni/IOR)の投資業務と資金管理を行う主力行となっている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 このあとご質問を拝見しました。
 知らないこととは言いながら――ちらっと お母様のことでご苦労されているとうかがったと思っていたのですが―― たいへんのんきに言葉をやり取りしていたものだなぁと我れながら はづかしいやらあきれるやら。・・・でもでも Hidocchi さんは しっかりと受け答えしていただいていましたので その点では じゅうぶん堂々と振る舞われているとお受けとめします。まづは 少しづつにでも もとの元気なおすがたになられることをこころに思います。

 思えばわたしもちょうど二千年とその前の年に母親と父親とを亡くしました。その前までは 小腸がんと脳内出血で闘病しておりましたので 突然ということはなかったのでした。そのあたりで それまで家に引きこもっていた妹が 統失ということで入院することになりました。家で介護も出来ないものですから。いまは 洗濯をやってやりお菓子を持って見舞いに行く程度で済んでいます。
 このOKWaveに参加した少し前までは 体調を崩して――全般に以前より弱ったというような格好です―― ほとんど本を読まず新聞もざっと読む程度で 日中だけは仕事の態勢でいました。この休養とそして納豆療法がよかったのでしょうか おかげさまで或る程度回復したという格好で推移してきています。
 妹は 極楽とんぼのようで あっけらかんとして おやつを食べています。特に不都合もないといった状態です。薬についてわたしも勉強しようと思って少しはしましたが だから医師に替えてくれとか減らしてくれと言えないのがつらいです。おとなしい状態は 薬のせいかも知れず 全然副作用がないというわけでもないようです。

 ゆきやま氏は わたしに就きすぎるといった状態がありましたので 少し話を控えている部分があります。Hidocchi さんなら よき話し相手になってくださると思っております。

 思えばまだ二十代のころ そしてまだアウグスティヌスにも出会っていなかったとき わたしがふと口に出してその後 Hidocchi さんにも触れていただいている眠狂四郎ですが この小説にも どこか避けどころを得たような感じを持ったことがありました。世の中が壁のように感じられたころです。たしかに 外国人宣教師と日本人とのあいだに生まれてきたということですから 生きるのにそれなりの苦悩があったということでしょう。柴錬は けっこうあったかいニヒリズムに仕上げたようです。

 Hidocchi さんもそうなのかも知れないのですが わたしは自分のことを話すのが あまり気が向きませんで この質疑応答もほんとは それこそゆきやまくんのように 堂々と私的・公的なことを書いてもわるいわけではないとも思っていますが どうなりますやら。

 質問も考えてまいります。

投稿日時 - 2010-03-03 21:27:56

ANo.48

 こんばんは。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。

> ☆ ということは 《A 市市民 / A′地域民 / 日本人 / アジア人 /・・・ 地球人》の重層的な文化や価値観をできるだけ身につけたような人物像でしょうか。

 またもや愚生の拙い文章で誤解を招いてしまい、誠に申し訳ございませんでした。
 別段、理想像を挙げている訳ではございません。ご記憶にあろうかとは存じますが、日本の稲作が、寒冷減少により不作となり、東南アジア等からコメを輸入したことがあったかと存じます。その際、”臭い”だのいろいろと言う人たちも多かったかと記憶してございます(減反政策の失策もあったのは、事実だったかとも考えております)。

 そこで、愚生が思うのですが、当地の人たちに対する偏見みたいなものがあったのかな とも考えております。こうした”お米”も当地の人たちにはかけがえのない食物であり、当地の人たちの味付け(料理方法)等では、おそらく美味しかったのではないかとも思っております。つまり、多少の文化は違えど、同じ人間であるという確信、そして互助の精神なるものがかような偏見を乗り越えて行ってほしいとの希望念からの発言でございます。

> ユダヤ人論については 追い追いうかがわせていただきます。

 今、ネットで発注してしまいました(笑)。ご参考になるご意見を申し上げることができればと願っております。

 ご一読いただきまして、厚くお礼申しあげます。

投稿日時 - 2010-03-02 20:21:14

お礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 早合点だったようですね。
 ★ つまり、多少の文化は違えど、同じ人間であるという確信、そして互助の精神なるものがかような偏見を乗り越えて行ってほしいとの希望念からの発言でございます。
 ☆ つまり 互いに差異の受容をこころがけること。になりましょうか。

 内田樹の本は 自分の考えとして問い求めている姿勢がよかったと思います。
 日露戦争のときに日本国債を買ってくれたのは ユダヤ人資産家だったのだそうですね。帝政ロシアでユダヤ人の粛清があったことより 日露戦争では 日本の側に援助をしたのだと。(アメリカの援助があったことは聞いていましたが)。

 ○ 木田元:なにもかも小林秀雄に教わった 2008
 ☆ によりますと ハイデガーは ナチス党員となったわけですが これは自分の思想で国家社会主義を引っ張って行ってやろうと思ってそうしたようだと言います。だから 戦後 言い訳も反省もしなかったのだと。その野望は ほどなくくじかれてしまったということで。

 あたらしい質問がなかなか思い浮かびません。

 ゆきやまくんは クリスチアニズム・ブディズムはもちろんですが グノーシス主義やカバラーなどなど相当詳しく世界の宗教について研究しているようです。対人関係で難儀しているようでもあります。

投稿日時 - 2010-03-02 20:48:06

ANo.47

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。

> 通俗的に言うとすると 切り替えが出来るかどうかでしょうか。――正直に申せば この場合わたしは 人間の志向性や努力をも 要因の一つに容れて考えていたかも知れません。今回は 思いつかなかったです。以前に そういうふうに捉えたことがあったかという記憶です。
 でも おっしゃるように・そしてわたしもずっと考えていましたが まづ《自由》という答えがあるのがふつうだと思いますから。

仰いますように、ひとの”自由(意思)”はその根底にあるものと解してございます。

> そして 超アマテラス=スーパーアマテラス(すなわち 神のようにいかなるものの下にも立つまいと誓って ガリ勉資本主義もしくはガリ勉国家主義に走る人びと)。

 もはやどうしようもない方たちなのでしょうが、もしかしますと、国民が第一次・二次護憲運動のような勇気をもてば、違った国にもなろうかと考えております。

(第一次・第二次護憲運動:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E3%83%87%E3%83%A2%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC  からでございます。) 

> 話は逸れますが ユダヤ人の考え方として面白い解説を得ました。ちょっと 紹介してみます。
 ▲ (内田樹:私家版・ユダヤ文化論) ~~~~~~~~~~
 ユダヤ人は行動する自分を、見つめ 思考する自分をみつめるように呪われているとサルトルは書く。しかし この呪いは本来すべての人間にかけられたものではなかっただろうか。人間は端的に人間であるのではなく 他人からの承認を迂回してはじめて人間になる(《自己意識はただ承認されたものとしてのみ存在する》)と書いたのはヘーゲルではなかったか?

 独特な(固有な)発想形式をもっているのですね。ナチス時代にユダヤ人が迫害されたのは事実でございますが、ヒトラーはじめNo.2のヒムラーも大虐殺には賛同しなかったとされています(下記ウェブをご参照くださいませ)。おそらく、ひととの関係の取り方が(もちろんビジネスでの商売のうまさも含まれると思われますが)、ユダヤ人に対するルサンチマンのため、当時のドイツ人には、存在が許されなかったのかもしれません。

(アイヒマンの実績は注目され、1944年には計画の捗らないハンガリーに派遣される。彼は直ちにユダヤ人の移送に着手し、40万人ものユダヤ系ハンガリー人を列車輸送してアウシュヴィッツのガス室に送った。1945年にドイツの敗色が濃くなると、親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーはユダヤ人虐殺の停止を命令したが、アイヒマンはそれに従わずハンガリーで任務を続けた。彼は更に武装親衛隊の予備役として委任させられていたため、戦闘命令を回避するために自らの任務を継続していた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%9E%E3%83%B3  からでございます)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 実に面白い推察かと思われます(買って、読んでみたいと思います。)。

> ☆ コスモポリタンという言葉もありましたが 面白い見方だと思います。でも 《日本人および人間》といったように或る種の仕方で 重層的であってよいでしょうか?
 均一化・グローバリズムには賛同致しかねます。ですが、各”国”、各”市(or 地域) ”との連絡、交通網を普及させ、しかし、お互いの価値観(発展途上とみなされている国々もあろうかと考えられますが、かれらの文化等からも、日本は学ぶべきことが多いと考えております)を尊重し、EUがある程度日の目を見たように、(例えば、アジア内等)のような大きな枠組みで、歩み寄っていく必要があろうかと考えてはおります。
 市民が選んだ政治家(当然、選ばれた以上は権利と責任を担うことになります)と、一般市民との間の”階層化”という点につきましては、幾分議論があろうかと察せられますが(国家の予算等を決める権限を国民自信が付与しているからでございます)、これ以外(国民と政治家との階層以外)は必要性はみられないかと考えております。現在必要なのは、真に有能な(ガリベン君とは異なります)リーダーを選び、そして、そのリーダーが、優秀なテクノクラートに対して、方向性を示しつつ、指導力を発揮していくことが望まれているのではないかと そう考えている次第でございます。

 駄文、ご一読いただきまして、厚くお礼申しあげます。

投稿日時 - 2010-03-01 20:38:42

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ (第一次・第二次護憲運動:
 ▲ (ヰキぺ:大正デモクラシー) ~~~~~~~~~~~
 ・後世の評価
 大正デモクラシーは戦後民主主義を形成する遺産として大きな意味を持ったと指摘する論者もライシャワーをはじめ数多い。また、石橋湛山は自著『大正時代の真評価』において大正時代を「デモクラシーの発展史上特筆大書すべき新時期」と評価している。

 一方で、この思想を基本とする保守派知識人達は戦後世代から「オールドリベラリスト」と呼ばれる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 戦後になって 民主主義の世の中であるのに 必ずしもこの第一次・第二次の護憲運動のような民主政要求がどこか弱かったのは 治安維持法の後遺症のようなものがはたらいたのでしょうか? 
 というのも 天皇制と資本主義体制に対して批判めいたことを言おうものなら まるで条件反射のごとく大方の周りの人びとは 眉をしかめにらみつけるという振る舞いに及んだように思います。
 それといわゆる学生運動ですが――見聞きしたのは六十年代後半でしたが―― どうも現実味がなかったのでした。理論追究に徹するのならそれはそれでよいのですが どうも目の前の問題に対して反対を叫ぶだけであるように感じていました。二次にわたる護憲運動をいま聞くにつけ どうも足が地についていない感じを受けていたことを思い出しました。
 ま これからとまいりましょうか。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ですが、各”国”、各”市(or 地域) ”との連絡、交通網を普及させ、しかし、お互いの価値観(発展途上とみなされている国々もあろうかと考えられますが、かれらの文化等からも、日本は学ぶべきことが多いと考えております)を尊重し、EUがある程度日の目を見たように、(例えば、アジア内等)のような大きな枠組みで、歩み寄っていく必要があろうかと考えてはおります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということは 《A 市市民 / A′地域民 / 日本人 / アジア人 /・・・ 地球人》の重層的な文化や価値観をできるだけ身につけたような人物像でしょうか。

 共同自治として 指導者と行政補佐(テクノクラート)そして一般市民との協力関係が大事で どのようにうまく働かせるかで決まってくるでしょうね。

 ユダヤ人論については 追い追いうかがわせていただきます。

投稿日時 - 2010-03-01 22:10:39

ANo.45

 こんばんは、ご意見いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> ☆ この問いを裏返して言えば 《神は何でも出来て 救いを求めている者をすべて救う》ということになるでしょうか? 
端的に言って この問いもしくはその裏が その概念内容として 《神》ではないからだと思います。 
《神が わたしを救った》と言っても それがほんとうに神であるかどうかは分からないからです。
 《神は死の苦しみを味わっているわたしを救わない》も それがほんとうに神について語っているかどうかが わたしたち人間には分からないと思います。

神がいるのであれば、どうして虐待に苦しむ子供たちを神は救わないのか?
→ 「神がいるのであれば、虐待に苦しむ子供たちは救われる。」を言っているものと察せられます。そこで、
命題:「神がいるのであれば、虐待に苦しむ子供たちは救われる。」 の対偶をとりますと、
「虐待に苦しむ子供たちは救われないのならば、神がいない」 となろうかと考えられます。
前者の ”「虐待に苦しむ子供たち」は救われない”という文言の曖昧性を、突いておられるのですね。改めて、ご賛同させていただきます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

>  神にヨブのように文句を言うこと(それは 自由でありゆるされていると思われる:以下のマルコ伝からでしょうか?)と神に願いを言うこととは 別なのだろうか?

 ▲ (ヨハネによる福音書14:16) ▲ (ヨハネによる福音書14:12-14)
 ☆  《もっと大きな業を行うようになる》というのは その人間が出来るようになるという《大きなわざ》も キリスト・イエスつまり神の意志と力によって成すことができるようになるわけです。キリストとは別様にではないわけです。 
そういう意味でも考えてみるかぎりでは 《イエス・キリストの名によってキリスト・イエスに何かを願うならば 神がかなえてくれる》となるはずです。
 これで ひとつの条件が明らかになり イワンの疑いには答えているかも分かりません。神が 何でもせっせと神のほうからやってくれて救ってくれるというものでもないのかも知れません。

 筋のとおった論理展開には、いつもながら驚かされます。
愚性も、ひとには、たとえば、「これも試練だ!」と思い、踏ん張る方もおられるでしょうから。これは全くもって”自由”かと考えております。

参考
マルコによる福音書 3章28から39節
まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
 朝まで生テレビを見ましたが、”コンプライアンス”の問題も含め(以前にご紹介させていただきました 郷原信郎著「思考停止社会」もこのコンプライアンスには反対でした。ちなみに愚生もでございます。コンプライアンス=黄門様の印龍となってしまい、それを守ることだけ:自己目的化されかねないからでございます。)、後の世代の方々にも、喜び・楽しみを分かち合えるような社会を形成する必要性を、考えさせられました。

 ご意見賜りまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2010-02-27 19:39:47

補足

 Hidocchi さん 褒めていただき賛同いただきましたが 何ともお恥づかしいです。
 以前でしたら・つまり少し前でしたら 《えこひいき》で説明していたところです。
 ――まづは ご回答をありがとうございます。こんばんは。

 《虐待》は まだ社会的な問題として対処する余地があるかも知れません。ですから 人間の知恵と努力とで何とかしようとする部分もあると考えます。
 でも 生まれつきの病いについてはどうかと思います。つまり なかなか分からないところがあります。神の栄光が現われるためですとか説明があるかも知れませんが その合理性としての理解には 困難をきわめるように思います。Hidocchi さんもすべて分かっておられて この主題を出されたのだとも思います。

 問い求めを 共有することができる。こういう説明つまりその実践が思い浮かぶにとどまっています。
 ★ 愚性も、ひとには、たとえば、「これも試練だ!」と思い、踏ん張る方もおられるでしょうから。これは全くもって”自由”かと考えております。
 ☆ この試練は ヨブと同じようにだとわたしも思います。
  《もっと大きな業を行うようになる》にも希望を持ちたいと思います。

 ★ 朝まで生テレビを見ましたが、”コンプライアンス”の問題
 ☆ 録画しまして いまの時点で半分ほどを見ました。《コンプライアンス》は出て来ました。
 これを《アマテラス語》の問題と受けとめました。
 ほかの人の質問で このアマテラス規範語は 枡にあふれる米を掻き棒でそぎ落とすかのように 四角四面の枠に人を嵌め込むと捉えて投稿しました。
 ★ コンプライアンス=黄門様の印龍となってしまい、それを守ることだけ:自己目的化されかねないからでございます。
 ☆ 黄門さまの印籠は お墨付きの問題であるでしょうし アマテラス規範語ないしアマテラス公民のやはり《無謬性》の問題にもかかわっているように思います。
 また《文字は殺し 霊は生かす》を薄めた内容として 広く経験事象についても当てはめることができるとも考えます。文字なるアマテラス科学語は 最終の根拠ではなく 最終の根拠は霊なる無根拠であると。なぞであると。
 そして この神へのコンプライアンスは われわれ人間にとってむつかしいと来ています。甘えてもいけないでしょうし もはや甘えるくらいに――エポケーをも経つつ――甘えきったかたちになるほかないようにも思えますし。
 ▲ わたしは世間に対して 世間はわたしに対して はりつけになっています。
 ☆ とパウロは言います。このわび・さびの地点も 大事なように思います。つつしみまして。

投稿日時 - 2010-02-27 21:33:26

ANo.44

こんばんは、bragelonneさん。

 いまわたしに思い浮かんだのは 
 ○ 能天気
 ○ 聖なる甘え
 ☆ このふたつです。

もう一つ加えさせて頂きます。
 
 ○絶対帰依

余計な一言だったら申し訳ありません。

投稿日時 - 2010-02-27 17:24:38

お礼

 1000827313 さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 《余計》ではなく 《直計 あるいは 中核計》でしょうね。

  ○ 絶対帰依

 ☆ ブディズムだけではなく イスラームがそうでしょうし しかも信仰一般は そういうことなのでしょうね。
 どうですかねぇ。というのもわたしは
 ☆☆ これを哲学のことばで表わして欲しい。
 ☆ というのが 今回のねらいだからです。
 ただし 帰依も絶対も 哲学のことばとして通らないわけではないですね。
 たぶんそのときには 《では その帰依は 自分からみづからの意志と努力とで達成するものか?》という問い返しが来るでしょうね。
 《絶対》とついているから その《絶対》のほうから ちからがはたらいて われわれをして帰依せしむると捉えてよいのか?

 この《絶対》からの働きかけ――あるいは こころの窓のノック――は いつ来るのか?
 来るまでは どうするのか?
 来たとき 帰依するとは はたしてどうすればよいのか?

 そういったことも 知りたいところでしょうね。
 どうでしょう? こんなふうに思いました。

投稿日時 - 2010-02-27 18:55:30

ANo.43

 こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。Hidocchiです。

> 神のみこころに誤って触れると分かったときには そうですね まづむろん《預言=解釈》という姿勢は外します。
さらに もし社会的な施策などとして一応妥当なものであればただちに いくつかある選択肢のひとつとして社会思想の問題に切り替えます。あぁ ずるい!!

 因みに、愚性もそう致します(笑)。

> 軌道修正と言いますか 今頃 開放系に切り替えております。

 承知いたしました。

> いづれにしましても かのなぞのちからが《成長させてくれます》から その下にすすんで行きたいと思います。いろいろ 突っ込んでくださいませ。

 お言葉に甘えまして、以下のご質問をさせていただきました。

質問 http://okwave.jp/qa/q5514795.html からでございます。
(3)との関連なのですが、ドストエフスキーの言う「神がいるのであれば、どうして虐待に苦しむ子供たちを神は救わないのか?」(「カラマーゾフの兄弟」からの無神論者イワンの言葉でございます)

 この「神は救わない」という理由等をお持ちでいらっしゃるでしょうか。

 ご返答のほど、頂戴できれば、幸甚に存じます。

投稿日時 - 2010-02-26 22:18:21

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ええっと 神義論ですよね。

 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  (3)ドストエフスキーの言う「神がいなければ全てゆるされる」という言葉の意味が理解できません。「神がいない」という考え方の方が、「神がいるから何でも許してもらえる」と思えてなりません。「何でもあり」という感じに受け取れます。違うのでしょうか?「いなければ」という日本語も少し怪しいですが…「神がいるから許されない」という意味ですか?
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (3)との関連なのですが、ドストエフスキーの言う「神がいるのであれば、どうして虐待に苦しむ子供たちを神は救わないのか?」(「カラマーゾフの兄弟」からの無神論者イワンの言葉でございます)

 この「神は救わない」という理由等をお持ちでいらっしゃるでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この問いを裏返して言えば 《神は何でも出来て 救いを求めている者をすべて救う》ということになるでしょうか?
 端的に言って この問いもしくはその裏が その概念内容として 《神》ではないからだと思います。
 《神が わたしを救った》と言っても それがほんとうに神であるかどうかは分からないからです。
 《神は死の苦しみを味わっているわたしを救わない》も それがほんとうに神について語っているかどうかが わたしたち人間には分からないと思います。

 でも――つまりそうであるとした場合 そうであるとしても・または そうであるにもかかわらず―― キリスト・イエスは 何でもわたしに願いなさいと言っているではないか? すべてかなえてあげようと。
 つまり:
 ▲ (マタイによる福音書18:19) ~~~~~~~~~~~
 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
 ▲ (ヨハネによる福音書15:7) ~~~~~~~~~~~ 
 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いくらか条件もついているようですが それはそれとして この《願いとそれが叶えられること》は それでは《神》の意志あるいは力と違うのか? つまりこれも ただの喩えなのだろうか?

 神にヨブのように文句を言うこと(それは 自由でありゆるされていると思われる)と神に願いを言うこととは 別なのだろうか?


 ▲ (ヨハネによる福音書14:16) わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者(* すなわち聖霊なる神)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
 ☆ ということは 信じる者に確実に実現するとは思っています。
 さらにヨハネで:
 ▲ (ヨハネによる福音書14:12-14) ~~~~~~~~
 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。
 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。
 わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆  《もっと大きな業を行うようになる》というのは その人間が出来るようになるという《大きなわざ》も キリスト・イエスつまり神の意志と力によって成すことができるようになるわけです。キリストとは別様にではないわけです。
 そういう意味でも考えてみるかぎりでは 《イエス・キリストの名によってキリスト・イエスに何かを願うならば 神がかなえてくれる》となるはずです。
 これで ひとつの条件が明らかになり イワンの疑いには答えているかも分かりません。神が 何でもせっせと神のほうからやってくれて救ってくれるというものでもないのかも知れません。

 そうですね。ここまででしょうか わたしのちからは。

投稿日時 - 2010-02-27 00:18:53

ANo.42

 こんばんは、ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。Hidocchiです。

> ☆ なるほど。おっしゃるとおりだと納得しました。それでこそ科学ですよね

  ご同意くださり、誠にありがとうございます。

> ★ ナチスとの協力
 ☆ これは やはり映画で『枢機卿』というのを見ました。これは アメリカ人で枢機卿になるという人の話でした。かれは オーストリアの司祭が ナチスに協力的であるので 諫めに行っていました。そういう側面もあったのだと思いますが 微妙ですね。日本の仏教界と言い。

 少し話が変わってしまいますが、 ”宗教法人“ and ”売買“でGoogle検索してみますと、多数ヒットしてきます。確かに「信教の自由」は認められるべきでしょうけれど、日本の”宗教法人法“には、メスを入れる必要があるのでは? と考えさせられます。

> ○ 第二の死
 ☆ 大きな議論になりましたね。黙示録は すいぶん久しぶりな感じがします。
 まづ アウグスティヌスは 《予定説》ではなく《予知説》だと思います。人間がその自由意志で行為すること 一人ひとりの人間がそれぞれ簡単に言って善と善でないことの二つの方面での意志行為をなすこと これを神は予知しているというものだと考えます。

 《予知説》なのですね。ご教示いただきまして、どうもありがとうございます。

> いま敢えてアウグスティヌスらの解説を見ずに考えますと 
1. 第二の死は 第一の死 これが死ななくなると聞いています。
2. だとすると 第二の死に落ち入ったひとは いい加減長く生きていて 死にたくても死ねない状態にあると捉えられます。
3. こころは熱く燃えるが からだは冷えている。もしくは その逆の身と心の状態に落ち入りつづけている。
4. 永遠の火の中にある。と言うのは 想像しがたいので わたしは 《深い谷を まっさかさまに落ちて行きつづける状態。一万年のあいだ。しかも 意識が失われることがないという》と捉えたことがあります。
Hidocchi さんとの違いをわざと出すとしますと まづ《地獄》も第二の死も その当人の問題だと わたしの場合 捉えていることです。地獄の状態にいたいと言うのであれば そのまま放っておきます。

 つまり、「来るものは拒まず、(第二の死へと)去るものは追わず」というところでしょうか。 “確かにそちらの方が快適だ!”と思う人もおられるでしょうから。愚生にも十分頷けるところがございます。この現実世界には“エントロピー増大の法則”なるものが存在します。つまり、全ての事象とは乱雑な方向に進んでいくというものです。この方向性に自然と進んでいくひとも確かに否定はできないように考えられます。
(“レポートエントロピー増大の法則” からでございます)

 一方、以下のような説も立てられました。確かに“負のエントロピー”自体はその存在は否定されておりますが、ひとにはエントロピー増大とは”逆方向の意志”は存在しているものと解しております。(例えば、若いときのように、ハリのある肌でいたい。それには、コラーゲンの入った食事と適度な運動をする 等でございます)

 生物学にけるエントロピー
「シュレーディンガーは、生命をネゲントロピー(負のエントロピー)を取り入れエントロピーの増大を相殺することで定常状態を保持している開放定常系とした。負のエントロピー自体は後に否定されたが、非平衡系の学問の発展に寄与した。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%94%E3%83%BC#.E7.94.9F.E7.89.A9.E5.AD.A6.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E3.82.A8.E3.83.B3.E3.83.88.E3.83.AD.E3.83.94.E3.83.BC からでございます。)
 
> もっとも パウロは あたかも人間が裁定する場合があるということをにおわせてもいます。まづ大前提を述べます。
▲ (コリント前書3:6-7) ~~~~~~~~~~~~~~
わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そのあと次のように 自分の務めないし役割について触れています。
▲ (同上4:1-29) ~~~~~~~~~~~~~~~~
こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計をゆだねられた管理者と考えるべきです。
この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
確かに、初めて愚生がパウロのこの文章を読んだ際には、ある意味衝撃を受けました。普通は謙虚なのに、ここでは、言ってのけているからでございます。パウロ=神の啓示を受けたもの との考えから、コリント人への自省を促すために敢えてかような発言をしたものと解しておりました。ですが、bragelonne様のような解釈も十分、検討の価値があろうかと思われます。“ひとたるものも、軽視すべきものではない”このことは、断定できようかと考えております(どこに預言者がいるかわかりませんから)。

> 道が広がればいいのですが こればっかりは またまた崖っぷちの議論になった模様です。このわたくしの大胆ぶりは どうしたものでしょう? (この《4:1-2》の内容について 考えがあるという意味ではありません。何もありません。ひとえに 《預言=解釈》が一般的に ありうるのではないか。つまり 明らかにしていただいたように 第二の死についてのそういう意味での預言もありなのではないか。こういう思いです)。

 まさしく、“円月殺法”を受け(!?)ました。bragelonne様の凄まじく深い“思弁的”解釈には、恐れ入ります。“崖っぷちの議論”とのご感想でございますが、いえいえ、案外中道を行っている可能性も否定できなものと解しております。

 駄文、ご一読賜り、厚くお礼申し上げます。

投稿日時 - 2010-02-25 19:36:01

補足

 Hidocchi さん こんばんは。またわたしが出しゃばってしまったようで もう少しきちんと用意してものごとは言い出すのがよいのかも知れません。ご回答をありがとうございます。

 ただ いまは試行錯誤だと思っております。そうしてわたしの心つもりは 簡単に現代人にとって分かりやすく説明できて 信仰と矛盾しないのならば よいかなという単純なものではあります。またそういった主題や課題を ここでも質問してきているかと思います。
 神のみこころに誤って触れると分かったときには そうですね まづむろん《預言=解釈》という姿勢は外します。さらに もし社会的な施策などとして一応妥当なものであればただちに いくつかある選択肢のひとつとして社会思想の問題に切り替えます。あぁ ずるい!!

 ★ ”宗教法人“ and ”売買“
 ☆ なるほど 税制では優遇されていますからね。もっとも 営利事業とはっきり分かるものであれば 宗教関係の非営利事業とは分けて 税率など一般と同じ条件で課税されますけれど。

 ○ 第二の死
 ☆ けっきょく 《関係の絶対性》に例外は出ないという線も 可能性を残しておきたいとも思います。
 ということは どうも特定の二人なら二人のあいだで どういうコミュニケーションが行なわれて来たのか その内容に即して 相手の態度や思想を 《第二の死》に関係づけて捉えることもありうるとも言えるし いやそれは 或る種の仕方で一過性のことなのかも知れない。――このように いまだに流動的な見方のもとにあります。
 ★(要約) 生物学におけるエントロピー:片やエントロピーの増大の法則の側面と 片や非平衡系の学問の発展の側面と。
 ☆ 散逸構造とか 非線形とかでしょうか? 昔エントロピーという話を聞いたときには あぁ もう未来は呪われているのかと思ってしまったものでした。新しい発見もあるのですね。

 ★ まさしく、“円月殺法”を受け(!?)ました。
 ☆ これについては最初に思いを述べました。けっきょく こういう方面でいろいろ考えていましたので いわゆる哲学史ですとか 思想をめぐってその思想家の生きた時代やその社会情況などなどについての勉強をおろそかにしていました。ただただ そういう事情で来ているというだけのことで 一般から見れば特殊であったかなと いまごろ思っております。
 軌道修正と言いますか 今頃 開放系に切り替えております。

 いづれにしましても かのなぞのちからが《成長させてくれます》から その下にすすんで行きたいと思います。いろいろ 突っ込んでくださいませ。

投稿日時 - 2010-02-25 21:48:07

ANo.41

 こちらこそ、いつもありがとうございます。Hidocchiです。

> どうも今回は Hidocchi さんとのやり取りにおいては どこか主題としては崖っぷちをわたしがすすんで歩いているというような情況だったように思います。
 崖っぷちの情況を見て〔あるいは 崖っぷちから一般の情況を見て〕有益なことがあるかも知れないけれど 非思考は非思考で 経験思考は経験思考だという区別を確認しただけのようにも思われます。
 申し訳ございませんでした。“非思考”領域と“経験世界”領域との区別だけだったかと思われます。

> ニーチェもおおむね賛成していただきました。

 はい、意見を等しくさせていただきます。

> 科学的な検証の問題 冷静な検証の必要性――考えてみれば とうぜんのことのようですが たしかにわたしも朝まで生テレビでの討論では ちょっと悪くみれば政治家のごとく自説を主張するような傾向も見られて 科学者を見る目が変わるのではないかとやや思ったところもありました。でも事実等で決着はつくのですよね。

 仰られますように、政策等に関与する事柄につきましては、得られた事実を、科学者はきっちりと説明をし、誤解がないように注意を払い、また、予想の域を出ないものにつきましては、その旨を自説とともに(また自説とは区別しながら)述べていくという姿勢をつらいぬいていけば、お互いの溝は自然となくなっていくものかと期待しております。

> 預言は 解釈であると前提しても たしかに組織の中などであればあやういことになるとは思います。まだまだ 警戒しなければならない部分があるかに思われます。

・ゴッドファーザー III での、ワ゛チカンあるいは枢機卿なり司祭なりとの闇取引
・ワ゛チカンの資金は マネーロンダリングを通じたもの(もしくは マフィアがワ゛チカンの銀行に預けることで マネーロンダリングが完結するというもの)

 はい、愚生もこの映画を見ました。なぜ、I, そしてIIと傑作が続いた中、数年もの間隔を空け、続編を出したのかは当初は不明でございました。おそらく、コッポラ自信も伝えたいことがあったやもしれません。さらには、いかのような説も流布しているようでございます。

・ヨハネ・パウロII世の前任であった、ヨハネ・パウロI世が在位期間が僅か33日間しかなかったのは、映画の通り“暗殺であった”という説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AD1%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87) からでございます。)

・少し話が異なるのですが、前の大戦時にはナチスとの協力体制にあったという説(これは、地勢的な点からしますと、止むを得ないことだったかと思われますが)
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa289776.html からでございます。)

> どうも《甘え》という主題があるので うまく議論や何やかやが回転しないのでしょうかねぇ。もうしばらく開いていて 締めることとします。

 これは、愚生の能力不足に起因するものかと反省しております。以下にこの点につきましては、幾つか愚見をのべたいと思います。

> 《第二の死》論についても まだはっきりしません。むしろはっきりと人間が裁いてはいけないものであるようですし。でも しかも ではなぜこの命題が仮想的にでも出されたのか。これもなぞであるように思います。

 以下、愚見を述べさせていただきます。
第二の死につきまして
「死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。」ヨハネの黙示録20章14節(共同訳)
さらに、10節では、その内容の詳細を述べているように察せらます。
「そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる」(共同訳)

 つまり、第二の死=永遠の生き地獄といったところでしょうか。もし、単に当時の迫害をうけていたキリスト教徒のルサンチマンのみならば、“永遠の死”の方がいいと思われます(万が一、復活してもらっては困りますので。もしかしますと、この復活を阻止させたいがためのものだったのでしょうか?)。アウグスティヌスは元来“予定説”には立たないと解されてはおりますのが、愚生が知る限りにおきましては、“予定説”的な傾向がみられるようにも見受けられます。選ばれし者と、そうでないものとの決定的な(白黒が明確な)違いを説きたかったのかもしれません(愚見でございます)。いかがでしょうか?
 ですが、この決定権はひとにはないように察せられます(単純に、ひとには悪魔を投げ込むだけの能力は、通常持ち合わせていないと考えられるからでございます)。

 以上、ご叱責を覚悟の上、まとめさせていただきますと、

 ひとは幸か不幸か、“地獄がなくてはいきていけない”。そしてさらに、”一番の苦痛は、永遠にいき続けなくてはならないこと”かと考えております。

 前者におきましては、人間関係をしていく中で、全てのひとがもし万人を愛することができれば問題はないと思われます(もしこの場合ですと、“第二の死”は必要ないかと考えられます)。ですが、必ずしも、そういう訳ではないというのが実情かと思われます。憎しみや嫉み等の“負の感情”をも、残念ながら持ち合わせながら、日々生きているものと思われます。もし、かような状況ならば、(非常にせせこましい考え方ではございますが)そのような嫌な人たちが地獄にいってくれればいい。そしてもう二度と顔を合わせるのはごめんだ、という人たちもいようかと察せられます。また、現実に殺傷行為を行う人は別としまして、実行に移す人は通常はいないと思うのです。かような(精神的)状況下では、“地獄の存在(陥れることが可能という意味でございます)”はその人たちにとっては、希望なのかと思っております。
 一方、後者につきましては、自分の孫、ひ孫の死を看取りながらいき続けていくこと、さらには上記のような、会うのも苦痛な人たちと顔を合わせていき続けなくてはならないこと 等から考えますと、やはり、この現世での永遠の命は苦痛かと思っております。

 以上まとめますと、“殺す”という手段を持ち得ない人たちにとりましては、この“第二の死”がなくては、生きていけないものと考えております。なにしろ最後の希望なのですから。

 駄文、ご一読いただきまし、誠にありがとうございました。

投稿日時 - 2010-02-24 19:07:06

補足

  Hidocchi さん こんばんは。議論が再開した感がありますね。ご回答をありがとうございます。

 ★ 政策等に関与する事柄につきましては、得られた事実を、科学者はきっちりと説明をし、誤解がないように注意を払い、また、予想の域を出ないものにつきましては、その旨を自説とともに(また自説とは区別しながら)述べていくという姿勢をつらぬいていけば、お互いの溝は自然となくなっていくものかと期待しております。
 ☆ なるほど。おっしゃるとおりだと納得しました。それでこそ科学ですよね。

 ★ ヨハネ・パウロ I 世 / マフィア / フリーメイソン / ワ゛チカン銀行の総裁などなど
 ☆ ヰキぺを見ればよかったですね。ありがとうございます。ここまで分かっているとなれば 相当汚いようですね。

 ★ ナチスとの協力
 ☆ これは やはり映画で『枢機卿』というのを見ました。これは アメリカ人で枢機卿になるという人の話でした。かれは オーストリアの司祭が ナチスに協力的であるので 諫めに行っていました。そういう側面もあったのだと思いますが 微妙ですね。日本の仏教界と言い。

 ○ 第二の死
 ☆ 大きな議論になりましたね。黙示録は すいぶん久しぶりな感じがします。
 まづ アウグスティヌスは 《予定説》ではなく《予知説》だと思います。人間がその自由意志で行為すること 一人ひとりの人間がそれぞれ簡単に言って善と善でないことの二つの方面での意志行為をなすこと これを神は予知しているというものだと考えます。
 
 いま敢えてアウグスティヌスらの解説を見ずに考えますと 
 1. 第二の死は 第一の――人間にとってふつうに朽ちて行くという――死 これが死ななくなると聞いています。
 2. だとすると 第二の死に落ち入ったひとは いい加減長く生きていて 死にたくても死ねない状態にあると捉えられます。
 3. こころは熱く燃えるが からだは冷えている。もしくは その逆の身と心の状態に落ち入りつづけている。
 4. 永遠の火の中にある。と言うのは 想像しがたいので わたしは 《深い谷を まっさかさまに落ちて行きつづける状態。一万年のあいだ。しかも 意識が失われることがないという》と捉えたことがあります。

 ☆ Hidocchi さんとの違いをわざと出すとしますと まづ《地獄》も第二の死も その当人の問題だと わたしの場合 捉えていることです。地獄の状態にいたいと言うのであれば そのまま放っておきます。
 第二の死に到ることを欲しているのであれば やはり放っておきます。
 ということは 《関係の絶対性》の例外が出来たということではないかとも考えます。でも これは おっしゃるように わたしでは裁定することができません。
 もっとも パウロは あたかも人間が裁定する場合があるということをにおわせてもいます。まづ大前提を述べます。
 ▲ (コリント前書3:6-7) ~~~~~~~~~~~~~~
 わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。
 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そのあと次のように 自分の務めないし役割について触れています。
 ▲ (同上4:1-29) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。
 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 道が広がればいいのですが こればっかりは またまた崖っぷちの議論になった模様です。このわたくしの大胆ぶりは どうしたものでしょう? (この《4:1-2》の内容について 考えがあるという意味ではありません。何もありません。ひとえに 《預言=解釈》が一般的に ありうるのではないか。つまり 明らかにしていただいたように 第二の死についてのそういう意味での預言もありなのではないか。こういう思いです)。

投稿日時 - 2010-02-24 21:32:42

ANo.40

 こんばんは、Hidocchiです。ご返答頂戴し、厚くお礼申し上げます。

> なるほど。お名前は ほほえましいですね。根掘り葉掘りですみませんでした

 誠に、恐縮でございます。

> 今回ふと思ったのですが どうも Hidocchi さんは 預言ないし解釈ということに警戒心を抱いておられる。これはどうしてか? を考えたのですが これは 逆にわたしのほうには 次の大前提があって それゆえ警戒心が薄いのではないかと思ったのですが どうでしょう?
 つまり
 ○ 文字は殺し 霊は生かす。
 ○ この大前提を置いているなら この世界の現象のすべては 神からの手紙である。と捉えてもよいのではないか?
 つまり 《検証可能なことがら》についても この大前提とその上での《神からの書簡説》のもとに ときとして 非思考のなぞに関連づけて捉え考えようとする場合が――けっきょく 稀にですが――ありました。

 おそらく、愚生が神経質になりすぎているものかと思っております。大学という特殊な機関で働いているというのもその一要因かと思っております。従いまして、愚生の方が神経質すぎ、bragelonne様の方が一般的かと思われます。
 例えば、No.36ご回答者様の般若心経の呪文(羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶:Gate Gate Paragate Para Samgate Bodhi Svaha)でございますが、「近代日本の仏教学者までが、漢文で偉そうに書かれたものは尊く、われわれのことばで書かれたものは賤しいというべき驚くべき権威至上主義とりつかれていたように見受けられる」(中村元訳注「般若心経・金剛般若経」p.182 からでございます。)、この意見にも、賛同したいかと考えております。

訳注(ご参考まで)
・gate:文法的には行ったという過去完了、転じて(乗り越えて)行け、の意味
・para: 向こう岸
・sam:強調の意味
・bodhi:知恵(女性名詞)
・svaha: 幸いなれなどの意味を持つ感嘆詞

> なるほど ベレルマン論文の審査のように 落ち着いて広く専門家らが集まって たとえばこの《温暖化派と寒冷化派との議論》も検証するようにしていけばよいものをということのようですね。

 はい、愚生はかように考えております。敢えて、アドレスは省略させていただきますが(個人様のブログですので)、結構荒れております。知識人(専門家)達にも、その責任があろうかとも考えております。元来ならば、国民に冷静さを求めるべきなのでしょうが、むしろエスカレートさせているようにも見受けられるからでございます。

 わたくしが具体的に 預言=解釈するというのは たとえばあまがっぱさんとのやり取りで 次の主題について考える場合を言います。

☆☆(No.26補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
第二の死については 問い求め中でいます。
自由意志を使い果たした末の究極の悪という状態 この蝉の抜け殻も 死が死なないとは言え 人間という存在でありつづけると言えるのか? 言えるとしたら 死ななくなった死も死なしめられ得るか? 復活は――むろんこれは今 現実世界におけるそれを扱おうとしていますが―― あるのか? (輪廻転生にまでは 広げていないのですけれど)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ すなわち アウグスティヌスはしきりにこの《第二の死》を説きます。やはり経験思考の言葉で理解しうるように解釈が必要だと思います。それとも ただの幻想か あるいは 単なる文学的な表現形式に過ぎないかを判断しておくことだと思います。
悪つまりこの場合は究極の悪のことを 第二の死というようですから 善悪論という意味でも 大きくは哲学の課題であるようにも考えます。(神学ないし倫理学に傾いてはいますが)。

 深いですね。カッコ内の文章は、認識論+竜樹の論法を用いた存在論を想起させられます。

> あと 《文字(この場合 むしろ神にかんするコギトのこと)は殺し》という命題ですけれど これはかのニーチェが《〔観念の〕神は死んだ》というふうに言ったことと同じだと考えます。これは 神についての議論においては大前提であるはずです。(ちなみに ニーチェは そう言っていながら 神について指し示すことは出来なかったように思われます)。

 そうでございますね。ニーチェは「神は死んだ」、ならばそれ以前の生きていた“神”についての記述はなかったように見受けられます(目に見える教会に属するキリスト教徒に対しましては、ルサンチマンあり! と言っていましたが)。

 駄文、ご一読賜り、厚くお礼申し上げます。

投稿日時 - 2010-02-23 18:59:47

補足

 Hidocchi さん こんばんは。いつもありがとうございます。

 どうも今回は Hidocchi さんとのやり取りにおいては どこか主題としては崖っぷちをわたしがすすんで歩いているというような情況だったように思います。
 崖っぷちの情況を見て〔あるいは 崖っぷちから一般の情況を見て〕有益なことがあるかも知れないけれど 非思考は非思考で 経験思考は経験思考だという区別を確認しただけのようにも思われます。
 《第二の死》論についても まだはっきりしません。むしろはっきりと人間が裁いてはいけないものであるようですし。でも しかも ではなぜこの命題が仮想的にでも出されたのか。これもなぞであるように思います。
 そもそも そのつてで考えるなら 現実世界における――この身とこの心での人間存在の――復活という主題にも成っています。しかもすでに質問に挙げたことさえあります。
 わたしは そういった《路線》をあゆんでいるようです。

 般若心経の説明をありがとうございました。

 ニーチェもおおむね賛成していただきました。

 科学的な検証の問題 冷静な検証の必要性――考えてみれば とうぜんのことのようですが たしかにわたしも朝まで生テレビでの討論では ちょっと悪くみれば政治家のごとく自説を主張するような傾向も見られて 科学者を見る目が変わるのではないかとやや思ったところもありました。でも事実等で決着はつくのですよね。

 預言は 解釈であると前提しても たしかに組織の中などであればあやういことになるとは思います。まだまだ 警戒しなければならない部分があるかに思われます。
 〔先日 ゴッドファーザー III の映画を見ました。 I と II を見ていたので 見ておこうと思って録画して見てみました。ワ゛チカンあるいは枢機卿なり司祭なりと取引をしていたという物語りなのでした。マフィアがです。そのときには 麻薬などなど違法行為からは足を洗った状態だというもので ローマ法王から勲章のようなものを貰ったということもありました。
 どこまで事実か分かりませんが 一般にもどうもワ゛チカンの資金は マネーロンダリングを通じたもの(もしくは マフィアがワ゛チカンの銀行に預けることで マネーロンダリングが完結するというもの)だと かなり強い疑いがかけられ 事実に近いようなのです。
 もうご存じかも知れませんが
 ○ バチカン「神の銀行」に捜査の手 資金洗浄に関与か
 http://sankei.jp.msn.com/world/europe/091127/erp0911271123008-n1.htm 〕

 ★ カッコ内の文章は、認識論+竜樹の論法を用いた存在論を想起させられます。
 ☆ いづれかの機会に この主題についてお聞きしたいとも思います。

 どうも《甘え》という主題があるので うまく議論や何やかやが回転しないのでしょうかねぇ。
 もうしばらく開いていて 締めることとします。

投稿日時 - 2010-02-23 20:28:47

ANo.39

こんばんは、bragelonneさん。

●littlekiss さんが 旧約聖書の『ヨブ記』を読んで感想を述べるとすると 
おもしろい話が聞けるかも知れないと ふと思いました。


人が悪いな。ないない。


【QNo.3843320《われはブッダなり》と宣言する人は】回答番号:No.26
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3843320.html

いやほんま、宗教のことよう知らんのですってば。

えっ?そやったら勉強せいって? (-_-;)uuu… 

▲ 聖書本文検索
http://bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi

ともあれ、ありがたく頂戴いたします。 m( _ _ )m ども。

ほでも、いま聖書に目を通す気分ちゃうねん。

と、いうのもこの前のお休みに録画しておいた

映画「パフューム」みてからなんやモヤモヤして…気分乗れへん

どんな映画かといえば…

概要 [編集]『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%83%E3%83%96%E3%82%BA
この著作において、ホッブズは人間の自然状態を闘争状態にあると規定する。彼はまず生物一般の生命活動の根元を自己保存の本能とする。そのうえで人間固有のものとして将来を予見する理性を措定する。理性はその予見的な性格から、現在の自己保存を未来の自己保存の予見から導く。これは現在ある食料などの資源に対する無限の欲望という形になる。なぜなら、人間以外の動物は自己保存の予見ができないから、生命の危険がおびやかされたときだけ自己保存を考える。ところが人間は未来の自己保存について予見できるから、つねに自己保存のために他者より優位に立とうとする[1]。この優位は相対的なものであるから、際限がなく、これを求めることはすなわち無限の欲望である。しかし自然世界の資源は有限であるため、無限の欲望は満たされることがない。人はそれを理性により予見しているから、限られた資源を未来の自己保存のためにつねに争うことになる。またこの争いに実力での決着はつかない。なぜならホッブズにおいては個人の実力差は他人を服従させることが出来るほど決定的ではないからである。これがホッブズのいう「万人は万人に対して狼」、「万人の万人に対する闘争」である。

ホッブズにおいて自己保存のために暴力を用いるなど積極的手段に出ることは自然権として善悪以前に肯定される。ところで自己保存の本能が忌避するのは死、とりわけ他人の暴力による死である。この他人の暴力は他人の自然権に由来するものであるから、ここに自然権の矛盾が明らかになる。そのため理性の予見は、各自の自然権を制限せよという自然法を導く。自然法に従って人々は、各自の自然権をただ一人の主権者に委ねることを契約する。だが、この契約は自己保存の放棄でもその手段としての暴力の放棄でもない。自然権を委ねるとは、自然権の判断すなわち理性を委ねることである。ホッブズにおいては主権は第一義的に国家理性なのである。また以上のことから明らかなように、自然状態では自然法は貫徹されていないと考えられている。



●かなり長いですよ。

堆く積まれた本…

あっという間 時間は積り 何も見えなくなりそう(B'z Calling)

1:ヨブ記 / 1章 1節 口語訳

ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。

●きみはヨブを見たか。

たぶん。主とサタンとヨブ―――――三人称単数現在


【不完了体現在形】
http://tatu.lovelove.jp/russkiy/9.html

投稿日時 - 2010-02-22 23:53:28

お礼

 littlekiss さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ロシア語 勉強してるの?
 動詞が――動詞も――やっかいやで。《 スカザル( skazal )=話した》と《ガワ゛リル( govaril )=話していた》を区別せんならん。完了体と不完了体とで 《話す》を表わす語がちがう。
 これは このようにまったく違う語を用いるのは 例外的だけれど この区別じたいは すべてにあてはまります。《愛する=リュビーチ》は 不完了体しかないけれどね。一瞬で完了する愛は ないそうな。

 ★ 映画「パフューム」みてからなんやモヤモヤして…気分乗れへん
 ☆ 無臭の男で 香水の発明をするんだって? 最後のシーンで 750人がどうのこうの? これか。知らんけど。
 それと ホッブズとどういう関係があるの?
 ▲ 「万人は万人に対して狼」、「万人の万人に対する闘争」
 ☆ かなぁ?

 ★ 人が悪いな。ないない。
 ☆ いままで太宰治の作品だけでも どんだけ読まされたか。奇岩城がいちばん長かったなぁ。そのあなたに似たんです。
 それでも そのふと思ったというのは
 ★ いやほんま、宗教のことよう知らんのですってば。
 ☆ であるからいいのです。宗教の既成概念に染まっていないからいいのです。このために勉強する必要は無し。ヨブ記は 小説ですよ。文学ですから。太宰を読む程度に読んでみて。奇岩城よりは短いかどうか。

投稿日時 - 2010-02-23 09:55:04

ANo.38

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 

> あぁ そう言えばお名前にはどういった意味がございますか? 

 別段深い意味はございません。愚生はヒロシという極ありふれた名前なのですが、姪っ子が幼稚園の折に、これを正確に発音できずに、ヒドッチといっていたのが始まりでございます。OKWave参加当時は、まさか“哲学”カテゴリーに入り込むとは全く予想もしていなかったため、そのま
まとなってしまっている状況でございます。

> 今回は二点あります。かなりすっきりすることが出来ました。ありがとうございます。
 
 こちらこそ、お役に立つことができ、望外の喜びとするところでございます。

> ★(要約) 検証可能なことがらと検証不可能なことがら
 ☆ と言っておられたのですが もし《解釈する》ことと採りますと 《検証不可能なことがら》については むろんあくまで代理表現として解釈し説明していることになります。たとえということでしょうし 文学的な表現を採り入れることになると思います。

 確かに、仰られますように、《解釈する》という作業は、ある意味重要な意義をもっているとも愚生自信も、そのように解しております。ただ、時として、行き過ぎが生じてしまい、“ある種の魔女狩り”、“権威主義による、妄信状態(非思考的ではなく、思考自体を停止してしまった状態)”を惹起する可能性を孕んでいるため、敢えて、疑問を投げかけた次第でございます。従いまして、《解釈する》ことそのこと自体には、純粋には問題はないかと考えております(ポル・ポトのような人物が祭り上げ
られ、あのような惨劇は二度と起こしてはならないとの考えからでございます。逆に申しますと、自律(≒自立)した者がその結果生じる責任をも引き受けて判断するならば、むしろ、社会に好影響をもたらすやもしれません)。

> この最後の場合に それではなぜわざわざ《預言》と言うかと言えば それはあくまで特殊なかたちで 《水平的・相対的な思考》そのものを語っていながら わづかにそこに どう言えばいいでしょう
 画竜点睛のごとく預言=解釈するひとのやはり非思考のことが――むろん けっきょくは主観にすぎないのですが―― なんらかのかたちで触れられている。これは ふつうの識見を述べていつつ その本人にとっては 見えない教会を築くために述べているのだという心づもりがあるということなのかなと思いました。

 蛇足ではございますが、この“見えない教会”という表現は、何時見ても、すばらしい表現でございますね。感動的な言葉でございます。

> 三つ目を考えるとしますと。
では ふつうに日常生活において 一般に検証可能でふつうの経験的なことがらを話したり書いたりするとき わたしたちは 非思考のことがらを そこに捉えないであろうか? この問いです。
 おそらくこの場合は 話し手や書き手自身も もう心づもりなど何もない場合のことです。それでも 何の種も仕掛けもないふつうの文章が ときとして 非思考のなぞに触れているという場合があるかも知れません。見る人にもよるのでしょうが これを指摘して大方のひとが納得したならば そういう場合にも 或る種の預言があったと採ることもできるかも知れません。
そういった問いを いま問うてみたいと思いますがどうでしょう?

 了解致しました。
 愚生の知る限りにおきましては、科学(一般的に“検証可能”な分野かと思われます)におきましても、かような状況は起こりうるし、また実際起こっているとも考えております。
 例えば、以前愚生が質問させていただきました以下の問題でございますが、
 okwave.jp/qa/q5267922.html でございます。

 最終的には、確認・検証作業ができるのでしょうけれど、温暖化派と寒冷化派の2つが、自説を主張するのではなく、むしろ、相手方をコケ下ろすことに全注力を注いでいるブログが散見されます。どの主張をする科学者も現時点におきましては、“予言”にしか過ぎないのですが、ウェブ上では、荒れているように見受けられます。正直申しまして、“確認・検証”がなされた場合、どちらかが、誤りとなります。どちらかがある種のリンチを受けるのではないかと危惧している次第でございます。
 以上の件を、この信仰という場面に当てはめて見ますと、“煽り”、“権威家達による押さえつけ”等さえなければ、その懸案となっている”説”がそれなりの時間、非難を得て、そして、大部分の方達により認められれば、定説・通説として認められるべきものと考えております(一例と致しまして、民法等の法律の論点につきまして、戦前では通説であったものが、平成ではその地位をゆずるということもあろうかと存じます)。
 以下の“数学の大問題”に関する証明の件でございますが(以前ご紹介させていただいたかと存じますが)、ミレニアム懸賞問題の“ポアンカレ予想”の箇所でございますが、この証明の確認・検証作業には約3年間も要し、その結果、
「これらのチームは何れもペレルマン論文は基本的に正しく致命的誤りは無かったこと、また細部のギャップについてもペレルマンの手法によって修正可能であったという結論で一致した。これらのことから、現在では少なくともポアンカレ予想についてはペレルマンにより解決されたと考えられている。」
とされています。つまり、断定の文言を避けた形で報告されております。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AC%E4%BA%88%E6%83%B3 からでございます。)

 ご参考になるところがございましたら、幸甚に存じます。

投稿日時 - 2010-02-22 20:20:36

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 なるほど。お名前は ほほえましいですね。根掘り葉掘りですみませんでした。

 今回ふと思ったのですが どうも Hidocchi さんは 預言ないし解釈ということに警戒心を抱いておられる。これはどうしてか? を考えたのですが これは 逆にわたしのほうには 次の大前提があって それゆえ警戒心が薄いのではないかと思ったのですが どうでしょう?
 つまり
 ○ 文字は殺し 霊は生かす。
 ☆ 従いまして たとえほんものの預言者が語った言葉だとしても それをそのまま神に等しいとは採らないし 採れない。という大前提です。人間の言葉は すべて相対的な価値を持つものでしかない。ですから その人間の言葉で神を語っても それは基本的につねに なぞなのだと思います。

 もうひとつは 
 ○ この大前提を置いているなら この世界の現象のすべては 神からの手紙である。と捉えてもよいのではないか?
 ☆ と解釈しています。これは 反面教師としての内容をもって 神からの手紙であるという場合もあると言わねばならないと考えます。
 つまり 《検証可能なことがら》についても この大前提とその上での《神からの書簡説》のもとに ときとして 非思考のなぞに関連づけて捉え考えようとする場合が――けっきょく 稀にですが――ありました。
 ただこの稀に起こるという数少ない場合が けっこう重要なことを 少なくとも考えさせてくれたというようにも思っている次第です。

 ま でもこの話題は かなり特殊主観的なことだったかと思い やはり反省しきりです。ポルポトにまで行き着いたら 元も子もありません。

 なるほど ベレルマン論文の審査のように 落ち着いて広く専門家らが集まって たとえばこの《温暖化派と寒冷化派との議論》も検証するようにしていけばよいものをということのようですね。

 わたくしが具体的に 預言=解釈するというのは たとえばあまがっぱさんとのやり取りで 次の主題について考える場合を言います。
 ☆☆ (No.26補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  第二の死については 問い求め中でいます。
 自由意志を使い果たした末の究極の悪という状態 この蝉の抜け殻も 死が死なないとは言え 人間という存在でありつづけると言えるのか? 言えるとしたら 死ななくなった死も死なしめられ得るか? 復活は――むろんこれは今 現実世界におけるそれを扱おうとしていますが―― あるのか? (輪廻転生にまでは 広げていないのですけれど)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち アウグスティヌスはしきりにこの《第二の死》を説きます。やはり経験思考の言葉で理解しうるように解釈が必要だと思います。それとも ただの幻想か あるいは 単なる文学的な表現形式に過ぎないかを判断しておくことだと思います。
 悪つまりこの場合は究極の悪のことを 第二の死というようですから 善悪論という意味でも 大きくは哲学の課題であるようにも考えます。(神学ないし倫理学に傾いてはいますが)。

 あと 《文字(この場合 むしろ神にかんするコギトのこと)は殺し》という命題ですけれど これはかのニーチェが《〔観念の〕神は死んだ》というふうに言ったことと同じだと考えます。これは 神についての議論においては大前提であるはずです。(ちなみに ニーチェは そう言っていながら 神について指し示すことは出来なかったように思われます)。

 不用意に添えますが もし《聖なる甘え》が成り立つということであれば 《人についての第一の死が死ななくなる(*)》という《第二の死》というものも癒され蘇えらせられると思われます。

   * →No.7お礼欄 《第二の死》の段落を参照ください。

投稿日時 - 2010-02-22 21:56:35

ANo.37

おはようございます、bragelonneさん。


●《不条理》をあつかっているのだけれど このように解説されると 
きわめて明快に割り切れるかのように理解がすすむ。と見えるのですが。
見えるのですが わたくしには この《太陽の光を享受すること》が
きわめて象徴的に取り上げられているのを聞くと そんなに日光が
自然そのものだという感覚になるかなぁ?と思われてくるのですが 
どうでしょう?

たしかに、ひっかかりをおぼえます。

おっと、ひっかかりといったからとて

引き金に指かけたわけではないのでご安心を。

「太陽のせい」ヒントはこの言葉に集約されてあるようにおもえるんですよ。

「不条理」という言葉をカミュに言わしめるのもここからかと

銃弾が人の生と死を分かつ

カミュの父(フランス系アルジェリア人)は第1次世界大戦で亡くなっている。

【第一次世界大戦】
 植民地での戦闘
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
カメルーンでは1916年二月までドイツ軍の抵抗が続いたが、
最終的に中立国であったスペイン領の赤道ギニアに退避し
同地で武装解除した。

母はスペイン系と

【1884年11月3日 スペインが西サハラの領有を宣言】
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/hikounin/sahara.html

【地図】
http://maps.weblio.jp/content/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%8C%E5%B7%9D

北へ向かわず南へ行っていたなら、父は生きていたのかも

【なぜ太陽はフランス語で男性なのにドイツ語では女性なのか】
https://club.asahipress.com/text-web/france/colum6.pdf

「北方のドイツでは太陽は優しく暖かい母親のようなもの、
月は暗黒の夜を支配する厳しい父親のような存在と感じた」のに対し,
南方では「太陽はぎらぎらとまがしく輝く父親で、月は夜空で静かに
見守る母のようなもの、と思った」

海、太陽、風…女性、男性、両性…


人の生を政争の具と化してしまう欲望(闘争本能)、抗いがたい人間の性

不条理この上ない現実



【スペイン・アルジェリア】
http://www.jepic.or.jp/news/pdf/20090406-7.pdf

投稿日時 - 2010-02-22 01:44:24

補足

 littlekiss さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですねぇ。
 カミュの文学・思想とヨーロッパ人の戦争観ないしそのことにまつわる生活観 どちらもわたしはそれらを語るのに適任ではないように思います。
 二つの世界大戦を経て ヨーロッパ人は それまでの哲学思想の良心的で人間的な言ってみれば華々しい成果を生かし切れていず きわめて失望したと聞きます。最高の思索を重ねて来た結果が 最大の悲惨な殺し合いであったかというのだそうですね。
 カミュの不条理の問題もその歴史に沿うているのかどうか。
 このむごたらしさが人びとに――そして特に知識人たちに――もたらしたものは 言葉で語り尽くすことなど出来ないといったことを ri_rong さんにおそわりました。
 わたしは この戦争あるいは戦争についての――つまり植民地争奪などをともなうそれですね についての――考え方といった主題をほとんど考えて来なかったなぁと思ったのですし その後も進展がありません。
 ですから 参照サイトを含めてふむふむとお話をうかがっていますが しゃれたお応えを返すたくわえがとぼしいと白状せねばなりません。

 そしてカミュですが けっきょく熱心な読者にはなりませんでした。いちばん乱暴に批評してみれば この『異邦人』の物語も むしろ初めから 一発か何発かの銃の発射もしくはその銃声によって 日差しのあふれる地中海の静穏を 鏡を突き抜けるように破るというその筋が決められていたのではないか。と疑われてしまうとなると この思いをなかなか消せないのでした。(たぶん 論評にはなっていないと思います)。

 言語のことでお茶をにごします。

 English : sun
 Middle E. : sonne ( feminine )
 AngloSaxon : sunne ( fem. )
 Dutch : zon ( fem. )
 German : Sonne ( fem. )
 Gothic : sunno ( fem. ) / sauil
 Icelandic : sol ( fem. )
 Swedish & Danish : sol ( common = 中性ではなく男女共通)
 Russian : solntse ( neuter ) (綴り間違いではありません)
 French : soleil ( masc. )
 Welsh : haul ( masc. )
 Greek : helios ( masc. )
 Latin : sol ( masc. )
 Sanskrit : suura, suurya ( masc. ) ( -r- は間違いではありません)

 《日(太陽)》を表わす語は 子音として《 S - L - N 》から成る。そこで
 S は H と交替する。( cf. ひちや∽しちや(質屋))
 L は 稀に R と交替しうる。(日本語みたい)
 L が落ちるか N が落ちるか どちらかである。ロシア語は両方を保つ。
 文法の性が 男女に分かれているのはなぜか。分かりません。
 ロシア語は 寒いところですが 中性( neuter )となっています。
 あとは 南と北とで 男( masculine )・女( feminine )をきれいに分けていますが。

投稿日時 - 2010-02-22 10:25:14

お礼

 littlekiss さんが 旧約聖書の『ヨブ記』を読んで感想を述べるとすると おもしろい話が聞けるかも知れないと ふと思いました。
 時間がゆるしますならば どうぞそうしてください。
 ▲ 聖書本文検索
  http://bible.or.jp/vers_search/vers_search.cgi
 ☆ (1) 後段の【書名章節検索】のところで 【書名選択】の中から 《ヨブ記》をえらぶ。
 (2) その下の【章選択】で 1 の数字を入力する。
 (3) あとは 【送信する】をクリックです。
 (4) 《第一章》の本文が出て来ます。第二章以下も同じように検索してみてください。

 かなり長いですよ。

投稿日時 - 2010-02-22 11:36:29

ANo.36

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> パウロを参照してみておきます。
 ▲ (コリント前書14:1-4) ~~~~~~~~~~~~
 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。
 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。
 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。
 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は〔* 見えない〕教会を造り上げます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 聖書からの引用文を載せていただきまして、どうもありがとうございました。
「人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。」
 しかし、一方、
「しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。」
「”異言を語る者が自分を造り上げる”
のに対して、
”預言する者は〔* 見えない〕教会を造り上げます。”」

 braglonne様の教養の深さ(教義理解の深さ)を再認識させられた次第でございます。

> さらにむつかしい主題です。
☆ これらふたつの文章を合わせて考えるに
★ 愚生も、この方程式は存在しているかと考えております。ですが、用い方によっては、危険を孕んでいるとも考えております。
 ☆ と確かになるようなのです。

 ご理解賜りまして、熱くお礼申し上げます。

> こういうふうに考えられませんか?
パウロの書簡は 共観福音書の解釈として預言である。たとえばアウグスティヌスの文章は パウロの解釈として預言である。しかもまだまだ 非思考にかんする言葉で述べられているところがある。それに時代も違えば民族性などからの生活習慣とその思考様式も違う。
 これを できる範囲で現代語に解釈するという預言は 必要は必要だと見る見方も成り立つかも知れない。むつかしいでしょうか?

 一般に、以下のような慣習(?)が見られるようでございます。

「東方諸教会・正教会・カトリック教会・聖公会・プロテスタントといった一般のキリスト教派にとって、預言者とは旧約時代のもの、すなわちイエス以前のものである。したがってこれらの教会は、旧約聖書の預言者や新約聖書に「預言者」として言及されるイエス以前に活動していた若干名以外に、預言者をたてない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%90%E8%A8%80%E8%80%85 からでございます)

 ですが、各集団の”教義”というよりも”慣習”に近いものかと察せられます。これを、実質的な意味での預言(書 or 者)と致しますと、

定義
預言:神(や死霊)の意志を媒介し、人々に伝えること。また、その言葉。とくに、超越神によって示された世界の意味・救済の意味などを人々に述べ伝えることをいう。(goo辞典からでございます)

 平たく申しますと、神の意志を”預り”、それを”言葉”にし、人々に伝える ということでしょうか。

1.パウロ について
 イエスの啓示を受けました。また、イエスの本意に沿って人々に伝道をしていました。”媒介”の作業も、常にイエスとやり取りしていたわけではございませんが、(イエスの意思にそった形で)伝導という行為を実質的に行っていたと解せられると考えられます。

 したがいまして、予言者(書物に関しましては”預言書”)と呼んでも何ら差し支えないものと察せられます。

2.アウグスティヌスについて
 恥ずかしながら、神の意志を”預った”という彼の史実を愚性は知らないため、何とも入れないのですが、その言葉の持つカトリック内での重要性を鑑みますと、おそらくそ彼の書は”預言書”に値するとも察せられます。

 ご参考になれば、幸いでございます。

投稿日時 - 2010-02-21 21:36:54

補足

 こんばんは Hidocchi さん。(あぁ そう言えばお名前にはどういった意味がございますか? よろしかったらお聞かせください)。ご回答をありがとうございます。

 今回は二点あります。かなりすっきりすることが出来ました。ありがとうございます。
 ふつうは 預言者はやはり 洗礼者ヨハネまでだと思います。
 そしてパウロが異言よりも預言のほうがのぞましいというときには 《解釈する》という意味だと考えます。
 ▲ (コリント前書14:27-28) ~~~~~~~~~~~
 異言を語る者がいれば、二人かせいぜい三人が順番に語り、一人に解釈させなさい。
 解釈する者がいなければ、教会では黙っていて、自分自身と神に対して語りなさい。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ やや不確定ですが そう採っています。No.13で
 ★(要約) 検証可能なことがらと検証不可能なことがら
 ☆ と言っておられたのですが もし《解釈する》ことと採りますと 《検証不可能なことがら》については むろんあくまで代理表現として解釈し説明していることになります。たとえということでしょうし 文学的な表現を採り入れることになると思います。
 《検証可能なことがら》については 一方でもし神について述べるようであるならば やはり《たとえ》としての代理表現であるでしょうし 他方でそのまま経験的なことがらであるならば ほとんど普通の識見ということになると思います。
 この最後の場合に それではなぜわざわざ《預言》と言うかと言えば それはあくまで特殊なかたちで 《水平的・相対的な思考》そのものを語っていながら わづかにそこに どう言えばいいでしょう 画竜点睛のごとく預言=解釈するひとのやはり非思考のことが――むろん けっきょくは主観にすぎないのですが―― なんらかのかたちで触れられている。これは ふつうの識見を述べていつつ その本人にとっては 見えない教会を築くために述べているのだという心づもりがあるということなのかなと思いました。

 二つ目のことですが いまこの一つ目の問題を実際にどう捉えるかと考えたとき ちょうど質問趣旨にかかげたアウグスティヌスの文章を例にしてみるとよいと思ったのです。
 ▲ 試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。
 ☆ ここは ほとんど経験世界のことがらで――文学的に――表現しています。一面としては 人間の境地として捉えれば ひとの成長といったこととしておおむね経験合理性で理解できることです。もう一面としては 人間の成長とか境地とか言うのは やはり捉えどころが少なくて やはり漠然としている。となります。
 それで おそらくこの個所は 経験的なことがらで述べていると同時に 心づもりは 非思考のなぞについて 自身の主観ではありながら 何らかのことを伝えたいという性格の文章だと考えられます。
 そうして 《神》や《悪魔》という言葉をそのまま出している部分は もちろん検証不可能なことがらに属します。

 三っつ目を考えるとしますと。
 では ふつうに日常生活において 一般に検証可能でふつうの経験的なことがらを話したり書いたりするとき わたしたちは 非思考のことがらを そこに捉えないであろうか? この問いです。
 おそらくこの場合は 話し手や書き手自身も もう心づもりなど何もない場合のことです。
 それでも 何の種も仕掛けもないふつうの文章が ときとして 非思考のなぞに触れているという場合があるかも知れません。見る人にもよるのでしょうが これを指摘して大方のひとが納得したならば そういう場合にも 或る種の預言があったと採ることもできるかも知れません。
 そういった問いを いま問うてみたいと思いますがどうでしょう?

投稿日時 - 2010-02-21 23:17:27

ANo.35

>自然の感情としての一体感のことであり それだけなのですが けっこう空観にこの甘えがみちびくことがあるかも知れません。

すみません。言ってることがよく分かりません。
しかしかつて

>光が曲がった。
>曲がるのかな 曲がるのかも 曲がりうるかも知れないと 想像してみたら 面白そうだと思い そのわたしの考えで曲げてみた。
>アダムもそれに同意して こころみた。

という文章があったのですが
正直言うとこういう考えは
私の中ではすごい違和感があるのですが。。。
貴方の中では
《甘え》
《関係 つまり 縁起》
というのはこういうことを想定しているということなのですか?

投稿日時 - 2010-02-21 16:13:08

お礼

 そうですね。
 ○ 甘えは 親子のあいだの自然の感情としての一体感のことを言います。それだけです。
 ○ ただ それがあると・つまりその体験があると(もしくは 仮想の経験でもがあると) あたかも理性のはたらきを超えてのごとく さとりにみちびかれる度合いが大きいのではないか。そういうはたらきが 甘えにはあるのではないか。

 ☆ こういう大胆な物言いです。
 根拠はありません。しかも この無根拠ということを 逆手に取って そこから《垂直的な非思考》にみちびかれることが容易であるのではないか。こう見ようとしています。つまり 空観にしても同じです。

 後段は 原罪にかんする説明の文章ですが そうですね。どうなんでしょう。この文章の言おうとするところは 要するに いわゆる客観的にものごとや世界を見ようとするようになった。つまり 理性をはたらせようとするようになった。
 しかも このコギトが 倫理に関しても アマテラス人格語を編み出すというかたちで 倫理規範(≒律法)をも表現するようになった。
 アマテラス客観語やアマテラス人格語じたいは わるいものではないのですが これをどう使うかという場面では 大いに問題が生じる。いわば世界を 或る対象を取り上げ対象に即して理性による理解として切り取って認識するわけですから 全体観に代えて部分認識を持ってくることになる。もしくは分析理解によって 世界認識を得たと思うようになる。
 そこでは 意図せずにでも 部分で全体を表わすとなると それとしてのウソが生じる。この理性を駆使しての大きな意味でのウソ これが 原罪にあたり 《光の曲がることの発見とその応用》もその事例になるのではないかという意味でした。

 ちなみに これらすべては 縁起の過程だと思います。空観は それをそのように――つまり コギトの発現ならそれとして―― あるがままを見て捉えることだと考えます。さらに実践としては それを通して これらの縁起の過程関係によって 影響はされるが もはや左右はされないという境地にまで到るということ。これが さとりだと思っています。
 そしてこのさとりは 垂直的な非思考としてのこころの窓のさとりに通じていると見るものです。
 どうでしょう? 

投稿日時 - 2010-02-21 18:04:15

ANo.34

>空観の問題

龍の頭と龍の尻尾でもう一回やってみますか?
空観とは観えているそのものを映すこと

投稿日時 - 2010-02-21 14:16:01

お礼

 ふうむ。
 もし結論が出ていないということであれば ぢゃあ あまがっぱさんもいてくれることだし どうぞ 明らかにして行ってください。

 ★ 空観とは観えているそのものを映すこと
 ☆ なのでしょうが――あぁ ほとんどつねに こういった受け止め方になっていますね―― いまは 順観が逆観を凌駕して 無明から明知へと転換するその瞬間にこだわっています。その瞬間にこそ空観が現われ得られ生きてはたらく。こういう実践を取り立てて問題にしたいわけです。
 《甘え》においてであっても 《ありのままの現実が見える》ということはありうるでしょう。ありうると思いますよ。
 しかも《甘え》を持ち出すとよいと思われることは それが《関係 つまり 縁起》を捉えようとしているからです。自然の感情としての一体感のことであり それだけなのですが けっこう空観にこの甘えがみちびくことがあるかも知れません。
 そのあたりを重点的にせめてみてください。

投稿日時 - 2010-02-21 14:32:52

ANo.33

★ 魂の精錬 / 玉への精錬
 ☆ これは ひとが志向しなければ成らないというものなのか?

何か大げさに考え過ぎているように思うのですが。。。
自分の意見に固執しないという意味において
自分が正しいと思えば100万人行かんとすれど我行かんというあり方もあるのでしょうがそういったことはごく稀で
ほとんどの場合少なくとも公人としてものをいうときは誰もがそういうあり方であるべきだとは思います。
ゼロベースというのもそういうことでしょうし。
高福祉高負担といった国家全体に関わるような公的なことをことを論ずるときにおいても
どのような姿の福祉形態になるかという具体性を欠いたなかで言葉だけが幻影を見せるようなことに固執するべきではないと思います。
しかも現状では修正で済むようなことではなく決定的なシステムの欠陥になることを指摘された後もそれに拘り続けるのはあまり意味がありません。

投稿日時 - 2010-02-21 13:59:22

補足

 ★ 何か大げさに考え過ぎているように思うのですが。。。
 ★ 100万人と言えども我行かんという
 ☆ これらは 次のわたしの文章についてですね。

 ☆☆ (No.30補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 縁起論では 《空》は いわばそのひとの境地のことであり 世界を見る見方を言っているとわたしは理解しています。
 たとえ《私利私欲》にあふれていても それは欲動や欲求のうごめくにまかせておいて 全体としてのわたしは 世界が見えている。その世界のすすみに沿って ≫しかもうわべの姿とは異なっていてもそのわたしに見えているところに従って≪ 自己表現を推し進めて行く。
 《空観》として見たところにわたしは従う。≫それが世間に容れられなければ わび・さびの世界へとわたしは押しやられる。それでもなおわたしは行く≪。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ これは ヨブに関しては言っておくべきことだと思いました。
 なにしろ三人ないし四人の友たちが 《神に不正があろうか。それを神に文句を言うとは 何事ぞ!?》と言ってヨブに迫っているわけです。妻でさえ 《もうそんな信仰に固執していないで せっせとその神さまにおさらばしたらいいぢゃないの?》と言う始末です。

 わたしとて ここで次の質問をしています。
 【Q:因果応報説は 愚の骨頂】
 【Q:輪廻転生説は 愚の骨頂】
 【Q:道徳規範は 愚の骨頂】

 ヨブの友人たちも モーセの律法(≒道徳規範)を金科玉条のごとくにかざしてヨブを批判しています。その中身は 世の中のものごとは 善因善果か悪因悪果かのいづれかなのだ これほど世間からも神からも見放されたようなひどい境遇に追いやられたとならば おまえは神の裁定としての悪因悪果だと受け止めこれを謙虚に受け容れるしかないのではないか?というわけです。

 おっしゃるような社会的な政策なり社会形態じたいの展望なりとしては 問題が違うとわたしも思います。そういう場合は 互いに一長一短あるというような性格の議論になると考えます。

投稿日時 - 2010-02-21 14:23:14

ANo.32

29の補足に対して
問いが溢れすぎています。
もし何か続ける意味を感じたのでしたら
整理して一つずつ別の問いを立て直してその中で進めましょう。

手に負えない内容であれば訪れるかどうかは確定はしませんが。。。
悪しからず

投稿日時 - 2010-02-21 13:10:09

お礼

 いえいえ ひとつづつ分けて答えてくださってかまいません。

 大きくはふたつですが わび・さびのほうは 確認のようなものです。

 あとは 空観の問題。むろんこれは 大きな主題です。
 ここでは 修行(つまり 自力・聖道門)か自然(つまり 他力・易行門)かが焦点です。
 そしてNo.30およびNo.31でのやり取りを加味すれば ひとつの見方としては 意図していないで試練に出遭う もしくは意図とは違った意味で試練に出遭う そこから空観なら空観に到るということ これが――わたしには――見えているのですが それではそこに《甘え》はどういうふうに絡んでいるのか? 何も関係ないのか?
 ここに焦点があたります。どうでしょう?

投稿日時 - 2010-02-21 13:37:36

ANo.31

心の中の凝り固まったものがある象徴として精錬された時に出現するものを”金”ととらえれば
金と玉の心の状態に明確な境界ができる。

数直線の切断点における点の所在がどちらに属するか
愛と慈悲の違いとしての境界
境界は慈悲に属する
救われるもの
彼岸

投稿日時 - 2010-02-21 11:27:20

補足

 ここでは
 ★ 愛と慈悲
 ☆ それぞれと甘えとの関係を知りたいと思います。

 むかし次の質問をしています。たたき台になると思いますので かかげます。
 ○ 【Q:慈悲は 経験現実か】 ~~~~~~~~~~~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4531636.html

 わたしたち人間のおこなう行為であるのか これを問います。
 《ウィキペディア:慈悲(じひ、パーリ語mettaa、サンスクリット語maitrii, karuNaa)》にもとづき設問します。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2

 まづ 《慈》も《悲》も 日本語での 友がら・やさしさ・思いやりといった言葉と同じように 生活の中から出た言葉であって(=スサノヲ人間( S )語 ) しかも 抽象一般化し また 概念を純粋化し高めたもの(=アマテラス普遍( A )語 )と考えられます。高められたとき それは 実践しうることだと見ているのかどうか このことが知りたいことです。

 ▲ (ヰキペの記事に 私註をはさみつつ)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 〔《慈》にあたる〕サンスクリット語の「マイトリー(maitrii)」は、「ミトラ」(mitra)から造られた抽象名詞で、
 【S語】 本来は「友情」「同志」の意味である。しかも、
 【A語】 ある特定の人に対し友情をもつのではなく、あらゆる人々に平等に友情をもち、友誼を示すことをいう。
 したがって慈とは、このようないっさいの人々に対する平等の友情をいう。

 次に、〔《悲》にあたる〕サンスクリット語の「カルナ(karuNaa)」は
 【S語】 「優しい」「哀れむべき」というのであるが、その原意は「呻き(うめき)」にあるという。「悲」とは、まず人生の苦に対する人間の呻きを意味する。その呻きがなぜ「悲」かというと、自らが呻く悲しい存在であることを知ることによって、ほんとうに他者の苦がわかる。そこで、はじめて他者と同感してゆく同苦の思いが生じる。
 【A語】 その自分の中にある同苦の思いが、他の苦を癒さずにおれないという救済の思いとなって働く、それが悲であるという。

 仏教ではこの慈悲心を三種に説く。「衆生縁」「法縁」「無縁」の三縁慈悲である。いわば慈悲心の生起する理由とその在りかたをいう。

 (一) 衆生縁とは 
    衆生(しゅじょう、jantu,sattva)の苦しむ姿を見て、それを救
   うために、その衆生を縁として起こした慈悲の心。すなわち、衆生の
   苦を抜き、楽を与えようとする心である。
    ☆ (これは =【S語】か?)

 (二) 法縁(ほうえん)とは、  
    すでに煩悩を断じた聖人が、人々が法は空なりという理を知らずに、
   ただ抜苦得楽のためにあがくのをみて、抜苦与楽しようとする心をい
   う。
      ☆ (これは ≒【S語】か?)

 (三) 無縁とは  
    慈悲心の自然(じねん)の働きをいうものであり、それは仏にしか
   ない心であるという。
    ☆ (これは =【A語】であろう。あたかも≠【S語】か?)

 この三縁の慈悲とは、
 第一は 一般衆生の慈悲、あわれみの心をいい、
 第二は 聖人、つまり阿羅漢や菩薩の位にある者の起こす心、
 第三は 仏の哀愍の心であると言える。
 この中で第三の無縁の慈悲心のみが本当の大悲(だいひ、mahD-karunD)と言える。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 Q1. 慈悲は 全体として 人間に実践可能か。
 Q2. 〔可能だと仮定した場合〕 三縁の慈悲のうち 第三の《無縁の慈悲》は 《仏性》のことと違うのか。
 Q3. 仏性と同じだと仮定して ならば すべての人間が 慈悲を実践しうるとなるのか。それとも 人は仏性を宿すが 慈悲を実践しうる者とそうでない者とに分かれるのか。分かれるとすれば それは なぜか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ こうしてなお 《愛》とは何か? が来ますね。厄介ですね。
 できましたら 《甘え》を基軸として捉えたらどうなるのか? このように踏み出してもらえるとさいわいです。

投稿日時 - 2010-02-21 13:59:10

ANo.30

今置かれた環境の中でできることから

投稿日時 - 2010-02-21 10:44:17

お礼

 これもまったくそのとおりだと考えます。
 これまで身をおいてきたその道において その場の中から あたらしい出会いなり何なりがあって しかもその場その道をまづは歩く。ということだと思います。

 そのときの人間関係に焦点をあてて ではその関係に 自然の感情としての一体感つまり甘えはなかったのか? あったのか? それがどう影響したかしなかったか? となります。

投稿日時 - 2010-02-21 13:44:20

ANo.29

それが表す象徴的意味としての行動として



                               ´

投稿日時 - 2010-02-21 10:40:09

ANo.28

他律ではなく自律的にパンを集め配るという行為を通して

投稿日時 - 2010-02-21 10:36:05

お礼

 たしかにそういうことだと思います。
 そして いまわたしの問い求めは そういうふうな考えに到るのは どのような道を通ってなのか? です。
 そしてそのとき 甘えはかかわらないのか? です。

投稿日時 - 2010-02-21 13:39:58

ANo.27

ただ
一旦金が露わにされてしまえば
たとえばアンデルセンの童話にあるように
小鳥が自分の踏んづけたパンの分を集めて配るという行為によって
口先だけではないことの証明という観点と
今までの自己チュウの生を補完してくれていた世界を現実に体感するという行動療法を通して
かつての自己中の自分に引き返す必要のない世界を認識し脱皮していく可能性があるということだと思います。

投稿日時 - 2010-02-21 10:22:31

補足

 おそらくおっしゃるとおりなのだろうと思います。
 だろうとか 思いますとかともったいぶって あるいは偉そうに つけ加えるのは やはり不満も残るからです。

 わたしの感覚ということなのですが ひとの話す言葉について スサノヲ語とアマテラス語とを区別しています。
 まったく自由であやまちやすく人間臭い人間語が スサノヲ人間語です。
 よく整理した概念を用いて合理的に表現した文章が アマテラス科学語です。あるいは人間の思惟や行為につきよく練った規範にまでたどり着きこれを表明するアマテラス人格語もあります。

 2012522 さん あなたは総じて言って アマテラス語を用いてお話になる。もちろんわるいわけはありません。しかも まだなお隔靴掻痒と言いますか 聞いていると緊張で足がしびれてくると言いますか そういう感じがぬぐえません。立派すぎるというのも 欠点と言えば欠点です。
 と言いますか 要するに さらに噛み砕いて表わしてくださいませんか? というお願いになります。わたしのほかの人たちは 歓迎しておられるかも分かりません。そのほうが威厳があってよいと考えておられるかも分かりません。

 ★ 今までの自己チュウの生を補完してくれていた世界を現実に体感するという行動療法を通して
 ☆ 《補完してくれていた》という見方は すでに空観を得てさとった境地にあります。ということは このさとりを得るその瞬間 あるいは その回転のあり方 これがなまなましくあたかも実況中継のごとく表現されるといいのかも知れません。わたしの感覚ですが。
 そうでないと 方程式を示しましたよという形の説明になります。

 ★ かつての自己中の自分に引き返す必要のない世界を認識し脱皮していく可能性があるということだと思います。
 ☆ まったくこのとおりだと同感します。と同時に 縁起の悪循環の世界から好循環の世界へと どう転換したのか? この実況中継がのぞましいように思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 たとえばアンデルセンの童話にあるように
 小鳥が自分の踏んづけたパンの分を集めて配るという行為によって
 口先だけではないことの証明という観点
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なのですが――まったくそのとおりだと思います。なのですが―― ピンポイントとしては 《自分の踏んづけたパンを拾い集める》という行為にそのひとが いつどういう情況においてどういうきっかけで そう成ったか? 頭がどのようにして切り替わったのか? それには 家族や友だちとの甘えの関係 あるいは甘えでない関係が どのように絡まっていたと見るか?
 こういった点なのですが どうでしょう?

投稿日時 - 2010-02-21 13:27:02

ANo.26

私利私欲を離れ
平和の道具として機能するための通過儀礼


                               ´

投稿日時 - 2010-02-21 09:57:34

お礼

 これは 例の《悩みや苦しみから 逃れる あるいは 免れる》問題ですね。
 縁起論では 《空》は いわばそのひとの境地のことであり 世界を見る見方を言っているとわたしは理解しています。
 たとえ《私利私欲》にあふれていても それは欲動や欲求のうごめくにまかせておいて 全体としてのわたしは 世界が見えている。その世界のすすみに沿って しかもうわべの姿とは異なっていてもそのわたしに見えているところに従って 自己表現を推し進めて行く。
 《空観》として見たところにわたしは従う。それが世間に容れられなければ わび・さびの世界へとわたしは押しやられる。それでもなおわたしは行く。

 たぶん もしこれが妥当な解釈であったとしても その空観にみちびかれるのは やはり試練に遭ってこれを経つつであるでしょうし。
 しかもこの経験ははじめの意図や思わくとは違って ふとどこか途中でちょうど迷い込んだようなところで かえって出くわすことになった《通過儀礼》であるようにも思っておりますが いかがでしょうか?

投稿日時 - 2010-02-21 13:04:33

ANo.25

錬金術の観点からは

生における死と再生
稲藁が燃え尽きたとき
欲に拘っている心が露わになる象徴が金であり
灰だけになって
何物にもこだわらなくなった空なる心だけになり
今までの生における欲を離れた時
すべてがこれからの生に活かされる智慧となり金剛石を結晶化させる
象徴としての賢者の石
それぞれの色彩を放つ玉が出現する。

これが献金術の意味
真の魂の精錬の目的であると観ています。
結果的に心に金がこびりついていたとしても
日々是好日
玉への精錬の可能性は生きている限り機会はあるといえます。

投稿日時 - 2010-02-21 09:53:21

補足

 ひきつづきわたしの反応ですけれど 述べてまいります。

 ふたつあります。
 ★ 欲に拘っている心が露わになる象徴が金であり
 ☆ まづこの思想は さすがアジア的と言いますか むしろ質素あるいは質実剛健を旨とするということですね。金閣寺は嫌いであると。あるいは わび・さびの境地なのだと。
 わびることは詫びるけれど もはやわたしに落ち度は探しても見つからないほどだ。すべて反省している。けれどもなお 探し出してわびる。侘しいけれども またもうすでに心は錆びつき凍りついているけれども このさびの中からでもわがまことを貫きたい。不死鳥ではないが 灰の中からでもわたしは もっともわたしであるわたし またすでにわたしではないわたしをよみがえらせたい。
 こういうお心でしょうか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 灰だけになって
 ≫何物にもこだわらなくなった≪ 空なる心だけになり
 今までの生における ≫欲を離れた≪ 時
 すべてがこれからの生に活かされる智慧となり金剛石を結晶化させる
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 括弧をつけた語句について もしそれらが《悩みや苦しみから 逃れる あるいは 免れる》というのでしたら わたしはすでに次のように述べています。それとの突き合わせをお願いしたいところです。

 ☆☆ (No.10補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ぢゃあ わたしはその真ん中に立つことにします。
 悩みや苦しみから《免れる》というわけには行かないと思うのです。なまみの人間なら。
 さりとて 《逃れる》というのでは 何だかおしまいまで鬼ごっこをしているような感じをも受けてしまいます。かくれんぼでもないでしょうから 苦しみをそれとして受ける 受けつつこれに影響されることはあっても もはや時として 左右されることは無くなる。と こういうふうですが どうでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 どうでしょう? これは
 ★ 空なる心
 ☆ とは何ぞや?という問題にもなります。

 ★ 魂の精錬 / 玉への精錬
 ☆ これは ひとが志向しなければ成らないというものなのか?
 意志行為であるのは全般的なことでしょうが 意図的に言わば修行を積むという出で立ちであるのか?
 そうではなく 親子や兄弟・親友の関係に 自然な甘えが垣間見られたときに ふと一気に一挙に得られるとさえ言えるものなのか?

 ★ 象徴としての賢者の石 / それぞれの色彩を放つ玉が出現する。
 ☆ これも まづ一つには 生活日常のあゆみとして捉えてよいのか? 
 能天気や甘えとの兼ね合いは どうなのか? つまり自然の感情や いわゆる共同体としての《情感の共同性》といったことと どうつながると見ているのか?

 こんなことを質問者としては――司会進行役としてのごとく―― 尋ねてみたいですね。どうですか?

投稿日時 - 2010-02-21 12:50:51

ANo.24

おはようございます

> 聖なる甘えを拡大すれば
 別にヨブの主張する社会でもいいのです。
 ただ経済破綻するだろうというだけ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはまだわたしにはっきりしないのです。
 (1) 《聖なる甘え》が 言いだしっぺなのにまだ うまく展開し得ません。



まず
高次元の
能天気
聖なる甘えとは
肉を切らせて骨を断つ
このまま中印を巻き込んだ”地球規模の”という意味において
これは自然界の破綻を意味し
これはこれで人類の意識を覚醒させるという意味を持ちうる。
次に
低次元の
能天気
聖なる甘え
今意識の俎上に上っている低次元のヨブのいう高福祉高負担という幻想が生み出す裏の意味がわかっていない。
まともの働いている人や経営者ならその意味するところが明確に解かるでしょう。
確実に経済破綻を起こす。

自然は
国家に置き換えられ
会社に置き換えられ
親に置き換えられる。
餓鬼による
骨の髄までしゃぶる脛かじり社会ができるだけ。

能天気
聖なる甘えが自然界を破綻させるように
国家が経済破綻し
会社が経済破綻し
親が経済破綻する
そして最終的にヨブ自身の身に経済破綻が降りかかる。
そうなれば働くだろうというのでは
人一人が生まれてから死んで行くまでの生涯設計の集積からなる親の躾、会社から学ぶもの、国家のその運営に確実に切断の問題が起こる。
有形無形に関わらず自然から国家から会社から親から引き継ぎ受け継ぐべきものは確実にあるはずである。

失ってから気がつくでは遅いのです。
特に無形のものは
眼に観えないだけに

投稿日時 - 2010-02-21 07:11:07

お礼

 かつて王には 道化というけっきょくのところ煮詰めて言えば王の諫め役がいました。
 的確な助言をあたえました。しかも お笑いの言葉で表現したのでしょうか。

 昔も今も 警世のことばは欠かせないものでしょう。
 たしかに人にはそれぞれの持ち場があるとも思います。

 一点不満を述べます。
 《甘え》の場合には 《遠慮》がありません。要りません。ですから そのときその場で たとえけんかになっても(と言っても 効果や結果を大事にすることも肝腎でしょうが) とことん話し合っていくものと思います。そうでなければ 甘えとは言わないと思います。

 今回も 直前の amaguappa さんへのわたしの応答をぜひ参照いただきたいと存じます。つながっていると思います。

投稿日時 - 2010-02-21 08:44:58

ANo.23

> わたしには この《非思考の窓》を持つこと このことが《金》にたとえられていると思えます。

ええ、普遍にして不変の《非思考の窓》にある霊のありようが、金にたとえられたのではないでしょうか。

> 特に《ユートピア的》という側面については いまひとつ現実的ではないように思います。
> 非思考のまどをそなえているというのは ひとの《自然本性》を言っているのですから 
> つまりまぼろしの内に現実であると言おうとしているのですから それは外から何かをつけ加えるのではなく 
> そうではなく すでに備えているという境地の問題だと考えます。《つかまえどころがない》とは言えると思いますが。

このユートピア、《無い場所》とよびあらわされる場所ですが、この咄嗟の表現はまさに窓のイメージなのです。
そして認識も対象化もできないであろう、ぽっかり空いたタブラ・ラサなのです。
一種の能天気の穴といえるのかもしれません。
垂直的思考(すでに非思考であるでしょうが)においてのみ、あらゆる文字の垢をはらって、お伽噺のように現れる。
錬金術がエジプト以来の魂の霊的精製の思想であるのを思いつつです。

キルケゴールに関して
> 《垂直的〈非思考〉》を 精神の内に捉えうると思って《垂直的〈思考〉》として経験世界の言葉と現実に
> 置き換えようとしたものだと考えます。《たとえ》であり たとえに過ぎないとわきまえていれば
> いいのかも知れませんが 総じて想像の産物だと考えます。

垂直的非思考によって主と同じ顔になるのが、いやだったんじゃないでしょうか。
想像というか自律的主体性の水平的思考の産物であることは間違いないと思いますが、
自由ということをどのように考えていたのかに通じるのではありませんか。わたしはキルケゴールの考えをよく知りません。

> 《第一の死》が死ぬと言われています。つまり単純に復活です。....
> ところが この第一の死が死ななくなる人間がいるとも言われたようなのです。
> これが第二の死であり永遠の火の中にいるという死だと言います。究極の悪とも言われますし。
> あるいは 自由意志にさからう自由を行使し尽くした成れの果てとでも言うのでしょうか。

死が死なないというのは恐ろしいイメージなのでしょうね。
仏教観のいう餓鬼畜生道に堕ちている魂はさぞ多いだろうと思いますけれど。
輪廻転生という考えを採用するとしたら、
第二の死を生きている真っ最中のひとびとときたら、復活のひとびとなのか究極の悪なる魂をそなえたひとびとなのか、
混在しているのがこの現世ということでしょう。見分けもつかない皮をかぶって。

投稿日時 - 2010-02-21 02:48:05

補足

 amaguappa さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 なかなかおもしろくたのしくなってまいりました。

 ★ ええ、普遍にして不変の《非思考の窓》にある霊のありようが、金にたとえられたのではないでしょうか。
 ☆ それか この霊に言わば守られたヨブのすがた――いわゆる《神の似像》としてのヒト――がでしょうね。

 〔★ 錬金術がエジプト以来の魂の霊的精製の思想であるのを思いつつです。
 ☆ あぁ それでしたら歴史を踏まえて現代の視点でまとめるかたちで捉えることができるかも知れません。〕

 この《霊》が あなたのおっしゃる意味で《ユートピア的》であるにせよその対極の《トポス》であるにせよ――要するに 無神論か有神論かいづれかとして―― 一人ひとりのわれわれによって 父親なら父親としてのごとく母親なら母親としてのごとく《甘えられている》なら 生きているということでしょうね。
 試練に遭っても 藁のごとく燃やされるのではなかった。金のごとくであって 不純物が除かれこそすれ 灰にはならしめられ得なかった。

 ただ《甘え》と言いきってしまっても 語弊があるのでしょうね。Hidocchi さんが このあたりを考えてくださっているようですが みなさんにも このあたりをめぐる特に表現の仕方ですね これについてお知恵を拝借とまいりたいと思っています。
 《能天気》にあっては 《こころの窓・非思考のユートピア・霊なるまぼろし》のことをおぼえているのだろうかという点が問われて来ます。意識していなくてもよいと考えますが いちど自覚するといったことが必要なのかどうか。

 キルケゴールは――わたしもその読書の途中で逃げて来た口ですが―― どうもこの《甘え》の問題で 茶の木畑に入って行っているように感じます。
 ★ 垂直的非思考によって主と同じ顔になるのが、いやだったんじゃないでしょうか。
 ☆ もしそうだとしたら えらく感受性のつよい・するどい人だったのでしょうか。

 《まど》について
 ★ ぽっかり空いたタブラ・ラサなのです。 / 一種の能天気の穴といえるのかもしれません。
 ☆ それでしたら いま考えたのですが タブラの文字を消すべきは消すことのできる消しゴムにたとえてもよいかも知れないと思いました。イレイザーあるいはレイザー。あれっ ひげ剃りになってしまいますか。
 心なるタブラに世界の縁起を受け止めて書いたところの《文字(コギトでしょうか)》について 一つにはすべてその値打ちは相対的なものだと気づかせ もう一つには消してもよいものはすべからく消してしまう。消してくれる。・・・
 これは 《はからひ無きこと》をまづ思うことから来るのか? いやいやそもそも《甘えていること》ことから もたらされるのか? たぶん こういうふうにすでに呻きながら喘ぐようにでも問い求めるこころによって理性をはたらかせてもよいのでしょうが たぶん理性によっては問い求め得られないのではないか?・・・

 第二の死については 問い求め中でいます。
 自由意志を使い果たした末の究極の悪という状態 この蝉の抜け殻も 死が死なないとは言え 人間という存在でありつづけると言えるのか? 言えるとしたら 死ななくなった死も死なしめられ得るか? 復活は――むろんこれは今 現実世界におけるそれを扱おうとしていますが―― あるのか? (輪廻転生にまでは 広げていないのですけれど)。

 不謹慎にも聞こえるかも知れませんが たいへんおもしろくなってまいりました。
 ▲ 試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブがわらではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。
 ☆ これを 生活日常のことばでどう表現するかです。理性を超えていると思います。じんるいの知恵が だれから言い出されるか? 
 このことが 腑に落ちるかたちで言い表わされるなら そしてすなおに受け止められるなら 世界はあたらしい舞台に躍り出るのではないでしょうか? そのときには いわゆるキリスト教もそのほかの宗教もぶったまげて腰を抜かすことでしょう。(あぁ 何たる大ほら吹き!)

投稿日時 - 2010-02-21 08:14:24

ANo.22

兵仗化おめでとうございます。

少し元気を出して下さい。

反省しています。ごめんなさい。

おじじさま
いといろとありがとう。

投稿日時 - 2010-02-20 22:54:00

お礼

 つまり 今回は わたしひとりだけの問題ではないんだ。

 勝手に複雑にしてしまっているのだから もうわたしひとりだけの手には負えないんだ。

 と返すほかないというところさ。

投稿日時 - 2010-02-21 18:07:58

ANo.21

あなたのなすがまま

陰にして陽
能天気
聖なる甘え


                               ´




                               ´

投稿日時 - 2010-02-20 21:07:00

お礼

 わたしのきゅうりがパパ。

 (いちど言うてみたかった)。

投稿日時 - 2010-02-21 08:24:31

ANo.20

こんばんは、bragelonneさん。

【不条理な感情の生成過程および自然との関係】
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/bitstream/10140/2586/1/al-no57p083-094.pdf
http://ir.iwate-u.ac.jp/dspace/handle/10140/2586

【機械翻訳における類語の処理】
http://wwwlc.cias.osakafu-u.ac.jp/staff/miyahata/kaz_class/04cmp_lng/04cl_PP/pp_ma/ma_index.html.html

【『日本敵討ち異相』=長谷川伸・著】
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2008/11/20081130ddm015070002000c.html

投稿日時 - 2010-02-20 20:45:08

お礼

 ふうーう。ご回答をありがとうございます。

 ★ アルベール・カミュの『異邦人』論:【不条理な感情の生成過程および〔作家と〕自然との関係】
 ☆ これ どうなんでしょう? 文章はぶれずに しっかりとした歩みを刻んでいると思えます。
 そうなんですが どうでしょう? 
 わたしだけかも知れません。《太陽の光を浴びること》が生きる喜びであり 自然の享受だと言います。やがてこの調和がくずれてくる。享受できないようになる。太陽の熱気。それによる幻惑。うんぬんと。

 《不条理》をあつかっているのだけれど このように解説されると きわめて明快に割り切れるかのように理解がすすむ。と見えるのですが。
 見えるのですが わたくしには この《太陽の光を享受すること》が きわめて象徴的に取り上げられているのを聞くと そんなに日光が自然そのものだという感覚になるかなぁ?と思われてくるのですが どうでしょう?

 これは――つまり『異邦人』の世界は―― 理知的であると同時に どうも日常生活の内の世俗的な側面がほとんど起伏のないまま 描かれすすんで行っている。こう思えるのですが どうでしょう?
 《不条理な感情》は 何だか初めから そういうふうに起きることが決められているとも映ります。その初めからの想定にもとづき 話がすすめられて行ったのだと映ります。

 これは きちっとした『異邦人』論ではなく 今回そういうふうに感じたというものです。それだけなのですが そう思いました。
 それとも ちがった見方をしめしてくれますか? どうでしょう?

 ここでの《自然》は 文字通り環境の自然ですね。

投稿日時 - 2010-02-20 22:16:44

ANo.19

祈り?

分からん。。。。。。


                               ´

投稿日時 - 2010-02-20 20:12:15

ANo.18

それとも願い?

どっちもいいか。。。



                               ´

投稿日時 - 2010-02-20 19:58:45

ANo.17

じゃあ希望?

  



                               ´

投稿日時 - 2010-02-20 19:54:37

ANo.16

そのものより出でて

そのものに帰る



                               ´

投稿日時 - 2010-02-20 19:03:19

ANo.15

人類は地球という限られた器のなかで自然という厳しくも慈悲ある”親”に育まれる。

今の人類はその親を殺しているようなもの。
親のすねをしゃぶる親殺し

投稿日時 - 2010-02-20 18:50:36

お礼

 という情況であり現状であるようですね。
 わたしにも問題意識はありますが これを自己表現の中にどのくらい出して行くか。いまのところ かんばしくありません。
 正直なところでした。

投稿日時 - 2010-02-20 19:43:28

ANo.14

その中で人間の”聖なる甘え”としての自然界へのもたれ度が過剰になって生命の食物連鎖が崩壊し始めている。
個々の生命は生まれ死んでいく運命であるけれども
全体としては人類も組み込まれた生命体維持体として生命の永遠性を有していたが
もたれ度が大きくなって生命体全体としてバランスが崩れ始めているということで命の永遠性が失われる可能性がある。
正確には人類という種が大量に淘汰される可能性が危惧される。

であるけれど
覚悟があれば
”能天気”でいられなくはない。
楽観主義がそのうちあわて始めるのかもしれないですが

投稿日時 - 2010-02-20 18:28:00

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 自然環境論でしたら これは すでに経験科学によって相当程度処理できるだろうし 対処していかねばならないと思いますが どうでしょうか? まだ甘いですか?

 ★ 人間の”聖なる甘え”としての自然界へのもたれ度が過剰になって
 ☆ 単なる言葉使いだけのことですが いちおう次のように使おうとは思っていました。
 《自然界へのもたれ》あるいはその《もたれ度の過剰》という事態になれば それは 《聖なる甘え》に黄信号が灯ることですから そのときには《聖なる》は《めざめた》という意味を帯びることになります。なるはずです。

 このところと言いますか やはり自然環境の保護・維持はおおきな課題であるようですね。わたしの場合はいまのところ みなさんのみちびきについて行こうという魂胆でいますので 申し訳ないですが ほとんど何もよいご返事がかえせなくて わたしも困ってしまい弱ってしまいます。Hidocchi さんが専門家でいらっしゃいますよ。2012522 さんもご質問なさるとよいかも知れません。
 こんな具合いでお茶をにごすかたちになりますが。・・・

投稿日時 - 2010-02-20 19:41:05

ANo.13

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。

> ★ つまり、“因果応報”的な考え方はしていない、ということでございます。
 ☆ これはつくづく思います。

 ご返答賜りまして、厚くお礼申し上げます。

> ですが これは この経験世界における一つの方程式です。この方程式によって 生活やあるいはおのれの人格を律しているわけではないのだと思います。じっさい善行が報いられないという場合や事例を知っているわけですから。

 愚生も、この方程式は存在しているかと考えております。ですが、用い方によっては、危険を孕んでいるとも考えております
 つまり、人間の”自由意志”における罪(現実世界では、”結果責任”と解した方がわかりやすいのかもしれません)も存在するかと思われますが、それとは異なる(or 超えた) ”何か”も存在していると考えております。さらに申し上げますと、(運命予定説の感も見られるかもしれませんが)人間理性の範疇を超えた”何か”でございます。かような”何か”の前では、「なんでもよい」と解すべきと考えております。もしそう解さなければ、人間は”検察家”集団(or 魔女狩り集団)になってしまうものと思われるから でございます。

> このほにゃららの部分が 案外大きな主題であるのかも知れません。
ひとえにわたしたちは 分かりたいのだと思います。しかも異言ではなく 預言すること・つまり解釈することが要請されています。でも分かりづらい。

 以下の愚見は、bragelonne様のご叱責を賜ろうかと存じますが、意見を述べていきたいと思います。
 この「要請されている」という考え方が、一種の”罠”になっていると思うのですが、いかがなものでしょうか? と申しますのも、”何か”が存在する信仰の世界では、「なんでもよい」と解すべきと考えているからでございます。

 《能天気》と言うにしても けっきょく分かりたいのです。そう言うことによって それはそれとして割り切ってしまっておいて ほかの合理的に考え判断しうる問題に当たりたい。でもそのときにも 《ただ、神の意志なるものをただ漠然と想い描くのみ》と言って捉えたいというこの主題が つねに顔を出しているのかも分かりません。

 意見を等しく致します。正直申しまして、かような発言をしている愚生自身も知りたがっているのは事実でございます。

> 《はからひ無き事 / 絶対他力》という言葉を用いれば いくらか分かったようにも思います。と同時に そういう場合にも思考やひとの努力をうっちゃってしまうということになってはいけないだろうと思います。

 もちろん、対策・検証可能な事柄におきましては、努力は惜しむべきではないと思います。ですが、検証不可能なこと、例えば「天使の羽ははどのような形をしており、マリアの前に現れたか?」等でございます これらにつきましては、確認作業が不可能(たぶん不可能かと思われます)なため、これ以上の議論は危険かと思っております。

> ▲ 私が世界を創造したとき おまえはどこにいたか。
☆ というヨブの《落ち》も どうなのでしょう? 

 「なんでもよかった」と申し上げたいところではございますが、ここでは、神の意思は明確かと思われます。従いまして、自律した自分の思うところを述べればそれでよかったのかと思われます。逆に”生きるのが辛い”と判断して、愚痴をこぼしてもよかったとも思っております。判断可能な場合におきましては、自律的に行動・発言すれば「なんでもよい」と思っております。

> ★ 「“苦しみ”や“不幸”、その原因・理由は我らひとなるものには真に理解できない。
 ☆ しかもそういう問いは 聖書をひもとく人びとには 必ず持ちあがる疑問としてあるでしょうね。
 変な意味で 前途洋洋なのでしょうか?

 おそらく、聖書を紐解くひとたちには、疑問としてもたれると思われます。ですが、前途がどのようなのかは不明でございます。

 ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2010-02-20 18:23:32

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 《神の意志は いったいどうなっているのか?》
 ★ おそらく、聖書を紐解くひとたちには、疑問としてもたれると思われます。ですが、前途がどのようなのかは不明でございます。
 ☆ ご指摘のとおり きわめて《変な》ことを言ってしまいました。
 ☆☆ 変な意味で 前途洋洋なのでしょうか?
 ☆ これは 《いい意味でも あるいはひょっとして変な意味でも 前途洋洋なのか? しかも前途洋洋などと言っている場合ではないかも知れない》と少なくとも言おうとしたのだと思いますが これなら何も言わなかったほうがよかったです。申し訳ありません。
 あぁ ひょっとすると 《〈いい意味で 前途洋洋〉と採っていれば 或る種の仕方で全体として 非思考のなぞにつながっているかも知れない》とは言えるでしょうか?

 もうひとつ わたしのへまです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆☆ 異言ではなく 預言すること・つまり解釈することが要請されています。

  ★ この「要請されている」という考え方が、一種の”罠”になっていると思うのですが、いかがなものでしょうか? と申しますのも、”何か”が存在する信仰の世界では、「なんでもよい」と解すべきと考えているからでございます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おっしゃるとおりだと思います。《預言として解釈しうることがらについては》 異言がではなく預言が《要請されている》。こう述べるべきでした。そう捉えれば 《なんでもよい》と解したことがらについて いくらかは仕分けすることができるかも知れません。
 パウロを参照してみておきます。
 ▲ (コリント前書14:1-4) ~~~~~~~~~~~~
 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。

 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。

 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。

 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は〔* 見えない〕教会を造り上げます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 さらにむつかしい主題です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・さらに申し上げますと、(運命予定説の感も見られるかもしれませんが)人間理性の範疇を超えた”何か”でございます。かような”何か”の前では、「なんでもよい」と解すべきと考えております。もしそう解さなければ、人間は”検察家”集団(or 魔女狩り集団)になってしまうものと思われるから でございます。
 ☆☆ (No.8補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ○ (No.7でのやり取りの中から):
 こころのまどを捉えた時に そこから《垂直的〈非思考〉》が得られるはずだ。何もない。何もないのだけれど そのなぞが得られる。ここから ふと そのときそのつど直面している課題や問題を前にしてひらめきも得られることがある。これを《水平的思考》つまりふつうの経験合理性で理解しうる話に述べなおす。
 こういう作業を重ねていくとよいと考えられる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これらふたつの文章を合わせて考えるに
 ★ 愚生も、この方程式は存在しているかと考えております。ですが、用い方によっては、危険を孕んでいるとも考えております。
 ☆ と確かになるようなのです。

 こういうふうに考えられませんか?
 パウロの書簡は 共観福音書の解釈として預言である。たとえばアウグスティヌスの文章は パウロの解釈として預言である。しかもまだまだ 非思考にかんする言葉で述べられているところがある。それに時代も違えば民族性などからの生活習慣とその思考様式も違う。
 これを できる範囲で現代語に解釈するという預言は 必要は必要だと見る見方も成り立つかも知れない。むつかしいでしょうか?

投稿日時 - 2010-02-20 19:27:28

ANo.12

anima mundi
は「人間の魂」
という意味にとれます。

あるいは「地上にいる生命」と訳せます。

投稿日時 - 2010-02-20 17:22:19

お礼

 juyjuy さん ご回答をありがとうございます。

 えぇ なるほど。個人個人のたましいとの一体としてみれば
 ★ anima mundi は「人間の魂」 という意味にとれます。
 ☆ となりますね。

 ★ あるいは「地上にいる生命」と訳せます。
 ☆ おとぎ話でご返答しましょうか。
 ▲ (イザヤ書65:17-25) ~~~~~~~~
 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
 初めからのことを思い起こす者はない。
 それはだれの心にも上ることはない。

 代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。
 わたしは創造する。
 見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
 その民を喜び楽しむものとして、創造する。

 わたしはエルサレムを喜びとし
 わたしの民を楽しみとする。
 泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。

 そこには、もはや若死にする者も
 年老いて長寿を満たさない者もなくなる。
 百歳で死ぬ者は若者とされ
 百歳に達しない者は呪われた者とされる。

 彼らは家を建てて住み
 ぶどうを植えてその実を食べる。

 彼らが建てたものに他国人が住むことはなく
 彼らが植えたものを 他国人が食べることもない。
 わたしの民の一生は木の一生のようになり
 わたしに選ばれた者らは 彼らの手の業にまさって長らえる。

 彼らは無駄に労することなく
 生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。
 彼らは、その子孫も共に 主に祝福された者の一族となる。

 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え
 まだ語りかけている間に、聞き届ける。

 狼と小羊は共に草をはみ
 獅子は牛のようにわらを食べ、
 蛇は塵を食べ物とし
 わたしの聖なる山のどこにおいても
 害することも滅ぼすこともない、
 と主は言われる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 引用ばかりで ちょっと愛想無しになってしまいましたが。・・・

投稿日時 - 2010-02-20 18:48:35

ANo.11

また
観方を変えれば全体がもたれあいながら少しずつヨブ状態にあると観ることもできます。

他の死を以って自らの生を維持する
生物の多様性による食物連鎖などはそう観察され得ます。

投稿日時 - 2010-02-20 16:57:57

補足

つづきですね。

 何だか細かいところにこだわられて来ますね。今回は。

 ★ もたれあい
 ☆ 《甘え》は そういう言わば負の甘えもいくらでもあるのですが 健全な甘えもあると言うのです。
 ☆☆ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 甘えは 英訳すると dependence だそうです。ただし 親と子との あるいは母親と赤ん坊との一体感を言うとも言います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とにかく《自然なふるまい》を言う部分もあるようなのです。

 たとえば次を参照なさってください。
 ☆☆ (【Q:ひとは他人に甘えることができるか?】)~~~~~~~~
 (趣旨説明)http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5632631.html

 (α) ひとは他人に《甘える》ことができるか?
 (β) できれば それが《愛》と言えるか?

 次にしたがって 用語を確認してください。土井健郎:『《甘え》の構造』に拠っています。
 (γ) 親子だけは無条件に他人ではない。
 (δ) 夫婦も元は他人。兄弟は他人の始まり。
 (ε) 親子の間に《甘え》が存するのは至極当然なことである。
 (ζ) 親子以外の関係で相互の間に甘えが働く場合は すべて親子関係に準ずるか あるいはそれと何らかのかかわりを持つ場合と考えられる。
 (η) 義理と人情の概念を用いて 図式的に説明する。

  (η‐1) 甘えが自然に発生する親子の間柄は《人情》の世界。
  (η‐2) 甘えを持ちこむことが許される関係は《義理》の世界。
  (η‐3) 人情も義理も及ばない無縁の世界は他人の住むところ。
 
 (θ) 義理はいわば器で その中身は人情である。親子の間柄でも 親子の情よりも関係自体が重視される時は 義理として意識される。

 (ι) つぎは(α)および(β)を判定するための説明文です。(第二章 《甘え》の世界)

    親子の間には《遠慮》がないが それは親子が他人ではなく その
   関係が甘えに浸されているからである。この場合子供が親に対して遠
   慮がないばかりでなく 親も子供に対して遠慮はしない。

    親子以外の人間関係は それが親しむを増すにつれ遠慮が減じ 疎
   遠であるほど遠慮は増す。友人同士など 親子以外の関係でも ずい
   ぶん遠慮のない関係も存するが 日本人がふつう親友という場合は 
   このような友人関係を指すのである。

    要するに人々は遠慮ということを内心あまり好んではいない。でき
   れば遠慮しないに越したことはないという気持ちを誰しも持っている。
   それは日本人がもともと親子の間に典型的に具現する一体関係を最も
   望ましいものとして理想化するという事実を反映しているのである。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ヨブは そう簡単には絡めることがむつかしいと感じます。だから 《聖なる》という条件をつけたのですが これもまだ哲学の表現ではないようです。《もろ手を挙げて / 無条件で / バカみたいに》というふうにも説明できるかも知れませんが どうもしゃれにでもなりますかね。

 ★ 食物連鎖
 ☆ は生存の条件としての相互依存のようですね。

投稿日時 - 2010-02-20 18:20:02

ANo.10

こんにちは、bragelonneさん。

●―――――五十年百年も経つと…

「ここで会ったが百年目」 l(><)lキャー こわっ=3

「三十六計逃げるに如かず」♪≡≡≡ヘ(o^-^)ノダッシュ-☆
http://www.iec.co.jp/kojijyukugo/vo03.htm


● * ▲ ≪あらゆる苦しみから逃れることができる≫
 ☆ これは 苦しみの中にあって その影響は受けるが 
もはや左右されることがないと言おうとしているのだと思います。
 
些細なところに、ひっかかりをおぼえるんです。

≪あらゆる苦しみから逃れることができる≫

逃れる(のがれる)は、免れる(まぬがれる)じゃないのかと

escapeよりもsave

●言いかえると ひととの間で・しかも赤の他人とのあいだに 
もし《甘え》が成り立ったなら その一体感において 互いに相手の
苦しみや悩みを或る程度は感じることが出来て その影響も半減する
などということ これは ありですかね?

~相互依存という関係性~
http://www.counselingservice.jp/lecture/lec253.html


『Love yourself ~君が嫌いな君が好き~』作詞:ECO・JOKER 作曲:Tatsugoo
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND89024/index.html

Love yourself そう響き合う 二人奏でる 小さなNoise
信じれる愛育てて 君が嫌いな君が好き
くじけそうな毎日も 消えてしまいそうな夜も
空を超え聴こえてくる 遠く遠くほらこの胸に

【-子どもの心に響かせて-】
http://www.nichibun-g.co.jp/dotoku/michishiba/007/m070003.htm

投稿日時 - 2010-02-20 16:54:23

補足

 リトルキッスさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~相互依存という関係性~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ● 依存でも自立でもない新しい楽な関係へ
 
 「相互依存」というのはどういう状態なのかといいますと、お互いがそれぞれに自立をしていて、その上でお互いに依存もできるという関係性の状態です。
 相互依存の状態は、お互いに対等な関係で、依存の位置にも自立の位置にも自由に行き来ができるという、フレキシブルで楽な関係です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わるくないのですが(――そんなら 文句言うな!――) 次のごとく 《自然な感じ》のほうにこだわられてくるのです。
 ☆☆ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 甘えは 英訳すると dependence だそうです。ただし 親と子との あるいは母親と赤ん坊との一体感を言うとも言います。
 ざっくばらんに ほんとうのところはどうなんですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この自然な一体感という感覚は 《自由な相互依存》の中に含まれるのか? それとも全体として《一体感》を帯びつつ その中で互いに自由に自立もし合うし依存もし合うというのか?
 どうもあとのほうの解釈が ぴったり感があるのですが どうでしょう? どう思われますか?

 ★ 【-子どもの心に響かせて-】
 ☆ わるくないのですが(――そんなら文句を言うな!――) どうも紋付き袴を着た席でお話を聞いているみたいにも感じます。いいことが述べられていると思います。おっしゃるとおり教育が大事だと思います。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 些細なところに、ひっかかりをおぼえるんです。

 ≪あらゆる苦しみから逃れることができる≫

 逃れる(のがれる)は、免れる(まぬがれる)じゃないのかと

 escapeよりもsave
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ぢゃあ わたしはその真ん中に立つことにします。悩みや苦しみから《免れる》というわけには行かないと思うのです。なまみの人間なら。
 さりとて 《逃れる》というのでは 何だかおしまいまで鬼ごっこをしているような感じをも受けてしまいます。かくれんぼでもないでしょうから 苦しみをそれとして受ける 受けつつこれに影響されることはあっても もはや時として 左右されることは無くなる。と こういうふうですが どうでしょう?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「ここで会ったが百年目」 l(><)lキャー こわっ=3

 「三十六計逃げるに如かず」♪≡≡≡ヘ(o^-^)ノダッシュ-☆
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ そうかなぁ。あぁ でも《ときを超えて》と言うもんだから そうなってしまって。・・・逃げ足の速いこと速いこと。

投稿日時 - 2010-02-20 18:05:57

後は適当に絡ませれて
必要なものが引き出せるまで
愛想を尽かされて逃げていかないような工夫をすればいい。

打算的には



                               ´

投稿日時 - 2010-02-20 13:01:19

お礼

 ふうむ。
 ★ 打算的には
 ☆ ですね。

投稿日時 - 2010-02-20 17:47:57

イデア界は個に付随するそれぞれの間で現実と程度の差こそあれ乖離した理想世界ととらえられます。
けれども
同じものを見ていても他者同士は同じようにそれを認識しているとは言えないし
その外界をどう捉え加工し再構成しているかも個によって異なると考えられます。
その違いを図面化や言語化することで共感性や修正され共通概念化が行われることができると考えられます。

それぞれのイデア界は個々が個別に単なる独立した夢想の理想社会を描いているということばかりでなく
現代に顕現化してい諸々の問題を解決させられるものを介護や農業といった今必要だけれども担い手の確保がうまくいっていないような職業に身を置きそれを通し体感し
内包する問題やどうしたらよくなるかを考えながら進めば
イデア界に構成される国家像は単なる現実から乖離した個の夢想するユートピアとはならないでしょう。
人的資源の観点からもただ金を用意すれば解決されるものではないし
経済的観点からいっても必要なだけ湯水のように湧いてくるわけではない。
ではどうするか。
社会との折り合いの中でヨブが生きていく上で求めるものとは何であったか。

少子化対策も含め成長を見こめる開放系社会
そこには精神障がいに対する対策と受容性を内包し
現代日本の教育における課題に対する無問題化も含まれる。
といった限りなく現実に近い理想社会像が構成される時もあると考えられます。

これは宮大工が頭の中でモデルを演繹的に拡大してものを造りだすのではなく
仕事がない時は鍋のふたを黙々と造り続け乾燥と湿気の繰り返しの中、木材という素材の部分と切り出し方と経年変化をの状態を体で覚え染み込ませる。
自分の体で測り材料と一体になるようなバカになれるものが結果的に良い宮大工となって1000年持ち堪えうる宮を造る宮大工になることができると言っていたことと同じような意味を持つといえます。

聖なる甘えとは界において
ヨブをダシにして
そのやり取りから
衆目のそれぞれの立場においてそこから何かを見出す行為というということができます。
自分では何もせず
タダ成果を得る。
人の自由意思の好意から回答を寄せるという
たとえばこの場において

聖なる甘えを拡大すれば
別にヨブの主張する社会でもいいのです。
ただ経済破綻するだろうというだけ。
そうなったらその時に又考えればいい。
能天気に待っていられる。

社会がどう転んでも苔は倒れにくいですし
社会が保障する立場で寝転んでいて人が考えてくれるのを待っているだけでも
最後まで生き延びられる人間にとってもそういうことはさして問題ではない。
人任せに
希望しますという言葉と思いやりの言葉、感謝の言葉さえ携えていれば
取り敢えず社会から大きく乖離することなく生きていける。
あとは何に有効に作用するのかは不明ですが
必要に応じて祈るという行為が必要だと思ったら祈ればいい。
それがどのように効果があるかどうかは別。
能天気に

ね?

誰が一番得をするのか
そんなこともどっちでもいい。
タダなんだから
自由意思なんだから
厭だったらここを去ればいいんだから
そんな心得でここで何かが拾えたらメッケもん
てなもん

投稿日時 - 2010-02-20 11:50:30

補足

 ふむふむ。2012522 さん ご回答をありがとうございます。

 まづ反応としては 直前の二つのご回答へのわたしの返答をも参考にご覧になっていただきたいと思います。もしくは その二つのやり取りを受けて このたびのご投稿になったのかも分かりません。分かりませんが これらは互いに対応しており互いに応答していると思います。

 ☆☆ (No.6補足欄) 変な意味で 前途洋洋なのでしょうか?
 ☆ これが これからの船出にあたってまづは思いに現われます。そういう将来への もうすぐにでも踏み出すかのような施策をも出してもらっているようですね。職人のごとくに地道にやれとも。それぞれの立ち場で 介護でも農業でも教育にでも ヨブの《非思考》をみづからの胸に抱き 思索しつつあゆみなさいと。
 ○ (No.7でのやり取りの中から) ~~~~~~~~~~~~~
 こころのまどを捉えた時に そこから《垂直的〈非思考〉》が得られるはずだ。何もない。何もないのだけれど そのなぞが得られる。ここから ふと そのときそのつど直面している課題や問題を前にしてひらめきも得られることがある。これを《水平的思考》つまりふつうの経験合理性で理解しうる話に述べなおす。
 こういう作業を重ねていくとよいと考えられる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ 自分では何もせず / タダ成果を得る。
 ☆ これは そりゃあいまこの質疑応答の場での仕事は そうなるかも知れないけれど そういうものぢゃないでしょう。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 聖なる甘えを拡大すれば
 別にヨブの主張する社会でもいいのです。
 ただ経済破綻するだろうというだけ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはまだわたしにはっきりしないのです。
 (1) 《聖なる甘え》が 言いだしっぺなのにまだ うまく展開し得ません。
 (2) ヨブの《その後》は また経済的にもうるおうようになったというぢゃないですか。だから 分かりませんよ。《経済破綻する》かも分かりません。

 ★ 祈り
 ☆ にはうまくお応えし得ませんでした。どういう観点から受け止めればよいか 定まりませんでした。あしからず。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 自分では何もせず / タダ成果を得る。
 人の自由意思の好意から回答を寄せるという
 たとえばこの場において
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この個所がいやに気になりますね。ヨブはそんな料簡ではないでしょう。

 つづくご投稿がありますね。

投稿日時 - 2010-02-20 17:44:46

ANo.7

「ぼくなんか生まれてこないほうがよかったんだ」
といつだったか Yさんが引用してくださり、http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4789406.html No.17
死んだもののように生きることをキリスト教のうちに嗅覚的に指摘するキルケゴールでしたが、
ヨブが延々くどくどと訴える嘆きというのもまた、「生まれてこなければよかった」でしたね。

死んだもののように生きる実感のなかにいる、うつ病患者の話に横滑りしますと、
かれらが過ぎたことを忠実に語ろうとするのに対し、
どの薬でどの作用を掛け合わせようかという治療の視点は、過ぎたことの是非とはまったく別の次元にあります。
神経がべつの働き方をするようになれば、その脳は、切望した死をけろりと考えなくなり、
感情を揺らした過去をまるで違った写真のように眺めるようになる、とわかっていますから、
患者が自分自身そのものであると一体視する自分史に、医者は、ほとんど頓着しないことになります。
そうはいっても、理想の脳、理想の身体などは、しょせん近代の西洋医学が絵に描いたところの餅、
めいめいの生命が運ばれている器の中に、器の都合を無視してかくあるべき脳や身体などが在り得るはずがないです。
機能主義のこの夢想は、物質を離れて、完全無欠の機構というものに着地したいのかもしれません。

ところで金は、物質としては、遷移金属といって腐蝕しない珍しい性質があり、また、触媒作用がたいへん高いものです。
変化せず不滅であり、何かがすばやく化合し作用するところとなるのです。金それ自体は影響を受けないのに。
つかまえどころがなくユートピア的です。金は、場を指すにも完全な機構を指すにも比喩となるのではないでしょうか。
ひとびとの心身の肉体の枷を見ると、わたしは、さまざまな化合や作用から解かれれば金があらわになる気がするのです。
それは、ロボトミー手術でも得られないし、薬物でも得られないし、物質的にはどうにもできないところに位置しています。

話をヨブに戻さないといけませんね。
ヨブは、正しいのにこんな目に遭う自分など、なければよかったとは考えますが、
神が去ったとは考えなかったようなので、その一点でアウグスティヌスの説法が成り立つでしょう。
ヨブが受けた最大から二番目の試練は、友人たちによる批判だと思うのですが、
友人たちにつられて抗弁した挙句、最後にあらわれた神に、
神は正しくないと言うのか、
と檄を飛ばされるところが最大の試練のような気がしています。
自己主張の口をつぐみ、神を畏れる、そのヨブの姿勢を聖なる甘えとおっしゃるのかどうか知りませんが、
ヨブがどうであったか、また、ヨブが災難を受け批判を受けてどうすればよかったか、
という水平的思考の次元から、
垂直的思考へ切り替わるところが---本来の垂直的思考に引き戻されるところが---、不思議な物語だと感じます。
このあたりがうつ病の話とつながるわけですが。
書き散らしまして。。。

投稿日時 - 2010-02-20 04:20:56

補足

 amaguappa さん おはようございます。ご回答をありがとうございます。

 つぎのご指摘に全面的に同感いたします。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ヨブがどうであったか、また、ヨブが災難を受け批判を受けてどうすればよかったか、
 という水平的思考の次元から、
 垂直的思考へ切り替わるところが---本来の垂直的思考に引き戻されるところが---、不思議な物語だと感じます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この中核をめぐって 同感するところと違和感があるところとを仕分けていきます。

 ★ このあたりがうつ病の話とつながるわけですが。
 ☆ と見ることになるというのでしたら その見方に沿ってわたしも考えてまいりますが まづキルケゴールは いただけないとわたしは思っております。
 《わたし》をとらえるための思索としてきっかけになると受け取りますが かれの得たところのものはそのままでは何とも消化しづらいのではないでしょうか?
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 死んだもののように生きることをキリスト教のうちに嗅覚的に指摘するキルケゴールでしたが、
 ヨブが延々くどくどと訴える嘆きというのもまた、「生まれてこなければよかった」でしたね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 試練に遭いこれを受け取って まるで屍のごとく生きているヨブが 《こんなことなら 生まれて来なければよかった》と叫ぶ(あるいは愚痴を言う)のは 先のご見解のなかの《水平的思考》の世界だと思います。ふつうに言って 経験世界ということだと考えます。
 で この相対的な世界にあたかも《絶対》が顔をのぞかせたと見るかのごとくわがこころに窓というまぼろしを捉えるのが 《垂直的思考》でしょうね。つまりはその窓は絶対というのですからすでに《非思考》という想定の領域であり この非思考の窓を受け止めつつ思考としても人間の水平的思考の言葉に表現していく。こうなると考えます。

 ただ――ただですね―― ヨブ記の記者は すでにいの一番に ヨブは《垂直的〈非思考〉》をそなえた人間だったと種明かしをしています。《神を畏れ》というところですね。それだからこそ 《試練》だということにもなるのでしょうし。
 ★ ヨブは、正しいのにこんな目に遭う自分など、なければよかったとは考えますが、 / 神が去ったとは考えなかったようなので、
 ☆ となることにうなづけるはずです。 
 ですから わたしには この《非思考の窓》を持つこと このことが《金》にたとえられていると思えます。ですから
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 金それ自体は影響を受けないのに。
 つかまえどころがなくユートピア的です。金は、場を指すにも完全な機構を指すにも比喩となるのではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というご指摘については 特に《ユートピア的》という側面については いまひとつ現実的ではないように思います。非思考のまどをそなえているというのは ひとの《自然本性》を言っているのですから つまりまぼろしの内に現実であると言おうとしているのですから それは外から何かをつけ加えるのではなく そうではなく すでに備えているという境地の問題だと考えます。《つかまえどころがない》とは言えると思いますが。

 ですから キルケゴールにしても精神分析にしても 言ってみれば《入門即卒業》だとわたしは思っています。
 ◆ ( yさんの回答No.17) ~~~~~~
  キリスト教ー死ぬことの教えー
 同じようにまたキリスト教の用語でも
 死は最大の精神的悲惨さを表すことばであるが、
 しかも救済はまさに、死ぬことに、
 死んだもののように生きることにあるのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは ですから 《垂直的〈非思考〉》を 精神の内に捉えうると思って《垂直的〈思考〉》として経験世界の言葉と現実に置き換えようとしたものだと考えます。《たとえ》であり たとえに過ぎないとわきまえていればいいのかも知れませんが 総じて想像の産物だと考えます。
 ですから 垂直的非思考と水平的思考とは 逆の順序で《文字は殺し 霊は生かす》という問題なのではないでしょうか?
 文字が殺す場合 うつ病にしてもそのほかにしても休息を必要とするほど《試練》に遭っていると捉えます。

投稿日時 - 2010-02-20 06:37:15

お礼

 

 ヨブの友人たちに関しては かれらは総じて言って因果応報の考えに拠っています。その水平的思考においては ヨブも同じようだと見る向きもあるかも分かりませんが――事実 そういう叫びを叫び愚痴を吐いていました―― でもヨブはそのかれらの或る種の仕方で合理的で倫理規範的な見解にも従いません。境地がそれをこばむのだと思います。感性がと言ってもいいのかも知れません。

 ◆ 第二の死 
 ☆ は《精神的な死》のことではないですよ。《第一の死》は 生まれたときからすでに死に向かってあゆんでいるというときの死であり それは水な元としては《うそをつく》ことから来ていると思います。思いますが 《非思考のまど》のもとにあって人はこの《第一の死》が死ぬと言われています。つまり単純に復活です。

 死もけっきょくは 身体および精神のであると言えるとするなら この死が死ぬという再生も 身体かつ精神の復活です。非思考のまどが 霊であり このまぼろしが――もともと自然本性として――そなわっているという物語です。

 ところが この第一の死が死ななくなる人間がいるとも言われたようなのです。これが第二の死であり永遠の火の中にいるという死だと言います。究極の悪とも言われますし。
 あるいは 自由意志にさからう自由を行使し尽くした成れの果てとでも言うのでしょうか。おのれの心にしたがう自由意志を善とすれば これに逆らうことによって善がすべて損傷を受け(つまり 自分で損傷させ) まったく欠如した状態になることだと言います。
 ぶたはきれいになったと思ったらすぐさま泥の中に寝っ転がると言います。われに還って善(うそのない自由意志のおもむくところ)を取り戻したと思ったら ただちにこの自由意志にさからい 次つぎに善を欠如させていくその成れの果てだと言います。

 おわかりのように荒削りのままです。欲張っていろんな主題を短く取り上げました。どうでしょう?

投稿日時 - 2010-02-20 06:54:58

 こんばんは、お世話になっております。Hidocchiです。

 ヨブ記と申しますと、bragelonne様の18番でございますね。愚生もご意見を賜りたく、愚見を申し出た次第でございます。

 まず、ヨブ記を呼んで、愚生が感じたのは、以下の主イエスの言葉でございます。

ヨハネによる福音書9章1から3節
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

 つまり、“因果応報”的な考え方はしていない、ということでございます。
 従いまして、bragelonne様の“能天気”に近いものがございます。愚生の稚拙な言葉で申し上げますと、「“苦しみ”や“不幸”、その原因・理由は我らひとなるものには真に理解できない。ただ、神の意志なるものをただ漠然と想い描くのみ」ということでございます。

 私事でございますが、後1週間で仕事の目処をつけるよう命じられております。また再び“対話”を楽しませていただければと切に願っております。

 それでは、ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。

投稿日時 - 2010-02-19 18:34:53

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 ヨブは好きですが 《十八番》と言われると あぁそう言えばまだまだ読みこんでいなかったなぁと反省しきりです。

 ★ つまり、“因果応報”的な考え方はしていない、ということでございます。
 ☆ これはつくづく思います。
 自分の仕事や生活において たとえ思うように行動できなくてもそこに事柄の一つづつをめぐって 自分の考えを――弁明としてでも――形作っておくというとき それは確かによき行ないをしようということですから 考えてみれば そこでは善因善果を少なからず思っているということはあるのかも知れません。最善を尽くしたというかたち あるいは次善の策を用いざるを得なかったのだと考えておくかたち これらは あるいはひそかに悪因悪果に陥らないようにという思わくがはたらいているのかも知れません。

 ですが これは この経験世界における一つの方程式です。この方程式によって 生活やあるいはおのれの人格を律しているわけではないのだと思います。じっさい善行が報いられないという場合や事例を知っているわけですから。
 人びと一般にとっては 良心的な人たちの間にも この因果応報の考え方はかなり浸透しているように感じます。ひとこと愚痴のごとくにのべました。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 従いまして、bragelonne様の“能天気”に近いものがございます。
 愚生の稚拙な言葉で申し上げますと、「“苦しみ”や“不幸”、その原因・理由は我らひとなるものには真に理解できない。ただ、神の意志なるものをただ漠然と想い描くのみ」ということでございます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 考えてみるに このほにゃららの部分が 案外大きな主題であるのかも知れません。ひとえにわたしたちは 分かりたいのだと思います。
 しかも異言ではなく 預言すること・つまり解釈することが要請されています。でも分かりづらい。

 《能天気》と言うにしても けっきょく分かりたいのです。そう言うことによって それはそれとして割り切ってしまっておいて ほかの合理的に考え判断しうる問題に当たりたい。でもそのときにも 《ただ、神の意志なるものをただ漠然と想い描くのみ》と言って捉えたいというこの主題が つねに顔を出しているのかも分かりません。

 そこで《甘え》を持ち出してしまうと たしかに開き直りであったり思考をなぞという神棚に預けておくことであったりするかも知れません。
 なかなか厄介なように思います。

 《はからひ無き事 / 絶対他力》という言葉を用いれば いくらか分かったようにも思います。と同時に そういう場合にも思考やひとの努力をうっちゃってしまうということになってはいけないだろうと思います。
 ▲ 私が世界を創造したとき おまえはどこにいたか。
 ☆ というヨブの《落ち》も どうなのでしょう? 
 ★ 「“苦しみ”や“不幸”、その原因・理由は我らひとなるものには真に理解できない。
 ☆ しかもそういう問いは 聖書をひもとく人びとには 必ず持ちあがる疑問としてあるでしょうね。
 変な意味で 前途洋洋なのでしょうか?

 とりとめのないおしゃべりになってしまいました。ご容赦のほどをお願いいたします。

投稿日時 - 2010-02-19 21:13:59

論語読みの論語知らずという言葉もありますが・・・

キリスト者と思ったらそうではないの?

心がないのなら少なくとも祈りの重要性は認めたほうがいいですよ
(めんどくさいのかな?)

カトリックの偽書だとおもいますが・・・
悪が何を恐れているかといえば、この手紙にも記載されているとおりです。

ご確認ください。
ヤコブの手紙 5.15です。

祈りで祝福されあうこともなく、
歌を歌うこともない自分に早く気づいてください。

前後関係を確認しよく読むことです・・・

行為の伴わない信仰は、
魂のないからだ。
心のない祈りと同じです。

祈りが行動の無限です。

投稿日時 - 2010-02-19 08:12:36

お礼

 わたしはおまえを知らない。

投稿日時 - 2010-02-19 09:14:52

あなたがおこなっていることは、
目には目を歯には歯をですよね・・・

キリスト教ではなんとかたっているのでしょうか?

*また墓穴を掘ったのかしらネ・・・

「マタイ5.46」 ご参照ください。

またもや おじじさまの「やっていること」が詳らかにされているようです。

自分のことを好きな人を好きになるというのは、
何かそこから利益を得たいという邪な下心があるからです。

貴方は関所の関税役人なのですか?
(もちろんそれはそうなのでしょうが・・・)

投稿日時 - 2010-02-18 23:51:09

お礼

 ▲  悪霊どもも、信じておののいている。 (ヤコブの手紙2:19)


 ▲ なぜなら 罪に対して死ぬということが 恩恵の働きだからである。
 (アウグスティヌス:ローマの信徒への手紙選釈 [30] 岡野昌雄訳)

投稿日時 - 2010-02-19 06:37:21

おじじさまが「まるこ」とは・・・

不安で語る勇気もでないはずなのですが?

通読の機会はなかったのでしょうか?

自滅しないことをお祈りいたします。

13.31-34に目を通してみなさい。

形式が大事とはひとつも書いていない。

あなた自身の存在は、12節にかたられています。
市場の法則にとりこになった経済学者(経営専攻)です。
挨拶ばかりしていないで内容のある質問をしなさい。

投稿日時 - 2010-02-18 23:13:56

お礼

 ▲ (マタイ22:14) 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。

投稿日時 - 2010-02-18 23:26:46

序論)
東京の中心は何処?と聞かれて、「得られる答え」が、人間の本質を一言で言い表すということにきづかない唯物論者たち。

心性の当体とは、心が、血管血液リンパ腺動脈静脈を離れて存在しえず、中央のない総体としての中心を表現しているという大前提があります。

心臓の中心とは何か?

それは存在しない。

しかしそれを、無思考という言葉で表現するとすれば、学問的でないというほかはありません。

都市工学を見ても明らかです。都市は、流通経路・個々の建物・生産様式・自然の動的発展を離れて存在することはできない。

都市崩壊の原因は何でしょうか?
その原因は、自称預言者(海外協力隊)という「病原体」の爆発的繁殖です。

センターのセンターは、存在しない
ということを認識すれば、唯物論的「無・思考」は、成り立ちません。
「無と思考」を「無思考(造語)」と混同するべきではない。
言語の伝説性=神話性を悪用するべきではないでしょう。

補足として、センターのセンターは、自分であると答えるのが、
他人をだまくらかす狂信者という事ができます。

序論はヨブの地獄絵です。

本論)

階層分析手法=Taxisというものがあります。

ほむべきは、
実際に起こったことでしょうか、これからおこることでしょうか。

御命は、いつのことでしょうか?
時勢は、奪い与え御心の通りに振舞うというプロセスと同時です。

伝説的神話的表現に時間は存在しません。表と裏のないメビウスの輪です。

存在するのは、許された悪であり、試されたヨブである。

結論)
祈りをささげないものに
時を達観することが出来ないというのが、この文章の結論です。

PS
預言者を自称するなら
少なくとも手下の行動に責任をもって対処するべきです。

投稿日時 - 2010-02-18 21:09:11

お礼

 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
   あなたがたはこのわたしが飲む杯を飲むことができるか。
               (マルコ10:38)

 あなたがたは最頂点を望んでいるが 低い謙遜の杯を飲むことができるか と言われているのです。
 ですから 主はとにかく単に《自分を捨て わたしに従いなさい》(マルコ8:34)とは言われないで

   自分の十字架を背負って わたしに従いなさい。(8:34)

 と言われた。

 (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 説教96〔3〕 茂泉照男訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2010-02-18 21:59:08

ANo.1

こんばんは、bragelonneさん。

●これを哲学のことばで表わして欲しい。

またむつかしいことをおっしゃる。

【温故知新】
http://www6.ocn.ne.jp/~kenzitmr/page036.html

火を入れて、不純物を取り除く…で、パットおもいつくのが

【たたら製鉄】
http://www.jikkyo.co.jp/downloadcontents/1450905908.pdf

10.おわりに(今後の取組)
たたら製鐵や古式鍛造技術は,鉄と地球環境
の未来について大きな可能性を秘めている。
現代の高炉製鉄は,大量の鉄を低コストで生
産することが可能であるが,化石燃料を超高温
で燃焼させるので,多量の熱と二酸化炭素を放
出し,地球温暖化の要因の一つとなると考えら
れる。それに対し,たたら製鐵は比較的低い温
度で操業を行い,燃料も炭という「バイオマス
燃料」なので,この技法を発展させて化石燃料
に頼らない製鉄の量産技術を確立すれば地球温
暖化への影響を抑えることが期待できる。
このように,古来の製鐵・鍛造技法は,ただ
単に懐古的な技としてではなく,「技術の温故
知新」として未来に繋がる可能性を秘めている
と信じて,今後も研究を続けていきたい。

【「水辺と森と縄文人-低湿地遺跡の考古学-」】
http://www.rekihaku.ac.jp/kikaku/index92/index.html

【草木のバイオマス燃料化の直接合成に世界で初めて成功】
http://www.nodai.ac.jp/news/category-detail.php?new_id=1010





梵我一如をウィキペディア(Wikipedia)でひいてみた

概略の中に――――――

ヴェーダにおける究極の解脱とは、この個人の実体としての我が、
宇宙に偏在する梵と同一であることを悟ることによって、自由になり、
あらゆる苦しみから逃れることができるとする。

≪あらゆる苦しみから逃れることができる≫


ほんとかな?

苦しみから逃れた先になにがある

人は見果てぬ夢を追い求める性をもつ

過去・現在・未来と時制を変え

現実不可能なことを可能へとむかわせる


時をこえて 君を愛せるか ほんとに君を 守れるか

投稿日時 - 2010-02-18 21:01:19

お礼

 リトルキッスさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 時をこえて 君を愛せるか ほんとに君を 守れるか
 ☆ ひとを愛す・守るは 人間の能力の内にあるか? ですね。しかも《時をこえて》ですか。

 梵我一如ではありませんが――ちなみに プラトンでは人であるわたしに対して 《世界霊魂 anima mundi 》と言うそうです―― そもそも初めに あなたを愛した を想定するとよいそうですよ。
 どういうことか?
 愛する前に しかも出会う前に すでに一度愛した と想定するのだそうです。五十年百年も経つと その愛はうすれるかも知れません。薄れないかも知れません。

 すでに今は遅れてやって来ているのです。いまやっと再会したと見なすわけだそうです。

 ○ 内田樹:私家版・ユダヤ文化論 2006
 ☆ これを読んでわたしが編集して上のように展開しました。

 ☆☆ 甘え あるいは 聖なる甘え
 ☆ このことばは どうも評判がよくないようです。どうですか? もしよろしかったら 忌憚のないご見解をおしえてください。
 甘えは 英訳すると dependence だそうです。ただし 親と子との あるいは母親と赤ん坊との一体感を言うとも言います。
 ざっくばらんに ほんとうのところはどうなんですか?

 * ▲ ≪あらゆる苦しみから逃れることができる≫
 ☆ これは 苦しみの中にあって その影響は受けるが もはや左右されることがないと言おうとしているのだと思います。
 言いかえると ひととの間で・しかも赤の他人とのあいだに もし《甘え》が成り立ったなら その一体感において 互いに相手の苦しみや悩みを或る程度は感じることが出来て その影響も半減するなどということ これは ありですかね?

投稿日時 - 2010-02-18 21:50:16

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