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解決済みの質問

name と名前 は同じ発想か?

 1. / n / という音素に注目します。しかもこれに《同定相》という意義素を想定してみます。

 2. 《そのものを同定する》から 日本語《 n-a 》あるいは 英語《 n-ame 》は 《名》という語義を帯びる。

 3. 《数量の同定》として 《 n-e =値》あるいは 《 n-umber =数》であると。

 4. 同定相が 同時にみづからの対極の《否定相》の意義をも帯びるという見方を提出します。
 或るもの( A )の同定は そのものでないもの(非A)を規定することにもなるとき 仮りにその非 A をまちがって同定してしまうことになった場合 そのかぎりで元の A については 《否定》の相を帯びさせます。
 これは非合理的ですが 言語の変化としてありうることです。《留守》は 外へ出かける人( A )の代わりに家にいて守る人( B )を言ったものですが そうではなく非合理的に意味が変化を受け 《外へ出かけた状態のこと(つまり≒非 B つまり元に戻って≒ A )》を言うように変化しました。かくして A を否定する意義をも持ちます。
 すなわち 音素 / n / は 同定相のほかに《否定相》をも帯びた。
 《 na な》:否定命令=禁止法。《 nu ぬ》=否定(打ち消し)法。および 英語《 no ・ not 》といった否定辞に現われます。

 どうぞ自由なご見解をお寄せください。

投稿日時 - 2010-03-18 13:10:54

QNo.5761266

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

音韻と意味はつながってると思います。
文字ができてから、発話しない読みが普及して、意味重視みたいなところもあるかもしれませんが、音は大事だと思います。演奏と楽譜の違いみたいに、音はことばの主体であるとおもいます。(文字を軽んじるわけではないですが)
なごやかなね、味わいみたいなものがあるんじゃないですか。
漢字の形や、音の感じを通して、語るべき言葉を吟味して選ぶのはもっともなことだと思います。
野放図に述べまくるより、ずっといいです。

ところで、名演奏家の音楽が、他の演奏家とは何かが違うのは、楽器の違いでも、演奏する楽曲の違いでもなく、その人の、芸術家魂からの演奏が、観客の心に響き入ってくるものだからです。
名演奏家は決して自身の奏でる音楽に酔いしれることはないでしょうが、酔いしれる以上に微妙な調べを奏でます。

人の話す言葉も、いくら言葉巧みに工夫を凝らしたとしても、いくら複雑高邁な論理を展開しても、また、ミューズも驚くような韻律を包含していたとしても、そしてそれらにさらに磨きをかけて、人類の言語と言う言語をマスターし尽くしたとしても、そこに話者の心に語りかけるものが込められていなければ、その言葉は、博士の言葉であって、本当にみんなが聞きたいと思っているその人自身の言葉ではないのだと思います。

詩人は韻律で語ります。博士は論理で語ります。しかし人は、種々の想いで語るものなのです。人が本当に聞きたいのは、ミューズの言葉でもなく、ロゴスの言葉でもなく、人のことば、それもあたたかい思いやりの言葉なのであるからです。
そして、種々の想いでは語りつくすことのできない心底の想い(=ほんとの気持ち)、それが、真実の人生に伴う真実の言葉(真実の在り様)であるのではないでしょうか。

私は、やっと共通の主題にたどりつけたでしょうか。
 

投稿日時 - 2010-03-21 01:57:05

お礼

 なるほど。
 ★ 楽譜と演奏の違い
 ☆ (順番を替えましたが) を掲げていただきました。
 ★ 詩人は韻律で語ります。博士は論理で語ります。しかし人は、種々の想いで語るものなのです。
 ☆ その作品における実際の韻律はすでに《演奏》に成っていますが あるいはまた論文における推論の整序(その仕方)にも《演奏》がかかわっていますが そうなのですが しかも 人間よ 日常の生活において仕事において 人としての思いを――決して遠慮することなく―― 語れ・語り明かせ。というところでしょうか?
 ★ そして、種々の想いでは語りつくすことのできない心底の想い(=ほんとの気持ち)、それが、真実の人生に伴う真実の言葉(真実の在り様)であるのではないでしょうか。
 ☆ わたしの乱暴なうたい継ぎとしては ええいっ面倒だ 全部うたい上げてしまえ ともがら・はらからの間で 何を遠慮することがあるか! スサノヲにとってアマテラスは 姉さんではないか。政治家としてはおざわいちろうは要らないのだ 何で言えないのか? さもなければ いちろうよこころをぜんぶ入れ替えて共同自治について仕事するようにせよ だが まづは反省ぢゃよ。――という真実のことばも なおあのわれらがこんなにもうめきつつあえぎつつ問い求めているあのことば あのしらべ あの泉の水 はなお遠い。――もののあはれとは なんなんだい?

 てるてるさん ご回答をありがとうございました。お早うございます。


 ★ 漢字の形や、音の感じを通して、語るべき言葉を吟味して選ぶのはもっともなことだと思います。
 ☆ はーとまいんどさんのご所論を承けていただきました。


 ★ 音韻と意味はつながってると思います。
 ☆ これも継いで行きたいと思います。もしそうだとしたら 世界がそうではないという恣意性の説なるトンデモ科学にまいってしまっていると言わねばならないからです。

投稿日時 - 2010-03-21 09:36:35

このQ&Aは役に立ちましたか?

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回答(59)

ANo.59

質問者さん的には、この質問では、(特に私とのやりとりにおいては)もう満潮な感じですか?

もし、どこか足らぬところがあれば、引き続けられますし、いまのままでも、十分満足であれば、{私の方もずいぶん補足していただいたし、質問者さんの世界観を聞けてとても満足しています。自分の整理にもなりました^^。}とりあえず、私からは、また機会を得れたら登場したいと思うのですが、この段階では、ROMに入るという形になってもよいかと思います。質問者さんとしては、引き続き他の回答を待つと言うこともできると思います。

按配はOKですか(^^)

投稿日時 - 2010-05-08 13:52:51

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 分かりました。
 主題の問い求めや対話に もうこれでよいということは――ひと段落するということはあっても―― ないと思います。でもたとえば めりはりをつけるというかたちも 案外大事で たとえ再び三度び同じ主題で話し合うことがあるとしても ひとつのステージを終えておくことも案外よい結果をもたらすと思います。

 この質問は 題目が言語にかんすることですから 広い話題を扱い得ます。それに閉めるのはいつでもできますし ひとり一度に五件の質問が出来ますので 開けておいてありました。
 でも そうですね。もし主題を引き継ぐなら あらたな出発をするかたちを取ったほうがよいかも知れません。回答者や訪問者にしてみれば そういう感覚がやりやすいようにも思います。

 ほかのみなさんからの投稿も途絶えましたので それでは ひとまづ閉めることにしましょうか。今夜にでもそうします。
 はーとまいんどさんや ほかのみなさんともども ありがとうございました。この主題にかんしては そうとうえらそうに述べていると思いますが そこのところも ふむふむ そうかいといった程度に取り扱っておいていただければありがたいです。
 それでは。

投稿日時 - 2010-05-08 16:36:48

ANo.58

そろそろ再開(かるめに)しましょうか。

終わりからはじめるのお話なんですが、終わりから始まり、そして終わっていると言うことについてはどうお考えになりますか?

不動というのは完成です。動と言うのもまた、完成です。

つまり、明と暗が同時に完成であるようなものです。

生と死が、同時に完成してあるようなものです。

永遠を動の完成と言い、静止を不滅の完成と言えますか?

真無限とは、終わりも無く始まりも無いことであり、永遠の事でもあると思います。

また同時にこれは時ではなく存在であり、その存在の背後には無が前提としてあるようにおもいます。

真とは、言葉にはできないものであり、知ることのみができるものであって、語ることはできない。

そのように私は思うが、それで十分なのではないかとも思う。
また、求めるとはそういうことなのではないのかとも思った。

如何だろうか。

投稿日時 - 2010-05-08 02:53:31

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 えぇっとですね。
 わたしの体験から これでいいと思うところを述べます。

 ★ 終わりからはじめるのお話なんですが、終わりから始まり、そして終わっていると言うことについてはどうお考えになりますか?
 ☆ この行き方については 理論としては 例の非思考の問題としてありますが それ自体は 単純なことなんです。
 ○ わたしは問い求めています。何かを得たい もしくは 何かになりたい あるいは このままでよいから言わば《たゆたえども沈まず》というごとく つねにやわらかくありたい。
 ○ このとき それが何であるか分からなくても その問い求めているもの(状態・境地)を いま・ここにあると捉えて(見なして)出発する。
 ☆ ただこれだけのことなのです。

 ★ 終わりから始まり、
 ☆ つまり終わりから始めるのですが ただし
 ★ そして終わっている
 ☆ というのは 微妙です。
 ○ その出発のときには 基本的にたしかに《終わりつまり目的が いま・ここにある》と見なしていますが それはそのまま同時に 動態です。過程です。わたしは 時間的な存在です。
 ○ 《たゆたえども沈まず》とも すでに初めに行く先を捉えていたはずです。あるいは そういう思わくは何もなかったとしても 《始める》というかたちだったはずです。
 ○ ですから 《終わっている》としても それを《始める》というかたちです。
 ☆ そして これだけです。まったくこれだけなんです。
 もしそれはおかしいということでしたら 
 ○ これらすべては わたしの非思考としておこなわれる。もしくは 非思考のもとにおこなわれる。
 ☆ というかたちです。

 どういうことかと言えば こうです。
 ○ わたしは 問い求めるものが何であるか分からない。何となく分かっている。なぜなら問い求めているということ自体は 実際のことだから。
 ☆ これでいいんぢゃないですか? つまりこれが 非思考です。そして この非思考のまま すでにその終わりから始める。

 ★ 真無限とは、終わりも無く始まりも無いことであり、永遠の事でもあると思います。
 ☆ 永遠であると思いますが 時間を超えている=経験世界を超えている だと考えます。
 したがって 終わりが有るか無いか 始まりが有るか無いかは 分かりません。分かるか分からないかが 分かりません。
 つまり 非思考は 単なる想定です。いえ 精確には 《真無限=絶対》が想定であり その想定された真無限とわたしとの関係として 非思考がみちびかれます。
 この四次元の経験世界を超えたところ という想定は 想定の中身は《分かるか分からないかが分からない》しろものですが 想定すること自体は 現実です。想定した時点で その真無限との関係が わたしに生じます。非思考として。あたかも心に窓があるかのような状態だと思います。
 想定ですから――想定から始まっているのですから―― 何もないのですが その窓がみちびかれたということは こころにあたかもその窓を開くかのような明け もしくは 伸びが生じているのではないか?
 いえいえ じつは もともと このような心の明けないし伸びが わたしの中で生じていた。もとからあった。と気づいた。だから そこから わざわざ真無限なるわけのわからない何ものかを想定し その想定に立ってわざわざ非思考という実際であると説明したに過ぎない。
 つまり 何のことはない わたしは――そして人間は―― もともと何かを信じている。
 《信じている》というふうに人間の言葉で表わすなら それはそこですでに《考える》の領域に入っています。つまり 思考です。経験思考です。しかも もとの心の伸びは 非思考だと捉えられます。《経験世界を超えたところ》だとは分かっているからです。

 ★ 真とは、言葉にはできないものであり、知ることのみができるものであって、語ることはできない。
 ☆ ですから 《真理 X 》は 真無限のことであり絶対のことです。これを言葉にするのは 仮りに代理させて表わすというかたちです。《かみ X 》と。 《真実 Y-Z 》は わたし( Zi )の主観真実( Y-Zi )のことであり 経験思考において妥当であると見なされたものごとを言います。《事実・歴史事実 Y 》について認識しさらには判断したその内容にかんして 《真実 Y-Z 》が持たれます。
 《事実 Y 》と《真実 Y-Zi 》とで 《現実》です。
 そして 想定を容れれば 《現実》は 《わたしの世界観( X-Y-Zi )》のことです。つまり非思考が 経験思考に影響をあたえています。《信じるから語る(自己表現する)》。
 生と死はよく分かりません。

投稿日時 - 2010-05-08 08:31:16

ANo.57

NO36の解答の訂正

カリグラフ→書体

投稿日時 - 2010-05-04 22:28:00

ANo.56

ちょっと、他の皆さんのご意見を聞いてみましょうか。
少し話しすぎたかな。すみません。

投稿日時 - 2010-04-29 01:04:21

お礼

 では そうしましょう。

 ご回答をありがとうございます。

 このところ いろいろ覚え書きを参照することが多くなっていますが 次のような文章も見つけましたので 掲げてみたいと思います。 
 ▲ (真理と人間の真実) ~~~~~~~~~~
 真理とは何か と問い求めてはならない。というのは そのとき直ちに物体的な似像の雲霧と虚妄の雲が君を遮るからである。

 それらは 私が 神は真理にましますと言ったその最初の瞬間 君を照らした清澄の光を曇らしてしまう。真理 と語られるとき 君がいわば電光によって捉えられるその最初の瞬間に 出来るなら留まれ。しかし君は留まり得ない。そして君は再びあの習慣的な地的な表象の中へ滑り落ちるであろう。

 私はたづねる。君が再び滑り落ちるのは 情欲の黐(とりもち)や異郷への巡礼の誤謬によって感染された汚辱でないなら いかなる重さによるのであろうか。
 (アウグスティヌス:三位一体論 8・2・3)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 彼岸は見えなくても その海上にあっても故国への道にあると思いますが 《情欲の黐(とりもち)や異郷への巡礼の誤謬によって感染された汚辱》を多かれ少なかれ人は たずさえている。
 すでに神であるキリストに似た・人間としての(ただ人間であることだけによるところの)キリストであるとみづから宣言したあとにありながら この地上の国にあることの《重さ》を人びとは背負っています。
 わたしは 黐がからだにねばっこく絡みつき汚辱による感染を――《アース役》のことでもあります――帯びている。帯びているのですが わたしは木の船に乗ってもいます。海の上をアップアップしながら泳いでいたとき 或る晴れた日の或る時 大きなたも(網)で掬われ 船に乗せられています。向こう岸は見えませんが そんなことは屁の河童です。


 ということを キリストのキの字も持ち出さずに 語りたい。ものです。ね。
 それが 哲学ですから。


 地上の権力も いろんな救命ボートを用意し すくいの手を差し伸べているのでしょうね。――えぇっ? ほんとうですか? ううーん どうでしょう?

投稿日時 - 2010-04-29 10:45:40

ANo.55

>この(α)「どうしてもいけなければどうするか」なる公案の主題は わたしにとっては 対話の断絶の問題です。そのときわたしが見る限りで 相手においては人間放棄がおこなわれているのではないかという問題です。

詳しくは当事者ではないので解からないのですが、私は、話題の質かなという気もします。話しにくいこともあれば、話さなくてもわかるはずのこともあります。人間性の問題でもありますが、どちらかが何者である、という話では無いような気もします。

ブランジュロンさんの問題であるので、これ以上の詮索もできませんが、つまり尋ねられてもいないことを云々答えることは難しいですし、尋ねられてもはっきり知らないことは答えられないものですが、対話に関して、私自身の場合に見立てると、そのように見ています。どうしてもいけなければどうするか、という題で、対話に関するシチュエーションといえば、そのようなものを思い浮かべました。相手の所為でもなく、自分の所為でもないということです。話題そのものを知るということでしょうか。

つまり、難問ということでもありえるし、問い以前ということでもありえるし、問うに相応しいのか、ということもありえる、、でしょうか。

人間として知っていて当然の事を問われた場合、答えに窮するものです。
つまり、道とは外さないのが当然であり、外したところからの問いというのは、本来的に即答のはずです。
あるいは、人間として知らなくて当然の事を問われた場合も、同様の性質を帯びるでしょう。絶句するというものです。善悪の話ではなく、それ以前の問題です。
さらに、知らなくてよいということもあり、話題の質に関しても、考察ができると思います。
知ろうとして当然の事などもあるでしょうか。

これは、テーマは人それぞれだとおもいますので、私の場合には、そのように思いましたよ。

参考まで。

投稿日時 - 2010-04-28 09:36:56

お礼

 ありがとう。そしてご回答をありがとうございます。

 そうですね。ただわたしの中では 何も問題はないのです。もしあたまをめぐらせていたり こころに若干ひっかかるものがあったりするとすれば それはわたしの趣味として 相手の人間の人間たることに関心を抱いているというだけのことですから 何の問題もやはりないのです。むしろ 人事を尽くしているというほこりがあるのみなのです。
 でもそこを 考えていただいて ありがたく思います。でもそういう内実になっていますので どうかご心配なきよう取り扱ってもらえばだいじょうぶと思います。

 その上で 人間が人間に対してたとえば次のような文句を言うということは いったいどういう事態か。それは 哲学の主題になると考えます。
 ◆ (【Q:日米関係】No.6)~~~~~~~~
  ★ わからずやは、自分の関係するものすべてが、きにいらず、
 自分だけが正しいと思っている。

 おれおれ感覚の老人に何を説明しても無駄であるのと同じで、
 聞く耳持たない姿勢に変化はありません。

 おいさきみじかいものに、何を示してもエネルギーと資源の無駄です。

 ひびの「去れ」という言葉ぐらいしか残されていません。

  ☆ (補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   他人(ひと)に言った言葉は おのれに跳ね返ってくるので あまり無責任なことは言わないほうがよいでしょう。
 まだ若いのでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たとえ《甘え》だとしても 人間放棄です。かつて人間であったことの余韻で かろうじて言葉を発することが出来ているという状態です。
 その意味では
 ★ 話題の質
 ☆ という見方は 絡んでいるようで 的を逸していると考えます。言いかえると 神経質にならなければならない微妙な問題がひそんでいる話題にかんして ちょっとそのような問題を想起させられると 途端に常軌を逸してしまうというのでは 哲学の話どころではないと言わねばならないでしょう。
 つまり そのような話題について落ち着いて互いの知恵を出し合えるように考え意見を述べ合うことこそが 哲学であり 日頃の哲学の継続による効用でもあります。

 そうしてどうも日本人の哲学は――特にブディズム系統の場合には―― 何でもおとなしく礼儀正しくというかたちを重んじていて そういう頭にカチンとくるような話題を出すこと自体がわるいと考えているようなのです。相手が罵詈雑言・誹謗中傷を吐くというのは それを吐かせるような話題を出したほうがわるいのだと。
 ○ 万機公論に決すべし
 ☆ と言いましたが そうであっても 権威ある者が先にのたまわったものをしもじもの者はやっと口にすればよいというような考えが 人びとのあたまを支配している。こういったところのようです。禁忌つまり所謂る菊と鶴のタブーですね。人びとは 腑抜けになっています。魂が去勢されているのだと考えます。
 だから ののしりまくるやからが 大手を振ってのさばる。タブーにいどむ奴は 引っ込め!と無条件に言ってもよいのだと思っているし 思い込まされているようです。それが 世の中の――現代日本の――《空気》であるようです。こんな不幸は 世界中でどこにもないのではないか。
 かと言って 銃を持てばよいともならなければ カミカゼのまねをすればよいともならないのですが かれらは そのように根本的にまちがったやり方において たましいをその去勢から守ろうとしているようなのです。
 いまの空気が あたかもあのブルカとかチャドルとか呼ばれるへジャブなるヱ゛ールのごとく日本人のたましいを覆っているようです。

 スサノヲひとりだけが なぜ自由か?

投稿日時 - 2010-04-28 11:37:23

ANo.54

質問者さん>ちょっとわたしのアンテナの感度がにぶくなっています。この鐘を撞いたのに 向こうの別の鐘が鳴り響いたということになっていないかとおそれます。どうなんでしょう?

回答者さん<ギアを切り替えるときには、一度クラッチを踏むようなものでしょうか。そういうことにしましょう。踏ん張りが利かなかったとも言えますが、踏ん張るようなものでも無い気がします。つまり、常に滑らかなものが、正しい観とおもいました。


謎を知るというのは、雲の中をのぞき見るようなことでもあると思います。
一方で、数多の川が途中で蛇行しながらも、海へと注ぐようなものかと思います。

更にすぐれているのは、真っ直ぐな川が、海に注ぐようなものであると考えます。蛇行することの無い真っ直ぐな川とは即ち、降雨の事であると思われます。

わたしは、三つ目の道で、海に至ることを考えている途中です。

聞くところによると、以前、智常という僧侶がいて、禅宗の、六祖慧能に尋ねたことがあるようです。

『先生、私は、小さい乗り物と、中くらいの乗り物と、大きな乗り物については既に聞きましたが、最上の乗り物についてはまだ聞いていません。先生、教えてください』と。すると先生は、『自分で考えなさい。乗るとは行うということである。君に言うことはもう何も無い。』

と。このような問答であったかと記憶しております。

肝心のところがよく思い出せないのですが、六祖慧能はこのときに、自ら至り、自ら行い、云々、といったことが仏道に他ならない、というようなことを助言していたような、うろおぼえなのですが。

ただ、自ら行って、というところに本筋があるようでして、行わない限りは夢のまま終わりますから、ここは是非、おさえておきたいですよ。

後ろ向きに前に進むのは、基本として、ここで是非尊重しておきたいことは、つまり直き心の元のところから常に出力しておくことにあるのだと思います。これが道となって、雲の中でも迷わずに真っ直ぐ進めるものですので。

SRKWブッダから聞いたところでは、『やさしいとは何か』の追求、真のやさしさの探求が、観の目的であるということで、それに法って歩くのは最善であると思うのですが、さらに、障碍なしのことについて言及しておこうと思います。なぜなら、やさしさは常に無障碍であると思うからです。

直き道の元からのそれによると、その光は如何なる影をも生じないものです。
従って、これに法ることは法に法ることです。
同時に、やさしいとは何かを真実に究明しなければならず、それは、人間本性の縁(よすが)でもあると思います。これらの両方を完全に備えていることは、道の通りとおもいます。

謎というのは、雲にも例えられますが、同時に、雨の素でもあります。
まずは自ら、雨になる、謎を明けるべきかと思い、前回解答と相成りましたでしょうか。
一文字流を無一文字流に持ち替えたということで。

本来、素直な心が道であるでしょうし、実際に、まさしくその通りでしょう。
随いまして、誰しもに歩めるその道が、本流ということになろうかと思います。
※注意すべきところは、既に曲がっているが、実は真っ直ぐなのであるというところで、煩悩即菩提に言われるように、『逆手に持てば順手に』かえるという所でしょうか。

素直でいることによって、ことは解決を見るのだと思いますよ。

一つ確認したいのは、素直になると、今までの語りが、読めなくなるような気がするかもという点にあります。今まで以上にすくすく読めるということでしょう。

謎に対する私の見解と、前回の失投と、これからの向かう方面について、とりあえず。

おそらく覚りの境地には、味方はいない。全て自分自身によって、成し遂げられなければ成らないだろう、と。

この道によって、人は正しい道を実践、そして成就するのだと思いましたよ。

質問者さん>たぶん われわれの前に《完成の境地》がぶらさがっているのではなく すでに完成の境地は こころの窓として(自然本性において) あるのだと思います。ですから このさとりの状態を見つつ・ということは 後ろ向きに前へ われわれはすすむのではないか。と思います。


回答者さん<おそらくですね、その窓の中身が、ご自身の本性のはずですから、それを自身として歩いていけばいいのではないのかと思うのです。縦横無尽に。正面に。いけますよ。

投稿日時 - 2010-04-27 16:38:10

お礼

 こんばんは〔になってしまいました〕。ご回答をありがとうございます。

 ★ SRKWブッダ
 ☆ を検索して つぎのサイトを見つけ 次の文章に注目しました。
 ◆ (「悟り」とはどんな状態? 1) ~~~~~
  http://debate.100man.info/keijiban/read.cgi?2&49&1
 § 2004年01月22日
 [公案]

 (α) 「どうしてもいけなければどうするか」
 「立ってもいけなければ、坐ってもいけない。感じてもいけなければ、考えてもいけない。死んでもいけなければ、生きてもいけないとしたら、その時どうするか」

 § 2004年01月23日23時07分

 (β) 基本的公案を解くこと、ひいては覚りの境地を目指すことは、自分ならざる何かに自分が試されているのではありません。 この道において、そのような試練などは一切ありません。
 ・・・
 (γ) いずれにせよ大事なことは、試されているというのは自分以外の何かに依拠したことであり、誰も自分を試す人などいないのだと言うことを先ずはこころに理解されるべきです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という箇所で わたしとの違いを述べたいと思います。
 《試練》の意味が主題です。もしくは ここでは《試練はない》と言っていることをめぐってです。
 まづ《人から ということは社会関係から 与えられるたぐいの試練》は ここでわたしは問いません。それは 互いに与え合い受け取っていると思うからです。(意地のわるいものもありますが それは 試練そのものの問題ではなく 意地の悪い人間の問題だと考えます)。

 ◆ 自分以外の何かに依拠したことであり
 ☆ この《依拠》には やはり寄らば大樹の陰というふうな・あるいは長いものには巻かれろといった依存状態としての社会力学的な依拠が一方にあり 他方には やはり非思考としての《何ものか》への聖なる甘えとしての依拠があると考えます。そして端的に言って 後者におけるおのれの主観内面の動態としては 《試練》が起こると考えるものです。
 さらにそしてこのとき 未完成の完成ですから 《覚りへの道を歩んでいる》(β)のですが それは逆に すでにさとりを得た状態から出発しているからこそであり その意味でも試練のような意味合いを持った動態に ひとはその身を置いていると捉えます。《自分ならざる何かに自分が試されている》(β)というふうに見られるようなかたちです。たぶん 謎の何ものかをわたしが問い求めたゆえに その問い求めに応じて試されるようになるのではないかと捉えます。試練を与えられるという格好です。つまりもっと言えば 試練をめぐまれる です。

 この(α)「どうしてもいけなければどうするか」なる公案の主題は わたしにとっては 対話の断絶の問題です。そのときわたしが見る限りで 相手においては人間放棄がおこなわれているのではないかという問題です。ですから 広い意味で そういう試練です。
 ですから 次に説かれるように この試練をつまり(α)の公案を 一歩下がってのおのれの修行の道だとは見ていません。言いかえると 《試練が与えられるのだけれども その中身は すでに自然本性として与えられているさとりが磨かれ顕在化する過程なのであって そのさとりの道でありつづける限りでは おのれの到らなさが招いた試練や危機であるのではなく さとりをさらに問い求めるゆえに遭遇した動態過程である》となります。

 ◆ ~~~~~~~~~
 § 2004年01月24日
 そのためには、他ならぬ自分自身が(楽だと思って実は)苦の中にいることを知らねばなりません。 この世がすべて顛倒した世界であることを観じなければなりません。 人々(衆生)が顛倒の世界の中にいて、苦を楽だと思い、善かれと思ってまさに苦の道を選択していることを知らなければなりません。 それが完全に達成されたとき、「どうするか」と言うことは、ほとんど自動的に出てきます。 そして、それこそが自分の本心に他なりません。 そして、それこそが諸仏の誓願に他ならないのです。 それに正しく気づいた人は、自らが仏になる正しい決心を為し、そして仏になるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この一連の修行とその成就をつうじて《仏になる》のではなく そうではなく《はじめにブッダである〔と宣言しており さらに問い求める〕ゆえに これをいろんな事件に出会いそれらをつうじて表わしてゆく》と見ています。なぜなら 《諸仏――もしくは阿弥陀仏――の誓願》は むろんそもそもの初めにあったからです。

 荒削りですが。そして ご回答の内容に直接触れないかたちになりましたが。

投稿日時 - 2010-04-28 00:19:48

ANo.53

質問者さん<
 ○ 人を欺いているようでいて、誠実である。
 ☆ という命題です。つまり短絡しますが この命題が
 ★ 自分をこころから大事に、他の人をこころから大事にするということ
 ☆ に通じると言おうとするものです。No.46でこの説明は 保留とされましたが その事情にもかかわるかも知れないと思って 無理やりですが 取り上げます。>

回答者さん<うーん。。既に皆さん実行済みのことのようにおもえるのですが、、。これでいいいのでは?

青は 気持ちいいでしょう

既に覚りの境地を歩んでいる、そんな表現で妥当ですか?

謎は解決しているわけでは?

依然おっしゃっておられていたと思うのですが、もうけもんみたいな感じかもね、って。

そこらへんは、どうなのでしょうか。いいんじゃないの?これで?

投稿日時 - 2010-04-27 02:31:09

お礼

 青は気持ちいいですね。前の無地の青もよいと思ったのですが 雲を配した図案のほうがしゃれていますね。
 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 謎は解決しているわけでは?
 ☆ このなぞは なぞの側においては 解決しています。もともと解決しています。
 その《なぞ》と《人間であるわたし》との関係では 時にはうたがいやつまりは不信が顔を出すことがあります。つまり《なぞは解決していないではないか?》という問いです。
 答えは 《人間の感性と理性とでは分からない》から《なぞ》なんだよということになります。


 ところが 《そのなぞの背面を きみは見る》と言われてもいます。そういう観想を得て言葉にした人間が昔いたことになります。もしここに妥当性や非思考としての窓の魅力があるとすれば 《うしろすがたは 見える。つまり そのぶんにかぎれば解決している》ということも 時として人間に起こるかも分かりません。

 ★ 既に覚りの境地を歩んでいる、そんな表現で妥当ですか?
 ☆ 《なぞの背面を見た》ということは それが部分的にであっても 《さとった》ということを意味すると思います。部分からであってもすでに全体観においてさとったのだと考えます。
 しかも うたがいが生じます。解決してないぢゃん?! ということの繰り返しになると思います。
 たぶん われわれの前に《完成の境地》がぶらさがっているのではなく すでに完成の境地は こころの窓として(自然本性において) あるのだと思います。ですから このさとりの状態を見つつ・ということは 後ろ向きに前へ われわれはすすむのではないか。と思います。


 ちょっとわたしのアンテナの感度がにぶくなっています。この鐘を撞いたのに 向こうの別の鐘が鳴り響いたということになっていないかとおそれます。どうなんでしょう?

投稿日時 - 2010-04-27 11:21:30

ANo.52

小休止に詩を、、。


ぼくは なんにも知らないのだけれど 君のことなら しってるよ

きみのことなら しってるけれど じぶんのことは しらないんだ

いそぎはしないよ いつでもいいよ いつでもいいからいつかは

おしえてくれよ

投稿日時 - 2010-04-25 19:02:21

補足

 お礼欄の最後のくだりで 文字化けがありました。

 ☆☆ 《いわば主(= X )の霊(= X )によって 人間 Z の栄光( ? Y - Zn )から主 X の栄光へ 変えられる》
 ☆ 《 ? 》は ギリシャ文字のシグマつまり集合の意味です。 《 Y - Zn 》にかんして すべての人びと=《 Z1 ~ Zn 》の全体という意味です。シグマの大文字が出ませんでした。あしからずご了承ください。

投稿日時 - 2010-04-26 17:41:29

お礼

 彼岸も故国も 分からなくて構わない。

 神の国が分かる人は もはや信仰は要らない。

        ::

 《さて 自分自身によって 神を観想し神に密接に結合されるほど清められると思っている人がいる。そのような人を汚すのは とりわけ高ぶりそのものである。
 ・・・
 《しかし 不遜な人にとって また このゆえに木(十字架)の船に乗るのを恥ぢる人にとって 遠くから海を越えて存在する故国を望み見ることが 何の役に立つであろうか。
 逆に あの不遜な人がそれで運ばれるのを軽蔑する木の船に乗って祖国に行く謙遜な人にとっては このように遠くから祖国を見ないことがどうして不都合であろうか》。(アウグスティヌス:三位一体論。以下同じ)

       ::


 《さらに主はモーセに言われる。

     あなたは私の顔を見て 生きることは出来ないであろう。
     なぜなら 人間は誰も私の顔を見て 生きることはない
    からである。

 《また 主は言われる。

     見よ 私の傍らに一つの場所がある。私の威厳がそこを
    通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つであろう。
     私はあなたを岩の頂上に置こう。
     私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。
     私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。
     私の顔はあなたに現われないであろう。》(*)

   * ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
     超経験 X は 見る・考えるものではなく 信じるもの・
   そちらへ開かれるものである。
    その《背面を見る》とは 言われている。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

        ::

 《今 私たちに見ることを欲しさせ 信じさせ 将来見るであろうことを望ませ そして私たちが前進する限り 〈今は鏡をとおして謎において見〔てい〕る〔が かの時には〉明らかに見ることを得させる神の愛を他にして 神の礼拝とは何であろうか。〕》

 《たしかに鏡において見ているものは似像(にすがた)〔代理表現〕に他ならない・・・》

 《実に使徒(パウロ)は 〈今 私たちは鏡を見ている〉と語るのではなく

 〈今私たちは鏡をとおして見ている〉と語るのである。》

        ::

   * そうして 励ましの言葉が添えられる。

 《しかし非物体的であるだけではなく 最高に不可分離的であり 真に変化しないこの神の三位一体を 〈顔と顔を合わせて〉と私たちに約束されている神直視(visio)が訪れたとき 私たちの現在の状態を示すこの似像よりもずっと明らかに確実に見まつるであろう。

 《しかも 〈この鏡をとおして〉〈この謎において〉 この生において見ることが許されている限り 見ている人々は私たちが詳論し提示したあの三つの能力(* 割愛している=記憶・知解・意志)を その精神において認める人々ではなく その精神をいわば似像として見る人々であり そのようにして彼らが見るものを精神がその似像であるお方に或る仕方で関係させ得るのである。

 《そして彼らが認めることによって似像をとおして予感することによってではあるが 神を見得るのである。まだ 〈顔と顔を合わせて〉神を見ることは出来ないからである。・・・》


 《同じ使徒は このことを次のような言葉で意味表示している。

     私たちは顔蔽いなくして主の栄光を鏡に映すようにして見
    つつ 栄光から栄光へ 主と同じ似像において いわば主の
    霊によって変えられるのである。》

      ::

  精神をとおして・そして内密なる言葉である似像をとおして 謎において神 X との類似を見得たとするならば 《いわば主(= X )の霊(= X )によって 人間 Z の栄光( ? Y - Zn )から主 X の栄光へ 変えられる》というのは 私の考えでは ひとつに《煩悩》の問題に関係していると思われる。煩悩即菩提と言うのであるから。

投稿日時 - 2010-04-25 21:28:29

ANo.51

そろそろ、沈黙を増すときだろうか。
いままで、質問者さんはどうか知らないが、わたしは、知らないことについて、ああだろうか、こうだろうかとこだわるべくもない持論を述べてきた。
しかしながら、本来、知らないことは知らない。
それが、人間的事実でも在る。

知っていることと、知るに及ばないことと、知らないことのうちでは、
知らないことを知らないことが、ある意味では、道である。
知っていることを知っていることは、私には解からない。というのも、何一つ、定かとして知っていることは無いから。ただ、私は食べ物を食べている、とか、考えることもあるとか、そういった、人間的事実を知ることができるというのみで、本来はそれは、知っていることのうちには入らないとさえも思う。そして、その事実さえも知らなかったということもありうるだろう。知らない間に食べ、知らない間考えるということが、あるかも知れないし、あったとも思う。

そしてまた、人は、あえて、解からないながらももの言わなければならないことが心理的実情として見かけ上にありえ、あえて、解かりながらも言わないことも見かけ上同時にあるもので、そのことについての深い理解は、人として生きているとはどういうことかという意味においても、繊細な事実であろう。
おして、当然わかっていると相互に思われることのはずを、解かり難くなってしまっているのが、人間的実情であろう。

かかる人の実なる哀しみについて、知っている人は少なくない。誰しもこころの底では知っているだろう。
それが人というものであるのだから。

そして、知っていることを知っていて、知らないことは知らないこと、そのままの意味で、これは、直ぐなる道に相当するものであると思う。知っている、知らないとは、本来そのままの意味において、なんら支障をきたすものでも何でも無いのであるから。

投稿日時 - 2010-04-25 10:14:20

お礼

 分かりました。

 エポケーでもよいでしょうし。

投稿日時 - 2010-04-25 11:24:13

ANo.50

 10. 対話が出来ない場合 わたしのいまの考え方は ( a ) 放っておく。( b ) こころざしを同じくする別の人が 相手をする。です。( c ) 連帯という共生のあり方です。n なんとかという人間がいます。
 
 A.基本的に、人とは誰に対してもかわらず、対等に接せれるものであるとおもいます。上下なく、へりくだりもせず、ということでしょうか。できることなら親しみをもって。こだわることも、別に無いでしょう。

 11. 《無一物》は 簡単にいえば《白紙の状態にある》でしょうか? 《タブラ・ラサ》と言いますね。
 
 A. 無一物は、簡単に言えば、無一なるものです。白紙の意味とは異なります。主体性を持ちますので、覚ったら、人はきっと無一物になるでしょう。無一なるものは汚れません。

 12. ふうむ。ここまで来て 《一なるもの》は どうもわたしの言葉では《わたしがわたしである》という自己到来もしくは自己還帰のことを言っているでしょうか? (問いかけです)。

 A.それは近いと思います。

 13. 順序が前後しますが
 ★ 無数も一であり、一さえ無数であり、一切を生じてしかも、なにも生じてはいないというように、世の様を見ることができるようになります。
 ☆ というとき むろんここでも《一なるもの》が基軸になっているのですが 《世の様を見る》というところは どうも《縁起つまり空観》と同じ構えであるように感じます。
 ただし 空観は 《無我》説――ほんとうは 無我と見る《わたし》がいると思いますが――つまりは 諸法(世界のものごと)無我(何も自存する実体はない)ということですから それと《一なるもの》説との異同を明らかにされるとよいと思います。
 また 梵我一如の《我 アートマン》との異同も大事だと思います。

 A.そうですね。基本的に無一物基調です。しかしながら、無と、一と、無量無辺に分けて説明したのです。基本的に無一物です。無数というのは、数ではなく、ニュアンスとしては無量無辺に近い意味だと受け取っていただきたいのです。無我については、梵我一如とは異なると思います。無我のとき、真如が在るでしょう。

 14. ★ 真の完成を求める人――☆ わたしの立ち場としては 《〈すでに真の完成がある〉という地点から真の完成を目指してあゆむ》 です。《終わりから始める》を大前提としています。それとの対比は どうですか?

 てる<覚りの境地に至る道ですね、それは。無敵の道と言っても良いでしょう。私はそれを学びたいのであるが、既に真の完成が在るという地点から、真の完成を目指して歩くとは、実に妙な教えです。私が何か言うことはもうありません。既に真の完成が在るという地点から、真の完成を目指して歩くとは、如何なる覚悟であろうか。如何なる教えで在るのか。実に学び多き人は答えてくださるべきでしょう。
それこそが真実の道の歩み、無上道に他ならないからです。
    

〔表現論〕
欺いているようで誠実であって、のくだりは、はからわない、にも通じるかと思います。
ここら辺も、お話いただけたら嬉しく思います。

よろしくです。

よろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2010-04-25 01:23:29

補足

 ちょうどこの質問と重なる n の問題は わたしの次の質問
 ○ 【Q:きみはヨブを見たか。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5684019.html
 ☆ そのNo.25のやり取りを見てみてください。それだけでは分かりにくいのですが 要するに そこからあと 無関係となっています。
 その前にも いちど《おわび》がありました。(上の質問でのNo.25を探すのにひと苦労でした。その前のやり取りは もう探すのをあきらめました)。
 そのお詫びがあったあと さらにまたわたしの質問への回答者の人たちをも誹謗中傷し始めたのです。その誹謗中傷についての詫びは まだないわけです。つまり上の回答No.25に明らかなようにです。
 要するに《人間放棄》をしたのだと見なしました。存在は残っていますが 人間でなくなった(つまり 死んだ)者と話ができるとは思わないわけです。
 存在が残っているので 誰かほかの人が面倒をみてくれるでしょう。

投稿日時 - 2010-04-25 10:52:30

お礼

 ★ 〔表現論〕 / 欺いているようで誠実であって、のくだりは、はからわない、にも通じるかと思います。
 ☆ あぁ いえ 《はからひ無きことを旨とする》のは 原則です。その応用の過程で 表現の形式をいろいろに用いるという事態が出て来ると思うのです。
 ですから たとえば前回のやり取りでの《無住処涅槃》――《あえて捨て去るべきものをも受け止めたり 場合によっては受け容れたりして試練の道をあゆむ場合がある》という――問題を実践するときに起こると考えます。
 平たく言えば 《相手に合わせてこちらが自己表現する》という場合です。
 ブッダは《対機説法》というのでしょうか。わたしの見ようとしているのは 《説法》というかたちを思ってはいないのですが。つまり あくまで《対話》なのですが。
 話し合いの過程で 自由に批判をおこなう。説教ではなく話し合いであるゆえに 批判をとことんすすめることができる。のだと思っております。

 
 ここで 相手を人間でなくなったと見なす場合があるという問題をあらためて取り上げます。
 人間放棄 つまり自死をえらんだ人とは 無関係になったと見なす場合です。
 そういう場合に 《とことん批判をすすめる》ことをしないのか? という問題です。
 
 《とことん》まで行き着いたという見なしになります。それ以上は行けない・進めないという見なしです。
 境地が上がったなら また相手をすることができるかも知れません。あるいは 出来ない・つまり むしろ もう相手をしてはいけないという状態であるかも知れません。
 わたしの見るところ そばやうどんが延びてしまうように人間がもはやあたまも心ものっぺらぼうになってしまうと考えるからです。

 ひとつ重要なことは まちがいを侵したとかあやまちがあったとかという問題ではないことです。
 むしろわたしは 《あやまつなら わたしはある》という原則に立ちます。そうではなく 人間を放棄したと見なすことです。(ですから それは 主観による判断ですから その見なすという判断じたいに 勘違いはありえます)。
 人間ではなくなった状態 これはそれとお相手できる高い境地の人を必要とします。人それぞれの・その時点での《とことん》があると思います。《とことん》まで行ったときに 事態と情況が何らあらたまっていないところで さらに同じような話し合いを続けるのは もはやそばが延び切ってしまって 味も何もなくなってしまっているということです。
 その場合にも 或る種の表現論が出番になっていると見ることもできるようではないでしょうか?

 このあとのご投稿をちらっと見たのですが この回答No.49&50でのやり取りを経て さらに議論が煮詰まるとは思っていたのですが 中断することも一考かと考えます。それは そういう紆余曲折を経ていくものと考えます。
 で この特にNo.50のお礼欄・補足欄でのわたしの文章は 舌足らずのところがあるかに思いますが ひとまづこのかたちで 応答といたします。

投稿日時 - 2010-04-25 11:23:07

ANo.49

そうですね、ざっと呼んだ限りでは、
ロン>
 1. ものごとの対立関係について 反対物の一致( coincidentia oppositorum )という見方。
 A. 対立は初めからありません。 

 2. ここから 絶対矛盾的自己同一という状態を描く。
 A. 矛盾も根本的に解決しています。
 
 3. 苦楽の捉え方として 煩悩即菩提・生死即涅槃。
 A  これは遠くないと思いますが、言語の意味は私には正しく解説できません。
 
 4. すなわち さとりとして 即身成仏。
 A  覚りとは関係ないとは言えないが、在るとも言えないと思います。
    というのも、私自身、覚っていないからです。あくまで、論です。
    平等を論じたと思っていただけるとよいと思います

 5. 宇宙の原理(ブラフマン)と《わたし》なる存在(アートマン)との合一。
    つまり 梵我一如の志向性。
 A. ブラフマン(人の究極)が出現した時に、アートマン(個我)があるのか、よくわかりません。

 6. これらの思想を 《一なるもの》という基軸をとおして見る。
 A. 一なるものは入り口であって、結実でもあります。一なるものは解けたときに一なるものと理解できるのであって、それまでは只のモノです。

 7. 《一なるもの》とは何か? たとえば 《人間》もしくは《わたし》か?
 A. 一なるものというのは、全のことです。文意によっては、無一物とも取れますが、無一物のほう     が、全一なるものよりも、完成しています。
  
 8. 《無量無辺あるいは海》は 《わたし》と採ってよいか? 《こころ》と対応しているか?

 A. 無量無辺は、名前がありません。たとえば、海は水で満ちていますが、水には何も特別な名前が
    無いようなものです。

 9. ★ (あ) この平等の見かけ上を求めた場合の落とし穴としては、他の人を認めないことがあるでしょうか。(い) しかしながら、真の完成を求める人は、他の人に海を見て、決して軽んじることは無いでしょう。
 ☆ (い)は分かりやすいですが――なぜなら 《他の人に〔自己と同じ〕海を見る》と言われているからですが―― (あ)は いまひとつ腑に落ちません。
 というのも (い)が大前提になると思われるとき (あ)に関係することとして 相手が話し合いを拒んだときには どうするか? この問題がたえず起こるからです。(い)の命題が先行しているので 《存在としては 互いに認め合う》という状態にとどまりますが対話が出来ない場合には どうするか?
 
 A. (あ)については、私が軽んじたという意味になるかもしれません。申し訳ありません。
    対話できない場合には、観を為すということになるでしょう。我々は、相手と話し合えるが、
    心底から理解し会えているわけでは無いと思います。しかし、心底から話し合えるということは
    できるでしょう。それが、沈黙で在る場合も然りです。相手の沈黙を聞き、自らもまた沈黙を
    為すことが在るということです。

10番からは、次の投稿へ・・・

投稿日時 - 2010-04-24 23:45:54

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 なあんだ。《無一物(むいちもつ)》は 無一物=《所有物の無いこと》ではなく 《一切の煩悩を離れた境地》(広辞苑)とあるぢゃないですか。むろんわたしの無知なのですが 澄みません 話が逸れていました。パウロは《無所有》の意味で言っていましたし。
  ▲ 本来無一物(ほんらいむいちもつ)
  http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/muitimotu.htm
 次のご回答をも合わせてお応えしてまいります。

 そうしますと 本来無一物は――この概念じたいは 禅の方面なのでしょうが―― けっきょく《本来空》の空観や《本来成仏》の即身成仏と同じ内容だということではないですか。 
 ◆ (本来空――広辞苑) 万象は実有(じつう)ではなく 本来仮りの存在であること。
 ◆ (本来成仏――同上) 万物一如の見地に立てば 衆生もそのままが仏であること。
 ☆ ちなみに
 ■ (本来無一物――岩波仏教辞典) ~~~~~~~
 自己・万法の本来の姿をいう。あらゆる一切の存在の真実のあり方は 本来 縁起・空の現成であって 自我の執着すべき固定的実体はないこと。
  用例:《げに本来一物なき時は 仏も衆生も隔てなし》(謡曲卒塔婆小町)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《謡曲》にまで普及しているのであれば 日本人はなかなか読みこなしているようです。(いやぁ 知らなかった)。

 でしたら ここでは敢えて 批判的観点を出しましょう。
 ★ (回答No.50) 11.・・・主体性を持ちますので、覚ったら、人はきっと無一物になるでしょう。無一なるものは汚れません。
 ☆ 《無一なるものは汚れません》 これが――わたしの見方では――《終わりから始める》ときの《終わり》の状態です。そう宣言してあゆみます。
 そうすると 案外 内省がすすむのです。あやまちをあらためる勇気が出るのです。つまり《わたしは 〔大文字で始めるキリストではないが 小文字で始まる〕キリストである》と宣言する。あるいは《われはブッダなり》と公言して生きる。ということになります。未完成の完成です。過程です。動態です。――たぶん けっきょくのところでは 同じ見解なのではないでしょうか?
 けれども 未完成の完成・その動態だという意味は ほかにもあります。《未完成 つまり 煩悩のある状態・無明の真っただ中にある境地》にブッダであるわたしは近づきます。無縁慈悲のおこないこそ出来かねるでしょうが その敷居のところまで近づきます。
 たぶん そこでの別の意味での問題は この近づきをはねのける振る舞いに出る人がいるという場合です。対話の断絶というばあいです。これは 別の欄にあらためて述べます。
 そこで 《げに本来一物なき時は 仏も衆生も隔てなし》のときには 本来として《一切の煩悩を離れた境地》にいるのですが 無明にいる人びとに近づきます。

 ■ 無住処涅槃(むじゅうしょねはん) ~~~~~~~
 大乗仏教では 《無住処涅槃》ということが言われる。・・・生死(=煩悩・無明)の世界にとどまることなく かといって涅槃の世界にも入らない状態 すなわち生死煩悩の迷いの世界にもさとりの世界にもとどまらない涅槃のことをいう。
  〔・・・この〕思想の背景には あらゆる人びとを救うためには 自らがさとりの境地に入っていては救うことができない といって煩悩に捉われていても救うことができない 自らはさとりの境地を体験しつつもその世界にととまらず 悩み多い人びとの住む生死界にあって活動することこそ菩薩の行である という大乗仏教思想の展開が見られる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 一般に《和光同塵》とも言いますね。
 ですから と言いますか そもそもこの思想の背景(基礎)には つぎの省察があると考えます。

 ● (ナーガールジュナ:無我)~~~~~~~~~~~~~~~~~

  《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは
  存在しない。《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたも
  のなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。
    (『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)

 という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。
   (中村元『龍樹』2002 pp.225-226)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここで字数が尽きました。

投稿日時 - 2010-04-25 09:47:56

ANo.48

おそれながら、スペース拝借いたします。無量無辺についての、私なりの論述となります。口幅ったい言い方で、アクの強かったため、整理してありますが、本意はそのままと思います。よい時に、ご一読よろしくお願いします。

NO47でお伝えした、無量無辺についての論述を掲載します。

NO40~NO41冒頭部よりの続き

NO41冒頭部《さて、本来構造主義的立場の正しい完成というのはこのようなものなのですが、多くの人々は、この渦、文様、カオスに勝手な解釈をつけて自分勝手に、それぞれに把握して、いわば、夢を見て朦朧混濁としているような、状態になってしまうのです。
そして、もろもろの作られた世界が、あたかも蜃気楼のように、その人の世に出現することになります。
これが、世界の始まりです。無始の世界に無数の始まり(=多)を生じ、無数の始まりを生じた事により無終の世界に無数の終わりを生じます。》〈以下本文〉


ここで、構造主義的見方の起源、つまり、無量無辺の地平の世界に立ち戻りたいと思うのですが、この世界から世の中を見るにつけ、この世の中は迷いの世界であると一端、見ます。もろもろのカオスである状態です。

水面の渦の喩えを思い出してください。たとえば、静止した水面に墨汁をたらせば、その水面には不思議な渦の文様が描かれます。黒い墨汁の渦が、苦しみであると見ます。

ここで、私は自問するのでありますが、この墨汁を認めなければ無始無終の至って静まりの境地であることでしょう。

もしここで、この墨汁のおちるのを仮に認めたとしても、客観的には、無始無終である静まりの世界である。しかし、水面にカオスの内在することは変わらないであろうし、苦しみはあるし、それに、カオスが見えるようになったのは、墨汁(苦)のおかげとさえ言える。

しかしながら、今は、わたしはこの墨汁に例えられるこの色のついた滴を認めないとしよう。これを認めれば、それは受身の生き方で在ると考えるとしよう。それがなければ、世は安寧であるだろうから、これをの除きたいと思おう。さて、もしこれが、墨汁ではなく、水面と同じ水滴であればどうだろうか。きっと苦しみは無いだろう。

では、その墨汁からは、どのようにすれば色を抜けるだろうか。色が抜かれたならば、それは水になるのだが、さて、では、それはどのように為されるのだろうか。

そして私は答えます。

それは、無量を知見することによって為されるでしょう。

物の本質は無一物であるということをも同時に知見することになるであろうそれの意味は、一を解く、ということでもあります。

たった一つの黒でも、白でも、いかな色でも、一つでよいのです。それを解くことができれば、一切の色が解けます。それが、無量、無白、無色、透明を知るということです。

たとえば、この黒とは何か。喩えばこの黄色とは何か。それを究めれば、その一色の無一物なるさまを知見し、万物の無一物なるさまを知見し、この世には生じも滅しもないということを知見し、そもそも何も生じてなどいないという理見、知解を得るに至ります。

 そして、そのときに、無数の迷いの存在することは即ち、無数の覚りの存在することなのであるということをも、同時に理解できるはずです。無数のものは一なる故に生じ、一なる生じ故にすべてが一によって理解されえる性質のものであるからです。

一なるものの由来については、このように私は理解しております。

一を完全に理解することによって、無一物なるものを知る様は、まるで、一つの雫が、大洋で在ると知るようなものです。

一滴の雨を理解すれば、無数の雨を理解し、その真実(大洋)を知ります。

このようなときに初めて、無数も一であり、一さえ無数であり、一切を生じてしかも、なにも生じてはいないというように、世の様を見ることができるように為なります。
 
その様が、即ち、無量(一滴の偉大なる様)無辺(広大で平らかな大洋であるさま)ということになるでしょうか。つまり、無限の大海が、無数に存在していると思われるとよいと思います。その理由は、一を解くことによって理解されます。

そうして、そのような無数の海が、一なる海と出会う、これが、覚りなのでは無いでしょうか。

これを、平等の境地とも言えるはずです。一切他と、一なる主体が、対等、平等であるという意味です。
安寧とも。

この、普遍真相においては、自分がちっぽけな存在だとは、微塵も思うことはありません。世界を観ずる者として、何処にも退きません。央部主体であって辺縁も隅々まで主体が及んでいます。

この平等の見かけ上を求めた場合の落とし穴としては、他の人を認めないことがあるでしょうか。しかしながら、真の完成を求める人は、他の人に海を見て、決して軽んじることは無いでしょう。

投稿日時 - 2010-04-23 23:37:33

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 さて ようやく輪郭が分かりました。というよりも その内容について受けとめることができるようになりました。

 ★ 一なるもの
 ☆ を中軸として ブディズムなどの命題を解き明かそうとするねらいのもとに世界観として表わした。全体としてまづこのように捉えます。
 1. ものごとの対立関係について 反対物の一致( coincidentia oppositorum )という見方。
 2. ここから 絶対矛盾的自己同一という状態を描く。
 3. 苦楽の捉え方として 煩悩即菩提・生死即涅槃。
 4. すなわち さとりとして 即身成仏。
 5. 宇宙の原理(ブラフマン)と《わたし》なる存在(アートマン)との合一。つまり 梵我一如の志向性。

 6. これらの思想を 《一なるもの》という基軸をとおして見る。

 7. 《一なるもの》とは何か? たとえば 《人間》もしくは《わたし》か?
 8. 《無量無辺あるいは海》は 《わたし》と採ってよいか? 《こころ》と対応しているか?

 9. ★ (あ) この平等の見かけ上を求めた場合の落とし穴としては、他の人を認めないことがあるでしょうか。(い) しかしながら、真の完成を求める人は、他の人に海を見て、決して軽んじることは無いでしょう。
 ☆ (い)は分かりやすいですが――なぜなら 《他の人に〔自己と同じ〕海を見る》と言われているからですが―― (あ)は いまひとつ腑に落ちません。
 というのも (い)が大前提になると思われるとき (あ)に関係することとして 相手が話し合いを拒んだときには どうするか? この問題がたえず起こるからです。(い)の命題が先行しているので 《存在としては 互いに認め合う》という状態にとどまりますが対話が出来ない場合には どうするか?

 10. 対話が出来ない場合 わたしのいまの考え方は ( a ) 放っておく。( b ) こころざしを同じくする別の人が 相手をする。です。( c ) 連帯という共生のあり方です。n なんとかという人間がいます。

 11. 《無一物》は 簡単にいえば《白紙の状態にある》でしょうか? 《タブラ・ラサ》と言いますね。

 12. ふうむ。ここまで来て 《一なるもの》は どうもわたしの言葉では《わたしがわたしである》という自己到来もしくは自己還帰のことを言っているでしょうか? (問いかけです)。

 13. 順序が前後しますが
 ★ 無数も一であり、一さえ無数であり、一切を生じてしかも、なにも生じてはいないというように、世の様を見ることができるようになります。
 ☆ というとき むろんここでも《一なるもの》が基軸になっているのですが 《世の様を見る》というところは どうも《縁起つまり空観》と同じ構えであるように感じます。
 ただし 空観は 《無我》説――ほんとうは 無我と見る《わたし》がいると思いますが――つまりは 諸法(世界のものごと)無我(何も自存する実体はない)ということですから それと《一なるもの》説との異同を明らかにされるとよいと思います。
 また 梵我一如の《我 アートマン》との異同も大事だと思います。

 ☆ いちいちヰキぺの記事(サイト)を掲げませんでしたので その点ご了承ください。

 14. ★ 真の完成を求める人――☆ わたしの立ち場としては 《〈すでに真の完成がある〉という地点から真の完成を目指してあゆむ》 です。《終わりから始める》を大前提としています。それとの対比は どうですか?

 

投稿日時 - 2010-04-24 09:56:00

ANo.47

そうですね、お答えしていないご質問からお答えしていきたいと思います。

Q>☆ でも《未分化》というのが それとどのようにつながっているのか。つまり 《個人としての中央》どうしが関係しあっているとわたしの場合見るわけですが 《辺縁と中央との一体》と言えば《未分化》なのだとまづ思います。思って そのとき《内観》の人と《外観》の人とが 別にいるということですか?

A<中央と辺縁が一(いつと読みます)になった時には、内観と外観の人が別に居るということではありません。この場合には、全一なる自身と、同じく普遍無量無辺の他なる存在、すなわち仏教用語で言うところの一仏乗(一なる他の立場)の二者のみが存在しています。無量無辺については、その説明をNO40~no41の冒頭部よりの続きにございましたのですが、話しすぎてかえってよくないかと計らって、切り落としてしまったのです。ですから、その部分をきちんと掲載しておこうと思います。長文ですので、次の解答に掲載したいと思います。かさばってすみません。

Q>★ 観が、隅々まで行き届くという意味です。
 ☆ これは なぜか自動的にそういうさとりのような境地になると言っているようにも受け取れるのですが そのへんどうなんでしょう?

A<観とは、みる、ということですが、質問者さんの言葉で言う、こころの窓に相当すると思います。質問者さんの表現では、伸び、となっていますから、それは、直ぐ、ということ理解しています。
私の場合は、無辺、つまり、ひろがりです。横、面、平、そのようなイメージでしょうか。ですから、窓というよりは、外、となります。おそらく、こころの窓、は、自らの内面主観を経由して、真実在へ向かう窓であるのかなと思います。それが、表現となって、厳かに言えば、枢央縦軸の真実在の伸び、ということになっておるのかなと。。後、表現の論のところで、詳しくお聞きできる機会があろうかと思います。

そして、NO43のお礼より。少し飛び地になりますが。すみませんよく返信できてなくて。
 
Q>☆ あとは 《真実在》ですね。定義しないと分かりにくいと思います。
 わたしの場合は こうです。
 ○ 真理(非思考のなぞ)――真実(主観内面のこころ)――事実(歴史の行為関係の軌跡)
 ○ 主観真実と経験事実とを合わせて 現実と言う。
 ○ むろん主観真実には 非思考として心の窓がありそこにおいて志向性(伸び)を持つ。つまりこの・《真理とわれとの関係》も――つまり 信仰も―― 主観真実に含まれる。
 ○ 主観は 真理(つまり 神)を信じる。事実〔およびそれを抽象化した概念〕を考える。
 ☆ どうでしょう?

A<私の場合には、
 ○ 真理とは、非在、実在、を超えた司り、であると考えています。これは謎ではなく、明らかなこととして私は捉えています。疑いの余地はありません。それは、疑える性質を備えていないから、と私は見ています。
 ○ 真実とは、まこと、即ち誰にでも実在する透明実体、それの事です。
 ○ 現実とは、有無を言わさぬ目の前の広がり、と表現すればよいでしょうか。自身を含みます。
 ○ 主観真実とは、今ここ、からの実在、ということになるでしょうか。直心とも私は呼んでいます。
 ○ 主観は、まことを信じる。 事実を一見、正しく思考して、最後は無一物。
 そして、
 ○ 普遍真理とは、何の手も加える必要は無い、ということでしょうか。普遍真理は、質問者さんの言うところの神かもしれません。私の場合には、信じるのは皆々、ひとりひとりのまこと、真実、あるいは無量無辺の普遍真実、という事になります。神というより、真理、という言葉を使うことの方が多いでしょうか。それは、信じるというよりは、私にとっては知るものです。つまり、法、ということになります。働きと言ってもよいでしょうか。


〔表現論〕
おそれながら、私は表現というものを知りません。そのままでよいとおもうからです。バットを持って、空振りする、当たっても当たらなくても、。あまりこだわらない。そういうもんではないかと思います。
もし、本当のことをやれよといわれたら、困ります。止まります。そういう意味では、アウトです。しかし、真実在の話であれば、いけます。さらりと本心、だすのが、まことであるからです。そういう意味で、表現論に、加わって行けたらと思います。


よろしくどうぞ。長文ですので、ペースを整えつつ、目指すそれへとまいりましょう。

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投稿日時 - 2010-04-23 22:02:57

お礼

 表現論について了解しました。――ご回答をありがとうございます。
 いえね これは 特に対話においては 相手に応じて 或る種の仕方でウソのようなことを言うものですから それも そう言えば 事実や真実・合わせて現実の問題を どう表現するか この主題もあったかなと思ったものですから。
 最終的に 主観真実に行き着くと言っておけば それとして片づくとも思われます。何かあったら また議題に出します。

 さて 全般的に言って わたしの知りたいところは 
 ○ 経験世界( Y の領域)に属するのか? それとも それを超えたところ( X の領域)なのか?
 ☆ ここにあります。わたしの場合は
 ○ 真理= X 。事実= Y 。人間(主観真実)= Z 。
 ☆ という区別になります。
 たとえば
 ★ (あ) 普遍無量無辺の他なる存在、すなわち仏教用語で言うところの一仏乗(一なる他の立場)
 ★ (い) 非在、実在、を超えた司り としての真理
 ☆ たぶん(い)は 《 X 》 でよいと思うのですが (あ)は 果たしてどうか? いままだ分からないところです。


 ★ (う) 主観は、まことを信じる。
 ★ (え) 信じるのは皆々、ひとりひとりのまこと、真実、あるいは無量無辺の普遍真実、
 ☆ とおっしゃいますが わたしの定義では こうです。それと比べて定義していただけるとよいと思います。
 ○ 真理( X )とわれ( Z )との関係: X - Z :
   心の窓としての志向性・明け・伸び―――《信じる》という非思考の行為
 ○ 事実( Y )とわれ( Z )との関係: Y - Z :
   事実認識。概念として抽象しそれを用いて思考する――《考える》という経験思考
 ○ 《わたし i 》の世界現実: X - Y - Zi:
   世界観・歴史観・人間観・社会観ないし思想(生活態度)
   ここには 背景にしりぞいているけれども 非思考(信仰)も含まれている。
   つまり 《考える》+《信じる》。

 ☆ ですから (う)は 信じるという言葉を使っていますが 果たして 信仰( X - Z )と規定してよいのか? (え)も 同じような正確さを求めたいところです。あるいはわたしの定義を修正していただくかです。

 つぎの命題ないし定義が いちばん分かりにくいと思います。
 ★ 神というより、真理、という言葉を使うことの方が多いでしょうか。それは、信じるというよりは、私にとっては知るものです。つまり、法、ということになります。働きと言ってもよいでしょうか。
 ☆ 《法》――ダルマでしょうか?――もしくは《働き》であれば それは たとえその《法》じたいが分からなくても その《はたらき》としてすでに経験現実に現われていると思われますので それは 経験思考( Y - Z )だと思われます。《知る》も《考える》と同じ経験領域のことです。
 《神・真理》は 《 X 》です。非思考のほうです。

 押さえどころとしては 経験領域( Y )のことがらは 思考( Y - Zi )の対象であり その経験を超えたところに想定する領域は――神ということですが―― 思考の対象にはならないということだと考えます。
 《考える Y - Zi 》の対象にはならないところの世界( X )に対して 心に窓が開いているとすれば その心の明けが 非思考という心の伸びであり 信仰( X - Zi )です。
 《事実を考える》と《真理を信じる》とを合わせて 《わたし Zi 》の現実の主観( X - Y - Zi )です。

 ちなみに 《真理 X 》は 具体的な形態としては 有神論の神(狭義の X )と無神論の無神( non-X )とがあります。有神論の神(狭義の X )には ヤハヱー( Xa )やデウスないしキリスト( Xb )やアッラーフ( Xc ) あるいは ブラフマン( Xd )また阿弥陀仏( Xe )があります。すべては 呼び名の違いのみです。《真理 X 》であるならばです。しかも 無神( non-X )とも同一です。呼び名が違うだけです。

 さあ ご批判をどうぞ。

投稿日時 - 2010-04-23 23:35:36

ANo.46

NO45、主体と客体の未分とは、については、やはり留保しておきたい。
前回NO45の解答における、主体と客体の未分についてのコメントは、微妙に無理解である。

投稿日時 - 2010-04-23 04:32:35

お礼

 こちらから取り急ぎお応えしてまいります。

 ☆☆ (No.43お礼欄) ~~~~~~~~
  ★ 尚、統合においては、辺縁と中央は一なるものであるでしょう。観が、隅々まで行き届くという意味です。
 ☆ でも《未分化》というのが それとどのようにつながっているのか。つまり 《個人としての中央》どうしが関係しあっているとわたしの場合見るわけですが 《辺縁と中央との一体》と言えば《未分化》なのだとまづ思います。思って そのとき《内観》の人と《外観》の人とが 別にいるということですか?

 ★ 観が、隅々まで行き届くという意味です。
 ☆ これは なぜか自動的にそういうさとりのような境地になると言っているようにも受け取れるのですが そのへんどうなんでしょう? 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 後半は 考えなおしました。《即身成仏》つまり いま・ここでわたしは〔《わたしがわたしである》ことにおいて〕自由である。ゆえに 表現として《観が、隅々まで行き届く》を得ます。
 潜在性としてそうであるでもよいでしょうし。あるいは 必要な限りで情況からまたまわりの人びとから情報が得られることというふうに 単純に捉えます。
 《隅々まで行き届いている》とき そこから必要なだけの情報が得られればよいという見方です。

 前半は 質問です。問い返しています。そうして いま思ったことは
 ★ 辺縁と中央との一体
 ☆ は単純に捉えるなら
 ★ 観が、隅々まで行き届くという意味です。
 ☆ に通じているとも見られます。ですが まだしっかりと捉えられていないという意味です。

投稿日時 - 2010-04-23 10:42:12

ANo.45

私達は言葉でなにを言おうが、その実体を得ることはできない。正しく精励しない限り、この迷妄の林からは抜け出られない。ただし、主体と、客体の、未分については、説明することができるかもしれない。
それは、自分をこころから大事に、他の人をこころから大事にするということです。

投稿日時 - 2010-04-23 04:08:31

お礼

 そうですね。まづはご回答をありがとうございます。

 まづ理論というものは 用語やその概念をきちんと決めてどこまでもそれにのっとって推論をおよぼしていきます。
 これで 現実についての或る種の事実を主観にとっての真実として認識します。ただ いかんせん この事実認識 としての主観真実は 現実のまだ一部です。現実世界のほんの一端を見たという程度かと思います。
 全体観を得ようとすれば それでも一部分の認識から入ることもありますし あるいは別様には やはり《たとえ》で全体を把握しようとすることもあると思います。このあたりから 理論を超えていくということでしょうし それは 理論――経験合理性によって世界認識を得たと思う限りでそれを人間の言葉で整合性を持って表現したもの――のやはり限界を物語るものと考えます。

 そこらへんのことをおっしゃっているのだと思います。

 さて ひとつ思い浮かんだことをそのままつづってみます。
 理論を超えるというときの表現のわざ といった主題についてです。あるいは 相手のある対話のばあい どういう表現の形式になっているのか。こういうことを考えてみたいと思いました。

 たとえば パウロの表現から次の形式を取り上げます。変な引用の仕方をしますが。
 ☆☆ (No.44お礼欄) ~~~~~~~~~
 ▲ (コリント後書 6:8) ~~~~~~~~~
  栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにも・・・
  わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち
 ○ 人を欺いているようでいて、誠実である。
 ☆ という命題です。つまり短絡しますが この命題が
 ★ 自分をこころから大事に、他の人をこころから大事にするということ
 ☆ に通じると言おうとするものです。No.46でこの説明は 保留とされましたが その事情にもかかわるかも知れないと思って 無理やりですが 取り上げます。

 ▲ (コリント後書6:10) 無一物のようで、すべてのものを所有しています。
 ☆ この表現は いったい何を言おうとしているのか? これはもはや理論ではありません。《たとえ》による表現形式です。単に貧乏であるとかないとかを言おうとしているとは思えないのです。しかも《すべてのものを所有している》と言ってしまえば ただのほら吹きです。
 結論を持ち越しますが 別様に次の表現を見てください。三つの訳があります。

 ▲ (コリント後書 13:7――口語訳) ~~~~~
 わたしたちは、あなたがたがどんな悪をも行わないようにと、神に祈る。
 それは、自分たちがほんとうの者であることを見せるためではなく、たといわたしたちが見捨てられた者のようになっても、あなたがたに良い行いをしてもらいたいためである。
 ▲ (同上――新共同訳) ~~~~~~~~~~~
 ・・・
 それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。
 ▲ (同上――共同訳) ~~~~~~~~~~~ 
 ・・・
 わたしたちは 自分が本物の信仰者として見えるようにということではなく たとえ偽(にせ)の信仰者と見えようとも あなたたちが善をおこなってくれるようにと願っているのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この最後の《共同訳》のほうで――わたしにとっては やっと―― 先の《人を欺いているようでいて、誠実である》の命題に戻ったと思います。

 表現論というのでしょうか これはまだ触れて来ませんでしたね。
 どうぞ広げて行ってください。

投稿日時 - 2010-04-23 12:18:14

ANo.44

本題に入る前に、更に整理します。


       主体    対象

主体  不分離  不可思議

対象  不可思議  無量無辺


そして、最終的には、無量無辺と、主体が統合されれば、私の方からのアプローチとしては、一在の完成・夢の終わりということになります。

つまり、

主体 対象 無一物

ということです。

これで、真実在に到知せるはずです。

そちらからでしたら、真実在を燈知すると言うことになるでしょうか。

これで、真実から始まる真実の求道ということになるでしょうか。

ご参照まで。

雑談・
ところで、一つ個人的に知りたいことが在るのですが、ブランジュロンさんは、どうして、交通整理なるものを始めようと思われたのですか?

というのも、私が昔、みずから言葉を崩壊したとき、その残渣が撒き散らされたことがありましたが、そのときは自分が色々のものを汚染しているというような自覚はありませんでした。それに、それが汚染だったのかどうかも、いまや不明であり、ともすれば、世間とはそういうものではないのかとも思っています。

私達は現実から足を洗って、かかる洞窟のような場所に入り浸っているが、このことが、果たして真の人生に通じることであるのか、私には解からない。

世間に言うところの幸福はほとんど一度は見限った。
真実を探求しようとしたときからそのようなものには何の魅力も感じなくなった。というよりは、真実探求そのものに熱中したといっても良いだろうか。
しかしながら、今、自分は思う。

食卓に、色々の食物が並んでいるときに、TV放送で食料欠乏児などが映されると、食卓は冷めてしまう。
私が世で成功し、いろいろの満足を得たときに、隣に何の満足も無い人が多く居るというのは現実の事である。私がしあわせになっても、他の誰かはしあわせにはならないだろう。しかしそうなのか、そういうものなのか、このように思えるのは、他の誰もがも、同じような気持ちを理解するのは簡単なことでもあるからです。だれでも、自分ひとりの満足では安らげない。
ひとは、一人でしあわせにはなれない。喩え、100億人の人が居て、99億と、9999万と9999人が幸福でも、一人が不幸で在るならば、9999999999人は、こころから幸福ではおれないだろう。人類というのはそういう存在です。

ならば私はどうすれば最善なのか、
人のしあわせとは一体何なのか。少なくとも私だけは、明るいのでなければならないのではないのか、そのように思う。世の中には、勿論、明るい人々も居るであろう。私だけがということは無いだろう。
しかし、暗い中で、暗いままでは何にもならないだろう。そのような場合、少なくとも、自分は、明るくならねばならないだろう。そのように私は思う。他の幸せは、最上の事なのである。一切他者の幸せは、まさしく、唯一の自分自身のしあわせに他なりません。

私にとっては、インターネットの世界は洞窟でした。外の世界は明るかった。
方向としては、反対であると私は思っていた。
もう、語れることはほとんど語ったと思った。このように、本音を言うことは珍しいが。
ある人々にとっては、インターネットの世界は明るいでしょう。それはそれで、真実なのであると思います。彼らは、開けた心の持ち主なのでしょう。素晴らしいことです。
インターネットであれ、インターネットをも含んだ実際の世界であれ、人は明るく歩くべきである。そのような人こそ、自他をしあわせにしつつ、真の安らぎへといざないゆくからです。

道を整理する清らかなる人は、自分自身の願いと、他の人々の願いの一なるさまを見通して、かの不滅の安らぎへと歩みゆきかし。

そのような人には、光が伴って、影は生じないでしょう。

(^^)

投稿日時 - 2010-04-22 21:57:25

お礼

 《交通整理》は アウグスティヌスを読んだからです。へたな人生を送ることは出来ないと思ったからです。

 ▲ (アウグスティヌス:戸ぼそを開けたまえ) ~~~~

   おお  あなたよ 私にあなたを問い求める力をお与え下さい。
   あなたは私があなたを見出すことが出来るように創造されました。
   私があなたをいよいよ深く豊かに見出すようにという希望をお与えくださいました。

   あなたの御前にこそ わが力 そして わが弱さがあるのです。
   わが力を守りたまえ。わが弱さを癒やしたまえ。

   あなたの御前にこそ わが知とわが無知はあります。
   あなたが私のために拓きたまうたところで入り行くわたしを受け納れたまえ。
   あなたが私のために入口を閉ざしたまうたところで 叩くこの私に戸ぼそを開けたまえ。
   ・・・
    (三位一体論 vol.15 ch.28 中沢宣夫訳)

 ▲ (アウグスティヌス:逆に おまえが私に変わるのだ) ~~~~
  私の見た・・・光は 油が水の上にあり 天が地の上にあるような仕方で私の精神の上にあったのではなく 私を造ったがゆえに私の上にあり造られたがゆえに私はその下にあったのです。真理を知る者はこの光を知り この光を知る者は永遠を知る。それを知る者は愛です。

  おお 永遠の真理 真理なる愛 愛なる永遠よ!
  あなたこそはわが生命 あなたを求めて私は日夜あえぐ。
  はじめてあなたを知ったとき あなたは私を引きよせて 見るべきものがある だがそれを見うるだけの者にまだ私はなっていない ということをお示しになりました。
  そしてはげしい光線をあてて弱い私の視力をつきはなされたので 私は愛と恐れにわななきました。
  そしてあなたからはるかにへだたり 似ても似つかぬ境地にいる自分に気づきました。

  そのときはるかに高いところから

    私はおとなの食物だ。
    成長して私を食べられるようになれ。
    食べると言っても 肉体の食物のように
    おまえが私を自分のからだに変えるのではない。
    逆に おまえが私に変わるのだ。

 というみ声を聞いたように思いました。
   (告白 7・10 山田晶訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《無一物》という言葉で思い出した箇所を引きます。つぎのパウロが アウグスティヌスにとって 窓でした。ちょっと旧いと言いますか 抹香臭いところもありますが。

 ◆ (パウロ:コリント後書6:2-10) ~~~~~~

 今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

 わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。
 大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。
 左右の手に義の武器を持ち、栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。
 わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2010-04-23 00:02:17

ANo.43

okwaveのリンクを拝見しました。

お返事いただいて、少し誤解があるかなと思ったのは、構造主義的見方の主体が構造に在るという質問者さんのご発言です。

構造主義的見方では、構造に主体が在るというのではありません。

それは喩えば、粘土で形を作る人を思い浮かべていただけるとよいかと思います。

粘土が自然、形が、構造、作る人が、主体です。簡潔にはこのような見方でよいと思います。

外なる事物から形を引き出す故に、外観的で在ると。引き出す人が、能動主体です。

このとき、形を引き出す人は、どこからその形を得るのかというところに、前提的に、知恵が在るというのが、構造主義を論ずるときの条件でしょうか。なぜなら、引き出したそれを得るのは、もう一つの内部主体であるからです。

その知恵が何であるかを半分述べたものが、NO40の解答です。

一方、内観と呼ぶ立場、即ち内に外を見る立場はどういうものかというと、

喩えば、歌など思い浮かべるとよいでしょうか。自らの内的な形にならぬものを、自己を通して表現するということです。自らの内在に材料があり、自らがそれ表出することによって外へ向かわせるという意味です。質問者さんの言うところの、自己表現に当たるでしょうか。
この立場の人にとっては、世界というのは外なる存在であると思います。外部世界重視の立場でしょうか。
なぜならば、自らの表現を受け取ってくれるもう一つの主体が外部世界であるからです。

外観の立場の場合、世界というのは内部に存在していると思われます。自らが外部世界を通して表現したものを受けるもう一つの主体は、自らの内部世界であるからです。

整理しましょう。


      能動主体        受動主体     材料      形

内観     中央         外(知見)      内       外へ

外観     中央         内(理解)      外       内へ

統合   中央および辺縁     分離なし    無量無辺   無量無辺



統合においては、外観、内観の区別はなく、総じて観と言います。
統合と言ってもよいし、未分化と言ってもよいでしょう。

尚、統合においては、辺縁と中央は一なるものであるでしょう。観が、隅々まで行き届くという意味です。

表を張っておきます。

引き続きNO42までのお返事読みます。まだ、さっとしか読めていません。
すこし、よく読みます。それから、投稿いたしますので、NO42のお返事の主題に対するお答えは、次の投稿でさせていただきたくおもいます。

ロン>これは 【Q:慈悲は 経験現実か】からの課題だと じつは思います。不用意に言えば コスモスもカオスも経験世界に属しており 人間は その非思考の世界〔の想定〕において この経験世界を超えたところにも心の伸びを持つというのが まづは出発点になるのではないでしょうか? どうでしょう?


そうですね、おそらくよいとおもいます。

大変申し訳ございませんが、この投稿に添付された画像や動画などは、「BIGLOBEなんでも相談室」ではご覧いただくことができません。 OKWAVEよりご覧ください。

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投稿日時 - 2010-04-22 19:32:57

お礼

 
 ありがとうございます。

 《統合》のところに注目しました。
 ★ 統合においては、外観、内観の区別はなく、総じて観と言います。 / 統合と言ってもよいし、未分化と言ってもよいでしょう。
 ☆ たぶんわたしの場合は 《未分化》ではないのですが――つまり個体は分化していると捉えますが―― 《内観と外観》は つぎのように捉えます。
 ○ ひとは 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である。
 ○ あるいは言いかえると ひとは 孤独です。物ごころが着くと覚えるのは 孤独であることと それが独立しうるということ したがって楽観しうるならば その独立どうしの関係が 自由な共生の関係を築けるかも知れないというのぞみなのではないでしょうか?
 ○ あるいはもっとしめっぽく言えば ひとはどうしようもなく《独り》です。しかもやがてこの孤独は それを言わば突き抜けて 孤独どうしの関係なのだとさとります。これが 独立存在であると同時に 関係存在であるという同時一体なる二つの側面です。

 ☆ したがって 個人はだれもが《中央》であるという見方を持ちます。《材料 / 形》については この場合のわたしの見方には入っていませんが。
  

 ★ 尚、統合においては、辺縁と中央は一なるものであるでしょう。観が、隅々まで行き届くという意味です。
 ☆ でも《未分化》というのが それとどのようにつながっているのか。つまり 《個人としての中央》どうしが関係しあっているとわたしの場合見るわけですが 《辺縁と中央との一体》と言えば《未分化》なのだとまづ思います。思って そのとき《内観》の人と《外観》の人とが 別にいるということですか?
 ★ 観が、隅々まで行き届くという意味です。
 ☆ これは なぜか自動的にそういうさとりのような境地になると言っているようにも受け取れるのですが そのへんどうなんでしょう? 

 ★ (回答No.44) ~~~~~~~~~~~
 そして、最終的には、無量無辺と、主体が統合されれば、私の方からのアプローチとしては、一在の完成・夢の終わりということになります。

 つまり、

   主体 対象 無一物

 ということです。

 これで、真実在に到知せるはずです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは むつかしいです。《無量無辺》が捉え難い。《材料 / 形》が《統合》のところで やはり《無量無辺》となっているのですが さとりの境地として自由自在というようなことなのでしょうか?
 《無一物》というような事項を出してくるのは 分かるような気がします。境地として分かるように思います。そしてそれは やはりわたしの場合 《いま・ここなる〈わたし〉》において それつまり《無一物》を設定します。

 あえて聖書の文句を出しましょうか。
 ▲ わたしは世間に対して 世間はわたしに対して はりつけになっています。
 ▲ わたしは 十字架上に 肉を欲望や欲情もろとも はりつけにしてしまったのです。

 ☆ あとは 《真実在》ですね。定義しないと分かりにくいと思います。
 わたしの場合は こうです。
 ○ 真理(非思考のなぞ)――真実(主観内面のこころ)――事実(歴史の行為関係の軌跡)
 ○ 主観真実と経験事実とを合わせて 現実と言う。
 ○ むろん主観真実には 非思考として心の窓がありそこにおいて志向性(伸び)を持つ。つまりこの・《真理とわれとの関係》も――つまり 信仰も―― 主観真実に含まれる。
 ○ 主観は 真理(つまり 神)を信じる。事実〔およびそれを抽象化した概念〕を考える。
 ☆ どうでしょう?

投稿日時 - 2010-04-22 23:31:17

ANo.42

続きを書いている間に、NO39のお返事いただきました。

どうでしょう、どこかのチャットルームにでも行ってお話をするというのは如何でしょうか。
それとも、公開性に重きを置いて、たとえ遅速でも、okwaveでお話しますか?

知識の隔たりを障碍にしない立場でお話しするというのが、今の望まれることでしょうか。

お返事拝読します。

投稿日時 - 2010-04-22 15:12:31

お礼

 No.41へのお応えに書きましたように いまのところ この場でよいと思います。差し支えはないと思いますから。

 No.40のご論文ですが。
 ★ アブラクサス
 ☆ はグノーシス主義の思想体系に組み込まれているもののようですね。
 というのも そもそもグノーシス主義は 〔ペルシャだとか〕ほかの起源は別としても聖書ないしクリスチアニズムの教義に非常に大きくかかわっていると思います。
 そしてわたしには その欠陥は 二元論にあると考えます。
 善を何であると規定するかは措いておいて その善とは反対のもの・つまり善でないもの・すなわち悪と呼ぶものをも 善と同じく根源として立てるのが特徴です。つまり 二元論です。
 これだと 善は悪となり 悪は善となり 収拾がつかなくなると言えると思います。思想として落第だと考えるのです。

 ★ (回答No.40) 仏教用語においては、不可思議なる因縁とも呼ばれているそれの事です。思議することは不可であるということです。質問者さんの言う謎に相当すると私は思っております。異なるようであればご指摘ください。
 ☆ 問題は 《なぞ》にも 二つの種類があることだと思います。
 無限にも 経験世界における相対的な無限と そして非思考の(経験を超えた)真無限と言うのでしょうか 要するに神としての無限があります。
 前者は 可能無限とも呼ばれると思いますが 1,2,3,・・・∞ というふうに順序に従って数えてたどり着くものです。なぜこれが 相対的であるかと言えば 最後の無限大にさらに一を加えることが出来るからです。 ∞ < ∞ +1。つまりつねに その ∞ よりも大きい数があるということになるからです。
 これは 神としての《なぞ》ないし無限とはあきらかに別です。神の無限は もしそれを仮りに二で割っても その商は やはり無限です。三で割っても同じです。

 ★ 不可思議なる因縁とも呼ばれているそれの事です。思議することは不可であるということです。
 ☆ 《不可思議》は わたしの言葉で《非思考》です。ただし 《因縁》は そうではないと思います。経験世界における思議しうる歴史事実にもとづく思考の対象となります。有限です。

 ただし 神のなぞが もしこの経験世界に介入するとすれば どう捉えるか。たしかにそのありさまは 因果関係が思議しうべからざるふうにしか過程しないということになります。(占いやら何やら 自由に勝手に人は思議してしまいますが 答えは分からないということになります)。

 そうしますと
 ★ 絶対安寧なる無辺の立場
 ☆ これが けっきょく 非思考の問題つまり 信仰の立ち場の問題になるという寸法です。そこに行き着くと思います。《絶対》は 真無限のなぞです。《無辺》は 限りなく続くという可能無限であることも そうではなく絶対としての真無限であることもありえます。
 《安寧》は だいたい経験現実のこころの問題に属すと思います。
 ですから なぞの二つの次元をきちんと分けて論じるのがよいというのが ひとまづのわたしの反応になります。経験と超経験 可能無限と真無限 相対と絶対です。
 ということは それらふたつの《なぞ》のあたかも一体となった人間という存在 そしてそこにおける非思考の受け止め〔としての信仰〕 この問題に行き着くのではないかと考えるものです。
 これは 【Q:慈悲は 経験現実か】からの課題だと じつは思います。

 不用意に言えば コスモスもカオスも経験世界に属しており 人間は その非思考の世界〔の想定〕において この経験世界を超えたところにも心の伸びを持つというのが まづは出発点になるのではないでしょうか? どうでしょう?

投稿日時 - 2010-04-22 16:49:01

ANo.41

さて、本来構造種的立場の正しい完成というのはこのようなものなのですが、多くの人々は、この渦、文様、カオスに勝手な解釈をつけて自分勝手に、それぞれに把握して、いわば、夢を見て朦朧混濁としているような、状態になってしまうのです。


・・・・

前回投稿の字の補正をいたします。


数的→数滴
猛犬→妄見
構造種的→構造主義的

ひとしきりざっと書き上げましたので、整理して欲しい場合は、おっしゃってください。
後に、整理した文面を提出します。

ひとまず、これにて。

・・・・

余録
おそらく、思っていたのとはずいぶん趣の異なる解答であったかと思います。
自己表現と見ることもできるでしょうか。

さて、もう一度焦点を戻して、恣意性の説ですが、構造主義的立場、外観の立場から見れば、音素を認証するのに必要な、何某を内在に備えていなければならないと仮定しましょう。

つまり、自然-文化です。既に共理解の基盤を備えていなければ、音素を言葉、つまりシーニュとして理解できないでしょう。つまり要は、この基盤が何であるかということになるかと思います。
この基盤は、言葉を乗せる土台でもあります。また、言語を発する元のもの、主でもあります。
もはや、それを基盤と呼ぶことさえ難しく、本来これを名称することは実質的に困難です。
なぜならば、この上にこそ、名称構造が存在しうるからです。
このことを、どのように語ればよいのか私には手段が無い。

ブランジュロンさん的に言えば、口腔、つまり、舌の置き場所で伝えようとしたとか、そういうことよりも、もっと、腹の底の方から生じるそれです。

したがって、かりに、声にならない声であったとしても、それは、確りと受け止められるものであるでしょう。

本来的に、人には、理解される言葉と、理解できる言葉とが、もとより腹の底にしまわれているといえばよいでしょうか。

> したがって 恣意性説にもとづく《世界は差異の関係構造だ》という命題が そのまま独り歩きしている。つまりは 構造主義が 世界を席巻したようですし まだその後遺症が残っているようです。
 これをはっきりさせる必要があるでしょう。
 それには 明確な批判をもって答えないと おそらく進展はしないでしょう。
 と踏んでいます。
 
 ただし おっしゃる立論が成功するとお考えでしたら すすめてみてください。ついてまいります。

>次第に質問者様の為そうとされていることが理解できてきたのですが、私のアプローチとしては、何故、恣意性の仮説が、いとも簡単に受け入れられてしまったのかという理由を掘り下げる必要があるかとも思います。
ずいぶん考察しましたが、口語と文語の違い、聞くほうと見るほうの違い、あるいは、発する方と、受け取る方の違い、外観と内観、それらを踏まえたところ、恣意性の仮説を提唱すること自体に恣意性が含まれているのではないかと思います。

恣意性、でたらめとは即ち取り合わないの意味ですが、わからないことには取り合わないという、この行い自体が、不幸の始まりのような気さえします。(母子の会話に似ているでしょうか。)

結論から言えば、聴く耳さえあれば、恣意性など消し飛ぶわけですが、構造主義者が、文字で勉強しすぎ、そこに、言葉を発した人の主体を見出すことができなかったということが、原因としてあるかもしれません。あるいは、音と、意味に連関がないという人の場合は、音声を聞いて、言葉を聞かなかった可能性が考えられます。
何故そうなるのか、それは、自身にせよ、他者にせよ、主体というものを受け止めることができなかったために起こったのではないかとも、考えています。

・・・・

ひとまずこれで、お返事をお待ちしています。軌道修正などあれば、よろしくお願いします。またその他の進言あればお願いいたします。

なお、普遍的構造主義的見方の論については、続きがありますが、つまりさらに多層的な見方とその超越について試論を展開したものですが、質問者さんの言う明確な批判というよりは、構造主義的見方の立場から、自らに内在する誤謬の発見をテーマにしています。私の言葉であるから、本来の哲学の構造主義的見方とは異なると思うか方々も在るでしょうから、構造主義という言葉を使うこと自体ためらわれるようです。しかし、この議場での、きわめて柔軟な言葉の用いk他をするということにして、あえて構造主義と言う言葉の使用を続けます。端的に言えば、外観する立場からのアプローチということになるでしょうか。

しかし、この問題の解決のための立場には、無自覚の恣意性というものを理解するのがよいようにも思えました。外観、内観は、それぞれに立場を持つが故の死角を持っています。ゆえに、立場は分けない方向が望ましいとも思うのです。

投稿日時 - 2010-04-22 15:06:32

お礼

 そうですね。

 結論から申しますと 《構造》にかかわるかたちでの見方による《人間と世界》の理論は それとして独立してお聞きしたいと思います。
 ★★ (回答No.37) ~~~~~~~~~~ 
  前者(* てるてるさんの・構造にかかわる見方)は外に内を見るということになり、後者(* ブラジュロンヌの自然および文化の説)は、内に外を見出すということになるでしょうか。。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはですね。よく考えたら ほとんど同じ内容になりますね。《内を見る》というとき そこに もし構造主義であれば 《実体だとか中身だとか》を捉えて言っているわけではないからです。《潜在的な規則》がやどっていると見たとしても それは 関係構造の一機能であり もし言うなら主体は構造のほうにあるのですから。
 そもそも内にあるとしょうが外から見て内にあるとしようが その《内にあるもの》を《人間的自然 ないし 自然本性(身体および精神;精神には記憶・知解・意志の三つの行為能力)》であるとして明確に捉える場合には ほとんど同じ人間論になると思います。
 (この《自然本性》が 朽ちるべき限りある相対的な存在であっても それとして経験的現実に思惟と行動とを繰り広げるという世界を捉える。つまりは いちばんの焦点は 意志それも自由選択の能力としての自由意志 これをどう捉えるかだと考えます。いわゆる構造主義は これを何か独立性を与えられたものとしては見ていないし 見ることができないと主張する)。

 ですから その基礎(出発点)は やはり言葉が音と意味との恣意的なつながりによって成りその体系としての言語が その言葉どうしの差異の関係構造としてのみ成り立っているという仮説から出ていると思われます。これを 言葉ないし言語から ヒトないし個人に当てはめた。もしくは ヒトの生きる世界は そもそも 言語という次元の世界であるのだと。そしてもっと言えば 世界に存在するのは 差異の体系としての言語のみであると。人はそこに付属しているのだと。

 どうもこのあたりで ソシュール=丸山の恣意性説への批判は 中断してもよいかと思うようになりました。言語学者ないし構造主義者で明確にその立ち場を取る人の登場を待ちたいと考えます。

 構造主義と比べるという作業をもうしない形で 受け止めて行きます。もう一度その見方から考えてみます。

 いまのところ この場でだいじょうぶのように思います。一つひとつやり取りをしていけばよいと思うのですが どうでしょう?


  * No.17お礼欄に ヰキぺ:フェルディナン・ド・ソシュール を掲げましたが このソシュールにしろ恣意性の説にしろ その適当な解説をするサイトはなかなか見当たりません。ヰキぺも 短いお座成りの解説です。

投稿日時 - 2010-04-22 16:15:08

ANo.40

では、私の概観する、および立ち聞きした構造主義的見方に、この議場で言う人間的自然の立場を付与して、語ってみようと思います。
注意して欲しい点は、私はおよそそれらにまつわる哲学の専門的知識を持ち合わせておらず、その代表的思想家の思想にも、書籍を読むなどして触れはいないということ。したがって、今から私が語ることにつきましては、質問者さんの用いる言語構造に直接当てはまるものではないかもしれないということ。つまり、質問者さんと私は、言語の意味するところの一致を見るというところまでに、ある程度の道程を必要とするであろうということ。

もう一つは、この概念の形態についての対項目、つまり構造主義的見方とと、網の目構造的見方-中心・辺縁的見方とが、今現在、私の中では大変シンプルな組み合わせの違い、即ち、ことの端が、つまり自らの主体が、事物を外的に見るか、内的に見るかの違いであるという見解を持っているということ。

そして、恣意性の説が早々に破綻しても、人間的自然がそもそもなんであるかという探求は、相変わらず、構造主義的立場でも、糸を繰り出すような立場でも、存続し、おそらくそのときには、構造主義的立場と、糸を繰り出すような立ち場の対立は既に存在しないであろうこと、そのようなことが推察され、一層、人間的自然、自由の内在性、一と他の両義性の解決などが、期待されます。

世の中は広く、無辺であるが、内的規定によって、形が保たれている、そのように見ているのが私の知るところの構造主義です。

およそ○○主義で世の事を知りぬくのは不可能であるでしょうが、この議場における二種類の見方は、相補的なものであって、それを観ずる事はけっして無駄とは言えない。

そのような示唆から、あえて、説明をしたいと思います。

世の中には、ありとあらゆる、未知のものが溢れていた。構造主義的起源では、この世は初め、知られざるものであったでしょう。それは形のないものであり、色のないものであり、とらえどころないものであり、図ることのできないものであった。仮にこれを、カオスと名づけましょう。

さて、ひとがこのカオスを切り出して自らの永住の土地を築き上げるために、初めに与えられていたものがあったと仮定する。それを、構造主義的見方による人間的自然と呼びましょう。この人間的自然はいわゆる智慧の光であり、万来(つまり世のまがまがしき一切の混沌)に形を与えることができるものであった。
その仕組みは、外なるカオスに応じて、内なる鏡、つまり見るということが、それを映し出すことによって、カオスをカオスであると認知するところから始まる。

既にこの時点で、事物を外的なものとして捉える構造主義的見方のスタイルが確立されています。

それは、広大無辺の平らかなる土地、人間の国土を、即ち見出したのである。いわば構造主義的見方とは、絶対安寧の立場から、外なる事物を映し見る立場に他ならない。
さて、この無辺なる解き放たれた国土の立場から、世の中のカオスを見るに当たって、そこには何が察知されるでしょうか。
それは、世の中が、いわば水辺の文様のようであることを識知ます。
喩えば、静止しているように見える水面に、墨汁を数的たらすとしましょう。すると、墨汁はたちまち、不可思議な渦を巻いて水面に広がるでしょう。これを、古代、東方では龍、西方ではアブラクサスと呼ぶことも聞いています。ご興味があればお調べになるとよいでしょう。仏教用語においては、不可思議なる因縁とも呼ばれているそれの事です。思議することは不可であるということです。質問者さんの言う謎に相当すると私は思っております。異なるようであればご指摘ください。

構造主義的見方の起源には、このような現象の有り様があることを、知られているのであると思います。さて、もし、構造主義的見方をする人が、かりに、静止する水面を見ずに渦だけを見たとしましょう。彼はた
ちまち、一なる形を失って、つまり主体を失って迷妄の渦に落ちて行きます。
そのような人がその砕けた猛犬から脱出するためには、今一度、絶対安寧なる無辺の立場に立たなければなりません。この無辺の立場は、色も形もありませんが、一なるものです。色も形もないのはカオスと同じですが、同じであることによって、カオスは、色も形もあるもののように、見ることができます。
このとき、人々は、構造主義的見方によって、智慧を得るともいえるのです。

この世は、終わりもなければ始まりもないというのが、絶対安寧なる一なる立場からの見方でありますが、つまり、彼には生死というものも存在しないのです。

さて、本来構造種的立場の正しい完成というのはこのようなものなのですが、多くの人々は、この渦、文様、カオスに勝手な解釈をつけて自分勝手に、それぞれに把握して、い

投稿日時 - 2010-04-22 11:55:41

補足

 ううーん。まだ――途中でもあるように思われますし―― 判断はつかないですね。ご回答をありがとうございます。

 検索していたら 次のような質問が見つかりました。その中での解説書からの引用は 分かりやすいと思うので それと対比して 申し訳ないですが いま一度ご説明願えませんか? つまり 《結び目(結節点)の個人には 実体がない》という主題が いまの焦点だと考えます。
◆ (【Q:構造主義の欠陥】回答No.5) ~~~~~
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3215454.html
 (イーグルトンの『文学とは何か』p.162)
 …彼(レヴィ=ストロース)はいう。神話とは、一種の言語にほかならず、神話は、個々の単位(「神話素」mythemes)へ分割できる。言語における基本的音声単位(音素)と同じく、この神話素もある特定のやり方で結びあわされてはじめて意味を獲得する。となると、そのような結合を支配する規則は、一種の文法とみてよいことになる。神話の真の「意味」をつくりあげるのは、物語の表面下にあるそのような諸関係の束である。
 この諸関係は、レヴィ=ストロースの考えるところでは、人間の精神そのものに内在している。…こうした思考をおこなう精神は、もはや個々の人間主体に属さない。 
 神話が人間を通して神話みずからを思考するのであって、この逆はない。…
 したがって、構造主義がもたらす一つの帰結は、個々の人間主体の「脱中心化」である。

 (α) 人間主体は、もはや意味の起源ないし目標(end)=終りとみられることはない。
 神話は、個々の人間の思索を単なる気まぐれとして超然たる態度でしりぞけつつ、神話自身の「具体性の論理」を展開し、
 (β) 個々の人間の意識はいかなるものも、これを神話自身の一機能にすぎぬものに還元してしまう。

 (p.169-170)
 …「純粋な」構造主義の考え方では、深層規則は普遍的で、個々の文化を超越した集合的精神のなかにあらかじめ組み込まれている。レヴィ=ストロースが想像したように、
  (γ) 深層規則は、人間の頭脳構造そのものに根ざしているのだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (α)が はっきりと《歴史社会は 無主体の過程である》という命題を唱えていると考えます。
 ただし (β)と(γ)とは互いにいささか矛盾するような感じがあります。
 ▲ (γ) 深層規則は、人間の頭脳構造そのものに根ざしているの
 ☆ なら 
 ▲ (β) 個々の人間の意識はいかなるものも、これを神話自身の一機能にすぎぬものに還元してしまう。
 ☆ としても 人間はその《頭脳構造そのものに宿る深層規則》のはたらきを通じて それがたとえ《神話自身の一機能にすぎぬもの》であっても おのれの自由意志を発揮しているという見方も成り立つかに思えるからです。
 もう一度ただし その場合でも 主観において自由意志を発揮していると思うところも 大きくは神話ないし構造のはたらきの一部をになっているに過ぎないと見るということなのでしょう。ゆえに 主体性はなく 歴史は無主体の過程であると。

 ★ いわば構造主義的見方とは、絶対安寧の立場から、外なる事物を映し見る立場に他ならない。
 ☆ これは (γ)の命題と軌を一にしていると思えますが ですから それと(α)や(β)との関連がどうであるか? ここに焦点があたるように思います。

 * わたしは ソシュール関係は勉強しましたが 構造主義は じつは苦手です。解説書を読んでもあまり触手が動かなかったのです。恣意性の仮説もかかわっていたと思います。
 このところ(一年くらいでしょうか) それではいかんということで 少しは読み継いできていますが。その辺の事情も含みおきください。

投稿日時 - 2010-04-22 13:59:07

ANo.39

>★ この踏み出しの出発点は、質問者さんのおっしゃる、人間的自然を出発点としてよいとおもいます。つまり、主体性が今ここ、というところからです。
 ☆ というとき 構造主義に立つ人とは つねにこの出発点において出発点じたいとしての仮説理論をめぐって討論せずには何も進めることが出来ないということになると思います。


しかしながら、もし、今ここの主体性を出発点にした場合、音素、意義素の存在自体を仮定する必要がないほど、言葉には実のあるものが出現しますが、その場合は、論ずるよりも生むがやすしということになり、QAが修了するでしょう。

投稿日時 - 2010-04-22 02:18:04

お礼

 ありがとうございます。

 この質問は ことばをめぐって回答者の方々が思い浮かんだ主題とそれについての考えを寄せてもらえばよいのですが そういう広い話題をあつかってもいるのですが 恣意性の仮説がからめば それとの理論的な対決が前に押し出されて来ます。
 もしおっしゃるように
 ★ もし、今ここの主体性を出発点にした場合、音素、意義素の存在自体を仮定する必要がないほど、言葉には実のあるものが出現しますが、その場合は、論ずるよりも生むがやすしということになり、QAが修了するでしょう。
 ☆ というときの《QAが修了するでしょう》のきっかけが 《構造主義者が 恣意性の仮説は間違いであったと分かることによって》であるなら 問題ありません。文句も何もありません。

 そうはならないとわたしは踏んでいます。
 理由は ひとつに 恣意性の仮説は 特にこれといった理論による理由は どういうわけか 付けられていないのです。言語をめぐる事実として そうであろうというだけのものです。
 そして これまでに取り上げるべき反論や批判も出て来ていません。

 したがって 恣意性説にもとづく《世界は差異の関係構造だ》という命題が そのまま独り歩きしている。つまりは 構造主義が 世界を席巻したようですし まだその後遺症が残っているようです。
 これをはっきりさせる必要があるでしょう。
 それには 明確な批判をもって答えないと おそらく進展はしないでしょう。
 と踏んでいます。
 
 ただし おっしゃる立論が成功するとお考えでしたら すすめてみてください。ついてまいります。

投稿日時 - 2010-04-22 10:02:40

ANo.38

確認しておくべきこと二点について。NO37の回答の、後ろ寄り三分の二は、すこし勇み足であったかもしれません。

>1. 人間の境地の問題を このいまの言語学の主題と絡めるというのであれば それとして切り口や踏み出しの地点を明らかにして出発することが望まれるのではないか。

<この踏み出しの出発点は、質問者さんのおっしゃる、人間的自然を出発点としてよいとおもいます。つまり、主体性が今ここ、というところからです。
 
・・・

>2. わたしの丸山説への批判の要点は こうです。まったく一点にしぼっているということです。自然なる身分けの世界から言分けの世界が人間によって切り開かれ それは文化の世界として――つまり 自然の世界をもすべて思考において捉えて扱うという全面的な言語表現の開化=文化の世界として―― 一挙に成ったというとき 〔つまり どうも人間の世界はそのようであるかも知れないのですが そのとき〕 ただし 言葉の成り立ちとしては 音素と意義素との絆において 自然の要素が見られますよ。こう言っているだけなん
です。

<なるほど、それだけで、十分に抑えられますよと。良いんじゃないですか。私においては、どちらかというと外縁系の見方が習慣化されていたから、むしろ、そっちでいいかもしれない。

投稿日時 - 2010-04-21 18:37:08

お礼

 直前のご回答へのお応えでも 丸山からの引用をしっかりとしようと思ったのですが なかなか簡潔に成すことはむつかしいです。
 ひとくだりを出すとすると ほかのくだりとの連絡が必ず出て来ます。用語をそのつど説明しながら 引用しても構わないでしょうけれど ひとつの仮説が いもづる式にほかの仮説とつながっていて ひと段落を掲げるにしても 一苦労です。前回は できませんでした。
 でもいっぺん掲げてみます。

 ▲ (丸山圭三郎:ソシュールの思想) ~~~~~~~~~~
 シ―ニュのもつ恣意性の意味するところを・・・まとめる・・・。
 (1) シーニュはシニフィアン シニフィエという二項から成ると言うよりは むしろ《シーニュは同時にシニフィアンでありシニフィエである》と言うべきである。
 この二つの項は抽象的次元においてしか分離されるものでなく そのいづれかのみを対象とする時は すでに言語を対象としていない。言語主体の意識にあるものは シーニュだけであり その意味でシニフィアン シニフィエの絆は必然的である。シーニュは コトバの外にある意味や概念を表現する外的標識ではない。シーニュはそれ自体が意味であり表現なのである。(=構成された構造内のシーニュの不分離性)

 〔* (1-a ) 記号素(モネーム)の持つ概念とその構成要素である音素(フォネーム)との間にはいささかも自然な関係がないという記号学的な特質・・・。たとえば 《愛》という概念と / a-i / という音素を結ぶきずなは恣意的である。――(* ここのみ p.309。つまり シニフィアンとシニフィエは ひとつのシーニュの中においては互いに一体であるが その一体性としてのつながりに必然的な理由はないと言う)。〕

 (2) しかしながら このシーニュは個としては存在しない。換言すれば すでに何らかの価値を有する個としてのシーニュの算術的総和が全体を作るのではなく 全体が分節された結果生ずる個と個との間の対立関係(* =差異の関係)によってのみ 個の価値が決定される。(=反アトミスム 価値体系の原理)。〔* 箱に詰めた風船どうしの関係のごとく。風船そのものには実体がない〕。

 (3) この分節の尺度は その基盤を言語外現実の中には(たとえ潜在的にも)一切有していない。この意味においてのみ シーニュは全く恣意的なのである。そうして この恣意性こそ 自然と文化をへだてる唯一の特質と言えよう。(=記号学的原理におけるシーニュの恣意性 すなわち反自然性)。〔* 反自然として成った独特の世界なのだと。宇宙の中で宇宙の中から この文化の世界をヒトは独自に切り取ったのだと。〕。
 (p.312)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ★ 私においては、どちらかというと外縁系の見方が習慣化されていたから、むしろ、そっちでいいかもしれない。
 ☆ この見解は 直前のやり取りでも触れたように 恣意性の仮説とは別に取り上げるというのでないと 茶の木畠に入ってしまうと思います。つまり 恣意性の仮説は 世界観のすべての領域にわたる《理論》を提示しているようですから 恣意性ないし構造主義の一部分の要素を取り出してきて それを論じるというわけにいかず。すなわち 恣意性および構造主義の立ち場に立つか立たないかを初めに決めてからでないと 議論をかみ合わせることがむつかしくなると思うのです。

 すなわち
 ★ この踏み出しの出発点は、質問者さんのおっしゃる、人間的自然を出発点としてよいとおもいます。つまり、主体性が今ここ、というところからです。
 ☆ というとき 構造主義に立つ人とは つねにこの出発点において出発点じたいとしての仮説理論をめぐって討論せずには何も進めることが出来ないということになると思います。

投稿日時 - 2010-04-21 22:15:00

ANo.37

つまり、、
中心的な音、音素意義素が生じたときに、必然的に周辺相も生じたと。

そういうものだと。。

それで、中心的な音の周りには辺縁的な意義素も同時に生じており、それは、一応定められていると。辺縁として。つまり、中心と限界がありますよと。例えばhなどの枢要な事柄である音素には。。

網の目を思い浮かべると、、その切り結びしている単語と、その周辺は、関係あるだろうということは、言えるんじゃないかなと、。

ふむ。。

言えるんじゃないですか。で、この結び目は人間であると。主体でもあると。
ふむ。。なるほどなるほど。。

私の理解が正しければ、構造を作るという主体性を構造主義は感知すると思います。材料はあるわけですが。材料、つまりあらかじめの自然などを抽出して構造を生み出すことが、人間的であると言えると思います。こちらは、材料の共有によって共通理解を得、縁は材料に伴うといってもよいのではないかと思います。

一方、質問者さんの序説では、既に主体と言語の発生源が等しく、一体感、主体性があります。発生起源的に、何によって共通理解を得るのかといえば、それは、質問者さん風に考えれば、身体構造などのあらかじめ条件として認められる自然によって、共通理解、縁を得られるということになるかと思います。

前者は外に内を見るということになり、後者は、内に外を見出すということになるでしょうか。。

御一考ください。

>つまり《文化のみ》か《自然および文化》か

これは、文化のみという状態がイメージできませんが、というより、イメージだけの世界ですか。。
椅子という例をとってみます。
椅子は、人間の身体に併せて作られた人工物です。材料は自然物です。
人間の身体は自然物です。作る主体は人間です。作る目的も人間のためです。作る原因となったこと、つまり重力は、法則です。

遠因を探れば、椅子を生み出したのは重力ということになるでしょうか?
それはやっぱ変だと思います。やはり、人間が人間のために生み出したのです。

生み出した人間は文化を発生しており、椅子を与えられたほうの人間は、文化を享受したのです。

文化は、人間に与えられている恵みとも見れます。

そういう意味で、供給するほうの人間は文化、需要する方の人間は自然ということになるでしょうか。
勿論このとき、人間が二人居ようが三人居ようが、一人であろうが、論旨に変化はありません。

質問者さんのほうから見ると、主体性を以って供給されるべきもの、椅子の形を規定したのは人間的自然、であり、ニーズを発するには、既に椅子の造形を自らに内在する自然に基づいて描いていなければならない、と言ったところでしょうか。従って、自然-文化-椅子(自然+文化)の順番だと。

いずれにしても文化は中心から発する見方と、辺縁から捉える見方とが、あるのかもしれません。

。。。

恣意性説の言わんとするところは、国語と外国語の違いかもしれません。
hi=日、火、などの主体相に比べ、he-herなどは、どちらかというと辺縁相です。

sun=太陽、son=息子 などは主体相ですが、三などは、辺縁相です。尊は、一人称には使わないですから、辺縁の一種とも見れるかもしれません。

息は、吸うと吐くがありますが、
吸うならば音素はsで、息の流れは外から内でしょうか。
吐くならば音素はhで、息の流れは内から外でしょうか。

吸う方を英語が主体と置いたならば、語の表出は、吐く方を主体と置く事と比べれば、音素意義素はひっくり返るのは自明と思います。

毒ならば吐けば有効であるし、薬ならば飲めば有効であるようなものでしょうか。

さて、間をおくためにも、ここで一度投稿いたします。

論が拡大傾向にありすぎると思われた場合は、遠慮なくおっしゃってください。質問者様のご要望のほうに沿う形で語りを進めてまいりましょう。

投稿日時 - 2010-04-21 18:17:20

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 恣意性の仮説は たしかに込み入っています。一方に 《その仮説じたいが細かく規定されているという問題》があり 他方には 《〈恣意性〉と 〈言語を用いていとなむ人間の社会的な現実世界を 無主体の過程と見る構造主義〉とのつながりの問題》とがあります。
 恣意性をふたたび規定してみます。
 (1) 言葉は発音(文字は別としておきます)と意味とから成る。シニフィアンとシニフィエとも呼ぶ。その一体となった言葉は 言語記号(シ―ニュ)とも呼ぶ。同じシニフィアン(たとえば hi )に二つ以上のシニフィエ(たとえば 太陽としての日と 昼と夜から成る一日としての日など)があっても 一つひとつは 一シニフィアン+一シニフィエとして一体となったシ―ニュである。
 (2) シニフィアンとシニフィエとの一体であることはよいが しかもその一体性は そのつながりに何の自然的および論理的な絆はない。と唱える。 hi という音と 《日》という意味とのあいだに 必然的なつながりはないと。(わたしは これに異を唱え 批判し反証しています)。

 (3) 一つひとつのシ―ニュ(言葉・語)は それぞれ一つの言語記号であるが このシ―ニュは それ自体として成り立っているのではない。と唱える。
 (4) すなわち一つの言語において すべてのシ―ニュは 互いに自他の差異のみによって成ったのであり 成り立っているし それとして用いられている。と唱える。
 (5) シ―ニュ《 hi =日》とシ―ニュ《 hi =火》とシ―ニュ《 ki =木》とシ―ニュ《 ki =来》等々は 互いにその違いがあるから存在しているのであって それぞれが独立して出来たものではない。と唱える。

 (6) 網の目細工にたとえるなら 結び目がシ―ニュであるが これは 独立したシ―ニュがいつかそれとして存在したゆえにそこにあるのではない。そうではなく 他のすべてのシ―ニュと違いがあるから 互いに切り結びしつつ 全体として語彙の体系をかたちづくっているのであり そのように成り立っているのみである。と唱える。

 (7) すなわち シ―ニュ一つひとつには 実体がない。ほかのシ―ニュとの差異の関係のみによって その差異関係の構造として 一つひとつの言語の中で 存在している。と唱える。それのための喩えは 箱の中にいくつもの風船が膨らまして容れてあるという状態だという。それぞれの風船がシ―ニュであり それぞれが接しているが すべて互いの差異によって成り立っているし その差異の構造が ひとつの言語にとっての語彙の体系になるのだ。と唱える。
 なぜ風船かと言うと シ―ニュに実体がないと見るからである。

 (8) この差異の関係から成る構造 これを 人間の存在の社会的な関係にも応用している。すなわち結節点である個人は そのひとりの人間という存在じたいに意味はない。主体性はない。すべては 社会単位体(つまり ひとつの言語の範囲)に応じた関係構造の中で結び目を成しているのみであり その結び目に自由な主体性はない。なぜなら 互いに存在が確認されるのは 互いの差異によってのみ可能となるから。と唱える。


 ★ 前者(* 文化のみの説;構造主義)は外に内を見るということになり、後者(* 自然および文化の説)は、内に外を見出すということになるでしょうか。。
 ☆ この考え方は おもしろそうですが 恣意性の仮説とは 別になると思いますが どうでしょう?
 差異の関係から成るシ―ニュとその体系 あるいは 関係性のみから成る人間とその社会的な関係構造。これが ヒトが《言分け》なる文化革命によって得た世界であり 築き上げて来た文化という世界であると。それは 動物の《身分け》によって自然ないし本能で生きる世界とは 次元が違うのだと。(ただし 本能が壊れたということは 錯乱しているのだとも見ているようなのですが。構造過程は つねに コスモスとカオスとのらせん状的結ぼれによる進展であると)。

 次のご投稿に移ります。

投稿日時 - 2010-04-21 21:38:48

ANo.36

そうですね、言葉の方なんですが、この間、ある博物館に行ったときに、殷の時代の青銅器を拝見しまして、ちょうど、簡単に言えば、典型的なラーメンの器にあるような文様のデザイン(四角いぐるぐる)が表面に施されていまして、それを見たときに、ふむ、、文字と、文様はどっちが先なんだろうと、思ったりしました。

私が、たとえば音楽CDなどにタイトルをマジックで書くときに、字を丁寧に書くわけですが、そうすると、楔型文字と言うのでしょうか、つまり、ある種のデザインが為されて、きれいに見えるのです。
これを薦めていけば、カリグラフのようになるのだと思うのですが、殷の青銅器の文様が、絵文字、乃至象形文字をデザイン化したものなのか、あるいは、かの文様が発達した後に、絵文字、象形文字などが生まれたのか、と、ふと思ったのです。

もし、文字が発達した後に、文様が生まれたのであれば、それは文明のやり直しですが、文様が文字になっていったとするならば、文様は、古代文字の原型ということになります。

一方、質問者さんの鼻口腔で音を作って発っしたその鼻口腔の形そのものが意味を持っていたと言う想定は、いわば、音の絵文字、あるいは象形文字に相当するようなものと言いたいのであると思います。

しかしながら、発された音の形から、その音を発したものの形を認識するためには、こうもりやイルカ並みの音による空間認識の器官が発達していなければならず、それがなんであったのか、あるいはそれが可能な環境、人が森林ではなく水中などで暮らしていたと言う、人類水辺進化説などが背後にあるなどして、つまり、視覚よりも聴覚のほうが有利であるような生息環境、たとえば夜行性であったとか、などと言う、仮説を立てる必要があるでしょうか。
ところで、西洋社会のある視覚障害者が、こうもりのような反響音を使って、自転車に乗っていると言うテレビ放送を見たことがあります。はぁ、そういうこともできるんだなぁと、思いました。

ともかく、今現代の言葉はもっと文字らしくなっており、文様のごとき太古の音声ではないのであるのですが、文字的であれ文様的であれ、ものを象形する力は、いかにも人類らしいかと思います。

私の関心としては、人間世界が自然であるか、文化であるか、両方であるかと言うのは、人間圏という言葉の示すように、質問者さん的に言う文化を築いたために、独自の生息環境、レイヤー、安全圏、つまり楽園に暮らすようになったと考えられます。言葉によって世界を再構成し、それに則って暮らすということです。

こんな夢みたいな話が、あっていいんですか。

でですね、もしそうなら、ブランジュロンヌさんの批判するソシュール・丸山説が、ある意味、正当ということになるわけですが、つまり、人が言葉の世界の住人であると言う意味でです。

この場合、私は、ほんまにえーんかいな、それで、、。と、思ったりもするわけです。

なぜならば、一切を知り尽くしたときに、その世界は完成するわけですが、どやねんって話ですよ。

そこで暮らしてどやねん。って。

丸山氏いわく、言葉の世界で迷っていると言うことは、まだ言葉の世界が完成していない、未開の土地があると言うことなのでしょうが、おいおい完成するわけですよね、やってれば。(これは、都市を作ると言うことの原型であって、地球を開発しろよ、ビル作れよと言っているわけではありません。あくまで心の世界の話です。)

私としては、自然、文化、いずれでもない、全うな道があるのだと思っているのですが、今は、上述の世界構築が、不当とはいえないし、むしろ、心的世界の構築は人ならば普遍性を持っている行為でもあります。

結論はまだまだ早いですが、覚りの境地はこの方法で完成すると言えるのかもしれません。
  

投稿日時 - 2010-04-21 03:52:47

補足

 文明論についてですが。
 わたしが No.34お礼欄で述べたところは 文化・文明論であるように見えますが やはりあくまで丸山理論の批判として書いております。まだまだ 歴史的な文化の起源を考えるというところまで行っておりません。まづそのことについて お詫びのようなことをお伝えしなければならないと思います。 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 私としては、自然、文化、いずれでもない、全うな道があるのだと思っているのですが、今は、上述の世界構築が、不当とはいえないし、むしろ、心的世界の構築は人ならば普遍性を持っている行為でもあります。

 結論はまだまだ早いですが、覚りの境地はこの方法で完成すると言えるのかもしれません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 結論は早いと言ってもらっているので 一安心ですが この《世界構築》というほどには そもそもまだ考えたことがなかったと白状しておかねばなりません。また この議論にからめて《覚りの境地》を考えようとしたこともなかったのです。

 つまりは いまの段階で確認しておかねばならないことは 二点です。
 1. 人間の境地の問題を このいまの言語学の主題と絡めるというのであれば それとして切り口や踏み出しの地点を明らかにして出発することが望まれるのではないか。
 2. わたしの丸山説への批判の要点は こうです。まったく一点にしぼっているということです。自然なる身分けの世界から言分けの世界が人間によって切り開かれ それは文化の世界として――つまり 自然の世界をもすべて思考において捉えて扱うという全面的な言語表現の開化=文化の世界として―― 一挙に成ったというとき 〔つまり どうも人間の世界はそのようであるかも知れないのですが そのとき〕 ただし 言葉の成り立ちとしては 音素と意義素との絆において 自然の要素が見られますよ。こう言っているだけなんです。しかもこのとき
 ★ こうもりやイルカ並みの音による空間認識の器官
 ☆ といった分析すら何らおこなっていないというのが ほんとうです。ヒトは知らずに 自然の要素をそのまま活用したかも知れないという意味です。《音素=意義素》という仮説は いま後づけとして行なっているに過ぎないという意味です。恣意性の仮説に対する批判は それでじゅうぶんだという意味です。

 そのあと別の視点から この言語の起源といった主題が 人間の境地の問題とどうかかわっているか これも探究されるべきであれば探究されるであろうとまづは見るのみです。それが 現状です。
 ▲ (No.28補足欄) ≫ しかし 言語習得によって身につけるものは そういう自然の分節行為ではなくて まことに非自然な分節行為です。≪
 ☆ こうであるかも知れません。しかも この《非自然な分節行為》の中身としては じつは《音素=意義素というかたちで 自然の要素がどういうわけか見られる》と言っているということが ひとつ。
 そしてこれとは 視点を別にして 人間論・文化論・言語の起源の議論などが 来ます。
 つまり 《文化のみ》か《自然および文化》かという仮説を未解決にしたまま 言語の起源論をふくむ人間論や文明論を始めても 議論はきわめてあいまいになると考えます。仮説の対決をまづかたづけるのが 先決ではないでしょうか? わたしの議論は それにあたいする反証例を伴なった有効でありうる批判をしていると思いますから。
 つまり お礼欄に示したところの語にかんする実態は 恣意性説では 成り立たないと言っています。音素 / h / とその《中心主題相および対極の周縁主題相》とが自然の要素(息の音であり枢要性を示すこと)と論理的な要素(語群の中では意味が相互に連絡しあっていること)を伴なっているということは ありえないというのが 恣意性説です。どちらかがウソでどちらかがホントウです。

投稿日時 - 2010-04-21 14:52:41

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

  てるてるさん 文化・文明論あるいはさらに世界観 この論議は 広がり過ぎると思います。いまの恣意性説の批判にとってはです。あらためてまづその狭い言語現象にしぼった話を問うてみます。まづはそこからです。

 《音素として / n / は意義素として同定相およびその対極として否定相を帯びる》というように意義素に両極の意味が現われるという見方は すべてにわたって見られるわけではありませんが その例を 息の音 / h / に見てみます。

 たとえば 息の音 / h / です。呼吸がヒトの中心的かつ枢要な事柄であることに異論はないでしょう。この子音としての音素は 
 ○ 中心的な主題となる語( hi 日;hu = heru 経ル; ho-i > hi 火; ho 穂)や 
 ○ その言葉を中心的な主題とする語( ha ハ格)
 を生んだのではないか。しかも この意義素としての中心主題相の対極として
 ○ 周縁主題相・辺境相(ha 端・歯・葉・刃; he 辺)をも同時に帯びた。

 (A) / h /=〔息の音ゆえ〕中心主題の相 → 突出相・秀逸相

 ho 穂・秀・帆 → ho-ide > hiide 秀出(ひいで)
 ho-ki 祝(ほ)き / hoko-ri 誇り
 ho-si 欲し / ho-ri 欲り( hori-su > hossu 欲す)
 ho-me 褒め / homa-re 誉れ
 ha-tu 初
 hi-to 一

 (B) / h /=対極として 周縁部分の相

 ha 端
  → ha-gi 剥ぎ/
  → ha-si 端 / ha-ta 端
    → hata-su 果たす・ha-te 果て / ha-da 肌・膚
 hu-si 節(《つなぎ目》として周縁部分の相)
 hu-ti 縁・淵 / hu-ta 蓋 →huta-gu 塞ぐ
 ho-to-ri 辺・畔・際
 ho-ka 端‐処=外・他
 he 辺・端・方;重 
  → he-ri 縁・
  → he-ri 減り・he-gi 削ぎ/
  → he-ta 蔕〔→下手?〕
 bi-ri ビリ

 ○ ha-sime ハ‐占め → hazime 初め・始めの《は》は 同時に A の突出相でもあり B の周縁相でもあるようです。

 ☆ このように同じ音素が 両極の相を帯びるのは その音素じたいに 何らかの自然の性質としての内容が伴なわれているからだという見解です。
 すなわち 他の音素(シニフィアン)との違いから恣意的に割り振られている意義(シニフィエ)ではないと捉えられるというものです。
 どうですかねぇ。 


 人間が世界を《言分け》して生きて来て築いた《文化》という世界が 言葉のシニフィアン(ここでは ≒音素)とシニフィエ(≒意義素)との恣意的な結合にもとづくという仮説 この仮説がさらに展開させている世界観そのものを論じていくのは あまりにも長くかかる仕事になります。(《構造主義》のことです)。それだから 恣意性の仮説を批判するという方策を いまは取らざるを得ないと見たことからです。
 ずるいと言いますか 省エネ方法ですが どうでしょうかねぇ?

 補足欄で 文明論について考えます。

 * つぎの説明が分かりやすいと思いました。
 網の目を思い浮かべてください。さまざまな言葉がネットワークのごとくに一つの言語において切り結びしているというその関係構造ですね。単語は 結び目です。その互いのつながりは 恣意性説によれば 差異であると言います。語と語との間には 差異があり差異のみだというものです。
 ですから 差異のみではなく意義素を伴なった音素が 共通であれば 共通の縁もあり絆もありますよという反論です。この絆は 調音の自然性と 意義素の論理的なつながりとを内容としているのだと。

 ちなみに 構造主義では人間を主体とは認めません。
 結び目つまり結節点は 言葉を用いる主体に当てはめれば とうぜん人間です。個人です。ところが 語と語とが差異のみによって切り結びしているのだから そのように人間も 関係性のみによって成り立っているのであって 結節点である一つひとつの語もあるいは個人としての人間も それ自体に意味があるわけでもなく まして主体性があるものではないと説くと思います。
 自由意志は 関係構造から必然的に起きるものごとに沿って その中から考えてえらぶにしても ほんとうのところ大きくはその構造が構造として成り立つそれ自体において決まっていると見ていると思います。自由意志は 自由に選択していると思っているのみなのだと。

投稿日時 - 2010-04-21 10:39:29

ANo.35

訂正です。

>わたしは、本能がメインで生きている動物(野生動物など)も、時にパニックになり、時に腹を壊し、時に病気怪我をするのであるから、動物も迷っているでしょう。
そして、動物も迷っているのだという実情を誤認して、その上で、文化の所為で、人間が迷うのだと言うのは奇異な見方であり、その様な見解を持つこと自体、既に迷っていると見られます。

↓↓↓

本能をメインで生きている動物(野生動物など)も、時にパニックになり、時に腹を壊し、時に病気怪我をするのであるから、動物も迷っているのでは?
その事を引き合いに、文化の所為で、人間が迷うのだと言うのは、変かなあと。

投稿日時 - 2010-04-20 20:21:18

ANo.34

私としては、母親の、「ばかねぇ、電車は電車よ」という回答は、いいのではないかと思います。
あえて。

 >☆ わたしの関心は 《自然か 非自然(文化)か》にあります。

< ということにそって話そうと思います。

わたしは、本能がメインで生きている動物(野生動物など)も、時にパニックになり、時に腹を壊し、時に病気怪我をするのであるから、動物も迷っているでしょう。
そして、動物も迷っているのだという実情を誤認して、その上で、文化の所為で、人間が迷うのだと言うのは奇異な見方であり、その様な見解を持つこと自体、既に迷っていると見られます。

むしろ人は、文化、乃至文明のおかげで、動物達が直面する危機を回避しているようにさえ見えます。(動物の世界は厳しいですよ。)
一方で、営巣する鳥や虫の生態、身体を飾る様子を見ると、パリコレ?で豹柄の服を着て歩いているモデルさんとあまり変わらないなぁとも思えます。
一方で、裏でミシンで縫製している職人さんたちを想像すると、うーむ。。文化というより、営みだね、とか思うわけです。

じゃあ文化って何?って。
非自然は文化なのか?
僕の思うのはですね、上述のパリコレの話を文化と言うなら
おそらく、自然>文化です。
文化は自然の一種であるという見方です。

むしろ、人間に取り込まれた、動物性能が、文化という気さえします。
だって、豹柄着るってそういう風にも見れなくないですか?

もう一つはですね、いわゆる、文化的生活です。
日々の仕事の合間に余暇があり、観劇とか、カフェとかですね、(これもパリっぽいことですが、いや、パリはあんまり知らないんですけど、有名だから喩えてみます)、っていうか、このネットなるもので今こういう話をしていること自体が、文化的生活でもあるわけです。

じゃあ、これは動物的なのか?そうなのか?というとですね、これは全く微妙だとしか言えない。
何を知りたいのかということによります。
犬猫は、食べ物どこにあるかな、あの人は自分の仲間かな、今日はどこで寝ようかな、なんて感じの事を、知りたいと思うのですが、
 人の場合はですね、自らの死や病を自覚しつつも、つまり生物としての宿命を自覚しつつも、それらの及ばないところを生きたり、考えたりするわけです。ここが違うんだと思うんです。

身体はまぁ、見ての通りですよ。
こころもまぁ、限界有りそうかな。
しかし何でか、人は自由であるというのは、どこに起因するのかわかりません。
正直わかりません。
なんでかなぁ、というのが、僕からの質問提起ですか。とりあえず。

あと、文化人類学の、言語学者の人たちなんかが、発声と意味に関する研究と成果を持っていそうな気がします。持ってないかもしれないですが。

nの同定と否定の両義性についてですが、
これは面白い見方だと思いました。
同定と否定が両在すると言うのは、価値のある見方であると思います。

留守、なんか、いい注目と思います。

留守にしている。

う~ん。微妙ですね。

とりあえずこれで。すいません、なぁなぁになっちゃって。

投稿日時 - 2010-04-20 20:15:41

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ しかし何でか、人は自由であるというのは、どこに起因するのかわかりません。
 ☆ これは 《自由意志》によると相場としては答えは決まっています。理由は 公理です。そうであるからそうであると想定する。
 例証としては こうだと思います。自分がこれこれだと意識の限りで思っているとき そのとおりには発言せず行動もしないという場合があることです。相手との社会的な力関係によるという説明は出来るでしょうが おそらくもし動物であれば そうは行かないと考えられるからです。
 動物には 選択肢はないというわけです。

 ★ 本能をメインで生きている動物(野生動物など)も、時にパニックになり、時に腹を壊し、時に病気怪我をするのであるから、動物も迷っているのでは?
 ☆ というようなことだと思うですけれど そのようにたとえ迷ったとしても動物は 何もかも一本道ですすむのだと考えられるからです。あるいは《考える》ことさえしているかも知れません。学習ということをしているようです。なのですが 別に言いかえると 過去を振り返らない。反省だとかのために考えているのではないと思われます。その意味で 動物には 歴史がないのだと。考えたなら その考えに沿ってやはり一本道をあるく。

 ★ むしろ、人間に取り込まれた、動物性能が、文化という気さえします。 / だって、豹柄着るってそういう風にも見れなくないですか?
 ☆ ということだと思います。つまり 動物の《生活(?)》をまねることも 選択肢に入れることが出来るし それをえらぶこともあるのが 人間であると。その自由意志による思惟と行動であると。
 つまり
 ★ 人の場合はですね、自らの死や病を自覚しつつも、つまり生物としての宿命を自覚しつつも、それらの及ばないところを生きたり、考えたりするわけです。ここが違うんだと思うんです。

 そこで 問題は 文化のみか? それとも 自然および文化か? です。
 もし文化のみだとしますと 動物の生態をまねしたとしても その行動を 選択肢として採り入れたというだけではなく そのひとつの選択肢のあり方としてすでに 自然のあり方や生き方ではなくなっているのだ 人間の場合は という主張になります。
 どうもそうらしい。まづそうらしい。そうして もしこれに異を唱えるとすれば そこでわづかにその自然のあり方が 人間にも痕跡のようなこととして 残っているのではないかという反論になると思われます。
 口とその筋肉ならびに舌の操作や息の調節によって調音するとき 自然のあり方が残っている。もしくは 自然のあり方から始まったのではないか? つまりこの自然のあり方を変形することは出来る。けれども初めは 自然の調音の仕方に つまりはその意味も 従っていたのではないか。というかたちです。
 人間の言語で 口のほかで調音する例はありません。手やその指で弾いて音を出すことは出来ますが それが言葉をになうことはありません。で その口と舌で発声するときの調音の仕方は 自然に出来る範囲に限られます。チェッと舌打ちする音が 子音の一種に成っているとかと聞いたことがありますが これなどはめづらしいですけれど 自然にそなわった能力の範囲内のことだと思います。
 その自然に成し得る調音に伴なって 言わば自然の意味(意義素)も 初めはそなわっていたのではないか? こういう仮説が 反論の内容になると考えたのです。


 とにかく この議論は変な言い方をしますが 食いつきがわるいです。テレビで町田健という言語学者が出ていましたが かれはソシュール研究者ですので 手紙を出しましたが まったく音沙汰はないというようなことです。

 電車の件は まだどう返答していいのか分かりかねています。澄みません。(いづれであっても 子どもは言葉をちゃんと覚えていきますが)。
 こんなところでしょうか。

投稿日時 - 2010-04-21 00:07:47

ANo.33

長考しています。

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投稿日時 - 2010-04-20 01:04:58

お礼

 分かりました。

 前回触れ残したところについてです。
 ★★ (回答No.32) ~~~~~~~~~
 私の思うところでは、母に、電車は、人間なの、それともお人形なの、と、問うた子供にとっては、母は人間ではなく母であり、他の人が人間であり、それを所有している私のこれはお人形であり、電車は、私のものなのか、それとも違うのか、と、問うたのではないかとも推測できます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの関心は 《自然か 非自然(文化)か》にあります。
 母やモノについて 自分との関係を尋ねることは 《自然》であるように思います。ただの観念としての人間やモノ(電車)ではないと思われるからです。
 わたしが これについて躊躇しているのは そのことと 幼児が言葉をおぼえる過程での実際のあり方とが どうかかわっているのか これが何ともピンと来ていないからです。つまりピンと来る判断材料としての経験がないからです。

投稿日時 - 2010-04-20 10:10:16

ANo.32

私の思うところでは、母に、電車は、人間なの、それともお人形なの、と、問うた子供にとっては、母は人間ではなく母であり、他の人が人間であり、それを所有している私のこれはお人形であり、電車は、私のものなのか、それとも違うのか、と、問うたのではないかとも推測できます。

性欲については、私は、自然性にあって、文化性には依拠しないと考えます。文化性によって形が加えられることはあるが、本質的には自然性です。

ロンヌさん>《香り》としての物体が 空中を飛び交っているとみるよりは その相手にもそして自分にも備わる《自然》の部分が 互いに呼応するのではないか。こういう見立てなのです。

私<その呼応とは、常にあるのか、それとも、時々あるのか、あるいは、ある場合にあるのか。それとも、ロンヌさんの言う、謎(不可思議)なるなにか、たとえば因縁によってもたらされるのか。


人が、自然から足を洗って、文化で生きるようになったとするなら、むしろかえって、自然的とも見れると思います。
しかし問題は、ロンヌさんの言う自然が、どこまで自然なのかでもあると思います。
山河草木の程度に自然なのか、それとも、法則的なものとしての程度で自然なのか、さらに言えば、論理的解釈は無理であり、芸術的表現もできないものであるが、それは存在するのであるというところの、自然なのか。

私は常に、真実を探し求めているが、真実があると疑ったことはなかった。真実とは、そういう性質のものであるから。

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投稿日時 - 2010-04-16 23:40:09

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 このところ われわれふたりの周りでそれぞれにですが あたらしいことが起こりつつある。このように感じています。要するに直接には 新しい投稿が続いて来るというその事態ですが。

 たぶん丸山=ソシュール理論を――わたしはそれに対する批判者ですが―― 基本の内容としてお伝えしたほうがよいと考えました。これまでの説明に加えて 次の《身分け / 言(こと)分け》の世界観が重要だろうと思います。

 動物は 茸には毒のものがあったりしますから草を食べるにあたって ではどう見分けるか? 一般に《身分け》だと言います。感性なのでしょう。そしてそれも 自然にそなわった本能なのでしょう。
 肉食動物でも 自分が攻撃してその肉を食べる相手は 身分けして決まるのでしょう。しかもつまり この本能は 身分けないしその感性を心で受け止め精神において認識するということを必要としません。きょうはどいつを食おうかとか あいつは子どもだからやめといてやろうとか 考えたりはしないと思います。(自分の子が 病いに倒れたなら その感覚をあたかも心に受け止めて 寄り添うということもあるでしょうが そのほかの選択肢はないと考えられます)。本能は それ以外の選択肢がないという行動だと思います。それが《身分け》です。
  
 ところが 丸山理論によると ヒトはこの《本能≒身分け》の世界から一気に一挙に飛び出したのだと言います。それが 《言分け》によるのだと。あるいは 言葉をおのれの脳の中にそしてそれを精神として持ったという事件そのものが 言分けということだと。
 茸を動物のように身分けすることは もうなくなった。腹が減った あぁ何か食おうというとき それは本能によって食べ物が決まっているものではなくなった。あれこれ かれこれ さまざまに《考える》ようになったのだと。選択肢がある。選択肢からえらぶという限りで 自由意志である。
 しかもヒトは 世界を言分けして捉えているということは 言葉で おれは食わない・ハンガーストライキだと宣言して 食べないという選択をも可能にしている。おまけに 存在ないしその自由意志を抹殺するという《自由》なる存在のあり方をもえらぶことがある。
 
 これは 本能が壊れてしまったのだ。身分けの世界から飛び出して来たのだ。もう動物の世界には戻れない。言分けの世界は 身分けの世界とははっきりと一線を画している。もし自由意志がデタラメな選択をも《自由》に為し得るとすれば これは 見方によれば 《気が迷っている》状態である。もっと言うと ヒトは 《錯乱せる動物》という特異な存在であると。
 これが 非身分け=非自然としての 文化なのであると。性欲・食欲はそこに本能のかけらを宿しているであろうが その欲求を満たすというときの考えと行為とは もはやすべて選択肢を捉えそこから選ぶという文化行為なのであり それ以外の要素は何もないと。つまり 選択肢をいろいろに考えること自体から 文化行為が始まっている。
 すべて 身分けの世界をはっきりと後にして あたらしく言分けの世界に突入してきたのだ。後戻りも出来ない。《錯乱》と見られるほどの《思想の百花繚乱》のもとで生きていくしかないのだと。

 ☆ わたしは 人間の世界は 《自然と文化》だと言っています。或る意味 ずるい手法ですが つまり誰もが納得しうるかのような説を出しているに過ぎないのかも知れませんが その反論のための事例が 《言語記号(ことば)の恣意性(言葉における音と意味とのつながりは 恣意的=つまり でたらめだという)》の説への反証です。
 / n / は na 名; na-ru・na-su 成る・為す; na-ri 也などの n であるから それは《同定》という相(意味あい)を持っている。しかも 同定の対極としての《否定》の相をも帯びる。 na ナ(禁止のナ=否定命令法);na-si 無し; nu ヌ(否定法の補充用言(助動詞))の n であると。
 なぜ 同定相と否定相とを / n / という一つの子音が同時に帯びるのかは 趣旨説明を参照ください。
 すなわち 音素( n )と意義素(同定相ないし否定相)とは 論理的なつながりを持っている。しかもこれが 《自然》のつながりだというのは  / n / の発音の仕方にあると言って来ています。No.2補足欄です。 / n / は 同じような調音の仕方をする子音の / t / よりも舌先を歯茎の裏に付ける(同定する)割り合いが 多い。それゆえなのだと。
 調音するというのは すでに人為でありそれとして文化ですが 身体の機能や特徴に合わせて・つまり自然に合わせて その人為をおこなっています。
 すなわち恣意的ではないと。

投稿日時 - 2010-04-17 10:43:57

ANo.31

なるほどなるほど、、

ところで、漢字はこんな感じに出てました。
ロン>夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯 
   -- 倭建命『古事記』景行記
 夜麻苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜麻許莽例屡 夜麻苔之于屡破試
   -- 大足彦忍代別天皇(景行天皇)『日本書紀』景行記

テル<ロンヌさん達と話していると、高架下のヤンキースの落書きを思い出します。夜露死苦、みたいな。決して馬鹿にしてるわけではなく、むしろ、辞書をめくって難しい字、当て字を探す様を想像すると、ふむふむ、あれは勉学だね、と思ったりもするわけで。

ロン>そうして 言葉の起源ですが 簡単に言って なにも《遺言》というような生涯における一つの時点だけに限らなくてもよいのではないですか? つまり それこそ《青垣》のごとく連なる山々を見て感動するときの心の中からの表出 でもいいのでは?

テル<これはですね、ほんとにそうだと思う、同意して思うのですが、私は次のような思考分岐をここで持っていまして、それはというとですね、人は、どんなときに死ぬのか、ということなんです。これは、生命として死ぬということではなくてですね、人として死ぬということです。このことで質問を立ち上げようかとも思っているのですが、まだ決心がつかないところです。立てないかもしれない、立てるかもしれない。
〔人として死ぬ〕とはどういうことか。まずこれは、いい意味、あしき意味が考えられます。
いい意味では、高貴さ、高潔さを保って死ぬ、いわば尊厳を保って死ぬということです。
あしき意味では、人間として終わっている、倫理的にも人道的にも、もっとボーダーライン的何かから堕落したという意味です。
そして、前者にしろ後者にしろ、日常性の中で起こりえることであるのは、了解を得られるのではないかとも思います。
自分は前者のようであったことがあるのか、自分では知る由もないですが、後者のようであったかどうかというのは、思い返せばありありとあるんですよね。ああ、俺って、終わってるね、人として、的なことが。
ビックリマンチョコを盗んだとかですね、そういう些細なこともあげればそうかもしれないですが、たとえば、エロ本とかね、見るじゃないですか。終わってるわけですよね、空気が。。
さて、誰でも前者のようになりたいと思うと思うんですが、ここで一つ、この思考分岐において、さらに思い起こすことがありまして、それはどういうものかというとですね、(長話ですみません。)

「かごに入れられた鳥は、鳥としては死んでいる。なぜなら彼の翼は機能しないから」
という喩えに習えば、人の場合はどうなるのか、
『△△な人は死んでいる。なぜならば、彼の○○は起動しないから』
みたいな。
この△や○に入るものに何か適切なものはないかと。自分はかねがね思うんですよ。もう、俺って死んでるんじゃない?と。

高潔に生きてゆきたいと思うけれど、それってどうすればいいのってなりますよ。もはや別人ですからね、僕が高潔になったら。もっとプレーンな生き方でいいんじゃないかななんて。

ロン>あと 《香り》は 《ことば》そのものではなく ・・・言葉や表情・仕草や振る舞い その人間の立ち居振る舞いのすべてから もしそうとすれば 醸し出される何かです。したがって 香りの起源ないし根源は なかなか分かりがたいと思います。特にひとを生かしも殺しもするような香りって むつかしいでしょう? オーラなんていうのも 言ったりあったりしますが。

テル<あ~、、難しいですね。わかるっちゃわかるんですが、実践するのが難しい。ということは、わかってないかもしんない。僕は。たぶんですね、それは、素焼きせんべいみたいな香りなんではないかと。うるち米の香ばしさ、みたいな。しょうゆとか、塩とかついてないアレです。人で言うところの、プレーン人間ですか。僕流に言えば。

ちょっと字数も限界に来たので、ここら辺で、電車の話と、活用の話は、少しだけの進言にして、次に送りましょう。

電車の件・つまり、子供は人間を知らないので、かかる質問をしたということ。あるいは知っていたなら、その質問はどういう意味か。

活用の件・確かに、活用を生み出すように、語彙は在る時期、一挙に増えたのかもしれない。長さが面積になるように。これについては、深い見識が居りそうだなぁ。

なんかわすれものないかな、、それにしても、人を生かしも殺しもする香りってのは、、ナゾナゾだね。。
本質的なこと言ってると思うんだけど、、人間そのものっぽいですからねぇ。。

まぁ、ぼちぼちいきましょう。。みなさんもよろしくさん

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投稿日時 - 2010-04-16 15:38:34

お礼

 なかなか話が進みますね。漢字が 旧字体も難しいのもきれいに出ていますね。驚きました。昔は だめだったように思いますから。
 てるてるさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。動詞の活用論については エンジンをもう少しあたためてからのように感じています。
 ★ 電車の件。
 ☆ わたしもよくは分からないのです。赤ん坊や幼児のことが分かりませんし。分かっていることは 丸山は――ソシュール説として―― このように言葉を覚えるというときに あくまで自然ではなく非自然としての文化の行為だと言っていることです。
 ☆☆ (No.28補足欄) ~~~~~~~~~~
  ≫ しかし 言語習得によって身につけるものは そういう自然の分節行為ではなくて まことに非自然な分節行為です。≪
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 分節というのは デンシャ(電車)とテンシャ(転写)の区別とか 電車は動く物で転写は動作・行為であるといった区別があるから これをはっきり発音したりわきまえたりすることだと思います。
 まぁ 人為的なことではあるのですが そこに人間にそなわった自然がまったくあずかっていないか。これが 問題の焦点だと考えます。
 それで まだいくらか前に 
 【Q:ヒトは 本能の壊れた動物である というのは・・・】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5526755.html
 という質問を立てたのです。端的には 性欲について それは本能的な要素も残っているが それを取り扱うのは 文化(=非自然=人為)であるという説も まだ根強いようなのです。まったく完全に 文化の領域のみだという仮説ですよ。ま よろしかったら 覗いてみておいてください。

 わたしの場合は 《自然および文化》という見方です。
 《香り》にしても 考えや振る舞いは 人為であり文化になりますが もしそれがかもし出されて伝わるとすれば 《自然》の要素があるからではないかと考えています。つまり 何か《香り》としての物体が 空中を飛び交っているとみるよりは その相手にもそして自分にも備わる《自然》の部分が 互いに呼応するのではないか。こういう見立てなのです。
 ソシュール=丸山=岸田秀の説では あくまで文化 すべて文化だと言います。《自然》の世界からヒトは足を洗って 脳のはたらきで生きているのだと。例として 性行為も ヒトに残されたわづかの本能にかかわってはいるけれども あくまでそれをおこなうのは ヒトの脳における文化(思考)行為によるのだということのようです。

 ★ 『△△な人は死んでいる。なぜならば、彼の○○は起動しないから』
 ☆ わたしには これは単純な問題です。言っていいかな。って言っていることは 言ってしまいますが 《対話》です。問いと答え そしてその答えは新たな問いとなって 問答が過程的に社会構造的に果てしなくつづくこと。
 《話し合い》であり けっきょく《民主主義》ですね。《答責性》とも言って来ました。どうでしょう?
 一方的に書いてしまいましたが いわば問答ですから。

 とりあえず このあたりにてです。

投稿日時 - 2010-04-16 17:14:24

ANo.30

え?

でも、はしHASHIの話をしているところなんかから見ると、ロンヌさんも似たようなことしてないかい?

自分はソシュールさんも丸山さんも知らないのだけれど。

自分はロンヌさんが何を知りたいのかがイマイチ解かってないのかな?

問題は、これが、ただの感覚を楽しむための遊びなのか、意味を知ろうとしての事なのかの違いに帰するのであって、

もののあはれに限らず、人の言葉を解しようとすることは、何の不思議もない事で。

ともあれ、もののあはれ、と誰かが言ったであろうその時のシチュエーションも大事だけれど、それが何であったかは、もののあはれから推測するしかない。

さらに現在に至って、もののあはれが、言葉としてなんら作為を加えられていないのであるならば、の前提もない。つまり、成立時からもののあはれ、なのか、成立時にはまた違ったものであったのか、そういう問いも理解しないと。

こんな時どうするかは、もののあはれ、え?なに?ッて感じで聞き直して、吟味するしかないんじゃないかな。

をかしも一緒でね。何か可笑しいんだコノヤローって意味じゃないじゃない。をかしは。

を、かし を、河岸? かしってなによ、

つまり、もののあはれ や をかしは、 現代既に、文化感覚として立場を得ているけれど、(つまりもののあはれの感覚と、をかしの感覚は、それなりに文化を共有していれば共感できるけれど、)言葉本来の意味がそうであったかと言うのは別の話かもしれない。

道具を使うことと、文化もちょいと意味が違うかなと言う気もするし、じゃあ、文化って何? 道具って?言葉って何よ?ってことになってくるわけで。

>>究極的には本質的には言葉で何をつたえたいのかと考えると分かるんじゃないですか。

っていうのは、自分もそう思いますよ。

魂の造形であるからね、言葉は。

でもさらにいえば、なんか、空気的な言葉があるきがするんですよね。魂以前っていうかね。

ロンヌさんとしては香りですか。

空気っていうのもおかしいですね。無色透明無味無臭すぎて。ほんとは無味無臭ではないんですが。
空気がうまいのは前後関係があるから、たとえばよく運動したとか、勉強した、働いた、などなどね。田舎に帰郷したとか。ビルの高い場所に行ったとか。シチュエーションってことですね。

謎というけれど、ほんとは謎じゃないんじゃないのかなと思います。

言葉は何故生まれたのか?

自分は、触れられぬものがあったからだと思うんですよ。空気とか、香りとかも似た性質を持ってますが、ある種の遺言が、言葉の起源なんじゃないかなとも思ったりもするわけです。

ただ、ここらへんのことを、文体化するのは、ちょっと時期尚早な気もしてね

言葉は魂の表出であると言うのは事実と思うけれど、魂以前の、はれ、ほれ、っていうんですか、あったと思うんですよね。何か言うところの理由から来る言葉が。あ~れ~なんて言って、崖から落ちていくシチュエーションなんか、想像するだけであぁ、(あは、、)だけど、自分は、そういうもう終わりってところで、言葉は出たんじゃないかと思うんですよ。おわたー\(^^)/みたいなところでね。手を伸ばしても、届かないって言うかね。スカッと。空振りっつうんですか。

ソシュールさんもぶっ飛びかい?(^^)

このスレッドはあけておいてくださいよって、僕からは言いにくいですが、あいてたら面白いんじゃないですか。

自分の方の質問は早急に閉めてしまいましたけど、また、質問立てることがあるかもしれない。そんときはまたなんか、いいことあるかもしれないね。

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投稿日時 - 2010-04-16 05:27:02

お礼

 やまとは うるはし(国偲び歌)の小論について 反論はしませんが 原文を見ておきましょう。万葉仮名がなかなかおもしろい。掲げておきましょう。
 ▲ (ヰキぺ:日本神話) ~~~~~~~~
  http://ja.wikiquote.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E8%A9%B1

 やまとは くにのまほろば たたなづく あをかき やまこもれる やまとしうるはし
 倭(山処)は   國のまほ(秀)ろば  たた(畳)なづく 青垣   山隱れる   倭しうるはし

 (大和の国は国々の中で最も優れた国だ。重なり合って青々とした垣のように国を囲む山々。(その山々に囲まれた)大和は美しい)

 夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯 
   -- 倭建命『古事記』景行記
 夜麻苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜麻許莽例屡 夜麻苔之于屡破試
   -- 大足彦忍代別天皇(景行天皇)『日本書紀』景行記
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 漢字は 《〔入力を〕確認する》の表示では 全部きれいに出ていますが 最終でだいじょうぶでしょうか?

 てるてるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 さて
 ★ ある種の遺言が、言葉の起源なんじゃないかなとも
 ☆ ここらへんが ひとつの焦点ですな。また
 ★ 謎というけれど、ほんとは謎じゃないんじゃないのかなと
 ☆ これはですね。《なぞ》には これまた二つの種類がありまして 人間の言葉で未知のものとしてのなぞと そしてあくまで非思考として人間の言葉や思考を超えたところのなぞ(無根拠)とがあると思うのです。前者は 科学で解明しうる《根拠》ないし因果関係があるでしょうから 《ほんとは謎ぢゃない》となります。
 そうして 言葉の起源ですが 簡単に言って なにも《遺言》というような生涯における一つの時点だけに限らなくてもよいのではないですか? つまり それこそ《青垣》のごとく連なる山々を見て感動するときの心の中からの表出 でもいいのでは? つまり どうしても表に出したいこと というくくりでいいのでは? ま 《魂の表出》とすでに出ていますが。
 《あぁ 終わりか!? 終わった!》という情動(?)が 人生の節々での感動に臨んで その表出のあり方を広げ伸ばして行ってもいいぢゃないですか。

 あと 《香り》は 《ことば》そのものではなく 言葉や表情・仕草や振る舞い その人間の立ち居振る舞いのすべてから もしそうとすれば 醸し出される何かです。したがって 香りの起源ないし根源は なかなか分かりがたいと思います。特にひとを生かしも殺しもするような香りって むつかしいでしょう? オーラなんていうのも 言ったりあったりしますが。


 それから思い出しましたが 動詞の活用はなぜいま(つまりこれまでの歴史的経過)のように成ったのかが ハートマインドさんとのやり取りで 懸案になっていたのでした。
 これは 音韻として子音ではなく 今度は 母音の起こりとそのあり方に直結している主題なのですが なにせ活用表を一語につき出すだけで スペースを取ります。そんなことで まだ発車し得ずといったところなのでした。
 そして 電車は 人か人形かの話で 停止しているのでした。

 てるてるさんともども ぼちぼち行きましょう。

 * 何かとあわただしいことですが やまとはまほろばの歌の分析は (1)子音の起こりについてと(2)言葉の初めについて考えたものですが さらに(3) 日本語における〔と同時に仮説としては そもそも人間の言語にとっての〕文の起こりについても捉えようとしたものです。文とは 主観の表明 つまり意志表示であり 自己表現です。主題の言い出し(羅列)のごとくして成ったと言おうとしています。

投稿日時 - 2010-04-16 10:40:46

ANo.29

質問が閉められていないと言うことで、念のために再び来ました。

>もののあはれとは なんなんだい?

ものの○あはれ もののふあはれ? もののふはわれ? スムースですね。

もののいふはわれ 者の言ふはわれ 者の畏怖は我? この俺こそが伝説の・・みたいな?
もののゆうはあわれ?

ものの憂は哀れ?

もののいふはあはれ→物言うは哀れ?

もともとの、言葉の数は少なそうですね。いふの意味が、

もののはは、われ?

物の葉(歯?)は我?※

これは新発見?

物の葉?

者の歯?

者の名はわれ?

多すぎてなんとも。





も・の・の・ふ・ら・わ・れ

もののふら・われ
もののふら・われ

なんというか、

ものおもふら・われ

ものおもふは、われ※

ものおもふら・われ

ものおもふわれら

ものおもふ等 われ

ものおもうふものたち われら

ものおもふもの・たちわれ

ものおもふもの・たちわれ

ものおもふもの・たちわれ

ものおもふもの・断ち割れ?

物思ふ者達 我?
者思ふ者達 割れ?

うーむ。。
こんな感じでしょうか。

ものほの あはれ?
ものを あわれら
ものをはわれら
もの を われら
ものをわれら?

イミフーですね。

ものをあらへわ?
物を洗えば?

余談

常日頃思うことは、どのようにすれば、真っ直ぐな言葉を口にすれるのか。

拝啓

られられら

米印のところは、まぁまぁらなぁ。

やばいね。ぼくは舌足らずなんですよ。らりるれろが苦手なんです。

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投稿日時 - 2010-04-15 20:53:47

お礼

 あっはっは。笑っちゃいました。そういうたぐいのアソビも 真剣に考えていたようですよ。ソシュールとか言うひとは。

 てるてるさん 今晩は。ご回答をありがとうございます。

 あぁ思い出しました。アナグラムと言いました。これは さらに込み入っていて 単語だけではなく ひとつの文ないし文章の中で それを書いた人は 意識することなく 或る種の暗号を書き残すはめになっているといったものだったと思います。

    もののあはれ MONONOAHARE

 あぁ しばらく考えましたが いい解が思い浮かびません。順序も入れ替えて 別の意味のものにつくるかたちです。


 必ずしも切りがついたとも思わなかったので そのまま開いていました。
 閉めるのは いつでもできますから。

 いづれにしましても この主題は まだまだ続くかたちなんです。で どういうふうにしようかとは思っているのです。別の質問へ受け継ぐとすると ここにやり取りした事柄を踏まえなければならないでしょうから 厄介になるかなと思うものですから。

 ま もう少し放っておきます。何かありましたら どうぞ。
 

投稿日時 - 2010-04-15 22:57:40

ANo.28

>「β」説支持、について、日本人の文化どうとかは、まずは全く関係ないのではないかと
>思っていましたが、違うのでしょうかね?

No.26の方?関係ありますよ。日本の精神文化と大いに関係してきます。
素直さを求める文化と、分別したもののみかたもとめる文化の違いです。
分別というのは、理性的に考えることができる能力です。
素直さというのは、西洋文化からすると、服従するというようなあまりいい意味ではないのですが、
実は物事を考える原点においては、とても重要な感覚なのです。

投稿日時 - 2010-03-29 13:10:40

補足

 はーとまいんどさん あらためまして こんにちは。問い求めを進めて行かれる意欲に感服いたしました。
 ここらで 文化論をも交えてまいりましょうか。
 ただし 恣意性派は この文化が 《非自然性つまり その意味での文化ないし人為性ないし社会性》として――しかも全面的にこの非自然として――成り立っていると言っているのです。
 ★ 素直さを求める文化
 ☆ あるいは もののあはれの土壌は 《言葉をあやつる動物としての人間》にとっては 卒業してきた動物の世界でしかないというものです。驚かれましたか?

 まづ丸山が披露している挿話を引用します。
 ▲ (丸山:ソシュールを読む) ~~~~~~~~~~~~
 走っていた電車の中でした。がらがらの座席に母親とともに坐っていた三歳ぐらいの女の子が 《デンシャ デンシャ》と習い立ての単語を一生懸命口の中でつぶやいては 周囲の窓枠や席の布地を手でさすったあげく 思いあぐねた様子で母親にこうたずねたのです。
   ――ママ デンシャって人間なの? それともお人形なの?
 コトバを覚えはじめたばかりの幼児にとっては 毎日の瞬間・瞬間が新しい分節 意味づけ意味づけられる行為の連続なのです。コトバ以前に もちろん感覚=運動的な知能による分節行為はあります。

 ≫ しかし 言語習得によって身につけるものは そういう自然の分節行為ではなくて まことに非自然な分節行為です。≪

 ですから なかなか本能的納得というものは得られません。《デンシャって人形なのか人間なのか》という妙な質問も出てくるわけです。つまり感覚=運動的な知能から思考的な知能へと移行していく象徴化過程にあって この女の子の世界の中では 《電車》という語を知る以前は こういうふうに分かれていたのでしょう。

   《動くもの そして柔らかく温かい感触をもつもの》と
   《動かないもの そして固く冷たい感触をもつもの》

 という対立によって生じたカテゴリーにおいては 《人間》と《人形》という概念が無理なく処理されていました。。《人間》というのは 《動いて柔らかくて温かいカテゴリー》にすっぽり入っていましたし 《人形》はいくら人間と似ていても 《動かないし さわれば固いカテゴリー》に属しています。ところが《デンシャ》というコトバを習い 同時にその対象を認識したとき 《動きはするが さわってみると冷たく固い感触をもつ》新しい指向対象(レフェラン)が登場しました。

 この子が混乱した理由はよくわかります。彼女は次第に象徴の森という名の文化のフェティシズムに入っていく。繰り返し繰り返し命名を通して 知覚と感覚は刻一刻と密になる認識の網目によって再編成を強いられる。事物(世界)と意識(人間)というものが相互に差異化されていくのです。そんなことを考えて母娘の会話を聞いていたのですが 女の子の興味深い問いかけは 母親の《バカねぇ 電車は電車よ》という非説得的な答えによって無視されてしまいました。・・・
  (p.46)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり この事例としては / densya / という音素列(シニフィアン)とその意義素総合(シニフィエ)とのつながりは まったく出鱈目なのですから 何ら自然のかつ論理的な絆はないということになります。つまり 人間の声としての音の持つ自然の感覚 これは 電車という語義と何らかかわりを持たないという世界観なのです。
 また 言葉はすべて――オノマトペなどの例外を除いて――そのように《恣意性=非自然性》によって成り立っていると見ています。言葉の世界は――つまり ひとはその世界の住人であるのですが―― およそ自然からは《足を洗った》別世界だというものです。
 電車という語例では ピンと来ない側面もありますが そういうもののようです。人為的に社会文化的に≫のみ≪ 習い覚えていくものであると。

 * この引用文の引用の仕方や それに対するわたしの批評が 分かりにくいものになっているようです。恣意性派の言うところは 言葉とは 《分別したもののみかた〔を〕もとめる文化》であり じんるいは≫ひとえに≪この言葉の世界の住人であるしかないという意味です。

投稿日時 - 2010-03-29 16:55:23

ANo.27

原点にもどりましょう。原点に。

確かに、物事は原因があって結果がある。原因のない結果はないです。
これあたりまえです。

お砂糖をなめるとあまいと感じるように。
塩はしょっぱい。

これらは、舌で味覚を感じるという研究がされるずっと前に、人間は感じていたし、ことばもありました

しかし、分析されるようになって、グルタミン酸やイノシン酸に「うまみ」という固有の味覚があることがわかりました。

辛いは、味覚ではないという説がありますが、それは「痛い」と同じだから、肌にぬった時の痛みを舌においたときのしびれる感覚と同じだから含めるべきではないという説です。

日本では、塩辛いと辛いはあまり線引きしないこともあるけど、
saltyとhotは明確に区分けされていますよね。

しかし、よく考えてみてください。これらの言葉は人間の感覚的な言葉です。味覚は主観です。もとをただせば感覚とは何ですか。現代においてはそれらの分析は進んでいますが、もともとは感覚は感覚でしかなかったはずです。

絵画芸術だって、そうですよね。人間が美しい感じる感覚を分析して、知的な計算でデザインする能力と感覚を感覚としてとらえることは両方とも必要ですよね。

究極的には本質的には言葉で何をつたえたいのかと考えると分かるんじゃないですか。

投稿日時 - 2010-03-29 12:26:00

お礼

 好奇心という言葉では捉えきれないようなアンテナの性能の良さをお持ちのようですね。ご回答をありがとうございます。その点はすでにわたしも感じていて お伝えもしたと思いますが――ただし いつでもほかの主題にすっ飛んでいくといった芸当も持ち合わせておられる これも じつはわたしは苦手なのだと添えつつお伝えしたことですが―― 《原点》ですか。
 では 《ことばの生成》をめぐって考えてみましょうか。わたしは 言語学では ここ二十年ほどの動向ですとかあるいは意味論ですとかに弱いのですが この生成ということについても考え置きがありますので 披露してみます。たたき台にはなるでしょう。

   *

 奈良(na-ra=地‐ら⇒奈良という仮説。cf. no-ra=野‐ら)の三輪山あたりの地で のちに《たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる》と形容されたその風景を見て われらが祖先の誰かが 

   HA.....

 と発出した。この場合 ただ ハアーッという息の音を出しただけかも知れない。あるいは溜息をついただけかも知れない。けれども その主観の内には何らかの心の動きが あったはずです。

   HA.....SI。

 というふうに続けた。舌や口の筋肉のはたらきにものを言わせて さまざまな形にして発声した。音で いま目の前の世界の風景を切り取ったわけである。また その心の状態を 取り立てようとしたことになる。

   HASI . / はし。

 こうなると 心の状態が あたかも意味をもって表わされたかに思える。

   ――愛(は)し。

 つまり これは 中心主題相の子音/ h / と指定相・断定相のそれ/ s /が働いたと《あとづけ》して捉えられる事態ではある。ここに 自称相 の子音/ ’(=ア行子音)/で

   ’u = う。 
   ’u-ru = うる(⇒裏・裡・心)。

 と作って これを添えれば

   ――うる‐はし。(心‐愛し・麗しい)

 とつなぐ。いまの心持ちをそれとしてさらによく取り立てて表わすことができた。

 ところで はじめの《 HA.....》は 主観内面のことでもあれば その心の動きを感じさせてくれる目の前の山々の姿でもある。つまりここで 一気に文として扱えば それは 主題の表明になる。
 そのための語彙を考えよう。《山》のことを どういうわけで《やま》と言ったか分からないが 人はこれを得る。そして さらに 《所》の意味の《と》を得て これらを 合成すれば 《やま‐と》のかたちに つくった。
 文としては 主題(問い)と論述(こたえ)から成る。つまり

   ――やまと(山‐処)‐は うるはし。

 人間は そのこころの思いを 表わさずにはいられない(!?!?)。その内容を充実させようとする。

   ――やまと‐は・・・・・ほ・・・・・うるはし。

 と表出する。《ほ》は 中心主題相 / h / から派生して《突出したもの》の相を表わし 《穂・帆・秀》であろう。ここにさらに一気に《ま / ろ / ば 》をも添えて

   ――やまと‐は ま‐秀‐ろ‐ば〔なり。 それゆえ〕うるはし。

 と来る。こうなれば 意思表示としての言語は 文による表現を基軸として さらに文法規則としても やがてその現在にまで至る姿を現わしてくるものと思われる。


 *  / r / は自然生成相で ひとつには 親愛称の相となる。奈良・野良のラ。我れ・彼れのレ 我れらのラなど。
 * 真秀ろばのバは マの転と考えられる。
 * / h / :中心主題相が主観においてよろこばしいものとして認定される場合:秀(ほ)‐出(い)で⇒秀(ひい)で。ほ‐め⇒褒め。ほ‐き⇒こと(言)祝(ほ)ぎ=寿(ことぶき)。ほこ‐り(誇り)
 * / h / :中立としての中心主題相の場合:ほ-り(欲り);ほり-す⇒ほっす(欲す)。は‐ゆ(生ゆ=生える・映える・栄える)
 *  / ’/ (ア行の子音。無しですがあると仮定して。)自称相:’a-ri 有リ。’oeonoe 己。’oehoe オホ(大・多);〔その動詞化⇒〕 ’oehu 生フ(=大きくなる) ’oyu 老ユ(老いる)⇒  ’oya 親

投稿日時 - 2010-03-29 14:15:40

ANo.26

飛び入りで失礼しますが、え~と、
ざっと拝読しただけなんですが、これまでの流れからしますと、「恣意性の!仮説!」の「根拠」を問われておられるのですよね?
「根拠」や「動機」というものが、本当に全くない!と言い切れることって、案外少ないのかもしれませんが…。
取り上げておられるところの「α」と「β」とは、ゴッチャにと言いますか並列に論じてしまっていい内容では全然なくて、質問者さんも、そこはおっしゃっておられるように思われましたが、別次元の内容なのですよね。
「β」説支持、について、日本人の文化どうとかは、まずは全く関係ないのではないかと思っていましたが、違うのでしょうかね?

昔の日本人と現代日本人とでは、もちろん、発音の仕方が随分と変わってしまっていると聞いておりますし、大昔の日本人の発音は、英語に近いような発音の仕方だったとか?
え~と、ひらがなは、漢字から産み出されたんですよね?では、漢字が入ってくる以前は?
「五十音」というものが定まったことで狭まった、つまり、質問者さんがおっしゃる「こじんまり」してしまった、ということも言えるかと。caもkaも、「か」で済ませてしまいますもんね。

韓国語は現代でも英語に近い発音なのだそうで、そのせいかどうか、英語が得意な人が、日本人よりも、ずっと多いとか聞いております。また、英語と同様、日本語の発音感覚で発声したって通じないよという。
なんか、日本人が連発して憚らない「ビビンバ」のことを、現地では「ピビンパプ」と、いや、「パプ(プは小さく)」は、正確には、「パプ」と「パッ」の中間みたいな発音なんだとか?かなり、びみょ~なんだそうで。

過去に、テレビで見たことなので、あまり真剣に取り上げるに値するかどうかも分かりませんが、
アフリカあたりで、「サトウ」と「シオ」とでは、どっちが甘い物質だと思うか、などという実験をやっていました。
圧倒的に、「サトウ」=「砂糖」であろうと感じるという現地人が多かったようです。
だいたい、たとえば、カ行の発音は、どの地域でも、きつい感覚を覚えるんじゃないでしょうか。
日本人が、いきなり、「ホット」と「クール」と聞いて、どっちが冷たい、熱いという感じを受けるか?と聞いたら、やっぱり、「クール」に冷感を覚えるんじゃないでしょうか。
日本語で言う「ホッとする」、これも、冷感よりは、どっちかというと、温感のほうでしょうね。

また、これもよく指摘を聞きますが、女性に関する単語の音には、どういうものか、洋の東西で、マ行が多いそうで。どこまで確かかは存じませんが。

原初の感覚として引き合いに出しやすいところでは、たとえば、急激な痛みを感じた時に、よっぽどのヘソ曲がりならいざ知らずですが、
「ほにょほにょ~」とか「やわらら~」とかは、まず、言いたくないというより、言えないのではなかろうかと。そこに、一種の「必然」はあるのかもしれませんね。
じゃ「何故、それが必然か?」となると、これがまた、振り出しに戻るようなことでして。

全然詳しくもないので恐縮ながら、ソシュール本人が自信がなかったとすら聞く、その説を、他人が、どこまで的確に捉えきれているものやらですが、ソシュールは晩年、神話時代に遡ってまで追究しようとしていたそうですね。

個人的な事情で、ここまでしか申し上げられませんが、悪しからず、ほんの参考として、お納めください。

投稿日時 - 2010-03-29 04:23:46

お礼

 飛び入りの方 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。もろもろの事情や背景についても明らかにしていただきました。まづ
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (α) ソシュール本人が自信がなかったとすら聞く、(β) その説を、他人が、どこまで的確に捉えきれているものやらですが、(γ) ソシュールは晩年、神話時代に遡ってまで追究しようとしていたそうですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この問題ですが (α)《自信がなかった》その仮説にしても 著書というかたちではいっさい発表していないわけですから たしかにソシュール理論という呼び方〔だけ〕では あいまいだとわたしも思います(β)。したがって 細かくはわたしは 丸山圭三郎のソシュール解説を批判の対象にしています。(γ)の神話論は アナグラムという主題でもあったようですが これも何だかわかりづらい《記号論》のようなのですが ここでは触れ得ません。

 一つひとつを取り上げずに申し訳ないのですが おっしゃっていただいたことは 二点あって ひとつは 恣意性説の根拠についてです。もうひとつは いわゆる言葉の《象徴》説ではないかと考えます。

 《音象徴》説を先に取り上げます。
 ★ 原初の感覚として引き合いに出しやすいところでは、たとえば、急激な痛みを感じた時に、よっぽどのヘソ曲がりならいざ知らずですが、 / 「ほにょほにょ~」とか「やわらら~」とかは、まず、言いたくないというより、言えないのではなかろうかと・・・
 ☆ つまり《象徴》説は 《音素と意義素とのつながり》について 人間にとって《自然の絆》があるのではないかという議論だと思います。川田順造がいくらか追究していたと思いますが この議論は 残念ながらけっきょくのところでは 《論理的な絆》については触れていないようなのです。
 ▲ (ヰキぺ:言語学) ~~~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6
 § 命名の恣意性
  ソシュールは、「能記」(signifiant)と「所記」(signifie)という2つの概念(シニフィアンとシニフィエ)を用いて言語記号の恣意性を説いた。
これとはほぼ反対の立場として音象徴(sound symbolism)という見解がある。これは、音素そのものに何らかの意味や感覚、印象といったものがあり、言語記号はその組み合わせによって合理的に作られているとするものである。しかし、実際にはどの言語にも普遍的な音象徴というものは存在しないため、現在そのような立場の言語研究はあまり行われていない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あっ 《音象徴》説は 《意義素》をも言っていますね。つまり 《音素=意義素》の説も含まれますね!! これは知りませんでした。考え違いをしていました。
 たぶん 《論理的な絆》をいままでの音象徴説は 言わなかった・言えなかったのかと思います。
 手前みそになりますが  / n / =同定相ならびに否定相や / h / =順出相・順定相および中心主題相もしくは副次主題相あるいは〔対極として〕周縁主題相( hasi 端; he 辺; huti 縁・淵)等々にかんして それぞれの調音の仕方についてそれが醸し出す意味あいについても 妥当な説明をしていると考えます。《自然のかつ論理的な絆》が シニフィアンとシニフィエとの間に見られる。と述べて来ていると思います。


 恣意性説の根拠の問題ですが ちょうど
 ★ 「β」説支持、について、日本人の文化どうとかは、まずは全く関係ないのではないかと思っていましたが、違うのでしょうかね?
 ☆ に対して はーとまいんどさんが 取り上げておられるので そこでわたしの考えを述べてみたいと思います。そんなお応えになってしまいますが ありがとうございました。よろしくどうぞ。

 * なお文化論になる場合には わたしはソシュール思想の継承として丸山理論を取り上げるつもりです。

投稿日時 - 2010-03-29 15:51:37

ANo.25

>つまりひとことで言って 恣意性はすべての語彙において成り立つものでなければ用を
>成さないということです。そういう仮説です。

>しかも すでに言いましたが この恣意性の仮説は 何ら根拠を示していないのですよ

根拠がないものを「恣意性」というのです。あたりまえじゃないですか。極端なんですよ
考え方が。

詩的表現は?
日本の書道をご存じですか?
和歌は?
ロゴデザインの芸術はご存知ですか?
歌には脈略のないものはたくさんありますよ。

どう考えてもおかしいですよ。本気ですか?

投稿日時 - 2010-03-28 18:35:11

お礼

 1. 文化論には入りません。ソシュール派も 恣意性の仮説にかんして 音韻論だけで論じます。そのあとです 文化論は。

 2. 文化論の例示がありますが どういうふうに音韻論とつながるかを例示してください。ソシュール派もびっくりの議論が出来るかも知れません。ただ分野だけを列挙しても始まりません。

 2-1. ★ 歌には脈略のないものはたくさんありますよ。
 ☆ そういうのは 作詞者やその歌詞を褒める人間の文化程度が とろいのです。

 3. ★ 根拠がないものを「恣意性」というのです。
 ☆ 初耳です。人間の考えやおこないに関して 恣意性と言えば わがままということです。わがままな人間の状態には さまざまな原因ないし根拠があるものです。
 無差別殺人といった恣意性に到れば 根拠や動機がなかなか分かりません。納得いくような説明が見つかりません。しかも 一般に分からないが その恣意性には 複数としてでも理由があるというのが 世間の考え方です。
 
 ★ どう考えてもおかしいですよ。本気ですか?

投稿日時 - 2010-03-28 20:26:01

ANo.24

>ソシュールの仮説が崩れればそれで かまいません。

これ書いたの誰ですか。


>世界の言語の中には この恣意性の説が当てはまらない言語
>があるというのでしょうか? 
>当てはまらない言語もあるとソシュールらは言っていると
>いうのでしょうか?
>つまりわたしの説明はまちがっていましたか?


そして、また、これ書いたの誰ですか。

>ところが 恣意性派は ひとつの言語ないし世界の諸言語の
>すべてにおいて 《シニフィアンとシニフィエとのつながり
>は 出鱈目であり恣意的である》と言っているのですから 

これは?????

別に質問者様を責めたいわけじゃないけど、、、、。

すっきりしないということことです。

投稿日時 - 2010-03-28 16:58:49

お礼

 いいですか。恣意性の仮説によると 言語は それぞれ日本語なら日本語として ひとつの《差異の体系》であると主張します。

 これは 必ずしも積極的にこれまで触れて来なかった論点ですが もしそれに従うなら(と言うよりも 恣意性説と一体になった論点なのですが) ひとつの言語の全体が 或る時点で一気に一挙にこの《差異の体系》として成ったという主張するものなのです。
 一気に一挙に成ったという意味は その時点における語彙(いわゆる単語ですね)のすべてが 《恣意性=非自然性=非有縁性》によって出来ているというものなのです。

 かれらの挙げる例外は たとえばこうです。(1) / m / が母親や乳房や食べ物など日常よく使われる言葉に現われると見ること。(2) オノマトペつまり擬音語などです。たとえば 郭公≒cuckoo つまり鳴き声ですね。(3) あとは ちょうどいま使っている《有縁性》と用語としてだぶってしまったのですが いわゆる派生語ですね。ひとつの基軸となる語から有縁のいくつかの語は 同じ音韻が現われる。とうぜんですね。
 だいたいこれらを例外としています。

 つまり(3)は 測リと秤(はかり)と計ラヒが 有縁的なのは 例外だという意味です。ただし ハカ取ル=捗ル あるいは ハカ無シ=儚イや ハカ無ム=儚ムなどとも有縁だと示せば これは 想定外の例外になるでしょう。つまり 例外だとはもはや言えなくなるでしょう。
 ですから わたしの反証として挙げた語例は 有意の数において有効である。誰も言ってくれませんので 自分で言いますが そういうことです。

 つまりひとことで言って 恣意性はすべての語彙において成り立つものでなければ用を成さないということです。そういう仮説です。

 しかも すでに言いましたが この恣意性の仮説は 何ら根拠を示していないのですよ。ざっと語彙を見渡して たぶん当てはまるであろうと見ているのみです。しかもそして 世界中のほとんどの学者が この仮説になびきました。例の構造主義になびいたのと同じです。また 根はつながっているのですから さもありなんでしょう。

 要するにこれほどまでに世界中が とんでも科学に熱を挙げているのですから わたしの批判は 特にどうってことはないことなのですが そんなことは知らなくても たいした違いはないのですが このような現状に対して批判を投じたというその現象的な意味としては 大きいものがあるでしょう。すなわち ノーベル賞級でしょう きっと。

投稿日時 - 2010-03-28 17:27:35

ANo.23

>それともハートマインドさんは 世界の言語の中には この恣意性の説が当てはまらない言語がある
>というのでしょうか? 当てはまらない言語もあるとソシュールらは言っているというのでしょうか?>つまりわたしの説明はまちがっていましたか?

別にブロジュロンヌさんが意見を変えるのが悪いって言ってるんじゃないんですよ。意見を変えるのはいいんです。

私がおかしいといっているのは、今まで私がさんざん「恣意性」は否定できないのではないだろうかと言ってきて、それを質問者さんは否定されていたんですよね。

それで、何のまえおきもなく、また、さもそれが、もともと初めから私とブロジュロンヌさんが反対の立場をとっていたごとくごまかすのはどうなのかということです。

議論をする場合での信頼性の問題ですよ。感情論的にはあまりにも卑怯ですよ。
例えばある人物
Aさんがx=bという立場をとっていた。
Bさんはx><bという立場をとっていた。
議論をしていくうちに
Aさんは立場が危うくなったと感じて、そもそも自分は
x><bという立場をとっていたのであって、Bさんの方がx=bという立場をとっていたのだ、
だから自分は正しいのだって言ったとします。

それはだめでしょってことです。そもそも勝ち負けとかどちらの我を通すとかの問題じゃないんだから、そんな主張する必要もないんです。

何かこのカテに他にも一人こういう人がいたけど、そういう人って本当に何がしたいのかがわからないんですよ。不可解としか言いようがない。

投稿日時 - 2010-03-28 12:12:06

お礼

 ★ 別にブロジュロンヌさんが意見を変えるのが悪いって言ってるんじゃないんですよ。意見を変えるのはいいんです。
 ☆ この認識は まちがいです。

 たぶん 恣意性の部類と有縁性の部類との二つの言葉群に分かれると言ったので あたかも半分 初めからの見解を変えたと見えたのでしょう。

 恣意性の部類に属する言葉群は 有縁性を破って 《非自然的な造語》によって成り立っていると見なす発言をしましたが そこまでゆづっても 恣意性説の批判は 有効だからです。
 《音素=意義素》というふうにすべてに有縁性が行きわたっている――というのは 途中で愛嬌だも言いましたが――という仮説を最後までつらぬいて議論をすすめるのも 一考です。そうしないのも一考です。
 途中で《愛嬌だ》と言ったこと そして口はばったい言い方をすれば あなたが専門的に論じようとしているわけではないということをも考慮したこと この二点によって 後者の一考の立ち場を 変身するかのように 取ったのです。
 ★★ (No.21) 恣意的な関係性という規則性が構造に含まれると考えれるとしたら、どうします?
 ☆ この観点を生かして 元からの恣意性説批判をすすめた。ただそれだけのことです。有縁性派であることに そしてその中身に いささかの変更もありません。
 議論の進め方が 見解を曲げていると見えたのでしょう。

 ご回答をありがとうございました。

投稿日時 - 2010-03-28 17:03:03

ANo.22

>ところが 恣意性派は ひとつの言語ないし世界の諸言語のすべてにおいて 《シニフィアンとシニフィエとのつながりは 出鱈目であり恣意的である》と言っているのですから 

これって本当ですか、そんなこと言ってませんよね。「世界の諸言語のすべてにおいて」っていう部分結構大事ですよ。どこのだれがそんなこと言ってるのですか。


なーに言ってるんですか、結構、真剣に取り合ってきたつもりなんですけど。

疲れました。

投稿日時 - 2010-03-27 18:11:35

補足

 ▲ (ヰキぺ:音韻論) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 § 音素
 音声言語において、知的意味を区別する働きを持った最も小さな音の単位を音素と言う。

 例えば、「パン」 /pa?/ と「バン」 /ba?/ (車種)は、それぞれ異なった知的意味を持っているので、この区別をしている/p/と/b/はそれぞれ、日本語において独立した音素である。

 これに対し、朝鮮語では、[p]は語頭に現れ、[b]は語中に現れ、両者は知的意味の区別に関与しない。この場合、朝鮮語における[p]と[b]は音素ではなく異音であるという。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 弁別すべき音素を表わすための  / ○ / というしるし――つまり /p/と/b/ といった表示――と くわしい発音を示すための発音記号 [○]というしるし――つまり [p]と[b]といった表示――の違いにも注意してください。世界共通の表示形式です。
 その音そのものに即して詳しくみれば [p]と[b]とは互いに異なる音である。けれども 韓国語にあっては 音素として弁別する必要はなく 必要がないだけではなく 区別しては間違いなのです。大目に見るのが 正解であって この場合 / p / というひとつの音素だということになります。
 綴りとしては b で書いているようですが。
 ただし 韓国語には 日本人が だいたい パという音に聞こえるものでも / p / のほかに 息の音を交える音 / ph / (プハッのごとく)と息を殺して出す音 / b / (濁音のバではなく pa パを息を全く交えずに出します)があります。いわゆる濁音(有声音)は / p / が語頭ではなく語の中に置かれたとき 現われます。語頭の / p / :百歳 / ペクセ / ――語中の / p / :三百 / サムベック / 。


 息の音 / h / を用いて ha ハと言ったとき――そういう独立した語は日本語にありませんが―― 何らかのことを主題として捉えています。
 次にこのハなる主題について 反逆を起こします。 / k / つまりたとえば ka カです。ところが反逆と言っても――造反有理でもありませんが―― それは物事には否定も必要であり まして批判ほど必要なことはないというほどに ひとえに人間の《思考》を表わすものなのです。
 思考には 疑問もつきものであるとともに むろん推論を重ねるのですから 時間を取ります。それは 思考過程のことです。そこに そのつどの結果や成果も得られます。また それにつれて 変化や移行という側面も伴ないます。
  / k / は 反出相・反定相を基本とし そこから派生する相として 思考・疑問・変化・移行・過程を帯びます。
 ゆえに ひとつの主題である ha ハにこの ka カを添えれば haka ハカという言葉が得られます。

 haka-toru ハカ取る⇒捗る; haka-ri 測り・図り;
 haka-na-si ハカ無し⇒果敢無い・儚い; haka-na-mu 儚む

 ( si の / s / は 指定相・断定相。 / m / は認定相・推定相。
 ( / t / は不定相・隔定相ないし一回相・放出相。 ta 手・ ta-i = te 手・ toe-ru = toru 取る。
 ( / r / は自然生成相・自然想定相だが 人間の思惟や行為についても用いるのであるから 人為という要素を排除しているわけではない。取ルという動作もとうぜん人為である。けれども 手ニ取ルという動作は 人為の中にも 自然のもの・自然の中に必然のものと見なして / r / という音素が使われているのだと考えられる)。

投稿日時 - 2010-03-28 09:02:47

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 恣意性説の説明は 検索をしても 意外と少ないのです。言語を 話し言葉(パロル)とひとつの言語(ラング)と言語機能(ランガージュ)とに分けてそこから 恣意性説に到るというふうに けっこう文章が長くなるようだからでもあるのでしょう。
 ヰキぺもNo.17お礼欄のソシュールの項目くらいです。それも あっさりとしたものです。
 ソシュール説の継承者は 丸山圭三郎が権威のひとりで その文章は No.21お礼欄に少し載せました。
 部分的になるのを覚悟で あらためて引用しておきましょう。
 ▲ (丸山圭三郎:ソシュールの思想) ~~~~~~~~~~~~
 第一の恣意性は 記号(シ―ニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見出されるものである。つまり シ―ニュの担っている概念 x と それを表現する聴覚映像( * 音素ないし音素列) y との間には いささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって 具体的には chien なる概念(* =《犬》)が / shien / (* 発音記号を入力し得ません)という音のイメージで表現されねばならないという自然な内在的絆は存在しないということである。・・・

   * ですから 部分的に この《絆》が存在するではないかとわたしは論証しています。

   言語記号は恣意的である。与えられた聴覚映像と特定の
  概念を結ぶ絆は そしてこれに記号の価値を付与する絆は 
  根底的に恣意的な絆である。・・・記号は恣意的である。
  つまり たとえば soeur (姉妹)という概念は いかな
  る性格 いかなる内的関係によっても これに対応する聴
  覚映像を形成する一連の s + oe + r という音とは結ば
  れていない。
 (コンスタンタンのノート 第三回講義 断章1123 1124)
 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 それともハートマインドさんは 世界の言語の中には この恣意性の説が当てはまらない言語があるというのでしょうか? 当てはまらない言語もあるとソシュールらは言っているというのでしょうか? つまりわたしの説明はまちがっていましたか?

投稿日時 - 2010-03-27 21:37:14

ANo.21

まず、言葉に規則性があるのかなって、つまりその構造を探ろうとする姿勢に何ら否定する理由はないです。全然ありです。
構造を抽出して、何らかの規則性を見つけようとすることは否定しないけど、だけどね、、、それが恣意的なものを全て否定できるっていうのは言いすぎじゃないのかなってことです。
これ言っちゃたらおしまいだから言わなかったけど、、、

恣意的な関係性という規則性が構造に含まれると考えれるとしたら、どうします?

すなわち、書き言葉は絵であり、話し言葉は歌です。
絵や歌だって、構造は抽出できるし、そういう知的作業は必要です。でも恣意性を絵や歌から排除できないでしょ。

論点が文化論に変わるけど、
hもkもtもsもそうですが、明らかに、日本では、他人様につばや息がかかるのを失礼になるとか、口臭とか、いろいろ気にして、息を強くはいたり(h、f)、唇破裂させたり(p)、痰が絡んでて他人の前できったりとか(k)、舌打ちしたり(t)そういう発音しないんです。もっと平らな感じなんですよ。だから、逆に言うとすっごい苦手なんですよ英語の発音て日本人には。

文化論は含めて考えないと進めないですよ。

投稿日時 - 2010-03-27 15:36:24

補足

 No.22の補足欄におぎないます。


 《ヰキぺ:音韻論》の URL を添え忘れました。つぎです。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E9%9F%BB%E8%AB%96


 その記事の中で 入力が出ない文字がありました。

  まちがい:「パン」 /pa?/ と「バン」 /ba?/ (車種)
  ただしい:・・・・ / paN / ・・・・ / baN / ・・・

 精確には / N / は この N を小文字と同じ大きさに表わします。

投稿日時 - 2010-03-28 09:17:55

お礼

 今回で第一ステージが収束を向かえます。つまり――あっ ご回答をありがとうございます―― 《文化論に入らずに》という意味で 第一段階です。

 いま スペイン語と日本語との対比を 次の二つの区分においておこないます。
 【恣意性の部類】:
    / aho / :ニンニク( ajo )――阿呆(一説として 韓国語 pabo から)
    / baka / :牛( vaca )――馬鹿(一説として サンスクリット moha から)
 【有縁性の部類】:
    / m-i-r- / :見る mirar ≒ miru  ( cf. 英 mirror; mirage; admirable )
    / n-a ( n-o ) / :名 n-ombre ≒ n-amae
 
 このとき このように二つの部類があるというかたちで
 ★ 恣意的な関係性という規則性が構造に含まれると考えれるとしたら、どうします?
 ☆ これは 恣意性派に対して 問われなければならない問いなのです。
 有縁性派としては こう答えます。たぶん発声ないし発音の自然として有縁性の部類が第一次の言葉群を成し その後この有縁性を破ってでも造られた第二次の言葉群もあるのだと。
 ところが 恣意性派は ひとつの言語ないし世界の諸言語のすべてにおいて 《シニフィアンとシニフィエとのつながりは 出鱈目であり恣意的である》と言っているのですから 有縁性の部類が見られるのは それはこれこれの理由によって例外であると説明しきらない限り もはや自説は自滅の憂き目に遭うということです。二つの部類に分かれてしまっては もはや恣意性という説の意味がなくなるのです。
 ▲ (丸山圭三郎編著:ソシュール小事典) ~~~~~~~~
 恣意性の概念は ソシュール理論のすべてに関わっている。あるいはむしろ すべての理論が 恣意性の原理の論理的帰結であると言うこともできよう。
 ソシュールの恣意性は《非自然性》であり 歴史・社会・文化・人為のもつ記号学的原理である。
  (1985 pp.88-89)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 後半の文化論ですが。
 沖縄語で アミ・カジと発音していても これは 日本語のあめ・かぜに対応すると見るものです。
 東北の人が ススと聞こえるような発音をした場合 それは日本語において 煤か寿司か獅子かのいづれかで対応するというものです。
 子音を平らに発音しようが強い音を出そうが 上の議論にとっての音韻論としては 問題にする必要はありません。むしろ問題にしてはいけません。ススと発音していても どれか一つと同じ音韻だと見なすのが 正解です。
 文化論は そのあとです。

投稿日時 - 2010-03-27 17:00:34

ANo.20

そんなこと言ったらね、言葉は全て同定ですよね。前にも言ったけど現象を言葉に断定してるんだから。

というかこの考え方自体が嫌いなんですよね。

なんらかの規則が無ければ言葉は発生しないと言いたいんですよね。
「ひゃっこい」とか「ひやっとする」とか「ひえる」とか「冷たい」の種類のこの言葉達は、
「ひえー」「ひゃー」っていう感嘆詞からきてるんです。これって、どっちが始まりなのかな、

「卵が先か鶏が先か」、古代人の人はどうやって意思疎通を始めたのかな。
象形文字っていうのは、、、、。ね、どう思いますか。

1+1=2ってすごい発明ですよね。
別に○+○=○ ○でもいいんですよ。
演算子という論理記号の意味づけがすごいんです。

子供の頃、「大草原の小さな家」が好きでした。
ローラが立派な論文を発表したんだけど、ずるっこしたんです。立派な論文は実は紙に書けていなかった。話し言葉でむずかしい単語の意味も発音もしっているんだけど、スペルを覚える方が難しかった。

日本だったら、それは絶対にあり得ないんです。音イコール文字だから、それは全て同時進行で覚える。

ね、違うでしょ。文化論になっちゃうんですどうしても。

投稿日時 - 2010-03-26 18:31:24

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ そんなこと言ったらね、言葉は全て同定ですよね。
 ☆ 正しいけれど 正しくないです。認識は――知覚とちがって――互いの意思疎通としてはすべて言葉をとおしておこないますから 確かに言葉でそのものをそのものとして同定することにもとづいています。
 しかもこの同定ないし認識を どの視点からどの気持ち(志向性)でおこなうかで 広義の同定が 細かく分かれます。

 na 名は まさしくその対象をそれとして同定する認識の仕方によっています。ma 真は 言葉の話し手つまり人間が(または《わたし》が) 受け止める・受け容れるといった手続きをも含めて認めるというかたちです。認定相です。ta 誰(た)は 同定したあと 《不定》であると認定したかたちです。
 このように《同定》という認識には 広狭ふたつの作業層があります。

 ハァーと息を吐くあるいは吸うその音 これは そのモノコトをともかく《わたし》にとっての主題であると同定し認めたかたちです。あるいはつまりこの子音 / h / は そのモノコトを主題として提示しますという相です。
 この主題の提示を・もしくは提示された主題の中身を 喉の奥のほうで息の流れを遮って カハーッと音を出す子音 / k / 。したがってこれは 反逆児です。主題提示の相をになう / h / は 反逆児 / k / の対抗を受けて 順出相ないし順定相だと見ることができます。それに対して / k / は 反出相ないし反定相となります。 ha ハ(ハ格)←→ ga ガ(ガ格); ha-si 愛(は)し(→麗しい); -ka ‐カ?(疑問法); ha-ka ハカ〔が行く〕;haka-toru 捗る; haka-ra-hi 計らひ。

 息の音( h )を 上下の歯を閉じてわづかな隙間から流し出す音は / s / です。狭い隙間を通すのでかなり強い力が加わります。その性格から  / h / で提示する主題を わざわざ話者は指定しようとしている。指定相である。 sa・si・so サ・シ・ソ(其);zo ゾ(断定法); su ( su-ru ) ス(スル:人為相)
 

 ★ 「卵が先か鶏が先か」、古代人の人はどうやって意思疎通を始めたのかな。
 ☆ この議論には  直接にかかわっていません いまの《音素=意義素》説はです。なぜなら いちいちこの説にもとづいて言葉をつくったり言葉を交わしたりするわけではないからです。あとで――あとでです あとで――分析してみたら この仮説の内容があてはまるかたちで 言葉は出来ていたんだなというのみです。

 それだけですし そこまでです。文化論は そのあと別様に始めるものです。

投稿日時 - 2010-03-26 23:07:40

ANo.19

「む(=ん)」についてですが、仮定(~としたら)、婉曲(~ように) 適当(~のがよい)・勧誘(~しないか) 推量(~だろう)があることもお忘れなく。

また「なり」ですが、伝聞(~と聞いている・~そうだ・~らしい・噂によると~)や推定(~の音・声が聞こえる・~ようだ・~らしい)の「なり」があることもお忘れなく。

ほらね、言い出したらきりがないですよね。
質問者様の言っていることは正しいけど正しくない。共通点は言ったらきりがないけど違うと言ってもきりがない。

ということです。

投稿日時 - 2010-03-26 14:31:43

お礼

 ラリーがつづきますね。ご回答をありがとうございます。

 まづ 伝聞法の補充用言(助動詞)ナリについては No.16お礼欄を見てください。断定法のナリ(也)のほかにちゃんと むろんありますよ。
 ☆☆ (No.16お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
  / n / :同定相および否定相の語例です。
 1. 対象一般に同定:
   na 名; na-i=ne 値 → na-su 成す; na-ru 成る; na-ri 也(断定法); noe (ノ=所有格)
 ・・・
 3. 聴覚対象に同定:
   na 音; na-i = ne 音; → na-ru 鳴る; na-ku 泣く・鳴く;
     na-ri なり(伝聞法:《・・・と聞いている・・・・だそうな》の意);
     noe-ru 告(の)る
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ほらね!!

  / m / は 赤ん坊が発音しやすい音だと言って来ましたが なかなか一筋縄では行かない意義を帯びています。まづのっけから仮説します。
  / m / :原則として 認定相(語例: ma 目・真; moe 身(も・む→み)
      派生として 推定相( moe モ・ム(モ= X モ Y モのモ:主題に
        推定相を帯びさせる主題条件詞; ム=基本は推定法の補充用言(=助動詞))

 ☆ この最後の《 moe = mu ム:基本は推定法の補充用言(=助動詞))》について 議論を展開していただきました。これから解きほぐしてまいります。
 まづ原則の認定相はよろしいでしょうか? mi-ru 見ルの m です。
 ではなぜそこから 推定相が派生するのか? 
 一般的に言えば 主観による認定だからです。マンマを母親や食事として認定すると言っても 決して普遍的な概念のもとに構築した認識なり認定なりではないということです。

 したがって 一つ目に 話者じしんの動作にこのムをつけると 未来に向けての動作の主観的な認定というのは すでに推定です。そして推定であり 推定として同時に みづからの意志や希望を表わします。(一般に 意志法)。
 ▲ (大野晋の辞典には 次が例示) 渡り瀬に立てる梓弓真弓 い伐(き)らムと心は思へど・・・(古事記歌謡51)(イは接頭辞。《伐ろうと思うが》の意)。

 ☆ 二つ目に 相手の動作につければ そこに主観の認定がはたらくのですから 催促や命令を表わします。そして 相手が複数である場合は 勧誘になります。
 ▲ 《なり高し。なりやまム(=《なりやめ》の命令)。》(源氏物語・少女)
 ▲ 金門陰〔に〕かく寄り来(こ)ね 雨立ち止めム(=《雨宿りしよう》の勧誘)(記歌謡81)

 ☆ 三つ目に 第三者の動作につく場合には 話者が主観としてそのように思っているとなります。(予想・推量)。
 ▲ あしひきの山橘の色に出でよ 語らひ継ぎて逢ふこともあらム(万葉集四・669)
  (山橘のように はっきり態度に出してしまいなさい。便りをしあっていて やがて逢えることもあるでしょう)。

 ☆ したがって ムのいくつかの用法は 基本として〔主観的な認定から来る〕推定法であり それは 話者にとってどういう主体の動作を取り上げているかで さらに細かく分かれるとなります。

 ★ 質問者様の言っていることは正しいけど正しくない。
 ☆ これでいいのですよ。《正しい》ところが 部分的にであっても 決して例外ではなく成立しているとすれば いいわけです。
 例示している《 / n / =同定相ならびに否定相》という仮説が 日本語のすべての言葉に当てはまるという言い方 あるいはさらに世界のあらゆる言語の言葉に当てはまるという言い方は 愛嬌です。愛嬌でいいのです。ソシュールの仮説が崩れればそれで かまいません。

 ということですよ。

投稿日時 - 2010-03-26 17:53:35

ANo.18

こんにちは、確かに日本人の文化から言うと、(β)説をしじする人の方が多いかもしれません。
「さかしら」を嫌う文化だからです。教育学という面からしても(β)の方だと思います。決断力の面においても(β)でしょう。しかし、それは完全に(α)を否定するものではないと思います。どちらの要素も必要です。屁理屈をこね過ぎても、理屈を考え無さ過ぎても良くないのです。

言葉は厳密なように見えて、厳密ではない。

私的にはそういう見解です。

アップルパイ好きですか。appleってnがないから適当な果物なのでしょうか。bananaの方がしっかりとした栄養がある果物なのでしょうか。

日本語だとリンゴはンがあるからしっかりした果物で、バナナもナがあるからしっかりした果物となるのでしょうか。

投稿日時 - 2010-03-26 13:34:29

お礼

 はーとまんいどさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 話の内容は 文化論として伺うと分かるようなのですが しかし残念ながら 言語学としては 焦点がぼけてしまったかと思います。

 ★ 日本語だとリンゴはンがあるからしっかりした果物で、バナナもナがあるからしっかりした果物となるのでしょうか。
 ☆ これらのお話は まったくしていません。関連があるとしても 別になります。だったら もしわざと関連させて考えてみましょうか。つまり / n / は 同定相であるだけではなく 否定相でもあるのですよ。否定相で行くなら 《リンゴもバナナも 嫌われている》というような話にもなるわけです。
 言語学と その印象批評としての延長線上の議論は はっきりと別です。

 ★ (β)説をしじする人の方が多いかもしれません。
 ☆ これは 言語学が 推論と事実との上で経験科学として判定していく問題です。そこからの延長線は やはり別だと捉えてください。
 (α)は 誰もが認める事実です。《ばなな》という言葉を言ったとき その《 banana 》という音韻と《バナナという果物》という意味 これら二つは しっかりと表裏一体でつながっています。当たり前のことです。音韻のほうがシニフィアンで 意味のほうがシニフィエです。その一体となったものをまとめて《シ―ニュ(記号ないし言語記号)》と言います。

 (β)の仮説は シニフィアンとシニフィエとのつながりは 出鱈目に成り立っているのだというものです。《バナナという果物》を表わすのに 何も《 banana 》という音を持って来なくてもよいはずだ。《 ringo 》でも《 inu 》でも《 hito 》でも《 kokoro 》でもよかったはずだ。
 だが その昔 言葉は それぞれの言語で 互いの音の違いに応じて――またその差異によってのみ―― それぞれの意味とつなげられて出来たのだと。と言っています。
 言いかえると banana を構成する音韻の b にも a にも n にも何の意味もないし ringo の同じく r にも i にも g にも o にも意味はないと言っています。ざっと見たところ 確かにそういう事実が見られます。スペインで 日本人が バカと発音すれば 牛という意味の言葉として受け取られ アホと言えば ニンニクのことになります。ことほど左様に 音韻(シニフィアン)と意味(シニフィエ)との間のつながりは 勝手なものであるのだと。
 〔ちなみに スペインで 日本人が指でどこかを指して ミラとかミレと言えば そのほうを見てくれるでしょう。《見る》という言葉だからです。英語でも mirror とか mirage の語をしらべてみてください〕。

 でも しかしながら それでも それにもかかわらず わたしは 何でもうたがう人間ですから / n / という子音としての音素 それとしてのシニフィアンに 《同定相ならびに否定相》という意義素としての意味 それとしてのシニフィエが 《出鱈目にではなく・勝手にではなく・恣意的にではなく ひとにそなわった発声の機能ないしその調音の自然のあり方からして 或る程度の規則的に》 つながっている。と言っています。

 / n / =同定相 から 比定(擬似同定)相 つまりたとえば ni-ru 似ルが派生します。
 ここから これは 言わば或るモノを他のモノに重ねるようなかたちです。したがって
 
   ni 荷; no-ru 乗る・載る; no-se 乗せ・載せ

 も派生してくるでしょう。自然であり 妥当なかたちだと思います。しかもこのとき  / r / と / s / との対比が出来ます。自然生成相と人為相とです。この対立するかのような二項のひと組みは きわめて広く見出されます。ル(または ラ行)とス(サ行)とです。似る→似させる; 見る→見せる・見させる etc. です。

 これまでに (β)説の学者ら数人にも 手紙かメールですでにうったえて来ています。梨のつぶてです。という現状です。

投稿日時 - 2010-03-26 14:58:44

ANo.17

本当に物知りですよね。

ハングルがどうであれ、今の日本語はそれなりの歴史の上で落ち着いているのだと思いますが。
しかし英語はどう考えてもつづり方と発音は違いますよね。山田詠美さんの「4U」って小説があったけど、文盲の人がアメリカ人にはけっこういてfor youって言葉は日常で喋れるけどつづりかたをしらないから「4U」ってしか書けないってありましたけど。

ブロジェンヌさんてもしかしたら過去分詞のこと想定してるんですか。edとかneとか、魚をもりでつかまえる芸人さんが「とったどー」って、あれって、その人のキャラっていうか芸風っていうか、あんまり普通の人は言いませんけど。

ちょっとコピペしますね--------------
言葉の発音は、時代と共に変わるもの。例えば、ワ行の「ゐ」は、「wi」と発音されていたのに現代語にはそんな発音はなくなってしまいました。また、英語のtaughtは、本来、文字通り「タウグフ ト」発音したものだが、今ではご存じの通り「トート」と読んでしまいます。君たちの好きな「学校」は、もともと「ぐゎっくゎう」と、当時伝来した中国語の発音通りに文字に書かれ、しかも発音されていたものだが、今では変化して「がっこう」と発音されています。

 歴史的仮名遣いの読み方を覚えることは、つまり発音変化の法則を覚えることなのです。
--------------

きっともっとずっと、詳しい人はたくさんいるから他のカテでも立ててみたらどうでしょうか。

投稿日時 - 2010-03-25 15:30:14

お礼

 お答えをありがとう。

 ソシュールという人間は 次のようなことを言ったとされます。分かりにくいでしょうが (β)が問題です。
 ▲ (ヰキぺ:フェルディナン・ド・ソシュール) ~~~~~~~~~
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB#.E3.82.B7.E3.83.BC.E3.83.8B.E3.83.A5.E3.80.81.E3.82.B7.E3.83.8B.E3.83.95.E3.82.A3.E3.82.A2.E3.83.B3.E3.81.A8.E3.82.B7.E3.83.8B.E3.83.95.E3.82.A3.E3.82.A8

 § シーニュ、シニフィアンとシニフィエ
 ソシュールにおいて、
 (α) 記号(シ―ニュ)とはシニフィアン(例えば日本語の「イ・ヌ」という音の連鎖。「記号表現」「能記」と訳す。)とシニフィエ(例えば「イヌ」という音のあらわす言葉の意味、すなわち〔《犬》という〕概念。「記号内容」「所記」と訳す。)が表裏一体となって結びついたものと規定した。

 (β) さらにこの「イ・ヌ」という音の連鎖(シニフィアン)と「イヌ」という音の連鎖の表す概念(シニフィエ)の結びつき方はデタラメつまり恣意的なものであるとした。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち (α)は 当たり前です。言葉には 音と意味とがあって 互いに一体となっていると言うだけのことです。
 (β)は その一体性が 一体は一体だが つながり方には 何の規則性もなく 出鱈目つまり恣意的なものであると言おうとしています。
 ソシュールのあとで いくらかの学者が取り上げそのとおりだと言ったものですから――つまり 根拠も論拠もないのですよ―― いわゆる構造主義という思想にまで広がりました。その結果 世の中は けっきょく人間の個人としての考えも行ないも 何ら独立してはいないという結論に導かれました。
 ちょっと待てよと わたしは言っています。意志行為は 社会力学の前で非力であり無力にもなるが なお有効である。と主張しています。
 その批判のためのひとつの反証として 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのつながりは 出鱈目ではない場合が 有意に見出される。と言っています。それだけのことです。
  / n / は同定相ゆえに ものごと一般に同定したなら na 名という言葉が出来る。類似としての同定なら ni-ru 似ルという言葉が得られ 聴覚対象に同定するなら ne 音; na-ru 鳴るなどなどの言葉が得られているではないか。と言っています。そしてそれだけのことです。

 言いかえると ここに提出した反証の語例について それらはあくまで例外だというのであれば その説明とともに そう反論してくればよいわけです。議論としては それだけの話です。

 fishbowl66 さん(No.12)は 漢語においては 全部を説明できないではないかと言って わたしの説を批判しましたが では 日本語における例外のような反証例があるのだから ソシュールの仮説のほうも 全部を説明できないではないかと こちらからも反論し得ます。ヘンな言い方をすれば 刺し違えになります。
 けれども  / n / =同定相および否定相としての仮説が これだけ証明されたなら これを例外とし得るとは思えません。ソシュール派の人たちから 反批判をもう少し待ちたいと考えます。

 * たとえば daughter は 独語で Tochter (トホター)ですが ギリシャ語で tygater (テュガテ―ル:姉妹)という語があるので -gh- を綴りに残しています。

 * teach -- taught -- taught で 完了相の / t / が出て来るぢゃないですか。 know -- knew -- known で完了相の / n / が過去分詞で出て来るぢゃないですか。それぢゃだめなんですか?

 * 日本語の書き言葉として いまのものがわるいとは思っていませんよ。
 

投稿日時 - 2010-03-25 16:26:35

ANo.16

>その後 ウとオとに分かれて伝えられて来ています。

これは「を」のことでしょうか。助詞の「を」は現在でもつかわれていますし、しかし「をとめ」という言い方もあまり現在でもしません。やっぱり「助詞」にしか現在はつかわないかな。

nは全てそういう使い方だとすると「なすび」は?「なか」は?「ならのだいぶつ」は?「なに?」は?「にんじん」「にじ」「ぬりえ」「こんにゃく」(なかの「ん」)ほらきりがない。どうしよう。

おちょくっているんじゃないですけど。

漢字を日本人はなぜ今もつかうかというと、やはり書き言葉において、文字そのものに意味を持つためだと思います。ひらがなのように音だけをあらわすもじだけだと、かいてたらぼやけてきますよね。これはまえの回答でもすこしふれましたけど。

また五段活用についてもどうでしょうか、関係してくるとおもいますが。


「無影灯」については、哲学的な言葉ですので、まあ、わたしでも少しはアンテナが触れます。

やはり、私は普通の人なので、もっと勉強家の人と議論された方がいいかもしれませんね。

投稿日時 - 2010-03-25 13:01:15

お礼

 ご回答をありがとうございます。


 そうですね。ともかくお応えいたします。
 ○ oe :ウとオの中間の音。アとも聞こえる。
 これは これで ひとつの音です。仏語でハートは coeur と言いますが その母音です。 Goethe の母音です。ギョエテ ゲーテと書いたりしますね。
 日本語にもあったと言われています。その後 ウとオとに分かれました。元の音は消えました。
 ちなみに 沖縄語は 日本語の姉妹語ですが 最近まで a ・ i ・ u (または今のこの oe )の三母音組織でした。三母音でやっていけるというのは アラビア語もそうです。
 そして複母音から別の母音が作られました。
    a-i > e (広いエ)
    i-a > e (狭いエ)
    a-u > o または u-a > 0
 などです。ですから a / ai=e / i / ia=e / oe / oe-i=ui / u / o の八母音体系のときが 奈良時代あたりにあったとされています。
oe は したがって u / o このいづれかに分かれたという意味です。
 oenoe= 己(oenoe-re= onore 己(オノ)れ; oenoe-hore= unubore 己(ウヌ)惚れ=自惚れ
 (ちなみに oenoe ∽ ana という例も説かれています。→ ana-kati =己(あな)勝ち=強ちという成り立ちだとされます)。

 / n / :同定相および否定相の語例です。
 1. 対象一般に同定:
   na 名; na-i=ne 値 → na-su 成す; na-ru 成る; na-ri 也(断定法); noe (ノ=所有格)
 2. 擬似同定:
   na 似( ma-na-bi 真似び=学び); na-i=ne 似( ma-ne 真似);ni-ru 似る

 3. 聴覚対象に同定:
   na 音; na-i = ne 音; → na-ru 鳴る; na-ku 泣く・鳴く; na-ri なり(伝聞法:《・・
  ・と聞いている・・・・だそうな》の意); noe-ru 告(の)る
 4. 自然環界に同定:
   na 地 ( na-ra 地ら=奈良 cf. no-ra 野良); na-ka 中( ka=処〔在り処のカ〕); na-i=ne 根・嶺; ni 土・丹; no 野
 5. 否定相:
   na な(否定命令=禁止法)・無(な)し; nu ヌ(打ち消し法)

 ☆ 人参・蒟蒻は 借用語ですが 中では 《 na-ni 何》が必ずしも今の仮説に合わないのでたしかにそれは困ります。nu-ru 塗るは モノを対象の面へ同定させるでしょう?


 ★ ひらがなのように音だけをあらわすもじだけだと、かいてたらぼやけてきますよね。
 ☆ 韓国語は 昔は同じように漢字を文の中に入れていましたが 今ではあのハングル文字だけで書いています。英語などローマ字だけで書いているぢゃないですか。或る程度は 慣れのようですよ。


 ★ また五段活用についてもどうでしょうか、関係してくるとおもいますが。
 ☆ これはですね。母音の活用(=音韻変化または音韻交替)にかかわってきます。これまで 動詞の活用組織について 大野晋によってほとんど解明されましたが 全体として さらに組織立って有機的なつながりが明らかになればとわたしは思っていたのですが 或る程度考えました。これは 一言や二言では述べられません。五段の活用例を出すだけでも スペースを取りますから。

 ○ 橋本萬太郎・鈴木孝夫(間違いました)・山田尚勇共著:漢字民族の決断――漢字の未来に向けて―― 1987 大修館書店
 ○ 橋本萬太郎・岡田英弘・川本邦衛・新田春夫・松本昭共著:世界の中の日本文字――その優れたシステムとはたらき―― 1980 弘文堂

投稿日時 - 2010-03-25 14:42:00

ANo.15

ある一つの語源をいろいろな国によっていろいろな発音をするというのは、それはそれということでいいのですが。

考察の方向はおまかせというお言葉に甘えますが。

>大目に見る場合ときちんと区別する場合と二通りがあると思います。

それぞれの国の言葉は語源がどうであれ、それぞれのお国柄の勝手にしたがって取り込むということで、よいでしょうか。

それでこういうと何なんですが、外来語を除く日本語の語源が西洋にあると考えるには少し無理があると思うのですね。外来語については日本語に取り込む際にもともと音の少ない国の言葉に取り込むわけですから、音を大目に見て取り込むという見解で良いと思うのですが、もともとの日本語には「あとえの中間の音」も無いですし、ですからやはり日本語独自の50音でできた言葉があるわけですから、そういう中間の音は、日本語の書き言葉にもあらわせない訳です。ですから、「うめき声」ぐらいでしかないわけです。

ですからそのもともとの外来語と関係がないと思われる日本の言葉の音に無いものを本来あったが、大目に見て省略して変化したという見解はいかがなものかと、、、。どうなんでしょうか。

投稿日時 - 2010-03-25 10:04:46

補足

 ご回答をありがとうございます。

 申し訳ないけれど 誤解しておられます。
 (1) 語源の話もしていますが 語源と《音素と意義素とのつながり》説とは話が別です。
 後者は こうです。子音 / n / は《ものごとを同定する相を帯びている》。ゆえに日本語で na =
名という語に現われており その同じ発生として 英語で name にも使われている。こういう仮説です。
 語源としては そのあとに――たまたま どちらにも同じ m が出て来ていますが この m など――ほかの母音をも合わせて捉えてその起こりと変遷を研究するものです。

 (2) ★ それぞれの国の言葉は語源がどうであれ、それぞれのお国柄の勝手にしたがって取り込むということで、よいでしょうか。
 ☆ これはそうなのですが いわゆる外来語つまりは借用語にかんしてのことではないでしょうか? もともと と言ってもほんとうのところは 起源も分からないわけですが ともかく元からの言葉であると一応言う場合には 《取り込む》問題は別となります。
 《ネーム》は明らかに取り込んだものです。《 harakiri / harikari 》も同じくです。
 そして 《音素/ n / =意義素として〈同定相〉》という仮説は この《取り込み》の場合とは一応 別です。(一応というのは 太古のことは分からないからです)。

 (3) ★ 外来語を除く日本語の語源が西洋にあると考えるには少し無理があると思うのですね。
 ☆ ですから そういうふうにはまったく言っておりません。どの言語においても 音韻として――いま母音は措いておいて――特に子音にかんしては n なら n として その意義が《同定相かつ否定相》であるというように 相当程度において同じ発生の仕方をしているのではないか。こういう仮説です。
 語源とは問題が別〔=(1)〕だけではなく 《音素=意義素》の仮説が 起源としてヨーロッパにしても日本にしてもどこかひとつの言語ないし場にあるとは まったく言っておりません。もし言うとすれば 《人間》――その自然本性――に発生の起源はあるといったところでしょうか。

 (4) 細かいことですが 次の見方は 現在の日本語学において否定されています。
 ★ もともとの日本語には「あとえの中間の音」も無いですし、
 ☆ oe つまり ウともオとも聞こえる一母音がありました。
 その後 ウとオとに分かれて伝えられて来ています。
 oenoe= 己(oenoe-re=己(オノ)れ; oenoe-hore= 己(ウヌ)惚れ=自惚れ
 koe-da-mono= 木(ク)だ物=果物; koe-suwe= 木(こ)末=梢
 noegoehu =拭ふ→ 拭う:ヌグウ および ノゴウ 
 このような母音の変遷です。拭うは 現在もそれ自身ひとつの言葉として両様の読みです。
 五十音図は 平安時代頃に出来あがった音韻組織です。

 (4) ★ ですからそのもともとの外来語と関係がないと思われる日本の言葉の音に無いものを本来あったが、大目に見て省略して変化したという見解はいかがなものかと、、、。どうなんでしょうか。
 ☆ 子音にしても母音にしても それぞれの言語つまりは 起源としてはそれぞれの民族のその言語ごとに いわば工夫して組織立てて行ったと考えられます。言いかえると ひとの口や舌や唇や喉のあり方にもとづき それぞれ自分たちが使いたいと思った音をそれとして規定して使うようになったのでしょう。
 言いかえると 日本語で使っていても 英語で使わない音もあるかも知れないし その逆もあります。日本語は 割り合いこじんまりとしていて 日本語にある音韻はたいていの言語にあると言わねばならないとしてもです。
 n だっていろんな変化や交替をしますよ。いま――これは漢語ですが―― 三=サン( -n もしくは -N )と発音しますが 三郎=サブ( -b- )ロウもあります。三味線( -m- )もあります。三線(さんしん。-n- )もです。
 もとは 三=サム( -m )だったようです。韓国語はこの -m の音でいまも借用しています。
 つまりこの音にかんしては m > b また m > n という二つの変化をたどったと見られます。前者は 寒い( さむい・さぶい)などに例があります。後者は 仮説として n > m の例を出します。文(ブン→〔イの折れ〕ブン―イ⇒ブニ⇒ブミ⇒フミ) あるいは 簡(カン→カン―イ→カニ⇒カミ(=紙))。
 噛む( -m- )→噛んだ( -n- )。

 どうでしょう?

投稿日時 - 2010-03-25 12:07:35

お礼

 鈴木孝が 文字論を展開しています。ほんのさわりをご紹介します。

 日本語では 《無影灯》と聞いても 分かるひとは多くはないだろうが 影が無い灯火だということは分かる。だが 英語で scialytic lamp と聞いても なかなか分からない。つまり一般の人には 知っていないだけでなく そのものがどんなものかも分からないであろうと。仏語では scialytique と言うだけであるから 灯火だとも分からないはずだと。
 この言葉は 原義はギリシャ語で 《影( scia- )を溶かす( -ly- )ところの( -tique )》と言っており 歯医者さんで顔の前に当てる灯のことを言うそうです。まぶしいような まぶしくないようなあれだそうです。

 つまり 漢字を使っていると或る程度の内容をつかめる場合が少なくないというものだと言います。
 その影響によってでしょうか 学力の問題としては 日本人は 平均の習熟度の割り合いが ほかと比べて大きいのだそうです。ほかの国では とびきり優秀も少数いれば きわめて習熟度の低い場合も少数いるということだそうです。グラフで言えば タテ長とヨコ長でしょうか。

投稿日時 - 2010-03-25 12:20:51

ANo.14

焦点がぼけているというより広範囲な感じですね。
たぶん質問者様は広範囲の英字から構成される西洋中心の言語文化を知っているのでそちらからの方向からの考察になるのだと思います。まず一つこちらからいえることは、英字に対する音は一対一ではないが、日本語のひらがなと音は一対一であるということです。ここまでは、いいですよね。

どうか安易な連想ゲームにおちいらないようにと思って例をだしたのですが、、、
つまるところcandyとAmericaのcaは分析を進めれば、何らかの共通点があると思って、本気で考察しますかということです。
ですから「ダジャレ」の研究?とどう違うのかと分からなくなってしまうのです。

どうでしょう。質問者様は、どの方向に考察を進めるのでしょうか。今一度、方向性を示していただければ幸いです。

投稿日時 - 2010-03-23 15:18:22

補足

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 焦点がぼけているというより広範囲な感じですね。
 ☆ そうでしたか。
 ★ 今一度、方向性を示していただければ幸いです。
 ☆ じつは わたしにも方向性はないのです。例のソシュール批判については その狙いとして明確ですが それとは別にことばについての――ひとつには 日本の文化をめぐる問い求めとしてであるわけですが――談義は 特にこれと言って定めているわけではありません。それこそ回答者さんの提出された主題にかんしてついて行こうと思っております。
 文字論については わたしのほうからの反応が鈍かったとは思って 昔の本をさぐっていますが いまのところまだ形を表わして来てはいません。

 ★ つまるところ candy と America の ca は分析を進めれば、何らかの共通点があると思って、本気で考察しますかということです。
 ☆ つまりこのように提出いただいた主題について その方向性が いまひとつ前回は つかめなかったのでした。
 (1) 《イ( - i - )の折れ》という主題
 (2) candy の語源
 (3) 音韻として広くか狭くかの扱い方の違い。
  つまりこれは 
 (3-1) 広くは America の ca も 子音 / k / としても 母音 / a / としても同じ部類として扱います。
 そして
 (3-2) 狭くは 実際の発音に即して キャとカとの違いがあること(発音記号が入力できないので)。そしてたぶん キャンディのほうでは アクセント(ストレス)が置かれているという違いもあること。

 (4) したがって 共通点は (3-1)だと思っていたのですが。つまり それ以上は触れずにいましたが。
 (5) 違いとしてなら (3-2)だと思います。

 (6) そして (4)つまり(3-1)の捉え方とその原則にのっとるならば 《連想ゲーム》としてのごとく音韻を対応させてもよいと思いますよ。
 (7) ですから たとえば Christ の母音は / i / ではなく英語では / ai / ですが 広い扱い方として基本的に / i / で扱って問題ないと考えます。例として:ゴルフの青木 Aoki は エイオキという発音で呼ばれていますが この A は A として広く捉えて構わないということです。( Aoki →〔イの折れ〕 A-i-oki / アイオキ→エイオキ / という発音の変化)。
 それと 最初から出した英・和の対照は 母音ではなく / n / などの子音ですからそれについても問題ないと思います。柔らかい・硬い 弱い・強いなどの違いは 大目に見る場合ときちんと区別する場合と二通りがあると思います。
 ★ 英字に対する音は一対一ではないが、日本語のひらがなと音は一対一であるということです。
 ☆ この事実を無視しているというものではなく 大目に見る場合というのが 成り立つということだと思いますよ。もともとが ひとつに決まるという見方に立つからです。

 さて どうでしょう?

 * ロシア人は ――今ではどうでしょう?――横浜を ヨコガマと発音しました。Hamlet はガムリエト Hitler はギトレルです。つまり  h ∽ g です。でも そこには 音韻の対応があると見るということです。

投稿日時 - 2010-03-23 18:15:27

ANo.13

こんにちは。

例えばバナナは栄養があって子供のおやつに最適ですが。

日本ではバナナはバナナです。でも英語ではbananaと書きますが、
naは二種類の発音ですよね。
おやつといえば飴だってキャンディーですが、candyならAmericaはアメリキャでいいじゃんていわれたら腹がたちますよね。
日本語は音イコール書き言葉ですが、英語はそうとは限らないので、日本の子供は中学から英語を習う時には発音記号というやはり記号という音をあらわす別の書き言葉を使うのです。

バナナはバナナでいいじゃんと言わずにそのお国の文化を学ぶことは、その国の心を知ることなのですね。

日本は外来語が多いのですが、音が他の国よりすくないので独自の発音でとりこんでいます。例えば駅の改札を昔はテケツと言っていました。今はチケットという言葉の方が一般的ですが、テケツの方がticketに音は近いですよね。これは、情報社会になって音より書き言葉が入るようになったからなのではと思っています。

ブラロジェンヌさんは日本を良く知っている貴重な人なので、やはり文化の違いについても私たち土着民族が知らないことを知っていると思うのでその辺を深めて教えてもらいたいと思っているのです。

ところで私は最近「さかしら」という概念について考えているのですが、すなわちリーズンという物事を理性的に考えるにはとても必要な概念なのですが、日本の文化は少しこれを嫌うところがあるのです。

「~とかけまして」
「~とときます」

「そのこころは」

と「そのこころ」つまりリーズンについては目上の人に聞かれるまではあまり自分からは言わない方がいいという文化があります。この文化による歪みが、現在は日本の伝統のマイナス要素なのではないかと思っているのです。

どっちかっていうとこの話し言葉と書き言葉の考察をそっちの方向から見ていただけると私的には面白いのですが、どうでしょう。

投稿日時 - 2010-03-22 17:14:50

補足

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 話し言葉と書き言葉の考察
 ☆ ということは 発音の変遷といったことでしょうか?
 最近 次のように調べてまとめたことがあります。インドからアイルランドまで方々に広がって移り住んでいるインドヨーロッパ語族の諸言語での発音の違いについてです。
 
 English : sun
 Middle E. : sonne ( feminine )
 AngloSaxon : sunne ( fem. )
 Dutch : zon ( fem. )
 German : Sonne ( fem. )
 Gothic : sunno ( fem. ) / sauil
 Icelandic : sol ( fem. )
 Swedish & Danish : sol ( common = 中性ではなく男女共通)
 Russian : solntse ( neuter ) (綴り間違いではありません)
 French : soleil ( masc. )
 Welsh : haul ( masc. )
 Greek : helios ( masc. )
 Latin : sol ( masc. )
 Sanskrit : suura, suurya ( masc. ) ( - r - は間違いではありません)

 《日(太陽)》を表わす語は ロシア語に見られるように子音として《 S - L - N 》から成る。そこで
 S は H と交替する。( cf. しちや∽ひちや(質屋))
 L は 稀に R と交替しうる。(日本語みたい)
 L が落ちるか N が落ちるか どちらかである。ロシア語は両方を保つ。
 文法の性が 男女に分かれているのはなぜか。分かりません。
 南と北とで 男( masculine )・女( feminine )をきれいに分けていますが ロシア語は寒いところでいながら 中性( neuter )となっています。

 でも この種のことと
 ★ さかしら / 「そのこころ」つまりリーズン
 ☆ とは別ですよね? あるいはまた 《さかし》と《さかしら》とは違うようですね。後者では 出過ぎるという意味合いを伴なうということのようですが。
 とりあえず
 ★ candy=キャンディー
 ☆ この《イ( i )の折れ》という音韻変化の現象を取り上げてみます。
 candy じたいの意味は 《割れ・一切れ》と《〔砂糖を〕白く光らせる・結晶とする》の二つの説明があって迷っています。
  →http://www.etymonline.com/index.php?search=candy&searchmode=none

 ☆ 《イの折れ(挿入)》とは can をカンから キャンと発音するその傾向です。同じく girl を ギャルと呼ぶ。
 日本語では 語を概念として固めるために《 -i 》を付け加えます。
  ○ ma 目(ma-sa-ka 目‐さ‐か=正か)→ ma-i = me 目
  ○ ta 手( ta-moto 手‐元=袂)→ ta-i = te 手
  ○ ina 稲→ ina-i = ine 稲
  ○ koe 木(く・こ):koe-da-mono = kudamono 果物( -da- は ノの意)・ koe-no-ha 木(こ)の葉・ koe-suwe( zuwe )木(こ)末=梢
    koe-i → kui / クィ / → ki 木

 外来語でのイの折れ あるいは 英語でそれに相当する場合。
  ○ text →テクスト・〔イの折れを入れると〕テキスト
  ○ text / tekst / →〔イの折れ〕 / t-i-ekst / → / tjekst /

  ○ Christ →クリスト・〔〃〕キリスト
  ○ Christ / krist / →〔〃〕 / kri-i-st / → / kreist / → / kraist /

 バナナは イの折れをこうむっていないようです。
 なんだか焦点がぼけている感じですので さらにきっちりとご指摘くださいませ。

投稿日時 - 2010-03-22 19:41:34

ANo.12

諸般の状況を慎重に検討いたしました結果、ちょっと今、開店休業中につき、取り急ぎ、以下の通り、摘み食いをして、立ち去るのが、尤も賢明との判断に達しました。

音素と意味の直接的結合を主張して、言語記号の音と意味の間に、恣意性を否定される方には、中国語における、多数の同音異義語の存在について、どのようなご解釈をなされますか。

管見では御座いますが、中国語には声調があって、一つの母音や、一つの複合母音に、或いは子音というのもあったかもしれませんが、四音と申しまして、一つの音に関して、四つの声調と軽声により、それぞれ意味が変わってきます。中国語を勉強された方なら、最初に聞かされる有名な話に、「ま」があります、四つの声調により、それぞれ、母・馬・叱る・麻(順不同)と意味が変わってきます。
「しん」と言う音も、声調によって、「心」「身」と文字で理解するのではなく音で意味を理解します。

ご質問者様の説からすれば、上記の、母・馬・叱る・麻(順不同)の間に、意味的関連が無いと、音素と意味の直接的結合に関しては、望みが薄いと、改めて申し上げる他ないようです。

乱文・乱筆、取り急ぎの書き込みゆえ、お許し願います。

投稿日時 - 2010-03-21 17:03:27

補足

 ご回答をありがとうございます。

 ★ (要約) 媽(母)・麻・馬・罵  これらはみな――声調を抜きにすれば―― / ma / として同じ音韻である。つまりそれなのに それぞれ声調をたがえるだけで 意味の違いを出している。これいかに?
 ○ すなわち 
 / nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (No.9お礼欄)
 のようにすべて《障害の除去ないし消滅》という共通の意味を表わしているとすればいいが 母と馬と麻と罵るとが どうして共通の相を持つと言えるか?
 ☆ という批判です。
 いくつか論点がありますが その傍らで基本的に言えることは 言語によってその音韻組織は互いにそれこそ恣意的に独自につくっている。このことをまづ言わねばなりません。

 (1) この四つの語に関しては 麻と罵とが問題であるかと思います。というのは 
 (1-1) 媽(母)は No.2の補足欄に触れたように 赤児が発音しやすい音――唇の音( p, b, m )――が世界中どこでも用いられるようだということ。
 (1-2) 中国語の馬は モンゴルないしチュルク系の morin でしたかの借用語ではないかと考えられます。
 (1-3) そしてこの事例のように 漢語は 一音節のみ(つまり morin の mo- )を採って語をつくるくせがあります。(倭の五王は 讃珍斉興武というふうにやはり――それぞれ長い名前の中の―― 一音を採用して つくっている)。
 (1-4) そして でも確かに 《麻(あるいは しびれるという意味もあるようです)》と《罵る・叱る》との共通性は むつかしい。とそのぶんでは 降参いたします。

 (2) いまたとえば監(カン)という漢字があります。ところがこれは 角川漢和中辞典(1959)によると カンの音は 見(ケン)の転音だと言います。監督の監ですから通じています。看護の看(カン)でもあります。
 (2-1) 見(ケン)は あらわれるの意の語源・顕(ケン)から来ていると言います。現(ゲン――いまは 日本語の読みで記しています――)も さすがに見を含むゆえに 音は似ていますし 意味も同類です。
 (2-2) そりゃあ 声調やくわしい発音がちがうにしても 同じような調音なのだから 意味に共通点を持ってもおかしくないと反論なさるでしょう。ただここで見たいと思ったのは 監をツクリに持つ漢字で カンではなく ランと読む場合があるという点です。
 (2-3) 濫(水が広がり乱れる)・覧(これは 意味も《見る》で共通)・藍(あい)・襤褸の襤(ぼろぎれ)などです。
 (2-4) 何が言いたいかと言いますと タイ語などとの比較をつうじて 漢語の元の言葉は 一音節ではなかった。あるいは 語頭の子音が一つではなく二つあったことが分かると聞きます。つまり いまの語例では 一音節の〔たとえばですが〕《 kan 》あるいは《 lan 》ではなく もともとは《 klan 》といった〔正確ではありませんが〕音だったと言います。つまり推定としては この k と L との間にさらに母音があったかとも考えられます。

 (3) ですからこれらの限りで 先に述べた《基本的に言えることは 言語によってその音韻組織は互いにそれこそ恣意的に独自につくっている》という認識は 大きく歴史的に変化して来ているという見方を捨て切ることが出来ないという意味にもなります。

 ここまでは弁明できるのではないかと思います。つまり音韻組織の作り方は それぞれ恣意的ですが その基礎としては・つまり材料としての音韻のあり方としては 音素と意義素とのつながりが原初的にあったのではないかという説の弁明です。

 (4) ★ 「心」「身」――☆これらは ピンインによれば / xin シン/ と / shen シェン/ とですから。とは言っても ならば現代語では / xin / =心・新・信・辛・尋なのだから これらはどう説明するのか? となるでしょうが たしかに早々と降参します。

 (5) 降参しても大きな顔をしてなお恣意性説の批判をおこなうその理由は たとえひとつの言語においてでも 恣意性を破る語例が有意に出てくれば それは恣意性説のほうが崩れることになると言えると思うからです。いまここでの批判――つまり日本語での反証例――を 例外として説明しうる場合にのみ まだ持ちこたえるでしょう。

 それにしても 恣意性説はほとんど根拠ないし論拠がないのですよ。ただ事実としてそうであろうと言うのみです。

投稿日時 - 2010-03-21 18:56:11

お礼

 漢語における《音素と意義素とのつながり》の当否を吟味してみました。
 ▲ (《トウ・ドウ》と読む漢字) ~~~~~~~~~~~~
 dong :東(ひがし)
 dong :東(賭けの意)
 dong :冬
 dong :手ヘンに董(さとる・わかる)
 dong :動
 dong :凍
 dong :洞
 tong :通(通す・通う・通信する・筋が通っている・全部を通す)
 tong :銅
 tong :童
 tong :同
 tong :桶
 tong :筒
 tong :手ヘンに甬(物の間から棒を突き出す・突っ込む)
 tong :統(全部)
 tong :痛
 tong :慟(つらく思う・かなしがっている〔国訓:なげく〕)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 子音の / t( d ) / は ものを不定のかたちで捉えたという不定相です。(中国語では 清音・濁音ではなく 息の音の有る無しの違いとして有気音と無気音とです)。
 日本語では to-ho-ru (通)/ toho-su / toho-si (遠い)は 不定のものとの間の道のりを言うかに思われます。
 よく使われる《同》が 基本的な意味を担うと思ったのですが どうもそうではないようです。漢和辞典には 《招く意の語源(祊(ほう))からきた音符・凡(ハン)》にかかわるとあります。
 どうも《通》がひとつの基軸になっているようです。
 1. 《通》の意味として《通じている》の意が共通:
    洞・桶・筒・手ヘンに甬
 2. 《通》の意味として《全部に通じる》の意が共通:
    統
 3. 《通》の意味として《話が通じる・分かる》の意として:
    手ヘンに董(さとる・わかる)

 ☆ 《動》などは よく分かりませんでした。そのほかも ひとまづあきらめました。
 でも 日本語で《ほら・をけ・つつ》というふうに違った音素を用いる語が 《通じている》の意義素を共有して しかも音素をも共通としているとは捉えられます。
 つまりこの両要素のつながり説は まんざら門前払いをくらうようなものでもないかも知れません。
 ただし音韻組織は それぞれの言語で独自の作り方をするものと考えられます。《 / nagi / =障害の消滅》というときその共通の意義素にかんして具体的に 《草木・波・心の動揺》に定めるのは 音韻以外の文脈や情況および話者としての人間の判断だと思われるからです。

投稿日時 - 2010-03-22 15:08:58

ANo.11

母音と子音についてですが、日本語は母音も子音も英語よりは種類は少ないと思います。そしてさらに言うと、子音を英語の様に際立たせて発音しません。唇、舌をそんなに使わずに平らに発音するのです。ですから、na ni nu ne no と「なにぬねの」は一見同じように見えて、全然違うのです。「na」の「n」のように「な」は子音は強調されておらず、「な」はきわめて平らな「な」です。

fa fi fu fe fo は「ふぁふぃふふぇふぉ」で、
ha hi fu he fo は 「はひふへほ」ですが、

ことさら息を強くはいて h や f を気にして発音しないのです。
これも、きわめて平らに発音するのです。

のどと歯と口のあけ方が「かつぜつ」の基礎であって、英語の様に、唇、舌をいろいろな使い方をしないのです。

ですから、「違い」から始めたらどうかと思ったのですが、「ダジャレ」の研究というなら話は別ですが。

投稿日時 - 2010-03-21 14:44:07

補足

 ううーん そうですね。――まづは ご回答をありがとうございます。――発音ないし調音の仕方が 日本語と英語とでは違うではないか? こういうご指摘でしょうか?

 そうですね。これは それほど問題にはならないと思います。
 ★ のどと歯と口のあけ方が「かつぜつ」の基礎であって、英語の様に、唇、舌をいろいろな使い方をしないのです。
 ☆ 音韻に関する基本はですね たとえばハァーッという息の音としてともかく――ともかくです ともかく――認められるなら その音を / h / として捉え 一応その規定にもとづいて 比較対照するのだと思います。両唇を閉じて 割り合い早く離せば / p / の音ですし 長くつけていれば / m / の音だとして認定されます。/ p / の音に 声をつけ加えると――そのとき耳を塞いでいると 無声音(清音)と有声音(濁音)の違いが分かります。有声音は 母音と同じように響きます――  / b / になります。
 つまり 調音の仕方に 強い・弱い 粗い・細かいなどの違いがあっても 同一種の音だと定義すれば その規定にしたがうことになります。
 たとえば / r / という音標で表わす音は 英語と仏語(≒独語)とでは まったく違います。後者では ハ行の音にさえ聞こえます。あるいは 西語の / r / は同じ種類でしょうが 英語のより巻き舌の度合いがきわめて強いようです。
 もしげんみつに表わそうというときには 発音記号として精確な表わし方をします。
 仏語や独語の / r / は 発音記号で [ R ]のようです。
 ▲ (ヰキぺ:発音記号)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%9F%B3%E5%A3%B0%E8%A8%98%E5%8F%B7
 [ R ]は 口蓋垂(のどちんこ)を震わせて出す音です。
 でもそこに共通性を見るというそのわけは たとえば 英 rice 仏 riz  独 Reis というように R でサンスクリットの同じ語( vrihi =米)を受けているからです。

 母音もその区別の仕方として 同じようです。アと発音するところを エア アエなどと訛っても  / a / という音韻としてまとめて表わしますし その規定にしたがって話をすすめます。つまりこれは 日本語の場合で 言語ごとにそれぞれの規則があるということになります。

 母音は きわめて気まぐれです。落ち着いたかたちにとどまるということがないと考えられます。
 No.3の補足欄に 《りんご * abel 》の言語別の表があります。
 http://www.eigo21.com/etc/kimagure/054.htm
 語頭の a- は比較的安定しているようですが やはり中には o や u に変わっています。

 ただし 日本語ではかなりの程度で 母音も安定したすがたを見せています。音節が基本的にすべて 一子音+一母音(つまり CV )という一拍の音から成っていて これも特徴的だと見られます。
 具体的には やはり基本として:
 ○ a :不定相ないし不定法(不定のかたちで提出しますという用法)
 ○ i :概念相ないし概念法(概念としての形で提出しますという)
 ○ oe (オとウとの中間の音):保留相ないし保留法(不定の形のままではないが 必ずしも決めない形で提出しますという)。

 ○ ma :目(ま);→ ma-i ⇒ me 目(め)
 ○ mi :見 (動詞の連用形だが 概念として用い得る)
 ○ moe :身(=も・む);蛻(身(も)‐抜け)・骸(身(む)‐くろ(≒殻))→ moe-i > mi ⇒ 身(み)

 ○ moe-ku > muku :身‐く( k が変化移行の相)⇒向く
  ・ muk-a- :向か-(未然形=不定相)
  ・ muk-i :向き(連用形=概念相)
  ・ muk-oe > muku- :向く‐(連体形=保留相)

 ☆ -a は 原初のかたちといった感じです。-i は 概念として定めたいときに用いるようです。-oe > -o または -u は 原初のではないが定めずに保留しておきたいときに用いる。

投稿日時 - 2010-03-21 17:05:26

まぁ、星はいくつかを結んで星座にし、それで方角を見るんで意味があるわけで、サイの角のように独りあるくっつう喩えは、(サイの角は、新品の毛筆みたいな構造になっているらしいです。)ひとつひとつの真実(毛)を無数に集めたのが、一なる真実(角)になってるていうね、たしか。。
まぁ、毛一本だけじゃどうにもならんかもしれませんが、それが無いっつうんじゃどうしょうもないし、微妙ですよ。エキセントリックな喩えです。


もうあれっすよ、僕ら基本的にねむたいんすよ。
プネウマが、白い魚が、老荘のタオが、って、なにがおもしろいんですか。
あるひとはね、言いますよ。
神を目指せと。
もうひとりはこうです。自然最高。
んでさらに脳天気は(俺ですよ)、いやぁ、素敵な友人だよ、なんつて。

もういいっすよ。まじで。どれも全部自分じゃないんですよ。

神なんて、いわばフィルムと映写機と、暗室じゃないすか。
自然ってなんですか。ハワイなんて、僕らのニキビと一緒ですよ。なにがスピリチュアルやねん。はしゃぐないって話です。
素敵な友人ってなに、わいわい友達いてるんがそんなええの。しあわせ風なそぶりしたって、だめだめ。現実のほうが大事よ。

とまぁこんな感じですよ。本音は。
 
よかったらですね、ヤクルトの悲しい思い出でも話しますよ。

むかしね、こんなことありませんでしたか。
ヤクルト、ちっさいやつ飲むのに、大事大事にちびちびやってたの。
あれがね、うまいんですよ。ちびちび飲むのが。
でもね、あれでしょ、ほんとは、少しづつ飲まないと、一瞬でなくなるから。ヤクルトは・・・
あぁ、。
だから、ちびちびやるんですよ。

たくさんあったら良いのにね。ヤクルト。

一個30¥だけど、なぜか残りの数を気にしてたよ。。なんでだろうね、ベルトコンベアで無数に市場に流されてるはずのヤクルトが、なぜか一日一本だけと言う制限。しかもヤクルト存在自体、たまにお目にかかる程度。意味が分からん。いじめだよ。
 

でね、大きくなるじゃないですか。500mlのピルクルを買いますよと。買えますよと。105¥。ごくごくのめるヤクルトの満足感、無かったですか?
あるはずですよ。
そういうもんなんですよ。
醍醐が溢れてる。
これが良いんです。

これがしあわせなんですよ。

星が一個じゃさびしいでしょ。無数にあるから良いんですよ。
大海原、さえぎるものが何もないんが良いんですよ。見晴らしが。果てしなくたっていくらでも進めますよ。横断できますよ。

領収書がなんのことか、今いちよう分からんのですが、がっつりタンカきりゃ良いんですよ。
 
俺はもう行くぜと。こんな眠たいことはやってらんねぇよ。って

領収書もつりもいらねぇよ。って


でもね、ピルクル飲んでも、満たされない何かがある。それは、どうしてあの時、ヤクルトを、わけわけできなかったんかなぁってことなんです。

わかるでしょ。
ほんとの醍醐は、なんでおいしいの?
 

投稿日時 - 2010-03-20 16:22:11

お礼

 でしたら まぁ ことばの遊びでもたのしんで行ってくださいな。

 よく取っかかりに出す語例です。
 ナ行のひと音とカ行(ガ行)のひと音との組み合わせは では どういう意義素の組合せになるか?
 / nVgV /という《形態素》になるわけですが その音韻の秘密はいかに? 
 ここで  / n / は否定相をにない  / k ( g ) / は 変化移行ないし過程の相です。否定で変化とは 《消滅》ということです。けっきょく実際の語例では 《障害の消滅ないし除去》という意味合いを帯びるのですが 《障害》という部分は 文脈だとか情況から付け足されてくる意味であり 音韻じたいにはないものです。ではどうぞ。

 (1) / nagi /なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ (切り払うべきもの・波風・
  心の動揺がそれぞれ順に障害ないし邪魔と見做され これを除去する・
  これが消滅する というシニフィエ(意味)となっている)

 (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれている。

  nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)
  naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)
  naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く) 
  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)

 (3) 《和ぎ nagi 》関連。母音の交替を加えて。

  nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)
  nago-mu   和む     (障害が消滅していく)
  nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)
  negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)
  nega-u   願う      (障害の消滅を希求)


 どうでしたか? シニフィアン(≒音素)とシニフィエ(≒意義素)とのあいだに必然的なつながりがありますよね? / nVgV / =《障害の除去ないし消滅》という相認識。

投稿日時 - 2010-03-20 23:11:50

ANo.8

「なにぬねの」についてですが、

「ねえねえ」「なあなあ」「にやにや」

全部ゆるゆるですよね。

「ネっっっッセサリー」「ネっっっバー」

って力まないんです。

「のっっっぴきならない」

なんていってみたところで、どうでしょう、本気でのっぴきならないって思っている感じ全然しませんよね。ちょっとさめた視点で言ってるんです。

「ん」だけは別ですけど、全てのひらがなはまるくてゆるやかで、やわらかいイメージなのです。
それだけだと何か締りが無いから漢字をいれて輪郭線を時にはくっきりだしたりするのですね。

ネーム、名前については確かに音が似ていますし、ネーミングという現象に対する決め打ちをするという行動は、もっとも根源的な人間社会生活においての規制(ルール)であり倫理の元だと思うのですね。それがないと、意思疎通は始まらない。

ネーミングという行動には、決め打ちという決断力と、それに直るという人間の素直さ、謙虚さという両方の、社会性においての必要な面があると思います。

ですが共通点というには、すくなすぎると思いませんか。
やはり英語独自の個性、日本語独自の個性という線でその違いを追求するという線でいったらどうかなと思うのですが、どうでしょう。

投稿日時 - 2010-03-20 14:28:01

補足

 はーとまいんどさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ やはり英語独自の個性、日本語独自の個性という線でその違いを追求するという線でいったらどうかなと思うのですが、どうでしょう。
 ☆ これは 個性および共通性の両方の側面があるとやはり考えます。共通性のほうが 基礎ではないかという仮説ではありますが。
 人の存在が片や独立性 片や関係性 これら二つの側面を同時に合わせ持ちつつ成り立っているというのと同じように おそらく音韻の使い方も それぞれの言語によって 個性や独自性を発揮しつつ しかもその基礎としては 音韻の普遍的な性質(つまり音素と意義素とのつながり)の上に展開されている。こう考えるものです。
 このご提案は つまり共通性があるところで(もしくは あると見えるところで) じつは違いがあるという場合を追求するということではないでしょうか? 個性どうしの比較対照でしょうか? それも一興ですね。もちろんかまいません。


 ★ ですが共通点というには、すくなすぎると思いませんか。
 ☆ そうなんです。世界の諸言語のあいだで比較対照したなら ただちに共通点の少なさに気づくはずです。というよりも むしろまさかいま出しているような例証に見る共通点なんか あるはずがないと誰しも思っていたと思います。
 いまやっていることは ひとつに広い意味でのおあそびです。もうひとつは No.7への返答で書いたように 言語記号の恣意性説に対する批判です。そしてこちらの側面では 有意な反証が中身を伴なって或る程度の数量において挙げられればよいと考えています。

 でも もし仮説にしがみついて弁護を成すとするならば こうです。
 《 n :自然推移の完了相←→ t :人為の動作の完了相》と区別する用法も いまの日本語では おこなわれなくなっています。夏は来ヌとは もう言いません。夏が来タです。区別をしません。
 英語でも 過去形も過去分詞形もどちらも t ( d ) だけで済ます場合もあるし あるいは それもそして n も使わずに 母音の変化というかたちだけによって示す場合( sing -- sang -- sung )もあります。
 さらに言うとすれば 英語は きわめて音韻の変化がいちじるしいものと見られます。つづりとして know と書くからまだその変遷が分かりますが 音韻だけとして捉えれば  / n / だけで成り立った語なのかなと思ってしまうでしょう。独語が kennen だから あぁなるほどということになります。
 日本語は割り合いに 変化が・つまり過去を消滅させてしまうほどの変化が少ないようで 例証が見つけやすいとも見られるようです。

 ★ ネーミングという行動には、決め打ちという決断力と、それに直るという人間の素直さ、謙虚さという両方の、社会性においての必要な面があると思います。
 ☆ これは たぶん――わたしの言葉で言いかえれば―― 言葉の使用にあたっては個人の個性が人それぞれにおいて 何となく曖昧なかたちで・それでいてそれこそ我がままに恣意的なかたちで 込められているという場合にも 語の意味としては共通性がありその普遍性の側面に対しては ひとは謙虚に従わねばならない。といったことではないかと思いますが いまこの質問で問うているのは こうです。
 つまりその普遍性についての――人は意識していないところでの――根拠のようなものが 音韻にあるのではないか。これでした。

 ★ 「ねえねえ」「なあなあ」「にやにや」
 ☆ この場合  / n / =同定相が当てはまります。
 ○ 文末の ナ・ナア;ネ・ネエ;ノ・ノオ:念押し法と呼びます。
 その文の意味内容について 同定しようとしています。相手に対して 疑問形で言う場合もありますが いづれにしても わたし(=話し手)はそう思うからその思いをさらに同定させているが どうですか?と訊いています。疑問形になるのは 音韻によるのではなく 語気から来るのではないでしょうか。
 あるいはまたこの念押し法は 感嘆法にもなります。むしろ先に感嘆の用法があったのでしょう。つまりは 文の意味内容について なるほど!という思いで同定しているのですし その思いをなお引きずっていると言おうとしているのでしょう。そうだよナアといえば 感嘆法であり そうですよネ?となれば念押し法としての疑問法ということですよね。
 ★ 全部ゆるゆるですよね。
 ☆ とおっしゃるのは だいたい語気の問題だと思うのです。つぎに出てくる英語の言葉も。

投稿日時 - 2010-03-20 20:21:39

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 「ん」だけは別ですけど、全てのひらがなはまるくてゆるやかで、やわらかいイメージなのです。

 それだけだと何か締りが無いから漢字をいれて輪郭線を時にはくっきりだしたりするのですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 文字論ですね。わたしからは広げないでおきます。(といってもほとんど考えたことはないです)。
 回答者の方々から寄せられたところに従って みなさんでお遊びを展開して行こうかという方向とします。

 なかなか 盛りだくさんですね。

投稿日時 - 2010-03-20 20:23:42

ANo.7

言語学を持ち出すのですか?(NO.4)

それなら、既に結論は出ています。典型的なトンデモ科学です。
トンデモ科学の事例として同じことが記載されているというオマケつきです。
(日本語の「名前」「買う」とドイツ語の「ナーメ」「カウフェン」というのが例にあげられている。)
統計的にデータ不足なのに結論を出しているから、学問の世界では
明らかな間違いであり、トンデモ科学です。

参考HP Wikipediaの「偽言語比較論」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%BD%E8%A8%80%E8%AA%9E%E6%AF%94%E8%BC%83%E8%AB%96

NO.4
>今回は どんなマジックをお見せしましょうか。
>  / r / :自然想定相・自然生成相(自発相)

すごすぎる.....トンデモ科学をはるかに凌駕......
日本語にrの発音は無く、Lのはずです。
RとLを同じとしてしまうと、
rice(コメ)とlice(しらみの複数形)が同じとなってしまいます。

投稿日時 - 2010-03-20 10:01:11

補足

 まささん わたしの魔術の行き過ぎに対しては いつもちゃんとブレーキをかけてくれるのですね。――お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 反論もありますのでひとつひとつきちんとお応えしてまいります。

 ★ 言語学を持ち出すのですか?(NO.4)
 ☆ これはですね。ひとえに《言語記号の恣意性》説――ひいては 構造=関係〔のみ〕主義の含みとしての《無主体》説―― これに対するアンチテーゼを提出するためのものです。(そこから深みにハマった感がありはしますが)。

 ▲ (ヰキぺ:シニフィアンとシニフィエ) ~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A3%E3%82%A8
 シニフィアンとシニフィエの関係は、その関係に必然性はない。(記号の恣意性)

 例で言えば、「海」そのものを「海」と書き、「う・み」と発音する必然性はどこにもない。もしそれがあったとしたら、あらゆる言語で海は「う・み」と発音されているはずである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ただし わたしの論法は 音素(特に子音)と意義素との関係に焦点を当てています。《必然性がある》というかたちで反証しています。
 音素の組合せとしての《 umi 》と意味としての《うみ(海)》とのあいだに必然的なつながりがあるかどうか これはいま証明できません。しかも上の指摘は 《あらゆる言語》における証明(つまり 恣意性説に対する反証)を要求しているようですが これもいま無理です。
 でもこうも考えてください。恣意性が経験事象として事実であるなら 個々の言語においても その恣意性を破る事例は――擬音語などの例外を除いて――無いということでなければなりません。
 つまり わたしのいま提出しているような反証としての事例が 有意において 見つかったのではすべてはおじゃんになるということではないですか?

 ですから いまは まささんは わたしのアンチテーゼの語例が有意であるかどうかを判定してください。

 ★(短縮) トンデモ科学の事例:日本語の「名前」「買う」とドイツ語の「ナーメ」「カウフェン」
 ☆ ひとつに上に触れましたが 《音素(子音)と意義素とのつながり》をわたしは言っています。《名前》の中の子音 / n / とそれが帯びると仮説する意義素(つまり =同定相および否定相)との間に 必然的なつながりがある これです。

 音素 / k ( g ) / については 適宜触れたいと思います。いえ いま簡略に説明しましょう。ハアーッというときの息の音 / h / が呼吸として自然であり 従って《順出・順定相》を帯びる(例:何々ハというハ格=中心主題提示詞)のに対して 子音 / k ( g ) / は この息の流れを喉の奥のほうで切断します。ゆえに《反出・反定相》です。
 これは 《思考の相(ガ格=第二主題提示)・疑問の相(カ?という疑問詞)あるいは変化・移行》といった相をも派生させます。
 ここから――もはや短絡しますが―― 相手との対峙あるいは交換のすがたを呼び起こすでしょう。ゆえに ka-hu 交ふ・替ふ・買ふ・支ふが来ます。この場合の hu (⇒経る)は 順出相から派生した反復習慣の相です。

 ★ すごすぎる.....トンデモ科学をはるかに凌駕......
 ☆ でしょう? たまげましたか?

 ★ 日本語にrの発音は無く、Lのはずです。
 ☆ これはおっしゃるとおりです。L も弱いかたちの L でしょうが。韓国語では 語末で鮮やかな L になります。
 ただし ふつう日本語のラ行の子音を表わすのには R でおこないます。それに従ったまでです。

 ★ RとLを同じとしてしまうと、rice(コメ)とlice(しらみの複数形)が同じとなってしまいます。
 ☆ 少しだけですが 例外もありますよ。英語 title ←→ 仏語 titre 。仏語 arbre (木)←→西語 arbol。ラテン語 sol (太陽)←→サンスクリット surya 。こんがらがっているぢゃありませんか。

 まささん 厳重に注意して行ってください。ソシュールの仮説のほうが トンデモ科学であったということかも知れないぢゃないですか。どうでしょう?


 ★☆  / r / :自然想定相・自然生成相(自発相)
 ☆ 例示します。
  ha ハ:中心の主題としてそれが表わすもの・こと
  ka カ:思考や疑問にのぼせたもの。また経過や過程としてとらえる。
 〔ka - re :彼れ; kare - ra :彼れら(自然想定から親愛の相を帯びる。もともとは 複数といった規定ではないと考えられる)〕

  → ha - ka ハカ:捗(はかど)る・ハカが行くのハカ
  → haka - ru :測る・計る・図る
  → hakara - hu :計らふ

投稿日時 - 2010-03-20 11:19:27

お礼

 ご投稿をありがとうございます。補足欄にてお応えします。

投稿日時 - 2010-03-20 11:36:20

つまるところ、焦点は、真実の人生を生きられるのか、と言うところであると思います。
真実に、人生を送ることができるのか、でもいいですが、

精神世界が現象世界より静まっているのは本当だと思います。
精神世界が深まれば、ひとまず落ち着ける世界も構築できるでしょう。
しかしながら私はどうしてもこのように思うのです。
これらの無色界は、真実の人生ではないと。
では、欲界が、あるいは色界がそうなのか、そんなわけがない。
欲界を精錬して色界に、色界を極めて無色界なのであるから、それは喩えば牛乳から清を摂って醍醐を得るようなものです。
ですが、そうでは最高じゃないんだと思うのです。


本物は違うんです。
どう違うのかと言うと、本物は、何も足さない、何も引かない、それでいて温かく、爽やかで、居心地がよく、不安が無く、争いが無く、誰とでも打ち解けて、やさしい光(面持ち、振る舞い、ことば、・・・)でいる、そういう人生なんです。

いわば、牛乳を飲んで、醍醐までの味を弁別して、しかもそれらのどれにもかたよりを持つことなく、後味すっきりに修める味わいさん、ぐるめっちが、よい、最高の人生だと思うんです。

いいでしょう、かんがえただけで。
プネウマが、醍醐が、みたいなことをいっていると、なんかもったいなくないですか。
もっとこう、おおらかでいいんですよ。

きっと。

投稿日時 - 2010-03-20 04:46:52

お礼

 てるてるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ずばり申し上げます。
 ――むろんわたしの考えですが―― ひとはだんだんと分かって行く納得にはまだ満足できないのだと思います。

 あるいはあたりが暗い世界の中にひとり輝く星を見つめて歩め・時には走れと言われても それほど面白くないのです。

 犀の角のようにひとりわが心の真実のもとに行くのでしょうが そしてその主観にあってはむしろ常にそうあるのかも知れないのですが ひとはいわゆる対話を欠かすことはないとも思います。
 もしそのような社会的交通という観点から行くならば 人生は足し算引き算掛け算割り算 これらはざらにあるとさえ考えられて来ます。

 広く深い海 って言ったぢゃないですか。その面では風も吹けば波も立つでしょうよ。
 この海が 本物なんだと思いますが これとて 霊としてのプネウマではないですよ。仮りの名です。プネウマもそうです。すべては仮りの仮りの仮りの・・・仮りの言葉。代理表現です。
 ですから 《なぞ》ですが このなぞというのも 代理表現です。

 ここで初めの思索に戻ります。徐々になぞの真理に近づくというのでは 面白くないですし満足しません。
 一気に!? 一挙に!?
 これを なお代理表現で言えば 《賭け》です。《経験思考を超えた信じる》とは 賭けの要素がつよいようです。でもやはり 仮りに説明したものですが。
 道元が言ってたぢゃあないですか。あちらからつまり万物のほうからこちらへすすんでやってくるっていうぢゃないですか。やって来たときに 領収証を書いて受け取ればいいのではないですか?
 醍醐は醍醐でうまいでしょうけれど。

 ね。
 

投稿日時 - 2010-03-20 10:15:03

ほんとのことばを話すか話さないかは、(勿論話した方がしあわせだろうけれど)それぞれの事だから、あんまり言えることが無いんだけれど、ことばってのは本来裏表が無いもんだから、否定とか肯定とかには、あんまり重要な意味はないんだとおもいます。

例えば、友人同士で喧嘩なんかしたとします。
「てめぇ、こっちくんな、もう二度とあそばねー」
的なことを言ったとしても、それは、「てやんでぇなにくそ、つまらねぇこと言いやがって云々、ほんとは○○してほしかったのに、ちくしょー!」的な心の叫びが封入された台詞なんだと思います。

つまり、もうこっちくんな、と言うところのほんとの意味は、こっちに来てちゃんと○○してくれぇ、ということなんです。

つまりことばって言うのは字面、音面じゃないとおもうんですよ。

・n(ん)発声しない発話について
んと言うのは、発声しない発話であると思います。沈黙によって意思表示することはよくあると思います。
またまた友達の喧嘩のたとえなんですが、喧嘩して黙っちゃった友人がいたとします。
「・・・・。」
こんなときは、しまった、泣かしたかも知んない、とオロオロしたりしてしまいますが、この沈黙には、
「なんやねん、何で俺の事ほっといとるねん、あーあ、俺って居なくてもええんかいなぁ・・」
見たいな本音があるわけです。

ここで、沈黙に気がつかなかったり、分かってて無視したりすることは、つめたいことであったり、意地悪なことであったりするでしょう。
そういうわけで、発声しない気持ちについてはしっかり拾わなきゃいけないと思います。心からの友人ならば。

・映画館のたとえ
エアコンの効いた、暗い映画館で、光の明滅を見つめていると、そのうち眠たくなってくる。
プネウマに誘われ、深淵に及び、光輝を見つめていれば、そのうち静けさがやってくる。

アクション映画でも恋愛映画でも、大河ロマンでも、コメディでも、ホラーでも、アニメでも、ジャンルを問わず、映画館で静かに眠る人には何の影響も及ばないように、この世の如何なる造作も、全き静けさを味わう人には及ばない。

名作映画には人生の深い味わいが封入されているように、善なる世界には人生の真実に近しいものが存在する。しかし、世紀の名作と言えども、それはやはり、自分の人生ではないように、たとえ善なる世界であっても、それは自分自身の真実ではないのであると知って、こころある人は善性に安堵し落ち着きを据え置かない。
映画の内容がたとえドンちゃん騒ぎであっても、映画館では騒がずに鑑賞することがマナーであるように、人生では、静けさを身に着けた人は自他を損なわない。
映画館が観客を拘束できないように、世は人を拘束しない。健き人は真実の人生を求めて夢に取り込まれない。

目の前の大道を人は歩いて、真の目的を目指すべきです。

投稿日時 - 2010-03-20 00:19:06

補足

 てるてるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 わたしの書いたところからですが:
 ☆☆ (No.3補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 残念ながら 人間の心は移りゆくものであり 神ではないからです。

 名も仮りのものであり 言葉も仮りのものなのでしょう。どうでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このあたりの内容に反応していただいたように思います。

 ★ 目の前の大道を人は歩いて、真の目的を目指すべきです。
 ☆ この一文だけを取り上げても 議論を継ぐことが出来るかと思います。そして一気に《信じる》の要素を――出来るだけ哲学としてですが――持ち出しますと こうなるかと考えます。すなわち
 ○ 神は 立派な人でもなくその心でもなく あるいは理念でもなく精神でもないとすれば ではどこに・どう捉えて われわれはわれわれ人間にとっての《真の目的を目指す》のがよいのか?
 ○ 思考を超え経験世界を超えているところの《表象し得ぬもの》 としての神 ではこの神は どこにいると言うべきか?
 ○ それが 周りまわって《いま歩いてる目の前の大道》に 《不在のものの現在(臨在)》としてある。という答えなのだと思います。

 つまり《なぞ》がなぞとして 《わたし》の目の前に・あるいはわたしの中に 有る。《非在のものが現在している》。
 《プネウマ》をもし《霊》として採ってよいとすれば 《なぞ》は この《霊》です。

 事実として知覚したり認識したり・ゆえに思考したりするものではなく あるいは心の真実として思い抱いたりするものでもなく そうではなく 経験世界には非在である。しかも いま・ここなる《わたし》に――なぞとして――現在している。
 ブディズムでは 仏性と言うでしょうが 一般に《信仰》としては これが 仮りの名として《かみ》です。と分析しています。

 全き静けさの中においても 全き喧噪の中にあっても すでに非在であって しかも《わたし》においては 現在している。
 わたしは あやまちうる。自他を損ない得ます。しかもわたしの中に現在する何ものかは この損傷をすぐさま癒してくれます。わがこころはその根元からやわらがしめられます。これが 霊――聖霊――です。光の明るさあるいはあたたかさのことです。

 微妙に違いを現わそうとして書きました。どうでしょう?

投稿日時 - 2010-03-20 00:50:28

ANo.4

こんにちは。適当人間なので適当路線でかんがえてみると。

日本の書き言葉は、もともとは「うた」の要素が強く、耳でここちよく聞かせるために、リズム感や韻を踏むことやかけ言葉(つまりダジャレですね)などが結構、重視されてきました。ですから、インスピレーションが大事なわけですから、あながち、音から考えるということも否定できないのかなと。どうなんでしょうね。

投稿日時 - 2010-03-19 14:02:19

補足

 こんにちは ハートマインドさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ インスピレーションが大事なわけですから、あながち、音から考えるということも否定できないのかなと。どうなんでしょうね。
 ☆ あぁ またもや ブラジュロンヌの魔術にかかってしまったようですね。
 ま でもこれは ひとつのまともな言語学の――ひいては哲学思想の――課題だと思います。

 そうですね。今回は どんなマジックをお見せしましょうか。
 ☆☆ (No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ○ na 名 → na-su 名‐す⇒成す / na-ru 名‐る⇒成る
  ○  / s / :指定相・肯定相 // 再言・起動・人為・使役相
  ○  / r / :自然想定相・自然生成相(自発相)
 ☆☆ (No.2補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
  ○ / t / :不定・隔定相 // 一回性・放出・完了の相
  ☆ を表わすと仮説されます。いわゆる濁音――この場合  / d / ――は 同じ相を表わし 言うなれば清音のその相に継続相を帯びさせるかと見ます。
  ○ ta / ta - re :誰・誰れ(《不定》としては 確定している)
   ta - ri (現代語の ta タ):タリ(補充用言=いわゆる助動詞――
    完了相を表わす――) (←完了の助動詞《ツ》)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここから n も t も 共に完了相を表わし そのとき n は 自然の推移としての完了であり t は人為的な完了であるという使い分けがあるということ――これは すでに日本語については定説です―― これが 英語とも関連しているのではないかという仮説をご披露します。
 日本文においては:
  n: 夏は来ヌ。(自然現象のごとくに《成る》意味合いでの完了相)
  t: これこれを成しツ。(または 成しタり。)(人為的な動作の完了相)

 ☆ という区分があったようです。( n がなぜ 完了相を表わすか。おそらく 来るという行為(現象)が その時その場で達成されつつ 否定される・つまりそれが消滅した一瞬を言っているのではないか。もしくは その瞬間にあたらしい事態が現われそれが同定されたか。ゆえに 完了の相)。

 ところが 英語でも
 ○ go --- went --- gone
 ○ do --- did ---- done
 ☆ というふうに完了の相を表わすではないですか!? いわゆる過去形に添加した子音―― - t, d - ――に注目してください。そして過去分詞には われらが同定相=かつ否定相の子音 n がまさしく鎮座ましますではありませんか!?
 ま ただし 自然推移( n )と人為( t )との区別がしっかりとしているというわけには行かないのでしょうね。

 一般的な人為と自然推移との区別は 

   / s / :指定相・肯定相 // 再言・起動・人為・使役相
   / r / :自然想定相・自然生成相(自発相)

 によっていますが 完了という局面では これら二つの子音が担っていると見られるかもしません。

  / t / :不定・隔定相 ⇒
    ⇒ 一回性・放出・〔人為的な動作の〕完了の相
  / n / :同定・否定相 ⇒
    ⇒  属性相(属格のノ);自然推移としての完了相≒消滅相
      (あるいは 新事態の確認相)


 どうぢゃろう?

投稿日時 - 2010-03-19 18:29:51

・音韻と意味の生じるシチュエーションについて
n(ん)という音の形を見やすいのは、赤ちゃんが食べ物を食べてさせてもらっているときに、腹いっぱいになったら出すサインなどにあるかと思います。
「ん~ん」と口を結んで首を横にすれば、それは、もうお腹一杯の意味です。
一方、「na(んあ)」と口を開いて食べようとすれば、それは、ウェルカムベイベー、はーい、食べます的なサインであると思います。

・前回の回答の補足
前回答の最後の文は、大仰な表現(大いなる地平とか大空とか)で、自分でもちょっとダメだよねなんて思ってたんですが、最後の文は要するに、人間は自由なんだから、横道逸れずに真っ直ぐ歩けば良いだけ、という事を言いたかったんです。

・名前はとりあえずのものであるということについて
名前が仮のものであると言うのは、たとえば、
恋人ができたときに、名前に惚れた、なんてことがないような事からでも頷けると思います。

さらに恋は、容姿、性格、出会いという条件がそろえばよいものでもなく、いわば恋の季節によって、それが導かれ、恋に落ちるのであって、意図的に惚れたり惚れなかったりと言うことはできません。
または、恋の火花的何かによって、突然に恋に落ちたりということも在るでしょうが、いずれにせよ、外面的なこと、名前や形状、形式に基づくことで恋に落ちるわけではありません。恋に落ちた人達にとっては、恋は不可避のものとして映ると思います。

・固有名詞、一般名詞、ハンドルネームについて
気分で名前をころころ変えるのも紛らわしいことですが、かといって固定ハンドルにこだわるほどのものでもありません。名前、変えました、ぐらい言えればそれでよいのではないでしょうか。

固有名詞は外国でも変わりませんが、りんごなどの一般名詞は、それぞれの共通語に置き換えて、たとえば、appleだとかいう風に代わるのでしょう。それは、名示が、互いの合意の下に行われたきっかけのようなものであるからだと思います。

投稿日時 - 2010-03-19 13:06:06

補足

 teruteru_3 さん ご回答をありがとうございます。
 むかし少し採った杵柄で ぼちぼちたのしんでまいりましょう。

 まづ忘れないうちに次の事項を書きます。
 ★ リンゴ
 ☆ の語源について検索しました。
 ▲ ぶらりボキャブラ散歩 ~~~~~~~~~
 http://www.eigo21.com/etc/kimagure/054.htm
 
 推定した原形 * abel
 英語      apple
 ドイツ語    Apfel
 ロシア語    yabloko
 ポーランド語  jablko
 イタリア語   --mela, 〔 pomo 〕
 ギリシャ語   --mi'lon
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ けっきょくこの《 abel 》系だけではなくほかにもあるのですが この系統をちょっとまとめておこうと思いました。(この系統の中でとしても イタリア語には 別の系譜の語―― pomo ――があります)。
 つまりイタリア・ギリシャは 語頭の a- を落として しかも中ほどの子音 - b - を - m - に変えている。というものです。(日本語例:さびしい ∽ さみしい)。
 ロシア語などに -ko がついているのは まさに日本語で リンゴッコと言うかのように 親愛称ないし指小辞としてついたものです。
 ちなみに メロンは これと同じ語源であるようです。(《果実》といった意味なんでしょう)。
 つぎもおまけです。
 ◆ 林檎の語源:http://gogen-allguide.com/ri/ringo.html

 ★ ・音韻と意味の生じるシチュエーションについて
 ☆ 《ラテン語 mamma :胸;乳房;ママ(幼児語)》におそらく典型的に現われていると思われるように まさしく
 ★ n(ん) / 「ん~ん」 / 「na(んあ)」
 ☆ と同じように声(音?)を出しやすい《んまんま》などの m の系統のことをも言ってもらっているのだと思いますが どうでしょう? (というのも n よりもさらに発音しやすいはずです。上下の唇を閉じたり開いたりしていればいいのですから)。


 ★ 前回答の最後の文は、大仰な表現(大いなる地平とか大空とか)で、うんぬん
 ☆ そんなことないですよ。広く深い海というのもそうですが 文学的に片寄っていると言われりゃ 哲学としては仕方がありませんが。

 ★ ・名前はとりあえずのものであるということについて
 ☆ これはなかなか大きな主題だとわたしも思います。
 わたしの説明の仕方をいきなり出してみますが たとえば神を信じるというとき わたしたちは 《神》という言葉あるいはその文字あるいはその発音を信じるわけではありません。しかも 注意が必要だと思われることには 神という概念やましてやその想像世界を信じるのでもありません。《精神 あるいは 理念》 これを信じるのでもありません。それらは 《考える》のです。思考力ないし想像力の及ぶところのものについては 信じるという言葉を使いません。(使うときは 単に強調するためだけです)。
 ★ 恋に落ちた人達にとっては、恋は不可避のものとして映ると思います。
 ☆ これも 煮詰めて言えば《経験合理性にもとづいて思考すべき経験世界》のことなのでしょうが あるいはそこに《考える》を超えた要因もしくは領域があるというのかも知れません。そしてそのとき《信じる》ものがあるともし言うとしたら 互いに自分や相手の 人間としての存在ではないということになります。きわめてげんみつに言えば ひとの心でさえないと見るべきでしょう。《信じる》の対象は です。
 残念ながら 人間の心は移りゆくものであり 神ではないからです。


 名も仮りのものであり 言葉も仮りのものなのでしょう。どうでしょう?

投稿日時 - 2010-03-19 17:53:58

nという音素は、発声しやすく、そのことがあって多くの言葉に用いられているのではないでしょうか。

名前というのは、仮の呼び名であって、それそのものとは異なります。
それは、名前によって人間関係が築かれるのではないようなものです。
名前を信じることが無いように、人はそのことばや振る舞いを見て、彼が何者であるかを知ります。
友人は友人の、恋人は恋人の振る舞いをなし、相応しいことばを発するでしょう。
 
人はことばの形ではなく、それに宿ったものを受け取るので人と呼ばれます。
ある振る舞いを見て、その実態ではなくそのこころをさとって信を立てます。

そもそも人のこころは自由なのであるから、誰に阻まれること無く、大いなる地平と大空の如き心の世界を身に住まわせて、他なる世界(=人)と出会って、真実の交友を真実に為せば善いのであると思います。

投稿日時 - 2010-03-19 02:17:30

補足

 teruteru_3 さん ご回答をありがとうございます。

 ★ 名前というのは、仮の呼び名であって、それそのものとは異なります。
 ☆ この出発点から 道がふたつに分かれます。teruteru_3 さんには 哲学カテにふさわしい展開をしていただきましたので わたしは 少々言葉のほうでお茶を濁します。

 ★ 人はことばの形ではなく、それに宿ったものを受け取るので人と呼ばれます。
 ☆ ここも出発点であるかも知れません。そこからの結びをも引用して掲げておきます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そもそも人のこころは自由なのであるから、誰に阻まれること無く、大いなる地平と大空の如き心の世界を身に住まわせて、他なる世界(=人)と出会って、真実の交友を真実に為せば善いのであると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 大海のようなこころにも触れておいていただければもうまったく文句がありません。

 さて出発点からの踏み出しですが――神秘思想にまでは入らないようにしますが―― ひとの発声としての自然にかかわると思われる音素には音素の意義があるのかも知れません。
 ★ n という音素は、発声しやすく、そのことがあって多くの言葉に用いられているのではないでしょうか。
 ☆ たぶん / n / よりも 唇の音のほうが 発声の自然に近いかも知れません。原初の発声は 息の音 / h / であるかと思います。
 この息の音に少々嗜好をこらします。そしてまづは 唇を用いての音です。/ m ・ p ・ b / ではないでしょうか。ママは 母親を表わしますし 日本語では マンマは 飯のことです。赤児にとって日常で身近なものを表わすようになったかと言われていると思います。
 日本語の母親は パパだったようです。そこから ファファ / FaFa / ⇒ハハ(もしくは 川:カハ⇒カワのごとく ハワという発音もあったようです)と変わりました。
 たぶん / m / :認定相 ではないかと考えます。
 ○ ma :真・間・目・まぁ・まぁまぁ
 ☆ ちなみに 母音は見方を少し変えるために役立つものではないかと思います。
 ○ ma :目(ま)( ma - he :目‐辺⇒前)
   ma - i ⇒ me :目(め)
   mi - ru :見る
   mo - ru (のち  ma - mo -ru ):守(も)る(目‐守る⇒守る)

 ☆ / n / ですが これが同定の相を表わすというのも 理由がないわけではありません。
 これの発音には もう / m / のように唇は用いることはしません。舌の先を上の歯茎のあたりに添えて出します。同じように舌を使って出す音には / t / があります。ところが こちらのほうは舌先が歯茎に当たる度合いが少ないかたちです。すぐに舌先を引き離します。
 それにくらべて / n / は歯茎への当たりが時間的に長い。濃い。つまりはその粘っこさで 《対象の同定》という相を表わそうとしている。自然のかたちが そういう意義を持つ。かに見える。そう仮説される。
 ちなみに / t / は 舌先の引き離し方が素早いので
 ○ / t / :不定・隔定相 // 一回性・放出・完了の相
 ☆ を表わすと仮説されます。いわゆる濁音――この場合  / d / ――は 同じ相を表わし 言うなれば清音のその相に継続相を帯びさせるかと見ます。
 ○ ta / ta - re :誰・誰れ(《不定》としては 確定している)
   ta - ri (現代語の ta タ):タリ(補充用言=いわゆる助動詞――
    完了相を表わす――)

 音の心かと言われれば心もとないかぎりですが 自然の音に何の意義もないと言われると ちょっと待てよと言いたくなった結果 見出したものです。
 人間の社会的交通のご議論にそうっとしのばせておいてもらえたならと思っております。ただし 日本語ではたぶんだいじょうぶだと思いますが 世界の言語のあいだではどうであるか じつはほとんど手をつけていないというのが 実情です。そのためにも質問に挙げました。
 さあ どう展開するでしょうか?

投稿日時 - 2010-03-19 11:22:38

お礼

 ご回答をありがとうございます。補足欄にてお応えいたします。

投稿日時 - 2010-03-19 11:25:34

ANo.1

「さもありなん」などは否定ではありませんが、強いニュアンスを入れようという気持ちが入っていますが。
しかし、否定とはもともとは「だめ!!」っていう強い気持ちを言い表したいことが始まりかとも考えられますが。

しかし、これはダジャレの域をでられるのでしょうか。

ようろうのたきよろうね
どうだんつつじどうだん
のあのはこぶねはこぶね

とどう違うのうだろう。しかし、デーブスペクターさんの空気の読まない空気感は個人的には好きですが。
すいません、適当に言っちゃって。

投稿日時 - 2010-03-18 18:55:19

お礼

 はーとまいんどさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ しかし、これはダジャレの域をでられるのでしょうか。
 ☆ じつは この規約からいけばいけないのでしょうが わたしも方向性を決めないかたちの質疑応答をしてみようかと思い立ったのが これです。雑談風というところです。

 まぁ でもぜんぶを適当に済ますわけにはいかないでしょうから お応えいたします。
 ★ しかし、否定とはもともとは「だめ!!」っていう強い気持ちを言い表したいことが始まりかとも考えられますが。
 ☆ あぁ それは 否定命令ですね。つまり 禁止という判断ないし意思表示のことだと思います。
 つまり A に対して 非 A というふつうの否定もあるとは見なければならないでしょう。

 ★ ようろうのたきよろうね
 ☆ 養老は 全国区だったんですか!? 地元に近いところですが 滝の水が酒になったという聖書もまっつぁおな奇跡ですね。孝行息子の話でしたね。

 ★ どうだんつつじ=灯台躑躅
 ☆ 花は白いんですね。(ほかにもあるらしい)。しかも紅葉するとも書いています。最後の部分の《どうだん》は ちとくるしい。

 ★ のあのはこぶねはこぶね
 ☆ おもしろい。だけど 《小船》ではないのが 玉にきず。

 ★ 「さもありなん」などは否定ではありませんが、強いニュアンスを入れようという気持ちが入っていますが。
 ☆ これから哲学が始まるかに思えるにおいがしますが ちと情況が考えづらいかなぁ。

 そういえば 仮説として次の語例も出しておきましょう。
 ○ na 名 → na-su 名‐す⇒成す / na-ru 名‐る⇒成る
 ○  / s / :指定相・肯定相 // 再言・起動・人為・使役相
 ○  / r / :自然想定相・自然生成相(自発相)

 適当にご投稿ください。

投稿日時 - 2010-03-18 21:54:43

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