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解決済みの質問

なぜ情欲を劣情とするのか?

なぜ情欲を劣情とするのか?

 人間の《情欲》をかつてクリスチアニズムは 何故かくも貶めたのか?
 たとえばつぎのようにです。そこでの《魂》は 単純に広く《感性》のことだと思います。
 ▲ (アウグスティヌス:情欲論) ~~~~~~~~~
 魂なしには肉の情欲は存在しないから 確かに情欲を起こすことは 生きており感覚している本性の性質である。だから去勢された男でも情欲が欠けていないで 貞潔がそれを抑制しなければならない。
 情欲を駆り立てる燃料が見出されない場合には 性欲が貞潔に逆らって刺激することがいっそう少ないから 苦労もいっそう少ない。しかるに性交の試みが たとえ〔去勢されているがゆえに〕それができなくとも カリゴヌスの恥ずべき行為に至らないように 慎み深さによって抑えられている。彼はワ゛レンティアヌス皇帝の息子の宦官であり 娼婦の告白により醜行の責任を負わされて 復讐の剣によって罰せられたと言われている。肉の実行はなかったとしても 〔情欲が〕肉的な情欲の渇望によって引き起こされなかったとしたら 集会の書ではそこから比喩がつけ加えられて

   彼は目で見て 嘆息し 宦官のように処女を抱きしめ 
  かつ悲嘆している。 (シラの書(集会)30:20)

 と語られはしなかったであろう。
 (『ユリアヌス駁論』6:14 金子晴勇訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 問題(問い)は 二つないし三つあると思います。
 ひとつには まづわたし個人の答えですが これも単純に《なぞの何ものかへの畏れ》の問題だと思われること。その畏れをないがしろにするなかれということ。そのためであり その意味であって 情欲じたいを取り上げるのではないであろう。あるいは情欲をおとしめること自体を意図していないのではないか。

 いまひとつには この文章を書いた人じしんが つぎのようにも書いていること。少々クリスチアニズムの特殊な領域にも入りますが。
 ▲ (同上 1・5) ~~~~~~~~~
 かの全能者は 最初の人(アダムとエワ)からであれ その後に加えられたわたしたちの意志からであれ わたしたちに起こっている悪をその満ちあふれる恩恵によって滅ぼしている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 いづれの問題点についても これらのことが どうして人間の思惟やその観念として また観念の世界においてこそ唱えられ抱かれ頻々と説かれ やがてはそのような共同の幻想となってしまったのか。これが 三つ目の問いです。
 言いかえると 前の二つの問題点は――それらについても 解説や批判を募っているのですが―― いづれも非思考として成り立っていると思われます。しかるに そのことがどうして想像力の問題あるいは知識の問題に成り下がってしまったのか? こういう問いです。
 情欲論には 落とし穴があるのでしょうか? どういう落とし穴(あるいは つまづきの石)でしょうか?
 さらにあるいは ひとは――もしそうだとしたら――なぜ情欲から離れなければならないのでしょう?

投稿日時 - 2010-05-26 11:30:55

QNo.5922822

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

人類が生物として生きる上での基本的欲求(三大欲求)は、
食欲、睡眠、性欲ですが、この内、前2者が個体を維持する
ためのものであるのに対し、性欲だけが体力を使い、あまつさえ
タンパク質まで放出する、消耗する欲求なので、性欲は強い
誘引効果があります。
人は、セックスで楽しむから、異性交遊は利己的な行為だと
思っていますが、実は利他的=種の維持なのです。

ただ、「強い誘引効果=快感を伴う」であるがゆえに、
そうした本能的バランスから外れ、意識的行動が優位になり
始めると、「種の意地」から外れて、避妊した上で快楽のみを
楽しみ始めたので、「消耗」はするわ、「種の維持」には
貢献しないわ、何のメリットもない(個体の快楽以外は)もの
になり始めたのです。
ゆえに服を着せたり、ワイセツだの劣情だのと、遠ざける
必要が出てきた、ていう。

投稿日時 - 2010-05-26 13:08:27

お礼

 サイテックスさん ご回答をありがとうございます。

 先の質問で 《性愛⇒愛(友情や信頼)》のかたちを基軸としたときに この《情欲》について明らかにしておくべきという課題を持ったように思いました。
 そこで ご回答は まづ第一印象としましては ひとことで申せば《ややこしい》でした。
 言いかえるならば 答えとしてわたしは たとえば《情欲は 中立だ》というような見方を期待していましたし いまもまだあり得るのではないかとは思っています。
 でもまだはっきりしません。
 論旨に沿ってみてまいります。

 それでもひとことにまとめようと思えば こうなりましょうか? すなわち
 (1) 性欲には 第一次のものとそこから派生した第二次のものとがある。第二次のものは際限のない欲望であって これを情欲として・あるいは劣情と捉えて人間は制御する必要を見ているし そうしようとしている。

 (2) 第一次の性欲は 食欲や睡眠欲と同じように 自然身体の本能に相当するような欲求であって そのぶんには 《本能的バランス》が保たれるという可能性を持つが しかも同時に 一方で体力を消耗するという性質を帯びているとともに 他方でそれゆえ強い誘因効果が伴なわれてもいる。それゆえこの特徴にもとづく限りで 第一次のそれとしての本能的自然の姿を逸脱することが出来る。非自然としての文化的行為となり得るし あるいはさらに反自然としてでもありうるような人間の意図をかたちづくりその意図にもとづくような意識的行動そのものと成り得るのだ。

 (3) 繰り返すならば 第二次性欲は 非自然としての文化行為であるだけではなく あたかもすでに第三次性欲というべき次元において 人間の人間のための人間による性的欲望の様相を呈するようになった。

 ☆ この要約については よろしければ文章にあとで添削をしていただくこととして いま特に第二次もしくは第三次の性欲をどう捉えるかを課題とします。

 (4) このあたかも人間が自分たちのため〔だけ〕に《創造》したかのような人間に特有の第二次あるいは第三次の性欲は 情欲であり劣情であると認識すべき《悪》なのか?

 ★ ゆえに服を着せたり、ワイセツだの劣情だのと、遠ざける / 必要が出てきた、ていう。
 ☆ ていうそれなのか? すなわち
 ★ そうした本能的バランスから外れ、意識的行動が優位になり / 始めると、「種の維持」から外れて、避妊した上で快楽のみを / 楽しみ始めたので、「消耗」はするわ、「種の維持」には / 貢献しないわ、何のメリットもない(個体の快楽以外は)もの / になり始めたのです。
 ☆ というべきしろものであるのか? です。

 たぶんその論点としては こうではないでしょうか?
 (5) そもそもホモ・サピエンスなるヒトは 本能的自然を超えた知性的存在であるのではないか?
  だから その知性による想像力が及び得るかぎりで 自由に振る舞うものだ。
  そうして《種の存続》も維持して来たではないか? 何をぐちゃぐちゃ言うことがあるか。

 (6) そんなにこの第三次性欲を嫌う・もしくは制御する必要があると言うのならば たとえばそれに伴う《劣情や猥褻感やその他もろもろの〈誘因効果なる手段〉》を欠いても 種の維持は出来るというのか?
 言いかえると 第一次性欲なる自然のすがたのみをもってヒトは生きて行けるか?

 こうなりましょうか? どうでしょう?

投稿日時 - 2010-05-26 14:45:59

ANo.1

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回答(5)

自然界では本能的(混沌)な状態であり、社会では混沌を分けて明確化しているため、本能的な感情は問題になる。人間だけが善悪をそれだと認識できる。

投稿日時 - 2010-05-28 08:26:05

補足

 19841116 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 今回も たぶん――という言い方はおかしいかも知れませんが―― おっしゃるとおりのように思います。

 たぶん
 ★ 本能的な感情は問題になる。人間だけが善悪をそれだと認識できる。
 ☆ というとき 《本能的な感情――ダイナミズムとしての欲動・情欲――》をどう表わすか / つまりそれをツイ関係においてどのように自己表現の中に組み入れるか / さらにつまりは 要するにどのように恋の相手を口説くか この表現形式に《善悪 もしくは 人として納得のいくものであるかどうか》がかかっている。と思います。
 設問のときから考えていたこととしては そのように《情欲》は中立であるという捉え方でした。

 ただし No.1で psytex さんの提示された議論とのやり取りで 次のように考えました。つまり このツイ関係において自然にのごとく発生する情欲ないし性欲を その《自然度》において 二つないし三つの段階に分けてみるということでした。

 1. 第一次性欲:あたかも自然の力のはたらきとしてのような両性
       における互いのもしくは一方からの引力としてのような
       欲求。
        ツイ関係を形成する以前の自然力学。
   
     * 斥力もあるか? あるがそれは 大きく引力の中におさま
      るか? あるいは斥力はむしろあとに出て来る第三次性欲
      にまつわる問題か?

 2. 第二次性欲:第一次の引力関係なる自然に 人為という意味での
      文化つまりその意味での非自然のはたらきがくわわるときの
      願望もしくは欲望。
       ふつうに ツイ関係を形成しようとする欲求であり すで
      に意志行為である。
       一般に人の表現としては言葉をつうじて・もしくは 言葉
      によって解釈できるかたちをつうじての 《求愛ないし口説
      き》を伴なう。

 3. 第三次性欲:非自然の第二次性欲に いろんな飾りをつけ加える
      ときの意志行為。性文化と呼ばれることがある。
       しかも 人間の想像力は極みを知らないかのようで 非自
      然としての人為だけではなく 初めの自然の引力関係にさか
      らってでも・つまり反自然としてでも その――もはや通常の
      ツイ関係とは呼べないまでの――性的な人間関係を繰り広げる
      現象にまで広がる。


 ☆ 第一次性欲の領域は ちょうど
 ★ 自然界では本能的(混沌)な状態であり
 ☆ というような情況であり この情況について第二次性欲の発進としてのように
 ★ 社会では混沌を分けて明確化している〔。その〕ため本能的な感情は問題になる。
 ☆ と考えられます。

 すなわち たぶん こうだと思われます。
 ( a ) 自然のツイ関係引力は 第二次性欲の段階で――人為的に・社会的に―― おのれの意志行為の内に含むかたちを取り 一般にこの自己表現としての意志行為におさめられる。
 ( b ) もし性衝動としてのごとく第一次性欲が第二次の段階で わが意志行為の内に治められなかったとすれば そのときこの自然の衝動的な力に人の意志もしくは理性が屈したというその敗北の承認が 第二次段階における意志行為であると見なされる。
 ( c ) これによって 人間の社会におけるツイ関係および二角関係の常識的ないとなみが保障される。

 ☆ どうですかねぇ。ちょっと自信がありませんが たたき台にはなるのではないでしょうか?
 ★ 人間だけが善悪をそれだと認識できる。
 ☆ というときの《善悪》もしくは社会的な妥当性の問題 これは いま上に述べた( a・b・c )すなわち《自然と文化 その調和と葛藤 つまりは 引力と意志(理性)との綱引きのごとき調和と葛藤》について課題となるでしょうし。
 あるいは もはや人間のツイ関係ないし性関係という領域があたかも独立したかのように社会文化的に繰り広げる第三次性欲の世界 そこにおける意志行為 ないし人びとの自己表現の形式 これが時には社会の場で問われることになるのでしょうね。

 たぶん――の連続ですが―― 先の《意志行為における自然引力にかんする修業》の問題は わたしの結論としては 《たゆたえども沈まず》という答えを得ているのだと考えます。細かいところは省きます。(つまり 成案があるけれど割愛するというのではなく 特別に考えていないし いままだ考えようとしていないという意味ですが)。
  

投稿日時 - 2010-05-28 10:30:55

お礼

 おそらく――次に―― 第三次性欲の世界については 基本的にまづはやはり良心・信教の自由にもとづくと考えます。
 つまりはもう少し具体的には表現の自由にもとづくものと考えますが 〔それでも おそらく〕この性文化とも言われる領域はもしそれが単独分立するというのであれば――つまりは言いかえると 《非自然としての文化のみ》だという野望を抱きこれを果たすとすると―― その動きは 何かとほかの人びとにもまた自分たちにも 人間の生活およびさらには人間の存在にとって非生産的・非建設的なことが起きてくるのではないか。と考えています。

 これは つまりその不都合な点というのは ひとことで言って 人びとのあいだの《対話》が成り立たなくなるおそれのことです。
 成り立たないとは言わずとも 対話の絡み合いが非常に薄いものになってくるのではないか?
 どうでもよいことが多いと思えて来たり しかもそれでもいいかと見なしてしまったり さらにはほとんど同じことですが 相対主義の考えに落ち入ったり つまりは世間がきわめてのっぺらぼうの顔の無い景色に見えてくるのではないか?
 そばが延びてしまい 人間のそして人それぞれの持ち味が薄くなってしまう。

 それだからでしょうか? 情欲が劣情として貶められるのは。
 けれども このときにも《情欲――少しでも自然の引力関係をはたらかせるもの――》であれば これがいけない・だめだとは ならないでしょうねぇ。どうですか?
 たとえ第三次性欲の段階にあっても いやしくも泉から水の湧くがごとき自然の万有引力について どうして わるもの扱いするのでしょう?
 あっ 分かった。こうではないですか? つまり 自然がわるいのではなく 文化がわるい。わるいのは文化だ。
 その文化をつくり〔もて〕あそぶ人間の意志行為のあり方が問題である。自然にわざとさからうような人間の心は 悪である。のではないか?


 どうも結構いい結論のひとつにたどり着きましたかねぇ?

 いやぁ 何にも考えていなかったのに ここまで来ましたか。
 いやぁ ここまで巡礼の道をともに歩いてきたみなさんとともに ちっくと よろこびつつ 自慢しましょうかねぇ? どうでしょう 19841116 さん?

投稿日時 - 2010-05-28 10:53:03

ANo.4

理由は複雑です。

まず、単純に気持ち悪いからです。
生まれたての赤ちゃんにも性欲はあります。おっぱいを吸う本能がそれです。
しかし、いつしか自我が芽生えて自律しますよね。

だから気持ち悪いのだと思います。興味はあっても、それに近づきすぎると
すごく気まずくなって逃げたくなる。そういうものだと思います。
これは、別にかまととじゃなくっても、男性でも、きっとそうだと思いますよ。

何だかわからないものに、恐れているともいえると思います。

何だかわからないもの、これは「神秘」ですよね。
自然の雄大さ美しさに対する気持ちとおなじです。だから、何とか、分かろうとする。

言葉、絵画、彫刻などで。
でも、わからないんですよ。

グロテスクなエロ文化でもそれは分かったと言えません。
分からないから、へりくだって少し離れた位置から、へりくだる文化が
エロ和歌です。

離れなければならないのではなく。

離れてしまうのです。

投稿日時 - 2010-05-27 18:15:58

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 これは めづらしいと言っていいでしょうか ご見解ですね。それとも わたしだけがそんな感じを受けるのでしょうか。

 言いかえると 情欲というような呼び方とは別物であるような。劣情だとか あるいは 貶めるといった観点とも別物であるような。
 ★ まず、単純に気持ち悪いからです。
 ★ 興味はあっても、それに近づきすぎると / すごく気まずくなって逃げたくなる。
 ★ 何だかわからないものに、恐れているともいえると思います。・・・これは「神秘」ですよね。
 ★ 離れなければならないのではなく。 // 離れてしまうのです。
 ☆ ふうーむ。ううーん。
 ★ 気持ち悪い・気まずい・恐れ・離れてしまう
 ☆ いやああああ こんな感じを持ったことはないです わたくしは。(もっとも まづはそのひとを知るというところから入るのをつねとしていたから 情欲というふうな感じは 初めはなかったと言えると思いますが)。
 分からないから戸惑うというなら 分かりますが。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・だから、何とか、分かろうとする。

 言葉、絵画、彫刻などで。
 でも、わからないんですよ。

 グロテスクなエロ文化でもそれは分かったと言えません。
 分からないから、へりくだって少し離れた位置から、へりくだる文化が / エロ和歌です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ちょっと待ってください。これだと まだまったく知らない段階の・その段階だけの問題ですね。
 準備段階として考えるというようなことですか?

 いえいえ というより  なぜ情欲と呼び劣情と言うまでにそれを貶めてみるのか。これですよ。問いは。
 もちろん 貶めてなどいないし そうする必要もないという答えであるなら それも見解だと思います。それなら 初めに想像していたところの《情欲は 中立である》という見方に近いと考えます。
 そこのところは どうですか?

 そうして No.3までは No.1でのやり取りの内容を引いていて 性欲には ふつうの自然の欲求と そしてそこから非自然としての文化を交えた情欲 あるいは さらに反自然的な要素が含まれると言わねばならないような錯乱した情欲 これらの種類に分かれると見ていました。あとのふたつは 貶められるであろうと見たわけです。

 そこらへんのことは どうですか? よろしかったら どうぞ。

 ★ これは、別にかまととじゃなくっても、男性でも、きっとそうだと思いますよ。
 ☆ そう言えば わたしは かまととと言われたことがありました。思い出しました。かまくぢらだと言われました。たぶんそれは ちょうど次のようなうたに表わされたことを 男の側にも当てはめた格好が たえずわたしの一面において――あくまで一面だけです――あったからではないかと思っています。 
 ◆ (旧約聖書・雅歌3:5)~~~
 エルサレムの娘たちよ、
 わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、
 あなたがたに誓い、お願いする、
 愛のおのづから起こるときまでは、
 ことさらに呼び起こすことも、
 さますこともしないように。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆  これは ずっとあとになって聖書を読んで分かったことです。そう言えば 何も知らずに こういうふうに――恋愛のどこか一面において――生きていたようだと。対象はいたのですが 《〈愛〉はおのづからは起こらなかった》という意味です。
 脱線したようですが そんなところです。

投稿日時 - 2010-05-27 21:55:06

ANo.3

そもそも、「子を産むことを目的に結ばれる婚姻の契約の節度と情欲的な愛による結合とのあいだ」などと、自分でも訳の分からないことを言っているのさえ分らないご仁の言う事を、崇め祭っていること事態が訳が分らんのじゃ。確かにそんな屑はいつの世にもいるにはいるが、そんなご仁が馬鹿正直に皆に告白して懺悔をすれば良いと言うもんじゃあない。心あるまともな連中なら、情欲には勝てないなんちゅうことを言いながらが女にそんなヤクザな事をやった奴に対して、「あんた悪い人だね、もしかしたらわっちらよりもっと悪い人だね」ちゅうもんじゃ。ところがどうだ。でうす教じゃあ、そんなヤクザ男を、理屈をこねくり回すのが上手いってんで、天国に入れた聖人にしちまっている。そんなもんを天国に入れてやるたあ、でうすちゅう化け物も凄いヤクザもんだね。

前にも言ったが、神学とか何とか訳の分らない理屈をこねくり回したそんなヤクザもんに洗脳された連中が、世界中で少年少女達の性を弄んで、その子供達を不幸のどん底に陥れ、それをまたヨーゼフ・ラッツィンガーなんちゅう輩が自分の地位を利用して、そいつらの責任逃れの策略をしとったんじゃ。

女は駄目だと言いながら、品川や芳町で遊ぶ坊主どもも屑、情欲には勝てないなんて理屈をこねくり回しながら女を弄ぶヤクザもんも屑なんじゃ。世の中には、やっちゃあいけない、取り返しのつかない事もあるんじゃ。後で告白しようが懺悔しようが、最早手遅れっちゅうものがあるんじゃ。そんな事をしちまって、後で、情欲論ちゅう筆の立った書き物を残せば屑じゃなくなるってもんじゃない。そんな、女に手を出せない柔な連中や、情欲だなんだと理屈をつけて女を陵辱する輩の抱く妄想は、まともな人間なら若いうちにもっと真面目に伴侶を見付けて、とっくに卒業しちょるのじゃ。

投稿日時 - 2010-05-27 12:23:54

お礼

 ご回答をありがとうございます。それにしても ちょとつとはえらい名前にしたもんぢゃのお。

 ★ 「子を産むことを目的に結ばれる婚姻の契約の節度と情欲的な愛による結合とのあいだ」などと、自分でも訳の分からないこと
 ☆ その場(または一定期間)かぎりの場合とそうでない場合とを言っちゅうんよ。
 《契約》はあまり褒めた表現ではない。それには もののあはれを知ることが先行しているはず。繊細の精神を同時にともなっていなくてはならない。

 ☆☆ (No.2お礼欄) ~~~~~~~~

    やは肌のあつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君

  ☆ これは 話が別ぢゃきに。ぶすの色情狂がのたまわっただけぢゃから。馬鹿にするもされるも しないもされないもない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 名誉棄損にならないために おぎなわねばならぬ。要するにこういう表現をするということは  《見てくれによっても 人柄あるいは人格全体をとおしてのまじわり(交通)によっても 男の目を自分のほうに向けられなかったから》と推し測られる。

 これで評言はひととおりおしまいぢゃのお。

 拾うとすれば:
 ★ ヨーゼフ・ラッツィンガーなんちゅう輩
 ☆ 語るに落ちる。

 ★ 世の中には、やっちゃあいけない、取り返しのつかない事もあるんじゃ。
 ☆ それを明らかにするのが この問いぢゃきに。なめたらいかんぜよ。

 ★ 情欲論ちゅう筆の立った書き物
 ☆ いちおうみとめちゅうがか。なんっちゃあ思っとらんのぢゃないがか。

 ★ でうす教じゃあ、そんなヤクザ男を、理屈をこねくり回すのが上手いってんで、天国に入れた聖人にしちまっている。そんなもんを天国に入れてやるたあ、でうすちゅう化け物も凄いヤクザもんだね。
 ☆ ローマでうす教が何を言って何をしているか知らんが 《聖人》の定義を知っとくとよか。
 異性の身体を求めるという欲動のごときダイナミズムを第一次の性欲とすれば これをわが身に保つも そこから想像力にものを言わせて人為的に《文化》的にありとあらゆる手練手管をもてあそぶことを唯一の目的とした第二次性欲あるいはさらにこの非自然としての文化から何を思ったかあたまをわざと混乱と錯乱に落とし入れ反自然にまで到った第三次の性欲とよぶべき情欲 これらから自由となった状態 このような状態を含む人格においてわが生活態度が確立する(サンキーレ)ということ その確立した(サンクトゥス)境地を 《聖なる(サンクトゥス)》と言う。
 ただしアウグスティヌスは 歳を取ってからも 朝起きたらふとんが濡れていたと告白している。
 《卒業》はせんぢゃっても 卒業に向けて確実なあゆみを進めているなら それで 人間としては 過程として完全ぢゃきに。どぢゃ?
 ローマ教会とそれに対抗するかぎりでのほかのいわゆる組織にもとづく教会 これらの影響をうけとっちゃあ何にもならぬ。それらは ゼロぢゃのうて マイナスと心得ねばならぬ。へのかっぱ。

 ▲ (きみはヨブを見たか) ~~~~~~
   神はヨブが試されることを悪魔に許した。
   ヨブは試された。
   悪魔は困惑させられた。

 ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。
 神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。
 ヨブは言っております。

   主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。
   主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1:21)

 と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブが藁ではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。
 (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ 後で告白しようが懺悔しようが、最早手遅れっちゅうものがあるんじゃ。
 ☆ 《手遅れ》と決めるのは 人間のおこなうところではない。ひとがひとを――その信仰にかんして あるいは 人格そのものについて――裁定するなどということは〔それを 宗教組織にあっては おこなっておる〕 あり得ぬ話だ。
 ★ 懺悔
 ☆ っちゃ なんっちゃ思っとらん。するしないは 個人の信仰に何の関係もない。与えられて受け取るだけゆえ。その後 過去のことを告白する(コンフィテリ)というのは 《あぁ よかった。たも(網)で掬われた。ありがたい。うれしい。みなも聞いてくれ》と言っているに過ぎぬ。強いて言えば それによって《賛美している(コンフィテリ)》。

 どうかまぼろしの敵から自由になられたし。

投稿日時 - 2010-05-27 13:44:58

ANo.2

そんなこたあ、女を抱けない柔わな男か、坊主どもが考えることじゃて。アウグスティヌスも坊主じゃったろが。女性方の相手の出来ない奴らは、まともな連中から見るととんでもない邪念を考え始めるようじゃ。今話題になってる、世界中のカソリックの坊主どもの少年少女達への性的陵辱や、それを出来るだけ目立たないように処理して、そんな坊主どもがさらし者にならないように裏で策略したヨーゼフ・ラッツィンガーなんちゅう輩をご存知じゃろが。この男、今ではベネディクト16世とか何とかいう名前に改名して、その責任逃れをしちょる。

これは、でうす教ばかりではないね。女に手を出しちゃいけないなんて言われていた日本の坊主どもも、でうす教の坊主と同じように劣情だらけじゃった。その点が、女性方とうまく行っている尋常な巷のまとも連中とは違うところだ。品川は有名な飯盛置き場じゃった。

  品川の客はにんべんあるとなし

てらかさむらいかって言っちょるんじゃ。もちろんお寺さんは陰間じゃ。

  線香のどらとはさすが和尚なり

どらは、放蕩。

  一本一分(いちぶ)の線香を和尚立てて

陰間の揚げ代じゃ。線香が時間を計る見番しとった。
 
 芳町は匂ひがやむと迎ひが来

 女でも男でもよし町といひ

もちろん坊主どもは男だけじゃ。守貞漫稿(近世風俗志)によると、「男色の客は士民もあれど僧侶を専とする也」とある。どうじゃ、情欲だ劣情だなどと言い出してそれに妙に興味を持つ輩は、でうす教の坊主ばかりじゃないことが分るじゃろう。それに坊主どもだけじゃなくて、巷にも、女に縁がない連中に限ってそんな言葉に興味を持ち、そのうちに皆に迷惑のかかる変なことをするもんじゃ。そんな箸にも棒にも掛からない連中は、、

  やは肌のあつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君

なんて言われて、女性方に馬鹿にされて来たじゃろが。こんな妄想、まともな人間なら若いうちに伴侶を見付けて、とっくに卒業しちょるのじゃ。女に触れることも出来ず、一皮むけないでいつまでもそんな言葉に興味を示しているのは、異常な心の病気の持ち主ってことじゃないかな。

投稿日時 - 2010-05-27 04:15:20

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ そんなこたあ、女を抱けない柔わな男か、坊主どもが考えることじゃて。
 ☆ これは
 ○ なぜ情欲を劣情とするのか?
 ☆ に対する答えがかですろうか? ただ
 ★ 女に手を出しちゃいけないなんて言われていた日本の坊主どもも、でうす教の坊主と同じように劣情だらけじゃった。その点が、女性方とうまく行っている尋常な巷のまとも連中とは違うところだ。
 ☆ この文章では 文脈から言っても ご自分でも《劣情》という言葉を使っておられる。つまり 《尋常な巷のまとも連中》と同じクラスに属する場合にも そうでないクラスの者の振る舞いに対しては その言葉を使うというところですね。つまり
 ○ 性愛論もしくは情欲論についても 或る程度の範囲において共同主観(コモンセンス)を 言葉でも表わしておくことは 課題である。
 ☆ と考えられる。すなわち
 ★ こんな妄想、まともな人間なら若いうちに伴侶を見付けて、とっくに卒業しちょるのじゃ。
 ☆ と言い放っておけるがかですろうか? すなわち 自分たちのクラスに関しては 使わないが
 ★ 女に触れることも出来ず、一皮むけないでいつまでもそんな言葉に興味を示しているのは、異常な心の病気の持ち主
 ☆ の振る舞いに関しては使わざるを得ないとすれば それは 社会共同の課題であり哲学の考えるところであるとなるだろうねぇ。それとも ばかにしたり 憐れんでやったり あるいはそれでもどうしようもないから放っておくといった方針ですろうか。

 ◆ (ヰキぺ:大正天皇) 明治以降の近代天皇制で初の一夫一妻制をとった天皇である。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87
 ☆ というように 或る程度の範囲において――成文化しなくても―― 社会の《常識》は現実の問題でもあるようぢゃきに 少しは考える余地はあるだろうね。つまりこの場合は むしろ放っておいた状態から そういう現実になった。そうではなく 《異常な心の病気》であるのなら あつかわなくっちゃならないだろうねぇ。つまり
 ★ それに坊主どもだけじゃなくて、巷にも、女に縁がない連中に限ってそんな言葉に興味を持ち、そのうちに皆に迷惑のかかる変なことをするもんじゃ。
 ☆ というところの・《坊主クラス》でもなく《まともクラス》でもない連中についても 哲学は声をかけるもんぢゃろうのお。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 そんな箸にも棒にも掛からない連中は、、

  やは肌のあつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君

 なんて言われて、女性方に馬鹿にされて来たじゃろが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 話が別ぢゃきに。ぶすの色情狂がのたまわっただけぢゃから。馬鹿にするもされるも しないもされないもない。
 
 ▲ (アウグスティヌス:告白) ~~~~~~~~~~
 その年ごろ 私は一人の女性と同棲するようになっていましたが それはいわゆる合法的婚姻によって識りあった仲ではなく 思慮を欠く落ち着きのない情熱にかられて見つけ出した相手でした。
 けれども私は 彼女一人をまもり 彼女に対して閨(ねや=寝屋)の信実をつくしました。この女性との関係において私は 自分の経験によって 子を産むことを目的に結ばれる婚姻の契約の節度と 情欲的な愛による結合とのあいだに 何という大きなへだたりがあるかを 身にしみて知らされました。情欲的結合の場合にも 子は親の意に反して生まれます。いったん生まれると その子は愛されずにいられなくなるのです。( vol.4 ch.2 )
    *
 とやかくするあいだに 私の罪は増し加えられてゆきました。そしてこれまで閨をともにしてきたその女(ひと)は 婚姻の妨げとしてかたわらからひきはなされたので 彼女にしっかり結びついていた私の心はひきさかれ 傷つけられ だらだらと血を流しました。
 彼女はあなた(神のこと)に向かって 今後ほかの男を知るまいと誓い 私のかたわらに 彼女から生まれた私の息子をのこして アフリカへ帰ってゆきました。
 けれどもわざわいにも この女性のまねをすることもできず 二年後でなければ求婚の相手をわがものにできないことを思い 待つ期間の長さにたえかねて 婚姻そのものを愛するよりはむしろ情欲の奴隷であった私は 別の女をこしらえました。もちろん正妻としてではなく その女を 花嫁を迎えるまでつづいてゆく肉欲の習慣の相手にすることによって 魂の病気がすこしも弱まらずに かえってますます重くなり長引いてゆくためでした。( vol.6 ch.15 )
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投稿日時 - 2010-05-27 09:46:30

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