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解決済みの質問

思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが

思想としてのゴロツキやチンピラがのさばるのは ふつうにまともな人たちが 一般に 亜流の思想を追い求めているからではないか?

 ゴロツキ等は 経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないその状態を言います。
 亜流の思想というのは そのままでもありますが 特には クリスチアニズムという宗教となった思潮 あるいは そもそもブディズムは無神論としての信仰であるはずなのにこれをああたらこうたらいじくりまわしたその結果としての思潮を言います。
 前者は 非思考の場としての個人の信仰が 教義を信じるという矛盾をかかえた組織宗教となった場合であり あるいは単に道徳規範としてしまいこれを抱き続けるということに変身した場合を言います。教義は 思考するものであり 信じるものではありません。倫理規範も考えるものであり 信じるものではなく その実践ということもそれだけでは 信仰そのものとは関係ありません。(ほかの宗教でも 道徳を説きその実践を奨励します)。
 後者のブディズムについては ひとつだけその亜流の特徴を挙げれば。さとりが いま・ここなるわたしを離れたところにあると思っていることです。このへだたり・この時間差が 亜流であり チンピラの振る舞いと何ら変わらないと見なされることになります。少しづつだんだんさとりに近づくというのなら ゴロツキの成仏と変わらないということになるからです。

 ご見解ご批判をお寄せください。

投稿日時 - 2010-08-07 10:38:09

QNo.6092710

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

>ゴロツキ等は 経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないその状態を言います。
定義のやりかたがヘタくそです。そんなバカな定義はありません。
たとえば、こんな文章は合理性がないといえますよね?それとも、思想ですらないので、ゴロツキ等該当しないのだろうか?
http://okwave.jp/qa/q6064885.html
>1 消費税率は世界最低 法人税率は最高 でいいのでは?
>2 つまり所得税の税率も累進課税にするのが ふつうのことだと考えます。

なにが言いたいか混乱のきわみであり、とてもじゃないが返答できなのだけど。
1.まず、日本の消費税率は、消費税を導入している国の中では消費税率最低、
 法人税率も世界最高。
 すると、現況でよいという意味なのか、消費税をやめろという意味なのか、
 こういう、主張の基本線すらまるでわからりません。
参考
各国の消費税率
http://ja.wikipedia.org/wiki/消費税
各国の法人税率
http://www.777money.com/torivia/houjinzei_world.htm
2-1.消費税率と法人税について述べていたはずなのに、なぜ所得税?
 こういうのを、論理の断絶(はしょりすぎの意味です)といいます。
2-2. 所得税の税率「も」? 「を」でなく、「も」なの? 
 そうすると、所得税以外の税率が累進になっていないと変ですが、
 消費税も法人税(法人所得税)も累進でないし、肝心の所得税(狭義の所得税であり法人所得税含まず)は累進。
矛盾しまくりで、どこかに、認識ミスか誤字てんこもりと考えないと理屈が通らない.....

これはジャブ。まあいいや。個人の問題だ。

「ゴロツキ等」や「亜流の思想」の定義の本当の問題点。

一般に宗教の主流と目される、ギリシア正教、カトリック、プロテスタント、イスラム教、
これらがみな、定義により亜流の思想に分類されてしまう点。
 (これらは、民族宗教であるユダヤ教をいじくって世界宗教にしたもの。)
一方、誰も信じないようなヘンテコリンな思想は、たとえ不合理のかたまりでも、
既存宗教をいじくったものでないのであれば「亜流の思想」に該当しません。そのように定義されています。
※「亜流の思想」の定義には、経験合理性の有無は言及されていません。
 経験合理性について言及しているのは、「ゴロツキ等」のほうです。
 また、ゴロツキのほうは、思想支持者の多寡は言及されていないので多数派が
 ゴロツキであっても定義上の問題はありません。

また、
新技術。 文句なしのゴロツキ。
科学。  半分ゴロツキ。
トンデモ科学。  まっとうな科学と意味は異なりますが、やっぱり半分ゴロツキ。
となってしまうのだけど.....
その結果、私も技術者に分類されますが、技術者であることを理由にゴロツキ呼ばわりされてます。
そりゃないよ。
技術者としてゴロツキ呼ばわりしてもいいけど、それは技術者としてあるまじき
失敗としたとき限定です。

これらがゴロツキになってしまう理由。
トンデモ科学:「都合の悪いことには目をつぶる」という、科学の禁止事項に命中
       しているが、そこ以外はいちおう合理的。
科学:合理性については問題ないとして、経験性のほうが問題。
   科学にとっての経験性とは、帰納性のことであり演繹性は経験性に含まれません。
   で、科学の重要手法の1つ(いや、これだけだといっても良い)の仮説検定
   の検定の方法を考えるのは演繹であり帰納で不可能であるから、
   仮説を立ても検定を行ったらゴロツキ。よって、半分ゴロツキ。
新技術:その定義「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」(特許法による定義)
   より、帰納の部分(自然法則の見つけるまで)は科学の領分であり、残りの部分は
   未知の領分なので演繹。よって、全部ゴロツキ。

で、オモシロイことに、
科学の世界で、旧理論で説明できない現象に出会ったとき
には、それこそ思想の百花繚乱です。何しろ、解決に至る道はそれしかないから。
確かに、「亜流の思想を追い求めている」のです。そして、科学は「ゴロツキ」だし....
何か、妙な形で本来の意図と違うがつじつま合っているのよねえ。

投稿日時 - 2010-08-08 09:06:41

お礼

 まささん お早うございます。たのしいご回答をありがとうございます。またいつも わたしの文章の不備をおしえてくださって感謝しております。

 今回は 質問の趣旨の中で使った概念をさらにていねいに把握することが出来るようにと説明してもらいました。おおむねおっしゃるとおりだと考えます。

  【Q:消費税率は世界最低 法人税率は最高 でいいのでは?】

 の趣旨説明の文章は たしかにおっしゃるように成っていません。そういう中途半端なまじめというかたちで設問しています。でもみなさんは それでも趣旨を理解してくれて回答を寄せてもらい 大きな実りが得られたと思いますよ。どうでしょう?
 世界各国の消費税率と法人税率の表を掲げてくださってありがとう。いい資料になると思います。
 質問も添えてありますが 以上のような事情とそして質疑応答の中でだいたい答えていると思います。

 ☆★ ゴロツキ等 および 亜流の思想
 ☆ これらについても 概念規定のあいまいなところを明らかにしてくださって こう言っては何ですが 助かります。批判や突っ込みがあってなんぼでもありますからね。

 ★ 誰も信じないようなヘンテコリンな思想は、たとえ不合理のかたまりでも、 / 既存宗教をいじくったものでないのであれば「亜流の思想」に該当しません。そのように定義されています。
 ☆ なるほど。困ったと思ったのですが さすが人びとの規定というのは だてで決めてはいません。つまり 独創的な思想があってその第二次であることを 亜流の条件にするなら このご指摘にまるまる従わなければなりません。
 たぶん こういうことではないでしょうか。たとえ独創的な思想でも その内容が《へんてこりん》だと証明できれば 類推的に亜流と見なすと。


 科学の方面でのご指摘の中で 次の項目には 異議をとなえます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 新技術:その定義「自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のもの」(特許法による定義)
   より、帰納の部分(自然法則の見つけるまで)は科学の領分であり、残りの部分は
   未知の領分なので演繹。よって、全部ゴロツキ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《未知の領分》は いづれ科学によって知られるであろうと見なす《経験世界》に属しています。つまり 未知のことがらについても経験合理性によって――しばしば論理の飛躍があるでしょうが 反科学的にではなく非科学的にして基調は合理性をつらぬくことによって――推理しても構わないのではないかと思いますが どうでしょう?
 仮りにこれがゴロツキだとしますと そうだとしても このような科学の心は その飛躍の部分について あぁおれはゴロツキだと分かっているしつねにそう人にも伝えてことわっているということです。これが 違いだと言えるかも知れません。つまり 経験合理性が 基調であります。
 ★ 科学についての 半分ゴロツキ性
 ☆ これも同じかたちですね。

 ★ トンデモ科学
 ☆ の場合は 基調を 何を思ったか 論理の飛躍のほうに持って行ってしまうのではないか。《これこれを証明すればいいんでしょ》とことわったあとは まったく堰を乗り越えて水が流れ出るように勝手に言い放題の回答が しばしば見受けられます。そしてこのことわりもないのが ゴロツキですよね。
 チンピラは その上 いちゃもんをつけて来ます。説明もなく根拠もなく道理に合わないとすでに知っていることを押しつけて来ます。おまえはうざい。消えろ。このパターンですね。
 (あれっ 定義が違ったかな? ぎゃくかな?)

 ★ 科学の世界で、旧理論で説明できない現象に出会ったときには、それこそ思想の百花繚乱です。
 ☆ このとき 亜流の思想も出てくれば 初源の思想をさらに補うように展開・発展させた場合もあるのではないですか?

 ★ 技術者としてゴロツキ呼ばわりしてもいいけど、それは技術者としてあるまじき失敗としたとき限定です。
 ☆ 経験合理性と人間の心が 基調ですから あんまし卑下しなくてもよいのにと言うよりは もっと堂々と胸を張って 時にはゴロツキぶりを発揮してください。悪をも善く用いる。これが 人間です。

 ★☆ 何か、妙な形で本来の意図と違うがつじつま合っているのよねえ。

投稿日時 - 2010-08-08 10:38:24

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回答(26)

ANo.26

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

 また、ご賛同賜りまして、厚くお礼申し上げます。

 なお、例の”Tさん”から、愚生のことについて、いろいろと言ってきてはおりますが、”Tさん”と対話を致しましても、建設的な意見が出てきそうにもございませんので、これ以上のやり取りはご遠慮させていただければと思っています。
 将来のTさん自身、もしくは友人が同じ目にあわなければいいのですが.....

 それでは、今後ともよろしくお願い申し上げます。

投稿日時 - 2010-08-17 20:02:56

お礼

 なんだか 暑さは第三波だそうですね。変則的ですよね。
 ひどっちさん こんばんは。ご回答のご確認をありがとうございます。

 そうですね。いい潮時かと思います。



 T さんは これからはのらりくらりで応対して行こうかと思います。
 逆に言えば こちら側は じゅうぶん説明責任を果たしていると思うからです。それゆえに そのようにのらりくらりの応対ぶりでも 不都合にはならないという確信が持てました。

 それでは あたらしい出発に向けてとまいります。

投稿日時 - 2010-08-17 20:13:31

ANo.25

3に補足をいただいていますね。
わたしの文章につきまして、ましゅまろさんは読み違えていないことがわたしにはわかりますので、きっと心配いらないでしょう。また、高校生時代に将来物理屋となる同級生に求婚されたときから、物理学者を夫に持つのは嫌だと思っていますが、友人に持つには良いと思っています。金にもならなそうなことに気付いては難しい数式の混じった長い手紙をくれるのですが。

投稿日時 - 2010-08-15 23:14:28

お礼

 それはよかったです。それなら よかったです。
 あまがっぱさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 歳を取ると 約束していた鶏でしたか その履行を果たさなきゃと何かと気ぜわしくなります。そこのところをおもんぱかって おゆるしください。

 あんなに暑いと思っていた夏も そろそろと言えるほどにはなって来たようです。
 それでは またあらたな出発に向けて。

投稿日時 - 2010-08-15 23:39:29

ANo.24

 ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

?> 地球上の人間が主観的に捉えるぶんには 天動説が妥当だという部分的ないし一時的な妥当性が 捉えられるということはありますか??
 愚生が知る限り、残念ながら、存じてはおりません。ただ、現在の小学生は、”地動説”を学習していないため、「”地動説” or ”天動説”、どちらが正しい?」と問われますと、”天動説”と答える小学生は多いと耳にしたことはございます(これは仕方のないこですが)。??> ☆ 数光年離れた位置関係のことを 実験室で検証できるということがよく分かりませんが ボーアの説が確かめられた。このとき ボーア説にしろアインシュタイン説にしろ どちらも《仮説》として主張し合った。というふうに単純に見ることは出来ないのですか??
 正確には、仮説を主張しあった というのが正しいかと考えられます。そもそも、確認・検証作業ができない以上は、未だ仮説の段階でしょうから。

> (しつこくて すみません)。

 いえいえ、ご遠慮なくお申し出くださいませ。? 

> そもそも主題に対して答えようとする――これまた 《意図》の問題になりますが――《意図》がないという場合が見られる。これは 仮説という段階でもなければ 一般に対話を成すというものでもないというむなしい情況になっているのだと思うからです。

 全く、意見を等しく致します。もしかような”答え(の内容)”がまかりとおりますと、権力者(時の権威者や行政機関等も含まれます)は”決定権”を所有してしまい、何をしてもいいということになってしまいます。

?> ☆ この結論を 確認しておきたいと思います。そうしてこの傾向ないし現実のひとつの原因は 亜流の思想を追い求めることが人びと一般のあいだに見られることではないかというものでした。

 了解致しました。

?> 受けとめるべき意思表示もしくは仮説の表明が”ある”か”無い”か これが両者を分けるというように思います。? 
 仰られますように、”ある”か”無い”の違いは、非常に大きいかと考えられます。??> もし以上のようであるなら 科学における論文や対話は ひととおりにおいて ゴロツキやチンピラであることをまぬかれている。こうわたしは考えますが いかがでしょう?

 確かに、そうお考えになられてもよろしいかと存じます。愚生は理系人間ですので、またもや「偉そうに」とか言われそうでございますが、やはり、論理的な理論の組み立ては最低限必要かと思われるからでございます。従いまして、仮に、亜流なるものの理論形成を求めるのでしたら、まずは、正統とされる原点(原典)を参照しつつ、しかるべき道筋を建てながら前に進むべきかと考えられます。逆に、 原点(原典)が全くそこには含まれていない、もしくは、単なる”自分の思いつき”といったものでしたら、ゴロツキと言われても致し方ないように考えられます。

 ご参考になれば、幸いでございます。

投稿日時 - 2010-08-15 22:58:26

お礼

 いやあ ありがとうございます。ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 全部と言っていいほど 解決しました。解きほぐされました。


 ★ やはり、論理的な理論の組み立ては最低限必要かと思われるからでございます。従いまして、仮に、亜流なるものの理論形成を求めるのでしたら、まずは、正統とされる原点(原典)を参照しつつ、しかるべき道筋を建てながら前に進むべきかと考えられます。
 ☆ こういう場合 わたしだけかも知れませんが 文系人間は 《このように理論形成として成っているものを〈仮説〉と言う》という具合いに勝手にまとめたくなるようなのです。

 もしそれでよければ ひとことで
 ○ 仮説の表明があるか無いかを ゴロツキでないかあるかの目安とすることができる。
 ☆ と言えるかも知れません。
 要するに 質問に対して答えているかどうかなんですけれどね。そうですよね。

 もう少し開いていたあと閉じます。まとめや補遺などありましたら どうぞお寄せください。
 あらかじめ 今回もありがとうございました。今後ともよろしくお願いいたします。

投稿日時 - 2010-08-15 23:24:41

ANo.23

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。

> 上の理論のことですが 光について 粒子となる場合に不確定性原理が当てはまるだけではなく 波動としてもそうだというようなことではないですよね?

 EPR理論におけます”波”での理論は、愚生の勉強不足のため、何とも申し上げられず申し訳ございません。

> ★“地動説”は、現在でも説明可能ですので、特に問題はないかと考えられます。
☆こうでしょうか? つまり 一般に天動説で説明できるというのが 妥当であるが 他方では 地球と太陽との関係あるいは太陽系における星々の位置関係は相対的なものだから それは《地動説》によっても説明可能なものであると。

 愚生は、もっと単純に考えておりました。”他の木星のような惑星と同様、地球が太陽のまわりを回っている”というのは、打上げ人工衛生からの分析結果から等でも、支持されているから でござます。

?> ☆ ご回答の前半(No.21)で考えつき触れたのですが 《仮説》としての段階 これを設定しそれとして誰もが捉えるならば ゴロツキ問題は起きないと思うのですが どうでしょう?? 仮説としてなら トンデモ科学であっても 何の問題もないと皆が分かっていればだいじょうぶなのではないか。?
 誠に失礼とは存じますが、今回もまた、皆様から、「何を言っているかわからない」とのご批判を受ける可能性もございますため、EPR理論の概略をご説明させていただく存じます。

 2つの電子A,Bは、互いに逆向きのスピンがかかっています。
 このA,Bの電子の距離を徐々に広げていって、例えば、数光年も距離を取ったとします(光の速度でも数年かかる距離となります)。ここで、Aの電子に磁場を加えて、スピンに影響(観測)を加えたとします。
 すると、数光年離れた、Bのスピンはどうなるのか?
 アインシュタインの相対論によれば、Bのスピンは最初から決まっており、Aの影響は受けません。しかし、量子論によれば、Aの影響は瞬時にBに伝わることになってしまいます。
 相対論では光速を超えた情報交換はあり得ないため、このEPR思考実験を説明するには、光速を越えた情報交換を説明しなけばならなりません。これは、観測抜きには物体の物理量は測定的ないとする量子力学と矛盾してしまいます。
 ですが、アスペらの実験により、アインシュタインが絶対にあり得ないとした光速を越えた情報交換を認めざるを得ない、実験結果が提出された訳です。

 このEPRパラドックスにおきましては、アインシュタインは、量子論は自分の確固たる信念(”自然界は確かな客観的な存在であるべきだ”という信念)に反すること、さらに、実験によって確認されるなど想像していなかったために、ボーアに対して反論したものかと推察しております。
 一方、”地球温暖化説”と同時に”地球寒冷化説”もございます。前者は、温室効果ガスに原因を求め、後者は太陽活動の低下にその原因を求めております。つまり、そもそも原因となるベースが異なっているために、どちらが正しいのかの議論は、元来困難なものかと考えられます。ですが、お互いを非難しあっている状況にございます。
 つきましては、「”仮説”として、誰もが捉える」ことは、冷静になれば、誰もが必要なことかと思われるのですが、残念ながら、現実は少し異なるようでございます。

>  ☆ こういう場合には《仮説》ですらなく結局 《科学》ではない。こう言えると思われるのではないでしょうか。つまり 認識の作業からして事実との対応や推論の妥当性に欠けるというのであれば 科学しようとしていないと判断できますから。

 はい、仰られるとおりかと存じます。事実(もしくは、その礎となる理論)との対応等を無視しては、原則、”科学的”ではないと考えられます。
 一方、推論の妥当性の欠如につきましては、”錯誤”等の問題も出てきますので(実際、学術論文でも、間違った結論を導いてしまっているのも少なからず存在します)、断定はしにくいのですが、たとえそれが、間違った結論であったとしましても、それなりの論理構築、換言しますと、ある程度の”推論の正当化”がなされております。従いまして、妥当性がほとんど(全く)存在しないというものでしたら、それは、単なる”おとぎ話”の類いになろうかと存じます。
?> とすれば 《意図》においてかなり ゴロツキ度が分かる場合があるかも知れません。?
 ある程度可能かと思われます。以下に一例を示させてもらっております。

・事実等を無視した理論展開 → ”ゴロツキ”度が大。
・単なる誹謗中傷 → ”ゴロツキ(or チンピラ)”度が大。

 ご参考になれば、幸甚に存じます。

投稿日時 - 2010-08-13 21:42:01

お礼

 こんばんは ひどっちさん。ご回答をそしてご説明いただきありがとうございます。

 地動説と天動説とを 逆にして述べていました。
 天動説は いまでは トンデモ科学とみなされていますか? がお聞きしたかったことです。
 あるいは もし似非量子論よろしく 地球上の人間が主観的に捉えるぶんには 天動説が妥当だという部分的ないし一時的な妥当性が 捉えられるということはありますか?

 ★ EPRパラドックス
 ☆ 数光年離れた位置関係のことを 実験室で検証できるということがよく分かりませんが ボーアの説が確かめられた。このとき ボーア説にしろアインシュタイン説にしろ どちらも《仮説》として主張し合った。というふうに単純に見ることは出来ないのですか?
 (しつこくて すみません)。
 ★ ”地球温暖化説”と同時に”地球寒冷化説”もございます。
 ☆ についても 同じような見方になると思うのですが どうでしょう? 互いにどちらも仮説として発表している段階だという見方です。
 つまり ここの質疑応答の場では そういう事情ではまったくなく そもそも主題に対して答えようとする――これまた 《意図》の問題になりますが――《意図》がないという場合が見られる。これは 仮説という段階でもなければ 一般に対話を成すというものでもないというむなしい情況になっているのだと思うからです。温室効果ガスなり太陽活動の低下なりの事由も提出することなく 論拠もなければ推論もない。すなわち のっぺらぼうだと見なさざるを得ない場合だと思うからです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 ・事実等を無視した理論展開 → ”ゴロツキ”度が大。
 ・単なる誹謗中傷 → ”ゴロツキ(or チンピラ)”度が大。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この結論を 確認しておきたいと思います。そうしてこの傾向ないし現実のひとつの原因は 亜流の思想を追い求めることが人びと一般のあいだに見られることではないかというものでした。
 思想の亜流は 初源の思想とのつながり関係つまり互いの異同を はっきりさせないまま流通してしまっている場合が多いと思われるからです。それは 顔が定まらず のっぺらぼうになってしまっているのではないか。こういう見方でした。
 ソーカル事件にしても その仮説もしくは科学理論の援用についても 判断するための基準があるし 判断することができるように表現して来ているでしょうから その点で のっぺらぼうではないわけです。意思表示もしくは仮説の表明があります。
 もしそうだとしたら 一般に科学の論文と 思想をめぐる言論とでは その取り扱いに違いが出ているというように思われます。受けとめるべき意思表示もしくは仮説の表明があるか無いか これが両者を分けるというように思います。
 ★ 一方、推論の妥当性の欠如につきましては、”錯誤”等の問題も出てきます
 ☆ つまり《推論の欠如》と《推論の妥当性の欠如 もしくは 勘違い》とは 明らかに それを表明したひとの意図や ひいては人格に 違いがあると考えます。《錯誤》は コミュニケーションにおいて 何のやましさをも伴なわないと考えます。情けなさや恥づかしさはあってもです。

 ですから もし以上のようであるなら 科学における論文や対話は ひととおりにおいて ゴロツキやチンピラであることをまぬかれている。こうわたしは考えますが いかがでしょう?

投稿日時 - 2010-08-13 22:45:45

ANo.22

 愚生の錯誤により、長くなってしまい、誠に申し訳ございません。続きを述べさせていただきます。

> (5) ☆☆ (趣旨説明) ゴロツキ等は 経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないその状態を言います。
( a ) あたらしい理論の必要性を覚えて新しい科学ないし思想を問い求めているというときに そのことをひとことも事割らない場合は ゴロツキに間違われるおそれがある。そのおそれは あたらしい理論の提唱者のほうが 注意を払って前もって晴らすことが望まれる。ではないか?

 はい、そういうところもあろうかと存じます。ですが、上述のボーアのみならず、数学者ガロアにしましても、自説を懸命に主張し、疑問点を晴らそうとしたにも関わらず、当時の大御所には、跳ね除けられてしまったという史実がございます。

 ( b ) また 亜流の思想については その唱導者は 初源の思想との違いをまづは自覚し 必要に応じてその違いについて触れるかたちで自説を説明すべきである。ではないか?

 もちろん、仮にその結果、たとえ認められなくとも、説明を懸命にすべきかと存じます。

 ( c ) ゴロツキ等は 自説や理論の発表によりは 相手に対するいやがらせ(つまりは 内容に根拠のない話題による不要な発言)を目的とする場合を言う。

 誠に、申し訳ございません。愚生は趣旨を勘違いしていたようでございます。この件につきましては、上記愚見とはまた別かと存じます。ボーアにつきましても、また、夭折しましたガロアにしましても、“嫌がらせ”はしませんでした(むしろ、“された側”と思われます)。
 根拠がありそうだけれども、実は自分に都合の良いソースをでっち上げていた。もしくは、内容自体を批判するのではなく、単に“批判すること”それ自体にしか興味がない。さらには、内容よりも、個人の人格等を批判対象とする(もしくは、それぐらいしかできない)。
 上記、要件を満たしてしまいますと、ゴロツキかと考えております。


 駄文、ご一読いただきあまして、どうもありがとうございました。

投稿日時 - 2010-08-11 21:50:34

お礼

 つづいてです。

 ★ ( a )・・・ボーアのみならず、数学者ガロアにしましても、自説を懸命に主張し、疑問点を晴らそうとしたにも関わらず、当時の大御所には、跳ね除けられてしまったという史実がございます。
 ☆ ご回答の前半(No.21)で考えつき触れたのですが 《仮説》としての段階 これを設定しそれとして誰もが捉えるならば ゴロツキ問題は起きないと思うのですが どうでしょう?
 仮説としてなら トンデモ科学であっても 何の問題もないと皆が分かっていればだいじょうぶなのではないか。

 ☆☆( c ) ゴロツキ等は 自説や理論の発表によりは 相手に対するいやがらせ(つまりは 内容に根拠のない話題による不要な発言)を目的とする場合を言う。
 ★ 愚生は趣旨を勘違いしていたようでございます。
 ☆ いえこれは ボーアらにアインシュタインらが そうしたのではないかという位置関係になります。発表や発言の主体について 誤解を生む表現をしてしまいました。
 でも 自説ないし従来の理論を擁護するということは 《仮説》の段階で 新旧が互いに批判しあい探究しているということでしょうから やはりゴロツキ問題とは―― 一般に科学の探究においては――別だというふうに思われます。

 すなわち
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 根拠がありそうだけれども、実は自分に都合の良いソースをでっち上げていた。
 もしくは、内容自体を批判するのではなく、単に“批判すること”それ自体にしか興味がない。
 さらには、内容よりも、個人の人格等を批判対象とする(もしくは、それぐらいしかできない)。

 上記、要件を満たしてしまいますと、ゴロツキかと考えております。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このご見解にまったく賛成なのですが こういう場合には《仮説》ですらなく結局 《科学》ではない。こう言えると思われるのではないでしょうか。つまり 認識の作業からして事実との対応や推論の妥当性に欠けるというのであれば 科学しようとしていないと判断できますから。
 とすれば 《意図》においてかなり ゴロツキ度が分かる場合があるかも知れません。

 ううん。どうでしょう。こういったところでしょうか。

投稿日時 - 2010-08-11 22:51:19

ANo.21

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございます。Hidocchiでございます。

> 《思想》ということで思っていたのは この哲学カテゴリでやり取りする内容ということに――舌足らずだったんですが――絞っていましたから。

 申し訳ございませんでした。愚生が勝手に論を進めてしまったようでございます。深くお詫び申し上げます。

> ★ ヒマラヤの雪の消失は デマ(捏造)
 ☆ なんですね。

  “2350年”と記述すべきことを、“2035年”と誤記してしまったようでございます。IPCCも、誤りを認めたようでございます。
ソース:“「ヒマラヤの氷河が2035年頃までに消失する」は誤りだった”

> ★◆ 「科学の世界で、旧理論で説明できない現象に出会ったとき」
 (1) 地動説は いまでは 《トンデモ科学》とみなされていますか?

 “地動説”は、現在でも説明可能ですので、特に問題はないかと考えられます。

 (2) 相対性理論にとって ニュートン理論は?

 仰られますように、(ニュートン)古典力学は、相対論の近似式(部分的に当てはまる)となっているようでございます(ただ、地球上では、ほぼ誤差範囲ですので、古典力学でも、さほど問題はないようです)。

量子論にとって 相対性理論は どう見なされるのですか?

 実を申しますと、これは難問でございます。“量子重力理論”なるものがございますが、未だ、数学上(机上)の問題にとどまっているようでございます。
ソース:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E9%87%8D%E5%8A%9B%E7%90%86%E8%AB%96 

(回答No.5)のご見解につきまして
 ☆ この見解に 同意なさるということになりますか?

 はい、意見を等しく致します。
 ただ、幾つか問題がございます。「旧理論で説明できない現象に出会わ“なかった”とき」でございます。つまり、その当時の、権威者に理解されないときでございます。例えば、“アインシュタイン-ボーア論争”なるものでございます。つまり、“EPRパラドックス”といわれる思考実験理論で、お互いが論争しあいました。そして、ボーアはアインシュタインを説得(論破)できずに、世を去ってしまいました(現在では、ボーアの方が支持されております)。おそらく、ボーアの当時の理論は、“トンデモ”だったかと思われます。
ソース:
http://homepage2.nifty.com/einstein/contents/relativity/contents/relativity316.html 
 
> ★ 従いまして、”トンデモ”科学と言われているものにおきましても、徐々に解明がなされていくものと思われます。

 愚生はあまり存じてはいないのですが、一番衝撃を受けましたのは、「ソーカル事件」でした(若干、趣旨が異なってしまっておりますが、後にトンデモ科学であったことが判明したものでございます)。権威者が、最新の科学・数学を使わなければ偉くはない と勘違いし、意味もなく、“トンデモ”科学・数学用語を用いていたというものでございます。
ソース:
1.http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6 
2.アラン・カーソル著「「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用」岩波書店

 以下を続きを述べさせていただきます。

投稿日時 - 2010-08-11 21:48:39

お礼

 ご説明いただきたいへんありがとうございます。
 こんばんは ひどっちさん。

 ● EPRパラドックス --- アインシュタインの嫌う非局所的長距離相関 ~~~~
 結果は量子力学の予言どおりであった。アインシュタインが嫌う非局所的長距離相関(ボーアのいう分離不可能性)が実験的に証明されたのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この結論としてよく分かりました。ちょうどあたらしい質問を挙げたところですが この《分離不可能性》あるいは《関係の絶対性》にかかわっています。そこにおいて 順観(前史)と逆観(後史)といった見方の回転がありうるかです。
 上の理論のことですが 光について 粒子となる場合に不確定性原理が当てはまるだけではなく 波動としてもそうだというようなことではないですよね? 

 ★ 「ソーカル事件」〔の〕トンデモ科学
 ☆ については 読んだことがあり 結果にかんして承知しております。現代思想ですよね。精神分析で 究極の思惟もしくは脳内活動を探究するというような。

 ★ “量子重力理論”
 ☆ その中身については残念ながらむつかしいのですが けっきょくこういう場合には 《仮説》として提出すればよいというふうに――この質問に沿って言うとすれば――考えるのですが それだけにはおさまりませんか?
 あるいはつまり トンデモ科学も この《仮説》だという段階として捉えれば 《ゴロツキ》問題にはならない。こうも考えられます。


 すみません。つぎのご説明がよく分かりません。 
 ★ “地動説”は、現在でも説明可能ですので、特に問題はないかと考えられます。
 ☆ こうでしょうか? つまり 一般に天動説で説明できるというのが 妥当であるが 他方では 地球と太陽との関係あるいは太陽系における星々の位置関係は相対的なものだから それは《地動説》によっても説明可能なものであると。

投稿日時 - 2010-08-11 22:31:59

ANo.20

 こんばんは、お世話になっております。Hidocchiでございます。

ANo.5のご回答者様も技術者ということですので、幾つか補足したいと思っております。

 “科学”、これには、妄信的に信ずる“科学万能教徒”なるものが実在します。そう考えますと、信徒を引き連れた「チンピラ」なるモノが現に存在しているものかと察せられます。「過ぎたるは、…..」と申しますが、ここまできますと、とても厄介と考えております。
 例を挙げさせていただきますと、「温暖化により、ヒマラヤ山脈の氷河が急速に消失しており、2035年には完全に失われてしまう」といった報告が、国際氷雪委員会より、なされました。もちろん、これはデマ(捏造)であることが、後ほど判明しました。ですが、これを信じてしまった人たちは大慌てだったかと思われます。
 なにしろ、ノストラダムス顔負けの“大予言”を“科学者”がするのですから…….

 なお、はなしが少し逸れてしまうのですが、“トンデモ科学”と“(正規とされる)科学”との線引きは、以外と困難であることもございます。例えば“化学物質過敏症”も、本当に実在するのか、それとも一種の“心身症”なのかどうかは、現在でも定かではないようでございます。
 その他、“マイナスイオン”効果説も、微妙な位置にあるようでございます。
ソース:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3 


 お礼欄に置きまして、「科学の世界で、旧理論で説明できない現象に出会ったとき」とのご見解がございましたが、
一例(地動説)を挙げさせていただきたく存じます(以下、T. クーンの“パラダイムシフト”論の受け売りでございますが)。
天動説が支持を得られていた際には(往々にして、その当時の“権威”といわれる人たちに支持を受けています)、別段問題はございませんが、その前提では解決できない例外的な問題(惑星の動きがおかしい)が登場したりしてきます。
このような問題が累積してきますと、異端とされる考え方の中に、問題解決のために有効なものも現れ、解決事例が増えていくことになります。そしてある時期に、“地動説”を拠り所にする人(科学者)の数が増えて、それを前提にした問題解決(研究)が多く行われるようになる といった具合にでございます。
 また、相対性理論、量子論の出現のときも、ほぼ同様だったかと推察しております。特に、量子論におきましては、反対論者の中には、アインシュタイン(当時の大御所)がいたため、大変だったかと推察しております。

 従いまして、”トンデモ”科学と言われているものにおきましても、徐々に解明がなされていくものと思われます。

 ご参考になれば、幸いでございます。

投稿日時 - 2010-08-10 20:45:44

お礼

 なるほど。科学という分野をきちんと捉えてこの質問に対応するとしたなら もっと細かい分類と定義が必要である。こうでしょうか?
 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 No.5のマサさんのご回答に応じたときには そこまでのことは考えていませんでした。《思想》ということで思っていたのは この哲学カテゴリでやり取りする内容ということに――舌足らずだったんですが――絞っていましたから。

 そうしますと
 ◆ (回答No.5) ~~~~~~~~~
 新技術。 文句なしのゴロツキ。
 科学。  半分ゴロツキ。
 トンデモ科学。 まっとうな科学と意味は異なりますが、やっぱり半分ゴロツキ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ といった分類にもきちんと対応しなければならないようです。
 しかも
 ★ “トンデモ科学”と“(正規とされる)科学”との線引きは、以外と困難であることもございます。
 ☆ なんですか。ううーん。


 ★ “科学万能教徒” / 信徒を引き連れた「チンピラ」
 ☆ これは 世論調査の結果をそのまま信じる場合が分かりやすいでしょうか。でも わたしが勘違いしているかも知れない。・・・

 ★(意訳) ヒマラヤの雪の消失は デマ(捏造)
 ☆ なんですね。

 ★ (“トンデモ科学”と“(正規とされる)科学”との線引き)~~~
 ○ 例えば“化学物質過敏症”も、本当に実在するのか、それとも一種の“心身症”なのかどうかは、現在でも定かではないようでございます。
 ○ その他、“マイナスイオン”効果説も、微妙な位置にあるようでございます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なんですね。

 ★◆ 「科学の世界で、旧理論で説明できない現象に出会ったとき」
 ☆ そうしますと 
 (1) 地動説は いまでは 《トンデモ科学》とみなされていますか?
 (2) 相対性理論にとって ニュートン理論は トンデモ科学なのですか?――これは 違うのでしょうね。それまでの学説は 相対性理論の中で部分的に当てはまるということなのでしょうか?
 (3) 量子論にとって 相対性理論は どう見なされるのですか?

 (4) ◆ (回答No.5) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 で、オモシロイことに、
 科学の世界で、旧理論で説明できない現象に出会ったときには、それこそ思想の百花繚乱です。何しろ、解決に至る道はそれしかないから。
 確かに、「亜流の思想を追い求めている」のです。そして、科学は「ゴロツキ」だし....
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この見解に 同意なさるということになりますか?


 ★ 従いまして、”トンデモ”科学と言われているものにおきましても、徐々に解明がなされていくものと思われます。
 ☆ 分かっている範囲でおおしえ願えればさいわいです。

 あらためて
 (5) ☆☆ (趣旨説明) ゴロツキ等は 経験合理性にもとづいてものごとの認識や判断をみちびくことをしないその状態を言います。
 ☆ であるとするとき トンデモ科学は言うまでもなく 従来の理論を把握した上でそれとの整合性をもじゅうぶんに扱いつつあたらしい理論を問い求める科学にも 《非合理性を容れた想像ないし判断をみちびく》内容が含まれるということでしょうか?

 もしそうだとしますと 質問趣旨では こう言うべきでしょうか。つまり

 ( a ) あたらしい理論の必要性を覚えて新しい科学ないし思想を問い求めているというときに そのことをひとことも事割らない場合は ゴロツキに間違われるおそれがある。そのおそれは あたらしい理論の提唱者のほうが 注意を払って前もって晴らすことが望まれる。ではないか?

 ( b ) また 亜流の思想については その唱導者は 初源の思想との違いをまづは自覚し 必要に応じてその違いについて触れるかたちで自説を説明すべきである。ではないか?

 ☆ そうして

 ( c ) ゴロツキ等は 自説や理論の発表によりは 相手に対するいやがらせ(つまりは 内容に根拠のない話題による不要な発言)を目的とする場合を言う。

 ☆ と。

投稿日時 - 2010-08-10 21:43:09

ANo.19

 ANo.18
 ダブってしまいましたね。
 そんな声を聞くなら聞けばいいし、踏みつけて通り過ぎるならそうすればいい。
 それで何かの痛痒なんかほっとくこともありますし、ちょいと軌道修正あるかと考えることもありましょう。
 私は貴方のご質問のテーマ題目には興味がありますが、質問のご文章には正直いえば馬鹿馬鹿しい。
 やりとりも馬鹿馬鹿しい。
 それだけですが。これは私の感じ方に過ぎません。いろんな経験合理性がありますし、私は一定範囲のことにしか理解と同調ができませんので。
 私が猫なら、猿の関心と文章にあまり関心はない。しかし猿は猫と違う意識世界でしょうから、それを猫が価値評価して意味がないとはいうものでもありませんでしょう。
 どちらかが多数か少数かも意味がない。猫と猿は違うだけです。
 貴方も一応言葉を極めて表現してきておられるのですから、自己の貫徹を意図されることも一つの選択肢かもしれない。
 私の選択しない道だが。

投稿日時 - 2010-08-09 18:15:09

補足

 

投稿日時 - 0000-00-00 00:00:00

お礼

 

投稿日時 - 2010-08-09 22:06:13

ANo.18

 大人の男として、ごたごた言わないで、自分で決めて自分で歩くことです。
 恥の上塗りに付き合う時間はない。

投稿日時 - 2010-08-09 16:49:29

お礼

 つづいてです。

 ★ 大人の男として、自分で決めて自分で歩くこと
 ☆ そのように歩いていたら どこかから その質問はなっとらんぞとの声。わざわざ おまえの文章に価値を認めることは出来ないとか 声が聞こえる。
 もうかれこれ 何年になりましょう。同じ声がそれはそれは しつこく聞こえてきます。

投稿日時 - 2010-08-09 17:00:11

ANo.17

 大人の男として、ごたごた言わないで、自分で決めて自分で歩くことです。
 恥の上塗りに付き合う時間はない。

投稿日時 - 2010-08-09 16:49:29

ANo.16

 ANo.14
 残念かどうか、人を消すことができたことも消したいとも思いもしませんでした。
 私が消えたいと思った事はありましたが、じっと耐えました。

投稿日時 - 2010-08-09 16:43:18

お礼

 つづいてです。

 ★ 人を消すことができたことも〔ない〕
 ☆ そうしますと 《人を消そうとしたけれども 消すことができたことはない》でしょうか?

投稿日時 - 2010-08-09 16:56:09

ANo.15

 ANo.10
 はぁどうぞ、そういう取りかたですか。そんなことは考えていません。
 ここまで馬鹿馬鹿しいとお好きなようにですよ。
 この世で責任取らないで誰が居られるのか。そんなことは一言もいっていなし、いう必要もありません。

投稿日時 - 2010-08-09 16:39:29

お礼

 このご回答はそれとして受け取ります。
 特に評言はありません。

投稿日時 - 2010-08-09 16:54:36

ANo.14

 消える必要がありませんように、切に祈ります。どうか頑張ってください。
 大事なとき、大事ですね。しっかり。
 私がこの世から、そして46年居た大学で、消えるべきなのに消えなかったのは消えてはいけなかったからです。
 消えては何の解決にもならなかったからです。
 人生にはそういうことがあるものです。

投稿日時 - 2010-08-09 12:35:25

お礼

 投稿がつづきます。

 ★ 消える必要がありませんように、切に祈ります。
 ☆ こんなことは祈ることでもなんでもありません。それをわざわざ出して来ると言う事は図星だったようです。

 ひとを消したことがあるのですか?

投稿日時 - 2010-08-09 12:39:07

ANo.13

 ANo.12
 bragelonneさん、私もどなたもここ(哲学カテ)で人生的自己実現をしようとも、何か自己性を何とかしようなんて考えていないでしょうね。当たり前ですよね。
 誰も無益で空虚に減らず口も敲かないし、大きな顔をする必要もないと思いますよ。
 私は自分を検分したけど、そんな動機がありませんでした。
 ただ単純に、回答とされるものを書いただけでした。
 この単純って、往々にしてなかなか曲者なんですが、実は書くべきか書かざるべきか、ハムレットじゃないが迷いましたね。
 bragelonneさんだから真意が伝わるだろうと思って、敢えて書きました。
 そしてbragelonneさんにはきちんと本当に自分がそうだと思うことを書くべきだと思い、書きました。
 私はbragelonneさんにはそうすべきだと思ったからです。
 まだ突端の端っこにちょいと分ってきたことに過ぎない、自分の内奥の芽吹きですが、敢えてお伝えしました。
 減らず口の意識も大きい顔の意図も全くなかった。
 bragelonneさんへの回答になればいいと思ったに過ぎませんでした。
 私は此処では勉強するだけしか、つまりそのほかの目的はも必要も全くありません。
 以上あらためて報告します。どうか真意をご斟酌くださいますよう、祈ります。

投稿日時 - 2010-08-09 11:06:02

お礼

 つづいてです。

 ★ 真意 
 ☆ はわたしを消すことだと理解しています。

投稿日時 - 2010-08-09 11:26:42

ANo.12

 bragelonneさんが私の投稿のどこかで減らず口とか書いていたかのを見たのですが、ちょいと今みつかりません。
 減らず口でしたらそれはもう、ここに登場する資格はありませんね。
 私もそこまでして、ここに投稿するつもりも必要もないのです。
 ここで虚勢を張ったり、自己の陣地を保持するつもりもありません。
 論理は大切なんですが、論理を大切にしながら論理でのやりとりは、私には内容を伝えるものでしかありませんので。
 いろいろ批判されること、自分に痛い指摘。そういうことは私はとても大事にしています。
 ありがたいです。間違いや不十分な事、或いはあるまじき事の指摘は嬉しいです。
 減らず口と受け取られる私をよく見つめかみ締めます。単にお伝えした方がいいだろうと判断したから、書いたつもりでした。
 自分の意識としては、自己防衛のつもりも、減らず口のつもりもなかったのですが、人の冷徹な目を通して自分を点検してみます。
 まことに悲しい話ですね。
 哲学も思想も人生と世界を認識させる、光であるはずですが、減らず口になってはまことに暗くなります。

投稿日時 - 2010-08-09 10:16:08

お礼

 ご投稿がつづきます。

 ★ いろいろ批判されること、自分に痛い指摘。そういうことは私はとても大事にしています。
 ☆ これは 事実です。事実であることがありました。
 そうですね。一日 二日はつづいたでしょうか。

投稿日時 - 2010-08-09 11:24:51

ANo.11

 ANo.8
 神である、なんて生長の家の谷口雅春さんみたいですね。原宿の竹下口を出ると、左側皇室ホームに近いところに本部があります。40年以上あそこを下車していましたがもうあそこを下車しなくなって10年以上になります。
 1950年代、懐かしい景色がもうすっかり変わりました。左の路地でも通らないとね。
 大きな顔の神、大きくならない顔なんですよ。
 自分は単なる反射の画像の顔。全てを供給し、全てをなさり、一切が神。自分は小さくも大きくもない。
 誰かがみている顔。そんなもんでね。私は存在しない。です。
 子どもと自我未成長の意識も自分の存在がない。そして偉い人がみるとだれも存在していない。
 大波小波。きらきらと月光に耀いているだけ。

投稿日時 - 2010-08-09 06:47:19

ANo.10

 ANo.8
 神である、なんて生長の家の谷口雅春さんみたいですね。原宿の竹下口を出ると、左側皇室ホームに近いところに本部があります。40年以上あそこを下車していましたがもうあそこを下車しなくなって10年以上になります。
 1950年代、懐かしい景色がもうすっかり変わりました。左の路地でも通らないとね。
 大きな顔の神、大きくならない顔なんですよ。
 自分は単なる反射の画像の顔。全てを供給し、全てをなさり、一切が神。自分は小さくも大きくもない。
 誰かがみている顔。そんなもんでね。私は存在しない。です。
 子どもと自我未成長の意識も自分の存在がない。そして偉い人がみるとだれも存在していない。
 大波小波。きらきらと月光に耀いているだけ。

投稿日時 - 2010-08-09 06:47:19

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ☆☆ (No.9補足欄) ~~~~~~~~~~~
 とうぜん真理だと認められるようなことを口に出して 互いに確認しあえばよいわけです。そういう発言ならよいわけです。真理は自分だけのものではありませんから。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という姿勢をお勧めしています。この姿勢を取らない・拒むというのが 次のご発言だと取ります。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 自分は単なる反射の画像の顔。全てを供給し、全てをなさり、一切が神。自分は小さくも大きくもない。
 誰かがみている顔。そんなもんでね。私は存在しない。です。
 子どもと自我未成長の意識も自分の存在がない。そして偉い人がみるとだれも存在していない。
 大波小波。きらきらと月光に耀いているだけ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまり 責任の主体であることを逃れたい。こういう趣旨に取ります。
 わたしのお勧めは とうぜん 《存在であること。存在であることをみづからに確認しつつ おのれの言葉や振る舞いには責任を持つ》です。神という隠れ蓑に入り込んでしまおうというのでしょうか?

 という解釈が いちばん妥当だと考えます。ほかにもあるかも知れません。

投稿日時 - 2010-08-09 08:29:20

ANo.9

 bragelonneさん、誰がここで大きな顔してみせたいものか。大きい顔も小さい顔もないもので。
 何かコメントして投稿する文章の中で、ことばと表現を工夫し選んではみたが、私みたいなものが使う言葉と表現から離反し、bragelonneさんのご訓示を頂きました。
 ともあれ、ほんとうだと思うことを述べようとしただけのことで、実はことば表現はしたくなかった。
 一般的な、陶然、当然の真理として口にだしただけで、うやむやでのコメントはしたくなかった。
 私如きの口にすることではなかった。反省しなければ為りません。
 でもひどい表現のご質問がここ暫く続いていますね。bragelonneさんらしくないと存じますが。

投稿日時 - 2010-08-08 11:09:05

補足

 減らず口をたたきましょう。


 その《反省》は こんど大きな顔をしても それが大きな顔をしているとは受け取られないように・きわめてうまく決して分からないようなかたちで大きな顔をして大手を振って街を歩くことができるように というものではないでしょうね?

 ★ 当然の真理として口にだした
 ☆ それでいいのではないでしょうか。
 問題は そのことを相手に《つべこべ言わずに飲め》と迫ることが大きな顔をすることです。これは ゴロツキになります。北朝鮮の行動を思い浮かべればわかるはずです。真理を口にするなどということではないにもかかわらずという点が まるっきり違いますが。
 とうぜん真理だと認められるようなことを口に出して 互いに確認しあえばよいわけです。そういう発言ならよいわけです。真理は自分だけのものではありませんから。

投稿日時 - 2010-08-08 12:23:06

お礼

 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ★★ 神以外に存在がない。
  ☆ かくのごとく
  ★☆ 人という存在は大兄夫子のように〔は:削除〕いっぺんに極地に〔は:削除〕行き着け〔ない:→る に変える〕ものです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ このことが 世界中にひろまらなくてはなりません。
 ことばは必要です。
 キャッチコピーには 工夫が要ります。
 それに対する反応は 人ぞれぞれ まちまちです。

投稿日時 - 2010-08-08 12:01:42

ANo.8

 ANo.4
 ありがとう。その通りですね。私も人間である事はいうまでもありませんよ。
 そして、・・・・・ということです。大きな顔をしてはいけません。ご忠告をありがとう御座います。

投稿日時 - 2010-08-08 10:50:39

お礼

 ・・・

投稿日時 - 2010-08-08 11:01:13

ANo.7

 必ずしも実利的ではない哲学の他に、ののしるともなりそうな表現をしなければならない哲学もありうることは、破落戸とチンピラの偉大さを垣間みせるものです。

投稿日時 - 2010-08-08 09:47:43

お礼

 放っておけずにあふれ出る愛のことを 《ののしるともなりそうな表現をしなければならない哲学》と言うんですね?

 どうでしょう。
 ★ 必ずしも実利的ではない哲学の他に
 ☆ そのような哲学があるとかたくなに思っている――しかもそのことで死んでも無駄死ににはならないという意味でしかたがないとさえ思っている――バカ人間もいるんですねぇ。
 バカをバカと呼んでも仕方がないが その心は見誤らないように ね。

投稿日時 - 2010-08-08 10:58:28

ANo.6

 bragelonneさんへ

 確かに、仰せの言語でのクリスチアニズムも、将又、ブディズムも敢えて言わせてもらえば世の善男善女(私も実はそうですが)の信仰宗教となり終えたかのように見えます。でも私達大衆はたくさんの精華を生み育んできた肥沃な土壌です。前者も本来、理論と原理の道であり、後者も無論そういう自己自身が歩んでゆく道です。単なる拝みの神や信仰ではなり。その祭儀には一定の理論と原理があり、そのことを認識できなくなっている事は否めない。
ではbragelonne 大兄夫子はそのことをご認識か。多分そういう秘密教の次元のことを未だ読み解いてはおられないと、判断しますがいかがですか?

“経験合理性”はbragelonne 大兄夫子と夫子が選ばれた方々のみが具有するか。
私はどの意識もその“経験合理性”という存在性において存在し志向していると存じます。この“経験合理性”は無論共有的なものにはちがいなかろうが、外見的には多様な様相を呈しているので、大兄夫子にはあいつには“経験合理性”がないというご判断を誘っていると存じます。なおいえば、虎には虎の、百合には百合の“経験合理性”が来ていることをそのうち、ご経験されると存じます。仰せの“亜流の思想”が仮にあるとすれば、或いはその中の何かが大兄夫子の思想を“亜流の思想”だとおもっていないだろうか、その一つの現われが、大兄夫子のこの質問の“亜流思想”論でしょう。

 消化と吸収のプロセス、そして自己化とそのお返しのためにはどうしても、“ああたらこうたらいじくりまわ”すという見え方があり、その多様の中のどれもが、示唆的でインスパイヤしてくれます。人という存在は大兄夫子のようにはいっぺんに極地には行き着けないものです。
私達、しがない善男善女は所詮は“ああたらこうたらいじくりまわ”しているのですが、この肥沃な創造界がこれまで偉大な精華を輩出させてきている事はご存じのとおりではありませんか。市井に隠れる大聖がどんなにこの肥沃な土地から養分を受取っているか。どうかこの母なる大地母神を亜流とかチンピラとか、ごろつきとかという表現ではお考えなさらないように、心痛の中から切に訴えます。

投稿日時 - 2010-08-08 09:27:06

お礼

 ★★ 神以外に存在がない。
 ☆ かくのごとく
 ★☆ 人という存在は大兄夫子のように〔は:削除〕いっぺんに極地に〔は:削除〕行き着け〔ない:→る に変える〕ものです。

投稿日時 - 2010-08-08 10:48:51

ANo.4

 bragelonneさん
 私はbragelonneさんの今回のことば遣いや見かたに批判をもちます。
 でも従来、私も同じような(多分貴方からみるとそんなのではないというでしょうが、)思考をもつことがありましたが、他人の言葉で自分の思考した結果をみることで、何かそれを出られそうに思います。

 特に例えば、“思想としてのゴロツキやチンピラがのさばる”というフレーズは余りに一方的ではないでしょうか?或いは不遜ともいえないでしょうか?或いはまた、自己の視点の狭隘性を示さないでしょうか?
 貴方から“亜流の思想”とみても、どの人のどの思いもその世界の中で決してそういうものではないのではないでしょうか?
 話は少しずれますが、私は進化論に欧米の人間存在に対する思いあがりなどを観ます。
 兎は兎として最高で、そこに最高存在が居なくてどうして兎でありうるでしょう。
 虎にしても虫たちにしても。
 それらがそれらとして追い求める。そういうものではないでしょうか。
 そうして外見的相対性で、この世界は続いてきているのではないでしょうか。

 bragelonneさんへの嫌がらせに類した回答を何度もみます。
 貴方の偉いところはそれを受けている事です。
 でもその嫌がらせとそれへの対応もそれぞれそこにあるものが存在していますね。
 仰せの亜流とかいう思想の存在性は、追い求めなくてもそれ自身で存在し、それ自身で変化し居なくなる。
 貴方も私も嫌がらせの人もやがていなくなる。

 信仰(いろんなレベルと位相がありますが、仰せの信仰)も、考える事も、意味はない。
 何の効果もない。無論信仰や思考はなければならないし、あるべきなのですが、それは主たるものでは全くない。
 貴方の、あなたのことばでの(解釈理解する限りでの)、その限りでのこの質問も、亜流であり、他の最高の思想とまったく変わらない。
 兎と亀、虎と牛、人間と神どこが違いますか?
 全部が神ですよね。神以外に存在がない。
 そういうふうにいっている私は、bragelonneさんを陰ながら時々見に参ります。
 

投稿日時 - 2010-08-08 07:29:58

お礼

 ★ 神以外に存在がない。
 ☆ こう言っているのが かなしいかな 誰もがそうであるところのただの人間でしかないのに 大きい顔をし始めると ゴロツキになります。

投稿日時 - 2010-08-08 09:48:47

ANo.3

末法の世として、チンピラ・ゴロツキがあふれかえっているならば約束通りではないでしょうか。釈迦が言わんとしたことは亜流があふれるということで間違いないと思います。

ところで、マザー・テレサは、人道的というありかたを厳しく否定されたように記憶しています。神の道を神の望みに従って神の言いつけどおりに歩く方でしたね。真摯なクリスチャンというのはいずれも大体そのようなものだろうとわたしは思っています。しかし、掟に支配されるのが人なのではなく霊に支配されるのが人なのだといわんとするあのパウロの文脈を思うと、現実問題としてクリスチャンて何を重視してんのかなあと甚だ怪しみます。一人の幸福や安息よりも聖書のことばが重要なのか? 一人の人間が和を尊しと身辺を見回すよりも聖書にある文字を追うことが重要なのか? そういう怪しみですね。

先日、難しい鬱を患っているクリスチャンの方の質問がありましてご一緒しましたね。それはそれとして、一般的に考えてああした場合にクリスチャンの言うべきことは、悪魔を通して試練する話や、主に助けを求めるかどうかを見る話や、悪魔の試練も霊の導きだという話に決まっております。耐えられない試練は課されないとも言います。
これらは、犯罪被害者や病人の根性を鼓舞するなかなか良い方便だとわたしは常々思っております。が、いかんせん基本がそこにあるとは思っていないものですから、試練だ導きなんだ、という聖書のことばが果たして大事か?という怪しみがあるのですね。
鬱のクリスチャンの方の場合に、家族にベランダの蕾が開いたねと言われても応じることができない、そういうところを家族にありがとうね、花にありがとうね、主に感謝します、と口にしていきましょうよと言うわけです。それで充分神の言いつけどおりでしょうと思い、マタイもルカもコリントにも囚われることのないように、と思います。
そんなわたしからすると、試練て書いてあるから試練と思えとか、助けを求めよと書いてあるから助けを求めよとか、試練も導きだと書いてあるから耐えよとかいう、こういう思考および実践はクリスチャニズムの本流なんですか亜流なんですかというのを伺っておかなくちゃな、という気持ちです。

(Q&Aで見解を述べまた見解を返礼として頂くのは、わたしにとっては「少ない数」であるほど好ましく、また、考察を要する重厚な議題は軽い話と違って対話式では負担にもなりますので、一回でてきとうにまとめて下さると嬉しい。。。)

投稿日時 - 2010-08-08 05:41:51

補足

 余計な主題ですが わたし自身が絡んでいると思われるので ひとことです。

 あまがっぱさん ましゅさんには ひとこと〔あらためて〕わびたほうがいいと思いますよ。
 言い方が過ぎたものでした。

 なぜ蚊帳の外にいるはずのわたしが口をはさむのか。
 ちょとつくんと仲間だと言ったのはわたしだからです。
 その関係で あまがっぱさんは心にあることとしてよりも その外に現われたかたちにおいて拒絶し その仲間関係からは隔絶されているのだと明らかにしたかった。がために ヘンな言い過ぎになったんだと取ります。

 ちょとくんは いまのまま好きにさせるか それとも心を入れ替えて 互いに手をたずさえて協力する場合も出てくるかでしょうね。
 ましゅさんは 分かりません。わたしがとやかく言う立ち場ではありません。
 わたしが言えることは 主題を問い求めるときに互いに超党派で考えるということは大事だと気づいてからは もともとの・大道は無門を履行しようとは思っております。ただ いかんせん歳に似合わず血の気が多いもので 思ったとおりにことが運ぶとは限りません。ひとごとのようにこう弁明するほかありません。

 不一にて。

 * ましゅさんは よくもわるくも哲学としてはまだ原石です。(へへっ)。

投稿日時 - 2010-08-10 09:55:22

お礼

 あまがっぱさん ときどきはおとづれてください。この質疑応答の場のためであり ひいては日本のためです。
 お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 いっぺんにまとめてみましょう。

 ゴータマ・ブッダがもしほんとうに末法を唱えたのだとしたら それは けっきょくただの言い訳だと考えます。無神論の徹底が足りなかったという意味です。ともかく時空間を自由自在に飛びまわっている自身の姿を語った時点で 無神論もへちまも亡くなってしまいます。
 さらに弥勒菩薩を持ち出してくるのは 人びとへの気休めです。
 ★ 悪魔を通して試練する話や、主に助けを求めるかどうかを見る話や、悪魔の試練も霊の導きだという話に決まっております。耐えられない試練は課されないとも言います。
 ☆ このたぐいの話を 末法を持ち出し歴史の過程としては中抜きで 同じように取り上げておいたというのみではないでしょうか。
 ですから 諸法無我なる無神論を徹底させるか それとも浄土系のように有神論に――これも 親鸞のように徹底して――切り替えるか どちらかではないでしょうか 亜流でない場合というのは。

 さて 是非とも
 ○ 文字は殺し 霊は生かす。
 ☆ を追究してみてください。人間が表象しうるあらゆるものごとが 《文字》です。比喩としてです。むろんおっしゃるように
 ★ 掟に支配されるのが人なのではなく霊に支配されるのが人なのだといわんとするあのパウロの文脈
 ☆ であるのですが ここには案外見落とされていることがあります。イエスの出現は――パウロの解説をとおして―― 戒律のモーセから信仰のアブラハムに戻ったという側面があることです。石の板に書かれた戒めによってではなく 胸の板に刻まれた聖霊 これがひとを生かす。ですね。

 では アブラハムの信仰に戻ったのなら その《聖霊に支配されるのが人なのだ》でおしまいか? それでは イエスの現われた意味はなくなります。
 ひとことで――この文脈で――言えば なるほど人はその自由意志が与えられているとは言うものの この自由意志もけっきょくすべて聖霊のはたらきを凌ぐことはできない。この認識〔にしか過ぎませんが〕には異論がないようです。
 この趣旨をめぐっては 人間の自由を擁護しようとしたが 聖霊の力には勝てなかったという意味のことをアウグスティヌスは書いていたと思います。そうなんですが それでもかれはさらに一歩すすみます。
 この聖霊は なるほどひとを隅々まで支配している。しかも人がこの聖霊に就くことによって かえって聖霊はひとを立てるのだと。人の自由意志を そこでこそ立てるのだと。
 ▼ 《愛するものは現在するであろう。欲するがままに生きることが真実となるであろう》
 ☆ という意味あいのことを言っています。

 たぶん 四の五のと付け足す必要はないと思います。
 出典が分かったら 補足欄にでも書きこみます。
 どうでしょう?

 * マザーテレサについてわたしは詳しく知ろうとしたことがありません。ひとこと それでも強引に言うとすれば かのじょは その生涯によって 神に栄光を帰したのか それとも・・・という問いがまだ残っています。つまり
 ★ 神の道を神の望みに従って神の言いつけどおりに歩く方でしたね。
 ☆ もまだ――なんといぢわるかとお思いになるでしょうが―― 《文字》の域を出ませんから。
 じんるいはこれから そういう聖霊の時代に入ると考えます。キリストのキの文字も出さない表現の時代です。それでこそ いろんな国のいろんな民主主義がそれぞれに栄えていくことと考えます。

投稿日時 - 2010-08-08 09:44:45

オコリザルです。
神秘主義的思考を果敢に論理に直す事もしている私ですが趣味的神秘主義には困ってます。

投稿日時 - 2010-08-07 23:58:48

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 具体的にどういうものか分からずに言ってしまえば
 ★ 趣味的神秘主義
 ☆ は ただお遊びで刺身のつまにでも出して来ているのではないかとも思うのですが どうでしょう?
 刺身そのものとして出して来ているのでしょうか?

 一般に神秘主義は 分かるところをこちらからも解釈して 意味を確かめ合いながら 話をすすめるしかないように思いますよ。どうですか?

投稿日時 - 2010-08-08 00:38:38

ANo.1

 bragelonne さん、スルーしなければいけなかったのでしょうが、投稿させてくださいな。
 仰せのように信ずるというのでは、どうも二重的で嘘的ですね。
 でも考え、論理演繹するというのもそれだけではあまり何らかの結果をきたいしにくいのではないでしょうか?
 仰せのように、離れたところにあると思うことについては、むかしのシャンカラも笑止なことよとコメントしたということを聞いております。

 それにしても、投稿させていただいたことの本旨は、はbragelonne さんが「亜流の思想」、「思想としてのゴロツキやチンピラ」称してご批判されておられる事柄の一端でもうかがわせていただくとありがたいと存じましたので。
 私にはそういう表現での対象事例が思いつかないものでして。
 それっておまえのことだよ、といわれるかもしれないので恐る恐お訊ねします。
 応えてくれますか?それとも皆さんのご回答をお待ちしましょうか?

投稿日時 - 2010-08-07 16:59:29

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