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へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか

 たぶん《へび》は 《デーモン(鬼)》と呼べるのではないか。
 そして このデーモン作用は 人間にとって社会的な関係において起こる。

 (α) このデーモンは 縁起共生の空観において消えるというのか?

 (β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか?

 (γ) 人間(現実)は変わるか?


 ○ 《へび》についての参考資料:~~~~~~

 星を散りばめたこんな時間に 独りして
 そこで
 もし風の音でないとすれば 泣いて
 いるのは 誰かしら

 今にも泣こうとしているわたしのこんなにそばで
 いったい 誰が 泣いているの?


 何か心の深い意図に対して憑かれたかのように
 わたしは わたしのこの手は そっと 目鼻をかすめて
 わたしの中から 多分それは わたしの弱さの中から
 一滴のしづくがこぼれるのに
 触れたように思っている。

 〔わたしは〕わたしの運命をおもむろに超えて
 《もっとも純粋なるもの》が
 静寂のかなたから
 この傷ついた心を照らし出してくれることを
 待っている。

 〔大波は〕大波のうねりは わたしの耳に〔は〕
 咎めのうねりを囁いている。――

 岩礁の喉の方へと 欺かれた藻くずを
 ものを苦々しくも呑むことになったような
 心を締めつける嘆きをざわめかせ
 送りやっている。

 
 髪を逆立て 凍ったような手をかざして おまえは
 何をしているの?
 あらわな胸の谷間を抜ける こんなに執拗な
 風に吹かれた落ち葉がざわめき
 つづけるのは
 何故なの?

 この未知の天空につながれて
 わたしは きらめいている。

 災厄を求めているわたしの渇きに 限りない天体は
 輝いている。

 ・・・

 わたしは ここまで
 わたしを噛むあの蛇を追ってきてしまったのかしら。
 ・・・

 (ポル・ワ゛レリ:若いパルク La Jeune Parque )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 * あるいはつまり

 (δ) 将来への展望といったたぐいの主題は 哲学にならないか?

投稿日時 - 2010-08-11 21:16:11

QNo.6103068

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

>あっ デーモンとエンジェルとの共存を前提にすべきことを言っていますか?

 前提にすべき、というよりも、デーモン-エンジェルの回転を超えて、デーモン-エンジェルと”縁起共生の空観”との回転なのですから、
 デーモンがエンジェルに回転しても影響はありません。日常では、大部分が半デーモン半エンジェルという共存だとは思います。

>つまり 空観も 《わたし》の生きる動態です。つまり一般に 縁起=縁起共生=空観です。

 なるほど、いずれも《わたし》の生きる動態で結構だと思います。
 私は、縁起共生という場合、《わたし》の独自性が極一部として、その全体の中に残っていると《わたし》が知っている《わたし》の生きる動態で、
 空観は、その独自性が全体の中に溶解消失するとみる《わたし》の生きる動態かと感じていました。

>一人ひとりの地道な努力としての《回転》の積み重ねでありこれが 社会全体としての動態的な過程に現われてくることであろうと。

 誰からみた場合でしょう。一人が、《回転》したなら、その人の社会は既に劇的に変容しています。本当に起こるかどうかはわかりませんが。
 それを知った他人からみたら、社会がほんの少し変わったことになります。
 何も知らない他人からみれば、社会はまったく変わっていないでしょうが、どんどん積み重ねられて、周りと話などをするにつけて、
 《回転》の香りが漂うようになれば、彼にも《回転》が起こるのかも知れません。

投稿日時 - 2010-08-16 08:33:56

補足

 おぎないます。

 ○ 回答No.21は 《ププルルさん》ではなくて ヘイボーイさんでした。
 ☆ 澄みません。おわびします。

 ププルルさんというのは ほかの質疑応答でのご回答者でした。
 ちょうどいま エンジェルの羽根だけでデーモンの海から飛び立とうというような思想を披露しておられますので その頭で 地勢ペンさんになら あっ これはよい 持って来いだと思ったところから勘違いして出てしまったもののようです。
 

投稿日時 - 2010-08-16 09:41:58

お礼

 地勢ペンさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 一人が、《回転》したなら、その人の社会は既に劇的に変容しています。本当に起こるかどうかはわかりませんが。
 それを知った他人からみたら、社会がほんの少し変わったことになります。
 何も知らない他人からみれば、社会はまったく変わっていないでしょうが、どんどん積み重ねられて、周りと話などをするにつけて、
 《回転》の香りが漂うようになれば、彼にも《回転》が起こるのかも知れません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしはこのまとめの文章で 満足です。文句ありません。
 彼岸ではなかった。地続きであった。ここに里程標をつくって立てておいてよいはずです。
  
   われらこの峰に到れり。
   展望すこぶる好し。
   人びとよ 来よ。


 ☆ 地勢ペンさん いまちょうど直前のご投稿(No.21)に対してわたしは取り急ぎ応えたところですが あなたがそのププルルさんに 答えてあげてくださいませんか。きっとわたしのぶっきらぼうな返答より 分かりやすい説明をあたえることがお出来になると思います。そう感じさせますよね 今回のご回答は。
 文句ありません。疑問を投げかける恰好になっていますが たぶん問題はないでしょう。

 ★ ・・・誰からみた場合でしょう。
 ☆ って言ったって 自分からでしょうし ほかの人たちと互いに考えをやり取りして話し合いもすることでしょう。

 ★ 《わたし》の独自性
 ☆ もしお気が向いたら ちらっと見てみてください。
 →【Q:ひとの個性とは 何でしょう。】( noname#80116 は わたしです)。
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4120187.html
  ○ 個性は属性か飾り物か。結果として 飾り物説に傾いたのでした。

 ★ 空観は、その独自性が全体の中に溶解消失するとみる《わたし》の生きる動態かと感じていました。
 ☆ 空観は 見方であり 《わたしがわたしである》ときの――最終的には――判断のあり方だと思います。そしてそれは つまり自由ということではないかと。
 意志の自由の 結果でもあり それを担保しうるものでもあるところの判断の自由なあり方。
 或る種の仕方では 脳天気のようなものです。エポケーですとか。



 ▼ (雅歌 4:1-16&5:1) ~~~~~~~~~
 恋人よ、あなたは美しい。
 あなたは美しく、その目は鳩のよう ベールの奥にひそんでいる。
 髪はギレアドの山を駆け下る山羊の群れ。
 ・・・

 恋人よ、あなたはなにもかも美しく 傷はひとつもない。
 ・・・
 わたしの妹、花嫁よ、あなたの愛は美しく
 ぶどう酒よりもあなたの愛は快い。
 あなたの香油は どんな香り草よりもかぐわしい。
 ・・・

 北風よ、目覚めよ。
 南風よ、吹け。
 わたしの園を吹き抜けて 香りを振りまいておくれ。
 恋しい人がこの園をわがものとして 
 このみごとな実を食べてくださるように。

 わたしの妹、花嫁よ、わたしの園にわたしは来た。
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

投稿日時 - 2010-08-16 09:32:56

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回答(29)

ANo.29

へええ
翻訳しっぱなしで
作者の履歴についてはまったく知識がないんだあ?

へんな仏文学者・・・(結局目立ちたいだけってコト?)

投稿日時 - 2010-08-17 23:20:41

お礼

 《おかまちゃん》って そのことを――つまり ワ゛レリのことを――言っていたのか。
 ま 作品とは切り離してちょ。

投稿日時 - 2010-08-17 23:44:43

ANo.28

色々と勉強不足ですが度々失礼します。

原罪はどうなんだろうなあ
こんな事を書くとナンですが
イエスキリストが十字架の上で
「彼らを許してください
彼らは何をしてくるのかわからないのです」
と言っているぐらいなので
彼らは原罪の呪縛からは説き離れない
と言っているようにも聞こえますがね、、、

そもそもが生きるために動物を殺すのは
現代社会では当たり前で罪なんか感じない
(ここは人の感覚や価値観の違いはありましょうが)
とされているのだろうと思いますが
元々農家だった所では
「食べ物を粗末にしてはいけない」
文化が継承されてますし
日本にも魚の鎮魂のための慰霊碑があったり
聖書で書かれているような子羊を捧げる行為は
やはり羊たちへの鎮魂の意味が込められて
いるように思えます、、、、。

前にも書いたと思うのですが
人間がアリさえ踏んでも気が付かないように
原罪は見えにくいけど自分らは自然と犯している
とも言えるのではないのでしょうか?

>【Q:悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。】
面白いですね
ふと小さい時にみたヤットデタマンの大巨神の
台詞が思い出されましたが
「罪を憎んで、人を憎まず」を思い出します。

まあ、正と正の戦いって
戦争とかを連想しますからね
本当に正しくたって負ければ悪ですからね、、、。

とりあえず締め切る可能性もあるので
取り急ぎですんまへん。

投稿日時 - 2010-08-17 22:54:49

お礼

 ヘイボーイさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 最近 この質疑応答の場は 回答者が質問者に――質問趣旨にかかげたたたき台に対して――質問するのだと言った事例を見ました。この質問にかんしては 質問者のわたしは たたき台についてかなり自信があるのですが いかんせん この主題は 神学だとか信仰の核心に迫るものにかかわっているので 決定版というのがないかも知れません。

 さて 思うところ感じたところをしるします。
 ★ 「罪を憎んで、人を憎まず」を思い出します。
 ☆ これは そういうことわざがあるのですから もっと徹底してみんなが考えていくとよいと思います。ちなみにアウグスティヌスの命題を引いておきます。
 ○ われわれは人を愛し欠陥を憎むのであって 欠陥ゆえに人を憎んではならず 人ゆえに欠陥を愛してもならない。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そもそもが生きるために動物を殺すのは
 現代社会では当たり前で罪なんか感じない
 (ここは人の感覚や価値観の違いはありましょうが)
 とされているのだろうと思いますが・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この主題は旧くてあたらしいものですよね。殺生を禁じるのなら 問題になります。
 わたしは 正直に言って 分かりません。
 もし恥ぢしらずの汚名をもらっても言うのだとすれば ひとことあるにはあります。それは 人間以外の動物は 《欠陥とか それを憎む》ということがないと思われることです。感情移入してあわれむという場合などはあるようですが それと殺生の事実とは けっきょく両立していますので 何とも分からないというのが いまの気持ちです。考えてもまとまりません。

 そうして そこにも《原罪》を見るということですよね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人間がアリさえ踏んでも気が付かないように
 原罪は見えにくいけど自分らは自然と犯している
 とも言えるのではないのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここに原罪を持って来られては 話が止まってしまいます。

 そしてその上でですが それでも次のご指摘はどこか違うように思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 イエスキリストが十字架の上で
 「彼らを許してください
 彼らは〔* 自分たちが〕何をして〔い〕るのかわからないのです」
 と言っているぐらいなので
 彼らは原罪の呪縛からは説き離れない
 と言っているようにも聞こえますがね、、、
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは ひとつには イエスによる原罪のあがないがまだ完了していない段階でのことだと考えます。弟子たちでさえ イエスが逮捕されたあと イエスを否認して 逃げていたくらいですから。
 ですから このはりつけと――物語における限りで――復活のあとでは アダムとエワの侵した原罪(その人類としての継承)は きれいに取り除かれた。こう受け取ります。
 とげは抜かれた。あとは患部の癒えていく段階だと見ます。
 神にとっては千年が一日だということで 現在はやっと二日が終わったところです。三日目に入って真夜中です。(別に真夜中でなくてもよいと思います)。 
 ともかくも《呪縛》は解けたと考えます。後遺症があるかどうかですが どうでしょうかねぇ。
 母斑――あざや ほくろ――として残っていると言うべきでしょうか。どうでしょう?
 この前史の母斑をたずさえてでも そうだとすれば すでにわたしたちは後史に入っているとも見られます。
 どうでしょうか?

投稿日時 - 2010-08-17 23:40:36

ANo.27

政府天下り金持ちのぼんぼん

法学部を出て
戦務局の諜報部員。

大企業の取締役秘書として労働者を抑圧したあと、くだらない本を売って金儲け。
「マスメディア汚染」の波にのって
  内容のない紙片(詩篇)を世界中にばら撒き、中央集権の足がかりを作ったエセ文人。

おかまちゃんにはぴったりの作家ですね。自称哲学者だというのもそのままです。

ご飯を食べるときは小指を立てないこと。女性でもそんなことはしてません。

投稿日時 - 2010-08-17 21:52:46

お礼

 なんのこっちゃと答え返すことも おっくうになるようなさえづりですね。
 もう閉めるよ。

投稿日時 - 2010-08-17 22:02:46

ANo.26

訳詩を拝見いたしました・・・
蛇にかまれている人は、おかまちゃんですか?
補足をお願いいたします。

(証言例 解雇されたと主張していた人は、実は、希望退職でした。)

投稿日時 - 2010-08-17 17:27:47

補足

 閉めるのをもう一日 延ばします。

投稿日時 - 2010-08-17 21:21:24

お礼

 たらこさん こんばんは。ご照会をありがとうございます。

 《若いパルク》のパルクは ローマ神話における運命の女神パルカイ三人のうちのひとりです。ギリシャ神話では モイライと言ったそうです。詳しいことは 何かでしらべてみてください。

 ですから この名前を用いて ワ゛レリは 人間の女性に当てて書いているはずです。それで 女性言葉にしています。
 男でもなければ おかまちゃんでもありません。
 なお《蛇に咬まれる》というのは むろん比喩ですから ご注意あれ。

投稿日時 - 2010-08-17 20:05:47

ANo.25

それでは、調子に乗って、ご質問はとは関係ありませんが、私が実感している、リアル、現実、ということについてだけ。

自分の外側にある現実は、自分が消失してもそこに存在するのだから、スタテックな現実は変化しないといえるのは確実なところです。
一方で、その現実を、自分の現実たらしめているのは自分であるから、現実は自分の反射であることも確実ですね。

現実は変化しない。一方で、現実を自分が如何に把握するかで現実は変化する。また、自分の変化によって同時に現実も変化する。

などと思うんですね。現実は変化しないが、変化するという感覚。


現実、リアルの意味は違いますが、リアルが充実している連中  リア充 なんて言葉が3~4年前から使われるようになったですね。

この言葉からものすごく感じるのは、リア充の連中のリアルと、そうでない連中のリアルは、果たして同じものなのかです。

もちろん、各自のリアルということを指してはいるものの、前者と後者ではリアルは別のものだと想像するわけです。

前者の方はこのリアルから遠く、後者の方が遥かにリアルではないかと。

リア充からはリア充なんて言葉は決して生まれない。つまり、リアルが充実していない連中だけに存在している”リアル”なのです。


定義はいろいろあるとして、目の前の現実は変化せず、また、自分の現実は激しく変化するんじゃないかと思いますね。

投稿日時 - 2010-08-16 21:10:08

お礼

 地勢ペンさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ふうむ。
 ★ リア充
 ☆ 知りませんでしたから ヰキぺで調べました。どうも PCを使う側と携帯を使う側の間で どちらの側がこの《リア充》なる言葉を用いるかで 《リアル》という語の意味が違ってくるということでしょうか?

 ★ リア充からはリア充なんて言葉は決して生まれない。つまり、リアルが充実していない連中だけに存在している”リアル”なのです。
 ☆ これは どうでしょう? 
 ★ 定義はいろいろあるとして、目の前の現実は変化せず、また、自分の現実は激しく変化するんじゃないかと思いますね。
 ☆ とおっしゃる場合の定義における《現実》とは 重なるところもあるが 異なるところもあるという結果になるのでしょうか。あるいは定義が異なるのではなく 一方の側は把握ができないから 実際の情況が異なるだけだとなるのでしょうか。
 地勢ペンさんは ケイタイ派の《リア充ないしリアル》について懐疑的であるようですね。そのぶん《現実》についても 違ってくるのかどうか。

 ★ 現実は変化しない。一方で、現実を自分が如何に把握するかで現実は変化する。また、自分の変化によって同時に現実も変化する。
 ☆ これは 人間が世代交代をして 人類として永続するといった条件とかかわっているのでしょうか。あるいは単に 同時代人のあいだでの多数派と少数派の違いの問題なのでしょうか。あるいはさらに 《変化》の種類がふたつか三つくらい違ったものがあるのかも知れません。
 そうですね。たしかに前史から後史への回転は いちばん大きな変化でしょうね。究極において捉えるなら 突然変異のあと 人類じたいが別の類に移行するかのごとくであるかも知れません。
 たとえば 情欲のない生殖といった主題。つまり それが実現するようになるかも知れないといった問題です。

 いやぁ ここでは 一区切りを打ったほうがよいでしょうか。
 もう一日くらいは待ちましょうか。

投稿日時 - 2010-08-17 00:39:38

ANo.24

No16とNo21を読んでみました。No16の次の箇所が象徴的です。

> ★ (γ)現実と言うかリアルは絶対不変でしょ?
> ☆ あぁ これは 《突然変異》のような変化を予定しているものです。でもそれによっても あたかも蛹が蝶に変態するかのように《人間(現実)が変わる》と わたしは予感しています。

 heyboyさんは、リアルは不変だと思っておられて、bragelonneさんは、孵化するように変わるとしておられる。私は、リアルは、簡単に変化すると思っています。

 この違いで、どれが正しいとか間違っているなんてのはないのですが、お互いに理解し合った方が複眼的にものをみるので視野が広くなるということかと思います。

 でも、理解するのに困難を極める場合もあり、一方からみると他方の言うことがアホに見えるんですよね。定義の問題でもなく・・・・

 自分、リアル、自分とリアルの関係性、そして、自分とリアルを超えた存在(悟、神、霊)をどう実感しているかですよね。詳しい話は、長くなりそうなのでやめますけど、他人が自分と同じとは限らず、どう実感しているんだろうかと想像できるかですね。

投稿日時 - 2010-08-16 15:15:54

お礼

 地勢ペンさん ご回答をありがとうございます。余分な仕事をわづらわせ申してしまったかも知れません。でも ありがたいです。助かります。

 ちょうど先ほど そのヘイボーイさんに返答した文章の中に次のような箇所があります。

 ☆☆ (No.23お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
 この質問は 言ってみれば真夏の夜の夢というような雰囲気で 互いに多少は頭を回転させてみましょうかという地点から出発しています。
 扱っていることがらも その扱い方も 重要な主題だと思っていますが 言わば踊り場でのやり取りであるかも知れません。
 そこからでも 貴重な展望が開けるとは思っての設問ですが 理論的な主題から入る道もあります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 地勢ペンさんにとってひとつの突破口のごとくして この質問に回答を進め与えるということをおやりになった。そして 人それぞれであるのかも知れません。切り口を変えてみるということも必要なんでしょうね。

 ★ heyboyさんは、リアルは不変だと思っておられて、bragelonneさんは、孵化するように変わるとしておられる。私は、リアルは、簡単に変化すると思っています。
 ☆ そうなんですか。そこまでとは思わなかったですね。定義の問題もありますし やはり切り口の点でも合意して進めるというようなことが望ましいのでしょうかね。

 ヘイボーイさんには そういう捉え方にはまだ到っていませんでしたが 別の切り口での質疑応答を紹介しました。その結果はどうなるか分かりませんが もう少し時間をおくこととします。そして 地勢ペンさんにさらにほかに何か関連事項などがあるかも知れませんし あるいは まとめの言葉でもがありましたら どうぞ寄せてください。
 ほかの訪問者や回答者の方々のためにももう少し開けていることにします。

投稿日時 - 2010-08-16 16:00:08

ANo.23

三度失礼しますね。

「悲観的」と言われれば悲観的ですね
ただまあ、どんなに強い信仰があっても
「死」からは誰でも逃れられないし
ほとんどの国々でキリスト教が広まったにも関わらず
今でも戦争やテロ、貧富や差別の差なども
消えません
(まあ納得いなら相手を殺してしまえが
昔は当たり前が現代はタブー化されたのは
大きな進歩ですが)

ひょっとしたら自分自身が
信仰の薄いと感じているので
それによってデーモンがいいように
操られているのかもしれません
、、、、、。

人によっては信仰は「感じる」ものなので
あまり考えてはいけないとも言われてますね

まあ、それに神は偉大な英知の持ち主ですので
自分の考えはちっぽけなんだろうなあ
とかも思ってしまいますけど、、、、。

愚痴ってばかりですいませんけど
神も悪魔もONとOFFで考えるよか
「最初から両方とも存在していた」
と考えるのが自然ではないのでしょうか?
と自分の考えを述べていますが
どうしてONとOFFになるのだろうか?は
生まれた時から教会に通っているだけの人間
(数十年さぼった時期もありましたが)
なのでそこら辺はそちらの方が詳しいでしょう。

確かに「信仰とは見えないものに確信を持つ」
なので現状だけ見て判断するのは
良くないかもしれません

まだまだ勉強不足ですが
聖書をもっと読み
ウィキペディアとかも
参考にしていきたと思います。

投稿日時 - 2010-08-16 14:40:55

お礼

 ヘイボーイさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。前回は 必ずしも一つひとつの事項についてお応えしませんでしたが どうも ヘイボーイさんは 基本的な主題をめぐって話を始めたほうがよいかも知れないと思います。

 この質問は 言ってみれば真夏の夜の夢というような雰囲気で 互いに多少は頭を回転させてみましょうかという地点から出発しています。扱っていることがらも その扱い方も 重要な主題だと思っていますが 言わば踊り場でのやり取りであるかも知れません。そこからでも 貴重な展望が開けるとは思っての設問ですが 理論的な主題から入る道もあります。

 もしお時間がゆるすならば いっぺん次のような質疑応答に当たってみられては いかがですか?
 むろんこの質問の中に出てきた主題ですから。

 【Q:悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみだ。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5552729.html
 ☆ これは それ以前からの問い求めを踏まえており かなり掘り下げて探究をすすめていると思います。

 【Q:われわれは原罪を犯せしや?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5059303.html
 ☆ これは まだ追究の途中だと言わねばならない部分を残すと思います。ただ 人間にとって ふつうの悪または罪は起こりますが 《原罪》という概念は きわめて特殊だとも考えます。
 普遍的な罪として人間を縛るようなものは ないのではないか。むしろ 原罪が出て来たのは やはり神と人間との隔たりを示すためだったのではないか。根本的な絶対的な隔たりがあるということを 示す必要があった。けれども ことばが肉になった。
 この特異点のような事例は それこそ特異な物語だと言わねばならないわけですが それでも少しづつ じんるいの歴史は 進められて来ている。のではないか。《原罪》は 要らないのではないか。こういう・いわば問題提起です。

 なおわたしは アウグスティヌスを通じて 信仰が与えられましたが かれに一点だけ逆らって――しかも いちばん重要だと思われるかも知れないところのことで逆らって―― 水による洗礼は受けていません。どの教会にも属しません。
  【Q:水による洗礼は要らないのではないか? ――サクラメントについて――】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5406034.html
 ☆ 荷物のように多くなりますが ご紹介のみしておきます。
 一般的だと考えられるような読みや解説からは違って来ていると思われるかも知れません。いづれにしましても そういったあたらしい見方を ここでは問うています。どうなんですかねぇ。

投稿日時 - 2010-08-16 15:36:10

ANo.21

度々回答(?)してもいいのかな?
結構、聖書の言葉とかもスラスラ出されるので
かなりビックリしておりますけどね
でもちょっとだけ言われていただきますと
哲学は解釈の仕方などあるので
これが正しいこれが間違いとは無いのでは?
と思いますけど、まあお手柔らかに、、、。

(α)の補足を言いますと
この世は陰と陽で成り立ってますので
悪と善は両方存在すると思います
もっと簡単に言えば光が当たれば
影が存在すると言ってもいいでしょう
ですので立方体を真上から光を当てれば
完全に影は消えたように見えますが
横から見れば薄っすらと影が出来るのと
一緒ですね(この理屈は当てはまっているかは
わかりませんが上からしか見ないか
他から見るかの違いなのでしょうか?)
自分的にはデーモン≒悪と考えているので

(β)の「原罪」についてですが
自分はこうのように解釈しています
確かに聖書でも人間に元々、
罪は無かったと言われてますが
イブをそそのかした蛇そのものが
デーモンであり悪そのもではないでしょうか?
(ただ、原罪が起きた後で蛇も
今の姿に変えられたと言われてますので
元々の蛇も悪ではなかったのかもしれませんが)
旧約聖書は神を擬人化しております
しかし、ここからは自分だけが考えた仮定ですが
特殊相対性理論における時間の遅れが本当であるなら
自分たちと平行した異次元が何層にも存在して
その見えない意識みたいなものによって
操られているのではないのだろうか?と
確かに神的な存在あるのだろうけど
「原罪」を意識するために操られているのかも
しれないと想像の域は超えませんがね、、、。
(あくまで仮定なんで深く
突っ込まないでくださいね(汗))

鬼や復讐心ですが
こんな事を書くとアレですが
その人の立場や都合ですから
たとえ元が鬼や復讐心からでも
所詮は「勝てば正義」ですから
人間のきっかけとも取れますけどね
、、、、、、。
ケースバイケースにもよりますが
復讐心≠悪ではないとは思います。

(γ)については
>《突然変異》のような変化を予定しているものです
いわゆる「特異点」ってやつですか?
数学者でもないので文字しか知りませんけどね(大汗)
>現実と言うかリアルは絶対不変でしょ?
まあ本当の事を言うと自分の理想です
「諸行無常」って言葉も知っているので
実際は見えない速度で世の中は変化はしてますけど
某テレビに出てた派手で口うるさいオバハンが
「人間は3度、死ぬ目に会う」と言っていたので
まあ、そう言う事なんでしょう。

ちなみに自分的には
(イザヤ書11:6-8) の事は
将来的にはほぼの動物がペット化された光景を
表したものかなあって
うちの教会で牧師の説教を聞きながら
そう思いましたけどね。

まあ、なんかそちらの話と食い違いはるのですが
かんべんしてくださいませ m(_ _)m

最後にまあ気になったのは
>いまでは――イエスの出現のあとでは―― まったく問題にならない。こう思います。
うーん、罪が赦されたって事でしょ?
ただ、ここら辺も牧師も言いますが
「イエスキリストを信じたから
劇的変化があったか?
と言えばそうでもないです」と
どう言ったらいいのだろう?
まあぶちゃけキリストが罪を背負ったから
何してもOKとは違うと思いますし
主の祈りの一節でも
「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、
我らの罪をも赦したまえ。」と言いますので
クリスチャンは神から赦しの特権は得たけど
それからの努力はやっぱ自分次第ですからね。

なんか駄文ばっかですいません、、、、。

投稿日時 - 2010-08-16 04:56:50

お礼

 ヘイボーイさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。
 取り急ぎ お応えいたします。


 質問者が答えに納得したとき あるいは 互いの情報交換として一区切りを打とうとしたとき やり取りは終わります。

 ▼ (マルコによる福音 1:15) ~~~~~~~~~

  ――時は満ちた、神の国は近づいた。
   悔い改めて福音を(* 福音において)信ぜよ。


 ▼ (マタイによる福音 3:8-9 ) ~~~~~~~

  ――悔い改めにふさわしい実を結べ。
   《我々の父はアブラハムだ》などと思ってもみるな。
   言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを
  造り出すことがおできになる。


 ▼ (マタイによる福音 12:28) ~~~~~~~
  ――しかし、わたしが神の霊で悪霊(* デーモン)を追い出している
   のであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ ヘイボーイさんは なぜ悲観的なのでしょう? 影を強調するのもいいでしょうけれど 光も強調してくださいませ。

 取り急ぎにて。

投稿日時 - 2010-08-16 07:10:11

ANo.20

>どうも故意に話を ちがう方向に向けようとしていませんか。

 いえ、向けようとしていません。

 あだ討ちの気持ちを回転させる  復讐するは我れにあり 《目には目を 歯には歯を》も神への畏敬などなどが
あったとしても、その感覚がある以上、”縁起共生の空観”以前だと感じていたということです。

 あなたのおっしゃる”微妙”の輪郭を曖昧なままにさせないことが、このご質問の答えになるのではないでしょうか。
 中立のお立場も”ただの記号であり言葉(つまりその限りで 観念)”で説明し出すとどちらかに寄ってしまう傾向がありますね。

 この”微妙”を知り得ないこととして、”縁起共生の空観”側に置くなら、デーモン作用が消えた後史にひとは入ることができず、
 感覚、感情、直感なりの知り得る対象であっても”縁起共生の空観”側に置かれるならその分はひとが入る余地があるという
 ことではないでしょうか。

 ”縁起共生”には個人の独自性が極一部として残っているのに、”空観”にはそれがありませんよね。
 ”縁起共生の空観”は、もともと微妙な表現かとも思われます。


>社会的な交通の流れに

 果たしてこれは”縁起共生の空観”の中に溶け込むんでしょうか。
 それぞれの事柄で具体的に知り得たものは溶けませんが、知り得ないものは溶けますか。

投稿日時 - 2010-08-15 10:00:21

お礼

 地勢ペンさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 右に揺れ左に舵を取りして われわれはかなり核心に迫って来たのではないでしょうか。

 ★ あだ討ちの気持ちを回転させる  復讐するは我れにあり 《目には目を 歯には歯を》も神への畏敬などなどが / あったとしても、その感覚がある以上、”縁起共生の空観”以前だと感じていたということです。
 ☆ この個所でも確かに 微妙な問題点が起きていると見るべきでしょう。
 オホケ・ヲケ兄弟の親の仇打ちの話では 確かその復讐心を或る意味で回転させて治めたその理由として次のようだったと思います。敵のワカタケルは 父親のオシハにとって従兄弟にあたること。そして首長の職に就いた人間であること。これに敬意を表したとのこと。
 つまりたとえば 存在としてひとは とうとい。罪を憎んで人を憎まずの思想には触れていない。まして――情感も広い意味では 愛であるけれど 基本的な理論としては――愛の問題だとも言っていない。
 微妙ですね。ですから 《後史の芽生え》と見ておけばよいかも知れません。

 《復讐するは我れにあり》という神の言葉を 自己の信念や思考を超えたところで こころに抱いて実践したいし その社会的な実現を願うという志向性は やはり後史の芽生えだと考えます。そのとき 社会全体をみれば《目には目を歯には歯を》という慣習が 否みがたい現実であったとしてもです。

 あるいはこの《微妙な問題点》というのは 確かにおっしゃるように次の側面をも持ちます。
 ★  中立のお立場も”ただの記号であり言葉(つまりその限りで 観念)”で説明し出すとどちらかに寄ってしまう傾向がありますね。
 ☆ これは 前史から後史への回転が あくまで・どこまで行っても かなしいかな ひとりの人間の《主観》の中での出来事だということです。(《かなしいかな》は 《幸か不幸か》と置きかえてもいいです)。
 ですから ひとつに たとえ理論としてまとめたとしてもその理論が第一に大事ではないということ。ひとつに それゆえに いったいこれは哲学の問題なのかといううたがいが おそれとして つねに起きあがるということ。
 でも これらの事情をすべて飲み込んで その上でおそらく 哲学はみづからの姿を現わすでしょう。
 そこでこそ哲学の出番になると言うべきかも知れません。その主観の内部事情を分析し できるだけ共通の要素を取り上げて 互いに共同化しうる主観とする方向が望まれます。(こうして ここまで来て かなり明るい見通しを持てるようになりました)。
 言いかえると これからの課題であるとも言っておかねばならないことでしょう。

 すみません。次の箇所が読みとりづらいです。乞うふたたびのご説明を。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この”微妙”を知り得ないこととして、”縁起共生の空観”側に置くなら、デーモン作用が消えた後史にひとは入ることができず、
 感覚、感情、直感なりの知り得る対象であっても”縁起共生の空観”側に置かれるならその分はひとが入る余地があるという
 ことではないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あっ デーモンとエンジェルとの共存を前提にすべきことを言っていますか?

 ★ ”縁起共生”には個人の独自性が極一部として残っているのに、”空観”にはそれがありませんよね。
 ☆ これは そんなことはないですよ。縁起の過程を 無明(煩悩つまりデーモン作用)からの悪循環と見るか それとも ブッダの智慧を踏み出し点として好循環として見ることにもそれを実現させることにも努めるか この回転は その回転そのものが 世界を空と見るところから得られるのだと思います。(そういうわたしの解釈です。専門家がどう見るかを別として)。
 つまり 空観も 《わたし》の生きる動態です。つまり一般に 縁起=縁起共生=空観です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
  >社会的な交通の流れに

 果たしてこれは”縁起共生の空観”の中に溶け込むんでしょうか。
 それぞれの事柄で具体的に知り得たものは溶けませんが、知り得ないものは溶けますか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 次の箇所ですよね。 
 ☆☆ (No.19お礼欄) ・・・因縁関係の社会的な交通の流れに対してその方向の転換をさせる転轍機のような役目をするときがあります。これは 回転に対して触媒となることです。
 ☆ たぶん要するに 社会の人間関係のすべてが どんでん返しされるときというのは ないかも知れません。一人ひとりの地道な努力としての《回転》の積み重ねでありこれが 社会全体としての動態的な過程に現われてくることであろうと。

投稿日時 - 2010-08-15 11:20:21

ANo.19

>前史から後史へ人間のこころは回転することがあり得ますね。

 デーモン-エンジェルの回転というようなことでしょうか。
 これはツンデレと違いがないような気がします。

 デーモン=エンジェル(裏表ということ) と ”縁起共生の空観”の境地のようなものとの回転かと思っていました。


>(β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか?

 エンジェルが現れたときにデーモンが消えたとするなら後史になるんでしょう。
 ”縁起共生の空観”はエンジェルではありませんよね。 
 

投稿日時 - 2010-08-15 03:24:51

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 どうも故意に話を ちがう方向に向けようとしていませんか。

 ★ エンジェルにしたがった精神性
 ☆ これは みづからの内面において何らかの理念――そうですね 愛としましょうか――をいだき この観念の前でまぁ 一種のデレデレ状態となり 外向きには人びとの前にツンツンとして澄ましている。といった場合にも解釈できる。

 これではおもしろくないというので あなたの初めの回答は 
 ★ デーモンと共存するエンジェルにしたがった精神性。そしてそこでは つねに希望がある。
 ☆ これでした。さらにそこでは 《デーモンは消えないし 自分でも保っている》というようなことだった。

 そうしてここでの仮説は これらはすべてが前史の段階でありそれぞれの情況を表わしているというものです。すなわち つぎのとおりです。
 ★ デーモン=エンジェル(裏表ということ) と ”縁起共生の空観”の境地のようなものとの回転かと思っていました。
 ☆ これですよ。これで後史に入ります。
 ただし 次の認識は微妙です。たぶん違っています。
 ★ エンジェルが現れたときにデーモンが消えたとするなら後史になるんでしょう。
 ☆ エンジェルの問題ではないからです。観念をいだいたり理論をつくるために操作したりすることで前史から後史に入ることではないからです。

 あるいは 復讐心と和解・融和との転回を何度も繰り返すことを言うのでもないからです。
 後史においては愛が 観念としてだけではなく現実としても ふつうの《好きと嫌い 愛情と憎悪 友好と敵対心 融和と復讐心などなど》を全部ふくみます。
 そしてその場合には 自分の中には 《デーモンとエンジェル》といった組み合わせでの観念がその情念になること(つまりやはり情念としてのエンジェルであったりデーモンであったり)は 見当たりません。消えたわけではないでしょうが もう現われません。見えないが無意識のうちにはたらくということもなくなります。
 どちらも ただの記号であり言葉(つまりその限りで 観念)であるに過ぎません。
 空観には そういった情況(もしくは 情況の見方)をともなうはずです。

 わたしは 依然として前史の情況が圧倒的に強い世界に居つづけますが その縁起の流れに対して言わば中立のような心で接しています。そうすると その因縁関係の社会的な交通の流れに対してその方向の転換をさせる転轍機のような役目をするときがあります。これは 回転に対して触媒となることです。
 (たしかに細かいことを言えば 見せかけだけの回転であれば ツンデレとしての転回にしか過ぎない場合もあるでしょう。天地がひっくり返る回転ではなく 前後左右裏表のそれにとどまる場合です)。
 どうでしょう。

投稿日時 - 2010-08-15 04:59:43

ANo.18

プライムエイプです。
a17で示した思索法はいろんな意味で大いに反省しています。

投稿日時 - 2010-08-14 21:30:03

お礼

 よろしくどうぞ。

投稿日時 - 2010-08-14 21:43:03

ANo.17

プライムエイプです。
a15のお礼、「わからん」は、実に明快です。
私も要するに判んないんです。
つかみどころの無さを解明する下調べとして、
http://okwave.jp/qa/q6027350.html
死の概念は業を境に二分して解釈できる。

このような規定もしてみました。
最近もこれを引用して「悪の組織ショッカーの総帥募集中」と言うのを立ち上げました。
そちらは削除されましたが、解らない理由を探るため家畜人を実験材料に猿回し形式で思索する試みです。
ちなみに猿回し形式の成果が「努力すればむくはれる」の質問です。
実験素材とは直接接点が無い思索法です。
解らない点はどうにかしようと模索しています。

投稿日時 - 2010-08-14 21:27:03

ANo.16

思いっきり横ヤリで
しかもこう言う仏教的な哲学が苦手ですが
自分が思ったままに回答します!!

(α)絶対消えない筈、
消えたのではなく単に見えないだけ。

(β)デーモン作用がよくわからないけど
でもデーモン作用はアダムが林檎をかじった時から
起こった事であり絶対的になくなる事はありえない
だから人が介入したぐらいで変わる事は絶対ないと
思われるのですが、、、、。

(γ)現実と言うかリアルは絶対不変でしょ?

(δ)十二分なほど哲学的ですがそれが何か?

デーモン作用が意味不明ですが(ほかもだけどwww)
自分的には縁起があるからONないからOFFではなく
常に縁起は起きているけどそれが目に見えるか
見えないかの差だけで起き続けていると仮定しますね
、、、、、。
(話は反れますが足元の蟻だって尊い生命はある
それにも気が付き踏まずに歩く事は出来ますか?
蟻から見えれば人間はデーモンですからね)

まあ、結果的に自分から蛇に近づいて噛まれるのではなかろうか?
って視点も面白いと言うか
いくら自分自身が神に反抗してやってのけたと思っていても
実は釈迦の手の平の中と言うのは自分的には普通かな?
神は自分の内にも外にも存在すると言うのが
最近の自分の考え方なのでー。

では失礼しました。

投稿日時 - 2010-08-14 19:17:17

お礼

 ヘイボーイさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 《横やり》かどうかは 問題ではありません。回答を寄せているかどうかが 大事です。そうではないでしょうか? そうでない投稿者も散見します。

 さて
 ★ (α)絶対消えない筈、 / 消えたのではなく単に見えないだけ。
 ☆ これは おそらくそういうことだとわたしも考えます。つまりすでに次のように述べています。
 ☆☆ (No.2補足欄&お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
 《神》から見て・もしくは世界の総体において 悪は《消えない》。個人にあっては 《前史から後史へ入った》なら その限りでデーモンは――《種子:記憶に蓄えられたもの》としては――《消える》。
 
 《消える》と言ってはいますが わたしの表現としては むしろもっと弱いものなのです。つまり・・・ただ《デーモンないし悪もしくは罪》が なにものかによって 覆われる。よって表には出ない。けっきょくその意味で《消える》と言っているのですから 《消えてはいない》とも言えます。
 でも前史での現われとは 一線を画しているのが 後史だと言えるとも思います。
 デーモンよ さようならと。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ (β) ・・・でもデーモン作用はアダムが林檎をかじった時から / 起こった事であり絶対的になくなる事はありえない
 ☆ これについては 二通りの反応を持ちます。
 (1) そういう定義でしたら 《原罪》という主題にかかわりますね。じつは これについては いまでは――イエスの出現のあとでは―― まったく問題にならない。こう思います。神は ひとが原罪に落ち入ることを知っていたわけですから その落ち入ったあとの人間をあらためてその原罪の《消えなさ》をイエスの登場によって削除したとわたしは考えます。
 言いかえると 原罪といった概念のなかった人びとのあいだで元から その無かった状態にありつづけたそのありさまに帰ったのでしょうし この《帰り》というのは アダムとエワの時までさかのぼるのですから けっきょくいまでは初めから 原罪はなかったことになる。こう考えます。

 (2) 《鬼》と訳しておきましたが ここで《デーモン》は要するに わが意志の《へそ曲がり》に発して しかもこれが凝り固まった状態(および そこに特には 情念が伴なわれることが多い場合)を言います。敵対心や復讐心に燃える場合というのを No.13のお礼欄に出しました。そういう事例のたぐいです。
 で この場合のデーモンは 一方で――たとえ前史から後史へと回転したとしても――たぶん消えない。他方で もし後史というのが現実であるならば すでに(α)のところで触れましたが 消えないけれども覆われ包まれもはや表に現われない。このようにいまは思っています。
 No.13のお礼欄に紹介した《復讐心》の物語――つまりそこでは そのデーモンが《あたかも消えた》――を参照してもらえればさいわいです。

 ★ (γ)現実と言うかリアルは絶対不変でしょ?
 ☆ あぁ これは 《突然変異》のような変化を予定しているものです。でもそれによっても あたかも蛹が蝶に変態するかのように《人間(現実)が変わる》と わたしは予感しています。ので 問いました。論証はありません。出来ません。その点 澄みません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 まあ、結果的に自分から蛇に近づいて噛まれるのではなかろうか?
 って視点も面白いと言うか
 いくら自分自身が神に反抗してやってのけたと思っていても
 実は釈迦の手の平の中と言うのは自分的には普通かな?
 神は自分の内にも外にも存在すると言うのが
 最近の自分の考え方なのでー。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ がおもしろいのですが これについてひとことです。
 もしこの釈迦か神かのなぞの何ものかが 心を持っていて 次のような空想の事態が現実になるようにじんるいをみちびいたとしたら どうでしょう?
 ▼ (イザヤ書11:6-8) ~~~~
  狼は小羊と共に宿り
  豹は子山羊と共に伏す。
  子牛は若獅子と共に育ち
  小さい子供がそれらを導く。

  牛も熊も共に草をはみ
  その子らは共に伏し
  獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

  乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ
  幼子は蝮の巣に手を入れる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ つまりこの事態をさらに比喩として デーモン作用のことを言っていると採ればどうでしょう?
 すなわち 《毒蛇の穴に戯れること あるいは 蝮の巣に手を入れること》が デーモン作用を受けたり追い求めたりすることだとすれば です。どうでしょう?
 

投稿日時 - 2010-08-14 20:13:07

ANo.15

プライムエイプです。
未来が死の予感に阻まれる現象と同じく、過去も死の予感に阻まれます。
心理学なり哲学なりのカテの悩み相談で、過去を思い出すと苦しい記憶ばかりで困るという質問が散見されます。この手の質問が少なくなっているのは事実ですが。
これが実質的に過去の記憶がが死に阻まれて歪曲する現象です。
象徴的なこの関係を克服すると、宗教では「永遠の生命を手にする」こう表現します。
この誤解を招きやすい言い回しを避けるように解説すると要するに「ときわたり」であり固有の特技としてESP化しています。
前史という言い回しは、この幻想としての死の予感に阻まれたその向こう側と捉えています。

投稿日時 - 2010-08-14 18:42:55

お礼

 分からん。




 ★ 前史という言い回しは、この幻想としての死の予感に阻まれたその向こう側と捉えています。
 ☆ いまの《わたし》になる前の状態を言うのみです。前史とは。《言い回し》ではありません。
 後史への回転がないという見解の人は そのままずっと前史にあるというそういう使い方をしているだけのことです。

投稿日時 - 2010-08-14 19:38:42

ANo.14

質問者様のもちだしてきた (-自分では批判であると信じ込んでいる-) わたくしへのコメントをもって一目瞭然であることは、質問者様が参照している文章は、マルクス主義の偏見に満ち満ちた日本語訳だけであるということです。それが明確となるそういう訳をしてあります。ゴミ屋敷のゴミ=マルクス主義者の屁理屈は、ちり紙交換に出して社会的価値を生み出すべきです。

新しい学問は、他人の発言を理解する必要性を無視するのでしょうか?ヘーゲル様に失礼だと思います。

推論でしか物を言うことが出来ないかわいそうな人。一度は原文を参照してみるといいですよ。

「自然人」なる概念は、ヘーゲルの前提とする概念ではありません。

ヘーゲルは、人間の本性の規定については、基本的に伝統哲学の立場をとっています。よりよく生きようとし、それを現実世界で実現してゆく人が、善性のあるひとです。法的高低は同時に道徳的高低であるということです。(同項目34及び35趣意)

共産主義的アナーキズムの指標=性善説は、ヘーゲルにはなじみません。

ヘーゲルの自然は、アリストテレス「デ・アニマ」の植物(マテリエ)・動物・人間の3区分が元であり、焦点として議論されているのは、それぞれを区別する指標です。

法的意味合いとしては、アリストテレス「政治」の「自然的本性により」のphysisが、概念と個人の間の関係を理解する上での鍵となっています。「人間は、ポリス的動物である」といった場合、seinの補語として、ポリスと動物的人間が分析的に分離されることになりますが、現実世界ではそれが分かれて発ち現れることがありません。

よりよくいきようとしない人間は、人間本性に即していないということです。人間の自然は、集団善であると同時に自己の善を漸進増加させて集団に貢献してゆくことです。集団の中にあることが、大前提です。

一人ぼっちは本来的人間の姿ではない。そういう意味で貴方の「ひちょりぼっちの哲学」は、(疎外の概念に即すと)マルクス主義のちょろさを更に改悪した、人間本性にもとるおかしな哲学です。

神を考えることは出来ない。わたしの心の窓は、おされた。と支離滅裂なシャーマニズムはやめなさい。貴方の宗教は、キリスト教ではありません。

「政治」について更に述べます。同様の文脈で、アリストテレスは、ポリスと人の起源をさかのぼると、西洋哲学の伝統的立場としては、「ポリスが先である」という内容について事実的に述べています。

自然人というのはヘーゲルを読み間違えた人のオレオレ造語です。

あとお礼でコピペを繰り返すのはやめなさい。

投稿日時 - 2010-08-14 16:35:37

お礼

 答えられないのなら しかたがない。としか言いようがない。

投稿日時 - 2010-08-14 19:34:07

ANo.13

わたしも悟りや縁起というたわけた詐欺には乗りません。その指し示す方向のみ敬愛します。

>問題は その回転のあと 依然として《デーモンに浸潤している》のかどうか

 愛とデーモンへの浸潤(あるいはデーモンからの浸潤)は、それぞれが独立した別のものではなく、同じものだと思いますね。

 したがって、人間が人間である以上、回転は起こらない、つまり、起こったなら人間ではなくなる ということかと思います。



 

投稿日時 - 2010-08-14 06:50:54

お礼

 地勢ペンさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ したがって、人間が人間である以上、回転は起こらない、つまり、起こったなら人間ではなくなる ということかと思います。
 ☆ そうですね。じっさいの《回転=こころにおける革命》の事例を取り上げてみましょう。

 ○ (あだ討ちの気持ちを回転させる物語) ~~~~~~~~

 昔昔の話ですが古事記によると。

 その昔 やまとの国では 市長(もしくは大君)の身辺でも 勢力争い・権力闘争が繰り広げられていました。
 次代の首長候補の市辺忍歯(イチノへノオシハ)のミコは 対抗勢力の雄略ワカタケルによって暗殺されました。その野原にともにいたオシハの双子の息子兄弟は 命からがら逃げて 権力を握った雄略ワカタケルから隠れて 身を長らえることにしました。

 ところが オシハの筋の飯豊青(イヒトヨノアヲ=女性)は これら兄弟を 播磨の地で探し出したと言います。迎え入れられ 二人はともに続いて首長の務めに就いたのですが そのとき 父の敵(かたき)を取らなければいけないという話が出ました。

 雄略ワカタケルは もう死んでいました。
 弟のほう(顕宗ヲケ)でしたかが 強硬派で 先に位に就くことを譲っていた兄(仁賢オホケ)に命じて ワカタケルの陵墓を壊せと指示しました。
 仁賢オホケは 行って その陵墓の端っこを少し破壊して戻ると その旨を伝えました。弟もすんなり これを了承しました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ という話です。これは われわれ日本人のこころを表わしていると考えます。《ゆづる》という精神です。ここには 二人だけではなく 日本人一般のこころにおいて 革命が生じたと言っていいのではないか。
 むろん すでに旧約聖書にも
 ▼ 復讐するは 我れにあり。〔と主が言う〕。
 ☆ つまりその一方で《目には目を 歯には歯を》という応報思想にもとづく或る種の敵打ちもありましたが このようにすでに――民族内部におけるのみとは言え―― 復讐は人間がするのではなく 神にまかせるものだと言っています。つまり 《回転》ですね。これは《ゆづる》精神というよりは 《なにものか大自然への畏れ》といった思想であるかとも捉えられます。

 〔《目には目を 歯には歯を》は 言わずと知れたハンムラビ法典の文句ですが そこでは 必ずしも報いとして同型の処罰ではなかった。身分の違いなどによって 応報の中身は変わっていた。それを 旧約聖書では 一律にしたとも言われています。《革命》ですね。
 さらにそれよりも一段とすすめた革命も――新約聖書で――説かれましたが あなたのおっしゃるように現実としてどこまで受け容れれればよいかは ただちに判断しがたい。ので あいまいなままにしておきます〕。
 
 けれども或る種の《回転》があったことは 事実ですね。
 敵対心や復讐心といったデーモンにかんして 前史から後史へ人間のこころは回転することがあり得ますね。


 イチノヘノオシハ事件の後日談も添えます。
 暗殺された野原の近くに 或る老婆が住んでいて じつはそのひとむかし前まだ若かったときに 暗殺の現場と その後イチノヘノオシハが埋められるところを見ていて その場所を覚えていたそうです。
 じっさい果たせるかな 掘り出してみると 歯が出て来て 出っ歯(押し歯)だったので 実証することが出来たとさという物語です。

投稿日時 - 2010-08-14 08:15:34

ANo.12

プライムエイプです。

> 人間と神との繋がりにより、人間はどうしても悪は無かった事にしていただきたいと、煩悩と言うか、わがままがよぎるでしょう。
 その点に冷静かつ自然体でありましょう。

この点は「悪に苦悩するならば」です。
単に「苦」を取り去ってくださいと我がままの如く願う事です。
多いだろうと推測しました。
このカテでもギャースカとうるさい。

投稿日時 - 2010-08-14 06:35:59

お礼

 ご説明 ありがとうございます。

 そうですね。
 話の前提として もし前史と後史を分けるお考えであるならば そこのところは はっきりさせて欲しいとはわたくしは思います。
 つまり
 (1) 後史に入れば――傷口はまだそのまま残りますが 刺さったとげが抜かれたわけですから―― 傷は時間の経過をともなって癒えて行きます。つまり傷そのものは時間的に癒えていくのですが すでにそのときには 《悪に苦悩する》ことが基本的になくなっています。

 (2) なおデーモン作用がそこら中を飛び交っていてこれに困り弱ることもありますが これは もはや《社会総体》の問題です。《人間関係》のもんだいです。《わたしがわたしである》わたしにとっては 外からやってくるというのが 基本になります。したがって 《悪に苦悩する》ことが基本的になくなっています。

 (3) それでは 前史にあるときには どういう状態なのか? むろん《悪や罪に苦悩する》ことが多いですし そこにはデーモン作用がはたらいています。したがって
  ★ 単に「苦」を取り去ってくださいと我がままの如く願う事です。
  ☆ この願いが 多くなっています。

 (4) ここで ひとつの試案なんですが 提案にもなります。こう考えられないかというものです。
  ○ 《わが身から悪を取り除き 苦を取り去って欲しい》と願うことは 一般に前史にあることを意味するが 前史におけるこの願いは 取りも直さず すでに後史としての心の発信にほかならないのではないか。

 どうでしょう?

投稿日時 - 2010-08-14 07:46:30

ANo.11

プライムエイプです。
答えの形ではなくフリーハンドで書いてみます。

消える、消えない、の問題なら、観念にある「死」の刻印が象徴的であっても、所詮代理表現であったのと同じく「消える」も形を変えた代理表現に過ぎず、「無い」。
消えることは無い。
そうすると絶対の悪は無いのではなく、有るが、しかし、生命とは無縁である。
このようになる。
人間と神との繋がりにより、人間はどうしても悪は無かった事にしていただきたいと、煩悩と言うか、わがままがよぎるでしょう。
その点に冷静かつ自然体でありましょう。
ソクラテスの対峙したデーモンは、自らが良く生きる事をたがい、過ちを犯すことを阻んだデーモンでした。
人間が知性を備える存在として完成するのなら、神はそのようなおせっかいをやめるでしょう。
その結果浮き彫りとなるのが、悪は神性に属す事柄であり生命には由来しないと言う事です。
実のところ私の見解では、知性的である事全てが神性と言う属性であり、それでいて、私と言う人間は別段神に飼いならされるわけじゃあない。
その源泉は愛ですが、表現するにあたって神を引用するべきではない。
自然界と人の間の調和の実現。
このように表現できる。
それをもって人間は完成する。
人同士で支え合うだけじゃあ、人間は未完成。

投稿日時 - 2010-08-13 22:23:11

お礼

 プライムエイプさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。今回も 互いの異同についてわたしの感じるところを そのまま つづってまいります。(その意味では わたくしもフリーハンドでです)。

 まづいくらかおどろくのは プライムエイプさんが 神をかなり多く持ち出して表現されていることです。
 言いかえると 神を持ち出すのなら 神学のごとくにもなりますから それ相応に――哲学としては――できるだけ経験合理性による説明が必要になると思います。
 それに――同時にですが―― 神とわたしとの関係としては あくまでわたしの自由意志は神に勝てないという前提があります。

 どういうことかと言いますと
 ★ ~~~~~~~~~~~~
 自然界と人の間の調和の実現。
 このように表現できる。
 それをもって人間は完成する。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という《人間の完成》つまりは《後史の充実としての完成》について あくまで――有神論としては―― 最終的にひとの自由意志によって得られるのではないという前提があります。努力はするのだが 目的地にたどりつくのは 自由意志によってではなく 神の意志によるのだと。

 むろん そこのところは 神から離れての立ち場で述べておられます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 実のところ私の見解では、知性的である事全てが神性と言う属性であり、それでいて、私と言う人間は別段神に飼いならされるわけじゃあない。
 その源泉は愛ですが、表現するにあたって神を引用するべきではない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから この個所では まったくいわゆる無神論の立ち場で基本的なところを明らかにしておられるのですが ほかの箇所では《神》が顔を出すときがあります。つまり
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人間と神との繋がりにより、人間はどうしても悪は無かった事にしていただきたいと、煩悩と言うか、わがままがよぎるでしょう。
 その点に冷静かつ自然体でありましょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そして じつはこのような煩悩や思いとしてのかたちにおける《人間と神とのつながり》というのは 有神論でも見出さないとも思うのです。

 ○ わたしが神に見られたなら――つまりそのように神とつながったなら―― それによって《悪や罪は 覆われ包み込まれ もう表には現われないようになる》と受け取っています。
 ○ 言いかえると 《悪は無かったことにしていただきたい》という思いは ないのです。覆われてしまうのですから 無かったことにして欲しいと思う必要がありません。
 ○ つまりこれは 自由意志によって悪や罪を克服するという問題ではなく あるいはわが意志によって神に悪を消して欲しいと言って願うことでもないわけです。神のほうから その《悪の包み込み》をしてくれるのです。
 ○ またそれだから 後史に入ると 《わたしがわたしである》ことが実現したと感じるのです。

 ☆ といったように 有神論とそして無神論の両方の立ち場が どうなんでしょう 入り組んでいるように見えるとも言えるし あるいは無神論の立ち場から有神論の信仰とその実践としての思索について いわば推測し捉えようとしているとも見えます。その推測によるところの叙述は わたしの信仰論とは違って来ています。

 ★ ソクラテスの対峙したデーモンは、自らが良く生きる事をたがい、過ちを犯すことを阻んだデーモンでした。
 ☆ エウダイモーンでしたか 良いほうの鬼あるいは守護神というごとくの霊を言うようですね。
 このダイモ―ンの作用が どこまで神につなげて捉えられるか このことも 論点になるのかも知れません。
 
 筆に随っただけの文章であるかも分かりません。

投稿日時 - 2010-08-14 00:07:54

ANo.10

>知性ペンさん 

 いえ、自ら知性なんて名乗る自信家ではありません。由来は、地勢図です。

>どこかで話しが行き違ってきましたか?

 いえ、全然。

>ええっ? 《将来への展望を語る》のも哲学であるし そういう《デーモン作用》も《人生に不可欠の作用》であるということでしょうか?

 いえ、希望というのは、エンジェルに従って持つ精神性というより、デーモンに浸潤しているにもかかわらず、持つ精神性だと思いますね。

投稿日時 - 2010-08-13 18:25:41

お礼

 地勢ぺんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 あらためて整理してみます。
 (1) デーモンは人間から消えない。

  ★★(回答No.8) 人生とは、デーモンに噛まれ続けているということですから、デーモンの作用が消えた後はもはや人間ではありません。
  ☆ あらためてこれが 基本的なご見解のようです。

 (2) デーモンを伴ないつつ人間は 将来に対して《希望》をも持つ。

  ★ いえ、希望というのは、エンジェルに従って持つ精神性というより、デーモンに浸潤しているにもかかわらず、持つ精神性だと思いますね。
  ★★ (回答No.8)  ~~~~~~~~~
   (δ) 将来への展望といったたぐいの主題は 哲学にならないか?

  これが希望という人生に不可欠の作用ではないでしょうか。  
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 (3) そうしますと こうなりましょうか?
  (あ) ひとは あたかも泥の中に根を張って花を咲かせる蓮のごとしだが そのとおりにではない。
  (い) すなわち基本的に言って デーモン作用に浸潤しているにもかかわらず 精神においては 希望を持つ。
  (う) すなわち こうだとすると 《花》は咲かないということになる。
  (え) なぜなら 花は 《精神における希望の保持》としてありつづける。つまり 咲くであろうという希望の花であって ひとつに《デーモンから自由になる》ことでもなければ ひとつに《泥の中に咲く蓮》でもない。
  (お) 言いかえると 《希望》は 《エンジェルに従って持つ精神性》ではないが 《デーモンに浸潤しているにもかかわらず 持つ精神性》というかたちであるから 早く言えば《デーモンと共存するエンジェルに従って持つ精神性》だということになるようだ。


 参考資料として 縁起についての解説を掲げます。
 ▼ (ヰキぺ:十二因縁) ~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%9B%A0%E7%B8%81

 十二因縁は、迷と苦が無明を原因とし、渇愛を源として展開していることを明らかにする。〔⇒ 順観(anuloma)〕。
 したがって、無明を克服して智慧を得れば生老死の人生苦はない。〔⇒逆観(paTiloma)〕。すなわち、自我への執着をはなれ、無我の自覚に立ちかえることが、仏教の指針とされる。

 無明の克服とは自我を拠り所とする我執の克服をいう。これは無我の自覚であり自己否定である。またこれはいっさいの否定であり、絶対無となる。したがって生活や生命の営みの否定とされる。そこには生活はありえない。
 しかし、釈迦のさとりは単なる自己否定ではなく、それが本当の生活であったはずである。
 すなわち、無我である自己を破り去ったところに、かえって無我のまま復活しうる道があった。
 それこそ真実の縁起の自覚であり、仏教が仏道として生きていく指針となるのは、無我のまま生活を決然と生きていくということである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたし自身は このまま同じ考えを持つのではありませんが――また この説明ではよく分からないとも言わねばなりませんが それでも―― 《無明(煩悩)から始まり いわば悪循環がつづく》順観から《無明を知恵に変えて 好循環をもたらす》逆観へ回転するというところを ブディズムも説いている。この点を参照するために引いたものです。順観から逆観への革命は むろん前史から後史への回転のことです。

 なお そのつてで言えば 《愛》という言葉も おっしゃるように 泥沼に根を張ってそこから花をさかせる蓮のごとくであると見られます。すなわち もともとは――ブディズムでは―― 愛着や執着を意味したのが 逆観に取って代えると 自己をも他者をも生かすという心を意味する《愛》になったのですから。
 問題は その回転のあと 依然として《デーモンに浸潤している》のかどうか ここにかかわっていると思われます。さて どうでしょう?

投稿日時 - 2010-08-13 23:26:55

ヘーゲルを捻じ曲げる
のは自分の権威を高める為ですか?

それはそれとしても
やっぱりwww

Oケイの訳ですねwww


たとえば疑問を抱くとおっしゃっておられる
最後の一文weder noch が訳せていないwww

ドイツ語が読めないのなら少なくとも

オカネをケチってないで新しい本を買いなさい。

話はそれからです。

法人は 法的人格 法人 個人の総称 Person の訳です。法律関係の人が見れば一義的な意味があるとわかります。
もう少し勉強しなさい。

投稿日時 - 2010-08-13 15:33:19

補足

 おぎないます。

 ★★ (回答No.7) ~~~~~~~~~
 回答

 手懸りとして現合というものがあります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについては 分からなかった。

 ▼ (Weblio 辞書:現合) ~~~~~~~~~~~~
  http://www.weblio.jp/content/%E7%8F%BE%E5%90%88

 ○ 現合 げんごう gauging

  慣用語。現物合わせの略称。
  原則として部品をはめ合わせるのには、 両方の寸度を図面で定め、はめ合うようあらかじめ製作しいろいろなはめ合い方式ではめ合わせる。
  しかし「現合」ははめ合わせる部品の寸度を 図面で指定せず、製作後に現物ではめ合わせればよいという指示または作業。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 空観が 現物合わせだという見方は どういうことを言うだろう?
 

投稿日時 - 2010-08-13 16:22:39

お礼

 どうも主題をつかむことから始めなければならないところを ひとつの事項をのみ捉えて茶の木畠に入って行ってしまっている。
 ご投稿に感謝しますが 方向やねらいが定まっていないようです。

 ★ 最後の一文weder noch が訳せていないwww
 ☆ そちらの訳文について言っているようです。

 ★ 法人は 法的人格 法人 個人の総称 Person の訳です。法律関係の人が見れば一義的な意味があるとわかります。
 ☆ 法人は 自然人とのツイの概念のはず。むろん《法的人格》を持つもの。個人は別。つまり 自然人。《法的〈人〉》なる訳語に至っては 世の中を知らない人が訳したと思われる。
 《人格》が 《法人》だというのは おかしい。《社会的人間的な交通の場において 互いに主体関係に入った個人》を言うのでしょう。


 ★ ヘーゲルを捻じ曲げる / のは自分の権威を高める為ですか?
 ☆☆ (No.7お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~
  もっともわたしは あくまで自分の趣旨に合わせて引き合いに出しているというかたちです。

  つまり早く言えば わたしはここでヘーゲルを捻じ曲げている。ただその文章を出汁に使っているのみだとも言えるでしょう。(それによって じつは このヘーゲルの文章も生きるとは思っています)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ Oケイの訳ですねwww
 ☆ 意味のない評言。

 ☆ 次の批判に答えていない。
 ☆☆ (No.7お礼欄) こまかく見れば 《対自的》と《即自的》がちがっていますね。この訳文に即すかぎり 《主体性》のほうが 《即自的》な存在を言おうとしているようですから 人格については対自的の訳語のほうが妥当だと見られます。


 ☆ 次の批判に対しても答えつつ 反批判をしている。
 ★★(回答No.7) 無知の知こそが、普遍と自由の源だといっているだけです。
 ☆ 次のような内容として解釈できるからには 当たらないと。
 すなわち:
 ◆(ななにすくんの参照するヘーゲル訳文) ~~~~~~
 人格の尊厳性は、ある種の統立的矛盾を自己の中に封じ込めている。そういう意味で、「自然的事物」とは、相反するものであり、内容的にも独立しており、自然的なものが何者であろうと寛容な態度では容認することが出来るはずもないのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについて 次のような内容として解釈できるという評言。
 
 ☆☆(No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  つまり 人格ないし単純に人間存在はその《自然本性》において潜在的なかたちでにしろ 《ある種の統立的矛盾を自己の中に封じ込めている》。そうなのであるが しかも《自然的なもの〔としての状態にあるひと〕》はその《封じ込め》ないし《含み持つこと》が出来ていない。
 このときこの訳文にしたがう限りで言えば 人格が《自然的事物とは相反する》という表現は あやしい。自然本性において 人格ないし人間存在は 自然的事物と 別に相反する必要はない。相反する自然的事物というのは 自由意志のわがまま・つまりへそ曲がりのことであろう。これは 人格にさからう要素を持つ。ただし もともと人格についてはその高さを言おうとしているのであるから この《わがままなへそ曲がりとしての自然的事物(恣意性というべきか)》をも人格は自分の中に湛えている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ★★ (回答No.7) 自然ではないものとは、人的格律としての主観のことです。Gesetzではありませんので・・・
 ☆ これに対しても評言を与えている。
 ☆☆ (同上 お礼欄) そうですよ。だからぎゃくに《自然的なもの》は この人格としての主観のようには 《無限なもの》をみづからの中に採り入れることが出来ていない。となります。


 ★★(同上回答) 法哲学 の 本来的意味 すなわち インテリジェンス を前提とした権能=Recht としての訳文把握が出来ていないので見逃しているようです。
 ☆ これについても 評言を与えている。
 ☆☆ (同上お礼欄) そうでもないでしょう。あるいは逆に わたし自身の意図は わざわざ《権能》を出して来る必要を認めていないということです。あくまで《自然本性》という概念で扱い得るという姿勢です。

投稿日時 - 2010-08-13 16:16:42

 (α) このデーモンは 縁起共生の空観において消えるというのか?

  ”縁起共生の空観”などという言葉や方便にこそデーモンが生息するんじゃありませんかね。

 (β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか?

  それはできないでしょうね。人生とは、デーモンに噛まれ続けているということですから、デーモンの作用が消えた後はもはや人間ではありません。

 (γ) 人間(現実)は変わるか?

  前述の通り。

 (δ) 将来への展望といったたぐいの主題は 哲学にならないか?

  これが希望という人生に不可欠の作用ではないでしょうか。  

投稿日時 - 2010-08-13 09:38:32

お礼

 知性ペンさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 人生とは、デーモンに噛まれ続けているということですから、デーモンの作用が消えた後はもはや人間ではありません。
 ☆ これが 基本的なご見解のようです。

 そうしますと
 ★ ”縁起共生の空観”などという言葉や方便にこそデーモンが生息するんじゃありませんかね。
 ☆ という命題の意味は 縁起共生の空観を持ち出すひとは 《デーモンが生息する》からには 《人間》であるということのようですね。どうでしょう? どこかで話しが行き違ってきましたか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 (δ) 将来への展望といったたぐいの主題は 哲学にならないか?

  これが希望という人生に不可欠の作用ではないでしょうか。  
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ええっ? 《将来への展望を語る》のも哲学であるし そういう《デーモン作用》も《人生に不可欠の作用》であるということでしょうか?

 茶化すつもりはないのですが こんがらかっているようですので ちょっと 解きほぐしていただくとありがたいです。どうでしょう?

投稿日時 - 2010-08-13 12:14:58

昔についても今についても認識が足らないおかまちゃんが、
未来について哲学することは出来ません。

回答
手懸りとして現合というものがあります。

かまれていないのにかまれたというのは妄想です。
希望退職なのに解雇された。というのはいじめられっこの泣きじゃくりです。

本論
Hegel 法哲学35をお読みになったごようすですね?
補足要求(注意事項 A-No.1お礼 引用文が 間違っていますよ)

Hegel 法哲学35 補筆をみると

抽象的意思「Wille」、別しては即自的に今存在している意思が、(法解釈上の)「人」である。人間至高の目的とは、(法の下の) 一法人たることである。ここで、しかし同時に、単なる抽象化された法的「人」の概念が、価値論的に高い位づけを受けているとはいいがたい。法的「人」とは、実体という観点にひきつけて述べるとすると、「主観」とは相容れないばかりか、人の人とたるゆえんである。主観とは、単に人格の可能性に過ぎず、可能性とは、主観の受け皿であり、存在論的に見るとただの修辞である。というのも、全ての生きとし生けるものは、可能性としての主観を保持しているものであり、法の下の「人」は、数ある主観のうちで、主観的連関を対象(オブジェクト)として掌握している一法人であるからだ。法の下にある「人」として、自我は、即自的に現在する。この文脈で、人格こそが自由な現存であるといえ、その現在(如実としてあるということ)は、純粋な自己意識のなかに、孤高として起つのである。

一法人としての自我は、自由を知り満ち足りている。自我は自己の何たるかを、物理的事象から選り分け実体化する。というのも、自己・純粋人格・無を対置したとき、純粋人格を捨て置いて、自我を語ることは出来ず、自己の本源性を無と対置する哲学的ではない誤認となってしまうからである。

にもかかわらず、実存する自我は、法制上「特定の人」として把握された場合、徹頭徹尾、束縛されているとも言える。特定の年齢・身長・どこそこに住所を持つといった具合にである。

言い換えれば、そういう意味で、法制上の「人」は、最高の価値をもつ、と同時に、取るに足らない「もの」であるという見方があるのである。

かくして、一法人という概念の中に、対立的意義として、定律性と非定律性・限定性と非限定性が、ひとつ 結びついているのである。人格の尊厳性は、ある種の統立的矛盾を自己の中に封じ込めている。そういう意味で、「自然的事物」とは、相反するものであり、内容的にも独立しており、自然的なものが何者であろうと寛容な態度では容認することが出来るはずもないのである。

とかいてあります。

質問者様の読解力を疑います。引用には何を使っているのですか?

貴方のオレオレは、思いつきの自然です。
あなたの理論は、それを容認してしまうとヘーゲルさまに怒られてしまうような
とんでもない動物的「おさる理論」です。私は騙されませんwwwにょ

「猿の惑星」の平和(やっぱり臭いの?)を乱すつもりはございませんが、
わたしはこころの兎をおされてませんwwwので その御つもりで

本題に戻りますと
「無限なものと 有限なものとの一体性」
というよりは
抽象世界での一箇性というべきところの精神です。

無知の知こそが、普遍と自由の源だといっているだけです。

動物の主観と人間の主観を区別する境界線の「はなし」が出てきて
人格が大事であると述べている。

さて質問者様の人格=はなぢはどうなのでしょうか?

「矛盾」ではなく対述用言的体言Widerspruchです。

わたしたちの中に息づく「もの」ではない「根源」を抽象性に類すると述べているだけであって読み間違いです。

法哲学 の 本来的意味 すなわち インテリジェンス を前提とした権能=Recht としての訳文把握が出来ていないので見逃しているようです。
自然ではないものとは、人的格律としての主観のことです。Gesetzではありませんので・・・

提案
訳し間違えても意味が通ってしまうフランス語風散文とはわけが違います。

「ウッキィー(=いいぢゃないか;自然原語意訳ウィー)」
(出典『おぢぢ自然旋律 第13 -おさるの障-』)ではだめですよwww

ヘーゲルを批判したいと思うのなら もうちょこっとドイツ語を勉強しなさい。

ハイデッガー批判も取り下げなさい。

(英語でも部分的に許可www、
勉強嫌いのおぢぢ様へ わたしは貴方の診方です。
味方かどうかは考えればわかりますwww)

異物は、もう少し心の余裕を養うべきです。今からでも遅くありません。
最近 さるまわしも拍子抜けしているようです、元気を出してがんばってください。

投稿日時 - 2010-08-13 06:17:12

お礼

 どうも主題をつかむことから始めなければならないところを ひとつの事項をのみ捉えて茶の木畠に入って行ってしまっている。
 ご投稿に感謝しますが 方向やねらいが定まっていないようです。

 まづ 訳文を それでは掲げておきましょう。
 ▼ (ヘーゲル:法哲学 §35 追加) ~~~~~~~~~~
 § 35 追加〔人格という概念の高さと低さ〕

 対自的ないしは独立に有る意志 すなわち抽象的な意志が 人格である。人間の最高のことは 人格であることである。だがそれにもかかわらず たんなる抽象物たる人格といえば すでにその表現においてなにか軽蔑すべきものである。
 人格は 主体とは本質的に区別されている。というのは およそ生きものはいづれも一つの主体である以上 主体はただ人格性の可能性でしかないからである。したがって人格とは この主体性が主体にとって(対自的に)有るところの主体である。なぜなら 人格において私はまったくただ私にとって(対自的に)有るからである。すなわち人格とは 純粋の対自的存在における自由の個別性である。
 私はそうした人格として 自分を自分自身のなかで自由であると知り いっさいを度外視しうる。なぜなら 自分の前には純粋な人格性以外になにものも存在しないからである。
 しかも私はこの者として 一つの完全に規定されたものである。――たとえば しかじかの年齢 しかじかの大きさ この空間にいるなど まだほかにいくらでも一個特殊的なものがあるであろう。
 こうして人格は 高いものであると同時にまったく低いものである。人格のうちには 無限なものとの こうした一体性がふくまれている。この矛盾は どんな自然的なものも自分のなかにこれをもっていない ないしはこれを我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが人格の高さである。
 (藤野渉・赤澤正敏訳 1967)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これで意味はじゅうぶんに通るし取れるはずです。もっともわたしは あくまで自分の趣旨に合わせて引き合いに出しているというかたちです。
 こまかく見れば 《対自的》と《即自的》がちがっていますね。この訳文に即すかぎり 《主体性》のほうが 《即自的》な存在を言おうとしているようですから 人格については対自的の訳語のほうが妥当だと見られます。
 ★ 無知の知こそが、普遍と自由の源だといっているだけです。
 ◆ 人格の尊厳性は、ある種の統立的矛盾を自己の中に封じ込めている。そういう意味で、「自然的事物」とは、相反するものであり、内容的にも独立しており、自然的なものが何者であろうと寛容な態度では容認することが出来るはずもないのである。
 ☆ つまり 人格ないし単純に人間存在はその《自然本性》において潜在的なかたちでにしろ 《ある種の統立的矛盾を自己の中に封じ込めている》。そうなのであるが しかも《自然的なもの〔としての状態にあるひと〕》はその《封じ込め》ないし《含み持つこと》が出来ていない。
 このときこの訳文にしたがう限りで言えば 人格が《自然的事物とは相反する》という表現は あやしい。自然本性において 人格ないし人間存在は 自然的事物と 別に相反する必要はない。相反する自然的事物というのは 自由意志のわがまま・つまりへそ曲がりのことであろう。これは 人格にさからう要素を持つ。ただし もともと人格についてはその高さを言おうとしているのであるから この《わがままなへそ曲がりとしての自然的事物(恣意性というべきか)》をも人格は自分の中に湛えている。

 ★ 自然ではないものとは、人的格律としての主観のことです。Gesetzではありませんので・・・
 ☆ そうですよ。だからぎゃくに《自然的なもの》は この人格としての主観のようには 《無限なもの》をみづからの中に採り入れることが出来ていない。となります。

 ★ 法哲学 の 本来的意味 すなわち インテリジェンス を前提とした権能=Recht としての訳文把握が出来ていないので見逃しているようです。
 ☆ そうでもないでしょう。あるいは逆に わたし自身の意図は わざわざ《権能》を出して来る必要を認めていないということです。あくまで《自然本性》という概念で扱い得るという姿勢です。
 つまり早く言えば わたしはここでヘーゲルを捻じ曲げている。ただその文章を出汁に使っているのみだとも言えるでしょう。(それによって じつは このヘーゲルの文章も生きるとは思っています)。

 どうでもよいことですが
 ◆ 法人 法的《人》
 ☆ こういう訳語は こなれていないどころか 誤解を生みやすいでしょう。 

投稿日時 - 2010-08-13 12:07:17

ANo.6

思いの方向として、α→δは扱い得ることでしょう。。。

だからこそ、α→δ(という知)、および「その(越えた)向こう側」を思おう(愛そう)ということ【=愛智=哲学】は成立し得るのでしょう。。。

しかしながら、そういったもの全て「アルパから(デルタを越えた)オメガまで」が「知・智」のみで記述可能・共有可能(すなわち、万人の間で交換可能)といった途端に、(神ではない)神概念(ないし神的に捉えられるものごと)も(悪魔ではない)悪魔概念(ないし悪魔的に捉えられるものごと)も人智の範疇にあって、消滅させることができずに、ただ変容させることしかできなくなるでしょう。
※「消滅させた」と誤認するなら、「復活した」と誤認することも同時に成立すると言うことです。

人類が、聖書・教典の類を「言葉」(ないし言語・思考の問題)として取り扱いうると信じ、そうして、万人に共通の概念になりうると信じた時から、既に「アルパからオメガまで」を取り扱いうる(すなわち人智=神智になりうる)と確信犯的に行動するのだと思います。

そのような「知・智」の極限に到達した場合、「神・悪魔」を「神概念・悪魔概念」では捉えきれないが実存する「もの」だとして取り扱う限り、人々は自らの内部に「も」あるにもかかわらず「神的なもの・悪魔的なもの」を、外部の神・悪魔「のみ」によって生じたものだとすることで、「主体性の放棄・責任転嫁」といった選択肢を担保することになるでしょう。

また一方で、「神・悪魔」を実存しない「もの」だとして取り扱う限り、「神概念・悪魔概念」は混沌とした淵にて混ぜ合わされ、「神的なもの・悪魔的なもの」を、人々の内部「のみ」に追求し続け、第二、第三のアウシュビッツといった選択肢を担保することになるでしょう。

詩は、歌われるときに、単なる文字・記号を超えることでしょう。。。
聖書・教典の類も、「何かを求めようとする思い」にて読まれるときに、単なる文字・記号を超えることでしょう。。。

そうして、その「超えた」領域は、詩単独が内在するものでもなく、歌い手単独が内在する者でもなく、聞き手単独が内在するものでもない・・・

強いて言うなら、詩・歌い手・聴き手およびその歴史と未来とを含む「全体」の変容として感じ取られるときに「超えて」いると思われるのかも知れません。。。

投稿日時 - 2010-08-13 03:52:15

お礼

 お早うございます じねんさん。おもしろいと思います。ご回答をありがとうございます。

 たぶん――復唱することも おそらく必要のないゆえに せずにわたくしの反応から入りますが―― 表現が どの位置から出ているか これが必ずしもはっきりしないうらみがある。まづ こう思いました。
 つまり簡単に言って じねんさんご自身の立ち位置のことなんですが たとえばそれは 《人間》もしくは《じんるい》といったところでしょうか?

 もしそうだとしたら そこには《わたし》がまだ見えない。じねんさんご自身の《わたし》です。

 むろん そういうふうに特定のひとの《わたし》が見えない文章というのは 概念の普遍性にもとづこうとする推論から成っていますから 言わば《理念的》であり 誰もの認識を深めることになるかと考えます。
 しかも どうなんでしょう それは理念の認識というひとつのことに収れんするのではないか。あるいは そういう仕事として枠組みがはめられてしまうのではないか。こうも思うのですが その点はどうでしょう?

 つまり最初のわたしの反応に帰って 意味はこうです。
 じねんさんご自身の立ついまの場所は どういうふうであるか。どういう環境であって どういう風が吹いていて それらに対して ご自身〔の《わたし》〕は どうふるまっているのか。

 つまりこうです。
 ★ 「アルパからオメガまで」
 ☆ を全体として・すなわち世界全体としての認識のために 概念とそのありよう・或るいは概念の扱い方をきちんと捉えわきまえておこうという心づもりのもとに――つまりそういう出発点に立って―― 文体を歩き出させている。全体観ですね。
 では ご自身は アルパなりベータなりの一つひとつの過程やその局面において どう考えどういう判断をくだして《生きている》か。その《わたし》が いまひとつ 分からない――そういううらみです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 詩は、歌われるときに、単なる文字・記号を超えることでしょう。。。
 聖書・教典の類も、「何かを求めようとする思い」にて読まれるときに、単なる文字・記号を超えることでしょう。。。

 そうして、その「超えた」領域は、詩単独が内在するものでもなく、歌い手単独が内在する者でもなく、聞き手単独が内在するものでもない・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ご自身が歌った結果 どうであったか。《わたし》が読んだとき 《単なる文字・記号を超えた》ところは どうであったか。
 《詩単独や歌い手単独や 聞き手単独がそれぞれ内在するものでもない》領域に 《わたし》はどのような貌をして立ったのか。どういう風が吹いていたのか。
 つまりは いくら《超えた領域》と言っても いま・ここなるわたしの外の場ではないはずです。たとえわたしを超えていて外の場であったとしても それをもわたしが見たのですし そこにわたしが立ったのです。
 もしそうでないと言うとすれば それは 《縁起共生も空観も 前史から後史への回転も 復活も何もかも》 まやかしだという見解の披露になります。そういう見解もあり得ますから そこのところを明確にすることで 何らかのかたちの領収証を 対話の双方が互いに 切ることが出来る。と言いますか そもそも文体という動態は その文章におのれの指紋を残すものである。それだからこそ 読むひとは その人に〔正負の〕信頼を抱くことができる。
 そういうたぐいの問題が 見え隠れしている。これが わたしの偽らぬ感想です。どうでしょう?

 * (影の声):じねんさんは まじめすぎるのかなぁ。

投稿日時 - 2010-08-13 11:07:24

プライムエイプです。
ひとつ、処世術です。

>>
おそらくは〔* デーモンの幻想は〕消えない。
 悪の観念に確かな種子(記憶の根拠)があるのなら、悪は消えない。
 ただ生命が悪を手放すのみであり、悪は神にゆだねられる。
 それをもって悪神である。
 今、曖昧なまま表現するなら、こちらの方が正しいのでしょう。

このカッコでくくられた、〔* デーモンの幻想は〕は、悪神にゆだねることで霧消します。
愛ゆえに悪を生む。
それを司るのが悪神の愛です。

投稿日時 - 2010-08-13 01:54:15

お礼

 つづいてです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 このカッコでくくられた、〔* デーモンの幻想は〕は、悪神にゆだねることで霧消します。
 愛ゆえに悪を生む。
 それを司るのが悪神の愛です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについては すでにお答えしたところを掲げます。

 ☆☆ (No.2補足欄&お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
 〔 まづ《それをもって悪神である》は 上に触れた表現つまり《善人にも悪人にもひとしく雨を降らす》というふうに《悪人にも愛をそそぐ》そのひとつの側面を 《悪神》と呼んでいるのだと取ります〕。

 さて このようでしたら 先に出ていた《消える》問題は それほどむつかしいとも思えません。
 《神》から見て・もしくは世界の総体において 悪は《消えない》。個人にあっては 《前史から後史へ入った》なら その限りでデーモンは――《種子:記憶に蓄えられたもの》としては――《消える》。

 《消える》と言ってはいますが わたしの表現としては むしろもっと弱いものなのです。つまり
 ★ 生命が悪を手放す
 ☆ というまでの表現をまだ取り得ず ただ《デーモンないし悪もしくは罪》が なにものかによって 覆われる。〔包み込まれる〕。よって表には出ない。けっきょくその意味で《消える》と言っているのですから 《消えてはいない》とも言えます。
 でも前史での現われとは 一線を画しているのが 後史だと言えるとも思います。
 デーモンよ さようならと。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ 悪神
 ☆ これは 神のそういうはたらきとしての一面を名づけたものと取れますし取りますが あまりよい命名ではないと考えます。
 ひとつに 神(ないし無神)が 一つ二つと存在するという印象を与えてしまう。
 ひとつに 
 ★ 悪神にゆだねる
 ☆ という表現についてですが そもそも身も心もゆだねるその相手は 非思考の場においてなのですから なぞであり分かりません。それを 一般に神と呼んでいますが それをそのはたらきの一面を捉えて《悪神》と名づけるのは まだよくなじめませんし分かりません。つまり 身をゆだねるのは 神である。そのほかに《デーモンやその幻想》なり何なりにしたところで これを神なら神に押しつけるわけではありません。
 わたしはわが身と心を神の みこころのままにとしてゆだねることによって 前史の海から後史の心の海に本籍を移すことが出来た。その結果 デーモンやその幻想が消えた(包まれつつ もはや表で出ることがなくなった)。という経過をたどっているとは考えますが いかがでしょう?

投稿日時 - 2010-08-13 10:28:59

プライムエイプです。
a2についていくつかぶっきらぼうに。

> そのことを ヘーゲルの表現じたいはまさしく言っています。

これはその通り。
その点を私にも理解でき、ブランジュロンヌさんも同様の理解をしている。
しかし当のヘーゲルが当時いかようであったか?
明瞭な理性を示す事は簡潔な文章にて表すことで当人の理解のほどが判る。
その限りでは哲学書も本来ならもっと薄っぺらでしょう。
要するにヘーゲルは果敢な先達ではあったが、後世の理解者ほどの理解力は無かった。
これは哲学書に限らず宗教的聖典にも同様に言え、過去に殉教心を示す墓守志願者は膨大な研究書を残すが「そんなもんありゃしねー」でふっ飛ばしたがごとく後世の人の理解は本来はより明晰かつ簡潔である。



そのような自然の摂理を理解する事です。
 その神性はあくまでも理解する事です。
 さらには自らも自然の一部であり神性と一体である事を身をもって肌で感じる事です。
 理解できると尻尾を振って従う姿勢を見せるのみではいけません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも たぶんそうなのだろうと思いますが 前回の回答としては 次のようなたとえが出されていますから わたしの応答となったのだと考えます。つまり
 ★★ (回答No.1) たとえば第3次世界大戦の勃発と言う幻想で人類が滅亡するはずだったのはもう過去の事、このような幻想を見せた人の心が変わる。

これはまだあいまいなんです。
>そのような自然の摂理を理解する事です。
 その神性はあくまでも理解する事です。
 さらには自らも自然の一部であり神性と一体である事を身をもって肌で感じる事です。

これだけでもまだ理解の順路のような事柄が必要になりそうな点で曖昧なままです。
「消える」「消えない」があいまいです。
>何故なら神の発見が人間を人間たらしめる知性の萌芽であり、それ以前は言葉で語られる事はありません。
要はこれを理想として全うする事なんですよ。
実はかように表現した私自身からしても、これは人間の知性では及びもつかない理想です。
しかしだからと言って、もう私にはこの点で迷いの類は無い。

そこでは、
>★ 自らも自然の一部であり神性と一体である事を身をもって肌で感じる事
 ☆ としてあると言えるでしょうか? わたしにはまだ 薄い皮を一枚へだててこの認識を飲み込むことしか出来ていません。さらに説明をねがえればありがたいです。

信仰で無く確信であっても、その確信を楽しんでいても私にも薄皮のごとき感覚がある。
この薄皮は世間が一般に抱いてきた悪の認識と自らとのづれです。
たいして気にする問題じゃあない。

以下にお礼で提出した諸問題に関しても、
>何故なら神の発見が人間を人間たらしめる知性の萌芽であり、それ以前は言葉で語られる事はありません

この理想を検討することでおおむね説明できるのではないか?



つまり このようにデーモンに別れを告げたあとその後史にあっても 社会におけるまじわりの関係つまり人間的交通網においては デーモン作用を大いに受ける。あたかも自分では張ってはいないのに すでにアンテナが張られていて それをとおしてのデーモン電波の受信は 引っ切り無しでさえあるようです。
 というのが わたしの偽らざる現状ですが――受信情況は 意識しなければすでに潜在意識におさまっていますので 安心してください―― さて いかがお考えになるでしょうか?

私はもうこの点では安心しきっていて、逆風と言っていい世の禍根の残滓が垣間見える中、それなりに今を楽しむつもりです。

投稿日時 - 2010-08-13 01:37:49

お礼

 プライムエイプさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 最後のところ:
 ★ 私はもうこの点では安心しきっていて、逆風と言っていい世の禍根の残滓が垣間見える中、それなりに今を楽しむつもりです。
 ☆ これだけでは 申し訳ないが 分かりません。理解をたすけてください。
 ★ 安心しきっていて
 ☆ この状態は 分かります。つまり 何はどうあれ《後史》に入ったのですから あとは なぞの何ものかに任せ切っており 安心しきっています。それゆえ心という海の表面に起こる波風をも《楽しむ》というなら それも分かります。
 ただし《デーモン電波》にしても 中には(という意味は こちらの境地が上がるにつれ さらに強烈な作用が来ることになるようですから)《手に負えない》ものも来ます。もつれをほどくのに時間がかかるものもあります。
 つまりそういう意味では 《肌で感じる》体感にはまだ薄皮の一枚も二枚もをへだてたところがあります。

 ★ この薄皮は世間が一般に抱いてきた悪の認識と自らとのづれです。 / たいして気にする問題じゃあない。
 ☆ ここにもわたしの感覚とのずれが感じられるので 異同を明らかにしたいと思います。
 わたしの場合 《後史》という位置にあって《世間一般のデーモン電波網とそのふるまい》について《気にしてはいない》のです。しかもそのデーモンの海を漂う前史のありさまは じゅうぶんにわたしの心の中に――中性子のように通り抜けても行きますが――入り込んで来ます。これを受けとめ受け取るときの・相手の心〔にある確かに認識〕とのズレも 大きい。
 ここですね。この相手との・あるいは世間とのズレ これは逆に言うと 小さいものでも 問題は大きい。と感じるのです。ないがしろにすることは出来ない。――そういう思いが 靴の上からかゆいところを掻く感じをも与えています。


 ★ 要するにヘーゲルは果敢な先達ではあったが、後世の理解者ほどの理解力は無かった。・・・後世の人の理解は本来はより明晰かつ簡潔である。
 ☆ これは これも そうは言い難いの感じがあります。なぜかと言えば 雑多な見解や思想がありその中に たとえ理解が薄かったとしても 言葉による表現として高い水準のものがあるわけです。そのような過去の人びとの仕事をとおして そのつどその現在の人間は 理解を深め境地を高めていくのだと思うからです。
 おそらくひとはつねに――生まれたときからの過程として 誰もが一たんは〔ウソをつくゆえ〕前史に落ちて ここから再出発しながら後史へと回転して行くという意味で―― 前史を さよならして来たけれど・さよならした位置にいるゆえにこそ 背負っているとも考えます。これも  独立性としての個人であるだけではないところの側面つまり関係性として存在するという側面 つまり《社会総体》という視点だと思います。
 * 《社会的諸関係の総和》という言い方が むかしありました。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >何故なら神の発見が人間を人間たらしめる知性の萌芽であり、それ以前は言葉で語られる事はありません

 実はかように表現した私自身からしても、これは人間の知性では及びもつかない理想です。

 この理想を検討することでおおむね説明できるのではないか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうかも知れません。そして この命題については すでにわたしは自分の考えを示しましたので これからの進展を待ちます。

投稿日時 - 2010-08-13 10:13:04

プライムエイプです。
検証材料を明文化するための御意見伺いです。

哲学において割と有名な、
神を語るほどに神から遠ざかる。
ならば、
信仰として神を表すほどに、要するに礼拝の類をするほどに、同様に神は遠ざかる。
その筈なんですよ。

以上は無神論的喧嘩の口実です。

投稿日時 - 2010-08-13 00:23:41

お礼

 つづいてです。

 ★ ~~~~~~~~~~
 哲学において割と有名な、
 神を語るほどに神から遠ざかる。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いや さもありなんとは思いましたが 知りませんでした。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 ならば、
 信仰として神を表すほどに、要するに礼拝の類をするほどに、同様に神は遠ざかる。
 その筈なんですよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《礼拝の類をする》ことが《信仰として神を表わす》ことになるのかは 疑問です。ですが たぶん表現の問題でのひっかかりだとも捉えられます。
 要するに 神学を持ち出したり 信仰から得られる観想を推論じたいに用いたりするのは 哲学として成り立たず それゆえかえって神からも遠ざかる。こういう意味に取ります。

 そしてわたしは 二回の応答において 自分から《神》の語を出すことはなかったが すでに初めからひろく文脈の背景にも具体的なかたちで文章の背後にも 神学や信仰からの観想を漂わせていることは 事実です。空観や縁起共生と言ったりしてその香りを和らげてはいますが そうふうな構えになっています。

 つまり ヘーゲルの文章を出しましたが・そしてその文章じたいには神という語は出て来ていませんが でも やはりそこでも 神とわたしの関係といったふうな・たしかに非思考の場のことをけっきょくは持ち出しています。
 それゆえ この問いは 哲学にはなじまないのかとも自問しています。

 ただ
 ★ 無神論的喧嘩の口実です。 
 ☆ ということは わたしの理解では 無神論が けっきょくいま上で触れた神学や信仰つまり非思考の場と 同じ基礎に立っているのですから そのぶんでは特に話をすすめづらいとは思わないのですが どうでしょう?

 そして繰り返しになりますが 神学の雰囲気は 縁起=空の切り口に置きかえて――それが 前史から後史への回転という史観になりますが―― 捉えてもらって いま少し先へすすめることが出来ればと考えますが どうでしょう?

投稿日時 - 2010-08-13 00:56:07

こんばんは、プライムエイプです。
今回の御質問は落ち着いていていい雰囲気です。
久しぶりに休めます。
頂いたお礼からいくつか。

> 無限なものと 有限なものとの一体性

「私は今ここにいる」その刹那を有限の一瞬ととらえるから矛盾する。
そう感じました。
一瞬は永遠であるとも。



現実は変化しない。
 生命の心が変わる。

心理学なり脳の医学なりで、精神世界と表現される観念世界は実在する事がもはや証拠の提示に近い証明がなされており、「無」がどーのこーの言っても哲学に置いて否定するのは理性的では無いのが現代です。
その精神(世界)と現実(世界)をつなげることが重要です。
現実世界の条理は人間には愛と理解できる神の介在で成立しています。
そのような自然の摂理を理解する事です。
その神性はあくまでも理解する事です。
さらには自らも自然の一部であり神性と一体である事を身をもって肌で感じる事です。
理解できると尻尾を振って従う姿勢を見せるのみではいけません。


> いま・ここのわたしが すでに後史ないし本史にいる

この表現の延長ではすでに誰もが後史にいると言っていいでしょう。
しかし前史があったとの見解だけでも過ちです。
何故なら神の発見が人間を人間たらしめる知性の萌芽であり、それ以前は言葉で語られる事はありません。

>ううーん。どうも ひとつに この《関門》がくせものでしょうか。

かつて多くを語っためちゃんこ悪魔君に関してこのようにも言いえます。
悪魔的現象とは人間に神の愛を知らしめようとする神の愛情表現。


★ 消えるのとは違い非思考への回帰。
 ☆ については 《消える》と言ってもよいように思えます。幻想が幻想であるとさとる。それゆえ 消える。

おそらくは消えない。
悪の観念に確かな種子(記憶の根拠)があるのなら、悪は消えない。
ただ生命が悪を手放すのみであり、悪は神にゆだねられる。
それをもって悪神である。
今、曖昧なまま表現するなら、こちらの方が正しいのでしょう。

投稿日時 - 2010-08-12 22:46:00

補足

 プライムエイプさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 「私は今ここにいる」その刹那を有限の一瞬ととらえるから矛盾する。
 そう感じました。
 一瞬は永遠であるとも。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶんそうなんでしょうけれど――つまり 《たぶん》というのは これは直観だからですが―― そのことを ヘーゲルの表現じたいはまさしく言っています。
 ◆ 無限なもの〔* =永遠〕と 有限なものとの一体性
 ☆ 精確に述べておくべきでしょうか。すなわちこれは 《有限なもの》であるわたし(人間)は その人格ないし境地において 《無限なもの》と一体であると言おうとしています。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 > 現実は変化しない。
  生命の心が変わる。

 (中略)
 ・・・精神(世界)と現実(世界)をつなげることが重要です。
 現実世界の条理は人間には愛と理解できる神の介在で成立しています。
 そのような自然の摂理を理解する事です。
 その神性はあくまでも理解する事です。
 さらには自らも自然の一部であり神性と一体である事を身をもって肌で感じる事です。
 理解できると尻尾を振って従う姿勢を見せるのみではいけません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも たぶんそうなのだろうと思いますが 前回の回答としては 次のようなたとえが出されていますから わたしの応答となったのだと考えます。つまり
 ★★ (回答No.1) たとえば第3次世界大戦の勃発と言う幻想で人類が滅亡するはずだったのはもう過去の事、このような幻想を見せた人の心が変わる。
 ☆ つまり あとにも出てくるところの――《幻想》として説明されていたから――《消える》の問題ですね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
   > いま・ここのわたしが すでに後史ないし本史にいる

 この表現の延長ではすでに誰もが後史にいると言っていいでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここは 次に出てくる《前史》をどう扱うかで変わるかも知れません。
 ★ しかし前史があったとの見解だけでも過ちです。 / 何故なら神の発見が人間を人間たらしめる知性の萌芽であり、それ以前は言葉で語られる事はありません。
 ☆ これは どうでしょうか。つまり 《へびがわたしを噛むのか わたしが蛇を迎えにいくのか》というふうにデーモンの海に浮かぶ時代にも 《言葉で語る》ことじたいはあったのではないでしょうか? つまり それが《前史》だと考えているのですが?
 細かく捉えるなら ヒトには知性は自然本性としてそなわっている。よって言葉を持ち言葉で語り合う。しかも その時代つまり前史にあっては デーモンの飛び交うお化け屋敷に住んでいる。
 この前史が 後史へ転換するか? これを問う質問です。


 ★ 悪魔的現象とは人間に神の愛を知らしめようとする神の愛情表現。
 ☆ おそらく《後史》へと回転して入ったならひとは そのように認識するようになるのでしょう。《善人にも悪人にもひとしく雨を降らす》というたとえによる認識だと思います。
 ただこれは どうなんでしょう そのまま
 ★ 自らも自然の一部であり神性と一体である事を身をもって肌で感じる事
 ☆ としてあると言えるでしょうか? わたしにはまだ 薄い皮を一枚へだててこの認識を飲み込むことしか出来ていません。さらに説明をねがえればありがたいです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 おそらくは〔* デーモンの幻想は〕消えない。
 悪の観念に確かな種子(記憶の根拠)があるのなら、悪は消えない。
 ただ生命が悪を手放すのみであり、悪は神にゆだねられる。
 それをもって悪神である。
 今、曖昧なまま表現するなら、こちらの方が正しいのでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まづ《それをもって悪神である》は 上に触れた表現つまり《善人にも悪人にもひとしく雨を降らす》というふうに《悪人にも愛をそそぐ》そのひとつの側面を 《悪神》と呼んでいるのだと取ります。
 さて このようでしたら 先に出ていた《消える》問題は それほどむつかしいとも思えません。
 《神》から見て・もしくは世界の総体において 悪は《消えない》。個人にあっては 《前史から後史へ入った》なら その限りでデーモンは――《種子:記憶に蓄えられたもの》としては――《消える》。
 

投稿日時 - 2010-08-12 23:48:15

お礼

 《消える》と言ってはいますが わたしの表現としては むしろもっと弱いものなのです。つまり
 ★ 生命が悪を手放す
 ☆ というまでの表現をまだ取り得ず ただ《デーモンないし悪もしくは罪》が なにものかによって 覆われる。よって表には出ない。けっきょくその意味で《消える》と言っているのですから 《消えてはいない》とも言えます。
 でも前史での現われとは 一線を画しているのが 後史だと言えるとも思います。
 デーモンよ さようならと。

 つまり このようにデーモンに別れを告げたあとその後史にあっても 社会におけるまじわりの関係つまり人間的交通網においては デーモン作用を大いに受ける。あたかも自分では張ってはいないのに すでにアンテナが張られていて それをとおしてのデーモン電波の受信は 引っ切り無しでさえあるようです。
 というのが わたしの偽らざる現状ですが――受信情況は 意識しなければすでに潜在意識におさまっていますので 安心してください―― さて いかがお考えになるでしょうか?


 * デーモン作用を受信することは 或る種の仕方で悪の受容であり嫌なことですが むしろその受信をつうじて みづからの存在あるいは社会性といったことの自覚をつねに新たにせしめられる。といったところでしょうか。良薬は口に苦しといったところでしょうか。(ちょっと変なたとえです。初めの受信のときは 毒のようでもあり あとで良薬になる。あぁ まださらに的確な表現がほかにありそうです)。

投稿日時 - 2010-08-13 00:00:39

こんばんは、プライムエイプです。
(α) このデーモンは 縁起共生の空観において消えるというのか?

デーモンとしてふるまう役目を終える。
消えるのとは違い非思考への回帰。

(β) 人生においてそのへびに噛まれつづけている(もしくは みづからすすんで迎えている)頃を前史とすれば 果たして このへびなるデーモン作用が消えた後史に ひとは入ることができるか?

未来が死によって阻まれる幻想を与えるのはデーモンの役割の一つ。
実際は死の関門は無い。

(γ) 人間(現実)は変わるか?

現実は変化しない。
生命の心が変わる。
たとえば第3次世界大戦の勃発と言う幻想で人類が滅亡するはずだったのはもう過去の事、このような幻想を見せた人の心が変わる。
それが縁起共生でもある。

(δ) 将来への展望といったたぐいの主題は 哲学にならないか?

「ときわたり」の考え方のアウトラインは表明に成功してます。
哲学として成り立つとの評価は出来るかどうか判りませんが「考え方」として理解可能な表現はできています。

以上今回の議題に沿って私の考えをまとめてみました。

投稿日時 - 2010-08-11 22:10:17

お礼

 プライムエイプさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 お得意の分野でしょうか。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  (δ) 将来への展望といったたぐいの主題は 哲学にならないか?

 「ときわたり」の考え方のアウトラインは表明に成功してます。
 哲学として成り立つとの評価は出来るかどうか判りませんが「考え方」として理解可能な表現はできています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この問いについて 次のような見方捉え方を思いつきました。
 まづ 文例を掲げます。
 ◆ (ヘーゲル:法の哲学) ~~~~~~~~~~~
 無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(* ――もしくは《人間存在》――)の高さである。
  (§35追加)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《自然的なもの》というのは 生まれたままの・他者ないし異者とのまじわりを経験しない人間存在のことです。コミュニケーションをしようとしないという意味で 《人間以前の状態にある人間》を言います。《有限なもの》は そのままこの《自然的な存在》を言いかえたものです。《無限》は 後史を成り立たせるなにものか・なぞのなにものかです。
 つまりこのように時間過程として捉えることをしないで やはり《無限・絶対》という概念を用いて思惟の内容を表わすかたちによれば 将来展望のことについても 哲学として扱えるかも分かりません。
 つまりは 
 ★ ときわたり
 ☆ も――表現としては 時間の経過をも伴なうのかも知れませんが―― このような《デーモン作用とその関係を超えた場》の問題として捉え表わす方法があるかも知れません。
 一考としてでした。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (γ):
 現実は変化しない。
 生命の心が変わる。
 たとえば第3次世界大戦の勃発と言う幻想で人類が滅亡するはずだったのはもう過去の事、このような幻想を見せた人の心が変わる。
 それが縁起共生でもある。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この場合 人類滅亡のおそれ〔としての思惟とそのこころ〕が変わり 消えるということは 縁起共生が デーモン作用の関係から自由になったと言えるか。
 方向としてそのようだとわたしも思います。そういうヱ゛クトルを持ったと言えるでしょうか。たぶんですが。

 ★ (β):未来が死によって阻まれる幻想を与えるのはデーモンの役割の一つ。 / 実際は死の関門は無い。
 ☆ この《幻想》は 《妄想そして不安》でもあるでしょうか。
 《死》を生の《限られ》とは見ないということでしょうか? 死は死でおのれの気づかいをするから 放っておけばよろしいと。
 もしそうだとすれば いま・ここのわたしが すでに後史ないし本史にいるのであって ただ《デーモンの前史》がちょうどヱ゛-ルのようにわたしたちの貌にかかっているだけだ。こうでしょうか? そこから《空》観につうじているのでしょうか? ううーん。
 ★ 実際は死の関門は無い。
 ☆ ううーん。どうも ひとつに この《関門》がくせものでしょうか。はっきりとこの関門ゆえに 前史のへび(デーモン)にひとは未練があるのでしょうか?

 ★ (α):デーモンとしてふるまう役目を終える。 / 消えるのとは違い非思考への回帰。
 ☆ ううーん。〔を連発していますが〕。
 ★ デーモンとしてふるまう役目を終える。
 ☆ だとすると デーモンないし蛇は 何かそれとして実在を持つ《はたらき(力)》であるようにも見えますが この点はどうでしょう? つまりあるいは 《幻想・妄想・不安》としての《はたらき(力)》なのでしょうか?
 そう捉えるなら
 ★ 消えるのとは違い非思考への回帰。
 ☆ については 《消える》と言ってもよいように思えます。幻想が幻想であるとさとる。それゆえ 消える。――ただしそのときにも 《非思考への回帰》というのは デーモンが回帰するのではなく わたしがなのでしょうね。つまりわたしは 空観をよく身につけるようになる。後史に入る。ゆえに デーモンは《デーモンとしてふるまう役目を終える》。

 こうなりましょうか? 

投稿日時 - 2010-08-11 23:27:18

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