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解決済みの質問

漢文はなぜ一旦古文にしてから現代語に直すのでしょうか?

漢文はなぜ一旦古文にしてから現代語に直すのでしょうか?
よく「漢文を勉強するには古文を勉強しないと…」と言いますが
なぜその必要があるのでしょうか?

古典だから、古文に直さなければいけないのなら
シェークスピアも一旦古文に直さないといけないですよね。
ピラミッドにある文字なんて日本語に訳せないことになります。

たとえば「須…」という漢文があったとき「すべからく…(す)べし」を読み?を教え
「きっと…しなければならない」と意味を教えますが
最初から「須…」は「きっと…しなければならない」で充分ではないでしょうか?

古文が一般的だった時代に漢文を訳していた人が作り出した資産は
きっと素晴らしいものだったからかと思うのですが
それを現代語バージョンに変換できていないのは
ある意味それは怠慢ではないかとも思ってしまうのですが…。

ちなみに私は学生ではありません。
漢文を学ぶ義務も意欲も今のところ無いですが
ずっと昔からこの疑問を持っているので
どなたかお願いいたします。

投稿日時 - 2010-08-19 17:29:36

QNo.6120850

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

 感覚や観念などというノスタルジャみたいのも付き纏っているのかもしれません。
 漢詩や論語はやはり仰せの文語調の読み下しで親しんでいて、リズムや歯切れがいいみたいにおもっています。
 中学で漢文が入ってきたとき、ご質問と同じ事を感じました。
 まぁ慣れてというか、毒されてというか、多少勉強があったのか、今、口語体の読み下しだとちょいと違和感があります。
 昔の人は多分、当時の口語での読み下しと、中国語そのままで通じ合う、ということもあったのでしょうね。
 私達の今の英語みたいに。
 それと何事も日本文化化する、日本的にする。という私達の傾向があって、文語的読み下しが伝統に為り、発達し、定着してきたのでしょうね。
 それで今、漢詩や論語、その他の文章の口語的読み下しは、直ぐにはついていかれません。
 個性の伴った、翻訳という側面が文語の読み下しよりも強くなると存じます。
 衒学的だということにもなりましょうが、やはり文語の読み下しになると存じます。
 でも特定の漢詩や漢文、論語は白文でも慣れていますが、何でも白文とはいきません。
 仏教のお経も般若心経くらいはいいが、それ以外はとてもわかりません。
 仏教学の学生も同じでしょうが、多分解説書があると存じます。
 それはマントラ、真言でも意味はわかりません。挨拶もサンスクリットではわかりません。
 聖者の発見したvibrationだという説明は、そこに意味はないということです。
 それではもう言語の誕生の事情と同類ですね。
 なおちなみの、私は国語も仏教も外の人で、社会科学の大学単なる図書館を仕事にしていたものですが。
 無論、専攻も国語でも仏教でもありません。

投稿日時 - 2010-08-20 09:38:33

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回答(13)

ANo.13

No.5とNo.10の回答者です。

>>>先入観が無いと断言できるのは素晴らしいと思います。

すごい嫌味ですね。
それは、あなたが先入観を以って私の回答を読んでいるので、その物言いになります。

私は、自分に先入観はないという断言はしていません。
中国語を現代語訳することを「漢文」(を読む)とは言わないということについて、私に先入観があるからではない、と述べているだけです。

>>>自分が理系だからかもしれませんが日々先入観と戦っていますので…。

私も理系です。

>>>漢文をされる方の考え方が少しだけですが、わかった気がします。
>>>(当初の印象と結局ほとんど変わってないですが…)

私は、(おそらくはあなたと同じく)高校で習っただけです。

>>>時代ドラマなどを観ると、小学生くらいの年齢でも漢文をやっていたようですからまさに“門前の小僧…”で「ににんがし」のように意味がわからずとも、ふと口ずさんでしまうことがあったと思います。しかし現代日本で、どれだけの人がそれに該当するでしょうか。
>>>遠方から友人が訪ねて来た時の楽しい気持ちは思い出されるものの「また」「ずや」の意味がわからないので結局のところ正確なニュアンスはわかりません。

ですから、わからない人にはわからないし、わかる人にはわかると申し上げているのです。
それは、現代語も例外ではないのです。
たとえば、政治家がよく使う言葉として「やぶさかではない」「下野する」「未曾有の事態」などがあります。これらはれっきとした現代日本語ですが、現代日本の成人の中で、どれだけの割合の人がその意味を正しく理解しているでしょうか。
また、「慇懃無礼」(いんぎんぶれい)はよく使われる言葉だと思いますが、最初の2文字の「慇懃」の意味を知っている人はどれだけいるのでしょうか。

結局のところ、古語辞典を引くか国語辞典を引くかの違いしかないのです。
私自身も、テレビの時代劇を見ていて、「ヤソ」とか「呪詛」(じゅそ)とか知らない言葉が出てくると、辞書を引いています。
さらには、常用漢字表には「詔」「懇ろ」が載っていますが、実際に使う人は少ないですし、意味どころか読み方さえしらない人が大多数だと思います。この場合は、引く辞書が漢和になりますね。

下記サイトもご覧ください。
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%BC%A2%E6%96%87/
いちばん下に、
「が明治維新により西欧文化が浸透するにつれて、漢文はしだいに衰退滅亡していった。 」
とあります。
もはや漢文は(実用のものとしては)過去のものです。
再度申し上げますが、漢文を学ぶ意義は、文化の継承だと思っています。

投稿日時 - 2010-08-22 21:44:32

補足

回答ありがとうございます。

>中国語を現代語訳することを「漢文」(を読む)とは言わないということについて
>私に先入観があるからではない、と述べているだけです。
あなた自身であれ、漢文をされている方がそうであれ
「言わない」からそうだと決め付けることは
やはり先入観なのではないでしょうか?

>ですから、わからない人にはわからないし、わかる人にはわかると申し上げているのです。
仰る通りですが、私としては「わからない人が多いのに
それを高校で無理して教えるほどの意味(実利的意味に限らず)があるのか」
と言いたかったのです。言葉が足りませんでした。
小学校・中学校の教育が漢文をほとんど扱っていないし
高校でもほとんど漢文を扱う時間がないのだから
訓読や暗誦という非合理なものはやめて現代語訳だけやればいいのではないか
という質問意図でしたが、やはり平行線でした。

投稿日時 - 2010-08-23 23:40:50

ANo.12

 質問者さん、すみませんがANo.11の回答というより、そこで引用されている#4・6ですかのご見解に思いを同じく(う)します。
 補足と言うのか、質問者のコメントも拝読しましたが。
 決して国漢なんか得意でもないし、何の知識もない、中高で触れただけの人間ですが、生きるという動作のために国漢資料にあたってきただけですが。
 中高でだ出会った先生も決して何の思いもなく、今、会ったらとおりの向こうで見かける人っていうよりも、邪魔な石ころにそっと乗るか、足で蹴飛ばしてどかすくらいのみなさんですが。
 つまりいい先生ではありえなかった。
 でも漢文を今の読み下し文章、口調で読み、親しむことは良いですね。
 無論、質問者さんがもっといいやりかた方式を出してくれたら嬉しいですね。
 やはり日本の文化・心性として定着しちゃっているんじゃないですか?
 お気に入るお話ができませんで、すみませんね。ご参考までに。

投稿日時 - 2010-08-22 15:11:52

ANo.11

No.4,6 です。
質問者さんの場合は、英語も漢文もいい先生でなかったのでしょうね。
英文や漢文の朗読の良さを味わえなかったのはお気の毒です。
英語の教科書にも朗読に足る名文がたくさんあったはずです(私の場合はありました)。
NHKに漢詩紀行という番組があります。なかなかいいですよ。

投稿日時 - 2010-08-22 13:42:56

ANo.10

No.5の回答者ですけど、
全否定ですか。参りました。

「しょしんわするべからず」「よくとおす」「またたのしからずや」と言えば、その意味は、現代語に訳さなずそのままでも、わかる人にはわかるんですよ。
日本語あるいは‘日本語もどき’として、です。
前回の冒頭に「漢文は中国語ではなく日本語です」という私の先生の発言を書きましたが、
そういうことです。

あなたは私に先入観があるとおっしゃいますが、あなたは漢文は中国語(外国語)だと考えているようですから、私がこれ以上意見を述べても堂々巡りになることは明らかです。
そもそも前提が違うのですから、あなたを説得できる人は誰もいません。

私は、日本の学校で漢文を教えることの意義は、文化の継承だと思っています。
いきなり中国語を現代語訳することを「漢文」(を読む)とは言わないのです。
これは、私に先入観があるからではありません。

なお、No.9様のご回答の内容に賛同いたします。

投稿日時 - 2010-08-21 18:47:00

補足

度々の回答ありがとうございます。

>その意味は、現代語に訳さなずそのままでも、わかる人にはわかるんですよ。
時代ドラマなどを観ると、小学生くらいの年齢でも漢文をやっていたようですから
まさに“門前の小僧…”で「ににんがし」のように
意味がわからずとも、ふと口ずさんでしまうことがあったと思います。
しかし現代日本で、どれだけの人がそれに該当するでしょうか。

「またたのしからずや」は
「有朋…」から始まる漢文の一節にもあることはこの年になってもわかりますが
遠方から友人が訪ねて来た時の楽しい気持ちは思い出されるものの
「また」「ずや」の意味がわからないので
結局のところ正確なニュアンスはわかりません。

先入観が無いと断言できるのは素晴らしいと思います。
自分が理系だからかもしれませんが日々先入観と戦っていますので…。

漢文をされる方の考え方が少しだけですが、わかった気がします。
(当初の印象と結局ほとんど変わってないですが…)
お礼のつもりで書いていますが、補足欄に書けるのは締め切る前だけなので
補足欄に書いてしまいました。

何度も回答ありがとうございました。

投稿日時 - 2010-08-22 16:04:47

ANo.9

漢文を訓読などせずに直接現代日本語に訳す方法はとっくの昔に確立しています。大学の中国文学科ではまず中国語を学び、漢文も現代中国語で上から順番に読み、直接現代語に訳すのです。ただ、現在の高校では、中国語の発音を学習するだけの時間が取れないので無理です。
 訓読というのはすごい技術なんですよ。外国語の語順を変えるだけで日本語にしてしまうのですから。ただの直訳であれば他のどんな外国語でも簡単にできますが、漢文の訓読というのはもとの漢文のほとんどすべての語彙(虚字は除く)を生かしたまま日本語に直訳してしまうのですから。同じようなことは他のいかなる外国語に対しても実行不可能です。
I understand English.を「わたしは英語を理解する」と訳することはできます。しかし、漢文の訓読とはただの直訳ではないのです、もとのすべての単語をそのまま生かしたままで翻訳するのです。試しに、同じようにやってみると、こんな風になります。
IはEnglishをunderstandする。
これで日本語になっていますか?これではとても日本語と言えないでしょう。このような訓読が可能なのは漢文に対してだけなのです。
 それじゃあ、わざわざ古文を介するのではなく、現代日本語だけで訓読ができないのか?
 上の英文に当たる漢文は
 吾会英語。
これを伝統的訓読すると、「吾(われ)英語を会す」となります。無理に現代語の直訳を作ると、
「吾(われ)は英語を会する」となりますが、これではとても自然な現代日本語とは言えません。やはり「わたしは英語を理解する」と再び訳す必要があります。馬鹿げた2度手間です。
 もうひとつ例をあげましょう。
 吾得行。
伝統的訓読をやれば、
 吾行くを得(う)。
これをやはり無理矢理に現代語直訳してみると、 
 吾(われ)は行くことを得る。
どうしてもピンボケの日本語になってしまいます。訓読はやはり古文を使うからこそうまく訳せるのです。古文がほんの少しでもわかる人なら、伝統的書き下し文から、「わたしは行くことができる」という意味だなとわかります。
 あと、訓読することの意味ですが、日本語の中には無数の漢語があります。その漢語の多くが漢文の文法に従って作られています。漢文の知識があればそうした漢語の意味を正確に知ることができるのです。「有能」は訓読すれば「能あり」だから「能力がある」ということ、「無力」とは訓読すれば「力なし」だから「力がない」こと、漢語の意味が歴然とするのです。「失楽園」のような、すこし凝った熟語でも、これを訓読すれば「楽園を失う」だから「楽園の喪失」のことだなと見当をつけることができます。最近はこんなかんたんな熟語でもただしく訓読できない人が増えてきたので「楽園喪失」という新しい訳が作られました。まったく嘆かわしい限りです。
 松尾芭蕉の「奥の細道」を読んでいると「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」という文が出てきますね。昔から日本の文人は漢文を訓読して自分たちの古典にしてきたのです。訓読の習慣が失われたらそうした日本の古人との一体感も失われてしまうでしょうね。

投稿日時 - 2010-08-21 17:53:38

補足

回答ありがとうございます。

>中国語の発音を学習するだけの時間が取れないので無理
英語も発音の学習はとてもおざなりだと思いますが
意味を捉えることはできていますよね。
発音の学習時間の有無は真の理由ではないように思いますが…。

訓読の素晴らしさは何となく想像できます。
しかし、古文を使わない人にとっては
その素晴らしさは何の意味も無いように思います。

>あと、訓読することの意味ですが、…
これは日本語訳の能力が付けば不要だと思います。
訳の時のほうが語順を意識するように思います。

>日本の古人との一体感も失われてしまうでしょうね。
昔の日本人が風習としてきたことは他にも色々ありますよね。
たとえば風水のようなことは最近は復活しつつありますが
(当時と同じようなものだったかどうかはわかりませんが…)
各地で行われる祭事がどのような意味を持つかなど
ちゃんと理解できている人はとても少ないのではないでしょうか。
既に一体感は失われていると思うのです。
そういうものもちゃんと継承してきたならわかるのですが
なぜ訓読にそこまで拘泥するのかがよくわからないです。

投稿日時 - 2010-08-22 16:17:07

ANo.7

日本では「漢文」という言葉は二通りの意味で使われています。
一つは文字通り、「漢(中国)」の「文」、昔の中国語の文章のことです。
もう一つはこの「漢文」(中国語の文章)を「読み下し文」という日本語の文章に一定のルールで変換して、日本語として理解する特殊な技術のことです。

高校などで勉強する「漢文」は後者の意味です。ですから「漢文」が教科としては国語(日本語)の中にあり、外国語(中国語)の中にないのだと思います。ご指摘のとおり、「漢文」(中国語の文章)の意味を理解する目的だけなら、必ずしも「読み下し文」を経由する必要はないと考えられます。この方が外国語の文章を理解する方法としては正統かもしれません。ただしその場合は、本格的に理解しようとすれば昔の中国語を勉強する必要があり、「読み下し文」を経由するわが国古来の「漢文」より難しくなることは確実です。(現代語版の「読み下し文」を作るのなら本質的には変わらないことになってしまいます)

日本人が「漢文」や「漢詩」と聞いてイメージするのは「中国語の文章や詩句そのもの」ではなく「國破れて山河在り」式の「読み下し文という日本語の文章」の方ですし、日本式の「漢文」には長期間の文化的な蓄積があり、日本人が作成した「漢文」「漢詩」の遺産も無視できません。要するに日本人が「漢文」を学ぶ目的はどこにあるのかということです。

こうしたことから、古来の「漢文」の教え方が21世紀の今も継続しているのだと私は考えますが、いかがでしょうか。

投稿日時 - 2010-08-20 07:55:02

>「だから」のところが、ちょっとわからないのですが
>1000年をかけて「漢語翻訳法」を改良し続けることができたから
>というような解釈でよろしいでしょうか?

口語のように言い方が時代につれてドンドン変わって行くと、決定版が作れません。

>暗誦する意味がよくわからないです。
>漢文を学ぶ目的は
>どんな白文が出ても読めて意味が解釈できるためではないのですか?
>音楽のように昔の人達が楽しんだものを学ぶということなのですか?
>(音楽が学校で学ぶに価値の無いものと言うつもりはありません)
>英語を学ぶ目的と同様に捉えてはいけないのでしょうか?
>高校で必修にするほど日本人に身につけさせたい理由は何でしょうか?

英語を学ぶ目的と同じです。
英詩も暗誦します。
学校で学ぶことは、実利実益のためだけではありません。
高校で学ぶ国語や英語は、語学だけではなく文学というものも含まれています。
国語学+国文学=高校国語 漢文も入っています。
英語学+英文学=高校英語
実利実益のためだけだと学校生活さびしいね。
その後の社会人生活もさびしいね。折角教養を身につけさせてくれる機会だったのに。

投稿日時 - 2010-08-20 07:25:55

補足

再びの回答ありがとうございます。
>口語のように言い方が時代につれてドンドン変わって行くと、決定版が作れません。

>英語学+英文学=高校英語
日本の高校で扱う教材の多くは日本人が作成したものと聞いたことがあります。
そのようなものは英文学とは呼べないのではないでしょうか。

>その後の社会人生活もさびしいね。
そうですね。
漢文を習う際にも楽しいものとは全く思えませんでした。
機械的作業のペースについていけませんでしたし
内容的にも共感できないものが多く訳だけで充分でした。

投稿日時 - 2010-08-21 16:31:34

ANo.5

こんにちは。

高校時代、授業で、先生が
「漢文は中国語ではありません。日本語です。」
と言っていました。

さて、
「初心不可忘」
これは、「しょしんわするべからず」と読みますが、
現代語にすれば、
「しょしんをわすれるな」
となりますね。
すると、「不可」の2文字に割り当てる日本語はどうしたらよいでしょうか。
「るな」とか「れるな」では言語道断ですね。
では、「不可」を「な」と読むことにすればよいのでしょうか。
「するな」に統一しても良さそうですが、それだと
「しょしんをわすれることをするな」
という訳にしないといけませんね。


論語の有名な文章に
子曰 学而時習之 不亦説乎 有朋自遠方来 不亦楽乎
というのがありますね。
これを現代語訳すると、
「先生は言いました。学んで、そして、その時ごとに学習することは実に喜ばしいことではないか。同朋がいて遠くから来てくれることは、実に楽しいことではないか。」
となりますね。
すると、漢字への割り当ては、
・「不」に「ではない」
・「乎」に「か」
・「亦」に「実に」
を割り当てて
「実に***ではないか」
のようになりますね。
「亦」なんて現代日本語では使われませんね。
すると、
・亦⇒実
という漢字変換を行う必要が出てきます。
果たしてこれは合理的なことなのでしょうか。

「矛盾」の語源となっている文章の一部
「吾盾之堅 莫能陷也」
わがたてのかたきこと、よくとほすものなし
と読みますね。
「能」(よく)は、英語では can 、西日本では「よう」ですが、標準語には直接対応する言葉は存在しません。
では「能」には、何という読みを割り与えれば良いのでしょうか。
「能陷」の2文字に「とおすことができる」という読みを与えればよいのでしょうか。

もとの漢字オンリーの文章にレ点などをつけて、漢字は現代風に変換することをせずに「機械的に」読む。
やはり、それが漢文というものだと思います。

投稿日時 - 2010-08-20 03:56:36

補足

回答ありがとうございます。

>すると、「不可」の2文字に割り当てる日本語はどうしたらよいでしょうか。
英語の“can't”と同様に「~してはいけない」の意味を当てれば良いように思います。

>「しょしんをわすれることをするな」
全く問題ないと思います。
英語においても、I want to be a teacher.は本来
「私は先生になることがしたい」ですが
「私は先生になりたい」と訳すことはできています。

>果たしてこれは合理的なことなのでしょうか。
先の回答で言えば、「百姓」を「人民」と読み替えるようなもので
それに拘泥する必要は無いように思います。
寧ろ余計な時間を削減することができ、合理的だと思います。

>では「能」には、何という読みを割り与えれば良いのでしょうか。
もともと別の言語なのですから無理に読みを与える必要は無いと思います。

>「機械的に」読む。
昔の人は機械的にやることで意味が理解できたでしょうが
現代人がそれをやることに意味があるのでしょうか?

>やはり、それが漢文というものだと思います。
先入観に囚われているだけのように思いますが…。

投稿日時 - 2010-08-21 16:23:30

>古文が一般的だった時代に漢文を訳していた人が作り出した資産は
>きっと素晴らしいものだったからかと思うのですが
>それを現代語バージョンに変換できていないのは
>ある意味それは怠慢ではないかとも思ってしまうのですが…。

まさにおっしゃる通りです。
日本の文語は平安時代の文章語と言われています。
1000年も変化がありません。
決まり切った言い方です。
だから漢文を翻訳しやすいんです。
誰が読み下しても同じ結果になります(誰がと言っても、教養人でないと)。
特に漢詩のはいいですね。
暗誦しやすいし、また暗誦したくなります。

漢文をつかみどころのない現代口語でやっちゃうと、大変でしょうね。
怠慢といえば怠慢ですが、決定版を誰も作れない。
作っても、誰も暗誦してくれそうにない代物ができる。

とにかく、日本語がわかる中国人が言っていました。
「漢詩は本物よりも日本語の方がよい、その朗読朗詠は素晴らしい」

まあ、そういうことで、僕は漢文の読み下し文、書き下し文は、大好きです。
気持ちがいいです。
日本の法律の文章も漢文読み下し調で大好きです。法律順守したくなります。
(以上文語大好き人間ヨリ)

杜甫 春望
http://www.rinku.zaq.ne.jp/bkcwx505/Kanshipage/KanshiNo7/kanshi91.html

投稿日時 - 2010-08-19 20:58:15

補足

回答ありがとうございます。

>日本の文語は平安時代の文章語と言われています。
>1000年も変化がありません。
>決まり切った言い方です。
>だから漢文を翻訳しやすいんです。
「だから」のところが、ちょっとわからないのですが
1000年をかけて「漢語翻訳法」を改良し続けることができたから
というような解釈でよろしいでしょうか?

暗誦する意味がよくわからないです。
漢文を学ぶ目的は
どんな白文が出ても読めて意味が解釈できるためではないのですか?
音楽のように昔の人達が楽しんだものを学ぶということなのですか?
(音楽が学校で学ぶに価値の無いものと言うつもりはありません)
英語を学ぶ目的と同様に捉えてはいけないのでしょうか?
高校で必修にするほど日本人に身につけさせたい理由は何でしょうか?

投稿日時 - 2010-08-20 00:59:40

ANo.3

phj

漢文というのは、中国の古典のことでよろしいでしょうか。
だとすると、漢文を日本語の文章として学習する際に、古文で学習し意味を現代語に翻訳するのは、漢文を引用した古文があったり、元は漢詩のものを昔の日本人が読みくだし(古文)で一般的に知っており、それを元に本歌取りするようなことがあったからではないでしょうか。

たとえば、今でも漢文の古典である四書五経を出典として、日本の元号を決めています。
昭和は、書経尭典の「百姓昭明、協和萬邦」から取られており、古文にすると「百姓は昭明にして、萬邦を協和す」という文になり、さらに現代語訳すると「人々が己の徳を出し合えば、世界中は平和になる」という意味です。

このとき漢文からいきなり現代文の意味にしてしまうと、百姓が人々、昭明が徳を表すこと、協和が平和で萬邦が世界中、という漢字の意味をつかみ損ねてしまいます。
漢文中の漢字の意味を説明しようとすると「百姓が人々、昭明が徳を表すこと、協和が平和で萬邦が世界中」と説明するしかないわけで、だったら古文としてもともと通用している「百姓は昭明にして、萬邦を協和す」と書いてから説明したほうが早いのではないでしょうか。

また江戸時代になると、庶民まで教育が行き渡り、寺子屋を卒業しその上のレベルになると江戸時代の人々は武士も町民も四書五経などの古典を教材に学んだようです。ある程度の知識人になると漢文を読みくだしせずそのまま読んでいたようですが、多数の人は読み下し(古文)で学んでいたことでしょう。また江戸時代は俳句が盛んでしたので、漢文からの本歌取りをすると教養人と見られていたようです。しかし教養がある、ということを見せるにはみんなが知っている程度の読み下し文から本歌取りする必要があったでしょうから、漢文よりも読み下し文(古文)を勉強しないと、俳句の本歌取りなどが理解できなくなってしまいます。

芭蕉の「行くはるや鳥啼うをの目は泪」も漢詩を下敷きにしています。本歌は「羈鳥恋旧林、池魚思故淵」です。これを古文にすると「羈鳥は旧林を恋い、池魚は故淵を思う」となり、この古文を教養として江戸の庶民(といっても旦那衆など)が覚えていることで、芭蕉の句の意味「鳥は鳴いて魚は目に涙して行ってしまうもの(本歌は離別:芭蕉は春の終わり)を惜しんだ」という句の意味を知ることになります。
結局現代人がこれを理解するにも、「羈鳥恋旧林、池魚思故淵」→
「羈鳥は旧林を恋い、池魚は故淵を思う」という別れの歌があって、芭蕉の句「行くはるや鳥啼うをの目は泪」が理解できるわけです。(ちなみにこの句は行く春と旅立ちがかかった二重の意味の惜別が入っています)

中国語をそのまま勉強する、またはシェイクスピアのように日本文化に影響を与えていないものなら、そのまま原文を崩さずに味わったほうがいいと思います。(俳句だって外国語にしてどこまでつたわっているのか非常に疑問ですね)
しかし、漢文は日本文化に与えた影響も大きくそれを読み下して日本の文化に埋め込んでいったという歴史がある以上、漢文・古文そして現代文とすべて学ぶ必要があるのだと思います。
また「漢文を勉強するには古文を勉強しないと…」というのは逆で、古文には漢文からの引用やメタファーがたくさんあるので、古文を理解するには漢文の素養が必要だ、ということだと思います。

投稿日時 - 2010-08-19 20:36:33

補足

>漢文というのは、中国の古典のことでよろしいでしょうか。
これについてはよくわかりません。
高校で「漢文」と呼ばれているもののことです。

昭和の年号についてですが、「昭明」「萬邦」は古来の日本でも
さほど使われていないような印象がありますが、いかがですか?
(「百姓」も古文では見かけないような気がしますが…)。
だとすれば、わざわざ古文を経由する必要は無く、現代語で
「百姓が昭明であって、萬邦を協和する」として良いように思います。

芭蕉の例にしても「羈鳥は旧林を恋して、池の魚は故淵を思う」と
漢文を訳すことでも充分に理解可能だと思います。

>古文を理解するには漢文の素養が必要だ
古文のための漢文という位置付けですね。
これはあまり考えておりませんでした。

投稿日時 - 2010-08-20 00:35:33

ANo.2

現代語に直す時は、質問者さんの仰せの通り、漢文をそのまま現代語訳すればいいのです。

現代語に直す時、古文に直して、それを現代文に直す必要はまったくないのです。

ただ、漢文を「漢字仮名交じり文」に直す時は、古文の文法に従って書き下すのが、現在の考え方です。
日本の国語で扱う漢文は、中国の古典です。なので日本の古文(漢字仮名交じり文)に直しているのです。

>たとえば「須…」という漢文があったとき「すべからく…(す)べし」を読み?を教え
>「きっと…しなければならない」と意味を教えますが
>最初から「須…」は「きっと…しなければならない」で充分ではないでしょうか?

「須…」という漢文があったとき、現代語訳するときは、あなたがおっしゃる通り、
「きっと…しなければならない」と現代語語訳していいのです。

書き下し文(漢字仮名交じり文=古文)に直す時は、
「須らく…(す)べし」と古文の読み方の作法に従います。

投稿日時 - 2010-08-19 20:16:35

補足

回答ありがとうございます。
では、なぜ書き下し文は古文の文法に従うのでしょうか?
また高校で書き下しを教える必要性がなぜあるのでしょうか?
言文一致からもう百年も過ぎようとしているのに…。

投稿日時 - 2010-08-20 00:21:33

ANo.1

「漢文」 は、古い中国の文献ですから、日本でいえば 「古文」 に相当するものだと思います。
そういう意味でも古文の調子で読む方が趣があるし、格調があるように感じられます。

また、日本語の古文の方が、語尾変化などが簡潔で、すっきりしています。
「子の曰うとことでは」 などどまどろっこしいことをやるよりは 「子曰く」 の方がはるかにすっきしとしています。
だから、リズミカルで、暗誦にも適しています。お経なんかでも、「色は空に異ならないもので・・・」 などとやってたら、締まらないものに感じられるのではないでしょうか。
日本の短歌や俳句だって、リズムがあることが、人口に膾炙する原因ではないでしょうか。

ただし、現代の中国語を日本語にする時には、そのまま現代の日本語に訳すのが普通だろうと思います。
「漢文」 は、あくまでも中国の 「古典」 としての扱いですから。

投稿日時 - 2010-08-19 18:16:37

補足

回答ありがとうございます。

>「漢文」は、あくまでも中国の「古典」としての扱いですから。
は質問文にも簡単に書きましたように
ピラミッドにある文字を通常は古文に訳したりしないと思います。
そもそも時代が合わず、当時の日本語なんてわからないですよね。
なぜ漢文だけを古文で和訳するのかとても不思議です。

>日本語の古文の方が、語尾変化などが簡潔で、すっきりしています。
現代日本語の無能な点は薄々理解しております(形容詞の命令形が無いなど)。

>「子の曰うとことでは」 などどまどろっこしいことをやるよりは
>「子曰く」 の方がはるかにすっきしとしています。
漢文を勉強する人の多くは、少なくとも学校教育では
その「まどろっこしいこと」をやっており
逆に暗誦したりリズムを楽しんだりは殆どないと思います。
また暗誦する人よりも学校教育で苦しめられる人のほうが
人数としては多いように感じますが…。

投稿日時 - 2010-08-19 18:32:35

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