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どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか

どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか

 たとえば次の文章の中の《永遠的なもの》 これが《絶対》を表わします。《時間的なもの》は 《相対》です。経験世界における経験的なものごとです。したがって 絶対は 非経験です。


 ▲ (アウグスティヌス) ~~~~~~~~~~~~
 たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。

 時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。
 しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。
 永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。

 ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。
 (アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《絶対=非経験=無限=永遠》は たしかに表象し得ないことですから 無いと言えば無いですし そもそも根拠もありません。ただのナゾであるだけではなくはっきりと無根拠です。
 これをわれわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか? やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか?

 表象し得ないナゾですが このように仮りに言葉で表わしたなら それとして概念となります。
 この《絶対》という概念を ふつうに日常に使えるように知るための《たとえ》は ないものでしょうか? 
 いくつかの視点からのご見解ともども おしえてください。

投稿日時 - 2010-09-11 11:07:54

QNo.6174142

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

《絶対=無限=永遠》は、経験の内側でしょう。
経験の二重構造であり、潜在的な形式の〈非在〉にあるにせよ、非経験ではないでしょう。

時間的な経験において、脱時間的に、流れるに対してむしろ開く運動があり、
それは、経験の時間的な運動である側面と切り離して考えられません。

このことは、エゾテリックな文脈では観るという経験に属し、
wisdom の本質がvideo, virtual にあるというインド・ヨーロッパ語族の文化背景を持っています。
運動の経験にゆだねられた肉体である人が、その経験的にしかない知覚をとおして、
叡智に触れる仕組みを考えることになります。

以上、ご質問の半分についてでしたが、残り半分の日本の八百万の神については、
事情は違うのではないかと思います。

日本の神は民俗神話で、創造神にはじまる伝承形式の語りですが、
農耕民族らしく、太陽、清水をよく反映しています。
これは瞑想的であるよりは、じつによく目に映っているという様態です。
それが政治に役立つと判断されたところもあるでしょう。
叡智の光輝というのは、大陸の風土から生まれたものだと思います。
これが、日本に入ってくるのは、インドから中国をとおして、仏教においてです。
ソフィですね。
の世界、のほうは読書したことがないのでわたしは沈黙していますが、
自我のありかたが、インド・ヨーロッパやセム・ハムとはずいぶん違って、
ソフィの世界の乖離的対峙が要らなかった日本人であろうと思います。
ドラスティックな話に落とせば、切実に、食べ物や空き時間の違いじゃないでしょうか。

ブラジュロンヌさんがアースというはたらきをなさるときに、
なびきなびき傾き傾きしてあげくに文句を垂れる....のを目にいたしますが、
これも、wisdom の備えうる先見、慧眼、透視をコロンブスのごとき叡智で働かせて
時間をかけず〈垂直に〉立てる、ということをなさらないのは、日本人的かもしれません。
仏教やとりわけ禅から取り入れるもののひとつは、この垂直思考の東洋的方法だと思います。

経験をとおして経験的知に触れることは、たくさんの知覚と認知と概念を織りあげることですが、
経験をとおして叡智の光輝に触れることは、二重構造の垂直的経験であると思います。
たぶん或る程度は同じ内容を指して、非経験と呼んでおられるかと思います。

投稿日時 - 2010-09-12 04:07:30

補足

 次の箇所をめぐって 覚え書きです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ソフィですね。
 の世界、のほうは読書したことがないのでわたしは沈黙していますが、
 自我のありかたが、インド・ヨーロッパやセム・ハムとはずいぶん違って、
 ソフィの世界の乖離的対峙が要らなかった日本人であろうと思います。

 ドラスティックな話に落とせば、切実に、食べ物や空き時間の違いじゃないでしょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ いま 13日午後4時ごろです。この時点で――《沈黙している》をわたしはつづけるのですが―― 《それ》を読んだ感想としては いっちゃっていると思いました。ただし けっきょく口先だけのことなのかも知れません。そうとも思われます。
 これだけです。

 最後の一文 
 ★ ドラスティックな話に落とせば、切実に、食べ物や空き時間の違いじゃないでしょうか。
 ☆ がよく飲み込めていなかったという思いもあります。《食べ物や空き時間の違い》というのが いまひとつピンと来ていない次第です。
 不一にて。

投稿日時 - 2010-09-13 15:53:42

お礼

 あまがっぱさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 《絶対=無限=永遠》は、経験の内側でしょう。
 経験の二重構造であり、潜在的な形式の〈非在〉にあるにせよ、非経験ではないでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ おっしゃるとおりであると言いたいところですが ここは げんみつに定義します。
 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  1. ひとは永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。
  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。
  3. ですから ひとつに《ことばそして概念》としては 
   ★ 《絶対=無限=永遠》は、経験の内側でしょう。
  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由でありゆるされています。信教・良心の自由ないし表現の自由という公理であるようです。
  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の領域であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。
  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は
   ★ 経験の二重構造
   ☆ として――あくまでそういう仮りのすがたとしてでしょうが―― 現われている。こうなります。すなわち 《無根拠で非在なる非経験》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実》との《二重構造》を呈しています。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ このあとにでしたら いわゆる《神秘思想》のこともじゅうぶん飲み込めます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 時間的な経験において、脱時間的に、流れるに対してむしろ開く運動があり、
 それは、経験の時間的な運動である側面と切り離して考えられません。

 このことは、エゾテリックな文脈では観るという経験に属し、
 wisdom の本質がvideo, virtual にあるというインド・ヨーロッパ語族の文化背景を持っています。
 運動の経験にゆだねられた肉体である人が、その経験的にしかない知覚をとおして、
 叡智に触れる仕組みを考えることになります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 言いかえると ふつうの生活日常におけるいわゆる《神体験》もあり得ると考えます。あるいは日本人の《ひらめき》でもよいかと考えます。いえ 要するに誰れにでも あくまで《主観にあっては》 それこそ非経験体験(?)は 自由であり すべては良心と確信のもとにゆるされています。

 ということの意味は じつは
 ★ 経験をとおして叡智の光輝に触れることは、二重構造の垂直的経験であると思います。
 ☆ なる事件を あくまで・どこまでも 《わたし〔の主観〕のうちに起きること》と限定して定義することだと考えます。
 さらにさらに もしこの《主観の内における非存在の現在(遍在)》なる垂直的二重構造が――想定として――ともに受け容れられる現実であるとすれば いわゆるシントウも じつは同じ世界を共有していると帰結されるはずなのです。
 ○ ムスヒの神:生(む)す・蒸す‐ひ(霊)
 ☆ という例で説明できると思います。《生す》は 経験事象ですが それは《目に見えないヒ(霊)》の仮りの現われだと見ていないでしょうか? ただしもっとも この《ヒ(霊)》――あるいは《ミ(霊)・チ(霊)》もあるようですが――も すでに経験現象の次元に降りて来ていると捉えられてしまう実際もあったようですが。

 ひとことですが わたしが《切れる》のは――言い訳ですが――相手がすでに切れたのを見て 鏡面理論を実行しています。つまり《文句を言い返したりののしりの言葉を言い放ったりする》のは これもあれも《アース役の延長》にあります。つまり そういうかたちで 対話が切れていないのです。
 そうでなく道徳規範そのままに実行しているならば 相手は そこでほんとうにわたしが《切れた》もしくはわたしにでも《見放された》と思うことでしょう。つまり そういう事態になるとき相手は もう対抗できないということをうすうす気づいているのだと考えます。それでも《名誉・体面》が捨てられないでいます。

 ソフィーの世界はわたしも読んでいません。

 やや断定調になってしまったようです。

投稿日時 - 2010-09-12 10:30:22

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回答(45)

ANo.45

ひとつめっけ!


中国の海洋政策と法制に関する研究
海洋政策と海洋の持続可能な開発に関する調査研究
-各国の海洋政策の調査研究報告書-
平成18 年3 月
海 洋 政 策 研 究 財 団
http://www.sof.or.jp/jp/report/pdf/200603_ISBN4_88404_179_8.pdf


(二) 中国の歴史上の海洋政策
1. 春秋戦国時代、斉の国の「宦山海」政策。中国では春秋戦国時代、列国が林立していた。沿海地
域に位置する諸侯国の海洋開発に対する認識はそれぞれに異なり、政策もまちまちであった。山東の
沿海にあった斉の国は、太公によって立国されて以来、「漁塩」の利を重視し、海洋資源の開発を図る
ことで、富国をめざした。斉の桓公の時代に行われたのが「宦山海」政策で、山海の資源を国の財産と
して、その開発活動が管理された。彼らは塩業の発展を特に重視し、食塩の専売制度を取り入れて、
国は塩業生産によって巨額の財政収入を得て、当時の強国となった。
2. 東漢時代、合浦太守孟嘗は真珠貝資源を保護する政策を採った。東漢時代、合浦沿海は真珠
貝資源が豊富で、現地の住民は真珠採取を仕事とし、真珠で米を手に入れ、商人が往来して、大規模
な商売が行われていた。しかし、より多くの真珠を手に入れるため、官吏が住民を駆り立てて海に出し、
真珠を捕集させたため、真珠貝資源は損なわれてしまった。合浦の太守孟嘗は任につくと、真珠貝資
源に対して保護政策を採り、真珠貝の乱獲を禁止し、真珠貝資源を回復させた。この出来事は、中国
の真珠採集の歴史の中で美談として語り継がれており、現地の住民は廟を立てて孟嘗を記念してい
る。
3. 唐宋時代の塩業と海運業を重視し、漁業を軽視する政策。唐代、沿海の港には専門の管理機構
である市舶司が設けられ、国外から入ってくる重要な商品は必ずここが直接買い取った。唐代には造
船技術も航海技術も大変進んでおり、遠洋航路や対外貿易の水準は前の時代をはるかに上回ってい
た。海塩業は収入も大変高いため、国の主要な財政源の一つであった。宋代には、塩業に対して、生
産区分、輸送販売区分制度が採られた。一方で、海洋漁業は海運業や海塩業に遅れた。たとえば、唐
代中期、塩場の収入は600 万貫で、全財政収入の50%を占めていたが、『新唐書、食貨誌』には魚税
の項目は見当たらない。同じ時代の別の文献にも、数量が限られた実物の貢物についてしか記載がな
い。
4. 明清時代の「禁海」、「遷界」政策。「禁海」政策は明代に始まった。当初は、島に逃れた元朝の残
党勢力を孤立させることが目的であったが、その後は倭寇による騒擾の防止が目的となり、個人が海に
出て貿易を行うことが禁止された。清代の「禁海」の目的は、鄭成功率いる清への対抗勢力に対して経
済的封鎖を行うことであった。その後、清朝は「遷界」政策を採るようになり、「遷界区」、つまり海から15
kmの範囲内を人の住まない地帯とした。「禁海」政策、「遷界」政策は、海運業、漁業、塩業に深刻な損
害をもたらし、その上、こうした政策がついには「鎖国」政策へと発展していった。
5. 北洋政府と国民政府の漁業政策。辛亥革命後、北洋政府は実業部に漁業局を設立し、専門に
漁業行政を司った。1915 年にはこれが、農商部の下の漁政司に改められ、その後更に農鉱部に所属
する漁政科に改められた。この期間、北洋政府は、漁民が外海に出て作業することを奨励し、魚の保
6
護と盗難の防止に力を入れ、漁業技術を革新し普及させる政策を採り、相次いで漁業法とその実施細
則、公海漁業奨励条例、漁船の海洋保護盗難取締を奨励する条例、漁業技術伝習条例といった法規
を次々と公布した。1932 年、国民政府は「海洋漁業管理局組織条例」を公布し、全国の沿海を江浙、
?粤、冀魯、東北の4 つの漁区に分けるとともに、それぞれに漁業管理局を設けて、これを実業部に所
属させた。

投稿日時 - 2010-09-25 19:54:24

お礼

 そうですね。

 中国人も 漁業の関係で この尖閣諸島付近に来てはいたのでしょうか。

 無人島だったのですよね。
 あとは 日本人がかかわって来た。(そんな昔ではない)。

 竹島問題とは違って その領有関係ははっきりしているようなのですが。


 ○ 利害関係・面子・怨み
 ☆ から起こす行動という分析があるようです。


 ども。

投稿日時 - 2010-09-25 23:27:37

ANo.44

こんばんは、brageloneさん。


<(`^´)> あー、わからん、やっぱ、なんぼ考えてもわからん …(-"-;)ゞゞゞムズ


船と船がぶつかった

トロール漁船と巡視艇

トロール漁船の大きさは、プレジャーボートより大きいから

任意加入の保険ではなく、強制加入の賠償保険に加入してなならんよな
http://www.55m.co.jp/eyes-pbhoken.html

領土云々の話は別として

海洋上で接触事故が発生した場合の保険の取り扱いはどうなるんやろか?
http://www.tokiomarine-nichido.co.jp/hojin/marine_site/index.html
http://www.tokiomarine-nichido.co.jp/hojin/marine_site/index2.html
http://www.tokiomarine-nichido.co.jp/hojin/marine_site/songai/senpaku/service/shototsu.html

中国保険市場の現状と展望(2000.8.31)
http://www.keidanren.or.jp/21ppi/pdf/thesis/000831.pdf


船舶油濁損害賠償保障法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S50/S50HO095.html

中国も日本も資源の管理や海洋汚染防止の義務を負う観点からすれば、

海の上で操業、はたまた航海する者には

同国ともに自国の国民に保険加入の遵守をいわなあかんのとちがうやろか?

中国の国内で自国の船同士が衝突した場合、どんな処置がなされているんやろうか?

腑におちんわぁー

中国のどっかの文献に書き記されてないのかなー?




(*^^*)/krya1998さん、ども。 メシ食ってきまーす!

腹が空いては戦もできぬ

――――シカァーシ、食い過ぎるとメタボが気になるうぅ…(-_-;)

ジンジンジンギスカン‐☆ 

コウハンにつづく… 

投稿日時 - 2010-09-25 19:22:03

お礼

 こんばんは リトルキスさん。ご回答をありがとうございます。

 ★ 海洋上で接触事故が発生した場合の保険の取り扱いはどうなるんやろか?
 ☆ ちらっと見たら 当然でしょうが 生命保険と同じような検証があるようですね。自動車の衝突事故などは 知りませんが 割り合いかんたんなのでしょうか。
 しかし 船どうしの衝突は 面倒でしょうね。

 ★ ~~~~~~~
 船と船がぶつかった

 トロール漁船と巡視艇
 ~~~~~~~~~
 ☆ いやあ それはまづは ヰ゛デオテープがあるようですけれど いづれにしてもここまでの経過を見ると ずいぶん中国もしつこそうで むしろこれから尾を引くようですね。主権の侵害と言って来ていますから。

 えっ ジンギスカン!? ゴウセイな。

投稿日時 - 2010-09-25 23:20:58

ANo.43

 ここで回答すると質問者の悲しい罵倒が返りますので、ご参考にしていただけたらと存じ別の質問を掲げました。
 もうこのサロンも閉じているかと思ったら可愛いキッスさんもご登場で、参考質問を紹介します。

 どうかお役立てください。
 http://okwave.jp/qa/q6194883.html
 http://okwave.jp/qa/q6199455.html

投稿日時 - 2010-09-25 06:55:06

お礼

 【Q:唯一とか絶対とかの語に向き合う仕方について】より《役立て得る》ところと《さらに望まれるところ》とを取り上げ お応えとしましょう。

 次のむすびは――さらにそのあとにどう考えるかという主題として《さらに望まれるところ》を残しますが―― おおむね首肯され得ると考えます。
 ◆ (回答No.3:福田 恆存 ) 以上、「唯一」「絶対」の知的認識の放棄ではなくて、積極的に理解に努めてもよろしいのではないかなと思う次第です。

 その結論に到る筋道を簡単にここでも辿っておきましょう。
 ( a ) まづはとつくにの思想などをサルまねする流儀があったと言います。
 ◆ (同上) …洋の東西を問はず、この小さな島国に流入してくる思想をかたはしから消化していく。といふとていさいがいいが、それぞれの思想がいかに自分と遠い距離かがあるか見分けがつかず、やはり、べたべたとそれに膠着してしまふのです。

 ( b ) それに対して 外(と)つ国の文物思想は 確かに人間として同じだと思われるところとそして異なるところとがあると知ることから始めなければならないと言います。
 ◆ (同上) まづ異質のものとしてとらへ、位置づけること、さうすることによつて、「日本および日本人」の独立が可能になるでせう。 それを私は日本人の個人主義の成立とみなすのです。
 ☆ 異同つまり 互いの異と同とを捉えなくてはならないといちゃもんをつけておきましょう。《日本人の》ときちんと条件づけていますが 《個人主義》という言葉はもっと文脈のなかであるいはその評論の全体のなかに位置づける必要があるともことわっておきます。

 ( c ) サルまねでは駄目だ きちんと距離感を持って接するのがよいと言ったあと 逆に嫌悪感をもよおす向きも出て来たと言います。
 ◆ (同上) 西洋の近代主義が悪いからといつて、「坊主憎けりや、袈裟まで憎い」式に西洋そのものを否定し、アジア、あるいは日本のうちに閉ぢこもることも愚劣です。 さうすればさうするで足もとは崩れる。 なぜなら、私たちのうちには、すでに西洋が生きてゐるからです。
 ☆ ですから あくまで福田の議論を狭く取ってこの文章からだけ判断すれば ( b )で《距離を保ち 日本人の個人主義ならそれとしての思想を 伝統にのっとって模索する》と言っていたのが ここでは簡単に《私たちのうちには、すでに西洋が生きてゐる》と言い放っているのが 気に食わないと言ったほうがよいでしょう。なぜなら サルまねが排外主義に落ち入るのを批判するその理由として すでに《とつ国との相同性》を持ち出して来ているからです。
 つまり全体を見ないで安易に物言いをつけるなら 福田も右往左往している。

 ここまで述べてわたくしも発展させませんが そういう展開にならなかった質疑応答については 失望いたします。
 これをもってお礼に代えます。

投稿日時 - 2010-09-25 08:53:18

ANo.42

こんばんは、brageloneさん。


<(`^´)> あー、わからん、なんぼ考えてもわからん …(-"-;)ゞゞゞムズ


なにがわからんのんや?


「日本向けレアアースを全面禁輸」って話


禁輸したら日本が困るとばかりの報道があとたたんのやけど

全面禁輸して困るのは日本でなく中国の方が分が悪いとおもうねんけど

何でそう思うかって?

日中両国の間で省エネ環境協力を早くからしてきてる
2000年~
http://www.jogmec.go.jp/mric_web/current/09_42.html
JETLO(ジェトロ)日本貿易振興会
http://www.jetro.go.jp/world/asia/cn/environment/jc_partnership/
http://www.jetro.go.jp/world/asia/cn/northeast/
http://www.jetro.go.jp/mail/list/sample/jpcneco_sample.html

とりわけ、採掘する際に出る汚染物を有効に利用する術(技術)を有しているのが日本

採掘云々以前に現存してある水質汚染等の問題、ライフラインの未整備の地帯が広範にある。

一刻も早く自国の環境問題の改善に着手したいのが中国であるとするならば

「日本向けレアアースを全面禁輸」って話 腑におちひんねんなぁー

円が今高いやん、経済介入しても一向に下がる兆しうかがえんやん

「日本向けレアアースを全面禁輸」って話が風評されれば

ほっとっても加熱した円の熱も幾分下がる兆しをみせるんちゃうかな

フェアートレード

お互い協力しあわなあかんわけやし

Win-Win 目指しての発言とみればどうやろか?

投稿日時 - 2010-09-24 18:19:22

補足

 覚え書きです。

 ▲ (日本に謝罪と賠償要求=船長帰国、「拘束で主権侵害」―中国)~~~
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100925-00000012-jij-int
 時事通信 9月25日(土)5時53分配信

 【北京時事】中国外務省は25日、尖閣諸島(中国名・釣魚島)沖での漁船衝突事件で処分保留のまま釈放された中国漁船の※(※=簷の竹かんむりを取る)其雄船長(41)が帰国した後、「日本側は船長らを違法に拘束し、中国の領土と主権、国民の人権を侵犯した」と強く抗議する声明を発表し、日本側に謝罪と賠償を求める方針を明らかにした。

 声明は「釣魚島と付属の島が中国固有の領土で、中国は争う余地のない主権を有している」と改めて強調。「日本側の取った司法措置はすべて違法で無効で、日本側はこの事件について中国側に謝罪と賠償をしなければならない」と指摘した。

 その上で「中日両国が近隣として、戦略的互恵関係を発展させる方向を堅持することは両国民の利益に合致する。双方が対話と協調を通じて両国間の問題を解決し、両国関係の大局を維持するという中国側の立場に変更はない」と強調した。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ たしかにそうなる。つまり 日本はいかに腑抜けだと見られても 主権は守った。処分保留ということは 日本の法律のおこなわれている土地であることを示したのだから。

 さあて どうするべ?

 歴史の検証ということだろうか。

投稿日時 - 2010-09-25 11:56:30

お礼

 ううーん。
 ★ 日中両国の間で省エネ環境協力を早くからしてきてる
 ☆ むろん聞いてはいるけれど。なんで知ってるの?

 ▲ (日中経済協力会議) ~~~~~~~

 内蒙古“省エネ・環境分科会”及び“投資貿易分科会”報告
      平成21年 8月 20日
 §7 まとめ
 (3)  投資貿易分科会において、中国の資源と日本の技術の融合事例として紹介されたところ、世界一のレアアース資源が賦存する内蒙古自治区・包頭市には『包頭レアアースハイテク地区』が整備(総面積15.54km2)されており、米・日・独・韓等12の国や地域の企業から投資され、登録企業は1300社を超える。
 日系企業も現地企業と合弁事業を展開しており、昭和電工(株)は、磁石合金工場を、三徳(株)は電池材(水素吸蔵合金)工場を操業している。
 日本側からは、一貫した投資条件・制度、知的財産権尊重等が要望された。中国側からは、日本からの更なる活発な投資への期待と共に、双方向の投資可能性が指摘された。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ レアアースは てっきり雲南省かあちらの方面だと思っていた。先入見というやつでした。

 覚え書きにもう一件 かかげておきましょう。
 ▲ (日中省エネ・環境協力) ~~~~~~~~
 ジェトロは、2007年12月の福田康夫総理と温家宝総理による日中両国政府の「環境・エネルギー分野における協力推進に関する共同コミュニケ」に基づき、・・
 2008年4月1日より中国企業・団体・機関向けの「日中省エネ・環境協力相談窓口」を在中国5事務所(北京、上海、大連、青島、広州)に設置し、日中省エネ・環境ビジネスネットワークの構築に向けた取り組みを開始しました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 さて
 ★ ~~~~~~~~~~~
 フェアートレード

 お互い協力しあわなあかんわけやし

 Win-Win 目指しての発言とみればどうやろか?
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 次を確認しました。

 ▲ (ヰキぺ:戦略的互恵関係) ~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E7%95%A5%E7%9A%84%E4%BA%92%E6%81%B5%E9%96%A2%E4%BF%82

 とは、外務省の説明によると、「日中両国がアジア及び世界に対して厳粛な責任を負うとの認識の下、アジア及び世界に共に貢献する中で、お互い利益を得て共通利益を拡大し、日中関係を発展させること」である。

 具体例として以下の点が『「戦略的互恵関係」の包括的推進に関する日中共同声明』の中で示されている。

 1. 政治的相互信頼の増進
 2. 人的、文化的交流の促進及び国民の友好感情の増進
 3. 互恵協力の強化
 4. アジア太平洋への貢献
 5. グローバルな課題への貢献
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

 …(-"-;)ゞゞゞムズ

投稿日時 - 2010-09-24 22:41:33

ANo.41

おはようございます、brageloneさん。


●腹のメタボも引っ込んで欲しい。


うぅ…(-_-;) 同感


わかりました、ちょっくら、ひとっ走り♪≡≡≡ヘ(o^-^)ノ


めっけてきました!


これなんかどうでしょうか?



「じつは! 腹筋くん」
https://www.japanet.co.jp/shopping/internet/InetGoodsListSearch.do


(*^^*)>゛゛゛でへぇ


深夜TVつけてたら…ひょいと目にした…     残像が… 



シナリオ・プランニング
http://shakai-gijutsu.org/vol3/3_1.pdf
http://shakai-gijutsu.org/index.html
http://shakai-gijutsu.org/sociotechnica.html



もうちょっくら、ひとっ走り♪≡≡≡ヘ(o^-^)ノ  (-_-)/~~~ピシー!ピシー!


ランニングコストって何でしたっけ?

投稿日時 - 2010-09-24 11:47:28

お礼

 あぁ なみだがちょちょぎれる。

 ★ シナリオ・プランニング手法による東アジアにおけるエネルギー危機の分析と日本の科学技術戦略
 ☆ まだまだこういう勉強にまでは・・・。

 ▲ 中国「不法撮影」で日本人4人拘束…新華社 ~~~~~~
  http://news.biglobe.ne.jp/international/546/ym_100923_5463292403.html

 河北省石家荘市の国家安全当局が、同省内の軍事管理区域に侵入し、不法に「軍事目標」をビデオ撮影していたとして、日本人4人を取り調べている

 ▲ 「日中緊張の責任はすべて日本に」 中国の張副司長 ~~~
  http://news.biglobe.ne.jp/politics/539/san_100923_5398856520.html

 APEC会合後の共同記者会見で。
 
 馬淵澄夫国土交通相は「成長戦略のエンジンとしての観光の位置付けなど十分な議論ができた」と成果を強調。中国国家観光局の張西龍副司長も「各国の出席者と率直な意見交換ができた」と評価した。

 一方、張氏は尖閣諸島付近の漁船衝突事件で日中関係が緊張していることについて「責任はすべて日本側にある。この状況が正されないと、さらに重大な影響を及ぼす」と述べ、日本を牽制した。

 ▲ 日本向けレアアースを全面禁輸=中国、尖閣沖衝突問題で―米紙~~~
  http://news.biglobe.ne.jp/economy/706/jj_100923_7062437520.html

 米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は22日、尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件に絡んで、中国政府がこのほど、日本向けのレアアース(希土類)の輸出を全面禁止したと報じた。
 訪米中の温家宝首相は21日、「日本が船長を釈放しない場合、さらなる行動を取る」と表明しており、禁輸が事実ならば、日本に強い圧力を掛けることが狙いとみられる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 試しにやっているんだということですが。


 ★ ランニングコストって何でしたっけ?
 ☆ そう言えば このあいだから 少し歩きを始めました。それまで自転車野郎だったもんで。
 何歩あるくか数えてみた。散歩と買い物を合わせた歩きで 全部あるけば6,000歩。まだまだ。8,000歩がいいって言ってたなぁ。

投稿日時 - 2010-09-24 12:23:06

ANo.40

こんばんは、brageloneさん。

●お考えになっていますねぇ。


うん

みーたろう(ちびっこ)に、ふいに質問されたんよ

尖閣諸島中国漁船衝突事件について

で、どっからこたえればよかべかと

まずは、尖閣諸島をめぐって

あっちの国でもこっちの国でも

「ここはウチのだー!」と、なぜ言い争うの?と、

はい、ここで問題です、200海里とは?

社会科の時間に「200海里」とかことば覚えてないかな


【排他的経済水域】
http://www.geocities.co.jp/wallstreet/7009/m0008333.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%92%E4%BB%96%E7%9A%84%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%B0%B4%E5%9F%9F
、国連海洋法条約に基づいて設定される経済的な主権がおよぶ水域のことを指す。沿岸国は国連海洋法条約に基づいた国内法を制定することで自国の沿岸から200海里(約370km<1海里=1852m>)の範囲内の水産資源および鉱物資源などの非生物資源の探査と開発に関する権利を得られる。その代わりに、資源の管理や海洋汚染防止の義務を負う。


日本では1977年に改正された領海法と漁業水域に関する暫定措置法が施行されたことにより設定された。


「ここはウチのだー!」と、なぜ言い争うのか?

権利の主張がもっぱら

権利には義務がつきもの

・範囲内の水産資源および鉱物資源などの非生物資源の探査と開発に関する権利…正

・資源の管理や海洋汚染防止の義務…負

沿岸国は国連海洋法条約に基づいた国内法を制定することで

自国の沿岸から200海里(約370km<1海里=1852m>)の範囲内の…

なんだけど…

重なり…重複…暫定措置水域であるから…

【3. 積集合とは・・・】
http://noribeat.s38.xrea.com/math/math01.html

資源の管理や海洋汚染防止の義務は双方が負う義務があるわけ

地図とかなら、ここからはどこどこの持ち分みたくキッパリ線が引いてあるんだろうけど

実際、だだっぴろい海の上 何処に線が引いてある?

グレーだよ

そういう、グレーなところではお互い気をはらわなあかん

『李下に冠を正さず』
http://www23.tok2.com/home/rainy/seigo-rikanikanmuriwotadasazu.htm

海図にしても同じ地図みて話してるならまだ話もいくらかかみ合うことやろうけど

別個の地図みて話してたら、かみ合う話もかみあわへん

ガヤガヤかみ合うかみ合えへんいうとう間も海の底は絶えず変化してる

紙のうえでは形は一定、そやけど地殻のびちぢみしてるんちゃうやろか?

「ちきゅう」
http://www.jamstec.go.jp/chikyu/doc_files/ch_05_j.pdf

投稿日時 - 2010-09-24 01:33:10

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 紙のうえでは形は一定、そやけど地殻のびちぢみしてるんちゃうやろか?
 ☆ 《のびちぢみ》だけなら 海の底もその位置はまだ変わらないぢゃん。
 変わるとおもしろいのだけれど。
 腹のメタボも引っ込んで欲しい。

 EEZ の説明のあと 尖閣諸島は固有の領土だというところまで行っちゃってくださいよ。

 昔のデジカメが 今のヰンドウズヰ゛スタへの接続ソフトがないときの機種。ゆえに取り入れられず。もっとも写真を取ったことなんて もうずっとないなぁ。(ケイタイも持たづ)。

投稿日時 - 2010-09-24 09:46:22

ANo.39

こんばんは、brageloneさん。


【QNo.3417579 三身常住は 三位一体とどう違うでしょう】
http://okwave.jp/qa/q3417579.html


絶対値
http://www004.upp.so-net.ne.jp/s_honma/graph/absolutevalue.htm

2006
【間違っているロシアの日本漁船拿捕事件の捉え方】
http://kishida.biz/column/2006/20060901.html

【第31吉進丸事件の謎】
http://syouhou.iza.ne.jp/blog/entry/622169/

【尖閣諸島中国漁船衝突事件】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%96%E9%96%A3%E8%AB%B8%E5%B3%B6%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%BC%81%E8%88%B9%E8%A1%9D%E7%AA%81%E4%BA%8B%E4%BB%B6


GPS位置装置システム 誤作動


【東シナ海およびその周辺海域における熱収支の季節変化 : 海洋運搬熱と貯熱量】
http://ci.nii.ac.jp/els/110001813269.pdf?id=ART0001958522&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1285243598&cp=


東シナ海 地図
http://maps.weblio.jp/content/%E6%9D%B1%E3%82%B7%E3%83%8A%E6%B5%B7

投稿日時 - 2010-09-23 21:08:41

お礼

 ほーい。ご回答をありがとうございます。

 お考えになっていますねぇ。
 【Q:中国には お互い国家幻想から自由になりましょうと話し合いを持ち込むときではないでしょうか?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6167162.html
 ☆ こちらの主題であったようですね。あいにくもう閉めてしまいました。

 ★ 【尖閣諸島中国漁船衝突事件】
 ☆ へえー もうすでにヰキぺ(フリー百科事典)にまとめられているのですね。これは 便利ですね。

 ★ 【QNo.3417579 三身常住は 三位一体とどう違うでしょう】
 ☆ これは けんかの再開?

 ☆ 韓国は その領海の中に入って来た中国の漁船を拿捕しているそうですね。ちょうどテレビ(BSフジ)で議論していた。挙げてもらったように ロシアによる日本漁船の拿捕もありますし。
 それと 中国の強気の態度は あくまで試しだとか。日本の対応に応じてこれからの態度を決めていくのだとか。

 おしえて! goo は 写真が出ないのですか?

投稿日時 - 2010-09-23 22:16:06

ANo.38

 いろいろありがとう御座いました。
 草葉に隠れがちなbragelonne さんの投稿の日々を時に掻き分け、石をどかしながら観ることもあるかも知れません。
 絶対と唯一神って、自己の信仰精進や自己の哲学として創成する範囲でやいいですけど、それを現実の世界や他人、文化に及ぼすのは普遍化とは違いますよね。
 唯一神や絶対ということをいう人たちや文化って、本当にそうなっているのでしょうかね。
 頭の中か、ことばだけではないかというと、私自身が精進し、勉強している教えの表現に大変失礼だし、精進と受け入れに支障になるので、そのように思うことを逃げ、避けてるんです。
 でも唯一神とか絶対っていう文化の方々って、非常に個別性、バラバラだとはお思いになりませんか?
 では私はbra○○lo○○の草の陰と石のしたから、目を地上と天界へと向けることに致します。
 草や石の下って、別の世界で不思議な生物が見つかるものです。
 ときおり素晴らしい知見の方々も訪れておられ、またみなさんにお会いできそうで楽しみです。
 私も小学校時代はニートっていうのかな、殆ど通学はしませんでしたよ。
 ヒンドゥでも、創造界の性格の一つに石や土の界のタマスっていう性格を上げています。
 その他に後、二つありましてね。何か価値性に志向する性質をサット、そしていろいろ野心とかで活力的に園ルギッシュに生きる性質をラジャスというんです。
 あの新しい質問に投稿して差し上げたかったが差し控えます。ちょいと片鱗だけ。

投稿日時 - 2010-09-20 10:05:08

お礼

 過去が 
 途切れている。

 自分の主観の中では
 それも自由だけれど
 相手があるときには
 そうは行かない。
 
   *
 
 つぎの定義ないし概念は 割り合いに日本人にはなじめるのかも知れない。

 ▲ (絶対) ~~~~~~~~~
 http://www.oguradaiclinic.jp/untiku/page552.html

  § 《絶対知 absolutes Wissen 》

  ドイツ観念論で、主観と客観とが一致する知識の最高の段階としての哲学知をさす語。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 ☆ 観想・観照・瞑想といった言葉をちりばめていたら 日本人は飛びつくかも知れない。
 相手に同化する・宇宙と一体になるなんてのが 好きだから。

 そしてそれだけだと 容易にその偶像としての概念が独り歩きしてしまいがちになる。

 あるいは《最高の段階》だとか《究極》という言葉も 日本人は好きなよう。これでは いつまで経っても 《絶対》の場に行き着かないのだけれど。その努力の過程が大事だなどと言えば 日本人社会の通行手形であるように成っている。
 これも ウワベだけの哲学。蜃気楼閣が好きな様子。
 
 このような通念で 西欧米の《絶対》の概念を迎え撃ち得ていると思うのは どうかという初めからの課題がある。

 日暮れて道遠し。

投稿日時 - 2010-09-20 13:32:02

ANo.37

#28の前半は,高木貞治の述べるところについての誤解を解くために,説明いたしたにすぎません.
主題はあくまでも,

>>その《絶対=永遠=無限=非経験》をどうすれば腑に落ちるように分かるようになるか。

であって,他は主題についての理解を補うための余談・余話に過ぎないはずです.
しかるに,#28のお礼を見る限り,#28の他の部分については何ら触れられておりません.

整理いたしますと,
第1.
>無限」と「非経験」の間にあるイコールが,高校数学までのところでも怪しいのでは?(#28)

第2.
>永遠=無限も,数学から見るとイコールが怪しくなります.(#28)

以上の2点については,異論がない事実であるとお認めになったと考えてよろしゅうございますね。

よって,#21お礼欄にいう,

> ○ 0.999999… だとか何だとかは 可能無限だろうが実無限だろうが 0 と 1 との間に存在している。つまり経験世界に属している。

を怪しい,とわたくしが指摘した点についても,何ら反論・再質問もなさっていない以上,とくに異論のないことは明らかである,ということですね.

同時に,わたくしの最初の指摘である,

>「無限」を論じたいなら,数学における無限の定義と概念を学ぶ必要があるでしょう.(#19)

についても,その必要性をお認めになったと閲覧者は解釈して良い,ということになりますね.

そもそも質問本文では,

>いくつかの視点からのご見解ともども おしえてください。

ということでしたので.

閲覧される方の便宜のために付言します。
志賀浩二『中高一貫数学コース 数学1』は中高一貫教育向けとはいえ,きわめて平易に数学を語り起こしたテキストです.
このうち「数学1」は中学1年生を対象に書かれています.
数学を学びなおす気概のある方には,おすすめいたします.

投稿日時 - 2010-09-20 03:00:51

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 No.28お礼欄のわたしの文章について説明することから始めます。

 ☆☆ つかれました。
 ☆ それは 《この絶対という概念が それほど伝わりにくいのか》という思いのことです。この質問に限らずそうであった事情から思わず〔質問者の側から見て〕しかるべき事由としました。

 ☆☆ 天の国と地上の国とは・・・
 ☆ これについては引用を省かれた部分にも注意をしていただきたい。
 ☆☆ (No.19お礼欄) ~~~~~~
 その国境は 誰れもいない非武装中立地帯( no man's land )でないどころか 絶えずこころの中に戦争が起こっている。
 けれども天の国が来ているのなら われわれはすでにすくわれている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これによれば 次のようなたとえではその《国境における葛藤》を表わし得ていない嫌いがあるでしょう。
 ★★ (回答No.29) ・・・卑近な例で言えば「お湯と水の境目はどこか」というのに加えて,よく混ざってもいない“湯船”(下のほうが水…最近はあまりないですが)を想像すればいいのでしょうか.
 ☆ 《葛藤を起こすほど混ざり合っている》と言おうとしています。湯と水とでは その《戦争状態》(その心の中の状態)を伝えきれていないと思われます。

 この話を言いかえると つまりはすでに《絶対》と《相対的な人間存在である〈わたし〉》とのあいだの場つまり 《非思考の場》を想定させますし それは実際経験でもあるであろうことを物語ります。この《非思考の場》は――《ひらめき》のようなものですが それは―― しかも心とその動き(つまり感性および経験思考)と入り組みあっていると捉えられます。
 すなわち 無限と有限と あるいは永遠と時間的なものと つまり非経験と経験とが 経験世界において言わば絡み合っているということが 現実であろうと推し測られます。

 この話について 反論を別の視点から起こされているわけです。すなわち
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 第1.
  >無限」と「非経験」の間にあるイコールが,高校数学までのところでも怪しいのでは?(#28)

 第2.
  >永遠=無限も,数学から見るとイコールが怪しくなります.(#28)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どう《怪しい》のか さっぱり分からないという意味のお応えをしたということになります。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
   > ○ 0.999999… だとか何だとかは 可能無限だろうが実無限だろうが 0 と 1 との間に存在している。つまり経験世界に属している。

 を怪しい,
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この点も同じくどのように怪しいのか 分かりかねます。《存在している》ことを否定なさるおつもりでしょうか? 
 あるいは > ○ 0.999999… もしくは √2 などなどの数はその数値を最後まで特定できないとしても 計算には使っています。《存在している》。それは《経験世界に属している》。そこまで話を聞けば 中学一年生でも自明だと言うでしょう。
 非経験ではありません。特定不可能という経験世界の出来ごとなのです。

 それよりほかに何か問題があるのならば その旨を当然のごとくご自分の言葉で説明されているはずです。なければ 勉強しようという気は起こりません。


 ★ >「無限」を論じたいなら,数学における無限の定義と概念を学ぶ必要があるでしょう.(#19)
 ☆ 簡単にでも《これこれの事柄が欠かすことのできないこととしてあるのを見落としているから 学びなさい》と言うのが ふつうです。それがないということと そして質問者は 確かに無限を扱っていますが
 ★ >「無限」を論じたい
 ☆ とは言っていません。微妙なところですから 語弊や誤解が生じやすい物の言い方になりますが すでに
 ○ ∞ ÷ n = ∞
 ☆ の事例を出して説明しています。というよりも 無限であるなら それは 非経験ないし絶対を言いかえたものとして概念整理されるのは 当然と考えますが 数学ではそうは行きませんか?
 √2 などなどは 《経験世界に存在している》のです。《 ∞ 》は存在していません。あるいは精確に言えば 別の次元にひょっとすると存在しているかも知れないので 《存在してるかしていないか 人間には分からない。分かるか分からないかが分からない》。つまり経験世界を超えたところのこととして想定するものです。だってそういう言葉を持つからには 何らかの定義をしておかねばならないでしょう。
 ですから 質問者の定義が間違っているのならば その旨をおしえてくださいと言っています。

投稿日時 - 2010-09-20 07:27:42

ANo.36

葬るべきは釈迦ではなく釈迦の仏教で、あなたが葬らなくてはいけないという以前800年近く前=像法に終わっています。

投稿日時 - 2010-09-17 21:33:51

お礼

 そうですか。

投稿日時 - 2010-09-17 22:04:20

ANo.35

東洋ではこの絶対即無限即永遠・・・を「法」と言い、擬人化して「仏」と言ってきました。

投稿日時 - 2010-09-16 16:09:42

お礼

 ★ 法
 ☆ ダルマですよね? これは 宇宙の原理としてのブラフマンであるなら 《絶対即無限即永遠・・・》のことでしょうが ブディズムでは 正反対なのでしょうね。
 ○ 諸法無我
 ☆ ですから。ブラフマン(梵)とアートマン(我)との梵我一如というときの《我》について 無我ないし非我と言っていますから。

 その同じ諸法無我に立つなら
 ★ 仏 
 ☆ もあくまで時間的で限りがありうつろいゆく存在が 或る程度において学習や修行や実践を経てそこに到った境地を言うのでしょう。つまり 《絶対》ではありません。
 ただし確かに ブッダのあとの人びとが この《仏性》を想定して 《絶対》ないしブラフマンに相当する概念としたかも知れません。本覚と言ったりしますから。

 まとめて言って ブッダにおいては すべてのものごと(諸法)はうつろいゆくものであり それ自体で独立している存在ではない(無我)。そうして 《仏性》は 潜在的に展望されていたかも知れないが 《絶対》として想定するなら 《無我》と矛盾するというかたちになっていたはずです。
 ブッダを葬って あたらしい思想として言うのでしたら たぶん おっしゃるようなことなのでしょう。
 と考えます。

投稿日時 - 2010-09-16 20:26:24

ANo.34

 実は私も同じように、欧米人のいう絶対とかInfiniteとか、そういうものの捉えかたについて、勉強していきたいのです。
 だからここに訪問申し上げて居るのです。シンボルが突然変わりましたね。変えたのか、代わったのか。

投稿日時 - 2010-09-16 08:55:01

お礼

 シンボルは ニュウトラルさんへのおわびのしるしです。

 ★  実は私も同じように、欧米人のいう絶対とかInfiniteとか、そういうものの捉えかたについて、勉強していきたいのです。
 ☆ という弁明がつづくあいだは 雨模様でしょう。

 なんでわたしがこんなお守(も)りをしなければならないのでしょう。

 やがてまた台風が来るきざしでしょうか。

投稿日時 - 2010-09-16 09:15:59

ANo.33

   eternal や絶対とは。
  所詮はどうしても抽象的であらざるをえない。これについてどう手掛かりをもてるか。
  というご質問として理解しました。
  それで私なりの内心のことを打ち明けました。少しでもお役に立つだろうかと存じまして。

  抽象的なものは言語的にも具象性が確保しにくい。
  最後はsimplicityな自己の心性の涵養に行き着くかと存じます。
  バベルで人々が人間の知識や論理で天に届こうとしたが、無理であった。
  天界というところから、複数のアプリオリ・カテを引き寄せ、言語的知の中でさ迷うことになった。

  人間という基本存在のsimplicityなる心性は心がけたいと存じます。

  私の口調が強制的に聞こえるとしたら、まことに残念です。
  そのようなつもりはありません。説得するつもりもありません。

  蘆花を進んでいくと、波風がないという情況から無に行き着きます。
  そして何にも囲まれていない、存在者が無としております。
  そういうのをことば表現するとなんというのでしょうね。

投稿日時 - 2010-09-16 08:48:59

お礼

 草むらからいきなり襲うのではないだけ ましですね。
 まださほど遠からざる昔に信長も敵のどくろから酒を飲んでいましたからね。

 バベルの塔は 塔をつくることがわるいことだとはわたしは解釈しません。
 科学を発達させて得られる研究開発の成果は 人びとの生活のために活用していけばいいのです。
 名誉もこれこれの努力をおこなったその成果がこれこれだという達成感は きわめてふつうの感情です。それにとどめれば何の問題もありません。
 塔であろうが宇宙船であろうが 人間と社会のために役立つものであれば そこに自然と人間能力のめぐみに畏れつつ わたしたち人間が大いに自由に享受して行っていいのです。

 自分の心情に合うものでなければゆるさんというのは いかがなものでしょう。

 なんでわたしがこんな分かり切ったことを言い続けなければならないのでしょう。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 私の口調が強制的に聞こえるとしたら、まことに残念です。
 そのようなつもりはありません。説得するつもりもありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この言い草がつづくかぎり こころはひねくれていると見てまちがいはないでしょう。なぜ否定しなければならないのでしょう。
 もしわたしの挑発としての語りかけが 根も葉もない話だとすれば 怒るのがふつうの人間です。わだかまりがあるから 怒れないのです。
 これが 人間というものです。そのシンプルな存在のあり方です。
 へそが折れて曲がって曲がって折れて とぐろを巻いているのではないですか。
 と安寧のミサイルをわたしは撃ち込みつづけます。ひとえにわたしの自己防衛のためです。

投稿日時 - 2010-09-16 09:12:02

ANo.32

 私は意見を人に強制されることも、することもしてこなかったし、したいとも思いません。
 みんなと同じである必要も、希望も持っていません。同調してもらいたいとも思いません。

 何かが同じとか、仲間が居るなんて事で少しも自分に自信ももちませんし、自分ひとりだからといって少しも自信に影響を持ちません。
 正しいことを考え、正しいことを思う。それだけなんです。
 ましては自分の心情も信条も強制なんてする気持ちは全くありません。私に強制しようとしても強制されません。
 そんな質問を出さなければいけなかったのですね。bragelonneさんに醸成させてしまった情況が。
 なんか時々そうなるようですね。

投稿日時 - 2010-09-15 17:22:33

お礼

 健忘症。

 

投稿日時 - 2010-09-15 18:13:01

ANo.31

 #30
 変換違い
 “自分に自身がないものでもないし、”⇒
 “自分に自信がないものでもないし、”

投稿日時 - 2010-09-15 17:03:13

ANo.30

 bragelonneさん
 #29かな。
 私のここでの見解の吐露がbragelonneさんの新しい質問、“人に心情を押し付ける人”へとなっているなんて思いもしませんでした。
 自分の思うことをただ投稿しただけで、心情ではなく考えることでした。
 考えることであれ、心情であれ、私はbragelonneさんにも、どなたにもそれらを押し付けたくもないし、おしつけていないのです。第一心情なんて押し付けられませんよ。
 私は自分の考えや思いを人に押し付けるほど、自分に自身がないものでもないし、主体性がないものでもありません。

 ところで、
 29での“いいえ お心を汲むことはいたしかねます。”と“三年の重み”って何ですか?
 理解不能です。
 三年って何ですか。年齢ですか?貴方は72を過ぎて私をそのようにいうのですか?
 そう私はあなたより確か年齢はうえだったと記憶しております。
 
 袂がどうのですから、ねぇ。不思議な話で、今まで一度も袂が一緒だとは思っていませんよ。
 どなた様とも。

投稿日時 - 2010-09-15 17:00:18

お礼

 ☆☆ 三年の重み
 ☆ 初めっから――つまり三年ほど前から――わたしの質問への投稿は 押しつけ回答でした。


 そのほかは 詳述の必要がないとつたえます。分からないとおかしい。

投稿日時 - 2010-09-15 18:11:33

ANo.29

 #24です。

 bragelonneさん、補足欄でのお講義に感謝いたします。
指示人称や主格、動詞などの複数と単数に拘るのは、ヨーロッパ系の語族なのでしょうかね。今回のお講義でも単数に一人称を複数の指示で表示するお話がありますね。私達も単複は相互に入り混じり、一人称も謙譲的に複数表示することがありますね。


【・・・大事な問い求めに対して なぜ足を引っ張ることばかりをおやりになるのか。】
 博学なbragelonneさんに私が何かをいうことは無用かも知れませんが、なんか絶対ってことばって、俺達のは絶対だ。
 それでないものを尊崇していても、俺達の絶対ってお前達にも絶対なんだぞ、っていう話に繋がりかねませんよね。
 欧米の方々がいう言葉、この絶対っていう言葉にはそういう響きがどこかにありませんでしょうか
 勿論、私も何か絶対という存在を感じるし、前提にしているんですよ。
 この言葉って、使い方次第、使う場面次第、使う人次第なのでしょうね。
 (実は私の場合、押し切り、強制することをよくやってきて、多くの友人に顰蹙をかわれて居ます。
  それで、自分の内省として、そういう超越的存在者の存在を観(み)、思う事は大事ですが、外部的にそれを主張したり表明するのは注意が必要でしょうね。
  こんなことを小学校とかの古い友人が聞いたら、“おぅ?お前ぇいつからそんな分るようになったんだ?”なんていわれますでしょう。)

 要するに欧米人などの出してくる絶対者って、私達もおぅ絶対者!として受けることは受ける、その内部的観念内容や受け入れ方は、心性次第ですよね。
 そんなに固執し重要キーワードなんだ、じゃぁ大事だ。で一所懸命おんなじ思いにはなれなくても、同感するまでではないでしょうか。

 白鳥とか蘆花とかいろいろ出しましたが、これはこの絶対者の観念とは無論異なるでしょう。
 ただとことん希薄、無・超形象を推し進めると、その先にそれらしいものもありうるかも知れない、という提案としてbragelonneさんのお目を煩わせたということです。

 彼らがいう絶対者はそういうアクセスやアプローチでもないことは理解していますが、私が実践的に日常地続き的に思ったり、此岸の突端が蘆花であったり白鳥であったりする、ということです。
 ご質問に対して、私としては絶対者をこの方向に尊崇しています、ってな感じでした。

 欧米人って、こういう絶対者存在への思いの他面、個人と個別性というのも傾向として私達より強力かなと思います。
 そして個人の物理的生物的命にことも私達より強力に思っているようですね。
 いろいろ考えさせて頂きありがとう御座いました。
 bragelonneさんの足をひっぱるつもりはないんですよ。
 私も欧米の書物での絶対者という言葉にしんどい思いを持ちまして、bragelonneさんと同じように何とかしたいと思っているのです。
 そしてそれとは離れて、私は自分の“絶対者イメージ”のために、こんなことを考えている、とうことでご協力したいと存じました。
 意のあるところが伝わらなかったようですね。私は意地悪なことをbragelonneさんに思っていない事をどうかご理解ください。

投稿日時 - 2010-09-15 10:33:41

お礼

 いいえ お心を汲むことはいたしかねます。

 三年の重みです。

 もし西欧経由の《絶対》概念とつきあうことができないというのであれば ひとつに思想としての鎖国政策であると見なしますし もうひとつに哲学(生活態度の練り直し)として弱い――あるいは 弱くてよいのだという開き直り――ということを意味するとやはり見なします。

 そこに 人間の心を見出すことは わたしにとってはありません。

 いつまでも――ゆくゆくは――自分の心情を押しつけようとしている態度でしかないと見なします。

 たもとを分かちます。

投稿日時 - 2010-09-15 10:46:01

ANo.28

>天の国と地上の国とは 互いに混同されるくらいに入り組み組み合わさっていて その境界は決してここだとか このように線引きをすればよいのだとかいうふうには 明らかではない。

宗教学はまったくの専門外ですが,卑近な例で言えば「お湯と水の境目はどこか」というのに加えて,よく混ざってもいない“湯船”(下のほうが水…最近はあまりないですが)を想像すればいいのでしょうか.
となると,「定義が曖昧である」というしかないでしょう.
高木貞治が言っているのは,命題がはっきりしていれば,可能・不可能の結論は出せるけれども,明確でない命題についてはそうはいかない,ということです.

>その《絶対=永遠=無限=非経験》をどうすれば腑に落ちるように分かるようになるか。

数論に限る必要はないでしょう.私自身,専門は数論ではありません(確率論および統計学).
「無限」と「非経験」の間にあるイコールが,高校数学までのところでも怪しいのでは?と思っています.だからこそ,この主張をされるのであれば,そのために前掲の本などで,ご自分の中に知識を取り込んで,その上で考えていただければと思うのです.
「思いて学ばざれば即ちなんとか」と論語にもあったと思います.

#21お礼欄
>0.999999… だとか何だとかは 可能無限だろうが実無限だろうが 0 と 1 との間に存在している。つまり経験世界に属している。

それで経験世界と言うならば,0.9999…の先を見たことがあるか?という問いになります.
あるいは,生活空間のそこらに円がありますね,コップでもお皿でも,多少いびつかもしれませんが,円筒形であったり円であったりします.
そうすると,円周率πが出てくるわけですが,3.14159265358979……の最後を見ることはできません.コンピュータを使って膨大な桁まで迫っておりますが,割り切れるものではないことは数学上証明されています.完璧な答えが出ることはありえない.(絶対不可能)
また,A4の用紙をA3に拡大コピーするのは,√2倍です(面積なので単純にそれぞれの辺を2倍すると4倍になってしまう).この√2も,1.4142……と規則性もなく続くことが分かっています.
とすると,1から4までの間には,思いつくだけでも√2,√3,√5,√7,π,√10,√11,……面倒なので打ち切りますが,これだけの「先の見えない数」があるわけです.
√2やπの真の値を見たものがこれまでにいるか?と言えばノーです.
一時期叩かれた「およそ3」であろうと,3.14であろうと,真の値は分からないまま近似値を使っています.
すると,質問者さんの文脈でいえば,「非経験」になりませんか?

デデキントの「切断」は,ありふれた数の考えを問い直すものですので,一度読んでください.
言っていることは決して難しくありません.
無限集合についても,前掲の本が分かりやすいはずです.

永遠=無限も,数学から見るとイコールが怪しくなります.
例題を出しましょう.

「高さ1メートルの1本の木があります.この木ははじめの1年で1/2メートル(50センチ),次の1年で1/4メートル(25センチ)と伸びていきます.こうして,この木は毎年,前の年に伸びた半分の高さだけ伸びていきます.
(1)この木は何年たっても,決して2メートルには達しないことを示しなさい.」
(志賀浩二『中高一貫数学コース 数学1』)

要は,高校数学でいう「収束」ですね.
どんなに小さくても無限回数足すのだからいつかは無限の高さになる,ではないのです.

投稿日時 - 2010-09-15 01:39:52

お礼

 ★ 高木貞治が言っているのは,命題がはっきりしていれば,可能・不可能の結論は出せるけれども,明確でない命題についてはそうはいかない,ということです.
 ☆ 質問者の問い求めているのは 《意味がはっきりしていない〈絶対や永遠や無限といった非経験の領域〉について どう説明するのがよいか》です。
 《明確でない命題》について 無理にでも 普遍的な定義を持てるようにしましょう です。

 高木貞治の提起する問題は 別の質問としてやってください。

 ごめんなさい。つかれました。

投稿日時 - 2010-09-15 09:12:25

ANo.27

また忘れてしまった・・

こちら
○ 0.999999… だとか何だとかは 可能無限だろうが実無限だろうが 0 と 1 との間に存在している。つまり経験世界に属している。
 ○ あるいはだから その数がひとつ特定できたとしたなら その数に一を加えることも出来る。つまりその一定の数量よりも大きいという状態が存在すると言える。ならば 比べることができるゆえに 相対の世界であり経験世界である。
 ○ 《無限》は この経験世界を超えている。
 ☆ こう言おうとしているのみです。

 ですが、その通りだなーと思いました。あまりにその通りと思いすぎたので、スルーしてしまい済みません。
先にも書いたとおり、把握を先行させて論理的に考えるなら、全くその通りと思いました。
というか有限と無限は僕も最近のメインテーマなので、こういう話はなじみがあります。


有限であるとは、比較可能だと言うこと。
無限とは、限り、つまり境界線がないため、社会常識でいう大きさが存在しないので、比較不可能であること。
大きさを知ることができないということは把握ができないと言うことで、それはこの世ならざるものだ、と言うこと、その通りだと思います。

投稿日時 - 2010-09-14 22:35:23

お礼

 いやあ ですから この《絶対》ということを――けっきょく一般には 概念としてですが―― 一般に共有することができるためには どのように説明するのがよいか。この一点で あれこれ考えています。

 たぶんもう必要でないというひとはいないと思います。

 あとは説明の仕方です。

 この質問ではあまり触れていませんが これはけっきょく人の生活態度として見直すなら 信仰という非思考の場における心の志向性(明けや伸び)のことにそのまま移行して 問われる主題であるはずです。すなわち
 ★ というか有限と無限は僕も最近のメインテーマなので、こういう話はなじみがあります。
 ☆ 《有限》なるわたしという人間が 《無限》なる神と 非思考の場で対面する。
 そこに生まれるのが 《信じる》という行為である。
 《信じる》は 神をまぼろしながら受け容れる行為であり その後の持続としての動態である。

 こういった切り口の主題でもあると考えます。

投稿日時 - 2010-09-14 23:10:18

ANo.26

ブラジェロンさんの無限に対する基礎的姿勢は、「把握」にあるように見えます。違うかも知れませんが。
数学の基本姿勢は、「認識」です。ありのままです。なので、把握も感性も両方受入れて、作られてます。最後はきっちり論理でまとめてきますが。
把握のみが唯一絶対でもなく主導権を撮るわけでもありませんし。そういう視点です。

僕の基本姿勢は感覚なので、むしろ実無限より、得体が知れない可能無限の視点の方が好きです。
可能無限の主観的スタンスは、数学というよりむしろ、日常に生きる人間の生活感覚に近いので、実生活への応用がやりやすい、と僕は思ってます。
無限なんてわからない、というのが普通の話ですし。

 

こんなとこでしょうか?
全体的に、前も書いたけど、途中でどうも場違いなのに気付いたので、どの程度書くか迷います。

おわり。

投稿日時 - 2010-09-14 22:21:16

お礼

 つづいてです。

 前にも書きましたけれど 《可能無限》にしろ《実無限》にしろ 経験世界に属するものは 絶対としての無限ではないので ひとからげにします ここでは わたしは。

 非経験の領域をどう説明するのが よいか。こういう問題意識です。数学もそのために活用します。

 絶対を説明するとき 理性によるのも感性によるのもあるいは両方によるのも それは問題ありません。自由です。

投稿日時 - 2010-09-14 23:02:08

ANo.25

こんばんは。
続きになります。

>妥当性のある想定をしたいからです。
その妥当性が、人の生まれつきの性格によって、違うと言うことになります。説明下手ですが。水掛け論とかじゃなく、本当に、そこの所の違いは人によって大きいと思いません? 何が妥当かなんて・・


>この地上で互いに入り組んでいる。その境界が分からないほどいわば縺れている
これは言い得て妙ですね。上手い表現だなーと思いました。




>わたしは 分けて説明する態度で来ています。考慮の余地ありでしょうか?

厳密にブラジェロンさんの気持ちを追った分けじゃないけど、多分これは考え方のルートが違うと思うので、問題ないように思います。
例えば、物理と古文がお互いそのよりどころを批判し合っても無意味ですし。
僕は、ボーダーレスを目指してるので、人が拠り所にしてる概念が気にはなるんですが・・
例えば、物理と生物があるとします。それぞれ拠り所にするスタンスが違いますよね。同じ客観世界に対してでも。
その時物理の、あるいは生物のスタンスを間違ってる、と言う物ではありません。
物理は物理の、生物は生物のスタンスを固持することで初めて見える世界があると思うので。
ただ、物理やさんなら生物のスタンスを参考にしてもいいし、生物学者なら物理のスタンスを参考にしてもいい、という風なことを言ってたんですが。
間違いとか、再考すべき、という話ではありません。

でも、やっぱちょっとこれも、場違いな話をふっかけてしまったみたいで・・
だから、分けるスタンスは素晴らしいんですが、分けないスタンスの人と意見交換するのもいいかも、みたいなはなしです。それはそういう切り口ですし。





>そのあとの段階に進んで さらに物言いをつけられても。
これは物言いでも揚げ足取りでもなく、こちらの説明不足です。申し訳ないです。
ぼくは、例えば論理と感性があるとき、どちらもが極限まで生かされてる状態がひとつの理想と思っています。
それは、在来ある言葉を借りると、中道、中庸、というたぐいの概念です。
なので、例えば、赤、青、緑、という3色が在るとして、僕は、そのうちのどの色が今足りないか、どの色が多すぎるか? という目で見て言ってます。

なので、最初の話では、心感性が足りないように見えたのでそう言いました。
後半、今度は、心と感性を重んじる、と言われたので、今度は立場が逆転しただけなので、それも変だなーと言いました。
2つが極限まで並び立つことを理想とする、と言うことを言ってないので、誤解を招きました。





>《認識・時間・空間・因果》 これらすべては 《相対的で移ろいゆく経験世界に属する》。
そういう見方もありますねー。・・・そういう立場ですね。
だいぶ前にブラジェロンさんと議論したときに、僕が、主観世界の壁は、絶対、無限、(永遠)、循環でできてる、と言ったことがあるんですが、同じだなーと今思いました。
認識=意識から来る能力なので、絶対と同じですし、つまり認識=絶対。
因果が繋がってないことは、閉じている。つまり因果=循環だとも言えるので。余談です。



可能無限と実無限の違いを理解するには、僕個人としては、感性と把握は、全く独立した人の内面の2つの要素であり、どちらがどちらに属したり、どちらかが優位に立つ物ではないこと、を知っていることが必要かと思います。
ブラジェロンさんは、とにかく存在=把握能力をよく使用されるので、感性と、把握を切替えるスイッチのようなものはないでしょうか?
僕はボーダーレスで、哲学にこだわるわけではないので、そんな認識になります。
でもそれはそれで、把握の専門家として、いつもすごいなーとは思っていますが。





>その数がひとつ特定できたとしたなら
同じはなしですが、感覚的に特定できない物が、無限大です。そして感覚は、把握と並ぶ独立した人間の内面要素なので、そのオリジナリティーを無視はできません。(というか、僕が感覚派の人間だから、自分が無視されたくない、という話ですが・・)
無限大が把握できないというのではなく、把握はもちろんできます。
でも一方、それは感覚的には理解できないものなんだ、というのも、同じだけの正当性をもっている、と言うことになります。

なので、感性の独立性を無視して、把握のみで突っ走るのなら、ブラジェロンさんの言われることに反対はありません。
というよりそもそもそういう話をしてなかったので、話が噛み合ってないです。この噛み合いの悪さが、どうしても取れないですー。
そもそも、無限の話は、数学において答えの出てる話ですし、哲学のスレでそれを持ち出すのだから、また違う解釈見解も有りだろう、と思って言ってみたんですが。

続きます。

投稿日時 - 2010-09-14 22:17:45

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 今回のご回答は それぞれ活きるのなら それでよいということになりませんか。

 すべての項目で そのようだと思うのですが?

 ○ 感性にしろ理性にしろあるいは両方でにしろ 経験世界を超える領域については それらによって表象することはできない。
 ○ ただし その非経験の領域が ひとの心にとっては 非思考の場として出来上がる。これは 《絶対としての神》とそして《わたし》との対面の場である。
 ○ 非思考の場は いわば神というまぼろしを受け容れるわたしの経験行為がおこなわれるところであり 言ってみればわたしの心の窓である。
 ○ この心の窓においてわたしは 《絶対=非経験=無限=永遠》にあたかも触れている。あるいは 覆い包まれるかのように 触れられている。

 こんなところでしょうか。

投稿日時 - 2010-09-14 22:55:52

ANo.24

 ANo.23の続き

 bragelonneさん⇒月を描くのではなく――それを見させるだけでも 並大抵のことではないでしょうが―― 月を描いている《わたし》を そしてそのわたしの葛藤ぶりを 日常世界において互いに話し合う。その話の中に《絶対》という言葉をも――特に海外の人びととのまじわりにおいては重点的に――入れて使いこなすということ。
 ◆《絶対》を使いこなすことは難しいですね。すぐに言葉で使って、いろいろに出す事はできますが。
  私自身は《絶対》も、そしてこの系統の言葉、タームに少々アレルギーに為りそうなんです。
  猿猴湖面の月を捉えんとす、って絵がありますね。
  桜、見に来て 桜、見る馬鹿っていう江戸川柳もありますね。月と月影はあるだけでいいのかと存じますが。

投稿日時 - 2010-09-14 10:39:45

お礼

 つづいてです。

 ◆ ~~~~~~~~~~~~~~
 《絶対》を使いこなすことは難しいですね。すぐに言葉で使って、いろいろに出す事はできますが。
 私自身は《絶対》も、そしてこの系統の言葉、タームに少々アレルギーに為りそうなんです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ アレルギーともトラウマとも言ってられないという情況を――わたしは いま実際にこの思索以上にその情況に直面しているというのではないのですが―― 避けることは出来ない。というところを出発点にしている。
 いまの問いについては このことのみに立ってわたしは世界を見ていますし ものごとについて考えています。

 すなわち
 ☆☆ その話の中に《絶対》という言葉をも――特に海外の人びととのまじわりにおいては重点的に――入れて使いこなすということ。
 ☆ つまり外国人との交通を避けて通れないという意味です。
 たとえこの島国のどこかに住み書斎に閉じこもって独りものを考えるにしても いわば――土俵では必ずしもなく――リングの上にあがって 理論としても実践(=生活)としても 対話をすすめていくよりほかに道はない。という意味です。

 土俵を到るところにつくるという手もあるかと考えますが 相手にゆづるという行き方からすれば
 ◆ 猿猴湖面の月を捉えんとす、って絵がありますね。
 ☆ というふうに相手が 《湖面の月》を取り扱っているのが現実であれば わたしたちに最小限必要なことは もしそうだとすれば《それは これこれの理由で 〈ただの湖面の月を捉えようとしているに過ぎませんよ〉と説明する》ことです。説明しきることです。

 ところが 《絶対・永遠・真理・全知全能》はなじみがなく なじみづらいとしても 《無限・かみ・信じる》という言葉はわたしたちも土俵の上で使っているのです。
 ですから 定義とその詳しい説明が どうしても必要なのです。哲学がそれを――日本の哲学として・つまりあたらしい哲学として―― 出来ないというのは 敗北主義です。避けて通ろうとするなら 先人の知恵がもたらした《白鳥入蘆花》じたいも絵に描いた餅であると見なされるでしょう。
 見なされることは――実質とは違いますから―― 敗北ではありませんが 人びとの心意気は――外国人に対して――やはり上がらないでしょう。

 日本人の浮沈をかけた最前線にある課題のひとつだと見ます。

 わたしと同じようにせよとは 言っていません。このように大事な問い求めに対して なぜ足を引っ張ることばかりをおやりになるのか。そういうお応えです。

投稿日時 - 2010-09-14 11:49:48

ANo.23

 ANo.22のお礼への返書

 (a) 《白鳥入蘆花》――すなわち 所謂るさとりの境地として 《もののあはれを知る》類型あるいは《梵我一如》類型であると多少曲げて一般化してしまいますが――の推し出しを 大いに進めていくかどうか。それ一本で済むと考えるのかどうか。
 ◆《白馬入蘆花》ですと、臨済の偈であるそうですね。それが《梵我一如》の類型になるのか、《梵我一如》という境地を意識化していませんのでコメントを避けたいと存じます。
 ◆《白鳥入蘆花》で下村湖人が何を示したいのか、私達中学生はaggressiveや野心、功名心、名声での言行や心理を戒めたものというように思っていました。未だ社会的行動のことしか日々の生活の心理の中ではありませんでしたので。
 ◆無論《一本で済むと考える》ことなどはできなくても、bragelonneさんの何かの手掛かりになるかと存じました。私自身は不可視の事項の可視界への手掛かりの一つではないかと存じます。とことん希薄にしていった状況という存在を考えられないかと存じます。

 (b)《白鳥入蘆花》ないし《梵我一如》の境地は 常態であるのかどうか。
 ◆このことはことばをそのままご紹介させて頂くことに今は止めたいと存じます。
  ・ 言いかえると 《一如である部分》と《一如でない部分》とがあるのがふつうではないか。
  ・ あるいは 白鳥なり蘆花なりのいづれにせよ その白が黒くなったり灰色に彩られていたりするという状    態は起こらないのか。もっと言えば その白の下にもしくは中に 赤い血も流れているのではないか? 
  ◆前の“・”については、私は、意味上からありえないのではないかと存じます。
  ◆後の“・”についても、常に純白の白だと存じます。そして赤い血も滴る汗も涙も生きている過去の遺跡となるのだろうと存じます。

 bragelonneさん⇒これを〔* すなわち《絶対=非経験=無限=永遠》のナゾを〕 われわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか?
やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか?
 ◆そういうことになりましょうか。口頭会話ができませんで、やほよろづの神々についての所感の交換が必要なのではないかと思いました。

 ☆ と同じ方向を向いているように思います。《我ら・我らの存在》も 日本語では《かみ》と呼ぶほどですから。《同じ白》だが 神の白は神の白 われら凡人の白はわれら人間としての白 というところでしょうか。
 ◆私は人間の神に由来する本性を白という表現をするならば、同じだと存じます。

 bragelonneさん⇒天の国と地上の国とは 互いに混同されるくらいに入り組み組み合わさっていて その境界は決してここだとか このように線引きをすればよいのだとかいうふうには 明らかではない。その国境は 誰れもいない非武装中立地帯( no man's land )でないどころか 絶えずこころの中に戦争が起こっている。けれども天の国が来ているのなら われわれはすでにすくわれている。
 ◆申し訳ありません。私自身はこのようには観念してはおりませんが、拝読しましたというコメント以上には書けません。

 ☆ 白鳥のほかにも鳥はいますし 蘆花のほかにも薄も萩もあるようですし というのは揚げ足取りに過ぎないとしても この地上における《この上なきうつくしき苦しみと悩み》を味わっております。そのことにもちらっとでも触れてもらえるなら ありがたいという思いもあるのです。
 ◆どの鳥でもよかろうし、鳥でなくてもよろしかろうと存じます。しかし、《白鳥入蘆花》の場合は白鳥であり、臨済では白馬だそうです。それ以外にはありません。この比喩は単なる比喩ではないのです。単なる伝統でもないのです。そして蘆花以外にはありえないのです。これも単なる比喩でも単なる伝統でもないのです。深い意味があります。ちなみに、インド神話には水辺の草にまつわるたくさんの謂れの話があります。主としてkusha grass(蘆)というものです。これは邪や地(土要素(土、水、火・・・といく))の磁力に対する重要なものとされてきました。
 ◆私も日々翻弄されながらの生活しております。【この地上における《この上なきうつくしき苦しみと悩み》を味わっております。】のは同じです。ちらっと触れることなどはできなくて、全部を曝け出しています。

投稿日時 - 2010-09-14 10:37:42

補足

 覚え書きです。

 ○ 尊敬の複数形
 ☆ はアラビア語でも同じく普及しています。

 ▼  アッラーフがみづからを称して《われわれは》というふうに 複数形で語るのはなぜか? ( Why does Allah refer to Himself with the plural pronoun? )
  http://translate.google.co.jp/translate?hl=ja&sl=en&tl=ja&u=http%3A%2F%2Fqa.sunnipath.com%2Fissue_view.asp%3FHD%3D7%26ID%3D21338%26CATE%3D150&anno=2

 ☆ 次のふたつの説が紹介されています。
 (1) 天使らを数えに入れている。(He may be referring to the Himself along with His angels. )

 (2) 《尊敬・尊厳》を示すもの。
  ・ 威厳(majesty;divine majesty)
  ・ 《王》としての自称(the royal we )

 (3) ただし 単数形の場合もある。その場合は 親しさを表わすためである。(The "I" of Intimacy )

 ☆ 《クルアーン(コーラン)》の和訳のサイトを見つけましたが そこでは アッラーフの自称はどうも見たところ 単数形(《われ》)で統一して訳されているようです。
 ▼ 「日亜対訳・注解 聖クルアーン(第6刷)」
  http://www2.dokidoki.ne.jp/racket/koran_frame.html

 ☆ アッラーフ自身についての叙述は 単数形(つまりしたがって 《かれ》となる)であり アッラーフがみづから語るその発言の文において 複数形の代名詞が用いられているというもののようです。

投稿日時 - 2010-09-14 14:18:55

お礼

 クリヤさん お早うございます。ご回答をつづけて寄せていただきありがとうございます。

 さて お書きの文章を全体として受け取るなら 四の五の言わずに 手法のもんだいについて互いの考えを明らかにするのがよいかと思われます。

 次の文章が たたき台としては よろしいのではないでしょうか。
 わたしは それはえらそうに上からものを言っていると思いますが 手法の問題としてかなり現実にもとづく重要な視点ではないかと考えます。

 ◆ (無住処涅槃) ~~~~~~~~~
  大乗仏教では 《無住処涅槃 むじゅうしょねはん》ということが言われる。
 ・・・生死の世界にとどまることなく かといって涅槃の世界にも入らない状態 すなわち生死煩悩の迷いの世界にもさとりの世界にもとどまらない涅槃のことをいう。

  〔・・・この〕思想の背景には あらゆる人びとを救うためには 自らがさとりの境地に入っていては救うことができない といって煩悩に捉われていても救うことができない 自らはさとりの境地を体験しつつもその世界にととまらず 悩み多い人びとの住む生死界にあって活動することこそ菩薩の行である という大乗仏教思想の展開が見られる。
  (《岩波 仏教辞典》1989年版)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ すなわち 《白鳥入蘆花》――これをわたしがどれだけ理解し得たかをいま別とせざるを得ないわけですが――が かの者より与えられたなら この無住処涅槃の手法におもむく。こう考えます。極端に言えば 理論を放っぽり出してでもこの土の上に生きる でしょうか。
 すなわち
 ☆☆ 天の国と地上の国とは 互いに混同されるくらいに入り組み組み合わさっていて・・・
 ☆ うんぬんとなると考えます。

投稿日時 - 2010-09-14 11:24:15

ANo.22

 bragelonne さん、ANo.11のお礼でのお教えに感謝します。

 私達の心性や心理、そして日常の気持ちではアニミズムてき畏怖観はあっても、かの西洋人の絶対とかの観念は根をもてていません。
 (少なくとも、私krya1998においては。)

 彼ら、または彼ら用の宗教書には何かにつけて、荘厳性と修辞性でくっついてくるタームですね。まことに煩い。

 でも私は宗教性や心情、ないしは心性ではなく、所謂る不遜・傲慢になりがちなインテレクチュアル場面で自己に言い聞かせます。

 何においても原因や根源、根因のないものはない。自分にしても人間しても、経験界やこの世にしても。
 ということから前方を見つめて、それが絶対、普遍、無限なのだ、という観念を持とうとしております。

 ご回答でも絶対が存在する、しない。という仰せがあります。どちらも存立し、存立しないと存じます。
 それはご了解いただけると存じます。
 非経験という語をご使用です。経験するものではない、つまり経験の対象でもないし経験結果にも為り得ない、という意味と存じます。
 では経験する存在者、主格という存在としてはどうか。
 或いは経験ではない、存在ではないものとしてはどうか?
 という思考でおります。

 白鳥入蘆花。(これは下村湖人ですが、臨済では白馬が入るとなるそうです)
 白鳥を選んだのは湖人の直観と素晴らしいセンスです。
 ヒンドゥでも、鳥は特に白鳥は魂を象徴することが多いのです。
 馬はいわゆる経験界を生きていく、肉体、経験と紡ぎの用具カテゴリ、機能であるとされています(ヒンドゥでは)。
 私は、白鳥と蘆花の世界が仰せの絶対の世界かなと、存じます。
 これは最も当たり前、もっとも普通、もっとも根源というものだと存じますので。
 まぁ日本人としての私は、此処までが精一杯ですね。
 そして中学のとき、60数年まえですが、湖人に夢中になったことが今も継続しているというわけです。

 荘厳性の修辞的絶対は、私はどうもなじめません。
 私達がそれだ、もっとも普通、根源からきているものだ。
 そこに存在しているものだ、という観念ですね。日本人的だとおもったら、やはりバガヴァッド・ギータもそういっています。

 われらは神より来たれり、我らは彼の観念であり、我らの存在である。というのですよ。(60語くらい省略があります。)

投稿日時 - 2010-09-13 10:03:36

補足

 覚え書きです。

 ▲ (ヨハネ福音) ~~~~~~~~~~~
 1章 1節: 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
 2節: この言は、初めに神と共にあった。
 3節: 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《言》か《言葉》かは 日本語だけの問題ではないでしょうか。《事の端→言葉》というように薄っぺらに見られるのを嫌って 《言》を用いているのだと考えます。そこまで気にすることもないとわたしは考えます。

 ☆ 《 logos 》は 《 leg- : 拾う・あつめる・えらぶ→ 拾い集めたものをととのえる・まとめる・おさめたかたちにする》より。
 ・ lecture < leg-ture : 《〔文字を拾いつつ〕読むこと・講義》
 ・ intelligence ・ intellect < inter-leg-・・・:《あいだを拾う→分かる・知る》

 ☆ 子の父に対して 父の子が 《ロゴス》にたとえられるのは 精神における《記憶(また秩序)》という宝庫からふさわしい言葉を探し出し分かるようにする《知解》のはたらきに当てる。
 記憶が 言わば光源としての父。子は そこから生まれる発耀。
 これら父と子との両方から発出される聖霊は 記憶と知解とより心つもりを決めるという判断であり《意志》行為。
 意志が愛にたとえられるのは 光源と発耀との両方から出る《明るさ・あたたかさ》との類似による。

 ☆ 《ことば》が 世界の創造にかかわったという言い方は 旧約聖書にもわづかながら見出されると言われる。

 ▲ (詩編) ~~~~~~~~~~~~
 33編 4節 : 主のみことばは直く、そのすべてのみわざは真実だからである。
  5節: 主は正義と公平とを愛される。地は主のいつくしみで満ちている。

  6節: もろもろの天は主のみことば( DaBaR ; Logos; Word )によって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた。

  7節:  主は海の水を水がめの中に集めるように集め、深い淵を倉におさめられた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ 【Q:神が天地をつくったのか】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6148166.html
 ・No.6お礼欄:《宇宙はブラフマンと同質なのか 一体なのか》
 ・No.7お礼欄:《昼と夜、闇と光。この境界があるとすればなにか》

投稿日時 - 2010-09-13 15:34:48

お礼

 つづいてご回答を寄せていただきました。

 そうですね。先を急ぐようなかたちになるかも知れませんが ふたつの事柄を思い浮かべました。

 ( a ) 《白鳥入蘆花》――すなわち 所謂るさとりの境地として 《もののあはれを知る》類型あるいは《梵我一如》類型であると多少曲げて一般化してしまいますが――の推し出しを 大いに進めていくかどうか。それ一本で済むと考えるのかどうか。

 ( b ) 《白鳥入蘆花》ないし《梵我一如》の境地は 常態であるのかどうか。
  ・ 言いかえると 《一如である部分》と《一如でない部分》とがあるのがふつうではないか。
  ・ あるいは 白鳥なり蘆花なりのいづれにせよ その白が黒くなったり灰色に彩られていたりするという状態は起こらないのか。もっと言えば その白の下にもしくは中に 赤い血も流れているのではないか? 


 さて
 ★  われらは神より来たれり、我らは彼の観念であり、我らの存在である。というのですよ。
 ☆ これなら
 ☆☆ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~
 これを〔* すなわち《絶対=非経験=無限=永遠》のナゾを〕 われわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか?
 やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と同じ方向を向いているように思います。《我ら・我らの存在》も 日本語では《かみ》と呼ぶほどですから。《同じ白》だが 神の白は神の白 われら凡人の白はわれら人間としての白 というところでしょうか。


 このところわたしは数学のもんだいでコーナーに追い詰められていますが LTCM1998 さんのご回答に反応して次のように述べました。まづは お聞きください。

 ☆☆ (No.19お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
 天の国と地上の国とは 互いに混同されるくらいに入り組み組み合わさっていて その境界は決してここだとか このように線引きをすればよいのだとかいうふうには 明らかではない。その国境は 誰れもいない非武装中立地帯( no man's land )でないどころか 絶えずこころの中に戦争が起こっている。
 けれども天の国が来ているのなら われわれはすでにすくわれている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 白鳥のほかにも鳥はいますし 蘆花のほかにも薄も萩もあるようですし というのは揚げ足取りに過ぎないとしても この地上における《この上なきうつくしき苦しみと悩み》を味わっております。そのことにもちらっとでも触れてもらえるなら ありがたいという思いもあるのです。
 月を描くのではなく――それを見させるだけでも 並大抵のことではないでしょうが―― 月を描いている《わたし》を そしてそのわたしの葛藤ぶりを 日常世界において互いに話し合う。その話の中に《絶対》という言葉をも――特に海外の人びととのまじわりにおいては重点的に――入れて使いこなすということ。
 わたしの目の前にあるのは こういう課題です。どうでしょう?

投稿日時 - 2010-09-13 11:43:20

ANo.21

数学についてお書きでしたので・・

>数の存在においてそこに +1することは出来るのではないか
もちろんできます。が、数の存在、といっている地点で、すでに認識と客観の視点に移動されてます。自分で気づかないうちに可能無限から実無限へ視点を変化されてる、と思います。
数学はまったく専門外ですが、
理解の範囲内で言うと、可能無限は、言葉の通り可能性、期待を示します。
1.2.3・・・∞、とありますが、 1.2.3は、そのものをダイレクトに知ることができます。でも無限大は、人は知りえません。知り得ないものに1を加えることはできない、と思うのですが。
そこに1を加えることができるのは、無限大なんて大きすぎてわからない、というスタンスを放棄して、視点を変更し、数の大小、という感覚を無視して、把握に徹し、無限大を一つの存在として、お書きの通り捉えたときに、初めて1を加えることが可能です。
でもそれでは、もう可能無限とは呼べないのではないかと思います。
数字が、大きい、小さい、というのは、もともと感覚ですし。
可能無限においては、∞、というのは数字ではありません。それは、いつまでも続く、という操作、手順を示す記号です。それに一を加える、というのは、操作と数字を混同されていると思います。
そこに視点の移動があるようなので、論理は首尾一貫していません。




>可能無限というのは、無限を把握出来るのは、限りがないということを確認する操作が存在していることだけで、無限全体というのは認識出来ないとする立場
という、可能無限に対する一つの定義があります。
この定義が正しいかどうかしりませんが、仮にこれが正しいなら、1を加える、というのは意味不明になります。操作と数字は別物です。
僕の中の理解でも、無限というのは、操作や手順、ある種の動作であって、数字ではない、少なくとも1.2.3.というダイレクトに数字を扱う立場においては、無限というのは、無限に増やし続ける、という操作手順なので、数字ではない、という認識があります。少なくとも最初はそう習いました。
微分における無限小も、小さい数字ではなく、「無限に小さくして0に近づけていけば」という、やはり操作を示してたはず・・
このあたりはまともに扱おうとすると、言われるとおり、イプシロン-デルタ論法や、超準解析とかいうそうです。素人の手の出ない話ですが。
実無限においては、無限大は、一つの数字のように扱われるので、∞+1ということも、計算として成り立ちますが。

この定義が正しいなら? 可能無限の話をしているときに、+1ということは意味が通りません。
「数の存在において」、という地点で、可能無限から実無限に、スタンスを無意識に変更されているように見えます。
bragelonneさんは、数学は・好きなほうでしょうか? 僕は下手の横好きなので、断言はしません。

無意識の約束事とは、たとえばすぐ上に書いたようなことです。




>真無限は 経験世界にあたかも降りて来るという事件が 《わたし》の主観内において起こるという側面もあります
これは、なに???、とか思ってしまったのですが、たぶん個人的経験なんでしょうねー。
それならそれは、そういう悟り方もあるんだろうなーと想像するだけですが。もしかして、パズルの最後のピースが埋まるように、降りてきませんでした? 欠けた最後の一葉が落ちてくるような。




>推論の妥当性によってひらめくというよりは 推論が存在しえたという発見とそのおどろきをとおして というかたちの感性や心をとおしてであるかも分かりません。
人はもちろん、推論論理だけでなく、感性も心も人格も本当はみんな同時に持っていますが、ただ自分の主体がある場所は、普通は、それら全体にはわたらず、一部だったりします。なので、本人が自覚的な範囲を指すのか、裏側まで表現するのかですが。
>どちらを優先させるかたちを取っても 得られるところのものが問い求めていたものであったら 問題ないように思います。
もちろんそうです。ただ・・ まあ、それをいうと・・・議論がそもそも・・・
現実問題、その優先順位の混乱によって混迷する議論は少なくないみたいですし。ん~~


無限論も入れてみました。どうでしょうか? おやすみなさい。

投稿日時 - 2010-09-13 02:57:39

お礼

 つづいてです。

 ★ 無限論も入れてみました。どうでしょうか?
 ☆ わたしはまだ数学の能力を開発していませんので――ここでは あまがっぱさん ちょとつさん ひどっちさん 新たにエルティースィーエムさんが頼りですが―― いわば簡便法で述べています。

 どういうことかと言うと:
 ○ 0.999999… だとか何だとかは 可能無限だろうが実無限だろうが 0 と 1 との間に存在している。つまり経験世界に属している。
 ○ あるいはだから その数がひとつ特定できたとしたなら その数に一を加えることも出来る。つまりその一定の数量よりも大きいという状態が存在すると言える。ならば 比べることができるゆえに 相対の世界であり経験世界である。
 ○ 《無限》は この経験世界を超えている。
 ☆ こう言おうとしているのみです。

 これが否定されたなら 元も子もありません。とは認めます。

投稿日時 - 2010-09-13 11:05:14

ANo.20

では、だだだーっと。


>《絶対=永遠=無限=無根拠》 想定し定義したとしても 表象しえないままです。

そのあたりのことは了解済みです。言い方が悪いのかもしれませんが、僕がいいたいのは、
絶対=認識の限界 永遠=時間の限界、無限=空間の限界、無根拠=因果の限界、という風に解体?し、再び構成する方向性です。
全部をイコールでつなげるのがかなり乱暴な面があることはわかっておられるでしょうか?
そういうことをいいたかったんです。ちょっと遅いですが。

ただ、それは、ここの質問文にはそぐわない、と判断したのですが・・。ある種の、話の厳密さや方向性の階層が違う、と思ったので。
そういう議論をする場ではなかったなーと話しながら気づいたのですが



>理性なり感性なりをとおして意識化したものは その限りで管理下に置かれますよ
ちょっと違うと思います。意識化すれば変質します。管理下におくのは好みの問題ですが、それは、無限を有限に変換してる地点で、同じようで別物です。意識下におくことは変質でもありますから。経験世界内の物事であってもです。
この例えがあってるかどうかわからないですが、スポーツにおいて、意識化すると体は動かなくなります・・あんまりいい例えじゃないか・・感覚とその意識化は、別物です。ここがまったくイコールなら、考えるほうは苦労しません。



>経験世界とそれを超える領域とのふたつにきっちりと区別されます
これは、そう望むからそうしているだけじゃないでしょうか?
言い換えると、きっちり区別されない領域の分け方もあります。望めば、特に論拠はなくともきっちり区別することも可能だ、という意味です。
きっちり区別される、と解釈することもできる、というのがより正確だと思うんですが、たいした問題ではないでしょうか?
それは数ある正解の選択肢の中から、自分の好む区別法を選んだ、ということだと思うのですが?
それもスタンスの違いとして、ここで話すことではなかったように思いますが。微妙だ。




>その数の特定としての表象ではなく その存在が表象され得るというものですから
ええ、それはそうです。でも、ただの存在の表象なら、レッテルとしての表現と変わりません。そこでストップでしょうか?そのあたりに方向性の違いを感じます。
レッテルとしての存在の表象に意味と意義を感じるかどうか、というスタンスの違いが見えます。




>存在を認識するということについての――《心と感性》を重んじています。
これは、難しいところですが、僕は心と感性と論理は、すべて一致する、と思っていますので、どちらに重きをおく、ということ自体が不十分に思います。

投稿日時 - 2010-09-13 02:49:06

お礼

 なるほど。ひつじさんは――あっ お早うございます。ご回答をありがとうございます―― 《絶対》が分かったあとの情況や課題について話をしておられる。ではないでしょうか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  >経験世界とそれを超える領域とのふたつにきっちりと区別されます

 これは、そう望むからそうしているだけじゃないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まだ《腑に落ちない》段階での話をわたしはしております。
 ひとはその存在が永遠ではありません。ですね? でも《永遠》という言葉があります。ではどのように定義すれば 誰にとっても共通の理解が得られるか? そこから上の区別を言っています。《そう望んで》行なうのではないわけです。妥当性のある想定をしたいからです。

 直前の回答へのやり取りで こう書きました。
 ☆☆ 天の国(=絶対・非経験の領域)と地上の国(=相対世界)とは この地上で互いに入り組んでいる。その境界が分からないほどいわば縺れている。しかもその国境は 非武装中立地帯ではなくて 心の中で絶えずと言っていいほど戦争(葛藤)をおこなっている。けれども 天の国が来ているのなら わたしたちはすでにすくわれている。
 ☆ ですから (1) 経験世界とそれを超える非経験の領域とは 互いにはっきりと分けられる。そして(2) しかも《超える》という意味は 超えたもののほうが言わば優位にあることだ。非経験の絶対――要するに 神――が この地上の経験世界を覆い包むと 想定上 言える。
 この(2)の段階では 《神が人間を覆い包む》状態は 人間にとって神のことばとわたしの欲望や理性との戦争をも部分的には意味する。要するに 絡み合いもつれ合っている。
 ですから (1)の規定を批判して
 ★ きっちり区別される、と解釈することもできる、というのがより正確だと思うんですが、たいした問題ではないでしょうか?
 ☆ と物言いをつけておられる。こうではないでしょうか?
 ★ レッテルとしての存在の表象に意味と意義を感じるかどうか、というスタンスの違いが見えます。
 ☆ これも 《絶対》ということが腑に落ちたあとの それの用法をめぐる情況や課題であると考えます。わたしは 分けて説明する態度で来ています。考慮の余地ありでしょうか?

 ★ 僕は心と感性と論理は、すべて一致する、と思っていますので、どちらに重きをおく、ということ自体が不十分に思います。
 ☆ これは揚げ足取りです。《心と感性を無視したスタンスではないか》との問いに答えて言っているのですから。そのあとの段階に進んで さらに物言いをつけられても。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 僕がいいたいのは、
 絶対=認識の限界 永遠=時間の限界、無限=空間の限界、無根拠=因果の限界、という風に解体?し、再び構成する方向性です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 趣旨説明をさらに充実したものにしないと 腑に落ちることは望めないというところでしょうか。
 それは そのために質問を挙げているのですからそうなのですが ひとつ言えることはありますよ。
 ○ 《認識・時間・空間・因果》 これらすべては 《相対的で移ろいゆく経験世界に属する》。
 ☆ ということです。つまりその限りで 《絶対=永遠=無限=無根拠》という規定が成り立ちます。
 ですから 一つひとつの事項について 一歩一歩です。
 
 ひつじさんが その工程表をつくってくださってもよいと思います。そういう問題意識だと受け取りました。

投稿日時 - 2010-09-13 10:46:48

ANo.19

「日本の知性は,利息の計算ができない知性だ」と喝破した人がいます.
数学が苦手です,と言って憚らない知識人を批判しています.

「無限」を論じたいなら,数学における無限の定義と概念を学ぶ必要があるでしょう.
限られた範囲の有理数(たとえば1と2の間)にも有理数は無限に存在する(有理数の稠密性)や,これに関するデデキントの展開,「たかだか可算」の定義も知らなければ,話になりません.
なぜなら,定義が曖昧なままで議論をすれば,常に定義を動かすことで話をはぐらかすことが可能になるからです.やや昔の話ですが日米ガイドラインの「周辺事態」の「周辺」とはどこか?というのと同じ類になってしまいます.
少なくとも集合論が理解できていないことは見て分かります.

「Wikipediaを読んで分かったつもりになる」のは学んだとはいいません.
百科事典に載っている程度のことが分かっただけ,というのは,司馬遼太郎が『坂の上の雲』で無能な伊地知参謀(乃木軍)に浴びせかけている批判です.

高木貞治『解析概論』を読めとは言いませんが,せめて高校生でも読める松坂和夫『数学読本(6)』は読んでいただきたいです.

……これで終わりにしようと思いましたが,あまりにも質問に対応していないので,一点だけ引用します.

問題は要求の形で提出されるのが常例である。かくかく、しかじかの事をやれという注文である。その注文の通りに、うまく行けば、問題は解決されたのであるが、いつでも、そういうおめでたい解決を期待するのは、虫がよいというものであろう。無理な注文はできっこない、というのも解決である。そんな注文には、以後取り合わないですむからだ。一例として、地上に天国を建設するという問題を取ってみるならば、それは矛盾を含む問題だから不可能だと、一蹴するのも一つの解決案であろう。ただし、不幸にして、この問題は明確ならざる問題である。それは天国の輪郭が鮮明でないからである。
(高木貞治『数学小景』)

投稿日時 - 2010-09-13 02:20:34

お礼

 エルティースィーエムさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ○ ~~~~~~~~~~~~~
 天の国と地上の国とは 互いに混同されるくらいに入り組み組み合わさっていて その境界は決してここだとか このように線引きをすればよいのだとかいうふうには 明らかではない。その国境は 誰れもいない非武装中立地帯( no man's land )でないどころか 絶えずこころの中に戦争が起こっている。
 けれども天の国が来ているのなら われわれはすでにすくわれている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ その《絶対=永遠=無限=非経験》をどうすれば腑に落ちるように分かるようになるか。そのために 数論の情報をおおしえください。
 ★ 周辺における事態というときの周辺
 ☆ は流動的なのでしょう。定まっていません。しかもその解決は ひとそれぞれです。ほかの人間が別のひとの心の中に入って行くことも手を突っ込んで手術をしたりすることもかなわないという問題情況であるようなのです。
 
 この問い求めにとって 数学の有益性いかんとなります。どうでしょう?

投稿日時 - 2010-09-13 10:06:09

ANo.18

No.9 & 14 & 17です

>>>>>> No.14
「想定されたそのまま」を想定しうるというところ、すなわち
>>>
《〈経験世界という全体〉を超えたところ》に想定されたそのまま
<<<
を含んで「全体」が想定されうるということ(そういった視線もありということ)です。
そうして、もう一つの言い方ですれば、そういった想定以前から、すなわち「はじめに全体ありき」という視線もありだということです。
<<<<<<

すなわち
>>> No.9
>===
「全体」の中にて、境界が生まれるとき、すなわち「わたし」といった概念が形成されるとき、その概念形成と同時に、境界内部と境界と境界外部とが形成される。「神」概念を、自身の境界内部を中心に外方へ延長して考えるか、境界外部を中心にして内方へ延長して考えるか、「わたし」概念が形成されたと同じ状況から類推して、他に複数の境界内部を想定し、その中心から外方へ延長して考えるか、「わたし」概念形成前(すなわち境界概念形成前)の「全体」と同一視して考えるか、あるいは、「全体」の外に(ないし、否定神学的に)考えようとするかにて、けっして重なり合わない「方向性」(視線)として捉えられ続けられる
===<
を、言い換えたに過ぎません。。。

上記文中での「わたし」および「全体」は、複数の交錯する視線にて、それぞれ異なった意味と方向性(動き)が含意されています。

このことは
>>> No.9お礼欄
★ ~~~~~~~~~~~~
 また、別の視線(私の視線)からすれば、
 >===
 「全体」の中にて、境界が生まれるとき、・・・ 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この命題については 簡単に批判できます。
 ○ 《「全体」》とは何を言うか?
 ☆ こう問い返せば その答えにしたがって自明の結論が得られるでしょう。
 ○ 経験世界とそれを超える非経験の領域 この区別に沿って 《全体》を定義してください。
 ☆ という意味です。言いかえると
 ○ 非経験の領域――《絶対=永遠=無限》――は どんな《全体=経験世界》を持って来ても超えている。
 ☆ これで はっきりするはずです。
<<<
での「簡単な批判」が「一方向に限定された見方」でしかないということでもあります。

投稿日時 - 2010-09-13 01:23:54

お礼

 いちばんの問題は――じねんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。あなたの見解について一番のもんだいは―― 《神》があなたの〔精神におけるでしょうか〕世界の中におさめられてあたかもあなたの(つまり 人間の)自由になるかのごとき扱いをしているというところです。
 そんな神は 誰だってただちにお払い箱にしてしまうでしょう。占いやらこんど生まれ変わるときにはこうなりたいああしたいと夢見ている現代縄文人でないかぎり。まぁ ドラえもんをたのしむ幼な子もまだ哲学とは行かないでしょうから 仕方ありませんが。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆☆ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ 経験世界とそれを超える非経験の領域 この区別に沿って 《全体》を定義してください。
 ☆ という意味です。言いかえると
 ○ 非経験の領域――《絶対=永遠=無限》――は どんな《全体=経験世界》を持って来ても超えている。
 ☆ これで はっきりするはずです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 での「簡単な批判」が「一方向に限定された見方」でしかないということでもあります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この場合は この《「一方向に限定された見方」》でなくては 要を為さないのです。《神》にかんするかぎりです。

 ○ 非経験の領域――《絶対=永遠=無限》――は どんな《全体=経験世界》を持って来ても超えている。

 ☆ でなければ 話が始まりません。
 初めっから神があなたの心の中であなた自身がお手玉かおはじきをするかのように取り扱い自由であるのならば 何をか言わんやなのです。やんぬるかななのです。

 ★ 想定以前から、すなわち「はじめに全体ありき」という視線もありだということです。
 ☆ ただの論理操作でしかありません。この《全体》を超えているという想定でなければ その《絶対》のすべては経験世界に属するということになり その相対主義で押し通すのだと言っていることです。
 相対主義が 関係主義の思想のみを言うのであれば 縁起共生説でもあり それはそれとして経験思想としてふつうの生活態度です。いまは相対を超える《絶対》の定義がもんだいなのです。

 それとも 絶対は 相対の中におさまるとでも言うおつもりですか? 
 《はじめに〈相対〉という全体世界ありき。その全体に〈絶対〉もおさまる》 こういうご見解ですか?
 《 ∞ ÷ n = ∞ 》という命題は 概念操作であるのだから 概念が属する相対世界にすべておさまるとでもお思いですか? ならばその無限大を見せてください。分かるように示してください。
 できっこありません。
 その無限をどう定義し扱うのがよいか。こういう問題意識を持ってください。
 お手玉やおはじきではないのです。

 * 《内と〔境界と〕外》といった視点だけでは 行きとどかないでしょう。少なくとも立体的・構造的になる必要があります。
 《経験世界を超える》ということは 《経験世界に降りて(入って)くることが自由》という意味です。
 《外のもの》が《内にある》ことはありません。《入る》とき《境界》の問題があるのです。《超えるもの》は 超えられたものをも覆い包んでいることになるので 入るのも自由なのです。
 この《超えるもの》の自由を逆手に取って わが精神ははじめに全体なりきとうそぶいていては 人間がすたれます。サッカリンの砂糖漬け。神に甘え過ぎです。

投稿日時 - 2010-09-13 09:51:01

ANo.17

No.9 and 14です

。。。やはり方向性の交錯するところですね。。。

《二重構造》を想定されるということ自体、すでに「相対的」だということを自身で認めておられるということではないのでしょうか?

さて、もし《二重構造》を想定しないとして、すなわち
>>>
 言いかえると もし《二重構造》を言わないとしても たしかにその《経験世界という全体のなかにいる〈わたし〉に起こる対面》なのですからその限りで《神=絶対》はその《〈全体の部分〉になる》のですが そうなのですが これがあくまで《仮りの姿かたちにおいて》だということです。
 つまり《神=絶対》は そのときにもつねに《〈経験世界という全体〉を超えたところ》に想定されたそのままでいます
<<<

とすれば、

「想定されたそのまま」を想定しうるというところ、すなわち
>>>
《〈経験世界という全体〉を超えたところ》に想定されたそのまま
<<<
を含んで「全体」が想定されうるということ(そういった視線もありということ)です。
そうして、もう一つの言い方ですれば、そういった想定以前から、すなわち「はじめに全体ありき」という視線もありだということです。

。。。サジはいつ投げていただいても結構です。。。

投稿日時 - 2010-09-13 00:41:52

お礼

 じねんさん なるほどこれは問い求めなのだと気づきました。ご回答をありがとうございます。

 ★ ・・・想定以前から、すなわち「はじめに全体ありき」という視線もありだということです。
 ☆ つまりこれはあくまで《わたし》の主観から見た構図であり それとしての世界です。
 《わたし》の世界に入って来た――非経験の領域から降りて来た――なら その限りでそれは《わたしの世界という全体の中の部分になる》 こういう構図の取り方であり それをつらぬいたかたちです。
 
 そりゃあそうなりますよ。《想定》したあと 想定はあくまで言葉でおこなうのですから その言葉を用いる限りで けっきょくそのものを表象し得るというかたちが――あくまで仮りの姿としてなのですが――はっきりと出来上がります。
 
 そうなると表象しうるものは
 ( a ) 一方で あくまで仮りの姿だという側面をつらぬくか 
 ( b ) それとも他方で すでに概念としてわたしの世界の中に入りこんでいる――つまり全体の中の部分になっている――という側面を重視するか
 これら二つの見方の違いだということになります。こういうかたちでの
 ★ 。。。やはり方向性の交錯するところですね。。。
 ☆ です。

 でも どうか
 ★ 。。。サジはいつ投げていただいても結構です。。。
 ☆ とご自身を甘えさせることなく やはり( a )をないがしろにすることは出来ないということ この一点をしっかりと見据えて すすんで行かれるようお祈り申し上げます。どぢゃ?

投稿日時 - 2010-09-13 01:01:57

ANo.16

追加です・・
感性優先なんて、それは哲学じゃない、というつっこみはありかなーと自分の文を読んで思ったんですが、その辺のボーダーはアバウトです。


論点と切り口が食い違ってたのがはっきりしたので、なんか引っかき回しただけのような感じで若干申し訳ないですが、まあそれも話してみないと分からなかったですしー。

投稿日時 - 2010-09-12 23:54:57

お礼

 つづいてです。

 ★ 感性優先なんて、それは哲学じゃない、というつっこみはありかなーと・・・
 ☆ そうですね。
 ★★ (回答No.15) お返事の「絶対が相対的なこの世界に降りてきて、それは神の霊が皆に宿ることになる」と言われることも理解できます。
 ☆ というところなどは 《感性優先》になるかと思います。あるいは人によっては 理性ないし論理を優先させたかたちで 《ひらめき》もしくは《さとり》を得ることもあるのかも知れません。
 でも どうでしょう。たぶん その場合にも 推論の妥当性によってひらめくというよりは 推論が存在しえたという発見とそのおどろきをとおして というかたちの感性や心をとおしてであるかも分かりません。
 まぁ どちらかを優先させなければならないということもないでしょうし どちらを優先させるかたちを取っても 得られるところのものが問い求めていたものであったら 問題ないように思います。

 交通整理ができたとおっしゃっていただいたのでしたら わたしもありがたいですし うれしいです。無限論をもっとしっかりと展開しえずにいることは 残念です。

投稿日時 - 2010-09-13 00:48:36

ANo.15

こんばんは、
気を取り直して議論に戻りまして・・
かなり意見が違うみたいなので、あまり乖離が甚だしい場合は埋めるのが難しいかも知れませんが。




>《真理》が 《絶対》のことです
どちらも看板だし、レッテルなので、嘘言ってるわけでもないけど、それそのものを表す言葉ではないので・・



>超えているという場合を想定したそれを 《絶対》
これは、無意識のうちに相対を基礎にして基盤にして組み上げる絶対の概念です。人によってはその基礎と応用の順番もひっくり返りますし。




>《実無限》は 《可能無限》によって説明し得るものと思っていました。(定義では 別々であるようですが)。というのは どちらも 経験世界に属すからです

これは・・bragelonneさんが、あまりに意識優先で把握優先タイプの人だからだ、と思います。もし感性優先タイプの人なら、そうはいきません。詩人であれば、それは経験世界の外です。
すべてをこの世のすべてを意識の管理下に置こう、という風にも見えるんですが、違うでしょうか?

それはそういうスタンスです。そして、いわれるとおりそのスタンスでは、全部経験世界の内にあります。
でも一方感性を優先すれば、それは経験世界の外になります。
同じものが経験世界の外であり、同時に内である、これは同一化の現象のひとつだと想像します。
全く別の2つが同時に並び立つ、と言うのは人の理解の範疇を超えるからです。

無限が開拓されるには、把握や認識だけでなく、無限の想像力や空想、荒唐無稽など論理思考とは全く異質のものが、その成立に必要不可欠です。無視はできないんじゃないでしょうか?
その意味で、レッテルを貼ったことをもって表象した、というのは不正確じゃないでしょうか?
可能無限および実無限に関しては、表象可能であると同時に不可能だと思うんですが。


真無限の定義は、認識をすら越える真の無限、と言う意味でしたか・・それが分からなかったので。
でもその真無限の不可能性は、可能無限や実無限において、すでに一部表象可能が破綻し始めていることで、真無限の表象不可能性がその延長として推測されるのではないでしょうか?
「完全」に、可能無限や実無限が表象可能であるなら、真無限が不可能だとは思えないと想像します。
可能無限や実無限が、「有限と同じく」表象可能なら、無限について言うことなど無いはずです。
それは、心と感性を無視したスタンスじゃないでしょうか?





> ありますよね。つまり +1が出来るのではないでしょうか?
此は上の話と同じなんですが、感性と認識を取り違えておられます、というか説明不良だったかしら?
できる、と思うのは、意識が優先になるからですし、客観性があるからです。
その意識と客観性を排除してみてください。そうしたらできないことはわかってもらえると思います。
そしてそういうスタンスは、無限の論理の発展に不可欠だと思います。仕組みを知る上で。
分析と論理だけじゃなく、一度それを放棄して心と感性に立ち戻ってもらえたら(無茶なこと言ってますが)わかってもらえると思うんですが。
そこには、意識と認識世界とは全く異質の世界が広がっていると思うので。




>われわれ相対的で経験的な世界
これは、bragelonneさんのスタンスです。これが唯一ではないし、それを無条件に絶対視すると話が膨らまなくなります。その無条件の取り決めを検証してもらえたらうれしんだけど。 無意識の約束事、と言う物です。
一番に言いたいのはそこですし、そこがスルーなら、僕はこのお題については言うことはなくなりますー。
言換えると、bragelonneさんの論理的展開に(そのスタンスと世界内において)、特に大きな不備は見いだせずおかしな所はないように思う、と言うことですが。
でも正しい正しいじゃおもしろくなかったので、膨らましたかったので、こういう書き方になってしまいました。




なのでほとんど質問文については同意しております。そのはなしの範囲内で、と言う意味ですが。
その流れでいうなら、お返事の「絶対が相対的なこの世界に降りてきて、それは神の霊が皆に宿ることになる」と言われることも理解できます。
この結論結構好きです。優しいなーと思います。


それに比べて、僕の書いた文の内容は、真理の表現において、例えば仏教の無などが典型ですが、その表現方法の問題、言葉の定義に執着してつっこんだつもりだったので、食い違ってたのかも知れませんねー。

以上、丸投げの文でした。

投稿日時 - 2010-09-12 23:24:51

お礼

 ひつじさん ご回答をありがとうございます。

 ★ レッテルを貼ったことをもって表象した、というのは不正確じゃないでしょうか?
 ☆ この《不正確さ》において 非経験の領域を《絶対》と想定するという定義です。《絶対=永遠=無限=無根拠》とも言っています。
 想定し定義したとしても 表象しえないままです。《神》なら神という仮りの代理の表現で表わすことになるとき そのように神という言葉が介在してくることになりますから その言葉を用いる限りで言葉の帯びる概念をとおして ひとは〔仮りにですが〕表象を得たりすることになります。

 このときには
 ★ すべてをこの世のすべてを意識の管理下に置こう、という風にも見えるんですが、違うでしょうか?
 ☆ という場合の《意識の管理下に置く》ことは 一方で《代理表現としてのことばとしては その神なら神という言葉を 意識の管理下に置く》のですが 他方で《仮りではない本体のほうの〈絶対〉は むろん意識の管理下に置くことは出来ません》。表象し得ないものを意識の管理下に置くことは出来ません。
 なお 経験世界にあるものごとであれば 理性なり感性なりをとおして意識化したものは その限りで管理下に置かれますよ。

 ★ 可能無限および実無限に関しては、表象可能であると同時に不可能だと思うんですが。
 ☆ その数を特定できないとしてもその数が存在するという限りで その存在を表象し得ます。表象しうる限りで 経験世界のものごとであると規定できます。
 ですから これら可能無限などは
 ★ 真無限の表象不可能性がその延長として推測される
 ☆ かたちのものだとは成らないわけです。経験世界とそれを超える領域とのふたつにきっちりと区別されます。〔そのあと 真無限は 経験世界にあたかも降りて来るという事件が 《わたし》の主観内において起こるという側面もあります〕。

 ★ 「完全」に、可能無限や実無限が表象可能であるなら、真無限が不可能だとは思えないと想像します。
 ☆ もし不可能ではない・つまり表象可能となるなら その《真無限だと思っていた無限》は 経験世界に属する可能無限などだったということに――定義の問題として――なります。

 ★ 可能無限や実無限が、「有限と同じく」表象可能なら、無限について言うことなど無いはずです。
 ☆ その数の特定としての表象ではなく その存在が表象され得るというものですから その意味で表象という限界の範囲内にある。つまり《有限と同じく》であるとなります。つまりそれゆえにむしろ――数の特定という理性の論理よりも 存在を認識するということについての――《心と感性》を重んじています。

 ☆☆ > ありますよね。つまり +1が出来るのではないでしょうか?
 ☆ これは これも 数の特定においてではなく 数の存在においてそこに +1することは出来るのではないかという意味です。加算というのは経験行為だから その数の存在は経験世界に属するということを言おうとしています。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
  >われわれ相対的で経験的な世界
 これは、bragelonneさんのスタンスです。これが唯一ではないし、それを無条件に絶対視すると話が膨らまなくなります。その無条件の取り決めを検証してもらえたらうれしんだけど。 無意識の約束事、と言う物です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《無意識の約束事》が 捉えきれませんでしたが 次のご指摘につながるのでしょうか。

 ここまで読んだところについてそのつどお応えして来ましたので 次のご発言をあとで知ることになりました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 お返事の「絶対が相対的なこの世界に降りてきて、それは神の霊が皆に宿ることになる」と言われることも理解できます。
 この結論結構好きです。優しいなーと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうなんですか。つまり
 ★ なのでほとんど質問文については同意しております。そのはなしの範囲内で、と言う意味ですが。
 ☆ と言っていただきました。たぶん 数論と言いますか 《無限》論についてもっとくわしい説明を添えて議論せよというところでしょうか。残念ながら カントールがどうのこうのという話を小耳にはさんだだけのところですので 致し方ないとなりましょうか。
 みなさんでこれを展開させていただければわたしはさいわいに思うのですが この質問の範囲を超えるでしょうか。それとも 出来るでしょうか。

 さらに何か整理できましたら 寄せてくださるようお願いしておきます。

投稿日時 - 2010-09-13 00:38:41

ANo.14

No.9 です
>>> No.9 お礼欄
☆ この命題については 簡単に批判できます。
 ○ 《「全体」》とは何を言うか?
 ☆ こう問い返せば その答えにしたがって自明の結論が得られるでしょう。
 ○ 経験世界とそれを超える非経験の領域 この区別に沿って 《全体》を定義してください。
 ☆ という意味です。言いかえると
 ○ 非経験の領域――《絶対=永遠=無限》――は どんな《全体=経験世界》を持って来ても超えている。
 ☆ これで はっきりするはずです。
 そのあと 《わたし》が この《絶対=永遠=無限=無根拠=非存在》と或る日 対面します。そのとき主観のうちにあって 神体験が起こります。それだけのことです。(無神体験と言っても同じです)。
<<<

同じことですが、(視線が異なっている以上)何度でもくり返さざるを得ないです。
>>>
《わたし》が この《絶対=永遠=無限=無根拠=非存在》と或る日 対面します。
<<<
対面可能だということであれば、すなわち、《絶対=永遠=無限=無根拠=非存在》ですら「全体の部分」になるということです。「対面」という「面」が「境界」として定義されているということです。

投稿日時 - 2010-09-12 22:25:41

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 対面可能だということであれば
 ☆ 《可能》の意味を把握しておられない。

 ☆☆ (No.9お礼欄)~~~~~~~~~~~~
  ★ ・・・(アウグスティヌスの言葉について)・・・ここでは「永遠的なもの」は「獲得可能」となっています。
  ☆ これがあくまで《主観にうちにあって》というもんだいです。良心・信教の自由および表現の自由という公理において 自由でありゆるされています。この《わたし・その主観における神体験》については 直前のあまがっぱさんへのお応えを参照していただきたいと思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆☆ (No.8お礼欄) あくまで・どこまでも 《わたし〔の主観〕のうちに起きること》と限定して定義すること
 ☆ の実質的な内容として 次のようにまとめています。それはあまがっぱさんの問題意識とその概念の用法に沿ってのことであるという条件づけ(つまり じねんさんにとっては 制約となるもの)がありますが おおむね通じる話だと考えます。

 ☆☆ (No.8お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
  1. ひとは永遠ではないにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。

  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。

  3. ですから ひとつに《ことばそして概念》としては 
   ★ 《絶対=無限=永遠》は、経験の内側でしょう。

  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由でありゆるされています。信教・良心の自由ないし表現の自由という公理であるようです。

  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の領域であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。

  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は
   ★ 経験の二重構造
   ☆ として――あくまでそういう仮りのすがたとしてでしょうが―― 現われている。こうなります。
 すなわち 《無根拠で非在なる非経験》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実》との《二重構造》を呈しています。 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 最後の(6)を じねんさんの概念の用法に沿って言い直しましょう。
 ☆☆ 《わたし》が この《絶対=永遠=無限=無根拠=非存在》と或る日 対面します。
 ☆ この《対面》は 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし》と《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実》との《二重構造》を呈したかたちで成り立ちます。
  《定義としてのまぼろし》は 《全体=経験世界》を超えたところという定義をむろん保ちつづけます。
  《仮りにでも姿かたちを表わしたその現実》は この非経験なる《絶対》との・経験世界における《わたし》の経験的な意志行為として成るものです。
 《表象しえない絶対》を 表象してではなくまた思考してではなく そうではなく 仮りに《かみ》なら神という言葉をその《絶対》の代理として〔この場合は〕表象して受け容れるという意志行為です。
 ★ すなわち、《絶対=永遠=無限=無根拠=非存在》ですら「全体の部分」になるということです。
 ☆ は 《仮りに姿かたちを表わした現実において》ということです。

 言いかえると もし《二重構造》を言わないとしても たしかにその《経験世界という全体のなかにいる〈わたし〉に起こる対面》なのですからその限りで《神=絶対》はその《〈全体の部分〉になる》のですが そうなのですが これがあくまで《仮りの姿かたちにおいて》だということです。
 つまり《神=絶対》は そのときにもつねに《〈経験世界という全体〉を超えたところ》に想定されたそのままでいます。

 ★ 「対面」という「面」が「境界」として定義されているということです。
 ☆ 《わたしの主観》にとって なんらかの境域があろうがなかろうが この場合には 関係ありません。その内と外という区別は 対面にとって問題ではありません。
 問題になるのは むしろ主観の内面にあっては 良心・信教の自由が保障されるという意味においてです。
 

投稿日時 - 2010-09-12 23:52:59

ANo.13

すいません追加です。
最後の絶対は、アンタッチャブルの絶対ということで。
最後で素晴らしいだの絶対だの書いてる僕は、やっぱりはたから真実を見てるだけの人です。orz

投稿日時 - 2010-09-12 17:38:11

お礼

 つづいてです。

 ★ 最後の絶対は、アンタッチャブルの絶対ということで。
 ☆ じつは そのように《表象し得ず それとのあいだにそれこそ絶対的なへだたりがある》という意味だと思うのですが そのときには しかも その《絶対》が こんどは われわれ相対的で経験的な世界に降りて来るといった主観内の〔第二次の〕想定が生まれます。と捉えます。

 すなわち 神の霊が われわれ一人ひとりに――その主観のうちにあって――やどるという派生的な想定のことです。どうでしょう。

投稿日時 - 2010-09-12 22:02:45

ANo.12

こんにちは~。

うまくまとめることができないので思いつきのまま関連在りそうなことを書くと言うことで。
分からないことも多いので、割り引いてください。



1.有限と無限に関して、
有限も無限から見れば無限です。形のないものが形あるものに定まるのは、無限のステップが要ります。
0は無限小とほぼ同じですが、ひとつの数字ですが、無限小でもありますし。

有限無限と呼ばれるものは、お互いがお互いから見て、無限でもあるし、有限でもありますから。
別世界ということで、言葉で断定できないように見えます



2.相対と絶対。
例えばはっきりした自我を持つ人がいるとすると、その人は生まれつき絶対で、そういう人によっては、むしろ相対の概念の方が受入れがたい絶対の概念になります。
僕は関係性を生まれつき大事に感じるので、絶対という概念がそれこそ絶対ですが。



3.可能無限の話をしてたはずなのに、∞+1というのは変じゃないでしょうか?
いきなり真無限あるいは実無限の視点に切り替わってます。
僕は真無限という言葉は知らないので、実無限で代用していいでしょうか?

可能無限は主観的主体的で、実無限は客観的意識的把握的、と思います。それがごちゃになった説明のように思うんですが・・
もし主観的に、自分が0の原点にいて、そこから遠ざかっていく1.2.3・・・無限大を見る時に、どう考えてもその無限大に1を足すことなんて想像できないんですが。
実無限の視点に切替えればもちろん可能ですが。



4.1.2とも関係ありますが、表象しえないのなら、絶対も厳密には間違いだと思います。上の2にもありますが、相対もある意味(その相対を語るときの環境と土台によっては)表象し得ません。

なので、表象しえない絶対をあえて言葉で書くと、&#??;$※♂(右)?  とでも成ります。
冗談などではなく、意味がある意味が通るということは把握されてるものであって、また別物なので、
無意味を言葉で表現すると、こんなネットかまんがで使われるような表現が、一番事実に近いと思います。
絶対と書いた途端おかしいのは、わかっておられるとはもちろん思うのですが・・
頭でわからない、論理も通らない、因果も成立しない、把握できない、感じられない、と言う物を言葉で書くなんて、無理があります。




それを絶対と書いたらおかしいとは思わないですが、より主観的に可能無限的に書くなら、
&#??;$※♂(右)?  だったり、
あるいは、
意味不明、矛盾、自我さえ成り立たない、無限と有限は無関係、赤の他人、別世界、無縁、知らない、知ったこっちゃない
という風な言葉の方がいいと思うんですが・・あまり自信はないですが・・というか自信持てる人がいるのだろうか・・



2つをつなごうという発想が、両方を理解しようという発想が、そのためにその境界線である極限を、絶対、あるいは相対と表現することは、数学ならともかく、実生活においては、間違いの種に成りやすいような・・・気もします。



あーでもそれが絶対だ、無限だ、と言って間違いなのでなく、それ一個に固執することが多分間違いです。相対も有限も、語りえないものを指し示します、状況次第では。
それら極限の言葉は、つまり表現しえないものの方向を示す矢印ですし、今現在自分がどのポイントにいるかによってゴールを示す矢印のベクトルが違うように、言葉も変わりますし。


まとめると、表現を積み重ねるときに、自分が拠り所にしてるものをはっきりさせないと混乱する、と言うことでしょうか、2つはセットだし・・んなえらそうなこというと自爆しそうだけど・・


真理は表現できないから素晴らしいですねー。どんな人間の思惑も絶対介入できない、そういうすがすがしさを感じます。

投稿日時 - 2010-09-12 17:31:11

お礼

 ひつじさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 真理は表現できないから素晴らしいですねー。どんな人間の思惑も絶対介入できない、そういうすがすがしさを感じます。
 ☆ どんな感じを受けるかは たぶん人によって違うのかなとは思いますが この《真理》が 《絶対》のことです。と捉えています。どうでしょう?

 ★ 2.相対と絶対。
 ☆ 《相対》は ふたつのものを長さや重さなどの空間あるいはその時間〔的推移〕といった何らかの基準(物差し)によって比べることができる場合だと考えます。これを超えているという場合を想定したそれを 《絶対》と言うのだと。

 ★ 1.有限と無限に関して
 ☆ 《実無限》は 《可能無限》によって説明し得るものと思っていました。(定義では 別々であるようですが)。というのは どちらも 経験世界に属すからです。
 可能無限は表象し得ないぢゃないかと言う場合にも その表象し得ないということが経験世界の中におさまります。言いかえると特定できないと言う意味で表象し得ないとしても 経験世界の中におさまるという意味では 表象し得ます。そこに可能無限があるというかたちで――その中身を特定できなくても その全体としての存在を――表象し得ます。
 真無限つまり無限は 表象し得ません。中身を特定することが出来るか出来ないかを表象し得ず 知り得ません。経験世界を超えているからです。そもそも 有るか無いかも判断つきかねる領域です。

 ★ 無限大
 ☆ 限りなくつづくという意味での無限大は それより大きい数はもうないのでしょうか? ありますよね。つまり +1が出来るのではないでしょうか? たとえば出来ないとしても その無限大は あくまで数えるというかたちの表象が出来ます。経験世界におさまります。

 こういうかたちでお応えしましたが 果たしてうまく言えているかどうかですが・・・。

投稿日時 - 2010-09-12 21:58:07

ANo.11

 先日は、お該博深遠なご造詣からのご投稿に感謝します。
 このテーマでまさか、bragelonneさんもご自分の問題のご回答を得られるとはおおもいではないのでしょうね?

 そういう意味では#1の投稿は示唆的で本物かもしれませんね。
 私も欧米の信仰の書を勉強していてInfiniteとかEternalとか、そして絶対とかのことばが頻繁に出てきてとても難渋はしております。

 だからbragelonneさんのこのご質問で何か助かるものはないかと期待してはおりますが、回答としてはここまでかもしれませんね。

 むしろどう対するか、というご回答でもこれからあるといいのですが。つまり本当にお困りならご質問の形式をお変えになってはいかがでしょうか?

投稿日時 - 2010-09-12 15:42:19

お礼

 ご丁寧にご投稿を寄せてくださっておそれいります。

 そうですね。
 ★ むしろどう対するか、というご回答でもこれからあるといいのですが。つまり本当にお困りならご質問の形式をお変えになってはいかがでしょうか?
 ☆ そのおもむきも質問の趣旨にはふくまれます。すなわち いちばんのねらいは
 ☆☆ (趣旨説明) この《絶対》という概念を ふつうに日常に使えるように知るための《たとえ》は ないものでしょうか? 
 ☆ ですが 
 ☆☆ (趣旨説明) いくつかの視点からのご見解ともども おしえてください。
 ☆ には 大きな視点からの解決法などを問い求めています。

 以前にも問うたことのある質問であり そのときには 次のような司馬遼太郎の文章を参考にしたことがありました。反響はあったのですが 解決には到りませんでした。あたらしい人たちに参照してもらえればと思って かかげておくこととします。
 ▲ (司馬遼太郎) ~~~~~~~~~~~~~~
 http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html

 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。
 ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。
 日本に存在しつづけてきたのは、すみずみまで相対的世界でした。神道、山々や谷々の神々、あるいは仏教という相対的世界を最初から是認した思想。
 山々や谷々の神々が神遊びをするように、神遊びとしての目本特有の私小説がうまれても、絶対という大うそを、つまり絶対という「神」---これは聖書の「神」のことですが---という思想、又は文学的思考----大文字のGodと同じ次元での大文字のFiction---を中心にすえるという習慣は、日本においてはカケラもありませんでした。
 いうまでもありませんが、"あの部分はフィクションです〃という意味の虚構ではありません。神が絶対なる、ごとく、同じ意味における絶対の虚構のことであります。むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。
 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはわたしは 無神論という立ち場からの《絶対》観だと捉えます。言いかえるとそれは 有神論という立ち場からの《絶対》観と けっきょくひとしいという見方をわたしはしています。
 なぜなら 《非経験の領域》にあっては 経験世界における《有る》と《無い》を超えているからです。《表象しえないもの》については《有る》と言っても《無い》と言っても どちらも同じことだからです。
 言いかえると 有神論か無神論かどちらか好きなほうをえらべばよいわけです。有るか無いかを仮りに《わたし》はその主観において決めるというかたちです。
 すべては仮りの表現形態なのですから よいわけです。つまりやほよろづの神々にしても そういうかたちの仮りの表現形態だと捉えられます。有神論の《神》をその分身のすがたで表わしている。こういう捉え方です。

投稿日時 - 2010-09-12 21:27:26

ANo.10

よっ、脱帽のブラブラべクトル、久しぶりやな。アンタ相変わらず論理の基本がでけてないんやな。んだから吉本興業みたいに、アンタのナンセンスを聞いて暇つぶしをしとるアンタのファンが、ワシ含めて多いんやろな。

アンタ、言語学に興味があるらしいな。だったら、言語を仰山大事にしなあかんと阿呆に見えるで。ま、漫才のボケ役をやろうっちゅうつもりだと考えて許してあげる。

ボケのアンタに言っても始まらんだろうが、言葉とは文章の中の文脈の中で意味が決まって来るもんや。その言葉を一言だけ文章から切り離しても始まらんのや。

アウグスティヌス神の宣わられておられていることは、英語ではtemporary以外にないことをこの文章を読んで判らん奴は、言語学をやる資格がないっちゅうことはボケのアンタでも判りそうなもんだが、まっ、アンタじゃしゃあないか。temporaryだけを取り出すと、「時間的」ちゅう訳もないことはないが、この文脈で読めば、それは「永遠的」に対する「一時的」だっちゅうことが判んないのは、やはりアンタ本物のボケやな。日本語じゃ「時間的」と「一時的」は意味が全然違うんや。だから、アンタのように読んだんじゃこの文章の意味が全然判ってないっちゅうことを皆に曝け出しているや。漫才でも演技のボケに比べて、本物のボケは迫力があるで。だから、おもしろうて何時もファンがなくならないもんや。アンタのボケも迫力があるなあ。

アンタ流に勝手に言葉を切り出して論じ始めると、幾らでも明後日の方向に行けるんや。例えば絶対は表象でけんなどと頓珍漢なこと言いよるが、数学には絶対値という曖昧さのない、だから表象でける定義があるんや。そんな言葉、アンタみたいな本物のボケには理解しろったって無理やろうな。

どうだ、ワシだって言葉を勝手に切り離せば、アンタみたいに大分明後日の方に行けたやろ。また頓珍漢な返答して、本物のボケ見せてくれたら、またまた脱帽して上げるで。

投稿日時 - 2010-09-12 10:42:59

お礼

 緒と津くん 来よったか。回答をありがとうよ。

 ★ 数学には絶対値という曖昧さのない、だから表象でける定義があるんや。
 ☆ これは 《絶対=永遠=無限》とは違うだろうよ。と言っても 数論を始めるつもりはないし 能力をまだ開発していない。保留かな。あるいは 批判をひととおりきちんと展開してくれたまえ。

 さて 趣旨説明の中のアウグスティヌスの文章について
 ★ (要約) 《時間的》ではなく《一時的》と訳すべきではないか。

 ☆ そういう見方をしたことはなかったのだけれど まづは次のような前文を読んでみてくれたまえ。

 ▲ (クリスチアニズムのおしえ vol.1 § 38) ~~~~
 しかしやがてわれわれが見るであろう〔* 真理=神についての〕眺めは信仰の後に来る。
 われわれがやがて辿りつく幸福そのものは希望の後に来る。
 しかし信仰と希望が減少すると愛はむしろ増大する。
 じっさいまだ見ていないものを信ずることによって愛しているのだとしたら それを見始めるときどんなに愛してやまないことであろう。
 もし望むことによってまだ辿り着いていないものを愛するなら 到達したときの愛はいかばかりであろう。
 〔* このあと 《たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは・・・》とつづく〕。
 (加藤武訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《信仰は 表象し得ぬものを受け容れているということだから 表象し得たときには もう要らなくなる》 この当たり前のことを述べているとともに そのときにも――いまも信じることにおいて愛しているというその――《愛》は 残る。と言っているはずです。

 ということは 《 temporary 》についてそれは 《一時的》と解するとしても そのように《移ろいやすい短時間の現象》を言うだけではなく 《いわば人間の生涯をまとめて一定の線分(ないし時空間)》のことをも《一時的》と言っているとも取れるのではないか。つまり《時間的》という訳語も 不都合ではないと。

 この《第一巻第三十八章》あたりは 《聖書解釈の規則》を項目ごとに明らかにしているところで 直前の§37には 次のようなパウロの言葉が引用されています。

 ◆ (パウロ:コリント後書 5:7) ~~~~~~~
 たしかに われわれは信仰によって歩いているのであって
 見るところによって歩いているのではないのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ だとすればこの文脈においてなら 《一時的》が この地上の生の全体を言っているとも取れるのではないか。《刹那的》という意味に限定する必要もないように思われる。

 まぁ こんなところかな。
 煮て食おうと焼いて食おうとどうなりとしてちょう。

投稿日時 - 2010-09-12 11:49:24

ANo.9

>>>
☆ 《絶対=非経験=無限=永遠》は たしかに表象し得ないことですから 無いと言えば無いですし そもそも根拠もありません。ただのナゾであるだけではなくはっきりと無根拠です。
 これをわれわれ日本人も 《かみ》と言って表わしてきたのではないでしょうか? やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか?
<<<

質問者様が(本来的には表象し得ないにもかかわらず)《非経験》と表象され続けておられる事柄について、どのように考えるか(捉えるか)は、質問者様の視線(たとえば「絶対」という概念や、「無限」という概念、ないし「永遠」という概念)を越えることができないにもかかわらず、魅了し続けているということが本質なのではないでしょうか?

そういった視線(一定の方向性)からすれば、
>>>
やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがた
<<<
となるでしょうし、

別の視線からすれば
>---
その絶対なる《かみ》は、やほよろづの神々の一つにしかすぎない
---<
といったことになるでしょう。

また、別の視線(私の視線)からすれば、
>===
「全体」の中にて、境界が生まれるとき、すなわち「わたし」といった概念が形成されるとき、その概念形成と同時に、境界内部と境界と境界外部とが形成される。「神」概念を、自身の境界内部を中心に外方へ延長して考えるか、境界外部を中心にして内方へ延長して考えるか、「わたし」概念が形成されたと同じ状況から類推して、他に複数の境界内部を想定し、その中心から外方へ延長して考えるか、「わたし」概念形成前(すなわち境界概念形成前)の「全体」と同一視して考えるか、あるいは、「全体」の外に(ないし、否定神学的に)考えようとするかにて、けっして重なり合わない「方向性」(視線)として捉えられ続けられる
===<
となります。

一点気になったところは、
>>>
ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。
<<<
といった文を引用しておられることです。
ここでは「永遠的なもの」は「獲得可能」となっています。

すなわちこれは、質問者様が「永遠=非経験」と位置づけながらも、「経験可能」だと密かに思い続けておられるからではないのでしょうか?

投稿日時 - 2010-09-12 05:52:24

お礼

 じねんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ずばり批判します
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
  別の視線からすれば
  >---
  その絶対なる《かみ》は、やほよろづの神々の一つにしかすぎない
  ---<
  といったことになるでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 八百万の神々は あくまで経験世界に属する現象であり事象(人物さえ含む)です。よってこの命題は 成り立ち得ません。定義のいろはですから ようく噛みしめて欲しいと考えます。

 ★ ・・・(アウグスティヌスの言葉について)・・・ここでは「永遠的なもの」は「獲得可能」となっています。
 ☆ これがあくまで《主観にうちにあって》というもんだいです。良心・信教の自由および表現の自由という公理において 自由でありゆるされています。この《わたし・その主観における神体験》については 直前のあまがっぱさんへのお応えを参照していただきたいと思います。

★ ~~~~~~~~~~~~
 また、別の視線(私の視線)からすれば、
 >===
 「全体」の中にて、境界が生まれるとき、・・・ 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この命題については 簡単に批判できます。
 ○ 《「全体」》とは何を言うか?
 ☆ こう問い返せば その答えにしたがって自明の結論が得られるでしょう。
 ○ 経験世界とそれを超える非経験の領域 この区別に沿って 《全体》を定義してください。
 ☆ という意味です。言いかえると
 ○ 非経験の領域――《絶対=永遠=無限》――は どんな《全体=経験世界》を持って来ても超えている。
 ☆ これで はっきりするはずです。
 そのあと 《わたし》が この《絶対=永遠=無限=無根拠=非存在》と或る日 対面します。そのとき主観のうちにあって 神体験が起こります。それだけのことです。(無神体験と言っても同じです)。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 質問者様が(本来的には表象し得ないにもかかわらず)《非経験》と表象され続けておられる事柄について、どのように考えるか(捉えるか)は、質問者様の視線(たとえば「絶対」という概念や、「無限」という概念、ないし「永遠」という概念)を越えることができないにもかかわらず、魅了し続けているということが本質なのではないでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これも――特に論点を為すほどでもないようですが―― 微妙に違います。
 《無限大を一定の数で割っても その商は 無限大である》は それほど《魅了する》ものですか?
 それならそれでいいぢゃないかと むしろ 成りませんか?
 ○ たぶん経験世界を超えた非経験の領域というのは わたしを魅了しない。魅了しないほどに その――絶対=永遠=無限といった言葉が用いられ続けているといったように――想定を避けて通れない。このしつこさが気になる。ならば きちんと定義しておけばそれでよいはずだ。
 ☆ こういったところでしょう。
 その《しつこさ》が きちんとした定義のもとに受け容れられれば その《永遠的なるもの》は たしかにその整然としたさまとして わがたましいを満足させてくれます。つまり《ことば=概念=あるいは観念ないしイデアによって 魅了され続けている》から その神を問い求めようとするのではないのです。
 主観において神を知ったというそのあとにおいても それは当たり前のことだったと知ることですから 特に魅了される・されないとは微妙にことの実情が違っています。

 じねんさんは――と言っても 多くの人が同じようだと思われるのですが――どういうわけか 総じてこの経験世界におさまろうとしておられる。そういう傾向が見られるのではないでしょうか? 居心地がいいからでしょうか? 
 ひとこと 無神論に立つというかたちを採れば――それは 定義にきっちりともとづくことですから―― あとの問題はないのです。ただし ことば(用語)の使い方が成っていないと言うのであれば まだ問題が残りますが。

投稿日時 - 2010-09-12 11:09:30

ANo.7

こんばんは。
腑に落ちないのは、書かれてるとおり表象しえないからじゃないでしょうか?

言葉で表されてるのは、正確には表象されないものそのものでなく、それにぎりぎりまで近づく極限の概念だと思います。だから仮、なんじゃないかと。

絶対という概念は、・・普通に日常でそういう言葉は使うし・・極限を表現する言葉としてですが。
あらためて例えがいるのかしら?

あるいは、表象しえない絶対を日常で使いたいということでしたら、もちろん無理ですし。
無限も絶対も限定、境界線がない=概念が成り立たない、と言うことなので。

そのあたりなんか質問の意味が見えないですが・・。

知り得ない無限を日常で知るには? という質問でしょうか? あるいは僕の国語力の無さか・・

投稿日時 - 2010-09-12 01:40:34

お礼

 ひつじ67さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 そうですね。
 ★ 腑に落ちないのは、書かれてるとおり表象しえないからじゃないでしょうか?
 ☆ は
 ☆☆ (No.3お礼欄) ~~~~~~~~~~
  ★ 自分ではこの世は「無限」ではなく「有限」と / 捕らえているからです。
  ☆ 《目に見える・見えない》の区別がまづは 大きく影響していましょうか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とは微妙に違うのですね?


 というのは 《無限》について 必ずしも真無限ではなく 経験世界における可能無限のことを捉えて言っておられるように思えるからです。
 ★ 言葉で表されてるのは、正確には表象されないものそのものでなく、それにぎりぎりまで近づく極限の概念だと思います。だから仮、なんじゃないかと。
 ☆ すなわち 
 ○ 可能無限: 1,2,3,・・・∞
 ☆ というふうに限りなく続くという意味のことであるようだからです。けれどもこれは
 ○ 可能無限: 1,2,3,・・・∞,∞+1、・・・
 ☆ というふうにどこまで行っても 《 +1 》をつけ加えることができます。つまり 数字として表象し得ますし 経験事象として特定し得ます。つまり 経験世界に属する出来ごとです。
 《絶対》は これを超えますね。

 ☆☆ (No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~
 あるいはまた数論として――直前の回答へのやり取りで――

 ○ ∞ ÷ 2 = ∞ ( ∞ ÷ n = ∞ )

 ☆ を提出しました。この《無限大》ないし《無限》は 二つに割ってもさらに割っても つねに無限です。《絶対》ですね。そう想定されています。
 たしかに《世の中にはない》ものですが そういう取り決めをして使いこなしています。

 どうでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 まとめますと
 ○ どこまでも限りなく《絶対=真無限》に近づくというかたちの可能無限は 表象し得るゆえに 非経験の領域としての《絶対=真無限》ではない。
 ☆ と考えるのですが どうでしょう?

投稿日時 - 2010-09-12 09:46:39

ANo.6

そういう話ですか。
じゃあ簡単です。
>どうしても《絶対》ということが 腑に落ちないでしょうか
最初から「腑に落ちない」と決めてから話してるからです。
単なる意地悪です。

投稿日時 - 2010-09-12 01:17:10

お礼

 いえいえ。《意地悪》とは言いませんが 事情は逆です。
 ――アウスフェーパーさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。――
 ☆☆ (No.5お礼欄) つまりこの想定を互いに前提としていなければ 話が成り立たないという場面に出会います。そのためにこの質問は 欠かすことが出来ません。
 ☆ と書きましたように こちらはあくまで受け身です。

 相手の受け答えを捉えて どうも
 ○ どうしても《絶対》ということが 腑に落ちない
 ☆ ようなのかなぁと思ってのことです。
 ★ 最初から「腑に落ちない」と決めてから話してるからです。
 ☆ はありません。《腑に落ちている》つまり《絶対》についての共通の理解があると見止められたなら こんな質問はしません。そうですよね。

 なのですが?

投稿日時 - 2010-09-12 09:32:03

ANo.5

世の中に絶対はない。絶対に!

投稿日時 - 2010-09-11 17:22:40

お礼

 アウスフェーパーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 世の中に
 ☆ ということが この経験世界という意味だとすれば――《絶対》は その経験世界を超えた非経験の領域なわけですから―― そこに《絶対》はありません。どこを探しても見つかりません。《絶対に!》です。

 では
 ○ なぜこの《絶対》ということばがあるのですか?
 ○ どういう意味で《絶対》を使っているのですか?

 ☆ そうです。われわれ人間は この経験世界を超えたところにもその思惟なり感性なりをあたかも及ぼして その領域を想定しているのです。
 だから 経験思考を超えたところのものごとを――たとえばこの《絶対》やら《無限》やら或いは端的に《神》やらといった言葉で 代理して(あくまでも代理させて)―― さらに広い世界を想い定めるかたちを取っています。これは 一般に――《考える》ではなくそれを超えた《非思考の場》ですから―― 《信じる》ということばで表わしています。

 あるいはまた数論として――直前の回答へのやり取りで――

 ○ ∞ ÷ 2 = ∞ ( ∞ ÷ n = ∞ )

 ☆ を提出しました。この《無限大》ないし《無限》は 二つに割ってもさらに割っても つねに無限です。《絶対》ですね。そう想定されています。
 たしかに《世の中にはない》ものですが そういう取り決めをして使いこなしています。

 どうでしょう?

 つまりこの想定を互いに前提としていなければ 話が成り立たないという場面に出会います。そのためにこの質問は 欠かすことが出来ません。

投稿日時 - 2010-09-11 18:36:10

ANo.4

絶対は、充分に周知されている。人によっては理解しえない。

何人にも侵されざる聖なる領域を表しており、どの比率かは人によって
意見が分かれるところだ。

投稿日時 - 2010-09-11 14:42:59

お礼

 浮世とんぼさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。わたしの質問にご見識を示してくださってありがとうございます。

 ★ 絶対は、充分に周知されている。人によっては理解しえない。
 ☆ そう言えば 無限大の数式を思い出しました。

  ○ ∞ ÷ 2 = ∞ ( ∞ ÷ n = ∞ )

 ☆ 例の三位一体というのがありますね。そのように神の本質が 三分の一づつに分かれるのだという専門家による解説すら見かけたことがあります。三つの位格がそれぞれ全体つまり無限なのであるという理解が 得られるようで得られない傾向にあるように思います。

 ★ 何人にも侵されざる聖なる領域を表しており、
 ☆ これは 一面において無限なら無限が そのように数としても表象し得ないというかたちで人を寄せ付けないところを持ちますが もう一面においては それゆえにこそその無限は 有限なるわれわれ人間をも覆い包み含み得るというところがあると考えるのです。
 煮詰めて言って お釈迦さんの掌ではないですが その聖なる領域は――寄せ付けない一面とともに しかも――人びとをそのふところにいだき寄せるという一面をも持つ。こう帰結させたいと思うのですが どうでしょう?

投稿日時 - 2010-09-11 15:31:22

ANo.3

度々失礼します。

自分ではこの世は「無限」ではなく「有限」と
捕らえているからです。
ただまあ、見えない神が「無限」であってほしいと
願うばかりですし、他にも「無限」な物質が
存在するかもねーと思うからです。

>やほよろづの神々は その絶対なる《かみ》が仮りにみづからを表わした分身のすがたなのではないでしょうか?
面白い考え方です
そう言えば以前「世界一受けたい授業」だったけな?
菩薩や~天とかの神様を
会社に例えると理解しやすいと言われてましたが
色々な役職の人が現在あるのですから
今現在が神の国と考えるのも、、、、。

とりあえず今はこんなものかな?

投稿日時 - 2010-09-11 13:39:50

お礼

 つづいてお考えを明らかにしてくださってありがとうございます。

 そうですね。
 ★ 自分ではこの世は「無限」ではなく「有限」と / 捕らえているからです。
 ☆ 《目に見える・見えない》の区別がまづは 大きく影響していましょうか。

 
 ★ 菩薩や~天とかの神様を / 会社に例えると理解しやすいと言われてましたが
 ☆ ということは 仏性が皆にそれぞれあるように神の霊という言い方をするとすれば その霊が一人ひとりに宿るといった通念だと言ってよいでしょうか。
 ★ 色々な役職の人が現在あるのですから / 今現在が神の国と考えるのも、、、、。
 ☆ なるほど。一方で 《絶対や永遠》は 相対的で有限な存在であるわれわれ人間とはそれこそ絶対的にへだたっている。他方ではそれでも あたかもその絶対なる神の霊が分身としてのごとくおとづれて われわれ人間の一人ひとりにすでにはたらきをおこなっている。会社や社会の秩序やまとまりのことであると。

 しちめんどうな神学よりは 現実的なように思います。どうでしょうか。

投稿日時 - 2010-09-11 15:20:19

ANo.2

こんにちは、アホのヘボイです
たぶん、混じりっけない100%の「絶対」は
人間の目では見えないからではないのでしょうか?
だから非経験なのは普通なのではないのでしょうか?

はっきりとは言えませんが
アウグスティヌスの教えは
見えないものに対する確信が
永遠的なものと言いたいのでしょう。

ただ、まあ「永遠」は存在すると思いますし
「無限」も存在してほしいと願うばかりです。

投稿日時 - 2010-09-11 11:43:28

お礼

 ヘイボーイさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 たぶんこのお話のような感覚が大事なのではないか。こう感じた次第です。
 だって 理性で捉えただけならその知識は ただの着せ替え人形のようなものですから。

 ただ
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ただ、
 (あ) まあ「永遠」は存在すると思いますし
 (い)「無限」も存在してほしいと願うばかりです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この(い)が (あ)のようには表わされずに おぼろげなのは何故でしょう?
 予感し得たなら それでよいのではないか。
 《存在してほしい》またそう《願う》と言われると あぁ だめかぁ だめかもとこちらまで思ってしまいます。

 ★ 人間の目では見えない
 ☆ ところの無根拠のもののほうが いっそう確かなことであるかも知れないぢゃないですか。
 だって 根拠のあるものだと その根拠が――科学の進歩によって――間違っていたと分かることもあります。ちょっと へりくつですかね。

 ・ No.1で ちょいとしたいぢめに遭っちゃった。ハハ。

投稿日時 - 2010-09-11 12:04:58

ANo.1

ソレ イジョウ ハ シツモン シテモ ダレモ コタエラレナイ デショウ

アナタハ モウ ガクモン ノ ソツギョウシャ デス

コレカレ ハ アナタ ジシンノ トビラ ヲ ジブンデ ヒラキ ジブン デ カイケツ スル チカラツケテ クダサイ

アタラシイ ジンセイ ノ スタート デス

イイ ジンセイ ヲ ジブンノ タメ ニ ヒト ノ タメ ニ ツクリダシテ クダサイ

アナタ ハ オオクノ ヒトニ ミマモラレル コトニ ナルデショウ

投稿日時 - 2010-09-11 11:40:25

お礼

 ドムドムさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 それにしても つっけんどんですね。或る意味 上から目線。

 ★ 学問の卒業
 ☆ まづわたしは学問のみとして問い求めてはいません。哲学は 生きること・生活することだと考えますから ひとり学問にかぎるものではありません。
 しかもその学問においてすら 《卒業》などということはありません。あり得ません。それは 単なる知識の有無・つまり知ったか知っていないかで《学問》を取り扱うことです。
 ね? あなたは思い上がっていましょう。
 
 そのこころの高ぶりが 言わしめているのです。

 ★ ダレモ コタエラレナイ デショウ
 ☆ それにしても ここの参加者はなめられたものです。はづかしめを受けたことになります。
 それともその侮辱は 妥当なものなのでしょうか? 

 ★ コレカラ ハ アナタ ジシンノ トビラ ヲ ジブンデ ヒラキ ジブン デ カイケツ スル チカラツケテ クダサイ
 ☆ これこそは 独我論。《発信は開国 受信は鎖国》思想。社会は 人間と人間との交通から成っているのですよ。受信も開国してみましょう。
 ★ アタラシイ ジンセイ ノ スタート デス
 ☆ ヨ。

投稿日時 - 2010-09-11 11:54:28

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