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徳川家康について以下の二説を聞きました、どう思いますか?(会った事無い

徳川家康について以下の二説を聞きました、どう思いますか?(会った事無いから知らんと言われれば、それまでですが。) 
  1=関が原の戦いの時、秀忠率いる徳川本隊の到着前に開戦したのは、その時関が原にいた東軍の主力が福島・黒田等豊臣恩顧の武将たちであり、たとえ自身を含めて全滅しても、西軍も弱っているから最終的に秀忠隊が勝利すると考えた。つまり秀忠隊=保険説
2=秀頼と千姫の関係から豊臣・徳川の双頭政治を考えていたが、秀忠と秀頼の人物スケールを比べた所、自分の死後徳川の分が悪いと思え、自分の生きている間に豊臣を滅ぼそうと考えた。
  どう思いますか?

投稿日時 - 2010-09-15 21:38:18

QNo.6185083

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質問者が選んだベストアンサー

 1についてはまず間違いですね。むしろ秀忠隊を待っていれば負ける公算が大と判断したものと考えます。
 東軍と西軍決着がついたのは関ヶ原ですが、質問文にある徳川秀忠が遅参した第二次上田城攻防戦以外に各地で戦闘が行われていました。
 注目すべきは、大津城の戦いでしょう。関ヶ原合戦前日の14日または15日早朝に陥落したとされますが、毛利元康、立花宗茂率いる1万5千が釘付けされました。仮に毛利元康が関ヶ原に参戦したとすれば西軍に属しながら毛利正規軍の参戦を止めたとされる吉川広家にとっては伯父にあたりますから、従兄弟に当たる秀元のように簡単には止められなかった。つまり、後方から毛利軍が徳川本陣に迫るという布陣になったのは間違いありません。
 
 2はもっと考えにくい仮説です。秀頼の年齢といくつもの史実が全く無視されています。家康が秀忠と秀頼を比較して劣ると判断したのなら他にも実子がいたのですからそれを後継者にすれば済む話しです。
 豊臣秀吉は存命中に秀頼を後継とするために養子としていた甥の秀次を抹殺しますが、それと連座して処罰されかけた最上義光、細川忠興の二人を救っています。これは秀吉の生前から秀吉の後は自分であるということを意識した行動と思われます。
 秀頼と千姫の婚約は秀吉の存命中ですが、結婚自体は関ヶ原後の1603年。家康と秀頼が面会を果たしたのは1611年です。
 1605年に家康は秀頼に上洛と面会を要請しているのに対し豊臣方特に淀君の反対で延ばし延ばしになっていたものがようやく実現したのです。二頭政治でよしと考えていたのなら、家康側から面会に行くこともできたはずです。秀頼は妻である千姫の祖父として会うという名目を立てることで決着しています。

投稿日時 - 2010-09-18 00:47:22

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回答(5)

ANo.5

関ヶ原で勝利した家康ですが、
勝ったとは言え不安要素はたくさんありました。
難攻不落の大阪城には秀頼がいて、豊臣恩顧の大名もまだたくさんいました。
加藤清正、福島正則、黒田長政など東軍に属した大名もいましたが、
彼等の大義名分は、『石田三成を討つ事』であり、豊臣家をつぶすために戦ったわけではありません。
家康が最も恐れ、警戒していたのは西国の大名達です。
いつか秀頼を旗頭に、豊臣家再興の行動を起こすかわからない紙一重の状況で

秀頼の存在は、なんとしても、亡きものにしなければならなかったと思います。

その為に秀忠は保険にするとか、
秀頼の器が云々より、
徳川一門で策を考え、秀頼を潰すことだけ考えていたと思います。
徳川家でうちわもめしていられる状況ではなかったでしょう

千姫に関しては、家康ははなから助けようなどとは思っていなかったのではないでしょうか…
千姫に秀頼の子がいたら、当然、殺されていたでしょうね。

千姫を豊臣に嫁がしたのは、あくまでも豊臣が徳川に反旗を上げないための人質です。

秀吉亡き後の千姫の役目は、無用のものだったと思います。

投稿日時 - 2010-10-01 11:08:42

ANo.3

(1)保険説の可能性はかなり低いと考えています。実際に秀忠本隊が遅れたことに対して家康は激怒しているからです。そして真田とのゲリラ戦が秀忠到着の遅れの原因ですが、真田を攻撃した家臣を秀忠は処分しているくらいです。
さらに注目できる点として、双方の勢力比較では西軍が数こそ上回っていたものの、西軍は寄せ集めが多く、それほど強力ではありませんでした。東軍から西軍へ寝返る可能性は低かったでしょう。東軍にとっては、本体が到着していたのが望ましかったものの、自分たちだけでも十分に勝利できることは予想していたものと思われます。

(2)家康は利口な人です。将来の争いの根を残すような双頭政治は念頭に置いていなかったと思います。ただ、自分が生きている間に豊臣の勢力を衰えさせることは早い段階から考えていたでしょう。

投稿日時 - 2010-09-17 13:10:34

ANo.2

戦国の風情を色濃く残していたのは、家康だけでしょう。
後は伊達と黒田の親父、島津ぐらい、残りはみんな2代目。

束になって懸かっても、相手にならなかったのでは
ないでしょうかね。


大義を構築しつつ、どう料理(横領)するかこの1点
保険説?ありとあらゆることの考えの上の部品のひとつ
(真田は自分たちのテリトリーの範囲能力)
(短期しか戦えないのも承知の上)

二人の間によしんば子が出来たとしても、
それは豊臣の子。

人物スケールよりも、三河武士の主従の強固さで
なんの心配もなかったんのではと

投稿日時 - 2010-09-16 15:26:37

ANo.1

1は可能性はありますが、現有戦力でも十分勝てると思ったからだと思います。

2は無いでしょう。生死がかかっている大阪の陣でも、秀頼が主体的に動いた様子はありません。
厳しい戦国の時代を勝ち残った人です。不安定な双頭政治なんか考えるわけありません。
私は最近、徳川家康はすごかったとな思えることがあります。それは後継者争いを起こさせない体制を作ったことです。出来の善し悪しや母親の身分に関係なく長兄を後継者にし、一度決めた後継者は変えない、ということを2代目・3代目を決める過程で原則とさせたとことだと思います。戦国時代、後継者争いでおかしくなった例は山と見ていたはずです。
そんな人が秀頼という自分の子孫でもない、特別な存在を許すわけありません。

投稿日時 - 2010-09-16 11:59:22

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