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闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには

闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには


 (α) いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。

 この主題について問います。


 (β) 《人間として》というのは たとえばイエスの弟子たちも 最後には全員かれを裏切ったという事態に現われます。あるいは はりつけになったイエスはその脇腹を槍で突くと 血が出たということ。そして実際に 死んだということなどです。

 (γ) 《人間として》でなければ――つまり 神として十字架上で奇蹟を起こしたなら 話は別だという意味でですが 人間としてでなければ―― わたしたち人間の生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。
 キリストなる神として奇蹟を起こしたのなら 神だからそう出来るのだ。われわれ人間には到底駄目なことだと何ごとについてもあきらめてしまう。

 (δ) しかも 《神が肉となった人間として》でなければ――単なる人間としてだけではなく キリストなる神の子であり自身が神である存在が人間となった者としてでなければ―― 人に見させる光は ただの人間の能力としての理性や知性や感性の光にとどまってしまう。広い意味の芸術および科学の光になってしまう。

 (δ‐1) 逆に言いかえると 神は 人間の《身体=精神》やその能力やそれを発揮した成果なのではないと知らせる必要があった。

 (δ‐2) 啓蒙の光は 闇を照らすことは出来るかも知れないが この闇を晴らすことは出来ない。その闇は 人間が自分たちの理性の光(アマテラス学術語かつ人格語)で考えに考えた結果 ほんのちょっとそのときスケベ心を出してへそを曲げてしまっていたので 陰を自分のものとしてともなっておりやがて芋づる式に闇を作ってしまったまさにそのものなのだから。


 この哲学を問います。よろしくどうぞ。

投稿日時 - 2010-09-21 10:01:51

QNo.6197143

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

bragelonneさん

 >闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには

  人間が神になることにより光を見ることができると思います。
  富士山の頂上への道はいろいろと在るでしょう。自分の方法で富士山に登るべし。

  議論好きな貴方には物足らないかもしれませんが、そんなことを思いました。

投稿日時 - 2010-09-21 21:02:29

お礼

 ご回答をありがとうございます。

 手立てがいくつあってもいいのですが それはそうなのでしょうが 有効でなければまづいでしょう。
 ★ 人間が神になることにより光を見ることができると思います。
 ☆ いったいどうやってと訊く前から そんなことは無理だと誰もが思っているのではありませんか?

 ★ 議論
 ☆ の問題ではありません。議論どころの問題ではないでしょう。

 たとえば《わたしは光を見ることができましたよ》とか《わたしは じつは見たんです》とかそういうたぐいの答えでも よいということになってしまいます。そうではありませんか?

投稿日時 - 2010-09-21 22:00:48

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回答(20)

ANo.20

ブラジュロンヌさんに汲み取れなさそうな内容を書いているわたしに責がないともいえないのですが、
順序がさかさまというのは、そのままこちらの持つ印象なのです。
そのことを説明しようと書いているのですから、そちらから見ればこちらがさかさまに見えるのは当然です。
わたしは、木は鉛筆か? を読んでたいそう笑ったものです。
どうしようともなんとも言えない深い悩ましい表現ではないですか。

書き足らないことがありましたら、こちらの補足欄をお使いください。
トマス・アクィナスやカントが片付いているとも言い難いのではないかと思います。

わたしの一貫した気持ちですが、問い初めに限界は提示されており、他人から飛躍的に訪れる話は儲け物と思います。
議論内容が膠着する対話は無用というものですし、そのように見越されるときは早期の回避が望ましいと思っています。
そういうわけで、答えないと予め言うことも、黙って放棄することも、無用を告げることもありますが、
感情外ですからあまり気にしないでください。

投稿日時 - 2010-09-27 05:29:30

お礼

 ★ わたしは、木は鉛筆か? を読んでたいそう笑ったものです。

 ☆ お早うございます あまがっぱさん。ご回答をありがとうございます。
 今回の課題も 前回と同じく 一筋縄で解けると考えますよ。

 《象徴と暗示》は 経験世界のものごとについても言われるわけですから 神については 〔神としての〕なぞ と言うことにします。不明瞭な偶喩のことだとも言われますから アレゴリアのことでもありますが これもまた より多く経験事象に用いられる事情があります。

 ★★ 後退現象
 ☆ は 《へそ曲がり》を伴なうことがあると考えますが より精確には けっきょく《イドラ》の主題として捉えるのがよいと思います。神のアイドル化ですね。観念の偶像です。絵や彫像のほうよりも 精神的な心の内容をも伴なう概念ないし観念としてのイドラのほうに 問題と言えば問題があるはずです。

  神 (光)
  |
  | 【神としてのなぞ】
  ↓
  神の子なるキリスト(発耀)
  |
  | 【神としてのなぞ】
  ↓
  キリスト(神)なる人間イエス
  |
  | 【なぞおよび暗示】
  ↓
  十字架上のはりつけ(死)―→【経験思考】→イドラ化(アイドルとしての神)
  |
  | 【象徴】
  ↓
  木(十字架の木)
  |
  | 【経験行為(加工)】
  ↓
  鉛筆(経験世界)


 ☆ あるいは どうでしょう。つまり 後退現象についてです:


  生まれ(霊のやどり?)―→神という言葉を持つ―→へそ曲がり(=うそ)―→

  →神の観念化・イドラ化―→ひらめき―→自己還帰―→へそ曲がり―→

  →イドラ化―→ひらめき―→《わたしがわたしである》―→・・・

 
 ☆ トマスは イドラ化をものとも思わずコギトをあらゆる場面におよぼそうとしたでしょうか。
 イマヌエルは その《神われらとともにあり》を確保しようと努めたでしょうか。

 このような図式については これまでのわたしの文章をおぎなっていただきたいのですが――それでもむろん簡易な説明になるでしょうが―― むしろ問題は そのように統一理論のようなものにすべてをおさめるということのほうにあるのでしょうか? 

 ★★ (回答No.22)~~~~~~~~~
 獲得能力によるものでしかないわたしたちの経験世界の脆さと危うさが、どのように何を経験していることによるのかという問いの上に、

 それが、象徴の神々の仕掛けた世界であるという認識と、唯一神のもとの非時間的に在るイデアのアナロジー存在であるという認識が、それぞれ分岐的にあるわけで、

 ここに神学的統一理論は必要ないどころか、わたしたちの経験と存在を獲得的に肯定するという一点につねに帰される分岐であるとみるわけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これにつきましても ひとつに(1) 神学的統一理論を得るのは それ自体が《神のイドラ化》だと言えばそうなるところがあると思われます。と同時に (2)次の過程で あくまで《ひらめき》に先行されて得ようとしたものです。

   ・・・→神のイドラ化―→ひらめき―→《わたしがわたしである》―→・・・

 《わたしがわたしである》という自己還帰において《わたしがわたしする》自己表現として得ようとして得たものです。
 カントは ひらめきを先行させていると言えるでしょうか。アクィナスは イドラとしての観念の操作とその成果(つまり 神学)が ひらめきを凌駕すると思っていたのかどうか。

 ひと言でいって 《分岐点》は 《認識》にあるのではなく《ひらめき》にあると。(もっともひらめきをさらに言葉にしてけっきょくはイドラなる観念をとおして認識することになるにはなるのですが)。
 でも コギトかクレドかと言えば われわれ人間はわづかにでも クレドに軍配を挙げなければならない。こう思います。つまり なぞです。

 ひょっとしたら あまがっぱさんとは ここまで来れば くせの面でまだ折り合いがわるいということなのかも知れません。でも思えば遠くへ来たもんだと。

投稿日時 - 2010-09-27 10:33:15

ANo.19

18のほうを先におまとめいただいたようなので、そちらから道筋をつけていこうと思います。

(3)の最後、
> 早い話として 《病いの世界を超えた神》を 人間の勝手にとしてでも 想い定めるようにならざるを得ない。
とおっしゃるので、少し巻き戻して確認したいのですが、
経験であると判ることや、象徴や暗示が判ることは、他の動物の反射記憶と一線を画する人間の能力で、
しかも、オオカミやヒヒに育てられた人間の子供には、いかなる修正をもっても以後確立することのできない知的能力です。
この、離れた空間や時間を結びつける概念形成、再認の活動が、概念化も再認もできていない領域を【阻んでいる】と考える見方が一つと、【構造的に不可避な仕方で同時に生む】と考える見方がもう一つあるでしょうが、
概念化も再認もできていない領域が否定できない形で立ちあがりますから、
いやおうなく、世界とは世界の経験でありはじめるときから二重の経験を人間に課しています。
すなわち、なんの象徴でもない、暗示でもない、判ずることそのものを超えるということの否定不可能性をさえ、
観念によって、時間を逸脱するなんらかの措定であるように表象されることになります。
これをわたしは一種の肯定とみなすわけです。
現在存在せず過去に存在せず未来においても存在しない「非有のイデア」と言おうと、
もの自体の認識不可能性とかアプリオリとか言おうと、
そうした潜勢態(ヴァーチャル)は、時間世界を存在として経験することと同じ程度に、集合的に一斉に、いやおうなく肯定のなかへ入った状態であるととらえるのです。
獲得能力によるものでしかないわたしたちの経験世界の脆さと危うさが、どのように何を経験していることによるのかという問いの上に、
それが、象徴の神々の仕掛けた世界であるという認識と、唯一神のもとの非時間的に在るイデアのアナロジー存在であるという認識が、それぞれ分岐的にあるわけで、
ここに神学的統一理論は必要ないどころか、わたしたちの経験と存在を獲得的に肯定するという一点につねに帰される分岐であるとみるわけです。
この獲得的であるところが、象徴と暗示をまぬがれることはないために、一方は象徴と暗示そのものであり、他方は象徴と暗示ではないことそのものとなっている、その混淆が神の姿を織りあげているというそれだけの見方なのです。
こうしてまた、姿という文字を使いましたが、象徴の経験のなかにおいてもアナロジーの経験のなかにおいても肯定をもって後退するという事態があるわけです。
すると、帰されるところに立ち戻るということをしないで、この後退のほうを追いたくなるというのが、また、仕方のないことで人間の性質なのですね。

もう一点、応答をいただいて気になりましたのは、
止むことの神々(時間の番人や死の番人)を悪ととらえていらっしゃるのではないかという点です。
別の語で言い表される事項は別の神であるという状態が象徴の神々の仕事ですから、善は善、悪は悪、時間は時間、死は死、の仕掛けるところに任されていてその関連付けは物語の展開によりけりであると思います。

あとまあ、もう一点、総合的に気になっていますのは、
唯一神の話に絞れない人々と話してもブラジュロンヌさんは愉快ではないと思うんですが、またもしかすると唯一神の話しかできない人々と話しても愉快でないところがあるのかもしれませんが、一般的な教徒というかたちて満足することはできないんでしょうか? 少なくともゆっくりとスルメを噛むように唯一神の話ができるわけですから。
経験と存在を獲得的に肯定する場が光であるという簡素なことも、それぞれの人のやりかたも段階もあるでしょうが、神学は象徴と暗示ではないことそのもののほうを対象に、後退現象をすくいあげるというマゾヒズムの絶対肯定に陥いてとめどころないものです。

投稿日時 - 2010-09-26 07:32:20

補足

 《悪》の主題を残しました。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 もう一点、応答をいただいて気になりましたのは、
 止むことの神々(時間の番人や死の番人)を悪ととらえていらっしゃるのではないかという点です。
 別の語で言い表される事項は別の神であるという状態が象徴の神々の仕事ですから、善は善、悪は悪、時間は時間、死は死、の仕掛けるところに任されていてその関連付けは物語の展開によりけりであると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは無造作に口に出してしまったとは思いました。
 でも事情はこれもかんたんです。
 
 みづからの心が――長いもしくは深い経験を経つつ――良しと判断したことが《善》であり この《善の心》に――顔を赤らめながらも 心の動揺をわざと抑えながらも――さからうこと これを《悪》というのですから。つまり へそ曲がりのことです。
 倫理学として道徳として取り決められていった《善悪》の概念は それとしてあるでしょうが それとは別だと言っていいと思います。もし象徴の神々というとき そのときにも 単なる主観における善悪とそして道徳規範としての善悪とがあるとすれば わたしが悪と言ったのは そのうちの第一次のもののみと取ってくださいませんか。
 ★ 物語の展開によりけりである
 ☆ という文脈では 第一次の・心における主観真実としての善と悪 および第二次の・人びとのあいだで共同観念となった倫理規範としての善悪 これら両方があてはまるように思います。一般的に言って。

 早い話としては 善および悪について人びとのあいだに概念認識の違いがあっても仕方ないという段階(次元)でわたしは触れました。

 ただ《存在》は――わたしがその存続を心において望むとするならば そのわたしにとって――善です。その限りで 存在の消滅は 悪です。そういう主観です。
 人によってこの主観真実に異論があってもかまわないという次元(自己表出およびその自己表現を勝手におこなうという次元)で言っているということにもなります。たぶん哲学は この《もっともわたくしなるもの(または場)》を大事にしていくようになるでしょう。そうすると意外に 主観は互いに共同化されていくのではないでしょうか。コミュニケーションがなめらかに進むと思います。
 その《もっともわたくしなる場》にこそ 神の霊はやどるというように思われます。

 自我を無くすとか無私とか私利私欲がない精神などなどを唱える向きがありますが もしそうだとしても その目指すところは この《もっともわたくしなる場》の互いの認め合いをとおして 成り立つものと考えます。

 一方的な話になっているかと思いますが そこのところは もはや中身だけをやり取りして行ける段階に達していると思いますので あしからずお受け取りください。

投稿日時 - 2010-09-26 10:35:05

お礼

 はははっ。あるいは あぁ。とうとうここまで来ましたね。

 対話もしくは探究を阻むものとして ひどっちさんが 
 ○ 利害関係・プライド・ルサンチマン
 ☆ を挙げていました。口はばったいことを言いますが わがあまがっぱさんは お金のためということや怨恨を深め捻じ曲げるということからは難なく自由でいらっしゃるが 真ん中のことがらについては それまでの実績があっただけに そこから自由になることがいささかむつかしかった。

 わたしはそのことを知らなかったけれど 初めの出会いにおいて その主題にかかわるすべてのことをとうとびつつ お応えし得たかと思います。そういうオーラが そのご文章に見て取れたという意味です。ですが わたしのくせなどにもよるのでしょう わたしの応対は裏目に出ました。
 その後 マリアナ海溝にも似た溝が現われるかに受け取れる事件も起きました。

 ようやくここまでお互い来ましたね。はははっと 不謹慎なほどに笑いが出るというものです。病みないし闇をめぐるもろもろの神々ということに触れておられましたが そういった神も どうやら引っ込んでいく気配を色濃くして来ました。
 なにはともあれ 前祝いをしましょう。乾杯!

 というきわめて心に高ぶりと思い上がりをかかえた老頭児ですが こういう・いきなり応接間なり居間なりに土足まがいで入っていくというのも 哲学の醍醐味でしょうね。自己表現もしくは歩く文体のすべてが 哲学ですから。

 さて今回は 説明は必要だとしても 主題とその分析・解決はかんたんです。一筋縄で済みます。今回は
 ○ 《ひらめき》 そしてオカルト気味に《霊はすでにやどる》
 ☆ を鍵語とします。

 ★ ・・・神学は象徴と暗示ではないことそのもののほうを対象に、後退現象をすくいあげるというマゾヒズムの絶対肯定に陥いってとめどころないものです。
 ☆ たぶん順序がさかさまです。
 ○ 《後退現象》が DNA に組み込まれた神学という自然本性のゆえに起こる。
 ☆ からです。はじめにひとは――おそらく自覚しないかたちで―― 《ひらめき》が起こっていたでしょうし 後退現象(へそ曲がり)が起きたときには ひらめきとして神学はみづからを現わしたし 現わしつづけるでしょう。《その霊はすでにやどる》というDNA の問題だと考えられるからです。
 そしてそれは 《かみ・信じる・永遠・光(光速を超える光)・・・》といった非経験の領域を表わす言葉を じんるいは持ったからです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~
 現在存在せず過去に存在せず未来においても存在しない「非有のイデア」と言おうと、
 もの自体の認識不可能性とかアプリオリとか言おうと、
 そうした潜勢態(ヴァーチャル)は、時間世界を存在として経験することと同じ程度に、集合的に一斉に、いやおうなく肯定のなかへ入った状態であるととらえるのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《概念・観念あるいはその意識として 肯定のなかへ入った》というその前にその概念が表わそうとするところの《神》は まづ言葉として持たれていると認められます。ならばそれは どうしてそうなっているのか?
  経験世界における《はじめ》を超えた《はじめ》としてその《神》があった。言いかえると 人間の《身体=精神》に生まれつきとして 宿っている。
 神と言おうと霊と言おうと 唯一神と言おうが言うまいが はじめに《ひらめき》があったのです。ゆえに・だからこそ・したがって
 ★ 後退のほうを追いたくなる
 ☆ のです。その文章を全体としてもかかげます。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・象徴の経験のなかにおいてもアナロジーの経験のなかにおいても肯定をもって後退するという事態があるわけです。
 すると、帰されるところに立ち戻るということをしないで、この後退のほうを追いたくなるというのが、また、仕方のないことで人間の性質なのですね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち すでにそのときには ひらめきを持とうが持つまいが その最初のひらめきに立ち戻ろうが戻るまいが 同じです。
 ★ 帰されるところに立ち戻るということをしないで
 ☆ も何ら問題はありません。《後退現象のほうを追いたくなる》なら それこそが《生まれつき神の霊がわれわれ一人ひとりに宿っている》ことを証しているのではないでしょうか。

 ▲ (創世記1:2-5) ~~~~
 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、≫神の霊が水の面を動いていた≪。
 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 (ニ千字)

投稿日時 - 2010-09-26 10:10:12

ANo.18

 氏には闇があるのですか。
 そこには存在というものがないと存じましたが。

 どこに闇があるのですか。
 存在のないところがあるのですか。

 光が見えないときは反射させるか、感知の機能を頂くしかないのですが。
 でもタイトルとは別にイエス・キリストのことらしいですね。
 そうなら、どうしてそうとタイトルを率直に掲げないのか。
 この内容のテーマは古来、考究されてこなかった事柄なんでしょうか。
 私達もイエス様のこのはなしについてはいろいろ教えられていますが、氏は殊更にここで質問する理由がなんとも薄弱だと思わざるを得ないと存じます。
 このタイトルでの仰々しい質問に為りうるのでしょうか。
 イエス様も光を反射させるため、その感知権能のために神という存在者とともに演じた宇宙・意識内ドラマであったのではないのでしょうか。
 私達が遭遇する多くの問題に対する、教えを無数に含んでいる宇宙・意識劇なのだと存じますが。
 何をおしゃべりしたいのですか?

投稿日時 - 2010-09-24 18:22:37

お礼

 ご文章の全部について理解が行きとどいたという感覚を持ち得ていませんが おそらく雨合羽さんとのやり取り(回答No.16&18)を読んでいただくのが いちばん納得の行く説明になるかと思います。

投稿日時 - 2010-09-24 22:10:56

ANo.17

腐れ縁を断ち切って
犀の角のようにただ独り歩め

理由は知らないけれどもいろいろ邪魔が入るようだね

釈尊は神について語ることをせずたださとりに至る道だけを説いたと言われるが
イエス・キリストも弟子たちの目から鱗を落とそうとした軌跡だったのではないのかねぇ
それは弟子たちにさとりに至らせようとすることそのものだったと思われる
そこでは
その言葉において相手の言ってることを呑み込んで風呂敷に包んで消化してしまうというようなことはしていないのではないか

しかるに
君の神学の学びの効果と議論の仕方をみてるとどうも君が神学について何かを仕入れれば仕入れるほどさとりに至ることを妨げる様にしか働いていないように見えるんだよね

そのものを見ようとしてはいけないとは
だから君を見ていると
君が仕入れてきたような神学を通して”神”を見ようとするなという意味と考えられるんだよね

だからいう
その思い込みの神学を捨てみな

投稿日時 - 2010-09-24 09:17:06

ANo.16

暗幕には暗幕の良さが。
目を帯で閉じるのを愛と呼びますから
耽るなら耽ればよいのにと思うのですが。

神学は煙幕になるところが曲者ですね。
煙を見ようとする人がいる。

投稿日時 - 2010-09-24 07:21:34

お礼

 ★ 神学は煙幕になるところが曲者ですね。
 ☆ まぁ そうなのですが そもそも《神》を想定し始めたときから 夢物語になっているのですから その物語の理論的分析(?)と言ったって やはりおとぎ話でしかないとは思います。

 ということは 経験科学から見れば 神学は 文学とあまり変わらないと考えられます。
 文学は いくらひらめきを求めたとしても それは人間の管理下にあるものごとをいかにうまくうつくしく描くかの問題なのだと思います。あるいはまたもっと露骨に言えば 表現の美や巧みさを追い求めているのであって――そうでなければ きわめて拙劣にでも みづからの抱く思想を表わして行けばいいのですから―― 神学とはやはり狙いを異にするものと思われます。
 
 だって 神学は 経験合理性による理解に出来るだけ合わせようとして表現に努めるわけですが もともと経験合理性を超えたところのものを問い求めているという前提に立っているのですから その位置づけは 経験科学の見地からだけでは やはり捉えられないと考えます。
 でも文学に似ているようにも思われます。

 つまりは 神学は もともとそのものが《煙幕》なのだと考えます。
 煙幕を張ろうというつもりはないのでしょうね。ただ 自分でも分からない表現を用いてしまっても澄ましているなら 煙幕を張ったと言われても仕方ないでしょう。
 ★ 煙を見ようとする人がいる。
 ☆ あぁ。でもそれは ブディズムの亜流であり 梵我一如とごっちゃにして捉えている場合であり 何ごとも《あいまい》がよいと思っている場合のことでしょうね。
 《暗幕》となぜ言うのかは 分かりません。気がくるっているのでなければ なかなか出て来ない言葉ではないでしょうか。

投稿日時 - 2010-09-24 14:20:59

ANo.15

> もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。

「もっともふさわしい手段というのは 【時間的に後から見た際の否定不可能性】が【概念における肯定】となって 【=可能性】として(ということは人びとに決してその生前には 【否定不可能性】であることが分かられずに 【可能性】として)去っていくことだったのではないか。」

となるかなと思います。
哲学って整合性のある地平まで掘り下ろしていく作業でしょう。

投稿日時 - 2010-09-24 07:13:32

お礼

 こちらをNo.16より先に考えます。

 つぎの《否定不可能性》についてです。
 ★ (回答No.16) ~~~~~~~~~
 象徴の神々が既存するところに、象徴でない神が現れます。
 象徴でない神というのは、永遠を司る神でも永遠の番人でもなくて、
 否定不可能性として、象徴と暗示から取り残される領域の名になりますね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (1) まづ前提条件として言葉づかいを捉えておかねばなりません。
 《象徴》あるいは《暗示》と言えば じつは 数々の病いを――気の持ち方や心における反映として捉えたかたちで――《闇》という言葉が象徴することもあります。ありますが 他の面では 一切の病を超えたところの状態をたとえば《光 あるいは 光に満ちた極楽浄土》という言葉が象徴することもあり得ます。《暗示》も同じようです。

 (2) したがって 問い求めの中身はこうなります。
 ( a ) 《病いなどといった経験世界のものごとを象徴するのでない神》というのは ひとつに《永遠》という言葉が暗示するはずだ。
 ( b ) 同じく《病いの象徴でない神》というのは 仮りの言葉として《永遠》そのものなのだから 《永遠の番人》という言い方では 筋を外すかたちとなる。
 ( c ) 同じく《病いの象徴でない神》というのは むろん《病いといった経験世界のものごとの象徴と暗示から取り残される領域の名になります》。
 ( d ) 同じく《病いの象徴でない神》というのは ( c )の命題において 《否定不可能性として》あるか?

 (3) 《否定不可能性》とは何か?
 ずばり人間にとって 《病いを象徴する神々》が持たれているところでそれらの神々のほかに 《象徴でない神》が現われることの不可避性のことではないだろうか。
 早い話として 《病いの世界を超えた神》を 人間の勝手にとしてでも 想い定めるようにならざるを得ない。

 (4) さて哲学の言葉に直す作業ですが:
 ★ 「もっともふさわしい手段というのは 【時間的に後から見た際の否定不可能性】が【概念における肯定】となって
 ☆ どういうわけか人は 《病いに罹った経験からしても あるいはそうでなく病いに遭わなかったけれども遭った人たちの話を聞くにしても》 《病いを知らない人びとの住む世界 つまりはその領域を象徴する神》を何の確かな根拠もないけれど《肯定》せざるを得ないと思うに到る。

 ★ 【概念における肯定】となって【=可能性】として(ということは人びとに決してその生前には 【否定不可能性】であることが分かられずに 【可能性】として)去っていくことだったのではないか。」
 ☆ この《可能性》は 《可能態・潜勢態・潜在能力(デュナミス)》という意味にとるといいでしょうか。
 ★ その生前には 【否定不可能性】であることが分かられずに 
 ☆ 言いかえると 潜在性が現実態(エネルゲイア もしくは エンテレケイア)にはならなかった。成ったとしても人びとには分からなかった。すなわち
 ★☆ 《可能性》として去って行った。

 (5) ということは その死のあと ただのウワサとしてとさえ言わなければならない事柄を扱って 人びとはその《去って行った》ひとの存在は 《可能性》であると同時に《現実性》でもあったと表現することとなった。
 こうですよね。

 (6) そのことを言おうとしていませんか 次の表現は?

 (α)  もっともふさわしい手段というのは 神が人間となって 人間として(ということは人びとに決してその生前には 神であることが分かられずに 人間として)去っていくことだったのではないか。

 ☆ 言ってみれば 《可能性であると同時に現実性である》という哲学表現を 《神が人間となって》というあいまい表現は 暗示していると言えませんか?

投稿日時 - 2010-09-24 11:58:48

ANo.14

神学は光ではなく
光を覆う暗幕なんだって


                                  ´

投稿日時 - 2010-09-24 07:04:26

ANo.13

病みがない状態を種のうえに想定するのでしょう。
キリスト教の人間像というのは。

つまり、拮抗したり依存しあったりする諸生命の相互干渉に対して、
そこから浮き上がっている人間像というのを想定して。

数千年来の古代の民族の神々は、まさにそういう相互干渉の
仕事を説明する役割を担っていて、
創世・秩序・武運・狩猟と耕作・手仕事・健康・時間・不条理・死・混沌といった
概念キャラクターとなって、多様な世界のはたらきかけを、心の目に見え耳に聞こえるものにしていました。

象徴である神々というわけで、
人間の外の脅威、人間の内の脅威、病み悩みの数々を、暗示した神々ですね。
止むことも、重要な神の仕事で、このような時間や死の番人は、殆どのキャラクターの上位に位置するキャラクターですね。

象徴と暗示が生まれるところに、象徴と暗示の向こうが生まれます。
止むことと永遠はそうしてはじめて結びつくことができます。
象徴の神々が既存するところに、象徴でない神が現れます。
象徴でない神というのは、永遠を司る神でも永遠の番人でもなくて、
否定不可能性として、象徴と暗示から取り残される領域の名になりますね。

人間の集団も、文明の都市も、いろいろな病み悩みに脅かされます。
聖書には、いろんな病み悩みの話が詰め込まれております。
なにかを上書きされた書物である前に、
人間の病み悩みのカタログであるところが、聖書に内在するすばらしさだとわたしは思っています。

産み、殖え、地に満ちて、それで病まない生物はありません。
群生して社会を形成する人間には、群生する生物に特有の病み、集団組織に特有の病みがあります。
あらゆる病み、悩み、止みの超越というのは、そのものそれ自体に対する克服とか挑戦としてあるのではないということが、
本来の宗教のもつ凄みであると思います。

そういう意味では、
病みがない状態を種のうえに想定するような絵物語よりも、
エックハルトのように、闇は性質が闇だから光を見ることができ、
光は光ゆえに光を見ることが出来ないという闇の神学がわたしは好ましく思いますし、
あるいは、宇宙の蚕棚に放熱する魂の群を飼い、地球上の肉に血の遺伝を任せている宇宙人がいるという三流SFが罪がないと思いますし、
病み悩んで生きたその仕方にしたがって死者はその属するそれぞれの霊団に向かうというオカルトに一票を投じようかと思います。
つまり、絵物語を信仰するキリスト教徒の場合なら、かならず、死んだ後にはそれらしく迎えられる世界があるということであり、
闇の中にいたキリスト教徒はそこで光をみればよろしい、という解決なのですが、
この解決が絵物語的に導かれる背景には、象徴と暗示という、生につきまとう謎が横たわっています。
言わずもがなですが、
けっして、マッチ売りの少女が見るローストチキンやクリスマスツリーと同列の話ではないことを、念のために付け加えます。

投稿日時 - 2010-09-24 06:19:17

補足

 そうですね。項目ごとにお応えしてまいります。

 ★ キリスト教の人間像
 ☆ クリスチアニズムは 組織宗教としてあるいは社会慣習として《キリスト教》ということでしょうが 個人にあっては キリスト信仰ということでしょうね。
 細かいことですが。そして《人間像》 これはたとえば《目に見えるものによって歩むのではなく 信仰によって歩む》とすれば この人間像を持ったとしても 二の次のことなのでしょうね。と返さなければならないと思います。細かいです。

 ★ 古代の民族の神々は、まさにそういう相互干渉の / 仕事を説明する役割を担っていて
 ☆ おっしゃるとおりに存じます。そしてもしこの神々の存在をすくおうと思えば 神の分身であるという見立てになると思います。分身なら 仮りの現われですから かなり自由にできるはずです。作られたあと すべて《よし》と見なされたのですから 分身に近いと見てそれほど不都合なことではないと思います。またすべてのものごとは 神からの手紙であるとも捉えられますから。

 ★ 止むことも、重要な神の仕事で、このような時間や死の番人は、殆どのキャラクターの上位に位置するキャラクターですね。
 ☆ いわゆる《悪》にかかわる神々は あくまで相対的なものごととしてなら 構わないはずです。神に善神と悪神があったり 唯一神のもとに善悪の二元論が唱えられるとなれば 問題になると考えます。二元論――つまり 相対的なものごとに善と悪との二つの側面があるというのではなく 根源として善と悪とがあるという場合―― それは 判断停止もしくは判断放棄だと考えます。つまりは 人間放棄であると。それぞれが勝手に善だ悪だと言ってそれぞれ澄ましていられますから。

 ★ なにかを上書きされた書物である前に、 / 人間の病み悩みのカタログであるところが、聖書に内在するすばらしさだとわたしは思っています。
 ☆ たぶん そういう生活の場面から離れることはないのだと思います。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 あらゆる病み、悩み、止みの超越というのは、そのものそれ自体に対する克服とか挑戦としてあるのではないということが、
 本来の宗教のもつ凄みであると思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ まっ 《宗教》という言葉がわたしにとっては違うのだと思いますが 問題は煮詰めて言ってしまえば この世の時間的で相対的なものごとにそのものとしてのめり込むことはないのでしょうね。その意味では やはり《超える》のであり 善悪の彼岸ということにもなります。

 そのことが しかしながら
 ★ 病みがない状態を種のうえに想定するような絵物語
 ☆ となるか? 組織宗教の問題でないなら そのような絵物語をひとは望むか?
 《超える》のは 超えるから(または 超えるところとわたしの関係を見つめるから) いま・ここなる生活に戻ってくるのですから 《病いのカタログを呈している》ことになるのだと思います。 
 げんみつに言えば 《病いがない状態》や《それを絵物語として抱く》のではなく そうではなく 《現実に病い(闇)を多かれ少なかれ持つ現実生活にあって 病いを超えるところを抱くことによって その病いにつきあっていく》だと思われます。
 ローマ教会を初めとする集団宗教のことはいっさい知りません。

 ★ ~~~~~~~~~~~~
 エックハルトのように、闇は性質が闇だから光を見ることができ、
 光は光ゆえに光を見ることが出来ないという闇の神学がわたしは好ましく思いますし、
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《光》を 人間の能力としての――たとえば 医学技術としての――光と そしてこれら能力を超えるところの光とに分けて捉える必要があるでしょうね。相対世界における《光と闇》は どちらも人間の目で見ることができます。神としての光を人間が見ることが出来ないと言うのは初めからの想定ですから。

 ★ あるいは、宇宙の蚕棚に放熱する魂の群を飼い、地球上の肉に血の遺伝を任せている宇宙人がいるという三流SFが罪がないと思いますし、
 ☆ たぶんわたしなら その放熱する魂も血の遺伝もすべて 《いま・ここなる〈わたし〉》にありと言うでしょうね。趣味の問題であるかも知れません。

 ★ 病み悩んで生きたその仕方にしたがって死者はその属するそれぞれの霊団に向かうというオカルトに一票を投じようかと思います。
 ☆ 敢えて応えるなら 死後は知りませんという私感です。

 展開として弱かったかも分かりませんが。

投稿日時 - 2010-09-24 14:03:14

お礼

 ご回答をありがとうございます。
 まづ
 ★ 病みがない状態を種のうえに想定するのでしょう。 / キリスト教の人間像というのは。
 ☆ この命題をめぐって問い求めが進められることになるわけですが まづ同じような主題についてわたしの考え方をつづります。対照させるとよいと思ったからです。そのあと補足欄などに継くこととします。

 《闇あるいは病み》がある状態をめぐっては 例の悪人正機説があります。これを超えたいという意味になるとすれば 上の命題に大いにかかわって来ます。

 滝澤武人という人が 『人間イエス』(1997)で 次の説を紹介している。

 ◆ (河田光夫:親鸞の思想と被差別民) ~~~~~~
 都の知識人親鸞が 流罪後 越後・東国の被差別民と接し 彼等の悲惨な状況に同情する段階を越え 彼等とともに怒り悲しむ段階をも さらに越え 彼等が持つ《まことのこころ》を認識できる地点に到達するまでには 彼等と気を許し合って語れる言葉を身につける事から始まって(当時の方言の差は 現代の比ではなかったであろう) 血のにじむような肉体の変革があったはずである。
 法然からも独自な親鸞の思想の形成は・・・三十五歳の流罪後十七年である。活躍盛りの年齢に当たるこの十数年の 親鸞伝の空白にこそ 被差別民と接して再生する親鸞の苦闘の重さがひそんでいるのである。

 被差別民の歴史的存在は 親鸞思想の《対象》ではなく根源であり それを人類的存在として認識し 普遍化したのである。
 他の誰かを救う力が 被差別民も救うのではない。被差別民を救う力こそが 全ての人を救い得るのである。
 ・・・親鸞の思想は 《悪人》とされた被差別民のみではなく 《悪人》という類的人間の本質に目覚めたならば 被差別民以外の人々にも 中間層・上流階級の人々にも ひろく受け入れられる可能性があった と言うべきである。
 (河田光夫著作集1995)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

☆ わたしの考えは 最近 次のようになっていたが これと突き合わせなければいけない。
 いろんな見方が自由に出来るということのために。

 すなわち 悪人正機説は 現代においては もうふるい。意義がない。
 《悪人》がもういないからです。
 
 悪をおこなっているというなら ほとんとすべての人があてはまると思いますが 今では 根っからの悪人は 見えなくなりました。その意味は 人としての存在が 確立されたからです。そうでなければ 一人ひとりの人に主権がある(民主主義)とか そのおこないに対して個人として責任を負う(自由意志という主題)とか このような思想も まだ時期尚早であると反対されてもよいからです。

 人は 部分的に 悪をおこなっている。自分の責任でおこない 答責性を免れることはない。

 そうしますと 悪人こそが正機であるという考え方は それほど意味を持たなくなったと考えるのです。それとしておおきな思想だと考えますが 現代人にとっては 悪人(またそのような自己認識)も善人もその区別が 成仏あるいは救いにとって それほどの意味を持たない。こう言えるのではないでしょうか。
 もしその意を汲んで この思想をさらに発展させようと思えば 

 ▲ (イザヤ書25:8(意訳))~~~~~

  死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
  死よ、お前のとげはどこにあるのか。

 ▲ (コリント前書15:55-56)~~~~
 
  死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というように 《律法》つまり規範が 問題だという見方も出てくるのではないでしょうか。
 悪なら悪 善なら善という規定によって それが罪の力となる場合があるのではないかというものです。罪を言うならば それが 《死》のとげとなる。という社会的生が どうしようもなく ある。

 あるいは別の角度から見て どうせ死ぬ身なのだからという解釈が 悪を咎めるにしろ悪人の自覚を言うにしろそのように説く倫理規範をすでに凌駕して 現代市民というふつうのホモ・サピエンスという立ち場を ゆるがせるに至るかも知れない。
 罪にしろ悪にしろ 死のとげについての自己省察の結果として なおまだ――逆説的に言うことになるけれど―― 人間としてのはからいが 後を絶たないという別種の問題もあるのではないでしょうか。
 悪人正機説のあと《闇あるいは病み》の主題は 別種の段階に来ているのではないでしょうか。

 まだ熟さないと言わなければならないかも知れません。

 ☆ というふうにイエスの思想は――アブラハムからの系譜において またイエスの後の神学の系譜のうちの精髄において――むしろ下へ潜ったのでは。

投稿日時 - 2010-09-24 10:55:34

ANo.12

失礼
君という無知の種
の誤記でした

そのものを見てはならないとは
その神学を捨てろって意味だ

投稿日時 - 2010-09-24 05:48:22

ANo.11

君の補間性宇宙を消去して憂さを晴らししているようでは到底光など見えてくるわけがないなぁ

キリストの死後のパウロ狙い...



かな?
かくして宗教暗黒時代にしてしまう君と無恥の種(たね)
いや
無知だったかな
いや
無知で無恥
だな


                           ´

    ´

投稿日時 - 2010-09-24 03:27:47

ANo.10

>闇の中にいる人間が光を見

光という表現は直観の働きを指していると思います。
とすれば、既成の概念を捨てて、一切の符号なしに事物の絶対的把握に到達し(つまり実在の根源に触れ、存在の純粋経験をもた)なければなりません。


とりあえずはヨガでも始められたらいかがでしょうか。

投稿日時 - 2010-09-23 17:34:57

お礼

 エンテレケイアさん ご回答をありがとうございます。

 わたしの感覚での受容に応じて おこたえしてまいるかたちですが。
 ★ 光という表現は直観の働きを指していると思います。
 ☆ そうですね。質問者じしんの思わくとしては こうです。
 すなわち この《光》には ふたつの側面(もしくは 意味)があります。
 一方で おっしゃるような《直観――つまりひらめきですね――》として《世界を見ること》が実際問題として基本ですね。
 ただし他方では 《神》を想定して話をしているからには この直観を得させるところの光(そういう何らかのちから)のことをも言おうとしているわけです。

 後者の《なぞの あるいは まぼろしの光》のことを言わないとすれば そもそも光はすべて人間に与えられた能力としての知性を言うことになります。
 別の言い方をすれば この人間の歴史知性というものが 前者の《直観》をも含むものなのか? という問いに置きかえることもできるはずです。
 
 質問者の趣旨としては 直観を得させるのは 人間の自然本性としての記憶や知解の能力だけによっては無理だろうというものです。
 ここはややこしいところです。直観を得たあとは むろんその直観は人間のものです。いづれにしても直観を得ることができるのであれば それは けっきょくは人間の能力のおよぶところだと言うべきだ。こういう議論が出るはずです。
 質問趣旨は この主張に与しないものです。あくまで 人間の能力を超えるちからがはたらいたと言い張ろうとしています。直観の光のほかに それを超えるはたらきとしてなぞの光が存在するという想定をします。
 そうでないと 人間の能力のはたらきとしての光に限るのならば 闇を照らすことはできるが その闇を根底から晴らすことはできない。こう考えるからです。これは 趣旨説明における(δ‐2)の事項です。

 もし光がすべて人間の能力のおよぶところだとすれば
 ★ 既成の概念を捨てて、一切の符号なしに事物の絶対的把握に到達し(つまり実在の根源に触れ、存在の純粋経験をもた)なければなりません。
 ☆ という道筋だけに限るとも言えません。推論をとことん伸ばして行っても 光は得られるでしょう。
 ★ とりあえずはヨガでも始められたらいかがでしょうか。
 ☆ といった方法に手立てが限られるということはないはずなのです。《直観》が 人間の能力の範囲におさまるというのであれば わざわざ《一切の記号とその世界を超えようとするわざ》は要りません。そうしてもよいのでしょうが ことさら要るとは言えません。

 こんなお応えになりましょうか。
 

投稿日時 - 2010-09-23 19:20:09

ANo.9

>遠藤周作などは 《のっぺらぼう=意志表示をしない》でそれゆえ人間的交通(コミュニケーション)は 泥沼の底無し沼に落ち入るおそれが つねにあると言う。

ふーん、遠藤周作はバテレン屋だとは知ってたが、そんなこと言ってたのか。遠藤さんは人間交通が底なし沼じゃやなんだね。あたしなんか、底が見えるような人生送くんのやだね。

投稿日時 - 2010-09-22 08:47:09

補足

 ご足労をおかけ致しかたじけない。

 遠藤周作について そのキリスト信仰にはわたしはうたがいを持っているので ひととおり述べておかないとならないかも知れません。訪問者のみなさんに対しても。

 その信仰についてのわたしのうたがいを先に述べて そのあとかれの日本人論をかんたんに紹介します。

 遠藤の神は 文学的なキリスト像であり 大きく言えばやはり偶像(精神の産物)だと考えるものです。
 
 ▲(1) 《文学的な仕立て直し》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 よし これ(キリスト教)が日本人としての自分の肉体に合わない洋服ならば 自分の後の半生を 自分の体に合う和服に仕立て直してみよう。仕立て直せるかどうかはわからないけれども そういうトライだけはやってみよう。
 そういうふうに考えた。
  (遠藤周作:『私のイエス――日本人のための聖書入門』1章)

 ▲(2) 《仕立て直したキリスト像》 ~~~~~~~~~~~~~~
 ガリラヤで育ち エルサレム城外で殺された 痩せた 手脚のほそい男。犬のように無力で 犬のように殺されながら 息を引き取るまでただ愛だけに生きた男。
 彼は生前 現実のなかで無力であり ただ愛だけを話し 愛だけに生き 愛の神の存在を証明しようとしただけである。そして春の陽ざし強いゴルゴタの丘で死んだ。
 それなのに彼は弱虫たちを信念の徒に変え 人々からキリストと呼ばれるようになった。
 キリストと呼ばれるようになっただけでなく 人間の永遠の同伴者と変っていったのである。・・・
  (遠藤周作:『キリストの誕生』)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ この《永遠の同伴者》 これが遠藤の抱くキリスト像です。《同伴者》であるのはよいのでしょうが 《永遠》をそこでは《想像力もしくはその想像の世界》のものとして思い描いている結果となる。そういう文学の世界における神となってしまう。
 その描かれた世界の中に身をおけば 《闇の中にも光が灯っている》と思うことはあるのでしょうが。


 その遠藤が捉えた日本人および日本社会とは どういうものか。
 やはり直接に引用したほうがよいでしょう。
 
 ▲(3) 《日本社会=底無し沼》論 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・フェレイラ(* つまりバテレンのひとり)はこの日本は底のない沼沢地だといっていた。苗はそこで根を腐らせ枯れていく。基督教という苗もこの沼沢地では人々の気づかぬ間に枯れていったのだ。

  ――切支丹が亡びたのはな お前が考えるように禁制のせいでも 迫害の
   せいでもない。この国にはな どうしても基督教を受けつけぬ何かがあ
   ったのだ。

 フェレイラの言葉は一語一語 司祭(* 同じくバテレンのロドリゴ)の耳に刺のようにさす。
   (遠藤周作:『沈黙』 VII)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ あたしなんか、底が見えるような人生送くんのやだね。
 ☆ そういう問題ぢゃないだろう。そういう意味の《底》のことではないだろう。
 次に長く引用したい。事情は明らかになると思われる。
 踏み絵がおこなわれていた情況下での出来事です。

 ▲(4)  《日本と申す泥沼》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ――パードレ(=ロドリゴ)は決して余(=イノウエ筑後守)に負けたの
   ではない――筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら――この日本
   と申す泥沼に敗れたのだ。
  ――いいえ私が闘ったのは――司祭(=ロドリゴ)は思わず声をあげた。
   ――自分の心にある切支丹の教えでござりました。
  ――そうかな。――筑後守は皮肉な笑いをうかべた。――そこもとは転んだ
   あと フェレイラに 踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申
   したそうだが それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その
   言葉 まことの切支丹とは この井上には思えぬ。
  ――奉行さまが どのようにお考えになられてもかまいませぬ。

投稿日時 - 2010-09-22 09:41:02

お礼

 司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。

  ――他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ。――筑後守はつめたい声で言
   った。――かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことが
  ある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。
   どうにもならぬ己の弱さに 衆生がすがる仏の慈悲 これを救いと
  日本では教えておる。だがそのパードレは はっきりと申した。切支
  丹の申す救いは それと違うとな。
   切支丹の救いとはデウスにすがるだけでのものではなく 信徒が力
  の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。
   してみるとそこもと やはり切支丹の教えを この日本と申す泥沼
  でいつしか曲げてしまったのであろう。

 基督教とはあなたの言うようなものではない と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も――この井上も通辞も自分の心を理解してくれまいという気持が 言いかけたことを咽喉に押しもどした。膝の上に手をおいて 彼は目をしばたたいたまま 奉行の話をだまって聞いていた。

  ――パードレは知るまいが 五島や生月(いきつき)にはいまだに切支
   丹の門徒宗と称する百姓どもがあまた残っておる。しかし奉行所では
   もう捕える気もない。
  ――なぜでございます――と通辞が聞くと
  ――あれはもはや根が断たれておる。もし西方の国々からこのパードレ
   のようなお方が まだまだ来られるなら 我々も信徒たちを捕えずば
   なるまいが・・・――と奉行は笑った。――しかし その懸念もない。
    根が断たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠に 五島や生月の
   百姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似て
   も似つかぬものになっておる。

 頭をあげて司祭は筑後守の顔を見た。微笑は顔と口との周りに作られていたが眼は笑っていなかった。

  ――やがてパードレたちが運んだ切支丹は その元から離れて得体の知
   れぬものとなっていこう。

 そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。

  ――日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ パードレ。

 奉行の溜息には真実 苦しげな諦めの声があった。
 菓子を賜わり 礼を申しのべて通辞と退出をした。
  (遠藤週作:『沈黙』 IX)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ まっ こんなところです。敢えて評言はひかえましょう。

投稿日時 - 2010-09-22 09:46:58

>☆☆日本人はけっこうしっかりしていると考えられるところがある

それも環境の変化によって絶滅危惧種だねぇ
いとも簡単に崩れさるものなんだ
まして大地に根を下ろすべき祖国を失ったユダヤ民族などは言うに及ばず


  

投稿日時 - 2010-09-21 19:29:42

ANo.6

>日本人はけっこうしっかりしていると考えられるところがある。

その意見に私も賛成だ。鈴木正三ちゅう元旗本で曹洞宗のえらーい坊さんが、『破切支丹』という書き物の中で、バテレン宗教の程度の低さをけちょんけちょんに論破しているが、まともな人間だったら驚かせられるぐらい説得力がある。優れた思想書として高く評価されているんじゃよ。だから、アンタのお眼鏡通り、日本人は結構しっかりしているね。図書館で手に入ると思うから、読んでみな。

投稿日時 - 2010-09-21 15:24:33

お礼

 分かった。

 鈴木正三は 山本七平がさんざん吹聴いや紹介しておった。
 仏道は 生活の中にありとして あたかもプロテスタンティズムが 職業を召命として位置づけたように 日常生活そして仕事にブディズムの実践を見たという。
 まぁ 原文は読んでいないが。

 ☆☆ 日本人はけっこうしっかりしていると考えられるところがある。
 ☆ ではあるが いまだに《絶対》の概念については はっきりしない。どうもわざとはっきりさせないのではないかとも思われる。
 無神論として 《絶対》を無神と捉え返せば すべてはしっくりとおさまるのだけれど。

 もしそうしないとすれば 遠藤周作などは 《のっぺらぼう=意志表示をしない》でそれゆえ人間的交通(コミュニケーション)は 泥沼の底無し沼に落ち入るおそれが つねにあると言う。
 そこに お上志向が加わる。

投稿日時 - 2010-09-21 15:52:13

さとりの意味するところのものは

たとえば
君の神学とやらの言うことがそもそもの根本が間違っているということがわかるとようになるというようなことなだけなのだけれども

重要なのは現実に対する具体論を伴っているということにある点にある


                           ´

投稿日時 - 2010-09-21 13:50:16

お礼

 なるほど。いろんな見方ができるのですね。

 すばらしいですね。

投稿日時 - 2010-09-21 14:18:28

選ばれし者に

釈尊はさとりに至る道だけを説いたと言われる
これは全ての者にそこに直に参入する門戸を啓こうとしたってことなんだよね...

ああ
それと言っとくけど瞑想がさとりに至らせるんじゃない
さとりが瞑想という状態にさせるんだよね


かたちから入るってのはありだから


                            ´

投稿日時 - 2010-09-21 13:22:48

お礼

 とうとさがわたしのような小さい者には分からないほどすばらしいご見解をお持ちのようなのですね。

投稿日時 - 2010-09-21 14:12:29

もうひとつ光に導かれるべき者
光の人間のための解釈ってのもあるんだよ...





´

投稿日時 - 2010-09-21 13:07:03

お礼

 そうですね。

投稿日時 - 2010-09-21 13:15:47

ANo.2

> 闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには

まっ、多分それは大変難しいだろうね。特に今の時代には。これが昔だったら、やっぱ、太閤さんがやったように、バテレンの坊主や、その毒説にこっている奴らを取っ捕まえて、公開で柱に縛り付けるんだな。それも、昔やったように、いつでも自分で解けるぐらい緩く縛り付けて置くんだ。そして、数メートル離れた所で薪を積んで火をつけて、半日がかりで炙り殺すんだね。所謂火炙りの刑だ。途中で気を失ったら、やっぱ昔やったように水を打っかけて正気に戻す。それを死ぬまで繰り返すんだ。勿論、その火炙りの始まる前に、やはり昔やったように、バテレンの坊主やその説にこっている外国かぶれの奴らに、「苦しかったら、お前は何時でも逃げていいんだよ。そのように緩く縛ってあるからね」と耳打ちすることは忘れちゃ駄目だ。神だなんだとカッコいいこと言っている奴らが、苦しくなって逃げてくれたらこっちの勝ちだ。それを見ていたそいつらに誑かされた闇の中にいる人間たちがそのとき光を見ることができて、こいつらは口先だけだったのかって目から鱗が落ちるようになること間違いなしだよ。太閤さんの時にも、逃げてったバテレンかぶれの連中が一杯いたらしいよ。だから、そのとき日本人で闇の中にいる連中でが随分光を見ることができるようになったっのならないのってことが、レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」に詳しく書いてあるから、ウィキばっか読んでないで、たまには本物の本を読んでみな。岩波文庫で手に入るから。どうだ、相変わらず世の中ブラブラしたアンタの知らない世界ばかりだろ。

でも、今それをやると、アメリカの原理主義キリスト教教徒かなんかに日本が爆撃されちゃうから、やっぱ、闇の中にいる人間に光を見せてやるのは難しいよな。

投稿日時 - 2010-09-21 10:59:01

お礼

 まただめかい。今度もだめかい。ややこしいな。

 いまいったい何時だい? お早い対応ということで。ご回答をありがとうごぜえーまあーす。

 ★ でも、今それをやると、アメリカの原理主義キリスト教教徒かなんかに日本が爆撃されちゃうから、やっぱ、闇の中にいる人間に光を見せてやるのは難しいよな。
 ☆ まぁ これは現実の問題であるようだ。(そのつてで言えば・大きい声では言えないが いま現在イスラームを扱うことは とてもむつかしいと思っている)。
 (あるいは 中国にも《原理主義信徒》の方々もおわしますようです)。
 だけれど 神学やら哲学としてなら かれらの世界に入っていくことは出来るのではないだろうか。セイラ・ペイリンとかいう人は いったい何を考えているのかといぶかしくなるにはなるのだけれど。


 ★ レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」
 ☆ は積ん読してあるよ。ははっ。
 けれども
 ★ バテレンの坊主や、その毒説にこっている奴ら
 ☆ が いかなる手段を用いてにしろ もし《ころぶ》ことになるなら それはまだ最終の解決にはならないのではないだろうか。
 というのも ころんだあとに そのコロビ仲間が集まって宗派をつくるかも知れない。《我らはころんだ。けれども カッコよくない人間であるからこそ 神をあがめる。そのつどいに 皆よ 来たれ》と。


 趣旨説明の哲学には 賛同したんかいな。欠陥を指摘する投稿がいちばんのごちそうなんだから。

 
 * ルイス・フロイスの『日本史』を一部読んだことがあるが 当時の――たしか大内家の統治する長州だったかの―― 一般庶民はなかなかしっかりした考えを持っていて フロイスらを質問攻めに遭わしたらしい。フロイスらも感心したらしい。そこから考えると バテレン火あぶりの見せしめをおこなって 人びとの目を覚ますというのは 少々思い上がった考えであるかも知れない。日本人はけっこうしっかりしていると考えられるところがある。
 その共同自治をあずかっているお上が やはり思いあがってしまっており イカレてしまっており 人びとは自己防衛のためには おとなしくしている。ということであるかも知れない。そのあたりの事情を明らかにすることも大事なようだよ。

投稿日時 - 2010-09-21 11:40:32

ANo.1

>闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには

 あへんを辞めるがよろしかろう。

投稿日時 - 2010-09-21 10:49:12

お礼

 浮世とんぼさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 精が出ますね。

 ★ あへんを辞めるがよろしかろう。
 ☆ なるほど。光を見させなくするものごとを引っくるめて《阿片》と言ったのでしょうか?
 言いかえると・別の問題としては 阿片のたぐいも或る種の仕方でその種の光を見させるということがあるようですね。
 ちょうど今 立正安国論の妥当性如何という質問も出されているようです。そういうたぐいの問題を とんぼさんも提起しておられますか?

 
 そのあとでなお問題が残るとすれば こうです。
 ひとは 闇の中にあってその闇に目が慣れてしまっている場合には なかなかいい解決策は見つかりません。すなわち 《阿片を止める》なら 光を見ることが出来ると言ったとしても・また仮りにそう理解出来たとしても ぢゃあ今からやめようというふうにはうまく行かないというのが 実際のところです。
 つまり 或る日ふと気づくと 光がわが心の内に差したという事件が先に起こらなければ 今いる場所から出て行こうとはなかなか思わないものです。
 そこのところを いっしょに考えてまいりましょう。というのが この問いです。どうですか?


 まだ過去を引きずっていますか?

投稿日時 - 2010-09-21 11:09:09

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