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芭蕉の句のセミは何匹でしょうか??

芭蕉の句のセミは何匹でしょうか??

松尾芭蕉の句に、閑かさや厳にしみ入る蝉の声というのがありますが、そのセミは何匹いる状況なのでしょうか?

私は40代ですが、小学生の時、先生から、ミンミンだかジージーだかカナカナだか知りませんが、とにかく山の中で沢山のセミがうるさく鳴いていて実際はちっとも静かではないのだけれども、岩山にそびえる厳かな山寺に参拝する道すがらは、そのうるさい程の音もかえって静寂の要素に感じられるーというような解釈を教えられました。

そして、芭蕉が静寂を詠んだもうひとつの句に、古池や蛙飛び込む水の音がありますが、これは一匹の蛙のわずかな水音で破られた物質的は静寂を詠んだもので、沢山の大きな蝉の声がもたらす哲学的な静寂とは、ある意味で真逆に位置すると教えられました。

でも先日24歳の若者と話をしていましたら、彼はセミも蛙も1匹で、2句とも同じような静寂を詠んでいると解釈しているというのを知りました。知り合いの日本人数名(25歳、31歳、34歳、35歳)に聞いたところ、とりあえず私のように複数の蝉がわんわん鳴いている状況だと教わったという人はおらず、多くても2、3匹だろう位の答えでした。

何十年も沢山の蝉が鳴いていて、蛙の句との対比句だと思って生きていた私はかなり驚きました。あの先生の解釈の仕方は、おそろしくマイナーだったという事なのでしょうか?それとも解釈の仕方が最近変わったという事なのでしょうか?

投稿日時 - 2010-09-23 05:54:42

QNo.6201515

暇なときに回答ください

質問者が選んだベストアンサー

まだ閉め切られていないようなので私も一言参加させてください。

>何匹でしょうか?
:と問われれば、一匹、あるいは2,3匹ではなく、やはり数十匹以上、あるいは数百匹でもよいと私は思います。

まず、この句の前の叙述で、芭蕉は、
「岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧、土石老いて苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂莫として心すみ行のみおぼゆ。」
と書いています。
この舞台となった立石寺へは、「是非ご覧になったほうがいいですよ」と地域の人々に勧められて、当初予定の行程を、およそ30kmをわざわざ逆戻りして訪れているわけですが、
当時の立石寺は、修行僧が籠るだけの静かな寺だったようで、
『物の音きこえず』の「物の音」とは、俗世間的な音を指すのだと捉えることができ、
「蝉がたくさん鳴いている=うるさい」
「蝉が一匹だけ鳴いている=うるさいとは言えない」
という発想自体がそぐわない環境の下で詠まれた句と言えるように思います。

つまり、芭蕉にとっては、まず最初に【閑さ】を内在的(無意識的)に感じていた。
その閑かさがあればこそ、空から降ってくるような蝉の大合唱が、(苔むした)岩々に沁み入っていくかのように感じられた。
その大合唱によって、内在的に感じている「閑さ」に気づかされた、と言っても良いのかもしれません。
「蝉の声」はあくまで自然界の一表象であり、世間的な音とは別物だという感性か、芭蕉の、そして現代の私たちにも通底しているように思われます。
蝉ぎらいの方はまた別かもしれませんが。
  
  

投稿日時 - 2010-09-24 20:56:10

お礼

ご回答ありがとうございます。

”最初に【閑さ】を内在的(無意識的)に感じていた。その閑かさがあればこそ、空から降ってくるような蝉の大合唱が、(苔むした)岩々に沁み入っていくかのように感じられた。その大合唱によって、内在的に感じている「閑さ」に気づかされた・・・蝉の声はあくまで自然界の一表象であり、世間的な音とは別物だという感性”

あぁ、それですそれ。私が子供の頃から感じていた思いです。とても的確に表現していただいてありがとうございます。私は足が0本~4本までの生き物は大丈夫なのですが、6本以上はどうしても駄目です。エビ・カニも駄目で料理をするときは厚手の手袋をして横目で見ながら触ります。蝶やセミなど羽のある6本足系は見ただけで走って逃げるほど苦手ですが、この句は全く平気です。

投稿日時 - 2010-09-27 13:36:04

ANo.11

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回答(15)

ANo.15

>何匹でしょうか?

一匹、あるいは2,3匹でしょう。
数十匹、数百匹! そんな大音量ではとても巌にしみ入るどころではありません。
あふれ出ますでしょう。

「しみ入る」とは、物の奥深くにじみ込むことです。
冬山に登り、暴風雪に遭った時、「身にしみ入るような寒さだった」とは言いません。
冬山に登り、青天、無風(または微風)、零下ウン十度の朝ですと「身にしみ入るような寒さだった」という表現が合います。

「しみ入る」とは、「ジワジワ」です。
「ワーッ」とやるのでは、しみ入らず、オーバーフローします。
「友としみじみ語り合う」・・・二人で静かにです。喧々諤々の口論ではありません。 

投稿日時 - 2010-09-26 12:55:45

お礼

ご回答ありがとうございます。

bacaisaoさんは多くても2,3匹派ですね!やっぱりその”染み入る”の部分がキーですよね。私はわんさか鳴いている状況を想像して来ましたが、最近、その2,3匹と思われる方々の世界もまた味わいがあるなと思い始めています。来年セミの声を聞くときは、皆さんのご回答を思い出してうんと風流な心で聞けると思います。ありがとうございました!

投稿日時 - 2010-09-27 13:51:03

ANo.14

 #2です。

>>その2.7匹に至ったご研究、めちゃめちゃ興味があります。今度是非教えて下さい。笑。


 立石寺には、おトイレを拝借に、寄りました。お天気のいい日だったのですが、前日は雨で、五月の最上川を下りながら、船の上でビールの肴に川魚の焼き魚、まさに「腹にしみ入る鮎の声」でした。

 でその旅か何処か忘れましたが「のどかさや」の句は、「しみ入る」に落ち着く前にいろいろ試行錯誤の過程があったようで、「芭蕉でも、そういう推敲をなさったのか」と感心したことがあります。

 単なるデジカメ的、瞬間像ではなく、それが一人の俳句の天才の頭の中に取り込まれ、推敲に推敲を重ねた末、生まれた芸術作品の珠玉、そんな気がして、トイレを出ました。研究報告終わり。

 今度あのお寺に行くときは3匹に成長しているかも知れません。

投稿日時 - 2010-09-26 08:06:39

お礼

ははは。いつか立石寺に行く時は、このお話を思い出して行くことにします。笑。

投稿日時 - 2010-09-27 13:42:52

ANo.13

アノ~
クマゼミはワッシワッシゼミの異名があるように騒々しく、ニーニーゼミは染みこむようなニーという鳴き声で全く違います

投稿日時 - 2010-09-26 07:03:12

お礼

ええっ!全然違いますか!やっぱり?うーん、じゃy○utubeでもっと良い音声ファイルを探します。ニーニーのファイルは、おとなしい声のばっかりなので、聞き取りづらいというのも一因かもしれないです。

投稿日時 - 2010-09-27 13:39:59

ANo.12

#11です。
大事な箇所での表記ミスがありましたので、ちょっと修正させていただきます。

×世間的な音とは別物だという感性か
〇世間的な音とは別物だという感性【が】

投稿日時 - 2010-09-24 21:01:03

お礼

あ、やっぱりそうですよね。わざわざご訂正ありがとうございました。

投稿日時 - 2010-09-27 13:53:50

ANo.10

蝉の種類を理科的に同定することにはたしかにそれほどの意義は認められないけれども、これがうるさいほど鳴いているのか、一匹寂しく鳴いているのか、どちらを心に描くかはやはり“感覚”として重要ではないでしょうか。
(他の回答者の方々の大方の意見はそういう事だと思います)

私はうるさいほど鳴いていると解釈しないとこの句はおもしろくないと思うのです。
そうでないと「静けさ」との心の中での対比が無いわけですからね。
先生の解釈が正しいと思います。
だいいちそうでないと岩に染み入らないでしょう。
しみ込んだ蝉の声もすっかり抜けたころ、次の短い夏が来るのだろうな、などという想像もしています。

芭蕉の時代には今考えるような「写生」至上主義のような価値観は無いわけで、書斎での机上のいろいろなエスキースにもとづいてその土地に当てはめてストックを引き出していたような面もあるのではないでしょうか。案外と俗っぽいのです。
奥の細道も、俳諧の師匠としての営業にならないような本当の奥地には全然行っていませんし。

投稿日時 - 2010-09-24 12:25:22

お礼

ご回答ありがとうございます。

私も、閑かさが哲学的になる気がするので、セミはうるさいほど鳴いていてくれる方が好きです。たしか8才の頃だったと思うのですが、夏に山に遊びに行きまして、耳鳴りがする程のセミの大合唱に囲まれたことがあります。一緒に行った家族は兄と一緒にセミを探してどこかに行ってしまっており、私は1人で山道の途中にある石に腰掛けてまっていました。ぼーっと自然の美しさにみとれていたら、いつしかセミの声がちっともうるさく感じなくなっているのに気付き、風が揺らす木々の葉の音がとても繊細に綺麗に聞こえて、そうかぁ松尾芭蕉はもしかしたらこんな気持ちの事をうたったのかもしれないと、子供心に思いました。先生の解釈はこの経験に沿うものだったので、私としてはやっぱりセミがいっぱいの解釈が好きです。

投稿日時 - 2010-09-27 13:12:49

ANo.9

(1)「芭蕉の句のセミは何匹でしょうか」と聞くのと、(2)「芭蕉の句のセミは何匹だっだのでしょうか」と聞くのとでは、答えが全く違ったものになると思います。

(1)の場合には、芭蕉の句を鑑賞している方が、自分の経験や感性と重ね合わせて、その句をどう味わうのかと問うているのですし、(2)の場合には、芭蕉自身は何匹の蝉の声を聞いたとかと問うている訳です。

従って、問いの意味することが全然違っているのです。文学として真っ当な問いは明らかに(1)であり、(2)の問いは、文学とは全く無関係で、まあ、文学を全く理解していない連中が興味を持つような無粋な問いですね。

例えば、芭蕉が聞いた蝉は何だったのかと言う問いは(2)に属し、文学には全く関係ない問いですね。一方、芭蕉が聞いた蝉は何なのだと言う問いは、まさしく(1)に属し、まさに芸術とは何かを理解している方の問いです。ところがどう言うわけか、芭蕉の句を論じるのに(2)の類い問いに答え、それを実証的に明らかして、あれはニイニイゼミだったなんて言って悦にいっている文芸音痴が日本には幾らでもいるらしいですね。

芸術って、それが実際にどうであったなんてことは二義的三儀的なことですよね。それを楽しむ人の生い立ちや経験に重ね合わせ、例えばその方が東北地方出身だったら、芭蕉が詠んだころに聞いたた蝉は、ニイニイゼミだったと思い出し、それがニイニイゼミだと解釈して、それでも感動出来るようだったらそれで立派な芸術です。もしそれを鑑賞する方が、関東地方の方で、その季節にはアブラゼミが鳴いていたので、それをアブラゼミだと解釈して、それでも感動出来るようだったら、それで立派な芸術です。また、それが関西の方で、それがクマゼミと理解して、それでも感動出来るようだったら、それで立派な芸術です。それを、東北地方にはクマゼミがいないからお前の解釈でその句を楽しむのは間違っているなんて芸術音痴なことを言う奴らは、芸術を語る資格がないと思います。

茂吉は実際の蝉が何であったかなんてどうでも良く、彼の生い立ちから、それがアブラゼミであったと決めつけることで、その句を味わうことが出来たのです。それを、生物学的にはニイニイゼミだったはずであり、茂吉は間違っているなんて言う主張は、何か、ある美人を形容するのに「彼女の眉は長さ4cm、目の大きさは縦2cm横3cm、鼻の高さは2.5cm、、、だった」と表現しているような馬鹿馬鹿しさですね。

さて、その文脈で貴方の質問を考える時、それを鑑賞する方が関西地方に住んでいたとしたら、その地方で代表されクマゼミる蝉の声はほとんどの場合、蝉の集団の声を聞いて育ちます。従って、芭蕉の句を読んだ時にそのことを思い出しながら、鑑賞している筈です。そしてそう解釈してその方がこの句を感動出来るようだったらそれで立派な芸術です。しかし、もしそれを鑑賞する方が東北地方に住んでいたとした、きっと少数のニイニイゼミの声を聞いて育った筈ですので、この句の蝉の数を、一匹二匹の少数として鑑賞しながら、それに感動出来ているかも知れません。

それを、その地方にはそんな時期にそんな蝉がいなかった筈だとか、その地方じゃ、関西地方のように蝉の大合唱がなかったな筈だと理屈を言って、その句を鑑賞している方に水を指すようなことを言っている輩は、芸術とは何たるかを知らない愚の骨頂だと思います。

この句を味わうには、ご自分の生い立ちを振り返り、その生い立ちと重ねながらご自分でその状況を再構成して、その感動を味わえばそれで十分であり、その他の理屈はただの雑音だと思います。

投稿日時 - 2010-09-23 21:45:00

お礼

ご回答ありがとうございます。

本当に、仰るように芸術を味わうのが一番ですね!私は小さい時、家の裏の林で沢山のツクツクボウシが鳴くのを聞きながら育ったので、セミと言うとツクツクの合唱がパッと頭に浮かびます。東北にはクマゼミがいないというのは、ご回答を見て始めて知りました。地方地方でセミに違いがあるなら、この句の解釈の仕方は人によって更に色々あるのでしょうね。文字の世界は本当にロマンチックですね。

投稿日時 - 2010-09-27 12:23:36

芭蕉の句はノンフィクションではありませんので、「何匹か?」と問うこと自体に意味があると思えません。それこそ読む人の「解釈」に委ねられてよいのでありまして、唯一の正解などないということです。
芭蕉の推敲癖は有名で、多くの句が後に手を入れられています。「リアリズム」などというコトバのない時代ですから、「現実の反映」など重視してはおらず、「句としての世界の完成度」をのみ求めていただろうと思います。
「荒海や佐渡に横たう天の川」の句にしても、これが発表された句会の日、直江津は雨天で、芭蕉は天の川を見ていないらしいですよ。それに夏の日本海は「荒海」ではないし、「天の川」は「佐渡」に「横た」わったりはしないですよね。
私も夏の立石寺に行ったことがありますが、暑いのと、階段がきついのとで、蝉なんかのんびり観賞している気にならず、「芭蕉のウソつきー!」と思った覚えがあります。
それから、「先生の解釈」とありますが、それ、教科書会社の指導書(ガイド)に載っていた解釈かもしれませんよ。

投稿日時 - 2010-09-23 18:28:08

お礼

ご回答ありがとうございます。

芸術は人によって解釈が違うのが良いですね。色々な方の考え方に触れると、その方の心の世界を垣間見させていただけるようで、とてもロマンチックに感じます。

もしかして解釈の仕方に時代のトレンドがあるのかなと思って質問したので、実は私も物理的に何ゼミが何匹鳴いていたのかなんて、どうでもいいと思っています。

あぁそうですよね、立石寺は山の上ですから、きっと階段はきついでしょうね。もしかしたら、芭蕉は悪態をつきながら登っていて、実際は閑けさもへったくれもなかったかもしれませんね。

投稿日時 - 2010-09-26 05:05:21

ANo.7

今年の夏は近くの公園の蝉の声が朝からすごかったですね。窓も開けてられないぐらいでした。
立石寺も行ったことがありますが、あれだけ周囲に樹が生えているのですから1,2匹と云うことは
ありえないでしょうね。それに蝉って群生すると思います。それでも大きい青い空の下、
蝉の声しか聞こえないという状態をしずかさやと敢えて読んだのではないでしょうか。
私は小学校の先生の説を支持します。

投稿日時 - 2010-09-23 12:55:27

お礼

ご回答ありがとうございます。

そうですか、今年はセミがすごかったんですね。今私の住んでいる場所はセミの声が聞こえないので大変残念です。子供の頃はセミの声がうるさいほど聞こえる環境にいたので、セミが聞こえる夏を想像して遠い目になってしまいます。

cxe28284さんも立石寺にいらっしゃった事がおありなのですね。羨ましい限りです。夏に行くときっと蝉しぐれ状態なのでしょうね。いつか私もその閑かさを体験したいです。

投稿日時 - 2010-09-26 04:29:06

芭蕉のこの有名な句は斉藤茂吉の起こしたせみ論争が有名ですね。
茂吉は「あぶらぜみ」だろうと言ったのですが、反対が多く、結局「にいにいぜみ」に落ち着いたということです。頑迷な茂吉が妥協するのはよくよくのことなのだと北杜夫氏も書いています。
多分この句の「にいにいぜみ」はこれで学会の定説になったと考えていいのでしょう。

私はまだ山寺には往けないで居りますが、山でせみの声を実際に聞いた印象とも合わせ、一匹の声か、多数の声かとの択一では、にいにいが一匹だけで鳴く状況(あんまり貧しいというか寂しすぎる感がします)もあまり考えられず、少なくとも数匹が鳴いていたのではと思います。他のひぐらしやつくつくやみんみんの合唱と異なり、にいにいぜみの合唱はむしろ厚みが増し、全体で荘厳さが現われるように思います。あの漫画などで多用される、静寂をあらわす「しーん」という感じのように。これは何か元来「耳鳴り」をあらわしているのでしょうか、まったく音の存在しない「無響室」などにいるとかえって落ち着かない気にさせられることがありますが、静寂にもバックグランドミュージックが必要で、それには「にいにいぜみ」の合唱が最適だと芭蕉は思ったのかもしれません。

ご参考まで。

投稿日時 - 2010-09-23 11:05:24

お礼

ご回答ありがとうございます。

私も、セミは沢山で合唱していてくれていたほうが自分の子供時代の記憶と重なって情感が深まります。

私は、自分でこの質問をするまでニーニーとミンミンは同じで呼び方が違うだけだろうと思っていたので、回答いただいた内容を見て、あわててネットで声の違いを確認しました。確かに仰るとおり、ニーニーが山で合唱すると、荘厳な感じになるでしょうね。ツクツクのようにピッチに個性を主張する大きな高低が無いから、荘厳な耳鳴り系BGMにはぴったりですね。

投稿日時 - 2010-09-26 04:19:58

ANo.5

元の句にはセミの種類も数も書いてないのですから、想像で類推するしかありません。
そもそも芭蕉がセミの名前を知っていたかもわからないのですから。

私の一番しっくりくるのは、ニイニイゼミがただ一匹あの透き通る様な声で鳴いていて、その鳴き声が岩にしみ通っていくような情景が浮かびます。

投稿日時 - 2010-09-23 08:39:26

お礼

ご回答ありがとうございます。

私は、自分でこの質問をするまでニーニーとミンミンは同じで呼び方が違うだけだろうと思っていたので、回答いただいた内容を見て、あわててネットで鳴き声を確認しました。ミンミンとニーニーは全然違いましたね。とほほ。でも、おかげさまで新たにクマゼミとニーニーの声って似ている??ことを発見。聞き分けが出来るように週末にネットで勉強しようと思います。

投稿日時 - 2010-09-26 04:03:20

ANo.4

立石寺・山寺での句ですね。

そうとう昔の日、私も、このお寺に詣でる機会がありました。
山の下から上っていきます。蝉の鳴き声があちらこちらから聞こえてきて本当に「蝉しぐれだ」って
感じました。
途中、岩ばかりの箇所にさしかかり、友人と休憩しました。
腰をおろして、あまりにも「静か」なのに驚きました。
いえ、蝉の声は聞こえるのですが、まさしく静寂そのもの、「巌にしみいる」感がして、
「上ってきてよかった!」と感激しました。

もう30年以上も昔の話ですが、いまだにその光景・感動は新鮮に思い出します。

質問者さんが教わった先生の解釈は正しいと確信します。

「蛙の句との対比句」については別問題だと思いますが、
芭蕉の句も
蝉は確かに、たくさんで鳴いていたのだと思います。

投稿日時 - 2010-09-23 08:38:03

お礼

ご回答ありがとうございます。

立石寺にいらっしゃったのですね、羨ましいです!そうですか、やっぱり蝉しぐれだったのですね。なんだか情景が目に浮かびます。は~。いいなぁ・・。いつか私も是非行きたいと思います。

投稿日時 - 2010-09-26 04:00:12

ANo.3

印象は
ニーニーゼミが一匹
他の蝉や複数だと状況に合わない気がします

投稿日時 - 2010-09-23 07:46:06

お礼

ご回答ありがとうございます。

なるほど、ニーニーですね。私は、自分でこの質問をするまでニーニーとミンミンは同じで呼び方が違うだけだろうと思っていたので、回答いただいた内容を見て、あわててネットで鳴き声を確認しました。ミンミンとニーニーは全然違いましたね。とほほ。でも、おかげさまで新たにクマゼミとニーニーの声って似ている??ことを発見。聞き分けが出来るように週末にネットで勉強しようと思います。

投稿日時 - 2010-09-26 03:54:30

ANo.2

 芸術作品は、解釈がいろいろ出来るところに意味があると思います。

 あの皇帝嫌いのベートーベンは、おそらく自分のピアノ協奏曲第五番に『皇帝』というあだ名がついたと聞いて、さぞ心外だろうと思います。でも作曲家ご本人の意思に反してあだ名は健在です。

 芭蕉も霊媒を通して聞いてみると「ああ、あれはね、蛙が十三匹、居た時作ったんだ、近頃はいい加減な大学教授が居るね」などと言うかも知れません。

 環境汚染で、蝉が全滅すると27世紀あたりでは「先生あの電気仕掛けでじーじーと言うあのおもちゃですか」などと言うのが『正解』だったりしておもしろいとおもいます。

 僕は山寺で研究の結果、蝉の数は、2.7匹というきじゅうな(貴重ではありません)結論に達しました。

投稿日時 - 2010-09-23 07:25:05

お礼

ご回答ありがとうございます。

本当に、芸術作品は色々な解釈があってとても興味深いです。
そういえば言われるまで気にしていませんでしたが、そうですよね、”皇帝”はベートーベンでしたね!面白いですね。

その2.7匹に至ったご研究、めちゃめちゃ興味があります。今度是非教えて下さい。笑。

投稿日時 - 2010-09-26 03:29:41

ANo.1

セミについては、ここの回答者が説得力があります。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1212455942
数までは書いてありませんが、恐らく、ニイニイゼミが一匹だけで鳴いているとはとても思えず、集団で鳴いているのではないかと思います。実際に行って見ればいいんですけどね。
私は、どう教わったか覚えてないですが、個人的にはカナカナゼミ(ヒグラシ)だと思っていました。一匹だけで鳴いていると、響き渡ってはいるけど、とても静かな気がします。でも、この俳句が読まれたのは、7月中旬だそうですから、ヒグラシは夏の終わりなので、やっぱり違うようですね。

蛙のほうは、こんな本が出ているそうです。
http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E6%B1%A0%E3%81%AB%E8%9B%99%E3%81%AF%E9%A3%9B%E3%81%B3%E3%81%93%E3%82%93%E3%81%A0%E3%81%8B-%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D-%E6%AB%82/dp/4760218076
レビューを読むと、え!?カエルは飛び込んでいなかった!?らしいです。
これは驚きました。機会があったら読んで見たいです。

上野市西日南町、土芳の蓑虫庵にある「古池」の句碑に彫刻されている蛙は一匹だけ
http://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/huruike.htm

ちなみに私は、まったくのあてずっぽうですが、アマガエルが1匹だと思っていました。

投稿日時 - 2010-09-23 07:23:54

お礼

ご回答ありがとうございます。

なるほど、ヒグラシですか。郷愁を誘いますね。私はツクツクボウシが真っ先に頭に浮かんでしまいます。私が育った家の周りにはツクツクボウシが多かったせいかもしれません。裏の林で鳴くせみの中にリズム感の悪いのが毎年いまして、オ~~シンツクツクの後の”トットコ・イーヨ~、トットコ・イーヨ~・・・”の部分を、そいつが1回多く言ったり少なく言ったりするのを聞くたびに、友達と笑っていたのを思い出します。

蛙の本は面白そうですね。私も機会があったら読んでみたいです。

投稿日時 - 2010-09-26 03:20:40

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