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締切り済みの質問

悟り

仏教的悟りやキリスト教的悟りなど、悟りにも色々と定義があると思いますが、
自分というものを完全に客観的に見れるようになり
自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか?
現代的に言うとメタ認知ですかね?

投稿日時 - 2010-12-03 17:54:52

QNo.6360544

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回答(23)

ANo.23

「悟り」って何でしょう?
仏陀は正自覚者となって「成すべきことを成し終えた」と言ってますね。
私も、この難解な問いに答えが欲しくて、様々な学問の碩学の書物を読み漁り、その度に「これが真理なのかな?」という思いを持ってきました。

結論は、仏陀の言う「全ては無常である」が分かることではないか?と考えています。
「悟り」と言う言葉は宗教的な解釈がもっぱらですが、「神」も「悪魔」もその他、信仰対象となる全ては偶像であり、全ては人間の想像でしかないです。
一方、この世界を構成している根本は何か?という問いに対し、数学者は数学で、物理学者は物理学で、哲学者は哲学でという具合に、様々な学問でその難解な疑問に取り組んでおり、時代に合わせて真理は変遷していますね。ある時代に真理だと思われていたことが、後の時代に否定されることはよくあることです。

その中で私自身、現時点で否定しようのない、厳然たる事実だと確信しているのは、仏陀の言う「全ては無常である」だけです。後は「生命あるものはいつか死ぬ」ということでしょうか?

仏陀は無我と言いました。「永遠に変わらない私」が存在しているというのは、ただの誤解、幻想ということですね。確かに人間のどこを探しても「私」という確たるものはありません。全ては発達した脳細胞が作り出した幻影です。しかも人間はその「私」なる存在は永遠に変わらないと信じている。その「変わらない私」が、自分の思うとおりの人生を歩こうとして、もがき苦しんでいる。
確かにその通りで、仏陀の言うように「世界も自分自身も一瞬の遅滞もなく変わり続けている」と分かれば、この世界はただ変わるために変わり続け、人間も生きるために生きているということに得心がいきます。そうすれば、「今」を生きている「私」と次の瞬間に何かに捉われている「私」は違うということが分かります。世界もそうで、窓外の風景を眺めたり道行く人々を眺めたりするだけでも、全てがただ「変化し続けているだけだ」ということが分かります。

その変化の無窮の連鎖の瞬間である「今」が私達が知覚できる現在の世界の実相ですが、やがてその世界も未来には大きく変化しているのでしょう。
その世界の実相を見続けている「今」現在の「私」と未来の「私」も違っています。肉体を構成する細胞は生まれ変わり続け、ただ「死」に向かっているだけです。その生命というか世界の実相というか、その全てはただ変化しながら流れ流れているだけだと分かれば、「永久不滅の私」は存在しないのだから、物に執着したり怒ったり嫉妬したり嫌ったり恨んだり憎んだりということは無くなるのでしょう。仏陀は「愛」すらも煩悩の一つと言ってますが、ようは「悟り」を得ると全ての煩悩が断ち切られ、二度と生まれないと言ってます。
仏陀は「輪廻転生」を否定しています。仏陀が言うのは、人間に魂のような根源的なものがあって、肉体をもって生まれ変わっているということではなくて、その煩悩のエネルギーが自分以外の他者(家族や友人知人や後世の人々)や事物に影響を与えるという意味で、「悟り」を開くと、そのような煩悩のエネルギーが消滅するという意味だそうです。

これらを私は知識として知っています。

自分自身で「そうだ!」と確信を得たわけではないですが、これが混沌とした世界の実相のさらに深い本質と捉えると、非常に納得できます。
「全ては無常である」というのは、読んでも書いても簡単この上ないものですが、このごく当たり前のことを真理と捉えると、いろいろなことが物凄く納得できます。

また、「オレはいないのか?」という自暴自棄になるような解釈ではなくて、世界と共に自分自身も変化し続ける存在だと分かれば、「今」という瞬間瞬間を「清らかに生きる」ことで、そのエネルギーが自分以外の同じように変化し続ける他者や自分が影響を与えるであろう変化し続ける世界の実相にも、良い影響を与えることになるのでしょうね。

私は「全ては無常である」と思い始めてから、何だか肩の荷がおりて、日々が楽しくなりましたよ。

投稿日時 - 2014-06-12 01:44:34

ANo.22

しらね。ほかのところのよんだ。そこらに、さとりみたいの、ありうるかもと。たまなげなら、はやいたまは、わかると、ちかいとこにあった、なあーんだ、こんな事だったかと。たとえば、小学校低学年だて、だれにもおしえてもらわなくてもなんなくできるが。水すくうみて、あっちへ、水とばし、じょじょにちからつよいのでやる。しまいには、ありったけぜんぶちからだしきる。

投稿日時 - 2013-09-15 08:34:04

ANo.21

しらね。おれは、ちしきねし、ちいさいときから、だめばかりだし。かりに、予言なら、予言、前、よげん、あたり、とかなにか、予言、あと、とか、ある。もち、前、だて、ばかにされる、あたったって、もち、ばかにされる、あと、だて、もち、ばかにされる。が、もち、まえ、なら、あたり、により、ちかいか、はずれかとかある、あたたなら、あたり、あるが、反対派からは、もち、くちからでまかせが、たまたま、あたりに、かすったんだとかか。まえ、かえって、かんがえれば、あたりに、よりちかいか、はずれか、とかは、ありうる。とてんが、たいへんな、め、あうは、にねんいじょう、前、わたかちやた。反対からは。まぐれだ、とかなにか、いうんだろが。まんがいちさ、たいさくに、せいだしてればさ、もしかしたら、ひがいちいさくできたかも。蟻も、こたいさ、あんがいでかかった、ふつうは、ずうたいでかいやつでも、さんみりかなにか、すなまちぶみたいのはこびあげるにも、いやなるくらい、まちがい、くりかえした、すいちょくかべで、おとしたり、しやめんおいてずずーとすべりおちたり、ふあんていおいて、ごろんおちちやたり、いやなるくらい、なんどもなんども、まちがえた。....、2cm三角石、すてられたのいた、たまげた。なんで、そいつは、できるんだろ、謎。胎児だて、かんがえる。あかちやんだて、かんがえる。幼児だて、もちかんがえる。あたまごつんぶつかったり、ものすごくいてえ、が、どうしたらいいか、おれには、さっぱりわからなかった。ついに、ある日、あいであでた、つねにまわりぜんぶかくにん。なくならないが、へってった。おれは、小学校卒業頃でも、ひざ、きりきず、あんがい多かった。たま投げ、なら、とちゅうまで、いって、やめて、ひきかえした、おれにむかないとおもった。ある日、速いたま、世界一、やりたくなった。やりはじめて、のべ、1時間かなにか。やったは3、空き缶ころがし15分。すりんぐしょっと30分。たますりんぐしょっと15分。【到達、二塁から∟、大リーガーだて、ちんぷんかんぷん、わかるやつは、いまは1人も、いるはずが、ない。】のち、説明かんがえてとおもいだした、小学校低学年だて、だれにもおしえてもらわなくてもなんなくできるが、水すくうみて、あっちへ、水とばし、じょじょにちからつよいのでやる。しまいには、ありったけぜんぶちからだしきる。小学校6年とき1度だけやったは、わざとばかでかい雪かたまりつくった、地面から両手で、よっこらしょもちあげあっちへ両手で、とばして命中。小学生だて、そのばとっさできたんだから、こんきよく。やれば、こつ、わかるかも。らくてんには、おれはしつこく、すすめたが、だめ、だたな、ふつうは、みんな保守なんだな。あ、おれは。のれーたま、こまとぎやくかいてんやった、のれーたまももち、直角まがる、せんかいみてのじやない。直角定規。まさか、直角まがる、なんか、大リーガー、に、いますぐは、わかんねんべ。

投稿日時 - 2013-09-15 08:10:13

ANo.20

悟りて、あまり言葉で聞いても理解できないと想いますよ。


宗教的違いも、言葉の違いによるものが大きいです。


仏教で言えば、仏。 キリスト教で言えば、神。

それて絵や、物にすると違う存在に見えますが、


本質的には同じようなものと考えてもおかしくないですから。



も似たような所あります。

で、このまま言っても質問者様の意図に答えれてないと思いますので、


お答えしますと、


悟りとは、覚悟した状態です。



己が仏である事に目覚める事です。


言葉で説明しても、納得のいくものじゃないと想います。

言葉や文章で理解しようとする事ばかりしていると、宗教にハマっていく人になりますので。

あまり、意味がないと想うので、良き師匠と出会うか

または内側からでてくる声を信じて生きる生き方をした方が良いかと想います。

投稿日時 - 2011-10-14 21:20:53

ANo.19

『悟り』とは、何か特別な人間が特殊なことをして為すものではなく、さして難しいことではなく、その字体が示すように立心偏に吾(われ、おのれ)、つまり、『心』=『吾』であるということを覚知することを『悟る』ということであり、それは『心』こそが自分自身、本質であって、鏡に映る肉体はその所有物ではあっても、決して自分そのものではなく、その肉体を見て自分と認識している心こそが自分そのものであるということを言っているのです。なぜなら、肉体というものは、時間の経過によって変化していきますが、心というものは不変だからです。
 
 たとえば、ある人の5歳と25歳、50歳と80歳を比べれば、その外観は明らかに違って見えますが、その心はいくつになろうが、一貫して「私と思う心」に変化はないはずです。つまり、年齢によってその心が別人に変化することは無く、徹頭徹尾、同じ心であり続けるはずです。しかも、その心という本質は、その肉体が朽ちえたとしても、存続しつづけ朽ちることはないのです。つまり、我々の本質というものは永遠に続くのです。それでいわゆる宿業というものが存在することになるのです。つまり、その心の為す善悪の所業が、その本質に刻まれて、その善悪の報いを必ず受けていくことになるのです。いわば自分で蒔いた種は、必ず自分で刈り取らなければならないということです。

 よく聞く話ですが、「自分は別段、何も悪いことをしていないのに、なぜ、こんな境遇なのか」と嘆き、その原因を自分以外に求める場合がありますが、これも過去世に刻んだ業の悪果かと思われます。これを分かりやすく言えば、ドライバーと車の関係みたいなもので、ある違反をしたとしてその車を乗り換えたとしても、その罪はそのドライバーに付いて回るので、たとえ何台車を変えたとしても、それから逃れられず、必ずやその罪の報いを受けることになるようなものです。また、生まれながらにして平和な国や戦乱の国、金持ちの家や貧しい家、健康体や病弱な体等々、そのような違いがなぜ生じるのか。当然、生まれる以前にその原因を求めたとしても何ら不合理なことはなく、自然かと思われます。

 ともかく、我々自身の本質は決して朽ちることなく永遠に存在し続け、その因縁によって様々な境涯を得ては繰り返し、繰り返しその営みを続けていくのです。つまり、本来の自分というものは「死んだら終わり」では決してなく、それはあくまで自分の所有している肉体のみの話で、自分自身は永遠の存在であるということです。ところが世の中、本末転倒というか、大部分の人は本当の自分ではないものを自分自身と思い込み、それに執着しては悩み苦しんでいるのが現状かと思われます。

 それでこの本末転倒に気付いた(覚醒した者=ブッダ)釈尊が、このことを教えようと説き始めたのが仏教の始まりであり、ですから、以上の話からでも「自分は本来、永遠の存在である」と確信できるのであれば、『悟りを得た』と言ってもよいかと思われます。

投稿日時 - 2011-01-17 17:37:30

ANo.18

悟りなぞないと私は思っています。

座禅をしていると、一種ハイな状態になって世界との一体感を感じるときがあります。もしこれを悟りなどと思ってしまえば、ここにとどまってしまいます。これは野狐禅でしかないでしょう。
大悟数度、小悟数知れずとも言います。

日常の生活の中で、自分にも人にも恥じることのない生き方を貫くことこそが、菩薩業であろうと思って生きています。

投稿日時 - 2010-12-07 22:56:08

ANo.17

神仏の境地へ近付いて行く過程段階を実感認識して行くことのようなものだと思います。
一例ですが、
(1)地獄→(2)普通人(3)善人→(4)阿羅漢聖人→(5)菩薩天使→(6)如来大天使→(7)仏陀救世主
こうした境地段階を経て行くことを、悟りが深まって行く、と言うことと思います。
各境地段階の特徴の一面は、
(1)自分や他者を害す方が多い
(2)自分や他者を害す方が少ない
(3)善心善行に喜びを感じる
(4)更に向上に努め、善人を導くことができる人格や認識力等を備える
(5)自己確立を一定程度修め、神仏の慈愛で生かされていることを実感認識し、他者へ尽くすあり方自体が自身の幸せであるとしたあり方境地
(6)一層深い法則的智慧や慈悲を体得し、太陽のように多者を照射する如きあり方境地
(7)宇宙的歴史観世界観を認識でき、人類を導いて行くあり方境地
以上は「永遠の法」「太陽の法」(大川隆法)という書籍からの概観です。

投稿日時 - 2010-12-06 22:31:15

ANo.16

多分そうしたものかもしれませんね。
mmkyさんがおっしゃっておられるように段階があるのでしょう。
それらの境地における意識の及ぶ範囲があり、高い境地からみれば段階ありと映るのでしょう。
境地とか、心とかいう表現は外面的な捉え方のような気もするのですが、実際には意識の通じる働きや範囲を指すようにも思われます。
覚性といわれるものですが、そこのところは
因位には識といい、果位には智という、智すなわち覚なるがゆえに・・・と表されています。
狭い範囲での感性的な悟りは、ただの思い込みにすぎないものかもしれません。
智といわれる程のものとなると、全てが意識に直結した世界となっているのかもしれません。
その場合の意識とは日常的な意識とは違っているようです。

最近ですが、日本人として初めて宇宙飛行士になられた秋山さんという方がTVで
ちょっと危険な話ですがと前置きしながら言っていました。
宇宙から地球を見ていて感じた事で、宇宙の中では色彩を音として感じる、という事を言っていました。
これも体験による実感だと思いますが
一般的な日常的感覚ではない事は明らかです。
危険ですが、という前置きは、理解され難いという思いがあっての事でしょう。
体験なくしては語れないもの、語るべき相手なくしては語れないもの、それが悟りなのかもしれません。

投稿日時 - 2010-12-06 21:43:55

ANo.15

> いくら言葉で語ろうとしても「空」ですもんね・・・・


そうですね。

しかし「空」さえも、悟りの一側面。悟りの部分的な側面にすぎませんよ。

「空」をもって悟りを計る事も出来ません。

悟りを理解しようとする際に重要な事は、まず何をおいてしても完全に自分を客観化する事は出来ないんだという事に明確に気付き(1回も、1秒も客観化した事はございません)、その状態では当然にして自分自身を自由自在にコントロールする事も到底不可能である事を、明々白々に理解する事です。

それなしで、次はあり得ません。

投稿日時 - 2010-12-06 17:41:23

ANo.14

zakky74でございます。早速のお応えをありがとうございます。

質問者さまは、無我を悟りだと思われているという事ですか?そして、我を悟りではないと思われているという事ですか?もしそう思われているのでしたら、確かに質問者さまのコメントは理解ができますし、納得でございます。

僕が観ている悟りの観点はそれとは違う事をお伝え致しました。また、お釈迦さまもその様には観ておりませんよ。彼も我が悟りだとか無我が悟りだとは伝えておりません。それっぽく聞こえてしまい、その様に解釈を間違えてしまう事はあるかもしれませんが。

ANo.13でお応えさせて頂きましたが、無我は悟りの一部分であり一側面の姿です。同様にしまして、我も悟りの一部分であり一側面の姿です。ですから、無我をもってして悟りを計る事は出来ませんよ。そして、我をもってして悟りを計る事も出来ません。

そして、我も無我も悟りの一側面の姿ですから、お釈迦さまの無我の思想を間違っているとは僕は思いません(現代においては伝達方法として未熟さが残るとは思いますが)。また、僕がお伝えした事と無我の思想もちゃんと絡み合いがあるものでございますよ。

再度、読まれてみて、もしまた分からないところや足りないところがございましたら僕側の説明不足である可能性も大でございます。その場合は、補足にてご質問下さい。

投稿日時 - 2010-12-05 21:02:00

補足

いくら言葉で語ろうとしても「空」ですもんね・・・・

投稿日時 - 2010-12-05 23:37:51

ANo.13

ANo.1で回答しましたzakky74です。

> 釈迦の無我の思想は間違っていると?

無我とは悟りの一部分の側面ですが、それを間違っているとは僕は思いませんよ。ただ無我は、悟りの一部分でございますから無我をもって悟りを計る事は出来ないとは思っております。

また、僕がお伝えした内容はお釈迦様の内容から外れるものだとは自分では認識しておりません。逆に、質問者さまは一体どうしてここからお釈迦さまの無我の思想が間違っているという様に解釈されたのかを逆にお聞きしたいところです。僕の説明に飛躍や不足しているところがありそうですね。

もし宜しければ補足にてお教え下さい。

さて、ここからは多少の繰り返しとはなりますが僕がお伝えしたかった事をもう少し別の側面からもお伝えしなおせればと思っております。

質問者さまは、

> 自分というものを完全に客観的に見れるようになり自由自在に自分をコントロールできる状態

と書かれておりますが、まず明確に悟りを得ている人はこうした質問は出てきません。明確な悟りを得ている人は生きる目的が変わっておりますから、違う質問をするんですね。

明確に悟りを得ていない人が、悟りの事を理解する為には今の自分が悟りを得ていない状態である事を明確に理解し納得する事が第一歩です。それなくして悟りは有り得ません。悟りの理解も有り得ません。

悟ることは差を取る事ですから、そもそも自分と自分以外の差が無くなることでございます。自分と自分以外の差が無くなる一瞬間前には何が起こっているでしょうか?そこには、自分と自分以外の差がありますよね?

差があるから、差を取る事が出来ます。

自分と自分以外の差が、1回も1秒も、実は交わっていないくらいの強烈な分離・断絶である事の理解が明確になった時に、その差が解けてなくなる資格を手にします。それなしで、差が解ける理由、差が取れる理由がどこにあるのでしょうか?

故に、悟りを得ていないという状態では、自分というものを客観的に見たり自由自在というのは全く不可能な事である事に明確に気付く事だと申しました。それを超えた悟りの理解は、悟ってみた時に分かります。

それでは僕からの先の質問に対するご回答をお待ちしております。

投稿日時 - 2010-12-05 04:17:14

補足

客観的に見ることができないことに気づくことが悟りと仰られたので、
主観のみが存在するこということになりますよね。
それは独我論者であることを示していると思います。
つまりアートマン思想であり、釈迦が否定したものでもあります。
無我と対極にあるのではないですか?

投稿日時 - 2010-12-05 16:21:08

ANo.12

何かを悟る事はよくあるけれど

「悟り」というと何かすべてを悟ったような意味合いになりませんかね

真理を悟る事はで来ませんよ 人間には。

物理学の最先端でも仮説ばかりで それも人間が考えてる概念の世界。

何もかも分かったような気がする事はありますけど。

僕もありましたけど。

自由自在に自分をコントロールというのは まず無理でしょうね。

メタ認知という事もおのずから限界が在る。

人間の目的を知って その為に尽くす事が出来れば上等じゃないでしょうか。 

投稿日時 - 2010-12-04 20:55:06

ANo.11

私自身は悟りからほど遠い者ですのでそのおつもりで流してください。

悟りというのは人間の究極の状態を象徴していて、仏とか、死後だったり、神だったり、自由自在とか、宇宙の心とか、などなど、いろいろと想像できます。しかし、悟りが何であるかは、実際に悟りに達しないと解らないことです。

そして、悟りを得たという人が、本当に悟りを得ているのか、悟りを得ていない人は知り得ない、あるいはまた、悟りを得ていない人が偽りの悟りを語っていても、悟りを得ていない人には偽りを見抜けない ということがあるんですね。

結局、悟りというのは、悟りを得たお方が悟りとは何かを説くものであって、
悟りを得ているかどうかわからない方々を相手にそれを聞いて、
悟りを得ていない?あなたが納得したとしても、あなたが本当に知りたがっていた悟りの定義にはなっていないかもしれませんよ。

また、悟りを得たと言っている人が、悟りについてこんな風に言ってました と言う話は元の教祖のご威光を根拠なく信じるしかない、まさに宗教となります。

したがって、このご質問は、あなたが悟りを得たと思うお方にお聞きするしかないように思います。

以上、悟りを得ていない者からの一つの回答です。

投稿日時 - 2010-12-04 11:12:16

ANo.10

 こんにちは。

 ★ 仏教的悟りやキリスト教的悟りなど
 ☆ というように――定義の前でとしても――並べていいものかどうか 議論のあるところでしょう。

 それは措いてまづ前提について述べます。
 ★ ~~~~~~~~~~~
 自分というものを完全に客観的に見れるようになり
 自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか?
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ もしこの状態をさとりと言うとすれば そしてひとが目指す境地だとすれば まだそのさとりに到っていない段階からどうしてそうだと言えるのか? という問いがたとえば来るはずです。来なければうそです。
 仮りにその境地に到ったひとが言ったとしてもそれを聞いたひとが もしそれを そのとおりだと思ったとしたら それはどういうことを意味するか? です。
 さとりをほんとうは知っている ということになりませんか?

 ですからもしこのことが腑に落ちたとしたら
 ★ 現代的に言うとメタ認知ですかね?
 ☆ というふうにさらに思考によって問うのではなく――ただしその定義が間違っているのか正しいのかは 別問題ですが―― すでにその腑に落ちたことを実践していなければこれまたうそです。そのように生活することを始めなければ まづ意味がないでしょう。

 そうして もしひとはすでにおそわることなくさとりを知っているのだとすれば 《仏教的悟りやキリスト教的悟りなど、悟りにも色々と定義がある》としてもその違いは大した意味もないことになります。

 さとりは 一瞬の出来事です。或る晴れた日にふとあたえられます。
 そしてその実際の現われは 相手に応じてそのつど異なったかたちになります。
 もんだいは 交通(まじわり)において互いに話が出来たか 話がかみ合ったかにあると言っていいのではないでしょうか。同感しあうにしても批判しあうにしてもです。それは 関係(かかわり)が体得できたからです。
 おのれの存在が ひとりであり・つまり孤独であり しかも社会においてその同じ《わたし》というひとりの存在が 孤独関係としてあるということ・つまり関係性を有すると知ることまた体得すること これが だいたいさとりの基礎を成しています。
 そうしますと
 ★ 自由自在
 ☆ とはどういう境地にあってどういう考えを成しおこないをするのか これが見えて来ます。おそらく ニヒルという答えからその底に突き当たってさらに底の底を模索しやがてそれを突き抜けるというような経過とかたちにおいて 自由自在を感得すると思います。
 それは 相手がいかに自分の考えと能力において自由自在にふるまうことが出来るか。持ち前のちからを十二分に発揮できるか。これをつねに考えていること。これが 《わたし》の自由自在であるとさとることでしょう。
 ゆづりあいという心です。
 ここに《メタ認知》も入っていましょうか?

 
 

投稿日時 - 2010-12-04 08:49:36

ANo.9

自分というものを完全に客観的に見れるようになり
自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか?

○ 悟りでいいんですよ。立派な悟りです。
その悟りは禅宗的にいうと「明鏡止水」の状態ですね。
この悟りは悟りの山でいうと6合目ぐらいの悟りですね。これは立派な悟りですが、6合目から7合目の悟りには大きな断崖絶壁がありますので、これを越えて7合目の悟りに入るにはちょっと大変なのですね。でも6合目まででもすごいものですね。
7合目への鍵はキリスト教的にいえば「愛」、仏教的にいえば「諸法無我」なかでも特に慈悲ですね。
仏教では「真空妙有」の境地が鍵ですね。つまり「真空妙有」の境地の悟りの手前が「明鏡止水」の境地の悟りですね。「真空妙有」が個人の悟りから大衆救済に向かう菩薩の悟りへの鍵ということでもあるのですね。これを仏教では小乗から大乗への悟りともいいます。
悟りにもいろんな段階があるということですね。
参考まで

 

投稿日時 - 2010-12-04 08:36:48

補足

とてもわかりやすかったです。ありがとうございました。

投稿日時 - 2010-12-04 17:13:44

質問の背景が
悟りたいという願いならば「知らない」
知的興味からならば「間違いじゃないけど、すべてではないらしい」
と回答します。

悟りたいと願う方には迂闊なことは言えません。

投稿日時 - 2010-12-04 07:41:56

ANo.7

現在の社会においては、理論物理学がいちばん「悟り」に近い研究テーマです。
仏陀の時代での仏陀の悟りとは「食物連鎖の法則」にすぎなかったからです。

ユダヤ、キリスト、イスラムなどの一神教では神への絶対服従が「悟り」であり、
個人の思考は否定されます。
宗派の教えが絶対であり、仏陀的「悟り」とは対極を成すものです。

新時代の「悟り」とは、宇宙の絶対法則をつきとめて世界を達観して哲学を構築するものです。
それによって人間を定義して社会の構造を考え、倫理や政治学の基本とします。

アインシュタインもホーキンズも、仏陀やモーゼより人類史に足跡を残すでしょう。
彼ら無くしては新ソクラテスも現れません。

投稿日時 - 2010-12-04 07:33:45

ANo.6

認識の深まりと言う捉え方は、深い浅いと言う量的な捉え方ですね。自然科学の専門用語で言うと、定量的な違いと言うことです。ところが、我々人間も含めてこの自然界には定性的な違いと言うものも存在しております。例えば、物理学で、ある量を数学の関数で表す場合、変数のある値のところでその関数自身やその関数の微係数等が無限大に発散してしまうことがある。その点の変数の値のことを閾値と言うこともあります。その場合には、その関数をその閾値のまわりで級数展開できなくなります。別な言い方をすると、ある点のまわりで級数展開をしたときの収束半径がその点のまわりでゼロになってしまうことがあります。その場合には、その関数はその閾値の前後の違いを量的な違いで捉えることが出来なくなり、全く質の違った振る舞いをするようになります。この場合、数理科学の専門家は定性的に違った振る舞いをすると言います。

さて、悟りに関してですが、それは定量的な変化ではありません。認識に関して量的に深まったのではなくて、そのような量の変化と言う概念では捉えられることの出来ない、定性的に全く新しい状態に転移したと言うことです。そのように理解することは、旧哲学の悪弊なのかも知れませんが、科学的には悪弊でも何でもありません。悟りに対する至ってまともな見方だと思います。悟ったと言う表現を、西洋では目から鱗が落ちたと表現しているようです。

投稿日時 - 2010-12-04 06:30:22

こんにちは。

「大悟三回、小悟数知れず」どこだかの仏教の偉い人が言った言葉だそうです。
「悟り」にも色々あります。
主体が自分になっているのは真の意味では誤りではないと思いますが、大抵の場合誤りでしょう。
言葉にすると同じ事、しかしその内容は全く異なる事はよく在る事です。
「主体が自分」である事も真の悟りに一致しており、気の遠くなる様な途方も無い勘違いにも一致していると思います。


因に、「聖霊に与えられる悟り」というものもありますが、これは私は断言しても良いと思いますが、絶対人力ではたどり着けない境地です。与えられなければ絶対に悟る事はできないでしょう。
そして多分一番大切な悟りはこの悟りだと思っています。

投稿日時 - 2010-12-03 23:58:28

ANo.4

正確に可能なのは、(自己であれ環境であれ)認識の深まりのみ。
「悟り」などと自分勝手に難しい概念を作り出して勝手に悩むのは、旧哲学の悪弊です。

投稿日時 - 2010-12-03 23:26:49

補足

悟りを自分勝手に難しい概念だと思ってるのはあなたですよね?
自己矛盾を起こしていますよ。

投稿日時 - 2010-12-04 02:50:45

ANo.3

『自分というものを完全に客観的に見れるようになり』と云うことに付いては『ある程度』と云ういいかがが適当です。

そして、『自由自在に自分をコントロールできる状態が悟りでよろしいですか?」と云うことに関して言うなら『釈迦も弥勒菩薩もまだ修行中』と云う答えが正解だと思います。

人間は神や仏にはなれないからです。只現世の欲と得には『その筋書き』が見えるために人を羨んだりすることは無くなります。お金持ちを見たとしても、そのお金持ちの苦悩と喜びが同時に見えるからです。

お金を持つ事の良い点も悪い点も同時に見えるからです。そうしてそのお金を手にするための苦労も犠牲にする事も在る程度推察出来るからです。

人間を苦しめているものは『欲』と云う事がよく判ります。欲を捨てよ、と云う意味も判ります。欲を捨てよと言う本当の意味は『ものを欲しがるな』と云う意味では有りません。

人間の幸福を求める気持ちは判ります、或いは人間が体も心も健康を求める気持ちは判りますが、そういった欲を捨てよと言う意味になります。

意識して眠ろうとした場合眠れなくなります、或いは眠ったとしても、もっと眠ろうとしたりもっと熟睡したいと思う事があります。この場合求めれば求めるほど『求める事は』遠ざかってゆきます。

心や体の健康にしたところで同じです。求めたらその強さに応じて遠ざかって行きます。

お金にしたところで、同じように求めに応じて(お客が引く用に)遠ざかって行きます。

体の健康を自我意識が求めた場合に『自律神経失調症』になってしまう確率が増します。

感情(心)の浮き沈みを自我意識がコントロールしようとする事から『心や病む場合がある』という事です。

自分の行動を自我意識の計らいでコントロールしようとした場合には『眠る事』さえ出来ないかも知れません。話す事や、書くことも皆一緒です。人に会う場合に『堂々としていたい』と計らう事から対人恐怖にまでなってしまうかもしれません。

そのような事から身を守る教えが『悟り』です。悟りと云う意味は自我意識が自身の『命の働きのの意思』の働きを知ると云う意味があります。眠る事も、話すことも、人と会う事も、体の健康も、心の健康も『自我意識には出来なかった』と知るところにあります。

人間には生まれながら備わっている『生命』としての働きがあると云う事を知ると云う意味です。生まれたばかりの赤ん坊に備わっている働きです。心臓や肺やホルモンなどの調節をする機能です。

生命を保つための機構にも、ちゃんとした主人公(人格)が存在しています、自我意識には出来ない事を、脳の機能の関係から『もう一つの意識』には出来るようにセットされています。

そうして人間の悩みや疑問にも答えています。人間は何のために生きているのかと云う問いは、逆に『自身の命の働きからの』問いかけです。

脳の機能分化の完成によって、自我意識は顕在意識として表面に出ます。そうして言葉によって全てを把握しています。

もう一つの意識は『無意識の意識として』自我意識からは身を隠しています。このために心の問題は判り難くなっています。

投稿日時 - 2010-12-03 22:43:40

ANo.2

人々は善は善である、と考え善が悪である事を知らない。美は美であると考え、美が醜であることをしらない。善と悪、美と醜、・・等々。相対立する二つの概念は互いに否定し規制しあいながらも、一つの統一体をなすものである。という、へーゲルの弁証法が書いてあります。
名は名にして常の名にあらず。の説明としての「老子」の2章です。
老子の考え(=私の考え方)は
善=善 では意味が起きない。名、としての存在にならない。善ー善=0 なのです。
存在となるためには、常でない名、が一体でなければならない。
善×(1/善)=1  となって。一つの統一体としての、名=認識単位 となる。
そして、(1/善)は、悪、と名付けられる。
すなはち
善と悪は、一体のものであり、一つの概念の表裏である。人を愛する心が人を憎む心であり。善に執着する心が、悪に執着する心である。
人を愛する心を滅した者が人を憎むことはなく、善に執着しない者が、悪に染まる事はない。
という事なのです。
、悟り、とは?
との答えの難しさは、悟りという、名、言葉、と一体になっている、名、は何かが特定出来ない事なのです。それが出来れば答えは出たようなものでしょう。
老子の悟りは、無為自然、(作為、思惑を捨て在るものを在るがままに見て、あるがままに生きよ)
とすれば。悟りとは、自分の生き方を見いだし、自ら決めること。となります。
キリスト教徒の悟りが、神の教え、導きを知る、であるなら。ある時、神の声を聞いた、神の啓示を受けた。というような、体験(錯覚?)と云うようなことになるはずです。
仏教、釈迦の思想に於ける、悟り、は。ブッデイズム、悟り=仏(導くもの)の形態であり。
悟り、とは、仏(自分を目覚めさせ、気づかせてくれる、縁)に出会い。この世界の在り方起こり方を知る。と云うようなものになります。
釈迦以前のバラモン宗教、そして、仏教を吸収する形で復活した、ヒンズー教では。
・・と悟った者はこの世(心の世界)を捨てる。さらに・・と悟った者は、かの世(知恵の世界)を捨てる。心も知恵も超えた、精神的な、境地、が悟りなのでしょう。
メタ認知という言葉は、このサイトで始めて聞いた言葉ですが、認識の認識ということであれば、50年ばかり前によく言われ。私も考えた事があります。
知恵を深めるとはどういう事か、たとえば囲碁や将棋に、三手の読み、というのがありますが。
人間の脳が、今という認識単位で出来ることは、自分がこう打つと相手がここににうったら、自分はこう対応しよう。という、3っの事しか出来ないはずです。しかし、その答えを、最初の一手に置き換えて、繰り返すことは出来る。囲碁のあるプロが、読むだけなら1000手先でも読める。といってました。
珠算による暗算も、今という認識単位でやっている事は、数字を、そろばん珠の一に置き換え、それに、もう一つの数を加減乗除して、新たな、珠の位置を作り出す、そしてそれを繰り返す。というですが。訓練によって、数の桁を大きくし、何回でも繰り返せるようになり。暗算名人の計算力は、暗算力で知られる、インド人もびっくり、の能力になります。それが、知恵、とはなりませんが、人間の能力の可能性は示唆していると思います。タメ認知も、それだけでは、今の認識単位ですが。どう繰り返すか。繰り返せるか。の方法が見いだせれば、考え方、理法に成り得ると思います。
しかし、それは、悟り、ではなく、人間の内なる仏、ではないでしょうか。

投稿日時 - 2010-12-03 22:37:20

ANo.1

逆でございます。

自分というものを、客観的に見る事は出来ないという事に明確に気付く事でございます。1回も1秒も客観的に見た事はありません。そして、そのままの状態では常に自分というものを客観的に見る事が出来ないんだと自覚する事です。

皆さん、よく勘違いをされるのですが自由自在に自分をコントロールできない事に気付く事が悟りの第一歩ではないでしょうか?思った様にならない、うまくいかない。

それが明確に心に落ちた時に、全ての差を取る世界に出会います。その出会いが悟る(差を取る)ことです。

投稿日時 - 2010-12-03 19:50:43

補足

釈迦の無我の思想は間違っていると?

投稿日時 - 2010-12-04 02:53:20

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